尾崎喜八の文学と思い出 (尾崎榮子)

  ※「尾崎榮子によるブログ」からの転載です。
    http://ameblo.jp/nupompoko/entrylist.html

  「詩人・尾崎喜八(1892〜1974)の文学と思い出について、娘の尾崎榮子がつづります。
  他に、尾崎喜八についてのニュースや記事なども、随時、ご紹介していきたいと願っています。
  近い将来、尾崎喜八のデジタル文学館に合併された統一サイトとなる予定です。ご期待下さい。

   ※尾崎榮子さんは2016年2月18日に逝去されました。
    享年90歳でした。ご冥福をお祈りいたします。(サイト管理人)

      

尾崎榮子からのご挨拶 2013.02.28

 

  父 尾崎喜八の思い出を書くにあたって 2013.03.28    
  尾崎喜八の詩碑について 2013.02.28    
 

尾崎喜八の詩碑について (1)

2013.03.04    

尾崎喜八の詩碑について (2) 美ヶ原・安曇野 2013.03.11  

尾崎喜八の詩碑について (3) 安曇野

2013.03.11

 

  尾崎喜八の詩碑について (4) 浜田健治さん富士見高原紀行 2013.03.25    
  尾崎喜八の俳句 (1) 坂本波之さんのこと 2013.04.22    
 

尾崎喜八の俳句 (2) 信州・富士見での連句1

2013.04.23    
  尾崎喜八の俳句(3) 信州・富士見での連句2 2013.04.24    
 

尾崎喜八の俳句 (4) 信州・富士見での連句3

2013.04.24

   
  尾崎喜八の俳句 (5) 信州・富士見での連句4 2013.04.25    

尾崎喜八の俳句 (6) 「行人句抄」によみがえった句

2013.04.25

 

尾崎喜八の俳句 (7) 伊藤海彦「行人句抄」に添えて(抄録) 2013.04.25

 

尾崎喜八の俳句 (8) 終

2013.05.11

 

                             

 

 尾崎栄子からのご挨拶

ご挨拶
 尾崎榮子です。 父尾崎喜八の文学と日常のこと、その思い出などを書いておきたいと思い、まだ慣れないiPadと向き合っております。
 歳とっていますので、いつまでできるか分かりませんが、おつきあいください。
 何から書こうかと迷っていたところ、尾崎の詩碑について詳しく書かれた 神奈川の文学碑 という新刊書のことを知り早速手に入れました。新聞の神奈川版の記事には(前略 作家一人に2、3ページの紹介が多いなかで『山の詩人』として知られる尾崎喜八については6ページ記した。青春時代に出会った尾崎をしのび、鎌倉市内の墓碑を兼ねた詩碑に何度も手を合わせたこと。足跡を訪ねて長野県にあしをのばし、雷雨の中でバスに乗り損ない、ヒッチハイクで帰ったハプニングも盛り込んだ。 後略)とありました。本を拝見してとても嬉しかったのです。 その一部分をここに載せさせて戴きます。

 

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 思い出を書くにあたって

 友人や父の愛読者の方がたから、文章には書かれていない、知ることができない日常のことや、エピソードを書き残して欲しいと言われて居たが、これはなかなかの難問で、私には懐かしかったり可笑しかったりしたことでも、他人様には同じように受けとめていただけるかしら、あまりのめり込んでしまうと私の回顧録になってしまうんじゃないかしらと心配で、今まで手が付けられなかったのです。
 来年(2014年)は父の没後40年になります。父の著作はもうすべて絶版になり、読んでみたいと思われても手に入りにくい状態ですし、私自身がたまに本をとりだして見て、あらこんなこと書いてあったと久しぶりに出合うこと度々なのです。
 私としては所々に父の詩や随筆の部分をいれて、皆さんと共に尾崎喜八の世界をのぞきたいと思います。
 私は今年六月に88歳になります。娘がプレゼントして呉れたiPadもまだわからないことだらけで奮戦中です。読みにくいでしょうが、どうぞお付き合いください。

 

  

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 尾崎喜八の詩碑について

 ブログ「尾崎喜八の文学と想い出」の最初のブログは、最近刊行された浜田建治さんの 『神奈川の文学碑』の紹介です。 神奈川県に散在する文学碑を発掘し、その現況を伝えるために、十数年の取材を費やした労作『神奈川の文学碑』(浜田建治著・公孫樹舎、税別2500円)をご紹介します。
 この中で、他の文学碑は見開き2ページなのですが、尾崎喜八の碑には6ページがさかれていると、朝日新聞2月23日の朝刊・神奈川版に写真入りで大きくのっていました。著者の浜田さんが、喜八の文学に大きな影響を受けられたからで、現存する喜八の詩碑のうち12基が紹介されています。

