『自註 富士見高原詩集』 

   尾崎喜八が長野県富士見在住時代の作詩70篇に自註をつけたものである。
   『
詩は言葉と文字の芸術であると同時に作者の心の歌でもあるから、本来ならばその上更に解説
    その他を加える必要は無いはずである。しかし最近は色々と出る選詩集の中に、選者その人の
    鑑賞や、註釈や、或いは批判めいた物さえ添えられている場合が多くなった。それは又それで
    必ずしも悪くはないが、しかしそのために作者本人がいくらか困惑を感じる場合も絶無とは言
    えない。鑑賞や批判が原作者の本来の意図や気持と食い違ったり、註釈に誤りがあったりした
    のでは、迷惑するのは作者ばかりか、心ある読者、鑑賞力の一層すぐれた読者の中には、その
    事に不満や不快を感じる人さえいるのである。現に私はそういう例を幾つか知っているので、
    今度は敢えて自註という新らしい試みに手を染めた。』と喜八自身が述べている。
   なお作品は、詩集「花咲ける孤独」、詩集「歳月の歌」、その他の詩帖から選ばれている。
                                      (サイト管理人)

 

告 白

本 国

新らしい絃

存 在

落 葉

夕日の歌

土 地

秋の日

短 日

朝のひかり

十一月

雨氷の朝

春の牧場

夏の小鳥が

薄雪の後

旗  

冬のはじめ

本 村

夏野の花

或る晴れた秋の朝の歌

雪に立つ

足あと

雪の夕暮

春の彼岸

早春の道

復活祭

杖突峠

夏 雲

山 頂

秋の漁歌

農場の夫人

冬のこころ

地衣と星

雪山の朝

安曇野

葡萄園にて

 

八月の花畑

晩 秋

炎 天

盛夏の午後

 
 

路 傍

幼 女

老 農

フモレスケ

 
 

或る訳業を終えて

展 望

かけす

詩人と農夫

 
 

林 間

木苺の原

日没時の蝶

音楽的な夜

 
 

黒つぐみ

郷 愁

雪  

人のいない牧歌

 
 

巻積雲

故知の花

     
              以上、詩集「花咲ける孤独」所収作品 (サイト管理人)  
 

蛇  

秋の林から

山荘の蝶

山荘をとざす

 
 

目 木

峠  

渓谷(Ⅰ)

渓谷(Ⅱ)

 
 

渓谷(Ⅲ)

 

     
               以上、詩集「歳月の歌」所収作品 (サイト管理人)  
 

充実した秋

十一月

受難の日曜日    
              以上、「その他の詩帖」の作品 (サイト管理人)  

 

 告 白

 若葉の底にふかぶかと夜をふけてゆく山々がある。
 真昼を遠く白く歌い去る河がある。
 うす青いつばさを大きく上げて
 波のようにたたんで
 ふかい吐息をつきながら 風景に
 柔らかく目をつぶるのは誰だ。
 鳥か、
 それとも雲か。

 疲れているのでもなく 非情でもなく、
 内部には咲きさかる夢の花々を群らせながら、
 過ぎゆく時を過ぎさせて
 遠く柔らかに門をとじている花ぞの、
 私だ。

 

 

 祖国は戦争に敗れた。物質の上でも、精神の面でも、無数のもの、さまざまなものが崩壊した。いわゆる「銃後」の国民の一人として、詩という仕事によっていささかでも国に尽くしたいと思った私の念願も、『此の糧』や『同胞と共にあり』の二冊のささやかな詩集と一緒に今はむなしい灰となった。その無残な荒廃の跡に立って、私は元来人間の幸福と平和とに捧げるべき自分の芸術を、それとは全く反対の戦争というものに奉仕させたおのれの愚かさ、思慮の浅さを深く恥じた。私は慙愧と後悔に頭を垂れ、神のような者からの処罰を待つ思いで目を閉じた。そしてもしも許されたなら今後は世の中から遠ざかり、過去を捨て、人を避けて、全く無名の人間として生き直すこと、それがただ一つの願いだった。
 そんな時、終戦の翌年の春の或る夜、ふと私からこの詩が生れた。起死回生の勢いも潔さも見られないが、それはこの場合当然な事であり。むしろ悪夢から覚めた詩人の良心の、まだどことなく頼りない、音をひそめた最初の歌のしらべだと言うべきであろう。

 

 

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 本 国

 私には ときどき 私の歌が
 何処かほんとうに遠くからの
 たよりではないかという気がする。

 北の夏をきらきら溶ける氷のほとりで
 苔のような貧しい草が
 濃い紫の花から金の花粉をこぼす極北、
 私の歌はそこに生れて
 海鳥の暗いさけびや 海岸の雪渓や
 森閑と照る深夜の太陽と共に住むのか、

 それとも空一面にそよかぜの満ちる
 暗い春の夜な夜なを
 天の双子ふたごと獅子とのあいだに
 あるとしもなく朧おぼろに光るペルセペの星団、
 あの宇宙の銀の蜂の巣、
 あそこが彼の本国かと。


 

 この詩も本質的には前の作品と同じ種類のものと言えよう。誰からも離れて、おそらくは誰のとも違った現在の心境で、たった一人、ふと湧いたこんな思いを筆にするのが、はかない喜びでもあれば慰めでもあった。進んで交わる友は無くても、昔ながらの「詩と真実」の自然だけは私のために残っている。出来た詩が自分でも佳い物のように思われる時、そこにはいつでも愛する自然がその本国として遠く横たわっているような気がするのだった。
 第二聯に見られる「北」と「きらきら」、「氷」と「苔」、「海鳥」と「海岸」、「森閑」と「深夜」などのような類音は、半分は私の癖としてひとりでに、半分は意識的に出来たもの。また「天の双子と獅子」は、両方共に冬から春にかけて晴れた夜空を飾る美しい星座の名である。

 

  

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 新らしい絃

 森と山野と岩石との国に私は生きよう。
 そこへ退いて私の絃いとを懸けなおし、
 その国の荒い夜明けから完璧の夕べへと
 広袤をめぐるすべての音の
 あたらしい秩序に私の歌をこころみるのだ。

 なぜならば私はもう此処に
 私を動かして歌わせる
 顔も天空も持たないから。
 歌はたましいの深い美しいおののきの調べだ。
 それは愛と戦慄と自分自身の衝動への
 抵抗なしには生れ得ない。

 私は逆立つ藪や吹雪の地平に立ち向かおう、
 強い爽かな低音を風のように弾きぬこう。
 だがもしも早春の光が煦々くくとして
 純な眼よりももっと純にかがやいたら、
 私の弓がどの絃を
 かろい翼のように打つだろうが。

 

 

 戦災で家を失った私は、妻を連れて一年間、親戚や友人の家から家へ転々と居を変えた。どこでもみんな親切にしてくれたが、それでももう生れ故郷の東京に住む気はなく、どこか遠く、純粋な自然に囲まれた土地へのあこがれがいよいよ募った。ところがちょうどその時、或る未知の旧華族から、長野県富士見高原の別荘の一と間を提供してもいいという好意に満ちた話が来た。私の心は嬉しさにふるえ、思いはたちまちあの八ガ岳の裾野へ飛んだ。この詩はその喜びと期待から颯爽と泉のように噴き出したものである。
 第二聯の「愛と戦慄と自分自身の衝動への抵抗なしには生れ得ない」は、自分の作詩上の心の用意を音楽家のそれになぞらえて、今後は一字一句たりとも興に任せて放慢には書くまいという決意を示した自省の言葉である。ベートーヴェンに学ぶこと、それが詩人私の信条だった。
 第四聯の「煦々として」は、「おだやかに柔かく」という意味で使った。

 

 

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 存 在

 しばしば私は立ちどまらなければならなかった、
 事物からの隔たりをたしかめるように。
 その隔たりを充填する
 なんと幾億万空気分子の濃い渦巻。

 きのうはこの高原の各所にあがる野火の煙をながめ、
 きょうは落葉の林にかすかな小鳥を聴いている。
 十日都会の消息を知らず、
 雲のむらがる山野の起伏と
 枯草を縫うあおい小径こみち
 隔絶をになって谷間をくだる稀な列車と……

 ああ たがいに清くわかれ生きて
 遠くその本性と運命とに強まってこそ
 常にその最も固有の美をあらわす事物の姿。
 こうして私は孤独に徹し、
 この世のすべての形象に
 おのずからなる照応の美を褒め たたえる。

 

 

 もうここでは私は富士見に来ている。別荘のありかは長野県諏訪郡富士見町、中央線の富士見駅から北々西へ徒歩で約十五分のところである。終戦の翌年の秋十月、山も原野も森も耕地も、すべてが彼らの在るべき場所に広々と静かに横たわって、見渡すかぎり混乱もなければ紛糾もない。あるのはそれぞれの形象のまぎれもない存在感と、互いの個性の照らし合いの美だけである。それは新たに生きることを願いとする私の理想の世界だった。
 「たがいに清くわかれ生きて、遠くその本性と運命とに強まってこそ」の一句には、これもまた東京を去って岩手県花巻の田舎に一人住んでいる高村光太郎へのたよりの意味も含まれている。

 

 

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 落 葉

 ひろびろと枯れた空の下で
 白樺や楡にれの葉がたえまなく散っている。
 一枚一枚が太陽に祝別され、
 昔の色の空の青に
 これを最後と染められながら。

 ああ 没落の空間に幾変転して
 その転身によこたわる秋の木の葉の美しさ。
 世界じゅうの美術館や諸国の画廊の
 静寂のなかでも散っている。

 コンステイブル、ミレー、
 テオドール・ルソーらの
 不朽の画布や素描のなかで
 きょうも散りやまぬ彼らの姿が永遠だ。

 

 

 私の住んでいる分水荘の森は広くて、樹木は無数、その種類も豊富だった。その中でもすべての広葉樹の葉という葉が、折からの晩秋を黄や赤にもみじして、毎日の風に散るのだった。静寂の中に時おり響く小鳥の声と絶えまもない落葉の眺め。それが今ではほとんど忘れられた昔の画家の名とその作品とを私になつかしく思い出させた。
 「美しい」かどうかは知らないが、「没落の空間に幾変転して、その転身によこたわる秋の木の葉」は同時に私の姿でもあった。

 

 

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 夕日の歌

 夕日のひかりの最後の波が
 いま高原の樅もみの岸べを洗っている。
 周囲の山々にはするどい霜の予感がある。
 厳粛な きよらかな
 海抜一千二百メートル。
 たそがれは宝石のような山かいの湖の遠望。
 エンガーディンのニイチェの事がおもわれる。

 今夜はすべてに解体と結晶とが行われるだろう、
 すべてに秋の死と冬への転生とがあるだろう。
 そして いつか この私にも
 薫風の岩かどか森の泉の片ほとりで
 私のツァラトゥストラやオルフォイスに
 出遭う春の日があるだろう。

 

 

 八ガ岳の裾野の中でもかなり高い雀ノ森という残丘のような小山への遠足の帰りに、こうした夕日の眺めに出会った。北西に遠く諏訪湖の水がきらきら光り、振り向けばすぐ頭の上に兜のような八やつの一峯阿弥陀岳が、まっこうから金紅色の落日を浴びてのしかかっていた。低地の村里にはもうたそがれの色が漂っているが、霧が峯、車山、守屋山などは、湖水を挟んでまだ明るく美しかった。そしてこの寒く厳粛で男らしい光景に何となくニイチェの名が思い出され、この『ツァラトゥストラ』の作者の特に愛したスイスの山村エンガーディンの夕日の時が想像された。と同時にギリシアの伝説上の歌い手で音楽の名手オルフォイスの事が、私のためにもやがて来るべき遙かな春の予感として脳裏をよこぎった。

 

 

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 土 地

 人の世の転変が私をここへ導いた。
 古い岩石の地の起伏と
 めぐる昼夜の大いなる国、
 自然がその親しさときびしさとで
 こもごも生活を規正する国、
 忍従のうちに形成される
 みごとな収穫を見わたす国。

 その慕わしい土地の眺めが 今
 四方の空をかざる山々の頂きから
 もみじの森にかくれた谷川の河原まで、
 時の試練にしっかりと堪えた
 静かな大きな書物のように
 私の前に大きく傾いてひらいている。

 

 

 山国の信州で、人は山の自然の強力な支配に従順であり、しかもそこから生活の知恵を生み出し、勤勉と忍耐と持久と好学の精神とを学び養う。富士見高原でもそうだった。そしてそれ故にこそ私は自分の住む土地と人々とを愛さずにはいられなかった。
 とは言えまだ新参者の私である。見なければならない物、知らなければならない事がこれから先いくらでもある。してみれば今このように眼前にしている広大な土地の眺めは、私にとってずっしりと重い大きな貴重な本にも等しい。思えば心強くまた楽しいことである。

 

 

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 秋の日

 そしてついに玉のような幾週が来る。
 夏の醗酵をおわった自然は
 おもむろにまろく熟して安定した層になり、
 きょうの秋の日には下ほど濃く、
 上へゆくほど晴れやかにすきとおって、
 かろく きらきらと
 うっとりと 甘く 涼しい。
 山にかこまれた此の地方は
 あたかも震えるふちを持った
 薄い大きな杯のようで、
 快美な秋は流れて隣る国々への祝福となる。
 しかしその喜びには深くまじめなものがあり、
 酔いそのものも健康で、
 充実した仕事の毎日が彫塑的だ。

 

 

 すきとおるばかりに澄んだ秋が毎日つづく。日に日に輪郭のはっきりしてくる遠近の山脈の限空線。華やかにもみじしてゆく野山の草木。それを暖かに照らす太陽とそよ吹く涼しい西の風。今は賑やかな繁茂の時がすぎて静かな成熟の季節である。すべての物にそれ自体の重みが増し、好ましい味がつき、真実頼もしい健康さが感じられる。
 農夫たちは取り入れに忙しく、私も自分の仕事にいそしむ。詩や文章を書くにも翻訳をするにも張り合いがあり、それらが一つずつ形を成してゆくのが嬉しい。物の造形とその成就。私のような詩人にとって、その喜びは美術家や酒造りのそれに通じるように思われた。

 

 

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 短 日

 枯葉のような旅の田鷸たしぎ
 ちいさい群になって
 丘のあいだの冬の田圃におりている。
 こんな日には風景一帯に
 真珠いろの寒い光がぼんやり射し、
 どこからともなく野火の煙がにおって来る。
 こんな日には又よく銃の音がひびいて
 田圃の田鷸を電光形に飛び立たせる。
 そして思わぬ処から 旋風の渦のように
 舞い上がる花鶏あとりの大群がある。

 

 

 日の短かい高原の冬の田圃に、この季節にだけ見られるタシギとアトリの下りているのを書いた。タシギは春と秋とに日本を通る旅鳥で、アトリは十月頃から渡って来て五月には姿を消す冬鳥である。いずれも翼の力が強くてその飛び方はすこぶる速い。しかしそれぞれ大小の群になってひっそりと餌をあさっている彼らを、荒寥とした冬景色の中で見出すのは思いもかけぬ喜びである。俳人ならばこんな光景をどう詠むだろうか。

 

 

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 朝のひかり

 朝々の白い霜のうえに
 人に知られぬ貧しい者らの
 夜明けのいとなみを物語るような
 ちいさい足あとを見出す土地に私は生きる。

 はだしの雉きじは富まないし、
 旅のつぐみはあのように瘠せて赤貧だ。
 それに見よ、けさもまた
 山の伐採地からあの小娘がおりて来る。
 貧しさのおさない王女のように、
 拾いあつめた枯枝を背に
 霜を踏んでよろめいて来る。

 私は彼等とそのひそやかな生をわかつ。
 少女も 鳥も、
 悲しげな彼等は遠くまじめで、
 近づけばしんそこは快活で、
 ひろびろと撒きちらされた真実を
 枝としては軽くつかみ、
 粒としてはこまかくついばむ。

 沍寒ごかんの地にも遠い春のように咲きながら、  
 孤独に 純に
 みずからをちりばめる彼等の上を、
 ああ 冬の赤貧のためにいよいよ広く神々しい
 朝々の空か大河のように青く流れる。

 

 

 氷点下十度を測る毎朝の霜を踏んで私のする日課の散歩。その厚い真白な霜の上には必ず何か小さい獣か野鳥の足跡がついている。彼らは私よりもずっと早く起きて、自分たちの生きてゆくために、食うために、この高原の道や畑を歩いたのだ。そしてこの小娘の可憐な足跡にしてもそうである。幼い彼女の朝の日課は私のするような散歩ではなく、親から命じられた枯枝集めの労働なのだ。それを憐み悲しむな、私の心よ! むしろ彼らを讃美するがいい。そして彼らのために、彼らと共に、霜の荒野の教会で歌うコラール(衆讃歌)を書くがいい!

