スマホ版

尾崎喜八の詩による
  多田武彦男声合唱曲
 

       ↑サイトトップに戻る

男声合唱曲集「尾崎喜八の詩から」 
 冬野・最後の雪に・春愁・天上沢・牧場・かけす
男声合唱曲集「尾崎喜八の詩から・第二」
 雪消の頃・郷愁・盛夏の午後・
 田舎のモーツァルト・夕暮れの歌・野辺山ノ原
男声合唱曲集「尾崎喜八の詩から・第三」
 安曇野・和田峠・夏雲・馬籠峠・夜をこめて
男声合唱曲集「いたるところの歌」 
 モーツアルトの午後・十年後・峠・秋の漁歌・
 結びの詩
男声合唱曲集「秋の流域」     
 夏の最後の薔薇・雲・美ガ原熔岩台地・追分哀歌・
 隼・秋の流域
男声合唱曲集「樅の樹の歌」    
 春の牧場・金峯山の思い出・故地の花・
 音楽的な夜・樅の樹の歌
男声合唱曲集「歳月」       
 一年後・三国峠・春浅き・復活祭・歳月
男声合唱曲集「花咲ける孤独」   
 早春の道・車窓・木曽の歌・十一月・受難の金曜日
男声合唱曲集「八ガ岳憧憬」    
 早春の山にて・行者小屋・山の湖・
 人のいない牧歌・冬のこころ・回顧

※ 題名、改行、ルビ、傍点の表記は
  尾崎喜八詩文集など、原典に拠っています。
※ 行に収まらない時は
 
改行して、かつ3文字下げています。
※ 下線は原典の"傍点"を現しています

 
↑目次に戻る

男声合唱曲集「尾崎喜八の詩から」

冬 野

いま 野には
大きな竪琴のような夕暮れが懸かる。
厳粛に切られた畝から畝へ霜がむすび、
風の長い琶音がはしり、
最初の白い星がひとつ
もっとも高い鍵けんを打つ。
冬は古代のようにひろびろと枯れ、
春はまだ遥かだが
予感はすでに
   天地の間かんにゆらめいている。
 
わたしはこの暮れゆく晩い土をふんで
わたしの手から種子を播く、
夕日のようにみなぎつて
信頼のために重い種子を。
それは沈む、
深く仕えるもののように、
地底の夜々を変貌して
おもむろに遠い
   黎明をあかるむために。
きよらかな
澄んだ凝縮が感じられる。
ただ周囲の蒼然たる沈黙のなかで
わたしの心が敬虔な讃歌だ。
そしてもう聴いている、
とりいれの野が祭のような、
燃える正午が翡翠かわせみいろの  
海のような六月を‥‥‥
         (詩集「花咲ける孤独」)

最後の雪に

田舎のわが家の窓硝子の前で 
冬のおわりの花びらの雪、 
高雅な、憂欝な老嬢たちが 
朝から白いワルツを踊っている。
その窓に近い机にむかって 
私の書く光明の詩、 
早春の夕がた、透明な運河の 
水や船や労働を織りこんだ生気の詩。 

雪よ、野に藪に、畠に路に、 
そして私の窓の前、 
お前たちの踊る
   典雅なウインナ・ワルツの 
その高貴さを私の詩に加えてくれ。 

やがて遠い地平から輝く春が 
微風と雲雀とのその前駆を送るとき、 
古い詩稿に私は愛を感じるだろう、 
お前たち、高雅な憂欝な老嬢たちの 
窓の前でのあの最後の舞踏のため、 
私の内でいつも楽しい記念のため。
         (詩集「高層雲の下」)

春 愁
 ー ゆくりなく
    八木重吉の詩碑の立つ田舎を通って ー

静かに賢く老いるということは
満ちてくつろいだ願わしい境地だ、
今日しも春がはじまったという
木々の芽立ちと若草の岡のなぞえに
赤々と光りたゆたう夕日のように。
だが自分にもあった青春の
燃える愛や衝動や仕事への奮闘、
その得意と蹉跌の年々としどしに     
この賢さ、この澄み晴れた成熟の
ついに間に合わなかったことが
   悔やまれる。
ふたたび春のはじまる時、
もう梅の田舎の夕日の色や
暫しを照らす谷間の宵の明星に
遠く来た人生と
   おのが青春を惜しむということ、
これをしもまた一つの
   春愁というべきであろうか。
           (その他の詩帖から)

天上沢

みすず刈る信濃の国のおおいなる夏、 
山々のたたずまい、
   谷々の姿もとに変らず。 
安曇野に雲立ちたぎり、
   槍穂高日は照り曇り、
砂に這う這松、岩にさえずる岩雲雀、 
さてはおりおりの
   言葉すくなき登山者など、 
ものなべて昔におなじ空のもと、 
つばくろより西岳へのこごしきほとり、 
案内の若者立たせ、老人ひとり、 
追憶がまぶた濡らした水にうかんで 
天上てんじょうの千筋の雪の
   彷彿たるを見つめていた。
           (詩集「旅と滞在」)

牧 場

山の牧場の青草に 
あまたの牛をはなちけり。 
あまたの牛はひろびろと 
空の真下に散りにけり。 

夏もおわるか、白雲の 
きょうも峠をこえて行く。 
立ち臥す牛ら眼を上げて、 
雲の行衛をながめけり。 

山の牧場に風立ちて、 
夕日の光ながれけり。 
風に送られ、日を浴びて 
牛は牧場をくだりけり。 
           (詩集「高原詩抄」)

かけす

山国の空のあんな高いところを
二羽三羽 五羽六羽と
かけすの鳥のとんで行くのがじつに秋だ
あんなに半ば透きとおり
ときどきはちらちら光り
空気の波をおもたくわけて
もう二度と帰って来ない者のように
かけすという仮の名も
人間との地上の契りの夢だったと
今はなつかしく 柔かく
おりおりはたぶん低く啼きながら
ほのぼのと 暗み 明るみ
見る見るうちに小さくなり
深まる秋のあおくつめたい空の海に
もうほとんど消えてゆく‥‥‥
          (詩集「花咲ける孤独」)

