九月九日――
今夜、と言っても実は翌十日の午前二時からだが、信州富士見で試みて以来五年ぶりで、ペルセウス座の食変光星アルゴルの肉眼観測をやってみた。(註。相接した一つの暗星と一つの輝星とが互いに廻り合って、その輝星が暗星のために光の一部を時間的に規則的に遮られる現象を食による周期変光現象という。そしてアルゴルの変光周期は約二日二十時間四十九分という短かいものである) 先ず「天文年鑑」でその極小の時刻九月十日午前三時を確かめ、九日午後九時、十時と二回に亘ってその二・二等という極大光度を観測して置いて、さて一度床へ入って午前二時の目醒まし時計で起きた。
望遠鏡と懐中電燈と変光星観測用の切星図チャートとを持って庭へ出、花壇の間の用意の椅子へ腰を下ろす。東のほう五十メートルばかり向うの生垣の頭とすれすれに、ちょうど木星が爛々と昇って来たところだった。庭ぢゅうが虫の声で賑やかだ。えんま、みつかど、つづれさせ、三種のこおろぎに、鐘叩き、青松虫。そして時々遠くなり近くなるあおばずくの「ホウ・ホウ」。一片の雲もない天空は濡れたように深く柔かく、その紫ビロードの円天井に大小幾千の星をちりばめ星雲を煙らせている。中でも最も目につくのは昇ってからまだ間もないオリオン、牡牛、馭者など、全天の約四分の一を領している大星座群だ。そして双子座のカストルとポルックスとを連ねた線の下約十二度のところに、大きく見開いた隻眼のような木星。振り返ると一昨七日に最大接近をした金紅色に輝く巨大な火星が子午線を西へ移って、書斎の屋根のうしろの杉林の上に斜めに爛爛と沈みかけている。僅か二日でもう二十万キロも地球を遠ざかった火星である。
さて当のペルセウス座の変光星アルゴルは、午前二時過ぎには既にいくらか光が薄れているように見えたが、時間の進むにつれて急速に減光の度を増し、ついに午前三時十五分頃には直ぐ近くの四等星ピーぐらいの光度まで落ちた。これが最小の限度でこの状態が約十五分間つづき、それから五時間半で元来の二等星の光に戻るのである。しかし彼の光がもっとも衰えた瞬間、望遠鏡の拡大された円形の視野の中には、寂寞というか、無常というか、或るはかなさが霧のように拡がる思いがした。私は夜露に濡れた花壇の中で四時近くまで観測を続けたが、その間にペルセウスに属するかと思われる流星が三つ飛ぶのを見、M34の散開星団や、有名な美しい二重星団などを観望した。そして痛くなった首筋を揉みながら家へ入る頃には、木星と小犬座のプロキオンと大犬座のシリウスとが、あたかも一顆のトパーツと二顆のダイアモンドのように、東方の空高く横一文宇となってせり上がっていた。
*
九月十日――
昨夜の快晴と静穏とにひきかえて、今日は朝から南西の強風と断続的な雲の疾走。日本海を北東へ進んでいる台風十二号の影響であろう。秒速十メートルから十五メートルを算するその風の中で、今月三日に亡くなった片山敏彦の夫人愛子さんの告別式が行われた。式場は国電荻窪駅から東へ六七町の杉並公民館。故人が上野出の声楽家なので音楽葬ということだった。
私の行った時にはもうその音楽葬が初まっていた。暗くされた土間の椅子席は参列の人々でほとんど埋まり、五対の清楚な大献花で飾られてそこだけ明るい照明をうけた舞台の中央に、故人の遺骨の箱と引伸ばしの大きな写真とが安置されていた。私は偶然に視線の合った知人の誰彼に無言で会釈をしながら後方の席へ腰を下ろした。そっと肩を叩かれて振りむくと、来年の春の婚儀を待ちながら今はまだフィアンセーユの仲の幸福な若い二人がうしろの席にすわっていた。そして舞台に面して左側の最前列には、愛の伴侶に先立たれた気の毒な友人片山敏彦が、二人の遺児や親戚の人々と並んで、ほの暗い光の中に哀傷の顔をうつむけているのが見えた。ベートーヴェンの「月光」の第一楽章が夢のように鳴り消え、故人の同窓で私の孫の先生でもあるピアニストが、薄い喪服のスカートを曳いて静々と舞台を去った。
