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  シラー作『歡喜に寄する』讃歌(譯詞) 晩秋の午後の夢想  
  『山の絵本』の思い出 シュッツ礼讃 寫眞と歌と  
  東京セネタースの歌      

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 シラー作『歡喜に寄する』讃歌(譯詞)

 「国立音楽大学演奏80年史 東京高等音楽学校・国立音楽学校時代 1926年-1950年3月」
  (昭和18年度 1943.4-1944.3;324〜325ページ)より引用。

 

 シラー作『歡喜に寄する』讃歌(譯詞)
                     尾崎 喜八

 歡喜よろこび、聖なる神の焔ほのおよ、
 耀く面もて我等は進む。
 裂かれし者等を合はす汝が手に、
 もろびと結びて同胞はらからとなる。

 心の友垣、操の妻を
 かち得し者等は集ひて歌へ。
 おのれを憑たのみて驕れる者に、 
 此の世の眞まことのよろこび有らじ。

 よろづの物皆、自然を生きて、
 なべての人皆、光に浴みす。
 友等と、力と、愛とを降す
 御神の姿の在らぬ隈くまなし。

 あゝ、造物主、日の神の
 遙けき御空を天駈けるごと、
 行け、汝が道を、勝利の道を、
 勇みて、つはものの行くがごとく、
 行け、我が友よ、いざ行け、友。

 捧げよ、諸人、人の誠を
 父こそ、ゐませ、星空の上に。
 仰げよ、同胞、けだかき父を。
 ひとりの父を、星空の上に。

  序句 (但しシラーの作にあらず)

 おゝ、友、
 それならぬ、
 樂しく、深く、
 歡喜に滿てる歌を。

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 この歌詞・訳詩を用いてレコード録音が行われたと国立音楽大学演奏80年史に記載されています。

  1943年5月13日(木) レコード吹込み(日本音響株式会社)
  歓喜の頌 第九交響曲終楽章
  日時 昭和一八年五月十三日(木)
  録音場所 日本青年館
  発売 日本ビクター VICTOR JH-232-4
  獨唱 香山淑子 四家文子 木下保 藤井典明
  合唱 國立音樂學校 玉川學園合唱団
  指揮 橋本國彦 東京交響樂団 譯詩 尾崎喜八

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   写真提供者:望月ハルヒ(@HaruhiMochiduki

  ※なお、この音源はYouTubeで聴くことができます。
                     (サイト管理人)

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 望月ハルヒ氏によれば、上記の尾崎喜八訳詩・録音よりも半年ほど早く(1942年12月)、山田一雄指揮の日本交響楽団(現在のNHK交響楽団) によって録音されているとのことで、尾崎による第9訳詩は本邦初ではないとのことです。日本交響楽団による録音の訳詩は矢田部勁吉が担当。独唱者は三宅春恵、四家文子、木下保、矢田部勁吉。

  ※1942年録音の音源および詳細は →こちらで入手出来ます。


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 晩秋の午後の夢想

    「高村光太郎全詩集(編纂:尾崎喜八・草野心平・伊藤信吉・北川太一)」附録より

 

晩秋の午後の夢想

                           尾崎 喜八

 愚かな空想をするようだが、もしも今高村さんが生きていて、私とおないどしか一つぐらい年上で、今日のような穏やかなきらびやかな晩秋の午後に、多摩川べりの木々に囲まれたこの家へたずねて来てくれるのだったらどんなに嬉しいかと想うのだ。つい十日ほど前に、「高村さんのおじさんが生きていらしったら、うちで取れたのですがと言って持って行って上げられるのに」と妻が呟いていた庭の柿は、もう大半孫たちとオナガやヒヨドリのような鳥どもに食べられてしまったが、清楚に白いヤツデの花やルビーのようなサザンカが咲き、ヤマノイモの葉が黄いろく照り、ヤマウルシやヌルデの葉がまっかに染まった庭を前に、半世紀になんなんとする互いの知遇に今はなんの心置きもなく、静かにくつろいで、暗く奥深い緑茶の一碗を味わっているような時間が持てたら、どんなに楽しいことだろうと思うのだ。
 やがて高村さんは書斎の隅の電蓄に目をつけると、あの大きな手の人さし指を立てて私に合図をするだろう。私はその意味をのみこんで、そっと器械に近づくだろう。そして何を一緒に聴こうかと、ずらり並んだレコード入れの箱の前で一瞬思いまどうだろう。「私たちの古いなじみのベートーヴェンにしましょうか。それも後期の弦楽四重奏曲の、何か静かなラールゴかアダージョに」と私はたずねる。「でなければバッハのオルガン・コラールを一つか二つ。それとも久しぶりにブランデンブルグをお聴きになりたいですか。」すると高村さんは白い大きな手を軽く振って、「今日のところはベートーヴェンやブランデンブルグはいいよ。じゃあオルガン・コラールにしてもらおう」と言う。そこで私は音盤を二枚選び出して、まず初めに「装いせよ、おお愛する魂よ」をかけ、続いてすこし間を置いて、「汝の御座みくらの前に我いま進み出で」をかける。沈痛で深く美しい衆賛曲は秋の夕空の光のように行き進む。この世の時と処とが解体して、音楽の純粋な時間と空間とが君臨する。七十年の互いの過去は遠い世のこと。今在る「時」こそ二人の個々の永遠である……。
 高村さんには、その詩集『典型』に、「ブランデンブルグ」という五節から成る六十行近くの長い詩がある。昭和二十二年十月三十一日、岩手の山里の晩秋の天に「純粋無雑な太陽がバッハのように展開した」ことから始まる力作の詩である。原形どおりに引用すると紙数を費して悪いから書き流しにするが、第三節から終わりの説までは次にようになっている。

「秋の日ざしは隅まで明るく、あのフウグのやうに時間を追ひかけ、時々うしろへ小もどりして、又無限のくりかへしを無邪気にやる。バツハの無意味、平均律の絶対形式。高くちかく清く親しく、無量のあふれ流れるもの、あたたかく時にをかしく、山口山の林間に鳴り、北上平野の展望にとどろき、現世の次元を突変させる。/おれは自己流謫のこの山に根を張って、おれの錬金術を究尽する。おれは半文明の都会と手を切つて、この辺陬を太極とする。おれは近代精神の網の目から、あの天上の声を聴かう。おれは白髪童子となつて、日本本州の東北隅、北緯三九度東経一四一度の地点から、電離層の高みづたいに響き合ふものと響き合はう。/バツハは面倒くさい枝道えだみちを持たず、なんでも食つて丈夫ででかく、今日の秋の日にやうなまんまんたる天然力の理法に応へて、あの「ブランデンブルグ」をぞくぞく書いた。バツハの蒼の立ちこめる岩手の山山がとつぷりくれた。おれはこれから稗飯だ。」

