詩集「行人の歌」 (大正十四年−昭和十五年)
生活の野を離れる時
白い大鳥は地面の上で曳きずった、
片方の腐った翼を。
そして彼は朝の空間で高く張った、
美しい運命に満たされたもう一方の
純白無垢の新しい翼を。
シャルル・ヴィルドラック
曇り日の村 秋の曇り日の村落は
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朝 寒 陸稲おかぼが刈り並べられて畑をいろどる敷物になり、 路傍の薮に風のあたらしい響きを聴け。 人はいう、今朝のあけがた初霜がうっすり ああそれならば、この朝寒は冬の先駆か、 そして秋分点を南へ去った太陽は
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夜をこめて どこか知らないがまっくらな丘の藪地の 今にも飛んで来そうな氷柱つららのような星の下で、 まんじりともできない寒さにときどき眼をあけたが、 伴侶とものからだのぬくみを頼りに 離れていたら知らぬ間にこごえて死んでしまうだろう、 そうなったら、すべての山々が緑にけむる 高い樹のうろの安全な巣で 全身のうぶげをふくらませて * けれども永遠かと思われた長い夜がとうとう明けて、 ごうっと吹きわたる一文字の夜あけの風に、 やがてまっさきに丘を照らした真紅の太陽が、
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早 春 もうなんとなく春の息吹いぶきの感じられる空気が その堅い幹に耳をつけると、 ああ、古い苦痛や怨恨を
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バッハの夕空 深い緑玉エメラルドの空に金きんやくれないの雲の感動。 ああ、光りかがやくこの大いなる夕空。 風がすこしある。
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十一月 十一月が丘の林や野中の藪で咆えはじめた。 金箔をすかしたような遠いぼんやりした日光のなかを、 けれどもたちまち日が暮れて、 十一月が丘の林や野中の藪で咆えはじめた。
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希 望 今年最初の雲雀だな…… たとえ俺たちに 今年最初の雲雀だな……
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エネルギー 雪があがった…… 生活の苦闘を君は云うか。 くらい天に星が燃える。
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霊 感 この詩を書かせたものは何処にいるのだ。
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挽 歌 昼間の蠟燭が君の静かな臨終の顔を照らす時、 むなしい心を抱いて僕は野へ出た、 しかし何時か僕のためにも時が満ちたら、 時の潮の満干はもう君には縁がない。
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或る朝のおもい 浮動する、深い夢に満ちた一夜、 夏の夜あけの滴るような空の下。 君は思い出すか、優しい心の友よ、 私は君をおもう、君をおもう。
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慰 め 天空を編む宝石の星々、 けわしい怒りは心頭を去って、 お前たちを踏んで喜ぶ足を運んで、 私の頭を冷やしてくれ、風よ、 私は人間苦を韜晦して しかしそれでも私は知っている。
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熱 狂 一 昂あがれ、すきとおれ、我が心よ! ある日、私にとって、 二 悲壮な友らよ、それは我らの運命だ。 手をつかねて茫然とするな、
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草 に 八月の夕ぐれの太陽が 遠く傾いて、けむる晩夏の薄赤い日ざしが やがてこの円球の上に秋がまったく満ちる時、 そして私もまた生きるもの、
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夜の道 赤い、大きい船のような月が 彼らは村のささやかな停車場まで 露のはげしい草の小径を一列になって、 彼らはいくらか疲れを感じている。 しかし今、むこうの畑の片隅に、 自分たちの小屋の火を霧の奥に見出した時、
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東京の秋 いま、急行列車が高架線を轟かせて過ぎた。 十月がいち早く鈴懸の葉を落すこの敷石道をもっと歩こう。 黄金おうごんと青との秋、 ウンルーかアルコスの本を買おう、
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追 憶 今はむかし、ある年の武蔵野で、 君はそのすばらしい樹木を 僕は少し離れた樹の蔭の 君は火の消えた巻烟草の端をくたくたに嚙み、 燃える大気を涼しくして、 僕が言い出した事を君もちょうど考えていたのだ。 その間にも太陽の旅につれて * ああ! かしこ、僕らの昔の夏の楽園で、 それは、冬が来て、 君はもうこの世にいない。しかし 君は夜更けの火鉢に手をかざす僕に 君がいつでも自然の中にいるのだという考えは そして僕のうちに生活し、
