《一》
ベルリオ程知られて居ない音樂家は無いと云つたならば、それは僻論の樣に聽こえるかも知れぬ。世界は彼を知つて居ると思つて居る。騷がしい評判は彼の人間と製作とを取卷いて居る。音樂好きの歐羅巴は彼の百年祭を行つた。獨逸は彼の天才を育て上げ、形作つたと云ふ事でその名譽を佛蘭西と爭った。露西亞は(1)、――巴里の冷淡と敵視とに對して、その熱切な歡迎で彼を慰めたのであるが――其のバラキレフの言葉を通して斯う云つた。彼は「佛蘭西の持つた唯一人の音樂家である。」と。彼の首要な作曲は屢々音樂會で演奏された。そしてその中の或るものは、智識階級と群衆との、どつちの心にも訴へる樣な稀有な資質を持つて居た。少數の作曲は非常な流行とさへなる樣になつた。多くの製作は彼に獻げられ、彼自身は又多數の文學者によつて書かれ、批評された。彼はその顏によつてすら知りつくされて居る。何となれば彼の顏はその音樂と同樣に、一目して彼の性格を示す程目立つて、單純であつたから。如何なる雲翳も彼の心とその創造物とを覆ふては居ない。それはワグネルのそれと違つて理解する爲めに手引を要さぬ處のものである。それは如何なるかくれた意味も、微妙な神秘をも臓して居ないかの樣に見える。人は直ちに其等の友でなければ敵である。最初の印象が最後のものだからである。
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(1)「そして予を助けた處の爾ロシア……」(ベルリオ著。Mèmoires メモアル,II, 353, Calmann-Lévy出版。1897) |
それが一番いけない事なのである。人々はたつた少し許りの努力でベルリオを理解できると思ひ込んで居る。意味の不明であると云ふ事は、うはべだけの明瞭さ程、藝術家の心を傷けはしないかも知れぬ。霧の中に包まれ居ると云ふ事は、永い間誤解されて居ると云ふ意味になるかも知れぬ。併し眞に理解しようとする人々は、少くとも彼等の眞理の探求に於て根本的でなければならない。明徹な構圖と、力强い相反との製作の内に、如何に深さと複雜さとが存在するものであるかと云ふ事が實感されたのは、そう始終でなかつた。――レンブラントの惱める心や、北國の微光の内にも、それと同樣にかの文藝復興期に於ける或る偉大なる伊太利人の赫耀たる天才の内にも。 |
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それは第一の陷坑である。併し其處には吾人がベルリオを理解しようと企てる時、それを妨げる多くのものがある。彼自身に達せんがためには、人々はその先入觀念と衒氣の、因襲と物語り振りの障壁を壊してかゝらなければならない。早く云へば、若し半世紀に亘つて積もつた塵埃の中からそれを救ひ出さうと欲するならば、人々は彼の製作に關する殆んど全ての時流的概念を振ひ落して終はなければならないのである。
殊に、ベルリオを以てワグネルに對照せしめるの誤りをしてはならない。かの獨逸的オーディンのためにベルリオを犠牲にしたり、無理にも一を他に一致せしめやうと試みるが如き誤りを。何となれば其處にはワグネルの理論の名の下に、ベルリオを葬つてしまはふとする人々があるかと思へば、一方には犠牲とする事を好まぬ代りに、その使命が彼自身よりも一層偉大なる天才のために、路を浄め、下ごしらへをする事にあるワグネルの先驅者、或は一の兄のやうな者にしてしまはふとする人々があるからである。是よりひどい間違ひは無い。ベルリオを理解するにはバイロイトの催眠術的心醉を振り捨てゝしまはなければ駄目である。假令、ワグネルが何ものかをベルリオから學び得た事があつたとしても、此の二人の作曲家は何等共通する點を持つては居ないのである。彼等の天才と藝術とは絶對に相反して居た。互ひは各々異つた野にその畦を耕して居たのである。
古典的の謬見は明かに危險である。予が斯く云ふ意味は、今も尚批評家の間に勢力ある過去の迷信への戀着と、藝術を狹隘な範疇に押し込めやうとする衒學的慾望の事である。誰か斯くの如き音樂の檢閲官に出會はない者があつたであらうか。彼等は勿體振つた慇懃さを以て、音樂はどの位まで進歩するだらうとか、何處まで行つたら停止しなければならないとか、そして何々は表現してもいゝとか、何々は表現してはならない等と云ふ事を諸君に語るであらう。そう云ふ彼等自身はいつでも、音樂家ではないのである。併し彼等がそれの何なのだ? 彼等は過去の標本に倚りかゝつて居るのではないか。過去! 一握りの制作こそ彼等自身が辛うじて理解し得る處のものなのである。其の間にも音樂は際限のない發達を以て彼等の規定を反駁しつゝ、その脆弱な防壁を破壊して行く。併し彼等はそれを見る事をしない。見る事を欲しないのである。つまり彼等は彼等自身を進ませられないのである。進歩を拒絶するのである。斯かる種類の批評家は、戯曲的で描寫的なベルリオのスインフオニーには厚意を持たない。彼等は十九世紀に於ける大膽極まる音樂的偉業に對して、抑も如何なる評價を試みやうとするのであらうか。その活働の停止した後にのみ理解する事の出來る、是等醜怪なる衒學者等や、熱心なる藝術の破壊者等は、自由なる天才の最惡の敵である。そして其の害惡は、無知な群集の全軍よりも一層甚だしいかも知れぬ。何となれば、音樂的教育の貧弱なる事吾人の生國の如き處にあつては、有力な、併し僅かに半理解に過ぎない因襲の前にあって、その怯懦は非常なものだからである。そして大膽にも其の因襲を突破しやうとする者は何人も審判なしに罪の宣告を受ける。若しベルリオにして彼が呼んで「デルフイの託宣」、ゲルマニア・アルマ・バレンス(慈母なる獨逸(1))と云つた古典音樂の國獨逸の中に、その味方を見出さなかつたならば、佛蘭西に於ける古典音樂愛好者等から、彼が何等の尊敬をも受けなくは無かつたと予は危ぶむ。若い獨逸派の或る者はベルリオの内の靈感に打たれた。彼の創作にかゝるドラマテイツク・スインフオニーはリストによつて獨逸的形式となつて擴がつた。最も名聲ある獨逸現代の作曲家リヒアルト・シュトラウスは彼の感化を受けた。そして、シャルル・マレールブと共にベルリオの全集を編纂したフヱリツクス・ワインガートナーは大膽にも斯う書いた。「ワグネルとリストが居たにも拘らず、若しベルリオが居なかつたならば、吾人は吾人が今在る塲處には居ないであらう。」と。此の傳統の國からの思ひがけない援助は、古典因襲の徙黨を混亂の中に投げ込んだ。そしてベルリオの知己を昂奮させた。
併し茲に新らしい危險は起る。佛蘭西に比して一層音樂的な獨逸が、佛蘭西に先立つてベルリオの音樂の壯大と獨創とを認めた事は自然であるとしても、その本質に於てかくも佛蘭西的な魂を、獨逸的性質が如何なる點まで充分に理解し得たかは疑問である。獨逸人の鑑賞したものは或はベルリオの外觀であり、その積極的な獨創であつたかも知れぬ。彼等は「ロメオ」よりも寧ろ「鎭魂曲ルキヱム」を採る。リヒアルト・シュトラウスの如きは「リア王の序曲」の樣な殆んど數にも足らぬ作に感動した。かのワインガートナーは「サンフォニー、フアンタステイク」や「ハロルド」の如きものを注目すべしとして抜擢し、その位置を大げさに説いた。併し彼等はベルリオの奥底のものは感じなかつたのである。ワグネルはウヱーベルの墓の上に斯う書いた。「英吉利は卿を理解し、佛蘭西は卿を讃美せり。されど獨逸こそは卿を愛す。卿は彼女の自體にして彼女の生涯の光輝ある一日、彼女の血の溫かき滴りにして彼女の心臓の一部なり。………」と。吾人は此の言葉をベルリオに適用する事が出來る。獨逸人のベルリオを眞に愛せんとする事の困難の程度は、佛蘭西人のワグネル、ウヱーベル等を愛せんとする事のそれに等しい。斯くて吾人がベルリオに對する獨逸の見解を卒直に受け容れる事は注意に價する事である。何となれば、其處には新たなる誤解が横はるからである。諸君はベルリオの追随者と反對者との双方が、如何に吾人の眞理への到達の途を遮るかを知るであらう。彼等を放逐しやうではないか。
吾人は、𣪘に困難の終りに到達したのであらうか。否。ベルリオは人間の最も幻想的なものであり、彼程自己に對する人々の親愛に向つて彼等を惑はす手助けをした者はなかつた。吾人は彼が如何に多くを音樂及び彼自身の生活に就て書き記し、そして如何に其の奇智と理解とを彼の抜目なき批評及び美しい「メモアル(1)」の内に示したかを知る。人或は感情の隅々までも表白する批評家としての彼の専門から推して、斯の如き想像的な熟練した著者は、ベートオフェンやモツアル卜より更に適確に藝術に對する彼の思想を語る事が出來るであらうと考へるかも知れぬ。併しそうではない。餘りに烈しい光りが親愛をくらます樣に、餘りに多くの知識は理解を妨げるものである。ベルリオの心は微細な點に費された。それは餘りに多くの刻み目から光りを反射した。そして此の多くの光りそのものを、彼の力を知らしめたであらう一の强烈なる光線の中に収斂する事をしなかつたのである。彼は自己と生活と仕事とを統一する術を知らなかつた。否寧ろ其等を統一する事をすら彼は試みなかつたのだ。彼はロマンテイック天才の權化であり、奔放果てしなき力であり、自己の歩むだ道程に意識なき者であつた。予は彼が彼自身を理解しなかつたと迄は云はない。確かに彼が自らを理解した時が幾度かあつた事はあつたのである。彼は機會が欲する處に彼自身を驅りやる事を許した(2)。宛も古代スカンヂナヴイアの海賊がその小舟の底に横はつて、天空を凝視して居た樣に。そして彼は夢想し、苦悶し、哄笑し、或は熱病的の妄念に屈服したりした。彼はその藝術と共に半信半疑の内に生きた樣に、同じ態度を以てその情感と共に生きた。その音樂に於ても、宛もその音樂批評に於けるが如く彼は屢々自らに矛盾を感じ、躊躇し、そして立戻つた。その感情と思想の何れにも彼は信を置かなかつた。彼はその魂の内に詩を持ち、そしてオペラを書く事につとめた。併し彼の感動はグルツクとマイエルベエルの間を行き迷つた。彼は通俗的の天稟を持つて居た。併し人々を彼は嫌厭した。彼は不敵なる音樂の革命兒であつた。併し彼は此の音樂的運動の統御をそれを欲する人々のとるに任せた。一層惡い事は、彼が其の運動を我がものに非ずとし、未來に向つて背を向け、そして過去の内に彼自身を再び投げ込む事であつた。何の爲めに? 多くの塲合彼は知らなかつたのだ。熱情、悲愁、移り氣、傷ける自負――是等のものは生活の嚴肅な事柄よりも多く彼に影響した。彼は彼自身と闘ふ人であつた。
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(1)ベルリオの文學的著述は幾分不同である。甚だしく美しい章句の一方には又、その大げさな情緒に滑稽を感じさせる樣なものがある。そして尚好い趣味に缺けたものもある。併し彼はその風格に自然な才能を持つて居た。そしてその書くものは力强く、感情に溢れて居た。殊に彼の生涯の後半に向つてそうである。「祈禱の行列」は屢々「メモアル」から引用された。そして彼の詩句の或るものは、殊に「基督の幼年期」や「トロイの人々」の中のものは、美はしい言葉と快活なりズムの感じを以て書かれて居る。彼の「メモアル」は全體として、音樂家によつてかゝれた内の最も喜ばしい書物の一つである。ワグネルは、より大きな詩人であつた。併し散文作家としてはベルリオの方が遥かに優秀である。Paul Meriilot―のBerlioz écrivain(1903, Grenoble)参照。
(2)「機會。知られざる神。それは我が生涯の内の斯の如き大いなる役を演じた。」「メモアル」第二、百六十一 |
斯くしてベルリオとワグネルとの比較となる。ワグネルも亦盲目な熱情によつて動かされはした。併し彼は常に彼自らの主であつた。そして彼の理性は彼の心や世間の暴風によつて、或は愛の惱みや政治的革命の紛爭によつて搖ぐ事はなかつた。彼はその經験や、又過失をすらも彼の藝術に仕へさせた。その理論を實行する前に彼は其等に就て書いた。そして自己に確かさを感じた時にのみ、彼の前に道が美しく横はつて居る時にのみ、彼は進水した。斯くてワグネルが如何に多くを彼の計畫に就ての著述と、その辯説の磁石的引力とに負ふ處あるかゞ分る。バヷリアの王が彼の音樂を聽く前に魅惑されたのは、實に彼の散文の著書であつた。そして亦、他の多數の人々にとつても其等の著書は彼の音樂を解く處の鍵であつた。予は予が彼の藝術を半ば理解した時に當つて、ワグネルの思想に印象された事を記臆する。そして彼の作曲の一つが予を惑はした時も予が信頼は動かなかつた。何となれば予は、その理論に於て斯くも論證的である天才に間違ひのあるわけはないと確信して居たからであつた。そして若し彼の音樂にして予の信念を裏切るならば、その過失は予自身にある事をも確信して居たからであつた。ワグネルは眞に彼自らの最も善良なる友であり、最も信頼すべき勇者であつた。そして、そは吾人を彼の制作の奥深い森を通して嵬峨たる嶮崖の上に導く處の案内の手であつた。
諸君は此の方面に於てベルリオから助けを受けないばかりでなく、彼こそ諸君を誤り導き、迷誤の徑にさまやう處の第一人者である。彼の天才を理解せんとするならば、諸君は獨力を以てそれを攫み取らなければならない。彼の天才は眞に偉大である。併し予が諸君の前にそれを示さうと試みる時、それは一つの弱き性格のなすがまゝに任せられて居るのである。
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ベルリオに關するあらゆる事が惑ひの中にあつた。彼の外貌すらも、云ひ傳へによる肖像には、彼は漆黒の髪と閃く兩眼とを持った陰鬱な南方人の風貌を示して居る。併し彼は事實では美しく、そして碧色の眼を持つて居た。(1)そしてジヨセフ・ドルテイグは、たとへその兩眼が時には憂愁と倦怠とに曇つて居たとは云へ、深く刺す樣であつたと吾人に語る(2)。彼は三十歳の時、皺を刻むだ額と厚くかぶさつた髮とを持つて居た。或はルグヴエに云はせれば「猛鳥の嘴の上に動く日覆の樣に突出た毛髮の大きな傘(3)」を持て居たのである。彼の口は引きしまつて、唇は堅く結ばれ、その隅は嚴格な褶をとつて居た。そして頤は大きかつた。彼は荘重な聲を持つて居た(4)。併しその談話はひつかゝり勝ちで、時々感激の爲めに顫へた。彼は興味を感じた事を熱情を以て語つた。そして或時はそれが身振りとなって突發した。併し多くの塲合彼は不愉快氣で無口であつた。其の高さは普通で體格は寧ろ痩せて骨張つて居た。そして彼が座して居る時は實際の彼よりもずつと高く見えた(5)。彼は非常に落着かない人であつた。そして彼の故郷ドウフイネから承けた徒歩や山に對する山國生れの人の熱愛を持つて居た。彼が放浪者の生活を愛するのもそれに起因して居た。そして其は殆んど彼が死に到るまで彼を離れなかつた(6)。彼は又鐡のやうな體質を持つて居た。併しそれは彼の窮乏や不節制の結果破壊されてしまつた。即ち雨の中を歩いたり、どんな天候の時でも、地上に雪のある時ですらも戸外に眠つたりした爲めに(7)。
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(1)「私は美しかつた。」とベルリオはピウロウに書いた。(千八百五十八年。公表されなかつた手紙の内「赭らむだ長髪」と彼はその「メモアル」第一、百六十五に書いた。「砂色の髪」とレイヱーは云つた。ベルリオの髮の色に就ては予は彼の姪シヤボオ夫人の證明に信をおく、
