デュアメル「慰めの音楽」 尾崎喜八 訳


   ※ルビは「語の小さな文字」で、傍点は「アンダーライン」で表現しています(満嶋)。
   ※現代では「適切ではない」と思われる訳語も使われていますが、
    その時代性を残すために、あえて修正は行っていません(満嶋)。

                                 

序   

 

 

一 ヨーハン・セバスチアン・バッハと純粋音楽についての論議

 

 

二 わが若き日の魔法使い

 

 

  三 音楽、それは解放である      
  四 わが手帖からの十章      
  五 われらの間の名手      
  六 室内楽礼賛      
  七 音楽の神秘      
  付録 青少年の教育における音楽の役割と位置      

                                     

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 序

 われわれの生活に属するこれらの事柄、二十世紀の人間であるわれわれに親しい魔神デーモンたちのこれらの仕事、これらの創造、これらの被造物、これらの奇跡、これらの幻惑、われわれの不安な本性から生まれたこれらの子供たち、われわれが無邪気にも心を打ちこんだこれらの憂慮すべき驚異、これらの獰猛どうもうな驚異が、実にわれわれを欺き、われわれを裏ぎり、われわれに顔をそむけて寝返りを打つために、運命の気まぐれを待っていたに過ぎないことを、今にして知るのである。
 音楽はわれわれを裏ぎらなかった。音楽はわれわれを欺かなかった。それはわれわれと共に夜も眠らずに番をしている。われわれの中で。われわれの昔ながらの幸福の廃墟と灰との間で。
 このみじめな冬の終りにあたって、私は音楽に語りかけ、彼女に感謝の歌を歌いたいと心
から思った。そうだ! そして単に魂のヴィオールや夢のフルートをもってではなく、さらにこの病める咽喉のど、なかば不随と化したこの痛む咽喉をもって歌いたいと思った。
 すると続いて、永遠の使命をふたたび取り上げたいという要求が私に生まれた。自分の愛しているものを人に分かちたいという切なる望みが。そして私は小さい書物を編んだ。しかし、ああ、改宗者以外の誰に説教をしようというのか。
 ここに集めた随想や追憶は、まさに改宗者のために書かれた物ではあるが、同時に、疑いもなく、改宗という観念に口を尖らせない人々、音楽を一つの可能な祖国、一つの避難所、一つの信仰、一つの光として考える善意の人々のためにも書かれたのである。
 これらの随想や追憶やスケッチは、すべて演説のような調子を持っているが、確実に熱意を持った相手のことを考えたり、その相手に教えたり、相手を癒やしたり、この世のあらゆる悲しみから救ってやったりしようとしてその顔を見る時に――よしんばその悲しみをどんぞこまで味わわせるにせよ、或いはその悲しみが美しく、けだかく、実り多いものだということを示すにせよ―――、こういう調子になるのは自然である。
 音楽は地下水のように私の生涯の王国のいたるところを流れている。それは私の著作のど
こにでもあって、私はそれを讃えたり、それに仕えたり、その国で私が経験した感謝の思いを、何らかの方法で表明する最小の機会をも決してゆるがせにしなかった。自分の歩んで来た途みちの上に、あたかも道標のように残した書物のどれか一冊をぱらぱらと開く時、私は音楽によって生気を与えられ、美化され、照らし出された一つの言葉、一抹いちまつの筆触、一片の話題をそこに見出すのである。『殉難者の生活(1)』や『文明』の中に出てくる負傷兵たちの或る者、哀れなサラヴァン、『嵐の夜』のフランソワ・クロ、『ホレブの石』のレセギエにとって、彼らがそう認めると否とにかかわらず、音楽はまさに偉大な人間的神秘の一つなのである。自分の旅路につき従う人間の大部分のことを考える時、私はローラン・パスキエ(2)と共にしばしばこう叫びたくなった、「われわれが真の貧困、魂の貧困から出て来たのは、それは音楽を通ってであり、この青空の門を通ってである。われわれに人間の真のひろがりを垣間かいま見せてくれたのは、この至高の音楽である」と。
 直観的で纏まとまりを欠いたこの捧げ物は、昔からの執拗な熱意をすべて叶えるには充分でなかったに違いない。ここ十二年乃至十五年の間に、私はたくさんのページを書いた。むろん音楽を解説したり筆舌につくせないものを説明したりしようという意図からではなく、私自身を明らかにし、自分を堪能させ、この調和の影のなかで自分の歩みを照らし出したいという望みをもって、音楽の神秘が毎日われわれに提出するさまざまな問題に、解決を見出したいという望みをもって書いたのである。そしてかつては偶然に任せ、今では取り集めたページのすべてがこれである。
 この本の題名について言えば、それはこの悲惨の幾季節(3)の底からおのずと湧いて出たものである。けだし音楽は、もしもほかの多くの物と同様、私がそれに娯楽を与えてくれることしか求めなかったならば、このように高貴でもなく、このように純粋でもなかったろうからである。

(1) 〔訳者註〕次の『文明』と共に、第一次世界戦争のさい軍医として前線で働いていたデュアメルが残した名著。日本では『戦争の診断』という題名で、木村太郎氏による翻訳が白水社から出ている。
(2) 〔訳者註〕『サラヴァンの物語』と共に、十巻から成る大著『パスキエ家年代記』のほぼ主人公にあたる若い生化学者。
(3) 〔訳者註〕第二次世界戦争の期間。

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 一 ヨーハン・セバスチアン・バッハと純粋音楽についての論議

 われわれは冬じゅうを『マニフィカート』と一緒に、ヨーハン・セバスチアン・バッハのあの偉大なニ長調の大聖母讃歌と一緒に生きた。と言うよりも、それによって養われたのだから、むしろ『マニフィカート』で生きた、と書くべきかも知れない。今にして思えば、あの音楽がなかったらわれわれは生き続けることができなかったろうし、苦痛の攻勢にたいして抵抗することもできなかっただろうという気がする。
 三か月のあいだ、心を高めるこの音楽が家じゅうに鳴り渡った。それは一日じゅう、子供たちと一緒に、集合の合図のように、何かの祈りのように、階段を上がって来るのだった。一日じゅう、床や壁をとおして、一つの声がDeposuit potentes(神は権勢者を座位よりくだし、賤しき者を上げたもう)の嘶いななくような唱句を夢中になって練習している一方では、家の奥のほうで、――こんな目も眩むような対位法をヨーハン・セバスチアンはどう思うか知らないが――若々しくて幾分しゃがれた別の声がQuia fecit mihi magna(全能者、われに大いなる事をなしたまえばなり)の確固とした、基本的な楽想を展開させているのが聴かれるのだった。幸いなことに、水曜日の晩には、家じゅうの者が楽器をやる人たちのまわりに集まった。秩序が生まれて、みんなの心を支配した。それはまぎれもない聖体拝受の一時間だった。ティンパニーがこの世の底からGloria(み栄えあれ)を轟かせている間に、トランペッ卜が高いところを一羽のすばらしい鳥のように翔けるのだった。
 そうしている間に、私は数年前la Vie intellectuelle(知的生活)誌上にジルベール・ブラングが発表した一篇のみごとな論文を読んだ。そこでは音楽における表現の問題がはなはだ聰明に考察されていると同時に、かなり残酷なやり方ではあるが、論者はデュパルクにストラヴィンスキーを、換言すれば一方には「原始的で通俗的な」音楽観を(これはブラング氏の言葉だが)、他方には見出し得るかぎり最も学者的で最も洗練された音楽観を配して、この両者を対立させているのである。デュパルクは言っている、「人間の魂を揺り動かす大いなる情熱、すべての時代に共通であると同時に、着ている物のいかんにかかわらずあらゆる国に共通な大いなる情熱を表現するものとして、すべての芸術の中で音楽以上に適切なものはない」と。若い註釈者によって比較のために引き合いに出されたストラヴィンスキーは、力強くこう答えている、「私は、音楽というものは、その本質から言って、たとえば或る感情、或る態度、或る心理状態、或る自然現象等々を表現する力はないものと考える。表現はいまだかつて音楽の内在的特性であったためしがない」と。そして更にこれは重要なことだが、「音楽という現象は、ただ事物の中に、そしてなかんずく人間と時間とのあいだに、一つの秩序を打ち建てるためにのみわれわれに与えられているのである」と言っている。
 私はこの断定の不思議に目的原因論者フィナリスト的な性質について、あの非凡な音楽家と言い争おうなどというつもりはない。私にはブラング氏がストラヴィンスキーやヨーハン・セバスチアン・バッハについて「非一時的な欲求」と呼んでいるものがわかる気がするし、またわかっているのである。或る晩私はシャンゼリゼーで、トスカニーニがみごとな管弦楽の演奏会を指揮するのを聴いた。曲目はすべて描写的もしくは印象派的音楽と呼んでもいいような種類の作品から成っていた。ところが私はじきに精神の物憂さと倦怠とに襲われて、バッハの十小節を、どんな意味をもできるだけ排除した十小節を、それも心の底で熱望したのだった。したがってストラヴィンスキーが、「構成が成り、秩序が与えられた時、すべては言われたのである。そこに何か別のものを求めたり、そこから何か別のものを期待したりするのは無駄であろう」と宣言する時、私にはその意味がわかる気がする。とはいえこんな複雑な、こんな不安定な問題と取組むのに、こういうふうに横柄おうへいで高慢な数学者的態度で臨むということが、そこから何か晴れやかで安定した結論を見いだす仕方であるとも私は思わないのである。
 こうした瞑想にふけりながら、かつてヨーハン・セバスチアン・バッハとの関連から純粋音楽の問題について纏まとめたことのある覚え書を、私はもう一度取り上げてみた。それは本当に簡単なものではあるが、この論議の中にいくらかの穏やかな光を投じることができそうに思われる。それをここに写し直しておこう。

     *

 ヨーハン・セバスチアン・バッハは一六八五年に生まれて一七五〇年に死んだ。したがって八十五年を生きたわけだが、それは別に並外れたことでもない。彼は、とりわけその青年
時代には、生計の資を求めていくつかの小さい旅をした。彼は王侯の楽しみのためや、礼拝上の必要のためや、市民仲間の娯楽のためや、自分の生徒たちを指導するために、絶えず演奏したり作曲したりすることをやめなかった。一七〇七年、二十二歳の時に最初の結婚をした。一七二〇年に妻を失った彼は、翌年再婚した。初めの妻から七人の子を得、二度目の妻から十三人の子を得た。彼の作品は莫大な数にのぼっている。いや、もっと正しく言えば、無限だと言ってもいいだろう。と言うのは、われわれはその全部を知ってもいないし、また今後全部を知ることもあるまいからである。作者の生存中にその一小部分が印刷されただけで、多くの作品が失われてしまった。その或るものは巨匠の息子の一人、晩年放蕩に身を亡ぼしたウィルヘルム・フリーデマンの手によって、ただのような安値で売り飛ばされた。
 こうしたわけで、その作品は少なくとも三百のカンタータ、幾多のミサ曲、サンクトゥス、聖母讃歌、受難曲、オラトリオ、讃美歌、衆讃曲、さらにクラヴサンのためやオルガンのためのもの、独奏用、協奏用、或いは交響曲ふうに集まったほとんどすべての楽器の曲のおびただしい数を含んでいる。思い出への感謝と愛に満たされた心がそこから汲み上げる喜びもさることながら、私はそれをここで数え上げることはしない。ただ付け加えておきたいのは、バッハが、劇場音楽を除けば、他のあらゆる種類の音楽を扱ったということである。そしてこれだけ言っておけば、われわれの話の真の対象に触れるには充分であるに違いない。

     *

 アッティタ、モーゼ、或いはタメルランの伝奇的な生涯を一篇の作品に仕立てることは―――事実そういう物があるが――可能である。歴史的な記録が欠けているということは、むろんこの種の試みにとって障害にはならない。アダムかミノスの一生を書くことも面白いに違いない。しかしわれわれの達人の中のもっとも敏腕な人たちにしても、ヨーハン・セバスチアン・バッハの生涯を小説に書いて、たとえ五十ページでも読者の興味をつなぎ得るとは思われない。
 バッハの生涯は貧しい一市民のそれである。この困難で限られた哀れな生活ほど小説的でないものもなければ、これほどロマンティックでないものもない。大きな事件といえば学校での、或いはむしろ礼拝堂と言ったほうがいい場所でのみじめな争いであって、音楽の父ヨーハン・セバスチアンは、いくらか喧嘩好きで訴訟好きな、頑固なお人好しの役を演じてい
るのである。彼は自分の上司との、トーマス・シューレの校長や副校長との衝突をおそれない。彼はその頃の誰でもと同じように、また今日の誰でもと同じように、時の権力者に宛てて手紙を書く。彼は日曜日の勤行ごんぎょうのために神聖なカンタータを作曲し、またそういう小さな贅沢をすることのできた学生たちの集会のために世俗的なカンタータを作曲する。そして――これはまた随分滑稽な話だが――、ライプチヒでは人の死ぬ数が実際少なすぎると言ってこぼしている。彼は文字どおりこう書いている、「平素以上に埋葬の多い場合には収入もそれにつれて増加しますが、ライプチヒは空気がすこぶる快適なため、昨年の如きは、埋葬による臨時収入に百ターレルの不足を見たような次第です。」一人の市民が死ぬ。するとそれがこの正直な合唱長カントールのために、おそらく或る偉大な楽想のもとになったのであろう。
 この合唱長は論議の余地のある教師で、生徒たちはしばしば行儀が悪かった。「彼の学級の行儀と規律とは嘆かわしいものであった」と、バッハの伝記作者の一人であるジュリアン・ティエルソーは書いている。
 彼はすこぶる謙遜家で、われわれはそこに不誠実というのではないが、非常識だとは言えるものを発見するいくらかの理由をすら持っている。彼は言う、「私は熱心に勉強した。私
と同じくらい熱心にやる者は、誰にせよ私と同じくらいなことができるだろう」と。しかしもしもこれが素直な気持で言われたのでなかったら、我慢のならない言葉だと言うべきだろう。彼は自分の音楽の手稿を、たぶんそれを蔑視したであろう王侯たちの図書館に遺贈していない。彼はそういう物を引出しの底で黄色くなるに任せるか、それに値しない者たちの手に渡すかしている。
 彼は一つの信仰を持っていて、それを毎日りっぱに表現している。そして、そこに確かに、この模糊もことした生活の中での偉大なものがある。
 この驚くべき天才の風貌にも、取り立てて言う程のものはない。彼は市民仲間にベートーヴェンの獅子の鼻づらを見せもしないし、またワーグナーの鷲のくちばしや、ましてシューマンの悩ましい悲愴な顔つきも示さない。彼はあるがままの風貌を持ち、いくらか鈍重で―――ああ、皮肉にも――物質的なことに没頭する無害な一市民の風貌をそなえている。これは一つの甚だ奇妙な教訓だと言える。なぜならば天才の外貌を持ちながらその能力を持たない人たちを(そういう人を私はたくさん知っているが)、私は常々惜しいものだと思っているからである。
 こうしてここに人間が、一箇の人間のすべてがある。この平穏で鈍重な仮面のうしろに、もっとよく調べてみたら、われわれは恐ろしいような秘密、烈しくて隠されている秘密、人を驚倒させるような悪徳、神秘的な情事を発見することができるとでも言うのだろうか。私はそんなことは信じないし、バッハを研究した人たちにしても、一人としてそんなことを信じる者はないように思われる。そして今やわれわれの前に一つの不思議な問題が提出される。すなわち情熱の体験は何の役にたつか、音楽家の場合、情熱に関する個人的な知識は彼に何をもたらし、どういう意味を持つかという問題が。

     *

 私には数学家の非人間的な早熟なるものが理解できる。純粋に数学的な宇宙を構成するためには、べつだん生活の体験を必要とはしないし、わけても悩みの経験などはまったく不要である。パスカルが子供のとき部屋に閉じこめられて、幾何学の初めの方のいくつかの定理を自力で発見したという話は私を驚かさない。蜜蜂の働き蜂、あのみじめな、性別を持たない小動物は、幾何学の驚異である六角形の蜂窩を申しぶんなく構築するのである。
 かつて私は数学家の天分と、詩人や音楽家の天分とを比較してみたことがある。それは、特に、少年或いは青年の天分であり、朝の、春の天分であって、早くして涸れることもあり得るのである。いくつかの事実からヒントを得たこの比較は、しかし何ものをも説明しはしない。数学的な能力というものは、少なくとも人間や動物に共通なものであるところから、一つのほとんど非人間的な能力と言えるのである。しかし叙情的天分は! また音楽的霊感は!
 音楽は動物の能力だなどと言って反対しないで頂きたい。私はそれを忘れてはいない。小夜啼鳥ロッシニョルは恋愛の季節になると歌を歌う。彼は自分の感じているもの、自分の知っていることだけを口にするのである。夏が来る。するとロッシニョルは黙ってしまう。彼は三月にはまだ歌わなかったが、七月になるともう歌をやめる。ヌヴェルの指物師で魅力ある詩人でもあったアダム・ビヨー師匠は、自作の『王女マリーヘの哀歌』のなかで、詩人とこの夜の歌手との問の類似点を強調することを忘れなかった。彼は言っている。

  ロッシニョルの慣習ならいと教えにしたがいつつ、
  わが子ら生まれ、わが歌終りぬ。

 しかしこの外観上の類似は論議の奥底を照らし出しはしない。ロッシニョルは彼の知っている感情をめざましくも語るのである。ところが詩人や音楽家は彼らの青春の季節に、彼らの知らないこと、知るを得ないこと、彼らの体験したことのないことを魅するがように語るのである。
 アルトゥール・ランボーは、子供の時、彼がまだ一度も見たことのない海について詩を書いた。それはこの題材のもとに読まれる詩の中のいちばん美しい詩で、私の意見では、フランス語で書かれた最も美しい詩のうちの一つでさえある。
 シューベルトは浮いた恋のいくつかを知っただけで三十一歳で死んだ。映画作家たちの発明にもかかわらず、歴史上からは、シューベルトは一度も結婚したことがなく、一度も情婦を持ったことがなく、更に言うなら、豊かな、深刻な、心を動かすような恋愛の経験を一度もしたことのないのをわれわれは知っている。ところが彼は、世界が今まで耳にしたうちでの最も美しい恋の歌をいくつか作曲している。マスネーは粗野な親切さでこう行った、「シューベルトの生涯はあれほど友情に満たされていたのに、恋愛にいたってはまことに貧弱なので、人は彼のベッドヘ入れる女を彼の周囲に探すのである」と。
「なるほどそういう美しい恋を彼は知らなかった。しかし彼はそれを夢想した。そしてそれこそ一層美しい。」こんなことを私に言う人も大いにあり得ると思う。では、それはそれとして、一つの事実を提出しよう。『紡ぎ車のマルガレーテ』は十七歳の少年の作である。私は十七歳の少年が、恋愛というものを充分に想像することのできるのを知っている。ところで私が「さはれ彼の口づけ!  彼の口づけ!」というマルガレーテの叫びのことを考えたり、取り乱した所作で紡ぎ車のペダルを踏みつづける若い娘の苦悩のことを思い出したりすると、すべてを知り、すべてを理解し、魔法によってわれわれに悲惨や、苦悶や、熱狂や、彼らだけは奇跡的に免除されるか剥奪されるかしていたように思われる至上の歓喜などを描いて見せることのできるこれら非凡な天才たちには、情熱の体験などは必要がないということを認めざるを得ないのである。
 私はランボーを引き、シューベルトを挙げた。だがバッハから遠ざかったわけではないのである。脇道をしないで本題へもどろう。ロマン主義は、フランツ・シューベルトの場合には、現実の生活とならんで第二の生活、夢の生活を造り出している。そしてこの生活は、情熱の力で音楽的奇跡を充分に養うことができたのである。ところでロマン主義の愛好家は、ヨーハン・セバスチアンの生活から何か拾い上げようとしても、実際何も、或いはほとんど何も見つけることができない。ロマンティックな響きを持ったたった一つの叫びにさえ、後世の奇談的なお話のなか以外、バッハその人の生活のなかでは断じて出会うことがない。リンベルガーは亡き合唱長の天才を認めなかったらしいライプチヒの一市民の言葉を聞くと、憤然立って「犬め、出てゆけ!」と罵った。しかし私にはこの勇ましい憤激の叫びが、きっとあの老巨匠をびっくりさせたに違いないと思われてならない。彼は拙劣な演奏者の頭へ自分の仮髪かつらを投げつけることはできたが、そんな怒りの発作のただ中でさえ、崇高な、或いは激越な言葉の一かけらでも発しなかったろうということを私はかたく信じている。
 バッハは家庭的な苦労に塗りつぶされた敬虔な生活の試練や悩みを深刻に味わった。しかし情熱の体験となると、これは彼のあずかり知らなかったことのように思われる。道徳的或いは感傷的な試練に類するものは、あえて言うならば、彼には免除されていたように思われるのである。

     *

 そしてここが、正に私の志していた地点なのである。ヨーハン・セバスチアンは或る種の行為、或る種の冒険、或る種の放埒を知らなかった。だから彼はそういうものを一つも描かなかった、と、私に言う人があるかも知れない。
 私は力づよく答えよう。ヨーハン・セバスチアン・バッハはすべてを描いた。彼こそ音楽家の中での最も普遍的な音楽家である、と。
 こうした命題はわれわれを強いて、純粋音楽についての古い論争をまた新しく開始させる。
 ヨーハン・セバスチアンの作品には、その対象がはっきりしていて論議の余地のないようなものがかなりの部分を占めている。
 世俗的なカンタータ、あの有名なカプリッチオは、和やかで、ほほえましくて、滑稽でさえある幾つかの主題をもとに作曲されている。われわれの想像がとまどいをしないために言っておげば、それはコーヒーの功徳くどくや、太陽神フェーブスと牧神パンの争いや、政府または市役所内の不意の更迭のようなものを題材にしているのである。これらは魅力もあるし、意図もはっきりしている。
 宗教的な音楽も、それに劣らずきびしく限定されているように思われる。ドイツ語やラテン語の詩句が、われわれを瞑想に導くためにそこにある。宗教的感情は、ヨーハン・セバスチアン・バッハにあっては、前にも述べたとおりすこぶる真摯だった。私にはそれらの神聖な詩句の背後に、何か崇高で感傷的な逸脱をさがし求めることは不当のように思われる。しかしすべての音楽家、すべての芸術家がそうだとは言えないであろう。モーツァルトの場合には、しばしば劇場音楽家がしっぽを出している。モーツァルトの『レクィエム』には幾つかの甘美なページがあるが、それらは『ドン・ジョヴァンニ』や『魔笛』のような世俗音楽の総譜からうっかり落ちこんだ物だと言えるかも知れない。画家たちは、たぶん彼らがそのモデルを下界に求めなければならないところから、無意識にであると否とを問わず、この種の陶酔的な不信心には馴れきっている。たとえば彼らは処女マリアを人間的な情熱のあらゆる魅力で飾っている。霊的なものにせよ俗界のものにせよ、材料の誘惑を通してのみ再現するほかはない彼らこそ気の毒である!
 バッハの宗教的な音楽のなかに、何か世俗的な満足をさがすというのは、私には実際法外なことのように思われる。バッハが神のために作ったものは神に任せることにしよう。われわれはこの巨匠の純粋音楽の中に、充分なほど神秘の貯えを持っているのである。その音楽は精神のあらゆる動き、心情のあらゆる飛躍、空想の、夢の、愛の、情熱の、あらゆる要求に答えてくれる。それはすべての欲望にたいして、時には刺激の、時には軽減の役をする。それは戦闘的でもあれば平和的でもあり、勇壮でもあれば理性的でもあり、愛撫するようでもあれば貞潔でもある。こういう音楽を知りながら、輝かされたり、高められたり、快く堪能したりする機会を見出さない魂の状態というものはないであろう。そして神秘な宝であり、曇りを帯びた鏡であるこの音楽が、べつに逸話とてないような穏やかな一市民、仮髪かつらをかぶったあの肥満した男によってわれわれに供されたことに思い至るとき、私はどうしても純粋音楽についての論争を蒸し返さずにはいられないのである。

     *

 一九三四年の冬の終りごろ出版された或る物語、いわば音楽が主人公になっている物語の
なかで、私は音楽家の二つのタイプを、と言うよりも二人の音楽熱愛家をえがいた。その一人である本職の音楽家は、人が純粋音楽と呼んでいるもの、私か絶対音楽と呼びたいと思っているものを弾いて聴かせながら、烈しい断固たる態度でこの問題を説明するのである。彼は友人のローランに向かってこう言っている、「僕が君のために神殿の扉をあけてやっているのに、君はこの音楽は何を言おうとしているのかなどと、まだそんなばかげた質問をする! ではこれは何を言いたがっているのだろうね、大かもしか君。たぶん下らんことさ。《われらの生まれし瞬間こそ死への第一歩なり》とか、若いセンティメンタルな連中にとっての有名な言葉、《人は落ちたる神なれば天国を追想す》とかいうやつだろう。そんなことがあるものか! だがローラン、君のお母さんが豌豆えんどうと白パンを下さるのは、人間は落ちたる神だということを君に言うためかね。そうではあるまい、ローラン。ね、そうじゃないさ。それは君を養うため、君の体と魂に肉をつけるためだ。」彼はなお追いかけて言う、「音楽は神の意図だ。そしてそれで充分だし、それがすべてなのだ。偉大なゲーテは音楽について言っている。そう、君も知っているだろうが……彼は言っている、《赤い衣裳をまとった人々が階段の上をあちこちしている》とね。ところで君にちょっと訊きたいが、彼らは、詩人という者は、何でも言葉で言い現わせると思っているのかね。そんなことがあるものか。黙って受け取る。それでいいのだ。」
 この「純粋音楽家」の相手である若いローラン・パスキエは、こんなきびしい、一言にして言えばこんな狭苦しい感情にたいして、心の中で抗議をしないではいられない。彼は溜め息をつく。「音楽を天の糧にくらべること、それは僕もよく感じていた。しかし音楽が僕に、このローランに、あらゆる種類のいきいきとした姿を見せたからと言って、時には或る思想、時には或る詩の文句、また時には或る匂いを思い出させたからと言って、更に音楽がその飛行の途中でしばしば地面をかすったり、そこで破れたり、そこで叫び声と共に傷ついたりしたからと言って、僕はほんとうに愚劣で不純な人間だったろうか……音楽が魂の糧以外に実際何の意味も持たないなどということがあり得るだろうか。僕は窓から眺めていた。そして空の小さい四角を認めたが、それはこの音楽に似ていた。きらきら光る膨ふくらんだ雲が一つ、その空のページの上を船のように進んでいた。そして音楽はまさに雲の形をとった。通りの向こう側には謎めいた窓が一つあり、その窓へ、夕方になると、悩んでいる女の青じろい顔が現われるのだった。いつも窓ガラスにひたっているその顔とヴァイオリンの跳躍との間に、ほんとうに隠れた一致があり得なかったろうか。そして窓のいちばん端のところに見られた虜とらわれの花、今にも最後の飛躍を、今にも自殺をしそうなその花は、実にその瞬間、シール(1)の指の下へ泣きに来だのではなかったろうか。」
 こんなにも似たところのない二人の音楽的魂が同じ熱烈さで説いている二つの認識のあいだに立って、もしも自分の考えを言うことを督促されるか、わけてもそれを曝露されるかしなかったならば、私はどちらの側へつくことも好まなかったろう。ところが非常に学殖ゆたかで傑出した音楽理論家でもあるポール・ランドルミー氏は、私が或る音楽会について、またその音楽会が聴衆に暗示することのできたことどもについて書くはめになった数ページを読んでくれ、ついで『タン』紙上の論文の中でそれに註釈をしてくれた。「音楽は」とポール・ランドルミー氏は力強く書いている、「音楽は音楽でない一切のものを考えることを私に禁じる天賦の力を持っている。なんたる解放であろう!」
 解放! これはゲーテが詩を語るために案出したのと同じ言葉である。そして私としては、音楽を讃えるために後ほどこれをもう一度取り上げさせてもらうつもりである。
 そしてこれが、ポール・ランドルミー氏によって僅かな言葉で力強く説き明かされた絶対
音楽の教義である。絶対音楽は、われわれの精神或いは感覚に何ものをも呼び起こさせてはならないだけでなく、われわれを解放し、浄化して、一種の記憶なき涅槃ニルヴァナの境地へ落ちこませるものでなくてはならない。更にポール・ランドルミー氏はそれだけでは満足しない。彼の考えにしたがえば、真の音楽家なるものは劇場においてさえ、音楽をそのすべての感覚的な装置から清め得るほどでなくてはならない。つまりトリスタンやイゾルデの姿を遠ざけなければならないし、どんな意味にも汚されない絶妙な音を味わうために、恋愛の思想をさえ遠ざけなげればならないと言うのである。誰にしろこれ以上のことは言えないだろう。なるほど私は、ランドルミー氏によってかくも見事に断固として説かれている考えに無感覚なわけではない。が、それにもかかわらず、ここまで来ると論争はひとりでに解消してしまいそうに思われる。音楽はわれわれが要求するものを与えてくれる。完全な純粋さの信奉者に、それは忘却を、すばらしい現在をもたらす。また別の者には、限りなく多様な追憶をもたらす。この多様性が或る場合には矛盾撞着するものであっても、私はそれを認めるし、それを欲しさえもする。戦争のときの或る物語の中で、私は二人の負傷兵がいろいろと違った感情にかられながら、彼らの歌友である音楽家たちが演奏するヴァイオリンとピアノのためのバッハの或るソナタを聴いているところを書いた。これらの兵卒の一人はそのアダージョに、悩ましくて悲痛な荘重さをみとめた。ところが別の一人は、これ以上純粋に愉快なものはいまだかつて聴いたことがないと告白した。
 それならばヨーハン・セバスチアン・バッハの音楽、われわれの比類なき巨匠の音楽は、有名な言葉にしたがえば、「人は自分の持って来た物しか見いださない」というあのスペインの旅籠屋にくらべるべきだろうか。否、けっして。そんな陳腐なたとえは私の考えもしないことである。しかしこの音楽がわれわれの魂のあらゆる状態にとってこの上もない避難所であること、それがわれわれの思念に調和ある伴奏をしていること、完成された人間、経験と思い出とをいっぱいに背負った人間の生活に、日は一日といよいよ深くかかわり合っていること、これこそ私が力をこめて言明したいところである。
 私がヨーハン・セバスチアン・バッハの純粋音楽を愛するのは、それがすべての音楽のなかで条件も規定も取りのけもなしに、もっとも気前よく差し出された音楽だからである。それは私から見ると、あらゆる本来の奴隷身分から解放されている。その天才的な創造者は、惜しげもなくそれを私に与えた。私がそれを自分の生活の養分とし、それを自分の生活そのものにするようにと。何か獲物を探しにか、何か夢を求めてか、子供が冒険の森へはいって行く。この子供は他人の空想をよろこんで採用しているのである。彼は自分に親しい幻影を貸し与えてくれる者を愛し、いつくしみ、敬っている。彼はショパンに、ワーグナーに溺れこみ、これら偉大な楽匠たちの暴君のような情熱におとなしくついて行く。彼は『夜奏曲』に耳を傾ける。そしてまったく自然に、何かしらほのぐらいロマンティックな恋愛や、何かしら愛と死への願いに似た感情に支配されている気持になる。彼は『森のささやき』を聴く。するとたちまち英雄主義を、征服を、旅を、詩を夢みる。彼のからっぽな魂は、これら巨匠たちの偉大な声が提出するものを受け入れるのである。
 これに反して成熟した人間、追憶と出来事とをいっぱいに担った人間は、そこに彼自身の夢が落ちつくことを許された壮麗な、ひろびろと開けた殿堂を求める。ヨーハン・セバスチアン・バッハは私に何一つ強要しない。――わけても彼の純粋音楽では。―――彼は私が安らかに歩き廻ったり、まどろんだり、自分の思念や、苦悩や、喜悦や、欲望を高まらせたりすることのできる殿堂を提供してくれる。
 年齢と共に、音楽の大家たちがその席順をではなく――私はそんな不正や忘恩を拒絶する―――、その緊急度と必要度とを変えるのは不思議な現象である。私は二十歳の頃にはショパンを熱愛した。その後彼は影のなかへ退いた。私は彼をけっして軽んじたわけではなかった。いつでも敬っていたのである。しかし彼は私をいくらか当惑させたので、自分の気持や自分の感情と彼とを、そういつでも一緒に住まわせておくわけにはいかなかった。そして、これは認めなげればならないことだが、私の子供たちが青年に達し、ついで大人になって、案内者や神託を求めるようになると、ショパンはふたたび勝ち誇って帰って来た。しかし彼バッハは私の中で大きくなることをやめなかった。人は私が少しずつ生活から離れて行ったために彼が大きくなったのだと思うだろうか。とんでもない! それはまったく正反対である。生活に、感動に、人間的な気持にずっしりと重くなった私が、自分の宝をそこへ下ろそうと思って純粋な音楽を求めたればこそ、彼は大きくなったのである。
 私はたった今、絶対音楽の信奉者たちの崇高な脱俗ぶりにけちをつけるためにではなく、音楽が私の目に描いて見せるものを説明するために、ヨーハン・セバスチアン・バッハの音楽は私の持つすべての思想、私の生活上のあらゆる行為、そして私の決意そのものにさえ混じりこんでいるということを述べた。その音楽が私の決意を曲げたり、私の行為を修正したりすることのあるのは承知の上である。私が苦しみか意気沮喪の瞬間にヨーハン・セバスチアンを呼び出し、彼に祈り、彼に訴え、彼に助力と勇気とを求めたことは度々あった。至高の音楽にたいして示されたこんな信頼が、もしも絶対主義者諸君の軽蔑を買うとしたら残念だが、それでも私は認める。そうだ、私は認める。ヨーハン・セバスチアンが私にいくたびか勇気を与えてくれ、有頂天な喜びではないにしても、少なくともなだめは与えてくれたことを。
 私は一般に音楽にたいして、とりわけこの偉大な人の音楽にたいして、人生を忘れさせてくれることを求めはしない。私が彼に求めるのは、むしろ人生を正視し、人生を理解し、何はあれこの人生を愛そうとする上で私に力を貸してくれることである。
 音楽がわれわれの魂の状態を晴れやかにする上に深い隠れた力を、時に恐るべき力を持っていることは疑う余地がないし、また或る種の精神状態を創り出す憂慮すべき力を持っていることも、不安ではあるが明白な事実である。私は読者諸君を安心させたいという気持からも、予感というものの発生とその進化とにおける音楽の役割のことを、少なくともこっそりと、ここで述べておこうと思う。
 私は信じるのだが、音楽はわれわれを人生から引き離さないばかりか、われわれをそこへ連れもどして、目もくらむほど興味をあおる力を持っているために、それはまたわれわれの内にまどろんでいる思い出を呼び覚ますだけでなく、われわれの未来の深淵の上にしばしば驚くべき穴をおけることさえあるように思われる。すなわち、音楽がわれわれの中で予感の戯れに手を貸すのである。私は音楽が百回も自分にたいして未来のとばりを引き裂くように思われたことを言わなくてはならないし、またそれが私に真実を示さない時がたびたびあったことも即刻付け加えておかなければならない。一九三〇年のことだが、私は『伴奏楽器つきのカンタータ集』の美しい譜本を発見する機会を持った。それはその年の春と夏じゅう、私の家族と私自身とをいっぱいに満たした。夏の終りごろ、私は家族の者たちと一緒に驚くべきカンタータ『おお優しき日よ(2)』(O holder Tag)の中の一節、ソプラノと、オーボエ・ダモーレと、ヴァイオリンと、クラヴサンとのために書かれた「ここに憩え」(Tuhet hie……)を思いきって演奏してみた。ところがこの本当に胸を引き裂くような音楽は、あまりに深い悲哀のなかに私を沈めたので、何か或る不幸が家族や自分の上に襲いかかって来るのではないかと思うほどだった。その後いくらか安心する時期も来たが、真に胸をしめつけられるような思いなしには、いまだにこのカンタータを歌うことができない。
 一九一六年のこと、五日間の休暇も果てて、私はあの忘れがたいセレナード、ムソルグスキーの『死の歌と踊り』の中にあるセレナードを、心中深く秘めながら軍隊へ帰って行った。
 この陰鬱なセレナードのことを考えると、私はじきに殺されるのだという確信に達するのだった。死は私を免除した。しかしこのセレナードのために開いた傷口は二度と癒着しなかった。
 ほかのどんな時よりも、今私が到達しているこの時期にこそ、あの老いたる合唱長カントールの音楽、ヨーハン・セバスチアンの音楽は人間的な意味を持ち、私が生きなければならないこの混乱した世界をはっきりと見るように力を貸してくれるのである。私はしつこいくらいに、ヨーハン・セバスチアン・バッハの生涯にはすべての情熱が、すべての観念が、われわれが彼の作品に好んで宿らせようとするすべての情感が欠けていたらしいということを述べた。それは無人ではあるが見事に建築された大伽籃のように、その作品が一つの神々しい振動、或る敏感で強力な反響によって、われわれの魂のあらゆる動きに答えてくれるということである。
 こういうのが芸術家たる者の至上の役割だと私は信じている。私は言葉のむずかしい芸術の中で自分というものを試みてきたので、そんなことを瞑想する機会をたびたび持ったのである。私はしばしば読者からこんな晴れがましい、親しい言葉をもらうことがある。「あなたはご自分の或る本の或る箇所でおっしゃったことの深い意味を、ご自身知っておいでではないのでしょう。」こういう一風変った打ち明けも私を笑わせない。私の描いた或るものが、或る選ばれた魂の中に、これまで私の想像したこともないような、また今後もおそらく想像しまいと思われるような、未曽有の反響を呼び覚ますということもあり得るからである。私の仕事について瞑想するという友情を示してくれる人たちは、私の名の上、私の頭の上、私という人間の上に、徳の、欲求の、夢の、すばらしい資本を投じてくれるのである。そしてその資本は、もちろんその人々の物として残るのである。私は時に自分がそれに値いしない人間だということをあえて認めようとは思わない。もっと正しく言えば、私という人間は、時には自分を取りかこみ、時には自分からはみ出す或る感情の、その口実だと思うのである。
 私は強く公言するためにヨーハン・セバスチアン・バッハヘ立ち帰ろう。すなわちこの音楽家、私の見るところすべての音楽家の中でもっとも偉大なこの音楽家は、人類に対してこんなにも美しい、こんなにも多様な、そしてこんなにも豊かな口実を与えてくれたので、われわれはその中へ自分だもの魂をそそぎこんでも、それがこんな素睛らしい壺から溢れ出すおそれは決してないのである。
 その上彼は、音楽に仕えるあらゆる人々にたいして鷹揚おうような考えを持っていたように思われる。少なくとも諸君が下品な楽器に努力を向けない限り、ヨーハン・セバスチアン・バッハは、諸君のために何かしらを作曲してくれたということを知るがいい。彼の作品はいかなる器楽家も、明白に自分たちのために書かれた幾ページかをそこに見出すことができるほど豊富である。たとえどの楽器も演奏できなくても、君は声を持っているのだから、君の最大の喜びのためにそれを役立たせることを学ばなくてはならない。その時バッハの作品は、君にとって無限の、ほとんど信じられない程の貯えとなるだろう。重ねて言うが、彼は、もしも君が一人ならばその一人である君のために、またもしも皆が一緒に集まって、合唱によって世界の偉大さや生きることの偉大さを讃えようという気ならば、そういう大勢の人たちのために何かしらを作曲しているのである。
 なぜかと言えば、音楽は何よりもまず、褒め讃えるために人間に与えられたものだからである。その点、私は絶対主義者諸君に、人間性を喪失した音楽の信奉者諸君に、もう一度ゆるしを乞わなくてはならない。音楽は感恩を表明するためにわれわれに与えられたものであり、称讃と感謝との中で自分たち自身を高めるために与えられたものである。私の親しい友人の一人である画家ジョフロワ・ドゥショームは、その頃イギリスを旅行していたが、女の児が生まれたということを知って―――それは美しくてしとやかな一腹ひとはらの雛ひなたちの中の十番目の子だった―――、急いで帰国の途についた。彼は夜なかに自宅へ着くとまず妻君に挨拶をしたが、やがて家族がみんな集まって、ヨーハン・セバスチアン・バッハの或る衆讃曲コラールを楽しく歌いはじめた。それ以来この気持のいい家庭の友人たちの誰も彼もが、この女の児の名にちなんでシルヴィーのコラールと呼ぶようになったそのコラールを。
 純粋か不純か知らないが、私としては、ここに完全にして輝くばかりの徳を発揮した真の音楽を見るのである。
 或る日私は彼を訪問したが、心配事のありそうな、悲しげな、苦痛と絶望すれすれの顔つきをした私を見て、今述べたあの同じ友だちが突然叫んだ、
 「デュアメルは悲しそうだ! それならわれわれの新しいバッハを歌って聴かせよう」と。それは「善き羊飼いのあれば羊ら安んじて草を食む(3)」(Schäfe könnenn sicher weiden……)のカンタータだった。家族全体が私のために歌った。そして私は自分の荷が軽くなり、ほとんど癒やされたことを今も認めないわけにはいかない。
 最高の音楽の力というものは、正にこういうものなのである。

