詩集「組長詩篇」 (昭和十八年)

   ※ 他の場所にすでにアップロードしている作品はここでは省略し、この詩集にのみ掲載されて
   いる詩および巻末の後記のみといたしました。(サイト管理人)

慰問畫

内原の朝

此の糧

若い下婢

新たなる暦

登山服

三粒の卵

風の日

窓前臨書

父の名

若き應召者に

旅にて

豐のみのり

遠 足

我等の答

隣組菜園

 

我が祈

誓の日

雪の峠路

わが心つねに鬪にあり

 
           

巻末に      

 

 風かぜの日


 午後ごご一時いちじ、南西なんせいの風かぜ十米めえとる
 最大さいだい風速ふうそく十五米めえとる
 濕度しつどくだつて三十六、
 私わたしは組内くみないに火の元もとの注意ちゆういを觸れてあるく。
 しかもこんな強風きやうふうの日
 氣も遠とほくなるやうな天てんの高たかみで、
 さつきから轟々ぐわうぐわうと幾臺いくだいの飛行機ひかうきの戰鬪訓練せんとうくんれん
 高積雲こうせきうんはすべて平ひらたい風雲かぜぐもとなって、
 もう夏なつちかい武藏野むさしのの淺黄あさぎの空そらのあちこちに
 つらつらと雲母きらゝのやうに散らばつてゐる。
 鯉幟こひのぼりは大荒おほあれ、洗濯物せんたくものは氣違きちがひのやう。
 しかし今日けふも日本につぽんの空そらに異状いじやうなく、
 組内くみない十六世帯せたいも平穏へいおん無事ぶじ
 ときどき息いきをつく風かぜの絶間たえまを、
 眞赤まつかに燃える庭にわの躑躅つゝじのむかうから、
 隣となりの刺繡屋ししうやさんの睡ねむくなるやうなミシンの音おと
 私わたしは又またつくゑにむかふ。
 眼鏡めがねを拭き、ペンをとる。

 

 

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 旅たびにて

 トンネルを出れば伯耆はうきの國くに
 八橋やばせをすぎて赤崎あかさき、下市しもいち
 僕ぼくはさつきから窓まどの硝子がらすに額ひたひをつけて、
 雲くもをかぶつた大山だいせんのまはりに、
 船上山ふなのへせんをあれかこれかと想像さうざうしてゐた。
 ああ、赤あかい腕章わんしやういた旅客専務りよかくせんむの車掌君しやしやうくん
 君きみがすこしも面倒めんだうがらずに、
 身をかがめ、僕ぼくに寄添よりそひ、指ゆびをさして、
 そんなに細こまかに、親切しんせつに、
 友逹ともだちへのやうに敎おしへてくれるのでなかったら、
 あの大山だいせんをめぐる山々やまやまの中なかから、
 ひとつの支脈しみやくの高たかまりに過ぎない船上山ふなのへせん
 僕ぼくは到底たうていわける事ことが出來できなかつたのだ。
 五百里ひやくりあまりの今度こんどの旅たびの思おもひ出に、
 國史こくしを飾かざる此の山やま
 加くわへる事ことは出來できなかつたのだ。
 謂はば君きみは快こゝろよい協力けふりよくをして、
 旅人たびびとぼくに貴たふとい寄與きよをしてくれたのだ。
 君きみが足あしをとめての五分間ふんかんの説明せつめいで、
 僕ぼくにひとつの富とみが加くはへられた。
 かうして人ひとは僅わづかの親切しんせつ
 ちよつとした心こゝろづかひで、
 どんなに他人たにんを喜よろこばせ富とませ得るかといふ事ことを、
 又またもや僕ぼくは君きみによって確信かくしんした。
 ありがとう、山陰本線さんいんほんせんの車掌君しやしやうくん
 やがて我家わがやへ歸かへつて人々ひとびとに船上山ふなのへせんを語かたる時とき
 僕ぼくは君きみの親切しんせつを語かたることをも
 決けつして忘わすれはしないだらう。

 

  

