ジャベル「一登山家の思い出」 尾崎喜八 訳 (一部)


   ※ルビは「語の小さな文字」で、傍点は「アンダーライン」で表現しています(満嶋)。


                

二夏の思い出

 

 

セルヴァン登攀

 

 

  ヴァル・ダニヴィエールの一週間      
  ヴァイスホルン登攀      
  ロートホルン登攀      
  ダン・デラン登攀      
  サルヴァン      
  サランシュの峡谷      
  トゥリアン山群      
  トゥール・ノワールの初登攀      
  プラン・スリジエの葡萄小屋      

  

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 二夏の思い出

    I

 わたしは自分が目的もなしに出かける登山家の一人であり、役にも立たぬ山岳会員の一人ということを告白すべきだろうか。
 わたしはテッファーやティンダルを、カラームやドゥ・ソーシュールを賛嘆する。わたしは今日までこれら光輝ある首領たちの誰の下にも屈することができず、彼らの流派のどの一つにも汲々として従うことができず、しかもある時は彼に、ある時はこれにと、代わるがわる惹きつけられて、彼らの後を遠くから、非常に遠くから追っている者であると言おう。わたしが牧者たちにまじって炉の前に坐っている時、テッファーの魅するようなページが心のうちに蘇る。傷んだシャレーや、嵐のために根こぎにされた古い樅の樹の姿を見ると、わたしはカラームを想い出す。氷河のへり、堆石モレーンの上で、わたしはドゥ・ソーシュールを夢想する。高い峰に面しては、ティンダルやヴァイレンマンを羨望する。それからわたしは帰って来る。なお幾つかの美しい思い出を、おそらくはそこばくの思想を心に担いながら。しかし、科学的な観察や氷河の研究などは少しもない。また、一本の植物、一枚のスケッチもわたしにはない。もしもあれば、おそらく万年雪ネヴェのほとりで摘んだ一輪の小さい花か、どこかの愛する峰の横顔ぐらいなものである。わたしは出発の時と同様に、ついに役にも立たぬ者として帰って来るのである。
 わたしのような種類の登山家に宛てた真面目な訓戒を読むと――わたしもその訓戒から教えられる一人だが――どうやらそんな告白も仕憎くなる。それを聴いていると、青いクレヴァスの上へ身をかがめたり、クーロワールヘ入って行ったり、高い峰を攀じ登ったりする権利を持つのは、実にただ、何か科学的な有用な目的を立て、湿度計や経緯儀を携えて行く者だけだということになる。そして、しかも、これに反対する何物かがわたしの衷で立ち上がるのだ。
 否、構わず出発するがいい、無学の登山家、為すなき山岳会員諸君。氷河を跋渉し、最高の絶巓に足を印し、そして、平然と帰って来るがいい。君たちには別の所に業務があるのだ。別の所でその社会的活動への貢みつぎを払っているのだ。労働や悩みに疲れた君たちの魂を、あの大自然のエネルギーの中へ恥ずるところなく浸したまえ。この休養の時間をさえなお彼らはわれわれと争おうとするのか。われわれがひとたび自分の夢想に従ってわれわれ自身のために漁りに行くことに対して、広大な人間の蜂巣からは一瞬問たりとも逃れることはできないと、彼らは言い張ろうとするのだろうか。
 役にも立たぬ遊覧客? ……否、彼らは無益ではない。かくも謙譲である者、一つの真摯な賛嘆の員をアルプスへ払いに来て、そこに魂を浸す者、おそらくは説明する術も描写する術も知らずに、しかもアルプスを理解し、愛する者、彼は無用の旅人ではない。
 無用の名こそ物見高い遊覧客へ。青いヴェイルと焼印を捺した杖との持ち主へ。だが消え果てた小径を辿ってただ一人シャレーの戸を叩きに来る者、わけても堆石モレーンを飛び越え、氷河を溯り、高い峰を攀じる者には、また別の名を与えるがいい!

 わたしが数年来アルプスを遍歴しているのはこの精神をもってである。夏、秋、あるいは冬、たった一人、自分流儀で、真に平然と、またつねに何かしら新しい喜悦を感じながら。
 アルプスを遍歴する、とわたしは言った。それは違う。むしろ、ダン・デュ・ミディを、とこそ言うべきであろう。
 ダン・デュ・ミディ、これこそわたしの特別な愛の対象である。夏が近づくと、最も評判のいい峰々や最も名高い山々を幾度かわたしは思い立った。わたしはディアブルレを、ポアントゥ・ドルニーを、プルルールを、ドムを、セルヴァンを計画した。しかし、あらゆる計画にもかかわらず、ダン・デュ・ミディは最も力強くて、つねにわたしを引き寄せるのであった。一度などはミュヴランを目指して真剣に出発したのに、どうしたことか、左手アヴァンソンのゴルジュへ道をとる代わりに、右へ曲がってヴァル・ディリエを登ってしまった。ミュヴランヘ行くのにこの道をとるのはまちがっていたのである。それで翌日の黎明には、またもやわたしはシュザンフのアレートに立っていた。
 これが一種のマニアだということはわたしも認める。よろしい! しかし、不思議なことには、絶頂その他への成功不成功の無数のコースの後で、この全山塊のうちに、人間の一生に対して充分広大な場所が、あるいは学問的な、あるいは珍奇な、あるいは絵のような観察の場所があることと、七つの牙峰ダン、氷河や、堆石モレーンや、ゴルジュや、渓谷などを残らず知る前に、まずそこで多くの日々を過ごすことができるということをわたしは信じさせられたのである。行くたびごとにいっそう新しい事物を発見し、まだかつて二度と同じコースを採ったことなく、わたしが絶えずそこへ帰って行くのはまさにこれがためである。
 普通はシャンペリーとボナヴォーとを経由してダン・デュ・ミディヘ登る。このコースを採るにはヴァル・ディリエをすっかり溯らなければならない。多くの人々にとっては飽きあきする必要事ではあるが、或る人々にとっては、ことにわたしにとっては大いなる魅力である。
 もしもうまく時間を選んで、焼きつける太陽のために気分を悪くさせられないような方法を採れば、こんな興味ある地方を通ったことを後悔はしないだろう。
 ヴァル・ディリエは一見単純で、絵画的な大きな印象には乏しい。そして、その路は稀にしか深い渓谷に沿おうとしないような一本の淑ましやかな路である。異常な物は何ひとつない。しかし、たくさんの愛すべき風物があり、特別に或る風景を成しているような独自な場所も少なくない。
 初めのうち、即ちモンテーの上での半時間の間は、ダン・デュ・ミディはダン・ドゥ・ヴァレールに匿れて姿を見せない。その代わり見事な森林で彼われた斜面と、普通七月には清々しくて生き生きした点で較べるものもないような緑の牧場とが展開する。人は谷間全体にひろがっている安楽と平和との空気に、もう驚かされる。影と涼しさとに被われて緩やかに高まる右手の斜面は、その胡桃の樹の下や一つ一つの襞の間に、緑におおわれた無数のシャレーを匿している。食事の時刻、
「いともささやかなる屋根より煙わずかに立ち昇る時」
 人はいっそうよくその数を数えることができる。
 間もなくトゥレートランとその遠望の愛らしい輝く鐘楼とが現われて、谷底の眺めと共に一幅の非常に美しい絵になる。しかし、もっと近づいて橋の高みから眺めれば、ディーヌの峡谷の奥にある優雅な製材小屋を伴って、いっそうの妙味が加わる。
 人は路を行きながら、ダン・デュ・ミディの尖峰の一つが現われるのをそういつまでも見ないというわけではない。やがて二つ、続いて三つ、最後に七つの尖峰がことごとく現われる。最も美しい出現は(そして、このことはあまり注意されていないが)、トゥレートランとヴァル・ディリエとの中間、路が峡谷を通過するために作ったある雄大な絵画的な迂回点を過ぎてからである。その迂回点には一続きの巨大な絶壁があって、それが突如として聳え、驚くべき高さをもって渓谷を圧している。
 悦ばしげなヴァル・ディリエ! お前の平和と栄えとの上に、今日お前に多くの魅力を与えているこの静寂な楽土全体の上に、何という不断の脅威が落ちかかっていることだろう! その脅威は年毎に接近し、年毎に迫って、必ずやいつか現実のものとなるの外はないのだ! あんな高みからお前を見おろしている絶壁は、徐々に侵蝕され、咬みへらされ、冬毎の雪崩にぐらついて、中心まで亀裂が入っている。今までのところまだ何も脱落しては来ないが、それこそかえっていっそう恐ろしい全体的な崩壊の準備のためのように思われる。
 シャンベリーに近づくに従って、風景はすべて平原を思わせる物を失って、真にアルプス的な光景を呈して来る。そして、ついに道路の最後の曲がり角で遠く村落を認める時、人はアルプスとヴァル・ディリエとの心臓部にいるのである。
 シャンベリーはほとんど全体がシャレーの村である。それは日毎に新築されて、一つは一つといよいよ贅沢なものに成って行く。けだしここではシャレーの奢りは度を越しているのだから。やがて樅が不足を告げ、石造の家が現われ、手際よく石灰を塗った壁の出現する目の近いことが眼に見えるようだ。そして、漆喰の前からは、進歩の前からは、永久におさらばである!  シャンペリーは、インターラーケンやモントゥルーや、シャモニのようになってしまうだろう。同様に、今在るような湖上住宅風のシャレーもやがてなくなってしまうだろう。幾世紀かの後、もしもまだ夜番というものがあるとすれば、まだ人々が話というものに耳を傾けるとすれば、第二十世紀以来消滅したこのアルプスの原始的な土民の物語を、大きな木造の家を作り、乾酪で生きていたらしい土民の物語を、彼らの夜番の時にシャンベリーの住民たちは語ることだろう。山の高みに在るシャレーはおけても寓話的なものに思われるだろう。人は樅の割り板や、乳搾りの桶や木の匙や、クレジュ(一種の陶製のカンテラ)などを大きな博物館へ送るだろう。一管のアルプスのホルンは掘り出し物になるだろう。そして、大陳列窓の内部に、「アルプスにおける木材時代」という題をつけられて、これらすべての発見物が進歩した人人の眼前に列べられ、われわれの素朴さで彼らをびっくりさせることだろう……
 哀れな、哀れな未来よ! ……もしもこの素朴さが亡びなければならないのだったら。
 シャンベリーは、人も知るように、たびたび訪問されながらその癖あまりうるさく言われていないアルプスの足溜まりの一つであるが、ある季節になると二軒の宿屋では不足を告げるくらいに佳い場所である。その二軒のうちの質素な方はクロア・フェデラールと言って、すっかりわたしの気に入っている宿屋である。人はそこで愛嬌があると同時に行き届いた主人と、佳い酒と、旨い食卓と、またしばしば優れた仲間とを発見するに違いない。
 わたしの見るかぎりでは、この渓谷の奥一帯がその最大の魅力をあらわすのは夕暮れである。もしも夜になる前にボナヴォーのシャレーヘ着こうとして――普通はそこまで行って泊まるのだが――山嶺が赤く染まりはじめるころに村を立てば、途中のあらゆる風景が絶美な詩的な時間に浴しているのが見られるだろう。うしろでは、シャンベリーがその竈のひとつびとつから青みを帯びた煙を天空へ送り、またしばしば小さい教会の晴れやかな鐘の音を漂わせる。行く手には、山がすっかりアルプス的な厳しい美をもって始まっている。人はヴィエージュ(ヴィエーズ)に近く沿って行く。その流れはすでに最も美しい急流の響を上げている。間もなくそれが巨大な岩塊のあいだで泡立っている地点まで行くと一つの苔蒸した橋が現われるが、この橋こそ第一流の絵画である。
 ああ! この夕暮れの甘美な瞬刻、それは何故かくも短いのか。おお太陽、何故おんみはかくも速やかに没するのか……おお! 今しばし止まれ! おんみの最後の光がまだ山巓を赤くしている間、今しばらくはこの最初の影の爽やかさをわれわれに味わわせてくれ。昼間の光がのがれ去って、燦き初めた一つの星が夜を知らせる。夜はすでに最も下方の森の斜面を被うている、山人は今日の最終の干し草の荷を運びながらシャレーヘ帰る。小鳥は今日の最終の歌を声のかぎり囀りながら塒を求める。すべてのものがこれを最後とざわめき立ち、休息に身を委ねる前に昼間にむもってアデューを告げているように見える。しかし、天体は厳正である。彼らの「時」はそれぞれ厳しい秩序に支配されている。のがれゆく分秒毎に山嶺はいよいよ青じろく、小鳥たちの囀りはいよいよ静かに、星の燦きはいよいよその強さを増す。そして、美は色褪せ、あるいは少なくとも別の絵画と入れかわる。
 至上の時よ! 幾年いくとせを飾るにふさわしい霊妙の分時よ!
 しかし、急いでシャレーまで行かなければならない。あの高い所で、一穂の最後の燈火が一幅の最後の絵を見せようと待っているから。それに森の中の登りはまっすぐで、最初に出会う屈曲のほかには、しばらくは美しい迂回路を見せないから。四十五分ばかりで小径の曲がり角へつく。そこには幾本かの寂しい、溲せた、大きな樅の樹が、もう仄暗くなった谷の青さの上へ黒く毅然と浮き出している。なお数歩を行けば牧場である。

 アルプスで最も感心されてもいなければ最も賞賞されてもいない場所なのに、そもそもの出会いの時からその打ち勝ち難い不思議な魅力で君を捉え、それ以来君をさまざまの夢想の中へ駆り立てるような、そんな場所を君は知らないだろうか。君の残りの幾日を、これ以上何も望まずに暮らしたいと思うような場所、アルプスの美をいう時に、まず第一に君の記憶の中へ帰って来るある風景。そういう虱景は、わたしにとっては、ボナヴォーである。
 わたしがその地に感じているような魅力を、世間はそこに認めはしないであろう。そして、いまだにわたしが大切にしている深い感銘は、おそらく初めてそこを見た時の事情にかかっていること少なくはないかもしれない。
 それは夕暮れ、最後の光線が最後の尖峰から今し飛び去ったばかりであった。周囲の山巓は寒い蒼白色を呈し、リュアンの白い円頂の上に二つ三つ星が輝きはじめていた。そして、爽やかな森のざわめきを圧して、アンセルの神秘な滝のとどろきがヴィエージュの深潭の底から聴こえて来た。
 シャレーのまわりではまだ幾つかの鈴が鳴っていた。一頭の白い牝山羊がわれわれに近づいて来て手を舐めた。
 時間と風景と周囲の事物とのこんな調和は、わたしにとってはまだかつてなかったことである。
 わたしの傍には一人の友がいた。才能のある若い画家で、少なくとも無益な旅人ではなかった。彼はわれわれが少年時代の幾年かを共にしたパリから極く最近にやって来たのだが、こうしていっしょにいると、もうほとんど消えてしまった千の思い出がわたしのうちに蘇るのだった。過去の底から浮き上がって来る楽しかった時間と沈鬱だった日との入りまじり、懐しい悌と悲しい姿との混淆が、はじめて見るこの風景の平和と偉大とに不思議な対照をなした。
 牧場を横ぎりながら彼は或るロマンスを歌いはじめた。悲しい魅力を刻み込んだ別の回想がその歌にはあった。わたしの母がよくそれを歌っていたのだ。
 Au pied des monts que la neige couronne,
 Au pied des monts, J'aime à me promener;
 J'aime le bruit du torrent qui bouillonne,
 Du montagnard j'aime entendre chanter....

  雪を冠りせる山の麓、
  山の麓をさまようをわれは愛す。
  われは愛す、たぎりたつ流れの音を、
  はた愛す、山びとの耿うを聴くを……
 ティロールの舞曲につけたこの歌を、フランシスクは優れて上手であった。
 まだアルプスを知らなかったころ、そもそも幾度この歌がわたしにそこを夢みさせたことだろう! そして、今こそ、いっそうよくわたしの夢想を実現させるためかのように、歌はあんな遠くから帰って来たのである!
 一滴の涙がわたしのまぶたから流れた。ボナヴォーは永久にわたしの心に刻みつけられた。
 しかし、あらゆる時間の中で最も甘美なこの時間は、同時に最も迅速な時間でもあった。それは永遠に帰らじと逃れ去った……
 永遠に帰らじと! そんなことがあるものだろうか。あのシャレーが、あの最後の日光が、あの色青ざめた山巓が! わたしの友その人が、崇高だったあの歌が、あのさまざまの物思いが、わたしのうちで波立ったあの数々の思い出が、あの涙が! ……それらすべての物が、たちまち逝って帰らぬために一瞬を「無ネアン」の底から出て来たなどということが。いや、いや! わたしはそんなことは信じない。大いなる目醒めの日に、それら一切の物は蘇るだろう。老いたる樅よ、木憔たちの斧の下に倒れるがいい。またお前哀れなシャレーよ、冬の雪の下に毀たれて姿をかくすがいい。貪欲な「時」よ、この甘美な一瞬を食いつくした後、この山々を荒廃に帰せしめるがいい。勝手にやらせよう、ねえ、フランシスク、「時」をしてその仕事を果たさせよう。やがて永遠の日が来たら、それらすべての物はわれわれのところへ帰って来るだろうから。

 ボナヴォーの牧者たちは二軒のシャレーを持っている。一つは上ので、もう一つは下のである。小径は、下のシャレーの前を通る。上のは位置が遙かに悪く、右手ダン・ドゥ・ボナヴォーの脚下、十分ばかりかかる高みのある穴の中に建っている。
 それにまた、もしも人が住んでいたならば、下へ泊まることにはそれだけの価値、がある。上のシャレーでは、牧者たちの言うように、「あぶら」を取っているのでクリームを持っていない。ところが下の小屋には干し草にせよ寝台にせよ、とにかく結構な寝床がある上に、アルプス中で最も上等なクリームの一つがいつでも手に入れられる。こう言っても錯覚でも何でもない。このことに気がついたのはわたし一人ではないのだから。
 わたしが初めてボナヴォーを訪れた時分には、シャレーにはブロンドの、肥った、陽気な牧者が一人住んでいて、こんな風に単身ダン・デュ・ミディヘ登りに行くわれわれの大胆さにいつでも驚嘆していた。彼はひどくおどけた男だったが、わたしはこの男のいわゆる「恐ろしいダン」についての最も気味の悪い話のことを言わなければなるまい。彼は実際一度もそれを極く近くから見たことがなかった。ところで話というのは、或る時二人の若い人が出かけるのを見かけたが、その二人はついに帰って来なかった。また或る時は一人の老憎が頂上を踏もうと思い込んで出発したが、それもそこで硬くなって死んでいた。この話は最も豪胆な者をさえ身ぶるいさせ、おびやかすものだった。
 なお一つ奇抜なのを書いておかなければならない。この善良な牧者は竜を信じていた。それも本心からである。或る時この男がシュザンフの牧場へ行くと遠方の岩の間に何かの姿が見えた。その形を彼は旨く言えなかったが。とにかく時々山で見かける一種の竜には違いなかったと、真昼間だというのに、彼はわたしに断言した。それは怖ろしい、化物じみた、いけないけだものだが、それでも人間に出会うと逃げ出すというのである。
 初めての登山の時、わたしはこの地方の様子をまるで知らなかったので、シュザンフの牧場までわたしたちといっしょに行くようにこの男を雇った。彼はわたしをひどく怖がらせるような意見をして、こう時期が早くては道の後半に通過不可能だし、ヴィエージュを渡ることは到底できない、おまけにこの季節ではそこは世外の涯だと主張した。時は六月のはじめだった。「いまによくわかるよ。」と、わたしは言った。「とにかくやってみよう。」そして、彼は小径の非常に良いこと、ヴィエージュの少しも危険でないこと、道の後半が思ったよりも遙かに楽なことなどを知ってすっかり驚いていた。
 山に住む人間の中で牧者や牛飼いたちが一番山そのものを知っていないということに、わたしはここでもよそでも気がついた。彼らはよく極めてでたらめなことを教える。自分たちの牧場だけに没頭しているので、草原以外の地方のことは何も知らない。氷河や峰のことになると、彼らの知っているのは伝説か、寓話か、取るにも足らぬお噺だけである。伝説が生まれるのは、羚羊の猟師からよりもいっそうしばしば彼ら牧者の間からである。
 彼らは山へ行かないし、下の方にいて山を判断しているので、高山についてはまるで知識がない。彼らは岩のかたまりが牧場まで転げて来るのを見る。雪崩がはずれて時々彼らのシャレーを薙いで行く。それが何時でも高い所からなのである。嵐ができるのも高い所ならば、時に氷河の不思議な軋りの聴こえて来るのも高い所からである。従ってこういう現象が、伝説の中にいかにも彼らのらしい説明を見出すとしても、決して驚くことはないだろう。
 別の意味で教養のある多くの人たちが、彼らのスイスの旅から帰って来て、今日、しかも大都会のまんなかで、何とばかばかしいことを言い触らしていることだろう! わたしとしては、そんな人間が氷河や雪崩の話をしているのを聴くと、牛飼いたちの伝説もそれほど愚かしくはないと思うのである。
 もしもボナヴォーヘ泊まったならば、早起きをするように心がける必要がある。あまりおそく出発すると、一日のうちの最も美しい看物や最も快適な時間を失うかもしれない。経験の積んだ賢いガイドならば、夏には二時、秋には三時に起床ラッパを鳴らすだろう。
 一時というような早暁だと、歩き出しがあまり愉快でないことをわたしは明言する。シャレーを出たらば、交差し合ってしだいに錯綜していく無数の轍のうちから選択をしなければならない。そして、夜の暗がりの中で、やがては一筋の絵のような小径になる善い轍を捜し出すことのできる人は、すでにかなり熟練した人だというべきである。一度善い路へ出てしまえばすっかり楽しくなる。その上星の光は衰えて、夜明けの近いことが感じられる。遠くでは早朝のシャレーにすべて燈火が燃えはじめ、間もなく幾つかの鈴の音が目を醒ます。人は高地の朝を降りて来る爽やかな空気に激励され鼓舞されて、もう身体の重みも背嚢の重量も感じない。そして、全く楽しい全く軽快なこんな行進を説明するためには、何か新しい言葉を創造しなければならないかもしれぬ。こんなに軽快で、なお、かつ人が飛行しないわけはといえば、それはその能力が彼にないからではなくて、単にいっそうよく路を享楽しようとするがためである。
 牧場が尽きると小径は美しいものになる。それは高い高貴な山嶽の路の全風貌を呈して、セルヴァンヘ通じるものだといっても過言ではない。際どい所も二、三か所はあって、臆病な人たちを必ずしも安心させないような通路を提供する。パ・ドゥ・ボナヴォーもしくはパ・ダンセルの名で最もよく知られている岨そば道はある評判を取ってはいるが、確かに最も危険にさらされたものではない。ただ、少なくとも最も絵画的なことだけは事実である。或る岩壁の突端まで来て絶えた小径は、それを攀じ登ることになって突然曲がる。その時われわれのいる地点は身の毛もよだつような荒々しい場所である。ボナヴォーの岩壁をダン・デュ・ミディから振り分ける深い割れ口のふち、ヴィエージュの滝の落下を目には見ないが耳には聴く、暗黒な神秘な深淵のふちにいるのである。
 この場所の怖らしさをもっとよく味わうためには、小径を離れて深淵の縁をなす草地まで、斜面の急と断崖の近いことでもうこれ以上行けないというところまで、降りてみなければならない。すると目はこのゴルジュの半分を見おろす。そこには日が射し込んだこともなく、底という物もなさそうである。一吹きの微風でさえ君を投げ落とすことができそうに思われる。そして、手はわれ知らず支えを求める。
 想像の奇異な作用! 永遠の宙の轟くこの黒い深淵の上に、濡れて蝠いている小さい可憐な花たちを見ながら、わたしはそこに二つの自然のあることをいつでも夢想するのだ。即ち一方は盲目で荒々しく、力に満ちて怖ろしく、岩石を押し上げたり山々を転覆したりする自然。トゥリアンを作り、ヴィエージュの深淵を作ったのはこれである。もう一方は潤いがあって優しくて、同じように力強くはあふが柔らかみのある自然で、こんなにも微妙に百合の花びらをちりばめ、花で飾られた細枝を優雅に曲げ撓め、かくも高貴で純潔な表情を荒い処女たちの顔に与えた崇高な芸術まである。しかし、こんなことをいわれわれに話す者を指して「空想」と人は呼ばなかったろうか。

 やがてモオヴェー・パ(悪場)を越えると――だが、こんな不愉快な名は当らないほど実際では寛大すぎる場所である。――アレートの上へ出て、いきなり前限へトゥール・サリエール、リュアン、トゥール・ドゥ・シュザンフなどの堂々たる山群が、ただ見る絶崖と、氷塔セラックと、昔の氷河に磨かれた灰色の岩壁とを、一里の空間へ展開する。この場所の地形図を見たことのない者にとって、こんな氷河群の出現は驚嘆を与えずにはいないだろう。朝かなり早く、太陽の最初の光が山嶺をかすめて、きらきらする氷河の銃眼を金色にいろどる瞬間に、この驚きを味わう者こそ幸いである!
 シュザンフの放牧地へ入って行くにはヴィエージュを渡らなければならない。しかし、こんな高みでは橋は稀にしかない。シャンベリーのガイドたちはそこヘー枚の板を渡した。そして、わたしは一度それを見たことがある。しかし、たいていの場合は一飛びで急流を飛び越さなくてはならない。そして、もしも川幅がもう三〇センチも長かったら、どんな人でも到底向こうへは越せないだろう。
 一度急流を対岸へ越せば、もう浮き世とはおさらばである。渓谷の響も最早シュザンフまでは届いて来ない。身はただ山と共に在り、耳にするのはモルモッ卜の鼻声か、あるいはもっと稀に羚羊のそれだけである。時には数頭の羊の番をしている牧者のいることもある。しかし、たいていはその姿を見ない。羊はどうかといえば、もしもコル・ドゥ・シュザンフの近傍を辿るか、ダン・デュ・ミディの最下の斜面の麓まで達している痩せた草地に沿って行くかすれば、彼らに出遭わないということはまずほとんどない。そして、多くの場合、彼らが駆けつけて来て、背嚢とかポケットとか、どこでも塩の入っていそうな所ヘー生懸命にその鼻面を突っ込むのが見られる。山を歩く人間は彼らのために必ずポケットその他へ塩を匿して持って行くのである。彼らはそれをちゃんと承知しているので、人がうまく逃げ出すということは時々少なからずむずかしい。
 シュザンフの名を持っている谷はその長さ四キロ弱で、トゥール・サリエールの最初の絶壁とダン・デュ・ミディの長い禿げのアレートとの間で狭まっている同じ名の峠コルに向かって緩やかな傾斜で登って行く。その最下部はボナヴオーとダン・ブランシュとの二つの背面とサージュルーの斜面との間に閉じ込められて、かつては一つの小さい湖水によって占められ、すべての側から春季の雪崩に打たれた一個の圏谷を形作っている。牧場全体は少しずつ草地に蔽われて行った広い亀裂地ラピアにほかならない。あらゆる色の竜胆やサクシフラージュの類が征服者の先頭に立っているが、結局はそこを美化し了るに過ぎないだろう。人はまだ方々の凹みの間で彼らに出会うが、しかし、羊はもうそこにはいない。
 もしも春の熱い息が雪を溶かす前にシュザンフを訪れる人があるとすれば、この興味ある谷間の昔の姿について或る観念を得ることができるだろう。
 現在、ダン・デュ・ミディの最後の斜面から見ると、この谷を蔽っている雪はすでに消滅した氷河の形をいまだに現わしている。けだし氷河時代にはこのシュザンフもそれ自身の氷河を持っていたことに疑いはない。そして、それは極めて美しいものだったに相違なく、諸所の岩石面にその擦痕が残っている。この氷河がリュアンやトゥール・サリエールに座席を供しているあの黒い巨大な岩棚を被っていたことは容易にこれを信ずることができる。そして、その棚のひとつひとつの上に、どんなに力強い裂け目を、どんなに豊富な氷塔セラックをそれは陳列したことだろう! 氷河はその下方の部分まで極めて純粋なものであったに相違ない。なぜならば岩屑デブリの円錐は別としても、雪崩の通過するクーロワールの下にそれはほとんど堆石モレーンを残していないから。おそらく何らかの譲歩をするにしてはあまりに重厚な厳しい棚を、それはわずかばかり削ったに過ぎないだろう。今日でこそ最下方の斜面や台地の上に引退はしているが、もっと知られることを当然とするかのように、それは昔の偉大さと美とを十分失わずにいる。たとい人がトゥール・サリエールでそれを欲しないにしても、シュザンフの氷河を訪れてその華庶なセラックを賛嘆するために過ごす一日は、美しい思い出の中に列せらるべき一日となるであろ。

 ヴィエージュを越してしまえば、いろいろの仕方でダン・デュ・ミディの頂上へ志すことができる。即ち絶対に同じコースを採らずに二十度も行くことができる。シャンベリーのガイドは今日では最も景色の佳くないコースを採っている。彼らは山稜と牙峰とから下っている石だらけの斜面に取り付いてそれを登るが、これは確かに最も距離の長い側であって、このコースでは斜面は無限である。
 また、シュザンフの峠コルまで行って、そこから頂上までアレートを伝うこともできる。しかし、このコースはいっそう長くもあるし非常に愉快なものでもない。最も景色が佳くて最も短距離で、その上最も疲労の少ない路、登高に際して調和させ得るこの優秀な三つの美点をことごとく備えたもの、それはその最も低い凹みの地点を目ざして、西方の長いアレートへ取り付いて行くものである。この方向にはちょうど一つの芝地の鼻が突き出していて、そこを行けば転落する石の一時間を免れることができる。
 アレートへ着いたならば、それの尽きるまで進むのである。このアレートは広々していて傾斜も緩い。ここまで来るともう縮図のようなヴァル・ディリエや、シャブレーの山々や、ローヌの渓谷や、レマン湖の端が見える。それゆえ麗らかな純潔な朝などは、ここは得もいえず気持ちのいい、散歩路である。気持ちのいい、そうだ、しかし、またぞっとするような路でもある。なぜかといえば、目はあらゆる瞬間にヴァル・テリエに臨む深淵を見おろすし、しだいに垂直になる絶崖は一〇〇〇メートルを算するから。
 この懸崖をなす岩壁全体は、朝の時刻には、まだ、それをいっそう高く見せる青みがかった影の中にある。崩壊した岩壁の面、ぐらぐらする大きな岩塔が、ところどころで傾きかかって下の方の深みをおびやかしている。そして、そこには大規模な万年雪ネヴェに近く、ダイヤモンドのように鏤められたラック・ヴェール(緑の湖)が牧場のまんなかに輝いている。
 上の方から脱落して来た一個の岩石が、他の二十の岩石を後へに随えながらまず第一のクーロワールの中へ転がって行く。それから跳躍また跳躍、ますます厖大な放物線をえがきながら飛んで行く。そして、その停止すべき場所へ達するよほど以前にわれわれの眼界から消え失せる。しかし、彼らの迅速な通過は、今まで落ちそうになっていた物をことごとく揺り動かし、墜落させるに過ぎない。そして、深谷の側面にふたたび静穏が帰って来、谷底へ落ちる石の音がもう少しも聞こえなくなるまでには時間がかかるのである。
 アレートを伝わって行くと高さ約一〇メートルばかりの絶壁の立っている地点へ達する。そこはかなり危険で、未熟な者だと助けなしには越えることができない。もっとも右手へ降りて捲いて行くこともできるが、岩登りの心得のある者にはおもしろい場所である。
 熟練した者ならば、西方に面した岩組を攀じてたいした苦痛なしに直接山頂へ登ることができる。しかし、岩壁の透き間とか、踏みはずしやすい場所とか、岩庇とか、その他岩登り家の不思議な偶像に対してあまり執着を持たない人たちのためには、シュザンフを眼下に見てしばしば雪に被われている斜面の横腹を通って、そこから最後の肩へ達する方がいっそういい。サルヴァンのガイドたちはこの肩にコル・デ・パレッスー(怠け者の峠)という名をつけた。シャンベリーのガイドは単にダン・デュ・ミディ峠と呼んでいる。しかし、怠け者峠の名こそ万才である!
 実際、人が楽々と坐っても、もうプラン・ネヴェの氷河や、六つの尖峰や、ペンニーンの連山や、トゥール・サリエールや、モン・ブランの球帽を眺めることのできるこの峠からは、反対に、ダン・デュ・ミディの最後の斜面がまだ長々と、疲労に顫えている脚膕ひつかがみや、使い果たされた肺臓に対してひどく長々と、かつは急角度に峙っているのが見られるのである!
 怠け者は顔を上げ、元気のない一瞥で距離を測り、杖や囊を投げ出し、それから身を倒して、もう先へは進まないと断言する。そして、こんなことは毎夏一度以上もあるのである。サルヴァンのガイドたちはばかではない。怠け者峠とは旨くつけたものだ。そうではないか?
 真の登攀家はそこでは立ちどまらない。しかし、大多数の登山者はそこで気持ちのいい駐屯をする。その後でたまたま一人の怠け者がまた顔を上げて仔細に距離を測り、最後の努力を試みようと勇敢な決心をし、途中二十度も足を停めて自分の決心を半分ぐらい後悔しながら。それでも結局他の山頂と同じように誇らかなその山頂へ達するのである。
 しかし、親愛な読者諸君、もしも諸君にしてコル・デ・パレッスーは単にダン・デュ・ミディだけにあると信じるならばそれはまちがっている。モン・ローズにせよモン・ブランにせよ、またその他の山にせよ、すべて苦しい登路を持つ山嶽の大多数には、その半腹にこの峠があるのである。またあらゆる道徳的高所への途上に、学問の半途に、徳の半途に、この峠の存在することも事実ではなかろうか。勇気ある者は追求して、結局は到達する。臆病な者は斜面を測り、絶望し、中止する。そして、彼の努力はといえば、失敗の恥を贏ち得ることに役立つだけである。ああ! 称うべきはコル・デ・パレッスーでのエネルギーである。
 最後の斜面の一部分が、ことに六月の初めには、氷で被われていることがある。その傾斜の急な点から考えると(約五十度)、そんな時にはカットを続けて進まなければならないから、山頂へ達するにも相当の苦痛があるに違いない。もしもあまり右へ寄り過ぎればその苦痛の上に危険まで加える惧れがある。なぜかといえばまちがった道筋は、人を遠くアレートの縁へ誘って行くから。
 或る日二人の非常に未熟なイギリス人をそこへ連れて行ったことがあったが、その時わたしはこういうことを知る機会を得た。即ち、人は何と言おうと、或る重要なコースではつねに斧と綱とを用意するのが得策だということを。他の場所ではあまり価値もないここの用意をもしもわれわれが怠ったならば、啻に山頂をきわめることができなかったばかりか、或る不幸をさえ惹起し兼ねなかっただろうと思う。この最後の登りはしばしば苦しい。しかし、どんな危険にも遭遇しないで一万六百尺の高さに達することができるとすれば、多少の苦痛は忍ばなければなるまい。

 多くの人がダン・デュ・ミディからの眺望をけなしている。わたしとしてはその人たちがそれを享楽することができなかったからだろうとあえて言いたい。山の頂上にいることは必ずしもつねに愉快ではない。風はその山を彼らの格闘の舞台にしているかのように見える。雲は広々した氷河の台地における以上に気持ちよく止まってはいない。それにまた完全無欠な享楽の一時間をあんな高みでそうたびたび過ごすなどということはできるものではない。しかし、或る美しい朝のうち、ゆっくりとそこにひろがる全眺望を味わうことのできた人たちは、たいして非難はしないだろう。たといモン・ローズは誂え向きの形には見えなくても、たといモン・ブランは一部分匿れていても、また、別の充分独特な美があって、山の名には拘泥しない人たちに、このパノラマの中でそんなことを忘れさせるだろう。
 少なくともこれだけの高さでこんな深谷に臨んでいる山頂はたくさんはない。もしも十字架の在る所から別の尖峰の方向ヘアレートを伝わって行けば、深淵に落ちかかって傾斜している無数の板岩に出会うだろう。腹這いになって首を伸ばさなければならない。歯形のついた切っ先を逆立てたこ峭々たるゴルジュの、この岩壁の最初の一瞥で、人は恐怖の身震いを禁じ得ない。その印象は身の毛もよだつばかりで、ことに秋もやや更けて、新雪の薄い層がもっとも小さな突起までも責めに来るような時期にはすさまじい感じである。夏の初めだとこれに反して、強大な突起だけが雪を残している。しかし、それも幾寸というのではなく、結氷と解氷との交互作用で輪郭の円くなった四尺、五尺、六尺という雪で、それがいたるところ燦爛として、空間に懸垂する氷柱つららを形成しているのである。
 五月の美しい太陽が輝き、風がたといわずかでも吹き添ったら、その時こそあの冬の足場がことごとく瓦解する光景を見なければならない! 放胆なゆらめくピラミッド、不用意に深淵の上へ乗り出している雪庇、目も眩むような斜面で冒険をしている堆積物、アレートヘひろがった巨大な唇。すべてこういう物があるいは崩れ、あるいは砕けて、クーロワールや深谷の虚無の中へ塵となって飛散する。
 もしも春シュザンフにいて、暖かい輝く太陽の一目を希望するならば、山頂をきわめるために急がなければならない。そして、できれば昼間の数時間をそこで過ごさなくてはならない。人はレマシからわずか五里離れた地点にいることを忘れ、最も大きな山群の一つのその真ん中にいることに気がつくだろう。脚下遙かに見えるヴァル・ディリエを除けば、一点の緑、一物の生もない。いたるところ雪と黒い岩。見渡すかぎり白い山脈と、青みを帯びた渓谷の上に聳えるぴかぴかした山巓の打打。身のまわり、すぐ近くには、わずかの間に雪崩が仕事をしに行く真っ白な斜面、尖峰、またそこから風の最初の一吹きにも雪庇が崩れて、粉末となって落ちて行くアレート。
 もしもそんな時昼食後の時間までそこにいれば、それが大アレートから葺きおろしている斜面で起こるものにせよ、牙峰ダンそのものの斜面で起こるものにせよ、またトゥール・サリエールやリュアンで起こるものならばなおさらのこと、とにかく一つ以上の雪崩を見損なったり、ことに聴き逃したりすることはない。リュアンの雪崩は、普通はその山頂を被っている雪の球帽から滑り出して、氷河のセラックの中へ消え込むために、岩石の黒い壁面を燦燃とした末広がりの瀑布となって落下する。或る時わたしたちは十五分も経たない間にそれを十二も数える楽しみを味わったことがある。最初のものはまるで合図のようだった。続いて陰鬱なリュアンの塔が雪崩のため流れ出すかと思われた。
 九月か十月だとすべては全く違う。しかし、やはり非常に美しい。それは天空の清らかな、地平の澄みわたった、眺めが無限の季節である。しかし、また太陽と雨とが、青空と霧とが、突然入れかわる季節でもある。よく、雨の幾日の後、満月の光の中を、山巓の周囲に重苦しく積み重なっていた雲が一夜のうちに飛び去ることがある。そして、朝は、黎明は、照りかがやいて澄みきっている。昼間は壮麗である。そういう時を見きわめなければならない。それは一か八かの勝負である。
 わたしたちは、そういう勝負をたびたびやったことがある。そして、勝ったことも少なくはない。空か灰色に曇っている日にヴヴェーを立って、翌日はダン・デュ・ミディの頂上か別の所かで、秋の行程を時々そんなにも素晴らしくする、あの美しい澄んだ日々の一つを楽しんだのであった。
 しかし、近景の美はおそらく春や夏には及ばないだろう。石だらけの斜面は雪の装いを脱いでひどく荒れている。氷河は露出して鼠色で、しばしば汚ない。わずかに北向きの斜面に純粋な新鮮な雪が幾寸かあるくらいのものである。しかし、何という穏やかな暖かさ、色彩の何という調和だろう! 遠い風景の何たる清明さだろう!
 たとい季節というものが風景の美に与って大いに力あるとしても、それを楽しむためには時間をよく選択することに無頓着であってはならない。不都合なことには、こんな高さの山頂だと、夜の時間がジャマンやネイの場合のように楽ではない。日の出を見ようとしてそこへ行くことは、考えていたよりも実行においてしばしば困難である。しかし、われわれは幾度かそれを実行した。あれほどの高みでの日の出は壮麗なものには違いない。しかし、わたしとしては、人がそこで華々しい落日を楽しむ機会の方がもっと多いのではないかと思っている。夕暮れ、モン・ローズからモン・ブランへかけて、全ペンニーン山脈が華麗な光に照らされている一方では、最前景をなすサランフの圏谷やトゥール・サリエールが、もう影の中に浸かっている。大山脈の雪の丸屋根の清純な赫耀かくようたる光を際立たせるためには、この莫大な深ぶかとした影が、そもそも何たる力を持たなければならないことだろう! また付近の険巌や、七つの牙峰ダンや、ヴァル・ディリエの絶崖の炎上に、何たる思いもかげない崇高な感じが満ちみちていることだろう! 秋の美しい夕暮れに、レマンの湖畔からわれわれは見なかったであろうか。ダン・デュ・ミディがまるで彼女ひとりのために最も美しい光を浴びているかと思われるような光景を。そして、彼女に向かって、太陽が最も華やかな別れを告げているのを。

 山頂での展望がどれほど美しいにせよ、人がそれをどれほど生き生きと味わうことができたにせよ、しかも、ああ、われわれの衷の或る物がそこから離れ、別の方向へ向かう瞬間がやって来る。帰りを思って身のまわりに目をやる瞬間が来る。
「かくて、頂きをきわめし者、今や下りを心にねがう。」 あまりに真を穿ったこの言葉で、天才の力はわれわれの神秘な天性を正しく探り当てている! 同時にそれはコル・デ・パレッスーで断念したり待ったりする人々を道理ありとするらしく見えるところの、物質的世界から道徳的世界への別の報告でもある。
 しかし、否。それは人間なるものが彼の快楽の対象をこの下界で所有するようには作られていないからである。或る無慈悲な手があって実にしばしば力づくで人間をその対象から引き離す。そして、たまたまその手がうっかりして人間の楽しむに任せれば、その心は倦み、その本性は彼を駆って離反させ、そして、彼の路を続けさせるのである。
 進め、進め、旅人! 君は登ったのだ。それならばおそらくは明日も登ってまた下るために、今日は下りたまえ。立ちどまることをせず、うっとりとするような路の辺でわれを忘れずに行きたまえ。君はここを垣間見た。また何時か、もっと遠く、別の所で、君は見ることを楽しむこともあるだろう。これら一切は過ぎ去り、時がそれを運ぶ。そして、君に必要なのは、時の力では毀たれることのない何物かだ。搆わず進みたまえ。君はこの世界のものではないのだ!
 そして、われわれは降りて行く。まったく、哀れな怠け者は。われわれは同じ君たちのいる所へ降りて行く。しかし、ある崇高な瞑想によって向上させられた魂を抱いて、共通の目標めがけて降りて行くのだ。われわれは降りて行く。しかし、われわれは高所から自分たちが憩いに行かねばならぬ遙かな地上を眺めたのだ。それにしても人があの優しい地平線へ投げる目つきの、そもそも何と美しいことだろう!
 八月の初めだと上等な雪の層があって、頂上から素晴らしい滑降グリッサードをさせてくれる。しかし、そうなるとシュザンフヘ行ってしまう。われわれ別の方角へ志す者は、それを一部分しか利用することができない。つまりもう一つの道がわれわれを待っているコル・デ・パレッスーまでである。もしも、この重要な地点からプラソ・ネヴエの氷河と堆石モレーンとの方へ向かって行くと、ただ脚下を見ただけでサランフヘ通じる路を認めることができる。ところでサランフこそ、われわれの眼を喜ばせるために残された素晴らしい場所である注・1
(注1――路はなおもう一つある。アレートとシュザンフの峠とを通って下るものである。しかし、これはいっそう長くもあり、興味も少ない。)

 この側では山は粉末となって落ちて、ある場所などは泥の斜面である。われわれは剝離した岩石の砦を幾つも随えて滑降して行くのだが、その多くのものは紜がり、唸りを発し、跳ね返るので、もしもこの礫岩の一団がもう少しでも余計だったらどうなるだろうと思わせられること一再ならずである。
 時刻が早いとまだそこには雪がある。それならばサランフ指して漕いで行くのだ! 十分間あれば下へ着くことができる。しかし、一つの斜面へさしかかる前に、それが果たしてどこへ向かっているか確かめることが必要である。なぜかといえば、われわれが出会う第一の斜面は、人間のように壊れやすい生物の目的とする所へは、決して通じていないからである。上等な、有名な斜面は、もっと先の左手、大「牙ダン」のほとんど真下にある。冬、雪が豊富だった年には滑降は停止するところを知らない。それは三千尺以上にも及ぶ。とはいえ、風や雪解けのために危険な目に合わないようによく注意する必要はある。わたしは悪い仲間の仕業らしい礫岩の雨の転落するのを、二度見たことがある。春の初めだとそこを見事な雪崩が落ちる。
 山の岩屑デブリが堆積されるのは、この側のこの地点までである。じきに前進を困難にする崩壊物と転落する石との斜面。何という廃虚! あらゆる大きさをした岩塊の何という渾沌! 時の力で積み上げられたこれらの材料をもって、人はどんなに広大なバビロンを築くことができるだろう!
 しかし、間もなく岩塊の間で危険に曝されている幾らかの花が現われる。なかば乾いた湖の石の多い水盤が現われる。やがて緑の小山、つづいて気持ちのいいアルプス的な庭、そして、ついに花咲き乱れた最後の斜面、今は植物に侵略され被われている往昔そのかみの堆石モレーン。かくて人はサランフの地(一九六二メートル)に足をつける。
 得もいえぬ対照。荒涼とした廃虚と堆石との後の、何という快美な草原の柔らかい絨毯だろう!
 五千尺をそばだつ堂々たる山嶽に囲まれた圈谷のまんなかに、一つの広々した見事な野があって、それが最も麗らかな湖水の波のように平らかで、優しさ極まりない緑と最も霊妙な高山植物とに被われ、世にも魅惑的な流れに潤されている。もしも人がそういう光景を心に描くとしたら、サランフの何であるかがわかるだろう。否、あるいはむしろ少しもわからないかもしれない。なぜならば、その美を想像して実現した「彼」以外に、こんな場所を心に描くことはだれにもできないのだから。
 この青々した野の中を進めば進むほど、人はますますよくそこの穏やかな沈黙の偉大さを理解する。それは全くアルプス中での最も美しい寂寞境である。不思議な世界よ! もしもそこが何か架空な伝説の舞台でないとすれば、もう人間がそんな伝説を作ることのできなくなった時代に、そこが発見されたからである。牧者たちは氷河の白いテラスの上で時々山の精たちの声を聴いたり姿を見たりするという。夕方、彼らはその炉辺に坐る旅人によくジョラーの怪物の伝説を話して聴かせる。しかし、この神秘的な野のことには少しも触れない。
 構わない。そんな伝説の詩の代わりに、この野原にはまた別のいっそう偉大な詩があるのだ。この野の中には、この黒ずんだ岩の上には、この大きな堆石の上には、大地の歴史の一ページが書いてあるのだ。そして、それを読もうと思う者にとってサランフは何と美しいだろう注・1
(注1――ランベール氏の美しいページを参照。 E. Rambert: Les Alpes suisses, 第二巻 二三六ページ以下)  

 プラン・ネヴェから落ちて来た大きな堆石の麓に、また芝地の傍に、シャレーの群れが幾つか見える。しかし、あまり粗末で無骨なので、一目ではあたりの岩塊と見分けがつかないほどである。それにこれらの小屋は一年のうち十一か月も空いているので、この寂しい広い野が与える荒寥とした感じをいっそう強くする。ただ峡谷ゴルジュの口だけが(そこからサランシュの水が落ち、幾つかの遠い山巓がちらりと見える)、そこだけが、サランフの外に一つの世界の存在することを想わせる。
 七月の半ばごろになると、この美しい荒野も生き生きしてきて、クローシェットの音が鳴りわたる。サルヴァンやヴェロッサから牛の群れが隊をなして登って来る。なぜならば場所は広くて、夏ごとに来る無数の獣は牧場の中で悠悠と暮らすことができるからである。彼らの中の最も冒険的な者は、斜面の上や、大きな岩の間や、堆石の近くなどで危険に身をさらしている。時々幾頭かが見えなくなる。そして、何年か後になってしばしば牧者の発見する彼らの白い骸骨は、こういう軽率な者たちの運命を語るのである。
 この上もなく原始的なシャレーには極く少数の純朴な、鄙びた、陽気な連中が住んでいる。けだし牧者たちにとってサランフの「お山」での滞在のごときは一つのお祭りなのだから。そして、老齢や病身のために村に居残る者たちは、そんなにも住い日々を暮らしにあの美しい草原へ行く牛の群れの出発を、惜別の情なくして見送ることはできないに違いない。
 獣群はサランフに一月しか滞在しない。八月の半ば、つまり谷間の村へ帰る幾日か前になると、他の多くの牧場でも行なわれている習慣として、牧者たちはそこで祝宴を張る。その当日のために近親や友人や若者たちが近くの村から登って来る。彼らはサランフのシャレーでその夜を明かす。そして、小屋はこんなにも多勢の友たちを泊めたり迎えたりするようにはできていないので、人々は蹲ったり、何かの上に棲まったり、できるだけ詰め合ったりする。そして、こういう一座は見ておく価値が充分にあるのだ!
 或る祝宴の夜、われわれ四人の一行はちょうどそういう小屋の一軒へ到着する。そこがもう一杯なのを見て、われわれは牛乳を飲んだ後で退却しようと思う。「いいから泊まっておいでなさいよ。」と、その善良な人たちが言う。「八人分の場所があれば十二人は入れるんですからね。」そして、実際彼らの中の四人が一種の寝台の上へ詰め合う。それでわたしたちは秣置き場へ逼い上がる。それは十六平方尺ある!
 その夜、人々は決して眠らないで、愉快な話がそれからそれへとはずむ。若者たちはおそくまで炉のまわりに居残って娘たちをからかっている。娘たちはまた困ったような返事はしない。彼らは互いに優しい目付きをする。そして、一つならずの牧歌が下描きされ、それが翌日は緑の芝生で続けられ、とうとう何か月か立ってしばしば幸福な結婚に落ちつくのである。
 それにまたどんな場合であれ、この善良なサランフの牧者たちの所で過ごす一夜はつねに絵のように美しい。彼らはしばしば話上手である。そして、その古い物語にも増しておもしろいものは他にはない! 人は時々彼らから何か伝説を聴き出すことができる。たぶんジョラーの怪物の話などを。とにかく少なくとも彼らの所で最も慇懃なもてなしを受けることはつねである。
 わたしはジョラーの怪物のことを今までに二度言った。その物語というのはこうである。
 牧者たちはわたしに話した。昔(彼らの中の幾人かはその時分のことを覚えているとさえ信じている)、ジョラーの峠に一個の怪物が、一匹の竜が、とにかく今まで見たこともないような恐ろしい形相をした一匹の獣がいて、それが夜になると峠の通路を守っていた。彼はそれまでに無数の犠牲者を出した。そして、どんな大胆な猟師でもあえて彼をやっつけようとする者はいなかった。夜になるとその怪物は氷河を降り来て山じゅうをわが物にした。それでジョラーヘ近付く者こそ禍だった。ところが、或る日ローヌの谷で一人の男が死刑の宣告を受けた。その男は力が強くて無類の豪胆者だった。人々は彼がもしも怪物と闘ってそれを斃すことができたら死刑を免じてやろうと言った。男はそれを承諾してサランフヘ登って行き、夜を待ってジョラーの小径を攀じた。格闘は怖るべきものであった。しかし、人間の方が勝った。そして、それ以来サランフの牧者たちは安心していられるようになったというのである。
 午前二時という真夜中に三度もそこを通ってわたしの知る限り、今では峠は安全なものである。
 サランフは理解されなければならない一つの場所である。しかし、また自然を愛する者にとってこれ以上に親しみやすい所もない。初めての遽あわただしい訪問ではそこにある詩は感じられないかもしれない。しかし、もしもふたたびそこを訪れて、牛の群れが下山して野が寂然として来る時、澄んだ流れの縁で一時間を憩うとしたら、わけても夕暮れの影が立ち昇って太陽が山々の頂きを赤く染めるのを眺めながら、夜の来るのをもしも人が待つとしたら、その時こそサランフは語るであろう。そして、最も鈍感な者でもそこの詩を理解するであろう。寂しい古風な詩、崇高な沈黙の詩を。世界の開闢の時代に生きて、人が新しい創造のアダムであることを夢想させる詩を。あるいは消滅した世の最後の生存者として、ただ一人自然や神と共に在ることを夢みさせる詩を。
 ああ! もしも人が時あって Ubi bene, ibi(わが楽しき地、これぞわが祖国)を言いたい感情に襲われるような国があるとしたならば、それこそ実にその自由な山々の胸の間に、かくも魂を奪うような場所、かくも崇高な谷間を秘めている国のことである。多くの人たちはこんなことを言うわたしを非難するかもしれない。しかし、もしも運命が今日わたしをどこか遙かな国へ追放するとしたならば、わたしは二つの国のために涙を流すだろうと思うのだ。

 そこにわたしの少年期が隠れ家をもとめたわがセヴェンヌの鳶色の岩、仄暗い森林よ。お前たちは決してわたしの記憶から離れまい。わたしのうちには、つねに、お前たちの名を聴いて顫える何かがあるだろう。アルプスの偉大か思い出に富まされながらも、お前たちの山々のえにしだの間に、わたしの茫然とした思いをさまよわすことは一度ならずあるだろう。しかし、わたしが愛しているこの民衆、愛することを学んだこの自由、かつてしばしば夢想して、いまやこんなにも美しい日々を与えられているこのアルプス、彼らは実にわたしの心の半ばを占めている。フランスよ、わたしの少年時代と最初の思い出とはおんみのものだ。わたしの心、わたしの思想の中の最も親愛なものはおんみに。しかし、自由と美との瑞西エルヴェシー、わたしは自分の生涯の残りをお前に与えたいとたまたま思う。

 ある夕方、わたしたちはシュザンフの峠を通ってダン・デュ・ミディを下山していた。一行は初めのうちかなり多勢だったが、もう別れ別れになっていた。大部分の人たちは、夜までにレマン湖畔へ着いていなければならなかったので、先を急いでよほど前から見えなくなっていた。二人の友だけがわたしといっしょに残っていた。
 なお幾日か暇のあるわれわれは、どこへ泊まろうと構わなかった。それで数えることもしないで時間を流れ去るに任せていた。野はがらんとして人気もなかった。わたしたちはその時初めてサランフの土を踏んだのである。
 この場所の美に恍惚として、三人共ますますゆっくりした歩調で歩いて行った。そして、さらによく楽しもうと思って、とうとう最も奇麗な或る小川の縁の草地へ寝ころんだ。いちばん年の若い友だちは澄んだ水と戯れていた。いちばん器用な友たちはデッサンを試みていた。わたしはどうかといえば、昼間の暑さで水嵩を増した氷河の急流の遠い響に揺られながら眼を閉じたり、こんな気持ちのいい境地が夢ではないことをもう一度確かめようと眼をあけたりしていた。
 こんな清々すがすがしい小川の縁で休んではいても、食物や飲み物の事を考えないことはむずかしかった。それでランプの炎に暖められた軽い鍋の中ではショコラができあがって、やがて皆の手に回された。茶碗に注がれるのではなく、器の蓋へ注がれるのであった。それがセーブルや日本製の磁器よりもずっと上等なものに思われた。――ああ! 得もいえず妙なる時間、美しい思い出よ!
 けれども、谷間全体に拡がりはじめた冷やびやした空気や、彫や、ダン・デュ・ミディの七つの尖峰を染めはじめた夕日の紅が、退却の路を確かめなくてはなるまいということをわたしたちに思い出させた。
 すぐそばをうねっているのが見えるジョラーの小径のほかに、サランフを出る小路を少しも知っていなかったわたしたちは、そこへ行ったらきっと出口が見つかるだろうとゴルジュの方へ進んで行った。
「急ごう! 時間がないよ。どこで寝ようか。」などというのは愉快なものである。しかし、われわれを収り巻いている美の魔力に、どうしたらば抵抗できるだろう。野のはずれへ近付くに従って、幾筋もの小川がサランシュの流れを形作るために落ち合って来る。地面は凸凹になり、水はやがてたぎり立つためにますます高い瀬音を上げはじめる。ゴルジュが近くなる。花崗岩の塊、また、あたりには一面、初めて現われた石南しゃくなげ。なんと生き生きしていることだろう! なんという美しさだろう! 急いで花束を一つ、帽子に一房、一つの王冠! そして、わたしたちはなおもサランシュの最初の滝のあたりをぶらついたり、いよいよ美しさを増す石南を蒐めたりしていた。
 一本の小径らしい痕が左岸に現われた。しかし、結局それらしいに過ぎなかった。なぜならば百歩の後にはその微かな踏跡を見失ってしまったから。しかし、構わずゴルジュの中を進んで行った。暗澹とした大きな雲がトゥール・サリエールのうしろから湧き上がって来た。
 サランシュのゴルジュは非常に美しい。奔流は豊かな燦爛たる飛瀑となって落下する。しかし、高さ五十尺もある花崗岩の岩壁のところまで来ると、人は自分が一個の重たい無力な限られた存在だということを感じる。そして、この軽やかな水の流れは障害物とふざけたり、岩のなくなったところでは空間に飛び上がったり、彼らの面へ飛沫を投げかけたりしながらその無力な王位を侮辱するのだった。
 このわたしたちの頭上を一羽の兄鷂このりが通って、羽ばたきしながらゴルジュを横ぎって行った。わたしたち三人はそこで協議をした。即ち、重くて、無力で、限られた存在であるわれわれは、この盛んな水といっしょに深淵の中を突進することはできない。さればといって、向こう岸でわれわれを愚弄している美しい小径まで渡って行くにしては、サランシュの流れはあまりに広く、あまりに速い。通路を作ろうと思って、急流の真ん中へ大きな石を投げ込んでみた。しかし、無駄だった。流れはたいして深くはないのだが、嘲笑する水は、わたしたちが腕を貸し合って一生懸命投げた物を玩具のように運び去った。
 一本の倒木と二十の石とがそこで姿を消した。そして、サランシュは相変わらず急速に、轟音上げて、純潔に流れていた。そして、わたしたちも相変わらずそこにいた。約十歩の向こうを通っている小径を眺めながら。
 ところが、だんだん低迷して来た雲の真ん中から雷が轟いて、それがサランフにこだまして鳴りはためいた。大粒の雨が降りはじめた。岸壁を乗り越えることもできず徒渉を強行することもできないとすれば、遙か下の方にちらちら見える大きな道まで、岩の斜面に沿って行く手を切り開きながら進むより外に仕方がなかった。
 嵐と夜とに追い立てられながら、わたしたちは夢中になって登ったり、思い切って降りたりした。そして、岩から岩へと進んでついに小径へ出た。やがて十分間の後、ほとんど真っ暗な夜になったころ、闇の中に姿を現わしたアン・ヴァン・オーのシャレーの前まで来た。何軒かの小屋は小さくくっつき合って、まるで海狸の植民地の泥小屋を思わせた。
 わたしたちは一軒一軒戸を叩いた。どれにも人が住んでいなかった。ついに、ちょうど嵐がゴルジュの中で最も猛烈に荒れ狂い出した瞬間、羽目の透き間に燈火のちらついている最後の小屋の戸が、わたしたちの前に開かれた。
 このシ卞レーには、あるいはむしろこの掘っ立て小屋には、ひどく貧しい夫婦が住んでいた。病身らしい半白の男が炉の前に坐って一人の子どもにスープをやっていた。子どもは母親がわたしたちのために厩の中のたった一匹の牝牛の乳を暖めようと火を起こしている間に、喜んでそれを貪っていた。風は旨く合わない羽目の透き間から吹き込んで、この貧窮と田舎びた悲惨との絵のような場面をその不確かな明りで照らしているクレジュを二度も吹き消すのだった。
 休息の時が来た。わたしがサルヴァンまで降りて行くことは思いも寄らなかった。嵐は止まないし、稲妻は炉の所まで射し込んで来て、わたしたちを眩惑したり、身顫いさせたりした。そして、雷鳴はゴルジュの斜面に長々と響き渡って、小屋の桁組を震撼した。毀れかかった梯子が一つ、煙にくすぶった狭い屋根裏へ通じていた。煙突という物はヴァン・オーでは知られていないので、煙は当然この屋根裏を通っておもむろに屋根窓から抜けて行くのである。もとより干し草もなければ、麦藁もなかった。わずかに幾らかの藁茎が濡れた板の上に落ちていて、それが以前はそういう物のあったことを証拠立てていた。わたしたちはしっかりくっつき合って、マントにくるまって、身体も暖めようとしたり、できたら眠ろうと試みた。しかし、屋根の割り板は氾濫する洪水を防ぐには無力で、初めは水滴を、それから雨の小川を、わたしたちの上へざあざあと濾過した。
 アルプスの高地のシャレーで夜を過ごしたことは、わたしには幾度もある。またドーフィネやモーリェエンヌの石小屋へ泊まったこともあるし、七千尺の露天で眠ったこともある。しかし、いまだかつてヴァン・オーの小屋でのような一夜の思い出は持っていない。夜明けの来るのが何とゆっくりだったろう! そして、その最初の光と共に、窒息しかけて、びしょ濡れになって震えていたわたしたちが、何という歓喜をもってサルヴァンヘの路を採ったことだろう!

