尾崎喜八 序・後記・解説など


   ※「尾崎喜八詩文集1巻〜第10巻」の後書は別にまとめています。
   ※ルビは「語の小さな文字」で、傍点は「アンダーライン」で表現しています(満嶋)。

                               
  自 序 詩人の風土

昭和17(1942).6.20、三笠書房(現代叢書28)

  巻末に 詩集「この糧」

昭和17(1942).10.10、二見書房

  自 序 二十年の歌

昭和18(1943).2.20、三笠書房

  序   詩集「同胞と共にあり」

昭和19(1944).3.15、二見書房

  譯者後記 ヴィルドラック選詩集

昭和21(1946).9.30、寺本書房(改訂増補版)

  小 序 山の詩帖 昭和31(1956).11.1、朋文堂(コマクサ叢書3)
  あとがき ヴァッガール「牧場の本」

昭和35(1960).5.30、創文社(アルプ選書)

  訳者あとがき デュアメル「慰めの音楽」

昭和38(1963).12.10、白水社

  後 記 さまざまの泉

昭和39(1964).8.5、白水社

  訳者の後記 新訳ジャム詩集 昭和40(1965).7.15、彌生書房
  解 説 ヘッセ詩集 尾崎喜八訳

昭和41(1966).12.31、三笠書房

後 記

わたしの衆讃歌

昭和42(1967).2.15、創文社

 

解 説

ジャベル「一登山家の思い出」

昭和42(1967).2.28、あかね書房 (世界山岳名著全集5)

  後 記 夕べの旋律 昭和44(1969).6.20、創文社
 

あとがき

自註富士見高原詩集

昭和44(1969).11.30、青峨書房

  あとがき 音楽への愛と感謝

昭和48(1973).8.30、新潮社

 

「詩人の風土」
 昭和17(1942).6.20、三笠書房(現代叢書28)

 

自 序

 大正十三年から昭和二年頃までの習作と、昭和十三年から十六年までの新作とを集め、其間へ𣪘刊の「山の繪本」から三篇、「雲と草原」から六篇、いづれも比較的短いものを抜萃挿入して此本を編んだ。かうしないと舊作と新作との間に十年ばかりの空白が出来て聯絡が面白くないので、前記の二冊を持つて居られる諸君には甚だ相濟まぬ譯であるが、寛容を期待しつゝこんな風にした次第である。
 最近四年間の新作にしたところで別にどうといふ事はないが、習作はそれに輪を掛けたやうな恥づかしい代物で、實は此本に入れる事さへ憚られたのであつた。然しどうせ一度は世間の眼前に曝した以上、今更消すにも消されぬ古傷だと思つて一思ひに載せる事にした。それにしても「遥かな空の下より」や「樹下の小屋にて」のやうな物が東京朝日新聞などに連載されたのだから、いくら二昔前だとはいへ過分な待遇を受けたものだと思はずにはゐられない。尤も其頃同社の文藝部には中野秀人君が居られていろいろと親しくして頂いてゐたから、無論同君の推挽や斡旋が働いてゐたには違ひないのである。詩集「高層雲の下」、「曠野の火」、それに「行人の歌」の前半等に集まつてゐる詩がすべて其頃の作品で、謂はゞ私の最も多作の時代であつた。遠い幼い來し方の思ひ出。「昔の土地」とはそんな感慨から附けた題である。
 「我が流域」と「身邊の光耀」とは、武蔵野での半農生活を畳んで前記の「山の繪本」と「雲と草原」とを書いた以後、いろいろな新聞雜誌から請はれるままに筆を執つた随筆や自然觀察記などの一群である。此中には元の表題を變更した作品が二三あり、また訂正、削除、加筆等を施した部分も少しはあるが、先づ殆ど原形のまゝである。然し我が流域などとは云ふものの、搖ぎ無き物と信じてゐる自分の土地の何處かに一朝不慮の變動でも起れば、此の流域も決して變らないとは云へないのである。してみれぼ之もまた一人の人間が或時間内に殘した極めてかすかた踏痕に過ぎないかも知れない。又さう思てて讀んで頂くよりほかに此本を編んだ言譯も、本自體の取柄も無ささうに思はれるのである。
 題して「詩人の風土」といふ。然しこれも實は「詩人の風土」とする方が本當であるが、それでは字面が面白くないので斯うした迄である。一箇の詩人の詩が其處から生れる生活感情や生活の環境は他の詩人のそれとは明かに違う筈であゐ。それで風土といふ言葉をさういふ意味にとつて頂ければ本望である。
 十枚の寫眞のうち二枚は友人堀内讚位君の撮影にかゝるもの、他の八枚は著者の自作である。自作はいづれも拙いものばかりであるが、たとへ幾らかでも著者の風土の匂を感じて頂けるならば之また望外の仕合せである。

   昭和十七年四月
                          東京西郊井荻にて

                              著 者 識


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詩集「此の糧」
 昭和17(1942).10.10、二見書房

 


巻末に

 大東亞戰爭勃發の直前にあたる十月頃の作品から、最近までのもの三十餘篇を選んで此の詩集を編んだ。二見書房主堀内氏の熱切にして稍急なる希望を容れたのである。此の戰爭の續くかぎり、軍國の心の糧もまた引續いて掘出されるであらう。從つて今此の詩集を世に出すについても、自分としてはほぼ一年間の仕事の締めくくりをしたといふ以上に別段の意味は感じられない。
 初め私は本の名として「組長詩篇」といふのを考へた。隣組長や町内會の役員の任に當ること茲に五年、力は足りなくても心と時間とだけは惜みなく之に捧げて来た。殊に今度の大戰以來いよいよ重くなる其の任に居りながら、目に新たなる感激をもつて此の集のほとんど全ては書かれたのである。忘れがたい紀念。「組長詩篇」の名を捨てる事はいくらか惜しかつた。
 然しまた「此の糧」は、曾て文學者愛國大會の席上で感激をもつてみづから朗読した詩の題でもある。してみれば之また自分の紀念には値しやう。それで幾らかは人に知られたあの芋の詩の題をとつて、此の集に冠する事にしたのである。
 いづれにもせよ、此等の作品はすべて此の大戰の第一年を通じて私から生れた私の詩だ。此等は善きにつけ惡きにつけ悉く私の本質の刻印を擔つてゐる。ただ其の中の一つ二つでもいい、 それが讀む人の心に觸れて、そこに正しく明らかな共鳴を生むことが出來たならば私の願ひは充たされるのである。
 尚此の詩集の出版に就いていろいろ御世話をかけた二見書房の橋本廣介氏、並びに見事な装幀をして下さつた芹澤銈介の兩氏に心からの謝意を逑べたい。

   昭和十七年九月十六日
             島根縣下に「日本の母」の一人を訪ねた日、
                石見の國、濱田の旅館にて
                                  
尾 崎 喜 八

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「二十年の歌」
 昭和18(1943).2.20、三笠書房

 

自 序

 詩を書かはじめてから今年で二十三年目、最初の詩集が出てから滿二十年になる。けふ五十一歳の靜かに碧い初夏の空を仰ぎながら、此の二十年といふこしかたを心にゑがけば、それが遠いとほい世の事のやうにも思はれるし、又つい此のあひだのやうな気もするのである。
 ともかくもそれ以来五冊の詩集が出たのであるが、「空と樹木」、「高層雲の下」、「曠野の火」のやうな初期の詩集はすでに久しい以前から絶版になつてゐて、今ではいづれも容易には手にはいらない。尤もたまにとんでもない場末の古本屋で發掘して來た人から書名などを頼まれたりする事はあるが、それもごく稀な場合である。それで今度三笠書房から詩集出版の慫慂をうけたのを機會に、其の三冊と目下品切だといふ「旅と滞在」とに收めた百六十八篇の中から八十篇を選び出し、それに未だどの詩集にも入れてない新舊の作二十一篇を加へて此集を編むことにした。但し昨年出てこれも現在品切中の「行人の歌」からは一篇も採らなかった。「行人の歌」はそのままの内容で再版の機を得たいからである。それにしても此の自選詩集「二十年の歌」を見れば、私の詩の歩んで來た現在までの道程は先づ一應わかつて貰へるわけである。
 おそらく此本よりも早く、別に散文集「詩人の風土」が出版されるだらう。詩にせよ散文にせよ、私の書くものは常に一面自叙傳風な性格を具へてゐるから、兩々相俟つて、「我が生ける日と心の記」ともいふべき物になるかも知れない。
 此の詩集のために校正の筆をとりながら、ふと、les beaux joursといふ言葉が唇にのぼった。なんといふ惠まれた恩寵の日々の連鎖が、私のために編まれたことだらう! なるほど人生は刻々と移ってとゞまる時がない。「肉毆と靈魂とはテキスト ボックス: 流のやうに流れて行く。歳月は老いたる樹々の肉のうちに記される」。その私の年輪は蹉跌と悔、別離と出合、涙と歌とのひしめき合った五十の輪の拮集である。然しなんと私が愛されたらう、なんと幾たび救はれたらう! 友に惠まれ、その時々の件侶に惠まれ、常に誰かしらの獻身の手で正しい道へ引戻された私。この大きな一生の負債おいめを、私は自分の藝術、自分の行ひで返すのほかは無いのである。
 三十九歳の時の誕生日の朝、私はこれと同じ感謝の心から次のやうな一篇を甞かずにはゐられなかった――

  僕が生れた日からけふの日まで、
  やがては時のかなたに殘されてゆく身をもつて、
  それぞれに僕を愛してくれた無數の人々、
テキスト ボックス:
  僕がその愛に價しなかつたあの人々の悲しい名が、
  なんと神聖になつかしく、思ひ出されることだらう。

  愛とは、求めるところのいささかも無い
  おのれの犠牲だといふ事を
  身をもって僕に教へたのはあの人達だ。
  千の名の中に僕の名を夢にも呼び、
  千の顔の中にやすやすと僕の顔を見いだして、
  急いで駈けて來る心を持つてゐた今は亡い人々よ、
  こんにち以後僕は誓つて高貴なあなた達に價したい。

  時の再生の風がそよ吹く。
テキスト ボックス:
  固い莟にも宇宙の春の約東が祕められてゐる。
  生きる日の親しいどよめきが街の空にあがる。
  懷しい死者等の記憶が存在の匂となつて立ちまよふ。
  僕が善くなるために未だ全く遅くはあるまい。
  愛せられた者、僕の、けふは誕生日だ。

 詩集「二十年の歌」を私は三十年來の友高村光太郎君に捧げるが、それは私の感謝をうくべき遠い昔の幾多の人のおもかげを、此の老いたる友をとほして到るところに見るからである。

   昭和十七年六月十日
                           尾 崎 喜 八

 

 

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詩集「同胞と共にあり」 
 昭和19(1944).3.15、二見書房

 

 前著「此の糧」以後、大東亞戰爭第二年を通じて書いた作品の中から六十篇を選んで此の集を編んだ。歴史的な日が續き、其の一つびとつでさへ未曾有のものである體驗が我等日常のものとなる。此の謂はば創成紀にあつては、國民個人の生活は直ちに國家全體の生活となる。今日我等の生活は必勝を期する生活である。心は常に戰ひにある。行爲もまた戰ひに徹する。同胞と共にあり。此の片々たる詩集にして若しも同胞一億の胸に何等かの共感を呼ぶ事が出來たならば、私の喜びは此の上もない。

