詩集『田舎のモーツアルト』 (昭和四十一年)
冬の雅歌 日曜日のおだやかな朝をくつろいで
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不 在 孫の一人は房総の海べへ水泳の合宿に行っている。 どんな波を凌いで小さい彼が遠泳の試練に堪えているか、 妻は彼らの不在の部屋部屋を掃き清めている。 「汝らこんにちまで我が名によりて祈りしことなし」
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妻 に 晩い午後のひとときを私がなおも机にむかって 四十幾年の生活を倦みもせずにいそしんで それはお前が私にとっての守護の天使、 人々への善意と、自分自身へのきびしさと、
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ハインリッヒ・シュッツ 静かに齢の坂をくだる丘の上で、シュッツよ、 それ以来あなたの芸術は あなたの高らかな決然とした抑揚は そしてあなたの凝縮された宗教的情緒は
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秋 風が一日じゅう家の中にいた。 いつか洋書店の棚で見た小説の題の 物を所有して物の生命いのちに語らせようとする心から、
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霧と風の高原で 濛々と打ちよせる美うつくしヶ原はらの霧の中に 霧の波濤を運んで吹きつける強風が 鎖を引いて塔の高みの鐘を鳴らせば、
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岩を研ぐ 早春の縁側に花茣蓙はなござを敷いて きさらぎのそよかぜ庭をわたり、
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春の葡萄山 葡萄山ぶどうやまの葡萄の株は 土地をこぞって満開の
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モーツァルトの午後 気だてのいい若い綺麗なおばさんのような
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出合い 松本や大町でなら知らないこと、
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歳 月 むかし春の空気に黒鶫くろつぐみが歌い、 むかし野薔薇が雲のように咲き埋めた しかし眼を上げて遜かを見れば
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田舎のモーツァルト 中学の音楽室でピアノが鳴っている。
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ひとりの山 若い仲間は男も女も
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七月の地誌 「右 山道、左 農道、中 十文字峠道」と ここは信州梓山戦場ヶ原、 路傍の木陰こかげで弁当をひらく。 むこうの谷の斜面に慈悲心鳥の声、
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回 顧 いたるところに歌があった。
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車窓のフーガ 疾走する列車の振動とリズムにつれて、 たえず風景の変遷する車の窓に片肱っいて、 いかに愛すればとて、人はついに それは調和の技法にすぎなかったろうか。
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高処の春 下界はもう春も尽きて水無月みなつきという六月だが、 草の上にのびのびとあおむけに寝て、
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あかがり あかがり。つまりあかぎれ。 山みちにはちりちり紙の造花のような ああ、その時だった。 それは強く美しい輪唱カノン風の合唱だった。 その行進には若い動物のそれのような精気があった。 少女の列はつむじ風のように過ぎ去った。
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復活祭の高原 長い冬をひろびろと枯れた高原に 瑠璃いろの山肌に千筋の滝かと よく見れば落葉松からまつにも涙のような緑のつぶつぶ、 小さい角のような花の芽をつづった白樺、
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山中取材 孫のような年ごろの若い女性を道づれに 女は革紐がその柔かい肩へ食い入るばかりに 道は白い岩の楼閣の中の狭くて急な 私は目に触れたもの、気づいた事を何くれとなく 谷のつめに一すじの高い滝が懸かっていた、 私は用意のコニャックの封を切って彼女を待った。
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野の仏 景勝の地に彼らを置くな。
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蟬 生いしげる木立に囲まれたこの家を すでにいくらか数は減ったが この土地の夏の主あるじ、この家の夏の客、
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或る石に刻むとて 流転の世界。
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湖畔の朝 路傍の岩の突端に腰をかけて、 朝の時間がまだ早いので 岳鴉だけがらすが一羽やわらかに鳴きながら
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鴨 旅の秋が隈なく晴れて 午後の弱い日ざしをうけて赤銅しゃくどういろに輝く頭、 そのつやつやと張りきった船底ふなぞこ形の胸や腹が その夜稲荷山での招宴に鴨の肉が出た。
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和田峠 上かみの諏訪すわ、下しもの諏訪かけ 岩の間まの節分草に わが性さがの石を愛めずれば、
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馬寵峠 草もみじ、木々のもみじの 人たえて通わぬゆえか、 木曾行きて六日の旅に
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上越線にて この世での他人とのほだしやきずなを 群馬総社、渋川、沼田がそれだった。 さて次なる駅の六日町こそ 疾走する列車の窓から熱いまなざしで私は見た、
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受胎告知 静かな町角を曲がった私が そして午後を傾く日光と
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春 興 人の世へ出て一本立ちができるように
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桃咲く春 庭は緋桃の花ざかりだ。 鶫つぐみの歌や山鳩の声が響くにつけ、 「我は足れり」のアリアがおりおりはロにのぼるが、 春の大きな雲が暗み、明るみ、
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高地牧場 海抜二千メートルの熔岩台地、
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故園の歌 郷愁が私をそこへ駆り立てた。 永い不在は見知らぬ美しい女のようで、
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十年後 田圃たんぼへ下りてゆく青い細道、 整然と並んで清さやかにそよぐ かって試みた山が四周の夏を横たわり、
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朝の門前で もう毎朝がかなり冷めたい。 昨夜のモーツァルトがまだ頭の奥で鳴っている。 落ち葉を踏み、時どき空を見上げながら
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草津白根 むっとして、酸っぱくて、銭ぜに臭くて、
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予 感 森の木々はまだおおか 森のそとには三月の風が荒れ、 こんな予感は何ものでもなく、
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飼育場風景 雉きじの飼育場は渓谷に臨む村落のうえ、 どの禽舎もおびただしい数の雉だった。 山も谷も麗らかな二月の土曜日、
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