「ヴィルドラック選詩集」  尾崎 喜八 譯

    
    ※ルビ
は「語の直後に小さな文字」で、傍点は「アンダーライン」で表現しています(滿嶋)。
    ※文字セットUTF-8を使っていますが、
旧字体のない字体は現在の字体で表現しています。
     (また、ブラウザによって新字体に置き換わるものもあるようです。)

    ※現在では適切でないと思われる語句も有りますが、そのまま使用しています。

   

  「アベイ詩集」から      

春  

私はアベイを夢想する

私は見る………

印 象

 

 

  「愛の書」から      

白い大鳥

運命の歌

眞夜中すぎ

飮んでゐる二人の男

或る宿屋

人間になるためには

春  

風 景

別の風景

 

或る友情

訪 問

征服者  

  「絶望者の歌」から

     

絶望者の歌

草と共に

思ひ出

一兵卒の歌

休 戰

交 代

戰争の春

穀 倉

モンブランヴィール

  中間劇 村落悲歌 冬の歌  
  アルゴンヌヘの歸り 庭      
  「延長」から      

延 長

私の敵が死んだ

金 鈴

寓 話

謝肉祭

ちひさい家

航海日記

生 活

 

     譯者後記      

 


「アベイ詩集」から

 春

あゝ! 感謝せよ、私の心、
この靑春の、この百年目の祝祭を!
あゝ! 感謝せよ、私の心、この第一日を、
春の乙女の喜悦をもて
落日の時刻まで
飾り立てられるこの最初の日を!

思ひもかけぬ悦びよ………

あでやかな落日、あゝ、餘りにもあでやかな、又悲壯な!
そして私の額の上のこのそよかぜの指、
すこしのぼせた、すこし内氣な。

吹流しになつて脈をうつ光の降臨、
それが實に近く、實に脆く、實に夢中なので、
このブロンドの空の笑に溶け入るばかり。
そして私は進む、行きずりに輕く車に觸れながち。
あゝ! 縺れた絲のやうな道には構はない。
私はそこを行かない、又あの人達のやうにあすこをも行かない。
私の歩みを速く蹣跚たらしめるもの、
それは家でもなければ待つている女でもない。

それどころか今日といふ日は
一切の誕生日、或は一切のやりなほしの日なのだ。

私はむかうから遣つて來るのを見る、
生きるべき私の全生命が、
あかゞね色の花粉のなかを、
むかうから遣つて來るのを私は見る。
今いちど! 私の全生命が、其處に、私の前に。
そしてそれは海である!

否、此處でもなければ、又あの人達のやうにあすこでもない、
お前に向つてだ、ひろびろたる波よ、白色の牝馬よ、
私の明日あすの間へ現れた憤激の瞬時よ、
私が自分の手の渇望をもたらすのは、
一つの眩暈の中へ光りかゞやいて私が急ぐのは。
そしてその歩みは海へ呼ばれる者の、
また星に向つて行くやうに水の中を行く者の歩みである。

海よ! 私の生命よ! あゝ盛んな出發の花飾りよ!
かしこに雄渾な企圖を漕がしめ、
その心に燃ゆる太陽のやうな「藝術」をもつて、「約束の地」へ勇者は出てゆく!

あゝ! 程のいい遠方で半ば元氣に、
無茶な海賊船の中の最も無茶な船のへりで、
われらは飽くこと知らぬ「冒險」を試みるのだ、おゝ君達、
難破の事を考へて顫へなどはしない私の兄弟よ! 

願くばわれらの鹵獲物がしつかりした眼から見て眞理である事を!
また頭腦の頑固な貧しさに對して、
大きな港の年古りた卑賤と退屈との上へ、
光の河となつて、われらの大帆船ガリヨンが空からになる事を!

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 私はアベイを夢想する

私は僧院アベイを夢想する、――おゝ、院長アベのゐない僧院アベイを!――
私は歡待の僧院アベイを夢想する、
多少なりとも踏みつけられ剥奪された、   
藝術に夢中な、萬人のために………

はるか遠く、あんな花盛りの希臘エラードに、
快活で專心な
アベイを私は夢想する。
そこで幾人かの男と幾人かの女とが生き、
そこで自由な熱烈な樂園を生きるのだ。

われわれは兄弟よりももつと善く愛しあふだらう、
彼女らは姉妹よりももつと善く愛しあふだらう。
すべてかうした夢想は不可能だらうか………

私は僧院アベイを夢想する………

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 私は見る………

   「單純、そして靑空の恍惚に滿たされた眼」
                  レオン・ドウーベル(家)

私は見る……… それは光の中のすがすがしい家である、
それはいつも春のやうに、笑つてゐる家である。

家はやぶからしと常春藤きづたとを纏つてゐる。
その綠玉の裳は横腹でかゞやき、
その足はラヴァンドや薄荷に薫らされてゐる。
それは若い强健な下婢のやうな
ジェラニウムに飾られた踏段を伸ばす。
そしてその帽子は赤くきらめく屋根瓦。

家はどつしりした古代の櫓に支へられ、
それを月の光が重い翼や綠の眼で被うてゐる。
そして草や灌木に包まれた其の頂きからは
鐘樓や森や野のかなたに海が見える。

桁組から天井までブロンドの槲かしで出來たその部屋部屋は、
とりいれの爲に人影も稀な村のなかで
一週に一日人のはいつて行くあの敎會の
大きな明るさと静謐な快活さとを持つてゐる。
そしてその壁の上では磁器の合唱隊が歌つてゐる。

その仕事場はモスリンで涼しくされてゐる。
その書庫は寺院のやうにしんとしてゐる。
装釘の金は硝子戸棚をかゞやかせ、
絨氈はそこを沈默で布張りする。

昔の禮拝所がそこを音樂で引きしめる。
大きな長椅子が外陣に一つの輪をつくる。
大祭壇では一個の大理石のベートーヴェンが、
悲痛な惱みをうたふオルガンに聽き入つてゐる。

壁畫のおもてを架空の庭は段々に重なり、
荘重なものごしの静かな人々がそこをよぎり、
舞踏はそこで牧場を葉飾りする。
かうして美しい僧院のいたるところ、
色彩は眼に愛すべき音樂をかなでる。

それは温かい膝をもつた優しい母である。
それはばったの軋り聲に夏のリヅムを與へられた、
子供の眠りを人が眠る家である。
そして其處での日ざめは靑葉の茂りにまばゆくされる。

家のまはりには一つの大きな庭園がある。
それは泉水と芝生とのむかうのはうで
年老いた放浪者のやうにばうばうと草深く、
林間の室地の爆發する笑に光つてゐる。

そこには暗い小徑があつて
樹々はざはめく本寺の丸天井である。
こゝかしこ大理石の柱の上では
明るい胸像が熱烈な手から月桂畑をうけてゐる。

草原は蜜にかをるうまごやし
書物に倦んだ眼が、太陽を浴び、仰向けになつて、
空の芝地の靑葉の舞踏を見るために、
なかば睫毛をとぢて其處へ身を倒すのである。

そこには一つの池があつて夜は蛙が鳴き、
また重苦しい眞晝どき鯉の跳躍がそれを裂く。
竪琴のやうにきれいに響く柳の下では
一艘の小舟が綠の水音にまどろんでゐる。

其處でどんな風にして私達は生きるだらうか、春を、
我等のタンタールの渇きの煽動者を、
私達の二十歳にとつては空しいものである故に
私達を病氣にするなつかしい春を………

其處でどんな風にして私達は生るだらうか、春を!
光明に愛撫された最初の朝々に、
子供の額のやうな朝々に、
私達は森の空地で泣くだらう、笑ふだらう………

リラの香に醉つては、我れ知らず、
美しい詩句を語り、手を握り、
草の大波に額をあらひ、
樹々を抱きしめ、花にくちづけ、
それが風景へであれ、詩へであれ、或は色彩へであれ、
とにかく「美」への熱烈な巡禮をしたい慾望に滿たされながら………

其處でどんな風にして私達は生きるだらうか、春を!
又どんな風にして秋の强いリキュールを味ふだらうか!

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 印 象

撒くがいい、撒くがいい、燃えた石炭のたましひを。
吐くがいい、どんよりした硫黄やくすぶつた煤を。
お前達はこの靑空をよごしはすまい、おゝ煙突よ!

あゝ都會をとりまく無口な煙突よ、
お前達はけさの空をきたなくはすまい!

お前達がとんなにからだの脊丈けを伸ばさうとも、
お前達の黑い鳥どもが飛び翔ける事はできまい。
けさの空は彼等の翼には高すぎる。

楡の樹や鐘樓のあひだに
彼等の零落は引掛つてしまふだらう。

お前達はこの靑の色をよごしはすまい、おゝ煙突よ、
北風がたゞの一吹きでお前達の雲を散らしてしまふ………

  ×

おゝ! 私の思ひ出のなか、遥かむかうで、
光に醉つたつゝましい村が
天空に明るい煙の朝の曲をかなで、
屋根のてつぺんで其のもろい快活を揺すつてゐる!

おゝ! この壁からあんなに遠く、敬虔な村が
靑い夏の日の下で恍惚とぬかづいてゐる。
そして竈のなかで若い小枝の火を燃やし、
その燔祭の白いちひさい柱を浮上らせてゐる!