    昭和十八年十二月八日
                           尾 崎 喜 八


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「ヴィルドラック選詩集」
 昭和21(1946).9.30、寺本書房(改訂増補版)

 

譯者後記

 ○十八年前の昭和三年、詩友井上康文君の詩集社から「日本詩人叢書」の一輯として出た本に、今度新らしく訂正増補を施して、これも亦井上君と録のある寺本書房から出せる事になったのを、私は譯者として心から喜んでゐる。古い間違ひを直したり、新らしく翻譯の筆をとつたりしながら、再びゆっくりと讀みかへす機會を得たシャルル・ヴィルドラックの詩といふものを見て、星さまざまな文學の天に、こんなにも人の心かなごませ、慰め、とらへ、鼓舞する、獨特なしらべの星があつたのだつたと、今回つくづく懷しさに打たれ、何か後悔に似た感慨に滿たされたのであった。ヴィルドラックは昭和元年、夫人と一緒に日本へ来た。其時武蔵野の私の小屋もたづねて呉れた。それ以来の知己である。往復した手紙もたくさんある。藝術家としても、人間同志としても、何かしら血縁關係のある間柄のやうな氣がしてゐたし、今でもしてゐる。そのヴィルドラックだ。永年の沈黙が悔まれる。今度の此本がいくらかでも、其の無音のつぐなひとなり、彼への渝らぬ愛敬のめかしとなればいいと思ふ。
 ○私はヴィルドラックの詩といふものが、どうか愛する今日の日本の多くの人々に讀まれる事を心から願ふ。彼の詩には其の歌のしらべによつて、人の心を清め、力づけ、ひろびろと解き放つ力がある。今の日本のわれわれにとつて、此の清めと、力づけと、苦惱や懐疑からの解放ほど無くて叶はぬものはない。宗教によつてでもなく、哲學によつてでもなく、政治によつてでもなく、彼はその歌によつてわれわれを醫やし、勵まし、立上らせながら、常にわれわれと共に行く。彼の善意と、彼の良識と、彼の勇氣と、彼の健康とをわれわれは持ちたい。今もしも彼が日本にることが出來たらば、彼は何をするであらうか。多分、恐らく、きつと、此の「愛の書」にある詩のやうな物を讀むだらう。そしてわれわれの睫毛を清い雫で飾らせるだらう。彼自身また眼鏡の奥に一滴の露をふるはせながら。
 ○私の翻譯は拙くはあるが、終始この愛と美との詩人の心のしらべを我が国語によりよく移さうとこゝろがけた。其の願望がいくらかでも逹せられたならば幸だと思ふ。殆んど全部が新譯であり、臺本はすべて彼から贈られた四冊の原書である。どうか彼の厚意と友情とを汚す結果にならなかつたやうにと祈つてゐる。
 ○最後に此本の出版のために種々盡力を賜はつた寺本書房の山岸武三郎君に戚謝の意を表する。

   昭和二十一年八月三十一日
                         信濃富士見にて

                           尾 崎 喜 八

 

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「山の詩帖」
 昭和31(1956).11.1、朋文堂(コマクサ叢書3)

 

小 序

 この詩文集のうち散文は「山の絵本」と「雲と草原」とから、詩は詩集「旅と滞在」、「高原詩抄」、「花咲ける孤独」等の中からえらんだ。
 詩はもちろん別として、これらの散文はその書かれた年代が古いために、今ではもう山や高原に足を向ける人々への旅の手引とはなり得ない。交通や宿泊の点から言っても、かって私が心をひそめて一本の草木、一人の子供をも眺めながら歩いた処を、今ではただ目的地へ人を運ぶのみの汽車や自動車がどしどし走り、昔私を珍客として温かく迎えた鄙びた旅籠はたごや山村の農家が、今では面目を一新してれっきとしたホテルや山荘になっている。それと同時に山や旅にたいする人々の心持も変り、客を迎える者達の心情や態度にも昔日の純真や素朴が期待できなくなった。この趨勢はおそらく如何ともなし得ないものであろう。しかし自然や人間との深い内面的な接触から心の糧を得、ヒューマンな詩的感情の発奮を念願する人々にとっては、まことに慨歎すべき世界の変遷だと言わなければならない。
 物質文明の進歩発展はわれわれの物の考え方や見方に変化を与え、生きる上の習慣に変調を強い、旅の歩きぶりを変えさせる。私はそれを一概に非難する者ではないが、一歩一歩自然から離反する結果としての精神文明の衰頽は歎かわしい。しかしもしもこの精神の天地、心のふるさとを護ろうとするならば、われわれは何処かに抵抗の支点を見出さなければならない。私はそれを、決して滅亡させてはならないものへ、われわれの支えや擁護を待っているものへ、一層こまかく深い理解と愛とのまなざしをそそぎ、彼等に惜しみなく手を貸し与えることに見出すのである。われわれの智的発見をとおして彼等の美や徳を顕揚し、われわれの愛の歌で彼等の存在を広く知らしめるのである。
 この気持はすでに早くから私にあった。そして日常都会の生活では元より、高原や山地の紀行の折にも常にこの心を失わなかった。いや、寧ろこの心が私を駆って遠く山野を歩かせたのだと言った方がいいかも知れない。そして文学にたずさわっている私のそこから「山の絵本」や「雲と草原」の文章を書いた。それが即ちこれである。かえりみて甚だ冗漫幼稚の箇所を至るところに発見はするが、若年の未熟にもそれは又それなりの取柄はあるだろうと思って敢えて修正も削除もしなかった。「なべての人すべて迷う。さわれおのがじし異るさまに迷うのみ」である。
 何はあれ「一日の王」、私は今日もまたこの心で出発したい。この心のあるかぎり、私の老はいよいよ私を富ませるだろう。

   昭和三十一年十月十六日 
                           尾 崎 喜 八


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ヴァッガール「牧場の本」 
 昭和35(1960).5.30、創文社(アルプ選書)

 

あとがき

 この本は一九三二年にドイツ、ライピツィヒのインゼル言店から、インゼル文庫第四二六番として出版された Karl Heinrich Waggerl: Das Wiesenbuch (mit 16 Scherenschnitten des Verfassers) の翻訳である。したがって別刷りの十六枚も著者自身の手に成る切抜き絵である。
 また巻頭の『牧場の讃美』という短かい一篇は、同じ書店から出ている雑誌『ダス・インゼルシフ』の一九三六年春の号に掲晨された Lob der Wiese を訳したもので、この本のために訳者の特に添えたものである。
     *
 著者カール・ハインリヒ・ヴァッガールの名は、少数のドイツ文学専攻家以外には、現在わが国ではほとんど知られていない。訳者自身にとっても、この木の原書を初めて手にした一九三五年以一朋にはまったく未知の作家だった。これは日本における外国文学読書界の嗜好と風潮と、それに対する翻訳家たちの適応という微妙な事情から生ずる現象の一つであって、今さら異とするには足りないことであろう。ヴァッガールの著作として知られている書物は目録の形で後に挙げるが、その人間形成のための魂と肉体の閲歴、人生への信念と態度、題材として採り上げられる世界や人間、その作風……こうした要素のいろいろや、その渾然としたものが、ちょうどそのために、必ずしも日本の一般読書界の好みや時流に投じなかったろうということは想像に難くない。一例として挙げればあのヴァルデマール・ボンゼルスがその種の作家の一人であって、たまたま翻訳された『蜜蜂マーヤの冒険』という一作がわずかに一部の人々の愛なり支持なりを保ちながら、同じ作家の他の作品にいたっては、私の知るかぎり、その後一つとして紹介されていないのを見てもこの間の消息はよくわかる。これは、しかしまた、全世界に共通の現象でもあるだろう。そしてアイヒェンドルフやシュティフター以米、俗に小型の詩人クライナー・ディヒダーと称せられる人々(ヘルマン・ヘッセの適切な表現をかりれば、「彼ら単純な魂の所有者たち、目の涼しい神の愛児たち、一茎の草にも啓示を見、われわれに最善のものを与えてくれる、言わば母親のような詩人たち」)のたどるべき光栄ある運命の道かも知れないのである。

 ※註。『マリオと動物たち』は出たようにも思うが、どうであろうか。しかし『マーヤ』の姉妹篇ともいうべき『大空の種族』は、吉村博次氏のきわめて良心的な美しい訳で、このアルプ選書の一冊として、あたかも昨日、本になったところである。
     *
 ヴァッガールは一八九七年十二月十日、オーストリア、ザルツブルク州のバート・ガシュタインに大工の子として生まれた。ガシュタインといえば山の中の田舎町で、西方遥かにグロース・グロックナーやグロース・ヴェネディガーのような、ホーエ・タウェルンの大山脈を眺めることのできる処である。家が貧しかったので、その少年時代の生活も他の良家の出の詩人たちのように物質的に恵まれたものではなかったらしいが、淳朴で信心ぶかい隣人と美しい自然の環境のなかで、精神的にはその天与の資質を――心情の温かさ、人間や自然への柔らかな感性、ほのぐらい悲劇性に隣る晴れやかな飄逸、手仕事に対する愛と器用さなどを――すこやかに伸ばしてゆく事ができたように思われる。こうした彼は教師として身を立てるつもりでザルツブルクの師範学校にまなんだが、一九一四年、十七才で召集されて第一次世界大戦に従軍を余儀なくされ、イタリア戦線で捕虜になった。戦後、一九二〇年に復員帰郷、しばらく教職についたが、やがてザルツブルク州のヴァークラインに居を定めて、もっぱら文筆に没頭する生活に入った。その作品のなかには数篇の長篇小説があるが、わけても『主の年』と『母たち』とは傑作とされ、一九三五年にはオーストリア文学賞をうけた。そしてこれらの作品には、ノールウェイの文豪クヌート・ハムズンの影響が多分に見出されるというのが定説のようである。しかし私としては、そこにまたシュティフターやラミューズらの魂と芸術理念とにきわめて近いもののある事を見のがすわけにはゆかない。

ヴァッガールの主たる著作―――
 長篇小説
 * Brot (1930)
 * Schweres Blut (1931)      
 * Das Jahr de Herrn (1933)
 * Mütter (1935)
 中篇及び短篇集・寓話集・自然文学集
 * Das Wiessenbuch (1932) 本書の原本
 * Du und Angela (1934
 * Kalendergeschichten (1936)
 * Die Pfingstreise (1946)
 * Fröliche Armut (1948)
 * Heiteres Herbarium (1950)
 * Und es begab sich (1953)
 * Liebe Dinge (1956)
 * Das ist die stilleste Zeit im Jahr (1956)

