千家元麿は明治二十一年(一八八八年)六月八日、男爵千家尊福の子として生まれ、昭和二十三年(一九四八年)三月十四日に六十歳で他界した。生来孤独を愛する異端児で、小・中学校での学業を余り好まず、規則に束縛されることを極度に嫌っていたと言うから、成績・操行共に両親や教師達の期待には多く添わなかったろうと思われる。しかしその天性は善良で美しく、情にもろく、一方芸術への愛も熾烈で、早熟な文才と画才は若年の頃からその鋒鋩ほうぼうを現わしていた。生前の詩集十巻、遺作詩集一巻、死後集められた詩約一巻、長篇の叙事詩一篇、小説二篇、更に詩・美術・外国文学に関する随想数篇などを数えれば、その業績の大きく且つ多彩なことが思われる。
しかしもしも彼がなお十年二十年を生きて、その仕事の筆が断たれなかったとしたら、そこからどんなに一層円熟した、どんなに美しく老戊した作品が生まれた事だろうと思って、謂わば「早死はやじに」が惜しまれるのである。
昨日きのふは去っても
また新らしく生れる
不死鳥のやうに
火焔の中から蘇よみがへる
こうした熱烈な願望を心に燃やし、消えなんとするそれを懸命に掻き立てていた詩人千家元麿が、ようやく襲って来る心身の深い疲労と生活の索寞とをどうする事もできず、移る世代の足音と目まぐるしい芸術的思潮の変遷のなか、枯野に夢を馳はせめぐらす焦燥と孤独のうちに、世にも稀なあの無私と熱中と愛の詩人の姿を、蹌踉そうろうと遠く寂しく消して行ったことは限りもなく痛ましい。
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彼の処女詩集で又その最もすぐれた詩集である『自分は見た』は、大正七年五月、三十歳の時に出たが、それを率先して推挙したのは武者小路実篤だった。実際、詩人千家元麿は雑誌『白樺』によっておのれに目ざめ、わけても武者小路、長与善郎、岸田劉生らとの親交によって駿馬しゅんめの驥足きそくを展のばすに至ったと言っても過言ではあるまい。元より能よく与える者はまた能く与えられる者でもあって、武者小路、岸田というようなすぐれた同僚を得て躍り出た千家の矢継ぎ早な作品発表と旺盛な詩作力とは彼らを驚かせ、喜ばせ、剌激したには相違ないが、それにしても彼は当時ようやく擡頭してそれぞれの流派を形成しつつあった感情詩派、民衆詩派、乃至は正統をもってみすから任じる高踏的な詩派等々の雑然と相隣る野から一人離れて、武者小路らの『白樺』的雰囲気のなか、その素朴と奔放と、情愛に濡れた随毛や眸を珍重されながら、もっぱら風薫る貴族的・人道主義的な牧場でおのれを養っていたのである。
彼はたびたび居を変えたが、多くは東京北部の郊外、都会と田園とが接触して一種独特な庶民的生活風景と憂鬱な雰囲気とを持つ巣鴨、池袋、練馬のあたりを、家族をかかえて転々と借家住まいしていたように思われる。しかもその間に画期的な『自分は見た』以後、『虹』、『野天の光り』など十冊の詩集に加えて、ほかに二冊の短篇と戯曲の集、一冊の随想集を次次と出版させた。この間かん頭に変調を来たして幾らかの空白の時も持ったらしいが、やがて大東亜戦争が始まって、昭和十九年には長男宏がビルマで戦死し、翌年三月糟糠そうこうの妻千代子が疎開先の埼玉県吾野あがのの田舎で病没した。この選詩集の巻末を飾る「三月」という詩は、永の年月人生の明暗苦楽を共にした亡き愛妻への、真に惻々そくそくと胸迫るような哀歌の一つである。
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千家元麿の詩業のあとを辿って見ると、その流れは初めに太く終りに細くなっている。それはひとり作品の量においてばかりでなく、質においてもまたそうである。彼は数年の間に持っているすべてを使い尽し、その後は惰性か、稀に訪れる霊感か、或いは過去の作品の残響によって書いていたように思われる。おそらく病気のための空白や、予後の肉体的・精神的の疲労や衰退が原因したのであろう。それにしても彼は早くから吐き出すのに急で、摂取するのにおろそかだったのではないだろうか。又たとえ摂取はしても余りにも自己流に早呑みこみで、且つその栄養の対象が、余りに当時の『白樺』的な物に限られていたのではないだろうか。彼の作品には他からのきびしい批判というものが向けられなかった。純粋で素朴で恬淡てんたんで恥ずかしがり屋で、常に同情と愛とにせつなく満たされていたこの善人、この巷と田園の歌の天使を温かく囲むものに、少数の作家や画家の一団があり、ひたむきに彼に心酔する一群の若い詩人達があった。それはまことに幸福な事には相違なかったが、又いちめん他山の石、口に苦い良薬を手にしなかった事は、芸術家としての彼にとって幾らか惜しむべき事ではなかったろうか。
しばしば私は考えるのだが、もしも彼が『自分は見た』や『虹』や『野天の光り』等に示した意欲と、充実と、力感と、特色とを、更に更に深く広々と押し進めて行ったならば、どんな未前の詩芸術の一天地が新しくわが国に出現したことだろう。その畢生ひっせいの作の合本はおそらく日本の『草の葉』とも言うべき物になったろう。そして或いは重たく堂々とした大冊に仕立てられ、或いは軽く手丈夫な袖珍本しゅうちんぼんに製本されて、広く永く人々に愛され読まれたことだろう。実際彼の詩は本質としてもそう成って然るべきものであり、芸術家を動かすと同時に大衆の心に訴え、それを掴む力を持っているからである。
私はあの「車の音」、「野球」、「村の郵便配達」のような、貧しい庶民的生活者への人間
愛と共感とから対象を偉大なものにまで聳え立たせる彼の、その正しく、健康で、更に圧倒的な力に縊れた作品をどんなに好きだろう。これこそ真にホイットマン、ミレー、ゴッホに心酔してやまなかった詩人の作品である。又あの「白鳥の悲しみ」、「象」、「蛇」のような、実相観入の驚嘆すべき深さにまで達した作品をどんなに愛するだろう。これらもまた彼の傾倒したゴッホに通じる道であると同時に、彼の遂に口にしなかったライナー・マリア・リルケの、あの物の詩の真諦しんていにも脈絡するものである。
すべてこのような作品は彼の在世当時すでに詩界に独特なものであったし、今後も永く独特である事をやめないだろう。彼の早逝はまことに惜しく、半途でのその罹病と疲弊とは一層惜しい。私がこの選詩と解説とを喜んで引き受けたのも、実に畏友子家元麿への讃嘆と敬愛と哀惜との故にほかならない。
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