初期作品(単行本未収録)


   ※ルビは「語の小さな文字」で、傍点は「アンダーライン」で表現しています(満嶋)。

 
  「ある夜」(創作)    
       

 

 

                   

 「ある夜」(創作)

          雑誌「我等」第1巻第五號 (11~22頁)大正八年四月十五日発行

          ※この作品は 堀 隆雄 氏からテキストファイルをご提供いただきました。

 妻が死んでから、自分には、たまらなく寂しくなる夜がよくある。居ても立つてもゐられなくなる。部屋の中で目に入るものが一つ殘らず思ひ出の種になる。この思ひ出に心を浮べ、妻の殘して行つた空氣の中で、樣々なことを考へてゐられる時はいゝ。しかし寂しさが嵩じ、どうしてもあれは二度と自分の處へ歸つては來ないのだと思ひ初めると、もうじつとしてはゐられなくなる。自分は直ぐ家を飛び出す、そしてあてどもなく歩き廻る。そして疲れ切つて歸つて來ると氣分は幾らか輕くなつて樂になる。今はそう度々ではなくなつたが、初めのうちは、毎晩のように自分は散歩をした。散歩といふよりは歩き廻つた。
 その頃の事である。自分は、一生のうちにも幾度とはないやうな經驗をした。勿論生れてから今日に到るまで、こんな經驗は一度もした事はなかつた。
 自分の力が、此の經驗の事實とその事實の持つ精神とを、より善く生かして呉れゝば自分は滿足である。
 曇つた三月の初めの、寂しい晩だつた。自分は昨夜から讀みさしの本の先を讀んでゐた。すると、自分の部屋は往來に向つた二階であるが、往來を此方へ歩いて來る女の下駄の音が、本を讀んでゐる耳に入つた。自分には或る一つの下駄の音の感じがよく分かつてゐた。妻の來る時の下駄の音がそれであつた。どんなに違つた時間にでも自分はその下駄の音で妻だと云ふことを直覺した。そして、自分の直覺は殆んど誤つた事がなかつた。
 自分は双方の家庭の事情のために、妻と同棲してゐなかつた。それで妻は、この三年餘りと云ふもの、殆ど毎晩缺かす事なく自分の下宿へ訪ねて來た。
 處が妻が死んでからと云ふもの、自分の直覺はあてにならなくなつた。無論此の世にゐる筈はなく、又ゐない者が訪ねて來る筈はないのであるから、頭から下駄の音などを問題にしなくつていゝ筈であるが、習慣は、未だに自分から拔けないで、ともすると自分は、靜かな夜の窓の下に鳴る下駄の音に僞られて、殆ど本能的に、『おや!』と耳を傾けるそんな時は勿論厭な氣持になる。その上『だまされた』と云ふ感じと、『こんなにも自分は彼女あれの事を思つてゐるのに』と云ふ何かを恨む氣持と、『もうどんな事があらうと、二度と歸つて來やしないのだ』と云ふ絶望的な、やけな氣持とが一緒になつて、何とはなしに腹立たしくなつて來る。そして仰向けに倒れて太息をつく。そんな時の自分は勿論現世的な考へばかりに支配されてゐる。肉體以上のものは殆んど考へられない。無限のものに對する意識は、この渾沌とした現世的の意識に覆ひかくされて、黑雲のうしろの空のやうである。無限最高の青空は、その片影すらも見せない。
 その晩も自分はだまかされた。前に書いたやうに本を讀んでゐると下駄の音がした。同時に、絶へて久しい咳拂の音がきこへた。それが兩方とも妻の特色を持つてゐた。妻は、自分の處へ來る時には、必ず向ふから來ながら輕い咳拂を一つした。自分はそれを、『來てよ』と云ふ合圖のやうに思つてゐた。妻も終ひにはそれを意識してやるやうになつた。