     *
 一九三五年(昭和十年)九月、私は自分の自然文学の最初の散文集『山の絵本』を出したばかりだった。東京の繁華街をあとに、ふたたび広々と明かるい静かな郊外へかえって、生活にも仕事にも二度目の開花を感じ、わかわかしい勇気と希望とに燃えていた。それより早く昭和八年には最初の自然詩集『旅と滞在』を世に問うたが、この詩集と今度の『山の絵本』とで、自分の文学の一つの方向がここにおのずから決定されたように思われた。私は引きつづいて山へ登り、地理、生物、気象、天文などを独学しながら自然を生き、その間に詩をつくり、更に多く文章を書いた。ちょうどそういう時だった。そこへ K. H. Waggal という全然未知の作家の薄い小さい好ましい本、Das Wiessembuch が現われて私の手に飛びこんだ。一目見て惚れこんだ。それから詩的な、野外の光に照らされているような文章を数行読み、著者自身の切抜き細工だという十数枚の挿画を見、薄緑の地に白い絞り模様を置いた表紙をもう一度見直すに及んでいよいよ気に入った。そしていつかは自分もこんな本を書いてみたいものだと思った。そして或る日たずねて来た若い地理学者で、そのころ『山にという高級な美しい山の雑誌を編集していた石原巖君にこれを見せると、「いいですね、ヴィーゼンブーフ、音感もイメージも。Wiese は何と訳した方がいいかな。草原ですか、牧場ですか」と言った。「そうね。草原なら草原そうげんの書しょ、牧場だったら牧場まきばの本ほんでしょうね」と私は答えた。「どっちもいいですね。とにかくこのままにして置くのはもったいないから、尾崎さん、一つ訳して御覧なさいよ。きっといい本が出来ますよ」と言って、辻村太郎さんのお弟子である好青年石原君は帰って行った。
 その事あって以来二十五年間、私はいくたびか此の小さい本の翻訳を思い立ってはその度ごとに中止して書棚へ返し、つぎつぎと湧いて来る別の感興や、自繩自縛のような義務の仕事に追われるままに、いつのまにか一世紀の四分の一を棚上げの状態で過ごさせた。そしてこの老境の最近にいたって、ようやく積年の愛のちかいを果たすことができたのである。今この訳書を石原巌君にささげるのも、われらの古い美しい日日アルテ・シェーネ・ターゲへの愛と回顧との表現にほかならない。
     *
 この「あとがき」を書くにあたって、ヴァッガールの略歴と著作目録のことで畏友富士川英郎氏をわずらわす事まことに大なるものがあった。ここに謹んで御礼を申し上げる。
 更に私の仕事のはなはだ遅々たるのをよく辛抱して、終始寛容であった創文社編集部の大洞正典氏にあらためて謝意を表さなければならない。

   一九六〇年五月十八曰
                   新縁と鳥声の淡畑草舎にて

                             尾 崎 喜 八



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デュアメル 慰めの音楽
 昭和38(1963).12.10、白水社

 

訳者あとがき   

 この訳書は、フランスの高名な文明擁護論者で詩人で小説家で医学者でもあるジョルジュ・デュアメルの著書《La Musique consolatrice : nouvelle édition, revue et augmentee, 44e mille》の全訳と、同じ著者の別の本『今日の諸問題』《Problèmes de l'heure》の中の一章の訳とを含んでいる。そしてこの後者が、今度の訳書のために特に付録として添えられたものであることは見られるとおりである。

 『慰めの音楽』――この豊かでみごとな本が今から十一年前の一九五二年(昭和二十七年)に、作曲家戸田邦雄氏の美しい懇切な訳によって日本で初めて出版されたことは、広く音楽書の読者である諸君の記憶になお新たであるにちがいない。事実戸田さんのその訳書はよく読まれた。愛をもって、同感をもって、或いは啓発されることへの喜びをもって。更にはデュアメルその人の使信メッセージの伝え方や説得の仕方の親切さ、入念さ、しなやかさなどに対する敬慕や感謝の情をもって。とても一回きりで読み捨てにできない人たちに大事がられたその訳書は、いくたびも繰りかえして読まれることで表紙はよごれ、綴じ目もまた怪しくなり、しかもいよいよ強まる愛着の手のなかで十年を古びながら今もなお秘蔵されている。私の持っている本もそれに劣らず、色の変った表紙に崩れた製本、いたるところに赤や黒のサイドラインが引かれ、各所に註記や感想の書きこみが見える。今は一昔ひとむかしの或る春の日に、信州上諏訪の本屋の棚で見つけた大切なその本だ。どんなことがあろうとも失ってはならないし、多くの思い出に染められているこの開眼の書を、粗略にするようなことがあっては申しわけがない。
 その後じきに絶版となったまま十年をけみしたこの本を、今度は自分の手で翻訳して再出発させようという気になったのは、こういう良書が稀覯きこうのまま世に埋もれているのをつねづね残念に思っていたのと同時に、多くの音楽好きの友人たちの勧めや、白水社出版部からの理解ある求めによるのである。たとえ大家のすぐれた作品を愛し敬う点では人後に落ちない確信はあっても、もともと音楽の一愛好者、声や楽器の貧弱で非力な一素人しろうとにすぎない私、職として詩や文章を書き、時に翻訳を試みることはあっても、元来外国語に未熟な私にとって、この仕事は両面から言って重荷だったし、無暴でさえあったかも知れない。しかもそれをあえてしたのは、一つには戸田さんの志をついでこの音楽のための福音書を広く世の中に行きわたらせたいという念願からであり、また一つには古くから敬愛しているデュアメルの仕事の一面を少しでも多くの同胞に知らせたいという切なる気持からである。その上幸い私は原書に増補を加えた新版を持っていた。すなわち「わが手帖からの十章」の終りの二章と、「音楽の神秘」という文章とがその増補で、更に言うまでもないことだが、巻頭の「新版のはしがき」も戸田さんの訳書には無かったものである。つまり増補新版の原書に従ったということが、この訳書をあえて出す気になった私の口実プレテクストのかなり重要な一面でもある。
 夏の終りから秋の最中もなかにかけてこの仕事に没頭している間じゅう、私は音盤レコードという物にたいするデュアメルの批判や懐疑や危惧の念をよく承知しながら、時には気力を振るい立たせるために、時には疲労を癒やすために、そして多くの場合、音楽への自分の愛や感謝や信頼をあらためて確認するために、しばしば部屋の片隅の箱から大家たちの作品を聴いた。その時々の心の要求、気持のニューアンスに応じて、もっとも切実なものを択よりすぐってただ一曲、ただ一楽章だけを聴くのだから、その結果は常によかった。仕事にかかる前のすがすがしい朝のひととき、疲労の果てに安息をおもう秋の夜の十分間か二十分間を、本に出てくるバッハ、ヘンデル、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、ワーグナーらや、本には無くても私の心にはある十七世紀、十八世紀のドイツ、イギリス、イタリアなどの、主として宗教的な音楽家を聴くのが痛切に楽しかった。そういう時、私はいつも、それらが無数の聴衆を前に演奏されている場所の光景や、そこで演奏している芸術家たちの姿を心にえがいた。すると機械音楽とその「新しい聴衆」にたいする著者デュアメルの正当な危惧が、少なくとも私からいくらか軽減されるのだった。そしてとにかくこれらの音楽のために、どんなに心に叶った仕事にも必ず付きまとう道の半ばにしての苦痛や倦怠が、その度ごとに救われたり解放されたりしたことは事実である。

 こうして私の数年来の念願は満たされたわけだが、それがここまで来る間じゅう絶えずすべてに心を配ってくれた妻、激励をおくってくれた友人諸君、それに出版までの一切の事で並々ならぬ尽力を惜まれなかった白水社の藤原一晃君たちに、ここで心からの感謝を捧げなくてはならない。

   一九六三年十一月二十三日
                             尾 崎 喜 八

 


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「さまざまの泉」 
 昭和39(1964).8.5、白水社

 

後 記

 前著『いたるところの歌』を承けて、一九六二年一月から今年六四年の春まで二ヶ年半の間に、新聞、雑誌、放送などのために書いたものを集めてこの本を編んだ。雑多な内容の全体を「生活の中の音楽」とか「自然と共に」とかいうように四つの部分に大別したのは、題材の性質や書かれた動機のいかんに従ったからではあるが、一方では書物の体裁をととのえ、それに秩序をあたえることと、同時に読者の便宜を考えたからでもある。更にそれぞれの文章に作の年代を付記して置いたのも、私自身の心覚えのためと共に、これまた読者の参考に資するためでもあった。
 最近の二ヶ年半というこの期間は、私にとって比較的多産な時だった。古稀を祝われた一九六二年の夏には詩文集の第八巻『いたるところの歌』が出版され、翌六三年にはジョルジュ・デュアメルの著『動物譚と植物誌』、『慰めの音楽』という二冊の翻訳書か出、更に今年六四年の秋にはヘルマン・ヘッセの画と随想の本が出ることになっている。したがってこの本を成しているそれぞれの文章は、そうした言わば忙中閖の所産である。
 それにしてもこれらは私の毎日の歌であり、音楽である。私は自分の生活の内や外から詩的秩序と調和のしらべとを生み出さずにはいられず、それを過ぎゆく日々への祝福とせずにはいられない。そしてこの願い、この欲求が、老来とみに切実になったのを感じるのである。したがって、そういう気持で書かれた私の文章がいくらか自己中心的なものに見え、世間見ずの独善的なものに思われるとしても止むを得ない。人間や自然の賛歌を成すことで生きてきた詩人私は、すべての苦々にがにがしいこと、辛つらいこと、憤いきどおろしいことを自分のうちに深く閉じこめ、Mea-culpaメアクルパ(わが過ち)として苦しみなから、決してそれらをもって自分の芸術を活気づけたり、煽動したり、ましてやそれを装飾したりはしない。魂の平安を思うこの老年に、一層成熟した叡知や調和のしらべを願うのは、私のような人間にとってきわめてしぜんな事のように思われるのである。
 その意味で、「生活の中の音楽」にはもっと色々なことか書きたかった。私の好きな大家の中でもまずモーツァルトが欠けており、ヘンデルにも言及されず、あの青春の夜空に輝いた多情多恨の星ベルリオーズにも、ここではただ回顧の一瞥を送っただけである。「バッハヘの思い」にしたところで、更に多くの重要な作品について日頃の賛嘆を書き深め、そのカンタータや器楽曲のあれこれについて、魂の顫え、心の戦おののきを、もっと直接に述べるべきだった。ベートーヴェンにしても、この巨匠と自然との関係を垣間見たにすぎないが、本来ならばその個々の作品について昔ながらの傾倒や、その時どきの感奮や精神の高揚を披瀝するのか当然だった。それをしなかったのは、そのための貯えを、書き捨てのままになっている無数のノートを、整理するいとまが今の私になかったからである。しかしデュアメルではないが、「音楽は私の王国のいたるところを流れている」。それはこの本のあらゆるページを浸し、この本全体を地下水のように養っている。そしてここで特に取り上げられているものは、むしろ偶然に露出した源頭にすぎない。
 「一年の輝き」は昭和三十七年の一年間、その四季を通じて、毎日の夕べ夕べに東京新聞のコラムを賑わした『自然手帳』の中の、私の分だけを纒めたものである。新聞へは太田黒克彦、河田禎、清棲幸保、串田孫一、下村兼史の五君が私同様筆をとり、牧野四子吉君が一つ一つの短文に挿画をかいた。この仕事は週に一回必す活字となって出るだけに、張り合いもあれば楽しみでもあった。この本では挿画を割愛したが、一月四日の「芝生の中の宝石」から十二月二十六日の「年輪の含蓄」までの五二篇を揃えて出して、音楽自然という三本の柱の中軸にした。
 「書窓雑録」冒頭の「カロッサヘの感謝」は、今後必ず書きたいと念願しているあの大家への一切大きな賛頌オマージュの予感であり、「私の日記から」と「野外手帖から」とは「一年の輝き」の余韻である。また「途上のまなざし」は日本交通公社の雑誌『旅』への、「花崗岩の破片」は山の雑誌『アルプ』の岩の特集号への、その時どきの寄稿である。そして最後の「自然と共に」の七篇は、NHKラジオの同じ名の番組のために現地に旅をして書いた自作朗読の台本だが、日本放送協会の快諾を得てここに採録することかできたのは幸いである。