(2) ジヨセフ・ドルテイグ「オペラの露臺」参照。千八百三十三年發行。
(3) ウ・ルグウヴヱ「六十年間の回想」。ルグウヴヱは茲で彼に初めて會つたとしてベルリオを描寫して居る。
(4) 「可なりのバリトーン」とベルリオは云ふ。(「メモアル」第一。五十八)千八百三十年に彼は巴里の街中で「低音部」を歌った。(「メモアル」第一。百五十六。)その最初の獨逸訪問中ヘヒンゲン公は、彼に彼の作曲の一の中の「ヴイオロンセロの音部」を歌はせた。(「メモアル。」第二、三十二。)
(5) ベルリオの好い肖像は二つある。一つはピヱル・プテイによつて千八百六十三年に撮影された寫眞で、彼がエステル・フォルニヱ夫人に贈つたものである。彼はその肘に身を持たせて、首を曲げ、疲れた樣に地面を凝視して居る。他の一つは彼がその「メモアル」の初版に複製した寫眞であって、そこでは彼は、後方に身をそらして、手をポケットに差込み、首を眞直にして、その顏には精力を現はし、そして其の兩眼の中は確固として嚴格な調子を示したものである。
(6) 彼はネーブルスから羅馬迄、山を超えて一直線に歩いたかも知れない。そして、又スビアコからテイヴオリ迄一氣に歩き通したかも知れない。
(7) 此の事は屢々氣管枝炎と咽喉の痛みとを惹起した。丁度彼の死の原因である内部の疾患の樣に。 |
併し此の强剛な體軀の内にこそ、戀愛と同情とに對する病的な願望によつて支配され惱まされた灼熱的で弱々しい魂は生きて居たのであつた。「其の避くべからざる愛の要求こそ予を滅ぼすものである……(1)」戀する事、戀される事――此の事の爲めには彼は全てを擲つたであらう。併し彼の戀愛は夢の中に生きる青年の戀愛であつた。それは人生の現實に面して、彼が愛する女性の魅力を發見する如く、同時に其の缼點を發見し得る人の力ある總明な感情では決してなかつた。べルリオは戀を戀した。そして空幻と感傷的な陰影の中に自分を亡ぼした。その生涯の終り迄、彼は「彼の彼岸にある戀愛のために疲斃し切つた哀れむべき小供(2)」の樣に獨り殘つた。併し斯くも粗野に、斯くも冒險的に一生を生きた此の人は微妙にその感情を表現したのであつた。吾人は殆んど少女の如き純潔を、その「トロイの人々」或は「ロメオとジユリエツト」の「晴れ渡つた夜」の不滅なる愛の章句の中に見出す事が出來る。斯くて此のヴイルヂイル的な感情を以て、ワグネルの肉體の恍惚に比較して見る。そは、ベルリオがワグネルと等しくは戀愛し得なかつたと云ふ事を意味するであらうか。吾人は唯ベルリオの一生が戀愛とその苦惱とから成立つて居た事を知るのみである。かの「サンフオニイ・フアンタステイク」の序に於ける感動すべき章句の樂想は、ベルリオが十二歳の折、「大きな眼と桃色の靴」の十八歳になる少女――ヱステル、Stella Montis (Stella Matutina)を戀した時彼の作曲した一の物語と共に、近くジユリアン・チヱルソオ氏によつて其の興味ある著書の中に説明された(3)。是等の言葉は――或は彼が記した最も悲しいものゝ一であつたかも知れないが――恐らくは彼の一生の記號として役立つたであらう。心の絞罪と畏怖すべき寂寥とを宣告され、戀愛と憂愁との餌食となつた一生。血を凍らせる苦悶の裡に、うつろなる世界を生きた一生。望ましからぬ、そして其の最後に於て彼に贈るべき慰めをすらも持たなかつた一生(4)。彼は其の全生涯を通じて彼を追求した此の恐ろしき「孤獨の苦痛マル、ド、リゾルマン」を生き生きと詳細に自ら記した(5)。彼は苦しむべく宣告されたのであつた(6)。或は一層不幸に他人を苦しますべく宣告されたのであつた。
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(1) 「音樂と愛とは靈魂の双翼である。」と彼は「メモアル」に書いた。
(2) 「メモアル」第一。十一。
(3) Julien Tiersot "Hector Berlioz et la société de son temps" 1903, Hachette. (ヱクトル・ベルリオと其の時代の社會)
(4) 「メモアル」第一、百三十九参照。
(5) 「私は如何に此の畏るべき病ひを書き表はすべきかを知らない。………私の動悸する胸は空間の中に沈み行くかの樣に思はれる。そして私の心臓に敵し難い或力に引かれながら、宛もそれが消散し、溶け去つて終ふ迄、膨脹するのではないかとさへ感ぜられる。私の皮膚は熱して柔軟になり、頭から足まで汗ばむで來る。私は私を助け、私を慰め、破滅から私を救ひ出し、そして私から離れて行く生命を引き止めてもらふ爲めに、私の友逹に向つて(私が碌に氣にも止めなかつた友達にすらも)叫ばふとする。私は切迫しつゝある死に就て何等の知覺をも持たない。そして自殺は不可能の樣に思はれる。私は死に度くない。――それよりも遥かに私は飽くまでも生きん事を欲する。ライフをしてその千倍にも張り切らせん事を欲する。それは食物を缼く時堪へ難いものとなる處の、幸福に對する極度の食慾である。そしてそれは此の偉大なる感情の奔溢に、出口を與へる處の强烈な喜悦によつてのみ充され得るものである。それは憂鬱の状態ではない。假令それが後からは續いて來るにしても。……憂鬱とは寧ろ是等全ての感情の凝結したものである。――氷の塊。私の心が平和な時でも、吾々の街に生氣がなくなり、人々が田舎へ行つて居る樣な夏の日曜日などには、此の「孤獨イゾルマン」をかすかにも私は感ずる。それは彼等が私から離れて勝手に樂しむで居る事を私が知るからである。そして彼等の居ない事を感じるからである。ベヱトオフヱンのスインフオニイの「アダヂオ。」グルツクの「アルセスト」や「アルミイド」の或る塲面、彼の伊太利風のオペラ「テレマツコー」の或る空氣。そして彼の「オルフヱオ」の極樂の野などは、此の苦痛に寧ろ惡い影響を與へる。併し之等の傑作は同時に解毒劑をも持ち來たす。――其等は人の涙を流さしめる。そして其の悲哀を樂にさせる。是に反して、ベヱトオフヱンの或るソナタの「アダヂオ」やグルツクの「トウリイドのイフイヂヱニイ」は憂愁に滿ちて居る。それがために憂鬱を刺戟する。……室内が寒くなって來た。空は灰色になり、雲に覆はれて居る。北風が陰氣に呻る。……」「メモアル。」第一、二百四十六。 |
誰か彼のヘンリヱツタ・スミソンに對する熱烈な戀を知らない者があらう。それは痛ましい物語だつた。彼はジユリエツトを演じた英國の女優に戀してしまつた。(彼が戀したのは彼女であつたのか。ジユリエツトであつたのか。)彼は、唯一度彼女を見た。そして全ては終つた。彼は叫んだ。「あゝ、私は負けた。」彼は彼女を熱心に望んだ。彼女は彼を拒絶した。彼は懊惱と激情の魔醉の中に生きた。彼は白痴の樣に巴里市中や其の近郊を、何等の安息や慰藉のめあてもなく幾日幾夜に亘つて歩き廻つた。塲處を嫌はず。睡氣が彼を見つけて襲ふ時まで。――ヴィユジュイフに近い原野の羊群の中に、ソオの近傍の草塲の中に、ヌヰイイに遠くない凍つたセイヌの堤の上に、雪の中に、そして一度はカフヱヱ・カルデイナルの食卓の上に、そこでは給仕人が彼を死んだものと見て(1)大聲をあげて驚くまで、彼は五時間を眠り通した。彼は其の間にヘンリエツタに關する讒謗の噂を耳にした。彼は彼女を侮蔑した。そしてその悲しき憤恨の内に、彼が直ちに魅せられてしまつたピアニストのカミイユ・モークに親愛を示しながら、其の「サンフオニイ・フアンタステイク」によつて公然とヘンリエツタを辱しめた。
やがてヘンリエツタは再び現はれた。今や彼女の青春と力とは失はれた。彼女の美は衰へて其の身には負債を負つて居た。ベルリオの熱情は再び煽られた。ヘンリエツタは今度は彼の望みを容れた。彼はそのスインフオニイに變改を加へて、それを自分の愛の印しとして彼女に捧げた。彼は彼女を贏ち得た。そして彼女と結婚した。一萬四千フランの負債と共に。彼は彼の夢を捕捉した。――ジユリエツトを!オフヱリアを! 本統は彼女は何であつたらうか。冷静で、まめで、眞面目で、彼の熱情などは全然理解する處のない、愛らしい一英國婦人に過ぎなかつた。そして彼の妻君となつた時から、彼を嫉妬深く、誠實に愛しつゝ、そして彼を家庭生活の狹苦しい世界にとぢ込め樣とした處の女にすぎなかつた。併し彼の感情は落着いて居られなくなった。彼は西班牙の一女優に心を奪はれた。(それは常に音樂家が、聲樂家か、合唱部員かであつた。)そして哀れなオフヱリアを後に殘して「ファヴォリイト」のイネエ。「オリイ伯爵」の小姓。――實際的で怜悧な女、歌唱にのみ熱中して冷淡な歌手――マリヱ・レシオと共に遠く去つた。傲岸なるベルリオも、彼女の役を獲るために劇塲の監督に諂ったり、彼女の伎倆を賞揚するために誇大な廣告を書いたり、時には彼の關係した音樂會で、彼女に自分の歌曲を調子外れにさせたりさへしなくてはならなかつた(1)! 若し此の弱々しい性格がその誘惑の中に悲劇を持ち來たさなかつたならば、全ては恐ろしく馬鹿氣た事であつたであらう。
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(1) 「それは本統に呪はるべき事ではないか。」と彼はルグウヴヱに云った。「悲劇と痴愚とを同時にするとは! 私は當然地獄に落ちるに價したであらう! しかし私は其處に居たのだ。」 |
斯くて彼が眞に愛して居た、そして常に彼を愛して居た一人の女は、そこでは他國人である巴里に、友達もなく獨り寂しく取り殘されて居た。彼女は沈默の内に衰へて行き、病床に臥し、中風症に冐されて悲痛の八年間を言語を發する事が出來なかつた。それと同時にベルリオも苦悶した。何となれば彼と雖も尚彼女を愛し、憐憫の念に引裂かれる思ひをして居たのであるから。――「憐憫。それはあらゆる感情の中で最も悲痛なものである(1)。」併し、何に向つて役立たせるべき此の憐憫であらう。彼はそれにも拘らず、唯一人懊惱させ死なしめる爲めに、ヘンリヱツタを見棄てたのである。そして一層惡い事は、吾人がルグウヴヱから知つた樣に、彼の夫人、憎むべきレシオをして哀れなヘンリヱツタの前に惡戯の一幕を演じさせた事であつた(2)。レシオはそれを彼に語つた。そして彼女の爲した事を誇つた。斯くてもベルリオはどうもしなかつたのだ。――「どうして私に出來やう。私は彼女を愛して居る!」
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(1) 「メモアル」第二、三百三十五。ヘンリヱツタ・スミソンの死に就て彼が記したる悲壯なる章を見よ。
(2) 「モンマルトルに獨り住んで居たヘンリヱツタが、或日、何人かゞ鈴をならすのを聽いた。そして扉を開けて出て行つた。
「マダムベルリオは御在宅でせうか。」
「私がマダム・ベルリオで御度ゐますが。」
「あなたは勘違ひをして居らつしやるのです。私はマダム・ベルリオを御尋ねして居るのです。」
「で御座いますから私の申す通り、私がマダム・ベルリオなので御座ゐます。」
「いゝゑ、あなたではありません。あななは捨てられた、あの古い奥さんの事を言つて居らつしやるのです。私は若くつて、綺麗な愡々する樣な奥さんの事を云つて居るのです。つまり、それは私の事ですよ」
そしてレシオは戸外へ川て、彼女の後からピシヤリと扉をしめた。
ルグウヴヱはベルリオに云つた。「誰が君に此の言語同斷な事を話したのだ。自分はそれをしたのは彼の女だと思ふ。そしておまけに其事を君に自慢らしく話したのだ。何故君はあの女を家の外へ逐ひ出してしまはないのだ。」
「どうして私に出來やう。」とベルリオは悲痛な調子で言った。「私は彼女を愛して居る!」(六十年間の回想)参照。 |
若し人々が自らの惱みから鎭められて居なかつたならば、斯かる人間に對するに峻酷であるであらう。併し吾人は更に説き進めて行かう。予は寧ろ斯かる特殊な塲合を通りすぎる事を願ふのであるが、併しその權利を予は持たない。予は此の一男性の性格の特別な弱さを諸君の前に示さなければならない。「男性の性格」と予は云ふか。否。そは意志に於て缺けたる女性の性格であつた。その神經の餌食であつた(1)。
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(1) 此の婦人の性質から彼の遺趣返しの戀愛即ち彼がその友イレヱに云った樣に「馬鹿らしく、而も必要な事」は來たのであつた。イレヱは彼にヘンリヱツタ・スミソンを傷けるために「サンフオニー・フアンタステイク」を書かした後で、今はブレイル夫人となって居る、常時のカミーユ・モークに對する情けないフアンタジア「ユーフオニア」を書かせた男である。人は若し彼の信實の修飾若しくは惡變なるものが、欺かうとする意志よりも遙かに、彼の抑制し易いそして展開し易い想像力から來るものであると云ふ事を知らない時、そのやり方に對して一層鋭い注意を要する樣に感じるであらう。併し予は、彼の眞の性質が極めて實直なものであつた事を信ずる者である。予は彼の此の樣な性質の好例として、テイヴオリから來た若い田舎者である彼の友クリスピノの話を引用しやう。ベルリオはその「メモアル」(第一、二百廿九)で云つて居る。「或る日クリスピノが禮を失した時、予は彼にシャツ二枚とズボン一つをやつた後でうしろから三度可成りの足蹴をくれてやった。」併し注釋で彼は斯う附加へた、「之はうそだ。そして常に効果を强めやうとする藝術家の傾向の結果である。私はクリスピノを蹴つた事はなかつた」と。しかもベルリオは後で此の注釋を削除しやうと欲した。そして尚人は、此事を彼の他の小さな自慢と同じ樣に等閑に附するのである。「メモアル」の中の誤りは非常に大げさになつて居る。それにも拘らずベルリオは彼の讀者に向つて、彼が彼を喜ばせた事件のみを書いたと云ふ事を豫告した最初の者である。そしてその序言で彼は自分の懺悔録を書いて居るのではないと云つて居る。人は之に就て彼を批難し得るであらうか。 |
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斯くの如き人々は不幸である樣に定められて居るのである。そして若し彼等が他の人々を苦しめたとしても、それは確かに彼等自身が苦しむだ處のものゝ中ばに過ぎないであらう。彼等は艱難を引き寄せ、それを集積する才能を持つ。彼等は酒の如く悲哀を樂しむ。そしてその一滴をすら免さうとはしない。ベルリオは好むで艱難に浸つた生涯を望むだ樣に見える。そして歴史が吾人に傳へた如何なる過大な説をもそれに附加する必要がない程にも彼の不幸は生まゝゝしいものであつた。
人々は絶え間なきベルリオの愁訴に對して缺陷を見出すであらう。そして予と雖も亦其等の中に力の不足更に一層威嚴の不足を見る。吾人の知る限りに於て彼の不幸に關する物質的の原因は遥かに少なかつた。――予はベヱトオフヱンに就ては云はない。――ワグネルに比較しても。又過去、現在、未來に亘る他の偉大なる人々に比較しても。二十五歳の時彼は盛名を握つた。そしてパガニーニは彼をベヱトオフヱンの後繼者として賞讃した。是に上こす何ものを彼は求め得たであらう。彼は公衆には嫌はれ、スクードオやアドルフ・アダム如きにも侮蔑された。そして劇塲は困難を附隨してのみ彼にその扉を開けた。そは眞に光輝ある事であつた!