 それにしてもわれわれの不愉快な事件の印象を、あまり長々と述べるのは善くないかもしれない。われわれの場合は、他の人たちならば決して遭遇しないような不都合な条件の併発の結果だったのである。人は他の場所でと同じように気持ちのいい夜をヴァン・オーで過ごすことができるのである。
 谷は美しいし、佳い季節にはたいていのシャレーが十分住むに適している。春や秋にそこで見かける住民は悲惨どころではない。そして、もしも人が或る日曜日の夕方ヴァン・オーを通るとすれば、小景の入口に白い膚着や新しい胴着を見るであろう。
 しかし、またサランシュと、そのゴルジュと、小径とへ話をもどさなければならない。人はアルプスの行では骨を折ることによってしばしば学ぶのである。しかし、もしも眼を瞠いていれば学ぶには一度で足りる。あの冒険以来、わたしたちはもう路を見失うということはなかった。それに路は二本あって、両岸を一本ずつ走っている。しかし、その痕跡が場所によってはひどく微かな上に岸から遠ざかったり登りになったりする具合かひどく気まぐれなので、ちょっとした不注意にも見失ってしまう惧れがある。この二本の小径はいずれも同じようにまっすぐである。しかし、サランシュの変化に富んだ幾つかの滝を楽しみたいと思う人は、左岸の道を採る方がよい。
 ゴルジュ全体は荒々しくて非常に美しく、また一種独特な警抜な性格を持っている。ヴァン・バの下では両岸が迫って来て通行は不可能になる。そこまで来るとサランシュはいよいよ急な跳躍を起こして、ますます高い轟音を上げる爆布となって深淵を躍り越える。やがて突然、ゴルジュがローヌの渓谷の前で開ける。そして、流れるべき地面を失った水はその豊かな燦然たる泡を空間の手に委ねる。しかし、これが最後である。サランシュは平地に触れると同時にその名を失ったのである。つねに真っ白で決して豪雨の色に染められることのないこの滝は、もうサランシュではない。土地の人たちは。ピッス・ヴァーシュという名でこれを呼んだ。そして。今でもこの名が残っている。

 この滝を賛美する多数の旅客の中で、サランシュという美しい名を知っている者は極めて稀である。そして、たいていの人たちは、上の方の開いているこの暗いゴルジュがいったいどこへ通じているかということを訊くことを忘れている。
 サランシュをその水源で味わった後、彼女が息も絶えだえの泡をローヌの泥水に混ぜようとする臨終の瞬間まで、その最後の瀑布について追って行くのは興味あることだろう。わたしが最近に知った小径を辿ればそれはできる。しかし、サルヴァンヘの道は、ヴァン・オーの少し下で彼女と別れて樅の森林の中へ入り込んでいる。勾配は急だが脚には楽な道で、間もなく低い地帯へ出る。ある種の雄大な眺望もなくはない。そこからはペンニーン山脈の前哨が夕栄えの中で輝いているのが見える。
 平地へ帰ることを急がない人ならば、だれしも、サルヴァンヘ足を停めて後悔はしないだろう。夕方に着いて、一夜をそこで暮らして、翌る早朝のすがすがしい空気と最初の日光との中を降りて来ることもできるのである。
 ヴァレー郡のすべての村落と同様に、サルヴァンも絵のように美しい。昔の風俗と素朴さとがまだそこを支配している。しかし、そういう物が間もなく影を消してしまうのは惜しいことである。一本の新しい道がサルヴァンを通るようになって、シャモニへ行く外国人のかなりな流れをこっち側へ入り込ませている。
 わたしはサルヴァンが好きだ。そこには幾多の思い出もあれば、善い人たちの知り合いもある。山へ向かって出発する山羊の番人のラッパの音に朝早く眼を覚ますために、そこで眠るのがわたしは好きだ。朝、得もいえぬギューロの小径を辿って下るために、夕暮れそこに居残るのがわたしは好きだ。なぜならば、どうせ降りて行かなければならないものなら、この無上な、また悲しい瞬間をなおいくらか遅らせて、のろのろと迂回しながら影を消す一筋の楽しい花の小径を、最後の歩行のために選ぶ方がましではないか。
 先を急ぐ人たちのためにはまた別の道がある。それはヴェルナヤの上を幾何学的なジグザグでまっすぐに降りるもので、やはり美しい。この方面には他に道がないのである。しかし、わたしにはこれはあまり早く着き過ぎる道である。
 旅客に知られていないギューロの小径は、村をこっそり抜け出すと、幾つか草原を横切って、控え目な様子で森林の中へ入って行く。ぶらぶら歩く者には佳い道である。半時間ばかりは目的地とちょうど反対の方向をとる。道はトゥリアンのゴルジュを遡る。そこは不吉な地獄で、猛り狂った水の轟が聴こえて、戦慄なしには近寄れない。道は最も通行容易な地点までそれを遡って行って、やがて急流を渡る。そして、今度こそついに正しい方向をとってローヌの渓谷を眼の前にする。しかし、その道は実に爽やかで、影が多く、つつましやかで、しんとしている。途中ある地点には惚れ惚れするような桜桃が咲いている。こういう風にして旅を終わり、最後の思い出にこんな花の一枝を手折るのは何と楽しいことだろう。
 この道は人を迷わすような様子をしてなおできるだけ遠くへ続くらしく見えるが、しかし、もう平地はすぐそこにある。空中を進むわけにいかないとすれば、結局降りるのほかはない。
 ああ! 岩だらけにせよ、花に飾られているにせよ、気紛れな屈曲でうねるにせよ、まっすぐであるにせよ、ここ地上の全ての道にはその目的地がある。そして、どんなにゆっくり歩こうと、どんなに遠く迂回しようと、人は一度はそこへ着かなければならないのである。

   Ⅱ

 ダン・デュ・ミディほど一般的に知られていて、しかもこれほど訪れられることの少なかった山というものも珍しい。ローヌの渓谷を行く旅人はいずれも彼女に注目してその名を覚える。かなり多数の旅行家がその最高の尖峰シャンベリーの峰へ登っている。しかし、植物学者または好事家にして、未知の物の捜索のために別の方面へ、即ちゴルジュの中とかジャラン氷河とか、あるいはジョラー、サランフなどの方面へ入り込んで行った者は極めて稀である。そして、プラン・ネヴェの氷河を知っている人にいたっては数えるほどしかいない。
 旅行家の弁護のためにいえば、シャンベリー以外にはどの方面からにせよ接近は容易でなく、少なくとも予め地図を研究しておくことが絶対に必要である。その上、高地牧場のシャレー以外には宿を期待することもできない。しかし、もしもそういう困難を突破しようと決心さえすれば、困難はたちまち変じてそれだけの魅力となるのである。地図と磁石とを頼りに行程を計画するにも増して楽しいことがあるだろうか! 高峻アルプスの中のある寂しい匿れた奥地へ冒険的に入り込んだり、そこで一夜の宿や食事の場所を捜したりすることにも増して誘惑的なものがあるだろうか? 最後に、山での露営にも増して気持ちのいいものがあるだろうか!
 さらにここに一つ提出されなければならない観点がある。そんな物は持たないに限るかもしれないここで、しかし、問題は真面目なものに成り得るのである。多くの人は、彼らがどこかの山頂を、しかし著名な山頂を極めたのでなければ、アルプスへ遊んだとも思わず、一つの山行をしたとも信じないようである。しかし、その限りでは、この登路は彼らを満足させることが困難だろうということをわたしは告白する。実際、南東斜面の主要な足場であるサランフから出発するとすれば、ダン・デュ・ミディ最高峰への登攀以上に容易なものはほかにないのである。リュイザンはあまり楽でない(注――確かではない)上に知られてもいないし、サランタンもほとんど同じようだといっていい。最後のトゥール・サリエールは非常に危険な登攀である。そして、ダン・デュ・ミディの残る六つの尖峰ときては、そのいちばん小さい物さえ実に一種のセルヴァンである。
 それならば彼らの杖へある山嶺の名を刻んで持ち帰ることに絶対の執着を持っているような人々がサランフヘ来るのはまちかっているかもしれない。牧場や小川、プラン・ネヴェの大堆石や、氷河や、峰々、ここにあるそういう物は二種の人たちをしか喜ばせ得ないだろう。即ち、美しい水、優しい草地、繊麗な花などを夢想させるような風景だけを求める人々……また、著名な山巓に達することをあまり問題とせず、己が移り気のままに、己れ一人の喜びのために、高山の寂寞の中を彷徨することを愛する人々、自尊心による偏見から解放されている登山家。そうした二種の人たちだけを。
 わたしは前章でまずサランフとそのゴルジュとを紹介することを試みた。今度は登攀家たちと連れ立って、氷河とその上に聳える峰々との方へ進んで行こうと思う。

 たとい何と言われてもダン・デュ・ミディには全く惚れ込んでいるとわたしは言った。この熱情に対する近親の者たちの冷やかしは、かえってそれを煽り立てる役をするに過ぎなかった。
 それにまた、何か怪しむに足ることがそこにあるだろうか。二年このかた、一日のあらゆる瞬間にわたしは彼女を眼の前にしていたのである。わたしの部屋の窓は、眼を覚ますとまず見えるいわば一枚の絵に面した位置にあった。それはほっそりした優美な彼女の横顔だった。食卓に着けば、悪戯好きな運命がうまく席を取ってくれるので、わたしは向かい合わせた二人の間から窓越しに、まるで額縁の中の絵を見るように、アレートをなしている七つの尖峰と、その山腹の半分までを見ることができるのだった。最後に、仕事が一日の大部分、わたしを一つの広間へ引き留めていたので、どの窓からでも彼女の全身が見えた。その台石の役をしている豊満な前山から、空中に浮かぶ山巓まで。これでもなお魅惑されずにいられるだろうか。
 ダン・デュ・ミディの中でわけてもわたしの愛するもの、わたしを惹きつけ、わたしを虜にし、わたしの瞑想の間じゅう最も長く視線を引き留めておくもの、それは東峰シーム・ドゥ・レストである。たといそれが最高の峰ではないにしても、しかし最も誇らかな、最もすらりとした、最も美しい峰だとはいえないであろうか。山自体にその全性格を与えているのは彼女ではなかろうか。そして、西方に坐するその姉に数メートルを譲っているにもかかわらず、まず人の心を打ってその記憶の中に残るのもまた彼女ではないだろうか。
 わたしはシーム・ドゥ・レストのデッサンを、他の尖峰のそれといっしょにいろいろに書いてみることを幾度か紙の上で試みたものだ。わたしは彼女の美しい形にあまり夢中になり過ぎているのだろうか。それとも実際最も美しいのだろうか。しかし、その気高さと優美さと、その典雅さと高邁さとを、同時に具現した横顔を描くことにはついに成功しなかった。
 彼女はそんなにも美しく、そんなにも威厳に満ちている! そんなにも立派に一万四千乃至一万五千尺という高さを保っている! よく夢の中で、わたしは彼女の誇らしげな競争者を引きおろす。そして、屈服したペンニーン山脈を睥睨して一人君臨している彼女を見る。
 しかし、ああ! そんなことは全然ないのだ。反対に、周囲のあらゆる峰々の中で、この最も気高い彼女こそ、時の力の下で真っ先に倒れる運命を担っているのだ。昔はどんなに今よりも高かったにしても、それは一つの夢に過ぎない。ただ一つ考え得ることは、彼女が今日最高峰をなす西峰シーム・ドゥ・ルゥエストをかつては凌駕していたということである。連邦の地図の上に眼を投げれば、殊に少し離れてその起伏を観察すれば、全山群が一つの中心点で合する三つのアレートに要約されることがわかる。即ち、七つの尖峰によって連続しているシュザンフのアレート、マッソンジェから起こってプティト・ダンとダン・ドゥ・ヴァレール注・1とを繋ぐアレート、そして、サランタンとガーニュリーのアレート。この三つはいずれもシーム・ドゥ・レストで終わっているのである。なお四番目の断片をなすサン・タネールのそれは、前記のアレートよりは短くもあり、力にも乏しいが、これもまたそこへ合している。それならば、その最高点が、即ちこれらの山稜の結合点が、最も高い所であり、従ってシャンベリーの峰を凌鴛していたはずだという結論を下すことはできないであろうか注・2
(注・1――またダン・ヴァルレットとも呼ばれている。)
(注・2――このことを証明するのはおそらく容易であろう。その時代にはガーニュリーは一個の力強い山稜によってまだ東峰に結びつけられていたに違いない。一つの広い割れ目が爾来そこに形成されていて、今日氷河の主流もここを通っている。新古両様の堆石を精密に調査すれば、その流れの方向に変化があったか否かが証明されるであろう。もしもその主流が南方へ向かっていたものとしたならば、最高の峰はその反対の方向にあったであろうという推論が成り立ちはしないであろうか。)

 その西方の競争者よりも無限に好い位置を占めている上に、高さの点でも多く譲らないのだから、東峰は多数の登山家を惹きつけていたはずである。ところが長い間近づき難いものと思われてきた。今日でもなおヴァル・ディリエや、ローヌの谷や、サルヴァンで、多くの人たちが同じように考えている。
 今までにこの誇らかな頂上を踏んだ登山家が稀であり、その数も容易に数えられるということは少なくとも確かである。一八四二年にヴェロッサの猟師ドゥレによって行なわれた第一回の登攀以後(そして、彼はこの登攀についてつねに生き生きした、記憶を持っていた)わたしの知っている範囲では二回だけしか成功していない。ランベール、ピッカール両氏の登攀と、そしてわたしのと。
 多少なりとも成功で飾られた試みとなるとその数は遙かに多い。ことによれば一ダースにも及ぶであろう。そのうちわたしのが大部分を占めている。
 最高の尖峰を攀じてからというもの、わたしは最美のそれを攀じたい欲望を禁じることができなかった。夏の季節が進むにつれて、毎日の夕方いよいよ長時間わたしはそれを眺めるのだった。わたしはランベール氏の登攀と計画との物語を絶えず読み返して、ついに暗記しはじめるまでになった。自分のいつもの同行者コンスタン・Bにはまだ何事も言わなかったのだが、彼がもらした数語からもう看破されていることを悟った。ついに八月の月も進んでアレートはいよいよ登りやすくなって来た。もうこれ以上我慢はできなかった。
 運命は気紛れ者だ、と人は言う。それはまたいっそうよく結末に辿りつくために種々の詭計をも弄する。
 八月も末のある夕方、コンスタンとわたしとは一人の若いヴェニス人といっしょに、湖水の上で涼を納れようとサヴォアの岸を指して舟を出した。帆は一様に吹く涼しい風をはらんで水面へ傾き、われわれは来し方に遠く輝く船跡を残しながら。水を切って走った。
 太陽は地平線に沈みかかって灰色の光をひろげはじめた。サヴォアの山々はもう大きな影を投げていた。間もなくわたしたちのまわりですべての物がある幻妙な光に燃え上がった。帆柱も帆具もわたしたちの顔も深紅に染まった。水はきらきら輝きながら地平線の炎を反映し、それぞれの波が一つ一つ炎になった。地平線の落日がこれ以上美しいことはかつてなかった。ヴェニス人は立ったまま髪の毛を風に吹かせて、ヴェニスを忘れ、逸楽的なゴンドラを忘れ、アドリア海の美しい夕暮れを忘れた。それから太陽がジュラの長い山脈のうしろへ静かに落ちて行くと、水の色も少しずつ褪せていった。魔術のような光景は終わった。そして、わたしたちは岸へ帰ることを思い出した。ちょうどその時もどろうとして向きを変えた時、わたしたちの三つの胸は突然驚駭と賛嘆との叫びを爆発させてしまった。それはあの美しい光景が続く間忘れていたダン・デュ・ミディで、いまや仄暗くなった山々の中でただ一人落日の最後の炎に燃えていた。こんなにも美しい彼女をわたしたちは一度も見たことがなかった。わけてもシーム・ドゥ・レストは無比の光耀にきらめいていた。あたかも愛人たちの前に立つ一人の美女のように、彼女はその美の全光輝をもってわれわれに現われるために、場所と天気と、時間とを巧みに按配したのである。
 それはあまりのことだった。「行こう!」と、断固たる身振りでその山を指しながらコンスタンが突然叫んだ。「明日出発しよう。」と、わたしは答えた。これで相談は一決した。その晩わたしたちはゲートルや登山杖や綱を調べた。翌日快晴の昼過ぎ、エヴィオナの小さい停車場にわたしたちは降り立っていた。
 シーム・ドゥ・レストヘの登路はいろいろある。シャンペリーを経由するもの、サルヴァンを通るもの、ボア・ノワールを行くもの、サン・バルテルミーのゴルジュからのもの、あるいはジョラーの峠を経るものなど。最後のコースだと路は最も短い。同時に登りの残余の部分と最もよく調和する性質を持っている。サン・バルテルミーの谷は険しくて陰讚で、そこに臨む岩壁は痩せ細っていて恐ろしい。一帯の光景には困難な登攀の序曲にふさわしい真剣な何物かがある。
 その上この地方はヴァル・ディリエの奥や、ことにサランシュのゴルジュなどの特色をなしているあの爽やかな美や気持ちのいいこまこました物を提供しない。ジョラーの峠を登って潑剌とした楽しみを見つけるには、単なる絵画的な美とは違った別の物に興味を持たなければならない。ことにその無量の岩石の凹凸烈しい不安な組繊に対して、そこがかつて大変動の舞台であり、今でもなおその脅威を受けていることを理解しようと努めなければならない。この点サン・バルテルミーのゴルジュや急湍たんにも増して恐ろしいものは他にはない。
 これらの山獄はアルプスの異変史に多くのページを供給した。彼らは一度ならずその住民に怖るべき警告を与えた。そして、各世代は、彼らがその目撃者であった動乱のことを語り継ぐことができるのである。
 しかし、世代が語り継ぐことのできないもの、それは、これらの山獄の原始の渾沌の中にまだ人間の生活が出現しなかった時代に起こった事柄である。
 今日リース河が流れ、エヴィオナの畑や家々のある場所に、そもそもどんな恐ろしい地変から、こんな広大な割れ目が口をあけたのかだれが知っているだろう。
 疑いもなくこの割れ目は初めのうちは狭かった。そして、怒り狂った水が連続的な突撃によってしだいに彼らの通路を取り込んで行ったのである。それにまた氷河時代に、ゴルジュの中へ彼の流れを閉じこめられていたローヌの強力な氷河が、猛烈な勢いでその側面を圧迫したことにも疑問の余地はない。ダン・ドゥ・モルクルからダン・デュ・ミディヘかけて、そもそもどんなに多くの峰々が次から次へと侵蝕され消滅して行ったことだろう! 大氷河はこれらの最初の崩壊物の莫大な量をことごとく遠方へ運んだ。そして、レマンの水こそおそらくその秘密をわれわれよりも善く知っているのである。
 その後起こったこと、また、人間の出現以来この付近に起こったことは、最初のころの動乱に較べれば何物でもない。しかし、それでもなお人間の想像にとってはあまりのことであり、彼らの貧弱な住所にとっては異常過ぎる出来事である。
 地方の古文書にはかなり昔から恐ろしい思い出についての記載がある。モン・トーリュスの転覆の下にエポーヌの小さい町を埋没した異変、そして、そこで(近代になってラヴェーでふたたび発見された)温泉が消滅した異変――は、最も古いものの一つである。
 一六三五年十月九日の真夜中に、ある新しい怖るべき非常警報がエヴィオナとその付近の部落との住民に発せられた。彼らは愕然眼を醒まして恐怖の寝床から飛び出した。耳を聾するような轟音が聴こえて、それがますます猛烈になって行った。近くにあるノヴィエロの山は大爆音を上げて渓谷へ崩れ落ちた。急報を聞いたサン・モーリスの司祭が警鐘を鳴らした。夜が明けると群衆の行列が災害の場所へ向かって行った。しかし、行列がそこへ着くか着かない内に、さらにいっそう猛烈な崩壊が起こって彼らを付近の高みへ追い散らした。
 音響は渓谷全体に鳴り響いた。ボア・ノワールから湖水まで、太陽は十五分間以上も塵埃の雲で暗澹とした。ローヌの流は堰き止められた。マール(今日のサン・バルテルミー)の急流はジョラーの麓ヘ一個の湖を作ったが、それが溢れ出すことは谷間の人々にとってまた新しい脅威であった。
 土俗の迷信はこの大異変を山に住む悪魔の仕業に帰した。シオンの司教ヒルデブラント・ヨストは九日間悪魔祓いの祈祷をした。しかし、何にもならなかった。水は飽くまでも仕事を続けた。そして、局部的な崩壊とか、また特に急流に運搬される泥土とか、そういう似たような脅威が幾年か間を置いて繰り返された。
 最後に一八三五年八月二十六日の朝十一時ごろ、突然休みなしにつづく大砲の一斉射撃のような音響が轟き渡った。人々の眼はことごとく山を仰いだ。シーム・ドゥ・レストが雲のような物に包まれていた。そして、そこから崩壊物が落下して来た。濃密な霧がサン・バルテルミーのゴルジュに立ちこめて、猛烈な突風がメースの家々を震撼し、森林の全部を転覆した。
 岩石の巨大な一塊がシーム・ドゥ・レストからはずれて落下し、それが氷河の最前面に衝突して粉砕した。氷と岩とは恐るべき音響を上げながら七千尺の絶崖を転落して、渓谷とゴルジュとをその崩壊物で埋めた。
 粉砕されて溶けた氷はこれらの崩壊物と混合して、巨大な岩石を篏め込んだ泥槐を形作った。それが急流の高い岸を躍り越え、ボア・ノワールを越えて、ローヌの渓谷まで行って溶けた。流れの一部は右手へ向かってラッスの部落を泥土で被った。
 遮断された道路の交通を復旧するために橋を架けなければならなかった。橋は幾つかの長い梯子と、樅材の板と丸太とで作られた。その梯子を縛った綱は岸の高みへ張り渡された。新しい押し出しが来るたびに――そんなことは一日に三度か四度あった――ゴルジュの中にいる見張りの男が呼び子で知らせた。すると橋が流されないように即座に綱が引き上げられた。当時の目撃者ドゥ・ボン氏がこういう押し出しの一つを記述している注・1
(注1――ダン・デュ・ミディの昔の崩壊に関する種々の細かい知識をわたしはこのドゥ・ボン氏に負うところが多い。)
「白味がかった一道の煙がゴルジュの口から上がると同時に、耳を聾するばかりの音響と一陣の烈しい気流とが、押し出しの近いことをわれらに知らせた。やがて泥塊の行進が抗い難い力をもって迫って来た。しかし、その速度は緩漫で、普通の歩調で歩く人間もこれに追い付かれることなく進み得るほどであった。巨大な岩塊は字義どおり流れの上に浮いて現われ、しばしの間は一片の羽毛のように軽々と逆立ち、やがて泥塊の中に沈んで全く見えなくなった。なお少し進むとふたたびおもむろに表面に浮き上がって来、やがてまた沈み、こういう風に同じ光景と同じ出来事とを繰り返しながら、しだいに遠方へ進んで行くのであった。
 急流の河床には特に狭い箇所があった。莫大な量の礫はそこへ停滞して一種の障壁を形作ったが、河流に運搬されて来た種々雑多の物がそこへ堆積した。数分間そこには不思議な闘争が行なわれた。氷の融水は漫々とみなぎって後方へ退きはじめた。それは岸を越えるほど高まった。ついにそれは出口を見い出して、行く手を遮るすべての障害物を突破しながら共に運び去った。岩石、樹木、氷塊、あらゆる種類の破片、すべてそういう物が長い荒々しい咆哮と共に渦を巻き、次いで平らになり、ボア・ノワールの斜面を越えて前方へ運び去られた。」
 一八三五年以来、山はほとんど静穏になっている。しかし、水は仕事をしている。そして、ローヌの渓谷を荒廃させるような、いっそう怖ろしい異変のまたやって来る日をだれに予見できるだろうか。
 今日、人々はもうそこで悪魔の仕事を見ない。彼らはもう山のお祓いはしない。しかし、信仰からのしきたりで、サン・バルテルミーでは、毎年行列がラッスの上手の或る小山の上へ出かけることになっている。そこには十字架が立っていて、人々は祈願によって天帝の加護に訴えるのである。
 エヴィオナからボア・ノワールとジョラーとへ達するには、麦畑を通ってラッスの部落まで、即ちゴルジュの入口と森林の麓まで行かなければならない。
 ヴァレー地方でよく見るような絵画的な壊れた廃屋の幾つかを後にすると、路は急な坂になって森の中へ入って行く。一歩一歩急流の右岸の顕著な登りを進むと、間もなくその轟が数百メートル下から聴こえて来る。約三千尺の高さまで来ると、険しい頑固な石だらけの坂が終わって登路は魅惑的なものになる。一筋の楽しい小径が森の中を登りもせず降りもせずに続いて、それが苺や、蝦夷苺や、すがすがしい羊歯などにすっかり縁取られている。
 頭を上げると、もう木の葉の間から、天空の最も高いところにピラミッド形のシーム・ドゥ・レストが見える。その左にはガーニュリーの巨大な岩壁が聳えて、たいして重厚ではないが誇らかな尖峰の印象を一瞬間揺らめかすだろう。この二つの峰の間には空色をした氷河の一端が拡がり、それから下は暗い深淵をなしている。尖峰の突端から谷底まで、約六千尺を算する垂直な厳然たる絶崖である。
 左手サランタンの禿げの頭とガーニュリーの絶壁との間に一つの凹みが見える。それがジョーラの峠コルである。小径は迂回し、一本の急流を横ぎり、だいたいその方向を指して登り、間もなくジョラー・ダン・バのシャレーに出会う。そのすぐ傍を冷たいラ・フォンテーヌの奇麗な水が流れている。何たる誘惑だろう! しかもその誘惑に負けまいとするにはどんなに強くなくてはならないだろう!
 そこから一本の登路がいよいよ高く、小さい谷にちょっと中断されながら峠の頂上まで続いている。風景は単純で植物にも乏しいが、路は快適でなくはない。人は影と涼しさとの中を行くのである。
 峠の頂上には、つねに山地の人々の素朴な信仰の感動的な表象である一基の十字架が立っている。そして、こんな高みでは、それがいみじくも真面目な思想を思わせる。
 この十字架は、それを立てた人々にとっては、疑いもなく邪悪な霊に対して、また、おそらく幾分かは嵐に対して、彼らの牧場を守護するための物であった。それは峠の通行の安全を保証し、悪竜ドラゴンを(もしも彼が帰って来る気を起こしたならば)駆逐する物であった。
 淳朴な信仰よ! そして、この信仰たる、今日のいっそう開化した多くの山人たちの猛々しい懐疑心よりも遙かに価値あるものではないだろうか。教育の不足が彼らをしてもっと高尚な思想にまで登ることを許さない以上、守護者である神に、悪魔の誘惑から免れることを祈る者たちを護る善き神に信頼することは、彼らにとって慰めではないだろうか。
 けれども通りがかりに礼拝しない者や、女たちに爪弾きされることを恐れてのみ礼拝するような者がもういるのである。それがことに谷間の人間に多い。五十年のうちにはおそらくもっとおろそかにするだろう。そして、いつかは蝕んだ十字架が嵐に運び去られ、それを立てなおそうなどとはもうだれも思わなくなるだろう。もちろんわたしはここで聖像礼拝を説教する考えは毛頭ない。しかし、そんな時が来たらわたしは山の住民たちのために嘆くだろう。
 ある夕方、それは二度目の時だったと思うが、わたしたちは、ジョラーを登っていた。ちょうど人々が家畜を牧場へ連れて行ったばかりのところだった。それであの高みで余りの一日を暮らして夜になって下山するために、どの家族も皆後についていた。わたしたちが峠の頂上へ近づくと、反対の側から一人の善良そうな老人と、二人の女と、夕勢の子どもとが現われた。彼らは十字架の前まで来ると帽子をとって、深い尊敬の心をあらわしてそのまわりへ跪いた。この一家族の者が敬虔に十字架を取り巻いている光景、それは何という山上での光景だったろう!  何と単純な素朴な家族だろう! 牧場へ残して行くその家畜などのための加護の祈り、そして、その祈りを聴く者のところへ登って来た彼らの心!
 わたしたちはそこを通って彼らの邪魔をしないように、またこの感動的な画面を楽しむために、少し離れて腰をおろしていた。やがて膝を払いながら彼らは立ち上がった。そして、明らかに安堵の心を抱いて山を下って行った。

 家畜の群れが牧場に滞在している真夏の季節を除いては、ジョラーの小径は荒れている。七月も半ばごろになると、幾人かの山人が、冬の被害の繕いをしたり滞在の準備をしたりしに、彼らのシャレーヘやって来る。続いて家畜の到着する二、三日前になると、多勢の人間が登って来て、雪崩のために方々で陥落している路を修繕したり、木の枝や大きな石を、取り除いたりする。
 サランフのシャレーに人の住んでいることを知るのは確かに愉快には違いない。しかし、ジョラー峠は、寂寞の国の何たるかを知る者にとってはいっそう感銘的である。この峠にはいっそう忘れることのできない性格がある。そして、その性格は白昼や活動よりも、さらによく黄昏や、沈黙や、寂しさのような物と調和している。
 それは広々と開けた地平を望む高い山脈の上の峠ではない。それは近隣の谷々や峰々しか眼に入らない肩の峠である。右手にはトゥール・サリエールの険しい岩壁が、その囲いの間にわずかにサランフの圏谷の一部を見せながら、地平の眺めを扼している。その前方、左の方には、ひとつのゴルジュががっくり口をあけていて、夕暮れにはそれが底知れず深く見える。ただそこを流れているサランシュのかすかな轟だけが、ゴルジュの深さを測るよすがとなるのみである。こっち側では、最も深い影の上遥かにコンバンの白い円頂が聳えている。夕暮れの最後の反映にまだ照らされながら、または夜の最初の影のただなかに蒼白な幻のように立ちながら。
 わたしたちが初めてその頂上へ達した時、峠の上には一つの崇高な光景が待ちうけていた。
 太陽はその没した瞬間から天空に菫色がかった光を残して、その反対がペンニーン山脈の美しい氷河をまだ彩っていた。ちょうどその時、月がトゥール・サリエールの上へ昇って、限りもなく壮麗な姿を現わした。そこには瀕死の太陽とさしのぼる月との二つの光が混じり合って、得もいえぬ色調を生む一瞬間があった。菫色から緑へ移る最も美しい灰色のニューアンスが同時にそれへ溶けこんだ。一瞬間色調は美と深さとの極限に達した。それから少しずつ菫色が消えて蒼ざめた緑が主になった。そして、最後に月がひとりその静かな光を全画面の上にひろげるのだった。

 峠の頂上から小径は左へ斜行してサランフの牧場まで下って行く。そこへはじきに達することができる。
 もしもシャレーに牧者たちがいたら、一番先に眼についた小屋へ入って行きたまえ。おそらく、安楽はないかもしれないが、懇ろな、欲得を離れた歓迎は受けるだろう。もしもシャレーが空だったら、その時こそアルプスの大行程のうちで最も妙味ある楽しみの一つが開始されるのだ。即ちこの無一物の世界から仮の宿りを作ったり、暖をとったり、身を養ったりするために、人間の天才の全力を発揮する楽しみ、考え得るかぎりの最も不思議なあらゆる手段を講ずる楽しみが始まるのである。
 わずかの努力で必要に備えることができるのみでなく。風変わりな材料の力をかりて、或る慰安も得られれば、またシバリス人びとの快楽も得られるのである。
 初めての探検の時には、わたしたちは家畜が下山した数日後にそこへ着いたのだった。まず第一に一軒のシャレーを選択することが必要だった。わたしたちはそれをじきにある魅惑的な場所で発見した。幾つかの岩塊を背にして、芝地のへり、小川のすぐそばにあるシャレーだった。
 ランターンがともされ、銘々に腰掛けができて、わたしたちは数分間で落ち着いた。逆さにした桶がテーブルの役を務めた。炉の中では落葉松の根や古い樅の割り板がぱちぱちいって燃えた。
 また、別の何ともいえない楽しみは、食事をすること、即ち料理の知識を応用することでなければならない。そして、われわれのような料理人が作った、へんてこではあるがまた旨くもある飲み物を、だれが描写できるだろう! 桜実キルシュと香橙オランジュとを混ぜた暖かい葡萄酒や、ハンケチの端で濾した茶の香味は、最も贅沢な食卓にも求めることはできないだろう。
 しかし、こんな夜は一刻も貴重である。それで料理の化学を十分に試みた後では、明日の疲労に前もって備えるために眠りに行くがよい。諸君は火に薪を添える。湿った地面の上へじかに毛布を拡げる。あるいはもしも干し草が残っていたら秣置き場へ登って行く。要するにどこででも眠ることはできるのである。しかし、読者諸君、わたしはきっと諸君が階段で眠る快味を知らないだろうと思う。経験を積んだシバリス人びととして、わたしが長椅子にするために第一に占領するのはいつでもこの建具である。それは百の踏段を積み上げた狭苦しいあの平原地方のけちな階段ではなく、三段で秣置き場へ登れる幅広な、頑丈な、あの山地の上等な階段である。習慣どおり十度から二十度の傾斜で横になり、背嚢を枕の代わりにすると、この階段は手に入れることのできる最も具合のいい寝台になる。おお、レムブラント! 君はどこにいる。また、画家という者は、どうしてこんな山中の光景から霊感を得ようとしないのか!
 はからずもわれわれのシャレーの戸口に現われた画家にとって、これは何という好個の画題だろう! ……什器や、食物や、斧や、綱や、明滅する角燈と気紛れな炎を役げる落葉松の根との明りに照らし出されて、階段で眠っている旅人。そんな雑然とした光景が、何と絵画的ではあるまいか。
 けれども、ここでもまた下界と同様に時刻は移る。いまや真夜中である。起きて朝食をとり、出発の準備をすべき時である。
 天気を見に少しばかり外へ出て見る。氷河の爽やかな空気が顔に当る。空には一片の雲もなく、月はらんらんと輝いている。
「さあ、出かけよう、コンスクン! 用のないランターンはそこへ残して置いて、この結構な月明りを利用しよう! ゆっくりと歩こうね。少しばかりよけいに休んでいるよりも、こんな良い夜をそれだけ長く味わった方がましじゃないか。」

 シーム・ドゥ・レストを志すには、サランフからプラン・ネヴェの氷河へ取り付かなければならない。それは一個の白いテラスのように一〇〇〇メートルの上方に拡がって、いましそこでは月光が楽しげに眠っている。その後からは七つの尖峰が幻想的にぎざぎざな形に浮き出して、それが、夜には、無言の人物のように身を動かしたり、内部の合図をしたりするように見える。また、少し長く見ていると、夜陰の中で何か他界の舞踏をやっているように見える。
 シャレーと氷河との間には、一部分昔の堆石モレーンとラピアとで披われた非常に長い斜面がひろがっている。これを登るには三時間を要する。しかし、石をよけて、脚膕ひつかがみを労わりながら、半時間を儲けて登る方法がなくはない。ほとんど最右端のあたりに、新しい堆石のところまでつづく、斜面と草つきの円丘との一連続がある。シャレーの右手から一本の幅広な牛の通路が登っている。初めはラピアを避けるために離れて、それから一種の小谷をなしている中腹でとまる路である。そこまで行くと、前方に、一筋の堆石のアレートで続いている切り立った急坂が現われる。これが最善で最短の登路である。
 最初の坂を登りつめるや否や、サランフの圏谷と野とが神秘な光を浴びてわたしたちの眼下へ現われた。小川のきらめきを見せている野原は、トゥール・サリエールの岩壁の下の影の中へ消え込んでいた。その岩壁の暗さが、一つ一つの起伏を月の光に優しく照らされているドームの氷河の、その軟らかい白さをいっそうよく引き立たせていた。夜の沈黙のただなかからゴルジュを流れるサランシュの水声か、あるいは弱く、あるいは強く響いて来た。山の永遠の声、合奏を補う荘重な低音バスである。
 おお! このアルプスの純潔な空気にひたり、この夜の天体の至上の光に照らし出されたこんな光景を、もしも芸術で表現ができるのだったら!
 不思議な形の岩に囲まれた石と芝草との中を、わたしたちはゆっくりと登って行った。そこからは、わたしたちの近づくにつれて時々赤鷓鴣や、かわらひわや、その他の山の小鳥が飛び立った。黎明が近づいた。じきに月は一人では輝かなくなった。そして、彼女が山の後へ落ちかかって行くにしたがって、しだいに東方の明るみが著しくなってきた。夜明けといっしょに氷河の上へ着こうと勇み立って、わたしたちは足を速めた。
 堆石モレーンの最後の地帯は苦しい。ことに地面が凍っていない時にはそうである。足の下で絶えず小石がころがる。三歩進んで二歩になるかならないかである。それでもわれわれはいよいよ登る。目的地は近いのだ。元気を鼓舞するにはそれで十分である。
 登るのだ! 登るのだ! ああ! 強壮にされ苦痛に慣らされた肉体の諸器官が、最早われわれに何らの疲労をも感じさせない時の何たる愉快さだろう! もっと高く、いよいよ高く登って行き、世界を上の方から見おろすのだ! 光の領土を目ざして登って行くのだ! 肉体には何という満足、精神には何という喜びだろう!
 ――これだからね、コンスタン、下の方では、平地では、みんながぼくたちを気違い扱いにするんだよ!
 わたしたちが氷河まで辿り着いた時にはもう夜が明けていた。近づくにつれて眼前には七つの牙峰ダンがいよいよ恐ろしい形相で聳え立った。「だが、それではシーム・ドウ・レストはどこにあるのだろう……はてな! エヴィオナやボア・ノワールから見たあのかわいらしい鐘楼、それがこの素晴らしい肩幅をしているダソだったのかしら。……よく見極めなければならない。」
 アルプスの与える最大の驚きが少なくともこの点にある。
 ダン・デュ・ミディのプラン・ネヴェは七つの尖峰に沿ってほぼ一万尺の等高で拡がっている。それは一個の広いテラスを形作って、縁辺では下に向けて強く傾斜し、中ほどでは幾分緩やかになり、次いでしだいにクレヴァスを穿ちながら急傾斜になる一つの狭い斜面をもって、ボア・ノワールを瞰下ろす絶崖の上まで達している。長さは二キロメートル、幅は最も広いところで約一キロメートルを算する。もしも雪が固ければ、幾つかの顕著なクレヴァスを越える時のほかには、ほとんどどこでも危険なしにそれを横断することができる。しかし、雪が軟らかいと見たらばすぐに中央部をとって、要心しながら縁辺の方へ近づいて行くのが得策である。実際中央部を除くとかなり多数のクレヴァスが縦横に走っていて、それがまたたいていは雪に被われていて、夏もずっと晩くでないと口を明けていないのである。ことに北東側では、年によっては五尺から六尺、あるいは十尺にも及ぶクレヴァスを見せている。ダンが近くなると、方々で大きなリメイ(ベルクシュルント)が幅を利かす。ボア・ノワールヘ向かって葺き下ろしている枝分れはどうかといえば、これは必要の場合には下ることができる。しかし、綱と斧とは絶対に欠くことはできない。
 或る突出したアレートの上、氷河の落下と、エヴィオナのゴルジュと、ローヌの渓谷と、さらに遠い山巓の群れの広大なパノラマとを瞰下ろす狭い展望台の上に立って、シーム・ドウ・レストのアレートや、クーロワールや、岩棚を、ひどく情けない顔つきをして観察しながら、わたしたちは日の出を待っていた。間もなく、いっそう生き生きした東方の紅が昼の天体の接近を知らせた。最も高い峰々が輝きはじめた。コンバン、エギーユ・ヴェルト、モン・ブランなどの丸屋根が柔らかい薔薇色の光をひろげた。突然第一の光線が地平の雲霧を貫いて、周囲の山嶺の上にその光彩を注ぎかけた。
 なんという崇高な瞬間、なんと魂が純粋な歓喜をもって満たされることだろう!
 日の出の中には何か知れぬが魂の底から頌歌を湧き立たせるものがある。人は感謝と愛との賛歌を全天にこだまするまで歌いたいと思う。
 遠い山々を燃やして夕暮れの紫のなかに沈んでゆく太陽の光景は、たしかに、同様に崇高な看物ではある。しかし、わたしは一つの後味として、魂を締めつけ、ほとんど涙を誘うような、悲哀や憂愁をそこに感じる。おそらくそこには人間的な詩以上の物がある。なぜかといえば、遠い思い出や、哀惜の情や、幸福の夢などが打ち群れて帰って来るのは、その瞬間だからである。けれどもまた夕闇が近づくにつれて、真夜中そのものよりもさらに強く、あるいは漠然とした不安が心をとらえる。人はこの消えてゆく、そして、何物にも引き留めることのできないような光に自分を結びつけたいと全力をもって願う。朝、人は昼間に向かって進む。それは希望の時、悦ばしい純な賛歌の時である。夕暮れ、人は夜に向かって進む。それは憂鬱な瞑想の時、過去の哀惜、未来の不安の時である……もっと年老いて、おそらく墓の方へ傾く時が来たら、わたしはこの夕暮れの憂鬱な時刻を、消えゆく昼間の別れの時刻を、選ぶだろう。いまだ若いわたしは朝の純潔さに照り輝く遠い地平線を愛し、美しい一目の希望を与える日の出を愛する。

 わたしたちの展望台から眺めると、シーム・ドゥ・レストは一部分険峻な一個の岩壁か、あるいは巨大な階段状の岩壁のように見える。そのアレートの線はヴヴェーやモントゥルーから眺めたような優しいものでは決してない。それは第二のダンの基底から別れると、クーロワールに通じる二本の深い裂線に二か所ばかり断ち切られながら、ますます豪放に、ますます荒々しく聳え立つ。しかし、山巓に近くなるとその輪郭はやわらいで、はっきりしなくなる。それゆえ、氷河から見たのでは、頂上を形作っている不等四辺形の最高点がどれであるかを極めるのに窮するのである。
 氷河の線は山頂の線と対称的に逆の方向へ進みながら、しだいにローヌの渓谷へ向けて落ち込んで行く。それがために、頂上から氷河の末端まで、逞ましい岩壁で形成され大きな傾いた岩棚で切られた絶崖は、約五〇〇メートルを算している。
 氷河の縁からアレートへ取りつくには、岩棚と積み上がった岩棚との壁を一つどうにでもして乗り越えなければならない。わたしたちはランベール氏の記事にある注意を手引きに、それを乗り越えて、通過可能のクーロワールのある第一の裂け目に取りつく手段を、間もなく決定することができた。それから先のことはその場になってきめなければならなかった。
 この傲然とした岩壁へ初めて近づいた者は心臓が少し轟くのを感じる。しかし、近づいて見ると遠方から見た時よりも遙かに容易らしいので全く安心する。ぐらつく岩塊や、大きな岩棚や、一種の岩筒シュミネーを越えて登ると、間もなくクーロワールの近くへ達する。光景はしだいにぞっとするようなものになる。絶崖の線はほとんど垂直をなして、氷河の落下と共に空間に消え込む。その青い美しいクレヴァスをたちまち眼下に現わす氷河と共に。
 クーロワールの光景は、一瞬間わたしたちを考えこませた。緑色のがっちりした氷の斜面が、五歩乃至六歩の幅をもって約五十度の勾配を示しながら、滑らかな、均質の岩でできた二つの塁壁の間を約二百尺登っていた。登路の大部分に最小の手掛かりの希望もなしに。
 近づくと、左側では岩の反射熱がクーロワールの縁の氷を溶かして、それと岩壁との間に一条の間隙を作っていることをわたしたちは発見した。一メートル乃至二メートルの不同な深さをもったこのクレヴァスは、幅二、三尺の、クーロワールと同じ角度で傾斜した一種の岩筒を作っていた。それは手掛かりになる突起部のほとんどない、しかし、わずかばかり捻れをもった岩筒で、片側の壁は岩、もう一方の壁はがっちりした氷でできていた。
 わたしたちは二人きりだった。その上わたしは連れの力よりもさらに自分自身の力に頼らなければならなかった。クーロワールの急坂での最も小さな踏みはずしてさえ二人いっしょの墜落を惹き起こすことを慮って、登攀はいっそう困難ではあるがその代わりもっと安全な、この岩筒へ入り込む方をわたしは選んだのだった。一時に一人しか進めない場所なので。もう一人は背中と両脚を突っ張りながら、しっかりした足場を確保していなければならなかった。
 わたしが先へ登った。幾度か垂直な氷を切らなければならなかった。なぜかといえばクレヴァスの底は稀にしか手掛かりを与えてくれなかったから。二、三の箇所では透き間へ篏まりこんだ岩の塊が行く手を遮っていて、それを越えるためには外へ出て回らなければならなかった。
 終わりに近づくに従って、ますます垂直になるクレヴァスがつぼまって来たので、クーロワールの斜面へ取りつくためにそこを抜け出して、上の方へ達するのにもっと確からしい別の側へと、モの斜面を斜めに横ぎる必要が起こった。これは、しかし、決して容易なことではなかった。とうとう、わたしはアレートへ出た。連れは岩筒の中にいて、わたしがしっかりと身体を据えるのを待っていた。一つの岩の塊がわたしの座席に役立った。わたしは足場を確かめてから綱を岩へ巻きつけた。そうしてコンスタンの全動作を眼で追いながら彼の登って来るのを待っていた。
 彼は岩筒を出て、おもむろに斜面へ掛かった。ちょうど中ほどまで来た時だった。彼は一歩を踏みはずしてたちまち矢のように滑り出した。しかし、綱が二、三尺の所で彼を引きとめた注・1。彼の足が氷の面へ食い込むことができなかったので、わたしは彼を自分のところまで曳きずり上げなければならなかった。彼は少し蒼白になって上がって来たが、あまり激しい興奮を現わしてはいなかった。そこはアレートの上の広い場所だった。一時間近くつづいた登攀の疲労が、今経験したばかりの激動の瞬間といっしょになって、われわれは息を入れなければならなかった。
(注1――岩に巻きつけた綱のおかげでわたしに伝わったショックは非常に弱く、片手で彼を苦もなく支え得るほどだった。綱を強く張ることは絶対にしなかった。けだしこういう性質の通過地点では綱の緊張は動作を不自由にし、時にスリップを惹き起こすことがあるとわたしはつねに考えていたからである。)
 こっち側へ来てみると、今まで陰になっていて感じなかった猛烈な氷のような北風が吹きまくっていた。それは登舉を楽にする足しにはならなかった。周回の光景は、いよいよ荒寥としてきた。われわれの前にはヴァル・ディリェや、シャブレーや、ヴォーとジュラの地平線が現われはじめた。脚下では一面の氷の斜面が坂落としに落ち込んで、空間に消えていた。身のまわり到るところに破壊された、積み重なった、奇怪な岩が突立っていた。
 とかくするうちに、砕石でできた一つの斜面がわれわれを裂け目の外へ、真のアレートの上まで導いた。そこからは眼前にシーム・ドゥ・レストと、なおこれから通過しなければならない路とが見えた。その路はかなり明瞭に指摘されはしたが決して楽なものではなかった。それは凹凸の激しいアレートと、岩棚と、ところどころ膜氷ヴェルダラに被われ、堅い、眼も眩むような万年雪ネヴェに横断された切れ込みラヴィーヌとの連続だった。
 われわれは第二の裂け目を通過しなければならないことを知ったので、下の方でそれと出会うために、幾つかの切れ込みを通って側面を進んだ。ますます烈しく、ますます寒冷を加えて来た北東の風は、もうわれわれを頭から足の先まで凍らせてしまった。ヴェルグラは岩の上の通過をひどく困難なものにした。数歩上には、氷で被われ、ヴァル・ディリエに向かって落ち込んだネヴェの斜面があって、われわれはそれを横断しなければならなかった。わたしの指はしびれて斧を扱いかねた。切れ込みはしだいに難渋を加え、風は兇暴さを倍加した。わたしは立ちどまった。わたしはまだ一時間の行程を隔てている山頂を眺めた。それから友の方へ振り返って言った。「君はどう思う、コンスタン?」
「もうたくさんだと思うよ。できるだけ早くこのアレートを退却しなければいけない。絶頂へはとても行かれそうもないから。」
 それで、そういうことになった。今度だけは頂上を断念して、しかし、こんな近くから見たことに満足して、われわれは風を避けるためにふたたびクーロワールの口へ引き返した。
 われわれが退却したのは良かった。その後わたしはたびたびその場所を訪れたが、この最初の、しかも予め成功を危ませるような種々のコンディションの下での試みの時ほどの困難は経験しなかった。
 頂上に達するには、単に切れ込みラヴィーヌの雪が溶けて、岩に膜氷のないのが条件であるばかりでなく、とりわけ、もしも二人きりで行くならば、その同行者が、足の確かな、しっかりした人間であることが絶対に必要である。

 下りは登りよりもたやすいどころではなかった。
 人が己れに返って、いったい自分はあんな高い所へ何を求めに行ったのか、どんな特別な快楽のために、帰路についても不安なしではすまないような危険に好んで身を投じるのかと、しばしば自問するのはこんな瞬間である。
 それならば、山岳会員諸君、われわれをあの高所へ引き寄せる物はいったい何であるか。いよいよ高まる熱情をもって、どんな忠告にも耳をかさず、絶えずそこへもどるために、氷河の魔女がその杖で触った物を見に行くのは何のためか。なぜならば、どんなに足と頭とが確かであろうと、われわれの間でアクシデントがどんなに稀であろうと、結局、これらの場所は人間のために作られたものでは少しもないのだから。また深淵の横腹に身を支えたり、アレートに馬乗りになったりしながら、人間の在るべき場所にいるのだとは決して感じはしないのだから。
 それはドゥ・スタール夫人が言ったように、「吾人の本性の中で、一切が生命を愛するように命令する時に、身を死地に暴露する特異の快楽」であろうか。死と並行して進むことの、換言すれば、生きていることをいっそうよく感じることの、特異の快楽であろうか。わたしは断じてそうは信じない。
「好奇心は虚栄心に過ぎない。人は見た物を語るためにのみ見ようとするのだ。」と、厳格なパスカルは言っている。そして、その尾について平地の人々の繰り返して言うことは。われわれを高処へ牽くものは虚栄心グロリオールであり、われわれが危険に身をさらすのは、一つの山頂をきわめたことを誇り、その名誉を刈りとるためだというのである。
 それは、時には、真実である。誇りの一要求に他ならぬ名誉心は、人間に多くのことをさせ、わけても多くの狂愚をなさしめる。しかし、そこにわれわれの真の動機があるということについては、わたしはまだ疑いをもっている。その動機たるそんなにも強く、そんなにも執拗であり、そんなにも感知し難く、かつ人間の見解からそんなにも独立なものであって、これを探求するにはどこか別の、もっと深いところまで入って行かなければならないほどである。
 次のことはもうすでに言われている。即ち、人間は好んでいまだ知られざる山頂へ登る。なぜならば、それらの頂きを踏みつけながら、彼は一つの征服を果たしたことを確認し、彼の領域の新しい一部分を所有するからである。それは空しい虚栄心ではなく、われわれの本然の深い本能によるのである。
 全く真実なこの動機に、さらにいっそう有力なもう一つ別な動機が加わる。決して達すべくもない一つの理想に達するように絶えず鼓舞しながら、約束された山頂は一瞬間人間を誘惑し、その希望に一つの目標を与えることで彼の要求を裏切る。山が高く眩暈的で、困難であればあるだけ、永久に己れから逃れ去るこの理想の山頂に近寄ったと人は信じるのである。
 或る深い抵抗しがたい本能によって、人はみずからを高め、登り、絶えず登ることを愛する。登山家が最もほっそりした峰を、空間で最も自由な峰を、大地から最も超然たる峰を選ばない限り、彼がつねにひそかに最も高い峰を愛するのはこれがためである。二つの声が、絶壁のふち、聳ゆる山頂の近くではっきり聴こえる。一つは人間的な声で、それは疲労と恐怖とを語る。もう一つは超人的な声で、それはこう叫ぶ、「進め、もっと高く、もっともっと高く! お前は、この山頂に達しなければならぬ!」と。
 幸いなのは、人間がその無限の憧憬を以後まで欺き終わせること、また勝利のただなかにも、一つの秘密な裏切りが、彼をしていまだ欺かれていることを知らしめないことだ。
 その勝利の後、好んであの高い山頂での荘厳な時間を思いおこして瞑想する登山家よ、わたしの言ったこと、それを一度ならず君は感じたことがないだろうか。

 わたしたちの下りは、登りの時よりも時間がかかったにもかかわらず無事に果たされた。クーロワールから出る時厚い霧が岩を包んでしまったので、路を捜し出すのに時間を取られたのである。足が一度氷河に触れた時、その時わたしたちは助かった。
 これがわたしたちの最初の試みだった。その次の年にわたしは二度目の試みをやった。それから三度目のを。二度目の時は、わたしが大丈夫だと信じていた一人の同行者が原因で、また失敗した。なぜならば、これが彼にとって初めてのコースではなし、また非常確かな足を持っていたから、わたしも信用していたのである。ところが、クーロワールまで来ると彼は恐怖にとらわれてもうそれ以上そこを見るのをいやがった。三度目のはわたしたちを頂上のすぐそばまで、最終のラヴィーヌの所まで連れて行った。しかし、そこはまだ軟らかい雪の薄い層に被われていて、非常な危険を冒さなくては渡れそうにもなかった。
 多少なりとも幸せだったこれらの試みに、雨のために中途で断念した別の二つを加えなくてはならない。そのうち初めのはプラン・ネヴェの氷河から、後のはサランフから、いずれも雨になった。
 飽くまでも強い根気はついには報いられずにはいなかった。その後、最も確かな道連れと時とを選んで、わたしは頂上に達する幸福を得た。そして、最後の部分を別にすれば、この登攀は今まで試みたもののうち最も楽なものだった注・1
(注1――幾度かの探検のおかげで。岩壁もアレートも、そのあらゆる細部にわたって、わたしに親しくなった。最近の幾 度かの訪問で、わたしの努力は、最も安全で最も楽な路を発見することに傾注された。今日ではわたしは成功したと信じている。
 第一には、あのいつも悪い、雪に満たされている時でも悪いあのクーロワールを避けることだった。それに、後の方の場合に、もしも残りの部分で歩けたとしたらば、それは驚くべきことだろう。今日までにわたしは四つの違った路を採って岩壁を越し、アレートへ着くことができた。それゆえ、遠方から見たよりも通過は遥かに可能なのである。そこへさしかかる前に研究する必要はほとんどないと言える。クーロワールよりも遥かに安全なこれらの路は、時間の損失を免れさせるのでまた彼より短くもある。こうして初めの二つの尖峰の間にあるアレートへ達する。そこからこのアレートによってクーロワールの出口を手に入れなければならない。次にはできるだけ近くアレートに添って進んで、二つの裂け目の間に立っている一種のダンの上へ着く。このダンの頂上は一つの広いプラットフォームである。二番目の裂け目は、しばしば雪の屋根をかぶった一つの岩のアレートによって横断されている。このアレートを行っても、あるいはそのいずれかの側面を行っても、たやすく通過することができる。絶えず頂上のアレートに添って進む間にほとんど通過不可能のような場所が現われて、どこか別に路を捜さなければならなくなる。ラヴィーヌはこの地点へ向けて裂け口の入った一種の岩棚を差し出している。そして、この岩棚はヴェロッサのアレートまで続いている。最も善いのはこれを行くことである。ラヴィーヌが高くなればなるほど岩はますます悪くなるからである。こうして数分後には頂上の岩場の下へ着くことになる。あらゆる方面を偵察してみて、そこから先は、ランベール氏の書いた物の中へ出て来るあの岩筒が、唯一可能の登路だということを確信させられた。この岩筒は垂直で、極めてわずかな手掛かりになる突起を持って、約六十尺の高さを算している。それは煙突掃除人の仕方で、つまり背中を押しつけて登って行くのに、ちょうどよいくらいの狹さである。天辺にあたって一枚の板岩が出口を塞いでいるから、それを越えるために障害物の外へ身を投げ上げなければならない。この最後の場所を越えてしまえば頂上までは数尺である。下る前に、わたしたちは来たるべき登山者のためにあの板岩を取り除けようと全力をつくしたが、碩として動かなかった。
 要するに、ラヴィーヌが露出していて良好な状態にさえあれば、登攀は単に体操の問題であって、困雎なく遂行することができる。ただ岩筒だけは真剣な障害物を提供するが、もしもこの種の登路に馴れていない者だと、ことに下りにおいて危険である。そのような場合には、適切な要心として靴を脱ぐのがよいであろう。
 今年〔一八七〇年〕の六月二十七日に行なった最後の登攀で、わたしたちは最高の頂上ヘーつのピラミッドを造ってきた。そこにはドゥレーの立てた一本の杉といっしょにもう一つ小さいのがある。ランベール、ピッカール両氏の置いて行ったのに違いない壜はかけて、氷のかけらが詰まっていた。その他にはなんら登祟の痕跡はなかった。)