(1) 〔訳者註〕『パスキエ家年代記』の中に出て来るローランの妹でピアノの名手。この時はまだ天才的な少女。
(2) 〔訳者註〕バッハの世俗カンタータ。(BWV 210)
(3) 〔訳者註〕バッハの世俗カンタータで一般に『狩のカンタータ』(BWV 208)と呼ばれている作品の中の女神パレスのアリア。

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 二 わが若き日の魔法使い

 私が初めて魔法使いに出会ったのは、暗い洞窟の中でもなければ、まして山の頂上や、雷雨の日の硫黄の気をふくんだ水蒸気のただ中でもなく、夏の晴れやかな或る日のこと、花の精たちの園ではないが、事実美しい娘たちの姿がなくはなかった或る庭園の中でだった。
 それはリュクサンブールの庭で、新しく始まった世紀の最初の年、一九〇一年の五月だか六月の午後四時ごろだった。私はまだ学生だった。私は、木曜日にはきまって一団の軍楽隊がほんのりと暖かい蔭に包まれて一生懸命にやっている、音楽堂のまわりを歩くのが好きだった。その日私は一人だった。珍らしくも一人で、何か或る使信メッセージを受けとる用意のできているような解放された精神と屈託のない心。私は放心した穏かな耳で、金管楽器とクラリネットの演奏を楽しんでいた。と、その時とつぜん、その音響の宇宙のなかで、何か全く尋常でないことが行なわれているような気がした。オーケストラはちょっと休止してまた演奏を始めたのだが、それは今までに私の聴いたことのあるものとは似てもつかないものだった。それは規則正しいリズム、魂をとらえて揺ったり、飛躍や調子の巧みな繰り返しによってそれを高揚させたりする、あのダンスのリズムではなかった。それはむしろ色々な楽想の集合から成る一種の演説か、もっと正しく言えば物語であって、生ある物の心置きない運動がそうであるように、止まったり、また続けたり、拍子と動きを絶えず変化させたり、音を、いわば光を飛び上がらせたり、長々と嘆いたり、対話をしたり、喧嘩をしたり、果てしなく理屈を並べたり、英雄的な決意を見せたり、嵐を起こしたり、鎮まったり、要するに私がそのころ音楽という芸術に対して抱いていたひどく素朴な観念を、ひっくり返してしまうような何物かだった。
 私はまずびっくりし、ついで狼狽し、それから急速に征服された。私は閑人ひまじんの群衆のあいだを、耳をそばだて、心を集中して、この偉大な音の洗礼から何物をも失わないように、心臓の鼓動をおさえながら歩いた。オーケストラが終ると私は曲目を調べに行った。そして今聴いたのが『ヴァルキューレ』の一部であること、正確にはその最後の幕の終りであることを読んで知った。
 そのころ私は音楽に対してひどく生き生きとした、甚だ自然な趣味を持っていた。しかしどんな音楽教育も、初歩的な教育さえも受ける機会がなかった。―――私が楽譜をすらすらと読めるようになり、或る楽器を奏することができるようになったのはずっと後のこと、ずっとずっと後のことで、やがて述べるように、戦争の最中、三十二歳の時だった。――私にはまた一人の友だちもあって、それがピアノを相当に弾き、お互いの暇な時、古典音楽についての知識を喜んでつぎこんでくれた。ワーグナーのものも有名な曲をいくつか聴いたが、代表的なものとは言いかねた。しかし或る日、リュクサンブールの庭で兵隊のつつましやかなオーケストラから啓示されたものこそは、その後数年という間私の趣味を指導し、私の思想をいろどり、私の喜びを活気づけ、そして私の宇宙にさまざまな秘密の法則や、或る光や、或る雰囲気や、或る調和を与えることになった魔法使いの本当の声だったのである。
 或る音楽作品に好奇心を持った子供がいるとする。今ならばその子を飽き足らせたり、更にその子が自分で教養を得たりする方法がいくらでもある。旅行することができなくても、オペラ座へ行くことさえできなくても、少なくとも彼がパリで、こんにち無数にある音楽会場へ出入りすることは可能である。最後に、そしてなかんずく、彼はレコードやラジオに、比較的小さくはあるが繰り返しのきく満足を求めることができる。そしてそれが賢明に選ばれたり受け入れられたりするならば、そこに教育的価値が全然ないわけではないということを私は認めたい。
 ラジオは、一九〇一年には、アマチュア音楽家の関心のなかに何らの席も占めていなかった。レコードはどうかと言えば、これはまだ小さな完成を見た一商品にすぎなかった。私は大通りに自動酒場によく似た店が幾軒かあったのを覚えているが、そういう店へ行くと、ごく僅かな金で、聴音器を使って耳の孔へ、自分の選んだあれこれの歌を流しこませることができるのだった。青年時代のその頃、一人の音楽気違いの友だちとぶらぶら歩きをしている途中、或る主題、或る音色、または或るテンポのことで疑いが起こると、ちょうど辞書を引くようにエボナイト管に訊ただしてみるために、そういう店へ四回か五回行ったものである。いや、機械の音楽は私のために何の救いにもならなかったし、私の趣味の形成や、リヒャルト・ワーグナーヘの生まれたばかりの熱情に対して、それが何の助けにもならなかったと、私はこんにち言うことができる。
 このリュクサンブールの散歩や、『ヴァルキューレ』の第三幕――それはいくらか略されたものだったが――を聴いて高められた潑溂たる感動を思い出したのは、学生で、猛烈な音楽狂で、ワーグナーに対して排他的で野蛮なくらいの崇拝を公言していたシュラーという名の、大きな子供と知り合いになった時だった。
 シュラーは古いカルティエ・ラタンの或る小路の、賃借りピアノで武装した狭いごたごたした一室に住んでいた。彼はほとんど一日じゅうこの殉教者のような楽器を前にして、あの巨匠の作を読んでいた。彼は骨ばった、しなやかさはないが力のある大きな手をしていた。彼は一種宗教的な焰に燃えていたので、私はじきに自分が彼の紫檀の箱につながれてしまったのを感じた。われわれはワーグナーの曲目の重たい総譜を一場一場、一幕一幕と読み解くことで長い時間を過ごした。私は今「われわれ」と言ったが、それは私が消極的にてなく、張りつめた、またしばしば貪欲なほどの注意力をもって、この種の宗教儀式的な饗宴を共にしようというまじめな気持を持っていたからである。ワーグナーを大演奏会や劇場での立派な演奏でしか知らない人は、疑いもなく手ほどきの段階で或るものを、おそらく最も重要なものを欠いているように私は今でも思っている。隣席の人間もなく、劇場内での偶発的な出来事もなく、舞台装置や、衣裳や、そういう物の厭いやらしい写実もなく、われわれはそこで、魔法にかかったような堅い結合の中で、この驚くべき音楽や互いの夢の人物たちとだけ生きていたのである。何ものもわれわれを傷つけず、何ものもわれわれの感奮を妨げなかった。総譜の歌詞はドイツ語の原文だった。それをわれわれは余りよく理解できなかったが、少なくともフランス語の翻訳とその膨ふくれ上がったばかばかしさだけはまぬがれた。若いジークフリート、血まみれの胸をしたトリスタン、白い亜麻の長衣を着たパルジファル、ラインの娘たち、黒雲の神々、地底の暗い悪魔のむれ、私が自分の生涯の一部を共に生き、歌い、争ったそういうすべての人物を、小さな花と帯の模様のついた壁紙が、われわれの夢想のとおりに、宮殿や、庭苑や、船や森や、自然のほんとうの装飾、ワーグナーの伝説にぴったりした唯一の装飾を見せてくれた、あの平凡な部屋でより以上に私はよく見たことはない。
 シュラーは私の教育がもう充分だと見てとると、今度は日曜日の午後に、私をシャトレーへ連れてゆくことを始めた。われわれの席は天井桟敷パラディだったが、時にはそのいちばん前の列を占領する機会もあった。互いに体を押しつけ合い、総譜を膝に、ぽかんとあけた口から唾の糸を垂らしながら、辛抱しきれない気持で、われらの選ばれた巨匠が寺院のなかに出現まします瞬間を待つのだった。私はそこで、自分のいつもの指導者の家具付き部屋でよりももっと生き生きした、もっと純な喜びを感じなかったことは確かだが、もっと巧妙で、もっと純粋に音楽的なものを経験したのである。
 そのころ私は、非常に有能な音楽家で教会の聖歌隊長で、作曲家でもあるアルベール・ドワイヤンと知り合った。彼はその後三十年間私の友達だったが、或る美しい、真に尊敬すべき作品を残して一九三五年に死んだ。ドワイヤンは確かに折衷派ではなかった。彼はきっぱりとした、燃えるような、しばしば不公平とさえ言える好みを持っていた。彼はワーグナーを愛して、驚くほどこれに通暁していた。そのピアノの扱い方は知的で、すこぶる暗示的だった。すべてのワーグナー愛好者同様、彼も自分の情熱を表現したり高めたりするために声に出して歌った。けだしワーグナーを思い出すと、われわれは誰しも歌うのである。主題を挙げたり、転調を際立たせたり、音色を味わわせたり、独唱ばかりでなく総唱の部分も歌ってみたくなるものである。ワーグナーの愛好者は誰でもその咽喉のど、鼻、唇、身ぶりの助けをかりてオーボエ奏者、ホルン奏者、トランペット奏者、ティンパニー奏者になる。ドワイヤンは弱い、くすんだ、いくぶんズーズー弁の、震え声の持主だった。しかしそれは彼がイゾルデや、マルケ王や、トリスタンの役を歌う妨げにはならなかった。彼は合唱というものに非常な偏愛を持っていた。そして一方のパートから他のパートへ熱と確信とをこめて移って行くので、われわれはその全体をそっくり聴いているような気がするのだった。時には妻君のフシェルさんが悲壮なコントラルトの声を聴かせることがあった。われわれは夢中になり、その魅力に圧倒された。ワルハラは触知しょくちすることのできる現実となって、劇場でのように布片きれとボール紙の作り物ではなかった。私は中休みのたびにささやいた、「次には僕たち何をやるの? 僕たち今度は何を弾くの?」と。この「僕達」は無邪気なものではあるが――後にまた述べるとして――、誰をも驚かせはしないだろう。私はその頃から、聴衆のすぐれた役割ともいうべきものに対して或る高い観念を持っていた。すなわち天才は、自分が魔法にかけたいと思う相手をそのテーブルに招く。そして相手が彼ら自身も作品に協力し、単に観客であるだけでなく、一つの世界の創造の中でその俳優でもあるのだという楽しい感情を常に抱くようにさせる、と、そんなふうに思っていたのである。
 ワーグナーは自分の作品の演出に関してはすべて非常に厳格だった。われわれは彼が何であれ偶然に任せることを肯がえんじず、ごくちょっとした衣裳の細部や、器械のきわめて小さな仕掛けをさえ自分で調整したことを知っている。それでも私はこうした音楽のミサのあいだ、彼がわれわれと一緒にいたこと、われわれの中にいたことを確信する者である。彼の影はわれわれを否認するどころか、われわれを慈み、われわれを援助し、われわれに霊感を与えてくれたと言うのほかはない。なぜかと言えば、われわれはあらゆる地上的な花々しさから不思議なほどに解放されていたのだから。われわれの熱情の純粋さが、われわれに一つの宇宙を創り出したのである。それを思えばどんな劇場も、薄い皮膜で作られた建て物にすぎない。

     *

 私は魔術師(magicien)とは言わずに「魔法使い」(mage)と言った。それは単にコルネイユや古い詩人たちのように言うためではなく、特に言葉をもっとも強い意味で使うためであって、妖術者や怪しげな降神術者を指してでなく、僧侶や王を、新しい宗教のあるじを示すために言ったのである。宗教と魔法との関係をじつに申しぶんなく研究したサー・ジェイムズ=ジョージ・フレイザーは、『王権の魔術的起源』と題する一冊の本を書いている。われわれのワーグナーにも彼の媚薬、呪文、占い、誓い、契約、予言、お守り等があるが、彼が思想と芸術との王たちのあいだに伍したのは、人類の一世代乃至数世代のために魔法を使ったからである。
 この魔法の秘密を分析してみようという企ては、むろん容易なことではないと同時に、おそらく無作法でもあれば冒瀆でもあるだろう。この魔法の原理の中に、研究に対して還元不能な要素がいくつかあることは疑いを容れない。ワーグナーは音を使うのに、他の音楽家たちと同じやり方をしていないように思われる。私はそれを言おうか。あえて言ってみようか。すなわち、ワーグナー、それは音楽ではないのである。精神的にも、また生理的にも、真の音楽とは別なものである。それは一種の甚だ神秘的な錬金術である。私は妻にワーグナーの或る楽劇を聴かせたとき、彼女がまずいきなり私に言った「おお、美しい音!」という驚嘆の叫びを理解できる。それは実際、場合によれば、人間の声や理性よりも自然の音、自然の偉大な声に一層近いのである。
 もしもワーグナーの作品が青年にたいして或る非常に強力な作用を及ぼすとすれば、それはその作品があらゆる瞬間に偉大さの感情を与えるからだということは疑いの余地がない。他の音楽家たちの場合には欠点や悪辯と見えることも、ワーグナーの場合にはそれが勝利の要素でもあれば条件でもあるのである。ワーグナー好きにむかって、彼のすべての作品及びその驚くべき楽劇のほとんどすべての場面に特徴となっているあの長たらしさを語ることは、彼らを怒らせることになるだろう。ところで他の音楽家たちの場合だと我慢のできないものに思われる長たらしさというものが、ワーグナーの場合にはわれわれの至福の原因の一つとして受け入れられるのである。長たらしさは、この種の催眠状態――――私は半睡状態とは言わない―――ヘと信者たちを陥らせるのに必要なもので、このお蔭で非常に上手な魔術師はわれわれに毒を飲ませるのである。
 しかし分析をのがれるように見えるこうした力を別にしても、ワーグナーの作品には、その出所が謎ではないようなまた別の力がいくつかある。そしてこの巨匠の註釈者たちが大げさにもワーグナーの主題構成法テマトロジーと呼んでいるものが、知的な青年らの上に及ぼした作用も軽んじてはならない。
 音楽作品は常にテーマ、或いは音楽的主題シュジェの存在の上に置かれていて、そのテーマが創造的意図の進行そのものにつれて提示されたり、展開されたり、変形されたり、修飾されたり、捨てられたり、また取り上げられたりするのである。思想の動きを確かなものにし、或いは、もっとよく言えば、それの運搬具の役を演ずるテーマなるものが、あらゆる時代に絵画や文学の場合同様、音楽の場合にも、動機モティーフという正しい言葉で呼ばれてきたことは充分に理解できる。しかしワーグナーが現われるに及んで、この動機という言葉はたちまち彼の専用となり、その財産、その個人的な所有物となってしまった。まるで彼以前には動機などというものは存在しなかったか、少なくとも意味もなければ真の力も持たないものであったかのようにである。動機は創造的機能の本質そのものになった。それはライトモティーフ或いは示導動機の名のもとに、作品にたいする数知れない多様な鍵のような物になったのである。
 単なる音の喜びは若い魂を満足させない。青年はすべてのものに知的な証明を見出さずにはいられない。そこで巨匠は彼らの感覚を楽しませると同時に、彼らを誘惑しなくてはならない。こうした音の論理のからくり全体が、そのむかし自分を呪縛する上に少なからず寄与したことをこんにち私ははっきりと認めるのである。
 憐れみの情が女を恋愛に導くということは、心理的な面からすればほとんど平凡な真実である。この真実を若返らせようと思う詩人は、そこへ新しい発見の宝物たからものを捧げなくてはならないだろう。しかし音楽の領域では、この真実も非常に独創的な、非常に感動的な何ものかになる。言葉は仲に立ちさえしない。ジークリンデの同情は、その連続する波のような音形でわれわれの心へ滲みこみはじめる。そして突然、或る感じられない程の、自然な、逆らいがたい、微妙な旋律の鎖によって、同情のテーマが愛のテーマへと繋がれてゆく。この二つのテーマは非常に美しいものだが、若い知性にとっては、聴覚の喜びは理解の喜びによって、言わば倍加される。つまり耳の享楽に知的な享楽が加わるのである。
 一人一人の人物がそれぞれ固有な音楽と、響きと、気に入りの音色を持っていることは、それが初めて登場した時にはあれほど込み入った、あれほど難解なものに見えた世界へのわれわれの接近を容易なものとする。しかしこういうテーマはいずれも不動なものではなく、彼らは生きていて姿を変えるのである。これが若い聴衆の精神にとって何たる感嘆の材料だろう! ニーベルング族の小人こびとミーメが劇中の他のすべての人物と同じように、彼のテーマを持っていることは言うまでもない。しかし今見るように熱心な聴衆にとって、それが何とすばらしい発見だろう! ミーメは小さくてほとんど匍っている。そこで彼のテーマは三度音程の楽譜で奏される。ミーメは鍛冶屋である。そこで彼のテーマは鉄砧かなとこを打つ鎚つちの響きを完全にまねている。これは実際大したことではないだろうか。しかしそれだけではない。ミーメは跛足びっこである。そこでテーマはびっこを引いたり、ぴょんぴょん跳ねたり、飛んだり、足を引きずったりするのである。最後にミーメは狡猾で、不実で、裹ぎり者で、嘘つきという性格の人物である。そこで主題は悪魔のように変幻ゆたかで、よく動いたり変化したりして、捉えがたい。熱狂的な初心者にとって何とすばらしい発見の機会だろう!
「ライン河のテーマ」が連続する波の形をとって原始的な変ホ音、基本的な純粋音で出て来ることは人も言うし、本で読んだり聴いたりして知ってもいるし、また理解もできる。しかしこのラインのテーマが自然に「黄金」のテーマ、「水の精」のテーマ、「剣」のテーマ、「電雷」のテーマを生み出すということを、解説者の親切によってかよらないでか発見するに及んで、われわれはこんな切実な論理にとらえられ、眩惑され、征服されてしまうのである。そして、もっと後のほうで、「神々の没落」のテーマと言われているテーマが、ほかのと同様明らかにラインのそれから出ていることに気がつくと、われわれはこの音楽的構築の壮大な美に感動すると共に――冗談でなく言っているのだが――、こんなにも多くのすばらしいことをわからせてくれる自分たちの知恵というものの、驚くべき能力にも感心してしまうのである。
 ワーグナーのイデオロギーが、魔法使いの成功のなかで小さくない役割を演じていることは大いに認めなくてはならない。伝説はいたるところで、あたかも楽しみのためであるかのように、錯雑し、からみ合い、もつれ合い、絶えまのない復帰や、説明の補足や、紛糾した註釈に枝分かれした挿話エピソードに富んでいる。こういう点はいずれも初心者の勇気を挫くじかずにはいない。しかし最も複雑な家庭争議よりも更に漠としたこれらの劇の一つ一つは、或る非常に単純なシンボルの上に置かれているので、それをちらりと見ただけで、どんな改宗者も一つの本当の至福にひたってしまうのである。つまり、富は常に世界の不幸をもたらすだろうとか、未来は純な心情の中にあるとか、いかなる徳も愛の熱情には立ち向かえないとか、女には好奇心を抑えることができないとか、天才は規則の埒外らちがいに生きて栄えるとか、その他いろいろなシンボルの上に。
 こういうことを読みながら、私がワーグナーの象徴手法を初歩のものと断じているとか、そのために熱狂の数年の後、それを否定するに至ったとか思って下さらないように。そうではないのである。ワーグナーのイデオロギーは、見かけの複雑さにもかかわらず結局甚だ簡単なものであればこそ、すこぶる力強く、またすこぶる美しいのである。洗練されたドイツ語学者は、文筆家としてのワーグナーは読むに耐えないとわれわれに説くかも知れない。しかしそんなことはいささかも重要ではない。ワーグナーは、神話や伝説の偉大な創造者であるがために、また或る種の永遠の真理に一つの決定的な形を、生の推進力を与えたがために偉大な詩人なのである。

     *

 このイデオロギーへの私の熱情は、初めから多くの教師たちによって注意ぶかく培つちかわれてきたものである。音楽堂に親しみ、ついでわれらの国立歌劇場の最上階に親しんだ私は、純粋な人々の集まりの中を游泳することをしはじめ、信念を持った学者たちに遭遇した。彼らのうちの最も信念強固な幾人かが、私に本を読むことをすすめた。今ではもうほとんどすべて忘れてしまったし、長い間に失ってもしまったが、とにかく私はたくさんの書物を買いこんだ。しかしその中の一冊だけが私の記憶に痕跡をのこしている。それはルイ=ピラート・ブランゴーバストという名のすぐれた専門家の著書だった。――私はこの名を記憶で書いているので、あるいは正しい綴りを誤っているかも知れない。―――
 それは厖大な著述で、少なくとも八ツ折り版のぎっしりと詰まった本だった。そこではあの巨匠の作品は、単に解説され、讃美され、褒めちぎられているばかりでなく、過去、現在、未来にわたって出て来る可能性のある、またそう想像することのできるあらゆる敵から防衛されていた。著者は全世界に挑戦したり、それを皮肉で圧倒しないではただの一章にも触れなかった。「諸君は新しい天才的な叙情芸術を欲するか。それとも否か。もしも欲しないならば直ちにそれを言うがよかろう。またもしも欲するならば、文句を言わずに、新しい音楽の神の一切の要求に従わなければならない」と、こうである。
 私はこの尊大な口調が自分に気に入ったことを、こんにち喜んで告白する。私はまたラヴィニャック氏のものも読んだ。私はあの頃の皆と同じように、その驚くべき巻頭の句を暗誦していた。「人はバイロイトへ足でなり、馬でなり、車でなり、自転車でなり、或いは鉄道でなり、その欲する物で行く。しかし真の巡礼はそこへ膝で行かねばならないだろう。」
 こういう熱狂的な読書は、私を少しずつ若い見習い僧から使徒へと変えていった。そして自分の信仰と真新しい知識とに力を得た私は、入門者を募ってそれを教育することを始めた。その中の一人などはひどく世話も焼けたが、すこぶる私を面白がらせもした。それは私の友達だった医者で、芸術や文学の教養を身につけたいとまじめに願い、感じ易いというよりもむしろ利口な男だった。彼は音楽上の記憶力を持っていなかったが、これは一箇のワーグネリアンにとって遺憾な傾向だったと言える。なぜならばいやしくもワーグネリアンたる者は、いきなり言われてもすぐに「愛の感激」や「ヴェールズングの災い」のかなり多音的なテーマを歌えなくてはならず、またそれを「ヴェールズングの勇気」のテーマや、更には「ヴェールズングの一族」のテーマと混同してはいけないからである。
 この改宗者で新ワーグネリアンの医者である友人は、時どき私をオペラ座へ連れていった。彼は私から劇の進行や事件の移り変りについて説明をしてもらうことを条件に、私のために座席を一つ取ってくれた。彼はハーモニーの潮うしおの表面に漂流物のように浮かんでくる或るテーマに時どき気がついた。そんな時、彼は私の耳のところへ身を曲げて言うのだった、「あのテーマ、あれは何のテーマかね。」私は低い声で手短かに答えた、「死の告知。」彼はわかったというようにうなずいたが、一方私たちのまわりでは気分をこわされた愛好者たちが、われわれの短かいやりとりよりも遙かに騒がしい「シッ!」という声で沈黙を強いるのだった。
 今でも劇場か音楽会でワーグナーが演奏されている時、観客或いは聴衆の一人が隣席の人のほうを振りむいて、何かひとこと急いで言っているのを時どき見かけることがある。私はその言葉がいつでも同じだということをほぼ断言してもいいだろう。それは、「あのテーマは何ですか」という迷ったお弟子の永遠の質問である。そして理解しようと願うその人たちに、私は寛大な気持を持つのである。

