I
わたしは自分が目的もなしに出かける登山家の一人であり、役にも立たぬ山岳会員の一人ということを告白すべきだろうか。
わたしはテッファーやティンダルを、カラームやドゥ・ソーシュールを賛嘆する。わたしは今日までこれら光輝ある首領たちの誰の下にも屈することができず、彼らの流派のどの一つにも汲々として従うことができず、しかもある時は彼に、ある時はこれにと、代わるがわる惹きつけられて、彼らの後を遠くから、非常に遠くから追っている者であると言おう。わたしが牧者たちにまじって炉の前に坐っている時、テッファーの魅するようなページが心のうちに蘇る。傷んだシャレーや、嵐のために根こぎにされた古い樅の樹の姿を見ると、わたしはカラームを想い出す。氷河のへり、堆石モレーンの上で、わたしはドゥ・ソーシュールを夢想する。高い峰に面しては、ティンダルやヴァイレンマンを羨望する。それからわたしは帰って来る。なお幾つかの美しい思い出を、おそらくはそこばくの思想を心に担いながら。しかし、科学的な観察や氷河の研究などは少しもない。また、一本の植物、一枚のスケッチもわたしにはない。もしもあれば、おそらく万年雪ネヴェのほとりで摘んだ一輪の小さい花か、どこかの愛する峰の横顔ぐらいなものである。わたしは出発の時と同様に、ついに役にも立たぬ者として帰って来るのである。
わたしのような種類の登山家に宛てた真面目な訓戒を読むと――わたしもその訓戒から教えられる一人だが――どうやらそんな告白も仕憎くなる。それを聴いていると、青いクレヴァスの上へ身をかがめたり、クーロワールヘ入って行ったり、高い峰を攀じ登ったりする権利を持つのは、実にただ、何か科学的な有用な目的を立て、湿度計や経緯儀を携えて行く者だけだということになる。そして、しかも、これに反対する何物かがわたしの衷で立ち上がるのだ。
否、構わず出発するがいい、無学の登山家、為すなき山岳会員諸君。氷河を跋渉し、最高の絶巓に足を印し、そして、平然と帰って来るがいい。君たちには別の所に業務があるのだ。別の所でその社会的活動への貢みつぎを払っているのだ。労働や悩みに疲れた君たちの魂を、あの大自然のエネルギーの中へ恥ずるところなく浸したまえ。この休養の時間をさえなお彼らはわれわれと争おうとするのか。われわれがひとたび自分の夢想に従ってわれわれ自身のために漁りに行くことに対して、広大な人間の蜂巣からは一瞬問たりとも逃れることはできないと、彼らは言い張ろうとするのだろうか。
役にも立たぬ遊覧客? ……否、彼らは無益ではない。かくも謙譲である者、一つの真摯な賛嘆の員をアルプスへ払いに来て、そこに魂を浸す者、おそらくは説明する術も描写する術も知らずに、しかもアルプスを理解し、愛する者、彼は無用の旅人ではない。
無用の名こそ物見高い遊覧客へ。青いヴェイルと焼印を捺した杖との持ち主へ。だが消え果てた小径を辿ってただ一人シャレーの戸を叩きに来る者、わけても堆石モレーンを飛び越え、氷河を溯り、高い峰を攀じる者には、また別の名を与えるがいい!
わたしが数年来アルプスを遍歴しているのはこの精神をもってである。夏、秋、あるいは冬、たった一人、自分流儀で、真に平然と、またつねに何かしら新しい喜悦を感じながら。
アルプスを遍歴する、とわたしは言った。それは違う。むしろ、ダン・デュ・ミディを、とこそ言うべきであろう。
ダン・デュ・ミディ、これこそわたしの特別な愛の対象である。夏が近づくと、最も評判のいい峰々や最も名高い山々を幾度かわたしは思い立った。わたしはディアブルレを、ポアントゥ・ドルニーを、プルルールを、ドムを、セルヴァンを計画した。しかし、あらゆる計画にもかかわらず、ダン・デュ・ミディは最も力強くて、つねにわたしを引き寄せるのであった。一度などはミュヴランを目指して真剣に出発したのに、どうしたことか、左手アヴァンソンのゴルジュへ道をとる代わりに、右へ曲がってヴァル・ディリエを登ってしまった。ミュヴランヘ行くのにこの道をとるのはまちがっていたのである。それで翌日の黎明には、またもやわたしはシュザンフのアレートに立っていた。
これが一種のマニアだということはわたしも認める。よろしい! しかし、不思議なことには、絶頂その他への成功不成功の無数のコースの後で、この全山塊のうちに、人間の一生に対して充分広大な場所が、あるいは学問的な、あるいは珍奇な、あるいは絵のような観察の場所があることと、七つの牙峰ダン、氷河や、堆石モレーンや、ゴルジュや、渓谷などを残らず知る前に、まずそこで多くの日々を過ごすことができるということをわたしは信じさせられたのである。行くたびごとにいっそう新しい事物を発見し、まだかつて二度と同じコースを採ったことなく、わたしが絶えずそこへ帰って行くのはまさにこれがためである。
普通はシャンペリーとボナヴォーとを経由してダン・デュ・ミディヘ登る。このコースを採るにはヴァル・ディリエをすっかり溯らなければならない。多くの人々にとっては飽きあきする必要事ではあるが、或る人々にとっては、ことにわたしにとっては大いなる魅力である。
もしもうまく時間を選んで、焼きつける太陽のために気分を悪くさせられないような方法を採れば、こんな興味ある地方を通ったことを後悔はしないだろう。
ヴァル・ディリエは一見単純で、絵画的な大きな印象には乏しい。そして、その路は稀にしか深い渓谷に沿おうとしないような一本の淑ましやかな路である。異常な物は何ひとつない。しかし、たくさんの愛すべき風物があり、特別に或る風景を成しているような独自な場所も少なくない。
初めのうち、即ちモンテーの上での半時間の間は、ダン・デュ・ミディはダン・ドゥ・ヴァレールに匿れて姿を見せない。その代わり見事な森林で彼われた斜面と、普通七月には清々しくて生き生きした点で較べるものもないような緑の牧場とが展開する。人は谷間全体にひろがっている安楽と平和との空気に、もう驚かされる。影と涼しさとに被われて緩やかに高まる右手の斜面は、その胡桃の樹の下や一つ一つの襞の間に、緑におおわれた無数のシャレーを匿している。食事の時刻、
「いともささやかなる屋根より煙わずかに立ち昇る時」
人はいっそうよくその数を数えることができる。
間もなくトゥレートランとその遠望の愛らしい輝く鐘楼とが現われて、谷底の眺めと共に一幅の非常に美しい絵になる。しかし、もっと近づいて橋の高みから眺めれば、ディーヌの峡谷の奥にある優雅な製材小屋を伴って、いっそうの妙味が加わる。
人は路を行きながら、ダン・デュ・ミディの尖峰の一つが現われるのをそういつまでも見ないというわけではない。やがて二つ、続いて三つ、最後に七つの尖峰がことごとく現われる。最も美しい出現は(そして、このことはあまり注意されていないが)、トゥレートランとヴァル・ディリエとの中間、路が峡谷を通過するために作ったある雄大な絵画的な迂回点を過ぎてからである。その迂回点には一続きの巨大な絶壁があって、それが突如として聳え、驚くべき高さをもって渓谷を圧している。
悦ばしげなヴァル・ディリエ! お前の平和と栄えとの上に、今日お前に多くの魅力を与えているこの静寂な楽土全体の上に、何という不断の脅威が落ちかかっていることだろう! その脅威は年毎に接近し、年毎に迫って、必ずやいつか現実のものとなるの外はないのだ! あんな高みからお前を見おろしている絶壁は、徐々に侵蝕され、咬みへらされ、冬毎の雪崩にぐらついて、中心まで亀裂が入っている。今までのところまだ何も脱落しては来ないが、それこそかえっていっそう恐ろしい全体的な崩壊の準備のためのように思われる。
シャンベリーに近づくに従って、風景はすべて平原を思わせる物を失って、真にアルプス的な光景を呈して来る。そして、ついに道路の最後の曲がり角で遠く村落を認める時、人はアルプスとヴァル・ディリエとの心臓部にいるのである。
シャンベリーはほとんど全体がシャレーの村である。それは日毎に新築されて、一つは一つといよいよ贅沢なものに成って行く。けだしここではシャレーの奢りは度を越しているのだから。やがて樅が不足を告げ、石造の家が現われ、手際よく石灰を塗った壁の出現する目の近いことが眼に見えるようだ。そして、漆喰の前からは、進歩の前からは、永久におさらばである! シャンペリーは、インターラーケンやモントゥルーや、シャモニのようになってしまうだろう。同様に、今在るような湖上住宅風のシャレーもやがてなくなってしまうだろう。幾世紀かの後、もしもまだ夜番というものがあるとすれば、まだ人々が話というものに耳を傾けるとすれば、第二十世紀以来消滅したこのアルプスの原始的な土民の物語を、大きな木造の家を作り、乾酪で生きていたらしい土民の物語を、彼らの夜番の時にシャンベリーの住民たちは語ることだろう。山の高みに在るシャレーはおけても寓話的なものに思われるだろう。人は樅の割り板や、乳搾りの桶や木の匙や、クレジュ(一種の陶製のカンテラ)などを大きな博物館へ送るだろう。一管のアルプスのホルンは掘り出し物になるだろう。そして、大陳列窓の内部に、「アルプスにおける木材時代」という題をつけられて、これらすべての発見物が進歩した人人の眼前に列べられ、われわれの素朴さで彼らをびっくりさせることだろう……
哀れな、哀れな未来よ! ……もしもこの素朴さが亡びなければならないのだったら。
シャンベリーは、人も知るように、たびたび訪問されながらその癖あまりうるさく言われていないアルプスの足溜まりの一つであるが、ある季節になると二軒の宿屋では不足を告げるくらいに佳い場所である。その二軒のうちの質素な方はクロア・フェデラールと言って、すっかりわたしの気に入っている宿屋である。人はそこで愛嬌があると同時に行き届いた主人と、佳い酒と、旨い食卓と、またしばしば優れた仲間とを発見するに違いない。
わたしの見るかぎりでは、この渓谷の奥一帯がその最大の魅力をあらわすのは夕暮れである。もしも夜になる前にボナヴォーのシャレーヘ着こうとして――普通はそこまで行って泊まるのだが――山嶺が赤く染まりはじめるころに村を立てば、途中のあらゆる風景が絶美な詩的な時間に浴しているのが見られるだろう。うしろでは、シャンベリーがその竈のひとつびとつから青みを帯びた煙を天空へ送り、またしばしば小さい教会の晴れやかな鐘の音を漂わせる。行く手には、山がすっかりアルプス的な厳しい美をもって始まっている。人はヴィエージュ(ヴィエーズ)に近く沿って行く。その流れはすでに最も美しい急流の響を上げている。間もなくそれが巨大な岩塊のあいだで泡立っている地点まで行くと一つの苔蒸した橋が現われるが、この橋こそ第一流の絵画である。
ああ! この夕暮れの甘美な瞬刻、それは何故かくも短いのか。おお太陽、何故おんみはかくも速やかに没するのか……おお! 今しばし止まれ! おんみの最後の光がまだ山巓を赤くしている間、今しばらくはこの最初の影の爽やかさをわれわれに味わわせてくれ。昼間の光がのがれ去って、燦き初めた一つの星が夜を知らせる。夜はすでに最も下方の森の斜面を被うている、山人は今日の最終の干し草の荷を運びながらシャレーヘ帰る。小鳥は今日の最終の歌を声のかぎり囀りながら塒を求める。すべてのものがこれを最後とざわめき立ち、休息に身を委ねる前に昼間にむもってアデューを告げているように見える。しかし、天体は厳正である。彼らの「時」はそれぞれ厳しい秩序に支配されている。のがれゆく分秒毎に山嶺はいよいよ青じろく、小鳥たちの囀りはいよいよ静かに、星の燦きはいよいよその強さを増す。そして、美は色褪せ、あるいは少なくとも別の絵画と入れかわる。
至上の時よ! 幾年いくとせを飾るにふさわしい霊妙の分時よ!
しかし、急いでシャレーまで行かなければならない。あの高い所で、一穂の最後の燈火が一幅の最後の絵を見せようと待っているから。それに森の中の登りはまっすぐで、最初に出会う屈曲のほかには、しばらくは美しい迂回路を見せないから。四十五分ばかりで小径の曲がり角へつく。そこには幾本かの寂しい、溲せた、大きな樅の樹が、もう仄暗くなった谷の青さの上へ黒く毅然と浮き出している。なお数歩を行けば牧場である。
アルプスで最も感心されてもいなければ最も賞賞されてもいない場所なのに、そもそもの出会いの時からその打ち勝ち難い不思議な魅力で君を捉え、それ以来君をさまざまの夢想の中へ駆り立てるような、そんな場所を君は知らないだろうか。君の残りの幾日を、これ以上何も望まずに暮らしたいと思うような場所、アルプスの美をいう時に、まず第一に君の記憶の中へ帰って来るある風景。そういう虱景は、わたしにとっては、ボナヴォーである。
わたしがその地に感じているような魅力を、世間はそこに認めはしないであろう。そして、いまだにわたしが大切にしている深い感銘は、おそらく初めてそこを見た時の事情にかかっていること少なくはないかもしれない。
それは夕暮れ、最後の光線が最後の尖峰から今し飛び去ったばかりであった。周囲の山巓は寒い蒼白色を呈し、リュアンの白い円頂の上に二つ三つ星が輝きはじめていた。そして、爽やかな森のざわめきを圧して、アンセルの神秘な滝のとどろきがヴィエージュの深潭の底から聴こえて来た。
シャレーのまわりではまだ幾つかの鈴が鳴っていた。一頭の白い牝山羊がわれわれに近づいて来て手を舐めた。
時間と風景と周囲の事物とのこんな調和は、わたしにとってはまだかつてなかったことである。
わたしの傍には一人の友がいた。才能のある若い画家で、少なくとも無益な旅人ではなかった。彼はわれわれが少年時代の幾年かを共にしたパリから極く最近にやって来たのだが、こうしていっしょにいると、もうほとんど消えてしまった千の思い出がわたしのうちに蘇るのだった。過去の底から浮き上がって来る楽しかった時間と沈鬱だった日との入りまじり、懐しい悌と悲しい姿との混淆が、はじめて見るこの風景の平和と偉大とに不思議な対照をなした。
牧場を横ぎりながら彼は或るロマンスを歌いはじめた。悲しい魅力を刻み込んだ別の回想がその歌にはあった。わたしの母がよくそれを歌っていたのだ。
Au pied des monts que la neige couronne,
Au pied des monts, J'aime à me promener;
J'aime le bruit du torrent qui bouillonne,
Du montagnard j'aime entendre chanter....
雪を冠りせる山の麓、
山の麓をさまようをわれは愛す。
われは愛す、たぎりたつ流れの音を、
はた愛す、山びとの耿うを聴くを……
ティロールの舞曲につけたこの歌を、フランシスクは優れて上手であった。
まだアルプスを知らなかったころ、そもそも幾度この歌がわたしにそこを夢みさせたことだろう! そして、今こそ、いっそうよくわたしの夢想を実現させるためかのように、歌はあんな遠くから帰って来たのである!