 バッハの協奏曲の頂点をなすブランデンブルグを、高村さんは自分の山の小屋でのように書いているが、本当は花巻あたりの好楽家のところで初めて聴いたのではないだろうか。そして聴いたのは全六曲か、それともその内のどれか一曲か二曲だろうか。いくつかの徴候からそういう疑問も生まれるのである。しかし結局そんな事はどうでもいい。かんじんなのはこの長大な詩が、いかにもあの協奏曲の微塵ゆるぎのない構成と、耳にこころよい豊かな多音と、強靱な生のリズムの躍動とに乗り移られている点にある。高村さんはここでも雅俗共にその豊富な語彙を縦横に駆使している。好個の戦場を得た将軍のように、旗下の兵を四方に放って手足のように動かしている。そして戦い勝った夕べの馬上で破顔大笑、「おれはこれから稗飯ひえめしだ」と言っている。真にすばらしい秋の一日だったと思わなければならない。
 しかしまだ問題はちょうどここにある。高村さんは「バッハの無意味、平均律の絶対形式」と高い調子で言っているが、その無意味とはバッハの音楽における限定なき生の流れの謂いなのだろうか。また四十八曲の平均律ピアノ曲集は、果たして絶対形式などという言葉で片づけられるものだろうか。また由来高村さんは錬金術などという密室的なものを卑んでいたのにかかわらず、「究尽すべきおのれの錬金術」とは何を指し、その秘密の錬金術とあの太虚のように純粋無雑な「無意味」とはどういう関係に立つのだろうか。バッハをして「ブランデンブルグ」をぞくぞく書かせた「まんまんたる天然力の理法」とは一体何だろうか。そしてたとえ芋粥、稗飯に腹ふくらせようとも、岩手県太田村山口のその小屋で、近代精神の網の目から天井の声を聴き、電離層の高みづたいに交響の相手を求めようと言うのである。しかしこのあたり、否、この詩の全体を通じて、忌憚なく言えば、私は高邁な言葉と観念による雄大な図上作戦だけを見るような気がして仕方ない。
 あたかもこれと同じ頃、昭和二十二年の冬の初め、私も一種の自己流謫の気持で東京から移り住んだ長野県八ケ岳山麓の森の一軒家で、「存在」と題する次のような三節の詩を書いた。その詩は後に出た詩集『花咲ける孤独』に加えたが、これも紙数を取ることを遠慮して散文体の書き流しにして引用しよう。

「しばしば私は立ちどまらなければならなかった。物事からの隔たりをたしかめるように。その隔たりを充塡する、なんと幾億万空気分子の濃い渦巻。/きのうはこの高原の各所に上がる野火の煙をながめ、きょうは落葉の林にかすかな小鳥を聴いている。十日都会の消息を知らず、雲のむらがる山野の起伏と、枯草を縫うあおい小径と、隔絶をになって谷間をくだる稀な列車と……/ああ、たがいに清くわかれ生きて、遠くその本性と運命とに強まってこそ、常にその最も固有の美をあらわす物事の姿。こうして私は孤独に徹し、この世のすべての形象に、おのずからなる照応の美を褒め、たたえる」

 私は自分の近況をつたえるつもりでこの詩を岩手の山間の高村さんに書いて送ったが、その返事の葉書からは密かに期待していたものは得られなかった。それもいい。人にはそれぞれの気質があり、境遇があり、心境があったのだ。「暗愚小伝」の苦衷から抜け出ると、たちまち「山林」を書き、「脱郤の歌」を書くことのできた、また書かずにいられなかった高村さんだ。そして同じような窮境を生きても私には信州という国がらの暖かい周囲があり、妻があり子があり、何よりも何よりも、高村さんには欠けている家族の炉辺とその慰めとがあったのだ。
 高村さんは他人が自分の世界へ立ち入ることを好まなかったと同時に、おせっかいがましく人ごとに立ち入ることもしなかった。だからそういう事から来る争いやいざこざを一度も経験しなかったように思われる。人情の雁字がらめなどは高村さんの最も忌むところだった。とは言え大正十五年に、シャルル・ヴィルドラックの脚本の読後に書いたあの美しい詩「ミシエル・オオクレエル」にはこんなすばらしい数句がある。「それを見るとついかっとして、ミシェル・オオクレエルが喧嘩をしたんだ。/さあ出て行ってくれと、ブロンドオが椅子をふり上げたんだ。/閉ぢようとする心をどうしても明けようとする、さういふ喧嘩の出来る奴だ。(中略)さういふ喧嘩をおれは為たか、相手の身の事ばかりが気にかかるという本気な喧嘩を。」してみれば高村さんにも、純粋な動機から生まれた人間の無私の感憤を善しとする気持は充分にあったのである。

   

 

 

 