 『慰めの音楽』に続いてこの本が出るについて、今度もまた白水社編集部の藤原一晃君に一方ならぬお世話になった。更に川野楠已、行田哲夫の両君には、その美しい写真作品で貧しい本を飾らせて頂いた。ここに併記して以上の三君に心からの感謝を申し述べる。

   一九六四年七月十六日          
                            尾 崎 喜 八

 

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「新訳ジャム詩集」
 昭和40(1965).7.15、彌生書房

 

訳者の後記

(生い立ちから最初の詩集まで) 

 フランシス・ジャム Francis Jammes は一八六八年十二月二日、フランスのオート・ピレネー県の小さい町トゥールネーで生まれた。ベアルン地方出身の父親ヴィクトル・ジャムは収税吏、母親アンナ・ベローはバス・ザルプ県出身の、これもまた財務関係の役人の娘だった。同じフランスの南部でもオート・ピレネー県がほのぐらいスペインと国境を接して、雪に飾られたピレネー山脈を背景にしている一方では、アルプスの余勢をうけたバス・ザルプ県がイタリアの国土と相隣って、地中海の晴れやかな光といぶきを浴びている。両親の血の活力にいくらかの影響を与えていただろうと思われるこの互いに異なる二つの風土の性質が、詩人フランシス・ジャムの中にもまた生きていたろうと推測するのは自然かも知れない。その上彼には父方の祖父でジャン・バプティスト・ジャムという人がいた。この人は二十歳の時に志を抱いて故国を後に遠く中央アメリカの仏領アンティル島のグヮドゥループに渡り、そこで成功を夢みながら医師の仕事に従事していたが、ポアント・ア・ピートルの大地震のために破滅して寂しい生涯を送ることになり、しかも二度と祖国へ帰ろうとはしなかった。この祖父とその手紙の事はこの訳詩集の中にも出て来るが、若いフランシス・ジャムはこの人から熱帯の島や海への半ば神秘的な情熱をまじえた、精力的で夢想的な傾向をうけついだように思われる。一方母方の祖父オーギュスタン・ベローは情緒ゆたかな卒直な人で、音楽と詩に傾倒していた。この人は若いころユーゴーや、ミュッセや、ジョルジュ・サンドに会ったり、自作の詩の小冊子を出したりしたことがあるそうで、孫のフランシスにはロマンティシズムの代表者のように見えた。祖父と孫とは家族の者に内緒で詩を書いては、互いにこっそりと見せ合っていた。こうした祖父が小さい孫に詩への愛や尊敬を鼓吹し、文学への眼を開いてやったことは疑いがない。燃えるようなアンティル海の空の下で一生を終った豪毅で奔放な父方の祖父と、清涼な故郷ベアルンの地で芸術のアマチュアたることに甘んじながら平和な生涯を閉じた母方の祖父。この二滴の血のしずくは、フランシス・ジャムの詩作品の流れの中に悲しく懐かしく陰顕しているように思われる。 
 一八七五年七歳の時から一八八八年二十歳まで、ジャムはその父親の任地の関係でトゥールネーからポー、サンパレー、オルテズ、ボルドーと、いくたびか住居を変えた。小さい時から孤独で悲しげなおとなしい子供で、学校でも元気のいい乱暴な級友とは一緒にならず、母親に連れられて教会へ行って、蠟燭の揺らめく光や強い香の匂いの漂いのなかで夢見心地になったり、父親のお供をして長い野道の散歩をしたりする方が好きだった。そしてその父親の感化もあって植物や昆虫の採集に夢中になり、中学時代には「歴史の時間の間じゅう外そとの花を眺めていた」という有様だった。こうした厳粛で甘美な教会的な空気や花と生物への特別な愛が、後年の彼の詩をあらゆる機会に生き生きとさせている事は、この詩集でも読者の見られるとおりである。また一面ではかなり強情なたちだったとみえて、大叔母の一人から「お前は強情な子だ。だから柳の木を若いうちに折り曲げるように、お前も折り曲げてやらなければならない」と言われたそうだ。なるほどこの気質もまた、彼の詩作の態度やその自負の中にかなりはっきりと現われているように思われる。 
 十七歳の時のボルドーで彼に一つの新らしい体験があった。彼はこの古い大都会のたそがれに、或る窓ガラスのむこうで、ガス燈の明りに照らされながら縫い物をしている「一人の細そりとした、まじめな少女の横顔」をかいま見たのだった。ついに言葉をかわすには至らなかったが、これが彼にとって初めての恋愛の感情だった。そしてその処女のおもかげは長いあいだ彼に付きまとい、彼の熱い夢想を養った。われわれはその痕跡を、これもまた彼の全作品の随処に指摘することができる。 
 しかしもう一つの更に重要な体験は、一八八八年二十歳の休暇中に、彼がおのれ自身を見出したことである。「私が自分の詩ポエジーを発見したのは、アッサ街での午後も遅い或る夕ぐれ、小さい青い部屋の中でのことだった。おりから杉の木立の下からは子供たちのメランコリックな叫び声や、若い娘たちの笑い声が聴こえてきた」と、彼はその思い出を述べている。そしてこの時初めて、ジャムは自分の文学的表現の努力が向かうべき方向を悟ったのだった。すなわちおのが本能と一致したものを採り上げること、感覚と並行したイメージの尊重、芸術的であることを警戒してもっぱら光を求め、最も有りふれた言葉を用いること。その時ついに芸術はふたたび姿を現わすだろう、と言うのである。 
  私は自分の蘆あしのペン軸をとる、 
  そして私の頭に浮かんだことを言う…… 
 こうして彼はその頭に浮かんだことを八十九篇の詩として書き流し、一冊の小さいノートに清書して、これに単純で意味深い『我モワ』という題をつけた。 
 厳格な詩法に則のっとらず、在来の約束を無視したこれらの詩は、その霊感の新らしさ、大胆さ、その言葉の平明さ、みずみずしさによって特色があった。そして一つの霊感はつづいて他の霊感を呼びさました。また感情の単純さは言葉の単純さを引き出し、その単純な言葉が却って複雑な感情を解きほぐす役割を果たした。他人の思わくを気にしない、自分自身への完全な誠実。天候にせよ音にせよ色彩にせよ、すべての周囲の変化に即応するとびきりの敏感さ。一種の自然神教のように、特別な教義の枠からはみ出した宗教的感情と、創造の美の礼賛。繊細で暴烈な欲情をまじえた恋愛の感傷主義。極端を避けた細心なユーモア。傑出した観察の天分。血のつながりから来る異国趣味。田園生活への本能的な愛と理解。「様式」に従おうとしない直接的な様式。最も普通な形容詞や最も平明な言葉による現実的イメージの再現…… およそこういうのが当時のジャムの作詩法の綱領であり、また後年の作品を支配するいわゆるジャンミズムの骨子だった。 
 同じ一八八八年の十二月、父親ヴィクトル・ジャムが心臓病で急死し、オルテズに埋葬された。未亡人と子供たちとはボルドーを後にそのオルテズヘ移り住むことになった。オルテズはバス・ピレネー県の小さい古びた町で、その頃には人口六千、寂しい静かさと憂欝の魅力を持っていると同時に、どこか堅苦しい感じのある田舎町だった。二十歳の青年フランシス・ジャムは、初めのうち其処の刺戟に乏しい単調さに苦しんだが、母親のすすめで土地の或る公証人の見習い書記になった。そしてその仕事にいくらか馴れてくると、暇な時間を釣や狩猟や植物採集に凝るようになって、法律家の仕事よりももっぱら田舎や野の生活のほうに親しんだ。そしてその間には詩を書きつけたノートがだんだんにふえていった。ジャムは或る日母親に、エスタニョル先生の後を継いで公証人になることは止めたいと告白した。母親は詩にたいする息子の愛を理解してその願いを容れた。それ以来ジャムは約つましい生活に甘んじながら詩を書くことに専念することができた。一八九〇年には姉のマルグリットが結婚してアルマニャックへ去った。母と息子の二人暮らしになった。ジャムは畑の監視人をしたり、猟をしたり、釣をしたり、長い時間の読書をしたり、オルテズの文学サークルを訪ねたり、バスクの海岸やスペインへの小旅行を試みたりして日を暮らしていたが、その間にも彼の詩的才能はおもむろに成長を続けていった。 
 一八九一年、二十三歳の時、フランシス・ジャムは『六つのソネット』という少部数の薄い詩集を自費出版した。むろん田舎町オルテズの工場での印刷だった。つづいてその翌年七篇の詩を集めて『詩篇』と題する新らしい小冊子を出版した。これは彼が詩人としてのおのれの地歩を確立するためだった。オルテズやその近隣での評判は香ばしくなかったが、熱烈に彼を支持する中学時代の旧友シャルル・ラコストや、シャルル・ヴェイエ・ラヴァレーのような若者たちもいた。中でもオルテズに住んでいた若い英国人の作家ユベール・クラッカントルプが熱心だった。彼らはジャムのノートの中から二十一篇の詩を選び出して、一八九三年に前のと同じように『詩篇』と題して三冊目の新らしい小冊子を刊行した。ジャムはその序文の中で、「真実であるために、私の心は子供のように語った」と宣言した。ユベール・クラッカントルプはこの友のためにそれをパリのマラルメと、ジードと、アンリ・ド・レニエとに送った。三人とも互いに傾向を異にした詩人であり、ジャムのそれとも甚だ違った人達ではあったが、いずれも同じような温かい言葉で彼を称賛し勇気づけた。 
 たとえばステファーヌ・マラルメはこう書いた。「私は本当に楽しくこの詩集を味わいました。そんなに遠くで一人生きながら、あなたはどうしてこんな精妙な楽器を作り出すことができたのでしょうか」。またアンドレ・ジードはこう書いた。「甚だ珍貴でもあり個性的なものでもあるこれらの感動的な作品は、私の内に共鳴するものを呼び起こしますし、私として完全に理解することができます。とりわけ私の愛するのは、今までに表現されたことの無いような感覚を、現に存在する現実なものとしてあなたに感じさせたその真摯さです」。そしてアンリ・ド・レニエは書いた。「細心で味わい深いこの詩集、両面に豊かで、訴えと古い歌に満ち、忍耐づよいと同時によく省略されたあなたのこの詩集は、その真率さと、表現の独特な巧みさと、そのリズムの妙とで私を魅了しました」。 
 こうしてフランシス・ジャムの異常な詩的経歴は始まり、首都パリでも注目を引くようになったが、一方、当時のフランスの前衛的な雑誌『メルキュール・ド・フランス』の批評家ルイ・デュミュールなどは、この若い詩人を一種のまやかし者のように扱って、こんな戯文めいた事を書いている。「この薄っぺらな小さな本は、ひどく風変りな、不思議ないでたちで姿を現わした。著者の名は未知のものである。或いは偽名ででもあろうか。それに姓の綴りもあまり正確ではないように思われる。むしろジェイムズ(James)と書いた方が一層正しいかも知れない。一見イギリス風のこの小冊子はバス・ピレネーのオルテズで印刷されたものである。そして今私の眼前にある本に手書された若干の言葉は、不器用な小さい学校生徒のような筆蹟である。内容もそれに劣らず変っている」。 
 しかしやがて人々は、彼が一時のまやかし者ではなくて本物だという事を悟った。ピエル・ロティは彼をビアリッツの別荘へ招待した。アンリ・ド・レニエは彼を『メルキュール・ド・フランス』の寄稿家の仲間に加えるように計らった。そして詩集の中の最後の長篇対話体の詩「或る日」に感動したアンドレ・ジードは、それを出版することを『メルキュール』の支配人アルフレ・ヴァレットに要求して容れられた。但し出版費用は著者持ちだった。二百三十フランが必要だった。それは到底ジャムには負担のできない金額だったので、シードが奔走して作ったと言われている。 
 一八九五年の終りに、ジャムは生まれて初めてパリヘの旅をした。しかし大都会の喧騒の中で会った種々雑多な文人社会の空気は彼を憂欝にした。彼は急いでオルテズの家へ帰った。ただアンリ・バタイユの紹介で、やがて終生の友となった心優しい繊細な詩人アルベール・サマンと相知ったことが思わざる収穫だった。 
 オルテズヘ帰るとしばらくの間、ジャムは文学上の疑惑にとらわれた。新らしい本『或る日』にたいする批評家たちや周囲の沈黙もその原因の一つだった。しかも今度もまたジードやマラルメが慰めと激励の言葉を送ってくれた。そしてアルベール。サマンも書いてよこした。「私の魂はこの詩の単純さと優しさとの中に溶け入る思いでした。なぜかと言えば、精神を干し涸らす知的過熱の世界にいて、これは人によって運ばれ、万人が飲み干す一杯の明るい水のようなものですから」と。その後ジャムは『メルキュール』のほかに『ルヴュ・ブランシュ』や『エルミタージュ』のような雑誌にも寄稿ができるようになり、また『地の糧』を出したばかりのジードに誘われて北アフリカへの旅もした。しかしこういう旅行は彼の性に合わず、ベアルンの地への郷愁に襲われて二週間ほどで一人先へ帰国した。静かさと寂しさとの漂うオルテズこそ彼の自由と安らぎの世界だった。そこでの生活は、彼も『未発表の日記』の中に書いているように、「この上もなく優しく、持続的で単純で、あたかも雨をもたらす風の方向を知らせる屋根のてっぺんの亜鉛とたん製の風見の鶏を思わせる。今私は自分の部屋にいる。私の忠実な犬は私の足もとで眠っている。私をめぐってすべては静かで、ひどく弧独なことが感じられる、私はパイプに火をつけて徐ろに物思いにふける。そしてこの寂しさは私の魂をひどく単純に、またはなはだ複雑にする」。 
 こうして古い田舎町の静寂と単調との中で詩作を続けているうちに、一八九七年には『詩人の誕生』という詩集がベルギーのブリュッセルから出、次いで翌一八九八年の四月には今までの作品を総括した詩集『暁の鐘から夕べの鐘まで』が、ついにパリのメルキュール・ド・フランス社から出版された。そしてジャンミズムが堂々と宣言され、新風を望む若い詩人たちの眼が一斉にオルテズヘ向けられた。この詩集『暁の鐘から夕べの鐘まで』は正にフランシス・ジャムの最も充実した作で、彼の全貌や特色を知るにはこの一冊を読むことだけで充分だと言える程である。なぜならばそこにはジャムの詩法を構成するすべての要素が生き生きと採り入れられており、この詩集につづく以後の諸作は、(中には一層価値の高いものもあるが)、その延長か、或いはその各断片の開花したものにほかならないからである。 