一滴の涙がわたしのまぶたから流れた。ボナヴォーは永久にわたしの心に刻みつけられた。
しかし、あらゆる時間の中で最も甘美なこの時間は、同時に最も迅速な時間でもあった。それは永遠に帰らじと逃れ去った……
永遠に帰らじと! そんなことがあるものだろうか。あのシャレーが、あの最後の日光が、あの色青ざめた山巓が! わたしの友その人が、崇高だったあの歌が、あのさまざまの物思いが、わたしのうちで波立ったあの数々の思い出が、あの涙が! ……それらすべての物が、たちまち逝って帰らぬために一瞬を「無ネアン」の底から出て来たなどということが。いや、いや! わたしはそんなことは信じない。大いなる目醒めの日に、それら一切の物は蘇るだろう。老いたる樅よ、木憔たちの斧の下に倒れるがいい。またお前哀れなシャレーよ、冬の雪の下に毀たれて姿をかくすがいい。貪欲な「時」よ、この甘美な一瞬を食いつくした後、この山々を荒廃に帰せしめるがいい。勝手にやらせよう、ねえ、フランシスク、「時」をしてその仕事を果たさせよう。やがて永遠の日が来たら、それらすべての物はわれわれのところへ帰って来るだろうから。
ボナヴォーの牧者たちは二軒のシャレーを持っている。一つは上ので、もう一つは下のである。小径は、下のシャレーの前を通る。上のは位置が遙かに悪く、右手ダン・ドゥ・ボナヴォーの脚下、十分ばかりかかる高みのある穴の中に建っている。
それにまた、もしも人が住んでいたならば、下へ泊まることにはそれだけの価値、がある。上のシャレーでは、牧者たちの言うように、「あぶら」を取っているのでクリームを持っていない。ところが下の小屋には干し草にせよ寝台にせよ、とにかく結構な寝床がある上に、アルプス中で最も上等なクリームの一つがいつでも手に入れられる。こう言っても錯覚でも何でもない。このことに気がついたのはわたし一人ではないのだから。
わたしが初めてボナヴォーを訪れた時分には、シャレーにはブロンドの、肥った、陽気な牧者が一人住んでいて、こんな風に単身ダン・デュ・ミディヘ登りに行くわれわれの大胆さにいつでも驚嘆していた。彼はひどくおどけた男だったが、わたしはこの男のいわゆる「恐ろしいダン」についての最も気味の悪い話のことを言わなければなるまい。彼は実際一度もそれを極く近くから見たことがなかった。ところで話というのは、或る時二人の若い人が出かけるのを見かけたが、その二人はついに帰って来なかった。また或る時は一人の老憎が頂上を踏もうと思い込んで出発したが、それもそこで硬くなって死んでいた。この話は最も豪胆な者をさえ身ぶるいさせ、おびやかすものだった。
なお一つ奇抜なのを書いておかなければならない。この善良な牧者は竜を信じていた。それも本心からである。或る時この男がシュザンフの牧場へ行くと遠方の岩の間に何かの姿が見えた。その形を彼は旨く言えなかったが。とにかく時々山で見かける一種の竜には違いなかったと、真昼間だというのに、彼はわたしに断言した。それは怖ろしい、化物じみた、いけないけだものだが、それでも人間に出会うと逃げ出すというのである。
初めての登山の時、わたしはこの地方の様子をまるで知らなかったので、シュザンフの牧場までわたしたちといっしょに行くようにこの男を雇った。彼はわたしをひどく怖がらせるような意見をして、こう時期が早くては道の後半に通過不可能だし、ヴィエージュを渡ることは到底できない、おまけにこの季節ではそこは世外の涯だと主張した。時は六月のはじめだった。「いまによくわかるよ。」と、わたしは言った。「とにかくやってみよう。」そして、彼は小径の非常に良いこと、ヴィエージュの少しも危険でないこと、道の後半が思ったよりも遙かに楽なことなどを知ってすっかり驚いていた。
山に住む人間の中で牧者や牛飼いたちが一番山そのものを知っていないということに、わたしはここでもよそでも気がついた。彼らはよく極めてでたらめなことを教える。自分たちの牧場だけに没頭しているので、草原以外の地方のことは何も知らない。氷河や峰のことになると、彼らの知っているのは伝説か、寓話か、取るにも足らぬお噺だけである。伝説が生まれるのは、羚羊の猟師からよりもいっそうしばしば彼ら牧者の間からである。
彼らは山へ行かないし、下の方にいて山を判断しているので、高山についてはまるで知識がない。彼らは岩のかたまりが牧場まで転げて来るのを見る。雪崩がはずれて時々彼らのシャレーを薙いで行く。それが何時でも高い所からなのである。嵐ができるのも高い所ならば、時に氷河の不思議な軋りの聴こえて来るのも高い所からである。従ってこういう現象が、伝説の中にいかにも彼らのらしい説明を見出すとしても、決して驚くことはないだろう。
別の意味で教養のある多くの人たちが、彼らのスイスの旅から帰って来て、今日、しかも大都会のまんなかで、何とばかばかしいことを言い触らしていることだろう! わたしとしては、そんな人間が氷河や雪崩の話をしているのを聴くと、牛飼いたちの伝説もそれほど愚かしくはないと思うのである。
もしもボナヴォーヘ泊まったならば、早起きをするように心がける必要がある。あまりおそく出発すると、一日のうちの最も美しい看物や最も快適な時間を失うかもしれない。経験の積んだ賢いガイドならば、夏には二時、秋には三時に起床ラッパを鳴らすだろう。
一時というような早暁だと、歩き出しがあまり愉快でないことをわたしは明言する。シャレーを出たらば、交差し合ってしだいに錯綜していく無数の轍のうちから選択をしなければならない。そして、夜の暗がりの中で、やがては一筋の絵のような小径になる善い轍を捜し出すことのできる人は、すでにかなり熟練した人だというべきである。一度善い路へ出てしまえばすっかり楽しくなる。その上星の光は衰えて、夜明けの近いことが感じられる。遠くでは早朝のシャレーにすべて燈火が燃えはじめ、間もなく幾つかの鈴の音が目を醒ます。人は高地の朝を降りて来る爽やかな空気に激励され鼓舞されて、もう身体の重みも背嚢の重量も感じない。そして、全く楽しい全く軽快なこんな行進を説明するためには、何か新しい言葉を創造しなければならないかもしれぬ。こんなに軽快で、なお、かつ人が飛行しないわけはといえば、それはその能力が彼にないからではなくて、単にいっそうよく路を享楽しようとするがためである。
牧場が尽きると小径は美しいものになる。それは高い高貴な山嶽の路の全風貌を呈して、セルヴァンヘ通じるものだといっても過言ではない。際どい所も二、三か所はあって、臆病な人たちを必ずしも安心させないような通路を提供する。パ・ドゥ・ボナヴォーもしくはパ・ダンセルの名で最もよく知られている岨そば道はある評判を取ってはいるが、確かに最も危険にさらされたものではない。ただ、少なくとも最も絵画的なことだけは事実である。或る岩壁の突端まで来て絶えた小径は、それを攀じ登ることになって突然曲がる。その時われわれのいる地点は身の毛もよだつような荒々しい場所である。ボナヴォーの岩壁をダン・デュ・ミディから振り分ける深い割れ口のふち、ヴィエージュの滝の落下を目には見ないが耳には聴く、暗黒な神秘な深淵のふちにいるのである。
この場所の怖らしさをもっとよく味わうためには、小径を離れて深淵の縁をなす草地まで、斜面の急と断崖の近いことでもうこれ以上行けないというところまで、降りてみなければならない。すると目はこのゴルジュの半分を見おろす。そこには日が射し込んだこともなく、底という物もなさそうである。一吹きの微風でさえ君を投げ落とすことができそうに思われる。そして、手はわれ知らず支えを求める。
想像の奇異な作用! 永遠の宙の轟くこの黒い深淵の上に、濡れて蝠いている小さい可憐な花たちを見ながら、わたしはそこに二つの自然のあることをいつでも夢想するのだ。即ち一方は盲目で荒々しく、力に満ちて怖ろしく、岩石を押し上げたり山々を転覆したりする自然。トゥリアンを作り、ヴィエージュの深淵を作ったのはこれである。もう一方は潤いがあって優しくて、同じように力強くはあふが柔らかみのある自然で、こんなにも微妙に百合の花びらをちりばめ、花で飾られた細枝を優雅に曲げ撓め、かくも高貴で純潔な表情を荒い処女たちの顔に与えた崇高な芸術まである。しかし、こんなことをいわれわれに話す者を指して「空想」と人は呼ばなかったろうか。
やがてモオヴェー・パ(悪場)を越えると――だが、こんな不愉快な名は当らないほど実際では寛大すぎる場所である。――アレートの上へ出て、いきなり前限へトゥール・サリエール、リュアン、トゥール・ドゥ・シュザンフなどの堂々たる山群が、ただ見る絶崖と、氷塔セラックと、昔の氷河に磨かれた灰色の岩壁とを、一里の空間へ展開する。この場所の地形図を見たことのない者にとって、こんな氷河群の出現は驚嘆を与えずにはいないだろう。朝かなり早く、太陽の最初の光が山嶺をかすめて、きらきらする氷河の銃眼を金色にいろどる瞬間に、この驚きを味わう者こそ幸いである!
シュザンフの放牧地へ入って行くにはヴィエージュを渡らなければならない。しかし、こんな高みでは橋は稀にしかない。シャンベリーのガイドたちはそこヘー枚の板を渡した。そして、わたしは一度それを見たことがある。しかし、たいていの場合は一飛びで急流を飛び越さなくてはならない。そして、もしも川幅がもう三〇センチも長かったら、どんな人でも到底向こうへは越せないだろう。
一度急流を対岸へ越せば、もう浮き世とはおさらばである。渓谷の響も最早シュザンフまでは届いて来ない。身はただ山と共に在り、耳にするのはモルモッ卜の鼻声か、あるいはもっと稀に羚羊のそれだけである。時には数頭の羊の番をしている牧者のいることもある。しかし、たいていはその姿を見ない。羊はどうかといえば、もしもコル・ドゥ・シュザンフの近傍を辿るか、ダン・デュ・ミディの最下の斜面の麓まで達している痩せた草地に沿って行くかすれば、彼らに出遭わないということはまずほとんどない。そして、多くの場合、彼らが駆けつけて来て、背嚢とかポケットとか、どこでも塩の入っていそうな所ヘー生懸命にその鼻面を突っ込むのが見られる。山を歩く人間は彼らのために必ずポケットその他へ塩を匿して持って行くのである。彼らはそれをちゃんと承知しているので、人がうまく逃げ出すということは時々少なからずむずかしい。
シュザンフの名を持っている谷はその長さ四キロ弱で、トゥール・サリエールの最初の絶壁とダン・デュ・ミディの長い禿げのアレートとの間で狭まっている同じ名の峠コルに向かって緩やかな傾斜で登って行く。その最下部はボナヴオーとダン・ブランシュとの二つの背面とサージュルーの斜面との間に閉じ込められて、かつては一つの小さい湖水によって占められ、すべての側から春季の雪崩に打たれた一個の圏谷を形作っている。牧場全体は少しずつ草地に蔽われて行った広い亀裂地ラピアにほかならない。あらゆる色の竜胆やサクシフラージュの類が征服者の先頭に立っているが、結局はそこを美化し了るに過ぎないだろう。人はまだ方々の凹みの間で彼らに出会うが、しかし、羊はもうそこにはいない。
もしも春の熱い息が雪を溶かす前にシュザンフを訪れる人があるとすれば、この興味ある谷間の昔の姿について或る観念を得ることができるだろう。
現在、ダン・デュ・ミディの最後の斜面から見ると、この谷を蔽っている雪はすでに消滅した氷河の形をいまだに現わしている。けだし氷河時代にはこのシュザンフもそれ自身の氷河を持っていたことに疑いはない。そして、それは極めて美しいものだったに相違なく、諸所の岩石面にその擦痕が残っている。この氷河がリュアンやトゥール・サリエールに座席を供しているあの黒い巨大な岩棚を被っていたことは容易にこれを信ずることができる。そして、その棚のひとつひとつの上に、どんなに力強い裂け目を、どんなに豊富な氷塔セラックをそれは陳列したことだろう! 氷河はその下方の部分まで極めて純粋なものであったに相違ない。なぜならば岩屑デブリの円錐は別としても、雪崩の通過するクーロワールの下にそれはほとんど堆石モレーンを残していないから。おそらく何らかの譲歩をするにしてはあまりに重厚な厳しい棚を、それはわずかばかり削ったに過ぎないだろう。今日でこそ最下方の斜面や台地の上に引退はしているが、もっと知られることを当然とするかのように、それは昔の偉大さと美とを十分失わずにいる。たとい人がトゥール・サリエールでそれを欲しないにしても、シュザンフの氷河を訪れてその華庶なセラックを賛嘆するために過ごす一日は、美しい思い出の中に列せらるべき一日となるであろ。
ヴィエージュを越してしまえば、いろいろの仕方でダン・デュ・ミディの頂上へ志すことができる。即ち絶対に同じコースを採らずに二十度も行くことができる。シャンベリーのガイドは今日では最も景色の佳くないコースを採っている。彼らは山稜と牙峰とから下っている石だらけの斜面に取り付いてそれを登るが、これは確かに最も距離の長い側であって、このコースでは斜面は無限である。
また、シュザンフの峠コルまで行って、そこから頂上までアレートを伝うこともできる。しかし、このコースはいっそう長くもあるし非常に愉快なものでもない。最も景色が佳くて最も短距離で、その上最も疲労の少ない路、登高に際して調和させ得るこの優秀な三つの美点をことごとく備えたもの、それはその最も低い凹みの地点を目ざして、西方の長いアレートへ取り付いて行くものである。この方向にはちょうど一つの芝地の鼻が突き出していて、そこを行けば転落する石の一時間を免れることができる。
アレートへ着いたならば、それの尽きるまで進むのである。このアレートは広々していて傾斜も緩い。ここまで来るともう縮図のようなヴァル・ディリエや、シャブレーの山々や、ローヌの渓谷や、レマン湖の端が見える。それゆえ麗らかな純潔な朝などは、ここは得もいえず気持ちのいい、散歩路である。気持ちのいい、そうだ、しかし、またぞっとするような路でもある。なぜかといえば、目はあらゆる瞬間にヴァル・テリエに臨む深淵を見おろすし、しだいに垂直になる絶崖は一〇〇〇メートルを算するから。
この懸崖をなす岩壁全体は、朝の時刻には、まだ、それをいっそう高く見せる青みがかった影の中にある。崩壊した岩壁の面、ぐらぐらする大きな岩塔が、ところどころで傾きかかって下の方の深みをおびやかしている。そして、そこには大規模な万年雪ネヴェに近く、ダイヤモンドのように鏤められたラック・ヴェール(緑の湖)が牧場のまんなかに輝いている。
上の方から脱落して来た一個の岩石が、他の二十の岩石を後へに随えながらまず第一のクーロワールの中へ転がって行く。それから跳躍また跳躍、ますます厖大な放物線をえがきながら飛んで行く。そして、その停止すべき場所へ達するよほど以前にわれわれの眼界から消え失せる。しかし、彼らの迅速な通過は、今まで落ちそうになっていた物をことごとく揺り動かし、墜落させるに過ぎない。そして、深谷の側面にふたたび静穏が帰って来、谷底へ落ちる石の音がもう少しも聞こえなくなるまでには時間がかかるのである。
アレートを伝わって行くと高さ約一〇メートルばかりの絶壁の立っている地点へ達する。そこはかなり危険で、未熟な者だと助けなしには越えることができない。もっとも右手へ降りて捲いて行くこともできるが、岩登りの心得のある者にはおもしろい場所である。
熟練した者ならば、西方に面した岩組を攀じてたいした苦痛なしに直接山頂へ登ることができる。しかし、岩壁の透き間とか、踏みはずしやすい場所とか、岩庇とか、その他岩登り家の不思議な偶像に対してあまり執着を持たない人たちのためには、シュザンフを眼下に見てしばしば雪に被われている斜面の横腹を通って、そこから最後の肩へ達する方がいっそういい。サルヴァンのガイドたちはこの肩にコル・デ・パレッスー(怠け者の峠)という名をつけた。シャンベリーのガイドは単にダン・デュ・ミディ峠と呼んでいる。しかし、怠け者峠の名こそ万才である!