 それにしても何という報償、ほんとうに、何という場所だったろう! 想ってもみたまえ。一万尺の高さで空中に懸かり、眼に見える支えもなく、垂直にローヌの谷を俯瞰し、遠く大空の青に消える平野を望んで、広さは数歩の、傾いた、凹凸のある一個のテラスを。このような山頂での快晴の一日の機会というものは、実に無上の価値を持つものである。眼はあらゆる方角から太虚の中へ浸りこみ、また帰ってはそこに溺れるために周囲の山巓の上に憩い、さらに空間の深さを楽しんで倦むことを知らない。
 西には、最も高いシャンベリーのそれを除けば互いに頡頏する六つの尖峰が、ほとんど同じ高度を保って、傲然と陰鬱に峙っている。うしろではフォーシニーやシャブレーの山々が暗い波濤を上げて押し合い、遙かにペルヴーの氷河がきらめいている。
 南には、相変わらず豪放で厳しい輪郭の、リュアン、トゥール・サリエール、西峰シーム・ドゥ・ルウェストから見たよりものんびりしたモン・ブラン、またアルジャンディエールや、トゥールやトゥリアンの広大な氷河台地。それから眼は、ヴァレーの山脈からモンテ・ローザやモンテ・レオーネなど、無数の山頂を数え上げることに疲労して、あんなにも優美な、あんなにも純潔な、コンバンの円頂の上で喜んで休む。北東にはヴォーのアルプス、続いてベルナー・アルプスが、くすんだのやつやつやしたのや、それぞれ高峰の円柱を、優美にというよりもさらに傲然と立て並べている。最後に、もっと馴染みの岸辺へ帰って来て、眼はレマンの湖に、その汀に、都会と村落とを一面に播きちらした、そして、その青い色が幸福の表象であるような、そんな丘々の起伏を持ったあの豊かな田園に注がれる。
 おお、人間の悲惨、おお、世界の卑小さよ。こんな絵の前でお前たちが何だ。この光の国、この純潔の領土から眺める時、お前がそもそも何だ注・1
(注1――三日間で害かれたこの一編には、なお三ページ乃至四ページが必要であった。しかし、突然数週間の旅に出ることになったので、わたしはここで打ち切らねばならなかった。最後の二行は一種の抜き書きである。)

                    (「エコー・デ・ザルプ」一八七○年)

目次へ

 

 セルヴァン登攀
            (マッターホルン、4482m)

モン・ブランヘの最初の登攀以来、またやがて行なわれるエヴェレストあるいはダウラギリへの登攀を待つ間に、登山家のした最も美しい征服は確かにセルヴァンである。いつか人々がその絶頂を踏むことがあろうなどと、一世紀前にだれが想像したであろうか。月の世界への旅行もこれ以上不可能とは思われなかった。どの方角から望んでもこの恐ろしいオベリスクを攀じる可能性は見出せなかった。到るところ氷の斜面か越えがたい岩壁に遮られていた。その細部を研究すればするほど、それは永久に近づき難いものに思われた。
 爾来セルヴァンは少しでも変わったわけではない。しかし、高山登攀の趣味と共にその技術が迅速な進歩をして、夏ごとの思いがけない勝利が、「不可能」に疑惑を持つことを登山家たちに教えるに至ったのである。
 その競争者の山の大多数を征服した時、人々はセルヴァンをいっそう近くから見た。或る日、記憶に値する大胆さをもって、ヴァル・トゥールナンシュの猟師たちがまじめにその登擘を企てた。それは一八五八年のことだった。それ以来、この巨人と人間との間に頑固な激烈な闘争が開始された。それは七年間つづいた。この闘争には最も老練な登山家と最も豪勇な案内者との名が数えられる一歴史の全体がある。その結末がいかに光栄ある、しかもいかに悲劇的なものだったかということは万人の知るとおりである。ウィンパー氏とその同行者とは、あんなにも熱望されたその勝利をついに獲得した。しかし、その内四人は絶頂からの降路で彼らの生命を支払った。それはセルヴァンの復讐だった。
 この最初の登攀はスイス側から実行された。三日たってイタリアの案内者カレルが南側から登って、第二回目を敢行した。ティンダル氏が来て、一方の側から登って他方の側へ降りることを考えた。わずか数日後にはあの気のきいた真似手が同じコースの逆を工夫した。それから三番目のが考案された。こうしてセルヴァンの登路はその数を知ることが間もなくむずかしくなるだろうと思われるほどに殖えて行った。ついに去年、アルプスの谷間という谷間に驍名を馳せている二人の婦人が、この恐ろしい絶巓へいずれも足跡を印した。これでセルヴァンの名声に最後の一撃が加わえられたわけである。あまりに当然な反動作用によって、また与えられた恐怖に対して復讐をするためかのように、人々は持ち上げた時とほとんど同じ程度にセルヴァンを貶おとしめている。永久に近寄り難いと思われていたのが、今では容易なものとして公言されている。おそらく、何か新しい不幸が演ぜられて、それがこの山の困難と危険とに対するいっそう正しい判断を呼び起こす時までこの見解は続けられるであろう。
 これからその物語が始められようとする登攀は、一八七〇年に実行されることのできたただ一つのものである。それはわたしの信ずるところでは第十五番目にあたる。
 七月二十一日。わたしはヴィエージュの谷奥へ到着した。そして、或る苦痛を心に抱いてツェルマットへ入った。わたしは燦然として威風に満ちたセルヴァンが、青空の最も高いところで跳躍しているのを見た。しかし、真面目な義務に縛られていたわたしとしては、あれへ登ってみようなどとは夢想もできなかった。あのオテル・デュ・モン・ローズの敷居の上で、数秒の間にあらゆる故障を一掃し、多年育まれて来た欲望に一挙にしてわたしを引き渡した運命の激変、それを述べるのはたいして益もないことであろう。その上事柄があまりに急で、残っている唯一の記憶もいくらかぼんやりしている。その記憶というのを辿ってみれば、その晩わたしはオテル・デュ・リッフェルまで登って行って、そこで大登攀に必要ないろいろの準備に没頭した。翌日は朝のうちに、ただ一人の案内人、ニコラス・クヌーベルといっしょに宿を立った。そして、牧場を越えてセルヴァンヘの方向を採った。わたしたちの支度は、それが単純な散歩のためではないことを充分に証明していた。
 このような探検に向かって出発するのは、二人にとっては新しいことだった。しかし、この事情そのものがすでに偶然の仕業たった。実はわたしはもう一人案内者を雇っておいた。そして、それがその日にわたしたちといっしょになることになっていた。ところが、出発の間際になると、クヌーベルはわたしが彼のために選んだその仲間を何か個人的な理由で拒絶して、急に、自分一人で随いて行きたいと言い出した。ひどく大胆な申し出だった。わたしは頂上まで行く気が彼にはないのではないかと一瞬間気をもんだ。しかし、彼は若くて、身軽で、逞しくて、がっちりしていた。勇敢であると同時に細心であるらしくも見えた。彼の決然とした態度がわたしに信頼を持たせた。それでわたしは同意した。
 リッフェルを去ること半時間で、わたしたちはゴルナー氷河の美しい青い波濤の真ん中にいた。わたしの案内者は荷物を持っていた。きっちり目方を量った二日分の食料と百尺の綱とがそれだった。わたしたちは銘々自分の斧を持っていた。
 セルヴァンの中腹に二年前に建てられた物で、そこで夜を過ごすことになっている避難小屋へ達するには、普通ツェルマットから登るのである。わたしたちはリッフェルから出発したのでもう一つ別の、もっと長い、しかし、もっと気持ちのいい路を採らなければならなかった。それは、リッフェルベルクの山稜とセルヴァンの基部との間に展開している、斜面と氷河とを越さなければならない路だった。こうしてわたしたちの登攀は壮大な自然のただなかでの、長い滋味のある散歩をもって始まった。
「ここまではセルヴァンの登りもほんの遊びごとですよ。」と、クヌーベルは意地悪そうに注意した。
 わたしたちがまず横断したゴルナーの氷河はひどくでこぼこはしていたが、歩くには楽だった。その縁から二、三歩のところ、地面の皺の中にアルプス薔薇――刺のない薔薇――の藪が身を寄せているのをわたしたちは見た。これがわたしたちの出会うことのできた樹木性の植物の最後の足跡だった。いろいろな花が咲き乱れて、この荒涼の野の中でわたしたちを歓迎しているように見えた。わたしの案内者はその中から一輪を摘んで、うしろにして来た人生の思い出を運ぶためにそれを帽子の飾りにした。
 ひとしきり急な登りを続けると、やがてゴルナー氷河に囲まれた谷を出た。見ない内にひどく接近したセルヴァンが、巨大に、威嚇的に、突然わたしたちの前へ聳え立った。こんなに近くからだと心の動揺なしにはそれを見ていられない。
 セルヴァンは、要するに一つのピラミッド、単純なピラミッドである。ただピラミッドならばアルプス中で幾百と数えることができる。ところがこれに巨人的なピラミッドで、その形の豪放、その空間的広がりの力強さ、その孤立の誇らかさによって唯一無双のピラミッドである。
 元来この種の威風に満ちた山はいずれも強大な支壁コンドルフォールに取り囲まれ、いわば防衛されているものである。彼らは稜堡に取り巻かれ、壕をめぐらし、堅固な城壁のうしろに匿れている。そこへ足を入れることがすでに一つの征服である。ところが、セルヴァンはこれとは反対に、氷河台地の上にただひとり屹立している。彼のまわりには稜堡もなければ城壁もない。夏の美しい日にラック・ノワールやヘルンリヘ行く散策者は、もしもそうしたいと思えば、この山の基盤を近くから見たり、その最初の岩に触れてみたりすることができる。周囲一里のあいだ、山々の頂きは頭を下げ、彼に席を譲っている。氷河は広大な野になって拡がり、腹這いながら巨人の足へ纒いつきに行く謙遜な山稜がわずかにそれを横断しているのみである。裸で、沈鬱に、荒々しく、彼は王者のように立っている。空間こそ彼の領土、傲然たるその山頂は仄暗い青空に消えている。
 わたしたちはヘルンリとセルヴァンの基部とを繋ぐ長い、一様な山稜をさして進んだ。そこへ着いた時はまだやっと九時だった。一日がわたしたちの前にあった。それで政撃を開始する前に一時間の休憩をすることにした。あちらこちらにまだいくらか草地があった。わたしたちはその最も緑色をした一角を選んで、モン・ローズ山脈の雄大な圏谷とセルヴァンとを同時に眺めた。山稜のある突起がわたしたちを谷から匿していた。二人きりだった。クヌーベルはほとんどじきに眠ってしまった。
 幾多の雪の丸屋根が青い空の中で柔らかに輝いていた。日光は氷河の上にみなぎって、光に目くるめくこの世界の中で、ただ雪の起伏と氷塔セラックの鋭い割れ目だけが青空の影を描いていた。
 この広大な荒野から、ゆるやかに流れる大河の水の囁きのようなある漠然とした清々すがすがしい囁きが上がっていた。それは朝の輝かしい太陽に貫かれた積雪や氷河をとおして、さまざまな状態で湧く水の響であった。わたしたちのすぐ近くでは、セルヴァンがその簡潔な横顔を見せていた。圧倒的とはおそらくいえないが、しかし怪異な、ものすごく野蛮な横顔を。
 こんなにも壮麗な、こんなにも静謐せいひつな風景を前にして、翌日の運命に思いふけりながらわたしの心が感じたことをどう言い現わしたらいいだろうか。人間が明日という言葉の意味を理解するのにまさにこうした事業の前日においてなのだ。想像はその神秘の深さを測る。それは可能事を想い、さらにいっそう不可能事を想い、一種の満足をもって悼ましい予感の上に立ち留まりさえする。
 一時間が経過した。わたしの案内者は眼を醒ますとすぐに出発を告げた。半時間後には、わたしたちはセルヴァンの真の土台に手を触れた。近くから見ても遠くから見ても、こんなにきっぱりと周囲の一切から切り離されている山をわたしはほかに一つも知らない。わたしたちは、子どもが自由に駆け回ったり遊んだりできるほど広々した山稜を通ってそこまで行った。そして、一つの壁の前へ、ほんとうの壁の前へ突然出て、それを攀じ登らなければならなかった。これが第一歩だった。セルヴァンの第一段階だった。
 少し前から猛烈に吹き出した北風がわたしたちを凍えさせはじめた。岩壁のわずかな突起に手を懸けていたので、わたしたちは突風に攻めさいなまれた。わたしの帽子は吹き上げられて、一瞬間くるくる回転し、それから気追いのようになってブライトホルンの方角へ飛び去った。さっきの山稜を登っている間にはこんな風を予想させるものは何一つなかったのである。
 この最初の岩壁を乗り越すと、わたしたちは左へ東の斜面を進んで、そこで急いで風をよけた。わたしたちはまだ登ることができなかった。岩があまり険阻でなくて登れそうな場所の見つかるまで、セルヴァンの基底について進まなければならなかった。その白い平滑な野をわたしたちの脚下にひろげたフルッケン氷河は、この地点では急勾配の斜面になって盛り上がり、岩の間へ篏め込まれた高させいぜい二〇〇メートルまでの一個の岬を形作っている。眥通そこは雪に被われていて、その最も端の部分について行かなければならないトラヴァースはなんらの困難見提供しないのである。ところが、わたしたちの時にはそこが到るところ氷だった。それで一歩ごとにカットして行かなければならなかった。無数のクレヴァスに断ち切られた氷河の長い斜面をすぐ左にしながら、右手で岩の突起につかまって、一種の氷のアレートの上をわたしたちは進んだ。
 路の約半分ほども進んだ時だった。突然上の方からある鈍い轟が伝わって来たかと思うと、それが一秒ごとに大きくなって近付いて来た。わたしたちはたちまちセルヴァンの恐るべき大砲に、落石に気がついた! クヌーベルはわたしの方へ身を投げかけた。そして、わたしたちには岩へ身体をぴったり付ける時間しかなかった。幾つかの石が頭上二尺のところを飛び、跳躍して行った。続いて石なだれの全体がやって来た。幸いなことにはわれわれの岩はオーバーハングしていた。約半分間というもの、この恐ろしい放出物の全部がわれわれのちょうど真上を、空とわたしたちとの間を通った。そして、非常な響を上げてフルッケンの氷河へ襲いかかった。われわれの岩を震わす轟音を先触れにして落ちて来た最も大きな石は、素晴らしい放物線を描いて飛んで行った。中ぐらいの石は小隊の一斉射準を真似て砂塵の雲を上げながら、わたしたちのいっそう近くを転げて行った。
 クヌーベルはわたしよりも危険にさらされていたが、二つ三つ石を受けただけですんだ。襲撃は実に突然で、岩のかけらが愚鈍な平気さで飛んで来るの見た次の瞬間には、まだ生きていたのを知って驚いたほどだった。こんな力の展開に面しては、第一番に圧しつぶされるのは思想である。
 すべてが終わった時、こうした砲撃の経験が初めてでないクヌーベルは、独特の微笑を浮かべながら言った。
「もうやつにおとなしくしてもらいたいもんですね。さあ、急いで出ましょう。ここが一番むき出しなんですから。」
 この側では石なだれがセルヴァンの内の最も恐ろしい防御線を形成している。そして、山のこの裾以上に危険な場所はどこにもない。山腹や山稜からはずれた物が、すべて正確に転げ落ちて来るのがここだからである。
 なお少し進んでわたしたちはクーロワールヘ達した。ここでは直接に登るために岩へ取り付くのである。ツェルマットから、ことにリッフェルからセルヴァンのこの部分を眺めるとほとんど滑らかなものに見える。しかし、同時にそこには縦に細い条文しまが通っていて、それがさらに細い条文しまで斜めに切られているのが認められる。近寄って見るとこういう条文しまのある物は紛れもない小谷である。初めに言った方の条文しまはなだれの通過のために穿たれたクーロワールであり、あとの方のものは岩の層を示している岩棚である。そして、表面全体は遠方から見たよりも遙かにもっと不斉である。
 登山者が路を切り開いて登らなければならないのは、この岩棚やクーロワールを通してである。斜面は非常に険峻ではあるが、下の部分では全く容易で、岩登りに馴れている者ならば小屋まではたいしたことはない。その上、時の力で刻まれた岩は、到るところ好都合な凹凸を提供している。
 わたしたちは一時間を登り続けた。そして、案内者が頭上百尺ばかりの所にそれだと言って指さした小屋を、わたしは容易には識別できなかった。それは、ある張り出しの上へ規則正しく並べられた石の堆積であって、一種の塀の形をしていた。その上でも下でも岩は垂直だった。「小屋だあディ・ヒュッテ!」と、彼は叫んだ。
 その日の全行程のうちでの最も悪い場所が登るために残されていたのだ。小屋への取り付きが即ちそれだった。もうすぐそこへ手が触れるなと思うや否や、人は深淵の上に揃え立つ垂直な岩壁によって突然隔離されていることに気がつくのである。その岩壁には縦横に割れ目が走っていて、そこへ指を掛けなければならなかった。わたしたちは万全を計って綱を繰り出した。
 登攀を容易にするために山岳会の手で建設されたあらゆる小屋の中で、セルヴァンの小屋のような位置にある物は確かにほかにはない。柱上苦行者ステイリートならばこんな住居すまいを欲しがるかもしれないが。それはひどく貧弱で、肉限ではもちろん、普通の双眼鏡の助けをかりてさえ下の方からそれと見極めることはむずかしい。もしも望遠鏡で偵察するならば、ピラミッドの中ほど、約二千六百尺の高み、だいたいツェルマットを見下ろす山稜の上にそれを見出すだろう。小屋は切り立った岩を背にして、板で造られ、石を積み上げた塀によって保護されている。そこには非常に固く締まる一枚の扉と、正面にモン・ローズを眺める一個の窓とがついている。家具としては一個の食卓、二脚の腰掛け、四枚の毛布、それに幾らかの麦藁といっしょに寝台の役をする板が何枚か備えつけてある。もしも土間の地面が四、五寸の氷で被われていなかったなら、あまりの居心地よさに高さや位置のことは忘れてしまいそうだった。
 クヌーベルは一枚の鍋と少しばかりの薪とを掘り出して夕食の支度を始めた。わたしは外へ出てやや離れた岩の突起の上へ行って坐り、われわれを運んで来たこの荒涼たる世界の眺望を、静かにゆっくりと味わった。
 わたしの眼はまずセルヴァンの頂上へ向けられた。黄ばんだ鳶色をした巨人の頭はわれわれの真上に揃えていた。この高峻の清らかな空気を技いて、それはやっと五百尺ぐらいの高さにしか見えなかった。そして、大気の透明さは、ぞっとするような荒々しさを岩に与えていた。わたしの足もとには、灰色をした、すさまじい傷痕のある、ものすごく裸出した、ピラミッドの巨大な横腹がひろがっていた。眼下にはフルッケンやテオデュール氷河の白い佗びしい曠野。正面、氷河の彼方には、モン・ローズがその山頂の華麗な一団を擡げていた。
 リッフェルを訪れてゴルナーグラートへ登った旅行者は、モン・ローズがその威容においてもまた外見上の高さにおいても、彼の高貴な隣人であるリスカムに一籌を輸しているのを見て驚かされる。ベデカーを研究したことのないある人々は、画家たちは、まず最初からまちがいをする。そして、一目でリスカムに王位を与えて、それをモン・ローズの名で賞めたたえる。しかもそのすぐそばに立っている、同じように立派なあのもう一つの山はいったい何だろうかと不審に思いながらである。多くの人たちがこの二つの山を彼らの記憶の中でごっちゃにしている。セルヴァンの小屋から見ると、そんなまちがいは全然起こる余地がない。真の王位はその地位と身分とを取りもどしている。モン・ローズはどこから見たよりも大きく、力強く、華麗な姿をして横たわっている。彼の竸争者たちはへりくだって並び、誇らかというよりもむしろ優美で高貴な彼の頂きは、まさに天の最高所で輝くそれである。
 わたしが小屋へ帰った時には夕食の支度ができていた。セルヴァンでは質素にしなくてはならない。それはそのはずである。ハムと、チョコレートと、茶。これがわたしたちの献立の全部だった。クヌーベルはテーブルの引き出しの底からこの小屋建設当時の羊の脂肪を発見した。彼はそれでスープを作ることを思いついた。
 食事中ずっとわたしたちは明日の相談をした。わたしは一番悪い箇所が「肩エボール」の上、つまり頂上の近くにあって、それがわれわれの通って来たどこよりも遙かに困難なことを知っていた。こんな登行に対して二人というのは少な過ぎる。それで、もう一人仲間がいたら喜んでこの食事を分けてやるのにという考えが時々わたしに湧くのだった。しかし、クヌーベルは自信に満ちていた。「もしも天気が佳かったら旨くやれますぜ。」こういうのが相変わらず彼の
結論だった。
 落日の赤い光が小さな窓を越して壁に当った。わたしたちは外へ出た。なぜかといえば、それは崇高な眺めの知らせだったから。セルヴァンの巨大な三角の影が、フルッケンやテオデュールを越えてゴルナーの氷河まで、わたしたちの前に長々と伸びていた。わたしたちの左では、ツェルマッ卜の谷がもう青味がかった薄闇の底に沈んでいた。夜はあの深みから生まれて来るかと思われた。一瞬間、雪の峰々のあらゆる圏谷が或る神聖な光に照り栄えた。二つの色が無数の霊妙なニューアンスに溶けて、この広大無辺な絵を分担していた。柔らかい、深い青、竸いかかる影の青、それに太陽の最後の光が投げる純粋な、高潔な金色。空を見れば、混じり合った二つの色が、見事な菫色の反映を天心にひろげていた。
 クヌーベルも同じように感心して、わたしの賛嘆を楽しんでいた。この山の子は彼の氷河に誇りを感じていた。そして、彼の眼はわたしにこう言っているように思われた。落日に照らされたこのモン・ローズの栄光に比べることのできる何物かを、あなたは、あなたの平地に持っていますか、と。
 最後の光が消えると、寒さがわたしたちを小屋の中へ押しもどした。セルヴァンの深淵の上に懸けられて、わたしたちは夜の中で二人きりだった。
 ツェルマットの人たちにわれわれの無事な到着を合図するために、九時にヒュッテの前で火を焚くことになっていた。その時間の数分前になると、クヌーベルはよく目に付きそうな或る出張った所へ麦藁と紙きれとを少し積み上げた。彼は定めの時刻にそれへ火をつけた。炎は赤々と上がった。数秒間たつと、谷の方角で一点の赤味がかった星のようなものが闇を貫いて光った。それは合図を待ちこがれていたクヌーベルの兄弟が彼に答えたのだった。友愛の思いが、優しい心配の念慮が、その光といっしょにわたしたちのところまで届いて来た。「ヨッヘー! ヨッヘー!」と、わたしの案内者は叫んだ。谷がそんなに違いのも忘れて。自分の喜びの爆声が周囲の岩の間で消えてしまうのも忘れて。
 ついにわたしたちは寝床を造るために小屋へ帰った。わたしたちは氷の上へ板を並べ、それから藁と毛布を敷いた。母親が揺籃の子どもにするように、クヌーベルがわたしにしてくれた心づくしのうれしさ。わたしはこの寝床を、ツェルマットの一番良い寝台とだって取り換えはしなかったであろう。じきに沈黙がヒュッテの中を支配し、戸外の物音がいっそうはっきりと聴こえてきた。それは絶えず山稜でヒューヒューいっている風の音か、クーロワールを鳴らして落ちて行く石の響、死んだような自然の猛々しい音響だった。
 高山での睡眠が致命的だとは、よく聴く言葉である。それは一個の臆説に過ぎない。ただ一つそこで危険なことがある。それは寒気と衰弱とから惹き起こされた麻痺で、シンプロンやサン・ベルナールの路上で死体となって発見された不幸な人たちの場合が即ちそれである。しかし普通のコンディションならば、アルプスの最高の山頂近くでの睡眠は、平地でのそれと同様に健康にもよく、また元気を回復させる力もあるということが経験によって証明された。セルヴァンのイタリア側、一万三千五百二十五尺の地点に建っている避難小屋で睡った人たちが、この実験をしたのである。
 わたしたちにとっては、夜は素隋らしく佳かった。登攀の労働が予め熟睡を保証していたからである。クヌーベルがわたしを起こした時には夜が明けはじめていた。彼はもう朝食の用意を終わっていた。食卓の上では二つのチョコレートの碗が旨そうな湯気を立てた。半時間後にわたしたちは小屋を出発した。
 空は清らかに、空気は冷たかった。しかし、夜明けまで吹き荒んでいた風は、それと感じられるほどに落ちていた。山々に面紗を懸ける透明な靄の中にも、東の空の微妙な薔薇色の中にも、快晴の日のあらゆる徴候があった。
 わたしたちがふたたび岩場を登りはじめた時、時間は四時だった。太陽はまずその薔薇色の光で高い山頂やアレートをかすめながらじきに昇った。そして、朝霧の軽羅を払って、万年雪ネヴェや、氷塔セラックや、氷河をきらきらさせた。しかし、寒さはまだきびしかった。夜中の放熱は、やっと数分間しか指を掛けていられないほどに岩を冷却させた。
 小屋からは、ゴルナー氷河を見おろす岩ばかりの急峻な斜面を、つねに山稜と並行に、しかし、それから少し離れながら登り続ける。小屋の上に峙っている斜面は最も急である。それは、岩棚とクーロワールとの一つの連続であるが、いっそう急でもあればいっそう危険にさらされてもいる。しかし、手で足を助けながら続けるこの登攀は比較的には楽なものである。そして、もしも三千尺の空無が始終踵の下になかったら、愉快でさえあるかもしれない。わたしは自分の斧がこの体操の邪魔になるばかりなのを間もなく知って、それをある岩の角へ残して行った。この斜面の登りは登路が変わるまで数時間続いた。
 登って来た高さを計ったり、自分たちの足で踏み落とした石が飛んで行くのを見たりするために、わたしたちは時時うしろを振り向いた。幾千というクーロワールに穿たれたこの灰色の広大な岩の斜面は、高く登れば登るほどいよいよ荒寥として恐ろしい物になってきた。アルプス中でこんな野蛮な赤裸々さに較べ得るものをわたしはまだ見たことがない。もしそれの強制する器械体操が時間を忘れさせる興奮の中で続けられるのでなかったならば、この斜面の一様さは登攀を単調なものにしたことだろう。その上登れば登るほど斜面は峙って来、手掛かりの岩はますます少なく、ますます狭くなってくる。それにまた、山稜のいわゆる「肩エポール」と呼ばれている部分へ着く前には、始終石の落下して来る一つの大きなクーロワールの中へ数分間閉じ込められなければならない。精神を緊張させているにはこれで充分である。
 このクーロワールの上を数歩行った所で、クヌーベルが突然立ち止まって躊躇する。彼は上を見、下を見、仔細に調べながら呟いている。「まちがったかな?」――彼はまだ後を眺めている。そんなことはあり得ない。彼には多過ぎるくらい自信があるのだ。むしろ山の様子が変わったのだろう。事実それは変わっていた。以前には突起部になっていたある岩槐がはずれて、深淵の中へ転げこんだのである。セルヴァンにはまた一つ皺が増えていたわけである。
 「肩」が近くなると勾配もいくらか緩くなって、雪に出会う。セルヴァンのこの側で、最も暑さの烈しい夏にも雪の残っているほとんど唯一の地点である。山案内たちはここを通ることを好かない。太陽に軟化した雪か足もとから落ちて行くのを見るために、登山者が危険にさらされるのがここだからである。わたしたちがトラバースした時には雪はまだ堅かった。それで斧を使わなければならなかった。やがて数分後には、わたしたちはセルヴァンで一番目覚ましい場所である「肩」にいた。
 わたしたちはここで初めて山稜アレートに触れた。そして、ツムッ卜氷河の上に君臨するこの山の恐ろしい裏側をのぞきこむことができた。この休憩は今日の最初の休憩でもあれば、頂上まで行く間の唯一のものでもあった。わたしたちの前には赤味を帯びた、峨々とした岩の絶壁が峙っていた。そのまた上に、頂上は見えないが、セルヴァンの最後の高み。アレートの両側は身の毛もよだつような深淵だった。
 ある狭い山背リッジに腰をおろし、絶崖に取り巻かれて、アルプスでの最も悲劇的なアクシデントの一つが演ぜられた舞台の近くに身を置きながら、黙然と、この忘れることのできない瞬間をわたしたちは過ごした。行く手にはなお最後の困難が、真に危険な登高があった。それはわたしたちにとっての厳粛な瞬間だった。
 一〇〇メートルの上方、これから間もなく登って行く或る険しい傾斜の上で、おそらく、初登攀の際に遭難したあの四人の不幸な人たちの墜落が惹起されたに違いない。わたしはその恐ろしい場面をありありと心に浮かべてみようとした。しかし、できなかった。深淵はふたたびその沈黙に帰っていた。生命に満たされ、青春と知能とに満たされたあの四人の墜落が、そもそもこの深淵にとって何であったろう……。一季節シーズンの間にそこへ筋をつける無数のなだれの、それは最小の物に過ぎないではないか。
 いつまでも休んではいられなかった。こんな所でのそのそしていることは許されなかった。食糧の嚢はそこへ残し、必要欠くべからざる物だけを持って出かけることにした。クヌーベルは立ち上がりながら真剣な口調で、一語一語に力を入れてこう言った。「ここへ帰って来られたら、わたしたちは喜んでいいですね。」
 われわれに残されていた登りは、セルヴァンの頭ともいうべき部分だった。その正面はゴルナー氷河を見下ろして、約二〇〇メートルの全く垂直な、一つの赤味がかった岩壁から成っている。近寄ることのできるのは北側の斜面だけで、勾配は平均六十度、それが雪と氷に被われ、削ぎ落としたような断崖に横断されて、接近を不可能にしている。この斜面と断崖との切り合う箇所は、強大な、荒くれた、険しい、そして、山案内たちが、ロシェー・ルージュ(赤岩)と呼んでいる幾つかの防壁に仕切られた一本のアレートを形成している。辿って行けるのはこの路だけで、もしもあまり凹凸の烈しい防壁に行き当ったら、ちょっと右へかわして行くのである。
 困難の光景はわたしたちの熱情を煽り立てるばかりだった。第一の壁は夢中で乗り越された。それは断然垂直で、ある箇所などは幾らかオーバーハングさえしていた。しかし、高さは一丈二尺ぐらいに過ぎず、岩は硬くて、手掛かりの突起はしっかりしていた。
 最悪の斜面が来た。タウクヴァルダーが彼と四人の不幸な仲間との間で綱の切れるのを見たその場所が来た。もしも諸君が、ギュスタヴ・ドレの絵からそこを判断するならば、非常にまちがった観念を持たれるだろう。あの画家にしてもう少し高山という物を知っていたらば、おそらくもっと善く描けたはずである。なぜならば、もしも人がこういう場所に親しんでいるならば、これほど想像に容易な所は少ないからである。想ってもみたまえ。そのあらゆる窪みに雪と氷が詰まり、鈍い突起がわずかに頭を出している岩の斜面を。その傾斜は、登路に当る地点で、約四十度。上ではまたそれが起きなおって、ほとんど端から端まで一つの垂直な壁で切られている。斜面の下の方はといえば、眼には見えないが、身の毛もよだつ深さは優に想像できるような深淵の底へ落ち込んで、そして、消えている。しかし、その登りはせいぜい百尺ばかりで、由々しい危険というほどのものはないが、それでもちょっとした踏みはずしでも墜落を惹き起こすことは確かである。数人一隊となって登る場合、第二のアクシデントが、あの最初のアクシデントよりも重大でなくて済むということはむずかしいであろう。
 クヌーベルは、二人を結ぶ綱をすっかり繰り出しながら、わたしより先へ登って行った。それから足と手で確保して、わたしが自分の所へ着くのを待った。この操作は三度か四度繰り返された。或る時などは、彼が一、二歩右へ行き過ぎただけで、重大な困難に直面した。二メートルほどの所には何の手掛かりもなかった。足場を切るにしては氷があまり薄過ぎた。斧は岩に当った。こんな場合には完全な沈着と、利用できる物は何でも利用する賢い注意深さとが最善の防衛手段である。もしも、これらの要素に加えて、一歩一歩を確実にするほとんど数学的に精密な考慮が払われるならば、想像の中にのみ存在する危険以外には、なんらの危険もないはずである。
 わたしたちは計算された、慎重なのろさをもって登って行った。「君の方は確かかね?」というのが、一歩ごとにわれわれが取り交わす質問だった。クヌーベルは驚くほど確実だった。彼は最も滑りやすい突起の上でもよく身を支えた。その筋張った足は岩に噛みつくかと思われた。
 しかし、上の方に、険阻な裸の岩を見出した時には、わたしは深い満足の吐息を洩らした。そこでの行動はいっそう困難でもあれば、より眩暈的でもあった。しかし足場はずっと安全だった。断崖がまた現われた。わたしたちは身体を引っ懸けたり、ねじ曲げたり、曳きずり上げたりしなければならなかった。しかし、目的地の近づいたことを感じて、意気はますます盛んになった。
 ひとたびロシェー・ルージュの壁を乗り越えてしまえば勝利はわれわれの物だった。頂上はまだ見えなかったが、それは百歩のところにあった。光景はぞっとするようなものになった。わたしたちは「頭」の垂直な縁を登って行った。深淵の深さはセルヴァンの全高を示していた。限りない地平の眺めは一歩は一歩と大きくなった。突然、クヌーベルが、勝ち誇った声で「ヨッヘー!」を叫んだ。わたしたちの前二十歩のところに頂上が、セルヴァンの真の頂上が、棒につけられた襤褸ハンカチのひるがえる鋭い雪の山頂が立っていた。この最後の二十歩を進みながら何といううれしさ、何という言語に絶えたる感銘だったろう!
 わたしたちの勝利の叫びが天に消えた時は十時だった。
 頂上は、もう一つの幾らか低い山頂で終わっている長さ一〇〇メートルばかりの、欠壊した、尖鋭なアレートの最高点に過ぎない注・1。このアレートの南側は、のぞき込んでも見えないような恐ろしい絶崖である。北側は雪の斜面で、百歩の先は視野から消えている。刃のように薄い山頂には立っていることができない。その背はあまりに鋭いし、風の戯れは普通そこを氷の細かい針で飾りにくるからである。クヌーベルは少し下の方の雪面へ斧で穴を掘った。今までにどんな君主がこのような王座を持ったろう。
(注1――しかし、細かい部分は時を経るに従って、かなり様子を変えるに違いない。)

 頂上をぐるりと巻いて、広大な底なしの空無が穿たれていた。その向こうにはヴァレーの巨人たちに囲まれた円戯場、モン・ローズとその尊大な競争者、ミシャーベルの山塊、ヴァイスホルン、ロートホルン、ダン・ブランシュが立っていた。続いてヴィーゾの山群からオルトラーの彼方まで、その巨大な支脈を錯綜させた全アルプス。燦爛と輝いたり暗くかげったりしている尖峰の数限りもない軍勢。そして、地平線の二方の青空へ消えて行くその無数の起伏する柱。北方にはジュラの平坦な線が横たわっていた。それから、遙か彼方には、空に紛れて、オート・シャンパーニュやフランシュ・コンテのフランスの丘陵注・1
(注1――空の澄んだ日には、ラングルやショーモンの付近からアルプスの雪の峰々が幾つか見える。あのあたりではそれをサン・ベルナールだと思っている。むしろヴァレーの高い峰々ではないだろうか。)

 わたしは長いあいだ南の地平線の果てを調べていた。海を捜していたのである。それは見えたろうか。わたしにはわからない。しかし、こちら側では平原がずっと穏やかになって、地平の霞にぼかされていた。そして、もしも海が見えなかったにしても、それを夢想することはできたのだ。こうしてわたしはフランスやイタリアの平原を、またドーフィネの裸の峰々からティロールの山々までを一目で見た。眼そのものは完全に抱擁することのできない、そして、精神はその前に屈伏するのほかはない、この名状すべからざる光景を。
 わたしは幾つかの山頂を名ざしてみようとした。至極当然な嫉妬から、われわれを凌駕している山をわたしは捜した。まず二つあつた。モン・ブランとモン・ローズ。それから、その勝利がやや不確かな別の二つ、即ちドムとヴァイスホルン。あとは全てわれわれの足の下にいた。
 無限の歓喜でわたしの心は一杯だった。われわれは目的を達したのだ。わたしはもっとよく自分を認めようと思って、喜んで自分の身体へ手を触れてみたかもしれない。セルヴァンの頂上にいて、自分自身が生命を満たされていることを感じようとすると、そこには何か不思議な気持ちがした。わたしは、この瞬間が特異な、無上の瞬間だということ、それを自分の全存在で享け楽しまなければならないということを、自分自身に納得させようとした。そして、自分の印象全体をいちどきに把握しようと欲しながら、即座には何物をも識別することを妨げる或る混乱に落ち込んでいた。やがて少し落ち着いてきて、多くの高貴な山々の真ん中に、それでも誇らかに立っているダン・デュ・ミディやヴォーのアルプスを望み見た時、そのうれしさは較べ物もなかった。わたしはそこから眼を離すことができなかった。ダン・ドゥ・モルクルとダン・ドーシュ山塊との間に見える一つの凹みが、そこにレマン湖の存在を想わせた。
 北西から眺めたアルプスの隆起は、逞ましい山の背と、無数の支壁と、錯綜した支脈の広がりとを見せている。ほとんどすべての大山頂は蓄積された雪のために真っ白な穹窿となってそこから太い氷河を落としている。南東から眺める彼らは、これに反して、ごつごつした斜面を見せながら、多くの場合、非常な高みまで雪をなくしている。ヴァレーとオーバーラントのすべての山頂が、彼らの黒い、見るも恐ろしい険峻な背を現わしている一方では、反対の方角に、尊大で優美なイタリア・アルプスが、モン・ティズランにまで及ぶ峰々を雪と氷河とできらきらさせながらもたげている。美しい線、優しい起伏、鋭い山稜、すらりと立った尖峰、すべてがこの広大無辺な絵画の美しい連鎖となっている。
 われわれの足もとで、ツェルマットは菫色の穴の底の、一つの小さい白い点以上の物ではなかった。クヌーベルはリッフェルを指しながら言った。
「あの人たちはあすこの下の方でわれわれを見ていますよ。わたしにはホテルのテラスで望遠鏡の順番を争ってる物見高い連中がだれだかここからわかりますよ。」
 われわれの眼で届くかぎり遠くまで、地平には極くわずかの霞さえなかった。空気は柔らかで、わたしの案内者がパイプへ静かに火をつけて、ちょうどツェルマットの宿屋のテーブルに向かっている時と同じ様子でそれをくゆらし初めたくらい穏やかだった。わたしは谷か氷河から何か物音が上って来はしないかと耳を澄ました。たぶん、耳がはっきり聴き分け得るにしてはあまりに弱い微かな囁き、遠い生活の囁きのほかには何も聴こえなかった。われわれは大地から別れて来たのだった。ここを領するものは、すでに大空の偉大な、永遠の沈黙だった。ああ! もし人がこんな境遇にいて冷静に楽しむことができたら! しかし、人間は、こんな壮大な世界を生きるようには作られていないのだ。繊細な生活に適さない境遇で普段と違った発展をした彼の力は、思考に対してはそれを混乱させるだけである。彼は自分自身や自分の感覚に対して、下界にいる時のような生き生きした意識をもう持ってはいないのである。
 やがて下山を考えなければならない時が来た。このような山頂では何か物が落ち着かない感じがし、いつまでもそこにいる権利はないような気がする。先人たちは風のため三分間しかいられなかったのに、われわれはもっと幸せにも半時間をそこで過ごしたのである。あんなにも困難だった征服の山頂を去るに臨み、また、おそらく二度とは足を置く機会もあるまいと思われるこの山頂と別れるに臨んで、わたしは記念として持って帰るために旗についている襤褸片を取った。クヌーベルはわたしに、そのハンカチを初登攀の時クロッツの付けた物だと断言した(注―その後調べたところによると、クヌーベルはまちがっていた)。なるほど、あるいはあの不幸な案内者の物だったかもしれない。
 人はそこを下って行くべき断崖を或る不安なしには眺められない。到るところ空無の中に落ち込み、八千尺下のツムットの谷はもう見えない。それにまた登りには熱中が、しだいに近づく勝利への希望が、あらゆる障害を乗り越えさせるのに、下りとなれば疲労は加わり、興味は薄れて、しかも困難だけが残っている。
 わたしたちは列の順序を変えなければならなかった。わたしは斧を持って先頭を進んだ。クヌーベルは(その足にわたしは信頼していた)、わたしの一挙手一投足に注意しながらあとに続いた。
 頂上を遠ざかるにつれて岩の傾斜は増し、じきに恐ろしい有様になる。ロシェー・ルージュまではすべてが旨く行った。しかし、そこには、ことに呪われた氷の斜面には、由々しい箇所がわれわれを待っていた。われわれの成功が果たしてその原因であったかどうかは知らないが、とにかくわたしは登りの時よりも安心して、軽快な気分で歩いていた。それでもわたしたちはできるだけ要心しながらゆっくりと降りて行った。すべてが善い具合に、登りよりも楽に運んだ。わけてもロシェー・ルージュの最後の岩壁は数秒で越された。「肩」が近くなると、二人の置いて来た囊が遠くに見えた。わたしたちは救われた! われわれが越えて来たばかりの物に較べれば、あとは遊びに過ぎなかった。警戒を要するのは石の落下だけだった。
 われわれの食糧はじきに片付けられ、最後の壜も空になった。その夜のうちにツェルマットへ着くためには急がなければならなかった。
 小屋まではクーロワールと、岩筒シュミネーと、岩棚とがほんとうの迷宮になっていて、たった一度登っただけでその案内に通じることは到底できない。クヌーベルは落石を恐れて、上の方で聴こえる極く微かな音にも振り向いた。とうとうわたしが斧を残して置いた場所へ来た。小屋は遠くなかった。わたしたちは四時にその戸口へ着いた。
 幸福な帰着よ! いまやわれわれを安全な場所へと近づけるこの登りの時の泊まりの一々の物に、わたしは喜びといや増す感謝の念とをもって挨拶した。
 わたしたちはもう一度少しばかりのご馳走を作った。それからヒュッテの中を整頓してしまうと、クヌーベルが戸をしめて、出発することになった。いくらか疲れたわたしたちの脚に、こういう岩場の下りは単調なものになりはじめた。それに数時間を下って来て、しかもまだこんな高みにいるのだと思うと、何か精根の尽きたような気のするものである。わたしはほとんど眠っているようだった。そして、フルッケンの氷河の縁へ着くまで、岩筒やクーロワールを過ぎながら機械的に足をおろしていた。しかし、そこへ着くと石なだれのことを思い出してわたしは眼を覚ました。
 それにわたしたちにはまだ仕事が残っていた。太陽は氷の上のわれわれの足痕を消してしまった。わたしは先へ立っていたので、もう一度カッティングをしなければならなかった。それでもあまり疲れないように、アレートが岩に接している所ならばどこででも滑れるだけ滑った。時々ひどい目には遭ったが、おかけで十分間を儲けることができた。
 わたしたちは上から何も落ちて来ない陰の場所へ着いた。それから間もなくセルヴァンの最後の岩場を、われわれが帽子をかぶった岩壁と呼んだ岩場を越えて、ヘルンリの長い山稜の上へ出た。一切は終わった。それから先は素晴らしいぶらぶら歩きに過ぎなかった。
 セルヴァンの圧倒的な塊が、土台から絶頂までその全容を現わして立っているのを見るのにちょうど都合のいい距離まで来た時、わたしたちは果たされた仕事の跡を顧みようとして立ち停まった。わたしにはそれが夢のようだった。ほんとうにあの高みから来たのかしら……。途中見たもののあらゆる影像がわたしの心の中で混じり合い、入り乱れた。わたしにはそれを信じることができなかった。それならば、あれがセルヴァンで、わたしはあすこにいたのか!
 そして、さらに、心の奥底にはほとんど或る悔恨ともいうべきものがあったことをわたしは告白しなければならない。すべての登山家によって熱望されているこの登攀を、わたしも幾度か夢見てきた。久しい間、遠くから、熱烈に、この杯を渇望していた。そして今、わたしはそれを乾したばかりだ……。人間という不思議な存在よ。所有の欲に燃えながら、ひとたび所有してしまえばもう己が欲望を悔いるとは。
 クヌリヘルはといえば、彼はすっかり陽気になって歩いていた。お客と二人だけでしたこの登攀は、彼の商売での素晴らしい初舞台であり、仲間の眼に自分を「重く見させる」ものだった。最初に現われた牧場を横ぎりながら、わたしはつくづくと彼を見た。そして、今度のこと以来、何かが自分を彼に結びつけていることを感じた。この男をわたしは今までに一度も見たことがなかった。おそらくまた二度と見ることもないだろう。しかし、われわれは二人の生涯での最も荘厳な数時間をいっしょに過ごしたのだ。あの二日間の思い出から、どうして彼の思い出が離れよう? わたしたちがラック・ノワールヘ近づいた時、沈む太陽はその花々しい反映で山々の頂きを燃やした。岩と氷との唯中で暮らしたあの二日の後では、何と牧場の草がわれわれの足に柔らかく感じられたろう! わたしたちは手や顔を冷やそうと水の縁へ行った。なお少し進むと一筋の小径が現われた。
 もう放牧の群れの鈴の音が聴こえた。そして、松の樹の匂いが夕べの風に運ばれて森から届いてきた。
 一軒のシャレーがついに夕闇の中に浮かび出した。そして、その傍では一頭の牝牛が近づいて行くわたしたちを見ていた。それはリッフェルを出発して以来初めて遭った生物だった。クヌーベルは牧者を呼んで自分がだれだか知らせた。牧者は、わたしたちに牛乳をくれた。わたしたちが谷底へ着いた時はもう真っ暗な夜だった。


                   (「エコー・デ・ザルプ」、一八七五年)

 

 

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 ヴァル・ダニヴィエールの一週間

 一八七二年七月十五日 ツィナルにて
 友よ、ぼくはとうとうここツィナルヘ来た。シェールから八里、この世の関心事から千里をへだてた僻陬へきすうの地、壮大というのが当らないとしても確かに愛らしいとはいえるこのツィナルは、今ではアルプス中にもわずかしか残っていないような平和のかくれがだ。
 なぜぼくが今年もまたここへやって来たかをきっと君は知りたがっているに違いない。そのわけは、こんな辺鄙な谷奥でありながら、これ以上しっとりした甘美な緑草や、もっと鄙びたシャレーや、もっとすがすがしい陰や、もっと生き生きした純潔な氷河を、ほかのどんな土地でもぼくは見ることができないからだ。どこへ往こうと、人間の住んでいる所で、これほど壮麗な偉大さの脚下における、これほど深い静けさというものはありはしない。それにまた、白状すれば、ここから近いところにぼくを誘惑する一つの峠があって、その誇らかなきらきら光る頂上へぼくは足を置きたいのだ。モウミング・パスか、アルプスの乗越の中での最も美しい乗越の一つとして有名なことをぼくは知っている。同時にそれがまた最も困難なものの一つであったとしても、君もわかるとおり、それならそれでますます心が惹かれるというものだ。ぼくはそこが見たい。一人の選り抜きの案内者がぼくに追い付きにここへ来ることになっている。その男がやって来て天気がまだ佳かったら、ぼくは計画を実行するつもりでいる。
 だが、君にしても、また多くの他の人たちにしても、今ぼくがこれを書いている場所についてはまるで知っていない。太陽の下でかくも美しい位置を占めているツィナルは、実にこの世で無名なのだ。いわゆるガイドもほとんどその名を口にしないし、人は版画でも写真でもそれを見たことがない。しかもこの愛すべきヴァレー全体の中でも、それは確かに最も美しい風景のひとつなのだ。その隣人であるサン・ニコラ、エヴォレーヌの二つの渓谷と同じように、この渓谷もやはり南から北へ向かって長く、規則正しく、ほぼまっすぐである。その入口を通過不可能のゴルジュで扼され、ほとんど全流路にわたって圧迫をうけながら上の高地へと伸びた渓谷は、ヴァイスホルン、ダン・ブランシュ等の山群が形づくる高峻山岳の囲みの底、壮麗な氷河のただなかで、一つの広やかな小盆地ヴァロンとなって終わっている。海抜一七〇〇メートルを算するその盆地に、渓流幾百年の堆積物が長い原野をつくって(今日では美しい草地になっているが)、やがて氷河の裾まで行って絶えている。この原野の取り付きで、これを横断するただ一筋の路のへりに、約百軒ばかりの小さい黒いシャレーが点在する。そして、それがツィナルの部落なのだ。
 谷の奥をぎっしりと締めつけた山々の間から二つの顔が聳え立っている。そして、何よりもまず目につくのもこの二つだ。一方は前衛をなすもので、原野そのものの果てから大きな黒い尖峰となって立ち上がり、天空の最も高いところへ二本の鋭い角を昂然と突きだした険峻二〇〇〇メートルの金字塔である。もう一方は、その右手さらに遠く、ひとつの氷の谷の奥、ちょうど画面の中央に当っている。それは清純無垢な燦々たる頂きで、その雪はしなやかな優しい屈曲をもった一線を空にえがき、まさに優美と純潔との傑作である。黒い尖峰の名はロ・ベッソー、白い山頂はポアントゥ・ドゥ・ツィナル。前者は陰欝で尊大で猛悪。後者は純で典雅で、その白さと気品の高い輪郭とによって優しい。これ以上際立った対照というものはありはしない。まるで一個の執拗な大怪物に監視されている一人の美しい処女といってもいいだろう。
 この二つの顔が遠景を形づくる。そして、そのまわりにはあらゆる他の山々が身を屈めてまるで舞台の脇道具のように谷の左右に横顔をならべている。ツィナルのすぐ上には、両側に、足もとを森林の襤褸で被われた仄暗い、どっしりした二つの壁が立っている。そして、彼らの荒々しい横腹へそそがれる視線をおのずと押し返すようにして、それを画面の奥へ、即ちすべての線が荘重な効果をなすように設計された遠景へと導いている。
 そんなにわずかしか知られていないにもかかわらず、それでもツィナルには一軒の宿屋がある。だが、幸いなことには、その持ち主である善良な人たちと同じように、まだひどく単純なものだ。宿屋はしばしばからっぽだ。今日はわれわれ三人の旅客がいる。ツィナルヘはそれほどわずかしか人が来ないのだ! 俗っぽい流れはまだここまでは届かない。それで、客が署名をする帳面を繰れば、そこに見るものはただ律義な常連の名か、どこかの高い氷河からここへ降りて来た選り抜きの登山家の名だけである。
 宿屋のすぐ傍、ゆるやかな坂になった芝地の向こう、道のへりに、一宇の礼拝堂が、小さい白い礼拝堂が立っている。その正面は、もうかなりの年数を経た荒塗りの壁だが、まだ乙女のような白さを維持している。ただ、時の力で小さい鐘楼は傷んで傾き、十字架はかしいで、もうじき倒れそうだ。幾棟かのシャレーがこの礼拝堂のまわりにかたまっている。もっとたくさんのシャレーは、広い緑の草原の中央、道路に沿ってならんでいる。その大部分は物置きに過ぎない。冬になると少しばかりの干し草を納れる、苔蒸した、虫ばまれて黒くなった、小さな「箱」に過ぎない。一番上等のシャレーには窓が一つか二つあって、一家族が雨露を凌ぐことができる。
 ぼくが土地の住民たちのことを話さなくても驚いてはいけない。現在ここは無人なのだ。彼らは皆めいめいの牝牛を連れて高みの放牧地へ行っている。今までにぼくが見た人間といえばこの家の女主人の、草原で遊んでいる二人の子どもとを別にすれば、家の中の用をしている一人の気持ちのいい小娘だけだ。山国特有の顔をして、しっかりしていると同時にはにかみやで、まじめであどけなくて、あから顔で、大きい黒い眼をしたこの小娘だけだ。
 春と秋には、牝牛の群れが野をみたして、谷間は彼らの鈴の音や牧者の叫び声で活気づく。だが、今はみんな盆地のはずれ、山々の襞の中の一番高い放牧地へ行っている。そして、あまりうまく匿れているので、その遙かな鈴のつぶやきがほとんど全く聴こえないほどだ。どのシャレーも空っぽで、小さな野原は古代のように寂しい。聴こえるものといえば、ここから百歩ばかりのところを走っているナヴィザンスの流れの涼しい囁きか、山々のくぼみの中で躍っている激流のさらに遠い響だけだ。こんなにも孤独で物静かなので、この小さい宿屋は、どこかの砂漠のまんなかにある修道院をおもわせる。
 動揺してやまない生活の疲労にまだ困憊しながら平野の方からここへ来た心臓に対して黙々たる大山岳群の脚の下、永遠の雪のかたわらの、この荘重で、緑で、静謐な風光が、どれだけ善いことをするだろう!
 前にも言ったように、ここには別に二人の旅客がいる。ぼくは夕飯の時その人たちと知り合いになった。一人はT君というイギリス人で、彼らがみんなそうであるように好紳士で、「アルパイン・クラブ」の会員で、高峻山岳の大登山家だ。それにまた、そのたいがいの同国人のように、ちっとも風変わりでもなければ横柄でも無口でもなく、反対に愉快な話し手で、フランス語を楽々とあやつる。ケンブリッジの教授だというから、つまり学者で優れた人物のわけだ。もう一人はドウ・C君といって、フランス人だ。上流社会の人で、利息のおかげでヨーロッパじゅうを漫遊し、記念建築物や美術館や文士や学者を訪ねてあるき、あぶなく禍を招くところだった政治を除けば、芸術、科学、自然、あらゆるものに興味をもっている。まったく幸運な人間だ。何しろ眼には祭りを、知には栄養を与えることで生きているのだから。彼は旅行のプランなど全然持っていない。ただ風景の偶然にしたがって谷でも山でも越えて行く。今はここが気に入っているので、欲望の風がどこかへ連れ出すまではここに滞在しているのだ。わがイギリス君は、それとは反対に、万事規則正しくやっていて、その脚と財嚢とにふさわしい旅程を至極着実に実行している。そして、君やぼくのような人間がいくらかの旅のため一週間を非常な苦心で抜け出す時に、この幸福な人間は五月以来旅行している。もう実際「十九の山頂と三十五の峠」とを登って、何ひとつ平凡な所は歩いていない。彼はここから氷河越えにエヴォレーヌヘ出て、それからダン・ブランシュヘ登るのだと言っている。
 この話を聴くが早いかたちまちむきになったC君は、すっかり年長者の権威を発揮して、イギリス君の血気の勇について一場の訓話をこころみた。そこへ二人の案内人が明日のこまこましたことを打ち合わせに入って来た。イギリス君は夜明け前に出発しなければならないのでぼくたちに別れを告げた。C君とぼくとはおしゃべりに夜を更かした。そして、明日は一日散歩して暮らそうということに相談が一決した。