(この本のために訳者が使ったジャムの詩集) 

 ジャムには散文や劇的な作品を別にして大小二十数冊の詩集があるが、もちろん訳者はその全部を持ってはいないし、持っている本から選んで訳した詩にしても、この本に入れるとなれば数の上にも制限がある。そこで結果として長短合わせて百十篇あまり採り上げられることになった。しかし数こそ少ないが。これだけでもフランシス・ジャムの終生の詩がどんなものであったかを知るには足りるかと思う。そして、更に、これらの詩を原語で読んでみたいという特志家たちのために。訳者は次にその出典を明らかにして置くことにする。 
『暁の鐘から夕べの鐘まで』 De l'angélus de l'aube a l'angélus du soir : Paris, Mercure de France.
『桜草の喪』 Le deuil des primevéres : Paris, M. de F.
『雲の切れま』 Clairiéres dans le ciel : Paris, M. de F.
『四行詩集』 Livre des quqtrains : Paris, M, de F.
『わが詩的フランス』 Ma France poétique : Paris, M. de F.
『泉』 Sources : Paris, Le Divan
 なお一冊になった選詩集としては、メルキュール・ド・フランス社発行のChoix de Poemesをお奨めしたい。これならば比較的容易に入手できると思うし、詩の数も多く、代表的なものはほとんど採り入れられている。 

(晩年と死) 

 一九二一年、五十三歳のフランシス・ジャムは、敬虔なカトリック教徒である或る老夫人の遺産を相続するという幸運に恵まれた。年老いた母と、妻と、七人の子供と、召使いとをかかえた生活は、どんなに働いても本を書いても、またどんなにつましく暮らしても苦しいものに違いなかった。その上住み馴れたオルテズの家は借家だったので、家主がそれを他に転売する決心をした時には拒むこともできなかった。そこへ天からの救いのような遺産相続だった。ジャムは思い出多いこのベアルンの町の家を捨てて、バスク地方のアスパレンヘ移った。そこは山岳地帯のはじまるところに位した大きな村で、牧歌的、農事詩的な風景にかこまれた場所だった。彼はそこで一軒の家を買った。素朴で、堅固で、緑に包まれて、藤の蔓に被われたその家は、まさに田園詩人のすみかにふさわしかった。 
 一方、文壇の風潮や一般の文学的嗜好の変化はジャムの作品を時代遅れのものとして、もう昔のようにはもてはやさなくなった。従って書く物からの収入も減って物質的な困難は相変らず続いた。その上子供たちの将来を考えると心の休まる暇もなかった。それと同時に他方カトリック教徒としての信仰はますます厳しいものとなって、彼を清らかな霊的なものの方へと引いて行った。一九三四年にフランシス・ジャムは書いている―― 
 「老いた野武士よ、お前は何を待っているのだ。お前の杖は地に落ちた。 
 お前の墓の上で寝るべき犬はもう死んだ。 
 そしてお前の子供らは散りぢりになった。すべては崩れ去ったのだ」 
 「私は待っている、毎朝、イェス・クリストの過ぎ行きたもうのを」 
 一九三七年、彼に文学上の最後の喜びがあった。パリの万国博覧会での大講演会に招待されて、そこで彼自身の作品が称賛されるのに立ち会ったのだった。ポール・クローデルとフランソア・モーリアックとに囲まれてもう一度じかに公衆と接し、本当の勝利を味わい、新聞や雑誌からも祝福の声を聴いた。人々は決して老いることのない詩的真摯と卒直の担い手として、改めて彼に眼をみはった。 
 しかしこのパリの旅から帰ると間もなく彼の健康状態は悪化して、医薬の治療も甲斐のない重い病いにとりつかれた。その死ぬまでの数ケ月間の苦しみは真に堪えがたいものだった。しかし彼は驚嘆すべき忍耐力でそれと闘い、はげしい苦痛の中でもクリストとの結びつきを念じて、ひたすら希望と神の憐みとを祈った。そして一九三八年十一月二日、諸聖人祭の日、フランシス・ジャムは七十歳を終焉としてその魂を神にゆだねた。聴くことのできた最後の言葉は「オルテズ」の一語だったと言われている。 

       一九六五年六月二十日 
                   つゆの晴れ間の多摩河畔淡烟草舎にて
 
                              尾 崎 喜 八


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ヘッセ詩集 尾崎喜八 訳
 昭和41(1966).12.31、三笠書房

            
解 説

 この訳詩集には、ページ数の制約上一一五編しか載せることができなかったが、ヘッセは十八歳の一八九五年から七十歳の一九四七年ごろまでに、今私の手もとにある『全詩集』に出ているものだけでも、実に約六〇〇編の詩を書いている。更に彼が後年自発的に取り捨ててしまったものや、一九六二年八十五歳で亡くなるまでの十五年間に、なおぼつぼつ書いていたであろうと想像されるものをこれに加える時、私のような者はその多産に驚かされもすれば、またそれを羨まずにはいられない程である。なぜかと言えば彼はその間詩ばかり書いていたのではなく、『ヘルマン・ラウシャー』に始まって『ペーター・カーメンチント』、『車輪の下』、『ゲルトルート』、『ロスハルデ』、『クヌルプ』、『デミアン』、『クリングソルの最後の夏』、『荒野の狼』、『ナルチスとゴールトムント』、『ガラス玉演技』に至るような大作群から、多くの中編や短編の小説、物語、更に幾冊かの多彩な紀行集や充実した随想集を書いたのであった。

  詩集

 一八七七年南ドイツ・シュワーベンのカルヴに生まれ、一九六二年スイス・テッシン州のモンタニョーラで八十五年の生涯を閉じたヘルマン・ヘッセは、彼自身の残した記録によれば、十八歳から六十九歳までに十三冊の詩集を出している。すなわち『ロマンティックな歌』(一 八九八年)、『詩集』(一九〇二年)、『途上』(一九一一年)、『途上、第二集』(一九一五年)、『孤独者の音楽』(一九一五年)、『選詩集』(一九二一年)、『危機』(一九二八年)、『夜の慰め』(一九二九年)、『四季』(一九三一年、自家版)、『生命の木から』(一九三三年)、『新詩集』(一九三七年)、『+編の詩』(一九四〇年、自家版)、『晩年の詩』(一九四六年、自家版)、そしてそのうち、現在でもなお書店から手に入るものとして、彼自身次の五冊を挙げている。
 詩集 Gedichte(ベルリン、グローテ書店)
 孤独者の音楽 Musik des Einsamen(ハイルブロン、ザルツァー書店)
 夜の慰め  Trost der Nacht(ベルリン、フィッシャー書店)
 生命の木から Vom Baum des Lebens(インゼル文庫)
 新詩集 Neue Gedichte(ベルリン、フィッシャー書店)
 私も早くからこの五冊を持っているが、こんにち果たしてなおこれらの本が容易に入手できるかどうかは、少なくとも『生命の木から』を除けばいささか疑わしい。しかしそのかわり一九四七年に、ベルリンのズールカンプ杜から『ヘルマン・ヘッセの詩』 Die Gedichte von Hermann Hesse という大部の本が出ている。これは本当の全詩集とも言うことのできる本で、私も前記の五冊を参照しながらこの書物を自分の翻訳の台本に使った。したがって詩の配列も台本どおり西暦何年から何年までというふうに幾つかの年代分けになっているが、順序は大体個々の詩集と同じようなものと考えて頂いていいと思う。

