尾崎喜八詩文集 第三巻 後記
詩集篇の最後のものである此の巻は、昭和三十年(一九五五年)二月東京三笠書房発行の『花咲ける孤独』の全部と、同三十三年十一月東京朋文堂刊行の自選詩集『歳月の歌』に加えた新作品、およびそれ以後の作でまだ詩集にならない二十一篇から成っている。つまり終戦の年の冬から今年の夏のはじめまでに書いた総数百十八篇で、年代の上から見ると、『美しき視野』、『夕映えに立ちて』、ならびにその後の全散文がこれに対応する。
戦争がおわっても住むに家がなく、一年ちかくを親戚や友人のもとに転々と寄寓し、最後に未知の或る人の厚意でその信州富士見高原の山荘におちつく事ができ、ついに七年という月日を其処でおくるにいたった顚末とその間の生活については、散文集『美しき視野』その他でくわしく述べた。当時私は五十四歳。たとえ戦争による心身の深い痛手がなくても、もう人生の迷いの夢から醒めていい年齢だった。この上はまったくの無名者としてよみがえり、ただびととして生き、艱難も屈辱もあまんじて受けて、今度こそは字義どおり、また永年の念願どおり、山野の自然に没入して万象との敬虔な融和のなかに魂の平和をつむぎ、新生の美しい視野を得なければならないと決心した。
Lass, o Welt, o lass mich sein!
Locket nicht mit Liebesgaben,
Lasst dies Herz alleine haben
Seine Wonne, seine Pein!
おお、世界よ、私をほって置いてくれ!
愛の施しで誘うことをせず、
この心をしてその喜び、その苦しみを
ただひとり味わわせてくれ!
メーリケ=ヴォルフのこの詩この歌が、やがては表裏常なき人間のちまた以上に親しいものとなるべき見知らぬ森や草の小道で、今はまだ半ばうつろな、半ばようやく予感に染められている私の内心の訴えだった。
しかしまたそれと同時に、
惜しまれることを期待もせず、
思い出される明日あすを願いもしない。
生きる喜びを大空のもとに満喫した身が
今はた浅いなんのなさけを求めようぞ。
というような、心の奥になお燃えのこる憤りの余燼と、たのむのはただおのれ一人という自信から生れた詩句のきれはしを、八ガ岳へと続くぼうぼうたる草の中、九月の空に無心に浮かぶ雲の下で、立ちながらノートに書きつける私でもあった。
そしてこの明暗こもごも去来する早春の天地のような心境エタ・ダームが、虚脱と枯渇との冬からおもむろに私を救って、やがてぞくぞくと詩や文章を花咲かしめる契機となったのである。
巻頭の「告白」と「冬野」とは、終戦の年の暮に千葉県の三里塚に近い田舎で書いた。その古い開墾部落に妻の実父が永く定住していたので、私たちは其処をたよって東京都下の砂川村から行ったのだった。松林と畑地のつづく広大な下総丘陵。浅い大小の断層谷が帯のような稲田になり、丘陵面では麦、甘藷、落花生を作っていた。その間に小さい集落や独立農家がぽつりぽつりと散在して、私たちになじみの武蔵野よりも民度が低く、生活も自然もいたって単調で辺鄙の観があった。私たちには地平線のどの方角にも山の片鱗さえ見えない、ただ朝や日の暮に無数の嘴太鴉はしぶとがらすの群飛する、この土地の無感情にちかい表情が却って気に入って、あわや此処に永住の決心をするところだった。しかし寄寓者としての気づかいや、手伝いの労働や、戦中から戦後にかけての栄養失調のためか私に肺浸潤の症状が現われた。それで一方ではその治療のため、また他方では今後の文筆生活に当然影響しないではいないさまざまな不利不便を考えて、ついに意を決してふたたび東京へ帰ることにした。「告白」と「冬野」とはこうした環境と、心の空をよぎる明暗の移ろいのなかで書かれた。散文集『雲と草原』の後のほうに出て来る「麦刈の月」や「冬の歌」も、また同じ土地で同じ時期にものした悲歌的牧歌である。
東京では古い友人で山関係の著書も多い河田禎君夫妻に温かく迎えられた。私の旧居と東京女子大学とにきわめて近いその吉祥寺の家で最もいい一間を与えられ、紹介された女医にかかって療養をつづけながら、三里塚から引続いてのマーテルリンクの自然エッセイ集や、シトン・ゴードンの「雪の荒野にて」という北極の鳥や花の観察を書いた本の翻訳に精を出し、かたわら詩や散文の創作を試みた。「詩心」は私には古いなじみである近くの善福寺公園のベンチでの、また「告白」は桜散る四月の夜空を仰ぎながらの感慨である。散文「一日の春」と「多摩河原」とは、ようやく快方にむかった者の、自然への感謝を歌ったアンダンテ・カンタービレと言えるかも知れない。
六月の末から九月までは、杉並区中通町に住むこれも古い友達で詩人でもある井上康文君の家に厄介になって、私たちは此処でもまた厚遇をうけた。荒れすさんだ東京の花々しく暑い夏だった。ひどい偏頭痛が頻繁に私をなやませた。ここでは散文「蝶の渡海」と「大平原」とを或る雑誌に書いて、終戦後初めて稿料というものを受けとった。また昔この友人の手で出たシャルル・ヴィルドラックの選詩集を新たに改訳増補した本と、旧作の山の詩十数篇をあつめた大型の美しい限定本『夏雲』とが出版されたのも、ここでの寄寓中の事である。その間にも私たちは二度か三度信州の富士見へ行って数日を過ごした。前にも書いたその高原の山荘に娘夫婦が疎開していて、秋には私たち両親を呼ぶ手筈をととのえていたからである。環境と家とはすこぶる気に入った。私はすべての準備のできる秋をひたすら待った。詩「新らしい絃」は、遅命の新らしい転回を待つあいだの東京の炎熱の一夜に、卒然として爽かな秋風か驟雨のように私をよぎった落想であった。
こうして「存在」や「夕日の歌」以下富士見定住後の詩ははじまるのだが、その生地パターンをなす七年間の生活のことは散文集『美しき視野』その他に書いたからここでは略す。たぶん「詩人と農夫」や「林間」のようなものが東京へ帰ることになった年の最後の作で、その後に散見するのは毎年の夏や秋の幾日を、今度は仕事を持って行った時のあの高原での収穫である。なお言いそえて置きたいのは、ここ十年ほどの間に作った詩の実数はおよそこれらの倍はあって、はぶかれたものの中にも、いつか再び取り上げられ鍛え直されて物になるような作品もいくらかは有りそうだという事である。例としては甚だ不倫のきらいはあるが、ちょうどヘンデルやベートーヴェンがしたように。けだし私にとって、この人々の事を思ったりその芸術を一層よく理解したりすることは、老来いよいよ切実なものとなった力づけでもあれば喜びでもあるからである。
一九五九年九月二十七日
秋光窓にみちる淡烟草舎にて
尾 崎 喜 八
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