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 豐とよのみのり

 我等われらはげみて惓まざりければ、
 そを善しと見
 あめつちの神かみ、國くにつ神かみ
 黄金こがねなす秋あきの垂穗たりほのよろづ穗
 豐稔ほうねんをもて酬むくいたまへり。
 ありがたきかな神かみの照覽せうらん
 ことし日の本もとの倉くらてふ倉くらを滿たしめて、
 鬪たたかひに勝たんず勵はげむくにたみに、
 かぎりなき力ちからを授さずけ、
 大おほいなる希望のぞみをば降くだしたまへり。
 我等われらが手や、
 この手合てあわせて捧さゝぐるは、
 これぞ豐稔ほうねんの感謝かんしやなり、喜よろこびなり。
 又またん年としの働はたらきに
 褒めの御業みわざを降くだしたまへ、
 酬むくいたまへとの祈いのりなり。
 さるにても豐とよのみのりのうれしさよ。
 ひととせを力ちからあはせ、心こゝろあはせて、
 働はたらける大和やまと乙女おとめの我がどちよ、
 いざことほがん此のみのり、
 いざ歌うたひ、いざ舞はんかな、
 瑞穂みづほの國くにの豐とよのみのりのこれの踊をどりを。

         ——(寫眞に添へて)——

 

 

 

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 遠 足えんそく

 僕等ぼくら五十人にんりわたる秋あきの一日ひとひの陽を浴びて、
 そこになほ古ふるい武蔵野むさしののおもかげ殘のこ
 小手指ノ原こてさしのはら、佛子ぶしの丘陵きうりようをめぐり歩あるいた。
 鶫つぐみ飛とぶ十一月ぐわつ、まだ晴れやらぬ朝霧あさぎり
 金色こんじきの縞しまに織りなす三ヶ島村みかしまむらの雜木林ざふきばやしや松林まつばやし
 二列にれつの隊伍たいごは揃そろふ足並あしなみも輕かろかつた。

 新田につた義貞よしさだ忠誠ちゆうせいの盟ちかひの跡あとの誓詞橋せいじばしに、
 草くさもみぢ、水みづほそぼそと、山鴫やましぎ一羽
 白旗塚しらはたづかの古墳こふんのあたり薄すゝきほほけて、
 西風にしかぜに光ひかりなびかふ小手指ノ原こてさしのはら
 野末のすゑをかぎる秩父ちゝぶ、丹澤たんざわ、富士ふじの山々やまやま
 ここにして僕等ぼくら厚手式あつでしき土器どきの破片はへんを獲た。

 片側かたがはに南面なんめんの家並いえなみつづく秩父根通ちちぶねどほり。
 もみぢの燃える加治かじ丘陵きうりようのいただきから、
 眼下がんかにひらける入間川いるまがはの碧あをい曲流きよくりう
 下り立てば佛子ぶしの崩壊地ほうくわいちは高々たかだかと仰あふがれて、
 ローム層そう、砂礫層されきそうに被おほはれた丘陵きうりようの基盤きばん
 埋もれ木や貝類かいるいの化石かせきをふくむ佛子層ぶしそうを見みた。

 僕等ぼくら終日しゆうじつあきの太陽たいやうと青空あをぞらとに恵めぐまれ、
 古ふるい武藏野むさしのの地理ちり、歴史れきしを喜よろこびまなんだ。
 やがて小ちひさい停車場ていしやばの前まえ、莊嚴そうごんな落日らくじつに、
 粛然しゆくぜんと五十の口くちが「海うみかば」をうたつた。
 僕等ぼくらのため此の一日いちにちに金鐵きんてつの重おもさがあり、
 思おもひ出は星ほしのやうに各おのおのの心こゝろのうちに輝かゞやいた。

               -(中島飛行機徒歩團と共に)-

 

 

 

