名もなき季節

      − 富士見からの手紙 −


   ※ルビは「語の小さな文字」で、傍点は「アンダーライン」で表現しています(満嶋)。

                                 

伊藤海彦 宛

昭23・9・28

 

 

伊藤海彦 宛

昭23・10・21

 

 
 

伊藤海彦 宛

昭24・1・26

 

 
  伊藤海彦 宛

昭24・1・31

 

 
  伊藤海彦 宛

昭24・3・30

 

 
  伊藤海彦 宛

昭24・4・8

 

 
  石黒栄子 宛

昭24・4・17

 

 
  串田孫一 宛 昭24・5・2    
  石黒光三・栄子 宛 昭24・10・31    
  串田孫一 宛 昭25・1・12    
  石黒光三・栄子 宛 昭25・7・7    
  串田孫一 宛 昭26・4・9    
  石黒栄子 宛 昭26・5・1    
  串田孫一 宛 昭26・5・17    
  串田孫一 宛

昭26・6・21

   
  串田孫一 宛 昭26・6・30

 

 

石黒栄子 宛 昭26・7・7  

 

串田孫一 宛

昭26・11・5

 

 
  串田孫一 宛 昭26・12・6    
  串田孫一 宛 昭27・1・29    
  串田孫一 宛 昭27・10・3    
         

 後書  伊藤海彦



     ※伊藤海彦氏による後書の掲載については、著作権者(伊藤優雅璃様)の許諾を戴きました。

 

【昭和二十三年】 

 [伊藤海彦 宛 九月二十八日]

愛する海彦君
 栄子夫婦が帰つて来て、例の調子で、東京での「海ちやん」の様子をいつさい事こまかに話してくれました。もちろん身振をさへまじへて。それが私達夫婦を涙の出るほど笑はせたり喜ばせたりした事は言ふまでもありません。
 そしてあの長い親しい御手紙でした。僕は君をほとんど眼前に「持つて」ゐました。これを書いてゐる今も、とうてい「山脈をへだてた」幾十里彼方の人に物を言つてゐるやうな気にはなれません。君は常に僕達と一緒に生きてゐるのです。
 君の「虚空」はそのまゝ僕にはよく分る気がします。君の空気境界面がちやうど君の詩と人生との薄氷のやうな接触面である事も。君はリルケの所謂「空間」を常に身にまとふ事で君の魂の純潔を燃やしてゐます。その盛り上がる内部からの花びらの極めてデリーカな一端が空間を切る。その一髪微妙な瞬間を感じ取ることの出来る人といふ者は、海ちやん、そんなに沢山はゐる筈が無いのですね。大人は粗悪で凡庸なものです。そして世に云ふ詩人とは、少くとも今の日本では、さういふ大人です。彼等のうちの数人の者は、曾ての昔には或はふとそんな世界に憧れた事もあつたのでせうが、小さな名声が忽ち彼等を今の濁世へと吹き落としてしまひました。
 リルケが誰だかへの手紙の中でセザンヌについて書いてゐる事は本当です。僕といへどもリルケのあの言葉には烈しく鞭打たれます。君は僕のやうであつてはなりません。又事実僕のやうである筈はないわけですが、どうぞいよゝゝ君の孤独の最美の世界を創造して行つて下さい。君にそれが出来る事を、おこがましい言ひかたですが僕はかたく信じてゐます。
 リルケのフランス語の詩の抜書をありがたう。僕はあれを写しました。君のいふとほり、あの八行の詩は我国現行の八十冊の本にもまさります。

 僕の本の事をいろいろと考へて下さつてゐる事を心から感謝します。「碧い遠方」(之は仮の題ですが)は今ずつと書きつゞけてゐます。これが僕の本音の仕事ですから、毎日のいちばん良い時間を捧げてゐるのです。
 ジャヴェルももう一度出ればいろ々々な意味で好都合ですから、何だつたら僕の所にあるのを送つてもいいと思つてゐます。わざゝゞ河田君の所まで行くのはいかにも大変だらうと思ひますから。
 ジェッフリーズの「野外随想」(The Open Air)を叢書とは別にして出して下さる気があるといふのはまことに嬉しい事です。ジェッフリーズは名だけは知られてゐながら、又幾らかの人々から求められてはゐながら、日本では只僅かに一冊岩波文庫で『我が心の記』(Story of my heart)が出てゐるきりです。
 ここだけの話ですが、此のジェッフリーズを僕は山内義雄君のセルボーンの博物誌のやうにはしない積りです。あの本は自分でも飜訳を企てゝゐましたが、山内君のが出たので大変期待して読んでみたところ、どうも思つてゐた程ではなく落胆しました。自然科学について余り智識や関心が無いとみえて、ところゞゝゝ致命的な誤りがあるのです。
 ギルバート・ホワイト、ハドスン、ジェッフリーズ、それに自然に関するヘンリー・ソロオの「日記」や「ワルデン」などは、やはり自然に深い愛と関心と、必要なだけの智識とを持つてゐる人でないとさう手軽には訳せない気がします。

 デュアメルの「ユマニストと自働器械」といふのはすばらしいエッセイで僕もやつてみたい気はあるのですが、もう自分の年齢を考へるとそうそう他人の仕事の紹介に大切な時をつぶすのもどうかといふ気がして二の足を踏むことになります。自分の物が書けない時ならばそれも亦いいでせうが。
 今年の冬は倹約の生活をして、デュアメルの「欧羅巴の懇親地理学」とジェッフリーズとに専心するつもりでゐます。そして時には君のためにぼつゞゝリルケの詩も訳しながら。

 今、富士見は晩秋の紅葉の盛りです。分水荘の裏庭中林はまつたく四方に絵硝子の大窓を持つた大伽藍の内部のやうです。それに一帯の山野の黄や赤や紫や黄銅の色。冬近い地平線をいろどる薄い青磁いろの空。稲刈がいたるところで行はれ、いたるところで稲こきのモーターや足踏器械の音がしてゐます。そのかはりには気温も日毎に下がつてもうコタツ、ストーブが始まつてゐます。
 四五日前三輪先生に誘はれて晩秋の霧ヶ峯、車山、鎌ヶ池の湿原地帯などを歩いて来ましたが、華麗に清く寂しいあの広大な風景を包むすばらしい霧のもてなしを満喫して来ました。これが僕への今年の最後の祝祭でした。
 では今日は之でさよなら。又書きますが御母上様吉村君等の皆さんにくれぐれも宜しく御伝言下さい。妻からも心をこめた御挨拶をたのまれました。

    九月二十八日
                            君の渝らぬ
                               尾崎喜八  
    愛する
     海彦君


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 [伊藤海彦 宛 十月二十一日]