  

 第一部「神奈川の文学碑の概況」では、2300基もの碑を「地区別分布状況」「碑種別状況」など統計的にまとめ、 第二部の「地区別概況と主要碑紀行」では主要文学碑76基の写真付探訪記を掲載し、県外1万余基を巡った知見を添え、著者の想いをつづっています。ここに喜八の碑も紹介されています。
 他に、江戸期の芭蕉句碑に87基を、万葉歌碑も26基と県下の全ての碑を紹介しています。
第三部では訪ねた文学碑の住所録(約1700基)を掲げ、参考文献や「全国文学碑ベストセレクション」も写真入りで紹介されています。
発行所・公孫樹舎(電話045-641-8080)

 

 

 

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 尾崎喜八の詩碑について (1) 

 浜田建治さんは尾崎喜八詩碑の紹介の中で述べていられる一部分を載せさせていただきましょう。

尾崎喜八詩碑 墓 鎌倉市山ノ内、明月院

詩『回顧』は数々の苦難を踏破し、山の詩人として名を残した喜八の晩年を飾るに相応しい一編で、私の愛しょう詩である。私は何時ものように蹲踞して手を合わせ、碑文を静かに読む。
境内を渡る心地よい谷戸の風に身を任せて、この明月院の奥の谷戸で、鎌倉の山の音を聞き、詩と音楽に囲まれ幸せな晩年を過ごした詩人を偲んだ。 風は尾崎喜八を巡る旅の数々を運んできた。 (平成5年第一回、以後多数回訪碑)

  回 顧
 いたるところに歌があった。
 いくたの優しいまなざしがあり、
 いくつの高貴な心があった。
 こうして富まされたその晩年を
 在りし日への愛と感謝と郷愁で
 装うことのできる魂は幸いだ。

 次の『上高地紀行』では、

 釜トンネルのくらやみを抜けると別世界が待っていた。 雲ひとつ無い青空のしたに、3000m級の明神、前穂、奥穂、西穂と穂高の連峰がずらりと勢揃いして、喜八が『世にも美しく男らしい谷間』と表現した氷河期の遺産,岳沢カールが裾野を広げていた。ここでは誰もが息を呑む。メモしてきた喜八の詩『上高地の朝の感慨』の一節がすとんと胸に落ちる。

 『命あって今年も訪れた上高地
  山の貌、谷の姿、去年に変わらず
  雲をちりばめて聳え立つ大穂高のした
  清い流れの梓川のほとりで、 (中略)
  老いたるは敬うべく頼むべく
  若きは愛すべく雄々しく凛々しい。
  山と人とのかくも望ましいめぐりあいが
  無常迅速の時の中に、
  そう幾たびもあろうとは思われない』

  (ウエストン祭とき、ウエストンの碑のまえで尾崎自身が朗読した詩)

 (現在 立て札状だった碑のようなものは紛失してないが、碑文の原文は案内所で
  見られたそうである。上高地に置くのに最もふさわしい良い詩だと思っている
  大好きな詩だが、尾崎の著作集には載っていない。 五千尺ロッジのロビーにも
  大きく飾ってあり、フロントにたのべば見せてもらえます。後述で詩碑になら
  なかった理由など書きます。 榮子記)

 喜八の詩碑を探して駆け回ったが見つからない。案内所で消息を聞くと、「数年前、梓川の氾濫で詩碑は流されてしまいました。碑文の原文はあそこに掲げてあります」と主人は梁を指差した。そこには、当地五千尺旅館で揮毫した詩人の力強い言葉が並んでいた。

  大空の青にそばだつ槍穂高
  谷深く夏をかなでる梓川
  山を敬い 山を愛し
  登るわが身の幸いを
  至上のものと思いながら
  光も澄んだ山頂の
  広く美しい視野に立つ

 時には人間さえ拒むこの地では、神が創った作品以外は置いてもらえないのか、との思いを抱いて山を下りた。更にちかくの「山に祈る」の塔には、詩「ある石に刻むとて」が刻まれていると聞くが、未見である。

 

 

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 尾崎喜八の詩碑について (2) 美ヶ原・安曇野

 

浜田さんの美ヶ原紀行:

 平成十二年夏、長野県霧ヶ峰から美ヶ原を目指した。
「登りついて不意に開けた」の美ヶ原平原のあちらこちらに喜八が居た。詩集から飛び出してきた懐かしい詩句たちに満たされながら、「美しの塔」に嵌め込まれた詩のプレート(碑文は自書でカタカナ書き。題名は「美ヶ原」)に見入った。

  登りついて不意に開けた眼前の風景に
  しばらくは世界の天井が抜けたかと思う。
  やがて一歩を踏みこんで岩にまたがりながら、
  この高さにおけるこの広がりの把握になおもくるしむ。
  無制限な、おおどかな、荒っぽくて、新鮮な、
  この風景の情緒はただ身にしみるように本原的で、
  尋常の尺度にはまるで桁が外れている。

  秋が雲の砲煙をどんどん上げて、
  空は青と白との眼もさめるだんだら。
  物見石の準平原から和田峠のほうへ
  一羽の鷲が流れ矢のように落ちて行った。

 その時、にわかに真っ黒な雲が現れ、「世界の天井」から、土砂降りの雨が落ちてきた。家内を急がせて山本小屋ににげこんだ。遠く、近く、鳴り止まぬ雷鳴が小屋を覆う。地上で聞くのとは別物の凄まじい音に身を固くする。


 (ここで浜田さんご夫妻は霧ヶ峰方面行き、諏訪行きのバスも時間切れ、小屋
  も満員でとまれないと言うピンチのため、ヒッチコックしかないと決心され、
  雷雨の中へ飛び出したと言う。何台もの車を見送ったあと、一台の車が止ま
  ってくれた。私たち二人は喜八が見た鷲の様に高原を一直線に落ちて行った。
  と記していられる。榮子 記入)

浜田さんの安曇野紀行:

 日本のグリンデルワルト松本に朝が来た。駅前の東急ホテルの結露した窓を開けると、神々しいまでに北アルプス山顚が朝日に輝く。「よし」と気合を入れ、ホテルの入口の壁面を飾る尾崎喜八の詩碑「松本の春の朝」に挨拶して、松本駅に向った。
 大糸線穂高駅で列車を捨てた。個性あふれる美術館が北アルプス山麓に散らばっていた。はやる気持ちを鎮めなければ碌山美術館は上の空になりそうなので、穂高東中学校の尾崎喜八詩碑を先に選んだ。待ちわびた喜八とのご対面であった。
 玄関前右手の芝生の上に、期待に違わず、美しい詩碑が待っていた。周りは綺麗に手入れされ、詩碑を大切にする生徒たちの気持ちが伝わってくる。

   田舎のモーツァルト
   中学の音楽室でピアノが鳴っている。
   生徒たちは、男も女も
   両手を膝に、目をすえて、
   きらめくような、流れるような、
   音の造形に聴き入っている。
   そとは秋晴れの安曇平、
   青い常念と黄ばんだアカシア。
   自然にも形成と傾聴のあるこの田舎で、
   新任の若い女の先生がししとして
   モーツァルトのみごとなロンドを弾いている。

 建碑に至るには一編のドラマがあった。
 この詩が、自分たちの学校を題材として作られたものであると発見したのは、校内誌「ほたか」の編集委員で、その発見に注目し、この音楽室に学んだ同窓生の賛意と協力を得て、昭和六十年に詩碑が完成した。
 ブロンズのプレートに詩人の直筆を拡大した十行が刻まれている。その銅板が穂高町産の白御影石に嵌め込まれ、詩に詠われている青い常念岳と対峙する。
 秋の一日、安曇平の音楽室の光景は、詩人の魂に深く刻まれ、「田舎のモーツァルト」の一編に結晶した。作詩の経緯について作者は次のように述べている。作品の理解を深めるために引く。

 

 

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 尾崎喜八の詩碑について (3) 安曇野

浜田さんの安曇野紀行(続き):

 「元来モーツァルトの音楽は青年たると老年たるとを問わず、貴賎の別なく、実に万人を喜ばせ、万人の愛に値いし、また作曲家自身それを期待してもいた芸術である。詩の霊感から言えば、それは地方の或る田舎の中学校と、その音楽室でピアノを弾く新任の若い女教師と、それに聴き入っている純真でけなげな男女の生徒と、おりからの秋とその光と、周囲をかこむ峻厳な山々のたたずまいとから触発されたものではあるが、そういうモーツァルトこそ私には真のモーツァルト、しょうすうの貴人や知識人の専有物でない、万人共有の宝であるモーツァルトという気がする。そして田舎、ああ、私の郷愁の理想世界の姿であるこの田舎というもの。これこそ彼の芸術の本当のすみかでなければならなかった。そして願わくば私の詩も、またそのようでありたいと思っている。」(「詩集田舎のモーツァルト」)