 

 

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 十一月

 北のほう 湖からの風を避けて、
 ここ枯草の丘の裾べの
 南の太陽が暖かい。
 ぼんやりと雪の斜面を光らせて
 うす青く なかば透明にかすんだ山々。
 末はあかるい地平の空へ
 まぎれて消える高原の
 なんと豊かに 安らかに
 絢爛寂びてよこたわっていることか。

 もしも今わたしに父が生きていたら、
 すでにほとんど白いこの頭を
 わたしは父の肩へもたせるだろう。
 老いたる父は老いた息子の手をとって、
 この白髪しらが この刻まれた皺の故に
 昔の不孝をすべて恕ゆるしてくれるだろう。
 するとわたしの心が軽くなり、
 父よ 五十幾年のわたしの旅は
 結局あなたへ帰る旅でしたというだろう。

 しかし今 わたしの前では、
 朽葉色をした一羽のつぐみ
 湿めった地面を駆けながら餌をあさっている。
 むこうでは煙のような落葉松からまつ林が
 この秋の最後の金きんをこぼしている。
 そして老おいと凋落とに美しい季節は
 欲望もなく けばけばしい光もなく、
 黄と紫と灰いろに枯れた山野に
 ただうっすりと冬の霞を懸けている。

 

 

 富士見高原の自然の中に新らしい生を求めながら。しかし私はもう六十歳に近かった。それで何かにつけて今は亡い父を思い出すことが多くなり、その度に彼にとって必ずしも善い息子ではなかった若い頃の自分が悔やまれた。今となってはもう間に合わないが、また事実としてそんな事の出来るわけも無いが、せめて夢想の中ででも老父の腕に身をもたせて宥しを乞い、子供として甘えたかった。そしてこの初冬の丘のように美しく寂び、悠々と老いて、彼の一生あずかり知らなかった、それでも彼がほほえみうなずいてくれるような善い仕事を、なおしばらくは許されるであろう命のうちに成しとげたいと思った。

 

 

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 雨氷の朝

 終日の雪に暮れた高原に
 夜をこめて春のような雨が濛々と降った。
 すると雨は夜あけの寒気に凍結して、
 広大な枯野幾里の風景を
 かたい透明な氷のフィルムでくるんでしまった。

 まるで一夜の魔法にかかって
 きらきらと痺しびれたような今朝の自然、
 白樺は玉のすだれも重たげに
 微風にゆれて珊々さんさんと空に鳴るかと思われ、
 朝日をうけた落葉松からまつ
 繊維硝子の箒のように
 まっさおな空間を薄赤く掃いている。
 どんな小枝も一本のこらず玲瓏と磨かれ、
 枯草の葉っぱさえ一枚一枚
 氷の真空管に封じこまれた。

 そして万能の自然がたった一夜でつくり上げた
 こんな燦爛世界を嬉々として歩き廻れば、
 ルビーかサファイアの薄板を張りつめたような氷の面は
 鋭い金かんじきの下にぱりぱりとひび割れて、
 薔薇の花がたや幾何図形の
 虹のスペクトルを噴くのだった。

 

 

 冬には雨氷の現象がしばしば見られて朝の散歩の目を喜ばせた。藪も林も木々の枝という枝がすべて透明な氷に包まれて、まるで鋭い槍の穂先をつらねたようだった。
 初めのうち私はこれを「花ボロ」だの「木花」だのと呼ばれる霧氷と同じ物のように思っていたが、だんだん調べているうちに両者の違いがわかった。霧氷には過冷却した霧の粒が地物に接して氷結した無定形な氷層から成るものと、氷点下に冷却している地物に水蒸気が付着して美しい六方晶形の結晶を作ったものとがあるが、雨氷のほうは比較的温暖な上層の空気中で生じた雨滴が氷点下の温度をもった下層の空気中を通過する際に、凝結をしないで過冷却のまま地表に達し、樹木その他に接触してその周囲に氷結したもので、透明で結晶形を持たないのがその特徴である。
 こんな時には地面の低い処もまた氷の板のようにつるつるなので、詩にもあるとおり、金かんじき(アイゼン)をつけて歩かなければならなかった。

 

 

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 春の牧場

 あかるく青いなごやかな空を
 春の白い雲の帆がゆく。
 谷の落葉松からまつ、丘の白樺、
 古い村落を点々といろどる
 あんず 桜が 旗のようだ。

 ほのぼのと赤い二十里の
 大気にうかぶ槍や穂高が
 私に流離の歌をうたう。
 牧柵や 蝶や 花や 小川が
 存在もまた旅だと私に告げる。

 だが 緑の牧の草のなかで
 風に吹かれている一つの岩、
 春愁をしのぐ安山岩の
 この堅い席こそきょうの私には好ましい。

 

 

 長かった冬が漸く終ると、山国信州には潮のようにどっと春が押し寄せて来る。どこの部落にも桃や桜や梅や杏子あんずが一時に咲いて、ついこの間まで裸だった木々はもう柔かな緑の若葉にくるまれている。いろいろな小鳥の歌が賑やかに、頭上の雲も帆のようだ。
 別荘の持ち主が経営している小さい牧場の丘のてっぺんに立つと、北西の空を遠く、まだ雪を光らせている北アルプスの槍や穂高や常念の頭が見える。みんななじみの山々だ。私はうっとりと過去を思い、しみじみと現在の自分を考える。そしてともすれば甘い感傷に陥ろうとする気持を引き立てるように、堅くて冷めたい安山岩にしっかりと臀を据える。

 

 

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 夏の小鳥が……

 夏の小鳥がふるさとの涼しい森や緑の野へ
 ことしもまた遠い旅から帰って来る四月の末、
 高原の村々では農家の暗い家畜小屋で
 山羊や牛や馬たちのお産がある。

 産はたいてい神秘な夜のあけがたに行われる。
 人間と同じように重いのもあれば軽いのもある。
 ひどく重いのは人が手を貸してやらなければならない。
 それにしても 一晩じゅう気懸りで
 何となくそわそわしていた女達や子供達の
 その朝の優しい感動が深く私の心をうつのだ。

 彼等は小屋の前へ立ったりうずくまったりしながら、
 今しがた此の世へ着いたばかりで
 まだびしょびしょに濡れて震えている幼いものを
 せつない愛とあわれみの面持でじっと見ている。
 毋のけものもまだ興奮から醒めきらず、
 おどおどしている仔を頬や舌で荒々しく愛撫する。
 そういう時にはたいてい庭の片隅に
 あんずや桜の初花が咲き、
 ういういしい朝日の光とあおあおとした空気の中で
 夏の小鳥たちが声をかぎりに鳴きしきっている。

 私は思うのだ、
 こういう田舎の牧歌的な 厳粛な美を
 あの貧しくて偉大な画家ミレーこそ
 誰よりもいちばんよく知っていたのだと、
 然しミレーの如きは今ではほとんど忘れ去られ、
 もうこんな原始の感動を
 多くの人々は思い出してみようとすらしないのだと。

 そして私は心ひそかに歎くのだ、
 もしもそれが世界の流れの勢いだというのなら
 実り多い真実は日ごと僻遠に退いて
 地上のおおかたはやがて不生女うまずめとなるだろうと。

 夏の小鳥が生れ故郷の
 森や野へ帰って来る四月の末、
 田舎の農家の家畜小屋では
 山羊や 牛や 馬たちのお産がある……

 

 

 親しい農家へ馳走によばれて、一晩泊まって、運よくもこんな光景に出会った事が一、二度ある。そして深い感動に値するこの経験は、田舎を愛しながら都会で生きて来た私にとっては、真に珠玉とも言うべきものだった。
 私は青年の頃からフランスの画家ミレーを愛し、今でもなお彼のバルビゾンでの数多い作品を愛している。その愛はロマン・ロランの著書『ミレー』に端を発したものだが、今ではもうあの美しい本を手にする人もほとんど無く、ミレーの画を云々する人さえ皆無だと言える。古い甘美な田舎臭い情緒、時代遅れ。そういうのが軽薄なこんにち大手を振ってまかり通っている定評らしい。しかし鶏たちに餌をやっている「農夫の妻」や、「羊の毛を刈る女」や、よちよち歩きのわが子を太い両腕をひろげて迎えている「第一歩」や、満月の昇る水べの「水汲み」などが、その牧歌的な美と、生活への帰依と、宗教的な根源の思想とで、なんと今でも私の心を打つことか!

 

 

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 薄雪の後

 まっさおな空をふちどる山々の線の上に
 なにか美しい錯誤のように
 けさ早く うっすりと雪が懸かった、
 昼間の月の色よりもあわい
 抽象的な 比喩のような
 秋の雪が。

 しかし やがてきっぱりと
 明快で率直な午前が来た。
 十月最初の嬉々とした土曜日、
 谷間の村から運動会ののろしが揚がり、
 もう雪の消えた青い高山の前景に

 つよく 赤ぐろく炸裂する。

 

 

 高原はまだ紅葉が盛りの秋だというのに、朝起きて見ると八が岳も釜無の山々もうっすりと雪の化粧をしていた。夜半に通過した弱い不連続線の置き土産だろうが、それでも今年の初雪である事に違いはない。私は富士見の町を通って釜無川の谷の武智鉱泉への散歩の途中、この薄雪の印象をどういう文句で表現したらいいかと思案にふけった。そしてふさわしそうな言葉が心に浮かぶたびに立ちどまって、ポケットのノートへ走り書きして、ともかくもこの第一聯の原案を得た。後になって少しばかり筆を入れたのは勿論の事だが。

 

 

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 旗

 石を載せた屋根を段々にならべて
 封蠟のように赤い柿もみじの間から
 ちらちらと白壁をひからせた古い村、
 そこに二つの谷の落ち合っている山麓の村。

 小学校の庭では運動会のプログラムが
 拡声機のひびき ピストルの音
 子供らの幾百の歓呼の声に賑わって、
 万国旗のはためく下で進んでいる。

 きょうは招待のあるじである私たちの国の旗よ、
 なんとそれが谷間の風の起き伏しに
 他の国の旗たちと同じ願望 同じ善意を
 のべたり歌ったりしていることだろう。

 

 

 これは前の詩「薄雪の後」の第二聯に出て来る谷間の村の学校の運動会を書いたもので、中心となる物はやはり題のとおり校庭に翻っていた万国旗への感慨である。
 私は散歩の途中ノロシやピストルの音を聴くと、武智鉱泉の方へ行くのをやめて、瀬沢部落から左へ立場川に架かった橋を渡って落合村机の部落へ行った。そこの学校へは一、二度子供たちのために話をしに行った事もあるので、校長を初め先生たちにも幾人か見知りの顔があった。私はむりやり来賓席に坐らされた。詩はその時の事を張り渡された旗を中心に書いた物だが、どう欲目で見ても凡作の域を出ないようだ。

 

 

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 冬のはじめ

 黄ばんだものが黄いろくなり
 赤いものが紫にまで深まって
 日ごと木の葉からからと散りつづく秋の林に、
 私のしずかな仕事の昼と
 きつつきの孤独のいとなみとが
 世の中からいよいよ遠く
 いよいよひろびろと淳朴になる。

 大きなむなしさの中に明るく努めて、
 探究の重くちいさい鎚をひびかせ、
 つねに傾聴の心をひそめながら、
 他の地平線にはあこがれず、
 おおかたはこの西風と遠い南の太陽に、
 十月の木々のひろがりを生きている。

 

 

 私はわずらわしくて利己的で醜い事の多い都会を後にここへ来た。高原のここには自由と孤高の精神を歓んで迎える雄大な天地があった。仕事も毎日規則的に出来、本も読め、好きな自然観察も無限に豊かな材料を前に思うがままだっだ。妻と二人、新婚の頃を思い出して少しばかり畑仕事もやった。昔ほどではないが鶏も飼い、花も作った。閑雅の中にも充実した日々。これ以上の生活はとうてい考えられなかった。
 広大な森の中、家のすぐ近くのコメツガの大木に、一羽のアカゲラが巣を造っていて、それが毎日コツコツと音を立てては金鎚のような嘴で穴を掘っていた。私はこの美しいキツツキの勤勉な仕事ぶりと、孤高を持した雄々しい生活の姿に深く心を動かされた。それ故この詩の第二聯では、私とこのアカゲラとがもはや分かちがたいものになっている。

 

 

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 本 村

 花崗岩の敷石づたいに
 赤や黄色や紫にひらひら燃える松葉牡丹。
 深い井戸から若く美しいあなたが汲んで
 盆にのせて出してくれたコップの水は、
 噛めば歯にしみる氷のように霧を噴く。

 清潔な牛小屋と厚い白壁の土蔵とのあいだに
 翼のような葉を垂らした
 大きな青い胡桃くるみの樹が一本、
 そのむこうにこの山国の八月の空が
 海のようにひろがっている。

 私はあの玉虫いろの空の下から
 遠く炎天の道を散歩して来た。
 そしてあそこの 私の家のある高原にも、
 この村から満洲へ分村して
 敵に追われて無一物で逃げ帰って来た百姓たちが
 開拓の汗を流して新らしい村作りを始めている。

 そして或る日私を呼びとめて、
 見事な西瓜を畠からもいで、
 私に抱かせてくれた女の人は、
 やはりあなたと同じ苗字を名乗っていた。

 

 

 海抜一〇〇〇メートルに近い高原でもさすがに暑い八月の炎天下を、汗を垂らし喉を渇かせながらいつものように散歩している時の若宮部落での事を書いた。私の住んでいる処は同じ富士見でも駅の北側で言わば八が岳の裾野の末端だが、若宮は南側で木や松目の部落同様、むしろ釜無山系入笠山の麓とも言うべき位置にある。駅のあたりは地理学者のいわゆる「富士見狭隘」だから、私のところとこの若宮とは、中央線の通っている比較的低地を挟んでほぼ南北に遠く向い合っている事になる。
 満洲国の出来た時には、国の方針に従ってこのあたりからも多くの農家がかの地へ入植のために移住した。そして国が戦争に敗れると運の好い連中は一切を放棄して命からがら逃げ帰って来たが、一旦手放した以上もう郷里に住む家もなく働くのに田畑もなかった。それでも元気を奮い起こし心を一つにして、別荘の西、ビヤグリの沢のむこうの尾根を越えた広い荒れ地の開拓にとりかかった。私の家から程近い富岡という新らしい部落がそれである。或る日私に西瓜をくれた中年の女性もその開拓地の人の一人で、以前は多分この若宮に住んでいたのであろう、丁重にコップの水をくれた若い娘と同じ細川の姓を名乗っていたというわけである。

 

 

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 夏野の花
      ヘルマン・ヘッセの「回想」Rückgedenkenへの変奏曲

 神のおおきな園のなかで
 枯れる喜びを知る花に悔いは無い。
 ひかりかがやく生の満溢に咲ききって、
 人知らぬまにひとりの運命を成就する。

 惜しまれることを期待もせず、
 思い出される明日を願いもしない。
 生きる喜びを大空のもとに満喫した身が
 今はた浅いなんのなさけを求めようぞ。

 すでに咲き消えた野薔薇 野あやめ うつぼぐさ、
 しかし神の花ぞのはきょうも多彩だ。
 涼しい夕べを待宵草の黄の群衆、
 深遠な正午を昼顔の花の紅あかいさかずき。

 はやくも秋めく青い木の間
 ふと白樺のわくらばは横ぎるが、
 晴れやかな無常の波にうつろいながら
 無垢の面輪おもわを夏野にうかべる花の泡よ。

 

 

ヘルマン・ヘッセに「回想」という美しい詩がある。私は以前からその詩が好きで自分でも翻訳をした事があるが、富士見へ来てから或る時その詩を土台にして且つそれに答えるように、音楽で言う変奏曲を書いてみた。ヘッセのはこうである。

    回 想
  山腹にはヒースが咲き、
  えにしだが褐色の箒のようにちぢかんでいる。
  五月の森がどんなに綿毛
わたげのように緑だったかを
  今日なお誰がおぼえているか。

  つぐみの歌や郭公の叫びが曾てどんなに響いたかを
  今日なお誰がおぼえているか。
  あんなにも魅惑的に響いたものが
  もう忘れられ、歌い去られた。

  林の中の夏の夕べの宴うたげ
  山上高く懸かった満月、
  誰がそれを書きとどめ、誰がそれをひしと抱いたか。
  すべてはもう消え失せた。

  そしてやがては君についても私についても、
  知る人なく、語る人もなくなるのだ。
  別の人たちがここに住み、
  私たちは誰にも惜まれはしないだろう。

  私たちは夕べの星と
  最初の霧とを待つことにしよう。
  神の大きな園のなかで
  私たちは喜んで咲き、そして咲き終るのだ。

 そして言うまでもなく私のこの変奏曲は、神の知ろしめす夏の高原に咲いては消える花々に託して、偽りない自分の心境を告白したものである。

 

