詩集「歳月の歌」 (昭和三十三年)
  
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          蛇  君たち、私に遭遇するや
  
 
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          遠い分身  海抜二千メートルの曠野の草から
  
 
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           雪の星月夜  正月もまだ松の内という山の町の  若い星、成年の星、老いたる星の幾千が 
 
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          山頂の心  海抜三千百メートル、 
 
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          岩雲雀  今日のながい前途のために  今ここには高処の大きな不在がある。  この一時ひとときをそよと吹きすぎる風もない。     今日一日をなお此処で遊ぼうか、  天地しんかんとしたこの高みで  キョロリ……キョロリッチロ、チッチリチ……  キョロリ……キョロリッチロ、チッチリチ…… 
 
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          風 景  太陽と紫外線と岩石と  子供らの遊んでいる緑の堤防、  人間苦の都会に燃えとどろく夏を生き、  ひろびろとした水上の鳥は 
 
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          台風季の或る日から  ピアノの鍵盤へかろく置かれた手のように  たとえ雨を呼び、暗い嵐を引き出そうと、  しかしついに何事も起こらず、 
 
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          秋の林から  秋の林には、時おり、ふと、  そのように、林を通るしぐれもあった。  そんな秋の林で見出されたさまざまなきのこ 
 
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          山荘の蝶  森の空間を流れるように落ちて来て、  古い山荘の風雨に白けた窓枠や露台の手摺りを  「カンバーウェルの麗人」や「喪服の蝶」の名を惜しげもなく、 
 
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          山荘をとざす  もういちど家の中を見てまわる。  窓も雨戸ものこらず締めた。 
 
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          目 木  「もう目木めぎの実が赤く熟うれ‥‥‥」と   北独逸ヴォルプスヴェーデは私にとって未知の土地だが、  灌木かんぼく目木は枝組みも強くこまかに、    パウラ・ベッカー、クララ・ヴェストホフ、  写生帖を膝に、鉛筆と画筆を手に、 
 
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          女と葡萄園  今われわれはおびただしい円熟と  澄んだ鋏の音がする。 
 
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          峠  下のほうで霧を吐いている暗い原始林に  澎湃とうちかえす緑の波をぬきんでて           頂上ちかい岩のはざまの銀のしたたり、 
 
 
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          桃林にて(I)  農夫が彼の果樹園で 
 
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          桃林にて(II)  昔の川の流れが鷹揚に置いていった 
 
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          桃林にて(III)  桃林はついにみずから粧よそおった、   
 
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          渓 谷(I)  高原と山々とのこの国に  山峡やまかいの谷は両岸の新緑いよいよ重く、   私の心もまた欝々と重かった。  その単調、その憂鬱を打破するように、 
 
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          渓 谷(II)  朝まだき、荒い瀬音が谷を満たして  真昼を燃える岸の山吹、山つつじ、  さて、今は月影くらい初夏の宵、 
 
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          渓 谷(III)  国文学の森山先生は釣の達人、 
 
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          木曾の歌 (奈良井)  奈良井川のながれを見おろす道ばたで  この山里に今をさかりの笹百合のように 
 
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          木曾の歌 (鳥居峠)  われわれは木の根・岩角をつたいながら、  峠に近く幾百年を経た橡とちの原始林があった。     やがて前方の視野がからりと開けて  あたりは耳を聾するえぞ春蝉の合唱だった。     
 
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          木曾の歌 (開田高原)  もしも私たちがこの土地の生まれだったら、  地蔵峠のむこう、末川から西野まで  小さくて、粗食に堪えて、働き者の  そして七月・九月の福島の馬市に、 
 
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          木曾の歌 (寝覚)  方形の節理にそって割れた白い花崗岩のかたまりが  角かどばった禿頭にふさふさ眉毛の老人が       床ばかりか世の中全体が味気なくなり、  以前には校長だったというこの老人に 
 
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           我等の民話  その人は空をきざむ氷雪の山々と、  古く強い魂と、日光のように寛容な心と、  幾年に一度の思いもかけぬ聖なる宵に  ああ、その人が、このごろの秋の或る夜、 
 
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