つづくシューベルトの「溢るる涙」と、「春の夢」の独唱、ショパンの或る「夜奏曲」とベートーヴェンの「パセティック・ソナタ」第二楽章の独奏とのあいだ、私は清らかな白や黄の花に囲まれた黒枠の額の中に、紫御召らしい着物に白襟をかけた体格の立派な故人の、きれいな眼を優しくみひらいて幾らか沈欝な重たい微笑を浮かべている顔を遠くから見ながら、彼ら夫妻との友情の日々を思い出していた。その友情は戦争を契機とした互いの微妙な感情から、十年間というもの不本意な疎隔を続けていた。それが再び古い親交を取り戻してこれからは楽しく家族的に往来ゆききするようになろうとした折も折、思いきやこの悲痛な出来事だった。今、額の中で彼女はすこし首を傾けて微笑している。心臓弁膜症によるその突然の死の前日、ヘルマン・ヘッセから手紙を貰って夫妻共に喜んだ時、興奮した片山が「僕も仕事のためにあと五年は生きなければならないから宜しく頼むよ」と言ったらば、彼女は何も言わずにほほえんだというが、その微笑だ。やすやすとは感情をおもてに現わさず、驚くほど重厚に忍耐づよく、ただ内部でのみ美しく燃えていることの多かった彼女が、軽薄でいつわり多い世にあってたまたま人の真情に触れたとき、首をかしげて静かに浮かべたあの微笑だ。その微笑が、いま彼女の死を悲しみ恨む私にもまた、モーツァルトの鎮魂の歌のしらべと、献げられる花の香との中からそそがれている。
帰宅して後の夜晩く、庭の木々にまだ昼間の風のなごりのざわめいている時、かつて故人が私のために歌ってくれたシューベルトの「夕映えの中にてイム・アーベントロート」とフーゴー・ヴォルフの「秘められし愛フェアシュウィーゲネ・リーベ」とを、今度は亡き夫人のために私が歌った。
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九月十九日――
午前中は新聞を読まないことにしている私が、今朝ふと東京新聞を見るとハンス・カロッサの訃報(UP電)。全く思いがけないことなので一目見た瞬間息のとまる思いがした。死因は心臓病で、この十二日の夜西独パッサウの自宅で逝去したとのことだった。享年七十八歳。ヘッセよりも一つ年下だ。
一と月に二度か三度は、詩であれ小説であれ、必ずその幾頁かを読み返さずにはいられなかったカロッサ。私自身の齢が傾き、毎日の体験に濃い影と輝きとが添い、その一つ一つがいよいよ意味深いものに感じられるこの幾年、私にとってカロッサは最も愛と尊敬とに価する現存の詩人であり、作家であった。またカロッサ自身も近年の一作ごとに円熟と底光りとを加えてゆき、寡作であればあるほど読者としては次の新らしい作の出版が待たれ、そしていよいよ出ればそれを読む悦びたる真に言いつくし難いものがあった。しかしもうそういう楽しみもないという落胆と、かけがえのない人を失ったという損失感。およそ彼を愛するほどの人は皆同じ気持だろうと思うのだ。
夕刊の東京新聞にさっそく、芳賀檀氏の「カロッサの人と作品」が出た。「上」とあるからまだ続きがあるらしい。今日のは咋年の夏筆者が西独パッサウのリッツシュタイクの自宅にこの詩人を訪ねた時の回想である。「以前会った時からみるとなんと老けられたことであろうか。ふさふさした頭髪はまっ白に変り、限りない優しさを押し包むように疲れがにじみ出ていた。恐らくその疲れの中にはカロッサが堪えて来た多くの悲しみ、殊に二つの大戦による巨大な苦しみが含まれていた。それはもうカロッサのあらゆるものを奪い去ったかのようだった」と芳賀氏は書いていた。
読売と朝日の夕刊にも数行の外電が出ていた。死去の日附は読売では十一日夜、朝日では十二日となっている。(後に高橋健二氏にただしたら、十一日夜というのが一番確からしいということだった)
