(昔初めて此詩人を私に知らしめた友高村光太那君に此の小論を捧げる)
「否、もはや涙を流すまい。我等のうちに死なぬ男、
死ぬ事の出來ぬ男ありとすれは、それは確かに彼である」
(マアテルリンクのヹルハアラン追悼演説)
私はヹルハアランの四つの肖像を持つてゐる。一つはシユテフアン ツワイグのヹルハアラン論」の英譯についてゐるもの。もう一つは同じ本の佛蘭西譯についてゐるもの。尚一つは彼れの選詩集の巻頭のもの。そして最後にはアルベエルド ベルソオクオルの「エミイル ヹルハアラン」の口繪になつてゐるもの。私は此等の記念的な美くしい寫眞を日夜眼の前にして、今は亡い彼れの最も親密な風貌に接することをせめてもの心遣りとする。
日本でいちばん普通に知られてゐるだらうと思はれる彼れの肖像は、ツワイクのあの苔色こけいろの表紙の英譯本についてゐるものである。彼れはアングルの森の中、カイユ キ ピクの隠棲エルミタアジユの窓から、多分、もう明るいほのかな純潔さに飾られた朝の谷の風景を眺めてゐる。むかうの方、綠と金の初夏の光明に向つて、いつもの小徑こみちが隱れたり現れたりしながら登つてゆく。下の方からは涼しい流の音が傳はつて來、ぴかぴか光る空間は、時時、「白い先觸れのやうに飛んで來る小鳥逹」の翼の音に滿たされる。そして窓の前の小さな庭では、黄金の薔薇や眞紅の立葵たちあふいが、露の晴れてゆく時の朗らかな顏を上げてゐる。私は此のいつもの天鵞絨服にソフトを冠つたヹルハアランを見て、彼がこれから毎朝の散歩に出かけるのだと想像するのが好きである。ヘノオの太陽がどんなに大きく、ホンネルの谷の青葉若葉がどんなに素晴らしいだらう。彼れは出かける。「朝から、畑や牧揚を縫う例の大道を、明るく輕やかに、風と光明とを身に纒つて。」そして彼れは行進する。「空氣と大地とを愛する事や、廣大な者となり、熱中し、また世界と萬物とに入りまじる事を誇としながら」! 村の百姓や牧者逹はこの彼れを、初めびつくりして「森の氣違ひ」と呼び、それから愛と尊敬とをもつて「森の旦那」と呼んだ。そして私としては、茲に、自然の永遠の愛人、風や天空や樹木の疲れる事の無い讃嘆者、あの健康と歡喜と熱烈な生活との詩人、且つはあの最も懐しい「時レズウル」や散歩や我家のまはりの作者をそのまま見るのである。その絶美な自然の雅歌カンチツクと共に、此處に立つヹルハアランは永く人の眼底に殘つて、いつまでも思慕されていい。
ツワイグの佛譯本のでは、彼れは同じ住居の戸口に立つてゐる。今度は帽子をかぶらず、例の厚い長い口髭の中に喞へたパイプを、大きな右手で持ち添へ、左手をズボンのかくしへ突込んでゐる。戸口は伸びるに任せた蔓薔薇つるばらで緣どられ、大水おほみづのやうな正午の日光を浴びながら、内部は反對に暗く涼しい。そして此の全くフランドル人らしい精力的な重重しいヹルハアラン、この強剛な體軀を暑い日に曝らし、すこしの憂欝と多くの意志とをその全風貌に現はしてゐる老ヹルハアランは、古代の海豪ヷイキングを、また近代叙情詩の戰野に號令する一人の元帥マレシヤルを私に想はせる。ここでも彼は、間違なく、あの「無量の莊麗」の、「高い焔」の、「全フランドル」の、又わけてもあの「波うつ麥」の、比類も無い光耀で自らを飾つた詩人として現れてゐる。
高貴で、精悍で、自然の品位と威嚴とを備へてゐるやうに思はれるのは、書齋の書棚の前のヹルハアランである。まるで一人の學者か―—殊に一人の科學者かのやうに見える。機械を歌ひ、金銭を歌ひ、科學を歌ひ、人間の力のあらゆる分野に於ける英雄を歌ひ、世界に存在する一切の觀念や思想を歌ひ、そしてレンブラント、ルウベンス等の輝かしい評論を書いたヹルハアラン。すべての陰暗な、複雜な、錯綜した、相撃つ力のもやもやを、燦然たる光明の前に曳きずり出し、これを鍛へては鍛へ直し、孜孜と勉めて倦むことの無かつたヹルハアラン。所詮しよせん人間の高い信用の爲めに熱中せざるを得なかつたヹルハアラン。このヹルハアランを最もよく現はしてゐる名譽は、選詩集巻頭の肖像に與へられる。
そして最後のもの、ベルソオクウルの本の顏こそは最も悲壯である。此處にはあの世界讃歌の、輝輝とした喜ばしい長音階メイジヤは無い。これは短音階マイナアのヹルハアランである。いつも彼れの中心を眼に見えず貫いてゐて、其作品の裏を宿命の風かのやうに吹いてゐる悲劇的の要素が、此處ではその孤獨の姿を悄然と露出してゐる。深く刻まれた皺は戰場の轍わだちの痕のやうに老の顏面を走り、雙の瞳はその視點を怪しく交叉して、あらぬ遠方を凝視し、エミイル ヹルハアランは重たく疲れて、渾沌たる世界の動亂に聽き入つてゐる。私はこの状態を悲壯な放心の其れと云ふべきであらうか。恐らく世界が曾て見たうちで最も熱狂的なこの詩人は、その最も彼れらしい場合には、常に言語に絶して美くしく、神聖に、また荒荒しく身を顫はせてゐた。然り!そこには確かに放心を想はせる何かがいつも有つた。そして今や此顏は彼れの運命の最後の結論であり、その經歴と勞苦の年月との要約である。歐洲大戰に際しての祖國白耳義への、獨逸の罪惡は、「人間の優しさと尊嚴な大地」との間に彼れが奮闘して打建てて來た平和主義パシフイズムを、人類相互の黄金的盟約を、一擧にその根柢から突き崩してしまつた。生れて初めて彼れの思想の中に憎みが眼ざめた。(そしてマアテルリンクも亦この呪咀の嵐に難破する!)其歌は憎惡と憤恨との響に顫へ初めた。彼れは終始渝らず深く愛し讃歎して來た獨逸を憎んだ。そして「憎みを拾てよ」と云ふ親友ロマン ロランの兄弟のやうな歡告に向つて、「若しも私が憎むとすれば、それは私の見たこと、感じたこと、聽いたことが、憎むべきものだからである。…………私は自分が正常な者であり得ないことを承認する。今私は悲痛に滿たされ、憤怒に燃えてゐる。私は單に火の近くにゐる者では無くて、實際に焰の中にゐる者である。それ故私は惱みまた哭く。その他の事は私には出來ない」と、斯う答へずにはゐられなかつたヹルハアランは、曾てはあのゴチツク建築のやうに堅固で莊麗な詩思想家の中で、あれ程にも讃美したカント、ヘエゲル、ライプニツツ等を放逐し、その「血塗れラペルジツクの自耳義サングヲラント」を、深い感動を以て、昔彼自身であつた者ロンム キル フユ ドトルフオアに獻げるのである。私は自分の心から愛し尊敬するヹルハアランに對して、此點いささかの遺憾を感ぜざるを得ない事を悲しく思ふ。しかもあんなに善良で單純で、親切で純潔だつたヹルハアランを、實にその最も美くしい詩で彼自身云つたやうな、「醉つて夢中になり、猛烈に、喜び又むせび泣いて、はからず落ち込む溝の中の草」である愛すべきヹルハアランを、そして世界の到るところに散在する無數の未來あるヹルハアランをさへ、こんな地獄に突き落す「戰爭」を呪はずには居られない者である。