愛する海彦君
 新月社へ勤められる事になつた詳しい経過や、その前後の事情、それに今後の仕事の計画や希望等について細かく知らせて下さつた君の長い御手紙を僕はどんなに喜び、かつ感謝しながら読んだことでせう。あれだけの詳細を、疲れてゐる心身を働かせて書く努力といふものは決してあだに受け取られてよいものではありません。
 何にしても気に入つたポストに就く事の出来た事を君と一緒に喜びます。ひとり僕のみではなく、家ぢゆうみんなあの御知らせで安心したり祝福したりしました。御母様もさぞ喜ばれた事でせう。君の就職のきまつた時、君が其の報を運んで家へ帰られた時、その時のあなた達御二人の気持や表情を想像すれば苦しくも悲しく然し美しく、私達夫婦は涙ぐまずにはゐられませんでした。
 改めてもう一度「おめでたう」を言ひます。串田さんの口添もさる事ながら、やはり君に力と徳とが有つたのだと言はなくてはなりません。
 仕事の相手のいい事も何よりです。君の一番嫌つてゐる人種は僕の一番嫌つてゐる人種とよく似てゐるわけですが、書いてよこされたやうな人達とならきつと気持よく働けるでせう。初めはあまり鋒鋩を現はさずに、きれいにさつぱりつき合つて、段々に真価を出すのですね。海ちやんぐらゐの人にこんな人生智じみた事を説教するのは悪いけれど、本当にさうですよ。きつと今に無くてはならない人になるでせう。
 君が心に絶えず「リルケ」を持つてゐる事は「天体」を持つてゐるやうなものです。リルケ宇宙! あすこには確かに君の求め、君のより頼む光と朧と歌と力との一切微妙がある事を僕もかたく信じてゐます。それを放さない事が何よりの救でせう。リルケを持つ事がことによると自己のプレテクストや心ゆかしさや、或は知的装飾にさへなりかねない今日、それをおのが肉身にまで自覚する事の出来る君、自覚せずにはゐられない君は、本当にリルケ一族の観があります。そして世界中にはきつと幾人かのさういふ青年がゐるのでせう。
 口幅つたいやうではあるけれど、僕が「ロラン−ジューヴ−ジオノ」族の一人であるやうに! こんな族の創始者であつて、たつた一人の一族かは知らないけれど!
 今日二度目の御たよりを葉書で頂きました。石黒夫婦がミーチャを連れて東京へ行つてゐるので(彼等はきつと君と君の御母様とを東京に御訪ねしたでせう)妻と二人で読みました。本の事でいろいろ考へて下さつてありがたく思ひます。全く英米文学叢書は(二、三見ただけですが)あまりよくありませんね。何だかカサカサしてゐて貧しい感じがします。僕はいつか君にすゝめたリチャード・ジェッフリーズの美しい野外随筆集 The Opne Air(野外随想)の翻訳出版を考へてゐるのですが、どうもあの叢書ではと思つて二の足を踏んでゐます。これは翻訳権云々には死後五十年以上たつてゐるので引掛りません。お話のあつたジャヴェルは、竜星閣がもう疾うにやめてしまつたので、旧訳を読み直してもう一度原書から改訳すれば自由に出版する事が出来ると思ひます。たゞ何しろ十五行詰四〇〇頁といふ本ですからちよつと金はかゝると思ひます。実は僕の処でも経済的に苦しくなつて来てゐるので、妻などは「海ちゃんに御願ひしてみて下さい」と言つてゐますが、例の引込思案で生返事をしてゐるところです。これは考へてみて下さい。「美しき視野」印税残部も「花の復活祭」の半分も、両方ともさつぱり払つて呉れないので弱つてゐる始末です。
 今、第二の「美しき視野」を書き溜めてゐるところですが、僕の熱情は主としてこの仕事に注がれてゐます。三分の一ぐらゐまで進んでゐて、これを今年一杯で二五〇枚位のものに纏めるつもりです。そして此方は他のどこにも約束がありませんから、よかつたら(君が色々の点を考へていいと思つたら)新月社へ世話をしてくれませんか。本の名は今のところ「碧い遠方」といふやうなものにしようかと考へてゐます。御承知のやうな詩的科学的自然随筆集です。
 デュアメルの訳も考へてゐますが、今のところ前記の仕事で一杯です。
 生活は苦しいけれどどうにか生きのびてゐます。それに自分の好きな大きな自然の中に生きて、毎日新しい発見や啓示に喜ばされてゐるので、生活苦は生活苦として真の富、真の幸福には事欠きません。此頃ますますジャン・ジオノに兄弟のやうな愛を感じてゐます。近いうちに此気持を彼に書いて送らうと思つてゐます。
 今日これから藤森栄一君に印税残部の事でいやな交渉に上諏訪まで出掛けなければなりませんが、かういふ事が一番苦手です。

 然しいづれにしても私達の事で余り心配しないで下さい。どうにかしてやつて行きますから。
 それよりも海ちゃんと海ちゃんの御母さんとの事を僕達は始終考へたり、会ひたがつたり、思ひ出したりしてゐます。大手町のケヤキ並木が色づきはじめ、あすこを通るとすでに往時となつた(御父様のまだ生きてをられた)頃の事どもが涙ぐましく回想されるのです。
 御母様にくれぐれも宜しく。私達の渝る事なき愛の思を!

    十月廿一日
                                      喜八


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【昭和二十四年】

 [伊藤海彦 宛 一月二十六日(速達)]

愛する友
 あの新年の夜以来、もしや感冒が重もつて寝て居られるのではないかと、――あれきり御便りがないので――僕達は心配してゐます。家でもあの翌日から次々と風のための病人つゞきで、昨日あたりから最後の病床が取りのけられた始末ですから。
 「碧い遠方」は十二日に書き上がつて十三日に「ゲンコウデキタコラレヌカ オ」といふ電報を新月社の君宛てに打ちました。然しそれ以来杳として音沙汰がないので、共済ビルといふのを書落したゝめに電報が不着になつたのかしら、それとも君が休んでゐるので君の手に渡らないのかしら、或は……などと色々考へてゐたところです。
 熱があつて床についてゐる中を一日も早くと思つて無理をして書上げただけに、東京の沈黙は僕を不安にしてゐます。もしかしたらあの出版の計画が中止になつたのではないかと。そしてそれを切り出すのに忍びないので沈黙が続けてゐられるのではないかと。
 海彦君。もしも事情が僕の推測のやうであつて、新月社に今直ぐあれを出す意志が無いやうならば率直にさう言つてくれたまへ。実は僕のところではあれによつて入る金を充分頼りにしてゐたし、今でもしてゐるので、どういふ事か分らずにベンベン日を送つてゐるわけにも行かないのですから。それで此手紙に折返して、新月社の都合を一筆でよいから御知らせ下さい。それによつてこちらでも何とか窮境の打開を考へなくてはなりませんから。
 今日はこんな手紙になつたがどうか悪しからず。
 君が丈夫でゐるのだとしたら何よりですが、若しも悪いのだつたら養生して一日も早くよくなつて下さるやう祈ります。
 母上様、吉村君たちにくれゞゝも宜しく申上げて下さい。

 冬蛾凍てず 楢ならには楢の肌めきて

 では今日はこれだけ。御返事を待つてゐます。

    一月二十六日
                                 尾崎喜八 
  伊藤海彦兄

 

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 [伊藤海彦 宛 一月三十一日]