 足音と咳拂ひと、この二つのものは完全に、自分を訪ねて來る妻のそれであつた。若し此の時、自分が机の前の妻の寫眞を見てゐたが、或は、はつきりと妻の死んだ事を意識してゐたかしから、幾らその二つの音が似てゐやうとも感違ひするわけはない。しかし、自分はどうかした拍子で、うつかり妻の死んだ事を忘れる事が今でもよくある。と云ふよりも、ぼんやり生きてゐる時と同じやうな氣持でゐる事がまゝある。丁度そう云ふ時であつた。自分は割に身を入れて讀んでゐたから尙そうだつたのかも知れない。躊躇も反省もなしに、自分はいきなり立ち上つてがたりと窓をあけた。自分は本能的に首を突き出して、下の往來を見た。同時に、『又やられた!』と、殆んど雷光の速さを以て自分は心の中で叫んだ。
 あゝ、しかし、未練は、愚かな執着はこんな時にも自分のうちにに頭を擡げる。此の未練は、言葉を以て現はせば、『念の爲め』と云ふ意味になつて、自分の憐むべき妄想を認める唯一のものであつた。自分は此の『念の爲め』を口實にして、そして實際、『若しや』と云ふ自分ながら可哀さうな、空な心だのみを抱いて、今丁度下を通る女の姿を見下した。此の時一刹那の緊張の仕方は、氣の毒な位強いものであつた。
 しかし、それは、妻に似てもつかない女であつた。
 『當たり前だ! 馬鹿!』と、自分は自分に怒鳴つた。しかし次の瞬間には、悲しみとも、寂しさとも、やけとも、恨みとも、一口には到底云ひ現はせないやうな、複雜な、絶望的な氣持になつて自分は横つ倒しになつて、頭をかゝへて唸つた。
 しかし、渾沌の闇から遠く蒼白い曙の來るやうに、暗黑な雜念に煙り切つた自分の頭の中にも、次第に冷徹な、澄み通つた理性が、水のやうに浸みて來た。苦しい興奮は靜まつた。しかし今度は本當の寂寞の感じが氷のやうに張りつめ初めた。是こそ自分の最も苦しく思ふものであつた。この兆候を此頃の經驗から知り初めた自分は、矢庭に起き上つて、木箱から一册の薄い本を拔き出して家を飛び出るやうに出た。
 自分は初めに書いた不思議な經驗とは是から書くものゝ事である。
 自分は足に任せてどんどん歩いた。自分の家は厩橋の近くにあつた。自分はその橋を渡つて隅田川の向ふ側の町を歩いた。割下水を眞直ぐ進んで餘程行つてから左へ折れた。まるで知らない場所を曲りくねつた暗い寂しい道ばかり歩いた。すると業平橋の近くへ出た。それから小梅へ出た。そしてとうとう向島の堤へ上つた時は、『一時間は歩いたな』と思つた。
 小梅へ來た時分には、自分の頭は平常に復してゐた。もうさつきの自分ではなかつた。自分はよく醉つたやうな氣持になる。自分の母が、子供の頃の自分に、よく『お前、そんなに癇癪を起こすと氣狂ひになるよ』と云つた。年をとつてからも自分にその癖は拔け切りには拔けなかつた。家を飛び出した時がそうであつた。唯、一つ確かな事は、若し疲れて何處かで休む時のために、自分が本を一册拔き出した事と、その本が、ある英吉利人の書いたベートヹンの傳記で、それを特に自分が突差の間にも擇んだ事であつた。
 自分は外へ出る時は大抵何か一册本を持つて出る癖があつた。讀まないでしまふ事もよくある。しかし電車などで、本を持つて來ないとなると、怠屈で、何となく時間を空につぶすのが馬鹿らしくつて仕方がなくなる。そして持つて來なかつた事を後悔する。それが癖になつた。その晩も自分は、本だけ擇んで持つて來る餘裕が、頭のどこかにあつたに違ひない。
 自分は吾妻橋を渡り切つた時一寸考へた。このまゝ駒形の河岸を通つて歸らうか。どこかで休むで歸らうか。
 どんどん歩いたので陽氣は寒い方だつたが自分は汗をかいてゐた。それに咽喉も乾いてゐた。それでどこかで休むで歸らうと思つて淺草の公園へ行く事にした。時計をみると、もう十時半を過ぎてゐた。
