「山の絵本」

    ※ルビは「語の直後に小さな文字」で、傍点は「アンダーライン」で表現しています(満嶋)。

 絵のように                                   

たてしなの歌

念場ガ原・野辺山ノ原

花崗岩の国のイマージュ

神津牧場の組曲

御所平と信州峠

大蔵高丸・大谷ガ丸

蘆川の谷

新年の御岳・大岳

高原にて

一日秋川にてわが見たるもの

                                      

 画因と素描                                  

山への断片

木暮先生

子供と山と

「山日記」から

美しき五月の月に

山と音楽

高山植物雑感

追分の草

胴乱下げて

ハイキング私見

「山に憩う」友に

秩父の王子

松井幹雄君の思い出

秩父の牽く力

春の丘陵

一日の王

 

 

                                      

 

 たてしなの歌

 君の土地。それは無数の輻射谷に刻まれて八方に足を伸ばした、やはり火山そのものの肢体の上の耕地であろうか。或いはもっと古く、埋積し、隆起した太古の湖底の開析平野と、その水田に、今、晩夏の風が青々と吹きわたる河成段丘のきざはしであろうか。
 若しおのが訪れ、おのが歓待されたひとつの土地に特別な愛と関心とを持ち、帰来その感銘を反芻し、思い出すことによって忘却の箇所を埋め、選択し、機抒きじょし、そこから世界の美の実証を織り上げることが私のような旅人の仕方だとするならば、地理学を愛してなおかつ無知な私は、その無知と愛とのために、君を生み君が生きているその美しい土地への讃歌の冒頭で、すでに空しくも思いまどうのだ、優しい心の友よ!
 われわれは蓼科山からの帰るさに、その北麓を八丁地川に沿うて降っていた。昔の人の素朴な適切な命名にほほえまされる畳石から鳶岩とんびいわの部落へかけて、路傍の崖のところどころ、見事に露出した火山岩の板状節理が見られ、そのあたり、農家の屋根は瓦でもなく萱でもなく、概ねあの鉄平石という石の薄板で葺かれていた。また対岸はるかにその岩を切り出す石切場が見えて、原始的な橋梁の突桁をおもわせる岩石の天然の庇が幾つか、折からの洪水のような午後の日光を横ざまに浴びて、緻密な、爽やかな明暗の諧調を織り出していた。
 そこから一里余りを降った望月で、或る日もっと広々とした眺望が欲しく、私は坂を上って丘の上へ出た。蕎麦が花咲き柿の実がいよいよ重くなる信州の夏の終り、丘の上は清朗な風と日光との舞台だった。北方には絵のような御牧ガ原の丘陵を前にして、噴煙をのせた浅間から烏帽子へつらなる連山の歯形。南にはその美しい円頂と肩とを前衛に、奥へ奥へと八ガ岳まで深まりつづく蓼科火山群と、豊饒の佐久平をわずかに隠したその緩やかな裾。さらに西の方にはきらきら光る逆光につかった半透明の美ガ原熔岩台地、そして東は遠く淡青いヘイズの奥に螢石をならべたような物見・荒船の国境連山と、其処に大平野の存在を想わせる特別な空の色。それは晴れやかな、はろばろとした憂欝な、火山山地の歌であった。牧畜と葡萄収穫ヴアンダンジユと、荒い素朴な恋愛と、悠久な地平のうねりとから生れるあのモルヴァンの、セヴェンヌの、またオーヴェルニュの歌であった。
 しかしそんな夢想につかって日蔭の坂を降りながら、私は丘の横腹の崩れた箇所に注意をひかれた。其処では斜面の一部がすっぽり剥ぎとられて、丸味を帯びた石を象嵌した砂土の層が露出していた。それはちょうど脂肪をつめた腸詰の切口であった。それは単純に火山屑の地層であろうか。それともかつて上州猿ガ京で、甲州上野原附近で、また多摩川西岸の丘陵で私の見たものと同じであろうか。私は大地の遠い過去を思い、想像も及ばぬその未来に心を馳せた。一切空。しかし心は不思議に澄んで謙虚であった。そして現在よ。現在は永劫の時空の流れの中で相鬩せめぎ、相抱き、生成し、破壊し、現に私の眼前でさえ、地表の生傷の上にいちはやくその場所を占めようとするかのように、生命の酒のきらめく夏の真昼、すでにナンバンハコベ、タチフウロ、ヨモギの類が花咲き、もつれ、生茂っていた。
 そうだ。現地の地理学について結局私は何も知らない。私の観察からは何の結論も出はしない。私はただ見ただけだ。そして私にできるのは、驚きをもって見、見る喜びに鼓舞されて、なお一層よく見ようとすることである。
 君の土地、それは本当に美しい。その美の所以を、その秘密を研究し看破するためには、もっと長い滞在が必要とされ、遥かに深い専門的な造詣と高尚な叡智とが要求されるだろう。
 今日の詩人は、その善き野心にも拘らず、その詩的汎神論的地文学への夢想にも拘らず、決してタレースたることもヘラクリートスたることもできず、また実に一個のゲーテたることさえできない。イオニアの風は古代希臘の春とともにその白い廃墟の中で死んだ。現代は分化の時代、限界固持の時代、一切の食出はみだし不能の時代である。
 とは云え詩人はなお到るところに彼の祖国を見出すことができる。彼が呼吸するところ、彼がその魂を通して見、知り、慈むところ、すべて彼の祖国であり得る。
 一管の「魔笛ツアウパーフレーテ」を彼は持つ。その調べは天使のような音色をもって人と人とを結ぶ歌である。はなればなれの魂に、共通の故山の使信をはこぶ歌、孤立した因子の群を調和して、相互依存の原理とその深い喜びとに目覚めしめるコスミックな晨朝歌オーバードである。

        *

 千百の思い出が一時によみがえる。それは我れ先にと駈けつけて来る。
 蓼科高原幾里四方の秋草や白樺が、「僕たちのことを忘れるな」と一斉に蓬々とそそけ立つ。
 私の渇を癒やしてくれた淋しい高地の用水が、その八重原堰せんぎ・塩沢堰の長い水の背をうねらせて呟く、「おれたちのこともまた……」
「私だって」と菅原部落の猪口に一杯の蜂蜜が甘ったれる、「私だってあなたに元気をつけて上げました」。
 草爽竹桃フロツクスや萩の匂いをぷんぷんさせながら、彼女は懸命に自分を思い出させる。
 あの土地で私と知己になった一切の物が、ただの一触れ、ほんの一瞥の果敢ない縁の絲にさえ縋って、どうか自分を思い出されようと進み出で、最初の選抜にあずかろうと、口々に自分自身の理由を述べ立てる。
 みんなもっともだ。だが、少し私を落着かせてくれ。
 私はいきり立った彼らの気をちょっと抜くために、振り向いて小さなオルガンに向う。私は、スエーデンでは誰でも知っている、誰でも熱い血をわかすあの歌を、「ああ、ヴェルメランド」を微吟する。
 いけない! 最も悪い! そもそも此の「ヴェルメランド」のような、ひとつの美しい平和な祖国に対するその民族の愛と誇りとの歌は、電流のように民衆全体の心臓を貫いて、彼らを一般的興奮の大渦巻メールストロームに巻き込んでしまうのだ。
 私の衷で思い出の群衆が一斉にスクラムを組んで、彼ら自身のヴェルメランドを歌い出す。これではいけない。
 では、別のだ。今度は「ロッホ・ローモンド」
 すると忽ち翡翠いろの霞をまとった東部信濃の山々がその巨鯨の背をもたげ、愛すべき果樹園や人蓼畑の丘がならび、日照りさざめく川の流れが斉唱をはじめ、モンペを穿いて姉さんかぶり、桑籠を背負った佐久娘が伏目勝に道を行く。そればかりか、かつての秋の念場ガ原・野辺山ノ原の一人旅に、往きずりの言葉を交した若い人妻までが顔を出す。その時、馬上豊かに草刈に行く美しい女は、彼女と同じ上の近道を取るように私を誘った。私は平静な心の動揺を惧れて、好意を謝して下の道を進んだ。
 O, ye' ll tak' the high road, an' I'll tak, the low road, an' I'll be Scotland afore ye ……
 スコッチ・ハイランドの「ロッホ・ローモンド」。これもいけない。
 私は眼をつぶる。子供たちの一斉の訴えに困惑した父親のように、耳をふさぎ、眼をつぶる。
 さあ、出て来るがいい、誰でも。私の出した手の先に最初にぶら下った者が先ず語られるだろう。だがお前たちは何れも互いに関係し合っている網の目のようなものだ。誰一人として孤立した存在というものは無い。語られない者といえども語られる者の支柱であり、台紙であり、それを支え、それを引立て、それに一層豊かな雰囲気と意義とを与えるものなのだ。
 万物照応する抒情詩リリイクの世界には、「一将功成って万卒枯る」の譬えは無い。

       *

 一天晴れて日は暖かい。物みな明潔な山地田園の八月の末。胡麻がみのり、玉蜀黍が金に笑みわれ、雁来紅の赤や黄の傍で、懸けつらねた干瓢が白い。この土地で高蜻蛉たかとんぼと呼ぶ薄羽黄蜻蛉の群が、道路の上の空間の或る高さで往ったり来たりしている。
 私たちはのんびりした気持で村道を行く。道の左手は丘、右手は八丁地川の流れをへだてて、向うの丘の麓まで次第に高まる水田の雛壇。流れの岸には鬼胡桃や河柳が列をつくって、子供がはやを釣り、山羊が草を食む水辺に涼しい影を落としている。
 ふりむけば少しのけぞった蓼科山。だが私はもう少し前から、御牧ガ原の空に舞っている一羽の鳥を、鷹ではないかしらと気をつけている。
 シャンパンのように澄んで爽かな、酔わせる日光。ガブリエル・フォーレの、フランシス・ジャムの秋。健康な胃の腑が火串であぶった鶫つぐみの味を夢みる秋……
 私たちの前を一人の年とった百姓が行く。畠からの帰りらしく、空になった竹寵を天秤棒でかついでいる。うしろから見れば只の小柄な一老農夫に過ぎない。
「あれが千野喜重郎さんです」と、私の連れが小声で教える。
「そうか。あの人がそうか」
 私は指に挾んだ巻煙草を捨てる。御牧ガ原の鳥の姿も、食いしんぼうの夢想も捨てる。
 連れの引合せで初めて会った千野さんは、もう頭の大分禿げた、童顔に顎鬚をたくわえた、人を見る眼に一種の光りのある、どこか禪僧とか一流の達人とかを想わせる老人であった。知っている人は、あの霞網の名人小島銀三郎翁を思い浮べれば、ほぼその風貌の見当がつくであろう。
「尾崎さんがあなたの標本を拝見したいと云われるのですが」
 私の連れは郷党の先輩に対する丁寧な言葉遣いでこう云った。
「そうかね。あいにくもう直き忙しくなるのだが。年寄だから別に働くことも無いが、ただ遊んでいるのも勿体ないからな」
 私は例によって、農村の人たちが私のような都会の人間に対して抱くことのありそうな無言の非難を感じ、白眼を感じ、しかもその人々に向って、自分の理由を事々しく説明することもできないという、あの複雑な困惑の情をまたしても経験した。
「お忙しければ又今度の時に」と私は云った。
「いや、昼の休みの時ならば構わない。もっともそのくらいの時間だと、せいぜい禾本とカヤツリグサ科ぐらいしか見せられないが」
 昼食後の休憩時間は、この辺では大概一時間である。その間に見せて貰うことのできる腊葉が、「せいぜい」禾本科と莎草科だとは……
 この老農千野さんは、北佐久郡で有名な植物研究家である。その所蔵の乾腊標本は幾棹かの箪笥に一杯だと云われている。翁の発見にかかる新種も少くない。去年発行された『長野県北佐久郡植物目録』という堂々たる植物志のための調査と編纂には、九年間、終始委員会の主ぬしのようになって働いた。
 ただ見れば一個草莽の野叟に過ぎない。しかし具つぶさに見れば一種の風格をそなえた、世に隠れたる篤学の士である。
 だが己れを持すること甚だ高く、狷介に見えるこの翁は、後で聞けば、私がこの地へ来る日を待ちわびて、もう一と月も前から屡ゞ私の義弟に尋ねていたのであった。佐久の人に特有なあの内気さで、顔を赤らめながら。
「東京の客人は未だ見えないかね。来たら見て貰いたいものが色々有るのだが……」と。
 それならばわれわれは、他人を判断するのに急であってはならないだろう。辛抱づよく、細心に、或る日突如としてその真情の薔薇の内部を見せる固い蕾を、今日は信じつつ待つべきであろう。
 北佐久の大蒐集家、隠れたる篤学者よ。渡り鳥のように来年の夏もまた私は来るでしょう。その時こそは禾本科からと云わず、もっと初めの変形菌部から、先ずあなたの村のクダホコリカビから、長い長いエングラーの自然分類の順序のまにまに、あなたの案内で日を重ねて菊科にまでも及びましょう。時々はお互いに休みながら。茄子や胡瓜の香の物でお茶を招よばれる、あなたの土地の夜よるの「お九時」の団欒の中で…… 

       *

 二人の息子が東京からの客人と蓼科山へ登るという日の朝早く、まだ東の丘の上に大きな「天狼シリウス」がうろついている頃、もう年とった母親は目ざとく覚めて、薄暗い広い台所で朝の支度に取りかかる。
 二人の息子のうち、兄の方は笈を負うて東京へ出た。今では前途に光明のある地位を得、妻を持ち、子供も出来た。その子供を連れて若い夫婦が夏の休暇に帰省する。
 いくらか蒲柳の弟の方は家に残って、彼女と二人暮しで百姓をしている。
 生活は苦しい。しかし息子たちの未来にもう気掛りなことは無い。そのかわり彼女のこの世の旅はすでに終りに近づいている。人知れぬ辛酸の幾十年。それに対して怨嗟も洩らさず愚痴も云わず、なお幾らかの命の日が自分に残していると思われる日毎の義務を、黙々と果たして行くのが彼女の母たる仕方である。
 雪に埋もれた信州の長い冬、どんな心で母と弟が待つのだろう、息子夫婦、兄夫婦の賑やかな夏の帰省を!
 弟は書く、「東京の兄さん。もう雪の中から九輪草が頭を出した。去年の秋に刈り溜めた兎の餌も残り少い。じきに春です。それから夏です。寂しい家へあなた達の明るい声を持込んで下さい……」
 庭の片隅の大きな古い柿の木の枝に、箒のようなポプラーに、何か再生のしるしのような優しい光がまつわっている。母は指折って数える。六十年の雨や太陽が渋紙色にし、男まさりの労働が寒竹のようにした其の指を。だがそんな内心の感情を、人に知られるのを彼女は好まない。
 その夏が来た。帰省中の兄息子と、客である嫁の兄と、そして此の二人とともにする山登りをあんなに楽しみにした弟息子とが、今朝蓼科へ向けて出発する。
「気をつけて行って来なんし」と彼女は彼女の言葉で云う。赤児を抱いた嫁と、客の小さい娘とが三人を見送りに田圃の方へ降りて行く。
 彼女は小手をかざして、自分も若い頃にはよく中途まで草刈に行ったことのある其の山を、庭先から眺め、雲行を見、風を察して一人呟く。
「天気は大丈夫だ」
 そしていま電燈の消えたばかりの仄暗い台所へ入ると、時を移さず、客の娘の好きだという山羊の乳を煖めにかかる。 

       *

 丘の上の見晴しで、何本かの背の高いポプラーに囲まれた小学校、すがすがしい光の射し込む朝の室の、卓に置かれたヴァイオリンの函のような小学校。あれが君たちの学校だったのか。
 いま風に戦いでいるあの大きなポプラーも、君たちのお父さんが村の人々と一緒に植えた木だと云うのか。それならばよく見て置こう。あの日の当った園のような一角を、——東京の秋の夜霧にぼんやりにじむネオンの下でも、眼をつぶればいつでも容易に思い出せるように……
 赤松と秋草と、ちらちらこぼれる朝の日光。蓼科山が真直ぐに北へ踏み伸ばしたその長い脛の上を、まだ涼しく露にしめった緩やかな尾根路を、休まぬ代りにはゆっくりと登って行こう。
 野沢の町はあの辺だとステッキを上げて君は指すか、操君。それならば望月から御牧ガ原南方の峠を越えて佐久平まで、君たちは毎日自転車で通ったのだ。僕は地元の中学生が三々五々田舎道を自転車で行く姿に好意を感じる。彼らのような思い出を都会の学生は遂に持つことなく終るだろう。「吾に一人の僚友ありきジャヴエイザンカマラード……」僕はときどき彼らのためにもそれを歌うのだ。
 しかし君の地理学はどう云うだろう。この「小諸」の地形図の上で、千曲川左岸の山沿いはちと断層臭くはなかろうか。それとも「葦の髄から天井を覗く」者の言葉として、君はただにやりと笑うだけだろうか。むしろ「氷河の匂い」に此の頃ひどく引かれている君が。
 ああ、この気持のいい空開地ですこし休もう。蝶がぴかぴか飛び廻っている。豹紋蝶のいろいろが。オトコエシ、オミナエシ、桔梗、松蟲草、立風露、歌仙草にホタルサイコ、河原サイコに河原撫子、伊吹麝香草にアキカラマツ。胴乱を喜ばせる花たちが、天然の廃園を形作っている。
 路が二つに分れていた。右を行けば比田井山から浅田切への路だった。それで左を取ったのか。やがてひっそりと峯の東から寄添って来て一緒になった一本の路。これは新田からの細道だ。
 此処が湯沢・春日温泉への下り口か。立木の幹を削り取って道しるべが書いてある。あの枝には赤く錆びた小さな空罐も吊るしてある。君の手製の棠梨ずみのスキーの具合はどうだ、酉義君。僕もスキーを覚えたらば、そしてもしも北方の神々の特別の恩寵にあずかることができたらば、遠く向うの山から雪煙を飛ばして、まっしぐらに君の庭先まで滑りこむよ、いつかの冬に!
 そうして今度は霧ガ峯への分岐点。スキートレールの道標が古い十字架のように立って、一筋の切明けが南西へ松林の中に消えている。長尾君が云ったっけ、「湯沢へのコースにも途中要所要所に道しるべがありますから、あなたにだって今にスキーで楽に難なく行けるようになりますよ」と。ああ、軽い袋を背中につけ、襟巻を寒風になびかせて、見渡す限り白茫々、蓼科・協和の両牧場を映画の中の主人公のように乗り上げ乗り下げ、とうとうたった一人この道標の前まで来て、汗を拭いている大写しの顔を現わすのは、果たして何時の世の夢だろうか……
 ところでもうその協和牧場の入口だ。
 唐沢の谷に臨んだ明るい芝地。その谷向うの緑の斜面に、寒水石を置いたように放牧の牛の散っているブロンドの牧場を前に、大河原峠から右へぐんぐん高まる蓼科の広い肩幅。本岳の円頂は一歩後ろへ退いて、その間からつうんと一発、狼煙のろしのような雲が青い虚空へ上っている。
 芝地の鳶色に点々と黄色い星を打っている、これは竜胆りんどう科のハナイカリだ。雑木を分けて下からごそごそ登って来るのは、あれは放牧の栗毛の馬か。そうしてあの蓼科の胸のあたりから上っている薄青い煙は何だろう。あの辺りがこれから登る唐沢の詰で、其処からいよいよ黒斑くろふの尾根へ取附くのだと君は云うね。よろしい。三時間を歩き続けてくたびれた。さあ、此処でしばらく休むことにしよう。そうしてこれからの道を地図と合せて研究しよう。
 いい気持そうに寝転んで、空を見ている酉義君、君は僕の「牧場」の歌を知っているかね。僕もそうやって空を仰ぎ、草を吹く微風の囁きを聴きながらあの歌が出来たのだ……
  山の牧場の青草に
  あまたの牛を放ちけり
  あまたの牛はひろびろと
  空の真下に散りにけり……

        *

 ところで、蓼科の登路を敍述するのは私の今日の目的ではないが、多くは南乃至東側から登られている此の山を、こちら側から、すなわち湯沢や望月の側から登ったり其の方面へ降りたりする人たちのために、私はこの「歌」の間ヘー章のやや記述的なインテルメッツォーを挾んで置こうと思う。むろん蓼科牧場事務所を起点として、約五時間で往復する行程がもっとも短くもっとも楽には相違ないが。
 前章の終りで私たちが休憩した場所は、五万分ノー「蓼科山」図幅で丁度左半分の上の端、一三九三メートルの独立標高点の北々西、協和牧場の土囲記号が村界に沿った二重破線と交叉する地点に当っている。
 午前十時、それぞれ重いルックサックを背負い上げて、「さあ、出掛けよう」と、南方唐沢へ向ってよく踏みならされた路を降りて行く。そして直きに水づいた凹地へ降りつく。これからは沢に沿って一里足らずを爪先上りに行くのである。
 無風快晴。八月の午前の太陽は南北に向った沢筋を頭からカッと照らして、その暑いこと話にもならない。おまけに協和牧場側の斜面はほとんど隈なく伐採の手が入っているので、草いきれの石ころ路はまるで蒸すようである。もう此の辺りからは本岳は見えない。肩から張出した長大な黒木の尾根が正面に立ちはだかって、まっぴるまの日光に微動する薄青い紗を纒っているのも息苦しい。
 しかし路が沢の右岸を行くようになる頃からはさすがに空気が山らしくなる。湿った路傍には紫の羅紗の花を一杯につけた草牡丹や涼しい色の沢桔梗が現れ、苔むした岩の間に優しいミヤマモジズリが鴇色の穂をつづっている。緑豹紋、銀星豹紋、孔雀蝶、キベリタテハ、また稀にはアサギマダラのような蝶類が、余り人摺れしていないせいか、捕蟲網の持手を喜ばせる。
 ぶらぶら沢沿いを歩いて二時間、俗称「木流し」という所へ着いた。これは両岸が急に迫って左右の岩壁が切立っているために、伐木を上流から真向に落して来る謂わば「谷の鉄砲」の終点である。そして登山者は太い丸太で埋まった此の谷を遡るのである。皮を剥がれてつるつるになった丸太の上を行くのだからかなり歩きづらい。まして木を流している時季には余程の注意が肝要である。
 無気味な鈍い瀬の音が足の下できこえる丸太の谷を登りつくすと、又しばらく沢の右岸を進んで、やがて熊笹の茂った明るい小平地へ出た。左手に杣の小屋があって、山稼ぎの男が二三人火をたいていた。さっき牧場から遙かに見た青い煙はこれであった。振返ると「木流し」は谷の底の底の方になり、右岸に見上げた集塊岩の絶壁も低くなった。
 此処で水筒を満たして、小屋の少し手前から右手の薮を掻き登る。直ぐに小径が現われて尾根を西に巻くようになり、暑い暑い午後の日に照らされた闊葉樹林の登りになる。これが相当に長い。しかしやがてこれも終ると、俄然視界が開けて、白々と立枯れした大木の立つがらがらの崩壊地の上へ出た。唐沢の詰である。
 此処からの北に開けた眺望は中々見事なもので、浅間・烏帽子の火山群は無論のこと、もしも空気が清澄ならば遠く四阿あずまや、白根、上越国境の山々までも指顧することのできる展望台である。そして眼下に細長く展開する春日・望月附近の丘陵や田園の眺めは頗る優美で、晴れた夜ならば、彼らの明りが念珠ロザリオのように望まれるであろう。
 小径は西へ白花石南しろばなしゃくなげの藪の中を行く。コケモモの実は漸く色づき、ゴゼンタチバナは既に珊瑚のように赤熟している、じきに針葉樹の仄暗い中をジグザグに登るようになる。もう蓼科から協和牧場へと真北に伸びた尾根に取附いているのである。間もなく小さい草原のある鞍部へ出る。竜ガ峯の南東一九〇〇メートルの地点である。谷から吹上げて来た一握りの霧が頂上目がけて早手のように逆巻いて行く。そして忽然と虚空で消える。今朝牧場から狼煙のように見えたのは、多分この種の霧であったろう。
 この鞍部から西へ降れば、八丁地川の源頭を過ぎて竜ガ峯下の御泉水へ達すること地図の通りであるらしいが、私たちは此処から一直線に南へ、栂や唐檜と覚しい黒木立の尾根を喘ぎ喘ぎ登って行った。印象はこの附近の山に珍らしく秩父に似ていた。見通しはほとんど利かない。舞鶴草や小葉ノー薬草のびっしり生えた原始林の中の陰湿な小径を、倒木をまたぎ、岩角を踏んで、根気よく攀じるのである。ときどき息を入れながら、この登りには約一時間を要した。
 しかし遂に地勢が平坦になって、今まで蟲の這うようだった私たちの歩調もひどく軽く活潑になった。いよいよ蓼科の所謂「肩」へ着いたのである。やがて径が西へ廻って緩やかな降りになる途端に、夕日を浴びた草紙樺の木立の間から堂々と偉容を現した蓼科山の大ドーム。午後五時近い長波光にその緑もいよいよ冴えた草原の色、今を盛りの白山風露、オヤマリンドウ、無数に飛びまわる赤い赤いミヤマアカネ。私たちは声を上げて鞍部の草地へ駈け下りた。
 空身で行けば、此処から頂上への往復は四五十分で足りるだろう。

        *

 高原とは何であろうか。「高原とは水平に近い面を有する山地である」と私の初歩の自然地理学の本が教える。その例はと見れば、イラン高原、アラビア高原、コロラド高原……
 私は茫然とする。そんな広大な地域にわたる水平山地。それは私の想像の遙か彼方で、冥々として天のフォーマルハウトに接している。
 眠られぬ夜に私はデイヴィスの『自然地理学演習』をやる。ちょうど人が『イミタシオ』を読み、カール・ヒルティを読むように。また問題集を前にして幾何や代数の難問を解くように。そのように私は真夜中の地図帖にむかう。青と赤との鉛筆を手にして。
 だが私が紙の上でさまよった高原や峡谷は、其処への郷愁で私を引攫ったり嘆息させたりするような、思い出の中に生きている現実の高原でも峡谷でもない。それは私の所有ではない。
 所有するためには、己が心の版図の一部とするためには、其処に生き、其処で喜び、また実に其処で苦しむことをさえ学んだのでなければならない。
 地理学が厳密に定義を下して謂う高原。私はそれを一瞥したことも、まして其処に生きたこともない。
 しかし或る年の晩秋に私は見たのだ。あの八ガ岳裾野の袖崎から、地平の空すれすれに黄昏れてゆく野辺山ノ原の茫々たる広がりを。また或る時は霧ガ峯の頂きから、北西に展開した信濃中央高台の夢のような広袤を。
 そして今、蓼科牧場の一本の白樺の下に立ちながら、この悠容として激するところのない山山の起伏の大観から、この天地の寂寞と折々の深遠な風の息吹きとから、この自然の原始性と無際涯の感じとから、さらにこの最も霊妙な根本的諸情緒を無限に包蔵している単純さから、私はひとつの観念としての「高原」を受け取らずにはいられない。 

       *

 夕方下山して、牧場事務所を探しあてたのが既にかなり晩かったから、牛乳を入れる罐のような亜鉛とたんの風呂桶で入浴をすませ、若い無口な牧夫が給仕をしてくれる夜食をとり、しきり無しに茶をついでもてなす主任伊藤氏との炉を囲んでの一時間余の話も終ると、もう九時を廻っていた。
 急に風の音が耳に立って聴こえる。高原の大きな、深いメランコリックな風の響きである。蓼科から吹き下ろして来るものと見えて、山に面した方の板戸や硝子戸ががたがた鳴る。これは山風だ。昼間の谷風とは反対に、夜が更けると平地の空気が余計に収縮するので逆の対流が起るのだ。
 背をもたせている板壁のうしろで、何かごそごそ音がする。そうだ。さっき此の小屋の前まで来た時、夜目にも可愛く見えたあの七八頭の山羊どもが、きっと風におびえて外そとの羽目に身を寄せ合っているのだろう。
「此処では風もなかなか大きいでしょうね」
 と私は訊く。
「大きいですよ。何せよ五干尺以上の高原のことですから、吹く時はまるで海の奥からのような大きな奴がやって来ます」
 牧場事務所の主任伊藤氏は夢を持っている。その言葉には、さっきから気がついているが、或る甘美スイートな文学的な味がある。それでつい話も長くなるのである。
「五月から十月まで此処に居られるということですが、半歳もこんな処にいて淋しいことはありませんか」
「淋しいということは感じません。淋しいと思うのは却って町中にいる時です。若い者と二人で此処におって、牛や馬ばかり相手に暮らしていると、知らず識らずのうちに自然の賑やかさとか豊かさとかいう物を見ることを覚えて、本当の淋しさや単調などという感じは、却って町の生活にあるという気がして来ます」
 事柄が此処まで入って来たから私は云いたい。私は此の話手の言葉を其の場で速記したのではないが、その大切な要点だけは、その珠玉だけは、忘れもせず、また決して筆を枉げずに伝えているのである。いつも私は小さな手帳を持って歩いている。それは私の主として人間研究の上の種々雑多なモチーヴを、機に臨んで書きつけて置く備忘録である。それで其の晩も別室の床へ入る前に、薄暗い石油ランプの明りをたよりに、幾里四方に住む人もない荒涼たる高原の一軒家で、思いがけなく聴くことのできた人の心の告白の一部を、忘れてしまわぬ内に急いで書きつげたのである。
「それに、人も来ます」と、伊藤氏は話をつづける。「馬や牛を預けに来たり引取りに来たりする人たちが、たいてい此処へ泊って行くのです。そういう連中がいろいろ面白い話や、考えさせられる話を聴かせて呉れます。また近頃は蓼科へ登る人たちが此処へ泊られるので、もっと遠い町や都会の噂も聴くことができます。それに役場へ直通の電話が引いてありますから、人間の声が聴きたくなれば電話を掛けます」
 そうか。あの電線という軟かい銅あかがねの糸が高原五里の空間をへだてて、この人に人間の声をつたえるのか。遙かな生活の潮騒しおざいを。
 私はいい感じがした。そこには何かしらストリンドベルクの作品を想わせる空気があった。
 と、今度は望月生れの義弟が質問を出した。
「此処の雨は随分強いって話ですね」
「そうです。蓼科の雨と云えば有名なものです。ひどい時には、こんな大きな奴が(と指で小さい梅干位の輪を作って見せて)底抜けに降って来て、それがこの亜鉛とたん屋根を打つものだから、話などしておっても聴えやしません」
「雨の時はいけませんね」と私。
「長雨だと退屈しますよ。その代り雨の上った時の良さと云ったらとうてい口では云えませんね。まるで突然眼が覚めたようなものです。何しろ高原の景色はすっかり洗われたようになるし、日の当った草木はそよそよ戦ぐし、放牧の牛馬はつやつや光るし、とてもじっとしてはおられませんよ」
「いいなあ!」と若い方の義弟が半ば夢見心地で感歎する。話はそれから風景のことになる。続いて、こんな所で勉強したり歩き廻ったりしたらどんなにいいだろうという話になる。あてもない空想の鳥が現実色の翼を波打たせて飛びまわる。それを主任が微笑をもって聴いている。最後に話は具体的な相を帯びて来て、私に此処へ小屋を建てないかと云うところまで発展した。そうなればできるだけの便宜を計るというのである。
 よろしい、それはそれで別に考えよう。しかし……
 しかしもう少し前から私の脳裏を往来しているのは、それとは全く違った事柄である。昔まだ若い頃、鷗外さんの翻訳で幾度読んでも飽きなかった「冬の王」という物語。私はその主人公のことを思い出していたのである……
 北欧の海岸避暑地に一人の労働者がいる。夏の盛りには避暑客のために色々とつまらぬ雑用をやっている。その男に一人の詩人が心を惹かれる。と云うのは、どうもその男の犯し難い威厳を持った風貌やすることの一々が、尋常一様の労働者のそれとは違っているのである。詩人は彼の人柄に床しさを感じて、どうかして近附きになろうとして機会を待っている。しかしその男には人を避ける風が見える。頼まれた仕事は気持のいいほど正確に迅速に果たすが、人をして狎れ親しむ機会は与えない。やがて北欧の夏が逝く。季節を過ぎた寂寞の時が来る。遂に或る夜、詩人は砂丘の上のその男の小屋を訪れる。男はいくらか困惑するが、悪びれるところもなく不意の客を室へ通す。一目で室内の光景を見た詩人の心に深い驚歎の情と敬意とが生れる。その狭い部屋はあたかも哲人の隠栖である。無数の蔵書が棚を満たしている。書物は古典、宗教哲学および自然科学に関する物が大部分である。片隅には天体望遠鏡も据えてある。ランプの輝く頑丈な卓の上には、今まで何か書いていたらしく、大きなずっしりと厚い帳面が両腕をひろげたように開いている。しかも主客が対座している部屋の一隅には、一羽の大鴉がじっと漆黒の翼を収めて棲まっている。時が経つ。男はこれから水泳に行くのだと云う。詩人は暇を告げながら、不図鴨居を見上げる。其処には、この男の余儀なく持った暗い過去を物語る荊棘の模様で囲まれた公文書が額に入れて吊してある。詩人は感動する。男は別れて海へ下りて行く。そして逞しい腕に波を切って深夜の海へ出て行くその姿が、まるで北海の冬の王のようである……
 その夜更け、蓼科の円頂の上にアンドロメダの銀の鎖が斜めにかかり、霧ガ峯の空へ十一日の月が大きく傾き、その青白い月光の流れる露もしとどの牧場へ立った私が、もう一度繰返して思い出した「冬の王」の物語は大略以上のような物であった。そしてもちろん私自身、わが牧場主任をこの物語の主人公に擬する考えは毫末も持っていないと同時に、それにしても、若しここに一人の登山家があってこの牧場を通過した際、剰った牛乳をただで飲ましてくれた「おやじさん」ぐらいの印象しか互いに受けもせず与えもしなかったとしたならば、かりそめの遭遇にも人間的接触の契機を逸した遺憾、その二人の果たして何れに帰すべきやと問いたいのである。 

      *

 朝、眼が覚めかかるあの瞬間には、其処を常のわが家だと思った。しかしそれに続く覚醒の瞬間に、私の片腕は伸ばされて白金巾のカーテンはさっと引かれた。ああ、朝の山!
 太陽はまだ昇らない。風景には何処となく夜の名残りのようなものが漂っている。眼の前には柵を廻らして一郭に仕切った乳牛の遊び場。白樺が一本、睡そうな葉むらをこんもり垂らしている。その向うから地勢は高まって一段上の放牧場、さらにその上にどっしりと構えた蓼科山は、早朝の銀灰色をまとったその黒斑の全容を、右は八子ガ峯へ向って急に、左は竜ガ峯の丘陵へ向けてゆるやかに、ほとんど窓を圧して横たわっている。
 私は寝間着のままで、両肱を窓に突いて、この景色をぼんやり眺めている。すると或る幻想が私に生れる……
 むかしむかし、この山の北の麓に、桐原の牧、望月の牧と呼ばれる二つの大きな御牧みまきがあった。
それは、

  あふ坂の関の岩かど踏みならし
  山たち出るきり原の駒

  嵯峨の山千代のふる道跡とめて
  また露わくるもち月の駒

などという歌が、都びとの心に一種異国的な清新な情緒を与えていた時代であったかも知れぬ。ともかくもそういう昔、蓼科山から生れて千曲川にそそぐ角間の流れに隔てられたこの二つの御牧には、無数の馬が晴れた夜の星のように放たれていた。
 ところがこの二つの牧の駒どもが、毎月の午うまの日になると、どういう合図や兆候によるかは知らないが、二頭、三頭、或いは五六頭ずつ連れ立って、山坂越えて蓼科権現へお詣りに来る。桐原の駒は西峯道を、望月の駒は東峯道を、そして今雨境あまざかいと呼ばれている甘酒峠の下で雙方が出会う。彼らはあの優美な頸を伸ばし、ふさふさした鬣を風になびかせ、朝露を蹴って進んで来る。竜ガ峯を登りながら、あの怜俐な愛くるしい眼が、みすず刈る信濃の国のひろびろした高原を見はるかす。喜びのいななきが隊伍の中に起こる。彼らは勇んで御泉水から一ノ鳥居を越え、坂下の凹地の原まで来る。すると、まず先頭の駒が前膝を折る。続く駒らが次々に膝を折って行儀よく其処へ居ならぶ。そして見よ、今、蓼科山の頂き高く、二羽のらいの鳥が、権現の御使が姿を現わし、うやうやしく控えた牧の駒どもの前へ、嘴にくわえて来た這松の小枝を順々に置いて飛び去る。彼らは謹んでそれを受け、口々にくわえて、さて元来た道を粛々と帰って行く。桐原の駒は桐原の牧へ、望月の駒は望月の牧へ、そして彼らは貴い神の小枝を己が住む近くの高い所へ置いて、さまざまの厄難を払うのであった……
 この小さい美しい物語、これを私に話してくれたのは誰であったろう。それは昨夜晩く、八子ガ峯の空を渡っていた月だったろうか。それともほとほとと夜半の板戸をたたきに来た風だったろうか。或いはまた私の枕に近く、一箇の欠けた花瓶に挿された、あの這松の枝だったろうか。その細い幹にさえ、幾百の星霜を秘めているというあの這松の。 

       *

 いい朝だ。もうみんな起きている。昨夜の薄暗いランプの火影では幾らかノクターナルに瞑想的に見えた主任伊藤さんの顔が、今朝は晴やかに笑って如何にも牧場の人らしく見える。若い牧夫君も「メエ・メエ」鳴く山羊を放したり、食事の支度をしたりしている。
 いい朝だ。顔を洗いに表の方の用水のふちへ行くと、先着の操君が「お早う」を云う。岸に垂れた色さまざまの秋草をなぶって流れる用水の水は、清冽に、冷たく、まるで刃のように鋭い。この大らかな高原の朝の風景を何と云おう。向うに起伏を重ねている丘々の美しい線、八子ガ峯から車山、物見石へとつづく火山台地の静かな波打ち、大門峠のたるみを越えてほんのり見える西駒ガ岳、薄い雰囲気の紗をとおして遥かに覗いている槍、穂高。この天地の大いさは、そのままに見る者の気宇を大ならしめずにはいない。
 いい朝だ。四本の柱の間へつながれた牝牛から、酉義君が乳を搾っている。牝牛は厭がって綱の長さの許すかぎり歩きまわる。それを追掛けて彼の手が薔薇色の乳房を長く引っぱる。シャッ・シャッと音を立てて乳が走り出る。バケツからは温い乳色の霧が上がる。
 もう直ぐ太陽が出る。大きな大きな蓼科の上の空が透明な水仙色になる。竜ガ峯のスカイラインに近く、空はわけても上気し、興奮し、何らかの奇蹟が今や将に行われんとするかの気配を示している。私は不図あの「アルプスの氷河」の中に出て来るティンダル効果(仮称)を思い出す。すなわち、日の出の少し前に麓から見ると、太陽の直前に横たわっている山や丘の草木や鳥が、白金のように輝いて見えるという現象である。
 私はそれを見ることができた。それは正しく此処から見える竜ガ峯の高みの最も右の端、落葉松を縁縫にしたぎざぎざの限空線に現れた。極めて透明な、ほんのりと薄緑を溶いた金箔色の空を背景に、峯の落葉松はその一本一本がまるで白金の簪かんざしか霧氷に飾られた樹木のように、こまかくきらびやかに、強く、緻密に、はっきりと私の眼底に焼きついた。私はそれを義弟たちに見せたくて彼らを呼んだ。しかし不運な彼らはあいにく近所に居合わさなかった。やがて正規の如く太陽は昇って、牧場事務所は美しい光を浴びた。そして私にとって思い掛けない見ものだったあの現象も青ざめた。
 今はもう光り華やかな楽しい朝、日当りの場所の恋しい朝だ。私たちは食事をし、牛乳を飲み、いよいよ出発の支度をする。荷物がそれぞれ平均に分けられる。私は伊藤さんから否応云わせず一枚の短冊を奪われる。その代りに彼らをカメラの前に立たせる。
 私の机の上、小さい額に入れた一枚の印画の中で、彼ら牧場の二人は、私と私の義弟と一緒に、ちょうど権現様へ向った桐原と望月との駒のように、行儀よく竝んでいる。なぜかと云えば牧場の二人は昔の桐原の者であり、義弟二人は望月の者だから。それでは私は、そもそも何処の雑種だろう。
 記念撮影をするということになった時、伊藤さんは幾らか顔を赤くしながら、戸棚から白いシャツを引出して来て着たのだった。若い牧夫君はと云えば、彼は何処に秘蔵して置いたのか、切り立ての紺の半纒、腿引、腹掛を一着に及んで、極めて厳粛な面持で立ち現れた。
 ああ心から、この人々の純情に敬礼する。
 ではさよなら、又いつか。写真はきっと送りますよ。さよなら、牧場もさよなら、乳を呉れた牝牛夫人も山羊君もさよなら、蓼科山もさよなら!
 そして、今度の旅は時間が無くて行けなかったが、霧ガ峯の人たちへも遥かにさよなら!
 もしも私の仕事にして天にもとらず、人間のそれに恥じぬならば、ああ未だ讃歎すべき物に満ち満ちているこの世を、もっともっと生きたいと私は願う。 

