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ジョルジュ・シェーヌヴィエールの思い出というと、彼が音楽に照らし出されていたというよりも、むしろそれに心を悲しまされ、つきまとわれ、とり憑つかれ、苦しまされていたと言いたい。
一九二六年、ワルシャワからの列車に二人で乗っていたことを思い出す。われわれは疲れて心が暗かった。二人は初めのうち無言で煙草を吸っていたが、突然、低い声で一緒に歌いはじめた。車体の響きが騒がしいので互いにもたれかかり、頭と頭はほとんど触れ合っていた。われわれはベートーヴェンの四重奏曲を歌った。一つ一つ続けて歌ったのだった。われわれはよく覚えていたので、一方がまごついた様子を見せると、他方がすぐに代わりをつとめた。いくつもの都会が後になり、いくつかの国境が過ぎ去った。パリに着いてもまだわれわれは歌っていた。四重奏曲は種ぎれになっていたので、二人の宝の山から手当り次第に選び出したのだった。長い旅がつかのまに過ぎた。
一九一七年、ヴェルダンの戦場でのシェーヌヴィエールを思い出す。われわれの部署は互いにあまり遠く離れていなかった。私はそれを知っていたので、何かの任務のような形で、濡れたスタンプと署名のある一枚の外出許可証をもらった。われわれは荒れ果てた凰景のなかを何時間もさまよった。われわれは歌った。声をひそめて。しかし熱情こめて歌ったのだった。この邂逅の時間、われわれはそれを、二人の心の中に最も純粋に最も豊かに保たれているものを、互いに打ちあけ合うために過ごしたのである。
夏の滞在中にヴァルモンドワの野を散歩していると(1)、私はいたるところでシェーヌヴィエールに出あう。二人が足を停めたのはここ、この林のふちだった。丘の頂上へ着いて、彼が私に『第十三番』のカヴァティーナ(2)を歌ってくれたのはあそこだったし、この道をたどりながら、『美しき水車小屋の娘』を一緒に歌って褒め讃えたのもあそこだった。
パリの街や四つ辻も私にシェーヌヴィエールを思い出させる。音楽にひたりきっていたシェーヌヴィエール、そのあらゆる思想が、永遠にわれらの道連れであり師であるあの驚くべき人たちの天才によって伴奏され、豊かにされ、註釈され、変貌されていたシェーヌヴィエールを。
私はシェーヌヴィエールが、いつでも役に立つ忠実な記憶力を持っていたことを述べたと思う。よく整頓された大きな貯蔵所という貴重な利点を持っていなくても、人は音楽を愛することができる。しかし資源を持っていて、なおかつそれを従順に、われわれの呼ぶひと声で立ち上がらせる力を持っているのは、何と好ましいことだろう!
音楽のことについてのこの知識を、シェーヌヴィエールは何年かのあいだ批評の仕事に役立てた。そして間もなく苦悶しはじめた。音楽というものは、そういつでも楽しみではあり得ない。魂が同意し、身をささげ、身を捨てるのでなくてはならない。音楽の愛人だからといって、あらゆる瞬間に祝宴を玩味する用意ができているわけではない。さて、批評というものは、職業的及び義務的にそれに当っている人々を酷使する。彼らは今日も一日じゅう元気潑刺たることを要求される。昼前は宗教的な祭のために、午後は練習や演奏会のために、晩は芝居や儀式のためにというように。それはあますところのない放蕩である。シェーヌヴィエールはじきにこのことで苦しんだ。音楽を喜びもなしにうけとり、食欲もなしに食うにしては、彼はあまりに真心からそれを愛していた。彼は恐れげもなくそのことを嘆いた。彼は孤独な人間だった。彼は集会への好みは持っていたが、ごちゃまぜへの好みは持っていなかった。毎日一回或いは二回の演奏会は、彼にとってほとんど拷問ごうもんになった。それは愛のない情事いろごとだった。私にはシェーヌヴィエールの気持がよくわかった。なぜかといえば私は彼と違ったふうには考えなかったから。そしてこんにちでもなお同じように考えている。
シェーヌヴィエールはこの不快な気持を『民衆の祭』によって救われた。当時この集まりはわれわれの心を動かし、われわれを興奮させ始めていた。アルベール・ドワイヤンがその誠実さと、権威と、真に感嘆すべき熱意とをもって、一九一四年から一八年へと続いた戦争の終りごろに、このけだかい人間愛の仕事を打ち建てたのだった。大家たちの作を歌うことを習いたがっているすべての人を、ドワイヤンは集めて教えた。彼は後に有名になったこの合唱団を育て上げたが、それは数年のあいだ、この偉大な心情、この善き首領の指導のもとに、ベートーヴェッ、ワーグナー、ボローディン、その他多くの音楽家たちの作品に光輝を添えたのだった。われわれは皆、彼のこうした立派な信念、知識、雅量に驚嘆した。われわれは皆、こういう企てには単に勇気づけが必要であるばかりでなく、それを採り入れてわれわれのものとし、この救いの仕事にたいして積極的な、悦ばしい寄与をすることが必要だということを感じた。その頃ドワイヤンは、夏のあいだヴィルモンドワで一軒の小さい家に住んでいた。その家は今この数行を書いている私の目にも、谷のむこうの斜面に見える。われわれは音楽について、詩について、また民衆を向上させたり教育したりする最も好ましい方法について、長い対話をしたのだった。私は一種のオラトリオを書くことに着手した。私は毎日のように熱中してその一ページを書き上げ、部落を横ぎってはそれをドワイヤンのところへ持って行った。彼は時にはピアノの前に、時には紙きれを積み上げた大きなテーブルの前にすわって、熱をこめて作曲した。作品ができあがると、私はそれに『古い世界の声』という題をつけた。それは二十五年このかたわれわれからすっかり遠ざかっている寛大な未来にむかっての、或る人類社会の吐息であり、呼びかけであり、希望の叫びであった。
シェーヌヴィエールは『民衆の祭』をたびたび訪れた。彼はわれわれ皆と同じようにそこで講演をした。彼はこの真摯な試みのなかに、魂の高貴さと調和ある一致との空想的でない原理があるのを感じた。彼は仕事にかかった。或いはもっと正しく言えば、辛抱して仕事を続ける立派な理由を見いだした。彼は戦争中に『十二の祭』という一大作品の構想を立てていた。彼はこれらの詩の最初の一篇で「メルキュール・ド・フランス」誌へ出たばかりの『南の歌』というのをドワイヤンに送った。戦争当時の人々の苦しみと死とを物語ったものだった。『民衆の祭』でしばしば演出され、ドワイヤンの死後おごそかに放送されたこの『南の歌』は、模範的な合作の先頭を切ったものである。千百の問題に駆り立てられていたわれわれが、事件や人間の薮地やぶちの中にめいめいの道を探していたちょうどその頃、シェーヌヴィエ-ルは突如として彼の道を見つけたのである。彼は『民衆の祭』の詩人になった。彼は合唱団の友人たちのためにいくつかの美しい詩を作り、ドワイヤンがそれに音楽の形を与えたが、これらの歌はわれわれが息を引き取る時まで、われわれの心の底で鳴り響くだろう。『民衆の祭』のおかげ出、シェーヌヴィエールは願わしからぬ仕事の苦や毎日の務めの疲れにもかかわらず、多くの人々にとって光ともなれば慰めともなっているこの解放の音楽の、深遠な意味をもういちど発見したのだった。
私はこれらのページを六月の或る朝に書いている。太陽は世界の初めの日のように燃えている。蠅どもは私のまわり、花たちの間でぶんぶん言っている。ポプラの葉むらは歌っている。最もかすかな風の息にも酔ったように歌っている。ちょうどドワイヤンが指褌棒を上げた時の合唱団の少女たちのように。私には家の影のなかで目を覚ました子供たちの声が聴こえる。あの下のほう、谷のむこう側で、私の甥おいの一人が部屋の窓際に立って、ベートーヴェンの或る交響曲の初めの数小節をテューバで吹いている。それから、また新しく沈黙が来る。そして太陽は木々のこずえを越えて昇る。シェーヌヴィエール! ドワイヤン! 朝の大きな太陽にもかかわらず、私には今自分のまわりを、無数の亡霊たちが歩いているのが見える。そしてこの田舎びた静けさそのものも、もうけっして純粋なものにはならないだろう。あまりにも多くの歌が私に付き添い、私の孤独に付きまとい、そして私の思念に入りまじるから。