 愛する海彦君、長い御手紙をもらつて、そんなにも君を煩悶させた事を今では却つて御気の毒でたまらなく思つてゐる。僕も生活がこんなに窮迫してさへゐなければ、どうせ書いた物だから本なんか何時出たつていい位な気持で鷹揚に構へてゐたい方なのだが、御承知のやうな現状のために止むを得ず、しぜんに急ぐやうな仕儀になつてしまつた。之は何だか我々二人の共同の苦悶のやうな観を呈してゐるが、要するに僕が余りに貧乏すぎ君が又余りに純粋だからだといふ事になる。
 だから仕方がない。なるやうにならせるほかは。
 たゞ然し、もう是以上君が僕の事で心を労しすぎないやうにといふのは僕の切なる願ひだ。
 とにかく原稿は三十日に上京した光三に持たせてやつた。君はもうそれを見たか或は彼から受取つたかした事だらうと思ふ。印刷所が暇で仕事を待つてゐる所だといふならば尚更ありがたい。もしも新月社であれを出すといふ方針を今もなほ変へてゐないのならば早速掛かつてもらへば僕はうれしい。あれは、「美しき視野」よりも一貫した空気を感じさせる点で僕の好きなものだ。そして「高原暦日」と「美しき視野」との間に生れた子供のやうだ。自分で書いておいて自分で褒めるのは親馬鹿チャンリンに類するが、どうもそんな気がする。田舎者になつたせゐかも知れない。田舎のアヲジかムクドリに!
 稿料は、予定(定価と部数とによる稿料の予定の)半分ぐらゐ先へもらへれば僕の家としては大助かりだ。何しろ四人か四人半の生活だから、いくら田舎でも又いくら倹約な暮らしでも、やつぱり月々の生活費はずゐぶん掛かる。そこへ持つて来て僕なんかの月々の収入は君もよく知つてゐるとほり本当に雀の涙ほどのものだから遣つて行ける道理がない。君の六千円とか一万円とかいふのを聞くと僕なんぞには夢のやうだ。まあ、とにかくそんな具合なのだから。僕のやうな貧しい著者をしてこれ以上困窮させたり落胆させたりしない為に、せめて新月社が出来るだけの心づかひをしてくれるやうだと僕は元気を取り戻してもつと明るい気持で仕事を続けられるといふものだ。宜しく話してくれたまへ。
 君の色々の仕事を僕は心から祝福するが、君も亦八ツの裾野の僕の仕事に愛を持つてくれたまへ。最近羽田書店の「塔」といふ新しい雑誌から乞はれるまゝに「碧い遠方」の第二篇目の「泉」といふのを送つてやつたが、ひどく喜んで礼状をよこした。あゝ、そんな事さへ今の僕には仕事への激励の意味に感じられる。そしてそんな小さな好意さへ僕を支へ、僕を若返らせ、僕を勇気づける。況や我が海ちゃん、そしてわが吉村君に於ておや!

    一月三十一日朝
                            五十七回誕生日
                                  尾崎喜八


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 [伊藤海彦 宛 三月三十日(葉書)]

 藤沢の新居からの御葉がきを拝見しました。本のことでいろいろ御面倒をかけて申訳ありません。恩地さんの指定の色は所謂「碧色」なのでせうが、なるほどあれでは早く変色する惧れもあり、少し浅薄なやうな感じもしますからあなたの言はれるやうに濃い目の青にして下さい。「碧い遠方」は札幌でも少しは売れさうな気がします。東京がやはり一番でせうが、丸善や紀伊国屋なら窓へ飾つてくれるでせう。
 山から都会へ、そして今は海岸へと、君の移つて行くあとを考へると歌のひとつゞきのやうです。海のリルケ、いや寧ろヴァレリーを僕は思ひます。君からの海のひゞきをどんなに僕が待つてゐるかを忘れないで下さい。必ずやすばらしい幾つかの詩が此の春から夏へかけて生まれる事でせう。
 あいにく四谷の高橋へ頼んである山靴の修理が出来たらしく、どうも三千円ぐらゐ払はなくてはならないらしいのです。四月十日に白崎君が持つて来てくれる事になつてゐるのですが。新月社で何とかそれだけでも間に合はせてくれると助かるのです。どうにか御奔走ねがへませんか。
 三月二十四日に石黒一家は牛込へ引上げました。美砂子の居なくなつてしまつたのが精神的に大きな打撃です。こんなに淋しくなるものとは全く予想だもしなかつたのですが。
 おくるみの上へ写真をのせ、象のおしゃぶりを添へて毎日見て暮らしてゐます。
 空がきれいになり、小鳥達が活潑に飛び、囀り、地上に雪は点々ながら信州富士見ももう春です。


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 [伊藤海彦 宛 四月八日(葉書)]

 羽田書店から「塔」の四月号が来て、君の手になると思はれる「碧い遠方」の広告を見ました。近来稀に見るすつきりした、そして効果的な広告だと思つて感心すると共に御礼を申します。
 今日串田さんから「モンテェニュ旅日記」の第一巻を貰ひました。君も贈られた事と思ひますが、あの装幀はいかにもモンテェニュ=串田的で美しいものです。金色とリンダウ色と真紅と黒とのハーモニーですが「碧い遠方」の碧も、もしもあんな色が出るのだつたら必ずしも濃青でなくてもいゝなと思ひました。尤もモンテェニュには「紅」といふ生彩のある一色が加はつてはゐますが。
 どうか僕の方にも間に合つたらいゝハーモニーを与へて下さい。「塔」の「泉」は石川滋彦氏の画との調和が大変よかつたやうに思ひます。少し優待すぎて面映ゆい心地です。


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 [石黒栄子 宛 四月十七日夕(葉書)

 今朝、いよいよ黒ツグミが来ました。渡辺さんの奥さんが最初の歌をきゝ御母さんと僕とが畑の湿地で餌を探してゐる彼の姿を望遠鏡で見ました。エナガの巣も一つ今日発見、珍しく此森へ来て泊つてゐる大きなフクロフも毎日見てゐます。ほかの夏の鳥たちの来るのもこゝ数日中の事でせう。
 先日の御手紙で美砂子の其後の様子が目に見るやうに分り、安心したり、感謝したり、笑つたり、泣いたりしました。わけても「信田の狐」で小さい手をクルクル廻すといふのは、あなたの描写の力のおかげでそつくりそのまま想像出来ました。ありがと。
 私はいまだに仕事が手につかず困つてゐます。こんなにも力にしてゐた孫であつたかと思ふと、なぜもつと「猫ッ可愛がり」をしなかつたかと今更のやうに悔やまれます。或はなぜもつと早くから「別れ」を学ばなかつたかと……。
 然し私も御母さんも、美砂子の居ないグチはダラダラこぼしながらも丈夫で元気だから安心して下さい。富士見は未だ早春といつたところ。毎日二人三人の来客でまことに繁昌です。
 上諏訪の人で、例の読物を書いてゐる植松といふ人が此の間すばらしく大きなカモシカの毛皮を一頭ぶんまるごと持つて来てくれました。私がかぶるとそつくり入つてしまふ程の大きな毛皮です。足もついてゐます。これを取つて置いていつか遠足に行けるやうになつた美砂子のために、小さい可愛いカモシカのシリアテをこしらへてやらうなどと、そんな事を空想して遙かになつかしがつてゐる美砂子の祖父、あなたの老いたる父を東京の春の夜に、ひそかに憐れんでくれるのだつたら、私はほんとに嬉しいと思ふのです。父娘によろしく。


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 [串田孫一 宛 五月二日]