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 我われらの答こたへ

 燒けば幾いくらでも出來できると思おもふか知れないが
 炭すみは元來ぐわんらい寶石ほうせきよりも貴重きちような物ものだから、
 十一月ぐわつの聲こゑを聞いたぐらゐでは
 おいそれと火鉢ひばちに火は入れない。
 窓まどや縁側えんがはに太陽たいやうの光ひかりのさすかぎり、
 暖あたゝまるにはそれで充分じふぶんだと思おもふのだ。
 增産ぞうさんでどしどし出て來る木炭もくたんは、
 鬪たゝかひに勝つために無くてはならぬ大切たいせつな處ところ
 心こゝろきなくたつぷり使つかつて貰もらふのだ。
 ガスや電氣でんきも、無かった昔むかしを考かんがへれば、
 工夫くふうを凝らしてたくみに之これを使つかふのが
 むしろ却かえつて面白おもしろいではないか。
 米こめも今年ことしは豐作ほうさくだと言ふが、氣を緩ゆるめず、
 倉くらにみちる國くにの寶たからを喜よろこんで、
 かたじけないと思おもつて箸はしをとるのも、
 理屈りくつではない、ひとりでに湧く眞心まごゝろなのだ。
 物ものを節せつして貧まづしからず、
 悠然いうぜんとして大おほきく生きるのが日本人につぽんじん
 天地てんちの惠めぐみ、人ひとの汗あせから生まれた命いのちの糧かてを、
 ありがたいと思おもふ事ことこそ我等われらの心こゝろ
 「もったいないといふ事ことを忘わすれるな」と、
 幼おさない時ときの母はゝの敎おしへのあの言葉ことば
 みんなの胸むねに今いまぞありありとよみがへる。
 此この鬪たゝかひに勝つためなら
 どんな辛抱しんぼうでも喜よろこんでしよう。
 それにしても今日けふ此頃このごろ
 日本につぽんの秋あきの終をわりのうつくしさ。
 我等われらみちをあやまたず、
 國くにの大本たいほんの示しめすところに従したがつて
 清きよく逞たくましく生きながら、
 冬ふゆも間近まぢかい此の十一月ぐわつ
 金きんと青あをとの祖國そこくの自然しぜんを、
 なんと心こゝろもひろびろと眺ながめ見渡みわたすことだらう。

 

 

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 我が祈いのり

 粗大そだいなりとも敵てきは頑強ぐわんきやう
 現實げんじつにめざめる事こともまた早はやく、
 敗戰はいせん一年いちねんにしてその方略ほうりやくを三たび變へん
 今いまや反攻はんこうの基地きち、奪還だつくわん意圖いとの大圈たいけん
 遠とほく死角しかくにめぐらして、
 おもむろに我われを縊くびらうとする。
 アラスカは彼かれが北方ほつぽう進路しんろの橋頭堡けうとうほう
 スエズ、西アジアは遙はるか樞軸すうぢく遮斷しやだんの壁かべ
 そしてソロモン、フィジー一聯いちれんの水域すゐいき
 叩たたかれても叩たたかれても頭あたまを上げる
 敵てきが執念しふねんの南方なんぽう突撃路とつげきろだ。
 元もとより不敗ふはいの態勢たいせいわれに成り、
 忠勇ちゆうゆう無比むひの精鋭せいえいすぐつて幾百萬いくひやくまん
 海陸空かいりくくうに必勝ひつしようの氣の漲みなぎるとはいへ、
 敵てきがその厖大ぼうだいな生産力せいさんりよくによりたのんで、
 犠牲ぎせいを厭いとはずひたすらに目ざすところは、
 むしろ我が銃後じゆうご戰力せんりよくの崩壊ほうくわいにある。
 思おもへば鬪たゝかひすでに血戰けつせん死鬪しとうの域いきに達たつす。
 かりそめの勝利しようりに狎れて
 人心じんしんに弛緩ちかんあるべからず。
 區々くくたる缼乏けつぼう、不如意ふにょいをかこつて、
 旺盛わうせいなるべき銃後じゆうごの氣魄きはく
 沈滞ちんたいの兆てうあるを許ゆるさず。
 眞珠灣内しんじゆわんない「必かならず滅ほろぼす」のあの信念しんねん
 ビルマ灣頭わんとう「廻まわせ、捕とらへろ」のあの鬪魂とうこん
 希ねがはくば常つねに我等われらを薫陶くんとうせよ。
 ああ、時ときはめぐつて茲こゝに一年いちねん
 神明しんめいのいぶき再ふたたび祖國そこくに吹きわたって
 その嚴厲げんれい肅殺しゅくさつの氣
 くにたみの心こゝろの隈々くまぐまに滿たしたまへ。

 

 