(1) 〔訳者註〕パリの北方でデュアメルの別荘のあるところ。
(2) 〔訳者註〕ベートーヴェンの弦楽四重奏曲第十三番、作品一三〇の第五楽章であろう。
2
熱意をもって、また時には不躾ぶしつけにさえ音楽を擁護しながらも、私は自分が一握りの専門家にしか興味のないような限られた範囲の問題を述べ立てているのだとは思われたくない。音楽のこうむっている災難が、この常軌を逸した時代には、思想の混乱というものを驚くほど感じさせる。この混乱を祓はらいい清めること、それはわれわれ万人の仕事ではないだろうか。
一九三七年の或る日のこと、私は一人の友人と一緒に、シャイヨーの丘にある急造の庭園のなかを散歩していた。騒がしい音を出すいくつかの機械がそこここに配置されて、途方に暮れさせるような、泥のまじったような一種の音楽を、その場所に放水していた。――私は一般の人々がこういう種類の音の副産物を力づよく表現するために、何か別の語彙ごいを発見してくれるのを待ちながら、今は音楽という言葉を使うことにする。――そのおかげで、この広場に噴き出している幾つかの噴水の美しさは、私の感じでは、すっかり遮さえぎられてしまっていた。世の中でもっとも感動的なものの一つである水の響きは、この機械的なわめき声のために全く被い隠されていた。そもそも噴水なる物がわれわれの魂を喜ばせるのは、その眺めと同時にその歌にもよるのだということを、責任ある人々に思い起こさせる必要が本当にあるのだろうか。時どき――それはレコードを取り換える時間だから非常に短かかった――騒騒しい機械が嘔吐をやめた。すると散歩をしている人はほっとして、こんなことを呟いた。いろいろな悩ましいことがあるにしても、もしも人がわれわれの聴覚を苦しめないことに同意したら、人生は充分我慢のできるものになるだろうと。しかし音楽の砲台はまたもや轟きはじめ、不快はふたたび始まるのだった。
その「騒音機」どもは、その日群衆に、ジャズの平凡な恐怖と流行遅れの魅力とを分配していたのである。私は友人と話をすることをやめた。声も、耳も、精神も、この大洪水には抵抗できなかったから。そして懸命になってどこかに避難所はないかと探した。すると私の友が声をかぎりに叫んだ、
「いつもこんなにひどいというわけでもないんだよ、君。たまにはいい音楽をやることもあるんだ。」
その時、われわれは比較的静かな地帯へ着いた。それでお互いに息を吹きかえした。
「よろしい」と私は言った、「だが、たとえ彼らがたまにはいい音楽をやるからといって、この俗悪な田合くさい行列の中へいい音楽を嵌はめこむからといって、僕がそれを喜ぶなんてことは期待しないがいい。なぜかと言えば、それは愚劣と悲惨の絶頂だから。」
いずれにもせよ私は騒音をあきらめ始めている。騒音は避けがたく、騒々しい音楽はこんにち以後われわれの運命だということを理解しはじめている。私は静かさを救うためにいろいろ努力してみたが、それも無駄だった。私は打ち負かされ、譲歩し、身をかがめる。しかしそれでも声を高くしてこう言わずにはいられない。「君たちの騒音を立てるがいい。それはよろしい。だが本当の音楽はこの破廉恥スキャンダルの埒外らちがいへ置いてくれ。君たちの気に入りの作者の腹鳴りや噯気おくびはすべて君たちに任せよう。その代わりわれわれの大家たちはわれわれに任せてくれ。あの人たちは諸君に何の害も加えないし、何ものをも要求しない。あの人たちは聰明にも死んでしまったのだから。われわれが息を引き取る時まで愛そうと思っているものを濫費しないでくれたまえ。」
私は年に一回或いは二回以上『第五交響曲』を聴こうとは願わない。それは一つの感嘆すべき作品だし、私自身よく知っていると思っているので、人がこの第五番目の交響曲をどんな床ゆかスタンドにも、博覧会その他のどんな音響柱にもぶらさげないように願いたい。私は二年或いは三年おきにでなくては『未完成交響曲』を聴こうとは思わない。私は自分の同時代者に思い出させたい。稀少ということが美的感動の一つの本質的な条件であることを繰り返して言いたい。拡声機がわれわれに天使のようなハーモニーをそそぎかけるとしても――そんなことはむろんあり得ないが――、たとえあったとしても、その清らかなハーモニーを一日じゅう聴いていたいとは私は思わない。どうか芸術が多過ぎないように、喜びが多過ぎないように! 縁のない美はもう美ではない。そういうものを私はもう認めない。
或る晩私はレーヴェングート弦楽四重奏団を聴いた。みんなの歳としの数を合計しても一世紀以上にはならないような、若い献身的な人たちのあの四重奏団である。ベートーヴェンの第一と第十のクヮルテット! なんという大胆な、力づよい、微妙な神品だろう! 私は或るパートではそれらを一音符一音符知っていた。私はそれらを自分の孤独な時間によく一人で歌っている。そしてすべての人々がこの音楽を愛するようになることを願っている。しかしこの味わい深い音楽が、近い将来の或る日に、どこかの市場で、われわれにもっとよく感じさせようと、百倍にも拡声した殺人的な機械の手で肩から浴びせかけられるかも知れないと思うと恐ろしくなるのである。そしてもうひざまずいて憐れみを乞う用意もできている。
3
われわれも十二分に知っていることだが、文学芸術の傑作というものは舞台監督諸公を恐れなければならない。こういう冒険的な外科医のなかの或る人々の活躍は、単に劇作品にたいして行なわれるだけでなく、数年以来、他の文学作品、わけても小説にたいして向けられている。その結果ひどい混乱が起こるわけだが、文芸の社会はそれを忌むべき寛大さで許している。
私にはラジオがこの無秩序を拡大し、複雑にしつつあるように思われる。舞台監督たちの罪も、今となれば、放送作家諸君がしばしば犯す罪よりも軽いように見える。更にこの放送作家なる者は単に文学の傑作ばかりでなく、最も美しい音楽作品さえも攻撃したり、つぎはぎ細工にする上で、あらゆる便宜を持っているのである。
このごろの或る日のことだが、私はわれわれの地方局の一つがシューベルトの『美しき水車小屋の娘』を放送するということを偶然聞いた。ミュラーの詩にシューベルトが曲をつけたこの魅力ある歌の集を、ほかの国でと同様フランスで、知らない者、愛さない者があるだろうか。物語は素朴で、歌詞はかなり平凡な物だが、音楽家はこの小さな総譜の中へその天分のすべてを注ぎこんでいる。私のところでは家じゅうの者が『美しき水車小屋の娘』を楽しんでおり、われわれの思い出の飾りであるその歌詞を、好んで歌ったり口ずさんだりしているのである。そこで私は肱掛け椅子へすわりこみ、音楽の凾はこのボタンを調整した。そしてそれから、耳をそばだてた。
アナウンサーが簡単な解説をした。彼は―――さすがに恥じを知ってか――――これからわれわれの聴くものが脚色であることを言わなかったようだし、更にはそれが罪人の名を匿かくすことにもなった。しかし彼がオーケストラを云々し、何人かの演奏者の名を言ったので、私は不安な気持になりだした。
さて、劇は始まった。ああ、私の言っているのは若い恋人たちの劇ではない。それは拷問にかけられた傑作の劇である。
われわれが先ず聴いたのは一種の交響的な序曲のような物だったが、そこではシューベルトの主要なテーマの幾つかが、馬鹿にしたような仕方ですりつぶされたり、混ぜ合わされたりしていた。それから機械は、正真正銘の喜歌劇のスタイルで「話し言葉の対話」を吐き出した。最後に歌曲が現われたが、それは歌詞に応じて女声と男声とに振り分けられていた。