併し、ジユリアン・テイヱルソオ氏によつて爲された樣な注意すべき事實の考察は、彼の生活の息づまるが如き平凡と困苦とを示して居る。三十六歳の時、此の「ベヱトオフヱンの後繼者」は音樂院附屬圖書館に助手として千五百フランの定給を受ける事となつた。そしてDébatsデバ誌の寄書に對するものも、殆んど是とおつかつであつた。寄書。それは彼等が彼に對して眞實のない事のみを語る事を强いたが爲めに彼を怒らせ、彼を抑損した處のものであつた(1)。そして、それは彼の生涯の中での苦難の一つであつた。辛ふじて得た金は總額で三千フランであつた。それによつて彼は妻と一人の子供とを養つて行かなければならなかつた。テイヱルソオ氏の云ふ「同じ二人メーム、ドウー」を。彼はオペラ座で音樂祭を試みた。その結果は三百六十フランの缺損であつた。千八百四十四年の博覽會で彼は一つの音樂祭を組織した。收入は三萬二千フランであつた。その内彼は八百フランを手にした。彼は「フアウストの堕落」を演出した。來る者は一人もなかつた。彼は零落した。露西亞では事がうまく行つた。併し彼を英國に連れて行つた支配人は破産してしまつた。彼は家賃や、醫者の勘定書の心配で心を惱ました。生涯の終りに近い頃になって彼の經済状態は稍恢復された。そして其の死の一年前、彼は斯う云ふ悲しい言葉を云つた。「私は甚だしく苦しむで居る! 併し今死に度くは思はない。私は生きるだけのものを持つて居る!」
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(1) 「メモアル。」第二。百五十八。此の章に書き表はされた悲哀は凡ての藝術家によつて感ぜらるゝものであらう。 |
彼の生涯の中での最も悲劇的な挿話の一つは、その窮乏のために書く事の出來なかつたスインフオニーの事である。人々は彼の「メモアル」を終つた頁が、何故に良く知られて居ないかを不思議に思ふであらう。それは人間の苦痛の奥底に觸れて居るからである。
妻の健康が彼の憂慮を惹起した時に當つて、或夜一つのスインフオニーの靈感が彼に來た。その最初の一部――Aマイノア二四拍子に於けるアレグロ――は彼の頭の中に鳴り響いた。彼は起上つて書かうとした。そして、又、考へに沈んだ。――
「若し私が此の一小部分を初めたならば、私は全スインフオニーを書かずには居られないであらう。それは多分大きなものに違ひない。そして私はそれにかゝり切りで三四ヶ月を費さなければならない。それは私が最早論説を書く事も、金を取る事も出來なくなる事を意味するのだ。そして此のスインフオニーが完成した時、私はそれを淸書してしまはふと云ふ誘惑と、(それは一千フラン或は一千二百フランの費へを意味する)次にはそれを演奏しやうと云ふ誘惑とに、とても抵抗し得ないであらう。私が音樂會を開くとする。そして収入は費用の中ばをも償ひはしないであらう。私は私の手の中にないものを失ふのだ。哀れな病人は必要な物にも事缺くであらう。そして私は又自分の小使錢も、私の息子が船にのる時の料金をも支拂ふ事が出來ないであらう………是等の考へは私を身顫ひさせた。そして私はペンを投げ出して云つた。「あゝ! 明日こそ此のスインフオニーの事を忘れてしまはう!」。次の夜私は、はつきりとアレグロを耳に聽いた。そして書かれたそれを見る氣がした。私は熱病的な激動で一杯になつてしまつた。私は樂想を歌つた。私は起上らうとした……併し昨日の反省は私を抑制した。私は此の誘惑に對して要心した。そしてそれを忘れる考へに縋り付いた。遂々私は眠りに落ちた。そして翌日眼が覺めると、その凡ての記憶は、本統に永遠に去つてしまつた(1)。」
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(1) 「メモアル」第二。三百四十九。及びその次。 |
斯の如き頁は讀む者をして戰慄せしめる。自殺も是より悲惨ではない。ベヱトオフヱンもワグネルも斯かる苦痛を苦しみはしなかつた。ワグネルならば此の塲合どうしたであらう。疑ひもなく彼は其のスインフオニイを書いたに違ひない。――そして彼として正當であつたであらう。併しその義務を愛のために犠牲となし得た程弱かつた哀むべきベルリオは、あゝ! 同時に又その天才を義務のために犧牲になし得た程勇氣あるものであつたのだ(1)。
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(1) ベルリオは予が引用した此の物語に續く言葉を以て、云はれそうな如何なる批難に對しても、既に適切に答へをした。「憶病者!」或る若き熱心家に云ふであらう。「汝はそれを書かなければならなかつたのだ! 汝は大膽でなければならなかつたのだ!」と。あゝ! 若い人よ。私を憶病者と呼ぶ君は、私のした事を見はしなかつたのである。若し君にしてそれを見たならば、君とてもどうする術もなかつたであらう。私の妻は半死の状態で、僅に呻吟する事が出來るだけであつた。彼女は三人の看護婦と、毎日彼女を診察に來る一人の醫師とを必要とした。そして私としては、如何なる音樂上の冒險も、その結果は不幸であるに極つて居たのである。否。私は憶病ではなかつた。私が人間であつたと云ふ事のみを私は知る。寧ろ私は藝術が勇氣と殘酷とを區別すべき充分な理性を私に與へた事を證明しゝ、私の藝術を尊敬して居たと云ふ事を信じたいのである。(「メモアル」第二。三百五十三、百五十一) |
此のあらゆる物質的な困窮や誤解に對する悲哀にも頓着なく人々に彼の受けた光榮に就て云々する! 彼の同輩等は彼をどう考へたであらう。――少くとも彼等自身そう呼んで居る人々は。彼は彼が愛し、尊敬し、そして彼の「善き友達」である樣に見せかけて居たそのメンデルスゾーンが彼を輕んじ、その天才を認めない事を知つた(1)。リストを別としては(2)、彼の偉大さを直覺的に感じて居た唯一人の寛大なるシユーマンは、彼が時には「天才か音樂の冒險者」として見られなければならないかと、氣にして居た事を是認した(3)。未だ彼のスインフオニーを讀まない前に侮蔑的にそれを取扱ひ(4)、確かにその天才を理解して居ながら故意に彼を無視して居たワグネルは、千八百五十五年に倫敦で彼に會つた時、その身をベルリオの兩腕の中に投げ込んだ。「彼は熱切に彼を抱擁した。そして啜泣いた。そして彼の著書、そこで彼がベルリオを無慈悲に引裂いた處の「歌劇と戯曲」の中の幾節かが「音樂世界ミユージカル、ウオールド」に發表されると同時に、彼は彼から去つてしまつた(5)。」佛蘭西では、ベルリオが呼んで doli fabricator Epeusと云つた若いグノーが彼に對して法外な謟ひの言葉をおくつた。併し終始彼の作曲のあらを探したり(6)、彼を劇塲から覆滅する事を企てゝ居た。オペラではポニアトスウキー公のために追起された。彼は三度、翰學院に自分を推擧した。そして第一回にはオンスラウの爲めに、第二回にはクラピツソンの爲めに敗られた。そして第三回目に、バンスロン、ヴォーゲル、ルボルンその他の人々に對して一票の差を以て彼は勝利を得た。そして彼等の中には例のグノーも居たのだ。彼はその「フアウストの堕落」が佛蘭西の生んだ最も注意すべき作曲であるにも拘らず、それが佛蘭西で評價される以前に死んだ。彼等はその演出を批難したか? 否。「彼等は全然知らぬ顏をして居たのである。」――吾人に是を語る者はベルリオである。それは注意されないまゝに過ぎてしまつたのだ! 彼は彼の「トロイの人々」が、グルツクの死後に作られた佛蘭西叙情劇の内でも最も高貴な作曲の一つであつたにも拘らず、それが完全に演出されるのを見ずに死んでしまつた(7)。併し別に驚く必要はないのである。今日之等のものを聽かうとするならば獨逸へ行かなければならない。そして尚、たとへベルリオの劇的創作が――モツトル、カルルスルーヱ、ミューニッヒに於て――そのバイロイトを見出し、かの驚嘆すべき「ベンヴエヌート・チエジリーニ」が二十箇所の獨逸都市で(8)演ぜられ、そしてワインガードナー、リヒアルト・シユトラウスによつて傑作として尊敬されたとしても、佛蘭西の劇塲の支配人等は斯かる作の實演を抑も如何に考へるであらうか。
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(1) 「メモアル」のノートの中にベルリオは彼の「善き友情」を拒むだ處のメンデルスゾーンの一書翰を公表して之等の痛ましい句を書いて居る。「私は今、私に對する彼の友情なるものが何から成立って居るかをメンデルスゾーンの書翰の一束の中に見出した。彼にその母に云って居る。そこには明かに私自身の事を書いた文句がある。「XXXは、タレントの閃きなどは少しもない完全な力のカリケチユーアです。……私が彼を呑滅しやうと思ふ時は幾度かあります。」「メモアル」第二。四十八。尚此の外にメンデルスゾーンの云った事をベルリオは附加して居ない。「彼等はベルリオが藝術の内に高い理想を求めて居ると思って居ます。私は少しもそうは思ひません。彼の求めて居るのは結婚する事なのです!」之等無禮な言の不正な事はベルリオがヘンリヱツタ、スミソンと結婚した時、彼女が負債の外には何等の持參物をも持つて來なかつた事とそして彼の持つて居た僅か三百フランの金も一人の友達が彼に貸したものである事を記憶して居る人々を全く腹立せるであらう。
(2) リストは後に到って彼を棄てた。
(3) 「ウアーヴヱルレーの序曲」に關する論文の中に書かれて居る(新音樂雜誌)
(4) 千八百四十年以後ベルリオを批評し、千八百五十一年にその「歌劇と戯曲」の中で彼の作曲の細かい研究を發表したワグネルは、千八百五十五年、リストに斯う書いてやった。「私はベルリオのスインフオニーを初めて聽く事が非常な興味を私に與へるだらうと思つて居ます。そして私は彼の樂譜が見度いのです。若し御持ちなら貸して呉れませんか。」
(5) テイヱタルソオ氏の引用したベルリオの手紙参照。「エクトル・ベルリオとその時代の社會」
(6) 「ロメオ」「フアウスト」「残忍なる尼僧」
(7) 予は予が此の書(近代の音樂家)の最後の評論で更に十分に取扱ふ處のものゝ一の事實を茲に記す事で止めておく。それは千八百卅五年或は千八百四十年以後の佛蘭西の音樂趣味の下落である。――そして予はそれを寧ろ全歐羅巴に於てのものと思ふ。ベルリオは彼の「メモアル」に云ふ。「ロメオとジユリヱツト」の最初の演出以來、音樂及び文學に關する凡てのものに對する佛蘭西公衆の冷淡は、信じ難い程に増大して行った」(「メモアル。」第二。二百六十三」)伊太利オペラ或はグルツクの作の演出に於ての(「メモアル」第一。八十一)昂奮の叫びと千八百三十年のデイレツタントから引出された涙とを、千八百四十年と七十年との間の公衆の冷やかさとに比較して見る。氷の上衣が藝術を覆つたのだ。如何に多くをベルリオは苦しまなければならなかつたらう! 獨逸に於ては偉大なる浪漫的時代は滅びて居た。唯ワグネルが音樂に生命を與へるために殘つて居た。そして彼は歐羅巴に殘存して居た愛と熱心との凡てを乾してしまつた。ベルリオは正に呼吸停止で死んだのである。
(8) 茲に「ベンヴヱヌート」が千八百七十九年以降に演出された都市の公けの表がある。(予は此の通知に對してベルリオの姪の息、ヴイクトル、シヤポー氏に感謝するものである。)それはアルフアベツト順に並べられて居る。ベルリン。ブレーメン。ブルンスウイツク。ドレスデン。マインのフランクフオルト。ブライスガウのフライスブルヒ。ハンブルヒ。ハノーヴヱル。カルヽスルーヱ。ライプチツヒ。マンハイム。メツツ。ミユーニツヒ。プラーグ。シユヴヱリン。ステツテイン。ストラスブルヒ。ストウツトガルト。ウヰンナ。ワイマル。 |
併し、是が全てではなかつた。死の大苦悶に比して其の衰滅の悲哀の如何ばかりであつたらう。彼は己が愛して居た人々の相次いで死に逝くのを見た。彼の父、彼の母、へンリヱツタ・スミソン、マリエ・レシオ。そして纔に彼の息子ルイが殘つた。彼は商船の船長をして居た。怜悧で善良な青年であつたが、父に似て不安勝ちで判斷力なく不幸であつた。「彼は事々に私に生き寫しな程不運である。」とベルリオは云つた。「そして自分達は一對の雙生兒の樣に互ひに愛し合つて居る(1)。」「あゝ! 私の可憐なるルイよ!」彼は其の息子に書いた。「お前なくして私は何をする事が出來やう!」數ヶ月の後、彼はルイの遠い海洋の中で死んだと云ふ事を知つた。
今や彼は一人となつた(1)。そこには最早親しい聲は聽えなかつた。彼の聽くものとては、「凡て晝のどよめきと夜の靜けさの中にその耳に歌ふ寂寥と倦怠との恐ろしい二部曲デユエツトであつた(2)。」彼は病ひのために徐々として弱つて行った。千八百五十六年にはワイマルで非常な疲勞に次いで内部の疾病に犯された。それは大なる精神的苦痛と共に初まつた。彼は常に街中に眠つた。彼は絶え間なく苦しむだ。彼は「葉を失つて雨に打たれる立樹」の樣であつた。千八百六十一年の終りに病ひは烈しい状態に陷つた。時には三十時間も續いて苦痛にせめられた。その間彼は寢床の中で苦悶に身をもがき通して居た。「私は此の肉體の苦痛の唯中に生きて居る。疲れの爲めに壓し潰されて。死の來る事餘りに遲い(3)!」
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(1) 私にはベルリオがどうして此の樣にも引裂かれる樣にばかりして行ったのか分りません。彼の人には友達も無ければ追隨者もなく、暖かい聲望の太陽もなければ快い友情の陰もありません。」(ウイツトゲンスタイン公女からリストへの手紙。千八百六十一年。五月十六日附。)
(2) ベンネツトヘの手紙の中にベルリオは云ふ。「僕は疲れた……僕は疲れた!……」彼の生涯の終りに近付くに從って、如何に屢々此の哀むべき叫びが響いた事だらう。「僕は自分が死に行きつゝある事を感じる、……僕は死の中で疲れて居る。」(千八百六十八年八月二十一日。――彼の死前六ケ月。)
(3) アスガア・ハムメリツクへの手紙、千八百六十五年。 |
最も悲しむべき事には、彼の悲哀の唯中にも彼を慰めるものゝ何一つなかつた事である。彼は何ものをも信じなかつた。何ものをも。
彼は神も信じなかつた。不滅をも信じなかつた。
「私は信仰を持ちません。……私は全ての哲學並びにそれに似たあらゆるものを憎みます。假令宗教的のものでも、他のものでも。……私には醫藥の中に信仰が持てない樣に、信仰を醫藥にする事も出來ないのです(1)。」
「神は彼の全き無關心の中に憶病であり、残酷である(2)」
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(1) ウイツトゲン、スタイン公女への手紙。千八百六十二年七月廿二日及び九月廿一日。千八百六十四年八月。
(2) 「メモアル。」第二。三百卅五。彼はその無信仰によつてメンデルスゾーンを驚かし、ワグネルをさへ駭かせた。(千八百五十五年九月十日のワグネルヘのベルリオの手紙參照。) |
彼は名譽を信じなかつた。人間を信じなかつた。美を信じなかつた。そして彼自身をすら信じなかつた。
「凡てのものは過ぎ去る。空間と時間とは、美も、青春も、愛も、光榮も、天才も、悉く滅ぼし去つてしまふ。死は決して善いものではない。世界は吾人と同じく生れ、そして死ぬる。凡ては無だ。……そうだ! そうだ! そうだ! 凡ては無だ。凡ては無だ。愛したり憎むだり、喜んだ心苦むだり、賞めたり蔑んだり、生きたり死んだり――それが何になるだらう。偉大の中にも弱小の中にも。美の中にも醜の中にも何一つ有りはしない。永遠は冷淡なものだ。冷淡は極はまりないものだ」
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「レ、グロテスク、ド、ラ、ミユージイク」二百九十五〜六 |
「僕は生活に疲れました。そして僕は妄誕を信ずるのは人間の心に必要な事だと云ふ事を悟らせられました。そして又、その信仰が彼等の中に生れるのは宛も昆蟲が沼澤に生れるのと等しいと云ふ事をも悟らせられました。」
ジロー僧正への手紙。イツボーの「親友ベルリオ」四百三十四頁參照。
「君は又、成功すべきミツシヨンに就てのあの古い言葉で僕を笑はせる! 何と云ふ宣教師らしさだ! 僕の内には、併し、どんな議論にも構はずに動く處の一の説明しにくい構造がある。そして僕はそれを止める事が出來ない爲めに、そのなすが儘にさせておくのだ。僕を最も厭はしく感じさせるのは美が是等人間的猿猴の多數にとつては存在して居ない事の事實である。」
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ベンネツトへの手紙。彼は愛國主義を信じなかつた。「愛国主義? 拜物主義? 法螺吹き主義?」「メモアル。」第二。二百六十一。 |
「世界の解き難い謎。惡と苦痛の存在。人間の残忍なる强暴。そして最も無力な者等の上に屢々隨處で加へられる處の卑怯なる残虐。――凡て之等のものは熾んに燃えて居る石炭に圍まれた蠍の樣な不幸で手頼りない諦めの状態に私を陷らせます。」
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ウイツトゲンスタイン公女への手紙。千八百六十二年。七月二十二日附。 |
「私は私の第六十五回目の年に居る。そして私は最早希望も空想も抱負も持つては居ない。私は孤獨だ。そして人間の卑怯と不正直とに對する私の侮蔑、彼等の不義の殘虐に對する私の憎惡は、その絶頂に達して居る。いつでも私は「死」に向つてこう云ふ。「お前の好きな時に!」と。彼は何を待つて居るのだらう。」
そして尚彼は自分の招いた死を怖れた。それは彼の持つ感情の最も激烈な、痛慘な、眞實なものであつた、古いローラン・ド・ラスス以後、是程に死を怖れた音樂家は一人も無かつた。諸君は「基督の幼年期ランフアンス、ド、クリスト」に於けるヘロドの不眠の幾夜を、カツサンドラの苦悶を、ジユリヱツトの埋葬を知るか。――凡て是等を通して諸君は寂滅の囁く畏れを知るであらう。憐むべき彼は此の恐怖に附纏はれた。ジユリアン・テイヱルソオ氏に依って公表された一書翰が示す樣に。――
「私の一番好きな散歩は、殊に雨の降つて居る時、本統に瀧津瀬の樣に雨の降つて居る時、私の家から近いモンマルトルの墓塲へ行く事です。私は時々其處へ行きます。其處には私を惹付けるものが澤山あるのです。一昨日も私は其の墓地で二時間許り過しました。贅澤な墓の上に工合のいゝ塲處を見付けて私は眠りました、……巴里は私にとつて墓地であり、その敷石道は墓石であります。到る處に死んだ友達と敵との記念があります……私は止む時のない苦痛と、口に云へない疲勞とに苦しむでばかり居ます。夜となく晝となく、自分が悲常な苦悶の中に死ぬか、或はそれ程もなく死ぬかと思ひ煩つて居ます。――私は少しの苦悶もなく死に度いと願ふ程の馬鹿ではありません。何故吾々は死なずに居るのでせう。」
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ウイツトゲンスタイン公女への手紙。千八百五十九年一月廿二日附、千八百六十四年八月卅日附、千八百六十六年七月十三日附、同、アー、モーレルヘの手紙。千八百六十四年八月廿一日附。
“...Qui viderit illas De lacrymis factas sentiet esse meis,” とベルリオは千八百五十四年に其の「トリイスト」の題句として書いた。 |
彼の音樂は是等の惱ましい言葉に似て居る。そは或は一層恐ろしく、更に陰鬱でさへあるかも知れぬ。何となればそれは死を息づいて居るから。何と云ふ對照であらう。生に飢えた靈と死を祈る魂と。彼の一生を斯くも恐るべき悲劇としたのは是であつた。ワダネルがベルリオと會つた時彼は安心の吐息を洩した。――彼は遂に彼自らにも増して一層不幸なる人間を見出したからであつた。
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「人間は直ちに同じ不幸にある伴侶を見つけるものである。そして私に自分がベルリオよりも幸福な人間だと云ふ事を知りました。」(ワグネルからリストへ。千八百五十五年。七月五日附。) |
死の閾の上に立ちながら、彼は絶望の内に、彼を見棄てた光明の一の輝きを振り返つた。――ステラ・モンチス。彼の幼い戀の靈感。ヱステルは今は年老いて老婆となり、年月と心勞とに衰へてしまつた。彼は彼女と會ふためにグルノーヴルに近いメーランヘ辿つて行つた。その時彼は六十一で彼女は殆んど七十歳に逹して居た。
「過去よ! 過去よ! おゝ時よ! 永遠に!永遠に(1)!」
併し尚彼は彼女を戀した。必死の勢ひを以て戀した。お丶! 何と云ふ悲壯事であらう! 人は其の荒寥たる心の深淵を見る時、どうして微笑を浮べ得るだらう!諸君は、諸君や予が見る程明瞭には、彼がそのしなびて年老いた顏や、歳月の無頓着や、彼が彼女の内に作り上げた「悲しき理由トリイスト、レーゾン」をば見る事をしなかつたと思惟するか。記憶せよ。彼は人間の最も皮肉な者であつた! 併し彼は是等のものを見る事を欲しなかつたのだ。人生の荒野の中に生きて行く彼を助ける、此のちつぽけな戀愛に縋り付く事をこそ彼は欲したのだ。
「其の心の内に生きる事を外にして、此の世の中には一として眞實なものはない。……自分の生命は彼女の住むあの片田舎にこびり付いて居る。……生活は自分が自分自身に斯う語る時にのみ堪へ得られる。「此の秋こそ俺はあの人の傍で一ヶ月を暮さう。」と。若し彼女が自分に彼女への手紙を書く事を許して呉れなかつたならば、そして若し時折は彼女からの手紙を受取る事がなかつたならば、自分は此の巴里の地獄の中で死んでしまはなければならない。」
斯う彼はルグウヴヱに語つた。そして巴里の街の石の上に腰を下して啜泣いた。一方その老婦人は彼の此の愚かな行爲を理解しなかつた。彼女はそれを默許しなかつた。そして迷ひを悟る事を彼に求めた。
「人はその毛髪が白くなつた時、その夢を捨てて終はなければならない。――友情の夢をすらも。……假令今日一日は保つとしても明日は破れるかも知れない緣を何の爲めに結ぶのであらう。」
おゝ! 彼の夢とは何であらう。彼女と共に暮す事か。否。寧ろ彼女の傍らで死ぬ事の願ひである。死の來る時彼の傍へに彼女の在る事を感じたいが爲めである。……
「おん身の脚下に伏して、おん身の膝の上に自分の頭を、自分の手の中におん身の二つの手を――そして終りたいのだ!」
死の考への前にかくも悲しみ、かくも狼狽し、そしてかくも戦慄した年老いた小兒よ!
