夕映えに立ちて


   ※ルビは「語の小さな文字」で、傍点は「アンダーライン」で表現しています(満嶋)。

                                 

詩 人

雙眼鏡

クリスマスへの道

或る回想

祖父の日




夏と冬の素描



  胡桃の木の下で

  焚 火

  氷の下の歌




復活祭

帰 京

 




静かな時間の三部作

 

 

  秋とルオー

  夕日とデュパルク

  オルゴールとジューヴ




季節の短章

 

 

  八ガ岳を思う

  初冬の心

  鳥を見る二人の男

  しぐれ

  冬の庭

  自然の中の春の歌

  春の告知

  五月のたより

  晩 夏

  私の庭

 

 




末消ゆるこころの波

よみがえった句

霧ガ峯紀行

木曾の旅から

秋の日記

晩 秋

高原の冬の思い出

折れた白樺

上高地紀行




同行三人

 

 

  国立自然教育園

  武蔵野晩秋

  皇居に残る「江戸」




放送歳時記

 

 

  郭 公

  焚火と霜

  春の田園詩

 



リルケについて

 

 

  訳詩の思い出

  その詩の一面

 

 



ヘルマン・ヘッセと自然

 

 

                                     

 

 詩 人

 詩人。いな、一人の詩人。その心の明暗においても、その精神の風土においても、またその本然の樹形や閲歴においても、他のどんな詩人とも全く異った一人の詩人、私である。

 こういう事があった。
 その日私は高原の奥の或る開拓部落に、一人の年とった養蜂家をたずねての帰りだった。信州の五月の春はたけなわで、高山の残雪の光も柔かく、青々と澄みわたった大空の海には二つ三つ流氷のような雲が浮かび、むらむらと泡立つ若葉の森に明るく響く小鳥の歌と、白い舞鶴草や珊瑚色をした紅一薬草べにいちやくそうの花。野には赤や樺いろの蓮華躑躅がぎっしりと咲いて、ところどころに野花菖蒲や野あやめが、青や紫の花冠を晴れやかに浮かべていた。私は五ヵ月という永い冬のあいだ待ち望んでいた此の大きな春の自然の中を、健かに酔ったような気持で歩いていた。そして柔かい緑の草のもっとも茂った或る窪地のふちを通ったとき、その中でいっしんに草を食っている一頭の見事な裸馬を見て嘆賞した。
 ところで私が我が家の近くまで来たとき、思いもかけず隣村の光枝という娘と出逢ったのは実にその馬のためだった。娘は向うの山麓の古い農家の次女で、年は二十歳はたち、若い朴の木のようにすらりとして色が白く、生気に輝く美貌に黒耀石のような眸の涼しさ。おまけに怜俐で働き者で、男まさりの信濃乙女の、その典型と言ってもいいほどである。
 彼女は代搔しろかきの田圃から逃げだした馬を捜し求めてこの茫々たる高原の春の野道を来たのだった。私はたった今それらしい放れ馬を見たことを話して、場所を教えるために一緒について行った。すると運よく馬はさっきの窪地で相変らず熱心に草を食っていた。光枝はそ知らぬ顔をして近づいて行くと、いきなりその銜くつわを引摑んだ。そしてつやつやと栗色に光る平首を抱きかかえるようにして千切れた手綱を手ばやく結んだ。それから私に幾度も礼を言いながら、この馬はよく働いて性質もいたっておとなしいのだが、どういうものかこの頃は気が落ちつかなくなってよく逃げ出して困るというようなことを話してくれた。暫く一緒に歩いた私たちはやがてめいめいの分れ道へ来た。すると娘は「では先生、さようなら。そのうちにまた遊びにおいでなしてね」と言いながら、鞍も鐙もない馬の背にひらりと乗り跨がると、真赤な紐をしっかりとあごに結んだ鍔広の麦藁帽子の下から濡れ光ったきれいな目を見せ、紺の手甲に包んだ白い片手を上げて振り返り振り返り、若草の中に躑躅の花の燃える野を、ワルキューレの娘のように飛ばして行った。
 私がこの話をほぼこのとおりに語ったとき、一人の若い詩人がニューアンスのある微笑を湛えて言った、「要するにあなたの詩ですね」と。しかしその微笑はむしろ憫笑のように見えたから、彼はもっと率直にこう言ったほうがよかったのである、「それは自然や田舎や、無智なもの幼稚なものを単純に礼讃する君の詩だ。しかし断じて新らしい題材と知性の節度と巧緻とを欲するわれわれのものではない!」と。
 詩とは本来、詩人のおのれに対する願望であり、叫びであり、夢であり、微笑である。その成立は詩人その人の渾沌とした、始源的な、神聖にして無垢な魂の衝動に由来する。それは新古を論ずる余地のないもので、流派とか、時世の好尚とか、審美的評価のその日その日の相場とかには全く無関係である。それは「価無き珠」であり、これを衡ることのできる秤は魂を洞察する魂のみである。この魂は自然の中に、また幼いものの中に、母岩の美とその力と、無尽蔵の鉱脈と、独創と、常に新たなる魅力と、さらにおのれ自身の由って来ったふるさとのイマージュとを見る。一シーズンを予定して図案され生産される流行家具や文房具のような詩を、魂の消息を重視する魂はほとんど見向きもしないであろう。
 だが或る歳の暮のたそがれどき、私は久々に一週間あまりを過ごして来た東京を五十里のうしろに、高原の小さい停車場から森の我が家への小径をたどっていた。降服後二年目の首都は、もはや私に対して親しみも見せなければ慰めも与えない単に名のみの故郷だった。私はかしこでの苦にがい思い出をその糟まで分析しながら、しかしもう二度とみずから進んで帰って行く日の無いだろうことを思えば、雄々しくされた心はむしろ勇み、今後の仕事や生活にむかって深く静かに燃えるのだった。それは信州の十二月の宵だった。空気は凛々と氷り、早くも霜を結びはじめた一望の野の果てに八ガ岳の連峯がくろぐろと横たわっていた。おりから満月が昇って連峯の歯形を匂わせ、路傍の藪や枯草の上のこまかい霜の結晶をきらめかせた。すると向うから頬被りをした二つの人影が近づいて来た。年とった農夫と若い娘、たぶん親子連れの二人だった。それが私と擦れ違いながら「お疲れでございます」と挨拶した。東京附近の「今晩は」に当って、しかももっといたわりの意味と調べとを奏でて、生きる一日の終る夕べの挨拶である。私も「お疲れです」と言葉を返しながら、振り返って彼らの後ろ姿をじっと見た。連峯を離れたばかりの満月が彼ら二人を横から照らし、寒気と霜とがぎっしりと彼らを囲んでいた。このたそがれのこの姿、この自然の風景には、まさに古代の美と悲哀と厳粛とがあった。烈しい愛情に胸はふくらみ、不覚の涙が突き上げて来て、私は彼らを抱きしめたかった……

 こういう私に再びあのエミール・ヴェルアーランヘの遠い昔の思慕と熱情とが(しかし今はもっと静かな、もっと痛切な、もっと充実した、そしてもっと深い感謝にくゆったものとして)よみがえって来る。麦が波打ち、薄碧い亜麻の花の咲きつづくフランドルの野から、北方の変化常なき空を漫々と映すエスコオの岸辺から、あの率直と清廉と善意と歓待との大いなる詩人の、父らしい声が呼んでいる気がする。私は帰るのだ。六十年の迷いの道を経めぐった末に、傷つき虫ばまれながら熟した心、或る処では暗く狭く、或る処では明るく広い不整な年輪、結局は未生以前の草案どおりに成り成った運命をひっさげて、ついのふるさとへと帰って行くのだ。「我ら人みななべて迷う。ただおのおの異るさまに迷うのみ」というベートーヴェンの言葉こそ慰めだ。
 一冊の仏英辞書と英語で書かれた文典とをたよりに、「フランドル風物詩」の第三巻「平野レ・プレーヌ」の、あの沈痛で力強く輝かしい序詩から読みはじめたときの幼い敬虔な胸のときめき! それを三十年後の今日思いおこすことがなんと痛切になつかしいか。私は二十九だった。それまでには既に幾らかの仕事はしていたが、詩を書くことには全く初心の私に、エミール・ヴェルアーランの名と人と、その独特な詩風とを知らしめたのが実に高村光太郎さんだった。九つ年上の高村さんもその頃はまだ若く、人も知るあの古い自画像に見るように、脂気を抜いた房々した髪の毛と、少し長めの白晳の顔と、黒い厚い鼻下の髭と、その下の思いがけないギャランス・フォンセの唇の色。書き上げたばかりの詩を持参して恐るおそる見てもらうと、アトリエの隅の造りつけの腰掛へ端然とすわって、いつでも極まって「是はいいよ」とか「悪くないよ、君」とか言って励ましながら、かつて一度も師や先輩らしい指導も添削もしなかった高村さん。その高村さんから駒込林町の高台に郭公の遠音の霞む五月の或る日、近郊では麦の穂が伸び、あのアトリエの大窓の下にも蔓薔薇の白い花が盛りの日、「波打つ麦プレ・ムーヴアン」という詩集の中の「田舎の対話デイアロッグ・リユステイツク」の一篇を、すこし鼻へかかった響のいいフランス語で読んで聴かせてもらったときには、この種の詩のみが人間に与え得る発奮と陶酔と身ぶるいとを、私は禁じることができなかった。

      園 丁
  この果樹園へ来て私らの所に足を停める前に、
  君は一体どんな遠くを歩いて来たのか、牧者君。

      牧 者
  茨や棘に搔き裂かれる道をとおって、
  不毛のカンピーヌの紫けむるあの地方で、
  私は永い幾月を暮らし、羊の番をしたものだ。
  さては又向うのほうフランドルで、流れの岸の……

 こういう詩句ではじまる園丁と牧者との驚嘆すべき「田舎の対話」を、その日高村さんは私のために読んでくれたのだが、ついこの頃の或る夜、北アルプスの空へ晩く沈んでゆく金星の光を新緑の木の間に眺める窓の下でジイドのヴェルアーラン追悼の講演というのを読んでいると、そのとき彼ジイドもまた「対話」の数節を朗読した後で、次のような素晴らしい証言をしている箇所へぶつかった――

 「ヴェルアーランのこの作品を再読して、私はその特質を考へてみます。そして私が 
 感じますことは、これが他の如何なる作品にもまして、倦くことのない、並々ならぬ
 共感に貫かれてゐるといふことであります。さうです、これこそこの偉大な作家の最
 も顕著な特質であると私は信じます。歓迎――彼の前に現はれるものを何でも歓び迎
 へること。一つの抑へがたい衝動が、たえず彼を自己の外に曳きずって行きました。
 個人的な利害、保身、用心深さ、いかなる顧慮も彼を止めはしませんでした。彼は何
 一つ拒みませんでした。彼と面識のあった人々は、常に手をさしのべ、腕を開き、万
 人をその抱擁に包まんばかりに身構へてゐる彼を見たものです。彼の目まなざしは他 
 人にも均しく清廉を、真情を、そして率直さを強ひてゐるやうに見えました。彼のそ
 ばにゐると、人々は仮面を脱ぎすて、子供に立ちかへって、自分の影を恥ぢました。
 彼のそばにゐると、みな自分が善良になるのを意識したものです」
             (新潮社版アンドレ・ジイド全集第十四巻中、鈴木健郎氏訳)

 善意と歓待の衝動の前には個人的な利害も、保身も、用心深さも、一切の顧慮をも抛つことのできた人、その本人ヴェルアーラン自身もあの限りなく美しい生の讃歌「我が家のまわり」の詩の最後で言っているように、「陶酔し、熱狂し、荒々しく、喜び、また啜り泣いて、突然倒れる溝のふちの草」であった人間。私は実にそういう真情の人でありたかったし、また本来そう生れついていたようにも思われる。ところがまたそれだけに理性に欠け、さらに一面全く廉潔でもあり得なかった私は、いくたびか迷い、過ち、愚行を重ねて、いま生涯の終りに近くようやく目ざめ、善良な心のあこがれ、清明な魂のふるさとを、道の往手の間近かの空に望み得たのである。しかしこうした私にとって、此処にただ一つ慰めとなる考えは、愚昧と不徳と自己苛責との道を遍歴してついにその故郷へ帰り着いた者と、初めから賢く、迷いもなく、常に巧みに世に処してずっとその故郷にとどまっていた者との間には、人間や世界へのその愛の切実さにおいて、それらのものへの信頼の深さにおいて、恐らくはそこに或る逕庭が存するだろうということである。

 「あらゆる羈絆をのがれて、何とはなく、より高い理想の人間社会に没入すると称す
 る人々は、現実的な意義のない、無価値な、抽象の作品を生んでをります」
                           (同前鈴木氏訳)

 その夜ジイドの「ヴェルアーラン追悼」にこの結びの一句を読んだ後、私は夜風にそよぐ新緑の森に、おおこのはずくの二音符の歌を聴きながら安らかな眠りに落ちたのであった。

 私は信州のいわゆる富士見高原に住んでいる。終戦後二年目にここへ来たのだからもう足掛け六年になる。東京で人並に家財を焼かれて住むに家もなくなった私としては、疎開後の居据わりではなくて移住である。最初の二年間はこれも身をもってあの業火をのがれ出た娘夫婦と一緒に暮らした。そして今は妻と二人ぐらし。赤松と白樺とはんのきとの森の中、或る古い別荘の一隅に竃の煙を上げている。
 家の中から樹々を透かして富士が見える。赤石や釜無の連山が見え、霧ガ峯とその左に遠く槍や穂高の北アルプスが見える。言うまでもなく八ガ岳は、その主峯赤岳をまんなかに、蜿蜒として森の梢とすれすれに見える。
 旧火山八ガ岳の広大な裾野と水成岩山地釜無山脈の崖錐面とが接触して、天竜川と富士川との分水界を形作っているこの一帯の大起伏の原野を、簡単に「高原」と言ってしまうのは、いかに白樺がそよぎ鈴蘭が薫ろうとも、厳密に地学上から見れば当らないこと勿論である。しかし四方の山々の背後からきらきらと雲の湧き立つ梅雨の晴れ間、あるいは茫々とした薄の原に碧い竜胆りんどうの点々と咲く秋晴れの日に、海抜千メートルの高地の草に身をたおして仰向けになり、爽やかな風の響に耳を澄まし、底知れぬ青空の深みに見入り、時おりの鷹の滑翔を目で追うとき、時空の観念を忘れはてようとした君がふとおのれの周囲をかえりみて、此処を「高原」と呟くとしても敢えて不当とは言えないであろう。
 この高原を被うすべての草地と森や田畑と、その間を走る大小のあらゆる道と、藪にかくれた廃道と、飲むに適した甘美な泉、憩うに最適の静かな片隅、そういうものをみんな私は知っている。またこの広がりの上に散らばるすべての村落と、そこに住む老若男女の大半とを知り、中にはわけて親しくしている幾十人の人々もある。そして何処の山畑へ行けば誰に会うことができるか、あの明るい斜面で草を刈っている人が何処の誰か、雪に暮れゆく山裾の或る村の、あのいちばん高い所に輝きそめた明りが誰の家の電燈で、いちばん下のが誰の家のだかを知っている。
 私は言うことができる、いつ何処の谷のどの地点で必ず駒鳥の歌を人は聴けるか、何処の峠のどんな岩間に紅柱石や柘榴石が幾万年の眠りを眠っているか、何処で稀品布袋蘭はそのルビーの花をうなずかせているか、揚羽の国の王女ともいうべき姫岐阜蝶の群が、いつ何処で彼女らの華燭の典を挙げるかを。
 私は知っている、この土地の四季それぞれの天気変化の特徴を、夏至と冬至とその間に太陽の出没する山の名や峠の名を。また知っている、何処へ立つ雲の峯が最もすさまじい雷をもたらすか、何処の畑で最も晩霜の害が甚だしいか、どの山の何処へいちばん晩くまで雪が残るかを。
 そして新開墾の蕎麦の畑を夕立のように訪れる幾千の蜜蜂共の、その巣箱の在りかを大方は言い当てることができる。
 くどくどと数え上げたこんな知識がそもそも何だと君は言うのか。しかしこれらはすべて私の富だ。金に代えて得たのでない真の富、感激と熱意とをもってする永の月日の観察や、相互の愛と信頼とによって私のうちに混じりこみ、もはや決して私から失われることのない心の富だ。そして今後ますます私を養いながら、いよいよ増殖してゆく真実の富である。
「なぜならば」とジャン・ジオノも或る本の中で言っている、「なぜならば人間的な富は彼の心情の中にあるのだから。彼が世界の王たり得るのは実にその心情のうちにおいてである」
 そしてこのまことの富の中からのみ私の詩は醸されるだろう。

 石置屋根と白壁との古い堅固な家を奥へ奥へと雛段のように積み上げて、坂になった狭い村みちの両側に清冽な水を走らせ、家々の前の地衣にいろどられた石垣の隙間をうずめるように、薄紫のおだまきや桃色のフロックス・ドランモンディーを咲かせた部落。私はこのごろのように自然のあらゆる色彩が純粋な初夏の日に、あるいは落葉搔く熊手の音が裏の山からさざなみのように聴こえて来る晴れやかな晩秋に、この古くて清潔な山麓の部落をたずねるのが好きだ。自然を背景とした村の形や家々の内部と外観とが心を悦ばしめるばかりでなく、私に親しい青年男女が指導力の中心となって、農業経営に新らしい知識や技術を採り入れてゆく一方では、部落全体の生活にいきいきとした生気を吹きこみ、風儀を正すことに力を尽しているからである。そして最も感嘆すべきことには、彼らの祖父母であり両親である人々が喜んでその指導に服しているのであった。

 或る日私は部落を登りきって高みの開墾地へ出た。六月の初めだった。そこには彼ら青年の五六人が最近に作り上げた共同圃場で働いていた。原種玉蜀黍とうもろこしの或る種類と別の種類とを交配して、その一代雑種から収量の多いすぐれた種子を得ようとするのである。二種の玉蜀黍は既にそれぞれ長短の苗を整然と並べていた。青年たちはその共同の圃場で草を取っていた。そして近づいて行った私を見ると、やがて休憩することになって近隣の林から枯枝を集め、アルミの大薬罐で湯をわかし茶をいれた。眼の下から起こって湧き上るように展開した八ガ岳の大裾野は、ところどころに雲の影を遊ばせて、その雄大の効果を一層強めていた。
 車座になって茶を呑んだり雑談をしたりしているうちに、青年の一人が私の膝の陰の書物に目を附けて「先生、その本は何ですか」とたずねた。土地の農学校を出たばかりの、文学を好きな若者だった。「これ?これはフランスの詩の本」と私は微笑しながら答えた。本はフレデリック・ミストラルの「ミレイオ」である。プロヷンス方言の詩句とフランス語の詩句とが対頁になっていて、危うく戦災をまぬがれた古い記念の一冊だった。
 やがて私は一同から乞われるままに、最初の幾節かを意訳して聴かせることになった。初めのあいだ彼らの顔には幾らか戸迷いの表情が見えた。しかし暫く続けているうちにこの南フランスの巨匠の魔力はおもむろに日本信州の青年たちの心をとらえて行った。詩の結構が壮麗であり、物語の世界が田舎と農村であり、人間や自然の身振りが古代のように堂々として、しかも主人公たちが彼らと同様に若く且つ純だった。それで私が彼らの退屈をおそれて止めようとすると、却つて彼らの方から「疲れたでしょうがもう少し先を聴かせて下さい」と頼むのだった。
 湯沸しの焚火がとうに白い灰となり、八ガ岳の連峯に青い影がうまれて、この高みの開墾地を吹く六月のそよかぜにも冷えびえとしたものの加わって来た頃、私は彼らと別れるために立ち上がった。すると私を開墾地の下まで送ると言って続いて立ち上がったいちばん年上の一人が、思い入ったような語調で言った。
 「先生。今度来られたときには女子の人たちにもぜひ聴かせてやって下さい。お願いします」
 彼は部落で篤い信望を得ている若い指導者で、この土地に多い海軍の復員者の一人として、戦争中は駆逐艦なにがしに乗っていた。

 いま五月の太陽が沈もうとしている。森の中の北に面した書斎のそと、樹々の若葉は柔かな夕日の色に染まって透きとおるばかり。赤松の幹はいよいよ赤く、白樺は金箔を張ったようだ。私は自然の教会の薔薇窓ロザースをおもう。森の中では黒つぐみ黄びたきなどの小鳥たちが歌っている。その歌は愛と信頼とにみたされている。私は自然の教会の衆讃歌コラールをおもう。
 私は一冊のフランシス・ジャムを取り上げる。白い堅靭な紙のおもてに「哀歌エレジー」の聯が清らかに並んでいる。声をひそめてゆっくりと私は読む。もう春の日は暮れ、森は暗く、小鳥は黙した。山蔭の村の明りがただ一つ見える。私も立って電燈をつける。そして次の数行の上に眼がたたずみ、心が夢みる……

  君の竪琴の上に涙をこぼしながら
  君の柩についてゆく十六歳の子供らに、
  無冠のひたいでこの世を去る
  あの人々の光栄を隠してはならないのだ。

                              (一九五一年)

 

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 雙眼鏡

 一年のうちで一日ぢゅう全く雲のない日というのは、気をつけていると極めて稀なものだが、ここ信州富士見の高原で、今日このごろのような秋から冬の初めへかけ、そういう完璧の日が二日か三日は必ずある。そんな日には凝結する水蒸気の揺藍ともいうべき周囲の山々から辺の竈ほどの雲も生れず、間近かな八ガ岳の連峯も、長い断層崖をこちらへ向けた釜無山脈も、甲府盆地の空に新雪を光らせた富士山も、塩尻峠の上から遠くのぞいている北アルプスも、それぞれ固有の輪郭やひだをくっきりと見せて、みなぎる日光と澄みきった大気との中に悠々と憩っている。
 きのうはちょうどそういう見事な一日だった。しかも地上の眺めは見わたすかぎり深い秋色に染められて、秋の絢爛と充実とが甲斐や信濃の山々谷々をうずめつくしていた。あらゆる草のもみじした瞑想的な細道をたどることが楽しく、炎のような葉のあいだに空の碧い破片が光って、薄暗い奥の方から啄木鳥きつつきや懸巣の声の響いて来る林の中を歩くことが楽しく、また晴れやかに開けた風景のなか、誰をたずねるという目的も無しに、どの家も玉の盞の大輪の菊や露けき小菊を咲かせている向うの山裾の部落のほうへと、白い乾いた街道をぶらぶら行くことが楽しかった。
 私はいつものように雙眼鏡を胸につるし、こんな美しい午後のために灰色の軽いフラノを着て、秋の多彩な遠景や木の上の小鳥を見るために時々立ちどまりながら、行き逢う人も稀な高原の静かな道を歩いていた。
 森の我が家から十町ばかり登った所で、浅い谷に臨んだ向うの丘の高い赤松のてっぺんへゆらりと棲まった一羽の中型の鳥があった。鷹の種類には違いないがどういう鷹か確かめようと思って、私が雙眼鏡を取り上げてのぞいていると、同じ道を山手のほうから何か賑やかに話しながらすたすたと降りて来る老婆があった。その後ろには彼女の孫か嫁かと思われる若い女が赤児を背負い、一人の小さい女の児の手をひいて随っていた。たぶんここから一里ばかり上の高原最後の部落の農家の人達で、これから汽車へ乗るために停車場へ行くのか、それとも近くの親戚へでも久しぶりの「お呼ばれ」で行くのかと思われるような小ざっぱりした身なりをしていた。
 一方、私が再び雙眼鏡をとりなおして見きわめたくだんの鳥は、凛として清楚によそおったオオタカの雄で、その青みを帯びたスレイト色の背と、灰いろの斑を横にならべた銀白色の胸や腹に、秋晴れの午後の豊かな日光を燦然と浴びていた。
 嫁と曾孫 ひまごとの先頭に立って元気に坂道を降りて来た老婆は、私に近づくと「やいやい」と声をかけた。この土地で「おいおい」とか「もしもし」とか言う意味である。私は振りむいた。老婆はにこにこ笑いながら立っている。私もにやりとした。いかにも「やいやい」が似合った気さくな顔をしていたから。
「なんですか、お婆さん」
「いんね、おめさんの持っているのはほれは遠目金 とうめがねちゅうもんかね」
 なるほど、私もまた、子供の時分には望遠鏡を遠目金と教えられたものだった。
「そうですよ、お婆さん。遠目金ですよ」
 この答に老婆は快心の笑みを浮かべた。
「やっぱほうだったかね。わしゃあ、へえ、一生のうちにたった一度でいいから、ほの遠目金ちゅうもんを見てえもんだと思っていた」
 ああ、それを聞くと私は即座にこの信濃の山村に生きる老いたる女性の、その年来の美しい憧れに喜んで力を貸そうという気になった。私もまた、否、私といえどもまた、夜の天体のなかで最も美しい重星と言われているアンドロメダ座ガンマの実視連星を、その黄金の主星とサファイアの伴星とに分解し得るほどな天文鏡を、いまだかつてのぞいたことが無いのである。
「そうですか。それは丁度よかった。勿論見せてあげますとも」
 そう言って八倍の屈折望遠鏡の細い革紐を首からはずすと、私はそれを老婆の皺だらけの首に掛けてやり、二つの鏡胴を心もち折り曲げて彼女の両眼の距離に適合させ、さて度盛りを遠景に合せてしっかりと器械を握らせた。
「さあごらんなさい」
 私よりも背の低い、私よりも十歳あまりは年長らしい、しかしきわめて元気で気の若いその老婆は、私という何処かの旦那の手で首から胸へ紐をかけられ、きらきら光る四つのレンズと、堅い黒い粒革と、つやつやした黒エナメルとで仕上げられたこの重厚な器械を持たせられると、私の顔と嫁の顔とをはにかむように見ながら、
 「なんだか御しょうしいねえ」と言った。望み叶って手に取りはしたものの、なんだかきまりが悪いというのである。
「そんなことはない」と私は笑いながら打ち消した、「それよりも、どうです、見えますか」
 老婆は真剣な面持でしばらく眼鏡をその両眼にあてがっていたが、やがて低い声で「なんにも見えねえ」とつぶやいた。
 期待をもってそばに立っていた私は、改めて横から彼女の顔と眼鏡とを見た。すると何のことだ、老婆は接限レンズの表面にその眼の焦点を合せようと骨を折っているのであった。これでは何物をも見ることはできない。
 さてしかし、この七十歳はとうに越したらしい山家の老婆に、一般に眼鏡とはレンズを通して対象を見る光学器械の一種だということを、どうして理解させることができるだろうか。なるほど、「レンズを通して」と何でもなくわれわれは言う。しかし彼女にとって「通して」とはどういう意味を持つのだろうか。外国語法からの転用らしいこの言葉を、それならばまたいかにしてこの老婆に解らせ得るか。
 私は彼女のうしろへ廻って、その小さい体をかかえるように自分の両手で眼鏡を持ちそえ、接眼レンズの枠の上部を彼女のくぼんだ眼窩の上縁にあてがい、一度静かに両眼をつぶるように命じておいて、さて
「今度はそうっと眼をあけてごらんなさい。そして暫くそのままにしていてごらんなさい」と言った。
 けなげな知識欲のために辛抱づよい老婆は、きわめてすなおに私の言葉に従った。私は彼女の成功を念じる心で、うしろから雙眼鏡を持ちそえたままじっと立っていた。彼女の皺ばんだ肉体になお保たれている温かみが私に伝わり、その乾いた心臓の鼓動が堅い弓がたの背骨を通じて私の胸にこだました。赤児を背負った若い嫁は固唾を呑み、小さい女の児は心配そうにおのが曾祖母と見知らぬ私とをかたみがわりに眺めていた。そして向うの丘の赤松にあのオオタカの姿はすでに無いが、正面に横たわる釜無の山々は、爽かな美酒のような午後の日光にその秋の華麗を深めていた。
 と、この数秒間の緊張をゆるめるように
「おお見えるぞよ、見えるぞよ」と老婆は夢の中からのように言い出した。
「見えた? それはよかった。山かね。それとも村かね」と、私の言葉も安心と親しみとから少しぞんざいになった。
「村だがね……だけど一体 いってえどこだね、ありゃあ。あんな近 ちけえ所にがとう(たくさん)家があるなんて見たこともねえ」
 私は老婆の顔の高さに身を低めて、眼鏡のむかっている方向を眺めた。ここから十数町をへだてた長い丘の松林の上、釜無山脈入笠山 にぅかさやまの麓の高みに、かわゆい雛段のようなひとかたまりの集落が見える。
「あれは松目 まつめだよ、お婆さん。富士見の松目だ」
「松目かね、あれが」と老婆は驚きと感歎との声を洩らしたが、なお事実を確かめようとするかのように眼鏡に食い入った。私は自分の器械の効用のために幾らか得意を感じてにやにや笑い、嫁は若々しく微笑して祖母の横顔にうなずいた。
「なるほどほう言われりゃあ松目に違 ちげえねえ。わしはあすこに知り合 えがあるでよく知っている。でもえれえ大きく見えるぞよ。まるで勝手で働 はたれえているかかさまで見えるくれえだ」
 老婆はそんな冗談まで言って大満足の態だった。そして自分の二番目の娘のとついでいる若宮は見えないかと聞いた。しかし松目に近いその部落は、あいにく丘の蔭にかくれてここからは見えなかった。彼女は今度は孫の嫁にも見せてやってくれと頼んだ。さっぱりとパーマネントをかけた若い女は、大きな風呂敷包を祖母に持ってもらって、うやうやしく私から雙眼鏡をうけとった。そして未だどこかに女学生らしさの残っている物ごしで眼鏡を取り直すと、富士びたいの下の形のいい眉毛の上にぴたりと当てた。
「見えるけえ」と、老婆は若い嫁のたしなみの有るのに満足を感じ、雙眼鏡を構えたその颯爽とした姿勢にうっとりとさせられたような顔つきで聞いた。
「見えますとも。とってもよく見えます」女はそう言いながら叮嚀に辞儀をして眼鏡を私に返した。
 老婆は上機嫌だった。「一生のうちにたった一度でいいから見てえもんだと思っていた」遠目金を、図らずも途上で出会った未知の他人から見せてもらい、しかも学者か何からしく見えるその半白の老人が如何にも気安く親切にあしらってくれ、そのうえ若い嫁が百姓はしていても悪くはにかんだり気の利かない真似をすることなくあっぱれ時代の女性として終始立派にふるまったことに、すっかり喜ばされているように見えた。
 老婆は私にいくたびも礼を言い、嫁にも言わせ、そして上機嫌の賑やかな空気を後に残しながら小家族をしたがえて坂道を下のほうへ歩き出した。私はちょっとの間立ったまま彼らの後姿を見送っていた。するとどうだろう、物の十間も行った老婆がくるりと向きを変えて、すたすたと私の方へ歩いて来た。
「どうしました」と私は聞いた。
 老婆はにこにこ笑いながら私に近づくと、他聞を憚りでもするように声を低めて言った。
「いんね。えれえ異 なことを聞くようだが、ほの遠目金は一体 いってえいくらぐれえするもんかね」
「さあ……」
「実はわしの孫にね、あの嫁さのとうちゃんに一つ買ってやりてえと思うだが」
 私は当惑した。勿論およその値段は知っている。明るい優秀なレンズのついたこの八倍の屈折望遠鏡。たとえば率直にその値段を言うとして、この田舎の老婆をあまりに驚かせたり失望させたりするようだったら、それは私自身の本意ではなかった。むしろそんなことを聞く気をおこさずにあのまま美しく別れて欲しかった。しかしむげに「分らない」と答えるわけにもゆかないので、
「千円はしましょうね」と、恐る恐る窮余の無責任の返事を与えた。
 老婆はそれでさえびっくりした。そして半ば疑うような真面目な表情で私の顔を見つめていたが、次の瞬間にはさっぱりと諦めたように元通りの笑顔にかえって、
「ほんなに高 たけえもんじゃあ、わしらなんかにゃあとてもへえ買えっこねえ」と独り言のように言って、さて気の毒そうにしている私の顔を気の毒そうに見上げながら、
「心無しに異な風 ふうなことを聞いて悪かったねえ。どうか御免 ごめんなして」と詑びを言った。そして撫然として立っている私を慰めるように、二度三度にこにこと振り返りながら、足を早めて若い嫁のあとを追って行った。
                               (一九五〇年)

 

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 クリスマスへの道

              われらの田舎の天使らが
              天の唆歌を美わしく歌った、
              そしてわれらの山々のこだま達が
              妙なるその歌をくりかえした。
                         (フランス古謡)

 祖父は歳の暮の東京の、もっとも賑やかな人ごみの中を、さっきから群衆にもまれて歩いている。
 祖父というからには孫があるに違いない。本当にそのとおりで、一人の孫が、今年の春にうまれた女の児が、この大都会の十二月の午後の雑沓からは遥かに遠い中部地方の、さびしい山の中で待っている。
 いや、この頃ようやく足を投げ出して坐れるようになったばかりで、まだ完全に乳離れをしたわけでもなく、まだ積極的に誰かのあとを追うということも知らない幼な児のことだから、「待っている」と言うのは当らないかも知れない。しかしこの祖父の身になってみれば、たとえ理窟はどうであれ、やはり山のあなたの空遠く「かわゆい孫が待っている」と、人にも言い自分でもそう思いたいに違いない。少くともそう思えば、何かと浮かぬ旅の空でも、おのずと心が温まるのである。灰色によごれた都会の冬の午後の空の下でも、どこかで林の小鳥が鳴いているような幻聴におそわれ、つい鼻先の山の端へ荘厳な落日が燃えしずんで行くのを見るような気がして、こんな汚ない空気にも胸を張って大きな呼吸ができるのである。
「あしたは――おじいちゃんが――たくちゃんおみやを持って帰っていらっしゃるよ。そうして――森のむこうの坂の上から――美砂子みさこ! 今帰って来たようって――大きな声で御呼びになるのね」などと、若い母親か祖母が言ってきかせていることだろう。そうすると子供には、その「おじいちゃん」という一言ひとことだけが解って、とたんに持っていたおもちゃを放り出し、白樺の森に面した窓の方ではなく、いつもするとおりに裏座敷の書斎へ通じる戸口の方へ眼を見はって、着膨れた小さい両腕を小鳥の羽ばたきのようにばたばた動かしながら、そこに現われるべき優しい祖父の顔を待つだろう……
 書斎といえば、この祖父は信州の田舎に住んでいる老詩人である。彼は静かに移りかわる山国の四季の毎日の、それぞれに美しく意味深い自然のいとなみや人間の生活から、その詩の尽きせぬ霊感を汲んでいる。もしも本当の詩人というものが、世界のどこの国の場合でも、その仕事の真の価値とくらべて酬いられるところ甚だすくなく、いつも不如意に暮らしながらしかも晴朗な魂や毅然とした精神を失わずにいるものならば、彼もまたどうやらその一人だと言えるかも知れない。今度の一年ぶりの上京にしても、彼は自分の著書の印税の前からの残りをうけとりに来たのだが、どうしてもそれを払ってもらうことができなかった。多くの出版業者というものは、頼むときには立派な条件を持ち出したり瑕瑾のない契約書を取りかわしたりしながら、さて支払という段になると、何かと渋って引き延ばしの策を講ずる習性を持っているものらしい。よしんばそれもいい。争うことを好まなければ諦めて帰るとしても仕方がない。しかし二年も三年も刻苦して書いた物が、こちらから販売を委託した商品か何かのように、「どうも売行が思わしくなくて」という嘘か本当かわからない一言で、簡単に片づけられてしまったのが何としても情なかった。それに、今度こそは必ず受け取れるものと信じこんで、「あしたはたくさんおみやげを持ってお帰りになる」と子供にも言ってきかせ自分たちもそう思いこんでいるだろう妻や娘のことを考えると、さすがに暗然とせずにはいられなかった。
 そういう祖父が歳の暮の東京の或る繁華な大通りを、慌しい人波にもまれて歩いている。今はすべての予定をなげうって、灰いろの眼にきっぱりと諦めをたたえ、むしろこの大都会にひしめき争う無数の魂をあわれむ心に満たされながら。そしてあすは一番の列車で、もはやさしたる係わりも無くなったここを去り、山の自然のまんなかの我が家の炉辺とその静かな潔い生活とへ、一刻も早く帰って行こうと決心しながら。
 しかし一切を諦めきった彼の灰いろの眼から、必ずしもすべての光明が消えてしまったわけではなかった。そしてそこにただ一筋残った光、それを思えばこのあじきない雑沓の中でさえ卒然として老いたる心に燃え上がる小さい炎、――それはかしこに待つかわゆい孫娘の初のクリスマスのために、祭の夜の家のなかを飾るべき装飾を買って帰ることだった。ふところの紙入には、家を出るとき妻が入れてくれた旅費の残りがまだいくらか入っていた。それは婿が言い出し娘や妻が賛成した結果、禽舎の家鴨あひるを二羽売って作った金で、これだけは初めから自分の物だ。「東京へいらっしゃればどうせ御受けとりになるでしょうから、この残りで何なりと好きな御本を、前から欲しい欲しいと言っていらしった御本をお買いなさいまし」と、妻が渡してくれた立派な金、きたならしい掛引や偽善やお情には全く関係のない綺麗な金だ。しかしもう本のことは諦めた。初孫ういまごのために信濃の国の山里で、救世主の誕生の夜を祝うデコレーション。毎朝若い母親の腕に抱かれて幼い彼女が見に行くのを喜んだ丸々とふとった美しい家鴨、それが利己主義で冷酷な大都会への無言の抗議のように、キリスト降誕の夜をことほぐ装飾と変るのだ……
 祖父は行く。向うに見える一際高く大きな百貨店を目あてに。歳の暮の雑沓の中を人波にもまれながら。
 ところが次第に群衆に押し出されて人道のはしを歩いていると、車道の向う側から贅沢な洋装を凝らした一人の娘が、電車や自動車のあいだを駈け抜けてこちらへ走って来た。腕には半透明の紙に包んだ赤や黄の美しい切花をかかえていた。娘は真横から老詩人に衝突しかけた。衝突したらば美しい花束は無残につぶれてしまうであろう。それで祖父はうしろからの群衆に押されながらも咄嗟に身をねじって、娘のために飛び込む余地をあけてやった。すると無理をした体勢が崩れて、無骨な靴がコンクリートの鋪道をカカーと滑べった。彼は横ざまに倒れてしたたか腰を打った。すぐには起き上れなかった。当の洋装の娘は花束を高くかかえあげて、踵の高い靴を踏みながら既にさっさと人込みの中へ入ってしまった。するとうしろの群衆の中から一人の青年が押しわけて出て来て、逞しい腕をかけて起き上がるのを手伝い、落ちた帽子を無造作にかぶせてくれた。祖父は人中でぶざまに倒れた恥ずかしさに真赤になった。そして眼もかくれるほど前下がりにかぶせてくれた帽子をちゃんとかぶり直すのも忘れて、急いで外套のポケットをさぐった。何か奪られたと思ったのだろうか。いや、決して! 彼は家を出るときに、娘が「汽車の中で退屈したらこれをお上がりなさい」と言って袋に入れてくれた信州名物の吊し柿が、まだ大半残っている筈だと思ったので、それを今の親切な青年に心ばかりの礼として進呈しようと気がついたからだった。しかし彼は忘れていたのだ。あの支払を断られた出版社へ行ったとき、茶を持って応接室へ入って来た女の子が信州生れだというのを聞いて、懐かしかろうと思って其の吊し柿をやってしまったことを。それで彼が手を突込んだポケットにはもう用の無くなった市内電車の補助切符と、ぼろぼろになった古い愛読のヴィルドラックが一冊入っているきりだった。これは昔あの「商船テナシティー」の作者が、親しい言葉を書きこんで遠くフランスから送ってくれた詩集 「愛の書リーヴル・ダムール」だった。これは如何いかんとしても手放せない。それでせめて心からの礼を述べようとすると、もうあの親切な若者の姿は無かった。
 今や氷のように冷めたく張りつめた老詩人の心が端のほうから溶けはじめ、諦めの灰いろを湛えた彼の眼に柔らかにうるんだ春の光のようなものが生れた。それは今の青年がそのちょっとした路傍の親切で、大都会にもなお温かい人の心はあるものだという確信を、この老人の心によみがえらせたからである。芝居じみた大袈裟な身ぶりもせず、空虚な冷めたい理窟からでもなく、まして返礼への期待や恩着せがましい底意もなく、そもそもこんなことは人間社会の当然事のように、事も無げに行使されたあの実意、あのこころざしで、ややともすれば田舎の老人の心に築かれようとする都会への偏見や恨みの念を、みごとに砕き去ってくれたからである。
 祖父はまだ痛む腰を伸ばしながら百貨店の階段をのぼる。目ざすクリスマス用のさまざまな装飾品が、ずらりと並んだ陳列棚の硝子の中やその上の空間でぴかぴかちらちら光っている。驚くような値段のついた箱入のセットがある。自由に択り好みのできるばらのもある。どれもこれも皆欲しい。しかしこの金銀の紐の幾本、この愛らしい銀の鐘や星形の飾り、それに赤と白との衣裳を纒ったこの小指ほどのサンタークロースを、信州の山の中の埴生の宿へ持ち帰ったら、どんなに孫や娘夫婦や妻がよろこび、どんなにまじめに美しい祭の夜が出現することだろう。古いオルガンの音につれて、「われらの田舎の天使ら天国の頌歌ほめうたうたい」というあのフランスの古い歌を、祖母や母親の心づくしで美しく着飾らせた孫娘を中に一家揃って歌うのだ。そとの山野は氷るような星の夜でも、草木みな雪に重たい夜でもいい。家の中にストーヴは燃え、白樺や赤松の薪がぱちぱち爆ぜ、その盛んな熱の対流に、唐檜とうひの枝から八方に張りめぐらした金銀の紐、鐘や星、かわゆいサンタークロースなどが、みんなきらきらと揺らめくだろう。そして白パンには金いろの蜂蜜がたっぷり塗られ、大コップに新鮮な牛乳がなみなみとつがれ、そして葡萄酒が―――いや! その葡萄酒は今年は無い……
 しかしいま老人は紙入の底をほとんどはたき、買い込んだデコレーションの大きな紙箱を腕にかかえて、いざ帰らなん明日あすという日を楽しみに、喜びと感動に胸ふくらませ、夕暮の物悲しい東京の盛り場を、毅然として、新しい善意に満たされて、歳暮の人波にもまれながら歩いて行く。

                         (美砂子とその父母に。一九四九年)

 

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 笛

 四月のなかば。東京では桜や桃の花が散って、もう八重桜や山吹や気の早い躑躅が咲き初めたというのに、ここ長野県の海抜一千メートルの高原では昨今ようやく野山の雪が消えたばかりで、太陽の光こそさすがに暖かいが、そよ吹く風にはまだ一脈の冷めたさがあり、村落の杏あんずや桃の花の蕾も堅く、白樺も落葉松からまつもまだ冬枯の姿のままで、細い枝先にやっと樹液がかよい初め、南へむいた丘の斜面の白茶に褪せた枯草のあいだから、僅かに幼い緑が萌え出したというところである。
 きょう私はそういう斜面へすわり込んで、一時間ばかり笛を吹きながら、長い冬の後にふたたび帰って来たこの処女のような初々ういういしい山国の春と、太陽の暖かい光線の中へそそぎ出されて風に運ばれて行く自分の歌のしらべとを楽しんだ。
 しかし笛とは言っても西洋のフルートでもなければ、日本の横笛でもないのである。いちばん近いのはドイツのブロックフレーテで、あれよりも音が小さく、木のかわりに竹で作られ、孔が八つあって、子供にでも簡単に吹けるような縦笛である。そのくせ音色はまろく澄んで柔かく、二オクターヴの音域を持ち、半音が出、息の入れ方でかなりのヴォリュームや光を与えることのできる、まことに手軽で、その上優美でさえある一種の管楽器だ。管の内がわや孔の部分は赤い漆で塗ってある。表面はよく磨かれてこまかい真直ぐな竹の繊維が見え、落ちついた薄い褐色に仕上げてある。だからそれを今日のような春の日に若草の緑の上へ横たえると、わざとらしくない調和が日本的にうつくしい。
 私はその笛をビロードの袋から抜き出すと、おもむろに歌口を湿めして、まずルービンシュタインの「天使」のメロディーを吹き、それからウェーバーの「フライシュッツ」の序曲の一節を吹いてみた。透明な笛の音は高原をわたる四月の風のために、或る時は足もとの池の水面へ吹き撓められ、或る時は遠く風景のなかへ運ばれた。そして眼前二里のかなたには、今日もまたきらきらと残雪の輝く青い八ガ岳の連峯があった。
 私は若い頃から少しばかり歌もうたい、やさしい曲ならばオルガンも弾いているが、笛を吹くのはこの歳になって初めてである。
 六十にもなって笛を吹きはじめるなどというのは笑うべきことかも知れない。同じ年ごろの人間ならばけげんな顔をするであろうし、若い人たちならば軽蔑するか憫笑するかするであろう。しかしこれがもしも春や夏の野の草笛だったら、「歌悲し佐久の草笛」のような物だったら、人は優しくまたは寛大にこれを受けいれて、懐かしそうに行きずりの耳を傾けるかも知れない。いや、この笛は私にとっては草笛も同じことなのだ。それに私は別に誰かに聴いて貰おうと思って吹いているのでもないのである。それは私の楽しみのためであり、悦びのためであり、時には詩に渇いた心がここに新鮮な泉を見出し、時には不安な魂がこれに秘やかな祈りを託し、人知れぬ訴えを託そうとするためにほかならない。
 今年の正月だった。信州から東京へ出て一家を持っている若い友人夫妻とその妹とが、故郷の町への帰省の途中この高原の私のところへ年賀に来た。彼らのうち女二人は本職のピアニストと声楽家であり、男はフルートのアマチュアだった。その三人がめいめい一本づつこの笛を持っていて、屠蘇がすむと幾つかの曲を美しく合奏して聴かせてくれた。私たち夫婦はすっかり感心して、この新らしい年の新らしい啓示をうやうやしく受けとった。そして彼らが休暇も果てて東京へ帰ると、製造元から早速二本送らせてもらって、それ以来雪にうずもれた冬ぢゅうを、大抵は夜の食後、高原の森の一軒家での笛の稽古だった。
 そこへちょうど或る人の翻訳でジョルジュ・デュアメルの「慰めの音楽」という美しい本が出た。これがまた特に今の私たちのために書かれたかとさえ思われるような本で、その中の「音楽は地下水のように私の生涯の王国の到るところを流れている。音楽は私の仕事の到るところにあり、私はごく僅かな機会でもあれば彼女を崇め、彼女に仕え、彼女に対して私の感じる感謝の念を何らかの方法で現わすことを怠らなかった。私の書物の一つをちょっとあけて見ても、殆どいつでも音楽についての極めていきいきした、美しい、輝かしい言葉や、表現や、題目が見出される」という一節などは、いくらか私自身の場合にも当て嵌まるような気がするのであった。
 私はまだすこし荒く冷めたい春風の中、池のふち、日の当った芝草の上で、今度はヘンデルの田園風なラルゲットを吹いた。それからベートーヴェンの聯作歌曲「遥かなる愛する者へ」の中の、「私は青い霞の国に見入りながら丘の上に坐っている」と、「五月は立ちかえり草原は花咲く」と、「さらば愛する者よ、おんみがために我が歌いし歌を受けたまえ」の三つを吹いた。二番目の「五月は立ちかえり」の踊りきらめくようなヴィヴァーチェがいちばんむずかしかった。私のそばへは何時の間にか小犬のディオが来てうずくまり、彼の足の先の枯草の中には、碧い空の破片をちりばめたような筆竜胆ふでりんどうの花が、その可憐な杯に太陽の光を満たしていた。そして私は昨夜自分もまた訳してみたデュアメルの別の本「苦惨の時代の記録」の中の一章「慰めの音楽への恭敬」の中で、「この余りにもしばしば混乱した、狭隘な、且つ不可解な人生において、他の何物にもまして一層よくわれわれの思いに、われわれの悩みに、われわれの生活に、力と、充実と、調和とをもって協力する」と言われているこの音楽という芸術の徳を、高原の早春の空の下でまた改めてつくづくと考えるのであった。

  追録「慰めの音楽への恭敬」(デュアメル)

 やがて後年、私の家族の者たちと私自身とが、一九四〇年の暗黒な冬を思い出すとしたならば、忽ち音楽が私たちの魂の奥底から立ち上がることだろう。それはジャン・セバスチャン・バッハの大聖母頌歌を組み立てている熱烈で優しく、謙虚で毅然とし、豪奢で親しみに満ちたあれらの歌であるだろう。
 私たちは寒さと悲みとに震えていた。千百の陰鬱な思いが私たちの空中を旋転していた。堪えがたい重荷が私たちを地面へむけて押し曲げていた。希望の言葉も、私たちの眼には一片の不確かな顫える光をしか目覚まさせなかった。ちょうどその時であるが、われわれのうちの大きな子供たちがその友人らと一緒に、彼らのあいだで、彼ら自身のために、あの聖母頌歌を勉強しようということを思いついた。みんなの者が熱意をもってそれに参加した。どの楽器もできない者は合唱団に加わった。そしてわれわれみんなは、忽ちのうちに、一種言葉では言い現わせないような心の軽やかさを経験したのだった。恐るべき冬は征服されず、われわれを悩ますあらゆる懸念は正当な答を与えられず、苦痛はもちろん失せはしなかったが、しかし一つの大きな焔がわれわれの生活を照らしたのであった。それは幾月を経て今もなお燃えつづけている。それはこの音楽の美しい使信をうけとったわれわれすべての者のために、往手の道を照らすことをやめないだろう。
 このように音楽がその奇蹟を現わし、私に解放をもたらしたのはこれが初めてではなかった。自分の生涯を通じて、すでに西方へ傾いた生涯――今や瞑想したり判断したりすることのできる過去の全生涯を通じて、自分が音楽から何を得たかまたそこから心の隠れがや慰めを得なかったかどうかを、私は時々おのれに問うてみるのである。
 群衆の中を歩いていて、自分と同類の男や女を眺めながら、よく私はこんな自問自答を試みることがある。「それならばこの人、急用と心配事とに食いつくされているように見えるこの人は、歌という物の在ることを知らないのだろうか。秩序と平静とを取りもどすために、彼の心の奥底で極めて低く口ずさむだけで充分な、あんなにも純粋な、あんなにも平和な歌の在ることを。またあの人、千百の卑屈な堕落した考えに悩まされているらしいあの人に、私は何か解放的な音楽を、たとえばニ短調の協奏曲で二挺のヴァイオリンが高い所で語り合うあの交錯の声を聴かせてやりたいものだ。そしてあのもう一人の人、大きな悩みを秘めながら、もはや涙の弛緩を知らないあの人が、彼のために、彼の平癒のために、彼の救済のために、永久にわれわれの友であり師であるように運命づけられた人々の作曲した物をもしも突然聴くことができたとしたら、おそらくは魂の解放を感じるのではないだろうか」と。
 なぜかと言えば、われわれがこれほどの敬虔な心と感謝の念とをもって向って行くこの音楽なるものは、人間のあらゆる作品の中にあって、もっとも確実に、聖なる御業の一つを想わせるからである。
 慈悲にあこがれ、魂の高揚と開花とをねがい、一すじの地上の道を求める諸君よ。音楽の恩寵をうけるに値するためには長くて徒労の多い初心の時代を経なくてはならず、たとえば非常に博識な器楽演奏家にならなくてはならないなどと考えたもうな。名人の持っているような、ひどく楽しい驚くべき天賦が必要だなどと考えたもうな。よしんば諸君がそれに耳を傾けることしか知らず、あけた耳へそれを迎え入れることしかできないとしても、音楽は決してそういう諸君を拒みはしないだろう。もちろん、音楽の神秘の中でのもっとも美しい神秘が、われわれが何らかの形で作品の演奏に参与するときにしばしば経験するあの感情であることは事実である。しかもその不可思議な感情は、ひとり作品を蘇らせてそれを沈黙の底から再生させるために働く忠実な演奏者を訪れるのみではなく、信頼の心に満たされ、まじめで、聖体拝受の用意のできている、聴衆のうちでの最も謙虚な者をもまた軽んじはしないのである。
 それならば解放と慰めとの音楽に光栄あれ! われわれが自分たちの思想を思索し、自分たちの苦悩を悩み、この余りにしばしば混乱して狭隘で不可解な人生を、一層の力と、一層の豊かさと、一層の調和とをもって生きようとするときに、他の何物よりもよくわれわれに助力するこの敬慕すべき芸術に光栄あれ!
 それにまたわれわれは幸福の中にあっても余りに弱々しく、成功の絶頂においてさえもなお貧しくみじめであるがゆえに、おしなべて、われわれが自分たちの喜びを一層よく喜べるように助力するあの聖なる音楽に光栄あらんことを!