 七月十六日
 今朝は雲が天と地との間でためらっていた。それでぼくらも同じように山と渓谷との間でためらった。雲がなかなか頑固に斜面の上を重々しく這っているので、ぼくらもそのお付き合いをしてツィナル氷河の上をなんということなしにそぞろ歩きした。ことによったら雲の気が変わって飛んで行ってしまうかもしれない。そうしたら日一杯そこで暮らそうと、かなりの兵糧を手当りしだいに持ち出しながら。
 宿屋から眺めると、渓谷の奥、ベッソーの黒い壁の直下で、巨大な陰欝な山の背に両側から圧迫されて、氷河がその灰色がかった背中を曲げているのが見える。灰色をしてところどころ光ったその石の甲羅や、曲がりくねった背柱を見せている長い堆石の線には、何かしら怪奇な爬虫類じみた効果がある。時には、実際、それが匍い出して、すばらしく大きな背椎骨を波打たせはしないかという気がしてくる。ここへ来て感じる第一の欲望は、もっと接近してこの異様な生物を見たいということだ。そうして一度見たが最後、また帰って来て決して見飽きるということはない。
 だがしかし、それは醜い。そうだ、ほんとうに醜い。ちょうど、見るために訪れた対象を、一目では何と言っていいか言葉に窮するといったような性質のものだ。――テーヌ氏は、(風景を巧みに描写する筆を持ち、博学の芸術家で、何よりもまず美しい色彩と表現的な形との愛人であるテーヌ氏は)、その「ピレネーの旅」のなかで、ガヴァルニーの氷河のことをやはりひどく醜いと言っている。「これは積み上げられた石灰の屑に非常によく似ている。それで石灰屑を賛美する人々が同じくこれを賛美する。」と、彼は言うのだ。では、ここへ来てこの氷河の前へ立ったらそもそも彼は何と言うだろう! 想ってもみたまえ。君が立つその場所から、幅六〇〇メートルの、眼に入るものといえば、不格好な汚ないデブリの集まった流れのほかには何もない灰色の石の動かぬ河を。そこで氷を捜しても無駄だ。足が踏みつけるのは、岩石の破片や、泥や、砂利の崩れかかった塊だけなのだ。
 荒々しい凹凸。目もあてられない赤裸々、悲涼の光景。それならば何の賛嘆すべき物がここにあるだろう。もしも色彩や形を見に来るならば、実に何物もないのだ。だがしかし、ここからそんなに高く登って行かない所に純潔な氷が現われて、人はこれに引き付けられ、引き止められ、虜になる、そして、もしも歩くことが不愉快でなければ、これらの石のまんなかで数時間を散策することができるのだ。
 C君はそれについてこういう考えを持っている。「この塊をよくごらんなさい。」と、彼は言う。「これは生きています。絶えず鈍いみしみしいう音が聞こえ、破片が落ち、小さい山が崩れるでしょう。それは不断に行なわれている活動の証拠です。これを遠くから見て恐ろしい爬虫類にくらべるとしても、その想像は全然突飛だとは言われません。この石の衣の皺の中にある陰然たる力が鼓動しているのをあなたは感じるでしょう。この氷河は一個の生物です。一匹の爬虫類のように、実際これは這います。これは生きています。あるいはむしろ『大地ラ・テエル』がこの中に生きています。軟体動物とか水母とかいわれる物と同じような生物がこの大地です。これが生きているのです。もちろん、この場合生きるという言葉より狭義に物質に即した生活を、しかしまた一方、壮大な力強い生活を、それ自身の力で行動するということを単に意味するのですが。そうして、噴火口あるいは大洋のふちでと同じようにここであなたを引さ付けるのはこの厖大な生物であって、あなたは脚の下にそれが生きているのを感じ、その最下級の寄生物であるあなたは、好奇心と尊敬との一種隠微な感情をもって、彼の千百の機関の一つであるこの氷河のかすかな鼓動に耳を傾けに来るのです。」
 氷河の流れをさかのぼるにつれて、岩石の渾沌の中に一種の秩序が現われる。石の破片の堆積がますます規則的になり、整然とし、やがて長い列を作るようになる。氷が現われる。はじめはくすんだ色をして、それを塡め込んでいる石のためにまだ全く黒っぽいが、そのうちについに白くなって、その結晶の千百の面の上に燦爛と光の花を咲かせる。――シャモニのメール・ド・グラースを横断しながら、一人の子どもが「これはまるで砂糖だ!」と、叫んだのはひどく当っている。
 進めば進むにしたがって、いよいよ秩序が現われる。堆石はそのまんなかに清潔な、規則正しい、ほんとうの通路を残す。何か一個の神のような者の手があって、これらのデブリを残らず掃除し、それを列に並べたようだ。下の方の無秩序にくらべていっそう不思議なこの規則正しさ。ここにいて一つの構想を、一つの意志を、霊知を具えた存在の仕事を見ないわけにはいかない。昔、牧者たちはまじめになってこんなことを考えていた。つまり夜になると、悪魔がおもしろがって石をこういう具合に並べたのだと。皆が、これは地獄に落ちた者の絶え間ない仕事だといっていた。ところが、今では山人たちも世紀の水準まで上って来て自然科学者になった。彼らは君にこう言って聴かせる。これは氷河自身が跳ねのけた石だ。「なぜかといえば氷河は汚ないことを好まないから。」と。今日科学が、すべてこういうことをある非常に単純な仕方で説明していることを君は知っている。即ち、氷河は重量と、解氷と、再結氷との結合した作用に促されて、一日約一尺の速度で渓谷を下る。ところで、氷河はその進行中付近の斜面から己が横腹の上へ落ちて来るあらゆるデブリを引き寄せながら、それを長い列に積み上げるのである。かくして伝説は学問的解釈の前から逃げ出さなければならなかったのだ。「世の中には伝説を惜しむ人もありますよ。」と、ぼくは言った。「伝説といっしょに詩も行ってしまったのですからね。」
 「そうでしょうか。」と、C君は答えた。「むしろ詩が単に形を変えたに過ぎないのではないでしょうか。詩が物の中にあって、物といっしょになくなってしまうと信ずるのは誤りです。詩は心臓の中に在って、心臓と同様に古く、その鼓動の最後の瞬間まで生きるでしょう。昔は詩が想像の化物を勢いづけていました。今日われわれはそれがよく理解された現実から生まれるのを見ています。自然の壮大な生活をわれわれに示し、過去未来との無限の地平を開いて見せる科学そのものから。わたしとしてはですね。」と、彼は続けた。「わたしは野蛮人だと思われても構わない。しかし、天文学に値するどんな歌も知りませんし、また地質学が語るあの偉大な物体の叙事詩のためなら、オディッセー全部を与えても惜しいとは思わないのです。」
 道すがらの好奇心の千の対象の中で、ぼくらは一つの「ムーラン」を見た。日中の温度に溶けて氷河の上に畝を作って走る理想的に澄んだ水の流れのあるものを、急に落下させているクレヴァスに対して山人たちのつけた名だ。こういうムーランは見る眼には美しいが、ひどく危険なものである。光は氷の凹凸の上で踊っている。陰の中へ沈んだ氷壁の見事な青い反射は最も華麗な効果をあらわしている。ところが、この種の深い坑は裏切者で、これに近寄るにはできるだけよく脚の安定を保って、慎重な態度でかからなければならない。仲間に手をつかまえてもらって身を屈める。底をのぞいて見るために頭を出す。そして、すぐに引きさがる。もうちょっと身体を動かせば、平均を失って、深淵の最も神秘な底へ落ち込んで、二度とは帰って来られまいという気がするのだ。
 こういうムーランをのぞいて見た者は、だれしも必ずあとで石を投げこむ。子どもがするように「どうなるかためしにやってみるのだ。」むろん、自分が墜落の恐怖を感じさせられた腹癒せのためでもある。
 このムーランのすぐ傍に一つの岩の塊があった。これを突き落とすにはわずかの力で足りた。岩はまず太陽と水との作品である美しい結晶の刃を粉砕して大爆音を上げた。それから姿を消した。鈍い震動はだんだんに遠ざかって、その岩塊が水といっしょに曲がりくねった未知の深淵へ躍り込んで行くのが知られた。
 氷河の下部は長い狭い谷を満たして、一筋の川になって流れている。ぼくらはそれをもう一時間半も遡って上部の台地へ近づいていたが、クレヴァスで切られた青い波濤がまだ行く手を遮っていた。ぼくらは雲の晴れて行くのを見ながら、台地の中央のロック・ノワールまでこの散歩をつづけることにきめた。
 氷河が生まれるのはあすこだ。ガーベルホルン、ロートホルン、グラン・コルニエ、ダン・ブランシュなど、一流の山頂によって形作られた最も壮大な圏谷の真ん中なのだ。おおかたは四〇〇〇メートルを超えている。あの囲みの中へ踏み込んで行くや否や、石はいよいよ稀になり、氷河の千の流れの水音は消え、雪はその陰欝で壮麗な被衣かつぎをもって一切を被っている。それは八か月の冬に積み重ねられた永遠の沍寒ごかんの国だ。峰々の間や斜面の上、ところどころ岩が垂直でなかったりあまり急峻でない場所では、積雪がその柔らかい厚さの下にあらゆる形を埋めている。何物をもってしても、この優しい丸味と透きとおった割れ目とをもつ山頂の、仄暗く青い、水蒸気のない裸の空の中に、その天衣無縫の純潔な線を浮かび出させているこれらの山頂の眩ゆい白さを形容することはできないだろう。砂漠の沈黙を破るものといえば脱落する石の響か、折々崩れるセラックの音か、または燦然たる銀色の波濤を地響き立てて繰りひろげるアヴァランシュの音ばかり。裸でごつごつした岩の凹凸、幾世紀をけみした雪の堆積、生気に満ちた氷の乳光色を含んだ青ブルゥオバラン。まさにこれこそ北極の世界である。同時にしかし、地塊全体の力強さと、アレートや山頂の荒荒しい紛乱と、アルプス的高層地域の光の壮麗さをもった北極の世界である。
 ここへ来て世界が変わったと言っても絶対に言葉の上の比喩ではない。すべての対象が新しく、あらゆる形が不思議なあるいは未知のものだ。生命を思わせる物はもう何ひとつない。自然の中の二界は一挙に消えて、残ったものは鉱物界と、そのさまざまな現象の冷たい荘厳だけである。われわれに現われるところのものは、(もしそれを見ることができたならば)まさしく荒涼たる天体の風景だといってもいいだろう。
 ぼくらは飽かず眺望を楽しみながら、雪のただ中の石の上に腰をおろして、一時間以上を過ごしたのだった。
 しかし、こういう光景の美の中には、われわれを裏切る何物かがあるものだ。長く見ていると変な気がしてくる。人はここにいてあまりにはげしく自然の諸力の抵抗し難い力強さを感じる。彼らの暴烈な接触に逢っては、内面世界の緻密微妙なものなどは消えてしまい、われわれの道徳的識別の繊細さなどは愚弄されているような気がする。すべては、無量の力にぜひなく身をゆだねた物質界の、冷酷で圧倒的な印象の下に屈従する。その無量の力こそ、物の一時の姿かたちがことごとく亡びてもなお独り生き永らえるものだ。その時、魂は、いわば人生から来る一切のものに対しては空虚になって、ただ何か知らぬが無限の愛のようなものだけを感じる。人は無上の抱擁を受けながら、永遠の休息の中で、これら恒久不変の力に合体したいと思う。
 だんだんと仏教の方へ向かって行くぼくの瞑想をC君がちょうどいい折に遮って、もう帰りを考える時間だということを思い出させてくれた。夕飯の時刻に宿屋へ着くために、ぼくらは足を急がせなければならなかった。
 夜はすばらしかった。ぼくは星を、空を、実に単純で、つねに同じで、無限に美しい空を眺めながら夜の残りを暮らした。

 七月十七日
 ドウ・C君にはここが気に入っている。彼はまだ二、三日滞在するだろう。今日はぼくのディアブロン南峰への登山にいっしょに連れて行こうかと思って、やっとのことで誘い出した。この山は非常に取り付きやすくて、子どもでも一人で登れそうだ。
 ぼくらは明けがたに宿を出発した。そして、彼の好きなようにゆっくりした歩調で歩きながら、落葉松と満開の石南しゃくなげの庭とに彼われた急な斜面をまず登った。ぼくらが大きな陰の涼しさと朝の平和との中を登って行く間に、谷の向こう側では、その上へ太陽の最初の光線の降りてくる峰々が、美しい薔薇色の光を浴びて眼を覚ました。
 少したって太陽が高くなり、昼間がすっかり明るくなると、谷の方々から霧が立ち昇って、それが集まって絹のように白く柔らかい、美しい銀色をした軽い雲になり、山々の中腹あたりまで行っては、逸楽的な帯のような形をとった。彼らは斜面を愛撫したり、小さい谷の襞の間へ柔らかく入り込んだりしながら、しばらくはそこにたゆたっていた。それからだんだん透きとおって軽くなり、岩角へからまる白い羊毛の房々をあちこちに残して、また昇りはじめた。そのうちとうとう東風がその雲たちを翼へ乗せた。それで、彼らが、一つは一つと空の青の中へ出て行くのが見られた。路を進みながらぼくらの眼はその行く方を追った。あの美しい雲たちには幸福な善い魂があるように思われた。青空の中を飛んで行く彼らの姿は、それほど静かでまた優しかった。
 立ち停まらずにいつも同じ歩調で歩いて、ぼくらは最後の芝地まで来た。あたりは雪をうしろにした、裸の、砕けた岩石の世界だった。そこへ着くとぼくの道連れは地質学に口実を求めて少しの間休もうと言い出した。実際、この山のこのあたりの岩石は、その構造からいっても位置からいっても非常に興味があるのだ。それはまず大きな赤い斑点のある、つまり銹のついた灰色の珪岩で、率直な粘力的な破壊作用で砕かれた荒っぽい逞ましい山稜になって立っている。次は暗緑色の薄片を奇妙な具合に重ね合わせたりねじ曲げたりしている緑泥片岩と滑石片岩で、登るには滑りやすくていやな代物だが、それだけ見た眼には美しい。こういう岩石は刀のようにまっすぐな、薄い、鋭い刃でしばしば山稜を満たしている。斜面は彼らの薄い岩屑に被われて、踏めば足の下で毀れた皿小鉢のような音を立てる。もしもそれが地底の大竃で煮られた昔の粘土でないとしたら、いったいこういう古い岩石は何物だろう。
 しかし、人がもしも地質学に興味を持っているならば、特に次の一事に驚かされるはずだ。それはこれらの岩石の存在する位置である。この種の岩石の層は、到るところ、そして、周囲何里という間、そこからロートホルン、ヴァイスホルン、ダン・ブランシュなどという連中が立ち上がっている結晶岩の巨大な中央底盤のまわりに横たわっている。これらすべての山岳地塊が隆起するためには、彼らの厚い層は破壊され、その破片は山腹へ投げ出されたに違いない。こんな強大な破壊力、こんな想像もできないような現象は、ちょっと考えただけでもぼくらを圧倒する。こんな風に否応なしに隆起する地殻の塊にとって、厚さ何千尺ぐらいの外皮をもたげたり、破ったりすることがなんだろう。なんでもありはしない。なぜかといえば、岩石が、ぼくらにとってはあんなにも硬くて強い岩石が、ここでは柔らかい布ででもあるように畳まれたり裂かれたりしているではないか。彼らの抵抗などは、地下の営力に対してはおかしいくらいのものだったのだ。
 この隆起が問題になって、ぼくとドゥ・C君との間に一つの論争が始まった。新しい形式における古い論争、つまりターレスとエラクリートの、火成論者と水成論者の論争だ。しかし、結局のところ、それはまだ現代の学者を二分している問題だから、素人がその尾について論争しても悪いことはあるまい。
 この恐るべき破裂はどういう風にして行なわれたか、急激にか、それとも緩慢にか。当時まだ半ば液状をしていた中央底盤が、或る突然の圧力をうけて大地の内部から迸出へいしゅつしたものと想像すべきだろうか。或るいはわれわれの平野の地層と同じように、古く水の力で堆積されてできた地層が、内部の熱と、それの支えていた強大な圧力とで緩慢にかつ深く変形されて、やがて今日彼らの占めている位置まで、しかし、つねにゆっくりと、押し上げられたものだと考えるべきだろうか。
 「どういうわけで。」と、ぼくは言った。「どういうわけであなたは猛烈な活動なくしては、おそろしい破裂なくしては、自然界にはなんらの偉大も生まれることができず、また、自然のそれぞれの変貌は、一つの大変動の所産でなければならないと言い張るのですか。」
 「ところで、あなたはどういうわけで。」と、ドゥ・C君は逆襲した。「あなたはどういうわけで、自然がわれわれの小さい尺度にちょうどいいような、われわれの限られた経験の範囲内で知られているような、そんな方法を借りなくては何事をもせず、またいつでも一様な単調な緩慢さで進行するものと、どうして考えられるのですか。」
 この意見の不一致から或る一般的な観念が呼び出されるようにぼくには思われた。即ち或る民衆の性格は、その芸術や宗教にと同様に、その学問にも反映するものだという観念である。どうかぼくの論証を聞いてくれたまえ。
 いったいどんな学問でも、その結論の中に、想像への大きな余地を残していないほど正確な、極限された学問というものはない。普遍化するのは想像である。仮設するのも想像である。そして、ひとたび仮設が受けいれられれば、それは思想家や学者を糾合するたくさんの旗印のような物になる。そこで、現在の論争に関わっているもののなかから、その主要なものを取り上げて考えてみたまえ。まず君はそこに国民とその性格、民族とその必然の、本能的な、避け難い傾向とを認めるだろう。
 地質学では、これがいっそう顕著なのだ。活発な血と、単純で明るくて素早い想像力とを持った南方の学者は、同じように世界の歴史を語るにしても、緩慢な思想と、広くて漠然とした想像力とを持った北方の学者とは全く行き方を異にしている。イタリア人やフランス人はお芝居の山と画面の変化と、猛烈な革命と大変動とを喜ぶ。彼らには運動が、音響が、そしてわけても火が必要なのだ。彼らは、それぞれの地質時代に、牧神と花神とが全く亡びてはまたたちまちにして蘇ったと考えることが好きなのだ。彼らにとってはこの地球全体がまだどろどろした、計算もできないような温度で熱せられている塊に過ぎなくて、われわれはその薄皮の上に住んでいるのだという風に夢想するくらい価値のあることはないのだ。こんな常規を逸した暴慢、こんな恐るべき仮設は、北方の落ち着いた精神からは生まれることができなかった。彼は、事物の緩慢な無限の展開をじっと眺めたり、河が暇をかけてゆっくり山を崩す有様や、腔腸動物が大陸を造る有様を見るのが好きだ。彼はこの自然全体も、やはり同じように緩慢な幾千という世紀の間継続された仕事の成果だと思い込んでいる。彼は辛抱強い。
 万という数が彼にとってなんだろう。ヴォルガーその他の人たちは、地表の上の形体の無限の連続の中で、生命は一度もその起源なるものを持ったことはないとまで言っているのではないか!
 こうした二つの精神のうちで、いずれに道理があるだろう。確かに、いずれにもない。勝利の棕櫚はおそらく両者を調和させる者の手に渡るのだ。
 紙の上での地質学の議論などは、君には、不満な、また珍しくもないものに見えるだろう。ぼくらにとっては、この山々の力強い自然の懐での、この不思議に分解された地塊の渾沌の真ん中での議論が、深い興味を感じさせもするし、一つの壮大な詩に向かって魂を開かせもする。ぼくらは学問的事実に基いてあの崩れた壁を建てなおし、あの倒れた穹窿を築きなおした。彼らの莫大な材料はすでに取り払われて姿を消し、その塵からは疑いもなく平野が形作られて、山々の建築物の脚下に横たわっているのだが。しかし、たといぼくらの意見がどうであったにせよ、一つの点ではお互いに一致した。それは。ここにある物がすべて廃きょだということだ。では、何の廃きょであるか。塵となって消えて行くぼくらの世界の廃きょである。この観念の前で片意地を張っても無駄なことだ。人間は死ななければならない。人類は滅びなければならない……今日こんなにも美しくこんなにも生命に満ちた地球、この地球もまた滅亡しなければならない……。
 こうした思想は、山々の荒涼とした風景に直面している時に幾度かぼくに帰って来た。しかし、この廃きょが崩れつくした時のことを、冷却して裸になった地上に、もうわれわれもいなければ、われわれの都会さえしだいに一条のデブリに過ぎなくなってしまうような時のことをそれからそれへと考えると、ぼくはすぐにこう自分に訊くのだ。この花々しい文明の進歩はどうなるのか。それを通して人類が孜々として成長した、この英知と熱情との無量の事業はどうなるのか。最後の人間が最後の小屋の廃きょの上で亡びる時、ソクラテスの思想は、シェイクスピアの創造は、ラファエルの幻影は、ベートーヴェンの夢想はどこへ行くのか。われわれは同時に二つの世界を生きている。二つ共に無窮であるし、二つ共に素晴らしい。しかし、一方の世界では創造された全ての物が永久に不変不滅である時に、もう一方の世界では、疲れを知らない一つの力が、決して二度と現われることなしに続出する形態を無限に繰りひろげる。この二つの世界のうち、いずれが夢で、いずれが現実なのだろうかと……。
 近くの山稜の高みから斜めに滑って来た日光が、突然その若々しい生き生きした光でぼくらを照らした。ぼくらのまわりから影を追い、岩石に金を着せ、湿った芝草をきらきらさせながら。同じ一撃で、ぼくの内部でもあの未来の暗い夢が消えた。「見るがいい。」その光線がぼくに言っているように思われた。「見るがいい、青い天空を、純潔な光を、心の青春を、朝を、山の花たちを。すべてはこんなにも美しい!」
 実際、一閃の日光の中には、哲学の体系全部の中にあるよりももっと多くの雄弁がある。
 ぼくは生の彼方に何が自分を待っているか、幾世紀の後に世界がどうなるかを知らない。構わない! あの瞬間、あの豊かな光の下、あのアルプスの純潔な空気の中でぼくは生きたのだ。そして、空全体がぼくの心臓の中にあったのだ。それならば、なんの怖れるところがある。造った者はふたたび造ることができないだろうか。もう一度生まれてくる、それは現在生きているよりも素晴らしいだろうか。今在るところの一切を、かつてぼくは夢想することができたろうか。そして、今後在るだろうところの物を、ぼくは想像しようと試みるだろうか。
 ドゥ・C君はなお一時間をぼくといっしょに登った。しかし、こうしたことにはほとんど馴れていないので、頂上からの眺めに対してあまり大きな疲労を支払うことになりそうだと彼は思った。光景はそこでもすでに雄大だった。それで彼は体力がまだ充分にある間にそこへ居残ってゆっくり遊ぶことにして、ぼくには一人で路を続けてくれと言った。ぼくは間もなく雪の領分へ踏み込んだ。かなり幅が広くてたいして急でもない、素晴らしい白さをした一本の長い山稜が、シーム・メリディオナール(南峰)まで愉快な登路を提供した。ぼくは元気に登って行った。そして、一歩ごとにまわりの氷何かいよいよ広々とその眩しい布を繰りひろげるのや、新しい山脈や峰々が遠くの方で次々と現われるのを見た。
 山の自由よ! 己れ自身の楽しい所有よ! 寂しい未知の山頂を当てもなくさまよい、まだ純潔な雪を踏んですすみ、天の方へと登って行くことの幸福よ! 神の壮麗な世界に生きることを感じる敬虔な甘美なよろこびを、これ以上よく心に満たさせるものが他にあろうか! ……
 山稜の最高点では、毀れた結晶片岩の鹿子色をした薄い断片が幾つか雪面から現われて、それが荒涼とした山頂を形作っていた。ぼくはその高みから見たものを叙述しようとするだろうか。それをするにはぼくの知らないある言葉が、今までに作られたことさえないような言葉が必要だろう。この破壊された、不動の、巨人的な形態の渾沌、この蓄積された氷、黒い岩石の厳しさ、この高所の雪の大いなる沈黙と純潔は、すでに知られている何物とも比較することができない。どんな絵でもこれを描けばその真脯を低くするばかりだ。
 これは見なければならない。空は素晴らしかった。雪はその全光彩を発揮していた。穏やかな空気、盛のような絶対の静寂。遠い山々のレース模様は実に清らかなエーテルを浴びて、その輪郭の彫刻がはっきりと見分けられるほどだった。
 ぼくは一時間以上もその高みにいた。さて降りようとして歩き出すと、二羽の蝶が翅をのしてぼくのそばを飛んで行った。それは二羽の緋縅蝶ヴァネッサで、俗にプティト・トルテュ(小緋縅)と呼ばれている種類のものだった。この蝶は最も高い山の上でもしばしば眼につく。そして、その幼虫が蕁麻いらくさを食い、その蕁麻がまた非常な高い所にあるシャレーのまわりにも繁殖しているので、彼らの姿は到るところで見られるのだ。二羽の蝶は微風に運ばれて谷から舞い上がり、夢中になって戯れながら氷河の方角へ気違いのように飛んで行った。夕暮れまでにはきっと弱り果てて、ヴァイスホルンの雪の上へ打ち落とされることだろう。
 間もなくぼくはまたドウ・C君といっしょになった。彼はぼくと同じように今日の一日を喜んでいた。ぼくは彼がわれわれの地質学の先をつづけて、ぼくのとよく似た思索に時間を過ごしたのだろうと推量する。なぜかといえば、ぼくがあの二羽の蝶の話をすると、彼は自分へのためのように、そして、実はぼくにとっても機も得た言葉なのだが、それには気がつかずに、次のような教訓を付け加えた。――「それがわたしたちの運命なのですよ、わたしたちという蝶のね。われわれの思想は無窮と永遠の野を当てもなしに遊び回ります。しかし、その思想は自分の翅の尺度では到底どうもできないような砂漠に出会って、そうしてついには死の寒気に捕われるのです。」

 七月十八日
 ある時ぼくの旅の道連れの一人が言った。「雨がわれわれのプランの妨害をした時、そいつを気持ちよく呪ってやるために、好い天気は神さまがくださり、悪い天気は悪魔めがくれるのだと言ってもさしつかえはないだろう。」と。今朝は天気がどんよりしていた。おかげで。昨夜ここへ着いてぼくの遠征に大いに張り切っている山案内のジャン・マルタンも、一日中ぶらぶらして暮らさなければならなかった。ぼくの方はここから半里先の原へ出かけて、そのほとんどはずれにある一軒の小さな寂しい物置小凰のそばの草の上へ寝ころんだ。そして、いつでも旅行しないではいられないので、望遠鏡でもって付近の斜面という斜面を残らず跋渉するということを始めた。これは全くおもしろい旅行法で、たびたびやっている内には、どうやら安逸の味という物がわかってきはしないかと思われるほどだ。
 灰色をした大きな雲の回転する波が、もう峰々を侵略してそれを隠していた。それでぼくの眼鏡での跋渉に残されている所といえば、この付近でよく山麓を被っている森林の断片とか、満開の石南の鮮かな藪に蔽われた凸凹の山腹とか、ところどころ大きな岩壁に中断された幾つかの牧場ぐらいなものだ。その岩壁は険しくて灰褐色で、滲み出した水のために長い黒い縞がついている。
 君はペローの物語を読んだ時代に、あるいはそれよりずっと後でもいい、こんなことを空想したことはないかしら(ぼくは今日でもそんな空想をしている男を知っている)。それは一人の親切な仙女がいて、君に突然姿を隠したり、どこへでも君の好きな所へ行ける不思議な術を授けてくれたらという空想だ。ところで望遠鏡の大きな魅力は、ぼくの考えだと、この空想の半分を実際に行なってみせるところにある。なぜといって、それはぼくらの意のままに、あんな遠くに在る対象を、まるで框かまちの中へでも入れるようにぼくらの眼の前へ持って来るではないか。いつか学問が残りの半分を実現して、人間の耳には聴こえないような遠い音響を、思いのままに切り離したり、近寄せたりする力をぼくらに与えないとはだれに言えよう。そして、そんな時が来たら、どんなに緊張した耳が、どんなに無遠慮な散策が、横行跋扈ばっこすることだろう! イブの子らの無数の群衆に、なんという秘密な幸福が齎されるだろう!
 こんなことを思いついたのは、例の眼鏡が石南の斜面を通り過ぎて、かなり高い、もう雪に近いアレーの放牧地の傍の最後の牧場を調べている時に、その視野の中で突然ぼくのしたある発見がきっかけになったからである。羊飼いがたった一人、山の上で百頭ばかりの羊の番をしていた。それが非常に近く見えるので。彼の動作の一々を見逃すということはなかった。ぼくは全く自分一人だと思っているその男を気楽に長い間観察することができた。
 彼は長い鳶色の外套を纒い、杖に身を凭もたせて、あたりの草を食んでいる羊たちを監視しながら、一つの岩の上に身動きもせずに立っていた。やがて彼は歩き出した。それにつれて羊の群れものそのそと移動を始めた。彼らは斜面とは反対の方角へ向かって行った。獣たちは一番上等な草を食おうとしては時々立ち停まった。群れの大部分が小股にのろのろ歩きながらおとなしく従って行くのに、中には飛び上がりの羊もいて、深淵の縁の狭い岩庇の上に幸運がありはしないかと夢中になって捜しながら、愚鈍なおかしな格好をしてそこを嗅いでいた。そうすると羊飼いは彼らを呼ぶか、あるいはたいていの場合には石投げ道具で石を投げつけて彼らの方向を変えさせた。そして、また羊群の単調な足どりに合わせてゆっくりと進んで行った。しかし、そのうちに雨が降り始めた。羊飼いは雨宿りのできそうな岩を見つけて、少し足を急がせながらその方へ向かって行った。彼はその岩の所で立ち停まって、外套ですっかり体を包み、相変わらず杖に凭れながら身動きもしないで、時時ゆっくり頭をめぐらしては雨の降るのを眺めていた。雲はだんだん低くなった。そして、この悲しげな絵は、霧の灰色のヴェイルに包まれて幻のように消えてしまった。
 山の峻厳な空の下、高い渓谷の沈黙の中での、何という緩慢な、呑気な、貧しい生活だろう! こんなにも熱っぽい、慌しい、行動と思索とに満たされたわれわれの生活のすぐ近くでの、何という運命だろう! ……
 雨が本降りになったので、ぼくはとうとう退却を余儀なくされた。雨は終日降りつづいた。それでぼくの見るものといったら近所の斜面の裾だけだった。その斜面には階段状をした落葉松の森林があり、頂上は霧に隠されていた。時々靄が濃くなりぼくらを包んだ。そうするともうぼくらには世界がなくなった。また或る時は靄が付近の岩壁のあたりまで上がって、濡れて光った黒い岩を見せてくれた。やっと一時間ばかり前から緑に輝く斜面が見え出し、続いてすがすがしい雪の山頂が姿を現わした。今では雲が縮まって飛びはじめている。白い絹のような千切れ雲はまだ斜面の角々へ引っ懸かって残ってはいるが、目も覚めるような山頂は、一新された空の碧さの中へその頂稜の銀色をしたレース模様を生き生きと浮き出させている。澄んだ光が蘇ると同時に、生命も到るところで蘇った。洗われた岩はいよいよ黒く、すがすがしくされた森はいよいよ鬱蒼とし、牧場の緑はいよいよ花やかだ。急流の響は高くなり、ことにナヴィザンスは囂々ごうごういっている。小川という小川はすべてお祭りだ。到るところ、雪に近い所まで、銀色をした小さい滝が黒ずんだ岩の面に懸かっている。と、突然、今度は渓谷の奥にポアントの峰が晴れてきて、最後のヴェイルの襞をその真っ白な肩に纏いながら、爽やかな純潔さの中に若返ったように、目も覚めるばかりの全容を現わした。

 七月二十二日
 神は頌むべき哉。ぼくは夢想を実現することができた。ぼくはモウミング・パスを踏破して、達者でつつがなくここへ帰って来た。とはいえ、それが容易な業だったというのではない。なぜかといえばその帰路について或る極めて重大な、一つの困難な解決を必要とするような問題に逢着する瞬間を経験しだのだから。
 ぼくは君にこの遠征のことは語るまい。とりわけそれによってぼくが見た壮麗な世界について書くことはしまい。あまりたくさんの雪や氷を見たので、まるで極地の旅からでも帰って来たような気がしているのだ。ただこの旅で経験した、予想以上に感動的な瞬間のことだけを語らせてくれたまえ。
 モウミング・パスはアルプス中での最も高い峠コルの一つだ。それは広大な氷河の圏谷の奥、氷塔セラックの渾沌の彼方、最も秘密なまた最も隔絶した地点、一切が沈黙と白とである真に純潔な聖毆、ロートホルンをシャーホルンへと繋ぐ眼も眩むような氷のアレートの上に、三七九八メートルの高さで口をあけている。今までにそこを越えた者は極めてわずかしかいない(注――たぶん、三度は越されている)。それもただ一流の案内者だけだ。ぼくといっしょに行ったジャン・マルタンは、この峠を一度も近くから見たことがない。彼もまたぼくと同様に、この峠についてはその裾にうずたかい美しい氷塔や、それを限る清純豪放な万年雪ネヴェの斜面を遠くから賛嘆したことがあるほかには知るところがない。そこで攻撃のプランを立てて、氷河の迷宮の直中に登路を定めることが必要だった。ぼくらは朝も早くレースの放牧地アルプへ登った。そこはぼくらの露営に定められた地点で、視野は広大な圏谷全体を抱擁し、その圏谷の脚下にはモウミングの力強い氷河が天空色の波濤をごたごたと詰め込んでいる。ぼくらの行程の主要な線は間もなくきまった。なお一つならずの細かい事柄は、その場へ行った上でなければ決定できないことをぼくは知った。
 マルタンは荷背負いの役の若い案内者エリー・ペーテルに手伝わせて、苔と片岩の板とで上等な夜の宿をこしらえた。快晴の明日をことごとく約束しながら、沈む太陽は山山を赤く染めた。天空は澄んで、最も遙かな高みには金色をした薄い靄の微かな縞目が認められた。それは実際雲ではなくて、眼に見えぬ紗のヴェイルの襞のように、斜めに注ぐ落日の光に照らされた水蒸気だったのだ。夜は素晴らしかった。黄昏から一時間ばかり立つと、或る山稜の銃眼の間からまろい皎々たる月が昇った。その光があまり明るいので、夜の明けるころまでぼくは眠れなかったほどだ。黎明にかなり前、ぼくはマルタンに出発を急ぎ立てた。この計画から完全な成功を獲るためには、昼間をあまり長く自由に使うわけにはいかなかったからだ。マルタンは聴こえないふりをしていた。それでぼくらの足がモウミング氷河へ触れた時にはすでにすっかり夜が明けていた。
 大きな氷塔群の中へ入ると初めて困難に出会った。その危険な迷宮から抜け出して、峠の絶頂まで急な平滑な登りになっている長い氷の斜面へ着くまでには三時間を要した。そこまで行くと危険は終わって、労働が始まった。ぼくらに残されている登攀の四百歩を一歩一歩運ぶには、斧の力に俟たなければならなかった。それはマルタンの役だった。彼はほとんど休みもせずに、驚くべき精力のあるったけを発揮した。
 こういう斜面は(そして、今ぼくらの登っているのはほぼ五十度の勾配だが)、登攀者にとっては一つの幸運である。時間はかかるが進み方は正確だ。問題はただ、大きな結晶の階段のような足場の上で身体の釣り合いをとることにかかっている。時間と労力とを節約するために普通は大股の狭い足場を切る。しかし、これはいつでも安全で、ただむずかしいのは、最も無器用な人間が地上十尺の高さで平気でやるようなことを、クレヴァスを見おろす数百尺の斜面で実行することである。この場合たった一つ恐ろしいのは想像である。パスカルが、「かの過ちと虚偽との情婦」と呼んだところの想像である。
 高い峠の頂上への到着はいつでも芝居の山である。それは一時に現われる厖大な画面のちょうど半分である。ぼくらにとっては、この際、それが好奇心からの単なる興味以上の驚きと結びついていた。セラック地帯を出ると、今作ってきたばかりの路を眺めながらマルタンが言った。「太陽は雪を軟らかくするでしょうから、日のある内にこっち側をもう一度降りるなんてことは考えるだけ無駄ですよ。どうしたって反対側から降りなくっちゃなりません。それにいくら悪いとしたって、こっち側より悪いってことはないでしょう。」
 この未知の裏側はどうなっているのだろう。最も善い地図について判断すると、かなり酷いものに相違なかった。ぼくらの心臓は、一種不安な焦燥ではためいた。最後の地点が近くなった。ぼくらはそこまで日陰を登っていたのだが、いまや忽然として太陽がぼくらを照らし出した。視線はアレートの上へ出た。そして一つの全く新しい世界が、光を呑んだ氷と雪との燦然たる渾沌が眼下に展開した。その向こうにはミシャーベルとモン・ローズとの大団塊が頭を上げていた。
 峠そのものは、歯形のついた、通過不可能の二つの無名の峰の間にある、長い雪の痩せ尾根に過ぎない。冬の間の風の戯れが、この尾根の端から端まで、一連の雪と氷でできた庇を作った。それは鍾乳石状の豊かな装飾を施されて懸垂し、巧みな螺旋形を描いて空間へ半ば転落しかけている。「なんて美しいんだろう!」と、ぼくが言った途端、マルタンが叫んだ。「実に悪いですね、先生!」
 実際、この華麗な絵の中では、それぞれの美がいずれも一つの障害だった。出口は一つも見えないのである。
 ぼくらの足の直下からは雪に被われた一つの氷の斜面が始まっていた。それは長さを別にすれば今登って来た斜面とちょうど対照をなすものだった。その下には全面にクレヴァスの縞模様をつけた一つの広い雪の台地がひろがっている。谷の側面からは氷の流れがあまり注ぎ過ぎた杯から酒が溢れるように溢れ出している。主流はホーリヒト氷河を形作るものであるが、それがまるで大きな河のように、越えることのできない、きらきら光る大瀑布となって落下している。右してトゥリフトの谷へ降りるためにロートホルンの一支壁を攀じるか、あるいは左してホーリヒトの谷を瞰下ろす絶崖を越えるかするほかには、考え得べき降路はなかった。
 この際最もわかり切ったことは、まだ通れる内に最初の斜面を急いで下ることだった。太陽はもうひどく雪を軟らかくしていたので、この上ぐずついていたらぼくらの通過のために雪崩を起こすまいものでもなかった。
 そこで、これ以上手間を取らずに下りは慎重に実行された。ぼくらを繋いでいた綱の間隔は倍にされた。ぼくらは斜めに進んで行くので、もしも雪崩が起こった場合、一度に一人だけですむようにという要心からである。
 斜面の下には愉快な不意打ちがぼくらを待っていた。それは三九九七メートルの処女峰シャールホルンの眺めで、峠の頂上からはすぐ近くに立っている一つの峰頭に遮られて見えなかったのである。もしもなんら恐ろしいことがないならば、ぼくらがそれへ登攀を試みるのは当を得たことだった。ここからだと、それは頂上まで波打ちながら高まって行く、楽に登れそうな雪の山稜だけを見せている。「ああ! 先生、あいつをやりましょう!」と、マルタンが熱狂して叫んだ。「あいつをやりましょう、たとい氷河へ寝たって。下りの路だって見つかりますよ。」モウミング・パスに加えてこんな処女峰を征服することができるとすれば、実際素晴らしい日に相違なかった。
 シャールホルンの白い美しいアレートのすぐ手前にある一つの鞍部へ着くまでにはなんらの困難もなかった。そこから頂上を極めることは、明らかにぼくらの意のままだった。路を切ることおそらく三百歩、そうすればアルプス中でまだだれにも踏まれたことのない高峰の一つを征服した人間にぼくらはなるのだ。
 しかし、下りの問題をどうする。感激は美しいことだ。ただそれは寒気や飢えを防いではくれない。それで充分な糧食も寝具もなしに、氷河のまんなかで夜を過ごそうなどとは思いも寄らないことだった。またぼくらは全く見も知らない土地に、アルプス中で最も通過困難の場所の一つにいたのだ。そして、先刻降りるつもりだった場所からここまで来る間にぼくらの見た物といえば、出口どころか、断崖を懸念させるような思い切って落ち込んだ線ばかりだったのだ。
 真剣な討論が開始された。まずこの上歩き続ける前に、降路を見おろすことのできそうなセラックの所までマルタンとペーテルとが偵察に行って、そこから見た模様次第で月桂樹を手折りに行くなり、われわれの退却を安全にすることを考えるなりするのが至当だということになった。
 まだ名もなければ、われわれ以前に人の通ったこともないこの鞍部に、ぼくは四十五分間ばかりたった一人でいた。やがて頭を垂れて、落胆した様子で、彼らがのろのろ上って来た。
「さあ! どうだったね、マルタン。」
「どこもかしこも断崖です、先生、おっそろしいクレヴァスと、落ちかかっているセラックです。何も見えやしません、何も、何も。わたしにやどうしたら出られるかわかりません。」
 それから、彼はシャールホルンを見ながら烈しい身振りをし、眼を光らせて言った。「なんて癪なこった! 当然こっちの物になるのに!」
 ぼくは黙っていた。慎重と野心とが闘った。
「考えてみてください。」と、マルタンは続けた。「わたしは恐れてはいません。しかし、あれへ登ってまた下るには三時間かかります……そうすると夜になるまでにこの断崖を抜け出す時間がなくなってしまうでしょう。」
 慎重が彼を捕えたのだ。「マルタン。」と、ぼくは答えた。「ぼくらが頂上を踏む踏まないにかかわらず、結局、シャールホルンは征服されたのだ。もうこうなれば確かだから、この勝利は次の時まで取っておこうじゃないか。」 そこで下りは即座に開始された、先頭がマルタン、続いてぼくという風に、三人とも綱で結ばれて。ぼくらはホーリヒトの谷を瞰下ろす絶崖へ方向をとった。一歩は一歩と、情景は恐ろしくなった。実際の谷の斜面を横切って大きなクレヴァスが幾つも口をあけていた。ぼくらはところどころ雪で作られた橋の上を這いながらそれを越えた。
 とうとう、ぼくらは眼の前にセラックの半ば落ちかけている或る断崖の上まで来た。その向こうには、遥か下の方の陰の中に、ホーリヒトの谷が見えるだけだった。そこへ行こうとするには、少なくとも二千尺を一飛びに飛び降りなければならない。左手にはシャールホルンの岩壁がこれもまた険峻な壁となって、むろん深淵の眠まで落ち込んでいるらしかった。ところが、この壁とぼくらとの間には、付近の幾つかの斜面が半漏斗状に集まった一つの凹みがあって、それが山の人間の言うクーロワールなる物を期待させた。「あれこそ最後の頼みの綱です。」と、マルタンがそこを指さしながら言った。「あすこが駄目だったら、もうわたしたちは降りることはできません。」
 近づいてみると、実際、一種のクーフワールが、あるいはぼくにはむしろクーロワールの形をした一つの深淵のように思われたものがあった。それはぼくらが志している方角に向かってかなり下まで下っていた。しかし、先の方はいったいどんな風になっているのだろう。ぼくらは先へ進んでみたり、のぞき込んだりしたが無駄だった。先の様子はさっぱりわからなかった。それは左から右へややカーヴして、じきに見えなくなっていた。より善い策がない以上、できるだけのことはやってみなければならなかった。ぼくらは、三百尺を下った。
「何か見えるかね、マルタン。」
「いいえ、先生……構わず降りてみましょう。」
 また百尺ばかり進んだ。間もなく、クーロワールは二、三百尺の狭い雪の掘り割りに過ぎない物になってしまった。かてて加わえて、それは高い、落ちてくることもあり得る雪崩や落石の直接の通路でもあった。
「だがね、マルタン、これを行って果たして降りられるだろうかね。」
「捜さなくっちゃなりませんよ、先生、この外にわたしたちの路というのはないんですからね。」
 しかし、斜面はいよいよ急を加えてきた。これに較べれば、今後どんな斜面だって緩やかなものに見えるだろうという気がぼくにはした。雪は太陽のためにすっかり軟らかくなって、それを支えている岩から滑り落ちる危険があった。そうすればぼくらもいっしょに運ばれて、クーロワールの尽きる所を非常に早く見に行くことになるのだ。それにまた最も小さな石でも上から落ちて来たら、ぼくらは三人共必ず一掃されてしまうのだ。
 一歩一歩できるだけしっかり踏みしめながら、慎重にぼくらは進んだ。さらに百尺を下った。
「何か見えるかい、マルタン。」
「いいえ、先生、まだ何も。それでもわたしは出られだろうと思っています。」
「どうかそうであってもらいたいな!」
 ぼくらは険崖の約半分を下った。クーロワールはほとんどその全体が見えた。しかし、それは相変わらず右へうねっていて、明らかに一つの暗いゴルジュへの方向をとっていた。では、これはそこへ行っておしまいになるのか。そして、万一そこに通路がなかったら、この恐ろしいクーロワールをもう一度すっかり登り返すのだとしたら。
 こういう風にして進むこと、すでに一時間以上になっていた。こんな状況のもとでは数時間は数分に過ぎない。人は最早どんな疲労をも感じないほど極端な筋肉と神経との緊張状態にいる。一切の感覚はなくなった。存在全体は自己防衛の強力な本能に取って代わられて、一個の荒くべき機械以外の何物でもなくなる。人は非凡な芸当を演じる。力は十倍し、種々の障害を一暼のもとに判断して手段を選ぶところの英知さえも十倍する。
 小さいゴルジュは近づくに従って不安な様子を呈してきた。雪はいよいよ軟化し、斜面はますます急になった。滑らかいためには警戒を倍にしなければならなかった。ぼくのうしろからは、いったいこの結末がどうつくのかさっぱりわからないので、明らかに不承不承な顔つきをして一語も発せずにペーテルが歩いて来る。
 ところが、ぼくらの左手で突然岩壁がしまいになって、もっと急でない、もっと安全な斜面へ取り付くことができた。そして、なお百歩ばかり進むと、ついに、ぼくらの眼はある距離を隔てて山の裾を見渡すことができた。その時見た光景といえば、あらゆる通路を塞ぐために目覚ましくも結合した垂直の険崖の全体系だった……。ただ一か所古い雪崩の堆積した所があって、そこだけが容易な降路を提供していた。ぼくらは救われたのだ。クーロワールはどうかというと、そこから眺めるとひどい悪場になって終わっていた。
「ああ! こうとわかっていたら。」と、マルタンが叫んだ。「今ごろシャールホルンはこっちの物になっていたのに。」
 実際、時刻はまだ四時だった。
 とはいえ、ぼくらが最後まで苦しみを強いられたことは言うまでもない。一本の急流と幾つかの牧場が始まるホーリヒトの谷底へ着こうとした瞬間、斜面の下で帯のようになっている一つの意地の悪い垂直な岩石の層が、ぼくらを閉じ込める城砦を形作っていた。おかげで出口を搜すのに十五分も費やさなければならなかった。ぼくらが抜け出したホーリヒトの谷の小径とシャーレンベルクの小径とは、ツァイスホルンの登攀以来ぼくの知っているものだった。ぼくらは夜になる前にランダヘ着いて、そこから乗り物でツェルマットへ運ばれた。
 かくのごときが、友よ、ぼくらのモウミング・パスの下りだった。そして、ぼくら同様この場所への知識をまるで持たずにこれを企てる一人ならずの人たちも、やはり、おそらくこんな経験をすることだろう。とはいえ、これが困難なものだなどと信じ込まないように。たびたび行なわれた別の多くの場合以上にむずかしいわけではないのだから。しかし、恐ろしい光景にぶつかることはある。そこがどんな具合に終わっているのを知らないで踏み込むにはある種の勇気が必要だ。そして、こんな風に冒険的にそれを試みる人があるとすれば、その人は充分の覚悟をもって深谷へ身を投じに行くのだと、時には考えてもいいかもしれない。そして、一度下へ降りて来ると、それへ想像が混じりこんで、何かしら英雄的なことをしてきたような気がするのである注・1
(注1――数週間後にジャン・マルタンはピジョン夫人の案内をしてふたたびモウミング・パスを登り、われわれの時と同じ路を降りた。この夫人は実際最も優秀な登山家で、毎年夏になるとアルプスへやって来るのである。シャールホルンについて言えば、わたしは今年〔一八七四年〕復讐の準備をしていた。すると、わたしに先立つわずか数日前にミドルムーア氏が案内者を連れてその初登攀をやってしまった。)
 少なくとも一日だけツェルマッ卜に滞在して、あんなにも悠々として落ち着いた風景をゆっくりと見なおしたり、そんなに始終は見られない、また眼を上げるたびにいつでも驚かされるあのセルヴァンを、もう一度見たりしたいというのがぼくの望みのすべてだった。ところが、ペーテルとマルタンとは、どうしても急いでツィナルヘ帰らなければならなかった。翌朝の五時になるともう二人がわたしの所へやって来て、晩までに向こうへ着くようにトゥリフトの峠を越えるつもりだと言い、ぼくにもいっしよに帰らないかとせっついた。ぼくはいくらか疲れてはいたが、彼らが二人だけで出発するのを見るには忍びなかったので同意した。
 トゥリフトヨッホあるいはコル・デュ・トゥリフト(三四五〇メートル)は、登山家たちにはよく知られている通路だ。それはツェルマットからアニヴィエールの谷へ越す人たちが一番よく通る峠で、また確かに最も特色のある峠だ。久しい間危険でむずかしいとされていたが、数年前から新しい路が発見されたり、最も危険な箇所へは、鎖や、綱や、梯子が掛けられたりするようになったので、今では全く楽に越せる。
 ツェルマット側からは、牧場を出ると一本の長い堆石の山背が伸びて、トゥリフト氷河の高みまで続いている。この高みは魅力のある小さい白い台地で、荒々しく壊れたアレートで終わる裸の岩壁の囲みの中に寂しく閉じこめられている。台地の奥では、この岩壁が低くなって、一つの狭い切れ込みがほとんどすぽりとそれを切りあけている。そこがトゥリフトヨッホである。あまり急でない小さい雪のクーロワールが都合よくそこまで登っている。この側はまさに楽な峠の理想的なものである。
 しかし、こんなにも愛想のいい、こんなにも寛大な表側に対して、なんという裏側だろう! 尾根の頂上はちょうど絶壁の縁になっている。垂直なゴルジュと恐ろしいクーロワールとに抉られた、高さ少なくとも二〇〇メートルの岩壁の一続きが、ロートホルン氷河を瞰下ろしている。切戸ブレーシュそのものは要するに砕かれた山稜の歯形の間にある天然の割れ目で、人間が一人横向きに坐って足を伸ばせば優に塞ぐことのできるくらい狭い間隙である。ツェルマット側には台地の白い荒野の横だわっているのが見える。ツィナル側はことごとくこれ深淵である。
 世の中には荒涼たる場所への愛に食い入られている魂というものがある。それ自身傷つけられ引き裂かれ、黒い深淵によって穿たれながら、自然の中に特に兇暴と恐怖との要素を求める魂である。そういう人々はトゥリフトの切戸ブレーシュへ来るがよい。彼らに対してこれ以上適当な光景はどこにもない。もしも一人のマンフレッドがここへ来て坐り、足を仄暗い空無の上にぶら下げ、眼を破壊された岩石の渾沌の中へ沈ませたなら、彼はかつて夢想したようなあらゆる荒廃と恐怖とを満喫することだろう。死の沈黙の唯中、身のまわりに、間を置いて、割れて崩れる岩石の爆音を、ゴルジュの中を落ちて行く雪崩の微かな轟きを聴くだろう。そして、足もとにはこの深淵を見るだろう。
「その骨の安らかに眠らんところ……」
 とはいえ、トゥリフトの下りはモウミング・パスのそれと似ていなくはない。最初の一瞥には恐ろしい物に見えた岩壁にも、研究を進めるに従ってまず可能な、次いで容易な通路が発見される。そして、今日ではあます所なく知られて、以前に変わらぬ醜い外観にもかかわらず、人はそんなにも楽な下りを経験して驚かされるのである。最初に越えた者たちには勇気を要求したその場所が、なお多少の眩暈と落石の危険とは感じさせながらも、特に鎖や梯子のおかげで実際の散歩路となってしまった。高峻山岳での悪場の観念を、これほど骨を折らずに味わうことのできる場所はどこにもない。
 しかし、ぼくらにとってこの下りはちっとも楽ではなかった。まだ冬の宵が充分残っていて、最初の鎖が三尺も深い所に埋まり、その雪がまた太陽に軟化して方々で滑りはじめた。おまけにかわいそうなマルタンはほとんど盲目になっていた。あのモウミング・パスの下りの間、彼はよく眼を利かそうとして、登山家には離すことのできない雪眼鏡をずっとはずしっぱなしにしていた。それで強い雪の反射に眼を焼かれて、一時ほとんど何も見ない状態になったのだ。
 岩場の裾まで降りるとあとは長い散歩路になって、ツィナルのシャレーの見える氷河の末端まで続いている。
 夕日に染まって青銅色をした牧場の柔らかな気持ちのいい斜面、爽やかな森や水、花の咲いている草原、夕影の中で屋根から煙を上げている平和な宿屋、そういう物が嵐の過ぎた後の最も静かな港のようにぼくらを迎えた。
 ああ! どうしてぼくはもっとここに滞在していることができないのだろう! ぼくの休みの時間は今こそ過ぎ去った! ぼくはシエールへ向けて立つのだ。そして、明日はもうローザンヌにいるだろう。ぼくらの心のために作られているような場所から、なぜ運命はかくもしばしばぼくらを遠く拉し去らなければならないのだろう! こんなにも高潔な純な氷河の足もとで、この美しい谷の奥まった所に生きること、人気もない牧場の平和と大きな涼しい影の中に一人二人の愛する者と生きること……。ねえ、それは幸の夢ではなかろうか。
 それでもやはり出かけなければならない。氷河の烈しい息の下、高い放牧地の寂しさの中なる夕暮れの崇高い時間よ、輝かしい峰々に近く、高所の澄んだ空気の中に燦く朝よ、自由な未開な山中の生活よ、お前たちは明日こそ思い出以上の物ではなくなるだろう。
 アメリカの寂しい奥地の住民インド人は、来世には最も獲物に富んだ大草原で永久に狩する身になれるだろうと夢想するという。ところでぼくとしては、友よ、君は笑うだろうが、ぼくは親しい面影たちの間に、山岳地方の高い公間の深い溶々しい平和や、白い山頂の誇らかな清明さや、果てしなき旅路とつねに新しくされる登行との希望をまじえずしては、より善い生というものを夢想することができない。

             (ピブリオテーク・ユニヴェルセル。一八七四年)

 

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 ヴァイスホルン登攀
             (4512m)