     *

 膝で行かないまでも、少なくともこの足で、私は喜んでバイロイトへの芸術巡礼をしたことだろう。なぜかと言えば、生涯のそのころ、私は手に杖を、背中に袋を背負って、中央ヨーロッパを遍歴することを始めていたからである。私は、この話の中で述べる必要もない理由のために、ベルリン行きを選んだ。私は一九〇七年の晩夏と初秋をそこで過ごした。ベルリンの歌劇場は週に三回ワーグナーの作品を上演していた。それは優秀なもので、私は大変喜ばされた。ワーグナーの最も純粋な伝統をうけついだ俳優たちが、私の心を奪うような仕方で歌ったり演じたりした。私はヘルツォークという女流歌手が美しい姿でイゾルデを演じたことを思い出す。死の瞬間が来ると、彼女は型どおり恋人の死骸の上にくずおれた。彼女は、むろん入れ毛には違いないが、たっぷりある、すばらしく整えられたブロンドの髪をしていた。そしてその髪の毛が、この実に悲痛な場面の最後の数小節が奏でられている間におもむろにひろがって、最後の持続低音ボアン・ドルクの顫ふるえと共に、フットライトの光を浴びながら静止するのだった。
 私はこの芸術と演出との奇跡のことをたびたび話したが、それは記憶の鮮明さや、完璧への愛や、何か知らぬが自然な想像といったようなものが、この素晴らしい同時性サンクロニスムにいくらか力をかしていたのかも知れない。それはどうでもいい! しかしこの場面は私の記念画帖の中でじつに申しぶんなく美しいので、事実の正確さやその可能性を疑う気にはとうていなれない。われわれの夢だけが現実なのである。それだけが歴史の中に書きとどめられる価値を持ち、それだけが永遠にそこに残るに値いするのである。
 ワーグナーはその頃私の生活上のあらゆる行為やあらゆる思念に深く深くまじりこんで、友人たちや私自身の間で一つの秘密のようになっていた。私は時どき未知の人や、あまりよく知らない人の前で、何か或る有名なテーマを口ずさむことがあった。そんな時、もしもその人が耳をそばだてさえしないと、私は彼を外国人のように、或いはもっと悪く、どこか野蛮国からの使者のように、冷めたい眼で見るのだった。或る夕方、私は乗合自動車の二階席でわれらの大魔法使いのテーマの一つを口笛で吹きはじめた。夜は澄んで、おだやかで、比較的静かだった。すると二階席のむこうの方から一つの口笛が、一音ごとに、一アクサンごとに私に答えた。私の心は喜びに溢れた。私は世界の未来が保証されたような気がし、疑いもなく自分たちが普遍的な一致と調和との時代にむかって進んでいるのだという気がした。
 私に結婚の時が来た。そしてワーグナーは当然私たちにその場その場の音楽をすべて提供した。われわれは目覚めのための、夜のための、食事のための、仕事のための、それぞれのテーマを持っていた。その頃アンドレ・アントワーヌの寄宿生だった私の妻は、オデオン座の舞台へ出ていた。夕がた、芝居のはねる刻限になると、私は彼女をさがしに行くことがあった。楽屋まで登って行くには時刻が遅すぎるような時には、私は小さなロトルー街にある本屋の店を背にして立ちながら、『ジークフリート』の第三幕の或るえもいえないテーマを口笛で息もかぎりに吹くのだった。フランスの註釈家たちによってこの上もなくまずい定義を下され、私がドイツの上演目録から「妻の動機ヴァイブモティーフ」という摂理のような、申しぶんなく正当な名のもとに見つけ出したそのテーマを。
 或る日私は、ジークフリート・ワーグナーがみずから指揮をすることになっているサル・ガヴォーの演奏会の予告を見た。私はセーヌの右岸へ出かけて行った。会場は満員で、一つの座席を見つけるのもやっとのことだった。ジークフリート・ワーグナーが現われた。中ぐらいの背たけの男で、青じろい、いくらかぼってりした顔をしていた。時どき仕事の必要から頭をまわすことがあったが、そういう時ちらりと、あの魔法使いの鷲わしの横顔がみとめられた。私はくりかえして言うが、それはちらりとであって、すべては忽ち消えたのである。演奏会の第一部はジークフリート自身の作に捧げられていた。それは丁重に、しかしほとんど冷やかに迎えられた。ついで第二部になったが、今度はあの魔法使い、あの偉大な本当のワーグナーの作品だけを含んでいた。それは最初の曲から勝利の嵐だった。私はジークフリートがその父君の作の演奏をりっぱに指揮したことを認めなければならない。それにしても演奏会の第一部と第二部との間に見られた雰囲気の変化があまりに突然で残酷なので、この父親の名声のもとに、それなくしては彼自身何者でもなく、またこのような時には彼を堪えがたくさせるに違いない父親の名声のもとに永久に押しつぶされているこの息子の気持を、苦痛なしには想像できなかった。私が自分の数すくない劇作品の一つ、一九十二年にオデオン座でアントワーヌによって演出された『立像の影で』の着想を得たのは、実にこの演奏会でのことである。こういう事実を述べるのは、ワーグナーが単に私の思念にだけでなく、同様に仕事の中にもまじりこんでいたことを示したいからにほかならない。私はこのことでむろん赤面などはしない。私と同年輩の者にとって、それはすばらしい糧だったのである。そして音楽的感覚が不足していたために、そこから栄養を採ることをしなかった若い芸術家たちを私は惜しく思うのである。

     *

 私は自分の青春時代のことを語った。ところでたとえワーグナーが私の若き日の魔法使い―――――そうだ、あえて繰り返して言うが――、魔法を使う者、祭祀を執り行なったり人を統治したりする者であったとしても、その同じワーグナーが、今のように成熟した年齢の私にとっては、もう魔法使いではなくなったというふうにとられるかも知れない。
 しかし事柄はそう簡単ではないのである。私が実り、私が老いたこと、それはほんとうである。私の精神は別のいくつかの旅へ出た。正直に自分に聞いてみると、私は自分が今では最もしばしば天空の別の一点を、新しい星座のほうを眺めていることを認めないわけにはいかない。今私が欲しいと思う音楽は、疑いもなくもっと魔術的でない、もっと純粋な、もっと天上的な、知性の幻惑から明らかにもっと超越した音楽である。私には青春時代のワーグナーよりも、一層しばしばバッハかモーツァルトのほうが心にかなう。こんにち私に必要なのは、あの何ものかに憑かれたような鬱蒼と茂った想像ではなく、イデオロギーや象徴を清め去った高貴で広々とした寺院、自分の気に入ったものをそそぎこみ、今後わが身の衰えや、死や、おそらくは再生のほうへ、晴れやかな眼をそそがなければならない一つの魂にふさわしいものを流しこむ大きな容器なのである。こんにちの私はほかのどんな音楽よりも、一定の対象を持たない音楽を愛している。私はそれを自分の夢想で彩いろどってみることがけっしてないとは言わない。しかし少なくともこういう音楽は、束縛や隷属から私を自由にしてくれるのである。
 こうして、歳月の圧力のもとでの千百の仕事をとおして今のようになった自分の精神に最もふさわしいものを自分の宝の庫くらから――それは世界全体の宝庫でもあるが――、本能的に探し出し選び出しながら、私は静かに去るのである。
 しかしワーグナーが語るや否や、突然私の青春がよみがえる。それは噴出し、激昂し、あの大胆な錬金術師の湯気と光とのなかで歌うのである。
 或る日、トスカニーニがシャンゼリゼーで、私の好みからいえば余りに片寄った組み合わせのように思われる描写音楽の演奏会を指揮したことがある。しかし突然、言語同断な力強さで、郷愁をそそるようなラインの娘らの叫び声が湧き起こった。それはあたかもわが若き日の魔法使いが、私の顔に接吻をしに来たように思われた。
 また別の或る日、ブダペストで、諸聖人祭トゥッサンの祭のあいだに『神々のたそがれ』の最後の幕を私は聴いた。それは模範的な俳優によって、もっとも節度ある仕方で、完全に単純な舞台裝置のもとに演ぜられた。そして私はむかし同様こう考えるのだった。この非凡な人間は――ワーグナーのことを言っているのだが――音楽の国境を押しひろげた、と。
 一九三六年、ブラジルのサンパウロで、一団のイタリア人の演じるリカルド・ワーグネルの『ジークフリート』を私は見た。最初の二幕のあいだ、私は昔ベルリンで経験したのと全く同じに深い深い喜びを感じた。しかし最後の幕はそれほど良くなかった。それは若者とブリュンヒルデとの際限なくつづく二重唱だが、そのきわめて偉大な美しさにもかかわらず神神しさに欠けていた……。結局私は古い焰を掻き立てようと努力して、とにもかくにもすべては大成功裡に終ったのだった。
 否、否、私は自分のむかしの愛のどの一つをも否認しない。そして親愛なクローデルがいろいろのことでいつもやるように、熱と乱暴さと見事な不公正とでワーグナーを罵倒するとき、私は笑いを禁じ得ないが、彼を正しいとも思わない。その上彼はワーグナーを愛してもいず、一度もワーグナーを愛したことがないのである。そこで私は時どき自分に問うてみる。音楽をよく聴くためには、あまりに偉大な詩人である必要はないのではないかと。しかしこうした不幸の中にも、充分大勢の仲間はあるのだろう。
 否、私はいつでも自分への毒の蒸溜者を愛している。そして今度は私の息子たちや甥おいたちがその実験室へ入ってゆく番だから都合がいい。彼らはわれわれが同じ年ごろにそうだったように、演奏会行きで暮らしている。彼らは、私があまり仕事に追われたために以前解散し消滅させたアマチュアのオーケストラを――これについては間もなく改めて述べるつもりだが――再組織した。毎週の一夜、私は自分の家の壁のあいだで、ローエングリンのヴァイオリンが吐息をついたり、ハンス・ザクスが論じ立てたり、森がささやいたり、イゾルデが嘆いたりするのを聴いている。今は私の子供たちがあの横暴な老魔法使いの媚薬を飲む番である。私は彼らが恐るべき巨匠のもとで歌っているのに遠くから耳を傾ける。そしてそれが自分の心臓を昔とは違ったふうにであるが、しかし昔におとらず強くはためかせることを隠したら、私は不正を犯すことになるだろう。

 

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 三 音楽、それは解放である

 音楽のことを考え、自分がそれに負うている向上や光明や、それが自分を満たしてくれた恩恵や、不滅の感謝を披瀝しなければならない隠れた慰めや、それが自分の思想と決意の中にさえ占めている場所のことを考える時、私は一九一五年の或る日々をしばしば思い出すのである。なぜかといえば、日付けというものは生き物や亡霊に似ていて、われわれが時あって低い声でそれを呼び出すと、彼らはその太陽または雲の飾りと共に、その富あるいは貧しさと共に、さらにその顏、その性格、その魂と共に、深淵から浮かび出るからである。
 私は第一軍にしたがってランスを望むヴェスルの河畔にいた。東のほうでシャンパーニュの大会戦がながいこと轟いていたが、われわれのところは見逃がしそうな形勢だった。秋は林をくしけずって、それをひたし始めていた。西のほうからの陰惨な大風が谷にそって吹きまくり、ぐるぐる旋回しながらランスの田舎へ消えていった。私は暇な時間があると、この憂鬱な地方の松や灌木の茂みのなかを一人で散歩した。私には音楽がなかった。そのことが日増しに私を苦しめた。戦争の荒々しいどよめきが私の精神につきまとって、幾日もそれを圧倒した。私はこの混沌たる騒擾そうじょうの底から、秩序とリズムとハーモニーに向かって一つの祈りを、聖なる音楽に向かって祈りを上げた。
 われわれは負傷兵をうけとったが、その数が少ないのであまり急がずに看護することができた。或る日胡麻塩ごましおの口髭をした、慇懃いんぎんで気むずかしい笑いを浮かべた一人の律儀りちぎそうな男が、担架で運ばれてくるのを私は見た。それは前線第一連隊の軍楽隊長プリュドンム氏だった。彼は塹壕へ落ちて膝を捻挫したのだった。そして私がその世話をすること、つまりどうにかして彼の病気の膝を固まらせることになった。包帯がすむと、私はこの立派な人物のそばへすわりに行って、タルクの粉で白くなった手で儀式ばった身ぶりをしながら、ひどく熱心に音楽のことを語り合った。実を言うと、この負傷者は私の神たちのことをあまりよく知っていなかったので、私の性急な質問に対してそう何でも返事はしなかった。しかし彼は一ダースぐらいの種類の楽器の演奏ができ、ほかのすべての楽器にもあかるく、読譜練習法ソルフェージュや和声学にも通暁していた。結局、彼は音楽を愛し、軍楽隊員というその仕事を優しくいつくしんでいたのである。
 「ムッシュー」と或る朝私は彼に言った。「音楽なしで生きていることが私には不可能に思われてきました。」
 「なるほど!」と彼は言った。「しかし、それならあなた自身でおやりになったら。」
 「悲しいかな、私にはできないのです。」
 「それではお習いなさい。ほかのみんなと同じように。」
 「たぶんもう遅すぎます。私は三十一を越えているのです!」
 「ヴァイオリンを習うには、確かに年をとりすぎておられる。チェロならかなりいけるでしょう。しかしあれは嵩かさばって具合がわるい。戦争にはね。では、フルートをお習いなさい。あれなら軍医さんの行李こうりの中でも場所をとらない。」
 私の患者は私を説得するのに大して下手へたではなかった。その晩私は妻に手紙を書いて、フルートを買ってくれるように頼んだ。手紙を出してしまうと、自分が子供のような待ち遠しさで返事を待っていたのを私は今でも覚えている。

     *

 或る日フルートが届いた。それは中古品で、よく名の知れた、欠点のない楽器だった。私が大急ぎでそれをわが傷つける音楽家のところへ持って行くと、彼は手にとって注意ぶかく眺めて、満足の意を洩らした。彼はその晩さっそく私に初めてのレッスンをしてくれた。そしてこの門出かどで以来、立派な先生の言ったとおり、私は自分の笛に「語らせる」ようになったのである。
 戦争の二度目の冬が薄明りのなかへ沈んで行った。夕暮が来て暇な時間になると、私は自分で編み出したささやかな歌に長いあいだ酔った。私はまだひどく未熟だった。しかし唇を締めたり、息を測ったり、調子を強めたり弱めたりしながら、先生のいわゆる糸紡ぎのような音や、鐘を打つような音を出すのに懸命だった。しだいしだいに、私は自分のもっとも苦しい思いが麻痺してゆくのを感じた。私の肉体はこの魔法の管を活気づけることに没頭して、夢想のなかへ落ちこんでいった。みじめさを清められ、あらゆる苦悩から軽減され解放されて、私の魂は静かに晴れた光のなかへ軽やかに昇って行った。そのころ私は、この法悦がかなり利己的なものであることや、暇な時の仲間がこの法悦をいつでも私と分け合ってくれるわけではないことを知ってひどく驚かされた。私は隠れがを探した。そしてたまたまそれを見つけると、指を馴らしたり息を鍛えたりすることに辛抱づよい努力を重ねた。私にやっとそれができるようになった時、私の一日だけの先生はすでにその連隊へ帰り、われわれの軍団はヴェルダンヘの行軍を開始していた。
 この時以来、私は自分のフルートが甚だ親切な友になったと言うことができる。肩から脇へと吊るした革の袋にくくりつけられたその笛は、われわれが杖を手に、荒れ果てた道を部隊のあとについて行軍している時でも、やがて休暇をもらって家へ帰るという痛烈な喜びに見舞われた時でも、けっして私から離れなかった。千百の務めに追われて、自分のフルートに溜め息をつかせる時間を見出せない長い期間が私にあった。しかし静かさが戻ってくると、それは私の指の間へはいって来て、私のすべての祈りに、いつも従順なわけではなかったが、ともかくも寛大だったし、私が必要とする時には、最もひどい苦しみにもなさけ深かった。

     *

 何か月かたった。私は野戦自動車衛生隊へ転任させられた。私はそこで幾人かの音楽家の戦友に出あったが、その時感じた嬉しさは口にも言えない程だった。彼らのうちの一人はヴァイオリンとヴィオラを弾き、もう一人はチェロを弾いた。自動車のなかの場所はそう狭苦しくもなかった。私の戦友は休暇を利用してめいめいの楽器を持ってきたのである。われわれはソワソンの病院に手術用のテントを建てたところだった。われわれは昼と夜とを血なまぐさい仕事で過ごした。薬品や、煮られたリンネルや、排泄物のにおいにまじって、人間の肉のにおい、傷ついたり切り刻まれたりした肉のにおいが、われわれのあらゆる思念につきまといながら、悲しみの香こうのように立ち昇った。しかし時には二つの攻撃のあいだに、思いがけない暇に恵まれて茫然とすることもあった。われわれの仲間の一人でピアノを弾くことのできるのが、停車場通りに一軒の小さい市民の家があり、そこに律気りちぎそうな老人夫婦が住んでいて、玉房のついたカヴァーや陶器の植木鉢などと一緒に、田舎の由緒ある家具である竪形たてがたのピアノを持っているということを発見してしまった。その楽器はよほど前から調子が狂っていて、大砲の音に唸ったり震えたりした。われわれはかなりの努力をして、その楽器に魂を取りもどしてやった。
 私は感動なしにその狭い部屋を思い出せるだろうか。唯一の窓の何枚かのガラスは油布にとりかえられていた。明るさは中ぐらいだった。偶然にも休憩時間が同じときには、何か秘密な宗教の信者のように、われわれはこっそりとそこへ駈けつけた。われわれは少しばかり楽譜を持っていた。古典的な作品をあつめたもの、三つ或いは四つの楽器のためのコレルリの奏鳴曲、モーツァルトやベートーヴェンの四重奏曲と五重奏曲などがそれだった。これらの原曲を正しく読むためには、われわれの人数がいつでも充分だったとは言えない。それでもわれわれは純真な焰を燃やして、そういうものに食いついていった。私はたびたびフルートでヴァイオリンの代わりをしなければならなかった。われわれの楽器は初めのうちは吃どもったり、うまく合わなかったりしたが、しまいには調子が合うようになった。突然、聖なる鳩のように、巨匠たちの霊がわれわれの頭上へ舞い下りてくる日も幾たびかあった。不完全な音と怪しげな経験をもってして、踏み違えをしたり躓つまずいたりするまで、一分或いは二分の間、われわれは使信メッサージュをうけとって、それを酔ったように持っている気がするのだった。

     *

 われわれのむごたらしい任務のなかで、こうした熱中の瞬間はまた解放の瞬間でもあった。私は音楽が自分に生きることを許してくれているのだということを知りはじめた。それは確かに殺戮さつりくや悩みや、死の苦痛を減じることはできなかったが、ともかくも死体置場の内部まで天の赦免の息吹いぶきを、希望と救済の原理を私にもたらした。信仰の慰めを奪われた人間にとってもそれはなお一つの信仰であり、換言すれば支えるもの、結び直すもの、養ったり、活気づけたり、助けたりするものであった。私はもう捨てられた人問ではなかった。呼ぶために、訴えるために、祝うために、祈るために、一つの声が与えられたのだった。
 この声は戦争の末期を通じて私に不足しなかった。それまでは、私は音楽を聴くよろこびを知っていた。しかし今や或る別のよろこび、自分自身で歌ったり、自分自身で音を解き放したり、更に甚だささやかな程度にではあるが、音楽的創造物に協力することを学んだのである。
 戦争が終りを告げて、自分の生活や、生まれの大都会や、そこの芸術家たちや演奏会などを再び見出すことができるようになると、私はすぐに、音楽が自分に対してその意味を変え、その実質をさえ変えたことを知った。私は自分の音楽が奏せられるのを聴くことを常に同じ熱情で愛してきた。自分の特に好きな音楽、自分の選んだ音楽、あえて言えば自分が娶めとった音楽を聴くことを。――ところがその音楽と私との関係のなかに、今や一つの新しい要素が生まれた。すなわち自分で音楽をやることになったのである。もちろん私は上手にはできなかった! ただ、たとえ他人に何らかの楽しみを与えるという楽しみを持つことはできなかったとしても、それからというもの、自分自身を大いに楽しませることはできた。私は一人で自分を教育することができたし、一人でうっとりするような世界へ入って行くこともできた。私は鍵を握ったのである。
 偶然が私の掌中に置いた楽器は、知識と教養とを得る点でピアノやヴヴァイオリンほど良い楽器ではない。にもかかわらず、それはすこぶる豊富な「文献リテラテュール」を持っている。それはすべての大きな合奏曲に参与している。それはかなりの数の二重奏、三重奏、四重奏、五重奏の中に席を占めている。それは昔からあるすぐれた楽器である。私はそれを愛しはじめた。
 私はフルートが大きな役割を演じているむずかしい作品を立派にやってのける程うまくは
吹けないので、幾人かのアマチュアを集めることに着手した。そして、次いで、総譜と各パートの譜、専門家仲間の隠語でいわゆる「材料マテリエル」を買いこんだ。

     *

 しかしこうした実験の最上のものが、われわれを満足させる性質のものだったなどとは信じて頂きたくない。とはいえそれは、われわれに対して、認識の並木道を悲しげに隠している霧を引き裂くのに充分役立ちはしたのである。大家たちの作品のまわりをぐるぐる廻ったおかげで、われわれはその入口を発見したり、その内部の深みへと達することができたのだった。
 ヘンデルの『オルランド』という題の歌劇のなかに、女声のために作曲されてフルートの伴奏のついたえも言えず美しい歌があるが、音楽家はこの伴奏を小夜啼鳥ロッシニョルに捧げている。この魅力ある音楽を演奏しているうちに、或る日私はヘンデルがこの夜の歌い手をすこぶるよく聴いていたこと、その沈黙や繰り返しや、変奏や顫音トリルに注意を払っていたこと、なかんずく歌の繰り返しを常に際立たせるあの呼びかけ、長くて清らかで旋律的で、一様な音符から成っているあの呼びかけに、並々ならぬ注意を払っていたことを理解した。――ポール・クローデルがこのロッシニョルの声を「強くて澄んだ」フルートのそれに比べたのも、この呼びかけを想ったからに違いない。――春の夜々をかけて自然の中で感得されたこれら微妙な驚きのすべてを、私はこの音楽作品の中にふたたび見出した。なぜかといえば私はそれを遠くから、外部から感じたのではなく、欠けるところのない親密さの抱擁のなかで感じたのであり、自分の息いきを与えて、その鳥の訴えを吐き出そうと努力したのだからである。
 ずっと後になってのことだが、われわれは大胆にも『ジークフリート牧歌』を演奏した。それまでに二十回も聴いた曲だが、譜を読んで私はびっくりした。フルートで小鳥のテーマが現われたとき、私はワーグナーがヘンデルのあと、他の多くの作曲家のあとから、今度は彼の番としてロッシニョルの呼びかけを取り上げながらも、そのテンポを外しているのを知って突然の讃嘆を禁じ得なかった。同時に私は大家の天稟てんぴんが、自然の秘密の一つを見せてくれたと思った。これらの澄んだ豊かな美しい音符は、夜の神秘なリズムの上に「切分法サンコープ」で、弱拍コントル・タンで現われているのである。そしてそのために訴えは一層一貫性のあるものとなり、一層緊迫した、一層感動的なものとなっているのである。

     *

 われわれが厚かましくも互いの間でベートーヴェンの交響曲を研究し、演奏しようと企てた時、私はたくさんの、実にたくさんのことに気がついた。それをここに書いておきたい。『変ロ長調の交響曲』のアダージョは、時には弦楽器で、時にはティンパニーで、また時にはオーケストラのほとんど全力でリズムをつけた、或いはデリケートな、或いは力強い鼓動のようなもので伴奏されているが、それが医者から見ると、人間の心臓を聴診したときの音の再現になっているのである。この『第四交響曲』は一八〇六年に書かれた。ラエネックの『間接聴診論』は一八一九年に出た本である。私はこの二つの作品の間に些少なりとも相関関係のあるのを証明することなどは差し控えよう。後者は科学的認識の一傑作だし、前者は深さと壮麗さとをもって芸術上の認識を表現している。私はこの神秘に光を当てるために、『変ロ長調の交響曲』の時代には、ベートーヴェンは、言い伝えによれば、テレーゼ・フォン・ブルンスウィックと婚約して、高揚された心境を生きていたということを付言しようか。彼は世間が沈黙に陥るとその心臓の鼓動がきこえてくるという、人生の瞬間の一つを生きていたのである。
 このように、謙遜ではあるが熱烈なアマチュアとして、私は発見から発見へと進んで行った。演奏が下手へただということは重要ではなかった。大事なのはまず大家たちの考えに近づくこと、たまたまそれを看破すること、そして時にはそこに身を隠し、またそこで祈ることである。
 こういうふうに手さぐりをしながら、敬虔な気持で大家たちの作品に親しんでいるうちに、私は一段一段と彼らの受難カルヴェイルの丘をたどって行き、往々彼らと一緒に創造の苦を再びしているような気持になった。――そうだ、私はあえて言うが、一音符一音符、一曲一曲と作品を組み立て直し、それを新しく初源の無から湧き出させようとして。――

    *

 こういう楽しみが私を熱中させたので、私は自分が改宗者の情熱にとらえられてしまったような気がした。今や私の試みは、一つの全く新しい光に照らし出されたのであった。
 ヴァイオリンの奏者はもとよりだが、チェロの奏者を募ることもかなりやさしい。フルー
卜を吹く人もそう稀ではない。ヴィオラは、例外ではないまでも、アマチュアの中ではそう普通には見出せない種類のものである。オーボエやクラリネットとなると、いつでも出会うというわけにはいかない。ファゴット、ホルン、トロンボーンに至ってはほとんど発見不可能である。その時分のことだが、私は「家に木蔭のない者でも、木を植えることはいつでもできる」と独り言を言ったものである。そこでわれわれの管弦楽団をそろえるのに必要な音楽家を「作る」という考えが私に浮かんだ。私はこの計画のなかで仲間の幾人かに目星をつけ、自分の説得能力の限りをつくして彼らを手に入れる仕事にかかった。一つの楽器の演奏ができるようになるということはなまやさしいことではない。それには是非とも多くの時間がかかる。投資さえ必要だし、経済上のいろいろな犠牲も必要である。一本のファゴット、一本のオーボエを買うとすれば、その出費は相当大きい。更に暗中摸索をしないためには、有能な教師の付ききりのレッスンを必要とする。
 こうした種々の障害にもかかわらず、私は幾人かの弟子を手に入れた。私は彼らの苦しい努力への引き換えとして喜びを約束したが、それは人が望むほど速かには姿を現わさなかった。私にくどかれてファゴットを手に入れた或る友達は、その楽器からいくらかの旋律的な溜め息を引き出そうとして空しい努力を重ねながら、日曜日まる一日をつぶした。結局彼は、掃除をしたり湿り気をとったりする柄付きのブラシを、楽器の管の中へ挿しこんだままにしておいたということに気がついた。しかしそれに続く試みは幸いもっとうまくいった。

     *

 何か月、何か年かが過ぎていった。われわれの音楽の苗木は実を結びはじめた。オーボエ、フルート、ファゴット、少しおくれてトロンボーンとトランペットが、譜面台へ席を占めるようになった。私はなおもアマチュアの名簿を作ったり、彼らを仲間に誘いこんだり引き留めたりすることを続けた。それは容易なことではなかった。
 アマチュアというものは、音楽に対してほとんど常に誠実で欲得抜きの愛好心を持っているものだが、規律に対してはあまり厳格な考えを持っていないものである。勤勉とか正確とかいうことは、アマチュアの目から見れば美徳ではなくて厄介な服従であり、学校や役所や工場や兵営でならばともかく、われわれの気晴らしの中へまでそんなものを入りこませるのは遺憾なことだと思っているのである。アマチュアはつかまえにくい。来るか来ないかもわからず、何時に来るのかもわからない。たとえ時間に来たとしても、その日はどうしたことかクラリネットを忘れてきたと言う。時には、やって来て、それもあまり遅刻したわけではないが、結局今日はこうしてはいられないということを言いに来たのである。アマチュアは流感に、胃の不調に、偏頭痛に、腰痛に、信じがたいほど敏感である。更にまたアマチュアは、心理的な性質を持ったあらゆる種類の小さい苦くに弱いのである。
 「もう僕をバルナベ君のそばへ坐らせないでください」と彼は言う、「あの弾き方には悩まされますから。あの人は僕を痺しびれさせる。」
 一方バルナベも言いたいことがないわけではない。
 「僕はいい音楽をやるのはこの上なく楽しい」と彼は言う、「だがめくらにはなりたくない。ところで僕の譜面台の隣人テオドール君ときたら、あんな弓の押し上げ方をするんだから、今に僕はめっかちにされてしまう。」
 むこうには立派な音楽家で、完全なホルン奏者であるバルタザールの姿が見える。彼は叫ぶ、
 「どういうわけで僕は君が坐らせた場所に坐っていなければならないんだい? ここは窓にあまり近すぎる。僕が音を出すとすぐガラスが震えはじめる……」
 ひどい暑がりもいるし、寒がりもいる。或る者たちは煙草を吸いたがる。しかし煙草には我慢ができないというデリケートな連中もいる。こういうさまざまな相反した要求を妥協させて、彼らをベートーヴェンやモーツァルトヘの愛の中へ糾合きゅうごうするためには、組織者たる者は奇跡を演じなければならない。組織者、もっとよく言って鼓舞者には、しかしほかにもなお面倒なことがある。無遠慮な電話が一分間ごとに鳴る。絶対に当てにしていたイングリッシュ・ホルンが、どたん場へ来て、田舎から従兄弟いとこたちが来たからこれから御馳走をしてやらなければならないと言い出す。第二クラリネットの奏者はひどい歯痛に苦しんでいる。希望をかけられていたコントラバス奏者は言訳いいわけもしないで抜け出してしまう。途方にくれた鼓舞者は時あってこんなことを考える。熱心だけでは充分ではない。たぶんきびしい要求が、おそらく強制さえもが必要なのではないかと。
  雨の日、オーケストラは苦しんで不振におちいっている。その代わり、乾いた時は音楽にとって恵みである。その上何か善い偶然がそれにまじると、出席者も多数になる。すると指揮者は指揮棒をとり、儀式は始まるのである。
                                                
     *

 はげしい労働、それをアマチュアに要求するのは無謀であるし、更に非人道的でさえある。彼が最もしばしば望むのは譜を読むことであり、発見することであり、理解することである。彼は自分自身に気を取られているあまり、合奏について正しい観念を持たない。彼が自分のパートの特徴や、むずかしさや、罠わなのことで精いっぱいだということに私は同感する。彼は指揮者を見つめてはならず、ただちょっと見るだけでいいのだということを容易に理解しない。彼は大勢の中に舟をやって、引張られたり運ばれたりしている。もしも彼が弦楽器の一族のような大家族の一員である場合には、大きく分け持たされた責任のことを思って活気づくが、管楽器を吹く者である場合には、その出会う驚きも数多い。時として彼は全奏トゥッティの大音響に包まれて身の安全を信じる。ところが忽ち端役はやくの仲間が消えてゆき、弦の潮うしおも和らいで退ひいてしまうと、この音楽家は――フルート或いはオーボエの奏者――狼狽し、たった一人で、自分の大胆さにおびえながら、沈黙の砂漠のなかへ進み出る。そのうちにほかの楽器群が現われて、彼を対話や、論争や、戯れや、フーガや、追いかけっこの仲間へ入れる。アマチュアは心臓に悩ましさがいっぱいで、もう楽しみのことなんぞ少しも考えない。彼は試練の恐怖にまったく制圧されてしまったのである。

     *

 こういう純な献身に過ごされた幾夜について、私は愛すべき思い出を保存している(1)。忠実にやったにもかかわらず、われわれの音楽がほとんど常に不完全だったことは私も認める。それが完成された芸術家や、自己の才能に自信のある音楽家たちの感情を害したろうということも疑いを容れない。しかしそんなことがなんだろう! われわれは手さぐりで認識の行為をしたのである。われわれは躓つまずいたりをびっこ引いたりしながら、傑作の森の中をたどったのである。われわれに何らかの富の発見の機会があった日は稀だった。それは背中に袋、手に杖を持って、驚異の国を徒歩でゆく旅のようなものだった。その歩みは遅かったが、すべてのものを見る時間はあった。われわれはおこがましくも非常にたくさんの作品を読んだ。そこには「穴」があり、多くの楽器がわれわれに不足していた。しかし想像力がみごとにその不足を補った。音符の読みちがいや不手際にもかかわらず、私は心の底で申しぶんなく美しい作品を聴いたのだった。しかも実によく聴いたので、友情の集つどいの中でわれわれが懸命になって口ごもった作品を演奏会へ行って聴くような時にはほとんどいつでも、自分の楽しみに――こんな告白をしてもいいものなら―――一種言うに言われぬ失望感が混じりこんだ程だった。演奏会の完全さというものが、われわれの拙つたない試みを通して私が自由に天上的な美で飾られたものとして垣間かいま見た作品を、とつぜん厳格で人間的な裸体にして見せたのである。
 この小さい片言かたことの祭にはまた別のいくつかの徳もあった。それはわれわれを各自の関心事から、各自の苦悩から、そしてわれわれ自身から一時間のあいだ解き放した。精神界の或る王侯が言ったように、詩が解放であることは私も知っている。私はそれを幾千たびも実験したし、全面的な感謝の念でそれを言明しもする。しかし疲れて貧しくなった魂にとって、よしんば詩が無力になった場合でも、聖なる音楽はなおその威力を保っている。音楽には言葉もいらず、翻訳という危険な技術わざも必要でない。それは怨恨の情熱でつながれるということもない。それはわれわれの争いや憎しみの上を天翔あまがける。それはわれわれが超自然の諸力の無邪気な運び手として歓迎する子供たちを、その恵みの品でいっぱいにする。それはわれわれの無限なみじめさにもかかわらず、一つの救いの約束でもあればまたその保証でもある。

(1) 〔訳者註〕この節と次の最終の節の文章には、デュアメル自身の朗読したレコードが出ている。

     *

 未来は不確かである。自分の息子たちのことを考える人は心配してこうたずねる。決して容易ではなさそうに見えるこの人生の道をゆく彼らを援たすけるために、一体何を与えることができ、何を与えなければならないかと。知識、忠告。私の三人の息子たちはそれを貰った。彼らはそれで何ができるというのだろう。私にはわからないし、またあまり美しすぎる希望にゆだねるわけにもいかない。しかし彼らが三人とも音楽を非常に愛していること、それを私は確信しているし、また色々なことがあるにしても、未来の年々にほほえみかけたいと思う時に、私か繰り返して自分に言うのもそのことである。
 千百の心労に追われて、私は自分のフルートを引出しの底に眠るがままにさせた。たぶん私には息いきが足りなくなったのである。息と自信とが。あまりにわずらい多い仕事のおかげで私に疲労が来たのである。私は心を残しながら、家庭的な音楽の素朴な儀式を断念した。しかし幸いにも伝統は死なない。毎週、あかりがともされて、調子の合った大勢の声が家の中に鳴りひびく。ハイドンも、ベートーヴェンも、シューベルトも、この若い祈りに無関心のようには見えない。彼らはかつてわれわれの間で生きていたように、今子供たちの間で生きているのである。二十歳のアマチュアは、むかし彼らの先輩たちが持っていたような欠点をほとんど皆持っている。彼らは同じ熱意も持っている。私は彼らのために心を開いてそのことを称讃する。
 仕事が終った時、と言うよりも仕事が一時中断した時、私はこの若い者たちの音楽に聴き入るために立ちどまることがある。遠くから、半開きのドアの間から、私はこの熱中した子供たちの全部を一分間眺めやる。そして、満足も安心もしないことは確かだが、ともかくも希望と信頼とをもって私は遠ざかるのである。たとえ運命がどのようなものであろうとも、彼らは秘められた富を持つであろう。そしてたとえ苦しみをなめなければならないとしても、この美しい旅の路銀ろぎんを持っている以上、彼らが全くの貧乏でいるということはあり得ないであろう。  