敬愛する串田さん。

 東京はもうすつかり新緑の時で、今日あたり、青嵐をおもはせる風の中で燕がひるがへり、日光が暑いほどで、御すまひの井の頭附近ではところゞゝゝの農家に鯉幟が揺れ、白と黒との爽やかな夏着をよそほつた小鳥のサンセウクヒが、「ヒリヒリン、ヒリヒリン」と鳴きながら、絖のやうに輝く空を飛びまはつてゐる事でせう。こんな日には永かつた武蔵野の生活が、いとどなつかしく私の思に立帰つて来ます。
 同じ五月の風が私の富士見の高原にも、今日は朝から吹渡つてゐます。離れ島のやうな此の分水荘の森の中、樹々の障壁のために幾らか弱められて吹いて来るそよかぜの中で、ヒガラ、四十雀、カハラヒワ、黄ビタキ、コサメビタキ、センダイムシクヒ、サンセウクヒ、それに啄木鳥の仲間の赤ゲラやコゲラまでが、求愛に、営巣に、採餌に、鳴囀に、それはそれは賑やかな事です。カラマツは緑の煙の程度、白樺はまだ新葉をさへ綻ばせませんが、蝶や小鳥や太陽や空や雲、すべて大地との接触を直接にしないものは、すでに皆春の姿を呈してゐます。
 今日は此の半年あまりの間にいただいた御著書への御礼を申上げるつもりで此の手紙を始めたのですが、今私の前には「理性の微笑」から初まつて、つい此の間いただいた「モンテェニュ素描」にいたるまでの七冊のあなたの御著書があります。これを七冊机の上に置いてあるのは、勿論仕事の暇に読みつゞけるには違ひありませんが、又一つには、私自身の怠け心に鞭を当てるためでもあります。全く此等の立派な仕事と其の多量さとには驚くのほかはありません。「苦悩と思索」から続いて「モンテェニュ旅日記」、すると忽ち「素描」が送られて来ましたが、其時はむしろアッケに取られた形でした。
 「快楽と幻想」と「苦悩と思索」とは、謂はば車の両輪のやうなものと思ひますが、哲学者串田さんを知るには最も該切なものと申して宜しいでせう。それにあの愛らしくも美しい「幸福を求めて」を、私が或る冬の日の暖かい午前、森の風かげの日当りにカモシカの毛皮を敷いて、釜無の山々を眼前にしながら読んだ思ひ出は永く忘れられません。少年のための「物思ふ」本を、誰があなたのやうに書く事が出来たでせう! 私はあれを読みながら、もう一度子供の昔に返つて、生れて初めての経験としてあの本を手にしたいやうな気になつたのでした。
 「モンテェニュ素描」は一つの「色々の泉」のやうです。いろいろの飲物と言つてもいいかも知れません。或は「とりどりの石」でも「それぞれの草」でも。しかもまるであなたと一緒になつて、フランシス・ジャム風な風景の中で、あなたの声と口調とからぢかにモンテェニュを聴いてゐるやうな気がします。私は斯ういふふうにあなたから語られるアミエルを、どんなにか待ち望んでゐる事でせう。あの書方は聯作のリードのやうです。
 Mon cahier de la philosophie française
といふあなたの帳面の名は、そのまゝあなたの思索の森林と草原と水辺とを想はせます。清冽な甘美な水、温かく柔かい草、花の香に embaumé された輝かしい空気……さういふエレマンがあなたの著書にはいつもすこやかに混じり込んでゐるやうです。
 それにあなたの絵! あれは錦上の花ですよ!
 今日「塔」の大迫さんからの葉書の中で、「串田先生とよく御噂をします」といふのを読んで、私への「塔」からの執筆依頼もあなたの御慫慂の結果だつたのだなと思ひました。御親切をありがたく御礼申上げます。
 好きな自然の中で静かに仕事をしてはゐても、生きる事がますゝゝ苦しくなる今日、遙か東京の空に見えざる友愛の手があつて、援助を与へてくれる事は本当に嬉しくもあれば助けでもあります。昭森社も駄目らしく、海彦君の社も中々の苦境のやうな折柄、私の小舟は泊るべき港もなくて沖合を漂つてゐるやうな有様です。何卒今後もよろしく御願ひ致します。
 松本市に私の読者の同好会とかいふものがあつて、明朝早く招かれて出掛けますから、今日は之で失礼します。奥様に宜しく御鳳声下さい。
 それに今日妻と二人で考へたのですが、もう少したつて此の高原と周囲の山々とが最も美しくなる六月頃、是非あなたを御迎へしたいと思ひます。御宿は二日でも三日でも出来ますから、山を歩かれるなり、画を描かれるなり、東京での息抜きに是非御出かけ下さるやうに願ひます。
 その折は又改めて御たよりを差上げます。

    五月二日 午後
                                  尾崎喜八  
  串田様
    玉案下


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 [石黒光三・栄子 宛 十月三十一日(葉書)

 上京中はいろいろ御厄介をかけました。厚く御礼を申します。あなた達の仕事がだんだんと其の緒について来てゐるのを見て喜びました。中々大変でせうが二人心を協せてしつかりやつて下さい。きつと良くなるでせう。

 美砂子の成人ぶりも嬉しい限りでした。雨の上野毛で別れてから小仏トンネルを越すあたりまで、小さい彼女と暮した数日の楽しく美しい思ひ出に胸の痛くなるのを感じてゐました。そして祖父といふ者の幸福をしみじみと味はつた事でした。いまだに掌が思ひ出すあの抱擁の感触! あの声!
 別便で(小包)美砂子への御菓子と夏の写真とを送りました。お菓子は千足静子さんが甲斐駒登山のついでに未だ美砂子が此処にゐるものと思つてわざわざ持つて来て下すつたものです。写真は一番可愛い二枚を少し大きく伸ばさせました。あとは楽しみにしてゐて下さい。いよいよ紅葉と冬の風、雪の山々がすばらしく、私の好きな初冬の富士見高原とその太陽とです。秋アカネがちらちらと日に輝いて飛び、マヒワの群が大きく輪をゑがきながら青と金との空間をとびめぐつてゐます。海辺の波のやうな西風の音、きらめく太陽、煙る西山と純白な山嶺、今日はアルプスもすつかり晴れてすばらしい日です。
 カッチンは古チリメンの頬被りをして、今ピヨ子や白子の家を掃除してゐます。しきりに鳴くジヤウビタキの声。
 十月三十一日午前十一時半の事です。

  

      *冒頭余白に(コタツ寸法一尺八寸)下部余白、横に(空気乾燥、火の元注意なさい)の書き込み。

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【昭和二十五年】

 [串田孫一 宛 一月十二日]

 親しい友よ!
 懇ろな御手紙を積雪の森の家でなつかしく読みました。事ある毎にさうやつて思ひ出して下さるあなたの渝る事なき友情にはたゞ感謝のほかはありません。貧しく生きてはをりますが、あなたの友は御承知のやうな生活を昔ながらに履みつゞけて、年はとつても魂はいよいよ若く、大して酬いられもしない仕事を元気でやつてをりますから、其の限りではどうか安心して下さい。
 博物学をお始めとの事、全く同慶至極です。そして其のやうに身辺の事物から着手されるのこそ本当の研究態度だと確信します。私も今は冬の事なので、雪と植物の景観や、寒夜の天の星などを眺めたり観察したりしてゐます。そして例によつて中学生用のノートに“Cahier de la Nature”の名をつけて備忘の記録を残してゐます。「詩人博物学者」といふ御指名は恐縮ですがラヂオの「愉快な仲間」なんかに出演(?)しないところが取柄であります。
 御手紙による東京の十日のミゾレには、八日九日と雨シラスの予告があつたやうですがここ富士見の高原も十日は午前六時半頃から細かい緻密な雪が降り出して昼前一杯つゞきました。積雪量は九センチ、以前からのを加へて総積雪量二〇センチ。それに地面が一帯に凍上してゐるので、山靴などは全く見えなくなる位踏み込んでしまひます。此の雪の予兆としては七草の日以来の一〇二〇ミリバールといふ気圧がだんだんに降下して来た事と水蒸気張力が大きくなつて来たこと、それに九日の朝からの巻雲、巻層雲が西寄りの雲向ではびこり出した事などがあります。そして昨日(十一日)は終日雲量0ゼロといふ快晴(富士、北アルプスの槍、穂高、常念、関東山脈の金峯山等もくつきりと白金の峯々をつらね)、今日は又朝の快晴から次第に雲が出現し、その量を増し、そして明日は恐らく又雪を降らせる事でせう。いづれにしても此のところ快晴と降水との日の到来に三日位の週期が定まつたやうです。新聞に出てゐる天気図を見ると其間の消息がよく分ります。宅では此の天気図のために読売新聞を入れさせてゐます。決してプロ野球の記事のためでも、○○党嫌ひのためでもありません。
 あなたが自然観察の記録をとつておいでの事は大賛成であります。「公教要理」の暗誦ではありませんが、「よろしい、お続けなさい」です。
 「薔薇窓」には心から期待します。どうかそれが実現して、「直ぐつぶれ」もせず、「最高のもの」になる事を祈ります。中々困難の多い仕事でせうが、挫折しないで御骨折り下さい。
 富士見へ御来遊の時は五月末が一番よいかと思ひます。白樺やハンノキの芽がほぐれ、落葉松の新緑が煙り、蓮華つゝじが真赤に咲き、此の森にすべての夏の小鳥達が揃つて囀りはじめる季節です。五月末から六月の中ば頃まで。これが一番富士見高原の美しく活気づいてゐる時ですから。
 一度講演をしたのが機縁となつて、木曾駒山麓伊那町の男女の二つの高等学校に突然愛読者が出来、あの「高原暦日」が一週間ほどで五百部売れたさうです。そして其後もその生徒等は熱情を絶やさず、とうとう此の十四日にはもう一度出かけて「ベートーヴェン講演」を試み、持つて行く筈の「ヷイオリン・コンチェルト」(Op.六十一)を聴かせるつもりです。
 東京には今を可愛い盛りの孫娘もをり、(ロランの「コラ・ブルニョン」のグローディーのやうな今年二つの子供です)私そつくりな気性の其の母親もゐて、頻りに東京へ帰れとすゝめて来るのですが、(時には泣いてすかしたり、怒つた顔を見せておどかしたり、父としての愛情を疑ふやうな事を言つたり)、一方信州に此のやうな日増しに強くなるほだしが出来ては、中々オイソレと此処を後にするわけにもゆきません。
 いろいろつまらぬ事を申上げましたが今日はこれで失礼します。末ながら御令閨様によろしく御鳳声のほど願ひ上げます。