       *

 爽勁な初秋の天の下、しみじみと身にしむような高原の日光と風との中で、蓼科農場五町歩の馬鈴薯が葉をうごかし、その地下茎をふとらせている。彼らは菅平ですでに名高いその兄弟たちの後を追って、優秀な種芋として新らしい名声を博さなければならないと云う重責を担っている。
 夏の関東平野一帯にひろがって、過去幾十年、黄色い蕋しべ、白や薄紫の花瓣、あの紋章のような花をそよかぜに揺すっているわれわれの馬鈴薯にくらべると、見渡すかぎり耕作の影さえ無いこの荒野原の猫額大の開墾地の、まるで大水が退いた後のような白いぼろぼろな哀れな畠に、ほそぼそと立っているこの馬鈴薯の一群が、何か乾燥した希望のような逆説的なものに見える。
 しかしそれが何だろう! 信ずる力のあるところ、ホレブの石からも水は噴くのだ。信州北佐久郡芦田村外三箇村の共同財産組合は、その美しい信念をもってこの農場を新設し、併せてあの蓼科牧場を経営しているのである。
 蓼科高原の開発に対するこの人々の熱情には真に驚くべきものがある。彼らは竜ガ峯西方の赤沼の湿地を堰いて水を通じ、ここに一つの鏡のような山湖を出現させようと考えている。またこの高原一帯を軽井沢にも増した保健地、避暑地とするために、当分のあいだ此処へ別荘を建てる者には土地を無代で貸し、用材を自由に供給し、その他一切の便宜を計ろうと云っている。現に牧場事務所は登山者に対して宿泊の便を与え、附近にはすでに東京高等師範附属中学校の夏季寄宿舎蓼科桐陰寮が、三万坪の敷地を擁して三棟の建物を並べている。
 古えの桐原の牧の人々よ、私は君たちの自力更生の意気に深く同感する。昔を忘れぬ君たちは、それならば、あの美しい立派な牧場を一層理想的な物にするがいい。木柵に代る隔障林を植え、牧道を新設し、遊牧の自由や牧草の保護のために荊棘を掘り起こし、下枝を切り払い、牛馬のための水飲場や水浴場を作り、峯には見張小屋を設けるがいい。それは君たちが祖先から受継いだ比類無い牧養の才能に最もふさわしい事業なのだ。
 また開墾地の面積をさらに拡げて、今は試作中の蕎麦、粟、葱、胡瓜、白菜、南瓜、大豆、小豆等の作物を、高原普通の農作物にするがいい。北海道が遠くから君たちを援助するだろう。新しい試みとして砂糖大根ビートはどうだろう。先ず第一に燕麦は。そして何はあれ菅平を凌ぐ筈のその馬鈴薯をどしどし殖やすがいい。君たちの最初の着眼は確かに正しいのだ。そしてもしも彼らの中に種芋として不適当な残物が有ったならば、君たちの云うとおり、その澱粉で造った「蓼科の雪」なる物をわれわれは喜んで家苞にするだろう。
 しかし由緒正しい芦田親郷あしだおやごうの人々よ、軽井沢に眼をくれたもうな。赤沼を湖水にして、蓼科山にさし昇る満月を手に掬ぶのは本当にいいだろう。だがその湖畔からジャズの音楽や流行歌のひびく俗悪な避暑地を夢みたもうな。必要なだけ道路を改修し、植林につとめ、豊富な用水を涵養したまえ。しかし競馬場なんどを考えたもうな。あの蕨小屋平の見事な蕨を、単なる昔語にしてしまうようなことは止めたまえ。誘う気で却って捕虜になりたもうな。
 君たちの蓼科山を護りたまえ。君たちの蓼科高原を君たちの意志と、君たちの固有の経綸とで開発したまえ。しかしわれわれ共通の弱さである劃一主義への服従、先例の無比判な採用と模倣、それらは最早断乎として捨てなければならぬ。

        *

 堰せんぎの水が流れている。時の流れのように休みもなく。高原の物凄い大きな夜も、ひろびろと明るい寂しい昼も、急ぐともなく、急がぬともなく、ほとんど常に同じ速さで。
 彼らはその長途の旅の道すじを、自然の中の他の水流のように一層自由な意志で選んだのではない。謂わば彼らはとらわれの身だ。底の傾斜に前進を余儀なくされ、両岸からは圧迫されて、人工の溝渠の導くまにまに、めぐりめぐって遙かに雲の下まで行くのだ。
 しかし彼らが十里というその長い旅を終えて、いよいよ人生にめぐり合う時、其処には何という自由が、何という喜びが彼らを待っていることだろう。まるで教師から解散を許された遠足の時の子供のように、彼らは勝手気儘に何処の水田へでもながれこむ。彼らは日がな一日歌ったり、うろついたり、踊ったり、走ったり、ふざけたり、また時には何かを瞑想したりして暮らしてしまう。そうして星の光の涼しい夜更け、遊びつかれた彼らが未だうとうとしながら歌っている幼い歌に、ふるさとの野を吹く風はその琴の響きを合わせるのだ。
 私は彼らをその生れの土地で見た。塩沢堰が牧場の事務所の前を淙々と流れていた。高原のゆるやかな波打ちの向うに、遠く槍、穂高、白馬までも見える快晴の朝だった。私は両岸に秋草の咲きみだれた此の清らかな水の上で、練歯磨に汚れた口を濯ぐに堪えなかった。
 暑い日盛りを、われわれは遠く北の方望月へ向って歩いていた。もうかれこれ一時間堰とは離れて進んでいた。皆、乾燥の神の子のように渇いていた。すると突然われわれの往手を横断して一筋の水が流れている。われわれは駈け寄って飲んだ、飲んだ。これが竜ガ峯東方の水出から発して、道を横切るすなわち横堰よこせんぎである。
 雨境あまざかいか甘酒か、その本当の地名は何れか知らないが、其処で彼らが互いに近寄るのを私は見た。白樺の幹の白く光る、緑も暗い静寂の世界で、宇山、八重原、塩沢の堰共が森をへだてて潺湲せんかんの声で呼び合っていた。
 信州佐久の鯉の美味なことは世に知れている。ところで其の鯉売は鯉を運んで諏訪や滝ノ湯まで行く。彼らは其の遠い道を生計なりわいのためには歩いて行く。
 大河原峠を其の人々は越えるのだろうか。大方は雲にかくれているあの高みを。否! 彼らは道を望月にとり、菅原から雨境へ、そして八子ガ峯を廻って向う側へ出るのである。
 それはそうに違いない。道のりは近くても、峠は高く、登りは急だ。否!
 振分の盤台の中に売物の鯉はいる。鯉は生きたままで運ばれなければならない。鯉を生かして置くためには新鮮な冷たい水が必要だ。その水が到るところに無げればならない。
 そこで彼らは廻り道をいといもせずに、乾からび切った峠を棄てて、八月末から九月へかけ、その命の水を供給する堰に沿って遠い商売に行くのである。 

       *

 私の愛の「蓼科の歌」、それを残らず私は歌ってしまったろうか。もうこれで種切れだろうか。いや、決して! 然し、いま私は疲れている。
 私は休みたい。それに少し四辺あたりを歩きたくもある。
 武蔵野の秋に向って開いた二階の窓へ腰をかけて、いつも山へ持って行くことを忘れない小さな切子のコップから、私は甘い金色の蜂蜜をすする。これは蓼科からの帰り道に、あの菅原部落の一軒の農家で東京への土産として分けて貰った物だ。
 あの日私たちは朝からの行軍と異常な暑さとで、すっかり疲労しつくしていた。そのうえ空腹のためにもう歩くのも厭だった。牧場を出発してから五時間、やっと里へ下りついて菅原の人家を見た時の嬉しさ。私たちは連れの一人が知っている一軒の農家へ入って行った。ちょうど繭を運び出す忙しい盛りだった。それなのに其処の人々は私たちを親切にもてなして呉れた。先ず「お疲れでごわす」と云って、その家の娘が猪口に一杯の蜂蜜を持って来た。それから心を入れた中食の菜を作って運んで呉れた。その一杯の蜂蜜が、どんなに私たちに力をつけたろう! 今その同じ蜜を啜りながら、私はあの口数すくない親切な人たちの真心を、この武蔵野にいて、どんなに感謝をこめて思い出すだろう! あの信濃の山間の農家や庭を、どんなに懐かしく眼の前に描くだろう!………
 そうして私は庭へ出る。多くの鉢植にまじって、新らしい札を立てられた幾つかの鉢がならんでいる。これらの草はすべて蓼科の思い出である。彼らは全く異った環境へ来て、少し弱り、いくらか生気を欠いて見える。しかし私は彼らを死なすまい。できる限りの手当と、万全の注意とを怠るまい。自ら進んで私は彼らを預って来たのだ。彼らを立派に育てることは私の当然の責任でもあるし、またあの山々の寄託に添うゆえんでもある。
 私の「蓼科の歌」の泉、それはもう涸れたろうか。否々、決して! 彼らはあの丘の上の水田へ放たれた堰の水のように、私の衷で歌ったり、流れ出そうとして押合ったり、又いくらか瞑想したりしている。しかしやがては他の干百の流れと合して一層大きな歌の海へ注ぐために、今はこの深い平和な秋の夜を安らかに眠らなければならない。
 眠るがいい、美しい夏の思い出の子供たち。そよかぜの吹く九月の夜を私と一緒に眠るがいい。

                             (昭和九年作)

 

 

 

目次へ

 

 念場ガ原・野辺山ノ原

        「それは軍隊を持たない征服者。しかしたった一人での征服者。彼は万人に語る
        すべを知っている。男にも女にも。そして彼等の睫毛をその最も美しい涙で飾っ
        てやり、また子供の朗らかな笑いを彼らに取返してやる事ができる」(シャルル・
        ヴィルドラック)

 百観音自動車株式会社の定期乗合バスが、中央線韮崎駅から佐久往還を北上して長沢まで通じているということは、鉄道省編纂の汽車時間表にも拘らず、昭和七年十月八日には、全く嘘ではないまでも、少くとも真に本当ではなかった。
 すべてこういう風にして、物事の確かさを信じることが困難になる。またこういう風にして、チョコレイトに出て貰うつもりで、投入口の孔へ全身の丈けを伸びるだけ伸ばして憐れな五銭白銅を入れた小さい子供が、契約を無視したキャラメルの函にすべり出られて、世界の不都合な看板のいつわりに唖然とする。
 未知の土地への旅客という者は、山へ行くと急に気が荒くなるという人は別として、大抵はその平生よりも一層好人物である。彼は「郷に入っては郷に従え」という金言を、自分でも経験から学んだ真理として、且つ久恋の旅に出た嬉しさからの自然の寛容をもって、又よその町へ入り込んだ犬の小心から、更に、そうする事がいやしくも旅行家たる者の一つの美徳であるとさえ考えて意識的に、余り不自然でなく実践する。そこで、午前五時いくらのひっそりした韮崎の駅頭で、黎明の寂しい灰色の奥に見出した一台のバスの運転手に訊けば、バーバリーのレインコートの底の方から、
「長沢へ行くならこれに乗るんです」と、無上命令的アンベラティフ・カテゴリツクな答えだけが響いた。後で考えてみれば、なるほど含蓄のある融通の利く辞令である。それならば彼はもう一歩を進めて、外套の襟からイソップの狐の鼻面を突き出して、「ルックサックを背負った旅烏さん、信州へ行くならこれに乗るんですよ」と云うほどのユウモリストであってもよかったのだ。
 とにかく、僕は鷹揚になる。とにかく、「出発」という第一過程をさっぱりと済ませて、これからはほとんど全く自由な活躍が僕のものなのである。新しいフォードが僕というたった一人の主人を乗せて暁闇の町を走りぬけると、いま乗り捨てた長野行の汽車が盛んに煙を出したり、石炭を投げ込むときの焔の光をひらめかせたりしながら、左手の急勾配を息をきって登って行くのが見える。僕はたちまち子供心になる。生きて甲斐あるような、それだから善い仕事をしなければならないのだというような、ちょうど何から何まで気に入った支度をして貰って母親に送り出された、遠足の朝の子供のように神妙な気持になる。茅ガ岳の右に遠く大菩薩あたりの悲劇的な夜明けの色。多量の水分を含んだ煙幕状の層積雲の重苦しい黒ずんだ紫と、その間に低く切れた深淵のような血紅と薄みどりの天明の一線。そういう光景も深く心に刻みつけ、さて、しらじら明けた百観音前での乗換で、また別の一番自動車ヘルックサックを担ぎ込むと、すっかりドメスティックになって車内の掃除や水撒きしている若い女車掌から、
「前には長沢までかよったのですが、今では箕輪新町みのわしんまちまでしか参りません」という、事実をぼかさない答えに接した。
 よろしい! 一体、乗合バスの女車掌というものは、それが容姿端麗で、公共の仕事の性質を呑み込んでいて、なお且つ朗かだと、何となく国際的アンテルナシヨナルな匂いがする!
 バスが今起きはじめた或る繁華らしい街を通る。いずこも同じ柿紅葉とコスモスの花である。鳳凰・甲斐駒のミケルアンジェロ的威容が、未だ幾らかノクターナルな額に乱雲の前髪を垂れて、うしろの窓から仰がれる。僕は前に腰掛けた女車掌に訊く、
「此所は何という所です」
「若神子わかみこです」
 ああ、若神子か。それならば今日僕は一人の自然の神の子として歩くのだ。 

        *

 バスが使い古された腰に爆音を満たして、営々と登りつめた箕輪、それから新町。「此処までで御座います」と云われてガッチリと車を降りる。昨夜の夜半から曲げられていた膝が喜んでいる。その膝は、先ず後方へ伸びるだげ伸ばされて、やがて膝関節のうしろあたりで「ピチン」と云う。これでいい。僕はこの音を、縒れ合っていた腱か何かが元通りになるときの音だとふだんから思っている。
 それにしてもバスに揺られて、右手には折々遠く瑞牆山みずがきやまの岩峰の髪飾りを、左には漠々と雲の垂れた八ガ岳を垣間見ながら行くこの佐久往還のなお先に、よもや長沢・樫山などという纒った聚落があろうとは、手に持った地形図の上ではとにかく、ただ運ばれるに任せる尋常の旅客の頭には想像もつかない寂寞の道である。しかしこれらの聚落が、関東山地の西縁及び茅ガ岳火山群と八ガ岳火山との接触線の謂わば一種の裾合に発達したものであることを思えば、大体この線に沿って走るように作られた佐久甲州街道なるものが、たとい如何に寂寞の道であろうと、この聚落を花綵の糸のように点綴していることも当然と諾かれるに違いない。
 僕は角の荒物屋兼飯屋の上りがまちへ腰をかけて、妻がして呉れた用意のサンドウィッチを頬ばる。それにしても遠く来た。午前六時十五分。武蔵野に秋の朝の煙りの漂う柿の木の下の小さい我が家が、心の映写幕に現れては溶暗する。今日の仕事を胸に描いて、滴るような早朝の天の下で顔を洗っているべき常の自分が、ここ甲州北巨摩郡安都那村箕輪新町の、生れてからまだ一度も腰かけたこともない見知らぬ他人の家の片隅で、これも見知らぬ子供たち六七人に見守られながら、もっと正しく云えば、口ヘ持って行くパンの一片を片唾を呑んで見つめられながら、「学校は何処か」とか、「学科は何が好きだ」とか、例のように訊いている。そして少し感傷的に、今頃もう家を出て、小さいランドセルに金いろの朝日を斜めに浴びながら停車場への道を急いでいるであろう幼い我が子や、その小さい後姿を門の前で見送っている其の子の母のことを心に浮べて、宵越しのサンドウィッチを二つにちぎって一気に頬ばる……
 「家で炊いたのですが」
と云いながら、其の家のおかみさんが土地の松茸をこてこて皿へ盛って持ち出した時分には、しかし僕の食欲はもう衰えていた。そしてぬるい湯で持参のココアを煉っていると、やがて赤松の林を濡らす朝の雨になった。 

        *

 向うからお婆さんがやって来る。お婆さんの背中の背負籠にはもう朝飯前の一仕事の松葉や枯枝がいっぱいである。働かずには飯を食わないつもりらしい。
「お早う。お婆さん今日はお天気はどうでしょう」
「なあに朝降りははげると云うだから、天気は大丈夫だよ。何処まで行くね」
「海ノ口ですよ」
「ああ海ノ口なら一日には丁度持って来いだ。行っておいで」
 雨は十分ばかりで止んだ。眺望が開けて来る。真珠色をして南西から北東へ静かに移りうごく雲の、その切れ間の空の気も遠くなるような美しさ。爪先上りの坦々とした道を、時折のきらびやかな朝日をうけながら行く楽しさ。高原の微風よ! 路傍に秋のゴブランをつづる灌木よ、草よ! わけても甲斐の国の山々よ! 僕はお前たちにフェリシテを云う。ああ、生きることは何と善いか! この神のいない大本寺、それ自身が神の証しであるところの此の自然の中で、僕は自分に優しかったすべての死者らに感謝し、また僕の敵であった死者たちと和解する……
 左に旭山の丘阜を見、右に須玉川の瀬の音を聴きながら行くこの至福の道こそは、僕の今度の旅にもっとも深い感銘を与えた。僕は一人ではこの感動を担いきれずに、道すがら、モーツァルトやシューベルトの歌に、「パストーラル・スィンフォニー」や「ジャン・クリストフ」に応援を求めた。僕は歌った。それから黙った。目に入る草の名を知るかぎり手帖に書いた。僕は耳をすまして鳥の声を聴き分けた。知らない鳥も歌っていた。僕は太い落葉松の幹へ耳を押し当てた。落葉松もまた歌っていた。それは天と地との永遠の盟約の歌だった。
 やがて地形が変化して、道が断崖にのぞむようになり、対岸津金村の向うから洪水のような日光が満々と横ざまに射して来ると、突然、全く新らしいモチーフのように、稲田の黄金の大階段を正面にする長沢の部落の遠景が、もみじしたヌルデの炎の下に現れた。

        *

 長沢部落は大門川と川俣川との合流点の南西約三百メートルの辺にある。「八ガ岳」図幅で見ると九四四メートルの最高点を持つ一箇の楕円形の丘陵が、ヨメガカサと呼ばれるパテルラ科に属する一種の貝を伏せたように、その長軸を南北の方向にして横たわっている。川俣・大門の二つの水を合せた須玉川は、この丘陵の東の縁辺をきっかり縁取るようにして南流する。一方丘陵の西の縁辺は、前章の最後に述べた長い階段状の稲田を裳もすそのように廻らして、直ちに権現岳の南南東井出ガ原の大斜面に対している。つまり此の丘陵は、南下する川俣川に対して真正面から打ち込まれた一箇の楔のように見える。楔の尖った頭を真向から受けた川俣川は、してみれば、これを避けてしかもなお南下するためには、現在のように左して大門川に合しなくても、むしろ独自の方向を取って、すなわち右からこの丘陵を迂廻してもよかった筈である。長沢の稲田の階段状をした細長い面白い地形が、僕の興味を喚起したのも此の点にある。ことによると、かつて川俣川は、今日稲田になっている此の地域を流れていたところが、上流地方の隆起か大門川流路の沈降か、或いは彼の誘拐に遭ったかして、以前の流路を見捨てて、僅かの距離を流れている大門川に合してしまったのではなかろうか。そしてその廃墟の上に長沢の稲田は作られたのではなかろうか。こういう臆測が僕の興味であった。僕は早速問題の稲田を正面にして、ほとんど其の長軸を貫くような方向からカメラを立てた。自分の地形学や人文地理学的写真の資料が、此処で一枚出来るのだと思うと、写真も学問も共に一年生だけに、その得意さ、その嬉しさは並ならぬものであった。僕は焦点ガラスに映る光景に陶然と酔った。
 すると、ちょうどそこへ、谷の方から一人の洋服の人が登って来た。地図に大和とある部落のあたりから、須玉川を渡って来たらしい。その人が丁寧に声をかけた。
「お早うございます。長沢をおうつしになるんでございますか」
「ええ、地形の利用の仕方が中々面白いと思うものですから」
「そうでございますね。こういう事に興味をお持ちでいらっしゃいますか」
「ええ」僕は微笑んだ。
「結構でございます。私はこの上の長沢の学校におりますが、どうかお立寄りを願います」
 僕は心から礼を述べた。校長らしい人は往還へ上って立去った。僕はレリーズを押した。
 また一人登って来た。今度は若い女の先生であった。この人も慇懃に挨拶をして、しとやかに通りすぎた。
「長沢部落の稲田、十月八日午前七時四十五分、半晴、S・G・パン、ラッテンK2、絞十六、一秒」
 僕は手帖へそう書き込んで器械を片附けると、足もとに咲いている薄紫のマツムシソウの一茎を折り取って、ルックサックのポケットヘ挿した。この幸福な朝のためにも、またあの善い人々の思い出のためにも……
 雄鶏の勇ましい朝の喇叭が、遥かに部落の方でその音色をひびかせた。 

        *

 僕は長沢の部落を通る。僕の通る長沢の部落が彼らの朝の眼で僕を見る。僕は僕の通らねばならぬ人目の関の長いことを惧れる。
 額に汗して働くほかに生きる道のない人々が一日の仕事を取り上げる時刻に、彼らが今浴びる最初の貴い陽光の中を、心に何らかの陰を感じずに、平気で横ぎることは僕にはできない。
 僕の父は武蔵野の農夫の子だった。正月に手習師匠に贈る天保銭一枚を幼い手で稼ぐために、三俵一駄の薩摩芋を馬につけて五日市まで幾往復しなければならない子だった。その子の子、僕の血管の中を、百姓の血が太く根づよく流れている。
 詩人としてはロバート・バーンズ、ウォルト・ホイットマン、エミール・ヴェルハアランの三人が最も強い感化を僕に与えた。ジャン・フランソワ・ミレー、ヴィンツェント・ヴァン・ゴッホ、モーリス・ヴラマンクは、詩において時折涸渇する僕を最も豊かに水かう三人の画家である。
 そのヴラマックが「画因モチーヴ」へ行く。牧夫のような逞しい手には画布トワアル、三脚、絵具箱。真夏がすこし墨っぽくした並木の緑に縁どられて、パリからボオヴェーヘの街道が風景の遠方を走っている。赫耀たる太陽の八月、イール・ド・フランスの野に明色ブロンドの麦は熟れ、頭にマドラスを冠った女たちや、襯衣の袖を肩までまくり上げた男たちが、汗まみれの刈入れに忙しい。彼らの中の幾人が投げる親しい「ボンジュール」の挨拶に、画家は立止って会話をする。しかし心の中で、彼はこういう風に労働しない自分をひそかに恥じる。自分の食う麦を自分で作らない己れを恥じる。都合のいい口実は幾らでもあるだろう。だがどんな言葉も自分にとっては結局すべて虚罔に過ぎない。事実は厳として眼前にある。そう思ってヴラマンクは立ち去る。むしろ心に苦痛を満たしてその場をのがれる。
 同じような心の苦にがさを味わいながら、幾つかの無表情な眼が迎え見送る長沢を、両側の古い家並の間に廻らぬ水車を持つその部落を、むしろうつむいて僕は通る。そしてあの画家と同様に僕も呟く。
「こんな経験は初めてではないのだ」と。 

        *

 つきのき橋で川俣川を左岸へ渡る。自然の中の水らしい水の眺めに、歩き出してから今初めて逢うのである。谷の両岸は相当に開けて明るいのに、河床そのものは、殊に橋の下手では、暗く深く刳られて、水は左へ左へとぐいぐい突込むように捻れながら流れている。橋の上へ立って、黄や赤に色づいた谷間の錦繍の下かげをうねる水の素絹の行衛を見ていると、どうやら其の流路に沿って地質の最弱線が通っているのではないかという気がする。つきのき橋の「つきのき」は、して見れば月の木か、槻の木か、それとも飛躍して「突き抜き」か。しかし此処では槻の木が最も妥当らしく思われる。
 一度下った道が橋を界に、下流に向って高上りになる。輪鋒菊や梅鉢草の点々と咲く、歩くに楽しい道である。左側に家が一軒。土間に火を焚いて、何となく活気を呈して幾人かの人が住んでいる。前を通るといきなり「お早う」という声が掛った。全然予期しなかった僕は、少し慌てながらも喜んで挨拶を返した。
「美シ森ですか」
「いや、野辺山から海ノ口です」
「ああ、そうですか」
 しかしこの通りすがりの短かい応答のお蔭で、僕はやっと長沢に対して心が楽になった。それは土間の中から権現岳の峭々たる峯頭をのぞむ部落最奥の一軒家で、横手には登る道なりに畑があり、物干竿には女・子供の古い単衣が掛っていた。そして此処から約二里をへだてた国界こっかいまで、僕はついに人家という物を見ることができなかった。
 心も軽く、広い緩やかな坂道を行く。道ばたに子供が二人遊んでいる。五つと三つ位になる兄弟らしい。大きい方の子は古い箱か何かに小石を入れて曳擦っているが、着膨れて奴凧のような恰好をした弟は、吸盤でも附いているかと思われる小さい指先で、それこそ顕微鏡的ミクロスコピツクな微物をあさっている。僕は身をかがめて二人の汚ない手に板チョコを握らせる。序でにその頬を軽く突つくことも忘れはしない。小さい方の子の頬ぺたには、何時いつ頃のものか知れないが、涙の痕が二本こびりついていた。
 馬上でゆっくり打たせて行く若い女房がある。藁繩を鐙あぶみにしている。手甲・脚絆に草鞋で手拭を姉さん冠りに冠っている。呼びとめて弘法水こうぼうすいのありかを訊くと直きこの上だと云う。そして本道を外れた左手の急な電光形の小径へ馬を乗り上げながら、
「この方が近道ですよ」
と誘い込むように云った。その声には一種人を魅する力があった。僕は一瞬間その方へ牽かれたが、ただ一人で行く心の平和、気安さを思って、やはり真直ぐ本道を取った。みめ美しい女房は高々と手綱を引いて颯爽と小径を登った。揺れる荷鞍のあたりで鎌が光る。僕は下の道を、女は上の道を。われわれはもう一度出会うだろうか。

  おお、お前は上の路を行き、
  俺は下の路を行く、
  そして俺の方が先ヘスコットランドヘ着くだろう……

 僕は「ロッホ・ローモンド」を口ずさみながら勢よく進んだ。進むにつれて一歩一歩、鳳凰・甲斐駒がせり出して来た。
 八ガ岳赤岳の水が搾れて地下水となって、再び地表に湧出した弘法水で喉をうるおし、釜無の谷から這い出す鉛色の層雲に次第にかくれる鳳凰山の地蔵仏を遠望しながら、此処で初めて本道を捨てて、左へ地図にある破線の路を、僕はいよいよ雲の群がる念場ガ原へと進み入った。
 僕に今度の行を思い立たせた「野辺山ノ原」という美しい文章の中、その初夏の印象を書いた条で武田博士はこう云っている。

  「弘法水を経て念場ガ原にかかると、落葉松の枝端を飾るエメラルド・グリーン
 の新緑や、疎開地に立つヤマツツジの赤花や、レンゲツツジの黄から紅に至るあら
 ゆる色彩をはじめ、フジの紫、ズミの白花に誘われて、三人は道を離れて散りぢり
 に造林地をさまよい始めた。
  時鳥は樹叢から樹叢に飛びつつ、郭公は白樺の梢に留って朗かに鳴く声に耳を傾
 けつつも、左に八ガ岳右に金峰、そして遠く後には雪を戴く甲斐駒の姿に、首すじ
 の痛むのも忘れて仰望をほしいままにする」

 ところで僕の旅では季節もすでに十月で、落葉松の枝には漸く秋のシトロン黄が流れ、山躑躅・蓮華躑躅の一属は革細工のような蒴果の口をあけ、藤は蔓ばかり、棠梨ずみは黄熟した小球果をつけ、時鳥・郭公らの夏鳥は梢に来鳴かず、ただおりおり耳底に沁み入るような菊戴きくいただきの細い囀りと、人間を警戒する四十雀の鋭い声とを聴くばかりなのも是非が無い。あまつさえ空は刻々雲量を増して、金峰・甲斐駒・鳳凰なんどは無論のこと、今ではその裾野を僕の行く肝心の八ガ岳さえ頭を見せぬ始末である。
 撮影にも眺望にも望みを失った僕は、今度は山鉈をふるって真直ぐな枝を切り、捕蟲網の柄を作って、寂寞たる落葉松林の切開の道を蜆蝶しじみちょうや山黄蝶を追いながら進んだ。家に待っている子供が喜ぶだろう。その秘蔵の貯蔵箱の中には、まだ八ガ岳の蝶は無いのだ。
  「心、万境に随って転ず。
  転ずる処実に能く幽なり」
 僕は一羽の赤蜆を三角紙へ包みながら、不図、昔読んだこんな句を思い出した。 

        *

 道が八ガ岳山麓高原のそれも徐々に開析の進んだ大小の幅射谷の下流近くを行くのだから、小さな橋の架っている処では何時でも同じような地形、同じような場所に出逢う。
 あたりが少し明るくなり、頭上の空間が大きくなる。右手の樹々が低くなり、厚い樹叢が疎らになる。蜜のような薄日が射して静寂の極の賑やかさと云ったような、しんとして、しかも絢爛寂びた空開地タレリエエル。やがて何処からともなく聴こえる水の囁き、幻聴かと疑われる微かな小鳥の声。たちまち橋。多くは木材を渡して、枝を積んで、土を盛った、道そのもののような橋。右へ直角に架ったその土橋を渡れば、また戻り加減の登りになって、再び左折して北へ北へ。おおむねは此のたぐいである。
 念場ガ原の寂寞の秋を、行く先急ぐ人々にとって、これは余りに堪え難い単調さであろう。しかし空間と大地との囁きに耳をすまし、地の大いなる傾斜を喜び、瞥見の一様の中に千百の細部を認めて其処にひろがる火山高原独特の詩趣を味やいママ得るような、心にも時間にも余裕のある人人にとっては、これは最早単調の道ではなく、無限のハアモニーを展開する一つの音楽的自然ともなるであろう。僕として云えば、これらの小さい輻射谷に緯絲よこいとを渡す幾つかの土橋を、そのあたりの静穏な明るさを、忘られた幸福の巣とも云うべき水と日光との片隅を、あたかも音楽におけるリフレインのように楽しみ愛したのである。
 佐久往還の本道と合して、こういう橋の幾つかを渡って、やがて国界こっかいもほど近い地点で僕は辨当を開いた。其処は珍らしく道路の西側が開けて、高原の緩かな傾斜を黄に赤に又紫に彩る低い雑木の原の向うに、赤岳・権現岳の伸し掛るような巉巖さんがんたる峯頭と、その間の深い凄じい切れ込みとを最も効果的にやや斜め横から見上げる場所だった。広い念場ガ原から八ガ岳を眺める好箇の地点は他にも沢山あるだろう。しかし僕は自分の腰を下した場所を此の往還上での尤なる物の一つとして推称したい。大門川を間にして長野県平沢部落の西方約一キロ、「八ガ岳」図幅で一二四〇メートルの等高線をもって横断されている附近、道路の西側に小さい湿地を持つあたりである。
 撮影も済み、ゆっくりした中食も終り、さてルックサックを背負って巻煙草に火をつけて、三歩、四歩。いきなり何か小さな赤い物が眼の前をひらめいて過ぎた。僕は眼で追った。その物は往手数間の石の上へ落ちた。すばらしく立派な一羽のアカタテハである。僕は胸を躍らせながら手速く捕蟲網の支度をして、そのあたり石の凹凸がはげしいので、真向から網を振りかぶって押っ伏せた。翅開張六五ミリに余る雄大なアカタテハの雌であった。
 それを圧殺して三角紙へ包んでいると、またもや一層ぴかぴかした蝶が火花のように飛び過ぎた。彼は岩角へとまって翅を開いた。光り輝く橙赤色の地に黒褐の斑紋をならべて、外縁に深い切れ込みを持つシータテハである。抜足差足、息を凝らして近附くと鋲靴ネイルドブーツの悲しさには、一足毎にカチリカチリと音がする。炎の蝶は飛び立つ。飛び立ってはまた程近い岩へとまる。しかしとうとう追撃の最後に、狂うがように飛ぶ奴を擦れ違いざまに掬い取った。
 するとまた飛び出した。今度は何か。ああ、今年念願のクジャクチョウ! チョコレイト色の天鴛絨の地に、二対の孔雀紋を整然と置きならべた蝶界の女王ヴァネッサ・イオが、その眼紋の銀藍色も誇らかに、これ見よとばかり、薄日さす念場ガ原の岩角に翅を開く。
 僕は静かにルックサックを外した。僕はしっかり口を結んで、上下の頤を噛み合せた。
 僕は靴音を忍ばせ、瞼を熱くし、緊張の限りをつくして、汗に濡れる両手で捕蟲網を構えた。
 ああ、何と瓢然と、蝶なる物は立つことだろう! 彼女は、こっちが未だ襲撃の網を振り下しもしない内に、もうついと其処を去るのだ。
 僕は隠れ蓑でも欲しい心で後をつける。辛うじて近寄る。すると未だ身構えもしないのに、臆病な美女は忽ち立つ。
 蝶はあらゆる昆蟲の中でもっとも眼のいい蟲だと云う。そのいい眼をくらまさねばならぬ。
 僕が近づけば蝶は立ち、蝶が立てば僕が追う。しかもその方向たるや、佐久往還を南へ南へ、元来た道へ戻るのである。
 僕は次第に、こんな際にもっとも必要な心の落着きを失って来る。僕は焦躁する。時は経つ。蝶は僕を弄ぶのだ。
 とうとう堪忍袋の緒が切れて、体勢もととのわないのに網を振った。蝶は勢に呑まれたか空気の真空中に巻込まれたか、僕の眼前でくるくる廻った。僕はすかさず強く掬った。その余勢に網が柄から抜け飛んで、南無三、蝶は竜巻のように旋転しながら舞上がると見る間に、ああ、高く高く流れるように、曇り日の天涯遥か、大門川の空に消え去った。
 時に正午。僕は悄然また憤然、遠く戻ってルックサックを背負い上げ、急ぎ足に歩き出したが、其の日一日ついにクジャクチョウの姿を見ず、越えて十月十七日、実にそれから九日の後に、武州河原沢川の水源志賀坂峠でとうとう一羽を捕獲して欝憤を晴らすまで、あの艶麗な姿が眼の前にちらついて離れなかった。 

        *

 「国界」とは何時の頃から誰によって呼ばれた名だろうか。しかしその起源は古いにせよ、新らしいにせよ、人の心に広々とした人間的ユメーンな感情を起させる此の名は僕に好ましい。
 国界。それは高原の落葉松からまつや白樺に属する。それは颯々とゆく風に属し、地平線に牧まきする朝夕の雲に属し、蒼空をながれる鷹に属し、其処を領する大いなる真昼と荘厳な夜天に属する。それは薄青い遠方に消える一筋の街道に、夕日に染まる孤独の旅籠屋オーベルジユに、其処を過ぎる時折の里人や行商人に属する。
 そしてそれは解放された一箇の自由な精神に、悲哀にも歓喜にも最早や晴朗になった一人の漂泊者の心に属する。
 道の左側に落葉松林を背にした一軒の家がある。武田博士の写真で見覚えのある家だ。道をへだてて一本の白塗の角柱が立つ。その一方の面には「甲信国境」の文字が読まれ、他の面には「農林省推賞模範放牧地」と墨書してある。
 だが、高原の秋を悠々たらしめる牧畜の姿は何処にも見えない。明け放した家の中では年とった女が二人、座敷の真中にひろびろと陣取って、閑散に仕事の針を運んでいる。女の子が三人は居たろうか。正午を過ぎた柱時計の単調なカチカチ。生真面目に小首を傾けて何を見るのか、白色レグホンが五六羽。上框あがりがまちへ腰かけて一杯の茶を求める僕には、東京に近い何処かの村はずれにいるような錯覚さえ起こる。
 すこしばかり大人や子供と話をしてから、前の草地へ行って足を投げ出す。折り敷くのも気の毒なようなアキノキリンソウの明るい黄と、紅葉したコフウロの葉の茜いろ。正面は此処からは見えぬ大門川の谷をへだてて、ゆったりとふところ深い飯盛山の茅戸である。その西方へ突き出た山脚の一端を、よく見ると、平沢から三軒家へ越す路がほそぼそと糸のようにからんでいる。
 万一誰か通らないかと、有り得ぬことの空頼みに目を凝らしていると、急に心が何かを思い出す。そうだ。あの路を、かつて行った僕の友も幾人かあるはずだ。そのとき彼らは、幾らか下に見える対岸のこの国界を、そもそもどんな心で、どんな眼をして眺めたか。その心、その眼を、僕は知り、僕は見たい。君たちはそんな僕を笑うだろうか。しかし僕はこの世で知ったすべての人を、その心のもっとも捉え難い微妙な動きの瞬間において抱き、その魂の仄暗い片隅にまで参透して理解したいと願うのだ。死ぬべき人間が無限の時空の一点で奇しくも相識って、もしも其処にいくばくかの友情が生まれたとしたならば、ああ親しい面影よ、「知遇」とは正におんみを我が衷に生かし、我をおんみの中にさまよわすことではなかろうか。
 風景が次第にうすら寒く悲しげになる。真珠色に瀰漫した高層雲の下を、ところどころ暗い乱雲が飛ぶ。晴れていれば此処から右手に見えるはずの白峯三山や甲斐駒はもとより、さっきまで茅ガ岳と重なって聳えていた富士も全く消えて、自然は失明した美女のようになる。その中でただ白樺の幹だけが黄昏のように光る。
 僕は急いで小さい盞を革袋へおさめ、ブウルゴーニュの一壜をルックサックヘ押し込んだ。そしてこの牧場の女たちに挨拶をして、忘れて仕舞わないようにもう一度あたりの様子を心に留めて、さて杖を小脇にとぼとぼと歩き出した。 

        *

 四五町行くともう一軒、家があった。これも明け放した座敷の中に若い女が三四人いて、此方を見ている。裁縫の稽古所かとも思ったが、こんな場所にそんなものの有ろうはずはなく、疑問のままで通り過ぎた。道が下りになっていよいよ大門川を渡る。その手前左手の小高いところに地図にも有るとおり、本当の国境の界標が立っていた。それは風雨に曝された古い柱で、文字の形さえ見えなかった。大門橋も朽ちかけた橋板がしらじらと反って、踏んで渡れば鈍い荒涼の響きを立てた。
 地籍はすでに長野県へ入って、寂しい坦道は谷の左岸の崖ぶちを、爪先上りに袖崎へ達する。袖崎山は岬端の海蝕崖のように往手の空をかぎっている。今にも泣き出しそうな空の下を、秋も深く一人行く心は寂しいが、郭公の鳴く五月六月、遠からず来る夏の希望を胸に満たして、あらゆる新緑のそよぎ立つこの広大な風景の中をさまようことは抑もどんなに楽しいだろう。
 しかし欝々と深く食い込んだ大門の谷の両岸から、雄大な山容の半ば以下を見せる八ガ岳にいたるまで、その光景は永く僕の脳裡を去らないものの一つである。家に事無く、病皆癒え、武蔵野の地平の果てに白い夏雲の湧き立つ頃、再び此処を訪れようとは僕の切なる望みである。
 その再遊を期して今日は袖崎山へは登るまい。山の裾を迂回して、目も及ばぬ野辺山ノ原を真直ぐに横切ろう。むかし人から聴いた話では、野辺山とは白樺の密林帯であった。その中に小学校があり、親切な校長がいて、道に行き暮れた友を歓待し、ほとんど一夜を楽しく炉辺で語り明かした。それは聴くからに物語のような絵であり、絵のような物語であった。またかつて八ガ岳登山の時、僕は小手をかざして真夏真昼の野辺山を見た。それは雷雨の前の金剛石いろの霞を纒った広がりで、その奥深く千曲川上流が山々の間を縦に切れ込み、哀れな村々が暗澹たる雷雲の下で紫の雷光に引き裂かれていた。そして今、現実に僕の行く野辺山ノ原は、寂寞と荒寥との限りをつくして、ただ深い轍わだちが幾里の彼方に続くばかりである。
 僕はひたすら足に任せて歩くだろう。道の往手半町ばかりの先を、鶏ぐらいの鳥が五六羽、列を作って小走りに横切る。僕はそれを鶉か或いは山鳥かと、しばらくは思いまどうだろう。道の両側に電柱が立つ。そばを通る時ごうごうという音がきこえる。するとホイットマンの伝記作者、今は亡い懐かしいレオン・バザルジェットのことを僕は思い出すだろう。彼は死後に発表されたその手記の中で、田舎の街道に立つ電柱に耳を押し当てて、人間世界の潮騒しおざいの音を聴くことを書いている。僕もまた顔を柱に近寄せて、漠々たる空間に充満する人間の訴えや悲喜の声々を聴くだろう。
 時々立ちどまって、後を振返り、往手を凝視しても、道の上に突出する人影一つ無い。女山・横尾山はうしろに去って、漸く男山・天狗山の魁偉な姿が現れて来ても、この道を行く者はやっぱり僕一人である。それでも何一つ無駄にはしまい。僕は野辺山ノ原をただ歩いただけでは済ますまい。僕は其処へ坐るだろう。そして秘蔵の一壜を取り出して、ほのぐらい八方の景色に目をくばりながら、切子の盞で二杯を喉へ流し込むだろう。そして仰向けに身を倒して、白樺の梢を見上げながら、興に乗じて口ずさむのはゲーテの「漂泊者の夜の歌」である。 