×
「ヹルハアランを愛した人人にとつて、もはや此世で其れに上越す完全な喜は無いであらう」と、彼れの若い友人アンドレ ド ポンシエヴイイユは云ふ。實際彼れを個人的に知つた人人が到底彼れを愛せずにはゐられなかつたと云ふ事は、よく衆口の一致するところである。是は生れながらにして備つてゐた彼れの德の最大のものと云つていい。ホヰツトマンの意味での發電エレクトリツクする肉體ボデイイを彼れは其まま持つてゐた。ちよつと彼れと一所に居れば、其事が直ちに愉快と幸福と愛との實際の教であつた。卑小な感情成功への焦燥、物質的慾望などは、その一生を通じて彼れの多く知らなかつたもののやうに思はれる。自分の事への恬澹さ、他人に對するその無比の親切、その燃えるやうな愛情、そしてすべて自分に近づく者に幸福を與へる事のその喜は、人間としての彼れが持つ最大の特質であつた。そして此れこそ、一度でも彼れを知つた事のある最も高貴な魂を悦ばせたと同時に、最も單純で質朴な心をも悦ばせたものである。カミイユ ルモニエ、ウウジエン カリエエル、エレン ケイ、ロマン ロラン、マアテルリンク等から、市民、青年藝術家、學生、農夫、木樵り、牧者の末に至るまで、この善心ポンテの光を感じ、又それに動かされずにはゐられなかつた。まことに其友人、「智慧と運命」の作者が云つたやうに、「彼れは決して否ノンと云ふことが出來ず、また休みの無い努力の生活の中から苦心して得た僅かな暇を、自分のために利用する事も知らなかつたのである。そして私はヹルハアランの此の底知れぬ善良さを考へる時その宗教的な獻身の美が夕暮の風景と人間の内部の善とを一樣に浸して、恐らくは其處にミレエの「晩禱の鐘アオジエリユス」よりも更に遠く更に嚴かに甘やかに、又更に懐しい音樂を響かせてゐる、あの寛仁の詩を思ひ出さずにはゐられない。
村村は並木路の奥で物思ひに耽つてゐた。
愛し且つ善く生きようとする
心服的で歡待される善良な意志が
存在をのびのびさせてゐた。——そして精神は
感激の喜か氣高い惱かに醉つてゐるやうに見えた…………
憂鬱なすがすがしい或る善良さは
’風物から心へとどき、
光と云ふ光はすべて、矢のやうに、
その力を深く射ぬいた。
靜穏と祈とに青い遠方では、
傾いた陰が光をめとつて、
組みあつた腕は地から上がり、いや增して登り、
また熱狂するかと思はれた、
そしてこんな優しさの熱情は君を苦しめ、
烈しく爆發する程であり、
また宥恕ゆるしそのものよりももつと高く、
忽ち何かに欺かれ、その餌食とさへなり、——さては
喜悦のために死にたいと云ふ
そんな途方もない慾望に身を任せようとする程であつた。…………
「忽ち何かに欺かれ、その餌食とさへなり、さては喜悦のために死にたいと云ふそんな途方もない慾望」! ああ、ヹルハアランが此れを云ふ時、それは何と思ひがけ無く、熱烈單純な彼れ其人の心の深淵を露出してゐる事だらう!他人を疑ひ何かを疑ふなどと云ふ事は、彼れの夢にも知らない事柄であつた。ちやうど「音が自分を欺かうなどとは考へもしなかつた」ベエトオヹンのやうに、ヹルハアランは此世と人間とを頭から信じてかかつた。ここから彼れの感激の倫理が生れ、ここから彼れの讃歎の信條が生れる。しかも是れ、巨大な拳か柱石かのやうな彼れの意志を以てしてである! そして子供や聖者を思はせる此の純潔無垢な信と、肯定と、熱誠とが彼れの氣高くも單純で正直な、澄みわたつた質朴な心を其の光明のマナで濡らし、また「その頭の上を冬が六十たび通りこしてゐるにも拘らず、猶彼れの魂の活潑さを、否寧ろ神神しい其の若さ」を、ますます鼓舞したのであつた。
他人を賞讃したとて自分の大が滅るわけではない、と、こんな尊大な事さへ彼れは考へなかつた。それどころでは無かつた。彼れにとつて此世は、人が生きるに價する爲めには、能ふべくんば、優秀なるものの最大限の廣袤で無ければならなかつた。彼れは心から他人の努力を認め、長所を認め、それに傾倒し、且つ其れを讃歎した。非難は……また時には研究的批評でさへも、何れかと云へば―—彼れの領分では無かつた。その永年の雜多な經驗と、その本來の明智とから、人心のあらゆる機微に通じ、人間と世界との必ず横ぎる幾多の危機を豫め洞察して居たとは云へ、それ以上に、此の地上で一切生命の同一性イダンチテを底の底まで信じ込んでゐた理想主義者ヹルハアランには、他人の過誤、認識不足、偏見等、すべて精神エスプリの弱さから起る現象を、人間の消極的方面を、冷かに―—或は熱烈にさへも―—責め論あげつらつて、此れを殺戮することが出來なかつたのである。それにしては彼れの心臓は餘り大きく、彼れの夢は餘り深かつた。古い宇宙に新らしい人間の心を注ぎこむ爲には、熱誠の境にまで高められる相互の讃歎こそ必至の條件であつた。なまじひな選擇や批判では無かつた。愛と信念とに由る熱い抱擁であつた。來るべき時代の繁榮の爲めには、犠牲たる事をさへ喜んで迎へる人間相互の獻身であつた。
「頭腦よ、おん身こそ獨り我等の明快な行爲を支配する。
愛する事、そは服従する事であり、讃歎する事、そは高められる事である。
おう、内陣の陰の中、生命を映して
それを輝かす、こんな幽妙な窓繪硝子!………」
そして藝術の世界に、ポオ、ボオドレエルのやうな夜と禍まがつ日との天才があるとするならば、一方に彼れのやうな頼もしい光明的な男がゐて、世界や人類の、何ものをも拒絶しない、萬物を抱擁する、壯嚴な交響樂的サンフオニツクな調和の夢想を歌つてくれるのは有難い。そして其の樂器の大群に未來の夢の旋律を乗せて、遠い曙の潮騒しほざゐかのやうに、世界ウオオルド動機モチイブの赫耀たる反覆變化を我等の耳へ響かせて來る力ある藝術こそ、如何にもエミイル ヹルハアランのものらしいのである。