優勝者ワグネルは同じ年頃には崇敬され、追從され、そして――バイロイトの云ひ傳へを信ずるならば――盛運に飾られて居た。悲哀に打たれつゝそして苦しみ、その成功を疑ひながら世の凡庸と戰ふ痛ましき戰の空虚さを感じて居たワグネルは「遠く世間から免れた(1)。」そして宗教に身を投げ入れた。そして一人の友が彼が食事の祈りをして居るのを見て驚き以て凝視した時、彼は斯う答へた。「そうです。私は自分の救ひ主を信じて信じて居ます(2)!」
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(1) 「然り、それは「パルジフアル」が其の生誕と生長とを負ふて居る處の世界から免れる事である! 人はその生涯を通じて此の世界の深淵の中に、靜かな理性と快活な心とを以て何を見る事が出來るであらう。彼にして、虚僞、欺瞞、不正の法式によつて組成され公認された殺人や劫掠を見る時、抑も彼は彼の目を背け、嫌惡に身を顫はさずに居られるであらうか。」(ワグネル。「千八百八十二年、バイロイトに於けるパルジフアル聖劇の演出」)
(2) その光景は「理想主義者の回顧」の優しく大膽な著者、予が友マルヸイダ、フオン、マイセンブツクによつて予に書き送られた。 |
哀れむべき者よ! 世界の征服者は、征服してそして碎かれた!
併し此の二つの死に就て、信仰もなく、十分幸福であるべき堅忍も力も一を措いては持つ事の出來なかつた處の藝術家の死の方が如何により悲しかつたであらう。――ルウ・ド・カレヱの小さな室で、冷淡なそして敵意をさへ持つた巴里の擾亂の響きの唯中に次第に滅びて行つた彼(1)。酷たらしき沈默の内に我れと自らを閉ぢ込めた彼。その最後の瞬間に己が上に打臥す愛する者の顏を見なかつた彼。その製作の内に信頼の滿足を持たなかつた彼。自己のなし來つた處を靜かに思ひめぐらし踏んで來た道程を誇らしく振り返り、生涯を善く生きたと云ふ考への上に安んじて憩ふ事の出來なかつた彼(2)。そしてその「メモアル」をシヱークスピアの沈欝な言葉を以て書き初め書終つた彼。そして死ぬ時更にそれを繰返した彼。――
「人生は唯動く影である。一人の俳優が舞臺の上でその時間を氣取つて歩いたり、擦りへらして行く。そしてやがては何ものも聽えない。それは一人の白痴の語る物語である。響きと怒りとに充ちゝゝて何も意味はないものだ(3)。」
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(1) 「私は自分の窓の前に白い壁だけを持つて居る。往來の側では狆が一時間許り咆ゑて居、鸚鵡は金切聲を出し、長い尾の小鸚鵡は雀の囀りを眞似て居る。空地の側では洗濯女が歌を歌って居る。そして他の小さい鸚鵡が絶え間なしに「擔へ筒!……」と叫ぶ。何と云ふ日の永い事だらう!」
「車の氣狂じみた音響が夜の沈默を顫はせる.濕氣と泥濘の巴里! 巴里人の巴里! 今凡てのものが靜かだ。……彼女は不義の眠りに眠りつゝあるのだ!」(フエランヘの手紙 Lettres intimes 二百六十九。三百二。)
(2) 彼はよく斯う云ふ事を云つた。彼の製作が何一つ殘るまいとか、自ら欺いて居たとか、或は自分の樂譜を燒いてしまつた方がいゝとか。
(3) プラーズ・ド・ブユリーは彼の死ぬ少し前彼に會つた。「或る秋の夕方。河岸通りで。彼はアンスチテウートから帰つて居た。彼の顏は蒼白かつた。彼の樣子は痩せて曲つて居た。そして表情は元氣なく神經が高ぶって居た。人は彼の事を動いて居る影だと思ったかも知れない。彼の眼、此の大きな圓い榛色の兩眼すらも、その炎を消してしまつた。一秒時間許り彼は私の手をその痩せた生氣のない手で握つて、囁きよりも聽きとりにくい位の聲でヱスキラスの言葉を繰返した。「おゝ! 人間の此の生活! 彼が幸福な時は、影は彼を惱ませるに十分である。そして彼が不幸な時は、彼の苦痛に濡れた海綿で拭き去られた樣に失せるだらう、そして凡てが忘られて終ふ。」(近代及現代の音樂家) |
斯の如きは世の最も愛すべき天才の一と結び合せて初めて其れ自身を見出す處の不幸なる決斷力なき心であつた「それは天才と偉大との間に存する相違の著しき適例である。――何となれば此の二つの言葉は同意義ではないからである。吾人が偉大と云ふ語を口にする時、吾人は魂の偉大、性格の高貴、意志の强固。その上に意力の平衡を意味する。予は人々がベルリオの内に是等の素質の存在を認めない事を了解し得る。併し彼の音樂的天才を否認し、彼の驚嘆すべき力に付て反駁する事は――そしてそれは巴里に於ては常に行はれて居る事であるが――歎はしくも又烏滸の限りである。彼が人々を感動させると否とに拘らず、彼の作曲の指韜程のものにも、その一作曲の一部分にも、「フアンタステイク」或は「ベンヴヱヌート」の序曲の切れつ端にも、彼と同時代のあらゆる佛蘭西音樂に比較して――予は敢へて斯く云ふ。――一層その天才は現はれて居る。予はベートオフヱンやバツハを生んだ國に於て人々が彼に就て云々して居る事を解する事が出來る。併し佛蘭西に於て吾人は彼に對して何人を持ち出す事が出來やう。グルツクとセデール・フランクは一層偉大な人達であつた。併し彼等は到底彼に比肩し得る程天才者ではなかつた。若し天才なるものが創造の力を意味するならば、予は彼の上に列する處の天才を四人或は五人以上は見出す事が出來ないであらう。予がベートオフヱン、モツアルト、バツハ、ヘンデル、そしてワグネルの名を擧げる時でも、何人がベルリオに優つて居るかを予は知らない。更に何人が彼と同等であるかをさへ予は知らない者である。
彼は音樂家であるばかりでなく音樂そのものである。彼は彼の役神を禦する事をしなかつた。彼は其の奴隷であつた。彼の著作を知つて居る人々は、如何に彼がその音樂的感動によつて交り氣なく捉へられ、そして使ひつくされたかを知るであらう。それは眞に法悦と拘攣との發作である。最初に「熱病的の昂奮が起つた。血管は猛烈に波打つて涙がどんゝゝ流れた。次で筋肉の痙攣性収縮、手足全體の麻痺、視神經、聽神經の局部的麻痺が來た。彼は何物をも見ず何物をも聽かなかつた。彼は眩最を感じて中ば失神した。」そして若し音樂が彼の意に滿さぬ塲合には反對に彼は、「痛ましい肉對的不安の意識によつて、時には嘔氣によつてさへも(1)」惱まされたのであつた。
音樂が彼の天性に「憑きもの」であつた事は突如たる彼の天才の發生に徴しても明白である(1)。彼の家族は彼の音樂家たらんとする考へに反對した。そして二十二か三迄彼の弱い意志は澁々ながら彼等の云ふがまゝに從つて居た。彼はその父の云ふに任せて巴里で薬剤の研究を初めた。或る晩彼はサリヱリの「レ・ダナイド」を聽いた。それは雷鳴のやうに彼の上に落ちた。彼は音樂院附屬圖書館に走って、グルツクの樂譜を讀んだ。「彼は食ふ事も飮む事も忘れた。彼はまるで氣の違つた人の樣であつた。」「トウリイドのイフイジヱニー」の演出は彼を惱殺した。彼はルシュールに師事して次で音樂院で勉强した。翌年千八百二十七年に彼は「秘密法官レ、フラン、ジユージユ」を作曲した。二年を經て「フアウス卜の八塲」を作曲した。それは未來の「フアウス卜の堕落」の萠芽であつた(2)。三年後に、「サンフオニー・フアンタステイク」を完成した。(千八百三十年に著手(3))。併し尚彼は羅馬賞ブリ、ド、ロームを得はしなかつたのだ! 是に加ふるに千八百二十八年には既に彼は「ロメオとジユリヱツト」の樂想を抱いて居た。そして又千八百二十九年には「ルリオ」を書いてしまつた。誰か是に上こす音樂の初舞臺デビウの一層華々しいものを見出す事が出來やう。是と同じ時代にびくびくしながら「小仙女」、「戀愛禁制」、「リヱンチ」を書いて居たワグネルと比較する。彼はそれ等を同じ年頃に書いた。併し十年遲れて居たのである。何となればベルリオが既に「フアンタステイク」、「フアウストの八塲」、「ルリオ」そして「ハロルド」を書き上げた後の千八百三十三年に「小仙女」が出來たからである。「リヱンチ」は漸く千八百四十二年に演出された。「ベンヴヱート」(千八百三十五年)「ルキヱム」(千八百三十七年)、「ロメオ」(千八百三十九年)、「ラ・サンフオニー・フユネーブル・ヱ、トリオンフアール」(千八百四十年)の後で。――要するにそれはベルリオが彼の大なる製作全部を完成し、そして其の音樂的革命を成就してしまつた後だと云ふ事になる。そしてその革命はモデルもなく、案内者もなく、獨力で果たされたのであつた。彼が音樂院に居た時如何にしてグルツクやスポンテイーニの歌劇を既に聽く事が出來たであらう。彼が「フラン・ジユージユ」の序曲を作曲した頃は、ウヱーベルと云ふ名さへも彼は知つて居なかつた(4)。そしてベートオフヱンの作曲では僅かに「アンダンテ」を彼は聽いた事があるに過ぎなかつた(5)。
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(1) 實に此の天才は彼の幼年時代から微かに燃えて居た。それは最初からあつたものである。そしてその證據は彼が十二才の時書いた五部曲の歌や樂節を、彼がその「フラン・ジユージユの序曲」と、「サンフオニー・フアンタステイク」に使つた事實に見る事が出來る。「メモアル。」第一、十一〜十八參照)
(2) 「フアウストの八塲」はゲーテの悲劇からとつたもので是等のものを含む。(一)「復活祭の歌」。(二)「菩提樹下の田舎人。」。(三)「魔女の會。」(四)及(五)「アウヱルバツハの酒塲」。鼠と蚤の歌二つを含む。(六)「ツーレの王の歌」。(七)「マルガレヱテの物語。」「㷔と燃ゆる戀に」。「兵士の合唱」。(八)「メフイストフヱレスの戀慕曲」――それに「フアウストの堕落」の中の最も優れた特殊なる頁と云はれて居る。(ブリユトンム氏ベルリオの輪作」參照)
(3) 人は若々しい音樂的天才の魂の一層善い顯現を此の時代に書かれた或る手紙の外に見出す事は難い。殊に千八百廿八年六月廿八日附のフヱランヘの熱した迫白を付けた手紙の外に。何と云ふ豐かな溢れる樣な力の生命であらう! それを讀む事は喜悦である。人にそこに生命それ自體の源泉を飮む。
(4) 「メモアル」第一。七十。
(5) 「同前」。是を書き改めるために彼に千八百廿九年に「ベートオフヱンの傳記的註釋」を書いた。そこに現はれたベートオフヱンに就ての彼の鑑賞眼は明かに彼ら時代よりも進むで居る。コーラル、スインフォオニーは「ベートオフヱンの天才の最高峰である。」と彼は書いた。そして「Cシャープ、マイノア」の四部曲に就て彼に大なる鑑識を以て語って居る。 |
誠に彼は十九世記音樂史に於ける一の謎であり、最も驚嘆すべき逸物である。彼の不敵な力は彼の時代の凡てを支配した。斯の如き天才を目の前にして誰か彼をベートオフヱンの唯一の後繼者として賞讃したパガニーニの言を肯定しない者であらう(1)。誰かかの哀れな若者ワグネルが、時代を外にしながら困難なそして自ら足れりとする凡庸の中に働き續けて居た事を知らないものであらう。併し程なくワグネルは其の失つた地の爲めに建設した。何となれば彼は自分の要求するものを知って居たからである。そしてそれを執拗に要求したからである。
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(1) ベートオフヱンはベルリオが彼の最初の重要な製作「フラン、ジユージュの序曲」を書いた千八百廿七年に死んだ。 |
彼の天才は彼が三十五歳の時、「タキヱム」と「ロメオ」とを以てその絶頂に達した。それらは彼の二個の最も重要な製作であり、又それによつて人々が各々異つた感じを受ける處のものである。予一個としては一方を非常に愛し、そして他方は好まないものである。併し双方共に藝術に二條の大なる新路を切り開いたものである。そして双方何れもベルリオの發足した革命の勝利の道の上に二個の巨大なるアーチの如く据ゑられたものである。予は後章に於て是等の製作の主題に戻らうと思ふ。
併しベルリオは既に年老いて來た。彼の日々の勞苦と波瀾多き家庭生活(1)、失望と激情、日常の些事と時に來る失敗。是等のものは忽ち彼を惱ました。そして遂には彼の力を疲れ切らせてしまつた。「君は斯う言ふ事を信じるだらうか。」と彼はその友フランに書送つた。「常に僕を音樂的激情の前後不覺の中に攪き亂して呉れた處のものは今や冷淡或は侮蔑を以てさへ僕を一杯にして居ると云ふ事を。僕は自分が非常な速度を以て山を驅け降りて居るかの樣に感ずる。人生は斯くも短かい。僕は終焉の考へが過去の或時から引續いて僕の内にあつたと云ふ事を認める。」千八百四十八年四十五歳の時、彼はその「メモアル」に斯う書いた。「私は自分自身が斯くの如く年老い、そして疲勞し、そして靈感から遠ざかつてしまつた事を感ずる。」四十五歳のワグネルは根氣よくその理論を進めて居た。そして自己の力を感じて居た。彼は四十五歳の時、「トリスタン」と「未來の音樂」とを書いて居た。批評家からは凌辱され、公衆からは知られずに居ながらも「彼は五十歳になれば世界音樂界の首領になれると云ふ所信を抱いて落直き拂つて居た(2)。」
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(1) 彼はヘンリヱツタ、スミソンと千八百四十二年に別れた。彼女は千八百五十四年に死んだ。
(2) 千八百五十五年の手紙の中に諷刺を以てベルリオ自身の書いた言葉。 |
ベルリオの心は傷ついた。生活は彼を征服した。それは彼が其の藝術的練達の如何なるものをも失ってしまつたと云ふ事ではない。反對に彼の作曲は一つ一つ完成されて行つた。そして彼の早い頃の製作になかつた純粋な美を「基督の幼年期」(千八百五十年〜四年)や「トロイの人々」(千八百五十五年〜六十三年)の或る頁は持つて居た。併し彼は彼の力を失つてしまつた。そして彼の熱切な感情、彼の革命的意志、そして彼の靈威(その青年時代に彼の持つて居なかつた自恃の代りにあつた處のもの)は、彼を見すてゝしまつた。今や彼はその過去の中に生きた。――「ファウストの八塲」(千八百二十八年)は「フアウストの堕落」(千八百四十六年)の萌芽を持つて居た。千八百三十三年以後彼は「ベアトリースとベネデイクト」(千八百六十二年)を考へ通して居た。「トロイの人々」の樂想はヴイルジールに對する彼の小供らしい崇拜によつて靈感されたものであつた。そして彼の全生涯に亘って離れなかつた。併し今は何と云ふ困難を以て彼は其の事業を果したであらう! 彼は「ロメオ」を書くに僅々七ヶ月を費したのみであつた。そして「ルキヱム」をなるべく速く書き上げる爲めに彼は一種の音樂の速記術を採用した。」程であつた(1)。併し彼は「トロイの人々」を書くのに七八年を費した。熱中と倦怠の氣分の間を往來しながら。そして自己の製作に就て冷淡と疑惑とを感じながら、彼はためらひつゝふらゝゝと彼の道を手捜りした。彼には彼が何をして居るのかゞよく分らなかつた。彼は彼の製作の一層平凡な頁に感心した。ラオコーンの塲面。「トロイに於けるトロイ人」の最後の幕の終曲フイナレ。『カルタゴに於けるトロイ人』の中のイニーアスの居る最後の塲面(2)。スポンテイーニのからっぽな華やかさが最高の意想と入り亂れて居る。それは丁度「鐘乳洞中の鐘乳石」の樣に無意識な力の器械的製作であつた。彼は一の推動力をも持つて居なかつた。それは洞窟の天井の崩壊するよりも單に時の問題であつた。人々は彼がそれと共に働いて來た處の痛ましい絶望に心を打たれる。それは彼の最後の意志であり、彼が作製した遺書である。そして彼がそれを終る時、彼は凡てを終つたであらう。彼の仕事は終結を告げた。もし彼が百年を生きのびたとしても彼はその上に何物かを附加すべき心を持ちはしなかつたであらう。たつた一つ残つて居た事は――それは彼の爲そうとして居た事であるが――彼自らを沈默と死の中に包んでしまふ事であつた。
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(1) 「メモアル」第一。三百七。