私はこんな暴行をその終るまで待ってはいられなかった。私は機械を黙らせた。
われわれは全くの混乱の中にいるのであり、それを理解するのは今である。すべての観念が――あえて形で描くとすれば――互いに押し合い、互いに足を踏みつけ合っている。範疇は食い合い、価値はめりこみ合い、言葉はこの雑沓のなかで意味も実質も失っている。そしてこういうのが時代の特徴であるが、われわれは自分たちのまだ愛しているすべての物の、差し迫った未来に関するさまざまな恐ろしい思いに襲われているために、時としてそれに加担しているようにも見えるのである。
しかし少なくともわれわれに避難の場所はある。われわれは、苦しみの時、われわれの真の宝であり、われわれを護まもり、われわれを慰め、人間の天才へのわれわれの信仰を一瞬間でも取り戻してくれる美しい作品を思い起こすことはできる。
その美だけではみずからを護るに充分でないこれら大家の美しい作品に、野蛮人どもが冒瀆の手をかけるのを防ぐ手段は全然ないのだろうか。もしもわれわれにして正しい処理を怠るならば、彼らはすべてを挽き肉やマーマレードや、濃厚スープにしてわれわれに供するだろう。結局は熱狂的で無知な人間か、何でも屋の不器用者にすぎないらしい混沌の職人たちが、われわれにとって生きることの正当な理由であるように思われるこの美の貯えを、粗悪な食い物に変えるためにその足で踏みにじることになるだろう。
4
このあいだの晩、私のところで、みんな美しい音楽を愛している幾人かの友人たちのためにアマティーの弦楽四重奏団が演奏をした。シューベルトの未完成の四重奏曲のほかに、モーツァルトの二つの四重奏曲と一つの五重奏曲(ヴィオラが二挺ある五重奏曲の初めのもの)とを含んでいたのだから、プログラムは貧弱とは言えなかった。われわれはこの豊富な栄養を完全な静かさのなかで味わった。そして「室内楽」という言葉が予想させる親密さとか友情の集まりとかいうものを、その日われわれは心楽しく実感したのだった。
私はこの素晴らしい音の贈り物をしてくれる完成された芸術家たちに心をこめて傾聴したのであるが、音楽はわれわれの内心でさまざまな取りとめもない考えを刺激するものだから、私は自分の記憶に聞いて、ここにその光を引き出してみるわけである。
音楽会で演奏される時であれ、劇場或いは教会で演奏される時であれ、私は大家たちの音楽を愛している。それは私にとってあらゆる精神の糧のなかでの最も願わしく、最も必要欠くべからざるものであり、最も隠れた要求に最もよく答えてくれるものである。私は室内楽にまったく特別な愛を持っている。室内楽は演奏会や劇場での音楽と同様に堂々としてもいるし高貴でもあるが、しかし一層親しみがあり、一層私の心に近い。それはわれわれの生きている家を神聖なものにしてくれる。われわれはこの王者のような訪問客を自分たちの日常生活の光のなかへ迎え入れる。するとこの生活がそれによって姿を変えるのである。
私には世間的な生活に没頭する時間はない。と言っても計画的なやり方でそれを避けているわけではない。私を驚かせたり失望させたりするのは、指導階級の、もっと正しく言えば有産階級の選良エリートと見なされている人々が、その楽しむことのできる贅沢というものについて、たいてい平凡な観念しか持ち合わせていないことである。私としては真の贅沢の本質的な要素のなかに、その第一列のものとして静寂と音楽とを置きたい。しかし静寂についてはこれまでにもたびたび述べたから触れないことにして、今日は聖なる音楽についてだけ考えることにしよう。私は音楽の専門家や、アマチュアや、それを職業としている人たちのところで、今までにも確かにたくさん音楽を聴いた。そしてそれを楽しむにも事欠かなかった。しかし友人たちを正しくもてなしたいと思っている人々が、なぜ彼らに音楽の美しい宴うたげをあまり捧げようとしないのかを、私は不思議に思っている。私はこういう祭式を実際に行なっている家庭の幾つかをたびたび訪れた。そういう家庭が稀だということは私も認める。しかしこれ以上気前のいい、これ以上純粋に鷹揚おうようなことがあるだろうか。友人をもてなしたいと思うブルジョワ階級は好んで彼らを食事に誘うし、またその出す物にも糸目をつけない。肉、酒、果物が食卓をふさいでいる。食事が終ると列席者はシガレッ卜に火をつけて、それからちょっとした楽しみのために客間へ引き取る。ブリッジをしない者たちは片隅へ陣どって、逃げ出す時間が来るまで勇敢に退屈しているほかはない。私は会話が好きである。しかしそれは行き当りばったりの仕方ではない。それには訓練がなくてはならず、しきたりやチャンスがなくてはならない。そこへゆくと音楽は、ただのお喋しゃべりに過ぎないような、見かけだけの会話からわれわれを救ってくれる。それはわれわれを偉大な魂たちの社会へ案内して、われわれ自身から解放してくれる。しかし私は世間的な長話に伴奏するラジオや蓄音機の、あの咽喉のどを鳴らすような音楽のことを言っているのではない。私の言うのは本当の音楽、沈黙を強しい、もっとも反抗的な性質の者にも沈思を強制する音楽であり、われわれの前で、われわれのために、その存在が敬意を要求するような肉体をそなえた人たちによって演奏される音楽である。
あらゆる時代に、指導階級の選良は、真の贅沢にたいして一種聰明な感覚を示した。彼らは悲しいかな、音楽家たちを常に敬意をもって遇しはしなかったが、その音楽家たちを雇用して生計の資と仕事との双方を与えることを知っていた。そこで私が率直に言いたいのは、近代のブルジョワ階級が彼らの義務のいくつかを欠いているということである。彼らは、画家という者が自分たちに対して確実な物質的利益をもたらす者でないと思いこむと、その画家たちを残酷にも放り出すのだった。音楽家に対してはどうしているだろう。内輪の祝宴の飾りとして彼らを招くかわりに、彼らが悲惨と悲哀のなかで亡びるのに任せていると見るのほかはないのである。晩餐のあとで弦楽四重奏の一曲を友人たちにささげる。それは単に鷹揚おうようなもてなしの行為であるだけでなく、社会の現状からすれば、同時に先見の明をそなえた人道的な行為でもある。
音楽への嗜好は堕落してしまったと言うべきだろうか。決してそんなことはない。それは満開の時季にいるのである。私は或る日それを「モーツァルト研究会」の演奏会へ行ってこの目で見た。そこではほかの作品と一緒に、モーツァルトが十五歳の頃に書いたみごとなミサ曲が演奏された。モーツァルトに一生を捧げたオクタヴ・ホンベルク夫人は、その事業が一つのすばらしい善行だったことを今はもう疑うまい。聴衆のあいだの何という熱狂だったろう! 何という燃えるような熱情だったろう! 同時に私は付け加えたい。舞台の上での、演奏者たちの間での、何という喜びだったろう! と。オルガンはその長い息で、永遠の息吹いぶきそのもののようにわれわれの上を通っていった。独唱者の一人は、自分をいたわるどころか、自分自身の喜びのために、合唱団と一緒に声をかぎりに歌っていた。第二ヴァイオリンの一人は、楽器と声の集団のなかで、私には姿を見なくても魂の音色そのもので彼だということがわかるような、そんなにも純な感激で歌っていた。そしてこの世界の喧騒の中でも、神は草の芽の一つ一つの呼びかけを聴きたまい認めたもうに違いないということを、この愛すべき見知らぬ魂は私に悟らせたのだった。
選良エリートという者がまだ存在している以上、彼らにその義務、その負担、その使命を思い出させることも、今ならばたぶんまだ遅すぎはしないだろう。
