詩集「空と樹木」 (大正十一年)
海 へ 太陽の下できらきら光る丘の家々は 舳へさきに飛びちる波のしぶきは軽い羽根だ、 船は月光が深遠な沈黙をひろげる大海を縫って進む、 そこは永遠の夏の日が 縦揺れ、横揺れ、 推進機をからからと虚空に廻し、 かくて大地の肉体と海洋の精神、 太陽の下できらきら光る丘の家々は
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健康の朝 久しぶりの秋晴れに心も楽しく、 朝は空も緑、 おお、鳴きいでる蟬! 落葉は燃える。 リーチの壷に紅と白のカーネーションは優しく、 落葉は燃える、燃える。 ああ、空は緑に
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カルナヷル・ロマン ああ! そもそもどんな盛福の天に生れて 歓喜に身を顫わせ、 私は聴き、また心に見る、 見よ! 今こそ麗らかな春だ、 私は聴き、また心に見る、 また、私は聴き、心に見る、 私は見る、 そして見る、 ああ! 「カルナヷル・ロマン」
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カテージ・メイド 歌え、歌え、カテージ・メイド、 歌え、歌え、カテージ・メイド、 向うの丘には一日、日が当っている、 都からは遠い明けっぴろげた田舎では もうじき麦の刈入れが始まる、 もうじき馬鈴薯が玉になる、 お父さまは町へおいでか、 ああ、
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野薊の娘 太陽よ、もっと私を焼いておくれ。 広い荒野あらのの鍛冶場にそだつ 猛々しい野育ちの 晴れやかな私の眼には棘とげがある。 よく、人が来て ふた親もなければ身寄りもない 私を恋い慕って来た幾人の人が 毎日、毎日、 ほがらかな朝が来て、太陽が出る。 ああ! 広い荒野の鍛冶場にそだつ
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スコットランドの娘 おお、私をうちくだけ、 ボニー・ドゥーンの紫の波が あなたの不信、あなたの憎しみが もとより曲もない高原の娘、 ボニー・ドゥーンのまっさおな空に あなたは忘れたか、あの教会のゆきかえりに 年とった母御と二人暮らしのあなたの家から ボニー・ドゥーンの家々の屋根に、破風に、 ああ、河原の柳の皆枝を吹く 虚空にうそぶく鋭い鷹の声よ、 私をうちくだけ、人の世の不信の腕。 聴け! ボニー・ドゥーンが波立って、
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田舎娘 寒気と霜に鳴りひびく冬が武蔵野に君臨して、 その武蔵野の片隅、枝から枝へ祭壇の注連しめのように 隅々に雪の消え残った納屋と母家の間の中庭、 君の打ちおろす鉈の下から 古手拭の下からはみ出している 君は労働を愛する、 君は寡黙、君は誠実、 君は正規の学校へ往かない。 君はフランス語を学ぶ、オルガンを弾く。 君はその秀れた体力をもって男のように働く、 こうして君の生活の太陽や季節が 私は君を讃歎する、かつて君ほどの娘を見たことが無いほどに。
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暁を呼ぶ声 このごろ、暁にもまだ早い午前四時ちかく、 十分、十五分、 木の葉の囁きさえも落ち消えた天地の静寂、 組みあわせた腕の指の下で ふた声、三声、 そして聴け! 次々に起つ新たなる者を合して
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テニスの試合 大学の運動場で コートのまわりは見物でいっばい。 夕暮に近い空気の爽やかさ。 試合は刻々と熱して来る、 しかも当の選手には 真剣そのものである。 (大正十年十月十二日東京帝国大学コートでの慶大対高師のオープントーナメント所見)
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夜の樹々と星と私と 星ぞらの下に樹々は悦ばしい夜の頭を上げる! 今は季節が秋でヴェガは天頂を少し西に、 星と樹木にたいする並はずれた私の愛は、 木の葉が匂う、 私の心は夜の中に拡がってゆく。 散歩の路は燈火と群衆とから離れて 私に一々名を呼ばせてくれ、 頭のまうえで躍り上っているお前ペガスス、 星の名の点綴される時、 私はその一本の下に立って空を見上げる。 風は私の散歩の路で むこうでは巨人の欅けやきが星明りの中に立っている。 夜がひとり星と樹々と路と風との世界となる時、 星ぞらの下に樹々は悦ばしい夜の頭を上げる。
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悦 び 朝だ、私はそとへ出る。 私の悦び? 私の足はしっかりと路を踏む、 自分の仕事に確信を持った時、 受けるにあまる幸いを私は受けた、 けさはこういう輝く心の曙だ、 さあ! さあ! もう出掛ける勤勉な務め人や、 さあ、お前たち、
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散 歩 鋼鉄のような北風の吹きまくる夕ぐれ、 途中で折った 道はこおって響きを立てる、 見わたすかぎりの武蔵野、 田圃道から往還へ、 そこへ往くのは誰だ、 古い農家の裏手のしげみで、 おお、雑木林を出はずれた丘の上で 別れた人はどこへ往った、 かっちりと割れそうな黒瑪瑙の空。 歩こう、歩こう、 ああ人間の経験する或る時代の嵐のような、
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嵐の翌朝 一晩じゅう吹きあれた大嵐、 古い納屋の戸はひっぱがされた、 まるで空中に幼い風の精たちがあつまって、 まるで草の茎や茎の上にたくさんの花の精たちがいて、 空は玉のようにまろく、まっさお。 森の深みへ追いこまれて 梢に日光の金粉をまきちらした こんな、蔭とひなたの朗らかな、
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冬空を讃う 銀杏の立木の鉄の素描が ああ、そもそもなんという痛烈な格闘が、 おお惨として黙する冬空、 そして今こそ、私は、
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雨後の往来 にわか雨のとおりすぎた春のゆうがた、 ほのかにしめった往来は
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スイート・ピー コップに一ぱいのスイート・ピー、 昼間から引きつづいての仕事に疲れ、 茎はうす緑、腱のように強靭、 朝、仕事の机にむかう時、
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芝 生 六月の太陽は午後五時の高みにかかり、 まわりは柳といちょうの列、 五六人の、 女の子もいる、男の子もいる。
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朝 夏の朝だ。台所は今洗い物の済んだところで 片隅だけ見える裏庭には 裏庭は明るく静か、 この人気もない閑寂のなかで 茜あかねいろのほおずき弁慶、 すがすがしい裏庭から 突然ひびく大声の「こんにちは……」
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ボン・ボック ボン・ボック! ボン・ボック! ボン・ボック! ボン・ボック!