(2) 此の頃彼はリストに「基督の幼年期」に就ての手紙を書いた。「私は豫言者の居るヘロドの塲面と歌調との中に或るいゝものを發見したと思って居る。それは性格に充ちゝゝて居る。そして願はくは、それが君を喜はすであらうことを。そこには或は一層優美で快いものがあるかも知れない。それもベデレヘムの二部曲を除いてゞはあるが。私は彼等が同じ獨創の性質を持つて居るとは思はない。」(千八百五十四年十二月十七日附) |
痛ましき運命よ! 其處には彼等の天才を生き永らへた偉大なる人々がある。然るにベルリオにあつては天才は慾望に生き永らへたのである。彼の天才は今と雖もそこにある。人々はそれを「カルタゴに於けるトロイ人」の第三幕の崇高なる頁の内に感ずる。併しベルリオは彼の力を信ずる事を止めた。彼は信仰をあらゆるものに就て失つた、彼の天才は滋味の缺乏によつて死んで行つたのである。それは空ろなる墳墓の上の焔であつた。その老年期の同じ頃にはワグネルの靈はその赫耀たる高翔を持して居た。そして凡てのものを征服しつゝも、その信仰のためには何物をも抛棄する處に於て最高の勝利を贏ち得た。そして「パルジフアル」の聖歌は莊大なる寺院に於けるが樣に響き返つた。そして惱めるアムフオルタスの叫ぶに向つてかの祝福されたる言葉を以て答へるのであつた。「ゼーリツヒ・イン・グラウベン!ゼーリツヒ・イン・リーベー!」(信仰の内に祝福あれ! 愛の内に祝福あれ!)
《二》
ベルリオの製作は彼の生涯の上にあまねく擴がつたものではなかつた。それは僅かな年月の間に仕遂げられてしまつた。それはワグネルやベヱトオフヱンに於けるが樣に大河の行程コースに似たものではなかつた。その焔が暫しの間大空の全體を輝かして、やがて次第に消えて行つた處の一天才の爆發であつた(1)。此の驚くべき焔に就て予は諸君の前に語らうと思ふ。
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(1) 千八百三十年に、年老いたルジヱヱ・ド・リイルは「爆發しつゝある噴火山」とベルリオを呼んだ(「メモアル」第一。百五十八) |
彼の音樂上の才能の中には茲に詳細に論ずる必要のない程にも目醒しいものゝ幾つかがある。あんなにも酩酊し、昂奮させる彼の音樂の色彩(1)。音色に關する突飛な發見。(「ルキヱム」の Hostias et precesに於けるフルートとトロンボーンの有名な配合、或はヷイオリンとハープの和階音の奇異なる用法に於ての樣な)新らしい强別法ニユーアンスの發明。そして壯大にして濛々たるオーケストラ。――凡て是等のものは最も美妙なる思想の表現に力を藉す處のものである(2)。斯かる製作が其の時代に惹起しなければならなかつた處の結果を考へて見よ。初めて其等を聽いて驚嘆した最初のものはベルリオ自身であつた。「フラン・ジユージユの序曲」で彼は涙をこぼした。そして頭髪を掻きむしつて鑵皷の上に泣き倒れた。伯林で彼の Tuba mirumが演出された時には彼は半ば氣が遠くなつてしまつた。作曲家として彼に一番近かつたのはウヱーベルであつた。そして吾人が熟知して居る樣に、ベルリオが彼を知つたのは僅かにその生涯の終りの頃に於てであつた。併しその多感性と、夢見る如き詩想とを持つて居たにも拘らず、ウヱーベルの音樂の如何に豐かさと復雜さとに乏しいものであらう! 如何に彼は更に世俗的で更に古典派であつたらう! 如何に彼はベルリオの革命的熱情と粗野な力とに乏しかつたであらう! 如何に彼は調和に於て貧しく、莊大さに於て劣つて居た事であらう!
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(1) カミーユ・サン・サンス氏は千九百年の其の「肖像と回想」の中に斯う書いた。「ベルリオの樂譜をそれが演奏される前に讀む者は、誰しもその効果に對して實際の觀念を持つ事は出來ない。凡ての樂器は、どんな通常の感受にも逆らつて排列されて居る樣に見える。そして音樂の通り言葉で云へば「調子のつく筈はない樣に」見える。それが實に立派に「調子がついて」居るのである。若し吾々が其處此處に散在する朦朧たる形式を發見するとしても、それはオーケストラの中には現はれては來ない。光りはその中に流れ込んで、宛もダイアモンドの刻み目に當る光りの樣に嬉戯して居る。」
(2) ラヴオア氏の『器樂の歴史インストル・ダンストリユマシヨン』中の優れた論説を參照せよ。その「現代の器樂及び管絃樂法の約束トレイテヱ・タンストリユマシヨン・ヱ・ドルシユストラシヨン・モデルン」(千八百四十四年)に於けるベルリオの意見がリヒアルト・シユトラウスりによつて無駄にならなかつた事を注意しなければならない。彼は最近にその本の獨逸版を出した。そして彼の最も有名オーケストラの効果を奏したある物はベルリオの理想の實現されたものであつた。 |
ベルリオは其のほとんど最初から、如何にして管弦樂法に對する此の天才を得來つたであらうか。音樂院での二人の先生は器樂に關しては何事をも教へなかつたと彼は自ら云つて居る――
「ルシュールは音樂に就ては非常に狹い觀念しか持つて居なかつた。レイシァは多數の管樂器の特殊な用法を知つて居た。併しその配合法の問題に就て彼が非常に進歩した考へを持つて居たとは私には思はれない。」
彼は自分自身を教へた。オペラが演ぜられて居る最中彼はその樂譜を讀むのを常とした。
「それは斯うしてであつた。」と彼は云つて居る(1)。「私がオーケストラの用法を段々會得して行き、多數の樂器の音列と機構を知ると同時にその表現法と音の性質とを知つたのは。表はされた効果と、それを表はすために用ひられた手段とを注意深く比較考量しながら、私は音樂的表現と器樂の特殊な技巧とを結び合はすかくれた約束を發見する事が出來た。併し何人も此の事で私を指導して呉れた者はなかつた。現代の三大家、ベートオフヱン、ウヱーベル、スポンテイーニの方法の研究、器樂の慣用法と多く採用されない樣式と配合法との偏頗のない吟味、名手との會談、彼等の異つた樂器に私が試みさせた効果、之等の事柄が僅かの天性と伴つて私の土臺となつた(2)。」
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(1) 吾人は此の天性を次の一事實によつて理解する事が出來るであらう。彼は「フラン・ジユージユ」の序曲と「ワーヴヱルレー」とを、果してそれらが實際に演奏出來るものかどうかを知らないで書いた。「私は或る樂器の構造に就て之程何も知らなかつた。」と彼は云つて居る。「それは「レ・フラン・ジユージユ」の序曲でトロンボーンのためにDフラツトのソロを書いた後での事であつた。私はそれを演奏するのは恐ろしく困難な事だと云ふ事を怖れた。そこで私は非常に不安を感じながらオペラの管絃樂部のトロンボニストの一人の處へ出掛けに行つた。彼はその曲譜を見て、そして私を安心させた。「此のDフラツトの調子」と彼は云った。「此の樂器で一番愉快なものの一つです。そしてあなたはその曲譜の思ひの外の効果を信じる事が出來ます」(「メモアル」第一、六十三)
(2) 「メモアル」第一、六十四 |
彼が此の方面に於ての始祖である事は疑ふ者のない處である。そして又何人と雖もワグネルが侮蔑の口吻を以て呼んだ「彼の悪魔の樣な賢こさ」を否定するものも殆んどない。或は熟練した巧妙な表現上のメカニズムや、彼の創造力から離れて尚彼をして音樂の惡魔師、調子と音律との帝王たらしめた處の、樂器を超越した彼の力に無感覺である者もない。此の天品は彼の敵――ワグネル――によつてすら認められた。彼はベルリオの天才を幾分かの不公平を以て狹い限界内に極限しやうとし、そして又それを「無限の精緻と、異常なる狡猾の旋轉花火を持つた一の建物……メカニズムの驚異(1)」に貶めやうとしたのである。
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(1) 「べルリオはメカニズムの特性を考慮しつ、眞に驚くべき科學的蘊蓄を示した。若し現代の産業の器械の發明者が今日の人道の恩人と考へられるならば、ベルリオは當に音樂界の救済者とされるに價する者である。そこで、彼の御蔭を蒙って、多くの音樂家は單純なメカニズムの種々の用法で音樂に驚嘆すべき効果を産出する事が出來る。………ベルリオは彼の案出物の廢趾の下に望みなげに埋もれ横たわるのである。」(「歌劇と戯曲」、千八百五十一年) |
併したとへベルリオに剌戟され牽引されなかつた人が殆ど無かつたとは云へ、彼の猛烈な熱情、燃ゆる樣な妄想、煮え返るが如き想像、凡て彼の製作をしてその時代の最も美しい繪畫的反射鏡の一つたらしめた、又之からもさうさせるであらう處のものによつて彼は常に人々を感動させた。最も深い悲哀の唯中に、最も粗野な喜悦の旋轉花火と爆發とを輝かす彼の法悦と絶望の亂心的な力、その愛と憎惡の充溢、生活に對する無窮の渇望(1)――是等のものはかの「べンヴヱヌート」に於て群集を、「フアウス卜の堕落」に於ては軍隊を湧き立たせた處の本質であつて、そは大地、天國、地獄を震撼して曾て鎭まる事のなかつたのみか、主題が熱情から遙かに遠ざかつて居た時ですらも尚呑滅と熱烈の限りをつくして、かくて又一方には甘く優しき情緒と深奥の靜寂とを現はす處のものであつた(2)。
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(1) ベルリオからフヱランヘの手紙。
(2) 「私の音樂の主要な特性は熱情的な表現と、内心の温か味と、音律的な脈動と、豫測し難い効果とである。私が熱情的な表現と云ふのは、主題が熱情に反對のものである塲合にも尚私を驅つて死物狂ひにその主題の奥底の感情を再現させそして平静な情緒と深い静寂とを取扱はせる樣な表現法を意味するのである。即ちそれは「基督の幼年期」に於て、わけても「フアウストの堕落」に於ける「天ル・シール」の塲、「ルキヱム」の「サンクタス」に於て見出す事の出來るものである。」(「メモアル」第二。三百六十一。) |
此の噴火山の樣な力を、此の青春と熱情との奔流を人々がどう考へるにしても尚それらは否認する事の出來ないものである。丁度太陽を認めざるを得ない樣に。
同時に予はベルリオの自然に對する愛を注意しなければならない。それはプルトンム氏が云つた樣に「堕落ダムナシヨン」の如き作曲の精神であり、更に云ひ得べくんば凡ての偉いなる作曲の精神をなすものである。如何なる音樂家も、ベートオフェンを外にして之程深く自然を愛した者はなかつた。ワグネル自身は自然がベルリオの内に目醒ました樣な激しい感動を實現した事はなかつた。そして如何に此の感情が「堕落ダムナシヨン」、「ロメオ」、「トロイの人々」の音樂に飽和した事であらう(1)。
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(1) 「そして君は今君の「ニーベルンゲン」の溶けつゝある氷河の唯中に居る!自然の前で書くならば、それは壯麗なものでなければならない!……それこそ僕が拒絶された此の歓喜である! 美しい風景、高い山嶺 渺々たる海洋、之等は僕の内に思想を湧かせる前に僕を夢中にさせてしまふ。僕は感じる。併し感じたものを表はす事が出來ない。僕は月が井戸の底に映つて居る時にのみ、月を描く事が出來る。」(ベルリオからワグネルへの手紙。千八百五十五年、九月十日附) |
併し此の天才は、たとへそれが珍らしからぬものであるにも拘らずよく知られて居なかつた他の特別な素質を持つて居た。その第一のものは純粋な美に對する彼の感覺である。ベルリオの外觀のロマンテイシズムが此の事に對して吾々を盲目にしてはならない。彼はヴィルジール的精神を持つて居た。そして若し彼の色彩がウヱーベルを想はせるとしても、彼の構圖デザインは屢々伊太利の快美を持つて居た。ワグネルは決して此の言葉の拉典的な意味の、美に對する愛を持つて居なかつた。誰かベルリオの如く、南方の自然、美しい形、そして調和ある動律を理解した者があらう。誰か、グルツク以後、斯くも眞に古典美の秘密を認め得た者があらう。「オルフヱオ」が作曲されてからこの方、何人と雖も「トロイにおけるトロイ人」の第二幕のアンドロマケの入口程にも完全に、音樂の中に薄肉彫を刻んだ者はなかつた。「カルタゴのトロイ人」に於けるヱネイドの芳香は愛の夜の上に流れて居る。そして吾々は輝く大空を見、海の呟きを聽く。彼のメロデイーのあるものは、彫像であり、アテネ風の純粋な腰線フリーズであり、美しい伊太利少女の高雅な身振りであり、そして聖なる笑ひに滿ちたアルバニアの丘陵の浪打つ輪廓を思はせるものである。彼は「地中海の美」に感動し、それを音樂にとり入れることよりも更らに以上の事をした。――彼は希臘悲劇の眞髄を創造した。彼のカッサンドルだけを以つてしても、彼を曾て音樂が見た最大の悲劇詩人の列の中に加へるに充分であらう。そしてカッサンドルは、ワグネルのブリユンニルデに好適の姉妹である。併し彼女は一のより高貴な種族と、ソフォクレス自身が愛した處の靈と行爲の高い抑制を持つて居る事に於て更に優秀である。
ベルリオの藝術をあれ程迄に自然に流れ出させた古典的の高貴さは充分に注意された事がなかつた。彼があらゆる十九世紀音樂家の中で、最も高い程度に彫塑美の感覺を持つた者の一人であつたと云ふ事も完全に知られては居なかつた。そして又彼が甘美な漂ふ樣な曲調メロデイーの作家であつたと云ふ事をも人々は始終認めては居なかつた。ベルリオがメロデイーの發明の才能に乏しいと云ふ一般的の先入主にとらはれて居たワインガードナーが、ふとした時に「ベンヴヱヌート」の序曲の樂譜を開いて、僅か十分もかゝれば演奏してしまはれる程に短かいその作曲の中から、一つや二つではなく四つか五つの驚くべき豐かさと、獨創とを持つたメロデイーを見付けたときの彼の感じた驚嘆を彼は自ら書いて居る。
「私はこんな寶を發見した事の喜悦と、人間の理解の範圍の如何に狹いものであるかと云ふ事に氣がついた苦痛とで笑ひ出してしまつた! 此處で私は悉く人格の彫塑化であり、表現である五つの樂想を算へる事が出來た。それは驚嘆すべき手際と、多樣な形式とで次第に絶頂に登つて行き、やがで强大な効果を以て終つて居るものであつた。そして是が批評家や公衆から創造の力がないと云はれたあの作曲家の手によつて成されたのである! 此の日以後私にとつては藝術の共和國に他の偉大な市民が存在する事になつた(1)。」
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(1) Musikführer. 千九百三年。十一月二十九日。 |
之に先んじてベルリオは千八百六十四年に書いて居る。
「偉大な音樂家が屢々やつた樣に、曲の樂想テームとして一の非常に短かいメロディーを持ち出す樣な窮屈な事をしなくつても、私が常に自分の作曲に豐富なメロディーを入れる事に心をつくして居ると云ふ事を人々に納得させるのは、わけのない事である。人々は、元より、之等のメロディーの價値を、そしてその特牲や獨創を批判する事は自由である――それらのものを批判するのは私の爲めではない――併し其等の存在を迄否認することは、不正であると共に愚劣な事である。其等は屢々大規模である。そして未熟で、近眼の音樂的視力では明瞭にそれらの形式を分つ事は出來ないだらう。又、彼等は、限られた視力にとつては、主要のメロディーの形を覆ふ樣な第二のメロディーに與するかも知れぬ。或は最後に、浅薄な音樂家等は之等のメロディーが、彼等の呼んで以てメロディーとする處の面白い小さな物に似てもつかない事を發見するかも知れぬ。彼等は二つのものに同じ名を與へる氣になれないのである(1)。」
