スマホ版 詩人 尾崎喜八
自註
富士見高原詩集
目 次
告 白 若葉の底にふかぶかと夜をふけて 疲れているのでもなく 非情でもなく、 ---- 祖国は戦争に敗れた。物質の上でも、精神の面でも、無数のもの、さまざまなものが崩壊した。いわゆる「銃後」の国民の一人として、詩という仕事によっていささかでも国に尽くしたいと思った私の念願も、『此の糧』や『同胞と共にあり』の二冊のささやかな詩集と一緒に今はむなしい灰となった。その無残な荒廃の跡に立って、私は元来人間の幸福と平和とに捧げるべき自分の芸術を、それとは全く反対の戦争というものに奉仕させたおのれの愚かさ、思慮の浅さを深く恥じた。私は慙愧と後悔に頭を垂れ、神のような者からの処罰を待つ思いで目を閉じた。そしてもしも許されたなら今後は世の中から遠ざかり、過去を捨て、人を避けて、全く無名の人間として生き直すこと、それがただ一つの願いだった。 |
本 国 私には ときどき 私の歌が 北の夏をきらきら溶ける氷のほとりで それとも空一面にそよかぜの満ちる --- この詩も本質的には前の作品と同じ種類のものと言えよう。誰からも離れて、おそらくは誰のとも違った現在の心境で、たった一人、ふと湧いたこんな思いを筆にするのが、はかない喜びでもあれば慰めでもあった。進んで交わる友は無くても、昔ながらの「詩と真実」の自然だけは私のために残っている。出来た詩が自分でも佳い物のように思われる時、そこにはいつでも愛する自然がその本国として遠く横たわっているような気がするのだった。
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新らしい絃 なぜならば私はもう此処に 私は逆立つ藪や吹雪の地平に立ち向かおう、 --- 戦災で家を失った私は、妻を連れて一年間、親戚や友人の家から家へ転々と居を変えた。どこでもみんな親切にしてくれたが、それでももう生れ故郷の東京に住む気はなく、どこか遠く、純粋な自然に囲まれた土地へのあこがれがいよいよ募った。ところがちょうどその時、或る未知の旧華族から、長野県富士見高原の別荘の一と間を提供してもいいという好意に満ちた話が来た。私の心は嬉しさにふるえ、思いはたちまちあの八ガ岳の裾野へ飛んだ。この詩はその喜びと期待から颯爽と泉のように噴き出したものである。 |
存 在 しばしば私は立ちどまらなければ --- もうここでは私は富士見に来ている。別荘のありかは長野県諏訪郡富士見町、中央線の富士見駅から北々西へ徒歩で約十五分のところである。終戦の翌年の秋十月、山も原野も森も耕地も、すべてが彼らの在るべき場所に広々と静かに横たわって、見渡すかぎり混乱もなければ紛糾もない。あるのはそれぞれの形象のまぎれもない存在感と、互いの個性の照らし合いの美だけである。それは新たに生きることを願いとする私の理想の世界だった。 |
落 葉 ひろびろと枯れた空の下で --- 私の住んでいる分水荘の森は広くて、樹木は無数、その種類も豊富だった。その中でもすべての広葉樹の葉という葉が、折からの晩秋を黄や赤にもみじして、毎日の風に散るのだった。静寂の中に時おり響く小鳥の声と絶えまもない落葉の眺め。それが今ではほとんど忘れられた昔の画家の名とその作品とを私になつかしく思い出させた。 |
夕日の歌 夕日のひかりの最後の波が --- 八ガ岳の裾野の中でもかなり高い雀ノ森という残丘のような小山への遠足の帰りに、こうした夕日の眺めに出会った。北西に遠く諏訪湖の水がきらきら光り、振り向けばすぐ頭の上に兜のような八やつの一峯阿弥陀岳が、まっこうから金紅色の落日を浴びてのしかかっていた。低地の村里にはもうたそがれの色が漂っているが、霧が峯、車山、守屋山などは、湖水を挟んでまだ明るく美しかった。そしてこの寒く厳粛で男らしい光景に何となくニイチェの名が思い出され、この『ツァラトゥストラ』の作者の特に愛したスイスの山村エンガーディンの夕日の時が想像された。と同時にギリシアの伝説上の歌い手で音楽の名手オルフォイスの事が、私のためにもやがて来るべき遙かな春の予感として脳裏をよこぎった。 |
土 地 人の世の転変が私をここへ導いた。 その慕わしい土地の眺めが 今 --- 山国の信州で、人は山の自然の強力な支配に従順であり、しかもそこから生活の知恵を生み出し、勤勉と忍耐と持久と好学の精神とを学び養う。富士見高原でもそうだった。そしてそれ故にこそ私は自分の住む土地と人々とを愛さずにはいられなかった。 |
秋の日 そしてついに玉のような幾週が来る。 --- すきとおるばかりに澄んだ秋が毎日つづく。日に日に輪郭のはっきりしてくる遠近の山脈の限空線。華やかにもみじしてゆく野山の草木。それを暖かに照らす太陽とそよ吹く涼しい西の風。今は賑やかな繁茂の時がすぎて静かな成熟の季節である。すべての物にそれ自体の重みが増し、好ましい味がつき、真実頼もしい健康さが感じられる。 |
短 日 枯葉のような旅の田鷸たしぎが --- 日の短かい高原の冬の田圃に、この季節にだけ見られるタシギとアトリの下りているのを書いた。タシギは春と秋とに日本を通る旅鳥で、アトリは十月頃から渡って来て五月には姿を消す冬鳥である。いずれも翼の力が強くてその飛び方はすこぶる速い。しかしそれぞれ大小の群になってひっそりと餌をあさっている彼らを、荒寥とした冬景色の中で見出すのは思いもかけぬ喜びである。俳人ならばこんな光景をどう詠むだろうか。 |