 作品そのもの、作品への作者の思い、文学碑の姿や置かれた環境、建碑に至るドラマ、総てが訪れる者を感動させる文学碑の傑作であった。
 詩碑のすぐ傍には萩原碌山の彫刻「抗夫」が居た。さりげなくニ基の名作が置かれている贅沢さに驚く。「黄ばんだアカシア」は緑の風に揺れる銀杏の並木に変わって、赤い屋根の校舎を取り巻いている。詩といい彫刻といい、一級品に囲まれて青春を送る生徒たちの幸せそうな顔が浮かび、立ち去り難かった。
 夏休み中の校舎二は、元気な生徒の姿はなく、ピアノの音も響かず、静寂だけが居た。

 誰しも一度は尾崎喜八に出会い、感動する。それは作者の提示する詩が、「現代詩の世界において、自由詩形にもっとも安定感をあたえた」 「素人の歌を独自の芸術にまで鍛錬し、詩の領域を広く拡張した」(前掲・河盛好蔵)と評されることに由来すると思われる。
 筆者も青春時代に喜八の詩に出会い、惹かれた。だが、今にして思えば理解が浅かった。誰でも書けそうな詩が並んで居たが、「単に自然を観照するだけではなく、自然の中に没入して、自然とともに生き、自然との親密な対話を通して、自然との調和、を希求している」(前掲・河盛好蔵)と評される尾崎喜八を理解するには時間と汗が必要であった。
社会の荒波にもまれ、それなりの汗をかいた後で、今一度、詩集を開くと、作者の紡いだ詩句の一つ一つが山顚で飲む甘露の味わいを持つことに気が付く。
独自の境地を持つ喜八の山河はとてつもなく広く、高い。足跡を探して旅を続ける中でほんの少しだけ尾崎喜八に近づいた気がする。

尾崎喜八の文学碑は、記した以外では以下の六基を数える(除・校歌碑)。山には無縁の筆者にとっては全碑の踏破はすこぶる難題である。

 群馬・利根郡みなかみ町水上の森・詩碑「ふるさと」
 長野・南佐久群川上村御所平公民館前・詩碑「御所平」 このニ基は既訪問。
 群馬・多野郡神流町御荷鉾山・文学碑「神流川紀行」より
 群馬・多野郡神流町万場・歌碑
 長野・木曽郡開田村木曽馬牧場・句碑
 長野・上伊那郡長谷村長谷小学校・詩碑

 

以上五基は浜田建治さんが「神奈川の文学碑」というご著書の中から、お許しをいただいてここに載せさせていただきました。

 

 

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 尾崎喜八の詩碑について (4) 浜田健治さんの富士見高原紀行

浜田さんの富士見高原紀行:

 中央線富士見駅に降り立つ。駅前に「富士見町高原ミユージアム」が堂々と建つ(尾崎喜八、伊藤左千夫など富士見を訪れた人々の資料を常時展示)。玄関脇には尾崎喜八の詩「富士見に生きて」全文を刻んだ詩碑が座る。

   人の世の転変が私をここへ導いた。
   古い岩石の地の起伏と
   めぐる昼夜のおおいなる国、
   こもごも生活を規正する国、
   忍従のうちに形成される
   みごとな収穫を見わたす国、
   その慕わしい土地の眺めが、今
   四方の空をかぎる山々の頂きから
   緑の森に隠れた谷川の河原まで、
   時の試練にしっかりと堪えた
   静かな大きな書物のように
   私の前に大きく傾いて開いている。
                 尾崎喜八

 

尾崎榮子・記:
 碑の裏面には今は亡き串田孫一氏の撰が刻まれているので、ここに掲げておきます。
 文章は三つに別れていて、はじめと終わりは串田さんの文で、送り仮名は片仮名、真ん中の文は喜八の文章で送りはひら仮名で刻まれています。喜八の文の出典は調べておりません。送り仮名の表記はすべてひら仮名で記します。
 碑に彫られた文は串田さんが墨書されたものがそのまま彫られている、大切な碑面である。

   尾崎喜八は明治二十五年東京に生れる 幼時
   より読書と自然に接することを好み 長じて
    藝術に意欲を傾けて詩作と飜訳の生活に入る
   太平洋戦争後 昭和二十一年より 凡そ七年間
   信州富士見に移り住む