  私と詩の翻訳

 詩はそれぞれの民族の言葉の花であり、綾あやであり、芸術であるから、これをそっくり正しく味わうためには、それの書かれた原文によるのほかはない。しかもその上、選びぬいて使われている一つ一つの言葉の光りや陰影や、広がりや含蓄の美さえも深く汲み上げることのできるほど、その国語に精通していることが望まれる。この事は外国の詩ばかりでなく、もちろん我が国の詩の場合でも同じである。かく言う私も日本の言葉、日本の文字で詩を書いていて、母国語の詩作品を対象にしてならば自分にも他人にも何かを言えるが、事ひとたび外国語で書かれた詩となると、たとえばイギリスとかフランスとかドイツとかの詩となると、いくら理解し感心したとしても、その言葉や行文の美や味わいの核心をつかみ得たなどとは言えもしなければ思いもしない。それならばなぜそんな白信もないむずかしい事を、訳詩などと称してあえて試みるのかと言われれば、本当は返す言葉もないわけだが、ただ一つの言いわけとしては、未熟ながら現在の自分の語学力で理解することができ、愛することのできた作品を、或る外国語には疎遠だが詩は好きだという愛好者たちのために、詩人としての力と良心とをそそぎこんで翻訳してみたいという欲求からにほかならない、そしてその場合、与えられた詩の原文に忠実であって、日本語の詩としても充分に読むに堪え、説明的な辞句をつけ加えないで意味が通じ、ほしいままな我を捨てて原作の雰囲気をほぼさながらに再現しようというのが、私の常の心がまえであり念願である。しかしそれにもかかわらず思わぬ誤訳があったら何としよう? ただ頭を垂れて許しを乞うのみである。ここでは原作者のヘッセに。また日本の善意の読者に。
  
  その詩の鑑賞

 ヘッセは詩についての小論の中で言っている、「詩の成立はまったく簡単明瞭なものである。それは爆発であり、叫びであり、溜め息であり、魂が或る激動に抗せんとする、もしくはみずからを自覚せんとする身のこなしである。この最初の、本源の、もっとも重要な機能の点では、およそいかなる詩にも批評をくだす余地はない。その詩はもっぱら詩人その人にむかって語る。それは詩人の叫びであり、夢であり、もがきであり、ほほえみである」と。まったく詩というものに対する彼の理念がここにあり、その作詩の動機もまた正にここにある。そして敢えて言えば、ヘッセの生涯の道程や生き方すらが、実はこの「叫び」に、この「夢」に、この「もがき」に、そしてこの「爆発」や「ほほえみ」に従ったもののように思われる。そこには善いも悪いも、上手じょうずも下手へたもなく、従って他からの批評の余地もない。あるのはただ彼が、その内心の止むに止まれぬ要求にどれだけ忠実であり得たかという問題だけである。そしてこのようにヘッセの考えに同感している私としては、今はすなおに彼を受け入れて、それぞれの詩の持っている美しさを味わえば足りるのである。

  一八九九年〜一九〇二年の詩から

 ヘッセはその『さすらいの記』Wanderungの中で彼自身のことを、自分は何かを持ってそれを護る有徳な定住者ではなく、すなわち善良な市民でも農夫でもなく、不信の、変化の、空想の信奉者、停滞することのない愛をもってこの世の風光や豊かな草原を探し求めて、自由に居を転じる漂泊者であり遊牧者であると言っている。この事は、だからと言って、ヘッセがその一生を通じて必ずしも定住者的な生活を営み楽しまなかったという意味ではないが、しかしこの懐かしい音色ねいろが彼のほとんどすべての作品の中を流れているのは事実である。たとえば二十歳そこそこで書かれた「二つの谷から」を見ても、一方の谷からは悲しい死の鐘、別の谷からは喜ばしい歌のしらべが聴こえて来るが、それが一つになって響くことこそ自分のような漂泊者にはふさわしいと言っている。同じ頃の「年老いた放浪者」にしてもそうで、定住の家や財産がなくても、広い世界への自山なさすらいのできる人間への羨望やあこがれが美しく歌われている。
 「ほのかな雲」、「野をこえて」、「白い雲」のは、ヘッセにあって特にいちぢるしい主題である。そして、それはまた漂泊者の姿にも、幸さち薄い愛人の姿にも通じる。白く、涼しく、ほのかで、軽やかで、“忘れられた美しい歌のひそやかなしらべのように、青い大空をただよって行く”。更にいくつかのエリーザベット主題の中からここに取り上げた「エリーザベット」も、恋人ではありながらやはり雲の姿をとり、或いは雲と溶け合っている。私はこれらの涼しくほのぼのとした詩を読みながら、ヘッセの詩からついに抜くことのできないアイヒェンドルフ風の哀愁を思わずにはいられない。
 これに反して、イタリアヘの旅の折に書かれたと思われる「ジョルジョーネ」は誇らしく逞たくましい詩である。花やかな力に満ちたロマンティックな青年詩人ヘッセは、こういう形や内容を持つ詩も書いたのである。私は日本の詩人たちが、彼らの若い日にこれだけ充実した、これだけ美しく力強い詩を書いたのを読んだことがない。
 「我が母に」は、ヘッセが母に捧げたりその母を歌ったりした幾つかの作品の、おそらく最 初のものと思われる。しかもこれは一編の悔恨の歌で、一九〇二年に『詩集』Gedichte が出版された直前、彼はその愛する母を失ったのである。

  一九〇三年〜一九一〇年の詩から

 母に関する詩はここにも二編ある。一つは「高山の夕暮れ」で、もう一つは「母の夢」。いずれも今は亡い母親を思っての、言わば帰れる子の悔悟と思慕の歌である。ところでヘッセは不思議にも父親のことは、少なくとも詩にはほとんど書いていない。彼の父親は海外布教師の指導をする伝道館の仕事をしていたそうである。しかし考えてみれば、母のことは懐かしんで書いても父のことは書かない詩人がこの世には多い。この事実は、やはり詩的感情というものは父性愛よりも母性愛から養われることが多いという証明になりそうである。それはともかくとして、「高山の夕暮れ」の高山がアルプスを指していることは詩でもわかるが、ヘッセは自然はもとより山が好きで、スイスのベルン・オーバラントの高峯群も経験し、エンガディーンを中心とする山々谷々も好んで歩いたが、特にスキーは好きでもあれば上手でもあったらしく、この訳詩集では割愛かつあいしたが『詩集』Gedichteには「高山の冬」という四編から成る連作も入っている。
 「霧の中」はドイツ語国では広く知られ、愛されている詩で、ヘッセはスイスの湖水を見おろす風光すぐれた丘の上で、或る日この詩を歌に歌っている学生たちに出逢ったことを書いている。
 「風景」も「村の墓地」も共にいい。これらはいずれも後年の作に劣らない程の落ちついた清明な美に貫かれている。「風景」で、“この静かなひとときを心うばわれて眺めていれば、そのかみの衝動はねむり、古い戦慄もまたねむる”という一連の句や、「村の墓地」で、“かつて力として、情熱として、又止み難い衝動として君たちのうちに生きていたものが、今ではいましめを解かれ、自由になり、たわむれか飾りとして花の香のなかをただよい去るのだ”という最後の数行が、物に即して華麗でさえある言葉のうちに、何と澄んだ清らかな諦念を延ベひろげていることだろう。
 彼自身七月生まれであるヘッセが、「七月の子供たち」を書いたのはいかにも自然である。これも有名な詩で、その愛らしさ快活さのために広く好まれているらしい。これに反して「詩人」は暗い重厚な作である。詩人は孤独だ。彼はこの世に属さず、この世の何ものもまた彼に属さない。彼に許され与えられているものはこの世の風光と未来の明るい空だけだ。しかもその末来の人類の祝祭にも、孤独な静観者である彼詩人は呼ばれもせず思い出されもせず、よしんばその墓に供えられた若干の花環があったとしても、それも忽たちまち萎えしぼんで、彼への記憶と共に消え去ってしまうという詩である。そしてこれは確かに真の詩人たる者の運命であって、われわれはこの運命を動かしがたい真実として受け入れなければならない。

  一九一一年〜一九一八年の詩から

 この八年間には、ヘッセの生活にもいくつかの出来事やさまざまな動きがあった。一九一一年には紅海を経てシンガポール、南スマトラ、セイロンと、東南アジアの旅をした。一九一二年にはボーデン湖畔の家を捨てて、スイスの首都ベルンに近い友人の画家の別荘を借りてそこに住んだ。一九一四年には第一次世界大戦が勃発し、ヘッセはベルンでドイツの捕虜を慰問するために新聞や図書の編集、刊行、発送などの仕事を手伝った。しかし極端な愛国主義的な行動や主張に反対する文章をいくつか書いたことから、ドイツでは売国奴のように見なされ、多くの新聞や雑誌からは締め出された。ロマン・ロランの来訪をうけ、両者の間に書翰しょかんの往復のはじまったのもこの頃である。一九一六年には父親の死に遭い、妻君の精神病が悪化し、ヘッセ自身も病気にかかって精神医の治療をうけなければならなかった。彼がフロイトの精神分析に打ちこんだのはこれが媒介になっている。そしてこの八年間に小説『ロスハルデ』、『クヌルプ』、『青春は美わし』、中編小説集『まわり道』、小品集『路傍』、紀行『インドから』、詩集『途上』、『孤独者の音楽』等を刊行した。
 冒頭の「旅の歌」は、そのアジア旅行の門出の詩とも言うことができるだろう。いかにものびのびと晴れやかに、未知への夢と希望とをはらんで歌われている。ところが「さすらいの途上」は彼自身の創造した薄倖の兄弟クヌルプの運命への哀借のしらべであり、「花咲ける枝」と「九月の哀歌」には春の花、秋の実りへの静観と、そこに漂う無常への諦めとが響いている。しかもこの響きは結局最後まで、ヘッセ文学の一つの基調として残るのである。「草に寝て」、「蝶」、「龍膽りんどうの花」、「たそがれの白薔薇ばら」、「幸福な時問」などもこの系列に属するもののように思われる。また「ヘルダーリンヘの頌歌しょうか」と「或るエジプト彫刻の蒐集しゅうしゅうの中で」はこの頃の大作を代表するもので、前者は神々こうごうしい竪琴ハープの歌の鳴りひびくギリシャ的な神性への深いあこがれに、後者は古代エジプトの彫刻の上に重く輝く莫実や愛の不滅の光りへの讃美につらぬかれている。
 「バーガヴァード・ギータ」に始まって「戦争の四年目に」に至る十一編の詩は、言うまでもなく第一次世界大戦からのもので、どの一編もとりどりに甚だ美しい。これらの詩は事件が事件、動機が動機だけに、特に読む者の胸を切実に打って来る。「バーガヴァード・ギータ」の結句となっている太古印度の神々の箴言しんげんと、「平和」と題されたこのみずみずしいあこがれの歌、この早春の予感の歌が、なんと二つながらに協和し、響き合っていることだろう。さらに「戦場での死」と言い、「戦場で斃たおれた或る友に」と言い、そこにはいずれも一つの救いのしらべが流れている。私は自分のたどたどしいドイツ語で、初めてこれらの詩を読んだ時の深い感銘を今でもよく党えている。四十何年前の東京郊外の野中の一軒家だった。新婚の妻は隣室で裁縫、私は畑にむかった板の間の言斎で辞書を片手に、文法書をわきに、一字一句を吟味しながら読んでいった。そしてこれがヘッセの詩を愛するようになった私の最初の経験だった。そして「艱難かんなんな時代の友らに」や、ロマン・ロランに贈った「運命の日々」などを加えて、あの大戦中にこれほど共通の苦悩と精神の悪闘への慰めや勇気づけの歌を書いた詩人を私は知らない。そう思うと、その間に書かれた「山に在る日」や「ロカルノの春」のような作が、殊更になつかしい響きを帯びて来る。
 「老境に生きて」、「内部への道」、「アルチェーニョのほとりにて」などは、私のように年をとった者への励ましでもあれば警告でもある。とりわけこの「アルチェーニョ」を読むと、山を歩くことの好きな私は身につまされて、厳粛な気持にならずにはいられない。