朝のひかり 朝々の白い霜のうえに --- 氷点下十度を測る毎朝の霜を踏んで私のする日課の散歩。その厚い真白な霜の上には必ず何か小さい獣か野鳥の足跡がついている。彼らは私よりもずっと早く起きて、自分たちの生きてゆくために、食うために、この高原の道や畑を歩いたのだ。そしてこの小娘の可憐な足跡にしてもそうである。幼い彼女の朝の日課は私のするような散歩ではなく、親から命じられた枯枝集めの労働なのだ。それを憐み悲しむな、私の心よ! むしろ彼らを讃美するがいい。そして彼らのために、彼らと共に、霜の荒野の教会で歌うコラール(衆讃歌)を書くがいい! |
十一月 北のほう 湖からの風を避けて、 --- 富士見高原の自然の中に新らしい生を求めながら。しかし私はもう六十歳に近かった。それで何かにつけて今は亡い父を思い出すことが多くなり、その度に彼にとって必ずしも善い息子ではなかった若い頃の自分が悔やまれた。今となってはもう間に合わないが、また事実としてそんな事の出来るわけも無いが、せめて夢想の中ででも老父の腕に身をもたせて宥しを乞い、子供として甘えたかった。そしてこの初冬の丘のように美しく寂び、悠々と老いて、彼の一生あずかり知らなかった、それでも彼がほほえみうなずいてくれるような善い仕事を、なおしばらくは許されるであろう命のうちに成しとげたいと思った。 |
雨氷の朝 終日の雪に暮れた高原に --- 冬には雨氷の現象がしばしば見られて朝の散歩の目を喜ばせた。藪も林も木々の枝という枝がすべて透明な氷に包まれて、まるで鋭い槍の穂先をつらねたようだった。 |
春の牧場 あかるく青いなごやかな空を --- 長かった冬が漸く終ると、山国信州には潮のようにどっと春が押し寄せて来る。どこの部落にも桃や桜や梅や杏子あんずが一時に咲いて、ついこの間まで裸だった木々はもう柔かな緑の若葉にくるまれている。いろいろな小鳥の歌が賑やかに、頭上の雲も帆のようだ。 |
夏の小鳥が…… 夏の小鳥がふるさとの涼しい森や緑の野へ --- 親しい農家へ馳走によばれて、一晩泊まって、運よくもこんな光景に出会った事が一、二度ある。そして深い感動に値するこの経験は、田舎を愛しながら都会で生きて来た私にとっては、真に珠玉とも言うべきものだった。 |
薄雪の後 まっさおな空をふちどる山々の線の上に --- 高原はまだ紅葉が盛りの秋だというのに、朝起きて見ると八が岳も釜無の山々もうっすりと雪の化粧をしていた。夜半に通過した弱い不連続線の置き土産だろうが、それでも今年の初雪である事に違いはない。私は富士見の町を通って釜無川の谷の武智鉱泉への散歩の途中、この薄雪の印象をどういう文句で表現したらいいかと思案にふけった。そしてふさわしそうな言葉が心に浮かぶたびに立ちどまって、ポケットのノートへ走り書きして、ともかくもこの第一聯の原案を得た。後になって少しばかり筆を入れたのは勿論の事だが。 |
旗 石を載せた屋根を段々にならべて --- これは前の詩「薄雪の後」の第二聯に出て来る谷間の村の学校の運動会を書いたもので、中心となる物はやはり題のとおり校庭に翻っていた万国旗への感慨である。 |
冬のはじめ 黄ばんだものが黄いろくなり --- 私はわずらわしくて利己的で醜い事の多い都会を後にここへ来た。高原のここには自由と孤高の精神を歓んで迎える雄大な天地があった。仕事も毎日規則的に出来、本も読め、好きな自然観察も無限に豊かな材料を前に思うがままだっだ。妻と二人、新婚の頃を思い出して少しばかり畑仕事もやった。昔ほどではないが鶏も飼い、花も作った。閑雅の中にも充実した日々。これ以上の生活はとうてい考えられなかった。 |
本 村 花崗岩の敷石づたいに 清潔な牛小屋と厚い白壁の土蔵とのあいだに 私はあの玉虫いろの空の下から そして或る日私を呼びとめて、 --- 海抜一〇〇〇メートルに近い高原でもさすがに暑い八月の炎天下を、汗を垂らし喉を渇かせながらいつものように散歩している時の若宮部落での事を書いた。私の住んでいる処は同じ富士見でも駅の北側で言わば八が岳の裾野の末端だが、若宮は南側で木こノ間まや松目の部落同様、むしろ釜無山系入笠山の麓とも言うべき位置にある。駅のあたりは地理学者のいわゆる「富士見狭隘」だから、私のところとこの若宮とは、中央線の通っている比較的低地を挟んでほぼ南北に遠く向い合っている事になる。 |
夏野の花 神のおおきな園のなかで 惜しまれることを期待もせず、 すでに咲き消えた はやくも秋めく青い木この間まを --- ヘルマン・ヘッセに「回想」という美しい詩がある。私は以前からその詩が好きで自分でも翻訳をした事があるが、富士見へ来てから或る時その詩を土台にして且つそれに答えるように、音楽で言う変奏曲を書いてみた。ヘッセのはこうである。 回 想 つぐみの歌や郭公の叫びが曾て 林の中の夏の夕べの宴うたげ そしてやがては君についても私についても、 私たちは夕べの星と そして言うまでもなく私のこの変奏曲は、神の知ろしめす夏の高原に咲いては消える花々に託して、偽りない自分の心境を告白したものである。 |
或る晴れた秋の朝の歌 又しても高原の秋が来る。 名も無く貧しく美しく生きる やがて野山がおもむろに黄ばむだろう、 --- フランスの作曲家カントルーブが収集し編曲した民謡集『オーヴェルニュの歌』を私は以前から好きだった。オーヴェルニュというのはフランス中南部の火山ピュイ・ド・ドーム、モン・ドール、カンタルなどを中心とする高くて広い一大山地帯の総称で、日本の地理学の古老辻村博士はこの地方を「フランス中央高台」と呼んで殊のほか愛された。私はそのオーヴェルニュに古くから伝わっている数多い民謡の中でも、哀調を帯びてしかも剛健な幾つかの羊飼いの歌を特に好きだった。毎年自然が漸く秋の色に変って来る頃、私はまずこの歌を心に浮かべて山や高原への憧れを募らせたものである。そして今やその高原に居を定めて、文学の仕事のかたわら馬鈴薯や豆やライ麦など、ささやかな畑仕事もやっている私たち夫婦だった。 |
