詩集「曠野の火」 (昭和二年)
小作人の墓銘 醜悪なのはその顔貌、 彼がぴょっこり死んだ時 しかし彼がこの世で生きていた日、 その大酒おおざけは田畑でんぱたを人手にわたしたが
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曳船の舵手 投げわたされた渡船の綱の 壮大な朝の大川のどよもしの中。 されば我から選んだその仕事に
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老教授 すでに自然は霜がれて遠い冬が帰って来た。 雑司ガ谷の森にその墓をたずねよう。 この敬虔な基督者の魂の上には 豊かな教養が古いにしえの中にその雅醇を汲んでいた。 いつも涙をたたえているような眼は その著述はペリクレスの家の饗宴であった。 けがれなき脚を持つ鳥のようにこの国におりて、 「我らと共にとどまれ、
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ひとり者の最後の春 ずいぶん長かった俺の独身生活も さて愛惜にあまりあるその過去が
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靄 まっかな朝日にずらりと立った樹木の列が
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大 根 金と紫、眼にもまばゆく お前たちの熱狂は そうして思わず私が立ちどまるのは、
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冬の林 薄みどりの下生えと炎いろの枯葉との絨毯から
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私の古い長靴 きさらぎの風が落葉した白い雑木林を吹きわたり、
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春を待つ間 正月がすぎて寒がゆるんだのに 林の中は物語の舞台のようだ。 農家の庭や村路はねばりつくような霜どけ。 そうして、誰もかも
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久 濶 さあ、とうとう訪ねて来たね、 ねえ、あの北欧のみぞれ色の空の下まで 学問と女とは君のうちで鎬しのぎをけずった。 ところでどうだ、この小屋は。 まず一杯のモッカで昔のようにくつろいで、
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天然の一日 それとあらかじめ思い計らず、 ああその古枝をかざる鮮かな銀と薄みどり、 そうして夜、
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麦 寒水石のかたまりのような 西天にきらびやかな星のうすれる また美しい広大な真昼、 しかし、今、 また、よく夕方、 こうして冬から春へその生命を座らせたお前は、
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初夏の小屋
野中の樫や草の葉が 鍔びろの帽子は、私の肩の上、 そして縹渺と遥かにきらめいていた地平のながめよ! 私はそれを満溢せしめる、 なぜかといえばあの風景の金剛の美は
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平戸島への消息 肥前平戸島への今日のたよりに何を書こう。 ああしかし、何よりも私はこの事を忘れまい。
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西 瓜 夏の夕日をはすかいにうけて
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老いたる樫 腕をまわせば両手にあまろう。 青空にむけて放散する長い無数の枝々の
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小 鳥 友達への消息を書きながら、
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積乱雲
私の窓の南方の麦畠で、一人の農夫が
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秋の歌 九月、 九月、 ある晩、都会の憂欝な夜霧の奥で もっと自由でおおらかなものが欲しく、
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朝の半時間 高貴に澄みわたった天の方へ倚りかかって、
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隼 ながれるように飛んで来て、さながらの風、
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かがやく稲田 秋昼過ぎの甘美な日光の方へ
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夜あけの嵐 青じろい夜あけの地平線に立ち上がった大風が
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兜 虫 駒込にいる友達の彫刻家が 仕事がすんだら
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甲州街道の牛 からころ、からころ、田舎の奥から、
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冬の蝿 板戸のそとの踏段に 彼らは近隣の農家の 小豆あずき色の頭、黒い胴、 それから、とうとう、
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朝の甲州街道 朝の甲州街道はすばらしい。
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土と落葉と水溜り 秋も終りにちかづいて 秋も終りにちかづいて
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冬 二月の壮烈な青磁いろの天は 冬のはてまで続くかと思う路のへりでは 冬の野をあるきまわりながら 十二月、一月、二月、
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私のかわゆい白頭巾 白い毛糸の頭巾かぶった私の小さいまな娘は 私の腕は彼女をつつむ藤色のジャケットの下で 朝の西風のつよい野中で
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夕暮の歌 夕ぐれ、窓のむこうの闇を、
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菫 つよい北風が晴れた日の松が枝えを鳴らし、
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精神的寂静(Jhanam) 石油罐をきりぬいた手製の竃へ
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クリスマス クリスマスが近づいた。
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青い鳥 古代めいた夜ぞらに星かげの匂うクリスマスの晩、 それは迷妄の微動する霞をかかげて ただ一本の金剛石のピン、 青い鳥は今日も私の窓に来鳴かず、
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故郷にて はるばると暮れてゆく水浅黄の空に まだ昼間の熱の残っている畠の土に 人はこの神聖にも平和な、 その同じ魂が 彼のまわり、草木の根がたには 彼の重たいしっかりした歩みは
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