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 四 わが手帖からの十章

   

 ジョルジュ・シェーヌヴィエールの思い出というと、彼が音楽に照らし出されていたというよりも、むしろそれに心を悲しまされ、つきまとわれ、とり憑かれ、苦しまされていたと言いたい。
 一九二六年、ワルシャワからの列車に二人で乗っていたことを思い出す。われわれは疲れて心が暗かった。二人は初めのうち無言で煙草を吸っていたが、突然、低い声で一緒に歌いはじめた。車体の響きが騒がしいので互いにもたれかかり、頭と頭はほとんど触れ合っていた。われわれはベートーヴェンの四重奏曲を歌った。一つ一つ続けて歌ったのだった。われわれはよく覚えていたので、一方がまごついた様子を見せると、他方がすぐに代わりをつとめた。いくつもの都会が後になり、いくつかの国境が過ぎ去った。パリに着いてもまだわれわれは歌っていた。四重奏曲は種ぎれになっていたので、二人の宝の山から手当り次第に選び出したのだった。長い旅がつかのまに過ぎた。
 一九一七年、ヴェルダンの戦場でのシェーヌヴィエールを思い出す。われわれの部署は互いにあまり遠く離れていなかった。私はそれを知っていたので、何かの任務のような形で、濡れたスタンプと署名のある一枚の外出許可証をもらった。われわれは荒れ果てた凰景のなかを何時間もさまよった。われわれは歌った。声をひそめて。しかし熱情こめて歌ったのだった。この邂逅の時間、われわれはそれを、二人の心の中に最も純粋に最も豊かに保たれているものを、互いに打ちあけ合うために過ごしたのである。
 夏の滞在中にヴァルモンドワの野を散歩していると(1)、私はいたるところでシェーヌヴィエールに出あう。二人が足を停めたのはここ、この林のふちだった。丘の頂上へ着いて、彼が私に『第十三番』のカヴァティーナ(2)を歌ってくれたのはあそこだったし、この道をたどりながら、『美しき水車小屋の娘』を一緒に歌って褒め讃えたのもあそこだった。
 パリの街や四つ辻も私にシェーヌヴィエールを思い出させる。音楽にひたりきっていたシェーヌヴィエール、そのあらゆる思想が、永遠にわれらの道連れであり師であるあの驚くべき人たちの天才によって伴奏され、豊かにされ、註釈され、変貌されていたシェーヌヴィエールを。
 私はシェーヌヴィエールが、いつでも役に立つ忠実な記憶力を持っていたことを述べたと思う。よく整頓された大きな貯蔵所という貴重な利点を持っていなくても、人は音楽を愛することができる。しかし資源を持っていて、なおかつそれを従順に、われわれの呼ぶひと声で立ち上がらせる力を持っているのは、何と好ましいことだろう!
 音楽のことについてのこの知識を、シェーヌヴィエールは何年かのあいだ批評の仕事に役立てた。そして間もなく苦悶しはじめた。音楽というものは、そういつでも楽しみではあり得ない。魂が同意し、身をささげ、身を捨てるのでなくてはならない。音楽の愛人だからといって、あらゆる瞬間に祝宴を玩味する用意ができているわけではない。さて、批評というものは、職業的及び義務的にそれに当っている人々を酷使する。彼らは今日も一日じゅう元気潑刺たることを要求される。昼前は宗教的な祭のために、午後は練習や演奏会のために、晩は芝居や儀式のためにというように。それはあますところのない放蕩である。シェーヌヴィエールはじきにこのことで苦しんだ。音楽を喜びもなしにうけとり、食欲もなしに食うにしては、彼はあまりに真心からそれを愛していた。彼は恐れげもなくそのことを嘆いた。彼は孤独な人間だった。彼は集会への好みは持っていたが、ごちゃまぜへの好みは持っていなかった。毎日一回或いは二回の演奏会は、彼にとってほとんど拷問ごうもんになった。それは愛のない情事いろごとだった。私にはシェーヌヴィエールの気持がよくわかった。なぜかといえば私は彼と違ったふうには考えなかったから。そしてこんにちでもなお同じように考えている。
 シェーヌヴィエールはこの不快な気持を『民衆の祭』によって救われた。当時この集まりはわれわれの心を動かし、われわれを興奮させ始めていた。アルベール・ドワイヤンがその誠実さと、権威と、真に感嘆すべき熱意とをもって、一九一四年から一八年へと続いた戦争の終りごろに、このけだかい人間愛の仕事を打ち建てたのだった。大家たちの作を歌うことを習いたがっているすべての人を、ドワイヤンは集めて教えた。彼は後に有名になったこの合唱団を育て上げたが、それは数年のあいだ、この偉大な心情、この善き首領の指導のもとに、ベートーヴェッ、ワーグナー、ボローディン、その他多くの音楽家たちの作品に光輝を添えたのだった。われわれは皆、彼のこうした立派な信念、知識、雅量に驚嘆した。われわれは皆、こういう企てには単に勇気づけが必要であるばかりでなく、それを採り入れてわれわれのものとし、この救いの仕事にたいして積極的な、悦ばしい寄与をすることが必要だということを感じた。その頃ドワイヤンは、夏のあいだヴィルモンドワで一軒の小さい家に住んでいた。その家は今この数行を書いている私の目にも、谷のむこうの斜面に見える。われわれは音楽について、詩について、また民衆を向上させたり教育したりする最も好ましい方法について、長い対話をしたのだった。私は一種のオラトリオを書くことに着手した。私は毎日のように熱中してその一ページを書き上げ、部落を横ぎってはそれをドワイヤンのところへ持って行った。彼は時にはピアノの前に、時には紙きれを積み上げた大きなテーブルの前にすわって、熱をこめて作曲した。作品ができあがると、私はそれに『古い世界の声』という題をつけた。それは二十五年このかたわれわれからすっかり遠ざかっている寛大な未来にむかっての、或る人類社会の吐息であり、呼びかけであり、希望の叫びであった。
 シェーヌヴィエールは『民衆の祭』をたびたび訪れた。彼はわれわれ皆と同じようにそこで講演をした。彼はこの真摯な試みのなかに、魂の高貴さと調和ある一致との空想的でない原理があるのを感じた。彼は仕事にかかった。或いはもっと正しく言えば、辛抱して仕事を続ける立派な理由を見いだした。彼は戦争中に『十二の祭』という一大作品の構想を立てていた。彼はこれらの詩の最初の一篇で「メルキュール・ド・フランス」誌へ出たばかりの『南の歌』というのをドワイヤンに送った。戦争当時の人々の苦しみと死とを物語ったものだった。『民衆の祭』でしばしば演出され、ドワイヤンの死後おごそかに放送されたこの『南の歌』は、模範的な合作の先頭を切ったものである。千百の問題に駆り立てられていたわれわれが、事件や人間の薮地やぶちの中にめいめいの道を探していたちょうどその頃、シェーヌヴィエ-ルは突如として彼の道を見つけたのである。彼は『民衆の祭』の詩人になった。彼は合唱団の友人たちのためにいくつかの美しい詩を作り、ドワイヤンがそれに音楽の形を与えたが、これらの歌はわれわれが息を引き取る時まで、われわれの心の底で鳴り響くだろう。『民衆の祭』のおかげ出、シェーヌヴィエールは願わしからぬ仕事の苦や毎日の務めの疲れにもかかわらず、多くの人々にとって光ともなれば慰めともなっているこの解放の音楽の、深遠な意味をもういちど発見したのだった。
 私はこれらのページを六月の或る朝に書いている。太陽は世界の初めの日のように燃えている。蠅どもは私のまわり、花たちの間でぶんぶん言っている。ポプラの葉むらは歌っている。最もかすかな風の息にも酔ったように歌っている。ちょうどドワイヤンが指褌棒を上げた時の合唱団の少女たちのように。私には家の影のなかで目を覚ました子供たちの声が聴こえる。あの下のほう、谷のむこう側で、私の甥おいの一人が部屋の窓際に立って、ベートーヴェンの或る交響曲の初めの数小節をテューバで吹いている。それから、また新しく沈黙が来る。そして太陽は木々のこずえを越えて昇る。シェーヌヴィエール! ドワイヤン! 朝の大きな太陽にもかかわらず、私には今自分のまわりを、無数の亡霊たちが歩いているのが見える。そしてこの田舎びた静けさそのものも、もうけっして純粋なものにはならないだろう。あまりにも多くの歌が私に付き添い、私の孤独に付きまとい、そして私の思念に入りまじるから。

(1) 〔訳者註〕パリの北方でデュアメルの別荘のあるところ。
(2) 〔訳者註〕ベートーヴェンの弦楽四重奏曲第十三番、作品一三〇の第五楽章であろう。

 

   

 熱意をもって、また時には不躾ぶしつけにさえ音楽を擁護しながらも、私は自分が一握りの専門家にしか興味のないような限られた範囲の問題を述べ立てているのだとは思われたくない。音楽のこうむっている災難が、この常軌を逸した時代には、思想の混乱というものを驚くほど感じさせる。この混乱を祓はらいい清めること、それはわれわれ万人の仕事ではないだろうか。
 一九三七年の或る日のこと、私は一人の友人と一緒に、シャイヨーの丘にある急造の庭園のなかを散歩していた。騒がしい音を出すいくつかの機械がそこここに配置されて、途方に暮れさせるような、泥のまじったような一種の音楽を、その場所に放水していた。――私は一般の人々がこういう種類の音の副産物を力づよく表現するために、何か別の語彙ごいを発見してくれるのを待ちながら、今は音楽という言葉を使うことにする。――そのおかげで、この広場に噴き出している幾つかの噴水の美しさは、私の感じでは、すっかり遮さえぎられてしまっていた。世の中でもっとも感動的なものの一つである水の響きは、この機械的なわめき声のために全く被い隠されていた。そもそも噴水なる物がわれわれの魂を喜ばせるのは、その眺めと同時にその歌にもよるのだということを、責任ある人々に思い起こさせる必要が本当にあるのだろうか。時どき――それはレコードを取り換える時間だから非常に短かかった――騒騒しい機械が嘔吐をやめた。すると散歩をしている人はほっとして、こんなことを呟いた。いろいろな悩ましいことがあるにしても、もしも人がわれわれの聴覚を苦しめないことに同意したら、人生は充分我慢のできるものになるだろうと。しかし音楽の砲台はまたもや轟きはじめ、不快はふたたび始まるのだった。
 その「騒音機」どもは、その日群衆に、ジャズの平凡な恐怖と流行遅れの魅力とを分配していたのである。私は友人と話をすることをやめた。声も、耳も、精神も、この大洪水には抵抗できなかったから。そして懸命になってどこかに避難所はないかと探した。すると私の友が声をかぎりに叫んだ、
 「いつもこんなにひどいというわけでもないんだよ、君。たまにはいい音楽をやることもあるんだ。」
 その時、われわれは比較的静かな地帯へ着いた。それでお互いに息を吹きかえした。
 「よろしい」と私は言った、「だが、たとえ彼らがたまにはいい音楽をやるからといって、この俗悪な田合くさい行列の中へいい音楽を嵌めこむからといって、僕がそれを喜ぶなんてことは期待しないがいい。なぜかと言えば、それは愚劣と悲惨の絶頂だから。」
 いずれにもせよ私は騒音をあきらめ始めている。騒音は避けがたく、騒々しい音楽はこんにち以後われわれの運命だということを理解しはじめている。私は静かさを救うためにいろいろ努力してみたが、それも無駄だった。私は打ち負かされ、譲歩し、身をかがめる。しかしそれでも声を高くしてこう言わずにはいられない。「君たちの騒音を立てるがいい。それはよろしい。だが本当の音楽はこの破廉恥スキャンダルの埒外らちがいへ置いてくれ。君たちの気に入りの作者の腹鳴りや噯気おくびはすべて君たちに任せよう。その代わりわれわれの大家たちはわれわれに任せてくれ。あの人たちは諸君に何の害も加えないし、何ものをも要求しない。あの人たちは聰明にも死んでしまったのだから。われわれが息を引き取る時まで愛そうと思っているものを濫費しないでくれたまえ。」
 私は年に一回或いは二回以上『第五交響曲』を聴こうとは願わない。それは一つの感嘆すべき作品だし、私自身よく知っていると思っているので、人がこの第五番目の交響曲をどんな床ゆかスタンドにも、博覧会その他のどんな音響柱にもぶらさげないように願いたい。私は二年或いは三年おきにでなくては『未完成交響曲』を聴こうとは思わない。私は自分の同時代者に思い出させたい。稀少ということが美的感動の一つの本質的な条件であることを繰り返して言いたい。拡声機がわれわれに天使のようなハーモニーをそそぎかけるとしても――そんなことはむろんあり得ないが――、たとえあったとしても、その清らかなハーモニーを一日じゅう聴いていたいとは私は思わない。どうか芸術が多過ぎないように、喜びが多過ぎないように! 縁のない美はもう美ではない。そういうものを私はもう認めない。
 或る晩私はレーヴェングート弦楽四重奏団を聴いた。みんなの歳としの数を合計しても一世紀以上にはならないような、若い献身的な人たちのあの四重奏団である。ベートーヴェンの第一と第十のクヮルテット! なんという大胆な、力づよい、微妙な神品だろう! 私は或るパートではそれらを一音符一音符知っていた。私はそれらを自分の孤独な時間によく一人で歌っている。そしてすべての人々がこの音楽を愛するようになることを願っている。しかしこの味わい深い音楽が、近い将来の或る日に、どこかの市場で、われわれにもっとよく感じさせようと、百倍にも拡声した殺人的な機械の手で肩から浴びせかけられるかも知れないと思うと恐ろしくなるのである。そしてもうひざまずいて憐れみを乞う用意もできている。

 

   

 われわれも十二分に知っていることだが、文学芸術の傑作というものは舞台監督諸公を恐れなければならない。こういう冒険的な外科医のなかの或る人々の活躍は、単に劇作品にたいして行なわれるだけでなく、数年以来、他の文学作品、わけても小説にたいして向けられている。その結果ひどい混乱が起こるわけだが、文芸の社会はそれを忌むべき寛大さで許している。
 私にはラジオがこの無秩序を拡大し、複雑にしつつあるように思われる。舞台監督たちの罪も、今となれば、放送作家諸君がしばしば犯す罪よりも軽いように見える。更にこの放送作家なる者は単に文学の傑作ばかりでなく、最も美しい音楽作品さえも攻撃したり、つぎはぎ細工にする上で、あらゆる便宜を持っているのである。
 このごろの或る日のことだが、私はわれわれの地方局の一つがシューベルトの『美しき水車小屋の娘』を放送するということを偶然聞いた。ミュラーの詩にシューベルトが曲をつけたこの魅力ある歌の集を、ほかの国でと同様フランスで、知らない者、愛さない者があるだろうか。物語は素朴で、歌詞はかなり平凡な物だが、音楽家はこの小さな総譜の中へその天分のすべてを注ぎこんでいる。私のところでは家じゅうの者が『美しき水車小屋の娘』を楽しんでおり、われわれの思い出の飾りであるその歌詞を、好んで歌ったり口ずさんだりしているのである。そこで私は肱掛け椅子へすわりこみ、音楽の凾はこのボタンを調整した。そしてそれから、耳をそばだてた。
 アナウンサーが簡単な解説をした。彼は―――さすがに恥じを知ってか――――これからわれわれの聴くものが脚色であることを言わなかったようだし、更にはそれが罪人の名を匿かくすことにもなった。しかし彼がオーケストラを云々し、何人かの演奏者の名を言ったので、私は不安な気持になりだした。
 さて、劇は始まった。ああ、私の言っているのは若い恋人たちの劇ではない。それは拷問にかけられた傑作の劇である。
 われわれが先ず聴いたのは一種の交響的な序曲のような物だったが、そこではシューベルトの主要なテーマの幾つかが、馬鹿にしたような仕方ですりつぶされたり、混ぜ合わされたりしていた。それから機械は、正真正銘の喜歌劇のスタイルで「話し言葉の対話」を吐き出した。最後に歌曲が現われたが、それは歌詞に応じて女声と男声とに振り分けられていた。
 私はこんな暴行をその終るまで待ってはいられなかった。私は機械を黙らせた。
 われわれは全くの混乱の中にいるのであり、それを理解するのは今である。すべての観念が――あえて形で描くとすれば――互いに押し合い、互いに足を踏みつけ合っている。範疇は食い合い、価値はめりこみ合い、言葉はこの雑沓のなかで意味も実質も失っている。そしてこういうのが時代の特徴であるが、われわれは自分たちのまだ愛しているすべての物の、差し迫った未来に関するさまざまな恐ろしい思いに襲われているために、時としてそれに加担しているようにも見えるのである。
 しかし少なくともわれわれに避難の場所はある。われわれは、苦しみの時、われわれの真の宝であり、われわれを護まもり、われわれを慰め、人間の天才へのわれわれの信仰を一瞬間でも取り戻してくれる美しい作品を思い起こすことはできる。
 その美だけではみずからを護るに充分でないこれら大家の美しい作品に、野蛮人どもが冒瀆の手をかけるのを防ぐ手段は全然ないのだろうか。もしもわれわれにして正しい処理を怠るならば、彼らはすべてを挽き肉やマーマレードや、濃厚スープにしてわれわれに供するだろう。結局は熱狂的で無知な人間か、何でも屋の不器用者にすぎないらしい混沌の職人たちが、われわれにとって生きることの正当な理由であるように思われるこの美の貯えを、粗悪な食い物に変えるためにその足で踏みにじることになるだろう。

 

   

 このあいだの晩、私のところで、みんな美しい音楽を愛している幾人かの友人たちのためにアマティーの弦楽四重奏団が演奏をした。シューベルトの未完成の四重奏曲のほかに、モーツァルトの二つの四重奏曲と一つの五重奏曲(ヴィオラが二挺ある五重奏曲の初めのもの)とを含んでいたのだから、プログラムは貧弱とは言えなかった。われわれはこの豊富な栄養を完全な静かさのなかで味わった。そして「室内楽」という言葉が予想させる親密さとか友情の集まりとかいうものを、その日われわれは心楽しく実感したのだった。
 私はこの素晴らしい音の贈り物をしてくれる完成された芸術家たちに心をこめて傾聴したのであるが、音楽はわれわれの内心でさまざまな取りとめもない考えを刺激するものだから、私は自分の記憶に聞いて、ここにその光を引き出してみるわけである。
 音楽会で演奏される時であれ、劇場或いは教会で演奏される時であれ、私は大家たちの音楽を愛している。それは私にとってあらゆる精神の糧のなかでの最も願わしく、最も必要欠くべからざるものであり、最も隠れた要求に最もよく答えてくれるものである。私は室内楽にまったく特別な愛を持っている。室内楽は演奏会や劇場での音楽と同様に堂々としてもいるし高貴でもあるが、しかし一層親しみがあり、一層私の心に近い。それはわれわれの生きている家を神聖なものにしてくれる。われわれはこの王者のような訪問客を自分たちの日常生活の光のなかへ迎え入れる。するとこの生活がそれによって姿を変えるのである。
 私には世間的な生活に没頭する時間はない。と言っても計画的なやり方でそれを避けているわけではない。私を驚かせたり失望させたりするのは、指導階級の、もっと正しく言えば有産階級の選良エリートと見なされている人々が、その楽しむことのできる贅沢というものについて、たいてい平凡な観念しか持ち合わせていないことである。私としては真の贅沢の本質的な要素のなかに、その第一列のものとして静寂と音楽とを置きたい。しかし静寂についてはこれまでにもたびたび述べたから触れないことにして、今日は聖なる音楽についてだけ考えることにしよう。私は音楽の専門家や、アマチュアや、それを職業としている人たちのところで、今までにも確かにたくさん音楽を聴いた。そしてそれを楽しむにも事欠かなかった。しかし友人たちを正しくもてなしたいと思っている人々が、なぜ彼らに音楽の美しい宴うたげをあまり捧げようとしないのかを、私は不思議に思っている。私はこういう祭式を実際に行なっている家庭の幾つかをたびたび訪れた。そういう家庭が稀だということは私も認める。しかしこれ以上気前のいい、これ以上純粋に鷹揚おうようなことがあるだろうか。友人をもてなしたいと思うブルジョワ階級は好んで彼らを食事に誘うし、またその出す物にも糸目をつけない。肉、酒、果物が食卓をふさいでいる。食事が終ると列席者はシガレッ卜に火をつけて、それからちょっとした楽しみのために客間へ引き取る。ブリッジをしない者たちは片隅へ陣どって、逃げ出す時間が来るまで勇敢に退屈しているほかはない。私は会話が好きである。しかしそれは行き当りばったりの仕方ではない。それには訓練がなくてはならず、しきたりやチャンスがなくてはならない。そこへゆくと音楽は、ただのお喋しゃべりに過ぎないような、見かけだけの会話からわれわれを救ってくれる。それはわれわれを偉大な魂たちの社会へ案内して、われわれ自身から解放してくれる。しかし私は世間的な長話に伴奏するラジオや蓄音機の、あの咽喉のどを鳴らすような音楽のことを言っているのではない。私の言うのは本当の音楽、沈黙を強しい、もっとも反抗的な性質の者にも沈思を強制する音楽であり、われわれの前で、われわれのために、その存在が敬意を要求するような肉体をそなえた人たちによって演奏される音楽である。
 あらゆる時代に、指導階級の選良は、真の贅沢にたいして一種聰明な感覚を示した。彼らは悲しいかな、音楽家たちを常に敬意をもって遇しはしなかったが、その音楽家たちを雇用して生計の資と仕事との双方を与えることを知っていた。そこで私が率直に言いたいのは、近代のブルジョワ階級が彼らの義務のいくつかを欠いているということである。彼らは、画家という者が自分たちに対して確実な物質的利益をもたらす者でないと思いこむと、その画家たちを残酷にも放り出すのだった。音楽家に対してはどうしているだろう。内輪の祝宴の飾りとして彼らを招くかわりに、彼らが悲惨と悲哀のなかで亡びるのに任せていると見るのほかはないのである。晩餐のあとで弦楽四重奏の一曲を友人たちにささげる。それは単に鷹揚おうようもてなしの行為であるだけでなく、社会の現状からすれば、同時に先見の明をそなえた人道的な行為でもある。
 音楽への嗜好は堕落してしまったと言うべきだろうか。決してそんなことはない。それは満開の時季にいるのである。私は或る日それを「モーツァルト研究会」の演奏会へ行ってこの目で見た。そこではほかの作品と一緒に、モーツァルトが十五歳の頃に書いたみごとなミサ曲が演奏された。モーツァルトに一生を捧げたオクタヴ・ホンベルク夫人は、その事業が一つのすばらしい善行だったことを今はもう疑うまい。聴衆のあいだの何という熱狂だったろう! 何という燃えるような熱情だったろう! 同時に私は付け加えたい。舞台の上での、演奏者たちの間での、何という喜びだったろう! と。オルガンはその長い息で、永遠の息吹いぶきそのもののようにわれわれの上を通っていった。独唱者の一人は、自分をいたわるどころか、自分自身の喜びのために、合唱団と一緒に声をかぎりに歌っていた。第二ヴァイオリンの一人は、楽器と声の集団のなかで、私には姿を見なくても魂の音色そのもので彼だということがわかるような、そんなにも純な感激で歌っていた。そしてこの世界の喧騒の中でも、神は草の芽の一つ一つの呼びかけを聴きたまい認めたもうに違いないということを、この愛すべき見知らぬ魂は私に悟らせたのだった。
 選良エリートという者がまだ存在している以上、彼らにその義務、その負担、その使命を思い出させることも、今ならばたぶんまだ遅すぎはしないだろう。

 

   

 われわれの祖父たちの時代には、オペラ座は人と会ったりお喋しゃべりをしたりする場所であったらしい。人はぺちゃくちゃ言ったり、くっくっと笑ったり、様子ぶったり、手に接吻したり、ひそひそ陰口をきいたりして、桟敷さじきから桟敷へとあらゆる種類の訪問をしたり、しかえしたりしたものである。しかもその間、歌い手たちは舞台の上で一生懸命にやっていた。つまり音楽の神秘は喧騒のなかで行なわれていたのである。列席者の一人が――私はあえて聴衆の一人とは言うまい――、自分は趣味を解する人間だということを示すかのように、何かコツンと音をさせた。「一分間ご注意を」と指を立てながらその男は言った、「かわいらしいタルタンピーニがカヴァティーナを歌うところです。これは天下一品です。」そこで人々は一分間耳をかたむけ、そしてそれからまたお喋りや無駄話にとりかかった。
 こうした風習は、昔の物語作家がそのたくさんの描写をわれわれに残したし、一九〇〇年ごろの若い音楽好きの連中を大いに鵞かせたり眉をひそめさせたりしたものである。ワーグナーはいろいろな奇跡を行なったが、中でもお喋りを征服して、彼らに沈黙を強要するという奇跡を達成した。演奏会でと同様に歌劇場でも、野蛮人だと思われないためには、聴衆は好むと好まないとにかかわらず、よしんば知的な熱心家のふりはしなくても、少なくとも礼儀を重んじ、芸術家を敬い、芸術作品を尊重しなければならなかった。騒音の愛好者はいつでもカフェーなりサーカスなり、大衆ダンスーホールなりへ行くことができた。しかし音楽の寺院ではそういう人々は許されなかった。それは立派な勝利であったし、われわれはその勝利を決定的なものと考えるいくらかの理由を持っていた。
 しかしどんな勝利にも決定的なものはない。私はこの間オペラ座を観に行った。シャンゼリゼーの劇場でもう一度やったその歌劇を観に行ったのである。上演されたのは『フィデリオ』だった。私はこの作品がその様式や構成の点から見て、今は亡びた或る社会の快楽や栄華を思い出させるものだということを認めたい。しかしそんなことはどうでもいい。これは巨匠の作であり、尊敬されているあらゆる大家の中での大家の作品である。それは驚くほどの美しさを持っている。それは批評精神を刺激する。それは自分の帝国に属さない種々の困難と取組んで、独創的というよりもむしろ一層輝かしい仕方で打ち勝った一人の天才をわれわれに示している。簡単に言えば、それは高慢な千の理由にたいして注意を促しているのである。しかもかなり前から、人はオペラヘ小さな私事を喋しゃべりに行くのではなく、立派な教養のある人間は歌手たちが歌っている間は静粛にしているべきだということになっているのだから、当然の傾聴を強く要求してもよかったのではなかろうか。
 ところがどうだ。静粛と礼儀の治世がおそらくは終りに近づいていることを、私はいくらかの驚きと多くの悲しみとをもって知ったのだった。三つか四つの桟敷さじき席の客が演出のあいだずっと喋りつづけていた。そしてそれが余りに目立つやり方なので、二階正面桟敷にいる全部の観客は不快を感じずにはいられなかった。そしてこのお喋りを少しの間鎮まらせるためには、有名な『レオノーレの序曲』が――では第三幕と四幕との中間にこれを演奏する――必要だった。
 わが家への帰り道に、私はこの啞然としたとしか言いようのない困った現象のことを考えた。すべての物が失われたり形を変えたりすること、最も思慮ある風習が偶然のなすがままになること、一吹きの風や、一つの気まぐれや、多かれ少なかれ愚かしい一つの流行や、運命の一つの転変に左右されること、それはわかっている。しかし演奏会や歌劇場での聴き方は、いかにも道理にかなった、深く根を下ろしているものだけに、それが破壊されたり廃止されたりするようなことはあるまいかと、自問せずにはいられなかったのである。
 こうした無作法の攻勢的な復帰のなかに、私は気違いじみたラジオの影響も少しはあると思っている。音楽はもう荘重な喜びではなくなっている。月に一度か二度演奏会へ行った人は、何一つ聴き洩らすまいと耳を傾けたものである。彼は全身これ耳、これ魂だった。尊敬と礼儀正しさと、言うまでもなく興味とが、彼に静粛をすすめた。彼は実際に礼拝の儀式に加わったのである。それならばこの美しい焰はもう消えてしまったのだろうか。そう思うこともできるだろう。われわれは音楽に満腹している。われわれは、もっとよく言えば、音楽の代用品にうんざりさせられているラジオの聴取者は、少数の例外は別として、彼らの耳にそそぎこまれるものをもう全然聴いていない。彼らはあくびをしたり、爪の手入れをしたり、ブリッジをして遊んだり、長談義にふけったりしている。彼らは注意や熱中の感じを永久に失ってしまったのである。とりわけ、こういう言い方を許して貰えるなら「臨在プレザンス・レール」の感じ(1)を喪失してしまったのである。それで演奏会場にいる時でも、自分の家にいるように、どこでもと同じように、お喋りを始めるのである。

(1) 〔訳者註〕カトリック教で、聖餐の中にキリストの血と肉とがあることを信じることをあらわす言葉。

 

   

 私は主としてベートーヴェンの或る交響曲を聴かせるために、子供たちを土曜日の演奏会へ連れていった。
 むかしは、立派な演奏会を楽しむためには、まず冬空の下で気持を引き立たせながら待つ、二時間というすばらしい時間を生きなければならなかった。今の私にはもうそんな美しい使い方をしていいだけの時間がない。しかし音楽を愛するほどの者が、弦楽器の弓の最初の一触れに間に合おうとして息を切らして駆けつけるなどは、罪悪だとふだんから思っている。恋愛の場合と同じように、私は瞑想を、序幕を、期待を、さまざまな事前の心象をもまた玩味するのである。
 そこで、定刻前に着くと、われわれは音楽家たちが並ぶことになっている場所の真上へ席を占めた。観察にはいい場所だった。大きな管弦楽団が演奏している時には、目のための楽しみもあって、一種の儀式的な踊りとか、腕や指のバレーとかのように、見るだけの価値のあるものが具わっているのである。
 こうして今われわれは自分たちの席にいる。注意力を集中しながら。真先まっさきに舞台へ出て来たファゴットの奏者がたった一人で、交響曲の或る箇所を愛をもって繰り返す。聴衆の面前でのこの練習は、おそらく申しぶんなく優美な所作とは言えないが、しかし心を動かすものではあり、人間的でもあって、要するに善い前兆である。待つこと十分、或いはたぶん十五分、とつぜん音楽家たちの潮うしおである。彼らは地下鉄から出てくる群集のように、早足で密集して入ってくる。一分間も無駄にはできず、また特にそのことをわれわれに隠そうという気持もないように。彼らは席に着くと急いで楽器の調子をあわせ、握手を加わし、何かちょっと気のなさそうな言葉をやりとりする。なお一人か二人おくれた者が来る。駆けて来たのかいくらか息を弾ませている。そしてとつぜん指揮者が現われる。聴衆が拍手する。
 私は軽い不安を覚える。しかしいつものように感動し、心の準備もできている。容易には疲れたり飽きたりしない心の準備が。それにまた、人生での最も純な喜びへと感動をもって誘ってやったこの大きい子供たちに対する準備も。
 こうして演奏会は始まった。ああ! 子供たちは満足だろう。彼らとしてみれば何一つ気づかわしいものはないのだから。彼らには新鮮な耳があり、一心不乱で素朴な精神がある。しかし私は? 私には何が起こっているのか。
 そうだ、私は満足していないのである。最初の数小節から演奏がまずくいっていること、オーケストラが調子に乗っていないこと、一群の古い問題が火焔と毒とを回復しはじめたこと、ベートーヴェンが苦しみ、われわれも一緒になって苦しむだろうということがわかったのである。もちろん大したことはない。各楽器は大体自分たちの番には出ている。芸術家たちも大体ちゃんと演奏している。しかし彼らの間にはまだ街の空気が多すぎて、彼らがみな別々なことを考えているのが察知できる。これは交響曲ではなく、呑気のんきで向こう見ずな独奏の寄せ集めである。輪郭は貧弱でぼんやりといじけており、合奏はがなり立ててほとんど「議会のような」混乱を現出する。遵法じゅんぽうと服従の霊がまだこの陰影な群むれを訪れていないのである。それは今日訪れるだろうか。吹奏楽器のカチャカチャいう音がきこえる。金管楽器は出でを待ちながら、本当に退屈した様子をしている。彼らもいくぶんは恥を知っているとみえて新聞こそ読んでいないが、あえて言えば、気持的モラールマンには読んでいるのである。それならば指揮者はどうだろう。彼は指揮をしている。だが、彼は、気持的にはポケッ卜へ片手を挿しこみ、小楊枝こようじをつかい、鼻の孔へ指をつっこみ、最後に自分自身を茶化しているのだということを、どういうわけか知らないが、私は誓って断言したい。ほかに言いようがないのである。
 年下の子供たち、彼らはすこぶる満足している。彼らは物をこんなふうに考える感嘆すべき年齢にいるのである。「もしもこうならば、こうよりほかはない!……… あの連中にはあの連中の思わくがあるのだ!……… 政府は考えたのだ…… みんな前からわかっていたことさ…… 貯えがあるんだ…… それは駆引きだよ…… 戦略的退却さ……」などと。そうだ、そうだ。心の底では彼ら無邪気な者たちはこう考えているのである、「美とはこういうものなのだ。」
 そして演奏は続けられる。ほかの聴衆はどうだろう。彼らは全体として感嘆に値いする、楽観的な、信じ易く、熱心な人々である。彼らはその楽しみに一層の熱を与える拍手の機会を待っている。そして演奏は続けられる。あの善良なファゴット奏者―――自分の楽句を練習していた――はすばらしいことをやっている。彼はすれていない。彼は全身これ焰、全身これ愛である。彼は自分の旅をしているのだ。抱きしめてやりたくなる。演奏は続けられる。そしてことは少しずつ軌道に乗ってゆく。オーケストラが昔ながらのベートーヴェンと歯を噛み合わす。一小節は一小節と、音楽家たちは彼らの任務を、おそらくは彼らの熱情をとりもどす。演奏しているうちには欲が出てくる。そして交響曲が終る頃には、オーケストラ全体がいい温度に暖まったようである。これならば各種の近代作品に接しても相当にやって行けそうである。私はこれ以上を要求しない。
 しかし実のところ、たとえ終りが良かったからと言って、始めの方まで私を慰めただろうとは言えない。ましてや無邪気な大衆の感動的な熱狂が、彼らに供された栄養の質の点で、一分間たりとも私を欺くことができたとは言えない。事柄を突きつめて行くと、この一夜の経験は私の中で論争の魔神を呼び覚ますことになるのである。
 それならばこれらの音楽家は何だろうか。ああ! より抜きの芸術家、パリにいる連中の中で見出し得る最も優秀な芸術家たちである。そしてその指褌者は言うまでもなく教養があって、自分の仕事を心得ている人物である。そうだとすればどんな呪のろいが、われわれの祭を駄目にしてしまったのだろうか。
 われわれの祭を駄目にするもの、それはこの祭が祭ではないからである。これは疲れた役人たちが催した行政上の集会なのである。彼らは楽しみを与えるという自分たちの任務を遂行する。彼らは、契約書の言葉で言えば、自分たち自身感動する義務はないのである。第一に、楽しみを味わうというのは疲れることだし、第二に、あまり度々それを味わうのは危険なことかも知れないからである。
 私はしばしば機械音楽の非人間的な濫用を攻撃した。私はいつか「手でする」良い音楽、神聖な、純粋な音楽を批評したいと思っている。だが、どうかそれがいつまでも神聖であり純粋であってくれるように! 音楽はいつも私に祈りを想わせた。高貴な魂にとっては、悪く祈ったり、心のほんとうの高まりなしに祈るくらいなら、むしろ毎日祈りなんかしないほうがいいのである。神はけっして、彼にむかってもう話すことがなく、彼の前で新聞を反芻はんすうしながら居眠りをするような、そんな古い友達の一人になってしまってはいけないのである。