  Über allen Gipfeln
  Ist Ruh’
  In allen Wipfeln
  Spürest Du
  Kaum einen Hauch……

  思い出を残して歩け。すべての場所について一つびとつの回想を持つがいい。それは他人から奪い取ること無しにお前が富む唯一の方法なのだ。冬の都会の意地悪い夜々に、それは忽ち至福の光をまとってお前に現れ、悲しい落魄の時に、優しかった母や姉らのように、お前の傍らへ来て、過ぎ去った日の数々の幸福でお前の心を暖めるだろう。

        *

 道が登りになって落葉松の植林の中へ入る。子供が多勢二頭の山羊を相手に遊んでいる。里に近いことが知られる。やがて右手に白樺の林が現れ、下り坂になり、道路の修繕をしている村人たちに挨拶をしながら通りすぎると、部落、橋。板橋である。
 板橋はいかにも寒村らしい。橋を渡って坂を登ると、其処が部落の中心らしく、見すぼらしい旅龍屋が見え、ペンキの剥げた小学校の分教場があり、馬が嘶き、酸いような飼糧の香いがし、夕暮近い青い煙が漂い、樋沢ひさわへの路が寂しく東へ切れている。しかしこんな寒村でも、めぐって来た春に雪が消えて、すべての梢にみずみずしい光の流れる頃になれば、子供らは長い百日咳から救われ、小烏の歌は村を賑わし、貧しい人々の心も浮き立って、故郷ふるさとの美しさは、遠く国を離れて生きる人々を、望郷の思いに泣かしめるに十分であろう。
 もう海ノロも近い。野辺山ノ原は刻々にたそがれる。それは刻々に終りに近づく。しかし硫黄岳の向うには不思議に優しい天の明るみがあって、その黄ばんだ穏やかな光が高原をすれすれに流れ、東の方秩父の暗さと劇的な対照をなしている。
 道の片側で水の響きがきこえはじめる。地図にもあるように堀を流れる水である。フランス語にクラポティという言葉がある。汀や船ばたでピチャピチッいう水音の謂である。僕は黄昏の光の消えんとして消えがての高原で、この可愛いクラポティの音を聴くことをよろこんだ。
 自転車に乗った商人らしい男が二人後から走って来た。僕は呼びとめて海ノ口ヘの近道の分岐点を訊いた。それはもう二三町先だった。彼らはまた走り去った。僕は今宵の泊りに近いことに安心し、西方の空の最後の光を楽しんで、草の上へ腰をおろした。そしてゆっくり一本の煙草を吸った。
 ところで驚いたことには、海ノロヘの分岐点の処で、さっきの自転車の商人が二人とも、僕が道を間違えないように待っていて呉れた。無論その人たちは待つ序でに一服吸いもすれば、車輪をつらねて走っている時よりももっと楽に休みながら話もしていたであろう。しかし少しでも早く宿を求める旅人の心を知っている彼らは、僕に損をさせまいとする気持から、こうして自転車をとめて待合せていて呉れたのである。僕は心から礼を述べた。すると彼らの一人が云った。
「いいえ、丁度いいから休んでいたんですよ」そして「海ノ口はもう直ぐです」と云いながらひらりひらりと自転車に跨ると、分岐路を右へ走り去った。僕は見も知らぬ人々の親切を深く心に感じながら、分岐路を左へ入った。
 やがて右手に広場が現れ、今までとは違って立派な農家が見える。これが馬市の立つところかも知れないと思う。海ノ口を下に見る坂道へ掛ると、横合から一頭ずつ野菜を積んだ馬を曳いて、その農家のお婆さんと嫁らしいのが出て来てぱったりと僕と出会う。僕は鹿ノ湯のことを訊く。鹿ノ湯は今は休んでいるから、やはり宿屋に泊ったほうがいいとお婆さんが云う。そして分りよく宿屋の在処を教えて呉れる。序でに、馬の歩く路はでこぼこだし遠くもあるから、少しは急だがこっちの路を行く方がいいと注意して呉れる。
 なんと人々が親切なのだろう。彼らは、そうしようと無理に努力もしないで、事も無げに楽々と親切をする。われわれは果たして常にそうだろうか。われわれ都会人は、その時々の気持によって、親切の出し惜みをしないだろうか。もう一言の注意を附け足すことによって他人を利益することのできる場合に、気持の不思議な陰影から、或いは僅かな自尊心や不精から、それをしないことが屢ゞ有りはしないだろうか。
 僕はそんなことを考えながら羊腸たる坂道を下った。頭へ冠った手拭をはずして着物をはたいたり、立ち話をしたりしている百姓の娘たち、鶏舎へ追いこまれる鶏どもの叫び、それぞれの家へ帰って行く子供の群、屋根、屋根、電燈、電燈、夕暮の靄、水の響き……
 海ノ口である。
 僕は坂の四ツ角にある一軒の旅籠屋の玄関へどさりと重いルックサックを下ろした。

                              (昭和七年作)

 

 

  

目次へ

 

 花崗岩の国のイマージュ

     1

 朝日を透いて緑も涼しい若葉のトンネル。路や丸木橋とすれすれに踊り、ざわめき、歌う水。光の縞。流れの紋様。小鳥のさえずり。金峯きんぷ山麓本谷川ほんたにがわの六月の朝である。
 私たちの前を長市が行く。きょう瑞牆山みずがきやまの案内にと雇入れた男である。彼はついこの頃できたばかりの増富山岳会に属する山案内人の一人だが、温泉宿の名を染めぬいた古絆纒に古股引、巻ゲイトルに地下足袋、手拭を繃帯のように頭へまいて、首に弁当の風呂敷包みをくくりつけた至極安直ないでたちは、中部山岳地方でガイドと云われるあの重武装の堂々たる連中とくらべれば、やはりただの牧夫か炭焼の一人である。
 登山家と案内人。一方に都会人の識見や直観や好趣味があれば、他方に山男の豊富な経験や体力や気質かたぎがある。しかもこのそれぞれの特徴が、山の本場では永年の間に少しずつ互いに影響し合って、今では彼らの外観はとにかく、その登山行為の内面的部分では相似形をとる所まで進んで来ている。そして花々しい山の史詩の幾つかが、登山家とガイドとのこういう関係のもとに書かれて来た。
 われわれの案内人白旗長市、彼はちっともそういう者ではなかった。彼はわれわれが期待するようにはほとんど山を知らなかった。不図したはずみで宿屋から口が掛って、案内することになった私たち客にさえ、東京で伜を人足に使ってくれる所は無いかと訊くほど、世に疎くもあれば粗野でもあった。土地の有力者の発案で山岳会が出来て、それに附属する案内人の一人にはなったものの、もっと若い、もっとしっかりした仲間に伍しては、或る種の気後れと片隅の孤独とを感じていたかも知れない。もう四十だった。炭焼でも百姓でも、食って行くことはむずかしかった。自力更生。そして案内人組合というものも、要するにこの新標語による運動の実践のひとつであった。しかも自力をもって更生するには、やはり多少なりとも資本が要った。適応の才が要った。案内人として彼は何を持って来た。杖代りの一本の生木の枝と、首に巻きつけた弁当箱だけ。あとは裸一貫。馬のような脚と、いくらか険相な顔。それだけだった。
「あれが針の山だ。左に見えるのが弥武岩やたけいわ、右へ出て来たのがニガワラビノ沢。そこの水のふちにいるはしっこい烏を、この辺ではミソッチョと云うね……」
 長市はそんなことを役目や愛想の見せどころと、この谷の比類すくない美しさを黙々と味わおうとする私たちが少し困惑するほどにも、哀れや新らしい仕事の開業日に調子づく。
 ハウチワカエデ、ミツデカエデ、ウリカエデ。十種をかぞえる本谷川の楓の新緑。増富から金山まで、右に左に渡り越す十三の橋。その橋とすれすれに初夏はつなつの琴をかなでる潺湲たる水の音よ!
 われわれの前を、立ちふるして心しんだけになった柱のような、みすぼらしい案内人長市が行く。

     2

 金山から見る金峯山と瑞牆山の大観、有井益次郎の家の小さい牧場の柵にもたれて、柔かな朝の眼がしみじみとそれを眺める。
 きのう八巻やまきから塩川・通仙峡と歩いて来て午後三時、あたりがややひらけた山間東小尾ひがしおびの部落へ出た刹那、いきなり突風のように私を襲ったのは、この金峯山だった。
 この山をこんな近くから見たのは生れて昨日が最初だった。新緑におおわれたV字の谷を重圧して、前景の単純さにいよいよ高く、比較高度一六〇〇メートルをそばだつ清浄明潔な花崗岩の金字塔。私はそれを息もとまる思いで凝視した。山はやがて増富の温泉部落へ入るともう見ることができなかった。それは一瞬の夢に似ていた。しかし夢にしては余りに鮮かな姿だった。
 今その金峯を、小径の上から飽かぬ心で眺めている。
 前景は二つ三つ家の点在する金山の小平地、大写しの簡素な牧柵が、生活への敬虔な帰依のすがたで、うねうねと路の奥までつづいている。路は人家の前を左へ切れているが、家のうしろはヴィリジァンの勝った新緑の落葉松林になっていて、その上に宝冠のような瑞牆山が、朝日をうけた薄い珊瑚いろの花崗岩の岩峯に、針葉樹の木賊とくさ色のかたまりをこまかくちりばめて青空を刻んでいる。
 正面は大日沢たいにちざわと金山沢とを左右に振りわける厖大な尾根で、頂上の高見岩から中腹あたりまで岩石の露頭が筍のように簇がっている。大日沢はこの尾根の根もとを右手からぐるりと巻いて、深く背後に食いこんでいるが、その源頭とおぼしいあたりには金峯の北西山稜が真白な斜面を立てかけて、大日岩の鶏冠とさかを先頭に、登竜門、砂払い、稚児ちごノ吹上ふきあげとぐんぐん高度を上げながら、ついに天に冲する五丈石をもつ頂上となっている。そのあたり、山体の金色がかった白と、空の藍碧とのめざましい対照である。
 この壮観を前にして動こうともしないでいると、近くで柵の修繕をしている有井の主人のところへ、長市を連れて今夜の泊りの交渉に行った河田君が戻って来て、
「どう?」と云いながら私の肩へ手を置いた。
「あんまりいいんでぼんやりしていた。二三日こんな処で暮したいよ」と思い込んで云えば、
「それもいいが今日は瑞牆だ。ルックサックを預けて身軽で行こうよ」と愚図つく私をうながした。

     3

 簡単な中食やら湯沸しやらを小さく一纒めにして長市に背負わせると、すっかり身軽になってステッキ一本、河田君は写真機を肩からぶらさげて、「ではまた晩に」と、午前九時、有井の家を出発する。朝日のあたった縁側で、誰かが山から折って来たのか、石南花の花が紅かった。
 庭をとおって、ほそぼそと野菜の作ってある開墾畑の間をすこしばかり行くと、家が一軒。これが金山二軒家のひとつである。新緑に埋まって音だけかすかに下の方できこえる渓谷は、深く高見岩のふところへ食いこんで、一筋の山道もそっちへ切れているが、私たちの路は北へ弧をえがいて、ショノドノ沢を右に、やがて日蔭の涼しい登りになる。
 荷物の無いのがつくづくありがたい。「ルックサック無しで山を歩くことができたらば」と、正直な嘆息を洩らしたのは確か荒井道太郎君だったが、「その苦しい思いもまた修養のひとつだ」と鯱張しゃちこばったのは誰であったか、名は忘れた。どうせ山が好きで山へ登るのだから、時の事情、本人の都合で、重い荷物に息を切らせるのも止むを得ないが、なるべくならば身軽で歩き廻りたいと云うのが私の本音だ。そう思って見ると、今日の長市の存在というものにも中々意義が生じて来る。もっとも今彼の肩を引いているルックサックの重味は、ふだんの私の半分も無いのだが。
 金山の部落から八九町ばかりで鞍部へ出た。地図に一五一八メートルと出ている場所で、東京からの登山者は松平峠と呼んでいるが、地元では何と云っているか、長市も知らなかった。広くはないが気持のいい草地で、牧場の柵があり、門を入ると坂道の下のほうに、公園のような美しい一角が木の間をすいてちらちら見えた。
 長市が「こっちの方が近道だ」と云うので、坂の下り口から直ぐ右斜めに、ほぼ等高につけられた細い路を行く。左右は若い白樺と草紙樺の混生した林である。この草紙樺を長市はブタカンバと呼んでいた。「なぜそう云うんだい」と訊いたら、「肌が豚色だからね」と至極妥当らしい返事をする。なるほどそれなら直ぐわかると、山の木に暗い私は行くゆく豚色のやつを物色する。
 もっとも、或る地方でブタカンバと云っているのが草紙樺であることは後になって友人武田博士から教えられたところである。
 路がいくらか降りになって、明るいのびのびした広っぱへ出ると、地図にある金峯山への登路が左から来て一緒になった。釜瀬川にむかって西へなだらかに傾いた牧場のなかを、あちこちに白樺の木立が美しく、放牧の馬が三々五々ちらばる平和な風景のかすむ果てには、草原におどり梢にからむ陽炎をすいて、淡いラヴェンダ・アイリスの八ガ岳連峯がふるえている。私が「若い白樺」の詩のイデーを拾った其処の草原には、ところどころ君影草が群落をなして、その強い芳香は、折柄の午前の太陽に揮発して、むしろ息苦しいくらい鼻を打った。
 此処から富士見平までは金峯の登山道を行くのである。大日岩から西へ伸びた太い尾根の横腹を、ほとんどその最大傾斜線について登る切開けのようなこの路は、初めは至ってのんびりしたものだったが次第に急を加えて来た。しかし真直ぐな登りが急になるにしたがって、地面の草は滑かな苔にかわり、見上げるばかりの水楢の大木が枝をまじえて立つようになるので、ちょうど海の底か本寺カテドラルの中にいるように、涼しくて頭上が高く、太陽や空の光もやわらかに遮られて、ほのぼのとひろがる緑のあかるみは、ステインド・グラスを洩れてとどく微光のように眼を休ませる。
 五六町登って行くと、左手へ路をすこし外れて大きな岩が現れた。いわゆる花崗岩の方状節理を模範的にあらわした巨大な岩だが、その蔭に一宇の木造の祠が鎮座していた。金峯山増富口の里宮である。坂の斜面に横むきに建っているので床が高い。上って見ると御神体の左右に二頭の犬がすわっている。むろん本物の犬ではない石の木偶でくだが、普通に見る狛犬こまいぬや招き猫のような装飾化がなく、へんに人間じみている。高さ八寸位だったろうか、首の附根からいきなり弓なりの前脚が飛び出して、後脚と胴とは区別を省略して共通になっている。まるで子供の椅子か蛸足の見台のような恰好である。ところでその顔というのが気味が悪い。それは俗に云う犬面いぬづらではなくて平たい丸顔、半眼にあけた切長の眼が吊り上り、人間のような眉があり、おまけにその眉と眼瞼との間は掘りくぼめて朱を差してある。二匹とも口は耳まで裂けて(と云っても、耳は頭のてっぺんに丸まって附いているのだから人間の口の比例で云うのだが)、一匹の方はその口が擦りへってマスクを掛けたように無くなっている。
「どうしたんだい、この犬の口は」と、からかうつもりで長市に訊くと、
「夜中になると這え廻るんで、こう擦り切れたんだって云うね」と真顔になって答えた。
「あんまり人を食った話……」と河田君が私の耳もとで際どくしゃれる。
「だからマスクを掛けられたんだろう」と早速こっちも応酬する。
 里宮の犬のこれ以上の詮議は「動物文学」とやらの研究家にまかせるとして、この祠の床下なるものは焚火に注意しさえすれば、水はすこし遠いが、何かの場合には立派に露営の役に立つと思われた。

     4

 里宮からは直ぐに尾根になって、ゆるい登りが四五町つづいた。濶葉樹の林がおわると富士見平の明るい草原の斜面である。北と東には直ちに黒木の密林がせまっているが、南から西へひらけた眺望は、さすが一八〇〇メートルの高みだけに、なかなか見事だ。富士見平の名の拠って起こった富士山は、厖大な高見岩の右手に漂渺と姿を現わしているが、逆光とヘイズとのためにただ夢のように淡く天に懸っている。富士から右へ甲府盆地、そのきらめく霞を背景に、土賊峠・黒富士・茅ガ岳なんどの強剛が肩をならべて屯たむろする。その右には、遥かにとおい大気の奥から生れたような南アルプスの連峯が、正しくパースペクティヴをなして蜿蜒と北に伸びている。中でも美しいのは連峯中もっとも近い甲斐駒で、爽かな新緑の枝をかざす二三本の草紙樺を前景にして、その悲劇的な雄渾な山容は、私をして率然「ワルドシュタイン」のソナタを思い出させた。それから右には八ガ岳。つづいて直ぐ眼の前にこれから登るべき瑞牆山の岩峯群。しかし視野をずっと小さくすると、眼下ショノドノ沢のくぼみを縦に見て、そのはずれに金山部落の開墾地が山を背負ってぽつんと一つ、このあたりに唯一の生活風景を点じているのが可憐であった。
 十時半、東へむかう金峯登山道とわかれて私たちは左へ入った。いま登って来た尾根を北東へからむようにしてアマドリ沢へ出るのである。コメツガを主にしてシラベらしい樹をまじえた密林の、磊々と重なった岩の隙間を針葉樹の細かい枯葉がやわらかに埋め、水気にみちて積み腐り、たそがれに似た弱い光、ひやひやと肌はだえにしみる冷涼の底を、わずかにそれと知られる踏跡にしたがってたどる境地は、これぞまさしく奥秩父の面目と思われた。
 二十分ばかりして日光の反射の強いアマドリ沢。少し早いが中食にする。沢の奥には金峯と瑞牆とをつなぐ鞍部の尾根が立ちはだかって、その上の真青な空へ入道雲の頭がきらきら出ている。頂上への登りは眼の前の小径からはじまるのだと聴いて、それではと、ゆっくり弁当を食ったり、珈琲を飲んだり、煙草をふかしたり、記念撮影をしたりしながら、たっぷり一時間英気を養った。
 十一時五十分、結束して出発。直ぐに右岸の小径へ取りついた。いよいよあこがれの瑞牆山頂をきわめるのかと思えば多少の感慨なきを得ない。霧ノ旅会での友人吹原不二雄君の文章で初めて知ったとき以来、何時かはと思っていた山である。それを河田君に誘われて案外速かに来ることになった。機会とは大空をよぎる雲のようなものだ。どれが自分の上を通るかは時が来てみなければ分らない。しかし通ったならばその影を涼しいと感じ、雨を落としたならばその雨に濡れるのだ。
 私たちは一歩一歩、足の裏をして木の根・岩角の感触を味わいつくさせずには止まないように、じっくりと登って行った。歩き出しには多少息もきれたが、それも馴れるにつれてほとんどこたえなくなり、この巨岩と大木とのほのぐらい伽籃の中の登りが、尽きせぬ滋味をしんしんと湧かす楽しいものに思われて来た。

 瑞牆山南面のこの登路は、一種のクウロワールを攀じるものだと云えば云えるだろう。頂上まで九分どおりは、密生する針葉樹と岩石とに遮られて左右の模様がほとんど分らないが、やがて頂上近く子負岩おおぶいわ・大鑢おおやすりというような岩塔が現れる頃からは、ときどき眼界も開けて来、そのあたりから見下ろすと、いま登って来た路は二つの岩稜の間へ深くまっすぐに食い込んでいて、おまけにその部分だけ特に黒々と樹木を塡物つめものにしている有様は、水の侵蝕と岩石片の削磨との特別に強く働いた岩溝の地形をあらわしている。私は春の瑞牆を知らないが、雪はかなりおそくまで其処に残っているのではないかと思われる。
 大いに予期していたほどの苦闘はまったく無く、私たちはアマドリ沢からきっちり一時間でクウロワールの終点へ出た。其処は瑞牆山の三角点のある岩塊と最高点をなす岩塊との接合部で、南の山麓から眺めると頂きを二分しているあの切れこみである。先ず三等三角点のある東のブロックヘ。これは四分で達することができた。
 私たちは握手した。六月のまっぴるまの日光の中、大気の波をぬきんでた皓々たる白石の盤上で。未知の山頂は斯くして踏まれ、思い出の宝はまたもやひとつ数を増したのだ。
 頂上は畳数ならば二十畳は敷けたろうか。南側はほとんど垂直に削られて、覗けば右手すぐ下に大鑢岩が巨大な打製石斧のように立っている。そのあたり一帯に大小無数の岩石が乱立しているので下方の消息は分らないが、北東から悠々と下ろして来て再び大日岩へ浮かび上る小川山こがわやまの厖大な主稜のむこうには、云わずと知れた金峯山が堂々とよこたわって呼べば答えるかとばかり。びっしり黒木をよろった北面の尾根尾根を、ところどころに白崩れの絲さえ懸けて、川端下川かわはけがわの上流西股沢へむかって真黒々と葺き下ろしている。その左手奥にもう一枚霞をへだてて淡いのは、朝日岳とその兜岩とをつなぐ嶺線である。
 三角点の標石は頂上東寄りの一隅にあった。東へむかう山稜は其処で一度切れて、さらに一段低くなって、小川山の南の尾根と直角に結びついている。金山或いは富士見平の方角から瑞牆山を写した写真で、二つの耳の形をした山頂の右手に、ずっと低く、銃眼をあけた城壁のような相当長い突き出た岩尾根を見るが、これが今云った小川山へ続く尾根の一部を成しているのである。陸地測量部の地図ではこの辺が少し曖昧とは云わないまでも、幾らか余計に省略されているので、三角点のしるしのある、あの毛虫のような露岩記号で表された部分を、私たちは最初今の岩尾根に当てはめて考えていた。しかしその思い違いも現地に立てば直ちに是正された。
 私たちは三人揃って記念撮影をした。何しろ白歯のような岩峯の頭が極度に風化して、細かい白砂がその凹みを堅く平らに埋めているので、頂上はコンクリートで舗装したように滑沢、おまけに北へ二十度ぐらい傾いているものだから、写真機の三脚もその足掛りが甚だ心もとない。印画の中でカメラの持主河田君の表情が、ちょうど幼い子供の軽業を見守っている見物のように不安らしく硬化しているのは、思うにこの傾斜とすべすべとのせいであったろう。
 一時間ばかり遊んで、いよいよ下山することになった。しかし折角来たものだから西のブロックヘも登ってみることにした。それで一度ギャップヘ降って、さらに目ざす岩峯を北側から廻って登って行った。この西の岩峯こそ真の瑞牆山頂で、高さも三角点のある方よりは高いのである。どうかしてこの絶頂へ立ちたいと思ったが、岩が大きくて高いのと、すべすべして手掛りが無いのとで、もう後自分の背丈だけと云うところで駄目だった。長市に「お前どうだ。上って行って手を引張ってくれないか」と訊いたら、
「四十を越したで、おらも止めだ」と云った。実は風も相当に強くなっていたのである。
 天気は格別悪いというのではないが、空気は空釜からかまの中のように熱して、ぽうっと霞んだ空間の四方八方どことなくびりびりするような雷気がきざしていた。
 いよいよ山頂を辞そうとする時、今日の見納めに八ガ岳をながめると、眼下に低くたたなわった女山・横尾山・飯盛山などを包んで漠々とけむるヘイズの奥に、なぜか八ガ岳は煙硝臭いものに感じられた。

     5

 山頂を二分するギャップから、私たちの降路は北へむかった。アマドリ沢から釜瀬谷へ、山体を南北に乗越したのである。
 降りは登りに劣らず急だった。密林は一層深く暗かった。林相はコメツガが主で、それにトウヒ、シラベ、トドマツなどが混生していると聴かされはしたが、もうすっかり「降りの霊」に乗り移られてしまって、追い落とすような傾斜のままにどしどし下りて行くのだから、途々樹種の鑑別法を教わる余裕などは更に無い。たとえ聴いても、絶えず下から突上げる腫の衝撃をくらって引っくりかえるような頭の中に、むずかしい暗記などの納まる席は無かった筈である。ただ足もとの湿った岩の間に点々と白かったもの、しかし手を出す暇も気持も無かったもの、それが可憐な梅花黄蓮であったことを覚えている。
 急は急でもこの瑞牆山の北面は、南面にくらべると岩屑・土砂・腐蝕した植物などの山体被覆物がはるかに豊富なので、手を使ったり足掛りを選んだりして降るような場所はほとんど無かった。元来この山は、小川山の一支脈のもっとも侵蝕の進んだ突端に過ぎないのだが、松平牧場に面した部分と、釜瀬川の源流を擁している部分とは、そこから受ける感じが全く違う。前者が陽快豪放の力を丸出しにしているとすれば、後者は陰暗幽邃の潜力を深く蔵している。そして私たちはこの陰暗オプスキユリテの底を急降すること四十分ばかりで、釜瀬川の一支流が高い岩壁に懸かっている不動ノ滝の前へ出た。
 私たちは崩れるように腰をおろすと、額に頸に気持わるくべとつく汗をまず拭った。
 花崗岩の一枚岩は高さ二〇メートルもあったろうか。ところどころ罅ひびわれた痕をのこして釜瀬本谷右岸の壁をなしている。滝はその壁をなめらかに流下しながら途中二つの釜に溢れて落ちて、そして本谷の水と一緒になる。要するにこれは小規模なりとも立派な懸谷ヘンゲタールで、この釜あるがために川の名が与えられたことはとにかく、本流は小川山山頂の南西から生れて此の岩壁の下を流れている水であること、いかに長市が頑張ろうと、先ず真理はこっちのものと思われた。
 嵐に倒されたのか雪に折れたのか、皮がむけて白骨のようになった長い流木が一本、水の中によこたわっていた。私たちはそれを立てかけて岩壁のいちばん下の棚へとりついた。そこに第二の釜があるのである。
 磨いたように滑らかで、水垢のためにぬるぬるした岩の面を這上って行くと、直径四尺ほどの釜は理想的に彫りくぼめられて、エメラルド・グリーンの水を油のようにたたえている。中へすべりこんで一風呂浴びたらさぞ気持がよかろうと思ったが、上から覗けば浅そうに見える此の石の長州風呂の釜底も、実際ではどのくらい深いのか見当がつかないので止めにした。見上げれば第一の釜を溢れて落ちる水の練糸は、もっとも柔かにえぐられた岩の面を、あらんかぎりの嬌態をつくって流れて来る。山頂では余り勇気を示さなかった長市も、此処まで下りて来ればもう俺の繩張りだとばかり、盛んにこの滝を自慢して、私たちが上の釜や不動様への熱情を起こさないことをひどく残念がっていた。Sancta Simplicitas !
 一緒に歩くこと八時間、われわれはすでは此の男を愛していた。

     6

 不動ノ滝からは降りもずっと緩やかになって、ほとんど平地を行くのと変りがなかった。路は釜瀬川に沿ってその左岸についていた。左手に空を抜いて立っている十一面石と云うお供餅のような岩峯を見上げると、やがて右岸に黒岩とかいう岩壁が現れ、いつか路が登りになって川を離れると、私たちはちょっとした尾根の上を歩いていることに気がついた。そして最後に富士石という尖峯をうしろにすると、初めてひろびろとした空の下へ出た。
 密林の暗い圧迫から放たれて大空の下へ出るには出たが、路は反対にひどくあがきの悪いものになって来た。私たちはびっしり密生した花盛りの石南花の藪を、泳ぐと云うよりはむしろ潜航するのだった。鞭のように強靭な枝を力まかせに押したわめ、千万の花の房々や葉の茂りをしゃにむに肩や帽子で押し分けながら、長市が先に立って案内する路とも見えぬ踏跡を、爪先だけで感じて行く。
 ルビーを散らす花の乱打、アマゾンの美女の勝ちほこった挑戦。嘆美と困惑との石南花の藪くぐりはしばらく続いたが、やがて今度こそ本当に解放されて、私たちは水々しく白樺のたちならぶ松平牧場へ、焔の中からのように飛び出した。
 考えてみれば、富士石の岩峯を見たあたりから何時の間にか黒森部落への本道とわかれて、左へ入る間道をとっていたのである。
 北から東から又南から、ハンカチの三つの隅をつまみ上げて、西の一方だけを開けたような地形、これが松平牧場の地形である。そして此の西の一方口を目がけて、釜瀬の谷も、北川も、アマドリ沢も、さては松平峠附近から出る沢も、みんな絞り込まれるように流れている。
 こういう風に一様に西にむかって靡いた此の牧場が、それを北から南へ横断してみると、単に前記の谷や沢だけでなく、なおいくつかの浅い地の皺によって縦断されているために、絶えず小さな起伏に出遭うということは、私にとって非常に興味のある現象だった。
 私は松平牧場というものを、大部分、瑞牆山西面の無数の崖堆から成り立ったものと考える。特に西にむかって山体の岩骨を稜々と露出した瑞牆山は、風化と削磨との営力がたえず供給するそのデブリを、彼の骨肉の破片を、まずその足もとに大小幾多の崖堆として積み上げたであろう。殊にカンマンボロン岩を中心として、現在北川とアマドリ沢とが流れている箇所には、南北に二つの最も大きな崖堆が形成されたことであろう。私はこれを前記二つの沢の下流域をなしている夥しい運搬物の量から、また牧場の主要部分となっている地帯の等高線の分布から推定するのである。とにかくこうして出来た大小の崖堆は互いに相接して、引続き行われる侵蝕と運搬とのために西に向って漸次に拡がって行ったであろう。しかもその岩屑や土砂のひろがりの上を、幾筋の流水は傾斜にしたがって流れたであろう。彼らは最小の弱点をも見のがさず攻撃したであろう。こうして現在見るような地形が完成され、其処に牧場が営まれ、そしてその地形のために、すでに相当疲労している私たちが、なおいくらか余計にくたびれなければならないのだろうと、無学な私は考えたのである。
 それはともかく、私たちは此の広々とした美しい牧場の中を、或る時は一面の鈴蘭の床に寝ころんだり、或る時は南画の山のような瑞牆を撮影したりしながら、白樺の林から草原へ、草原から水湿の凹地へと、幾度も同じことを繰返しながら、松平峠をめざして一里近くも歩いた。
 長市は今日の案内の有終の美をなそうとするかのように、親子連れの馬の臀をいきなり引ぱたいて躍り上らせたり、山蟻の巨大な塚を引くり返して何万という蟻群を湧き立たせたりした。馬の狼狽、蟻の憤怒もおかしかったが、四十という年齢を考えると、こんな悪戯をして面白がる此の山男も滑稽だった。
 もう午後六時に近かった。朝から十一時間経っていた。私たちの肉体は疲労し、神経は弛緩していた。その疲労と弛緩とは三人が共にした今日一日の山歩きの結果だった。私たちはそうした共同の結果を持っていることで互いに親愛を感じていた。
 牧場へ入った頃から次第に曇り出して来た空は、とうとう大粒の雨を落としはじめた。私たちは重い足を引擦るようにして松平峠へ登りつめると、今度は金山さして一散に駈け下りた。金峯のうしろでは頻りに雷が鳴り、本谷川の両岸では慈悲心鳥が、絶え入るような声で鳴きつれていた。
 一雨濡れて、汗みずくになって飛び込んだ有井の家。私たちのためには二間ふたまの座敷が用意されていた。縁に腰をかけて煙草を吸っていると、まだ暮れきらぬ空ながら、夕立がたたえた行潦にわたずみに、金峯の空に燃え上る電光がパアッと映った。
 愛すべき案内人白旗長市は、日当のほかに祝儀をもらうと、提灯を借りていそいそと帰って行った。その後姿を見送って、友と私とは期せずして視線を合せた。
 慈悲心鳥の囀りがいよいよ烈しい。
 長市の帰って行く本谷川はもう暮れて、親子の馬の雨宿りしている松平牧場ももう暮れて、ただ私たちの今宵の泊りに何となく賑わっている此の山奥の一軒家だけに、黄いろいランプがちらちら点いた。

     7

 朝五時に目がさめた。寝ぼけ眼をこすりながら外へ出る。
 いい天気だ。山も谷も、草木も土も、昨夜の雨にしっとり濡れて、ここ甲斐の国の山奥の黎明は太古のような静けさだ。
 庭では河田君がもう洗面をすませて、頭へ櫛をあてている。きれいに分けた濡羽色の髪の毛の下の、彼の白皙の額が都会のことを思い出させる。その額に冷やひやする朝風が涼しそうだ。
「お早う」と友が云う。
「やあ、お早う」
「よく眠られた? 大分おそくまでランターンが点いていたようだったが」
「ああ、あの慈悲心鳥のやつが夜通し鳴いててね、それが耳について中々寝つかれなかった」
「ほんとによく鳴いてたね」
「しまいには一羽屋根の上で鳴き出してね。おかげで死んだ子供のことなんか思い出してしまって、へんに寂しくなっちゃった。あの鳥、いやに人間じみて気味が悪いよ」
「パセティックな鳴き方をする鳥だね」
 私たちはこんなことを云いながら、今日登るべき金峯きんぷを見上げた。もう日の出に間が無いらしく、山のうしろの空は美しい水仙色に染まっている。空気は極度に澄んで、あらゆる細部がはっきり見える。何だか昨日よりも山が大きく、高くなったようだ。
 大日岩からはじまって、登竜門、稚児ノ吹上、五丈石と、歯形をつけて急角度に高まる真白な稜線が、触れれば切れるかとばかりに薄く、するどい。その五丈石の下に塗りこめられた残雪が、空の反射で青く見える。
 私は顔を洗いに行く。
 母家のはずれ、路に沿って石垣を積んだところに、山から引いた水が音を立てて落ちている。清洌な、手も切れるように冷めたい水だ。その水をうける古い樽の中には、今朝私たちの膳に供えるつもりだろうか、一束の蕨が漬けてある。澄みきった水の底で、その色が美しかった。
 顔を洗っていると此の家の娘が水を汲みに来た。私を見て丁寧に挨拶する。客に対する女らしいたしなみか、汚点も皺もない白い割烹着を着ている。目鼻だちのすぐれて整った、凛とした十六七の娘である。話しかけられて笑うと、きれいに並んだ歯並が率直に光る。都をとおい山育ちの処女の純潔と、妙齢の特権である健やかな美とが、六月の朝を淙々と落ちる山清水のかたはら、聳え立つ高峻金峯の下で、一篇の詩、一幅の絵の好箇の主題となっている。
「お昼頃にはあすこへ立って手を振りますよ」と私が云えば、娘はちょっと山頂を見てほほえんだ。

  人は美なりとはやせども、
  わが美わしきを我は知らず、
  自然のごとく我はただ在り。

 幼い、犯しがたい貞潔が、そう答えているように私には思われた。
 庭へ帰ると牧場のそばで、河田君が主人の有井益次郎さんと立話をしながら、その愛馬の益金号を見ている。幾通かの賞状の持主だけあって、さすがに立派な栗毛の牝馬だ。
「これがどういう気か、さっき便所をのぞきに来てね、弱ったよ」と苦笑しながら友が云う。私はその時の彼の狼狽と恐縮とを想像して噴き出した。
 二人は肩をならべて家の方へ引返して行った。と、突然、朝日がサアッと流れて来た。大日岩の右手から差しのぼった太陽が堤を決するように押し流した光の洪水である。
 午前五時五十分、金峯はまるで大伽藍の炎上。本谷川をうずめた朝霧は光を吸って、金粉をまぶした綿のようだ。
「今日も上々のお天気で」
 朝の膳部をはこんで来た有井のおかみさんが、まんざら御愛想ばかりでも無くそう云って、私たちの希望に裏書をしてくれた。

     8

 家族の人たちに庭先まで見送られて、午前六時半、われわれは金山を後にした。
 太陽もまだ暑くはなく、爽やかに湿った路も気持がいい。草に木に、露はしとどだ。むかう山路は未だ日もささぬ寒い緑だが、ふりかえる本谷川右岸の斜面に、峯々に、日はすでに燦々と躍って盛んな蒸発がはじまっている。
 松平峠への登りにかかる。
 空身からみの昨日にひきかえて、今日はずっしりと肩にこたえる重荷である。これで金峯が登れるかな、と、いつもの取越苦労が頭をもたげる。なに、少し馴れればじきに平気になる。そう経験が勇気をつける。
 右に左に体を揺り上げるようにして先へ登って行く友が、
「楽あれば苦ありか」と、一人言を云った。彼もまた同じことを考えていたらしい。そこで早速渡りに船、
「ゆっくり行こうぜ」と際どいところでアンタント・コルディアールを持ち出して置く。
 昨日の朝は三人づれの多少浮々した心持で、また夕方は驟雨に追われて夢中で通った松平峠を、今朝は老成した心境もしっとりと、例の豚樺の中の小径を、葉末の露に濡れながら下りて行く。これが当分の見納めだという気持も手伝っていたに違いない。
 金峯登山道との出合いへ来た。昨夜の雷雨のせいか今朝は空気が澄んでいて、牧場の風景は昨日にも増して美しい。前景に朝日を浴びて立っている一むらのみずみずしい白樺林、その奥に信州峠から西へ高まる横尾山。その山の尾根が左へゆるくなびくところ、残雪をいただいた八ガ岳の連峯が、威厳と優美とに満ちて空のなかほどまで聳えている。
 友は三脚を引きぬいてカメラを向ける。私は芝地の岩へ腰をかけて煙草を吸う。
 高原をわたる涼しい朝風、だんだん賑やかになって来る小鳥の歌。水楢の梢の上に、瑞牆山は巨大な紫水晶を積み上げたようだ。
 友もどうやら八ガ岳を物にしたらしい。私の詩もいつの間にか形を成した。又ルックサックを背負い上げてうんうん云いながら里宮の坂を登る。今朝は「人を喰った犬」のところへなど立寄って道草は食わない。金峯をこえて上黒平かみくろべら。今日の前途は長いのだ。
 坂を登りつめると、昨日のとおり尾根を行って、七時五十分、富士見平の平地へ着いた。
 二三本、太い草紙樺が群立っている処に、竹の樋で引いた冷めたい水がちょろちょろ落ちていた。二人とも酔覚めの水でも飲むようにがぶがぶ飲んだ。酔覚めと云えば、昨夜の金山にも、その前の晩の金泉湯にも酒が無かった。金山では余りこっちが失望したので、見るに見兼ねたかおかみさんが、
「あっちの家にお日待ひまちの時に買ったのが残っているかも知れないから」と云って取りに行こうとした。いつのお日待か知らないが、去年の陰暦十月五日のやつででもあっては事だから願下げにした。旅は晴天、酒はひでり、
「こんなドライ続きも珍らしい」と、友は上品にしゃれていたが……
 その晴天と昨日にも上越す遠望とに、撮影だとか写生だとか云ってすっかり伸びてしまって、やっと御神輿を上げたのが八時二十分、いよいよ金峯プロパアヘの登りに向った。
 夢のような残月一痕、ほのかに白く枯木の梢に懸っている。