                     (一九〇五年)

 

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「愛の書」から

 白い大鳥

白い大鳥は翼をひろげた、
あたらしい帆のやうに空で笑ふ
又そのやうに風にふくれる
純白無垢の、できたての翼を。

きほひ立つて、あどけなく
彼はおのれの樹と谷間とを後にした、
高い遠い國をめざして。

りつぱな飛行で、白い大鳥が
生活の野へ達したとき、
荒々しい、實のある人生のつぶての
つづけ打ちを彼は勇ましくうけた。

彼の進路がすこし外れた、彼はすこし下降した。
そして下界の人たちは
空から産毛うぶげの落ちるのを見た、
また羽根が、羽根さへいくらか………
しかし大鳥は着陸しなかつた。

しかし大鳥は地に觸れなかつた、
生活の
けちな悲慘のけちな小石が
彼に向つてたとへ雨あられと降らうとも。

とつぜん、下界の黑い泥にまみれた
残酷な、尖つた石がひとつ
片方の翼にあたつてそれを貰き、
そこへひとつの穴をあけた、
圓い、赤い、黑い穴を、
純白無垢の、できたての翼へ。

白い大鳥の飛ぶ高さが減つた。
そして彼は傾いた、
横腹へ孔のあいた蛤のやうに。

ところが翼の穴は少しづつ大きくなつた、
ところが脱疽はますます惡くなつた、
そして室氣がそこでひゆうひゆう鳴つた、
羽ばたきのたびに、病氣の胸のやうに。

そして飛べば飛ぶほど
痛みはいよいよひろがつて、
彼はいよいよ地に接近した。

絶望的に、大鳥は
今や穴のあいた翼で空氣を打つた、
今やその骨で室気を打つた、
人が劔で
むなしく水を打つやうに………

彼は塵のなかへ嘴を突込んだ………
けれども此の强情ばりは、力のない飛びかたで、
きほひ立つて、あどけなく
高みに向つてその長い旅を再びつづけた………

     ×

生活の野を離れるとき、
白い大鳥は地面の上で曳きずつた、
片方の腐つた翼を、

そして彼は朝の空間で高く張つた、
美しい迩命にみたされた
もう一方の純白無垢の、できたての翼を………
                        (一九〇八年)

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 運命の歌
          母に

彼女は目かくしをされてゐるので、
まづ訊いた、
どこへ行くのかと。

すべての指に指輪をはめた
伯樂ばくらうどもは
彼女の足竹を
鞭でかこんだ。

彼女は彼等といつしよに寢た。
そして彼等は自分達のために切つた、
彼女の毛を。

そしてそれ以來彼等はとぢこめた、
自分等の腹でつくつた圍の中へ、
彼女を。

彼女を呪ふな、
おゝ、其の女の微笑を數へる
お前達みんな!

どこへ行くのか彼女は知らない………
ただ足首へ當つてゐる厚い革が
彼女を痛くさせる。

それは此の目かくしなのだ、此の目かくしなのだ………
おゝ! 此の目かくしのうしろにこそ
彼女の目が、おそらくは美しく、
涙をためて………

剥ぎとるべきは此の目かくし、此の黑い封印なのだ。
さうすれば吾々は見るかも知れぬ、
雀たちにパンをやる
少女の目を持つた其の女を。

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 眞夜中すぎ

人々が死んでゆくのは夜の明けがた………
死は眞夜中をすぎると床とこの中の
無数の肉體をおかしはじめる、
そして殆んど誰もその事に氣がつかない………

おゝ此の朝死んでゆくあなた達
女や男、
永遠に血に見すてられるあなた達の手の
不安な群を私は見るのだ!

今夜全半球の上でたたかひながら
あかつきの涙の中に沈默する
あをじろい瀕死の人々、
そのあなた達の脈を私は聽くのだ、怖れに滿ちて!

死んでゆくあなた達が何と多數なことか!
どうして吾々に眠る事ができようか、
あなた達の最期いまはの息の砂濱で。

………いま、家の中で物音がする。
あなた達を聽いてゐるのは私だけではない。
誰かが部屋の中であるいた、
誰かがあなた達の看護に起きた…………

いやいや違ふ。私の聽きつけたのは或る小さな歌聲。
誰かが部屋の中をあるいたのは、
ゆふべ此の家に生れた赤兒を
誰かが揺すりにゆく音だつた。

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 飮んでゐる二人の男

彼等は飮むといふので食卓に向つてゐる。
彼等はゆつたりと肱をついてゐる。二人とも。
彼等は言葉を合せ視線を合せてゐる。
そして食卓ごしに
頬を、聲を、眼を笑はせてゐる、
何かおもしろい話を語りあひながら。

彼等はほんたうに樂しいのだ、此の瞬間。
かうして一緒にゐる事がほんたうに樂しいのだ。
だがしかし……

だがしかし、
あすにもあれ彼等が通らねばならぬ門に出あひ、
それを二人ならんで通る事ができず、
いづれかが相手のうしろへつかなければならなかつたら、
其の門の前で彼等は立ちどまるだらう、
額に惡意の皺をよせ、
邪惡な片方の限でさぐりあひ、
陰瞼な片方の眼を門へむけながら。

ちやうど一本の骨を中にした二匹の犬、
一本の骨に呻き聲を出して脅しあふ犬、
そんな風にあすはなるだらう、それとも今夜にも、
飮むといふので愛し合つてゐる此の二人が…………

     ×

それは全く有り得べき、そして悲しむべき事だ。
しかしそんな風に言つてはいけない!
かう言はなくてはいけない。

互に笑つてゐる此の二人の男、
彼等は理由もなしに毆りあふ事ができる。
いや、毆りあふための
千の理由さへ思ひ出す事が出來る。
おゝ! それは有る、それは待つてゐる。
彼等はそれを選べばいいのだ、採りあげればいいのだと

いや、さう言つてはいけない。
彼等の年老いた心の底には
抱きあつたり喜んだりしたい秘密な要求があるのだ、
そしてその哀れな年老いた心へ
みじめな生活がの殘しておいた此のくつろぎり時間のために
今こそ彼等は眼で笑ひあひ、
今こそ肩をたたきあひ、
今こそ相手に要心をせず、
たのしい話を語りあひながら、
今こそ互に酒をおごりたがつてゐるのだと。

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 或る宿屋

いつでも氣候の寒い國の
シェティーヴ・メーソンの辻の廣場、
そこに一軒の宿屋がある。

収穫物のとりいれを見た事もない、
また地平線よりももつと遠くへ消えてゆく、
十字に交叉した丸裸の大道二本、
それがシェティーヴ・メーソンの辻である。

其處にある家は三軒、
三軒とも同じ角にうづくまり、
そのうち二軒は住む人もない。

そして三軒目の家こそは悲しい心をしたあの宿屋!
そこでは黑いパンとにがい林檎酒とが供せられ、
雲にしめつた火が涙をながし、
主人は悲しい微笑を持つた痛ましい女である。

人が其處へはいつて行くのはたゞ喉が乾いてゐるからである。
人が其處で腰を掛けるのはたゞ倒れさうに思ふからである。
いちどきに一人か二人、それ以上は決してゐない。
そして其處では强ひて自分の身の上を話さなくてもよかつた。

齒をがちがちさせながら其處へ人つて來た男は、
腰掛のいちばん隅へ音もなく掛ける。
彼は頤おとがひをいくらか前へ突きだして、
雨手をたひらに卓の上に置く。

彼のごつごつした重い板底靴の中に
生身なまみがあるなどゝ誰に信じる事ができるだらう。
骨が赤い玉になつてゐる其の手首を
みじかい袖がむきだしにしてゐる。
そして頑固に空間を見つめるために
その眼は打たれた獣の眼のやうである。

彼に長くかゝつてパンを食ふ、
なぜならばもう齒がすりへつてゐるから。
彼はひどく下手へたに飮む、
なぜならば喉が苦みでつかへてゐるから。

食事がおはると、
彼はためらひながら、やがておづおづと、
火のそばへ
すこしばかり坐りに行く。

あかぎれに裂けたその兩手は
膝の堅いざらざらにふさはしい。
頭はかたむいて首から突き出し、
目はたえす空間でびつくりしてゐる。

そして彼の惱みは夢みはじめる、夢みはじめる。
襟首が壓され、眉毛が壓され、
顏の上に一本一本、皺がよりはじめる。
その間に火の中から、小さくはあるがはつきりと、
遠くで泣いてゐる赤子の聲が聞こえて來る。

すると今まで見えなかつた一人の小娘が
その坐つてゐた片隅から現れる、
病身らしい、かわいらしい小娘が。

そして今娘は全く静かに近づいて來る。
そして男の手に押しあてる、
その口のいたいけな肉を。

それから涙で一杯な眼を男のはうへ上げて
弱々しい全身で彼に差し出す
持つてゐた一輪の哀れな小さい冬の花を。

そして今や男はすゝり泣く、
子供の手とその花とを
不器用に兩手でうけながら。
 
     ×

悲しい微笑を持つた痛ましい女は
それを殘らず、默然と見てゐたが
やがて夢みるやうに語りはじめる。
遠い眼をして言ひはじめる。

「私達の仲間ではない一人の人がこゝへ來ました………
其人は私達のやうにみじめに惱んで年をとつてはゐませんでした。
確かにお妃樣の息子のやうに見えました。
しかしなんと私達の仲間のやうな樣子をしてゐた事でせう。

ただ腰を掛けさせて飮ませてくれと、
其人の言つたやうに言つた人はありませんでした。
其人は其處へ肱をつきました、其のテーブルのまんなかへ。
そして其處にゐる間ぢゆう私は其人を見てゐました。

そして其人が立上つた時、私は泣かずにはゐられませんでした。
私の十六の時の人にあまりよく似てゐましたから……

其人はもう戸をあけました、
風の中へ出て行かうとして。
けれども私の泣いたわけを知ると、
其人はまた締めました、
戸を。

そしてその宵ぢゅう、そしてその夜ぢゅう、
其人の眼と聲とが私をいたはつてくれました。
結ぼれきつた私の苦を、其人は解いてくれました。

そして其人は若く、私の寢床はつめたいのに、
私の胸は枯れかはき、私の肩はくぼんでゐるのに、
一日ぢゅう私を愛しに留まつてゐました。其人は私を愛しました。

そしてあの娘がうまれました、
其人が私に與へた愛のほどこしから」

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 人間になるためには

こゝに一匹の小猫が遊んでゐる。
こゝに一つの噴水が噴上げてゐる。
こゝに一人の男が木を割つてゐる。
それで君は子供らのやうに立停まる事ができる……

長い平底船の力のない行列を導いて、
必死となつて綱をひいて、
そのめくら乞食を一列にして連れてゆく
あの熱つぽい小さな曳船を見るためには、
物見高い連中にたちまじつて
橋の欄干に肱をつくがいい。