  一九一九年〜一九二八年の詩から

 この十年はヘッセの四十二歳から五十一歳までの間だが、その四十二歳の春に彼はベルンの家を去って、南スイスのルガーノに近いモンタニョーラという風光明媚な丘の上の村に移り住んだ。しかしその頃の生活は極度に不如意だったと言われている。この時代の作品には小説『デミアン』があり、『シッタールタ』があり、『荒野の狼』があり、その他に『童話』、『さすらいの記』、『画家の詩』、『湯治客』、『風物帖』、『ニュルンベルクの旅』、『考察録』などのようなそれぞれに充実した小品集や、随想渠や、手記の類があって多彩をきわめている。この間彼は最初の妻君と離婚し、スイスの国籍を得、しばしば講演や旅行や湯治に出かけた。無数の随筆や小品や紀行文のような散文作品に好ましいものが多いのは、こうした環境と生活とから来たものと思われるが、一方ヘッセはこの頃から水彩画も描き始めていて(特にその美しい自然の写生画がロマン・ロランの愛するところとなっていたが)、それがこの種の作品の主題の扱い方や色調にも大いに影響を与えたものと見ることができる。その意味で私は彼の自作の画と詩の本『画家の詩』から、特に「色彩の魔術」以下「冬の日」までの五篇を採った。
 「無常」、「秋」、「晩秋行」、「十一月」、「初雪」、「或る別れに臨のぞんで」、「わが姉に」、「愛する者に」、「老人のクリスマス」などには、ヘッセの早くからの無常観と、従容しょうようとして、むしろ喜んで母なるの腕に身を任せようとする諦念とが歌われている。わけても冒頭の「無常」はその意味で代表的な名品である。一方「秋の森に痛飲するクリングゾル」や「荒野の狼」のような詩を読むと、当然、小説『クリングゾルの最後の夏』や同じ題の小説『荒野の狼』が思い出されて、これらの詩がそれらの小説の緊密な要約か序曲のように思われる。そしてそのいずれもが悲しく、強く、男性的で、諷刺的で、ヘッセの人間性の他の一面を、鋭利な鑿のみでのように見事に刻み出している。「詩人の最後」なども多分これに加えていいだろう。しかし最後の「静穏な日」は今の私などにはまことにぴったりと同感のできる詩で、いかにもヘッセに先んじられてしまったという感が深いのである。

  一九二九年〜一九四五年の詩から

 この時期はヘッセの五+二歳から六十八歳までに当たる。彼の生活は安定し、南スイス・テッシン州の山と湖の美しい自然の中での静かな執筆や、散策や、水彩画での写生や、庭園の草木の世話などに暮らす毎日が続いたらしい。そしてその創作には長編『ナルチスとゴールトムント』、『ガラス玉演技』、『東方巡礼』などがあり、詩集としては『夜の慰め』、『生命の木から』、『新詩集』等が出ている。その他、以前に書いた中編や短編をまとめた小説集とか、随筆集のような物が改めて彼の著作集として続々と出版されている。まさに豊かなとりいれの秋だと言わなければならない。
 「夏の夜の提灯ちょうちん」はいかにも好ましい淡彩風な筆致で、はかなく美しい亡びへの諦観をさりげない微妙なしらべて奏でている。「碧あおい蝶」、「夏の夕べ」、「回想」などもこれに属する。しかしこれに反して「晩夏の蝶」の何という充実した絢爛豪華なことだろう。「イエスと貧しき人々」の一編は、私としてはヘッセの詩の中で初めて見出すことのできた彼のキリスト観で、その断言の決然とした調子には目を見張り、胸を打たれずにはいられない。そしてこの決然としたものは「老境に入る」をも貫いていて、これもまた前に挙げた「静穏な日」のように、今の私として書きたく思う感慨である、しかしまた「基督キリスト受苦の金曜日」は得も言えず深い美しい一編で、柔らかに暗み明るむ早春の自然が、バッハの『マタイ受難曲』の遠い余韻をただよわせながら、ゲッセマネやゴルゴタの思い出へとわれわれを導くようである。

 そして今年はその受苦の金曜日が三月二十四日に当たる、その日が来たら私はこの感銘深い詩をもう一度読もう。亡きヘッセヘの追慕のためにも……

   一九六七年三月七日
                          北鎌倉の新居にて

                               尾 崎 喜 八

 

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「わたしの衆讃歌」 
 昭和42(1967).2.15、創文社

 

 後 記

 私はこの暮に神奈川県鎌倉の新居へうつる。昭和二十七年の秋からまる十四年間を住みなれたこの東京玉川上野毛の家を後にするに際して、いま蔵書の整理や身のまわりの物の始末や荷造りをしている間にこの「後記」を書きながら、何かにつけて感慨のまことに深いものがある。習慣となってそれになずみ、惰性となってその上に安住していたすべての物に、刻々と迫る別離の歌や影が生まれる。
 年も押しつまった十二月。それもあと二十日ほど経てはもう私も私の家族もここにいない。古いなじみの土地と家とにまつわる長い歴史が断絶する。そして再び違った土地や家での生活が開始される。そこには希望の無いこともないが、また一抹の不安もあって、新しい序曲の始まる前に、古い終曲の旋律が哀愁を帯びて顫えている。
 『私の衆讃歌』と題したこの本も、こうした落ちつかない毎日の中で考えれば、これが連統した仕事の一つの結末、一つの句切りであるように思われる。私はこの家で八巻の詩文集を出し、それ以後数冊の自作や翻訳の本を出した。戦後七年間の信州富士見生活も自分としては多産だったと思うが、ここでの十四年間は、押し移る老境と共になおいくらかの深さと成熟とを仕事に加え得たと信じている。そして私にとってこの本は、実にわが詩人生活の第三期を閉じるもの、恥ずかしながらその締めくくりをなすものである。しかしこれが果たしてそのような名に価するものであるかどうかは、ひとえに賢明な読者諸君の批判に俟つほかはない。
 五章に分けた文章のそれぞれの終わりには、作の年月を書き添えておいた。いちばん近い頃に出た本『さまざまの泉』(一九六四年白水社発行)以後に書いたものが大半を占めている。「音楽」と言い、「自然」と言い、「清閑記」と言い、その内容には変わりばえのしないものが多いように思うが、「先人と友人」、「高村光太郎」の二章は、言わば私の今日ある事への感謝の歌であって、これらを欠いては私の衆讃歌もその意義の大半を失ったであろう。ただしかし「音楽」の章でも、自分の一生を通じての最善の導き手であり慰め手であるバッハとロマン・ロランについて少しでも書くことの出来たのは、せめてもの喜びだと言わなくてはならない。それにしても「人間到るところ青山あり」とすれば、私は残る生涯の青山を前に、折に触れ、事に応じて、わが終生のこの二人の恩人についてもっともっと書いて置かなければならない。なぜならば書くことは私の生きているしるしであり、書くことの止んだ時は私の召される時だからである。
 最後にこの本の出版については、いつものように創文社社長久保井理津男氏と編集部の大洞正典氏との一方ならぬご配慮にあずかった。また美しい装幀には畏友串田孫一さんが当ってくださった。ここに特記して謝意を表する次第である。

   一九六六年十二月一日
                   思い出多い東京玉川上野毛の家にて

                             尾 崎 喜 八

 

 

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ジャベル「一登山家の思い出」
 昭和42(1967).2.28、あかね書房 (世界山岳名著全集5)  
             

解説
  「一登山家の思い出」  尾崎 喜八
                
 日本で初めてエミール・ジャヴェルの名が活字になったのは、たしか昭和五年ごろに出版された故大島亮吉氏の『山・研究と随想』という、今でも或る人々にとっては忘れがたい本の中だったと思う。そこではジャヴェルに寄せる故人の同感や思慕の思いが、きわめて断片的にではあるが、それでも林間の星のように光っていて、そのころの私のような山の初心者の胸を湧きたたせ、まだ読んだこともない『或るアルピニストの回想』というジャヴェルその人の本に、遠いあこがれの思いを燃でしたことであった。
 ところがそれから間もない昭和元年の九月のこと、信州霧ケ峰で当時唯一のヒュッテを経営していた古い友人の長尾宏也君から、はからずもそのジャヴェルの原本を贈られて、その上「これを訳すにはあなたが最適任です。」という言葉まで付け足された。毎日晴れた日のつづく美しい夏の終わり、秋の初めだった。私はヒュッテに近い小風露や松虫草の原の高みに横たわるなじみの岩に腰をかけて、爽やかな風に吹かれ、暖かい日光を浴びながら、そのSouvenirs d'um Alpinisteの中の「二夏の思い出」や「ヴァル・ダニヴィエールの一週間」や、「サルヴァン」の章を手当たり次第に読んだ。ジャヴェルの自然で人間に対する見方、感じ方のすべてが気に入り、彼の文体とその中を流れている人柄が気に入った。自分も山の文章を書くならこんなふうに書いてみたい。なぜならば私自身の気質や文学の傾向の中にも彼と相通じるものがあって、それがこんなにも親密に語りかけて来るからだ。生まれた国こそ違え、言葉こそ違え、同じ心の血によってつながる人間がここにいる。私はこの人によって、またしてもこの世で一つの啓発をうけ、鼓舞を与えられたのだ。そんなことを通説に考えたり、山について何かを書く近い将来を夢見てほほえんだりしながら、この晩夏初秋の霧ケ峰での生活はほんとうに楽しく、身になるものだった。そして、「高原」と題する詩の連作中の幾編かを書いたのも、実にその折のことだった。