雪に立つ 雪が降る。 わたしはスキー帽をすっぽりかぶり、 わたしをして老いぼれしめず、 雪は縦に降り、横なぐりに降る。 --- 芓とちノ木きの忠良、松目の治久、巌、正人、文恵、いさ子、瀬沢の寿子と木こノ間まのゆわえ。二十何年前のその頃はまだ独身の青年男女だったのが、今ではもうそれぞれ立派な家庭の主人であり、幾人かの子供の親になっていることだろう。その彼らが私にとっては富士見時代の親しい農家の子弟だった。よく働いてぴちぴちしていた彼らは、その素朴さと純真さと健康とで、めいめいの父親よりも老いた私に若さを与えた。 |
足あと けさは 森から野へつづく雪の上に、 雪と氷の此の高原の寒い夜あけに 鑿のみで切りつけたような半透明なあしあとが それならばいよいよすばらしい。 --- 新らしく降った雪の上にはいろいろな動物の足跡がついている。それを捜して歩いてカメラに収めたり、ノートヘスケッチしたりするのは冬の楽しみの一つだった。その中で兎や野鼠のははっきりした特徴があってすぐわかるが、マヒワだのホオジロだの、アオジだのノジコだののような小さい鳥達のものになると、私などにはもう種類の見分けがつかない。しかしこういう連中のはいかにもこまかで、綺麗で、愛らしい。 |
雪の夕暮 窓をあけてお前は言う、 遠く、そして柔かく‥‥‥ ほんとうにお前の言うとおりだ。 お前は言う、 そして私は言う、 --- 「お前」というのは勿論私の妻の事で、彼女は時どきこんな思い入ったような殊勝な言葉も洩らすのである。又別の時の事だが、「おばあちゃんのお墓の上で、春が三度目のリボンをひるがえしています」などとも言った。おばあちゃんとはそれより四年前に死んだ私の母の事である。 |
春の彼岸 山々はまだ雪の白いつばさを浮かべて 草木瓜くさぼけの赤、たんぽぽの黄が 煩悩ぼんのうの流れをあえぎ渡って、 --- 別荘の森のむこうの丘のなぞえに、一箇所小さい墓地があった。甲斐駒が岳や鳳凰三山を正面に見る良い場所だった。その墓地が春や秋の彼岸の日には近隣の部落から来た墓参の人達で静かに賑わう。古い墓石もあれば新らしい白木の墓標も立っている。新らしいのはそのほとんどが戦死者のものである。「陸軍上等兵なにがしの墓」だとか、「海軍一等水兵だれそれの墓」だとか書いてある。昔の死者もつい近年の戦没者も共にここに葬られて、春まだ浅い枯草の中、ちらほらと咲き出した花の間に同じ永遠の眠りを眠っている。 |
早春の道 「のべやま」と書いた停車場で汽車をおりて、 開拓村の村はずれ、 私はこの画の中にしばしばとどまる、 --- 待ち兼ねていた春が漸くその気配を見せたので、或る朝早く富士見から汽車に乗って八が岳の東の裾野を、昔書いた「念場ねんばガ原と野辺山ノ原」への遠足に出かけた。近くは権現ごんげんや赤岳、遠くは奥秩父の金峯山きんぷさんや南アルプスの雪の峯々を眺めながら、野辺山の広大な白樺林を歩き廻ったり美うつくしノ森へ登ったりして、晩くなったら清里の何処かへ泊まってもいいという至極のんびりとした遠足だった。 |
復活祭 木々をすかして残雪に光る山々が見える。 枯草の上を越年おつねんの山黄蝶が 萌えそめた蓬よもぎに足を投げ出し、 人生に覚めてなお春の光に身を浮かべ、 --- 十字架上の死から蘇ったキリストの復活をことほぐ復活祭は、毎年春分後の満月直後の日曜日という事になっている。私たちは元々キリスト教徒ではないが、心にはその教えの真理が深く刻みこまれているので、いつからともなく夫婦共々この春の一日を祝っている。そして富士見へ移ってからもその習慣は変らなかった。今朝も小さなオルガンを弾きながらこの日のための讃美歌を合唱し、その由来は知らないが例のとおり卵をゆでて美しく彩った。 |
杖突峠 つえつきとうげ 春は茫々、山上の空、 --- 杖突峠は中央線茅野ちの駅から南西四キロのところにあって、高さは一二四七メートル、諏訪盆地から遠く伊那の高遠たかとおへ通じている杖突街道の、言わばここはその入り口である。頂上の草原からの眺望は詩にも書いたとおり実に美しく晴れやかに雄大だから、春や秋の好季節には私も近道をしたりわざわざ遠廻りをしたりして度々ここを訪れた。今では茅野から高遠通いのバスも通っている。しかしこの詩はまだそんな物の無い時に出来た。 |
夏 雲 雷雨の雲が波をうって 残雪をちりばめ 這松をまとって 眼下をうがつ梓の谷に --- 友人に誘われて上高地へ行き、ついでの事に西穂高へ登った。途中で雷と驟雨に見舞われて面喰ったが、山荘で休んでいるうちに雨も上がり雷も遠ざかってすばらしい天気になった。そこでまた這松の間を登りはじめ、濡れて滑る幾つかの岩峯を攀じて遂に独標の頭へ立ったが、そこから見上げた雨後の奥穂高の目も覚めるような壮観はまったく私を圧倒した。人間のけちな思いも吹き飛んでしまい、肉体の卑しさも洗い浄められた気がした。 |
山 頂 一人一人手を握り合ってプロージットを言う。 --- フランスの現存の作家であり、手紙の上でも親しいジャン・ジオノに捧げたこの詩は、これもまた人に誘われて初めて北穂高へ登った時の作品である。営々として攀じ登って来た山のてっぺんで、まず「おめでとう」を言いながら握り合う男同士の手がどんなに頼もしいものであるかを書き、三時間余の大キレットの急登にさすがいくらかやつれの見える互いの顔が、どこか秋めいたものを感じさせるその美しさに焦点をしぼって書いた。 |