 自分は或る珈琲店へ入つて、そこの一番隅の食卓に向かつて疲れた身體を椅子に凭せた。そしてソーダ水を命じた。一息のそれを飲み乾して代わりの來るのを待つてゐる間に、又もや自分は、さつきの情けない感情に似た感じの、しかし今度は或る諦めを混へて、靜かに湧いて來るのに氣がついた。それは自分がこう云ふ處へ來る時、妻を失つてから時々感じる種類のものであつた。そしてそれは常に一つ一つの思ひ出を持つてゐた。自分は一度こゝへ妻と一緒に來た事があつた、それが又も自分に或る寂しさを感じさせるのだと云ふ事には、初めから氣がついてゐた。自分はつとめて忘れやうとした。そして持つて來たベートヹンを讀み初めた。
 代りのソーダ水が來た。自分はコップを口へ當てながら見るともなしに此の珈琲店の中を見渡した。廣い部屋の中には自分を入れて十二三人位の客しかゐなかつた。もうおそかつた。入り口の硝子戸には、布が下ろしてあつた。
 見渡した自分の視線は、ふいと二つの鋭い視線にぶつかつた。自分はその視線を避けないで射返すやうにその目の持主を見つめた。それは見た事のある顏であつたが直ぐには思ひ出せなかつた。自分は、斯くも大膽に自分の顏を見つめてゐる男は誰であるかと、その名前を思ひ出さうと考へた。顏はたしかに幾度か見た顏である。しかし名前は? そしてどこで見たつけ。おゝ! と自分は思ひ出して心の中で叫んだ。『あいつだ。あの男だ。ピアニストのBだ。』
 そう氣がつくと、自分は、そ知らぬ顏でどこと云つて極つた處もなく目をやりながら、しかしそれとなく彼の視線を避けながら彼を注意して見た。
 それには譯がないではなかつた。
 自分が今Bと書いた男はピアニストであつた。自分は彼を四五年前に初めて神田のある學校で見た、その時彼はシヨパンのものと、リストのものを彈いた。自分はその以前彼より良い人のを聽いたことがなかつたので、かなり感心した。そして眞面目さうな、いゝ奴だと思つた。その後違つた場所で二三度彼の演奏を聽いた。段々耳の肥へて行く自分にとつて、もう彼は最初のやうな魅力を自分に與へる事は出來なかつた。只、初めての時の印象は、忘れ難いものとして、今も腦裏に殘つてゐる。そしてその頃が彼にとつても、少なくとも得意に近い時代であつたに違ひない。當時彼は三十一二の青年であつた。
 彼が淺草の芝居小屋へ出ると云ふ新聞の廣告を見たのはそれから二年程立つてからの事であつた。自分は變な氣がした。どんな事情からそんなに身を落とすやうになつたのか知らないが、是は又少しひどすぎる話だと思つた。その頃自分はロマン・ロランの音樂家の評論を本にして出して間もない時だつたし、ベルリオの自傳を譯し出してもゐたので、若い不遇な音樂家には、一種の愛を感じてゐた。何となく味方になつてやりたいやうな、幼稚さを混へた愛を感じてゐた それでBの境遇にも同じやうな動機から同情した。元より自分は彼の事情は何にも知らなかつた。只しかし、それが主として金のためだと云ふ事だけは容易に想像のつく事柄だつた。『誰が好きこのむで、淺草あたりまで下つて行くものか それは俗衆に媚びて藝術を賣ることだ。あいつにとつても是は餘程の苦しい境遇から決心したことに違ひなからうし、又、たまらなく厭な事に違ひない。斯んな事さへ自分は、はつきりでなくつても、漠然と考へたものである。
 彼は公園の或る芝居へ出てゐた。そこでピアノの獨奏をしてゐた。自分は二年ぶり位で初めて彼を淺草公園の小芝居の舞臺の上に見出した。