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 誓ちかひの日

 途方とはうもない大おほきな朝あさがからりと明けて、
 えもいへず爽さはやかな風かぜが八方はつぽう無礙むげと吹きわたり、
 身も心こゝろもなんだか無性むしやうに自由じいう自在じざいで、
 もう小ちひさな自我じがもなければ見得みえもなく、
 何なにもかもあけつぴろげで、誰だれにでも
 おめでたうと聲こゑをかけたいあの日だった。
 こみ上げて來る涙なみだに目を大おほきくして、
 夢ゆめのやうに拜はいした御詔勅ごせいちよく
 東條とうでうさんが世にも頼たのもしかったあの謹話きんわ
 けふ一日いちにちは切らずに置いてと言はれなくとも、
 誰だれが切つたらうか、あのラヂオ。
 後あとから後あとからと目もさめるやうな捷報せうほうに、
 晴はれがましい顏かほの遣り場さへ無い一日いちにちだった。
 それから何時いつの間にか日が暮れたが、
 夜よるになったのが寧むしろ不思議ふしぎで、
 いつまでも寢つかれない霜夜しもよの空そらに、
 たつた一人ひとりで星ほしを仰あふいで、
 はじめてぽろぽろ涙なみだをこぼした。
 その忘わすれられない日から既すでに一年いちねん
 敵てきは幾萬いくまんと軍艦ぐんかん行進曲かうしんきよくとを
 此の耳みゝがいくたび聽いたことだらう。
 その間あひだにも護國ごこくの華はなは默々もくもくと散りに散つて、
 今いまもなほ清きよく美うつくしく散るをやめない。
 それを思おもひこれを思おもへば、
 再ふたたびめぐって來た十二月ぐわつ八日のけふの日に、
 どうして誓ちかひを新あらたにせずにゐられやうか、
 大君おほきみの御言みことにこたへ、國くにに報むくいる眞心まごゝろを、
 どうして燃やさずにゐられやうか。

 

 

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 わが心こゝろつねに鬪たゝかひにあり

 わが心こゝろは常つねに鬪たゝかひにあり。
 祖國そこくの存亡そんぼう、民族みんぞくの浮沈ふちん
 一いつにかかつて此の大おほいなる鬪たゝかひにあれば
 くにたみ我われの日日ひゞのいとなみ
 悉ことごとく此の一大事いちだいじにつながるを思おもふ。

 わが生活せいくわつよ、
 日毎ひごとの我われのいとなみよ、
 汝なんぢ、おのれを思おもひ量はからず、
 すすんで勞らうに赴おもむき、苦を擔になひ、
 ひたすらに祖國そこくの勝かちを來きたすべき
 民たみの誠まことをいたさんとせよ。
 又またわが詩よ、
 わが文字もんじよ、
 汝なんぢ、顧かへりみて他を言はず、
 ちひさきおのれに捉とらはるるなく、
 ひたすらに同胞どうほうの心こゝろを高たかめ結むすぶべき
 熱あつき志こゝろざしを述べよかし。

 わが鬪たゝかふは敵てきにして、
 此の世に我われを打滅うちほろぼし
 地上ちじやうより我われを抹殺まつさつし去らんとするもの、
 實じつに卽すなはち此の敵てきなり。
 我われに忠勇ちゆうゆう無比むひの精鋭せいえいあれば、
 敵てきに厖大ぼうだい無限むげんの物力ぶつりよくあり。
 力ちから相擊あひうち、齒牙しが相嚙あひかむ。
 これ時々じゝ刻々こくこくの現實げんじつにして、
 過去かこ未來みらいの繪空事ゑそらごとならず。
 もしも我われにして此の鬪たゝかひに破やぶれんか、
 東亞とうあ一朝いつてうにして崩壊ほうくわいし、
 三千年さんぜんねん榮譽えいよの神國しんこく
 彼等かれら醜奴しうどの蹂躪じうりんに委まかせんのみ。

 ああ、心こゝろよ。
 わが心こゝろは常つねに鬪たゝかひにあり。
 祖國そこくの存亡そんぼう、民族みんぞくの浮沈ふちん
 一いつにかかつて此の大いなる鬪たゝかひにあれば、
 くにたみ我われの日日ひゞのいとなみ
 悉ことごとく此の一大事いちだいじにつながるを思おもふ。

 

 