秋の漁歌 信州は南佐久、或る山かげの中学の --- 富士見高原も片隅の森の中に住んでいるのに、よく頼まれて長野県内だけでも方々の学校へ講演に行った。遠くは野尻湖に近い俳人一茶の故郷柏原、佐久間象山の生地松代、木曾の谷間や伊那の山奥。空手からての時もあれば書物やレコード持参の時もあり、文学や音楽の話もすれば自然観察の話もした。そしてこの南佐久郡穂積の村の中学校もその一つで、ここでは場所が場所ゆえ初めての八ガ岳登山の折の話をした。そして初秋の一夜を学校の宿直室に泊められて次の日の朝がこれだった。しかし事の始終はここに書いたとおりだから改まって註釈の必要もあるまいと思う。 |
農場の夫人 お天気つづきの毎朝の霜に --- 別荘の持ち主渡辺昭さんは、森のそとの地所を畑や養鶏所や山羊や緬羊の放牧場にしていた。そしてその世話をするのは主として奥さんと雇い人の若い男の二人だけだった。火山高原の石ころだらけの荒蕪地を開墾した一五〇アールの渡辺農場。それをつい数年まえまで貴族院議員の令夫人だった奥さんが、今は二人の令息の面倒を見る一方、全く未経験のこんな仕事に専念しているのだから、私達としてはただただ感心するのほかは無かった。 |
冬のこころ ここはしんとして立つ黄と灰色の木々がある。 --- この詩を書いた時私はもう五十歳も半ばを越えていた。自然も冬だが私の人生もようやく冬で、心の眼に映る世界は曾ての絢爛から徐ろに枯淡なものへと移っていた。そしてその枯淡の中から今までは気にも留めなかった美を見出して、それを静かに慈むことが自分の生の意義であるように思われて来た。刻々と変化して止まないこの世の姿は結局各瞬間の映像にすぎず、さまざまな事変や出来事もまた一つ一つの寓話にすぎないような気がして来た。しかしそういう世界でも退いて静かにこれを眺めれば、人間箇々の短かい生の縮図であって、穏かにそれを受け容れ、理解し、時に憐み時に惜みながら、決して捨てたり見限ったりしない事、それが老年の豊かな知恵の愛だと私は信じた。しかもその愛からまたどんな貴重な発見があるかも知れないのである。自然と人生との冬に託して告白した自分の心境。それがすなわちこれだった。 |
地衣と星 お前は辞書を片手にハドスンを読んでいる。 「アルビレオって何ですの」と いま雪の上に雪の降りつむ富士見野を、 --- 私にかぶれて山野の鳥を好きになった妻は、鳥を主としたイギリスの自然文学の大家ウィリアム・ヘンリー・ハドスンの『鳥類の中での珍らしい出来事』という本を、英和辞書を頼りにこのごろしきりに読んでいる。森の中にも雪の積もっている寒さきびしい真冬の夜、白樺の薪を煖炉に燃やして彼女はハドスンでの英語の勉強、私は私でそのそばで、東京の友人が最近創刊した『アルビレオ』という詩の雑誌を読んでいる。英語ならば私のほうが先生だから難解なところは教えてやりながら。 |
雪山の朝 服装をととのえて 小屋を出て、 空は世界の初めのように 瞬間の生涯回顧と孤高の心 --- 美うつくしガ原はらの山本小屋でヒントを得て、富士見へ帰る汽車の中で書き上げた詩である。今でこそ立派なホテルになっているが、美しの塔で私の詩と背中合せになっているあのリリーフの肖像は現在のホテルの主人の父親であり、その頃はまだぴんぴんしていた。そして泊まる処と言えば彼の小屋がたった一軒、言わば観光地美ガ原草分けの人でもあれば宿でもあった。 |
安曇野 あずみの 春の田舎のちいさい駅に 絵のような烏川黒沢川の扇状地、 --- 私のような者にでも校歌の歌詞を頼んで来る学校が時どきあるが、富士見にいる間にもよく頼まれた。そういう時私は書く前に必ず一度はその学校まで行って、そこの校庭のまんなかに立って周囲の風景だの校舎その物だのを見ないと気が済まない。だから北海道江別の女子高等学校の場合だけは別として、その他はどんな山間僻地へもすすんで出かけた。もちろん長野県下が一番多いが。 |
葡萄園にて 厚い緑の葉の上へずっしりと載った わが友葡萄作りは口いっぱいに 完璧を期しながら一作ごとに持つ不満、 --- 山梨県の勝沼は全国でも有名な葡萄の産地である。友人曾根崎君もそこの葡萄園の持ち主の一人で、同時に詩人でもある。或る年の秋に私は招かれてその家を訪れ、広い園内の棚の下で葡萄の馳走にあずかった。デラウェアだったかゴールデン・クイーンだったか、いずれにしても大きな粒のみごとな房で、果実というよりも寧ろ甘美な液汁と柔軟な肉とをみっちりと重たく包んだ袋たった。そして曾根崎君はその袋を一つちぎって口に含んだが、甘いことは甘いが何か迫力のような物が欠けていると言った。漫然と物を食う際の人間としての私は「こんなにうまいのに」と思ったが、詩を作り文章を書く人間としての私は、その言葉をなるほどと受け取った。心を打ち込んで何かを創作する者の、その作品に対する不満足の気持と今度こそはという発奮の気持。私はそれを痛感しながら改めて一粒一粒を丁寧に味わった。 |
八月の花畠 バーベナ アスター ジニア ペテュニア ああ その柔らかい植物の炎の上に きょうこそ秋も立つという日の --- 渡辺さんのところでは畑地のかなり広い部分を或る種苗会社に貸した。それで其処が立派な採種圃場になって、夏は十幾種という観賞用の植物が、色もとりどり、形もさまざまな外来の花でいっぱいになった。高原の夏の野草には元より彼らとしての趣きがある。しかし此処ではそういう捨てがたい野趣を物ともせずに咲き傲って、華々しい豪奢な一角を現出していた。すると其処へ方々から無数の蝶や蜂が集まって来て、それまでは一羽一羽が静かに目を喜ばせていたのに、今では見るかぎり彼らの狂気じみた乱舞だった。 |