                         一月十二日夜信州富士見高原
                                   尾崎喜八


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 [石黒光三・栄子 宛 七月七日]

 今度の滞在ではすつかり御世話になつてしまひました。すべてに行き届いた御もてなしを受け、あこがれのミチャンコにも心ゆくまで会ふ事が出来たことを、深く深く感謝してゐます。あなた方の私生活が緒に就き、後から後からと家畜や園芸植物のふえて行く盛況を此の目で見て、どんなに安心もし喜んでもゐるかを御察し下さい。そして是からの監理はさぞかし大変な事だらうとは思ひますが、若くもあり、好きでもあるあなた達の事だから、日は一日と熟練と巧みさとをもつて仕事をすゝめて行かれるに違ひないと私は確信してゐます。
 畑の花、裏の家畜や家禽、それぞれの部屋の様子、あなた達の生活の仕振り、それにあの可愛い美砂子の一日の暮らし方などが、今も尚はつきりと眼前にあつて、ともすれば自分が玉川のあの家に一緒に暮らしてゐるやうな錯覚にとらはれます。
 帰る日に上野毛から新宿のプラットフォームまで、栄子と一緒だつた二時間あまりは、私にとつて忘れがたい思ひ出になつてゐます。あれは一つの美しい父子の時間でした。四年ばかり前、富士見で、朝牛乳をとりに一緒に農場へ行つて、帰りに高原の初秋の花を手折つた時にひつてきする美しい思ひ出の時間です。私は「子を持つ親の幸」を、新宿駅をはなれ、東京の町を後にして行く汽車の窓辺で、つくづくと感じ味はつたのでした。
 光ちゃんも栄子も、此の夏の一と月を可愛い美砂子と離れて暮らす事が出来ますか。ほんたうに大丈夫ですか。「逹ひたいな、逢ひたいな」なんかと、そちらから言つて来るやうな事はありませんか。私はきはめてあぶないものだと思ふのですが。「ウーウー」も「コチコチ」もして貰へない三十日あまりを、時には痛切に淋しく思ふ瞬間が有るのではないでせうか。尤も曾ての私達の空虚な淋しさを今度はあなた達二人で味はつてみてもいいといふのならば、それも亦理屈はありますが。とにかくもう一度よく考へて覚悟をおきめなさい。
 此処と同じにそちらも毎日じめゞゝした天気でせうが、それでも雨が止み、雲が切れて青空や日光がちよつとでも見えると、さすが高原富士見の夏景色はひろびろとしたものです。今は野バラ、スヒカヅラ、イボタ、ウツギなどの白い花が多く、それにまじつて濃い紫のウツボグサと紅紫色の紫ツメクサが全盛です。郭公が鳴き、夜はゲンジボタルが闇の田圃を漂ひ光り、ヨタカがたそがれを単調な然し幽邃な声で鳴いてゐます。草木は繁茂に繁茂を重ねて、人間の生活の本拠をさへも侵掠してしまひさうです。そして全く雪の無くなつた山々が寧ろ黒ずんだ藍色をして、その緑の草木の海のかなたに横たはり、厚く重たい銀鼠の積乱雲の奥から、時として雷鳴がひゞいて来ます。さうすると白々とひるがへる幾億万の木の葉が高原の夏の男らしい淋しさに深い叫びを長々と上げるのです。そんな日に畠の隅で働いてゐるカッチンの姿が、何と小さく、又何とけなげに美しく見えるでせう。あなた達と私達との遠く離れた二つの生活。それが詩人には人生の一つの調べとなつて此の夏の空に響き消える思がします。
    七月七日                          (朗馬雄誕生日)

  光三様、栄子様                            父


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【昭和二十六年】

 

 [串田孫一 宛 四月九日」

串田様                             四月九日朝
                                    尾崎喜八

 御無沙汰をしてゐますが御元気のやうで何よりと存じます。
 親しい御手紙と「アルビレオ」の創刊号五十冊とを頂きました。ありがたく御礼を申上げます。雑誌は大層かはゆく、又すつきりと出来ました。之は雑誌などといふものではなく、寧ろ詩集ですね。
 あなたの「胡蝶夫人」はあえかに美しく、マリー・ローランサンの或る小品の画のやうなものを想ひました。最後の一節はいかにもあなたの物らしい点睛です。北原さんの「雫の坊や」は可憐でした。この調子で、いつか、身辺の詩を書かれたらきつと面白いものが出来るだらうと思ひます。
 亀井さんのアングルのヴィオロン「佐渡国分寺阯」には雰囲気がありますね。「煙草を一本与へたり」の句は抜群です。冒頭の「荒海の涯なるの」は「島」の誤植ではありませんか。
 詩一篇「アルビレオ」の二冊目のために同封します。「高原暦日」へ入れた旧稿ですが、あまり頁を取らずにすむらしいし、人に見て貰ひたくもあるので、もう一度公表したいと思つてお送りします。読者をカクトクしたいと折角奔走してをります。
 末乍ら御令閨様によろしく御鶴声下さい。

 富士見早春。此の森も朝から小島たちの歌で賑やかな事です。花は未だ。
 二伸「歴程」の「モディリヤーニ」は気品のある美しい作でしたね。

 

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 [石黒栄子 宛 五月一日夕(葉書)]

 今日はミチャコ特輯をありがたう。みんな傑作なので一人で笑つてしまつた。あの日曜の朝の「音楽の泉」は思ひがけなく私も聴いて、クララ・バットの深くすさまじいアルトのアイルランド民謡、コンチタ・スペルヴィアの熱情的なスペインの歌、ニノン・ヴァランの南米民謡、テノールのカルーソー(イタリア民謡)、マリアンヌ・アンダーソンのフォスターの作品など、どれもこれも其の甚密な味と修練の妙味とに感動した。そしてあの「ミズーリ・ヴァルツ」はなるほど美砂子の云ふとほり「悪い音楽」らしい。少くとも前記のいろいろな歌や歌ひ手とは全然比較にならず、ウィンストン・チャーチルともあらうものが「私の知つてゐるのはあのメロディー位だ」と云つたといふのが本当ならば少々ガツカリだ。
 うちでは今鉢植のシナノキンバイ、キバナノコマノツメ、庭摧のシラネアフヒ、コキンバイ、カタクリなどが美しく咲きそろひ、イハキンバイ、オホサクラサウ、ヒメイハカガミなどがもう二、三日といふところ。
 今朝は五時半にすばらしいアカハラの歌に起こされたが、キビタキ、センダイムシクヒ、サンセウクヒも一緒に囀つてゐて実によかつた。みんな此の春になつて初めてはつきりと聞いた鳥達で、本当に小島のメイデイだつた。
 実子三十日は新川行の由、御苦労でしたと云つて下さい。昨日のハガキでも云つたやうに今度は上京できないが、下旬には御厄介になるからそれをたのしみに待つてくれるやうに。
 今日はジイドの「日記」を読み、ルソオの「孤独な散歩者の夢想」を読んで、何か逞ましく筋金が入つたやうに元気だ。結局自分のしたい仕事を片端からやつて行くのが憂鬱を吹きとばす最善の方法だといふ事をつくづくと知つた。
 そんなわけで今日は驚くほどの元気で此のハガキをあなたに書き送る。
                                à bientôt!