 山の名声というものは、人間のそれと同様、しばしば流行や事情のいかんに支配される。かくてモン・ブランやリギの名が世間に喧伝されている一方では、山全体か自分たちの国に属している最高の峰の名を、たとえばミシャーベルのドムのごときを、スイス人そのものが久しく知らなかったというような現象が起こる。響のよい名とか、都合のよい位置とか、あるいはさらに記憶すべき事件とかが、一つの山を著名ならしめることに、高度の大、真実の美以上の条件となるのである。
 しかし、アルプスには別に一つの光栄がある。そして、これにくらべれば、人間から与えられる光栄などは実に些些たるものに過ぎない。太陽が東の空を燃やす時、その金色に染められる最初の峰頭こそは、アルプスで真に最も威風に満ちたものである。黎明の前、そこから大いなる山脈が一つの長い広がりとなって展開する彼ら望楼の或るものの上に、たとえばディアブルレとかダン・ドゥ・モルクルとかの上に登って眺めるがよい。そうしたらば、太陽が前記のような高峰に王冠を授ける光景が見られるだろう。
 高峻の山群を抜いて峙つ純潔な円頂ドームや尖峰エギーユのうちで、曙の炎の中にきらめく最初のものは、彼らにとっての真の王座、モン・ブランである。それとほとんど同時に遙か東方でモン・ローズの照らされるのが見える。さらにもしも恵まれた地点に立てば、ドム、ヴァイスホルン、セルヴァン、ダン・ブランシュ、コンバン、エギーユ・ヴェルトなどが相次いで光りはじめるのが見られる。これこそアルプスの真の光栄である。
 あの最高の主権者の前へ出ると、ヴァイスホルンが、世間であまり有名でないこの山が、その高さでは全山脈中第四位を占めていることがわかる。この山がアルプスを遍歴する人々にさえも時々知られていないほど一般に無名な理由は、おそらくその位置に拠るのである。ダン・ディ・ミディよりもさらに不幸なこの山は、人々の始終訪れるいかなる渓谷にも判然とは臨んでいない。彼はユングフラウのように中腹に置かれた物見台を、そこから一目で頂きの高さと脚下の深淵の深さとを測ることのできるような場所を持っていない。彼はまたセルヴァンのように被うところなき台地からぬきんでて、空間に赤裸々な孤立した姿を現わしてもいない。人は彼をシュタルデンからサン・ニコラへの途中で見えると思っている。事実そこから見ると右手の空に、素晴らしいセラック注・1を載せた純粋な、輝かしい山稜を持つ一つの美しい氷の峰頭が聳えている。しかし、それはしばしば自分をその主人と見誤らせる野心的な侍者、即ちブルネックホルンに過ぎない。途中のもっと遠くからだとヴァイスホルンは一瞬間姿を見せる。が、それもたちまち別の肩に匿されて次の瞬間にはもう見えない。しかし、彼をすぐ近くで、足の先から頭の先まで見ることのできる或る渓谷がないわけではない。それは、事実あまり人の行かない谷ではあるが、即ちツィナルの渓谷である。しかし、そこから見えるのは彼の背面で、単に一個の恐ろしい壁以外の何物でもない。
(注1――氷河の最も不斉な部分ではクレヴァスとその交点とが無数に存在して、時にはこの交点が孤立した氷のブロックを形成し、その壁の高さ二百乃至三百尺にも達することがある。このブロックに山人たちはセラックの名を与えているが、これがしばしば密集して高山岳地域での最も驚くべき現象の一つを示している。)
 ヴァイスホルンがその壮麗な姿をもって王座に着いているのを見たい人は、退いてローヌの渓谷を溯るか、あるいはさらにベルヌ山脈の中腹、リーデル・アルプかエギッシュホルンの寂しい牧場まで登って彼と面と向かわなければならない。そこからだと彼のすべての支壁は隠れて、きらきらした雪と純粋な形とをもった高貴な金字塔が空の穹窿高く聳えているさまや、また快晴の日には較べ物もない光彩に輝いているのが見える。この山を一度も見たことのない人たちに、彼について一つの観念を与えようとしても徒労であろう。その山稜の優美さ、その雪の霊妙な肉づけ、そのセラックの豊富な割れ日には、言語に絶するような、また思い出の中ではたちまち変質してしまうような、そんな微妙な無類の表現があるのだから。
 この金字塔が示す三つの面のうち、北の一面は雪と氷河との厚い外套を纒っている。他の二面は、そこで絶えず雪崩の轟くクーロワールに刻まれた、真っ黒な絶崖だけしか見せていない。その頂上へ達するには山稜によるのほかはない。そして、その山稜も、今日までのところでは唯一の東の物だけが登行可能とされている。
 今日では征服されてしまった多くのアルプスの巨人たちと同様に、ヴァイスホルンもまた長い間登攀不可能のままで残されていた。一八六一年にその山頂の処女雪に足を置く幸福を得た最初の人は物理学者ティンダルで、ラクスのペネン、ダリンデルヴァルトのヴェンガーの二人が案内者として同行した。それ以来、十二の登攀が成功している。これからわたしが語ろうとするのは、わたしの信ずるところでは、その最も新しいものである。
 去年(一八七一年)の八月、友人ウォルターとシーモア・ブッチャーの二君がイギリスへ帰る前にヴァイスホルンヘ登ろうと考えて、わたしもその計画に仲間入りさせられた。二人とも熟練した登山家だった。月の二十六日にわたしたちはサン・ニコラの谷間へ着いた。このような遠征にどうしても欠くことのできないしっかりした山案内を捜すのに、われわれは一苦労しなければならなかった。みんな仕事に出てしまっていなかった。幸いにもこの谷の最良の案内者で「セルヴァンの男」といわれるペーテル・クヌーベルの体があいていた。この男を案内者の隊長にしてしまえば、他の者たちのことはたいして問題にしなくても済んだ。三十日、わたしたちの一隊は、ヴァイスホルンヘ登る人たちには馴染みの出発地点であるラソダの部落から少し離れた、ヴィエージュの岸で勢揃いした。総勢九人。わたしの友人たちの弟さん二人は、最後のシャレーまでいっしょに付いて行って、そこでわたしたちの帰りを待っていたいという希望だった。クヌーベルは(われわれは今後ペーテルとよぶことにするが)、M・J・ペレン、ヨーハン・ペトゥルスという二人の案内人を部下として従えていた。それに今夜の夜営地までお伴をして来る人夫が一人。
 樅の疎林と幾つかの険しい岩場を急な小径で登ること一時間半で、ジャーレンベルクのシャレーヘ着いた。若い人たち二人はそこに残ることになっていた。わたしたちの方は、その同じ夜を氷河の縁、一万尺の地点で眠るつもりだった。
 ジャーレンベルクの小屋はもう相当な高さから人間の居住地帯を瞰下ろしていた。それはいわば山の寂寥への入口に在った。それは、この方面では夏季に人の住むほとんど最後の場所だった。上の方には牧場がひろがり、それから少し離れて裸の岩と氷河だった。あたりの風景には静けさと雄大さとが満ちていた。わたしたちはその風景を半時間ばかり楽しんで、さてシャレーとそこの客人たちとに別れを告げた。彼らのねんごろな言葉はわれわれが人界から担って行く最後の思い出だった。
 そこから谷へ入った。高い峰々の間からホーリヒトの氷河が落ち込んでいる谷である。その谷を下に見る芝地の斜面をわれわれは一本の奇麗な小径に従って登って行った。長いあいだ捨てられた一棟のヒュッテの残骸が横たわっている或るテラスへわたしたちが着いた時には、ほとんど日が沈みかけていた。案内者の中には氷河の冷たい息の下で露営することにいくらか難色を示す者もあって、この気持ちのいい、また夜を過ごすにも便利な場所へ陣取ったほうがよくはないかと仄めかした。実際、水もすぐそばにある。芝もそこでは乾いているし、柔らかくもある。地面の襞が風よけにもなる。ところが、上へ行けば氷河は近いし、岩は堅いし、風も冷たいとその連中は言うのである。それは立派な理由だった。しかし、明日の仕事は豪いのだから、少しばかりの快適は犠牲にしても、もう千尺前進しておいた方が賢いようにわれわれには思われるのだった。地面には古い木片が散らばっていた。わたしたちはそれを斧で割り、めいめいが荷に背負って、さて、また登りを続けることにした。最後の芝地を過ぎて、ある急斜面の頂上で壊れた岩が積み上がっているところへ着くともう夜だった。案内者の一人が、この前の時に二組の登山隊が露営したという場所を検査に行った。少したつとその案内者がわたしたちを呼んだ。二個の大きな岩塊が寄り添い、その一つが少しかぶさるようになって、その間に平らな、ほとんど乾いた、広さ数歩の三角形の余地があった。それがわたしたちの宿だった。
 赤々とした火がじきに焚きつけられた。糧食が拡げられ、一番上手な料理番が、シャレーで借りて来た鍋でわたしたちのために茶の用意を始めた。ごつごつした岩の上、氷河を前にした一万尺の高所でのこんな食事には、口では言えないような、それを共にした人にして初めてわかるような味がある。われわれの食事は素晴らしい壮麗な夜で飾られた。それより少し前に満月が比類もない光輝を放ちながら昇って、その光が周囲に猛々しい荒らくれた山稜や尖峰の峙つ、ホーリヒト氷河の広大な圏谷を煌々と照らしていた。
 最後の杯が空になると、友人二人とわたしとのために一番陰になった隅の所へ四枚の毛布のうちの一枚が拡げられた。そして、もう一枚はわたしたちの掛け布団になり、残りの二枚は案内者たちの用に充てられた。それから銘々具合のいいような姿勢をとって眠ろうと試みた。しかし、わたしも友人二人も眠れなかった。夜が更けるにつれて掛けている物も何のその、寒気はわたしたちを襲ってきた。その上わたしたちの体温は空間へ放散された。まるで何も掛けていないのと同じだった。眼をあけるたびに、頭の上で大きな透き間を作っている岩の間から星を撒きちらした空が見えた。一時ごろ、わたしはこれ以上冷たい堅い岩の上でじっとしていられなくなって起き上がった。互いに身を寄せて丸くなって眠っている案内者の群れを、焚火の残りが月といっしょに照らしていた。ペーテルは少し離れて寝ていたが、まるで屍衣に包まれたように頭から足の先まで白い毛布を被ったその姿が、屍骸のように見えた。われわれの不思議な着装いでたちや、こんな荒らくれた青銅色の顔や、こんな風に毛布に包まれて横たわっている格好を見ていると、アペニーンの寂しい山奥で、一仕事すました後の露営を張っている強盗の一団そっくりのような気がした。
 眠れなかった人たちはわたしのように起きた。その物音に他の者たちも眼を覚まして、間もなく皆が立ち上がった。それにもう出発の用意をする時間でもあった。月は相変わらず輝いていて、最も困難な地点へさしかかってもその美しい光を利用できそうに思われた。わたしたちは朝飯をとった。そして、二時二十分、人夫をあとに残してこの岩屋を出発した。
 わたしたちは数分間でジャーレンベルク氷河へ達した。この氷河は堅い、起伏をもった、しかし、クレヴァスのない、長い雪の斜面をまず提供した。これを登ると、見る限り黒い岩と雪ばかりの荒れ果てた台地だった。この地点てペーテルは、クレヴァスを心配して綱を使うのが慎重な処置だと考えた。それで一同数歩の間隔を置いて綱で結ばれた。これはその日一日つづいた。綱で結ばれる瞬間というものは、それが危険な登攀に関係しているだけに何か荘重な気持ちのするものである。
 寒気はきびしく、雪は足の下で音を立てるほど堅かった。その結晶の粒は月光を浴びて幾千となく燦いた。わたしたちは氷河に沿って峙っている或る岩層を乗り越えることになった。それはこっち側ではヴァイスホルンから落ちている巨大な山稜の裾を扼する一つの砦のような形をしていた。しばらくは、ぐらぐらする砕岩の上を進まなければならなかったが、それが登りを苦しいものにした。ウォルター君は身体の具合が悪いことを知って、もうこれ以上いっしょに登ることはできないから案内者を一人連れて下山したいと言い出した。彼の状態ではそれが最も賢明な処置だった。ところが、さてだれが付き添って降りるかという問題になると、このお役目のためにヴァイスホルン登山を断念する者が案内者の中に一人もいなかった。一瞬、彼らの間で盛んな議論が取り交わされた。が、とうとう、一番年が若くて一番経験も少ないヨーハンがわれわれの熱心な頼みを聴き入れた。彼は自分の持っていた糧食の一部分をおろすと、ウォルター君同様綱から離れ、そうして二人で露営地の方へ下って行った。かくして、シーモア君とわたしとは、ペーテル、ペレンの両人といっしょにあとに残った。
 わたしたちがふたたび前進を始めた時に夜は明けはなれた。前面には大山稜の末端へ取り付くためにまず乗り越えなければならないごつごつした険阻な岩壁が峙っていた。この岩登りはわれわれの力を試験して優に二時間の骨の折れる機械体操を強いた。一行は四人共頑丈で生気潑刺としていた。最初の幾つかの障害を難なく越えるとそれに激励されて、悦ばしい熱意に満たされながらこの岩壁の絶頂へ登りついた。すると。われわれの眼前には、そのはずれに誇らかな氷の金字塔を聳え立たせたヴァイスホルンの長い山稜が、起伏に富んだ奥行きのあるパースペクティヴを繰りひろげた。折からの眩ゆい最初の日光にその金字塔が燦として輝く。思い出の中の不滅の瞬間! 朝の光明の花やかさにつかり、深淵によって世界から隔絶された、かくも高貴な、かくも純潔なこの山頂は、永久に人間の手の届かぬ彼方にあるかと思われた。
 わたしたちは朝食をとったり、幾難関の攻撃を開始する前に一息入れたりするために、破壊された岩の上へ腰をおろした。
 アネロイド気圧計は一万三千尺を示している。そして、われわれの位置は明らかにその示度を是認するものだった。脚下を遙か北に当ってヒース氷河が展開し、南にはジャーレンベルク氷河が、あらゆる側で落ち込む絶崖によってわれわれと隔てられている。
 わずかの距離にその頂きを見せているブルネックホルンは、すでにわれわれよりも低くなった。そして、われわれを凌ぐものといえば、第一流の高度を保つ幾つかの山頂だけである。
 われわれの踏破しなければならない山稜は怖るべき状態を呈していた。それは最初の内はほとんど水平に走っているが、やがて突然高まって金字塔の一角を形作る。揺らめく小塔と寸断された尖峰とに逆毛立ち、両側に底知れぬ深淵を見おろす長さ約一〇〇〇メートルの荒廃した壁を想像してみたまえ。北側の斜面は一面に万年雪ネヴェの厚い層で被われている。それを頂上まで辿るにはおそらく二千歩を切らなければならないだろう。南側は、高峰の岩のつねとして、壊れたり、砕けたり、剥がれたりした険巌の斜面をなしている。そして、この斜面はちょうど山稜の凹陥部に相当する氷に満たされたクーロワールによって、所々抉られているのである。山稜はその天辺を攀じることを許さないほど凹凸が烈しい。われわれの登攀の際には、その上ここかしこ危険な雪庇がかぶさっていて、通過不能の箇所も幾つかあった。それがために長い迂回をすることを余儀なくされて登攀はいっそう苦しいものになり、あるいは成功も覚束ないのではないかとさえ危まれた。山稜を進むことができないとすれば、南側をとって断崖の中腹を搦まなければならなかった。それでわたしたちはもっと歩きいい登路に出会おうと思って、二百尺乃至三百尺を下ったり登ったりしながら、岩場やクーロワールを横切って進んだ。登攀の重大な部分が始まったのは、実にこの斜面でのことだった。ペーテルは先頭に立って、氷に出会うと足場を切った。彼の後にはわたしがつづき、それからS・ブッチャー君、その後にペレンが従った。クーロワールは仕事に骨の折れるたちの悪い氷で一杯だった。その急な勾配から見てもその長さからいっても。一度落ちたら到底助かる見込みはなかった。それでわたしたちは長い迂回をしても岩の方を選んだのである。しかし、進めば進むほど岩場は悪くなった。
一か所むずかしい所が現われた。そこでは断崖から突き出たひどく傾斜した一つの岩を乗り越えなければならなかった。そして。その瘤と瘤との間は懸命の努力をしてやっと届くくらいに離れていた。ペーテルはまず自分でそれを越えてしまうと、厳粛な声でわたしたちに最大の慎重さを要求した。なぜかといえば、彼はまだ確かな足場を得ていないので、万一われわれの中のだれかがスリップしても、それを支えることができなかったからである。わたしはS・ブッチャー君と同じように非常に好い具合にそこを越えた。ペレンは、たぶん、その背負っている荷物が邪魔になったとみえて、少なからず苦心していた。そこからまた山稜をためしてみょうというので登って行った。しかし、登りついた瞬間、身の毛もよだつような気がした。そこはほんとうに剃刀の刃の上だった。山稜の頂上を形作っている片岩の板は非常に薄くて、その上へ足を置こうなどとは夢にも考えられないような箇所が幾つかあった。その裏側はどうかといえば、おそろしく硬い、鏡のようにつるつるした万年雪ネヴェ(注――再結氷によって凝結した永続的な雪にネヴェの名が与えられている)の斜面で、末は眼にもとまらないような逆落としになっている。その遙か下の方、眼下三千尺のあたりには、大きなクレヴァスに刻まれたヒース氷河の環状盆地が拡がっていた。
 山稜そのものを行くことは到底不可能だったので、それと並行して今度は裏側の二、三尺下を半分這うように、鋭い岩角に指を掛けながら進まなければならなかった。次には傾いてぐらぐら揺れる小さい岩塔が幾つか現われたが、その横腹には、半ば雪に被われた危なっかしい手掛かりしかなかった。それでまた改めて刃のような山稜へ。ところが、今度はそれが薄い鋸歯状をした雪の痩せ尾根になって、方々で優美な曲線を描きながら懸垂している。一度などはこういうことがあった。わたしはその痩せ尾根に載っている雪の刃を斧の棒の方で突き抜いた、すると、望遠鏡の孔からのぞいた時のようにホーリヒト氷河の青い底が見えた。こうした状態でいつまでも続けることは不可能だった。
 わたしたちはあの綱渡りの実演を必要とする労働の方を選んで、またもや南側の岩場へ降りて行った。しかし、わずか行くとそこでもまた前進を阻まれた。かなりの距離の間山稜以外に路のないことは明らかだった。その山稜の様子は一変してはいたが、前よりも決して安全ではなかった。鋭い痩せ尾根や岩塔の代わりに、今度は長い雪庇が、薄い、まくれた刃のように続いて冠飾クーロンヌマンを形作っていた。彼らの線の大胆さや、その無垢の雪の輝きにもまして美しい物はなかった。しかし、また彼らの偽りの曲線や、その位置の大胆さにもまして不信な物もなかった。それにしてもこれを越えることは絶対に必要であって、さもなければ敗北を宣言しなければならない。ペーテルは頭を振った。そして、彼の顔には真面目な当惑の色がありありと見えた。彼はもう五度もこの登路を経験しているのに。こんなに悪いことは今までに一度もなかったというのである。一瞬間、皆が黙って立ち停まった。その間に銘々が自分の勇気と希望とに相談をしているようだった。やがて、ペーテルは無言で向きを変えると、山稜の方へ向かって登り始めた。数分間後にはわたしたちの足が雪庇の取り付きへ置かれた。表面が少し軟らかくはなっているが相当にしっかりした雪がそこを被っていて、足場を切る必要はなかった。問題は全く簡単だった。ただ滑らないようにして進むだけだった。しかし、あらゆるチャンスが容易ならざるものであった。
 この雪庇は四〇〇〇メートル下でホーリヒト氷河に接している断崖の上から、空間に懸垂していた。そして、わたしたちの進んで行く側は五十度を少し越しているかと思われる万年雪の斜面で、下の方ではこの雪が硬くなって光っていた。ただの一歩でも踏みはずせばたちまち矢のように疾く滑り出して、ヒース氷河のセラックの所までは止まるとも思われなかった。わたしも今までに同じような場合に際会して、自分の両側に数千尺の断崖を見たことはたびたびある。しかし、こんなに急な、こんなに恐ろしく連続した斜面を見るのはこれが初めてである。ペーテルの足もとからはずれた最初の雪の隗が、この終わりもない斜面を加速度の勢いで飛んで行くのを見た時、わたしはある種の感動を押さえることができなかった。
 わたしたちは雪庇の縁へ左手を掛けながら、しかし、それを崩すことを惧れて軽く掛けながら慎重に進んだ。このトラバースの間じゅうだれも一言も発しなかった。百歩ばかり進むと一つの間隙が現われて、また岩のある側へ降りることができるようになった。それは万年雪の短い斜面だったが、後向きになって降りなければならないほど急だった。岩まで来ると、わたしたちは言葉と快活とを取りもどした。その岩には好い手掛かりがあった。それでたいした困難もなしに雪の斜面までそれを進むことができた。こうしてわたしたちの辿りついたその斜面の頂上は、ヴァイスホルンの肩ともいうべき所だった。
 この地点で山稜は非常に幅が広くなって、一つの美しい展望台をなしている。わたしたちはほぼ一万四千尺の高みにいた。どの側を見ても眺望は偉大だった。わたしたちは眼下に繰りひろげられた地平に対して初めて注意を向けることができた。もしもわたしたちにして、これが最初で最後だということを予め知っていたならば、どんなにもっと貪るような心で眺めたことだったろう! この広大な画布の千の細部がわたしの眼を逃れたことは確かだし、わたしも多くの物を忘れてしまった。しかし、わたしの思い出の中に残っている全体としての印象は、アルプスの幾多高峻の山頂から今までに受けた最も美しいものの一つである。ヴァレーの最高の峰々、わけてもモン・ローズ、リスカム、ブライトホルンと続く一連の山脈、さらにダン・ブランシュとセルヴァンの誇らかな二つのピラミッド。それらが全てこんなにも壮麗に、またこんなにも調和ある一団となって現われるのを他のどこにしろわたしは見たことがない。わたしたちのすぐ上にはわれわれのヴァイスホルンが、きらきら光る氷を鎧って天に冲していた。わたしたちの案内者二人もそれを見てはいたが、べつに憧れは感じていないらしかった。明らかに彼らの関心は、われわれのそれとは別物だったのである。「ディー・レッツテ・パルティー・イスト・ゼール・シュタイル!」(最後の所はとても急ですよ!)と、われわれの反省をもっとよく促すように彼らは幾度も繰り返して言った。しかし、それを断念する気持ちなどは露ほどもないばかりか、われわれはあんなにも誇らかな、あんなにも輝かしい山頂を眺めて奮然としていたのである。それにまた友人S・ブッチャー君は経験を積んだ登山家でもあれば、普通以上の体力の持ち主でもあるので、なんらの疲労をも感じてはいなかった。わたしはどうかといえば、こうした征服には不撓の忍耐の必要なことを知っていた。
 天気は相変わらず晴れていた。しかし、散乱する濛気が北西の風景を蝕んでいた。われわれの登りに残された部分は雪と氷とからなる一続きの山稜だけで、それも今までのものに比較すれば遙かに狭くはなかったが、山頂に近づくにつれてしだいに急を増していた。苦しい登りに斧がその役割を演じることになった。頂上へ着くまで二時間あまりはこの仕事が続けられなければならなかった。しかし、それにしても雪の良好な箇所がいくらかあるだろうとは思って、わたしたちはそれも計算に入れていた。
 ペーテルは力を節約するためにペレンに綱の先頭を務めさせた。それからというものペレンは烈しい労働に従って、その知恵と体力のあらん限りを見せた。展望台を離れていくらか進むと、一部分素晴らしい氷の足場の詰まった大きなクレヴァスヘ行き当った。しかし、そのクレヴァスの提供している唯一の橋はひどく危なっかしいので、われわれは腹這いになって一人一人別々に渡った。
 途中、深淵を真上の空間からのぞき込むようにして、クレヴァスの内部ヘ一暼を投げることができた。それは瑠璃色ガラスで建てられ、幾千という水晶の鍾乳飾バンダンティフをきらきらさせた仙女の宮殿のようだった。その上には、付近に、青味がかった壁を持つ一つの美しい氷塔セラックが傾いていた。続く最初の坂道はかなり上等な雪を提供した。しかし、じきに氷が現われたので切らなくてはならなかった。ちょっとの間われわれは左手の岩場へ取り付こうと試みた。しかし、やはり、氷の山稜へ引き返すように余儀なくされたが、それはしだいに硬く急峻なものになった。
 地平の濛気は驚くべき速さで生長して拡がってきた。それは刻々と濃密さを増して、先触れの幾片かはもう頂上の輝く円錐を被いはじめた。悪い前兆を示すこの天候の変化は、わたしたちに先を急ぐようにと讐告した。ペレンは夢中になって働いた。彼は足場を粗削りしながら進んだ。そして、わたしはそれに仕上げをしながら彼に続いた。わたしたちはほんとうの水晶の階段を攀じるのだった。
 一種の鞍部へ達すると、もうわたしたちの前に在るのは一つの美しい雪の丘だけだった。そして、それが頂上のように見えた。しかし、わたしはヴァイスホルンでよく人が経験させられる惑わしの錯覚のことを以前から聴いていたのであえてそれを頂上だとは信じなかった。ピラミッドの頂きが近くなると山稜は幾つも贋の山頂を描き出して、しかもそれが一つ一つ最後の物に見えるのである。人はこれこそ頂上だと信じ込んで登って行く。ところが、自分の位置の高まるにつれて、また別のいっそう高い頂きが立っているのを見る。続いてまた一つ、さらにまた一つと、こうして真の山頂に達することに絶望してしまうのである。わたしたちはそうした迷わしの丘を二つか三つ見て過ぎた。しかし、とうとうブッチャー君とわたしとは貢物を納めさせられてしまった。わたしたちは完全にだまされたのである。
 それでもわれわれは或る岩場へ辿り着いた。それを最後の努力で登りきると、眼前に純粋な雪の円錐が、今度こそ本物が現われた。それから少しあとにはわたしたちは疲労と忍耐との褒美を受けた。わたしたちの足はヴァイスホルンの頂上を踏んだのである。
 一人一人が順番に最高点を示す雪の山稜へ登った。しかし、それもわずか一分間で降りなければならなかった。なぜならば風の烈しさがそこに停まっていることを許さなかったからである。わたしたちは少し下の最初の岩の陰へ行って風を避けた。そこには二、三本の壜があって、その中には、われわれの先蹤者の名と登攀の日付とを書いた紙切れが封じ込まれていた。
 われわれの到着と同時に一団の密雲が頂上へかぶさってきた。雲霧の底に溺れては、そこが一万五千尺あまりの高所、ヨーロッパの最高峰の一つの上だということをわれわれに告げる物は何もなかった。たちまち濛々とした霧の紗が虱に破れて方々に透き間ができ、周囲の広大な空間や恐ろしい深淵を垣間見させた。数分間というもの、それは下界では到底想像もできないような光景の連続だった。空の到るところには嵐を知らせる銅あかがねの色が拡がっていた。漂う雲塊の真ん中では幻想的な穴が刻々に開いたり閉じたりして、その間から化物のように、寸断された荒々しい尖峰や、鉛色に輝く氷河が見えた。ここにはロートホルンが、あそこにはグラン・コルニエが、また向こうにはダン・ブランシュが、リムピッシュホルンが、リスカムが。少しの間セルヴァンが二つの雲塊の間から巨大な胴体を見せたが、その雲の一つは彼の頭と肩とを匿していた。それから、これらの魔術的な出現はことごとく次々と濛気に蚕食されて行った。こうした厖大な動く形の渾沌の中では、山自体は揺すぶられながら空間に浮いている物のように見えた。
「来てご覧なさい!」と、ペーテルが突然わたしたちを呼んだ。そして、彼は頂上の近くにある一つの懸垂した岩の上へわたしたちを連れて行った。折から山腹に雲の切れ間ができて、われわれの視線は仄暗い空間の底、モウミング氷河やツィナルの谷の深みまで落ちた。そこには八千尺という距離があったのである。こちらでは山腹は全くむきだしで、すべて考えも及ばないような一続きの戦慄すべき岩璧であった。
 しかし、雲は刻一刻と厚さを増してきた。前よりも冷たい風が吹き始めた。もしも重大な危険に身をさらすのがいやならば、着くが早いかすぐに下山しなければならなかった。時は二時に近かった。わたしたちはほとんど十二時間を登りに費やしたのである。そして、このような場所では下りだといっても決してたいして短い時間ですむわけはない。だれかがわれわれの名を紙へ書いて壜の一つへ封じ込んだ。そして、わたしたちは最後の一瞥のうちにヴァイスホルンの頂上への別れを告げた。
 登りの時に通過して来た危険や障害物のことを思い出すのは、人が踵を返していよいよ下りを開始する刹那である。彼は、その瞬間自分が貪欲な深淵に取り巻かれていることを感じ、野性の世界にあって孤独であることを感じ、そこから脱出するには、ただ己が勇気と、技量と、沈着とのほかに頼るべき物のないことを思う。こういう感情の最もなまなましいこと、彼がヴァイスホルンの山稜を下る準備をしながら、そこを一目眺めた時にもまさる場所はないであろう。しかし、われわれの足もとの雲は一部分その山稜を被い匿し、長い氷の斜面の上でわれわれの足場をなす眩量的な階段は、霧の中に没していた。
 行進の順序が変えられた。先頭にはペレンが立ち、S・ブッチャー君がそれに続き、次にわたし、殿しんがりには確実な人間ペーテルが進んで、一切に気を配り、突発事に伽えるという建前である。
 最初の最も急峻な山稜は、少なくとも五十度の傾斜をしている。顏を前方に向けてそれを下ることは危険なしにはできなかった。最も安全な方法は、梯子を降りる時のように行く手に背を向け、一歩ごとに下の氷へ斧の穂先を突き刺して、いくぶんでも手懸かりの支点を得ながら下ることだった。この方法によると、自分が空間に吊るされているような気がするので、眩暈の当体である頭には少しも効き目はない。しかし、これは確かに最も安全な方法である。一番危険な場所へ来ると、先の二人が降りている間、ペーテルとわたしとは氷の中へしっかり突き刺した自分たちの斧へ、ぐるぐると綱を巻きつけた。
 雪庇のところへさしかかると、雪は霧のために軟化して、登りの時よりも遙かに滑りやすくなっていた。ここの通過はふたたび全くの沈黙の中で行なわれた。ただわたしの縋った雪庇の縁の一か所が崩れるのを見た時、ペーテルが上げた絶叫の一声を別にすれば。
 わたしたちは、ほぼ登りの時の路に従って山稜の刃のような部分を難なく通過した。それから朝と同じようにクーロワールを横断して進もうと岩場の方へ降りて行った。霧は雪のように凍りはじめて、岩はおもむろに白くなった。日は暮れかけてわたしたちの立場も山々しい物になってきた。このクーロワールと崩壊した岩との迷宮のただ中で、わたしたちの歩みはいたずらに遅々としていた。氷へ切りつけた朝の足場は太陽に溶かされて、半分以上は切りなおさなければならなかった。ペーテルは登りの時にわれわれが出会った岩の間の悪場を絶対に避けたがった。それで残された唯一の路といえば大きな急峻な万年雪をトラバースすることだった。しかし、そこには氷の層を匿した不確かな雪があって、通過をかなり危険にしていた。アクシデントに対する惧れからわれわれは慎重に考えて、ペレンが或る小島のような岩へ達せられるだけの長さのある、二番目の綱を出すことにした。彼はその小島まで行けば、万年雪のただ中でも非常に確かな位置を占めることができるわけだった。ところが困ったことには、登攀体操の最中にこの綱がもつれた。それを解くのにわれわれの案内者たちは十五分を費やした。しかし、時間は迫り、日はいよいよ暮れていった。それでペーテルは時間と、万年雪と、綱とに対して呪咀の言葉を連発した。それでも彼の用心のおかげで通過は楽にできた。しかし、朝の食事をとった場所を通るころにはもう黄昏が始まっていた。しかもまだ高さは一万三千尺あまりで、われわれの前には闇の中を手探りでしなければならない長い下りが、険しい岩場やジャーレンベルクの氷河を控えて待っている。そればかりか、この時気づいたことには、どの水筒も皆からっぽで、しっかりした食糧もほとんどなくなり、おまけに烈しい労働をしている癖に皆が寒さに凍えていた。
「こんな岩場を夜よる夜中降りたら頸の骨を折っちまいます。」と、ペーテルが言った。「それかといってここにこうしちゃおられないさ。」と、ペレンが反対した。
 あの場合のことを今日になって考えると、わたしには或る種の魅力が感じられなくはない。しかし、その瞬間には、わたしたちの立場は恐るべきものに見えた。そして、精力を弱らせ始めた疲労は、すっかり一行の士気を阻喪させてしまった。わたしたちは暗さを冒して降りることにきめた。哀れな下りよ! それぞれの一歩は全てこれ衝突か転倒だった。しかし、幸いなことに、斜面には到るところ凸凹やしっかりした手掛かりがあって、一人が先へ進んで行く間、別の一人が確実な支持をしていることができた。もしもこれらの岩がもう少しでも滑らかだったならば、われわれは一団となって氷河まで落ちてしまったかもしれない。綱は始終岩角へ引っ掛かってわれわれに耐え難い煩わしさを感じさせた。そうかといって、こんな場合にだれが綱を解こうなどと考えるだろうか。
 山の基部に連亙する険しい岩脈の上へ達した時には、森の奥よりも暗くなっていた。この岩壁にはただ一か所しか弱い所がなく、そこをわれわれは朝登って来たのであった。しかし、どうしてそこを見つけることができるだろう……。ペレンは下りを固執した。しかし、ペーテルに従えば、それは「求めて腰骨を折る」ことだった。夜の残りを過ごすために岩陰か割れ目を捜すことが焦眉の問題であった。しかし、寒さはもうこれ以上耐えられなかった。むしろ下りの危険へ向かう方が善かった。幸いにもペーテルの熟練した技量と、沈着と、このあたりに関する広い知識とのおかげで、われわれは打撲傷をうけたり困難を嘗めたりはしたが、ジャーレンベルク氷河の縁へ降り着くことができた。しかし、また別の不幸に遭遇した。というのは、氷河を被った雪がすっかり硬く凍っていて、一歩一歩切らずには到底下れそうもないことだった。これを見ると案内者たちの意気は阻喪した。おそらく五百乃至六百歩の氷を切る力はもうないことを二人共感じていた。それにブッチャー君にしろわたしにしろ、彼らよりも良い状態ではなかった。そこで、今度こそ完全に望みを絶たれて、われわれは岩の割れ目の中へうずくまり、骨までしみる寒気と闘うためにできるだけ身体をくっつけ合って、そのまま夜の明けるのを待つよりほかに術はなかった。わたしは疲労に打ち負かされて居眠りを始めた。
 われわれはこうして半時間ばかり過ごしたが、その時わたしの眠りはペーテルに呼び覚まされた。彼は幾歩か氷を切りに行ったところが、氷河の中ほどに雪の軟らかいところがあって、そこならば歩けるということを知って、その思いがけない吉報を持って帰って来たのだった。歓喜はわたしたちの惰眠を叩き起こした。われわれは降り始めた。この時密雲の中で月が怪しげな不吉な光に輝いて、その閃光が時々幻想的な雲の影絵を描き出した。わたしの頭脳には疲労と睡気とが働いていた。わたしは空に不思議な者がいて、われわれを威嚇しながら動いているのを見たような気がした。
 氷河の下りはいつ果てるとも見えなかった。雪の斜面の不斉なことはあらゆる瞬間に身体の釣り合いを失わせ、倒れるごとに疲れは増し、不快もまた増すのだった。しかし、ついにわたしたちは堅固な地面を踏み、それからじきに夜営の地点に達することができた。そこでは荷背負いの人夫が置いて行ってくれた、一服の酒を見つけて悦んだ。
 少しばかり休んで元気を取りもどしてから、ジャーレンベルクの小屋まで行ってこの行を終わろうとわたしたちはそこまで強行することにきめた。それには、なお二時間を下らなければならなかった。
 牧場まで来ると、空は明るくなった。清らかな月の光がホーリヒトの美しい谷の上へひろがった。その軟らかな光と、奇麗な小径と、草原の匂いとは、われわれの波瀾に富んだオディッセーを優しい印象をもって閉じるものだった。
 午前一時半、わたしたちはシャレーの戸を叩いた。夜営地を出発してから二十三時間が経過したわけである。
 多くの先蹤者がヴァイスホルンの登攀を遙かに短い時間で実行している。われわれとしては普通以上に大きな困難に遭遇して、それに打ち勝とうと頑張ったのであった。そして、それがためにおそらく六時間乃至八時間を費やした。しかし、最善の条件に恵まれるとしても、この登攀はアルプス中での最も長く、最も辛いものの一つと考えることができるだろう。さらに特に山稜の諸所で出会う由々しいチャンスを勘定に入れるならば、おそらく最も困難なものの中に加えてもよいであろう。

 

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 ロートホルン登攀
            (4223m)

 アルプスの幾多のロートホルンの中で、このロートホルンこそ今後他の同名の山から区別されなければならないものである。それはツィナルとツェルマットとの中間、ヴァイスホルン山脈の中に四二二三メートルの高度をもって聳えている。
 今日までこの山は山岳会にだけ、ことに主として英国山岳会の中で知られていて、その登攀が非常に困難だという評判のために最も高貴な山頂の仲間に加えられてきた。しかし、過ぐる夏以来、それはセルヴァンや、ダン・ブランシュや、シュレックホルンや、その他登山家の間で最も有名なあらゆる命取りの山々を、彼らの王座から引きおろすような物には少しもならなくなったのである。
 第一回の登攀は、一八六四年にメルヒョールとヤーコブ・アンデレックを伴ったレスリー・スティーヴン、ムーアの両氏によって行なわれた。その後どういう理由からかはっきりはわからないが、その山頂にふたたび足を印する者もないままに八年の歳月が経過した。
 もっともその間にわたしの知っているところではただ一つだけ登攀の計画があった。それはケネディー氏の企てたものだが、氏は山稜の岩場の困難に直面して立ち停まってしまった。
 去年(一八七二年)マウンテットの小屋の落成式の当日に、ウィットゥウェル氏がラウエナー兄弟を案内者にしてロートホルンの第二回目の登攀を実行した。帰来氏の語った事がらがその足跡を辿ってみたいという最も熱烈な欲望をわたしに起こさせた。それで数日後、ツィナルヘ来てわたしと落ち合ったG・ベラネック君といっしょにこの山をやってみたが、山頂まであと二十分という所で頓挫してしまった。わたしたちには、案内者がなかった。一人の若い人夫を連れて行くことにきめるまでには、非常な苦心だった。ところが、この若者はベラネック君とわたしとの間にこびりついて、一切の責任を解除されていながら、なお勇気を示すことはなはだ少なかった。それでわたしたちは最後の困難の前で停止することを賢明なりと考えたのであった。
 しかし、ふたたび出かけて彼を征服すること、このことを単なる夢想として抱いているにしては、わたしはその山を充分に見たのだった。そして、この八月(一八七三年)には、十八歳になる青年エドゥアール・ベラネック君といっしょに、シャンセックのJ・ジョーズをただ一人の案内者兼人夫として連れて、この夢想を実現することができた。
 わたしたちの登攀後間もなく、だれかがツェルマットから登って成功している。それにまた今年はロートホルンががぜん流行になって、ツィナルからにせよ、ツェルマットからにせよ、あるいはまたこの地方の一方から他方へ山頂を越すにせよ、とにかく幾回かの登攀が行なわれたことは人の知るとおりである注・1
(注1――もしもわたしの知識が正しいならば、われわれの登攀は第七回目のものであった。ツェルマッ卜からツィナルヘ第一回の山越えを試みたのは、案内者クヌーベルとロホマッターを従えたガーディナー、ムーアの両氏である。そして、われわれはその反対をやった。)

 いろいろな事情でわれわれはツィナルから出発しなければならなかった。こちら側での歩き出しは真に楽しみ以外の何物でもない。四時間の散歩でデュラン氷河をさかのぼる。それから荘厳な圏谷のただ中にあるマウンテットの小屋で夜を過ごす。翌日は相変わらず散歩の気分でひどく緩い傾斜をした素晴らしい氷河を登って行く。そこでは幾つかの非常に美しいクレヴァスのすぐ傍を通るのだが少しも造作はない。そして、もしも雪が硬ければ気を配る必要さえないくらいである。二時間で珍しいほど景色のいいコル・デュ・ブランの鞍部へ着く。この鞍部が口をあけている荒々しい山背は、幅一、二尺の長い氷の山稜アレートによって直角にロートホルンへ結ばれている。そして、この山稜はかなり急な幾つかの斜面の上に聳えながら、場所によって二十度から三十度の傾斜をしている。この最初の山稜が非常に取り付きやすい時というものはあるには違いない。しかし、もしもそこに氷があるか、あるいは雪が軟らかくでもあると、時間はかなりかかると思わなければならない。ウィットゥウェル氏の数日後にしたわれわ九の第一回の試みの時には、氏の足跡を利用することができておよそ四十五分でそれを登った。しかし、今度の行で、われらの勇敢なジョーズは硬い万年雪を八百十五歩も切らなければならなかった。彼はそれを少しも休まずに、最大の賛辞に値する熱心さをもってしたのであった。
 この山稜の末端は、地図に四〇六五メートルの記入のある地点でロートホルンの山稜と出会う。氷もそこで終わって、触れる物は頂上までただ岩ばかりである。ここから眺めるとロートホルンの登りは一つの魅惑的な単純なものに思われる。頂上は高くもなければ遠くもなく、やっと五〇〇メートルぐらいで、見たところ規則正しい、たいして困難でもなさそうな一本の岩稜が、緩い傾斜でそこまで達している。結局、それを辿って行くだけの話で、山背がさらに狭くなっている幾つかの場所へ来たら、せいぜい少しばかり身体の平均をとればいいのだと人は言っている。それならば全部的な信頼をもって歩を進めるのだ。最初の数歩は楽しい。山稜は初めの内は実に規則正しくて、まるでどこかの古いお城の半ば毀れた壁の上を行くような気がする。しばらくすると、これはほんとうだが、凹凸の調子が強くなってくる。それでも始終突起から突起へ飛び移ることができて、まだ全く愉快である。しかし、岩稜に歯形が現われ、突起が大きくなり、その突起と突起との間をますます深い切れ込みが隔てるようになると、もう飛び移るどころか、今度はそれを搦み始めなければならない。その凹凸の荒々しさがいよいよひどくなるとついに或る場所が現われる。ここで西側のすべすべした急な斜面に路を求めければならないことに気が付く。数歩行ってまた元の山稜へもどるためにその斜面を去ろうと大いに努めるがもう駄目である。それは諦めなくてはならない。しだいに困難の度を増す危険な場所へさしかかったことに気が付き、成功が全く確かではないかもしれないことを悟るのも実にこの時である。
 一度この西側の険悪な斜面に立っては、もう容易と呼び得る一歩をも見出すことはできない。そして、そこでは手は足同様に役に立たず、また、しばしば足よりも役に立たない。ジョーズはロートホルンについてなんらの知識ももっていなかったので、わたしが先頭に進んだ。そして、わたしたちはこういう風に第一回の試みの時に採った路を、今度も正確に辿ったのである。その上、ありそうな変わった路ヴァリアントはあまり心を惹かず、またひどく困難なものに相違なかった。幸いにも岩は到るところすこぶる上等である。それは明るい、がっちり截られた、堅い、見事な硬緑泥片麻岩である。それを感心するためだけでも時々立ち停まらなければならない。しかもそれは斑状変成岩で、長石の大きな結晶が、概して非常に堅い、平均五分ほどの、しかし、あまり角張らない凹凸面を形作っている。釘が嚙み、足がその支えのおかげでほとんどつねに確保されるこの優秀な岩がなかったなら、おそらくロートホルンは永久に登攀不可能の山であったに相違ない。
 この西側の斜面は、その面の一様さで、ところどころ、子どもたちが石の継ぎ目の隙へ手や足をかげて登って遊ぶあの石垣を想わせる。ただここでは石垣の高さが六〇〇メートルあって、五十度あまりの傾斜をしているのである。
 進むにつれて斜面はいよいよ堅くなり、板石はいよいよ平滑になる。そして、ついに最も困難な地点が現われる。即ち山腹をさらに西へ下って、斜面の上に巨大な扶壁コントゥルフォールを伸ばしている山稜の最大の尖峰の一つを回らなければならない。この場所では傾斜は五十五度を示して(測斜器による測定)、片麻岩の板は今までよりもいっそう滑らかである。一歩一歩がむずかしく、また非常な危険にさらされていて、一つの突出部から他の突出部へ移るために腕や脚を法外に伸ばさなければならない。
 それでもついには山稜へ帰ることができる。ただ、そこへ帰るのに必要な登りは最も眩暈的なものである。しかし、またここ以上に岩の安全な所も確かにほかにはない。――さて、高みへ出てびっくりする。一個の陰険な岩塔が、傾斜して、威嚇的に、いまにも倒れかからんばかりに峙っている。わたしたちが第一回の登攀の時に立ち停まってしまったのも、この岩塔の前だった。山頂はこれではないが、その塔の頭からはわずかな距離のところにある。塔の裾へ通じる山稜は尖鋭で刃がついている。五十尺ほどの間は跨がったり這ったりして進まなければならない。しかし、近づいてみると、塔その物は非常に切り立ってはいながらさほど怖ろしくはない。のみならず、それを回るのも攀じるのも人々の自由である。わたしたちは攀じる方を選んだ。塔の天辺からの下りはいくらもなく、一本の楽な山稜が続いて数分間で頂上へ導いてくれる。
 登攀の最後の部分はもうなんらの困難も提出しないばかりか、これ以上美しい絶崖を眺めることのできる場所は到底他に求められないだろう。アルプスで人の登るすべての高峰のうち、ツィナルのロートホルンこそは山が実際に一方へ傾いている唯一のものだとわたしは思っている。その東面は空間に傾きかかった一つのすさまじい岩壁である。もしもその高みから石を落とせば、響はたちまち消えて、それが氷河へ届くかなり前に、もうその形は見えなくなる。
 わたしは頂上からの眺めを不充分にしか語ることができない。わたしたちがそこへ着いた時には周囲の大気中へ雲がなだれ込んで、雪さえちらちら降りはじめた。しかし、最も美しい天気に恵まれた第一回の試みの時の記憶を、最近のそれに結びつけてわたしの判断する限りでは、ロートホルンからの眺望は非常に美しいはずである。人は地図の助けをかりればその概観をつかむことができるだろう。そして、ロートホルンが山々の集団の中で最善の位置を占めていて、その山々の頂上がすべて彼らの壮麗さで素晴らしいパノラマを提供していることがわかるだろう。ただしかし、実地を見ないと想像もできないのは、近隣の絶崖の眼もくらむような光景と、山稜の紛乱と、深淵の上に傾きかかった尖峰の荒々しい聳立しょうりつとである。そして、少し離れてはヴァイスホルンとセルヴァンとが相対峙している。前者は誇らかに均斉のとれた堂々たる金字塔で、天空へ向かうその純潔豪放な飛躍をもって大地を貶おとしめているようにみえる。後者は無残な巨人で、斧の一撃で截られ、見る目も怖ろしく、脚下の世界を脅かそうとするかのように、その邪悪な顔を振り向けている。ミシャーベル山群、モン・ローズ山群、これまたいずれも立派である。イタリア・アルプスの麗姿は、大山脈の山稜の上、そこここにちらちら見える。北方ではその地平線が、ベルナー・アルプスの歯形のついた長壁でかぎられている。
 わたしたちがツェルマット側へ降りることに極めたのは、頂上へ着いてからのことだった。ジョーズはこの降路を近くからも遠くからも研究したことがなく、今初めて山頂からの様子で判断を下したところでは、どうもこの下りができるものとは信じられなかったらしい。彼はこの計画に不賛成をとなえた。わたしは頑張った。わたしはロートホルンのこちら側をリッフェルの優秀な望遠鏡で長い間研究したし、ラウエナーや、クヌーベルや、アンデレックから非常に詳細な情報を蒐めていたからである。ところが、われわれの脚の下一〇〇メートルばかりの所に岩があって、その頭に一つの小さい積石シュタインマンの在るのを見て、とうとうジョーズが負けることになった。だれかがあすこを通った。それならば通ることはできるのだ。わたしたちは冒険を試みた。
 こちら側では山稜が最も不規則な様子を呈している。それは一つの狭い切戸ブレーシュまで急激な高低をもって落ちている。そこまで行くとツェルマット側へ向けて降りている一条の長いクーロワールヘ取り付くために山稜を離れることかできるのである。切戸はすぐ近くに、一五〇メートルばかりの所に見えている。もしも楽な路でもあってそこまで降りることができたなら、やっと五分かかるくらいのものだろう。ところが、路らしい物は一つもなく、一時間以上がそれにかかる。第一歩から積石まではことごとく波瀾重畳である。山稜の険阻なことは実に驚くばかりで、足をかけたと思うや否や、もうすぐその足を退けなければならない。積石の所で山稜は少なくとも五〇メートルを垂直に落下して、そして、切戸に達している。この切戸まで行くためには西側をほとんどその等高までまっすぐに下って、次いでそれと出会うように左横に搦んで行かなければならない。
 この場所でのうれしい驚きとしては、一本の綱が岩にくくり付けられていて、こっちから最初の登攀が行なわれた時の探検の降路を証明するようにぶら下がっていたことである。この綱がわれわれに路を教えてくれた。その後アンデレックに聴いた話では、彼の意見だとこの綱の位置は悪くて、下る時にはもっと右をとる方が良いし、また登りにはもっと左をとる方が良いそうである。この意見は、実際、わたしには正当に思われる。しかし、わたしたちとしては、これを見た瞬間、別の路を捜す気などは到底起こらなかった。もしもこの綱がなかったらわれわれの意気が阻喪したことは必定である。それほどこの斜面は一目見ただけでは悪かった。この場所こそロートホルン全山のうちでの最悪場であり、またアルプス中で人の踏破する最も困難な場所だとわたしは信じている。人は西側のあらゆる斜面に共通な平滑な岩の斜面を一直線に下らなければならない。もしも四十五度のそれに代えるに五十七度の傾斜をもってし、その上長さを少なくとも三倍にして想像すれば、セルヴァンのグリッサードがこの斜面の観念を与えるだろう。ここの片麻岩は上等である。しかし、その構造はひどく都合が悪く、板石は鱗状に並んで、まるで屋根瓦のように上の物が下のへ重なっている。これ以上下りに具合の悪い物はない。ただ長石の突起が相変わらずあちこちで上等な凹凸面を作っている。わずかにそれと気の付くくらいの、しかし、絶対に安全な一つの突起に爪先だけをかけるという、登山家にとってのあの大きな楽しみが所々にある。
 切戸ブレーシュの等高に着くとふたたび山稜といっしょになるために下降をやめる。このトラバースは非常に短いが、それでもなお一、二か所悪場を提供する。さて、山稜へ出れば、今後こそ永久にツィナル側と別れて、長い急傾斜のクーロワールによってまっすぐにツェルマット側へ下るのである。七月ならばこのクーロワールがまだ古い雪に埋もれていて、登りにも下りにも非常に楽なはずである。八月だとたいていは岩が出ている。それで時間も遙かによけいかかるし、到るところ絶対に楽だというわけにもいかない。
 このクーロワールの下部からわたしたちは一つの山稜へ取り付くべきだった。それは左手のすぐ近くの所、ロートホルン最後の絶壁の下から出て南東へ向かっているものである。ところが、われわれは、自分たちの立っている岩の下から素晴らしいセラックの階段を作って落ちている、トゥリフト氷河の一支流をまっすぐに降りる方を選んだ。その結果は良くなかった。岩を下ることで貴重な時間を費やしたのである。そして、氷河の縁のベルクシュルントを越すために、約十六尺を一飛びにしなくてはならなかった。
 エーゼルツュッケンと呼ばれる場所でツェルマットからトゥリフト・パスヘの路に出会う。そこは古い堆石モレーンの頂きから数歩の所にあって、小径は堆石の尾根伝いに通っているのである。そこからは二時間で楽にツェルマットへ降りることができる注・1
(注・1――ツィナルを出発点にしてマウンテッ卜の小屋で夜を明かせば、登攀は非常に短い時間で済む。二時問でブランの頂上へ着く。もしも萬年雪を切るような必要がなければ、そこから四〇六五メートルの地点までは多くても一時間で登ることができる。そこから頂上までは約二時間の行程である。わたしたちはもう少し短い時間で逹した。そして、優れた登山家ならばこの最後の登りを一時間ですることも不可能ではないだろう。ツェルマット側についてはいろいろの事情に妨げられてその距離をよく調べることができなかった。ただツェルマッ卜を出発点とした場合には、登りに非常な時間のかかることだけは確かである。コンディションさえ良ければ、マウンテッ卜の小屋からの登り降りには九時間以上はかからない。それで相当に長い時間を頂上で過ごすことができる。)

 以上の走り書きで、ロートホルンの登雛についての的確な観念を与えることができたであろうか。わたしはどうもそれを疑わないわけにはいかない。高峻山岳の世界というものはわれわれの住み馴れた世界とはひどく違っていて、それを正確に記述することはむずかしく、たといそれができたにしても、実地を見たことのある人でなければ結局は理解できないような世界である。それに登攀の困難の中では緻密な正確さをもって観察することはできもせず、一つならずの細かい点が記憶から逃げてしまう。そして、一度帰って来れば、その登攀の困難さに対して下す判断というものはかなり信用のおけないものになる。それにまた登山者の能力も一人一人違っている。そして、山の状態とか、登山者や案内人の肉体的並びに精神的傾向のような、登攀の果たされた時の一々の事情もしばしば互いに異なっているのである。
 それにしても、或る人たちがセルヴァンについていうように、たまたまロートホルンを非常にやさしいと宣言したり、「ほんとうの遊山」のように取り扱ったりする人があるとすれば、その人は実に例外な能力を持った人か、あるいは非常に軽卒に物事を判断する人であるとわたしは言いたい。今までにこの登攀をやった案内人たちは、皆口を揃えて、これを彼らの知っている高山のうちでの最も難しい登りだと言っている。「あの山だけは立派なガイドでもお客に手を貸せない山です。」と、メルヒョール・アンデレックは言った。「銘々が自分で工夫して歩かにゃなりません。だからご婦人方があの天辺へ登るなんぞはとても考えられないことです。」この判断はどうも怪しい。よく日を選んで時間を充分かけさえすれば、勇敢な令嬢やごく平凡な力を持った登山家を案内してロートホルンへ登ることぐらいは、いい案内者ならばむろんできそうにわたしには思われる。
 いずれにもせよ、たびたび案内者の手を借りるような人たちにこの登攀をすすめることは賢明ではないだろう。反対に、それは困難には違いないが、経験のある身軽な登山家にとっては、「最も危険の少ない」山といえるだろう。彼らは、アルプスで会うことのできる最も良い、最も美しい岩場の一つで、困難な場所を全く安全に通過しおおせるおもしろ味を与えてくれるこんな山を、そうどこででも発見することはできないだろう。

 

 

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 ダン・デラン登攀 
            (4189m)

 ペンニーン山脈中での最高の峰の一つであり、また確かにその最も美しい山頂の一つでもあるダン・デランは、まだほとんど知られていない。その巨大な著名な隣人セルヴァンが、彼を閑却させているのである。ストッキーを通りながら彼を賛美した人々の大多数は、彼を見ることだけで満足して、登ってみようとは決してしなかった。
 この山への第一回の登攀は一八六三年の日付を持っている。メルヒョール・アンデレック、ペーテル・ペレン、J・B・カシャの三人が、W・E・ホール、グロウヴ、マクドナルド及びウッドゥマットの諸氏をこの山へ案内した。その後また一回の登攀がなされた。そして、去年(一八七四年)、T・ボルナソ君とわたしとがジョーズ父子を伴ってしたそれは、纔わずかに第三回目のものに過ぎない注・1
(注1――われわれに続いて間もなく第四回目のが行なわれたことをわたしは聴いたような気がする。)

 わたしがここでわれわれの登攀の二、三の細かい点を述べようとする所以は、幾らかの愛好者をこの高貴な山頂の踏破に誘いたい希望からである。
 七月十五日にツェルマッ卜を出発すると、ストッキーの麓、堆石の小さい池のほとり、芝原から散歩の所にある細かい砂の上へわれわれは夜営のテントを張った。そこから見るダン・デランは絶対に取り付き難いものに思われる。莫大なセラック、石なだれのために絶えず筋をつけられている凍結した斜面の胸甲むなあて、そして、細かく規則正しく雪の点々打った、滑らかな目も眩むような岩の斜面。そういう物がこの山を麓から絶頂まで護っている。それに近寄るには、山稜へ、わけても西の山稜へ取り付くほかには方法がなさそうである。そして、事実、われわれが選んだ登路もそれであった。
 まず最初に征服しなければならない難関は、ティーフェンマッテンの峠コルを手に入れることだった。それはツェルマットの案内者たちの言うところによると、まだ一度も越えられたことのない峠だそうだった。ところが、多くても三日以上は経過していまいと思われるような踏跡が、上の方まで付いているのを発見した時のわたしたちの驚きはどんなだったろう。その後になってもこの踏跡の主が何者だがだれにもわからなかった。ともあれ、わたしたちはいくらか残念に思いながらそれに従って進んで行った。ティーフェンマッテンの峠は少しも困難なことはなかった。しかし、なだれに関するかぎり、わたしはこれほど危険な場所をあまり見たことがない。雪や氷や石礫が、一日のあらゆる時間にあらゆる所から落ちて来るのである。峠の頂上からはシア・デ・シアン氷河の上部台地へ出るために、約三〇〇メートルをまた下らなくてはならない。さもなければ一筋の険峻な山稜を辿るのだが、たとい到るところ通過はできるにしても、時間を食うことは非常である。さて、前記の降路はかなり新しい種類の困難をわたしたちに経験させた。というのは、岩の上やクーロワールの中へ瀰漫びまんした泥土の流れが、途中の方々でほとんど困難な、また、ひどく不愉快な目を見せてくれたのである。
 シア・デ・シアンの広い台地は、たいがいの台地と同じように、諸所大きい見事なクレヴァスで切られている。そこを進むにはどうしても大きなジグザグを描くよりほかに仕方がない。台地の真ん中へ辿りつくと、その南西の面を見せたダン・デランが眼の前に聳え立って、約六〇〇メートルの高度で氷河の上に君臨しているのが望まれる。この方向から見るダン・デランには、あのウィンパー氏の美しい作品にあるポアントゥ・デ・ゼクランと似たところがなくはない。それは片状葉層の滑らかな面を見せた、いわば岩の不等四辺形の一種である。上の方では斜面がすこぶる急で雪も止まっていることができないが、下へ来るにつれてようやくそこここに足場を得、最後には平らなきらきら光る一枚の大きな氷の卓布となって、強制的なベルクシェルントに切られた台地の縁まで拡がっている。わたしたちがこの斜面の麓へ着いたのは正午だった。ところが、あいにく到着すると同時に嵐がやって来て、岩場へ取り付く前にさんざんな目に遭って退却を余儀なくされた。わたしたちはヴァルプリーヌの上で人の住んでいる最初の場所、プレレーヤンヘ下って行った。
 こういう魅力に富んだいろいろの名が、あまり気持ちのいい宿泊を人々に空想させないように! たといプレレーヤンの自然は美しいにしても、そこにあるシャレーは現実に存在する最も波羅門的アンブラーミネエなもので、文明と呼ばれることのできる一切を最も少なく享受しているのである。それで、ダン・デランヘの新しい突撃を開始するために翌々日そこを去ったのは、わたしたちにとって幸せだった。わたしたちはまずテートゥ・ドゥ・ラ・ベラ・シア注・1を獲得し、そこから台地の連続を進み、そのまま格別の労も費やさずに、以前に達した地点へ到着した。わたしたちはダン・デランから南へ落ちている山稜の足もとへ触れた。それからできるだけ高い所で西側の山稜へ合しようとして、山の南西の岩場をぐるりとトラバースした。そして、この山稜で登りは終わるのである。
(注1―――プレレーヤンの牧者たちの言葉によるとシアは彼らの方言でシャレーを意味し、[casaから転訛したものか?] シア・デ・シアン Cià-des Ciansは野のシャレーの意だそうである。)
(訳者注――シア・デ・シアンは、一般にはザ・ドゥ・ザン Za de Zanといわれ、また書かれている。)

 ダン・デランは山全体がセルヴァンのそれに酷似した、非常に薄片の滑石質及び緑泥石質の片麻岩から成っている。斜面は平滑で、トラバースの地点では四十五度の傾斜を示し、岩石の薄板は規則的に覆瓦状を呈して、時にはまるで屋根を攀じているかと思うほどである。斜面の中途や山頂の真下では、膜氷ヴェルグラつるつるの岩へ上塗りをかけているので、わたしたちは短時間ではあるが真剣な困難を経験した。しかし、間もなく興味ある岩筒シュミネーを一つ登って第一の山稜へ取り付き、ついに西側の大山稜へ達したのである。ここまで来れば以後の勝利は確実だった。わたしたちは、狭い、重厚な、あまり凹凸のない、しかし、いずれの側にも切り落とした、ことに北側に最も見事な断崖を見おろす、美しい岩稜の天辺を頂上まで辿って行きさえすればよかった。ある箇所では数歩のあいだ尾根が痩せ細って、きっちり足の幅だけしかない所もあった。しかし、岩自体が実に堅固で足場がいいので、そこへ立ちながら自分の位置の安全をことごとく楽しむことができるほどだった。最後の数歩は雪の尾根を登るのである。山頂そのものは岩を飾る純潔な雪の、急峻な切り立った一個の屋根であった。
 ダン・デランからの眺望が、半径一里の先はすべてセルヴァンからのそれとほとんど同じだということは想像に難くあるまい。しかし、前景には少しも似たところがない。セルヴァンの頂上からでは、イタリア山頂の側を別にすれば、前景は空無である。それに反して、ここでは東にも西にも錯雑崩壊した恐ろしい山稜が横たわり、そして、向こうにはセルヴァンその物が凄惨極まる横腹を見せている。一切が紛乱と深淵。地獄の光景もこれに較べれば物の数ではない。そして、人はこんなにも戦慄すべき荒涼のただなかへ迷い込んだことに、ある驚愕の念を禁ずることができない。しかし、一種不思議な身顫いで心をそそるのは北側の斜面、斑々と氷雪をつけた岩場の斜面の光景である。それは五十五度の急傾斜をして完全に滑らかで、頂上から約二千尺を一飛びに落ちている。そして、そこから見える物といえば、ただ一帯の絶崖ばかりで、その絶崖には、考えも及ばないような方法で引き留められた氷塔が重なり合って懸かっている。遙か下の方、五千尺の彼方には、ストッキーと、そのほとりでわれわれの夜営したあの小さい池とが見える。
 たしかに、同様に怖ろしい場所をアルプスでは他にも幾つか見ることができる。たとえば、ロートホルンやヴァイスホルンの頂上は、帰路の可能についてもっと考えさせる。しかし、その怖ろしさにダン・デランほど雄大なものが含まれている場所は、そうたくさんはないはずである。
 頂上には積石シュタインマンの形跡がなかった。それで、わたしたちはいくらか永持ちするようにと思って、かなり丈夫な物を一つ作った。雪を掘り起こしているうちに仲間の一人が一本の杖と、J・A・カレルや、マキニャ等の有名な名を封じ込んだ一本の壜を見つけた。彼らは先年英国山岳会の一会員といっしょに二度目のダン・デラン登攀を試みたのである。
 下りにはこれぞという困難もなかった。もう一度南西の斜面をトラバースする代わりに、今度は山稜から直接氷河を目ざして、まず岩場を、つづいて氷の斜面を降りて行った。わたしたちはそこから新しい方向ヘシア・デ・シアンの氷河を回ってこの行の最後を飾ろうと思いながら、意外にも一続きのセラックの滝の中へ入り込んでしまった。それは、事実非常に見事なものではあったが、おかげでわたしたちの行進はおそくなり、迫って来る夜はわれわれをそこへ籠絡しようと脅やかした。ジョーズはこの難場を抜け出すために目覚ましい働きをした。彼があたり残らず偵察しようとして駆け回り、跳び上がり、クレヴァスを躍りこえるさまは素晴らしい看物だった。そのうち、ついに夜の帳が落ちて、わたしたちも岩場へ取り付いた。そして、無事に危難をのがれたと思って、綱をはずして巻いた。ところが、情ないかな、わたしたちのいた所は詩人のいわゆる「断岸絶壁を立てまわした」あの名誉の島のような物だった。そこから下の氷河へ降りようとすれば、すさまじい垂直の壁を飛び降りなければならなかった。わたしたちは止むを得ず暗闇の中をセラックのところへ引き返した。
 その時わたしたちの入って行ったのは、氷河が海綿のように孔だらけになっている、あの下部セラックの地帯だった。クレヴァスの暗さはわたしたちのまわりにいよいよ夜の暗さをひろげた。わたしたちは五里携中でよろめいたり、跳んだり、昼ならば到底できないような千の冒険をあえてしながら、やがて安全な氷河へ辿りついた。しかし、終堆石モレーン・フロンタールのごろごろ石の間でまだもがいているうちに、時間はもう十時になった。それで最初に現われた芝地で一軒の廃屋を見つけると、プレレーヤンまで強行することは止めにして、そこの裸の床板の上で一夜を明かしたのであった。
 この行での成功と失敗とは、今後の旅行家にとってもたぶん無益ではないような二つのことをわたしたちに教えた。一つはダン・デランヘ登るにはツェルマットからよりもプレレーヤンからの方がより短く、より確実だということ、もう一つは、シア・デ・シアンの広い美しい氷河を故障なしにトラバースするには、その東側の高い台地について行くのが遙かに良い方法だということである。もしも特にツェルマットから登ろうという場合には、ティーフェンマッテンの峠へは登らずに、その最後の台地から直接ダン・デランを攻撃するのがよいだろう。また、ブルイユからエラン氷河を通って登ることもできる。しかし、兇猛なジュモーの岩壁を攻撃するには、あの豪胆なマキニャの一行が、少なからず苦心してたった一度越えた路だけしかない。それゆえ、細部にわたっての研究をとげた上でなくては、この登路を企てることは禁物である。

 