今宵は旧暦八月十五日で仲秋の名月。しかし月はあおばずくの鳴いている向うの森の上に黒々と拡がっている層積雲の間から時々その力のない輪郭を見せるだけで、それもやがて瞑目するように厚い雲間に没して再び姿を見せなかった。それでも二人の孫は薄や萩、芋や栗や葡萄や梨を供えた縁側へ腰をかけて、「お月様」に縁のある童謡をいくつか歌っていた。この十月で満四歳になる弟の敦彦はまだよく歌えないので、小さい姉のあとについて自信のあるところだけ特に大声を張り上げていた。私はドイツの雑誌からカロッサの写真を探し出して切り取り、それを額縁に入れて書斎の棚の上、彼の著書の列とならべて置いた。そして床へ入って「一九四七年晩夏の一日」を読んでいる内に、いつかは物になりそうなカロッサヘの詩の断片が頭の中で形をなして来たので急いで起きて書きとめた。
幾年に一度遠く私たちの許へ届けられるその贈物は
ささやかな包から夥しい中味となって拡げられ、
贈り主の洞察的な深く柔かいまなざしと
好意にほころぶ微笑の面輪おもわとを想わせた。
そしてその一つ一つを手にとると、
各々がまたいくつにも分解して、
美をもって装われた叡智や鼓舞や警告を
人それぞれの内的な求めに応じて現わすという
おどろくべき魔術を演じるのだった。
*
九月二十二日――
昨夜おそく庭の木々や庇を打つ雨の音を聴いたが、けさは薄ら寒い秋雨と濃い灰いろの霧とが窓の前の林の中まで立ちこめている。花壇は水に飽き足りて、葉鶏頭もサルビアも鳳仙花もすべてびっしょり。晴れた日ならば賑やかに聞こえる小鳥の声も虫のすだきも今日はない。ただ時おり庭を隔てた母家のほうから、ソナティネの練習をしている小さい美砂子の霰のようなピアノの音が聞こえて来るばかりだ。土曜日で学校が休みなので、朝の内にお稽古をしておしまいなさいと若い母親から言いわたされて、欲望もなく憂欝に弾いているクレンメッティやクーラウである。
雨の朝を明るくともした螢光燈の下で、カロッサの戦争中の詩「女囚と老人」を訳してみた。捕虜になった外国少女と老監視人とを書いた美しい一篇だ。最後の六行に、わけても感動的な救いや慰めが響いている。原文では十一音綴と十音綴とが交互に組みあわされた四行五聯の格調正しい結晶体のような詩だが、どんなに苦心しても日本語では意味を伝えるだけがせいぜいだ。とにかく一時間ばかりで一応は形をなした。
それにしてもこういう詩は、宇宙の別の天体からの客のようなあのリルケには期待できない。進化の低い段階にある者や未来の完成途上にある幼い者たちに、人間的な深い愛情と優しい祝福の心とを通わせる詩人、人類の運命への連帯心ゾリダリデートを誠実に敬虔に持ち続ける詩人、民族や人間性の故郷の野ハイマートフルールの光への思慕と信頼とに生きる詩人、その歌が一方では治癒や慰めとなり、他方では切実な忠言や警告となるような使命を進んでみずから担った詩人、そういう詩人にして初めてこのような詩は書けるのであろう。
昼過ぎに三時間ばかり日課の仕事をした後で、ベートーヴェンの絃楽四重奏曲イ短調、作品一三二番の第三楽章を総譜をたどりながら書斎の小さいオルガンでところどころ弾いてみた。「病癒えたる者の神への聖なる感謝の歌」という作曲家自身の頭註を持っているこの楽章は、まったく天上のしらべというのほかはない。限りもない和らぎの光に満ちて静寂で、清らかな美のきわみである哀愁を纏ったモルト・アダージオの歌が、「新らしき力を感じつつ」の輝かしいアンダンテを中に、幾たびかの変奏的再現を繰り返しながら広々と流れるように展開する。殊にこの楽章の終りに近く、第二ヴァイオリンが一筋の神々しい夕映えの雲のような主題を歌い出すと、それに半ば重なるように秋を想わせる爽やかなヴィオラが応答を歌い、そのまたヴィオラに追いすがって荘重なヴィオロン・チェロが主題を反覆し、最後に第一ヴァイオリンが金紅色に輝く最も高い雲の帯のような応答を歌うその数小節こそすばらしい。これこそ正に音の空間に懸けわたされた神と人間との盟約の虹だ。そしてその虹は不滅の記憶として今もわれわれの中に斎いつき護られ、ひとたび蘇って空に懸かれば、われわれの全霊と全感覚とはその美と善とに圧倒されて、敬虔の底から胸を張って立ち上がる魂の発奮を覚えずにはいられないのである。