 

 

 
↑目次に戻る

男声合唱曲集「尾崎喜八の詩から・第二」

雪消の頃

清いものとして薄れゆく 
おもいでのように、いつか輪郭も 
透明になった雪のまだら。 

身にしみるほどまじめで、 
静かに万物をときはなつ 
高原の五月の太陽よ。 

ながい隠忍のはしばみや 
白樺のかなたの空を雲がながれ、 
風は自由と漂泊とを歌って通る。 

雪消ゆきげの水の青と銀との糸すじに 
うるおされた土からは、 
山の早春を吐く水芭蕉の花。 

自然はまだどこか淋しいが、 
すでに清新の気に満ちみちた
   風景をとよもして
おおるりの歌が喨々とひびく。 

そして、もう人が居るのか、
   あの小屋から 
今昇りはじめた柔かな白けむり。 
あれこそ山の春の消息だ。
          (詩集「旅と滞在」)

郷 愁

子供が一筆に、のびのびと、 
紙の上に塗った水絵具、 
柔かい、くもった、その碧あおに 
私は何も描きそえまい。 
正午が熱して来れば光の充満、 
白皚々と照り積む雲、 
梅雨ばれの鷺もそこをよこぎる 
夏のはじめの、 
竜胆りんどういろの、 
これは空だ。 
私があとにして来た武蔵野の空だ。

心よ、晴ればれとしているがいい!
           (詩集「行人の歌」)

盛夏の午後

歌を競うというよりも むしろ
歌によって空間をつくる頬白が二羽、
むこうの丘の落葉松からまつ
こちらの丘の林檎の樹に
小さい鳥の姿を見せて鳴いている。

その中間の低い土地は花ばたけ、
大輪百日草ジニアのあらゆる種類が
人為の設計と自然の自由とを
   咲き満ちている。

すべての山はまだ夏山で、
森も林もまだしんしんと夏木立だが、
もうその葉に黄を点じた
   一本の胡桃くるみの樹。

二羽の小鳥はほとんど空間を完成した。
しかしなお歌はやまない。
その二つの歌の水晶のようなしたたりが、
雲の楼閣を洩れてくる晩い午後の日光の
蜜のような濃厚さを涼しく薄める。
        (詩集「花咲ける孤独」)

田舎のモーツァルト

中学の音楽室でピアノが鳴っている。
生徒たちは、男も女も
両手を膝に、目をすえて、
きらめくような、流れるような、
音の造形に聴き入っている。
そとは秋晴れの安曇平あずみだいら
青い常念じょうねんと黄ばんだアカシア。
自然にも形成と傾聴のあるこの田舎で、
新任の若い女の先生が孜々ししとして
モーツァルトの 
   みごとなロンドを弾いている。
      (詩集「田舎のモーツァルト」)

夕暮の歌

夕ぐれ、窓のむこうの闇を、 
風に立ちさわぐ竝木に沿って、 
シューベルトの「菩提樹」うたいつつ
   行くのは誰か。 
私は物を書きながら 
風邪気かぜけの熱を感じている。 
人の世の生活をいや遥かに、いや遠く、 
おのれの世界の
   顫える夢想につかっている。 
この時、黒いこがらしに 
吹き消され又つづく歌の節は、 
平野の低い夕焼と
   裸の立木との 風景にまじって
魂をその果てもない夕暮に漂蕩させる。 
ああ眼瞼まぶたの熱さ、手足のだるさよ。 
私は歌を聴き、物を書きながら、 
病いのはじめを感じている。
           (詩集「曠野の火」)

野辺山ノ原

今ははや六年むとせのむかし、 
山々の秋のさかりに、 
八ガ岳その高原を 
日を一日ひとひわれは歩みき。 

見はるかす甲斐や信濃の 
高山たかやまの飽かぬながめや、 
秋草の波の秀に出る 
八ガ岳つねに仰ぎつ。 

井出ガ原、念場ねんばガ原と、 
わがすぎて野辺山ノ原、 
いつしかに夕日のながれ、 
白樺の林染めつつ。 

海ノ口、今宵のとまり、 
さはあれど道の幾すじ 
いずれとも定めかねては、 
とつおいつ、旅人われの。 

おりからや、若者二人 
自転車をつらねて過ぎぬ、 
呼びとめてきけばこまごま 
教えてぞ走りて去りぬ。 

四五町もわれは行きけん、 
ふと見ればさきの若者、 
道のべに自転車立てて 
語りつつわれを待つなり。 

わがためになおよく道を 
教えんと待てるなりけり。 
あたたかき人のなさけぞ! 
わすれめや、野辺山ノ原、 
甲斐信濃、国のさかいの野辺山ノ原。
            (詩集「高原詩抄」)

 

 

 
↑目次に戻る

男声合唱曲集「尾崎喜八の詩から・第三」

安曇野 あずみの

春の田舎のちいさい駅に
私を見送る女学生が七八人
別れを惜んでまだ去りやらず佇んでいる。
彼女らのあまりに満ちた異性の若さと
その純な 
   こぼれるような人なつこさとが、
私に或る圧迫をさえ感じさせる。
私はそれとなく風景に目をさまよわす。
駅のまわりには岩燕がひるがえり、
田植前の田圃の水に
鋤きこまれた
   紫雲英げんげの花が浮いている。
そしてその温かい水面に、ようやく傾く太陽が
薄みどりの霞をとおして
   金紅色に照りかえし、
白い綬のように残雪を懸けた常念が
雄渾なピラミッドを逆さまに映している。

絵のような烏川黒沢川の扇状地、
穂高の山葵田わさびだはあの森かげに、
彫刻家碌山の記念の家は
こちらの山裾にある筈だ。
いずこも懐かしい曾遊の地と
暮春安曇野のこの娘ら‥‥‥
私の電車はまだ来ない。
          (詩集「花咲ける孤独」)

和田峠
    (押韻十四行詩)