君の往手でちひさい子供が
嬉々として泥の中を這ひまはり、
手や頬をすつかりよごして
なにか子供の言葉でしやべつてゐる。

君は其子から身をよけて呟いてはいけない、
「こんなものは女達に任せておけ」と。
否、泣かせないやうに彼を抱きあげ、
お話でもしてやるやうに優しく言葉をかけるがよい、
――年とつたお祖父さんのやうに――
その頑是ない顏や手を拭いてやりながら。

夜のくらやみの往來で、
哀れな醉ひどれの老人を
壁のところへ追ひつめたづんぐりした警官が
その邪惡なけもののやうな本能から
こつそりしたゝかに撲りつけてゐる。

おゝ! そんな時君は怖ろしがつて呟くな、
「惡黨には惡をさせておけ!」などと。
行つて挙固をくらはしてやれ………

もしもまた路のはづれで
荷揚場の人夫と連れになり、
肱を接して歩きながら話をするやうな羽目になつた時、
彼を窮屈にさせたりいらだゝりしない爲には、
君は節くれ立つた言葉が使へなくてはならない、
こはばつた兩手が見せられなくてはならない。

そして腫を響かせ、からだを搖すり、
膝を曲げて歩かなくてはならない。
君もまた重い靴をはいてゐる者のやうに………

又もしも或日金持どもの家へ行き、
彼等がいくらか高い所から世の中を見下さうと、
傲然と頭をうしろへ反らす時、

そして其處の男らや女らが、他の人間は
自分達に仕へる者かのやうに倣慢な口をきく時、
彼等をして君に敬意を拂はせるために、
君の目で彼等の眼を伏せさせてやるがよい。

     ×

行け、君の母であつた世の母親や若い娘、
曾て君がそれであり、又永くそれであるべき子供といふ者、
さういふ者が君の漠然とした奥底から
顏を出さうとも決して恥ぢるな。

そしてさういふ彼等のそばを通りながら
君は君の目で彼等をいたはり、
その特色をみとめてやつたものだ。

どんな表情をも君は決していとつてはいけない。
尙もつと澤山の表情をとらなければならない、
澤山の人間らしい態度が採れなくてはならない、
もつと善く、もつと十分に人間になるためには。

遠くひろびろと君の生活をかゞやかせ、
誰からも何ものからも身をひかず、
あらゆる家で樂々と息をつける人間になるためには。

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 春

一人の女が路をゆく。
女は一臺の古い、軋り音のする
乳母車を優しく押してゐる。

まはりでは純朴な田舎が、
四月のあたらしい田舎が、
靑春の太陽に笑つてゐる。

今日は何もかも若々しく、心を動かすので、
女は今日ひどく若々しく、
また樹々よりももつと心を動かしてゐる。
病後の人の、もろい、
溢れるやうな心を此の女は持つてゐるのだ。

けさ取りもどした
若い娘らしい目を輝かせて、
すべての物を樂しげに
歩きながら彼女は見る。

路の上の些細なものを
その歩みの往手に彼女は見る、
うれしい爽やかな足音のおこる
三月の雨に洗はれた小石を。

林の小枝を、藁しべを、
又彼女がひどく高い所から見るやうに思つてはゐるが、
しかもやはり路にすぎない
縮圖のやうな乾燥無味な風景を、

押してゆく小さい乳母車が
其處へうがつ並行した二本の溝を、
また風が嚏をしながら木から落とした
靑虫のついた花を、
またそここゝでオアシスのやうな
幼い草むらを。

彼女はこれらのすべてを見る、
その速足がとまる到るところで。
そして彼女が再會するのは
親密な昔である。

そして彼女は見る、往手に遠く、
新芽にのぼせてゐるポプラーの路を。
また彼女は見る、果樹園の祝祭を、
垣根の見せる天使のやうなほゝゑみを。

また高い梢が氣をうしなつてゐる
力無くやつれた空を。

熱狂した雲雀と共に
彼女は昇る、のぼる、天心まで。
そして雲雀と共に錯亂し、落下し、悶絶する。

また彼女は赤兒を見る、
仰向けに寢て、指をすいて見える太陽に
驚嘆の眼をみはる其の赤兒を。

彼女は毀れさうな乳母車を時々とめる、
赤兒の上へ身をかゞめて、
彼に眺め入り、そして二十度も接吻してやるために………

一人の女が路をゆく、
たくさん泣かねばならなかつた哀れな女が。
然しけふの彼女の眼は甦つた者のそれである、
一度も泣いたことの無いやうな。

持つてゐたほかの子供を
みんな無くした哀れな女、
然し尙生きてゐる子を自分の前に持つ女。

日光やリラの花に陶然とした
村々を彼女は通りながら、
古い塀に笑みかけては歌ふのだ、
日曜日のやうに華やかな歌を………

一人の女が路をゆく。
一人の女と生れたばかりの其の赤兒が、
夏を迎へに出かけてゆく………

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 風 景

其處はまつたく地面が病氣にかゝつてゐる
貧寒な樣子の場所だつた、
かなくその路と、礫の山と、
いらくさに被はれた窪地との場所だつた。

其處には塵埃の盛上げがあつて、
その上を一本のかすかな路が走り、
其處にゐる事はいつでも不安であり、
また大地との合體がまるで無かつた。
人が其處へ植ゑたかぼそい木々は
片側ではもうすつかり枯れてゐた。

それに又、一棟の小さな工場も見えた、
うまごやしの中に窮迫した、生氣のない工場が。
そして其の煙突は弱々しい飛躍をもつて
空の中に乾いた空ろの煙を吐いてゐた。

隱しだてのない靑空の周圍を飾るものに
ゆらめく雲の氷塊があるにもかゝはらず、
まつたく、それは一つの貧しい風景だつた。

けれども探せば其處にもきつと有つたのだ、
草の茂つた或る快適な場所が。
耳を傾ければきつと聞こえたのだ、
葉ずれのひゞきが、
たがひに追ひかけあふ小鳥の羽音が………

けれども人が若し十分に愛を持つてゐたならば、
匂や音樂を、吹く風に
きつと求める事ができたのだ。
森を、靑草の中の陽のたはむれを、
小石にあたるその烈しい光を、
きつと見つける事ができたのだ。
痩せた朱開の荒地を、
うつとりしてゐる田舎を、
きつと見つけたに違ひない、おのが間近かに。

たしかに人は其處から持ち去る事ができたのだ、
豐かな土地の思ひ出を、
子供の頃の歌のやうにいつまでも續く、
又こだまのやうに身にしみる、
花束のやうに茂つた一つの見事な思ひ出を。

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 別の風景

路の片側に丘があつた。
私はすこし休むために其處へ登つた。
その柔い沃土の上では草がほそく眞直ぐだつた。
こゝかしこに靑い岩の額が露出していゐた。

私の前にもうしろにも葡萄畑があつた、
葡萄畑と小徑とが、丘のへりまで。
それに地平線をかぎつて敎會の塔がひとつ。
けれども葡萄畑の中にはたつた一軒ちひさい家が。

花束のやうに置かれた圓く茂つた一本の樹を
角々に見せる低い塀でかこまれた
頑丈な、まつしろな、ちひさい家。
それが葡萄畑の海の中で一つの小島になつてゐた。
それでも向うには、路の上に、
其處へ續くに違ひない小徑の端が見えてゐた。

あゝ! 私は其場所を愛した、そして小聲で
其處にある一切の物に優しい言葉で挨拶した。
「ほつそりした鐘樓よ、物静かな鐘樓よ、一望の葡萄畑よ!
柔かな丘と結び合つた遠いひろがりよ、
私の美しい路を見おろす生きいきした大空よ、
又つゝましい並木の間のひそやかな小徑よ、
又廣大な音樂のふところに包まれてゐるやうに其處にある
小さい家よ、なつかしい小家よ!
そしてお前達、私の言葉をただひとり聽く事のできる親切な草らよ………」と。

     ×

すると一本の草が 
私にむかつて言ひはじめる、
「君はわれわれを愛するといふ、
しかも君は行つてしまふ………」

「君は私を愛したがつてゐる」と
葡萄のなかの家が言ふ、
「それなら、若しさうしたいなら、 
生涯を此處で暮すがよい」

「それなら、若しもさうしたいなら」と
鐘樓がその鐘の音で言ふ、
「なぜ君のすべての心を
町と葡萄畑とに分け與ヘるのか」

「なぜ君のすべての心を空費するのか」と
葡萄畑と風とが言ふ、
「こゝで、每朝、あけぼのに
歩きながら君はそれを昆つけるだらうに。

君がその家の小さい塀に
沿つて行きさへすればそれを見つけるだらうに、
石の上へかたつむりが
水晶を流す時刻に、
最初の日光が
二羽の蝶を出現させる時刻に、

ほのぼのとした煙が、
あの屋根から立ちのぼつて、
露に曇つた空間で
朝の雲雀といつしよになる時刻に………」

あゝ! 私は聽いたのだ、貪るやうに、また悲しい心で。
あゝ! 私は大急ぎで集めたのだ、
私の眼が取り入れる事のできるすべての物を
記憶のなかへ運び込まうとして。

私の愛したのは其の場所だつた、
地上を歩きはじめてこのかた
ひどく愛した土地と同じやうに、
もう二度と逢ふことのない
旣に忘られたほかの多くの土地のやうに………
             
私がふかい溜息をついて身を顫はせた時、
たうとう出掛けようとして立上つた時、
丘は夜に包まれてゐた。

其處には地半線にしるしをつける
ぼんやりした一つの明りしか無かつた。
其處にはあの家のありかを示す
一つの小さい光しか無かつた。

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 或る友情

君の精神と心との富と
僕の持つてゐる其等とのなかで、
或物は非常に異なり、
また或物はいくらか同族である。

けれども其等は相共によく滿足しあつてゐる、
君のあらゆる富と僕のあらゆる富とは。
そして其のため僕等は互に愛しあつてゐる。

其等は互に關係しあひ、又互に利用しあつてゐる、
其等は互にまじりあひ、又互に批判しあつてゐる。
それは一本の立木の中に集合した
さまざまの技葉のやうなものである。
或はブロンドの髪の毛と黑い髪の毛とに粧はれた
二つの顏の對照のやうなものである。
また君のはうにも僕のはうにも、
みんなの場合と同じやうに、不足してゐる物がある。

