ヘッセ詩集 尾崎喜八 訳
昭和41(1966).12.31、三笠書房
解 説
この訳詩集には、ページ数の制約上一一五編しか載せることができなかったが、ヘッセは十八歳の一八九五年から七十歳の一九四七年ごろまでに、今私の手もとにある『全詩集』に出ているものだけでも、実に約六〇〇編の詩を書いている。更に彼が後年自発的に取り捨ててしまったものや、一九六二年八十五歳で亡くなるまでの十五年間に、なおぼつぼつ書いていたであろうと想像されるものをこれに加える時、私のような者はその多産に驚かされもすれば、またそれを羨まずにはいられない程である。なぜかと言えば彼はその間詩ばかり書いていたのではなく、『ヘルマン・ラウシャー』に始まって『ペーター・カーメンチント』、『車輪の下』、『ゲルトルート』、『ロスハルデ』、『クヌルプ』、『デミアン』、『クリングソルの最後の夏』、『荒野の狼』、『ナルチスとゴールトムント』、『ガラス玉演技』に至るような大作群から、多くの中編や短編の小説、物語、更に幾冊かの多彩な紀行集や充実した随想集を書いたのであった。
詩集
一八七七年南ドイツ・シュワーベンのカルヴに生まれ、一九六二年スイス・テッシン州のモンタニョーラで八十五年の生涯を閉じたヘルマン・ヘッセは、彼自身の残した記録によれば、十八歳から六十九歳までに十三冊の詩集を出している。すなわち『ロマンティックな歌』(一 八九八年)、『詩集』(一九〇二年)、『途上』(一九一一年)、『途上、第二集』(一九一五年)、『孤独者の音楽』(一九一五年)、『選詩集』(一九二一年)、『危機』(一九二八年)、『夜の慰め』(一九二九年)、『四季』(一九三一年、自家版)、『生命の木から』(一九三三年)、『新詩集』(一九三七年)、『+編の詩』(一九四〇年、自家版)、『晩年の詩』(一九四六年、自家版)、そしてそのうち、現在でもなお書店から手に入るものとして、彼自身次の五冊を挙げている。
詩集 Gedichte(ベルリン、グローテ書店)
孤独者の音楽 Musik des Einsamen(ハイルブロン、ザルツァー書店)
夜の慰め Trost der Nacht(ベルリン、フィッシャー書店)
生命の木から Vom Baum des Lebens(インゼル文庫)
新詩集 Neue Gedichte(ベルリン、フィッシャー書店)
私も早くからこの五冊を持っているが、こんにち果たしてなおこれらの本が容易に入手できるかどうかは、少なくとも『生命の木から』を除けばいささか疑わしい。しかしそのかわり一九四七年に、ベルリンのズールカンプ杜から『ヘルマン・ヘッセの詩』 Die Gedichte von Hermann Hesse という大部の本が出ている。これは本当の全詩集とも言うことのできる本で、私も前記の五冊を参照しながらこの書物を自分の翻訳の台本に使った。したがって詩の配列も台本どおり西暦何年から何年までというふうに幾つかの年代分けになっているが、順序は大体個々の詩集と同じようなものと考えて頂いていいと思う。
私と詩の翻訳
詩はそれぞれの民族の言葉の花であり、綾あやであり、芸術であるから、これをそっくり正しく味わうためには、それの書かれた原文によるのほかはない。しかもその上、選びぬいて使われている一つ一つの言葉の光りや陰影や、広がりや含蓄の美さえも深く汲み上げることのできるほど、その国語に精通していることが望まれる。この事は外国の詩ばかりでなく、もちろん我が国の詩の場合でも同じである。かく言う私も日本の言葉、日本の文字で詩を書いていて、母国語の詩作品を対象にしてならば自分にも他人にも何かを言えるが、事ひとたび外国語で書かれた詩となると、たとえばイギリスとかフランスとかドイツとかの詩となると、いくら理解し感心したとしても、その言葉や行文の美や味わいの核心をつかみ得たなどとは言えもしなければ思いもしない。