実際、人が楽々と坐っても、もうプラン・ネヴェの氷河や、六つの尖峰や、ペンニーンの連山や、トゥール・サリエールや、モン・ブランの球帽を眺めることのできるこの峠からは、反対に、ダン・デュ・ミディの最後の斜面がまだ長々と、疲労に顫えている脚膕ひつかがみや、使い果たされた肺臓に対してひどく長々と、かつは急角度に峙っているのが見られるのである!
怠け者は顔を上げ、元気のない一瞥で距離を測り、杖や囊を投げ出し、それから身を倒して、もう先へは進まないと断言する。そして、こんなことは毎夏一度以上もあるのである。サルヴァンのガイドたちはばかではない。怠け者峠とは旨くつけたものだ。そうではないか?
真の登攀家はそこでは立ちどまらない。しかし、大多数の登山者はそこで気持ちのいい駐屯をする。その後でたまたま一人の怠け者がまた顔を上げて仔細に距離を測り、最後の努力を試みようと勇敢な決心をし、途中二十度も足を停めて自分の決心を半分ぐらい後悔しながら。それでも結局他の山頂と同じように誇らかなその山頂へ達するのである。
しかし、親愛な読者諸君、もしも諸君にしてコル・デ・パレッスーは単にダン・デュ・ミディだけにあると信じるならばそれはまちがっている。モン・ローズにせよモン・ブランにせよ、またその他の山にせよ、すべて苦しい登路を持つ山嶽の大多数には、その半腹にこの峠があるのである。またあらゆる道徳的高所への途上に、学問の半途に、徳の半途に、この峠の存在することも事実ではなかろうか。勇気ある者は追求して、結局は到達する。臆病な者は斜面を測り、絶望し、中止する。そして、彼の努力はといえば、失敗の恥を贏かち得ることに役立つだけである。ああ! 称うべきはコル・デ・パレッスーでのエネルギーである。
最後の斜面の一部分が、ことに六月の初めには、氷で被われていることがある。その傾斜の急な点から考えると(約五十度)、そんな時にはカットを続けて進まなければならないから、山頂へ達するにも相当の苦痛があるに違いない。もしもあまり右へ寄り過ぎればその苦痛の上に危険まで加える惧れがある。なぜかといえばまちがった道筋は、人を遠くアレートの縁へ誘って行くから。
或る日二人の非常に未熟なイギリス人をそこへ連れて行ったことがあったが、その時わたしはこういうことを知る機会を得た。即ち、人は何と言おうと、或る重要なコースではつねに斧と綱とを用意するのが得策だということを。他の場所ではあまり価値もないここの用意をもしもわれわれが怠ったならば、啻に山頂をきわめることができなかったばかりか、或る不幸をさえ惹起し兼ねなかっただろうと思う。この最後の登りはしばしば苦しい。しかし、どんな危険にも遭遇しないで一万六百尺の高さに達することができるとすれば、多少の苦痛は忍ばなければなるまい。
多くの人がダン・デュ・ミディからの眺望をけなしている。わたしとしてはその人たちがそれを享楽することができなかったからだろうとあえて言いたい。山の頂上にいることは必ずしもつねに愉快ではない。風はその山を彼らの格闘の舞台にしているかのように見える。雲は広々した氷河の台地における以上に気持ちよく止まってはいない。それにまた完全無欠な享楽の一時間をあんな高みでそうたびたび過ごすなどということはできるものではない。しかし、或る美しい朝のうち、ゆっくりとそこにひろがる全眺望を味わうことのできた人たちは、たいして非難はしないだろう。たといモン・ローズは誂え向きの形には見えなくても、たといモン・ブランは一部分匿れていても、また、別の充分独特な美があって、山の名には拘泥しない人たちに、このパノラマの中でそんなことを忘れさせるだろう。
少なくともこれだけの高さでこんな深谷に臨んでいる山頂はたくさんはない。もしも十字架の在る所から別の尖峰の方向ヘアレートを伝わって行けば、深淵に落ちかかって傾斜している無数の板岩に出会うだろう。腹這いになって首を伸ばさなければならない。歯形のついた切っ先を逆立てたこ峭々たるゴルジュの、この岩壁の最初の一瞥で、人は恐怖の身震いを禁じ得ない。その印象は身の毛もよだつばかりで、ことに秋もやや更けて、新雪の薄い層がもっとも小さな突起までも責めに来るような時期にはすさまじい感じである。夏の初めだとこれに反して、強大な突起だけが雪を残している。しかし、それも幾寸というのではなく、結氷と解氷との交互作用で輪郭の円くなった四尺、五尺、六尺という雪で、それがいたるところ燦爛として、空間に懸垂する氷柱つららを形成しているのである。
五月の美しい太陽が輝き、風がたといわずかでも吹き添ったら、その時こそあの冬の足場がことごとく瓦解する光景を見なければならない! 放胆なゆらめくピラミッド、不用意に深淵の上へ乗り出している雪庇、目も眩むような斜面で冒険をしている堆積物、アレートヘひろがった巨大な唇。すべてこういう物があるいは崩れ、あるいは砕けて、クーロワールや深谷の虚無の中へ塵となって飛散する。
もしも春シュザンフにいて、暖かい輝く太陽の一目を希望するならば、山頂をきわめるために急がなければならない。そして、できれば昼間の数時間をそこで過ごさなくてはならない。人はレマシからわずか五里離れた地点にいることを忘れ、最も大きな山群の一つのその真ん中にいることに気がつくだろう。脚下遙かに見えるヴァル・ディリエを除けば、一点の緑、一物の生もない。いたるところ雪と黒い岩。見渡すかぎり白い山脈と、青みを帯びた渓谷の上に聳えるぴかぴかした山巓の打打。身のまわり、すぐ近くには、わずかの間に雪崩が仕事をしに行く真っ白な斜面、尖峰、またそこから風の最初の一吹きにも雪庇が崩れて、粉末となって落ちて行くアレート。
もしもそんな時昼食後の時間までそこにいれば、それが大アレートから葺きおろしている斜面で起こるものにせよ、牙峰ダンそのものの斜面で起こるものにせよ、またトゥール・サリエールやリュアンで起こるものならばなおさらのこと、とにかく一つ以上の雪崩を見損なったり、ことに聴き逃したりすることはない。リュアンの雪崩は、普通はその山頂を被っている雪の球帽から滑り出して、氷河のセラックの中へ消え込むために、岩石の黒い壁面を燦燃とした末広がりの瀑布となって落下する。或る時わたしたちは十五分も経たない間にそれを十二も数える楽しみを味わったことがある。最初のものはまるで合図のようだった。続いて陰鬱なリュアンの塔が雪崩のため流れ出すかと思われた。
九月か十月だとすべては全く違う。しかし、やはり非常に美しい。それは天空の清らかな、地平の澄みわたった、眺めが無限の季節である。しかし、また太陽と雨とが、青空と霧とが、突然入れかわる季節でもある。よく、雨の幾日の後、満月の光の中を、山巓の周囲に重苦しく積み重なっていた雲が一夜のうちに飛び去ることがある。そして、朝は、黎明は、照りかがやいて澄みきっている。昼間は壮麗である。そういう時を見きわめなければならない。それは一か八かの勝負である。
わたしたちは、そういう勝負をたびたびやったことがある。そして、勝ったことも少なくはない。空か灰色に曇っている日にヴヴェーを立って、翌日はダン・デュ・ミディの頂上か別の所かで、秋の行程を時々そんなにも素晴らしくする、あの美しい澄んだ日々の一つを楽しんだのであった。
しかし、近景の美はおそらく春や夏には及ばないだろう。石だらけの斜面は雪の装いを脱いでひどく荒れている。氷河は露出して鼠色で、しばしば汚ない。わずかに北向きの斜面に純粋な新鮮な雪が幾寸かあるくらいのものである。しかし、何という穏やかな暖かさ、色彩の何という調和だろう! 遠い風景の何たる清明さだろう!
たとい季節というものが風景の美に与って大いに力あるとしても、それを楽しむためには時間をよく選択することに無頓着であってはならない。不都合なことには、こんな高さの山頂だと、夜の時間がジャマンやネイの場合のように楽ではない。日の出を見ようとしてそこへ行くことは、考えていたよりも実行においてしばしば困難である。しかし、われわれは幾度かそれを実行した。あれほどの高みでの日の出は壮麗なものには違いない。しかし、わたしとしては、人がそこで華々しい落日を楽しむ機会の方がもっと多いのではないかと思っている。夕暮れ、モン・ローズからモン・ブランへかけて、全ペンニーン山脈が華麗な光に照らされている一方では、最前景をなすサランフの圏谷やトゥール・サリエールが、もう影の中に浸かっている。大山脈の雪の丸屋根の清純な赫耀かくようたる光を際立たせるためには、この莫大な深ぶかとした影が、そもそも何たる力を持たなければならないことだろう! また付近の険巌や、七つの牙峰ダンや、ヴァル・ディリエの絶崖の炎上に、何たる思いもかげない崇高な感じが満ちみちていることだろう! 秋の美しい夕暮れに、レマンの湖畔からわれわれは見なかったであろうか。ダン・デュ・ミディがまるで彼女ひとりのために最も美しい光を浴びているかと思われるような光景を。そして、彼女に向かって、太陽が最も華やかな別れを告げているのを。
山頂での展望がどれほど美しいにせよ、人がそれをどれほど生き生きと味わうことができたにせよ、しかも、ああ、われわれの衷の或る物がそこから離れ、別の方向へ向かう瞬間がやって来る。帰りを思って身のまわりに目をやる瞬間が来る。
「かくて、頂きをきわめし者、今や下りを心にねがう。」 あまりに真を穿ったこの言葉で、天才の力はわれわれの神秘な天性を正しく探り当てている! 同時にそれはコル・デ・パレッスーで断念したり待ったりする人々を道理ありとするらしく見えるところの、物質的世界から道徳的世界への別の報告でもある。
しかし、否。それは人間なるものが彼の快楽の対象をこの下界で所有するようには作られていないからである。或る無慈悲な手があって実にしばしば力づくで人間をその対象から引き離す。そして、たまたまその手がうっかりして人間の楽しむに任せれば、その心は倦み、その本性は彼を駆って離反させ、そして、彼の路を続けさせるのである。
進め、進め、旅人! 君は登ったのだ。それならばおそらくは明日も登ってまた下るために、今日は下りたまえ。立ちどまることをせず、うっとりとするような路の辺でわれを忘れずに行きたまえ。君はここを垣間見た。また何時か、もっと遠く、別の所で、君は見ることを楽しむこともあるだろう。これら一切は過ぎ去り、時がそれを運ぶ。そして、君に必要なのは、時の力では毀たれることのない何物かだ。搆わず進みたまえ。君はこの世界のものではないのだ!
そして、われわれは降りて行く。まったく、哀れな怠け者は。われわれは同じ君たちのいる所へ降りて行く。しかし、ある崇高な瞑想によって向上させられた魂を抱いて、共通の目標めがけて降りて行くのだ。われわれは降りて行く。しかし、われわれは高所から自分たちが憩いに行かねばならぬ遙かな地上を眺めたのだ。それにしても人があの優しい地平線へ投げる目つきの、そもそも何と美しいことだろう!
八月の初めだと上等な雪の層があって、頂上から素晴らしい滑降グリッサードをさせてくれる。しかし、そうなるとシュザンフヘ行ってしまう。われわれ別の方角へ志す者は、それを一部分しか利用することができない。つまりもう一つの道がわれわれを待っているコル・デ・パレッスーまでである。もしも、この重要な地点からプラソ・ネヴエの氷河と堆石モレーンとの方へ向かって行くと、ただ脚下を見ただけでサランフヘ通じる路を認めることができる。ところでサランフこそ、われわれの眼を喜ばせるために残された素晴らしい場所である注・1。
(注1――路はなおもう一つある。アレートとシュザンフの峠とを通って下るものである。しかし、これはいっそう長くもあり、興味も少ない。)
この側では山は粉末となって落ちて、ある場所などは泥の斜面である。われわれは剝離した岩石の砦を幾つも随えて滑降して行くのだが、その多くのものは紜がり、唸りを発し、跳ね返るので、もしもこの礫岩の一団がもう少しでも余計だったらどうなるだろうと思わせられること一再ならずである。
時刻が早いとまだそこには雪がある。それならばサランフ指して漕いで行くのだ! 十分間あれば下へ着くことができる。しかし、一つの斜面へさしかかる前に、それが果たしてどこへ向かっているか確かめることが必要である。なぜかといえば、われわれが出会う第一の斜面は、人間のように壊れやすい生物の目的とする所へは、決して通じていないからである。上等な、有名な斜面は、もっと先の左手、大「牙ダン」のほとんど真下にある。冬、雪が豊富だった年には滑降は停止するところを知らない。それは三千尺以上にも及ぶ。とはいえ、風や雪解けのために危険な目に合わないようによく注意する必要はある。わたしは悪い仲間の仕業らしい礫岩の雨の転落するのを、二度見たことがある。春の初めだとそこを見事な雪崩が落ちる。
山の岩屑デブリが堆積されるのは、この側のこの地点までである。じきに前進を困難にする崩壊物と転落する石との斜面。何という廃虚! あらゆる大きさをした岩塊の何という渾沌! 時の力で積み上げられたこれらの材料をもって、人はどんなに広大なバビロンを築くことができるだろう!
しかし、間もなく岩塊の間で危険に曝されている幾らかの花が現われる。なかば乾いた湖の石の多い水盤が現われる。やがて緑の小山、つづいて気持ちのいいアルプス的な庭、そして、ついに花咲き乱れた最後の斜面、今は植物に侵略され被われている往昔そのかみの堆石モレーン。かくて人はサランフの地(一九六二メートル)に足をつける。
得もいえぬ対照。荒涼とした廃虚と堆石との後の、何という快美な草原の柔らかい絨毯だろう!