かみの諏訪すわ、下しもの諏訪かけ
桃、桜、花さく春を、
山高く、ここ和田峠、
さるおがせ錆びし青色あおいろ

岩の間の節分草に
いじらしさ添うる春の陽
そが上の芽立ちの枝に、
歌清し、一羽のあおじ。

わが性さがの石を愛ずれば、
黒耀のかけらいくつか、
拾いてぞ手にして立つを
真似てけん、兄と妹の
山越ゆる幼な同胞はらから
彼らまた、石をからから。
       (詩集「田舎のモーツァルト」)

夏 雲

雷雨の雲が波をうって
まくれるように遠ざかると、
その後からつやつやと目にも眩ゆい
   碧瑠璃の大空。
そして真赤な熱線を射そそぐ
七月高峻の太陽だつた。

残雪をちりばめ 這松をまとって
びっしょり濡れた大穂高の岩の楼閣、
青い宇宙のそよかぜに染まり、
それ自身天体のような峨々たるかたまり。
この現前の偉観が人間私を圧倒した。

眼下をうがつ梓の谷に
なごりの霧は羽毛のように
   もつれているが、
乾ききった安曇野あずみの
   夕立の雲を集めて、
岩の幔幕 霞沢のかなたに
その雷頭が
   白金のドームのように輝いていた。
         (詩集「花咲ける孤独」)

馬寵峠
    (押韻十四行詩)

草もみじ、木々のもみじの
ほそみちに苔むす巌いわお
たまたまの水は冷めたく
張りめぐる霧の蜘蛛の巣。

人たえて通わぬゆえか、
蓼、野菊、分けもて行けば
靴濡れてズボンもしとど、
山鳥やまどりの羽音のどどど

木曾行きて六日の旅に
いやはての今日の峠路とうげじ
晩秋おそあきのあおぞら割れて
やがて立つ馬籠まごめの峠、
木曾恋し、美濃は明るし、
藤村とうそんの里に乳牛ちちうし
        (詩集「田舎のモーツァルト」)

夜をこめて
 
どこか知らないがまっくらな丘の藪地の 
灌木の茂みにちぢこまって
   一夜をあかした。 

今にも飛んで来そうな
   氷柱つららのような星の下で、 
冬の夜どおし風が荒れ、霜が鳴った。 

まんじりともできない寒さに
   ときどき眼をあけたが、 
鳥目に見えるのは死と恐怖の闇ばかり。 

伴侶とものからだのぬくみを頼りに 
眼をつぶって
   もっとしっかり寄り添った。 

離れていたら知らぬ間にこごえて
   死んでしまうだろう、 
あおむけに、
   空くうをつかんで、固くなって。

そうなったら、
   すべての山々が緑にけむる 
はてしない春のよろこびの日は。 

高い樹のうろの安全な巣で 
かわいい卵を抱く妻のまるい、
   輝く眼は。 

全身のうぶげをふくらませて 
いよいよしっかり枝をつかんだ…… 

   * 

けれども永遠かと思われた
   長い夜がとうとう明けて、 
思わぬ方角で青と赤との
   しののめが破れた。 

ごうっと吹きわたる
   一文字の夜あけの風に、 
ちちと鳴きかわして
   日雀ひがらの夫婦は飛び立った。 

やがてまっさきに丘を照らした
   真紅の太陽が、
一夜の霜を
   燦とした炎にかえる黎明の前に。
            (詩集「行人の歌」)


 

 
↑目次に戻る

男声合唱曲集「いたるところの歌」

モーツァルトの午後

気だてのいい若い綺麗なおばさんのような
マリア・シュターデルが
   モーツァルトを歌っている。
「すみれ」、「夕暮の気分」、
   「別れの歌」などを、
日本の音楽堂での
   リサイタルだというのに、
まるでスイスの自宅でのもてなしのように
くつろいで、まごころこめて歌つている。
これが本当に歌というものだ。
そして一曲が済むごとに、
聴衆の溜め息と拍手に答えながら、
伴奏者の夫君にも片足引いて
ピアノ越しにお辞儀をする。
こんなに家庭的で、幸福で、貞潔な
モーツァルトというものに
   出合ったことがない。
この音楽の神の寵児は重い借財と屈辱と
死への諦念の晩年に
いくつものこんな珠玉を書いたのだが、
それをこうして供される心が涙ぐましく、
深く喜ばしく、敬虔だ。
シュターデルは最後に晴ればれと
   「ハレルヤ」を歌った。
そとへ出ると
   初夏の昼の東京が田舎のようで、
日が照って、雲が浮かんで、
   並木がそよいで、
いかにも今聴いた
   モーツァルトにふさわしく、
友と私とはとある町角のビヤホールで
重たいザイデルを
   がっちりと打ちあわせた。
       (詩集「田舎のモーツァルト」)

十年後
   (信州富士見高原にて)

田圃たんぼへ下りてゆく青い細道、
靭草うつぼぐさの花に埋もれた
   七月のこの道は
かつての私に瞑想と散策の道、
そして今ではすべての思い出が老境の
夏に装われて軽やかな道だ。

整然と並んで清さやかにそよぐ
涼しい苗間に水鶏くいなの声。
むかしは鳥を眼で求めたが、
声あるところに厳存を信じる今は
ひとつの啓示としてそれを受け取る。

かって試みた山が四周の夏を横たわり、
愛した雲が昔の姿で空に浮かび、
かの日の少女は妙齢の女として
   畦間あぜまにいるが、
今はこの遠くからの再会に心足りて、
私は山にも雲にも人間にも呼びかけない。
        (詩集「田舎のモーツァルト」)

下のほうで霧を吐いている暗い原始林に
かすかな鷽うそや目細めぼその声、
しかしいよいよ心臓の試みられる
   登りにかかれば、
長いさるおがせをなびかせて
しろじろと立ち枯れしている樹々の骸骨を
高峻の夏の朝日が薄赤く染めていた。
 