このやうな彼れは、それ故、科學と思想と藝術との疲れる事を知らぬ攝取者であり、——寧ろ其等の飽くことの無い「酒豪フラン ビユウル」であつた。彼れは諸所の美術館や蒐集家への熱心な訪問者であつた。最も古代のものから最も近代のものに到るまで、美術は彼れの心酔と愛との對象であり、又その共感の焚木であつた。ミケランジエロ、レンブラント、ルウベンス、フアン アイク、プツサン等の、嚴肅な、力強い、悲劇的な、廣大な、或は豪奢で華麗な藝術に夢中になる彼れは、一方現代佛蘭西、白耳義其他の諸国の美術家等の運動や作品に、深い興味と同情とを持つことが出來た。彼れは後年「破壊された白耳義の都會ヴイイユ ムウルトリイド ベルジツク」と云ふ一書で、その星座のやうな古い都たちを輝かしてゐた美術的記念物を、深い造詣と愛惜とを以て語つた。(一九〇六年に東京で出た「日本の版畫」Images Japonairesと云ふ本に、彼れは其の本文を書いてゐると云はれる。)また彼れはその周圍に集る青年美術家逹の爲に、よく喜んで姿勢ポオズした。そしてカイユにある彼れの家は是等の繪や彫刻で愛すべく飾られてゐた。
また彼は精力的な讀書家であつた。彼をよく知つてゐた友人等が、どうしてそんな時間が彼れにあるかと怪んだ程、その活動的な、創作的な毎日の時間の中で讀書した。彼は蒼然たる古典から毎日の新聞雜誌まで熱心に讀んだ、しかもたとへ其智識の攝取法が、何等學者的な、組織的體系的なもので無く、實にあの新大陸のモンスタア、ワルト ホヰツトマンのやうなものだつたとしても、其れは彼れの場合何事でも無かつた。彼れのは人間の努力と天稟とに忽ち共感する心臓であり、又それほど純眞無垢の探求者であったのだ。彼れは知り且つ讃歎する事に由つてますます富んだ。それは彼れにとつて未來への希望を充電する事であり、その確證を己が信仰の中へ投げ込む事であつた。人は、此事に關する彼れの最も誇りかな歌を、その詩集「無量の莊麗」や「擾亂する力」のあらゆる頁に見出だすことが出來るであらう。
ヹルハアランの此種の感歎は、一つには彼れの天性の無限の善良さと愛とから流露したものであつて、彼れがよく或る作品に向つて眼を圓くしながら、「これは驚くべきセ テトナンものだ!」と叫んだと云ふ事は、友人等の間で逸話の一つにさへなつてゐたヹルハアランの「感心。」それは彼れに接してゐた若い藝術家達の勇氣にとつて無上の激勵であつたに違ひない。かうして彼れは、同國の、無名の、貧しい田園畫家ペルニエの爲めに、まるで其美くしい詩のやうな、親切と愛とに滿たされた素晴らしい卓上演説を遣り、美術研究家で詩人の若い佛蘭西人ボンシユヴイイユを父親が愛するやうに愛し、またカイユに暫く滞在してゐた維納の青年作家シユテフアン ツワイグを、その博學のために驚歎して眺めたのである。そしてラインやダニユウブの國の人人を指して、「あっちの人達がス ク デ ジヤン色色の事ラ サアヴを知つてゐるデ シヨオズのには驚くセ テトナン! あのヌウ人達ソンムのそばにゐるデ ニジヨランと我我ア コオテは無學ドウウだ」と、好人物らしく述懐せずにはゐられなかつた。そして又彼れに見て貰ふために自分の詩を持つて來る若い詩人逹に、その勇氣を沮喪させない爲めに彼れはよく斯う云つた。「この最初のキ セイ又イリヤ不確な片言プウテエトルのアン中にジエニイ、それキと氣づかシニヨオルれないダン天分セ プルミエが恐らくはエ コンフユある事を誰が知らうバルブユテイイマン。」
かうして、人間と世界とに對するその限り無い信仰と善意と、また底知れず無邪氣な感動と讃歎との中で、彼の生きる毎日の晝間は希望に滿ちて溌溂と清朗に、その夜は星辰と愛とに滿ちて深遠に又平和であつた。
×
カイユ キ ビク。「突き出た石。」小川の流れと傳説の岩。そしてアルダンヌ生れの詩人アルトウウル ランボオが
「それは光に泡立つほんの小さな谷間」
と云つたところ、其處でヹルハアランが、一八九九年から一九一四年まで毎年の春と秋とを暮らし、其處に「私の戸口は愼ましく「私の家は貧しい」と彼自身の歌つた、僅か二間ふたまか三間みまの小さな家のあつたところ。そして其處でこそ彼が「擾亂する力」以降「高い焰」に至るまでの、燦然たる詩集の主要な作品を書いたところ、私は彼の生活を述べる前に、先づこのカイユの小さな村と、其處にあつた詩人の家の模樣との概念を傳へて置きたい。それには、殆ど唯一の文獻のやうに思はれるアンドレ ド ポンシユヴイユの叙述を譯出して抜萃する。
「地圖をひろげてヷランシヤンヌの東方國境を辿ると、白耳義の土地が、その地點で、あだかも佛蘭西の一角のやうに食ひ込んでゐるのを發見するだらう。この尖つた土地の舌の先まで、ちやうどロアザンとアングルの間まで森林か延びてゐるが、其處がカイユ キ ビクと呼ばれてゐるホンネルの低地である。北向きのその隠栖から、ヹルハアランは彼れの右にも左にも、また背後にも、佛蘭西の地を持つてゐた。…………
「私が初めて ロツシイダン」誌上で此の驚歎すべき詩(註、「私は今宵捧げ物として」の詩)を讀んだのは其後の事である。それから十八の年に、その作者がカイユ キ ビクに住んでゐるのを知つてゐた。私は彼と近付きになりたいと云ふ大望を起こした。しかし其人が何處にゐるのか確かには私も知らなかつた。それで私は直き近くのロアザンの町の郵便局で問合せた。けれどもはつきりした返事を得られなかつたので、ロオランの乳屋へ往く前に、先づ眞直ぐにフラムリイの印刷人でデユフラアヌと云ふ人の持家へ往つた。それを私は詩人の家だらうと思つたのである、ところが戸はしまつてゐた。それで私はロオランに訊ねた。すると彼はにこにこしながら斯う云つた。「ヹルハアランさんは此處に住んでおいでです、私の處に」と。
「此の土地で人がロオランの乳屋と呼んでゐる家は、實際では附近の牧場に一日ぢゆう放牧してある無數の乳牛を殘らず持つてゐる、かなり勢力のある農家である。それは一方に長方形の庭を圍んだ古風な田舎家で、鄙びた珈琲店エスタミネがついてゐる。そして(昔)父に連れられての散策の時、私達家族の者がおいしいオムレツを食べたのは其處である。其處にはあらゆる種類の紙巻や、包装した煙草や、箱入りの蠟マッチがあつた。…………詩人の隠栖は、要するに、その家の一部である。母家おもやは、若しも私がカイユの常連の一人である畫家リユシアン ジヨナスの言葉を信じれば、以前には厩であつた。入口は中庭に向いてゐる。そしてこの戸口には薔薇の花が咲いてゐる。ちやうどシヤルメツトの壁のやうに。…………
