詩集「高原詩抄」 (昭和十七年)

早春の山にて

春浅き

かたくりの花

軍 道

松本の春の朝

山小屋の朝

高原 その一

高原 その二

高原 その三

高原 その四

高原 その五

お花畠

槍沢の朝

帰 来

牧 場

野辺山ノ原

美ガ原溶岩台地

秋の流域

御所平

凍 死

夏山思慕

山を描く木暮先生

噴 水

 

 早春の山にて

 遠い北方の山々に雪はまだ消えないが、
 あの下のほうの霞の底では
 平野の河が幾すじもきらきらと震えて、
 無限の春の広袤をそよかぜが流れ、
 空のあちこちに雲雀の揚っている麗かさが想われる。

 こうして移る刻々が私にはひどく惜まれるが、
 お前の時はやっと今始まったばかりだ。
 私は何ひとつお前に残してやれないほど貧しいのに、
 腕を与えてひとつの山登りを完成させた今日は
 此の世でいちばん富んだ父の心でいるのだ。

 だが明日あすは五月。
 もうじき山路やまじに栃の花が咲き、
 雲のように湧く新緑の谷間に
 郭公の笛のこだまする時がめぐって来る。
 そうしてお前はついに女になる。
 そうして今度は、あわれ、お前が手をとって、
 私のために行くべき道を教えてくれるだろうか……

                (我が子に与う 昭和十四年作)

 

 

 

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 春浅き

 春浅き三頭みとうの山に
 なお残る雪を踏まんと、
 そが麓、数馬かずまの里の
 谷ふかく我は入りにき。

 氷柱つららこそ滝にはかかれ、
 かんばしや、梅はおちこち。
 美しき農家の垣に、
 あたたかや、菫咲きけり。

 しかれども我がいぶかりは
 女子おみなみな、男子おのこもなべて、
 われに遭う村のわらべの
 ねんごろの礼にてありき。

 宿にして夜のまどいに、
 わが問えば、この山里に
 いちにんの若き師ありて、
 他郷人よそびとの入り来るあらば、
 貴きと、賤しき問わず、
 礼いやせよと教えぬという。

 礼いやすると、はた、せざるとは、
 これ人の心にあれど、
 けなげさは其のわらべらの
 師の教え守るにぞある。
 この心、絶えせぬかぎり、
 全まったけん、日の本の道。

 

 

 

  

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 かたくりの花

 春のいきれの暑い山みち、
 わたしはさっきから汗たらたら
 上着をかかえて歩いている。
 あせびの茂った石灰岩の痩尾根を縦に渡れば、
 ひやりと涼しい樹々の若葉の下かげの
 そこら一面かたくりの花ざかり。
 ふかふかと降りつんだ
 軽い枯葉のさざなみから、
 すらりと立って、
 小さい紫の天蓋を傾けているかたくりだ。
 わたしはあまり見事な光景に
 どっかとそこへ坐りこみ、
 これだけでも今日の山歩きの意味はあったと、
 筒鳥の声ののんびり霞む昼まえを、
 花の傍ら、落葉のなか、
 ルックサックを枕にして、
 眠らば眠れとやわらかに目をとじる。

 

 

 

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 軍 道ぐんどう

 私たちの下って行った山腹の村には  
 一抹の夕日の色がまだ思い出のように残っていた。
 段々畠の中には苔の斑点つけた大きな岩がごろごろして、
 それが放牧の牝牛のように見えた。
 たそがれ近い水のような空気のなかで
 山畑の小石にあたる鍬の音がすがすがしく響いていた。
 丘ひとつ向うの谷ではみそさざいが囀り、
 それに答えて、
 寝にゆく前の山雀やまがらが甘えるように歌っていた。
 梅は白く、三椏みつまたは卵いろ、
 村の坂道の片側を
 用水が紫の夕空をうつして淙々と流れていた。
 そして生活への崇敬の念を起させるかのように、
 農家の前庭で野天風呂の火がちらちらと動いていた。

 

 

 

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 松本の春の朝

 車庫の前にずらりとならんだ朝のバス、
 だが入山辺行の一番はまだ出ない。
 若い女車掌が車内を掃いたり、
 手の平ほどの如露を振って水を撒いたり、
 そうかと思えば運転手が
 広場で新聞を読んでいたり、
 体操のような事をやっていたり。