僕の庭に僕の持つてゐないのは、
そんないろいろの植物である。
そして君が君の手の中に感じないのは、
戰ひのためのこんな武器である。

ところで僕等の幸福のために、かういふ事が始終おこる、
即ち僕は僕で此の武器をならべ、
君は君で其の花をいつぱいに咲かせ、
そして自分の持つてゐない物を取るために
互のところへ遠慮なしに入つて行くといふやうな事が。

君は僕の貧しさをよく知つてゐゐ、
また僕の弱さ故の遣口やりくちを。
それは臆面もなく君のところへ出掛けるが、
君はそれをもてなしたり愛したりしてくれる。
僕もまた君のものを本當に愛してゐる、
君の價値の一部をなすもの、
君の力のあがなひであるものを。

かうして畢竟僕等はそれぞれ、おゝ友よ、
安心して進むし、また進む事ができるのだ、
最小の危險にも擧げられる
用心ぶかい手のおかげで。
又みんなの場合と同じやうに、或時は
僕もなれば君もなるあの盲人めくら
まごまごした腕をつかまへてくれる手のおかげで………

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 訪 問

彼は机にむかつて坐つてゐた。
その夢想はランプの光の
照らす世界に柔かにかこまれてゐた。
そして窓のそとに弱々しく
降り積む雪む彼は聽いてゐた。

と、突然、或男のことが思ひ出された、
彼がよく知つてゐて、しかも永らく
會はずにゐる男のことが。

すると忽ち何かゞ咽喉に
つまつて來ることを彼は感じた、
何か知らぬが悲しいやうな
又いくらか恥づかしいやうな或物が。

其男が心持にも言葉にも
ぱつとしないのを彼は知つてゐた、
そして人を牽きつける何ものも持たず、
荒野にひとり淋しく立つ
木のやうにして生きてゐる事を。

數箇月以來いくたびか
訪ねて行くといふ約束を
其男にした事もおぼえてゐる。

そして其の約束のいつも、いつも、
それを心から信じる樣で
やさしく感謝してゐたのも忘れはしない。

また其男が自分を好きな事も承知してゐた。
こんな事がすべて彼の思を滿たし、
彼の部屋を響で滿たした。
彼はそれを追拂はうとはしなかつた。

しかし内心の或る命令が
とつぜん彼を身ぶるひさせた。
彼の咽喉のかたまりは解け、
眼は樂しげにほゝゑんだ。

いそいで彼は着物を着た。
彼は自分の家を出た。
そして雪のなかを其男の
家のはうへとこゝろざした。

     ×

最初の挨拶がかはされた後、
びつくりしてそはそはしてゐる其男と
その妻君との間に座を占めて
彼が明りの下に坐つた時、

彼は何か物をさぐるやうな沈默が、
文字の間にことさらに殘された
空白のやうな沈默が
自分を圍んでゐることに氣がついた。
彼はその二つの顏に
何かびくびくした不安を見てとつた。
彼はそのわけを知らうと試みた、
そして突然それがわかつた。

あゝ、此の人達は、こんなに晩く、
あんな遠方から、雪の中を、
たゞ彼の喜びと彼ら自身の喜びとのために、
たゞ一つの約束を果すがために、
不意に思ひ立つて來た彼を信じないのだ。

そして彼の訪ねて來た重大な理由が、
突如として、一息に述べらるのを
彼らは二人とも待つてゐるのだ。
どんな難題が持ちこまれ、
どんな要件が切り出されるのか
二人は早く知りたがつてゐるのだ!

彼はいそいで言はうとした、
その思ひちがひを解くべき言葉を。
しかし彼等は彼の言葉を吟味して、
その本心を知る機會を
今か今かと待つてゐた。
彼は當惑を感じ、ぎごちなくなつた、
まるで一人の被告のやうに。

かうして彼が彼らから離れ、
やがて時間も晩くなつて
別れを告げようと立上つた其時、

其時一座の緊張がゆるみ、
其時彼等は漸くのことで理解した。
彼は彼等のためのみに來たのだ!
誰かが彼等に會ひたくなつた、
彼等に會ひ、彼等の家で一緒に坐り、
彼等に語り、彼等から聽くといふ唯それだけで。
そして其の慾求たる
じつに寒氣よりも强く、雪よりも强く、
そして距離よりも强かつたのだ!
あゝ、たうとう誰かが來てくれた!

今や彼等のまなざしが
快活になり、柔かになつた。
彼等はひどく口早にしやべつた。
彼等はどうかして彼を引留めようと
二人が同時に口をきいた。
彼等は彼をとりまいて立ち、
ふざけたり、手を叩いたりするといふ
子供らしい慾求を隱すことができなかつた。

     ×

彼は又の訪問を約束した。

しかし戸口のところへ着くまでに、
彼は彼等の生活をかばつてゐる
その小さい世界をしつかりと記憶にとゞめた。
彼はすべての調度をながめ、
それから夫妻二人を見つめるのだつた、
もう二度と來る事はあるまいといふ氣が
心の底ですればするだけ。

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 征服者
          アンリ・ドゥーセに

それは馬を持たない騎士、
だが彼の通るのを見た者は
それを一人の騎士だときつと言ふだらう。

それは杖も日禱書も持たない巡禮、
だが彼の通るのを見る者は、きつと
十字軍のつはものよりも立派だと言ふだらう。

それは指揮をしない頭目、
だが彼の聲を聽く者は
それを一人の隊長だときつと言ふにちがひない。

     ×

それは軍隊を持たない征服者、
しかしたつた一人での征服者。
彼は男にも女にも、萬人に語るすべを知つてゐる。
そして彼等の睫毛をその最も美しい涙で飾つてやり、
また子供の朗らかな笑を彼等に返してやる事ができる。

彼の武器、それは誠のこもつた眼である、
驚くばかり心をこめた善良さである。
それは彼の聲がその言葉を助けるあの仕方であり、
彼のうちで踊るたいまつの焰である。

彼は樹木のやうに大まかで裸、
心は冬の溫室のやうに暖かい。
そして人は彼のするどんな話にも夢中になる。
そして人が欲しがる時與へるのも亦彼である。

彼は君のゐる所へやつて來るだらう、
彼は君の横へは坐らないだらう、
君の顏の半分や
君の肩の一方で
滿足する人達のやうには。

だが彼は眞正向へ來て坐るだらう。
その膝を君の膝に觸れながら、
君の手を彼の手のなかへ、
彼の眼を君の眼のうヘヘ、
それが君の眼を裸にしてしまふだらう。

それで君は言ふだらう。
「では何處で私は此の男に遭つたかしら」と。

穴倉の中で歌つてゐるやうな
獨特な調子に人は出あふ、
穴倉全體をふるはせて
その聲を温かいものにするやうな。

彼の歌の言葉は震はせるだらう、
君のひろがつた胸の中にあつて、
しかも君が氣づかすにゐる美しい聲を、
君の最善の、唯一の聲を。

彼は君次第で君を愛するだらう、
君の擇りどつた贈物をもつて、
その荒つぽさで、その笑で、
その謙譲で、或はその憐憫で。
彼は必要なだけ君を愛するだらう、
君の心を動かし、君の心を誘ふためには。

君はかう思ふだらう、「あの男は私に何を期待してゐるのか、
明日になつたら何を私に求めるのか」
そして君は困惑させられるだらう、
實際では君が、われしらず、
自分の存在理由を君に求めてゐるのだとは氣がつかずに。

君といふものが彼にとつて必要なのだとは氣もつかずに。
ちやうど人が話す言葉にとつて
それを取り集める耳が必要なやうに、
ちやうど美しい物にとつて
そのまはりにある眼が必要なやうに。

けだし征服は彼の大いなる慾望なのだ。
英雄達や女らに於けると同樣に
彼は諸所に散在する人々の心によつて
愛されてゐるとみづから感じる事を喜ぶのだ。
そして火の方へ伸ばされる凍へた指のやうに、
自分の方へ、遠くから、彼等の伸ばされるのを喜ぶのだ。

時どきの夕暮、彼の兩手が熱く握り合される。
その時彼はすこし頭をかゞめる、
自分のゐた多くの家庭で
誰かが今自分の名を言つてゐるやうに
漠然と感じるから。

互に少しも似たところのない
近隣の家々、遠い家々よ、
彼の愛は洗禮のやうなものではなかつたのだ。
そこでお前達は彼の勝利の一つとなるだらう、
それがまた次から次へと續くだらう。

人が我身をさゝげる事は、
人が何等報酬を求めずに與へる事は、
人間のあひだの規則ではない。
そして彼の大いなる愛が平均をとるために心要なのは、
更にもつともつと多くの愛なのである。

     ×

希望の衰へたどこかの國の
樂しい、又悲しい人々に
永いあひだ仕へて來た古い土地へ、
美しい感じやすい征服に熱中した
この征服者が或日の事やつて來た。

彼はゆつくりと其の土地を知つた。
倦まず彼は其處をあるいた、
人が耕す時のやうに、足の前に行くべき道を描きながら。

彼の道筋はたゞ一本の線だつた、
百度も彼の上へ折りかへして來る、
そして地域の全體を
所有するまでは根氣よく
百度もたどつて進む線だつた。

ところが彼の追越した放浪者達は
猛犬共のやうに彼を愛した。

ところが不器用な素朴なやさしさで、
素朴な村々は彼を愛した。

ところが彼等の重苦しい波と、
彼等の歔欷の囂々たる聲と、
彼等の茫漠たる煙のやうな叫と、
彼等の廣大な子供らしい喜とで、
狂ほしい町々は彼を愛した。

それが爲に、或日、おゝ快い奇蹟よ!
一人の別な人間が生れた、同じやうに富んだのが。
一人の別の人間が立上つた、彼の光榮を羨んで。
そして彼のやうに國内を進んで行つた、
その最善の富を亂費しながら、
そして勝利を摘みとりながら、摘みとりながら。

おゝ! その心を
いくらか擴げる者は誰でもあれ
其處へもう一つ席を作らなければならなかつた!