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われわれの祖父たちの時代には、オペラ座は人と会ったりお喋しゃべりをしたりする場所であったらしい。人はぺちゃくちゃ言ったり、くっくっと笑ったり、様子ぶったり、手に接吻したり、ひそひそ陰口をきいたりして、桟敷さじきから桟敷へとあらゆる種類の訪問をしたり、しかえしたりしたものである。しかもその間、歌い手たちは舞台の上で一生懸命にやっていた。つまり音楽の神秘は喧騒のなかで行なわれていたのである。列席者の一人が――私はあえて聴衆の一人とは言うまい――、自分は趣味を解する人間だということを示すかのように、何かコツンと音をさせた。「一分間ご注意を」と指を立てながらその男は言った、「かわいらしいタルタンピーニがカヴァティーナを歌うところです。これは天下一品です。」そこで人々は一分間耳をかたむけ、そしてそれからまたお喋りや無駄話にとりかかった。
こうした風習は、昔の物語作家がそのたくさんの描写をわれわれに残したし、一九〇〇年ごろの若い音楽好きの連中を大いに鵞かせたり眉をひそめさせたりしたものである。ワーグナーはいろいろな奇跡を行なったが、中でもお喋りを征服して、彼らに沈黙を強要するという奇跡を達成した。演奏会でと同様に歌劇場でも、野蛮人だと思われないためには、聴衆は好むと好まないとにかかわらず、よしんば知的な熱心家のふりはしなくても、少なくとも礼儀を重んじ、芸術家を敬い、芸術作品を尊重しなければならなかった。騒音の愛好者はいつでもカフェーなりサーカスなり、大衆ダンスーホールなりへ行くことができた。しかし音楽の寺院ではそういう人々は許されなかった。それは立派な勝利であったし、われわれはその勝利を決定的なものと考えるいくらかの理由を持っていた。
しかしどんな勝利にも決定的なものはない。私はこの間オペラ座を観に行った。シャンゼリゼーの劇場でもう一度やったその歌劇を観に行ったのである。上演されたのは『フィデリオ』だった。私はこの作品がその様式や構成の点から見て、今は亡びた或る社会の快楽や栄華を思い出させるものだということを認めたい。しかしそんなことはどうでもいい。これは巨匠の作であり、尊敬されているあらゆる大家の中での大家の作品である。それは驚くほどの美しさを持っている。それは批評精神を刺激する。それは自分の帝国に属さない種々の困難と取組んで、独創的というよりもむしろ一層輝かしい仕方で打ち勝った一人の天才をわれわれに示している。簡単に言えば、それは高慢な千の理由にたいして注意を促しているのである。しかもかなり前から、人はオペラヘ小さな私事を喋しゃべりに行くのではなく、立派な教養のある人間は歌手たちが歌っている間は静粛にしているべきだということになっているのだから、当然の傾聴を強く要求してもよかったのではなかろうか。
ところがどうだ。静粛と礼儀の治世がおそらくは終りに近づいていることを、私はいくらかの驚きと多くの悲しみとをもって知ったのだった。三つか四つの桟敷さじき席の客が演出のあいだずっと喋りつづけていた。そしてそれが余りに目立つやり方なので、二階正面桟敷にいる全部の観客は不快を感じずにはいられなかった。そしてこのお喋りを少しの間鎮まらせるためには、有名な『レオノーレの序曲』が――では第三幕と四幕との中間にこれを演奏する――必要だった。
わが家への帰り道に、私はこの啞然としたとしか言いようのない困った現象のことを考えた。すべての物が失われたり形を変えたりすること、最も思慮ある風習が偶然のなすがままになること、一吹きの風や、一つの気まぐれや、多かれ少なかれ愚かしい一つの流行や、運命の一つの転変に左右されること、それはわかっている。しかし演奏会や歌劇場での聴き方は、いかにも道理にかなった、深く根を下ろしているものだけに、それが破壊されたり廃止されたりするようなことはあるまいかと、自問せずにはいられなかったのである。
こうした無作法の攻勢的な復帰のなかに、私は気違いじみたラジオの影響も少しはあると思っている。音楽はもう荘重な喜びではなくなっている。月に一度か二度演奏会へ行った人は、何一つ聴き洩らすまいと耳を傾けたものである。彼は全身これ耳、これ魂だった。尊敬と礼儀正しさと、言うまでもなく興味とが、彼に静粛をすすめた。彼は実際に礼拝の儀式に加わったのである。それならばこの美しい焰はもう消えてしまったのだろうか。そう思うこともできるだろう。われわれは音楽に満腹している。われわれは、もっとよく言えば、音楽の代用品にうんざりさせられているラジオの聴取者は、少数の例外は別として、彼らの耳にそそぎこまれるものをもう全然聴いていない。彼らはあくびをしたり、爪の手入れをしたり、ブリッジをして遊んだり、長談義にふけったりしている。彼らは注意や熱中の感じを永久に失ってしまったのである。とりわけ、こういう言い方を許して貰えるなら「臨在プレザンス・レール」の感じ(1)を喪失してしまったのである。それで演奏会場にいる時でも、自分の家にいるように、どこでもと同じように、お喋りを始めるのである。
(1) 〔訳者註〕カトリック教で、聖餐の中にキリストの血と肉とがあることを信じることをあらわす言葉。
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私は主としてベートーヴェンの或る交響曲を聴かせるために、子供たちを土曜日の演奏会へ連れていった。
むかしは、立派な演奏会を楽しむためには、まず冬空の下で気持を引き立たせながら待つ、二時間というすばらしい時間を生きなければならなかった。今の私にはもうそんな美しい使い方をしていいだけの時間がない。しかし音楽を愛するほどの者が、弦楽器の弓の最初の一触れに間に合おうとして息を切らして駆けつけるなどは、罪悪だとふだんから思っている。恋愛の場合と同じように、私は瞑想を、序幕を、期待を、さまざまな事前の心象をもまた玩味するのである。
そこで、定刻前に着くと、われわれは音楽家たちが並ぶことになっている場所の真上へ席を占めた。観察にはいい場所だった。大きな管弦楽団が演奏している時には、目のための楽しみもあって、一種の儀式的な踊りとか、腕や指のバレーとかのように、見るだけの価値のあるものが具わっているのである。
こうして今われわれは自分たちの席にいる。注意力を集中しながら。真先まっさきに舞台へ出て来たファゴットの奏者がたった一人で、交響曲の或る箇所を愛をもって繰り返す。聴衆の面前でのこの練習は、おそらく申しぶんなく優美な所作とは言えないが、しかし心を動かすものではあり、人間的でもあって、要するに善い前兆である。待つこと十分、或いはたぶん十五分、とつぜん音楽家たちの潮うしおである。彼らは地下鉄から出てくる群集のように、早足で密集して入ってくる。一分間も無駄にはできず、また特にそのことをわれわれに隠そうという気持もないように。彼らは席に着くと急いで楽器の調子をあわせ、握手を加わし、何かちょっと気のなさそうな言葉をやりとりする。なお一人か二人おくれた者が来る。駆けて来たのかいくらか息を弾ませている。そしてとつぜん指揮者が現われる。聴衆が拍手する。
私は軽い不安を覚える。しかしいつものように感動し、心の準備もできている。容易には疲れたり飽きたりしない心の準備が。それにまた、人生での最も純な喜びへと感動をもって誘ってやったこの大きい子供たちに対する準備も。
こうして演奏会は始まった。ああ! 子供たちは満足だろう。彼らとしてみれば何一つ気づかわしいものはないのだから。彼らには新鮮な耳があり、一心不乱で素朴な精神がある。しかし私は? 私には何が起こっているのか。