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私の詩 私はこれら自分の詩を また勝ちほこる勝利も知らず、 私は自分の詩によって なぜかといえば私は彼らの一人であり、
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夜 どうしても寝つかれない。 頭の中はがんがん鳴り響くものでいっぱいだ。 よく眠っている子供や女たちを起こすまいと、 それでも、やっぱり、 隣りの部屋で子供が眠りながら咳をしている。 床へはいったがどうしても寝つかれない。
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エレオノーレ 椋鳥むくどりがどんなお饒舌しゃべりをするか、あんた知ってる? 神様のおぼしめしが無くっては あんたはなんにも知らないのね。 大人は思慮が無くって残酷なものね。 * ありがとう、エレオノーレ、
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母 性 ああ、夕暮の西天の ああ、東風こち吹く春の夕暮と、母たる事の憂鬱な幸福! その夕暮、私は見た、
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日本の眼 海をこえて外国へゆく大きな客船が すこしずつ、すこしずつ、 そこに人と人との別れがあった。 推進機が廻転をはじめ、 青春のあらゆる夢と冒険、 水の上からオールド・ラング・サインの歌がおこり、
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暗い源泉から生まれて ああ今一度、悦びに満ち力に満ちて新しく、
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朝の書斎へ 朝の書斎へすべりこんで、 その眼は机の上の「面白いもの」を一目で見てとり、 朝の時間の掠奪に困惑しながら、 遠く旅にいて我が子をおもう。 抱き上げた我が娘のエプロンのかくしに、
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私は愛する 私は愛する、 私は愛する、 私は愛する、 私は愛する、 私は愛する、 私は愛する、私は愛する、
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今日という日は 今日という日は私にとって せめて子供でも元気であったら、 午後の終りに私はぶらりと外へ出た。 ふたつの丘に挾まれた田圃の風景のなかで 爽やかな草の中に寝ころんで私は何を見たろう。 私はその花を折りとって帰るべきであったろうか。
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今朝もまた 今朝もまた杣そまが来て挽く たとえ切られた彼らへの私の愛惜がなんであろうと、 そうだ、悲しみのために貧しくなる心であってはならぬ。 もしも私が我から進んで現在を受用するならば、
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寄 託 やがて移り住む東京で 私たちの精神はあの都会でも
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猟銃家に与う やがて雪になるシベリアを一緒に立って、 秋晴十里の大平野をむこうに見ながら、 ねらっている筒先があるとも知らず、 一生を同じ夫婦で暮らすというこの鳥の
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中野秀人の首 それをじいっと見ているうちに、 すべての春よりも美しく純なあの口に 高い犠牲を払って漸く芽ぐむこの国の青春から 展覧会の外のお祭り騒ぎの日曜日の人出と、 その晩おそく、午前一時ごろ、
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霜どけ道 この頃の毎朝の霜どけに、
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精 神 流動する樹液を蕾に凝らし 三月の樹よ
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この眼は何を この眼は何を見ているのだろう、 今朝がた降った麦ばたけの淡い雪に この父の生命がいつかは老いてほろびる時、 一つの過渡の世を生きておんみを慈む父を思え、
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喪の春 寒い残酷な冬のあとで、 痩せほそった枝の先や かりそめの春のまぼろしのような、 とある井戸端で
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夕陽哀歌 われは愛す夕日の空。
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朽ちる我が家 無量の雨をふくんだ雲がいっぱい 暗い大きな松の森が、 あたりいちめん、さんざんに伸びて、 もっとも純潔な日の太陽が あの一つの時代の聖なる火を
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郷 愁 子供が一筆に、のびのびと、 心よ、晴ればれとしているがいい!
