尾崎喜八 その他の詩帖から |
※尾崎喜八詩文集、第三巻、第十巻に収録されている作品です。(サイト管理人)
久方の山 久しぶりにすっぽりと 青い蛇紋石の崩壊斜面や 青春のさかんな体力が衰えると 久しぶりに今日わたしは山へ行く。
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立 春 このようにして、本来ひとつの魂は 鰭ひれのある小舟がうれしげに泳いで、 この新鮮なふしぎな把握と、親和の夢の造形が、 無心にとがった舌の先を口尻から出し、
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眼前の蜜蜂に 深く沈潜し、
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花壇にて 寒明けのただかわいた土をぬいて、 そのように深い根の吸収から
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二十五年 私がようやく山の魅力にとらわれて以来 回顧の遠望に彼らは欲望もなく横たわっている。 今私は自分の二十五年を垂直に切りはなつ。
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充実した秋 深まる秋の高原に霜のおとずれはまだ無いが、 沢沿いの栗山にいが栗がぎっしり、 乾いた音のする両手を揉みながら、
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十一月 濃い褐色に枯れた牧場まきばの草が
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生けるがごとき君への歌 ——ロマン・ロランさんは此の椅子におかけになり、 ——秋だった。 ああ、マルセル・マルティネ、
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四月の詩 郵便を出しにゆく郊外の町かど、 一人の老いた大事な友の病いが篤い。 桜がほころび、雉鳩がむせび、 心を痛ます事のいよいよ多いこの時代、
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元旦の笛 元日の朝には笛を吹こう。
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春の前夜 いただいたピレネーの山羊の小鈴は、 梅の花に雪がふり、 いま、晴れやかに老境を生きて、 そして力を知ったからです、——
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眠られぬ夜に いよいよ深く独自の美を成したいという 或る夜、私のために しかしまた別の大変奏曲が私を圧倒した。 新らしい美の創造へとくすぶる意欲よ、
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春 愁 静かに賢く老いるということは
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受難の金曜日カールフライターク まだ褐色に枯れている高原に
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関 心 今年の庭のライラックの 若葉に照りはえた座敷では ああ、その一日も早い習熟を私の待つ
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車 窓 ほら、
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玉のような時間 原始林の中のこの片隅が 崖錐がいすいの湿めった苔や朽葉をうずめる えぞむしくいの幽邃なさえずり、 私たちは今日これから山をくだって
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転 調 高原に暗いさびしい真珠いろの しかし遂に、雨にもならず
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朝のひととき 山から帰って来て、また始まる都会の朝を、
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雲の走る夜 私の夜よるの窓の前、 しかしそのあわただしい威嚇的な雲間にも
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夏への準備 玄関の垣根に去年の鉄線花クレマチスの蔓をからませ、
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寒夜に思う 枯木の枝に冬の星座が氷りつき しかし今
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番所の原 山また山の乗鞍山麓、 温愛と善意とに人間苦を耐えて 草にすわったおまえを柔かにかこんで、
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山の湖 歳月の奥の思い出のように、 そこだけ雪の吹きわかれる ひとむらの黄花石南を目の前に、 煩悩もなく、焦慮もなく、
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雉 禽舎の雉きじがしきりに鳴く、
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秋 きのこ採りの路からそれて 高原でもこのひっそりとした一角だけは 若いジークフリートの葬送が オルレアンの野にその寺院と町の見える そして、ごらん、 さまざまな昔が回想され、 妻よ、
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無名の冬 いま私のすわっている堆積山地のこの丘に 私はいろいろな物の名を知っている 観る者、加わる者にとって名はいらない。
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ひそかな春 梅への道が氷って堅い。 よみがえりの日光を心に信じ、 信じながら待つ思いのせつなさに、 梅への道はついに春への道だった。
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大日小屋(金峰山) まだ出来たてのほやほやの
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行者小屋(八ガ岳) もうずいぶん古び破れた無住の小屋、
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七丈ノ小屋(東駒ガ岳)
甲斐駒七丈ノ小屋の朝、
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将棋頭ノ小屋(木曾駒ガ岳) 組立カメラ、三脚、動植物の採集用具、
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今 日きょう 森の中にはまだ雪があるが 蝶に出遭えば蝶を歌い しかし今一度立ち上がれ、その心よ、
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紐 これが何を何に結びつけ、 衰えた生命は神にゆだねても
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演奏会から帰って 私は遠い町の聖堂から帰って来た。 なぜならばあの巨匠達は今もなお 遠い町の聖堂から帰って来て
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音楽に寄せて 或る楽器の音が、その調べが、 それは昨夜私が聴いたオーボエの 音楽に耳を傾かたむけ目を瞠みはることを
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詩を書く 私は初冬の曇り日の一日を 詩は霊感から生まれた言葉の造形だ。 自分が植えれば必ず花が咲き実が成るという
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オルガンのしらベ 枕につけた耳の底で 鎌倉から東京目白は程遠いが レコードなんぞ物の数かは!
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浜 辺 のびのびと晴れやかな春の浜べで 沖によこたわる大島の姿も ただその酔いの天地にはっきりと覚めて
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朝のコーヒーを前に 朝の食後に一杯の濃いコーヒーを この幸福な慣わしは私の仕事の しかしそういう天与の慣わしの一切が
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