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 サルヴァン ヴァレーの一村落

 マルティニーにほど近いトゥリアンの峡谷、その名は少なくともだれでも知っている。それは直立二〇〇メートルの岩壁が口をあけた怖ろしい曲がりくねった裂け目で、まるで地獄の入口かと思われるばかりに狭くかつ暗い。しかし、多くの旅行家に知られていないのは、この恐るべき岩壁の右側のてっぺん、下からは見えないある肩のところに、峡谷が暗いだけいよいよ明るい楽しげな緑の台地があって、その上にひとつの平和な山村が、深淵のふちから二歩をへだてて真の牧歌がひろがっていることである。この村落こそ、サルヴァンである。その特別な気持ちのよい位置と、その愛らしい独特の眺めとが、シャモニへの途中ここへ足をとめる機会をもったすべての旅人をしてこの村に注意を向けさせる。もしも人がすこしばかりそこへ滞在したい誘惑に自分をゆだねて、住民と土地とをさらに注意ぶかく研究する暇を惜しまないとすれば、そもそもどれはどの艱難を賭してひとつの大きな村落がこんな場所で生きることに成功するか、また、それを取り巻く深谷が、どんなに村の繁栄に対して妨害をもって立ち向かうかということをじきに悟るだろう。その時たといしばしでも好んで夢想を馳せるならば、彼は自然に対するこの山人たちの苫闘に興味を覚えるだろう。そして、ある夕暮れ、近くの丘の短い芳ばしい草生の上に身をよこたえて、このサルヴァンの美しいシャレーの群れの上に眼を休ませながら歴史の跡を辿り、幾人かの半野蛮人の牧者たちが最初の小屋をこの土地へ建てた遙かな時代を思い浮かべるだろう。そして、サルヴァンが、ヴァレー郡での最も美しい村落のひとつとなるにいたった現在まで、幾世紀を逆にたどって、人はその夢想から静かに立ち帰って来るであろう。以下、つづく幾ページは、少なくともそうした夢想の所産である。

 サルヴァンの運命に最も強く影響した動因のひとつを知りたいと思えば、世界の開闢まで辿って行かないまでも、最近の地質的事件の時までは溯ってみなければならない。今日この村が存在することのできた原因は、アルプスの起伏の中に突発した最近の変化のうちで、実際ではほとんど微々たる事情によるのである。それならば、諸君は、トゥリアンの谷がローヌの渓谷へ開口している場所と面々相対したダン・ドゥ・モルクルの石だらけの中腹へ、ちょっと登ってみるがよい。そこからは土地全体を俯瞰することができるし、また。その性質と歴史との重要な諸点を把握することができるだろう。
 今われわれのいるのはマルティニーから一里足らずのところ、即ちレマン湖ヘそそぐ河がヴァレー郡をくだりながら突然屈曲をして、やがて、サン・モーリスの隘路で、上から下へと半ば開いた強剛なアルプスの石灰岩質の山脈をまるごと横断する地点から、さして遠くないところである。その灰色の水はわれわれの脚下で広い砂礫の河床を流れている。その向こうには広々とした流域が美しい緑の敷き物になって、今日では、街道と鉄道線路との二本の白っぽい線によって縦に切られたまま横たわっているのが見える。溝に仕切られた長い並行の小牧場と耕地との碁盤縞がその一部を被っている。他はまだ沼沢の多い未墾の地で、雑草や灌木の茂みや、若い輪伐林に占められている。この狭い原野の上には、あらゆる方角に峨々として険峻な力強い山岳が壁のように峭立し、その一種赤黒い岩はヴァレーの太陽に焼かれたのかと思われる。しかし、われわれの前方、ローヌの対岸、眼が見通すにしてはあまりに狭く、紆余曲折したこの有名なトゥリアンの峡谷の上では、それらの山岳も相遠ざかって、そこにひとつの谷がひらけ、それがモン・ブランの方角へ三里あまりも登っている。もしもわれわれにしていっそうの高みに身を置けば、高貴な雪の丸屋根ドームが、ここからの地平線をとざす幾多の山頂の上高く、たちまちその銀光をはなつ純潔な絶巓を上げているのが眼に入るだろう。
 ローヌの大渓谷が、緩慢に堆積された沖積土の河床上にひろがる一枚の豊かな緑の敷き物を持っているのと遙かに異なって、この峡隘で陰暗な渓谷は、実に一個の深淵だけを持つ。それは口の拡がったひとつの巨大な割れ目であって、その底を氷河から来た荒々しい奔流が行く手をふさぐ岩塊の間で轟いている。それは結晶片岩の塊を、古代の地盤を、世界最古の地層を全く自分で切りあける。地球の外皮を穿って迸出したモン・ブランに余地を残しておくために、烈しく隆起して断裂した彼らの厖大な地層はほとんど垂直に立ち、その断片の鋭い歯形は黒い山頂をなして天を画している。まさにこの渓谷はひとつの割れ目であり、実に地質学者のいうとおりひとつの「断層」であり、換言すれば、活動しつつある世界の古い外皮のただ中に口をあけた大規模な亀裂のひとつである。
 この渓谷が突如として口をあけたか、あるいは緩慢に口をあけたかということは、科学者たちの論争に任されなければならない問題である。それにしても、いわゆる氷河時代が突発した時には、すでにこの渓谷は存在していたであろう。そして、モン・ブラン山群がそのあまりに多量に蓄積された氷を広漠たる白布のように流出させ初めた時、こちら側ではトゥリアンの渓谷がその主要なはけ口であり、ローヌ渓谷の大流と合体しに行く厚さ二〇〇〇メートルの氷の流れが下降したのもここを通ってであったろう。
 地方全体は、今日と同じようにその大いなる輪郭のまま当時でも存在していた。山々の同じ頂き、同じ斜面、同じ渓谷が。しかし、それも単に粗描の状態でであった。片岩はいたるところ新しく断裂したばかりの鋭い稜角を現わしていた。トゥリアン渓谷の左の横腹に襞のように縦に懸かった三個の岩の支壁コントゥルフォールは、氷河の行進に対してあたかも頑強な障壁のように抵抗する三つの突出部を下方に形作っていた。第一のものは、今日ファン・ゾーの在る地点の下に、第二のものはほぼマレコッ卜に近く、また第三のものはサルヴァンの下、ちょうど渓谷の出口のところに。しかし、こんな物はとるにも足らぬ邪魔物である。莫大な氷河は通過した。そもそも何千年の間、その重たい塊はこれらの険巌の上にのしかかってこれを研ぎ、搗き砕き、ゆっくりと圧し潰し、抵抗を試みた物どもをどろどろにしてしまったことだろう。それを言うことはむずかしい。しかし、これが通過した時、渓谷から立ち昇るいよいよ温かい空気の前から一歩は一歩と、換言すれば世紀は世紀と退いた時、この氷河は猛烈な活動をしたのであった。即ち、石礫の河床のいたるところへ出っ張ったものを運搬し、地ならしし、またごつごつしたものを擦りへらした。角のある山頂は、この地方の表現的な言葉で呼ばれているように「頭」になった注・1。また邪魔立てをした三つの突出部を、彼は喜んでまんまるな、羊状の、つやつやした三つの円丘に変えてしまった。それでこれらの円丘の表面には片岩の層が、その長い丸溝によって、彼らの受けた矯正の古い誇りをわずかに証拠立てている。今日でもなお実に鮮明で顕著なこれらの不思議な丸溝は、その凸部によって最も堅い層を、その凹部によって最も軟らかい、最も容易に侵蝕された層をあらわしている。
(注1――テート・ノワールは有名である。しかしテート・ドゥ・ヴァンヌ、デート・デ・ラルズ、テート・ドゥ・クレート、グランテート、及びピッス・ヴァーシュの瀑の上で厖大な階段状に重なっているものは、氷河の営力のさらに顕著な証左である。)
 現在の氷河の後退がどういう風に行なわれているかを知っている者にとっては、この巨大な氷河の退却中に起こった事柄を想像するのは容易である。溶解によって後退させられるにつれて、彼はその背後に堆石を、自分の下で粉砕した岩石から成る泥土と混じり合った石と砂礫との莫大な渾沌を残したのであった。
 これらの堆積物の大部分は、険峻を極めた渓谷の中腹のいずこにも停滞することができずに下方へ落下して、そこへ積もってゴルジュを塞いだ。もしも彼らが暗黒な狭間はざまの底で轟く奔流の餌食となっていなかったならば、今でも人はそれを見ることができるはずである。しかし、陰気な辛抱づよい咬み手であるこの奔流は、彼らを泥土の流れにしてローヌ河へ運搬した。しかし、残らず一掃することは成功しなかった。それで渓谷の上の方、なおいくらかよけいに拡がっているあたりでは、水の征服の及ばなかった、半ば削磨を受けた堆積物がそこここに発見される。
 深淵の底を流れなかった沈澱物の小部分は、傾斜面のわずかに緩いところや、岩庇の上や、小さな踊り場あるいは山人のいわゆるルプレの上や、ことに氷河のために均平され研磨された三個の支壁のうしろに固定した。そこには、日は一日と退く氷によって上流を塞がれ、鈍くされた険岩の頭によって下流を塞がれた泥水の湖が、相当の期間を通じて拡がっていた。やがて、彼らは干上がった。そして、厚い沈澱物から成る泥土の湖底を露出した。
 あちこちに拡がったこの泥土、山々の堅い骸骨にぼろぼろな肉をつけた泥土、岩だらけの頭のうしろに蓄積されたどろどろの沈澱物、こういう物こそ他日この峡谷を人間の住み得る場所とするものでなければならなかった。
 生命と死とは、自然界のいたるところで一歩一歩相せめぐ。同様に、怪物のような氷河が退却するにつれて植物は続々と現われて、それが荒涼とした場所や、風化した裸の岩石の上や、氷河が遺棄して行った干からびた泥や、残物の渾沌のただ中などへ侵入した。最初に微小な蘚苔が、貧弱な地衣類が、つづいて二つの石の間から生まれた内気な哀れな小さい花、風に種子を播いてもらったその顫える娘たちが、それから腐蝕土の薄層ができると急速に芝草が、いよいよ密に、いよいよ厚くなり、そこに疑いもなく桃色や白の優しいサクシフラガ類とか、淡色のアネモーネ類とか、竜胆類ジャンアイアーヌの青い純潔な星の花たちが微笑みはじめた。また大きな岩の塊の間には縱や落葉松の到着に備える石南や、ヒイスの繁みや、杜松ネズなどが纏いついた。また、細かい泥の上には細い草のふっくりした敷き物がひろがった。
 植物はじきに完全な勝利を得た。叢林と森との厚い外套は岩の荒っぽい裸体を被った。一方、小さい台地の上では、あちこちに柔らかい緑の芝生が太陽に向かって微笑した。彼らの勝利の実に完全であったことは、その最初の飛躍の中で、植物の生活が今よりももっと力強く、もっと高いところへまで登って行ったのを見てもわかる。今日サルヴァンの在る場所でさえ、白樺は白い幹と華奢な葉むらとを揺すっていた。それに落柴松は、美しい逞ましい落葉松は、斜面の上を、今よりも二千尺も高い所へ登って行った。バルブリーヌの牧場へ行くと、泥炭の中に直径三尺というその立派な幹が今でも発見される。
 木樵の無思慮な斧や牝山羊の破壊的な歯に加えて、さらに寒冷の度を増した風が森林を退却させたのだろうか。あるいは、また今日一般に信じられているように、それは湿潤の度を減じた気候のせいであったろうか。しかし、いずれにしても確かなことは、森林が彼らの昔の領地の多くを割譲しなければならなかったことと、当時、彼らはあらゆる斜面の上に、もっと陰森とした、もっと壮大な外套を敷きひろげていたことである。
 ついにある日、人間がこの未開の渓谷を蹂躙しに来た。彼は生の侵略を成就した。しかし、たった一人では無力な君主と同様に、自分に代わって一歩は一歩とその征服を進める一団の軍隊が必要だった。それは、一度も歴史に語られていない彼の隠れた軍兵の集団で、即ち創造の王者のためにいっそう好都合な場所を準備しようとして、まだひどく烈しい気候と闘って斃された小さな蘚苔類、細い禾本かほん類、繊弱なサクシフラガの族であった。
 この最初の訪間者が人類のどんな種類の者であったかはだれも知らない。しかし、あえて望むならばこんな想像はできる。即ち、彼らはいとも遙かな漠とした、あの哀れな石器時代の人間で、馴鹿トナカイの皮をまとい、ヴァレー地方の燧石や蛇紋岩で作った斧を武器として、岩窟に棲む大きな熊か何かの足跡を追っていた野蛮人であったろうと。このような古い時代を好んで夢想する想像は、ここで自由な力を振るうことができる。
 想像はこれら原始征服者の一群を登場させることができる。彼らは牧者であると同時に猟師であって、ローヌの渓谷の長い沼沢の野を横切って来た。そこでは彼らの家畜の群れが高い草になかば隠れて、思うがままに草を食んでいたのだった。想像はなおもえがく。彼らはトゥリアンの峡谷の上にひとつの大きな側谷があって、その怖ろしい入口から直接には上へ登れないということがわかると、一筋の流れが小さい滝になって飛躍している樹木の密生した斜面を右へ攀じ登った。現在の路はその滝の上をジグザグになって幾度か渡り、また渡り返しているのである。彼らは確かに一時間半ぐらいで(なぜならばこれら原始時代の人間は羚羊のような脚を持っていたから)、第一の頭へ辿り着き、緑の小丘、氷河の沈澱物でできた美しい台地の一つの前へ出たに違いない。
 これらの台地の中で最も広いのは、今でも大渓谷はそこからは見えない。この台地はほとんど平坦で微かに傾き、不規則な正方形をなし、約千歩の長さを持ち、いくつかの小流に横ぎられ、厚い森林によって雪崩から保護されている。氷河の最も豊富な泥が、厚い肥沃な層をなしてそこへ積まれ、つづいて夥しい美しい草がそれを被った。この台地は実に楽しげで、峡谷はすぐ近くにありながら、うまくその野性を匿しているので、周囲の暗欝な森林と高い絶壁の厳しさにもかかわらず、その奇麗な草地は最初の訪問者たちを魅惑したに相違ない。そして、彼らがその発見の噂を谷じゅうに播きちらし、間もなく夏になると家畜の群れをこの高みへ連れて来はじめたろうということは当然考えられることである。
 ここまで想像してくると、なお先を続けるのがひどく楽しそうに思われる。しかし、もっと価値のあることは、土地での言い伝えを通して歴史の初期の輪郭を把えることができる点である。その言い伝えによると、今日サルヴァンのある場所は、初めは単なる「メイアン注・1」の役をしていたに止まって、牧畜の群れが、数人の牧者に護られて一季節を過ごしにきた所であった。或る岩の円丘のてっぺん、今日、教会の傍にある一個の大きな漂石のことを今でも「羊飼いの石」と呼んでいるが、昔牧者が畜群の番をしながら寝ころんだ場所だという話である。
(注1――メイアンというのは、美わしい季節が回って来ると、畜群がもっと高い放牧地へ滞在しに出かける前に、まず登って行く最初の草地のことである。)

 最初の住民は、おそらく、古ローマ時代にこの地方に住んでいたもので、セルヴィウス・ガルバガに対して頑強な抵抗を試みた後にはじめて降服した、あのヴェラーグルの粗暴な土民の一族であろう注・2。これら初代の牧者たちがいかに粗野であったとはいえ、ここの自然がどんなに寛大であって、人間の本拠の地たるに適しているかということを悟らずには、この畜群を長くこの場所に留めておくことはしなかったに違いない。シャレーは、―――1年じゅう住むために作られた美しいシャレーは、間もなく、磨かれた岩の円丘を後楯にし、太陽に顔を向けて、放牧地の北隅ヘー軒は一軒とならんでいった。人々は丘の上等な土地を耕作しはじめ。夏になると家畜の群れをもっと高い所にある牧場へ連れて行った。農作の成功とこの最初の小植民地の繁栄とは、たちまちシャレーの数を増加させた。彼らはシルヴァヌムと呼ばれた一部落を形作った。その名は部落をめぐる暗い森林全体に由来するものであった。教会の務めをする一宇の小さい礼拝堂が村の真ん中へ建てられた。そして、これがさらに部落の大をいや増す一の原因となったのであった。
(注2――サルヴァンの上方一時間半ばかりの所、エマネーの谷の入口、森林の真ん中の岩の割れ目で、著者は長さ十五セ ンチある一本の青銅の斧を発見した。しかし、これはかなり漠然とした徴候に過ぎない。けだし鉄が山間へ入って行ったのは平野地方よりものちのことに相違ないからである。)

 増加する人口に対してサルヴァンの小さい丘が狭隘を告げる時が来た。幾組かの家族がもっと遠くへ移住した。彼らはまず近隣の土地へ家を建てた。疑いもなくビオレー、グランジュ、マレコツト、トゥリカンなどへ。続いて不足を満たすためにますます登りながら、ラシャの森林の暗い頭の上、昔の氷河の侵蝕をうけた三個の支壁の中での最も高く最も引っ込んだ場所へ、シャレーが建築された。このシャレー聚落はファン・ゾオ注・1と呼ばれているが、この名は人が住み得る土地の極限まで来たと信じた意味をよく表現している。それにもかかわらずなおも前進しなければ、即ちなおも登らなければならなかった。彼らは渓谷の殼高所であるヴァロルシーヌまで来てはじめて停止した注・2。そこからコル・デ・モンテの小さい峠越しに峠シャモニ渓谷の最端の部落へ手を差しのべることができた。こうして人間的入寇の相異なった二つの流れが、荒々しい寂寞の境地で再会することになった。
(訳者注1――ファン・ゾオFines-Hautsは字義的には「高みの詰」の義。今日では普通フィノーFinhautにつくる。)  
(注2――この地点はおそらくすでに早くサヴォア人によって占拠せられていたのではなかろうか。彼らはコル・デ・モンテからあふれ出して、近隣の渓谷へその侵入を開始していた。)

 ヴァロルシーヌ、熊の谷! さらにまた雪崩の谷と呼ぶこともできるだろう。なぜならば、そこには冬ごとに莫大な雪崩が落下するから。森林は近くの所で終わっている。眼を上げれば、素裸の、紛乱した、氷雪に傷つけられて矢のように鋭くなった、エギーユ・ルージュの陰鬱無残な山塊を見るばかりである。その麓と谷の中ほどまでは、結氷のためにやや赤く焼けた苔や地衣類に被われて、あるいは重なり、あるいは散乱した岩の塊や、岩屑の山。五月でもなお大雪田を見、それが夏の半ばになって辛うじて融ける。風は冷たく、凍てつく夜と、物語にあるような冬。春は下の平地でのように、その最初の微風と共に突然の爆発的な圧力をもっては現われない。しかし、貧しい芝草はふたたび緑に帰ろうと恐る恐る努力する。そして、北風に凍りながら長い幾週間を動かずにいる。ほんのわずかの雨にも雪が舞いもどる。それは冬が帰って来ることである。夏はある。その間だけは燦爛たる太陽がこの地から真の微笑みを 引き出すことができる。しかし、それも短く、やっと一月ぐらいの間で、意地の悪い年にはこんな夏さえも来ない。八月の末になればもうしばしば雪が降る。そして、十月にはすべてのものが長い冬に向かってふたたび眠りにつくのである。
 けれども、辛いことに驚かない幾つかの家族は、そこに 生きることを試みて成功した。つづいて、時のたつにつれて、彼らはそれに慣れっこになった。それがため、今日、ヴァロルシーヌの山人は、彼らの貧しいシャレーや、荒っぽい寒い寂寞の境地に、心の咸から愛着しているのである。
 一度渓谷の高みが占領されてしまうと、もう残っている所といえば、トゥリアン峡谷の奥の人目につかない一角、か、あるいは絶壁の暗い中腹に懸かった忘れられたような草原の小さい片隅だけであった。だれも通らない、また行くにしてもいつも容易だとはいえないそんな場所に、永久に世界から孤立して、それでも幾軒かの哀れなシャレーは営まれた。峡谷の森林の大きな影の中に、昔とほとんど変わりもなく世に匿れ、人目につかぬそれらのシャレーを、人は今日でもなお見ることができる。そして、もしも散歩の偶然に導かれて、彼らの小さい、低く閉ざされた戸口の閾を身を屈めながら跨いだとしたならば、三世紀をあともどりしたような気がするであろう。それほどにも家具や住人は、彼らの原始の単純をそこで護っているのである。
 こうして未開の谷間へ散った住民全体の中で、サルヴァンはその位置とさまざまの優越点とから、当然彼らの中心地、小さい主都となる運命を担っていた。そういう台地は事実ほかにもまだたくさんある。しかし、サルヴァンの台地は中でも最も暖かく、最も陽あたりが良く、最も風が当らず、彼らの産物を容易に交換することのできる野原を最も近くに持っている。地味は肥えていて、裸麦ばかりでなく立派な小麦もできる。村のまわりの果樹には、小さい林檎や実桜が時々かなり良くみのる。一里のわずか四分ノ一ほど離れたマレコットの台地となると、気候はもう同じではない。サルヴァンが雨の時に、そこにはしばしば雪か降る。そして、冬も幾日かよけいに長い。ファン・ゾーに到っては、断然氷河の息吹きに隣接している。
 こうしてサルヴァンは極めて自然に地方の中心部落となった。そして、周囲の他の部落と区別するために、サルヴァン町ヴィルという堂々たる名を与えられた。
 幸福なサルヴァンよ! この光栄ある名が与えられた時、確かにそこにはまだ百軒とはシャシーがなかったのだ。それでも一つの小さい教会があって、日曜には遠くからミサを聴く人々が集まり、シオンの司教さえ時折聖祭を執行することを軽んじはしなかった。集会の催される小さい広場もあって、人々はそこで裁判をした。そして、あえて言わなければならないが、ようやく百年ぐらい前までは、そこにはまだ曝刑用の頸輪カンカンが見られたのである。
 この不吉な言葉が、たちまちにして中世期のあらゆる暗い記憶を、その奴隷状態や、圧迫や、残酷の記憶をよみがえらせる。サルヴァンもまたあの暗黒時代を通らなければならなかったし、封建の鉄の頸枷くびかせに苦しまなければならなかった。今日この楽しげな自由な村落を見ながら、そんなことを信じるのはむずかしい。美しい太陽といい、澄んだ空気といい、豪放な山地のただすまいといい、一切は自由の観念と必然に一致している。しかも早く第六世紀の昔から、サルヴァンの名が史上に見えているとすれば、それはブールゴーニュのシジスモンがサン・モーリスの僧院長に多大の恩恵と優遇とを垂れながら、他の百の村落の中からこの美しいシルヴヴァヌムを彼に与えて、以来それを「土地、建物、奴隷、解放奴隷、住民……、森林、耕地、牧場、放牧地、水……、動産、不動産、十分ノ一税その他」と共に彼に賦与することを書いた一通の憲章に、それが証明されているからである。
 サン・モーリスの僧院長は最高の主権者で、その領分は自主地であった。換言すればすべての租税と朝貢とを免ぜられていた。非常におとなしいサルヴァンの住民は、土地に付属したものであって、遺譲することのできない彼の農奴であった。彼らは「遺言することも契約することも」できなかった。「結婚は同一主人の農奴の間でなければ許されなかった」。そして、幾度かの政治的大事件がサルヴァンの状態に逐次的な緩和を齎したにもかかわらず、歴代の僧院長は、「一七九八年まで、純粋及び折衷的統治の実権と、全般的な裁判権とをそこで行使した」と、歴史はわれわれに語っている。
 これらの僧院長がその君主たるの地位において、同時に天と地との正義の分配者であったことを思えば、以上の記事は言葉は短いがなお多くの事がらを語るものである。もちろん、彼らの政治が何もかも悪いわけではなかった。彼らはサルヴァンに対して特別な愛情をすら持っていた。しかし、刑罰の頸輪と告白室とによって維持され、公共の生活を俯瞰すると同時に炉辺の最も秘密な所にまで侵入して行ったこの疑い深い権力の下では、サルヴァンの過ごした十二世紀が決してその黄金時代でなかったことは信じていいと思う。
 そして、さらにこの暗黒時代を通じて別の災害がどんなにあったことだろう。サルヴァンの住民は彼らの山の高みにいて、あのローヌの長い平原から立ち昇る戦争や不幸の叫喊を聴いたのである。その平原は、実に流行病の、洪水の、また軍隊の自然の通路だった! 時には災厄が通り過ぎたり、彼らの所までは届かないで下の方で猛威を振るったりすることもあった。平原からそこまで登る小径は、当時はまだ非常に狭く、悪かったからである。しかし、いつでも災難を免れるというわけにはいかなかった。それで黒死病が多数の部落民を斃したり、戦争が彼らの美しい岩を人間の血潮で染めたりした。
 また地方全体を騒がせた大きな戦争のことはいわないとしても、彼らは最初から、そして、長い間、自分たちの専有放牧地の所有権を守るために、その隣人であるサヴォア人と流血の争いを続けていた。高山の美しい寂寞を支配する平和のなか、氷河に近いあの高みで、格闘が行なわれたなどということが信じられるだろうか。竜胆の花を星と散らしたあの見事な野の豊かな芝草のために、人々が憤怒をもって渡り合って、あの澄んだ流れに互いの血を交じえたなどということが信じられるだろうか。国境をなしている峠を乗り越えて、自分たちの斜面ではない放牧地を奪取しようとしたのだから、非はすべてサヴォア人にあったように思われる。サルヴァン人は力づくで抵抗を続けた。今でもヴァロルシーヌに近いシャートゥラールにそのころヴァレー郡の護りを固めた角面堡の廃虚を見ることができる。その付近にはまた築城の形跡も見られる。そういう戦いの中で、一三二三年八月に行なわれた物は、編年誌によると次のようだった。サルヴァンの住民等「彼らの山上に放たれしサヴォアびとの家畜の群れを奪いしかば、ここにシャロッスのシャテルニー、パッシーその他のサヴォアびと等、旗ひるがえし、手に手に剣と火とを執りつつ谷間にこそはなだれ入りぬ。されど伏兵の手に落ちて虜となり、二千五十モーリス貨をそが身の代として支払いける。」
 これは当時の漠として人に忘れられた歴史のうちでも、最も不思議な村落史の一章といってさしつかえないであろう。
 ついに一七九八年になると、多くの悲痛な争いや、大渓谷に轟きわたるフランスの大砲の響を通して、サルヴァンはその永い奴隷状態から解放され、新時代の開けるのを見た、それは今日までにこの部落が通って来たおそらく最も幸福な時代であり、あるいは少なくとも彼らが最も繁栄を極めた時期である。とはいえ、真の暗いたった一つの雲が来てまた彼らを苦しめた。それはヴァレーの歴史の中で「トゥリアン事変」(一八四四年)と呼ばれているもので、その最も悲痛なページの一つである。
 それはヴァレーの人々に対して、スイスには二様のスイスが、即ち古きスイスと若きスイスとがあるということを思い知らせる機会であった。古きスイスは自分の利益のために彼らを裏切るような僧侶に愚かしくも服従して、ばかばかしい伝統に対しておかしいくらい忠実であった。若きスイスは目醒めていて、明察力かおり、偏見に捉われず、自分たちを待つ輝かしい未来へもっと速やかに到達するためには、当時の政府を転覆しなければならないと考えていた。サルヴァンには、何よりもまず進歩を要求するような真に自由主義的な人々が大勢いた。しかし、それも、山を歩く時のように用心深い、確かな足どりで進歩するのでなくてはならなかった。ところで、若きスイスがローヌ溪谷中での最悪の者共をその兵卒として募集するのを見た時、そして、自由主義の仮面の下に盗んだり、掠めたり、焼き払ったりするのを知った時、彼らにとっていくらか新奇な、そして、いまだ確信とまでは行かないような思想に打ち勝った。彼らは古きスイスと結んだ。そして自分たちの家を火災と略奪とから護るというのがその唯一の関心事であった。その際、彼らが教会によって断然気づけられたことはいうまでもない。あの若きスイスを、あの悪魔の人足共を破門するだけの力もないような教会によってである。助任司祭みずからカービン銃をかついだことが証明されている。
 高地ヴァレー全体が僧侶の声に一団となって蹶起した。あまりに無勢の若きスイス軍は逃げ出すほかはなかった。しかし、マルティニーから渓谷の下流へ退却するには、トゥリアンが突然平原へ向けて峡谷ゴルジュの口をあけながら、ローヌ河へ注ぎ込んでいる地点でそれを渡らなければならなかった。恐るべき通路である! しかもちょうどそこでは巨大な岩壁の塔が幾つか平原の上へ突き出ていて、急流と道路とを真上から見おろしているのである。サルヴァンの者たちはこの塔のうちで一番低い、通路に一番近いもの、そこから視線も弾丸もトゥリアンの橋上へ垂直に落ちることのできるテート・デ・ツァルファの岩頭を占めた。
 こういう風に備えた彼らにとって、その脚下を縦列作って通る敵兵を粉砕することは容易だった。若きスイス軍の一支隊は、偽って橋を渡る気配を見せた。その橋はサン・モーリスとヴァル・ディリエの者たちから成る一隊が護っていたのである。その間に敵の大部隊は水勢に抵抗するために互いに手を繁ぎ合って、鎖のようになって下の方で徒渉を企てた。ところが、岩の天辺からサルヴァン勢がこの二列縦隊に一斉射撃を浴せる一方では、トゥリアンの激流がしきりに人間の鎖を切って彼らの一部を溺れさせた。四百人がわずかに徒渉に成功した。残余の勢は泥沼へはまり込んだ大砲と多数の死体とを捨てて、マルティニーヘの退却を余儀なくされた、サルヴァン勢の弾丸で的をはずれたものは極めてわずかしかなかった。そして、岩壁の下で収容された多数の死体は、頭や肩から撃たれて足にまで達する貫通銃創を負っていた。
 ひとたび静穏と自由とが帰って来ると、そんなにも良い空気と、そんなにも美しい日光と、同時に非常な勤勉との中で、村やその周囲の人口は増す一方だった。実際、それは非常な増加を示した。そして、この現象はその後に至っても止まなかった。さらにサルヴァンでは早期の結婚が、近隣の多くの部落と比較していっそう若い時からの結婚が行なわれていることも言っておかなければならない。しかもたとい各家庭に子どもの数が少ないとしても、少なくとも彼らは丈夫に育って、自分の仕事を最後までつまずくことなしに力強くやりとげるという習慣を持ったしっかりした人間になるのである。
 しかし、繁栄そのものは、もう一つ別の種類の闘争をもたらさずにはいなかった。それは人間同志の闘争ではなくて自然との闘争、生計の手段のための闘争であった。賢明なサルヴァンの人々は経験によってあの有名なマルサスの法則を知っていた。そこからダーウィンの大胆な仮説が生まれた法則、即ち、人口はそれを養う産物よりも遙かに急速に増加するものだとなす、あの致命的な法則を知っていた。彼らはこの法則が数式となって書物に出ていることは知らなかったが、その厳しい力はことごとくこれを事実によって痛感していた。そして、同様に生活のための戦いを開始しなければならなかった。しかし、今度の戦いには流血はなかった。そこではただ怠け者だけが敗者だった。
 かくて彼らはあらゆる資源を利用することに着手した。彼らはその耕作地を台地の最も端まで、目もくらむような地点まで拡張した。そこでは狭い帯状の地面が、絶崖の天辺からトゥリアンの深淵へいまにも落ちかかりそうになっていた。彼らは村の近辺で、昔の氷河が少しばかり壚母ロームを残して行った、羊状岩の円丘の間のすべてこの凹みを利用した。わずかばかりの土の層、単なる薄皮、それは充分肥料を施さなければ役に立たなかった。礬土アリュミーヌに富んでいて、耕作すれば実に肥沃な土になるあのモン・ブランの細かい壚毋を、もう少しよけいに置いていかなかったとはなんというけちな氷河だろう!
 アルプスのたいがいの谷間では、森林の経営が住民にとっての一つの大きな資源である。しかし、これはサルヴァンの場合にはあてはまらない。容易に利用できそうな森林はマルティニーに属している。村落を見おろしているあの美林はどうかといえば、それは神聖なものであって、彼らを保護してくれる森としてどんなにたいせつにしても充分だとはいえないくらいのものである。もしもこれがなかったならサルヴァンはどうなっていたであろう。サルヴァンの頭上にかかる不断の脅威、ツァルーの大雪崩を食い留めてくれるのも、幾世紀を通じて危険なセクス・デーグランジュから落下する大きな岩塊を遮ってくれるのも、みなこの森林である。この後見者のような森林を破壊してみるがいい。そうしたら、耕作の手が行きわたって生気に満ちた楽しげな台地も、ただの荒涼とした岩屑デブリの野原となってしまうだろう。しかし、彼らがどれほど自分たちの森林をたいせつにしているとはいっても、それでもなお村には木樵を仕事にしている者もいくらかあって、マルティニーの自治体が峡谷の対岸やテート・ノワールの方面でやっているように、大規模の伐採をやったり、また時々は災難を招くような向こう見ずな伐り出しをしたりしている。筏乗りも幾人かいる。そして、トゥリアンの谷ではそんなにも危険な仕事に対するその熟練と勇気とで、みなの中での目立った存在となっている。
 別の多くの人たちは板岩スレイトの採取に従事している。ずっと以前に、村へ登る路の近傍で、雲母片岩の間から立派な板岩の脈が発見された。それはたちまち採り尽くされた。ところが、ある日第二の脈が、つづいて第三の物が、さらにその後も次から次と発見されていった。これは一つの小さい富源だった。なぜならば、この板岩は美しくもあれば質も良いので、ヴオー・フリブール、ジュネーヴ等の郡内でどしどし売りさばけたからである。自治村コンミューンではこの掘り出し物を奨励する建前から、すべて石切り場はこれを発見した者の所有に属し、またそこから利益を得るために他人と合同するのも自由だということを議決した。この事業は年を追って盛んになって、耕作や家畜の世話から、いくらか人手を奪うようになった。男たちが昼間石切り場へ行っている家の女や子どもたちは、他の仕事を一切引き受けて二倍も働かなければならなくなった。しかし、サルヴァンでは、人々は労働を少しも苦にしないのである。
 最も貧しい家族にはまた別に生活の道がある。彼らは夏になると近隣の低地や、サヴォアやアントゥルモンや、あるいはアオスタの地方までも出かけて行って牝牛の番人をする。また、或る家族は彼らの腕の力や労働への熱心さを元手にして、フリブールの郡内で平地の地所の小作などを試みる。しかし、その愚直さのために、柄にもない投機の犠牲になることは往々である。
 若い者たちの中には、自分を家族の足手まといだと思って、外の土地へ出て行く者も時々ある。その大部分はフランスへ行って、樽の内部へできる酒石を取り除くという変わった仕事にたずさわるのである。まだ、或る者はアメリカを志す。もし、たいていは尾羽打ち枯らし、足を曵きずって帰って来る。
 女たちはどうかといえば、彼らはどこの家庭でも必要な仕事の大きな役割を果たしている。夏は畑へ出て男たちに負けないくらい元気に働く。冬の長い幾月の間は、山地ではほとんど到るところでやっているように糸紡ぎに忙しい。そのほかたいていの女は美しくて丈夫な布を織っている。これは、マルティニーや、サン・モーリスや、遠くベクスまでも売りに出されるのである。
 しかし、これら山人にとってのあらゆる資源の中で、つねにその主要な、また最も容易なものは家畜である。どの家庭にも牝牛や牝山羊がいる。中には羊を飼っている家もある。もしも冬の間彼らを食わせる方法があったならば、もっとたくさん飼うことだろうと思う。これがこの富の唯一つの、しかし、致命的な限界である。なぜかといえば、たとい夏の間は家畜共が周囲の美しい放牧地にありあまる草を持っているとしても、残りの幾月のあいだ彼らが食う物といえば、春や秋に村のまわりで見つける者か、雪に閉じこめられる四、五か月間のために刈り溜められた「葉っぱ」か干し草ぐらいな物だからである。
 飼われる家畜の数は、近づきやすい岩場で刈ることのできる草の分量によってきめられる。それで良い陽気の間、高地の牧場で家畜の世話に忙しくないサルヴァンの者たちは、到るところへ散らばって、冬の飼料のための干し草作りをしたり、草を刈ったり運んだりする。
 雪が例年よりもおそくまで残っているような寒さの酷しい年には、家畜小屋は飢饉や災難に見舞われる。そうすると、草が萌え出すが早いか、最も足の確かな青年たちは、ほんのわずかな若草を刈るために、峡谷の危険極まる断崖の中腹まで出かけて行く。そして、もしも必要ならば、深淵にとどろく真っ暗なトゥリアンの谷を五、六百尺の下に見おろす狭い岩角まで、一本の綱に身を託して、そこを緑に染めている少しばかりの草を鎌で刈るために降りて行くのである。
 一握の草のためにもこんなにも大きな危険に身をさらす住民は少ないにしても、これに似たことがアルプスの他の多くの地方で見られるのは事実である。しかし、飼料を集めるのにこれはどの困難を経験すること、サルヴァンのような場合は極めて稀である。その狭い台地は山の中腹で庇のように支えられている。上には急峻な斜面が聳え、下にはトゥリアンが深淵の口をあげている。そして、不幸なサルヴァンの者たちは、最も高い森の天辺でするような仕事を、しばしば大きな峡谷の底でもしなければならない。彼らは始終登ったり下ったりしなくてはならない。そして、山や谷を通って彼らの運ぶべき物は、単に干し草や刈り草のみでなく、さらにそれは寝藁であり、炉の燃料にする焚木である。たといローヌの谷間から運び上げたり、またそこへ運びおろしたりする一切の産物は勘定に入れないとしても。
 苦しい路での苦しい労働! なぜならばヴェルナヤを別にすれば、ここの路は荷役の獣にとってはどこもかしこも実に急で、実に悪いのである。以前は全村を通じて仕事をする動物などは一匹もいなかった。それで何もかも、耕作までも、腰と腕との力でしなければならなかった。それで担ぐことが、サルヴァンの人たちの生活にとって必須の条件であり、彼らの日々の大部分に充てられた仕事である。あのパイエを、布団の代わりに肩へ当てがう。藁をつめたあの一種の小さな袋を、彼らはほとんどいつもはずしたことがない。それは彼らの生活の忠実な伴侶なのだ。それゆえ、この山人たちはアルプスでも稀に見るほどの運搬人である。村じゅうの者がすべてこの荒仕事にすぐれている。そして、女たちも、他の労働と同じようにこの労働にも多く従っている。干し草あるいは薪の百斤リーヴ、これが普通一荷の重量で、十五歳の子どもの肩にさえ見られるのである。しかもしばしばなんという小径を通ってだろう! よく空手で自分の体重だけを運んで歩く旅行者をたくさん見かけるが、そうした人々は決してそんな小径は通るまい。たとえば、ヴァソヌの小径などがそれで、そこではピッス・ヴァーシュの滝が平野へ向けて落下している岩を、手の幅ほどの通路がうねりくねっているのである。
 時には断崖のふちで、荷が岩角へぶつかったり引っかかったりして、深淵へ転がり込むようなことが起こる。また、もしも荷をはずしそこなえば、背負っている人間までいっしょに落ち込むようなこともありうるだろう。こうした事件は稀ではなく、従ってこの荷役は容易ならぬものとされている。危険な小径を通る時、たいていの場合、何か不吉な記念に関係のある悪場を彼らは諸君に知らせるだろう。
 サルヴァンの人々に対して特に生活を辛いものにするのは、つねに骨の折れる、また、しばしば危険なこの「運搬ヴォアイヤージュ」である。村が冬の準備をととのえてしまうまでには運ぶ物がたくさんある。皆が、老人から子どもまで、銘々この仕事に従わなければならない。村じゅうの者が斜面に散らばる大労役の日に、最も力のある男たちが一荷百五十斤リーブルの干し草に半分埋められながら、汗みどろになって森の悪路を降りて来るのを見るがよい。彼らの足踏みに地面の震えるのが感じられる。彼らが通り過ぎて向こうへ去ると、その大きな荷物の下にはもう脚だけしか見えない。まるで干し草の山が一人で歩いているようである。
 また、トゥリアンから登って来る狭い路、その石畳が通行のために擦り減ってすべすべになった坂路を、あらゆる年齢の運び手が長い列をつくって通るのも見なければならない。善良な、腰の曲がった老人が、彼らの白髪の頭の上でぐらぐらする荷物を、やっとの思いで手で支えながら、苦しそうに歩いて行く。また子どもたちは、女の児も男の児も、小さいのが、ほんとうに小さいのが、確かな足どりと、もうしっかりした腰つきとで進んで行く。彼らは跣はだしで薪の束や苔などを、体に応じた小さい荷にして頭へ載せている。続く母親も同じように荷を運びながら、かわいそうに思う様子で子どもたちを見ている。小径は急で登りは長い。それは疲れる! だが、どうあっても歩かなければならない。この辛い仕事、これがパンなのだ。これが家族の生活なのだ。
 哀れな、小さい跣はだしよ! その一生かけて、そもそも幾たびこの同じ石を踏み、このひどい小径を登ろうとするのだろう! やがて彼らの番が来て、同じようにここを歩いて石を踏み減らした者たちの眠っている、あの教会のそばの芝地の下にいつかは休息する身となる時まで、そもそも幾たびこの骨の折れる往復をしなくてはならないのだろう!
 このようにまだ子どもの時分から疲労に慣らされ、また皆が同じように勤勉なので、サルヴァンの人々は、彼らがその上に住もうと思ったこの荒々しい自然に、完全に打ち勝つことができたのである。
 要求の増加と資源の増加との間には均衡が保たれている。そして、その活動のおかげで、人口は絶えず増しながら、この小さい民衆はあまりにひどくない生活の手段を見つけている。そこには金持ちという者はいない。しかし、また貪乏人もいない。どの家族も仕事を免れることはできない代わりに、たいていの家族が楽な暮らしをしている。収入の多い家ではマルティニーのまわりで葡萄を買う。それは安く譲り受けられるので、年に一、二度彼らは山を降りてそれを見に行く。あとは勝手に成長させておく。収穫季が来たら、このヴァレーの美しい太陽の下でひとりで実になった立派な房を、圧搾すればいいのである。そして、一年分の飲料にその葡萄酒をもってまた村へ登って来る。飲むことのできる以上に作った者も、買い手には事欠かない。
 要するに、村がこれ以上に栄えたこともなければ、また旅行者に対して、これ以上に生き生きした楽しい光景を見せたこともなかった。この村を見るのに一番いい時間は、朝、まだ金色の最初の日光がそれを起こし、微笑ませに来る時刻である。大きな矩形の草原の北の角にかたまって、両方の端へ二本の腕のように伸びたシャレーは、互いに仲よくくっつきながら、その間に、ちょうど荷物を持って通れるだけの幅のある路地を残している。すぐ上には、森のあまり遠くない界のところまで耕された野が、小さい傾斜したテラスをなして、階段状に重なっている。正しい心を持ったすべての村のように、この村もやはり彼らの教会の周囲に、その平和な屋根屋根を見おろす、真っ白な、すらりとした鐘楼を持つ親しい教会の周囲に、ぎっしりとかたまっている。栗色の落葉松材で造られたシャレーはいずれも張り出しガルリーを陽に向けているが、そこには作物の小さい束がひろげられて、大きな庇のかげの中に乾している。手入れの届いた、花の咲いている小さい庭、蜜蜂の群集する巣箱、冬の用意に積み上げられた薪の夥しい貯蔵。この朝の時刻に際して、清潔に、絵のように生地の板岩で葺かれた大きな屋根の上では、小さい煙突が蒼い煙の流れ出るにまかせている。どの家からも、この煙が、内部の生活を知らせるように軽く、柔らかに立ち昇るのが見られる。もしも天気が穏やかだと、煙はいっしょになって屋根の上で空色のガーゼの幕のようになり、それがおもむろにもち上がって、村を去る前にしばらくはその上にたゆとうのを楽しんでいるかのように見える。牧場ではまだしっとり濡れた草が最初の太陽の澄んだ光にきらきらしている。小さい用水を流れる生き生きした水の陽気な響、よく手入れされた見事な耕作地、朝早くから家のまわりや野良を往ったり来たりしている人々。すべてが幸福な労働者の一大家族を示している。
 実際、ほんとうの家族なのだ。なぜかといえば、皆の間には、ほかではめったに見られないような理解と親切とが君臨しているのだから。そして、サルヴァンの富の最も大きなものは、耕作地に被われ尽くした美しい台地でもなく、牧場でもなく、家畜でもなく、板岩でもなく、実にその住民全体をただ一つの大家族たらしめているこの精神である。それが一部分彼らの性質の生まれながらの善さに負うていることは疑いもない。しかし、またその大部分は、絶壁の国の真ん中に生気に満ちて懸けられた幸福な巣のような、その孤立した特別な位置に負うているのである。それは、この土地での生活の困難そのものから生まれなければならなかった。なぜならば、深淵に沿ってのあの共通の危険な往復や荒い労役が、毎日人々に相互扶助の機会を与えながら、彼らを互いに接近させているからである。
 この家族的精神を感じようと思うならば、村へ入って行って、近くからシャレーを見るに越したことはない。シャレーはすべて一種のんびりした善良な様子をしている。それは通り越したことはない。シャレーはすべて一種のんびりした善良な様子をしている。それは通りがかりの人たちの自由な、安心しきった歩きぶりにも見られる。それはまたすべての人々の眼の中にも、そして、村の主要な旅館、古い旅館ユニオンの看板にさえも読まれる。最後にそれは村の内部の配置にも現われている。というのは、村の中央に、家々の囲いでほとんど完全に囲まれるようになった、一つの小さい四角な広場がある。この広場は、いわば野天の大きな公会堂のような物で、大家族共同の親密な炉辺であり、サルヴァンの心臓である。一日のそれぞれの時刻、一年のさまざまな季節にそこへ行って坐っていれば、サルヴァンの人々の生活を残らず知ることができる。荷をかついだ男や女がしきりなしに通るのもそこである。地下の労働にいくらか青い顔をし、板岩の埃ですっかり鼠色になった着物を着て、夕方、疲れて帰って来た石切り人がぞろぞろ通るのもそこである。また一日が終わって子どもたちが遊ぶのもそこならば、若い男や娘たちが意味ありげな視線を投げ合い、嬌態しなを見せ合うのもそこであり、さては老人が、離れた所へ坐って、新時代の飛び跳ねるのを微笑をもって眺めながら、彼らの思い出に立ち帰るのもまたそこである。
 田舎の生活を見ることの好きな者にとって、この広場の光景は、朝から夕暮れまで、実に無限の興味に値する。
 まず、夜明けには、山羊の出発である。その場に居合わすには早起きをしなければならない。しかし、一度それを見れば、ふたたび見ずにはいられなくなって、毎朝寝台から飛びおりて急いで駆け出すようになる。夜のしらしら明け、村のはずれから主婦おかみさんたちに知らせる山羊番のラッパの音が聞こえてくる。するとたちまち方々でちんちん鳴る鈴の音。軽快に、身奇麗に、元気よく、一人だの群れだのになって広場へ駆けつけ、人の指図する所へ陣取ろうと身構えるかわいい山羊たち。彼らはすべてのシャレーからぞろぞろとやって来る。一番強情なのは、まだ寝ぼけ顔の子どもや女に角を持って曳きずって来られて、群れの中へ押し込まれる。白いのもいる。真っ白だ。栗色のもいる。灰色のもいる。鳶色のもいれば、斑ぶちのもいる。一匹として同じなのはない。それぞれが特徴のある顔をし、自分自身の頭つきや、歩きぶりを持ち、奇妙で優しい黄色い眼で君を見るにも、銘々違った仕方を持っている。それにまた彼らはいずれも高い山地の山羊で、細い脚と、長い角と、薄い横腹とをしている。広場は数分間で満員になる。最も手に負えない一、二匹を自分も連れながら、山羊の番人がやって来る。それは普通十二歳ばかりの男の児で、手には杖を持ち、背中には弾薬盒のように小さい丸い箱を、塩を入れた箱を吊るしている。彼はラッパの最後の一吹きを鳴らす。貴婦人ダーム方はもう皆ちゃんと用意ができている。そこで千の鈴の斉奏カリヨンと共に、角と頤鑽との喜劇的な群衆が動き出す。そして、番人は杖で通るべき路地を教える。一行は突進する。もうヒースの匂いに鼻をぴくぴくさせながら。一刻も速く美しい断崖の縁に身を置いて、届きそうもない草叢を貧り食いたいものと、せかせかしながら。
 朝も少し経ってから昼間いっぱい、泉のまわりはひっきりなしの繁盛である。板岩の小さい屋根に保護された一条の用水が、洗濯場の役目をしている。傍には、四角にくりぬかれて長い水槽の形をした、一本の大きな樹の幹があり、その中を絶えず奇麗な水が流れているが、そこへは家畜が水を飲みに来るのである。
 洗濯場が寂しいということは絶対にない。サルヴァンでは人々が洗濯に対して偏愛マニアを持っているようである。すべての女が洗濯する。すべての子どもが洗濯する。そして、もしも男がそれに混じっていないとすればよくよくの場合である。一度主婦おかみさんたちが用水の縁へ膝をつくとなれば、絞ったり、圧しつけたり、洗濯棒で引っ叩いたりして何時間かそこにいる。同時に彼らが村の噂話をすることも事実である。なぜならば、サルヴァンの女たちにしても、他の女たち同様エヴァの娘だからである。しかし、彼らはこれを陽気に、非常に高い声で、土地そのものと同じように変化のある、水盤に落ちて燦く美しい水のように明るく早口の、絵画的な方言でそれをやる。彼らの傍では、子どもたちが競争し合って一生懸命に叩いたり、絞ったり、洗ったりしている。大きな娘たちは本物のリンネルを真剣になって洗う稽古をしている。もっと小さい娘たちはまだ襤褸だけしか当てがわれない。四つばかりになる小さい奥さんたちは、ひどく悟った様子で、まだろくに口もきけない、やっと歩けるくらいの一人の赤んぼに、洗濯術の秘訣を教えている。その赤んぼというのがまたそこへしゃがみ込んで、もう襤樓きれなんぞを持って、冷たい水のためにまっかになった、無器用な、丸々した小さい手で力一杯それを叩いたり、水へ漬けてはまた漬けなおしたりしている。よい案配に水の深さはやっと一尺。なぜかといえば時々流れがその襤褸を持って行ってしまうからである。そうすると赤んぼはそれを取り返そうとして身をかがめる。そして、小さい用水の中へどっぷり漬かる。だれかが引き上げてやる。濡れ鼠になって泣いている。母親が来て叱りつけて引っ張って行く。そして、半時間後には、その児がまた同じ場所にいて、相変わらず濯いだり叩いたりしているのを君は見るのである。
 昼飯が済んだころになると、彼らが山の放牧地へ行っている夏でさえなければ、家畜が水を飲みに来る。すると、そこではまた違った光景が見られる。まずやって来るのは荘重な牝牛で、その温和な性質はあらゆる信頼の念を人に与える。人々は彼らを一人で来させて一人で帰らせるが、彼らはまたそれを賢くやってのける。その歩きぶりは見るからに美しい。底知れぬ思索にふけっている眼をして、頭を軽く振りながら、哲学者のような足どりでやって来る。何物も彼らの心を途中で紛れさすことはできない。時々、泉のところで、その中のせいぜい一頭が彼女の重々しい瞑想から醒めて、向こう側で飲んでいる仔牛の方へ頭をのばし、これを嗅ぎ、大きな瞳を静かに瞬きながらそれを眺め、続いて全く毋らしい或る出来心ファンテジーから、優しくそれを甜めはじめる。
 しかし、いまや尾を打ち振り、旋回し、蹴りをくれながら、気が狂ったように駆けて来るのは若い牛たちである。と、突然彼らはびっくりして立ち停まり、脚を曲げ、頸をかしげて、何が怖いのか一方を見つめる。するとじきに、こっそり抜け出して来た一頭の黒い意地の悪そうな牝牛が、一頭の競争者がやって来るのを認めて襲いかかる。双方の間には古い憎悪があるのである。叫びも鞭打ちも彼らをとめることはできない。広場は一個の闘技場になる。二匹の獣は背中を曲げ、頭を下げ、角を突き出して突進し、体重のありったけをかけてぶつかり合う。その鈍い音を聞いていると、頭蓋骨が砕けたのではないかという気がする。しかし、そんなことはない。後へ下がったかと思うとまた始める。そして、とうとう叫び声と平手打ちとで引き分けられる。
 この試合のただ中で、逃げ出して来た巨大な獣の蹴りの間を突っ切って、子どもたちはちょこちょこ歩いたり逃げ回ったりしながら、少しも怖がる様子がない。獣たちは咆えわめく。男や女は叫ぶ。そして。サルヴァンの方言のけたたましい響がこのおもしろい喧騒に勢いを添える。
 この広場での光景は、住民そのものや、その外貌の特徴や、その性格などの観察に多くの機会を与える。型タイプには混じりがなくもない。そこに本質的な顔だちを見分けることさえいくらかむずかしい。それをいっそうよく現わしているのはおそらく女であろう。女たちはたいてい整ったしっかりした顔だちをしていて、しばしば美しい額と、描いたような、素直な、黒い眉と、南方の情熱の光を慎み深い瞳で半ば匿した、ビロードのように黒い大きな眼とを持っている。もしもサルヴァンの人たちの容貌に共通な一つの特徴があるとすれば、それは人なつこい、あげ放しの、一目でわれわれの同情をかち得るような子どもらしく善良な、飾り気のない顔つきである。しかし、山との不断の悪闘は大人には疲れた表情を与え、子どもには早熟の相を与えている。十二歳の男の子に実際的な真面目な目つきがあり、しっかりした足どりがあり、四十歳の大人のような確かな身振りがある。そして、女の児には、家庭の仕事と心配事とを非常な真剣さで処理していく小さい母親の様子がある。彼らの顔には早くから皺がよる。二十五歳でなお若さを保っている者は稀である。子どもといわず大人といわず、すべての人間の頭つきに、腰つきに、重荷を運ぶ習惜の痕が見えている。
 とはいえ、だれの顔にもこの荒い生活を楽しんでいる様子が見える。一日じゅう広場で聴かれる、明るい、よく響く彼らの声には、内部の発条が弛んでいないことを示す大胆な、卒直な調子がある。彼らがあまり歌を歌わないことは事実である。あるいは彼らに音楽への傾向か不足しているのかもしれないし、あるいはトゥリアンとその大きな深淵の近くに暮らしているという、漠然とした気持ちのせいであるのかもしれない。
 日曜日と祭日には、若い者たちが喜んで踊る。しかし、舞踏はこの村ではいつも盛んになる時がなく、ヴィオロンを弾く者なども稀で、数年このかたそういう者もなくなった。最後の一人は、ヴァン・オーのひどく狭い岩棚ヴィール注・1の上で草を刈っている時、そこの岩場へ落ちて死んだ。
(注l――岩の斜面を搦んで、普通は非常に幅の狭い自然の小径をなしているものを、山人が岩棚と呼んでいることは人の知るところである。そういう簡所には、多くは二段の岩層を上下に分けている線が見られ、下層は上層よりも出張っている。)