それならばなぜそんな白信もないむずかしい事を、訳詩などと称してあえて試みるのかと言われれば、本当は返す言葉もないわけだが、ただ一つの言いわけとしては、未熟ながら現在の自分の語学力で理解することができ、愛することのできた作品を、或る外国語には疎遠だが詩は好きだという愛好者たちのために、詩人としての力と良心とをそそぎこんで翻訳してみたいという欲求からにほかならない、そしてその場合、与えられた詩の原文に忠実であって、日本語の詩としても充分に読むに堪え、説明的な辞句をつけ加えないで意味が通じ、ほしいままな我を捨てて原作の雰囲気をほぼさながらに再現しようというのが、私の常の心がまえであり念願である。しかしそれにもかかわらず思わぬ誤訳があったら何としよう? ただ頭を垂れて許しを乞うのみである。ここでは原作者のヘッセに。また日本の善意の読者に。
その詩の鑑賞
ヘッセは詩についての小論の中で言っている、「詩の成立はまったく簡単明瞭なものである。それは爆発であり、叫びであり、溜め息であり、魂が或る激動に抗せんとする、もしくはみずからを自覚せんとする身のこなしである。この最初の、本源の、もっとも重要な機能の点では、およそいかなる詩にも批評をくだす余地はない。その詩はもっぱら詩人その人にむかって語る。それは詩人の叫びであり、夢であり、もがきであり、ほほえみである」と。まったく詩というものに対する彼の理念がここにあり、その作詩の動機もまた正にここにある。そして敢えて言えば、ヘッセの生涯の道程や生き方すらが、実はこの「叫び」に、この「夢」に、この「もがき」に、そしてこの「爆発」や「ほほえみ」に従ったもののように思われる。そこには善いも悪いも、上手じょうずも下手へたもなく、従って他からの批評の余地もない。あるのはただ彼が、その内心の止むに止まれぬ要求にどれだけ忠実であり得たかという問題だけである。そしてこのようにヘッセの考えに同感している私としては、今はすなおに彼を受け入れて、それぞれの詩の持っている美しさを味わえば足りるのである。
一八九九年〜一九〇二年の詩から
ヘッセはその『さすらいの記』Wanderungの中で彼自身のことを、自分は何かを持ってそれを護る有徳な定住者ではなく、すなわち善良な市民でも農夫でもなく、不信の、変化の、空想の信奉者、停滞することのない愛をもってこの世の風光や豊かな草原を探し求めて、自由に居を転じる漂泊者であり遊牧者であると言っている。この事は、だからと言って、ヘッセがその一生を通じて必ずしも定住者的な生活を営み楽しまなかったという意味ではないが、しかしこの懐かしい音色ねいろが彼のほとんどすべての作品の中を流れているのは事実である。たとえば二十歳そこそこで書かれた「二つの谷から」を見ても、一方の谷からは悲しい死の鐘、別の谷からは喜ばしい歌のしらべが聴こえて来るが、それが一つになって響くことこそ自分のような漂泊者にはふさわしいと言っている。同じ頃の「年老いた放浪者」にしてもそうで、定住の家や財産がなくても、広い世界への自山なさすらいのできる人間への羨望やあこがれが美しく歌われている。
「ほのかな雲」、「野をこえて」、「白い雲」の雲は、ヘッセにあって特にいちぢるしい主題である。そして、それはまた漂泊者の姿にも、幸さち薄い愛人の姿にも通じる。白く、涼しく、ほのかで、軽やかで、“忘れられた美しい歌のひそやかなしらべのように、青い大空をただよって行く”。更にいくつかのエリーザベット主題の中からここに取り上げた「エリーザベット」も、恋人ではありながらやはり雲の姿をとり、或いは雲と溶け合っている。私はこれらの涼しくほのぼのとした詩を読みながら、ヘッセの詩からついに抜くことのできないアイヒェンドルフ風の哀愁を思わずにはいられない。