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 巻末に

 茲に収めた二十篇のうち、「此の糧」以下八篇は同じ名の詩集から再錄のもの、殘る前後十一篇は一度新聞・雜誌・ラジオ等を通じて發表されたが、本に纏められるのは是が初めての作品である。
 この小さい詩集に「組長詩篇」と題したのは、此等の詩のすべてが、戰時下隣組長としての私によつて書くれ、同じ私によつて組の常會や、町の常會や、出征者の門出の時に讀まれたといふ所縁によるのである。幾百里詛國を遠い戰場や、私達から別れて今は移り住んでゐる他の土地で此の本を手に、その追憶を新たにする曾ての隣人もある事だらう。それを思へば私の心に夕空の星のやうな光がさし、何か周圍がほのぼのと明るみわたるやうな心地がするのである。
 葉をふるつた李の枝が錯落と影をゑがく朝の私の机の上、ゆふべ書きかけの原稿の上に、一塊の小さい岩石が戴つてゐる。
 これは萬成石まんなりいしといつて岡山縣の或る地方で採掘される黒雲母花崗岩である。玻璃光澤を持った黒と白、青味がかった薄墨色と薔薇色とから成る雲形模様は簡素に、深く、美しく、質は緻密でかっちりと硬い。標本として作った寸法は二寸五分に三寸、厚さはおよそ四分ばかりだが、初め人から貰つた時は只のごつごつした塊りであったのを、或日ハンマーで割って、刻んで、磨きをかけて、今のやうに形を整へたのである。自分の手工をい芯ささか加へた天然の岩石。私は此の標本を文鎭の代りにし、これを愛し、時に此の絢爛な石の織物にバッハの音楽を想像し、又しばしば是に或る敦訓を聴くのである。
 同じ机の上に、紺地に白く草の芽と水の流れとを圖案化した紙表紙の、一冊の薄い書物がある。現代獨逸の作家ハンス・カロッサの幾つかのすぐれた作品のひとつで、醫者の日記の形で書かれた其の小諭の或頁には、私か何度となく繰返し讀んで、今ではもう其の原文を暗記してしまった一句がある。それを或人が斯う譯した―—
「さうだ、私は、朝みづから進んで人々の間に入って行き、多勢の人々を慰め癒やし、夕方は後悔の念もなく再び人々から遠ざかつて行く人の身の上を、我にもがなと願つた」
 せめて自分のかかはつてゐる狹い周圍に對してだけでも、心の豊かさや悦びや、生甲斐を感じ得る生き方を鼓吹したい念願から、幾らかの力を其の仕事にそそぎながら、ともすれば或る空しさを感じて手をひきたくなる私にとつて、此の言葉こそは戒めともなれば力づけともなり、又慰めともなるのである。
 病氣の魂には心の醫者、離ればなれの心には結びの手。詩を書き、からだを働かせ、眞心ををそそいで希望を與へ光をもたらす。さういふ組長で私はありたい。

 机の上の一塊の花崗岩。長い長い地質時代を通じで高熱に熔解し、徐ろに冷却して形をなした深成岩。其の成分である黒雲母、石英、叉種種の長石類のやうな鑛物の結晶が、私に隣組の成員をおもはせる。此等の造岩鑛物は、それぞれ化學的成分も異にすれば、色も形もおのおの違ふ。しかもすべてが機縁あって一個所に集まり、加熱と冷却との試練を經て、茲に美しい調和の石理を現したのである。
 緻密であって美しく堅固な隣組、バッハ音樂のやうに支へあひ結びあひ、脈々と流れて深く強靭な隣組。私は日本ぢゆうの隣組が、さふいふものであれかしと願ふ。

 曾て「私の詩」といふ作品の中で、次のやうな一聯を私は書いた。それは大正年代の作ではあるが、今名私の願ひである事に變りはない。ただ、今では、此の「詩」といふ言葉にもつと廣い内容を與へたいと、ひそかに自分では思つてゐる。
   
 私はこれら自分の詩を
 素朴なたましひの人々に贈りたい。
 民衆の底にかくれた母岩、世界を支へる若さと力、
 あの優しい心と勤勉な手とを持つ人々に贈りたい。

    昭和十八年一月三十一日誕生日   

                            尾 崎 喜 八

 

 

 

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