 

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 或る晴れた秋の朝の歌

 又しても高原の秋が来る。
 雲のうつくしい九月の空、
 風は晴れやかなひろがりに
 オーヴェルニュの歌をうたっている。

 すがすがしい日光が庭にある。
 早くも桜のわくらばが散る。
 莚むしろや唐箕とうみを出すがいい、
 ライ麦の穂をきょうは打とう。

 名も無く貧しく美しく生きる
 ただびとである事をおまえも喜べ。
 しかし今私が森で拾った一枚のかけすの羽根、
 この思い羽の思いもかけぬ碧さこそ
 私たちにけさの秋の富ではないか。

 やがて野山がおもむろに黄ばむだろう、
 夕ぐれ早く冬の星座が昇るだろう。
 そうすると私に詩の心がいよいよ澄み、
 おまえは遠い幼い孫娘のために
 白いちいさい靴下を
 胡桃くるみいろのあかりの下で編むだろう。

 

 

 フランスの作曲家カントルーブが収集し編曲した民謡集『オーヴェルニュの歌』を私は以前から好きだった。オーヴェルニュというのはフランス中南部の火山ピュイ・ド・ドーム、モン・ドール、カンタルなどを中心とする高くて広い一大山地帯の総称で、日本の地理学の古老辻村博士はこの地方を「フランス中央高台」と呼んで殊のほか愛された。私はそのオーヴェルニュに古くから伝わっている数多い民謡の中でも、哀調を帯びてしかも剛健な幾つかの羊飼いの歌を特に好きだった。毎年自然が漸く秋の色に変って来る頃、私はまずこの歌を心に浮かべて山や高原への憧れを募らせたものである。そして今やその高原に居を定めて、文学の仕事のかたわら馬鈴薯や豆やライ麦など、ささやかな畑仕事もやっている私たち夫婦だった。
 無名でも貧しくてもそんな生活を正しとして心豊かに生きている或る秋の朝、森の中で一枚のカケスの羽根を拾ったのである。「思い羽の思いもかけぬ碧さこそ」の思い羽とは、一般に鳥類の尾の両脇に装飾のように顕著な色をしている羽根の事で、ここでは実相を描くと同時に掛け言葉の役割りも果たさせている。
 「遠い幼い孫娘」というのは、上諏訪の病院で生まれてしばらくここの私達のところで育てられていた美砂子の事だが、その頃はまだ二歳で東京の両親のもとへ帰っていた。また第三聯の「名も無く貧しく美しく」の句は、この詩が出来てから約十年後、切に望まれて或る映画の題名になった。

 

 

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 雪に立つ

 雪が降る。
 北山おろしに暗く濛々と吹きけぶり、
 又しばらくは息をついて明るく霏々ひひと、
 雪は信濃の山野に降る。

 わたしはスキー帽をすっぽりかぶり、
 ウィントヤッケに身を包んで、
 天地をこめる此の結晶の流れに巻かれて立つ。
 白くかすんだあの山麓の村々に、
 暗く吹き消されたあの谷底の部落に、
 忠良 治久 巌 正人
 文恵 いさ子 寿子 ゆわえ、
 それぞれに強く賢く美しい若者らが
 春を待ち 冬に営んでいる姿をおもう。
 わたしをして老いぼれしめず、
 夏の山畑 秋の田圃で
 わたしを迎える彼らの熱い親しい手の
 あの霊妙な青春の放射をおもう。

 雪は縱に降り、横なぐりに降る。
 寂寞としてただ白い嵐の
 海のような真冬の高原。
 雪はわたしのまつげに溶け、まぶたに煮える。

 

 

 芓とちノ木の忠良、松目の治久、巌、正人、文恵、いさ子、瀬沢の寿子と木ノ間のゆわえ。二十何年前のその頃はまだ独身の青年男女だったのが、今ではもうそれぞれ立派な家庭の主人であり、幾人かの子供の親になっていることだろう。その彼らが私にとっては富士見時代の親しい農家の子弟だった。よく働いてぴちぴちしていた彼らは、その素朴さと純真さと健康とで、めいめいの父親よりも老いた私に若さを与えた。
 常のとは比較にならない烈しい雪降り、むしろ豪雪とも言うべき降りようだった。山も谷も吹き消すようなその雪の嵐の野に立って、こんな日にはみんな家にいて何をしているだろうかと私は思った。縄でも綯っているだろうか、藁沓わらぐつでも編んでいるだろうか、針仕事でもしているだろうか。そんな想像を彼らの上に走らせながら、私の気持は感傷的であるよりももっと悲壮で逞しかった。なぜかと言えばこの大吹雪、この荒天は、私をしていよいよ私たらしめようとする自然の容赦ない試みだったから。だから睫毛まつげに溶ける雪も瞼まぶたに熱く煮えたのだ。

 

 

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 足あと

 けさは 森から野へつづく雪の上に、
 堅い水晶を刻んだような
 一羽の雉きじの足あとを見つけた。
 それで私の心が急にあかるくなった。

 雪と氷の此の高原の寒い夜あけに
 あの雉という華麗な 強い 大きな鳥が
 ほのぼのと赤らんで来る地平のほうへと
 野性の 孤独の 威厳にみちた
 歩みをはこぶその姿を私はおもった。
 それを想像するだけで
 もう私の今日という日が平凡ではなくなった。
 なにか抜群なものと結びついた気がした。

 鑿のみで切りつけたような半透明な足あとが
 雪のうすれた流れのふちで
 いくつもいくつも重なっていた。
 雉は去年の落葉の沈んでいる此の高原の
 一月の青いつめたい水を飲んだにちがいない、
 金属のような光をはなつ
 藍いろの頭と 緑の首と
 あざやかな赤い顔とを静かに上げて、
 冬が裸にしたはしばみの藪かげで、
 なみなみと。

 それならばいよいよすばらしい。
 私の心には氷雨ひさめの時を時ならぬ花が咲いた。
 一望の白くさびしい雪の曠野で、
 私の生きる人生が
 豊かな 優しい おごそかなものに思われた。  

 

 

 新らしく降った雪の上にはいろいろな動物の足跡がついている。それを捜して歩いてカメラに収めたり、ノートヘスケッチしたりするのは冬の楽しみの一つだった。その中で兎や野鼠のははっきりした特徴があってすぐわかるが、マヒワだのホオジロだの、アオジだのノジコだののような小さい鳥達のものになると、私などにはもう種類の見分けがつかない。しかしこういう連中のはいかにもこまかで、綺麗で、愛らしい。
 ところがキジのは違う。ニワトリのに似てはいるが、ニワトリがこんな高原の積雪の中ヘ一人で遊びに来るはずは元より無く、キジの姿ならばこの森でもよく見かけるし、あの「ケーン、ケーン」という鋭い叫びも時どき聴くから万が一にも間違いはない。いつも孤独で、華麗で、男らしいキジという鳥の足跡を、朝まだ早い水辺の雪の上に発見したのだから、その姿を想像しながら私の感動は静かだが深かった。

 

 

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 雪の夕暮

 窓をあけてお前はいう、
 「また雪が降り出して来ました。
 この雪はきょう一日 今夜一晩降りつづいて、
 いよいよ私たちを世の中から
 遠く柔らかく隔てるでしょう」と。

 遠く、そして柔らかく……

 ほんとうにお前の言うとおりだ。
 もしも此の世を愛するなら、
 その美をめで その貴いものを尊ぶなら、
 私たちはそれを手荒く扱ったり 弄んだり
 なれなれしくそれと戯れてはいけないのだ。
 つねに柔らかく接して、別れを重ねて、
 私たちの愛や讃美や信頼の心を
 ながく新鮮に保たなければならない、
 もしも自然や人生や芸術から
 生きる毎日の深遠な意味を汲もうと願うなら。

 お前はいう、
 「もう向うの村も見えなくなりました。
 こんなに積もってゆく大雪では
 あの娘たちも今夜は遊びに来ないでしょう」と。

 そして私はいう、
 「今夜は久しぶりでシュティフターを読もう。
 それともカロッサにしようか」と。

 

 

 「お前」というのは勿論私の妻の事で、彼女は時どきこんな思い入ったような殊勝な言葉も洩らすのである。又別の時の事だが、「おばあちゃんのお墓の上で、春が三度目のリボンをひるがえしています」などとも言った。おばあちゃんとはそれより四年前に死んだ私の母の事である。
 私たち普通の人間は大抵この世の毎日の生活や目にする物に馴れっ子になって、心情の上でも木目荒く粗雑に生きている。本当は常にいくらかの隔たりを保って人間や世界に接しながら、あたかも長い病いから癒えた者のような感謝の念と新鮮な気持とで生きてゆくべきではないだろうか。馴れればういういしかった初心も失われ、真実や美にも鈍感になり、尊重すべき人生に対して、悪く言えば、
「すれっからし」になってしまう。
 私たち夫婦はこういう心で、オーストリアの作家シュティフターやドイツのハンス・カロッサの書いた物を戦前から尊び愛していた。それ故か「遠く柔らかく」の一語が契機となって、折も折、誰も遊びに来ない雪降りの夜を、久しぶりに彼らの『さまざまな石』か『指導と信従』でも一緒に読もうという気になったのである。

 

 

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 春の彼岸

 山々はまだ雪の白いつばさを浮かべて
 三月の空の中ほどに懸かっているが、
 早春の風はすでに柔らかにあおあおと
 水のほとりのはんのきの裸の枝と
 その長い花の房とを吹きめぐっている。

 草木瓜くさぼけの赤、たんぽぽの黄がここかしこ。
 しかしおおかたはまだ枯草の丘の墓地に
 蒼く苔むした古い墓石、
 かずかずの新らしい白木の墓標、
 いつくしみと忘却とは其処に優しく息をつき、
 春の哀愁はほのぼのとあたりに漂う。

 煩悩ぼんのうの流れをあえぎ渡って、
 久遠くおんの国の岸辺から
 此の世をいとおしむ俤らのなつかしさ。
 しかし人はまだ幻滅と塵労との日を営々と生きて、
 ただ今日のような早春の山や光や花や風に
 たまたま悲しくも清らかな
 平和への誓いの歌を聴くばかりだ。

 

 

 別荘の森のむこうの丘のなぞえに、一箇所小さい墓地があった。甲斐駒が岳や鳳凰三山を正面に見る良い場所だった。その墓地が春や秋の彼岸の日には近隣の部落から来た墓参の人達で静かに賑わう。古い墓石もあれば新らしい白木の墓標も立っている。新らしいのはそのほとんどが戦死者のものである。「陸軍上等兵なにがしの墓」だとか、「海軍一等水兵だれそれの墓」だとか書いてある。昔の死者もつい近年の戦没者も共にここに葬られて、春まだ浅い枯草の中、ちらほらと咲き出した花の間に同じ永遠の眠りを眠っている。
 生きていた日の彼らを私は知らず、彼らもまた元より私を知らない。しかしこうして生者と死者とが互いに近く住んでいる事こそ他生の縁というべきである。ましてや私は敗残の都から遠く流れて彼らの郷土に身を寄せている人間である。高原の風もようやく柔らかなこの春の彼岸の中日に、どうして素知らぬ顔でこの死者の丘の小径を歩けよう。この詩はすなわち彼らへの手向たむけの歌だ。

 

 

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 早春の道

 「のべやま」と書いた停車場で汽車をおりて、
 私の道がここからはじまる。
 高原の三月、  
 早春のさすらいの
 哀愁もまた歌となる
 さびしくて自由な私の道が。

 開拓村の村はずれ、
 年若い母親と子供二人に山羊一匹、
 薄あおい大空 雪の光のきびしい山、
 まだ冬めいた風景の奥に
 遠く消えこむ枯草の道。
 これが私に最初の画だ、歌のはじめだ。

 私はこの画の中にしばしとどまる、
 この牧歌にしばし私の調べをまじえる。
 清らかな貧しさと愛のやわらぎ、
 これが私たちのけさの歌だ。
 第一歩の祝福がここにあり、
 私のさすらいがここからはじまる。

 

 

 待ち兼ねていた春が漸くその気配を見せたので、或る朝早く富士見から汽車に乗って八が岳の東の裾野を、昔書いた「念場ねんばガ原と野辺山ノ原」への遠足に出かけた。近くは権現ごんげんや赤岳、遠くは奥秩父の金峯山きんぷさんや南アルプスの雪の峯々を眺めながら、野辺山の広大な白樺林を歩き廻ったり美うつくしノ森へ登ったりして、晩くなったら清里の何処かへ泊まってもいいという至極のんびりとした遠足だった。
 早春は私にとって何か知らぬが心に哀愁を覚える季節である。それも場所が山や高原のような自然の中だと特にいちじるしい。元来哀愁には常に或る種の美の要素が含まれている。その美は私の場合詩につながり音楽につながる。或る音楽のえもいえず美しいラルゲットやアダージョを聴いている時、それはいつでも私を喜ばせる歌であると同時に哀愁の歌でもある。そしてそれが此処では野辺山の原の三月の自然の景観であり、開拓村の若い農婦とその子供たちと彼らの一匹の山羊だった。私が自分をもまたその画中の一点景に加えたのは果たして僭越の沙汰だったろうか。しかしたとえそうであっても、伸びやかにすんなりと出来たこの詩は、このまま永く一人でそのさすらいを続けるだろう。

 

 

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 復活祭

 木々をすかして残雪に光る山々が見える。
 木はきよらかな白樺 みずき 山桜、
 まだ風のつめたい幼い春の空間に
 彼らの芽のつぶつぶが敬虔な涙のようだ。

 枯草の上を越年おつねんの山黄蝶がよろめいて飛ぶ。
 森の小鳥が巣の営みの乾いた地衣や苔をはこぶ。
 村里の子供が三人竹籠をさげて、
 沢の砂地で青い芹せりを摘んでいる。

 萌えそめた蓬よもぎに足を投げ出し、
 赤や緑に染められた今日の卵をむきながら
 やわらかな微風の波を感じていると、
 覚めた心もついうっとりと酔うようだ。

 人生に覚めてなお春の光に身を浮かべ、
 酔いながら生滅の世界に瞳を凝らす。
 その賢さを学ぶのに遠くさすらった迷いの歳月としつき
 思えば私にとっても復活の、きょうは祭だ。

 

 

 十字架上の死から蘇ったキリストの復活をことほぐ復活祭は、毎年春分後の満月直後の日曜日という事になっている。私たちは元々キリスト教徒ではないが、心にはその教えの真理が深く刻みこまれているので、いつからともなく夫婦共々この春の一日を祝っている。そして富士見へ移ってからもその習慣は変らなかった。今朝も小さなオルガンを弾きながらこの日のための讃美歌を合唱し、その由来は知らないが例のとおり卵をゆでて美しく彩った。
 復活祭は年によって三月中のこともあれば四月に入ってからのこともある。しかしいずれにしてもそれが春の行事なのが心楽しい。さまざまな経験の中を迷いさすらって今ははっきりと覚めた目と心が、在るがままの世界を見つめながらもそれを容れ、それを愛して、なお積極的に生きようと誓うのにふさわしい春なのが喜びだ。折からの木々の新芽、営巣をはじめた小鳥、芹を摘む子供たち、それを囲む残雪の山々。これこそ天地広々と明けはなたれた教会での祝いである。私の心は静かにバッハを歌っている。

 

 

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 杖突峠 つえつきとうげ
  
 春は茫々、山上の空、
 なんにも無いのがじつにいい。
 書物もなければ新聞もなく、
 時局談義も とやかくうるさい芸術論もない。
 頭をまわせば銀の残雪を蜘蛛手に懸けた
 青い八が岳も蓼科ももちろん出ている。
 腹這いになって首をのばせば、
 画のような汀みぎわに抱かれた春の諏訪湖も
 ちらちらと芽木のあいだに見れば見える。
 木曾駒は伊那盆地の霞のうえ、
 槍や穂高の北アルプスは
 リラ色の安曇あずみの空に遠く浮かぶ。
 それはみんなわかっている。
 わかっているが、目をほそくして 仰向いて、
 無限無窮の此のまっさおな大空を
 じっと見ているのがじつにいい。
 どこかで鳴いているあおじの歌、
 頬に触れる翁草やあずまぎく
 此の世の毀誉褒貶をすっきりとぬきんでた
 海抜四千尺の春の峠、
 杖突峠の草原くさはらで腕を枕に空を見ている。

 

 