五千尺をそばだつ堂々たる山嶽に囲まれた圈谷のまんなかに、一つの広々した見事な野があって、それが最も麗らかな湖水の波のように平らかで、優しさ極まりない緑と最も霊妙な高山植物とに被われ、世にも魅惑的な流れに潤されている。もしも人がそういう光景を心に描くとしたら、サランフの何であるかがわかるだろう。否、あるいはむしろ少しもわからないかもしれない。なぜならば、その美を想像して実現した「彼」以外に、こんな場所を心に描くことはだれにもできないのだから。
この青々した野の中を進めば進むほど、人はますますよくそこの穏やかな沈黙の偉大さを理解する。それは全くアルプス中での最も美しい寂寞境である。不思議な世界よ! もしもそこが何か架空な伝説の舞台でないとすれば、もう人間がそんな伝説を作ることのできなくなった時代に、そこが発見されたからである。牧者たちは氷河の白いテラスの上で時々山の精たちの声を聴いたり姿を見たりするという。夕方、彼らはその炉辺に坐る旅人によくジョラーの怪物の伝説を話して聴かせる。しかし、この神秘的な野のことには少しも触れない。
構わない。そんな伝説の詩の代わりに、この野原にはまた別のいっそう偉大な詩があるのだ。この野の中には、この黒ずんだ岩の上には、この大きな堆石の上には、大地の歴史の一ページが書いてあるのだ。そして、それを読もうと思う者にとってサランフは何と美しいだろう注・1!
(注1――ランベール氏の美しいページを参照。 E. Rambert: Les Alpes suisses, 第二巻 二三六ページ以下)
プラン・ネヴェから落ちて来た大きな堆石の麓に、また芝地の傍に、シャレーの群れが幾つか見える。しかし、あまり粗末で無骨なので、一目ではあたりの岩塊と見分けがつかないほどである。それにこれらの小屋は一年のうち十一か月も空いているので、この寂しい広い野が与える荒寥とした感じをいっそう強くする。ただ峡谷ゴルジュの口だけが(そこからサランシュの水が落ち、幾つかの遠い山巓がちらりと見える)、そこだけが、サランフの外に一つの世界の存在することを想わせる。
七月の半ばごろになると、この美しい荒野も生き生きしてきて、クローシェットの音が鳴りわたる。サルヴァンやヴェロッサから牛の群れが隊をなして登って来る。なぜならば場所は広くて、夏ごとに来る無数の獣は牧場の中で悠悠と暮らすことができるからである。彼らの中の最も冒険的な者は、斜面の上や、大きな岩の間や、堆石の近くなどで危険に身をさらしている。時々幾頭かが見えなくなる。そして、何年か後になってしばしば牧者の発見する彼らの白い骸骨は、こういう軽率な者たちの運命を語るのである。
この上もなく原始的なシャレーには極く少数の純朴な、鄙びた、陽気な連中が住んでいる。けだし牧者たちにとってサランフの「お山」での滞在のごときは一つのお祭りなのだから。そして、老齢や病身のために村に居残る者たちは、そんなにも住い日々を暮らしにあの美しい草原へ行く牛の群れの出発を、惜別の情なくして見送ることはできないに違いない。
獣群はサランフに一月しか滞在しない。八月の半ば、つまり谷間の村へ帰る幾日か前になると、他の多くの牧場でも行なわれている習慣として、牧者たちはそこで祝宴を張る。その当日のために近親や友人や若者たちが近くの村から登って来る。彼らはサランフのシャレーでその夜を明かす。そして、小屋はこんなにも多勢の友たちを泊めたり迎えたりするようにはできていないので、人々は蹲ったり、何かの上に棲まったり、できるだけ詰め合ったりする。そして、こういう一座は見ておく価値が充分にあるのだ!
或る祝宴の夜、われわれ四人の一行はちょうどそういう小屋の一軒へ到着する。そこがもう一杯なのを見て、われわれは牛乳を飲んだ後で退却しようと思う。「いいから泊まっておいでなさいよ。」と、その善良な人たちが言う。「八人分の場所があれば十二人は入れるんですからね。」そして、実際彼らの中の四人が一種の寝台の上へ詰め合う。それでわたしたちは秣置き場へ逼い上がる。それは十六平方尺ある!
その夜、人々は決して眠らないで、愉快な話がそれからそれへとはずむ。若者たちはおそくまで炉のまわりに居残って娘たちをからかっている。娘たちはまた困ったような返事はしない。彼らは互いに優しい目付きをする。そして、一つならずの牧歌が下描きされ、それが翌日は緑の芝生で続けられ、とうとう何か月か立ってしばしば幸福な結婚に落ちつくのである。
それにまたどんな場合であれ、この善良なサランフの牧者たちの所で過ごす一夜はつねに絵のように美しい。彼らはしばしば話上手である。そして、その古い物語にも増しておもしろいものは他にはない! 人は時々彼らから何か伝説を聴き出すことができる。たぶんジョラーの怪物の話などを。とにかく少なくとも彼らの所で最も慇懃なもてなしを受けることはつねである。
わたしはジョラーの怪物のことを今までに二度言った。その物語というのはこうである。
牧者たちはわたしに話した。昔(彼らの中の幾人かはその時分のことを覚えているとさえ信じている)、ジョラーの峠に一個の怪物が、一匹の竜が、とにかく今まで見たこともないような恐ろしい形相をした一匹の獣がいて、それが夜になると峠の通路を守っていた。彼はそれまでに無数の犠牲者を出した。そして、どんな大胆な猟師でもあえて彼をやっつけようとする者はいなかった。夜になるとその怪物は氷河を降り来て山じゅうをわが物にした。それでジョラーヘ近付く者こそ禍だった。ところが、或る日ローヌの谷で一人の男が死刑の宣告を受けた。その男は力が強くて無類の豪胆者だった。人々は彼がもしも怪物と闘ってそれを斃すことができたら死刑を免じてやろうと言った。男はそれを承諾してサランフヘ登って行き、夜を待ってジョラーの小径を攀じた。格闘は怖るべきものであった。しかし、人間の方が勝った。そして、それ以来サランフの牧者たちは安心していられるようになったというのである。
午前二時という真夜中に三度もそこを通ってわたしの知る限り、今では峠は安全なものである。
サランフは理解されなければならない一つの場所である。しかし、また自然を愛する者にとってこれ以上に親しみやすい所もない。初めての遽あわただしい訪問ではそこにある詩は感じられないかもしれない。しかし、もしもふたたびそこを訪れて、牛の群れが下山して野が寂然として来る時、澄んだ流れの縁で一時間を憩うとしたら、わけても夕暮れの影が立ち昇って太陽が山々の頂きを赤く染めるのを眺めながら、夜の来るのをもしも人が待つとしたら、その時こそサランフは語るであろう。そして、最も鈍感な者でもそこの詩を理解するであろう。寂しい古風な詩、崇高な沈黙の詩を。世界の開闢の時代に生きて、人が新しい創造のアダムであることを夢想させる詩を。あるいは消滅した世の最後の生存者として、ただ一人自然や神と共に在ることを夢みさせる詩を。
ああ! もしも人が時あって Ubi bene, ibi(わが楽しき地、これぞわが祖国)を言いたい感情に襲われるような国があるとしたならば、それこそ実にその自由な山々の胸の間に、かくも魂を奪うような場所、かくも崇高な谷間を秘めている国のことである。多くの人たちはこんなことを言うわたしを非難するかもしれない。しかし、もしも運命が今日わたしをどこか遙かな国へ追放するとしたならば、わたしは二つの国のために涙を流すだろうと思うのだ。
そこにわたしの少年期が隠れ家をもとめたわがセヴェンヌの鳶色の岩、仄暗い森林よ。お前たちは決してわたしの記憶から離れまい。わたしのうちには、つねに、お前たちの名を聴いて顫える何かがあるだろう。アルプスの偉大か思い出に富まされながらも、お前たちの山々のえにしだの間に、わたしの茫然とした思いをさまよわすことは一度ならずあるだろう。しかし、わたしが愛しているこの民衆、愛することを学んだこの自由、かつてしばしば夢想して、いまやこんなにも美しい日々を与えられているこのアルプス、彼らは実にわたしの心の半ばを占めている。フランスよ、わたしの少年時代と最初の思い出とはおんみのものだ。わたしの心、わたしの思想の中の最も親愛なものはおんみに。しかし、自由と美との瑞西エルヴェシー、わたしは自分の生涯の残りをお前に与えたいとたまたま思う。
ある夕方、わたしたちはシュザンフの峠を通ってダン・デュ・ミディを下山していた。一行は初めのうちかなり多勢だったが、もう別れ別れになっていた。大部分の人たちは、夜までにレマン湖畔へ着いていなければならなかったので、先を急いでよほど前から見えなくなっていた。二人の友だけがわたしといっしょに残っていた。
なお幾日か暇のあるわれわれは、どこへ泊まろうと構わなかった。それで数えることもしないで時間を流れ去るに任せていた。野はがらんとして人気もなかった。わたしたちはその時初めてサランフの土を踏んだのである。
この場所の美に恍惚として、三人共ますますゆっくりした歩調で歩いて行った。そして、さらによく楽しもうと思って、とうとう最も奇麗な或る小川の縁の草地へ寝ころんだ。いちばん年の若い友だちは澄んだ水と戯れていた。いちばん器用な友たちはデッサンを試みていた。わたしはどうかといえば、昼間の暑さで水嵩を増した氷河の急流の遠い響に揺られながら眼を閉じたり、こんな気持ちのいい境地が夢ではないことをもう一度確かめようと眼をあけたりしていた。
こんな清々すがすがしい小川の縁で休んではいても、食物や飲み物の事を考えないことはむずかしかった。それでランプの炎に暖められた軽い鍋の中ではショコラができあがって、やがて皆の手に回された。茶碗に注がれるのではなく、器の蓋へ注がれるのであった。それがセーブルや日本製の磁器よりもずっと上等なものに思われた。――ああ! 得もいえず妙なる時間、美しい思い出よ!
けれども、谷間全体に拡がりはじめた冷やびやした空気や、彫や、ダン・デュ・ミディの七つの尖峰を染めはじめた夕日の紅が、退却の路を確かめなくてはなるまいということをわたしたちに思い出させた。
すぐそばをうねっているのが見えるジョラーの小径のほかに、サランフを出る小路を少しも知っていなかったわたしたちは、そこへ行ったらきっと出口が見つかるだろうとゴルジュの方へ進んで行った。
「急ごう! 時間がないよ。どこで寝ようか。」などというのは愉快なものである。しかし、われわれを収り巻いている美の魔力に、どうしたらば抵抗できるだろう。野のはずれへ近付くに従って、幾筋もの小川がサランシュの流れを形作るために落ち合って来る。地面は凸凹になり、水はやがてたぎり立つためにますます高い瀬音を上げはじめる。ゴルジュが近くなる。花崗岩の塊、また、あたりには一面、初めて現われた石南しゃくなげ。なんと生き生きしていることだろう! なんという美しさだろう! 急いで花束を一つ、帽子に一房、一つの王冠! そして、わたしたちはなおもサランシュの最初の滝のあたりをぶらついたり、いよいよ美しさを増す石南を蒐めたりしていた。
一本の小径らしい痕が左岸に現われた。しかし、結局それらしいに過ぎなかった。なぜならば百歩の後にはその微かな踏跡を見失ってしまったから。しかし、構わずゴルジュの中を進んで行った。暗澹とした大きな雲がトゥール・サリエールのうしろから湧き上がって来た。
サランシュのゴルジュは非常に美しい。奔流は豊かな燦爛たる飛瀑となって落下する。しかし、高さ五十尺もある花崗岩の岩壁のところまで来ると、人は自分が一個の重たい無力な限られた存在だということを感じる。そして、この軽やかな水の流れは障害物とふざけたり、岩のなくなったところでは空間に飛び上がったり、彼らの面へ飛沫を投げかけたりしながらその無力な王位を侮辱するのだった。
このわたしたちの頭上を一羽の兄鷂このりが通って、羽ばたきしながらゴルジュを横ぎって行った。わたしたち三人はそこで協議をした。即ち、重くて、無力で、限られた存在であるわれわれは、この盛んな水といっしょに深淵の中を突進することはできない。さればといって、向こう岸でわれわれを愚弄している美しい小径まで渡って行くにしては、サランシュの流れはあまりに広く、あまりに速い。通路を作ろうと思って、急流の真ん中へ大きな石を投げ込んでみた。しかし、無駄だった。流れはたいして深くはないのだが、嘲笑する水は、わたしたちが腕を貸し合って一生懸命投げた物を玩具のように運び去った。
一本の倒木と二十の石とがそこで姿を消した。そして、サランシュは相変わらず急速に、轟音上げて、純潔に流れていた。そして、わたしたちも相変わらずそこにいた。約十歩の向こうを通っている小径を眺めながら。
ところが、だんだん低迷して来た雲の真ん中から雷が轟いて、それがサランフにこだまして鳴りはためいた。大粒の雨が降りはじめた。岸壁を乗り越えることもできず徒渉を強行することもできないとすれば、遙か下の方にちらちら見える大きな道まで、岩の斜面に沿って行く手を切り開きながら進むより外に仕方がなかった。
嵐と夜とに追い立てられながら、わたしたちは夢中になって登ったり、思い切って降りたりした。そして、岩から岩へと進んでついに小径へ出た。やがて十分間の後、ほとんど真っ暗な夜になったころ、闇の中に姿を現わしたアン・ヴァン・オーのシャレーの前まで来た。何軒かの小屋は小さくくっつき合って、まるで海狸の植民地の泥小屋を思わせた。
わたしたちは一軒一軒戸を叩いた。どれにも人が住んでいなかった。ついに、ちょうど嵐がゴルジュの中で最も猛烈に荒れ狂い出した瞬間、羽目の透き間に燈火のちらついている最後の小屋の戸が、わたしたちの前に開かれた。
このシ卞レーには、あるいはむしろこの掘っ立て小屋には、ひどく貧しい夫婦が住んでいた。病身らしい半白の男が炉の前に坐って一人の子どもにスープをやっていた。子どもは母親がわたしたちのために厩の中のたった一匹の牝牛の乳を暖めようと火を起こしている間に、喜んでそれを貪っていた。風は旨く合わない羽目の透き間から吹き込んで、この貧窮と田舎びた悲惨との絵のような場面をその不確かな明りで照らしているクレジュを二度も吹き消すのだった。
休息の時が来た。わたしがサルヴァンまで降りて行くことは思いも寄らなかった。嵐は止まないし、稲妻は炉の所まで射し込んで来て、わたしたちを眩惑したり、身顫いさせたりした。そして、雷鳴はゴルジュの斜面に長々と響き渡って、小屋の桁組を震撼した。毀れかかった梯子が一つ、煙にくすぶった狭い屋根裏へ通じていた。煙突という物はヴァン・オーでは知られていないので、煙は当然この屋根裏を通っておもむろに屋根窓から抜けて行くのである。もとより干し草もなければ、麦藁もなかった。わずかに幾らかの藁茎が濡れた板の上に落ちていて、それが以前はそういう物のあったことを証拠立てていた。わたしたちはしっかりくっつき合って、マントにくるまって、身体も暖めようとしたり、できたら眠ろうと試みた。しかし、屋根の割り板は氾濫する洪水を防ぐには無力で、初めは水滴を、それから雨の小川を、わたしたちの上へざあざあと濾過した。
アルプスの高地のシャレーで夜を過ごしたことは、わたしには幾度もある。またドーフィネやモーリェエンヌの石小屋へ泊まったこともあるし、七千尺の露天で眠ったこともある。しかし、いまだかつてヴァン・オーの小屋でのような一夜の思い出は持っていない。夜明けの来るのが何とゆっくりだったろう! そして、その最初の光と共に、窒息しかけて、びしょ濡れになって震えていたわたしたちが、何という歓喜をもってサルヴァンヘの路を採ったことだろう!