   山国の信州で 人は自然の強力な支配に従順
   であり、しかもそこから生活の知恵を生み出
   し、勤勉と忍耐と持久と好学の精神とを学び
   養う。富士見高原でもそうだった。そしてそ
   れ故にこそ私は自分の住む土地と人々とを愛
   さずにはいられなかった。

   温い心の交流に支えられながら この地で数
   多くの優れた詩と散文を生む 後に東京へ戻
   り 相州鎌倉へ移り 昭和四十九年 八十二年
   の生涯を終る
                   串田孫一 撰並書


 喜八が富士見高原の「分水荘」に居を定めたのは、昭和二十一年からの七年間。
周囲を森に囲まれた他人の別荘の一隅で、『花咲ける孤独』の詩や、高原の自然とそこに住む人々を詠った多くのエッセイを執筆し、心豊かではあるが清貧、流てきの生活を送った。
 尾崎喜八の隣に堀辰雄も座らせ、長い時間、三人で八ヶ岳を眺めていた。

 

 

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 尾崎喜八の俳句 (1) 坂本波之さんのこと

 友人から早春に咲く椿、ワビスケの蕾をつけた短い枝をいただいた。蕾の一つは開きかけ、花びらの色は黒みがかった深い赤だった。 玄侘助(くろわびすけ)と言うらしい。
 さてどんな花活けに活けようかしら、この花によく会うのは、と取り出したのは何時も臘梅忌の時に臘梅の短い枝を活けて、尾崎の肖像写真の横に添えてあげるあの花活け、「波之さん」の花瓶と呼んで父が大事にしていたものだった。
 波之さんご夫妻の作、波之さんの句が書かれていて、色良く形良く焼きあげて恵贈してくださったものだ。坂本七郎(俳号 波之)さん この方は父より14、5歳年下で、はじめは詩を書き、同人誌の編集・発行などをしていらしたそうで、その頃からのお付き合いだとおもう。私の記憶でも、京橋の家の頃から出入りしていらして、父の楽しい友人だと思っていた方だった。

 坂本七郎さんはその後、詩から俳句に傾斜され俳誌「かびれ」の誌友になり、以後 父は波之さんと呼んで親しんでいた。若い時には他の世界と思って紙面で他人の作を眺めるにとどまっていた俳句の世界に父を引き入れたのは、この何とも好きであった波之さんのアプローチだったろうと思っている。

 波之さんの紹介はここまでにします。でも、これは尾崎の俳句の事に関して語るのには、知ってて欲しいことだと思うので、記しておきます。

   *

 私はあまり詳しくは知らないのですが、俳句をつくり、楽しむのには、ひとりで時に応じて作る他に、何名かで吟行したり、連衆と共に巻く歌仙(連句)がある、と当時教えられました。
 波之さんを仲立ちに俳句誌「かびれ」を主宰されていた大竹孤悠師との(日立在)付き合いが始まり、共に吟行をしたり歌仙を巻いたりして、一時は俳句の世界に興味を持っていたようでした。 それは尾崎が50歳ごろからの事です。

 

 

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 尾崎喜八の俳句 (2) 信州・富士見での連句1

  今回は戦後七年 流寓 信州富士見高原の分水荘で客人をもてなすために、知的遊びとして繰り広げた、連句の会の一部分をその場の雰囲気や尾崎の所作とともにご披露します。
 お相手が一人のときはよく三つ物とか六つ物二つ折というのをして呉れました。私も初めはこの短いのをさせられながら、俳句や歌仙を教えてもらったのでした。

 まず、行人先生が(尾崎の俳号は行人と称していた)最初の五・七・五か七・七をつくる。先生は紙と硯、筆を広げて待っている。次の句は私、全然違った発想の句でよいのだが、何処かで、ちょっと前の句に付いていなければいけないのだ。
 さあ 苦吟 苦吟。
 昭和22年、父が富士見高原に移り住んでまもなくのころでした。
 親娘で巻いた 二つ折り を写してみます。

  雲は横に里は夕づく冬野かな    行人(こうじん)