                                (一九五二年)

 

 

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 或る回想

 隅田川や銀座に近い東京下町したまちの商家に生まれて、幼い時から純下町式に育てられた私は、小学校や中学校時代の長い暑中休暇にも、同じ明治三十年代の東京山ノ手育ちの子供たちのように、先生に連れられて遠い地方へ有益な修学旅行に出かけたとか、気の合った友達二三人と思い出多い旅をしたとかいう、今の私から他人が想像するかも知れないような、そんな種類の知的で身のある楽しい記憶は、皆無と言ってもいいくらい持っていない。
 いわば下町の極めて因習的な中流商家の一人息子で、夏が来て御盆がすんで学校が休みになると、毎年同じ避暑地の同じ旅館へ行って、去年と同じ二間ふたまか三間みまの座敷へおちつき、祖母や母や叔母の監督下に、二ヵ月足らずの暑中休暇を毎年同じいとこたちと同じようなことをして暮らすのだった。
 行先はたいてい大磯から箱根。大磯では大内館というのが古くから馴染であり、箱根では宮ノ下の奈良屋か底倉の蔦屋へ行くことが多かった。
 砂地の庭に凌霄花のうぜんかつらや立葵たちあおいの咲く暑い輝かしい夏のさかりを、昼間は海水浴や板子一枚の壮快な波乗りと、夜は美しく果敢はかない無常の空の花のように咲いては消える打上げ花火と、派手に賑やかに湘南の海岸で暮らしながら、さてそろそろ海が荒れて波の高い日が続くようになると、纏めた荷物を先へ送り出して、その後から温泉場へ移動するというのが私たちの避暑生活の慣例だった。
 大磯から国府津まで汽車。それから先は鉄道馬車だったか電車だったか忘れたが、
  夏は来ぬ相模の海の南風に
  わが瞳燃ゆわが心燃ゆ
という吉井勇の歌のその相模の海を、これが別れと振りかえる酒匂川や小田原のあたりまで来ると、漸くものの哀れを知りそめる年頃に達した私は、大人や小さいいとこたちの知らない一抹の感傷に誘いこまれるのであった。
 湯本ではきまって福住ヘ一泊した。翌日祖母や母たちは底倉まで駕籠を舁かせ、私たち子供は一頭の馬へ代りばんこに乗った。蟬時雨の早川の谷に沿って一里あまりの山道を大平台おおひらだいまで来ると、もう宮ノ下も底倉も目と鼻の先だった。ぼうぼうと夏草に霞んだ外輪山の明星ガ岳が晴れやかな空の下に谷を圧して横たわっていた。滞在中ときどき「洋食」を食べにゆく富士屋ホテルを左に見、御用邸のわきを通って八千代橋を渡るとすぐに蔦屋だった。玄関の式台では、主人の母堂で経営の実権者である品のいいお婆さんが慇懃いんぎんに出迎えた。私たちを待つ座敷の床の間に切りたての百合の花がひっそりと白く涼しく、湘南の海水浴場から来た心には何かしら改まったものが感じられた。
 海の日に焼け塩に焼けていくたびも皮がむけ、黒と赤銅色のぶちになり、まるで爬虫類か何かのような醜い裸体で広々と明るい浴室へ行くと、温泉の逗留客という者の色の白さに引きくらべて、自分たち海からの子供が高級な上品な人種の中への野蛮な闖入者のように思えるのだった。大磯にいた時よりもいい着物が着せられ、行儀をよく坊ちゃんらしくすることが要求された。贔屓の若い歌舞伎役者や子役などが顔出しに来ることがあり、柳橋か芳町辺の老妓が呼ばれて祖母や母たちと歌沢だか一中節だかを小声でやっている時があり、東京から落語家はなしかの円右えんうが来たとか丸一の太神楽だいかぐらが来たとか言って、よその座敷へ招待されることもあった。だからいとこたちを語らって高山園の裏山へよじ登ったり、蜥蜴とかげや百足をつかまえて飼ったり、蛇骨川じゃこつがわへ「探検」に行って蛇骨と呼ばれる温泉沈澱物の珪華けいかを拾ったり貝の化石を採集したりすることは、特に子供たちの中の最年長者で早期の異端者でもあった私に対して、二年目の夏からは前もって厳重に禁じられた。
 「お前は一番年上なんだから小さい者に悪いことをして見せてはなりませんよ」!
 蔦屋の一階の洗面所には、植物学者でもある主人沢田氏の採集にかかる箱根火山の珍奇な植物の腊葉標本が額に入れて並べてあった。その頃すでに博物学の好きだった少年の私は、どうかしてこういう植物をその生地で見たり採集したりしたいものだと思った。しかし単独の行動が許されず、大人の中にも一人としてそんなことに興味を持つ者がいなかったから、せっかくの山の自然の中で暑中休暇を暮らしながら、遂になんら得る所の無かったのは残念である。仙石原や神山に花咲く植物を標本にして、名箋に名を書き科名を書き、ラテン語の学名を書く沢田氏のような学者を父親に持っている、その蔦屋の長男の「武ちゃん」が私にはほんとうに羨ましかった。現代フランスの大画家モーリス・ヴラマンクは、若い頃初めてヴァン・ゴッホの作品展覧会を見たとき、泣き出さないばかりに感激して、自分の父親よりもずっとゴッホの方が好きになったと言っているが、貨殖の道だけの父に対して私もこの画家と似たような気持を経験した。
 中学二年だかの夏休みの時だった。或る日蔦屋の私のところへ浪江元吉という博物担任の先生からの手紙が届いた。その頃私がこの世でいちばん好きな人だったが、その浪江先生からの九州南西諸島の動物や植物のたよりだった。すっかり感奮した私はその手紙を居合わす祖母や母たちに見せて廻った。しかしただ「良かったね」と言ってくれるだけで、それ以上真実のこもった共鳴は誰からも与えられなかった。ちょうど「おもちゃ」という若い役者が小湧谷の三河屋から挨拶に来ていた。まだ世の中も人の好みのいろいろも知らない私は、その「おもちゃ」をつかまえて、自分の先生のどんなに偉い学者であるかを熱心に話して聞かせた。すると女のような手つきで団扇を弄びながら相槌を打って聞いていたこの美貌の青年歌舞伎俳優が、やがて女たちの方をかえり見て「おほほ」と笑った。私は恥ずかしさに真赤になり、泣き出しそうになった。そしてそれ以来、後年名優の一人となったこの若者を私はきらい、一般に自分たちの家庭というものに対して漠然とした懐疑を持つようになった。
 高が中学の老教師だとでも見くびったのだろうか。しかし今四十年後の書斎で動物学の書物を繰れば、蝶に、蛙に、啄木鳥きつつきに、蝙蝠に、「ナミエ」を冠した名はいくつも出て来る。その頃すでにこんな立派な仕事をしていた学者が私の好きな先生であり、その先生が当時十四か十五の小さい生徒に、ケンタウルスの巨大な星が夜毎の波間に陰顕する遠い遠い奄美大島や琉球から、画まで書いた愛の手紙を下さったのである。先生への私の子供らしい傾到は、今にして思えば、まさに本能的に正しかったと言えるであろう。
 蔦屋の長男の武ちゃんは後年の経済学士沢田武太郎君であり、父君の後をついで旅館の主人になると同時にアマチュアの植物学者としても知られるようになったが、その頃はまだ六つから九つぐらいの極めて無邪気な、色が白くて頬の紅い、味噌ッ歯の、目のくりくりした可愛い子だった。私たちの遊び仲間のうちでは一番年下で、肩揚げや腰揚げを大きく取った久留米絣がすりに紫メリンスの兵児帯をふっさりと結んで、よく洟はなを垂らしていた。「武ちゃん、また蠟燭が垂れてるよ」と言って、厭がるのをつかまえてその洟をチンとかませてやると、このお婆さん子は猫の子のように柔かく、犬の子のような匂がした。
 幾夏を通じての宮ノ下や底倉滞在中は、もちろん箱根の温泉という温泉へはすべて連れて行かれた。今のように自動車も登山電車もケーブルも無い頃だったから、いわゆる七湯めぐりや名所見物は駕籠か馬か徒歩だった。蘆の湖は元箱根から湖尻へと和船で渡った。半島の緑に包まれた離宮が美しく、湖上の富士が大きく素晴らしかった。
 姥子の湯に関しては年を経た蛇でも棲んでいそうな気味の悪い岩窟だったという記憶だけが残っている。
 木賀や宮城野はいつでも暗く寂びれているように思われたが、小湧谷と強羅とは土地が高燥で明るく開けているのが気に入った。しかし大磯の海岸から始終見ていた二子山のトロイデを、初秋の風に木の葉の白く裏返る蘆の湯の宿から間近かに仰いだ時には、子供心にも淡い旅愁のようなものに襲われた。
 そして今これを書いている私の眼の前に一枚の写真がある。家財の大半をうしなったあの戦災からも、幸いに救い出すことの出来た私にとって貴い記念品だ。大湧谷の地獄沢、濛々と渦まく水蒸気や硫気の雲を背景にして、たぶん硫黄と石膏の堆積かと思われる真白な崖の上の一隅に、頭から真昼の日を浴びて二人の男女が立っている。今はみちのくの岩手の山の山奥にいる詩人高村光太郎さんとその亡くなった妻君智恵子さんだ。
 写真の隅に一九二七年とあるから昭和二年、およそ二十三年の昔になる。高村さんは縞の単衣ひとえに鳥打をかぶり、例によってふところを大きく膨らませている。哀歌「智恵子抄」の主人公は、袂の短い絣の上布に博多帯、白い運動帽をかぶって片手に蝙蝠の日傘を突き、山上の日光は射るようにまぶしいのか、あのきれいな眼を半眼にあけている。
 ロダンの「ミネルヴァ」とマイヨールの「地中海」とが、転変二十三年の空間と時間をこえて、この限りもなく美しい夫妻の写真の女人像からこもごも立ちくゆって来るようだ。
 思い出は遠く、箱根もまた遠い。いま信州富士見の高原に風や雲や花や夏草と生きながら、過去をおもえば過去は再びあがない難く、あすという未来はぼうぼうとして、ためらいもなく流れる「時」の波が軽々と私のすべてを運んで行く。
                              (一九五〇年)

 

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 祖父の日

   1

 この七月で満三歳と三ヵ月になる孫の美砂みさ子が、今年もまた高原の夏を暮らしにやって来た。娘夫婦の一人っ子で、当時彼らが疎開していたここ信州の富士見で生れて、今では東京で育っている。
 私にとって初孫ういまごであるこの児が生れた日、方々から祝辞を述べられたり祝電を貰ったりしたが、今でも感銘して人にもよく話すのは、或る非常に若い友人からの「ゴトウチヤクヲシュクス」という電報だった。どんな遥かな未知の楽園からの幼い一人旅かは知らないが、それも果ててこの地上へ卒然として立った。到着とはなんと美しい意味深い言葉であったろう。私はこの言葉がこんなにも適切に、こんなにもイメイジに満ちたものとして使われた例をほとんど知らない。その若い友人は今では一廉の詩人である。記念のために名を明らかにすることをゆるして貰えれば、即ち伊藤海彦君である。彼の詩には常に若い日のもっとも純粋な哀歓が雲のように流れている。
 チッキに託した大行李とスーツケイスとに一杯のおもちゃや着がえ。小さい背中へ背負った小さいルックサックに、人形や洗面道具やシッカロールの罎を詰めこんで、肩から斜めに赤い水筒、手には色々なボンボンを入れた空いろの籠。若い母親がしてくれた幼い旅支度もかいがいしく、美砂子は東京まで迎えに行った私の妻と高原の駅の涼しいプラットフォームに今ぞ降り立つ。
 「みちゃこォ、よく来たねェ、待っていたよォ」
 この二三日来自炊の釜をたきつけたり食後の洗い物をしたりするとき、幾たびか言ってみては独りで苦笑していたこの言葉を、私はなかば歌うように叫びながら駈け出して、去年よりも一層子供子供して来た我が愛の「穴熊」を柔かに抱きよせる。痛がられないように今日は念入りに剃った顔を丸い薔薇いろの頬へ押しつけて、ついでに憧れていた匂を嗅ぐ。細い首筋から上がって来るこの孫娘の体臭は祖父を酔わせる。
「ジェジェ、ここ富士見?」と、あたりを見廻しながら私の腕の中で孫は訊く。
「そうさ、富士見さ」と私は安心させるように、そして彼女のために世界中が富士見になってしまったように、片手で広い地平線の輪をえがく。
「みんな富士見だよ。去年ジェジェと御手々つないで散歩したり、お百姓家で牛モウおっぱいを飲んだりした富士見だよ」
 子供は恐る恐る眼をさまよわせて、停車場の構内や、もう忘れてしまった八ガ岳や釜無の山々をぼんやりと見る。
「ジェジェ、富士見に牛まだいる?」
「いるともさ。牛もいれば山羊もいるし、馬もいれば緬羊もいるし、蝶々だって、鳥だって、花だって、茸きのこだって、みんなお前を待ってるよ。さあ、それじゃ早くジェジェ・バッパーのおうちへ行こう!」
 バッパーと呼ばれる私の妻は荷物を両手に、六時間近くを揺られて来た旅疲れの顔に涙と微笑とを一緒に浮かべて、この祖父と孫との再会の光景をつくづくと眺めている。

 子供は高原の森の中にある祖父母の家におちつくと、最初の一晩だけ「おうちへ帰りたい」と言ってべそをかいたほかは、もうわれわれの胸を痛ませることもなく、環境にも空気にも人にもたちまち馴れて、鼻風邪一つ引かず、腹もこわさず、家畜や花や昆虫やきれいな小川の水を相手に、新らしい遊びの楽しみを見出してゆく。
「うちの美砂子もせめて夏の間だけはおじいちゃんおばあちゃんの所へお預けして、山の自然や生物や空や雲に親しませなくては。「ちょうど小さいハイヂのようにね」と、東京にいる娘の栄子は言っていた。
 そのとおりだ、我が子よ。お前だって小さい時は武蔵野で、上高井戸の畠の中の一軒家で、われわれ両親が精出して築いた愛と牧歌との生活を呼吸したのだ。いま大きくなって母親となって、それほど訳のわかったことを口にするお前なら、「いつまでも信州なんかにいないで早く東京へ帰っていらっしゃい。さもないとだんだん世間から忘れられてしまうわよ」なんぞとは、もう決して言わないがいい。
 それにしても彼女は、「ハイヂのように」と言った。そうだ。この富士見の地がもっと男らしくアルプス的な、たとえばスイスのヴァリス地方かオーバーラントの、一方は氷河に削られたすさまじい岩壁、また一方は霧に沈んだ樅の峡谷、あたりには平和な放牧の台地がひろがって、ところどころに大きな漂石と古い山小屋シャレエ、そしてその間にはクロッカスやサクシフラガや低い石南しゃくなげの見事な群落がたむろしているような、そんな高地の寂しく美しい片隅でないのが残念だ。
 そのヴァリスを私はあのリルケにはいささか勿体ないと信じる者だが、なんとセガンティーニにオーバー・エンガーディンとその山々とがふさわしかったかと思うのだ。

 或る昼すぎ、私は座敷で植物図鑑をしらべ、妻は金魚の模様を染めた子供の浴衣に箆へらをつけている。と、何処か近くで泣きじゃくりながら何か言っている美砂子の声が聞こえる。妻と私とは眼を見合せてそっと縁先から顔を出す。見れば戸袋のそばの鶏小屋の前へしゃがんだ小さい孫が、これも今年で満三歳になる老鶏のプリマスロックに涙をこぼしながら言っている。
「ね。そういうのはお馬鹿ちゃんよ。みちゃこが御飯を上げたのに、食べたくないからって突つくのは悪いことよ。お馬鹿ちゃんや意地悪は恥ずかしいのよ。ね。もうしちゃ駄目よ。あなたお利口でしょ。お利口の子はもう決してそんなことしないのですよ」
 そう言いながら涙をポロポロこぼしている。よく見ると小さい指先から血が滴っている。しかし黒白だんだら大兵の婆さん鳥は、この人間の子の声涙ともにくだる切々たる訓戒をどこ吹く風と、おのれの傷つけた恩人から貰った煎餅のかけらを、さして気もなく突つき散らかしている。
 美砂子は指に赤チンを塗られ、真白な繃帯をされて、さて気をかえるために私に連れられて裏手の広々とした丘へ行く。
 すばらしい眺めだ。都会で働いている若い人たちが、ビルディングの窓から、あるいは高架電車のプラットホームから、青空の果てにあこがれて胸を痛くするような富士見高原の夏景色だ。信濃の山も甲斐の山も涼しく青く晴れわたって、白樺の新緑がそよぎ郭公の歌が流れている。
 私は孫の手をひいて、自分でハイランドと名をつけた一番高い丘へ登る。日は熱く快く、南西の風が二人だけの広がりをそよそよと吹く。そしてあたりは一面に累々と熟した木苺きいちごの藪だ。その金紅色の大きな粒がさわればホロホロと掌にこぼれ、啜れば甘い淡雪のように溶ける。私と孫とはすわりこんで食べる。ただ種をほき出すことを忘れてはいけない。さもないとこのあいだのように便器ポチを調べたバッパーに発見されて、「ジェジェ! また美砂子に木苺を食べさせましたね」と、この秘密の楽しみを叱られるから……                 
 そして見よ、いま美砂子は私の膝の間に、私に凭りかかってその「お昼寝」を睡っている。可憐な繃帯の指を私の手に載せたまま、彼女のいわゆる「おひねる」を睡っている。
                              (一九五一年)

   2

 かっては私に抱かれて富士見高原の夏草の中で「お昼寝」をした孫娘も、今では東京で人並に大きくなって、校門を入ると暗い樹下の岩組のなかに、小さい瀬戸物のマリア様がぬれたように立っている小学校へ通っている。
 その美砂子がこのごろ学校の理科でカビのことを習って来た。七歳の理科とカビの生態! 私なんぞは中学へ行くまでこんな“のうしきんるい”(嚢子菌類)のことなど教わりもしなかった。まだほとんど態を成さない大小不そろいのひらがなで根気よく書かれ、鉛筆やクレヨンで怪しげに写生された幼い彼女のノートを見て、私の中の理科の守護聖者の目がうるむ。この一年生のけなげな向学心のためにならば、どんな助太刀も惜しむまいと私は思う。
 孫は私の指導でペトリ皿へうで卵の黄味を入れ、広口壜へ池の水を満たして、その中ヘスルメの肉を糸でつった。クモノスカビやワタカビの培養である。それが今ではぼうぼうと菌糸を煙らせ、“ほうしのう”(胞子嚢)を成熟させて、学校の先生を満足させ、微生物の大家中村浩さんや印東博士らをほほえませるほどの見ものになっている。さてこれからは彼女あこがれの顕微鏡である……
 もうすぐ暑中休暇がやって来る。注目や観察に価する豊かな自然は庭先からひろがっている。どうか彼女にとってもこの夏が、その幸ある世界認識の第一歩となるように! そしてなお願わくば、昼間の遊びや勉強にくたびれたら、時折は私の腕によりかかって、あの夏草の高原でのように可愛く眠ってくれることを!
                              (一九五五年)

   3

 私にも私なりに本がふえて、書斎に造りつけの書棚が、もうこれ以上どうにもならないくらい一杯になった。よく無理をして高価な本を買いこんだ時などは、すでに先の知れたこんな年になりながら、生きている間の自分だけに意味のある、自分のためだけに一つの調和を形造っている、しかもやがては崩壊し四散するに違いないこの個人的な蔵書の星雲系に、なお幾らかの附け足しをしたくなるこの衝動を、そのまま認めていいかどうかに思いわずらうことがたびたびある。
 たった一つの対象を重大視し主観化して、それを理想の星とも生命の泉とも信ずることの篤かった少年の日や青春の時代を思うと、無数の蹉跌や失敗や被害に養われた寛容と予見と、依存への断念の上に――否、不信の上にさえ――立って、一切を客観的なものと見るようになったこの老年を寂しく思うこともある。この世を一つの風景と見、それぞれの事物を一つ一つの形象と見ることは、すべての物を歌わせる「夕映えアーベントロート」のように美しくはあるが、またその光の終焉の近いことを思わせるのである。
 孫娘の美砂子が父親から貰った戦前の古いSPのレコードを大事そうに持って来て、このショパンを掛けて下さいと言う。私の電蓄から流れ出るそのブライロウスキーの演奏はたえまのない雑音ですさまじく搔き乱されるが、九歳の女の児は両手を膝に、敬虔にうつむいて、雑音の嵐の中から懸命に幻想即興曲の純粋な調べの糸をよりわけている。
 私には自分がまだ悟りに徹底しないことが嬉しい。この可愛い孫娘にももうすぐクリスマスが来る。ああ、その時こそは彼女のために……
                              (一九五七年)

 

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 夏と冬の素描 

 胡桃の木の下で

       Das Mägdlein horchet,
       es rauscht im Baum;
       Sehnend, wähnend sinkt es
       lächelnd in Schlaf und Traum.
 

 日光は暑いが風は涼しい。森を出はずれた池のそばの、一本の青い大きな胡桃くるみの木の下が、きょうの昼すぎの私の席だ。
 この高原の小さな池には緑の針のような藺草いぐさが生え、白い沢瀉おもだかが水に映って咲いている。真赤なとんぼや瑠璃いろに光るやんまが水の上を往ったり来たりして、ときどき彼らの硝子のような薄い透きとおった翅をがさがさと触れ合わす。あたりには野生の薄荷はっかや伊吹麝香草いぶきじゃこうそうの健康な匂が日光に揮発して漂っている。むこうの暗い森を満たしている蟬の合唱、遠くで晴れやかな煙を上げている山の麓の麦ばたけ。この盛んな夏の高原の午後を胡桃の木蔭で私の読むのは、羊歯しだに隠れた銀の泉や、寄宿学校の少女たちや、村の広場や重荷を負った驢馬や、狩のことなどを書いたフランシス・ジャムの詩集だ。私はまた小さな竹の笛も持って来た。それで今モーツァルトのやさしい一曲を吹いたところだ。
 むこうから人が一人、小学校の上級生か中学の一年生ぐらいに見える少年が来る。たぶんこの高原へ避暑に来た何処かの都会の子供だろう。胸の広くあいた真白な半袖のシャツに、膝までの空いろの半ズボン。緑に塗った三角のブリキ函を革帯につけ、純白な薄絹の捕虫網を持っている。
 少年は池のふちの私のそばへつかつかと遣って来たが、その私には目礼もせず目さえくれず、汗に濡れた顔を上げて、私の頭の上の胡桃の木の一枝一枝、青い翼のように垂れたその葉の一枚一枚を、鋼鉄をも灼きただらかすような熱した鋭い両眼で物色しはじめた。彼は胡桃の木から生れる蝶を、彼にとっては珍貴な蝶の尾長蜆おながしじみをさがしているのだ。この蝶は東京やその周辺では見当らない。私もこの信州へ住むようになってから初めて知ったのだが、それ以来幾頭かをとらえて、今でも我がゼフィルスの標本箱の一隅へ並べて持っている。そして彼らの生活史も知っている。その尾長蜆だ。私は自分もまた蝶のアマチュアとして、無言の声援の眼を上げて、無数の緑の葉の上に垂直に翅を立ててとまっているべきその小さい蝶を物色した。
 やがて少年は一匹見つけた。彼は長い柄を構えて純白な袋をサッと振った。南無三、蝶は咄嗟に身をかわすとついと逃げた。そして大きな木の上を一廻りしながら、また翅をぴんと立てて一枚の葉の上に静止した。この薄色の斑紋をならべた美しい翅の裏、この山地高原のゼフィルスをこそ捜し求めて、少年は日盛りの野道をこんな遠くまでやって来たのだ。彼は唇を噛み、息をのみ、両眼をいよいよ熱くして、今度こそはと一層すばやく網をふるった。しかし今皮もまた狂気のように飛び立った尾長蜆は、もう再びとまろうとはせず、真青にきらめく空間をくるくる舞って、ついに高く遠く夏空の奥へと消えて行った。
 少年は暫くじっとその行方を見守っていたが、だまって足早やに歩み去った。そばにすわって見ている私には眼もくれずに。たぶん「僕にはまだ次のチャンスがある。まだ幾十たびの夏があり、光りきらめく未来がある。だが本と笛とを持って木蔭にすわっているこの大人おとな、この見も知らぬ老人にはそれが無い」と、そんなことを思いながら、おのれの失敗の目撃者には一瞥も与えずに、冷やかに、昂然と、ほとんど一人の大人おとなのように去って行った。
 私は丘の夏草のあいだを遠ざかって行くその少年のうしろ姿を微笑を浮べて見送った。そして未だすっかりは健康と気力とを失わない老年の、強い晴れやかな心で思うのだった、自分にも、この私にも、あの少年のように、またこのジャムのように、輝く夏の路ばたで憧れの蝶や幼い恋に逃げられて、ただ失望と歎きとのむなしく青い空間だけを、白絹の心の底に残した昔があったのだと。
 私はゆっくりと笛を取り上げて、シューマンの「胡桃の木ヌツスバウム」を吹きはじめた。
                                (一九五二年)

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 焚 火

 私はきのう東京から帰って来た。そしてきょうの今、丘の白樺の林に近く私の作った小さい焚火の残りを踏み消しながら、十一月末の薄曇りの午後を向うの山の端へ沈んでゆく夕日の光や、遠く低く一線になって晴れている東の空の海のような青い色を見ているところだ。
 東京には十日あまりを滞在した。半年ぶりの上京であり、ほとんど用事を持たない、主として遊びが目的の滞在だった。それで待ち兼ねていた娘夫婦や小さい孫には抱き着かれんばかりに喜ばれ、旧市内や郊外に住んでいる若い友人たちからは恙ない再会を祝う楽しい静かなパーティーや、豪奢な華麗な一夕を設けられた。私は音楽会の片隅で晩秋の夜のピアノ・コンチェルトを聴き、公園の桜落葉を踏んで美術館をおとずれ、自分の生れた町に近い銀座で新着の外国映画を覗き、新聞社街や丸ノ内界隈の昼過ぎの雑沓を見おろす高い窓際で純粋な旨いコーヒーを飲んだ。そしてその間には宿にしている娘夫婦の家で数百羽の鶏の餌作りを手伝ったり、黒い柔かい花壇の土ヘチューリップとグラディオラスの球根を植えこんだり、孫娘の手をひいて山茶花や八ッ手の咲く静かな道を散歩したり、小千鳥や鶺鴒のいる河原へおりて碧い多摩川の水に小石を投げたり、また彼女の相手になって、折紙の金の蟬や青い鳥や緑の蛙を作ってやったりした。そして遂に東京滞在の日数も満ちて、あすはいよいよ信州の高原へ帰るという日、私は日本橋・新宿と外国の書物を扱っている書店を歩きまわって、ヘルマン・ヘッセの初期の長篇や最近の散文集や、ヴラマンクの大きな画集や、ジャン・ジオノの尨大な近作の幾冊かを、自分の仕事への祝福や刺戟のつもりで買いこみ、早くも銀の星や柊の緑の葉を印刷した紙で包ませ、赤と白との蠟引の紐でゆわえさせた。
 そして再びこの信濃の高原へ帰って来て、西風に染められた初冬の山野を見わたす丘の上、その片隅の黄いろく落葉おちばした白樺の林にすわって、幾年手馴れた秋の終り冬の初めの、赤い小さい焚火の焰にもう一度むかっている。
 十日間の思い出をなつかしむ心に燃えさしの灰が崩れ、あのさまざまな人の言葉や物の響の記憶にまじって、折々の小鳥の声と梢を鳴らす風の音だ。私はきのうの過去ときょうのこの現在との間に時空の一線を劃そうとは思わない。私はこの昼間の焚火の透明な赤い焰や青い煙や、葉をふるっていよいよ明るくなった丘の林や、薄曇りの空の下に遠く近く新雪の山々を眺めるこの高原の風景に、あの東京のいとしい俤たちをさながらに混じりこませ、広々と枯れた初冬の自然の静寂の中に、あの大都会の人間悲喜劇のこだまを遠く柔かく響かせたい。私は利己や保身の心から、きのうの世界ときょうの世界とをさっぱりと残酷に切り放そうとは思わない。私は自分のうちでいわば腹違いの兄弟である彼と此とを共に抱く。それは私の悩ましい愛であり、いまだに絆きずなを断ちきれぬ故郷に寄せる愛ゆえの、ほのぼのたる歎きである。
 私は丘の上の我が小さい焚火をかばい育てるように時々枯枝を添えながら、若いヘッセが美しいドイツ語で書いたあの「ペーター・カーメンチント」の中の好きな幾頁かを――たとえば主人公のペーターが、その初恋の娘への贈り物にしようとして高山の嶮崖でアルペン・ローゼの一枝を切るところとか、イタリアのアッシジで聖フランシスの遺跡をたずねたり、その町で庶民との交際を楽しんだりするところを――声に出してゆっくりと読んだ。それからポケットの胡桃くるみを取り出して火の下へつっこみ、それが熱い灰にまみれてはじけるとその大きな中みを食った。するとおりから下の小径を通りかかった学校帰りの子供が三人、顔見知りの私をみとめて上って来た。三人とも上のほうの開拓部落の子供たちで、綿入れの筒袖に半纏を着、裁着たっつけを穿き、両耳を垂らしたスキー帽をかぶっていた。彼らは火のそばへ招かれるとそこへ大人おとなのようにあぐらをかき、私から東京のデセールを貰い、冬の小鳥や雲の話を聴き、遠くに見える山や峠の名を一つ一つ教わると、今度は自分たちの勉強の話をしたが、やがてすっかり満足して丘をおりて帰って行った。
 私はきのう東京の停車場で、見送りに来てくれた或る若い哲学者の友人から贈られた臙脂えんじいろの革表紙の手帳に、この初冬の丘の林でのさまざまな目撃や感想を書きこむと、あたりに散らばった小枝や屑を火に投げ入れ、やがて立ち上がって焚火の燠おきを踏み消した。そしてこの曇天の午後を遠く東のはてに一筋晴れた青空があり、十一月末の弱々しい光に染まった私の靴に、焚火のなごりの軽い灰が淡々あわあわと白くついているのを懐かしんだ。
                                 (一九五一年)

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 氷の下の歌 

 まっさおに晴れた二月の午後、私は八ガ岳の連峯とその裾野の広がりとをうしろに、南北に長い或る丘陵の中腹の、風を避け日光をうけた半円形の窪地の斜面で、乾いた禾本科の枯草の中にすわっている。
 正面には積雪の釜無山脈がその柔かな曲線から成るすべての山肌を、或るところでは白金の焰のように燃え上がらせ、或るところでは透明な竜胆りんどういろや水苔の色に凍らせながら、きびしく、大らかに、やがて来る春を待つ深い眠りをねむっている。そして私の足の下のほうでは、この丘陵の裾をめぐる堰せんぎの水が、小豆いろに光る捩木ねじきや野薔薇の薮にかくれて、時々ちろちろと音をさせて流れているが、その得もいえず澄んだ鈴のような水の音が、雪や氷に被われたこの山あいの田園の、まばゆく深い静寂の中でたった一つの歌である。
 私はこの透明で金属的な水の音がほんとうに好きだ。信州のもっとも寒い一月二月、万物が凍りつくして晴れ渡った昼間でさえ小鳥の声も稀な世界に、しんとした自然の思いがけない片隅から、あの無垢な喜びと純潔の歌を聴かせる氷の下の水の音。私のために貧しくてもなお清く健かな生活の美を証言し、詩によって豊かな心を力づけてくれながら、じっと耳を傾けている足の下で、まじめに、楽しげに、歌い、こぼれ、流れる水。この高原の水のせせらぎを私は今までにも既にいくたびか讃えて来たが、彼らへの讃美と感謝との思いは今後もなお詩となり文章となって、その時々に新たにされることだろう。
 いま私のすわっているこの丘の中腹からは、雪の反射のまぶしい緩斜面の山畑のむこうに、釜無の山を背負った三つの部落が遠く近く横たわっているのが望まれる。いちばん遠いのがいちばん低く、もっとも近いのがもっとも高い処に位置しているが、どの部落も古くおちついて形がよく、睦まじい三四十戸のひとかたまりが、それぞれの黒い鎮守の杜を持ち、おもちゃのような半鐘を吊るした火の見の梯子を真青な空気のなかに立てている。そしてその三つの部落のどの一つも私に親しく、もしも今私がたずねて行ったら、「よくおいでなしたな、この雪道を。さあ、めた御上がりなして」と言って迎えてくれる家庭の数の、十指にあまるのを私はよく知っている。
 私はまず主人と向い合って大きな炬燵に請じ入れられるだろう。やがてその家の妻女か若い娘の手で、広蓋という脚の無い美しい塗物の膳が炬燵蒲団の上へ運ばれるだろう。その膳にはさまざまな種類の漬物や和物あえものがそれぞれの形と色彩と、それぞれの味と香りとを競って並んでいるだろう。私はすべての皿や小鉢の物をしきりなくすすめられ、何杯でもお茶を替えさせられるだろう。座敷には多かれ少なかれちゃんとした蔵書があり、床の間や壁の上には必ず誰かの書が懸かっているだろう。私はその中に赤彦の色紙や、左干夫の短冊を見出すかも知れない。
 さてまた土間のむこうの一段低い板の間では、長男である若い息子が冬の仕事の繩をない、藁草履をつくり、妹娘は改良竈を堂々とすえた硝子張りの明るい勝手で、私のために蕎麦を打つ母親を手伝っているだろう。そして雄弁な主人と私との談笑のあいだ、隣の座敷では炬燵へ取りついた末の弟と妹とが、いまに自分たちにも何かおもしろい話をしてくれるかと、時々私の顔を見てにっこりと恥ずかしそうに笑いながら、学校の本か絵本の上に幼い顔をよせあつめて神妙にしているだろう。そしてその間にも、金いろに日の当った太桟の障子には、戸外の板びさしから落ちる雪どけの雫の影がたえず映り、時には墨絵のような杏の木へ来る四十雀や河原鶸かわらひわのちいさい影が、ちらちらと忙しそうに動くこともあるだろう。
 いや、たずねて行けばおそらくこうであるとしても、今日は行くまい。今日の私の席はこの丘の中腹の枯草の中だ。晴れわたった二月の天の下、あの山麓の雪にうもれた三つの部落を眺めながら、私の聴くべきはまさにこの堰せんぎの水の音だ。私の思うべきはこの氷の下のせせらぎの深い心だ。
 太陽が傾いて山の影がここまで届き、あたりの空気が冷えてくるまでなお半時間、私はここに、この流れの歌と共にとどまっていよう。
                                (一九五一年)

 

 