 杖突峠は中央線茅野ちの駅から南西四キロのところにあって、高さは一二四七メートル、諏訪盆地から遠く伊那の高遠たかとおへ通じている杖突街道の、言わばここはその入り口である。頂上の草原からの眺望は詩にも書いたとおり実に美しく晴れやかに雄大だから、春や秋の好季節には私も近道をしたりわざわざ遠廻りをしたりして度々ここを訪れた。今では茅野から高遠通いのバスも通っている。しかしこの詩はまだそんな物の無い時に出来た。
 諏訪湖をとりまく幾つかの町は頸飾りの玉かとばかり下の方に連なって見えるが、それが東京などで経験する厭な事をまるで想わせないのが気に入った。たまたま聴こえるのはこの高みで歌っている小鳥の声、すぐ顔の前にはつつましやかな春の花。譏そしりも無いければ陥おとしいれも無く、不愉快な噂も陰口もここまでは伝わって来ない。腕を枕に真青な空を見上げて柔らかな草に寝ている一時ひとときの、このぽかんとした安らかな気持を何と言おう。

 

 

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 夏 雲

 雷雨の雲が波をうって
 まくれるように遠ざかると、
 その後からつやつやと目にも眩ゆい碧瑠璃の大空。
 そして真赤な熱線を射そそぐ
 七月高峻の太陽だった。

 残雪をちりばめ 這松をまとって
 びっしょり濡れた大穂高の岩の楼閣、
 青い宇宙のそよかぜに染まり、
 それ自身天体のような峨々たるかたまり。
 この現前の偉観が人間わたしを圧倒した。

 眼下をうがつ梓の谷に
 なごりの霧は羽毛のようにもつれているが、
 乾ききった安曇野あずみのは夕立の雲を集めて、
 岩の幔幕 霞沢のかなたに
 その雷頭が白金のドームのように輝いていた。

 

 

 友人に誘われて上高地へ行き、ついでの事に西穂高へ登った。途中で雷と驟雨に見舞われて面喰ったが、山荘で休んでいるうちに雨も上がり雷も遠ざかってすばらしい天気になった。そこでまた這松の間を登りはじめ、濡れて滑る幾つかの岩峯を攀じて遂に独標の頭へ立ったが、そこから見上げた雨後の奥穂高の目も覚めるような壮観はまったく私を圧倒した。人間のけちな思いも吹き飛んでしまい、肉体の卑しさも洗い浄められた気がした。
 眼の下には時ならぬ夕立に水嵩を増した梓川が銀の糸のように光って流れ、その涼しい水辺には今宵の泊まりの宿も見えた。しかし正面に峙つ霞沢岳のむこうには、今頃はちょうど安曇平あずみだいらを真暗にしているだろうと思われる壮大な無気味な雷雲の頭が、折からの午後の日光を受けて目にもまばゆく輝いていた。そしてこれこそ結集された夏の力の象徴であり、高山に在って初めて得られる体験だと思った。

 

 

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 山 頂
       (ジャン・ジオノに)

 一人一人手を握り合ってプロージットを言う。
 どの手もさらさらと乾いたつめたい手だ。
 堅いザイルやピッケルや
 荒い岩角ばかりを掴んで来たあとで
 血もかよっていれば電気のように心もかよう
 実直で大きくて頼もしい人間の手がここにある。
 放した瞬間に深い暖かみのほのぼのと生れる
 こんな握手が下界にはまるで無い。
 海抜三千余メートル、
 純粋無垢の日光に皮肉をつらぬかれ、
 真空のような沈黙に耳しいた気がする。
 何か成功で どういう事が敗北か、
 きれいな顔の世渡りに
 どんなきたない裏道があるか、
 豁然かつぜんと覚めた心が今無心の岩に地衣を撫でる。
 がらがらに落ちた天涯の階段の
 目もくらむ底はサファイア色の夏霞だ。
 下山路は足もとから逆落しに消えて、
 むこうに切り立つ白と緑の岩稜を
 もう一ペん天へからむ糸のように見える。
 風が吹き上げて来る這松のにおい、
 浮力に抵抗する重い登山靴、
 うずくまっている者もパイプふかしている者も
 みんな男らしくやつれて秋の顔をしている。

 

 

 フランスの現存の作家であり、手紙の上でも親しいジャン・ジオノに捧げたこの詩は、これもまた人に誘われて初めて北穂高へ登った時の作品である。営々として攀じ登って来た山のてっぺんで、まず「おめでとう」を言いながら握り合う男同士の手がどんなに頼もしいものであるかを書き、三時間余の大キレットの急登にさすがいくらかやつれの見える互いの顔が、どこか秋めいたものを感じさせるその美しさに焦点をしぼって書いた。
 戦争での勝利とは何か、敗北とは何か。他人を蹴落としてかち得た世間的な成功やその反対の失意に、そもそもどれだけの意味があるか。そんな事で喜んだり泣いたりするこの世が寧ろむなしく憐れなものに思われて来る高山の頂き。私は昂然と顔を上げ、純粋無垢な空気に深呼吸をし、改めて登山靴の紐を締め直し、さて心も新たに次の峯へと歩き出した。こんな気持はあのジオノならきっとわかってくれるに違いないと、ふとあの南フランス、マノスク・デ・プラトーの友人の事を、彼の傑作『世界の歌』や『真の富』を愛読した昔と一緒に思い出しながら。

 

 

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 秋の漁歌

 信州は南佐久、或る山かげの中学の
 小使さんが私のために網打ちに行く。
 千曲川ちくまがわもこのあたりではまだ若く、
 古生層の大岩小岩
 らいらいと谷をうすめて、
 朝早い九月の水が浅々あさあさと流れている。
 赤魚あかうおという鮠はやは川底の砂に腹をつけ、
 おだやかに鰓えらをうごかし、
 ひらひらと鰭をそよがせ、
 また尾を曲げて靡くように泳いでいる。
 小使さんの投網とあみのさばき美しく、
 岩の上から腰をひねってさっと投げれば、
 網は朝日に虹を噴き
 まんまるく空くうに開いてばっさりと水をつかむ。
 寒い河原には五位鷺が群れ 鶺鴒が囀り、
 朝の青ぞらのあんな高みに
 硫黄岳の爆裂火口があんぐりと口をあけている。
 小使さんはそんな物には目もくれない。
 ざぶざぶと水を渡って岩から岩へ乗りうつり、
 川瀬の淀をじっと見据えて網を打つ。
 私のびくは真珠いろとエメラルドの
 ぴちぴちする魚でもう重い。
 小使さんはゴールデンバットを短かくちぎって
 首のつぶれた鉈豆ぎせるへ丁寧に挿しこむと。
 「とれましたなあ。
 これならばお土産みやげになりやす」といいながら、
 一息うまそうにぐっと吸う。
 その言葉にうれしくうなずく私の目に、
 ああ 千曲川の秋の河原のアカシアの
 黄いろい切箔きりはくの葉がもうちらちら散るのである。

 

 

 富士見高原も片隅の森の中に住んでいるのに、よく頼まれて長野県内だけでも方々の学校へ講演に行った。遠くは野尻湖に近い俳人一茶の故郷柏原、佐久間象山の生地松代、木曾の谷間や伊那の山奥。空手からての時もあれば書物やレコード持参の時もあり、文学や音楽の話もすれば自然観察の話もした。そしてこの南佐久郡穂積の村の中学校もその一つで、ここでは場所が場所ゆえ初めての八ガ岳登山の折の話をした。そして初秋の一夜を学校の宿直室に泊められて次の日の朝がこれだった。しかし事の始終はここに書いたとおりだから改まって註釈の必要もあるまいと思う。
 朝の青空高く真赤な爆裂火口を見せている硫黄岳がここからは一番近い八ガ岳の一峯であり、びくというのが取った魚を入れる一種の網袋であり、ゴールデンバットが今でも時たま見かける安い巻煙草であり、鉈豆ぎせるがこんにちではもう珍らしい物になったナタマメ形の金属延べ打ちのキセルであり、「秋の河原のアカシア」と「黄いろい切箔」のがそれぞれ意識的に用いられた類音である事などは、或は余計な説明であるかも知れない。それにしても小使さんのその「おみやげ」の味こそはすばらしかった。

 

 

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 農場の夫人
         (渡辺春子夫人に)

 お天気つづきの毎朝の霜に
 十一月の野山がひろびろと枯れてゆく。
 高原の空は無限に深く青くなり、
 浅い流れは手も切れるほど冷めたく、     
 太陽の光が身にも心にもしみじみと暖かい。
 あなたは開拓農場の片隅に
 秋のなごりの枯葉をあつめて
 ほのぼのと真昼の赤い火を燃やす。
 爽かな海青色かいせいしょくのオーヷオール、
 髪の毛を堅く包んだ黄いろいカーチフ、
 長いフォークの柄によりかかって
 うっとりとあなたは立つ。

 鶏を飼い 山羊を飼い 緬羊を飼い、
 一町五反の痩土と独力で取っ組んで、
 六年の今日「斜陽」もなければ旧華族もない。
 頼むのはただ自然とその順調な五風十雨。
 あなたの手に堅く厚い胝胼たこがあり、
 あなたの机に農事簿とモーロワとがならぶ。
 そして今日のいま 金と青との晩秋の真昼、
 赤い火に立つあなたを前に
 もう初雪の笹べりつけた北アルプスの連峯が、
 ああ 遠くセガンティーニの背景をひろげている。

 

 

 別荘の持ち主渡辺昭さんは、森のそとの地所を畑や養鶏所や山羊や緬羊の放牧場にしていた。そしてその世話をするのは主として奥さんと雇い人の若い男の二人だけだった。火山高原の石ころだらけの荒蕪地を開墾した一五〇アールの渡辺農場。それをつい数年まえまで貴族院議員の令夫人だった奥さんが、今は二人の令息の面倒を見る一方、全く未経験のこんな仕事に専念しているのだから、私達としてはただただ感心するのほかは無かった。
 若い春子夫人は凛然として気品の高い美しい人だった。事実上の農場主として毎日記帳している農事簿その他の帳簿のかたわらに、ひっそりとジイドやモーロアの原書が並んでいるくらいだから、語学の立派な素養もあった。その夫人がここに書いたようなよく似合ったかいがいしい労働姿で、晩秋の晴れた真昼を赤い焚火を前に、青い八方岳を背に、北アルプスを遠景にして
立っているのだから一幅の画にならない筈はない。昔から好きなイタリアの山や牧場の画家ジョヴァンニ・セガンティーニの画を私か思い出したのも、この場合寧ろきわめてしぜんな事だったと言えるだろう。

 

 

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 冬のこころ

 ここにはしんとして立つ黄と灰色の木々がある。
 その木立を透いて雪の連山が横たわり、
 日のあたった枯草の丘のうえ
 真珠いろに光る薄みどりの空が憩っている。
 これらのものはすべて私に冬を語る、
 世界の冬と 私自身の生の冬とを。
 かつて私にとっては春と夏だけが
 生の充溢と愛や喜びの季節だった。
 いま私はしずかに老いて、
 遠い平野の水のように晴れ、
 あらゆる日の花や雲や空の色を
 むかえ映して孤独と愛とに澄んでいる。
 世界は形象と比喩とにすぎない。
 ひとえに豊かな智慧の愛で
 あるがままのそれをいつくしむのだ。
 枯葉を落とす灰色の木立 雪の山々
 真珠みどりの北の空と
 山裾に昼のけむりを上げる村々、
 この風光を世界の冬の
 無心な顔や美の訴えとして愛するのだ。

 

 

 この詩を書いた時私はもう五十歳も半ばを越えていた。自然も冬だが私の人生もようやく冬で、心の眼に映る世界は曾ての絢爛から徐ろに枯淡なものへと移っていた。そしてその枯淡の中から今までは気にも留めなかった美を見出して、それを静かに慈むことが自分の生の意義であるように思われて来た。刻々と変化して止まないこの世の姿は結局各瞬間の映像にすぎず、さまざまな事変や出来事もまた一つ一つの寓話にすぎないような気がして来た。しかしそういう世界でも退いて静かにこれを眺めれば、人間箇々の短かい生の縮図であって、穏かにそれを受け容れ、理解し、時に憐み時に惜みながら、決して捨てたり見限ったりしない事、それが老年の豊かな知恵の愛だと私は信じた。しかもその愛からまたどんな貴重な発見があるかも知れないのである。自然と人生との冬に託して告白した自分の心境。それがすなわちこれだった。

 

 

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 地衣と星
       (詩誌「アルビレオ」の創刊号のために)

 お前は辞書を片手にハドスンを読んでいる。
 私は燃やす薪の肌から詩をおもう。
 谷間の青い霧のような 夜あけの空の雲のような
 地衣蘚苔が白い木の皮に爽かにも美しい。

 「アルビレオって何ですの」と昔お前が私にきいた。
 「星の名だ。天の銀河を南へ飛んでる
 白鳥のくちばしにつけた名さ。
 きれいな星だよ、苔を溶かして凍らせたような」

 むかし武蔵野に遠く孤独な小屋があり、
 ランプのひかり青葉隠れの窓を洩れ、
 年若い妻に私は夏の夜ごとの星を教えた。
 いま雪の上に雪の降りつむ富士見野を、
 信州の冬の夜ふかく、白樺は煖炉に爆はぜ、
 老いた私達にあかあかと燃える余生がある。

 

 

 私にかぶれて山野の鳥を好きになった妻は、鳥を主としたイギリスの自然文学の大家ウィリアム・ヘンリー・ハドスンの『鳥類の中での珍らしい出来事』という本を、英和辞書を頼りにこのごろしきりに読んでいる。森の中にも雪の積もっている寒さきびしい真冬の夜、白樺の薪を煖炉に燃やして彼女はハドスンでの英語の勉強、私は私でそのそばで、東京の友人が最近創刊した『アルビレオ』という詩の雑誌を読んでいる。英語ならば私のほうが先生だから難解なところは教えてやりながら。
 辞書に無い鳥を英国の図鑑から捜し出して見せてやったり、星図を拡げて星の説明をしてやったりしていると、遠い昔の新婚当時の、東京府下上高井戸での田舎生活の夜が思い出される。彼女はまだうら若い十九歳、私はそれより十三も上。働き者だから家事や畑仕事は一切彼女に任せていたが、学問の不足の分は及ばずながら私が見てやった。思えば二十二、三年の昔になる。それにしても私はともかく、彼女にとって「老いたる余生」は少しかわいそうだった。

 

 

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 雪山の朝

 服装をととのえて 小屋を出て、
 小屋から遠く 堅い靴で
 堅い雪を踏みしめて行った。
 クラストした雪面はきしんで鳴り、
 強くぱりぱりと放射状に割れるが、
 その響きやその呟きが
 その皓々こうこうたるしじまの中では
 きれいな純粋孤独の歌だった。

 空は世界の初めのように
 まろく 大きく あおあおと、
 晴れわたった積雪の高処のながめは
 透明に燃えて 結晶して、
 きびしく寒くよこたわっていた。
 薄赤い朝日の流れ、紫の影、
 きらきらと木花に重い樅、唐槍とうひ
 はるか向うにも同じ氷雪の山々が
 まるで虹いろの波だった。

 瞬間の生涯回顧と孤高の心――
 パイプを囗に、
 私は蠟マッチをはげしく擦った。

 

 

 美うつくしガ原はらの山本小屋でヒントを得て、富士見へ帰る汽車の中で書き上げた詩である。今でこそ立派なホテルになっているが、美しの塔で私の詩と背中合せになっているあのリリーフの肖像は現在のホテルの主人の父親であり、その頃はまだぴんぴんしていた。そして泊まる処と言えば彼の小屋がたった一軒、言わば観光地美ガ原草分けの人でもあれば宿でもあった。
 その雪山の朝の景色は書いたとおりだが、「瞬間の生涯回顧と孤高の心」は、その時の私の心境を煮詰めたようなものである。外観は平静のようでも内面は波瀾に富んだ過去の思い出と、それを乗り切って孤独に強く生きている現在の自覚。パリパリに氷った早朝の山の雪の上で、しっかりと口にくわえたパイプのために、蠟マッチを「はげしく擦った」私の気持は、或はわかってもらえるかと思う。

 

 

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 安曇野 あずみの

 春の田舎のちいさい駅に
 私を見送る女学生が七八人
 別れを惜んでまだ去りやらず佇んでいる。
 彼女らのあまりに満ちた異性の若さと
 その純な こぼれるような人なつこさとが、
 私に或る圧迫をさえ感じさせる。
 私はそれとなく風景に目をさまよわす。
 駅のまわりには岩燕がひるがえり、
 田植前の田圃の水に
 鋤きこまれた紫雲英げんげの花が浮いている。
 そしてその温かい水面に、ようやく傾く太陽が
 薄みどりの靄をとおして金紅色に照りかえし、
 白い綬のように残雪を懸けた常念が
 雄渾なピラミッドを逆さまに映している。
 絵のような烏川黒沢川の扇状地、
 穂高の山葵田わさびだはあの森かげに、
 彫刻家碌山の記念の家は
 こちらの山裾にある筈だ。
 いずこも懐かしい曾遊の地と
 暮春安曇野のこの娘ら……
 私の電車はまだ来ない。