駒込林町のアトリエ(戦災で焼失)の前で。
尾崎喜八氏の家族と光太郎(後列)。
昭和7年1月、尾崎氏撮影。

 私にはこんな経験がある。たぶん今の詩よりもすこし前の事だったと思うが、当時私の住んでいた上高井戸の田舎に津田道将という詩人が移って来て、病いを養うために或る農家の離れ家に看護婦と暮らし、名は忘れたが二号か三号つづいた詩と散文の贅沢な個人雑誌を出していた。津田はそれを私や高村さんや、私の岳父水野葉舟氏におくった。ホイットマンやソローの影響を強くうけた詩風であり文体であったが、水野氏がもっとも高く彼を買い、私が彼に並ならぬ共感を持っていたのに、どういうものか高村さんだけは頑として彼を容れないばかりか、むしろ強い嫌悪の念さえ抱いていた。私にはそれが惜まれてならなかったし、敬愛措くところのない先輩にもかかわらず、これだけは何か頑迷な、何か不公正なことのように思われた。そこで或る日駒込の家へ出かけて、私はその嫌悪の理由を高村さんに問いつめ、なじった。つまり高村さんの大嫌いな「人ごとへの立ち入り」であり、お節介な介入だった。高村さんは思いつめている私にしばし迷惑そうな顔をして返事を左右にしていたが、「さあ出て行ってくれ」とも言わず、アトリエの椅子も振り上げず、その変わりに津田道将の雑誌を手に取り上げて或るページを開き、「ここを読んでみたまえ」と言って私の眼前へ突き出した。読んでみると私もすでに知っている編集後記の短文だが、別に高村さんを怒らせるような事は何一つ書いてないのを確かめた。今ではうろ覚えの記憶だが、なんでも詩壇の老朽した塀や壁どもは早く崩壊してしまえというような事が書いてあった。「これがどうかしたんですか」と私はけげんな顔で訊いた。「僕のことさ。言わずと知れてる」と苦りきって高村さんは答えた。私は啞然とした。現にすぐれた作品をぞくぞくと物し、ホイットマンやソローにも共通する思想を持ち、今はまた見事な翻訳でヴェルハーランを紹介している事どもを、およそ詩にたずさわる者ならば誰でも知っている高村さんを目して、だれが枯渇した老朽詩人だとと思うだろう。これは高村さんの思いすごし、ひがみ、言わばばかばかしい被害妄想だ。まったく高村さんらしくもない。そんな考えはきれいさっぱりお捨てなさい。よろしい! 私が津田に会って直接彼の真意を確かめましょう。私はそう言って、今は寧ろあっけにとられている高村さんを後に高井戸の田舎へ帰った。
 誤解解消の成果をいそぐ私は、その夜のうちに津田に会って、あの編集後記の中のいわゆる「老朽詩人」なるものが、たとえばどんな人達だかをさりげなく訊いた。すると、ここにその名をあげるのは遠慮するが、当時詩壇に幅をきかせていた三人か四人の名が洩らされた。それで私は思い切って、しかし今度もさりげなく、高村さんはどうなのかとたずねた。すると相手は寝耳に水のようにびっくりして、「とんでもない! あの人は僕のいちばん尊敬している詩人です、」と何かを払いのける勢いで手を振って言った。私は自分の考えの正しかったことに満足し、そのあくる日さっそくまた駒込へ出かけて、津田との話の模様を逐一つたえた。高村さんは間の悪そうな顔をして聴いていたが、「尾崎君にはかなわないよ」と言いながらも頭を下げた。私はまた余計なおせっかいをして高村さんを悩ませたかなと思ったが、それでもこれでさばさばした気持になった。翌々日高村さんから心のこもった礼の手紙が来た。そしてその中に「君は天使のような心を持っている」という一句があった。
 あの美しい「ミシエル・オオクレエル」の詩は次のような二行で結ばれている。「―ありがたう、ありがたう、ありがたう、あたし生き返った気がするわ―。ああ雨に洗われたやさしい若葉のそれが声だ」
 雨降って地固まる。生き返った気がしたのはブロンドオの細君ばかりか、私だってそうだった。

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 『山の絵本』の思い出

    「日本山岳名著全集 月報No.7  昭和41年3月10日」より

 

『山の絵本』の思い出
                          尾崎 喜八

 『山の絵本』は昭和十年七月に東京神田の朋文堂から初版が出た。私の四十三歳の時の本であり、数えて十冊目の著書、そして最初の散文集だった。内容は十ヵ所ばかりの山や高原や峠の旅のことを書いたものを主体とし、それに山および自然一般に関係のある随想と観察記、山の先輩や友人についての二三の文章その他で、足りない部分を補った。すべてそれよりも五六年前から書き溜めて持っていたり、「山小屋」、「山と渓谷」、「山」その他の雑誌や新聞に投稿したものをまとめて一冊にしたのだが、その頃としては豪華な出版で有り、異色の読み物であったかもしれない。
 私が山の文章を書くようになった直接の動機は、田部重治さんの『日本アルプスと秩父巡礼』、河田楨さんの『一日二日山の旅』、『静かなる山の旅』、この三冊を愛読して、自分もまた自分らしい文章でこういうものを書いてみたいと願ったところにある。子供の頃から引続いて自然を愛し、またそれを文章の上で再現することが好きだったので、齢ようやく四十に近く、この願いは比較的やすやすと達せられたのである。それにすでに三冊の詩集も持っていた。その中では自然が常に伴奏をしたり主旋律を歌ったりしていた。そこで、山や自然の中に自分の詩感を投入して、そこから未前の文体を生むことは、試みとしてさほど難事ではないように思われた。
 しかしそうは言っても、最初はおずおずと「新年の御岳・大岳」のようなものを書いた。そこに田部・河田両先輩の影響が何となく認められることを私は否まない。由来、人間に純粋は独創などというものは有り得ないのである。しかし続いて書いた「念場ガ原・野辺山ノ原」で、私は自分の道をさぐり当てた気がした。私らしい想像が自由にはたらき、見たもの感じたことが、その新鮮さを失わないで表現されるようになった気がした。そして続く「たてしなの歌」に至って、私はついに自分のものを打ち建てたと思った。しかし要するにそう思ったり、そういう気がしたに過ぎない。特色などというものはみずから誇号すべきものではなく、眼のある他人の裁量に任せるべきものである。世を憤る心は貧しく、世におもねる心は卑しい。詩人たる者、つねに内心の切なる要求と衝動にしたがって書けばいいのだ。
 初版の本は、今は亡い友人片山敏彦が、その色刷りのカヴァーの題字と画とをかいてくれた。焼岳と梓川との秋の風景に気品と詩とがあり、小さいオヒオドシがその上へ描かれた、美しい七宝細工のようだった。本そのものの装幀は朋文堂社長の新島章男さん自身がやってくれた。これまだ評判がよかった。私は先輩、友人、未知の人々から多くの好意ある言葉や手紙をもらった。そして或る日盛大な出版記念会が催された。

 

※サイト管理者:写真2葉(八ガ岳山麓を行く、初版本見返しにある尾崎先生の筆跡 )が付いています。

 

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 シュッツ礼讃

    「受難楽の夕べ」(ハインリッヒ・シュッツ合唱団/世界平和記念聖堂 1972.3.11、
    東京カテドラル聖マリア大聖堂 1972.3.27)の《プログラム・パンフレット》に掲載
    された寄稿。(両日とも、ハインリッヒ・シュッツ「マタイ受難曲」が演奏された。)