晩 秋 つめたい池にうつる十一月の雲と青ぞら。 枯葉色のつぐみの群がしきりに渡る。 --- 分水荘の森のそとには、山からの水を引いて集めた小さい池がある。その池の縁に一本大きなクルミの木が立っているが、その木蔭でクローヴァを敷物に見馴れた景色を眺めたり、本を読んだり、訪ねて来た友人と話をしたりするのが楽しみの一つである。しかし今は風も冷めたい秋の末、そのクルミの葉もとうに散って、池には風に送られて来た木々のもみじが模様のように浮かんでいる。其処で即興的に書いたのがこれである。 |
炎 天 高原の土地の村から村へ 記憶のなかで大きい画帳のペイジを繰り、 --- 夏の暑い日盛りに、自然の中を歩き廻るのを私は若い頃から好きだった。そしてそれがまた私のヴァン・ゴッホ好きにも通じている。ゴッホは私には炎天下の悲歌の画家、「ひまわりの花」や「鴉と麦畑」によって象徴される画家である。 |
盛夏の午後 歌を競うというよりも むしろ その中間の低い土地は花ばたけ、 すべての山はまだ夏山で、 二羽の小鳥はほとんど空間を完成した。 --- どこにでもいて、庶民的で、いつでも機嫌にむらが無くて、歌もよく歌うこのホオジロという私の好きな鳥が、富士見高原にもたくさんいた。それでいつかは彼らの讃め歌を書いてやりたいと思っていた矢先、折よくもこういう光景に出会ったのである。大輪ジニアの咲いている一角は前にも出て来た採種圃場で、それを中にして彼らのとまって歌っている木が一方はカラマツ、一方はリンゴというのが、その場の画に生彩を与えた。 |
路 傍 田の草とりの百姓たちが日盛りの田圃で --- これもまた暑い日の、しかも焼けつくような真昼間だった。私は入笠山の下の松目部落のほうへ散歩していた。松目には親しい顔も特に多いからである。みんな水田の草取りで忙しくしていたが、私を見ると声を掛けたり辞儀をしたりした。出来る事なら自分もはだしになりズボンを捲くり上げて、少しでも手伝いをしてやりたいくらいだった。路傍や田圃のなわて道にはチダケサシの薄赤い穂の花が盛りだった。ユキノシタ科に属するこの花は真夏のシンボルの一つで、私の好きな花の一つである。そこにまだ学校へ行っていない年頃の農家の男の子が三人いて、その中の一番年上らしいのがこんな事を言っていたのである。つまり「どじょうを一匹取ったら帰る事にしようよ」と言うのだった。そしてその声や言葉の幼さ愛らしさが私にこの詩を書かせたのである。しかし最後の三行も、決してただの付け足しや飾り文句ではない。 |
幼 女 一人でままごと遊びをしている女の児、 実みはとつぜん だがその真珠いろの円い粒の一つ一つが --- 母親に死なれて、父親と祖母の手で育てられている一人の幼い女の児を私たちは不憫がって、時どき菓子やくだものなどを持って見に行ってやった。「とうちゃんもおばあちゃん」も田や畑に行っているので、大抵いつも一人で寂しく遊んでいた。そして或る日私がたずねて行った時の彼女の遊びというのがこのままごとだった。赤いきれは母親のかたみだったでもあろうか。しかしその児も今はもう年ごろの娘になっていて、人形の首の鳳仙花の実がはじけるのに驚いた事などは、もうとうの昔に忘れてしまったであろう。 |
老 農 友達の若い農夫が水を見にゆくと言うので、 用水のへりを通ると、一人の年とった百姓が 数日たって私はその老農に招かれた。 --- 日本の教育県と言われている信州には篤学の人がたくさんいるので、たとえ老人を相手でも偉そうな顔をしたり、知ったかぶりの態度をとったりすると、こちらのほうが大恥じをかく。以前には学校の先生や校長などをしていたのが、今では年をとって家の百姓仕事などを手伝っている人がいくらでもいる。だから東京あたりから避暑がてらに行った人などは、まずよく相手を観察しなければいけない。 |
フモレスケ 庭のひとところを夏の虹色にしている --- 時がたつにつれて山荘へもいろいろな人が訪ねて来るようになった。農繁期にはさすがにお百姓は少ないが、学校の先生や生徒や、近くの高原療養所にいる数人の患者などは絶えずと言っていいくらい来た。その患者の中でも最も親しくしていた幾人かは病いも癒えて退院すると、東京へ帰って再び学問や家業をつづけたが、今ではみんな立派な教授になったり会社の社長になったりしている。そしてそういう連中が富士見時代を忘れずに、私を中心に穂屋野会という会を作って、年に一度は必ず集まって昔話に花を咲かせる。穂屋野というのは富士見一帯の古い地名で、芭蕉の句にも取り入れられている。 |
或る訳業を終えて 明るい夏は昼も夜も 今ことごとく産みおわって しかし思うに、お前自身の仕事の成果を --- 富士見での七年間の生活を終って東京玉川の新居へ移ってからも、夏が来ると自分一人か妻同伴であの高原の山荘へ行って仕事をした。その仕事は主としてまとまった物の翻訳で、この場合の訳業とはリルケの『時禱詩集』のそれを指している。この仕事には物が物だけに或る重量感もあればむずかしさも伴っていた。しかし住み馴れた家での仕事に不自由は無く、小鳥の歌や蟬の合唱も疲れた時や苦吟の後の慰めになった。そして約二箇月かかった難産の末、一応仕事が仕上がって身も心も軽くなるともう秋だった。私は長い密室生活から広々とした自然や世界へ放たれた気持になった。しかし一つの事を成し遂げてしまえばもうそれはそれで良く、続く冬にはまた別の仕事が別の魅力を予感させて待っている。一事を成就したからと言って、そんな事でいい気持になってはいられない。自分にはまだ先がある。歌いたい物、歌わせたい物も、形にこそはならないが往く手の空に浮かんでいるようだ。この詩はリルケとさっぱり手を切った晴れやかな気持の中ですらすらと書けた。 |