 

 

 私のような者にでも校歌の歌詞を頼んで来る学校が時どきあるが、富士見にいる間にもよく頼まれた。そういう時私は書く前に必ず一度はその学校まで行って、そこの校庭のまんなかに立って周囲の風景だの校舎その物だのを見ないと気が済まない。だから北海道江別の女子高等学校の場合だけは別として、その他はどんな山間僻地へもすすんで出かけた。もちろん長野県下が一番多いが。
 これも南安曇郡豊科とよしなの女子高校へ下見したみに行った時の事を書いたもので、山も川も聚落も耕地も、その風景はこの妙齢の女生徒達にふさわしく暮春の情緒に満ち満ちていた。駅まで見送りに来た娘たちは皆人なつこくて、そう言ってはおかしいが、出来るだけ私に寄り添って歩いた。そして私の乗るべき松本行の電車がなるべく遅く来るように願っている様子さえ見えた。
 あの校歌はまだ歌われているだろうか。しかし今書いたような事をあの時の娘達はもうみんなきれいに忘れてしまったかも知れない。それでいいのだ。それがこの世の常だ。そして私を運び去るべき車もやがて来るだろう……

 

 

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 葡萄園にて
       (甲州勝沼、曾根崎保太郎君に)

 厚い緑の葉の上へずっしりと載った
 この驚異そのものの豊麗な一房、
 まだ強い秋陽あきひのもれる棚の下で
 透明な金と琥珀の涼しい宝玉、
 天然の甘美の汁を衷にみなぎらせて
 その成熟の頂点にある
 これら巨大な粒のひとつひとつの重たさよ。

 わが友葡萄作りは口いっぱいに
 この大いなる円満の玉をひとつ含んで、
 なおその甘さには威力がないと歎く。
 造り主よ、造り主よ、
 その歎きはまた詩人にも通じる。
 完璧を期しながら一作ごとに持つ不満、
 これぞ神に似ようと努める我らの
 なお生けるしるしではないだろうか。

 

 

 山梨県の勝沼は全国でも有名な葡萄の産地である。友人曾根崎君もそこの葡萄園の持ち主の一人で、同時に詩人でもある。或る年の秋に私は招かれてその家を訪れ、広い園内の棚の下で葡萄の馳走にあずかった。デラウェアだったかゴールデン・クイーンだったか、いずれにしても大きな粒のみごとな房で、果実というよりも寧ろ甘美な液汁と柔軟な肉とをみっちりと重たく包んだ袋たった。そして曾根崎君はその袋を一つちぎって口に含んだが、甘いことは甘いが何か迫力のような物が欠けていると言った。漫然と物を食う際の人間としての私は「こんなにうまいのに」と思ったが、詩を作り文章を書く人間としての私は、その言葉をなるほどと受け取った。心を打ち込んで何かを創作する者の、その作品に対する不満足の気持と今度こそはという発奮の気持。私はそれを痛感しながら改めて一粒一粒を丁寧に味わった。

 

 

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 八月の花畠

 バーベナ アスター シニア ペテュニア
 ビンカ フロックス マリーゴールド スカビオザ、
 その他私に名も知られない花たちが
 色や姿の多様をつくして、
 燃える八月の空の下、
 この高原の採種圃場のひろがりに、
 新鮮に 豪華に 咲き栄えている。

 ああ その柔らかい植物の炎の上に
 なんという数かぎりない蝶や蜂の
 目もあやな労働と遊戯との波だろう!
 花から花へ晴れやかにひるがえる
 硫黄いろの山黄蝶、アラビア模様の赤たては
 熱帯の獣の皮を重くまとった豹紋蝶、
 太陽の反射と屈折とに光彩を変える小紫――
 さては蜜蜂 丸花蜂らの強壮な種族が、
 宝石か金のつぶてのように飛びちがう。

 きょうこそ秋も立つという日の
 これら花と昆虫との饗宴が、
 私をしてこのごろの老おいの怖れを忘れさせる。
 夏の無常を身にしみじみと知りながら、
 炎々と燃えて生きるいのちの美しさを
 澄んだ叡智として涼しく受ける喜びよ。
 私はひときわ華麗な畝間うねまへ立って、
 この讃歌のような光景と
 きょうという日の高原の空にかろく浮かんだ
 羽毛のような白い雲とを、
 飽かずいつまでも眺めている。

 

 

 渡辺さんのところでは畑地のかなり広い部分を或る種苗会社に貸した。それで其処が立派な採種圃場になって、夏は十幾種という観賞用の植物が、色もとりどり、形もさまざまな外来の花でいっぱいになった。高原の夏の野草には元より彼らとしての趣きがある。しかし此処ではそういう捨てがたい野趣を物ともせずに咲き傲って、華々しい豪奢な一角を現出していた。すると其処へ方々から無数の蝶や蜂が集まって来て、それまでは一羽一羽が静かに目を喜ばせていたのに、今では見るかぎり彼らの狂気じみた乱舞だった。
 立秋は八月の八日頃である。「秋立つ」といえば私にもすでに何らかの感慨がある。つまりこんなに華々しい夏でもやがては逝くのだという無常感である。しかも今、そんな思いを焼き払うかのようにこの花ぞのは燃えている。それで私は穏かにこの現在を受容する。そう思って眺めれば、今日は空に浮かぶ雲さえ彼ら蝶や花たちに同調しているようである。

 

 

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 晩 秋

 つめたい池にうつる十一月の雲と青ぞら。
 たえず降る緋色のもみじが水をつづる。
 遠く山野を枯らす信濃の北かぜ、
 もう消えることのない連山の雪のかがやき。

 枯葉色のつぐみの群がしきりに渡る。
 牧柵にとまって動かない最後の赤とんぼ。
 ゲオルク・トラークルの「死者の歌」が
 私の青い作業衣の膝で日光にそりかえる。

 

 

 分水荘の森のそとには、山からの水を引いて集めた小さい池がある。その池の縁に一本大きなクルミの木が立っているが、その木蔭でクローヴァを敷物に見馴れた景色を眺めたり、本を読んだり、訪ねて来た友人と話をしたりするのが楽しみの一つである。しかし今は風も冷めたい秋の末、そのクルミの葉もとうに散って、池には風に送られて来た木々のもみじが模様のように浮かんでいる。其処で即興的に書いたのがこれである。
 私はオーストリアの詩人ゲオルク・トラークルの詩を、戦前もかなり早くから読んで愛していた。ドイツの或るアンソロジーの中でその作品を発見して好きになったのが最初だった。第一次世界大戦に従軍して一九一四年二十七歳の若さで死んだ彼の死には、私の内に在るいくらかの悲劇性への傾向に訴えるものが多かったせいであろう。ここへ出て来る『死者の歌』もその詩を集めたインゼル発行の文庫本である。最近日本でも彼のためのそれぞれすぐれた訳詩集が幾種か出た。

 

 

 

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 炎 天  

 高原の土地の村から村へ
 真夏を焼ける長い道をゆきながら、
 風物のまばゆさと くるめくような炎熱との故に
 ふとヴァン・ゴッホを思い出す時――

 アルルの畠やプロヴァンスの広がりばかりか、
 若者アルマン 医師ガッシエらの肖像にさえ
 悲しいまでに美々しく純粋に象徴された
 この抜けるような炎天の高貴な本質。

 記憶のなかで大きい画帖のペイジを繰り、
 鴨趾草つゆくさの碧あおを塗りこめた小溝に沿って、
 正午にいぶるひとかたまりの村落を道のかなたに、
 もうほとんど私に壮美の悲歌が成ろうとしている。

 

 

 夏の暑い日盛りに、自然の中を歩き廻るのを私は若い頃から好きだった。そしてそれがまた私のヴァン・ゴッホ好きにも通じている。ゴッホは私には炎天下の悲歌の画家、「ひまわりの花」や「鴉と麦畑」によって象徴される画家である。
 この詩を書かせた動機には「八月の花畠」に一脈通ずるものがあるが、作品としてはあれより一層緊密で、一層炎天の本質に近づいているような気がする。高原にひろがる村から村への焼けつくような途上の景色が、この詩の出来る前すでにゴッホのアルルやプロヴァンスの風景となって私を叩き上げ、少しでもあの画家の精神に近づけていた事は確かなようだ。

 

  

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 盛夏の午後

 歌を競うというよりも むしろ
 歌によって空間をつくる頬白が二羽、
 むこうの丘の落葉松からまつ
 こちらの丘の林檎の樹に
 小さい鳥の姿を見せて鳴いている。

 その中間の低い土地は花ばたけ、
 大輪百日草ジニアのあらゆる種類が
 人為の設計と自然の自由とを咲き満ちている。

 すべての山はまだ夏山で、
 森も林もまだしんしんと夏木立だが、
 もうその葉に黄を点じた一本の胡桃くるみの樹。

 二羽の小鳥はほとんど空間を完成した。
 しかしなお歌はやまない。
 その二つの歌の水晶のようなしたたりが、
 雲の楼閣を洩れてくる晩い午後の日光の
 蜜のような濃厚さを涼しく薄める。

 

 

 どこにでもいて、庶民的で、いつでも機嫌にむらが無くて、歌もよく歌うこのホオジロという私の好きな鳥が、富士見高原にもたくさんいた。それでいつかは彼らの讃め歌を書いてやりたいと思っていた矢先、折よくもこういう光景に出会ったのである。大輪ジニアの咲いている一角は前にも出て来た採種圃場で、それを中にして彼らのとまって歌っている木が一方はカラマツ、一方はリンゴというのが、その場の画に生彩を与えた。
 空間は音の伝達の場である。そしてもしもその音源が相対する二つの方向にあって人がその中間にいたとしたならば、二個のスピーカーから出る音楽のように空間の立体感は一層鮮明になるだろう。この二羽のホオジロの場合がそうだった。彼らの歌は対話風の音楽のように私に来て、どちらからともなく歌い止むまで聴き手の私を去らしめなかった。

 

  

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 路 傍

 田の草とりの百姓たちが日盛りの田圃で
 煮えるような泥の中を匍いまわっていた。
 薄赤いちだけさしの咲きつづく畷道なわてみち
 ちいさい空罐をかかえた三人の子供、
 五つ位になる男の児がもっと幼い二人に言っていた、
 「どじょう一匹取ったら帰らざ」

 信州の田舎の夏よ!
 路傍に青い影をおとす胡桃くるみの木のむこうは、
 玉虫色の山々と果て知れぬ空気の海だった。

 

 

 これもまた暑い日の、しかも焼けつくような真昼間だった。私は入笠山の下の松目部落のほうへ散歩していた。松目には親しい顔も特に多いからである。みんな水田の草取りで忙しくしていたが、私を見ると声を掛けたり辞儀をしたりした。出来る事なら自分もはだしになりズボンを捲くり上げて、少しでも手伝いをしてやりたいくらいだった。路傍や田圃のなわて道にはチダケサシの薄赤い穂の花が盛りだった。ユキノシタ科に属するこの花は真夏のシンボルの一つで、私の好きな花の一つである。そこにまだ学校へ行っていない年頃の農家の男の子が三人いて、その中の一番年上らしいのがこんな事を言っていたのである。つまり「どじょうを一匹取ったら帰る事にしようよ」と言うのだった。そしてその声や言葉の幼さ愛らしさが私にこの詩を書かせたのである。しかし最後の三行も、決してただの付け足しや飾り文句ではない。

 

  

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 幼 女
 
 一人でままごと遊びをしている女の児、
 鳳仙花の 産毛うぶげのはえた
 大きな卵がたの莢の実を赤子に見たて、
 かつて其の母のしてくれたように
 赤いきれで包もうとする。

 実はとつぜん
 やわらかい渦を巻いて炸裂する、
 幼い びっくりしている手の中で。

 だがその真珠いろの円い粒の一つ一つが
 それぞれに固有の運命を内に秘めた
 いたいけな生命いのちの星であることを
 いつか教えてくれる若い母親が
 此の児にはもういない。

 

 

 母親に死なれて、父親と祖母の手で育てられている一人の幼い女の児を私たちは不憫がって、時どき菓子やくだものなどを持って見に行ってやった。「とうちゃんもおばあちゃん」も田や畑に行っているので、大抵いつも一人で寂しく遊んでいた。そして或る日私がたずねて行った時の彼女の遊びというのがこのままごとだった。赤いきれは母親のかたみだったでもあろうか。しかしその児も今はもう年ごろの娘になっていて、人形の首の鳳仙花の実がはじけるのに驚いた事などは、もうとうの昔に忘れてしまったであろう。

 

  

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 老 農

 友達の若い農夫が水を見にゆくと言うので、
 一緒に歩いて山あいの彼の田圃へ行ってみた。
 稲が青々と涼しくしげり、
 どこかで昼間のくいなが鳴いていた。
 友達は水口みなくちの板へ手をかけて、
 田へ落ちる水の量を調節した。

 用水のへりを通ると、一人の年とった百姓が
 山ぎわの岸の崩れをつくろっていた。
 若い友達は私を紹介して、「此の先生は詩人で、
 植物や鳥なんかにも詳しいかたです」とつけ加えた。
 老農は「おお それは」と言って挨拶しながら、
 流れにゆらいでいる白い花の水草を抜いて示した。
 「梅花藻ですね」と私が言うと、目を細めてうなずいた。

 数日たって私はその老農に招かれた。
 彼の古い大きな家は大勢の若い家族で賑わっていた。
 酒が出、馳走がならび、蕎麦が打たれた。
 そしてその広い座敷の大きな書棚を見て私は驚いた。
 そこには辞典や図鑑や地誌類の列にまじって、
 トゥンベルク、シーボルト、シュトラスブルガー、カンドールなど
 植物学の古典の厚い訳本や復刻本がずっしりと並んでいた。

 

 

 日本の教育県と言われている信州には篤学の人がたくさんいるので、たとえ老人を相手でも偉そうな顔をしたり、知ったかぶりの態度をとったりすると、こちらのほうが大恥じをかく。以前には学校の先生や校長などをしていたのが、今では年をとって家の百姓仕事などを手伝っている人がいくらでもいる。だから東京あたりから避暑がてらに行った人などは、まずよく相手を観察しなければいけない。
 この場合の「老農」もそういう人物の一人で、抜いて示された水草の名を私が正しく言い当てたから良かったようなものの、もしもでたらめな名でも言ったら、「植物なんかにも詳しい先生です」などと紹介した若い農夫の面目は丸つぶれだったろう。馳走によばれて行って広い座敷の書棚を見て、私が驚嘆の眼を見張った植物学の古典は、どれもこれも今では容易に手に入らない稀覯本である。そう言えば昼間用水のヘリで崩れた箇所を一人静かに繕っていた老人に、家では大勢の家族たちがみんな一目置いていた。

 

  

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 フモレスケ

 庭のひとところを夏の虹色にしている
 晴れやかな矢車菊の花壇を廻って、
 一人の見知らぬ青年が入って来た。
 ほど近いサナトリウムからの散歩の道に
 家が見えたから寄ったのだといった。
 高い顴骨の皮膚が薄くすけて
 海の紅藻類のべに色を呈し、
 あおい額に黒い髪の毛が濡れたように垂れていた。
 彼は「暁と夕の詩」という薄い本を持っていた。
 そしてそれらの詩への熱愛を語り、
 彼自身の似たような作もいくつか読み、
 その間ほとんど私に口もきかせず、
 書架に並んだジャムやリルケにも一顧も与えず、
 ただ歌うように、おびやかすように、
 道造を褒め、辰雄を讃え、
 コーヒーを飲み、くだものや菓子を食って、
 さて、そそくさと、いくらか気まずく、
 然し何かに憤然としたように
 髪をふり上げ、額をそらし、
 よごれた経木真田の大きな帽子をむずとかぶると、
 私の庭の夏の花、
 矢車菊の頭を一つちぎって帰って行った。

 

 