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昔と今 むかし、書物を読みながら歩くのが常だった むかし、ただそれがそこに在るとばかり知っていた 卓越の七月よ! 正しい遠近法の中に消える高圧線の鉄柱さえ むかし、私の踵かかとには翼があった。
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旅のめざめ 無数の蟬がいっせいに鳴いている、 今朝もまた竜王の鼻や種崎の磯で、 この国に客となって そしてその唇の両はしの ねえ、
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道づれ 君と僕とが向いあっている此処から、 肩をならべて歩きながら、花を摘んでは渡すように、 君の思想が僕の心の谷間へながれ、 そして僕らが遂に沈黙する夕べが来たら、
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都会にて 夏が去りがてに見えるので、 けれども日が傾いて蜜のような光が漂い、 そこに都会の舗道がうすれて、 田舎ではない、みすぼらしい都会のへりを、 夕日に毳けばだつ風景の奥から
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秋 ふたたび秋がここへ来て 乳のようなもの、蜜のようなもの、 黄と、灰いろと、うすい赤との、 そして人は行く者も帰る者も
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限 界 どんな師走しわすのしぐれた午後に、 写真でしか見たことのない * 私は知りたい、自分のもののように、 私が握るその手に彼の心の熱を感じ、
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思い出の歌 われ田園に住みたりき、 にわとりもわれ飼いたりき、 露の干ひぬまに花を切り、 いとずるげなる鶏とり買いの 武蔵野の春ほのぼのと、 わが子を抱きて雪の野に いま都にぞわが住みて
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旅 思い出す、 午前はもうかなり暑かった。 海抜三千五百尺、 風が、山越えする風が、 「吾妻はや……」 片手に握った三脚を上げて友は教える 岩菅という山は群青の尾根に一閃の雪を光らせ、 その時、私のうちで すると、全く解放された世界の力あるどよもしが、 それは風だった。風が起ったのだ。 友は草にかくれた降りの路を私に示した。 思い出す、あの奥上州の高い国で、
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シュナイダー オーストリアの山奥から呼び出されてまっすぐに、 だがシュナイダーでもやっぱり人間だ、 だがひとたび山々の処女雪が真赤な朝日に照りはえれば、
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シュプール 遠い目的地への到達の道で、 その一廻転を完成する各瞬間の運動を、 たそがれ、霧のたちこめる しかし相次いで前途を扼す無数の難関。
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新年言志 ――次は東京、東京。 とにかく、こんにち何よりも忘れてならないのは、 次は東京。
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早春の歌 ながい冬のあいだ、 人々の姿は そこには協同への蔑視と独存の矜持とがあり、 冬よ、 * けれども咋夜ゆうべおそく昇った星座には、 誰よりも与え求める事に性急な一人の男は けれども終日、 けれども翌日、 けれども今、
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樅の樹の歌 私はやはり自分が そうしたら私は滑るだろう、 若くて、若さのために眩ゆいほどで、 私はやがて雪と夕日との高原の林を その時私は歌うだろう、 私は、時々、やはり自分が
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言 葉 私は言葉を「物」として選ばなくてはならない。 それがいつでも百の経験の そうしたら私の詩は、
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女の小夜楽 むかし、お前にとって、 十年たって、今、
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日の哀歌 夕日のなかに嫁菜がたくさん咲いている。 頭の上のくぬぎの木で 稲の田圃が寒い黄いろに熟うれている。 クイクイと空の高みを鳴きながら このように、田舎の秋の夕暮を、
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野良の初冬 いつのまにやら自然はすっかり冬になった。
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清 福 初冬がつめたい空気を硝子のように張りつめた。
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訪 問 安月給から溜め上げた金で 世田ガ谷から目黒あたり馬糞のにおい、 安部秀雄は汗にまみれ、腎を腫はらし、
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五歳の言葉 「敏彦が咲いた」というのは、
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カマラード ……それから鞍部の森林帯へくだった。 そして其処に一人の男、 こういう事を仰々しくもなく見てくれもなく、 露営の設備も火起こしも、 いくらかストイックで、そのくせ自由で、
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新戦場 われわれはもう何者でもないだろう、 あの死の瞬間に、 もう取り返しのつかない砕かれた頭、 たましいの奥底では、 熱い、大きなそよかぜに吹かれて われわれを護国の鬼などと云うのはやめてくれ。
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