 ランベールの序文でもおよその輪郭はわかるように、ジャヴェルにとっての人生というものは、世間で言う意味では、ほとんど成功ではなかったらしい。その三十六年という短い生涯は、山の中でのよしこい時間を除けば、むしろ恵まれない日々の通続だったようにさえ思われる。彼の生活にしろ、学問にしろ、登山にしろ、順調に出世した人たちや正統派をもって自任する人たちから見れば、どこか切りつめた、自分流儀の、精いっぱいの独学の跡が感じられはしないかという気がする。彼があのパセティックな「二夏の思い出」を書きながら、何よりもまず「別のところに業務のある、別のところでその社会的活動の貢を払っている人たち、労働や心労に疲れた魂を大自然のエネルギーの中へ浸しにゆく人たち、――無学の登山家、無為の山岳会員」への、慰めや励ましの言葉を発せずにはいられなかった気持ちも、彼のような経歴や境遇と考えればきわめて自然なものに思われる。そうして彼の特別な愛が、いつでも時代の流れのうちに亡びてゆく古風な純朴な山人たちや、旅行からは顧みられない、名も無ければ知られてもいないようなアルプスの片隅に向けられ、注がれたのは当然だし、私も心からの同感を惜しまない。
 こうは言っても、私は自分勝手な憶測や主観を逞しくして、ジャヴェルが彼よりも多くの事のできた登山家たちに、一種の反感とか競争心とかを持ってでもいたかのようにほのめかすつもりはいささかもない。それどころか、そのアルプスを誇りとするスイスが養子として迎えても恥ずかしくはあるまいと思われるこのフランス人の魂に、またその魂の花である行為と言葉に、とうてい他には求めることのできないような優しい心ばえ、高貴な瞑想、惻々と迫ってくる感情の波、純粋な、まともな詩的昂揚――そうした登山家ジャヴェルに独特な、むしろ献身的とも言える全人格の発露かを見て、時と処とをへだてながら、追慕の念を覚えずにはいられないのである.
 誰が言い出したのか知らないがジャヴェルには「アルプスの伝道者」という異名がある。なるほど彼の人間にも、人生観にも、登山行為にも、またその文章を貫いている信念にも、伝道者と言われる者のおもかげが無くはない。彼の足跡は美しい。ヘンデルの『救世主』にでも或るアリアが歌っている。「平和の福音を説く人々の足のいかに美しきかな」と。しかし、また何らの公式にも使命感にもとらわれず、ただ心のおもむくままに「たった一人、自分流儀で、真に平然と、また常に何かしら新しい喜びを感じながら」山々谷々をさまよった彼、「消えはてた小径をたどって、ただ一人山小屋の戸をたたき、堆石を飛びこえ、氷河をさかのぼり、高峰をよじる」ことに言い知れぬ喜びを味わった彼、そしてそういう独特のさすらいを、あの氷河の上の星空のような、悲しく澄んだ文章に、いな、ほとんど詩につづり歌にさえ近づけて表現したあのジャヴェル、過去無数の山岳文学中の孤高ジャヴェルか、私は「伝道者」の代わりに、むしろ「アルプスのオルフォイス」の名で呼びたいのである。

 私の手になるこの訳が初めて出ることになった昭和十二年の秋の初め、隣の部屋でその校正を手伝ってくれていた一人の若い友が、紙きれに書いて黙って私の机の上に置いていった次のようたな言葉、「優しさは人間のたましいの消極的な側面ではありません。それは宇宙に対して蘆である人間が、その強い力に亡ぼされながら実は打ち勝つ聖なる武器、人間性の耀きであります」という言葉の真実を、私はまさにそのとおりに受けとったのであった。

 今もなお愛するエミール・ジャヴェル、わが「アルプスのオルフォイス」よ! 君はその脆い蘆の笛で君の妙なる歌を歌った。そして、その後ついに私もまた、君にならって私の山の歌を歌ったのである。

 

 

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夕べの旋律
 昭和44(1969).6.20、創文社


後記

 いつも変わらず懇ろな創文社の勧めにしたがって、前著『私の衆讃歌』からようやく二年半を経過したばかりの今日、またもやこんな本を公けにすることになった。実を言えば内心いくらか恥ずかしく、多少は後うしろめたい気もしているのである。
 自分のような人間の書く物でもそれを読んでくれる人々があり、いつも激励や期待の言葉を寄せてくれる篤志家のあることを思えば、もっと精進して善いものを書いて、その愛や信頼に報いなければならないと常に心に念じながら、さてこうして一巻に緩めてみると、造本の美しさには似もつかず、見られるとおりに散漫・蕪雑な内容である。『夕べの旋律』だなどと名はつけても、そんな旋律めいたものは何処にも見当たらない。実はこの書名の最初の案は『晩き木の実』だった。思えばその方がまだ言訳いいわけが立ったかも知れない。落葉にまじった山の毬栗いがぐり、梢に残された冬の柿の実。凡およそそうした類の物が本の大半を占めているのだから。
 総数四十数篇のうち、その殆どはこの北鎌倉の新居へ移ってから書いた物である。しかしそれも新聞や雑誌その他からの、枚数と題材とを指定した依頼による物が多いので、どれもこれも書き足りず、意に満たず、しぜん断片的な文章の寄せ集めになってしまった。本来ならばそういう依頼は潔いさぎよく辞退して、真に自発的な動機から生まれて来たものだけに専念したいのだが、生きて行くためにはそんな我儘も許されない。ただどんな場合にもおのれの信念を枉げることなく、文中のいずこかに必ずおのが心の独特なしらべを奏でさせることだけは忘れなかった。それにこの二年、私にはもう一つ別の仕事があって今もそれを続けている。自分の生活と心とに光を与える「音楽」についての一連の随想、謂いわば信仰告白を、毎月或る雑誌のために執筆することである。そしてこの世界では私は自由だし、思うがままに自分の驥足を展ばすことができる。
 してみればこの自由とあの制約、その双方が共に私の支えであり養いであり、永からぬ余生にもなお許された遅々たる成長の天地だとも言える。そしてもしもこうした喜ばしい認識から生まれたものだとすれば、『夕べの旋律』というこの書の名、必ずしも不当なものとは言えないかも知れない。けだしこれもまた私の半ば世俗的な宗教的コラール、小さい衆讃歌集の続篇だからである。
 この本の出版のためには今度もまた創文社社長久保井理津男、編集部長大洞正典両氏の厚意と配慮とをかたじけなくし、立派な装幀には又しても古い親しい友串田孫一君を煩わした。併せ記して感謝の意を表する次第である。

    一九六九年五月十五日
              ツツジ輝き、アゲハ飛びかう北鎌倉明月谷の山居にて

                              尾 崎 喜 八

 

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自註富士見高原詩集
 昭和44(1969).11.30、青峨書房

 

 あとがき

 私には長野県富士見在住時代のものを集めた『花咲ける孤独』という詩集がある。昭和三十年の二月に東京神田の三笠書房から出版されたが、今ではもう絶版になって元の姿では容易に手に入らない。その後昭和三十四年十月に『尾崎喜八詩文集』第三巻として東京麹町の創文社から同じ題名で出て今日に及んでいる。しかし此のほうには最初の『花咲ける孤独』以後の作品も加えたので内容も増加している。そして今度のこの本には同じ高原で得た詩からだけ総数七十篇を選んで『自註 富士見高原詩集』という題を与えて、ここに新らしく出版する事にした。好んで私の詩を読んでおられる諸君には旧知の作品も多いだろうが、今改めてこの詩集を出す気になったについては別に一つの理由があった。それは「自註」である。作者自身が自分の詩に註釈を施し、或いはそれの出来たいわれを述べ、又はそれに付随する心境めいたものを告白して、読者の鑑賞や理解への一助とするという試みである。
 詩は言葉と文字の芸術であると同時に作者の心の歌でもあるから、本来ならばその上更に解説その他を加える必要は無いはずである。しかし最近は色々と出る選詩集の中に、選者その人の鑑賞や、註釈や、或いは批判めいた物さえ添えられている場合が多くなった。それは又それで必ずしも悪くはないが、しかしそのために作者本人がいくらか困惑を感じる場合も絶無とは言えない。鑑賞や批判が原作者の本来の意図や気持と食い違ったり、註釈に誤りがあったりしたのでは、迷惑するのは作者ばかりか、心ある読者、鑑賞力の一層すぐれた読者の中には、その事に不満や不快を感じる人さえいるのである。現に私はそういう例を幾つか知っているので、今度は敢えて自註という新らしい試みに手を染めた。会津八一氏にも『鹿鳴集』の立派な自註本があるが、詩集としてはこれが最初のものではないかと考えている。それはともかく、私はこういう事をやってみた。あとは読者諸君の自由な判断に任せるのほかはない。それにしてもまず詩を読み、更に註を読めば、或いは私という人間の心と生泊と芸術とを一層よく理解してもらえるかと思うのである。

 この本の出版、装幀その他については、又もや串田孫一さんのひとかたならぬお力添えを頂いた。ここに改めてお礼を申し上げる。

   一九六九年十一月七日立冬の日
                     鎌倉市山ノ内明月谷 淡烟草舎にて
 
                             尾 崎 喜 八

 

 

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音楽への愛と感謝
 昭和48(1973).8.30、新潮社

 

あとがき

 昭和四十三年一月から四十七年十二月に到るまる五年間、『音楽と求道』の名で雑誌「話術新潮」に毎月連載した文章を、ほぼ全部集めて此処にこの本を編んだ。今改めて読み返すと幼稚な個所や平凡な部分が少なからず発見されて恥ずかしい気持に打たれるが、それだけ実力が乏しかったのだから仕方が無いと諦めている。ものを書く際にはどんな折にも心や筆に油断が有ってはならない。心情の緩みとペンの独走。この事は今後も深くみずから戒むべきである。
 幼くして歌というものを教えられて以来、更に長じてロマン・ロランの書くものに親しんで以来、音楽は私から離れなかった。その美は私を喜ばせ、鼓舞し、慰め、また時に私を鞭撻しつつ精神を高揚させた。私の詩や文章、つまり今日までの私の仕事は、すべて音楽(それに自然)から養われたものだと言える。もしもこんな事が言えるのだったら、私は詩人としてのジャン・クリストフでありたかった。音楽の美に装われながら文学の仕事に一生を捧げたかった。そしてその望みは、多少なりとも叶えられたように自分では思っている。
 弱まる事のない愛と感謝を抱きながら、これからも未だ音楽について書きたい時や、書きたい事があるだろう。否、一見どんなささやかな事柄でもどんな短い文章でも、私をうながして筆を取らせる機会はなお有るに違いない。頼まれたのではなくて自発的な動機から書く音楽への讃美の歌。それを思うと最早さして永くもないであろう余生にも楽しみがある。今までは半ば生活の賁を得るためでもあった文章書きが、これからは純粋で至福な瞬間を与えてくれるだろう。そういう自由さが早く欲しい。
 この本が世に出るためには多くの人々の助力と声援とがあった。親しい友人串田孫一君、嘉納忠明君、新潮社の佐野英夫君、川島真仁郎君、青木頼久君たちの一方ならぬ尽力にあずかった。又これを書いている間じゅう絶えず鼓舞激励を寄せられた多数の読者諸君の事も忘れられない。併せ記して心からの謝意を表する次第である。

   一九七三年五月五日
                       鎌倉市山ノ内明月谷にて

                             尾 崎 喜 八

 



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