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   ※ルビは「語の小さな文字」で、傍点は「アンダーライン」で表現しています(満嶋)。

 

晩秋の午後の夢想

『山の絵本』の思い出

                           

 

 晩秋の午後の夢想

    「高村光太郎全詩集(編纂:尾崎喜八・草野心平・伊藤信吉・北川太一)」附録より

 愚かな空想をするようだが、もしも今高村さんが生きていて、私とおないどしか一つぐらい年上で、今日のような穏やかなきらびやかな晩秋の午後に、多摩川べりの木々に囲まれたこの家へたずねて来てくれるのだったらどんなに嬉しいかと想うのだ。つい十日ほど前に、「高村さんのおじさんが生きていらしったら、うちで取れたのですがと言って持って行って上げられるのに」と妻が呟いていた庭の柿は、もう大半孫たちとオナガやヒヨドリのような鳥どもに食べられてしまったが、清楚に白いヤツデの花やルビーのようなサザンカが咲き、ヤマノイモの葉が黄いろく照り、ヤマウルシやヌルデの葉がまっかに染まった庭を前に、半世紀になんなんとする互いの知遇に今はなんの心置きもなく、静かにくつろいで、暗く奥深い緑茶の一碗を味わっているような時間が持てたら、どんなに楽しいことだろうと思うのだ。
 やがて高村さんは書斎の隅の電蓄に目をつけると、あの大きな手の人さし指を立てて私に合図をするだろう。私はその意味をのみこんで、そっと器械に近づくだろう。そして何を一緒に聴こうかと、ずらり並んだレコード入れの箱の前で一瞬思いまどうだろう。「私たちの古いなじみのベートーヴェンにしましょうか。それも後期の弦楽四重奏曲の、何か静かなラールゴかアダージョに」と私はたずねる。「でなければバッハのオルガン・コラールを一つか二つ。それとも久しぶりにブランデンブルグをお聴きになりたいですか。」すると高村さんは白い大きな手を軽く振って、「今日のところはベートーヴェンやブランデンブルグはいいよ。じゃあオルガン・コラールにしてもらおう」と言う。そこで私は音盤を二枚選び出して、まず初めに「装いせよ、おお愛する魂よ」をかけ、続いてすこし間を置いて、「汝の御座みくらの前に我いま進み出で」をかける。沈痛で深く美しい衆賛曲は秋の夕空の光のように行き進む。この世の時と処とが解体して、音楽の純粋な時間と空間とが君臨する。七十年の互いの過去は遠い世のこと。今在る「時」こそ二人の個々の永遠である……。
 高村さんには、その詩集『典型』に、「ブランデンブルグ」という五節から成る六十行近くの長い詩がある。昭和二十二年十月三十一日、岩手の山里の晩秋の天に「純粋無雑な太陽がバッハのように展開した」ことから始まる力作の詩である。原形どおりに引用すると紙数を費して悪いから書き流しにするが、第三節から終わりの説までは次にようになっている。

「秋の日ざしは隅まで明るく、あのフウグのやうに時間を追ひかけ、時々うしろへ小もどりして、又無限のくりかへしを無邪気にやる。バツハの無意味、平均律の絶対形式。高くちかく清く親しく、無量のあふれ流れるもの、あたたかく時にをかしく、山口山の林間に鳴り、北上平野の展望にとどろき、現世の次元を突変させる。/おれは自己流謫のこの山に根を張って、おれの錬金術を究尽する。おれは半文明の都会と手を切つて、この辺陬を太極とする。おれは近代精神の網の目から、あの天上の声を聴かう。おれは白髪童子となつて、日本本州の東北隅、北緯三九度東経一四一度の地点から、電離層の高みづたいに響き合ふものと響き合はう。/バツハは面倒くさい枝道えだみちを持たず、なんでも食つて丈夫ででかく、今日の秋の日にやうなまんまんたる天然力の理法に応へて、あの「ブランデンブルグ」をぞくぞく書いた。バツハの蒼の立ちこめる岩手の山山がとつぷりくれた。おれはこれから稗飯だ。」