澎湃とうちかえす緑の波をぬきんでて
みぎは根石・天狗の断崖のつらなり、
ひだりは見上げるような硫黄岳の
凄惨の美をつくした爆裂火口。
登る心は孤独に澄み、
こうこうとみなぎる寂寞が
むしろこの世ならぬ妙音を振り鳴らす
透明な、巨大な玉だった。
 
頂上ちかい岩のはざまの銀のしたたり、
千島桔梗のサファイアの莟、
高山の嬉々たる族よ‥‥‥
風は諏訪と佐久さくとの西東にしひがしから
遠い人生の哀歌を吹き上げて
まっさおな峠の空で合掌していた。
             (詩集「歳月の歌」)

秋の漁歌

信州は南佐久、或る山かげの中学の
小使さんが私のために網打ちに行く。
千曲川ちくまがわ
   このあたりではまだ若く、
古生層の大岩小岩
らいらいと谷をうずめて、
朝早い九月の水が
   浅々あさあさと流れている。
赤魚あかうおという鮠はや
   川底の砂に腹をつけ、
おだやかに鰓えらをうごかし、
ひらひらと鰭をそよがせ、
また尾を曲げて靡くように泳いでいる。
小使さんの投網とあみのさばき美しく、
岩の上から腰をひねってさっと投げれば、
網は朝日に虹を噴き、
まんまるく空くうに開いてばっさりと
   水をつかむ。
寒い河原には五位鷺が群れ 鶺鴒が囀り、
朝の青ぞらのあんな高みに
硫黄岳と爆裂火口があんぐりと
   口をあけている。
小使さんはそんな物には目もくれない。
ざぶざぶと水を渡って
   岩から岩へ乗りうつり、
川瀬の淀をじっと見据えて網を打つ。
私のびくは真珠いろとエメラルドの びく
ぴちぴちする魚でもう重い。
小使さんは
   ゴールデンバットを短くちぎって
首のつぶれた鉈豆ぎせるへ
   丁寧に挿しこむと、
「とれましたなあ、
これならばお土産みやげになりやす」と
言いながら、
一息うまそうにぐっと吸う。
その言葉にうれしくうなずく私の目に、
ああ 千曲川の秋の河原のアカシアの
黄いろい切箔きりはくの葉がもう
   ちらちら散るのである。
         (詩集「花咲ける孤独」)

結びの歌

庭は緋桃の花ざかりだ。 
その色と香が明るく艶あでにほのぼのと 
あたりを照らしかおらせているので、 
匂いある人が
   赤い衣裳で立っているようだ。 

つぐみの歌や山鳩の声が響くにつけ、 
雲の輝きが
   やがての夏を想わせるにつけ、 
時の歩みの迅速さに
   老おいの自覚がおびやかされる。 
だが創造の楽しみは
   まだ私に許されている。 

「我は足れり」のアリアが
   おりおりは口にのぼるが、 
「眠れ、安らかに、汝疲れた眼よ」を
   まだ私は歌わない。 
常に摂理に聴く者は
   摂理の声に従わねばならず、 
光あるうちは
   光の中を歩まねばならない。 

春の大きな雲が暗み、明るみ、 
海のような空があおあおと柔かで、 
小鳥の声があの空間にも、
   この枝にも。―― 
庭は緋桃の花ざかりだ。
        (文集「いたるところの歌」)

 

 

 
↑目次に戻る

男声合唱曲集「秋の流域」

夏の最後の薔薇

夏の最後の薔薇よ、
ほかの友らは皆それぞれ時を終えて
彼らのあかるい魂を空にかえした。
それならば白く乾いた花壇のすみに
ひとり咲いている最後のお前は
あのアイルランドの
   古い歌のそれだろうか。

あした私は遠く旅立つ。
私の帰国は秋も終りになるだろう。
私はお前の終焉を
   見とどける事ができない。
しかしお前の夕映えいろの花の面輪の
その大きな匂やかな沈黙の前では
私の別離がひどく小さいものに思われる。

訣別という事のいさぎよさが
あとに残される者の寛大なうべないの前で
時に甚だ貧しいものに見えるように、

おのれを抑えて
   別れをうけ入れるその気高さから
相手の利己と惻隠との感情が
かえって恥じて
   ひとり秘かにいらだつように。
         (詩集「花咲ける孤独」)

雲がはるかに、群れ、浮いている、 
空のとおい、青い地ぢに、 
かげをもつ白い家々や、尖塔が。 

雲の変化はつねに短音階モルだ。 
おもいだす今は亡い人の、 
その折々の姿や顔を 
忘れはしないが描けないのと 
同じように、
   遠く軟かに、見る間に変る。 

この世でのつながりを欲しいが、 
つかむには鏡の奥の物のようで、 
打明けの相手としては 
すでに天上的に半調色だ。 

ウンブリアの
   夏のようなものが想われる。 
むかし聖フランシスの「小さき花」に 
挾んでおいた一輪のおだまきも、
ちょうどあのように枯れ、褪せた。
           (詩集「旅と滞在」)

うつくしガ原はら熔岩台地

登りついて不意にひらけた眼前の風景に 
しばらくは
   世界の天井が抜けたかと思う。 
やがて一歩を踏みこんで
   岩にまたがりながら、 
この高さにおけるこの広がりの把握に
   なおもくるしむ。 
無制限な、おおどかな、
   荒っぽくて、新鮮な、 
この風景の情緒は
   ただ身にしみるように本原的で、 
尋常の尺度には
   まるで桁けたが外はずれている。 

秋が雲の砲煙をどんどん上げて、 
空は青と白との眼もさめるだんだら。 
物見石の準平原から和田峠のほうヘ 
一羽の鷲が流れ矢のように落ちて行った。
            (詩集「高原詩抄」)

追分哀歌
  (遂に私にはよそびとであつた、
   かの「わすれぐさ」の詩人にさゝぐ。)
 

火山砂に書いては消す者よ 
からまつの降りつむ秋に立つ者よ 
おんみはすべての空しくなるたまゆらを 
くづれるきはをそんなにも愛した 
白壁ぬらす夕立の 
かはくさだめをいとほしむやうに 
はかない合歓ねむの一日が 
かたみもなくて逝くことに 
生きる者の
   もつとも美しい姿を見るやうに 