 時がたつにつれて山荘へもいろいろな人が訪ねて来るようになった。農繁期にはさすがにお百姓は少ないが、学校の先生や生徒や、近くの高原療養所にいる数人の患者などは絶えずと言っていいくらい来た。その患者の中でも最も親しくしていた幾人かは病いも癒えて退院すると、東京へ帰って再び学問や家業をつづけたが、今ではみんな立派な教授になったり会社の社長になったりしている。そしてそういう連中が富士見時代を忘れずに、私を中心に穂屋野会という会を作って、年に一度は必ず集まって昔話に花を咲かせる。穂屋野というのは富士見一帯の古い地名で、芭蕉の句にも取り入れられている。
 しかし多くの中には時に変った人間もいるもので、こんな不思議な訪問を受けることもあった。同じ療養所に入院している青年のようだったが、余りほかの連中が私のところへ来るのが癪にさわったのか、或る日突風のように来て突風のように去った。しかもその突風の間に自分の言いたいだけの事を言いまくり、出された物は残らず食ったり飲んだりして、私にはほとんど一言もしゃべらせなかった。ドイツ語のフモレスケはフランス語のユモレスク。シューマンのそれはピアノの大曲だが、これはまた甚だ滑稽な小曲だった。

 

  

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 或る訳業を終えて

 明るい夏は昼も夜も
 この高原をきらびやかに流れて行った。
 しかし心はひとつの重い仕事の
 甘美と熱との密室に暗く埋もれて、
 いくたの爛熟した大きな果実や
 さわやかな硬い結晶を産みつづけた。

 今ことごとく産みおわって、
 深い疲労と和やかな秋とが私にある。
 羽毛の抜けた白鳥のように、
 積荷をおろして漂い出た小舟のように、
 或る誇らしさと自由とを感じながら、
 なお残るふしぎな不安に揺れている。

 しかし思うに、お前自身の仕事の成果を
 つねにあまり高価に見つもるな。
 絢爛をつくしながら一朝を散る木々のように、
 努力の思い出を凌駕せよ。
 傑出して軽くなれ。
 その時お前にすべての仕事が歌になる。
 その時お前の秋の前方に、
 又新らしい 意味ふかい冬が遠くひらける。

 

 富士見での七年間の生活を終って東京玉川の新居へ移ってからも、夏が来ると自分一人か妻同伴であの高原の山荘へ行って仕事をした。その仕事は主としてまとまった物の翻訳で、この場合の訳業とはリルケの『時禱詩集』のそれを指している。この仕事には物が物だけに或る重量感もあればむずかしさも伴っていた。しかし住み馴れた家での仕事に不自由は無く、小鳥の歌や蟬の合唱も疲れた時や苦吟の後の慰めになった。そして約二箇月かかった難産の末、一応仕事が仕上がって身も心も軽くなるともう秋だった。私は長い密室生活から広々とした自然や世界へ放たれた気持になった。しかし一つの事を成し遂げてしまえばもうそれはそれで良く、続く冬にはまた別の仕事が別の魅力を予感させて待っている。一事を成就したからと言って、そんな事でいい気持になってはいられない。自分にはまだ先がある。歌いたい物、歌わせたい物も、形にこそはならないが往く手の空に浮かんでいるようだ。この詩はリルケとさっぱり手を切った晴れやかな気持の中ですらすらと書けた。

 

  

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 展 望

 今私たちは夏のおわり 秋のはじめの
 濃い朝霧と燃える夕日の季節を生きている、
 生きる事が他のもっと恵まれた土地よりも
 はるかに厳しい労働をもとめる土地、
 この山坂多い 冬の長い国の田畑で
 忍苦と過労とに面やつれした人々と一緒に。

 都会からの身が習慣を変え、
 いくらかは精神の風土にさえ
 この国の雨や日光を反映させて、
 すでに早くも幾年がすぎた、
 永遠をかいま見させる美にやしなわれ、
 喜びの一層痛切なものを味わいながら。

 人や土地への敬虔なこまかい接触が
 ついに此処をふるさとのようにした。
 冬のきびしい凍結にも馴れ、
 石多い山坂の道にも馴れながら
 それぞれの季節の意味を汲み上げて来た私たちに、
 今この国の夏のおわり 秋のはじめの天地がある。

 

 

 長らく住んで土地の自然や風土にも馴れ、生活にも馴れ、周囲の人間にもすっかり親しんで、いつか私たちも信州人のようになった。たまたま人から「尾崎さんのお生れは信州ですか」と訊かれても悪い気はしなかった。東京で生れ東京で人と成りながら、私の気質の中にはいくらか信州的なものがあるのかも知れない。そしてそのため土地や土着の人達への順応の仕方が早くて、この国に生きる事に他国者のような違和感を抱く期間が甚だ短かかったのかも知れない。それだから別に東京に憧れる気持もなく、馴れれば馴れるほど見えて来るこまかい美に喜ばされ養われて、従来の自分の仕事に多少の新味を加えることが出来たのかも知れない。さもなければあたかも故郷の天地を心安らかに見渡しているような、こんな「展望」を書く気にもならず、また書けもしなかったであろう。

 

  

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 かけす

 山国の空のあんな高いところを
 二羽三羽 五羽六羽と
 かけすの鳥のとんで行くのがじつに秋だ
 あんなに半ば透きとおり
 ときどきはちらちら光り
 空気の波をおもたくわけて
 もう二度と帰って来ない者のように
 かけすという仮の名も
 人間との地上の契りの夢だったと
 今はなつかしく 柔らかく
 おりおりはたぶん低く啼きながら
 ほのぼのと 暗み 明るみ
 見る見るうちに小さくなり
 深まる秋のあおくつめたい空の海に
 もうほとんど消えてゆく……

 

 

 秋もようやく深くなると、日に幾たびか、空の高みをカケスの群が南のほうへ飛んで行く。南の何処へ行くのかは知らないが、とにかくこの高原を後にして、今まで一緒に暮らして来た私たちを後にして、われわれの知らない土地へ行ってしまう。私にはそれが寂しかった。ふだんよりも遙かに高いあんな空を飛んで行くのだから胸の痛む思いがする。
 誰がどういう訳でカケスと呼んだか語源の程は知らないが、とにもかくにもその名で呼ばれて、自分でもその気になっていたかも知れない者が、どうにも出来ない本能か運命のようなものに導かれて、おそらくは半ば心を残しながら遠く去って行くのだと思うと、私には彼らが単なる鳥としては見られない。寧ろ何か霊的なものに見えてくる。或る友人がこの詩を特に好きだと言ったが、出来る事ならばこの高原で、秋空遠く消えてゆく彼らの姿を一緒に見たいと思っている。

 

  

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 詩人と農夫

 若い夫婦が白黒まだらの牛を使って
 山畑のひろい斜面を耕していた。
 妻君が口綱をとって牛を曵き、
 夫がうしろから鋼鉄の鰭のような鋤すきを立てて、
 大きな矩形の土地をまっすぐに、
 根気よく往復しながら起こしてゆく。
 人が馬鈴薯を播く富士見高原、
 富士が遠くうっすりと、
 八ガ岳が風景の正面だ。

 よく馴らされた牝牛はいつもほとんど従順だが、
 それでも女があまり若いと愚弄する気か、
 ときどき山のように動かなくなったり、
 強引にわきへそれて
 条すじの平行を乱したりする。
 すると夫がうしろから樺の小枝で
 高い角ばった臀をたたいて牛を叱る。
 牛は性根をかえて又まっすぐに歩き出す。
 その若い妻君が立って見ている私に言った、
 「先生、ちっとうちへもお寄りなして」
 すると夫が言った、
 「先生は忙しいずら」

 ああ、独りである事の自由を欲する心から
 このごろとんと彼等にも不沙汰を重ねている私だが
 いじらしい此の言葉に胸の痛む思いがした。
 それで夫婦には黙って、さりげなく、
 向うに見える部落の奥の
 水松いちいの垣にかこまれた彼等の家へ立ち寄って、
 祖母や猫や鶏と留守居をしている
 その小さい女の児と遊んでやった、

 愛を施すつもりではさらさらなく、
 おのれにかまけて他人を忘れる  
 この貧しい心を耻じて、
 半時間ばかり……

 

 

 『詩人と農夫』はスッペの喜歌劇の序曲として知られているが、この詩はそんなしろものではない。ただ偶然に題が一致しただけの事である。
 若い農夫の治久君は松目の高台にいい畑を持っている。うしろは直ぐ入笠山、正面は古くからの別荘地や町や駅をこえて、私の住んでいる裾野の向うに雄大な八ガ岳の連峯。しかも遠く甲府盆地の空に裏富士さえ完全な姿を見せているのだからその眺望のすばらしさには申しぶんがない。鳳凰や御坂山塊、奥秩父の金峯山まで一望の中に入るのである。そういう場所で若い夫婦がたった二人、一頭の牛を相手に土地を耕している有様を想像してみるがいい。「ちっとうちへもお寄りなして」も、「先生は忙しいずら」もこの土地一帯の方言だが、それがこんな風景の中では余計に優しく素朴に聴こえた。
 帰りに何気ない顔で彼らの留守宅へ立ち寄って、おばあさんと一緒に留守番をしている小さい女の児と遊んでやったが、その垣根のイチイの本にはもうあの小さい丸い実がうっすりと赤く色づいていた。

 

  

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 林 間

 秋を赤らんだ木々の奥から
 ちいさい鐘か トライアングルの
 軽打のように晴れやかに澄んだ
 彼らの金属的な声が近づいて来る。

 たとえば若い涼しい器用な手が
 つれづれの手工に丸めて括った毛糸の球、
 煙るような白やコバルトや硫黄いろを
 つややかな黒でひきしめた小さい球――
 柄長えなが 四十雀しじゅうから 日雀ひがらのむれが
 波をうって散りこんで来た。

 木々が目ざめ、空間が俄かに立ち上がる。
 彼らはもうあらゆる枝にいる。
 ほそく摑み、丹念にしらべ、引き出して食いちぎり、
 苛烈に 不敵に 美しく、
 懸垂し、飛びうつり、八方に声を放ち、
 この林の一角に更に一つの次元をつくる。

 しかしやがて先達の鋭い合図の一声に
 無数の小鳥は抛物線をえがいて飛び去った。
 そして其のあとに口をあいた秋の明るい空虚から
 再建された静寂の一層深い恍惚がここにある。

 

 

 柄長も四十雀も日雀もすべてカラ類である。彼らは営巣や育雛の期間を除くと、一年じゅう大抵一つの群になって藪や林で餌をあさっている。私の住んでいる分水荘の森でも彼らは賑やかな常連で、一団となった彼らが後から後から飛び込んで来ると、ほかの小鳥たちは遠慮をしてか急に静まり返ってしまう。暴戻と言うにしては愛らしく、不遜と言うにしては余りに潑溂としている。そして美しくて賑やかな彼らがいつの間にかさっと姿を消してしまうと、急にあたりがしんとして、取り戻された静寂がそこにまた新らしい空間を築き直すのである。あたかもアレグロ・アッサイの第一楽章が鳴り止んで、徐ろにアダージョの第二楽章が始まるように。

 

  

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 木苺の原

 小みちの薮に木苺きいちごがぎっしりと生っている。
 指でつまめばほろほろと落ちる此の透明な
 薄あかい粒のしずかな甘い涼しさを、
 ほととぎすの啼く高原で私と一緒にすすらないか。

 けさはすべての山々からの蒸発がさかんで、
 風景が七月らしくしだいに青く強くなる。
 黄菅の咲いている牧場の柵とすれすれに
 遠い北アルプスも鮮かな夏姿だ。

 暑い日光が頼もしく、清涼を運んで来る風もいい。
 熟れた木苺はみずから醸して地を酔わせる酒になる。
 運命の指導と生の道づれとに恵まれて、
 私の晩年もようやく美酒の境地に近づいたようだ。

 おのれの魂の務めへのうながしから
 遠く時間を超えたものを求めながら、
 現前の光をよろこばしく分光して
 それぞれに結晶させるわざも怠りはしない。

 おりおり運ばれて来る波のような暑いいきれに
 夏草の繁茂がおもわれる。
 だが近くの藪に巣を営んでいる野鶲のびたき
 涼しい雲の下でときどき歌の破片を撒く。

 

 

 高原の七月は薮の木苺が真赤に熟す季節である。馴れた身にはさして珍らしくも思われないが、たまに東京から訪ねて来た人などは、初めは毒ではないかとびくびくしながら、しまいには安心して摘み取って食べること食べること。中にはみやげにするのだと言って紙の袋に入れたりしながら。肝腎の用の話はそこそこに。
 しかし私にとってはこの藪の木苺であれナツグミであれ、何かが熟して深い甘美な味を持つに至るという事が問題なのだ。芸術の創作もすなわちそれで、長い修練の末に尽きせぬ味を持つ美酒のような物を作り出す事こそ芸術家たる者の悲願でなければならない。そしてもしもこの悲願の叶えられる境地に達すれば、あとは自然と同じ事で、出来た物には他人に真似の出来ない独自な昧が舍まれているだろう。私にしても漸くそんな境地に近づいたようだと言うだけで、本当はまだなかなかそこまでは行っていない。

 

  

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 日没時の蝶

 沈む太陽の赤い光線の波におぼれて、
 遠い高原で はんのきの葉むらの上を
 きらきらと金緑色の火花のように
 飛びちがっている小さい蝶のむれがある。

 夏の一日のあの甘美に赤い終焉の光が
 みどりしじみを昼間の静止から飛び立たせたのだ。
 そのように一連の遠い記憶の歌が 私にも
 分散和音のように噴いてこぼれる日の暮がある。

 

 

 夏のきらびやかな夕日の中で、ハンノキやヤマハンノキの葉の上を飛び廻っている美しい小型の蝶の事を思いながら、自分にもまた過去のさまざまな詩的記憶が、その蝶達のように後から後から飛び出す事のあるのを書いた。
 ミドリシジミは昆虫学上シジミチョウ科に属していて同じような仲間も幾種か有るが、私が富士見高原でよく見かけたのはこの普通のミドリシジミと、メスアカミドリシジミとアイノミドリシジミの三種だったように思う。彼らは昼間はその食樹であるハンノキ類の葉の上にじっととまっているが、朝日と夕日のあたる頃にはきらきらと輝いて活躍する習性を持っている。富士見では立場川沿いのヤマハンノキに多かった。諏訪では角間沢にもかなりいたし、蓼科山の登り口ではフジミドリシジミを見た事もある。
 序でに言えば「分散和音」は音楽上の術語の一つで、和音を構成する音が同時にではなく分散的に奏される場合の事である。

 

  

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 音楽的な夜

 日が暮れると高原は露がむすび、
 びっしょり濡れたほのぐらい草の果てまで、
 りんりんと、きょうきょうと
 震え輝く虫の音に満たされる。

 夜空をかざる山々の黒い影絵も
 光をかなでる楽器の列をおもわせる。
 「乙女」や「蝎」や「射手」の星座が
 身をかがめ 弓を波うたせて弾き入っている。

 

 

 乙女や蝿や射手の星座が、西から南西へかけて釜無山脈の上に沈みながら大きく傾いている夜の事を書いたのだから、これは八月も半ばごろの作である。その頃は富士見の高原も秋めいて、歩けばびっしょり濡れるほど露が繁く、どこまで行ってもコオロギやスズムシやカンタンの声がついて廻る。その虫の音と山の端に横たわる星の光とが一体になって、私に音楽的な夜を感じさせたのである。

 

  

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 黒つぐみ

 すべての独り歌う者のように、
 黒つぐみよ、
 お前はそのまろい豊かな歌ごえで
 世界の時のながれ 空間の一点に、
 みずから静寂の核をつくる。

 持ってうまれた清朗な音色ねいろ
 深く編まれたしらべに与えて、
 その波の輪をとおく柔らかにひろげながら
 お前自身は四周から懸絶した
 ひとつの精力的な中心に住むのだ。

 あたかも過飽和の溶液から
 析出される結晶のように、
 ありあまる記憶から歌となって
 つぎつぎとほとばしる声のこだまが
 けさの灰ばんだ緑の霧に響いている。

 

 

 西洋にもこれにごく近い仲間がいて、よく詩や文章にもその声の美しい事が出て来るが、私も日本の鳴禽の中ではこの鳥の晴れやかな豊かな声が一番好きだ。東京の近くでも高尾山あたりまで行けば、晩春から初夏にかけて必ずと言っていいくらい聴くことが出来る。富士見の森にも勿論いた。そしてそれが一通り歌い終ってしまっても、金色をした静寂の核心のようなものがあとに残っているような気がする。それほど印象的な声であり、それほど精力的な歌なのである。この詩の出来たのは二十年も前の事だが、最近では今年の五月と六月に会津二本松の霞が城趾や裏磐梯の五色沼で聴き、上高地梓川のほとりで聴いた。しかし何もそんな処まで行かなくても山登りの好きな人ならばもっと近間ちかまで聴いている筈であり、ただその名や姿を知らないだけの話である。但しそういう無関心が私にはいかにも惜しい事に思われる。

 

  

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 郷 愁

 いつか秋めいて来た丘にすわって
 ひとり吹き鳴らす古い此の笛、
 バッハ、ヘンデル、グルックから
 思い出しては試みる歌のきれぎれ。

 高原の草に落ちるその音が
 僻遠を生きる私を一層遠い者にする。
 しかしそのしらべの天使のような質の故に
 なんと却って人間の世のいとおしい事ぞ!