 

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 [串田孫一 宛 五月十七日]

 御葉書二つと「アルビレオ」とをいづれもありがたく頂戴しました。それに、十一日夜の若い学生達との対談御放送もきゝました。声もそのまゝであり、対談も全く自然なので、まるで傍にゐてあなた達の話を聞いてゐるやうな気がしました。あゝいふ結論は不要であつて、寧ろあのやうな進行のリズムと、あのやうな雰囲気とが、それを聴く人の心に或るムーヴマンを与へるところに意義があるのですね。
 「アルビレオ」はやはり今度の第二号に体裁内容とも進歩があるやうに思はれました。
「旧枕」の印は美しいものです。「夕暮片積雲」、「雨の王さま」、「かくれんぼ」、「電信柱に寄す」、「春浅く」等に或る共通点が感じられるのを不思議に思ひました。それぞれに相通じたペイソスのやうなものを感じたのは私のエタ・ド・クールのせゐでせうか。北原さんの「虹よ」も整然として可憐な作品でした。第三聯の「橋を架けよ」の「て」は無い方がいいのではないでせうか。あの「てよ」でちよつと甘くなる気がします。あなたの「夕暮片積雲」は非常に澄んだ雰囲気を内に持つたものです。私が御教へしたのは「片積雲」ではなくて「層積雲ストラトクムルス」だつたと思ひますが、「今日も薄れ行く」とあれば、やはり「片積雲」の方がいいやうです。但し「夕暮層積雲」は層積雲のちやんとした亜種名ですが、片積雲の方はさうではないらしいです。あなたの場合は「フラクトクムルス・ヴェスペラリス」ですね。「西空の薄紅の燦きに」の「燦き」がちよつと問題ですが、私は「かがやき」或は「かゞよひ」にした方がいいのではないかと思ひます。「きらめき」と「かがやき」では語感が異るやうに思ひます。御子息さんの「雨の王さま」の「かんむりをつくる」や「雨の王さまながいきしない」の想像にはびつくりしました。亀井さんの「無求の歌」は深くしつとりした美しい作品だと思ひました。全くあのとほりですね。
 私の第三号の原稿あまり長いものでびつくりもされたでせうし、御迷惑でもあつたでせう。どうか取捨は編集者として御自由に願ひます。そして若しも御採用下さるなら、最後に近く「鷲座のアルタイル」と書いたのを「琴座のヴェーガ」と御訂正下さい。思ひ違ひでしたから。
 須田春生さんはよく知つてゐます。あの姉妹達に私共は愛情を抱いてゐました。たしか二番目の姉さんに和子さんといふよい人がゐたと思ひますが、今も何処かで幸福に暮らしてゐるかしらと、御たよりを読みながら妻と懐旧の情にふけつた事でした。
 御口添があつた「花冠」を送つてもらひました。たゞ此の詩の雑誌とその寄稿者達の顔振れとをまざまざと見る事は、少くとも今の私にはつらい事です。あの人々は、其のほとんどすべてが、私の曾ての最も親しい友でした。そして今私はサン・ピエール島の孤独な散策者に似てゐます。この気持は実にたゞあなたにこそ解つて頂けるものでせう。
 こゝ富士見にはすでにカッコウ、ホトトギスの歌が流れ、野山に燃えるレンゲツツジも今まさに綻びようとしてゐます。営巣、育雛合唱に明け暮れる小鳥達、やがて此の穂屋野のいたるところを真白にするノバラ、ウノハナ。此処で自然を生き、人々に慕はれ静かに仕事しながらパンシーヴに暮らす事が、すなはち私の生き甲斐です。
 満腔の友情をこめて、五月十七日夕
                            信州富士見高原にて
                                    尾崎喜八

  串田大兄
 追白、今日角川へ「山の絵本」の重版五子部の検印を送りました。

 

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 [串田孫一 宛 六月二十一日(葉書)

 御高著「フランス思想史」を御送り頂き、ありがたく存じます。此の本は他の系列の御前著と併せ読む時、(あとがきに御書きのとほり)吾々のやうな者には身になる御講義を、立派な肉づけと共に聴いてゐるやうな気がするでせう。
 「考へる葦」は、草上での休憩の時などに幾度も読んで、静かな楽しみを味はつてゐます。今後の御志向のおもむく所か、など、推察しながら。
 妻が少々具合が悪く、事によると入院、手術のやうなはめになり兼ねない事を予期しながら、今日これから彼女一人で上京します。私の独居自炊がはじまるところですが、今度は少し永くこれをやらなければならないかと思つてゐます。
 富士見は今野バラの季節、つゞいてウツギの花の風景になります。朝の小鳥の合唱はだいぶ弱まりましたが、それでもクロツグミ、キビタキなどは終日森の静けさに鳴きくらしてをります。
                                  六月二十一日

 

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 [串田孫一 宛 六月三十日(葉書)

 妻の事を御心配にあづかりありがたう存じます。移動盲腸とやらで七月二日手術ださうですが、健康体での入院でもあり、執刀が大家大槻博士ですから安心してをります。退院は手術後一週間、しばらく玉川の娘の所で静養して、二十日過ぎに帰宅の運びとなるでせう。どうぞさういふ予定ですから御心配なく下さいまし。
 「アルビレオ」には二枚ばかりの短いのを明日一日に御送りしようと思つてゐます。
 「碧い遠方」について色々御配慮ありがたく存じます。七月一杯には出すと云つてをります。尤もまだ校正は出ませんが。申し遅れましたが「新イソップ」を有難く頂戴しました。実にいい本で、私なんぞも教へられる所が多々あります。どうか多くの子供達(大人達にも)読んでもらひたいと念じてをります。
                                  六月三十日

 

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 [石黒栄子 宛 七月七日]