展 望 今私たちは夏のおわり 秋のはじめの 都会からの身が習慣を変え、 人や土地への敬虔なこまかい接触が --- 長らく住んで土地の自然や風土にも馴れ、生活にも馴れ、周囲の人間にもすっかり親しんで、いつか私たちも信州人のようになった。たまたま人から「尾崎さんのお生れは信州ですか」と訊かれても悪い気はしなかった。東京で生れ東京で人と成りながら、私の気質の中にはいくらか信州的なものがあるのかも知れない。そしてそのため土地や土着の人達への順応の仕方が早くて、この国に生きる事に他国者のような違和感を抱く期間が甚だ短かかったのかも知れない。それだから別に東京に憧れる気持もなく、馴れれば馴れるほど見えて来るこまかい美に喜ばされ養われて、従来の自分の仕事に多少の新味を加えることが出来たのかも知れない。さもなければあたかも故郷の天地を心安らかに見渡しているような、こんな「展望」を書く気にもならず、また書けもしなかったであろう。 |
かけす 山国の空のあんな高いところを --- 秋もようやく深くなると、日に幾たびか、空の高みをカケスの群が南のほうへ飛んで行く。南の何処へ行くのかは知らないが、とにかくこの高原を後にして、今まで一緒に暮らして来た私たちを後にして、われわれの知らない土地へ行ってしまう。私にはそれが寂しかった。ふだんよりも遙かに高いあんな空を飛んで行くのだから胸の痛む思いがする。 |
詩人と農夫 若い夫婦が白黒まだらの牛を使って よく馴された牝牛はいつもほとんど従順だが、 ああ 独りである事の自由を欲する心から --- 『詩人と農夫』はスッペの喜歌劇の序曲として知られているが、この詩はそんなしろものではない。ただ偶然に題が一致しただけの事である。 |
林 間 秋を赤らんだ木々の奥から 木々が目ざめ、空間が俄かに立ち上がる。 しかしやがて先達の鋭い合図の一声に --- 柄長も四十雀も日雀もすべてカラ類である。彼らは営巣や育雛の期間を除くと、一年じゅう大抵一つの群になって藪や林で餌をあさっている。私の住んでいる分水荘の森でも彼らは賑やかな常連で、一団となった彼らが後から後から飛び込んで来ると、ほかの小鳥たちは遠慮をしてか急に静まり返ってしまう。暴戻と言うにしては愛らしく、不遜と言うにしては余りに潑溂としている。そして美しくて賑やかな彼らがいつの間にかさっと姿を消してしまうと、急にあたりがしんとして、取り戻された静寂がそこにまた新らしい空間を築き直すのである。あたかもアレグロ・アッサイの第一楽章が鳴り止んで、徐ろにアダージョの第二楽章が始まるように。 |
木苺の原 小みちの薮に木苺きいちごがぎっしりと けさはすべての山々からの蒸発がさかんで、 暑い日光が頼もしく、清涼を運んで来る おのれの魂の務めへのうながしから おりおり運ばれて来る波のような --- 高原の七月は薮の木苺が真赤に熟す季節である。馴れた身にはさして珍らしくも思われないが、たまに東京から訪ねて来た人などは、初めは毒ではないかとびくびくしながら、しまいには安心して摘み取って食べること食べること。中にはみやげにするのだと言って紙の袋に入れたりしながら。肝腎の用の話はそこそこに。 |
日没時の蝶 沈む太陽の赤い光線の波におぼれて、 --- 夏のきらびやかな夕日の中で、ハンノキやヤマハンノキの葉の上を飛び廻っている美しい小型の蝶の事を思いながら、自分にもまた過去のさまざまな詩的記憶が、その蝶達のように後から後から飛び出す事のあるのを書いた。 |
音楽的な夜 日が暮れると高原は露がむすび、 夜空をかぎる山々の黒い影絵も --- 乙女や蝿や射手の星座が、西から南西へかけて釜無山脈の上に沈みながら大きく傾いている夜の事を書いたのだから、これは八月も半ばごろの作である。その頃は富士見の高原も秋めいて、歩けばびっしょり濡れるほど露が繁く、どこまで行ってもコオロギやスズムシやカンタンの声がついて廻る。その虫の音と山の端に横たわる星の光とが一体になって、私に音楽的な夜を感じさせたのである。 |
黒つぐみ すべての独り歌う者のように、 あたかも過飽和の溶液から --- 西洋にもこれにごく近い仲間がいて、よく詩や文章にもその声の美しい事が出て来るが、私も日本の鳴禽の中ではこの鳥の晴れやかな豊かな声が一番好きだ。東京の近くでも高尾山あたりまで行けば、晩春から初夏にかけて必ずと言っていいくらい聴くことが出来る。富士見の森にも勿論いた。そしてそれが一通り歌い終ってしまっても、金色をした静寂の核心のようなものがあとに残っているような気がする。それほど印象的な声であり、それほど精力的な歌なのである。この詩の出来たのは二十年も前の事だが、最近では今年の五月と六月に会津二本松の霞が城趾や裏磐梯の五色沼で聴き、上高地梓川のほとりで聴いた。しかし何もそんな処まで行かなくても山登りの好きな人ならばもっと近間ちかまで聴いている筈であり、ただその名や姿を知らないだけの話である。但しそういう無関心が私にはいかにも惜しい事に思われる。 |
郷 愁 いつか秋めいて来た丘にすわって 高原の草に落ちるその音が なぜならば天使らが進んでその心を与えるのは --- 諏訪出身の化学者三輪誠君から教えられ、東京から遊びに来た串田孫一君に受売りをして、さて自分でも漸く吹けるようになったブロックフレーテ。この笛を手に森を出て草の丘に行き、春や秋の高原の広々とした眺めを前に知っている曲をいろいろ吹く。しかしバッハとかヘンデルとかグルックとか書くには書いたが、どうせ彼らの物の中でもきわめて容易な小曲か、その断片かに過ぎなかった事は言うまでもない。しかしそれにしても笛の音ねである。柔らかに澄んだその音色にはいつでも何か郷愁のようなものが伴っている。 |