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 復活祭

 復活祭、キリスト復活記念の日、春分後満月の日からかぞえて最初に来る日曜日。信州富士見高原の私たちの処では、毎年三月に入ると「理科年表」の暦部を繰ってその日を見つけ出す。そしてその見つけ出すことが新鮮に楽しいのである。
 なぜかと言えば書棚の辞書や図鑑やいろいろな検索表のうちで、一番無味乾燥なものに思われるあの数字ばかりの厚い小さい四角な本から21→○→日と指先でたどって行って、そんなにも甘美で詩的で、そんなにも思い出や願いに満たされた宗教的な春の一日を、まだ到るところに雪の残っている自然を前に、暖かく締めきった硝子戸の中で見出すのではないだろうか。都会を遠く、高原の駅や町からも遠く、冬のなごりの北風が幾百の木々の梢を鳴らしている森の中の一軒家で、詩人の私とその妻とが。
 その日が「国民の祝日」のようにちゃんと印刷された一定の日でなく、月という天体の満ち欠けにしたがって、毎年変るところに美しさもあれば味わいもある。勿論それとても万年暦のように出来ないわけではない。しかし何でもかでも一覧表になったり確定的な日附となったりしていたら、便利ということのために生活の中の詩は失われてしまうだろう。
 今年はその復活祭が三月二十五日だった。
 私たちは由来それほど美食家ガストロノームではない筈だが、妻はその日のために用意した一羽の若い家鴨あひるを前の晩から丸焼にし、いくつかの鶏の卵をうでた。私は私で氷のとけた沢へ行って、頭上の枝から赤楊はんのきの花穂の落ちる水際で若い緑の芹を摘んだ。町の製パン所で特別に焼かせたパンも届き、二た月前の誕生日に東京の友人から贈られたボルドーの白も手つかずに残っていた。夜は深鍋で鳥の脂肪の煮えるかんばしい香が家ぢゅうに立ちこめた。私たちは胡桃くるみを割ったり、その渋皮を念入りに剥がしたり、赤や黄や緑や青の絵具で卵の殻を染めたりした。そのあいだにも家を囲む森のなかでは梟ふくろうの早春のセレナードが響き、真暗な木立を透かして釜無の連山へ沈みかたむく冬の星座がきらめいていた。
 イースター、パーク、オステルン。キリスト復活の記念の日、イスラエルの民の逾越すぎこしの祝日、また古代ゲルマン人の春の女神の祭の日。そして住み馴れた生れ故郷の東京をあとに、遠く信濃の山間に生きている私たちのためにも、永い隠忍の冬の底から春へと歩み出る喜びの日だ。ささやかながら祝宴の卓が開かれ、一盞の葡萄酒がきらきらと灑がれ、「うるわしの白百合」の昔ながらの讃美歌が、敬虔に歌われてもいいだろう。古い苦しみや悩みを忘れて、新らしい望みと願いとに胸ふくらませた私たちから、フーゴー・ヴォルフの「春が来たエール・イスツ」が口ずさまれてもいいだろう。
 その復活祭の朝が来た。朝は寒く凛として、ういういしくロマンティックだった。妻は早くから起きて、もう幾つ目かの讃美歌を歌いながら働いていた。そのアルトの声には娘の頃を思い出させるうら若さが匂っていた。家のまわりの森の木々では冬を共にした小鳥たちもまた歌っていた。日雀ひがら、四十雀、柄長、小河原鶸、頬白などの仲間が彼らのみずみずしい早春の歌を。空も晴れて気温は零度。美しい一日を約束するように遠く塩尻峠のかなたに北アルプスの雪の波濤が見え、釜無の谷奥からは鋸岳や甲斐駒ものぞき、南東の白樺の木立をとおして巨大な富士がその全容を現わしていた。そして家の背後の八ガ岳の連峯は、ほのぼのと赤味を帯びた朝の薄青い空の下、すべての頂きを厚い残雪や堅い氷に光らせながら、白茶に枯れた高原の奥に男らしくどっしりと横たわっていた。
 古い家の広い座敷で、木々に囲まれた庭を前に、華やかに飾られた食卓へ私たちは着いた。白い大きなパンが荘重に切られ、きらめく薄い杯が喜ばしく挙げられた。芹の緑を浮べたスープ、胡桃をあえた野菜サラダ。肉汁グレイヴィしたたる家鴨が裂かれ、五色に染まった卵がむかれた。
 こうして冷めたい金いろの酒を飲み、白い柔かい肉をそぎ、芽ぐみ初めた幾百の木々を眺めたり、その中でほとばしる水のように鳴きしきる小鳥の声を聴いたりしながら、この瞬間を喜ばしく幸福なものに感じれば感じるほど、私のうちに或る淡い悲しみに似た思いが日光をかげらす雲のように生れては育つのだった。それはこの頃になって特にしばしば私を襲う存在そのものの哀愁であり、この世の生のはかなさへの警告の声だった。かつては遠い他人事ひとごとのように思われた必滅の掟の真実が、もはや笑ってすますこともできなければ、頭を振って否むことも許されないほど厳しくひしひしと、しかも多くの近親や知人らの実例を次々と伴って明らかにされて来るのだった。そして去る者の日々に疎く、哭かれ惜しまれた者もやがては忘れられて、遂には全く永劫の無のなかへ消え去るのだという動かしがたい真実が、来る日来る日の実感として、いよいよ深く色濃く心の底に刻まれ染めつけられて行くのだった。
 この究極の絶望感、この慰めなき思想を、影の形に添うように曳きずりながら、なお命ある日を生き甲斐あるものとして生きてゆくためには、その対極として何らかの救いの思想が私に無くてはならなかった。そして私はそれを原罪や諦念や来世を説く既成の宗教には求めなかった。私はそれを現世のすべての存在物への、私同様かならず滅びる運命にありながら、そのたまゆらの生をけなげにも嬉々として受用しているものへの、愛や同感や讃美のなかに求めることを学んだ。素朴で晴れやかな人間への、軽快な小鳥やまじめな獣への、草木や花への、虫や魚への、さてはそれらを取り巻いて流れる水、聳える山、横たわる平野、浮かぶ雲、輝く天体へさえの、感動をこめた認識や兄弟のような愛のなかに。そういうすべてが私に親しく、今までにも私の詩はほとんど悉く彼らへの讃歌であり愛の歌だった。そして今後もいよいよ私は彼らを生き、彼らの喜びと苦しみとを喜びまた苦しむのだ。自分のうちの無常観に柔かくしかし執拗に抵抗するもう一つの観念、すべての存在するものに己れを与えて千万の彼らを生きようとする思想。そこに死すべき人間私への救いがある。そしてどんな宗教の信徒でもない私が、こうして復活祭を祝うほんとうの意義もまたそこにあるのだ。
 小鳥たちの朝の歌が沈黙して、そのかわりに蝶が出て来た。鮮かな硫黄いろの地に小さい蜜柑いろの星をつけた山黄蝶や、チョコレイト色の深いビロードの翅に美しい藍碧色の眼紋をよそおった孔雀蝶が。彼らはいずれも永い冬眠をおわって、今日の麗かな春の光や暖かくなった空気に誘われて飛び出したのだ。見れば林のむこうのまだ色槌せた芝地の上にも、この頃羽化した今年最初の紋白蝶が二羽三羽、低くひらひらと漂っている。なんと彼らが待ち望まれたことだろう。なんと彼らが出席の時をあやまたないことだろう。
 やがて私も散歩に出た。食卓に残った腸詰や彩色の卵を入れた小型のルックサックと、これを持たずに出掛けると後悔することの多い雙眼鏡とを肩にかけて。
 私は森の家を出て長い坂道をくだり、鉄道線路を横断して釜無川の枝沢のほうへ下りて行った。前山の脚と高原の裾とが迫って谷が深くなり、下流を見とおす甲斐の青空に真白な大きな富士と、銀の残雪を滝のように懸けた鳳凰山の岩峯とが高々とそびえていた。山あいの村落はまだ梅や杏の花にも彩られず、南に向いた山腹の果樹園に林檎の花の白い雲も漂わないが、路傍の枯芝の中には可憐な犬なずなの黄の花がそよかぜに顫え、筆竜胆ふでりんどうの碧い星形の花の上には細い平たい金いろの虻や、長い嘴をしたビロードずくめの吊虻つりあぶが飛びちがっていた。そして風の感触はまだいくらか冷たいが、日光はもう充分に強く頼もしく、岩や小石が暖かく、水が輝き、土がにおい、山国の三月末は寂しい中にも晴々とういういしい衝動を孕んで、フーゴー・ヴォルフの歌をさながら、山の上に、谷の空に、「春は再びその青いリボンをひるがえして」いた。
 谷に沿って一里あまりを歩いた私は、やがて、信濃の地籍でありながら寧ろ甲斐の国に近い静かな国道上のとある崖ぶちへ腰をおろして、腸詰の薄い皮をむき、復活祭の卵を食べた。そして眼下の谷の早瀬をすれすれに飛んだり、しぶきに濡れた岩にとまって囀ったりしている一羽のカワガラスを、雙眼鏡のレンズの視野にしっかりとつかまえた。ミソサザイを大きくしたような黒褐色のこの鳥は、すでに二月の初め頃から高原の流れのほとりに姿を現わしていたが、今ではもうこの谷へ帰って来て巣を営み、おそらくは雛を育てて、その間はこうして瀬音にまぎれる細い旋律的な春の歌を撒きちらしているのだった。
 私が渓流の小鳥を見たり耳に手を当ててその囀りを聴いたりしていると、おりから国道を南へおりて来た一人の若い娘が「あれっ、先生!」と声を上げながら近づいて来た。沖繩の戦いに父親を失って、今では村の組合事務所で働きながら、母親と二人で弟妹の多い一家を支えている感心な農家の娘だ。よく私の家へもたずねて来て、特に妻には愛されていた。私は十八になるその娘と春の路傍の草の上へ並んですわり、雙眼鏡を持ち添えてカワガラスを見せたり、由来を話して復活祭の卵を分けたりした。娘は今日は休日なので家の用事で朝から駅前の町まで行っての帰りだった。私たちはいろいろな話をした末に、山桜の咲く頃の釜無の谷奥への遠足を約束した。やがて娘は暇いとまをつげると、幾たびも振り返っては手を上げながら、半里下の自分の部落の方へおりて行った。途中で摘んだという餅草の包を片手にさげて。
 その夜私に久しぶりの詩ができた。そして私は躊躇なく、当然のように、その一篇に「復活祭」という題をつけた。

  木々をすかして残雪に光る山々が見える。
  木はきよらかな白樺、みずき、山桜、
  まだ風のつめたい幼い春の空間に
  彼らの芽のつぶつぶが敬虔な涙のようだ。

  枯草の上を越年おつねんの山黄蝶がよろめいて飛ぶ。
  森の小鳥が巣の営みの乾いた地衣や苔をはこぶ。
  村里の子供が三人、竹籠をさげて、
  沢の砂地で青い芹を摘んでいる。

  萌えそめた蓬よもぎに足を投げ出し、
  赤や緑に染められた今日の卵をむきながら、
  やわらかな微風の波を感じていると、
  醒めた心もついうっとりと酔うようだ。

  人生に醒めてなお春の光に身を浮かべ、
  酔いながら生滅の世界に瞳を凝らす。
  その賢さを学ぶのに遠くさすらった迷いの歳月としつき
  思えば私にとっても復活の、きょうは祭だ。

                              (一九五一年)

 

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 帰 京

 私たちよりも四年早く疎開先の長野県富士見を引きあげて、それ以来東京の郊外で養鶏と園芸とをやっている娘夫婦が、「お父さんももう六十になった。どうか信州の善い人たちには我慢をして貰って、晩年を私たち子供や孫のそばで暮らして下さい。それに日本もどうやら独立して、もうあなた方の故郷東京に占領軍というものは居ないのですから」というわけで、彼らの家のある多摩川べりの丘の上に、私や妻の余り進まぬ生ま返事にはお構いなく、私たちに気に入りそうな一軒のつつましやかな住みよい家を、山茶花や晩い薔薇の咲くこの秋のおわりに、いわば強引に竣工させてしまった。
 こうして十一月初めの或る小雨降る夕方に私は故郷の東京へ帰って来た。私は待ち構えた婿や娘の手を握り、二人の孫を抱き上げ、さて七年ぶりで本当に自分の家と呼ぶことのできる新らしい家の、まだニスの香のするドアを押し、予め若い友人がぎっしりと蔵書を並べて置いてくれた明るい書斎へ入って行った。私の「都入り」は劇的な長靴穿きでもなく、地下食堂の生ビールでもなく、また新聞種にもならなかったが、その夕方の雨を尋常に避けた蝙蝠傘と、その中に碧い布表紙のヘルマン・ヘッセの新著一冊を入れた小型の黒い旅行鞄、郊外の静かな清潔な駅におり立つただ一人での帰京だった。やがて先着の妻が娘と一緒に華やかな食卓をしつらえ、婿が一曲の美しいバッハをレコードで聴かせた。そして帰京第一夜を寝る前に硝子窓のそとをのぞくと、そこには見馴れた八ガ岳の連峯や釜無の山はなく、遠く対岸神奈川県の町のあかりが異国の物のように、赤や黄に、点々と小雨に濡れてうるんでいた。
 東京での生活は七年の不在の後には確かに一つの大いなる魅力であり、晩年を我が子や孫たちと一緒に平穏に暮らすというのは正に好ましいことに違いない。「幸いなるはユリッシーズの如く美わしき旅をとげ、はた金羊の毛皮かちえて立ち帰り、残る年月をその一族の中に生きる者」というのは古いフランスの詩の一節だが、いわば亡命の旅から帰って来て、かしこでかちえた知識や智慧、かしこで養い深めた信念や能力を、ふるさとの懇ろな和やかな片隅で静かに試みるあすからの生活は、私にとって確かに美しい期待に価する。それに私は一箇陰鬱な亡恩者でもなければ、ひとえに山野田園のみを良しとする偏見者でもない。私は自分がこの大都会に負うているすべてを覚えてもいるし、また今後ここから受けるであろう多種多様な恩恵についても予感している。大都会の魔力は強大であり、一度そのエネルギーの圏内に引き寄せられた者は、もはや帯電しない昔のままで出て行くことはできない。都会が自己喪失や魂の堕落の痛ましい危険の場であることは事実だが、また一方強靭な魂と謙譲で自由な感受性とを持つ者にとって、ここ以上に自己再発見の形式を恵んでくれるところもなく、地上最高の事物や存在と深い交わりを結ばせてくれるところもないと言ったあのカロッサの言葉は本当である。音楽会や劇場で幾千の人々と同じ高貴な感激に結ばれるのは都会でのことであり、美術館や大画廊で美の最高の形式から養われるのも都会でのことである。そして私が旧敵国の占領部隊を見ないあの信濃の国の山や高原や淳朴な人々のあいだで、その豊かな自然から一層深く学ぶところがあり、またその人々の古い生活の習わしの中に合理的な力や詩的な美を見出してこれを解明することができたとしたならば、その根柢となるものを、実に私は東京での世界的な学問や芸術の薫陶から得たのである。
 私は都会の先端的な流行の新鮮味や、そこでの機械的・物質的利便の享楽を大したものだとは思っていない。否、東京で生まれて人となって東京を去って、清明無雑な大自然の中でパンと蜜と、鳥獣の肉と泉の水と、風と太陽と氷と雪と、剛健で篤実な人心とに永く養われた身と心とを、そこで改めて試みる生甲斐の場としての大都会の固有の力に、先ず帰来匇々の是認を与えるのがこの短い一章の目的であった。

 

 若い家族の喜びと、七百羽の牝鶏どもの喊声と、初冬の花壇に早くも萌え出した春の草花の柔かい緑の行列とを別として、私の帰京は図らずも二つの出来事で祝された。一つは私の属している或る大きな文筆家の団体の年次大会における還暦会員の祝いであり、もう一つはちょうどその式場へのジョルジュ・デュアメル夫妻の来朝匇々の臨席であった。
 私は自分と同じように今年満六十歳になる数名の他の会員と並んで、古い美しい庭園の一方にしつらえられた式場の舞台で、与えられる祝辞に耳を傾け、記念品の贈呈をうけていた。人の親切をまだそのまま素直にうけとることのできる心には、自分よりも年上の、脚が不自由か杖をついた温和な人柄の会長や、年下ではあるが高名な作家である役員の祝賀の言葉がうれしく、贈られた品物が何であれ、必ず永く珍重しなければならないと思っていた。(帰宅後熨斗紙をはずし、堅い紙箱から抜き出してみたら、それは漆塗の大きな見事な手箱だった。私はこれからの東京での快心の作を、きっとこれに納めようと心にきめた)。そして私は他の還暦会員と同様にマイクロフォンの前へ立って出席の諸君に謝辞を述べた。永い不在で見知りの顔も至ってすくない二百数十名の出席者に向って。
 その一部始終を芝生の前列の特別の椅子へかけて、厚い外套に身を包んだデュアメル夫妻がじっと見ていた。(晩秋の夕ぐれを寒い強い風が吹き、海近い白金台の空は暗澹と曇っていた)。会うのはこれが初めてだが、曾ていくたびか手紙を貰い、十種にあまる著書を贈られ、そのうちの四種を私が翻訳出版したデュアメルである。(或る若い評論家は戦時中の私及び或る同僚の行動を論難して、これらフランスの友人達への裏切行為だと公言した。私は今ここでそれに対する弁明や反駁をする気はないが、抑もこの場合の裏切とは何であり、またわれわれのレジスタンスをどこへ向けるべきであったかを、この同国人の攻撃者から教わりたいという気は持っている)。そのデュアメルだった。私は自分から名乗り出ることを躊躇したが、或る人の紹介で私と知るや否や、この「心情の支配」の詩人、このサラヴァンやローラン・パスキエの生みの親が、驚喜の声を上げて私を抱き、ブランシュ夫人が手袋の両手で私の両手を握りしめた。そしてその日以来、私はこのジョルジュ・デュアメルなる人物を全く儀礼を抜きにした、その最も平常の姿において観察し、玩味し、理解する数度の機会を持ったのであった。

 こういうことがあってから間もない或る朝のこと、私は新らしい家の明るい座敷の床の中でひとり目を覚ましていた。妻はもう隣の若夫婦の家へ手伝いに行っていた。雨戸が繰られ、晩秋初冬の清らかな朝日が硝子障子いっぱいに当り、その素通しの硝子越しに郊外のきれいな空が拡がっていた。と、その深い青い空間を一羽の鳥が北西から南東へ飛んで行った。その大きさ、その飛び方で、多分つぐみだろうと私は思った。鳥は朝の大空の汚れもない青の中を漕ぐようにして飛んで行った。そして遂に彼の姿が見えなくなった瞬間、私の目からほろほろと涙がこぼれた。ちょうどそこへ生後わずか十幾日の子供を大切そうにかかえた娘が庭伝いにやって来て、「おじいちゃん、お目ざめ?」と言いながら外からそっと硝子戸をあけた。「いいお天気ね」「うん。赤んぼはどうだい」「元気よ」「お前は?」「私も元気」「そうか。今ね、こうやって寝ながら空を見ていたらつぐみが一羽飛んで行ったよ」「そうお、よかったわね。ところでどう? 久しぶりで帰って来た東京の居心地は」「うん、悪くないよ。それどころか、みんなに感謝しているところだ」そう言いながら私は頭から搔巻の襟を引っかぶった。娘は静かに硝子障子をしめて立ち去ったらしかった。
 みんなに感謝しているところ……そうだ。本当にそれに違いない。それはひとり自分の娘に、婿に、また妻に対してのみではなく、この世で私に心を通わせているすべての人々に対してである。それは七年のあいだ私に親しみ、私を愛し、私との別れを泣き惜んでくれた信州の善き人々に対してであり、又私の帰京を心から喜んでくれるこの東京の旧知の人々に対してでもある。それは失意の私をやさしく迎え、豊かに養い、深く喜ばせてくれた信濃の国の山や谷や高原と、そこでの亡命の年月に対してである。それは私をして今日あらしめたすべての死者と生者とへの感謝であり、いま幾千の顔の中から只一つ私の顔を見出して、私の名を呼びながら駈け寄って来るであろうなつかしい人々への感謝である。それは私のいた北の山国から愛のたよりを運びながら都会の初冬の空へ消えて行った一羽の鳥への感謝であり、若い母親の腕の中に厚く暖かにいだかれた可憐なみどりごの、未来を予感する清らかな雫のような瞳への感謝である。すべてのものへの感謝……そううだ、本当にそれに違いない。
 いましがた私は一篇のヘッセの詩を読んだ。それは「新居への移転に際して」という題の極めて美しい詩だが、翻訳するとこうなる――

 「母の腹から生まれて来て、土の中に朽ちる運命をになって、人間は不思議な面持で立っている。それでも神々の思い出はなお彼の朝の夢に軽く触れる。やがて人間は神をうしろに、大地に向って働き努める。彼は憩いもない生活の、古い習わしや目標の前で恥じ怖れながら家を建て、それを飾り、壁をいろどり、棚を満たし、友らを迎えて祝宴を張る。そして門の前には優しいにこやかな花を植える」

 私としては未だこの新居に友達も迎えず祝宴も張らないが、同じように書棚を満たし、額を吊り、門前にいくらかの花も植えた。そして神々の思い出の、なお朝毎の夢に軽く触れることを願っている。たとえばあの旅のつぐみへの愛とこの世への感謝のように……  
 
                              (一九五二年)

 

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 静かな時間の三部作

 秋とルオー

 東京が晩秋のもっとも穏かな光や空気に憩っているような或る日、久しぶりに訪れた上野公園がその博物館や美術館の建物を十一月の黄と灰いろとの品位ある樹々の間からかいま見せている静かな昼すぎ、私は表慶館にジョルジュ・ルオーの大展覧会を見た。
 キリストもピエロも、娼婦も踊り子も、赤い鼻も青い髯も、すべて彼の内面的造形世界の単純で暴烈で深くリリカルなイメイジであり、彼の執心、彼の怒り、彼の愛讃の、山を重ね深淵をうがつような追究の痕と私には思われた。それは諷刺から法悦へ、抒情から聖書的偉大へと振れ動きながら、いよいよ重く存在世界の深みへと沈下してゆく暗く巨大な錘おもりの霊を想わせた。そしてその悲しく痛くすさまじい最初の感銘から、やがて見る者の心に暖かくよみがえって来るのは、世界苦のちまたに流れる基督者の慈悲シャリテの歌であるように思われた。
 まだ何かもっと重大なものを見落しているような気がして同じ館内を行きつ戻りつした私は、ともかくもこの午後の深く熱っぽい感動に満ち足りてそとへ出た。そとには晩秋の柔らかな青空としみじみとした日の光とがあり、裸になった桜並木の煙のような枝の中から、四十雀しじゅうからの澄んだ歌声がこぼれて来た。そして博物館の大玄関まえの広場には年を経た一本の巨大なテューリップ・トゥリーが立っていて、前庭の冷めたい砂利の上に大きく幻想的な影をえがき、美しくしだれたその高枝から、マルケのセーヌ河畔の絵をおもわせるレモン黄の葉がそよかぜの息に散りはじめていた。
 私は庭園で軽い食事のできる或るホテルの方へと歩いて行った。そして道々或る考えにふけりながら、自分のうちにいよいよ確信の強まって来るのを覚えた。すなわち、最近一人のすぐれた素質の批評家が、私の詩人としての努力は、自己の内面的秩序を基本にして外界の事象との調和を求めようとする求心的な欲求である。その描く世界は作者の精神の反映であり調和された美の投影ではあるが、しかしその個人的真実の迫求には社会的真実に肉迫する実践性が無いという事を言っていた。これは充分同情と理解とを持った見解には相違ないが、だからと言って、たった今ルオーからは元より、前庭の秋の落葉から聯想したマルケにさえも見出すことのできた執拗な自我追究の道を、「社会性云々」の命題によって左右することは断じてできないという確信であった。

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 夕日とデュパルク

 初冬の時雨もよいの或る昼すぎ、私はめずらしく風を引きこんだ気がし、熱を計ってみると三十八度近くもあるので、妻や娘が床をのべてくれた座敷に、今日だけは彼らの言うがままにおとなしく一人静かに寝ていた。
 人の眠る夜には自分も眠り、人の起きて働く朝が来れば自分も起きて仕事にかかるという永年の習慣のついている私に、昼間から床へ入ってじっとしていることは、わが身をいたわり周囲の者たちからもいたわられているようで、物珍らしくもあれば久しぶりの閑日月のようでもあるが、やはり持って生れた性分か、どうもしっくりしなかった。それでこんな時こそ落ちついて読もうと思って、ハーバート・リードの自叙伝とスペンダーやオーデンたちの詩集を書棚から抜いて持ちこんだものの、だんだん熱の高くなるせいか体ぢゅうがだるくて手に取る気にもなれず、そのまま枕もとへ置いて少し眠ってみようと思った。
 搔巻の襟にあごを埋めてうとうととしていると、庭の横手の路ひとつ、冬を刈りこんだ薔薇の垣根一重をへだてて、娘夫婦の住んでいる母家からラジオの音楽が聴こえて来た。庭の初冬の木立へ群れて来て鳴くひよどりや尾長の声ならば格別、こんな時のラジオはいかにもやりきれないので誰かを呼んで止めさせようと思ったが、なんだか自分もよく知っている歌のようなので耳を澄ますと、アンリ・デュパルクの「前の世」をやっているのである。
 遠い広い波の上の落日のような壮麗な管絃楽の流れを縫って、ボードレールの深く逞ましい豊かな詩句と、その逸楽的で悲劇的な歌のしらべとがすばらしい。柔らかに眼をとじてじっと聴き入っていると、庭をまわって来た娘の栄子が縁側の硝子障子をそっと細目にあげて、「パンゼラと、もう一人なんとかいうバリトーンの歌なんですって。うるさくない?」と小声でたずねた。私は「ちっとも」と言うように頭を振った。すると娘は静かに母家へ帰って行ったが、器械の音をすこし大きくしたらしく、今度は前よりもはっきりと聴こえてきた。そして歌も「前の世」から、同じデュパルクの作曲になるフランソワ・コペーの「波と鐘」に変った。
 私はこの歌が「前の世」にも劣らず好きだった。何かの拍子に "J'ai longtemps habité sous de vastes protiques"(久しくもわれは住みにき、ひろびろたる回廊わたどののもと)や、この「波と鐘」の "Le grondement faisait trembler les vieilles pierres"(殷々たる轟きは年古る石を震わしめ)などを自分で歌うと、きまったように或る興奮の身ぶるいに襲われて、結果としては書けないにもかかわらず、燃えるような詩的創造欲の沸騰を体ぜんたいに生理的に感じるのだった。日もすがら空も暗澹とした北海の荒海。そこに切り立った断崖と、貧しげな草や灌木のしがみついている荒涼とした砂丘。たえず嵐や難破におびやかされどおしの寂しい漁村。そして永遠無終の海の轟きや鷗の叫びにまじって聴こえて来る、古い小さな教会の鐘のひびき…… その劇的なイメイジが、なおいくらか残っている私の詩人の血を湧かすのだった。
 ラジオは沈黙した。私は起き上がって書斎へ行き、窓のかなたに遠くひろがる田園の風景に眺め入った。そこには折から時雨の雲の厚い裾をすれすれに落ちる夕日があって、冬を枯れた一片の素朴な土地がその金と赤とに彩られていた。

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 オルゴールとジューヴ

 多摩川の早春の水の光と、青い丹沢の連峯や、真白な雪の富士山にむかって開いた窓の前、これから一日の仕事にかかる朝の言斎のテーブルがすがすがしい。
 肉体も頭脳も調子がよく、精神を集中できる仕事が常に必ず二つ三つは心を占めていて、毎朝起きるのが楽しいほどのこの頃だが、今日はゆうべ寝る時ふと心に浮かんだ小さい翻訳を先ずやって、それから毎日続けている書きものに取り掛かろうと思った。その翻訳というのはピエール・ジャン・ジューヴの「カプツィーネルベルク」と「ジュビター交響曲」といういずれも短かい散文詩で、このフランスの詩人があのオーストリアの美しいザルツブルクの町に、モーツァルトの生れた土地に、多分シュテファン・ツヷイクを訪ねた時に書いたものであろう。私はそれを翻訳して、或る若い詩人の友達の誕生日に、祝いの品に添えて贈ろうと考えたのであった。
 窓からの風景に暖かく春めいた霞の懸かって来る朝の九時すぎ、私は仕事机にむかって腰をかけ、昔ジューヴその人から贈られた一冊の厚い本のページを開く。そしてまず煙草を一本吸おうと、向うにある小さい木の函へ手を伸ばしてつまみの附いた蓋を取る。すると途端に、函に仕掛けたオルゴールの止金とめがねがはずれて、「エリザーの為に」の音楽がきれいにこまかく鳴りはじめた。
 若い友人の誕生日のためにこれから美しい翻訳に掛かろうとしながら、いま鳴り出したそのオルゴールの函を見れば、これもまた私がつい先頃の誕生日に人から贈られたものである。温泉と湖水の町、信州の上諏訪に住む或る若くて美しい小学校の女教員が、遠く私を喜ばせようという心から、同じように若い友達の画家や指物師を語らって構想を練り、工風を凝らして、去年の夏から秋にかけ、めいめいの仕事の合間合間に、こつこつと造り上げ磨き上げた創意に満ちた傑作である。
 都会の楽器店やデパートの陳列棚に並んでいるような、あんな有りふれた規格品や、五六種の雛型をもとに造られた物とは全く違う。ここには材料のきびしい選択と、純粋な形式への憧れと、合理的であると同時に人の精神を爽かにする新鮮な美への意欲とがある。材は卵いろの地に黒い縞目を見せた、光沢のある堅いぶなである。形はその夏の白馬岳しろうまだけへの登山から画家の一人がヒントを得たという、山の端の岩とそこにたたずんでいる一羽の雷鳥とで構成されている。そして巧みな鑿のみで刻まれたその雷鳥が蓋のつまみになり、函そのものは、方形の立方体に分解した花崗岩の大きなかたまりを想わせるように、つやつや光る豊かな広い平面と、しっかりした直線から成るいくつかの稜角とによって囲まれている。そして、ああ、ベートーヴェンを奏でる愛すべく精巧な小さい器械は、函の底の片隅にちまちまと納まって、音のしない薄い鉄片の羽根を廻し、長短二十幾本の針のような鍵キィをはじいて、まるで人のいない大ホールで孤独のピアニストが弾いているように、不世出の巨匠の或る日の歌を響かせている。
 老おいと若きとの違いはあれ、芸術を愛し敬う心を共にする人々からのこの愛の贈物を前にして、今は私もまた一つのささやかな心づくしに、ザルツブルクの青葉の夏とジュピター交響曲との散文詩に翻訳のペンを取るのである。

   カプツィーネルベク

 十八世紀風の低い窓から、暑熱を避けて閉ざされた鎧戸や窓硝子のその厚みと、その静けさと、それを洩れて来る夏の香りと、――全ドイツに霊感を与えながら仕事をしている隠栖のゲーテのことをかくも楽しく想い出させる低い窓から、――そこから、やがて初まる暑さにもう萎えている朝を灼熱した木々の滝津瀬。
 庭苑の斜面を下へ下へと生えている巨大な楡にれや秦皮とねりこは、いささかも眺望を遮らない。右手はバヴァリアの方へとうちひらけた平原。正面は散在する山々と僧院と鐘楼との紛糾。左手には、町の他の部分に聳え立って、大気の緑の岸辺である葉むらの上のこの薄青い空へすなおに加わるずんぐりとした古城。
 町は見えない。だが私のいるこの宙に浮いたような小さい館やかたから、それを思い出すことはほんとうに楽しい! 幾世紀の美しい顔々よ。なんとお前たちが好もしいことだろう。すべての憐れな、また注目に価する人間の思想よ。時間もなく国境もなく、なんと私がお前たちを愛することだろう。

   ジュピター交響曲

 目方もなく、欲望もなく、私はただひとり音楽の太虚の中をさまよっていた。私は私自身にほかならぬ或る超凡な存在の、その認識のなかへ進み入って行くのだと信じていた。私は躍り立たんばかりに嬉しかった。そして涙を垂れながら考えた。聖なる芸術よ、今こそおんみはわれらの運命を乗りこえた。今こそおんみは自由だ、と。その瞬間、私は現に生きているあの若い女をこの眼で見た。女は、いわば、音楽の乳房の中にいたのだ。しかしそのために音楽は擱乱され、天空は地に落ちた。

                         (一九五三年―一九五五年)

 

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 季節の短章

 八ガ岳を想う

 「今年の梅雨は永くって、富士見高原は毎日びしょびしょの雨降りですが、たまたま雲が切れて信州の深い青空がひろがると、もうすっかり夏姿になった八ガ岳や蓼科たてしなの連峯が、晴れやかな日光と涼しい風の中にその雄大な山容を横たえます。先生御夫婦はいつ来られるのですか。そういつまでも私たちを待たせないでください。つい二三日前ですが、久しぶりの晴天に開拓村まで行ったついでに分水荘の森へはいってみたら、詩人のいないあの家のまわりでは蟬や小鳥が鳴きしきり、戸をしめきった座敷の裏手で一匹のリスが遊んでいました。東京の新しいおすまいもいいでしょうが、先生の夏の書斎はこの八ガ岳の裾野です。忘れる人は忘れられるとおっしゃったあの御言葉を、どうか先生御自身忘れないでください」

 胸の痛くなるようなこういう便りを貰って以来、毎曰仕事の机に向いながら、平静であるべき私の心が落ちつかなくなった。窓のかなた、梅雨の晴れまの遠方に、薄青いヴェイルのように顫えている奥秩父や大菩薩の連嶺。その向うに信州の夏を歌っている山々と高原と、私を待っている無数の親しい顔たちがあるのだと思えば、東京でのさまざまなきずなを前に、その断ちがたい義理や恩愛の強さに悩むのだった。
 しかしもう一週間もしたら思い切って私は行く。やりかけの仕事をトランクに、まだ一字も染めない厚い新らしい詩帖を持って、海抜千メートルの夏草と風の中、あの高燥と静寂との広がりの中へ帰って行くのだ。そこの森の家へ行って冬以来しめきった雨戸をあけはなち、再びはじまる時間のために柱時計をスタートさせるのだ。そして今年こそは若い屈強な友達をさそって、八ガ岳をその編笠・権現のルートで訪れよう。天狗岳南面のお花畠から硫黄岳。このコースは山麓玉川村のお百姓、大六さんと一緒に行こう。
 私の山登りの経歴の中で、長尾宏也君の案内で行った此の八ガ岳がいちばん初めの高山だった。もう三十年あまりの昔になるが、あの日の深い美しい感銘は、その後いろいろな季節に試みた同じ山の幾たびの登攀にも拘らず、今に至るもなおきわめて鮮かなイメイジとして残っている。国鉄小海線がまだ佐久鉄道といって小諸から小海までしか通よっていなかった頃だったが、その佐久側の本沢温泉から登って硫黄岳・横岳と、当時はまだ高山植物の楽園のようだったあの山稜を主峯赤岳へ向って行くうちに、その日関東と中部地方一帯を震撼させた未曾有の大雷雨に遭遇して、命からがら諏訪側の茅野まで逃げのびたのだった。しかしすべての恐ろしかったこと苦しかったことが年処の推移と共に美化されて、その三日の思い出が、今はなんと懐かしい盛福の遠方に光りくゆっていることだろう。今日詩集に残っている「大いなる夏」「八ガ岳横岳」「輪鋒菊」の三つの詩が、実にこの最初の八ガ岳登山の記念だった。
 高峻登攀の洗礼をここに受け、その後も繰り返しては幾たびか訪れ、且つはまたその直下で戦後七年を暮らして来た私として、この山に特別な愛情を抱くのは当然であろう。しかしそうでなくても、南は編笠・権現から北は蓼科山のドームまで、南信の明るい空の下に蜿蜒幾里の緑と赤の長壁をそばだて、夏なお涼しい火山裾野を広々と美しく東西に延べて、きわめて日本的であると同時にまたどことなく西欧的な味を持っているこの八ガ岳の連峯が、多くの登山家や山好きの人達の特殊な愛やあこがれの対象となっていることはいかにもとうなずかれる。それにまたここに生れここに人となった人々は元より、その裾野の高原療養所で病を養った無数の人たちが、心のどんなふるさとを、この山に感じているかをも私はよく想像することができるのである。
 八ガ岳は夏の山だ。また風爽かに雲が高く、夕日に染まった連峯がこの世ならぬ美のパノラマを展開する秋の山だ。その夏と秋とを再びあすこで生きるために、私は富士見の高原とその人々との許へ急がなければならない。

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 初冬の心

 窓の下の懸崖林の木々がだいぶ葉を落したので、又もや私の書斎から山の見える時が来た。もう点々と雪のついた青い大菩薩の連嶺、丹沢の山塊、その丹沢のうしろや桂川の谷奥からのぞいている全山真白な富士山と南アルプス。下のほうには南部武蔵や相模の丘陵がもやもやと薄紫にひろがって、その手前には二子あたりの多摩川がコンクリートの長い白い橋を横たえながら、朝はつめたい銀青色に、華やかな夕映えの中では金紅色にかがやいて、茶いろに枯れた両岸のあいだを広々とゆるい曲線を描いて流れている。
 そしてやがて木々もまったく落葉しつくして、この東京の南郊にも毎朝結氷を見るようになったら、私の窓からの自然も一層あかるく一層簡潔なものとなり、山々はすべての雪の頂きをきらきらと、寒風に研がれた冬空の下にならべるだろう。
 そして鶏舎と木々と草花の圃場とにかこまれたこの小さな家の小さな部屋のなかで、私の仕事の昼間や読書の夜が、一層意味ふかく一層充実したものとなるだろう。
 こんなふうに片すみの自然を問題にしたり、時代の思潮から常にいくらか懸け離れた仕事に没頭したりして、いわゆる文壇的な交遊もきわめて少く、その上永年の東京不在で疎遠になっていた友人らとも帰京以来まだほとんど旧交を温めるに至っていない私を見て、淋しくはないかと訊く人が時々ある。
 そんなとき単なる強がりと取られたり陰欝な孤立者と思われたりしないように、「否」という自分の答を相手に納得させることがなんとむずかしいことだろう。
 しかし、いったい、この場合の淋しいという言葉にどれほどの意味があるのだろうか。それは現在の世界や国内の情勢に対する同憂の士の私における皆無を指すのだろうか。共に芸術や詩を語ろうとする同僚の無いことを言うのだろうか。書いたものを見てくれとか発表の斡旋をしてくれとか頼みに来る、若い心酔者や後進を持たないことなのだろうか。
 それとも、もっと深刻らしく、人からそうした交わりを持ちこまれるだけの資格が私に無く、私自身の「時」などはもうとうの昔に過ぎ去ってしまったということを意味するのだろうか。

 もしも私にして片隅の孤独を嘆くとすれば、それは私がそういう境遇を欲するからである。派手に、あるいは有力者らしく、門前市をなさしめるそれらの人々をうらやむとすれば、そういう生活が私の哀れなあこがれの、または野心の対象だからである。しかしもしも私がその種の人々のなかに自己内心への不信なオポチュニストを認め、刻々と輸入される文献的知識に身をかためた知性の尊大なエピキュリアンを認め、派閥により、学閥にたのみ、ジャーナリズムに食いこみ、大小の文壇的政党または政党的文壇に割拠して、それぞれの全盛の正午や「時」を享楽している人々を認めながら、しかもそのこと自体の空しさを腹の底から知り、半夜おのれの本心と対決したときの彼らの言いがたない空虚感や寂寞の感情を想像することができるとすれば、そうした世界から全く遠い自分をいささかでもさびしいとは感じないだろう。
 私はもはやどんな意味でも政治化されたくないし、積極的な進歩の細胞でありたいとも思わない。
 私のような認識に立つ詩人は水銀晴雨計のようなものだ。それは旗竿の役にも立たなければ、クギとしても打ち込めない。それは嵐と凪とのあいだを澎湃する気圧の波を敏感にうけとりながら、一切を予感しつつひとりの諦念に澄むのである。
 決してだれに誇るのでもなく、私は自分をひどく富んでいるのだと時々思う。そういうときの私は空想や連想の能力が理想的に高まっていて、何を見、何を読んでも、教えられたり学んだりする代りに、それらの剌激や表象のなかに楽しく自分を漂わせているのである。
 そしてそういうときの私にとっては、もはや片隅も片隅ではなく、それは魅惑と比喩との全世界であり、明るい無常の光のなかで永遠を感じさせる「詩」の宇宙なのである。

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 鳥を見る二人の男

 きのうは自然観察の好きな友人の哲学者がたずねて来たので、書斎の窓から向うに見える美しい多摩川べりへ水辺の小鳥を見に行った。
 自分同様動植物や天文気象の観察に内心の深い喜びを見出している友人と野外を散策することは、私にとって交友の楽しみのまた別の一つである。一方に立派な本職があって、しかも他方静かにこのような趣味を持っているということは、学者にも芸術家にもまことに床しく好ましいことなのだが、未来は知らず、今のところではそういう人が極めてすくない。
 自然の風致の保存にせよ、動植物の愛護にせよ、それを唱えれば世に聴かれる機会の多い人たちが、多かれ少なかれ自然への具体的な知識を持っていないということは惜しまれもすれば残念でもある。

 宅の裏手から丘陵をおりて、エメラルドを敷きつめたような青草の沿岸一帯を見渡す堤防へ立つと、書斎では遠かった雲雀の歌がつい頭の上のものとなって、強くぶるぶる震わせているその翼もはっきりと仰がれた。そして彼らの降らせる金鈴の響の雨を縫うように、時々対岸の草原からひらひらと舞い上って鳴くセッカの性急な声が聴こえ、雛のために餌を運ぶムクドリも、多摩川の流を隔てて、うしろの丘とかなた神奈川県の耕地との間をたえず往復しながら、硝子玉を擦り合せるような声を落として行った。

 小石の広い河原へおりて、紅い蓮華草や黄色い母子草の間に坐っている私たちをこの上もなく喜ばせたのは、水の精のように優美で雪のように白いコアジサシが、折柄雲のだんだらを浮かベた薄青い空の下を軽快に飛びながら、時々さっと水面へ急降下して小さい鮎かハヤの漁をしている光景だった。カモメ科の中の最も小型の鳥で、燕を白く大きくしたようなコアジサシは、上流の空から絶えず二羽三羽と飛んできては、私たちの視野の中でこの目もさめるような活躍をみせているのである。そしてある一羽がうまく小魚をくわえ取って空間へ舞い上り、翼を動かしながら前へは進まない姿勢のままで漂いながら、細い黄色い嘴から垂らしたサファイア色の獲物をやがて呑みこんでしまうまで、私たちは酔ったように惚々と、かたずをのんで眺めていた。
 向う岸の水際には大型の千鳥で、雄の顔から腹へかけての黒とそれを縁どる白との対照が目立って美しいダイゼンもいた。雌も一緒にいて、この方はずっと地味な羽色だが、この夫婦は近くにいるロイド眼鏡を掛けたようなコチドリの群と一緒になって水際で餌を漁ったり、またときどき三日月のように翼を張って、小さいコチドリと空中の追いかけっこをやったりしていた。

 このダイゼンと言い、あのコアジサシと言い、両方とも友人の哲学者にとっては初めて見る鳥だった。
 私たちは心を残してこの美しい水辺を去ったが、やがて新居の晩餐の卓で、新着のフランスの鳥の本を前に、今日の散歩の成功を祝して信州諏訪の芳醇を傾けたのである。

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 しぐれ

 静かな家の静かな書斎のかたすみで、いつものように机にむかって仕事をしていると、午後三時のコーヒーを持って入って来た妻が、部屋の中央の丸テーブルをふいて茶器を置きながら、
「なんですかしぐれて来たようですね」といった。
 そういわれてガラス窓からそとを見ると、朝のうちはあんなに奇麗に晴れていた空がいつのまにか厚いねずみ色の雲におおわれて、今にも降り出しそうな気配を見せている。東京の秋も深い。その都心に、郊外に、田舎に、人の心をしずめ深めるしぐれが来てもいいだろう。そういえば今ラジオの気象通報が伝えていた。そして事実そのとおりやがて降り出した。私はカーテンを引き電灯をつけ、早い夜を作った書斎で戸外の雨を聞きながら、ふたたび机にむかって静かに熱中した。
 私は「しぐれ」というものを秋の驟雨、それも特に晩秋の局地性驟雨のように考えているので、あまり幾日も降りつづいたり、日本全国すべて降雨というような状況では受ける感じが違ってくる。そして何となく心せかれる人生へ、思わざるに降りかかって来るこの雨のあじわいは、立てこんだ町なかの正直な暮らしの中でもまことに趣き深く味わわれはするものの、やはり風景の中に人家と共に秋を枯れ冬を待つ草や木のある郊外、野外、あるいはもっと広々としたながめを持つ山野のあいだでこそ、その詩情は一層しっとりとこまやかに玩味できるもののように思っている。
 そしてこの雨が人の心に及ぼす作用の特徴は、過ぎ行く「時」の中に清明な眼をあげ耳を澄まして、人生の流れの渦に巻かれているおのれ自身の、その「個」の姿を客観する機会を与える点にあるのではなかろうか。自分と同じように他人も皆それぞれ固有の運命をになって生きている。そしてすべての他人が自分と時を同じくして生きている。このなんでもないことのようで、実は驚くその不思議な縁をはっきりと認めて、明日を知らぬ人間同士が互いに寄り合い援け合いたいという気持になるという、そんな心を呼びさます機縁を持っているのではなかろうか。これが花をぬらし、若菜をたたき、河川の水を養うようなロマンチックな春雨ではかならずしもそうはゆくまい。たちまち襲ってきて電光を飛ばせ雷鳴をとどろかせる、あの華やかで勇ましい夏の夕立でもそうはゆくまい。
 しぐれは賢くて淳朴なおとずれである。その静かな歩みは見てくれもなく、ちまたを過ぎ、田舎を過ぎ、もみじした疎林を過ぎ、遠く山野のはてに行き消える。これの通るところ、素朴なもの、わたくしなきもの、目ざめたもの、人生の帰趨を予感して心に遥けさを抱いたものが、力づけられ、慰められて、この世への愛やいつくしみの中で自由になる。しぐれを真に味わうことのできる心は、もうみにくい執着や争いにはわずらわされない。それは執着を持たないことがどんなに平和であり、寛容な精神がどんなに自由なものであるかを知っているのである。

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 冬の庭

 このところ、冬の初めのおだやかな、いいお天気の日が続いている、犬しでならを最後に、もうすべての落葉樹の葉も散りつくしたので、広い庭の片隅の木々に囲まれた私の書斎もひときわ明るくなったようだ。いろいろな小鳥がしきりに来る。ひよどり、尾長、むくどりなどの巡回は秋以来ずっと毎日のことだが、この頃ではかしらだかこかわらひわも十羽二十羽と群むれになって訪れて来て、まっかに染まった夕日の空を背景に、散りおくれた枯葉のような小さい影絵で梢の細枝を飾ったり、霜の消えてゆく朝日の庭へおりて来て、散りつもった落葉をがさがさと搔き分けては、冬ごもりの蜘蛛や羽虫はむしをあさったりしている。
 つい今朝のことだったが、今日はこれと言って極まった仕事もないので、私はそんな時の楽しみに取ってあるデュアメルの小さい本の翻訳をしていた。かわゆい足音をさせて隣の家からやって来る幼い孫の訪問にも妨げられず、冬枯れの相模野から青い多摩川を横断して、この丘の空をかすめて飛び去る飛行機の爆音にもわずらわされずに、明るい暖かい沈黙の部屋で、デュアメルという一人の賢明な作家のくつろいだ智恵の言葉を、よい酒を味わうように味わいながら翻訳してゆくことは、今時ではむしろ贅沢ともいえる境地だった。
 そのうちに、私は窓の前の庭の中がなんとなくひそひそと賑やかなのに気がついた。そこで机を離れて硝子の奥からそっとのぞくと、十羽あまりの小さいかわらひわが下りていて、それが声を忍ばせるように鳴きながら、からからに乾いた落葉を足で搔き分けたり嘴ではねのけたりして、冬眠の虫や雑草の種子をあさっているのである。黄や褐色に敷きつめられた枯葉と、その中へ散って活発に動いている石墨色と黄色とをした小鳥の群とは、見る眼にも喜ばしく美しい対照だった。
 ところが私の見ているうちに、その鳥たちのまん中ヘー匹の猫がどさりと身を投げつけるように飛びこんだ。つつじの植込の陰からねらっていたものとみえる。途端にかわらひわの群はさっと羽音を立てて、つむじ風に巻かれたように飛び去った。猫は養鶏をやっている婿夫婦の飼猫の「黒」だった。年をとった彼は髭をこすりながら失敗の後味を味わっているらしい。するとそこへ魚の頭をくわえた見馴れない猫が一匹、おどおどした様子で通りかかった。純白な毛皮のところどころに薄墨色の班紋のあるかなり器量よしの若い牝だった。彼女がその美貌にも拘らず、魚の頭を養鶏場の飼料小屋から盗んで来たことは確かである。ところで「黒」はそれを「ふん!そんな生臭なまぐさがなんだね、お嬢さん。わたしなんぞは脂の乗った、もっと生きのいい奴が好きなのさ。もっとも今はちょっとしくじったがね」
と言ったような顔をして、問題にもしないでその若い牝猫をやり過ごさせた。
 私は再び机へ向ったが、明るい静かな冬の庭でのこの初心者と古強者との出会いの一幕を、ちょうど今読んでいるデュアメルの寓話の本の、その一章の中にでも見出したような気がして仕方がなかった。