これに反して、イタリアヘの旅の折に書かれたと思われる「ジョルジョーネ」は誇らしく逞たくましい詩である。花やかな力に満ちたロマンティックな青年詩人ヘッセは、こういう形や内容を持つ詩も書いたのである。私は日本の詩人たちが、彼らの若い日にこれだけ充実した、これだけ美しく力強い詩を書いたのを読んだことがない。
「我が母に」は、ヘッセが母に捧げたりその母を歌ったりした幾つかの作品の、おそらく最 初のものと思われる。しかもこれは一編の悔恨の歌で、一九〇二年に『詩集』Gedichte が出版された直前、彼はその愛する母を失ったのである。
一九〇三年〜一九一〇年の詩から
母に関する詩はここにも二編ある。一つは「高山の夕暮れ」で、もう一つは「母の夢」。いずれも今は亡い母親を思っての、言わば帰れる子の悔悟と思慕の歌である。ところでヘッセは不思議にも父親のことは、少なくとも詩にはほとんど書いていない。彼の父親は海外布教師の指導をする伝道館の仕事をしていたそうである。しかし考えてみれば、母のことは懐かしんで書いても父のことは書かない詩人がこの世には多い。この事実は、やはり詩的感情というものは父性愛よりも母性愛から養われることが多いという証明になりそうである。それはともかくとして、「高山の夕暮れ」の高山がアルプスを指していることは詩でもわかるが、ヘッセは自然はもとより山が好きで、スイスのベルン・オーバラントの高峯群も経験し、エンガディーンを中心とする山々谷々も好んで歩いたが、特にスキーは好きでもあれば上手でもあったらしく、この訳詩集では割愛かつあいしたが『詩集』Gedichteには「高山の冬」という四編から成る連作も入っている。
「霧の中」はドイツ語国では広く知られ、愛されている詩で、ヘッセはスイスの湖水を見おろす風光すぐれた丘の上で、或る日この詩を歌に歌っている学生たちに出逢ったことを書いている。
「風景」も「村の墓地」も共にいい。これらはいずれも後年の作に劣らない程の落ちついた清明な美に貫かれている。「風景」で、“この静かなひとときを心うばわれて眺めていれば、そのかみの衝動はねむり、古い戦慄もまたねむる”という一連の句や、「村の墓地」で、“かつて力として、情熱として、又止み難い衝動として君たちのうちに生きていたものが、今ではいましめを解かれ、自由になり、たわむれか飾りとして花の香のなかをただよい去るのだ”という最後の数行が、物に即して華麗でさえある言葉のうちに、何と澄んだ清らかな諦念を延ベひろげていることだろう。
彼自身七月生まれであるヘッセが、「七月の子供たち」を書いたのはいかにも自然である。これも有名な詩で、その愛らしさ快活さのために広く好まれているらしい。これに反して「詩人」は暗い重厚な作である。詩人は孤独だ。彼はこの世に属さず、この世の何ものもまた彼に属さない。彼に許され与えられているものはこの世の風光と未来の明るい空だけだ。しかもその末来の人類の祝祭にも、孤独な静観者である彼詩人は呼ばれもせず思い出されもせず、よしんばその墓に供えられた若干の花環があったとしても、それも忽たちまち萎なえしぼんで、彼への記憶と共に消え去ってしまうという詩である。そしてこれは確かに真の詩人たる者の運命であって、われわれはこの運命を動かしがたい真実として受け入れなければならない。
一九一一年〜一九一八年の詩から