是等のメロディーに何と云ふ輝かしい變化のある事であらう。そこにはグルック式の歌曲がある。(カッサンド戸の歌)淸純な獨逸風の歌がある。(マレガレヱテの歌」。「焔と燃ゆる戀に」)ベリーニに傲つた最も澄み渡つた幸福な形の伊太利風のメロディーがある。(「ベンヴェヌート」のアルレカンの短歌アリエッタ。)ひろゞゝしたワグネル風の樂句がある。(ロメオの」終曲フイナレ。)民謠がある。(「基督の幼年期」の牧人の合唱。)最も自由でそして最も現代的な吟唱曲レシタテイヴがある。(ファウストの獨白。)その完全な展開、嫋やかな輪廓、そして縺れ合ふ强溺法ニユーアンスと共に、それはべルリオ自身の構想であつた(1)。
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(1) ジヤン・マルノル氏はその論説「音樂家、ヱグトル・ベルリオ」(千九百五年。一月十五日。二月一日。「メタキュール・ド・フランス」)の中でベルリオの一聲造曲モノデイーに對する此の天禀を論じた。 |
予は既にベルリオが悲劇的憂愁、生活の疲勞、死の苦痛の表現に於て比類なき才能を持つて居た事を語つた。一般的にも彼は音樂での偉大な悲歌作者エレジストであると云ふ事が出來る。非常に聡明で且公平な批評家アンプロは云つた。「ベルリオは内奥の喜悦と、深い感情とを感じて居る。それはベートオフエンを除いては曾て如何なる音樂家も感じた事のなかつた程のものである」と。そしてハインリツヒ・ハイネも彼を呼んで「巨大なる鶯、鷲の樣な大きさの雲雀」と云つた時、ベルリオの箇性に就て鋭い智覺を持つて居たと云へる。此の比喩は單に美しいばかりでなく、恐ろしく適切である。何となれば、ベルリオの巨大な力は孤獨で優しい心への捧仕であるからである。彼はベートオフヱン、或はヘンデル、或はグルック、或はシユーベルトの英雄ヒーロイズムらしさすらも持つて居なかつた。彼は「基督の幼年期」に現はされて居る樣に、甘い快よさと内奥の悲哀、渧涙の力、そして悲歌的熱情と共にウンブリア畫家のあらゆる魅力を所有して居た。
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今や予はベルリオの偉大なる特色に達した。それは彼をして大音樂家以上のものたらしめ、ベートオフヱンの後繼者以上のものたらしめ、或は或る人の云ふが如くワグネルの先驅者以上のものたらしめた處のものである。それは彼がワグネル其の人よりも更に適切に、「未來の音樂」の創造者、新らしい音樂の使徒と見なさるべき資格を持つ處の特色である。そして尚それは今日に於ても殆んどそう思はれては居ないのである。
ベルリオは二重の意味に於て獨創的である。その天才の異常の複雜さによつて、彼は自己の藝術の相對する兩極に觸れた。そして音樂の全く異つた二面の光景を吾人に示した。大なる一般的の藝術、そして音樂を解放した處のものがそれである。
吾人は悉く過去の音樂的傳統によつて奴隷化されて居る。幾時代に亘つて吾人は吾々自身では氣がつかなかつた此の軛を引きずつて行く事に慣れ切つて居た。十八世紀の末葉以後、音樂が獨逸の独專する處となつたために、音樂的傳統は――それに先立つ二世紀の間、それは主として伊太利のものであつたが――今や殆んど全く獨逸のものになつてしまつた。獨逸の形式に就て考へて見るのに、樂句フレーズの取扱方、その展開、調和、そして音樂上の修辭法も、作曲の法式も、吾々の凡てが獨逸の大家の手で次第に彫琢されて行つた外國思想から來て居る。此の支配力は、ワグネルの勝利以前には、そう完全に、そう重壓的ではなかつた。それから以後、此の偉大なる獨逸時代――その把握力は章句、塲面、働作、そしてあらゆる戯曲をその抱擁の中に包み切ってしまふ樣な一千の手を持った鱗のある怪物――が全世界を統治した。吾人は佛蘭西作家がゲエテ或はシルレルの形式に倣つて書かうとしたとは云へない。併し佛蘭西作曲家は過去に於て獨逸音樂家の方法を踏襲して作曲しやうとしたばかりでなく現在も尚それを試みて居るのである。
何故その事に驚くのか? 吾人は明かに事實を見なければならない。音樂では吾々は――斯う云ふ事が出來るならば―――佛蘭西形式の大家を持つて居ないのである。吾々の大音樂家は悉く外國人である。佛蘭西歌劇の最初の流派の創立者ルリはフロレンス人であつた。第二の流派の創立者グルックは獨逸人であつた。第三の流派のそれは伊太利人のロツシーニであり、獨逸人のマイヱルベールであつた。喜歌劇オペラ・コミツクの先祖は伊太利人のデュニ、白耳義人のグレトリーであつた。吾々現代の歌劇の流派を改革したフランクは之も亦白耳義人であつた。之等の人々は彼等の民族に獨特な形式を齎した。或は更に、グルツクがした樣に「各國共通(1)」の形式を發見しやうと試みた。それは、彼等がそれによつて佛蘭西精神の獨自な本質を抹殺する處のものである。是等の形式の内で最も佛蘭西的なものは、二人の外國人の作、喜歌劇である。併し更に多くを、一般に認られて居るよりも以上に、滑稽歌劇オペラブツフに負ふて居る。そして、それはいづれにしても非常に不充分に佛蘭西を代表したものである。より理性のある心を持つた人々は此の伊太利乃至獨逸の影響から脱却しやうと企てた。併し概して獨逸と伊太利の中間形式の創造に行きついてしまつた。オーベヱ及びアンブロアズ・トーマの歌劇がそれである。
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(1) グルツクは千七百七十三年二月、「メルキュール・ド・フランス」への手紙で彼自身此の事を云つて居る。 |
ベルリオの時代の以前に、佛蘭西音樂を自由なものとする事に非常な努力を致した第一列に位する眞に唯一人の大家が居た。それはラモオであつた。そして彼の天才を以てして尚伊太利藝術に征服されてしまつた1。
1、予は十六世紀末葉の佛蘭西ブランドルの大家に言及して居ない。それはジアンヌキアン、コステレー、クロード・ル・ジユーン、或は近頃ヘンリ・エキスパート氏に見出されたモーデユイ等である。最後の人は、その風格に非常な特色を持つて居たにも拘らず、其時代から今日迄殆んど全く知られずに來たのである。宗教戦爭は佛蘭西音樂の傳統を打砕いて、その藝術の精華を辱かしめた。
境遇の力に是非なくも佛蘭西音樂は外國音樂の形式を摸して居た。そして。宛も十八世紀に於ける獨逸が、佛蘭西の建築と文學とを摸傚しやうと試みたと同じ樣に、十九世紀の佛蘭西は、その音樂に獨逸語を語る事が習慣となつた。大概の入々が彼等が考へるよりも更に多くを語る樣に、思想そのものさへ獨逸化されてしまつた。それ故に此の傳統から來た不眞面目を通じて、そこから佛蘭西音樂の思想の眞實で自發的な形式を見出す事は困難であつた。併しベルリオの天才は本能によつてそれを見出した。最初から彼は、佛蘭西音樂を窒息させて居た外國の傳統の壓迫からそれを解放する事に努力した(1)。
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(1) ワグネルが、ベルリオを眞の佛蘭西音樂家の典型としてオーベヱに比較したと云ふ事實は興味ある事である。――オーベヱと、その伊太利と獨逸とをこね合した歌劇。此の事は如何にワグネルが、多くの獨逸人と同樣に、佛蘭西音樂の眞隨を掴む事が出來なかつたか、そして如何に彼がその外側をのみ見て居たかと云ふ事を示すものである。一國民の音樂的特性を發見する最良の方法はその民謠を研究するにある。若し人あつてその身を佛國民謠の研究に委ねるならば、(そして材料に決して乏しくないのである、)人々はそれがどの位多く獨逸の民謠と相違して居り、そして如何に佛蘭西民族の傾向がより美しく、より自由に、且更に力强く更に表現的ヱキスプレツシブなものとして現はれて居るかと云ふ事を賓際に知るであらう。 |
彼はその不完全と無學とを以てして尚、如何なる方面にも適して居た。彼の古典の教育は充分なものでなかつた。サン・サンス氏は次の樣に語つて居る。「彼にとつて過去と云ふものは存在して居なかつた。古い作曲家に對する彼の智識が彼の讀んだ事のある者に限られて居た樣に、彼はそれらの人々を理解して居なかつた。」と。彼はバツハを知らなかつた。幸福な無學! 彼は獨逸の聖樂オラトリオの大家の記憶や因襲にとらはれて苦しむ事なく、「基督の幼年期」の樣な聖樂を書く事が出來た。そこにはブラームの如く、殆んど彼等の生涯を通じて、過去の反覆であつた人々がある。ベルリオは一度も自分自身を表現するものゝ外は考へた事がなかつた。人々に對する彼の鋭い同情から迸つた處のあの傑作「埃及への脱出ラ・ユイト・アン・エヂプト」を創造したのは斯くの如くにしてゞあつた。
彼は曾て此の世に現はれた處の最も桎梏を受けざる魂の一つを持つて居た。自由は彼にとつて命懸けに必要な物であつた。「心の自由。意志の自由。魂の自由――あらゆるものにあつての自由………絶對にして無限なる眞の自由!(1)」そして人生に於ての彼の不幸であつた此の自由に對する熱愛は、彼を凡ての信仰の滿足からもぎ放して以來、彼の思想の依つて以て休息すべき如何なる塲處をも拒み、彼から平和を奪ひ、懐疑の柔かい枕すらも奪ひ去つてしまつたのである。――此の「眞の自由」こそ彼の音樂的抱懐の無比の特色と莊嚴とを形造つたものであつた。
「音樂は」とベルリオは千八百五十二年にシー・ローブに書いた。「凡ての藝術の中で最も詩的で最も力强く、最も生きゝゝしたものである。彼女は極端に自由でなければならぬのに未だそうなつては居ない………現代の音樂は古代のアンドロメダの樣に裸體であり、聖らかに美しい。彼女は廣々した海の岸の岩に繋がれながら、彼女を其の縺から解き放ち、慣習と名付けられた怪物キメーラをこなごなに打砕くべき勝ち誇つたペルシユースの來るを待つて居る。」
爲すべき事は、音樂を其の限られた音律リヅムから、傳統的の形式から、そしてそれを含むで居る法則から釋放する事であつた(1)。そしてそれにも増して大切な事は、言語の支配から脱却し、詩への屈辱的な囚禁から抜け出して眞實のものに成る事であつた。千八百五十六年にベルリオはウヰツトゲンスタイン公女へ宛てゝ書いた。――
「私は自由な音樂に手を擧げます。そうです。私は音樂が誇らしく自由であり戰勝者の樣であり、無上のものである事を欲します。私は彼女が彼女の出來るあらゆるものを採る事を欲します。そこで彼女にとつて一のアルプス、一のピレネヱと雖も存在しないでせう。併し彼女はたった一人で立向つてその勝利を得なくてはなりません。彼女の士官に手頼ってはならないのです。私は彼女に、出來る事なら、戰ひから出來上つた善い詩句を望みたいのです。併し彼女は、ナポレオンの樣に目の前に火を見、アレキサンダーの樣に、密集軍フアランクスの前列の中に進まなければなりません。彼女は或る塲合には何人の助けもからずに征服する位强力です。何故ならば彼女はメディアと共に「私は獨りだ。それで充分だ!」と叫ぶ權威を持つて居るからです。」
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(1) 「今日の音樂は、彼女の青春の力を以て、觧放され、自由であり、そして彼女の望む處をする事が出來る。多くの古い法則は少しも人氣を持つては居ない。それらは淺薄な思慮によつてゞなければ、慣習の愛好者の爲めの慣習の愛好者によつて作られたものである。意志と、心と、聽覺との新らしい要求は、新らしい努力、或る塲合には、古い法則の破壊を必要として來る。多くの形式が今も尚採用されて居るには古るすぎて來た。同じ事で居ながら、それを使ふ人の使ひ方によつて、或は人がそれを使ふ事の理由によつて、全然善くもなり、全然惡くもなる、響きと調子とは思想に次ぐものであり、思想は又感情と熱情とに次ぐものである。」(之等の意見は千八百六十年の巴里のワグネル音樂會に關して書かれたものである。そして「歌の間」の三百十二頁から引いたものである)
之をベートオフヱンの言葉に比較して見る。「人が美を進ませゐ爲めに破ってはならないと云ふ規則はない。」 |
ベルリオはグルックの不都合な理論(1)と、音樂を言語の奴隷とするワグネルの「罪」とを猛烈に排斥した。音樂は最高の詩であつて如何なる支配者をも知らないものである(2)。それ故に、絶え間なく純粋な音樂に表現の能力を増進させる事がベルリオの仕事であつた。そして傳統トラヂシヨンへのより溫健でより親しい繼承者ワグネルが、音樂と言語との握手に指を染め、(それは寧ろ不可能な事であるが)新らしい叙情劇を創始しようと企てゝ居る時、より革命的なベルリオは、その無比の典型が今日尚、「ロメオとジユリヱツト」である處の劇的交響樂ドラマテイツク・スインフオニーを成就した。
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(1) 千七百六十九年の「アルセスト」の「捧ぐる辭ことば」と、次の樣なグルツクの宣言を想起する必要はあるだらうか。「自分は音樂をその眞の職責に目醒ませ樣と努力した。――それは即ち情緒の表現と境遇に對する興味とを强めるために詩を助ける事である。……そして、そうするには如何に美しい色彩と、光りと陰影との幸福な配合が熟練した描寫に待たれる事であらう。」
(2) 此の革命的理論は𣪘にモーツアルトの持つて居たものであつた。「音樂は至高のものとして君臨しなければなりません! そして人をして何事をも忘れさせなければなりません。……歌劇では、詩と云ふものは音樂の從順な娘である事が絶對に必要な事です。」(父への手紙。千七百八十一年、十月十三日附。)此從順を取り入れる事の不可能な事に恐らくは絶望しながら、モツアルトは眞面目に歌劇の形式を破壊してそれに代つて彼がDuodramaと呼んだ處のメロドラマを製作しやうと考へた。それは千七百七十八年の事であつた。(ルツソオは千七百七十三年にその一の例を示して居た。)そこでは詩と音樂は漠然と組合されて、互ひに結び付くよりも却って並行した二つの路を並び合って進んで行った。(千七百七十八年、十一月十二日の手紙) |
ドラマテイツク・スインフオニーは當然總ての形式的理論と相容れなかつた。二種の議論はそれに反して起つた。一つはバイロイトから來て、今では一種の信條となつた。他の一つは何等の理解も無くて尚音樂を語る處の群集に持上げられた時流的意見であつた。
ワグネルによつて主張された第一の議論は、科白せりふと科介しぐさの助けを藉らずしては音樂は眞に働作を説明する事は出來ないと云ふのである。かくも多數の人々がベルリオの「ロメオ」を初めから終りまで非難し通したのは此の意見の名の下にであつた。彼等は働作を音樂に「翻譯トラデユイルし」たり、しやうとするのを幼穉だと思つて居る。それならば働作を音樂で「引立たレプザンチヱゝせる」事を彼等は少しも幼穉だとは考へないのか?科介なるものが非常に幸福に音樂と融合し得るものと彼等は思つて居るのか? 若し彼等にして過去三世紀に亘つて吾人を惱ました此の大なる虚構を根こぎにしやうとさへ試みるならば! 若し彼等にしてルッソオや卜ルストイの如き偉人等があの樣にも明確に見た程――歌劇なるものゝ馬鹿らしさを彼等の目を見開いて見るならば! 若し彼等にしてバイロイトが示した反自然を知つたならば! 「トリスタン」の二幕目には、イソルデが情熱に燃えながらトリスタンを待って居る有名な一節がある。彼女は終に彼の來るのに氣がつく。そして幾度か繰返すオーケストラの樂節に合せて、そのスカーフを打ち振るのである。予は、科介の連續に合せた音響の連續のあの「眞似事イミタシオン」が(何故ならば、それは無意味だからである。)予に與へた効果を云ひ表す事は出來ない。予はそれを怒るか笑ふかしなければ見て居られなかつたのである。不思譏なのは此の一節を音樂會で聽く時にはその科介が分る事である。劇塲だとその何れをも會得する事が出來ない。或はそれが幼稚なものに見えて來る。自然な働作が音樂の甲胄をつけると硬張つて來る。そして二つのものを一致させやうとする不合理が吾人を强迫する。「ラインゴール卜」の音樂で吾々は巨人の身の丈けとその足どりとを心に描く。そして輝く電光と、雲上に映ずる虹とを見る。それが劇塲だと丁度人形芝居の遊戯である。そして吾人は音樂と科介との間に到底越える事の出來ない深淵を感じる。音樂は別箇の世界である。若し音樂が戯曲を描寫しやうとすれば、そこに現はれるものは現實の働作ではない。それは精神によつて形を變へられそして心の内の幻影にのみ認めらるべき理想の働作である。最も愚劣な事は二種の幻影を同時に示さうとする事である。一つは眼へ、一つは精神への。恐らく常に彼等は互ひに殺し合ふのである。