 

  

 私は短かいが気持のいい旅をしてきた。北のほうの或る町で、「昔の楽器の会」と一緒にひと晩を過ごしに行ったのである。私はたっぷり一時間、まったく自分のがらになく、音楽への愛情を告白し、それがなかったらわれわれの生活がひどくみじめだろうと思われるこの芸術を称讃した。それがすむと音楽家たちが大変優雅にいろいろな奇跡をおこなった。その間私はステージを去り、申しぶんなく安らかな、要するにそれだけの価値のある楽しみを味わうためにホールの中の席に着いた。
 その楽しみは、いうまでもなく私に授げられた。しかしそれは、われわれの現代社会がもがいている大きな無秩序と関係がなくはない色々の反省によって伴奏され、飾られ、支えられることになった。
 私は昔の楽器を愛する。ヴィオルの一族はヴァイオリンの一族とは反対に女性で呼ばれている。それは音色の質から言うと、疑いもなくヴィオルのほうがヴァイオリンよりもつつましやかて控え目で、繊細だからである。そして正にこの理由のために、彼女らはこんにち王座を追われているのである。われわれの世紀は、音楽は喧騒よりも静謐せいひつの近くに生きるということを知っていないように思われる。量の多すぎるということはすべてのものを、オーケストラをさえも台なしにしかねない。いな、いな。本当の音楽、われわれに天体のハーモニーや永遠の至福のハーモニーを想わせる真の音楽は、きわめて僅かな音で刺繍ししゅうされた、惚れぼれするような静かさで出来ているのである。こういう理由から、私は多くのほかの楽器の中で、クァントン、ヴィオラ・ダモーレ、ヴィオラ・ダ・ガンバ、クラヴサンといったような、そのえも言えない音の流れがわれわれに貴族アリストクラシーの感情、今ではかなり稀なものになった本当の貴族の感情を与えるこれらの楽器を愛するのである。しかし煽動家デマゴーク諸君のために急いで付け加えておくが、ここで言う貴族とは魂の貴族の意味である。音楽会場には、すでに述べたかも知れないが、学生もいれば駐屯部隊の兵隊もい、その他町の人たちがたくさんいた。彼らは瞑想と深い喜びとをもって耳を傾けていた。つまり私の言う貴族の仲間だったわけである。
 聴くだけで充分だったが、それに満足しないで、私はカザドシュス家の人たちをうっとりと眺め、楽器の一族に見とれると同時にこの人間の一族にも見とれた。画面でのように、聖体拝受に好都合な配列の仕方で並んだこの小さい一団に見とれたわけである。彼らは一緒に大きくなった。彼らは常に一緒に演奏をしてきた。彼らは生の本能によって、また遺伝的でさえある本能によって互いに理解し合っている。ほんのちょっとした目の合図、ちょっとした息づかい、口にも言えない意志のわずかな動きで、とっさに彼らはスタートする。あたかも大空へ飛び立つ鳥のように。これこそ耳の楽しみ、目の楽しみである。
 そして突然、知性の楽しみが一つの真理を発見する。
 ヴィオル族の楽器は、いろいろな仕掛けの上で彼らの男性の同胞たちと違っている。クァントンには五本の弦がある。ヴィオラ・ダ・ガンバには(これはチェロのように両脚の間へ保持するのでこういう名がつけられたのだが)六本の弦がある。そしてヴィオラ・ダ・モーレには、程々の多音的な組合わせが出来るようになっている十四本の弦がある。それぞれの楽器の形にもまた特徴がある。クァントンはヴァイオリンよりも短かく、ヴィオラ・ダ・ガンバはチェロよりも短かい。しかし一般的な原理はどれも同じで、大体の形はヴァイオリンのそれ、すなわち音楽の表象シンボルの形をしている。このシンボルは蓄音機や、騒音を出す機械や、ルーレットの笛や、その他さまざまの拷問道具がはびこっている現在にもかかわらず、不滅なものと考えることができる。
 私は数世紀以来ごく僅かしか変っていないこれらの楽器を眺めた。私は敬意をもって彼らを眺めた。そして感謝したい気持になった。つまり彼らが私の目に対して代表しているものや、彼らに宿っている精神に感謝したくなったのである。
 私は時どき大胆な建築家たちに出会うことがある。彼らは窓のない家や、踏み段のない階段や、土台のない壁や、つまり「ヌーヴォー式」、人が新しい手法と呼んでいるものを造ることを夢みている。私は幻想にかがやく医者たちに出会うことがある。彼らは電話による外科医術というような突飛なことを考えている。私は無鉄法な政治家たちに出会うことがある。彼らは全面的に新しい仕方で世界を建て直すために、世界全体を叩きこわすことを執拗に空想している。私はこういう人たちすべてに言いたい。「みんなと同じように私も新しい物が好きだ。では諸君も新しい仕事をするがいい。しかし時にはヴィオルかヴァイオリンを見に行くがいい。そして工業が――その中のごく少数のものは行き過ぎているように見えると言える近代工業が――この尊敬すべき楽器に、細部は別として、どこといって修正する手段を見出せなかった事実を考えてみるがいい。このことは、気違い沙汰がいやならば、世の中からその優秀さを認められた物はこれを保存すべきであり、たとえ修正するとしても慎重を期さなげればならないことを意味するのである。そのほかのことは諸君に任せる」と。

 

   

 いや、いや! もう音楽はたくさんだ! 人が世界の全表面で旅行者にたいして措しまず与えるあの音楽、もっと悪いことには、無理やりに押しつけるあのみじめな音楽はたくさんだ! と私は言いたい。私は機械音楽のことを言っているのではない。それに対してその場その場で経験する恨うらみをすべてまだ言いつくしたわけではないが。私の言うのは、もっといい条件の下でならばちゃんとした音楽家になれたかも知れない一人前の人間を動員して作った、あのホテルの中や船の上での出来合いの貧弱な物音のことである。
 「なんじ何を聴くかとわれに言え。さらばわれなんじの何者なるかをなんじに告げん(1)。」水に浮かんだ宮殿や陸上の宮殿で見うけるあの人たち。彼らは胃の腑や臀しりのことになると、最も上等なキャヴィアや、いちばんふっくりした肱掛け椅子を要求する。彼らは耳のことになると、甘ったるい、胸の悪くなるような、破廉恥な、要するに俗悪なごたまぜ物を尊大な顔つきで吸収している。
 私の第一の不満は、人が時と所をわきまえないことである。食うということは小さな事柄ではない。私は人が食いながら話をすることに同意する。それは一つの古い慣習だから。しかしその上私にオーケストラを聴けと強いてはいけない。もしもそのオーケストラのやる物がいい物だったら、私は即座に冒瀆だと叫ぼう。いったい小鹿のヒレ肉とヘンデルの『ラールゴ』との間にどんな関係があるというのか。またもしもその音楽が凡庸なものだったら、私はお慈悲をねがって静かに食わせていただこう。
 私の第二の不満は、いたるところで見られるように、贅沢な場所でのお客の、信じられない程の趣味の欠乏に関してである。大きな船や豪華なレストゥランのお客というものは、耳が堕落しているので、もっぱら抜萃曲や、モザイク曲や、きたない言葉を使えば、混成曲ぽぷり(2)で養われなければならない。
 疑いもなく、私はそこに時代の症状を見るのである。贅沢な客というものは、原則として、努力をしないものと考えられている。或るソナタを全部聴く? なんという精力消耗の体操だろう! ベートーヴェンの序曲や、シューベルトの三重奏曲や、モーツァルトの四重奏曲を楽しむこと、そんなことは唯美主義者の喜びである。一等の旅客は、音に関しては軽い食い物を要求する。ウィーンお得意の曲の中の最も有名なワルツからあちこちと引っこ抜いた幾小節とか、『リップ』か『コルヌヴィールの鐘』からかいつまみに縫ったぼろきれとか、『白馬』のかけらとか、『カルメン』の屑とかいう物を。しかしこんな食い物でも、よく考えてみれば、そこに何か纏まとまりのようなものはある。ところが驚いたことに旅行者は、ワーグナーやセザール・フランクがタルタンピオンやバルナベの間で時どき小さな役を演じているのを、大概の場合その耳で受けとるのである。卓抜な綜合だ!
 或る時、非常に大きな或る町で、私はそこの音楽家たちに会いに行った。そして一種の実験、絶望の実験をしてみるつもりで、行き当りばったりにヨーハン・セバスチアン・バッハの名を口にした。彼らはひどく愛想よく、自分たちの楽譜の中にバッハという名の「混成曲ポプリ」があると即答した。
 私はフランスの船の上で本当の音楽に接したことがある。ところがそれはまやかしで内緒事のような演奏だった。音楽家たちはこんな弁解をした。「お解りでもございましょうが」と、その中の一人がまじめな悲しみをたたえて私に言った、「お解りでもございましょうが、もしもご註文のハ短調のトリオをわれわれが演奏致しますと、苦情が出ますでしょう。お客様方はあの曲をお好きになりませんです。」
 お客たちがこれを好かないというのは本当だろうか。私にはどうも確信がない。私としてはこの眠そうな客たちが、彼らの奉仕者である音楽家の連中から、実際以上に馬鹿で無教養な人間のように思われているのではないかと思うし、またそう思いたい。もう少し大胆にやってのけたらいいのだろうに……
 いや、駄目だ。何もできはしないのだ。「なんじ何を聴くかをわれに言え。さらばわれなんじの何者なるかをなんじに告げん」…… これは面白い洒落しゃれである。お客は何も聴きはしないし、その上何も聴こえてはいないのだ。彼らは豪奢なホテルや船の音楽を、避けることのできないみじめなもの、ともかくも金を払って買ったみじめさ、それに対して権利のある贅沢のみじめさとして諦めている。食い物でも、飲み物でも、テーブル掛でも、花でも、葉巻でも、すべて何でも無駄使いしている以上、音だって無駄使いしなければならないし、こんな全面的な放逸のなかでは、音楽だけを生贄いけにえに捧げないでおくわけにはいかないことを、旅行者自身よく理解しているのである。
 人の好い旅行者はたぶん心中こんなことを考えるだろう、「音楽をちょっぴり。それは愉快だ」と。しかし私は不賛成だ。私にとってはそんな音楽は死の音楽に、また日によっては葬いの音楽に聴こえるのである。
 「もしも音楽が恋の糧かてなら、もう一度始めるがいい」と、『十二夜(3)』の初めのところでオルシーノ公爵は言っている。もしも音楽が恋の糧なら、大ホテルの客たちは、異彩を放つ恋人らのようにふるまうべきだと私は思う。なぜならば、音楽は彼らに値切られたのではないから。
 私はここに、甚だまじめに、すべての芸術の中でも褒めたたえるべきこの芸術の濫用に反対する連盟を作ることを提案する。われわれは文部省に――少なくともフランスから始めたいい――混成曲ポプリの作曲とその演奏や、傑作の汚瀆おとくや、音楽的な楽しみと栄養摂取の活動との混同を禁じた法令を要求しよう。これは当然、もっとずっと内容豊富な計画の予備的な条項にすぎないだろう。そして音楽をいつくしむわれわれすべては、われらの信仰宣言の中で大いに遠く行かなければならないのだから、標語として次の一句を採用したいと思う。「何よりもまず静かさを!」

(1) 〔訳者註〕「なんじ誰と交わるかをわれに言え。さらばわれなんじの何者なるかをなんじに告げん」という諺のパロディー。
(2) 〔訳者註〕Pot-pourri. 腐った鍋物、ごった煮。
(3) 〔訳者註〕シェイクスピアの劇。原文では la Nuit des Roisとなっている。

 

   

 君がわれわれを去ってからもう二月ふたつきになる。ドワイヤン、老いたる兄弟のような友よ。私は今夜君を呼び出したい。この熱烈な会衆、君の仕事への讃美と、君の人間への思い出との中でしっかりと結び合ったこの愛情に満ちた会衆のまんなかへ、われわれの間へ、今夜君に現われてもらうために。
 何よりもまず人である。われわれはどうしてその人を忘れ得ようか。君は背が高くなかった。わが友よ。威信は君の体からは発しなかった。しかし魂から発した。他の多くの人々の視線に出あうために、君の視線は上がらなければならなかった。その不思議な、霧のかかったような視線、夢と精神性とに満ちみちたまなざしが、なんと昂然と上がったことだろう! 私がもう一度その燃えるのを見たいと思えば、それを思い出すだけで充分だ。何かに感動すると血液の露に被われる柔かで強いそのまなざし、常に待ち求めているようだったそのまなざしを。
 わが友よ。私はここで自分の述べている言葉を慎重に吟味する。自分の失った者らの生きている影の国から、あたかも魔法のように君を引きいだそうとする言葉を。そうだ。私はそれを言う。私はそれを知っているから。君の眼はたえず何かを求めていた。それは同意を求めていた。それは信頼を、友情を、愛を求めていた。信頼や愛は誰でもこれを要求する。しかし君の要求はほかの誰のよりも切実だった。ではなぜだろう。私はそれを言おうと思う。
 そのわけは、まず第一に、君が誰にもまして苦しむことに熱烈だったからだ。君はわれわれの間で半世紀を生きた。それは短かくもあるが、また長くもある。そうだ。それは君のように防禦の悪い魂にとっては長かったと言える。君は闘うことを一度も断念しないで生きた。そしてそれが君の非常な長所でもあった。なぜかといえばすべてのものが君を傷つけ得たし、また事実傷つけもしたのだ。おお、人間の中での最も感じやすい人間、おお、無防備のわが友よ! 君のそばで生きていた人たちは皆、その点で何かしらを知っているはずだ。君は愛にたいして実に大きな渇望を持っていたが、常にそれに飢え、夢中になり、しかもついに満たされることがなかったらしい。誠実に君を愛した人たちも、彼らの最も大きな善意に反して、君を傷つけずにすむという確信は持てなかった。なぜかといえば、君の夢は人間を求め、人間をとおして人間の背後に、人間よりももう少し遠いものを求めていたから。
 同意へのこの熱情の、その根源を私は早くも理解した。君には他人の愛が必要だったのだ。或る大きな仕事の達成に君は努力していたし、心の中に一つの大きな野心を持って生きていたのだから。
 野心には幾つかの顔がある。君の野心はきわめてけだかい顔を持っていた。私がそれに敬意を表するのもそのためだ。多くの芸術家たちが慎重な交わりの中でその才能と共に生きている時、君は、君ドワイヤンは、全民衆に歌を歌わせることを望んだ。彼らは歌った。彼らは歌っている。彼らはなお長いあいだ歌うだろう。それを君の魂がどんなに喜んでいることか! 多くの芸術家らが小さな器用な作品で成功を願っている時、とうとう、最高の野心よ、君は勇ましい大作品の幾つかをゆっくりと築き上げたのだ。
 なんという実例だろう、ドワイヤンよ! 世界の今のこの時に、なんという教訓だろう! 私はこの実例を、われわれの間で君の偉大な声が鳴り響くこの今夜、それを聴いているわれわれの子供らに、私の息子たちに、私の甥おいたちに、私の若い友人のすべての者に、運命の敷居の際に現われたすべての人々に、示したい。私は君の実例を彼らに示し、われわれにとってはこの唯一つの仕方こそ、それがわれわれに与えられている間に、この神秘な、不可解な生命を正当化する道であり、またそれこそ、花々しい熱情と労力とでそれを満たす道だということを理解させたい。別の仕方では生きることにならない。そして君は、ドワイヤンよ、君はそれを知っていたのだ。

 

   10 ヨーハン・セバスチアンの没後二百周年のための感謝の言葉

 私は彼が常に自分のそばにいる者、生きている誰とも同じように現実の者、そしてしばしばそれ以上に現実性をそなえた自分の生活の道連れであると言いたい。私は彼を自分の道案内、自分の友だと言いたい。彼は私のうける試練の苦を軽減し、私の暗黒に光を投げ、私のもっとも秘密な思念に回答を与える者であり、私がこの不可解な世界の影と幻覚のなかを手さぐりしつつ進んでいる時、私を勇気づけたり、願いをかなえたりしてくれる者である。
 私の全生涯の道連れ? いや、あいにくそうではない。彼は私の生まれた時にはもう存在しなかった。後になって、私の息子たちや孫たちの生まれた時にもそうだったように。彼はその生き生きとしたリズムで私の少年時代を発奮させるということがなかった。私の両親は、彼ら自身その知的向上の最初の段階であくせくしていたので、音楽の巨匠たちに対する知識へとわれわれを導くことはできなかった。ヨーハン・セバスチアン・バッハは、私の二十歳を征服した人の一人である。そして音楽の宇宙の中をやみくもに探しているうちに、一つの世界、バッハの世界、すばらしく創造的な精神、あえて言えば驚くほど「建築家的な」精神を私が発見したのも、ちょうどその頃である。バッハの精神、結局一つの人間的な魂であり人間的な心情であるものの愛の徳は、私にとって涸れることのない泉であったし、今もなおそうである。
 こんなふうに敬意を表しながらも、私の知的な実際的な生活のなかで、ヨーハン・セバスチアンが、さっそく今日のような選ばれた席を占めたと人に信じこませていいものだろうか。いや、けっして。当時の私は自分に美しいと見えるものならば何でも愛した。しかし大音楽家たちの万神殿パンテオンは、私の熱情のための供物台くもつだいをけっして充分には持たないだろうと思われた。私は自分の恩人として、すべて自分に何かをもたらす人、何事かを教える人、自分の喜びや希望や過ちや苦しみに、反響を、こだまを与えてくれる人たちを認めたのである。   
 こうして長い幾年を、私は音楽に養われ、音楽に酔って生きた。それから骨の折れた上昇のおかげで一日一日を少し遠くから見ることができるようになると、色々な奇跡の協力を自分らしいやり方で整理した。讃嘆に値いする人というものは常にいるものである。そしてそういう人々の中の誰かが、時や要求にしたがって、或いは証人として、或いは援助者として呼び出される。しかしヨーハン・セバスチアン・バッハが、私の成熟した年齢における選ばれた道連れが、私の旅路の最後の試練の時に、私を見捨てはしないだろうということを今は知っている。
 彼はこの不安な世紀の初めごろすでに私のそばにいた。その頃私は多くの信頼と多くの善意とで、自分に対して幸福を試験していたのだった。音楽家たちの親しい声が――その中の或るものは消え去ったが――私の家に鳴りひびいた。それはカンタータと讃美歌カンティックの時、誠実さの失われない純粋なメロディーの時だった。なぜならばヨーハン・セバスチアンには、倦怠の惧おそれあるものが一つもないからである。カンタータとカンディックとは、第一次世界戦争の労役と苦悩との中でも私に伴奏した。ついで宝はふえていった。私は音楽家たちにも出会った。私は休息の時間のおかげで独奏ヴァイオリンのためのソナタや、ピアノとヴァイオリンのためのソナタや数々の協奏曲を知るようになった。なお少したって、自分自身或る楽器を奏することを覚えたので、私はわが巨匠の敷居をおどりこえた。すなわちフルートのためのソナタや、その中でフルートとヴァイオリンがピアノと共に歌いつづける、あの有名なブランデンブルク・コンチェルトをやりはじめた。
 ああ! われわれアマチュアは皆ひどく臆病だった。とはいえ熱意に溢れたアマチュアだった。われわれを押し流したいろいろな事件は、永久にわが巨匠の音楽で刻印を捺されている。『イ長調のソナタ』の或る楽句は、致命傷を負った一兵卒のまなざしを影の中から浮かび上がらせる。また別の或る楽句は、私の精神に、砲撃の響きに支配され包まれたものとしてしか浮かばない。そして『聖霊降臨祭パントコートのカンタータ』を歌うと、平和を告げる希望の波によってもう一度高められたような気がするのである。
 そのぶるぶる震える、おびやかされた平和の二十年間、われわれ、私の家族と私には、家にある音楽の蔵書の中を手当り次第にあさり廻る時間があった。そしてバッハがわれわれにその全光輝をまとって現われたのはその時だった。そういうものをわれわれが時に拙つたないやり方で演奏したとしても、どうか老いたる合唱長カントールが大目に見てくれるように。彼はわれわれの愛を疑うことはできなかったであろうし、むしろいくらかの父らしい助言を与えてくれたであろう。
 バッハの作品は魂のどんな動き、どんな状態にも答え得るほど壮麗で多岐にわたっている。それ故その作品はわれわれの感情や欲望や願いと共に、われわれを受け容れたりもてなしたりすることができる。それはバイロイトの大家の音楽のように独裁的ではない。それは弱かったり、ためらっていたり、何かに思いわずらっていたり、途方に暮れたりしているわれわれを、そのあるがままの姿でとらえて、彼との対話に誘ってくれる。もしも一言で、ただの一言でこの音楽を評せよと言われたら、私はそれを寛容の音楽だと言うだろう。
 ヨーハン・セバスチアンの作品をよく知らない多くの人々は、その中に驚くばかりな構成、音楽的代数学の熟達した練習をしか見ない。そういう人たちに私は言いたい。「もっとよく探してみたまえ。そうしたら諸君はわれわれの大家の作品の中にあらゆる物を見いだすだろう。愛情も、諷刺も、諧謔かいぎゃくも、さらに陽気なもの、官能的なもの、親切な心ばえをさえ見いだすだろう。最後に、そして特に、もっとも悲愴な人間的苦悩を見いだすだろう」と。私は驚きと、ついで感謝の念とをもって思い出すのだが、カンタータ『おお、優しき日』を初めてやってみながら、ヴァイオリンとオーボエ・ダモーレの伴奏で歌われるあの悲痛な「ロマンス」を私は発見したのだった。何年かたった今でも、自分が疲労と苦悩の絶頂にいるように感じる時、第一番に深淵から立ちのぼって来るのは常にあの旋律である。
 われわれは第二次世界戦争が、あらゆる音楽家の中から、われわれによって生きることの巨匠、苦しむことの巨匠として選び出された人への感謝に、なお何か付け加え得るだろうとは予想さえもしなかった。ところがあの不幸な事件の初めから、われわれ、私の家族と私とは、バッハが永久に自分たちの避難所となり、自分たちの内密な生の片隅となるだろうということをはっきりと理解したのだった。
 私の子供たちは、従兄弟いとこや友人たちと一緒に音楽をやったり合唱をしたりするために、毎週一回、夜、集まるならわしになっていた。彼らは早くもこの物優しい時間、この救いの時間を、宗教的な音楽に捧げた。助力を乞う声に多くの大家たちが現われた。バッハがじきに覇権をにぎってこの練習を指導した。偉大な『ニ長調のマニフィカート』、『クリスマス・カンタータ』、『クリスマス・オラトリオ』、『ロ短調のミサ』――おお、どうか熱情が野心を大目に見てくれるように――そうだ。ほんとうに『ロ短調のミサ』だったのだ…… ともかくもこういう幾つかの作品が、あの劇的な時間に、われわれの若者たちが高揚と救済とを求めた対象だった。そしてわれわれは胸を締めつけられる思いでこれらの美しいけだかい顔顔、この興奮した小さいグループを眺めるのだった。その中へ、やがて死が、血迷った憤怒で平手打ちを食わしには来たが。
 平和がまた帰って来た。不安らしく、幽霊のように。ヨーハン・セバスチアン・バッハはわれわれの間に残っていた。彼は最近私の息子たちの結婚式に出席したが、今では孫たちの開花に気を配ってくれているかも知れない。
 私は自分たちの美しくて脆もろい文明を讃えるために、世界を遍歴することをまたはじめた。陸上に、海上に、空中に、私はこの親しい崇高な音楽、かつて一度たりとも欠かしたことのない、事に応じて見いだすことのできるこの音楽を携えて行くのである。
 生涯の伴侶と共に遠い国へ出発するような時、何か月ものあいだ自分の炉辺ろへんを留守にするような時、私は子供たちに頼んで、彼らがわれわれの帰宅を待っている間に、私が自分の宝の中から選んだ合唱曲を、私が家族の者たちや自分の家と再会した時の褒美ほうびとなるような合唱曲を一つ練習しておいてもらう。
 それで、一九四七年に南アメリカへ出発する時、私は息子たちに、帰って来たら皆が『復活祭のカンタータ』を演奏し歌うのを聴く喜びを味わいたいものだと言った。それから私は旅に出た。そして約三か月の間、自分に託された使信メッセージを注意ぶかく届けるために全力をつくした。或る日われわれは今度の旅の終点へ着いた。われわれはなすべきことをすべてしおえて、チリーのサンティアゴにいたのである。われわれは正午に、ブエノス・アイレス、リオ、ダカールを経由してフランスヘ行く飛行機をつかまえに行った。
 その日は日曜日だった。正午近く、われわれは飛行機が遅れたことと、十中八九夕方までは出発できないだろうということを知らされた。
 するとわれわれを取卷いていた善良な友人たちが言った、「皆さんは待っている間にじりじりなすったりお疲れになったりする必要はありません。ここからふた足ばかりのところでもちょうど演奏会をやっていて、そのプログラムがまた素晴らしいのです。合唱もあるようです。われわれが席をさがします。さあ皆さん、ご一緒に音楽を聰きに行きましょう。」
 まったく、これ以上いい方法はなかった。そこでわれわれは劇場のホールへ入って行った。演奏会はバッハの或る比較的小さい作品ではじまった。そのあと、プログラムによると、或る番号のついたカンタータを聴くことになっていた。私はその番号に注意を払わなかった。バッハのカンタータはたくさんあって、その数三百以上にものぼっている。私が喜びを味わうことは確かだった。しかし、オーケストラと合唱とが沈黙を破って、音楽の最初の数小節が自分のほうへ押し寄せて来るのを聴いた時の私の驚きを何と言おう。それは『復活祭のカンタータ』、私が帰宅した時のためにと言って子供たちに準備を頼んでおいた、まさにそのカンタータだった。この作品の題材はキリストの死だと言われている。人は楽譜全体が感嘆すべきただ一つの楽句の上に休らっていること、その楽句の発展から成っていることを知っている。そして今や一つのカンタータが、何百というカンタータの中からチリーの音楽家たちによって選び出されたのである。しかもそれが私のあんなにも熱心に聴きたく思っていたちょうどそれであり、自分の努力への報酬として望んだそれだったのである。涙が、影のなかで、私の顔を流れた。
 もしも家族の者に取卷かれての死が与えられるなら、バッハの思想が私と共に、私の周囲に、私の上にあるようにと祈る。その時、『聖ヨハネによる受難曲』の最後の合唱を聴くことが、私にとってさぞや心楽しいことだろう。この合唱はいつでも私に漫々たる波を、世代から世代へと幾世紀の夜をとおしてキリスト教の思想を遠くはこぶ、深い深い人間の波を想わせたのである。
 もしも私か故国から遠く、わけてもわが家を遠く、愛する者たちからもまた遠い所で斃たおれなければならなかったら、ヨーハン・セバスチアンが私の憩いのために、悟りのために、解脱げだつのために、救いのために作曲してくれたあのけだかい歌、もう永久に見分けもつかないほどよく、またそれほど遠い以前から私の思いに混じりこんで来たあの歌、誰でもが歌い、誰でもが歌うだろうあの歌、そしてしかもなお、ヨーハン・セバスチアンと私との間の秘密であるあの歌を、ただ一人で、声もなく、少なくとも心の奥所おくがで歌う力を与えられたい。    

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 五 われらの間の名手

 われわれの間に名手ヴィルテュオーズがいるということ、人間たちの中に名手が、気持のいい怪物がいるということは、いろいろな問題を掻き立てる。そこでそういう問題が現に活躍している間に、急いでそのいくつかを考察してみょう。生命によって提出された問題は生命と共にある。だからそれは生まれ、成長し、そして死ぬ。そのような問題を死なせるものが解決、つまり説明であるとは限らない。生物学や心理学や政治学、つまり生命の科学の場合には、解決というものは、たとえそれが巧妙なものであっても、問題を脇道へそらしたり、活気づけたり、またしばしば激化したりするものである。従って解決が解決であることは稀である。今あげたいろいろな科学の場合には、問題は最もしばしば疲労と老廃とによって死ぬのである。
 名手によって提起された問題のいくつかを、われわれは急いで検討することにしよう。なぜかと言えば、この問題が或る日、名手や名技と共に姿を消すかも知れないと想像するのは決して愚かなことではないからである。
 こうした不幸の起きる決定的な条件はまた後で調べることにして、私は言葉の解釈をその基礎から始めてみることにする。
 名手とは何か。ヴィルテュオーズという言葉は何を意味するのか。
 VIrtuoseという言葉は、明らかに、有徳なという意味を持つラテン語のvirtusosusから来たものであり、この言葉自体は、勇気ある男性をあらわすvirをその語根とするvirtus(徳)から直接出ている。
 それゆえ、ヴィルテュオーズが或る目立った徳、もっとよく言えば或る傑出した徳を持っている人であることは直ちに明らかなことである。リットレはこれらの言葉の項でこう言っている、「ヴィルテュオーズ。何であれ或る種のことに熟達した人」と。
 そこでわれわれとしては、取りあえずこの穏当な定義に満足して、それを修正したり補足したりすることは後廻しにしよう。
 vertu(徳)という言葉はそれ自体いろいろな意味を持っている。ヴェルテュには勇気という意味もあるし、また「特別な性質」という意味もある。この後のほうの意味だと、徳とは天分と呼ばれているものの謂いいであるとも考えられる。
 たしかに、名手という者は、いつでも、そして必然的に、天分をうけた人間である。そうでないほかの者たちが、どうしてこの人間に驚かされないということがあろう。時には天分は本当に奇跡である。一人の少年羊飼いが小刀こがたなを手に小さい像を刻んでいる。そこを温かい心を持った一人の芸術家が通りかかる。その人はかくも著しい素質をそなえた子供の前で立ちどまらずにはいられない。彼は子供を自分の保護のもとに置いて教育する。するとどうだろう、子供は自分にあてがわれた大家たちの仕事を一躍して追い越してしまう。彼は突進し、向上して、一箇の非凡な天才になる。芸術の歴史はこうした驚くべき伝説の数々から成っている。そして音楽の歴史となるとこういう実例は特に豊富である。それは音楽の感覚が尋常の尺度には合わないということである。偉大な価値を持った人、時には至高の天分を恵まれた人で、音楽を聴く耳を持たなかったという実例は百もある。或る者が天恵に浴そうとして勇敢な努力を重ねながら無為に終る一方では、何ら特別な素質の見られない家庭に生
まれた小さな子供が、たちまち調和の神性の洗礼をうけたように見えることがある。
 時にはこの天賦の才が狭い個人的なものに限られず、一家族の全部――もしもこういうことを言ってよければ――一王朝の全部に分与されることがある。一見甚だ自然なものに見えるこの現象は、しかし奇跡でなくもないのである。天賦の才というものは、それがたとえ遺伝の場合でもやはり驚くに値いする。バッハの一族は数世代に亘って世界の魂を奪っている。この大家たちの家系から或る日絶世の大家が生まれたとしたら、それは驚くべきことではないだろうか。
 天分は、特別な徳は、必ずしも他の長所を誘い出しはしない。未来の芸術家が生まれつき見すぼらしい子供に見えることがある。体の動きが鈍がったり、普通の勉強にも気働きばたらきがなかったりするので、兄弟や両親や友達などから、無関心や軽蔑の眼で見られることもあり得る。しかし、或る日、天分が現われる。まばゆい光線が進路を見いだし、若い顔を照らしに来る。偶然のなす業わざか普通の教育の戯れか知らないが、子供は自分がその真の寺院の階段の上にいることに気がつく。彼はやがて自分の楽器となるその楽器を見る。胸せまるような瞬間である。初めてその前に立った子供はそのピアノにじっと見入る。子供はそれを、音を出すことのできる不思議な面白い道具としてではなく、すぐにも友達になれ、すぐにも仲良しになれる一つの親しい生き物、自分自身の一部として眺める。実にそれをこそ彼は待っていたのだ。彼はそれに挨拶し、最初の一分間からそれを識る。彼はすわって、その神経質な、精緻な、霊感に打たれた指を鍵盤の上にさまよわせる。この瞬間から彼は他人の目に、或る特別な恩寵に恵まれた者として映る。それまで彼を無関心や非難の眼で見ていた者たちが尊敬の念に打たれる。彼らは一羽の鳩が舞い下りて来て、この汚れのない頭の上にとまったことを理解する。彼らは神秘が現われ、それが達成されるのを息を呑んで眺めるばかりである。
 音楽の天分が、他の芸術的天分とくらべて特別なものだということは無論ない。しかしそれは何よりもまず一般大衆の心を打つ。つまりそれが一層際立ってもいるし、一層魅惑的でもあるからである。詩の分野で稀な資質を持っている者が、卑俗な連中の嘲笑を買う場合は往々にしてある。詩は言葉の芸術であり、もっとも粗野な人間もそれを使うし、それに対して多少の権利を持ち、その使い方にも多少の経験を持っていると思っているからである。ところが音楽は門外漢をおびえさせる。それは趣味のほかにきわめて正確な知識と、まねるこ
とのできない一種の奇術とを前提としている。大衆にとって音楽の天才はあらゆる天才の最前列に立つ者であり、音楽の名手は特別な名手、明らかに天使の訪れをうけた存在なのである。
 この天分は、最初の瞬間から聴衆を湧かせたり捉えたりするが、また別のいくつかの兆候も現わす。奇跡は繁殖し、発展する。未来の名手は経歴に案内されてまっしぐらに道を急ぐだろう。彼は、普通の方法は自分のためのものではないということを忽ち示して見せるだろう。彼は天分を恵まれない者たちが青くなったり憔悴しょうすいしたりするような、種々の勉強にたちまち成功するだろう。確固とした迅速な足どりで、そこに特権を与えられたきわめて少数の者だけが動いたり生きたりしている、山の頂きへと彼は進んでゆくのである。