 夜明けに一雨あったらしく、
 空気は気持よく湿っている。
 山にかこまれた静かな町と清潔な田園、
 もう岩燕が囀り、れんげそうの咲く朝を、
 そこらじゅうから春まだ寒い雪の尖峯が顔を出す。
 日本のグリンデルヴァルト、信州松本。
 凛とした美しい女車掌が運転台の錫の花瓶へ、
 紫と珈瑚いろ、
 今朝きりたてのヒヤシンスを活けて去る。

 

 

 

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 山小屋の朝

 小屋の屋根からは陽炎かげろうが立っている。
 僕は山でもひとりぼっちの一兵卒だから、
 こんな陽炎までふるまう今朝の麗らかな山頂を、
 単純に、しんからありがたがった。

 壮麗の、森厳のと言ったって、
 結局言葉は貧寒な雪の山巓だ。
 青玉のような空の下にぎっしりと稜かどをならべた、
 この中部日本の広大な結晶群が僕をだまらせる。

 こんな朝のさばさばした人間関係……
 七彩の虹を吐く雪の上へ長々と影をよこたえて、
 死んだ父親おやじによく似た小屋番のおやじの横顔に、
 僕はカメラの狙いをつける。

 

 

 

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 高 原  その一

 熱い火山岩が切り明けの道にごろごろしていた。
 むこうのななかまどの木の下で
 山羊が一日じゅうぬるい草をたべていた。
 あかい撫子やあおい風露草、
 花にうずもれた岩の上で
 僕はとかげのかくれんぼを見て暮した。
 それからゆっくりと高原の夜よるになったが
 今ではいちめんの草山の露に
 つめたく、きらきら、
 星の光が交叉している。

 

 

 

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 高 原  その二

 高原のさびしく明るい片隅に
 ひとところ小さい泉が湧いていた。
 夏なお雪の連山をながめる
 台地のよこはら、崖のわれめ、
 岩菅や薄雪草の根ぎわから
 銀鎖ぎんさのように流れてたまる水だった。
 それを知っていたのは僕と近所の小鳥ばかり。
 僕はあつい手を冷やし、
 のびたきほおあか
 それを飲んでは水浴びをした。
 朝はたのしく、
 夕日となれば甘く、恋しく、
 みじかい夏の高原に
 彼らの歌がひびいていた。
 無常の夏の花のかげから
 わすれじの遠い泉はしたたっていた。

 

 

 

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 高 原  その三

 牧場に昼すぎの驟雨があった。
 暑さに萎えた牧草や乾いた牛の通路かよいじ
 湯滝のようにそそぐ雨だった。
 やがてふたたび太陽が現れ、
 高原のはれやかな夏景色になると、
 麓の宿から休暇の女学生が大勢のぼって来た。
 陶器のように涼しく、
 くだもののようにみずみずしい、
 都会の健康な娘たちだった。
 彼らは雲や花や詩について
 私にたくさん話させた。
 ひどくまじめに、好奇心をもって聴き、
 じきに忘れるおそれがあった。
 それから「さよなら、さよなら」と手を振って、
 もっと楽しい今宵の宿へ降りて行った。
 私はひとり取り残され、
 古い小屋の前で考えた、
 私のために青春はすでに去ったのかと、
 人が運命に実るためには
 どれだけの賢い淋しさを持たなければならないか。
 どれだけの淋しい賢さを学ばなければならないかと。

 

 

 

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 高 原  その四

 ししうどの原でのびたきが鳴いている。
 乾草がよくかわいて佳い匂いをたてる。
 小屋の日かげで一羽の蝶が
 やぶれた羽根を畳んだりひろげたりしている。
 もうじき牛たちも麓の村へ帰るだろう。
 やがて、とつぜん、
 秋が最初の嵐を連れてやって来るだろう。

 

 

 

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 高 原  その五 

 いつか善い運を授けて下さるならば、神様、
 どうか私にオーヴェルニュを見せてください。
 其処のピュイ・ド・ドームやカンタルなどという名が
 私にとっては巡礼への聖地の名のように響くのです。
 露にぬれた伊吹麝香草、
 岩燕のとがった影、
 ピュイ・マリーからプロン・デュ・カンタルヘ伸す鷹の羽音、
 霧ににじんだバイレロの唄……
 ああ、日本はついに私の墳墓の地だが、
 心の山のふるさとは
 行けども行けども常に碧い遠方にある!