女囚と老人(ハンス・カロッサ)
北風に鞭うたれ、疲れ果てて、熱ねつっぽく、
私達が雪の中で青い布をひろげる時、
その私達の懸命な作業を四方八方から
牢獄のいかめしい監視人達が見張っている。
戦勝に眼のくらんだ陰欝な勝利者よ、
お前達は私の哀れな民族を血の裁判へ狩り立てる。
しかし中にただ一人親愛の心を見せてくれる人がいる。
私達の言葉で話す老人がそれだ。
彼は私達を憎まない。私達がどんなに苦しんでいるかを感じている。
私は信じる、酒に酔いしれた同僚に囲まれている時でも
彼が言いようもなく孤独なことを。
彼は神に愛された家から来た人に違いない。
ほかの人達から見れば私は娘の中での悪い娘だ。
彼等は私のことを嘘つきの外国少女と呼んでいる。
けれどもあの老人は書き物や運星の本を読む――
おお、彼はいろんな事を知っている。彼は私に予言をしてくれた。
春が来たら、燕のように自由な身となって、
すぐに故郷へ帰って行けるだろうと。
そして時どき金いろの軟膏を届けてくれる、
それが夜になると私達の傷ついた手を癒やす。
*
九月二十三日――
今日は彼岸の中日、秋分の日。きのうに引きかえた快晴で、庭の中に、屋根の上に、富士、箱根、丹沢、道志、大菩薩の山々のくっきりと出ている多摩川対岸の風景に、東南東の風がそよそよと吹き渡っている。四十雀や尾長や椋鳥の群が賑やかだ。一頃からみると数も減ったが、それでも四、五匹のつくつくほうしの声。花壇では夏のなごりの花達が崩れるように赤く黄いろく、その上を無数の薄羽黄とんぼが低く縦横に飛び廻っている。雲はまったく無い。玄関の前や崖下の林で栗の実がしきりに落ちる。それを目笊やおもちゃのバケツを持った若い姪と小さい孫たちとが喜びの声を上げながら拾っている。「おじちゃん、胡桃くるみもこんなに落ちてるんですよ!」と窓下の林から姪が叫ぶ。そのおじちゃんである私は「かぶれるといけないから胡桃は何かで挾んで拾うんだよ」と注意を与えながら、風景の真西に見える遠い笹子峠の弓なりのくぼみに、今日の夕方沈む太陽をうけとるべき南アルプスの農鳥岳を、少し前から望遠鏡で検出しようと骨折っているのだ。
朝の九時半からNHKの第二で三十分間カロッサの特集番組の放送があった。いつかも録音で聴いたカロッサの「古い泉」の自作朗読、それにかぶせて同じ詩の日本訳の朗読、続いて芳賀檀氏の詩人訪問の思い出、そして残る二十分間を手塚富雄、高橋健二の両氏に私の加わった一昨二十一日録音の座談会。これはカロッサ文学の本質ともいうべものが話題の中心だった。
自分の座談とか草稿なしの講演とかいうものの録音ほど聴いていて気恥ずかしく冷汗の出るものはない。他人はあんなに滑らかにすらすらと思ったことがそのまま旨く言えるのに、私のは訥訥とぼつぎれで、しかも悪い音色で早口にしか喋れない。今日のもやはりそうだった。その自己嫌悪を妻と娘とに訴えたら、教室その他でしじゅう講義や講演をする習慣のないこと、頭の中で文章を組み立てながら文法上の混乱や表現の曖昧を避けようとするのだが、そのためには固有のテンポが早すぎること、いい落想やイメイジが浮かんでも、それを鮮明に印象づけるには即席の話術がこれに伴わないこと、「えェ」とか「あのォ」とか母音を引っぱって置いてその間に次の文句を考えるやり方を極度に忌み、潔癖を追って却って自意識過剰の弊に陥ること等々。これが私にも同感のできる彼らの遠慮のない批評だった。「でもいいわよ。そう思って聴いていれば、またほかの人の言わないような善いことを言う時もあるんだから」と娘は慰め顔に言った。それはそうだ。常に詩の空気の中で感じ且つ考え、幾十年をおのれの詩の追求に終始して来た私だ。そして傾く齢の中でなおこの道を歩み続けようとする私に、演壇上の話術の巧拙などはもはや問題ではない筈だ。「瑣事を断念せよ」である。
*
十一月五日――