そうだ、私は満足していないのである。最初の数小節から演奏がまずくいっていること、オーケストラが調子に乗っていないこと、一群の古い問題が火焔と毒とを回復しはじめたこと、ベートーヴェンが苦しみ、われわれも一緒になって苦しむだろうということがわかったのである。もちろん大したことはない。各楽器は大体自分たちの番には出ている。芸術家たちも大体ちゃんと演奏している。しかし彼らの間にはまだ街の空気が多すぎて、彼らがみな別々なことを考えているのが察知できる。これは交響曲ではなく、呑気のんきで向こう見ずな独奏の寄せ集めである。輪郭は貧弱でぼんやりといじけており、合奏はがなり立ててほとんど「議会のような」混乱を現出する。遵法じゅんぽうと服従の霊がまだこの陰影な群むれを訪れていないのである。それは今日訪れるだろうか。吹奏楽器のカチャカチャいう音がきこえる。金管楽器は出でを待ちながら、本当に退屈した様子をしている。彼らもいくぶんは恥を知っているとみえて新聞こそ読んでいないが、あえて言えば、気持的モラールマンには読んでいるのである。それならば指揮者はどうだろう。彼は指揮をしている。だが、彼は、気持的にはポケッ卜へ片手を挿しこみ、小楊枝こようじをつかい、鼻の孔へ指をつっこみ、最後に自分自身を茶化しているのだということを、どういうわけか知らないが、私は誓って断言したい。ほかに言いようがないのである。
年下の子供たち、彼らはすこぶる満足している。彼らは物をこんなふうに考える感嘆すべき年齢にいるのである。「もしもこうならば、こうよりほかはない!……… あの連中にはあの連中の思わくがあるのだ!……… 政府は考えたのだ…… みんな前からわかっていたことさ…… 貯えがあるんだ…… それは駆引きだよ…… 戦略的退却さ……」などと。そうだ、そうだ。心の底では彼ら無邪気な者たちはこう考えているのである、「美とはこういうものなのだ。」
そして演奏は続けられる。ほかの聴衆はどうだろう。彼らは全体として感嘆に値いする、楽観的な、信じ易く、熱心な人々である。彼らはその楽しみに一層の熱を与える拍手の機会を待っている。そして演奏は続けられる。あの善良なファゴット奏者―――自分の楽句を練習していた――はすばらしいことをやっている。彼はすれていない。彼は全身これ焰、全身これ愛である。彼は自分の旅をしているのだ。抱きしめてやりたくなる。演奏は続けられる。そしてことは少しずつ軌道に乗ってゆく。オーケストラが昔ながらのベートーヴェンと歯を噛み合わす。一小節は一小節と、音楽家たちは彼らの任務を、おそらくは彼らの熱情をとりもどす。演奏しているうちには欲が出てくる。そして交響曲が終る頃には、オーケストラ全体がいい温度に暖まったようである。これならば各種の近代作品に接しても相当にやって行けそうである。私はこれ以上を要求しない。
しかし実のところ、たとえ終りが良かったからと言って、始めの方まで私を慰めただろうとは言えない。ましてや無邪気な大衆の感動的な熱狂が、彼らに供された栄養の質の点で、一分間たりとも私を欺くことができたとは言えない。事柄を突きつめて行くと、この一夜の経験は私の中で論争の魔神を呼び覚ますことになるのである。
それならばこれらの音楽家は何だろうか。ああ! より抜きの芸術家、パリにいる連中の中で見出し得る最も優秀な芸術家たちである。そしてその指褌者は言うまでもなく教養があって、自分の仕事を心得ている人物である。そうだとすればどんな呪のろいが、われわれの祭を駄目にしてしまったのだろうか。
われわれの祭を駄目にするもの、それはこの祭が祭ではないからである。これは疲れた役人たちが催した行政上の集会なのである。彼らは楽しみを与えるという自分たちの任務を遂行する。彼らは、契約書の言葉で言えば、自分たち自身感動する義務はないのである。第一に、楽しみを味わうというのは疲れることだし、第二に、あまり度々それを味わうのは危険なことかも知れないからである。
私はしばしば機械音楽の非人間的な濫用を攻撃した。私はいつか「手でする」良い音楽、神聖な、純粋な音楽を批評したいと思っている。だが、どうかそれがいつまでも神聖であり純粋であってくれるように! 音楽はいつも私に祈りを想わせた。高貴な魂にとっては、悪く祈ったり、心のほんとうの高まりなしに祈るくらいなら、むしろ毎日祈りなんかしないほうがいいのである。神はけっして、彼にむかってもう話すことがなく、彼の前で新聞を反芻はんすうしながら居眠りをするような、そんな古い友達の一人になってしまってはいけないのである。
7
私は短かいが気持のいい旅をしてきた。北のほうの或る町で、「昔の楽器の会」と一緒にひと晩を過ごしに行ったのである。私はたっぷり一時間、まったく自分のがらになく、音楽への愛情を告白し、それがなかったらわれわれの生活がひどくみじめだろうと思われるこの芸術を称讃した。それがすむと音楽家たちが大変優雅にいろいろな奇跡をおこなった。その間私はステージを去り、申しぶんなく安らかな、要するにそれだけの価値のある楽しみを味わうためにホールの中の席に着いた。
その楽しみは、いうまでもなく私に授げられた。しかしそれは、われわれの現代社会がもがいている大きな無秩序と関係がなくはない色々の反省によって伴奏され、飾られ、支えられることになった。
私は昔の楽器を愛する。ヴィオルの一族はヴァイオリンの一族とは反対に女性で呼ばれている。それは音色の質から言うと、疑いもなくヴィオルのほうがヴァイオリンよりもつつましやかて控え目で、繊細だからである。そして正にこの理由のために、彼女らはこんにち王座を追われているのである。われわれの世紀は、音楽は喧騒よりも静謐せいひつの近くに生きるということを知っていないように思われる。量の多すぎるということはすべてのものを、オーケストラをさえも台なしにしかねない。いな、いな。本当の音楽、われわれに天体のハーモニーや永遠の至福のハーモニーを想わせる真の音楽は、きわめて僅かな音で刺繍ししゅうされた、惚れぼれするような静かさで出来ているのである。こういう理由から、私は多くのほかの楽器の中で、クァントン、ヴィオラ・ダモーレ、ヴィオラ・ダ・ガンバ、クラヴサンといったような、そのえも言えない音の流れがわれわれに貴族アリストクラシーの感情、今ではかなり稀なものになった本当の貴族の感情を与えるこれらの楽器を愛するのである。しかし煽動家デマゴーク諸君のために急いで付け加えておくが、ここで言う貴族とは魂の貴族の意味である。音楽会場には、すでに述べたかも知れないが、学生もいれば駐屯部隊の兵隊もい、その他町の人たちがたくさんいた。彼らは瞑想と深い喜びとをもって耳を傾けていた。つまり私の言う貴族の仲間だったわけである。
聴くだけで充分だったが、それに満足しないで、私はカザドシュス家の人たちをうっとりと眺め、楽器の一族に見とれると同時にこの人間の一族にも見とれた。画面でのように、聖体拝受に好都合な配列の仕方で並んだこの小さい一団に見とれたわけである。彼らは一緒に大きくなった。彼らは常に一緒に演奏をしてきた。彼らは生の本能によって、また遺伝的でさえある本能によって互いに理解し合っている。ほんのちょっとした目の合図、ちょっとした息づかい、口にも言えない意志のわずかな動きで、とっさに彼らはスタートする。あたかも大空へ飛び立つ鳥のように。これこそ耳の楽しみ、目の楽しみである。
そして突然、知性の楽しみが一つの真理を発見する。
ヴィオル族の楽器は、いろいろな仕掛けの上で彼らの男性の同胞たちと違っている。クァントンには五本の弦がある。ヴィオラ・ダ・ガンバには(これはチェロのように両脚の間へ保持するのでこういう名がつけられたのだが)六本の弦がある。そしてヴィオラ・ダ・モーレには、程々の多音的な組合わせが出来るようになっている十四本の弦がある。それぞれの楽器の形にもまた特徴がある。クァントンはヴァイオリンよりも短かく、ヴィオラ・ダ・ガンバはチェロよりも短かい。しかし一般的な原理はどれも同じで、大体の形はヴァイオリンのそれ、すなわち音楽の表象シンボルの形をしている。このシンボルは蓄音機や、騒音を出す機械や、ルーレットの笛や、その他さまざまの拷問道具がはびこっている現在にもかかわらず、不滅なものと考えることができる。