またあたらしく来る秋に 
夏を亡びる夕菅をわすれぐさと云つた 
そのやうに遠くほのかに歌はれるために 
この高原はけふも
   雲の薄氷うすらひをならべるのか 
しかし時はすでに晩い 
われらと共にとどまれと 
あの清い一人の
   痩せた手をとるすべもなく 
古い駅路のわかされに 
家々は骨のやうに
   白く貧しく枯れてゐる。  
           (「四季」昭和十四年九月号)

           (尾崎喜八資料第2号)

ながれるように飛んで来て、
   さながらの風、 
はやぶさはふわりと 
高い松の枝に翼をおさめる。 
秀ひいでた眉の下のかがやく両眼、 
好戦的な瞳のくばり、 
生革をも食い裂くような彎曲した嘴と、
   その深いきれこみ 
柔毛にこげに包まれた腿、
   脂肪いろに光る脚、巨大な鈎爪。 
片羽をもちあげ頸をまげて
   腋の下を突つき、 
また脚を上げて喉のどを掻く。 
やがて彼の放つのは
   金属的なするどい叫び。 
三声、四声―― 
たちまち蹴落とすいきおいで
   枝をはなれ、 
松葉をちらして悠然と虚空に舞い上り、 
襲いかかるように
   むこうの森へ立ってゆく。 
そこにも舞っている幾羽の隼…… 
私の田舎の丘陵つづきの森の上、 
湖のような秋の天空の
   いたるところ隼の飛揚!
           (詩集「曠野の火」)

秋の流域
       (わが娘、栄子に)

二日の雨がなごりなく上って、 
けさは天地のあいだに
   新らしい風が流れている。 
暖かい道のうえの小石をごらん、 
これは石英閃緑岩というのだ。 
こんな石にさえ
   それぞれ好もしい名がつけられ、 
一つ一つが日に照らされ、 
   風に吹かれて、 
きょうの爽かな、昔のような朝を、 
何か優しい思い出にでも
   耽っているように 
みんな薄青い涼しい影をやどしている。 

葡萄畠のあいだから川が見えて来た。 
風景の中に自然の水の見えて来るときの 
深い心の喜びを
   お前がいつでも忘れないように! 
だが銀の絲のつれたように
   流れる川の両岸には、 
平地といわず、丘といわず、 
この土地の人々の頼もしい生活と 
画のような耕作地とがひろがっている。 
そうしてこの美しいひろびろとした
   流域のむこうには 
同じ日本の空があり、秋があり、 
其処で営まれているまた別のたくさんの
   たくさんの生活がある……
           (詩集「高原詩抄本」)


 

 
↑目次に戻る

男声合唱曲集「樅の樹の歌」

春の牧場

あかるく青いなごやかな空を
春の白い雲の帆がゆく。
谷の落葉松からまつ、丘の白樺、
古い村落を点々といろどる
あんず 桜が 旗のようだ。
ほのぼのと赤い二十里の
大気にうかぶ槍や穂高が
私に流離の歌をうたう。
牧柵や 蝶や 花や 小川が
存在もまた旅だと私に告げる。

だが 緑の牧の草のなかで
風に吹かれている一つの岩、
春愁をしのぐ安山岩の
この堅い席こそきょうの私には好ましい。
          (詩集「花咲ける孤独」)

金峯山きんぷさんの思い出

金泉湯きんせんとうの若いおかみさんは 
どこか艶だがりんとしていたな。 
金山かなやまでは
   ぴかぴか稲光りの飛ぶなかで 
雨傘さして鉄砲風呂へはいったな。 
きれいな翌朝 
外厠そとごうか
   栗毛の牝馬がのぞきに来たな。 
瑞牆みずがきてっぺんの岩登りに
   山案内の干代一が 
四十を越したで
   おら止めだとかぶりを振ったな。 
それにしても朝日の
   さしこむ本谷川ほんたにがわの 
あの噎せかえるような
   新緑を思い出すな。 
ひっそり藤の咲く
   桂平かつらだいらの岩へとまって 
川鴉がヴィッ・ヴィッと鳴いていたな。 
松平牧場の
   ちらちらする白樺のあいだから 
ぽうとかすんだ雲母刷きららずりの空の奥に 
八ガ岳がまるで薄青い夢だったな。 
富士見平で富士を見ながら
   水を飲んだな。 
そうしかんばのそばに湧く 
つめたいきれいな水だったな。 
大日小屋でくさやの干物を焼いていると 
あたまの上でほととぎすが鳴いたな。 
長い陰気な
   横八町縦八町の登りだったな。 
尾根へ出たら目が覚めたようで、 
筒ぬけの空にくらっとしたな。 
もう其処では暑さと寒さとが
   縞になっていたな。 
真白な岩稜づたいの
   砂払いから児の吹上、 
けさ国師の小屋を立って来たという 
四人連れの一行にひょっこり遭ったな。 
それからとうとうてっぺんだったな。 
天のほうが近かったな。 
二人きりだったな。 
なんだか人間をもう一皮
   脱ぎたいような気がしたな。 
とにかく胸をはだけて
   涼しい大きな谷風に 
汗みずくのシャツを
   帆のように脹らませたな。 
シャツがはたはたと鳴ったな。 
だが髪の毛が逆立ったのは 
風のせいばかりでもなかったな。 
それから五丈石の下へうずくまって 
ハンケチの端で珈琲を濾こしたな。 
思い出せば何もかもたのしいな。 
その六月がまた来るな。 
だがなかなか山へ行くどころの
   騒ぎではないな。 
千代一もとても食っては行けないと
   いっていたな。 
東京に伜せがれ
   人足の口は無いかと訊いていたな。
          (詩集「旅と滞在」)

故地の花
        (妻に)