     *

 聖なる恩寵についてのこうした観念、俗人の想像をいきいきと眩惑する例外的な恩寵についてのこの観念は、しかし問題の別の面を忘れさせる惧おそれなしとしない。
 奇跡の真の愛好者は純粋な奇跡を要求する。彼は中庸の驚異を許さない。彼にとって名手とは魔術的な力をふるう者であり、ほかの者が一生涯勉強して準備してもまず決して出会わないような試練の数々を、必至の喜びをもって平然と乗り越えてゆく者である。
 名手は確かにわれわれを途方に暮れさせる。私は彼がわれわれを甲斐ない道から追い出そうとしているのだと言いたい。彼がわれわれに勉強を厭いやにさせるように思われるので、われわれは途方に暮れてしまうのである。
 努力なしの名技。ここに確かに人間的な真実のきわめて素朴な見地がある。この生まれながらにして知るという観念をわれわれが喜ぶのは、われわれが神というものを、すなわちすべてを知りすべてを理解し、すべての企画とすべての完成とを可能にする存在を、理解する上に助けとなるからである。
 ところが名手の歴史は、それをよく知っている者にとっては、ほとんど常に長い辛抱づよい努力の歴史なのである。ステージの上、整然と並んだオーケストラの集団の前を進んで行くのをわれわれが見ているこの幼い子供、むきだしの脚でしっかと立ち、小さなヴァイオリンを振りかざし、そしてほとんど超人間的な優美さと正確さとで、突然或るむずかしい協奏曲を弾き出すこの子供、わずか十歳か十二歳のこの坊やは、努力と訓練に関するかぎり、一人前の大人おとながいくらか自慢にしてもいいような憂鬱な体験を持っているのである。
 立ち上がって、クラヴサンを離れて、会場を埋めつくした聴衆の拍手喝采に身をかがめるこの美しい若い女性。彼女は天と地との間で、至上の霊との対話の中で、不滅の勝利の喜びの中で生きるために造られた者のように見える。しかしこうした快い陶酔を聴衆の上に振りまくためには、彼女はその片隅と苦しみとの中で、合計したら莫大な年月になる数知れぬ時間を過ごしたのである。
 王冠の重みに額ひたいを傾けているこの老大家は、ちょっと見ただけでは、古い親しい栄光の報酬を取り入れているように見えるかも知れない。しかし今でもその熟練した手に、その心臓に、その精神に、毎日果てしもない試練を負わせていることは彼だけが知っている。そしてこういう犠牲を払ってのみ、かつて疲労困憊した努力によって獲ち得た棕櫚しゅろの枝を彼は失わずにいるのである。virtus(ヴィルトゥス)は、何よりもまず、勇気を意味するということを私は前に言っておいた。
 魔術的な天分を恵まれない芸術家というものはない。また骨身を削るような努力をしない芸術家というものもない。天分がなければ勉強が無駄になる。勉強がなければ天分も実を結

ばない。大きな天分を授かる者は、同時に大きな義務を負わされるのである。この不思議な徳は、労働と種まきとによって絶えず豊かにされなければならない。
 私は仕事に熱心だという点で尊敬に値いする人達を知っている。彼らはほとんど常に仕事こそ万事、仕事こそすべての終りだという立派な確信を持っている。店を繁昌させるとか、田舎の地所から利益をあげるとかいうことに関するかぎり、これはおそらく真理に違いない。しかし芸術という法外な経歴の場合には疑いもなく真理ではない。――それはまた科学上の発見の経歴とか、一般に想像力が或る部分を占めているすべての職業の場合にも真理ではない。――名手という者は著しい不公平の相続人である。私は――そしてこの方が前のよりももっと数が多いのだが―――本当に例外的な天分に恵まれた人達を知っている。その中の或る者は自分たちの天分を無鉄砲に信じこんで、それを鍛練し、推敲すいこうし、訓育することをしなかった。結局彼らはその企てのすべてに失敗したのである。
 この勉強の法則はきわめて厳しく、また全く容赦のないものなので、名手の一生はほとんど常に世捨て人の一生である。規律は、弟子の場合だとまず外部から、すなわち周囲から課せられる。しかしそれは間もなく内からのもの、自発的なものとなる。芸術家は、自分が荷物として受け取ったすばらしい重荷を遠く長時間運んでゆくためには、ほかの人達が自由に享楽している無数の喜びや楽しみを犠牲にしなければならないことを痛感する。非常に高く飛ぶためには、身を軽くし、身を清めなくてはならない。世界を驚かせるためには、世界のほとんどすべての誘惑に抵抗するのもまた止むを得ないということを彼は早くも理解する。名技の学校は自己犠牲の学校なのである。

     *

 名手についての公平で周到な検討からわれわれに与えられる最初の報告はこうである。すなわち先ず天運、ついで勉強と自己犠牲。しかしこれだけの代価を払えば、少なくとも成功は保証されるだろうか。ところがそうではない。名手は聴衆に出逢わなければならない。彼は多くの場合、自分の聴衆を創り出さなければならない。
 一箇の偉大な名手は、それゆえ一箇の例外な人間であるが、世間のがわとしては、或る一団の魂がこの人間のために造られて、この人間に光の放射と反響とを与えることができなくてはならない。太陽の光は遊星間の深淵に効果的な現実性を持ってはいない。この光が完全に光であるためには、それがもろもろの世界の物体の上に反映しなければならない。ツァラトゥストラは彼の冒険の初めに言っている、「おお、偉大なる天体よ。なんじもし照らすべきものを持たずんば、なんじの幸福をいかにせん」と。われわれは、無作法でなく、ニイチェの思想に追随してこう言うことができる、「おお、偉大なる天体よ。なんじもし照らすべきものを持たずんば、そもそもなんじ存在したらんや」と。
 天から享けて、何年もの間大きな苦しみの代償を払って育てられてきたその才能が、今やここにすばらしい実りを見せている。それですべてが言われたろうか。いな、まだ何一つ言われてはいない! すべてはこれから始まるのである。これからがこの運任せの、当てにならない職業の中での、もっとも運任せでもっとも当てにならない部分なのである。聴衆? 聴衆は存在する。聴衆はほとんど常に存在していた。もっと正しく言えば、一人の音楽家の能力と長所とを認めるだけの教養と用意とのある立派な精神の人たちは、多いかれ少なかれ或る数だけは存在している。しかしそれは音楽家みんなの聴衆である。名手はまずこの聴衆の中へ行く。つづいてこの聴衆のまわりへ、この聴衆のそとへ、自分の個人的な家族の一員になる相手を見つけ出して誘拐しに行く。大層都合のいい伝説にもかかわらず、これは一日で出来る仕事ではない。名手が初舞台デビューに輝かしい成功をおさめるということはあるだろう。しかし彼から聖体を拝受できそうな精神の家族を、ただの一回で集めることは不可能だろう。この家族が形作られて、自分たち自身や、自分たちの好みや、要求や、喜びを意識するようになるまでには、ゆっくりとした長い年月が必要なのである。私はこの話を続けながら、「自分たちの義務を意識するようになるまでには」と付け加えておかなければいけないだろう。
 聴衆ができて、成功が訪れても、芸術家はそれでけっして試練が終ったわけではない。水蒸気か光の反映のように消えてしまわないためには、彼は自分の造った焰を維持してゆかなければならない。
 名手の栄光というものはしばしば酒のように強いものである。それに酔わされない者があるだろうか。この征服された群衆、この恍惚とした群衆を見るがいい! それは実際見ただけで美しい。それは政治的な集会に見る火山の噴出物のような烏合うごうの衆ではない。それは弁士諸君のお客ではない。それは、ありがたいことに、拳闘の試合や、鬪牛場や、競技場や、競走路の周囲などで見られる動物的な群衆、筋肉の眺めや、汗のにおいや、血のにおいに狂乱した野蛮な群衆でもない。それはまた一つの言葉に生き生きとした反応を起こして、情熱を呼び覚ましたり燃え上らせたりする劇場の群衆でもない。それはまた映画館の眠そうな群衆でもない。いな、音楽会の群衆は、少なくとも彼らが満足している時には、選ばれた人間とは伝説的な存在ではないということ、人は堕落しないでも集まることができるということ、感激なるものは必ずしも粗野に陥らなくても多数の魂に触れるものだということを考えさせる。彼らが喜んでいる時には、音楽会の群衆は異議なく模範的な群衆であり、羞恥も後悔も感じることなく混じり合うことのできる群衆であると私は言いたい。彼らは、静粛は楽しみの代償であるという理由から、完全に沈黙することを知っている群衆、下等にならないで生き生きと喜ぶことのできる群衆、自分たちの感激の思いを大らかに表現できる群衆なのである。音楽が惜しみなく与える悦楽は、一部は知的なものであり、一部は――大部分は――官能的なものである。この二つの要素のまじり合っていることが、音楽会の群衆が品位を失わずに熱狂することのできるゆえんである。
 さて、見るがいい。彼らは拍手している。彼らは溜め息をついている。彼らは静かにあえいでいる。彼らは至上の幸福がなおいくらか増加されることを求めている。今や彼らは何千という足で立ち上がる。そしてこんなにも稀な深い喜びを与えてくれた非凡な人物に向かっ
て、何千という感謝の腕をさしのべている。
 実際、音楽の名手をほかにして、一堂に集まった他人からこれ以上心を打つ、そしてこれ以上惜しみのない感謝の表明をうける人間は世の中にいない。そのことで人類が救いを待っている実験の結果を、階段講堂で説明する学者、この学者はいくらか控え目な拍手と、敬意をもった称讃のつぶやきとで迎えられる。しかし身を震わせている聴衆席を前に、これを今までの生涯の百回目のものとして、ベートーヴェンの『クロイツェル・ソナタ』かヘンデルの主題による『変奏曲』を弾く名手、この名手は彼の聴衆をしばしば精神錯乱や失神状態におちいらせる。
 人はこんなにも美しい熱狂の原因や動きやすい秘密をつかみたいと願うかも知れない。
 私はこの原因をつきとめるために、自分自身の楽しみなるものを分析してみようと思う。
 音楽会の聴衆を形づくっている男女は、ほとんどすべてが音楽的教養の持ち主である。彼らはたくさんの芸術家を聴いてきたし、いろいろなすぐれた演奏も比較してきた。その上彼らは、しばしば声楽や器楽のテクニックについての個人的な経験も持っている。たとえば若い頃ピアノか、ヴァイオリンか、チェロのレッスンを受けたことがある。だから或る奏鳴曲
や協奏曲の特にむずかしい箇所について、的確な知識を持っていないわけではないのである。よく「詩人は詩人によってしか読まれない」ということが言われる。同じように私は、音楽会のほんとうの聴衆は本質的には音楽家から成っていると言いたい。もちろん純粋な聴衆、すなわち真剣な音楽好きだが教養はないという人も稀ではない。しかしそういう人達もじきに専門家になり、時には聴くことの名手にさえなるのである。
 音楽会の聴衆の大部分は、その音楽の意味や内容を知っているだけでなく、演奏のむずかしさについても知識を持っている。その中には生涯の或る時期に練習を投げ出した者も少なくない。彼らはレッスンを受けることをやめ、一人で勉強することさえやめてしまった。つまり断念したのである。なぜだろう。生活上のいろいろな心労が彼らを圧倒したからである。わけても、質の良い楽しみに没頭できるような状態にもう彼らがいなくなったからである。名手と恵まれないアマチュアとの間には無数の段階がある。音楽を熱愛しながら、演奏となると全く凡庸な能力しか示さない人も少なくない。私は運不運などというものを余り信用しないが、器楽に対する、たとえばチェロに対する或る奇跡的な才能が――もしもこの才能を授けられた人がチェロの演奏を聴いたり、チェロという物を見たり調べたりする機会の全然ないような環境に育ったとしたら――全く役に立たず、また知られもしないで終るだろうということは想像できないことではない。名手というものが存在して、それが名乗りを上げるのは、無数のアマチュアが小さな努力しかしないからである。何千という子供たちがヴァイオリンを習っている。――どうかそれが長続きすることを願おう。――そして突然、その子供たちの一人が群を離れ、飛び立ち、舞い上がる。
 一つの小さい金塊か一粒のダイアモンドを得るためには、何トンという砂や土を処理しなければならない。同様に、一人の名手を得るためには、多少なりとも善くか悪くか恵まれたアマチュアの一群がいなくてはならない。音楽会の聴衆、すなわち選ばれたる者に拍手喝采をしに来る音楽会の群衆は、自分たちが「含名手鉱物ヴィルテュオジフエール」の群衆だということをよく知っている。それはわれわれの多くが熱意は持ちながらたどたどしくやっている時に、われわれの中の一人が突然指名を受けたからである。疑いもなくわれわれは彼に讃美を誓い、彼はまたわれわれから驚くべき責任を負わされる。彼はわれわれの代表者であり、われわれには言えないことを言ってくれる人間である。彼はわれわれの徳を担っている。そしてもしも彼がその芸術において偉大ならば、それはわれわれの結集された全努力が、彼をその場所へゆっくりと押し上げたからである。私が一人の名手に喝采をおくる時、私は自分自身の名技の預かり人、名技に対する私の熱烈な要求の受託者に喝采しているのである。私が一人の名手を称讃する時、私は完璧に対する自分の大きな愛を称讃しているのである。
 完璧に対する感情と好みとは、人間の特徴の一つとして数えられなければならない。「人間は……する葦である。」このパスカルを解釈したり言え換えたりする必要があるだろうか。人間は不完全な存在ではあるが、完璧を考えることもできる存在である。私は、人間私は、いたるところで自分の限界を、欠点を、過失を感じる。私は自分のしなければならないことは知っているが、それをすることには成功しない。私を取巻いている人間もまた不完全である。彼らの不完全さは私をいらだたせ、私自身の不完全さが私を絶望させる。それはいつでもわれわれの状態コンディションの弱さを思い出させる。しかし突然ここに一人の名手が現われる。彼がわれわれ皆と同じようにひどく貧しい不幸な人間であり、過ちを負わされ弱さに揑こねられた人間であるというのは全くあり得ることである。しかし彼は弓を取る。彼は音を出す糸を愛撫する。そして突然、私に完璧の姿イマージュを与える。私に神性の特徴の一つを感じさせる。彼は弾く。そして弾きながら、彼は私自身への信頼を私に与える。私はブラヴォーを叫ぶ。そしてそれは、「人間に絶望してはならない、私はまだ人間に絶望したくない」ということを意味する。
 最後に、私が名手に喝采をおくるのは、彼が傑作の正しい寸法を時どき私に示してくれるからである。音楽は魂の糧かての一つである。音楽に熱心な者にとっては、本当に音楽のない時間というのは一分間といえどもない。たとえ千の心労にとらわれている時でも、精神は自分自身に止むことのない伴奏を、あえて言うならば生命の秘められた平衡を形づくる歌をうたう。この内心の歌はしばしば案出から、そして最もしばしば大家たちの楽想に養われたものから成っている。私としては、時にはそれを変形してしまいかねないような一種の親しさで傑作と共に生きている。私が一日じゅう口ずさんでいるのは『ハ短調のパルティータ』や『ト長調のロンド』ではない。それは私のパルティータであり、私のロンドである。音楽会での演奏、換言すれば名手との対話は、時どき傑作を「原形に戻す」ために必要であり、私のモーツァルトをもう一人のモーツァルト、単的に言えばたぶんモーツァルトその人と対決させる機会を与えてもらうために必要なのである。

     *

 こういうのが、私の考えでは自分の楽しみの原因であり、自分の感謝の理由である。そしてこういうのが、従って、名手の栄光なのである。
 この栄光は世の中で最も花々しいものではあるが、また最も脆もろいものでもある。
 それは或るデリケートな器官の活動に全面的に依存している。重い喉頭炎こうとうえん。すると非凡な歌い手はもはや一人の天使ではなく、すべての女と同じ一人の女になる。災難が猛獣のように襲いかかる。すると空気の精のような踊り手がもはや無力な抜け殼にすぎない。左手の薬指の骨性瘭疽ひょうそ。するとジャック・ティボーももういない。リューマチスが悪化したり、乗降口のドアが乱暴に閉じられたりする。するともう名手はいない。私の言おうとするのは、どんなに完全な音楽家の魂も、突然その表現手段を奪われることがあるということである。
 名手の栄光は熱烈な、そして容易に恩知らずになってしまうような群衆の贈り物である。この群衆が一つの名を記憶し、一つの魂の音を知って、それに自分たちの愛顧を与えるようになるまでにはたくさんの時間を要する。しかし何と速かに彼らがその判断を変えることだろう! 失望の一分間。それだけでこの群衆はわめいたり噛みついたりするのである。彼らは感激している時には品位があったが、ひとたび不満を感じると残忍になり、野卑になる。楽しみは彼らを本当の選良にしたが、退屈は彼らを群集本能のあらゆる憤怒に駆りたてる。軽蔑や非難をいちばん早く示すのは俗物スノップではない。むしろ本当のアマチュア、教養のあるアマチュアこそ、しばしば俗物以上に気むずかしくて移り気である。彼らは自分たちの注意や、勇気や、信念の減退までも、好んで名手のせいにしてしまう。彼らは、芸術家のほんの僅かな欠点でも、それが音楽や自分たちに対して一瞬間たりとも疑惑を持たせたと思うと、もうその芸術家に情なさけ容赦を見せないのである。
 多くの恐るべき試練に打ち克っても、名手は後の世の好意を当てにすることはできない。彼は自分があれ程にも気前よく飲ませてやった聴衆と共に、ほとんど全く亡び去るのである。
 名手たちに対してはあらゆる種類の偏見が働いているが、彼ら自身もまたしばしばこの偏見を培つちかうことに専念している。芸術家の中には、純粋な名技というものが、われわれを眩惑して驚きを与えることをじきにやめたり、われわれをじきに倦きさせたりするものだということを知らないか、或いは知っていないように見える者が往々にしてある。実のところ、人間は長い逸楽や数多い奇跡には堪えられない。純粋な名技は、それが確固とした強い思想によって支えられていない限り、忽ち無意識的動作へとすべりこんで、二度とわれわれを興奮させなくなる。貴重な天分も、長年の勤勉も、ここに至って一切忘れられてしまう。音楽の天使が、われわれを弱めたり悩ましたりする危険をおかすのである。
 狭量なくらい知的な人々の間では、名手に対する偏見が不正や非常識の域にまで発展する。私はシャトレーでの或る演奏会のことを思い出す。その曲目にはワーグナーの断片がいくつかと、申しぶんのない才能を持った非常に小さい女の子がピアノを弾くヨーハン・セバスチアン・バッハの或る協奏曲とが含まれていた。上の方の桟敷席さじきせきの聴衆が――その意見が時として大いに価値のあるあの熱烈な聴衆だが――「天才少女はたくさんだ!」と怒鳴って、世にも偉大な美しい作品であるその協奏曲の演奏をしばらく中止させるという残酷なことをした。しかしともあれ協奏曲は演奏され、聴衆の間には幸い静粛が帰って来た。名手に対するこうした先入見、とりわけ早熟な名手に対する先入見は、評判のよくない名手がたまたまその稀な能力を発揮したような場合でも、相変らず嘲罵ちょうばをやめないだろうと私は思う。名手たちの中には悪い大家に、或いはもっと正しく言えばその空虚な作品を花々しい物に見せようとするにせの大家に執着している者もあるが、そんなものには聴衆のほうでじきに飽きてしまう。こういう出来そこないの名手は、喜劇俳優についてニイチェが表明した「彼らは自分たちを成功させるものしか信じない」という、あの辛辣な考えを正当化する者である。しかしこの種の成功は、ほかのどんな成功よりも、殊に音楽の場合には表面的で長続きがしない。しかし劇場の場合には或いはそうではないかも知れない。と言うのは、サラー・ベルナールは長年の間きわめて小さな大家に仕えて、彼女の目ざましい天分を発揮することができたのだから。しかしこの敏腕な悲劇女優は、自分の選び方に危険なものを感じたのか、少しばかり文学界の注意を取り戻そうとして、時どきは『フェードル(1)』を演じたのだった。  ほんとうの芸術家は皆、音楽は名手のために作られたのではないということを知っている。名手こそ音楽のために、そして大家たちに仕えるために作られたのである。その上大家たちはその大多数が、純粋な名技ヴィルテュオジテのために驚くべき幾ページかを書いている。彼らはこういう仕方で、名技というものが芸術上の条件の一つだということを示したのである。その最大の美点は、灸所きゅうしょのところで腕前を見せ、普通にはできる限りおのれを隠しているということにある。私は自分の著書の中に生きている或る人物の意見をここに引用しておきたいと思う、「芸術の秘密は、大きな力を持っていながらほとんどそれを使わないところにある。」

(1) 〔訳者註〕ラシーヌの五幕悲劇。

     *

 名手と呼ばれるこれらの例外的存在がなかったら、一つの文明社会がどんな物になるかは想像もつかない。名手たちの仕事や影響がなかったら、音楽会の聴衆を形作っているこれら教養ある選良たちがどうして出来上がるのか想像に困難だし、またこの聴衆がなかったら、音楽的創造が、つまり作曲家の芸術が、一体どうなってしまうものやら考えもつかない。
 しかしこのように重大な問題が、これからの何十年かの間に、人類にむかって提出されるだろうということはあり得ることである。問題がかなり切迫したものに思われるので、私はあえて未来の幾世紀にはとは言わない。
 音楽には常に機械仕掛けと結びついている部分があった。音楽的な音を発して大家たちの原典を演奏することをさせる楽器という物は、そのほとんど全部が、機械科学の発見を自分たちの仕事に絶えず応用してきた巧みな製造者たちの作品である。しかし機械と音楽芸術との関係で新しいのは、音響現象を再生したり拡大したりすることのできる敏感な装置の参加である。
 人が厚かましくも革命と呼びかねないこの事実の第一の結果は、名手と「新しい聴衆」との関係についてのものである。
 録音機の前で演奏することを懇請された名手たちは、ここで取り上げるのも無益なような色々の理由からそれを引き受けた。この驚くべき撒布作用のおかげで、名手たちの声は非常に遠くでも、また非常に高いところでも聴けるようになった。ワンダ・ランドフスカについて今まで一度も聞いたことのない人たち、そして今後もたぶん永久に聞くことのなさそうな人たちの大勢が、この讃嘆すべき女流音楽家の協力のもとに録音されたレコードを買った。まさしく私の名づけて「新しい聴衆」と呼ぶところの人々である。そしてちょっと見たところこの新しい聴衆は、一つの征服を意味し、音楽はこの征服を機械の応用に負うているように見える。
 しかし本当を言えば、私にはこの征服がいくらかの損失によって、わけてもいくらかの危険によって、帳消しにされているように思われる。そしてその危険の第一は、完全ということへの意識に関するものである。
 蓄音機は完全でなければならない。しかしこれは容易なことである。蓄音機は芸術家の中での一番すぐれた人に頼みこむし、そればかりか選ぶことさえする。十メートルか十二メートルのフィルムを採用するために千メートルものフィルムを使う映画のように、蓄音機はたくさんの録音の中から選び出すことができるのである。蓄音機の持つこういった完全さは、生きている名手のように刺激的鼓舞的である代わりに、失望を味わわせやすい。それは多くの若い精神にとって、完全という観念が、機械というものへの観念と混同されてしまうという意味でそうなのである。一方には人間が、不完全であってしかも喜んで不完全でいようという人間があり、他方には機械が、じつに自然に、じつに必然的に完全な機械がある。この落ちつき払った人間辞職は、完全ということに関するかぎり、私には音楽の将来にとって危険なものに思われるのである。
 もしも私が、宗教的な魂にとって明白で神聖な意味を持つ或る表現を用いることを恐れないとすれば、録音された音楽の愛好者は、どうしても、長い間には、「臨存プレザンス・レール」の感じを失ってしまうということをもう一度言いたい。完全とは機械の問題である…… たしかに、初めには一人の人間が、名手が、並はずれた芸術家がいた。レコードの貼紙エティケットもレコード会社の広告も、まちがいなくその名手のことを思い出させた。しかしその人は遠いところにいる。人人はその人を見ないから忘れてしまう。機械という物のこうした完全さが、その人間的な面を容易に失うのである。そのすばらしい名手、その人を一時間聴くために長い路を行き、たくさんの金を払って、われわれは出かけるだろうか。ハンドルを廻すか電流を通じかする手数を厭いといさえしなければ、僅かな値段で続けざまに百回でもその人が聴けるという時に。
 名手は、蓄音機での聴衆はもとより、ラジオによる聴衆とも個人的な接触を持たない。すなわち名手を作るもの、彼を養って育てるもの、それはあの熱烈な聴衆の注意力であり、熱であり、呼吸であり、まなざしであって、その聴衆を彼は毎日造り出すのだし、その聴衆がまた毎日彼を鼓舞し、豊かな者にし、同様に造り上げるのである。
 それがどうした、と確信のある人達は言う。世界は様相を変えるだろう。芸術の名手と聴衆とのありふれた関係も変わるだろう。名手たちは孤独の中での演奏に馴れるだろう。彼らはその目では見なくても、未来の莫大な聴衆、彼らのレコードの聴衆を心に描くだろう。かと言って下手な演奏はしないだろう。聴衆は録音の音楽にすこしずつ馴らされて、もうほかの音楽を聴きたいとも思わなくなるだろう。そして音楽はそこで稼かせぐだろう。今なおパリのアパートの各階で音階を苦しめている子供たちも、やがてはいなくなるだろう。不器用なアマチュアや、傑作の虐殺者もやがてはいなくなるだろう。音楽は完全であるかないかするだろう。世界じゅうの音楽は、すべて最善の者として選ばれた名手たちによって作り出されるだろう。そしてその名手たちはどこかの山の上の、沈思と沈黙とのなかで比類もない音楽を「生産」するだろう。すると続いて機械がそれを全世界に配るだろう、と。
 この予想は魅惑的に見えはするが、私にはばかげたものに思われ、音楽に関するかぎり絶対に有害なものに思われる。前にも述べたとおり、一人の名手がこの世に現われるためには、千人の子供が千の家のなかで、受難のピアノの上にその廻らない指を動かさなくてはならない。世界をうるおすような並外れた芸術家を選び出すためには、正確な「抜擢ばってき」が必要であり、換言すれば芸術家が無数にいて、名手そのものも一連隊いなくてはならない。世界中のまじめな人達が普通の音楽を自分たち自身で試みることを諦めて、もっぱら機械の振りまくものに戻ってゆくようになった時、その日こそ音楽は死ぬだろうと私は思う。むろん死んでも後になればまた生き返ることだろうが、その間をくるしむ不幸な時代を私は心の底から憐れむのである。
 こういう警告をしておいて、さて私は名手と音楽とのための弁明とも見えるこの話を終りたい。この弁明は、多くの精神的に価値あるものが比類もない暴風のなかで抵抗しなければならない一つの不安な世紀にあって、なくもがなのものではないのである。

 

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 六 室内楽礼讃 

 もしも誰かが私にむかって、西洋の世界、もっとはっきり言えばヨーロッパと、アジアやアフリカの人類とを何で区別するかと問うとしたら、私はきっとこう答えるだろう。それは多音音楽ポリフォニーだと。
 東洋と西洋との間には、無数の、多様な、深刻な相違がある。それぞれの人種を見分けることのできる肉体的な特徴(皮膚の色あい、髪の毛の見かけ、骨格の構造等)を別にしても、要するにきわめて外面的なものには過ぎないが、先ずそれによってそれぞれの文明が表示される目じるしは明瞭である。私はそうした目じるしが、どうにもならない性質のものに関係しているとは思わない。西洋がそこから現世的な力を引き出した科学文明なるものを、果たして東洋は採用したろうか。科学文明はそれが常に与える物、すなわち武器や、誇りや、野心や、大きな帝国や、大きな困惑をすぐさま彼らに与えた。そこで衣服、武装、道具、機械などのような表面的な相違を別にすると、あとには観察者にとって多かれ少なかれ秘められたもののような、多少なりとも感じではわかる精神的な相違が――精神の働きや芸術の手法、及びその作品の中に必然的に現われる精神的な相違が――残る。
 私は多音音楽こそ何よりも西洋的天分の特質だと考えている。私はこの目じるしが永久に続くものとは断定しない。その名高い伝統を忘れた日本の画家たちは、フランスヘ来て、モンパルナッスの画塾で、われわれフランスの絵画芸術の約束や処方を学んでいるのである。近いうちの或る日東洋人たちが、たとえばローマ字のアルファベットに転向したあとで、多音音楽に転向するということはないとは言えない。すでに彼らが、国際的精神のもっとも顕著な征服の一つに数えられるカクテールや、一等寝台車や、ホテルの料理などと共に、ジャズ音楽をはじめたことを私は知っている。しかし新しい日程が始まるまでは、私は多音音楽の中にわれわれの精神の一つの特質を見、またよく考えてみれば、人類を集団別にしたり分類したりする上に充分な根拠となるものを見るのである。
 こういうふうに多音音楽のことを述べたからと言って、東洋の単音音楽モノフォニック或いは単旋法モノディーの音楽を軽視しているようにとられては困る。洗練された文明や伝統的な教養を持っている古い民衆は、彼らが声楽や器楽のなかで斉唱(斉奏)に執着していることを理由に、野蛮人の嫌疑をかけられるいわれはない。私は東洋の音楽に長い経験は持っていないが、それでもこの音楽が、感情や情熱や思想の表現のなかで、人間として行けるかぎり遠くかつ深く行っていると確信できる程には充分に聴いている。私はモロッコや、アルジェリアや、テューニスや、エジプトや、極東で、非常に巧みな歌い手や楽器の演奏者を聴いたり、いくらかの観察をしたりする機会を持った。古代アンダルシアの音楽に関する一冊の著書を準備しながら生前に出版できなかったデルランジェ氏が、シディ・ブ・サイドにある彼の別荘で、レバブを伴奏に、顔をヴェールで包んで歌う音楽家たちを私に聴かせてくれた。また北アフリカの至るところで、私はそのほとんど全部が打楽器から成っている異様なオーケストラを観察した。そこでは、多音的ではないが純粋に律動的リトミックか、或いは時に複律動的ポリッリトミックとも言える驚くべき音楽が凱歌を上げていた。
 単音音楽に関する私の知識のうちでその最善のものを、私は高名な音楽家であって、インドで最も有名な現代的な学校の校長でもあるディリップ・クルナル・ロイに負うている。
 私はこのディリップ・クルナル・ロイに、二十年ほど前、ルガーノで会った。そしてわれわれは彼の芸術や計画について長い幾たびもの対談をした。ディリップ・クルナル・ロイはそのころ西洋で研究のための長い旅行をして、帰国後彼の学校を創立したのだった。もう十年か十二年になるが、彼はまたヨーロッパヘ来た。そして私のところで一晩じゅう歌うという友情を示してくれた。
 私は彼がお祈りの時の絨氈じゅうたんのような小さい絨氈の上へすわって、長い棹さおのついた伴奏用のリュートをまっすぐに、垂直に立てて構えたのを思い出す。彼はまず非常に古い歌、何世紀このかた人々の誕生や婚約や結婚を祝ったり、葬礼の儀式に用いられたりしてきた宗教的な歌をうたった。彼の国の音楽家たちと同様に、ディリップ・クルナル・ロイもいくつかの有名な主題をもとに即興演奏をした。このアジアの音楽は楽譜には書かれていないので、われわれの昔の民謡と同じように、もっぱら口伝くでんによって保存されて来たのである。普通の旋律の構造は幾世代を通じて不変のものであるらしい。歌い手はそれぞれ先生から学び、またそれを自分の弟子たちに教える。歌い手はこうして口伝によって結ばれてはいるが、主題にもとづいて即興をおこなって、古典の精神に新しい精神のささやかな花を添える自由を持っているのである。
 この美しい豊かにされた夕べを完全なものにしようとして、ディリップ・クルナル・ロイは、彼の父親か先輩の着想に成る現代的な歌をたくさん聴かせ、さらに彼自身が歌詞を作って、もっとも厳格な伝統にしたがって作曲をした歌というのをいくつか歌ってくれた。そして最後にこのすぐれた音楽家は、西洋音楽の影響が見られるような歌も三つ四つわれわれに聴かせた。
 この音楽はすべて単旋法のものだった。リュートは忠実に歌い手について行った。しかしいくつかの現代的な歌の中には多音音楽の下絵したえのようなものがちらりと見えたが、しかしいずれもわれわれが想像しそうな八度音程でも三度音程でもなく、ほとんど常に五度音程で特徴づけられていた。
 インドの音楽にとって、五度音程が芸術上の革命や多音時代への出発点になるかどうかについては、まだ何らはっきりした兆候はない。アジア人たちを単音音楽から引き出すことのできそうなものは、もしも彼らがそれを採用するとすれば、楽譜に書くことである。人間の記憶力が旋律的な歌の口伝えに堪えるということはわかっている。またそれが輪唱カノンや、初歩的で思い出しやすい幾つかの和音のように、簡単な多音形式のものを覚えていることができるということもわかっている。しかしこの記憶力なるものは、精妙な多音音楽のさまざまな和音を、その驚くほどの多様性のまま忠実に記録する力は確かに持っていない。楽譜に書くということと多音音楽との間に、われわれは或る密接な関係を認めている。東洋の音楽が長く単音的であったとすれば、それは全然記譜されないからである。そしてそのために、それは大きなしなやかさを持ち続けてきた。それは演奏者に一つの自由の余白を、或る創作の可能性を、あえて言うならば周辺での創作性を与えている。いちばん取るに足りない歌うたい、最もみすぼらしい音楽家でも、なおかつ古い大家たちや、その種族の天才そのものに協力することができる。彼はその伝統の周辺で自由なのである。繰り返して言うが、この音楽は芸術の高められた一形式である。それは、歌う人間ならば誰でも、よしんば全部を自分で作り出さなくても、少なくとも霊感の力で古い骨組を装飾することはできるということを仮定させる。それは、こう言ってよければ、一つの民主的デモクラティックな芸術である。
 私がこの言葉を使うのは、それをわれわれの貴族的アリストクラティックな音楽、すなわち西洋の音楽と対照させるためである。西洋の作曲家たちは、初めの頃には、とりわけ厳格にきめられていなかった低音のパートや、カデンツァや、装飾音や、前打音のために或る程度の自由を残しておいた。そのうちに音楽の精神はしだいに色々と要求を出すようになり、厳格になってきた。創造者たらは、人類にすばらしい恵みを与えるのだという堅い信念のもとに、彼らの遺書の条項をきわめて細かい点にいたるまで規定した。ヨーハン・セバスチアン・バッハの作品には、その楽節やテンポの点て盛んな論議を招いているものがたくさんある。すべてを厳密に固定して、四分音符の時価をメトロノームで指定し、各ページ、各行、各小節ごとに音量や正痼な感情を指示しているわれわれの近代の大家たちには、そう言った惧おそれはない。演奏者の個人的な部分はそのために少なくなったように見える。なぜならばすべての責任は挙げて創造的天才の肩に懸かっているのだから。もしもそれが純粋で偉大な天才の場合ならば、われわれはそれを残念に思う必要はないわけである。演奏の価値はそのために減ることもなく、演奏は純粋さの中で安全であり、規律の中で崇高になるのである。そして演奏は或る種の配慮から解放されて、多音音楽の発達がわれわれに提出するさまざまな問題に一層愛をこめて没頭できるのである。