私は数世紀以来ごく僅かしか変っていないこれらの楽器を眺めた。私は敬意をもって彼らを眺めた。そして感謝したい気持になった。つまり彼らが私の目に対して代表しているものや、彼らに宿っている精神に感謝したくなったのである。
私は時どき大胆な建築家たちに出会うことがある。彼らは窓のない家や、踏み段のない階段や、土台のない壁や、つまり「ヌーヴォー式」、人が新しい手法と呼んでいるものを造ることを夢みている。私は幻想にかがやく医者たちに出会うことがある。彼らは電話による外科医術というような突飛なことを考えている。私は無鉄法な政治家たちに出会うことがある。彼らは全面的に新しい仕方で世界を建て直すために、世界全体を叩きこわすことを執拗に空想している。私はこういう人たちすべてに言いたい。「みんなと同じように私も新しい物が好きだ。では諸君も新しい仕事をするがいい。しかし時にはヴィオルかヴァイオリンを見に行くがいい。そして工業が――その中のごく少数のものは行き過ぎているように見えると言える近代工業が――この尊敬すべき楽器に、細部は別として、どこといって修正する手段を見出せなかった事実を考えてみるがいい。このことは、気違い沙汰がいやならば、世の中からその優秀さを認められた物はこれを保存すべきであり、たとえ修正するとしても慎重を期さなげればならないことを意味するのである。そのほかのことは諸君に任せる」と。
8
いや、いや! もう音楽はたくさんだ! 人が世界の全表面で旅行者にたいして措しまず与えるあの音楽、もっと悪いことには、無理やりに押しつけるあのみじめな音楽はたくさんだ! と私は言いたい。私は機械音楽のことを言っているのではない。それに対してその場その場で経験する恨うらみをすべてまだ言いつくしたわけではないが。私の言うのは、もっといい条件の下でならばちゃんとした音楽家になれたかも知れない一人前の人間を動員して作った、あのホテルの中や船の上での出来合いの貧弱な物音のことである。
「なんじ何を聴くかとわれに言え。さらばわれなんじの何者なるかをなんじに告げん(1)。」水に浮かんだ宮殿や陸上の宮殿で見うけるあの人たち。彼らは胃の腑ふや臀しりのことになると、最も上等なキャヴィアや、いちばんふっくりした肱掛け椅子を要求する。彼らは耳のことになると、甘ったるい、胸の悪くなるような、破廉恥な、要するに俗悪なごたまぜ物を尊大な顔つきで吸収している。
私の第一の不満は、人が時と所をわきまえないことである。食うということは小さな事柄ではない。私は人が食いながら話をすることに同意する。それは一つの古い慣習だから。しかしその上私にオーケストラを聴けと強しいてはいけない。もしもそのオーケストラのやる物がいい物だったら、私は即座に冒瀆だと叫ぼう。いったい小鹿のヒレ肉とヘンデルの『ラールゴ』との間にどんな関係があるというのか。またもしもその音楽が凡庸なものだったら、私はお慈悲をねがって静かに食わせていただこう。
私の第二の不満は、いたるところで見られるように、贅沢な場所でのお客の、信じられない程の趣味の欠乏に関してである。大きな船や豪華なレストゥランのお客というものは、耳が堕落しているので、もっぱら抜萃曲や、モザイク曲や、きたない言葉を使えば、混成曲ぽぷり(2)で養われなければならない。
疑いもなく、私はそこに時代の症状を見るのである。贅沢な客というものは、原則として、努力をしないものと考えられている。或るソナタを全部聴く? なんという精力消耗の体操だろう! ベートーヴェンの序曲や、シューベルトの三重奏曲や、モーツァルトの四重奏曲を楽しむこと、そんなことは唯美主義者の喜びである。一等の旅客は、音に関しては軽い食い物を要求する。ウィーンお得意の曲の中の最も有名なワルツからあちこちと引っこ抜いた幾小節とか、『リップ』か『コルヌヴィールの鐘』からかいつまみに縫ったぼろきれとか、『白馬』のかけらとか、『カルメン』の屑とかいう物を。しかしこんな食い物でも、よく考えてみれば、そこに何か纏まとまりのようなものはある。ところが驚いたことに旅行者は、ワーグナーやセザール・フランクがタルタンピオンやバルナベの間で時どき小さな役を演じているのを、大概の場合その耳で受けとるのである。卓抜な綜合だ!
或る時、非常に大きな或る町で、私はそこの音楽家たちに会いに行った。そして一種の実験、絶望の実験をしてみるつもりで、行き当りばったりにヨーハン・セバスチアン・バッハの名を口にした。彼らはひどく愛想よく、自分たちの楽譜の中にバッハという名の「混成曲ポプリ」があると即答した。
私はフランスの船の上で本当の音楽に接したことがある。ところがそれはまやかしで内緒事のような演奏だった。音楽家たちはこんな弁解をした。「お解りでもございましょうが」と、その中の一人がまじめな悲しみをたたえて私に言った、「お解りでもございましょうが、もしもご註文のハ短調のトリオをわれわれが演奏致しますと、苦情が出ますでしょう。お客様方はあの曲をお好きになりませんです。」
お客たちがこれを好かないというのは本当だろうか。私にはどうも確信がない。私としてはこの眠そうな客たちが、彼らの奉仕者である音楽家の連中から、実際以上に馬鹿で無教養な人間のように思われているのではないかと思うし、またそう思いたい。もう少し大胆にやってのけたらいいのだろうに……
いや、駄目だ。何もできはしないのだ。「なんじ何を聴くかをわれに言え。さらばわれなんじの何者なるかをなんじに告げん」…… これは面白い洒落しゃれである。お客は何も聴きはしないし、その上何も聴こえてはいないのだ。彼らは豪奢なホテルや船の音楽を、避けることのできないみじめなもの、ともかくも金を払って買ったみじめさ、それに対して権利のある贅沢のみじめさとして諦めている。食い物でも、飲み物でも、テーブル掛でも、花でも、葉巻でも、すべて何でも無駄使いしている以上、音だって無駄使いしなければならないし、こんな全面的な放逸のなかでは、音楽だけを生贄いけにえに捧げないでおくわけにはいかないことを、旅行者自身よく理解しているのである。
人の好い旅行者はたぶん心中こんなことを考えるだろう、「音楽をちょっぴり。それは愉快だ」と。しかし私は不賛成だ。私にとってはそんな音楽は死の音楽に、また日によっては葬いの音楽に聴こえるのである。
「もしも音楽が恋の糧かてなら、もう一度始めるがいい」と、『十二夜(3)』の初めのところでオルシーノ公爵は言っている。もしも音楽が恋の糧なら、大ホテルの客たちは、異彩を放つ恋人らのようにふるまうべきだと私は思う。なぜならば、音楽は彼らに値切られたのではないから。
私はここに、甚だまじめに、すべての芸術の中でも褒めたたえるべきこの芸術の濫用に反対する連盟を作ることを提案する。われわれは文部省に――少なくともフランスから始めたいい――混成曲ポプリの作曲とその演奏や、傑作の汚瀆おとくや、音楽的な楽しみと栄養摂取の活動との混同を禁じた法令を要求しよう。これは当然、もっとずっと内容豊富な計画の予備的な条項にすぎないだろう。そして音楽をいつくしむわれわれすべては、われらの信仰宣言の中で大いに遠く行かなければならないのだから、標語として次の一句を採用したいと思う。「何よりもまず静かさを!」
(1) 〔訳者註〕「なんじ誰と交わるかをわれに言え。さらばわれなんじの何者なるかをなんじに告げん」という諺のパロディー。
(2) 〔訳者註〕Pot-pourri. 腐った鍋物、ごった煮。
(3) 〔訳者註〕シェイクスピアの劇。原文では la Nuit des Roisとなっている。
9