山の田圃を見おろして行くあの細みちの
あの同じ場所一面に、
ことしの夏もかわらずに
この伊吹麝香草は
   こぼれるように咲いていた。

私たちにななたびの
なつかしい夏の思い出の草は、
つぶつぶの葉、針金のような蔓、
薄紫のこまかな花をこまかに綴って、
摘めばつんと鼻をうつ
爽やかな匂いの霧を噴くのだった。

押葉となって手紙の中に萎えてはいるが、
この高原故地の花の発する
まだ消えやらぬ夏の匂いは、
誠実な心のように、歌のように、
あわれ流寓七年の永いよしみを囁いて、
梅雨つゆも上がった炎熱の東京で
お前の汗まじりの
   涙を呼ぶには充分だろう。
         (詩集「花咲ける孤独」)

音楽的な夜

日が暮れると高原は露がむすび、
びっしょり濡れた
   ほのぐらい草の果てまで、
りんりんと、きょうきょうと
震え輝く虫の音に満たされる。

夜空をかぎる山々の黒い影絵も
光をかなでる楽器の列をおもわせる。
「乙女」や「蝎」や「射手」の星座が
身をかがめ
   弓を波うたせ弾き入っている。
         (詩集「花咲ける孤独」)

樅の樹の歌
  O Tannenbaum, O Tannenbaum,
  wie treu sind deine Blätter!

私はやはり自分が 
なおもっと充分若かったらばと思う。 

そうしたら私は滑るだろう、 
冬に、北方の高原地方で、 
新らしい粉雪に被われた広い、
   深い、樅もみの林を、 
一日じゅう、一人で。 
だが、仲間が厭だというのではない。 

若くて、若さのために眩ゆいほどで、 
仲間への愛や協同の念に燃えて、 
それでいて孤独の味を
   知っているという事は、 
たしかに美しく、男らしい。 

私はやがて雪と夕日との高原の林を 
遙か人里のほうへ滑って来るだろう。 
私は湧き上る紫の暮色のなかで 
侮いもない
   純潔な自分に満足するだろう。 
私は試練と冒険とに待たれている 
自分の未来にほほえむだろう。 

その時私は歌うだろう、 
青春の我が身をたたえるように、 
頼もしい、真実な樅の樹の歌を! 

私は、時々、やはり自分が 
なおもっと充分若かったらばと思う。  
しかしそれとは違う事で、今日こんにち、
更に多くをできるかも知れない。
            (詩集「行人の歌」)

 

 

 
↑目次に戻る

男声合唱曲集「歳月」

一年後

猿ガ京を出はずれて、 
路は吹路ふくろへの降りにかかる。 
秋よ、 
秋はきらびやかに、爽かに、 
もう漆の葉をまっかに染めている。 

「小父さん、どけえ行くだ」 
四つか五つ、男の子が一人、 
小さい腰に両手をあてて立っている。 
私は立ちどまる、 
あまり小さい子供の、
   あまり大人びた其の様子に 
私は思わずにっと笑う。 
「法師へ行くんだよ」 
「法師か。法師ならまっすぐだ」 
あくまでもきまじめに
   道を教える其の子供に 
「知ってるよ」とは私は言うまい。 
思わず帽子に片手をかけて言う、
   「ありがとう」 
その時私は見た、 
大人のように両手をあてた子供の腰に、 
ちいさい守札の
   ぶらさがっているのを…… 

   * 

翌年の春もたけて山藤の頃、 
また同じ身を私はとおった。 
はるか姉山の部落の鯉幟に、 
私は去年の子供を思い出した。 

私は歩きながら眼で探した。 
有難いモン・デュワ! 子供はいた、
   路の傍、畑の隅に。 
あの子だ。
   私はすこし興奮して近づいた。 
「君に上げるよ」 

子供はたじろいだが手に握った、 
私の出したキャラメルの一凾を。 

すこし行って私は振り返った。 
子供のそばには母親が立っていた。 
二人してこっちを見ながら、 
母親は頭の手拭をはずして 
   御辞儀をした。 

私も遠くから首をかしげて
   挨拶しながら、 
其処に、彼らの畑のまんなかに、 
上州の小梨の大木が一本、 
さかんな初夏の光に酔って、 
まっしろな花をつけているのに
   気がついた。 
          (詩集「旅と滞在」)

三国峠

権現さまに臀をむけて 
しょい上げて来た
   エビスビールは抜くものの、 
さすが越後の風は荒っぽいな。 
上州はこんな奥でも変に賑かな
   お蚕時だが、 
山一重で浅貝は唄のとおりに寂しいな。 
でも苗場山の苗代田がよく見えるな。 
そういえばもう新藁の出る時分だな。 
お富士さまの麦藁の大蛇だな。 
夏は夏で、
   又したい仕事がうんとあるな。 
あしたあたり。 
もう東京へ帰ろうかね。
           (詩集「旅と滞在」)

春浅き

春浅き三頭みとうの山に 
なお残る雪を踏まんと、 
そが麓、数馬かずまの里の 
谷ふかく我は入りにき。 

氷柱つららこそ滝にはかかれ、 
かんばしや、梅はおちこち。 
美しき農家の垣に、 
あたたかや、菫咲きけり。 

しかれども我がいぶかりは 
女子おみなみな、男子おのこもなべて、 
われに遭う村のわらべの 
ねんごろの礼にてありき。 

宿にして夜のまどいに、 
わが問えば、この山里に 
いちにんの若き師ありて、 
他郷人よそびとの入り来るあらば、 
貴きと、賤しき問わず、 
いやせよと教えぬという。 

いやすると、はた、せざるとは、 
これ人の心にあれど、 
けなげさは其のわらべらの 
師の教え守るにぞある。 
この心、絶えせぬかぎり、 
まったけん、日の本の道。 
            (詩集「高原詩抄」)

復活祭

「天は笑い、地は歓呼する……」
バッハのカンタータが今終わった。
庭を埋めて咲くタンポポ、
   シバザクラ、紫ケマン、
祝祭と花の朝を風は冷たく、日は暖かい。

生涯を詩にうちこんで幾十年、 
もはや旅路の果ての
   遠くないのを思えば、 
を追っての復活を願う 
祈りの歌もただごととは聴かれない。 

木々の梢に歌ほとばしらせる小鳥たちや
青い空間に浮かびきらめく蝶や蜂、
「われを天使に似させたまえ」の
   つつましい訴えが
彼ら純真で欲念薄い者達にこそ
   ふさわしく思われる。
         (詩集「その空の下で」)