     9

 大日小屋へ着いたのは、それから五十分後と私の手帳には書いてある。しかし此の五十分は中中にあなどり難いものであった。
 富士見平を後にして東へむかうと、路はすぐに暗い針葉樹林の中へ吸い込まれた。初め少しの間は平らだったが、次第に登りがきつく、論理的になって来た。高見岩の北に大きく盛り上った黒木の峯を二〇〇メートルばかり登りながら搦む所謂「横八丁」である。路は木の根・岩角をたたんで階段状についている。陰沈の気はあたりをこめて、頤を伝って流れる汗だけが、心臓の鼓動の音だけが、そして常に眼の前を行く友の足だけが、此処に一人の「我」という生物いきものの在ることを思わせる。そしてその生物が何の因果か山が好きで、心臓を轟かせ、息を切りながら、絶望的な足を運んでいる。その足はしばしば立ちどまる。負けじ魂、他人および自己に対する負けじ魂、それは即ち意志であるが、肉体の力を刺戟したり振い立たせたりする意志も、漸衰する体力を創造する力は持っていない証拠には、脈搏と呼吸とを調整するために、見よ、またしても私は杖を立てて止まるのだ。
 密林の中を路は稲妻形に登っている。その角々を、立ち止まること無しに果たして一度に幾つ越せるだろうかという試みが、苦しい中での興味だった。
 私はそれを遣ってみた。できるだけ頑張った。初めは苦しかったが次第に面白いと思うようになった。してみれば未だ体力は残っていたのである。それが平生の出し惜みの癖のために、すっかりは出切れずにいたものと見える。そしてこんなことを続けている間に、何時か高見岩のうしろの鞍部も通りぬけて、路が次第に降りつつあることに私は気がついた。
 ふと見ると右手に立つ一本の米栂の木の幹に、「八丁小屋、下へ百米突」と書いたブリキ板が下がっている。
 私たちは路を外れて右手へ下りた。小屋は直ぐに現れた。一〇〇メートルには足りなかった。
 八丁小屋、すなわち大日小屋だいにちごやは、大日沢の源頭にひっそりと南を向いて立っていた。未だつい近頃建設されたものだそうで、入口に懸けた看板の墨色も新らしかった。正面は沢を縦に見て、そのあたり、建築材料に伐った樹木の切株が杭のように残っている。水場は小屋の横うしろ、路から僅か下った処にあった。便所は小屋の前方右手、深い枝沢の上に鳥の巣のように載っていた。
早速それを利用した河田君が、
「なかなか具合がいいよ」と推賞していたから、見た眼よりも一層合理的であったに違いない。
 戸を引いて中へ入ると、内部は型通り真直ぐに土間で、中央に炉が切ってあり、左右は板敷の床になっている。無理をすれば三十人位は泊れそうである。窓は二つでマクリ戸がついていた。突当りの棚には幾らかの食器も備えてあり、柱には宿泊者の名簿も下げてあった。試みに最近の頁を繰ってみると「登竜門ノ下方残雪膝ヲ没シ、下降頗ル困難……」と云うような文句が達筆で走り書してある。
 時間は半端だが、空腹を感じたので、小屋の横にうず高く積んである枯枝を運んで来て火を焚いた。くさやの干物を焼いていると、沢を横ぎってホトトギスが鳴いた。私たちは弁当の箸をやめて耳を澄ましたが、裂帛の叫びは大日沢の奥に空しいうつろを残したまま、二度とは聴こえなかった。
 いま私の眼の前に一枚の当時の写真がある。日の当った谷の詰、斜面に立つ七八本の切株、其処に空を見上げている私、あけはなした戸口の前で中をのぞいている友、そして小屋の屋根から濛々と上がる煙、その煙にぼかされた路の一部と、蓁々たる米栂の密林さえそのままに、幾年をへだてて記憶の再び潑刺とよみがえるのを感じる。

     10

 大日小屋からは又しばらく密林の中の登りが続いた。いわゆる縦八丁である。私は此処でも前記の克己的方法を実行してみた。そして次のような自家用のメトードを案出した。
「僅かの惰性でもこれを利用して登る事。他念をまじえぬ事。前途を考えず、登頂とは無心の一歩一歩の総和だということを原理として固く把持する事。足の裏を地の傾斜に対して平らに踏みつけることは勿論、余り頭を下げず、視線は眼の高さよりも梢上方に注ぐ事。仲間のある時はなるべく話をしない事。喫煙は厳禁。心臓の鼓動が烈しくなった時は二三分間静止し、その平調に復するを待って登りを続ける事。但し決して腰を下ろしたり、いわんやルックサックを外したりしない事等々」
 小屋から二十五分で大日岩へ達した。巨大な象の頭のような形をした真白な風化花崗岩である。今までの登りで多少硬くなった足を喜ばせてやる積りで、今度は腹這いになってずり上ったらば、岩は烈日の下に伏せた釜のように熱かった。
 ああ碧瑠璃の天の下、太陽の直射の中で、爽やかに吹き上げて来る六月の高処の風に冷やされながら、この滑らかな白い巌の暖か味を臀に感じる楽しさよ!
 金山のあたりが眼の下に見える。何を焼くのか昼間の青い煙を上げている。右手を眺めると、いま登って来た尾根の黒木の上に、瑞牆がもうほとんど等高になっている。
 そして金峯! 針葉樹に埋もれた砂洗沢すなあらいざわの凹みを縦に、這松の緑と山体の白とに飾られた金峯の岩稜は、南東から東へと大きく弓形をえがいて高まりながら、その果てに皓々たる五丈石の岩塔をつっ立てて一碧の空をかぎっている!
 登高の意欲が、真に喜びと力とをもって私たちのうちに盛り上って来たのは此の時だった。
「行こう!」
 二人は同時にそう云いながら、ルックサックの負革へ腕を通した。
 二十分ほど登って着いた尾根の突起。平面指導標は其処を「登竜門」とわれわれに教えた。一つの分岐点で、余り判然としない径が、西へ大日沢と枇杷沢とに挾まれた太い尾根を、露岩とザレとを伴いながらすべり下って、金山或いは落合・ラジウム温泉へと導いていた。指導標には
「砂払ヒへ〇・五キロ、二十分、千代ノ吹上へーキロ、四十分、金峯頂上へー・五キロ、一時間」と書いてあった。無論登山者の体力の減衰などは問題にしていない等差級数的算法である。
 その砂払すなはらいまで来るとさしも長かった森林は終った。まがりくねる岳樺、葺き下ろしたような這松。天の底が真青に抜けて、轟くような日光の直射。磊々たる白石は岩稜の刃をこちらへ向けて、路はこれ一筋とわれらを招く。
 風化して表面の滑沢になった花崗岩が、ともすれば足を掬う。私たちはこんな時の用意にもと持って来た地下足袋をとうとう引張り出して、靴と履きかえる。その上ヘゲイトルを巻く。何だか変に腰から下に頼りが無く、すこし風でも吹いて来たら忽ち薙ぎ倒されそうな気がしたが、歩き出して見ると自由自在で具合がよかった。しかし風采のよくないこと、威厳のずっと減ったことは、友の姿を見るまでもなく、自分でも分った。
 その余り勇ましくない武者振りをもって立上ろうとすると、さっきからちらちら上の方の岩の間を見えつ隠れつ降りて来た登山者の一行が、ひょっこり鼻先へ現れた。友はどうだったか覚えていないが、眼の前へ先ずガチリと出現した堂々たる登山靴に対して、私の朝日地下足袋は本能的に首をちぢめた。
 頭のいくらか大きい、額の高い、髭を生やして色の蒼白い、しかしどこか愛嬌のある顔をした一人の小柄な中年紳士を先頭に、ピッケルを握ったその若い連れと、彼らのルックサックを高々と背負った二人の人夫とを合せて四人の一行だった。
 三人をうしろに従えた空身の紳士は、ゆくりなくも金峯の岩頭で袖すり合った私たちに、陣中の将軍のように挨拶した。しかし威厳を失わぬことを忘れぬ中にも、愛想のいい口調であった。登山家の礼譲。しかしその礼譲には、どこかに実業家のそれが感じられた。
 と、紳士の眼がきょとんとなった。
「失礼ですが、河田さんではありませんか」
「そうです。河田でございますが……」答えるこちらもそつがない。
「いや、どうもそうではないかと思っていましたが、若し間違っては失礼と思いまして……」
 雙方ともに応対なかなか懇惣である。
 少し先へ行って待っていた私が、やがて追附いて来た友に、今のは誰と訊くと、一枚の名刺を取出して見せた。吉田竹志とあった。
「神田の大きな自転車屋さんの主人公さ」と友は註した。「今朝国師を発って来たのだそうだ」
 見上げれば、稚児ノ吹上が躍る白馬の鬣たてがみのよう。

     11

 午後一時十分前、ついに五丈石の脚下へ立った。
 八雲立つ天の下、頽岩と白砂とのひろがりにまぎれて、八干五百尺の高みを行く者、ただわれわれ二人の小さな姿だけだった。
 風が吹いていた。風は這松の枝を鳴らし、磊々とした巨岩の稜々かどかどを鳴らし、人間の耳柔を鳴らして渺々たる大気の灘なだの響きをつたえた。
 上着を脱いで胸をはだけると、汗まみれのシャツがはたはたと鳴った。髪の毛が逆立った。それは風のためばかりではなかった。高峻に強いられた真摯な気持は、なぜか憤怒の感情に似ていた。
 地平線には雲がしきりに立っていた。それでもなお眺望はすばらしかった。昨日瑞牆から見た山々は残らず視界に入って来たが、昨日低かったもの今日は一層低く、昨日高かったもの今日は一層高かった。二五〇〇メートル有余の高度は展望台のもっとも勝れたものである。富士は此処にしてなお雲表遥かにぬきんでる山であった。
 しかし眺めてもっとも印象の深かったのは、眼の前の朝日岳の左をかすめて蜿蜒とうねるあの長尾根のはずれに、三つの巨塊をならべている三宝さんぽう・甲武信こぶし・木賊とくさの三山であった。いくらか南へ廻った太陽を正面から浴びて、甲武信の大崩壊地が赤々と見えた。そのうしろはすでに懐かしい武蔵の空だった。真白に立った積乱雲は私に秩父盆地のありかを其処と教えた。
 国師岳は鉄山を前にして、朝日岳の右に巨鯨の頭を上げていた。しかしその山頂の突起よりもなお幾分高く、奥秩父の最高点をなす奥千丈、荒川源頭の昼間の霧にぼかされて、その準平原ペネプレインの悠容と迫らぬ姿を銀いろに霞ませた奥千丈。私はいつか必ずや其処に立とうと心に誓った。
 その奥千丈の、長く南へ曳いた尾根のかなたに、私は大菩薩の連嶺を見出して思わずほほえんだ。しかし大菩薩本岳の左、黒川鶏冠山と覚しい岩峯の右、つまり二つの峯の間に、かすかに見える薄青い山、それを武州西多摩郡の奥にそびえる三頭山なりと断じ得た時の私の喜びを誰か知ろう!
 私は写生帖を取り出して見取図を描いた。しばらくは身の金峯山頂に在ることも忘れながら。心よ、心は初夏の多摩や秋川の奥を、その山村や峠をさまよっていた!
 だが現実は私を夢から引き戻した。風は寒くなり、薄雲のひろがった空には乱雲の飛ぶのが見られた。下山の時が近附いた。
 私たちは一本の葡萄酒さえ用意して来なかったことを悔みながら、五丈石の陰で珈琲を飲んだ。私がアルコールランプを点け、友が薬罐に水筒の水を傾けつくすのだった。巨岩を吹き廻す風が強くて、焔はとかく奪われがちだった。漸く沸騰した僅かばかりの湯を気ぜわしなく注いで、新らしいハンカチの隅で珈琲を濾した。コップに半杯ずつの液だったが、ガンコウランやミネズオウの毛氈の上での忘れられない味であった。
 もう急がなければならなかった。二人は煙草を揉み消して立上った。
 午後一時五十分。今朝の笑談半分の約束を思い出して、マッチのレッテルよりも小さく見える金山の部落を見下ろしながらハンカチを振りはしたものの、高さ二十五間と云われる五丈石が、針の頭ほどにしか見えない金山から、果たしてその哀れなハンカチが認められたろうか。
 私たちはがらがらに崩れた岩を踏んで下山にかかった。

     12

 金峯山南の斜面は傾斜すこぶる急であった。
 しかしさえぎる物もない純潔な岩石の大斜面、一歩は一歩と踏むべき岩をえらびながら、たまたまは足場の急に胸とどろかせても、高峻を歌う風に吹かれ、雲と遊ぶ日の光を全身に浴びて、次第に一日の最高頂から降くだり遠ざかる楽しさよ!
 眼の下には黒木・青木にびっしりと被われた山谷が、十重二十重の襞をたたんで幾里の彼方まで続いている。その山々谷々を、今日は、また明日は越えて行くべき自分。どの山を、どの峠を通る自分かは知らないが、やがて心に期して振り返った時、そこに、青空の宙宇に、眼もさめるばかりに白いこの山頂を認めたならば、その心は悲しいか、嬉しいか。
 そういう複雑な感情は、岩石の中の降りが終り、針葉樹に包まれた尾根がはじまり、踏んで行く路に砂が現れ、今までもあったコケモモやガンコウランにまじって、石南花やイワカガミなどの見えて来る片手廻シの嶮巌のあたりまで来ると、もう忽ち経験されるのだった。
 足は心の半分と一緒にこの降りを喜んでいるが、眼は心の残る半分とともに遠ざかる山頂を愛惜していた。
「金峯は終った」
 友と二人、警戒し合いながらその嶮巌を梯子で降った時も、やがて鶏冠岩の鎖を握って一層低きへ着いた時も、私はそのたびごとに愛惜する心にむかってそう云った。
 降りついた処は小室沢、荒れはてた小屋の前、三方に山を立てまわした寂しい磧かわらであった。午後三時十分、金峯五十町の急坂は終った。
 すこし前から掻き曇って来た空は、ここまで来るとポツリ、ポツリと落として来た。雨は、熱せられた岩の上で初めの内は直ぐに乾いたが、次第にそれを濡らすようになった。私たちは平たい石の下でドウナッツを食べた。雨滴はわびしい音をあげて包紙をたたき、摘まんでいるドウナッツの砂糖を溶かした。それが私たちを一層沈黙がちにした。煙草も濡れて、直きに消えた。
 十五分ばかり休んで雨の中を出発した。磧とは云え二〇〇〇メートルに近い高みだった。寒さは雨とともに身にしみて、風景も心もたそがれのように暗かった。
 一町ほど磧を行くと、右に水晶峠への路が消えるように入っていた。私たちは地図を頼りに蓁蓁と繁って暗い密林の中のその路を進んだ。大きな羊歯や腐った倒木が、苔蒸す岩にかぶさっている陰湿な路だった。ときどき高い梢から雫が落ちて首を縮めさせた。
 じめじめした沢を二つばかり越すと水晶峠の登りだった。登りとは云っても緩やかな坂道で、一日じゅう日の目も見ない密林の中を、石英の細砂の小径がほのじろく続く峠だった。
 林にこだまして、げたたましく犬が吠えた。人の姿も稀なこの季節に早い登山路に、私たちの姿を認めて犬も迂散と思ったのであろう、その吠え方は執拗をきわめていた。其処ヘ一人の炭焼が出て来て犬を黙らせた。午前中の登りに人に逢ってから、初めて見る人間の姿だった。こんな山奥で犬を家族の孤独の炭焼。雨に密林に真暗だった水晶峠を思い出すたびに、私の眼の前へ浮かんで来るのは、あの仄白い幽霊じみた石英砂の路と、犬と、そしてその主人である無言の炭焼の姿である。
 峠を降ると一本の沢を二度に越えた。後で考えれば巫子みこノ沢さわであった。その二度目の時、なおも沢沿いについている小径と、右へ高く巻き上る小径とを前にして、私たちはかなり迷った。右への径が少し戻るように、余り高くついていたからである。しかし結局友の意見どおり右手を取ると尾根だった。やがて林は次第に闊葉樹林に代って明るくなった。私たちの心も明るくなった。
 キバナノコマノツメの鮮かな黄をスズタケの根方に見出したのは、尾根路の左に一際こんもり高いところを一八三〇・五メートルの白平三角点の所在と推測しながら、私たちの辿る足先が乙女沢源頭にむかって次第に前下りになり、尾根の西側が開けて来た辺りであったろう。なぜかと云えば雨が止み雲が切れて、漸く西へ廻った太陽が、スズタケの葉にたまった露の雫に、金剛石のような光を与えていたからである。その輝く雫の中、赤みがかった西日をうけて、この可憐なキバナノコマノツメに今日初めて花を見たことは、正に私たちを狂喜せしめる事件だった。
 そのとき採ったこの菫は、私の庭で翌年も一輪花をつけたが、三年目には懐郷のやまい昂じたか、哀れや露のように消えてしまった。
 夕日も次第に土賊峠の彼方にかたむく午後五時過ぎ、私たちは長い長い楢峠を降って、眼下に伝丈沢を見おろす尾根路の突端に休んでいた。あたりに満開のミツバツツジ、夕暮の鳥の声、暮れてゆく山影の青い煙、かすかに響く幻聴のような谷川の音。
 そして一里の下手には今宵の泊りの上黒平かみくろべら、温泉いでゆの煙を山間に上げる下黒平、その向うにはすでに夕霧をまとった黒富士火山、太刀岡山。
 火山噴出岩の国の夜がはじまって、花崗岩の国の昼が終る。そのイマージュもまた消える。

                            (昭和九年作) 

 

 

目次へ

 

 神津牧場の組曲

 五月の夜の終列車は、深夜の高崎・安中をすぎると、やがて信濃の高原で迎えるべき朝のほうへ営々として這い登っていた。
 松井田のスイッチバックでは、ちらちらと電燈をつけた上野行が、むこうの闇を逃げるように東に向けて走り去るのを見た。菫色やルビーの信号燈、電気機関車の轟々うなる横川駅のプラットフォームで、腕に赤い布を巻いた乗客専務の中年の車掌が、二杯のうどんかけへ生卵を落として寒さと空腹とをしのいでいた。それから夜明け前の灰色の青、碓氷峠の登りだった。トンネルをくぐっては出るたびに、山谷を埋める新緑がいよいよ冴えた。線路に近く緋桃の咲いている処があった。その鮮かなまぼろしの未だすっかり消えないうちに、新らしく眼にうつるのは峠道の寒い霜の色だった。やがて二十幾つかのトンネルも数えつくしてがらりと変る窓外の風景。久しぶりに見る信濃の国の高原が、どこか外国の山地のようだ。東天にみなぎる金色の光、ほんのりと紫の大浅間。季節に早い軽井沢は、しかし漂渺とたなびく朝霧のなかに、まだ白々と眠っている。
 私は結束して歩き出す。人っ子一人通らない中仙道の大道を、燕だけが鋭いシリディキシリをきしらせながら折返しては飛んでいる。雲場くもばの手前で南へ線路をわたって、石炭殼を敷いたような黒い火山砂の道をまっすぐ行く。思いのほか低い巻雲が柔かに糸を引きながら、頭上の青空を東のほうへ流れるのが見える。見当をつけて湯川流域の凹地を眼で追って行くと、案の定八風山の右手にもう蓼科が朝暾を浴びて立っている。すぐ続いて点々と雪をつけているのは横岳・縞枯の一群だろうか。それから南は八風の尾根と前景の落葉松からまつ林とに遮られて、この路上からはもう見えない。
 落葉松と云えば道の左手は矢ガ崎山の麓まですべてこの樹の植林だった。今は折柄の新緑で、その浅いテール・ヴェルトの霧が甘い柑橘の香を発散している。この色、この香には精神を昂揚させるものがある。するとその林の程近い片隅から突然一羽の郭公が鳴き出した。郭公はすでに駅を出た時から遠くに二三羽を聴いていたが、こんなに近くで鳴かれては一寸おどろいた。相当な空間的距離を置いて聴く時には自然の拡がりと深さとを思わせる其の歌も、直ぐ近くで聴けば案外囓みつくような烈しさを持っていて、ちょうど小犬の鳴声に似ている。鳥類の游牝期前後の歌というものの、元来甚だエネルギッシュで迫力のあることがこれでも分った。
 鳴いているのは郭公ばかりでなく、このあたりに多い隠れた湿地からは、ヨシキリの玉磨たまずりの歌もさかんに起っていた。サンショウクイの「ヒリリン・ヒリリン」も、セグロセキレイの綺麗な囀鳴も聴かれた。例の筒鳥はその竹筒を打つ澄んだ響きを投げていた。もっとも多いのは鶯で、その歌はむしろ今日の暑さを予感させた。
 雨宮新田を過ぎて小さい橋を渡ると、路傍の小高い草地で朝飯。ノートを取ったり、浅間を写生したり、水筒から珈琲を飲んだり、煙草をふかしたりしてゆっくり休む。
 もう朝日は矢ガ崎山から南へつづく山稜の上に其の顔を現していた。恐らくは今日一日、私に幸すべき太陽である。新らしいその光は高原の白樺を照らし、浅間を照らし、遥か西の天涯の白波のような北アルプスを照らし、私の足もとのアズマギクを涼しい露ごと照らしている。
 午前六時出発、馬越まごえノ原の湿地をとおって、押立山おしたてやまの見事な三稜形を右に、日暮山につくらやまの西の峠、朝涼の七曲リヘと私はむかった。

     *

 広々と平坦な軽井沢南方の原を横断して、馬取まとりあたりから緩やかに登りつくした峠の頂上へ立つ時、また其処から七曲リの急坂を高立の部落へ向けて降りかかる時、ただ見る眼下一帯の風景に驚異と歎賞との眼をみはらぬ者はまずあるまい。
 それは地貌の突然変異である。それはヴィオロンとタンバアルとで神秘的に引延ばされたベートーフェンの「第五」のスケルツォーが、俄然フィナーレの大叫喊へなだれ込んだ時の比類である。尖峯の乱立、枝尾根の盤桓、谷の穿入。比例を極度に大きくすれば、まるで子供がぶちまけた積木の山で、一見支離滅裂、紛糾乱雑、ほとんど収拾しがたい光景である。
 しかしこの複雑を極めた山谷の乱戦場も、これを地形図と対照して見る時、われわれ門外漢の真暗な頭の中にも何か仄かな明るみが射して来るような気がする。
 私は此処へ来る前に、五万分ノー「御代田」図幅を七〇〇メートルと一〇〇〇メートルの等高線に従って色鉛筆で彩色した。図の左半分は、緑に塗った七〇〇メートル線が佐久平に向ってほぼ三枚の菊の葉模様を伸ばしているのに、右半分はほとんど方形の密集から成る平面幾何的なモザイクを現した。私は此の火山地帯の基盤をなしていると云われる第三紀層の走行も知らず、それを被覆している噴出物の性質も知らず、また小藤博士、佐川学士らの相異なる二つの成因説に就いても唯そのまま受容れるほか無い阿蒙として、この彩色した地形図と眼前の風景とをかたみ代りに眺めながら、ただ此処でも人間の肉体同様疾病や老衰が先ず山体の弱所からはじまり、その風化と削磨との作用が漸次に硬い骨骼に及ぶという自然の理法を考えるばかりである。そしてそう思って眺めると、この一見混乱した地貌を支配して、其処にひとつの厳然たる秩序の存することに思い到るのだった。
 しかし正面にはすでに目ざす神津牧場を擁して、緑の天鵞絨を敷きつめたような物見山が横たわっていた。その突当りのノアの箱船は荒船山。また私の右手から直ちに起こって西へ向う尾根のはずれには、帰りは其処を通ることに予定した八風山はつぷうざんが、いくつかの銃眼を刻んだ岩壁を立てて香坂峠こうさかとうげへ落ちている。
 私は用意のためにその岩壁の見取図を描いた。それから高立目がけて七曲リの急坂を一気に降った。そして香坂峠からの路に合して幽邃な谷をさかのぼり、一本岩のスタックの根がたを廻って、いよいよ牧場への急な坂道にかかった。息は切れたが希望は眼前にぶら下がっていた。年来の楽しい空想が現実となるのである。
 その現実が、見よ、其処に、「神津牧場」と墨書した白い標柱となって立っている。

     *

 私はつかつかと牧場の柵の中へはいって行った。
 あたりを見まわすと、向うの方に、路から少しわきへそれて、ところどころ鳶色の岩の現れたひとつの小さい丘がある。そこは草の緑も一層いきいきして、どこよりも柔かで清潔らしく見える。私はそこまで登って行って、先ず重たいルックサックを下ろした。そうしてそれに背をもたせると、両脚をそろえて長々と伸ばした。
 ともかくも一服だ。私はケイスから巻煙草を一本ぬき出す。そよそよと吹いて来る五月の風に青い煙をなびかせながら、ゆるやかに起伏した緑の牧場のひろがりを見、米粒のように牛の散らばっている美しい物見山を見、朝まだ九時のういういしい太陽がここ上州の山谷にひろびろと振りわけている花やかな光や涼しい影を見、新緑の谷間から輝く真綿の糸のようにもつれ昇って、やがて形をととのえながら大空とおく旅立って行く白い雲の姿を見ていると、とうとう神津牧場こおずぼくじようへ来たのだということがもう一度はっきりと考えられた。
 南の方の地形の高まりにさえぎられて、ここからは未だ牧舎も牧場の事務所も見えない。その高みを乗越して建物のある方へ通じている路の両側には、ちらほらと白樺が立っていて、その柔かい浅みどりの若葉が、やがて暑くなる太陽にもういくらか萎えたように垂れている。右手は、柵がうねうねと遥か志賀越しがごえのあたりまで登って、その微かに消える果ては悠久な竜胆りんどういろの信州の空である。私に近く、その柵の外側に、こんもりと茂った新緑の林があって、さっきから一羽の鶯が歌いつづけている。その小さい鳥の咽喉からほとばしる晩春の歌は実にパセティックで酩酊的で、この静寂の世界に強い熱気の波をおこすかと思うほどである。
 日光の暑くなってゆくのが頼もしい。清涼を運んで来る風はすでに夏の前駆である。私はうっとりとする。私は仰向けに身をたおす。新緑の林のむこう、空間の距離を知らせる陽炎の奥に、八風山の岩壁がふるえて見える。眼をほそくして眠らば眠れと思っていると、ザルツブルクにシュテファン・ツヷイクを訪ねた時のジャン・ジューヴのあの美しい文章が半ば夢のように意識の上を流れる。全ドイツに霊感を与えながら仕事をしている隠栖のゲーテのことを想わせるツヷイクの館の低い窓の前には、暑熱と静寂と、夏の匂いとにむかって閉されたその十八世紀風の窓の前には、「大気の緑の岸辺」である楡とトネリコとが、遠くバヴァリアの野を背景にして盛り上っていた……
 夜汽車での不眠と疲れと、清新な高原の太陽と微風と、周囲に満ちる静けさとに快く揺られながらとろとろと眠った私は、事務所へ荷物を届ける馬の蹄の音に眼をさました。余程眠ったように思われたが、それはせいぜい十五分ぐらいであったろう。
 私は馬子に事務所のありかを訊ねた。それはもう直ぐ此の下であった。どうせあと一投足の労で其処へ着くのならば、まして今日一日をゆっくり遊んで今夜は此の牧場へ泊るのならば、何をいそいで行く必要があろうと、私は丘を上って行く馬の姿がやがて見えなくなるまで見送ってから、やおら立上った。
 広い牧場全体は柵によって幾つにも仕切られていた。牛を放たずに休ませてある区劃の中では牧草が緑の絨毯のように密生していた。その中にパステル赤を点々とこぼしているのは桜草であった。それにまじってほんのり赤味のさした薄紫の東菊。大空の破片の色の苔りんどう。又すこし湿った日当りの窪地には、緑と赤の対照もあざやかな猩々袴。
 やがて前方いくらか低まった平地の、謂わばテラスのような所に牧場附属の建物が現れた。物見、荒船と、山々をめぐらした自然の大きな半円形の中に可愛くちりばめられた生活風景。ほそい煙突からは煙が上り、花盛りの山梨が其処此処に立ち、犬の鳴声がし、遊んでいる子供が見え、ゆるゆると春の日永を反芻している牝牛も、近くの牧場に三々五々と姿を見せる。
 私は事務所への坂を下っていた。その靴の音を聴きつけてスコッチ・コリー種といわれる犬が飛び出して来て咆える。洋服姿の男が出て来た。それが長尾宏也君から紹介された牧場主任の竹村六一さんだった。私は丁寧に案内されて事務所の土間へ入った。土間には甘いような牛乳の香がし、長い食卓がならび、硝子戸の外は青々とした五月の空だが、此処だけは涼しくほの暗く、女や子供さえ賑やかに出て来て、私は今や全く牧場の客となった。
 「歌え、我が心よ、今日はお前の時だ」というヘッセの詩が、「先ず一杯」とすすめられた牛乳を飲む私の心に率然として湧くのだった。

     *

 昼飯のパンヘはこの牧場自慢のバターを厚く塗って食った。東京から持参の珈琲には、これも今しがた出来たばかりだという濃厚なクリームを沢山入れて、本当のカフェー・ア・ラ・クレームを手製した。咽喉がかわくので牛乳を頼んだら、
「三合も持って来ましょうか」
と、給仕に出たお婆さんが訊いた。私が食事をしている間、荒船山のあの北東へ突き出した岩壁からの降りの径を、こまごまと話して呉れたお婆さんである。何でもこの近所で育って、荒船の事ならば誰よりも一番詳しく知っている人だそうである。
 三合の牛乳には些か辟易したが、いかにも牧場らしい大まかなところが気に入った。
 私は身軽になって外へ出た。残る半日、この牧場の気分を満喫しようと思って。
 出口で竹村さんに逢うと、何か修繕している仕事の手を止めて、
「散歩ですか」
といった。そうして物見山を一廻りする路順を教えて呉れた。傍らには同氏の子供や牧夫の子供らしいのが五六人立って、まじまじとこの遠来の客の顔をながめていた。私は、今度来る時には都をとおいこの子たちに、美しい絵本でも持って来てやろうと思った。
 自然も、天気も、人々も、そろって私を歓待し、むしろ私を甘やかしているように見えた。そうして私は喜んでそれを受けた。
 今日はお前の時だ……
 母屋の南をだらだらと下ると、小梨が白い花の枝を重たそうにかざしたその下に、小さい流れがあった。山上の春のひねもすをごぼごぼ歌っているこの細流は、市野萱川の源頭のひとつである。それを跨ぐと路は登りになって、やがて牧場の柵につきあたる。門に掛けわたした皮附きのままの落葉松の梯子を乗越えて中へ入ると、もう二三頭の美しい牝牛がいて、一度に私のほうへ顔を向ける。しかし大部分の群はもっと上の開けた高地で遊んでいるらしい。あたりは実に静かで、時折の虻の澄んだ羽音さえ、金色の真昼の深さを思わせるばかりである。
 しばらくはズミやナナカマドの白い花、タニウツギの紅の花、可憐な桜草、湿地のところどころに大きな薔薇結びロゼットを簇出して、わずかに真紅の莟を覗かせた九輪草などが、往く往く私の眼をたのしませる。
 やがて樹木が無くなって、ひろびろとした草の野山が現れた。牧場の南をかぎる柵について、私はそれ自身物見山であるこの草山をゆっくりと登って行った。
 一歩は一歩、荒船がその垂直の岩壁を立ててせり上って来る。南中した太陽はいよいよあの赤黒い岩壁に明暗の生気を与える。谷風が斜面を撫でて吹き上げて来る。黄いろい牧草の花がみな揺れる。優美が終って雄大がはじまる。
 私は物見山の南端、あの馬の頸のような形をした露岩の基部へ辿りついて、それにしっかりと跨がった。標高は一四〇〇メートル内外でも、さすが国境の山稜は風も強い。風は上州側と信州側との東西の谷間から吹き上げて来て此処ではげしく合体し、余勢をもって中天へ巻きのぼる。鼓膜がその風の響きにたえず充たされて、静止していれば何となく胸騒ぎのする気配である。ひしひしと縅した黒木の密生から卓立して、荒船の巨大なメーサはその鉄壁を大気の波に洗わせている。その右手奥の方にどっしりと墨絵の山容を横たえているのは相木の雄の小倉山だろうか。そして此処からは見えない星尾峠の東、黒滝山へむかってその高度を漸減する山稜の上はるか、青光りする地平の果てに長い影絵を踊らせているのは、あれは立雲たちぐもしげき夏とともに思い出多い奥秩父の連峯。
 南西には光にけぶる佐久平を俯瞰して、蓼科から八ガ岳へつづく一連が海波を蹴って進む一大戦艦を想わせる。横岳の残雪がまぶしく燃えて、晩春の咽喉の渇きをそそのかす。中込から臼田あたり、盆地を蒸す水蒸気の底に千曲川がきらめく糸のように流れている。ふりかえれば、北から北東へかけては、この物見山から八風山・日暮山につくらやま・谷急山やきゆうやま・妙義山へと、ひとつの大きな弧を描く新緑の円形戯場アンフイテアートルの壁である。半径ほぼ六粁におよぶ此の壁の内側は比較的傾斜が急で、其処を流下する水はすべて集まって涼しい西牧川をなしている。しかも八風山でも、物見山でも、その山頂が顔を東にむけているのは、あたかも碓氷峠附近南北の火山がほとんど皆そうであるように、東風がはこぶ温湿な空気の優勢な風化作用を語って興味が深い。
 私は山稜を走る牧柵に沿って、おだやかな起伏をたのしみながら志賀越しがごえのほうへ歩いて行く。緑の草山が描く豊かな胸の線のむこうに、薄紫の浅間山がほのぼのと煙を上げて横たわっている。
 何という晴れやかな、のびのびした眺めだろう。物見山の山頂の、寄石山よりいしやまへとつづく緩かな笹原の斜面ひらは、此処でまる一日の無為の時間を、青空と雲と太陽と、そよふく風とに捧げても決して惜しくはないほどである。
 柵の内側、すなわち上州側の神津牧場そのものは、東の山麓に可憐な巣をかけた屋敷やしきの部落あたりを目がけて求心的になだれ込んでいるが、志賀越の路を境にその北方にはまた幾らか隆起した広い草原をひかえて、まことに単純に見えながら細かいところに微妙な変化のある、数百町歩の美しい牧場地帯をなしている。
 放牧の牛は三々五々、思い思いの組になって此の物見山に散らばっている。頂上に近い草原からくっきりと浮き出して、新月のようなその角を高原の風に吹かせている者もあれば、もっと下の方の凹地に群をなして、其処に群落する白樺の幹の白さにまぎれている者もある。
 この緑の山谷に鈴クーグロツケンのメロディーが響かないのは寂しいが、正面に遠く妙義をのぞむ渓谷の詰、青嵐わたる高い台地には中央農区の建物が事務所を中に可愛くかたまり、鶏が鳴き犬が吠え、この一種の圏谷に折からの午後の陽が美々しく流れて、真にひとつの平和なアルプの風景を展開しているではないか。

     *

 母屋の二階の縁側で、私は籐椅子にくつろいで煙草に火をつける。私の前には灰皿を置いた一箇の古い小さい卓がある。その上に牧場の桜草をいっぱいに挿した硝子のコップが載っている。これは今日朝のうちに私が此処へ到着して部屋がきまると、管理人の竹村氏が自分で持って来て置いていった花である。見ているうちに、この桜草がその場の一種の雰囲気から、マチスの「金魚」の絵を思い出させる。
 私は立ち上って座敷へ入ると、ルックサックから一冊のデュアメルを取り出して来て、それをこの花束の傍らへ置いた。ついこのあいだ著者から贈られた「欧羅巴の懇親的地理学」である。
 牛乳風呂から上って、糊のついた浴衣に褞袍どてらを重ねて、涼しく華やかな五月の夕暮の太陽とその赤い光を斜めにうけていよいよ緑の色の深い牧場の起伏とを眺めながら、いま私はこの本の美しい頁を開こうとするのだろうか。遠く御荷鉾みかほ、赤久繩あかくなの山々の薄青い影絵が薔薇色の霞の奥に横たわっている風景を前にして、オランダの「組曲」やフィンランドの「北方の歌」を読もうとするのだろうか。
 いや、私がその本を此処へ置いたのは、それを今直ぐに読むためでもなければ、桜草の緑と赤と書物の表紙の淡い黄との快適な配合をよろこぶためでもない。実にその本の中で、詩人は、それぞれの民族に固有な文化の美を語り、この世襲財産の善く護られることを勧奨し、人類の真の文明がそれらの堅固な美しい土台の上にこそ打建てられなければならないことを、もっとも切実な言葉で語っているからである。そして深い敬愛に価するこの本を、今、牧場の卓の上に置くことが、管理人の桜草に対する私の無言の讃美と同感との、この際におけるもっとも自然な表現であるように思われたからである。

     *

 母屋の横を一筋の路が降りてゆく。物見山の東の山腹や南方の斜面にひろびろと展開した牧場一帯への通路である。その路が降って再び登りになろうとする処に、何かひそひそ囁いているような小さな流れがある。五月の下旬、その流れのふち、囁きの上で、一本の小梨の大木が真白な花の雲をかざしている。
 いま私の前でひとつの牧歌がはじまる。この牧歌には平和のほかに生気がある。初夏の山の牧場に時間が重たく熟した午後三時過ぎ、放牧の牝牛の群が丘の牧舎へ帰って来るのである。
 さっき彼女らは物見山のゆるやかな斜面へ、麦の穂か雛菊の花かのように散らばっていた。或る者は岩石の露出した山稜の高みまで登って行って、青いスカイラインの上に五ミリに満たない小さい牛の姿を浮き出させていた。それが何時の間にか集まって、一列になって、青い木の間や丘のかげを見えつ隠れつ、通い馴れた毎日の路を帰って来る。
 彼らを引率する牧夫は何処にいる。そんな者はまるで見えない。牛は帰る時刻だということが分れば、閉門に堰かれて流れる水のように、牧柵の出入口の狭さのままにおのずから列になって、夕暮の牧舎への路を手引きも無しに辿るのである。
 今、先頭の牛が前足の蹄を砂礫の中に突立てるようにして向うの坂を下りて来たが、山梨の花の下で流れを跨ぐと、今度は巨大な腰にうんと力を入れて、力学の自然に従って頭を左右に振りながら、この丘への路を営々として上って来る。彼らの一頭一頭が降りから登りに移る瞬間、花盛りの樹木とせせらぐ水のほとりに一脈の熱気がおこる。夕暮近く淀み勝ちな空気がそこだけは渦巻を起して、生物いきもの臭い、確かな掴みどころのある、土に即した、がっちりした現実、生活への或る崇敬の念を誘い出すような、単に絵画的でない生き生きした場面を現出する。
 どれもこれも同じような登降運動で眼の前を通って行く牝牛を、私は辛抱づよく数えて見た。すべてで三十四頭いた。そしてその三十四頭目の後から、少しはなれて、二人の若い牧夫がまるで兄弟のように相手の肩に手をかけて、仲善く話しながら遣って来た。

     *

 一日を野山で遊び暮して帰って来た牛たちが、今はその寄宿舎の中でどんな風にしているだろうかという好奇心に誘われて、私は下駄をつっかけて見に出かける。
 優良な種を理想的に飼養して、彼らから採る乳やバターの名声を永く保ってゆくための近代的施設や経営法そのものは、以て直ちにラスキン・モウリス風の田園詩とは為しにくいが、そこに周囲の立派な自然や、叡智や愛や熟練が加わると、牧場・農場の規律ある仕事や生活風景に独特な詩美が生れる。引例に多少の不同を許されるとすれば、岩手山麓の小岩井農場が第一にそうであり、下総の三里塚御料牧場がそうであり、今またこの神津牧場がそうであるとはいえないだろうか。
 彼女らはもうそこにいる。一棟の細長い牧舎の中、一小間こまずつに仕切られた銘々のきまりの場所に。しかし遠足や旅行から今帰って来たばかりの子供達のような、新らしい感銘と養った力のやり場に困っているそわそわした態度が、彼ら全体の間に行渡っている。一日の風や日光や、芳ばしい草の香を身体じゅうに浸み込ませて、それをあたり構わずぷんぷん発散させている彼らには、何か「地の拡がりの精神」のようなものが憑いているらしく、この牧舎内部の暑さ狭苦しさに、そう直ぐには馴れる事ができないらしい。
 彼らはたえずごとごと遣っている。短かい尾を振ったり、足で掻いたり、耳を動かしたり、柔かい鼻の孔から水まじりの息を吹いたりしている。甘いような酸いような、むつとする乳牛特有の体臭と熱気とが舎内に磅礴して、そこに立会っていることは、何か肉弾相撃つ中に居るようで楽しく強壮な気はするが、又一方平生からの馴染もない、気心も知れない大きな生物いきものの間にいる私としては、見たいだけ見た事に満足して、もう外へ出たいという気持になった。
 ちょうどその時二三人の牧夫が、彼女らの夕飯を盛った幾つかの大きな容器を運んで来た。それを見ると彼らの間に又ひとしきり動揺が起こる。牧夫は馴れた手付で、銘々の前に取付けてある三角形の樋の中へ素速く飼料を盛りつけて行く。牛は待ち兼ねたとばかりに鼻面を伸ばして、薔薇色の長い霊妙な舌の動くがままに端から征服して行く。
 私は外へ出る。ほっとして思い出したように深い呼吸をする。山の空気が泉のように二つの肺へ流れこむ。夕日が物見山の上に大きく傾いて、そこらじゅうから新らしい風が生れる時刻。新緑は赤い光を反射して緑の色が一層すがすがしい。
 その夕暮、東の黒い山々の上に輝く牧夫座の主星アルクトゥルスの黄玉の光を見て、私は天と地との偶然の暗合を喜んだ。

     *

二枚の葉書に書きつけて、留守をまもる家の者に送った即興詩-

       神津牧場

 牧場管理人のいかめしい顔のまんなかで、
 大きな髭が好人物だ。
 おれはバター製造所の小屋にいた、
 今日も一日快晴らしい五月の太陽が
 まだ妙義のむこうで薄紅くはにかんでいる時刻に。
 バドミントンスタイルの牛酪掛の老人は、
 気の若い、名人の酒好きらしい。
 おれは一目で「ゴリウォークのケイクウォーク」を思い出す。
 むっとする乳の香に子供部屋の空気がある。
 黒板に粉こなっぽい英語の走り書、
 卓の空壜にしおらしく桜草……
 錫の分離器が夢みるように歌い出す。
 航空母艦の煙突をおもわせる平たい管から
 米の磨水とぎみずみたいな脱脂乳がしゃあしゃあ出る。
 ほそい管からは一割の濃厚クリームが、
 ありがたそうにとろとろ滴たる。
 そいつを重たくコップヘ受けて
 藤紫の赤久繩あかくなや稲含いなぶくみの山を半眼に見ながら子供心になって飲んでいると、
 そばから管理人が得意らしく「どうです!」といった。