 

 

 

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 お花畠

 いちばん楽しかった時を考えると、
 高山の花のあいだで暮らした
 あの透明な美酒のような幸福の
 夏の幾日がおもわれる。
 残雪や岩のほとりの
 どんな花でも嘆賞に値したし、
 あらゆる花が夕べの空や星辰の
 深い意味を持っていた。
 そこに空気は香り、
 太陽の光は純粋に、
 短かい休暇が私にとっては永遠だった。

 

 

 

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 槍沢の朝

 人影もない堆石モレーヌの丘に
 金いろの日光が斜めに横たわっている。
 朝の天空は耿々こうこうと青く、
 峯々の歯形の上に燃えている。

 まだ霧の縞のふるえている青い谷奥に
 銀の雪渓のいくつの弓がた。
 しかし此処ではもうしんみりと日を浴びて
 ちんぐるま、しなのきんばい、ほそばとりかぶと、
 露に濡れた多彩の花の群落が、
 白に、黄に、また紫に、
 高山の短かい夏を歌いはじめる。

 ふと、「とりどりの石ブンテ・シュタイネ」という言葉が唇にのぼった。
 それと同時に、この爽かな堆石モレーヌの上で、
 アーダルベルト・シュティフターという名の意義が
 突然はっきりと理解された。

 あたりは這松の樹脂のにおい。
 身にしみとおる空気のつめたさと
 手や首筋にあたたかい太陽の光線。
 私の夏がきょうは終ろうとして、
 槍沢の朝は悲しいまでに美しい。

 

    

 

 

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 帰 来

 黙々として彼は山から帰って来た。
 試みられた力は彼に自由と重厚とを加えるが、
 眼は雪しろの水を湛えた山湖のように
 ふかい静かな懊悩をうかべ、
 心には雲のような物の去来がある。
 時おりの微笑は霧の晴れまの日光のように咲きはしても、
 沈黙を一層よろこぶ昨日今日きのうきょうの自分自身を
 どうすることも彼にはできない。

 山の無言とけだかさとは
 かりそめの言葉を彼からうばった。
 堆石のほとりの寂しい残雪、
 全身を鞭うつ尾根の強雨、
 あこがれと予感にけむる夏の遠望……
 山はそれらのものの深遠な意味を彼にさとらせ、
 その根源の美と力とで彼を薫陶した。

 そして再び複雑多端のこの世を生きようとする彼だ。
 それならば、小さな好奇心でうるさく訊くな、
 何処へ行き、何を見、何をしたかとは。
 幾多異常な体験に面やつれして帰った彼が
 この帰来の周囲からおのれ自身を見出して
 新生の瑠璃黄金るりおうごんをまとって童子のように立つためには、
 なおいくらかの孤独の時を持たなければならぬ。

 

 

 

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 牧 場

 山の牧場の青草に
 あまたの牛をはなちけり。
 あまたの牛はひろびろと
 空の真下に散りにけり。

 夏もおわるか、白雲の
 きょうも峠をこえて行く。
 立ち臥す牛ら眼を上げて、
 雲の行衛をながめけり。

 山の牧場に風立ちて、
 夕日の光ながれけり。
 風に送られ、日を浴びて
 牛は牧場をくだりけり。

 

 

 

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 野辺山ノ原

 今ははや六年むとせのむかし、
 山々の秋のさかりに、
 八ガ岳その高原を
 日を一日ひとひわれは歩みき。

 見はるかす甲斐や信濃の
 高山たかやまの飽かぬながめや、
 秋草の波の秀に出
 八ガ岳つねに仰ぎつ。

 井出ガ原、念場ねんばガ原と、
 わがすぎて野辺山ノ原、
 いつしかに夕日のながれ、
 白樺の林染めつつ。

 海ノ口、今宵のとまり、
 さはあれど道の幾すじ
 いずれとも定めかねては、
 とつおいつ、旅人われの。

 おりからや、若者二人
 自転車をつらねて過ぎぬ、
 呼びとめてきけばこまごま
 教えてぞ走りて去りぬ。

 四五町もわれは行きけん、
 ふと見ればさきの若者、
 道のべに自転車立てて
 語りつつわれを待つなり。

 わがためになおよく道を
 教えんと待てるなりけり。
 あたたかき人のなさけぞ!
 わすれめや、野辺山ノ原、
 甲斐信濃、国のさかいの野辺山ノ原。

 

 

 