けれども其時また別の征服者が
不意打のやうに出現したのだ。
けれども其處には百人の征服者があつたのだ。
それで人は百度も優しくされなければならなかつた、
百度も優しくしなければならなかつた。

そして取込むことを强制された、
又いよいよ藏しまつて置くことを强制された
あの若者たちの頭腦が、            、
受けた物をまづ返して
次にはいつか自分から與へたいと思ふやうに、
百度も征服された人々は
自分たちもまた征服しようと考へる。

そして其國には時が來たのだ、
偉大なる征服の時が。
人々が此の慾望をもつて
一方かち他方へ行くために
彼等の門の戸を出る時が。

そして其國には時が來たのだ、
歴史を充たすものとしては
みんなが揃つて歌ふ歌、
家々のまはりの圓舞ロンド
或る試合、或る勝利だけだつたといふ時が。

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「絶望者の歌」から

 絶望者の歌

めぐる年每、來る日ごとを、
私はうたふ、私はうたふ。

私が自分にうたふ歌は
悲しくもまた樂しい。
古い痛みはそこにほゝゑみ、
喜びはそこに泣く。

それは切られた杖の
醉ふやうな又斷腸の喜びである、
水に落ちた
新綠の枝の。

それは渦巻いては落ち、
また舞ひ上り、夢想し、
やがて雪の荒野に降りしづむ
あの雪片の舞踏である。

それは夏の庭のなか、
花々のあひだを手さぐり歩む
一人の盲人の泣笑ひである。

それは祭のどよめきであり、
また墓地から聞えて來る
子供らの遊戯のざはめきである。
それは哀切で輕やかな
永久の歌、
きびしい此世の法則を
引締めはしても縊りはしない歌である。

それは永遠の歎きである。
それは死に滿たされ愛にみたされた
一人の巡禮のやうに、
旅する事への悦樂である。

死に滿たされ愛にみたされて、
私はうたふ、私はうたふ!

それは私の幸福であり又私の富である、
いつも燃えて誠實な
又ほとばしらうとする
私の心に、

すべての惱みの上へ塵を舞はす
この白光を持つことは。
ひとつびとつの幸の上に
この憐みの叫びを持つことは。

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 草と共に
            ベルトル・マーンに

あゝ! 熱烈な眼をもつてどんなに私はおんみらを見るか、
のびのびと此處かしこに生長してゐる樹々よ、
數をもされず、列になつて、
やさしく腕や頭をまじへてゐる私の兄弟達よ!

時に先だつてお前を無理に落とす事はすまい、
揺れながら夢をみてゐる金色の小さな葉よ。
お前は大氣と光明とのなかで踊るために生れた。
お前の踊りと血との止む時までとゞまれ!

あゝ、又お前達、いきいきした芝生、しげる草、
風と雲影とが遊ばせる幸福な群衆よ、
地の寛大! 灰の中からよみがへり、
雪をつらぬく無敵の希望よ!

私はお前の中に跪きたい、そしてお前の中に匿したい、
草よ、けものらを怖れしめる私の此の人間の顏を!
私はお前の切株にまじりたい、そしてお前の掟、
それをもう一度學びたい、それによつて高められたい!

私の口のそばにゐて私の息に顫へる芽生えよ、
私はおんみらに打明ける、人間の惱みを、
またおのが王國の世話を魂の屑どもに
又しても任せてしまつた人間の恥辱を。

每日の曙に若返らせられ洗ひ清められる草よ、
私はお前の心の中にいつも優しい心たちを招待する。
私はお前の心の中に、血まみれの軛くびきの下に曲げられて泣く
あの古い民衆の群を招待する!

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 思ひ出

思ひ出よ、おゝ思ひ出よ、
現在がお前達の上へのしかゝる、
三年のあひだ水に浸された庭の上ヘ
新たな水がのしかゝるやうに!

戰争がお前達の上で大きくなる、
そしてお前達の雑沓に
また別の幾多しめつた思ひ出をつけくはへる。

どこか高い丘の上ヘ
私は一人で出かけたい。
其處で私は空だけを見るだらう、
永遠の空だけを。

また顫へたり夢みたりしてゐる
かよはい草の仲間たちを。
私は自分のかくれがを建てるだらう、
古い太陽に誠實な
千年古りた小石の中に。

災厄のなかに埋もれて行つた
三年の後に今いちど
私が沈默を見つけるのは其處なのだ、
さまざまな思想がそのなかで
荒々しい響をたてる此の沈默を。

あゝ、戰争の思ひ出よ、
お前達のおそろしい聲々を
ほんたうに私が聽くのは其處なのだ。

そしてついに私の心が
その怒りと、その苦しみと、
その恥辱と、その涙とを、
解放する事のできるのは其處なのだ。

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 一兵卒の歌

私は路で見かけた
あの老人でありたい。
日のあたつた地面に坐つて
そのひろげた兩足のあひだで
彼は白い石を割つてゐた。

人が彼にたのむのは
この寂しい仕事ばかり。
正午が麥畑を燃やすとき
彼はものかげでパンを食つた。

     ×

茂みにかこまれた或る窪地に
一本の小徑もかよはない
一つの隠れた石切場のあるのを
私は知つてゐる。

其處に照るひそやかな日光、
其處に降るしめやかな優しい雨、
ときどきたつた一羽の鳥が
静けさに問をかける。

それは昔の傷口、
空にさへも忘られた
狭い、曲がつた、深い傷口。

其處のがまずみや木莓のかげに
うづくまつて私は暮らしたい。

     ×

敎會の玄關の下にゐる
あの盲人で私はありたい。

こだまする夜を彼は歌ふ!
圓天井の下の清らかな歌のやうに
身うちをめぐる時といふ時を
彼はのこらず接待する。

なぜならば彼は暗い川からひきあげられた
幸福な漂流物なのだから。
その憎しみや醜さのなかへ
もう私を捲きこむ事のできない暗い川から。

     ×

戰争の最初の日に
最初に倒れた兵卒で

ありたかつたと私は思ふ。

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 休 戰

そこに春の恩寵がいくらか
夢みてゐる十二月の白い朝。

遠く吹きわたるほの暖かい風に
この水の重たい襤褸が高まる。
こゞえた心臓もまた膨れる。

空の大きな帆が旅をしてゐる。
その慌しさの中で見すてられる
純な、まばらな水滴が
私の額にこゝろよい。

あゝ、一箇の人間と生れてこのかた、
私はこれを、こんな朝々を生きたのだつた!
そして私は永のとしつき知つてゐる
歌のひとつを自分に歌ふ。

力づよくて優しいひとつの信條クレドを、
ひとつの休戰とも調和する
私の心の求めるひとつの歌を、
此の朝むかしの人達と
したしく結び合ふために、
そして私が喪のなかに、
戰争のなかにゐる事を忘れるために。

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 交 代

われわれの場所ヘ
新手の兵を
人は置いた、
眼前の死を
誘ひ出さうとして。

逃げ出すには一晩ぢゆうが必要だつた、
殉難の森や
砲彈にうたれた其のぬかるみを
汗を流して、凍えて、通過するには
一晩ぢゆうと其の暗闇とが。

夢中になつて突進したり
身をひそめたりする一晩ぢゆう、
各自がその神經と、その本能と、
その星とにしたがつて、
機會を選びながら。

だが最後の關所を越えてしまへば、
だが勝負の外へ、堅固な道路へ出てしまへば、
だが忽ち最初のパイプの火の見える
集合となつてしまへば、

ねえ、戰友、好運な當り屋、
なんといふよろめくやうな
卷きつくやうな嬉しさだらう!

それは寶をとりもどして
悲しい幸福に笑ひながら
岸に手のひらや膝を置く
 破者たちの喜びだつた。

寶全體が廣大な世界から出來てゐる。
また數へきれない記憶から、
また止める事のできる渇きから、
また助かつた後で人の感じる
肩の痛みからさへ出來てゐる。

そして未來よ! あゝ未來!
それは今あかつきの中でほゝゑんでゐる。
長い二週間といふ一つの未來が、
ヌウヴィリーで、家畜小屋の中で………

     ×

あゝ、花盛りの林檎の木よ!
私は手紙のなかへ其の花を入れてやらう。
私は草原のまんなかへ讀みに行かう。
私は川へ洗濯に行かう。

私の前を進む男が
或歌を口笛で吹くとそれを隣の男が歌ふ。
戰争からは遠い歌だ。

私はそれを口ずさみ、それを味ふ。
それにしても昨日きのふの殺戮は!

しかし死の脚のあひだで
つまづいた者は、
それから立ち上つて息をつく者は、
笑ふことか泣くことしかできない。
彼は哀悼に對する魂を持つてゐないのだ。

この朝を生きてゐる者にとつて
日光はあまりに酩酊的でありすぎる。
彼は弱つてゐるし、また急がずに
路を進むことは全く奇蹟である。

そして彼が何かを夢想してゐるとすれば、
それは眠るために靴をぬぐ無上の樂しみの事である、
ヌウヴィリーで、家畜小屋の中で。

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 戰争の春

私は泥まみれで疲れてゐた。
森のなかの夕暮が
私の胸をしめつけた。

つめたい、すべすべした草の
ほのぐらい敷物へ
私は身をよこたへてゐた。

銀いろをした一羽の蝶が
死にゆく前に
そよともしない空間をさまよつてゐた。

冬以來挽かれた
樹々の幹がたふれてゐた。 
しかしそこからは萌え出てゐた、
封じられた新らしい芽が、

空を見つめてゐる
また幸福を信じてゐる
軟かい綠の芽が。

心のためにどんな休息もなく、
魂のためにどんな微笑もない、
死のそれの外には!