雪 急に冷えこんで来た一日の 冬ごとに最初の雪を迎える心は 今それは しだいに濃く はげしく、 --- 同じ雪でも野山をうっすりと白くする「初雪」ならば、珍らしくもあり、趣きもあり、音感もいいが、それが時間の経過と共に思いがけない大雪になり、たそがれから夜に移るやいよいよ暴風雪の相を呈してくると、もう田園歌や風流じみた思いなどは消し飛んでしまう。こんな筈ではなかったがと思っても始まらない。濛々と吹き寄せる雲のような、波のような、この豪雪の威力の前には手の出しようも無く、主題の華麗な展開どころか、ただおとなしく小さくなって布団へもぐり込むだけである。 |
人のいない牧歌 秋が野山を照らしている。 谷の下手しもてで遠い鷹の声がする。 この冬ひとりで焚火をした窪地は --- もう一と月もすれば寒さがやって来る事を知りながら、またそれだけに、こんなに日の光が暖かく、こんなに風も無く、こんなに爽かに晴れた高原の秋の一日が本当に嬉しい。何か貴重な賜物であるような気さえする。 |
巻積雲 けんせきうん 赤とんぼやせせり蝶の目につく日、 真珠の粒を撒いたような 今あの空につらつらとならぶ巻積雲が なぜならば家畜や虫や花野や空が --- 秋の青空の一方を美しく飾っている雲を眺めているうちに、ふと中学時代の物理の時間に或る実験をして見せてくれた先生の事を思い出して、懐かしさの余りにこの詩を書いた。 |
故地の花 山の田圃を見おろして行くあの細みちの 私たちにななたびの 押葉となって手紙の中に萎えてはいるが、 --- これは仕事のために一人で行った富士見の夏に、或る日近くの三ノ沢の土手で採ったイブキジャコウソウ、炎熱の東京で留守を守っている妻に与えるとて手紙の中に封じてやった佳い香りを放つ花、七年間の記憶をよみがえらせる花の事を書いた詩である。 |
蛇 君たち、私に遭遇するや 水無月みなつきの水浸みずく草はらを行く私は --- 原ノ茶屋の役場へ行った帰り道、中央線の線路を見おろす陸橋の袂で、無残に殺されて横たわっている蛇を見た。頭を砕かれ、青白い腹を見せ、砂はこりにまみれた大きなアオダイショウだった。 |
秋の林から 秋の林には、時おり、ふと、 そのように、林を通るしぐれもあった。 --- 秋の森や林から採って来たキノコを眼目に書いたのではなく、この詩のこころは初めの聯とそれに続く聯とによって語られている。小鳥の声にしろ時雨しぐれの音にしろ、それが忽然こつねんとして消えた後に全く新らしいものとして生れて来る感情や、余韻として残るものの美しさを書いたのである。事実私にはこういう心境から出来た詩が少なくない。 |
山荘の蝶 森の空間を流れるように落ちて来て、 古い山荘の風雨に白けた窓枠や露台の手摺りを 「カンバーウェルの麗人」や 霧のような薊あざみの花に 青々あおあおと山川やまかわ遠く私も来て あすは帰京のあわい哀れに、 --- 今年の夏も仕事を持って、また一人でこの山荘へやって来た。簡単な自炊や隣近所からの貰い物で食うには事を欠かなかった。それに駅前の町まで出れば外食もできた。仕事は翻訳と日記のような文章書き。その間には二、三篇の詩も出来た。そしてあすはいよいよ帰京という前の日の午後、今更のように懐かしんで眺めていた美しい蝶達がこれである。 |
山荘をとざす もういちど家の中を見てまわる。 窓も雨戸ものこらず締めた。 そとへ出て鍵をかける。 --- そしてこれが今年の夏の住みかとの別れである。捨てる物はすべて捨て、片づける物も綺麗さっぱり片づけて、無住と沈黙との家として後へ残してゆくのである。日課のようにしてきた仕事は終り、見たい物は見、聴きたい物は聴いたから、もう心に残るものは無い筈だが。それでも未練というか愛着というか、こうして行ってしまう事が何か寂しい。この上はきっぱりとした「断絶」が無くてはならない。汽車の出る時間がそれ、迎えに来る自動車がそれ、小雨の響きも小鳥の声も断ち切って、パタンと鳴る車のドアの音が最後のそれだ。 |
目 木 「もう目木めぎの実が赤く熟うれ……」と 北独逸ヴォルプスヴェーデは私にとって 灌木かんぼく目木は枝組みも強くこまかに、 パウラ・ベッカー、クララ・ヴェストホフ、 写生帖を膝に、鉛筆と画筆を手に、 --- 若い頃リルケの住んでいた北ドイツのヴォルプスヴェーデの村には目木が生えていたようだが、秋が深まると赤い実のなる同じ目木は、この高原でも至る処で目についた。高さ二メートルぐらいに成長するヘビノボラズ科の落葉低木で、枝や葉が密生し、その枝には痛い鋭い刺とげが生えている。名のいわれはこの木を煎じて眼病の薬にしたところから来ているらしいが、別名コトリトマラズはその刺のせいだろう。ドイツ語ではベルベリッツェ(Berberitze)となっている。 |
峠 下のほうで霧を吐いている暗い原始林に 澎湃とうちかえす緑の波をぬきんでて 頂上ちかい岩のはざまの銀のしたたり、 --- これは佐久側の本沢温泉から登った時の事を書いた物で、峠は夏沢峠である。この時の連れは義妹の夫で学校教師、彼の登山の目的は高山蝶の採集だった。その頃私はもうほとんど生き物をとる事を止めていたから、捕虫網も持たず胴籃も吊るさず、もっぱら彼らの生態を観察したり、山その物の景観を味わったりしていた。 |