「香坂峠から尾根伝いで八風山へは、路もついているにはいますが、藪がひどいそうですから御止めになったらいかがです。それに今日はどうやら風が出そうですし」というのが、土間の食堂での朝飯の折の竹村さんの意見だった。なるほど陽は射しているが、空の色にはどことなく荒んだものがあった。
 ちょうどそこへ牧夫が二三人はいって来た。竹村さんは彼らをつかまえて相談をはじめた。「なに大丈夫だ」という者もあれば、「いや彼処はやめた方がいい。それよりも峠を少しばかり高立の方へ降りて、そこから落葉松林を突切って行くのが一番無事だ」という者もある。
 落葉松の中に路がついているかと念を押すとついているといった。それならばどっちに成ってもいいと思って、私は身支度を調えると、牧場の人たちと名残を惜しみながら出発した。途中まで東京三越の店員という二人の人が一緒だった。彼らは
賀越から寄石山あたりまで散歩に行くのだといっていた。物静かな若い人たちだった。二人とも浴衣に褞袍を重ねて、一人は小型のカメラを持っていた。私は重たい旅装だった。
 バター製造所の後ろから暫らくはジグザグの登りが続いた。朝の歩き出しの印象はすべて新鮮そのものだった。見る見る牧場の建物が眼の下になる。荒船が出る。浅間が出る。新緑で柔かくされた山々の鉄槽の囲みの底に、西牧川の谷の水が見える。やがて私のとるべき小径が沢の源頭の樹林へ入り、志賀越へ行く人たちの路がなおも草山の登りを続けようという所で、往く者と留まる者とは袖を分った。
 私は志賀越の北の尾根へ出た。往手には幾らか西に傾斜して、まるで競技場のような広々した一郭の平坦地が見える。上・信の国境はその平坦地を縦に貫いて香坂峠に落ち、直ぐに城壁伝いのような八風の南の尾根を這い登って、獅子岩の先の鞍部から東へ七曲リ上の峠の方へ走っている。私はその国境線を辿ればいいのだ。
 競技場と見えたのは五町平方ぐらいの一面の笹原の台地だった。誰も通らないと見えて踏跡は全く無かった。北東の風が次第にざわめいて来て、笹の波立ちがこの原を満たした。右手の谷間には例の一本岩が、遙かに低く寂しい物に見えていた。
 私は香坂峠へ駆け下りた。火山地域によく見る明るい広々した峠だった。上州側にやや急に、信州側にゆるやかな道路が、雲の走る天の下で、東西に太い火山砂の帯をよこたえていた。
 八風を越そうか、下の落葉松の林を抜けようか、私は未だ迷っていた。風がますます強くなったからである。
 あやふやな気持で先ず正面の笹原を登って見た。遣り遂げようという決意の無いところには忍耐も無く持続も無い。わずかな障害に出遭っても、直ぐに方向を変えて曲流メアンダアする平地の川のように、優柔な心はもうこの足もとのぽかぽかした笹原の斜面の登りにへこたれていた。
 折角登ったのに踵を反して、今度は峠を東へ降りた。左手にはいわゆる落葉松林が果てしも見えず密生している。ついていると聴かされて来た路の入口は何処にも無い。しいて思えば密林の到るところが路である。ともかくも潜り込んでみた。一見事もなく見えた森林も、入って見れば傾斜は急で、おまけに何年積み腐った落葉松の葉の堆積が、春の軟雪よりも意地悪く踝くるぶしを責めさいなんだ。見通しは全く利かなかった。地図と磁石とをたよりに、抜けて抜けられないことはあるまいが、こんな処でもがいているのも愚かしければ、第一軽井沢発の汽車の時間も気に懸った。それでいい加減に諦めをつけて逃げるように森林を抜け出すと、もう一度峠へ登りかえした。
 今度は笹原を登りつくして岩壁の端へ取りついた。岩尾根はひどく痩せて峙って、往手には相当に深い切れこみも幾つかあるらしい。弱さがまた私を追い返した。私は再び落葉松林へ潜り込んだ。しかしそれは流砂のように陰険だった。
 私は峠の草に坐りこんで、前途の選択よりも、無益に失った一時間半よりも、自分自身の性格をうらぶれた心で考えた。美しい計画を立てながら忽ちそれが厭になり、為すことに持続が無く、肝腎な事柄を遷延し、カントの意味の「義務」を怠り、「イミタシオ」が戒める瑣事クリオサに心を動かし、しかもそれらに理窟をつけ、旨く口実が成り立てばそのことのためにまた却って自分を不快に思い、今度こそ正しく遣ると己れに誓い、少しばかり実行し、そしてまたずるずると元へ戻るというこの情ない性格の弱点……
 私は孤独の香坂峠で己れ自身に荒涼とし、恥じ、憤激し、頭をなぐり、この呪うべき二重人格を四の五をいわせず駆り立てるために、遮二無二八風山を攀じはじめた。
 山は、たしかに、弱い性格の鍛練場である。それは意欲の綱ザイルを試験する。負けた者、意気地なく逐い帰された者は、また綯い直して来るがいい。
 八風山は風に打たれる廃墟だった。それは北東の強風の衝に中あたっていた。径は多くの場合断崖の縁を通って、幅はわずか二尺ぐらいしかなかった。片側にはアセビ、ドウダンの類の灌木がびっしり生えて、嵩ばったルックサックを引戻しがちだった。小枝はたえず鞭のように跳ね返った。それを気にすれば、今度は身体の重心が断崖の外へはみ出すのだった。
 もしも空身からみならば。そうだ、空身ならばこんな処は何でもあるまい。しかしお前の行くような山が空身で何の試練になる。
 獅子岩の根まで続くこの岩壁は、前日七曲リの峠から予め見取図に書いて置いたように、幾つかの歯形を刻んで長かった。径はその歯形のままに、一つの岩のかたまりを降っては、また次のかたまりを見上げるように登っていた。何のためにするこの労働だ。見るためにだ。見るためならばもっと楽な、もっと楽しい道らしい道が、人間にふさわしい道が、静かな山麓を、下の方の美しい平野を、千万の看物をならべて走っているではないか。走っている。しかも実に和やかな曲線を描いて走っている。だがお前はこの困難な道の方を選んだ。そしてそれは正しい。なぜならば、手を高閣に束ねて見るだけならば、それは未だ本当に見てはいないのだ。あらゆる現実は、そこに身を以て生きて初めて「見た」ということができるのだ。お前は見たいと願う。それならば生きねばならない。此処を往くことは、今の場合、とりも直さず生きることだ。往け!
 私は遂に八風山の南の尖峯、獅子岩の根もとへ着いた。それは名の示すように蹲った巨大な獅子に似ていた。集塊岩らしい巨巖は往手を遮って三四丈の高さで私に挑んだ。この薮の毛だらけのスフィンクスの顔を正面から攀じるのだ。
 私は岩角に靴の爪先を掛け、荒くれた樹の根に取りついて、それを強く引張りながら自分を押し上げた。初めのうちは旨く行った。だが傾斜は直ぐに急を加えて、やがてほとんど垂直の箇所が現れた。ルックサックを背負っているのが如何にも不自由だった。私は下へ降りた。そしていつも何かの足しに持っている麻繩を取り出して、それをしっかり嚢の負革に結んだ。今度はいいだろう。私は繩の一端を腰のバンドに縛りつけると、すっかり身軽になって急斜面を攀じた。
 繩は徐々に手繰られた。ルックサックはごつごつした岩角や灌木の間を重たく曳擦られながら上って来た。この成功が私を元気にした。空身で攀じて行っては足場のいい処で引張り上げる。こんなことを二三回繰返している内に遂に獅子岩の頂上へ立った。
 風はびゅうびゅうと吹きつけていたが、精神は張り切っていた。今では香坂峠での狼狽がおかしかった。もう少しぐらいは困難に遭遇してもいいと思う気持に、獅子岩の岩尾根の降りはたわいが無かった。それで鞍部へ着くと、ルックサックを置いて三角点の有る八風山の頂上まで行って見た。
 私は鞍部の草の上に身をたおした。空は華麗な青と白とのだんだらだった。さしもの風も納まりかけて、名残のそよぎはあたりを満たし、輝く太陽は頬に額に快く暑かった。
 旅の終り。私の心はひとつの大きな貯水池に似ていた。それは八方から流れ込んだ千百の思い出を満々と湛えていた。それを自分に抱きしめていることは、悲しくもまた嬉しいことだった。
 私は幸福な受胎を感じた女に似ていた。それは安堵と、誇りと、敬虔の念との入りまじった複雑な感情だった。
 その感情の水の上をヴェルハアランの歌が、「愛ラムール」の歌が涼しく流れた、

  Je suis venu vers toi, de mon pays lointain,
  Avec mon âme et mon destin……

  「余は我が魂と運命とをひっさげて、
  我が遠き国よりおんみに来ぬ」

 大きな真昼だった。折り敷いた草の中でイブキジャコウソウがにおい、筒鳥の声が麓の谷にこだましていた。

                         (昭和七年作)
 

 

 

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 御所平と信州峠

 午前六時十五分といえば、一月三日では日の出までまだ半時間の余も間のある中央線小淵沢の停車場で、東京からの夜行列車を捨てた私たち二人は、小海南線の小さな一番列車が待っている向側のプラットフォームヘ、かつかつと鋲靴を鳴らしながら凍てついた雪の線路を横断した。
 去年の十一月には子供に瀕死の大病をされて、一時は前途がまっくらに塞がってしまった気がしたが、さいわいクリスマス前夜にはめでたく退院というところまで漕ぎつけたので、この正月は自分のほうが命をもう一つ余計に貰った気になって、軽やかに解き放たれた気持のうちにも、人生が別して我に送るように思われた光を心にしかと抱きしめながら、清らかな雪に粧われた新年の山々への旅に出ることができた。
 道連れは義弟一人。まず小淵沢から初めての経験として小海南線へ乗って終点清里きよさとまで、それから念場・野辺山の高原をはるかに越えて信州南佐久の御所平に一泊、翌日は路をふたたび甲州路にとって信州峠を乗越し、釜瀬の谷に人煙を上げている黒森・和田の部落を経て増富のラジウム温泉泊り、三日目は本谷川から塩川の谷ぞいを八巻までぶらぶら歩いてそこからバスで韮崎へ、そしてその日のうちに帰京しようというのが今度の旅のプランであった。
 暮にせまって東京にも相当の雪が降った。ましてや甲信国境の雪には豊富なものがあるだろう。それがお前の下手な写真にいくらかの生彩を与えるかも知れない……
 乗換えた小海南線の客車の数はたった二輛だが、席をとるのに目移りのするようながら明きだった。まだ機関車も附かないのでスティームも来ないと見えて、到底じっとしてはいられない寒さだった。試みに車内に取附けの寒暖計をのぞくと、碧い酒精柱は零下六度を示していた。同じ寒いのなら山を見ようというので外へ出て、足踏みしながら四方を眺める。
 すぐ眼のまえの、小高い崖の上にならんだ家々の屋根越しに、八ガ岳の一峯編笠が白と黒との端麗な円錐形をのぞかせている。その奥には、暁の黒ずんだ深い紺碧の空につつまれて、権現岳が凄惨な白刄の峯頭を鏘々とまじえている。さらに頭をめぐらすと、まだ黄昏たそがれいろの釜無の谷の対岸、あの暗澹とした断層崖にのしかかって、青氷を走らせた甲斐駒、朝与、鳳凰が、まるで敵前に夜を徹した大砲塁をおもわせる。そして東のほう甲府盆地は朝霧の底に重く沈んで、夜明けの水っぽい大気の中、綿雲のまろぶ御坂山塊の上はるかに高く、霊峯富士がほのぼのと薔薇いろさした薄みどりの全容をあらわしている。
 汽車は可愛らしく汽笛などを鳴らして小淵沢を出ると、わずかのあいだ北西へむかって進むが、いつの間にかぐるりと北東に向きをかえて、それからは八ガ岳高原の緩勾配を四里あまり、終点清里までじりじりとひた押しに登って行く。
 私たち二人のほかに乗客といえばこの支線の従業員らしい連中ばかり。正月のことなので皆からだの何処かに何かしら「お初」の物を着けている。帽子の下から出ている髪の毛なんぞも、綺麗に刈込んだばかりだったり、油で光っていたりする。みんな幾らかの酒気を漂わせて上機嫌である。きっかけさえあれば、風変りなこの正月のお客に口をきいて遣りたいという様子さえ見える。おまけにこのなごやかな閑散な車中にはスティームが景気よく通いはじめ、故障のあるパイプからは暖かい湯気がシューシューと浪費の音を立てて噴き出し、そのために窓という窓には水蒸気が檜葉ひのきば模様に凍りついて、こんな即席の磨硝子すりがらすを張った車の中は、まるで魔法にかかった室のように異様に明るい。
 汽車弁当の箸の頭でその氷を扱こきあげて外を覗くと、清らかにも美しい朝日を浴びた雪と赤松との高原の右に左に、すべての山々は薄桃いろに匂う山頂のパノラマを列車の進行とともに刻々と移動する。
 甲斐大泉、甲斐小泉。ドビュッシイの管絃小曲を想わせるような、雪に埋もれた高原の小停車場。純潔な山嶽の結晶群と、清澄な一月の天へ登極する午前の太陽、終点まで五十分のあいだ、私たちはこの支線の美を温床列車の窓硝子の氷の孔から味わえるだけ味わって、そして酔った。

     *

 陸地測量部の地図には未だ鉄道の記入が無いが、現在の終点清里駅は、八ガ岳赤岳が南西へその長い裳を垂れた念場ガ原の下手、ほぼ一二二〇メートルの等高線附近にあたっている。私たちは其処で下車した。
 物惜みをしない自然が、わずか一日一夜であたらしく降りうずめた白雪の大高原。しかも澄みに澄んだ青玉の空と八方に照りそそぐ日光との今朝は、なよなよと吹きわたる風も春めいて真に眼もあけていられない光彩陸離の世界である。私は雪の中ヘステッキを突刺して、ぐるぐると廻して引抜く。その瞬間、碧い焔のようなものが孔の口まで盛り上がって来る。それが余り美しいので私は歩きながら幾度もやって見る。「四十センチはあるでしょう」と弟がいった。
 今年の八月には信州海ノ口まで全通して、我国第一の高原鉄道が出来あがるというその線路敷設工事の小屋をぬけて、わずかばかり東へ進むと忽ち出会ったのは佐久往還の大道だった。私はこの道を知っていた。「この道はいつか来た道……」 三年まえの秋の一人旅に、国界をこえて野辺山へさしかかるというその途中、一羽の見事な孔雀蝶を取り逃して口惜しがった
い出の場所がちょうど此処である。
 私たちはここから道を平沢へとって、三軒家からニツ山へ出、そして御所平へはいるつもりだった。それで往還をよこぎって更に東へすすんで、やがて大門川の谷をわたった。午前八時二十分。ふりかえると、日蔭になった雪路のむこう、谷の右岸の山の上から、眼も覚めるような赤岳のプラティナの峯頭がのぞいている。
 往手の赤松の林から人が出て来た。猟銃を斜めに吊って頬かぶり、両腕を組んで歩いて来る。訊けば平沢の者だと言う。飯盛山の路の様子をたずねると、雪が降ったばかりでひどく深いし、まだ誰も通っていないから歩きづらかろう、それよりも矢張り国界へ出た方が得策だと言う。私たちはちょっと決断に迷ったが、結局猟師の忠告に従って後戻りすることにした。それに義弟にとっては、何れを行くにしても初めての道だった。
 来る時には気のつかなかった風景が、戻りには意外の美しさで目を瞠らせること、殊に山旅にはよく有る例である。大門の谷を渡りかえして対岸の尾根を半分ばかり廻ると、まばゆい雪の崖道の先には枝沢のきれこみを越えて念場ガ原の松林が黒々とよこたわり、その上に甲斐駒から鳳凰へとつづく力強い嶺線が、ちょうど真中へ北岳の金字塔を載せて薄青い空を腐蝕している。さらに尾根を廻りきると、今度は高原の正面に燦爛ときらめく権現・赤岳の大観である。私たちは時の移るのも忘れて三脚の位置を変えたり、焦点硝子を覗いたりした。
 蕭条の秋の一人旅と、道づれのある快晴深雪の今朝の旅とは、気分も風景もまったく違いはするものの、同じ佐久往還を行きながら、私はかつて自分の書いた念場ガ原の紀行文の、大して誤っていなかったことを喜んだ。
 それにしても経過した年月相当の変化はところどころにあった。新らしい線路の敷地は古い街道をよこぎっていた。築堤は気短かに沢を飛びこえていた。国界ではいつか休んだあの家のうしろに人夫のバラックが貧しく竝んで、その亜鉛トタンの庇からは長い氷柱つららが幾本となく下がっていた。薄い割板へ釘づけにした箱、あんな奇妙なトポガンですべっているのは、この前来た時の姉と弟の二人だろうか。雪の反射の強いせいか、もう眼がくしゃくしゃにただれているのに、そんなことは平気でキイキイ声を立てながら夢中になって遊んでいた。あれから三年たった今日、彼らの「楽しい我家」も三年だけ衰えて、その腐れかけた軒先からぽたぽた落ちる雪消の雫が、華やかなような淋しいような高原の日光に照らされながら、ここ念場ガ原の一角で、「古いケンタッキ−の家」を無心の子供らに代って歌っている。
 さようなら、国界の小さい子たち! この小父さんはまた来るだろう。甲斐や信濃で山々を吹く風が、とおく都へ伝わって来る時、小父さんは杖とり上げて君たちの方へさまよい来ずにはいられまい。だが多分今度の時には、君たちの家のうしろを高原列車というのが走り、都会の卑小と軽薄とが、この素朴で大らかな野山一帯に、百貨店の包紙といっしょに撒き散らされることになるだろう。
 それならば、これが「さらば」だ。思い出の中でのみ滅びないものよ、さらば!

     *
 おなじ哀惜が野辺山ノ原でも私たちを待っていた。佐久往還を袖崎へ出ると、美しく北へ靡いた赤岳を背景に、あの大門川源流の両岸が伐採されて、太い鉄筋コンクリートの橋脚が谷をつらぬいて白々と立っていた。同様な円柱は樋沢川をも踏み抜いていた。ニツ山の北を通って原を突切る切開のような道、御所平の上手まで一直線に走る道、それが小海線の敷地だった。
「あの橋台は、高さからいっても太さからいっても日本一です。この工事にはえらい金が掛っているそうです」
 原のまんなかで道づれになって、自慢らしく私たちにそう言って聴かせた一人の小男は、川上の者で飛脚屋だった。
「それならば君の生業しょうばいはどうなるんです」
 そう訊きもし、訊かれもしながら、メランコリックなのは彼よりもむしろ私の方だった。渓谷よりもダムに、滝よりも発電用の大導水管に、那智・妙高のような一等巡洋艦に、流線型機関車に、その新らしい審美の眼をかがやかす私たちの子供よ! お前たちの父はそれらの美に対してすでに或る不感性を自覚し、同情の何処かに不随意筋の存在を感じる。私たちを馴らして呉れ。たびたび見せることで此の硬直した筋肉に血と神経の通うようにして呉れ。私たちを置去りにするな。私たちはついて行こう。心にいくらかの苦がさアメルチユームを味わいながら……
 われわれは袖崎で弁当をつかった。義弟が東電の官舎から湯を貰って来た。戸障子も無い、壁紙も剥がれた空家の敷居に腰をかけてココアを啜っていると、しきりなく屋根から落ちる雪解の水が足もとで小川になった。甲斐と信濃から吹上げて、其処で抱き合う一月の風はさすが真昼でも寒かった。真白な野の北西の果てには、千曲川の上流を川上で扼して曲げる男山・天狗山が、雪もとまらぬ岩峯を黒々と見せて魁偉な頭をもたげていた。私たちはそこそこに食事を終ると、いよいよ佐久甲州街道と別れてニツ山への路をたどった。
 広大な野辺山ノ原。もしも初夏六月の候ならば、見渡すかぎり樺やはしばみの若葉が煙り、落葉松の新緑は浅みどりに、ずみの花は雲よりも白く、蓮華躑躅の樺いろの焔は一面に燃えひろがって、其の間から残雪をいただく八ガ岳が蒼空をかぎって立ちそびえ、郭公・筒鳥などの歌い手がその漂渺たる歌でこの高原を夢のようにするだろうが、今日は又それとは全く面目を異にした清浄無垢の天地である。
 われわれは皚々とした雪の曠野を一縷の踏跡にしたがって進むのだった。武田博士の云われたように、葉をふるった八重皮の細い枝先が、みな箒のように幹の中心にむかって縮んでいるのも見た。八ガ岳のうしろから流れ出す巻雲の糸が、蜘蛛の巣のようにもつれて巻層雲になる有様や、薄氷のような雲に陽が映って、見事な暈の断片を空のところどころに現わす奇観も見た。兎の足痕は到るところ、隼らしい鳥が一羽、落葉松林の頂きをかすめて小鳥を追う光景も見た。撮影、写生。私たちはこの思いもかけなかった深い雪の高原を隈もなく味わい取った。
 ニツ山からは先に云った飛脚屋としばらく一緒に歩きながら、やがて別れて樋沢川右岸の高みを約一里半、次第に曇りはじめた午後の空の下を今は言葉少なになった二人がとぼとぼと進んだ。路の雪はもう凍っていた。仄暗い林の中を通ると木の間がくれに夕陽にけむる瑞牆山が見えた。そのあたり一帯、古い石版画に見るイギリスの風景に似ていた。もしも狐の夫婦が出て来れば、この「雪のたそがれ」の一幅が完成するのだった。
 細い路が急に顕著な降りになった。信州川上! 干曲川の開けた谷はすでに青々と暮れかけていたが、御所平の部落へ入れば鏡のように凍った往来の両側には門松が立ち、女・子供が遊んでい、さすが蕎麦の名所の川上も正月らしかった。私たちはくたびれた足を丸正旅館の土間へ投げ出した。ゲートルや靴に着いた雪は硝子のように凍っていた。

     *

 一里むこうの大深山おおみやまはまだ華やかな夕陽だが。
 山蔭はもうさむざむとたそがれた御所平。
 四つ割の薪を腰に巻いて、
 注連繩しめなわ張った門松に霜がちらつく御所平。
 海ノ口ヘの最後のバスが、
 喇叭鳴らして空からで出て行った御所平。
 腕組しておれをながめる往来の子供たちが、
 みんな小さい大人のようだった御所平。
 楢丸一俵十八銭の手どりと聴いて
 ご大層なルックサックが恥ずかしかった御所平。
 それでも東京の正月を棒にふって、
 よくも来なすったと迎えてくれた御所平。
 ああ、こころざしの「千曲錦」の燗ばかりかは、
 寒くても暖かだった信州川上の御所平……
 そのなつかしい御所平を、
 味気ない東京の
 夜の銀座でぼんやりおもう。

     *

 一月四日、今日はいよいよ名にのみ聞いて見るのはこれが初めての信州峠を越える日だ。風は千曲川を吹きおろして来る東寄りの軟風。きのうにくらべれば余程暖かい。床をはなれて二階の縁から眺めると、八ガ岳は破墨の雲に中腹以上を隠されている。頭上の天は高積雲のだんだら。気温も雲向も風向もすべて条件が悪いので、深雪をざぶざぶ溶かす峠の雨に遭っては困るなと、気を揉みながら宿を出た。
 千曲川上流も、最奥の部落梓山から樋沢まで約五里の間、右岸は直ちに三国山から西走する一支脈が迫っていて、谷らしい谷も無いのにひきかえて、左岸へはいわゆる奥秩父の厖大な主脈の分水がすべて北流して注いでいるので、そんな処には大抵小規模ながら扇状地のような地形が見られ、狭くはあるが耕地も営まれ、部落もおおむねその附近に発達している。私たちも御所平の宿から裏手へ出ると、黒沢川というのに沿ってこの種の地形の一端を登りつめ、川から約一〇〇メートルばかり上の荷車道をなおも南へ南へと峠をさして爪先上りに進んで行った。
 轍や馬の蹄に犁きかえされて足もとのひどく悪い、針濶混合林の中の薄暗い路を半道あまり進むと、原の部落から来た幅の広い路が一緒になる。夕暮のような弱い光線の中で、冬枯にけぶる落葉松林、唯ひとつの白い物である白樺の幹、その間からひっそり出て来て相会う路、その寂しい構図に心をひかれたので三脚を立てていると、やがて薄陽が洩れはじめ、風も出て来た。御所平の方から峠下まで炭を取りに行く荷馬車も勢よくやって来た。気分がだんだん明るくなった。弟は砲煙たちこめる戦場のような横岳・硫黄のあたりを、最前景の白樺を取り入れながら苦心して撮影している。
 林の中の陰気な路は其処で終った。小さな坂をおりて沢を一本渡ると、山と谷との間の茶色に枯れた広い平坦地へ出た。右手にはその名のとおり優美な女山が薄陽をうけた雪の茅戸を展開し、左手には高登谷山たかとややまがなかなか立派な山容をそばだてている。われわれの正面、この二つの山の間に見えるあの緩やかな凹みこそ目ざす信州峠にちがいなかった。其処では薄い高層雲の裾が風に捲れて、スカイラインに接した空がなんとも云えず美しい透明な草色になっている。なまよみの甲斐の空だ。
 私たちは煙草をふかしながらぶらぶら行く。信州峠附近の平和な風景は、おそらく此のあたりから牧場ぐらいまでをもって最とするのだろう。路を横ぎってはみ出した落葉松の植林をぬけると、左手枝沢の流域の奥に犀角を立てた瑞牆山が現れる。きのうの夕方野辺山ノ原の一隅から見えたのも、ちょうどこの同じ直線の方向からだったのである。
 間もなく路は黒沢川の三本の源流が一緒になる地点へ達した。高登谷山、女山、信州峠と、三方を山にかこまれ、美しい草地と緩やかな斜面と、豊かな水の流れとを持つ平和な一小天地だった。今でこそ一面に厚い雪の布で被われ、ところどころに群落する樹木もうらがれて寂しいが、やがてすべての山谷に柔かい春風がふきわたり、この原が一斉の新緑や花によみがえる時、高い水楢の梢に歌うオオルリやヒガラの歌を聴きながら、或いは植物採集にさまよったり、或いはかんばしい青草に身をたおして無為の春昼をねむるのは、そもそもなんという楽しさであろう。原の西には爛漫と真白な棠梨ずみの枝ごしに、のんびりした女山の草山となごやかな青空、原の東には長大な高登谷たかとやの山腹と瑞牆山の南画の岩峯。その別天地に人間の身をよこたえて、物も思わず在ることはなんという至福だろう。
 もう此処からは峠も近い。私たちは撮影に費したかなりの時間を取りかえそうと、おりから雲を散らして君臨した太陽の光を全身に浴びながら、上着をぬいで急ぎ足に峠路へかかった。しばらくは牧場の柵が右手に見えた。或いはこのあたり東信牧場の一部であったかも知れない。登るにつれて今通過した原の俯瞰が美しくなる。その原を覗くように男山・天狗山の二峯が嶮巖の巨頭を千曲の対岸に峙たせ、その左には眼もはるばるとエメラルドの空をかぎって、八ガ岳火山の東の裾が王朝貴人の眉をえがいている。
 左右の山が近くなった。深い雪が軟化してずぶずぶと足がもぐる。伐採の手の入った横尾山が樹木の毛を植えた白頭を押し立てて眼前に迫って来る。炭焼の竃が薄青い煙を上げてあちこちに。小屋の近所で遊んでいる子供の声、それにまじって犬の吠声。そこも過ぎていよいよ最後の二三分間を頑ばると、とうとう辿りついた信州峠。
 私たちの眼の前には俄然全く新らしい風景が展開して、眼下の谷からは囂々と甲斐の大風が吹き上げて来た。

     *

 地図にある信州峠、これを信州側では小尾おび峠といい、甲州側ではしばしば川上峠と呼んでいる。蓋し北すれば信州南佐久郡川上村へ、南すれば甲州北巨摩郡増富村小尾へと通う、彼らの古い交通路によこたわる峠だからであろう。海抜一四六四メートルのその頂上には小さい石塔が立ち、手向けの石が積まれ、牧柵の柱が傾き、クラストした雪は足を裏切って、国境の風は膚を裂くように冷めたい。
 しかしここからの金峯山・瑞牆山の眺めは予想のとおり素晴らしかった。針のような木立が積雪の面に長々と影をよこたえて、その影が美しい縞模様をなしている尾根のむこうに、がっくりと釜瀬本谷は割れ込んでいるが、そこに銀の象嵌をほどこした真黒な瑞牆山の岩峯が、大鑢、子負岩こぶいわの鍬形を立てて兜のように鎮座している。金峯はその右手奥に見える。秩父連峯の盟主金峯山は、頂上の五丈石から賽ノ河原へつづく北面の斜面にべっとりと雪を塗りつけて、それがさっきから山頂へこびりついて離れぬ吹流しのような雲の揺れるまにまに、或る時は日を浴びて二里の彼方にぎらぎら輝き、また或る時は暗くかげって沈痛な青にかわる。この効果には実に一種悲劇的な偉大さがあった。
 金峯の南西の山稜は一度八幡山を起してそのまま次第に高度を減じてゆくが、その末にはまた新らしく曲ガ岳・茅ガ岳等の旧火山が頭をもたげて、釜瀬川本谷川の二つの渓谷とその間に紛糾する山々との彼方に、われわれの旅の終りの甲府盆地を匿している。
 展望と撮影とに時をうつした私たちは、やがてルックサックを背負い上げて雪を蹴る降りに掛った。初めの間はかなり急だった。ルックサックは背中で躍った。どんどん降って行くと炭俵を背負った女たちの一行を追い抜くことになった。一人が二俵ずつ背負って、背中をまるめ腰を落として速足に行く。彼らはわれわれがさっき見た炭焼場から来たもので、これから一里或いは二里下の和田か小尾あたりまで運んで行くのである。そしてそれから先は馬につけて八巻やまきまで売りに行く。ところで八巻の問屋での取引をいくらだと思う。一俵が最低十六銭から、極上品でさえ二十二銭が相場だというのだ。私たちは竃の現場から女たちの山坂の運搬、金かんじきをつけた馬での運送、最後に問屋の手に渡るまでの木炭の全過程を見た。僅かばかりの仕切の金を、彼らは八巻の村で日用品にかえていた。
 降りがだんだん緩やかになると、甲州最北の寒村黒森の部落が現れた。釜瀬の谷を見おろす斜面の地形を階段状に刻んで、可憐な農家や山畑が箱庭のような風景をなしていた。そしてこの恵まれぬ末の娘を特別愛し慈むかのように、母なる瑞牆はふところ深く彼女を抱きかばっていた。
 われわれは部落のはずれの最も貧しい一軒のあばら家で晩い中食をしたためた。囲炉裏ばたへわれわれを招じて香の物やお茶を出して呉れたその家の主婦は、さんばら髪に眼をしょぼしょぼさせながら、「択りに択ってこんな汚ない家へ立寄ってくれた」ことで感謝していた。ひどい暮しらしく、家具といえば一箇の鼠入らずと真黒になった勝手道具だけだった。畳は心しんが出、壁はとうの昔に剥がれ、板を張らない天井からは、空の光が星のようにこぼれていた。それでも旧正月が間も無いというので、いろいろな話をしながら布団の綿を入れかえていた。だがその綿ぼこりが鼻の孔へ飛び込むのを、私たちは余り苦にもしなかった。入れかえるべき綿や布団が未だ有るならば、物を更新しようという気持をこの人が未だ持っているならば、それならばわれわれはいくらか心が楽にされるのだ。
 女は云った、「死ぬまでには一度でいいから東京って所が見たいものだね」
「東京を見たらこの黒森のよさがはっきり分るでしょう」と私はいった。
 帰りしなに僅かの茶代を置いたら、
「此処では日銭ひぜにが無くても暮らせるのに、こんなに頂いては済まない」と固辞したが、やがて押戴いて細帯の間へしまった。
 外へ出ると自然は晴ればれと美しく、甘やかに悲しい夕日がほほえんでいた。
 黒森からまた半里ばかり降って和田の部落。ここで釜瀬川と別れて、山越しに東小尾ひがしおびから増富ラジウム温泉へ向った。山路へかかって振返ると、向うの高みに見える黒森から眼の下の和田へかけて一面に西日が流れ、個々の苦しみ悩みを宿す山村も、遥かに見ればすべて平和の姿であった。
 やがて雪の峠路を過ぎて私たちは本谷川の岸へ出た。其処を人は破魔射場はまいばと呼んでいた。このあたりは私にとって曾遊の地である。もう灰色じみた白と紫とにたそがれた寒い東小尾の部落は、路が硝子のように凍って、時折すれちがう人の姿も風のように黒かった。
 川は歌っていた。私のために

  Flow gently, sweet Afton,
  among thy green braes;……

 そして私は、今遠い北海道にいる河田君との四年前の旅を痛切に思い出し、また現在私とならんで宿の前の坂道を登っている弟、今度の旅を私と一緒に完成した愛する弟、やがてはこれもまた美しい思い出の中の一人となるべき弟を顧みながら、女中たちが駈け出して出迎える津金楼の玄関の硝子戸をあけた。

                           (昭和十年作)
 

 

 

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 大蔵高丸・大谷ガ丸

 午前三時半初鹿野で下車。笹子トンネルの饐えたような蒸れくさい匂いがこもっている仄暗い車内の、真夜中じみたいくつかの無表情な顔に見送られながら。
 初鹿野はじかのとは、わけても秋に、ついでは杜鵑鳴く晩春初夏の候にこそ聴くべき名である。笹子をこえて人は甲州国中の平野へすべり込む。錯覚をおこしそうな眼がぼんやり見ていたスイッチバック、三方から倒れかかって来そうだった山々の壁、あの郡内ぐんない初狩の名をまだすっかりは忘れてしまわぬ内に。
 振りかえって見上げると、今抜けて来た山のまっくろな影絵の上に際立ってあざやかな一つの光。甲州路の旅の晴天をいつも予言する星の光だ。心が未だ見ぬ今日一日のために歌い出す。しかし夜は明けない。世界は陰沈と眠っている。一行七人、われわれもまた黙々として進む。この静寂をやぶるもの、ただ時折石を蹴ってかつぜんと鳴る鋲靴の音。

 日川につかわへくだる水野田あたり、或いはランターン、或いは懐中電燈が、路に散りしいた八重桜の花びらを照らし出す。たった一人見馴れぬ照明具を持っている者がある。それは小さい蝙蝠傘に似ていて、さすように押せばすなわち提灯になるのである。便利ではあるが、形には未だ洗練が足りない。多勢で行く時には普段知らないさまざまな物が飛出して来る。それが屢ゞじつによく持主の生活の趣味を体している。それどころか余り持主にぴったりし過ぎていて、まるで彼自身の一部のように見える時さえある。それらをすべて好意をもって眺めることのできるのは、恐らく旅における寛容の極めて自然なはたらきであろう。どうか物にこだわらぬ此の寛容が、常の私を薫陶して呉れればいい……

 坂をくだって大石の磊々としたところで日川につかわを左岸へわたる。昼間ならば、この美しい谷のなかでの唯一の浅薄な、平凡な箇所である。下流に出来た水力発電所のために水が痩せ、谷床が露出したのだ。しかし未明の暗さは一様にあたりをこめて、わずかに白く砂や石をそれと見せるばかりである。
 と、とつぜん、ポンポン、ポンポンという声がする。筒鳥だ。それは実に幽かすかな、水の底からのような、滑らかに澄んだ、しかも輪郭のはっきりしない玉のような声で、一羽ではありながら遥かアメ沢の奥あたりで鳴いていると思えるし、また案外間近なその辺の谷間で鳴いているとも思われる。これが若しも昼間であって、眼が四周の条件を残らず理解していると鳥の所在もおよそ見当がつくであろうが、闇の中では人間の聴覚も意外にあてにならないもので、眼の協力が無くてはいつも大抵迷うものらしい。みんな歩みをとめてしばらく耳を傾ける。山へ来たという感じが今更のようにはっきりする。鳥は鳴きやむ。そのあとの、何かが抜けてしまったような空白の気持。やがて再び沈黙が凝る。われわれは景徳院の下を進む。すでに大谷ガ丸の空には蒼白い黎明の色がある。

 曲リ沢の下流を知らぬ間に橋でわたると、ようやく路幅が狭くなる。それにつれて両側の植物が一層われわれに親しくなる。一人消し二人消して、むしろ夜明けの涼しい仄暗さを楽しみながら進む下の方には、田野鉱泉が二つ三つ電燈をともして眠っている。朝のこんな時刻に近くで見る旅館という物の、何とない哀れさ。一度爪先上りになった路は再びゆるい降りとなって、昼間の新緑の透きとおった美しさをさこそと想わせる下蔭を行く。やがて土屋惣蔵片手斫かたてぎりの遺跡。しかし路は立派に改修されて、精忠と憤怒の刃を片手でふるった昔の岨道そばみちの俤は今は無い。われわれは焼山・瑳峨塩さがしおへの路を左に分って、右へ大蔵沢へ入った。
 一体この沢を溯行して大蔵高丸へ出ようといい出したのは、今日のリイダー河田楨君である。それで若しもいつもと同様に、この行でもまた彼に成算があるとすれば、私は唯々諾々としてその驥尾に附けばいいのである。頸から吊した磁石の白い打紐、色鉛筆で等高線を塗りわけて、小さく畳んで持った地図、小径の分れへ立ち停ってあたりの様子を克明に調べながら、その地図と首引きしている時の彼の年よりも若く見える襟足と、そのあたりの子供のような皮膚の色、さては目深かにかぶったあの古ソフト、その下で大きく円く、すこしびっくりしたように光っている近眼鏡。何もかも見馴れていよいよ親しい、登山家というよりもむしろ考古学者といった方が似つかわしい彼の山旅姿を、満足と安心とをもって後ろから時々見やりながら、不即不離の呑気な気持でくっついて行けばいいのである。

 沢を右岸へ渡って一宇の祠の立っている小さい山足を乗越すと、水辺の少し開けたところへ出た。そこは流れの曲り角で、淙々と響きを上げて走って来た水が急に深みへのめり込み、岩に激しては真白な水煙を噴き、淵に吸われてはエメラルドの陰影を持つ逞ましい束をうねらせ、ぐるんぐるんと強い渦を巻きながらリズムを変えて落ちて行く。われわれはそこにある岩に注意した。水蝕のために糜爛して見事な葱状構造をあらわした、円い大きな石英閃緑岩のかたまりが幾つか、水の舌に舐められたり涼しい波紋に巻かれたりしているのである。
 午前五時。ここからは山に遮られて見えないが、太陽はもう日出後三十分の高さにいる時刻だ。あたりはすっかり明るくなった。小高いところへ立って往手の狭間はざまを見とおすと、左右から幾重にもなだれ込んで来る枝尾根の奥のおもわぬ空の中程に、枯木立の毛を植えた嶺線が見える。たぶん破魔射場はまいばから大蔵高丸へと続くそれだろう。
 それにしても及び難ないおもかげのような、あの遙かな美しさは!
 水は豊富だし時刻も丁度。一行はここで朝飯にかかる。枯枝をあつめて火をたく者、グラウンド・シーツや新聞紙を拡げて席を作る者、罐切を求める者、自分の食料を友達にすすめる者、誰かが三脚を引きぬく金属的な音、爆笑、駄弁、洒落、揶揄からかい。それにまじって頻りなしの早瀬のどうどう、新緑の朝を囀るセンダイムシクイの「チチプ・ジューイ。チチプチチプ・ジューイ……」
 世にも賑かで若々しい、春の谷間の食事ではある!