    ハインリヒ・シュッツ合唱団 http://www.musicapoetica.jp/heinrich-schutz-chor_tokyo.php
     ※合唱団代表の淡野弓子先生から作品掲載の了承をいただいております。
     ※この作品は、野本 元 氏からプログラム・パンフレットのコピーをご提供頂きました。
      

 

シュッツ礼讃
                          尾崎 喜八

 一介の音楽愛好者にすぎない私が、単に愛するとか好きだとか言う以上にしんから敬っている音楽家の一人にハインリッヒ・シュッツがある。
 シュッツを聴く時にはおのずから身が引き締まる。出来るだけ心を綺麗に保ち、楽々と言うよりも自由で潔白な気持になってこの音楽に聴き入ろうとする。人によってはそんな堅苦しい態度では音楽は解るまいと言うかも知れないが、私にはそれが敢えてする心や体の用意ではなくて、本当にひとりでにそうなってしまうのである。それならばバッハやベートーヴェンに対する時とは違うかと言うとそうでもない。あの人達のものを聴く時でも同じような気持で向う事がある。ただ其迄には永年の深いなじみがあり親愛な気持が働いているので、ここ12・3年の間に識ったり学んで来たりしたシュッツに対してとは、同じ敬愛にしても其迄にいくらかの相違のある事は否めない。それにもう一つ、私の知っている限り、彼にはバッハやヘンデルやベートーヴェンに於けるような器楽のための作曲という物がほとんど無く、大部分が言葉の美とその内包する意昧の美とが直接魂に訴えて来る――それも深く宗教的な――声楽曲なのである。だから私はしばしば思うのだが、もしもシュッツの此の種の作品がドイツ語やラテン語の原文でなく安易な日本語の訳で歌われるとしたら、そもそもどんな結果が生れるだろうか。

 ハインリッヒ・シュッツはバッハやヘンデルよりもちょうど百年早く、西暦1585年10月8日ドイツのケストリッツに生まれ、 1672年11月6日ドレスデンで没した。それ故今年は彼の死後三百年に当たる。彼は最初法律家を志してそのほうの勉強をしていたが、彼の美声とすぐれた音楽的素質とに魅せられたカッセルの君主モーリッツに見出されてイタリアへ留学させられた。シュッツはその頃ジョヴァンニ・ガブリエーリの音楽的栄光に支配されていたヴェネツィアへ行ったが、 1612年まで其迄に三年間をとどまってガブリエーリに師事した。そしてそのガブリエーリはドイツから来たこの弟子の傑出した素質に感動して彼を熱愛し、彼の中に「壮大な天才」という刻印を捺した程だったった。この師の愛への感謝はシュッツの永い生涯を通じて消える事のない程深いものだった。1615年に彼はザクセン選帝候の礼拝堂楽長の地位を得た。1627年に妻の死に遭遇し、その悲しみをみずから慰めるためと新らしい音楽を学ぶ事とのために再びイタリアへ旅行した。そして其処ではモンテヴェルディの音楽革命に驚かされて一時その影響を受けたが、彼はじきに立ち直って生来の力強く逞しい個性を保つことができた。イタリアから帰国するとブランシュヴァイク・リューネブルクの宮廷に、次いで1642年にはデンマークのクリスティアン四世の宮廷に滞在し、最後にドレスデンへ帰って其処で87年の生涯を閉じたのである。その間の主たる幾十年は先ず30年戦争によって悩まされ苦しめられ、妻や母や姉や弟や娘の死に逢い、更に祖国の不幸による幾多の悲しい挿話に彩られていたが、それらは常に彼の神への信仰と疲れを知らない不断の仕事とによって美しくも強く支えられていた。
 シュッツの作品番号を追ってその中から主なものを挙げてみると、最初の『イタリア風マドリガル集』(19曲)から最後の『マリア賛歌』まで、彼がその一生を通じてどんなに旺盛な創造力に燃え、仕事に熱中していたかがよく分かる。すなわち『マドリガル』に続いては『ダヴィデの詩篇』(26曲)、『イエス・キリストの復活の物語』、『カンティオーネス・サクレ』(41曲)、『ベッカーに依る詩篇集』 (160曲)、『シンフォニエ・サクレ』第一(20曲)、同第二集(27曲)、同第三集(21曲)、『音楽によるミサ』、j『クライネ・ガイストリッヒェ・コンツェルテ』第一集及び第二集(56曲)、『ガイストリッヒェ・コーアムジーク』(29曲)、『十二の宗教歌』、『イエス・キリストの生誕の物語』、『十字架上の七つの言葉』、マタイ、ルカ、ヨハネに拠る3つの受難曲、『詩篇第百十九番』、『復活祭後第三日曜日のための歌』、及び『マリア賛歌』を加えての13曲等、実におびただしい数にのぼっている。然し今の日本ではこれらの宗教的音楽の実際の演奏を聴く機会がほとんど無いので、止むを得ずレコードに俟たなければならない。そしてレコードならば全部とは言えないまでも殆んどの曲がどうにか手に入るので、私なども喜んで彼らの恩恵に浴している。ただ然し一揃いの盤の中に、前掲円括弧の中に数えただけの曲が入っているわけでない事が何としても残念でたまらない。
 ロマン・ロランは『近代抒情劇の起源』という論文の中で、当時(1890年代)フランスでは未だよく知られなかったシュッツを紹介しながらこう書いている。「優れた人々にあってはすべての関心は魂の中にあり、一切の劇は心の中にある。シュッツがその主人公達を外的な事柄や行動によって描こうとしないで、魂や存在の苦悩と喜びの深さによって表現しているのはその事に由来する」と。そして「世俗的な表現が問題なのではなく、厳粛な思想と神聖な感動に集中された秘やかな共感が問題なのである。移り変る情感の波には霊感を求めず、表面を騒がす一切の嵐の間を、隠れ家の中にあって一種の無感覚さを保っている海にも似た魂の、変る事のない奥底からその霊感の泉を汲み取って、シュッツは彼の作品の一つ一つに見事な統一を刻みつけている」(戸口幸策氏訳による)とも言っている。
 それを聴く事が自分にとって同時に宗教的暝想でもあれば芸術的感奮でもあるシュッツの音楽について、今や私の言いたい事は先賢のこれらの言葉に尽きている。

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 寫眞と歌と

 