それにしてもわれわれの不愉快な事件の印象を、あまり長々と述べるのは善くないかもしれない。われわれの場合は、他の人たちならば決して遭遇しないような不都合な条件の併発の結果だったのである。人は他の場所でと同じように気持ちのいい夜をヴァン・オーで過ごすことができるのである。
谷は美しいし、佳い季節にはたいていのシャレーが十分住むに適している。春や秋にそこで見かける住民は悲惨どころではない。そして、もしも人が或る日曜日の夕方ヴァン・オーを通るとすれば、小景の入口に白い膚着や新しい胴着を見るであろう。
しかし、またサランシュと、そのゴルジュと、小径とへ話をもどさなければならない。人はアルプスの行では骨を折ることによってしばしば学ぶのである。しかし、もしも眼を瞠いていれば学ぶには一度で足りる。あの冒険以来、わたしたちはもう路を見失うということはなかった。それに路は二本あって、両岸を一本ずつ走っている。しかし、その痕跡が場所によってはひどく微かな上に岸から遠ざかったり登りになったりする具合かひどく気まぐれなので、ちょっとした不注意にも見失ってしまう惧れがある。この二本の小径はいずれも同じようにまっすぐである。しかし、サランシュの変化に富んだ幾つかの滝を楽しみたいと思う人は、左岸の道を採る方がよい。
ゴルジュ全体は荒々しくて非常に美しく、また一種独特な警抜な性格を持っている。ヴァン・バの下では両岸が迫って来て通行は不可能になる。そこまで来るとサランシュはいよいよ急な跳躍を起こして、ますます高い轟音を上げる爆布となって深淵を躍り越える。やがて突然、ゴルジュがローヌの渓谷の前で開ける。そして、流れるべき地面を失った水はその豊かな燦然たる泡を空間の手に委ねる。しかし、これが最後である。サランシュは平地に触れると同時にその名を失ったのである。つねに真っ白で決して豪雨の色に染められることのないこの滝は、もうサランシュではない。土地の人たちは。ピッス・ヴァーシュという名でこれを呼んだ。そして。今でもこの名が残っている。
この滝を賛美する多数の旅客の中で、サランシュという美しい名を知っている者は極めて稀である。そして、たいていの人たちは、上の方の開いているこの暗いゴルジュがいったいどこへ通じているかということを訊くことを忘れている。
サランシュをその水源で味わった後、彼女が息も絶えだえの泡をローヌの泥水に混ぜようとする臨終の瞬間まで、その最後の瀑布について追って行くのは興味あることだろう。わたしが最近に知った小径を辿ればそれはできる。しかし、サルヴァンヘの道は、ヴァン・オーの少し下で彼女と別れて樅の森林の中へ入り込んでいる。勾配は急だが脚には楽な道で、間もなく低い地帯へ出る。ある種の雄大な眺望もなくはない。そこからはペンニーン山脈の前哨が夕栄えの中で輝いているのが見える。
平地へ帰ることを急がない人ならば、だれしも、サルヴァンヘ足を停めて後悔はしないだろう。夕方に着いて、一夜をそこで暮らして、翌る早朝のすがすがしい空気と最初の日光との中を降りて来ることもできるのである。
ヴァレー郡のすべての村落と同様に、サルヴァンも絵のように美しい。昔の風俗と素朴さとがまだそこを支配している。しかし、そういう物が間もなく影を消してしまうのは惜しいことである。一本の新しい道がサルヴァンを通るようになって、シャモニへ行く外国人のかなりな流れをこっち側へ入り込ませている。
わたしはサルヴァンが好きだ。そこには幾多の思い出もあれば、善い人たちの知り合いもある。山へ向かって出発する山羊の番人のラッパの音に朝早く眼を覚ますために、そこで眠るのがわたしは好きだ。朝、得もいえぬギューロの小径を辿って下るために、夕暮れそこに居残るのがわたしは好きだ。なぜならば、どうせ降りて行かなければならないものなら、この無上な、また悲しい瞬間をなおいくらか遅らせて、のろのろと迂回しながら影を消す一筋の楽しい花の小径を、最後の歩行のために選ぶ方がましではないか。
先を急ぐ人たちのためにはまた別の道がある。それはヴェルナヤの上を幾何学的なジグザグでまっすぐに降りるもので、やはり美しい。この方面には他に道がないのである。しかし、わたしにはこれはあまり早く着き過ぎる道である。
旅客に知られていないギューロの小径は、村をこっそり抜け出すと、幾つか草原を横切って、控え目な様子で森林の中へ入って行く。ぶらぶら歩く者には佳い道である。半時間ばかりは目的地とちょうど反対の方向をとる。道はトゥリアンのゴルジュを遡る。そこは不吉な地獄で、猛り狂った水の轟が聴こえて、戦慄なしには近寄れない。道は最も通行容易な地点までそれを遡って行って、やがて急流を渡る。そして、今度こそついに正しい方向をとってローヌの渓谷を眼の前にする。しかし、その道は実に爽やかで、影が多く、つつましやかで、しんとしている。途中ある地点には惚れ惚れするような桜桃が咲いている。こういう風にして旅を終わり、最後の思い出にこんな花の一枝を手折るのは何と楽しいことだろう。
この道は人を迷わすような様子をしてなおできるだけ遠くへ続くらしく見えるが、しかし、もう平地はすぐそこにある。空中を進むわけにいかないとすれば、結局降りるのほかはない。
ああ! 岩だらけにせよ、花に飾られているにせよ、気紛れな屈曲でうねるにせよ、まっすぐであるにせよ、ここ地上の全ての道にはその目的地がある。そして、どんなにゆっくり歩こうと、どんなに遠く迂回しようと、人は一度はそこへ着かなければならないのである。
Ⅱ
ダン・デュ・ミディほど一般的に知られていて、しかもこれほど訪れられることの少なかった山というものも珍しい。ローヌの渓谷を行く旅人はいずれも彼女に注目してその名を覚える。かなり多数の旅行家がその最高の尖峰シャンベリーの峰へ登っている。しかし、植物学者または好事家にして、未知の物の捜索のために別の方面へ、即ちゴルジュの中とかジャラン氷河とか、あるいはジョラー、サランフなどの方面へ入り込んで行った者は極めて稀である。そして、プラン・ネヴェの氷河を知っている人にいたっては数えるほどしかいない。
旅行家の弁護のためにいえば、シャンベリー以外にはどの方面からにせよ接近は容易でなく、少なくとも予め地図を研究しておくことが絶対に必要である。その上、高地牧場のシャレー以外には宿を期待することもできない。しかし、もしもそういう困難を突破しようと決心さえすれば、困難はたちまち変じてそれだけの魅力となるのである。地図と磁石とを頼りに行程を計画するにも増して楽しいことがあるだろうか! 高峻アルプスの中のある寂しい匿れた奥地へ冒険的に入り込んだり、そこで一夜の宿や食事の場所を捜したりすることにも増して誘惑的なものがあるだろうか? 最後に、山での露営にも増して気持ちのいいものがあるだろうか!
さらにここに一つ提出されなければならない観点がある。そんな物は持たないに限るかもしれないここで、しかし、問題は真面目なものに成り得るのである。多くの人は、彼らがどこかの山頂を、しかし著名な山頂を極めたのでなければ、アルプスへ遊んだとも思わず、一つの山行をしたとも信じないようである。しかし、その限りでは、この登路は彼らを満足させることが困難だろうということをわたしは告白する。実際、南東斜面の主要な足場であるサランフから出発するとすれば、ダン・デュ・ミディ最高峰への登攀以上に容易なものはほかにないのである。リュイザンはあまり楽でない(注――確かではない)上に知られてもいないし、サランタンもほとんど同じようだといっていい。最後のトゥール・サリエールは非常に危険な登攀である。そして、ダン・デュ・ミディの残る六つの尖峰ときては、そのいちばん小さい物さえ実に一種のセルヴァンである。
それならば彼らの杖へある山嶺の名を刻んで持ち帰ることに絶対の執着を持っているような人々がサランフヘ来るのはまちかっているかもしれない。牧場や小川、プラン・ネヴェの大堆石や、氷河や、峰々、ここにあるそういう物は二種の人たちをしか喜ばせ得ないだろう。即ち、美しい水、優しい草地、繊麗な花などを夢想させるような風景だけを求める人々……また、著名な山巓に達することをあまり問題とせず、己が移り気のままに、己れ一人の喜びのために、高山の寂寞の中を彷徨することを愛する人々、自尊心による偏見から解放されている登山家。そうした二種の人たちだけを。
わたしは前章でまずサランフとそのゴルジュとを紹介することを試みた。今度は登攀家たちと連れ立って、氷河とその上に聳える峰々との方へ進んで行こうと思う。
たとい何と言われてもダン・デュ・ミディには全く惚れ込んでいるとわたしは言った。この熱情に対する近親の者たちの冷やかしは、かえってそれを煽り立てる役をするに過ぎなかった。
それにまた、何か怪しむに足ることがそこにあるだろうか。二年このかた、一日のあらゆる瞬間にわたしは彼女を眼の前にしていたのである。わたしの部屋の窓は、眼を覚ますとまず見えるいわば一枚の絵に面した位置にあった。それはほっそりした優美な彼女の横顔だった。食卓に着けば、悪戯好きな運命がうまく席を取ってくれるので、わたしは向かい合わせた二人の間から窓越しに、まるで額縁の中の絵を見るように、アレートをなしている七つの尖峰と、その山腹の半分までを見ることができるのだった。最後に、仕事が一日の大部分、わたしを一つの広間へ引き留めていたので、どの窓からでも彼女の全身が見えた。その台石の役をしている豊満な前山から、空中に浮かぶ山巓まで。これでもなお魅惑されずにいられるだろうか。
ダン・デュ・ミディの中でわけてもわたしの愛するもの、わたしを惹きつけ、わたしを虜にし、わたしの瞑想の間じゅう最も長く視線を引き留めておくもの、それは東峰シーム・ドゥ・レストである。たといそれが最高の峰ではないにしても、しかし最も誇らかな、最もすらりとした、最も美しい峰だとはいえないであろうか。山自体にその全性格を与えているのは彼女ではなかろうか。そして、西方に坐するその姉に数メートルを譲っているにもかかわらず、まず人の心を打ってその記憶の中に残るのもまた彼女ではないだろうか。
わたしはシーム・ドゥ・レストのデッサンを、他の尖峰のそれといっしょにいろいろに書いてみることを幾度か紙の上で試みたものだ。わたしは彼女の美しい形にあまり夢中になり過ぎているのだろうか。それとも実際最も美しいのだろうか。しかし、その気高さと優美さと、その典雅さと高邁さとを、同時に具現した横顔を描くことにはついに成功しなかった。
彼女はそんなにも美しく、そんなにも威厳に満ちている! そんなにも立派に一万四千乃至一万五千尺という高さを保っている! よく夢の中で、わたしは彼女の誇らしげな競争者を引きおろす。そして、屈服したペンニーン山脈を睥睨して一人君臨している彼女を見る。
しかし、ああ! そんなことは全然ないのだ。反対に、周囲のあらゆる峰々の中で、この最も気高い彼女こそ、時の力の下で真っ先に倒れる運命を担っているのだ。昔はどんなに今よりも高かったにしても、それは一つの夢に過ぎない。ただ一つ考え得ることは、彼女が今日最高峰をなす西峰シーム・ドゥ・ルゥエストをかつては凌駕していたということである。連邦の地図の上に眼を投げれば、殊に少し離れてその起伏を観察すれば、全山群が一つの中心点で合する三つのアレートに要約されることがわかる。即ち、七つの尖峰によって連続しているシュザンフのアレート、マッソンジェから起こってプティト・ダンとダン・ドゥ・ヴァレール注・1とを繋ぐアレート、そして、サランタンとガーニュリーのアレート。この三つはいずれもシーム・ドゥ・レストで終わっているのである。なお四番目の断片をなすサン・タネールのそれは、前記のアレートよりは短くもあり、力にも乏しいが、これもまたそこへ合している。それならば、その最高点が、即ちこれらの山稜の結合点が、最も高い所であり、従ってシャンベリーの峰を凌鴛していたはずだという結論を下すことはできないであろうか注・2。
(注・1――またダン・ヴァルレットとも呼ばれている。)
(注・2――このことを証明するのはおそらく容易であろう。その時代にはガーニュリーは一個の力強い山稜によってまだ東峰に結びつけられていたに違いない。一つの広い割れ目が爾来そこに形成されていて、今日氷河の主流もここを通っている。新古両様の堆石を精密に調査すれば、その流れの方向に変化があったか否かが証明されるであろう。もしもその主流が南方へ向かっていたものとしたならば、最高の峰はその反対の方向にあったであろうという推論が成り立ちはしないであろうか。)
その西方の競争者よりも無限に好い位置を占めている上に、高さの点でも多く譲らないのだから、東峰は多数の登山家を惹きつけていたはずである。ところが長い間近づき難いものと思われてきた。今日でもなおヴァル・ディリエや、ローヌの谷や、サルヴァンで、多くの人たちが同じように考えている。
今までにこの誇らかな頂上を踏んだ登山家が稀であり、その数も容易に数えられるということは少なくとも確かである。一八四二年にヴェロッサの猟師ドゥレによって行なわれた第一回の登攀以後(そして、彼はこの登攀についてつねに生き生きした、記憶を持っていた)わたしの知っている範囲では二回だけしか成功していない。ランベール、ピッカール両氏の登攀と、そしてわたしのと。
多少なりとも成功で飾られた試みとなるとその数は遙かに多い。ことによれば一ダースにも及ぶであろう。そのうちわたしのが大部分を占めている。