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 美うつくしガ原はら熔岩台地

 登りついて不意にひらけた眼前の風景に
 しばらくは世界の天井が抜けたかと思う。
 やがて一歩を踏みこんで岩にまたがりながら、
 この高さにおけるこの広がりの把握になおもくるしむ。
 無制限な、おおどかな、荒っぽくて、新鮮な、
 この風景の情緒はただ身にしみるように本原的で、
 尋常の尺度にはまるで桁けたが外はずれている。

 秋が雲の砲煙をどんどん上げて、
 空は青と白との眼もさめるだんだら
 物見石の準平原から和田峠のほうヘ
 一羽の鷲が流れ矢のように落ちて行った。

 

 

 

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 秋の流域
      (わが娘、栄子に)

 二日の雨がなごりなく上って、
 けさは天地のあいだに新らしい風が流れている。
 暖かい道のうえの小石をごらん、
 これは石英閃緑岩というのだ。
 こんな石にさえそれぞれ好もしい名がつけられ、
 一つ一つが日に照らされ、風に吹かれて、
 きょうの爽かな、昔のような朝を、
 何か優しい思い出にでも耽っているように
 みんな薄青い涼しい影をやどしている。

 葡萄畠のあいだから川が見えて来た。
 風景の中に自然の水の見えて来るときの
 深い心の喜びをお前がいつでも忘れないように!
 だが銀の絲のもつれたように流れる川の両岸には、
 平地といわず、丘といわず、
 この土地の人々の頼もしい生活と
 画のような耕作地とがひろがっている。
 そうしてこの美しいひろびろとした流域のむこうには
 同じ日本の空があり、秋があり、
 其処で営まれているまた別のたくさんのたくさんの生活がある……

 

 

 

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 御所平ごしょだいら

 一里むこうの大深山おおみやまはまだ華やかな夕日だが、
 山蔭はもうさむざむとたそがれた御所平。

 四つ割の薪を腰に巻いて
 注連繩しめなわ張った門松に雪がちらつく御所平。

 海ノ口ヘの最後のバスが
 ラッパ鳴らして空からで出ていった御所平。

 腕組みしておれを眺める往来の子供たちが
 みんな小さい大人のようだった御所平。

 楢丸ならまる一俵十八銭の手どりと聞いて、
 ご大層なルックサックが恥ずかしかった御所平。

 それでも東京の正月を棒にふって
 よくも来なすったと迎えてくれた御所平。

 ああ、こころざしの「千曲錦」の燗かんばかりかは、
 寒くても暖かだった信州川上の御所平……

 そのなつかしい御所平を、
 あじきない東京の
 夜よるの銀座でぼんやり想う。

 

 

 

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 凍 死

 吹雪はわずかな岩の割れ目をひしひしと囲む。
 他界のような酷寒の空気に
 肌はぴりぴり燃えて裂けるようだ。

 今夜何十の樅の若木が立ちながら死ぬか、
 今夜何百の小鳥の魂が積雪の底に埋もれるか。
 いま黎明はどんな南の
 どんな楽園のような海べを照らしているか。
 めぐって来る千年後の朝を手をつかねて待つことは辛つらい。

 凍死に先だつ恍惚とした痲痺の中で、
 人は運命の吹雪の音を聴きながら、
 やがては帰る母のふところを思ってうっとりする。

 

 

 

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 夏山思慕

 雪の香のする三千メートル雲表のそよかぜ。
 ざくざくの砂礫へ杖を立てて、
 白山一夏はくさんいちげの花の間へルックサックを横たえた。
 登攀にとどろいた心臓が漸くにして鎮まると、
 おもむろに湧き上って来た深いよろこび。
 だがあまりに人の世を懸絶した幸福の感情には、
 何か知らぬが一抹の悲哀と空むなしさとがあった。

 然しその空しさを次第に埋め去るかのように、
 きらきらと残雪を象嵌ぞうがんした日本中部山岳の
 逞しく咬々たる現実の夏すがた。
 這松はすべての斜面に力づよい緑をなすり、
 どこか近くで岩雲雀の金鈴の声、
 強い紫外線と烈しい低温とに鍛えられた
 かれら高山の花の緊張の形と色。

 ああ、いま武蔵野に初冬の光はながれ、
 すべての路に落葉の音のしきりなる時、
 別れ来たあの夏の日の山々をかえりみれば、
 其処に残した我が一つ二つの足痕も
 すでに新たなる雪に消された夢かと思う。