 バッハの協奏曲の頂点をなすブランデンブルグを、高村さんは自分の山の小屋でのように書いているが、本当は花巻あたりの好楽家のところで初めて聴いたのではないだろうか。そして聴いたのは全六曲か、それともその内のどれか一曲か二曲だろうか。いくつかの徴候からそういう疑問も生まれるのである。しかし結局そんな事はどうでもいい。かんじんなのはこの長大な詩が、いかにもあの協奏曲の微塵ゆるぎのない構成と、耳にこころよい豊かな多音と、強靱な生のリズムの躍動とに乗り移られている点にある。高村さんはここでも雅俗共にその豊富な語彙を縦横に駆使している。好個の戦場を得た将軍のように、旗下の兵を四方に放って手足のように動かしている。そして戦い勝った夕べの馬上で破顔大笑、「おれはこれから稗飯ひえめしだ」と言っている。真にすばらしい秋の一日だったと思わなければならない。
 しかしまだ問題はちょうどここにある。高村さんは「バッハの無意味、平均律の絶対形式」と高い調子で言っているが、その無意味とはバッハの音楽における限定なき生の流れの謂いなのだろうか。また四十八曲の平均律ピアノ曲集は、果たして絶対形式などという言葉で片づけられるものだろうか。また由来高村さんは錬金術などという密室的なものを卑んでいたのにかかわらず、「究尽すべきおのれの錬金術」とは何を指し、その秘密の錬金術とあの太虚のように純粋無雑な「無意味」とはどういう関係に立つのだろうか。バッハをして「ブランデンブルグ」をぞくぞく書かせた「まんまんたる天然力の理法」とは一体何だろうか。そしてたとえ芋粥、稗飯に腹ふくらせようとも、岩手県太田村山口のその小屋で、近代精神の網の目から天井の声を聴き、電離層の高みづたいに交響の相手を求めようと言うのである。しかしこのあたり、否、この詩の全体を通じて、忌憚なく言えば、私は高邁な言葉と観念による雄大な図上作戦だけを見るような気がして仕方ない。
 あたかもこれと同じ頃、昭和二十二年の冬の初め、私も一種の自己流謫の気持で東京から移り住んだ長野県八ケ岳山麓の森の一軒家で、「存在」と題する次のような三節の詩を書いた。その詩は後に出た詩集『花咲ける孤独』に加えたが、これも紙数を取ることを遠慮して散文体の書き流しにして引用しよう。

「しばしば私は立ちどまらなければならなかった。物事からの隔たりをたしかめるように。その隔たりを充塡する、なんと幾億万空気分子の濃い渦巻。/きのうはこの高原の各所に上がる野火の煙をながめ、きょうは落葉の林にかすかな小鳥を聴いている。十日都会の消息を知らず、雲のむらがる山野の起伏と、枯草を縫うあおい小径と、隔絶をになって谷間をくだる稀な列車と……/ああ、たがいに清くわかれ生きて、遠くその本性と運命とに強まってこそ、常にその最も固有の美をあらわす物事の姿。こうして私は孤独に徹し、この世のすべての形象に、おのずからなる照応の美を褒め、たたえる」

 私は自分の近況をつたえるつもりでこの詩を岩手の山間の高村さんに書いて送ったが、その返事の葉書からは密かに期待していたものは得られなかった。それもいい。人にはそれぞれの気質があり、境遇があり、心境があったのだ。「暗愚小伝」の苦衷から抜け出ると、たちまち「山林」を書き、「脱郤の歌」を書くことのできた、また書かずにいられなかった高村さんだ。そして同じような窮境を生きても私には信州という国がらの暖かい周囲があり、妻があり子があり、何よりも何よりも、高村さんには欠けている家族の炉辺とその慰めとがあったのだ。
 高村さんは他人が自分の世界へ立ち入ることを好まなかったと同時に、おせっかいがましく人ごとに立ち入ることもしなかった。だからそういう事から来る争いやいざこざを一度も経験しなかったように思われる。人情の雁字がらめなどは高村さんの最も忌むところだった。とは言え大正十五年に、シャルル・ヴィルドラックの脚本の読後に書いたあの美しい詩「ミシエル・オオクレエル」にはこんなすばらしい数句がある。「それを見るとついかっとして、ミシェル・オオクレエルが喧嘩をしたんだ。/さあ出て行ってくれと、ブロンドオが椅子をふり上げたんだ。/閉ぢようとする心をどうしても明けようとする、さういふ喧嘩の出来る奴だ。(中略)さういふ喧嘩をおれは為たか、相手の身の事ばかりが気にかかるという本気な喧嘩を。」してみれば高村さんにも、純粋な動機から生まれた人間の無私の感憤を善しとする気持は充分にあったのである。

