詩集「旅と滞在」 (昭和八年−昭和十三年) 
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          友  わたしは君と旅をした。   わたし達は暗い林間で清水を飲み、   わたし達は山巓の日光を頭から浴びた。   今、旅から帰って、生活と仕事とに、   君の存在と共に結局はいつか亡びるもの、   生命を形に托す君の仕事は   その美の脆いことが時にわたしを涙ぐませた。  
 
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          友  君の朝の乳入珈琲カフェエ・オー・レェには、   冬の夜更けの工房アトリエのストーヴに、   遠くの空で稲びかりのする夏の宵、   風懐を知って風懐を乗りこえ、   君の芸術にある天然のように尽きない魅力、   しかしあたりがそろそろ人間臭く、  
 
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          三国峠  権現さまに臀をむけて  
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          一年後  猿ガ京を出はずれて、   「小父さん、どけえ行くだ」  *  翌年の春もたけて山藤の頃、   私は歩きながら眼で探した。   すこし行って私は振り返った。   私も遠くから首をかしげて挨拶しながら、  
 
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          神津牧場  牧場管理人のいかめしい顔のまんなかで、   バドミントンスタイルの牛酪掛の老人は、   錫の分離器が夢みるように歌い出す。  
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          前橋市遠望  山のスカイラインの永遠の上に、  
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          猪 茸  上州利根郡の山奥から、  
 
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           夕べの泉  君から飲む、   存分な仕事の一日のあとで、   君のさわやかな満溢と流動との上には   千百の予感が、日の終りには   君から飲む、  
 
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          若い白樺  朝のあおい空気に濡れて   周囲の酔わせるような春の息づかいを  
 
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          アルペンフロラ  槍に、白馬に、乗鞍に、八ガ岳に、   凛々たるアルペンフロラ!  
 
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          西北風  さあ、いよいよ西北風にしきただ。   どこへ往っても類の無い、  
 
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          積雲の歌  とおい幼年のはてしに雲はならぶ。   母は男性の子の眼にけだかく、若く、美しく、  
 
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          夏 野  晴れやかに熱い大気の波をこえて、   めしいたような光の路ばた、   生活への深い酔いにも爛々と目はめざめ、  
 
 
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          秋  父よ、秋です。朝です。   旅びとの川が遠くから今朝着きました。   すべての到着したものは此処に滞在し、   わたしも今日は遠く行かず、  
 
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          初冬に  初冬の朝の金いろの光が   季節が新らしくした明るい樹々や鳥の声、   自然よ、  
 
 
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          覚めている貧  それがいつでも傲慢な顔のうしろになるので、   まじめに、悲しいほどに  
 
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           セガンティーニ  それで画家は、いま一度   太古からのように、また今始められたように、   山上の春の大きな寂寞のなかで、   はじまる朝も終る夕べもなくなって、   
 
 
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          雲  雲がはるかに、群れ、浮いている、   雲の変化はつねに短音階モルだ。   この世でのつながりを欲しいが、   ウンブリアの夏のようなものが想われる。  
 
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          下 山  征服したというのか。   おののき打たれて、確かに愛する暇もなく、   何か最も重大な一事の   ああ、高く高く、夕日のなか、   遠く、貧しく、人里の  
 
 
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          大いなる夏  路は登るにつれて暗い伊吹麝香草の淡紅うすべにになった。   友の指さす指の先で峠はあんなに高かった。   とある平たいらでわたし達は腰をおろした。  
 
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          八ガ岳横岳  もうそこに這松の手掛りは絶えた。   今や生命と同じ名になった重心が   遠く夏の天を刻んでいる連山から、   その想像は一瞬の眩暈に値した。   ただ眼に焼きつくのは眼前や脚下の岩角、  
 
 
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          輪鋒菊  あのそよぎ立つ荒寥の比類ない美しさ!   火山高原のごろごろ岩をいろどって咲け輪鋒菊りんぽうぎく。  
 
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          星空の下を  船はほのぐらい凪なぎの夜の海上を   後甲板で誰かが歌っているナポリターナ、   風よ! 風は魅するような南酉の微風、   船橋のまうえ、天の琴と鷲とのあいだで、  
 
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          朝の速記  わずかの間だがぐっすり眠った。   海上は夜あけが早い、   毛布から銀行家型の禿頭がぬっと出る。   洗面所では顔じゅう泡にして鬚を剃った。   白麻の服にすがすがとして甲板に立つ。   さえぎるものもない太平洋の水と風、   もう船じゅうが朝の作業を始めている。   四国山脈の雲を破ってらんらんたる朝日が出た。   食堂へ出たら船長さんが慇懃に接待した。   もうあと一時間。前途に待つものは何か知らぬが、  
 
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          山村にて  甘やかな、ほんのり赤い五月の夕日が   夜に入る前に最後の娘が汲みに来る   人が其処から汲みあげる平和、   其の時、一冊のゲーテ、一冊のヘッセと共に、   黒びかりする柱を照らす吊ランプ、  
 
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          山麓の町  田舎町の小さな停車場を出ると、   岩石学的で地質学的な町、   今朝がまるで学生時代を想わせるから、   それから帽子をかぶり直し、  
 
 
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          日 川にっかわ  四日の旅路が終ろうとして   さしのぼる月、帰る人あって、  
 
 
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          甲斐の秋の夜  さわやかにひろびろとした一日が暮れて、   盆地には、うすら寒い   もっと遠い勝沼や韮崎は   こんな夜には葡萄がいよいよ甘くなり、  
 
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          山中地溝帯さんちゅうちこうたいで  ゆたかな秋がすべての峯々を黄に赤に照らしている。   わたしの見る古生層の山々よ、   わたしは感謝する。だがお前たちの主人は   わたしは悲しむ、われわれの自然への讃美の歌が  
 
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          金峯山きんぷさんの思い出  金泉湯きんせんとうの若いおかみさんは  
 
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          志賀高原  小屋の裾まわりだけよごれて痩せた積雪を   輪かんじきに厚い雪を踏みしめながら、   此の世のほだし解くに由なく、  
 
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          秩父の早春  森林や谷間にはまだぎっしりと雪がつまっているが、   時の輪廻りんねの重い輪の下におしだまって   その太陽もやがて烈風のなかに傾けば、   しかし今日は何という慈みの色が  
 
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          飯綱高原  若い太陽、吹くとしもない宇宙の風、   ああ、高原よ、   ああ雪にかがやく遠い壮麗な山脈よ、  
 
 
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          和田峠東餅屋風景  唐沢からさわ、男女倉口おめくらぐち、接待せったいと、  
 
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          天上沢  みすず刈る信濃の国のおおいなる夏、  
 
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          信州追分  傍本陣の油屋が焼けたそうだ。  
 
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          雪消の頃  清いものとして薄れゆく   身にしみるほどまじめで、   ながい隠忍のはしばみや   雪消ゆきげの水の青と銀との糸すじに   自然はまだどこか淋しいが、   そして、もう人が居るのか、あの小屋から  
 
 
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           高原の晩夏に寄せる歌  正午に燻いぶる火山高原の草にまぎれて、   方解石いろの雲の下、  
 
 
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