歳 月
      (信州富士見にて)

むかし春の空気に黒鶫くろつぐみが歌い、 
夏の光に葦切よしきりが鳴きしきった 
あの美しい三つの沢を横ぎって、 
いま、白い堅い大道が
   無遠慮に走っている。 
それで私の心がほのかに痛む。 

むかし野薔薇が雲のように咲き埋めた 
尾根の突端に
   いま知らぬ他人の家がそびえ、 
蓮華躑躅れんげつつじ
   赤や黄の炎をかざした 
丘がうがたれて乗合バスが揺れてゆく。 
心よ、傷つけられた思い出に
   哭くなら哭け。 

しかし眼を上げて遜かを見れば 
残雪の鳳凰、甲斐駒、八ヶ岳。 
耳をすませば
   草吹く風に飛蝗ばったの羽音、 
高原の魂まことに旧を懐わせる。 
それならば、心よ、
   せめてこの瞬間の現実の 
高く遠く変らぬものに慰められてあれ!
      (詩集「田舎のモーツァルト」)

 

 

 
↑目次に戻る

男声合唱曲集「花咲ける孤独」
 

早春の道

「のべやま」と書いた停車場で
   汽車をおりて、
私の道がここからはじまる。
高原の三月、
早春のさすらいの
哀愁もまた歌となる
さびしくて自由な私の道が。

開拓村の村はずれ、
年若い母親と子供二人に山羊一匹、
薄あおい大空 雪の光のきびしい山、
まだ冬めいた風景の奥に
遠く消えこむ枯草の道。
これが私に最初の画だ、歌のはじめだ。

私はこの画の中にしばしばとどまる、
この牧歌にしばし私の調べをまじえる。
清らかな貧しさと愛のやわらぎ、
これが私たちのけさの歌だ。
第一歩の祝福がここにあり、
私のさすらいがここからはじまる。
         (詩集「花咲ける孤独」)

車 窓
       (妻に)

ほら、
其処へ出て来た長い狭い青葉の谷、
あれをまっすぐ登って峠をこえると、
けっきょくは木曾の入口、
中山道なかせんどうの贄川にえかわへ出るのだ。
  
お前とふたり富士見流寓の或る年の冬。
ぼくはこの先の
   小野おのの学校で話をして、
それが終るとすぐ次の会場へと
   四キロの道を
あの谷奥の小さな部落へ急いだのだ。
行きも帰りも、車はもちろん、
雪が深いので馬さえも無い。
膝近くまでつもった上ヘ
なお濠々と吹きつもる吹雪ふぶきの道で
胃潰瘍の胃が燃えるように痛んだ。
そしてまた夜の汽車で急いで帰った。
そんな思いをして貰った
   なにがしかの謝礼が
あの頃の苦しい暮らしの料しろだった。
 
十数年の遠い昔を回顧しながら、
いま梅雨つゆの晴れまの
   松本行急行列車、 
大きな窓を青嵐せいらんに打たせてゆけば、
クリーム色の雲かとばかり
栗の花咲く小野、筑摩地ちくまぢの山里が
懐かしくも「清く貧しかりし
   日の歌」のようだ。
           (その他の詩帖から)

木曽の歌(開田高原)

もしも私たちが
   この土地の生まれだったら、
そして十八のお前が藤屋洞ふじやほらの、
私が二十歳はたち
   把たばノ沢さわの若者だったら、銀いろの蜘蛛が高原の白い木いちごの藪に
人しれず涼しい虹を編むように、
私たちもひそやかな
   恋の幸福を編むだろう。

地蔵峠のむこう、末川から西野まで
ビロードのような牧草地の丘の起伏、
山おだまきや下野草しもつけそう
   羊歯しだのあいだを流れる小川 
昼間の明るい霧をとよもす
   ほととぎすの声、 
どのいえでも飼っている馬と、どこから
   でも見える御岳おんたけ……   
そういうものが私たちの
   愛の背景となるだろう。

小さくて、粗食に堪えて、働き者の
木曾馬はこの土地では大切な家族の一員、
そのために私は夏草の丘ひろびろと
   鎌を振り、
お前は暗い広い台所のかまど前から
彼らの気のいい素朴な顔に
弟妹へのようないつくしみの声を
   かけるだろう。

そして七月・九月の福島の馬市に、
ジャンパーを着て鳥打かぶった
   お前の父親が
狡猾そうな鋭い眼をした買手の男と
ポケットの中で
   指の符諜の取引をしている時、
トゥベルクリンの注射をされ、
   目方を衡って売られてゆく
愛馬を撫でて涙ぐむお前に
   私が涙ぐむだろう。
            (詩集「歳月の歌」)

十一月

北のほう 湖からの風を避けて、
ここ枯草の丘の裾べの
南の太陽が暖かい。
ぼんやりと雪の斜面を光らせて
うす青く なかば透明にかすんだ山々。
末はあかるい地平の空へ
まぎれて消える高原の
なんと豊かに 安らかに
絢爛寂びてよこたわっていることか。
  
もしも今わたしに父が生きていたら、
すでにほとんど白いこの頭を
わたしは父の肩へもたせるだろう。
老いたる父は老いた息子の手をとつて、
この白髪しらが
   この刻まれた皺の故に   
昔の不幸をすべて
   恕ゆるしてくれるだろう。
するとわたしの心が軽くなり、
父よ 五十幾年のわたしの旅は
結局あなたへ帰る旅でしたと言うだろう。
  
しかし今 わたしの前では、
朽葉色をした一羽のつぐみが
湿った地面を駆けながら
   餌をあさっている。
むこうでは煙のような落葉松からまつ林が
この秋の最後の金きんをこぼしている。
そして老おいと凋落とに美しい季節は
欲望もなく けばけばしい光もなく、
黄と紫と灰いろに枯れた山野に
ただうっすりと冬の霞を懸けている。
         (詩集「花咲ける孤独」)