この八年間には、ヘッセの生活にもいくつかの出来事やさまざまな動きがあった。一九一一年には紅海を経てシンガポール、南スマトラ、セイロンと、東南アジアの旅をした。一九一二年にはボーデン湖畔の家を捨てて、スイスの首都ベルンに近い友人の画家の別荘を借りてそこに住んだ。一九一四年には第一次世界大戦が勃発し、ヘッセはベルンでドイツの捕虜を慰問するために新聞や図書の編集、刊行、発送などの仕事を手伝った。しかし極端な愛国主義的な行動や主張に反対する文章をいくつか書いたことから、ドイツでは売国奴のように見なされ、多くの新聞や雑誌からは締め出された。ロマン・ロランの来訪をうけ、両者の間に書翰しょかんの往復のはじまったのもこの頃である。一九一六年には父親の死に遭い、妻君の精神病が悪化し、ヘッセ自身も病気にかかって精神医の治療をうけなければならなかった。彼がフロイトの精神分析に打ちこんだのはこれが媒介になっている。そしてこの八年間に小説『ロスハルデ』、『クヌルプ』、『青春は美わし』、中編小説集『まわり道』、小品集『路傍』、紀行『インドから』、詩集『途上』、『孤独者の音楽』等を刊行した。
冒頭の「旅の歌」は、そのアジア旅行の門出の詩とも言うことができるだろう。いかにものびのびと晴れやかに、未知への夢と希望とをはらんで歌われている。ところが「さすらいの途上」は彼自身の創造した薄倖の兄弟クヌルプの運命への哀借のしらべであり、「花咲ける枝」と「九月の哀歌」には春の花、秋の実りへの静観と、そこに漂う無常への諦めとが響いている。しかもこの響きは結局最後まで、ヘッセ文学の一つの基調として残るのである。「草に寝て」、「蝶」、「龍膽りんどうの花」、「たそがれの白薔薇ばら」、「幸福な時問」などもこの系列に属するもののように思われる。また「ヘルダーリンヘの頌歌しょうか」と「或るエジプト彫刻の蒐集しゅうしゅうの中で」はこの頃の大作を代表するもので、前者は神々こうごうしい竪琴ハープの歌の鳴りひびくギリシャ的な神性への深いあこがれに、後者は古代エジプトの彫刻の上に重く輝く莫実や愛の不滅の光りへの讃美につらぬかれている。
「バーガヴァード・ギータ」に始まって「戦争の四年目に」に至る十一編の詩は、言うまでもなく第一次世界大戦からのもので、どの一編もとりどりに甚だ美しい。これらの詩は事件が事件、動機が動機だけに、特に読む者の胸を切実に打って来る。「バーガヴァード・ギータ」の結句となっている太古印度の神々の箴言しんげんと、「平和」と題されたこのみずみずしいあこがれの歌、この早春の予感の歌が、なんと二つながらに協和し、響き合っていることだろう。さらに「戦場での死」と言い、「戦場で斃たおれた或る友に」と言い、そこにはいずれも一つの救いのしらべが流れている。私は自分のたどたどしいドイツ語で、初めてこれらの詩を読んだ時の深い感銘を今でもよく党えている。四十何年前の東京郊外の野中の一軒家だった。新婚の妻は隣室で裁縫、私は畑にむかった板の間の言斎で辞書を片手に、文法書をわきに、一字一句を吟味しながら読んでいった。そしてこれがヘッセの詩を愛するようになった私の最初の経験だった。そして「艱難かんなんな時代の友らに」や、ロマン・ロランに贈った「運命の日々」などを加えて、あの大戦中にこれほど共通の苦悩と精神の悪闘への慰めや勇気づけの歌を書いた詩人を私は知らない。そう思うと、その間に書かれた「山に在る日」や「ロカルノの春」のような作が、殊更になつかしい響きを帯びて来る。
「老境に生きて」、「内部への道」、「アルチェーニョのほとりにて」などは、私のように年をとった者への励ましでもあれば警告でもある。とりわけこの「アルチェーニョ」を読むと、山を歩くことの好きな私は身につまされて、厳粛な気持にならずにはいられない。
一九一九年〜一九二八年の詩から