若い穂屋野会の友人たちにさんざん気をもませ、主治医の鈴木博士からも度々すすめられながら、何か悪い決定的な結果が出はしないかという一種の恐怖の予感から、仕事の都合を口実に一日延ばしに延ばして来た胃の精密検査を、とうとう観念して受けるその日が来てしまった。晴れた朝、妻に附添われて新宿区戸山町の国立東京第一病院へ行き、癌相談室の白い明るい一室で前前から打合せてあった小山博士の診察をうけた。過去十数年来の症状について細かい質問をされ、椅子にかけたままの姿勢とベッドの上に仰臥した姿勢とで、その診察はきわめて念入りな親切なものだった。そして明日午前九時にレントゲンによる透視検査をうけに来るように言われて放免された。私の度胸はこれで据わり、この上は良いにしろ悪いにしろ一日も早く病の真相を知りたいと思った。
夜、日本での二ヵ月間の養鶏指導と視察や講演を終って明後日アメリカヘ帰るメルヴィル氏夫妻を、われわれの農園へ招いての送別晩餐会。六十歳になるメルヴィル氏はカリフォルニア州第一の養鶏家であり、古いスコットランド移民の後裔で、その温厚な学者的芸術家的な風貌には、かなりにカロッサのそれを思わせるものがある。若い頃はさぞかし美しかったろうと思われるメアリー夫人は純真で、まじめで、ポルチュガルの血統だと言われているように、いかにもイベリア民族らしい内心の情熱を秘めている。母家での主客十四人の賑やかな食事と歓談との数時間。隣室のピアノで弾くメルヴィル氏の黒人霊歌と日本童謡、小さい美砂子のソナティネ、一同揃ってのべートーヴェンの「歓喜の合唱」。私は朝鮮李朝陶器の天然色図譜一冊を記念として夫妻に贈った。「われわれはこうして世界の家族らしく平和で幸福だが、今のこの瞬間のハンガリア民衆の苦悩やエジプトで行われていることを考えると心が痛む」と私が言ったら、夫妻は急に顔を曇らせて真剣にうなずきながら、その後何か変ったニューズが入ったかと熱心に質問した。また「もしもこんなに年を取っていなければカリフォルニアヘ行って、あなた方のすばらしい養鶏場やフォレストヴィルの美しい自然を訪ねたいのだが」と言うと、二人は声を揃えて 「ノウ、ノウ!」と否定しながら「ちっとも年なんか取ってはいない。どう見ても五十代です。ぜひ一度来て私たちを喜ばせてくれなければいけません」と力説した。そしてやがて秋の夜も更けた十一時近く、二三匹のこおろぎが絶えだえに鳴いている玄関前の星空の下で、一人一人の手を握りしめ、肩をおさえ、幼い者たちに頬ずりをし、涙さえ浮かべて名ごりを惜しみながら、婿の光三の運転する車で多摩川べりのわれわれの家から目白の奥の宿舎へと帰って行った。
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十一月六日――
今日も妻同伴で朝九時に第一病院。成敗すでに我が手を放れたのだと思えば心境は至って平静だった。放射線室の控室で二時間あまりを待っている間、そこへ出入する同じ病の重そうな人、軽そうな人、老若とりどりの患者の容貌や歩きつきを観察した。中に息子と娘たちかと思われる中年の男女三人に附添われた地方人らしい婦人があったが、その樵伜した痛々しい様子を見て、「きっと癌ですよ。むずかしいのでしょうね」と妻が気の毒らしく囁いた。彼女は自分もかつてこの病院で盲腸の手術をうけた時に同じような胃癌の老婦人と同室だったが、あらゆる手当ての甲斐もなくじきに死んだということだった。そんなことを私に話して聞かせる彼女は、しかし夫の私が決して癌ではないことを信じ切っていた。