 

 

 

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 山を描く木暮先生

 天地ひろびろと枯れた六郷川ろくごうがわ
 土手の高みにぽつんと一人、
 きょうも身を切る秩父颪に暴露ばくろして
 先生はいっしんに山を描いている。
 鍔をおろした古帽子の下から
 短かく刈りこんだ半白の鬚の横顔、
 先生の眼が風景の遥かな一点を睨んでいる。

 冬枯れの河原をこえ丘をこえて
 武相甲の山河さんが三十里を一飛びに、
 碧落をけずる雪の山、
 白根三山しらねさんざんへ射こまれている。

 先生は画家ではない。
 画家ではないが山を愛して山を描く。
 描かれるほどの山はたいてい
 一度は先生を迎えたのだ。
 大東京の南のはずれ、
 六郷の土手から白根が見える。
 ああ、大井川奥に昔たずねたあの山々、
 北岳、間あいの岳、農鳥岳、
 それが笹子ささごの上へずらりと出る。ならぶ。
 そう思うともうたまらなくなって、
 まるで朝早くモンパルナスから汽車へ乗って
 シャルトルの見晴しまで
 あの大本寺カテドラルを眺めに行ったという晩年のロダンさながら、
 ことし還暦の先生が、
 注連しめ門松のとれるそうそう、
 牛込から今日で三日の六郷通いだ。

 先生は重い双眼鏡を目からはなして、
 又ひとしきり鉛筆をうごかす。
 鉛筆は鉛筆だがまるで鑿のみだ。
 二本三本掬い上げるように影をつけると、
 純白の紙の地がぐいと出て、
 刃のような積雪の尾根がこっちを向く。
 鉛筆をねかせて軽く刷く。
 影の濃淡がほんのり移って、
 農鳥の北の山稜が奥へ遠のく。
 どんなでこぼこ
 どんな短かい襞ひだ一本でも、
 決してのがさず、描き落しもしない。
 先生の山の画に省筆はないのだ。
 画家ならばこんなふうには決して描くまい。

 それでいい。
 無常迅速の此の世にあって、
 なおいくらかは永遠につながるものを
 祈る心で刻み、描く。
 それが先生の山の画だ。

 名利を追わず、栄達を願わず、
 市井にうもれて民庶を生き、
 天地に恥じぬ江湖の人、
 木暮理太郎先生のこわい顎鬚を風が吹く、
 腰から下を枯草が包む。
 その蓼も、蓬よもぎも、野薔薇も、枸杞くこも、
 みんな先生の好きな植物だ。
 ときどき河原で小鳥が鳴く。
 その頬白も、あおじも、ひわも、
 やっぱり先生の古い友だ。
 長い鉄橋を汽車がとおり電車がとおる。
 先生に親しい人生のこれも音だ。
 それでいい、それでいい。

 先生はもう双眼鏡を手にとらず、
 いま大菩薩の上に出た白い雲を、
 六十年の時の流れを見るように、
 ただうっとりと見ておられる。

 

 

 

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 噴 水
    
(ガブリェル・フオーレの或るピアノ夜曲に寄せて)

 暑い、迸出する夏の光線のなかへ、
 あとから、あとから、
 華麗な水の分散和絃がばらまかれる。
 そしてしばらくは記憶の空間に、
 希有な魔法の玉のすだれを懸けながら、
 つぎの全く新しい転調へと
 燦然とたぎり落ちる。

 私は思う、それにしても
 おびただしい透明なつぶてに打たれる
 このフランスの大理石の縁石ふちいしの、
 なんという堅さ、なめらかさ、
 なんという古典の冷たさだろうと。

 ときどきヴェルサイユの空高く
 叛逆の弓のように反る水の束に目をみはるが、
 くずおれて虹をえがく霧のしずくは
 禁苑の小みちの百合や薔薇の花を濡らすばかりで、
 この豊かな夏の片隅に、
 精緻な、ゴール伝統の精神が、
 おりおりの異教徒的な試みを許しながらも、
 日もすがら鬱蒼と君臨しているのに驚かされる。

 ジャン・ジャックの野の叫びや
 豪邁なコンデ公の経綸のようなものが想われる。
 それで私にはもうわからない、
 これは奔放な夢なのか、
 それとも大いなる美の縛めなのか。

 今はただ、その音の
 満天の星の光に聴き入っている。

 

 

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