「ロアザンの町を離れると平野はひろびろと開けて、一つの谷も見えなくなる。緋に塗つたかはゆい汽車がキエヴランの方へ走つてゆくのが見える。しかし十分間ばかり進んでから畑の中の細い路へ入ると、森のあたまが、アングルの森のあたまが現れる。細路はその方へ向つてゆく。そして急に降り坂になる、そこが谷間の凹地くぼちである。それで其の降り口から丘の半腹に見えてゐる嶮岨な小徑を傳はつてゆくと、右の方に詩人の住むロオランの乳屋の母家が立つてゐる。多分、彼れはその硝子窓の所へ立つて、庭の花や下の方の谷を眺めてゐるであらう。私は半ば戸のあいてゐるエスタミネの前を通つて中庭へ入つてゆく。そして薔薇の咲いた入口で案内を乞ふ。ヹルハアランが敷居際で兩手を出す。さもなければ父親か兄のやうな樣子をして私を引き寄せて抱擁する。…………
「ヹルハアランの一番よく居る部屋で、又彼れが仕事をしたり來客に接したりする部屋は、玄關の軸部にあつて、狭い廊下が其れを玄關と仕切つてゐる。眼は、二つの窓で明るくされてゐる部屋の奥の方へ先づ注がれる。左手の窓に近く仕事机。上にはテオ ヷン リツセルベルグの意匠になる書物で一杯の書架、——或は寧ろ書棚。私はその蔵書の中に「ラ ソシエテ ヌウヹル」のコレクシヨンのあつたのを覺えてゐる。左手には、玄關寄りに、古風な黄色大理石の振時計を飾つた煖爐。その上に小さいナポレオンの鑄銅。部屋のまんなかにはテエブルが一箇。私達はよく其上で、ベルニエのや、又私の思違ひで無ければ、「幻覺の田園」と「觸手ある都會」とに挿繪をかいたブラギンなどの、たくさんの版畫を入れたカル卜ンをめくつて見たものである。
「右の方の箪笥の上に、その簟笥のそばへ腰を下ろして彼れは夕方氣樂に讀書するのを好んでゐたが、そこに文鎭の代りに小さな鑄銅胸像の載つてゐたのを見た記憶がある。それは畫家ジヨルジユ トリブウの作つたヹルハアランの像で、幾分カリカチユアじみてはゐるが、厚い髭の垂れた、かなり表情的なものであつた。奥の二つの窓の間には、非常に美くしくて同時に優雅なモンタルの描いた彼れの肖像。リユツフアンの描いたものは是も亦大變美くしいが、もつと田舎の調子を出してゐた。最後に、向ふの右手の廣間は、ロオランの住居を占領して近頃ヹルハアランが手に入れたもので、パンを作る麵麭燒室に接してゐる。その百姓の話だと、彼れがヹルハアランの爲めに家を建てようと申し出たら、ヹルハアランは、「いや、ロオランさん、私が手を着けなければならないのは古い壁だよ」と答へたさうである。
「此等の二つの客間は現代の繪畫で埋まつてゐた。ヷン リツセルベルグ、モヲタル。ベルニエ、リユツフアンのやうな、ヹルハアラン夫人と詩人との友達の多勢の仲間の作品で。乳白色が卵黄色に褪せた石灰塗の壁に懸かつた此等の繪の明るい調子にも增して快美な、田舎風な、夏らしいものがあるだらうか。また焦色こげいろの亞麻布トワルの地へ彩色の大きな花の附いた窓掛や、ヹルハアラン夫人の樂しい思ひつきから出來て、到るところ非常にひろまつてゐる、あの鮮麗な色の刺繍をした無數の椅子褥タツサンとても然さうである。猶其處にはコンスタンタン ムニエのデツサンが一枚と、ヷン デイツクの十字架の基督を現したエスキツスが一つある。
「家具は、ヷン リツセルベルグの意匠に成る書棚を別にすれば、古風で田舎風のものばかりである。ヹルハアランは近隣の農家やモンスの古物商のところから、其等をぽつぽつ集めて來た。彼は私がゆく度毎に、そんな風にして掘出して來た新らしい品物を見せるのであつた。彼はモンスからサンクルウまで送らせた。其處は丈夫で美くしい寄木細工の書き物机のやうな物の出所であつた。しかしサンクルウで幅を利かしてゐるのは帝国アンピイルと復古政府時代レストラシヨンのマホガニイである。カイユでは其れが明色の檞と赤い櫻とである。時計とか、彫刻した倚りかかりの附いた藁椅子とか、又田舎で云ふドレツシユ卽ち銅を切り抜いた蝶番てうつがひや大きい錠前口の附いた私達のヘノオの戸棚とか、立派な母達から傳はつた我等の善良な婦人等の道具が、石灰塗の白い壁に掛かつた赫耀たる繪畫と、何とよく調和する事であらう!…………」
×
ヹルハアランが初めて此のロアザンの田舎を見て其處に十五年間の住居をきめる事になつたのは、ちやうどあの大都會の驚歎すべき騒宴オルジイ「觸手ある都會」と幸福な結婚生活の愛の最初の祈禱プリエエル「明るい時」との二つの詩集を出してから三年目、四十四歳の時、あだかも此カイユの村が青葉に埋もれた一八九九年八月の事であつた。初めて土地を見に來た時の連れは細君とロオダンバツハ夫人と、あと二人であつた。當時彼れは引續いた神經衰弱から全く直つては居なかつたらしい。ロアザンで汽車を降りると彼れは細君を顧みて斯う云つた。「だがねメエ、お前マ ボンヌ、此處ヌウでは退屈マロンで死ぬペリイルやうなダンユイものインだよ!」所がやがてボンネルの谷の素睛らしい景色を見ると、彼れの氣持は急に變つて、生き返つたやうに元氣になつた。これは其時出迎へに行つた乳屋ロオランの細君の善い思出である。そして亦詩人の渝ることの無い讃歎著、これを持つことを最大の誇としてゐた牧場主ロオラン其人の記憶に從へば、ヹルハアランは其時五六週間滞在した。その間彼れは非常によく散歩して、またカイユの空氣のからだに佳いことを知つた。當時彼れは三番目の戯曲「フイリツプ二世」を書いてゐた。夜になると主人達を相手に哥留多カルタをした。寢る前には家ぢゆうの時計を皆留めた。そのチクタクの音が彼れの睡眠を妨げるからであつた。そして朝になると改めてまた時計を動かした。——斯うして土地と其住民とはすっかり彼れの氣に入つた。それでロオランの家の一部を改造して、其後二十年間位は毎年の春と秋とを其處で暮らす事に極まつた。彼れはそれを實行して戰爭の初まる年の五月に及んだ。『ヹルハアランさんは始終私に斯うおっしやいました。「私がほんとに飮んだり食べたり眠つたりする事の出來る場所は、カイユの外には無い」と。』これも亦ロオランの細君の思出である。
彼れがこの隠栖を留守にしてゐた間の生活、卽ち夏と冬との生活に就ては、私はカイユでの其れ程つまびらかにしない。夏には、ヹルハアランはフランドルの海岸へ往つてゐた。彼れの云ふ砂丘デユウヌ地方である。彼れは其處の歌ふ風と轟く波とを愛した。また海へ出てゆく漁夫達の豪膽な生活を愛した。しかし海洋の休み無い動きは、彼れの氣持をも靜かにはしなかつたらしい。彼れは其處にゐて殆ど仕事をしなかつた。歩き廻つては夢想した。そして海そのものの精神を全身に浴び、又その力を深く強く感銘した。彼れは其處のあまねき光に酔つぱらつた。ハンストからワンデユヌまで、空氣と海と陸地と、そして太陽の管絃樂隊長の奏する燦然たるシンフオニイと。彼れにはそれだけで十分であつた。詩集「全フランドル」第一卷の二部を成す「砂丘の花環」三十篇は、其の時の感銘に従つて後になつて書かれたもののやうに考へられる。又あのニイチエの永遠囘歸の思想を想はせる悲壯にも眩ゆい詩「海に向つて」の一篇の靈感を得たのも、其處での事に違ひ無い。あの伊大利ラパロの入江の岩の上で、ノオトを手に、大きな蝙蝠傘に南欧の盛んな日光を除けながら、「信天翁あほうどりのやうに」海を眺めてゐる哲學者ニイチエと、フランドル海岸の砂丘の上に突立つて、虹色の光にかすむ北海の水平線を見わたしながら、