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 自然の中の春の歌

 籠にとじこめて愛玩するなどという事は問題外として、自然の中で自由にいきいきと生を営んでいる小鳥たちの、その姿をながめたり、声や歌のしらべに聞き入ったり、さらに進んで彼らそれぞれの生活の仕方を、愛と注意ぶかさとをもって観察したりすることは、私たちの情操の深い喜び、知性の限りない楽しみである。その喜びや楽しみの対象の一つとしてここでは彼らの春の歌のことを少しばかり書いてみたい。
 空が晴れて日が輝きながら、しかしまだ空気のつめたい三月のある朝、私たちは台所の入口か白梅の花の散りかけている裏庭の辺りで、さっきから何か小さい鳥のひとりごとを聞いていたように思う。それで気をつけて耳を澄ますと、一連の歯ぎれのいいきらきら光るようなトレモロが、少しずつ所をかえて地面に近く聞えて来る。それは全身濃いミソ色をして、強く短かい尾をぴんと立てた、活発な小さいミソサザイである。彼はもうすぐ故郷の谷間へ帰って行くだろう。そしてさらに美しく高らかになったその歌を、深山の水のしたたる岩壁へ投げつけるだろう。
 同じように金属的な声で、しかしもっと低い早口でつづけられる歌はカシラダカのそれである。彼らはたいがい十羽二十羽、あるいはそれ以上の群になって、まだ葉の出ないハンノキの木立やクヌギ、ナラなどの林のふちの高い枝でしゃべっている。これもまた四月も末あたりにはアジア大陸の東北部へ帰って行く連中である。
 青い鉛色に黒と白との目立つ羽毛をしたシジュウカラも、三月に入るともうその「ツーツーピー、ツーツーピー」の声の輝く糸を、山野の森や林はもちろん、都会の公園の木々の細枝に引掛けたりからみつけたりしている。しかしその急調子の歌に似ていながらもっとおっとりとして甘美なのは、春の山の赤や浅みどりの芽吹きのころ、しんとした昼間を木のてっぺんでただ一人、さながら反響を楽しんでいるかのようなヤマガラの歌である。流れにのぞんだ山村の奥や浅い雑木山の小みちに立って望遠鏡で拡大して見る彼の濃淡の褐色と黒との姿が、なんと日本的に美しいことだろう。情緒にみちた歌のために大きくあけられたその鋭い真黒なくちばしが、なんと可憐な又けなげなものに見えることだろう。
 一月末や立春のころ、庭のつばきの花の赤いあたりで、姿は見せずただ「チー、チー」とばかり鳴いていたメジロも、水もぬるみオタマジャクシの群れる春となれば人里近い古寺の庭や山麓の村のここやかしこで、その「チチルチルチル、チチルチルチル」のさえずりを聞かせる。私たちは何の鳥かといぶかって、頭の上に重たく垂れた桜の花の枝を見上げる。それが自然の中で見るメジロのいきいきした姿とその春の歌である。彼もやはりウグイスと一緒にこの歌を歌いながら山の故郷へ帰るのである。そして森林の樹の枝やアケビなどの蔓に、苔とサルノオガセとをクモの糸でかがった精巧な巣を造るのである。
 ヒバリの歌もこのころには完全なものになる。畑ならば麦がたくましくなり、河原ならば大イヌタデ、ヨモギ、ハハコグサの類が白い砂や小石の広がりに濃淡の緑を敷いている。彼の歌は日毎に強く輝かしく長くなり、空間に浮かぶその姿も日増しに高く小さくなる。まるで空から光の滝の落ちて来るような彼の歌に酔いながら、春の畑地や水辺の広い草原に立っていることがなんと楽しいだろう。私はかつてあるヒバリの歌の初めから終りまでの時間をストップ・ウォッチで測ったことがあったが、なんと六分四十何秒という記録を得た。
 歌と姿とその環境。この三つのものがそろった時、小鳥たちへの愛と感歎とは私たちの心の中で一層深まり育つだろう。

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 春の告知

 麗らかという言葉が漸くあてはまるようになった今日の日曜日を、娘のしゅうと夫婦が久しぶりに訪ねて来た。私などには想像もつかない多忙な生活に明け暮れているこの政治家にとっては、家屋敷の分布が寛濶で、まだ処々に大きな農家を見るほどに田園的で、いたるところ昔の林や古い高い木立が残り、水と空とのながめも広々としたここ多摩川に臨んだ高台へのドライヴは、確かに忙中半日の保養に価するだろうと思われた。
 それで今だにあの有名な髭をたくわえた老参議院議員は、大きな体を運んでその息子の経営している農園の鶏舎へはいりこんだり、好い気持そうにフレームの花をのぞいたり、庭の樹へ来て「ツーピー、ツーピー」と春の歌を始めた四十雀に息をこらしたりしていた。
 その姿が私に昔のイギリスの老政治家、と言うよりも寧ろ「ファロードン・ペイパーズ」の著者であるあのロード・グレイを思い出させた。頭上の帽子ヘー羽の駒鳥をとまらせている老政客グレイ卿を。
 ところで、草木の花の投げ入れをよくするこのわが国農政の長老のために、私は裏手の崖を下りて、あたかも満開の青軸の梅を二枝三枝切って来たが、その時その近所の暖かい日当りに、緑のモスリンのようなフキノトウの玉にまじって、ほのぼのとした空色の花を群らがらせている大犬フグリの一むらを見つけて、これも一緒に少しばかり摘んで来た。義兄の彼は喜んでその所望の梅を持ち帰ったが、大犬フグリは私の方が渡すのを忘れた。
 その可憐な早春の野の花を今夜机の上の玻璃の杯にながめながら、私はこの花に関係のある幾十という記憶の中から、書斎の空気の感触のせいか、それとも心のある微妙な揺曳からか、ともかくもふとある年の三月の、信州松本での事を思い出した。
 もう四年ぐらい前になるだろうか、私はそのころ住んでいた富士見からあの南信の主都へ講演に出かけた。会場は市内の松本音楽院で演題は「ベートーヴェン」。土地の医師や弁護士や教育家など五六十人を聴衆とした気品のある静かな雰囲気だった。数カ月まえから準備した私の講演は二時間余りで大過なく終ったが、そのあとでヴァイオリンの天才少年と言われた豊田耕児君がヘンデルの「パストラール」を、主催者の令嬢岩附敬子さんがバッハのピアノ曲「来たれ、甘美なる死よ」を、いずれも私のために見事に演奏してくれた。
 その翌朝、私は岩附氏のもう一人の令嬢とその叔父である友人とに伴われて、松本城から閑静な城山じょうやまの方へ散歩した。気候は松本では東京よりも一ヵ月近く遅れる。それで三月はちょうど東京の二月ごろを思わせた。やはり今日のように麗らかな日で、そよ吹く風は清らかに冷めたいが、日光は暖かく、道が城山の登りにかかると、早春の太陽を浴びた松本市街とその遠近の田園とが美しくせり上がり、ところどころで梓川や奈良井川の水が輝き、この風景を柔らかなヴェイルで包む薄青い春霞の奥に、まだびっしりと雪に被われた北アルプスの連峯がいよいよ荘厳に、いよいよ気高いものに仰がれた。
 そしてはるか南の薔薇色に染まった大気の果てに、遠い歌か薄れかかった記憶のように、仙丈・甲斐駒の影絵がふるえていた。

 ちょうど広い坂道の左が町の一部を見おろす崖、右は一帯に果樹園の斜面というあたりだった。私は路傍の黄いろい枯草の中に、水たまりに写った青空の一片かと思われるような大犬フグリの小群落を見出した。ここに峻厳な雪の山々と優しい野の花。懐かしい旧山河といち早いけなげな春の告知。
 私たち三人はその空色の花を一輪ずつ厚く重たい外套の孔にさして、当然のことのようにベートーヴェンのメロディーを歌い、シューマンのリードを口ずさみながら、それぞれの年齢が楽しくかもし出す美しい夢や願望を胸に、やがて一層の大観が待ち受けている城山の頂きに立つのだった。

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 五月のたより

 私たちが東京へ帰って来てからもなおずっと、長野県富士見の古い大きな別荘の一隅に息子さんたちと一緒に住んでいるある奥さんから、今年もまた高原の春を知らせるなつかしいたよりがつい三、四日前に送られてきた。そしてそれをきっかけに、ツツジが燃え、若葉がけむるこのごろのすがすがしい郊外の朝を、私のうちの食卓では、戦後七年間を暮したその土地でのいろいろなことが、すべて珍重すべき思い出として口々に語られている。
 わけても、都会と違って自然の大きな広がりと、その昼夜の深い静けさとの中で、長の年月を丹念に生きてきた私たちにとって、年ごとにそこへめぐってくるそれぞれの季節の風物についてのやさしい記憶は、別れて久しい今こそ一層痛切にも、鮮明にもよみがえるのである。そのよみがえりはただの一語の暗示で足りる。「レンゲツツジ」と言われれば、残雪を銀の糸のようにかけた青い八ガ岳の連峯と、それを背景にした赤や樺色の花の斜面が目の前に現われ、「河ガラス」と言われれば、あの濃い褐色の小鳥がしぶきにぬれて岩から岩へ飛びうつりながら、金のくさりを鳴らすようにさえずっている釜無の谷や、その枝沢の春の景色がおもわれるのである。
 別荘の奥さんからの手紙にもあった。「黒ツグミはもう十日ほど前のある夕方にこの生れの森へ帰ってきて、その翌朝からさっそくあのフルートのようなすばらしい歌を聞かせています。黄ビタキもきのう帰ってきました。そして今はその声の澄んだ響きが、森中の樹々のあいだをあでやかに縫っています。美しい赤ゲラはもう太い山桜や白カバの幹に、日がな一日コツコツと穴を掘っています。かわいいエナガの夫婦はそれよりも早くあのふかふかした袋のような精巧な巣をポプラの枝のあいだへしつらえました。シジュウカラも営巣をはじめたらしく、井戸のわきの物置の羽目にあいている節穴へしきりとコケの類を運びこんでいます。ヒガラも小河原ヒワもホオジロもみんな春の歌を声高く歌っています。先生のお好きなベニバナイチャクソウがあの森のくぼみ一帯を可憐なルビー色の花でうずめるのももう間のないことでしょう……」と。
 まったくそうに違いない。自然の狂いのなさ、正直さは、七年のあいだ来る年ごとの四月、五月を、いつもこうした歌や色彩で私たちをもてなし、喜ばせ、楽しませてくれた。それに比べれば人と人との間の約束ごとや誓いの言葉などというものが、なんとあやうく、あてにならないものだろう。
 それにしても思い出されるのは、あの高原の別荘の森での、五月夜あけの小鳥たちの合唱である。私と妻とは前の晩にあらかじめ明日の晴天を予想して、枕時計の目ざましを掛けておいて寝た。午前三時半にチリチリと鳴る。太陽が八ガ岳の峯から出るまでにはまだ一時間以上あいだがある。遠くの丘でヨタカが長々と単調に鳴いている。厚く着て雨戸をあける。森の中はまだ眠りからさめず、ほのかな明るみの中を冷たい空気が流れている。しかしもう頭上の梢では何かはっきりしないつぶやきがきこえる。小サメビタキのさざめきである。つづいて遠いツツドリのポンポンの声。一等星の最後の輝きがあせて消える。ヒガラやシジュウカラが次々と金属的な声のつぶてを投げる。黄ビタキが目ざめ、黒ツグミが身をふるわせて起きあがって、彼らの歌がこの暁の森林にきらめくばかりに響きわたる。その間を縫ったり埋めたりするように、今はもうすっかり目をさましたセンダイムシクイ、小河原ヒワ、小ゲラ、赤ゲラ、小ムクドリ、モズ、ホオジロ、キジバトなどの歌や叫び。さらにウグイス、カッコウ、アカハラたちの歌くらべ……これら十幾種類の野鳥の歌の競演は、こうして森の中に朝日の最初の光線がさしこむ時まで、ほとんど二時間近くをつづくのであった。高原の別荘に居残って住む奥さんからの五月のたより。それが今朝も私たちを喜ばせながらまた一つの郷愁をも感じさせた。しかもこうしたたよりは、女性の柔かいこまやかな心にしてはじめて書けるものらしいのである。

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 晩 夏

 九州北西部から山陰・北陸の裏日本を荒らして東北地方へむかった今年最初の台風は、きのうは東京にも影響をあたえて、終日の南寄りの強風と、夕方から夜へかけての、短時間ではあったがどしゃぶりの驟雨とをもたらした。私の住んでいるここ多摩川に近い世田谷の一角でも十二ミリの雨量を測った。一ミリで坪当り一升八合だから、ざっと二斗の降水量である。しかしこれだけの雨でも庭の木々や花たちはうるおって、今朝はそよ吹くなごりの西風のなか、澄んだ日光やきれいな青空の色をうけて、まるでもういちど生き直そうとするかのように、まじめにけなげに活気づいている。
 空気がすっかり洗われたおかげで、夏ぢゅう見えなかった山も今朝は見える。武蔵野台地南西の崖端に立っている私の家の、西へむかって開いた書斎の大窓からは、秋冬を通じて箱根、丹沢、道志、大菩薩、奥多摩の山々が木の間ごしにちらちらと見えるのだが、春は霞、夏は炎熱の濛気にさえぎられて、四千メートルから先の視程が悪い。これが毎朝見えるようになるともう秋で、二子あたりの多摩川の水をこえて、相模野台地のスカイラインの上に、富士はもちろん、幾つもの青い山脈が歌のように並ぶのである。
 窓が真西に向き、仕事机がまたその窓へ向かっているので、左に本社ほんじゃガ丸まる、右に滝子山をひかえて、いやでも笹子峠が正面に見える。この笹子の垂るみへ夕日が大きく沈むのは昼夜の時間が同じになる春分と秋分の日だが、春は来る夏への希望を前にして花やかに力づよく、秋はその赤さのために却ってむなしく寂しい気がする。去年だったかこの春の落日から

   春分の入日笹子に今滾たぎ

の一句を得たが、秋分のそれは、「赤々と日はつれなくも」の芭蕉の名吟が頭にあるせいか今だに出来ない。しかしその笹子峠の上からは甲州白根三山の一峯農鳥岳のうとりだけがこちらをのぞいて、冬は砦のようなその偉容が富士山と雪白を競うのである。
 この夏は体の都合で十何年ぶりに東京にいて、東京の庶民的な夏を享有し、満喫した。そしてこの経験もまたよかったと思っている。避暑はおろか、二日三日の海や山へも行くことが叶わず、来る日来る日を大都会の燃えるような夏と闘っている幾百万の人々を思えば、こうして田園や川に近く、花のいろどり、輝く水煙すいえん、さては蟬時雨にかこまれて、ほとんど田舎とも言える広々とした静かな環境に住みながら、好きな仕事や閑暇をわがものとしているのはまことにもったいないくらいである。私は一日の半分を机にむかって暮らし、残りの半分を多くの手紙書きや何ということない時間つぶしや、小さい孫たちの相手に充てている。仕事は楽しい時もあれば気の進まない時もある。しかしその仕事や手紙への返事書きがいかに心に染まない時でも、それをなおざりにしたり放擲したりするわけにはゆかない。それもまた私の責任ある生活の一部であり、僅かでも保たれている自分の信用をつなぐ道でもあるのだから。身勝手な者は敬遠され、忘れる者は忘れ去られる。感銘され記憶されることを願う芸術家が、まだ名も無かった昔を忘れて、多少の成功から傲慢になったり偏狭になったとしたら、流れてやまぬ世の中は彼を置き捨てて遠ざかるだろう。
 その私が今朝は早くから秋めいた西風や青磁色の空の光を机にうけて、先ず頼まれた短かい原稿を書き、ヘルマン・ヘッセと約束した彼の生活随筆の翻訳をつづけ、そして今、小さい孫娘の暑中休暇の宿題のために飼育している蝶類の飼育籠を、九つになる彼女やその弟と一緒にあけたところだ。
 卵から飼われてちょうど一ヵ月目に羽化した一羽の美しい青筋揚羽が、黒と浅黄に染め分けた鎧の袖のような翼をひろげて飛び去って行く。孫たちは大人の知らぬ敬虔な気持で目を大きくして、「さよなら、さよなら」と青磁色の空に消える彼を見送る。そして子供の心と蝶の心とへの感動が、今こそ強く私を打つのである。

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 私の庭

 武蔵野台地の西南端、そこから土地が急傾斜に落ちこんで、古い多摩川の沖積地と現在の青い流の帯とを見晴らす丘の一角に、私たち夫婦と若夫婦一家との住んでいるささやかな二むねの家がある。
 よく訪問客が「とても東京市内とは思われませんね」と、まんざらお世辞でもなく賞める田園的に明るい空のひろがりと草木の環境。
 地所が割に広いので、人間の住まいや、二千羽の白い淑女たちが一日中おしゃべりをしている鶏舎のほかは、平地も崖もその下の湧水地帯も、ほとんど栽培の野菜や花や野放しの雑草や、土着の針葉樹広葉樹におおわれている。
 庭というよりは空地だから、元より林泉の趣きもなければ、柔らかな緑の芝生に幾何学的な花壇という西欧風の庭園美もない。
 そのかわりには、亡びかけた古い武蔵野の植物相がいくらか残り、彼らと共に季節の小鳥や虫が家ぢゅうのみんなから大事にされ、勝手に歌い、遊び、労働し、恋愛し、生殖して、すべてがその本能を発揮し、自由を享楽している。
 この庭の一つの美点は、そこがいながらにして博物学的観察の場所たり得るということである。
 現にこれを書いている今でさえ、南に面した窓のむこうの落葉をかいて、四、五羽のコジュケイがひっそりと餌をあさり、その近くの水盤へ二羽のシジュウカラが降りてかわるがわる水を飲み、西窓の前の崖の林に十数羽のヒヨドリが集まってピーピーと鳴き騒いでいる。その木々の枝から枝へ大きな円網をかけた秋こそ太って美しいコガネグモやジョロウグモ。越冬の場所をさがして庇のあたりを徘徊している黒と褐色のアシナガバチ。
 咲き残った単弁ダリアにわずかばかりの蜜を求めて、よろめくように飛んでくる晩秋のキチョウやモンシロチョウ。
 その八月九月のヴィオロンの合奏も、十月の今日はすでに哀れにかすかになったツヅレサセやエンマコオロギ。崖林には栗の実が落ち、ドングリが落ち、オニグルミが落ち、泡のようなキノコが冷たく生えて、私の好きな細道が、ヤマホトトギスやアキノキリンソウの花の間を下の湿地帯へと曲りくねって降りて行く。
 庭には以前からあった樹木のほかに、信州富士見の高原から移植した記念の木々も育っている。今、亭々と茂って葉を黄色くしている数本の白樺は、戦後七年を暮らしたあの山荘からのものである。
 サラサドウダンもイチイもヤマウルシもそうだ。カラマツとリョウブとは入笠山にゆうがさやまのふもとから妻と娘とが採って来た。
 その他近くの山への遠足のたびに抜いて来た草や木が、いずれも環境に順応して年々に花を咲かせたり背丈を伸ばしたりしている。私はそういう彼らの前へ時々立って、忘れてしまわないようにその産地の名を言ってみる。この庭の西に開けた展望のために、大菩薩や道志・丹沢の山々が紫に染まる美しい夕日の時などは、彼らにしてもふと望郷の思いに誘われることがあるだろうが、ねぐらにつく前の小鳥たちのざわめきや、一つ二つと輝きそめてやがて数を増す田園の星の光に、花を閉じ、葉を垂れ、枝をおさめて、今は全くの異郷でもないこの第二の故郷を眠るだろう。
 そして、そういう時、たまたま柔らかな夜風に運ばれて、私の窓からモーツァルトやシューベルトの子守歌が流れるとすれば、それは隣の家の小さい孫たちのためばかりではなく、一つは自分の家族とも思っているわが庭のもろもろの生きとし生ける者のためでもある。


                        (一九五三年――一九五七年)



 

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 末消ゆるこころの波

 今朝私は自分の句帖を庭の片隅で焼いた。そして一冬の霜にただれた土の上に赤い小さい焔がうまれ、軽い白い灰ができ、四五日まえから咲きはじめた黄色いこまかい山茱萸 さんしゅゆの花のあいだを、薄あおい煙が柔かにもつれて二月の空へ消えてゆくのを眺めている私に、さすが一抹の感傷があった。
 こんな感傷や低徊がいつまでも続くものでないことは私もよく知っている。二三日もたったら早くも同じ片隅をその灰といっしょに鋤きかえして、そこへ薔薇か牡丹を植えるかも知れない。そして彼らの濡れた早春の芽をかぞえたり、その五月の花の華麗を待ち望んだりするかも知れない。なぜかといえば私にもまだ、朝の空を仰いでいくらかの未来に期待を寄せる心はあるのだから。しかし今夜はちがう。もう二度と持てないかも知れないと思う日々の体験をひとつひとつ慈いつくしむこのごろの私に、どうにかして物にしたいと願ってこの幾年ひとりで続けて来た作句の道を断念して、その記念の句帖を思いきって灰にした朝の記憶も新らしい今夜はちがう。
 もっと若かった頃には、深く契った何ものかとたまたまいさぎよく縁を切ることが、新鮮な自由な天地への勇ましい踏切台であり得た。つまずいて両手を突いた姿勢さえ、そのまま次の跳躍への態勢であり得た。しかし老年が来て、秋の夕日の野のように赤く重たく実った今では、存在する物それぞれに固有の価値と意義とが認められ、おおかたの物がすべて貴く思われる。使い古した一本のナイフでさえ、それとの永年の結びつきや生活の種々の場景の思い出の故に、これを無くせば今の心は曇るのである。まして句を作ることは一つの芸術への私の幾年の執心だった。それを捨てる。形にさえ、行為にさえ現して断念する。たとえ一篇の哀惜の歌が私の口にのぼったとしても、頭からむげに笑ってしまわない人もあるだろう。
 詩人の私が詩と並行して俳句を作ることを初めたのはいつごろのことだったろう。いや、それはずっと近頃のこと、つい十年程前のことに属する。それよりも遥かに早く、まだ詩を書こうとさえ思わなかった昔に、「国民俳句」で久保田暮雨(万太郎)や小杉余子らの投句を見て、時おりその真似ごとをやっていた遠い時代にさかのぼる。間違っていたらば宥しを乞わなくてはならないが、「小石川に庭木つけ馬時雨れけり」とか「時雨るるや小野の別墅の明り取り」というような余子の句が、その頃すでに萌えそめていた私の幼稚な詩心にせつなく響いた。小石川にも田園にも遠い下町育ちの私の心に、これらの時雨のイメイジとそのしらべとがなんと新らしく、またなんと懐かしく歌いかけて来たことだろう。もしも俳句芸術というものへ私の眼を開かせた人々を挙げるならば、誰は措いても小杉余子の名を逸することはできない。しかしそれから間もなく、矢継早に、私に外国文学の奔流が来た。トルストイが、ロマン・ロランが私を震撼し、ホイットマンやヴェルアーランの詩の国土が、その天空と地平線とをもって広々と私の前に展開した。あらがい得ない運命のように。そしてそれ以来、詩は私の一生の仕事になった。
 戦争中友達の詩人を介して大竹孤悠氏を知った。俳人として、また俳句の指導者として、すでに充分な経歴と実力とを持ちながら永く地方に在住しているために不当に不遇だった彼を、中央の有力者たちに知らしめる手引をするのが言うに足りない私の尽力だった。彼はそれを徳としてか、その頃また何十年ぶりかではじめた私の作句を、いつも無鑑査オール・コンクールでその主宰する雑誌に載せた。もとより「アングルのヴィオロン」だにも及ばない駄作だった。戦後移住した信州富士見、そこから間を置いて三四回彼の好意に甘んじたろうか。やがて私は出句をやめて、その後は寄贈される雑誌「かびれ」の一読者にかえった。それにしても彼孤悠氏やその高弟小松崎爽青君らとした浜街道の晩春吟行の楽しかったことは、私の「阿武隈は山みな同じ春の雲」を立句とした一聯の歌仙と共に、今もなおきのうのように悲しいまでに懐かしく思い出されるのである。それは戦い破れていよいよ慕わしいものとなった旧山河の春であり、救いなき頽廃の中でますます胸を打つ美しい芸術的歓会であった。
 海抜千メートルを横たわる長野県富士見の高原。私はそこの森の中で戦後七年間竃のほそい煙を上げた。その富士見の生活は数十篇の詩と散文とを私にもたらしたが、土地の人々はそういう詩人の私には敬遠して手をつけずに、たまたま俳句を物する私をもっぱら彼らの句会に招待した。八ガ岳の山麓、諏訪郡のいたるところで、いわゆる宗匠俳句、月並の俳句が盛んだった。私は句相撲というものにびっくりし、節をつけて朗々と吟ずる披講に冷汗をかき、宗匠の書いて与える聯板れんいたという物に目をみはった。そういう句会は十二月から翌年三月頃までの農閑期に各処で頻繁に催されて、人々は兼題の句や古い孕み句をふところに、雪や凍土の高原の道を遠く村から村、部落から部落へと集まって行くのだった。
 しかしまた一方には数の上でこそ及びもないが、純正な俳句、文学として俳句を励み楽しんでいる少数の人たちもあった。その人たちはそれぞれに「ホトトギス」「馬酔木」「夏炉」「雲母」或いは「山火」などへ投句していた。高原療養所の患者のなかに其の種の人がもっとも多く、他は山麓のいくつかの部落に一人二人と散在していた。そしてその人たちが下諏訪在住の木村蕪城君や私を折々まねき、また私の家へ集まって、句会を催したり批評を求めたりした。しかし彼らもまた、いや、彼らといえども悲しいかなまた、詩人としての私によりも、俳句に理解や愛を持つ者としての私に一層多く期待をかけていたらしいのは、ここでも同じ事だった。そしてたまたま私をうながして近作の詩を読ませながら、溜息をついて彼らは言うのだった、「どうも詩というやつはむずかしくって」
 しかし今もなお東京で親しくしている蕗子とか艸人とかいう連中は、彼らがその療養生活のあいだに物した

   春風や落松毬の生ま乾き     蕗子

   草萌ゆる密殺牛の骨古び     〃

   薄あをく辛夷の花の明けそめし  艸人

などという句をこの私に褒めさせたことを、或いは研究室の実験台に向かって、あるいは乳製品の工場で、たまには懐かしく思い出すがいい。青と白との残雪の山々と、水嵩を増した谷川の響きと、花や小鳥に美しく清らかだったあの富士見高原での彼らの恢復期の春といっしょに。
 またあの信濃の一角をついのすみかとしている人々のことを言えば、彩壷、燕覆子、桂雪、白樺らの諸君が、その故郷の雄大な自然や生活や、それらに寄せる清明な詩心の躍動から、次第にそれぞれの力を発揮しつつあるのを私は頼もしいものとして注目している。
 一方私の心はだんだんと句を作ることから遠ざかって行った。定型十七音という短かく厳しい形式のなかへ言葉を正確に配置しながら、夢の色調やニューアンスを失わずに、昇華された感動をもって、原感動のひろがりや余情の世界へと読む者の心を還元し開放することを目的とするこの詩の一種族は、それだけでも多年の技術的修練と内面的な教養とを重ねなくては、とうてい志を遂げさせないものであることを遅蒔ながら私は悟った。しかもこれをいまさら学ぶにしては、私に許されている時間がもう余りに残り少いものに思われた。たださえ時の経過の迅速なことを歎息しているこのごろの私に、たとえどれほど強く俳句創作の魅力が感じられるとはいえ、詩という一生の仕事の上になおこの新らしい課業を加えることは、どうあっても断念しなければならなかった。
 さらにまた俳壇にはいくつかの主流をなす流派とその無数の枝分れとがあって、その一つ一つが、存在の理由として何かしら恣意的で密教的な教義のようなものを持っていることも、私のような者には障碍だった。また程度の差こそあれ、そこに見られる党同伐異の風潮と、初心者を途方に暮れさせるような抽象的論議の横行とに至っては、その論争の調子のとげとげしさや、内容の案外な幼稚さや、時に見る低劣な嘲罵の応酬などと共に、ともすれば俳句そのものへの私の善意や関心を弱めさせるのだった。
 こうして一時は高く燃え上がった作句への熱情が次第に私から消えて、やがてただ他人の作を読むだけになった。そして本来の詩人の眼で時々のすぐれた句を見出すことが楽しくなった。それを味わうことが私の閑暇を芸術的陶酔の純粋な時間にした。
 そして今朝、幾年の作句を書き溜めた句帖を、咲きはじめた山茱萸さんしゅゆの木の下で焼いた。そこばくの感傷が私にあり、一聯の過去が記憶の映写幕エクランをかすめて過ぎた。そしてしばらくは私の心の空間に、私のもっとも好きな秋桜子の句

   鰯雲こころの波の末消えて

が残響のようにひびいていた。

                              (一九五四年)

 

 

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 よみがえった句

 調べる事があって、富士見高原在住時代の何冊かの気象観測簿をひっくり返していたら、気温や天気や風をあらわす数字と記号ばかりの殺風景なページのところどころに、その時々に作った俳句の書きこんであるのを発見した。ちゃんとした句帖は別に考えるところがあって焼き捨てたのに、黴臭く湿めった思いがけない過去帳から、色青ざめた亡霊共が、「古い悪い歌アルテ・ベーゼ・リーダー」が、浮ばれない者らのように姿を現わしたのである。それが調べものを手伝っている妻の眼に触れた。女は元来ものを大事にする。自分の物と同じように夫の物も。相手の淡白や気前のよさは、常に必ずしも彼女の同感するところではない。ましてそれが二度とは再現されない共通の思い出ならば、懐かしい思い出につながるものならば、なおさらこれをいとおしむのである。敬虔ピエテをもって。また憐憫ピティエをもってさえ。
 彼女は私に内緒でそれを写した。昼間は朝から忙しいからだだから、夜も更けて私が寝てから、母家も離れも寝しずまってから、書斎の私の机にむかって、くたくたになった帳面から慎重に根気よく探し出しては筆写した。昭和二十二年から二十六年まで、五年分で百句近くあった。そして「せっかく写したんですから良さそうなのに丸をつけてください」と言う。「そうしてどうするんだ」と訊くと、「あなたには執着がなくっても私にはありますよ。それに富士見で一緒にやっていた若い人たちがきっと喜びますから。蕗子ろしさんにしたって、艸人さんにしたって、蟻楼ぎろうさんにしたって、五郎さんにしたって、川上さんにしたって。みんな懐かしがって喜んでくれますよ。私きっと感謝されますから。奥さんよくやってくだすったって」「ふうん、そういうものかね」という次第だった。
 蕗子は第一次南極探検隊員の朝比奈菊雄博士、艸人は加藤食品会社の重役加藤末彦、蟻楼は東大薬学科落合研究室の小林義よし郎学士、五郎はリッカーミシンの支店長西野五郎、川上さんは登山家山口耀久の夫人久子さんである。富士見時代、こういう連中と私とで穂屋野会というのをはじめ、俳句もやっていた。もちろん「信濃路を過ぎて」という前書を持つ芭蕉の句「雪ちるや穂屋の薄の刈残し」の穂屋野で、私たちの住んでいたあたりから御射山神戸みさやまごうどの東一帯を古くはそう呼んでいたのである。
 とにかく私は妻の心も汲んでやって、他人の句を選ぶ気持で採点した。結果はどうも甘すぎたようだが、ほんとうは自分の作なのだから仕方がない。そして及第したのをまた妻がきれいに清書してくれたのを見たわけだが、作った本人には書かれていないところまで聯想やら共鳴やらが拡がってしまって、「今更こんな物を」と思いながら、つい愛着を新たにするような句も一つか二つはあるのだった。

    諏訪地方、晩の挨拶に「お疲れでございます」と言ふ
  お疲れといふたそがれの頬かむり

  この沢にきのふは雉子を年木樵

    灌木くろつばらは棘ありて、葉落つれば黒く円き実いちじるし
  今朝の冬宋磁に活けん黒つばら

    高原療養所裏の路傍に苔蒸せる道標ころげをり
  凍雲いてぐもや「右諏訪左木之間みち」

    富士見駅
  風花や汽車降りてくる女学生

  風花や上り待つ間の下り汽車

    流 寓
  紫の深雪みゆきの夕と眼をとぢぬ

    山村新年
  わが妻も藁沓遠き礼者かな

  頬白のつぎつぎと立ち冬木原

  野沢菜をきざむ手紅し夕みぞれ

    長女栄子を訪るるとて立沢道
  紅鶸べにひわやよもぎ伏せたる雪二尺

    書 棚
  厳寒の背革も「大気物理学」

    諏訪湖畔
  餅花に湖うみの風あり神宮寺

  薄雪を踏み手をのべて若菜摘み

  雉子鳴くや清貧妻を研ぎ照らし

  花しどみ流離といへど天地かな

    わが畠よりの眺め
  春哀れ遠ォ浮びをる槍穂高

    八ガ岳・阿弥陀岳下
  広河原とて散岩に夏わらび

    鳴虫かんたん到るところ
  邯鄲の細みふくらみ一節に

  とんぼとんぼ夕日の村となりしより

  いわけなき苔弟切も紅葉なる

    釜無谷に臨める山の中腹に俚称大ガヤといへる戦災の東京人三家族の開墾地あり
  大萱の開墾訪はむ花すすき

  裾野秋わが鎌痩せて雲白し

  粟打って額髪ぬかがみの塵賤しからず

  崩落といふは唐松もみぢかな

  降りたりて容かたちづくりぬ春深雪

  ひこばえの棙木ねぢきの赤や雪の果

  冬果てぬほの白樺にスピカ星

  山焼くは泉野村かうちけぶり

  野辺山の野を焼く煙日もすがら

  夕つづに桜ぞくらき其処も里

  畦塗のいづれが姉ぞ帯の色

  畦塗の顔振り上げしみめかたち

  畦塗って夕陽塗りこめんばかりなり

    キャべツ蒔くとて
  物種のあはれ一勺といふ桝目

    松本郊外島内
  花葱はなねぎや安曇あづみを乾く沖積土

  邯鄲やしらじら風の日もすがら

  啄木鳥けら鳴くや夕日が中の水木の芽

  残雪のからからとある疎林かな

  冬もはや沼かきにごし松藻虫

    佐伯祐三の遺作数点を見る、二句
  美の憑くやかかる厳しさ凍て返る

  巴里場末フォープールのこの浅き春われも哭く

  春雪に濡るるのみなる笹の原

    友人長男高校卒業
  いつのまに大きな春の雲となりし

    ブロックフレーテの練習
  笛孔の漆の朱あけや草青む

    釜無川七里岩
  蘭掘るや峡かいの雨雲さがり来る

    路傍所見二句
  路に画架春泥の色重ねをり

  なまなまと春泥描きぬ盛り上げて

    送別二句
  春愁の坂をくだりて転任す

  車窓春若き赴任の眸もあらむ

                              (一九五八年)

   

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 霧ガ峯紀行

 信州富士見高原の森の家での私たちの夏の滞在も、もうあと半月ぐらいで終ろうとする或る日のことだった。下りの列車へ乗るまでの一時間を利用して会いにきた霧ガ峯のヒュッテ・ジャヴェルの高橋さんが、いろいろな話の最後に「今はまだ県の種畜場の草刈が三十人ばかり入って泊っていますが、もう一週間もすると引上げて行って静かになりますから、そうしたら先生、今度こそ奥さんと御一緒にぜひ一晩でも二晩でもいいですから泊りがけで来てください。肝腎の名づけ親が一年たっても見に来てくれないじゃあ、だいいち小屋が泣きますよ。ねえ、お待ちしてます、本当に……」と、そう言葉を残して帰って行った。白樺の林の中を遠ざかって行く、そのカッターシャツのスコットランド風の格子模様が印象的だった。
 私たちの夏の家の軒先からそのまるい山頂の見える入笠山に、もう三、四年このかた登山者のための小屋を経営している高橋さんが、去年新しく霧ガ峯の奥の沢渡さわんどへ建てた山小屋の名ヒュッテ・ジャヴェルというのは、じつは私の命名だった。私にはジャヴェルの山の本の翻訳がある。十八年ほど前に初めて東京で出版されて、いまでは廉価な文庫本になって出ている本だが、その『一登山家の思い出』が日本の山好きの人たちの間に流布して、著者エミール・ジャヴェルの名は一部の人々から深く愛され親しまれている。高橋さんもその心酔者の一人だった。それで頼まれた時きわめて自然にヒュッテ・ジャヴェルという名は附けたものの、初めの内はいくらかぎこちなくも思われ、自分たちの好みにつき過ぎてもいるようで気になった。しかし時立つにつれて大して苦にもならなくなり、今ではあのスイス・レマン湖畔の亡き文学教授の柔らかな感性や、かぐわしい品位への思慕の情さえ加わって、山というものに甘美な郷愁をいだく人々の心に、その山小屋の名が特別な親しみをもって響くようになったというのは、当の高橋さんの言葉である。

 九月二十一日の晴れた朝、私と妻とは二日間の山歩きにふさわしい支度で森の家を出た。停車場への途中、左に八ガ岳の連峯とその長い裾野のスカイラインとを眺め、右に高等学校のグラウンドや開拓地の畠を見おろす尾根道を通ると、今日も遠く北西の山あいに薄青い穂高が見え、常念や槍ガ岳が見え、そのずっと手前に平坦な台地状をした霧ガ峯と、古い硫気孔の崩れをこちらへ向けた車山とが見えた。そしてついこのあいだまで黒ずんだ夏の緑に横たわっていたその山に、今ではだいぶ黄の色の加わっているのが、もうそこヘ一足早い秋のきていることを思わせた。それにしてもあと三時間か四時間すればあの山の上へ二人で立っているのだという考えに、私の妻の眸はかがやき、その胸は何か躍るものを感じているらしかった。実際彼女にしてみれば、戦後七年間東京を遠く離れてこの高原に暮らしていた間ぢゅう、焔のような草いきれの夏の日も、濛々としぶきを上げて荒れ狂う海のような雪降りの日も、駅前の町への買物にほとんど毎日一度は通っていたこの道から、今日はそこへ夫に連れられて遊びに行くというので改めてつくづくと眺めやる霧ガ峯――バスの終点の強清水こわしみずやその近所なら知っているが、それから先の幾多美しい草山の起伏や奥の湿原地帯などは、ただ話に聴き写真で見たほかには全く未知の霧ガ峯である。私が夏草の道の上で彼女の低徊をせき立てず、その深くあるべき夢想や感慨を乱すまいとしたのは寧ろ当然なことであった。
 汽車を下りた上諏訪ではバスの出るまでまだ一時間の余裕があった。それで華やかに塗装された大型新車の前方へ席を取った私は、妻に車へ残ってもらって、今では戦後の東京よりもなじみ深くなっているこの湖畔の温泉町の繁華な通りへ買物に出かけた。先ず一軒の本屋へ入って五万分ノ一の「諏訪」図幅を買った。友人であり考古学者でもある主人が店に出ていてどこへ行くのかと聞くので霧ガ峯へと答えたら、「珍しく奥さんと御一緒では秋の山もなおさらすばらしいでしょう。それにお天気も上々ですし……」と言って、わざとらしからず祝福してくれた。地図を筒のように巻いてパチリと音をさせてゴム輪を懸けた若い女の店員も、私たちの応答につり込まれてうなづきながら、人の好い微笑を浮かべていた。通りの向う側の大きな理髪店の前を通ると、有名な素人天文学者で十数年前にとかげ座の新星を発見したその店の主人が、白い作業衣姿で鋏と櫛とを手にしたまま、客の頭から離れて出てきて同じような質問を浴びせた。それでここでも同じように答えると、「先生、いい日にお出かけだ。今夜は星もよく見えるでしょう、天気がえらいよいで」と言った。
 横町の写真材料店でフィルムを買ったついでに、数日前に頼んでおいたヘルマン・ヘッセの肖像の複写がもう出来ているかどうかを尋ねたら、愛想のいい主人が出来ておりますと言いながら、引出しから大きな袋へ入れた印画紙を鄭重に取出した。この一夏の富士見高原滞在中、彼の選詩集の翻訳を九分どおり仕上げた記念に、ドイツの或る新刊書の口絵に載っていたあのモンタニョーラの詩人の近影をここの写真店で複写させたのである。出来ばえは期待したほどでもないが、人生に徹して昂然とした「硝子玉演戯」の作者のむしろ神秘的な木彫りの面のような風貌は、その古さびた鉛色の色調のために却って不思議に生かされているように思われた。私はこの大型の印画を旅のルックサックの中で痛めるのを惧れて、帰りに立ち寄るまで預かってもらうことにした。そしてなおほかでも、一、二軒買物をして、さてにじみ出る残暑の汗をふきながら、色さまざまなバスやタクシーがまるで大小の甲虫のようにひしめいている停車場前の広場へと引返した。

 こうした色々な人間世界のつながりから私たちの体と心とをうけとって、それをあの広々とした霧ガ峯の草や風や静寂のまんなかへ放つために、バスは定刻きっちりに発車した。秋の彼岸の休日とはいえシーズンを外れているせいか、車内は半分以上空席をあまして、しかも蓼ノ海から先へ行く客は私たちのほかに二人しか無かった。明け放した窓を吹きぬける涼しい風に日光の熱いのが却って頼もしく、町を見おろす観光道路のうねりくねりを走りながら、無数の鳶がきらきらと漁をしている諏訪湖の水のひろがりや、汀に映る沿岸の村々とその背後の山なみや、またその上へ遠い穂高の連峯や笠ガ岳のふんわりと浮かんだ絵のような風景が、私たちの久しぶりの遠足気分に、さながら期待をそそる前奏曲であった。

 角間新田で東京からの帰省らしい若い夫婦とその子供たちとを下ろし、蓼ノ海でどこかの放送局の技術員一行と彼らの重そうな荷物とを下ろすと、バスは今までの大見山を離れて、いよいよ霧ガ峯プロパーの登りにかかった。そして清水橋で池ノクルミヘの道を右手に分かって、やがて窓の左に奥鉢伏のゆったりとした柔かい草山を眺めながら、霧ガ峯が西へ張り出した比較的緩やかな尾根を幾曲りか迂回すると、上諏訪から一時間なにがしで、とうとう強清水の終点へ着いた。
 昔ここにたった一軒、長尾宏也君経営の大きなヒュッテ・霧ガ峯があって、その堂々たる玄関の硝子戸や、一階二階の幾十の窓々が山上の空や星を映し、朝日夕日を赫々と反射していた強清水。そこで柳田国男、藤原咲平、辻村太郎、木暮理太郎、武田久吉、中西悟堂さんらの連日の講演が静かに和やかに行われ、それを飯塚浩二、松方三郎、深田久弥、小林秀雄、石黒忠篤、赤星平馬、石原巌、村井米子さんらが他の聴講者と椅子を接して聴き入った強清水――そのわれわれが顔を洗ったり、婦人の客が濯ぎ物をしたりした強清水。シモツケソウやキンバイソウの紅や黄の花がぎっしりと湿地を埋めつくし、あたりのサワフタギやマユミの枝でホオアカが囀り、路傍の土くれやヒュッテの屋根の上をビンズイがちょろちょろ歩いていた強清水。これら多くの懐かしい名や光景がわれわれのうちで遠い美しい思い出になっている今、その思い出ですらも一笑に付して踏み消そうとばかりに、完全に破壊され俗化への一途を辿っている強清水だった。
 あの朗らかな初夏を彩った蓮華躑躅や小梨の叢林。夏から秋へと花の絶えなかった見事な草野。コエゾゼミの鳴きつれていた小松原。晩秋の霧にむせんで金色に濡れた落葉松からまつ林。それもこれも皆伐り払われて一帯の土地はすっかり乾燥し、その味気ない風景の中に五、六軒の旅館が散在して、なお新築中のものもあった。私はバスを下りると妻をうながして、この雑然とした不調和景観をあとに高橋さんの小屋への道をいそいだ。
 その小屋が見えるという千七百米の留塚とめづかの高みまで約十町の道は、もう強清水での情ない気持を忘れさせて、やっぱり霧ガ峯だった。そこまでくると眼に入るものは緩やかに起伏する草山の黄ばんだ緑の波うちと、日照り輝く遠い山腹で乾草を車へ積んでいる白い小さい人影と、放牧の牛のように点々と散っている黒い岩石と、それらの上にひろがって二つ三つ雲を浮かべた真青な九月の空だけだった。路傍にはさまざまな秋の花の中にセンブリや梅鉢草の小さな群落も認められ、新しく出た孔雀蝶や姫タテハが飛びかい、どこか近くからオオジュリンの“チュルッチュルッ”も聞こえてきた。そして今度の遠足のこの程度の第一歩にもすでにすっかり喜ばされた妻は、「私のほうが若いんですから」などと言ってルックサックを引受けたり、白い網をひるがえして蝶を追いかけたりしながら、草野を貫くだらだら登りの坂道を、私の後になり先になりして元気よく進んで行った。と、やがて、向うの高みのスカイラインに一つの人影が現れた。もしやと思って望遠鏡を構えると、果たせるかな例の派手なチェックのカッターシャツに黒ズボン、日に焼けた顔を喜びの笑みにくずして真っ白い強い歯並を見せながら、風をはらんで飛ぶように迎えにやって来た高橋さんだった。
 「いらっしゃいませ。とうとう来てくださいましたね。お知らせは今朝頂いたんですが、県庁の役人が来ていたりしたんで、お出迎えが遅れて済みません。さあ奥さん、そのリュックは僕が背負いましょう。あすこまで登ればジャヴェルは一目です。いい位置ですよう……」そんな調子だった。そして人気もない霧ガ峯のこの空と草との広がりの中で聞く耳馴れたその調子が、彼の苦楽のすべてを知っている私たち夫婦には千万無量のものに響いた。
 まもなく三人は留塚の高みに散在する岩の一つに腰をかけ、沢渡の上手の小高いところ、蝶々深山ちょうちょうみやまの秋の木々に囲まれて立っている別荘のようなヒュッテ・ジャヴェルや、その左手の奥のほうに柔らかな黄色に高まった八島ガ原の高層湿原を眺めながら、持参の弁当や菓子、飲物を分け合った。