 御手紙をいたゞき、金もうけとりました。薪は此の関原さんから二把分けてもらひ、其後倹約して使つてゐるから買はなくてもいいのです。それであの二千円はなるべく崩してしまはないやうにして東京まで持つて行きませう。東京へは実子の帰宅前四日ぐらゐに出発します。創元社からの飜訳の仕事があるので、余りそちらで愚図ついてもゐられないからです。
 美砂子の幼い心に「悔い」のやうなものを残させてはいけません。それに事実オンブのためかどうかも吾々にははつきり分つてはゐないのですから。寧ろ実子のはもつと前から悪かつたのだと僕は思つてゐます。
 牛込のおばあ様から大変詳しく実子の様子を書いた御手紙を頂きました。御忙しい中をあんなに長いものを書いて下さつた御親切に深く感謝してゐます。どうかあなたから呉れぐれも御礼を申上げて下さい。
 牛込では穂積さんの例をひいて、余り詰めて仕事をしないやうにと言つて下さつたが、これからの色々の入費を考へれば、さすが呑気な僕も一生懸命にならない訳には行きません。すべての会合を断つて、好きな散歩もやめて、ほとんど一日中予定しただけか、寧ろそれ以上の仕事を続けてゐるのです。尤もどこも調子の悪いところがないので、肉体的には何の苦痛も感じません。たゞ気持が、気持だけが、何物かに追ひかけられてゐるやうな不安に駆られて、夜中など、突然はつきり目がさめて、暫くじつと床の上に坐つてゐることが此頃たびたびです。酒はもちろんやめてゐます。
 そしてたまたま美しく晴れ九日に郵便を出しに町へ行く時、夏のために青黒くなつた勇ましい山々を見たり路傍の花を見たりしながら、不図、たまらなく憂愁にとらはれる事があります。心の底の底の方から、つめたい風が湧いて来るやうな気持です。こんな事は自分の娘のあなただから言ふので、他人から見ればいつでも元気な先生と見えるでせう。
 書いた物が「新潮」へ出たり、「展望」から頼まれて書いたりしたのを何処からか知つた串田君が、「方々の雑誌がやつと立派なエッセエをのせることに気がつき出したらしく、何かしら楽しくなつて来ました」と書いてよこして呉れましたが、僕にはあの人の親切な気持はうれしく思はれるものの、雑誌などの代表してゐる文壇や世の中に対しては、いよいよ深まる軽蔑といふか――嫌悪といふか――、そんな一種の感情を抱かずにはゐられないのです。
 病院の人達に贈る本はやつぱりこちらから署名して郵送しませう。とり立てゝ文句を書く気にはなれないから、署名と名宛てだけにします。それで受取る人達の名を――せめて苗字だけでも――今度の便りの時に知らせて下さい。折返しすぐ送ります。然し万一間に合はなくてもいけないでせうから、紙へ書いた署名だけは念のため同封します。
 あなたが検眼をしてもらふ気になつたのは大変よかつたと思ひます。僕はどうも其の眼がいけないのだと普段から思つてゐるのですから。美砂子のツベルクリン(本当はトゥベルクリン)反応の結果と一緒に、眼のことも必ず知らせて下さい。
 咋日は夕方飯にしようと思つて七輪に火をおこしてゐると、其処へ病院の連中がビールをかゝへて大挙してやつて来ました。小林、山口、川上、川島の四君に、最近又此の夏を療養に来た加藤末彦君とでした。午後七時から十一時半まで。随分賑やかでしたが、すつかり後を片づけて一休みして寝たら午前一時でした。
 そして今朝は九時から机に向ひました。ジャムの詩の飜訳のために。詩の訳といふものは、いくらでも直したくなるので散文の訳より遥かに余計に苦しみます。
 ではさよなら。実子に大事にするやうに言つて下さい。
 光三君と可愛い美砂子にもくれぐれも宜しく頼みます。
    七月七日七夕
                                 父

                       亡き朗馬雄の誕生日、あなたの弟の


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 [串田孫一 宛 十一月五日(葉書)]

 遅ればせながら詩一篇お送りします。未定稿ですがまづこんな物でせう。
 楽しい二日間でした。あの翌日の快晴が、またどんなにあなたに幸したかと思ひます。そのやうにして、あなたは徐ろに富んでゆかれるのですね。
 野山に、林に、もみぢは頻りに散つてゐます。あの日の雨は山では雪。根雪となる雪が澄みわたつた青空に清らかな限空線をゑがいてゐます。つぐみの渡り、鶸の渡り。
 オーヷオールの作業着に冷たい鍬。畑の土をふたゝび踏んで、都を遠く生きながら、崩れてゆく年の最後の絢爛にうづもれて、いよいよ明らかになる眼を見はつてゐます。
   十一月五日
                                  尾崎喜八 
  串田雅兄


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 [串田孫一 宛 十二月六日]

 御叮重なお手紙と天気図リーフとを有りがたうございました。折角御来遊下すつたのに相変らず何の風情もなくて御気の毒に思つてゐましたところ、慮外の御礼言葉を頂き、感謝やら汗顔やらでございます。あの日北原君と別れて雪降りの諏訪湖畔で御写生の由、しかも小さい測候所の傍ら、冬枯の柳の下でロビンソン風杯のくるくる廻るのを聞きながらの御風流、ちよつと寒過ぎるやうな羨しさを感じます。それにしても御来遊のたびに見事な作品が数枚づゝふえ、串田画廊さぞかし思ひ出の画面に賑はつてゐる事だらうと拝察いたされます。北原君からも来書、大層喜んでをられる様子で何よりでした。封書の御代筆を本人の字かと思ひ、余りの私淑に驚いた粗忽さを御笑ひ下さい。まことに善い青年で感心しましたが、姉上にそつくりな点にも感心いたしました。
 御送り下さつた天気図は傑作です。さすがに絵を描かれる貴兄の作だけあつて堅からず、しかも地図としても正確を極めてゐるので、安心して使へます。早速毎日午前六時のラヂオから書きとつて記入してゐますが、私のは天気、風向、気圧、それに高気圧(H)と低気圧(L)の所在だけを書きこむ事に、(今のところは)決めてゐます。そして図面の華麗さを得るために、晴は白、曇は赤、雨は青、雪は緑、霧は丸の中に赤点といふ色彩を用ゐてゐます。測候所は富士見を入れて、目下は二十二ケ所を採つてゐます。小さいながらまことに価値あつてしかも壮観です。
 然しもう用紙が無くなつてしまつたので、どうか一ヶ月分でも結構ですから御送り願へたらと思ひます。そして次のが届くまでは御休みにします。
 図の下の罫線の部分には気象関係の記事や生物の目撃記録を書き、その残部と裏面へは其日其日の観察記やら感想の簡単なモティーヴを書いてゐます。そしてそれでも尚不足の際には、頂戴した別の罫線入りの紙をつけ足すやうにして、あの手帳を全面的に活用してゐます。実はその見本を一枚進呈するといいのですが、何しろ五枚という貴重な数なので、只今では差し上げられなくて残念です。
 三十枚の定価二十円では安すぎると思ひます。送料をそちらで持つて少くとも三十円、妻は三十五円でも安いと申してをります。先づ当分三十円といふ事になさつたら如何ですか。それでもあの用紙の価値を認める人ならば、高いどころか、やはり安いものだと思ふだらうと思ひます。
 私としては先づ東大の毒物化学の研究室にゐる若い友人、東北大の薬学研究室にゐる之も亦若い友人、玉川にゐる石黒などに見本を送つたり、ぢかに見せてやつたりして、これの愛用者たらしめたいと思つてゐます。概して私の本の愛読者ならば、大賛成の連中が中中ゐるんじやないかとうのぼれてゐる次第です。
 私の思ふに、此の天気図付ルーズリーフ・ノートブックが盛んに行はれるやうになつたら、アルビレオ社で特許でも取つて置かないと、模倣者だの剽窃者だのが続出して、或は雑誌の付録なんかにして、結局母屋までぶんどられてしまひはしないかと、今から頭痛に病んでゐるのです。そしてあの手帳の製作会社なんかからも、いくらか貰つたつて構はないやうな時が、案外早くやつて来るんではないかなどと、そんな空想さへ逞しく出来るのです。
 先づは御礼やら御送り御願ひやら。今日は之から原稿がつかへてゐるので大忙し。すばらしい大霜のあとの快晴の林の中を眺めながら、友よ、此の瞬間、私は貴兄の寐たあの北の部屋で、かうやつて机に向つてゐます。まことに「命短し」です。
 末乍ら御令閨様にいつものやうな親愛の御挨拶を。
    十二月六日
                          信州富士見高原にて
                                 尾崎喜八  

  串田学兄
     玉案下

 

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【昭和二十七年】

 