「おお海よ、びっくりするやうな身になる私の喜びであつた者よ、
おお海よ、冒險と征服とに向ふ
君の潮うしほのやうな
私の勇みはやる若さであつた者よ、
君の水がお祭をしてゐる今日、私を呼んでくれ」
と叫んでゐる詩人ヹルハアランとを、今これを書いてゐる春の田舎の自分の小屋で考へる時、何かしら胸のいっぱいになるのを私は覺える。
冬に、彼れは巴里の西南の郊外サンクルウにゐた。靜かな公園と豊富な樹木と、彫刻家ロダンの云つたやうに「肺を喜ばす空氣」と、イイル ド フランスの靜かな青空とに恵まれたサンクルウ。世界の都會の女王である巴里のその美くしい近郊アンビロンに、單純な善き生活者ヹルハアランは、質素な平家建ての家を借りて暮らした。
巴里。ロマン ロランに從へば、「その本質を定義する事がひどく僭越に考へられる程、複雜で轉變きはまりない都會。その緊張と、その根深い移り氣と、その趣味の變化とが餘り烈しいので、たとへ或る瞬間出來るだけ眞實に此れを叙述しても、その書物が出版された時には最早正直なものとは云へなくなつてゐる」やうな、不断の成壞じやうゑを遂げてゐる都會。ヹルハアランが此の大都會を最も愛したのは、ロランの指摘した此一事に對してだけでも首肯することが出來る。
彼れは其處の囂囂たる音響を愛した。其處に潛むラテンの精神エスプリを愛した。彼れは雜沓する街路や廣場の生生躍動する力とリトムとの中に自分を見出だすことを喜んだと同時に、感じ早い、自由な、大膽な、革命的な諸もろもろの運動と試みとに對して、その意志のために同感を持つた。總じて、自然の中では求めることの出來ない文明の濃厚な空氣を飲み、最も活潑な人間生活の流に浸かることを好んだ。しかも其の仕方と理由とに於て、彼れは常にヹルハアランの名にふさはしいものを持つ。其處を吹く媚藥の風に叙情し、其處に滿ちる頽瀾の氣に沈湎するにしては、彼れは餘り強つよすぎた。彼れが大都會の集團生活の中に心を打たれたものは、其コスミツクな觀念を通して見る、より善き未來への人間の進歩の努力であつた。最早神を失つた人間の、神たらんとする建設の努力であつた。彼れは人間の強大な意志を敬ふ。失敗も過誤も此の意志の進撃の前では何物でも無い。深い氣高い夢想と、強剛な意志と、その實行の努力と、彼の承認し讃嘆するのは常に是れである。従つて其の生きた實物見本である大都會が、民衆生活の巨大な坩堝るつぼが、強く彼れを牽引したとしても當然である。ちやどママ自然の中へ踏み込んでゆく時と同じやうに、彼は堂々濶歩して現代のバビロンを訪問するであらう。彼れは其處で己れの信念を更に確乎たるものとする。自然の中で鍛へ上げた自分の信條の正しい事を、此處へ來て彼れは證據立てる。斯うして彼れは次のやうに歌ふことが出來るのである。
かくて既に凍えたこの大きな樹樹きぎの傍で、
私のからだを武装した以上は、
都が、遠くから、霧の中で私に現れてもよい、
又その大きな聲で、私を呼んでもよい、
私は其處で優しくてしかも同時に強い氣がするだらう、
初の歩みは其處で大理石の路の上に鳴るだらう、
すばやく、リトムをうち、潑溂に、快活に。
又其處で私を見る人達は私の眼の中に讀み得るだらう、
花と小川と樹樹との有りあまる明るさを。」
サンクルウの靜寂な住居で、しかしヹルハアランは、書物と繪と少數の優れた友人を持つてゐた。マアテルリンク、アンドレ ジツド、アルベエル モツケル、ヴイイレ グリツフイン、マリア リルケ、ロマン ロラン等の作家や詩人、またヷン リツセルベルグ、ロダン、ポオル シニヤツク等の美術家が其の主おもなる人人であつた。此等の交友の空氣は、最も親密なアンチイム、最も樂しい、又靜かなものであつたに違ひ無い。私は畫家リツセルベルグの「朗讀」と云ふ油繪の複製を見た事がある。その繪で、ヹルハアランは六七人の友達に圍まれながら、片手に原稿を持ち、片手を突き出して其詩を朗讀してゐる。自由な、智的な、心地のよい會合である。彼れが文明の花の巴里にゐながら、常にその心に純潔な、美くしい、野生のものを持つて、あの「廣場フオアル シユルのラ市プラアス」の客間に出入しなかつた事は、此等の交友を一層奥ゆかしいものに思はせる。
×
さて其處で私は筆をかへして、詩人エミイル ヹルハアランの、カイユでの「見本のスペシメン日デエ」の叙述に向はう。
彼れは朝早く床を離れる。バルザツクやドストイエフスキイのやうに眞夜中に仕事をしない彼れは、多分、もう五時半か六時には起きてゐる。朝は淨めの時である。天明の風が、ホンネルの低地から森や牧場をかけて、深い眠りの霧を遠く吹きはらふ。彼れはぐうたらに寢てはゐられない。その一日は善い祈念をもつて、大陽と共に初められねばならない。
彼れは出かける。どこへと云ふ目的は無いが心は樂しい。肺の中はお祭である。路の小石は踵の下で鳴つたり光つたりする。その大きな歩みにつれて。
「おお古い神ながらの經めぐる明るい歩みよ!
私は檞の樹がその陰を落としてゐる
暗い草の中へ身を埋める、
そして是等の火の脣の上、花等に接吻する。」
のびのびした優しい腕で谷の小川が朝早い彼れを迎へる。彼れは其處で一休みしては又出發する。森の小徑は軟かい揮發性の青葉の、深い透明な屋根の下 向うの方から多幸な季節の幅びろな朝風がわたつて來る。彼れは樹木のやうに爽かに身を顫はす。
「これを最初として、枝枝の海にきらめく
みづみづしい風を私は見る、
人間らしい私の魂には年齢と云ふものが無い。
一切は若く、一切は新らしい、太陽の下で。」
彼れは今更のやうに自分の眼を、腕を、手を肉を、胴體を、また房房ふさふさしたブロンドの毛髪を愛する。そして自分の力を滿たす爲めに、空間全體をその肺臓に飲みたいと思ふ。さうして彼れは、彼れ獨特の散歩を次のやうに歌ふ。
「おお、森や、野や、溝を横ぎるこの行進、
其處で人は歌うたひ、泣き、叫び、
憤然として己れを使ひ散らし
また狂人のやうに自分自身に酩酊するのだ!