 ヒュッテ・ジャヴェル――それは全くいい位置を占めている。東と北に草山の大斜面を背負って、八島ガ原へも近ければ鷲ガ峯や車ノ乗越のっこしにも程近い静寂の片隅、初夏には稀品オオヤマレンゲの雪白の花を見る自然林の樹叢の末端、末は遠く砥川となって諏訪湖へそそぐ谷川の源流が、窓の下を音立てて清らかに流れている。冬のスキーや春夏秋の行楽に、誰かこのヒュッテを宿泊の家か憩いの場所にしようと思わない者があるだろう。まだこの小屋が無かった時でも、この沢渡の水のほとりで足を休めて弁当をつかったりパイプを楽しんだりした人もきっと多いに違いない。私にしてもそうだった。そのいちばん古いのは二十年前、当時まだ小学生だった娘を連れて霧ガ峯に遊んだ時、八島ガ原から物見石、蝶々深山へと登った帰りに、道連れであった東京渋谷のフランス料理二葉亭の息子たちの一行がここにしましょうと言って、贅沢なランチをひろげたのがやはりこの沢渡だったのである。
 私たちは主人高橋さんの案内でヒュッテの内外を見せてもらった。小屋は洋風の二階建で(現在では増築されて一層広く立派になったそうだが)階下は食堂と日本間、階上は喫煙室と一部屋ずつに区切られた寝室になっていた。食堂には御自慢の安山岩で畳んだ壁炉が嵌めこまれ、椅子や腰掛も質素ながら高橋さんの趣味のいいところを見せていた。二重窓のついている二階の喫煙室がよかった。西から南へ向いたその窓からは黒々と繁茂した東俣の国有林と、漸く黄いろく枯れそめた霧ガ峯の平坦な嶺線とが眺められ、その嶺線の一ヵ所にぽつんと見える留塚の岩のあたり、折から乾草を積んだ荷馬車と馬の姿とが影絵のように浮き出していた。沢の水のふちを一羽の黄セキレイがちょこちょこと歩いていた。崖から突き出したダケカンバの捩れた幹に、真赤な長い嘴をした赤ショウビンがひっそりととまっていた。環境が静かなので、家は出来ても鳥などはまだ恐れを感じないものと見える。
 太陽が沈むまでには未だ二時間ばかり間があるので、私たちは二人で湿原を一廻りしてくることにした。沢の右岸の高みを横断すると正面に鷲ガ峯がそばだち、遠く美ガ原の一角が見え、眼の前には花毛氈を敷きつめたような八島ガ原の湿原が広々と展開した。まだ刈られていない草の中の小径を鎌ガ池のほうへ下りて行くと、行く先々で小鳥の群が飛び立った。立ちどまって望遠鏡で見るとそれが皆ノビタキだった。私はこのあたりに以前からノビタキの多棲していることは知っていたが、まさかこんな季節までこんなに無数に残っていようとは思わなかった。シシウドや大ヨモギの茎を横ざまに摑んで時々低い声で鳴いている彼らの羽毛はまだ夏のままで、その頭の黒と胸の茶褐色とが、一望の草原や湿原の寂しく落ちついた色彩との対照で限りなくいきいきと美しかった。

 時計皿を伏せたように中高になった湿原は、もう黄や赤や紫に色づき始めた各種のミズゴケ、蔓コケモモ、姫シャクナゲなどにふっくりと被われて得も言えず美しいが、鎌ガ池や八島ガ池の汀に近いところは植物の濫採のためにすっかり荒らされて、昔の美観を知っている者の胸を痛くさせた。学問や観賞のために書かれる文献が、学問や観賞の名で悪用されて、植物は根こぎにされ、ごっそり切り抜かれ、股までも入るゴム長靴で踏みこまれて、その貴い珍奇な湿原植物景観が年一年と消滅への途を辿っているのである。
 以前の美しさを知っている私のこうした痛憤にも拘らず、初めての妻には、それでもなお充分に見事な眺めであったに相違ない。彼女はふかふかと盛り上がった黄いろいミズゴケの島の上に、盆栽のような蓮華躑躅、サビハナナカマド、湿原ヤマウルシなどの赤や金褐色の紅葉を見出して感歎の声を洩らした。それに八島ガ池から古御射山ふるみさやままで、湿原の南西のへりを通る小径はまだ一面に花の咲いた秋草に被われていて、中でも黄いろいメタカラコウ、キオン、ハンゴンソウ、白いリュウノウギク、シラヤマギク、青や薄紫の細葉トリカブト、マツムシソウ、シオガマギク、ヤマラッキョウなどがさかりだった。妻は「悪いけど一種ひといろずつ採るくらいなら勘弁して下さいね」と言いながら、良さそうなのを選んで一本、一本叮嚀に折りながら明日の家づとの花束にした。しかしそれでもなお四十種に近い数があった。彼女はヒュッテヘ帰るとその花束を沢の水に漬けて、翌日は鷲ガ峯の裾を廻って和田峠へ出る間ぢゅう、ずっと大事そうにその油紙で包んだ重たい束をかかえていた。
 ヒュッテヘ帰り着くとちょうど日が暮れた。真西に沈む秋分の太陽は私たちの今来た道をまっすぐに照らして、この孤独の山小屋を歌の中の物のようにした。高橋さんは石油ランプに火を入れ、台所へ入って炊事を始めた。シーズンオフの今は使用人が居ないので、何もかも男手一つでするのである。妻は当然のことのように手拭をかぶり風呂敷を前掛にして、一緒に台所へ入りこんで何くれとなく手伝っていた。よごれっぱなしの皿小鉢を洗って片づけたり、丸めてある布巾を皆すすぎ出して竿に掛けたり、はては黒蝿の無数にころがっている客用便所の掃除まで始めた。愛すべき高橋さんは頭を搔いて恐縮のしどおしだった。「これじゃあ、まるでどっちがお客だか判りませんね」と彼は言った。
 海抜千六百四十米、広大な霧ガ峯の静寂のまんなか、音と言ってはただ沢の水音ばかりの夜の山小屋の食堂で、二つ点もされたランプの光に十年なじみの顔をかたみに慕わしく見合せながら、私たちの挙げたビールのコップがなんと意味深いものだったろう! 小屋に有る限りの貯蔵食料が持ち出され、罐詰が切られ、くだものが剥かれ、追加の酒が後から後からなみなみとそそがれて、三人だけの水入らずの食堂はさながら隊商の幕営だった。
 上諏訪の友人であるあの天文学者の言葉も私は忘れなかった。それで寝る前に二階のヴェランダヘ出て空を仰いだ。空はすごいほど澄み渡って、その深淵のような空間を宝石の粉のような星がぎっしりと埋めていた。銀河は北東から西南西へと弧を描いて横たわっていた。頭の上にはペガススの大四角形が整然と懸かり、それに続いてアンドロメダやペルセウスが車山の尾根をかすめて昇っていた。アルタイル、ヴェガ、デネブなど銀河の中で特に輝く一等星は言うまでもなく見事だが、東俣の谷へ落ちこみかけている蛇遣へびつかいの星座が、地平拡大の作用でいかにも堂々と立派だった。牛飼の輝星アルクトゥルスはもう鷲ガ峯のほうへ沈んだが、終戦の年にその新星を私の見た冠座は、天の大きな宝冠を黒々とした山の頂きに載せていた。しかしそのうちに八島ガ原辺りの沢筋から霧が湧き出して、やがてそれが濛々と立ちこめて来た。無風快晴の秋の夜を山上の空気がどんどん冷えてゆくので、混合霧が急速に発生して来たものと思われた。小屋は濃霧に包まれてもう何も見えなかった。私はヴェランダを辞して寝室へ帰った。妻はまだ起きていて、何かこまごまと手帳へ書いていた。
 その翌日、今日もまた快晴の午前を私たちは高橋さんとヒュッテとに別れて和田峠へ向かった。高橋さんはなごり惜しげに八島ガ原の見えるところまで送って来た。暫しの別れの言葉だの記念撮影などで手間どった。やがて思い切って「さよなら、さよなら」の手を振り帽子を振りながら別れた。最後に振り返った時、高橋さんはカメラをこちらへ向けていた。今その写真が私の机の上にある。古御射山、湿原、鷲ガ峯を遠景に、草原の中の糸のような小径を私たち二人が辿って行くところである。私はルックサックを背負い、妻は経木真田の鍔広な帽子をかぶって白い捕虫網をかついでいる。鷲ガ峯から美ガ原の空へかけて高い巻雲が帯状に流れ、鉢伏山のうしろには真っ白な積雲が横たわっている。
 それにしてもこの大きな広がりと美しい寂寞との中を、ただ二人行く私たちの姿がなんと孤独だろう。三十幾年を試みられ洗いざらされた愛の感情と、日の光や雨のように単純で天然の滋味を持った互の思いやりと心づかいと、やがては今の別れよりももっと大きな哀別を覚悟しながらの毎日を生きている二人――。その二人の、これが真実の姿なのだ。これでいい。これ以外、どんな見えも修飾もいらない。そして二人はこの心、この姿で霧ガ峯を訪れたのだ。
 私は八島ガ池の上、ぼうぼうと茂った草の中の分れ道で、右手和田峠への小径へと妻を導いた。

                             (一九五五年)

 

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 木曾の旅から

 木曾を思うことは人の心の淳朴の美を思うことである。少くともたまたま旅びととして、他郷の山河に身をゆだねて行きながら、きのうまでは見も知らなかった人々に接したり待たれたりして、その行きずりのささやかな交渉から人生の深い意味を見出そうとする私にとって、国内旅行のわずかな経験から言えばそうである。
 こんにちでは人情の美なんぞと言ったら一笑に附されるかも知れない。そんなことは一つの古くさい安易な感傷にすぎず、世の中の現状はもっときびしく猛々たけだけしく、人心の明暗も複雑多様で、その表裏は容易に判じがたく、美しく見えるそれさえ、俄かには信じられないというのが、深刻に賢い人たちの間での定説のようだ。いや、そればかりか、そんな「美」なんぞを口にしないほうが清潔でもあれば、また大いに現代人的でもあるということになっているらしい。
 しかしそうした逞ましい懐疑主義や抗毒素的な否定主義を私はあまり重視しない。晴れやかな自然の眺めに精神が高揚され、芸術の深奥な美にたましいが魅せられたり清められたりするように、女や子供や青年や老人らのしばしば見せるあの真情、あの無邪気、あの無私の善意や率直さに今でも私が打たれるからだ。そういうものはちょうど水や日光や空気のように、その功徳くどくや作用はいきなりそれと気づかれなくても、なおかつ到るところに存在して、たえずすべての生命の生きる力や生き甲斐を養っているのだ。
 そしてわれわれがそういう人心の淳朴の美に対して鮮かな感銘を持つ機会は、わけても旅の時に多いように私は思う。なぜならば旅とは、われわれの心や精神が、行くさきざきで遭遇する風物に対すると同様に、他郷の人々に対してもふだんよりも一層新鮮に、一層感じばやく、また一層喜ばしく調子を張っている時だからである。
 この世になお存在する善意の確認と人間への信頼。これこそわれわれが旅から持ちかえる最も貴いみやげの一つである。そしてそのいかに多くを私が木曾の旅から得たことだろう!

     *

 高峻駒ガ岳と御嶽山とが彼らの断層崖で深い峡谷をつくった木曾川の流、その碧あおい流を脚下に見おろす狭い段丘上の福島と上松二つの町。一方は由緒ある古風な家庭へ嫁入った物静かな姉のようであり、他方は事業慾に燃えて活潑に営んでいる弟のようである。殊に近年大火に見舞われながらも目覚ましく復興したこの弟上松は、同じ山間の街道筋でもいくらか余裕のある地の利を活用して、風越山のケルンバッ卜を背に、本流木曾川と支流小川との広やかな出会いを前に、その用材積出しの最大駅に木曾の五木の巨材を積み上げ、碧い渓流のよどみに映る寝覚の床の、白い方状節理の花崗岩に山躑躅やまつつじの赤を点じ、鶺鴒せきれいの黄を飛ばせ、木造の目ぼしい新建築にすべて檜を使っている。
 私が或る新築の小学校の、まっすぐに柾まさのとおった広い長い廊下をすべるように歩きながらその贅沢のわけをたずねると、中年を越した好人物の小学校長は目尻に皺をよせて笑いながら、使いにくそうな東京弁でこう答えた。
「ここでは檜のほうが松などよりも安上りだからでございます」
 その上松の学校で地区の教職員組合の先生たちのために講演をしたあと、私は彼女らの校長と一緒にわざわざ傍聴に来た福島の女子高校生十人ばかりを応接室へ呼んでもらって、その頃ちょうど出版された自分の小さい選詩集を一人一人に署名して与えた。と言うのは、その前の年に私は彼女らの福島の学校で文学講演をしたのだが、人懐こい木曾の娘たちは会が終っても私から離れず、はては渓畔の旅館までついて来て夜遅くまでそばにおり、翌朝私の乗った列車が学校の下を通る時、折から登校時の彼ら数十人が思い思いに線路のわきへたたずんで、いつまでもいつまでも私の名を呼び手を振って別れを惜しんだ。そして次の年の正月にはその中の十人あまりがめいめいに東京の宅に年賀状をくれて、私のために健康と仕事とを祈りながら、「またのおいでを待っています」という優しい言葉を書き添えることを一人として忘れなかったからである。その再遊だった。私はあらかじめ上松での講演のことを彼らに知らせた。そして今自分の著書を与えながら彼らの喜びを我が喜びとし、その妙齢の胸のときめきの、我が老いたる心臓にもつたわるのを感じた。
 雨になった夜の上松の宿やど。昼間寝覚ノ床の巨岩の間や臨川寺などへ案内してくれたあの脱俗的で義理堅い小学校長を初め二三の先生たちと膳に向っていると、本を貰った女学生のうちの二人が玄関までたずねて来て、「お疲れの今夜のお慰みに」と言って数本の笹百合ささゆりを置いていった。今日の講演会場で卓上に活けてあった同じ花を私が美しいと言って褒めたので、わざわざ山へ行ってその最も見事なのを手折って来たとのことだった。優しいこころざしの花はすぐに床の竹筒に活けられた。その淡紅ときいろの透きとおるような花びらにも笹のように細く尖った緑の葉にも、まだ雨のしずくか、山路やまじの露の名残りかが、点々とついていた。

     *

 清楚で人懐こい木曾の乙女のような笹百合の花は、六月のなかば、鳥居峠とその周辺の山の岨道そだみちにも咲いていた。
 今度は同じ木曾でも組合の地区を異にした教員諸君に講演のための、数えて三度目の旅だった。もう藤も躑躅も朴ほうの花も終って、晴れたかと思えばまた降りはじめる梅雨空の下の青葉の谷に、山ぼうしかんぼくの花が白々と咲き、またたびの半白の葉が湿めった風にさびしく裏がえっている頃だった。中仙道の古駅奈良井の宿しゅく。その奈良井でも古く名のある越後屋というのが私のために用意された二た晩の宿だった。鳥居峠のトンネルに近く、二階の奥座敷の裏手を中央線の線路が走り、そのむこうに石の河原を見せて、末は犀さい川と合する奈良井川が白波上げて流れていた。
 そしてその河原にはところどころ柳がなびき、朝早くや夕方には待宵草の薄黄の花が、詩人私の旅の心に語りかけるように咲いていた。
 講演会場は宿から遠くない楢川の学校だったが、所属の組合の先生たちのほかに隣接地区からの有志の参加もあって、聴衆はこの前の上松の時よりも一層多かった。
 二時間あまりの話が終ると広い雨天体操場はそのまま総会の宴会場と変り、折詰がならび壜詰が立ち、賑やかにも和やかな談笑や、杯の献酬のあとは、郷土色溢れるばかりの木曾節の合唱と踊の輪だった。
 しかもこうした和楽のうちにいささかも粗野な点や卑しいところがなく、最も正しく古風を歌ったり踊ったりすることのできる一人の明眸の女教員を中心に、数十人の教員が心から楽しく声を合せ、差す手引く手を揃える様は、見ていても快くほほえましい限りであった。
 それから越えて四日目に、私は帰京の列車の窓からこの学校をなつかしく眺めたが、奈良井川の旧河床上に載っているその学校の運動場で、おりから一人の年わかい先生が、生従に体操をさせていた。
 私はその先生があの日あの楽しい踊の輪の一環であったことを想像して、何か咽喉もとに込み上げて来る物を覚えた。

     *

 木曾川と奈良井川とを南北に振り分けて、西に御嶽おんたけとその裾野の大観とをほしいままにする海抜一一九七米の鳥居峠は、木曾に遊ぶ旅人の一度は立ってみなければならない処だと、私ばかりか既に多くの先人たちも思っている。
 その鳥居峠へ「晩のお食事までに帰って来られるように、御案内いたしましょう」ともうし出てくれたのは、人品のいい、ものしずかな楢川ならかわの校長さんと、私の富士見在住時代に、その地の小学校長として面識があったが、今では峠向うの宮ノ越へ転任して、そこの校長になっているH氏との二人だった。
 奈良井宿のふるい家並を南へ出はずれて、廃道のような旧街道のほそいジグザグの坂をかなりのぼると、やがて山腹を切りひろげた赤土の新道へ出た。
 トラックや乗用車の通るこの新道には「笠に木の葉が散りかかる」という木曾路の旅の詩情は皆無だが、今日のように時間を切っての往復には楽だった。
 私たちは奈良井川の谷を見おろしたり、むこうの青葉の山にうら寂しく咲いている白い花を雙眼鏡で眺めたり、時おりひびく駒鳥やこるりの声に耳を傾けたりしながら、一時間あまりで新道の峠へ着いた。
 旧道の真の峠はもう少し上にあるのだと言うが、そこまで登る代りに山稜に沿って南へ三四町小径をたどり、数百年を経た見事な橡とちの原始林を抜けて、山の或る突端に鎮座している御嶽神社の遥拝所まで行って見た。そしてその風雨に枯れ、さるおがせをぶらさげた祠の裏手へ立って目ざす御嶽山を西の正面に探したが、さしもの雄姿もあいにくの低い雲に裾野だけしか現さず、その四つの峯の天に捧げる宝冠は、ついにこれを見る由もなかった。
 しかしそれにしてもそこになんらの代償がないわけではなかった。御嶽山に失望した私たちが、脚下数百尺の地の底を深いトンネルでくぐって今度は木曾川の流域へ姿を現した中央線の鉄路や、名物お六櫛で記憶される藪原の古駅を箱庭の点景のように見おろしている間に、さっきからあたりで鳴いていたえぞはるぜみの一匹がサッと飛んで来て、つい眼の前に立つ一基の苔蒸した石塔へかじりつくようにとまった。
 二人の校長はその蟬の名も知らず、見るのも今が初めてだと言った。私は毎年いちばん早く鳴き出す平地のはるぜみに近縁のこの蟬が、北海道や本州の七八月の山地に多いこと、ここまで来る途中でも既にたくさん鳴いていたこと、またその音の調べが独特に美しく幽邃であることなどを改めて説明した。そして「よく見ていてごらんなさい。今に鳴き出しますよ」と言った。二人の教育者は固唾かたずを呑んだ。
 風化した石塔へしっかりとつかまったえぞはるぜみは、やがて機が熟したのか心もち腹を上げ、六本の細い脚を踏んばって先ず「ヨーギン」と荘重な一声を発した。実に見るさえ精力的な感じだった。
 私は校長たちに目くばせした。二人はしゃがんだ姿勢で腕組をし、身を固くして蟬を見つめた。蟬はまた「ヨーギン」と力強く落ちついて鳴いた。あたかも自分の発する音響で空気の密度を測定しているように。
 そしてそれからはさも納得なっとくがいったように先ず「ヨーギン、ヨーギン、ヨギギギギーン」と完全な一節を歌い、さらに幾節かを歌い続けてしばらく止め、その間にじりじりと位置を変えると、また鳴き初めた。
 校長二人はこの一部始終を精根こめて見きわめ味わいつくしたらしかった。その深い感銘と喜びと或る種の感奮とは、疑う余地もなく彼らの両眼に輝いていた。
「いい勉強をさせて頂きました」と楢川の校長は言った。「生徒にはふだんから観察や研究の大切なことを教えていながら、それがこんなにも感動的な楽しいものだということを身をもって知ったのは、本当に先生のおかげです」 私はその思いつめたような感謝の言葉に赤面したが、木曾の辺鄙に人の子を導くこの教育家の、偽らざる真情には深く胸を打たれた。

     *

 上松や楢川での再度に及ぶ講演を聴きに来てくれた開田かいだ中学の校長S先生のおかげで、私は木曾の山奥の別天地、開田高原の一角を覗くことができた。
 いわゆる開田高原かいだこうげんは御嶽山の東北東約三里、岐阜県との県境野麦峠から南へ約四里、木曾福島から北西へ四里近い山坂の登りを越えたところにひろがっている一帯の小起伏地で、中学や小学校の本校のある中心部落把たばノ沢さわで海抜約一一三〇メートルを算する美しい高地である。
 冬は雪も深く寒気もきびしいらしいが、夏は涼しく爽かに、秋はまた玉のように澄んだ天地を西野川とその支流末川とが幾つかの素朴な部落を縫って流れ、古来木曾馬の産地の名にそむかず一帯の丘陵原野はおおむね牧草に被われて、その間をいたるところきれいなせせらぎが音を立てて絵のように流れている。
 そして雲や霧さえなければ朝から晩まで、永久に雄渾な全容を見せているのが、言わずと知れた御嶽山である。
 しかし開田中学の校長さんと若い教員で旧知の人であるK君とに案内されて、木曾福島からバスで行ったその日も翌る日も、あいにくと天気が悪く、開田からこそと期待した御嶽山はついにその片鱗すら見せなかった。だがなんと高原そのものが美しかったことだろう。
 初めのうちは黒川という谷の本流に、やがて渡合橋という橋のところからその深い枝谷に沿って登る長い山坂を登り切ると、忽ちゆくてに天地が開けて標高一三三六メートルの地蔵峠だった。
 そして車はそこから幾つかの弧を描きながら、朗らかに歌でも歌うような気分になって一散に開田へ駈けおりて行くのだが、実にその峠を境に突如一変する風景の広々とした明るい美には、ただ驚歎の眼を見はるほかはなかった。
 行ったことはないが写真や絵で見たり文章で読んだりした南部イングランドの丘陵諸州、ウィルトシャーかサリー、サセックスの一角でも見ているような気がした。
 今のような夏でもいいが一天晴れた木曾の秋、木々が絢爛に紅葉し、すべての牧草の野や斜面が温かい黄に枯れる時、初雪を待つ御嶽や眼下に散らばる遠近の部落を眺めることが、どんなに楽しくもまたすばらしいことだろうと思われた。
 私たちは峠の下に横たわる末川の部落の一つでバスを乗り捨てて、そこからいよいよ絵画的になる開田高原プロパーの花咲き乱れた丘陵の起伏一里ばかりをゆっくり歩いて、その夜の泊りに招いてくれた校長さんの自宅のある把たばノ沢さわの部落へ入った。
 末川の方は時間がなくて見られなかったが、この把ノ沢までの途中藤屋洞ふじやぼらの小部落を中心にした、小川と牧草地と明るい濶葉樹林とに飾られた広がりが、私にますますそこを憧れの南部イングランドの片隅のように思わせた。
 羊歯類しだるいの多い牧野は遠く眺めれば緑のビロードのように温かくつやつやと、近づけば寝ころびたいほどふかふかと厚く柔らかだった。
 せせらぎの縁には赤や白や黄や紫の花が咲き、白樺や草紙樺そうしかんばの林では四十雀や日雀ひがらが囀り、路傍の牧柵にとまって頬白が歌っていた。そして部落の農家では一軒残らず特徴のある木曾馬が大切に飼われて、当歳の仔馬が長いまつげをした愛くるしい眼を伏せては秣まぐさを食んでいた。
 開田高原は牧歌の里だ。木曾の谷もまた私には詩だ。
 人の真情を忘れぬかぎり、私に余生のあるかぎり、なお幾度か会ったり見たりしたいと思うのは、実にあの国とあの人々とである。 
                              (一九五四年)

 

 

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 秋の日記

 九月九日――
 今夜、と言っても実は翌十日の午前二時からだが、信州富士見で試みて以来五年ぶりで、ペルセウス座の食変光星アルゴルの肉眼観測をやってみた。(註。相接した一つの暗星と一つの輝星とが互いに廻り合って、その輝星が暗星のために光の一部を時間的に規則的に遮られる現象を食による周期変光現象という。そしてアルゴルの変光周期は約二日二十時間四十九分という短かいものである) 先ず「天文年鑑」でその極小の時刻九月十日午前三時を確かめ、九日午後九時、十時と二回に亘ってその二・二等という極大光度を観測して置いて、さて一度床へ入って午前二時の目醒まし時計で起きた。
 望遠鏡と懐中電燈と変光星観測用の切星図チャートとを持って庭へ出、花壇の間の用意の椅子へ腰を下ろす。東のほう五十メートルばかり向うの生垣の頭とすれすれに、ちょうど木星が爛々と昇って来たところだった。庭ぢゅうが虫の声で賑やかだ。えんま、みつかど、つづれさせ、三種のこおろぎに、鐘叩き、青松虫。そして時々遠くなり近くなるあおばずくの「ホウ・ホウ」。一片の雲もない天空は濡れたように深く柔かく、その紫ビロードの円天井に大小幾千の星をちりばめ星雲を煙らせている。中でも最も目につくのは昇ってからまだ間もないオリオン、牡牛、馭者など、全天の約四分の一を領している大星座群だ。そして双子座のカストルとポルックスとを連ねた線の下約十二度のところに、大きく見開いた隻眼のような木星。振り返ると一昨七日に最大接近をした金紅色に輝く巨大な火星が子午線を西へ移って、書斎の屋根のうしろの杉林の上に斜めに爛爛と沈みかけている。僅か二日でもう二十万キロも地球を遠ざかった火星である。
 さて当のペルセウス座の変光星アルゴルは、午前二時過ぎには既にいくらか光が薄れているように見えたが、時間の進むにつれて急速に減光の度を増し、ついに午前三時十五分頃には直ぐ近くの四等星ピーぐらいの光度まで落ちた。これが最小の限度でこの状態が約十五分間つづき、それから五時間半で元来の二等星の光に戻るのである。しかし彼の光がもっとも衰えた瞬間、望遠鏡の拡大された円形の視野の中には、寂寞というか、無常というか、或るはかなさが霧のように拡がる思いがした。私は夜露に濡れた花壇の中で四時近くまで観測を続けたが、その間にペルセウスに属するかと思われる流星が三つ飛ぶのを見、M34の散開星団や、有名な美しい二重星団などを観望した。そして痛くなった首筋を揉みながら家へ入る頃には、木星と小犬座のプロキオンと大犬座のシリウスとが、あたかも一顆のトパーツと二顆のダイアモンドのように、東方の空高く横一文宇となってせり上がっていた。

     *

 九月十日――
 昨夜の快晴と静穏とにひきかえて、今日は朝から南西の強風と断続的な雲の疾走。日本海を北東へ進んでいる台風十二号の影響であろう。秒速十メートルから十五メートルを算するその風の中で、今月三日に亡くなった片山敏彦の夫人愛子さんの告別式が行われた。式場は国電荻窪駅から東へ六七町の杉並公民館。故人が上野出の声楽家なので音楽葬ということだった。
 私の行った時にはもうその音楽葬が初まっていた。暗くされた土間の椅子席は参列の人々でほとんど埋まり、五対の清楚な大献花で飾られてそこだけ明るい照明をうけた舞台の中央に、故人の遺骨の箱と引伸ばしの大きな写真とが安置されていた。私は偶然に視線の合った知人の誰彼に無言で会釈をしながら後方の席へ腰を下ろした。そっと肩を叩かれて振りむくと、来年の春の婚儀を待ちながら今はまだフィアンセーユの仲の幸福な若い二人がうしろの席にすわっていた。そして舞台に面して左側の最前列には、愛の伴侶に先立たれた気の毒な友人片山敏彦が、二人の遺児や親戚の人々と並んで、ほの暗い光の中に哀傷の顔をうつむけているのが見えた。ベートーヴェンの「月光」の第一楽章が夢のように鳴り消え、故人の同窓で私の孫の先生でもあるピアニストが、薄い喪服のスカートを曳いて静々と舞台を去った。
 つづくシューベルトの「溢るる涙」と、「春の夢」の独唱、ショパンの或る「夜奏曲」とベートーヴェンの「パセティック・ソナタ」第二楽章の独奏とのあいだ、私は清らかな白や黄の花に囲まれた黒枠の額の中に、紫御召らしい着物に白襟をかけた体格の立派な故人の、きれいな眼を優しくみひらいて幾らか沈欝な重たい微笑を浮かべている顔を遠くから見ながら、彼ら夫妻との友情の日々を思い出していた。その友情は戦争を契機とした互いの微妙な感情から、十年間というもの不本意な疎隔を続けていた。それが再び古い親交を取り戻してこれからは楽しく家族的に往来ゆききするようになろうとした折も折、思いきやこの悲痛な出来事だった。今、額の中で彼女はすこし首を傾けて微笑している。心臓弁膜症によるその突然の死の前日、ヘルマン・ヘッセから手紙を貰って夫妻共に喜んだ時、興奮した片山が「僕も仕事のためにあと五年は生きなければならないから宜しく頼むよ」と言ったらば、彼女は何も言わずにほほえんだというが、その微笑だ。やすやすとは感情をおもてに現わさず、驚くほど重厚に忍耐づよく、ただ内部でのみ美しく燃えていることの多かった彼女が、軽薄でいつわり多い世にあってたまたま人の真情に触れたとき、首をかしげて静かに浮かべたあの微笑だ。その微笑が、いま彼女の死を悲しみ恨む私にもまた、モーツァルトの鎮魂の歌のしらべと、献げられる花の香との中からそそがれている。
 帰宅して後の夜晩く、庭の木々にまだ昼間の風のなごりのざわめいている時、かつて故人が私のために歌ってくれたシューベルトの「夕映えの中にてイム・アーベントロート」とフーゴー・ヴォルフの「秘められし愛フェアシュウィーゲネ・リーベ」とを、今度は亡き夫人のために私が歌った。

     *

 九月十九日――
 午前中は新聞を読まないことにしている私が、今朝ふと東京新聞を見るとハンス・カロッサの訃報(UP電)。全く思いがけないことなので一目見た瞬間息のとまる思いがした。死因は心臓病で、この十二日の夜西独パッサウの自宅で逝去したとのことだった。享年七十八歳。ヘッセよりも一つ年下だ。
 一と月に二度か三度は、詩であれ小説であれ、必ずその幾頁かを読み返さずにはいられなかったカロッサ。私自身の齢が傾き、毎日の体験に濃い影と輝きとが添い、その一つ一つがいよいよ意味深いものに感じられるこの幾年、私にとってカロッサは最も愛と尊敬とに価する現存の詩人であり、作家であった。またカロッサ自身も近年の一作ごとに円熟と底光りとを加えてゆき、寡作であればあるほど読者としては次の新らしい作の出版が待たれ、そしていよいよ出ればそれを読む悦びたる真に言いつくし難いものがあった。しかしもうそういう楽しみもないという落胆と、かけがえのない人を失ったという損失感。およそ彼を愛するほどの人は皆同じ気持だろうと思うのだ。
 夕刊の東京新聞にさっそく、芳賀檀氏の「カロッサの人と作品」が出た。「上」とあるからまだ続きがあるらしい。今日のは咋年の夏筆者が西独パッサウのリッツシュタイクの自宅にこの詩人を訪ねた時の回想である。「以前会った時からみるとなんと老けられたことであろうか。ふさふさした頭髪はまっ白に変り、限りない優しさを押し包むように疲れがにじみ出ていた。恐らくその疲れの中にはカロッサが堪えて来た多くの悲しみ、殊に二つの大戦による巨大な苦しみが含まれていた。それはもうカロッサのあらゆるものを奪い去ったかのようだった」と芳賀氏は書いていた。
 読売と朝日の夕刊にも数行の外電が出ていた。死去の日附は読売では十一日夜、朝日では十二日となっている。(後に高橋健二氏にただしたら、十一日夜というのが一番確からしいということだった)
 今宵は旧暦八月十五日で仲秋の名月。しかし月はあおばずくの鳴いている向うの森の上に黒々と拡がっている層積雲の間から時々その力のない輪郭を見せるだけで、それもやがて瞑目するように厚い雲間に没して再び姿を見せなかった。それでも二人の孫は薄や萩、芋や栗や葡萄や梨を供えた縁側へ腰をかけて、「お月様」に縁のある童謡をいくつか歌っていた。この十月で満四歳になる弟の敦彦はまだよく歌えないので、小さい姉のあとについて自信のあるところだけ特に大声を張り上げていた。私はドイツの雑誌からカロッサの写真を探し出して切り取り、それを額縁に入れて書斎の棚の上、彼の著書の列とならべて置いた。そして床へ入って「一九四七年晩夏の一日」を読んでいる内に、いつかは物になりそうなカロッサヘの詩の断片が頭の中で形をなして来たので急いで起きて書きとめた。

  幾年に一度遠く私たちの許へ届けられるその贈物は
  ささやかな包から夥しい中味となって拡げられ、
  贈り主の洞察的な深く柔かいまなざしと
  好意にほころぶ微笑の面輪おもわとを想わせた。
  そしてその一つ一つを手にとると、
  各々がまたいくつにも分解して、
  美をもって装われた叡智や鼓舞や警告を
  人それぞれの内的な求めに応じて現わすという
  おどろくべき魔術を演じるのだった。

     *

 九月二十二日――
 昨夜おそく庭の木々や庇を打つ雨の音を聴いたが、けさは薄ら寒い秋雨と濃い灰いろの霧とが窓の前の林の中まで立ちこめている。花壇は水に飽き足りて、葉鶏頭もサルビアも鳳仙花もすべてびっしょり。晴れた日ならば賑やかに聞こえる小鳥の声も虫のすだきも今日はない。ただ時おり庭を隔てた母家のほうから、ソナティネの練習をしている小さい美砂子の霰のようなピアノの音が聞こえて来るばかりだ。土曜日で学校が休みなので、朝の内にお稽古をしておしまいなさいと若い母親から言いわたされて、欲望もなく憂欝に弾いているクレンメッティやクーラウである。
 雨の朝を明るくともした螢光燈の下で、カロッサの戦争中の詩「女囚と老人」を訳してみた。捕虜になった外国少女と老監視人とを書いた美しい一篇だ。最後の六行に、わけても感動的な救いや慰めが響いている。原文では十一音綴と十音綴とが交互に組みあわされた四行五聯の格調正しい結晶体のような詩だが、どんなに苦心しても日本語では意味を伝えるだけがせいぜいだ。とにかく一時間ばかりで一応は形をなした。
 それにしてもこういう詩は、宇宙の別の天体からの客のようなあのリルケには期待できない。進化の低い段階にある者や未来の完成途上にある幼い者たちに、人間的な深い愛情と優しい祝福の心とを通わせる詩人、人類の運命への連帯心ゾリダリデートを誠実に敬虔に持ち続ける詩人、民族や人間性の故郷の野ハイマートフルールの光への思慕と信頼とに生きる詩人、その歌が一方では治癒や慰めとなり、他方では切実な忠言や警告となるような使命を進んでみずから担った詩人、そういう詩人にして初めてこのような詩は書けるのであろう。
 昼過ぎに三時間ばかり日課の仕事をした後で、ベートーヴェンの絃楽四重奏曲イ短調、作品一三二番の第三楽章を総譜をたどりながら書斎の小さいオルガンでところどころ弾いてみた。「病癒えたる者の神への聖なる感謝の歌」という作曲家自身の頭註を持っているこの楽章は、まったく天上のしらべというのほかはない。限りもない和らぎの光に満ちて静寂で、清らかな美のきわみである哀愁を纏ったモルト・アダージオの歌が、「新らしき力を感じつつ」の輝かしいアンダンテを中に、幾たびかの変奏的再現を繰り返しながら広々と流れるように展開する。殊にこの楽章の終りに近く、第二ヴァイオリンが一筋の神々しい夕映えの雲のような主題を歌い出すと、それに半ば重なるように秋を想わせる爽やかなヴィオラが応答を歌い、そのまたヴィオラに追いすがって荘重なヴィオロン・チェロが主題を反覆し、最後に第一ヴァイオリンが金紅色に輝く最も高い雲の帯のような応答を歌うその数小節こそすばらしい。これこそ正に音の空間に懸けわたされた神と人間との盟約の虹だ。そしてその虹は不滅の記憶として今もわれわれの中に斎いつき護られ、ひとたび蘇って空に懸かれば、われわれの全霊と全感覚とはその美と善とに圧倒されて、敬虔の底から胸を張って立ち上がる魂の発奮を覚えずにはいられないのである。

 

    女囚と老人(ハンス・カロッサ)

  北風に鞭うたれ、疲れ果てて、熱ねつっぽく、
  私達が雪の中で青い布をひろげる時、
  その私達の懸命な作業を四方八方から
  牢獄のいかめしい監視人達が見張っている。

  戦勝に眼のくらんだ陰欝な勝利者よ、
  お前達は私の哀れな民族を血の裁判へ狩り立てる。
  しかし中にただ一人親愛の心を見せてくれる人がいる。
  私達の言葉で話す老人がそれだ。

  彼は私達を憎まない。私達がどんなに苦しんでいるかを感じている。
  私は信じる、酒に酔いしれた同僚に囲まれている時でも
  彼が言いようもなく孤独なことを。
  彼は神に愛された家から来た人に違いない。

  ほかの人達から見れば私は娘の中での悪い娘だ。
  彼等は私のことを嘘つきの外国少女と呼んでいる。
  けれどもあの老人は書き物や運星の本を読む――
  おお、彼はいろんな事を知っている。彼は私に予言をしてくれた。

  春が来たら、燕のように自由な身となって、
  すぐに故郷へ帰って行けるだろうと。
  そして時どき金いろの軟膏を届けてくれる、
  それが夜になると私達の傷ついた手を癒やす。

     *

 九月二十三日――
 今日は彼岸の中日、秋分の日。きのうに引きかえた快晴で、庭の中に、屋根の上に、富士、箱根、丹沢、道志、大菩薩の山々のくっきりと出ている多摩川対岸の風景に、東南東の風がそよそよと吹き渡っている。四十雀や尾長や椋鳥の群が賑やかだ。一頃からみると数も減ったが、それでも四、五匹のつくつくほうしの声。花壇では夏のなごりの花達が崩れるように赤く黄いろく、その上を無数の薄羽黄とんぼが低く縦横に飛び廻っている。雲はまったく無い。玄関の前や崖下の林で栗の実がしきりに落ちる。それを目笊やおもちゃのバケツを持った若い姪と小さい孫たちとが喜びの声を上げながら拾っている。「おじちゃん、胡桃くるみもこんなに落ちてるんですよ!」と窓下の林から姪が叫ぶ。そのおじちゃんである私は「かぶれるといけないから胡桃は何かで挾んで拾うんだよ」と注意を与えながら、風景の真西に見える遠い笹子峠の弓なりのくぼみに、今日の夕方沈む太陽をうけとるべき南アルプスの農鳥岳を、少し前から望遠鏡で検出しようと骨折っているのだ。
 朝の九時半からNHKの第二で三十分間カロッサの特集番組の放送があった。いつかも録音で聴いたカロッサの「古い泉」の自作朗読、それにかぶせて同じ詩の日本訳の朗読、続いて芳賀檀氏の詩人訪問の思い出、そして残る二十分間を手塚富雄、高橋健二の両氏に私の加わった一昨二十一日録音の座談会。これはカロッサ文学の本質ともいうべものが話題の中心だった。
 自分の座談とか草稿なしの講演とかいうものの録音ほど聴いていて気恥ずかしく冷汗の出るものはない。他人はあんなに滑らかにすらすらと思ったことがそのまま旨く言えるのに、私のは訥訥とぼつぎれで、しかも悪い音色で早口にしか喋れない。今日のもやはりそうだった。その自己嫌悪を妻と娘とに訴えたら、教室その他でしじゅう講義や講演をする習慣のないこと、頭の中で文章を組み立てながら文法上の混乱や表現の曖昧を避けようとするのだが、そのためには固有のテンポが早すぎること、いい落想やイメイジが浮かんでも、それを鮮明に印象づけるには即席の話術がこれに伴わないこと、「えェ」とか「あのォ」とか母音を引っぱって置いてその間に次の文句を考えるやり方を極度に忌み、潔癖を追って却って自意識過剰の弊に陥ること等々。これが私にも同感のできる彼らの遠慮のない批評だった。「でもいいわよ。そう思って聴いていれば、またほかの人の言わないような善いことを言う時もあるんだから」と娘は慰め顔に言った。それはそうだ。常に詩の空気の中で感じ且つ考え、幾十年をおのれの詩の追求に終始して来た私だ。そして傾く齢の中でなおこの道を歩み続けようとする私に、演壇上の話術の巧拙などはもはや問題ではない筈だ。「瑣事を断念せよ」である。

     *

 十一月五日――
 若い穂屋野会の友人たちにさんざん気をもませ、主治医の鈴木博士からも度々すすめられながら、何か悪い決定的な結果が出はしないかという一種の恐怖の予感から、仕事の都合を口実に一日延ばしに延ばして来た胃の精密検査を、とうとう観念して受けるその日が来てしまった。晴れた朝、妻に附添われて新宿区戸山町の国立東京第一病院へ行き、癌相談室の白い明るい一室で前前から打合せてあった小山博士の診察をうけた。過去十数年来の症状について細かい質問をされ、椅子にかけたままの姿勢とベッドの上に仰臥した姿勢とで、その診察はきわめて念入りな親切なものだった。そして明日午前九時にレントゲンによる透視検査をうけに来るように言われて放免された。私の度胸はこれで据わり、この上は良いにしろ悪いにしろ一日も早く病の真相を知りたいと思った。
 夜、日本での二ヵ月間の養鶏指導と視察や講演を終って明後日アメリカヘ帰るメルヴィル氏夫妻を、われわれの農園へ招いての送別晩餐会。六十歳になるメルヴィル氏はカリフォルニア州第一の養鶏家であり、古いスコットランド移民の後裔で、その温厚な学者的芸術家的な風貌には、かなりにカロッサのそれを思わせるものがある。若い頃はさぞかし美しかったろうと思われるメアリー夫人は純真で、まじめで、ポルチュガルの血統だと言われているように、いかにもイベリア民族らしい内心の情熱を秘めている。母家での主客十四人の賑やかな食事と歓談との数時間。隣室のピアノで弾くメルヴィル氏の黒人霊歌と日本童謡、小さい美砂子のソナティネ、一同揃ってのべートーヴェンの「歓喜の合唱」。私は朝鮮李朝陶器の天然色図譜一冊を記念として夫妻に贈った。「われわれはこうして世界の家族らしく平和で幸福だが、今のこの瞬間のハンガリア民衆の苦悩やエジプトで行われていることを考えると心が痛む」と私が言ったら、夫妻は急に顔を曇らせて真剣にうなずきながら、その後何か変ったニューズが入ったかと熱心に質問した。また「もしもこんなに年を取っていなければカリフォルニアヘ行って、あなた方のすばらしい養鶏場やフォレストヴィルの美しい自然を訪ねたいのだが」と言うと、二人は声を揃えて 「ノウ、ノウ!」と否定しながら「ちっとも年なんか取ってはいない。どう見ても五十代です。ぜひ一度来て私たちを喜ばせてくれなければいけません」と力説した。そしてやがて秋の夜も更けた十一時近く、二三匹のこおろぎが絶えだえに鳴いている玄関前の星空の下で、一人一人の手を握りしめ、肩をおさえ、幼い者たちに頬ずりをし、涙さえ浮かべて名ごりを惜しみながら、婿の光三の運転する車で多摩川べりのわれわれの家から目白の奥の宿舎へと帰って行った。

     *

 十一月六日――
 今日も妻同伴で朝九時に第一病院。成敗すでに我が手を放れたのだと思えば心境は至って平静だった。放射線室の控室で二時間あまりを待っている間、そこへ出入する同じ病の重そうな人、軽そうな人、老若とりどりの患者の容貌や歩きつきを観察した。中に息子と娘たちかと思われる中年の男女三人に附添われた地方人らしい婦人があったが、その樵伜した痛々しい様子を見て、「きっと癌ですよ。むずかしいのでしょうね」と妻が気の毒らしく囁いた。彼女は自分もかつてこの病院で盲腸の手術をうけた時に同じような胃癌の老婦人と同室だったが、あらゆる手当ての甲斐もなくじきに死んだということだった。そんなことを私に話して聞かせる彼女は、しかし夫の私が決して癌ではないことを信じ切っていた。
 いよいよ番が廻って来て黒い二重垂幕の奥のまっくらな放射線室へ呼びこまれた。映写中の映画館へ入った時のように初めの内は物のあやめも分らなかったが、やがて眼も馴れ、ときどき赤い電球がついたりすると、どうやら人の姿や室内の様子が見えるようになった。白いブルーズを着た赭ら顔の濶達なヴェテランらしい放射線専門の医者と、熟練した小柄な看護婦と若い男の助手。部屋の中央には室外からの操作で立てたり倒したりすることのできる一種の寝台。私は鳩尾みずおちと腹部とを現して、床に対して垂直のその寝台に背中を当てて立たされる。すると胸の高さまで届く枠のような物が進み出て来て、体が動かないようにおさえつける。医者のしなやかな柔かい手が腹を撫でている。もう透視が初まっているらしい。続いてバリウムの粉末を溶かしたようなどろどろした白緑色の液体を盛ったアルマイト製のコップを渡される。「こちらから合図があったらまず一口だけ飲んでください」と助手が言う。そして赤い電灯がぱっと消える。再びまっくら。やがて合図にしたがって一口飲む。人から聞いたほどまずくはない。香料が添えてあるとみえて一種の風味さえある。医者と看護婦とは身をかがめて私の上腹部をさすりながら、呑み下された重い液体が胃の中へ拡がって行く状態を、寝台の厚板をつらぬくレントゲン線によって透視しているらしい。「今度は二た口だけ飲んでください」 飲む。看護婦のする腹部の按摩は前よりも力強く念入りで、どうやら胃の内壁のあらゆる皺の間までバリウム乳剤を満遍なく塗りこんでいるように思われる。やがて体の前部を支えている枠のような物へ大型写真の取枠がはめこまれて、医者が「写真!」と叫ぶ。撮影をしろという室外への合図である。と、瞬間、腹のあたりでパッと青白い閃光が立つ。写真の取枠がはずされて今度は室外への合図と共に寝台が水平に倒される。平らになった胃の検査であろう。ここでまた入念な透視と撮影。最後にもう一度寝台が立てられてもう一枚撮影。これで終った。
 室を出しなに「どんな具合でしょう。癌ではないでしょうか」と医者に訊くと、「癌はありません。潰瘍の斑痕が一ヵ所残っているだけのようです……そうですね、この程度なら手術の必要はないでしょう」と、いとも明るく濶達に答えてくれた。私はほっとした。妻は暗中で強く私の手をにぎりしめた。