     *

 われわれの声は、同時に旋律的に並べられた音を出すことはできない。しかし耳はその中のいくつかを聴き分けることができる。だがその耳にしても、ハーモニーの或る種の規則や約束にしたがって同時に発せられた歌声を、すべて同じ価あたいで聴き取ることができるだろうか。
 年代記によると、シーザーは、明らかに多音音楽的な働きによって、七通の手紙を同時に七人の書記に口述することができたそうである。ではこの年代記なるものを註釈してみよう。われわれの想像するところでは、シーザーはべつだん七つの独立した声を持っていたわけではなく、一語ごとに、一段落ごとに、心に浮かんでくる内容ごとに、一見同時的と見える仕方で七人の書記生の筆記を指揮したり、彼らに命令を下したりしたのであろう。しかしこれはやはり連続的に行なわれたものであり、つまり一つの事項から他の事項へ、或る観念から別の観念へと、迅速に経過してゆくものを書き取らせたという意味であろう。知能には、同質のものを完全に同時的に操作する可能性はないのである。それは知能が一つの操作から他の操作へと非常に早く飛び移ってゆくので、あたかも同時のような錯覚を起こさせるのである。
 ところで感覚の現象となると、これと全く同じだとは言えない。われわれはさまざまな、しかも数多くの感覚的な印象を同時に受けとることができる。しかしそのすべてに同じ知覚能力を適応させることはできない。私はこの考えを発展させるために、耳ではなく、もっとよく証明の勉強になる眼という物を例に取ることにする。
 山の頂上へ立つと、われわれは自分たちの視野にかなりたくさんの物象が抱きこまれ、そういう物をすべて同時に見つけ出しているような気になる。同じように、劇場の舞台から観客席を眺めると、クローデルの言う「何百という白い顔」が一緒に見えるが、われわれはこんなにも早く動く複雑な物を同時に認識させる自分たちの視覚というものに感心するのである。この目もくらむような啓示に捧げられた数分間後、われわれはじきに、この光景のすべての要素が自分たちによって或る同じ強さで把握されたわけではないということを理解する。網膜もうまくの上には、われわれの眼の奥を被うているこの膜の上には、解剖学者が「黄斑おうはん」と呼んでいる特別に敏感な一点がある。そしてこのすばらしい一点に何か特別に強烈な視像が結びつけられる。われわれが全景を成すすべての像の中から特に注意をひく値打ちのある像を選び出して、それをその中に形作らせるのがこの点なのである。したがって、言葉を換えて言えば、われわれには同時にたくさんの物が見えているのだが、与えられた或る時間内にはその中のたった一つの物しか見ていないということになる。しかしこうした積極的な熟視には限りがあるので、われわれは視線を非常に早く移動させることでそれを補う。驚くほどよく動く器官である眼は光景の中をさまよって、そこから知能が一つの緻密な全体を再建する細部の群れを捉えるのである。しかし、たとえ一閃の電光によって千の顔を見るとしても、私の見るのがその中のただ一つの顔だという生理学の法則には変りはない。
 隕の解剖学的構造のことを考えると、私には観察することと眺めることとの違いが非常によく理解できるように思われる。われわれは今私が黄斑と呼んだ網膜の小さな部分で観察する。そして残りの部分で眺める。別の言葉で言えば、われわれは自分たちのよく見ていない物か、或いはぞんざいにしか見ていないものは眺めるのであって、景色などを眺めている人たちが放心したように見えるのもまさしくそのためである。
 感覚器官の仕組みがそれぞれ全然異っているにもかかわらず、視覚について私の述べた事柄はすべて聴覚にも当てはまるだろう。無数の音や騒音を同時に知覚することができ、或る広大な音の世界全体を抱擁することができるとしても、われわれはそれと共に、その音世界の中の非常に弱い部分に注意力を集中することに手間取りはしない。われわれは一つの声を聴くのであって、ほかの声は聴こえるのである。視覚の場合と同様に、われわれはこの能力の狭さを注意の移動によって補足する。ただしこの移動は、眼の注意力のそれに比較するとその速度が小さいのである。いずれにもせよ普通の人間は、ほんとうの多音音楽が提供する旋律的な構図をすべて同じ力で認識することができないという意味では、多音音楽に適するようには造られていないらしいのである。
 さてこのことが、多音音楽というものが一見してわれわれの本性の限界を、或いはむしろ中等程度の本性の限界を超えているゆえんであり、単に一つの偉大な征服であるのみでなく、更に一つの驚嘆すべき力の行使であるゆえんでもある。
 真に音楽的な人々は、同時にいくつもの歌を聴き取ることに生まれながらの能力を持っている。こういう人々は、他の方面で人が筋肉の独立性を発達させるように、練習や演奏によって注意力を発達させるようになる。たとえばオルガン奏者が両手と両足の独立を発達させるようにである。しかし私はもっとも驚くべき音楽的天分の場合にも、そこにはなお知覚の段階というものがあって、たとえば或るフーガの三つの声部を心の中で同じ筋立てで受けとることはできないし、またそんなことがあってはならないと固く信じている者である。
 「あってはならない」と繰り返して私は言おう。そしてこの言葉を説明しながら、私の提案のもっとも重要な点へ入って行こうと思うのである。
 私はたった今諸君に言った。われわれが見るのは一つの顔であって、他の顔は見えるのであり、聴くのは一つの歌であって、他の歌は聴こえるのであると。また知覚の段階のことを述べたから、われわれが好むと好まざるとにかかわらず注意力を集中する対象こそ、与えられたすべての中で最も重要な物のように最初はまず見えるかも知れないと思う。しかしここに註釈を必要とするものがある。
 見られた対象、聴かれた対象は、それがわれわれの知性の腐食作用にもっとも強く委ねられるという正にその理由から、もっとも早くよく知られ、もっとも早く分類され、もっとも早く分析され単純化されることは明白である。しかしわれわれの知覚の野にとどまりながら、われわれの注意の探照灯にも焰にも照らし出されない対象、これらの対象はわれわれのもろもろの感情を組み立てる上に一層ひそやかな、一層神秘な、けっして冷たくはない明るさで寄与しているのである。
 人はおのれの見るものを考える。人はおのれの眺めるものを夢想する。音楽を聴く場合にも同様である。われわれの注意ぶかい知性の直線内にあるもの、本質的な使信を構成するもの、音楽で学者のいう主旋律なるものは、おそらくわれわれの存在の最も深い、最も内部的なところには触れないのである。最も微妙な、最も定義しがたい現象、さらによく言えば言葉で表現できない現象は、縁へりのところに、薄明りの地帯に現われる。われわれが耳を傾けるものは崇高であって、大抵の場合には自然の感じを失わない。われわれの耳に聴こえるものはやすやすと魔法のように超自然的である。音楽の大いなる神秘は直接な注意のそと、われわれの意識の限界のところで達成されるのである。
 そして多音音楽が一つの驚くべき征服を実現するいわれがここにある。あえて言えば、それはわれわれの全霊魂を養い、われわれの感受性と知性とのために豪奢な一大饗宴を開くからである。われわれは或る言葉をむさぼって食うが、ほかの言葉は味を感じるだけであり、また別の言葉は嗅いでみるだけである。しかしそういうふうに本当に食わない物こそ、全体 の構成に欠くことのできない物なのである。そしてもしもそういう物がそこになかったら、われわれは不均衡や不満の感情を抱くだろう。われわれの完全な満足なるものは、こうした浪費全体を引き換えにして得られるのである。われわれ西洋の人間にとって力強い芸術とは、このようにその美の一部を隠している芸術である。パルテノンの帯状装飾フリーズや小間壁メトープは辛うじて目に見える程のものだったが、そのわずかに見分けられ感じられる物の存在が全体の豊かさに貢献したのである。真の芸術作品ははっきりと目に見える美と隠された美とてできている。そしてこの後の方のものの羞じらいが、その作品を感動的なものにするのである。

     *

 立派なオーケストラの演奏会が何という祭典だろう! たくさんの優秀な芸術家がわれわれの喜びのために集まっている。われわれは一人の巨匠の思想の中へ聖体を授けられに行くのである。もしもその思想がわれわれのすでに知っているものであり、親密でさえあるものだと、われわれの楽しみは経験と期待とで一層大きくなる。またもしもまだ知らない作品だったら、好奇心はわれわれを刺激して高揚させる。われわれはオーケストラの美しい秩序に見とれる。われわれは各種の楽器の家族を知っている。これらの楽器の大部分のものは古い試験ずみの構造を持っている。すべてのものを顚覆てんぷくした近代科学も、ヴァイオリンの形を変えることはできなかった。それはまたフルートに対しても別段のことはしなかった。近代科学は美しい全体の中へいくらか珍らしい楽器を持ちこんだが、そういう楽器が高貴な一郭を占めるようになるためには、彼らに特別な使信メッセージを託そうとする一人の大芸術家を魅惑することが必要だったのである。
 演奏会がはじまる。一つの楽想が生まれて、それが発展する。われわれは驚きと恍惚とをもってそれに従う。そしてそれに従ってゆくために、われわれは時にはヴァイオリンの翼に運ばれ、時にはトランペットの息吹いぶきに空を翔けり、時にはコントラバスの堂々たる川の流れに身を任せる。われわれの注意はこの魅惑された世界の中で絶えず促うながされたり、方向を変えさせられたり、引き戻されたりする。千百の細部がこの注意をひきとめる。しかし一本の大きな流れは常にそれをとらえ、それを運んでゆく。われわれが混乱の縁へりのところまで来たような気になることも時にはある。オーケストラのすべての声々が嵐となって渦を巻く。と、とつぜん秩序が回復され、それがしだいに力強くなり命令的になる。主楽想が太陽のように雲の間から現われる。そしてわれわれは、ちょっとのあいだ道に迷ったような不安を経験しただけに、こんなにも明るくなったことをその主楽想に感謝するのである。
 こうした大きな饗宴には、その雄大さ自体のために荘厳で異常な何ものかがある。機械音楽に対する私のもっとも確かな不服の一つは、これまで記念すべき儀式の装飾や瞑想の日の飾りとして慎重に取って置かれた宝ものを、それが日常の陰気さの中へ落ちこませてしまったということである。機械音楽の罪のために、すべてのものが善い案内者とは言えないわれわれ自身の気まぐれへと追いやられた。われわれは日の暮に晨朝歌オーバードを、真昼間に小夜曲セレナードを、そして食事をとっている間に『ロ短調のミサ』を聴くことができる。私はそんな情ないことへもう一度話を戻したくはない。そのことについてはすでにたくさん述べたからである。人間の本性はこの種の放埒に適さない。食事のたびにブールゴーニュの古いぶどう酒を飲めると確信している人は、単にその一滴の味を知らないだけでなく、やがては良い酒から楽しみを得るということもなくなるだろう。私は音楽なしでは生きてゆけそうもない。しかしもしも毎日オーケストラの大演奏会を聴きに行かなければならなかったら、そんな栄養過多には敗けてしまうに違いない。音楽をよく味わうためには自分という者をたくさん与えねばならず、自分という者をたくさん支払わなくてはならない。感嘆とは力を消耗する喜びであって、その力には限りがある。

     *

 真の食通がその最上の楽しみを、完全な料理をごく僅かな皿数で供する場所での微妙な食事に見いだすのと同様に、真の音楽愛好家は、甚だ正当にも室内楽と呼ばれているものに特別な愛を覚えるものである。
 少数の楽器のためのあらゆる組合わせの中では、弦楽四重奏のそれが最も有名で、またそのための曲も当然最も多い。もしもオーケストラという複雑な織物をあきらめるとしたら、同質の音色をそろえたものへと帰るのが賢明である。なるほどモーツァルトには一挺のヴァイオリンの代わりにフルートかオーボエの入っている四重奏曲があるし、同じモーツァルトの、クラリネットの加わった名高い五重奏曲も知られている。ベートーヴェンの作品にもこうした例外のものが幾つか含まれていて、われわれがそういう物を音楽の宝庫の中に持っているのは喜ばしいことである。近代の音楽家はふさい合奏の構成に変化を与えようとしていろいろな探求を試みた。しかし最も善いのはやはり弦楽四重奏曲であるように思われる。ピアノの加わったすばらしい四重奏曲もある。―――私としてはモーツァルトの二つのピアノ四重奏曲を第一列に置きたい。――また最も偉大な大家たちによってわれわれに与えられた有名な五重奏曲もある。しかし打鍵楽器であるピアノは合奏の中にけっして溶けこまないし、真の音楽好きから見ると、甘美で調和のある豊かさという点で、二挺のヴァイオリン、一挺のヴィオラ、一挺のチェロという組合わせに匹敵するものはほかにない。悪い弦楽四重奏曲よりも美しい三重奏曲の方がましだと言っても、それは話にならない。私は大家の作品だけを、その目ざましい美しさを持った作品群の中でも比べ合わすことのできないようなすぐれたページだけを言っているのだし、完全な芸術家たちによって演奏された美しい作品のことだけを言っているのである。そこで、弦楽四重奏曲は、私の好みによると、もっとも高い程度に多音音楽を代表している。それは余り込み入った多音音楽ではない。なるほど四重奏曲中の四つの楽器は、いくつかの糸を弾いていくつかの歌を歌うことに適してはいるか、本質的には四つの声部による一つの協奏曲である。もしも大家たちがもう一声部補充が欲しいと思えば、彼らはそれを加えるだろう。モーツァルトの二挺のヴィオラのある五重奏曲や、シューベルトの二挺のチェロの入っている五重奏曲がそういう場合である。これらの四声は見事な段階に並べられていて、その中の二つの声部、一見双生児のような二挺のヴァイオリンなどは、統一の中の多様性はどうあらねばならないかをわれわれに理解させる。彼らの調和のうちにさえ個人主義の祝福された勝利のあることを看て取るためには、四重奏曲の中のこの相似た二つの楽器、この兄弟のような二挺の楽器を聴けば充分である。弦楽四重奏では声部の数があまり多くないので、われわれは実際彼らの発展や冒険に従ってゆくことができる。彼らは数から言えば充分であり、各箇の違いから言っても、多音音楽のほんとうの魔法であるもの、私のさっき述べた周辺の神秘と全景の広大さというものを把握するには充分である。

     *

 全員がそろったオーケストラは、一つの完全な社会のイメージをわれわれに与える。そこでは一人一人が特定の役を演じる。たとえその役が目立たないような時でもである。もしも楽器奏者の一人が欠けている場合には、全体の均衡を保つために誰かが代理を務めなければならない。つまり類似の楽器が開いた穴をどうにか埋めて、その道の言葉で言う「代わりア・デフォー」なるものを演じるのである。この社会には人数が多いので指揮者が必要である。そしてこの指揮者はその権威の点から見て、あらゆる方面から束縛を受けているいわゆる専制君主にではなく、むしろ神の次に位する主人、海上の船舶の船長にくらべられる。
 弦楽四重奏となるともっと限定された社会である。それはオーケストラのように一つの国民ではない。それは、一層正確に言えば、一つの家族である。首領はいるが一つの家族の父親のようなもので、特権を振り廻しもしなければ、万人注視の王座の上に立つこともしない。彼はその家族のあいだにすわり、その家族と共にはたらく。彼は笏しゃくや棒で自己の意志を現わすことをしない。気づかれない程の弓の動き、顎あごの、或いは鼻の動き、ちょっとした目ばたき、時にはほとんど内心の伝達、魂の表明だけで単純にその意志を現わすのである。
 この親しみのある組織や、命令と服従との中のこのつつましさや、自然で、あらかじめ設定されているように見えるこの調和のために、弦楽四重奏はオーケストラ以上に、人間にとって秩序正しくあるということが不可能事ではないのだという快い印象を与えるのである。そして、それはまた、この秩序が小さい結合体への見事な報酬だということをわれわれに証拠立てるのである。

     *

 私にとって多音音楽が、そしてわけても貞淑で甘美な弦楽四重奏曲が代表しているもののことを述べたあとで、私はこの小さい本の冒頭全部を捧げた、あの純粋音楽に関する有名な論議の検討に立ち戻らざるを得ない。
 ほんとうを言えば、音楽が自分自身を説明していない時には、それに説明を与えることは避けなければならないというのが私の意見である。みごとな言語である音楽は―――とはいえ私は人間の言語をさして言っているのではない。なぜならば人間だけが音楽を感じることができて、またそれを作り出すことのできる生物ではないからである――他の言語にくらべて、あらゆる国民に共通した表現手段であるという大きな美点を持っている。ところでこの言語は――ストーフヴィンスキーに許しを乞わなければならないが!――普通の国語には直接翻訳のできないような魂の状態を表現する。それはこの魂の状態が、もっとも初歩的な感動現象の域内にとどまっているのだということを意味するだろうか。いな、である! 魂の状態は感覚を、感情を、情熱を、観念を、最後に以上のすべてに結びついた感動を包含している。或る楽句が偉大な哲学的な深さを持っているとわれわれが言う時、それは根拠のないことではないのである。この深さなるものを器用に、そしてひどい術策を弄さずに、言葉で言い現わしたり教訓や推論に翻訳したりすることは、われわれには不可能であろう。しかしわれわれは或る楽句が、われわれを地面とすれすれの所に置くのに、他の楽句はわれわれを大空へ運び、さらに別の楽句は深淵に導くということを本当に感じるのである。すべてを言いながら何物をも説明しないこの言語以上に不可思議なものがあるだろうか。
 歌詞を伴った作品、すべての劇音楽、歌や歌曲リート、宗教音楽のような、要するに声楽を別にして、また筋書のついた交響詩も別にして、私は純粋な器楽、つまり説明的な題名を持たない音楽でも、なおこれを幾つかのグループに分けることができると思う。
 或る種の音楽作品にあっては、簡単に書かれた指示が時としてその作品を解く鍵の役目をする。ベートーヴェンの第一番の弦楽四重奏曲のアダージョには affetuoso de appasionato (感動に満ちて、熱情的に)という指示がついている。全体の劇的な感じを想像するにはこれだけで充分である。他の作品の中にはこうした指示が多少なりとも欠けているか、或いはどんな心理的な色あいにも染まっていないものがある。しかしそうした場合でも、作者の原感情を間違えて受けとることはあり得ないように思われる。最初の数小節から胸を刺すような痛ましさに締めつけられることもあるし、それとは全く反対に、歓喜や、狂喜や、時にはその気楽さによってさえ、存在のあらゆる繊維をほどかれることもある。われわれはこういう魂の状態が最も明瞭な、最も力強い言葉で語られたかのように、その発展と変化とに従ってゆく。苦痛は軽くなり、蒸発して、諦めの中へ溶けこんでゆく。一瞬間濁らされ、一瞬間傷つけられた喜びが、その優しさと軽やかさとを取りもどす。また別の種類の作品では、音楽家は議論を述べたり、調査したり、それを捨てたり採り上げたり、討議したりして通例は結末をつげる。これらはすべて言葉がなくても完全に理解のできることであって、われわれの心や精神の冒険に忠実に反応するのである。
 最後に、何ら説明的な指示もなく、その人間的な意味をあまり気ままにはっきりした仕方で表明することはできないので、同じ教養や似たような趣味で涵養かんようされた聴き手からさえ、ひどくまちまちな解釈を下される可能性のあるような音楽作品が多数残っている。こういう作品の中には、解釈の伝統が少しずつ押しつけられているものも幾つかある。人々はそういうものに名を、レッテルをつけた。たとえば『月光』とか、『黎明(1)』とか、『水の滴り』とかいうように。こういうレッテルの或るものは純粋に家庭内のものだったり、夫婦問だけのものだったり、個人同士の間のものだったりする。私はこの慣習を非難しないし、むしろ解釈や説明というものに対する一般の好みをかなりよく現わしたものだと思っている。しかし私白身としては、このように作品の意味を限定したくないので努めてそれに抵抗している。
 これは私か彼らに何らの意味も求めないということだろうか。とんでもない! それにまた私にそんなことができるだろうか。この音楽、純粋な音楽、本質的な音楽は、実を結ぶことのない音響の遊戯では断じてないのである。こうした音楽に与えるのにふさわしい意味については、次のような提案をしたいと思う。
 ベートーヴェンの第七番の弦楽四重奏曲を聴いて、そして先ずその最初のアレグロを聴いて、われわれが喜びを感じたと想像しよう。この四重奏曲は、私の知っている限りでは、別に特別な指示を与えられていない。第二番のように『敬礼の四重奏曲(2)』と呼ばれてもいないし、第六番のようにはっきり『憂愁(3)』と名づけられたページも含んでいない。しかしこれを聴きながら、われわれは夢想に落ちこんで、めいめいが自分の生涯の中の何事かを思い耽るかも知れない。おそらく青年時代の最も美しい日にした散歩とか、最善の友人と別れることになった争いとか、最愛の者を失った時のこととか、孤独の中でした瞑想のこととか、最後の逢引きランデヴーのこととか、或る時の旅とか、或る友情とか、或る深い悩みとかいうものを。以上私は互いに矛盾し合うような説明を故意に並べてみたのである。
 さてわれわれがこういう連想のどれか一つを形作ったとしたら、音楽家がわれわれに言おうと思ったことは正にこれだったのだと信じていい。そしてわれわれが非常に違った色々なことを考えたとしたら、それは実際彼がわれわれの一人一人に非常に違ったことどもを、時には矛盾したことどもをさえ言おうとしたからなのである。またもしも彼が何一つはっきりとしたものを示さず、幸福或いは不快の漠然とした印象しか与えなかったとしたら、それはまさしく彼がわれわれにそういう漠然とした印象を与えたいと思ったからである。最後に、彼が何も言わず、われわれのうちに何らの感情も、思想も、イメージも呼び起こさなかったとしたら、それは彼がわれわれに何も言おうと欲せず、何も言うことを持っていなかったからである。
 純粋音楽は、われわれにしてそれを愛することを知ってさえいれば、われわれの求めるものを与えてくれる。そしてこれこそ私が、ほかのどんな音楽よりも純粋音楽を愛するゆえんなのである。

(1) 〔訳者註〕フランスではよくこの名 l'auroreで呼んでいるが、目本も含めて普通には『ワルトシュタイン』と言っている。ベートーヴェンの第二一番のピアノ・ソナタ。
(2) 〔訳者註〕日本では時に『挨拶の四重奏曲』と呼んでいる。
(3) 〔訳者註〕La Malinconia.第四楽章の序の部分。

     *

 実際のところ、二つの音楽が存在している。その第一は演奏会の音楽、われわれがすぐれた有名な源へ求めにゆく音楽である。それは完全でなくてはならず、大家たちの思想をその光りかがやく純粋さでわれわれに与えてくれなくてはならない。第二はわれわれアマチュアが楽器を相手にたどたどしく試みる音楽、旅の道すがら口ずさむ音楽、心の奥で日もすがら歌っている音楽である。しかし第二のものと第一のものとの間にはいくつかの通路があって、「日常的」とも言えるこの種の音楽も、もう一つの音楽から養われ水飼みずかわれているのである。この二つの音楽はそれぞれ違った面で貴重である。もしも演奏会の音楽がわれわれに完成とか純粋とかの感情を与えるとすれば、もう一つの音楽、日常的で生きている音楽は、あまりにも親しくわれわれの存在や魂の一部となっているので、私には聖体拝受の時のパンやぶどう酒のように、歓待の塩のように、吸っては吐く空気のように、生命の焰のように、それについて感動なくしては考えることができないのである。
 おお、私の道連れたちよ! もしも諸君が旅の途上で、それがよしんば社交の席であれ、食卓のあいだであれ、重要な事柄が論議されるいわゆる真面目な会談の途中であれ、ぼんやりと、また時にはいささか無作法にさえ、鼻声で歌ったり、口ずさんだり、口笛で吹いたりする誰かに出逢うことがあっても、どうか寛大であってもらいたい。そしてその音楽的な魂を認めてやってもらいたい。
 真の音楽家とは、あまり親しく大家たちとの交わりの中で生きているので、あらゆる場合に彼らを引用したり、証人に立てたり、援用したり、問いただしたり、自分の生活上のすべての行為に無邪気に混ぜこんでしまったりする人である。こういう人がたまたま諸君に、おそらくへたくそな調子外れな声で、何の歌だがわからないような歌の一句を歌うだろう。そしてその人の顔の上には恍惚の、愛の、勇気の、或いは誇りの表情が現われるだろう。それを笑いたもうな。聴いてやりたまえ! そして言いたまえ、この無邪気な道連れは君に善をなすことを欲しているのだと。君に敬意を表し、君を楽しませたいと願っているのだと。ほかの人達が君に花やボンボンを捧げるように、その無尽蔵の手箱から何か宝石を、何か貴重な珍らしい物を取り出しているのだと。そしてちょっとの間そういう物で、君の生活を照らしたいと願っているのだと。

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 七 音楽の神秘 

 夏の日曜日。風と雲。いくらかの希望と数多くの関心事。私はひたすら物思いに耽っている。と、突然、仕切り壁のむこうで、いちばん年下の息子が歌っているのを私は聴く。彼は早くも声変りのした声で、何か耳ざわりで力強くてリズミックなものを、私には『スペイン狂詩曲』の主題の一つのように思われるものを歌っている。つまりラヴェルの或るテーマなのだが、このラヴェルが私の息子にとっては、彼の青春期の選ばれた音楽家なのである。――もしも誰かが彼の前でラヴェルのことを口にすると、彼はたちまち不意を打たれた少女のように赤くなる。
 彼は歌っている! 楽しいのだろうか。いな! それどころか、彼は病気なのである。二日前からはなはだ気に懸かるような高熱を出している。それでも彼は歌っている。それはおさえがたい紡錘つむの糸のように、言葉もなく、理屈もなく、彼の生命のもっとも深いところから昇ってくる。そして結局それもまた一つの思想である。
 肉体に起源を持つものと同様に、音楽に由来するものはすべて、私の悟性には、われわれの推論的知能には、まったく未知な神秘として現われる。
 私は音楽の持ついろいろな神秘をすでに早くから讃嘆してきた。すべての存在の施与と放棄、衆人一致への無限の渇望、英雄主義への高潔な欲求、おのれの苦悩と欹喜へのすばらしい共鳴者の探索。こういうものが青春のあの騷宴の中へ私を引きずり込んで忽ち焼きつくしたのだった。私は無知で自由だった。日曜日の音楽会は私にとって欠くべがらざるものだった。第一私は自分では音楽ができなかったし、しかも音楽会は混じり合った音色だの、祭の時のような群衆だの、豊富な曲目のために豪奢だったし、耳をそばだてた聴衆の熱気が私の欲望を昇華させるのにすばらしい協力をしたからだった。
 その後大きな飢えが満たされると――それは愛への欲望よりも早くよみがえったが――、今度は自分で学ぶために全力をつくした。ああ! それは無知にすれすれの尊敬をもってだった。私は音楽の神学者を、何でも説明ができ、あらゆるものを美しい公式の中へはめこむことのできる、調性や、楽節や、テンポの詭弁家たちをあまり信用しなかった。人は神秘を自分で学ぶことができるのである。ただし、それを本来の薄明りの中に生かして鼓動させておくという条件で。
 私は自分で学んだと言ったが、それは私が少しずつ莫大な補給をしてきたという意味である。そうだ、私は音楽の宝ものを貯えた。しかし今では若い頃のようにそう度々は演奏会へ行かない。しかしそれは決して私が無関心になったからではない。今日でも音楽には注意を怠らないし、昔に劣らず敏感でもあり、烈しい欲求も持っている。しかし私は色々な心配事を背負っており、仕事に押しつぶされ、千百の義務を押しつけられている。その上、ここ数年来特に、孤独にたいして大きな要求を感じるようになった。私はできるかぎり引きこもって暮らしているが、希望の花の開くのを見るにはこれが最善の方法なのである。こんなふうで、もう私はあまり演奏会へ行かない。音楽は私の中にある。それは深いところで生きている。なぜかと言えば、これらの富は死んでもいなければ、防腐処置を施されてもいないからである。それは壜の中の珍貴な酒のように、酒庫さかぐらの奥で眼を覚ましている。
 こんにち私が音楽の神秘を讃えるのは、しばしばこの孤独の中でである。聖壇も聖体器もなしに、ただ一人でミサの祈りを唱えていた虜とらわれの僧のように。しかしそれはともかくも一つのメス(ミサ)である。或いは、欲するならば、一つの伝言メサージュである。
 もしも私がパリの町なかで、通いなれた路筋を歩いてゆけば、音楽も私に従ってゆく。すると無言で憂鬱な群衆、わが恥ずかしめられた祖国の不幸な群衆のただなかで、この神秘がおこなわれる。
 そうだ、神秘はおこなわれるのだ。時どき私はえもいえぬ音楽が自分のほうへ向かって進んで来るのを見る。それは一人の娘のように私とならんで歩く。それは私の魂と私の歩調とを整然とさせる。そういう時の私を見る人たちは、この紳士ムッシューはなぜ天使たちに笑いかけているのかしらと自問するに違いない。――彼らにはそれは見えないのだが、――その瞬間一人の天使が私に付き添っているからである。
 私はもうフルートを吹かない。時間も不足しているし、息も不足しているから。事実私の家はもはや一本の補助的なフルートを必要としないのである。この家には気違いじみた音楽が鳴りひびいている。私の息子たちや、甥おいたちや、姪めいたちは、皆すべての部屋の中で活躍している。彼らはいずれも大して上手ではない。しかし何という熱狂、何という爆発だろう!そして何という騒々しい長談義だろう! 時として私は笑いながらこんなことを言ってしまう、「彼らは私に厭いやというほど音楽を飲み食いさせる気なのだろうか。あんなふうに続けられたら、私は自分の音楽を嫌うようになりはしないだろうか。」おまけに彼らはそれをもう一度花咲かせたり、もう一度噴き上らせたりしているのである。私がすでに使いつくし、自分にとってはもう枯れてしまったような作品が、ふたたび緑の葉を茂らせはじめたのである。去年の私は、『死の歌と踊り』の有害で有毒な魅力をもう忘れたような気がしていた。ところが今年になって息子のアントワーヌがそれを見つけ出した。彼は新しくそれで家じゅうを水びたしにした。私は自分の沈黙の独房でそれを口ずさむことを始めた。そしてそれが思ったよりも美しく、昔よりも一層悲しく痛ましく感じられることを知ったのだった。
 私は自分の小さい子供たちがこの孤独の中へ、しばらく休暇中だったベートーヴェンやショパンを呼び入れてくれる時を―――それは疑いもなく近いことだろうが――待っている。彼らは喜んで迎えられるだろう。そして私は彼らのために祝宴を開くだろう。――彼ら。私の言っているのは音楽家のことである。―――
 或る日ハンガリアの田舎で、私はみごとなジプシーの音楽を聴いていた。ポール・ヴァレリーが私に気づいた。われわれは一緒に旅行をしていたからである。彼は近よって来て不思議そうな顔で私を見た。そして「君は酔っているようだね」と最後に言った。そうだ、私は酔っていた。だが何というはっきりした陶酔だったろう!
 時には私が悲しい気持のことがある。世界が至るところから逃げ出す。信念が私からすべり落ちる。私の空は雲に被われている。そんな時、こういう大事な瞬間のために取っておいた或る純粋なメロディーが、深淵の底から立ちのぼるのを私は感じる。そして奇跡が行なわれる。私は息を吹き返す。荷物は軽くなって肩から落ちる。
 時には一人の友人が何か悩みごとのために相談に来る。私は注意ぶかく耳を傾け、そしてとっくりと考える。返事をすべき時がくる。その時もしも自分の性向に従ったら、私は――この衰えた声、この病気の咽喉のどで――歌い出すだろう。そうだ。自分の知っている、そしてその中にあらゆる知恵の含まれている何かの歌を、私の宝庫から引き出すだろう。友人には何が何だかわからないだろう。そこで私は口をつぐむ。そしてこれは一つの窮策にすぎない。
 年齢に追いつめられて、私は自分の隠れがを少しずつ、以前よりも遠いところ、以前よりも高いところに求める。生涯のこの瞬間、バッハの或る音楽だけが私の渇望に答えてくれる。少なくとも私が呼べばそれがまっさきに答えてくれる。しかし私は恩知らずではない。私は彼ら別の人々を忘れてもいないし、その誰一人にも知って知らない顔はしない。
 私は自分の臨終の時に関して、あまりはっきりした、あまり軽々しい計画を立てることを慎む。しかし音楽が、神秘な音楽が、私を援たすけて敷居を越えさせてくれたらどんなに嬉しいことだろう。それによって高められながら私もまたそれを書くことを試みた一生、それによって聖化された一生の今を最後の瞬間に、音楽が不在でなかったらさぞや嬉しいことだろう。たとえそれを受けることはできなくても、私にそれだけの功績はあるだろう。これこそほかの多くの祈りの中の一つの祈り、声を低めて私のする祈りである。