 この
「寫眞と歌と」は、散文集『雲と草原』初版に収められたものである。『雲と草原』は角川文庫で再刊され、『尾崎喜八詩文集第5巻』にも収載されたが、この「寫眞と歌と」だけは両書ともに省かれている。
 初出は「ニュース写真と時局下の歌」(雑誌『フィルハーモニー』昭和13年1月号/参照:『尾崎喜八資料』創刊号pp.12〜)で、これが改題されたものである。ただし、改題と同時に若干の変更がなされている。例えば、初出にある「指揮棒と云へば、此のロイド眼鏡をかけた堂々たる体格の兵隊さんが〜」(『資料』創刊号p.13下段)、「如何に贔屓目に見ようとも、実の無い物ならざつと眼を通して〜」(同、p.15上段)などの文が削除されており、また10カ所ほどの修正・加筆・削除などがある。以下は、『雲と草原』初版に掲載のものである。

                               本文入力と解説:中西 宏行

 

寫眞と歌と
                          尾崎 喜八

 此頃の新聞のニュース寫眞で、「日毎に明朗化する北支」と云つたやうなイデエに纏められたいろいろのスナップを見てゐると、實際その畫面から或る解放の感じが、淡いながらも或る希望のやうなもの、遠い春の明るみのやうなものがほのぼのと立昇つて、そのために一瞬間、所謂銃後の氣構への表面に張りつめた氷が幾らかでもゆるみ、氣持の上の堅い縛めがわづかでもほどけて、心の奥の奥の方からおのづと歌ひ出すものが有るやうな氣がする。然しそれが一陽來復したあかつきに果して豫期されたやうな春であるか、或は直ぐには親みにくい、アクリマタイズするには多少時間のかゝる嚴めしい春であるか、それは吾々にはわからない。だがほんの一と朝の幻影にせよ、とにかく吾々の内心に或る救ひにも似た反射運動を起させた點で、此等の現地報告寫眞がほゞ其の所期の成果の一端を収めたとは云へるかも知れない。
 一體今度の事變で、各新聞社や通信社の現地寫眞班の決死的な活躍には寔まことに驚くべきものがあるが、それだけ、虎口に入つてはじめて獲ることの出來た虎兒のやうな貴重な資料や逸品が少くないやうである。それは勿論その人達の日頃練達した伎倆にもよる事であらうが、同時に此の運命的な大規模な戰争によつて、あらゆる形で展開される無限の被寫體の深刻な啓示や刺戟から、彼等の眼が寫眞的にもまた道義的にも、その視野をいちじるしく深められ擴大されたであらうといふ事も考へずにはいられない。レンズといふ光學的の眼を支配する斯うした心の眼は、これを「詩人の眼」と云つてもいいかも知れない。なぜならば、戰争や悲惨も亦それ自身の詩を拒むものではなく、其の内面の詩を方寸の裡にとらへ來つて、人々の心のうちに同樣な感動をいきいきと生起させる事が出來たとしたら、寫眞家もまた廣義の「詩人」たるに耻ぢないからである。
 數多いさうした作品から今便宜上二三の例として捜し出した中に、十一月二十七日の東京朝日で見た山西省大同の子供達の寫眞と、十二月一日の同紙に出てゐた天津支那小學校の生徒達の寫眞がある。これには大分同感の人も多かつたから、敢て傑作の部類へ入れても私一人の好みとばかりは云へないやうである。
 大同の子供達を寫した一組のなかで「少年研ぎ屋」といふ註釋のついてゐる小さな北支将領のやうな毬栗頭の頑童や、「ボロボロなれども毛皮の外套を着た飴賣りの子」といふ、甚だ溫かいリマークをつけられて味噌つ歯出して笑つてゐる子などは、見てゐるこつちまでがつい釣込まれて微笑まずにはゐられないから妙である。「堂々店を張つて皇軍将士に煙草を賣る子供達」となると、微笑ましいと同時に正に一幅の優雅の繪である。支那服を着、耳覆ひをぴんと上げた毛皮の帽子をかぶり、腰掛けて自然に開いた膝の上へ兩手を置いて、悠然と小さな賣臺へ向つてゐる少年の態度は、その王侯貴人のやうな容貌と共に、一體どんな親達の子かと知りたくなる程である。また此の賣臺の低いために身をかがめて一箱の煙草のお客になつてゐる日本の将校らしい軍人の姿が如何にも氣持がいい。そして此の微笑をたゝへた日支兩國の大人と子供との向うに、もう一人商賣の籠を下げて立てゐる大同の子供の姿。その三人で醸し出してゐる雰圍氣なり構圖なりが、折柄の北支の冬の朝の日光を浴びて、まことに「明朗風景」の代表的なものになつてゐる。それに此の少年と云ひ、飴賣の子や研屋の子供と云ひ、どの子もみんな中々立派で鷹揚で、へんに小生意氣な處などは微塵も無く、未來の大政治家や大實業家や、智勇兼備の将軍の卵のやうに見えるから益々愉快である。
 十二月八日の矢張り東京朝日へ出てゐた「北支淸朗」のモンタージュの中で、或る部隊長が窮民の眼へ目薬をさしてやつてゐる繪もよかつた。愚直らしい田舎老爺おやぢが、椅子の、それも端の方へ遠慮がちに腰をかけて、不器用に顔を仰向けてゐる。其の顔を丸腰の部隊長殿が腕時計の光る左手でおさへて、スポイトをつまんだ方の手の小指をおやぢの顳顬こめかみの上へ輕く當てゝ安定を保ちながら、今や注入器の頭のゴムを押さうとしてゐる。これなどは實に玩味すべき内容を持つてゐる寫眞のやうに思はれる。徳縣の街路でのゴウ・ストップの風景も別の意味で愉快であつた。交通整理係の印らしい白い腕章を左腕に巻いた日本の兵隊が、往來の正面を切つて、指揮棒のやうな細い棒を水平に構へて通行人を停めてゐる。此の兵隊さんと、通行人中の主要人物である手押車を押す二人の支那人とで作つてゐる構圖が實にいい。三人の人物は畫面一杯に大きく眞直ぐに立つてゐる。兵隊さんの外套の革帯と指揮棒と二臺の手押車の臺とは、人物の垂直線に對する水平線になつてゐる。しかも此の直角の交る線の單調を破るかのやうに支那人の帽子の耳覆ひと兵士の指揮棒を持つた腕とがほゞ四十五度の角度で垂れてゐる。つまり直線の組合せから成る整然とした美であつて、如何にも交通整理らしい感じがとらへてある。三人三様の表情も自然である。中身の程は分らないが、さも大事な品物のやうに鹿爪らしく手押車へくゝりつけられた細長い包の餘り小さいのも、車の押し手の威儀を正した樣子との對照から、此のどことなくユーモラスな畫に一層のユーモアを漂はせてゐるやうである。
 すべて斯うした作品を見てゐると、我國の寫眞藝術といふものが、特に新聞の報道寫眞の分野で非常な進歩を遂げつゝある氣がする。他の分野と此れとの比較論證は別の機會に譲るが、彼等が物の眞を把握するために、其の「眞」のひらめきを形象の一瞬の動きの上にとらへる眼と技術とには確かに讃嘆を惜ませないものがある。しかも其處では在來の寫眞家の獵奇的態度や、卑俗な野心のやうなものが最早や悉く止揚されて、深い含蓄のある、紙背に生きるところの物のある、何等かの意味で吾々に訴へ、吾々を説得し、吾々の肩へ手を置いて共に行かうと云つてゐるやうな、日本的にユニックな詩的感覺をもつた世界人の歩みが見られるのである。
天津の支那小學校の教室内の寫眞五枚は、何となく好ましい映畫のスティルを思はせる。子供にまじつて日本人の女の教師から日本語を習つてゐる一人の中年の支那人の、あの五分刈の頭へ眼鏡をかけた眞率な顔には、なぜか知らぬが身につまされる思ひがした事であつた。洋装の女の先生が黑板へカミ、スミ、スズリ、イス、と順々に漢字の日本讀みを片假名で書いて來て、さてツクエも卒業したので白墨を置きながら、「それでは次の字は?」とでも質問した瞬間らしく、支那の子供達が一齊に手を擧げてゐるところも美しい場面である。微笑ましいとか、和やかだとか云ふ以上に、此の北支の少年達や日本の女の先生のために、彼等のそれぞれの善き希望の達せられる事を心から祈念したい氣持で此の見事な寫眞を眺めたのであつた。同時に映畫「未完成交響樂」の學校のシーンが不圖私の脳裏をかすめたのも考へてみれば自然な廻り合せであらう。
 春の陽光の明るく射しこむ小さな教室での算術の時間、きらきらと眼鏡を光らせた若い貧しい小學教師シューベルトが、腕白小僧共を前に黑板へ1×2=2と書く。そしてあの綺麗な聲で「ツヴァイマール・アインス・イスト・ツヴァイ」と言ふ。すると生徒達が神妙に口を揃へて「ツヴァイマール・アインス・イスト・ツヴァイ」と鸚鵡返しに復誦する。續いて先生は其の下へ2×2=4と書いて、「ツヴァイマール・ツヴァイ・イスト・フィーア」と言ふ。生徒達が又口を揃へてそれを復誦する。シューベルトは次を書くつもりで黑板へ向ふ。不圖見れば今書いた「二二が四」の四が、其の上の「一二が二」の二と重なつて、2/4になつてゐる。シューベルトの眼が夢見るやうになる。親切な質屋の娘が窓から投げて自分に呉れた質流れのゲーテといふ詩人の詩集の中の、あの氣に入りの「野薔薇ハイデンレースライン」へ附けかけたメロディーの續きが泉のやうに流れ出してくる。天來の想像の鳥はうるはしい翼を波打たせて頭の中を飛びまはる。時を失して逃げられたら二度と同じ鳥にめぐり合へるかどうかは分らない。シューベルトは白墨を持ち直して、2×3=6の6の頭をくるくると返して高音部記號クレフ・ソルを書く。それから調號を書き、音符を並べ、詩句を添へる。黑板半分が樂譜になる。然し次の瞬間、此の二重人格者の中の算術の教師の方が漸く意識を取りもどして、さつきから呆氣に取られて氣の變になつた先生をじつと見てゐた生徒達に、「ヴィーダーホーレン」と云ふ。すると待構へてゐたやうに、一齊に生徒の聲が迸る。然しそれは「ドライマール・ツヴァイ・イスト・ゼックス」の復誦ウィーダーホールンクではなくて、淸らかな少年のソプラノではじまる花の歌、五月の丘の風のやうな、野川にせゝらぐ水のやうな、あの不朽の「野薔薇」の歌の世にも美しい齊唱である。若い貧しい無名の音樂家フランツ・シューベルトの眼がやわらかく光る。少年たちの天使のやうな聲は、まるで世界を此の歌の調べで浸してしまはうとでもするかのやうに、教室に滿ち、窓から洩れ、櫻桃の咲き亂れた庭へ溶樣と流れ出す。其の庭を校長が通りかかる。算術の時間であるべき教室からの一齊の歌が耳に入る。彼は立止り、兩手を握り合せ、それから手を差上げて教室めがけて突進する……