 沢や渓谷をさかのぼる心は、やがては我が身をそこに置くべき山頂を絶えず往手にこころざしながら、他方ではまた刻々に移りかわる小世界を、我が足の一歩一歩に創造しつつ行く心である。徒渉するにせよ、危い岩壁をへずるにせよ、滝や釜に出会って高廻りするにせよ、遭遇するのはすべて予期のほかなる事ばかり、洞察とエ夫とをもって解決しなければならぬ地物、地形の気紛ればかりである。そこには山稜を行く時のような展望もなければ見通しもない。枝沢や支谷は次次と現われる誘惑の手招き、問題の提供、迷誤の機会である。しかしこれらの困難に直面してあやまり無くことに処する頭脳と体力との労が甚だしければ甚だしいだけ、渓谷遡行の滋味は深く、登頂の喜びもまた一層大きいといわなければならない。
 われわれ一行にとっての大蔵沢は、しかしちっともそれでは無かった。閃緑岩質の谷は明るく白く、水もほそく、両岸は楽しい若菜、輝く芽立、燃える躑躅。おまけに快晴の空はいつも頭上を青々と帯のように流れて、しかもほとんど黒木を鎧わない山々は、朝日を浴びたその平和な藤色の地肌のために、五月の空の眼に見えぬひろがりをさえ絶えずわれわれに思い出させていた。

 朝飯の場所を出発してから、しばらくは天然の庭をあるいている心だった。自然のままの水の流れや岩石の布置には、谷の浅さにも拘らず精神をよろこばせる要素があった。その水辺には壮大なタデノウミコンロンソウが白い十字花を群らがらせ、水中の石は可憐なヒメレンゲの黄いろい星に飾られていた。樅であったろうか、大木が三四本、暗い影を落しているところに大きな岩があって、そのえぐれの下には人間のはいれるほどの余地があった。
 「キャンプにいいな」と誰かがいった。
 「二人は楽に泊れる」と河田君が応じた。
 私はこの高い立木と、この巨岩と、電光が飛びちがうこの谷の雷雨の夜とを考えてみた。

 山腹のところどころを焔のように照らしているミツバツツジの半透明な紅紫色、ヤマツツジ、ハンノウツツジの鄙びた赤、また片蔭の崖ぶちにはヒカゲツツジの硫黄色、さらに薄緑の霧を吹きつけたあらゆる樹々の若葉をかざして、五月の大蔵沢は今こそその最盛季である。登りは緩く、すべてが路。土産のために手頃な木を掘り取る者、藪蔭に咲くイチリンソウやヤマルリソウを捜す者、石を拾う者、カメラをのぞく者。時間記録を作る山旅でない気安さには、みんないい気持になって楽しみながら歩いて行く。
 やがて米背負こめしょいの鞍部から落ちて来るひっそりした沢を右手に見送って、しばらく山路らしいところを進むと、もうほとんど水無しになった大蔵沢はからりと開けて、正面には目ざす大蔵高丸の西方へ張り出した尾根が屏風のように立ちふさがる。
 いよいよあれだ。もうあれだけだ。漸く変化を欲しはじめた心が今までの安易を捨てて、「もうあれだけ」という限られた前途の前でいくらかの努力を誓う。しかしこれは勿論私のことで、このいささかの奮発にしても、あすこまで登って行けば後は降り一方だという情ない心頼みがあればこそである。若しもその先に、なおも追求しなければならない理想の高処が、幾つかの急坂を前に立てて遠く聳えているのだとすれば、この奮発心が果たして出るかどうかは、少くとも山の場合では疑問である。
 最後のところで沢は二つに分れていた。左斜めに奥の方へ曲り込んでいるのが真の源頭らしく思われたが、見たところ上下一面の薮で、踏跡もなければ魅力もなかった。それでわれわれはむしろ真直ぐに本流の形をとっているもう一方のを選んだ。
 行き当った沢の詰はまっしろな崩壊面を立て掛けていた。ほかに足掛りの便も無いのでこれを攀じのぼることになった。欠けた茶碗の内部のような堅いつるつるの急斜面に、一皮薄く砂が掛っているのだから、危険は無いが登りづらい。二歩登っては一歩すべる。爪を立てても爪の利かない、謂わば隔靴掻痒の感である。しかしそれも難無く過ぎて鞍部の高みへ這上ったが、この急坂の中途から振返って眺めた富士、大蔵沢両岸の新緑を額縁にして、薄むらさきの霞の上、八町巣鷹を踏まえて立った富士の画面は、もっとも印象的なものであった。

 しばらくは吹き上げて来る谷風に涼を納れ、はじめて見るハシリドコロの紫の花に眼を休めなどしながら、さて鞍部の樹林に別れると、かなり急な茅戸の登りを私はゆっくりと一行の後につづいた。
 麓では小鳥の歌を聴いて来たが、碧落の下に暴露したこの一七〇〇メートルの高みまで来て見れば、さすがに春はまだ浅かった。冬枯のままの茅戸は乾きに乾いて、ところどころに巨岩の露頭を見せながら白茫々、踏めばピシピシと音があった。汗は淋漓と頤を伝うが、高処の春の風の冷めたさ、帽子を手に先へ進む友の髪が横ざまに靡いて、スカイラインから抜け出したその半身は、まことに山頂の寂寞にふさわしかった。
 われわれは大蔵高丸の頂きを得た。頓には坐らずそのまま凝然と立ちつくして、先ず眼にうつる遠方に見入るのも登頂を果たした者の心である。
 私の眼には八ガ岳がうつった。八ガ岳はその権現・赤岳の峯頭に雪を掃いて、春がすみの涯はてに泛かぶ青であった。つたなく別れて幾歳久しい人にゆくりなくも出会った時の、あの嬉しさとも心おくれた面伏せともつかぬ思いに、胸は怪しくときめいた。
 私にとっての懐かしい「山の星ステラ・モンテス」である八ガ岳の右手には、金峯・国師の一連がその長鯨の背を上げていた。山頂に打った揚音符アクサン・テーギュのような金峯山の五丈石から嶺線づたいに、一本力強い銀線を塗りこめているのは、毎年晩くまで残るあの雪である。それから右へは甲武信、破風、雁坂へとつづく一群が大鵬の翼をひろげて北方の空を領略しているが、忽ち湧き起る中景の大菩薩連嶺に妨げられて、雁坂以東の山々は見えない。
 ここから北へ縦にながめた大菩薩・小金沢の連嶺は、たしかにひとつの壮観だといえる。一度脚下に落ちこんだ湯ノ沢峠は白くずれの馬の背を北東に向って逆巻きのぼり、そこに美しい白屋ノ丸と黒木を縅した黒岳とを峙たせ、東に大峠の鞍部を包んで客将のような雁ガ腹摺山を堂々と据えているが、連嶺そのものは黒岳からほとんど真北に蜿蜒とつらなって小金沢山の大砲塁を形作り、ついに大菩薩本岳の端麗な容姿を変化の最高潮として終っている。本岳と大蔵高丸とは謂わば東にむかって彎曲した一本の弓の両端で、日川の谷はその弓弦にあたっている。しかしこの銀の弓弦にむかって緩かになだれる連嶺西側の幾条の流線の、何という平和なのびやかな眺めだろう。今、五月の陽光を浴びて二里を深まるその緩斜面の裳の流れは、飛ぶ雲の影を遊ばせる放牧地のように見える。
 だがあれは何だ。西の方紫にたなびく甲府盆地の霞をぬいて、天にただよう銀いろの一線は。それは確かに南アルプスには違いなかった。人は彼らを北岳といい、悪沢と指さす。しかしそこに山岳をおもわせる地とのつながりが無いではないか。さながら空の宙宇に懸かっているではないか。大地から絶縁して、それは余りにヘルデルリーンの歌の翼ではないか。夢にたとえ、幻と呼ぶのもいい。だが私はむしろ匂いだといいたい。大自然の春が吐いて中天に凝らした、霊妙な精気の漂いだといいたい。
「瞬間に一つの神を見たと思った」と河田君は書いている、「すくなくも一つの神は私の心にひらめいたと感じた。この詩、この夢、中空に漂うかぎり、自分の心に感じ得る限り、地上に何一つ持たぬ私も決しく貧しくはないと、つくづく意を強うするに足りた」
 君の神、私の精気、彼の山。言葉はそれぞれ違っても、われわれは結局「言いつくし難きもの」のことを言っているのだ。われわれは常にこれに憧れてこそ高きへ来るのだ。

 中食を終ると一行は腰を上げた。滝子山まで縦走して夕方の上り列車を捉えるのであってみれば、そう何時までも山頂の麗らかさに寝ころんでもいられない。ぴかぴか光る茅戸の尾根は、ところどころに毛のような樹叢を煙らせ、フジザクラというのだろうか、紅貝べにがいのような小さい美花を下向きにつけた灌木の藪をつづり、迷いようもない見通しをもって破魔射場の三角点につづいていた。
 今日大蔵高丸を訪れたものは、私たちの外にもう一組あった。破魔射場からのやや長い降りに掛ろうとする時だったろうか、その三人の一組が枯茅の中から突然現れて私たちを呼びとめた。
「初鹿野へ出るにはどう行くんですか。あいにく一人も地図を持っていないものですから」というのである。
 見れば揃いのカーキー服に、鉢巻さえ勇ましい若者たちである。何処から見ても山の猛者らしいこの人々が、磁石は愚か、地図一枚持っていない不用意にはむしろわれわれの方が駭かされた。
 こまごまと道を教えられて急いで行くその三人の後ろ姿には、しかし何となく疲労と困憊との影があった。
 何処から登って来たのだろう。果たしてうまく帰れるだろうか。それがゆくりなくも私たちの心をかげらす気懸りであった。
 破魔射場の降りあたりから初めてその全容で人を驚かすのは大谷ガ丸である。前方に二つ三つの小さい突起を上げて天下石のある峯へ続いているこの尾根が、いくらか東寄りにねじれているので、再び西へ扭れの戻った正面に、米背負の鞍部を削り落として屹立する大谷ガ丸の二つ瘤の駱駝の背は、その登りにそもそもどんな急登を強いるのかと初めての私をおびえさせた。それには茅戸に馴れた眼にうつるあの北面の黒木の木立と、針を植えたようなその二つの山頂の如何にも奇怪な形とがあずかって大いに力あるのであった。
 やがて必ず見逃すまいと心懸けて来た天下石の巨岩。
「死んだらこの石の下で眠ってもいいな」と友はいう。私はそういう友の横顔を見、岩をめぐる風を聴き、煙草をつけて佇んだ。
 われわれがこの峯をそのまま正直に通過することをやめて、踏跡も無い茅戸をくだいて直接米背負への近道を一散に降っている時、上の方で声がした。仰いで見ればさっき道を訊いた一行の離ればなれの姿が見える。声はわれわれを呼ぶのではなくて先へ行く仲間を呼んでいるのである。遠くてよくは分らないが、中の一人はどうやらひどく疲れているらしい。なぜ一隊とはならないのだろうか。いさかいでもしたのだろうか。仲間を残して己れだけ先を急ぐとはそもそもどんな心だろう。
 これがまたもや私の心に暗い影を投げた。
 大木に囲まれた米背負の鞍部は、左右に沢の源頭をなして、冷えびえとした寂寞の境地であった。右へ降れば大蔵沢へ、左へおりれば真木沢へ、それは分っているがこの寂しさ身にしむ源頭の何れをも、一人で辿るのは心細かろうと思った。
 大谷ガ丸の登りは急であった。恥ずかしいことだが、心臓の僧帽瓣に故障のある私は、脚の強さでは滅多に他人にひけは取らないが、呼吸が切れて仕方がなかった。一行の一人が私のルックサックを自発的に引受けて呉れた。お蔭でにわかに楽になると同時に、今度はいつもの欲が出て、樹下の湿めった急坂におびただしく生えているマイヅルソウを掘ったりした。
 突然頭の上で、
 「出たよう!」と声がする。最後の藪を押し分けてひょっこり顔を出すと、そこは三角点のある大谷ガ丸の一峯だった。
 地元の者のいっている大岩丸おおいわんまるの名にそむかず、閃緑岩の大塊をごろごろさせたこの山頂は、さして広くはないが鶴つるガ鳥屋とや、三峠を前にする富士に対して好箇の展望台をなしていた。南西はだらだらと降ってヒラッサワの緩斜地、正面には巨大な鹿のような滝子山が、あの有名な藪尾根を左にひかえて横たわっている。

 私と河田君とは相当に疲れていた。水を探しに行くというので遥か下の沢との間を往復して、なおも滝子山へと縦走をつづけようという若い人たちのような元気は、少くとも私の場合では今の登りで消耗していた。それで若い一行とは此処で別れて、颯々と茅の中を駈け下る彼らをしばらく見送ったあとで、その成功を祈ったあとで、私たち二人はゆっくりと、曲リ沢峠への尾根伝いにぐるぐる廻る降りをたどった。
 上空にはかなりの風があるらしく、青空のところどころにレンズ雲が出ているが、漸く傾いた五月の太陽は黄いろい色を増していた。その豊かな光の流れは、過ぎて行くあたり一帯の凹地を満たし、水楢の疎林を照らし、開墾地の山畑を照らし、絵にもしたいような椎茸の栽培地を愛撫していた。
 やがて私たちは美しい曲リ沢の峠にいた。そこには友が八年前にも腰をおろしたという同じ角材が一本、昔のままに残っていた。二人はそれへ腰をかけて弁当の残りをつかった。煙草をくゆらしながら静かに語る友の追億を聴いていると、この捨てられた木が今日一日のために、朽ちもせず焼かれもせずに生きながらえて、春風秋雨八年の永きを、かならず帰って来る彼を待っていたのだという気がして来た。
 日は傾いて樹々の影が長い。あたりの草原には青々と夕風がうまれる。二人は徐ろに立上った。
  O, I will come again, my sweet and bonny……
 私は愛すべきこの路傍の木のために、また友の優しい心のために、ベートーフェンを口ずさんだ。それは彼らへの私の感謝であると同時に、私の真情のおのずからなる訴えでもあった。
 二人は豊麗な夕日を今日の最後の幸福として浴びながら、シデザクラやハクウンボクの白、ヤマツツジの燃える赤に彩られた新緑の尾根道を、ようやく黄昏せまる日川さして降りて行った。


 

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 蘆川の谷

 大石峠を蘆川あしがわの谷へ降ろうとして一歩踏み出すと、そこは俄然荒れくるう風の舞台だった。
 峠の南側では、富士へ向けてその山頂にこびりついた雲の離れるのを待っているカメラも、河口湖の美しい汀を入れて遠く鹿留山ししどめやまを覗いているカメラも、ほとんど微動さえしなかったのに。
 三月下旬の北西の強風は、釜無の流域から甲府盆地へ吹きひろがると、再び大軍をかりあつめて盆地南縁の扇状地を逆撫でに吹きなびけ、黒坂・鶯宿おうしゆく・関原なんどの峠を一飛びに飛びこして、直接御坂みさかの長壁にぶつかった。
 一方、市川大門のあたりから蘆川の構造谷へ侵入した一隊は、そのまま谷に沿って東進すると黒岳と釈迦ガ岳とが囲む袋の底へ盲目めくら押しに押し込んで、そこで主隊と遭遇して同志打ちの大混乱を捲きおこした。
 山へあたって仰反のけぞる風、それを下から押し上げる風。御坂山塊北面の中腹に風は縦の渦を巻いて、全山の樹々を根からゆすぶり、そのひゅうひゅういう叫喊で蘆川の谷を満たしていた。
 意外なのは風ばかりではなかった。尾根を五六歩下ると忽ち現れたのは靴を没する残雪だった。雪は寒風に凍っていた。私たちはその雪を蹴ちらして、時には尻餅をついたりしながら、未だ冬枯の雑木が猪毛のように立った急斜面を一気に四〇〇メートルばかり駆け降った。
 私たち。武田久吉博士と、河田楨君と、斯くいう私との三人だった。
 私たちはその日の朝、前夜の泊りの河口湖ホテルを出発すると、直ぐに船で湖水を渡って、北岸大石村から峠をさして登って来た。そして今夜は蘆川村へ泊るというので、時間の余裕はたっぷり有るし、天気もいいし、まして一行の一人は植物と写真の大家と来ているので、途中撮影や見学に手間取ったことはいうまでもない。撮影は仲よく揃ってしたが、植物の方では、折角の貴重な講義の聴手というのが、志余って素質の良くない私と河田君なのだから、考えてみれば勿体ないわけだった。
 風と雪との乱戦場を一気に四〇〇メートル降って来ると、急にぱったり静かになった山路に、春を魁けるマンサクが、あの黄色いチリチリ紙細工のような花を、青空のかけらを映す沢水の上にかざしていた。
 武田さんに介抱され、河田君に声援されて、つい一と月前に器械を手に入れましたという幼稚園の私が、そのマンサクの枝を前に眼を据え、へんな腰つきをして、ふらふらとレリーズを押すのだった。
 やがて蘆川の谷へ出た。さしもの風が、ここまで来るとぴたりと凪いで、蜜のような西日に濡れた谷や村は、爽やかにも甘美な眺めであった。
 私たちはぶらぶら歩いた。
 この稀有のひとときを、心ゆくまで味わう理由こそ充分にあれ、飛脚のように急がねばならぬ訳はどこにも無かった。
 上蘆川の部落は浅い谷の右岸にあった。片側は低く石垣を築いて、片側は土の高さに、路をはさんで農家のならぶ村だった。宿屋を聞けば、中蘆川には二軒ばかりあるという。
 時刻は未だすこし早いし、風景はよし、三人ともすっかり呑気になって、右手は始終節刀ガ岳のとがった頭を見上げる路を、物見高い眼と、口を衝く警句、相変らずゆっくりと、場合によれば鶯宿おうしゆく・古関までのしても平気なような顔で行く。
 新井原という小さい部落を通りすぎると、路は谷沿いにぐるりと右へ廻って、また戻って、やがて如何にも山村の日曜日らしい小学校を見て通ると、そこが中蘆川の村だった。
 村の入口で畑帰りの女房連れらしいのを捉えて訊くと、宿屋はなるほど二軒あるが、先の方のは家も古くて汚ないし、それに爺さん婆さんばかりだから、果たして泊めるかどうか解らない。それよりも取附きに、それ直ぐそこに見える新築の宿屋、その何とか館とかいう家の方が気持もいいし、つまりサーヴィスもいいというようなことを聴かされた。
 教えられた宿屋は直ぐわかった。なるほど新築といえば新築には違いないが、古い家へ新らしく二階を継ぎ足して、下はがらんど、それを蚊の脛みたいな柱二本で支えたという、まるで神楽堂を曖昧屋にしたような、ひどくあたじけない、薄っぺらな旅館だった。
 三人とも顔を見合せた。
 しかし爺さん婆さんの方が保証できないとあれば仕方がない。それにもう、三月二十日の谷間は暮れるのも早かった。私たちはずかずかと入って行った。
 二階の縁の下を通り抜けると古い家の土間だった。
 武田さんが、いきなり
「ああくたびれた」とルックサックを下ろした。続いて後の二人がどかどかと入り込んだ。その勢にびっくりしたか、上りがまちに近い囲炉裏ばたで煙草でも吸っていたらしい五十恰好の薄暗い男が、煙管を握ってのっそり出て来た。その感じがひどく悪かった。
 先ず茶を頼んだ。薄暗い男はこっちの風体をじろじろ見ながら、ぬるい徽くさい茶を出した。三人とも身分相応な風采はしていたのだ。
 湯は立つかと訊けば、今日は風が強かったから、こんな日には村の申合せで立てないことになっているという。それじや困るな、湯が立たなくてはと、三人だけで話していれば、何処へ泊ったって立てやしませんと、暗に爺さん婆さんに当てつける。
 何か土地らしい食物があるかねと訊けば、土地らしいって、そんな不思議な物は有るものかという顔をする。
 酒のことだろうが、宿賃だろうが、一切の応答が、奥歯に物の挾まったような、狐を馬に乗せたような、泊まって貰いたいのだか、貰いたくないのだか、詮じつめれば、さっきあんなに村の女たちが推賞したにも拘らず、元来宿屋であるんだか無いんだか、それすら分らなくなって来るような、皆目要領を得ない性質のものだった。
 私たちは目顔でそれと相談して、茶代を置くとさっさと出た。
 外へ出るとほっとした。それから顔を見合せて大笑いした。
 恩寵薄き人間よ、彼は人から愛されず、また人をも愛さないように出来ている。喜んで胸襟を開かず、常に他人を警戒し、敵意を含み、卑小にして皮肉、たえず不快の空気を発散しつつ生きる。
 私は人間のこの型テイーブを中蘆川の村の入口で見た。
 しかしまたそれとは相反する型が、同じ村の真中で私たちを待っていた。
 思い切りよく出は出たものの、涙をためて大笑いに笑いはしたものの、もう一軒の爺さん婆さんの所が、実は甚だ不安だった。
 そこが駄目だったらどうしよう。鶯宿おうしゆくまで行くか。
 「鶯宿まで行けばきっと宿屋はありますよ」と、武田さんは受け合うのだが、その武田さんも大分くたびれてはいるらしい。
 と、左手に、路から少し低く、横向きに建って、軒下の羽目板に朝日館と書いたペンキ塗の看板を取りつけた家があった。
 朝日館。そうだ。爺さん婆さんの宿屋をなんでもそんな名で聴いた気がする。
 相手が年寄と分ってはこっちも物静かに訪れる。どこにも入口らしい入口が無いから、だんだん廻って裏手へ出る。出ればそこに、どこの農家にでも見るように、台所兼玄関の大きな入口が、電燈にぽっと明るい障子でそれと知られた。
 驚かさないように障子をあげると、なるほど一人のお婆さんが、焚木を折っては囲炉裏へ押しこんでいる。
 今度はさっそく来意を告げる。今度も皮切は武田さんだが、老人相手の初対面では私などは落第である。
 恐るおそるの伺い立てが即座に、気持よく、しかも後で聞けば八十を越しているのだそうだが、実に元気のいい若々しい声で快諾を得る。お婆さんは一人きりである。今に息子と孫たちが帰って来るから、そうすれば湯も立てようし、御飯の仕度もさせようし、何しろ寒かったろうから早く上って囲炉裏へお当んなさいと、案に相違の、てきぱきした、実意のこもった、頼み甲斐のある言葉である。
 私たちはほくほくして、靴を脱いで行儀よく揃えて、服をはたいて、さてお婆さんと並んで睦まじく、四角の囲炉裏を四人で囲んだ。
 私はそのときの、またその夜一晩の、われわれがこの家の人たちとした沢山の、実に沢山の面白かった話を今はほとんど覚えていない。しかしそれが何だろう。忘れないのはその人々の好意である。実意である。真心を寵めた仕方である。私たちをして少しも窮屈を感じさせず、少しも隔てを置かせず、自発的に、心から楽しんで、それが人間の為すべき当然な事ででもあるかのように為してくれた一切である。
 これがそもそも宿屋だろうか。否、恐らく私たち三人のうちこんな宿屋に泊り合せた者は一人だって居なかったであろう。
 私は今喜びをもって思い出す。帰って来た息子というのは六十がらみの主人だった。立派な風貌の、健康そうな、甲州人の或る階級に特有なあの進歩的な、常に経綸を抱いている、声がよくて言葉の明晰な、従って中々論議を嗜む、愉快な人だった。
 私は思い出す。あの狭い、納屋のような風呂場を。しかしそれは私たちのために特に沸かされたものであった。また終始若い者が注意して、焚木を入れたり、水を運んで来たり、換言すれば、人を湯に入れると立派にいうことのできる仕方で入れて呉れたのだ。
 また思い出す。主人が得意げに話したあの組合の病院の話を。それは村の人たちが毎年幾らだか掛金をして置くと、病気の時はいつでも無料のバスで甲府へ行けて、そこの病院で無料で診察や治療が受けられるという、旨い仕組になっていた。
 なおも思い出す。あの義理堅く、すべての骨まで捨てずに盛って来た鶏肉の皿を。また私たちが楽しみの酒を味わっている間、こちらが断ったにも拘らず、絶えず誰かしら若者が一人きちんと畏まって座の隅に控えていたのを。
 また思い出す。僅かばかりの物の礼に、蘆川の谷のワサビを呉れたのを。そして「先生だから旗のついたのを」といって、武田さんには特に一枚葉のついたワサビを加えた、その諧謔を知る思いつきを。
 恩寵に恵まれた人々よ、それは君たち朝日館の一家である。
 翌日私たちはまたいつかの再遊を約してその家をたった。白峯三山の素晴らしい眺望が待っていた黒坂峠をさして……

                    (昭和八年作)

 

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 新年の御岳・大岳

 昭和五年一月三日年頭の挨拶に見えた友人長尾宏也君と二人、急に思い立って新年の武州御岳と大岳とを訪れようと、その日の午後一時半にはもう立川行の省線電車へ乗っていた。斜に車窓へ注ぐ日の光は暖かく柔かいが、天の西から南へかけて瀰漫して来る水っぽい流氷のような雲が気にかかる。だがその雲の下に丹沢は峙って見える。その巨大な塊りが昨日に引換えて今日は仄暗く、寂しく寒い。それにしても耿々と晴れ渡った北西の空のすごいような青さは! その下に蜿蜒と波うつ前秩父の連脈、吹きっさらしの武甲山の鉄兜、それから右手遙かに、柔かい乳房を寒冷な青い大気に溺らせている秩父の笠山……
 近頃完成した立川駅のコンクリートの地下道をくぐって青梅鉄道へ乗換える。午後二時半、いつもながら気持のいいこの電車が動きだす。拝島から福生あたり、目ざす大岳山の雄姿がぐんぐんと左手の窓へ移動して来る。雪のあるのは山の北側だけらしい。暫くは窓硝子へ鼻の頭をおしつけて、明日は攀ずべきその山を凝視する。今夜は御岳山で御師の家へ泊るのである。多摩川渓谷の奥深く、金粉ちらす靄の中に薄紫の大菩薩が屏風を立て、六ッ石山のかと思われる山稜の一つにべっとり塗られた寒い雪が、氷河のように青白く光っている。
 午後三時二十分終点御岳駅着、二人ともルックサックを背負い上げて直ぐに歩き出す。射山渓に架った例の新高橋の趣味のある吊橋の隣りには、鉄筋コンクリートの新らしい橋がもう九分通り出来上っていた。奥多摩渓谷だなぞと宣伝して、こうして段々天然の美を破壊してゆくのである。橋を渡って坦々たる爪先上りの道を、右に惣岳山の円い頭や多摩の青い渓流を見ながらすたすた歩く。驚いたことにはもうちらほら紅や白の梅が咲いている。中野の部落の入口で川と別れて左へ登山道。細い沢にかかった金泉坊、琴沢、石津などという小橋をいつのまにか過ぎて最後の部落滝本を通り、右手から落として来る最後の沢を越す身禊橋を渡って、いよいよ暗い老杉の並木道の急勾配へかかる。ここから御岳本社まで二十二町とある。稲妻形に登る坂道に苔蒸した丁目石が立っている。静寂身にしむような正月の深山。一羽の藪鶯の、一羽の懸巣の声もない。ただ見る青銅色ブロンズの、しっとり暗い、一途に登りゆく世界である。久しく山に遠ざかっていた私たちの足はぐんぐん進む。御岳駅から一時間そこそこで十五丁目の「中の茶屋」へ着いた。東方が全く開けた干六百尺ばかりの高みの平である。ぼうっと霞んだ武蔵野の地平に狭山の丘陵が黒々と見える。その真中に銀杏の葉形に小さく光っているのが東村山の貯水池だ。右手に遠く黄昏の色を映して流れているのは末は六郷となる多摩川だ。晴れた昼間ならば狭山の丘を挾んで立川、所沢の飛行場も見え、遥か地平の際涯に紫の筑波も望み得られる地点である。
 携帯の餅を焼いてもらって空腹をしのいで、中の茶屋を出た時はもう暗かった。それでもまだほんのりたゆたっている空の明るみを頼りに用意の山ランプは点けなかった。逆に大岳を越えて来た人たちらしいルックサックの四五人が私たちと擦違ってどんどん下山して行った。物の怪に憑かれたような無言の速足であった。
 道は富士峯を南に巻いて勾配が急になる。斜面の至るところに雪が匂いはじめて来た。とうとうと打鳴らす太鼓の音が夕暮の森厳な御岳中に響く。見上げると山の或る突出部に電燈がちらちら輝き、断崖にかかった御師の家の破風作りの側面の幾つかさえ数えられる。小学校の前へ出る旧道を右手に捨てて、崖際の細い新道をまっすぐに降ってまた登る。出たところは山上の人家のある一郭である。坂道の両側に立ちならぶ御師の家の立派な門がすっかり閉されている。ある崖に臨んだ道に立って東の方を眺めると、真暗な平野の底に蹲る町々の燈火が悲哀を含んだ希望のように濡れきらめいている。あれは立川、あれは所沢、その左が入間川の町だろうなどと暫くは寒さを耐えてたたずむ。前方九百二十メートルの日ノ出山の峯頭をかすめて、さすが東京は落日のような燈火の反射を曇天の夜空に投げ上げていた。
 途中ある雑貨屋の家の子供に案内してもらって、午後五時半、御師須崎宮治氏方へ到着。一泊を申し入れると快く諾って十二畳の一間へ通された。早速風呂を焚きつけてくれる。人品のよい老主人が挨拶に見える。立派なこしらえの煙草入から煙管へ詰めながら、端然と坐って附近の地理や土地の模様をこまごまと話して呉れる。やがて正月らしい豊富な御馳走が出る。召使の若い男の手で床がのべられる。丁寧に便所まで教えておいて、両手を四角に突いて「御ゆっくりお休みなさい」という。海抜二干五百尺、御岳山上の夜は寒気まことに鋭いものがあったが、人の心は純朴にもまた温かだった。
 一月四日、予定よりも一時間遅れて朝八時に出発。袴をつけた主人に玄関まで送られて本社へ登る石階にかかると、うららかな朝日の光が横ざまに流れて来る。昨夜夜半さびしい小雨の音をきいたが、今朝は一碧拭ったような快朗きわまる晴天だ。半面に日をうけたさんさんたる老樹の梢の針のようにこまかいのを、群をなした日雀や四十雀が枝移りして鳴きしきる。雲取山や白岩山、峯々の雪を研いで来た北西の朝風はつめたいが、脈々として全山をめぐる新鮮な大気は、夏の日の渇した咽喉をくだる冷泉よりもたのしい。
 大貴己命と少彦名命とを祀るという御岳神社は三干七十尺の高さにあって、新年の今朝はわけてもめでたい荘厳の気に満たされている。拝殿をあゆむ神官の衣の麻がさつさつと鳴る。われわれの柏手の音が爽かに響く。どこかでウソが鳴いている。清らかにも神さびた朝である。
 礼拝を済ますと今登って来た石段は下りずに、そのまま本殿の背後から巨杉の荒らくれた根張りを踏んで急斜面をまっすぐに西へ下りる。下りきるとやや平らな細い道が幾つかの小起伏をもって続く。御岳山と奥の院男倶那峯とをつなぐ狭い鞍部である。北に面した斜面は雪が厚い。右手真下に三四軒の農家が箱庭のように見えるのは越沢の里落か。山が影を落して朝日は未だそこを祝福してはいない。
 その向うには多摩渓谷対岸の連山が正面から日を浴びて、薔薇色に光った雪条を縦横に走らせている。ニイチエのいった「朗らかなる午前の山々」だ。振返ると大木の樅や杉を黒々と鎧った御岳山の左をかすめて、遠く、実に遠く、女貌、男体、白根、錫ガ岳などの雄峯が、沖の白波のように野州の空に立ちさわいでいる。静寂の極みの賑やかさ。そういうものが朝の山中を領していた。
 枝につるさがったり、すきとおるような声で鳴き交したりしている小雀こがらや日雀ひがらを可愛くもまた珍しく思いながら、左下から来た本道と合して、心もち南へカーヴする鞍部を過ぎて奥の院の登りへかかる。そこの崖道は南に面してはいるが、山麓養沢川の谷間からの吹溜のせいか積雪がかなり深い。そこに厚紙を棒の先へつけて、頂上までの道のりと一緒に、「奥の院へ登れ」という激励の言葉を書いた立札があった。してみると登らずに引返す人もあるとみえる。一尺から二尺ぐらいの堅い雪を踏んで登ること百二十メートルばかりで奥の院の小さい祠の前へ出る。ここは樹木が鬱蒼としていて全く眺望がない。ルックサックを残したまま真直ぐに雪をかき分けて千七十メートルの男倶那峯の頂上へ立つ。午前九時。畳数では八畳敷ぐらいしかないこの頂上は、河田楨氏の好著「一日二日山の旅」の「武州御岳と大岳山」の章にある通り、「樹林に妨げられて眺望は皆無であるが、そこから梢を透して眺める大岳山のいかにも魁偉な姿は忘れられない」
 奥の院から大岳山へ道を南西にとって進むと、ある隆起の下で小径が二手に分れる。一本は真直ぐに尾根伝いに行くもので、他の一本は左手降り気味に尾根の下を巻いて、農林学校の演習林を抜けて行くものである。私たちはこの後者をとったため確かに三十分は損をした。檜の若木の演習林を斜面に沿って左へ大きく迂廻するこの道は柔かい積雪が深い上に眺望というものが全くない。それに養沢川の頭をかすめて進むので地勢が見る見る低くなる。この辺に昔畠山重忠が陣屋を作ったのだと御岳の須崎氏から聞いて来たのだが、ゆっくり立ちどまって見る余裕もない。一時は道を間違えたのかしらと心配したほどである。すると九時半、七代ななよノ滝の方から登って来る道と一緒になったのでやっと安心したものの、それからまた少し急坂を登って尾根伝いに来た道と邂逅した時は、何だかつまらない骨折をしたような気がした。
 しかし大岳山! この邂逅点から直ぐ眼前にそびえ立つ大岳山はいかにも偉大に、荒々しく、美しい。白雪を地にしたその北面の冬枯の疎林、巨人のようなその豪宕な地殼のかたまり。実にヴォリューミナスで、あくまでもサブスタンシャルだ。天地悲しく吹き荒れる嵐の夜、この山は将に武蔵野に向って咆哮する!
 御岳の御師の須崎氏は「大岳神社前の茶店には年寄夫婦が居て茶を沸かして呉れますから」と言ったが、辿り着いて見ると雨戸がしまって人気がない。声をかけると寝床にいるらしいお婆さんが返事をする。何でも暮から風を引いて寝ついているのだが、元日に薬を買いに南麓秋川べりの村まで下りて行った者がいまだに帰って来ないというのである。
 四干尺もある寂しい山上の一軒家で、たった一人病気をしていてはさぞ心ぼそいだろうと同情して、携帯の薬嚢をすっかりあけて探して見たがあいにく風の薬だけがない。仕方がないから雨戸越しに挨拶をして、ルックサックを差掛の縁台の上へおいて、神社の左手から三角点をさして直ぐ急な登りに取りつく。この登りは雪が深いせいか最も骨が折れた。外套を脱いで来たのに汗がびっしょり。やがて雪がなくなると同時に立木もなくなる。崩落するだけ崩落しつくして、ぎりぎり決着の岩の塊だけがごつごつした峯頭を形づくる。その岩登りだ。信州八ガ岳の嶮のことを幾らか思い出させるこの頽岩の急傾斜は青空の底に暴露して、正に河田さんの書いているとおり、千二百メートル級の山にはほとんど他に匹儔がないだろうと肯かせる。こうして午前十時四十分大岳山頂二等三角点へ立った。御岳神社から二時間半である。
 干二百六十七メートルの頭を上げて武州平野を見おろす最前線の大砲塁をなす大岳の山頂も、畳敷ならせいぜい十五枚位のものであろうか。周囲を吹きめぐる高空の風は暖寒両様の縞になって、ここは碧落を抜いて立つ茫々たる一角である。
 北と東とは立木の茂みにさえぎられて展望が利かない。(この立木が日本橋白木屋屋上の二吋の望遠鏡で認められる)それに引換えて西から南への視野は実に広大なものだ。何よりも先ず目を悦ばせたのは、西方の尾根を越えて天地山(陸測五万分の一 五日市図幅にある鋸山)の岩山に続く御前山の悠然たる山容である。大岳山があくまでも男性的ならば、この山はおっとりと女性的でただ見るほがらかな白茶の草山である。御前山の頂きをかすめて遠く漂う山の霧雲の靉靆の果てに、例の大菩薩連嶺が雪にかがやく長大な尾根を現している。そのずっと右手に雪の雲取のすごいような一角が見えるが、それから以東、多摩北岸に紛糾する秩父の障壁はここの立木に邪魔されて全く見えない。大菩薩から左へ滝子、鶴ガ鳥屋、三峠と段々逆光に煙って南西に富士。富士は六合目あたりから上を雲につつまれて、僅かに剣尖を交えたような雪の笹縁だけが美しい。それから左へ加入道、大群、丹沢山塊の蛭ガ岳、深く重り合った丹沢山と塔ガ岳との陰暗な聳立、そして三角形の大山。すべて逆光をうけた霞に煙って、金箔をすかして見たようなパノラマである。
 もっと近く、三頭山の手前の風張峯からほぼ東へのびた浅間せんげん尾根の向うをほとんど竝行して、しかし一層高く決然と、力に満ちて、甲武国境の山脈が南東へ向って走っている。この国境山脈と浅間尾根との間を南秋川の渓谷が通っている訳だが、その渓谷の上流に人煙もまれな平和な数馬の部落のあることは、田部重治さんの「数馬の一夜」という(「山と渓谷」所載の——この本は是非一読をすすめる)あの瞑想的な文章で知った。あすこへは必ず行って見ようと、磁石を振ってその方角を眺める。
 御前山を写生しながら物を思っているうちに時刻が経った。ここへ来るのが目的だったと思えば名残の甚だ尽きないものがあるが、夕方までに五日市へ着かなければならない身ではそう落ち着いても居られない。思い切って立上った午前十時四十分、長尾君と大岳神社までの降りにかかる。降りは登りよりも一層おそろしかった。大きな風が下の谷間から吹き上げて来た。髪の毛が逆立つかと思われた。ほとんど雪まみれになって下りて、神社の前の茶屋でルックサックを背負い、例の病気のお婆あさんに外から声をかけて、いよいよ北秋川の檜原村さして一散に降る。道は茶屋から右に、頂上の下を南西に廻る。廻りきると南に向う。この降りは約十五町の間、すなわち馬頭刈山への尾根通しの道との分岐点である千二十メートルの等高線のあたりまで、まことに悠々とした気持のいい緩勾配である。モミやツガや檜の伐採が盛んに行われていて無惨な代りには、南向きの展望が開豁でのんびりしている。晩春初夏の交、菫や翁草や東菊の咲く頃のうららかさが思いやられる。御前山から天地山を越えて来る道と邂逅するあたりに一軒の小屋があった。やがて馬頭刈、光明への分れ道。この辺からそろそろ露出して来る茅倉尾根の巨大な岩壁の幾つかを後に見ながら、真南をさして最急勾配の稲妻形の道を五百五十メートルばかり、無暗につく加速度を制しかねつつ一気に駆け降る。これは檜原村八割から上って来る大岳登山道だ。見おろすと山の峡に北秋川の流れが鋼鉄の絲のように、小沢らしい部落の家々が愛らしくかたまっている。次第に脚下の大沢や八割の村が見えて来る。午後一時檜原登山口の鳥居。ここから左へ道が馬てい形に迂廻して八割へ出るのを、私たちはなお前進して小さな石の祠の二つ竝んでいる断崖の上へ出、四五丈位の崖を二十分も費して下りなければならない失敗を演じた。八割からは北秋川の清流に沿って坦々たる東京府道を三里ばかり東すれば五日市の町。いわゆる奥多摩などより遥かに落着きのあるよい道だ。しかし私の紀行文も大分長くなった。これで新年の御岳大岳の筆をおくことにする。

                        (昭和五年作)

附記 これは私の初めて書いた山の紀行文で、その幼稚さまことに慚愧にたえないものがあるが、こんな物でも喜んで掲載された「都新聞」学芸部の好意を回想し、かつ自分自身の記念のために敢えて再録することにした。

 

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 高原にて

 早く行き着きたい心には恐ろしく長いようでも、結局は向うの高い涼しい青空へ高原最初の電柱が現れて、さすがアンダンテ・マエストーゾの碓氷峠の登りも終る。
 さて、山の開港場のような軽井沢停車場。降りる人は降り、窓から買う人は買い、出迎えが賑わい、タクシーが盛んに飛び出し、その間に電気機関車がはずされて今度は本当の機関車が、「煙を出す機関車」がつき、雑沓の中の秩序、ドアが閉され、汽笛が鳴り、正午に萎えた夏草の高原を新しい感情で走り出す列車は、これこそ正に信越本線だ。
 車内はがらんとして、座席が広くなった。あらゆる窓から吹きぬける風。少しべとつく軽井沢のアイスクリームを砥めながら、ぽっかり白い噴煙を載せた静穏の日の浅間を見よう。
 八風山の低いのを笑ってはいけない。あれでもあの獅子岩を、風速二十メートルという烈風の日に一人で攀じ登った時、僕はベートーフェンの「第五」のフィナーレを夢中になって歌っていたものだ。きっと、自分自身を激励するためだったろう。
 沓掛の発展はすさまじい。沓掛は軽井沢の湘南に対する房州だと言える。人はあの哀れな迫分の宿にいて、為替の金を受取ろうと暑い長い道を停車場前の郵便所まで行って、そこに準備の金がないと、止むを得ず上り列車でこの沓掛までやって来て、ここの局で用を足してまた下りの汽車で追分へ帰るのだ。彼処とこことでは、いくらか時の進み方も違うようだ。そうして私たちは、その遅い方を善しとして彼処へ行くのである。
 さあ、その追分へいよいよ着いた。忘れ物はないか。汽車が出てしまってから線路をわたるのだ。
 プラットフォームの熱い砂利よ、ダリヤの花よ! わけても弥陀みだガ城じようの濃い陰影を真正面に見せた厖大な浅間よ! 私たちは今年も来た。お前の裾野の郭公の歌と、お前の涼しい夕菅の花とで、静かに私たちを包んでしまって呉れ!