     ぼや燃えさかり炉端賑ふ    叡子

  塩鮭の顔見ぬことも五六年      人

     ゴムの林を叩くスコール     子

  愛蔵のデュフュイの水絵額に入れ   人

     待宵草の花ひらく丘      子

  フリュートの音の冴え残る楽にして  子

     銀座の裏で店をはじめる    人

  聖路加の窓みな灯し夏の月      子

      水羊羹に薄茶一服       人

  客辞して耳立つ虫や庭の闇      子

     武漢の市を又いつか見ん    人

 俳句など作ったことも無いものには難儀なことでした。

 師匠格の大竹さんや波之さんと巻いた連句は三巻ありますが、前に書いた昭和18年・24年に日立と富士見で巻いたもので別格ですが、穂屋野歌仙と名づけられている歌仙は、その連衆の名前をみると、よく見えるお客へのもてなしのお遊びだったのではないかと思われるのだ。
 土地の人かあまり日頃俳句に縁のない客人が主だったようです。

 

富士見・分水荘の喜八夫妻:

 広い十四畳もの部屋、小さい手あぶりの火鉢一つ、連衆は二尺四方の掘り炬燵に膝を入れて、先生とともに順番に句を付けてゆくのである。一月の昼間でも0下6度・7度という時、この暖房ではとても寒く、苦吟して長いこと待たされると硯の筆がじゃりじゃりと凍ってしまい、大笑いしたこともあった。

 

 

 

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 尾崎喜八の俳句 (3) 信州・富士見での連句2

 歌仙一巻は三十六句、初めの六句を初表、次の十二句を初裏、次の十二句を名残表、最後の六句を名残裏と言い、それぞれの何句目かに月・花・恋を読み入れなければならないと教わった。

 行人先生「さあ次は花だよ」と指導。

 相手がどんなに長考苦吟してもこちらが付け終わるまで口を出したり、助けてくれることはなかった。 その代わり相手が長考苦吟している間、本でも読んで居て呉れれば良いのに、煙草を吸いながらじいーっと待っている。

「前句に付けるといっても、言葉を受けるのでなくても良いのですよ。雰囲気を受けるのでも良いのですよ。」と言ったりして・・・ 。
(その間母や私は冬は寒い台所でお客に出す食事の支度)

 父の俳句に関してはその著書にはあまり本人が載せていませんでした。
 父の没後ずっと後になってから、私の勤務先の先輩に「東京義仲寺連句会代表」の方がいらしたのでその方に、私も仲間に入れてもらって巻いた連句を見ていただきたくて、富士見高原の森の中の古い住まいでの連句会の様子を書いた手紙を添えてお渡しした。

 その一部分をここに載せてみよう。(以下、…は中略の意味)

「…戦後の昭和22年~26年頃のあの不自由な殺風景な時期に、冬寒さに閉じ込められる富士見で、一里近くも歩いて見えては、連衆一同長考苦吟しました事、思えば楽しい一ときでございました。それぞれ各人が今後の生き方を模索している、内心は不安な頃でございました

 …後に霧ヶ峰のヒユッテ・ジャヴェルの主となった当時は製材をしていた方や、製材の手伝いをしていた方、富士見駅前の呉服屋さん、結核で高原療養所に入院してた方たち、それにその山荘の持ち主で“お殿様”と言われていた方などで、それこそ皆連句等ははじめてと言う人ばかりでございました。私等今見るのも恥ずかしい出来で、皆さんに出す食事の支度をしているとホラお前の番だよと言はれて筆を握り、うんうん言った覚えがございます。

『このあたり、指導者さえ一人しっかりしていれば「人は皆芸術家」ヨゼフ・ボイスだ。僕はしっかりボイスの徒である。』 (「俳句未来」同人・村野夏生さん)

 …長考した挙句にひねり出した句をほんの一寸注意して直してくれる。それでもう立派に前の句を受け、後につなげて行くものになってしまいました。そして少し日を置いて自分の句を眺めてみると、直された事も忘れて我ながらこれはなかなか良いと思ったのは、私ばかりではなかったでしょう。…

 …東京下町の風俗、風情が時々顔をのぞかせて。…自然の事に対してはお手のものでしょうが、ある向きからは、西欧かぶれした詩人のようにも言はれてきた父の中に、下町に育った青年時代がしっかり根をおろしている…そんな事がうかがわれるのは巻いた歌仙を見るのが一番ではないかとおもったこともございました。」

と、こんな手紙を添えて歌仙のみすべてを御預けしたのだった。

 三十六歌仙を巻くのにはとても一回の俳席では無理なこと度々だったので、途中でやめて、また次の機会に続きを読むと言う風にしていたようであった。 こんな苦吟の後、客人の眼は生き生きとして、なにか美しいものを見付けたように見えたのは、私の若気の感傷であったかもしれないが、 父の、人の心を読んでのもてなしへの賛辞であった。

 