 事變とニュース寫眞、それから筆がすべつて繪空言のやうな映畫のシューベルトの事まで書きながら、必然に私の眞剣な考への向ふのは、現下の時局に最もよく乗つてゐると思つてゐるらしい有名無名の作曲家や作詞者の上である。私は自分の食はず嫌いを避けたいから、他人の理由を出來るだけ知りたいから、そして、それにはラヂオに據るのを一番便宜と考へるので、努めてラヂオをとほして新作の歌を聽いてゐる。そして悲しいかな殆どいつも、私の心は慰まない。私は歌から「歌」を聽かず、心を打たれる事もない。すべてが餘りに上つ面ではないか。此の難局に黙々として各自の任務を盡くす萬人にくらべて、彼等が餘り皮相に輕薄ではないか。信念や操志の事はしばらく措いても、餘りに低劣に厚顔ではないか。
 職場に命を捨てる将卒の事は云はないとしても、歌作りの彼等の何處にあの寫眞班だけの眞剣さや世界眼があるだらう。何處に彼等に較べられる程の仕事の痕があるだらう。また何處にあのシューベルトの藝術家魂があるだらう。戦地寫眞班はジャーナリズムの一翼でありながら既に其處から一歩を進めてゐる。シューベルトの歌は永らく作者不明の儘で人から人、心から心へと傳はつた。電波に乗り、圓盤と擴聲器とをとほして廣く日本國中を驅けめぐりながら、時流の最上層に浮遊する彼等が、却つていちばん泡沫のやうに見えるではないか。
 多くの人々は夜を日に繼いで製造される彼等の歌に、今や殆ど關心を示してゐない。それよりも遥かに切實な關心なり興味なりは、彼等を驅つてニュース映畫へと走らせる。其處では世界が否應なしに息づいてゐる。直接間接吾々の心や生活に働きかけて來る諸々の要素が、速いテンポで回轉してゐる。其處から急いで取る事が出來さへすれば取る物はいくらでもある。後で思ひ出してゆつくり味へば、吾々の眼界を擴げるもの、心を喜ばせるもの、問題を提起するもの、其他樣々の性質を具へたものが、獲物のやうに、糧のやうに吾々を養ふのである。
かうは云ひながらも、實は歌謡の作者達もそんな事は疾うの昔に知つてゐるかも知れないと思ふ。たゞ「時の顧客」の注文に従つたり、或は流行を作つたりするだけの心算で、案外呑氣に惰性的に遣つてゐるのかも知れない。それなら最早や何をか謂はんやであるが、内に疼うづき、盛り上がり、すでに頭角を現して來た次代の若々しい日本が、輕蔑無くして彼等を見、寛容にも彼等を問題にしてゐるかどうかを、私は頗る疑問とせずにはゐられない。
                               (昭和十二年十二月)