君がわれわれを去ってからもう二月ふたつきになる。ドワイヤン、老いたる兄弟のような友よ。私は今夜君を呼び出したい。この熱烈な会衆、君の仕事への讃美と、君の人間への思い出との中でしっかりと結び合ったこの愛情に満ちた会衆のまんなかへ、われわれの間へ、今夜君に現われてもらうために。
何よりもまず人である。われわれはどうしてその人を忘れ得ようか。君は背が高くなかった。わが友よ。威信は君の体からは発しなかった。しかし魂から発した。他の多くの人々の視線に出あうために、君の視線は上がらなければならなかった。その不思議な、霧のかかったような視線、夢と精神性とに満ちみちたまなざしが、なんと昂然と上がったことだろう! 私がもう一度その燃えるのを見たいと思えば、それを思い出すだけで充分だ。何かに感動すると血液の露に被われる柔かで強いそのまなざし、常に待ち求めているようだったそのまなざしを。
わが友よ。私はここで自分の述べている言葉を慎重に吟味する。自分の失った者らの生きている影の国から、あたかも魔法のように君を引きいだそうとする言葉を。そうだ。私はそれを言う。私はそれを知っているから。君の眼はたえず何かを求めていた。それは同意を求めていた。それは信頼を、友情を、愛を求めていた。信頼や愛は誰でもこれを要求する。しかし君の要求はほかの誰のよりも切実だった。ではなぜだろう。私はそれを言おうと思う。
そのわけは、まず第一に、君が誰にもまして苦しむことに熱烈だったからだ。君はわれわれの間で半世紀を生きた。それは短かくもあるが、また長くもある。そうだ。それは君のように防禦の悪い魂にとっては長かったと言える。君は闘うことを一度も断念しないで生きた。そしてそれが君の非常な長所でもあった。なぜかといえばすべてのものが君を傷つけ得たし、また事実傷つけもしたのだ。おお、人間の中での最も感じやすい人間、おお、無防備のわが友よ! 君のそばで生きていた人たちは皆、その点で何かしらを知っているはずだ。君は愛にたいして実に大きな渇望を持っていたが、常にそれに飢え、夢中になり、しかもついに満たされることがなかったらしい。誠実に君を愛した人たちも、彼らの最も大きな善意に反して、君を傷つけずにすむという確信は持てなかった。なぜかといえば、君の夢は人間を求め、人間をとおして人間の背後に、人間よりももう少し遠いものを求めていたから。
同意へのこの熱情の、その根源を私は早くも理解した。君には他人の愛が必要だったのだ。或る大きな仕事の達成に君は努力していたし、心の中に一つの大きな野心を持って生きていたのだから。
野心には幾つかの顔がある。君の野心はきわめてけだかい顔を持っていた。私がそれに敬意を表するのもそのためだ。多くの芸術家たちが慎重な交わりの中でその才能と共に生きている時、君は、君ドワイヤンは、全民衆に歌を歌わせることを望んだ。彼らは歌った。彼らは歌っている。彼らはなお長いあいだ歌うだろう。それを君の魂がどんなに喜んでいることか! 多くの芸術家らが小さな器用な作品で成功を願っている時、とうとう、最高の野心よ、君は勇ましい大作品の幾つかをゆっくりと築き上げたのだ。
なんという実例だろう、ドワイヤンよ! 世界の今のこの時に、なんという教訓だろう! 私はこの実例を、われわれの間で君の偉大な声が鳴り響くこの今夜、それを聴いているわれわれの子供らに、私の息子たちに、私の甥おいたちに、私の若い友人のすべての者に、運命の敷居の際に現われたすべての人々に、示したい。私は君の実例を彼らに示し、われわれにとってはこの唯一つの仕方こそ、それがわれわれに与えられている間に、この神秘な、不可解な生命を正当化する道であり、またそれこそ、花々しい熱情と労力とでそれを満たす道だということを理解させたい。別の仕方では生きることにならない。そして君は、ドワイヤンよ、君はそれを知っていたのだ。
10 ヨーハン・セバスチアンの没後二百周年のための感謝の言葉
私は彼が常に自分のそばにいる者、生きている誰とも同じように現実の者、そしてしばしばそれ以上に現実性をそなえた自分の生活の道連れであると言いたい。私は彼を自分の道案内、自分の友だと言いたい。彼は私のうける試練の苦くを軽減し、私の暗黒に光を投げ、私のもっとも秘密な思念に回答を与える者であり、私がこの不可解な世界の影と幻覚のなかを手さぐりしつつ進んでいる時、私を勇気づけたり、願いをかなえたりしてくれる者である。
私の全生涯の道連れ? いや、あいにくそうではない。彼は私の生まれた時にはもう存在しなかった。後になって、私の息子たちや孫たちの生まれた時にもそうだったように。彼はその生き生きとしたリズムで私の少年時代を発奮させるということがなかった。私の両親は、彼ら自身その知的向上の最初の段階であくせくしていたので、音楽の巨匠たちに対する知識へとわれわれを導くことはできなかった。ヨーハン・セバスチアン・バッハは、私の二十歳を征服した人の一人である。そして音楽の宇宙の中をやみくもに探しているうちに、一つの世界、バッハの世界、すばらしく創造的な精神、あえて言えば驚くほど「建築家的な」精神を私が発見したのも、ちょうどその頃である。バッハの精神、結局一つの人間的な魂であり人間的な心情であるものの愛の徳は、私にとって涸れることのない泉であったし、今もなおそうである。
こんなふうに敬意を表しながらも、私の知的な実際的な生活のなかで、ヨーハン・セバスチアンが、さっそく今日のような選ばれた席を占めたと人に信じこませていいものだろうか。いや、けっして。当時の私は自分に美しいと見えるものならば何でも愛した。しかし大音楽家たちの万神殿パンテオンは、私の熱情のための供物台くもつだいをけっして充分には持たないだろうと思われた。私は自分の恩人として、すべて自分に何かをもたらす人、何事かを教える人、自分の喜びや希望や過ちや苦しみに、反響を、こだまを与えてくれる人たちを認めたのである。
こうして長い幾年を、私は音楽に養われ、音楽に酔って生きた。それから骨の折れた上昇のおかげで一日一日を少し遠くから見ることができるようになると、色々な奇跡の協力を自分らしいやり方で整理した。讃嘆に値いする人というものは常にいるものである。そしてそういう人々の中の誰かが、時や要求にしたがって、或いは証人として、或いは援助者として呼び出される。しかしヨーハン・セバスチアン・バッハが、私の成熟した年齢における選ばれた道連れが、私の旅路の最後の試練の時に、私を見捨てはしないだろうということを今は知っている。
彼はこの不安な世紀の初めごろすでに私のそばにいた。その頃私は多くの信頼と多くの善意とで、自分に対して幸福を試験していたのだった。音楽家たちの親しい声が――その中の或るものは消え去ったが――私の家に鳴りひびいた。それはカンタータと讃美歌カンティックの時、誠実さの失われない純粋なメロディーの時だった。なぜならばヨーハン・セバスチアンには、倦怠の惧おそれあるものが一つもないからである。カンタータとカンディックとは、第一次世界戦争の労役と苦悩との中でも私に伴奏した。ついで宝はふえていった。私は音楽家たちにも出会った。私は休息の時間のおかげで独奏ヴァイオリンのためのソナタや、ピアノとヴァイオリンのためのソナタや数々の協奏曲を知るようになった。なお少したって、自分自身或る楽器を奏することを覚えたので、私はわが巨匠の敷居をおどりこえた。すなわちフルートのためのソナタや、その中でフルートとヴァイオリンがピアノと共に歌いつづける、あの有名なブランデンブルク・コンチェルトをやりはじめた。
ああ! われわれアマチュアは皆ひどく臆病だった。とはいえ熱意に溢れたアマチュアだった。われわれを押し流したいろいろな事件は、永久にわが巨匠の音楽で刻印を捺おされている。『イ長調のソナタ』の或る楽句は、致命傷を負った一兵卒のまなざしを影の中から浮かび上がらせる。また別の或る楽句は、私の精神に、砲撃の響きに支配され包まれたものとしてしか浮かばない。そして『聖霊降臨祭パントコートのカンタータ』を歌うと、平和を告げる希望の波によってもう一度高められたような気がするのである。