 彼はその時ベートヹンの『アツパシヨナタ』を彈いた。自分は彼の周圍や、馬鹿な觀客に對する不快の反動から、彼に好意を持つ事が出來た。そして彼は、こんな場所へ出ることはその時はまだ初めての經驗からか、極めて眞面目に、場所柄には不調和な程うぶな態度で彈いた。自分はその氣持ちにも同情した。そして、今考へると冷汗のやうであるが、『アツパシヨナタ』の途中で、觀客の中の二三人が、『もう澤山だ、止めろ止めろ! そんな木琴の寢言見たいなもの!』と叫んで滿場を笑はせ、彼の顏を眞赤にさせた時、自分は眞劍になつて、特等席から『馬鹿!』と怒鳴つた事がある。その時自分は昂奮した餘り、彼に會つて、その藝術的貞操を汚さないやうに、本當の味方はその人間さへ善ければどこかにゐるからと云つて慰めてやらうかと思つた。そして實際、樂屋へ通じる廊下を決心がつき兼ねて往つたり來たりした事があつた。しかし自分は止めた。自分の同情を素直にうけて呉れゝばいゝが、さもなければつまらない俠氣だとも思つたし、又、彼に對する自分の信用を實際よりは少し過ぎてゐはしないかと思つたからでもあつた。
 その後三四度違つた芝居で彼の演奏を聽いた。その度に自分は彼の藝術的良心が荒んだやうに感じて好意に持ちにくくなつた。反感は持たないまでも、以前よりはずつと冷淡になつた。その後自分は一年近く彼の演奏を聽く機會を作らうとしなかつた。自分は殆ど彼のことは問題にしなくなつたし、忘れてしまふやうになつた。
 その彼、Bに今自分は逢つた。彼が時々穴のあく程自分の顏を凝視するのは、自分の目付きがどことなく他の人間と違つてゐるからか、或いは少し醉つてゐるらしい彼の目が、誰かと自分とを思違ひさせてゐるからか、と思つた。彼は少し醉つてゐた。連れはオペレットの俳優らしい若い男が三人と、そう云ふ社會の人間と友達づきあひする事を名譽位ひに考へてゐるらしい。たまらなく輕薄な顏をして、流行の洋服を着た青年が二人であつた。Bは、彼等とは段違ひに、殆んど見すぼらしいと云ふのに近い古い着物を着てゐた。
 彼等の食卓には、七八本のビールの壜が空になつてゐた。彼等はビールを飲みながら、問題にならない程度の音樂の智識を振り廻し合つたり、馬鹿すぎる噂を話題にして大聲で饒舌つてゐた。彼等はよく下らない事に笑つた。その笑ひ方にも彼等らしい處がよく現れてゐた。即ち、俳優達は二人の青年のやうに、どこか金持ちの息子らしい風を模傚しやうとした。そして又二人の青年の方は、つとめて俳優位に見られたいやうな、不思議な表情をした。要するに何も餘り大差はなく、丁度いゝ仲間のやうに見える位、下等な一團であつた。
 只、その中で一人孤立してゐるやうに見えたのはBであつた。彼は殆ど彼等と話をしなかつた。たまたま誰かゞ話を持ちかけても心から取り合ふ樣子は見えなかつた。直ぐに沈默した。そうしてビールを飲んでは不機嫌らしい、充血した眼をあげて天井を見つめてゐたり、食卓を四つ程へだてた自分の方を見たりしてゐた。
 自分は、Bも變つたなと思つた。彼の鋭い目は深い目とは違ふ。それは不攝生と、荒んだ生活を背景とした彼の精神を反映する、粗暴な自暴自棄的な、皮肉な目付であつた。正しき者の嫌ふ目であつた。その光は小魔を喜ばす光であつた。俗に『凄い』と云ふ、そう云ふ種類の目であつた。
 その目が時々自分の方へ注がれる。自分は氣持がよくは無かつた。
 彼の他の仲間の一人がひどく醉つて、ビールのコップを差し上げながら、何とか女史と何とか君のために乾杯しますと云つた時、そして他の仲間が笑ひ出した時、今迄時々さげすむやうな目を以つて彼等の顏をちろりちろり見てゐたBは突然立ち上がつて自分の方へ歩いて來た。
 その瞬間自分は、『己に喧嘩でも仕掛けるのかな』と思つた。醉つた人間は、よく『顏を見てゐた』ことを言ひがゝりにして喧嘩を賣るものである。自分は立ち上がつて勘定をして出やうと思つた。之等の考へは實に一瞬間の事であつた。Bはもう自分の前に立つてゐた。そして一寸頭を下げた。
 『何ですか?』自分は密かに防ぐやうな態度と決心で斯う云つた。さつきから時々頭をかすめた『Bは變つたな』と云ふ考へが、今や此處で事實を以て證明されるかのやうに、自分は不安を感じた。