いよいよ番が廻って来て黒い二重垂幕の奥のまっくらな放射線室へ呼びこまれた。映写中の映画館へ入った時のように初めの内は物のあやめも分らなかったが、やがて眼も馴れ、ときどき赤い電球がついたりすると、どうやら人の姿や室内の様子が見えるようになった。白いブルーズを着た赭ら顔の濶達なヴェテランらしい放射線専門の医者と、熟練した小柄な看護婦と若い男の助手。部屋の中央には室外からの操作で立てたり倒したりすることのできる一種の寝台。私は鳩尾みずおちと腹部とを現して、床に対して垂直のその寝台に背中を当てて立たされる。すると胸の高さまで届く枠のような物が進み出て来て、体が動かないようにおさえつける。医者のしなやかな柔かい手が腹を撫でている。もう透視が初まっているらしい。続いてバリウムの粉末を溶かしたようなどろどろした白緑色の液体を盛ったアルマイト製のコップを渡される。「こちらから合図があったらまず一口だけ飲んでください」と助手が言う。そして赤い電灯がぱっと消える。再びまっくら。やがて合図にしたがって一口飲む。人から聞いたほどまずくはない。香料が添えてあるとみえて一種の風味さえある。医者と看護婦とは身をかがめて私の上腹部をさすりながら、呑み下された重い液体が胃の中へ拡がって行く状態を、寝台の厚板をつらぬくレントゲン線によって透視しているらしい。「今度は二た口だけ飲んでください」 飲む。看護婦のする腹部の按摩は前よりも力強く念入りで、どうやら胃の内壁のあらゆる皺の間までバリウム乳剤を満遍なく塗りこんでいるように思われる。やがて体の前部を支えている枠のような物へ大型写真の取枠がはめこまれて、医者が「写真!」と叫ぶ。撮影をしろという室外への合図である。と、瞬間、腹のあたりでパッと青白い閃光が立つ。写真の取枠がはずされて今度は室外への合図と共に寝台が水平に倒される。平らになった胃の検査であろう。ここでまた入念な透視と撮影。最後にもう一度寝台が立てられてもう一枚撮影。これで終った。
室を出しなに「どんな具合でしょう。癌ではないでしょうか」と医者に訊くと、「癌はありません。潰瘍の斑痕が一ヵ所残っているだけのようです……そうですね、この程度なら手術の必要はないでしょう」と、いとも明るく濶達に答えてくれた。私はほっとした。妻は暗中で強く私の手をにぎりしめた。
*
十一月八日――
小雨そぼ降る中央区月島の晴海埠頭。南極観測隊の一行を南極大陸プリンス・ハラルドの氷の岸まで送りとどける海上保安庁の汽船「宗谷」が午前十一時に解纜する。その隊員の中に、われわれの友人で数日前に薬学博士になった若い朝比奈菊雄も設営隊の一人として加わっているのである。その彼の壮途を見送るために穂屋野会の友人三人、それに私たち夫婦を加えて五人が雑沓の埠頭へ車を走らせた。会の別の友達数人は芝浦からランチを仕立てて羽田沖あたりまで船に附添い、こうして水陸からの歓送をしようという手筈だった。積めるだけ積んで赤い吃水線も深く岸壁に横づけになっている新装の宗谷は満船飾。陸上も船中も見送りの家族や団体や個人で堅い厚い人の壁。おりからの北東の風と冷めたい雨の中を幾千の大旗、小旗、色さまざまなゴム風船の波。その間を各新聞社や雑誌社の写真班・映画班の活躍。私たちは漸くのことでこの大群衆の中に当の朝比奈を見出して手短かに健康を祈り記念品を渡すことができた。船中も少しばかり見物したが、狭い上に非常な雑沓でただ息苦しいばかり。船を下りると偶然松方三郎君と一緒になった。相合傘で混雑の最後列に立っていると歓送式が初まっているらしいが、傘の林立と人垣とで何も分らない。やがて湧きおこる万歳の三唱。定刻を少し過ぎて「宗谷」はゆっくりと岸壁を離れ初めた。ぐるぐると頭上を旋回する三台のヘリコプターと飛行機の轟音。船上と陸岸からの激励や別れの声と次第にちぎれてゆく幾百本の五彩のテープ。雨まじりの風に運ばれて灰色の空中を海の方へ飛び去る無数の赤や黄のゴム風船。やがて機関の運転を開始した「宗谷」の吼えるような汽笛。またひとしきり起こる万歳の声と「オールド・ラング・サイン」の奏楽。速力を増して「宗谷」は行き、それを追って、これも満船飾の巡視船「室戸」と「玄海」、数隻のランチ。こちらは打ち振る旗の波とこねかえされた泥濘……自家用車で帰る松方君と別れ、私たちは雨が上って日光の射しそめた銀座通りへ出て晩い昼飯をとった。
*
十一月十三日――