ヹルハアランは歸つて來る。全身に野の生命と美とを滿たし、頭腦に今日書くべき詩をいきいきと畫策しながら。また、ひとり寢室へ殘して來た細君マ ボンヌことを、少しばかり氣にしながら。茲に、こんな朝の愛の歌がある。
「私は眠の林から出て來た。
その錯落たる枝や陰の下に、
喜ばしい朝の太陽から遠く、
あなたを置いて來たので少し氣が沈む。
もうフロツクスや立葵が輝いてゐる。
私は庭をやつて來る、
光を浴びて、鳴りひびく
水晶と銀との清朗な詩の事を考へながら。
たちまち、私はあなたの方へ立ち歸る。
あなたの喜とあなたの起床とを促すため、
欝蒼として重苦しい眠の陰を
私の思が、はるかに、卽時、
もう突き破つたやうな氣がして
ひどく勇み、感激しながら。」
七時には、もう彼れは仕事を初めてゐる。狹い花壇の前の、谷に面した書齋の爽かに明るい窓際の机の上で。その窓は明けはなれてゐる。白い紙の上へ落ちる緑の葉陰を洩れて、ぴかぴかする太陽が靜かに航空する。自然の優しい烈しさと靜謐とが、善良な、物思はしげな家の内に滿ちる。そして花壇の花はいきいきと開き、鷽うそや河原鶸かわらひわが枝から枝へと歌ひまはる。ちやうどその真紅の花びらやきらめく歌で、彼れの明るい新鮮な、また純潔で眞實な詩の句句を輝かさうとする心のやうに。「一行として書かざる日無し」を座右の銘としてゐるヹルハアランにとつて、爽かな靜かな健康の毎日、「その生活は占領したもののやうに美しく」、「善い仕事は招待した友達のやうに」親しい。仕事——
「彼れは温和な晴れやかな國から來る、
その露よりも清らかな言葉に、
われらの感情とわれらの思想とを、
さんぜんと、ちりばめるため。
彼れは氣まぐれな渦巻の中に實相を捉へる。
彼れは巨大な柱石の上に精神を建てる。
彼れは星宿を生かしめる火を其れにそそぐ。
彼れは瞬時に神となる技能を齎もたらす。」
ヹルハアランの詩作態度。それはルミ ド グルモン其他あらゆる批評家の云ふやうに、實に鐵の鍛煉さながらである。彼れは眞赤に燒けた感銘の荒金を打ちのめす。すべての品詞は槌の與へる一撃毎に、ぴかぴかした火花をリヅミカルに散らす。彼はそれを熟慮の水に浸す。それから引き出しては又鍛へる。句と句は七月の花の蔓のやうに縺れあひ、言葉と言葉は互に觸れあつて金属的な響を立てる。彼れの原稿は戰場のやうだと人は云つた。それは決して生優しい遊び事では無い。それは詩人の心靈と技能との全線が、熱情と意志との有りつたけを盡して戰ふのだ。それは思想を要撃して、まっかに燃える烈火の中でサラマンドラの生れるやうに、生れて來る其れの姿を見とどけるのだ。そして未だその原始の熖で燃えかがやいてゐるやつを、魂の奥底でつかまへるのだ。
「ねえ、宇宙にゆきわたつた聾のリトム!
その進行と過ぎゆく形象とを
突然の一語で確定するのだ。
荒つぽい太洋から、高慢な山嶽から、
飛びはねる風から、電雷の戰闘から、
地をゆく女の優しい歩みから、
眼のひらめきから、手の憐憫から、
超凡な實在の明るい出現から、
情慾の嵐から、狂氣の衝突から、
すべて動き、擴がり、破れ、交はる一切から其れを取るのだ、
この無限を一箇の頭腦中に取つて引寄せるのだ、
意識の
新らしい無限の中で
かうして彼れにその最も高い存在を與へるため。」
こんな激しい仕事―—寧ろ戰爭——は、夥しく彼れを疲らせるであらう。錯落として又絢爛な行ぎやうから行ぎやうへ鳴りひびく意思の君臨! 彼れは五六時間でそれを中斷する。書きかけは其のままにして置いて、あとは明日に讓る。午後も尚仕事を續けることは稀であつた。「彼れは午後を散歩に、友人に、また彼れが不滅のものたらしめた宇宙と人間との此の複雜な光景を書きとめる事に捧げた」と、善きポンシユヴイエは書いてゐる。
散歩。しかし此の言葉は、ヹルハアランの場合では、人の常に使用する其れと同一程度の如何なる概念でも十分では無い。移りゆく風景の途上で、見馴れた、若くは見馴れぬ事物に、知覺の、或は情緒の眼をとめる其れでも無い。またその靜寂な、或は活動的な環境に心身を投じて、其處に已れを同化させる事の快感を惹起する其れでも無い。更に又、見るとも無く見ないとも無い、一種の忘我の状態の中で、一箇體の想念を沈潜させる效果を起こす其れでも無い。否、實に其等に似たものではありながら、量的にも、——更に質的にさへも、——その概念を突破して、全く別種のものとなつて現れて來るところに、彼れの散歩の眞相があるのである。人は、單に散歩の事に止まらず、何事に對してでもあれ、彼れヹルハアランの特質である「過度エクセス」を理解しない時、彼れ及び彼れに就ける一切の眞を理解することは出來ないであらう。實にそこには感激の過度がある。驚異の過度がある。讃歎の過度がある。身を顫はすことのいきり立つことの過度があり、廣袤を愛し、相反を愛し、又實に突如たる事を愛するの過度がある。藝術的手法の上から見ても、云ふまでも無く、表現の過度がある。凡そ此等の過度は、それが過度であるが故に、常識を、教義を、道德的因習を、中庸を、すべてあらゆるものの則のりを超えてゐる。それは一切の汎濫である。そして此點に、彼れの藝術を容易に是認しない人人の、或は愛さうとして愛することの出來ない人人の、尤もらしい理由がある。しかも此の汎濫こそ、ヹルハアランのやうな天才を理解する上に、またこれこそ彼れの藝術の最高の特質であるが故に、是非とも承認され同感されねばならないものである。何となれば凡庸の眼には、一樣に温和な常套の光を持つて塗抹されてゐると見える自然をさへ、彼れはあらゆる天才の想像的な眼を持つて此れを見、その無比な熱情を持つて此れを湧き立たさずにはゐられなかつたからである。此事を最も美くしく喝破してゐる。ヹルハアラン其人の言葉を聽け! 彼れはその「レンブラント論」で、この偉大な心靈の畫家と同國同時代の詩人、——理想的市民であり、教養ある紳士である―—詩人カツツに就て云つてゐる。
「その調子は通俗的である。その哲學は妥當である。またその言葉は聰明で、觀察は的確且つ切實である、それは恰かもあの道義的因襲や小さな洒落の畫家逹と同樣で、カツツも亦すべての暴戻や、穿入や、飛躍に就ては反對だつたのである。彼の靈的視野は狹い。しかし彼れの發見したものは悉く普通に了解され得べき種類のものである」と。そしてヹルハアランは鐡槌のやうな断乎たる一撃をもつて結論する。「それは直ちに地から生れたものであつて、決して星から降つたものでは無い」!
