詩集「此の糧」 (昭和十七年)
此の糧 芋なり。 霜柱くずるる庭のうめもどき、 芋にして 紅赤の、はた鹿児島の、 芋はよきかな、 大君の墾はりの広野ひろのに芋は作りて、 芋なり。
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若い下婢 夜更けの空襲警報に真先かけて飛びだして、 国家がそれを求めるから、 二週間の訓練もおわって
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連峯雲れんぽうのくも 大日本おおやまと秋津あきつ島根しまねは 飛騨ひだ、信濃しなの、国くにの真中まなかに 春はる来くれば秩父ちちぶ、赤石あかいし、 注連しめなしてめぐり棚曳たなびき
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大詔奉戴 昭和十六年十二月八日。 戸外に人の足音絶え、 我等草莽そうぼう、一間のうちに相集い、 ああ、畏くも 奉読は終りぬ。 座を立って神前に神酒みきをささげ、
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少年航空兵 母のおもいは空に満てり。 かつて母等が最愛の者、 ああ、母の念願、子の忠勇、
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庭 訓 まだお河童かっぱの幼いころ、 標本をつくるとて 父にならって 人のため 幼稚園児のむかしから 国の大事にいであって
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峠 路 なんとなく春めいた風が私をつつみ、 私は鳥の姿をもとめて双眼鏡の視野を廻す。 私のうちに或る淡い悲しみに染まった 来る春ごとに鷽うそが鳴き、峠路とうげじの雪が溶け、 しかし其の人は植えている、 私の眼が大きくなる。
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登山服 ひととせ我にゆとりありければ妻子つまこがため かくてこれを着、これを穿ちて、 やがて四とせをつづくたたかいに さあれ、町角の監視の哨に立ちながら、
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特別攻撃隊 耳そばだてて昨日きのうは聴き、 きのうは佳き日の地久節、 けさ曇り日の家に、車中に、 ああ、海ゆかばみづくかばね、
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三粒の卵 通りかかる私の顔さえ見れば。 別れに来た亭主はただおどおど、
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窓前臨書 いつのまにか青葉になった庭前の樹々に、 あの日以来さまざまな仕事が どこかで春蟬が鳴いている。
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新緑の表参道 けやき並木の神宮表参道は その並木の下を ああ、青山はいたるところ薄紫の桐の花、
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工場の娘等 精妙な機械が実になめらかに動くので、
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父の名 いざという時に親達の手許から引離して 郊外の朝の空にサイレンが呻くように鳴り響く。
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若き応召者に 大命こんにち君に降り、 君はあらゆる明日あすを想像した。 小旗を振っての私達の見送りが、
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つわものの母の夢の歌 あの時以来、わたしは、心に、 ああその飛沫しぶきの歌にむかって しかしついにお前は帰って来た。 身は老い、かわき、枯れながら、
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つわものの父の歌 母や姉たちにするようには、 わたしは一団の男のむれに寒くかこまれ、 父と子の無言約諾の瞬間から
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その手 ほかの人妻らは口に「愛国の花」を歌う。 たたかう愛国の花、 ただ恐れるのは、いつの曰か
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歌わぬピッケル 縁側の花茣蓙はなござに片膝立てて、 ベントのピッケル遂に歌わず、
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小国民の秋 秋が来た。 机の上や引出しの中をきちんとしたくなる。 たんぼの稲が黄いろくなり、
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