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田舎の夕暮 水際においしげった赤楊はんのきには 村の質朴な学校は 麦打ちの済んだあとの、 この田舎にひろがっている お互いに精励して、正しいりっぱな者になりましょう。
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蟬 二つの高台に挾まれた谷間の町には 蟬の声は むこうの丘は彼らの合唱に揺るぎ出すかと思われる。 蟬の歌は夏の歌だ。 蟬の歌は透徹する者の歌だ、 しかし、夏も老い、九月も更けて、
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胸の松明 この燃える胸を誰に遣ろう。 烈々たる愛と希求の松明をかざして 炎熱にちぢれた柔かい葉の上で ああ! 今日という日の抱くに堪えぬ松明を 燃えよ、燃えよ、花壇の花、 愛とは何だ。 燃えよ、燃えよ、
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小 景 雑草の伸びてかぶさった 風が吹く。 対岸の半腹をけずり取って 突然、しゅうという摩擦の音がする、 対岸は急に陽気になる、 賑やかな、花のような夜の電車は
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窓から いま太陽が沈んだばかりで、
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雨 雨は、ぼうぼうと降る、 村道に沿って流れるちいさな流れは 農家の子供が ぼうぼうと、雨は降る。 硝子戸をあけた厨からは ぼうぼうと、雨は降る、 それでも雨は降る、
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友だちが帰ったあと 友だちが帰ったあと、 秋の金茶の太陽がおもわぬまに沈み、 頬白も去り、目白も去り、雀も巣に帰り、 花の蕾みのひらくように電燈がつき、 巻煙草を打って灰をおとし、 そして空には星がちらちらと光りそめ、 おのれにかかわるかずかずの人の上を思い、 ああ、かかる時、
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雲と落日 今、太陽が沈むところで、
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四十雀 秋の透明な空気に乗って 頭の黒い、頬の白い、 やがて遠くから彼の歌がきこえて来た。
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薮鶯 そしてこんどは薮鶯だ。
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生 活 窓をすっかりあけはなして、
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新らしい季節 きのう一日を吹きまくった風のあと、 新らしく来て されば、
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帰り道 爼まないたや笊ざるや十能や
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冬の田舎 そこらじゅうに散りこぼれて
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欅に寄す 電燈がほのかに花咲いて 光明と暗黒との参差しんさする、 ああ、燃えてやまない炎のような私の愛! しかし、ただ私は見る、
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或る宵 おお、この夕焼のなんという比類なき荘厳、 おもむろに闇の湧きあがる おお、この夕焼のなんという比類なき荘厳、
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井戸端 出ろ出ろ、水よ、 昼さがり、 むこうに見える友達の家の こっちに見える農家の中庭、 “Chrochallain would gie me sae canny and free 出ろ出ろ、水よ、井戸の水、
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雪 雪の賓客がまたも田舎へ訪ねて来た、 雪は渦巻いて降る、 笹藪のレース模様で縁どった村道をゆくと、 その水際の一本の河柳はマリア・ドロロサ、
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台 所 まっかにおこった七輪の炭火の上で そとは晴天の北風、しかしここには湯気がこもり、 その七輪の前に棕櫚編みの椅子を据えて、 鍋を流れ出る熱い汁が火に滴って あさげの菜さいは薯の味噌汁、柴漬と生玉子。 そして今、頭の上の引窓には金色の日があたり、
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東京へ 新らしく移り住んだ田舎から
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雪どけの日から 田舎へ雪がどっさり降った。 明るい思想のような流れのふちへ 人知れず希望の宝石をつけた樹々の枝は 北風の息がしだいに弱って
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小さい墓地 大樫と柿、欅と黄楊つげ、 かつて世に在った日の彼らの生活。 我が家を出て
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収 穫 膚を吹くそよかぜの得もいえぬ夕暮の野で、 遠く、近く 路ばたの堆肥の山でぶよの群が輪をえがく、 森かげの村にはちらちらと愛のような燈火がつき、
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幸いの日 額を吹く穏和な風、 あの藤の房のゆらりと下がる 枯草と緑の芽とが むこうの丘の輝いた横腹から 空や大地がお祭をしているこんな立派な日の昼前から
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雲 雀 青ぞらは光の海、 沸々と増盛するもので野はいっぱい。 光にまみれた高い空間で ああ、濶然たる田園を見おろすあんな空で、 まるでとんでもない幸福の夢想が 紗のような薄い雲が太陽の前を通って
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