   

 

 

 

駒込林町のアトリエ(戦災で焼失)の前で。
尾崎喜八氏の家族と光太郎(後列)。
昭和7年1月、尾崎氏撮影。

 私にはこんな経験がある。たぶん今の詩よりもすこし前の事だったと思うが、当時私の住んでいた上高井戸の田舎に津田道将という詩人が移って来て、病いを養うために或る農家の離れ家に看護婦と暮らし、名は忘れたが二号か三号つづいた詩と散文の贅沢な個人雑誌を出していた。津田はそれを私や高村さんや、私の岳父水野葉舟氏におくった。ホイットマンやソローの影響を強くうけた詩風であり文体であったが、水野氏がもっとも高く彼を買い、私が彼に並ならぬ共感を持っていたのに、どういうものか高村さんだけは頑として彼を容れないばかりか、むしろ強い嫌悪の念さえ抱いていた。私にはそれが惜まれてならなかったし、敬愛措くところのない先輩にもかかわらず、これだけは何か頑迷な、何か不公正なことのように思われた。そこで或る日駒込の家へ出かけて、私はその嫌悪の理由を高村さんに問いつめ、なじった。つまり高村さんの大嫌いな「人ごとへの立ち入り」であり、お節介な介入だった。高村さんは思いつめている私にしばし迷惑そうな顔をして返事を左右にしていたが、「さあ出て行ってくれ」とも言わず、アトリエの椅子も振り上げず、その変わりに津田道将の雑誌を手に取り上げて或るページを開き、「ここを読んでみたまえ」と言って私の眼前へ突き出した。読んでみると私もすでに知っている編集後記の短文だが、別に高村さんを怒らせるような事は何一つ書いてないのを確かめた。今ではうろ覚えの記憶だが、なんでも詩壇の老朽した塀や壁どもは早く崩壊してしまえというような事が書いてあった。「これがどうかしたんですか」と私はけげんな顔で訊いた。「僕のことさ。言わずと知れてる」と苦りきって高村さんは答えた。私は啞然とした。現にすぐれた作品をぞくぞくと物し、ホイットマンやソローにも共通する思想を持ち、今はまた見事な翻訳でヴェルハーランを紹介している事どもを、およそ詩にたずさわる者ならば誰でも知っている高村さんを目して、だれが枯渇した老朽詩人だとと思うだろう。これは高村さんの思いすごし、ひがみ、言わばばかばかしい被害妄想だ。まったく高村さんらしくもない。そんな考えはきれいさっぱりお捨てなさい。よろしい! 私が津田に会って直接彼の真意を確かめましょう。私はそう言って、今は寧ろあっけにとられている高村さんを後に高井戸の田舎へ帰った。
 誤解解消の成果をいそぐ私は、その夜のうちに津田に会って、あの編集後記の中のいわゆる「老朽詩人」なるものが、たとえばどんな人達だかをさりげなく訊いた。すると、ここにその名をあげるのは遠慮するが、当時詩壇に幅をきかせていた三人か四人の名が洩らされた。それで私は思い切って、しかし今度もさりげなく、高村さんはどうなのかとたずねた。すると相手は寝耳に水のようにびっくりして、「とんでもない! あの人は僕のいちばん尊敬している詩人です、」と何かを払いのける勢いで手を振って言った。私は自分の考えの正しかったことに満足し、そのあくる日さっそくまた駒込へ出かけて、津田との話の模様を逐一つたえた。高村さんは間の悪そうな顔をして聴いていたが、「尾崎君にはかなわないよ」と言いながらも頭を下げた。私はまた余計なおせっかいをして高村さんを悩ませたかなと思ったが、それでもこれでさばさばした気持になった。翌々日高村さんから心のこもった礼の手紙が来た。そしてその中に「君は天使のような心を持っている」という一句があった。
 あの美しい「ミシエル・オオクレエル」の詩は次のような二行で結ばれている。「―ありがたう、ありがたう、ありがたう、あたし生き返った気がするわ―。ああ雨に洗われたやさしい若葉のそれが声だ」
 雨降って地固まる。生き返った気がしたのはブロンドオの細君ばかりか、私だってそうだった。