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 十一月八日――
 小雨そぼ降る中央区月島の晴海埠頭。南極観測隊の一行を南極大陸プリンス・ハラルドの氷の岸まで送りとどける海上保安庁の汽船「宗谷」が午前十一時に解纜する。その隊員の中に、われわれの友人で数日前に薬学博士になった若い朝比奈菊雄も設営隊の一人として加わっているのである。その彼の壮途を見送るために穂屋野会の友人三人、それに私たち夫婦を加えて五人が雑沓の埠頭へ車を走らせた。会の別の友達数人は芝浦からランチを仕立てて羽田沖あたりまで船に附添い、こうして水陸からの歓送をしようという手筈だった。積めるだけ積んで赤い吃水線も深く岸壁に横づけになっている新装の宗谷は満船飾。陸上も船中も見送りの家族や団体や個人で堅い厚い人の壁。おりからの北東の風と冷めたい雨の中を幾千の大旗、小旗、色さまざまなゴム風船の波。その間を各新聞社や雑誌社の写真班・映画班の活躍。私たちは漸くのことでこの大群衆の中に当の朝比奈を見出して手短かに健康を祈り記念品を渡すことができた。船中も少しばかり見物したが、狭い上に非常な雑沓でただ息苦しいばかり。船を下りると偶然松方三郎君と一緒になった。相合傘で混雑の最後列に立っていると歓送式が初まっているらしいが、傘の林立と人垣とで何も分らない。やがて湧きおこる万歳の三唱。定刻を少し過ぎて「宗谷」はゆっくりと岸壁を離れ初めた。ぐるぐると頭上を旋回する三台のヘリコプターと飛行機の轟音。船上と陸岸からの激励や別れの声と次第にちぎれてゆく幾百本の五彩のテープ。雨まじりの風に運ばれて灰色の空中を海の方へ飛び去る無数の赤や黄のゴム風船。やがて機関の運転を開始した「宗谷」の吼えるような汽笛。またひとしきり起こる万歳の声と「オールド・ラング・サイン」の奏楽。速力を増して「宗谷」は行き、それを追って、これも満船飾の巡視船「室戸」と「玄海」、数隻のランチ。こちらは打ち振る旗の波とこねかえされた泥濘……自家用車で帰る松方君と別れ、私たちは雨が上って日光の射しそめた銀座通りへ出て晩い昼飯をとった。

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 十一月十三日――
 昨日と今日とは病院行。昨日は便の検査をうけたが潜血反応も蛔虫卵もないとのことだった。今日は胃液の検査だった。細く長いゴム管を五〇センチ呑みこんだままベッドに横臥。最初に胃液を、次に鮮明なあじさい色のメチレーン・ブラウ液をしたたか注ぎこまれた後で、十分間置きに一本づつの試験管に、しだいに色の淡くなる碧い液体を七回採られた。釣針を呑みこんで横たわっている魚か、長いみみずを呑みあぐねている鶫のような恰好だった。しかしこれで懸案の胃の精密検査も終った。(試験の結果は中等度の過酸症とのことだった)私はさすがにうれしく、帰りには渋谷の東横デパートへ寄って六階の丸善出張所でカミュの新作 La Chuteを買い、胃液検査のために昨夕から一物も入れていない空虚な胃の腑へ、八階の食堂でいろいろと詰めこんだ。
 午後晩く「季節」の木村真子さん来訪、第三号のための雪山の写真とそれに付ける詩との相談をうける。スイスの写真二枚を選び、ヘンリー・ヘークの詩の翻訳を引きうけた。
 本年度読売文学賞候補のアンケートへの答として佐藤春夫「高村光太郎像」、山本健吉「俳句の世界」、串田孫一 「博物誌」、山崎栄治詩集「葉と風との世界」、片山敏彦・宮本正清監修ロマン・ロランの「日記」を推薦した。

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 十一月十五日――
 晩秋の窓のむこうに武蔵・相模の山々が青く、一際高い富士山が白く、色とりどりの菊の花、つわぶきの黄、さんしゅゆの赤い実などの美しい庭に、今年最初のじょうびたきの鳴いている和やかに晴れた朝。夏の間に頼んでおいたフランツ・ヴェルフェルの自選詩集(Gedichte: 1908-1945)が到着したという知らせが来たので、さっそく午前中に新宿の紀伊国屋へ取りに行く。ヒトラーのドイツ軍に逐われてアメリカヘ亡命する前に彼の呉れた最後の手紙を、今も私が唯一のかたみとして秘蔵しているヴェルフェル、イヴァン・ゴルの見事な仏訳になる「ベルナデットの歌」を、この頃夜ごとに私の読み続けているそのヴェルフェルだ。紀伊国屋では係の岡見君が新着のロマン・ロランの Mémoiresを持ち出して来て、ヴェルフェルのと一緒に包んでくれた。そこへ思いがけなく来合せた片山敏彦がうしろから私の肩へ手を置いた。黒いベレエをかぶり、淡色のチェックのカッターシャツをのぞかせて、思いの外に元気な顔つきだった。彼のところへ集まる青年の一人の美田君というのを連れていた。片山も三四冊買ったらしく厚い紙包をかかえていた。一緒に店のそとの喫茶部でコーヒーを飲みながら、夫人亡き後のその後の様子をいろいろと訊いた。「トリステスの中でもだんだんと仕事にリュミエールが見えるので……」と言っていた。彼がディスクになったデュアメルの「慰籍者・音楽」の朗読のことと、その息子たちの演奏しているメンデルスゾーンの「イタリア交響曲」のこととをいきいきと美しく話してくれたので、私も今手許にあるラヴェルの舞踊歌劇、その台本をコレットの書いた「子供と魔法」のレコードからの感銘をかなり詳しく話して聴かせた。そしてこうした対話の間ぢゅう、感じ易くなっているこの古い友人の眼がいくたびか柔かくうるむのを私は見た。最後に久しぶりにどこかで昼飯を食おうと誘ったが、別にもう一ヵ所寄らなげればならないところがあるというので次第に人の出盛る賑やかな往来で別れた。
 それにしても薄い紫の靄にぼかされた、明るく深い秋の町なかでの思いがけない邂逅だった。互に異る信念から戦後の永い期間を疎隔していた私たち二人の再びの接近。それは今自分が脇にかかえている亡きロランやヴェルフェルらの慈愛の心にもかなうのではあるまいか。
 午後の太陽の斜めに射す新宿駅のプラットフォームで電車を待ちながら、私はあのシューベルトの不朽の歌、「さあれ我が琴の緒は愛のみを鳴り響かす」Doch meine Saiten toenen nur Liebe im Erklingenを小声で歌っている自分に気がついた。

                             (一九五六年)

 

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 晩 秋

 十月なかばから一と月ばかりのこの秋は期限の切迫した翻訳の仕事にずっと追われて、夏の間から計画していた一つ二つの小旅行もとりやめ、いろいろの会合にも出席を断り、来客にも三十分か一時間ぐらいで勘弁してもらって、もっぱら閉じこもって書物とノートに向かっていた。私は翻訳でも自分自身のものでも、まず一度ノートヘ下書きをし、それに推敲を加えながら原稿用紙へ清書する習慣である。原稿がきれいだと言われるのも一つはそのためらしいが、馴れた手順に過ぎないのだから別にどうということはない。台本 La Montagne(山岳)は日本の本にして大型三巻の大冊。私の受持はその中の山に関する文学の歴史的研究の二十世紀初葉までで、それ以後最近までの分は早稲田の河合享・近藤等の両教授が担当だった。
 この歳になってもなお翻訳とはどうかと思うが、創作の気分が弛緩して、何ということなく幾日かを自分らしく遊んでいるうちに、再びおとずれる創造的な空気の充実を期待する気持から、その間言わば精神のウォーミング・アップのように試みるのが私の場合である。だから対象は自分の仕事に縁が近くて自発的に取り上げるものがほとんどすべてであり、また頼まれたとしても、原則として、あまりきびしく期日の束縛をうけないものが多い。しかしそうばかりは言っていられない時もあって、うっかり約束してしまって後で悔いても追いつかないこともある。今度の「山岳」がちょうどそれだった。幾人かの人との共訳であり、その人たちの訳稿はもうみんな仕上がって間へ挾まった私のを待っている。本屋からは電話で慇懃に厳重に催促され、速達で送るからと言っても使が来、清書のできた分からどしどし持ち去って行く。訳も清書ももちろん自分でするのだから、大袈裟に言えば息つく暇もないわけである。(それでもけっこう息はついたが、そしてその息つぎの時間のことをこれから書くのだが)、それにしても運転中の機械の一部分として、噛み合っている歯車の一つである以上は廻らなければならなかった。
 本来ならば今頃は信州野尻湖畔か妙高や黒姫の高原で、鉱物のような北国の空気に身をさらし、色さまざまなもみじの露に濡れながら、もう薄すりと雪を刷いた峯々や暗いりんどう色に晴れた日本海の空を眺めているはずだった。そしてそこの柏原で学校の記念式に列席し、一時間ばかりの講演をすませれば後はこっちの体で、赤倉か燕温泉まで足をのばして静かな風呂に浸かろうが、シーズン・オフのボートを借りて野尻湖の冷めたい水の広がりを一周しようが、すべて自分の勝手だった。それから汽車で松本へ廻って、東京から直行して来る妻と友人の家で落ちあい、彼女にとっては十幾年ぶりの上高地の谷へ入って、この夏主人を失った西糸屋の家族たちを慰問しながら一泊し、「いちばん眺めのいい御部屋をあけて待っています」と言って来た新築の五千尺へも一晩泊まって、その間に妻を案内して、西穂高か焼岳へ登って来ようという計画だった。それが自業自得の抜き差しならない仕事のためにお流れになった。夏の間からいそいそとその日を楽しみにしていた妻にも気の毒だが、信州で待っている人たちにも申訳のない気がした。
 そのうち毎日ページをきめて続けている翻訳の仕事が思いのほかはかどって、半日ぐらい遊んでもいい日ができた。すると一週間に三度府中の先の或る農場へ鶏卵の仕入れに行く娘夫妻が、すこしは息抜きにおりからの秋の丘陵地帯でも散歩したらどうかと言うので、私もその気になって腰を上げ、ちょうどその日仕入れに行く彼らの自家用のダットサンに乗せてもらって出かけた。多摩川を右岸へ渡って川崎・八王子間の街道を走ること四里余り、途中聖蹟桜ガ丘の高みで彼らと別れて、一人で丘陵上の小径を歩きはじめた。晩秋快晴、いたるところに鵯の声の響くおっとりと和やかな午後だった。網の目のように断層と侵蝕に刻まれた複雑な起伏の大観が、折からの各種雑木の紅葉や南へ廻ったきらびやかな日の光に飾られて、ふだんは書斎の窓にその長いスカイラインの影絵だけを見せている多摩丘陵を、ここにこんな眺めがあったかと怪しむような、赤と緑と金と青との絢爛たる別天地にしていた。そして西から北へ丹沢・道志・大菩薩の連山が一層近より、眼下の碧い多摩川を越えて北から東へ武蔵野の広がりと眉のような狭山丘陵、なおその奥の気も遠くなるような空気の海に、この日唯一の雲かと見まごう榛名の連峯……私はむかし柿生から高石へ越えた時の道を先ず船ガ台の小部落へ登り、それから五万分の一の地形図をたよりに、初めての山道を東へとって百村もむらから稲城長沼の駅まで歩いた。
 一時間半ばかり人っ子一人見ない明るい静かな山道だった。等高線が綾のように入り乱れた地形を横断するのだから、小さいながら登り降りが幾つかあった。藪や林を分けてゆくその細い羊腸の路を、秋の午後の赤みがかった金色の太陽に照らされたり水のような青い陰に浸かったりして、どうせ日の暮までに電車に乗ればいいのだと、季節の自然を楽しめるだけ楽しみ、味わえるだけ味わって、ゆっくりと歩くことがどんなによかったろう。過去三十数年の山登りと山歩き、その中には比較にならないほど苦しくむずかしい登山もたくさんあったが、またこれに類する高原彷徨も数知れずある。その永年の修練のうちにいつか出来上がった自分らしい歩き方を、今この最も楽で最もやさしい丘陵の静寂の一角に試みているのだという考えが私の心をひろびろとさせた。私は途々二十種ばかりの秋草の花を折りたばね、最初の山畑で最初に出逢った百姓夫婦に里へ下りる近道をたずね、ついでに背負袋の中の菓子を取り出して彼らにも分け、一升罎から水をもらい、煙草を吸いながら話をし、それから二十分ほど歩いて夕景色の美しい百村の部落へ下り着くと、多摩丘陵もそこで終って、私の終楽章もコーダに入った。
 或る夕方スイスの未知の本屋から紙函の小包が届いたので、念入りに結ばれたその蠟引の紐を解こうとしていると、或る新聞社から電話が掛かって来た。知人の記者が少しせきこんだ調子で言うには、『時間』という詩の雑誌に私についての甚だ悪意ある文章が載っている。無論読んだこととは思うが、執筆者の詩人に対して反駁をする気があるなら紙面を提供するから書くといいというのであった。私はそれを読んでいない旨を答え、またたとえそれがどんな内容のものにもせよ、少くともその詩人と応酬する気はまったくなく、さらに現在専念している仕事とそれに必要な心の平静とをそんなことで乱したくはない旨を述べて、彼の親切を謝しながら書くことのほうは断った。
 ところが座敷へ帰ってあけた小包が眼をみはらせた。それは一冊の美しい写真帳で、表紙に Besuch bei Hermann Hesse(ヘルマン・ヘッセ訪問)の文字と共に詩人の横顔が大写しで出ている。小さな打撃に対する間髪を容れぬ大きな救いだった。今年七月二日の八十歳の誕生日を記念して、世界中の友に送られたあの詩人の無言にして雄弁な挨拶。貧寒な精神が闖入の鼻先でピタリとドアを閉ざされて、豊かな暖かいおとずれが家中から迎えられて照り輝いた。風光明媚なスイス・テッシン州モンタニョーラの丘の斜面、無数の出入りをもって大きく屈曲するルガーノ湖とそこに落ちこむ遠近の山々、雅致があって住みよさそうな老詩人の邸宅とその周囲、そして詩人その人の生活のあらゆる場面。原稿書き、水彩画描き、タイプライター打ち、読書、夫人との散歩、家族や友人との対談、庭の焚火、苗木の灌水、種子の択り分け等々。空間を遠く隔ててか病気でか、いずれにしても彼に会いに行かれない人々への写真によるメッセージとして編まれていた。そしてそれらの写真はすべて詩人の令息の一人マルティンの手に成るものだった。
 祝福が祝福を呼ぶというのか、それからまた二日ばかりすると私はヘッセの自作朗読のディスクを手に入れる幸遅に見舞われた。新宿の書店に着荷したばかりで、まだほとんど誰も知らない内の入手だった。運は更に運につながって、ちょうど在庫中のロマン・ロランの盤も買うことができた。これは昨年の秋に片山敏彦の家で一度聴いた物だった。その片山で思い出して、彼にもヘッセの盤の来たことを知らせるように書店のO君に頼んだ。そのためかどうか知らないが片山もさっそく買ったらしく、その後山室静君が彼の家でそれを聴いて感動したことを新聞に書いていた。
 ロランの盤については別にいつか書くとして、ヘッセの朗読は私もかつて翻訳して出版させた「メールヒェン」の中の一篇「詩人」で、LP盤十インチ両面にぴったりと収まっていた。古代中国の仮空の詩人ハン・フォークの運命を真に詩人たる者普遍の運命として描いた悲壮で絢爛な文章を、深いバリトーンで淡々と乾いたように読んでゆくその声が惻々として胸を打った。一昨年の春ラジオ・ルガーノを通じて放送され録音された盤だというが、七十八歳の高齢の人の朗読とは到底考えられないような深い情熱と落ちついた輝きとがあった。ヘッセはどこかで「すべての回顧は秋らしい」と言ったことがあるが、一九一三年に書いたこの愛する一篇を、四十二年後の一九五五年に読む気持には、たしかにヘルプストリッヒなものがあったであろう。
 私の庭に次々と木の葉が散り、窓からの風景に黄や褐色の深まる日が続いた。八ッ手が咲き、山茶花が咲き、初霜が結び、今年もまたつぐみかけすの声が地所内の林に響く時が来た。午前中三時間、午後四時間、夜一時間半ときめた翻訳の仕事も順調にはかどって、来る日来る日の自然と生活とに静かな感動と充実とがあった。或る寒い晴れやかな朝、ふと結ぼれていた物がほどけるような心境の中で、私に二十行の詩が一気にできた。それは去年の九月の或る晩寝床から飛び起きてノートヘ書きつけて一年余りそのままにして置いたカロッサヘの詩の一節を、前後から挾んで一篇の追悼詩として完成させるものだった。断片のままで持っていたとはいえ、それをまとめたい気持は常にあって、内心のほのぐらい片隅でおもむろに熟しつつあったものが、その朝突然それ自身の甘美な重みで落下したのだ。私は出来上がったその詩に躊躇もなく「我等の民話」という題をつけて、ちょうど頼まれていた「詩学」へ送った。私から見ればそれは実際民話であり、また特に我等のだった。
 そしてついに一ヵ月近く掛かった翻訳も終り清書も済んで、或る日電話で知らされてさっそく笑顔で受けとりに来た本屋の使の好青年に、最後の一綴りを手渡した。私は重荷を下ろしてがっかりしたどころではなかった。ちょうど困難な登攀から帰って来るとまたすぐ山へ行きたくなった昔のように、引き続いて次の仕事(今度のは自分自身のもの)の規模と形式とに思いふけった。そして机の周囲に積み上げてあったヨーロッパの登山書や地図類を一掃して翌日からの新らしい仕事に備え、その夜のために選んで置いたワーグナーの「ジークフリートのラインの旅」とベートーヴェンの第四ピアノ・コンチェルトとを、今こそ心もひろびろと聴いたのであった。

                               (一九五七年)

 

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 高原の冬の思い出

 東京とくらべて年間平均七度から八度は気温の低い富士見高原ではあるが、同じ長野県でもずっと南に位置して、地形の上からも太平洋気候の影響下にあるせいか、北部信濃や隣接する越後の冬にくらべると、その雪の降りかたもはるかに穏かで、積雪の量も比較にならないほど少い。そこに七年間を暮らした記憶からいちばん雪の多かった冬を思い出しても、八ガ岳や釜無の連山、甲斐駒・鳳凰などの銀の屏風絵にかこまれた高原の雪景色は、明るく、静かに、男らしくきらびやかで、忍苦や陰惨をおもわせる影すらなかった。開墾部落の除雪作業に狩り出されて、子供たちの通学路や村道をあける汗みずくの労働の時にさえ、歎息はおろか、迷惑をつぶやく愚痴の一言すら洩れなかった。それは五十を過ぎた年齢にもかかわらず、山で鍛えた体力がまだいくらか残っていたからだというほかに、眼に見る山々や空のひろがり、踏んでいる高原の大地へのなじみや愛や信頼のせいであり、この土地にこんな雪がそう始終あるわけではなく、楽しい春はもうすぐ其処まで来ているではないかという希望からでもあった。事実、二月初めのその日でさえ、氷点下五度の気温とさむざむとした薄日のなかで、積雪をすくい飛ばす作業路の池畔に白い絹毛を光らせたネコヤナギの花穂が見られ、水ぎわの雪と枯草のあいだから、緑のモスリンを小さい球にくくったようなフキノトウが可憐な頭をのぞかせていた。
 土地へのなじみから生れる理解や愛や期待は、冬は冬で私の高原の生活をいろどって楽しみ多いものにした。今でも目をつぶって、其処へ人里離れたあの山荘の雪の日を置けば、何よりもまず家をかこむ数百本の木々と、その梢や大枝からしきりなしに崩れて落ちる滝のような雪煙りとが見えるのである。この森の中を村道へと合しに行く曲りくねった長い踏跡、いろいろな形に雪をかぶった藪や灌木、そこに周囲の静寂をやぶって鳴いているヒガラ・シジュウカラ・アカゲラなどの鋭い叫びと澄んだ反響、家の中では微妙にうなるストーヴの音、大屋根から蒲団のようにずれて内がわへ巻きこんだ軒先の雪、電線を包んだ雪の円筒や、それがはずれて危うく懸かった雪の紐、ウサギやノネズミの足痕のある台所の出入口や花崗岩の井戸、そして障子をあけた硝子戸のそと、木々のあいだから近々と仰がれる入笠山の真白な円頂と尨大な釜無山、富士見駅を出て行く列車のおりおりの汽笛……そんな時に重い大きな鞄をさげて森の家へたどりついて来る郵便配達の若者や老人は、かならず一椀の熱い紅茶と一本の巻煙草とを供されて、その雪中四里あまりの集配の労をねぎらわれるのだった。
 そのころの古い日記やノートを読み返すと、私は雪の中でもじつによく出歩いている。冬は農閑期なので、十二月から翌年三月末頃まで、毎週一回ぐらいの割で、汽車に乗ったり歩いたりして講演に出かけている。今ではとうてい考えられないような重労働だったが、それは別として、自分の楽しみのために、眼や心の養いのために、さまざまな気象現象や生物の観察に行くのがもう一つの仕事のようになっていた。しかしそれも遠くまで出かけるわけではなく、家から半径一キロか二キロぐらいでほとんど常に満足が得られた。自然の観察には持続ということが必要である。持続のためにはその観察の場が手近かな処にあることが一つの条件となる。その点私の住んでいた場所ははなはだ恵まれていた。家は大きな深い森にかこまれ、森の外には谷があり、山田があり、開墾の畑地があり、藪や林を載せた丘陵の起伏があり、そして同じような地形・地物から成る八ガ岳の大山麓の一部が、いわゆる富士見高原となってひろがっていた。それ故もしもこの土地でいくつかの立派な研究や観察の成果を挙げたいと思ったら、七年はおろか、十年・十五年の日子もなお多しとしないだろう。しかし私には一方に天職と思われる芸術の仕事があった。それに年もとっていた。運命と生活の事情とは私にアンリ・ファーブルやW・H・ハドスンの道を許さなかった。してみれば私の観察なるものも言わばその時々の「注目」にすぎず、ただその注目の仕方や対象が誰かの心に興味を呼びさますか、或いは何等かの暗示として作用するかもしれないくらいがせいぜいのところである。
 すっぽりとかぶったスキー帽に黒い厚地の古外套、裏毛の手袋にゴム長靴、八倍の双眼鏡と三十倍のルーペに手帳一冊。それにケースー杯の巻煙草と当然必要なマッチとを忘れさえしなければ、私の冬の散歩の装備は完璧だった。おっと、もう一つ。記録や備忘のためのツァイスの小型カメラ。無精だったり忘れたりしてこれを持って行かなかったために、後になってほぞを嚙んでも及ばないことが幾度かあった。自然を相手にも人生と同じように偶然の出会いはすくなくなく、千載一遇に近い例もあるのである。
 或る初冬の朝、私は森の家から程近い丘の上へ立って、まず東の八ガ岳から北へ蓼科・車山・霧ガ峯と順々に見わたし、それから西へ転じて釜無山脈から甲斐駒の方を眺めていた。十二月初めのきっぱりと晴れた日で、かすかに冷めたい風が流れ、見たところ空には一点の雲もなかった。低い山々にはまだ雪が来ず、わずかに甲斐駒の頭と八ガ岳の嶺線の高いところが白金の象嵌をしたように光っているだけだった。その時、私は入笠山と釜無本山とのあいだの程久保山の中腹に、短かい帯状をした灰色の雲が一筋懸かっているのに気がついて、こんな晴れた日にどうしてあすこにだけ雲があるのかと不審に思いながらじっと見ていた。よく見ると雲は山に沿って静かに北から南へ動いていた。ところが眼のまちがいか気のせいか、その雲のおもむろに通りすぎてゆくあとが、すなわち程久保の鳶色に枯れた山膚の一部が、どうやら薄すりと白く変色してゆくように思われた。私は眼をこすって、ちょうどポケットに持っていた六倍のミクロン双眼鏡をぴたりと向けた。するとどうだろう! それは眼の錯覚でも気の迷いでもなく、まさしく鳶色の山膚にありありと残された銀白色の帯で、思うに過冷却した雲の分子が、びっしりと山を被うた冬枯れの木立に触れるや、そこに印して行った氷結のあとに違いなかった。私もずいぶん霧氷は見たが、こんな条件下にこんな光景を、まるで実験室での見ものでもあるかのように、かくもはっきりと見た経験は一度もない。私はカメラを持ち合わさなかったことを悔やんだが、たとえ持っていたとしても、望遠レンズでも併用しないかぎりおそらく映りはしなかったろう。そしてそのうちに遠く美しかった霧氷の帯もはかなく消え、奇蹟を演じた雲もいつのまにか姿を消して、あとは初冬の山野を照らす太陽ばかりの快晴となった。
 もう一つ、これこそカメラを持っていないでひどく後侮した経験だが、幸いはっきりした日附がわかっているから書いておけば、昭和二十五年二月十九日日曜日、午後二時半から三時頃の間のことだった。空には初め一面に綾のように乱れた薄い巻層雲が拡がっていたが、それが見るまに濃く厚くなって高層雲に変って行った。そして夕方から雪を降らし、翌朝になって晴れた。問題はその巻層雲から高層雲へと移るごく短時間の出来事である。
 その日正午近く、高原を一里ばかり上の部落から二人の小学生がたずねて来て、私が彼らの学校で試みた講演から刺戟されて初めたという、二人で合作の自然観察記や写生帳をみせてくれた。そのけなげな幼い彼等の帰りを高原療養所の近くまで十町ばかり送ってやって、さてぶらぶらと浅い積雪を踏んで帰路についた時だった。何気なく空を見上げた私は、一面にひろがった薄い綾雲をとおして南西へ傾きながら光っている午後の太陽に暈かさがあり、その暈のへりの左右に同じ間隔を置いてそれぞれ一つずつ輝いている別の太陽のあるのを見た。それは気象光学上いわゆる「幻日」の現象で、この場合では半径約二十二度の日の暈(内暈)と、太陽を中心にした水平の光帯すなわち「幻日環」との切り合った処に現われる二つの光輝点である。そしてこれならば、そう普通には見られないまでも、必ずしも珍らしいという程でもないのだが、この時私が生れて初めて見て驚いたのは、その水平の幻日環を、中心の太陽のところで垂直に切るもう一つの光帯を認めたことだった。これは「十字光」と名づけられて、非常に稀にしか見られない現象だそうだが、エドワード・ウィンパーの「アルプス登攀記」にある、あの悲劇のあとのマッターホルンの下山の途中、生き残りの連中にリスカムの空高く現われた十字架というのも(数は二つであるが)、或いはこれであったかも知れない。それはともかく、私の見ることのできた十字光は水平光帯の長さが視角で約五十度、太陽に向かって左の方がいくぶん短く、垂直光帯はその半分ほどで、太陽よりも上の部分の方が長かった。光は幻日よりもずっと弱くて、何か悲しい水っぽいものに感じられた。そしてこの稀有な天空の光学現象は私の気のついた時から五分間も続いたろうか。忽ちかさばって来た雲に呑まれて跡方もなくなった。
 新しく雪の降った日の翌朝、積雪の上にしるされた小鳥たちの可憐な足痕をしらべに行くのも冬の楽しみの一つだった。雪は細かければ細かい程よく、それが適度に締まっていると、彼らの足指や爪の痕はまるで針ほどの鑿のみで刻んだかとばかり美しい。そのうえ太陽が出ていれば申しぶんがない。雪の大理石に切りつけられた精巧緻密な筋彫りへ光があたり、半透明の影がついて、その微妙さは惚々として匂うようだ。そしてその一つ一つが或いは交互に、或いは揃ってちょこちょこと走ったり、ぴょんぴょんと跳ねたりする小さい姿を想わせながら、鎖のように、巻き、流れ、会い、別れ、かわゆい右往左往や跳躍のあとをまざまざと見せて、純白な無垢の雪面を賑わしている。
 彼らは主としてアトリ、ホオジロ、アオジ、カシラダカ、ビンズイ、コカワラヒワ。すべて大地に糧を求める平民的で屈託のない元気な仲間だ。こういう彼らの雪の上の足痕を見てその美しさ可憐さに打たれると同時に、これはホオジロのもの、これはアトリのものと、正しく識別ができるようになるまでには、やはり熱心な観察の積み重ねが必要だった。それにはまず輪郭がぼやけたり形が崩れたりしていない言わば切りたての新鮮なものを見つけて、それを忠実に写生するかカメラで接写するかして、鳥によってそれぞれ違う足の裏の紋様を記録に残すことである。この場合には鳥の種名はわからなくてもよく、必要なのは足痕や歩き方の種々相の正確な記録だった。次にする事は雪面に下りている小鳥の種類を肉眼なり望遠鏡なりで確めて置いて、時を移さずその現場へ今刻みつけられたばかりの足痕を見に行くことだった。こういう事をいい加減でなく正しく続けているうちに、いつか私にも識別の力がついて来て、雪の高原を歩くのに又一つ楽しみがふえたのだった。
 或る晴れた朝、山荘の森から野へとつづく小径に近い雪の上に、私は一羽のキジの足痕を認めた。それは堅い水晶に切れ味するどい鑿で切りこんだような足痕だった。私は心がぱっと明るくなった気がした。あのキジという華麗な強い大きな鳥が、ほのぼのと赤らんでくる厳寒の日の出前の地平線をかなたに見ながら、野性の、孤高の、威厳にみちた歩みをはこぶ姿を想像したからだった。足痕は雪の浅くなった細い湧水のあたりまで続いて、其処でいくつもいくつも重っていた。キジは雪の下の古い落葉を搔きのけて、一月の青い冷たい水を飲んだらしかった。私は金属光を放つ彼の濃い藍色の頭と、きらきら光る緑いろの首と、鮮かな赤い顔とを心にえがいた。時ならぬ冬に花が咲くような気がし、こんな環境に生きる自分の幸をしみじみと思った。その私の正面に、朝日を浴びて金光を放つ深雪の八ガ岳が、その結晶のような連峯をまっさおな大気の中に横たえていた。
 またある時は雪球の観察だった。私は上に山畑のひろがっている斜面の下の雪道を歩いていた。むこうの浅い沢の水辺でのカワガラスの早春の囀鳴を聴いたり、流水をくぐって餌をさがすあの濃い栗色の鳥の敏捷な活動を見ようと思っての散歩だった。ところが今言った山畑の下の雪の斜面に、何十本という垂直の縞のついているのが眼にとまった。よく見るとそれは上の畠のへりから転げ落ちる小さい雪の球がつけた傷で、糸を引いたように上から下まで連統し、軽やかに触れたもののように浅く、美に関心ある者の仕事のようにさりげなく精妙だった。なおも仔細に見ると、どの縞もすべて破線になっていて、極めて細い長い鎖を押しつけた痕のような観を呈していた。何十本というその線条には、毛のように細いものから小指ぐらいの太さのものまであったが、それより太いのは見当らなかった。この縞の幅は雪球の直径に近いものだから、その時の畠の上の風力が移動させることのできる大きさの物しか印刷されないはずだった。縞が破線になっている理由は私にはよくわからないが、おそらく畑のふちで風に丸げられながら出来た最初の小さい雪球の面に、溶けて粘着力の出た箇所とそうでない箇所とが出来て、そのために転落の最初に斜面の雪の着く着かないという異同が生れ、それが最後まで因をなしてこういう鎖状の痕跡を残すようになったのではないかと思われた。
 また、こんな事もあった。或る三月の寒い午後、例のような服装に身をかためて森の家を出ると、ハンノキや白樺の樹下の雪をぎしぎしと踏みながら裏手の小さな池のほうへ歩いていった。浅くくぼんだ昔の沢筋に裾野の清らかな伏流が湧いて、夏には白い藻の花や薄紫の水草の花のあいだから、青銅色に光るタカネトンボやオオルリボシヤンマが生れ、其処の土手に立っている一本のクルミの樹の下の涼しい蔭へすわりこんで、よく私が笛を吹いたり詩や文章の断片を書いたりする池である。そして其処まで行くと東西の視野が大きくひらけて、冬ならば遠く紫いろにけむっている落葉松からまつの林や黄色い枯草の丘をこえて、全山真白に化粧した山々の大結晶群が眺められるのである。
 私は青空の下の雪の山波をひとわたり見廻すと、池畔の土手の枯草の中へ腰をおろして池の上へ眼を落とした。三十坪ばかりの池は全表面の約三分の二が氷り、残る三分の一が融けていた。ところでその時、其処へ一羽のセグロセキレイが「チチッ・チチッ」と嗚きながらひらひらと飛んできた。厳寒の冬のあいだ、その仲間のキセキレイはもっと温暖な地方へ移動してゆくのに、このほうは私たちの処に居残っている黒と白との美しいセキレイである。
 彼は飛んで来て池の氷の上へ下り立つと、ちょこちょこと氷のへりの処まで小刻みに駆けて行って、其処に半ば麻痺してしがみついているマツモムシを一匹くわえ取ると、振り廻すようにして氷の上へ投げつけた。虫は鏡のような氷の表面をツーとすべって行った。池や沼に棲むこの有吻類のマツモムシは、外敵に襲われるとその注射針のような嘴で刺すのである。私も経験があるが、これに刺されると人間でもかなり痛い。それを承知のセグロセキレイは、獲物をとらえても直ぐには食わない。投げつけられてすべって行ったのを、追いかけては又振り廻すようにして叩きつける。マツモムシは主ぬしを失ったスキーのように流れて行く。また追いすがって叩きつける。こんなことを繰り返しているうちにすっかり弱ってしまった獲物を、セグロセキレイは細い脚の長い爪でおさえつけて、柔かい胴の中身を突つき出して食うのだった。
 私は今年もまた見ることのできた冬の自然の片隅のこの小さな劇に満足しながら、黒と白との美しい精悍な小鳥が、ついに三匹のマツモムシを食って飛び去るまで固唾を呑んで見ていた。それは私の Winter's taleの、「冬物語」の一幕だった。背景は雄大な雪の山々、舞台はフキノトウが萌えはじめ、裸のクルミの木の一本立つ、枯草の土手をめぐらした高原の池のほとりという……

                             (一九五八年)

 

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 折れた白樺

 玄関のまえ、井戸のそばに立っていた白樺が、おとついの夜半からきのうの朝にかけて通過した猛烈な台風のために、地上二メートルのところからへし折られてしまった。私は通路をふさいで薔薇の花壇まで横たわっているその姿を見て、立っているときはそれほどにも思われなかった彼が、こんなにも丈高く、こんなにも成長していたのに驚かされた。それは大型トラック一台を占めてなお余りあるほどだった。しかしすでに名を体に現わした白いその幹、みごとに茂ったその枝や夏の葉、太くて短かい濃緑色の房のように垂れているその無数の実にもかかわらず、何といっても樹齢まだ十二三年の木である。それが一朝の自然の暴力でへし折られた。まさに夭折と言えるだろう。
 この白樺を信州の高原から持って来た日のことを、私は今でもはっきり覚えている。
 私たち、私と妻とは、東京で最後の空襲に遭って住むに家なく転々とした一年後、長野県八ガ岳の西の裾野、富士見高原の片隅に、或る旧華族の好意でその古い大きな別荘を貸してもらうことになった。同じように戦災をこうむって一時その別荘を借りていた娘夫婦やその姉の家族たちが、それぞれ焼跡に仮宅をつくって東京へ帰ったその後をうけついだのだった。
 平価の切り下げと固定資産税の徴収、全然支払われない焼土の地代と反古ほご同様な株式や証券類。家主の好意で家賃は免ぜられたが、全く無収入の生活は極度にくるしく、人知れない売食いに、わずかに残った父の遺産もしだいに崩れるように失われて行った。しかしまた一方には、私たちの心を物質的な窮乏の痛みから救ってそれを力づけ、喜ばせ、命あって生きる幸運に感謝させずには置かないような美しい広大な自然があった。過去数十回、旅の途中の汽車の窓からそのたびごとに嘆賞し、また八ガ岳登山の折にはその夏や秋の草の小みちをいくたびかさまよいながら、こんなところに住むことができたらと夢想したことのある富士見の高原に、こうして永住も辞さない覚悟で住むようになった運命を私はつくづくと不思議に思った。山荘は海抜ほぼ一千メートルの高みにあって、赤松、はんのき、白樺などを主とした深い広い森にかこまれ、かつての甲州街道ぞいの本陣をそっくり曳いて来たという大きな家なのに、道からはおろか、近くの入笠山、釜無山、それよりもなお高い八ガ岳からさえうかがい見ることができなかった。森の外には山荘の持主の開墾した畑地があり、小さい牧場と古い池があり、そこから先はところどころに部落の散った高原が四方にひらけて、東は編笠から蓼科山までの八ガ岳連峯、北は槍や穂高の北アルプスをその背後にかすませた車山・霧ガ峰の火山台地、西はつい鼻の先の釜無山脈から鋸岳・甲斐駒ガ岳の峯のぎざぎざ、南へまわって尨大な鳳凰山塊、富士山、茅ガ岳、そして更に東へ秩父山群の盟主金峯山きんぷさんから野辺山ガ原の緩やかなたるみまでを、ぐるりと見わたす男らしい大観だった。
 私たち夫婦は新婚当時の昔を思いだしてこの高原でふたたび鋤や鍬を手にし、森のそと、道路のふちに見捨てられた草ぼうぼうの荒畑を借りてそれを耕し、一つの肥桶を二人で運び、小石のような馬鈴薯や革紐のようなささげ、歯にもかからない貧弱なとうもろこしを収穫した。その間には、私として、いつかは本になる時もあるだろうと思われたフランスやドイツの詩書の翻訳をし、自分自身の詩を作り、文章を書き、一日に一度は必ずする高原の散歩から自然観察のノートをとった。デュアメル、ジャム、ヘッセ、リルケなどの訳書がその成果であり、「美しき視野」、「高原暦日」、「碧い遠方」、「花咲ける孤独」のような散文や詩の本が七年問の富士見生活を記念する自著である。郵便局や店家のある駅前の町まで一キロ半、其処で私たちが生れて人となり、其処で生活が灰燼に帰した東京まで一七〇キロ、

  十日都会の消息を知らず、
  雲のむらがる山野の起伏と
  枯草を縫うあおい小みちと
  隔絶をになって谷間をくだる稀な列車……

「存在」と題した詩の中のこれらの数行が、私たちにとっての移住第一年の晩秋と、私自身の内心の寂しくいさぎよい風景とを、ひとつの調性トナリテのなかに歌わせたしらべである。
 しかしこうして二年三年と暮らしているうちに、土地はもとより近接した村や小都会にも知人がふえ、中には特に親しく家族的につきあうような友人たちもできた。また一方では以前の著書の重版や、戦争中に暇を見て翻訳した本や、この高原で新らしく書いたものなどを出してくれる出版者もぼつぼつと現われた。それにまた学校や団体からたえず頼まれる講演もあった。こうして暮らしにもいくらかゆとりができ、私らしい雰囲気が大して変質させられることもなく周囲にひろがって、それが容れられ、迎えられ、このぶんならば残る生涯をこの高原の地に托してもいいと思うようになった。ところがその七年目に、東京にいる娘夫婦の熱心な肝いりで、彼らの経営している養鶏園の片隅に私たちのための小さい家が建つことになった。初めはありがた迷惑にも感じたが、とくと考えた末、未練は充分あるにしても此処での生活はこれで一応幕をとじ、東京へ帰って改めて晩年の仕事に着手しようと心にきめた。そして昭和二十七年秋、私よりももっと後ろ髪を引かれる妻をうながして、人々の惜別に送られながら、娘夫婦と二人の幼い孫との待っている東京多摩川べりの新居に移った。
 この白樺は、そのとき記念として私が掘って来たものである。彼は山荘の森のふち、道のへりに立ちながら親木の下で、幼な同士の兄弟やいとこ達にまじって生後何度目かの秋を楽しんでいた。丈たけはせいぜい私の肩ぐらいで、鞭のように細かった。そうしてまだ白い肌を現わさないその黒い鞭の先に思いのほか大きな黄ばんだ葉を二三枚つけて、高原の爽かな西風にくるくると動かしていた。四方八方晴れわたった秋だった。あすは別れの八ガ岳が驚くばかり美しく、一望の野のひろがりが潮のように胸にせまった。
 都会の庭へ持って来られた幼い白樺は、望郷の思いにわずらったか、その後一年まったく元気がなかったが、やがて平地の風土にも馴れて、それからはすくすくと育って幹も白くなり、若いながらも立派に白樺固有の樹形をととのえて、この夏には八メートルの高さに達した。彼は同じ山地の樅もみや栂つがのように剛直でもなく、橡とちや棠梨ずみのように美しい花も咲かせないが、単純で清楚なその姿は、私の束京の庭に一脈高原の風を吹きおこさせ、あの広がりの歌を蘇らせるものだった。私たちの幾年流寓につながる木だ。それが一朝の嵐になぎたおされた。
 玄関のまえ、井戸のほとりに立っていた菩提樹ならぬ白樺よ! 彼の生きていた日その木陰で夢も見ず、幾多の愛の言葉をその幹に彫りつけもしなかった私は、せめてその遺材から一つの椅子、一つの額縁でも作らせて、永く思い出とすることにしよう。

                               (一九五八年)

 

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 上高地紀行

 今年のウェストン祭には妻同伴で出かけた。まだ寝巻のままで「行ってらっしゃい」をしに縁側へ出て来たちいさい孫たちが、彼らの「おばあちゃん」の登山姿を見てびっくりしたり、手をたたいて喜んだりした。
 連れて行くときまった時、「私には二十一年ぶりの上高地ですよ」と言われて、もうそんなになるかと少なからず驚いた。この妻と娘を連れて、当時黒田姓を名のっていた村井米子さんたちと一緒にした燕から槍への登山。いま子供二人の母親になっている娘がまだ小学の六年生だったのだから、算えてみると二十一年という勘定はちゃんと合っている。
 勘定は合っているが、上高地にしろ何処にしろ、あまり留守番をさせすぎたという気がする。そのくせ自分だけはよく出かけて、いやな顔もされず、恨みがましいことも言われなかったのだから、思えば内助という事を相手の慣性か何かのように利用して、その恩恵に思いをいたすことあまりにやぶさかでありすぎた。たがいに年もとった。今後何年いっしょに暮らせるか知らないが、まったくの手遅れにならないうちに、せめて年に一度でも二度でもいいから好きな山へ連れて行ってやろう。そう発心しての出発だった。
 松本では日本山岳会の信濃支部長高山さんの処で一晩ごやっかいになった。「とうとう奥さんがいらしった」というので大変なもてなしだった。かなり暑い日ではあったが松本平は晴天で、お城に近い高山さんの二階の窓から、花やかに燃える夕ばえの空を背景に、常念の左へちょぴりと現われる槍ガ岳の槍の穂先がまるで紫水晶のようだった。
 翌日は高山氏夫妻とその娘さん、それに上高地五千尺旅館の主人も加わった一行で出発した。松本を出て島々、それから梓川の谷に沿って終着の河童橋かっぱばしまで約五〇キロ、ハイヤーで二時間半ほどの行程だった。

     *

 麦秋の松本平を西南西へ一八キロ、野麦街道に砂塵を上げて疾走して来た軽快なフォードの中型が、梓川の渓口部落、古い島々の宿しゅくの出はずれでぴたりと停まる。上高地への道のついでに、土地の版画家加藤大道さんの一家に一目でも会って行きたいという私のために、ようやく山の迫って来た坂の中途でエンジンをとめた車である。
 大道さんその人とはまだ対面数回の間柄だが、父親の業をついで木版画や民芸品を造っているその息子や娘とは、彼等が以前から私の書く物の愛読者である関係で親しくして来た。松本で世帯を持っている息子のためには、頼まれてその長女の名附親になった。島々の両親のもとで働いている娘からは、その作になる可憐な安曇あずみ人形を幾たびか贈られた。東京の冬の夜などにふと思い出す度ごとに、心がなごみ、胸のどこかが痛くなるような、そんな人なつこい兄妹である。
 その妹のさき子が、老いた父親や母親と一緒に車のそばの道ばたへ出て来た。去年会った時と同様に健康らしく、去年よりも一層美しくなったように思われた。帰りにはぜひ立ち寄ってくれるようにと、親子三人が口をそろえて言う。そのこぼれるような真情に答えるのに、今度の旅には時間が無いからとはとても言えない。「都合がついたら寄りますよ」と、そんな不本意な怪しい返事を後に残して、窓ごしに手を振り手を振られながら別れたが、やがて梓川を右岸へ渡って車が稲核いねこきの部落を過ぎる頃まで、心をとざす哀愁の霧の、容易に晴れないのを私は感じた。

     *

 道は改修が進んで去年よりもずっと良くなっている。山側の崖をけずったり、突き出た岩壁を爆破したり、谷側の崩れを石垣やコンクリートで固めたりして、危険を思わせる個所も著しく少くなり、道幅もだいぶ広くなった。
 そういう道路工事は、奈川渡ながわどから前川渡あたりまでの間でいちばん盛んに行われているように思われた。爆破した岩の大きなかけらを金鎚でこまかく割る者、それをもっこで運ぶ者、篩ふるいにかけて石の粒をより分ける者、割栗の角錐を切り出す者、ミキサーを廻してコンクリートを造る者、繩を張って水準を出す者……仕事を求めて何処から集まって来た人たちかは知らないが、そういう人夫の幾組が、梓川の谷の空、垂直幾十メートルの高みの路傍で、骨身をねじり、汗を絞りながら、ほとんど唖のように黙々として働いているのだった。
 それにしても車の窓から見上げ見下ろす山や谷間の、雲のように盛り上がった若葉の色をなんと言おう。すべての山がほとんど広葉樹ばかりで被われている上に、樹木の種類が多いので、新緑と口では言っても、その濃淡の微妙なニューアンスには限りがない。もしも緑の虹というイメイジが言葉として成立し、緑の夢という形容が許されるならば、或いはこれに近いかも知れない。そしてこの虹、この夢は、梓川を更にさかのぼって上高地から徳沢へ行くまでに、いよいよ縹緲の趣きを深めるのである。
 眼が讃美する一方では、耳がまた傾聴していた。それは疾走する車の中にいてなお明瞭に聴き取れるエゾハルゼミの斉唱で、奈川渡から坂巻温泉あたりまで十二、三キロの間、ほとんどとぎれ無くずっと続いた。エゾハルゼミの声は低い複音のハーモニカか、チェロのことを思わせる。その音色ねいろには幽邃と清涼の質があって、同じ斉唱でもエゾゼミのそれのように強圧的でなく、ハルゼミのように浅薄でもない。個体として啼いている時には、「ヨーギ、ヨーギ、ギギギ……」と聞こえるが、数匹乃至数十匹の斉唱となると、却って澄んだ中音絃楽器の効果を出す。姿は平地の松林で五月ごろ啼く同属のハルゼミに似ていて、それよりも一廻り大きい。
 ところで私はこの蟬の声が、梓川の谷も中ノ湯を越すとぴたりと止んで、もう上高地でも徳沢でも全く聴かれないことに気がついた。しかも奈川渡から下では、稲核でも島々でもこれを耳にしなかった。仮に中ノ湯を海抜千三百メートル、奈川渡を千メートルとすると、この蟬の生活に適した標準高度は、少くとも本州の中部地方では、およそこのくらいの数字で表わされる処のように思われる。今までに私がこの蟬をたくさんに聴いた木曾谷の鳥居峠も、釜無谷の今ナギ附近も、ちょうどこの高さだった。その上エゾハルゼミは深山の渓谷に臨んだ広葉樹林の蟬とされている。してみると、少し話のうますぎる嫌いはあるが、私の車中の傾聴は、同時に生物アマチュアの一観察であったかも知れない。