最高の尖峰を攀じてからというもの、わたしは最美のそれを攀じたい欲望を禁じることができなかった。夏の季節が進むにつれて、毎日の夕方いよいよ長時間わたしはそれを眺めるのだった。わたしはランベール氏の登攀と計画との物語を絶えず読み返して、ついに暗記しはじめるまでになった。自分のいつもの同行者コンスタン・Bにはまだ何事も言わなかったのだが、彼がもらした数語からもう看破されていることを悟った。ついに八月の月も進んでアレートはいよいよ登りやすくなって来た。もうこれ以上我慢はできなかった。
運命は気紛れ者だ、と人は言う。それはまたいっそうよく結末に辿りつくために種々の詭計をも弄する。
八月も末のある夕方、コンスタンとわたしとは一人の若いヴェニス人といっしょに、湖水の上で涼を納れようとサヴォアの岸を指して舟を出した。帆は一様に吹く涼しい風をはらんで水面へ傾き、われわれは来し方に遠く輝く船跡を残しながら。水を切って走った。
太陽は地平線に沈みかかって灰色の光をひろげはじめた。サヴォアの山々はもう大きな影を投げていた。間もなくわたしたちのまわりですべての物がある幻妙な光に燃え上がった。帆柱も帆具もわたしたちの顔も深紅に染まった。水はきらきら輝きながら地平線の炎を反映し、それぞれの波が一つ一つ炎になった。地平線の落日がこれ以上美しいことはかつてなかった。ヴェニス人は立ったまま髪の毛を風に吹かせて、ヴェニスを忘れ、逸楽的なゴンドラを忘れ、アドリア海の美しい夕暮れを忘れた。それから太陽がジュラの長い山脈のうしろへ静かに落ちて行くと、水の色も少しずつ褪せていった。魔術のような光景は終わった。そして、わたしたちは岸へ帰ることを思い出した。ちょうどその時もどろうとして向きを変えた時、わたしたちの三つの胸は突然驚駭と賛嘆との叫びを爆発させてしまった。それはあの美しい光景が続く間忘れていたダン・デュ・ミディで、いまや仄暗くなった山々の中でただ一人落日の最後の炎に燃えていた。こんなにも美しい彼女をわたしたちは一度も見たことがなかった。わけてもシーム・ドゥ・レストは無比の光耀にきらめいていた。あたかも愛人たちの前に立つ一人の美女のように、彼女はその美の全光輝をもってわれわれに現われるために、場所と天気と、時間とを巧みに按配したのである。
それはあまりのことだった。「行こう!」と、断固たる身振りでその山を指しながらコンスタンが突然叫んだ。「明日出発しよう。」と、わたしは答えた。これで相談は一決した。その晩わたしたちはゲートルや登山杖や綱を調べた。翌日快晴の昼過ぎ、エヴィオナの小さい停車場にわたしたちは降り立っていた。
シーム・ドゥ・レストヘの登路はいろいろある。シャンペリーを経由するもの、サルヴァンを通るもの、ボア・ノワールを行くもの、サン・バルテルミーのゴルジュからのもの、あるいはジョラーの峠を経るものなど。最後のコースだと路は最も短い。同時に登りの残余の部分と最もよく調和する性質を持っている。サン・バルテルミーの谷は険しくて陰讚で、そこに臨む岩壁は痩せ細っていて恐ろしい。一帯の光景には困難な登攀の序曲にふさわしい真剣な何物かがある。
その上この地方はヴァル・ディリエの奥や、ことにサランシュのゴルジュなどの特色をなしているあの爽やかな美や気持ちのいいこまこました物を提供しない。ジョラーの峠を登って潑剌とした楽しみを見つけるには、単なる絵画的な美とは違った別の物に興味を持たなければならない。ことにその無量の岩石の凹凸烈しい不安な組繊に対して、そこがかつて大変動の舞台であり、今でもなおその脅威を受けていることを理解しようと努めなければならない。この点サン・バルテルミーのゴルジュや急湍たんにも増して恐ろしいものは他にはない。
これらの山獄はアルプスの異変史に多くのページを供給した。彼らは一度ならずその住民に怖るべき警告を与えた。そして、各世代は、彼らがその目撃者であった動乱のことを語り継ぐことができるのである。
しかし、世代が語り継ぐことのできないもの、それは、これらの山獄の原始の渾沌の中にまだ人間の生活が出現しなかった時代に起こった事柄である。
今日リース河が流れ、エヴィオナの畑や家々のある場所に、そもそもどんな恐ろしい地変から、こんな広大な割れ目が口をあけたのかだれが知っているだろう。
疑いもなくこの割れ目は初めのうちは狭かった。そして、怒り狂った水が連続的な突撃によってしだいに彼らの通路を取り込んで行ったのである。それにまた氷河時代に、ゴルジュの中へ彼の流れを閉じこめられていたローヌの強力な氷河が、猛烈な勢いでその側面を圧迫したことにも疑問の余地はない。ダン・ドゥ・モルクルからダン・デュ・ミディヘかけて、そもそもどんなに多くの峰々が次から次へと侵蝕され消滅して行ったことだろう! 大氷河はこれらの最初の崩壊物の莫大な量をことごとく遠方へ運んだ。そして、レマンの水こそおそらくその秘密をわれわれよりも善く知っているのである。
その後起こったこと、また、人間の出現以来この付近に起こったことは、最初のころの動乱に較べれば何物でもない。しかし、それでもなお人間の想像にとってはあまりのことであり、彼らの貧弱な住所にとっては異常過ぎる出来事である。
地方の古文書にはかなり昔から恐ろしい思い出についての記載がある。モン・トーリュスの転覆の下にエポーヌの小さい町を埋没した異変、そして、そこで(近代になってラヴェーでふたたび発見された)温泉が消滅した異変――は、最も古いものの一つである。
一六三五年十月九日の真夜中に、ある新しい怖るべき非常警報がエヴィオナとその付近の部落との住民に発せられた。彼らは愕然眼を醒まして恐怖の寝床から飛び出した。耳を聾するような轟音が聴こえて、それがますます猛烈になって行った。近くにあるノヴィエロの山は大爆音を上げて渓谷へ崩れ落ちた。急報を聞いたサン・モーリスの司祭が警鐘を鳴らした。夜が明けると群衆の行列が災害の場所へ向かって行った。しかし、行列がそこへ着くか着かない内に、さらにいっそう猛烈な崩壊が起こって彼らを付近の高みへ追い散らした。
音響は渓谷全体に鳴り響いた。ボア・ノワールから湖水まで、太陽は十五分間以上も塵埃の雲で暗澹とした。ローヌの流は堰き止められた。マール(今日のサン・バルテルミー)の急流はジョラーの麓ヘ一個の湖を作ったが、それが溢れ出すことは谷間の人々にとってまた新しい脅威であった。
土俗の迷信はこの大異変を山に住む悪魔の仕業に帰した。シオンの司教ヒルデブラント・ヨストは九日間悪魔祓いの祈祷をした。しかし、何にもならなかった。水は飽くまでも仕事を続けた。そして、局部的な崩壊とか、また特に急流に運搬される泥土とか、そういう似たような脅威が幾年か間を置いて繰り返された。
最後に一八三五年八月二十六日の朝十一時ごろ、突然休みなしにつづく大砲の一斉射撃のような音響が轟き渡った。人々の眼はことごとく山を仰いだ。シーム・ドゥ・レストが雲のような物に包まれていた。そして、そこから崩壊物が落下して来た。濃密な霧がサン・バルテルミーのゴルジュに立ちこめて、猛烈な突風がメースの家々を震撼し、森林の全部を転覆した。
岩石の巨大な一塊がシーム・ドゥ・レストからはずれて落下し、それが氷河の最前面に衝突して粉砕した。氷と岩とは恐るべき音響を上げながら七千尺の絶崖を転落して、渓谷とゴルジュとをその崩壊物で埋めた。
粉砕されて溶けた氷はこれらの崩壊物と混合して、巨大な岩石を篏め込んだ泥槐を形作った。それが急流の高い岸を躍り越え、ボア・ノワールを越えて、ローヌの渓谷まで行って溶けた。流れの一部は右手へ向かってラッスの部落を泥土で被った。
遮断された道路の交通を復旧するために橋を架けなければならなかった。橋は幾つかの長い梯子と、樅材の板と丸太とで作られた。その梯子を縛った綱は岸の高みへ張り渡された。新しい押し出しが来るたびに――そんなことは一日に三度か四度あった――ゴルジュの中にいる見張りの男が呼び子で知らせた。すると橋が流されないように即座に綱が引き上げられた。当時の目撃者ドゥ・ボン氏がこういう押し出しの一つを記述している注・1。
(注1――ダン・デュ・ミディの昔の崩壊に関する種々の細かい知識をわたしはこのドゥ・ボン氏に負うところが多い。)
「白味がかった一道の煙がゴルジュの口から上がると同時に、耳を聾するばかりの音響と一陣の烈しい気流とが、押し出しの近いことをわれらに知らせた。やがて泥塊の行進が抗い難い力をもって迫って来た。しかし、その速度は緩漫で、普通の歩調で歩く人間もこれに追い付かれることなく進み得るほどであった。巨大な岩塊は字義どおり流れの上に浮いて現われ、しばしの間は一片の羽毛のように軽々と逆立ち、やがて泥塊の中に沈んで全く見えなくなった。なお少し進むとふたたびおもむろに表面に浮き上がって来、やがてまた沈み、こういう風に同じ光景と同じ出来事とを繰り返しながら、しだいに遠方へ進んで行くのであった。
急流の河床には特に狭い箇所があった。莫大な量の礫はそこへ停滞して一種の障壁を形作ったが、河流に運搬されて来た種々雑多の物がそこへ堆積した。数分間そこには不思議な闘争が行なわれた。氷の融水は漫々とみなぎって後方へ退きはじめた。それは岸を越えるほど高まった。ついにそれは出口を見い出して、行く手を遮るすべての障害物を突破しながら共に運び去った。岩石、樹木、氷塊、あらゆる種類の破片、すべてそういう物が長い荒々しい咆哮と共に渦を巻き、次いで平らになり、ボア・ノワールの斜面を越えて前方へ運び去られた。」
一八三五年以来、山はほとんど静穏になっている。しかし、水は仕事をしている。そして、ローヌの渓谷を荒廃させるような、いっそう怖ろしい異変のまたやって来る日をだれに予見できるだろうか。
今日、人々はもうそこで悪魔の仕事を見ない。彼らはもう山のお祓いはしない。しかし、信仰からのしきたりで、サン・バルテルミーでは、毎年行列がラッスの上手の或る小山の上へ出かけることになっている。そこには十字架が立っていて、人々は祈願によって天帝の加護に訴えるのである。
エヴィオナからボア・ノワールとジョラーとへ達するには、麦畑を通ってラッスの部落まで、即ちゴルジュの入口と森林の麓まで行かなければならない。
ヴァレー地方でよく見るような絵画的な壊れた廃屋の幾つかを後にすると、路は急な坂になって森の中へ入って行く。一歩一歩急流の右岸の顕著な登りを進むと、間もなくその轟が数百メートル下から聴こえて来る。約三千尺の高さまで来ると、険しい頑固な石だらけの坂が終わって登路は魅惑的なものになる。一筋の楽しい小径が森の中を登りもせず降りもせずに続いて、それが苺や、蝦夷苺や、すがすがしい羊歯などにすっかり縁取られている。
頭を上げると、もう木の葉の間から、天空の最も高いところにピラミッド形のシーム・ドゥ・レストが見える。その左にはガーニュリーの巨大な岩壁が聳えて、たいして重厚ではないが誇らかな尖峰の印象を一瞬間揺らめかすだろう。この二つの峰の間には空色をした氷河の一端が拡がり、それから下は暗い深淵をなしている。尖峰の突端から谷底まで、約六千尺を算する垂直な厳然たる絶崖である。
左手サランタンの禿げの頭とガーニュリーの絶壁との間に一つの凹みが見える。それがジョーラの峠コルである。小径は迂回し、一本の急流を横ぎり、だいたいその方向を指して登り、間もなくジョラー・ダン・バのシャレーに出会う。そのすぐ傍を冷たいラ・フォンテーヌの奇麗な水が流れている。何たる誘惑だろう! しかもその誘惑に負けまいとするにはどんなに強くなくてはならないだろう!
そこから一本の登路がいよいよ高く、小さい谷にちょっと中断されながら峠の頂上まで続いている。風景は単純で植物にも乏しいが、路は快適でなくはない。人は影と涼しさとの中を行くのである。
峠の頂上には、つねに山地の人々の素朴な信仰の感動的な表象である一基の十字架が立っている。そして、こんな高みでは、それがいみじくも真面目な思想を思わせる。
この十字架は、それを立てた人々にとっては、疑いもなく邪悪な霊に対して、また、おそらく幾分かは嵐に対して、彼らの牧場を守護するための物であった。それは峠の通行の安全を保証し、悪竜ドラゴンを(もしも彼が帰って来る気を起こしたならば)駆逐する物であった。
淳朴な信仰よ! そして、この信仰たる、今日のいっそう開化した多くの山人たちの猛々しい懐疑心よりも遙かに価値あるものではないだろうか。教育の不足が彼らをしてもっと高尚な思想にまで登ることを許さない以上、守護者である神に、悪魔の誘惑から免れることを祈る者たちを護る善き神に信頼することは、彼らにとって慰めではないだろうか。
けれども通りがかりに礼拝しない者や、女たちに爪弾きされることを恐れてのみ礼拝するような者がもういるのである。それがことに谷間の人間に多い。五十年のうちにはおそらくもっとおろそかにするだろう。そして、いつかは蝕んだ十字架が嵐に運び去られ、それを立てなおそうなどとはもうだれも思わなくなるだろう。もちろんわたしはここで聖像礼拝を説教する考えは毛頭ない。しかし、そんな時が来たらわたしは山の住民たちのために嘆くだろう。
ある夕方、それは二度目の時だったと思うが、わたしたちは、ジョラーを登っていた。ちょうど人々が家畜を牧場へ連れて行ったばかりのところだった。それであの高みで余りの一日を暮らして夜になって下山するために、どの家族も皆後についていた。わたしたちが峠の頂上へ近づくと、反対の側から一人の善良そうな老人と、二人の女と、夕勢の子どもとが現われた。彼らは十字架の前まで来ると帽子をとって、深い尊敬の心をあらわしてそのまわりへ跪いた。この一家族の者が敬虔に十字架を取り巻いている光景、それは何という山上での光景だったろう! 何と単純な素朴な家族だろう! 牧場へ残して行くその家畜などのための加護の祈り、そして、その祈りを聴く者のところへ登って来た彼らの心!