プログラムをもつたスインフオニーに反抗して固執された他の一つの議論はまやかしの古典的議論である。(それは眞の意味で少しも古典的ではない。)「音樂は」と彼等は云う。「限られた主題を表現すべき性質のものではない。それは漠然とした思想にのみ適して居る。それは一層無制限であり、その力に於て一層強大であり、そして更に暗示的なものでなければならぬ。」と。
借問す。無制限な藝術とはどんなものか? 漠然とした藝術とは何を指すか? 二つの言葉は互ひに矛盾しては居ないであらうか? 此の奇怪な結合は果たして實在し得るものであらうか? 彼の天才が彼に囁く時彼は手當り次第に作曲すべきであると人々は考へるか? 吾人は少くとも斯う云はなければならない。ベートオフヱンのスインフオニーはその深奥の世界に降つて行つた「制限された」製作であると。そしてベートオフヱンは、より確的な智識ではないまでも、少くとも彼の交渉して居たものに就て明確な直覺を持つて居たと。彼の最後の四部曲カルテツトは彼の靈魂の描寫のスインフオニーであつてベルリオのスインフオニーとは非常に異つたものである。ワグネルは前者の或る一つを「ベートオフヱンの一日」と云ふ題名の下に解剖した。ベートオフヱンは彼の心の深淵、彼の精神の微妙さを音樂に翻譯しやうと常に試みて居た。それは言語によつて明白に説明さるべきものではなくて尚言語同樣に制限されたものである。實際には、一層制限されたものである。一言にしてつくせば、一の抽象的な物として樣々の經驗を総括し、多くの意味を包含した處のものなのである。音樂は言語に比して百倍も表現的であり、精確である。そして特殊な感情と主題とを表現する事がその權利であるばかりでなく、それが彼女の義務である。そしてもし其義務が果されなかつたとしたならば結果はそれが音樂ではないと云ふ事になる。それは全然何物でもないのである。斯くしてベルリオはベートオフヱンの思想の眞正の後繼者である。「ロメオ」の樣な製作と、ベートオフヱンの一スインフオニーとの相遑は、前者が音樂の内に客觀的感情と主觀とを表現する事に力をつくして居る樣に見える處にある。併し予は音樂が何故に内面觀察から韜晦し、宇宙の戯曲を描き出さうと試みるために詩に隨つてはならぬものであるかと云ふ事の理由を知らぬものである。シヱークスピアはダンテと等しく善い。併し、斯ふ云ふ事が云へる。ベルリオの音樂に於て發見されるものはベルリオ自身であり、「ロメオ」の全ての塲面に現はれた樣に、愛に餓へ、幻影に弄ばれた處の彼の魂であると。
非常に多くの事柄が云ひ殘されて居る時、予は一の論議を長々と説く事を止めやうと思ふ。併し予は最後として、吾人が藝術の内に境界を作る無稽の努力を排除するものであると云ふ事を暗示してをく。吾人は斯う云つてはならない。「音樂は斯々の事を表現する事が出來る」とか、「出來ない」とか。寧ろ吾人は斯う云ふのが至當である。「若し天才にして欲するならば……」と。天才にとつてはあらゆる事が可能である。そして若し音樂がそうある事を望むならば、彼女は明日は繪畫であり詩であり得べきである。ベルリオは其の事を彼の「ロメオ」に於て適確に證明した。
此の「ロメオ」は確かに一の特殊な製作である。「そこに純粋藝術の殿堂が打建てらるべき不可思議なる島」である。予一箇の意見を以てすれば予はそれが單にワグネルの最も力ある創作に比敵するものであると考へるばかりでなく、その教訓に於ても藝術の爲めの資源に於ても、更に豐富である事を疑はぬものである。それは同時代の佛蘭西藝術が未だ尚十分には利用する事をしなかつた處の資源と教訓とである。數年に亘つて少壯な佛蘭西派の人々が吾人の音樂を獨逸形式から取戻し、當然佛蘭西のものであるべき。そして「ライトモチーヴ」に制肘されざる吟唱的の歌詞を創造する事に努めて居た事は吾人の知る處である。即ち現代思想の自由を表現するがために古典或はワグネルの法式に助けを求めざる處の一層正確で一層重苦しくない詞である。左程久しからぬ以前、「スコラ・カントルム」が「音樂的朗誦の自由……」を叫んだ宣言書を發した。「自由な音樂の自由な語法……自由な語法のムーヴメントと、古代舞踊の彫塑的なリヅムとを持つた自然音樂の勝利。」斯くして過去三世紀の音樂に向つて戰ひを宣したのである(1)。――其の音樂が茲にある! 諸君は何處へ行つても之に上越す完全な典型を見出す事は出來ないであらう。多くの人々が此の音樂の根蒂がモデルを抛擲したものであると廣言し、ベルリオに對する彼等の輕侮を露骨に示して居る事は本當である。予はそれを許すとしても尚、彼等がベルリオの音樂の驚くべき自由さを感じないのならば、そして、それが眞に生きゝゝした精神を覆ふ處の微妙な羅だと云ふ事が分らないのならば、予は彼等の「自由音樂」主張の本來が眞の生命であるよりも、一層擬古主義に近いものだと思はなければならなくなる。先づ彼の製作の中での最も著名なページ、(ベルリオ自分が一番好きだつた全ての作曲の中の1つである(2))「愛の塲面や」、「ロメオの悲しみ」、や(ワグネルが持つて居た樣な精神が再び感情と喜悦の嵐を緩和して居る)「キアピユレツト家の祝祭」の樣なものを研究するだけでなく、「女王マツブを歌ふスケルツオ」か、「ジユリヱツトの目醒め」、そして二人の戀人の死を叙する音樂の樣な左程よく知られて居ないページを研究して見るがいゝ。一方には何と云ふ明るい優美さがあり、他方には何と云ふ震動する激情があり、そして双方共に何と云ふ意志の自由と、その適切な表現とがある事だらう? その詞は驚嘆すべき明徹さと單純さとを持つて莊麗である。餘計なものは一つもない。そして正確な筆を示さない言葉は一つもない。(「ダムナシヨン」に迄遡る)千八百四十五年以前のベルリオの大作の殆んど凡ての中に、諸君は此の神經質な精密さと、すさまじい自由さとを發見するに違ひない。
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(1) 「トリビユーン・ド・サンジヱルヴヱヱ。」千九百三年十一月。
(2) 「メモアル。」第二。三百六十五。
(2) 「此の作は通常の人々には少し利き過ぎる程な一味の莊嚴を持つて居る。そしてベルリオは、そのノートの中でページを飜して、そこをやらずにしまふ樣に天才の恐ろしい傲慢を以て指揮者コンタクターに注意して居る。(ジヱオルヂ・ド・マツスニヱの「ベルリオ」)。ジヱオルヂ・マツスニヱの此のいゝ研究は千八百七十年に出た。そして遥かにその時代より進んだものである。 |
今度は彼の音律リヅムの自由な事である。同じ時代の全ての音樂家の中で一番ベルリオに近かつたが爲めに一番よく彼を理解する事の出來たシユーマンは、「サンフォニー・ファンタステイク」の作曲以來、此の事に感動してしまつた(1)。彼は斯う書いた――
「確かに今の時代は、同一の拍子と音律とが不同な拍子と音律とに結び付いて一層自由に使ひこなされて居る樣な作を産むで居ない。第二の樂句が珍らしい程第一の樂句に交渉して居る。問題に對する答案である。此違式がベルリオの性格から出たものである。そして彼の南方人の氣性に対して自然なものである。」
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(1) 「おゝ! 私は此の唯一の論文を書いてくれた事に對して、どんなにシユーマンを愛し、崇拜し、尊敬して居るだらう。」(フーゴー・ウオルフ。千八百八十四年。) |
此の事に反対する處でなく、シユーマンは其處に何物か音樂の進歩に大切なものを見た。
「明かに音樂はその起源に、音律の法則が未だ彼女を惱ます事のなかつた時代に、復歸しやうとする傾向を示して居る。それは彼女が自分を解放する事を欲し再び拘束を受けない語法を獲得しやうとし、そして一種の詩的言語の品位ある境に自分を高上せしめそうとして居る樣に見える。」
そしてシユーマンはヱルネスト・ワグネルの次の樣な言葉を引用して居る。「時の暴力を振り落として、そこから吾人を取り戻す者は、人々の想像し得る以上に、音樂のために自由を取り返してやる者である(1)。」
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(1) 新音樂雜誌、「ヱクトル・ベルリオとローベルト・シユーマン」参照。ベルリオは根氣よく音律の自由――彼の云った樣に「音律の訓和」のために戰った。彼は音樂院に音律部を設けやうとした)(「メモアル。」第二。二百四十一。)併しこんな事が佛蘭西で理解されるわけがなかつた。「此の事に閼して伊太利の樣に後戻りしない程佛蘭西に執拗に音律の放釋を排斥した。」(「メモアル。」第二。百九十六。)併し過去十年の間に音樂に於ける大なる進歩が佛蘭西では行はれた。 |
更にベルリオのメロディーの自由に注意する。彼の各樂節は生命それ自體の樣に脈搏し流溢する。そして「或る樂節は箇々に切り放しても」とシユーマンは云ふ。「丁度古代の多くの民謠の樣に、調和に堪えない程の烈しさを持つて居る。そして又時にはそれらの完全を傷ける樣な伴奏をさへ持つて居る(1)。」此等のメロディーは、その力强い彫琢と繊細な浮彫とによつて、輝かしい調子モデユレーシヨンの兇暴さと、强い妁熱した色彩とによつて、光りと陰の柔かな葷しによつて、或は堅硬な潮の樣に肉體の上を流れる目にも見えない程の思想の波紋によつて、最も小さな肉體と心との顫動を再現する程にも情緒と交渉して居るものである。それは特殊な感覺の藝術である。そしてワグネルのに比べて一層微妙に表現的である。それ自身現代の音調に滿足しないで、古い樣式に、サン・サンス氏の云つた樣な叛逆に、バツハの日以來音樂を支配して來た多音ポリオフニーに、そして或は結局「消滅しなければならない運命を持つた異端(2)」に迄立戻つたのであつた。
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(1) 同前。「罕なる特質」とシユーマンは附け加へる。「それが彼の殆んど凡てのメロディーに一々の特色を與へて居る。」と。シユーマンは何故に「ベルリオが屢々彼のメロデイーに伴奏として單純なパスや、中間部を無視して第五音を上げたり下げたりした和弦を使ふ」かを理解して居た。
(2) 「そこで眞の藝術には何が殘つて居るだらう。或はベルリオこそ其の唯一の代表者であるかも知れない。ピアノフオルトを研究する事なしに彼は本能的に旋律配合法カウンターポイントを嫌つて居た。此の點で彼は、カウンタポイントの化身であり、此の法則から出來るだけのものを採ったワグネルとは正反對の位置に居る。(サンサンス) |
ベルリオの吟唱曲レシタテイヴがその長い、旋廻する音律(1)と共に、ワグネルの朗誦曲デクラマシヨンに比して如何に多く美しいものであらう。ワグネルのそれは――主題のクライマツクスから離れて、そこでは歌曲が廣い力强い樂句の中に破れて、その影響は屢々到る處で弱くなつて居る。――彼等自らを言葉を以てする高低の類似樂譜に制限し、オーケストラの快い調和に反抗してやかましく鳴りびゞくのである! ベルリオの管絃樂は、又、猛烈な急流をなして流れながら、そしてその流程の中にあらゆるものを流し去りながらワグネルのそれに比して一層微妙な性質を持つてゐ、一層自由な生命を持つて居る。同時にそれは、その結合と堅硬さに於て少く、併し一層柔軟である。その性質は波動に富むで変化がある。精神と働作の無數の微細な感激が其處に映し出されて居る。それは自發と氣まぐれの驚異である。
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(1) ジヤツク・バツシイは、ベルリオの塲合では、最も頻繁な樂句だと、十二、十六、十八、或は廿の節線を持つて居ると云ふ事を指摘した。ワグネルでは八つの節線を持つた樂句は罕であり、四つのそれは一層普通であり、二つのものはそれよりも更に普通であり、一節線のものに凡てに於て最も頻繁である。(千八百八十八年、六月十日「ル・コルレスポンダン」所載の論文、「ベルリオとワグネル。」 |
その外見にも似もやらずベルリオと比較する時、ワグネルは古典派である。彼は獨逸古典音樂家の仕事を承けついで、それを完成した。何等の革新をも彼はしなかつた。彼は音樂の一進歩の絶頂であり終結である。ベルリオは新らしい音樂を起した。そして吾人はそこに凡て大膽で且優美なる青春の熱情を見る。ワグネルの藝術を縛つて居る鐡石の樣な法則は、それが完全な自由の幻影を吾人に與へるベルリオの初期の製作には見出されない(1)。
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(1) 此處で吾人はベルリオの、諧調ハーモニーの貧弱と粗野とに就て記さなければならない。――それは爭ふ事の出來ない事實である――何となれば或る批評家や作曲家等は彼の天才に就て「綴語の誤り」のみしか見る事が出來なかつたからである。(予は何か愚劣な事を云って居るのだらうか、――ワグネルは予に向つてそれを語るだらう。)是等の恐るべき文法學者――二百年以前には、その變則な語法に就てモリヱールを批評した樣な――に對しては、予はシユーマンを引用して答へなければならない。
「至つて貧しい材料から出來るベルリオのハーモニーは、その効果がそれゞゝ種々雜多であるにも拘らず、一種の單純さによつて各々特色を持つて居る。そしてベートオフヱンのものだけに見る事の出來るあの堅さと簡潔さとによつてすらそうである。……人々は――少くとも古い法則に從へば――到る處に平凡で極まりきつたものか、或は正しくないハーモニーを見出すであらう。或る塲處では彼のハーモニーは快美な効果を持つて居るのに、又他方ではその結果は曖昧で不確かであり、或は氣持惡い響きを出し、そして餘り念入に過ぎ、無理をしすぎて居る樣な處がある。併し尚ベルリオに於ては此等の凡てが幾分なりとある慥かな特色を示して居る。若し或る人がその誤謬を正さうとし、少しでもそれを制限しやうとすれば――いゝ音樂家にとつてそれは兒戯に等しい事であるが――其の音樂はだれてしまうであらう!」(「サンフオニー・フアンタステイクに關する論文。)
併し、ワグネルが「ハーモニーとメロデイーの事柄で、新語法は許さるべきだとか、紹介すべきではないとか云ふ樣な子供の樣な問題」と書いた如く、吾人も此の「文法上の論議」を止めやうと思ふ。(ワグネルからベルリオヘの手紙。千八百六十年二月廿二日。)シユーマンは斯う云った「第五音に注意するがいゝ。そして靜かにしやうではないか!」 |
ベルリオの音樂の深奥の特色がしつかりと握まれるや否や、人は何故にそれがこんなに多數の秘密な敵意に遭遇したか、或は今も尚遭遇して居るかゞ分るだらう。音樂的傳統を貴ぶ、高名で學識ある如何に多くの能才の音樂家等が、彼の音樂の呼吸する自由の空氣に堪えられないのでベルリオを理解する事が出來ずに居る事だらう! 彼等は、ベルリオの辯説が顚覆し、震動させた獨逸音樂の事ばかりを考へさせられて居たのである。予はそれがよく解る! 一人の佛蘭西音樂家が佛蘭西の事を大膽にも考ヘたのはその時が初めてゞあつたのだ! そしてそれこそ予が何故にベルリオに就て獨逸の思想を餘り從順に受け入れる事の危險であるかを警告する理由である。ワインガーナーや、リヒアルト・シユトラウスや、そしてモツトルの樣な人々――俊秀な音樂家等――は、疑ひもなく、ベルリオの天才を、吾々佛蘭西音樂家よりも一層よく、一層速やかに評價する事が出來た。併し予は、彼等が彼等自身のそれとは斯程までに反對した精神に向つて感じた其の評價なるものを全然は信じられない者である。こんなにも親密でこんなにも自由な其の思想を學び、その思想を讀む事は佛蘭西に就ての事である。佛蘭西の民衆に就ての事である。そして其等は何時かはその福音を彼等におくるであらう。