     *

 講演の後で読んでくれと頼まれた一篇の詩を、ようやくのことで書き上げたところへ急使が駈けつけて、「もう皆さんがお待ちですから」という口上である。会場は梓川の河原の野天。ウェストンの浮彫の半身像を岩壁に嵌めこんだ記念碑の前。急いでも河童橋かっぱばしから十分はかかる。
 いわゆる「日本アルプス」の開発者でその名附親でもあり、同時に我が国近代登山の父と言われるイギリス人の牧師ウォルター・ウェストンは、上高地の山水の美を殊のほか愛して広くこの地を推奨した。その徳を追慕して戦後毎年六月か七月に行われるのが此のウェストン祭で、主催は日本山岳会信濃支部。今年は六月に催されてその第十二回目である。
 急いで着くと、記念碑を半円形にとりまいて、百人あまりの男女の登山者が集まっている。みんな胸に黄いろい参加章をつけ、厳粛なおももちで立っている。マイクロフォンが据えられ、報道関係の連中も手ぐすね引いて待っている。いいお天気だ。碑の真向いにそびえ立つ六百と霞沢の岩峰が、初夏の午後の日をいっぱいに浴びて金光を放っている。眼の前の梓川が不断の琴の音を響かせている。
 長身の支部長高山さんが開会の挨拶をする。ズボンに派手なブラウスという若い女性が二人、肖像の左右に山から採って来た花の束をささげる。村長自身や市の観光課長代理の祝辞がある。カメラやアイモはもう活躍を初めている。マイクロフォンも思ったより調子がいい。続いて東京の本部から来た理事が、登山の精神面を強調した講演を試みる。「日本アルプス登山と探検」の訳者O教授がその著者ウェストンの話をする。最後に私の、講演とも言えない短かい話と詩の朗読。
 こうして一時間ばかりで碑前の行事は終ったが、私は既知未知の数十人から、否応なしに彼らのカメラの前へ立たされた。
 無理やりに作らされた詩は次のようだが、これは今後ゆっくりと手を入れなければならない。

  梓川の青い流れが瀬音を立てて
  ぐるりと大きく弓のように曲がっている。
  そのつきあたりの一枚岩に
  堅く嵌まった浮彫の
  銅のパネルのウェストン像。
  そのウォルター・ウェストンの
  十二年目の祭をすると集まった
  男女無数の登山者たちの、
  魂には自然を持ち、心に山を抱きしめた、敬虔な、素朴な
  親しい顔々のなつかしさよ。
  ああ、上高地の谷に六月の風は歌い、
  水辺の柳の綿がしきりに舞う。
  霞沢や六百の堅固な岩の幔幕に
  柔かな日光が蜜のように流れている。
  これらすべてが予想されたものでありながら、
  なんと新らしく、珍らしく、
  なんと抗あらがいがたい現実として、
  こうして此処に集まった私達を打つことだろう。

     *

 鋲靴の底にギチギチと歯ぎれのいい足ごたえを感じながら、しっとりと濡れて堅くしまった花崗岩の、灰いろの砂の小みちを踏みしめて行く。
 道の左下は梓川の糸のような青い流れと、柔かな化粧柳の林のずっと続いたその河原。もう明神の尖峯もうしろになって、代って現われた前穂高の雄大な山稜が、残雪を塗りこめた濃い桔梗ききょういろの地肌やするどい尾根の歯がたを、煙のようにまつわった雲の裂け目の、あんな高みからのぞかせている。
 右は大滝山ふもとの密林。その夕暮のように暗く、氷庫のように冷えびえとした奥のほうから、気ぜわしい駒鳥の歌や、さびしい鷽うその口笛が洩れて来る。原生林のへりの露に濡れた苔の中には、可憐なイチョウランホテイランが、宝石を刻んだような花をうつむけている。
 道のゆくてを見えがくれに、年輩の女が二人行く。一人は和服に草履ばき、一人はキスリングのルックサックを背負った登山姿。和服の人は松本に住む友人の奥さんで、もう一人のほうは私の妻だ。年に似あわず元気に歩いて行くその後姿のむこうがわに、彼女の顔の晴れやかなのを私はよく想像することができる。
 この上高地は妻にとって、久しぶりのなつかしい谷である。毎年夏が近づくと、今年こそは連れて行ってやろうと約束しながら、主婦としての相つぐ故障でお流れになった。それがとうとう実現して、いよいよ明日は出発という前の晩、はずむ心に旅支度をしながら、書斎の電蓄で聴いた「鱒」の五重奏から、さまざまに空想したものが今こそみんな彼女のものになったのである。梓川の谷の瀬音も水の光も、それをめぐる幽邃な自然も、華麗な焼岳も、荘厳な穂高も。さては南ドイツの山荘を思わせる静かな宿の滞在さえ……
 その彼女がたとえ十年を若返って見えるとしても、おそらく当然の事であろう。
 或る曲り角で、右前方の山あいに、ちらりと常念の金字塔が見えた。日の当ったその堂々たる山体に、例の幅のひろい残雪の帯が斜めに深く食いこんで、プラチナのように光っていた。
 道がまっすぐに徳沢を指すと、常念の姿はかくれて、今度は谷のつき当りのまっさおな空中に、北へ向かって翼を伏せて大鳥のような大天井の山頂が現われる。黒々と深い一ノ股の切れこみが正面。岩の城塞のような屏風岩びょうぶいわのさえぎるところ、初夏六月の天を突く槍ガ岳の所在がほのかにそれと想像される。
 タンポポの黄、エゾムラサキテングクワガタの空色。花で埋まった美しい柔かな草原に、唐檜、落葉松、白樺などの巨木が点々と立つ徳沢の平は、私にとっても久しぶりの訪問だ。シーズンには早いので、赤と白のキャンプ用の天幕が二張り、広い原の片隅に小さく、低く、閑散に立っている。
 先に着いた若い女性たちの一行にまじって、松本の友人高山夫妻とその娘や、農工大学のO教授や私の妻が、もう草の中へ菓子だの飲物だのをひろげている。日が射せばさすがに暑いが、かげれば千五百メートルの山間盆地。峯々の雪を溶かした空気の流れが惜しげもなく吹きおろして来る。
 花のしとねに寝ころんで、妖精たちの合唱に眠るベルリオーズのファウストのように、近くの林で鳴いているアカハラメボソの歌に揺られながらうとうとする。頭上の空には絶えず大きな雲の往き来があって、六百山が悲しく暗澹と曇ったり、奥又白の雪渓が白刃のように眼にもまばゆく光ったりする。
 深い静寂に支配された永遠のようなこの一刻を、女達のさざめきや小鳥の声が、私にとって、人生を遠ざかって行く時のなつかしい別れの歌か、「我等と共にとどまれ!」の呼び声のようだ。

     *

 もしも事情が許すなら、私はなお幾日かを上高地で過ごしただろう。山登りのためか。否。この年齢になってはもう登山に多くは望めない。たとえやってみるとしても、せいぜい焼岳か西穂ぐらいなものだろう。
 今の私をこの谷間に引きとめるもの。それは花も花だがそれよりもむしろ小鳥だ。小鳥たちの歌に聴き入り、その姿を見ることだ。
 彼らは、この比類なく美しい山間盆地のあらゆる森林や沢に住んで、それぞれの歌を高々と鳴りひびかせている。五月・六月こそ彼らの盛季だ。今がちょうどその六月。私は谷間全体が柔かい新緑の雲に埋もれたこの季節に、空間を流れて来るメロディーの一節、落ちて来る音色の一滴からでさえ、ほとんどその歌手の名を言い当てることができる。
 田代池から河童橋への中ノ瀬の森林。その針葉樹の木立から、ヒッツーキー・ヒッツーキーと高いピッチで聞こえて来るのはエゾムシクイの声である。
 小梨平から明神池へかけての道の左手、コメツガシラベの林の深い処にはルリビタキが多い。ヒョロロロ・ヒョロロロ……瑠璃るりいろの玉を思わせる寂しく澄んだ美声だ。同じような場所で聴かれる同じ美声でも、キビタキには艶つやっぽさがあり、ウソの笛には霧の中に人を求めるような痛ましさがある。
 ゴジュウカラの早口のヒュッ・ヒュッ・ヒュッには空気を引き裂く鞭のおもむきがあり、突然響くコマドリのヒンカラカラは沢の深みの意外な日当りを思わせる。
 梓川の曲りこんだ崖のふちでは小さい癖に高く力強いミソサザイの囀りが聴かれ、明神池への沖積地の落葉松林では、チュリ・チュリ・チュリ・チュリと鳴く幾十羽のメボソの声が、それこそ雨の降るようだった。
 そして黎明や入日の時刻のあのアカハラの、身も心も捧げつくしたような讃美の歌をなんと言おう!
 僅かな日数の滞在ではあったが、それでも二十種を越す小鳥の歌に聴き惚れた。もしも事情が許すなら、私はなお幾日かを上高地で過ごしたかった。妻と一緒に!

                                 (一九五八年)

 

 

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 同行三人

 国立自然教育園

 噂には聴いていたが、港区白金台町という東京都内のにぎやかな町なかに、よもやこんな別天地があろうとは行って自分の眼で見るまでは想像もつかなかった。つい先ごろの日曜日に、新聞社の若いK君や春陽会の加山画伯といっしょに出かけて、園の鶴田次長さんに案内されながら見て回った国立自然教育園の話である。
 数百年を老いたシイやカシのうっそうと暗い常緑濶葉樹林、雲か霧のようなみずみずしい若葉に彩られた落葉広葉樹林や雑木林、柔かい五月の青空をひっそりと映している古い池沼。
 古代豪族の居住の跡をのこし、江戸期には松平讃岐守がここに下屋敷を営み、維新後の帝室御料地を経て昭和二十四年から国有になったという六万一千坪の園内に埋もれるように立っていると、市街の雑音も折からの選挙で拡声器の撒きちらす無遠慮な絶叫の音波も、さすが周囲幾千万の樹葉や樹枝に反射され吸収されて、人を自然への瞑想と観察とにいざなうこの静寂の世界を侵すことも汚すこともできなかった。
 その静寂を内部でもまた保とうとして、この野生植物と動物との世界へはいる人間の数には制限があり、在園者はいつでも三百人を超過しない仕組になっている。つまり三百人で満員ということにするのである。だから日曜日や祝日でも園内に雑踏を見ることがない。それに運動遊戯や集会や物売なども禁じられ、動植物を採集したり小鳥や獣を驚ろかせたりすることも禁止されているので、そういうことのために気分を乱されたり不快を感じさせられたりする心配もない。
 そして年を追ってこの規則はよく守られるようになり、わずかに残った武蔵野自然林を天然の推移のままに保存し、観察し、記録する一方、ここを広く公開して一般の自然愛好の気風を促進することに役立たせ、更に進んでは生物の観察や研究の場としての利用に供するという本来の趣旨が、次第に徹底するようになったと言って次長さんは喜んでいた。

 正門の袖のところで入園料を払って中へ入ると、今度はそれと背中合せになった窓口で、料金の受取証と引替えに在園中胸につけているためのバッジを渡される。ちょうど今ごろ武蔵野の林のふちや用水のほとりで盛んに咲いているニリンソウの花を、かなり正確にあらわした美しい大型のバッジであり、記念のために欲しくなるような好もしいアクセサリーではあるが、出る時にはやはりおとなしく返さなくてはならない。
 小みちの上で時々すれちがう物静かな入園者の左の胸に、この白と緑の野草のバッジがいかにもしっとりと落ちついた感じであった。
 古い土豪の居住の跡は園内をほぼ三重に囲んでいる土塁の配置から想像される。その形は北から東へかけての辺によく残っていて、そこに昼なお暗く堂々と立っている百数十本のスダジイの大木が見事である。中には樹齢五百年を越えるものもあるそうで、ところどころにそびえるケヤキ、ムク、アカガシ、ソロなどの巨木と共にこの自然園の林相を特色づけている。
 スギの自然林やアカマツ、クロマツなどの老樹の点在もあるが、この種の針葉樹はようやく衰退期をたどっているように見うけられた。
 園内は地形や大木分布の関係から北に明るく南に暗い。そしてこの暗い方が壮大な常緑や落葉の広葉樹林とその樹下の草本やシダ類、菌苔類、地衣類などの観察に適していて、明るい方は水生植物や湿地植物の保護地域、野鳥誘致のために彼らの好きな実を提供する樹木から成る低い林や藪で占められている。コガモやオシドリが来るという池はほぼこの明暗両地帯の中問にあって、欝蒼と生い茂った樹林のあいだに深くひっそりと鎮まっている。
 今はオシドリが一つがい来ていると言うが、そのために用意してある巣箱へは中々はいらず、「箱の蓋の上へとまるだけで、こちらをやきもきさせています」と次長さんはほほえみながら説明した。

 巣箱といえばほかのものはすべて四個ずつ一組になっていて、幹の一ヵ所をぐるりと囲んでいる。それが園内に現在では三十五組あるという。目的は小鳥の種類とその分布密度、個体数の変動などを調査することにあるそうである。今これらの箱に営巣しているのはシジュウカラだが、面白いことに、四つの箱のうちで彼らに利用されているのはほとんどすべて西向きの物だという話である。私などは西向きは避けるべきもののように教えられて来たが、これでは話が逆である。次長さんも「これからの研究題目です」と言っていた。池は南西の奥まった所に「水鳥の沼」と名づけられているのがもう一つあって、折から二羽のカワセミが目も醒めるような青緑色に光って、矢のように飛んだり水辺のカワヤナギの枝にじっととまったりしていた。
 その池のそばには奇麗に手入れをされた苗圃があったが、なんとそこには幾らかの観賞に堪える森林樹下や野外のいわゆる雑草が、ジロボウエンゴサクやホタルブクロ、スミレ、キウリグサの末にいたるまで、まるで貴重な疏菜か何かのように栽培されていた。

 小鳥誘致の林のわきの、武蔵野植物教材園という一角も楽しい場所である。ちょっと目についただけでもイカリソウ、アワコガネギク、クララ、アキギリ、フシグロセンノウ、ヤブレガサ、オオヒナノウスツボ、ワレモコウ、キキョウ、シラヤマギク、ホタルブクロなどが、それぞれ適地を選んで配置されている。
 これらは小・中学生の教材が目的であるが、近ごろでは歌人や俳人が来て実物の見学をして行くそうである。

 私たちの行った時は園内いたるところウワミズザクラの白い穂の花が全盛で、それにヤマブキ、クサイチゴ、ミツバウツギ、ゴマギなどが美しかったが、ここのいちばんいいのは三月末から五月半ばごろだということだった。しかし夏は夏、秋は秋でそれぞれにいいことは、かくも豊富な武蔵野植物の種類からでも想像がつく。むしろ入園者もまれな夏の盛り秋の初めに、強壮な陽地の花や涼しい水草の花を見に来ることも大きな楽しみであろう。
 それにしてもすべてを天然の営みに任せているこの自然園で、あの繁殖力旺盛で遠慮会釈を知らないヒメジョオンをどのように待遇するか、それを聞きもらしたのはまことに惜しいことであった。

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 武蔵野晩秋

 現代の一時期を生きている武蔵野を、その秋の景観の中でとらえてみてはくれまいかというのが、私に頼む時の新聞社側の意向のように思われた。
 むずかしく考えれば切りはないがこのテーマを前に私は私らしいハイキングの計画を立てた。
 まず二三の定義めいた物のある「武蔵野」を、入間川・荒川の線と多摩川の線とに挾まれた一帯の台地と丘陵との地域にかぎり、二人の同行者の足や帰宅の時間のことも考慮に入れて、この地域内で人造湖の水景を含む狭山さやまの丘と、そこにまだ幾らか昔のおもかげの残っていそうな小手指こてさしノ原とをわれわれの半日の見学の場に、言わば小さい景観地理学的エクスカーションの舞台にきめた。

 もうかれこれ二週間も晴天の続いている晩秋の一日。東京から西へ西へと走るウィークデイ午前の閑散な電車の窓に、田無たなしをすぎて東久留米、清瀬、秋津と、だんだん武蔵野らしくなってゆく田園の風景は、駅の近所では近い将来の膨脹を思わせる新築小住宅群と貧弱な商店群との不調和景観を見せながら、少し遠ざかれば折からの甘藷掘りや麦まきの農夫が点々とする耕地の広がり、薄い赤や褐色に色づき始めた雑木林、杉、けやき、白がし、竹などの見事な屋敷森に囲まれた遠近の農家を、きらびやかな十一月の日光や雲一つない大空の淡いブルーと一緒に映し出すのだった。
 西所沢で支線の狭山線に乗りかえると、電車は田圃や桑畑に占められた山口村の浅い明るい侵蝕谷をさかのぼって、やがて十分たらずで終点「狭山湖さやまこ」へ着いた。
 途中車の窓から見る丘のふもとや中腹の農家は、複雑に開析されたこの丘陵内部のすべての部落のそれの特徴を示して、勾配の急な高い入母家いりもや造りの藁屋根を載せているのが多かった。
 柿の樹が多いが実はみんな採りつくされて、その秋の輝きは見られなかった。しかし栽培の菊、さざんか、柚ゆずなどの、白、黄、淡紅の色が、いかにもしっとりとした調和を奏でていた。
 「狭山湖」の停車場とその付近一帯のながめとは、言うならば子供の「乗物絵本」の中の風景である。童謡趣味に従って設計されたかと思われるこの広大な遊園地は、村山・山口二つの貯水池を結ぶ景勝の一角を堂々と占めて、パステルカラーのユネスコ村、箱庭のようなユネスコ牧場、巨人の玩具のような御伽電車、おまけに今日は「あの雲もいつか見た雲」の片積雲をさえ二つ三つ空に浮かべて、かつての狭山の丘を一変させ、つい一里半向うの砂川町の強制測量風景と、悲しくも皮肉な対照をなしていた。

 われわれは眼の前の丘の山口観音へ足を向けた。天正十九年(西暦一五九一年)の朱印地と言うから古い開基には違いないが、堂そのものは近年の改築を思わせた。境内は杉の木立に囲まれて静かな別天地だった。同行の島野画伯はこの境内の裏手で薄紫の実の美しいムラサキシキブの一枝と、白い房のような花を咲かせたコウヤボウキの一茎とを折り取って、むしろこのほうを今日の収穫として喜んだ。
 そして私も記者のY君も同感だった。なぜならば、それからじきに若干の料金を払って入って見たユネスコ村なる物にしても、考えていた以上に意味の乏しいものだったからである。

 しかし山口貯水池の大堰堤からの水のながめはすばらしかった。奥の方で二股に分れている長さ約二千五百メートルのこの池は、南方の村山貯水池と同様に、狭山丘陵を東西に侵蝕した縦谷をせきとめて多摩川から引いた水を溜めたものだが、その堰堤が厚い長壁のように上山口かみやまぐちの部落の上にそびえているのも壮観である。湖岸はかつての丘陵の皺をそのままに出入りが繁く、その上に緑の保護林を載せて折からの満水に優美な影をうつしている。
 水面にはいろいろな鴨が浮かんで、望遠鏡で調べるとコガモ、カルガモ、ヨシガモ、ホシハジロの類が指摘された。もっと奥の湖心には幾百という彼らの群が真ッ黒な列になって浮いていた。そしてそのなおも奥の地平線には、秩父や奥多摩の山々が薄青い影絵をならべていた。
 貯水池から北へ下ると風景は狭山丘陵中の古い部落や耕地の景観にかえった。われわれは所沢から青梅へ通じる街道の、高い杉や欅の並んだ路村を歩いて北野天満宮へ詣でた。古く延喜式に載っている物部天神だが、後に北野天神を合祀して今でもその名で通っている。森に囲まれた境内は至って静かだが、前の街道はバスやトラックが往来し、うしろの小学校の運動場では子供たちがにぎやかに遊んでいた。

 北野の部落から北はいわゆる小手指ノ原で、新田にった一族と北条、足利両氏との古戦場だが、戦前に幾たびか私の訪れたそれとは全く模様が変っていた。なるほど白旗塚の古墳も誓詞橋も残ってはいるが、私が好んでその静寂と小鳥の歌との中へもぐりこんだ森も林ももう無かった。
 ただ一望の桑畑や甘藷畑の広がりであり、横田やジョンソンの基地を発着する米軍飛行機の日もすがらの爆音の下、遠方から出作りの農夫の家族がそこここで、黙々と芋を掘り遅い麦をまいている光景だった。
 画伯が写生をし、Y君が農夫と煙草を吸って話をしている間、一人の若い娘をつかまえて、昔私がよくここへ来て弁当をつかったりヘッセの詩集を読んだりしたという話をしたら、女子高校出らしいその娘はほほえんで、今ではそんな場所も人も無くて、この畠の中を携帯ラジオのイヤホーンを耳からぶらさげて通る、派手なアヴェックのハイキング連ぐらいなものですと言った。
 そしてこれこそわれわれのこの一日の行にはなむけする、最も適切な結句であったかも知れぬ。
 しかしそれにしてもなお慰めは残っていた。われわれが農夫たちと別れて「狭山ガ丘」の停車場へ向う間ぢゅう、路の左右はまだ昔のままの雑木林で、黄緑色に輝く栗や小楢の木々にまじって、ハゼ、山ウルシ、ヌルデの朱赤色のもみじが美しく、カマツカの真紅の葉が燃えるようだった。その林の奥のどこからか響いてくるシジュウカラの歌に、われわれは耳を澄まして立ちどまったが、そこの枯草にすわってながめた夕暮近い緑色の空はやはり武蔵野のものであり、やはり今日の最後を飾る光でもあれば意義でもあった。

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 皇居に残る「江戸」

 一日二日と雨にたたられた開都五百年記念の大東京まつりが、ようやく青空と日光とを見た十月三日の午後一時すぎ、折から日比谷公園をくり出す時代行列を見ようという群衆の人出人垣で新橋から内幸町かいわいは車道も歩道も大変な雑踏とにぎわいなのに、ひとたび皇居外苑から坂下門を入ると、ここはまた広々と敷きつめられた白い玉砂利にわだちを印するわれわれの車の、深く柔らかいゴムタイヤの音だけが一帯の静けさに波紋をつくる世界だった。

 宮内庁仮宮殿の大玄関前には、二頭立ての儀装馬車が横づけになり、金と黒との制服に威儀を正した儀杖護衛官が十数騎、鼻を鳴らしたり尾を振ったりする馬の首をならべていた。天皇陛下の御招待で昼食を共にした国家の賓客、インド共和国の副大統領ラダクリシュナン博士がこれから退出するというところだった。われわれは偶然に際会したこの場の模様を片すみにたたずんでながめた。典礼の行われるや簡潔にして無駄がなく、儀仗の列は国賓の馬車を中にはさんで粛々と颯々と、砂利を蹴り砂利をきしらせながら二重橋の正門さして西の丸への坂道のカーヴを曲って行った。
 私はその古風な腰の高い馬車の奥に、高名な宗教哲学者・政治家の面長な顔をちらりと見た。

 戦災で跡方もなく焼失した西の丸の旧宮殿あとは、今は皇居広庭と呼ばれている。しかし在りし日の荘厳を知らない私には、いかにも美しい緑の芝生の広がりであった。その芝生の尽きるところ、北西の正面に一直線に走る石がきがあって、これが奥庭との境をなし、その向うのしんしんと茂った松、椎、楠などの高い常緑樹の厚みの奥が吹上の地区で、古い武蔵野台地の原始林をおもわせる別天地に、天皇皇后の質素な常のおすまいである御文庫や、賢所かしこどころや、またあの有名な生物学御研究所などが深くひっそりと散在していると言う。
 私はその奥まった世界への参観を許され、遠くから見た皇室御日常の雰囲気をなりと筆に残したいと思ったが、それはやはり到底かなわぬ願いであった。
 それでここでは吹上の空の高みをしきりに飛び翔けている軽鴨や小鴨の群をながめることで満足し、また奥の二重橋の鉄橋では、右手に聳える美しい伏見櫓とその多聞たもんを見上げたり、眼下の深い箱濠はこばりの濃い緑の水面に、呼子のような声で鳴きながら浮んでいる小さいかいつぶりに雙眼鏡を向けることで満足した。
 足をかえして宮内庁の前から、今度は乾門いぬいもんへ通じる長い並木道の乾通りを歩くことになった。左手は石がきと垣根とをめぐらして正面に古い木造の門を構えた御局跡おつぼねあと、その背後にひときわ高く雲のような紅葉山の樹々の欝蒼。そしてその紅葉山を抱くように下道濯濠しもどうかんぼりと呼ばれる深い濠が、まるで天然の暗い谷のように、両岸の崖から樹木に押しせばめられ、水面を蓮や蘆にぎっしりと埋められて、道と直角に禁苑のかなたへと奥深く曲りこんでいる。
 しかし右手は旧本丸の高みを取りまく明るい濠の一部の「蓮池」である。名のとおり一面に蓮で被われ、土の現われた処にはここでも蘆が茂っている。蓮の花の盛りの時やよしきりの鳴きしきる季節のことが思われた。
 濠の対岸は見上げるような高い石垣つづきで、右手の角には皇居内でも最も豪壮な三層構えの富士見櫓、正面頭上は富士見多聞の屋根を載せた白い長塀、そして左は濠をまたいで本丸へ登る小さく狭い西拮橋にしはねばしの木橋である。折から宮殿を退出して帰還される皇太子の自動車が通った。黒い国産のお車で護衛はなかった。
 私はこの並木道で枯死に近いある桜の老木から、交互に灰色と樺色と黒との同心円の縞模様をした一個の大きな美しい瓦茸かわらたけを採集した。私のコレクションヘの皇居参観の記念として。
 西拮橋を渡って、堅固な石がきの屈曲したはざまを登ると本丸地区だった。と、たちまち左手に巨大な伊豆石の角材を畳んで築かれた天守台が現われた。この上には慶長十三年に竣工した五層の天守閣が更に二十メートルの高さで聳えて江戸市中を見下ろしていたが、明暦の大火の折に焼けて、その後はずっと荒れたまま今日に及んでいるという。
 その近くにある黄金井戸こがねいどという角形の井戸も、同様に堅固な安山岩らしい石材のがっちりした構築であった。

 植込の奥に閑雅な門と屋根とを見せている呉竹寮くれたけりょうを路の右手に、書陵部の旧式な洋風建築を左手奥に見ながら、同じように旧い洋風の楽部がくぶの建物へ導かれて、そこで茶を供されて小憩をとった。二階まで打ちぬかれた正面大広間のまんなかには低い朱塗の勾欄こうらんにかこまれた一段高い雅楽の舞台があり、二つの大鼓おおつずみや小さい鼓がとうとうと響くべき大音を今はおさめて、森閑と舞台正面の右と左に立っていた。
 ところでこの楽部の玄関前には楠の大木が一本見事に枝をひろげていたが、私はその高い枝の夏の葉に四匹五匹と、三齢か四齢ぐらいに達した青筋揚羽の緑色の幼虫がついているのを発見した。皇居の中には楠が実に多い。私は別名「黒たいまい」のこの青と黒との美しい蝶が、禁苑の至るところを飛び回っている盛んな夏を想像した。
 もう一つ良かったのは汐見坂上の石がきの茂みの中で、南方への秋の渡りの途中を忍び音に「ピイピイピイ・クルルル」と鳴いている黄鶲きびたきの声だった。

 汐見坂を下りて二の丸へ来ると人に会うことも多くなり、周囲の空気にも何となく町のにおいが感じられた。大手門、百人番所、病院、桔梗門のあたりでは、宮内庁の職員かその家族であろう、洋装の若い娘や子供の姿さえちらほら見えて、わずか二三時間の特別地域での生活なのに、その町近い空気がいかにも物珍しくまたなつかしいものに思われた。
 それもそのはずだった。桔梗門で武者走りを登って外苑から丸の内の方角を眺めると、銀座、日本橋のちまたの空にアドバルーンが立ち浮かび、秋の午後の晩い太陽に照らされた濛気が漂い、ばら色に輝く積雲が高々と立って、その下に結局はわれわれの生きねばならない「世間」のあることを遠い海鳴りのようなどよもしで告げるのだった。

                        (一九五五年――一九五六年)

 

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 放送歳時記

 郭 公

 もう五月もすぎて六月に入りましたから、郭公の声は、初夏の雲をうかべた高原の大きな広がりや、残雪の消えかかった山々を近々と仰ぐ新緑の原野や、草木くさきの多い北方の静かな田舎などに響いている事でしょう。今こうして都会にいて、あの「カッコウ…  カッコウ…」というまろく澄んだ木管楽器の音色ねいろのような声を自分の口で真似をしてみますと、此処からは遠い山や北国きたぐにの自然が、どんなに明るい晴れやかな夏景色になって来たか、太陽の光がどんなに身にしみて清らかに、また水無月みなつきの風が野山一帯を、どんなに柔かく吹き渡っていることかと、そぞろに野性の自然への憧れがめざめて、それがだんだんつのって来るような気がします。
 私は永らく信州八ガ岳の麓で暮らしました。八ガ岳の山麓は日本でもいちばん海抜高度の高い美しい火山の裾野ですが、私の住んでいた富士見高原をその一部として、山梨県ざかいの野辺山ノ原から井出ガ原、それから北へ廻って三里ガ原、そして八ガ岳の一つの峯である阿弥陀岳の下の爼原まないたつばらから、温泉郷で名高い蓼科高原へかけて雄大な山々の眺めがすばらしく、森林や高原の植物にも無数の種類があるせいで、蝶や小鳥にもたいへん恵まれた一帯の土地です。そこでの七年間の生活ですから、詩や文章を書いたり山登りをしたりする一方、いろいろな生物の観察も好きでやっていた私にとっては、今朝の話題の郭公などについても思い出す事はたくさんあります。ただ、そういう話をしている内に、想像の眼の前に自然の風景がいきいきと現われて来て、都会生活からのいろんな束縛をうけている身にも拘らず、だんだん其処へ行きたくなって来るのが心配です。よく日曜日などの昼前後に、新宿の停車場で電車を乗り降りすることがありますが、その電車のプラットフォームで、向うに発車の時刻を待っている長野行や松本行の列車を見ながら、何かせつない郷愁の思いのようなものに襲われることがあるのです。そういう私にとって、中央線は懐かしい国への路線です。そうして東京の賑やかな夏の日曜日の昼すぎを、電気機関車の複音の警笛を鳴らしながら、遠くあの国へむかって静々と出て行く汽車は、私には、(こんなドイツ語は無いかも知れませんが)ゼーンズフト・ツーク、つまり郷愁列車です。
 さて郭公ですが、五月六月の山野に響いて、あたりの空間にほんのり色をつけるような、惚々としてしかも健康なあの「カッコウ…」という二音符の声は、個体によって多少ピッチの差はありますが、大体ハ調に調音された普通の笛の(ドレミファで言うと)ラの音とミの音とから成っているようです。しかもその音色ねいろが人間の肉声に非常によく似ているので、日本でも外国でもよく子供などがこの鳴声の真似をするくらいです。この、ほんとうの郭公の声と人間の真似の声とを、それぞれオシログラフに掛けて(これは音の振動を記録する器械ですが)、これに掛けて、その両方の音波の形を比較したら面白いだろうと思っていますが、まだ私はそういう話を聞いた事がありません。それはともかくとして、その「カッコウ」という声で鳴くのは鳥の雄のほうであって、雌はそうは鳴かないようです。雌は、私の観察した限りでは、「ガボガボ」とか、「ギョブギョブ」とか言ったような、余り美しくない声を出します。或る年の五月でしたが、信州の富士見高原で、私が一本の高いミズキの樹の下に佇んでいますと、その樹の中段ヘー羽の郭公が飛んで来て、棲まって、すぐに今言った「ギョブギョブ」をやりはじめました。すると近所の樹にいたのでしょうか、もう一羽の郭公が、此のほうは「カッコウカッコウ」と鳴きながら飛んで来て、同じ枝へ棲まって、そうしてじきに交尾をしました。その後も幾度か同じような光景を目撃しましたが、いつでも「カッコウ」と鳴くのは雄で、「ギョブギョブ」や「ガボガボ」は雌のほうでした。そうしてなお面白いことには、この桶の中の水を搔き廻すような雌の声を聞きつけて、同時に二羽の雄が、別々の方角から、鳴きながら飛んで来ることがあります。そういう時には勿論雄同士の間に激しい争いが起こって、猛烈な追いかけっこがはじまります。大体私の見たところでは、郭公が鳴きながら飛んで行くのは雌の呼声に答える時か、雄同士の争いの時で、樹にとまって鳴いているのは、彼自身の喜びや、興奮や、此処は俺の領分だぞという高らかな宣言などの表現のように思われます。
 郭公は一妻多夫、つまり男女の関係で一人の女に相手の男が多勢あるというように言われていますが、私はまだそこまで突き止めたことがないので何とも言えません。しかし今まで見たところでは、八ガ岳の裾野にしろ、浅間山の山麓にしろ、又木曾の御嶽の麓にしろ、郭公のたくさんいるところで、すべて雌に比較すると雄の数の方がずっと多かったのですから、或いは一妻多夫という説も成り立つかも知れないと思っています。
 こういうふうに郭公は一種の男女関係は持ちますが、決して巣は作りません。卵は自分たちとは別な種類の小鳥の巣へこっそり産みこんだままで、その卵を孵かえすことも、孵った雛を育てる苦労も、すべてその巣の夫婦に押しつけるのです。ですから郭公には家庭生活も無ければ、ほかの小鳥たちがよくわれわれを感動させるような、母性愛や父性愛の現われというものも見られません。こういう変った習性を持っている連中には、郭公のほかに御存知のようにホトトギスがあり、また筒鳥とかジュウイチとかいう鳥があって、それぞれ違った色々な小鳥に自分たちの卵を托すのですが、郭公はおもにモズ、ホオジロ、ヨシキリ、キセキレイなどの巣へその卵を産みこみます。そうして、産むのは一つの巣へ一個です。ところでその産みこむ時期ですが、これも私の見たかぎりでは、ホオジロならホオジロの巣が出来上った直後か、或いはホオジロの雌が自分の卵を産みはじめた時が多いようです。そういう時期を何処からか見て知っていて、巣の主あるじの留守をねらってこっそり産みこむのです。私はまだその産んでいる現場を見たことはありませんが、養親のホオジロよりも大きな体をした郭公の雛が、まだ碌に目もあかないくせに一人で他人の巣の中に頑張っていて、しかもその巣のそとには三羽か四羽、まだ赤裸あかはだかのホオジロの雛がころがって、たくさんの蟻に食いつかれて死んでいたり、苦しそうにもがいたりしているのを見たことがあります。こういうふうに養親の子供や卵を巣の外へほうり出すのが、郭公の雛の仕業だということは今では一般に知られている事実ですが、私は自分の目でそれを確めたいと思って、色色思案した揚句、毛糸の玉を作って、それを郭公の雌の入っているホオジロの巣へ入れてみました。するとまだ目のあかない不恰好な大柄な雛が、その毛糸玉を頭と背中とで苦心して支えながら、後退りに持ち上げて、とうとう巣の外へころげ出させてしまいました。そうして自分は手捜りのような恰好でずるずると巣の底へ降りて、さもくたびれたように坐りこんだという訳です。言い忘れましたが、これは富士見高原で私の住んでいた家を囲む森の中での事で、そのホオジロの巣は森の小径のへりの、大蓬おおよもぎの株の根もとにあったものです。
 その同じ森の、道路に面した処には、地界の低い土手があって、その長い土手にびっしりとウツギの木が植わり、それにまじって野薔薇やスイカズラなどが繁茂していました。丁度今頃はそのウノハナや野薔薇が咲き初めて、さぞかし美しいことだろうと思いますが、これも六月の或る日、私はそのウツギの茂みの中に、郭公の雛の入っている赤モズの巣を発見しました。赤モズというのはモズの一種ですが、普通に見るモズよりも背中の赤みが強くて美しい鳥です。その赤モズの巣の中に、もうかなり生長して、育ての親よりも大きくて目方もそれより重いかと思われる郭公の雛が一羽、ほとんど巣を一杯に満たして入っているのです。その二三日前から、餌を運んでいる夫婦のモズがいるのに気がついてそれとなく注意していたのですが、とうとう見つけたという訳でした。一方モズ自身の卵や雛は影も形もありませんでしたから、無論もう余程前にこの他人の鬼っ子に押し出されて、土手の下へころげ落ちてつぶれるか、うようよ集まる山蟻の餌食になるかしてしまったのでしょう。それをまた怒りもしなければ恨みもしないで、大昔から定められた鳥の世界の運命として受け容れて、夫婦の赤モズが、日がな一日一生懸命に餌を運んで、我が子のように慈しみ育てているのです。そうして一方では、この雛の実の親たちだか他人だか分りませんが、とにかく五六羽の郭公が、遠く近く、毎日彼等の二音符の歌や「ギョブギョブ」をやりながら、元気のない鷹のように、飛び廻り遊び暮らしているのです。
 私はその巣を発見してからというもの、毎日二三回ずつ様子を見に行くことを続けました。遠くから望遠鏡で仮親の出かけて行ったのを見ておいて、それから素速く近づいて行って、ウツギの茂みの中の巣をのぞきこむのです。そういう事を毎日続けている内に、郭公の雛はすっかり成人して、もうあしたにも巣立ちするかと思われるくらいになりました。
 ちょうど、私が初めて巣と雛とを発見してから一週間目でした。忘れもしませんが、森の中にも外にも真赤な山躑躅や樺色の蓮華躑躅が咲きそろって、道のへりには白い野薔薇の花が咲きはじめて、この高原が一年中でいちばん美しく、またいちばん楽しく思われるような時でした。その朝、私は例の赤モズの夫婦がウツギの土手のあたりを木から木へと飛び移りながら、キチキチキチとけたたましい声で鳴いているのを聞きつけて、急いで見に行きました。するとどうでしょう。自分たちの巣から飛び出してもう一人前に振舞っている郭公の子の後を追って、育ての親の赤モズ夫婦が心配そうに、また自分たちよりも大きく立派になった子供を讃美するように、両方の翼を垂らしてぶるぶると震わせたり、キチキチ鳴きながら飛んだりして、見ている私のほうが感動して涙の出るほど、夢中になって、森の中をその郭公の若者の行く先々へと附き従って行くのでした。その時の私の眼に、この自然の世界がなんと不思議な謎のような物に見え、しかもなんと限りなく偉大な物に見えたかは、ただ皆さんの御想像に任せるよりほかはありません。

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 焚火と霜

 ことしもすっかり押しつまって、もう昭和三十一年もあと僅かになりました。私のような仕事をしている者でさえ何かと忙しい歳の暮ですが、その忙しい、日の短かい毎日が、どうやらお天気続きなのは何よりもありがたいことです。よしんば薄ら寒い曇天の日が続いたり、朝からびしょびしょ雨が降っていたりしたところで、何処へ文句の持って行きどころもないわけなのに、一日のスケデュールを考えながら起きる朝、きょうも空はよく晴れて、屋根の瓦や地面の土にきれいな霜がおりて、柔らかにもやの消えてゆく風景の遠くのほうから、大都会の活動の音が海の潮鳴りのようにだんだんと大きく近づいて来る時刻に、郊外の此処では、樹々のまわりにひよどりの群が賑やかに鳴き騒いでおり、「守まもり柿がき」といって、一つだけ赤くしなびた実を残してある柿の木の枝で、黒い翼と金茶色の胸とをした孤独のじょうびたきが、清らかな朝日を浴びて「ヒーッ・カタカタ、ヒーッ・カタカタ」と鳴いていたりするのを見ると、万事散文的な歳の暮ではありながら、そこに、冬は冬で、日本の季節の詩を感じずにはいられません。
 このごろ、学校へ行く小さい子供たちの歌っている歌に「焚火」というのがあります。御存知のように、「垣根の垣根のまがりかど、焚火だ焚火だ、落葉たき。あたろうか、あたろうよ。北風ピープー吹いている」というのがその一番の歌詞です。この歌はメロディーもすなおできれいですし、情操も美しく、言葉もよく選ばれて清潔な上に、ちょうど今頃の季節の感じと、その季節を生きる子供たちの素朴な生活の一面とがよく現われているので私は好きです。冬枯の庭の落葉を焚くというおとなの行為に、子供が子供らしい好奇心といくらかの遠慮とをもってその片隅に参加して、小さい音を立てて赤々と燃え、青白い煙を上げて一種健康な匂いと楽しい熱とを発散しながら、いろいろな植物の組織が化学的・物理的変化をとげてゆく有様を、まじめに、むしろ敬虔なおももちで、じっと見守っている彼ら少年少女の姿は、単にその場の情景と共に詩的であり絵画的であるばかりでなく、われわれおとなの心に自分たちの幼かった日を思い出させると同時に、われわれの胸に迫って、何か厳粛な人生の一瞬を反省させる力を持っているように思われます。子供の心というものは、冬の日光や焚火の火のように、味わえばしみじみと温かく楽しくて、素朴にまじめなものではないでしょうか。
 ほうぼうの家の庭に植木屋がはいって、庭木の剪定や垣根の繕いをしているのも、このごろよく目につく情景です。先日私は中野の或るお宅へ行きましたが、そこの奥さんが、「職人がはいって取り散らしておりますが、どうぞお構いなくまっすぐにアトリエヘお通り下さいませ」と言いました。そのアトリエは、高村光太郎さんがこの春亡くなる日まで借りておられた離れの洋館で、今そこで高村さんの全集の編纂が行われているのです。私の用事もその編纂に関係のある事でしたが、なるほどアトリエヘ通じる庭では二三人の庭木職が仕事の最中で、彼らの刈りこんだ庭木の枝が地面や飛石をいっぱいに埋めていました。そしてそれらの樹木の新鮮な切り口から浸み出して蒸発する樹液の匂いが、初冬の庭の中いちめんに漂っていました。そして私は其処に、枝を刈られ形を整えられた何本かの連翹れんぎょうの木を見ました。三月の中旬から四月の初めにかけて、その黄色い花のむらがりで早春の空間を照らす連翹。高村さんが殊のほか好きだったというので、告別式の白木の棺をその花の一枝で飾った連翹。私はそれを見たのでした。つくづくと。心打たれて。そして来たるべき春には又、亡き友への懐かしい思い出として咲くべき花が、すでに幾つかの可憐な誠実な芽となって形作られているその小枝を、切り落とされた屑の中から一本拾って、ポケットヘおさめたのでした。
 東京でも、この冬に入ってから、もう十何回か朝の霜を記録しています。東京の郊外でさえそんなですから、もっと寒い地方や山国では、もちろん毎朝がたいへんな霜でしょう。私たちは終戦後の七年間を長野県の或る高原で暮らしましたが、あのあたりでも十月下旬から霜がおりますから、今頃ともなれば毎朝が大霜で、高原一帯、まるで雪が降ったかと思うような銀世界です。私たちはその毎朝の厚い真白な霜の上に、兎や野鼠、雉やつぐみあとりや頬白のような、小さい獣や小鳥たちの足あとを、彼らの夜明けのつらい営みの証拠として見出すという、そんな荒涼とした冬の世界を生きていました。
 ところで、細かく美しく霜を刻んでつけられた彼らの可憐な足あとにまじって、私たちは人間の子供の小さい足あとをたびたび発見したものでした。それは霜に被われた、こちこちに氷った坂道を、爪先立てて小走りになって往復した足あとで、高原のところどころに散在する林の中まで続いていました。これは十幾町も隔たった処にある町の貧しい家庭の子供たちが、親たちに言いつけられて、燃料にするための枯枝を集めに来る、これもまた厳寒の夜明けの苦しい営みのしるしでした。なぜかと言えば、それぞれの林には、其処の枯葉を掃いたり枯枝を集めたりする権利を独占している人がちゃんとあって、ほかの人間は採ってはいけないきまりになっているからです。そしてそれを知っていながら、なおかつ敢えてすることは、つまり盗みをすることになります。ですから、子供心にも哀れやそれを知っていて、まだ人の起きない、人に見つかる恐れのない冬の朝早く、高原の霜や氷を踏んでやって来るのです。十ぐらいから、幼いのは六つぐらいになる子まで、男の子も女の子も、氷点下何度の寒さに顔や手を真赤にして、黙々とやって来ます。
 彼らは私たちの住んでいる広い森の片隅へも、時々忍びこむようにして入って来ました。そういう子供たちを早起きの私の妻が見つけて、可哀そうがって、小さい背中に大きな枯枝の束を背負うのを手伝ってやったり、冷めたくかじかんだ幼い手を自分の手に握って暖めてやったり、時時は菓子などを包んで持って行ってやることもありました。その子たちも、今はもう立派に成人していることでしょう。
 それにしても、兎や野鼠や小鳥でさえ安全に養われる天の下、広大な自然の中で、どうして人間のいたいけな子供だけが、時が来ておのずから枯れて落ちた木の小枝を、罪の意識なしに拾ってはいけないのでしょうか。どうして、心あるおとなの心を痛ましめながら、身に余り力に余る大きな束を背にしょって、逃げるように小走りに歩く可憐な足あとを、夜明けの霜の上に残さなくてはならないのでしょうか。こういう疑問の解決される時こそ、初めて天下晴れて正義を口にすることができるように私には思われるのです。