 『失敬ですが此の本はベートヹンですか?』斯う聽いた彼の言葉の調子は、案外眞面目でもあり、確かでもあつた。しかし自分は或る種の人間が云ひ掛りを云つたり強請したりする時、いざと云ふ場合に現はす性根の惡を強めるために、最初はおとなしく、下手したでに出るものだと云ふことを知つてゐた。たとへその場合のBに、この智識や感じのやうなものを當て篏めたのは氣の毒であつたとしても、確かにそうだと自分は思つた。それで
 『そうです』と簡單に答へた。
 『實はさつきあなたが便所へゐらしつた間に一寸表紙をのぞいて見たんですが』と彼は兵卒のやうな姿勢をして、變にむきになつて云つた。自分は尙固くなつた。彼はその先を云ひたさうであつたが言葉を切つた、そして自分の顏をじつと見た。
 『そうですか』自分は斯う云ふより仕方がなかつた。是以上何か云ふ事は、まだ心から警戒の手をゆるめない自分には不可能であつた。彼の仲間は此方を見てにやにや笑つてゐた。『馴合つてゐるのかな』と云ふ考へが頭にひらめいた、しかし『まさか』と自分は思つた。
 『濟まないですけれど一寸讀ましてもらへませんか。ベートヹンを僕は尊敬してゐるんです』
 彼は飽くまでも眞面目であつた。その調子の内にはどこか惡ずれのしない、云ひにくい頼みを思ひ切つて口に出すものの耻しさうな感じがあつた。何となく正直な、頑固な、素朴の處があつた。是等の感じが一つになつて自分の先入観念をうちこはし初めた。自分は彼の他意ない心持を信用しないのは惡いと思つた。少し疑ぐりすぎ、相手を惡者にひとりぎめしすぎてゐたと思ふと耻づかしく思つた。考へが此處まで來ると、自分は、彼のピアニストである事を自分が知つてゐる事を知らしたく思つた。そうしたら何かの動機で彼に自重心が出、現在してゐるであらう自堕落な生活から飜然と目を醒まして正しき道に立ち歸る、是が何かの機緣となりはしないかと思つた。しかし是丈け書いた自分の考への筋道は極めて瞬間的に進むだのである。自分は云つた。
 『僕は君のピアノを四年許り前に神田で聽いた事があります。あの時はひどく感心しました。』
 『おゝ!そうですか』と彼は驚いて唸るやうに云つた。彼は自分の顏をじいつと見つめた。彼は明らかに自分の一語によつて興奮したようであつた。自分も自分の斯う云つた感情で興奮した。
 『そうですか。そして此頃は?』
 『此頃は聽きません。君のは。』
 自分は云ひすぎたかなと思つた。そして慰めの意味で云ひ足した。
 『此の本貸して上げてもいゝのですよ』
 『そうですか、ありがたう。此頃の僕は實際駄目です。』
 彼は斯う云ひながら、急いで本を手にとつて立ちながら頁をはぐり出した。彼の輝く兩眼の上には、かぶさるやうに太い眉毛が八の字を寄せてゐた。唇は固く結ばれて、鼻は時々つく吐息のためにひろがつた。彼は或る頁を見出して貪るやうに讀んでゐた。自分は彼の表情から目を放たずに、その興奮した顏面を見つめてゐた。三分間位立つた。と彼は突然『おゝ!』と短い、しかし太い、腹の底から出たやうな吐息をついたかと思ふと。
『ありがたう。ベートヹンは矢張り一番純潔な人でした。』と吐き出すやうに云つて、自分に本を返した。自分は前よりももう一歩進んで彼に忠告して見やうと思つた。しかし彼はすぐにその後から斯う云つ放つて向ふへ歩き出した。
『彈きませう!』
 彼は壁につけて据へてあるピアノの方へ進んだ。そして椅子に腰を下ろして蓋を上げると、いきなり恐ろしく早いソルフヱツジオ(音階練習)をやつた。彼は戰線に立つて兵を閲する将軍のやうであつた。
 人々はその音をきくと一齊にピアノの方を向いた。彼の仲間のある者が立ち上つて彼のそばへ行つた。そして、醉つてもつれた舌で
 『おい。今頃何を初めるんだい。歸らうよ。あの子が待つてるよ』と云ひながらBの肩を卑しい女のやうな手付で叩いた。Bは右手で強くその男の手を拂ひのけておいて、さて彈き初めた。