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ベルリオの他の偉大な特色は、殆ど其の頃、自治にまで高上して行つた若々しい民主制デモクラシーや、一般民衆の精神に適應する樣な音樂に就ての才能の内に在つた。彼は自分の貴族的な侮蔑があつたにも拘らず群衆と共に居た。イツポー氏は彼にテインの浪漫的藝術家の定義をあてはめて斯う云つて居る。「初めに世界的の高さに逹しながら、物々しくもその胸と心の激動を展げて見せる、豐富で、しかも大望にみたされた或る新らしい民族の庶民」と。ベルリオは革命の周圍の中に、帝王的偉業の物語りの中に生長した。彼は千八百三十年の七月、「屋根の上を風を切つて飛び、彼の窓に近い壁に當つて平たくなる流れ彈丸の堅く鈍い音をきゝながら、」羅馬賞のためのカンタゝを書いた(1)。此のカンタゝを書き終ると彼は「ピストルを手に持つて、義勇民の群(Sainte canaille)と一緒に巴里の賤民の樣を振舞ふために」出かけて行つた。彼はマルセイヱーズを歌つた。そして亦「聲と心臓と、その血管の中に血を持つて居る凡ての人々!」(2)にそれを歌はせた。彼は伊太利への旅行の途中、モデーナとボローニアの叛亂に參加しやうとして居たマツズイーニの徒黨と、マルセイユからリヴルン迄一緒に旅した。たとへ此の事に意識があつたにしろ無かつたにしろ、彼は革命の音樂家であつた。彼の同情は民衆を離れなかつた。彼は、劇傷での其の傷面を、(「名歌手デイー・マイステルジンゲル」の群集に三十年を先んじて)「ベンヴヱヌート」の第二幕、羅馬カルニヷル祭のそれの樣に、雲集し騷擾する群集で滿たす事としたばかりでなく、尚、彼は庶民の音樂と、巨大なる形式とを創造した。
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(1) 「メモアル」、第一。百五十五。
(2) 是等の言葉は全部奏樂と二重合唱の「マルセイヱーズ」の準備の樂譜に記したベルリオの命令からとつたものである。 |
彼の手本は茲ではベートオフヱンであつた。「英雄曲エロイカ」に於ける、「Cマイノア」に於ける、「A」に於ける、そして就中「第九スインフオニー」に於けるベートオフヱンであつた。ベルリオは此の事に就ても、他の事柄での樣にベートオフヱンの後縫者であると共に、彼の製作を承けついで行く處の使徒であつた(1)。そして彼は自分の材料の効果と樂器とに對する理解を以て彼の自ら云つた樣に、「バビロン風でニネヴヱ式(2)」であり、「ミケラシジヱロに傚ふ音樂(3)」であつて且「無限に大規模(4)」である處の大建築を打ち建てた。それは二つのオーケストラと一つの合唱團とから成る「埋葬と凱旋の交響樂」であつた。それはベルリオが愛して居た處の、(その終曲フィナレ「ジユデックス・クレデリス」は彼にとつて今迄書いた内で最も効果のあつたものに思はれた(5)。)オーケストラとオルガンと三つの合唱團とから成つた「神にデ・デユーム」であつた。それは二つのオーケストラと二つの合唱圖との「アンペリアール」であつた。それは「中心になつて居るオーケストラと肉聲の集團とを取りまきながらしかも或る距離を置いて互ひに相別れ、相答へる管樂器の四つの合奏團」とを持つた有名な「ルキヱム」であつた。之等の作曲は「ルキヱム」と同じ樣に、その形式に於て生まのまゝでありそして平凡な感情を持つては居たけれど、尚その莊麗さは征服的であつた。此の事は取扱はれた手段の尨大な事によつてのみでなく、同時に「その形式の氣息と、是等の作曲に不可思議にも巨大な性質を與へる處の、そしてその最後の目的に到っては何人の揣摩する事をも許さない處の、進行法の或る驚くべき緩やかさ(6)」に關係して居るのである。ベルリオは是等の作曲の中に、音樂の自然のまゝな塊の中に見出さるべき美しさそのものゝ目ざましい例を殘した。聳え立つアルプスの樣に、彼等はその廣大さアムマンシテによつて人々を動かす。一獨逸批評家は云ふ。「是等巨大な製作の中でこの作曲家は、音響と純粋な音律との本質的で野蠻な力を勝手氣儘に遊び耽らせて居る(7)。」と。それは殆んど音樂ではない。自然それ自らの力である。ベルリオは自分でその「ルキヱム」を「音樂の洪水(8)」だと云つて居る。
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(1) 「ベートオフヱンから」とベルリオは云ふ。「音樂に於ける巨大な形式の生誕は始まる。」(「メモアル」。第二。百十二。)併しベルリオはベートオフヱンの手本、――ヘンデルを忘れて居たのである。吾人は同時に佛蘭西革命の音樂家を數に入れなければならない。メウール、ゴセツク、ケルビーニ。是等の人々の製作は假令、各の力に於て同じではないとしても、尚、莊大さを持つても居たし、且、新らしくして高貴な一般的音樂の知覺を屢々示して居るものである。
(2) 千八百五十五年のモーレルへの手紙。ベルリオは斯う云う風に彼の「神に」のテイピ・オムネスとジユヂツクスの事を書いた。之を次の樣なハイネの解釋と比較して見る。「ベルリオの音樂は私をして前代の巨大な動物、又は神話時代の大帝國……バビロン。セミラミスの空中庭園。ニネヴヱの竒觀、ミズライムの大瞻な建築を想像せしめる。」
(3) 「メモアル。」第一。十七。
(4) 失名の人への手紙。多分千八百五十五年頃に書かれたもの。(「ジークフリート、オークス」のコレクシオン)。そして千九百四年にアルフレツド・ブルノーの佛蘭西音樂史(Geschichte der franzosichen Musik)に發表されたもの。その手紙にはべルリオ自身の書いた、彼の製作の珍らしい解剖的の目録が入つて居る。彼はそこで「ルキヱム」や「サンフオニー・フユネーブル・ヱ・トリオンフアール」や「神に」の樣な「巨大な性質」の作曲に對しての、そして又「アンペリアール」の樣な「莊大な形式」の作曲に對する彼の特別な愛を語つて居る。
(5) 「メモアル。」第二。三百六十四。尚前掲の「ジーグフリード・オークス」コレクシヨンの手紙参照。
(6) 「メモアル。」第二。三百六十三。同第二。百六十三。尚、千八百四十四年に行はれたる、出演者千廿二人の大音樂祭に關する記録参照。
(7) ヘルマン、クレツツシユマルの「音樂堂の指揮者」(Führer durch den Konzertsaal)
(8) 「メモアル。」第一。三百十二。 |
斯の如き颶風は民衆に向つて呼びかけ、鈍り切つた人道の大洋を浪立たせ、奮起せしめるために放たれた處のものである。かの「ルキヱム」はシクステインのそれとは異つて居るにしても、そしてベルリオもシクステインに就ては少しも考へては居なかつたが)滔々たる貴族主義に對する最後の審判である。併し同時に、狂亂し、昂奮し、そして寧ろ野蠻性を帶びた群集に對するそれであつた。「ラコツズイーの進行曲」は革命戰爭のための音樂と云ふよりも、寧ろ、匈牙利進行曲である。それは進撃の譜を奏する。そしてベルリオの云ふ樣に、そのモツトーとしてヴイルジールの詩をとつていゝのである。
“……… Furor iraque mentes
Praecipitant pulchrumque mori succurrit in arrinis”(1)
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(1) 千八百六十一年二月十四日附の或る若い匈牙利人への手紙。――「ラコツズイーの進行曲」が、ブダペストの聽衆に惹起した信じ難い程の激励と、就中、最後の驚くべき光景を記述した處の「メモアル。」第二、二百十二を參照せよ。 |
「私は突然這人って來た一人の男を見た。彼は見すばらしいなりをして居たが、その顏は不思議に昂奮の色に輝いて居た。彼は私を見るや否や自分の身を私に投げかけて熱情をこめて私を抱きしめた。その兩眼は涙で一杯になって居た。そして口を利くのも苦しさうであつた。「あゝ。あなたムツシウー、あなたムツシウー! 私はモア匈牙利人ですオングロア、………不運な男ですボーヴル・デイアブル。……佛蘭西語は出來ませんパ・バルレ・フランセヱ……ちつとばかり伊太利語をアン・ポコ・イタリアノ……昂奮しているのを許して下さいバルドン・ネヱ・モ・ネクスタース。……あゝ! あなたのキヤノンはよく解りましたヱー・コムブリ・ヴォートルキアノン。………そうですウイ。そうですウイ。すばらしい戰ひですラ・グランド・バタイユ。……獨逸アルマンの犬めシアン!」それから彼の胸を力一杯叩いて、「心の底にダン・ル・クウル……私モア……私はあなたを持つて居ますジユ・ヴ−、ボルト。……あゝ! 佛蘭西人フランセヱ…… 革命家レヴオリユーシヨネヱル ……音樂の革命の出來るのはあなただ!サヴオアル、フヱール、ラ、ミユージイク。」
ワグネルは「サンフオニー・フユネーブル・ヱ・トリオンフアール」を聽いた時、「最も善い意味での一般的な作曲を書く」ベルリオの「巧妙さ」を認めないわけには行かなかつた。
「そのスインフオニーを聽いて居て、自分は紺のズボンと、赤い帽子のどんな町の子供でも完全に理解する樣な生きゝゝした印象をうけた。自分はその製作に、ベルリオの他の製作を覆ふ程な優秀の名を與へる事に躊曙しない。それは初めから終りまで莊大で高貴である。美しいそして熱烈な愛國心が、その哀憐の最初の表白から敬神の最後の榮光に迄浪立つて、そして其の製作を凡ての不健全な誇張から免れしめて居る。自分は喜んで、此のスインフオニーが人々の勇氣に焔を點じ、そして國民が佛蘭西の名を冠する限り永遠に生きるであらうと云ふ確信を表明する者である。」(千八百四十一年五月五日に書かれれもの。)
何故にこんな製作が我等の共和制デモクラシーによつて等閑視されて居るのか? 何故に我等の公共生活に席を占めては居ないのか? 何故に我等の大なる典禮にあづからないのか? それは人々が前世紀の間の音樂に對する政府の無關心に氣がつかない時、彼等がいぶかしげに發する自問である。若し力が彼に與へられ、或は彼の仕事が革命の祝宴にその席を見出したとしたならば、恐らくベルリオの爲さずにしまつた事は何であつたらう!
不幸にして吾人は、茲でも再び彼の性格が彼の天才の敵であつた事を云はなければならない。同樣に、その生涯の第二期に於て此の自由音樂の使徒は彼自身に恐れをなし、その本性の結果の前に畏縮し、且古典主義に後退したゝめに此の革命家は、民衆と革命とを悲しげに難ずる處まで落込んでしまつたのであつた。彼はそれを「共和のコレラ」と呼び、「不潔で愚昧な共和」と呼び、「荷擔人クロシユトウールと褸襤拾ひシツツオニヱヱの共和」と呼び「その蠢動と革命の蹙め面がボルネオのヒヒ(註1)や猩々よりも百倍も愚鈍で動物的な、人道の卑しむべき彌治馬(1)」と呼んだ。何と云ふ恩知らずだ! 此の革命に、此の民主々義デモクラシーの暴風に、此の人類的狂嵐に、彼は己が天才の最善のものを負ふて居た。しかも彼は全てを擯斥したのだ! 彼は新時代の音樂家であつた。しかも彼は過去に隠れ家を求めたのだ!
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(1) ベルリオは千八百四十八年の革命に對して罵る事を決して止めなかつた。それは彼の同情を得なければならない筈のものであつた。常時の昂奮した状態に居て、ワグネルの樣に熱噴した作曲をする爲めに材料を求める事をしないで、彼は「基督の幼年期」を書いて居た。彼は絶對の無關心を裝つて居た。あんなにも無關心になれない彼がである!――彼に政府の處置に賛成した。そして夢想の希望を輕蔑した。
(註1:犭に非/サイト管理人記述) |
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そんな事はどうでもいゝ! 自らそれを望むだと否とに拘らず、彼は音樂に向つて一の莊麗な路を切り拓いたのである。彼は佛蘭西の音樂に封してその天才が當然踏まなければならない路を示した。彼女が夢想だもしなかつたその運命を示した。彼はそれが曾て眞實で且表現的であり、外國の因襲に捉はれずして吾人實在の奥底から發し、そして佛蘭西精神を映し出した處の音樂的言語を我等に與へた。それは彼の明徹な想像に、美に對する本能に、瞬間的の印象に、そして彼の感情の微妙な陰影に照應する言語であつた。彼は歐羅巴に於ける最大の共和に向つて、國民的で且一般的鞏固な基礎を置いたのである。
其處に光輝ある偉勳がある。若しベルリオにしてワグネルの推理力を持ち、その直覺を能ふ限り用ふる事をしたならば、若し彼にしてワグネルの意志を所有し、そしてその天才の靈感に形を與へてそれを堅固なる全體に鍜へ合せたならば、予は彼こそワグネルがしたよりも一層偉大なる音樂の革命を成し遂げたと云ふ事を言明して憚らないものである。何故ならばワグネルは更に力强く、更に彼自身の支配者でありながら、しかも箇性に於て乏しく、そして實際では光榮ある過去の終末であつたからである。
その革命は尚も續けられるのであらうか? 恐らくは。併しそれは半世紀の遅きに惱むだ。ベルリオは人々が千九百四十年頃に至つて漸く彼を理解し出すだらうと悲しげに計算した(1)。
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(1) 「私の音樂の道程は、若し私が百四十年間生きられると非常に滿足に終るだろう。」メモアル。第二。 |
要するに、その偉大なる使命が彼にとつて重きに過ぎた事は怪しむに足りない事である! 彼はあれ程にも孤獨であつた(1)! 人々が彼を嫌へば嫌ふ程、彼の寂寥は一層大なる慰安の内に立つて居た。彼はワグネル、リスト、シユーマン、フランク等の時代にあつて孤獨であつた。そこに彼の敵、彼の友、彼の讃美者、そして彼自らが、全く差別なく混在する全世界を自分の内に臓しながらの孤獨であつた。孤獨。そしてその寂参に彼は苦しむだ。孤獨――之こそ彼の青年と老年の兩時代に亘つて反覆され、そして「サンフオニー・フアンタステイク、」「トロイの人々」によつて繰返された言葉である。之こそ予が是等の章を書きながら予の前に置かれたる宵像――彼の顏があんなにも彼を誤解して居た時代の悲しくも苛酷なる非難に面して居る「メモアル」の美しい肖像の中に予が讀んだ處の言葉である。
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(1) 此の寂寥はワグネルを動かした。「ベルリオの寂寥は、彼の外的の境遇によるばかりでなく、その根源は彼の性格の中にある。よし彼がその市民仲間と同じ樣に鋭い同情と快活とを持つて居る佛蘭西人であつたとしても、尚彼は孤獨である。彼は彼の前に助けの手を差し伸べる只一人の者をも見ない。彼の傍らには、彼の凭りかゝるべき只一人の者も居ない。」(千八百四十一年五月五日の論文。)是等の言葉を讀む人々はベルリオに對する彼の理解を妨げたものが彼の叡智ではなくして、彼の同情の缼乏であつた事を感じる。予は彼がその心中では何人が彼の大なる敵手であるかをよく知つて居た事を疑はない。併し彼は決して何事も之に付て云はなかつた。若し或る人が出版の目的のものではなかつた一の愚劣な記録を信じる樣な事さへなければ。そしてその中で彼は彼をベートオフヱンとボナパルトに比較して居るのである。(モツトルによつて獨逸の雜誌に發表され、ジヱオルヂ・ド・マツスニヱ氏によつて千九百二年一月の「演劇評論レヴ−、ダール、ドラマテイク」に發表されたアルフレ・ボヴヱー氏コレクシヨン原稿。) |
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