 

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 東京セネタースの歌
             
昭和15年ころ

     ※この作品は、野本 元 氏から資料をご提供頂きました。

 

東京セネタースの歌
  作詞:尾崎喜八 作曲:小松平五郎

 都の空の朝風に
 榮ある旗を靡かせて
 額にかをる青春の
 理想もたかき一群は
 これぞ智勇のますらをと
 名にこそ負へん セネタース  
 あゝ決戰す 東京セネタース

 絢爛けんらんわざは目も綾に
 壮烈意氣は天を衝く
 甘睡うまゐの國に夢長き
 不動の巨木うちたふし
 醜しこの荒野に吼えぐるふ
 百獣狩らん精鋭ぞ
 あゝ決戰す 東京セネタース

 鍛錬こゝに幾とせの
 力の前に敵もなく
 盟ちかひは睦む人の和に
 いよいよ堅し鐵の陣
 いでや懸軍けんぐんゆくところ
 榮冠つねに汝がものぞ
 あゝ決戰す 東京セネタース。

 

 

 備考:職業野球チーム「東京セネタース」と尾崎喜八との関係については『尾崎喜八資料第5巻』の
    「尾崎喜八と戦前の職業野球」(pp.26〜30)」を参照ください。

 

 

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 植物採集会
    報知新聞 昭和5年11月1〜3日掲載記事 

 


  この新聞投稿記事は残っていないが、牧野富太郎「牧野植物随筆」(講談社学術文庫/講談社、2002年4月)に掲載された『尾崎喜八君の書かれた東京植物同好会における植物採集会の記』PP.198〜205に掲載記事がそのまま紹介されているので、尾崎の文章だけを引用させていただいた。
 なお、牧野富太郎の文章の冒頭に、尾崎喜八の新聞記事について紹介がある。(管理人)
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 今から十六年前の昭和五年に、文学界で著名な尾崎喜八君が麗筆をもってわが東京植物同好会における植物採集会の記事を書かれ、それが同十月一、二、三日発行の『報知新聞』紙上に連載せられ、同五日に「深く敬愛する先生」と署した封筒にその切り抜きを入れ、親切にもわざわざ私の手許にそれを送り越された。すなわち次の記事がそれであるが、さてこの会がいかに尾崎君の眼に映じたか、また同君がいかにこれを評記せられたか、今ここにさらにそれを読者諸君に紹介する。

 

