詩集「高層雲の下」 (大正十三年)
新らしい風 ほがらかな、新鮮な、
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高層雲の下 地めんに映る樫の葉かげがだんだん濃くなり、 きょうもまた都会では、 ああかかる時、私は広大な田舎の空の下で、
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野の搾乳場 野の搾乳場? それは遥かむこうにある、 すばらしい寒さよ! 吐く息が虹になる。 私はうれしさでいっぱいになりながら、 路は野の中をつづく。 緑のきわだつ樫の木この間に煙突の柔かな煙が見える すばらしい寒さよ! 中庭の台の上、厚手ガラスの大コップヘ 野の搾乳場? それは遥かむこうにある、
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河口の船着 河口の船着ふなつきよ! ある夕がた、 そうして、頬にさわる早春の夕風、 むこうでは、荷揚場で、 おお、河口の船着、
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最後の雪に 田舎のわが家の窓硝子の前で その窓に近い机にむかって 雪よ、野に藪に、畠に路に、 やがて遠い地平から輝く春が
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野の小川 おお、雨あがりの 早春のおっとりした紫の空を映して、 重いものきたないもの、
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私の聖日曜日 日かげの雪はまだ溶けない。 私は立て膝をして青瀬戸の火鉢に火をつぎながら 煙草を買いに村路へ出れば、 竹林のなか、木立のあいだ、 そして私は思うのだ、 私の聖日曜日、
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音 楽 バッハのガボット、
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夕ばえにむかって 七輪へ夕飯の釜をかけると、 ああ、地球の夕暮よ! 私は懐かしいおんみの胸に頭をつけて、 ああ神々しい夕ばえよ!
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明るい窓 光明の五月、力と華麗との撥乱の時よ! 窓の内部、夢想と労作との大机は滑かに光り、 花壇の多彩の花々や、温かい地面にはたらく昆蟲が、 やがてゆるやかな時間の進みをそよかぜが吹き、 おお、選ばれた時間の選ばれた音楽! そしてベートーヴェンのちりばめた音楽の顆粒かりうは
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ヴェルアーランを憶う サンタマンは荒廃の町、 愛も慈しみも切り裂かれ、焼きたてられ、 その後を追うように、 「無量の荘厳」、「波うつ麦」、 おお悔悟と、愛惜と、不屈の勇気よ! そして、ここ 初夏の野の朝露にどっぷり濡れて この飯事ままごとじみて、まずしげな、 奥は玄関の涼しい暗さ、 おお、あなたは立つ。 そしてあなたの雄々しい心臓の波うちが ああ、サンタマンは荒廃の町、
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若い主婦 健康な主婦よ、若い多幸な母親よ、 今、郊外の初夏の真昼、 ああ、その時、なんという力ある創作の悦びが 穏やかでしかも雄々しく、
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昆陽先生の墓にて 小径の上でゆさゆさ揺れる濃緑の葉かげ、 ああ甘藷先生。
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古いこしかた Vous Rapelez-vous notre douce
vie, 六月のよい昼過ぎは木立の蔭の交番もすずしく、 ああ! その主人のように相変らず健在な、 きょう夏のはじめの素晴らしいお天気に むかし角帯も堅気な町息子の頃から、 されば友よ、
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草上の郵便 朝の戸口で郵便をうけとり、
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村の孟蘭盆 七月は竹の林の新緑の月、 村の辻の小川のへり、 昔ながらの義理がたい中元のお使いが 木の間からちらちら洩れるお迎え火。 十五、十六の楽しい二日、 さて夜は
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我が家の台所 昼過ぎのさっぱりと片づいた台所、
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裏 道 むこうに輝くプリズムの海が見えて、
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日没の時 よい日の暮に誘われて
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静かな夏 東京から買って来た二三冊の書物を、
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土用の入 新橋は「うつぼ」の牛肉の 烏瓜のドロンウォークの花が 糊の利いてかみしものように突張った
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水 際 水晶の念珠のかろく打ちあう水の音、 落日の青みがかった金色の光が 瑠璃いろの花のかたまりは 低く架けわたした板橋に立って
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晩 夏 椋鳥の飛来、秋の消息。
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秋 風 けさ早く井戸ばたで、
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女 等 尻っぱしょりに結いつけ草履、
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母 むこうの横町の魚屋の店さきで、
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九月の樫 もうどこかひやりとした薄赤い初秋の日光を、
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海 まるで途方もなく大きな真珠貝のように、 砂浜の白い縁縫いのつきるところ、 ここでは截然とけずりさげた断崖の真下、 足もとからこの大洋が生まれるかと思う。 いちめんのプリズムの海にちらばっている漁船は その間にも海は絶えず歌っている、 おお海よ、 おお海よ、 おお海よ、 海よ! ああ海よ、いつも私の夢想と霊感とであるものよ!
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秋の朝 きのうの雷とどしゃぶりとで
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古典の空 雲をちりばめた西方の青ぞら、
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樹木讃仰 我が家のうしろに 村人は知っている、一人のこらず、 四月に、私は彼を愛する。 夏が来て 季節がかわって ああ、日々にいやます愛と熱情と
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朝狩にて 御執みとらしの梓あずさの弓の 御頸みくびにかけた勾玉まがたまを その時、はしなくも帝の瞳に、 帝は、この時、憮然として手綱を取られた。
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花崗岩 山の半腹には ああ、鉱石のように 天空にこだまする鋼鉄の鎚のひびきよ! ああ、日本の秋の
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健 康 大空はあくまで澄んで深遠な秋、 背たけの高い桜蓼と雁来紅とが 清らかな小川のふちで釣竿が光る、 空気は濃厚、新鮮、 昔の飛脚よりも、馬よりも、 健康は盛福、不死の瞬間、 ああ、健康よ!
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も ず 秋の夕日をつんざくもずの高音たかね。
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蹄鉄打ち 燃えろ、燃えろ、カンテラの火、 そこにはちいさな馬車屋がある。 馬が一頭、男が一人、 男の横顔を貧がくまどる。 頭の上には駄馬の尻、 打て、打て、発矢、意気地の鉄鎚、 そうして、師走節季の赤ぐろい火、
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落 葉 くろぐろと田舎をいろどる夕風に誘われて、
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冬の木立 あんなに豪奢だった秋の誇りのゴブランを 根がたには錆びたみどりの苔をつけ、
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眠られぬ夜のために 眠られぬ夜のために私は何をしよう。 眠られぬ夜のために
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日の暮 おお、なんという寒いきよらかな日の暮が、
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蛇窪に別れる むかし惑溺的に美しかったこの窪地を
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自我の讃美 おお、私の肉体よ、 おお、その時こそ、私の肉体よ、 しかも、人間とは何という広大な欲望と夢想との本体であることか! さらば、私もまた肯定し、讃嘆しよう、 そして私は、愛し、護り、かつ讃美しよう、 おお、私の肉体よ。
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