この十年はヘッセの四十二歳から五十一歳までの間だが、その四十二歳の春に彼はベルンの家を去って、南スイスのルガーノに近いモンタニョーラという風光明媚な丘の上の村に移り住んだ。しかしその頃の生活は極度に不如意だったと言われている。この時代の作品には小説『デミアン』があり、『シッタールタ』があり、『荒野の狼』があり、その他に『童話』、『さすらいの記』、『画家の詩』、『湯治客』、『風物帖』、『ニュルンベルクの旅』、『考察録』などのようなそれぞれに充実した小品集や、随想渠や、手記の類があって多彩をきわめている。この間彼は最初の妻君と離婚し、スイスの国籍を得、しばしば講演や旅行や湯治に出かけた。無数の随筆や小品や紀行文のような散文作品に好ましいものが多いのは、こうした環境と生活とから来たものと思われるが、一方ヘッセはこの頃から水彩画も描き始めていて(特にその美しい自然の写生画がロマン・ロランの愛するところとなっていたが)、それがこの種の作品の主題の扱い方や色調にも大いに影響を与えたものと見ることができる。その意味で私は彼の自作の画と詩の本『画家の詩』から、特に「色彩の魔術」以下「冬の日」までの五篇を採った。
「無常」、「秋」、「晩秋行」、「十一月」、「初雪」、「或る別れに臨のぞんで」、「わが姉に」、「愛する者に」、「老人のクリスマス」などには、ヘッセの早くからの無常観と、従容しょうようとして、むしろ喜んで母なる死の腕に身を任せようとする諦念とが歌われている。わけても冒頭の「無常」はその意味で代表的な名品である。一方「秋の森に痛飲するクリングゾル」や「荒野の狼」のような詩を読むと、当然、小説『クリングゾルの最後の夏』や同じ題の小説『荒野の狼』が思い出されて、これらの詩がそれらの小説の緊密な要約か序曲のように思われる。そしてそのいずれもが悲しく、強く、男性的で、諷刺的で、ヘッセの人間性の他の一面を、鋭利な鑿のみでのように見事に刻み出している。「詩人の最後」なども多分これに加えていいだろう。しかし最後の「静穏な日」は今の私などにはまことにぴったりと同感のできる詩で、いかにもヘッセに先んじられてしまったという感が深いのである。
一九二九年〜一九四五年の詩から
この時期はヘッセの五+二歳から六十八歳までに当たる。彼の生活は安定し、南スイス・テッシン州の山と湖の美しい自然の中での静かな執筆や、散策や、水彩画での写生や、庭園の草木の世話などに暮らす毎日が続いたらしい。そしてその創作には長編『ナルチスとゴールトムント』、『ガラス玉演技』、『東方巡礼』などがあり、詩集としては『夜の慰め』、『生命の木から』、『新詩集』等が出ている。その他、以前に書いた中編や短編をまとめた小説集とか、随筆集のような物が改めて彼の著作集として続々と出版されている。まさに豊かなとりいれの秋だと言わなければならない。
「夏の夜の提灯ちょうちん」はいかにも好ましい淡彩風な筆致で、はかなく美しい亡びへの諦観をさりげない微妙なしらべて奏でている。「碧あおい蝶」、「夏の夕べ」、「回想」などもこれに属する。しかしこれに反して「晩夏の蝶」の何という充実した絢爛豪華なことだろう。「イエスと貧しき人々」の一編は、私としてはヘッセの詩の中で初めて見出すことのできた彼のキリスト観で、その断言の決然とした調子には目を見張り、胸を打たれずにはいられない。そしてこの決然としたものは「老境に入る」をも貫いていて、これもまた前に挙げた「静穏な日」のように、今の私として書きたく思う感慨である、しかしまた「基督キリスト受苦の金曜日」は得も言えず深い美しい一編で、柔らかに暗み明るむ早春の自然が、バッハの『マタイ受難曲』の遠い余韻をただよわせながら、ゲッセマネやゴルゴタの思い出へとわれわれを導くようである。
そして今年はその受苦の金曜日が三月二十四日に当たる、その日が来たら私はこの感銘深い詩をもう一度読もう。亡きヘッセヘの追慕のためにも……
一九六七年三月七日
北鎌倉の新居にて
尾 崎 喜 八
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