 [串田孫一 宛 一月二十九日]

 只今御葉書を頂戴いたしました。御知らせで武蔵野の春の動きのすみやかなのに、遠く来て長く住んでゐる信州の私たち、今更のやうに驚きの顔を見合はせました。
 ところがこちら富士見では、今年に入つて今日で八度目の雪降り、今もどしどし滝のやうに降つて、すでに四、五十センチの深さです。そして此の雪の中を今夕東京から着く娘と孫とを夫婦二人頬被りして、もう直き迎へに参ります。
 たしか年賀の葉書のはしに書いたやうに記憶してゐますが、御無理を願つて送つて頂いた「理科年表」と「天文年鑑」とは正に落手して、それ以来ずつと重宝してをります。不行届きのため御心配をかけて何とも申訳ございません。同封のもの御うけとり下さいまし。
 一月廿七日午後五時の気象要素御教示にあづかり有難く存じます。こちらの同日午後九時は気温氷点下九・七度。積雪、結氷。風向北々西、風力一。快晴。気圧一〇二九ミバ。湿度六五パーセントとなつてをります。同日気温最高氷点下四度、最低氷点下一四度。ちやうど気圧一〇三一ミバの高気圧が南方を通過した直後あたりに観測した値になります。最低は同日日出頃に出たやうです。
 東京近郊には極めて普通のヲナガが、今年になつて二十羽程の群をなして、初めて此の森に出現するやうになりました。一昨年あたり、諏訪郡山浦方面で初めて四羽ばかりが観察されたのですが、次第に殖えたものと見え、遂に富士見村でも見かけるやうになつたのです。私が最初に此の森で見たのは一月十九日。それ以来ほとんど毎日きまつて巡回して参ります。つい四時間程前にも。霏々と降る雪の田圃で、用水のふちに列をつくつてゐるハンノキやミヅキの藪に下りて、例のやうに「ゲーイ、ゲーイ」と鳴き交しながら、双眼鏡でよく見ると、スヒカヅラの実を食べてゐました。
 三十一日はシューベルトの誕生日、そして私の還暦の日でもあります。栄子、美砂子は、今宵そのために参ります。当日ちよつとした御客をします。
 末ながら御令閨様によろしく御高声下さいまし。
                             一月二十九日夕
                                  尾崎喜八
  串田様

 

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 [串田孫一 宛 十月三日]

 九月二十八日附の御手紙をありがたく頂きました。御無沙汰はこちらこそ。書かなくては書かなくてはと思ひながら、毎日の落ちつかぬ気持のまゝに御無音を重ねてゐました。実は東京の書斎が殆ど竣工したさうで、そつちへ運び出す家財や書物をそろそろ荷造りする時期になつたので、忙しさうに色々と整理の仕事をしてゐる妻を見ながら、其の影響をうけて変に動揺してゐると云つた有様です。
 爽涼快美な秋が急速度で展開して行くのに、それをゆつくりと味はふ事の出来ない此の日頃をいくらか恨めしく思ひながら。
 しかし東京の娘夫婦は私達の新居のためにすつかり張り切つて、毎日毎日、さまざまな楽しい空想を書いてよこします。それだけに、たとへ冬の間だけでも此処を去るのが今更のやうに惜しまれる気持です。
 連続放送の事結構だと思ひます。私の書いたもので何かの御役に立つのなら、幾らでも御遠慮なく御利用下さい。ところでその放送はどこの局からでせうか。若しも「文化放送」だと私のところでは聴かれませんが。
 今月早々御来遊があるかも知れないとの御知らせを喜びました。十日過ぎると妻も上京し、私も前述の事情で忙しくなりますが、それ以前ならちつとも構ひませんから御立ち寄り下さい。
 杉本順一氏の「植物検索誌」の事御親切に、ありがたく存じます。私も其の第一巻を入手したく思ひますから宜しく御願ひ致します。代金御知らせ下されば用意して置きます。此頃、又思ひ立つて、少しばかり乾腊標本を作つてゐます。その出来上りがうまく行つたので、こんな事ならば春からずつとやつてゐればよかつたと、今になつて後悔してゐます。何だか今頃になつて漸く此の土地の有難味がはつきりと分り初めたやうな気がします。過去六年間を惜しむ気持がしきりです。あなたには、しかし、決してこんな悔がありませんやうに。東京にお住ひでも。
 ジャム、へッセと、飜訳の仕事が立て込んでゐながら、詩に取り憑かれてまごまごしてゐます。来年の春頃には信州移住後の詩作品を一纏めにしたいと思つてゐます。百篇ぐらゐ。
 今夜は仲秋の名月。うちでもスヽキ、ワレモコウなどを飾り、果物なんかをそなへて此の夜の満月を賞しませう。それに此頃の木星の美しさも捨てられません。私は今、木星の四衛星(ガリレオ衛星)の毎日の運行を後づけてゐます。これは晴れた夜ならば当分楽しんで続けられます。その木星から大きな光芒が二つ上と下とに射出されてゐるやうに(私には)見えますが、その為に星自躰が、あたかも北の天へ向つて飛ぶ「金の小鳥」のやうに見えます。此の二つの光芒は、多分、私の眼の水晶体の周辺部の不規則屈折による影像だらうと思ひますが。
 末乍ら奥様によろしく御伝言御願ひ致します。それに北原女史にも。
                                 十月三日
                                   尾崎喜八
   串田大兄
     玉机下

 

 

 

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 後 書

 詩人尾崎喜八は敗戦直後の昭和二十一年から昭和二十七年まで、七年の日々を長野県富士見で過した。喜八にとつて信州は、それまで足繁く訪れ心から愛してやまぬ土地であつたにはちがいないが、このような形で定住しようとは詩人自身考えてもみなかつたことであろう。敗戦という一つの運命によつて転々し、ようやく富士見にたどりついた詩人は傷ついていた。この富士見時代は詩人の本質を解き明かす正負両面の鍵がひそんでいると思うが、大きな問題だけに今ここで簡単に書き記す訳にはいかない。(詩人自身の心の動きは『高原暦日』の「到着」という文章に書かれている。)ただはつきりいえることは、それまで理想主義的な明るさをまつしぐらに歩いてきた詩人が、始めてといつていい程の挫折を味わつたことだ。今となつてみれば、この失意の時代こそ詩人の仕事を高い完成へと実らせたものといえるだろう。無論それも、詩人の自らの仕事を信じる心と意志の持続があつたからこそ……だが。

 ここに集められた手紙及び葉書は昭和二十三年から二十七年にいたる、富士見からのものである。それも串田孫一さんと私、娘の栄子さん宛の極めて狭い、いわば私的な範囲のものである。当時串田さんもまだ三十歳を出たばかり、あの詩やエッセイが溢れるように書かれる以前だつた。十歳年下の私にいたつては海のものとも山のものともつかぬ、頼りない文学少年にすぎなかつた。こんな書簡を集めたことに対してあるいは偏つているといわれるかもしれない。だがそんな若い三人に向けてこんなにも心をこめて長い便りを書いている詩人の姿を伝えることは決して無意味ではない。いやそれどころか利害と関わりのない若い三人にむけて書かれたからこそ、詩人のその頃の生き方がくっきり出ているし、思いもかけぬ吐息が行間にこぼれている。

 「名もなき季節」と題したが、名づけられぬ季節といった方がさらにふさわしいかもしれない。詩人はこのとき確かに四季以外の別の季節にいた。そして詩人はそこでもう一度、自身の「無名」を生き直した。この詩人特有の清澄なまなざしで。碧い遠方”をみつめながら。“花咲ける孤独”に、より深く身をひそめて。
 ……やがて、またふたたびの春が詩人自身の手で蘇るまで。

                                  伊藤海彦

 

 

 

 

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