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 尾崎喜八の俳句 (4) 信州・富士見での連句3

 連句については行人先生と共にのんびりハイキングしながら、同行の連衆の付句を聞いている心境で読んでみてください。
 又は、「穂屋野歌仙」のように、分水荘の小さな炬燵や、夏はテーブルに行人と向かい合って慣れない句をつくらせられているような気分になって、「尾崎喜八資料15号 行人句抄 尾﨑喜八の俳句」を是非ご覧になってください。喜八の俳句の特集号になっています。

 

 以下、これから少々触れたいと思う尾崎喜八の俳句・俳句鑑賞などがありますが、創文社版『詩文集』に載っているのは僅か五十句のみなので、下記のホームページにある「尾崎喜八資料」を見ていただきたいです。
http://www.ozaki.mann1952.com/shiryou/shiryou.html

 広島の大学教授を務められた満嶋明さんが「資料」全16巻をネットで公開できるようにしてくださり、私たち尾崎喜八研究会の許諾のもとに公開しているものです。近い将来、あるミュージアムで進んでいる「尾崎喜八デジタル文学館」(仮称)の中に、統合される予定になっているそうです。

 

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 尾崎喜八の俳句 (5) 信州・富士見での連句4

 七年余の信州の森の中で過ごした間、さきに述べた波之さんや孤悠師の薦めで「かびれ」誌に投句したり、無鑑査で載せられたりしていたのを、村(当時は富士見村)で集まっては宗匠俳句の句会を開いていた人たちや、高原療養所での句会の人たちの目に着いたのか、三・四の集落から俳句の選者を頼まれるようになった。尾崎はこの高地農村での集落あげての俳句熱には驚いたようだったが、彼の文章を引用しておこう。

「…その富士見の生活は数十編の詩と散文を私にもたらしたが、土地の人々はそういう詩人の私には敬遠して手をつけずに、たまたま俳句を物する私をもっぱら彼らの句会に招待した。八ヶ岳の山麓、諏訪郡のいたるところで、いわゆる宗匠俳句、月並みの俳句が盛んだった。 私は句相撲というものにびっくりし、節をつけて朗々と吟ずる披講に冷汗をかき、宗匠の書いて与える聯板(れんいた)という物に目を見張った。そういう句会は十二月から翌年三月頃までの農閑期に各処で頻繁に催されて、人々は兼題の句や古い孕み句をふところに、雪や凍土の高原の道を遠く村から村、部落から部落へと集まって行くのだった。
 しかしまた一方には数の上でこそ及びもないが、純正な俳句、文学として俳句を励み楽しんでいる少数の人たちもあった。その人たちはそれぞれに『ホトトギス』『馬酔木』『夏炉』『雲母』或いは『山火』などへ投句していた。
 高原療養所の患者のなかに其の種の人がもっとも多く、他は山麓のいくつかの部落に一人二人と散在していた。そしてその人たちが下諏訪在住の木村蕪城君や私を折々まねき、また私の家へ集まって、句会を催したり批評を求めたりした。しかし彼らもまた、いや、彼らといえども悲しいかなまた、詩人としての私によりも、俳句に理解や愛を持つ者としての私に一層多く期待をかけていたらしいのは、ここでも同じ事だった。そしてたまたま私をうながして近作の詩を読ませながら、溜息をついて彼らは言うのだった。 『どうも詩というやつはむずかしくって』と…。」

 

 

 

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 尾崎喜八の俳句 (6) 「行人句抄」によみがえった句

  昭和27年六十歳の秋、富士見での生活と別れを告げ、東京世田谷の玉川上野毛に移るのだが、「その後考えるところがあって」と尾崎は言っているが、富士見時代に書いた句帳を、庭の山茱萸(さんしゅゆ)の木の下で焼いてしまうのだ。
 母(實子)が頼んで残してもらった五十句のみが詩文集『夕映えに立ちて』(創文社)のなか「よみがえった句」に書かれている。

 父の没後母と共に遺品の中から、句帖の下書きなどを見つけ出して、ほとんどを救い出して「尾崎喜八資料・第十五号」にまとめて載せることができた。

 これらの句は、後に伊藤海彦さんが撰んだ句二十篇に、版画家の山室眞ニさんが木版画を手刷りした私家本「行人句抄」(限定33部、昭和六十二年二月四日刊行)としてまとめられました。
 伊藤さんが亡くなった後にも山室さんのお力で、薯版「行人句抄2」(限定4部・私家版・2001年)が刊行されました。
 両方ともに、身内に配るだけのささやかな出版ですが、本当に心こもった宝石のような句集です。