秋は立ち上つた。
私は見た、ぼんやりと、
私のからだの重みに折り敷かれた長い草を。

私はあるきはじめた。

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 穀 倉
           ジョルジュ・シェーヌヴィエールに

その大きな穀倉の
辛うじて立つてゐる柱の下で、
あたかも樹の下に横はるやうに、
君が仰向けに寢てゐた時、 

古い木組の
比例のとれた美しい枝々が、
棟の所までさし出てゐるのを
手提ランプの光に君は見たのだ。

深い暗やみのあの高みに
屋根裏の二枚の板が合さつて、
そこに百年このかた蜘蛛の群が
柔かな薄絹をかけてゐた。

長い幾日を每日君が見て來たのは
心を恥づかしくする事ばかり、
たゞ掠奪者の仕事と
神聖をけがす行爲ばかり。

人間がその技術と
無限の配慮とをかたむけて
人のために打建てた爐邊を
一つも殘さない處から君は來たのだ。

しかし君は此處へ歸つて來た。
ひとつの讃歌のやうな此の家へ!
そして今や其の二枚の大きな翼が
君の頭上へ古い愛をかたむける。

神にむかつて立昇る聲が
御み堂の奥を滿たすやうに、
君の眼はその安らかな天井の
かこまれた空間に憩ふのだつた。

それこそ實に「家」だつたのだ。
まだしも吾々の手に成る作品を、
罪多き人間の手に成る作品を
讃美すべき最後の證あかし、唯一のしるしだつたのだ。

追放された君の心は
そこに最善の天才達を招く事ができた、
打建てる者の、働く者の、
また歌ふ者の天才を。         ’

あゝ! 異装の男アルナシェよ、君は或る夕方出て行つた、
従順に、茫然として。
君はふたゝび墓穴に住む
無氣力な英雄と化したのだつた。

そしてふたゝび同じ休息に歸つて來て、
其の穀倉をたづねた峙、
君が見たのは木材と石の
黑くなつた山ばかりだつた。

悲劇的に立つたまゝ
くすぶつてゐる柱の殘骸ばかり、
君の眼前に立ち迷ふ
昔ながらの告訴者の姿ばかりだつた!

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 モンブランヴィール
                  レオン・バザルジェットに

家よ、モンブランヴィールの家よ、
夕暮の砲撃と夜明けのそれとの間の
惡寒おかんに顫へる一夜の宿よ!

お前の住民達は立退いてしまつてゐた。
しかし生活はお前のうちに尙つゞいてゐた。
ちやうど體の形と溫味ぬくみとが 
寢床のくぼみに残つてゐるやうに。

生きかへつたお前の爐にむかつて
私は幾時間も幾時間もうづくまつてゐた、
戰友がみな睡つてゐるあひだ。

私は眺めた、私は眺めた、
それぞれの場所に殘つてゐるすべての家具を。
そしてその家具を使つて暮らす
自分の生涯を想像してみた。

そして、おゝ、つゝましい農家よ、
お前のまだ傷けられぬ昔のまゝの幸福を
私は心の底から抱きしめた。

壁に懸つたお前の皿も、
お前のランプと其の笠も、
手桶も、パンの練臺ねりだい
私にとつてはなじみだつた。

そして夜の平等をゆつくりと
私にうけあふお前の大きな掛時計の
振子の音にいつまでも
耳をかたむけて飽きなかつた。

家よ、モンブランヴイールの家よ、
その翌日お前はすつかり焼けてしまつた。
そして、けふ、草はお前の場所で
石の癈墟をかくさなければならない。

私はお前を失つた人々の事を考へる、
私がその最後の客であつた人々を、
彼等の屋根とは違ふどこか別の屋根の下に
けふ難を避けてゐる人々の事を。

その人々は永久に私を知らないだらう。
しかも彼等と私とだけが、おそらくは、
おゝ亡びた家よ、お前の心のやさしい俤を
今も大切に護つてゐる
此世で唯一の人間なのだ。

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 中間劇

私が荒物屋にゐるあひだに
一人の小さい女の子が入つて來た、
壜を小脇に、
銅貨を手に握りしめて。

「お盬を三スウとビールを一リトル」

皺のよつた唇をした彼女のかはゆい口は
大まじめで、こんな事を考へでゐた、
――急いで下さいよ! なんて苦勞なんだらう!

皺のよつた唇をした彼女のかはゆい口は
邪魔にするどころか寧ろ目立たせてゐた、
血色のいい頬にある二つの靨えくぼを。
そしてそのねんねらしい小さい鼻は
彼女の威嚴を揶揄してゐた。

けれども堂々たるお内儀かみさんのやうなその眼つきは………
けれども二本の編下髪あみおさげの間に見えるその首筋は!

「ビールはいかほど上げますね、予供衆」

「六スウ」
彼女は一枚一枚手の中の銅貨をしらべ、
その壜を渡し、そして待ち、
そして待つ事ですつかり緊張してゐた。

あゝ寢臺の脚のあたり、部屋の三角棚の上のあたりに、
此の子は持つてゐるのではなからうか、
紙函の底の、ぼろ屑の中で
寒さにふるへてゐる
聲を出すちいさい人形を。

家にはゐるのではなからうか、
何にでも手を出したがる一人の小さい弟が、
それとも火の上には何か御馳走が。

しかしとつぜん口が半ばあけられた。
眼が、堂々たるお内儀さんのやうな眼が
陳列棚のはうへ向けられた、
そこにはいろんなボンボンがあつた。

そのとき出口のはうへ行きながら
私は彼女にきいた、「お前の一名はなんといふの」
彼女はほきゑんで答へた、「アリース」
「ではアリース、此の二スウをお前に」

     ×

その後で、私は往來で彼女に逢つた。
彼女は壜と盬とを持つてゐた。
それに一つの小さい喇叭も持つてゐた………

彼女は私の微笑に赤くなつた。
そして私にむかつて實に優美な
實にけだかいお辞儀をした、
私が思はず軍帽に手をかけたほど。

            (一九一六年、アミアンにて)

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 村落悲歌

………ジャン・リュエもまた死んだ。
彼は二十四であつた。
ロワールの岸、葡萄畑の中、
サン・テイの彼は若者だつた。

ジャン・リュエは殺された。
だがあの男が死なうなどと
誰が考へ得ただらうか。

じつに潑溂としてゐたので
あの若者を見ることは
大きな樂しみだつた。
空間を吸ひこむその鼻や、
道化たほそいその眉毛や、
踊り手のやうなその身ぶりや、
その笑を聽いたり見たりすることは!

新聞で戰争の
記事を讀むときの彼の眼は
ダンドノーを聽いてゐる
パニュルジュの眼だつた。

そして怨恨と相容れない
すばらしいその健康、
われわれの軍の隊長達は
彼の快活を煽りたてた。

彼は或朝死んだのだ、
塹壕のなかの一人の死者の
肩をつかまうと
その大きなからだをかゞめた時、

胸壁のふちへ 
一個の砲彈が落下した、
そして其の火の束が穴だらけにした、
我等のかはゆいジャン・リュエを。

擔荷の上に私は見た、
その白いみごとな肉體を。
死は彼の胸を
破ることが出來なかつた。

あゝ! 私は見た、彼の呼吸が
細くなり、弱まつてゆくのを、
その母親の住所を
繰返し彼が言つてゐる間に。

アルゴンヌのとある窪地に、われわれは彼を葬つた。
三日たつて私は見た、
水がその場所を覆うてゐるのを。

     ×

リラに飾られた日曜日の朝、
君は大きな村を通る。
笑ひ聲とコツプの音が
明け放たれた一つの窓から聞えて來る。

きれいに洗はれた子供達が銅貨を握つて
店屋の入口へ飛びこんで行く。

白い頭巾、さくらんぼを挾んだ帽子、
糊のついた上衣姿ブルーズの人たちが
一臺の椅子附二輪馬車から
大聲上げて笑ひながらに降りてくる。

また公共廣場では
新綠の菩提樹にかこまれた
ふしぎな馬の見世物の
まだ張られてゐる幕のはじを、
子供達への加勢のやうに、
かんばしい風が吹き上げてゐる。
時々見える玻璃、ふらしてん、それに眞鍮。

野へ出ようとして若しも君が
燕のひるがへる小徑を行くなら、
とある野菜畑にそつて、垣根ごしに、
其處で見る事ができるのだ、
サラダをすつかり移植しながら、
いちばん下の妹に「春のワルツ」を
敎へこんでゐるジャン・リュエを。

いらくさや晝顏に攻められた
家の塀沿ひに歩きながら、
君はピストン附のコルネットを耳にする。
吹奏樂の大きな曲の
感傷的な終曲の二小箇を
いよいよ氣を入れて十度も吹くコルネット、
それは物置にゐるジャン・リュエである。

それは舞踏會の夜のジャン・リュエ、
彼は踊つたり踊らせたりする。
それは萄萄畑のなかのジャン・リュエ、
彼は抱きしめたり接吻したりする。

また壓搾室での骨身を惜しまぬあの仲間、
それはジャン・リュエである。
また夜明けの畑のあの農夫、
それも亦ジャン・リュエである。

その生活を見ることが實に大きな樂しみだつた程、
彼は潑溂としてゐたのだ!