 なぜならば天使らが進んでその心を与えるのは
 実にかしこ秋風白い都会だからだ。
 そこの汚辱と苦悩との衢ちまたに人間と共に痩せて
 いよいよ清さやかな彼らの眉目こそなつかしい。

 

 

 諏訪出身の化学者三輪誠君から教えられ、東京から遊びに来た串田孫一君に受売りをして、さて自分でも漸く吹けるようになったブロックフレーテ。この笛を手に森を出て草の丘に行き、春や秋の高原の広々とした眺めを前に知っている曲をいろいろ吹く。しかしバッハとかヘンデルとかグルックとか書くには書いたが、どうせ彼らの物の中でもきわめて容易な小曲か、その断片かに過ぎなかった事は言うまでもない。しかしそれにしても笛の音である。柔らかに澄んだその音色にはいつでも何か郷愁のようなものが伴っている。
 この場合もやはりそうで、その郷愁はこんな秋風の中でまだ荒廃しているだろう生れ故郷の東京へであり、そこに生きている人達へであり、しかも事によったらその人達の心の中でひそかに歌っているかも知れないこれら天使の調べへの哀感だった。天使はどこにでもいる。人の羨むようなこんな平和な田舎にもいるし、進んで屈辱と苦悩のちまたに生きて、人々と共に苦み共に痩せてゆく天使もあろう。そして敬虔な歌を吹きながら、そういう天使に此処の天使の調べを送りたいと私は思った。

 

  

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 雪

 急に冷えこんで来た一日の
 暗い午後がとうとう雪になった。
 私は思う、
 去年の初雪はいつだったかと。

 冬ごとに最初の雪を迎える心は
 管絃楽の演奏会で
 しずかに現われてくる主題につづく
 華麗な展開部を待つ思いだったが、

 今それは しだいに濃く はげしく、
 白い寂寞を作ってたそがれてゆき、
 何か知らぬが避けがたい切実なものとして
 まっくらな夜のひろがりを押し流れている。

 

 

 同じ雪でも野山をうっすりと白くする「初雪」ならば、珍らしくもあり、趣きもあり、音感もいいが、それが時間の経過と共に思いがけない大雪になり、たそがれから夜に移るやいよいよ暴風雪の相を呈してくると、もう田園歌や風流じみた思いなどは消し飛んでしまう。こんな筈ではなかったがと思っても始まらない。濛々と吹き寄せる雲のような、波のような、この豪雪の威力の前には手の出しようも無く、主題の華麗な展開どころか、ただおとなしく小さくなって布団へもぐり込むだけである。

 

  

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 人のいない牧歌

 秋が野山を照らしている。
 暑かった日光が今は親しい。
 十月の草の小みちを行きながら、
 ふたたびの幸さちが私にある。

 谷の下手しもてで遠い鷹の声がする。
 近くの林で赤げらも鳴いている。
 空気の乾燥に山畑の豆がたえずはじけて、
 そのつぶてを受けた透明な
 黄いろい豆の葉がはらはらと散る。

 この冬ひとりで焚火をした窪地は
 今は白い梅鉢草の群落だ。
 そこの切株に大きな瑠璃色の天牛かみきりむしがいて、
 からだよりも長い鬚を動かしながら、
 一点の雲もないまっさおな空間を掃いている。

 

 

 もう一と月もすれば寒さがやって来る事を知りながら、またそれだけに、こんなに日の光が暖かく、こんなに風も無く、こんなに爽かに晴れた高原の秋の一日が本当に嬉しい。何か貴重な賜物であるような気さえする。
 私は森から緩やかな道を登って中新田なかしんでんのほうへ行く。そして広い水田の多いその村を抜けてなおも八ガ岳に近づくように登って行く。するともう富士見の町やその向うの幾つかの村落も遠く見おろすように低くなる。私か好んでしばしば訪れるこの高みは山の畑で、多くは大豆が作られている。其処の柔らかな草原に坐って煙草を吸いながら日なたぼっこをしていると、秋の真昼の底知れない静けさの中で時どき何かパチリと音がする。気をつけて見ると畑の大豆の莢が裂けて実がはじけているのである。なおも耳を澄ますとその音は方々でしている。そしてはじけて飛んだ豆粒が当ると黄色くなった豆の葉がはらはらと散るのである。これは私にとっては実に初めての見ものだった。こんな美しい事がひっそりと無人の境地で行われていようとは想像もしなかった。しかも曾て自分のした焚火の跡の梅鉢草の花の白い群落と、切株にとまって長い鬚を動かしているただ一匹のカミキリムシ。これは正に一つの秋の自然の牧歌であって、なまじそれを昧わっている人間の存在などは無い方がいいくらいのものだった。

 

  

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 巻積雲

 赤とんぼやせせり蝶の目につく日、
 家畜たちが人間に一層近く思われる日、
 人がおもいぐさの鴇とき色の花を
 光りさざめく尾花の丘に見いだす日、
 日光は暖かく 風爽やかなこんな日を、
 ああ、高原の空のかなたに
 真珠の粒を撒いたようなひとつらなりの巻積雲。

 その昔、階段になった教室で
 音の事をならう物理の時間に、
 クラドニの音響図形の実験を見た。
 薄い金属の板のへりを
 ヴァイオリンの弓でこすって見せる先生の、
 その薄給の服の痛みが私の心を痛ましめた。
 だが指先の支点を変えるたびに
 さまざまに変化する砂絵の模様を
 なんと先生が美しい微笑で示したことか!

 今あの空につらつらとならぶ巻積雲が
 少年の日のクラドニ図形を思い出させ、
 遠い昔の先生の
 おそらくはもう此の世で再び見るよしもない
 あの笑顔や素朴な姿をなつかしませる。

 なぜならば家畜や虫や花野や空が
 彼らの無常迅速の美で  
 なお永遠を彷彿させる
 こんなにも晴れやかな瞑想的な秋ではないか。
         
           註 おもいぐさなんばんぎせるの別名。

 

 秋の青空の一方を美しく飾っている雲を眺めているうちに、ふと中学時代の物理の時間に或る実験をして見せてくれた先生の事を思い出して、懐かしさの余りにこの詩を書いた。
 巻積雲は空の上層に現れる雲の一種で、日本では俗に「いわし雲」とか「さば雲」とか呼ばれている。高さは地上約八〇〇〇メートルと言われているが、もっと低い場合もあり、天気の変り目に出ることが多い。しかしこの日は幸いその天気が悪化するどころか、綺麗に晴れた夜になった。この雲は四季を通じて現れるが、秋のそれは空が澄んでいるせいか最も美しく、「秋の雲とでも名づけられよう」と言っている気象学者さえある。
 その美しい雲形の模様から私か連想した「クラドニ図形」というのは、円形又は方形の金属板のまんなかを万力で固定して、その上に細かい粉を振りまき、板の縁の或る一点を指で押え、他の一点をヴァイオリンの弓でこすると板が振動して音を出し、粉は節ふしとなる線の上に集まって美しい模様を作る。そしてその摩擦する場所と指で押える位置を変えると、その度にいろいろ複雑な模様が出来る。これをクラドニ図形と言って、発音体の振動の事を習う時に見せられる実験である。
 その貧しげな物理の先生の服の痛みと、それに気づいた少年私の心の痛みとの思い出が、巻積雲を縁に結びついたのも、まことに瞑想的な秋のなす難わざであった。

 

  

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 故地の花
         (妻に)

 山の田圃を見おろして行くあの細みちの
 あの同じ場所一面に、
 ことしの夏もかわらずに
 この伊吹麝香草はこぼれるように咲いていた。

 私たちにななたびの
 なつかしい夏の思い出の草は、
 つぶつぶの葉、針金のような蔓、
 薄紫のこまかな花をこまかに綴って、
 摘めばつんと鼻をうつ
 爽やかな匂いの霧を噴くのだった。

 押葉となって手紙の中に萎なえてはいるが、
 この高原故地の花の発する
 まだ消えやらぬ夏の匂いは、
 誠実な心のように、歌のように、
 あわれ流寓七年の永いよしみを囁いて、
 梅雨つゆも上がった炎熱の東京で
 お前の汗まじりの涙を呼ぶには充分だろう。

 

 

 これは仕事のために一人で行った富士見の夏に、或る日近くの三ノ沢の土手で採ったイブキジャコウソウ、炎熱の東京で留守を守っている妻に与えるとて手紙の中に封じてやった佳い香りを放つ花、七年間の記憶をよみがえらせる花の事を書いた詩である。

 

  

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 蛇

 君たち、私に遭遇するや
 たちまちいわれもない憎しみと
 不条理な恐怖とに痙攣して、
 世にもいまわしい姿かたちに弾力ある
 怨念おんねんのいきもの、まがつみの霊へのように、
 必殺の杖や石をかまえる者よ!

 水無月みなつきの水浸みずく草はらを行く私は
 涼しく長い銀のながれだ。
 勿忘草わすれなぐさの空色をさざめきよぎり
 かおる薄荷はっかの草むらをわけて、
 行くとしもなく行きながら 風無き波――
 私は発端もなく終末もなく
 白昼をゆらめき進む燐の軌跡だ。

 呪まじないの形に強くわがねた環からほどけて、
 錯迷から錯迷へと溶けては湧き、
 円から円へずるずると霧立ちけむる緑銀の渦巻、
 私にとって楽しく快い自律の動きが
 君たちにはそれほど厭いとわしく堪えがたいか。

 雷雨の待たれる片明りの野の木立に
 古代ゲールの竪琴のように身を懸けた私が、
 なめらかに硬い七宝のあたまを上げて
 気圧の変化と湿気の波とを瞑想している時、
 その純粋観客の不動の姿が
 君たちの瞋恚しんいを燃え立たすというのか。

 背せなの鱗をいろどり濡らす華麗な縞と斑紋と
 エナメルのような腹の青じろさや葵の色によそおわれて、
 悦ばしめる他人目よそめのための仕草もなく
 苦痛のきわに声も洩らさず、
 忍辱にんにくの化身のように強く耐え、
 おおかたは亡命者か賢者のように退避する私が
 それほど独善に、また不信に見えるか。

 常時の保身とたまたまの反撃とは
 私にあって存続の原理だ。
 そして存在とはついに業カルマではないだろうか。
 しかも私の常の柔和と決定時の崛起、
 私の勤勉と懶惰と底知れず深い執念、
 私の美と醜悪と魅力と危険――
 私が私そのものである時
 君たちは私に逆説の権化を見る、

 あたかもルーテルの烈火の卓を流し目に
 おのがほのぐらい祈禱所へ韜晦とうかいする
 あのユマニスト、
 ロッテルダムのエラスムスのように。

 

 

 原ノ茶屋の役場へ行った帰り道、中央線の線路を見おろす陸橋の袂で、無残に殺されて横たわっている蛇を見た。頭を砕かれ、青白い腹を見せ、砂はこりにまみれた大きなアオダイショウだった。
 私も蛇は嫌いである。見ようによれば美しくない事は無いのだが、あの長い体を使ってずるずると前進したり、とぐろを巻いてじっとこちらを見ていたり、思いがけない木の技などに巻きついているところを見たりすると、怖いとか恐ろしいとか言うよりも厭らしい気がする。
 ところがちょうど其の真相を、それが真相であるが故にこの蛇は正当化して言っているのである。人間の憎悪の的となるこの姿を、おれは何も好き好んで選んだわけではない。おのずからこういう者として生れ、必然的にこういう生き方をしているのだ。それはおれの宿命だ。どんなに厭らしい存在として見られようとも、どんなに危険視されようとも、これがおれのおれたる所以ゆえんだ。よく「蛇蝎の如く忌む」と言うが、サソリの事はさて置いて、ヘビであるおれは、嫌う奴には勝手に嫌わせて置くより仕方がない。生物の世界にはいろんなのがいる。ルーテルのようなのもいればエラスムスのようなのもいる。蛇であるおれがそのエラスムスであるかないかは、この詩を書いた人間の勝手にきめた事なのだ、と。

 

  

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 秋の林から

 秋の林には、時おり、ふと、
 なにか小鳥の声の響くことがあった。
 その声は澄んだこだまを生んでじきに消えたが、
 回復された沈黙はもう元のようではなかった。
 或るまったく新らしい感情が
 そこに住んで生きることをはじめたように思われた。

 そのように、林を通るしぐれもあった。
 乾いた苔や下草を濡らす程ではなく、
 やがて夕日に華やぐかろい木の葉を
 しっとりとさせるくらいの訪れなのに、
 其処には何かこまやかな語らいがあったように
 ほのぼのとした空気が醸されて残った。
 そんな秋の林で見出されたさまざまなきのこ
 とりどりに眼や心を悦ばせる色と形で、
 畳へひろげられた白紙の上、
 山荘の黄いろい燈下にぎっしりと押し合っている。

 

 

 秋の森や林から採って来たキノコを眼目に書いたのではなく、この詩のこころは初めの聯とそれに続く聯とによって語られている。小鳥の声にしろ時雨しぐれの音にしろ、それが忽然こつねんとして消えた後に全く新らしいものとして生れて来る感情や、余韻として残るものの美しさを書いたのである。事実私にはこういう心境から出来た詩が少なくない。
 白紙の上へ拡げられたキノコは食うための物ではなく、菌類図鑑でそれぞれの名を調べるための物だった。尤もその中の食用キノコの幾つかは結局食ったが……

 

  

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 山荘の蝶

 森の空間を流れるように落ちて来て、
 しばらくは静かな日あたりの花や小石に
 蜜をもとめ、身を暖める蝶のいろいろ。

 古い山荘の風雨に白けた窓枠や露台の手摺りを
 ビロードの屑や七宝の破片で飾るように
 つよい翼を閉じては開くエルたては、孔雀蝶、

 「カンバーウェルの麗人」や「喪服の蝶」の名を惜しげもなく、
 秋を熟して甘美に濡れたルビーのような一位の実に
 魅惑されてひしめきつどう黄べりたては、

 霧のような薊あざみの花にシトロン黄の山黄蝶、
 なよなよと風にも堪えぬ姫白蝶、
 あれもこれも都会を遠い山の蝶だ。

 青々あおあおと山川やまかわ遠く私も来て
 一夏の仕事を終り、厚いノートや本を閉じ、
 みちたりて却ってかろく明るい心を、

 あすは帰京のあわい哀れに、
 この高原の九月の午後、
 陶然と無為の絢爛に見入っている。

 

 

 今年の夏も仕事を持って、また一人でこの山荘へやって来た。簡単な自炊や隣近所からの貰い物で食うには事を欠かなかった。それに駅前の町まで出れば外食もできた。仕事は翻訳と日記のような文章書き。その間には二、三篇の詩も出来た。そしてあすはいよいよ帰京という前の日の午後、今更のように懐かしんで眺めていた美しい蝶達がこれである。
 ヘルマン・ヘッセの後期の詩に「晩夏の蝶」というまことに見事な一篇がある。そしてこの詩人もその中で十種近くの蝶の名を挙げている。彼が少年時代から蝶を好きだった事はその数多い作品の中から察せられるが、ドイツの図鑑で当ってみても、書かれている蝶の一々の名の正しい事は驚く程である。そしてヘッセは彼らの事を今は無い童話の国からの命短かい客と言い「すべての美しいものと無常なものと、あまりにも優しいものと豊かに過ぎるものとの象徴、高齢の夏の帝みかどのうたげにつどう金に飾られた憂鬱な客よ!」と呼んでいる。こんなすばらしい前例があるので、私としては実はいくらか書きにくかった。

 

  

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 山荘をとざす

 もういちど家の中を見てまわる。
 がらんとした本棚、一物もとどめぬ机、
 残してゆく調度や寝具……
 生活の余韻と新らしい空虚とが
 まだどの部屋でも対立している気配だ。
 これからおもむろに沈黙の時がはじまって、
 家はやがて一冬の永い無住を眠るのだろう。

 窓も雨戸ものこらず締めた。
 幾週間の夏の成果は鞄の底におさめてある。
 その鞄も荷物も玄関に並んでいる。
 電灯のスイッチを切り、柱時計の振子をとめる。
 迎えの車が離愁をそそる警笛を響かせて
 もう森の中を近づいて来る。