植物採集会
         尾崎喜八

  佳い秋の日曜日。新宿停車場の玄関を、まだすがすがしく斜に照らしている朝の太陽。そこを支配する雑踏の中の時間の秩序。着車、発車。井戸の底から出て来るような拡声器の声。しかし中村屋の店先へ並んで、セザンヌの『永遠のビスケット』を想わせる好もしい棒パンや、出来たての白いフランスパンをにらみながら、容易に自分の注文が聴かれないので、人がそろそろ苛立つ時刻……『君、そのコッペを一本。それからバタの小さいのを一つ。急いで呉れたまえ!』
 出たり入ったりする乗客の流れの中で、改札口〔牧野いう、鉄道局の用いているこの改札の語は甚だ悪くまったく意味をなしていない。同局の耻だ。これはよろしく検札口と改正し改善すべきものだ。改は変更するアラタメで検査するアラタメではない〕に近く、三四十人の人が一塊りになって佇たたずんでいる。男もいれば女もいる。年とった人もいれば若いもいる。小学校の生徒もいる。女の先生らしい人もいる。併しかし一群のこの人達は例外なしに皆採集胴乱を吊っている。町中では少しきまりが悪いのか、風呂敷へ包んで抱えている洋装の女の人もある。
 しかし僕の眼は始終先生に注がれる。『先生』。先生とは二十年このかた絶えての口を出なかった懐しい言葉である。人を先生と呼ぶためには、僕に弟子の心がなくてはならぬ。僕は文学の先輩をも先生と呼んだ事は一度もない。しかし今朝、僕は極めて自然に、喜びをもって、『熱情』をもってさえこの言の葉を発音する。牧野富太郎先生は、右左からの皆の挨拶に、にこにこしながら応えて居られる。
 タスカンの一文字帽に、夏の灰色のサージの上着。ズボンは学生の穿く黒である。左の肩から緩やかに吊った、大きな新しい薄緑の胴乱。純白な立カラアの折返しから覗いている老人らしい咽喉仏。僕は先生の強くて優しい眼を見る。力ある鼻翼を持った均勢の取れた鼻を見る。あのしっかり張った頤あご、あれは土佐の人の頤である。一瞬間、僕の眼の前に、せんだんの並木を風の渡る高知県佐川さかわの町が現われる。そこの落着いた古い家並や、青山文庫の閲覧室や、仁淀川によどがわから立昇る夏の昼間の水煙に、銀色に霞すんだ緑の山々が見える。
 先生の刻苦奮闘の生涯については、今更こゝで僕がおさらいするまでもない。御用学者やアカデミーの鉄壁に対抗して、あくまでも独立不羈ふきであった先生の残酷な苦惨の生活と、その中から生れた植物分類学上の偉大な業績。それも僕が改めていうまでもない。更に、一国の宝ともいうべきこの学者を遇するに、一小属吏にも及ばぬ物を以てする国家の無関心についてもこゝではいうまい。今はたゞ心からの親愛と尊敬の念を以て先生を見る。先生は若い真摯な学生や、子供達や、女の人達に取巻かれて欣然として居られる。今日は東京植物同好会の採集日。素朴な俗門の信徒を引率して、牧野先生は自由の野の羊飼か、老いて益々旺さかんな族長ノアのように見える。
 集まり集まって六十人に垂なんなんとする一行が、先生を真中にして国立くにたち駅を出る。不連続線の去った後の久しぶりの秋晴れの空には、藤原さんのいう白簣雲しらすぐもが白い釣針や羊毛を浮べている。分譲地の小石を敷きつめた道路の奥に雪をなすった富士が見える。美しい大群山おおむれやまがその左に寄り添っている。日光は嬉々としている。心がのびのびする。もう一度遠い昔の学生時代が帰って来た気がする。
 皆がぞろぞろ歩く。大半はもうあたりの藪や林へもぐりこんでいる。一名国立くにたち分譲地は、結局広大な谷保の雑木林である。文化住宅や学校などは散生する点景に過ぎない。昔近隣の百姓が馬や牛の死骸の捨場にしたというこの広い雑木林のいたるところ、今は秋の植物が茂りに茂っている。
 五六種類取って来ては先生に名を訊く。それは絶え間がない。だから先生のまわりは常に人だかりである。その黒山が遅々として進む。
 『先生これは何ですか』『それはサワヒヨドリ。フジバカマとは違う』『先生これは』『センダングサ』『先生これは何と申しますか』『これはヤブマメ。こっちはネコハギ』『これは』『ネバリタデ。そら、この通りねばるだろう』僕も伺う。『先生これは何で御座いますか』『これはヤマハッカ。これがヒメジソ。これはシラヤマギク。こっちがヤマシロギク。間違えないように。シラヤマ、ヤマシロ』
 まったく、大船に乗った気がする。触目しょくもくの草の一茎、花の一輪。それを先生は立ちどころに説明される。しかも心からの好意を以てである。慈父の愛を以てである。訊く者に対して、また植物に対して。こうして分封ぶんぽうした蜂群のような一行は、先生という女王蜂を中心に旋転しながら秋の野を進む。
 僕は科学の盲信者ではない。それは僕が文学の盲信者でないのと同じ事である。先生が百本の植物に対して百の名称を断ぜられるとしても、僕はたゞ先生の記憶の強大さ、知識の広さに驚くだけである。植物学者としての先生の大いなるカリテから見れば、それは当然な事のように思われる。しかし一人の可憐な小学生が———腰に小さい風呂敷包の弁当を下げ、肩から小さい胴乱をつるした子供が、何か小指の先ほどの植物を探して来て『先生これ何ですか』と訊いた時『これは松』といいながら、その子供の頭へ片手を載せられた時の、あの温顔の美しさを僕は忘れない。また誰かがヒカゲスゲの根に寄生したナンバンギセルを取って来た時、『ヒカゲスゲに寄生したのは珍しい』といいながら、それは『差上げます』といわれて喜ばれた顔も僕には忘れられない。その日一日先生と歩きながら僕が経験した数々のその『人間』の美しさ、その人柄のエマナション、御別れする間際の一種の名残り惜さ。それは先生その人の存在の魅力である。これこそ先生に接した人のみが活々いきいきと記憶の中で描き得るおもかげであって、同時代者にして初めて持つ事の出来る幸である。先生はその存在によって人を薫陶するだけの力を具えて居られる。それは生きたみずみずしさであって、決して乾腊けんせき品ではない。
 川野橋に近い広々した多摩の川べり。多摩丘陵と武蔵野台地との大きなひろがり。南西相模の大山おおやまから北方武甲山ぶこうさんまで、蜿蜒えんえんと連る山々を見渡す晴れた日の眺望。一行の胴乱は採集した植物でぎっしりである。皆が弁当を開く。きらきら輝く水面を見たり、正面に悠々と裾を曳く富士を眺めたりしながら空腹を満たす。先生はクリーム入りのパンを食べて居られる。その間にも植物の名を訊く人達は絶えない。人は今年の夏の登山で採集して来た高山植物の乾腊かんせき標本を先生に見せる。先生はパンを頬ばりながら一々名を教えられる。女の人達は食事が早い。こそこそ済まして三々五々採集に出掛ける。そういう人達がまた名を訊く。先生は忙しい。しかし楽しげに検査し、答え、質問を受けられる。僕はこの情景を多くの人に実に見せたい。今の世ではもうそんなに屡々しばしばは見る事の出来ない親愛の情景である。
 食後堤防の草に埋まって聴く先生の講演。ヨモギやメドハギの繁った斜面が天然の教室である。カヤツリグサ科の植物についてのその講演は、有益な、興味津々たるものであった。今僕はこゝに自分の概要筆記の一端なりと紹介する紙数を持たないのを残念に思う。しかし先生の講演は、今まで僕の聴いた他の多くの如何なる講演とも違う。時々土佐なまりのまじる声のよく透る、深いうん蓄を手づかみにして示されるその話。それはあけっぴろげた平和な自然の中での、青空と太陽との下での、今日の集まりの最高潮の時であった。
 それから一行は堤防を立川の方へ向った。僕は先生と御別れして友人と国立くにたちへ引返した。ぞろぞろ続く人々にまじって先生の姿が何時までも見える。僕はこの時ほど『師』という言葉の実感を持った事はない。あれば、それはたゞ一人ロマン・ロランに対してである。   東京植物同好会は毎月一回採集会を催す。僕は牧野先生の健康を祈ると共に、志ある人々の参加を心から希望して止まない。

 

 

  牧野富太郎の文章の末尾に、以下の文章が添えられています。
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 尾崎君の記事はこれでおわっている。東京植物同好会で催す植物採集会をかくも美しく、かくも真実に、かくも実際的に書いた人はこれまでにはなかった。尾崎君の良心と情味と彩筆と麗句とがこもごもこの会をして光彩陸離たらしめたことを会のため同君に感謝する。

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