 中年の男子の最も嗜む娯楽は射撃である。彼らはそれに対しても並みならぬ技量を持っている。そして、好んで標的以外の物にその腕前を見せる。マレコットの老ルヴァなどは、ついこのごろ、もう普通には羚羊の見られないような土地で、彼の六百二十頭目を射とめた。もう一つ、大多数の中年男子にとっての親しい楽しみは居酒屋である。しかし、彼らは日曜日だけしかそこへ行かない。そして、必ずしも節約しているとはいえないが、決して度を過ごすということはない。なぜならば彼らがそこへ行くのは、飲むためよりも、むしろ親類の者や、一日を「町でアン・ヴァイル」過ごしにと近隣の村からやって来た友人たちとお饒舌しゃべりをするためだからである。サルヴァンの人間は話好きである。しかし、この話好きは、好んで自分が饒舌ると同様に、好んで相手の話に耳を傾ける種類の話好きである。他から来た者に対しては、慇懃ではあるが内気でもある。大都会から来た人間に対しては、その面前で自分たちの無学やアルプス的生活の粗野を恥じ入るほど、一種尊敬の念を持っている。その上彼らは都会の人間を決して自分の家へ招待しない。もしもすることがあるとしても、住居の貧しいことを極度に言いわけした揚句の果てである。しかもそういう家の中へ入って行ったり、その山国らしい質朴さの香を嗅いだりすることが、われわれ平野の人間にとってどんな魅力があるかを、彼らは夢にも知らないのである!
 しかし、万一機会が与えられたならば、それを利用したまえ。そして、こういう好ましい古いシャシーの一軒へ入ってみたまえ。壁も家具もことごとく木製で、飾らず単純ではあるが、年代を経て気持ちよく黒光りしている。それに何もかもさっぱりしている。白い窓掛け、小さい明るい窓ガラス、清潔な、きちんと並べられた調度品、椅子は稀で、むしろ腰掛け。窓のそばには一台の紡車。部屋の奥には階段の付いた立派な暖炉、その段階へは、冬の晩、子どもたちが好んで棲まりに行く。特にいっそう黒ずんでいる或る箇所は、そこが一番ほどのいい熱を手に与えてくれる瓦の面であり、家人の気に入りの隅角すみだということを語っている。寝台に次いで――その寝台というのがまた実に背が高くて、それへ攀じ登るには相当登山家でなくてはいけないほどだが―――主要な家具は、家族用の大きな戸棚である。この戸棚はニスを塗った胡桃くるみ材で造られていて、幾世代を通じて使われてきたにもかかわらずまだ新しい物のように見える。それは家人がこれをたいせつにしていて、必ずていねいにゆっくりと開閉あけたてするからである。いったい山の人たちは、われわれがそのために日常の道具を何によらずじきに駄目にしてしまうような、そんな忙しそうな、乱暴な取り扱いはしない。ことによると、彼らが君の前でこの戸棚をあけるような機会があるかもしれない。そうしたらば、貯蔵されたリンネルの類がきちんと重ねられて、天井まで一杯に積んであるのが見られるだろう。そのリンネルは少し茶色がかった白い色はしているが、丈夫だ。なぜかといえば、村で手織りにした強い布ができているからである。一々の細かい品々が、物の値打ちや、彼らの老年の日に、それによっていくらかの休息が保証される物を手に入れる前に山路を越えてしなければならない重荷の旅のことを、毎日学んではまた復習している賢い経済的な人々の、秩序と清潔を愛する精神を、気軽な満足を、かなりな裕福さを顕わしている。
 それに彼らは、贅沢な物には少しも金を使わない。とにかく、窓のそばにあるあの小さい鏡を見たまえ。あれはマルティニーの市で買って来た物で、彼らの質朴さを語るものだ。おそらく不幸せなナルシスを救ったことだろう。もっと裕福な家庭でも、絵の代わりに着色の版画を見るくらいがせいぜいである。それは旨く黒い木の額縁に入れられて、蠅を防ぐためにガラスは被われているが、題材はたぶんナポレオン一世と、その生涯の大きな事件とを取り扱ったものだろう。なぜかといえば、彼の事業はこの山の中にも大きな衝動を与えたし、また人々はローヌの渓谷を見おろす岩の上から、サン・ベルナールを越えに行く大陸軍グランドアルメが、人間の河のようになって進むのを見ることができたからである。しかし、最もしばしば見られる物は、寝台の傍、十字架と、黄楊の枝へ載せた小さい聖水盤とのまわりに集められた聖像である。そこには羊の皮をまとった洗礼者聖ヨハネ、深い眼を見ひらいて、人間の方へ両腕を差し出している、優しく輝やかしい小さいイエス、それにマリア、わけても、胸をすこしあけて、世界の罪悪のために七つの短刀で貫かれたその心臓を見せている処女マリアの像が見られる。また聖水盤の下には、きまって、毎日の敬虔な行事を告げる念珠が懸かっている。なぜかといえば、カトリックの信仰はサルヴァンに深く根をおろしていて、確固として、非常に古い伝統をなしているからである。この地方は最初に伝道された所で、おそらくは五十八年ごろのことである。三百四十九年には、聖テオドール司教が、すぐ近くのマルティニーに在職していた。サン・モーリスの修道院は西欧での最も古いもので、久しい間最も著名であった。また、ダン・デュ・ミディの巨大な石灰岩地層の麓で、ローマ皇帝マクシミアヌスが光栄あるテーベ軍団を虐殺して、六千六百人の殉教者を天国へ送ったのもそこであった注・1
(注1――しかし、この伝説には多くの異論がある。)
 つねに維持されていて、またしばしば説教の中でも言及されるこの神聖な思い出は、近隣諸地方の信仰を、また特にサルヴァンの信仰を鍛えなおす力強い原泉でなければならなかった。
 しかもサン・モーリス修道院長の、長い、警戒的な監督の下で、他からのどんな息吹きがサルヴァンのカトリック主義をみだしに来ることができたであろう。従ってそれは長い間純粋で、素朴で、また、よく潑刺としていた。そして、住民の一部の間に変質が始まったのは、ようやく現代になってのことである。とはいえ、日曜日には、小さい鐘楼の乱打する陽気な、ほとんど踊るような合鳴鐘カリヨンの響と共に、山人の家族たちが、ことに女たちは念珠を手に、祈禱の本を倣虔に胸へ押し当てて、瞑想的な様子で、ひどく誠実に、路という路からやって来るのが見られる。ミサを聴くために三里あるいは四里を歩いて来る者も少なくない。しだいに広場が一杯になる。男たちはかたまってしゃべっている。しかし、騒がしくはなく、ほとんど小声で話している。女たちは手間どらずに自分たちの腰掛けのところへ跪きに行く。彼らはマリアさまや聖者さまたちに聴いてもらいたいことを、いつでもたくさん持っているからである! しかし、その内にお務めの時刻が近づく。今度は男たちが教会の正面玄関のほうへ進んで行く。その扉は大きく開け放たれて、奥の方の花で飾られた祭壇や、燃える蠟燭が見えるようにしてある。彼らは一人ずつ十字を切りながら入って行って、硬い膝を無器用に折り曲げる。絶え入るようなカリヨンの最後の響がまだ空中で顫えている。教会の中は一杯、後から来た者たちは玄関のまわりで押し合っている。しんとした沈黙が始まる。神聖ミサを誦する司祭の声が外まで聴こえて来る。合唱隊が、粗野な声で、しかし時々は美しく、彼らには意味のわからないラテン語の答唱を歌う。
 お務めの最中に、主任司祭は説教壇へ登って一場の短い説教をする。世界が彼にとっておぞましい物に見える日には(そして、こういう日が最も多いのだが)、彼はこれら善良なサルヴァンの人々の不信心な行ないと罪とを口を極めて非難する。彼は彼らにあんぐりと口をあけた地獄を見せる。そして、そこから、呪われた者の叫び声や悪魔の嘲笑と共に、彼らに向かって恐ろしい炎の息を吹き上げさせる。反対に、もしも機嫌のいい日だと、彼は彼らといっしょにヤコブの梯子を登り、天国の戸を少し開いて、消えることのない栄光や神の玉座の下にけだかくも群れつどう天使や聖者たちを見せ、そして、つねにマリアを、貧乏な者たちにとってはそんなにも近づきやすく、また彼らのために愛する御子から何物でも受けて来て授けたまうあの優しきマリアを見せるのである。選挙の時には、以上のような説教の中へいくらかの政治的な暗示が織り込まれ、そして、それは要するに天国へ投票するか地獄へ投票するかの問題だということを、その信者たちに呑み込ませる、というような場合がしばしば起こる。
 大祭の日には、ミサが終わると広場の周囲で行列が催される。すこし下手な、しかし、大きな声で一心に斉唱されるラテン語の賛美歌につれて、群衆はゆっくりした歩調で二、三回ぐるぐる回る。僧袍をまとった主任司祭がそれに続き、助祭、十字架捧持者、聖歌隊、白衣の子どもの合唱隊、金ぴかの旌せい旗、真っ昼間に燃える蠟燭などがその後に従って行く。
 こういうのが、いくらかの偶像崇拝をまじえた彼らの純朴な宗教である。しかし、要するにこれは真実の宗教と見られていいであろう。どんな形式の下であれ、もしもそれが聖なる高所への愛の飛躍でないならば、そもそも宗教とはなんであろうか。そして、その飛躍のなかでは、唯一にして聖なる神の姿しか考えられないなどとだれがあえて言うであろうか。神と、天国の他の人々との間に区別を立てる仕事は、冷やかな博士たちに任せるがいい。処女マリアや聖者たちの身長を測って、彼らには人間の丈しかないなどということを発見する仕事は、高慢な学者共にくれてやるがいい。これら謙虚な山人たちにとって、彼らが夢み憧れる天国はそんなにも高いものである。それは栄光と至福とのあまりに燦たる光に輝いているので、そのまばゆさに、祭りの君と、その君をとりまく立派なぼくたちとを区別しようなどと、彼らは到底思いもしない。マリア、ヨセフ、聖ペテロ、聖ヨハネ、聖モーリスは、いまや姿を変えて、永遠に純潔で高名な偉人となり、聖者となっている。一方、彼ら貧しい山人たちは、小さな、単純な、粗野な、哀れな罪人である。してみれば、区別をするなどということが彼らにとって何の役に立つだろう。何よりもまず彼らの見るものは、その心願が向かう摩訶霊妙の天国であり、またやがて自分たちの番が来て、身には光をまといながら、盛福な人々の間に伍して、永久の歓喜のうちに休らうことの許されるであろうあの赫耀たる、永遠の祭りである。そして、この望みこそ、彼らにとっては、荒い労役の時の支えなのだ。峡谷の険しい小径を、おそらくこれを千度目として、苦しみながら登る彼ら善良な老人の一人ならずが、たまたま天国を考えて、いくらかは荷の軽くなるのを感じたこともきっとあるに相違ない。
 彼らのすべてがこの美しい夢を生活の道案内としていると考えるのは、しかし、幻想に類することかもしれない。これは少数の、最も善良な、最も謙虚な者たちの場合であって、残りの者は、天国への望みよりも、むしろよけいに地獄への怖れの中に生きている。そして、さらに、他のどこででも見られるように、ここにもまた天国も地獄も信じない者たちがいる。サルヴァンにとっての由々しい兆候は、こういう不逞な精神が日ごとに数を増すことである。ミサの最中に笑ったり話をしたりする者や、教会を出ると説教の悪口を言うことを惧れないような者が、昔よりも遙かに多くなったことは人の見るところである。司祭は、自分の言葉を聴かせるためには、説教壇の上からますます盛んに雷鳴を落とさなければならなくなった。彼は時々それを素晴らしい精力でやる。そして、機に応じた毒舌を弄したり、ブリデーヌ注・1も否認しないような雄弁を振るったりする。或る日教会の群衆の中から、村でもしっかりした精神を持っている幾人かの者が説教の最中に外へ出てしまった。その説教があまりに露骨に彼らに当っていたからである。
「出て行け!」と、司祭は厳しい目つきと予言者のような身振りとで彼らを見送りながら言った。「出て行け!………。お前たちは教会から出て行くことはできる……。だが、地獄からは出られないということをわたしは宣告する!」
(訳者注1――ジャック・ブリデーヌ。十八世紀におけるフランスの宣教師で、普名な雄弁家。)
 人々がそう呼び、またおそらくそれが事実でもある「進歩」の潮は、平地の都会や田舎でほとんどすべての物の形を変化させた揚句、今では山地まで押し寄せている。それは毎日いよいよ高くアルプスの山腹へ上がって来る。それはすでに多くの渓谷の中心まで入り込んで、その波が少しでも触れていないような遠い隠れ家はもうどこにもない。潮は高まる。そして、その前では昔の純朴な宗教も、古くからの風俗も、愚直の伝統も、さらにあまりにしばしば正直さえも後退し、消滅する。いまやその波が、つい先ごろまではあんなにも鄙びていたこのサルヴァンヘ上がって来た。サルヴァンは変わる。すでに変わってさえいる。そして。諸君が今読んだばかりの叙述も、年と共にその真実性を失うのである。
 他の土地でと同様に、ここでもまた、そうした変化はまず第一に服装の点に目立って現われている。今でもまだ日曜日には几帳面に教会へ来るあの群衆を見て、その中に昔の着物を捜してみたまえ。男たちの中ではもうそれは見られない。金ボタン付けた鳶色の燕尾服、窮屈そうな半ズボン、きっちりした白い靴下。尾錠の付いた靴。そういう物を彼らは皆捨ててしまった。もしも部分的にそうした物を身に着けている一人二人の老人を見でもしなかったら、今述べたようなのがサルヴァン人の昔の服装だなどとは到底想いも及ばないだろう。女たちだけはもっと忠実に昔風を維持している。平地で行なわれるのとは反対に、彼女らは新しい流行に蚕食される者の中での最後の者たちである。短いスカートを穿き、体をきっちり締めつける黒い胴着を着、袖をふくらませ、襞を寄せたリボンの厚い花環を巻いたヴァレー風の奇妙な帽子を冠った女たちを、まだ君は到るところで見ることができる。彼らは女に特有のあの直観から、平地の服装は、平地の思想や虚栄心を運んで来ると思い、着物の襞の間や裏側には、無信仰だの、大都会の風俗――神父さまがあんなに怒って仰る風俗――だのが忍び込んでいると思っている。もちろん彼らにしたところで、新しい虚栄心がないわけではない。サルヴァンの奇麗な娘たちは、いずれも大家族の大戸棚の中に、金の縫い取りをした、立派なリボンの飾りを二つや三つはむろん持っていて、それを日曜日のたびに帽子へ付けかえるのである。しかし、彼らは山の慣習と宗敦とを固く守っているので、その山人らしい服装にも執着を持っている。それにしても高まる波は一人は一人と彼女らを捕えて行くだろう。そして、彼らのヴァレー風の帽子に最も美しい飾りをつけている娘こそ、たぶん真っ先に捕えられるに違いない。
 進歩と近代的風俗とのこの容赦のない潮は、さまざまな方法で同時にサルヴァンヘ運ばれて来る。その最も著しい物は、おそらく鉄道であり、新聞であるが、それにも増して有力なのは、旅客である。彼らは数年前から、シャモニへ行くにはフォルクラだけが唯一の路ではなく、サルヴァンを経由する路もまた同様に短くて美しいということに気づいていた。そこでトゥリアンの峡谷へ回廊式棧道ガルリーを造ってこれを利用することを考えついた自治村は(今では毎年一万人の旅客がこの谷を訪問している)、あんなにも悪かった古い小径を改修して、騾馬が通れるほどの幅の広い、平坦で楽な、良い路にした。これが現在の路で、一里を五十二曲がりで登る非常に美しい路である。この新機軸は完全に成功した。好い季節になると、毎月美しい旅客連中が村を通って、一、二時間の休息をとるためにそこへ足を停めさえするのである。
 生活がそんなにも楽そうな、また、金を落とすためにだけ握った手をあけるような、そうした幸福な旅行者たちの通るのを見ながら、サルヴァンの者たちは考え込んでしまう。彼らはこんなにも辛い、こんなにも高価に購われた自分たちの生活を思い、山の険しい小径を通っての荒い労働を思って、全く新しい欲望が自分たちの衷に生まれるのを感じる。彼らは生計の資を得るのに、もっと楽な、もっと金になる道のあることをちらりと見る。彼らは肩布団パイエに嫌悪を感じて、近い内にはその永遠の山坂歩きから手を切ろうという期待を逞しくする。
 彼らがこうした誘惑に抵抗するには、実にたくさんな勇気が必要だろう。子どもたちでさえ、今日それを経験している。径のほとりへちょうどその重たい荷をおろした子どものそばへ坐りたまえ。もしも君がその子に話させることに成功すれば、彼はちょっと考えた末に溜め息をつきながら君に言うだろう。「でも、やっぱり、サルヴァンでは生活はひどく苦しいです。たくさん働かなくっちゃなりません! たくさん歩いて運ばなくっちゃなりません!」それから、ちょっと黙った後で、子どもはまた続けるだろう。「少なくとも、旅行する人たちのために、フォルクラのような良い路がわたしたちの方にもあればいいんですがね! あっちには二輪馬車でも通れるような路があります。みんなが、もっと金のある人たちが、シャモニまで乗り物で行けるような人たちがあすこを通るのはそのためなんです。」
 いまやサルヴァンの人々の熱烈な野心は次のようなものである。即ち、毎年あの有名な渓谷を上下する群衆のせめて半分でも、自分たちの方へ引きつけること。
 それにまた、サルヴァンそのものが旅客にとっての快適な滞在地であり得ることや、彼らがよそでと同様に愉快な物、珍しい物を、そこでもまたたくさん見ることができるだろうということに人々は気づいている。彼らは言う、遊覧客という者は大きな恐ろしい岩壁や、荒々しい水や、ものすごい滝や、氷河や、そこからいろいろな土地を見つけ出すことのできる山頂などを好きなものだ。それならば、セクスやパールの高みから眺めた峡谷の岩壁以上に恐ろしい岩壁や、グレーの滝以上に美しい滝がどこにあるだろう。また断崖を攀じ登ることを楽しみにする人たちに対しては、トゥール・サリエール、ピック・ドゥ・タンヌヴェルジュ、シーム・ドゥ・レストなどを別にしても、ダン・デュ・ミディの山頂以上にあらゆる方角を遠望することのできる山頂がどこにあるだろう。サルヴァンもまた遊覧客のための一つの小さい中心地たることはできないだろうか。遠足や旅行の目的地とはならないだろうかと。
 こんなことをいろいろ人々は話し合う。それから彼らは一軒の旅館を建て、道路や、騾馬道や、別荘をもくろみ、入費や、前借や、土地が盛るようになるまでの初めの数年間の冒険を計算する。そして、この新しい富源に向かって、最も醒めた、最も熱心な精神の者たちは、ことに若い者たちは、両腕をのばしてとびかかる。しかし、用心深い老人たちは、そんな風にしていったいどこへ連れて行かれるのかさっぱりわからないので、この計画に反対してそれを止める。或る人々はこの進歩熱は一つの害悪であって、このために彼らの愛するサルヴァンは滅びてしまうだろうと思っている。両腕を広げて進歩へと走る新しい時代の者たちとは全く反対に、彼らは過去の中に退くことができたらと思い、もう一度その山々の襞の間へ身を匿す方がどんなにましかしれないと思っている。中には、広場に外国人がいるのを見かけると、そこを避けて通らない者もある。彼らは古いシャレーの間の狭い路地を音も立てずに抜けながら、馬をおりて広場じゅうに騒ぎと虚栄心をみなぎらせているあのヴェイルを懸けた紳士や、あの優雅な貴婦人連へ、時々こっそり一種異様な眼つきを投げる。
 そして、彼ら哀れな老人たちの考えていることは、概してまちがってはいない。単純で素朴な真のサルヴァン、その辛い労働にもかかわらず、一致協力して幸福な一大家族をなしていたサルヴァンは、日は一日と消え失せてゆくだろう。おもむろに、しかし、宿命のように、まだその名を担う何物かが彼の後は継ぐだろうが、昔のもっと大きな田舎びた魅力は失われてしまうだろう。
 サルヴァンは熱心に外国人に呼びかけている。おお! 安心するがいい! 彼らの来ることはまちがいあるまいから。サルヴァンの道には、シャモニへ通ずるあらゆる道に伍する資格があるし、付近では真に珍しい独特な美しさを持った風景が幾つも見られるのだから。それにまた、これ以上に健康な、これ以上に光豊かな、これ以上ヴァレーの美しい空の下に打ち開けた、それをめぐる厳しさにもかかわらずこれ以上喜々とした場所を、どこかに求めることはむずかしかろうから。かててくわえて、平地のすぐ近くに位していながら、全く山の上に引っ込んでいるのだから。
 そうだ、外国人は来るだろう。金を持って来るだろう。しかし、彼らに面する時、どれだけ多くの物がもはやふたたび帰らじと去って行くことか! 彼らは自分たちといっしょに都会を持って来るだろう。それなしには片時も生きていかれない都会を。彼らは旅館を要求するだろう。そして、その要求を充たそうと急ぎ慌てて、人々は古い木造のシャレーを一つは一つと取り壊してしまうだろう。年老い疲れた仲間のようにもたれ合って、狭い路地の中で未だ互いに支え合っているあのシャレーを。
 そうなれば、肩布団を背負う者もなくなるに相違ない。或る者は案内人になり、或る者は料理屋の主人になり、また或る者は鉱物や、高山植物や、木彫細工の商人になるだろう。しかし、彼らがおしゃべりを楽しみに居酒屋へ行くのは、もう日曜ばかりとは限らなくなるだろう。また、そうなれば、悪い小径の傍で、藁や焚火の重荷を運ぶ子どもに行き会うことも少なくなるだろう。しかし、おそらく、あらゆる路の角々で、近所の牧場から急いで摘んで来た花の小さな一束を差し出しながら、顔も赤らめずに遊覧客に手をのばす彼らを見ることだろう。
 それから、(このことを疑いたまうな!)新しい富源を前にして羨望が動き出し、競争が生まれ、他のどこででも見られるような人間的な弱みがサルヴァンでも見られ、かつて友愛的だった生のための闘争が、個人的な、利己的なものに変わるだろう。そして、ついに、美々しい旅客を満載した乗り物が村の真ん中を通過する日、一本の大道が、まだ親しい悌を残している。しかし、半ば閉ざされているあの小さい広場を取りひろげる日、その道は家庭を破壊し、昔ながらの家族的な精神を、古いサルヴァンの魂を、永久に散らしてしまうだろう。もしも彼らの正直さの幾らかが、古いシャレー、古い服装、古い風俗などと共に滅びずに残っているとしたならば、それこそサルヴァンの人々にとってせめてもの幸せというべきである!
 こんなことはすべて杞憂に過ぎず、道楽にする暗い予想に過ぎないだろうか。残念ながら否だ! これこそ彼らの損失をその美に負うているアルプスの幾つかの土地の運命であった。特にこれこそ或る有名な村落の、今日では悲しくも頽廃してしまった或る村落の運命であり、また、その殷鑑いんかんから戒めの利益を得れば得られるように、サルヴァン人のすぐそばに位置する部落の運命だったのだ。
 しかし、事物の流れをだれに止めることができようか。サルヴァンの人々に向かって、今日まであらゆる富の中での最も真実な富を、彼らは実にその欲望の単純さの中に持っていたのだということを知らせようとすることは、おそらく甲斐なき努力かもしれない。

          (「ビブリオデータ・ユニヴェルセル」所載。一八七七年五月)

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 サランシュの峡谷

 広漠とした壮麗な世界へ新しく到着した人間が、喜々としてそれを所有し、無人の大陸を越えて進みながら、一々の丘の登りのジグザグから、自分の前に未知の空間のひらけていくのを見た時は、そもそもどんなにか美しいことだったろう。この厳かな清すが々しい寂寞に面して、森の影に、神秘な木の葉のざわめきに、岩壁のあいだを流れる水の激しい轟に、そもそもどんな楽しい不安を彼は感じたことだったろう! マンモスや馴鹿トナカイを追っての狩猟の毎日、太陽や好天気を求めての絶え間ない移住は、世界の美しさと広がりと、見えざる力によって潑刺たるこの自然の無限の豊かさとを、彼の眼にいっそうよく見せたであろう。その時こそひとつの宗教的な礼賛の念が彼の心にあふれて、その思想を激させ、最初の歌が、これら万象のうちに生きている偉大なる魂への愛の賛歌が、純粋な熱狂と晴れやかな純朴さとにおいて何ものもこれに比肩し得なかったような歌が、きっと生まれたに違いない。
 しかし、そういう時代はもはやない。人間が大地を所有して、古代の寂寞の中に吠陀ヴェダの賛歌が鳴りひびいたという、あの荘重にも美しい時代は永遠に去った。それ以来、人間の世代は或る神秘な、涸れることのない泉から無量の水となって流れ出して世界の上にひろがった。人類は大地を侵略した。そして、今日すでに老いている大地には、少なくとも人間の足音の響かない所はやがて一つもなくなってしまうだろう。到るところを彼は過ぎ、そして生き、そして悩んだ。あらゆる場所が彼の血潮と汗との痕を残している。古代の無人境はもはやなく、わずかにその断片が残っているばかりである。
 われわれは、われわれの山岳の麓にいて、この侵略の最後の挿話エピソードの一つを目のあたり見ないだろうか。われわれのアルプスもまたひとつの無人の世界であった。その麓に住む人々は、ただ感激をもって凍った寂寞の縁まで登って行ったのみで、久しいあいだ恐怖の念を抱いて彼らを見まもっていた。彼らの襞の中には遠い昔から荒涼とした渓谷が秘められている。その氷河の上には、つい半世紀前までは、まだ一群の近寄り難い処女峰が聳えていた。今日それが幾つ残っている。数えるさえ容易である。ただひとつ、まだ何人の足にも踏まれない四〇〇〇メートルを越えた山が立っているだけである注・1。最も昂然たる尖峰も征服され、最も近づきにくい氷河も跋渉され、記述された。最も怖るべき峡谷でさえ、自然がその恐怖の秘密をあらゆる生物に永久に隠しおおせたと信じていたあの深淵でさえ、今では人間の巧知の前に暴露されている。梟ですらあえて入り込もうとはしなかったトゥリアンの峡谷を、毎年一万人の物見高い遊覧客が訪れている。
(注1――疑いもなく著者はここでダン・デュ・ジェアン〔四二三三メートル〕を指して言っている。その後幾度かの空しい試みがなされた宋、ついに一八八二年七月二十九日、不敵なマキニャを連れたV・セラ氏によって、この山は登攀された。続いて同年八月二十日にはW・グラハム氏が登頂した。〔編纂者〕)
 このようにして潮は上がる。或る優勢な力に湧き立たされて絶えず上がる。何物もとどめることのできない、またそれを嘆く人々さえも協力を余儀なくされる運命的な侵略の潮が。
 路も通わぬひとつの谷が、斧の丁々の響いたこともない森林が、何人ものぞき込んだことのない深淵の中で轟く滝が、まだどこかに在ることを知っている者こそ幸いだ。それを楽しむために急ぐがいい。なぜかといえば、明日ともなれば群衆はその静寂を発あばいて、そこから詩を追い出してしまうだろうから。
 われわれの近くに、そうした未開の片隅が一つあった。それは長いあいた何者の眼からも免れるという幸福を持っていた。ただ幾人かの慎しみ深い誠実な愛人だけが、佳い季節にその静けさを味わいに行っていた。しかし、いまや時の鐘は鳴らされた。人々はそこを発見し、思惑事業はその美が産む利得を計算した。そして、近い内に、遊覧を群衆の接近を容易にするために、回廊式の棧道や小径が開かれることになっている。間もなく名所として流行になるべきその未開の片隅、それはサランシュの峡谷ゴルジュである。
 もしもその最終の飛瀑を描いたディデーの絵で一般的なものになっていなかったならばサランシュの名を知らない人はかなり多いのではないかと思う。しかし、普通ピッス・ヴァーシュの名で知られているあの飛瀑の話ならばだれでも知っている。それでは、つねに透明で、豪雨の時でさえ澄んでいるあの美しい水の源はどこにあるのだろう。そこからその源流が落ちて来る狭い、近づくことのできない洞窟は、どんなに神秘的なものだろう。このことをたいていの人たちが知っていない。まだいくらかの新味が残っている間に、これからそれを叙述してみよう。
 ヴヴェーやモントゥルーから眺める時、壮大な全景の実に立派な玉冠となっているダン・デュ・ミディ、もしもあのダン・デュ・ミディーが突然姿を消したとしたならば、人はその山のうしろに、そしてほとんどそれと同じ位置に、見事な氷河を充填した一つの山塊が峙ち、しかもその主峰が決して彼に高さを譲っていないのを見るだろう。一般に知られるにしてはあまりに後方に引っ込んでいるその山塊、それがトゥール・サリエールの山塊である。この山塊は、一本の高いアレートで結びついているダン・デュ・ミディのそれと共に、高い支壁によって閉ざされた一つの広大な圏谷シルクの半分を形作っている。この圏谷の真ん中に約六千尺の水準を保って、美しく草に被われ、幾筋もの澄んだ細流によって溝を掘られた、一つの平坦な、見事な演技場アレヌーがある。山奥にかくれて人目を逃れ、夏の最中だけ無数の家畜の番をする牧者たちが住んでいるこの不思議な野原は、土地の人々からはサランフと呼ばれている。そしてわれわれが捜そうという水源もそこにあるのである。そのサランフの小川のほとりで数時間を暮らし、彼らの曲流の間をさまよいながら、そこのあらゆる流れの中で最も美しい流れを、サランシュの水源と呼ばれるにふさわしい流れを捜しに行くことには、まさにそれだけの値打ちがある。あるいは諸君は、どの流れも同等な権利を持っているという考えを抱いてその訪問から帰って来るかもしれない。しかし、たちまちまたそこへもどって行きたくなるのは必定である。そして、ついにその主流が、トゥール・サリエールの険しい岩壁の真下、圏谷の奥に横たわる小さい氷河に源を発していることを確信するにいたるだろう。これは、一歩は一歩と新しい支流を受け容れながら、草原を静かに横切る。やがて、末端に達するころには、透明な、きらきら光る波を持ったほんとうの川になる。これがサランシュで、ほとんどそのままローヌへ合するのである。山々に囲まれた圏谷はこちら側で低くなり、ローヌ渓谷へ向かって落ち込む一つの狭い峡谷によって口をあけている。サランシュの流れは世界を駆けめぐりたい心に逸ってその口へ突進する。しかし、峡谷は深くて険しい。ここからは見透しもつかない。川としてもこれへ飛び込むのは難事業である。その美しい結晶は最初から鋼色をして輝く泡に変わる。優しいサランフの草原もさらば、花々の中を行くのんびりした散歩路もさらば。いまやその波が逆巻いて行くのは荒々しい花崗岩の上である。どこか曲がり角へ来ると、川は花咲いた石南の美しい束を愛撫しようとして速度をゆるめたがる。しかし、運命は彼を曳いて行く。今は絶え間なく飛び上がらなくてはならない。わずかにどこかの岩の穴の中で旋回しながら、一瞬間己が姿を我と賞めるくらいのものである。それから自分の運命を悟って川は素直に身を任せる。かつてこれ以上軽やかな水や、これ以上ふっくりした白い泡を見た人はあるまいと思われる。
 幾度か素晴らしい飛躍をしながら、川は峡谷の或る地点へ達する。そこでは地勢が急に平らになり、あたりが開けて、サランフの縮図のような一枚の草原の絨氈がひろがっている。しかし、川は躍進する勢いに曳きずられて、その波が遊ぶためにぐずつく暇のないうちに、この小さい平地を通り過ぎてしまう。そこに一群のシャレーの見出されるこのかわいい緑の揺籃、これがヴヴァン・オーの放牧地メイヤンである。
 ダン・デュ・ミディを下る多くのアマチュアは、ここまではサランシュの流れについて来るが、サルヴァン道を通って下山しようとするために、渋々ながらこの平地を見残して行く。しかし、この川についてもっと遠くまで降りてみようと思う者は一人もない。ヴァンの放牧地の下では、峡谷はたちまち変化して深淵になるからである。サランシュはそこでは淵から淵へと跳躍する。そして、深みから上がる耳を聾するばかりの響を聴くと、その跳躍がどんなに高く、どんなに猛烈であるかがわかる。
 サランシュの迅速な生活の大戯曲が始まるのはそこである。川はこの地点を離れるや否や、もう荒々しい箇所しか、無人境と思われるような箇所しか通過しない。眩暈を知らない人たちや、岩登りに多少の経験を持っている人たちならば、これについて行くことができる。そして、そこで費やされた時間や労力を、決して彼らは悔やみはしないだろう。
 人は左岸を行く。もう路などはない。急流に沿って、岩、樅、灌木の茂みなどを越えて進むのである。どの方面を見ても、視野の線は眼に見えぬ深淵に向かって前のめりにめり込んでいる。光景には一足ごとにいよいよ野性のエネルギーが加わる。岩壁はしだいに傾斜する。そして、間もなく二十歩の前方でそれは姿を消して、行く手には垂直の断岸が迫る。ますます兇猛になった水の轟が第一の飛瀑を知らせる。人は深淵に近づく。そして、それを見おろす岩の突起を捜して、よく見ようとして身をかがめる。狭くて果てもないような一つの怖ろしい裂け目が見える。サランシュは爆音上げてそこへ突入し、ただ一つかと見える四つの飛瀑となって五、六百尺の深淵を飛びおりる。これらの飛瀑のうち、今のところ見えるのは最初のものだけ、破壊された岩の間を雷のように轟いて落下する猛り狂った泡の円柱だけである。崩壊した岩の塊が幾つか、割れ目の岩壁の間へ不思議にも引っかかって一種の荒々しい橋弧を形作っているが、滝はその下で消えるのである。岩に沿って慎重に下りながら、突起から突起へと、泡立つ深淵に向かってだんだんと進んで行く。橋弧からいくらか下になったそういう突起の一つへ取り付くと、洞窟から出て来る怪物のように、たぎり立つ怖ろしい泡の塊が、その咆哮で山を震わせながら飛び出すのが見える。暗い穹窿の前で水煙が日光と戯れて、そこに三重の虹を現わしている。
 下るにつれて瀑布の轟はその烈しさを倍加する。そして、底の方から峡谷のかなりの高みまで濛々と上がって来る銀色の水煙は、最後の飛瀑の大きいことを知らせる。しかし、ひどく悪い足場に身をさらさずに、いつまでもこの割れ目について進み続けることはできない。止むを得ずそこを離れて、もう少し良い路を左岸に求める。
 灌木の茂みや木の枝にさいなまれたり、岩の割れ目の中を滑り落ちたりしながら、今までよりもいくらか険しくない或る箇所へ着く。そこからは、岩壁を搦んで自然の路になっている帯状の地面を少し登って、滝の近くへ帰ることができる。路はいよいよ狭くなって、ついに割れ目の取り付きで消えてしまう。この割れ目を見ようと思うならば、もっと高い、もっと突き出た一つ二つの突起をなおも登って行かなければならない。すると突然、深淵から三歩のところ、そこから最後の瀑布が落下する高みへ出る。岩は滑らかでつやつやして、それ以上近づくことはできない。ただ冷静な人だけはなおも進んで、濡れてすべすべした最後の突起の上へ足を置くことができるだろう。そして、口では言い現わせないような光景を見ることができるだろう。
 囂々ごうごうたる響を上げて高みから落下する水は非常な兇暴さで岩をたたき、水の大塊は怖ろしい勢いで斜めに跳ね返って、あとからあとから長大な弧を描きながら深淵目がけて躍りこむ。他の飛ぶごとに自分までが奈落の底へ運ばれるような気がする。絶えず新しくされるこの印象は、到底長くは耐えられないような震動に起因するのである。それにもかかわらず、人がそこから眼をそらすことができないとすれば、それは、この狂暴な力の莫大な奔逸が与える魔力のためである。見込まれたように、また魔術に掛かった者のように、人はやはりそこへ帰る。最も賞賛を博している滝の中にさえ、これ以上魂を奪うような効果を生む滝は一つもない。
 もと来た路を少し引き返すと、滝の下の方でしばらく平らになった峡谷が作っている小さい谷底へ、楽な降り路によって達することができる。いくらかの木材で造られた橋のあるこの小さい谷は、グレーと呼ばれている。
 その滝の落下のためにまだひどく震えているサランシュは、ここではわずかにその泡を鎮めて、しばらくは波の透明さを取りもどす。
 この場所は、まだいくらかの遊覧客の間では知られている。彼らは時々サルヴァンから登って来てこの滝を賛美する。しかし、峡谷は上も下も歩けないものと判断しここで立ち停まってしまう。平地からここまで来るのに彼が費やした二時間の努力に対して、この風光が充分大きな報償に値することは事実だ。しかし、グレーの荒い岩壁を乗り越えて来て右岸の苔薫した巌の間に坐り、さて、滝の方へ回って、そこからサランシュといっしょに自分が経めぐって来た路を眺める人にとっては、またどんなにより多くの魅力があることだろう! サランシュをその源から知っている人は、最大の憤怒のただなか、最も怖ろしい絶壁に囲まれたその場所にさえ、優美と、純潔と、輝かしさとを認め、その怒りの極端な暴烈の中にも、なおいくらかの優雅を認めることだろう。第一の瀑布の下、あの高い所で、その一々の飛躍につれて燦々と上がる水煙の羽飾りを見たまえ! 深淵の底から噴き上がって、暗い岩壁の前に銀色の面紗を懸ける豊かな飛沫しぶきを見たまえ!
 苔の上に横たわり、創造者が造ったままのこの自然と共にただ一人いて、今こそそのあらゆる思い出を追い払いたいと思う世界から隔絶しながら、人はこの荒涼とした場所で樅の木の香や空気の清すが々しさに恍惚となり、鞺とう々たる水の轟の囚われとなって、いつまでもじっとそこにいることができる。こんな時間こそ生活の最も美しい瞬刻の一つではないだろうか。肺は純粋な空気を急いで呑み、血はいよいよ自由にめぐり流れて、人は潑刺とした生気と軽快さとを己れに感じる。
 思想もまた、世間の関心事から解き放たれ、日常の鎖から自由になって飛び立ち、光のなかで波と戯れ、松の梢と共に揺れ、天空を翔ける鷲を追う。思想は時空を超えて、この古代の荒い自然と全く合体する。それは愛をもって自然を抱く。そして、人はやがて優しい調和的な感情に満たされて、世界の黎明期の平和と幸福についてなんらかの感じを持つ。その心の奥底に、人類が荒野に歌ったあの最初の賛歌の響をいくらか聴く。
 サランシュをその水源からここまで下って来た人は、もう。この流れと別れることはできないだろう。それが最も怖ろしい深潭へ躍り込むのを見た者は、なおもそれについて行こうとするだろう。
 ヴァン・オーとグレーとは多くの遊覧客によって訪問される景勝地である。しかし、真に未知の場所は、向こうのヴァソヌの峡谷から始まるのである。この最後の部分へはだれも寄り付かない。ただグランジュの部落の最も大胆な草刈り人が、ローヌの谷を見おろす険巌の上まで彼らのいわゆる「ミアンデー」を、あるいは草刈りをしに行くだけである。
 橋の下にはなお一つ別の、幅の広い、囂ごう々鳴る、豊かに振り分けられた滝が轟いている。それから水はいっしょになる。峡谷は暗く狭くなって岩の塊に塞がれる。小径は右岸の羊歯の中を縷々るるとして続いている。日に照らされながら、相変わらず轟音と跳躍とを止めないサランシュについて、人は行く。しかし、どうしたらばその流れと同じように速く下ることができるだろうか。賛美したり楽しんだりするために、一歩ごとに立ち停まってはいけないだろうか。
 ほのぐらい松に頂きを飾られた高い岩壁の間へは、太陽が純潔な光の波を注いで、深淵を満たし、そこら中に生気を爆発させている。樹液に満ちた力強い植物は到るところの岩に密生して、その厳しさを隠している。極くわずかでも支えになる箇所のある岩、滑らかだったり垂直だったりしない岩は、いずれも彼らに侵略され被われている。最も小さい割れ目からも節くれ立った逞しい幹が出て、爽やかな葉むらの冠をつけている。そして、切り立った岩壁の横腹では、年古りた松がその裂け目へ根をおろし、頑強に成長し、岩にかじりつき、彼らの暗い枝を深淵の上で揺すっている。こんな固い岩の中から、こんなにも多くの生命が生まれ得るということは、容易に理解し難いことである。
 春の朝のこの峡谷にも増して、美しい老朽と青春との対照を見せるものはない。到る所でぼろぼろになっている片岩は、目も覚めるやうに清すが々しい植物に被われている。若い秦皮とねりこの葉は微風にふるえ、緑の羊歯はうつむいて揺れ、銀色の波は光のなかで戯れ、その潺湲せんかんの響に和するように、上の方の滝の重い轟が間をおいて聴こえてくる。それは音響と運動と、光明と色彩との祭りである。
 人間のためよりももっとよけいに山羊たちのために造られた小径は、高い草や灌木の茂みや、雲母質のきらきらした岩の崩れの中を下って行く。峡谷は狭い。それで人はいつも急潭から数歩のところを辿るのである。
 ここでサランシュは偉大な落下と、猛然たる憤怒をもってその道程に終わりを告げる。しかも斜面はなお険しく急で、流れは行く手を遮る岩塊のまわりに沸騰する。しかし、ついにその運命と定められた目標に向かって、宿命的な迅さで近づいて行く。サランシュがその眼前にローヌの大渓谷の打ち開けるのを見るまでには、寂寞の中でのただ一回の落下だけが残されている。それゆえ、これを最後として、その嫋たおやかさと、優美さと、波うつ泡のあらゆる豊かさとを、なんと彼女が繰りひろげることだろう! 眩ゆい束をなんと千変万化させることだろう!  単に一つの波だけではなく、すべての波が真珠であり塵であり、一切が光り煌く。これこそ山の密室での彼女の最後の戯れであり、またこれこそ彼女の最も美しい姿の一つである。その終焉の時に歌う白鳥のように、消える瞬間に光を盛り返す炎のように、平野の泥水に身を委ねに行く前に、彼女は光を、そのためにこそ生まれてきた、またそれを生きることをあんなにも願っていた光を、もう一度見たいと思う。すべての波がいちどきに突進する。一切が、最小の一滴までが、なおも光の片鱗を奪い取る。それから彼女はふたたび倒れて、でこぼこした河床へ入り、なおしばらくはその中を走る。と、突然、両岸の岩壁は遠ざかり、ローヌの渓谷は巨口をあけ、最後の断崖が彼女をそこへ落下させる。
 ある拙劣な投機事業がこの最後の瀑布を占領した。そして、利益を獲るためにそれを傷けることに成功した。一つの回廊を設けるために水束を制し、流れを抑えた、あの有名なピッス・ヴァーシュがそれである。
 寂寞と山とを愛しながら、冒瀆の手中に囚われとなり、平野を墓として、全渓谷を前に白昼をかくて死ぬる、サランシュの傷ましい運命よ!
 われわれとしては、ここで彼女と別れる。この最後の瀑布は垂直である。周囲はすべて越えることのできない絶崖ばかり。それで、この方向を斜めに下るには、左手へ逸れて行かなければならない。
 この最後の道程は、危険がなくもない二、三の眩量的な通路を提供する。
 以上が、簡単な叙述ではあるが、優雅で清澄なサランシュの経路であり、やがては万人の好奇心の糧となるべくして、今はまだ秘密にされている美である。たまたまその寂寞を味わった者は、それが物見高い群衆の手に渡るのを見て――独りそれを味わう術を知っている人々や、そこから詩的な印象や美しい思い出を持って帰る人々ばかりでなく、流行に誘われて来る人々、来るために来る人々、そして、なんら理解もなしに歩き回る人々、それらの人々の手に渡るのを見て――、一抹の痛恨を抑えることができないだろう。
 とはいえ、この必然の損失にもかかわらず、群衆がそれを知って、今後多数の人々が楽しみを得ることのできる方が善いのではなかろうか。われわれにしても、もっと多くの訪問客をサランシュヘ導こうとしてこんな文章を書いているのではなかろうか……。ああ! 悲しむべきは足をもって踏み荒らさずしては寂寞を味わうことができず、死なしめずしては一輪の花といえども摘むを得ないこの世の宿命である。

 

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 トゥリアン山群

 その偉大な、独特な美を別にしても、モン・ブラン山脈の中でスイスに属する部分は、大アルプスのあらゆる地点を通じて、目的地へ最も速く達することのできるという得難い利益を仏蘭西瑞西シュイス・ロマンドの登山家連に与えている。レマンの湖畔からだと、その氷河へ触れに行くには半日で充分である。そして、もしもローザンヌから出発するとすれば、三十六時間というわずかな時間で一つの立派な登山を行なうことができるのである。
 それにまた、この山群は、山の愛好者たちに対して、同様に魅惑的なもう一つ別の引力を持っている。それは、まだほとんど探られていないその寂寞さである。この一群は一続きの広い氷の荒野から成っていて、稀にしか通過されず、非常に少ししか知られず、幾つかの誇らかな尖峰を仰ぎ見ながら、その大部分がまだ人間の足跡に対して処女性を護っている。シャモニの案内者や独逸瑞西シュイス・アルマンドの主要な案内者たちが時々通るコル・デュ・トゥール、フネートゥル・ドゥ・サレーナ、それにたぶんコル・デュ・シャルドネを別にすれば、ここは全山脈中最も少ししか歩かれていない地域の一つである。少数の勇敢な登山家連は(大部分はイギリス人だが)、別の可能な路を、たとえばコル・デュ・トゥール・ノワールのような峠を時々越えている。しかし、その氷河の中や、それを囲む荒々しい山稜の間には、地図に下手に書きこまれた、人がただ行きずりに遠くから垣間見たに過ぎないような、また今までだれ一人足を踏み入れようと思ったこともないような、そんなほとんど未知の部分が一つならず残されている。
 さらにまた、この山群は、信じ難いほどに歯形のついた、奇怪なゴティック風の山稜や、比類もない花崗岩の尖峰などと共に、あの偉大で独特なモン・ブラン山脈の一部でもある。こうした長所を残らず考えてみると、フランス・スイスの登山家連が、もっとしばしばトゥリアンの山群を目ざして出かけないことに驚くほかはないのである。
 その理由は、ことによると、シャモニの案内者を使わないでは、他に良い案内者を雇い入れることが困難だという点にあるかもしれない。なるほどわずかな時間でこの山群全部に最善の探検を試み、すべての峠を越え、あらゆる尖峰を攀じようというのならば、第一流の案内者の一人や二人が必要なのは事実である。しかし、この探検から最大の楽しみを見出すのに、そうしたやり方が果たして正しい物だろうか。わたしは経験からしてそれを疑う。二、三人の思慮のある熟練した仲間を手下にし、地図の綿密な研究と場所への事前の調査をとげ、冒険に向かって突進し、他に何の援けも借りずに路を見出して敢行し、他人によって獲得された勝利を一新して全く新たに物を持ち帰ること、実にこれこそトゥリアン山群を跋渉する真の仕方であり、この種の探検に特にふさわしい仕方である。
 わたしとしては、そうした仕方での山々を知ることを学んだ五年このかた、すべての山の中でも彼らを愛し、最も誇らかな最も賞揚されている頂きから、つねに特別な愛をこめて彼らに挨拶し、そして、ふたたび彼らを攀じたいものと苛立つのであった。案内者も伴わず荷背負いも連れず、ただ一人か二人の友だちといっしょに、つねに異なった新しい方向を探ることを試みながら、もう二十度もわたしは彼らを訪れた。そして、わたしが自分の最も消し難い思い出の幾つかを負うているのは、発見と同時に冒険をもってなされたこれらの行程に対してである。ただ読者にとって幸いなのは、わたしの許された紙数の乏しいことである。なぜならば、もしも勝手に話させたら、わたしはこれらの遠足のことをいくらでもしゃべるだろうから。わたしは最初の物の中から一つだけ語ることにしよう。われわれにとって、トゥリアン山群の美の代表者と考えられているものを一つだけ。
 フォルクラ道あるいはファン・ゾー道を通ってシャモニへ行ったことのある旅行者は、トゥリアン氷河がその上部流域から同名の小谷まで下って来て、その間美しい青い氷塔セラックの波濤を一五〇〇メートルも落下させて、アルプスの最も威厳のある氷河の一つを成していることをだれでも知っている。
 初めてそれを近くから見た時、冬ならばこの氷の大瀑布を登りきることが比軽的容易であり、かつ真ん中さえ通れば、その季節の重要な長所として、いかなる場合にも雪崩の襲撃から免れることができるという考えがわたしに湧いた。冬の来るのを待つ、そして、この氷河を越えてトゥリアンの上部台地を手に入れる、これがそれ以来わたしの最愛の計画になった。しかし、それが実行される前にまず幾度かのやりなおしが必要だった。一八七一年十二月二十八日の第一回の攻撃の時は、氷河の脚下へ辛うじて着いたと思うと、たちまち霧と、風と、吹雪とに包まれてしまって、ひどく落胆させられた。二月には快晴に恵まれて約二九〇〇メートルの地点まで達した。しかし、大台地の高みからびゅうびゅう吹きおろす風は、わたしたちの所まで凍った吹雪を送って来て、仲間の一人がひどく寒気にやられて下山しなければならないほどだった。最後に、三月三十日の第三回目の攻撃には、いっそうの成功が得られた。この冬は寒さが非常にきびしかった。雪はマルティニーの上半時間の所にまだあった。P・ルージェ君とわたしとは、ローザンヌを出発するとフォルクラの小さな旅籠屋まで行って泊まった。ここはこの季節には素晴らしい宿である。しかし、夏ならば、時間を儲けるために、絵のように美しいラ・リーのシャレーまで行って泊まる方がさらに善い。旅籠屋の人の善い人たちから聴いた話によると、こんなにたくさんの雪を見るのは三十年来のことだという。われわれの計画にとってはまたこれ以上好都合なことはなかった。午前四時、小さいランテルヌに照らされながらわれわれは峠と別れて、氷河の利用のために造られた水平の路を辿った。そこはすでに労働者の手で掃除されていた。
 冬の最中に、こんな高峻山岳の中心部へ、これ以上楽に入って行ける場所というものは想像するさえ困難である。この立派な路のおかげで、水平に一時間進めば氷河そのものの脚下へ立つことができる。その時風景は一個偉大な性格を顕わし、人はすでに第一流の山岳の真ん中にいるのである。天空色の影をつけた巨大な雪花石膏の階段のように、トゥリアン氷河は険しい横腹を見せて花崗岩質の尖峰の二つの支脈の間を段々になって登っている。まず手始めとして大きな見晴らし台を形作りながら、氷河は緩やかに高まる。それから間もなく一段ごとに大胆さを加えて、いよいよ誇らかに、いよいよ純潔に登って行きながら、約三〇〇〇メートルの高みまで来ると突然姿を消す。銀色に輝く銃眼の一続きがこの上端を横ぎって、生き生きした歯形を空に描いているが、そのうしろには暗い青空のほか何も見えない。向こうには何があるのだろう。あのきらきらした氷の銃眼のうしろには、そもそもどんな純潔な未知の寂寞がひろがっているのだろう。人間の眼にはあまりに美し過ぎてでもいるかのように匿された、その向こうの世界を見たいという止み難い欲望に捉われずしては、この階段の荘厳な登りを考えることはできない。うしろに一つも尖峰の影が見えない以上、あの上部盆地が相当に広く、その境界がかなり後退していると考えられるのも無理ではない。そして、こんな莫大な量をあふれ出させる雪の杯というものは、そもそもどんな杯だろう!
 たといその美しい寂寞の中へ踏み込もうという夢想にも増して容易なものはないとしても、さて、その夢想を実行に移す段になれば事情は全く異なってくる。少なくとも最初の瞥見から判断すると、そこへの取り付き場所は非常によく防御されている。右手には氷を鎧って、ほとんど取り付く術もないような一群の尖峰が並んでいる。左はポアントゥ・ドルニー。この両者の間は絶え間もない大セラックの連続である。全体の印象は、間に氷の幕を張りめぐらした、二つの巨大な花崗岩の櫓のようである。
 われわれはポアントゥ・ドルニーの中腹を張りつめた大きな雪の斜面を強行することにきめた。そうすれば、一種の肩へ達することができて、そこからは頂上へ向かおうと、氷河の上部盆地へ向かおうと、意のままになるように思われた。その基部を護って、秋には、しばしば非常に大きな口をあけているベルクシュルン卜は、閉ざされていた。頭上には斜面が全く規則正しく拡がって、到るところ四十二度、四十三度、または四十四度の傾斜を示していた。それを登るには三百歩でいいように初めは思われた。実際では七百五十歩を要した。
 しかし、台地は、広大な、まばゆい台地は、残らずわれわれの眼の下にあった。それは前方二歩の所から始まっていた。われわれは眼でその神秘な隠れ家を捜し、そこを歩き、その広がり全体を駆けまわることができた。もう邪魔物は何ひとつない! 脚下には、セラックが青い深淵で断ち切られたその氷の塔を立ててはいるが、それが皆われわれの物になった。この高みへ来ることをわれわれは実に熱烈に望んでいた。そして、いまやわれわれだけで、しかも真冬にここへ達したことが実に得意だった。あの熱望、この得意さを思えば、少なくとも今の瞬間には、エヴェレストの絶頂へ足を置くことさえ羨ましくはなかった。そして、案内人や荷背負いの一隊に取り巻かれてモン・ブランの頂上をきわめることが、滑稽なものに思われた。
 ポアントゥ・ドルニーの上で過ごした楽しい三時間、またその帰るさの、シベリア的な寒さのために頥鬚には氷片がつき、木花に鏤められた登山杖が、まるでカトリックの教会で見るあの細工を施した大蠟燭のようになった大斜面の美しい下山。そんなことを語りたい誘惑を今ひどく感じる。しかし、わたしは自制しなくてはならない。台地とその周囲との叙述こそ、読者諸君にとってはもっと有益であろう。
 トゥリアンの上部万年雪ネヴェは、その広袤こうぼうと美とは別としても、少なくともその性格の点で、アルプスのうちでもおそらく独特なものである。それはわずかに傾斜した、完全な、理想的な平和な盆状地で、広々した、かすかにそれと感じられるほどの起伏をもって、無限の白布を繰りひろげている。そこにはさらに広い万年雪の展望台と、さらに壮大な圏谷とがある。しかし、その大きな静かな広がりの効果を弱めないくらいにほどよく立ち、断面の豪放さによって昂然として、金色の花崗岩の気高い尖峰に囲まれて黙然と憩っているこんな広大な雪の湖を、人はどこにも見ることはできまい。真昼には、この雪が大いなる太陽の眩ゆい光に圧倒されて眠っているかのように見え、そのぐるりには、ブロンズ色の大尖峰が、大空に向かって廃虚のような峰頭を、厳しく、不動に、永遠のもののように上げている。それは望遠鏡が暗い天の底に光をもって描いてみせる、あの月の世界の風景の、幻想的な偉大さと死の静寂とである。
 クレヴァスがほとんどつねにしっかりと被われているこの純潔無垢な敷き物の上を進みたまえ。この雪のサハラの横断を開始したまえ。君は千歩を歩いて、ようやく自分の位置が変わったように思うだろう。たといわずかでも雪か軟らかかったら、そこを横ぎるにはたっぷり二時間近くかかるだろう。それにまた、或る透き間からその立ち姿がちらりと見える非常に近くのシャルドネやアルジャンティエールの尖峰のほかには、台地をめぐって帯のようになっている尖峰群のために、その向こうのものは何も見えない。モン・ブラン山脈に属する他の山々はたった一つの峰頭をも見せないのである。まるでそんな物は存在しなかったかのように、そして、黄金の尖峰の環をもって囲まれたこの燦然たる台地が、まるでアルプスの頂稜であり、世界の王冠ででもあるかのように。トゥリアン氷河の大瀑布があふれ出す出口をとおして、遙かに、そしてもうかなり小さく、トゥール・サリエールとダン・デュ・ミディとが望まれ、さらに、もっと遙かに、もっと低く、トゥール・ダイとトゥール・ドゥ・メーヤンとが見える。
 大斜面の終わる肩のところからは、半時間以内でポアントゥ・ドルニー(三二七八メートル)の頂上へ達することができる。その時風景の片側は全く変わってくる。脚下はたちまちヴァル・ダルペットの見事な絶崖、その向こうにはきらきら輝きながら押し合っているヴァレーの大山頂群が聳え、もっと左にはベルナー・アルプスの蜿蜒として厳しい連鎖が見える。
 しかし、ポアントゥ・ドルニーヘ登るにはなお幾つかのルートがある。第一回の登攀以来、ヴァル・ダルペットの断崖から登るものを除いて、われわれはそのほとんど全部を実行した。この登りはできなくはないが、おそらく非常に困難である。なによりもまず、その時の斜面の状態によって(八月以後だとそこにはしばしば新しい氷がある)、その左を縁取っている岩場を登り、それからまっすぐに斜面を突っ切って頂上へ達するのである。また、全然斜面を避けて、岩場のすぐ傍を通りながら大セラックを越えて行くこともできる。この登路は幾つかの壮大な眺めを提供する。エカンディーの峠コルを手に入れれば、ポアントゥ・ドルニーと並行して落ちている幾つかのクーロワールの一つによって、また別の登攀も可能である。ベラネック(息子)君とわたしとで右手のクーロワールから登ったことがあるが、最も著名な峰を登った時と同じような気持ちを経験した。最後に、オルシエールからオルニー氷河を越えてポアソトゥヘ達する登りは、婦人にも子どもにも困難なしにできる散歩である。ただし氷河を通過するのだから、案内人一人は欠くことができない。
 大台地そのものについていえば、これまた幾つかの異なったコースでそこへ達することができる。去年、モルフ君、ベラネック(息子)君、それに二人のアマチュアを加えてわたしたち五人の一行は、前夜の泊まりのグランのシャレーを出発して、グラソ氷河の西方支流を難なく攀じ、フランスとの国境をなしている山稜のうち、三一〇三メートルと注されている地点の上の方を越えてトゥール氷河を下った。その氷河を今度はトゥールの峠コルまで溯り、そうしてトゥリアン台地プラトーの高みへ達する登りは、素晴らしいものであると同時に容易なものに思われた。
 われわれがまだ実行する機会を得ないでいる一つのコースは、グランのシャレーを出てから、エギーユ・デュ・トゥールと、地図の上では無名の山頂の一群との間にある、氷河の斜面を進むものだろう。この無名の山群の中での最も高い二つの峰は、牧者たちによって一方はポアントゥ・デュ・ジェネピ、他方はエギーユ・デュ・ミデイと呼ばれている。
 エギーユ・デュ・トゥールそのものはどうかといえば、これはそこへの登山を志す者に或る種の当惑を与える。この山には頂上が二つあって、それを形成している双生児ふたごの峰頭は、人がいったんその一方へ立った時、果たしていずれがより高いのか全く迷わされてしまうほど同じくらいな高さを持っているのである。南の峰頭には積石シュタインマンがあって、この方が登りやすいようにわれわれには思われた。その相手の方は、去年ベラネック君父子とわたしとで登った時にはまだおそらく処女峰であった。われわれは非常に愉快な体操をやってその東方山稜を登ったが、なんらの困難も感じなかったばかりか、稀に見るような立派な眺望を恵まれた注・1。実際地図で見ても、モン・ブラン山脈の堂々たる全容を斜めに見渡すのに、これ以上優れた位置を占めた物
見台はないということがわかる。エギーユ・デュ・シャルドネと、エギーユ・ヴェルト、それにモン・ブランその物とから成るこの三つの山群が実に見事に重なり合って、全体の美の中からそのひとつびとつを鑑賞するのにちょうどよいくらいに互いが隔たっているのである。画面の残りの部分はことごとく一個の野性を帯びた花やかさをひろげ、不思議な彫刻を施された山稜の渾沌は、その間に取り付きがたい氷の荒野を包んでいる。眺望は遠くサヴォアの第二次山脈の上からヴォーの郡内にかけて沈み込み、一方反対の側では、グライ・アルプスの輝く山脈のあたりまで展開している。
(注1――この登路によってエギーユの岩場を登るには半時間あれば充分である。)

 しかし、この簡単な目録の中へ、なお一つ記載しなければならない通路があるとすれば、それは最も美しい、最も有名な、また確かに最も独特な峠、即ちフネートウル・ドゥ・サレーナ(サレーナの窓)という世にも適切な名を与えられた峠である。この峠はトゥリアン台地のどんづまりで、その南の隅、ほとんど気味の悪いまでに寸断された尖峰の間に口をあけている。種々の点でトゥリフト・ヨッホを連想させるこの一風変わった切戸へ立つと、たちまちにしてエギーユ・ダルジャンティエール、グレー、トゥール・ノワールなどの、すさまじくも華麗な斜面を畤たせたサレーナ氷河の最上部盆地が見える。季節によってはそこからサレーナ氷河の上の盆地へ降りることは非常に容易である。しかし、一度その台地へ立って、案内がないとか初めてだとかしてフェレーの谷間へ降りようなどと冒険したら、これ以上困難を嘗めさせられる所はないだろう。氷河を囲んでいる岩場はほとんど到るところ真の壁をなしている。そして、氷河そのものは二箇所にクレヴァスとセラックとから成る複雑を極めた落下地点を作って、そこを越えようとすれば瞬く間に数時間が経ってしまうほどである。有名な案内人を伴った幾つかの探検が、夜になるまでに谷間へ着くことができないで、艱難辛苦の一日の揚句に、間に合わせの露営をしなければならなかったという結果に終わっている。アルマーやメルヒョール・アンデレックなどでさえ、トゥール・ノワール峠を下りながら、氷河から抜け出す前にそこで一夜を明かさなければならなかった。
 山岳会の地図と較べて、細かさの点では及ばないが描写の正しさの点では優れているレーリ氏の地図には、サレーナ氷河の下方の部分を縦断する一つの降路が示されている。この降路は確かに最も短くもなければ、最も楽でもない。むしろ山岳会の地図で三〇六五メートルの記入のある岩場の突出部を攀じる方がいいようである。そこから斜めに一つの大きなクーロワールを通過すれば、氷河の下の方まで岩場について降りて行くことができる。
 また、エギーユ・ドレーとポルタレとの間にある峠を越えて、その前者の麓に沿ってもっと直接にオルシェールヘ下ることもできる。そこからオルニー氷河へ降りる斜面はいくぶん眩暈的ではあるが、初め見たほどには困難ではない。
 もう余白がなくなった。しかも書かなければならないことは、まだいろいろあるような気がする! そのうちの一つ二つはたぶん取り付けそうな処女峰であると同時に誇らかなエギーユ・ドレーの尖峰群。その陰鬱な、そして、確かに無垢な頭を、意地悪くもたげているグランドウ・フールシュ注・1。さらにいっそう荒らくれて昂然としたトウール・ノワール、比例を少し小さくしたセルヴァンの縮図。また、それぞれの主要な山稜を越える多くの可能な通路! 三六○○メートルの山頂を楽しむ術を知っている者にとって、この遠足の広場には、確かに立派な収穫が残されている。
(注1――この山は一八七六年ホワイトハウス氏によって初登攀された。)