 手を拂はれた男は
『ひどい事をしやがる』と、態と大きな聲で呟きながら元の席へ歸つてぐたりとなつた。部屋はしいんとなつた。皆耳をかたむけてゐた。
 それは『ムーンライト・ソナタ』であつた。
 今や此の廣い一間はベートヹンの音樂の海のやうになつてしまつた。一切が彼の天才の驚くべき力で征服されてしまつた。人々は半ば口をあけてぼんやりした。一つの物音もしない夜更けの珈琲店の一間の中を、輝くやうな音の波が互ひに打ち合つて渦巻いた。
 Bは額に太い血管を怒張させて、指先は蛇の樣に鍵盤の上をうねり廻つた。頬には汗がたらたらと流れてゐた。
 自分はこんな立派な、熱情に溢れた演奏を聽いた事は未だ曾てないと云ふ氣がした。是はBにとつて復活の演奏だと思つた。人間の復活の力が、これ程までに熱情に燃えるかと思ふと涙ぐましくさへなつた。自分はBのために祝したい氣がした。そしてベートヹンの偉大を心から認めた、Bにも何か感謝の記しを示したかつた。自分はBが讀みたがつた此の本を、今日の日の記念のためにと自分の心の感謝のためにBに贈るのを最もいゝ方法だと思つた。Bも喜ぶにきまつてゐると思つた。
 自分は立ち上つてピアノの方へ進んだ。音樂はまだつゞいてゐた。自分は萬年筆を出して本の扉に
 『B君におくる。君の立派な演奏への感謝のために』
 と書いて年月日を入れた。
 自分はそれを持つてピアノに近付いてわきの題に載せた。Bは一生懸命に彈いてゐるので解らなかつた。自分は少しはなれて立つたまヽ聽いてゐた。
 遂に音樂は終つた。Bはピアノの蓋をする時に本に氣が付いた。Bはそれを取り上げた。そしてそれを持つて滴り落つる汗を拭きながら自分の方へ近寄つて來た。その顏はさつき迄の彼とは別人のやうに輝いてゐた。自分は嬉しかつた
 『ありがとう。すつかり感心しました』と自分は云つた。
 『いや。あなたと此の本のおかげです』と彼は云つた。そして自分の手を握つて強く振つた。彼は涙ぐむでゐた。自分も涙ぐむでゐた。
 彼は自分がベートヹンの本を彼におくつたのを知らなかつたので、
 『此の本を二三日貸していたゞけないでせうか。讀み終わつたらすぐお返ししますが』と云つた。自分は、
 『是は私から君に御禮と御祝いに上げませう。よかつたらとつておいて下さい』と云つて、彼の手に本を渡した。
 彼は心から喜んだ。その喜びは演奏してゐた時の興奮と好箇の對象を以て限りなく美しいものであつた。彼は夜の明けたやうな顏をした。兩眼は、濃い、うづまいた髪の下から星のやうに輝いてゐた。
 彼は自分の住所と名前をたづねた。自分は名詞を持つてゐなかつたので紙に書いて渡した。彼も書いてくれた。自分は彼に自分の住所を知らせながら、少しの不安さへ感じなかつた。
 皆勘定をすまして外へ出た。もう十一時半であつた。彼は親しげに帽子をとつて自分に御辭儀をした。自分も彼と同じやうにした。自分達は右と左へ別れた。別れる時彼を見たら、彼は大切そうにあの本をかゝえてゐた。自分は嬉しかつた。心がある處まで届いた氣がした。自分は七八間行くと振り返つた。その時、仲間と別れて別の方向へ急いで曲つて行く彼の後ろ姿が瓦斯燈の光で見えた。
 自分は、ある一つの感情を抱いて家路へ向かつた。それは喜び以上のものであり、悲しみ以上のものであつた。否、それらはすべての上にある、一つの名狀し難き清き感情であつた。それは永遠或は不滅とでも名付くべきものゝ感じであつた。しかし今の自分には未だ未だ一つのそう云ふ清き感じと云ふのみであつて、はつきりと口には云ひ現せないものである。

(完)

 

  

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