恐らく彼れヹルハアランは、その原始人のやうな驚異の眼と、小兒のやうな純潔單純な心とを持つて彼の心靈の遠い底知れぬ憧憬ゼエンズフトに屬する無限無窮のものを、自然の要素的根柢のうちに感じ盡し、それに混じり込まうと熱望したであらう。此れを果さうが爲めには、喜んで己が身を千千ちぢに碎き、無數のものとなり、千萬の存在の中に彼れ自身の存在を解體して敢て悔いなかつたであらう。その時彼れは、莊麗な宇宙童話の世界の一人となり、想像し得る限りに於て美しく魁偉な、「テンペスト」や「眞夏の夜の夢」の舞臺を生きたであらう。そしてその忘我の藝術の無上の魅力は、善惡の觀念を知らず、フリイドリツヒ ニイチエの悲歌にも夢想した音樂のやうに、「恐らくは、ただ折折、その上の水夫の郷愁や金色の陰や、優しい心弱さが飛び過ぎ、また其れに向つて遙かな遠方から、もはや人の理解しない道德世界の日没の、千百の色彩が飛來したであらう!
かうしてヹルハアランは、その魂の「飛躍と喜と祈との時間」である散歩から、彼れの新らしい汎神論的な自然讃歌の無數を書きあげた、それは「讃むべき神神デイイ エエレ ゴツテス」のあらゆるヷリエエシヨンであつた。その瞳を眩ゆくする廣大な地平で光に顫へてゐる樹木は、彼れの誇であつた。それは忍耐と力とが何であるかを彼れに語るものであつた。その靜かな樹液は彼れの血液にまじまつて。健康の何であるかを傳授するものであつた。また水は彼れの魂を敬虔にするものであつた。その「綺麗な神神しい清淨さは腕を傳はつて登り、やがて靜かにからだの中心にまで沁み込み、彼れの額に住み、またその眼の中に忍び入つた。」また花などの傍にゐる時は、自分がいつもよりも清らかに、純潔に、正しいのに氣が附く事が出來た。
彼等は擴大な、ちらばらな空間に住みながら、陰にも日向にも同じもてなしをし、北風の殘酷を文句も無しに耐へ忍ぶ、健氣なまた優しい者らであつた。また路は彼れにとつて、新らしい可能へ向つて人間を誘ふ不可抗の誘惑であり、其上を遠くから、未來が、その兩手の中に彼れの運命を抱いた者が遣つて來る。また風よ、それはその旅行から、「限り無い田畑や村村を貫いて、何かしら健康な、清らかな、熱烈なものを運んで來る。」
「平原の土壌に輕く觸れるその黄金の脣で、いたるところ、
彼れは人間の喜と苦みとに接吻する、
美くしい誇昔ながらの希望、物狂ほしい慾望、
すべて魂の中で不朽の期待に値する一切のもの、
彼れは其れを四つの翼であふり立てる。
その他、森林、山嶽、海、太陽、空氣、何もかも。——自然のなかに彼れが見て、常の眼が見る常套の價値を、新らしい價値と不朽の姿との高さへまで上げなかつたものは一つも無かつたと云つていい。
しかしヹルハアランの此の汎神論は、ゲエテの其れのやうに自然と世界との觀照から生れたものであるとは云へ、——またその自然の見方に於て著しく造形美術家的であつたとは云へ、——猶彼れは或種の黄金的客觀の態度に止まつてゐることは出來なかつた。己れを圍み、己れを貫く一切のものの中に生きながら、彼れは自分自身が卽ち其れである事を自體から感じようとした。「私はもはや世界と自分自身とに分ちをしない」と叫ぶ時、其處には自然に對する限り無い信頼と獻身と、涙ぐましい愛と合體と、また高らかに勇ましい誇との、最も美くしく披瀝された眞實の告白がある。人は彼れの詩を讀みながら、感動の突然の跳躍の中で、
「私は繁つた葉であり又ひるがへる小枝である。
私はうす青い小石を踏む地面であり、
又醉つて夢中になり、猛烈に、喜び又むせび泣いて、
はからず落ち込む溝の中の草である。」
と告げられたとしても、敢て驚き疑ふことは無いであらう。
かくて自然は、永の年月、彼の隣人でもあり伴侶でもあつた。——否、これからさへ、彼れの死ぬであらう最後の日までも。彼れは風景を「わが友モン ナミ」と呼んだ。それは彼れの烈しい勞苦の時と、濶然たる魂を持つていきり立つ劍のやうに彼れが生きた希望の時とを共にして來た。「自然は私の思ひ出であり、また私そのものである」と云ふヹルハアランは、やがて老年が、その「全盛の力であり勇武であつたところに襲ひかかり、」思想の陰暗が彼の中に起り、そして彼れの生命の槍が「さう何時までも丈夫でも無く嚴然ともして居なくなつた時」、「夜な夜な、光がすつかり消えてしまつた時、ただ彼れ風景だけが自分の云ふ事を聽き得る時、」優しい深い色色の事を彼れはしみじみと、その風景に話して聽かせるであらう私は次の幾聯を、彼れが病氣のからだをして、初めてカイユの田舎へ來た時の遠い追憶と考へたい。
「私は彼に過ぎ去つた日を物語る、
廢顫に重いからだをして
私が彼れの若若しさの中に
輕やかなしかも濃厚な空氣を求めに來た日を。
私が自分のうちに
此世と未來とを愛し
又強くあり支配者であらうとする
昔の慾望の日毎に蘇つて來るのを感じた日を。
岩から岩を歩きまはつて
私があんなにも眞に幸福だつた日を
眼の底に涙を湛へて
近くの樹樹を抱きかかへた日を。…………」
最早それがオオルド ラング サインの友であるかのやうな、自然に向つて何たる隔て無さ、また何たる懷しい告白であらう! 人は遂にここまで來たヹルハアランを考へる時、此等の句句を感動無しには讀めないであらう。
その友アルフレ ヷレツドに捧げられた、最後から三番目の詩集「波うつ麥」は、——「全フランドル」三卷と同樣に、——祖國の土への心からの贈物である。之はこの詩集を讀み通す時、ヹルハアランの毎日の生活が、彼等故郷に生れて故郷に死ぬる尋常ただの人人の其れと、どんなに優しく又強く結び附いて居たかを知るであらう。彼れは百姓女を歌ひ、娘を歌ひ、旅藝人を歌ひ、酒飲みを歌ひ、情人の群を歌ひ、木靴職人を歌ひ、男女の老人を歌ひ、荷車の曳子を歌ひ、また田舎の葬式を歌つた。しかも其の描寫の一語一語は決定的で大きく、歌はれてゐる風景や人物の身ぶりは常にプツサン、ミケランジエロ等の莊大と雄渾とを持つてゐる詩人は、「荒っぽい男女の中でその運命に從つてゐる靜穏な魂の農婦」を描く。
「金茶の紐で結んだ彼女の髮は、
窓の明りに、その強い頸筋を鍍金めっきする、