しかし彼もやつぱり死んだのだ。
その三人の兄弟のやうに、
そして尙多くの他の者達のやうに、
ロワールの岸のサン・テイの。

フランスで、イギリスで、
プロシャで、バヴァリアで、
フランドルで、またロシアで、
たくさんのほかの者達もまた。

兵營の事などは考へもせず、
そこへ葡萄やホップや
麥を払ゑながら
大地の上で歌つてゐた
ほかのたくさんのジャン・リュエが。

     ×

わけても我がジャン・リュエは死んだのだ!
葡萄畑の草とりや、
剪定や、硫黄粉の撒布に
出かけて行く氣になるのは、
年よりでも女でも
また姉妹たちでもない!

もう男がゐない以上、
もう酒の必要もない。
二重にこゞえたあなた達の心を
ことしの冬に暖めるため
すべての根株を引技くがよい。

サン・テイの、フランスの、
またヨーロッパの老人達、
尙もあなた達が生きるためには
百本の馬鈴薯を世話するがよい。

そしてあなた達の娘らを
工場の勞働に送るがよい。

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 冬の歌

私の頭の上を、手の上を。
草の上を、
雨の 
こまかい霧のむれが
やがて幾日降りつゞき、降りつゞき、
そしてあしたも續くだらう。

けれども、すでに寒のゆるんだ空氣の中の、
この吐息は。
けれども突然のこの明るさは。

或る日のあけぼのの眼のやうに
木々のあひだへすべりこむ
この合圖は。

どんな哀れな指があつて、
一瞬間、
冬の厚い面紗を
上げるのだらう。

それは地面や石を
なぐさめるためなのだ。
それは小徑のため、
薮のため、
樺の木のため、
そして私の心のためなのだ。

二羽の小鳥がつぎつぎと
夢みるやうに歌つてゐる、
もうぢきに來る、ぢきに來る、
春が! と。

それなら君の荷物をすこしの間おろすがいい、
そしてそれから眼をはなさずに
くつろぎ、息をつき、歌ふがいい、
君を若いと感じるがいい!

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 アルゴンヌヘの歸り

雨が夢をみてゐる路と、
その凹みと、
そここゝの小屋と、あの踏みつぶされた貝殻、
まだいくらか草原の草の上で動いてゐる
あの蝸牛のやうな陰氣な村落とをすぎて、

遠く林の中に圍まれた死んだ畑地を過ぎ、
湧水になやむ泥濘の道を過ぎ、
ふかい樹林や窪地を過ぎて、

もう一度私は見た、――だが本當にあれだつたのか――
もう一度私は見た、その小徑や焼かれた家や
その泉とにいつしよに、あの空地を。

その空地は私に言つた、私の獨り言のやうに、
それは私に言つた、「路行く人よ、あなたは何を求めてゐるのか」と。

「私はこゝで暮したあの幾日もの幾日もの
思ひ出の跡と俤とをもう一度見たいのだ」

「其時あなたはそんなにも幸福だつたのか」

「私は不幸だつた。あゝ! そんなにも不幸だつた、
私の熱い心臓が
わづかの雨にも泣きむせび、
風がとつぜん私の上へ
焚火の息を投げかければ
それがもつとも悲しい愛に溢れたほど。

空地よ、しばし私の痛みを呼び返してくれ、
忍びねに泣いた、お前のうちに私が睡らせた、
私がお前に殘して行つたあの痛みを!」

「あなたに上げる物はない」と空地が言ふ、
「ごらん、あなたの焚火の歌つてゐた場所には
草が高く厚く生えてゐる。
そして私の泉のほとりや小徑の上に
ついてゐる足痕はあなたのではない………」

道化者の風が木々のなかで嚏をした。
彼は千の若枝をざはめかせた。
その技たちは言つた、「あゝ!
われわれが睡らせてやつた最後の悲しみ、
それはお前のではなかつたのだ!」

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 庭
          ジャン・リシャール・ブロックに

それは故郷くにを出て、徒歩でやつて來た
二人の北方の若者だつた。
そして此處から逞かに遠いどこヘかの士地ヘ
出かせぎに行く二人だつた。

北方かちの此の二人の若者が
食事と睡眠とをとるために
日の暮れがたに入つて來たのは
イレール小母おばさんの家である。

「どうか出來ないかね、おかみさん、
どうかして僕等にサラダを
食べさせては貰へまいかね。
二三枚のサラダの葉。
それが食べられると嬉しいんだが」

「私もさうして上げたいんですよ、若い方たち。
でも、――指圖をする譯ではありませんが、――
あなた方のうちの御一人が自分で探して下さればね。
荒れほうだいの私の庭、
もう役にも立たない私の庭、
その庭の奥のはうに、事によつたら、
まだシコレーの二三本はあるでせう」

すぐに立ち上つた男、
食事なかばに「僕が行かう」と言つた男、
それは荒癈した地方から來た
若者シュチオ・コチノーだつた。

もう夜のとばりが落ちてゐた。
そこへ忽然
姿を現したシュチオ・コチノー、
沈默のなか、
庭のなかへ。

     ×

それは塀と母家とに圍まれて
世間から隔てられた場所である。
さまざまな草木や薮のしげみや
裸の土や小石などが、
そこへ來た者な見まもつてゐる。

それは村の家々のうしろにある
どこの庭とも同じやうな庭である。
連枷からさほの痕も殘つてゐないこんな庭を
かつてはシュチオ・コチノーも持つてゐた。
ちやうどこれと同じやうな庭を。

ほんとうにすつかり同じだつた。
灰いろの雌によせかけた垣根作りの葡萄といひ、
かざぐるまの花のトンネルといひ、
たんぽゝに飾られた井戸といひ。

ほんたうにすつかり同じだつた。
十字に交叉した二筋の路をふちどる
忠實なつげの並木といひ、
頭を上げた李の木といひ、
腕をねぢつてゐる林檎の木といひ。

たそがれこそ全く同じだつた。
そして、聽け、いま追憶の
やるせない心に読る言葉として、
一羽のつぐみの臆病な叫びが
動かぬ空氣にはねかへる。

シュチオ・コチノーよ、お前の庭を見るがいい!
見棄てられ、荒れはてたお前の庭、
濱麥が莓を蠶食してゐる。
錆びた鋤が草の中にころがつてゐる。

見るがいい、すかんぼは實になつてゐる。
手を入れない畑は薊でいつぱいだ。
去年の碗豆の支柱
枯れた薮のやうに殘つてゐる。

そしてシュチオ・コチノーはそれからそれへと、
行き、立ちどまつて身をかゞめ、眺め、夢みる。
しかし今、彼の方へやつて來るのは誰だらう。
それはサラダのありかを知らせに來たイレール小母さん。

     ×

「サラダはあすこにありますね、おかみさん。
もう消えかゝつてゐるのが、少しばかり。
もしもあしたの朝、仲間よりも
一時間早く、起こしてくしたら。
僕が此の畑をすきかへして上げませう、
たゞ自分の樂しみにね。

鋤の錆をおとすといふ
たゝそれだけの樂しみにね。
すつかり荒らされてしまつた僕の國の
今はもう無い僕の家の庭のなかに、
夏ぢゆういつでもあつたやうな
みごとなレタスの畑を作るといふ、
――お前さんに作つて上げるといふ――
たゞその樂しみの爲にだけにね」

「ほんたうに親切な若いかた、
それならば御起ししませうよ!
でも若しも寢床のぐあいがよかつたら、
寢てゐらしてもいいのですよ」

     ×

旅の若者にくらべては
年寄りはそんなに早起きではない。
シュチオ・コチノーを起こしたのは誰か。
それは彼の仲間だつた。

その仲間が彼に言つた。
「ねえ、涼しいうちに出かけようぜ、
さうして、飯のあとに暑くなつたら
晝寢をする事にしようぢやないか」

若者二人が街道へ出て、
もう村からも宿屋からも遠くなり、
口笛を吹きはじめた時だつた、
シュチオ・コチノーがサラダの事と
あの庭の事を思ひ出したのは。

彼は何も話さなかつた、
何も言はなかつたが、ふつつりと、

「シュチオ・カンカン」の口笛をやめた。
そして十時か十一時ごろ、

日のあたつた野を前に、
新しい葡萄酒を一杯飮むまで、
シュチオ・コチノーの胸は
痛みと悔とに滿たされてゐた。

 (譯者註、「シェチオ・カンカン」は北フランス地方の有名な古民謡)

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「延長」から

 延 長

夕暮の、どんな樹へ行つて、人知れず、
あの旅の鳥はうづくまり、睡るのだらう、
漕ぐ者のやうに、白い重たい空を打ちながら
遠ざかり、消えてゆくあの鳥は。

     ×

なかばは慰み、なかばはきほつた心から、
深い水へわたしが投げた
太陽に焼けたあの小石、
その時以來、幾日を、幾年を、
あの小石は待つのだらう、
ひとりの神が新しく世界を變へる其日まで、
藻にとらはれの従順な奴隷となつたあの小石が。

     ×

或日、わたしが威おどして泣かせた、
わたし同樣子供であつた昔のあの子。
あの子はそれを覺えてゐるだらうか、
まだ生きてゐるだらうか。
或はもしも、其のひとすぢの涙のあとが、
わたしの心に殘つてゐるとしたならば。

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 私の敵が死んだ

あの男が死んださうだ。
ずつと前からわれわれは互に敵だつた。
彼は私に傷をおはせ、
それが未だきのふまでは重かつた。
だが此の一時間以來もうさほどでもない。
そして足から先はその傷も
一つの無力な思ひ出にすぎない物となるだらう。

われわれが出逢ひさうな惧れのある家へ
私はけつして行かなかつた。
もしも遠くから彼の姿をみとめると、
私は往來を別の側へよこぎつた。
そして彼の事を口にするとき、
私の聲がいくらか顫へた。

あの男が死んださうだ、そして私はさびしい。
たとひ最もにがい果實にもせよ、おゝ人生よ、
それはやはりお前の果實だ!