 急いで付け加えておこう。それはオルニーの御堂の近くに、ディアブルレ支部の手で建設された小屋か必ずできあがるので、今年からはこの方面の探検がもっと容易になるということである。ソン・ラ・プロから上には一軒の人家もないので、こうした宿泊所がこの方面には必要だったのである。
 その小屋を出発すれば一時間でトゥリアン氷河の上部台地へ着くことができる。とはいえ、この冬の多量な雪のために八月までは延びそうな小屋の完成を、諸君が待たないように祈りたい。そして、フォルクラか、絵のようなリーのシャレーを出発点として、たった今からこの山群を知るために出かけることを祈りたい。諸君は必ずや幾度かそこを訪ねずにはいられなくなるだろう。

 

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 トゥール・ノワールの初登攀 
    「……また、おんみら、山よ、
     何なればかくもおんみらの美しき?」
                    バイロン「マンフレッド」

 もう六年も昔(一八七六年)になった一つの登攀を、今日に及んでわたしがこれから物語るとしても、どうか読者諸君の寛容を祈りたい。それは単にこの行がわたしの最も美しい登山の一つであるばかりでなく、その思い出が絶えずわたしをとらえているからでもある。それを適切な時に語らなかったことで、何か良心の呵責のようなものをわたしは感じている。しかし、善くするのにおそ過ぎるということはない、という言葉がある。この賢い諺がわたしのために言いわけの役をするだろう。なぜならば、トゥール・ノワールの征服に際して味わったあらゆる甘美なことどもを他の人々に語ろうと試みながら、わたしは実際善くするだろうと信じているからである。それにまた、この山はまだ実にわずかしか登られず、実に少ししか知られていないので、大多数の読者諸君の眼に、なんらかの新味を感じさせるかもしれない。或る人々に到っては、まずこういう質問を放つだろうということさえ考えられる。「それでは、そのトゥール・ノワールとは何か。どこにそれは在るのか。」と。
 モントゥルーの入江から見える地平線の上、ヨーロッパで最も著名な風景の一つをなす物の美しい中心に、まだかつて何人の足も置かれたことのない、三八二四メートルの高さを持つ一つの尖峰が認められる、と、こんなことを今から六、七年も前に言ったらば、処女峰をうかがって歩く人たちをさぞかし驚かせたことだろう。
 実際、ヴァレーの雄大な玄関を形作っているあの高峻山岳の円形技場のほとんど中心に、当時なお処女峰であったトゥール・ノワールは、実にまっすぐな、実にほっそりした、そして、本寺の尖塔といえばいえるほどにも完全に均整のとれた、一個の花崗岩の尖塔を立てている。それはヴヴェーに臨むすべての斜面から見え、モントゥルーの街路からさえ見える。それはサランタンの丸い頭とダン・デュ・ミディの峨々とした横腹との間に口をあけた切れ目の中に聳えている。しかし、このくらい距離を置いて眺めると、それはダン・デュ・ミディの巨大な堂々とした体躯に圧倒されて、ほんの小さな一部分としか見えず、最も多くの場合、その中腹にある一つの鋸歯として看過ごされてしまう。あの小さい尖峰がほとんど二千尺もダン・デュ・ミディを凌ぎ、モン・ブラン山脈の一員であり、かつその土台へ触れようとすればヴァル・フェレーまで行かなければならないということを、人は決して想像だにしないのである。
 それの立っている土地でさえ、この美しい尖峰はまるで知られていない。その証拠には、われわれの登攀の翌日、オルシエールでシャモニの最も優れた案内者の一人にこの山の話をしたらば、彼はそんな山はないとひどく簡単に断言した。しかし、サレーナの窓フネートルをしばしば通るシャモニの案内者が、あの荒涼とした切戸へ立ちながら、彼らの眼前半里の南方にあんなにも誇りやかに聳えている、雪と氷とで飾り立てられた素晴らしい岩の金字塔に注意したことがないというのは、かなり不思議なことである。そして、わたしにとってそれよりもさらに驚くべきことは、最後の処女峰を捜したり、忘れられている山頂を発見するために地図を眺めて冬の夜々を過ごしたりする、方々の山岳会の無数の登山家が、この山を考えもせず、またこれへの突撃を試みもしないでいるということである。とはいえ、辛苦して登るだけの価値はあるのだ。ヴィーゾと同じ高度を保ち、その形からセルヴァンを想わせるこの山頂こそ!
 レマンの湖畔から毎日その山を眺めているわたしにとって、それに注目することよりも容易なことはなく、それに登ってみたいと願うことよりも自然なことはない。しかし、初めて近くからそれを見る機会を持って以来――それはまさにサレーナの窓からだった――この願望はおさえ難いものとなった。その周囲からわたしの見ることのできたものは、稀なる喜びを約束する一つの野性の光景であった。
 これらの喜びの第一のものは、攻撃のプランを立てるために。周囲の地域に対するいっそう充分な知識の得られることであった。アルプスが持つ幾多の山塊中、どの山塊を最も愛するかをいうことのむずかしさを知るために、そのアルプスを長い間旅して歩く必要はない。彼らはいずれも実に美しい! とはいえ、その広大な山脈の中を経めぐることここに十六年以上にもなり、また、ツェルマットの巨人等に対する狂的な賛美にもかかわらず、わたしが全面的に愛するもの、それはあのモン・ブラン山脈の東端である。その美はわたしにとってつねに新奇なものに思われる。わたしがつねにそこでのみ発見したのは、口にいうべからざる沈黙であり、荘重な平和であり、しかも徹底的に世界から隔絶し、永遠にその音響から別れて来たという幻想をつねにわたしに与える晴れやかな平和である。
 おお、アルジャンティエールとサレーナのわが美わしの荒野よ! おお、天空の強烈な青の中に、おんみらの偉大な金色の箭を飛ばすわが高潔の花崗岩よ! 幻想的な山稜の間に大いなる極地の湖かのように眠る、かくも純白なわが万年雪よ! わたしは熱中せずにはおんみらを考えることができない。あれほどにもしばしばおんみらから与えられた感動を言い現わすために、おんみらの壮麗にふさわしい一語を。しかし、わたしは捜し出したい。そうしたならば、わたしを読んだ者たちはもはや部屋の中に閉じこもっていることができずしてこう叫ぶだろう。「出発しよう!そんな美しい物を見に行くのにどうしてぐずぐずしていられるか!」と。そして、彼らにしてひとたびその山々を知れば、山々は彼らにとってもまた夢となるであろう。あの高所の白い山襞の中に紛れ込みにゆくことのできる、そして、そこに世界を忘れることのできる、そうした幸福な瞬間を、来る夏ごとにひたすら彼らが憧れることだろう。
 トゥール・ノワールの立っている地点は、モン・ブラン山脈中最も未知の部分のひとつ、エギーユ・ダルジャンティエールとモン・ドランとの中間である。その三稜の金字塔は、それぞれの面をサレーナ、ラヌーヴア、アルジャンティエールの三つの氷河に直接向けて聳えている。それはあとの二つの氷河を分ける山稜そのものの上に峙っていて、この付近で大山脈の尾根を横切る唯一の峠、コル・ダルジャンティエールの名で知られた荒々しい切戸のすぐ近くに位している。今それに対して突撃を試みようとすれば、その最も簡単な方法、おそらく唯一の可能な方法は、シャモニ側からにせよ、ヴァル・フェレー側からにせよ、とにかくアルジャンティエールの峠を手に入れることである。ただこの二つの道は夜と昼ほど違っている。シャモニ側からだと、一つの緩やかな気持ちのいい氷の斜面が、ほとんど峠の上まで導いてくれる。行けば行くほど路は楽になり、雪の絨氈の上をそのまま進む。そして、いわば気の付かない間に峠へ着いてしまう。これに反して、ヴァル・フェレーからアルジャンティエールの切戸ブレージュへ向かうのは、相当慎重を要する仕事である。ラヌーヴァの氷河がのた打ったりぶっかり合ったりしている狭い谷から先は、高さ一〇〇〇メートルの評判の悪いいやな壁を登らなければならない。そして。この側か決して楽な登りでないということの最もいい証拠には、初めのころそこを通った五、六組の連中が、もっと悪くない路を見つけようとして、どの組も他の組のとは違った路を歩いたということがある。
 ヴァル・フェレーからトゥール・ノワールヘ取り付くのは、いわれもなしに労力を二倍にすることである。なぜかといえば、峠そのものの登りの方が尖峰の登りよりもいたずらに長いからである。しかし、クールマイユールから来て、あとでバーニュの谷を通るつもりだったわたしの仲間とわたしとは、登りにも下りにもこの骨の折れる路をとらなくてはならなかった。
 だが、わたしはそれを後悔するどころではない。ラヌーヴァの谷は見るに値するほどのすさまじい美しさを持っている。これ以上むざんな荒々しさはアルプス中でも容易には見られまい。それはもはやベルナー・オーバーラントの谷のロマンティックな麗わしさでもなければ、ツェルマットのアルプスの明朗な豊かさでもない。それは灰色の険巌と鉛色の氷との怖ろしい露出である。君は、その貧しいシャレーと、裸の斜面と、痩せ細った植物とでほとんどひとつの砂漠ともいえるヴァル・フェレーを立ったところだ。君はうしろに憂欝な、閉ざされた地平線だけを残す。そして、大きな激流が泥水を轟かす広いごろごろ石の河床を通って、二キロばかりの幅のある一つの圏谷の中へ入って行く。そこは見るかぎり岩の灰褐色と、雪の白と、空の青ばかりだ。この圏谷はマーヤと、モン・ドランと、エギーユ・ルージュとトゥール・ノワールと、ダレーとで形作られたもので、君の行く手をさらによく塞ぐための壁のように合体し、彼らの巨大な銃眼でむざんにも青空を引き裂いている。それはまるで彼らが向こう側の白い寂寞境への通路を護ろうと言い合わせでもしたかのようだ。山々の壁を引き抜くことができたといわれる、あのインドの叙事詩の中の戦士と同じような戦士を防ぐかのように、彼らは怖ろしそうに見える物をことごとくこの円形技場のまわりに積み上げている。モン・ドランはその山頂の高みから青味がかった氷の塊を吊るして、いまにも落とそうと身構えている。エギーユ・ルージュは彼らの峨々とした壁の上へ越えることのできない花崗岩の槍ぶすまを押し立て、さらにその尖塔の天辺からは彼らの巨大なクーロワールヘ落石の一斉射撃さえ食わすことができる。トゥール・ノワールはトゥール・ノワールで、ただ裸の岩から成った大きな壁の手におえない獰猛さで対抗している。いずれを見ても眼に入る物はすべて害意と威嚇である。しかし、右の方にはそれでもなおいくらかの穏やかさと通路の望みとがある。雪の白さは大きな起伏を描きながら空の縁まで登って行って、目も覚めるように光る一つの峠を青空へ向けて鋭く刻んでいる。しかし、それは術策である。この誘惑的な、一見容易に見える峠は、山稜を乗り越えるかわりに、サレーナ氷河のうちでも最も匿れた襞の中へ君を迷いこませるだろう。そして、長い間歩きまわった揚句に、君は自分が相変わらず同じ側にいることに気がつくだろう。否、すべてはよく擁護され、よく防衛されているのだ。この巨大な障壁の中には一か所として弱いところはない。しかもまだ障害物が充分でないかのように、あらゆる壁の下にはベルクシュルントの長い裂け目が大きな口をあけている。圏谷の真ん中にいる時でも、距離があるから安全だなどと思ってはいけない。すべての壁の天辺から投げ落とされる石はそこまで届くことができるし、氷河には彼らの破片が撒き散らされている。時々、大きなクーロワールを岩のかけらが跳ね落ちて来る。試験的な小さい石なだれが落ちる。それから一切が沈黙する。そして、巨人の環はそこに怖るべき不動の態勢をとって、君を見まもり、君を待つ。その時、ただ肉と血だけで造られた微々たる、脆い、小さな存在に過ぎぬ君が、この花崗岩と氷との前へやって来る。そして、自分の意志と、英知と勇気と、いささかの忍耐とをもってすれば、結局は、そこを踏破することができるだろうと静かに君が独語する以上、君は彼らよりもいっそう強力な、またいっそう執拗に見える何ものかを彼らに対抗させるのである。
 われわれは、四人だった。戦いに慣れた、必勝を期した四人だった。幾度かその技量を示したことのある若い英国人のターナー君、ツェルマットでよく知られている案内者ヨーゼフ・モーゼル、腕利きの水晶採りとして岩登りの名人であるサルヴァンのフランソア・フールニエ、この三人がわたしの仲間だった。われわれはグライ・アルプスからやって来た。そこではいつものように戦勝を博することができた。しかし、この企ての第一歩にあたっていささかの不安を感じたので、八月二日の朝、われわれはラヌーヴァ氷河を去る二歩のところ、古い堆石に運ばれた巨巌の下へ夜営を張ることにした。
 モルモットの鋭い鳴き声か、なだれの響のほかには何の慰めになるものもなく、われわれは暇な時間をずっとアルジャンティエールの峠や、トゥール・ノワールの山稜の研究に暮らした。そして、しかも攻撃のプランがまだ充分確定しないうちに夜が来た。このトゥール・ノワールは確かに由々しい山だった。それはわれわれの前に、遠くからでは解決のつかない一つの問題を置いた。サレーナ氷河を俯瞰している山稜を手に入れるために、果たしてその険峻な面が横切れるものだろうか。もしも「然り」ならば勝利、もしも「否」ならばおそらくは敗北だ。このような不安は、登攀の大勝負における刺激的な興味の最も小さなものではないのだ。
 夜が来た。厳烈な一夜が。空は雲に被われて、万年雪のぼんやりした白さが、わずかに闇の中に認められるほど暗かった。その揺らめく反射は近くの岩の上でわれわれの影を顫わせたり、蒼白い、気味の悪い化物のように夜陰の中に浮かび出ている、少し離れた岩の槐を突然に照らしたりした。粗末な夕飯が終わり、めいめいが石南の枝と草の束とで作られた寝床へついてしまうと、ある大きな沈黙が襲って来た。聴こえるものは渓谷の底を流れる急流の絶え入るような響か、われわれの小さな炉の中で間をおいてぱちぱちいう残り火の音か、もっと稀には大クーロワールを落下する石の爆音ばかり。じきに仲間の規則的な呼吸の音を聴いて、わたしは彼らの眠ったことを悟った。だが、わたしは自分の寂しさをもっとよく味わった。そして、あまり早く眠ってしまいたくないので、夜の一部分を、これらすべての聴き慣れぬ物の響にそれからそれと聴き入りながら過ごした。間をおいて岩の上へ夜の投げる光の反射や、消えて行く火の最後の鼓動と共に、時々は都会の単調な生活を破って、このように全く野性な世界へ飛び込み、少なくとも一晩だけでも、われわれの祖先がその森の中で営んだような生活をそこで生きることがどんなに楽しいかなどと、自分で自分に語りながら。
 夜が明けるとわれわれは立ち上がった。コル・ダルジャンティエールの壁を越えるために先駆者たちのとった路について、ほとんど完全に無知識だったわれわれとしては、自分たちの方法をとるほかはなかった。そして、実際、そこには、どれといって特に勧めることのできないような二十もの方法があっただろう。われわれのは次のようなものだった。峠そのものの下から生まれた一個の巨大な岩の張り出しがその地点で壁を支えていて、それがラヌーヴァ氷河の真ん中まで突き出ている。まるでバベルの塔の崩壊した支壁の一つともいえばいえそうに。この際の最善の手段は、できるだけ速くこの張り出しの尾根へ達することにあるようにわれわれには思われた。なぜならば、その尾根を伝われば、かなり楽に峠まで行けそうに見えたからである。主要な困難は、到るところ截然と切られているその基底を攀じることだった。われわれはその南側、末端にかなり近い所から取り付いた。ひどく狭くて、ひどく短い、むしろ岩筒シュミネーともいえるような一つのクーロワールを、体操の力をかりて押し上がった。モーゼルが最もエネルギッシュな叫びを二言三言洩らしたのはそこだった。
 一度支壁の尾根へ着いてしまえば、それから上は峠の天辺まで三時間、高峻登山には極めて普通な困難があるばかりである。横切らなければならない滑らかな、硬い花崗岩、回るか攀じるかしなければならない毀れた巨巌の堆積、躓かないように辿らなければならない狭い雪尾根の、巻き込んだ庇や延びた剃刀の刃。ついに粉々になった、いわば搗き砕かれたような石礫と、日光に煌く水晶の屑を撒き散らした最後の斜面へ着く。そして、そこはモン・ブラン山脈の背椎骨である大山稜、もしもいつまでも残っているとすれば刻まれた鶏冠、互いに威嚇しているかのように押し合い揉み合う鋭い尖峰の林立である。
 裏側、即ちサヴォア側は、アルジャンティエールの広大な万年雪が緩やかな斜面になって拡がっている。それがあまりに美しく、あまりに白く、あまりに純潔なので、それを降りたい誘惑を極めて自然に感じてしまうほどである。しかし、われわれにはなさねばならぬもっと善いことがあった。峠は征服された。今こそわれらの尖峰へ向かって進むのだ。彼はそこに、すぐそばにいた。一筋の短い楽な山稜で隔てられているだけである。だが、レマンの湖畔から見えるあのほっそりした尖峰が即ちこれだと、いったいだれに思うことができるだろう。今われわれの前にあるのは一つの不格好な塔だ。アルジャンティエールの氷河を脅かしながら、その上へ無限の全重量を傾けている二〇〇メートルの重い塔だ。この純粋きわまる空気の中で、灰褐色の美しい岩は太陽に照らされて赫耀たる物となり、大空の濃青色の中へ生なま々しい光となって抜け出している。その莫大な重量にもかかわらず。空中に立ち浮かんでいる花崗岩をこんな近くから眺めると、これ以上昂然とした、これ以上強力なものはない気がする。まるで自分の力で掘り起こした物のようだ。そして、人間がその足の上を這ったり、哀れな小さい手で、その恐ろしく荒っぽい面を触ったりすると、何か眠っている巨大な怪物の甲羅の上でも歩いているように思われるのである。
 トゥール・ノワールの南の山稜を、われわれはただ下の方からあまり善く考え過ぎていた。今、その前へ立って見れば、それは到底取り付き難い。それは一〇乃至二〇メートルの階段をなして突如として峙ち、その階段の幾つかはオーバーハングしているのである。アルジャンティエール側に対する念入りな調査は、これもまた同様に登攀不可能なことをわれわれに証拠立てていた。してみれば、どうあっても東の面をトラバースしなければならない。換言すれば、ほとんど一枚の壁をである。
 大登攀に際しては、しばしば思いもかけないことに遭遇するものである。ところで、この時われわれを待っていた不意打ちは或る非常に幸運なものだった。この怖ろしい壁はトラバースするのに極めて都合よくできていた。ちょうど所要の高さを、登山家の靴よりも羚羊の蹄のために作られたともいえる一種の岩棚が走っていて、それが壁面の幅だけ一本の通路をわれわれに示しているのである。わたしにはこれほど酷い絶壁をこれ以上たやすく通り得た記憶はかつてない。壁はラヌーヴァの氷河めがけて一飛びに八〇〇メートルを逆落としに落ちていた。それは石なだれによって絶えず荒らされているに違いなかった。なぜならばわれわれのトラバースした部分では、一切が怖るべき暴力で破壊されていた。到る所に割られたばかりの石の白い破片や鋭い稜角が見られ、凹みという凹みには粉末や細かい石屑が積み上がっていた。繰り返して行なわれるこのなだれの衝撃は山をその中心まで罅ひび入らせ、一個の安定した岩もなく、君が掴む手掛かりは崩れてそのまま君の手の中に残るのである。
 われわれはこのラヌーヴァの絶崖に素早い一瞥を投げながら軽快に進んだ。しかし、ほんの一瞥とはいえ、一瞬間の凝視に値するものだった。斜面を渡ってしまうとまた別の驚きが待っていた。われわれが身を置いた一筋の美しい山稜は、壁の岩と同じように硬い岩から成ってぐらぐらしていた。しかし、ある箇所ではほんとうの梯子を想わせるほどにも切り立っていた。
 それから――おお、得も言われぬ思い出よ! ――それから激しい空中体操が、ストラスブールの尖塔を攀じるにも似た眩暈するような登りが始まる。それから、あの胸迫るばかりの登行が来る。人は深淵にのぞむ二〇〇〇メートルの宙宇に懸かり、突起ともいわれないような、しかし充分硬い、また少しばかり慣れてさえいれば絶対に墜落する惧れのないほど充分確かな花崗岩の、ほんの小皺のような箇所へ指先を掛け、靴底の薄い端を掛けて身を支える。そして、そのごつごつした横柄な岩へしっかり身を押しつけながら、おそらくはミケランジェロを悦ばせたような姿勢で体を捩じ曲げ、もち上げ、ぶらさがる。人はときどき脚の間から眺めたり、肩越しに深淵を見ようとして頭を傾けたりする。それと同時にしなやかな肢体や、確かな足や、眩暈を覚えぬ頭を持っていることを、そして、怖れもせずにこんな酔わせるような、比類もない体操に身を委ねることのできるのを天に謝する。
 ああ! うるわしの幾瞬時、言語道断の悦びよ! 人間がかかる豪壮な鐘楼を攀じると同じ楽しさを、果たしてよく空飛ぶ鳥が感じ得るだろうか。こうした登攀を思う時、わたしはそれを自分の生活の最も美しい時間のように考えざるを得ない。こんな告白をするのは恥ずべきことかもしれないが、一万尺の空中で、こうして美しい花崗岩を攀じることにも較べ得るような潑刺とした。純粋な喜びを、わたしに与えたものはこの世にはないのだ。二人あるいは三人のしっかりした勇敢な仲間といっしょに、このトゥール・ノワールでのように、或るひどく怖ろしい山稜の、二つの断崖のあいだを胯がって進む時にも増して、自分をもっと幸福だと感じたことは一度もないのだ。
 これが全くの気違い沙汰だということをわたしは是認する。そして、野蛮な世界に対してこんな愛情を持っている自分のような者が、社会の恩恵に値しないということもわかっている。しかし、それにしても、なぜ、われわれは生活の大部分をこんな愚かしい鳥籠の中で暮らすように強いられているのだろう。アリストファネスの鳥たちの都のように、全然空中へではなくても、少なくともこの高峻山岳の輝かしい世界の中へわれわれの文明が発展していくようにすることが、そもそも自然にとってどれだけ価値のあることだろう。この広大な地平に面し、こんなにも澄んだ空気、こんなにも透明な光の中で、純潔にして力あるさまざまな物に取り巻かれていては、人間が決して悪くなりようはなかったろうということを君は考えないか。
 ここに少なくとも世の哲学者たちに対して、わけてもカンディードの師と共に、この世はすべて善からざるなしとか、自然はわれわれの要求に適応する本能のみをわれわれに与えた、とか考えている人々に対して課せられるべき問題がある。それならば自然が多くの不幸な者たちの心に、彼女がわれわれにそこで生活することを禁じた、あの高い山々へのかくも克服し難い愛を植えつけたのは何のためか。
 差し当り、このむずかしい問題に対する解決を求めることはしないで、われわれはひたすら登攀の喜びに浸った。そして、正しい方向をとっていることが確かだったので、いっそうの意気込みをもって登って行った。しかし、山稜の最後の岩場へ達した瞬間、われわれはちょっとの間煩悶した。眼の前へ、いちどきに三つの頂上が湧き上がったのである! トゥール・ノワールには頂上が三つあった!遠方からこの山を眺めながら、だれがそんなことを予想しただろう。そして、その三つのものが越えることのできない、深い切戸で隔てられているなどと! その一番高い峰へ登ることは不可能だなどと! 決勝点の数歩手前で、哀れにもわれわれが挫折するかもしれなかったろうか。高山ではこうした不意打ちもあるのである。しかし、否、三つの頂上はわれわれのものだった。楽なアレートがその一つ一つを繋いでいた。最後の悦ばしい一飛躍は、じきにわれわれ四人の者をトゥール・ノワール最高の頂上へ集合させた。
 もしもこのような瞬間に、かつて原始的な詩人が歌うことのできたような美しい感激に満ちた賛歌の一つを鳴り響かせる人間がもういないとすれば、それは古代の詩が、われわれの哀れな現代の魂の中で全く死滅したからに相違あるまい。われわれの一切の感激は、悲しいかな、強い握手の交換や、その最も奥まった隠れ家にいる羚羊をさえこわがらせずにはいないような無意味なヨーデルで、そんな野蛮な絶叫で、表現されるほかはないのである!
 われわれの勝利は完全だった。そして、山頂は、半ば雪に被われた狭い崩壊したアレートは、いかなる人間的な形跡からも絶対に無垢だった。
 記念として取っておくために、そこからわたしが細い尖ったところを欠いた絶頂の岩は、ちょうど両方の足が載るくらいの大きさの、緑色の斑点のついた、白みがかった花崗岩の小さい塊に過ぎなかった。われわれはまずめいめい順番にそこへ足を載せて子どもらしい満足を感じ、その王位をよく確かめようとして、眼で地平の旅をするのだった。
 その時われわれのいた所は、最近の連邦地図に従えば三八二四メートル、ミウレ大尉の地図に従えば三八四三メートル、両者に調子を合わせれば、ヨーロッパ最大の玉座の上、約三八〇〇メートルの高みであった。
 佳い天気がわれわれを長くそこにいさせた。ぐらつく岩の上に、坐るというよりもむしろ棲まって、この巨大な鐘楼の中腹に口をあけた絶壁へ両脚をぶら下げながら、この世に生きていることの、また良い眼を持っていることの幸福さを、全く自然に考えさせられるような眺望のひとつを、われわれは静かに楽しむことができた。
 もしも高い山頂からのパノラマ的な眺望に何か軽い欠点があり得るとしたならば、それはいずれもが互いに少し似通ったところを持っている点にあるとわたしが言っても、アルプスに対する最も熱烈な賛美者が、わたしの冒瀆を責めずに許してくれるだろうと思う。それについてわたしが不平を洩らさないように神が加護を垂れたまわんことを! 眺望は実に美しかった! わたしの言いたいことのすべては、人があまりたくさん見すぎると、驚きを感じることがむずかしくなるということである。とはいえ、今度こそは、そして、ペンニーンやグライのアルプスで、そこの最も有名な展望台のある物から持って来たまだ全く新鮮な思い出があるにもかかわらず、わたしは心を奪われた。わたしの見たものは、自分にとって真に新しい何物かを含んでいた。
 トゥール・ノワールからのパノラマに、何か人を驚かすものがあるとすれば、それは確かにその広大さではない。それほどの高さまで登らなくても、もっと広い眺望は得られるであろう。地平線の円の真半分が、すぐ隣り合った大きな山頂の群れで匿されていた。しかし、われわれの前に展開するモン・ブラン山脈のあの東の部分、ちょうどそこにこそ看物があった。そして、北や東や南の方に見た物のことは、今でもあまり良く覚えていないほど、その看物は、すっかりわたしを夢中にさせたのであった。なるほどベルナー・アルプスの密集した円柱も、ヴァレーの高峰の波立ち騒ぐ雑踏も、イタリアのもろもろの山塊の優美な群れも、見たことは確かに見た。また、レマンの一角と共に温和なヴォーの山々も、さらに遠くは、ジュラの長い単調な起伏を越えて、その大波を霞の底に溶けこませたフランスの丘陵も見たと思う。こうした物がたといすべて美しかったにしても、わたしは今ではほとんどそれを覚えていないか、あるいは別の多くの山頂から幾度か見たものと混同してしまっている。しかし、わたしにとって忘れることのできないもの、生涯を通じて思い出されるだろうと思うもの、それはあの高所で初めてわたしに現われたあの尖峰エギーユの林立である。それまでわたしがアルプスの他の領域で見た光景の内、これに似たものは一つもなかった。この光景は一種別様の系統に属するものであった。それは、わたしにとっては、思いもかけなかったようなアルプス美の一様式の啓示であった。建築に熱心な一人の人間があって、それが生まれて初めて美しいゴティック本寺の中へ入った時のことを想像してみたまえ。これらの山々の構造に関するすこしばかりの叙述が、あるいはわれわれの見たところの物を理解する助けになるかもしれない。
 モン・ブラン山彙の全体が結晶岩から、わけても花崗岩から成っていることは人の知るとおりである。ところで、この花崗岩には、その塊全体にわたって規則正しい薄層をなす裂け目が入っている。そして、大地の営力は、その神秘的な転変の間に、この大きな塊をほとんど垂直に立てなおした。こうした位置をとった時、この巨大な石の薄層は、幾千世紀を通じて破壊作用をする外部の営力に対して容易な手掛かりを与えた。この外部営力は彼らの裂け目を利用して、天然の節理にしたがって岩を彫刻しさえすればよかった。最も緻密でない薄層がまず薄板や刃のように剥離して、真っ先に崩壊した。のちにはもっと抵抗力のあるものが残って立った。それもやがては自分の番が来て崩壊を始めるにつれて、尖塔のような、櫛の歯のような、また、この山脈の大部分の山頂に対してまことに表現的な名を与えている「針エギーユ」のような、そうした鋭い形をとるに到った。
 アルプスの中での他の山彙も、たとえば、フィンステルアールホルンのそれも同じ構造を示してはいる。しかし、そこにはこんな堂々とした形式の統一もなければ、こんな均整も見られない。それは力ある厳格な芸術家が、自分の独特な意想イデーを説明しないような物をことごとく排除して作った作品だともいえる。柱や穹窿の布置から、最も小さい花模様の展開にいたるまで、一つの同じモティーフに支配されている美しい建築物の中でのように、あの母型が、花崗岩の針が、細い尖塔オベリスクがここのいたるところに見られる。山脈の最高峰は莫大な針の林となって聳え立ち、その支壁は針の階段となって下り、その薄い山稜もまた針のように――幾千という小さい針のように削り出されている。
 これらすべての花崗岩の尖頭の、垂直的な林立の効果は異常なものである。それは一個の巨大な結晶物だといえるかもしれない。あるいはむしろすべてゴティックの様式で造られた一個の伝説的な都、一〇〇〇メートル、一五〇〇メートル、乃至二〇〇〇メートルの高さを持つ本寺に満たされた都だと思ってもいい。そして、その中の或る物はシャーロンの本寺のように単純で重々しく、或る物はクータンスのそれのように先細さきぼそに、また、或る物はコローニュのそれのように彫刻され、歯飾りを施され、大空に浮かび、ここでは共に群をなして集まり、かしこでは並み木路のように高貴に並び、しかし、すべてが同じ飛躍をもって、彼らの厖大な石の尖塔を、支壁や山稜の千の櫓を天に揚げている。
 そして、この幻想的な巨大な都は(その上をこそわれわれの知らない大変動か通過したのではあろうが)、不断の、壮麗な冬の雪になかば埋もれながら、悼ましい沈黙の中で眠っているのである。そして、今こそ読者は――なぜかといえば、わたしはまだモン・ブランそのものについては何も言わなかったから――この夢幻境全体の彼方、これらすべての尖峰のなかの最も高潔なものの遙か上、凍った空の果てをさして悠揚とのぼるモン・ブランを、まばゆい雪や透明な氷の重荷を信じ難いほどにも背負った、あのモン・ブランの大塊を想像するがいい。
 おお! こうした一切の物がなんと偉大に、高貴に、厳粛に、また、華麗に見えたことか! どうしてわたしはあの高所から降りて来ることができたのだろう! ヒマラヤの高い寂寞の真ん中で、その法悦のうちに沈潜して、飲みもせず食いもせずに千年を生きることができたというあの古のインドの婆羅門僧のように、なぜわたしはそこにとどまっていなかったのだろう。信仰のないわれわれの世紀では、もうそうした奇跡も不可能になった。そして、こんな見事な光景を賛美しながら、われわれが飲み食いをしたことを思うと情けなくなる! しかし、真の楽しみの何であるかをこれら花崗岩の上で学ぶために、いわゆる都会の快楽から別れて来ることのできない人たちを、少なくともわたしは心の底から憐んだのだった。そして、この高山の世界で呼吸したり貿美したりすることができる身を持ちながら、ついにそれを見る希望のない人たちのいかに多いかを思って、さらにいっそう痛嘆したのであった。
 また、自然の美に敏感でありながら平地しか知らない人にとって、こんな眺望が果たしてどういう効果を現わすだろうかとわたしは自分に問うてみた。だれかがそうした人の眼をしばって、準備も与えず予告もせずにこの山頂へ連れて来て、さて、いきなり周囲を見せたらどうだろうと想像してみた。「どんなに夢中になって賛美することだろう!」と、君は言うか。否か。それどころか、どんな寒気を、どんな恐怖を感じるか知れはしない! ことによると気が違ってしまうかもしれないのだ。われわれのような人間、われわれのような登山家であってみれば、予定したこの高山の頂上へ徐々に身を運んで来だのだから、それを賛美することもできる。しかし、突然このような所へ居を移された人の第一の印象は、驚愕と畏怖とのほかはないであろう。
 まず第一に彼をとらえるものは、われわれの場合のようにモン・ブランの雪と氷の素晴らしさや、その鹵簿ろぼをなす尖峰の傲然たる林立ではないだろう。それは、――あらゆる側に口をあけている深淵、その底から上って来るものといえば、粉砕された、気味の悪い、大きな形の物だけであるあの厖大な空無、今まで知られている何物にも似ない、また、われわれの言葉の中でまだ名を持たない、雪と岩との名状すべからざる混合物――そうした、すぐ隣り合わせの、あらゆる怖ろしい物の突然の出現であるだろう。それは猛烈な爆発のために破壊をうけた或る天主閣の残骸にも似た、トゥール・ノワールの胴体であるだろう。それは空無の上に怖ろしくも傾いた砕巌のあの堆積、その口を見てさえ身顫いの出るあの眩暈的なクーロワール、花崗岩の硬い横腹に薄板を張って、だれかの死を要求しているように見えるあの害意に満ちた氷であるだろう。そして、これらすべての怖ろしいこと共にも増して彼を駭かすものは、われわれの最もひどい冬にも考えられないような積雪の、あの不思議な変化であろう。ここでは山稜に沿って厚い唇となって突き出ている。あそこでは奇跡のように岩壁に引っ掛かっている。また別の所では尖峰の列に奇妙な帽子をかぶらせて、それを妖怪じみた物にしている。たといわたしが高山の頂きからの眺めに慣れているとはいえ、その時われわれを取り巻いていたものは、何か漠然とした恐怖を感じずには、わたし自身それを凝視することができなかったほど異常なものであった。
 わたしがこれらのものを見たあのあまりにも幸福だった時以来、すでに六年の歳月が流れた。それを書きたいと思う今日、たくさんの細かい部分がわたしから逃げ去っている。しかし、わたしが永久に忘れまいと思うものだけはまだ残っている。わたしはまだ覚えている。たとえば、われわれの脚下二〇〇メートルのところで、その暗い槍ぶすまを突き出していたエギーユ・ルージュのすさまじいアレートを。少し離れて、われわれと同じ高さに、その純粋な雪の山頂を大胆にも懸垂させていたドランを。その向こうに見えたエギーユ・ドゥ・トリオレを。灰色の氷をよろい、怖ろしい絶崖をめぐらした、あの真っ黒な岩の忌わしい円錐を。それから、グランド・ジョラスの不吉な、巨大な絶壁を。その右手の、ほっそりして傾いた、威嚇するようなエギーユ・デュ。ジェアンを。美しい雪の円頂から抜け出した短剣の長い鋭利な刃、あのエギーユ・ドゥ・ロシュフオールを。わけてもわたしは思い出す――そして、それが想像の中でさえわたしに身ぶるいを感じさせる――あの比類もないクレッセンドーをなす驚くべき連鎖を。ほとんど垂直の雪のクーロワールによって、上から下まで到るところ条痕をつけられた連綿とつづく五キロメートルの長壁をわれわれの側に向けたグールド、ドゥロアト、エギーユ・ヴェルトから成る山脈を。そのうちの最後のもの、即ちエギーユ・ヴェルトのそれこそ、アルプス中でも最も怖ろしい壁をなしている。最後に、われわれのすぐ傍、トゥール・ノワールよりもわずかに高く、その素哨らしい岩峰を偉大なオルガン管の束のように立てたエギーユ・ダルジャンティエールが、まるで雪と金とで作られたかのように、太陽にまばゆく照り映えていたのを。
 しかし、この種の美を描き出す力をまだ持っていないある国語のなかの言葉が、わたしにとってなんの役に立つだろうか。また、自分たちがこの山頂を踏んだ最初の者、この描くことのできない絵画を眼にした最初の者だったということを考えた時に、わたしたちが経験した気持ちにふさわしいものを、わけてもどんな詩人が表現し得るであろうか。
 なぜかといえば、その安楽椅子の底から卑俗な考えを実に情深くも登山家に背負わせてくれる君たち善良な人々に、次のようなわれわれの言葉を信じてもらいたいからである。即ち、まだ何人の足も置かれたことのない或る山頂を踏むことには、単なる自負の満足以外に全く別な何物かがあるのである。そこには魂の奥底に直接触れる一つの痛痛しい独特な感じがある。それは、これらの岩が最初に存在して、大空の下にその誇らかな裸体を揚げた数え切れない時以来、何人もまだそこを訪れず、いかなる眼も今君の見ている物を見ず、世界の開闢以来そこにつづいていた沈黙を破った最初の声であり、そして、人類の最初の代表者としてこの野性の領域へ現われる特権を受けた者が、群衆の中から偶然にも選抜された人間、即ち君であるということを、君が自分に言って聴かせることにほかならない。その時君はある宗教的な任務を授けられたような気がするだろう。ある新しい場所で大地と人間との結婚が成立するこの瞬間には、何かしら神聖な物があるように思われる。そして、わたしはそれがアルプスの一山頂にせよ、あるいはオーストラリアの草原の真ん中にせよ、人が処女地を踏んでその土地を識りながら、一つの深い真面目な感情を経験しないでいられる場合があろうなどとは夢にも思わない。
 われわれの野蛮な祖先が、当時まだ森林におおわれていた、そして、そこに今日ではわれわれの耕作地や都会が拡がっている土地を、初めて自分たちの物にしたころ、もしも或る小高い所へでも登るようなことがあると、彼らは一つの石の小山を積み上げた。古いケルト語を保存しているイギリスの登山家たちが、いまだ口にするあの積石ケルンを。同様にわれわれも、自分たちの山の処女山頂をきわめるたびに、太古の伝統にしたがうというよりもむしろ一種の本能から、同じことをする。そして、この積石ケルンは、彼ら祖先にとってと同様にわれわれにとってもまた、単に個人的な虚栄心の記念碑ではないのである。それは何よりもまず次のようなことを意味する。「人間がここへ来た。今日以後地球のこの一角は彼のものである。」
 そして、なおこれらの石は、時に登山家の心の中で、単に虚栄心ではない別の幾多の事柄を意味するのだ! 彼がその手で石を積むあいだ、実にさまざまな感情がその魂の中では湧き立つのだ! それについて彼自身しばしば漠然とした意識しか持たないような、また安楽椅子に生きている人間などには到底わかりそうもないような感慨が、あの高所で、無限に大きな厳格な自然に面しては、閨房や歌劇オペラ場の中が生まれるのとは全く違った感慨が生まれるのだ。人は世界を、人間を、生活を、全く別の角度から見る。人類はもはや何物でもない。それは消え失せたのだ。たといその形跡をある小さな一隅や、谷間の青い襞の底の小さい白味がかった掻き傷の上に認めようとしても無駄である。人は空間の恐ろしい広がりの中にただ己れ一人を見る。そして、宇宙はその神秘さの限り知られぬ物であり、いかなる宗教、いかなる哲学も、われわれにその真の観念を与えはせず、われわれが眼を開けば開くほど、その神秘も大きくなるものだという、ほかではどこでも感じないような感慨にとらわれる。こうした無限の空虚を眺めることは怖ろしい。人は以前にも増した不安をもって自問する。自分は何か。自分はどこへ行くのか。それに対して心が愛着しているこんなにも美しい世界を、もう二度と見てはならないというのは果たしてほんとうか。この心臓そのものが、胸の中で燃えているのが感じられるこの愛の炉が、いつか知らぬが或る夜のうちに消えてしまうために、しばしの間揺れている一片の小さな炎に過ぎないのか。こうした事がらがはっきりとわれわれの心に浮かぶにせよ、あるいは漠然とした印象でしかないにせよ、いずれにもせよ、人はそれを考える。そして、彼が勝利をあかしすることにいくらかの誇りを感じるこの小さい記念碑に、もしも喜びがあるとするならば、そこにはまた一滴の涙が、眼からではなく心から出る涙があるのだ。人は喜んでその板石に彫りつけるだろう、Et ego in Arcadia !(しかしてわれもまたアルカディアには住みにき!)と。人々よ、やがてはここへ来るだろうわたしの兄弟たちよ、わたしもまた、潑刺として優しい魂を持ったわたしもまた、君たちが今見る物を一瞬間見たのだ。わたしもまた、その神秘な美しさを見つめながら感動に胸打たせたのだ……。おお、君が光明の中にいる間にわたしの名を呼んでくれ! 君の思いの中に一瞬間わたしをよみがえらせてくれ! 岩よ、どんなにかいつまでも存在するだろうお前たち、どうかわたしのこの思い出をできるだけ長く持ちつづけてくれ!
 こうした考えがすべての積石ケルンを築く時に入り交じってくるとは限らない。しかし、わたしは、アルプスの或る山頂へそれを建てる幸福を持った人々のだれもが、全くの無関心や、そこへ自分たちの名を残すという単なる満足だけで、それをしたのではないということを信じたい。わたしとしては、仲間の手を借りて、トゥール・ノワールの頂上ヘ一個の小さいピラミッドを築いた時の感慨の中には、また別の何かがあったことを少なくとも断言することができるのである。材料はわれわれの周囲にいくらでもあった。数分間でそれは建てられた。しかし、われわれは壜を持っていなかった。未来の幾世紀にわたって、われわれの名と登攀の日付とを記した秘跡の紙きれを保存してくれる物を一つも持っていなかった。止むを得ず、われわれはそれを二枚の平らたい石の間へはさんで、次に来る訪問者の眼につきやすいように、その端を少し出しておいた。
 かわいい小さい紙きれよ! それはあの高みで、幾度かのきびしい冬に出遭ったに相違ない。まだあそこにあるだろうか。岩の塊を破裂させる結氷や解氷が、あの小さい紙きれに思いやりをしてくれたろうか……。ただ、わたしの知っているのは、故ニコラス・クヌーベル注・1が、多くの登山に際してわたしの勇敢な案内者で仲間でもあったクヌーベルが、その翌年、一人の英国の登山家といっしょにトゥール・ノワールの初登攀をしたつもりでそこへ行った時に、それを見つけたことである。そして、その細かい様子を聴きながら、まるで彼が満洲の砂漠の奥の奥で、石に刻まれたわたしたちの名を見つけたと話してくれでもしたかのような、そんなうれしさを感じたことである。
(注l――彼はその後二人の兄弟といっしょにリスカムで死んだ。)

 われわれの積石ケルンはできあがった。そして、自分たちを取り巻くすべての物を、最後にもう一度貪るように見てしまうと、いよいよ下山しなければならなかった。われわれは登りの時の路をそのまま正確にとったが、朝よりも悪いという所には出会わなかった。
 人々は、登りよりも下りのほうがいつでもずっと困難だと想像している。これは全くの臆説である。もしも眩暈の癖がなければ、下りのほうがほとんどつねに容易なことがわかるはずである。下りは明らかに労力がすくない。そして、たといわずかでも断崖に対して興味を持っている人ならば、それはその人の行く手に絶えず大きな口をあけているのだから、楽しみはいよいよ出でて素晴らしいわけである。わたしはこの点について多くの登山家や案内者の意見を叩いた。危険な場所への法外な愛に、もう治癒の見込みもないくらい冒されている人たちの大多数は、わたしと同じ意見のようだった。
 とはいえ、この下りにある劇的な転回を与え兼ねないような一つの事件がわたしに起こった。ラヌーヴァ氷河を見おろす岩壁をトラバースしていた時、岩屑の中でぎらぎら光る幾千という小さい水晶の針を見て、われわれはひどく幻惑されてしまった。そのためにすっかり用心を忘れ、近所にきっと豊富な脈や、ことによると釜フールもあるかもしれないと極め込んで、われわれは綱を解き、めいめいが思い思いの方角へ採集に出かけた。ところが、実際非常に見事な脈があって、この様子だと、どこかに水晶を敷きつめた釜になって口をあいているに違いなかった。そして、このあたりでもし水晶捜しに一日を捧げる人があれば、かなりの収穫を請け合ってやってもいいくらいだった。仲間の二人は煙水晶の素晴らしい板と、直径一寸もある非常に純粋な尖端とを持って帰って来た。しかし、その間、わたしは、自分がアルプスで出会った中でも最も危険な場所へ身を置くことに成功していた。わたしがあとをつけようと思った脈は、断崖の一番険しい所にある腐朽した岩へわたしを連れて行った。それでたちまち情ないざらざら面へ手をかけてぶら下がることになり、足を支える穴も岩角も見つからず、また、そんな物を見ることさえできなかった。わたしが自分の下の方に最もはっきり見ることのできたのは、わたしを待ち構えている氷河の絶崖だった。この瞬間、わたしにはもうそれを賛美することができなかったことを告白する。そして、一番近くにいた仲間がわたしに足の掛け場所を教えに来る時まで、手の下で崩れずによくも待っていてくれた、あの卑しい小さい岩に対する最も深い感謝の念を、わたしは今でも覚えている。
 こういえば理性ある人たちは勝ち誇って、そんな所へ寓話の山羊のように「気まぐれの散歩」をしに行くことが、どんなに愚かなことだかをわたしにわからせようとするだろう。
 よろしい! それならば人間の頭という物がそれぞれどんなに違っているか見てご覧になるがいい。この経験は全く反対な考察をわたしにさせた。そして、わたしはそこからまるであべこべな教訓モーラルを引き出した。わたしが自分に対してすることのできた唯一の非難は、あんな窮境に、あんなにも軽率に身を置いたということである。もっと修練を積みもしないで、どうして、あんな忌わしい岩の上へ身をさらすことができたのだろうか。水晶捜しに対するわたしの熱中が、わたしから判断力を奪ったことは明らかである。
 それでは、すんでのことにわたしの命を取るところだったものが貪欲であって、決して断崖への愛ではなかったということを考えながら。そこから――その真実を今でもわたしは確信しているが――次のような箴言を引き出そう。曰く、「岩登りの快楽以外の他事のために断崖に赴くは危険なり。」
 水晶でも、植物でも、羚羊でも、搜したければ捜すがよい。人はその探求の情熱のためには、救い手なしには到底脱出することのできないような場所へ、しばしば無反省に入り込む危険を冒すものだ。それとは全然反対に、岩登りのために岩登りをする者は、一瞬間たりともその目的と手段とから眼を離すことをしない。岩登りは、彼にとっては、一つの芸術である。そして、すべての芸術家と同様に、彼は実行に油断のない注意を払う。彼のする最初のことは、取り付きたいと思う場所を一目で判断し、成功の機会を打算し、退却の手段を考慮することである。いかなる他の屈託も彼の精神を煩わさないから、彼は、自分がどこにいるかをつねに知っている。このような状態にあるならば、彼が痛ましい不意打ちに出会うということは極めて稀である。あまりの悪場を冒険して身を亡ぼす山羊が、ほとんどつねに貪食な山羊だということを、わたしは賭けてもいい。
 われわれの水晶採りにとってもう一つの不都合なことは、貴重な時間を失ってしまうことだった。日は傾いた。急がなければならなかった。われわれが登りの時に峠の近くへ残して行った囊を大急ぎで括ったり背負ったりしているどさくさ紛れに、水晶の最も美しい板の持ち主はそれを岩の上へ忘れてきた。爾来夏になるごとに、それは太陽に煌いているに相違ない。
 峠から氷河までの路を半分ほど来た時、道のりを縮めながらもっと良い路を試みようと思って、われわれは、山の突出部の北の中腹にある険巌を下った。経験はされたが、それは必死の仇敵だけに勧めることのできるような路だった。今では登山隊の大部分がこちら側へ降りて来るが、彼らはもっとずっと上の所で山稜を離れて、はるかに楽な通路でラヌーヴア氷河へ達するのである。
 われわれが岩壁の下まで下り着いて、その縁を護っている美しいベルクシュルントを飛び越えた時には、氷河を抜け出るまでちょうど充分なくらいの昼間の明るさが残っていた。夜は渓谷の底全体を占めている石の砂漠の入口でわれわれをとらえた。それから一時間の後、もしもだれかおそくなった牧者がラヌーヴアの急流の近所にまだいたならば、いましがた四人の亡者が夕闇の岩の間をさまよっていて、それが時々ころんでは呪いの言葉を洩らしていたと、シャレーヘ帰って話したに相違ない。

 

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 プラン・スリジエの葡萄小屋
      「野の人己が幸福を知らばあまりに幸いならん」

 風と雪と霧とを横ぎって、わたしたちはバルムの峠コルを越えて来た。冬は山々の頂きを白くしておもむろに下降していた。峠の下の方、トゥリアンの厳しい谷間では親子の牝牛が軟らかい草の最後の束をもとめて、もう結氷に焼けた牧場の中のいたるところに散らばっていた。その静かな憂欝な鈴の音が調子よく山じゅうに響いていた。
 しかし、フォルクラ峠の向こう、ローヌ渓谷の斜面では気候はもっと温和だった。天気がよくて、一日の終わりは甘美に金色であった。
 秋の樹々の茂みの黄や赤を展開したその色調の無限に変わるニューアンスを賛嘆しながらわたしたちはゆっくりした歩調で降りて行った。もう胡桃くるみの地帯へ出て足は草原へ触れていた。疑いもなくある善なる精霊があってわたしたちの手をとり、二十度も通ったことのあるこの大道を進むこと数分で、一つの得もいえぬ小さい楽園を啓示してくれた。レ・マゾー・ドゥ・プラン・スリジエである。その脚下にマルティニー・ル・ブールとマルティニー・ラ・ヴィールとが牧場と果樹園とを伴って拡がっている大斜面の下全体が、ヴァレー群中の最も豊かな葡萄畑で被われていることをわたしは諸君に言わなければならない。土地は健やかで方位むきは申しぶんなく佳い。北風を感じるということが決してない。そして、この谷底が一個の温室と化する夏の幾日、陽気は棕櫚の樹をよろこばせるほどにも暑いのである。
 マルティニーの人たちは坂になったこの葡萄畑の栽培のために登ったり下ったりすることをおそらくは苦にして、登ることをいとわない近隣の谷間の山人にその大部分を売ったのである。しかし買った人たちもサルヴァンとか、ヴァル・フェレーとか、ヴァル・ダントゥルモンなどに住んでいるので、耕作や収穫の季節の間だけそこで夜を過ごすために、葡萄畑の中に極めてささやかな家を建てている。山人の仮りの宿になり、二、三の耕作の道具や小さい樽や、小さい圧搾器などを容れるだけの小屋を。ほんの一時的のすみかで、彼らはそれを葡萄小屋マゾーと呼んでいる。
 さて、だれでも通る大道をマルティニー・ル・ブール指してどんどん降りて行きながら、わたしたちはこんなことを思い出した。それはサルヴァンにいるわたしたちの善い友人の一人から収穫季には、ぜひ葡萄畑へ会いに来てくれと幾度も誘われていたことである。
 「マゾーヘ会いに来てください!」と、彼はせがむように言ったのだった。「葡萄も食べられますし、旨い酒も飲めますからね。ぜひマゾーヘ会いに来てくださいよ!」
 わたしたちの今度の行には時間の余裕があった。今は収穫の真っ最中に違いない。絶好の折である。これを逸したら機会は二度と来まい。友情と好奇心と食道楽とに同時に促されて、わたしたちは大道と別れた。そして、ほとんどすぐに葡萄畑へ入り込んで行く芝の小径を左へとった。
 物の二百歩進むか進まないうちに。もうわたしたちはあの有名なマゾーの最初の一群が眼の前へ出現するのを見た。おお! それを諸君に描写して見せることができたら。しかし、なんといえばいいのだろう。その鄙びたあらゆる魅力や、その優雅な細部の柔らかさと共に、今もわたしが思い出しているあの家々を、諸君の限前に髣髴させるどんな力ある言葉が発見できるだろうか。
 想像してみたまえ。一本の路の奥、諸君の前方三十歩のところ、ほしいままに繁茂した金色の葡萄畑の愛すべき乱雑のまんなかに、高さようやく六尺の古い黒い小さいシャレーの一群がある。それはいずれも普通の山小屋の縮図で、屋根を侵略している葡萄蔓に半ば匿され、子どもたちに葉の冠をかぶせられた善良な老人の微笑のようなものがその下からのぞいているのだ。
 彼らの集団の形があまり善く、澄んだ空をかぎるその装飾のレース模様があまり優美なので、一目見てわたしたちは三人共ただ恍惚の嘆声を上げるのほかはなかった。
 しかし、それは最初の一かたまりに過ぎなかった。もうすこし離れてまた別の一かたまりが見えた。続いてまた一つ。それからなお一つと。さらに斜面のいたるところ同じような小屋がばら撤かれていた。ここに二軒、あそこに三軒または四軒というように。しかも全体が一つの部落を成していた。そして、彼らは一軒は一軒といよいよ可憐で、いずれも金色の葉をつけた葡萄棚をかわいらしく頭巾のようにかぶっているのである。
 ああ! この魅するような小さな世界の数歩の前を幾度か通り過ぎることはできても、どれが彼の家だか見分けることはわたしたちにはできなかった!
 ちょうどその日にはそこはほとんど寂寞としていた。わたしたちの来たのがあまりおそ過ぎて、収穫はもう終わりに近づいていたのである。わずかにまだあちこちの葉の間で一人の男か女が膝をついて身を動かしながら、最後の房を摘んでいるのが見られるくらいだった。それらすべてが夢のようにひっそりしていた。
 その大多数が人気のないそれらの家のなかで、いったいどれが友人の小屋だかわたしたちにはまるでわがらなかった。すると折よくそこへ三人の収穫者が葡萄で一杯の籠ブラントを重たそうに運びながら帰って来たので彼の家を訊いてみた。それはもっと下で、一番はずれのマゾーの方だと彼らは言った。それで皺ばんだ葉のざわざわ鳴る小径を縫いながら、わざと最も遠回りをしてわたしたちは教えられた方へ行った。
 とうとう重立った一かたまりの所へ着いた。そこではマゾーが一個の小さい四辻を形作っていて、わずかに六歩ばかりの広さのあるその空地のまんなかには一本の年経た胡桃の樹が立っていた。或る小屋の前にはまだ桶だの、背負い籠だの、農具だのが散らばっていた。葡萄汁の強烈な匂いが洩れてくる半分開いた戸口からは、あふれるように液の流れている圧搾器が見えた。敷居のそば、地面の上には、王様の食卓をも飾るような粒選りの葡萄を入れた籠があった。琥珀とオパールの色調をして、密集した、ビロードのような、新鮮なのが。
 女が一人そこにいたのでわたしたちは友人の住居を訊いてみた。それはすぐ真向こうにあった。最も形の佳い、最も手入れの行き届いた小屋の一つ。それが友のマゾーだった。しかし、その戸は締まっていた。
 もしもまだ畑にいなければきっとサルヴァンヘ登って行ったに違いないとのことだった。それでできるだけおそく彼に出会うようにしたいと心中ひそかに願いながら捜しに出かけた。
 たぶん、諸君は、あのきっちり同じ間隔をおいて幾何学的に立てられた支柱の長い列を持った、ヴォーの葡萄園しか見たことがないだろう。それでは、このヴァレーの葡萄畑を想像するのはむずかしいかもしれない。ここの畑にも支柱はあるにはあるが、非常に小さくて、葉むらの下に匿れていて目につかない。土地の人たちも最初は、他と同様、いくらか秩序正しく葡萄の株を植えつける考えは持っていたのだが、あまり長い間うっちゃらかしておいたのでそれぞれ勝手気ままに捩じ曲がったりよじれたりして、甲は乙の方へ傾きかかっている。また、蔓は蔓で自由な自然な物の風情を持って、伸び、交差し、絡み合い、原始林の蔓のようにもつれあっている。以前、境界の記しのために作った小さい垣根などは、この混乱の下で半ば毀れて見えなくなっている。通りがかりに、ところどころ、細い草のビロードを敷きつめた小径がちらちら見えるが、それもたちまち消えて姿をかくす。そして、そういう小径を知っているのは、まる二、三か月の間葉の囁きのほかには何の物音も聴かない蜥蜴だけである。
 小さいマゾーが不規則に散在しているのはそういう葡萄畑の真ん中である。しかも隣の小屋と全く同じな小屋は一軒もない。見たところいずれもしゃれていて手入れが届いている。このことは言っておく必要がある。また、一、二軒全部白い石灰石で作られた小屋もあった。そして、そういう小屋のまわりには植物の気ままな飛躍を防ぐ工夫がしてあった。しかし、たいがいは素直に放任されて磨滅している。葡萄が好むのはまさにそうした小屋に違いない。自由に、幸福に、毎日己が傾向を荒々しく矯めに来る手を見ることもなく、小さいマゾーを愛をもって占領し、それを取り巻き、抱擁し、被い匿し、家の角々へ優美にからみつき、花紐フェストンになって垂れ下がり、花飾りとなって繰りひろがり、葉は葉の上に、小枝は小枝の上に重なって、そのしなやかな蔓をもって彼がため清爽な緑の衣装を織るのでもる。
 中にはひどく古い、放任された、倒れ掛かった小屋もあって、もしもその網をまといつかせている葡萄がなかったら、これ以上もつかしらと思われるようなものもあった。葉の間から透かして見ると、黒い桁組や、ぐらぐらした石や、虫の食った板などの名状すべからざる組み立てが見えた。どういう風にして繋ぎ合わせてあるのか知らないが、おそらく習慣の力で持っているのだろうと思われた。また奇妙な形に交差した棒の助けをかりて組み立てられた小さな亭シャルミーユが方々に見受けられた。それはいわば緑色の狭い籠で、身をかがめなくては入ることができず、その上二人以上の人間が住む余地はないような物であった。
 ああ! これらの畑、これらの葡萄小屋、これらの亭を持っている山人たちの中には、しかし、彼らの幸福を理解している幾人かがいるに違いないのだ! 秋の暖かい或る昼過ぎ、収穫の幾日か前、こういう神秘な小さい揺籃の一つの下で、手に手を取りながら、自分たちが愛敬し合ったり生きたりするために、そもそもどんな歓喜の国に生まれてきたかを知っている相愛の一組が、たまたまはいるに違いないのだ。
 想像してみたまえ。遠く向こうに輝く地平の見える穏やかな大山嶽の麓、透明な葉むらの格子の下に匿されたその幸福を。人は柔らかい草の上に座して、枝や葉の動く透き間から、費用を掛けて幸福を捜しに行く隊商の群れが遠くフォルクラの街道を登ったり下ったりしているのを見る。そして、その間には、時々、よく熟した金いろの一房を取って笑いながら二つに千切り、互いに優しいこと共を語り合う。

 わたしたちはついに友人を見つけることができなかった。しかし、山を降りながら、わたしは絶えず黄金時代の事を夢想し続けていた。

 

 

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