その立派な平均のとれた歩みについて ・
野良へゆく影は、太陽の下で、すばらしく大きい。」
また彼れは、店へ立寄つて麥酒を飮んでゐる荷車の挽子に斯う云ふ。
「それはリイ河の水と
フランドルの大麥と
忽布ポツプとを含んでゐる。…………
君と同じやうに彼等の知つてゐる世界は
アロストからテルモンドヘ續く
あの明るい親密な田園ばかりだ。
彼等は陽氣な時節に
同じ雨と同じ太陽とを愛した、
さうして今や河の水にまじつて
君の赤い逞ましいからだの爲めに、
おもむろに
麥酒になつたのだ」
ヹルハアランはその散歩の途中で、路で逢ふ誰にでも話しかけ、また近隣の年寄りや病人をよく訪問しては慰めた。彼れはその人人の暮し向きにも、勞苦にも、仕事にも、また密賣、密獵、山林盗伐のやうな陰の副業にも通じて居た。それ故彼れの「田舎の對話」七篇には、それぞれの聯業の獨特の術語と言葉の調子とが潑溂と出てゐると云はれてゐる。其處には各の仕事に對する牧者と花作りとの愛と誇との對話がある。熱烈な戀人同志の二部合唱がある。また機械の勝利に對する老地主の愚癡があり、怒りっぽい木樵りの嫉妬の叫びがある。そして此等の牧歌的な、人物と風景との詩的繪畫について、あのジヨルジユ デユアメルが想像した状景を茲に引用するのは、この「ヹルハアランの一日」を終るのに好いかも知れぬ。
「戸口の右手、農園の塀にくつついた一箇の石の腰掛を私は想像する。そこには二人の百姓がゐる。彼等は、急がず、長い間をおいて、煙草の青い煙をふかしながら話してゐる。彼等の近く、同じ腰掛に、一人の男が休息しながら其話を聽いてゐる。彼は大麥や燕麥の色をした長い髭をもち、苦しさうな樣子をしてゐるが、それでも猶大きな平和さを保つてゐる。その眼はいきいきして無邪氣である。その肩は勞苦の仕事の爲に押しまげられてゐるあたりはすべて靜かで、ただ家畜共の立てる、小さな音ばかり。時時健康で綺麗な一人の下婢が中庭を横ぎる。彼女は牝鶏の叫び聲を笑つたり眞似したりする。すると忽ち其れが飛び上がる。殼物の粒が種蒔の時のやうに光つたり飛んだりする。路には馬肥しクロウヴを滿載した車が一臺置いてある。強い新らしい草の匂が傳はつて來る。例の百姓逹は腰掛の石のところで靜かにパイプをはたく。太陽が樹樹の梢へ落ちてゆく。エミイル ヹルハアランは立ちあがる。そしてまるで靜かに、往手で動く自分の陰と一所に小徑を出かけてゆく。」
さうして、やがて彼れのまはりに來るのは夕暮遠。い思ひ出に滿ちた老年の無量な夕暮。カイユの隠栖は蒼然と暮れてゆく薄闇の中、ちらちら光り初める天上の星の下で、次第に夜に包まれてゆく。——
「熱烈な勞作、亂費された努力よ、
私の張りつめた精神の中でお前逹は緩んでゆく。
今は善い時、來なくてはならぬ休息と
健かな雄雄しい疲れとの時。」
そして又、
「今は善い時、ラムプのつく時、
告白が
一日中かたみに思ひ合つてゐたと、
深い、しかし逶きとほつた心の底から、
浮んで來る時。」
かうしてついに、眠りが、一日を無限に生きた思ひ出の揺籃が、又來るべしとも確かには知られぬ明日の日の希望の方へ、未來の遠い薔薇色の岸邊へ、老いたる詩人の疲れはてたからだと、未だすつかりは衰へきらぬ精神とを、輕やかに小舟のやうに、——水の上の白い柩のやうに、——運び去る。たとへ夜もなほ訪ねて來る友達を迎へて、彼れが、夜半まで「はつきりした智識を持つて互の美くしい觀念を靜かな聲で語り合ひ、人間の希望を、自慢もせず誇張もせずに、烈しい凛然とした言葉で」説かうとも、——或は亦、夜はただ青める銀色の谷間の家で、樫の時針の鳴らす九時を逸早く、彼れが「安らかに眠る幼兒をさなご」のやうに眠らうともである。
×
かくて、その熱烈な生活を生きたヹルハアラン。彼れが歌つた「並木路の先頭の樹」のやうに、人間の信用のために熱中せざるを得なかつたヹルハアラン。その心を美くしい人間のざわめきで滿たし、世にあるために狂喜して接すべきものを自然の無量の中に信仰し、またその勇猛の心と正しい誇とから、一つの仕事が攀ぢ難ければ攀ぢ難い程それを身近く感じ、不幸の大槌の下でその歌を勞苦の時間にひびかせ、自然の兇猛の法則を背負ひながら全身を持つて戰ひ挑み、自みずからの主たるべき一箇の額ひたいを自ら建てるために、已が意志を鍛煉したヹルハアラン。そして、たちまち不慮の横死を遂げる運命の日を持つとは知らず、「少くともまだ十年の餘命」を信じ、また「若しも私が再生しなければならないとしたら、私は自分が曾てヹルハアランであつた事をきつと喜ぶに違ひ無い!」と、悲壯にも切言した永遠の詩人。その人への私達の傾倒が、もはや肉體を持つ彼れへは通ぜず、また世界が耳を傾けて聽き入つてゐる彼れの歌の眞ん中で、不意に莊嚴な沈默が落ちかかつて來たのだと感じる時、何等の悲哀と、何等の絶望とに私達は襲はれなければならないであらう。
しかも私はもはや之れを歎くまい。まことに彼れの歌つたやうに
幸ひなのは、それでも、むせび泣かぬ者等である、
嚴然たる誇を持つてそれを押し返す者等である、
あまり容易い古くさい甘たるい『確實』を。」
と。そして寧ろ私は彼れの豫言の次第に證あかされて來る今日の日を祝さねばならぬ。その中で彼れは廣野に沈む太陽のやうに歌つてゐる。
「私の頭腦と私の眼とが亡びる日
私のほまれは
記憶のうちに永くいつまでも殘るだらう
そして明るい強い私の詩句は
こんな鳴り響く又意志に滿ちた足音を
永くいつまでも先立たせリトム打たせる事だらう
新らしい世の民衆が大地の上を行進する時」
×
「彼の墓場で泣くな。彼れは其れにしては偉らすぎる」!
(此の小論に引用したヹルハアランの詩の中、その幾つかは友人高村光太郎君の翻譯にかかるものを拝借した。茲に改めて感謝の意を表する。猶同君の譯「明るい時」と「天上の炎」及びやがて出版される「午後の時」とは、日本で行はれてゐるヹルハアランの譯詩のうち、最も信ずるに足りる、最もヹルハアランらしい、且つ最も美しいものである事を確信して、ひろく江湖の讀者にお勤めする。)
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