     *

 追分旧本陣での私たちの座敷は、前に一段低い長五畳を控えた、例の明るい上段十畳の間である。床には相変らず東湖の正気の歌の大軸。窓を明けはなつと天地正大の気は室内に満ちて、花瓶に投入れた秋草のかすかに動く気配もうれしい。
 客車便で運ばせた夜具は押入へ、日常の器具はそれぞれの場所へ、植物や昆蟲採集用の道具は一切前の長五畳へ、机は東向の窓際へ、写真機は棚へ、書物は床の間へ種類別に積上げると、さあこれで短い滞在の陣立は出来た。ストリンドベルクの小説「大海のほとり」の中で、任地東礁島エステルシェールへ着いた独身の漁業検察官アクセル・ボルクが、これよりもずっと素晴しい、遥かに精妙な部屋の飾付けをするところが有るが、彼の場合にはその部屋が孤独と敵の包囲とに対する堅固な要塞であるのに、私のそれは馴染の人々と親愛な自然とに取巻かれた、謂わば一種のワルデン的生活の簡単な巣であるに過ぎない。
 本陣土屋家けでは今年から旅館営業をやめたので、夜具はそれぞれ自分持、三度の食事も傍本陣の油屋から通いの箱で運んで来る。それでも逗留の客は十人位はある。大抵は物静かな学生である。昔の玄関を食堂にして、つまり式台の奥の衝立の陰で皆が二列に対坐して食事をする。給仕はない。お鉢に近い人がよそって呉れたり、自分で立って行ってよそったりする。帝大理学生久保田広君がお鉢に近い時もある。女子大学の高田不二子女史が序でによそう時もある。私が手を出して若い医専の学生の茶碗を受取る時もある。
 そうしてこの家での夏の短い滞在の中で感じられるものは、主人土屋亮一君の敬すべき高貴な人柄と、その母堂の如何にも「おばさん」らしい打解けた親切と、客に対する家人全体の家族的な接触と、且つすべての滞在客の、礼譲と節制とをもった極めて静謐な知的雰囲気とである。

     *

「いよいよ田部さんが見えたよ」と誰かが言う。希望に満ちて。
「もう田部さんも帰られた」 そう言われたら、人は急に追分の秋を感じて、都恋しく帰り支度をはじめるであろう。
 鳥の渡りではない田部さん一家の別荘到着は、それでも燕の渡来のように、追分の人たちの心を何となく明るくする。
 その田部重治さんをたずねよう。
 彼は停車場に近い松林の中に住んでいる。まことに林間閑居の態である。啄木鳥の仕業だという穴のあいた門柱、手製の郵便受函、夜間蟲の飛来を防ぐための細かい金網張りの戸。そこに七八人の家族とともに田部さんはいるが、追分ガ原の広大の片隅では、つい傍まで行っても人の住む気配もない。
 あの人懐こい母堂と夫人、二人のお嬢さんとその両親、それに女中。一夏のための必要品の一切を完備して、さすが追分幾夏の避暑生活に熟練した田部さんの悠々たる休暇ヷァカンスである。
「あなたは何日いつ来ましたか」
「やあ」も「しばらく」もない。これが顔を見ると出し抜けに出る田部さん一流の会話の発端であり、また第一節の終りである。
「昨日来ました」というのも待たずに
「本陣ではみんな喜んだでしょう」と来る。
 善良なる人よ! その独断が、その飛躍が、みずからの衷なる他人との共感のために、他人への好意の性急な振動のために、少しもおかしくは響かない有徳の人よ! 私はかかる人に対しては、努めてその言わんとするところを捕獲し、剖検し、そして会話を滑かにする。これがこの際私の学び、私の摂取する仕方なのだ。
 私は一時間ばかりおしゃべりして別荘を辞する。若しもあのフレデリック・ルフェーヴルならば喜んで Une heure avec Juji Tanabe の興味ある一篇を書いたかも知れない。しかし私は忙しい。見るべき物、味わうべき物が、この高原の風の颯々の中に、光あまねき日光の中に数限りもなく散らばっている。
  In my heart all are equally cherished,
  every thought of exclusion within me I smother……
 私は歌劇「リゴレット」中のあの有名なマントゥア伯の歌、あの盛んな自信の歌を歌って、この金管楽器の響きのような太陽の熱射の中を帰らねばならぬ。

     *

「そう始終出歩いておいでて、尾崎さん、あなたはまあよくくたびれませんね」と本陣の小母さんがほとほと感心するほど、私は毎日外へ出る。
 朝昼二時間ずつ日課の仕事をしてしまうと、午前中は写真機を、午後は捕蟲網と胴乱とをかついで飛び出す。昼前うつして置いた植物を、昼過ぎに採集に行くのである。
「もう旅費はとっくに取返したでしょう」と、或る時御岳沢で玉井近之助さんが私に言った。
「山は歩いたし、写真は写したし、蝶も植物も採集したし……」
 親愛な玉井さん、その上私は貪欲にも、君という人までよく知ることができたのです。
 「幸なるは、ユリシーズの如く美しき旅を果たせる者、或は又金羊の毛皮かち得て立帰り、利用と知慧と  
  に満たされつつ、後の半生をその両親のもとに生くる者」
 私は時々この深遠な意味のくゆり立つ高雅な歌を思い出す。私の貪欲は、それならばこの寓意的なフランスの歌に叶うのだ。幾らか。
 本陣の男の子四人は小母さんにとっては孫、主人土屋亮一君にとっては小さい甥たちである。両親は南洋ボルネオにいる。ボルネオでは使っている人間が皆土人なので、子供の母国語が怪しくなる。それも一つの理由で四人の兄弟は祖母の手許に預けられている。上の三人は小学校へ行っている。末のアキラ君は殊にしっかりした発明な子である。四人とも私の小さい娘の追分での遊び友達である。
 或る時私の娘が言った、「アキラちゃんは蜻蛉のことをトンブつて言うのよ。それからばったのことをバットつて言うの」
「きっと南洋言葉がまじっているんだよ」
 私たちはそう定めていた。そしてアキラ君に対しては特にトンブ、バットを以て応酬していた。それが或る種の魅力を持っていたから。ところが今年四月の「昆蟲界」で方言の欄を見ると、上田蚕絲専門学校某氏の報告として、ちゃんと「赤トンブ、バット」と書いてあった。
 ボルネオの御両親よ、あなたたちの末の子は追分で丈夫に育って、立派な日本語を話しますよ。
 その子供たちがさっきから私の窓の前で遊んでいる。私はジャヴェルの本と睨めくらをしている。時々ホトトギスが鳴き、赤いトンブのミヤマアカネが、部屋の中を窓から窓へ涼しく抜けて行く昼下りである。
 コーン、コーン。
 何ともいえない澄んだいい音がする。私はそっと窓から顔を出す。子供たちが松の木蔭のクロ−ヴァの上へ坐って、学校ごっこをやっているのである。授業がはじまったところらしい。生徒は年下の三人である。長兄の一彦君が先生になり、私の娘が小使さんになって、ああ、松の枝から長い紐で吊下げた金鎚の頭を、もう一本の金鎚で叩いている。微妙な音はそこから生れたのである。私は頭を引込めて微笑する。ここにも利用と智慧とが有った!

     *

 多くの楽しみと美しい思い出とを満載して、「時」の船が岸を離れる。 岸では懐かしい幾つかの顔が涙ぐみながら出発する船を見送る。私たちはまた来るだろう。今度はもっと大人になり、今よりももっと賢くなって。
 高田不二子さんや兼常、大島の二人の小母様に連れられて、小諸へ遊びに行った九つになる私の小さい娘よ。お前は汽車が追分をはなれると、それまでしっかり手の平へ握っていたために汗に濡れた白銅を、自分の汽車賃だといって、どうしても、小母様たちに渡そうと頑張った。
「なんですね、栄子ちゃん、いいんですよ」
「駄目よ、小母さん」
 想像されるそのせりあい。大人と子供との二つの仕方。子供はそのうち一つしか知らない。
 その日私は母親の心になって、出してやる我が子を最も美しい夏服で粧わせたのだった。
 追分の夏が終る。書きつくし語りつくせぬ多くの楽しみと美しい思い出とを満載して、「時」の船が岸を離れる、離れる。

                       (昭和八年作)
 

 

 

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 一日秋川にてわが見たるもの

       多くの人は見ずしてあげつらい、且つ結論する。
       私は見て初めて知り、そして言う。


 雑誌「山小屋」主催の秋川渓谷撮影競技会というのに是非参加して呉れと、新島章男君から前もっての頼みだったが、目下原稿執筆に多忙を極めているのと、撮影競技なんぞは元より柄にないのとで、かたがた、家で静かに仕事する方を善しとしていた。
 ところが三月十日の陸軍記念日、ひっそりした町内の日の丸の旗に午後の雪が降りかかった。雪は夜もすがら続いて翌る朝はまっしろ。一日の仕事に満足すると急に気が変って行ってみる気になり、夜はイゾクロームとS・G・パンの乾板を、久しぶりで取枠に装填した。
 どうせ行くならぞろぞろと十里木あたりを押廻るより、御連中とは五日市で早速失敬して、金比羅山から尾根伝いに日ノ出山へ、それから日向和田へでも降って、この頃流行の「静かなる山踏み」というものを試みようと思っていた。何につけても勿体ぶったことを好まないが、この所謂「山踏み」なるものも、近来何となく一種の「御有難や連」の低い精神主義的、独善的色彩の卑しさを帯びて来た気がするので、むしろ岩石採集用の鉄槌でも持って行って鳥ノ巣石灰岩でもかんかんと叩き割り、朗かな午前の山々に新らしいツァラトゥストラの響きを深く明るく谺こだまさせたかった。
 十二日朝は思いきった快晴。二階の濡縁へ爪立って例の通り柱を抱えて遠望すると、丹沢山塊が積んで並ぺたサファイヤのようだ。元より紳士の散策ではなく、雪の尾根をづかづか歩く労働のつもりだから足ごしらえも厳重に、おまけに山形の友達の百姓が特別念入りに編んで送ってくれたハバキまでルックサックヘ押込んで、これでよしと、家族一同に賑やかに見送られながら午前八時に家を出た。
 新宿駅を午前八時四分に出て、十四分経つと荻窪を通る浅川行がある。それが競技会で乗車を指定した電車である。その電車へ荻窪から乗込むと忽ち「霧の旅」会の同僚中村太郎君を発見した。我が中村君は二重ボタンの外套も瀟洒に、私の重荷のイデアールに引きかえてそのポケットには何気なさそうにコムパクトなペビーイコンタを潜ませている寛濶ぶりだった。与えられたる鶏を割くに、只一本の牛刀しか持ち合わさない自分を、私は幾らか愍むべきだったろうか!
 立川で五日市鉄道のフォームヘ出ると驚いた。四五台連結の臨時列車へ乗る百人余りの客が悉く今日の参加者である。
 一番足近かの車へ乗り込んだので私は中村君とも離れ、見知らぬ人々を隣人として、一人ぼつねんと車窓の風景に眺め入った。日本語を知っている悲しさにはフィルターに就いての、ドイツ、アメリカ光画界の最近の傾向に就いての、小形レコード・トーキイに就いての、さては編集や夕イトルの作り方に就いての、その他輓近の写真術に関する理論、実技の百般に亘って、まるでユダヤ人の倉庫をぶちまけたような話を、それでも時々は耳にして、楽しい瞑想を破られなくてはならなかった。だが風景、それは私にとって無量の滋味だ。その風景にはもう幾分のヘイズが懸っているが、大岳山から北方に連なる山々の波濤は豊富な明暗の階調を惜しげもなく展開している。殊に武甲山から右、伊豆ガ岳、二子山、堂平山、笠山と重なるやや低い一連は、むしろエメラルドのように透きとおった北北西の天の下、遠く梅の綻びる入間、比企あたりの幼い春を、ところどころ白金の鋲さえ打込んで、その銃眼を持つ長壁で護りかばっているように見えた。
 私は勿論喜んで空も眺めた。空を眺める眼は雲を探す。天空と雲とに対する私の熱情は早くから異常なものであり、長じてヘルマン・ヘッセの「ペーテル・カーメンチント」の中の雲の描写を読むに及んで、雲に対する愛を一層深くすると同時にヘッセを好きになり、自分の詩集三冊の中の詩がおおむね不可欠条件シキ・カ・ノンのように雲を持ち、今はいよいよ雲や植物に親しみ得る土地を生活の根拠とし、やがては何処かの高原に「望気採花の荘」を手ずから建てて、願わくば許された晩年を全うしたいと思っているのである。
 その雲が今見える。多分巻雲と巻層雲との中間に属する半透明な軽羅のような雲である。それが二筋、長い長い帯のような形をして、しかも中天で鷹の羽違いに交叉している。二つのものがそれぞれ気流の方向を異にしているらしいが、その長さは何れも見掛けの上では全天の四分の三か五分の三ぐらいに及んでいる。雲の観察には都合のいい位に緩漫に動く汽車の窓から興味深く眺めていると、恐らく下層のものだろうと思われる方が徐々にリップルをはじめて、次第に朽ちた芭蕉の葉のようになり、やがて魚骨のようになり、最後に大洋中に花綵はなづなを浮べる一連の列島状になった。私は快晴の空に悠々と交叉したこの二筋の雲を見て、今夜は天気が悪変するなと思った。この予測は果たして適中して、その日の夜半からは再び雪になった。もっともこの種の知識に関しては茲で改めて藤原咲平博士に御礼を言わなければならない。
 序でに今「花綵」という言葉を用いたが、それに就いて私が普段から疑問にしているのは、我が国の地理学者中の或る人々が、所謂 Festoon Islandsの邦訳に「花綵列島」の文字を当てている点である。英語のフェストゥーン乃至フランス語のフェストンは、花、葉、小枝等を綴って飾った紐或いは束の謂であって、転じて布の縁辺に施した装飾や刺繍の意味にもなり、さらに海岸線の細かな出入の形容にもなる。現にクリスマス等の祭に使われる装飾用の紐のことや、古代風の円柱を巻いたように彫刻した枝葉模様の綵のことをフェストンと呼んでいる。綵或いは紐ならば立体的にも具体的だが、「花綵」となると観念は漠として来る。恐らく初めて「フェストゥーン・アイランヅ」の言葉を使った人も、その意味するところは前者のようであったのだろうと思う。敢えて門外漢の愚見を披攊して学者の教示を願う次第である。
 多摩川を渡ると秋留あきる盆地。それを馬蹄形に囲む加住、草花の低平な丘陵を窓の左右に見渡しながら、停年をとっくに過ぎた機関車は、咳をしたり含嗽うがいの音をさせたりしながら、一面に陽炎燃えるこの洪涵地のまんなかを、春は長しと行くのである。古くからの聚落はすべて盆地のへりに点在して、北は平井川、南は秋川が、それぞれ彼らに水鏡をさせている。盆地そのものの地層は武蔵野砂礫層だそうで、なるほど、線路よりも少し高い桑畑の縦断面には、西瓜大の丸石がいたるところ、ツンゲン・ソーセージの切口に見る脂肪のように塡まっている。
 網代鉱泉には用もないが、増戸ますこを通れば思い出がある。一昨年も四月末、躑躅が燃え、ヤマブキソウが光る春の日曜に、私の家の女子供が河田楨君夫妻に伴われて、初めて山を経験したのもここである。その河田君は北海道も小樽の任地へ栄転して、彼のいない東京の春は淋しいが、懐かしい追憶はその折の写真となって今もなお筐かたみにある。また去年の四月には武田博士と二人、麗かな春昼を、岩壁に桜の散りかかり躑躅の奢るこのあたりの渓谷で暮らし、鐘鳴らす大悲願寺の開帳に賑わう人出にまじりながら、やがてハルリンドウの空色の点々とする静かな小さい峠を越えて羽生の村へ降り、大久野から五日市鉄道で帰京した楽しい撮影ピクニックの一日もあった。
 その同じ大久野おおくのを、不思議なことに今われわれの乗る汽車が通る。われわれは五日市へ行くのではなかったか。いままで秋川右岸の雪の山々を指さして盛んにフィルターの講釈をしていた先生も、「変ですな」と狐につままれたような顔をする。皆が立ったり坐ったりする。中には「何これでいいんですよ」と涼しそうに納まりながら、それでも心配だと見えて、鉄道で呉れた秋川渓谷名勝案内の略図をこっそり調査している紳士もある。その間にも列車は委細構わずのそのそ進んで、浅野セメント株式会社西多摩工場の、まるで前世代の巨大な動物マストドンかマンモースの横っ腹のような、乾燥した、一様に青みがかった灰色の建物や煙突の間の、皆目要領を得ない変な処で停ったり動いたりする。そこいらの陰から満洲国の役人が出迎えに現れても大して不似合ではない光景である。とうとう本当に車が停まる。常設のプラットフォームの代りに脚榻きゃたつみたいな急ごしらえの梯子が掛る。「今日のためにわざわざ新調したんだな」と一人で感心している男の後から降りると、武蔵岩井。なるほど、われわれは先ず秋川渓谷の名勝の一つ浅野セメントを見学するべく、神ならぬ身の実は予め運命づけられていた訳である。
 雪どけでひどく足もとの悪い前の坂をぞろぞろ登る。眼前には勝峯山かつぼざんが白い巨大な傷口をこちらへ向けて立っている。残酷な鋭い光と影、とげとげした殺伐な光景。なごやかな薄青い早春の空が皮肉のようだ。「セメントを作るのに煙突なんぞ要るんですかね」と、近くで誰かが無学なことを言っている。どんな人かと御苦労にも振返って見ると、その人は問題の大煙突にライカの銃口を差し向けている。旧東京深川は清住町に昔から有名なセメント会社があって、その煙突の吐き出す灰は幾度となく問題を惹き起したものだ。第一この相当の年輩の人は高級な写真器械はいじれる代りに、セメントは或る岩石を粉砕して焼いて作るものだということを知らないと見える。私の脳中をソヴィエットの作家グラトコフの小説「セメント」の最初の頁がかすめて通る。あれは遠くに海が見えて世界がもっと壮大だった。人間の感情も風景もいきいきしていた。それから石油の都バクーの革命事変を取扱ったキルションの戯曲「風の町」。惻々として人を動かすあの深い情熱と詩には更に打たれた。ロシア! だが少数の強権政治家のロシアでないロシア。民衆のロシア。敬愛すべきロシアの民衆とその芸術! 私は岩井に居て岩井を忘れ、浅野の石ころの上に居てもちろん浅野を忘れていた。
 とにかく、それから、今日の撮影家諸君のために休業日にも拘らず特に爆破作業が行われる事になった。いろいろ細かい注意がある。各種のムッシューの寄合いだから声を涸らさんばかりの監督の説明も中々徹底しない。その内にいろんなカメラが出はじめる。みんな成算有り気な顔をして機の熟するのを待っている。私は幾人かの人にまじって其処よりもっと高い、もっと爆破現場に近い地点まで登って行った。
 見上げる勝峯かつぼの山の引裂かれた膚には痛々しく午前の日光が当っている。鉱夫が二人アンザイレンして、紡錘蟲石灰岩の急傾斜の岩壁をアクロバティックに渡っている。その岩壁の二箇所へ赤い紙だか布きれだかが張られる。爆薬を装置した場所の目印である。彼らは或る種の虻あぶのように横這いしながら引き下がる。それが如何にも小さく見える。時が迫る。人はカメラの差蓋を引いてレリイズを取る。下の台地には百人余の群集が一団となって、これも片唾をのんでレンズの狙いをつけている。赤旗がするすると上がる。スイッチを入れる人間が電柱の傍の部署につく。緊張の一瞬間。やがて監督がさっと片手を上げる。スイッチが入る。と、轟然、岩山の一角に爆発が起る。噴水の口からのように断乎として噴き出す硝煙の短かい穂先とともに石の飛沫が飛び上がる。続いて、大岩壁の一部が縦に割れて、ぐわっと恐ろしい口をあけたかと見る間に、ぐらぐらと揺れ出して、屏風倒しに倒れかかった。それからの岩石の落花狼籍。混乱は、しばらく続いて鳴りも止まない。最後の一粒の砂が落ちつく所へ落ちついて動かなくなるまで、そして静寂が再び帰って来るまで、凡そ五分間は掛ったろうと思う。
 それからもう一度爆破が行われた。同じ音響、同じ混乱。こうして一日一日と割られ、引裂かれ、えぐり取られて行く勝峯山は、何時かは富士北麓の剗の海うみのように、地図からも姿を消す歴史的山ヒストリカルマウンテンとなってしまうことであろう。
「浅野セメント会社厚意の見学」も斯くて終った。人々は再びぬかるみの坂を下りて玩具のような汽車へ乗込む。彼らの顔には未だ興奮の色が残っている。私は一種淡いメランコリックな気持になって、車窓からぼんやり、自動竪窯らしいコンクリート張りの胴中を眺めていた。
 奥多摩カントゥリー倶楽部の「山の家」は、五日市の町の北はずれ、金比羅山の南東の麓にある。われわれは今日そこへ招待されていたのだ。出迎えに来た倶楽部員に案内されてぞろぞろと本通りを行くことしばし、とある焼芋屋の横を右へ曲ると天理教か大本教らしい家の先に小さな沢があり、その沢の向うの上下二段になった台地に新らしい二棟のシャレーが見え、煉瓦を積んだ煙突から誂えたように柔かい煙が上り、中華民国の国旗のような倶楽部の旗が三分を綻びた白梅の枝よりも高く、折からの煦々たる春光にのんびりと垂れていた。
 建物が未だ非常に新らしいのと、赤土の敷地一帯が地行されてから間もないのとで、われわれは幾らかバンガローの展覧会を見に来た群集のような気持になる。家そのものはどっしりした古風な山小屋というよりも、むしろ軽快で野趣のあるからりとした設計である。正面中央には裏口へ抜ける幅の広い土間。その左右にそれぞれ一箇の部屋。煉瓦を積んだシュミネーの有る部屋には低い天井を張って上は板敷の、謂わば中二階になっている。土間は炊事場と食堂とに兼用されるらしい。壁へ取付けた腰掛の前に囲炉裏が切ってあって、焚木の燃えさしが昼間らしく灰になっていた。古い鉄砲、山岳写真、数冊の書物、色々のスヴニール、手細工品、農具、登山用具、さては「ホノルル」と書いた応援旗など、若い登山家をその山小屋らしい舞台装置で喜ばせるに足る小道具が壁の空間いたるところを飾っている。そういう物は一寸した棚の隅をも利用して並べてあった。私はともかく丹念に見て歩いた。すると傍に居た一人の、割に年を食った青年が「あっ! 郷土芸術!」と頓狂な声を張り上げた。それがどうも同感の士を募らずには居られぬという風に聴こえた。あいにく近所にそれほど熱心な人もいないらしいので、私は御附合いのつもりで近寄って見るには見たが、その人が折角の顔を愚かしくゆがめて嘆賞するほどの「芸術」ではちっともなかった。折柄その土間の一方では、髪の毛を頸うなじのところで左右に振り分けて結んだ、上着の上に派手なスイス風の毛絲の袖無しを重ねて、可愛い登山靴を穿いた娘さんが一人、旨そうに湯気の立つシチウを大鍋から小皿へ盛り分けていた。健康な胃の腑が率直に空腹を訴える春の正午である。私は「郷土芸術」などよりもずっとこの方が好きだった!
 山の家の横手に人だかりがしている。行って見ると椅子の上に立って塚本閤治君の御話しである。塚本君は三脚の脚を一本器用にすらりと引張り出して、模造紙へ描いた略地図を指しながら秋川渓谷の名勝地を説明している。それを取巻いて半円形に集まった人々は、我人ともに日当りの池で口をあけた睡蓮のようだ。塚本君の話は中々詳細を極め委曲を尽したもので、
「わざわざ梅園までおいでになるよりも、その辺の農家の庭でクローズ・アップでもされた方が、より効果的ではないかと思います」などと、大いに指導精神を発揮して居られる。続いてパテーベビーの輪入元だとかいう、区会議員みたいな伴野さんという人が一場の挨拶をする。それから高畑棟材君が立つ。うららかな春の日光をまともに浴びて、その広い白皙の額がひかる。その髪のポマードが揮発する。
 何しろ如何に日が永くなったとはいえ、もう十二時も廻ったし、腹も減ったし、ぐずぐずしていれば人と違った目的地へも行けなくなるので、悪いけれども屋外集会から抜け出して、さっきの土間で一人弁当を開いた。学生用のアルミの弁当箱の中の猫まんまを大急ぎで口ヘ運んでいると、居合せたカントゥリー倶楽部の部員らしい人が「どうかまたゆっくりいらしって下さい」としんみり言う。そして砂糖の入った甘い熱いお茶をついで持って来て呉れるが早いか、すっぽり飯が咽喉へ詰まって未だ御礼の言葉もうまく出ないうちに、その人は外へ出て行ってしまった。私は一人残って本当の親切というものの味を噛みしめた。
 上の平地にもう一棟シャレーの在ることは前にも書いたが、時間がなくて私は見ることができなかった。しかし塚本君の話だと、労働はすべて倶楽部員と五日市青年団との奉仕になって、材料の実費五拾円だけで出来た建物だということだった。とにかくこの五日市の「山の家」なるものは、これの経営に任じ、それに協力する人々の熱意を先ず感じさせるもので、世間の登山趣味や旅行趣味に訴えると同時に、多分に郷土愛、郷土再認識等の傾向、色彩をもっている。これらの事実に着眼しないで、徒らに山小屋のセンティメントだけに溺れようとする人に、私は全幅の同感を与えることはできない。
 此処へ来る途中で、私は実は今日の予定を変更していた。中村太郎君が光明山から馬頭刈まづかりへ行くと云う。岩井のセメントで思いがけなく時間潰しをやったので日ノ出山行には少し遅すぎた。それで私も中村君の驥尾に附すことにしたのである。二人は「山の家」を辞して街道へ出、とある大福餅屋へ外套を預けて身軽になった。うしろから盛装した花嫁が来る。それを近所のお神さん達が往来へ出て袖をすぼめて眺めている。田舎の嫁御寮は貨物自動車の疾走する街道を薄紅悔の角かくしも淑やかに、楚々たる蓮歩を運んでいる。
 本郷というところで一寸した題材があった。石垣の上の古い大きな農家を前景にして、向うに頸を檯げた明るい馬頭刈を見る構図である、よっぽど三脚を立てようと思ったが、いつものスローモーションを憚って割愛した。西戸倉の外れで谷の方へ降る横道が切れている。折から通りかかった娘さんに落合への路を訊くとそれだと云う。すなわち右折、秋川へ架した橋を渡って暖かに南面した星竹の部落を西へ、山裾の静かな畑の中を長閑に進んだ。
 小石の多い山畑の畦道を行くと一羽の紋黄蝶がひらひらと立った。今年初めて見る蝶である。無論冬を越したものらしいが、翅の色も飛び方もしっかりしている。もっとも二月未だ地面に雪のある季節に孔雀蝶を見ることもあるのだそうだから、三月の紋黄蝶では大して珍らしがる程のこともあるまいが、観察は観察だから忘れない内に手帳へ控えて置いた。三椏の枝に淡黄色の羅紗のような花が咲き、未だ骨骼のままの柿の木に美しいルリビタキの鳴いていたことも覚えている。
 落合を過ぎて切割りを越えると、左下に見える川はもう支流の養沢川だが、ぼんやりしているとこれを山一重向うの秋川と間違える。落合では紙なども漉くとみえて、農家の庭の日当りではお神さんが漉き並べた簾すだれを干していたり、往来には楮こうぞの皮らしい物を積んだ車も見えた。寺岡の手前で乙津へ出る間道を左へ捨てて、右へ養沢川を新橋で渡ると、中々立派な小学校を中にして川沿いの路は怒田畑ぬたばたへ、左へ登る路は軍道ぐんどうへと通じている。私たちはコーカサスの部落のような寺岡と川とを右下に見ながら左へ坂路を登った。現れた軍道は丘の半腹に南を向いた住み心地良さそうな小部落である。此処で空身の中村君が私のルックサックを進んで引受けて呉れる。少し行くと水車があって、私たちに上手を越した抜駆けの人が一人、晶玉を滴らせて山間の春を緩かに廻るその水車に、もうシネコダックのレンズを向けていた。一二軒群を離れてぽつねんと住む部落最後の農家で光明山への登路をたずねると、縁側で裁縫をしている細君がすぐその先だと云う。なるほど一投足の左手に、ちゃんと「光明山道」の道標が立っていた。
 われわれはいよいよ雪を踏んで、杉の植林の中の電光形の路を登る。それが二〇〇メートルあまり続くと尾根筋へ出る。暖かい日光が針葉樹の透間からちらちら洩れて、軟かく積った雪を匂うがように染めている。私は印象派の絵を、クロード・モネーの雪の絵を思い出す。日陰の雪は、しかし木の間の空の青だけを吸ってむしろほんのりと紫がかって見えた。春は渇く。私はその雪を頂上までしきりなしに掬っては食った。
 尾根筋へ出ると傾斜もゆるやかで、年古りた参道の杉が黒々と立ち続いている。行くほどに小さい祠がある。高さ一メートルもあったろうか、私たちはこれが光明神社にしては余り見だてが無さ過ぎると思った。果たしてそうで、本当の社は其処からなお百メートルほど登った処に鎮座していた。拝殿を持つその朱塗りの社の前には、東京府の制札が立っていた。此処で忘れないうちに書いて置くが、この神社と下の小さい祠との中間ぐらいの処、小径のまんなかに、かなり大きな石灰岩の石筍の塊りが二箇ばかり露出していた。直径二メートルもあろうか、一見蟲食った巨大な奥歯のようで、私たちは馬頭刈の馬の臼歯が転げて来たのだなどと冗談を云った。それを撮影しなかったのは今考えても残念である。
 光明山の頂上からは暫らく若い雑木の疎林になって、やがて茅戸に変る尾根は馬頭刈に向って西走する。秋川の谷を左手に見下ろして、臼杵、市道、刈寄なんどの紛糾したブロックを眺めながら降りまた登るあたりは、確かにヒル・ワンダリングの好箇の舞台たるを失わない。此の月に入って珍らしく気温の高い快晴に今日茅戸の雪は消えているが、それでも山々の北面は元より、少し茂った枯茅の根元や窪地には未だ斑々たる白が残っている。南東に岩石の露頭を見せる一つの突起を登ってから振返ると、今しがた光明山背後の疎林の中で遇った二人連れの中学生が、一人を先へ歩かせて、一人がうしろからそれをシネコダックで撮影していた。画面で活躍している此の若いワンデラアの顔の表情が見たかったが、こちらは望遠鏡を持たないので折角の望みも空しかった。私は彼らのためにその「春の遠足フリユーリンクスバンデルング」一巻の成功を祈った。そして程もなく馬頭刈山頂。時計を見ると二時五十分。五日市の「山の家」から正味二時間半を費している。
 東京附近の山に親しんでいる人々にいまさら馬頭刈からの眺望を説く必要もあるまい。しかし私が五日市からの登路を、途上の所見を交えてやや詳細に語ったのは、近来この山頂を踏む人たちの大部分が逆に大岳山から茅倉尾根を縦走して来る関係上、あとは矢のような帰心と歩調とのままに、部分的な細かい観察の余裕を持たないように見えるからである。国の内外を問わず、多くの山岳紀行文にあって、登路と降路との叙述に幾分均衡が欠けていることの有るのも此のせいだろうと思う。そしてどうもこれは仕方の無いことらしい。しかし登りに比較して降りがおおむね楽な我が国の山において、登山者の観察が行きに詳細で帰りに疎略であるとしたならば、此処にわれわれの肉体的並に精神的エネルギーの持久性に関する一つの考察の余地が残されていはしないだろうか。山から里へ下りるということは、勿論、地の傾斜に従って降ることだから歩速も急であり、日足の廻るにつれて心もいそぎ、それに帰途の乗物の時間もあるので、午前中の登りの場合に較べればすべてに余裕のないのは当然であるが、それにしてもせめて眼だけは働かせて、他日この降路を逆に登る時の参考になるだけの注意はしたいものだと思う。
 枯茅ばかりの狭い山頂は一面の雪であった。今年のような雪の多い季節に或る山をきわめて、其処で足でも投げ出して休息するつもりだった人は、そういう場所のないことに失望するかも知れない。私たちは立ったりしゃがんだりしていた。尤も余りゆっくりしてはいられないから撮影を主とした。大岳山は余り距離が近過ぎるが、岩石の露頭の連続する縦走路を縦に見る構図は悪くなかった。御前山からに臼杵山まで肝腎の眺望は悉く逆光に浸って居て物にならず、その上多分にヘイズが掛って、技術の拙いのも手伝っているだろうが、ラッテンのGもAも余り効果は現さなかった。美しかったのは大菩薩小金沢連嶺で、あの大障壁が硝子の切口の色に輝いて大気に微動し、殊に牛奥ノ雁ガ腹摺の凹みに積った雪が日光に反射して燦然と際立ったダイヤモンド光を発散し、しかもその光が背景の天空と入りまざって、あの凹みを実際よりも深く大きく切れ込んでいるように見せていた。
 さて下山の時が近づいた。私たちの後から此の三角点まで来た前記二人の中学生は元の道へ引返した。もう一人単独で登って来た(恐らく光明山下で水車を写していた人らしい)人も、私たちを待ちきれずに心細そうに南方の尾根を降って行った。そして其の尾根をわれわれも帰路に選んだのである。
 私の持っている五万分の一地形図にはこの小径の記入がないが、頂上から真南ヘ一縷の路はどんどん降っている。雪の溶ける早春には降りにも登りにも靴の滑る茅戸の路である。しかし間もなく暗い植林地帯へ入る。ちょうど七百メートルばかりの処で足が岩を感じるようになる。そのあたりで一本の路が斜に左へ切れている。私たちはその方へ下りずになおも雑木の茂った岩尾根を南へ進んだが、気がついて引返して左への路を取った。これは光明山と馬頭刈の中間から南東へ落ちる大沢への通路で、地図では乙津から北西へ小径の記号が半分程記入されているが、この二つが結局邂逅するのである。
 沢をへだてて光明、馬頭刈を大きく見上げる地点で最後の撮影をした。山は長波光を増した洪水のような斜陽を浴びて橙黄色に横たわり、陰はほの暖い藤紫に濡れていた。想像力の活動は不思議なもので、待っている友を意識し、時間の切迫を意識しながら慌ててする撮影の最中にも、私は一つの詩のモチーフを掴んだ。私はそれを銘記した。私はこの実感がやがて出来る詩の中で一層普遍化される可能性を持って居ることを喜んだ。
 失った時間を取返すために猛烈な下降がはじまった。中村君はその山スキーの技術を応用した。私は後から後からと現れる樹幹を手で捲いては曲り角での脱線を防いだ。雪の下に薄い粘土の層があり、その下に堅い岩石を匿している処が多いので、前車の覆轍は後車の戒めなどと考えている内にもう同じ場所を踏んで顚倒するのだった。二人とも膝から下は真白だった。中村君はズボンの臀を泥で汚した。身だしなみの良い中村君が、それをいつまでも気にしていたことが今思い出される。
 いよいよ一本の沢の右岸に出ると其処に淋しく一軒家があって、年とった女と娘とがいた。私たちは岸をへだてて沢の名を訊き、乙津への路を訊いた。沢は大沢と云った。乙津は目睫の間だった。年寄りの女は人珍らしいかもっと話したかった様子であったが、そしてこっちも心を惹かれたが、切迫する時問を思って惜しくも別れた。それは恐らく地形図の小径に沿って記入されている独立家屋であったろう。
 もう此のあたりは傾斜もゆるやかで、間もなく寺岡へ越す路が左へ現れる。うしろから其の路を自転車へ乗った郵便脚夫が来る。念のため乙津の所在を訊くと「乙津は此処です」と無愛想に答えて通り抜けた。中村君のことは知らないが、私は此の返事の仕方に或る反感を持った。ところがそれは間違っていた。少し行くと畑の中の路の交叉点に今の郵便夫が自転車を立てて待っていて、其所から街道への近道を事細かに教えて呉れた。親切をするにもいろいろ仕方がある。私には私の流儀があるように、他人には他人の流儀がある。他人の流儀に対する寛容は、やはり多く「見る」ことに依って養われる。私はつくづくそう思った。
 教えられた通り部落の北東の部分を抜けて小さい坂を下り、堰堤のような物を上流に見ながら秋川を右岸へ渡った。なるほど郵便夫の云った荒塗の土蔵が向うに見える。その土蔵に向って上れば五日市・本宿間の往還である。
 私たちは十里木で落ち合った六七人の今日の会員と一緒に一台のトラックヘ乗った。一人前十銭払って五日市まで走らせる無蓋貨物自動車の上で、人は幾らか平和の「快速挺身部隊」を味わった。渓谷にはすでに夕闇が漂い、暮れなずむ空の光が、山々の上、量を増した雲の間から酒粕色に覗いていた。風が寒くなった。私たちはトラックを先へ行かせて外套を取りに下りた。そして続いて来た乗合バスで五日市停車場へ着いた時には未だ発車に十五分も間があった。
 こうして、また別の新らしい経験の一日が終った。終る一日はもう私ほどの年齢になると、十幾時間の生活の結末だと云える。それは残る生命の幾歳への連鎖ではありながら、やはり一日として完成される。そして個々の完成された日々の輪に統合を与えて自分の年輪を形作るのが私の仕事である。果たして私はそれを能くするだろうか。

  「物の上にひろがって大きくなる
  輪のような生を私は生きている。
  恐らく最後の輪を完成することはないだろう。
  しかし私はそれを試みようと思っている」

 空は暗く重たく曇って来た。頭の上には乳房雲さえ垂れて、雷を伴った雪が感じられる。しかし北の地平線には未だ長い一筋の晴間が見えて、悲しいまでに美しい夕映えが遠い連山を黒々と染め出していた。

                      (昭和九年作)

附記 其の後中村太郎君は、上越一ノ倉沢滝沢の氷壁で壮烈な死を遂げた。それで私にとっては此の秋川の一日が今は亡い友の唯一のなつかしい思い出となってしまった。

 

 

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 山への断片

 眼に見えない気圧の波が、北満の奥地や茫々と肥沃な揚子江流域からながれ出して、或いは高く或いは低く、大陸から大洋へと瀰漫しながら、花綵列島日本の上に幻想的な等圧線の紋様をえがく。
 空と樹木の五月、大空に雲の群の美しい五月よ! うるんだような青い虚空を、あの大きな厚ぼったい花びらや、古風な貿易の三檣船や、水蒸気の夢の断片のような雲の、静かに移りうごく愛染の五月よ!
 きのうの宵、私の武蔵野の赤松の林で、今年はじめてのあおばずくが、軟い空気に、あの情なさけのこもった二音符の「ほう、ほう」を投げていた。西天には冬の王者シリウスやカペラがすでに沈んで、平野の空に君臨するのは新しく到着した牧夫座の一群と、その首領のアルクトゥルス。そして彼の黄金おうごんの紋章が灌漑の小川の水底に涼しく光ると、晩春の夜はやがて蛙の合唱に満たされて更けて行った。
 今朝、まだ露に濡れた麦畠の上を灰いろの昧爽の風がさまよっている時、水辺に野薔薇の匂いのまだ流れない時、これもまた今年最初のあかはらの歌が田園の静寂をやぶって響いて来た。
「ちろり・ちろり・ちろり・ちろり」、彼は近くの新緑の雑木林のへりに立つ一本のあかしでの樹にとまって、南の地平線に向って半時間ばかりもその喨々とひびく笛を鳴らしていた。この二三日、気圧が次第に下降して、暖かい南風が吹き競っている。晩春の田園には雨が期待されている。あかはらの歌が最も多く聴かれるのはこの季節から梅雨へかけてである。そして私はまた、桜の木の毛蟲を求めて漂泊して来る郭公の群の到着を、毎日心待ちに待っている。
 私はこの武蔵野にも幾らかの留鳥のいることを知っている。彼らは此処で生れ、此処で婚姻や家庭の営みをし、そして何処の薮蔭、何処の洞穴でだかは知らないがとにかく此処で一生を終る。若しも彼らに、遠い祖先の渡りの本能が残っているとしても、その渡りの範囲はせいぜい近隣の山地とこの平野との間に過ぎないであろう。頬白、雲雀、四十雀。彼らは此処では雀と同じようにわれわれに親しい。そして私には、彼らが、われわれの土着の百姓と同じ農事暦に従って生きているように思われる。
 その同じ暦に従って生きることを私もまた好ましく思う。ささやかな生計の中でも魂の自由と豊かな仕事の成果とを望むためには、突発よりも穏かな循環、驚異的事象の訪れよりも不断の週期の順調な去来こそ必要である。方数尺の小さな一室で仕事をしながら、私は蜜蜂のように巣の周囲幾十平方キロの土地と空間とを熟知し、居ながらにしてその光明の真昼と闇黒の夜とを掌握し、千百の記憶と経験との係数から、起り得べき事象への予知をたやすく算出できるほどでなくてはならない。そして私が、かのよく働く膜翅類のように、ほのぐらい蠟の殿堂の中で営営として金色の蜜をかもすためには、私の生活の半径内は単調なくらい平穏である方がいいのである。
 だが或る日、精神の静かな湖の面に漣が立つ。変化の風が吹いて来た。それは半ば開いた窓の前を通りすがりに「ソルヴェイグ」の歌を歌う。季節の風の遠くからの使信に候鳥の胸毛がそよぎ立つように、無風晴天を告げて垂れ下った私の精神の白色の方旗が、ゆくりなくも眼をさまして伸び、はたはたと鳴りはためく。
 ああ、ヴァリエテ! ヴァリエテ! 世界の多種多様な姿! 海洋、山岳、土地の広袤、夏の天空の下で曲流メアンダーする白い大河、船べりから斜に見える水平線、その上に立つスコールの雲。私はデュパルクの歌「旅へのいざない」で、風がうたうグリークの望郷の歌に答える。
 私は出発する。背には囊、手には杖。自分の古い平野のそれとは全く違った秩序と、美と、豪奢と、静穏と、逸楽との彼方へ……
 そして今日私が行くのは、薫風の果てに頭をもたげている山々と、青嵐にみちみちたその無量の容積の中へである。