 そとへ出て鍵をかける。
 ちょっと我が名の表札を見上げる。
 樹々を打つ秋雨あきさめの奥で黄びたきひがらが鳴いている。
 雨蛙も鳴いている。
 自動車が大きくカーヴを切って、
 濡れた芝草の中にぐいと停まる。
 ドアがあく。
 乗る。
 雨蕭々、小鳥の声……
 断絶のドアがばたんと締まる。

 

 

 そしてこれが今年の夏の住みかとの別れである。捨てる物はすべて捨て、片づける物も綺麗さっぱり片づけて、無住と沈黙との家として後へ残してゆくのである。日課のようにしてきた仕事は終り、見たい物は見、聴きたい物は聴いたから、もう心に残るものは無い筈だが。それでも未練というか愛着というか、こうして行ってしまう事が何か寂しい。この上はきっぱりとした「断絶」が無くてはならない。汽車の出る時間がそれ、迎えに来る自動車がそれ、小雨の響きも小鳥の声も断ち切って、パタンと鳴る車のドアの音が最後のそれだ。

 

  

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 目 木

 「もう目木めぎの実が赤く熟うれ……」と
 あのリルケが時禱詩集に書いたように、
 高原の白々と朽ちた牧柵に沿って
 私にも同じ目木の実の赤い秋だ。

 北独逸ヴォルプスヴェーデは私にとって未知の土地だが、
 今日の果て遠い空の青さと濃い日光と、
 高緯度の泥炭地方に吹きひろがる西風のような
 この爽かに悲しい空気の感触とが、
 私に其処をむかし体験した風景のように思わせる。

 灌木かんぼく目木は枝組みも強くこまかに、
 秋は黄に光る貝殻の葉と針のとげとげ、
 ちいさい堅い珊瑚いろの実を点じて
 周囲のしらべに特異なひびきを添えている。

 パウラ・ベッカー、クララ・ヴェストホフ、
 なぜか私は彼女ら二人をこの目木赤い高原にあわれむ、
 まだ薄倖の予感もなかった芸術女性の若い二人、
 北辺の秋色と田舎の狩の女神のような、
 ついに画廊の誉ほまれに遠かった、パウラとクララを。

 写生帖を膝に、鉛筆と画筆を手に、
 しばしこの植物と野のひろがりとを瞑想していた私は、
 やがて堅いケント紙を引裂いてまるめた。
 そしてこのような断念こそ、一人の詩人の
 寥郭の秋の心にふさわしいものに思われた。

 

 

 若い頃リルケの住んでいた北ドイツのヴォルプスヴェーデの村には目木が生えていたようだが、秋が深まると赤い実のなる同じ目木は、この高原でも至る処で目についた。高さ二メートルぐらいに成長するヘビノボラズ科の落葉低木で、枝や葉が密生し、その枝には痛い鋭い刺とげが生えている。名のいわれはこの木を煎じて眼病の薬にしたところから来ているらしいが、別名コトリトマラズはその刺のせいだろう。ドイツ語ではベルベリッツェ(Berberitze)となっている。
 ヴォルプスヴェーデ時代のリルケに、パウラ・ベッカーとクララ・ヴェストホフという二人の若い女の友のあった事はよく知られている。パウラは画家を志し、やがてリルケの妻となったクララは彫刻家を志していた。そして二人ともリルケの心を引いていたらしい。ところが、これは私の偏見かも知れないが、事女性に関する限り私はどうしてもリルケを好きになれない。その生涯を通じていろいろな女性に取り巻かれていたが、その間彼の誠とか真の愛とかいうものがどうも私には感じられない。もしも思い過ごしでなければ、彼は女の心を扱う事に甚だ長じていたような気がする。高貴な女性への献辞を読んだり、もっと気の置けない女性への書翰集を読んだりしていると、私にはそんな気がして仕方がない。そんな時以前のパウラやクララの事を思うとやりきれない気がする。
 赤い実のなっている目木を前に、丘の草の中で写生をしていた私か、何か憤然としていきなりパリパリと堅いケント紙を引き裂いたのも、実はそんな思いが昂じてさせた業わざであったろう。

 

  

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 峠

 下のほうで霧を吐いている暗い原始林に
 かすおな鷽うそや目細めぼその声、
 しかしいよいよ心臓の試みられる登りにかかれば、
 長いさるおがせをなびかせて
 しろじろと立ち枯れしている樹々の骸骨を
 高峻の夏の朝日が薄赤く染めていた。

 澎湃とうちかえす緑の波をぬきんでて
 みぎは根石・天狗の断崖のつらなり、
 ひだりは見上げるような硫黄岳の
 凄惨の美をつくした爆裂火口。
 登る心は孤独に澄み、
 こうこうとみなぎる寂寞が
 むしろこの世ならぬ妙音を振り鳴らす
 透明な、巨大な玉だった。

 頂上ちかい岩のはざまの銀のしたたり、
 千島桔梗のサファイアの莟、
 高山の嬉々たる族よ……
 風は諏訪と佐久さくとの西東にしひがしから
 遠い人生の哀歓を吹き上げて
 まっさおな峠の空で合掌していた。

 

 

 これは佐久側の本沢温泉から登った時の事を書いた物で、峠は夏沢峠である。この時の連れは義妹の夫で学校教師、彼の登山の目的は高山蝶の採集だった。その頃私はもうほとんど生き物をとる事を止めていたから、捕虫網も持たず胴籃も吊るさず、もっぱら彼らの生態を観察したり、山その物の景観を味わったりしていた。
 峠は山の道のけじめである。過去を見おろし未来を俯瞰する道の最高処である。そこへ登りつく事は高山の場合常にいささか苦しいが、途中目に入る物を残らず見たり感じたり、登りついての新らしい眺望を想像したりする事は山登りの醍醐味だと言える。人は息を切らせて傍目もふらずひたすらに登って行く。しかしそのために途中の見ものを閑却する場合が案外多い。地理や地質が専攻のくせに義弟はクモマツマキやベニヒカゲや、オオイチモンジのあとばかり追っていた。

 

  

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 渓谷(Ⅰ)

 高原と山々とのこの国に
 都会を遠い余生を托して矍鑠かくしゃくたろうとする私には、
 渓谷もまた自己拓開の新らしい場だった。
 なにか心の慰まぬ日、私は其処へ下りて行った。

 山峡やまかいの谷は両岸の新緑いよいよ重く、
 梅雨つゆの雲また漠々と垂れて、
 残雪に日照りかがやく峯の威容を
 谷奥の空の高みに隠していた。

 私の心もまた鬱々と重かった。
 晴れやかになろうとこの谷までは来てみても、
 ただ単調に思われる水の流れ、
 悩ましい栗の花の香、眠たげなねむの花の色だった。

 その単調、その憂鬱を打破するように、
 私はざぶざぶと冷めたい流れを押し渡った。
 足に巻きつく強い水脈、瀬々せぜのせせらぎ、
 ようやくにしてよみがえる鮮明な生の意欲が私にあった。

 

 

 私にも憂鬱な日、気の重い日、少しも心の慰まない日がある。別にこれという理由も無いのに生活に張りの感じられない日がある。高原の梅雨時つゆどきのそんな或る日、私は何らかのきっかけを摑もうと釜無の谷へ下りて行った。だが目に映る風物にはいささかの新味も感じられず、すべてが単調で、平凡で、眠たげで、いつもならば其処から何か汲み取れるのに、その日に限って何もかも当り前な気がして少しの興味も湧かなかった。
 そこで思い切ってシャツを脱ぎ、靴もズボンもズボン下も脱ぎ捨てて、このだらんとした気分を一掃してやろうと、勝手知った釜無谷の岩の瀬をざぶざぶざぶざぶ、対岸の甲斐の国へと押し渡ったのである。

 

  

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 渓谷(Ⅱ)

 朝まだき、荒い瀬音が谷を満たして
 きりぎしの霧や若葉をふるわせるとき、
 青く、つめたく、逞しく
 うねり、巻きこむ水のフーガを
 孜々ししとして縫ってさかのぼる魚群であった。

 真昼を燃える岸の山吹、山つつじ、
 小鳥のさえずり、蟬の合唱、水の音、
 この渓谷の全奏にピチカートを打って
 おりおり跳ねる潑刺とした影像は
 銀と薄黄の弓なりの魚形。

 さて、今は月影くらい初夏の宵、
 七ッ釜の深い淵瀬の水そこに
 ほのぼのと鰭をそよがせ、身を伏せて、
 鰓蓋えらぶたの鰓の呼吸も安らかに
 まどろんでいる若い夫婦の岩魚いわなである。
                  (或る結婚に)

 

 釜無谷の岩魚の事をいつかは書いてやろうと思っていたが、この日は気も晴ればれとし、頭も割によく働いて、いろいろな時に見た彼らの記憶がいきいきと蘇った。見たのは多くは昼間だが、朝早い時もあったし夕方晩い時もあった。そして朝見たそれは寒く冷めたく、細身の刃のようであり、昼間のは颯爽潑刺と跳ね躍って勇ましく、日も暮れかかった夕べの彼らは静かな淵の水底に、夢見るようにゆらゆらと揺れている。シューベルトの「鱒」の歌詞も思わなくはないが、何と言ってもあれは寓意、これはぴちぴちとした自然だから、軍配はどうもこちらに上がるようだ。

 

  

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 渓谷(Ⅲ)

 国文学の森山先生は釣の達人、
 六月のもっとも日の永い土曜日を
 学校から一時間の汽車とバス、
 帰ると着替えもそこそこに飛び出して、
 朴ほおの花今を盛りの釜無谷かまなしだにのみぎわづたいに
 もてなしの岩魚いわな十本を釣り上げて来た。
 美しい斑点ちらした藻の色の背と薄黄の腹、
 体長三十センチの岩魚の焼物は
 串をぬいても三日月がたに堅くそり、
 塩を振られた皮の焦げめは夕焼色にかんばしく、
 赤みを帯びた肉は畳まれたように厚い。
 あぶらが乗ってしつこくなく、
 颯々として青嵐の気がある。
 先生は銘酒「真澄ますみ」を献杯しながら、
 国文学大系や俳書のならぶ書棚から
 大型の原書、アイザック・ウォルトンの
 「釣魚大全コンプリート・アングラー」をとって私に示した。

 

 

 森山先生はたしか落合村の机部落に住んでいた。教えていた学校が諏訪か岡谷だったから毎日の往復だけでも大変なわけだが、そんな事は少しも気にしないくらい健康で磊落な人だった。その森山先生が招待した私を持たせて釜無の谷の何処かへちょっと出掛けて、忽ち釣って来たその岩魚の焼物の見事だった事、うまかった事は書いた通りである。しかも酒は諏訪の銘酒の「真澄」だから申しぶんない。ところでそんな釣も料理も酒の燗も、学校から帰って来たばかりですべて、自分一人でやってのけたのだから驚くのほかはない。しかもどうだ。ここでもまた書棚を満たす国文学関係の本の中に釣の古典、Isaac WaltonのComplete Anglerの原書がでんと控えているに至っては、私としても目を見張らざるを得なかった。これだから前にも出て来た「老農」同様、信州人の知的生活には油断がならないと言うのである。

 

  

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 充実した秋

 深まる秋の高原に霜のおとずれはまだ無いが、
 林の木々や路の草には
 もう赤が染み、黄の色が流れている。
 大空をしずかに移る鱗雲、
 きのこの匂い、鷹の叫び、
 きつつきも堅い樹幹に
 堅い穴を掘りはじめた。

 沢沿いの栗山にいが栗がぎっしり
 里はどこでも枝をしなわせて林檎があかい。
 もっと遠い盆地をかこむ
 あの南へ向いた大斜面には、
 幾村々の葡萄園が
 琥珀や紫水晶の累々の房で重たかろう。

 乾いた音のする両手を揉みながら、
 「今年ことしなりものの出来がよくて……」と
 目を細くして言う八十歳の老農の
 その栗色の皺深い顔や、はだけた胸にも、
 物を制して物の自然を全うさせる
 あの「よろず物作り」の
 かくしゃくたる秋の結実が笑み割れている。

 

 

 高原の多彩な秋はまた充実の秋でもある。都会に近い田舎などとは全く違って、一切が落ちついて、豊かで、堅実で、生きるという事の意味や生の自覚が、至る処に実り、至る処に光彩を放っている。こんな時に野や村を歩くのは本当に楽しい。自然も人間も一体となって、自信に満ちた顔をしている。だから「もっと遠い盆地」、隣国甲斐の葡萄の豊作にまで思いを馳せる余裕が生まれるのだ。物を規正して物の天命を全うさせる八十歳の老農の、そのかくしゃくとした笑顔こそこんな秋を代表するものではあるまいか。

 

  

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 十一月

 濃い褐色に枯れた牧場まきばの草が
 いちめんに霜の結晶でおおわれている。
 春には桜草の咲きつづく湿めった窪地に
 けさは寒い霧が灰いろに立ちこめている。
 どこかで鶇つぐみの声はするが姿は見えない。
 しかし今、山のうしろから晩秋初冬の朝のよろこび、
 大きな真赤な太陽がゆらゆらと昇って来た。
 霜の高原が見るまに金と薔薇いろに染まる。
 湿地の霧がきれぎれになって消えてゆく。
 ふりかえれば西の山里も朝日をうけて、
 その上に菊日和のきょうの空が
 まっさおに抜けたようだ。

 

 

 晩秋初冬の高原に、朝の太陽の昇って来る時の美しさ晴れやかさを書いた。その太陽は十一月だと八ガ岳の南の裾のあたりから昇る。振り返って見る西の山里は入笠山の下に点在する富士見の部落だ。そこではどんな農家でもみんな菊を作っている。それぞれ自慢の菊が朝日をうけて、綺麗に掃き清められた各戸の仕事場や庭の片隅を一層美しく見せていることだろう。そしてそんな結構な菊日和には、私の行くのを心待ちしている老人や若者の一人や二人はきっといるに違いない。

 

  

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 受難の金曜日 カールフライターク
                   (富士川英郎君に)

 まだ褐色に枯れている高原に  
 たんぽぽの黄の群落がところどころ、
 そよふく風には遠い雪山の感触があるが
 現前の日光はまばゆくも暖かい。

 かつて私が悔恨を埋めた丘のほとりの
 重い樹液にしだれた白樺に
 さっきから一羽の小鳥の歌っているのが、
 二日の後の古い復活祭を思い出させる。

 すべてのきのうが昔になり、
 昔の堆積が物言わぬ石となり、岩となる。
 そしてそこに生きている追憶の縞や模様が
 たまたまの春の光に形成の歌をうたう。

 『うるわしの白百合、ささやきぬ昔を……』
 そのささやきに心ひそめて聴き入るのは誰か。
 悔恨は長く、受苦は尽きない。
 ただ輪廻りんねの春風が成敗をこえて吹き過ぎる。
             (一九五九年三月二十七日金曜日)

 

 

 これは昭和三十四年の三月末に書いた詩である。用事があって東京から松本へ行き、帰途久しぶりに富士見へ寄って一泊した。土地の親しい幾人かが旅館に集まって馳走をしてくれ、昔話に花を咲かせ、私も快く酔って寝たその翌朝が二十七日金曜日、すなわちその二日後が復活祭というキリスト受難の金曜日だった。受難週間に酒を飲んだり馳走を食ったりするのは言わば破戒の行為だったが、それと知りながらも旧知の招宴を辞退するわけにもいかなかった。なぜならば彼らはキリストには無縁の人達だったから。そして私にとっては有縁も有縁、この土地での生活にはいろいろ厄介をかけた人達だったから。
 帰京の汽車の時間もあるので、私は早く起きて曾て七年間を住み馴れた分水荘の在る丘のほうへ歩いて行った。そよ吹く風こそまださすがに冷めたいが、早春の日光は暖かく、路傍にはところどころタンポポの花さえ咲き出していた。小鳥が一羽、いつまでも続く歌を歌っていた。なじみも深いホオジロだった。私は向うに分水荘の森を見ながら道の岩に腰をかけた。昭和二十七年にあの森の家を引払ったのだから今年で早くも七年になる。年老いた私にとって七年と言えばもうりっぱな昔である。それでその昔よりも更に七年前の昔の或る日、私は自分の芸術を他国と戦っている祖国への愛に捧げ尽くした自責の念にさいなまれ、悔恨の思いを埋めるためにこの高原へ来たのである。その十四年間の思い出の数々が、その堆積が、追憶の模様を描いてこの堅固な岩に象徴されている。
 明後日の復活祭を私は東京で祝うだろう。妻と共にあの讃美歌を歌い、花を飾り、卵の殼を染めるだろう。しかし今日はそのキリスト受難の金曜日。私にとっても過ぎた歳月をあだおろそかには思えない日だ。そう思って静かに腰を上げ、もう一度高原の遠く近くを眺め渡し、さて黙々と駅前の町の宿へ戻ったのである。

 

 

 

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