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 『山の絵本』の思い出

    「日本山岳名著全集 月報No.7  昭和41年3月10日」より

『山の絵本』の思い出
                          尾崎 喜八

 『山の絵本』は昭和十年七月に東京神田の朋文堂から初版が出た。私の四十三歳の時の本であり、数えて十冊目の著書、そして最初の散文集だった。内容は十ヵ所ばかりの山や高原や峠の旅のことを書いたものを主体とし、それに山および自然一般に関係のある随想と観察記、山の先輩や友人についての二三の文章その他で、足りない部分を補った。すべてそれよりも五六年前から書き溜めて持っていたり、「山小屋」、「山と渓谷」、「山」その他の雑誌や新聞に投稿したものをまとめて一冊にしたのだが、その頃としては豪華な出版で有り、異色の読み物であったかもしれない。
 私が山の文章を書くようになった直接の動機は、田部重治さんの『日本アルプスと秩父巡礼』、河田楨さんの『一日二日山の旅』、『静かなる山の旅』、この三冊を愛読して、自分もまた自分らしい文章でこういうものを書いてみたいと願ったところにある。子供の頃から引続いて自然を愛し、またそれを文章の上で再現することが好きだったので、齢ようやく四十に近く、この願いは比較的やすやすと達せられたのである。それにすでに三冊の詩集も持っていた。その中では自然が常に伴奏をしたり主旋律を歌ったりしていた。そこで、山や自然の中に自分の詩感を投入して、そこから未前の文体を生むことは、試みとしてさほど難事ではないように思われた。
 しかしそうは言っても、最初はおずおずと「新年の御岳・大岳」のようなものを書いた。そこに田部・河田両先輩の影響が何となく認められることを私は否まない。由来、人間に純粋は独創などというものは有り得ないのである。しかし続いて書いた「念場ガ原・野辺山ノ原」で、私は自分の道をさぐり当てた気がした。私らしい想像が自由にはたらき、見たもの感じたことが、その新鮮さを失わないで表現されるようになった気がした。そして続く「たてしなの歌」に至って、私はついに自分のものを打ち建てたと思った。しかし要するにそう思ったり、そういう気がしたに過ぎない。特色などというものはみずから誇号すべきものではなく、眼のある他人の裁量に任せるべきものである。世を憤る心は貧しく、世におもねる心は卑しい。詩人たる者、つねに内心の切なる要求と衝動にしたがって書けばいいのだ。
 初版の本は、今は亡い友人片山敏彦が、その色刷りのカヴァーの題字と画とをかいてくれた。焼岳と梓川との秋の風景に気品と詩とがあり、小さいオヒオドシがその上へ描かれた、美しい七宝細工のようだった。本そのものの装幀は朋文堂社長の新島章男さん自身がやってくれた。これまだ評判がよかった。私は先輩、友人、未知の人々から多くの好意ある言葉や手紙をもらった。そして或る日盛大な出版記念会が催された。

 

※サイト管理者:写真2葉(八ガ岳山麓を行く、初版本見返しにある尾崎先生の筆跡 )が付いています。

 

 

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