 この、他人様が選び出してくださった二十六句と、伊藤海彦さんの「行人句抄」に添えて という後書きを写して、富士見高原の自然の中から芽生えた詩人尾崎喜八の俳句を味わって下さい。


 甲斐信濃谷の一重や春の鵯    春蘭を掘るや雨雲さがり来る

 炭橇につけ来しあけび芽の未だ  雪沓を仕舞ふと干せば蝶の附く

 囀や雨意しきりなる谷の村    思ふかなまだきの奧の花うばら

 花杏千曲の風がなみなみと    種袋絵が美しと妻は捨てず

 をりをりの汽笛や霧の向山    唐松の黄葉崩れんばかりなる

 白樺の小割り作るや日雀来る   一位なほ紅二三点冬に入る

 朝朝の霧晴れて行くあをじ哉   音のして霰うれしき田舎かな

 冬木立赤げらの赤奢りとも    雪晴れや刻めるごとき野鼠の道

 初空や雲に散りこむひわあとり  餅花に雪こそ匂へ駒ケ嶽

 遠きもの春てふ文字をいろいろに 別れとは額髪の雪払ふこと

 るり鳴くや雨後匂ひ立つ大穂高  啄木鳥やいつひろがりて鱗雲

 春哀れ遠ほ浮びをる槍穂高     梅雨濛々山ぼうしかや花の白

 鳥頭とりかぶと更科さらしな升麻しょうまどっと活け

 

 

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 尾崎喜八の俳句 (7) 伊藤海彦「行人句抄に添えて」(抄録)

 行人句抄 に添えて 伊藤海彦

(前略)

 ここにとりあげた二十句は、詩人自身のえらんだ五十句と重複しない作品ばかりである。棄てたものをまた拾うな……と先生にお叱りを受けるかもしれないが、本人が善しとしたもの必ずしも最上の作とは限らない。私にしてみればこの二十句のほかになお数多くの佳品があってえらぶのに苦しんだほどである。作品としてすぐれていることは無論だが、それに加えて信州富士見とそこに生きた詩人の日々、 あのいい難い清冽な時間をになっていると感じさせるものを私は選んだ。敗戦直後のザラ紙の日記帳やノート、その変色した頁に認められた水っぽいインクの文字。それは私を涙もろい青年にひき戻すには充分すぎるものだった。

 私は先生の句を今ここで解説したいとも思わないし、その分でもないが、ただ

 ひとこと書いておきたいと思うのはその率直な美しさである。いかにもこの詩人の性情を表わして妙にひねった所がない。奇をてらった現代風からは遠く、むしろ形は保守的だが、その言葉の切り口は鋭くさわやかである。専門俳人の作とも文人俳句とも異った視線がそれを支えていると私は思う。昭和十九年頃から打ちこんで、二十二・三年頃に最も熟した領域へ入った尾崎喜八の俳句。それは詩人に改めて言葉の抑制を教えたのではないだろうか。たとえ他の事情がなかったとしても、詩人の俳句はやがて「花咲ける孤独」の詩群のかげに吸収される運命にあったような気がする。(昭和60年・私家版)

 

 

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 尾崎喜八の俳句 (8) 終

 六十歳の秋(昭和27年)足掛け七年の富士見分水荘の生活を終わり、東京上野毛に戻るのだが、それからはほとんど句作はしなくなった。二・三年夏に仕事を持って分水荘に逗留していたが、その折以前親しくしていた土地の方達の句会に招かれて少しは詠んだことと思う。
 しかし東京には前出の、坂本波之さんや蛭田石尊さんが待ち受けていてくださった。 きっと信州恋しの心を慰めてくださるお積もりだったのだろうと私は思う。
 行人句会と言うメンバー五人の会をつくり、年に一度集まって句会を開いていた。波之さん・石尊さんの肝入りで、料亭に尾崎夫妻を招き、その日は全員夫人同伴での句会で、互選であったように聞いている。尾崎宅には何も記録は残っていないが、四五十年経ってから名古屋の堀さんが手に入れたそうで、巻紙に達筆で全員の句が書かれたものを、コピーして贈って下さった。残念なことにあまりに達筆なので解読できず、どれが何方の句か書いてないので、そのまま眠っているしだいである。この会は『十三夜の会』となずけられ、お一人ご健在の方が、今も懐かし気に語ってくださる。

   春分の 入日笹子に 今滾たぎ

   これは東京上野毛の書斎の窓から見た句。

以上で俳句とはお別れしよう。

 

 

 

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