わたしたちはそこを通って彼らの邪魔をしないように、またこの感動的な画面を楽しむために、少し離れて腰をおろしていた。やがて膝を払いながら彼らは立ち上がった。そして、明らかに安堵の心を抱いて山を下って行った。
家畜の群れが牧場に滞在している真夏の季節を除いては、ジョラーの小径は荒れている。七月も半ばごろになると、幾人かの山人が、冬の被害の繕いをしたり滞在の準備をしたりしに、彼らのシャレーヘやって来る。続いて家畜の到着する二、三日前になると、多勢の人間が登って来て、雪崩のために方々で陥落している路を修繕したり、木の枝や大きな石を、取り除いたりする。
サランフのシャレーに人の住んでいることを知るのは確かに愉快には違いない。しかし、ジョラー峠は、寂寞の国の何たるかを知る者にとってはいっそう感銘的である。この峠にはいっそう忘れることのできない性格がある。そして、その性格は白昼や活動よりも、さらによく黄昏や、沈黙や、寂しさのような物と調和している。
それは広々と開けた地平を望む高い山脈の上の峠ではない。それは近隣の谷々や峰々しか眼に入らない肩の峠である。右手にはトゥール・サリエールの険しい岩壁が、その囲いの間にわずかにサランフの圏谷の一部を見せながら、地平の眺めを扼している。その前方、左の方には、ひとつのゴルジュががっくり口をあけていて、夕暮れにはそれが底知れず深く見える。ただそこを流れているサランシュのかすかな轟だけが、ゴルジュの深さを測るよすがとなるのみである。こっち側では、最も深い影の上遥かにコンバンの白い円頂が聳えている。夕暮れの最後の反映にまだ照らされながら、または夜の最初の影のただなかに蒼白な幻のように立ちながら。
わたしたちが初めてその頂上へ達した時、峠の上には一つの崇高な光景が待ちうけていた。
太陽はその没した瞬間から天空に菫色がかった光を残して、その反対がペンニーン山脈の美しい氷河をまだ彩っていた。ちょうどその時、月がトゥール・サリエールの上へ昇って、限りもなく壮麗な姿を現わした。そこには瀕死の太陽とさしのぼる月との二つの光が混じり合って、得もいえぬ色調を生む一瞬間があった。菫色から緑へ移る最も美しい灰色のニューアンスが同時にそれへ溶けこんだ。一瞬間色調は美と深さとの極限に達した。それから少しずつ菫色が消えて蒼ざめた緑が主になった。そして、最後に月がひとりその静かな光を全画面の上にひろげるのだった。
峠の頂上から小径は左へ斜行してサランフの牧場まで下って行く。そこへはじきに達することができる。
もしもシャレーに牧者たちがいたら、一番先に眼についた小屋へ入って行きたまえ。おそらく、安楽はないかもしれないが、懇ろな、欲得を離れた歓迎は受けるだろう。もしもシャレーが空だったら、その時こそアルプスの大行程のうちで最も妙味ある楽しみの一つが開始されるのだ。即ちこの無一物の世界から仮の宿りを作ったり、暖をとったり、身を養ったりするために、人間の天才の全力を発揮する楽しみ、考え得るかぎりの最も不思議なあらゆる手段を講ずる楽しみが始まるのである。
わずかの努力で必要に備えることができるのみでなく。風変わりな材料の力をかりて、或る慰安も得られれば、またシバリス人びとの快楽も得られるのである。
初めての探検の時には、わたしたちは家畜が下山した数日後にそこへ着いたのだった。まず第一に一軒のシャレーを選択することが必要だった。わたしたちはそれをじきにある魅惑的な場所で発見した。幾つかの岩塊を背にして、芝地のへり、小川のすぐそばにあるシャレーだった。
ランターンがともされ、銘々に腰掛けができて、わたしたちは数分間で落ち着いた。逆さにした桶がテーブルの役を務めた。炉の中では落葉松の根や古い樅の割り板がぱちぱちいって燃えた。
また、別の何ともいえない楽しみは、食事をすること、即ち料理の知識を応用することでなければならない。そして、われわれのような料理人が作った、へんてこではあるがまた旨くもある飲み物を、だれが描写できるだろう! 桜実キルシュと香橙オランジュとを混ぜた暖かい葡萄酒や、ハンケチの端で濾した茶の香味は、最も贅沢な食卓にも求めることはできないだろう。
しかし、こんな夜は一刻も貴重である。それで料理の化学を十分に試みた後では、明日の疲労に前もって備えるために眠りに行くがよい。諸君は火に薪を添える。湿った地面の上へじかに毛布を拡げる。あるいはもしも干し草が残っていたら秣置き場へ登って行く。要するにどこででも眠ることはできるのである。しかし、読者諸君、わたしはきっと諸君が階段で眠る快味を知らないだろうと思う。経験を積んだシバリス人びととして、わたしが長椅子にするために第一に占領するのはいつでもこの建具である。それは百の踏段を積み上げた狭苦しいあの平原地方のけちな階段ではなく、三段で秣置き場へ登れる幅広な、頑丈な、あの山地の上等な階段である。習慣どおり十度から二十度の傾斜で横になり、背嚢を枕の代わりにすると、この階段は手に入れることのできる最も具合のいい寝台になる。おお、レムブラント! 君はどこにいる。また、画家という者は、どうしてこんな山中の光景から霊感を得ようとしないのか!
はからずもわれわれのシャレーの戸口に現われた画家にとって、これは何という好個の画題だろう! ……什器や、食物や、斧や、綱や、明滅する角燈と気紛れな炎を役げる落葉松の根との明りに照らし出されて、階段で眠っている旅人。そんな雑然とした光景が、何と絵画的ではあるまいか。
けれども、ここでもまた下界と同様に時刻は移る。いまや真夜中である。起きて朝食をとり、出発の準備をすべき時である。
天気を見に少しばかり外へ出て見る。氷河の爽やかな空気が顔に当る。空には一片の雲もなく、月はらんらんと輝いている。
「さあ、出かけよう、コンスクン! 用のないランターンはそこへ残して置いて、この結構な月明りを利用しよう! ゆっくりと歩こうね。少しばかりよけいに休んでいるよりも、こんな良い夜をそれだけ長く味わった方がましじゃないか。」
シーム・ドゥ・レストを志すには、サランフからプラン・ネヴェの氷河へ取り付かなければならない。それは一個の白いテラスのように一〇〇〇メートルの上方に拡がって、いましそこでは月光が楽しげに眠っている。その後からは七つの尖峰が幻想的にぎざぎざな形に浮き出して、それが、夜には、無言の人物のように身を動かしたり、内部の合図をしたりするように見える。また、少し長く見ていると、夜陰の中で何か他界の舞踏をやっているように見える。
シャレーと氷河との間には、一部分昔の堆石モレーンとラピアとで披われた非常に長い斜面がひろがっている。これを登るには三時間を要する。しかし、石をよけて、脚膕ひつかがみを労わりながら、半時間を儲けて登る方法がなくはない。ほとんど最右端のあたりに、新しい堆石のところまでつづく、斜面と草つきの円丘との一連続がある。シャレーの右手から一本の幅広な牛の通路が登っている。初めはラピアを避けるために離れて、それから一種の小谷をなしている中腹でとまる路である。そこまで行くと、前方に、一筋の堆石のアレートで続いている切り立った急坂が現われる。これが最善で最短の登路である。
最初の坂を登りつめるや否や、サランフの圏谷と野とが神秘な光を浴びてわたしたちの眼下へ現われた。小川のきらめきを見せている野原は、トゥール・サリエールの岩壁の下の影の中へ消え込んでいた。その岩壁の暗さが、一つ一つの起伏を月の光に優しく照らされているドームの氷河の、その軟らかい白さをいっそうよく引き立たせていた。夜の沈黙のただなかからゴルジュを流れるサランシュの水声か、あるいは弱く、あるいは強く響いて来た。山の永遠の声、合奏を補う荘重な低音バスである。
おお! このアルプスの純潔な空気にひたり、この夜の天体の至上の光に照らし出されたこんな光景を、もしも芸術で表現ができるのだったら!
不思議な形の岩に囲まれた石と芝草との中を、わたしたちはゆっくりと登って行った。そこからは、わたしたちの近づくにつれて時々赤鷓鴣や、かわらひわや、その他の山の小鳥が飛び立った。黎明が近づいた。じきに月は一人では輝かなくなった。そして、彼女が山の後へ落ちかかって行くにしたがって、しだいに東方の明るみが著しくなってきた。夜明けといっしょに氷河の上へ着こうと勇み立って、わたしたちは足を速めた。
堆石モレーンの最後の地帯は苦しい。ことに地面が凍っていない時にはそうである。足の下で絶えず小石がころがる。三歩進んで二歩になるかならないかである。それでもわれわれはいよいよ登る。目的地は近いのだ。元気を鼓舞するにはそれで十分である。
登るのだ! 登るのだ! ああ! 強壮にされ苦痛に慣らされた肉体の諸器官が、最早われわれに何らの疲労をも感じさせない時の何たる愉快さだろう! もっと高く、いよいよ高く登って行き、世界を上の方から見おろすのだ! 光の領土を目ざして登って行くのだ! 肉体には何という満足、精神には何という喜びだろう!
――これだからね、コンスタン、下の方では、平地では、みんながぼくたちを気違い扱いにするんだよ!
わたしたちが氷河まで辿り着いた時にはもう夜が明けていた。近づくにつれて眼前には七つの牙峰ダンがいよいよ恐ろしい形相で聳え立った。「だが、それではシーム・ドウ・レストはどこにあるのだろう……はてな! エヴィオナやボア・ノワールから見たあのかわいらしい鐘楼、それがこの素晴らしい肩幅をしているダソだったのかしら。……よく見極めなければならない。」
アルプスの与える最大の驚きが少なくともこの点にある。
ダン・デュ・ミディのプラン・ネヴェは七つの尖峰に沿ってほぼ一万尺の等高で拡がっている。それは一個の広いテラスを形作って、縁辺では下に向けて強く傾斜し、中ほどでは幾分緩やかになり、次いでしだいにクレヴァスを穿ちながら急傾斜になる一つの狭い斜面をもって、ボア・ノワールを瞰下ろす絶崖の上まで達している。長さは二キロメートル、幅は最も広いところで約一キロメートルを算する。もしも雪が固ければ、幾つかの顕著なクレヴァスを越える時のほかには、ほとんどどこでも危険なしにそれを横断することができる。しかし、雪が軟らかいと見たらばすぐに中央部をとって、要心しながら縁辺の方へ近づいて行くのが得策である。実際中央部を除くとかなり多数のクレヴァスが縦横に走っていて、それがまたたいていは雪に被われていて、夏もずっと晩くでないと口を明けていないのである。ことに北東側では、年によっては五尺から六尺、あるいは十尺にも及ぶクレヴァスを見せている。ダンが近くなると、方々で大きなリメイ(ベルクシュルント)が幅を利かす。ボア・ノワールヘ向かって葺き下ろしている枝分れはどうかといえば、これは必要の場合には下ることができる。しかし、綱と斧とは絶対に欠くことはできない。
或る突出したアレートの上、氷河の落下と、エヴィオナのゴルジュと、ローヌの渓谷と、さらに遠い山巓の群れの広大なパノラマとを瞰下ろす狭い展望台の上に立って、シーム・ドウ・レストのアレートや、クーロワールや、岩棚を、ひどく情けない顔つきをして観察しながら、わたしたちは日の出を待っていた。間もなく、いっそう生き生きした東方の紅が昼の天体の接近を知らせた。最も高い峰々が輝きはじめた。コンバン、エギーユ・ヴェルト、モン・ブランなどの丸屋根が柔らかい薔薇色の光をひろげた。突然第一の光線が地平の雲霧を貫いて、周囲の山嶺の上にその光彩を注ぎかけた。
なんという崇高な瞬間、なんと魂が純粋な歓喜をもって満たされることだろう!