受難の金曜日カールフライターク
       (富士川英郎君に)

まだ褐色に枯れている高原に
たんぽぽの黄の群落がところどころ、
そよふく風には遠い雪山の感触があるが
現前の日光はまばゆくも暖かい。
かつて私が悔恨を埋めた丘のほとりの
重い樹液にしだれた白樺に
さっきから一羽の小鳥の歌っているのが、
二日の後の古い復活祭を思い出させる。
すべてのきのうが昔になり、
昔の堆積が物言わぬ石となり、岩となる。
そしてそこに生きている追憶の縞や模様が
たまたまの春の光に形成の歌をうたう。
『うるわしの白百合、
    ささやきぬ昔を……』
そのささやきに心ひそめて
   聴き入るのは誰か。
悔恨長く、受苦は尽きない。
ただ輪廻りんねの春風が
   成敗をこえて吹き過ぎる。
    (一九五九年三月二十七日金曜日)

            (その他の詩帖から)

 

 

 
↑目次に戻る

男声合唱曲集「八ガ岳憧憬」

早春の山にて

遠い北方の山々に雪はまだ消えないが、 
あの下のほうの霞の底では 
平野の河が幾すじもきらきらと震えて、 
無限の春の広袤をそよかぜが流れ、 
空のあちこちに雲雀の揚っている
   麗かさが想われる。 

こうして移る刻々が 
   私にはひどく惜まれるが、 
お前の時はやっと今始まったばかりだ。 
私は何ひとつお前に残してやれないほど
   貧しいのに、 
腕を与えてひとつの
   山登りを完成させた今日は 
此の世でいちばん富んだ
   父の心でいるのだ。 

だが明日あすは五月。 
もうじき山路やまじに栃の花が咲き、 
雲のように湧く新緑の谷間に 
郭公の笛のこだまする時が
   めぐって来る。 
そうしてお前はついに女になる。 
そうして今度は、あわれ、
   お前が手をとって、 
私のために行くべき道を
   教えてくれるだろうか…… 
      (我が子に与う 昭和十四年作)

            (詩集「高原詩抄」)

行者小屋(八ガ岳)

もうずいぶん古び破れた無住の小屋、
赤岳と横岳の鞍部からまっしぐらに
美しい名にひかされて
   急降下はして来たものの、
ここで一夜を明かすとは
   さすがに心細かった。
有るのは床板と天井と板羽目と
枠のはずれた囲炉裏だけ、
山小屋炉辺の歓談などとは
遠い都会での世迷事よまいごとだった。 
友は水探し、ぼくは焚木集め、 
それでも一本の蝋燭を中にしての 
一杯のウィスキーはうまかった。 
時折の夜風とむささびの叫びには
   驚かされたが、 
それも馴れれば深山の真夜まよの歌、 
あすは阿弥陀あみだへ登ろうと
   友が言い出し、 
ぼくは上諏訪での
   温泉でゆの味を空想した。 
それから雨具にくるまって
   うとうとしたが、
今思えば二人にとって、行者の小屋よ、
人生は漸くにしてまだ道の半ばだった。
           (その他の詩帖から)

山の湖(白駒の池)

歳月の奥の思い出のように、
隔絶のうつくしい歌のように、
ひとりおとずれて来た山中深く
湖はあかるく青くたたえている。

そこだけ雪の吹きわかれる
きらびやかな天の円錐の底に、
人の世を遠い清らかなさびしさを
鳴きとよもしてはひたと黙する小鳥の声。

ひとむらの黄花石南を目の前に、
曲りくねった岳樺に身をもたせ、
世界の不安も、われも忘れて
高峻の夏の光に溶け入る心よ!

煩悩もなく、焦慮もなく、
運命に満たされて
   それをぬきんでた山の湖水が、
照り曇る空のさまざまをうけとって
晴れやかな水のしじまに醒めている。
          (その他の詩帖から)

人のいない牧歌

秋が野山を照らしている。
暑かった日光が今は親しい。
十月の草の小みちを行きながら、
ふたたびの幸さちが私にある。

谷の下手しもてで遠い鷹の声がする。   
近くの林で赤げらも鳴いている。
空気の乾燥に山畑の豆がたえずはじけて、
そのつぶてを受けた透明な
黄いろい豆の葉がはらはらと散る。

この冬ひとりで焚火をした窪地は
今は白い梅鉢草の群落だ。
そこの切株に大きな瑠璃色の
   天牛かみきりむしがいて、 
からだよりも長い鬚を動かしながら、
一点の雲もない
   まっさおな空間を掃いている。
         (詩集「花咲ける孤独」)

冬のこころ

ここはしんとして立つ
   黄と灰色の木々がある。
その木立を透いて雪の連山が横たわり、
日のあたった枯草の丘のうえ
真珠いろに光る
   薄みどりの空が憩っている。
これらのものすべて私に冬を語る、
世界の冬と 私自身の生の冬とを。
かつて私にとっては春と夏だけが
生の充溢と愛や喜びの季節だった。
いま私はしずかに老いて、
遠い平野の水のように晴れ、
あらゆる日の花や雲や空の色を
むかえ映して孤独と愛とに澄んでいる。
世界は形象と比喩とにすぎない。
ひとえに豊かな智慧の愛で
あるがままのそれをいつくしむのだ。
枯葉を落とす灰色の木立 雪の山々
真珠みどりの北の空と
山裾に昼のけむりを上げる村々、
この風光を世界の冬の
無心な顔や美の訴えとして愛するのだ。
         (詩集「花咲ける孤独」)

回 顧

いたるところに歌があった。
いくたの優しいまなざしがあり、
いくつの高貴な心があった。
こうして富まされたその晩年を
在りし日の愛と感謝と郷愁で
装うことのできる魂は幸いだ。
       (詩集「田舎のモーツァルト」)


 

↑目次に戻る

↑サイトトップに戻る