また、風の戯れにしてみれば、こゝかしこで、
隣り合せた二本の麥の穂のむれを、
ぶつからせたり、傷つけ合つたりさせる事も出來るのだ。

少くとも彼等は同じ年の
同じ小麥ではないだらうか。
同じ手入れをうけながら、同じ苦みをなめながら、
同じ唯一の冒險へと
捲きこまれた者ではないだらうか。
彼等の一人一人がその相手の習慣であり、
その限界であり、又叉の歴史ではないだらうか。

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 金 鈴

齢四十に達したとき、
私に一人の娘がうまれ、名を金鈴といつた。
けふは其子が生れてちやうど一年、
子供は坐る事を覺えたが、まだ口をきく事は出來ない

私は自分が賢者の心を
持たないのを知つて恥づかしい。
世間おほかたの親のやうに、
どんな小さな泣聲にも私は耳をそばだてる。

此子の見せるどんな些紬な美點にも、
私は感動してしまふ。
そして今や自分以外のことがらに、
私はことごとく氣をとられてゐる。

もしも此子をなくす憂目をまぬかれたら、
私はその結婚の日まで長い苦勞をつゞけるたらう。

それで、山の上へ隱退しようといふ自分の計畫を
今ではもう十五年延ばさなくてはならなくなつた。
  
          (紀元前五世紀の中國詩人ホー・□ユー・イの詩翻案)

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 寓 話

夏のさなかに伐られた樹木、
その切株はまだ淋漓と血をながし、
しかも細い幹や若い小枝を、こまごまと、
切り裂く臺に使はれてゐた。

そして樹液を流すこの大きな木塊が、
そして地而とすれすれに、又地中遥なところにゐる
この苦しみの樹のまだ生きてゐるすべての部分が、
その死刑執行者に哀願し、詰問した――

「私の死ではなほ足りないのか。
なんたる侮辱で君は私に復讐するのか。
どんな物識りの邪惡な惡魔にそゝのかされて。
刑の上になほ此の暴行を敢てするのか。

私の最も高い枝とその柔な葉むらとを
私の心臓の上で粉碎し、
嬉々として踊る私の夢想であつたもの、
大空へ伸ばされた私の夢であつたものを、
こんなに私の血でけがすといふ
その恐ろしい勇氣を何處から君は手にいれたのか」

だが木樵は聽かなかった。
鉈が手に輕かったから、
切るのに材が柔かだつたから、

靑春や、戀や、鈴蘭のことを
ものがたる一節ひとふしの春の歌を
彼は働きながら聲をかぎりに歌つてゐた。

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 謝肉祭

謝肉祭カルナヴァルの喇叭の音
大通りへ流れ出す、
予供らの心をわくわくさせて。

空は雲を逐ひ拂つた。
ふたゝび現れた太陽の中で、
俄雨の湯氣といつしよに、
どよめきの聲が地から昇つた。

マロニエが、風に吹かれるあのリボンが
無邪氣な瞳でいつぱいだつた。

近衞騎兵の灰いろのマントは
馬の臀をかたどつた。
道化師たちは馬車の前を飛びはねながら、
彼等の帽子を投げあげた。

群衆のまんなかで、一人の女が
首筋へ接吻ベゼされたのに氣がついて、
顏をあふむけて笑つてゐた………

だが、祭の「女王」に喝采した人達は、
又その會釋と微笑とを歡呼で迎へた人達は、
戀の病が彼女の頬に傳はらせる
涙をみとめるには遠すぎた。

だが、少しばかりの暇を見つけて
とある大きな門のかげに
うづくまつた一人の廣告屋が、
病氣の脚をさすつてゐた。

だが、三階に住む一人の老婆が、
二本の蠟燭の燃えてゐるその部屋の
鎧戸をいそいでしめてゐた。

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 ちひさい家

山の斜面の中腹に
ちひさい家がたつた一軒
ぽつんと見える。

まるで垂直な壁の面に
引掛つてでもゐるやうに。
そして夜になると其のともしびが
闇の中に消えがてだ。

――あゝ! どうしたらあんな處に住めるでせう、と
ぞつとしながらお前は叫ぶ。

僕としては、あの場所は知らないが、
山といふものが其の傾斜をのぼる者に、
遠方から見えるやうな閉ざされた顏を
してゐるものでない事を僕はよく知つてゐる。

僕はよく知つてゐる、あの山が
茴香うゐきょうや、桃金嬢ミルーや、薄荷草や、
迷迭香まんねんこうや、ラヴアンドや、麝香草で
粧はれてゐるといふ事を、

また近づいて行くにしたがつて
其の頂きがうしろへ退き、
中腹にもときどき凹地があつて、
安心のできる静かな避難場を
提供してゐるといふ事を。

僕は知つてゐる、あのちひさな家のうしろには、
一本の桑と何本かの松と巴旦杏と梓の樹と、
すこしばかりの草地があり、
其處に二匹の仔山羊のゐる事を、

そして家の前には石造の
卓と腰掛とを据ゑたテラスがあつて、
仕事を終つた人たちが
夕暮のこんじきの空氣の中で
その新鮮な葡萄の酒を飮むことを。

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 航海日記

私は机を前にじつと坐りこんでゐた、
風の落ちた時の帆船のやうに、
ぼんやりと、無氣力に。

貪慾でめくらの私の夢想は
浮いてゐるがらくたをかすめながら
沈滯した水面でうなつてゐた。

そここゝに、弱い風、
だが何處から吹くともなく、力もない。
下等な、おどけた事どもに
結びついた思想のきれぎれ………

こんなふうで午後がすつかり
からつぽな空間を前にしての期待と沈默と苦悶だつた。
おゝ、白い紙きれよ!
おゝ、鳥も飛ばない氣陰な空よ!

さうしてひどく平穏な水音のなかを
たそがれに來る絶望感…………

だがついに抛棄と逃亡とを決意した其の瞬間、
突然はつきりと語り命令する詩想が生れた。
言望だ、言葉の噴出だ。
風が出たのだ! さあ、乗り出さう!

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 生 活
             マルセル・ローシュに

おゝ、十五歳の夢、少年の讀物、 
美しい嘘つきよ!

眞珠をはこぶ船に乗り、
その竪琴の音に合せて私はいちども漕がなかつた。

五月の林檎の木の下で、天使めいた顏をした
純潔な少女に私はいちども會はなかつた。

舞踏會の女王を連れ出して
公園の奥へのがれた事も私にはない。

魔法の森へ馬を驅つたこともなく、
古いとらはれの夢を救ひだすとて
見知らぬ川をさかのぼつたこともない………

     ×

しかし私は見たのだ、或る牢獄の黑い塀に
金魚草やあらせいとう
咲いたり歌つたりしてゐるのを。

しかし場末の町のつきるところで
愛の涙やほゝゑみが
ふるへてゐるのを私は見たのだ。
ちやうど林の奥のはうで
色あせた鈴蘭のちひさい鈴が
雨にふるへてゐるやうに。

しかし夜になると
私は一人の友と連れだつて
しつとり濡れた人道や
森のふちをさまよつたものだ。
私たちの額のうへでは
やさしい星がぱちぱち鳴り、
私の前では解きはなたれた
二人のたましひが嬉々としてゐた。

しかし私は自分たちの願望と
同じやうに古く同じやうに不屈な煙が、
澄んだ空、美しい殘酷な空の方へと
昇つては崩れるのを見たのだつた。

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 譯者後記

 ○十八年前の昭和三年、詩友井上康文君の詩集社から「日本詩人叢書」の一輯として出た本に、今度新らしく訂正增補を施して、これも亦井上君と緣のある寺本書房から出せる事になつたのを、私は譯者とじて心から喜んでゐる。古い間違ひを直したり、新らしく翻譯の筆をとつたりしながら、再びゆつくりと讀みかへす機會を得たシャルル・ヴィルドラックの詩といふものを見て、星さまざまな文學の天に、こんなにも人の心をなごませ、慰め、とらへ、鼓舞する、獨特なしらべの星があつたのだつたと、今更つくづく懐しさに打たれ、何か後悔に似た感慨に滿たされたのであつた。ヴィルドラックは昭和元年、夫人と一緒に日本へ來た。其時武蔵野の私の小屋もたづねて呉れた。それ以來の知己である。往復した手紙もたくさんある。藝術家としても、人間同志としても、何かしら血緣開係のある間柄のやうな氣がしてゐたし、今でもしてゐる。そのヴィルドラックだ。永年の沈默が悔まれる。今皮の此本がいくらかでも、其の無音のつぐなひとなり、彼への渝らぬ愛敬のあかしとなればいいと思ふ。
 ○私はヴィルドラックの詩といふものが、どうか愛する今日の日本の多くの人々に讀まれる事を心から願ふ。彼の詩には其の歌のしらべによつて、人の心を清め、力づけ、ひろびろと解き放つ力がある。今の日本のわれわれにとつて、此の清めと、力づけと、苦惱や懐疑からの解放ほど無くて叶はぬものはない、宗敎によつてでもなく、哲學によつてでもなく、政治によつてでもなく、彼はその歌によつてわれわれを醫やし、勵まし、立上らせながら、常にわれわれ
と共に行く。彼の善意と、彼の良識と、彼の勇氣と、彼の健康とをわれわれは持ちたい。今もしも彼が日本に來ることが出來たらば、彼は何をするであらうか。多分、恐らく、きつと、此の「愛の書」にある詩のやうな物を讀むだらう。そしてわれわれの睫毛を清い雫で飾らせるだらう。彼自身また眼鏡の奥に一滴の露をふるはせながら。
 ○私の翻譯は拙くはあるが、終始この愛と美との詩人の心のしらべを我が國語によりよく移さうとこゝろがけた。其の願望がいくらかでも達せられたならば幸だと思ふ。殆んど全部が新譯であり、臺本はすべて彼から贈られた四冊の原書である。どうか彼の厚意と友情とを汚す結果にならなかつたやうにと祈つてゐる。
 ○最後に此本の出版のために種々盡力を賜はつた寺本書房の山岸武三郎君に感謝の意を表する。

  昭和二十一年八月三十一日
                  信濃富士見にて
                           尾 崎 喜 八

 

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