日の出の中には何か知れぬが魂の底から頌歌を湧き立たせるものがある。人は感謝と愛との賛歌を全天にこだまするまで歌いたいと思う。
遠い山々を燃やして夕暮れの紫のなかに沈んでゆく太陽の光景は、たしかに、同様に崇高な看物ではある。しかし、わたしは一つの後味として、魂を締めつけ、ほとんど涙を誘うような、悲哀や憂愁をそこに感じる。おそらくそこには人間的な詩以上の物がある。なぜかといえば、遠い思い出や、哀惜の情や、幸福の夢などが打ち群れて帰って来るのは、その瞬間だからである。けれどもまた夕闇が近づくにつれて、真夜中そのものよりもさらに強く、あるいは漠然とした不安が心をとらえる。人はこの消えてゆく、そして、何物にも引き留めることのできないような光に自分を結びつけたいと全力をもって願う。朝、人は昼間に向かって進む。それは希望の時、悦ばしい純な賛歌の時である。夕暮れ、人は夜に向かって進む。それは憂鬱な瞑想の時、過去の哀惜、未来の不安の時である……もっと年老いて、おそらく墓の方へ傾く時が来たら、わたしはこの夕暮れの憂鬱な時刻を、消えゆく昼間の別れの時刻を、選ぶだろう。いまだ若いわたしは朝の純潔さに照り輝く遠い地平線を愛し、美しい一目の希望を与える日の出を愛する。
わたしたちの展望台から眺めると、シーム・ドゥ・レストは一部分険峻な一個の岩壁か、あるいは巨大な階段状の岩壁のように見える。そのアレートの線はヴヴェーやモントゥルーから眺めたような優しいものでは決してない。それは第二のダンの基底から別れると、クーロワールに通じる二本の深い裂線に二か所ばかり断ち切られながら、ますます豪放に、ますます荒々しく聳え立つ。しかし、山巓に近くなるとその輪郭はやわらいで、はっきりしなくなる。それゆえ、氷河から見たのでは、頂上を形作っている不等四辺形の最高点がどれであるかを極めるのに窮するのである。
氷河の線は山頂の線と対称的に逆の方向へ進みながら、しだいにローヌの渓谷へ向けて落ち込んで行く。それがために、頂上から氷河の末端まで、逞ましい岩壁で形成され大きな傾いた岩棚で切られた絶崖は、約五〇〇メートルを算している。
氷河の縁からアレートへ取りつくには、岩棚と積み上がった岩棚との壁を一つどうにでもして乗り越えなければならない。わたしたちはランベール氏の記事にある注意を手引きに、それを乗り越えて、通過可能のクーロワールのある第一の裂け目に取りつく手段を、間もなく決定することができた。それから先のことはその場になってきめなければならなかった。
この傲然とした岩壁へ初めて近づいた者は心臓が少し轟くのを感じる。しかし、近づいて見ると遠方から見た時よりも遙かに容易らしいので全く安心する。ぐらつく岩塊や、大きな岩棚や、一種の岩筒シュミネーを越えて登ると、間もなくクーロワールの近くへ達する。光景はしだいにぞっとするようなものになる。絶崖の線はほとんど垂直をなして、氷河の落下と共に空間に消え込む。その青い美しいクレヴァスをたちまち眼下に現わす氷河と共に。
クーロワールの光景は、一瞬間わたしたちを考えこませた。緑色のがっちりした氷の斜面が、五歩乃至六歩の幅をもって約五十度の勾配を示しながら、滑らかな、均質の岩でできた二つの塁壁の間を約二百尺登っていた。登路の大部分に最小の手掛かりの希望もなしに。
近づくと、左側では岩の反射熱がクーロワールの縁の氷を溶かして、それと岩壁との間に一条の間隙を作っていることをわたしたちは発見した。一メートル乃至二メートルの不同な深さをもったこのクレヴァスは、幅二、三尺の、クーロワールと同じ角度で傾斜した一種の岩筒を作っていた。それは手掛かりになる突起部のほとんどない、しかし、わずかばかり捻れをもった岩筒で、片側の壁は岩、もう一方の壁はがっちりした氷でできていた。
わたしたちは二人きりだった。その上わたしは連れの力よりもさらに自分自身の力に頼らなければならなかった。クーロワールの急坂での最も小さな踏みはずしてさえ二人いっしょの墜落を惹き起こすことを慮って、登攀はいっそう困難ではあるがその代わりもっと安全な、この岩筒へ入り込む方をわたしは選んだのだった。一時に一人しか進めない場所なので。もう一人は背中と両脚を突っ張りながら、しっかりした足場を確保していなければならなかった。
わたしが先へ登った。幾度か垂直な氷を切らなければならなかった。なぜかといえばクレヴァスの底は稀にしか手掛かりを与えてくれなかったから。二、三の箇所では透き間へ篏まりこんだ岩の塊が行く手を遮っていて、それを越えるためには外へ出て回らなければならなかった。
終わりに近づくに従って、ますます垂直になるクレヴァスがつぼまって来たので、クーロワールの斜面へ取りつくためにそこを抜け出して、上の方へ達するのにもっと確からしい別の側へと、モの斜面を斜めに横ぎる必要が起こった。これは、しかし、決して容易なことではなかった。とうとう、わたしはアレートへ出た。連れは岩筒の中にいて、わたしがしっかりと身体を据えるのを待っていた。一つの岩の塊がわたしの座席に役立った。わたしは足場を確かめてから綱を岩へ巻きつけた。そうしてコンスタンの全動作を眼で追いながら彼の登って来るのを待っていた。
彼は岩筒を出て、おもむろに斜面へ掛かった。ちょうど中ほどまで来た時だった。彼は一歩を踏みはずしてたちまち矢のように滑り出した。しかし、綱が二、三尺の所で彼を引きとめた注・1。彼の足が氷の面へ食い込むことができなかったので、わたしは彼を自分のところまで曳きずり上げなければならなかった。彼は少し蒼白になって上がって来たが、あまり激しい興奮を現わしてはいなかった。そこはアレートの上の広い場所だった。一時間近くつづいた登攀の疲労が、今経験したばかりの激動の瞬間といっしょになって、われわれは息を入れなければならなかった。
(注1――岩に巻きつけた綱のおかげでわたしに伝わったショックは非常に弱く、片手で彼を苦もなく支え得るほどだった。綱を強く張ることは絶対にしなかった。けだしこういう性質の通過地点では綱の緊張は動作を不自由にし、時にスリップを惹き起こすことがあるとわたしはつねに考えていたからである。)
こっち側へ来てみると、今まで陰になっていて感じなかった猛烈な氷のような北風が吹きまくっていた。それは登舉を楽にする足しにはならなかった。周回の光景は、いよいよ荒寥としてきた。われわれの前にはヴァル・ディリェや、シャブレーや、ヴォーとジュラの地平線が現われはじめた。脚下では一面の氷の斜面が坂落としに落ち込んで、空間に消えていた。身のまわり到るところに破壊された、積み重なった、奇怪な岩が突立っていた。
とかくするうちに、砕石でできた一つの斜面がわれわれを裂け目の外へ、真のアレートの上まで導いた。そこからは眼前にシーム・ドゥ・レストと、なおこれから通過しなければならない路とが見えた。その路はかなり明瞭に指摘されはしたが決して楽なものではなかった。それは凹凸の激しいアレートと、岩棚と、ところどころ膜氷ヴェルダラに被われ、堅い、眼も眩むような万年雪ネヴェに横断された切れ込みラヴィーヌとの連続だった。
われわれは第二の裂け目を通過しなければならないことを知ったので、下の方でそれと出会うために、幾つかの切れ込みを通って側面を進んだ。ますます烈しく、ますます寒冷を加えて来た北東の風は、もうわれわれを頭から足の先まで凍らせてしまった。ヴェルグラは岩の上の通過をひどく困難なものにした。数歩上には、氷で被われ、ヴァル・ディリエに向かって落ち込んだネヴェの斜面があって、われわれはそれを横断しなければならなかった。わたしの指はしびれて斧を扱いかねた。切れ込みはしだいに難渋を加え、風は兇暴さを倍加した。わたしは立ちどまった。わたしはまだ一時間の行程を隔てている山頂を眺めた。それから友の方へ振り返って言った。「君はどう思う、コンスタン?」
「もうたくさんだと思うよ。できるだけ早くこのアレートを退却しなければいけない。絶頂へはとても行かれそうもないから。」
それで、そういうことになった。今度だけは頂上を断念して、しかし、こんな近くから見たことに満足して、われわれは風を避けるためにふたたびクーロワールの口へ引き返した。
われわれが退却したのは良かった。その後わたしはたびたびその場所を訪れたが、この最初の、しかも予め成功を危ませるような種々のコンディションの下での試みの時ほどの困難は経験しなかった。
頂上に達するには、単に切れ込みラヴィーヌの雪が溶けて、岩に膜氷のないのが条件であるばかりでなく、とりわけ、もしも二人きりで行くならば、その同行者が、足の確かな、しっかりした人間であることが絶対に必要である。
下りは登りよりもたやすいどころではなかった。
人が己れに返って、いったい自分はあんな高い所へ何を求めに行ったのか、どんな特別な快楽のために、帰路についても不安なしではすまないような危険に好んで身を投じるのかと、しばしば自問するのはこんな瞬間である。
それならば、山岳会員諸君、われわれをあの高所へ引き寄せる物はいったい何であるか。いよいよ高まる熱情をもって、どんな忠告にも耳をかさず、絶えずそこへもどるために、氷河の魔女がその杖で触った物を見に行くのは何のためか。なぜならば、どんなに足と頭とが確かであろうと、われわれの間でアクシデントがどんなに稀であろうと、結局、これらの場所は人間のために作られたものでは少しもないのだから。また深淵の横腹に身を支えたり、アレートに馬乗りになったりしながら、人間の在るべき場所にいるのだとは決して感じはしないのだから。
それはドゥ・スタール夫人が言ったように、「吾人の本性の中で、一切が生命を愛するように命令する時に、身を死地に暴露する特異の快楽」であろうか。死と並行して進むことの、換言すれば、生きていることをいっそうよく感じることの、特異の快楽であろうか。わたしは断じてそうは信じない。
「好奇心は虚栄心に過ぎない。人は見た物を語るためにのみ見ようとするのだ。」と、厳格なパスカルは言っている。そして、その尾について平地の人々の繰り返して言うことは。われわれを高処へ牽くものは虚栄心グロリオールであり、われわれが危険に身をさらすのは、一つの山頂をきわめたことを誇り、その名誉を刈りとるためだというのである。
それは、時には、真実である。誇りの一要求に他ならぬ名誉心は、人間に多くのことをさせ、わけても多くの狂愚をなさしめる。しかし、そこにわれわれの真の動機があるということについては、わたしはまだ疑いをもっている。その動機たるそんなにも強く、そんなにも執拗であり、そんなにも感知し難く、かつ人間の見解からそんなにも独立なものであって、これを探求するにはどこか別の、もっと深いところまで入って行かなければならないほどである。
次のことはもうすでに言われている。即ち、人間は好んでいまだ知られざる山頂へ登る。なぜならば、それらの頂きを踏みつけながら、彼は一つの征服を果たしたことを確認し、彼の領域の新しい一部分を所有するからである。それは空しい虚栄心ではなく、われわれの本然の深い本能によるのである。
全く真実なこの動機に、さらにいっそう有力なもう一つ別な動機が加わる。決して達すべくもない一つの理想に達するように絶えず鼓舞しながら、約束された山頂は一瞬間人間を誘惑し、その希望に一つの目標を与えることで彼の要求を裏切る。山が高く眩暈的で、困難であればあるだけ、永久に己れから逃れ去るこの理想の山頂に近寄ったと人は信じるのである。
或る深い抵抗しがたい本能によって、人はみずからを高め、登り、絶えず登ることを愛する。登山家が最もほっそりした峰を、空間で最も自由な峰を、大地から最も超然たる峰を選ばない限り、彼がつねにひそかに最も高い峰を愛するのはこれがためである。二つの声が、絶壁のふち、聳ゆる山頂の近くではっきり聴こえる。一つは人間的な声で、それは疲労と恐怖とを語る。もう一つは超人的な声で、それはこう叫ぶ、「進め、もっと高く、もっともっと高く! お前は、この山頂に達しなければならぬ!」と。
幸いなのは、人間がその無限の憧憬を以後まで欺き終わせること、また勝利のただなかにも、一つの秘密な裏切りが、彼をしていまだ欺かれていることを知らしめないことだ。
その勝利の後、好んであの高い山頂での荘厳な時間を思いおこして瞑想する登山家よ、わたしの言ったこと、それを一度ならず君は感じたことがないだろうか。
わたしたちの下りは、登りの時よりも時間がかかったにもかかわらず無事に果たされた。クーロワールから出る時厚い霧が岩を包んでしまったので、路を捜し出すのに時間を取られたのである。足が一度氷河に触れた時、その時わたしたちは助かった。
これがわたしたちの最初の試みだった。その次の年にわたしは二度目の試みをやった。それから三度目のを。二度目の時は、わたしが大丈夫だと信じていた一人の同行者が原因で、また失敗した。なぜならば、これが彼にとって初めてのコースではなし、また非常確かな足を持っていたから、わたしも信用していたのである。ところが、クーロワールまで来ると彼は恐怖にとらわれてもうそれ以上そこを見るのをいやがった。三度目のはわたしたちを頂上のすぐそばまで、最終のラヴィーヌの所まで連れて行った。しかし、そこはまだ軟らかい雪の薄い層に被われていて、非常な危険を冒さなくては渡れそうにもなかった。
多少なりとも幸せだったこれらの試みに、雨のために中途で断念した別の二つを加えなくてはならない。そのうち初めのはプラン・ネヴェの氷河から、後のはサランフから、いずれも雨になった。
飽くまでも強い根気はついには報いられずにはいなかった。その後、最も確かな道連れと時とを選んで、わたしは頂上に達する幸福を得た。そして、最後の部分を別にすれば、この登攀は今まで試みたもののうち最も楽なものだった注・1。
(注1――幾度かの探検のおかげで。岩壁もアレートも、そのあらゆる細部にわたって、わたしに親しくなった。最近の幾 度かの訪問で、わたしの努力は、最も安全で最も楽な路を発見することに傾注された。今日ではわたしは成功したと信じている。
第一には、あのいつも悪い、雪に満たされている時でも悪いあのクーロワールを避けることだった。それに、後の方の場合に、もしも残りの部分で歩けたとしたらば、それは驚くべきことだろう。今日までにわたしは四つの違った路を採って岩壁を越し、アレートへ着くことができた。それゆえ、遠方から見たよりも通過は遥かに可能なのである。そこへさしかかる前に研究する必要はほとんどないと言える。クーロワールよりも遥かに安全なこれらの路は、時間の損失を免れさせるのでまた彼より短くもある。こうして初めの二つの尖峰の間にあるアレートへ達する。そこからこのアレートによってクーロワールの出口を手に入れなければならない。次にはできるだけ近くアレートに添って進んで、二つの裂け目の間に立っている一種のダンの上へ着く。このダンの頂上は一つの広いプラットフォームである。二番目の裂け目は、しばしば雪の屋根をかぶった一つの岩のアレートによって横断されている。このアレートを行っても、あるいはそのいずれかの側面を行っても、たやすく通過することができる。絶えず頂上のアレートに添って進む間にほとんど通過不可能のような場所が現われて、どこか別に路を捜さなければならなくなる。ラヴィーヌはこの地点へ向けて裂け口の入った一種の岩棚を差し出している。そして、この岩棚はヴェロッサのアレートまで続いている。最も善いのはこれを行くことである。ラヴィーヌが高くなればなるほど岩はますます悪くなるからである。こうして数分後には頂上の岩場の下へ着くことになる。あらゆる方面を偵察してみて、そこから先は、ランベール氏の書いた物の中へ出て来るあの岩筒が、唯一可能の登路だということを確信させられた。この岩筒は垂直で、極めてわずかな手掛かりになる突起を持って、約六十尺の高さを算している。それは煙突掃除人の仕方で、つまり背中を押しつけて登って行くのに、ちょうどよいくらいの狹さである。天辺にあたって一枚の板岩が出口を塞いでいるから、それを越えるために障害物の外へ身を投げ上げなければならない。この最後の場所を越えてしまえば頂上までは数尺である。下る前に、わたしたちは来たるべき登山者のためにあの板岩を取り除けようと全力をつくしたが、碩として動かなかった。
要するに、ラヴィーヌが露出していて良好な状態にさえあれば、登攀は単に体操の問題であって、困雎なく遂行することができる。ただ岩筒だけは真剣な障害物を提供するが、もしもこの種の登路に馴れていない者だと、ことに下りにおいて危険である。そのような場合には、適切な要心として靴を脱ぐのがよいであろう。
今年〔一八七〇年〕の六月二十七日に行なった最後の登攀で、わたしたちは最高の頂上ヘーつのピラミッドを造ってきた。そこにはドゥレーの立てた一本の杉といっしょにもう一つ小さいのがある。ランベール、ピッカール両氏の置いて行ったのに違いない壜はかけて、氷のかけらが詰まっていた。その他にはなんら登祟の痕跡はなかった。)
それにしても何という報償、ほんとうに、何という場所だったろう! 想ってもみたまえ。一万尺の高さで空中に懸かり、眼に見える支えもなく、垂直にローヌの谷を俯瞰し、遠く大空の青に消える平野を望んで、広さは数歩の、傾いた、凹凸のある一個のテラスを。このような山頂での快晴の一日の機会というものは、実に無上の価値を持つものである。眼はあらゆる方角から太虚の中へ浸りこみ、また帰ってはそこに溺れるために周囲の山巓の上に憩い、さらに空間の深さを楽しんで倦むことを知らない。
西には、最も高いシャンベリーのそれを除けば互いに頡頏する六つの尖峰が、ほとんど同じ高度を保って、傲然と陰鬱に峙っている。うしろではフォーシニーやシャブレーの山々が暗い波濤を上げて押し合い、遙かにペルヴーの氷河がきらめいている。
南には、相変わらず豪放で厳しい輪郭の、リュアン、トゥール・サリエール、西峰シーム・ドゥ・ルウェストから見たよりものんびりしたモン・ブラン、またアルジャンディエールや、トゥールやトゥリアンの広大な氷河台地。それから眼は、ヴァレーの山脈からモンテ・ローザやモンテ・レオーネなど、無数の山頂を数え上げることに疲労して、あんなにも優美な、あんなにも純潔な、コンバンの円頂の上で喜んで休む。北東にはヴォーのアルプス、続いてベルナー・アルプスが、くすんだのやつやつやしたのや、それぞれ高峰の円柱を、優美にというよりもさらに傲然と立て並べている。最後に、もっと馴染みの岸辺へ帰って来て、眼はレマンの湖に、その汀に、都会と村落とを一面に播きちらした、そして、その青い色が幸福の表象であるような、そんな丘々の起伏を持ったあの豊かな田園に注がれる。
おお、人間の悲惨、おお、世界の卑小さよ。こんな絵の前でお前たちが何だ。この光の国、この純潔の領土から眺める時、お前がそもそも何だ注・1。
(注1――三日間で害かれたこの一編には、なお三ページ乃至四ページが必要であった。しかし、突然数週間の旅に出ることになったので、わたしはここで打ち切らねばならなかった。最後の二行は一種の抜き書きである。)
(「エコー・デ・ザルプ」一八七○年)
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