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 春の田園詩

 長かった冬の季節がとうとう終って、待ちに待った春が東京へもやって来ました。
 その東京の、西南にしみなみのはずれにある私のうちは、ついこの間まで庭の片隅で匂っていた梅の花がいつのまにか散ってしまい、三月の青い空間を黄いろく照らしていた連翹も色が槌せて、そのかわり二三日前から、豊かな感じの緋桃の花がふっくらと咲き初めています。鶯もホーホケキョウの歌が上手になって、日に一回は必ず廻って来てその晴れやかな声を聴かせますし、紋白蝶も二羽三羽と姿を現して、アネモネやパンジーの咲くフレームのまわりを漂っています。窓から見える多摩川の堤防は、一日一日と枯草の鳶いろから若草の緑へと変ってゆきます。富士山はさすがにまだ真白ですが、大菩薩や丹沢の山波は雪が消えて、柔かな霞の奥に薄青くよこたわっています。そうして耳を澄ますと、ほのぼのと暖かい空の中ほどに、昼間は雲雀の歌がしきりです。
 ついこのあいだのことですが、私は窓にむかった机のところから、真正面に見える笹子峠よりも少し右寄り、大菩薩連嶺の、たぶん大谷おおやガ丸まるとおぼしい峯のうしろへ沈む、文字通り真紅まっかな夕日に眺め入りました。そしてその荘厳な落日の光景から、西の空いちめんに華やかな夕映えの色が拡がる間ぢゅう、あの山裾に暮れてゆく甲斐の国の村々や、山のたそがれに身を丸くして孤独の眠りにつく小鳥たちや、夜をこめて春の花や葉を形づくっている深山しんざんの草木くさきのことを歌のように考えながら、ほのかな春の悲しみと、春こそわけても柔らかな敬虔な思いとに、我を忘れて酔っていました。
 こんなふうに、話が現在の身のまわりの春から山の事に触れてゆきますと、つい思い出してしまうのは、戦後七年間を暮らした信州での生活です。というのも、その数年間の生活が、私にとってはまことに意義深いものであり、数知れぬ貴い体験と美しい遭遇との場であって、書いても書きつくせず、語っても語りつくせない思い出に満ち満ちているからです。そこで、むずかしい話は抜きにして、たしかこの前の放送では冬の霜の朝に枯枝を拾いに来る幼い子供たちの話をしたと思いますから、今日は一つ二つ信州での山の春の話をいたしましょう。
「スイスの春は湖畔から」と言いますが、山国信州でも同じように、春はまず、湖や川のほとりから初まります。私の住んでいた所から湖に臨んだ温泉のある小都会までは、汽車かバスに乗って行かなければなりませんが、川ならば歩いてもじきに行ける距離のところにありました。もちろん「水ぬるむ」と言われる春を悠々と流れる平地の川とは違って、切り立った山と山とのあいだを、岸を嚙み、岩に激して、淙々と水音高く流れている谷川です。その狭い両岸を見通しに、上流にはまだ真白な残雪を滝のように懸けた峻厳な高山がそびえ立ち、下流には三角形を逆さにしたような山あいから、遠く甲斐の国のなごやかな春の青空と、その空にふんわりと浮かんでいる一つ二つの白い雲とが見えます。
 夏も秋も勿論それぞれにいいのですけれども、私はとりわけその渓谷の春が好きでした。登山や旅の道すがら、半時間一時間をその美しい流れのふちにたたずむのではなく、事によれば生涯をこの信州で終ってもいいと党悟していた私には、わが家の近くにあるこの渓谷もまた、心を托した愛の片隅、魂の憩いの場所の一つでした。
 春ですから山々の雪どけで水嵩も増し、その高い瀬音にまじって、両岸の林から黒つぐみ黄びたきひがらせんだいむしくいなど、さまざまな小鳥の声が響きわたります。渓流の岩にとまって、黒い川がらすも鈴を振るような声で囀っています。落葉樹はまだ新芽の銀緑ぎんみどりや薄紫にけぶっていますが、崖には黄いろい山吹の花がしだれ、水際には白いうつぎがふさふさと咲いています。そしてところどころに点々とルビー色の花の藪を見せているのは三葉つつじです。
 私はこういうなじみの春の風物にかこまれながら、気に入りの岩へ腰をかけたり、草の上へすわりこんだりして、いつも同じところで波を上げ、同じところで渦を巻く谷川の水の流れを、何時間でもぼんやりと見ているのが好きでした。その水の流れは私の時間の流れをしのいで行きます。そして自分で考えたそういうたとえを心に描きながら、流れる水の姿をじっと眺めているのは静かな喜びでした。ちょうど、"S'asseoir tous deux au bord du flot qui passe, le voir passer"「流れ行く水のほとりに二人すわって、流れる水の姿を眺め」というあのガブリェル・フォーレの歌のように。
 事実、生れ故郷の東京を去って、遠く信州の山間に生を托している私の時間は、昔よりも遅い進みで動いていました。しかしその緩漫な進みの中でこそ、私の心と体とは、おもむろに新たなる形成を遂げてゆくように思われました。
 しかしたまたまその青い早瀬の中に、身をくねらせる一匹の魚の銀いろの光でも見つければ、私の夢見心地は俄然潑剌と目をさまして、あのシューベルトの「鱒」の歌を歌い出すのでした。
 春も四月になると、前の年の秋から冬にかけて、日本から遠く南の国へ旅に出ていた小鳥たちが、生れた土地のすがすがしい森林や山の中へ帰って来ます。信州でも同じことで、だいたい雄の鳥が先に到着して第一声を声高らかに聴かせ、それからは毎日歌い廻って、その声で遅れて着いた雌の鳥に自分の在りかを知らせます。そうして幾日かの間二人で遊び暮らしたあげく、やがて巣を営んで卵を産み、続いて雛を育てます。ところで、ちようどその頃、村々では、農家の家畜小屋で、山羊や牛や馬たちのお産があります。
 お産はたいてい夜あけ前の神秘的な時間に行われます。人間と同じように重いのもあれば軽いのもあります。ひどく重いのだと獣医の手をかりなければなりません。それにしても一晩ぢゅう心配で、ろくに眠りもしないでそわそわしていた女たちや子供たちの、そのお産の朝の優しい感動のありさまは、私などの心を打たずにはいません。みんな小屋の前に立ったり蹲うずくまったりしながら、今しがた此の世の風に当ったばかりで、まだびしょびしょに濡れてぶるぶる顫えている幼い者を、せつない愛や憐れみの面持でじっと見ています。母親のけものもまだ興奮から覚めきらないで、おどおどしている子供たちを鼻面だの舌だので荒っぽく愛撫します。飼主の娘や小さい子供たちは安心の溜息をついたり、涙をためたり、息をつめて幼い目を皿のようにしたりして、じっと親子のけもののすることを見つめています。そしてそういう時には、たいてい庭の片隅に杏あんずや桜の初花が咲き、ういういしい朝日の光と、青々とした空気の中で、これもまた近頃南方の遠い旅から帰って来た小鳥たちが、声をかぎりに鳴きしきっているのです。
 それにつけても私は思うのですが、こういう田舎の自然と労働と家庭生活との中ににじみ渡っている叙事詩的なもの、このように大地に即した生活から汲み上げられる宗教的な厳粛な美を、誰よりもよく知っていて不朽の絵画として残した人こそ、実にあのフランスの偉大な田園画家ミレーではなかったでしょうか。「汝の額ひたいに汗して汝の生計たつきを立てよ。ながき労役と困苦との後、死はまさに汝を招かん」というミルトンの詩の文句に同感して、バルビソンの田舎の片隅で、生涯を貧苦とたたかいながら農民の生活を画にかいた、あのジャン・フランソワ・ミレーではないでしょうか。ミレーにとっては、種蒔も、とりいれも、赤い日没も、蒼白い夜あけも、嵐も、落葉も、空遠く行く渡り鳥のむれも、すべて大地に生きて大地に帰る農民の生活を偉大なものたらしめる背景でした。しかしそのミレーなどは今ではほとんど忘れ去られると同時に、もうこんな根源的な、人間的な感動を、人々は思い出そうともしません。しかしもしもこういうのが世界の流れの姿だというのならば、実り多い自然とその詩とは一日一日とわれわれから遠ざかって、この地上のおおかたは、やがては不生女うまずめとなってしまうでしょう。

                       (一九五五年――一九五七年)

 

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 リルケについて

 訳詩の思い出

 リルケの詩集をだんだんと手に入れて、その間に気の向いた暇な時、ドイツ文典や辞書をたよりに、一人でぼつぼつと読んで来た幾年かがあった。
 その中の手頃なものを苦心して自分の国の言葉に移して、たまたま紙の上に書いてゆくことは、それが何かの必要から強いられてするような仕事でないだけに、私にとってはひどく新鮮な、爽快味をさえ伴った、開放された気分の中でゆったりとして出来る楽しみだった。それは私が早くから経験して今にその味の忘れられないあの未知の山への登攀や、動植物採集のための旅にほとんど似ていた。自由な発意による自由な時間の自由な行動。そして遭遇がおおむね予想を超え、収穫が常に何かしら新しい意義と啓発とをもたらす点まで。
 リルケ詩業の解読のはなはだ贅沢な初心者私は、まず若くみずみずしい「形象詩集」や、暗く大きく身ごもった「時禱詩集」のもっとも短かい物からはじめて、次第に一層長い物や、あの「新詩集」の皓々たる群像林立の中へ入って行った。もちろん発表のことなどは初めから全然念頭になく、自分の未熟なドイツ語を鍛錬しながらリルケを正しく読んでゆくというただその事に、閑暇を黄金の時間にする喜びと意義とを認めたのであった。
 家族の者らとのくつろいだ夜に、たまたま自分のリルケの訳を読んで聞かせることがはじめられた。私は彼らのために読み、解説し、註釈を与え、詩人の思惟の一見不連続的な深い割れ目に理解のための橋をかけた。強い屈折を持つ一粒一粒のイマージュが、一聯のイマジナシヨンの燦然とした頸飾になった。私はこうした解体と復原との試みが、この種の詩を読むときの一つの大いなる知的喜びであることを彼らに暗示した。事実「クレタ島のアルテミス」や「ザッフォー」の贈答二篇のような颯爽として簡潔な詩は、この過程を経て一層よく彼らにその含蓄の美のわかる一例だった。
 すぐれた詩を善く読むことは知性の喜びであると同時に感性の楽しみでもある。適切に配された類音の美や、水も溜まらず切り落とされた断面の美。私は彼らに音読をすすめた。ドイツ語を知らない彼らにせめては日本語で。いわゆる語呂が悪いのはしばしば推敲に不足があるからである。元よりリルケ自身にそれは無い。私は声に出して読む彼らに傾聴しながら、ふと同じ意味でより佳い響きや調べを持つ他の言葉に想い到ることがあった。
 また詩集を前に、ペンを手にして、一篇のリルケのために決定的な活きた言葉をさがすことには、たとえば試薬をそそいで定性分析を試みるあの化学者の作業に似た興味があった。しかし言葉や句の最善のもの必ずしも明窓浄机の辺から生れるとは限らず、むしろ却って思わぬ時と処とに降って湧いた。多くの場合、人間としての私の種々な形而下的な行為のまっさいちゅうに、霊感のように……
 脳裏をかすめる言葉の流星を咄嗟の間に感光させ、それをもう消えないものとして定着させるために、すばやく文字にして置く事は詩人のたしなみの一つであろう。
 一方では、当然私も他の人々のリルケ詩の翻訳を読んだ。詩想そのものの難解、こちらに必要な知識の不足、意外な想像の不意の出現、イマージュからイマージュヘの飛躍的転位、象徴や暗喩の目を瞠らせるような新らしさ、深い含蓄と魅力とを軽々と担った造語など、その翻訳に私の苦しむ処を人もまた正当に苦しんだり、或いは事も無げに易々と通過しているのを見た。そこには実力と良心とをうなずかせる見事なものもあったが、また到底賛同しかねるような乱暴なもの、如何わしいものも少くなかった。さすが英語やフランス語の場合では事情はいささか異っていた。中でもスペンダーやアンジェロスが良く、レイシュマンやべッツが時に小首をかしげさせた。語の成り立ちや其の性質こそ全く違え、同義の語彙に豊かで可撓性に富んだ日本語と其の叙法は、リルケの物のような特異な詩に面した時、単に正しく意を伝え情を移す上にほぼ近似的な効果を期待するかぎりでは、却ってヨーロッパ系の他の国語よりも有利な点を持っているのではないかと思われた。しかしその有利な点が善用されなかったり拙く用いられたりすると、甚だリルケをあやまつような逆の結果を招くおそれのあることもまた幾多の例で実証されていた。
 私にもまた語学力の不足があって思わぬ誤りを犯し兼ねないのに、時おり余技の訳筆をとって、自分で自分を警戒しながらなお且つその間に楽しみを味わい得たのは、一つにはそれらのものの公表を全く考えていないからでもあったろう。
 ツヴァイクからヴェルレーヌの詩の翻訳を懇請されるや、患者をことわり、机上を一掃して、辞書をならべ白紙をひろげ、心も楽しく緊張しながら、さてつらつら思い返してこの新鮮な魅力ある仕事を潔く断念した医学者・詩人カロッサを、私は幾たびか思い出した。
 戦後の数年、信濃の高原の森の寓居で、しばしば若い友人らと楽しい午後や夜を過ごすことがあった。時おり私は彼らに自分のリルケの幾篇かを読んだ。彼らは予期以上の称讃をその大して自信の持てない訳詩に与えた。私はむしろ赤面し、汗を覚えた。おそらく時と場処とがよかったのである。高原の好季節、春や夏の夜の賑やかな食事のあとだった。家を囲んだ深い白樺と赤松の森に梟や夜鷹の声がひびき、周囲の山々は一面の星明りに柔かくほのめいていた。彼らは或る時は若い文学者の仲間であり、或る時は科学の青年学徒らだった。汽車に乗って来る者もあれば、花の野道をサナトリウムから来る者もあった。そしてそういう時に私の読んだ詩の中に、「橄欖の園」や青と桃色の「あじさい」があった。
 また或る時、山国の湖畔の町の美術館に肖像写真の展覧会があった。壁にならんだその数十枚の写真の中で、金いろの札の下がっている一枚は私を撮ったものだった。古い別荘の夜の一室、一冊の本をひろげた机の上に昔のランプをかたどった卓上電燈が光を落とし、色槌せた笠を透かした半調色に、うつむいた顔とワイシャツの白とが浮き出していた。夏ながら室内の雰囲気は寂しくしんとして、深い山間らしくきびしかった。それは私がリルケのために大部分の時間を捧げていた一時期のものだった。
 私はリルケの研究家でもなければまた特に彼の信者でもない。しかし彼は私にもまた次第に吹き募って大きくなる嵐のように来た。何かを抜き取り、魂を変えさせ、この世のそれとは違う別の世のいぶきを吹き込むように来た。それは私に私の懐かしいふるさとを、ささやかではあるが思い出や事物に満ちて清らかな私自身の精神的風土を、いつのまにか忘れさせ、遂にはそれに背かせるような強大な魔力を持っていた。その魅惑のまんなかを生きている日、彼の紫陽花あじさいいろの大きなうつろの眼と、併呑するような大きな暗い口と、麝香のような匂のこもった深い幅広な息づかいと、不思議を行うしなやかな指を持つ異常に長い手と、死に瀕した巨獣のような重い体軀のうねりとが常に感じられた。この魅惑のただなかで私が私であることを維持するためには、是非とも強い抵抗が必要だった。熱い息づまる抱擁に似た組打のなかで、この巨大なあやかしの天使に押し伏せられて敗北しないためには、この有様をさえ一つの人間的ドラマとして、一つの風景として、客観視することのできる健康な精神エスプリが私になくてはならなかった。やがて私は彼と自分との間に距離をとることに成功した。離れて見れば彼もまたであり形象であった。それ以来一つの巨大な高山として眼前静かに聳えるようになった彼リルケ、空間の造り手である山リルケ。その山の堅い岩から堅いほそい血管のような鉱脈をうがち出すのが、帰れる児私の時どきの楽しみとなった。溺没しやすい性情から明るく醒めて、自分を救い、本来の自分を失わないためには、隔絶の歌の遠く流れる美しい視野を私に与える、強い広角度の水晶レンズが今度もまた必要だった。
 事実リルケヘの没頭が一つの症状を想わせる場合は少くない。そしてこの病症はかなりの重態にまで発展し得る充分な可能性を持っている。その性質のうちには恋愛や麻酔薬中毒のそれに似るものが多分にある。リルケの詩をひとつの重要な文学的宝庫として愛する事に満足せず、神秘な肉体的存在としてのリルケ其の人に魅惑されに行く時、或いはそこに暗い宿命に似た喪失もあれば、無垢だった昔を惜む深い悔恨もあるだろう。
 およそリルケに惹き寄せられて行く者は、何かの護符を肌身離さず持っていなければなるまい。
 しかしそうはいっても、深くリルケを愛した女性ら、或いは愛して傷ついた女性らが、それぞれに彼らの二つとない幸福の思い出を抱き温めていることをわれわれは知っている。しかもその当のリルケが既に早く、「詩人への女らの歌」のような、運命の予見か透視にも似た作品を成し得たことも知っている。ただわれわれの知らないのは、またおそらく知ることのできないのは、その女性らが、詩人によって歌われたこの思慕の女らに、すすんでみずから似ようとしたか否かの微妙きわまる消息である。そしてマグネット・リルケの残した強力な磁場はいまだにその力を失ってはいない。
 自分の熱情から最も多く試みたリルケ詩の翻訳を一応終った時、私自身の書いた詩の一篇にこんな数行がある――

  しかし思うに、お前自身の仕事の成果を
  つねにあまり高価に見つもるな、
  絢爛をつくしながら一朝を散る樹々のように
  努力の思い出を凌駕せよ、
  傑出して軽くなれ、
  その時お前にすべての仕事が歌になる。
  その時お前の秋の前方に
  又新らしい意味深い冬が遠くひらける。

 こうして詩人私に、すでに傾いた人生の午後も晩く、或いは首都の郊外で、或いは山国の高原で、ひとり彼リルケに親しんで来た幾年と其のおりおりの閑暇とがあった。

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 その詩の一面

 私はリルケの詩というものを茅野蕭々さんの翻訳を通じて初めて読んだ。いま信州の夏の家にいて、手許に文献が無いのではっきりした日附を言うことができないが、武蔵野の半農生活を切り上げて東京の生家へ帰った年だから、もう二十六七年前の事になるかと思う。或る日感冒だか胃腸だかで寝ていた私は、程ちかい夜の銀座へ妻をやって、第一書房新刊のその詩集を買って来させた。やがて、私の待望の眼前へあの天金背皮、薄みどりの暈繝模様の表紙をした厚い本が、当時まだ若かった妻の褪紅朱の縮緬の風呂敷から現れた。
 それはまことに驚くべき啓示だった。こんなふうに使えば使えるものかと思われるような日本語が、切りたての石材か木塊のような淳朴さと新鮮さとを保ちながら、馴れない眼にはいくらか奇異に、――亜麻いろの髪の毛とペルヴァンシュの碧い瞳とをした北欧の少女のように親しみ浅く、――又それだけに極めて斬新なものに見える颯々とした章句や聯を形づくっていた。しかしその奇異の感じは馴れるにつれて却って限りない魅力となり、それが在来の表現上の迂遠さや困難を、やすやすと解決する機能を果していることがわかった。それは算術の問題を代数で解くことに似ていた。ありふれた抽象的な単語も、彼にあってはそれぞれ空気の境界面を持って一つ一つ抜群な形象をなし、写象的な単語と共に生き生きとちりばめられて、常に触感し得る立体形の形成にあずかっていた。
 或る心象がどういう現象と相似であるか、どういう風景が一つの心的イメイジの等価をなすか。それを百の体験、千の記憶の中から採り上げて、霊感によるように、全く新しい刻面を持った結晶たらしめる彼の詩法が私をいたく感歎させた。それは在来の象徴詩に見るような、いわば隣接した観念や事象の採り上げではなく、全然人の意表に出た、むしろ一見無縁なものと見えるほど互に遠く隔たったもの同士の、深い地底や広々とした空間を通しての根源的なつながりによって成っていた。そして一篇は一篇と珍酒をすすり貴金属の鉱脈をさぐるように読みながら、その詩的奇蹟にぶつかる事が限りなく楽しかった。たとえば此処に二三の例がある。(以下詩の引用は便宜上すべて私自身の翻訳を用いる事にする)

  こうして、イエスよ、私はあなたの足をもう一度見ます、
  あの頃はまだ青年の足であったその足を。
  私はおずおずとそれを脱がせて洗ってあげました。
  なんとそれが私の髪の毛の中に途方にくれて立ち、
  なんと藪の中の白い獣のようだった事でしょう。
                    (ピエタ)
     *
  そのように、仕えながら物の中を行く事こそ
  力の不思議な戯れです。
  根の中では目ざめ、幹の中では消え、
  そして梢では復活のように立つ事こそ。
                    (すべて此等のものに)
     *
  彼等は人々がごく瑣細な不幸だとする
  あの大いなる苦難を苦しんでいる。
  草の芳香、石の気力こそ彼等の運命だ――
  彼等はそのいずれをも愛している。
  そして君が眼の楽しみに行くように行き、
  手が琴を弾くように歩く。
                    (そして見よ、彼等の足の生き方を)

 詩の実作者として当時の私が学んだものに、彼の作品を「物の詩」と呼ばしめた造型性があった。これを得るためには、物を他物との混在や、それを取りまく通俗な聯想から切り離して、無と沈黙との広がりの中に放ち、さてその物自身のおもむろな内的展開によって固有の運命を始めさせることを知らなくてはならない。一つの物が他の何物にもまぎれずに、孤立して重たく、まろく果て遠い空の下、遥かな地の広袤を背景に立っている有様を見なければならない。それを中心にして夕暮の風景とその深い意味とが育ってゆく野中の一本の樹を見るように。そのためには物の内部からの成熟を見るために沈潜する詩人の眼の凝視と、その鮮かな実在感をあらわすための周囲の取捨とが厳に要求されるだろう。そして有りあまる体験の蓄積から決定的な一句一語を選びだして点出すること、あのセザンヌの淡彩画における一刷毛の絵具、ロダンの胸像における一つまみの粘土の肉づけのようでなくてはならないだろう。

  最小の円をえがいてまわる
  しなやかに強い歩調の柔軟なあゆみは、
  或る大いなる意志がしびれて立っている
  一つの中心をめぐる力の舞踏のようだ。
                    (豹)

 これだ! すでにこれだけで、勤物園の檻の鉄桟の中にとらわれた野性、氷のような憤怒と青い郷愁と諦念とに遠い空ろな眼をした猫属猛獣の、その実存の姿が最もいきいきと描写されているではないか。
 この事はまた物に対する彼の観察の辛抱づよさと、その厳しさとにもつながっている。動植物を書き、天象や気象を書き、風景や人間を書きながら、詩人リルケは科学者のような眼と心とを働かせている。比喩や暗喩に豊かな、否寧ろすべての作がそれらの要素を不可欠なものとしているようにさえ見える彼の詩は、それ故、その比喩や暗喩に単なる思いつきや、こじつけや、怪しげな知識の影をすら許していない。そしてこの事がまた彼を従来の象徴詩人らから峻別するいちじるしい特色でもあれば、われわれが彼に期待して必ず饗応される魅力でもある。今身辺に参考文献を欠いているので、それが「ドゥイーノ」の中のものだったか「オルフォイス」の中のものだったか明言を憚るが、とにかく彼が樺の樹の花のことを書いた時、その■荑花しゅういか(編者註:■はくさかんむりに柔)が上向きに咲いているように書いているのは誤りで、これは下向きに咲いているのが正しいという指摘を植物の事に詳しい或る夫人から受けて、彼がすなおに訂正したというくだりが書翰集の中にあったと私は記憶している*。あの比類少く美しい「フラミンゴ」の詩で、

  だが水に映った彼等の像の中では。
  フラゴナールの画に見るように、その白も紅も定かではない。

と書いている時、彼は正ただしくフラゴナールの好んで用いる色彩の特徴を知っていたと同時に、フラミンゴ(紅鶴)という鳥の羽毛の持つニューアンスに富んだ色あいをも知っていたのである。

  ……彼等が緑の草地へ上がって、
  薔薇いろの茎のような脚の上に軽く身をねじり、

と書く時、その鳥の脚の一種異様な形とその静止の状態とについて、彼の眼が実に生物学者の、また一般には事物の特異性をよく見て取る人間の、注意ぶかい洗練された眼であることを証明している。私は自分の事としてこの詩を訳していた時、日本では生きたそれを見る由もないフラミンゴに就いて世界鳥類の本の記載を調べ、写真や図版でその形態を見ながら、今更のようにリルケの眼に敬服した。
 この眼の詩人リルケに「観る人」という詩がある。その中で彼は風景を「詩篇プサルター」の中の一聯のようにする窓外の嵐について書いているのだが、

  永遠なもの、超凡なものは
  われわれによって押し曲げられはしない。
  それは旧約聖書の格闘者に姿を現した
  あの天使だ。

  もしも格闘のさいちゅうに相手の腱が
  金属のように強く張れば、
  彼はその腱に指で触れるだろう、
  深い旋律を歌いはじめる絃のように。

と言っている。「形象詩集」の中でも最もすぐれたものの一つと言える此の詩は、人間にとっての成長とは、絶えず偉大になりゆく者によって痛くも打ち負かされる事だという恐ろしいまでに美しいテーマを扱ったものだが、問題をこの「腱」ひとつに限定して考えても、われわれの腕や足のそれが天使との格闘に緊張した時、それに触れれば竪琴の絃のように歌うという事はまことにすばらしい想像であると共に、物理学的・音響学的なイメイジとしても正しく且つ壮大だと言わなくてはならない。
  「詩は体験だ」という意味深い言葉をリルケは折にふれてしばしば言っている。この言葉は甚だ正しいと同時に極めて美しい。われわれの体験が広く且つ深くあればあるだけ、またわれわれの世界知識が正確で豊かであればあるだけ、リルケのような詩人の作の深甚の滋味を一層よく汲み味わう事ができるであろう。

                    昭和二十九年十月信州富士見高原にて

 *追記 此のの花序云々のくだりを東京への帰還後さっそく調べたところ、リルケの初稿はであって、その誤りを教えられて(はしばみ)に訂正したというのであった。従って「その■荑花が上向きに咲いているように書いているのは誤りで、これは下向きに咲いているのが正しいと指摘された」という私の文章は記憶ちがいで、リルケは正しく榛の下垂した花を書きながら、ただ思い違いから初稿ではその樹の名を(上向きの花穂を持つ)楊としたのであった。これを図譜を添えて教えた人はアーマン・フォルカルト夫人、詩は「ドゥイーノ悲歌」第十歌の最後の八行。此の箇所全体の出典は「ミュゾット書翰集」である。

                    昭和二十九年十月末補筆


 

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 ヘルマン・ヘッセと自然
          -或る若い友への手紙―

 私の若い頃の散文集「山の絵本」の中に次のような数行があります。すこし長いけれど引用することを許してください。

「去年の六月、おりからの秩父の新緑に思うぞんぶん浸かって来たいと、武州荒川の支谷大血川の谷から太陽寺へ出、そこから雲取をこえて日原へ降りる三日ばかりの旅をしたことがあった。この時の往きの汽車のなかで、向こうの窓に片肱ついて、見覚えのあるフィッシャー版略装のヘルマン・ヘッセの『ビルダーブーフ』を読んでいる一人の旅客を発見して、私はひどく懐かしい気がしたのだった。
「いくらか憂欝な、非常に澄んだ感じのする三十二三歳の人だった。もうかなり古くなってはいるがよく手入れのとどいた、清潔な、地質のいいスコッチの旅行服を着ていた。左の膝へしぜんに載せた右脚の、登山靴を軽くしたような靴の底に、小さいクリンケルとムガーが綺麗な歯並のように並んでいた。頭の上の網棚には、小型のルックサックと長い石突きのついたステツキとが閑散に載っていた。週間日のことで車内もいたって閑散だった。こんな場合特に人の顔に気品をそえる眼鏡という物。ヘッセのページに向けられたその静謐な眼鏡に、大宮もすぎて上尾・桶川のあたり、車窓に触れんばかりの若葉がちらちらと映り、快晴六月の青空と白い雲とが涼しく動く。あまり良すぎる眼を持つために眼鏡をかける必要のない自分を、私はいくらか残念に思った。
「秩父へ入る私は熊谷で降りたが、たとえばついに言葉も交さずに終ったそのヘッセの人が、郭公の歌と新緑の落葉松からまつと放牧の牛のちらばる高原の起伏、神津牧場や荒船山あたりをさまようとしても、また赤城大沼の火口原湖のほとり、遠近につつじの燃える柔らかい草の上で、単に風と雲との対話を聴くことだけのために行くとしても、いずれもすべてふさわしいものに私には思われた……」

 これは昭和八、九年、今から二十四年か五年まえ、私がしきりに山へ行っていた頃の文章ですが、その後親しくなって、やがて自分の翻訳したヘッセの「ヴンデルング」を捧げたりしたこの友人も、一昨年ついに他界しました。そして今ではこの数行の文章のなかに、四分の一世紀むかしの或る初夏の晴れた日の、一人の品位ある旅行者としてその懐かしい俤をとどめているというわけです。
 おそらくその頃にあっては、或る人たちはこのようにしてヘルマン・ヘッセを読んだのであり、またこういうふうに読むことで一層よくヘッセを体験できると信じたのでした。教室から山の見える地方の都会の学校で、ドイツ語の時間に「ペーター・カーメンツィント」の講義を聴きながら、残雪のきらめく北アルプスの春の峯々や、その空に浮かぶ白い柔らかな雲に夢みる心をただよわせていたという、そんな学生もありました。また別の学生で、楽しい輝かしい暑中休暇に、帰省した自分の田舎の涼しい谷間をそぞろ歩きながら、あの「大理石製材工場」の青春の哀歌とシューベルトの「美しき水車場の娘」とをきわめてしぜんに結びつけて、初期のヘッセ的なロマンティズムにあこがれたという人の話も聴いたことがあります。そしてそういう告白をいずれも本当だと思う私は、同時に彼らに共通のものとして、そこに自然への愛、自然への感じやすい心のあることを思わずにはいられません。ひとり「カーメンツィント」や「大理石製材工場」ばかりでなく、「旋風」にせよ、「乾草の月」にせよ、「ラテン語学校生徒」にせよ、そのいたるところに若い求める魂の彷徨があり、砕かれた指環と傷ついた心臓とがあり、しかもそうした主人公たちの美しい惑いの年の遍歴に伴奏するものとして、常に広大な自然の展開とその明暗の推移とがあります。すなわち、自然の詩があります。
 アイヒェンドルフ、シュティフター、シュトルムを経て、ヘッセに至ってほとんどその頂点に達した感のある自然と協奏する文学が、その頃の日本で一部の若い人たちの心に、かわいた咽喉への水のように迎えられたことは想像にかたくありません。彼らは自国の現代文学に期待しても得られない生き生きとした自然の詩をそこに見出したのでした。しかもそれを格調の高い、密度の大きいドイツの原語でまず読むことを学んだのです。滔々として流行する自国の自然主義文学のかなたに、まったく別種なすがすがしい文学の天地があって、こちらでは閑却されたり敬遠されたりしている時に、むこうではそれが広く認められもすれば愛されもしていることを知ったのです。彼らは孤立ではありませんでした。よしんば自国では時代遅れか偏屈者のようにみられても、本能的な愛や直観は世界に同族の魂を見出しうることを知ったのです。そして私が二十数年前の初夏の汽車のなかで遭った人、静かな眼鏡をドイツ語のヘッセの本に向けていた人、すでに登山家の仲間のあいだにその名を知られていた若い生化学者こそ、また実にそういう人々の一人でした。

 詩を書くかたわら散文を書くようになった私も、やはりまず、特に自然詩人としてのヘッセから洗礼をうけずには済みませんでした。
 私に初めてヘッセを知らせたのは若い日の片山敏彦であり、そのヘッセを読みたい一心からはじめたドイツ語の手ほどきをしてくれたのは、近くに住んでいた上智大学出身の友人でした。大正の末期、東京の西郊上高井戸での新婚と永い間あこがれていた半農生活。麦や馬鈴薯の栽培と季節季節の花作り。三冊目の詩集の仕事とヘルマン・ヘッセの発見。片山から借りた詩集 Unterwegs(「旅の途次」)や、一部を翻刻した「ペーター・カーメンツィント」を前にしての辞書と首っぴきの夜の勉強、畠を濡らす時雨の音、晴れた朝夕の富士の遠望、不断の不如意と未来への希望、女の愛と男子の友情。三十数年前の過去をおもい、ヘッセとの出会を遠い昔にたどるたびに、私はあの二人の古い友への感謝を新たにせずにはいられません。
 子供の頃から自然が好きで、「大きくなったら植物や動物や雲や星のことを勉強する人になりたい」と望んでいた私は、その志が達せられないで言わば次善のような文学の道に入ってしまってからも、しかし好んで郊外や田舎に住んで自然を観察し、専門の本を読み、書くものの題材も主として自然や田園生活のなかに求めました。分類の便宜からにせよ、軽視からにせよ、人が私を自然詩人と呼ぶのもそのためです。そして私はそう呼ばれることを必ずしも拒みません。おそらくこれからも書くでしょうが、私は自分が今までの仕事のなかで日本の自然詩を打ち建てたことを、事実いささかの自負と満足とをもって確信しているのです。
 こういう私にとって、ヘッセの文学、特にその詩や自然への愛を知ったことは天啓でした。それより早くホイットマンやヴェルアーランに私は傾倒していましたが、ここに初めて一層自分に近いと思われる人を発見したのでした。ヘッセの自然の受けとりかた、その自然観照には、他の欧米人の詩人に見られない東洋的なものがあります。ホイットマンやヴェルアーランに心酔しながら、なおどこかに或る種の異和を感じていた私が、ほとんど全面的にと言っていいくらいこの詩人に同調できたのは、気質的に近いものがあったからかも知れませんが、やはりそこに東洋的――と言うよりもむしろ中国的・日本的な対自然の詩的感情が見出されたからであろうと思います。
 とにかく私はそれ以来できるだけヘッセを読み、ヘッセを呼吸しながら、安心して自分の道を切りひらいて行きました。もちろんその道は今ヘッセを去ること甚だ遠いかも知れませんが、しかしこれもまた、「それぞれの樹はそれぞれ運命の樹形をとる」という彼の言葉に合するものだと思います。

 私の書棚に、ヘッセが自分で描いて送ってくれた一枚の小さい水彩画が額に入れて飾ってあります。ヘッセの水彩画は色彩と線とによる彼の詩であり音楽であって、そのすぐれたものは宝石のように高貴で喜ばしいものですが(ロマン・ロランも彼の風景画を非常に愛しています)、私の持っているのはスイスの湖畔を描いた画です。前景には赤と緑と黄色とで夏の盛りの花壇が華やかに美しく、中景には青い湖がひろがり、そのむこうに淡い褐色の山々が連なって、山の上の空にはふんわりと白い二つの雲と、小さい黄いろい昼の月とが浮かんでいます。そしてその画の下に ―― Vergänglichkeit ――つまり「無常」とか「忽ちにして過ぎ去るもの」とでも訳すべき言葉が、ヘッセ自身の字で書いてあります。無常、生者必滅・会者常離、すなわちこの世は常なきものであって、命あるものは必ず滅び会うものは必ず離れるという思想をあらわした言葉です。この言葉は、いま現に生命の盛りを生きている者、愛する者と一緒にいてその幸福の絶頂にある者にとっては、まことに悲しく痛ましい警告として響きますが、この悲しい原理、或いは痛ましい方則が、厳としてこの世を貫いていればこそ、それだけにまた盛りの生命は一層いきいきと感じられ、燃えるような夏は一層力づよく華やかなものとして味わわれ、恋愛も酒の酔も一層甘美に逞しいものとなるというのがヘッセの文学を通して常に流れている根本動機の一つです。今言った水彩画でも、その題のように、ヘッセは無常のモティーヴを描いているのです。盛夏の花壇と湖上の空に浮かぶ昼の月。色彩や輝きの絶頂にまで高まりながらすでに僅かに衰えが見えはじめ、ほのかに無常の影のさしそめた幸福と喜びとのえもいえない瞬間。その瞬間のまさに崩れようとするはかない調和の美を、永遠の姿たらしめようと試みたのがこの画です。
 無常の方則につらぬかれて、忽ちにしてその盛りの時の過ぎ去るがために花というものを愛するヘッセは、同時に蝶を、軽やかな翼をひるがえして空間をただよう花ともいうべき蝶を、同じ理由から愛します。そして蝶のことは花や雲と同じように詩にも文章にもヘッセはたくさん書いていますが、その一つとして「晩夏の蝶」という詩を引いてみましょう。

  さまざまな蝶の出る時が来て、彼等の舞踏が
  遅咲きのフロックスの匂いの中で柔かによろめいている。
  赤たては、緋縅蝶、揚羽蝶、
  緑豹紋みどりひょうもんに豹紋蝶、
  内気な蜂雀ほうじゃく、赤い火取蛾。
  黄べりたては姫たては
  青い空から泳ぐように彼等は黙々と降りて来る。
  色は高貴で、毛皮・ビロードを身にまとい、
  宝石のように輝きながら悠然と漂っている。
  華やかに物悲しく、物言わずしびれたように、
  今はない童話の国から訪れて来る。
  彼等はここでは他所者よそものだが、楽園めいた
  アルカディアめいた花野の蜜のしずくに濡れて、
  我等が夢の中に失われたふるさと、
  あの東の国からの命短かい客である。
  そしてその彼等の霊的なたよりを一つの貴い実在の
  優しいあかしとして我等は信ずる。
  すべての美しいものと無常なものと、
  あまりに優しいものと豊かにすぎるものとの象徴、
  高齢の夏の帝みかどのうたげにつどう
  金きんに飾られた憂欝な客よ!

 ところでこの詩の最後の「金に飾られた憂欝な客よ」という句は、原文では Schwermütige und goldgeschmückte Gästeとなっています。あなたはこのシュヴェールムート(憂欝)という言葉が、この場合実に的確な意味と響きとを兼ね持っていることをお感じにならないでしょうか。もちろん響きのほうは作者自身が選びに選んだ原語でこそ美しいのですが、憂欝という日本語にしても、この場合それほど聴きづらくないばかりか、或る程度のイメイジ喚起力をさえ持っているように私には思われます。それはともかくとして、優しく華麗で、毛皮やビロードや宝石や金で飾られて重たい感じのする蝶は、それが忽ちにして滅びる運命をになっている事をまざまざと感じさせるがために、その美には確かにまた憂欝の真相がほのめいています。そしてこの無常を担った晩夏の蝶たちが熱した青い空から泳ぐように降りて来て、遅咲きの草夾竹桃の花の甘やかな匂いの中でよろめくように浮き漂っているというのです。この華麗に重く憂欝なものが夏の空間を光の波のように軽く浮き漂うという事のなかに、言葉をかえていえば暗い死の予感とあどけない微笑との溶けあいのなかに、私はヘッセ文学の一つの特色でもあれば大きな魅力でもある美の哀愁を見ないわけにはゆきません。この哀愁は、たとえば「青春は美し」の中では、物語の最後に主人公の弟の打ち上げる花火によって現わされています。
 山国の風光明媚な故郷の町へ夏の休暇で帰省していた青年ヘルマンは、妹の友達のアンナという賢く美しい娘に人知れず恋をします。さて休暇も終って今日の夕方には故郷の町を去らなければならないというその日の午後、森の谷間への最後の遠足の時、やっと相手にその恋を打ちあけますが、もう相手のアンナには別にひそかに愛する男があって彼の願いは容れられません。しかし賢いアンナはヘルマンの心をあまり烈しく傷つけないように、優しく愛らしく、むしろ美しい姉らしく彼を慰めるのです。そして深く失望しながらもその女友達に心から感謝したヘルマンがみんなに別れてただ一人汽車に乗って、その汽車が自分の家の近くを通過する時に窓から身を乗り出すと、前から約束をしてあったとおりに弟のフリッツが、家の庭で別れの打上げ花火をあげるのです。そしてその花火がいちばん高い処まで真直ぐに上って行って、静止して、柔らかな弧をえがいて、それから赤い火の雨になって消えるというのが物語の結末ですが、実にこの花火が、ほのぼのと悲しい別れの空に弧をえがいて消える花火が、私にはヘッセの哀愁の適切な一例のように思われるのです。

 ヘッセがドイツからイタリアヘの徒歩旅行の形で書いた「ヴンデルング」という自作の水彩画入りの本のなかに、「真昼の憩い」というきわめて美しい文章があります。そしてこの文章のなかで彼はドイツの十九世紀の詩人アイヒェンドルフやメーリケらの詩への特別の愛を語っています。この詩人たちは、ヘッセの言葉を借りると、イプセンやへッベルのように、巨大な人類的な題材をえらんで人間性の大問題ばかりを取り扱う奇妙な巨人たちとは違って、命ある者の小さい運命だとか、恋愛や友情だとか、この世のはかなさに対する悲しみだとか、風景、小鳥の歌、空にただよう雲といったようなものを歌ったり空想したりすることを好んでいる。そしてそのために小型の詩人だとか、また或る意味では軽侮をも匂わせた牧歌詩人のレッテルで呼ばれている。しかし人々はこのアイヒェンドルフやメーリケやシュティフターのような詩人の作品を敬虔にまた素朴に愛して、親から子へと伝えて繰り返し繰り返し読んでいる。なぜかといえばこうした単純な涼しい目をした神の愛児たち、一本の草にも神の啓示を見るこれらの小型の詩人たちこそ、私たちに最善のものを与えてくれるからである。われわれには手におえないような世界的な大問題ばかりを扱っているいわゆる大詩人たちを厳格な父親だとするならば、この詩人の仲間、この牧歌詩人たちこそ優しい親切な母親である。そして私たちは、いつでも、父親よりも母親を求めるほうがずっと多いのだ、と、こういうふうにヘッセは言っているのです。
 またこの「真昼の憩い」のなかに、「アイヒェンドルフの詩には哀愁がこもっている。しかしその哀愁は一片の夏の雲にすぎず、そのうしろには太陽と信頼とがある」という一節があります。ところがこの信頼の観念は、これもまたヘッセの文学をつらぬいて流れている一本の顕著な流れであって、それは時には神への、時にはおよそ命ある者の従うべき運命への、また最もしばしば、人が其処から生れて来てやがて其処へ帰って行く母なる大地への、子供のような、単純で明るい眼を持った百姓女のような、或いは聖なる幸福につらぬかれた聖者のような、そういう信仰を意味しているように思われます。そしてこういう信頼を持った人たちにはどんな祈りも許されるし、こういう人たちの祈りはどんな祈りでも神聖なものだとヘッセは言うのです。「ヴンデルング」の中にこの信頼と祈りのことを書いた「礼拝堂」という、これもまたきわめて美しい文章がありますが、この北部イタリアの平和な田舎の道ばたに、ふと見出した野の花のような小さいマリアの御堂みどうをたたえながら、ヘッセはこういう事を書いています。
「祈りというものは、讃美歌と同じように、聖らかな、救う力のあるものだ。祈りは信頼であり、是認である。ほんとうに祈る者は願わない。ただ自分の境遇や、自分の悩みを語るだけだ。彼はちいさい子供らが歌をうたうように、自分の苦痛と感謝とを低い声でうたうのだ。そのように、彼のオアシスや小鹿といっしょにピザの寺院にえがかれている至福な隠者は祈ったのだ。あれは世界ぢゅうでいちばん美しい絵だ。そういうふうに、樹も獣も祈るのだ。りっぱな画家の絵のなかでは、どんな樹もどんな山も祈っている」と。そして祈りは愛の行いであり、真の幸福であり、信頼は徳であると言うのです。
 ヘッセのこの運命への愛の思想、信頼の思想は、たちまち私たちを母のふところへの憧れ、心のふるさとへの回帰の旅、あの漂泊のモティーヴヘと導いて行くように思われます。傑作「クヌルプ」がそうであり、「シッダルタ」も「ナルチスとゴルトムント」もそうです。むしろヘッセの文学は、無常感の上に立った、あの永遠に女性なるものへの憧れの思想にほとんど支配されているとさえ私には思われるほどです。
 「ヴンデルング」には「樹木」というすばらしい一章がありますが、私はここにヘッセの人生観がみごとに要約されていることを感じます。この中でヘッセは樹木を讃えながら、樹は神聖なものである、彼等の言葉に耳を傾けることのできる者は真理を学ぶ。樹は教義や掟を説かず、また箇々の問題を取り上げもしないが、常に生の根本方則を説く、と言うのです。或る樹はこう語る。
 「私のうちには一つの核が、一つの火花が、一つの思想が匿されている。私は永遠の生命のその一つだ。永遠の母が私をとおして試みた草案や企図はただ一つしか無い。私の形と私の樹皮の模様とは、私にあって独特なものだ。私の務めは、すべての私の特色のなかに永遠なものを形づくり、顕現することにあるのだ」と。また別の樹はこう言います。「私の力は信念にある。私は自分の祖先のことは何ひとつ知らないし、自分から生れる千百の子供についても何も知らない。私は自分の根源の神秘を最後まで生きることしか知らない。私は神が自分のうちにおわす事を知っている。私は自分の任務の神聖な事を知っている。そしてこの信念によって私は生きるのだ」と。

 以上僅かな暇に頭に浮かんだ事だけを書いたにすぎず、もちろん詩人ヘッセを論じるつもりは毛頭ありませんでした。しかしこれだけでも私がヘッセから学んだもの、私がヘッセを愛する理由の根本的なものはお解りになったかと思います。人がおのれの器によって学び、気質によって愛するものである事は、あなたのすでによく御承知のとおりです。     
 
                           (一九五八年)

 

 

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