昨日と今日とは病院行。昨日は便の検査をうけたが潜血反応も蛔虫卵もないとのことだった。今日は胃液の検査だった。細く長いゴム管を五〇センチ呑みこんだままベッドに横臥。最初に胃液を、次に鮮明なあじさい色のメチレーン・ブラウ液をしたたか注ぎこまれた後で、十分間置きに一本づつの試験管に、しだいに色の淡くなる碧い液体を七回採られた。釣針を呑みこんで横たわっている魚か、長いみみずを呑みあぐねている鶫のような恰好だった。しかしこれで懸案の胃の精密検査も終った。(試験の結果は中等度の過酸症とのことだった)私はさすがにうれしく、帰りには渋谷の東横デパートへ寄って六階の丸善出張所でカミュの新作 La Chuteを買い、胃液検査のために昨夕から一物も入れていない空虚な胃の腑へ、八階の食堂でいろいろと詰めこんだ。
午後晩く「季節」の木村真子さん来訪、第三号のための雪山の写真とそれに付ける詩との相談をうける。スイスの写真二枚を選び、ヘンリー・ヘークの詩の翻訳を引きうけた。
本年度読売文学賞候補のアンケートへの答として佐藤春夫「高村光太郎像」、山本健吉「俳句の世界」、串田孫一 「博物誌」、山崎栄治詩集「葉と風との世界」、片山敏彦・宮本正清監修ロマン・ロランの「日記」を推薦した。
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十一月十五日――
晩秋の窓のむこうに武蔵・相模の山々が青く、一際高い富士山が白く、色とりどりの菊の花、つわぶきの黄、さんしゅゆの赤い実などの美しい庭に、今年最初のじょうびたきの鳴いている和やかに晴れた朝。夏の間に頼んでおいたフランツ・ヴェルフェルの自選詩集(Gedichte: 1908-1945)が到着したという知らせが来たので、さっそく午前中に新宿の紀伊国屋へ取りに行く。ヒトラーのドイツ軍に逐われてアメリカヘ亡命する前に彼の呉れた最後の手紙を、今も私が唯一のかたみとして秘蔵しているヴェルフェル、イヴァン・ゴルの見事な仏訳になる「ベルナデットの歌」を、この頃夜ごとに私の読み続けているそのヴェルフェルだ。紀伊国屋では係の岡見君が新着のロマン・ロランの Mémoiresを持ち出して来て、ヴェルフェルのと一緒に包んでくれた。そこへ思いがけなく来合せた片山敏彦がうしろから私の肩へ手を置いた。黒いベレエをかぶり、淡色のチェックのカッターシャツをのぞかせて、思いの外に元気な顔つきだった。彼のところへ集まる青年の一人の美田君というのを連れていた。片山も三四冊買ったらしく厚い紙包をかかえていた。一緒に店のそとの喫茶部でコーヒーを飲みながら、夫人亡き後のその後の様子をいろいろと訊いた。「トリステスの中でもだんだんと仕事にリュミエールが見えるので……」と言っていた。彼がディスクになったデュアメルの「慰籍者・音楽」の朗読のことと、その息子たちの演奏しているメンデルスゾーンの「イタリア交響曲」のこととをいきいきと美しく話してくれたので、私も今手許にあるラヴェルの舞踊歌劇、その台本をコレットの書いた「子供と魔法」のレコードからの感銘をかなり詳しく話して聴かせた。そしてこうした対話の間ぢゅう、感じ易くなっているこの古い友人の眼がいくたびか柔かくうるむのを私は見た。最後に久しぶりにどこかで昼飯を食おうと誘ったが、別にもう一ヵ所寄らなげればならないところがあるというので次第に人の出盛る賑やかな往来で別れた。
それにしても薄い紫の靄にぼかされた、明るく深い秋の町なかでの思いがけない邂逅だった。互に異る信念から戦後の永い期間を疎隔していた私たち二人の再びの接近。それは今自分が脇にかかえている亡きロランやヴェルフェルらの慈愛の心にもかなうのではあるまいか。
午後の太陽の斜めに射す新宿駅のプラットフォームで電車を待ちながら、私はあのシューベルトの不朽の歌、「さあれ我が琴の緒は愛のみを鳴り響かす」Doch meine Saiten toenen nur Liebe im Erklingenを小声で歌っている自分に気がついた。
(一九五六年)
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