渓谷(Ⅰ) 高原と山々とのこの国に 山峡やまかいの谷は両岸の新緑いよいよ重く、 私の心もまた鬱々と重かった。 その単調、その憂鬱を打破するように、 --- 私にも憂鬱な日、気の重い日、少しも心の慰まない日がある。別にこれという理由も無いのに生活に張りの感じられない日がある。高原の梅雨時つゆどきのそんな或る日、私は何らかのきっかけを摑もうと釜無の谷へ下りて行った。だが目に映る風物にはいささかの新味も感じられず、すべてが単調で、平凡で、眠たげで、いつもならば其処から何か汲み取れるのに、その日に限って何もかも当り前な気がして少しの興味も湧かなかった。 |
渓谷(Ⅱ) 朝まだき、荒い瀬音が谷を満たして 真昼を燃える岸の山吹、山つつじ、 さて、今は月影くらい初夏の宵、 --- 釜無谷の岩魚の事をいつかは書いてやろうと思っていたが、この日は気も晴ればれとし、頭も割によく働いて、いろいろな時に見た彼らの記憶がいきいきと蘇った。見たのは多くは昼間だが、朝早い時もあったし夕方晩い時もあった。そして朝見たそれは寒く冷めたく、細身の刃のようであり、昼間のは颯爽潑刺と跳ね躍って勇ましく、日も暮れかかった夕べの彼らは静かな淵の水底に、夢見るようにゆらゆらと揺れている。シューベルトの「鱒」の歌詞も思わなくはないが、何と言ってもあれは寓意、これはぴちぴちとした自然だから、軍配はどうもこちらに上がるようだ。 |
渓谷(Ⅲ) 国文学の森山先生は釣の達人、 --- 森山先生はたしか落合村の机部落に住んでいた。教えていた学校が諏訪か岡谷だったから毎日の往復だけでも大変なわけだが、そんな事は少しも気にしないくらい健康で磊落な人だった。その森山先生が招待した私を持たせて釜無の谷の何処かへちょっと出掛けて、忽ち釣って来たその岩魚の焼物の見事だった事、うまかった事は書いた通りである。しかも酒は諏訪の銘酒の「真澄」だから申しぶんない。ところでそんな釣も料理も酒の燗も、学校から帰って来たばかりですべて、自分一人でやってのけたのだから驚くのほかはない。しかもどうだ。ここでもまた書棚を満たす国文学関係の本の中に釣の古典、Isaac WaltonのComplete Anglerの原書がでんと控えているに至っては、私としても目を見張らざるを得なかった。これだから前にも出て来た「老農」同様、信州人の知的生活には油断がならないと言うのである。 |
充実した秋 深まる秋の高原に霜のおとずれはまだ無いが、 沢沿いの栗山にいが栗がぎっしり、 乾いた音のする両手を揉みながら、 --- 高原の多彩な秋はまた充実の秋でもある。都会に近い田舎などとは全く違って、一切が落ちついて、豊かで、堅実で、生きるという事の意味や生の自覚が、至る処に実り、至る処に光彩を放っている。こんな時に野や村を歩くのは本当に楽しい。自然も人間も一体となって、自信に満ちた顔をしている。だから「もっと遠い盆地」、隣国甲斐の葡萄の豊作にまで思いを馳せる余裕が生まれるのだ。物を規正して物の天命を全うさせる八十歳の老農の、そのかくしゃくとした笑顔こそこんな秋を代表するものではあるまいか。 |
十一月 濃い褐色に枯れた牧場まきばの草が --- 晩秋初冬の高原に、朝の太陽の昇って来る時の美しさ晴れやかさを書いた。その太陽は十一月だと八ガ岳の南の裾のあたりから昇る。振り返って見る西の山里は入笠山の下に点在する富士見の部落だ。そこではどんな農家でもみんな菊を作っている。それぞれ自慢の菊が朝日をうけて、綺麗に掃き清められた各戸の仕事場や庭の片隅を一層美しく見せていることだろう。そしてそんな結構な菊日和には、私の行くのを心待ちしている老人や若者の一人や二人はきっといるに違いない。 |
受難の金曜日カールフライターク まだ褐色に枯れている高原に --- これは昭和三十四年の三月末に書いた詩である。用事があって東京から松本へ行き、帰途久しぶりに富士見へ寄って一泊した。土地の親しい幾人かが旅館に集まって馳走をしてくれ、昔話に花を咲かせ、私も快く酔って寝たその翌朝が二十七日金曜日、すなわちその二日後が復活祭というキリスト受難の金曜日だった。受難週間に酒を飲んだり馳走を食ったりするのは言わば破戒の行為だったが、それと知りながらも旧知の招宴を辞退するわけにもいかなかった。なぜならば彼らはキリストには無縁の人達だったから。そして私にとっては有縁も有縁、この土地での生活にはいろいろ厄介をかけた人達だったから。 |
あとがき 私には長野県富士見在住時代のものを集めた『花咲ける孤独』という詩集がある。昭和三十年の二月に東京神田の三笠書房から出版されたが、今ではもう絶版になって元の姿では容易に手に入らない。その後昭和三十四年十月に『尾崎喜八詩文集』第三巻として東京麹町の創文社から同じ題名で出て今日に及んでいる。しかし此のほうには最初の『花咲ける孤独』以後の作品も加えたので内容も増加している。そして今度のこの本には同じ高原で得た詩からだけ総数七十篇を選んで『自註 富士見高原詩集』という題を与えて、ここに新らしく出版する事にした。好んで私の詩を読んでおられる諸君には旧知の作品も多いだろうが、今改めてこの詩集を出す気になったについては別に一つの理由があった。それは「自註」である。作者自身が自分の詩に註釈を施し、或いはそれの出来たいわれを述べ、又はそれに付随する心境めいたものを告白して、読者の鑑賞や理解への一助とするという試みである。 この本の出版、装幀その他については、又もや串田孫一さんのひとかたならぬお力添えを頂いた。ここに改めてお礼を申し上げる。 一九六九年十一月七日立冬の日 |