そのぶるぶる震える、おびやかされた平和の二十年間、われわれ、私の家族と私には、家にある音楽の蔵書の中を手当り次第にあさり廻る時間があった。そしてバッハがわれわれにその全光輝をまとって現われたのはその時だった。そういうものをわれわれが時に拙つたないやり方で演奏したとしても、どうか老いたる合唱長カントールが大目に見てくれるように。彼はわれわれの愛を疑うことはできなかったであろうし、むしろいくらかの父らしい助言を与えてくれたであろう。
バッハの作品は魂のどんな動き、どんな状態にも答え得るほど壮麗で多岐にわたっている。それ故その作品はわれわれの感情や欲望や願いと共に、われわれを受け容れたりもてなしたりすることができる。それはバイロイトの大家の音楽のように独裁的ではない。それは弱かったり、ためらっていたり、何かに思いわずらっていたり、途方に暮れたりしているわれわれを、そのあるがままの姿でとらえて、彼との対話に誘ってくれる。もしも一言で、ただの一言でこの音楽を評せよと言われたら、私はそれを寛容の音楽だと言うだろう。
ヨーハン・セバスチアンの作品をよく知らない多くの人々は、その中に驚くばかりな構成、音楽的代数学の熟達した練習をしか見ない。そういう人たちに私は言いたい。「もっとよく探してみたまえ。そうしたら諸君はわれわれの大家の作品の中にあらゆる物を見いだすだろう。愛情も、諷刺も、諧謔かいぎゃくも、さらに陽気なもの、官能的なもの、親切な心ばえをさえ見いだすだろう。最後に、そして特に、もっとも悲愴な人間的苦悩を見いだすだろう」と。私は驚きと、ついで感謝の念とをもって思い出すのだが、カンタータ『おお、優しき日』を初めてやってみながら、ヴァイオリンとオーボエ・ダモーレの伴奏で歌われるあの悲痛な「ロマンス」を私は発見したのだった。何年かたった今でも、自分が疲労と苦悩の絶頂にいるように感じる時、第一番に深淵から立ちのぼって来るのは常にあの旋律である。
われわれは第二次世界戦争が、あらゆる音楽家の中から、われわれによって生きることの巨匠、苦しむことの巨匠として選び出された人への感謝に、なお何か付け加え得るだろうとは予想さえもしなかった。ところがあの不幸な事件の初めから、われわれ、私の家族と私とは、バッハが永久に自分たちの避難所となり、自分たちの内密な生の片隅となるだろうということをはっきりと理解したのだった。
私の子供たちは、従兄弟いとこや友人たちと一緒に音楽をやったり合唱をしたりするために、毎週一回、夜、集まるならわしになっていた。彼らは早くもこの物優しい時間、この救いの時間を、宗教的な音楽に捧げた。助力を乞う声に多くの大家たちが現われた。バッハがじきに覇権をにぎってこの練習を指導した。偉大な『ニ長調のマニフィカート』、『クリスマス・カンタータ』、『クリスマス・オラトリオ』、『ロ短調のミサ』――おお、どうか熱情が野心を大目に見てくれるように――そうだ。ほんとうに『ロ短調のミサ』だったのだ…… ともかくもこういう幾つかの作品が、あの劇的な時間に、われわれの若者たちが高揚と救済とを求めた対象だった。そしてわれわれは胸を締めつけられる思いでこれらの美しいけだかい顔顔、この興奮した小さいグループを眺めるのだった。その中へ、やがて死が、血迷った憤怒で平手打ちを食わしには来たが。
平和がまた帰って来た。不安らしく、幽霊のように。ヨーハン・セバスチアン・バッハはわれわれの間に残っていた。彼は最近私の息子たちの結婚式に出席したが、今では孫たちの開花に気を配ってくれているかも知れない。
私は自分たちの美しくて脆もろい文明を讃えるために、世界を遍歴することをまたはじめた。陸上に、海上に、空中に、私はこの親しい崇高な音楽、かつて一度たりとも欠かしたことのない、事に応じて見いだすことのできるこの音楽を携えて行くのである。
生涯の伴侶と共に遠い国へ出発するような時、何か月ものあいだ自分の炉辺ろへんを留守にするような時、私は子供たちに頼んで、彼らがわれわれの帰宅を待っている間に、私が自分の宝の中から選んだ合唱曲を、私が家族の者たちや自分の家と再会した時の褒美ほうびとなるような合唱曲を一つ練習しておいてもらう。
それで、一九四七年に南アメリカへ出発する時、私は息子たちに、帰って来たら皆が『復活祭のカンタータ』を演奏し歌うのを聴く喜びを味わいたいものだと言った。それから私は旅に出た。そして約三か月の間、自分に託された使信メッセージを注意ぶかく届けるために全力をつくした。或る日われわれは今度の旅の終点へ着いた。われわれはなすべきことをすべてしおえて、チリーのサンティアゴにいたのである。われわれは正午に、ブエノス・アイレス、リオ、ダカールを経由してフランスヘ行く飛行機をつかまえに行った。
その日は日曜日だった。正午近く、われわれは飛行機が遅れたことと、十中八九夕方までは出発できないだろうということを知らされた。
するとわれわれを取卷いていた善良な友人たちが言った、「皆さんは待っている間にじりじりなすったりお疲れになったりする必要はありません。ここからふた足ばかりのところでもちょうど演奏会をやっていて、そのプログラムがまた素晴らしいのです。合唱もあるようです。われわれが席をさがします。さあ皆さん、ご一緒に音楽を聰きに行きましょう。」
まったく、これ以上いい方法はなかった。そこでわれわれは劇場のホールへ入って行った。演奏会はバッハの或る比較的小さい作品ではじまった。そのあと、プログラムによると、或る番号のついたカンタータを聴くことになっていた。私はその番号に注意を払わなかった。バッハのカンタータはたくさんあって、その数三百以上にものぼっている。私が喜びを味わうことは確かだった。しかし、オーケストラと合唱とが沈黙を破って、音楽の最初の数小節が自分のほうへ押し寄せて来るのを聴いた時の私の驚きを何と言おう。それは『復活祭のカンタータ』、私が帰宅した時のためにと言って子供たちに準備を頼んでおいた、まさにそのカンタータだった。この作品の題材はキリストの死だと言われている。人は楽譜全体が感嘆すべきただ一つの楽句の上に休らっていること、その楽句の発展から成っていることを知っている。そして今や一つのカンタータが、何百というカンタータの中からチリーの音楽家たちによって選び出されたのである。しかもそれが私のあんなにも熱心に聴きたく思っていたちょうどそれであり、自分の努力への報酬として望んだそれだったのである。涙が、影のなかで、私の顔を流れた。
もしも家族の者に取卷かれての死が与えられるなら、バッハの思想が私と共に、私の周囲に、私の上にあるようにと祈る。その時、『聖ヨハネによる受難曲』の最後の合唱を聴くことが、私にとってさぞや心楽しいことだろう。この合唱はいつでも私に漫々たる波を、世代から世代へと幾世紀の夜をとおしてキリスト教の思想を遠くはこぶ、深い深い人間の波を想わせたのである。
もしも私か故国から遠く、わけてもわが家を遠く、愛する者たちからもまた遠い所で斃たおれなければならなかったら、ヨーハン・セバスチアンが私の憩いのために、悟りのために、解脱げだつのために、救いのために作曲してくれたあのけだかい歌、もう永久に見分けもつかないほどよく、またそれほど遠い以前から私の思いに混じりこんで来たあの歌、誰でもが歌い、誰でもが歌うだろうあの歌、そしてしかもなお、ヨーハン・セバスチアンと私との間の秘密であるあの歌を、ただ一人で、声もなく、少なくとも心の奥所おくがで歌う力を与えられたい。
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