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 付録  青少年の教育における音楽の役割と位置

                     ブリュッセルのユネスコ会議での講演原稿

 すべての真に文化的な行動は、知性ならびに感情の分野で、一つの目的及び一つの方法と考え得られるほど完全なものではない。それが審美的な感動や直接の娯楽を得させ、専有をさえも許すという限りでの目的自体。またそれがわれわれを高め、前進させ、善い結果への一層困難で一層豊富な他の認識行為を実現させるべきだという意味での方法。一口に言えば、われわれを個々に啓蒙したり、集団の啓蒙に貢献したりすべきだという意味での方法。
 はなはだ不正にも愚鈍呼ばわりをされた十九世紀、しかも歴史家の目から見れば偉大な世紀である十九世紀は、やはり数々の驚くべき誤りを犯したと言える。そしてそれは、科学の未来、科学と芸術との中に真の文明の対象や本質を探求することの必要などに関して、特にいちじるしい。私は十九世紀の選良と目されている或る人々が、たとえば我が国の偉大なリットレのような人が、音楽を「娯楽の芸術」の仲間へ、つまりわれわれがそこに専ら楽しみを期待する芸術の仲間へ入れているのを見て、いつも驚かされたものである。事実、音楽はそれを聴く者と聴かせる者とに楽しみを与えるが故に、爾来、風俗の観察家や教育家や最上級の芸術家たちによって、それが個人にも集団にも或る種の力を――或る場合には肉体的または生理的な、或る場合には倫理的な、さらに別の場合には知能の遊戯や一般的な訓練のために非常に重要な力を――発達させるのに適当な、一つの練習のように考えられてきたのである。
 私は西洋の慣習にしたがって、これから自分の使おうとする言葉、これから一度ならず口にしようとする言葉そのものに、ここで定義をくだしておくことを無益だとは思わない。音楽という言葉は、今日の世界では、もはや昔のように調和アルモニーの代わりには使われず、詩の女神ミューズに関係のあるすべてのものにも適用されていないように思われる。それは観念の或る一致を示すために、隠喩いんゆとして、今でも使われる場合がある。しかしそれは一つのイメージに過ぎない。また詩や散文の中で、音綴シラブルの巧みな組み合わせに注意を向けさせるために、同様な使い方をする場合もある。これはたとえば詩の音楽と、音を生んで音と結びついた楽器や肉声から受けとる音楽とを、いささかも混同しないという条件のもとでならば大いに可能である。真の音楽は、今日では或る種の規則にしたがって――それは民族によって色々ではあるが――音を生み出す芸術であり学問であり、また或る場合には、こうして生み出されたさまざまな音を、全奏の効果でわれわれの感覚と世界との表現を同時に豊かにする目的から集合させたり、調和させたりする芸術であり学問なのである。当然ではあるが、沈黙は、このように定義された音楽の一部をなしている。沈黙はあらゆる音楽にとってその基本であり、欠くことのできない条件である。

     *

 もしも異論の余地のないほど天分に恵まれていて、すべてが音楽の職業に向いている者たちを除外すれば、またもしも特別な素質は示さないが、その家庭では音楽が伝統的に貴とうとばれているという理由から音楽教育をうけているような子供たちを別にすれば、たとえばフランスで普通の子供たちが受けている音楽教育は、その重要性と認識との上で、ほかの多くの学課の教育とは比べ物にならないということを認めなければならない。フランスの初等学校には、子供に教える主要な学課として、書き方、読み方、算数、歴史、地理、それに物理学と化学と自然科学との初歩がある。体操と音楽とは背景の役割を演じている。或る自治体では歌の先生への給料を負担しているが、その許可を得るためには、地方での官学の監督との長い論争が必要だったのである。現在の傾向としては、音楽は――もちろんずっと声楽のことを言っているのだが――しばしばその人自身ソルフェージのきわめて初歩の知識しか持っていないような教師によって教えられているらしい。なぜならばその教師は、基本的なものと見なされている別のたくさんのことを知らなければならないからである。今日では師範学校がこの欠点を改善しようとして努力している。或る種の自由な学校で今だに選択課目の一つのように考えられている音楽は、公立の小学校では必修課目の対象になっているが、教育の全体に捧げられる一週三十時間という時間に対して、七十五分ということになっている。要するに、先生にも生徒にも不足しているのは――個々の能力は別として――時間なのである。
 音楽教育の問題は、第二学級(1)では、あまり厳密に規定されていないようである。器楽がゆだねられているのは家庭であるが、これは理解のできることである。声楽について言えば、第二学級の教育では優遇されているらしい。高等中学校の生徒は、通常一週に一時間歌をやっている。彼らはそのほかに音楽史を習い、音響学の知識を授けられているのである。そこでこの走り読みのような検討に結論をあたえるとすれば、音楽が今もなお娯楽の芸術のように思われていて、その教育が体操の前、一日の最後の時間、言わば子供たちの注意力の花がしぼんでしまった時間に置かれているということになる。さて今度はこの陳述の続きとして、音楽が一つの娯楽以上のものを無限に表現していることと、繰り返して言うが、それが知的及び感情的な能力の発達のなかで決定的な役割を演じなげればならないということとの、その証拠を見ることにしよう。

(1) 〔訳者註〕中等教育第五年に相当するという。

     *

 音楽を他の芸術から区別するものは、人間が他の動物たちと同様に、さまざまな音を造ったり放出したりすることのできる一つの自然な道具を備えている点である。彫刻家は一つのすばらしい道具を持っている。すなわち手を。しかし彼が原型を造ろうと思うならば可塑性かそせいの塊りを、また彫刻しようと思うならば幾つかの補助的な道具を用意しなくてはならない。線画家や画家にとっては色々な材料が、画筆が、各種の色絵具が必要である。歌うためには、人間は、普通、発声をうけもつ一つの見事な器官、すなわち喉頭こうとうを働かせる。私は、共鳴函きょうめいばこのようにせよ、子音を出したり喉頭から出た音を明瞭に発声したりするためにせよ、そういう仕事をする色々な機械があるのを挙げることを忘れてはいない。創造的な文化のために音楽に約束されてきた位置、その決定的な性格と運命とを集団にと同様に個人にも与えなければならない位置が、人間が自然の楽器を持っているにもかかわらず、まさしく下請したうけされているというのは考えても驚くべきことである。
 舞踊や詩と同じように、音楽は力学的と呼ぶことのできる芸術の一つである。その十全の存在を自覚するためには、音楽作品は、いつの時でも、一つの新しい創造の対象物とならなければならない。時にはそれが図書館の中か記憶の中に眠っていることがある。私はそれが第四次元の中で――時の中でと言いたいのだが――成長しているということを付言すべきだろうか。
 造形芸術の作品は、いわば決定的な存在である。彼らは存在して、そして待つことができる。彼らは一度手に入れられれば、その後はその十全の効果を発揮して見せる。いずれにもせよ美術の愛好者や鑑識家の役割というものは減らないからである。一つの造形作品は、その正当な価値を得るためには理解され、愛され、感嘆されなければならない。最後に造形芸術の作品は―――或いは静的芸術の作品と言ってもいいが―――世界の二つか三つの次元のなかに展開する。素描や絵画のような物は二つの次元に制限されていながら、第三次元の感じさえわれわれに与えようとする。更に、手短かに言えば、造形的な作品の大部分は状態よりもむしろ動きを暗示して、われわれの想像力を誘って時間に、第四次元の世界に参加させようとするのである。

     *

 自然から享けた楽器を活動させることに満足しないで、人間は早くから彼自身の器官とは性質を異にした楽器を使って、さまざまな音を出させる可能性のあることに気がついた。原理的には、これらの楽器は三つの家族として集まっている。すなわち音を出す管、或いは管楽器、引掻くか、こするか、摘まむかする糸、最後に張りつめた表面をいろいろな仕方で叩いて、時には単純な響きを、時にはさまざまな変った音を出させるもの、つまり打楽器と言われるものがこれである。私はかなり稀にしか使われない或る種の道具、鐘とか、シロフォーンとか、メタロフォーンとかは別にする。
 たくさんの旅行をして、文明化された人類や未開の人種を訪れた人は、或る種の楽器がほとんど世界共通のものだということを知っている。たとえば笛がそれで、縦たてのものも横のものも共に行なわれている。同じことが弦楽器や打楽器についても言うことができ、原始人に非常に近い種族の間でもこういう物が見られるのである。
 われわれの日常使っている道具の形が、発明家や商人たちの気まぐれのままに一世紀の間には変ってゆくのに、ヴァイオリンの構造が数世紀以来目につく程の変形をされない事実は、ここに言うのも無益であろう。そしてこの安定性についての考察が、教育の分野で、はなはだ興味ある結論を引き出すのである。

     *

 音楽に興味をよせている人々には、純粋に受け身の人もあれば能動的な人もある。音楽狂である場合もあれば音楽家である場合もあり、また演奏家と言われている人の場合もある。
 音楽への嗜好は、演奏家に対してと同様に聴く者にも、まず第一にリズムへの関心を教える。未開の境地と洗練された世界とを問わず、音楽はリズムによって規正されているが、これ以上理解し易いことはない。リズムは生の原動力であり、リズムは自然現象の大部分を規正する。心臓は一定のリズムに従って鼓動し、どんなリズムの混乱でも器官の不調をひきおこす。呼吸は一つのリズムを前提としている。われわれは或る患者をみて、この人は心臓に不整を呈していると言い、この人は呼吸頻数ポリプネー或いは呼吸休止アプネーを来たしていると言うだろう。ベートーヴェンの有名なピアノとヴァイオリンのための奏鳴曲に、『心臓のソナタ』と呼ばれているものがある。『第四交響曲』の緩徐楽章は、これまた心臓のリズムである一つのリズムの上に据えられている。私は心臓と呼吸器のことを言ったが、同様に生命のリズムに従っている各種の腺せんの機能をも挙げなくてはならないし、普通昼と夜とのリズムに応じたリズムを持つ睡眠のようなものも挙げなくてはならない。更に生物を離れて潮汐ちょうせきの、風の、雨の、そして最後に無限の宇宙のなかの天体のリズムにまで言及しなくてはならないだろう。
 聴衆がその受け身という条件のもとでつつましくリズムを知覚し、それを名で呼び、感じている一方、演奏者は、一人の人間の性格を形づくったり、自分もその一員である各種の集合体との関係を規正したりすることに貢献する規律に訓練を重ねなくてはならない。彼は指揮者を見、数え、それに従うことを学ばなくてはならず、自分の番と極められた瞬間に、声を上げたり、楽器を使って音を出したりしなければならない。彼は言うべきことを言ってしまったら黙らなくてはならない。またほかの者たちよりも強く歌ったり吹いたり弾いたりしないように努めなくてはならず、指揮者が命じるか楽譜が同じ意味のことを指示している箇所では、音を弱くしなければならない。これとは反対に、もしも音楽の展開がクレシェンド(しだいに強く)やフォルテ(強く)を要求したら、彼は自分に求められた努力を捧げなければならず、集団として、或いは単独に、同族の楽器と一緒に、或いはオーケストラや合唱団の全部と共に、おのれの分を尽くさなければならない。またもしも楽譜が沈黙を指示していたら、音楽家は黙らなくてはならず、時には呼吸をさえやめなくてはならず、また咳せきをしたり、溜め息をついたり、自分の体から意外なことが出現したりしないように気をつけなければならない。
 彼は楽節の要求するもの、テンポまたは速度の要求するものを学ぶだろう。彼は模範的な国家でその市民が行動するようにすべてに行動するだろう。鷹揚おうような民主主義的社会では、操縦桿そうじゅうかんをとるために呼ばれた人々に対して、一般民衆は免許状も、前もっての練習さえも要求しない。しかし私としては、彼らに全体としての音楽の規律を強制しながら、調和や、秩序や、服従の実践、煽動政治的な奸策かんさくや、妥協や、懶惰らいだや、打算的な弱さなどを仮定しない一つの権威の実践へと導くことは、決して無益ではないと常に考えてきた。譜面台を前にしたオーケストラの指揮者は尊敬されている大家の標本である。そして譜面台に向かった演奏者は分別ある市民の完全な実例である。
 合唱音楽は、この意味で、器楽の持つ教育的な力のすべてを具えている。しかし合唱音楽では楽器を所有している必要がなく、必要なのは全体として適度な修業期間であり、ヴァイオリンはもとより、チェロやフルートをすら習うには年を取りすぎている人たちを容易につかまえて仕事にかからせることができるために、非常に多くの場合、手ほどき的、訓育的な性質を持っている。
 私の同国人、すなわちフランス人は、おそらく一種の個人主義によって誘惑され決定づけられているせいか、他の民衆、たとえばドイツやスラヴの民衆ほど合唱音楽の恩恵を感じていないようにみえる。実を言えば、フランス人は彼らの教会にいつも立派な「少年聖歌隊」を持ってもいたし、中世から近代までに、この特別な音楽のための非常に有力な文献を生んでもいるのである。二十世紀の初頭以来、フランスにはそのための多くの協会、多くの学校の設立を見たが、このことは個人主義的な個人が調和の集団の中に席を占めることを学びさえすれば、決してそれに失格する者ではないということを立証している。たとえば「木の十字架の少年合唱団」は世界中で歓迎されていて、この美しい学院は至るところに熱意と模倣とを盛り上がらせた。私は黒色アフリカで子供たちの合唱隊を見もし聴きもしたが、それはマイエ猊下げいかが良い地面に種を播まかれたことを示すものである。現在フランスには非常に多くの合唱団が存在している。
 同時に私はフランス音楽青年団の実り多い努力を称讃しなくてはならず、今それを衷心から讃える者である。
 私は或る経験に立ち会う機会を持ったが、それについてここでいささか述べてみたいと思う。なぜならばそれは深い足跡を残したし、また私にとっては、幾多の美しい思い出に混じり合っているものだからである。
 私の親しい友人だった作曲家アルベール・ドワイヤンは、労働者の大衆を音楽へ導き入れようという熱望に活気づけられて、今世紀の初めの数年間に「民衆の祭」と呼ぶ一つの協会を創立した。ドワイヤンの意図するところは、全部が素人しろうとから成る一大合唱団を造り上げることで、そういう素人を自分で募集し、教育して、実験を試みようというのだった。これらの素人はほとんど全部が労働者か使用人だった。彼らの大部分はそれまでどんな音楽教育にも恵まれていなかった。ドワイヤンは勇気をもって彼らに初歩を教えた。そのうちにこの合唱団を公衆の面前に出しても恥ずかしくないと彼に思われる時が来た。そして「民衆の祭」のけだかい冒険が、美にたいして寛大な愛を持っている人々、利己的な愛どころか、最も熱烈な宣伝のうちにこの事業が達成されることを願っている人々を、感動させ始めたのは実にこの時だった。
 ドワイヤンは自分の生徒たちに平凡な秣まぐさを与えることをがえんじなかった。反対に彼らにもっと高級な作品を、場合によってはもっともむずかしい作品を歌わせることを夢想した。その合唱団に伴奏をさせて自分の願望に一致した演出を手にするために、彼は優秀な本職から成る管弦楽団を募つのった。ついで最初のいくたびかの実験が決定的なものに思われた時、彼は多数の聴衆を前に演奏会を開催した。
 第一次世界戦争の終りから、一九三五年のドワイヤンの急逝まで花のように咲きほこったこのすばらしい仕事は、私に美しい感動を経験させ、有益な瞑想の種を提供した。あのつつましいアマチュアの連中は、バッハ、ワーグナー、ベートーヴェン、シューベルト、メユール、ボローディンを初めとして、その他第一列に属する多くの音楽家たちの作品を知って、それをかなり立派に歌えるようになった。もちろん合唱団員の中には入れ換えもあった。或る歌い手は失望するとか、別の歌い手は呼びよせられてパリを去るとか。しかしそれが何だろう! 新規の者がつかまえられ、軍隊で言う団体精神によって引き上げられるのだった。合唱団はいつも同じ状態にとどまってはいず、絶えず向上をつづけ、当然の価値ある有名な作品を歌った。私は時どきこういう眩惑された熱烈な新信徒たちの告白に耳を傾けた。そして彼らの話の中のいくつかを回想録のなかで述べたことがある。或る転調の箇所を歌った瞬間に自分の感じたものを説明しようとして、熱意をこめてこう言ったあの若い労働者の言葉を私はけっして忘れないだろう、「まるで窓が明いたようです!」
 私はこれらの美しい思い出を捨てて、もう一度自分の陳述の糸を取り上げることにする。私は音色の研究、それぞれ一族を成している楽器の研究、ついで声と楽器の集団合奏、つまり二重唱、三重唱、四重唱その他のために、二、三の番組をこれにあてることをフランスで国立ラジオ会議に提案したことを覚えている。この基本的で必要欠くべからざる教育は、その後電波に乗せられた。どうかこれが初めだけで、前奏曲だけで終らないようにと祈る。そして今や、私は自分の試論の第二部にたどりついたわけである。

     *

 音楽というものが今私の述べたようなものに過ぎないならば、つまり一種のすぐれた知的ならびに感情的な体操、一つの訓練、さらに意志の訓練に過ぎないならば、それはあらゆる教育学の組織のなかに、市民的および社会的教育のなかに、一つの名誉の席を占める価値があるだろう。しかし音楽はまた或る別種の力を持っている。音楽に対する知識はすばらしい宝庫をひらく鍵であり、音楽上の莫大な文献をひらく鍵である。と言うのは、西洋では、それが民族の天才によってであれ、天分に恵まれた芸術家や作曲家や創造者によってであれ、ともかくもそういう人々によって発明された作品を供託するという方法が思いつかれて以来、その種の無数の文献が集積されているからである。
 音楽の記譜のことと、それが文化の領域で演じている役割のこととに触れる前に、私は音楽上の記憶力について述べなくてはならない。記憶力というものは、われわれに生活から得たさまざまのものを保存させる自然の能力である。記憶力は、記号の発明のおかげで人間が文書によって彼らの重荷の大部分を下ろすようになった時まで、充分に人類に貢献してきた。そしてそれ以来書物が、図書館が、レコード収集室が、神聖な道具ともなれば場所ともなって、われわれは自分たちの記憶力が維持することのできないものをそこに保存しているわけである。
 世の中にはたくさんの種類の記憶力があって、その一つ一つが、普通は、或る職業、或る仕事の得意の部門、或る趣味、或る選択などにつながっている。音楽上の記憶力となるとその及ぶところは非常に広い。或る人々の場合にはその力は驚くほどである。記憶力は音楽家に役立つ。しかしそれが音楽家に恩恵を与えながら、同時に彼を限定することもまた考えられる。宗教音楽の一篇をただ一度聴いただけで、その全体を正確に書くことができたという
モーツァルトの話は人の知るところである。
 こうしたすばらしい事実を一度だけ指摘しておいて、さて、西洋では記譜ということが、天分豊かな芸術家たちに彼らの作品を正確に定着させ、数世紀後にも明瞭にその読譜ができるようになっていることを言っておこう。現代の作曲家は演奏家の気まぐれに対して、昔よりも遙かに少ない自由しか残していない。天才には要求するところを指令する権利がある。天才の作品がその完全な姿で保存されるべきであるということ、これこそこんにち理性的な観察者の要求する点てある。
 われわれはここで、懐疑的或いは悲観的な観察者がほとんど言及しない一つの人間的勝利のことに触れておこう。政治の前進と逆行とから感じられる失敗は、われわれ世界の民衆や人間のあいだの相互理解の機会がはなはだ乏しいか、或いは皆無だというように思わせがちである。諸国民が彼らの葛藤や論争や懸引きにもかかわらず、或る本質的な事柄では互いの諒解に達していることが忘れられている。たとえば郵便、航海、航空などがそれである。と同時に、記譜法もこれに加えよう。もちろんすべての国の民衆がまだこの記譜の世界化運動に参加しているわけうではないが、しかしそれも時間の問題である。讃歌は実現されるだろう。私はこのことを日本への旅行中に理解したのである。
 日本には一種の古典音楽が存在している。それは一人で演奏されるか、或いは踊り手たちに伴奏したり、能のうや歌舞伎の場合だと、合唱団や俳優たちを支持したりするために演奏される。この音楽は東洋や極東のほとんどすべての音楽と同様に単旋法モノディックである。それはレコード、テープ、繊維などを使って現代的な方法で入念に記録されている。私はそれが国際的な記譜法で適切に書かれ得るものとは思っていない。その音楽にはわれわれの注意をのがれるような音程がある。しかし日本はその古典音楽をいささかも否認することなしに、西洋音楽にたいして積極的な関心を持っている。われわれは名古屋で、「才能教育」協会に属する少年ヴァイオリン奏者たちの演奏を聴いて一驚を喫きっした。それはすべて六歳、八歳、或いは十歳の子供だが、ヴィヴァルディや、バッハや、モーツァルトの協奏曲を暗譜で弾いて、西洋の多音音楽をりっぱに護まもる力のあることを示していた。私はわが国の作曲家の音楽を研究しにパリに来たことのある音楽家たちと一緒に旅行をした。その音楽家たちはもちろん記譜法を、今後世界的と言うことのできる記譜法を採用していた。こうして音楽は諸国民をつなぐ一本の力づよい縁えにしの糸になっている。それは何らの翻訳も必要としない。それは異つた民族の人々に、同じ分節をもった言語を話さない人々に、共に仕事をするように、調和をもって結び合うように、同じ感動を分かち合うようにさせるのである。

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 ここでわれわれは一つの重要な問題に触れることになる。すなわち純粋音楽、言葉も要旨もなしにわれわれに提供される音楽、そういう音楽に与えるにふさわしい意味の問題に触れることになる。
 西洋文明に起源をもち、われわれの生活の中でその固有の役割を演じるだけの価値のある合理主義は、機械的宗教の行きすぎに触れることは留保するとして、西洋の人間に或る種の習辯を、気むずかしい習癖を与えた。合理主義の入門者は何に対しても、またすべての事柄に、「それは何を言おうとしているのか」とか、「それはどういう意味なのか」と言う。私には実にしばしば執拗なほどなこの異端糾問きゅうもんが理解できる。しかし新しい世紀の初頭以来、科学の世界には一つの新世代が成長して、それが、合理的なものは不合理なものをも含み得るほど大きいのだということを知っている事実を思わずにはいられない。音楽は時どき、若い精神やまだ子供らしい精神をいくらか困らせたりいら立たせたりする。彼らは原文も題もついていない音楽に出あうと、それを日常の言葉に翻訳したり説明したりすることを要求する。『ハ長調の交響曲』というのは、いろいろ勝手な割当てにもかかわらず、必ずしも何か強制的な断言を仮定する題名ではないし、長調という調性は、短調という調性と比較して、必ずしもいっそう楽天的で、いっそう幸福な感じを持ってもいないのである。
 こと純粋音楽に関しては、先生は生徒にむかって、この音楽はその中へ、われわれを感動させたり活気づけたりするものをわれわれの手で預けておく、一つの素晴らしい壺つぼなのだということを納得させる必要があると私は思う。しかしその創造者が、彼の作品の余白に一言でも、ただの一言でも書いていたら、その言葉はわれわれを啓発するし、われわれを誘導してくれる。またもしもその言葉が熱狂的な愛好者たちによって後になって付け足されたものだったら、われわれにはそれを警戒したり、見出す希望のあるものをどこそこのページに探す権利があるのである。

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 人は好んで善い音楽、悪い音楽を云々する。これは略式の判決である。一般に古典音楽は重んじられている。それは数世紀を経たものであって、すでにそれだけで尊敬の念を起こさせる。ところが現代音楽家の作品となると、職業的な批評家はこれを辛抱づよく検討する。それはわれわれを啓発し、われわれを各自の選択へと導くことができる。それはまたわれわれを迷わすこともできる。一方われわれとしては、文学的作品或いは造形芸術の作品と同様に、音楽作品にたいして自分たちの好みを表明したり、自分たちの手で選集を作ったりする。民謡はほとんど常に大きな価値を持っていて、われわれの記憶の中にも大きな席を占めている。殊にそれが時間の試練をうけたり、一民衆全体の好みが凡庸なものを遠ざけて最善のものを保存しようという意志を示していた場合にそうである。同時に西洋のすべての国々で、民謡のテーマが、大家たちの音楽の中に大きな場所を占めているゆえんもここにあるのである。
 われわれに躊躇する権利があり、或る作品に対して判決を留保し、時にはきわめて自然でかつ賢明でさえある慎重さで革命家たちの実験を――その実験から真の作品の生まれて来るのを待ちながら――見まもっている一方、すべてのアマチュアが或る音楽作品を目もくして、それが単に平凡であるばかりか俗悪で野卑であり、したがって教育的価値もなければ、音楽上の富にも光にも値いしないという意見で一致する場合も往々にしてある。
 さて、われわれはここで、われわれの天性の中での或る特殊性、とくに音楽上の記憶のことに触れてみよう。われわれは各自の記憶の主人ではない。それは善い物も悪い物もごっちゃに受けとって反響を生む。ばかばかしくて、低級で、塵ちりほどの価値もないような一つの歌がわれわれの記憶の中に刻みこまれて、それがわれわれを悩ますこともあり得る。私は『パスキエ家年代記』のなかで一人の女流音楽家を描いた。それは私の目には音楽の天使のように映り、あらゆる天分とあらゆる恩寵とをうけた人物である。ところでそのセシール・パスキエが、或る日彼女の打ち明け話の優しい聴き手である兄のローランに告白する、「私はバッハとモーツァルト、ヘンデルとクープランだけで生きて来ました。しかし二日このかた、或るみじめな町の歌にとりつかれてしまっています。だからもう私は純潔ではありません。人間は自分の本来の価値以上の者ではあり得ないのです。」
 哀れなセシールはおのれを責めている。そして彼女は間違っている。われわれはすぐそばで、低級で野蛮な音楽が鳴り轟いている時、思いどおりに耳をふさぐことはできないのである。しかし私は思うのだが、教育者は彼の生徒たちを、こうした有害な食い物から遠ざけるために、あるかぎりの努力をしなければならない。われわれが生きてゆかなければならないこの世紀には、大きな悩みがあるだろう。そしてこのことが、私に機械による音楽について数言を費すように誘うのである。

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 文明について書いたたくさんの文章が私にあり、その中で流行というものから刺激された自分の不安をあえて隠さず、機械音楽の帝国のことも言わずにはいられなかったところから、人々は私を目してラジオの敵、或いはレコードの敵とさえしようとしている。何という誤解だろう! なるほど私は「罐詰かんづめの音楽」という言葉を口にしたし、それを撤回しようとも思っていない。しかし問題は簡単である。録音された音楽、放送された音楽は、科学的な発明を前提としたものであって、人類はそれを誇りとするいくらかの理由を持っている。しかし技術と機械とは、訴訟の起こった当時の状態にとどまっているわけではないのである。もしも録音された音楽が善くて美しければ、私はそれを愛するし、われわれのカナダ人の友達らが言っているように、「レコード回転盤トゥールス・ディスク」も喜んで使う。しかし不幸にして機械音楽、機械が発散する音楽は、それが不潔でない場合にも、あまりにしばしば愚劣である。わけてもそれは非常に強力な装置から至るところに吐き出されて、障害物でも距離でも飛びこすことができる。私はその上で二週間を暮らした或る船でのことを思い出す。音楽の蛇口がいたるところに、船橋ブリッジの操縦室にさえ配置されていた。それらの蛇口は、嵐の中でさえ、その気の抜けた、胸の悪くなるような混ぜ物を吐き出していた。そこには働いている人たちが、沈黙の中での瞑想に恵まれるようなたった一つの船室もなかった。私はこれらのみじめで無礼な機械どもを、叩きこわしてやりたいという熱望に駆られたのだった。
 学者たちが「防音傘パラブリュイ」か「指向性音響ブリュイ・ディリジェ」を発明してくれない以上、われわれはこの不名誉な音楽、食事中にさえ、休息や沈思のあいだにさえ、耳の孔へ流しこまれる音楽に対して自衛をしなければならないわけだが、それはむずかしい。記憶は不延性のものではないということを念頭に置いて、その聴覚のための耳をできるだけ保護するようにと、私は教育家諸君に忠告させて頂きたい。つまらないメロディー、古くさい歌の節、平凡で不快な歌謡曲、そういうものが若い人たちの記憶に宿り、ヨーハン・セバスチアンの純潔で神々しい旋律の占めるべき席を奪ってしまったのである。
 私は大衆の嗜好の変り易いことを知っている。以前は浅薄で無価値なものと見なされていた或る歌劇が、とつぜんルイ・フィリップ時代の様式のように流行界へ再現するかと思えば、別の様式が人気をうしなう。大家たちの美しい神聖な音楽でさえ、時として不人望の期間を経験した。今私の言ったバッハにも、その完全な栄光をまとって立ち上がる前に、忘却の一世紀という期間があった。嗜好の発展に挑戦して、若い知性や感受性を、彼らの花であるものを恥ずかしめたり永久に傷つけたりする惧おそれのあるものから遠ざけるのは、なおさら当然のことである。

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 私にはなお自然的傾向と呼ばれるものについての数言が残されている。或る子供たちが音楽にたいして何らの愛をも示さず、目に見える適性をも示さないのは異議のないところである。彼らは間違った歌い方をし、「娯楽の芸術」として与えられたものの神秘を教わることを最初から拒絶する。
 ことが読み方、書き方、算数となると、教育の方針が生徒の恣意的しいてきな傾向にたいして寛大だということに私は注意を促したい。どんな生徒でも、生徒である以上、そして白痴か病人でないかぎり、書くこと、読むこと、数えることの勉強をまぬがれるわけには断じてゆかない。私は音楽の教育が義務的なものになること、それがまじめな考査の対象になること、および、こうして市民としての見習いの決定的な分類の中に一つの席を占めるようになることを念願する者である。結論のためにもう一度取り上げれば、音楽はいかなる場合にも自由課目、つまりその勉強が任意である課目のように考えられてはならない。それは一つの強力な原動力であって、教育家は一人の人間の形成のためにそれを用意するのである。また録音された物にせよ放送された物にせよ、機械音楽の通俗化は、多数のアマチュアを低下させる傾向のあることも付け加えておきたい。「レコードを掛けるかラジオのスイィチを廻すかすれば充分なのに、平凡な音楽をやるために何だってこんな苦しい思いをするのだろう」と、それ以後こんなふうに一般の人たちは考えるようになる。さて、私は別のところで述べたことをここでもう一度言っておきたい。すなわち、職業的音楽家は若いアマチュアの間から選ばれる。名手は、多数の者の水準からはじまる長い辛抱づよい選抜の末に出現する。音楽の教育が衰退する日、アマチュアの募集が危機に瀕する日、その日名手の終りが告げられるだろう。そして機械化された音楽を演奏するために名手が必要とされる日――そんな日の決して来ないことを私は望むが――、その日にこそ人々は、われわれの見事な機械の便利さが、名手や作曲家の数を減らしながら、ついに音楽を殺してしまったことに気がつくだろう。
 われわれの子供やまたその子供たちに、そのような未来が来ないように!

 

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