     *

 私はあの二人の大詩人、ホイットマンやヴェルハーランのように五月に生れた子ではない。またあのヘルマン・ヘッセが、

  「われら七月に生れた子らは
  白いヤスミンの薫りを愛する、
  われらは彼方静かに花咲ける庭をさまよい、
  また失われた悲しい夢の中をさまよう」

 と云ったその「七月の子等ユーリキンデル」の一人でもない。私は新しい年が二月に移るその前夜に生れた。感情の底にも肉体の根にも、それかあらぬか、料峭たる春寒のようなものを私は持ち、これまでの仕事がおおむねこの気魄に貫かれている。そして周囲の人事が余りに複雑になり、人情の機微が雁字搦みに締めつけて来、その芳香が屍臭のようになって来る時、ああ、率然として私の胡馬はかの朔風にいななくのだ。
 冬と春との邂逅点、盛んであった夏の後から或る朝水晶のような風を吹落とす秋十月、燦然たる全管絃の合奏の唯中で、耳を澄ますと、或る長音階メイジアの哀歌を独り歌っているヴィオロンセロ、二月の未明の空に懸る夏の星座スコルピオン、残雪の間から花を開いた高山植物、スカンディナヴィアやシベリアの春。すべてこういう対照の発見乃至想像をよろこぶ傾向は、しかし実際では単に私だけが持つのではなく、山を愛する多くの人々に共通なもののように思われる。
 敬愛する辻村伊助氏と「スウィス日記」。その日記を飾る多くの写真の中で私は特に「ウェーゼンの春」二枚が好きだが、若しもクローシェットの音の流れるあの美しい春の牧場の遠景にグレールニッシュが、(専らあのグレールニッシュが)無かったとしたら、私はこんなにもあの写真を鑑賞しはしなかったであろう。そして、彼はこの二つの対象を、ひたすら彼自身の審美感と喜びとから、見事一つにとらえたのである。
 真の登山家は必ずその心に「詩」を持っている。しかも高度に凝縮された詩を。ただ彼らは多くそれを筆や口にしないだけである。そして詩人はどうかと云えば、大多数の詩人が当分山には縁がない。具体的存在としての山にしても、また比喩のそれにしても。

      *

 日本山岳会がその創立何十周年かの記念と、北アルプスに山小屋を建設する基金募集とを兼ねて講演と映画の会を催す。会場にあてられた新聞社の大講堂は満員の盛況である。人はぼんやり照明されたその階段席にいて、往年の学校での理化学の時間のことを思い出す。
 長い急流に軽舸をやるような会長の講演があった。スウィス・アルプスの幻燈もあった。いかにも登山家らしい、気品のある、小柄な、一人の若い幹部が、澄んだ声で説明の任に当っていた。場内は水を打ったように鎮まり返っていた。映写幕には、今、一つの風景が現れる。長方形に切られたシャレーの窓越しに、恐らくは朝、氷雪に輝く嶮峻な、純潔な山岳が間近かに見える。明暗の極度の対照。実物よりも遥かに大きく映っている窓が、観衆の一人一人の眼に一種の錯覚を起させて、丁度彼が自分だけでその窓に面して立っているような気にならせる。その時、説明者はその最も澄んだ声で云った、
「窓を開いて……と云うところです」
 機に応じて軽妙に出たこの含蓄のある言葉に、水を打ったような場内からは好意のざわめきが暫らく起こった。
 それから鉄道省撮影の日本アルプスの映画もあった。山村の前景に盛りの桃の枝が揺れていた。フィルムの廻転が少し速すぎるのか、人夫の列の足の運びが余り小刻みにちょこちょこしていた。しかし春の山だった。残雪や雲が美しかった。人は映画の連中とともにしているこの眼での登山に、くたびれも倦みもしなかった。やがて一つの山頂が占められた。画の中の登山者たちは当然のように、三角点の標石の前に幾らか敬虔な表情で立ってから、足を投げ出して測量部の地図をひろげた。彼らは図を見ては八方を見渡して、山々の名のアイデンティフィケイションに没頭しているらしかった。その時私の右手二三人置いた席からこんな呟きがきこえた。
「なんだ、彼奴あ素人だぜ。地図の縁ふちが切ってねえや!」
 私はその声の主を見た。若い学生だった。ああ、私。私もまた多くの「くろうと」のように自分の地図の縁を切っていた。特に切断しなければならない必要をも感じないのに。しかしこの学生の軽蔑の一語を聴いて以来、私は喜んで元来の素人に立ちかえり、断じて地図の四辺を切ることをやめた。
 その後また或る山岳関係の雑誌社が主催で、スキーの講演と映画の会があった。シーズンも目捷の間に迫っているので、同じ会場はこれもまた満員であった。一人のエキスパートが、白い布を張った板の斜面を雪に見立てて、その上でホッケ姿勢の正統的なものを見せたり、五寸の滑降を実演したりした。やがて「春の守門岳すもんだけ」とか「五月の守門岳」とかいう映画の番が来た。字面の感じから云っても一種魅力のあるそのタイトルが、観衆の好奇心を煽動して大きく現れた。
するとその刹那、また私のすぐ後ろの席からこんな会話がきこえた。
 「あ、モリカドダケ! あすこへは僕もちょいちょい出掛けますよ。雪質が馬鹿にいいんです」
 「あら、あすこも御存知なの。羨ましいわ。今度は御一緒にね」
 会が了って人々が一度に席を立ちはじめた時、私はこのモリカドダケの人を見た。クロワゼエの外套を長めに着た瀟洒な大学生だった。美しい令嬢風のその連れは、彼らの会話の様子からすると、或いは許婚の相手であったかも知れない。私はこの若い二人の未来の真の幸福のために、知らざるを知らずとする徳を、勇気を、心中ひそかに勧奨せざるを得なかった。

     *

 貞子さんは今年十になる。学校ではやっと掛算を習いはじめた尋常三年生である。何かのはずみで一寸人に触りでもすると、触った方も触られた方も「御免遊ばせ、ね」と、幾らか大袈裟にコケティッシュに詫言を云い合うような、そんな同級生や「下の級の方」の多い学校の生徒である。だが貞子さんは「そんなことおかしいから為しない」と云っている。
 いつの頃からか、またどうしてそうなのだかは知らないが、貞子さんには天性とも云っていいようなデモクラティックな傾向がある。家には女中が四人居るが、同胞の中で一番この子に人気がある。兄さんたちはみんな上の学校へ行っている。お父さんは宴会とゴルフとで日を暮らしている人で、極くたまの日曜に、何処かヘドライヴに出掛ける時が一番長くお父さんと一緒にいる時である。家では、だから、女中たちにまじって、貞子さんはシンデレラのように忙しい。
 なぜかと云えば、彼女の母親は一家の主婦というよりも、自分にもっとも才能の欠けている丁度その方面のことだけが無上に好きで、それに憂身をやつしているたちの女性だから。たとえば、以前には声楽、それから写真、そして最近では登山と文学。
 文学では吉田絃二郎さんのものを彼女の「心の聖壇」へ祀っている。そして「ジイドもようざあますね」と言う! 女流登山界では、嘘か本当か知らないが、黒田さん姉妹と「御懇意に願っている」。私は或る時彼女からとうとうその山岳文学「感傷の山」という自作の朗読を聴かされたが、後になっても鶏舎から出て来たようで、長いあいだ身体中がむずむずしていた。
 ライカにその聖なる身震いを表現し、ワンダフォーゲルの歌を青春の金切声で歌うこの四十歳のマダム。私はピザの恥女ヴェルゴニョーザのように指の股から彼女を見た。
 貞子さんが狭っこい勉強部屋の中で、何だかコツコツ音をさせている。小さい本立の緩んだのへ楔を打込んで直しているのである。職人がその仕事に熱中している時の真面目さをもって、あぐらをかいて。
 貞子さんの部屋がひっそりしている。入って見ると、よく揃った綺麗な書体で、簡単ではあるがフランス語の動詞変化の宿題を書いている。小さい女の子の、幾らか仔犬に共通な匂いと、職人の真面目さとが此処にもある。
 或る時、私は彼女の作文というのを見た。学校で書いた自由速題で、彼女は「山」を選んだのだった。

 「春のお休みに、私はお母様やお兄様たちと、おくたまの山へ行った。はじめ小さいお
 兄様が おしりをおして下さったけれども、くすぐったくてたまらないので、やめてい
 ただいて、私ははってのぼった。
  とちゅうで、木の枝をたくさんしょったおじいさんにあった。そのおじいさんが私に、
 こんちは、おじょうさんげん気だねといった。私も、おじいさんおもたいでしょうとい
 った。高水山 の上にお寺があって、おばあさんが店を出していた。みんなでおべんと
 うをたべた。それから あまざけをのんだ。私はおいしくておかわりをしたけれども、
 お母様はおよしになった。山にはかたくりがたくさんさいていた。私はそれを取って紙
 へつつんで、リュクサックヘ入れた。すみれが本とうにきれいだった。
  それから山をくだって大たばへついた。お百しょうの子どもにおかしを上げたら、子
 どものお母様がやまめをくれた。まだ取ってはいけないのですがといっていた。
  それからじどう車をよんで、みたけまで行った。でん車がこんでいて、大ぜい立って
 いた。 お母様が気もちがわるくなって、おはきになった。私たちはすっかりしんぱい
 した」

 ティンダル、或いはジイド、或いは他の幾多天才の文章と、子供の文章との間には不思議な共通点があるような気がする。しかも子供の母親は「何ですね、こんな物をお見せして」と云うのである。そして先生も三重丸は下さらないのである。

     *

 木曾駒ガ岳から伊那へ遊んでの帰りであった。私の汽車は中央線穴山駅をすでに過ぎて、釜無川と塩川に挾まれたあの細長い台地を、やがて夜になる甲府盆地めがけて一散に走っていた。
 旅の終りよ! 私の心は歌っていた。私は眼に映るすべてを喜んで受け入れ、すばやく味わい、さらにゆっくりと味わい返していた。線路に沿った高原の秋草のむこうに見える一軒の貧しい農家、その前で子供が遊び、小さい犬も遊び、その家の上で高いポプラが風にざわめく。一瞬にして後へ飛去るこんな点景にも、私は敬虔の瞳を投げ、愛の心を通わすことができた。
 車内の通路をへだてて十九か二十歳ぐらいになる田舎者らしい青年がいた。その青年と向いあって、これはまた旅廻りの呉服屋かと思われる若者がいた。二人はさっきから時々言葉を交していた。青年にとってはこの線を通るのはこれがはじめてらしかった。否々、こんな汽車の旅そのものさえはじめての経験らしく見えるほど、万事に臆して控目で、しかも公けの生活に馴れない者の不器用さをもって、そのため絶えず心の落着きがなかった。
 もう一人の若者については特別に書く興味もない。それはわれわれがよく汽車の中で見かけるところのあの擦枯しの旅商人に過ぎなかった。
 突然、今まで幾らかの旅愁をもって窓外の景色を眺めていた青年が立上って、「あれは富士山ですね」と、大きな声で呉服屋に問いかけた。彼の片手は汽車の往手を指さしていた。彼の瞳はこの思い掛けない発見のために濡れ輝いていた。その深い原因は知らないが、とにかくはたから見てさえ「それほどにも嬉しいか」とつい引込まれてしまうような、そんな生々した悦びの表情を現わしていた。
 「富士山? そんなとこへ出やしないさ」
 若い旅商人は冷笑とともににべもなく打消した。
 「でも、あれですよ。あれは富士山じゃないんですか」
 青年は八分の確信と、二分の自信のなさとをもって、上半身を窓の外へ乗り出しながら顧え声で言った。そうだ。あれは富士山だ。「日本一の富士の山」だ。私も少し前から気がついていたのだ。それは夕暮ちかい南東の空に、御坂山塊の長壁を踏まえて驚くばかり高々と聳えていた。
 旅商人は下女に答える主婦の不機嫌をもって、型ばかりのように一寸窓から顔を出し、横眼でちらりとその方角を見てから云い放った。
 「あれはよく似ているけれど富士山じゃないよ。富士山はもっと左へ出るんだ」
 青年は悲しげな顔をした。眼が大きく涙ぐんでいた。それから諦めたように、しかし相手を憚るかのように、静かに身体を動かして窓に背中をよせかけて眼をつぶった。
 「どれ一眠りしようかな」そう独言をいいながら旅商人はごろりと横になった。青年の座席まで両足を踏み伸ばして。
 私の反駁と声援。それは咽元までこみ上げて来ながら遂に機を逸して、そのままそこへ固まりついてしまった。

     *

 義弟は小学教員である。師範では理科と地理とを専攻した。優秀な成績で卒業すると、東京市内に奉職して、私の義妹と結婚して、子供が出来て、理科の主任になって、その前途は詩人よりも遥かに洋々たるものがある。
 彼はキベリタテハを捕りたかった。なぜならば彼の標本箱にはこの美しい蝶が欠けていたから。そして今、眼前の白樺の葉にその蝶がとまっていて、ルイ王朝の宮廷服を思わせる雙の翅を、開いたり閉じたりしているのだから。八ガ岳の佐久口、稲子牧場の上手である。
 彼は憧れの蝶に対する一種童貞の羞恥と気後れとで(私にはそう見えた!)甚だ自信のない捕蟲網の一振りをやった。蝶は立った。別の白樺へとまった。彼はまた遣り損ねた。満面朱をそそいでいた。私は彼の耳の附根を見た。そこもまた真赤だった。三度目に、少し高過ぎる枝にとまったのを憤然と飛び上って振りかぶったが、美しい迷わしの蝶は、タテハの属に特有のあの悠然たる飛び方で林の奥深く姿を消した。
 それから義弟の無口がはじまった。その無口は本沢温泉までも続いた。時々、自他の利益のために気分を転換しようとして私の話しかける言葉にも、彼の答はひどく乾燥して断片的だった。
 彼が今は子供ではなく、子供の親であって、いわば一個の堂々たる紳士としてその義兄と山へ来ていることを考えると、この現状は幾らか滑稽なものに見えはしたが、私も勝負事の好きな人間や蒐集家の無念の気持の消息に、全然通じていないわけではなかった。そこで、温泉から上るとわざと寛いで大いにビールを飲んだ。
 翌日、硫黄岳からの眺望は、かつてここで経験したことのないほどすばらしいものだった。私たちは心もひろびろと横岳へ掛った。するといる、いる。クジャクチョウ、キベリタテハ、ベニヒカゲ。義弟は赤岳そっちのけで、あの狭い岩尾根を、鼻の頭に玉の汗をかきながら往ったり来たりしている。私は時々声だけで激励しながら、実はなるべく彼の失敗を見ていることを見られないように、三脚を立て、黒布を引被って、写真機の焦点ガラスからその動作を眺めていた。
 目ざす蝶は五六羽も見掛けたのに、彼は悉く下手にやった。それからまた昨日の無口がはじまった。今度のは実に深刻で時に意地悪るな電波をさえ投げた。それは往路を再び戻って稲子牧場の上手へ来る時まで続いた。
 私はあの岩石の間にマルバダケブキの黄いろい見事な花の咲いている牧場の隅でコーヒーを入れたが、彼はその間にやっと一羽のキベリタテハを獲た。彼は喜色満面だった。「兄さんの分をもう一羽捕りたいんですが、どうしても居ないんです」ああそのぎごちない言葉が何とチャーミングだったろう!
 私は彼の最後の成功を祝し、砂糖を余分に入れたコーヒーを二人で飲みながら、色々の意味で記念撮影をした。

     *

 ずぶ濡れになった左の袖口を捲くって、右手に捧げたランタンの薄赤い悲しげな光で照らし出すと、腕時計は午後十時半。すでに宵の前宮あたりから降り出していた雨は、今や黒戸山全体を暗澹と包んで、深夜の笹ノ平はただ漠々たる水湿の世界だ。
 私たち二人は、幾らかうらぶれた心で立っている。折角登って来た路をまた三四町後戻りして、わざわざ水を探しに行って呉れたもう一人の友の帰りを待っているのである。雨の真夜中の黒戸山で。
 道具はその使用されることを固執する。殊に山登りでそうだ。背負うに限りある荷物の中に不要な物は無いわけである。そこでむしろ持主の方が、彼らの性能を発揮させることに執着し、その機会を産み出そうとする。それは見得でもなければ利己心でもない。殊に私たちのこの場合、それは純粋にパーティー全体の悦びのためであった。
 と云うのは、水を探しに行った友が、英国製のアルコオルランプの紅茶沸かしを持って来たのだ。ああ、敬すべき子供らしい喜びよ! 私たちはその沸々の音を甲斐駒の絶巓に空想し、七丈の小屋に空想し、もっと低く星影の洩れる笹ノ平での深夜の休憩に空想していた。ところが雨。その雨はもうそろそろ下着まで沁みて来た。
 待つこと十分、二十分。やがて螢の火のようなマツダランプを光らせながら、友は水を満たした水筒をかかえて息を切って上って来た。彼の膝も手も泥にまみれていた。友はその膝の間でアルコオルランプに火を点じ、その手で茶の支度をした。
 私はこれほど旨い紅茶を、こんな感激とともに味わったことがない。
 その甲斐駒からの帰り路、同じ笹ノ平の少し下で、私は一羽の珍らしい蝶を発見した。雨上りの明るい美しい七月の午後の山路を、友と三人いそいそと帰る心に、蝶はまたなく私の心をひいた。私は捕蟲網を取り出してステッキの先へつけた。蝶は私が近づく度にひらひらと力無く飛び立つが、その弱々しい飛び方の中にも何かしら反抗の気魄のあるのを私は感じた。私も苛立ったが、次第に真剣な気持になって来た。二人の友は樹の枝を揺すったり、石を投げたり、網の柄を作って呉れたり、まるで自分たちのことのように、自分たちの楽しみでもあるかのように、少しも迷惑そうな顔を見せず、むきになっての助勢を惜まなかった。同時に彼らは、当然それを取り返すために急がなければならない貴重な二十分間というものを、喜んで私に提供して呉れたのだ。
 彼ら二人の助力があって初めて私が手に入れることのできた蝶は、立派なウラギンシジミの雄であった。新緑かおる黒戸山でのこの一羽のクレチス・アクータは、前夜の雨中の紅茶とともに、私の幾十の山旅の思い出の中で、今もなお切々たる友情のオブリガートを持つ一篇のなつかしい歌となっている。
 そして同じような例をその他にもなお幾つか私は持ち、総じて山に関する限り、私が人に与えたよりも人から与えられた処遥かに多いのを思って、そもそも真正の登山家という者が、如何に無私無欲の徳を持っているかということを私は痛感せざるを得ず、この信念を声を大にして告げずには居られないのである。

     *

「尾崎さん、あなたはなぜそんなことをくどくどと云わなくてはならないのですか。われわれの心の奥底に大切に秘めて置いてはじめて美しいそれらのものを、何のために外へは出して、妙味も陰影も気品も無いものにしてしまうのですか。弓の軽打、指の一触れで、忽ち清らかに歌いはじめて、あの市井の混濁の中で静かにわれわれの心を喜ばせる深くはあるが脆い音楽を、どうしてそんなに手荒く取り扱い、それを万人に徹底させようとむきになるのですか。われわれは心にそれを持ちながら、むしろパイプに火を点じて、黙々として多く語らぬ男らしさをもって、この高峻を吹く風の響きを聴くべきではないでしょうか」
「そうです。それは確かに一層美しいことです。そして私といえども、多くの選ばれた登山家がほとんどあなたと同じ見解を抱いているだろうということを察しなくはありません。そういう人のそばでならば、私も喜んで沈黙するでしょう。喜んで私のパイプをくゆらし、心に永遠を描いて静かに煙の行衛を見送るでしょう。そしてそれが男らしいことならば、私もまた充分男らしく見えるでしょう。
 しかし、あなたの云おうとされる『含蓄』の美、それを理解しながらも、私は云わなくてはなりません。それを強調することは往々人間を野狐禪にまで鼓舞し、活潑であるべき彼の批判的精神や判断力を眠らせ、情緒や雰囲気だけに陶酔させ、その独自のものの発展の機会を彼から奪い去り、彼を去勢してしまうことが少くないということを。
 セザンヌの描いたビスケットを『永遠のビスケットだ』と道破した人があります。皿に盛られた一山のビスケットが永遠の相を帯びるまでに表現されるためには、其処に烈しい美の追窮が透徹した『視』と協力して最もエネルギッシュに行われたと思わなければなりますまい。ひとりビスケットだけでなく、他の静物にせよ、人物にせよ、風景にせよ、セザンヌがこれを描く時、彼は決して雰囲気や情緒や兆候を描かなかった。彼はその対象の生命ラ・ヴイーを描いたのです。そして、此処に初めて『含蓄』が現れたのです。つまり含蓄とは放射の実体を予想させる被放射物であって、匂いや雰囲気がその実体の代りには成り得ないというのです。私は同じことをヴァン・ゴッホの場合にも、またあの大彫刻家ロダンの場合にも感じます。
 そこで私の問題に帰れば、私としては、雄々しい、人間らしい、頼むに足りる、自然との不断の精神的交通から遂に一つの信念に到達し得たような立派な登山家が、当然知らずして身に纒っている高貴な雰囲気について、その依って来るところを考え、洞察し、或いは追窮して、あらゆる方面からその力ヷアーテユーを顕揚しなければなりません。なぜかと云えば、こういう力こそわれわれの世界を美しくし、清潔にし、生き易く単純にし、要するにわれわれの生活をより幸福なものにする一つの源泉であるからです。そして芸術の力でそれを誰よりも強く語りたいという欲望を私は持ち、また其処に自分の使命の一つを私は感じているのです。
 正直に云えば、私はセガンティーニの絵を愛しながらも実は『私の山岳』によって彼の芸術を補足しているのです。
 さらに云えば、一方にバッハ、ベートーフェンを持てばこそ、私は安心してヨーデルを聴いていられるのです。
 私にとっては、暗い、熱い地底にある根こそ一大事です。それが分って初めて枝や葉や花の事が一層よく理解されるでしょう」

     *

 春の夕日が落ちる。乗鞍の南に落ちる。違か下の方で、もう諏訪盆地はたそがれたらしい。反抗と順応との私の精神もまたたそがれる。
 荘厳な弥撒ミサを想わせる落日よ。偉大なる落飾よ。私のすべての悲喜もまた落飾する。
 夕日の紅と、最初のトワイライト・グロウの黄とにほんのり染まった白樺の幹。その高原の白樺を、もう仄暗い夕風が包んでいる。
  O wie schön ist deine Welt,
  Vater,wenn sie golder strahlet!……
 思わず小声で歌う「夕映の中でイム・アーベントロート」。おのれをたそがれ、落飾し、心の白い裸の幹を夕風に包まれた私にとって、今や云うべきことはこの外にはない。
「おお父よ、おんみの世界の何と美しいか」
 真紅の落日はいよいよ大きく、いよいよ柔かく、わずか斜めに落ちながら乗鞍の山稜に沈み込む。乗鞍は酔い、感勣し、ほとんど泣く。そして私もまた泣かんとする。
 太陽は溶け入るように沈む。爛々と沈む。乗鞍は孕む。聖なる懐胎よ!
 ああ、ついに髻もとどりを振るって決然と立つ紫の乗鞍! 私も或る憤然たるものに貫かれて立つ。
 ひとつの聖譚曲は終った……。

 

 

 

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 木暮先生
   
  (畏敬高村光太郎君の「当然事」にならいて)

はたらいて食うのはあたりまえだから
還暦すぎても務めに行くのだ。
市内電車はのろいようでも
時間に乗れば時間に着くから
毎日電車でかようのだ。
約束は果たさないと気持がわるいから
身をつめても果たすのだ。

きたない事はきらいだから
きたない事に手は出さないのだ。
おのれの内の天に聴くから

天に則のつとって道をふむのだ。
自然はおおきな母だから
自然を思えば気が大きくなり、
山が好きだから
山へ行くのだ。

ああ、先生、
あなたは本当の人間の生きた証拠。
生きる日々にたまたま迷ってつまづく時
私はあなたの存在を思って立直るのです。

    反 歌

その髪の貴き見むとまかりつついでませしとふ見ずて帰りぬ
ますらをの帷巾かたびらさやに袴着て立てるゆかしや木暮のおきな
秩父やま雲たちわきてみなつきの水のね涼し君とい往かむ

 

 

 

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 子供と山と

 子供は数え年の七つになる。遅生れだからもう一年幼稚園へ行かなくてはならない。甲冑を着て旗を持った勇ましいジャンヌ・ダルクの像が、庭の正面に立っている女学校である。其処へ行って毎日フランス語の唱歌を歌い、石盤ヘアーベーセーを書き、遊戯や折紙をし、お話を聞き、小さい机の上にハンケチをテイブルクロウスの代りに敷いて弁当を食ぺて帰って来る。
 或る日彼女はあの女聖者の火刑の話を先生から聴いて来た。
「ジャンヌ・ダルクは焼かれて灰になったんですってね。だけど心は焼けないで残っていたんですってね」と彼女は云う。そしてこう質問する、
「心ってなあに?」
 ああ、幼い者! それが何であるかを知るためには、この世でもっとも困難なその疑問が解けるまでには、お前は今後まだたくさんたくさん生きなければなるまい。

     *

 朝からの陰欝な曇り空が午後になって晴れてくる。北西の風が乾いた椎や樟の葉を鳴らす。何かと幼い理由をつけて二階の書斎へ上ってきた小さい娘が、部屋の隅へぺちゃんこに坐って画を書いている。ガラス障子のそと、都会の屋根の波の上を、煙幕のような層積雲の長塊が東京湾の方へ動いて行く。寒さを喜ぶ白い鷗が、いくつもいくつも隅田川の空で翻っている。春は未だ遠いなと私は思う。
 冬のまんなかで想う遠い春。それは森の奥の空地のように、また望遠鏡を逆に覗いて見た風景のように、明哲な焦点に結ばれながら、しかも何と遙かだろう! 四月よ、ほっそりした春の娘、美しい眼を持った痩形の乙女よ! 私は思う、モーツァルトを、ルノアールを、マイヨールを。聯想は水のようにひろがる。ああ、甲斐や上州で単純な人らが生きるあれらの山村。武州多摩川の渓谷を縁縫いする古い懐かしい春の部落。私はシューマンの歌「限りなく美しき五月の月にイム・ヴンデルシエーネン・モーナト・マイ」を心の中でくちずさむ……
 子供は何をしている。子供は一心に画をかいている。私は彼女の横顔を、その微妙に切られた唇の合せ目を、つんと上を向いたその小さい鼻を、また必要以上に力を入れてクレパスを掴んでいるその赤い拳を見る。
 子供は山の画をかいている。富士山は頭を切られた二等辺三角形である。それはいい。それに間違いはない。富士山と云う山は一個の標式的なコニーデ火山だから。しかしもう一枚のは何だろう。その鋸の歯のような、手の気紛れに従えば無限にまでも延びて行きそうなその太いジグザグの線は。
「これは東京から見えるお山よ」
 なるほどそれは少くとも連山の形である。そして、それが山であることを断然証明するかのように、山稜の鋭い線の上を、実に事物の比例を超越した十人余りの登山者の姿が、例外なしにルックサックを背負い杖をついて歩いている。その人間の形が私に顕微鏡下で拡大された蚤のことを思わせる。私は云う、
「みんな同じ方を向いて歩いて行くんだね」
「だって」と、子供は昼間を夜だと云われた時のような顔をして云う、
「そうしないと皆ぶつかってしまうわ!」
 なるほど! 子供が未だ幼いと、彼らは物の形をすべて空間線で記憶するのだ。立体の観念はあまり無いのだ。いつか栄子は粘土で富士山を作ったことがあった。それは截頭円錐形ではなくて、薄べったい三角形の板に過ぎなかった。
 私は銀座の或る百貨店で小さいリリーフ・マップを売っていたことを思い出す。しかしその二十万分の一の立体地形模型と人間との比例を、またどうして容易に理解させるべきかということは一つの新しい困難である。

     *

 今日は日曜だ。幼稚園へ行くというので、若い叔母さんの袂へしっかり掴まって、朝のラッシュアワーの電車で人に揉まれる必要もない。庭の日蔭の古い雪はまだ溶けないが、日の当った縁側は暖かい。岩カガミや高根撫子の鉢へ、お前の小さい如露から水をやるがいい。
 今日は日曜だ。頬白の摺餌をこしらえるから見ておいで。去年までのお前には、餌壷を寵まで持って行く途中、時々こっそり指の先へつけて味わってみる悪い熱情があった。
 今ではもう大きいからそんなことはしない。私は「時」の否応ない経過をお前の幼い生活の中にも見る。刻々と進む「時」の河蝕が魂の山容を複雑にきざむ。私はお前を見る。自分を見る。また世界を見る。私は見ることに依って賢くなりたい……
 今日は日曜だ。雨の上った後のきらびやかな朝。東京の町並を吹く風にヒャシンスの色がある。屋根へ登ろう。山が見えるかも知れない。
 私と一緒に屋根へ登って遠い山を眺めることは、子供にとっては一つの恐ろしいような楽しいエキスペディションである。それで私たちは物干し伝いに二階の屋根のアレートの一つへ取りつく。妻と妹が下から顔を出して、一人は注意し、一人は声援する。
「栄子! 気をつけて! よく御つかまりして!」
「栄子ちゃん! しっかり! あら、びくびくよ」
 しかし私はこう思って微笑する。彼女たちも実は幾らかこの冒険に羨望を感じているに違いないと。なぜかと云えば、彼らも一度はこの登高の味を味わったことがあるのだから。その時彼らは女の身のあられもなく、四つ這いになって瓦の斜面を攀じたのであった。しかし今では主婦であり若い娘である身分について、彼ら自身反省してみなければなるまい。
 未成年者よりももっと幼い子供は、見得も構わず一心に瓦を登る。私がうしろからその小さい腰のあたりを掴まえていることは云うまでもない。しかしこんな時の子供の、あの膝関節のうしろの驚くべき逞ましいふくれや、靴下をぬいだ真赤な足指の緊張を気をつけて見た人があるか。それはその懸命な努力とともに真に感嘆に値する看物である。
 突然子供が叫ぶ、七歳のコントラルトで、
「モンターニュ! モンターニュ! おとうちゃん、見える、見える!」
 (私は彼女のフランス語をそのまま此処に書くことを諸君に許して頂きたい。彼女は幼稚園でフランス語を習っている。それを忘れさせたくないので自宅でもなるべく日常この外国語を云わせている。彼女の語学の習得が、未来における彼女自身の運命の開拓に役立つことを。やがて親である私たちはこの世から居なくなるのである。彼女は独力で食い且つ学ばねばならない。それで私はこの子供のフランス語が、諸君に決して厭味のようにとられないことを祈る)
 実際今日は珍らしいほどよく山が見える。富士はもとより、大山、丹沢、道志山塊、三峠。紺碧の山々が雪の鹿子斑をつけて、遠く、近く、銀座、芝口あたりの高い建物の上に連っている。丸ノ内ビルディング街は西から北西への眺望を妨げる。それでも大菩薩連嶺の一部と、雲取、白岩とは頭だけ見える。場所は永代橋に近い京橋区の片隅である。
 屋根の上での山の講義。子供はよく山の名を覚える。それから雲の種類の実物教育。見る物はたくさんある。常に興味を感じさせることによって、子供の自発性と知識欲とを誘い出さなければならない。
 さて下へ降りる。登攀の時よりも下降の時の方がむずかしいのは、屋根も山も同じである。そしてアクシデントに対して想像を逞しくする大人が、この場合子供よりも一層恐怖を感じることも同じだと云えよう。

     *

 学校の屋上庭園からは、晴れた日には山がよく見える。富士見町と云う名はいたずらではない。しかし学校では尼さんの先生たちが危ながって、決して小さい子たちを屋上へは出さない。
 私は或る感動をもって想像する。遠い故国から教育の仕事のために派遺されて来たフランス人の尼さんたちが、あの屋上で、堅く巻いた白い帽子に黒い法衣の裾を風になびかせながら、冬晴れの日や麗かな春の昼、日本の山々を眺めている光景を。そして下の運動場では揃いの上張りタブリエを着た小さい子たちが羨望の瞳をかがやかせて、早く大きくなってあの高い処へ登ってみたいと憧れている光景を。
 子供と山、これもまた二つの主題の無理な結び合せではないであろう。見る事が知る事の初めであり、知る事が理解することであり、理解が愛を目ざめさせるものとしたならば、子供の生活の地平線に、私はあの山々のシルエットをひろげて見せたい。

 

 

 

 

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 「山日記」から

 東駒ガ岳第一屏風小屋
 七月十六日午前五時、小屋の窓硝子へ顔を押付けて外を覗くと、一面に深い暁の霧。風は無いが小雨さえしとしとと降り注いでいる。その漠々たる灰色の雲霧の中に眼の下の鞍部から湧上った甲斐駒ガ岳の北東岩稜、直立約百三四十メートルの物凄い屏風岩が墨絵のように隠顕する。此処を出ると直ぐにあれに取付くのだ。
 小屋の中では同宿の人たちが未だみんな眠っている。私の連れも眠っている。私たちは昨夜の八時頃から雨の中を登って来て、つい二時間半ばかり前に此処へ到着したのだ。
 もう石油も残り少なになったランプが一つ、黄いろい弱い光を落している。娘の登山者が一人混って寝ている。青白い疲労し尽した顔、鼻に詰めた脱脂綿ににじんでいる血。山岳病らしい。まるで死人のように静かだ。
 海抜二二〇〇メートル、前面は駒ガ岳、右と左は灰色の雲霧の奥に深く切り落した尾白川、大武川の二渓谷。その黒戸山の西の肩に危く立っている屏風の小屋で。
 五時半。手拭を下げて、小雨に濡れながら顔を洗いに行く。小径の傍らに細い水が落ちている。手が切れるように冷たい。岩にはゴゼンタチバナ、舞鶴草、黒雲草などがびっしり生えている。後の二つは未だ花には早いがゴゼンタチバナは今が盛りだ。どうせ濡れついでに少し先の方まで歩いて行くと、そろそろ倒木が現れ出して、陰湿な針葉樹林の下にセンジュガンピの白い花や、ハクサンオミナエシの金黄色の花がしとどに濡れて咲いている。腐蝕土の香、霧の匂い。
 この小径は大分こわれているが、結局刀利天へ出る裏道だ。また一しきり思い出したような雨。

 植物撮影
 七月十六日午前八時、七丈ノ小屋で。
 屏風岩の登りはとにかく、続く天狗岩の直登は相当にこたえた。空身ならばそれ程でもあるまいが、何しろ三貫目に近いルックサックを背負って、濛々と降る霧雨の中、あの急峻な花崗岩の衝角みたいな所を、木の根、梯子、鉄鎖などを頼りに攀じ登るのだから、まかり間違って鋲靴がスリップでもしようものなら命は無い。あの登りでは到頭ステッキが邪魔になって、途中の岩角へぶら下げて来た。
 東駒ガ岳七合目の七丈ノ小屋は、これから頂上を志す者、すでに頂上を辞して下山する人たちで一杯だ。何せよこの雨と霧では展望が全く利かず、二十間位の先は只徒らに明るく白い濛気の世界だ。それでも頂上まで行って来ると云う二人の連れを出発させて、私一人後に残って植物の撮影をすることにする。
 登って来た路を天狗岩の方へ少し戻る。コケモモ、岩高蘭、舞鶴草、ゴゼンタチバナ、岩姫鏡、岩梅、コガネイチゴ、梅花黄蓮などが最も目につく。雨の息つぎをねらって三脚を立てる。見た眼にはひどく明るい癖に、ワトキンスの光度計で計ってみると案外暗い。それで撮影データはこうだ。レンズはツァイス・テッサーF四・五で、乾板はシャイネル二十三度のイゾクローム、フィルターはラッテンKI、八に絞って大体二分ノ一秒と云う写度である。(これでほとんどかぶっていなかった)焦点距離百五十ミリのレンズで、蛇腹の伸び約二十五ミリ。実物のほぼ六分の一ぐらいに写したわけだ。
 撮影している時は、身の駒ガ岳二四〇〇メートルの地点に在ることを忘れていた。焦点硝子に逆さに映る此等矯小な、可憐な、しかも水々しく雨に濡れた高山植物の美しさ。私は彼ら一人一人に声をかけ、彼らもまたこの方幾寸の硝子をとおして私にうなずいているような気がした。
 其の間にも三々五々、私の傍を通りぬけて下山の途につく若い登山者の群。「またあの岩場を下りるのかな、厭になるな。落ちて死んだら後を頼むぜ」笑談のように幾らか真実の気持を云う、
そんな声も聞こえた。

 マルバダケブキ
 八月十一日、午後二時半。
 三尺から四尺に及ぶ壮大なマルバダケブキが、此処信州八ガ岳佐久口登山道、稲子牧場上手のやや湿潤地のいたる処に簇々と立ち、群落し、咲き盛っている。磊々たる火山岩の間に径一尺四五寸もある濃緑の円状心臓形の葉をひろげ、太い長い花茎を抽いて直径二寸に近い旨そうな橙黄色の頭状花を十二か十三、繖房状につけている。その見事さ、その剛健さ。見たことのある者でないと、ちょっと想像のつきにくい特色のある立派さだ。
 仰げば八ガ岳の一峯硫黄岳はその無残な爆裂火口を此方に向けて、白と赤との絶崖を八月の薄青い天風に吹かせている。

 午後四時半。
 径は太い尾根筋をぐるりと北へ廻って、いよいよトウヒ、オオシラビソの暗い大森林にかかる。その取附きで来るたびに目につく可憐なハクサンフウロを今日も見た。高さ七八寸で五乃至七深裂した掌状葉をひろげ、あの濃い紅い線条の通った淡紅色の五瓣花を路上の風に揺すっている。
 フウロソウ属の草はほとんど皆好きだが、これも忘られない花の一つだ。そして此処を過ぎると例の暗い森林がはじまって、相変らず駒鳥が啼いている。
 午後五時。
 もう今夜の泊りの本沢温泉も一投足の地点になったから、ここでまた少しゆっくり植物の撮影。今度はカニコウモリの群落だ。この草の群落している場所は極って暗湿な喬木林の中だから、露出も従って長い。それに時間も五時と云えば尚更暗いのでフィルター省略の十一に絞って七秒。時々高い穂が林間の微風に揺れるから、バルブで小刻みに刻みながらの露出だ。もう少し明るい路傍の岩壁で大花ノ姫シャジン、細葉ヒメシャジンなどを写そうと苦心したが、紫碧色の鐘状花をぶら下げた長い茎がどうしても動いて止まらないので、今日は断念した。

 横 岳
 八月十二日午前九時。実に見事な快晴だ。硫黄岳に立って、北は白馬から南西は東駒ガ岳までを沸々とたぎり立つ真白な雲海の上に望むことができた。ただ今日は佐久方面から時々霧の襲来があって、浅間から上越の山々の見えないのが残念だった。硫黄岳の頂上近くでは、しかし当薬竜胆トウヤクリンドウの満開の群落や、岩壁を鏤めるミヤマダイコンソウが如何にも美しかった。そして今、この横岳の這松の中にいる。
 紅いのはヨツバシオガマ、タカネシオガマ。サファイアを撒いたような千島桔梗。それにまじって白や淡紅の細花を穂につづるムカゴトラノオ、倭小な草の癖に大きな莢をつけているオヤマノエンドウ、暗い碧色の花をつけた高さ七八寸のミヤマアケボノソウ、長さ二分に満たない白い脣形花に黄いろの斑点を染めて、濃い紫の葯をつけた可愛いヒメコゴメグサ。さてはミヤマホツツジ、シラネニンジン、タカネツメクサ。そして砂礫地の斜面のところどころ、白緑の霧のような細裂した葉に、あの驚嘆すべきルビーの花を戴いた高山植物の女王駒草。
 そしてこの清純典麗な岩石の花園の上には盛夏の青空と燦然たる太陽。また燃え上るような主峯赤岳を背景に悠々と飛び廻るタカネヒカゲ、クジャクチョウ、キベリタテハの高山蝶……

 

 

 

 

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 美しき五月の月に
           (若い女性に向っての山へのいざない)

 

 その山形から云っても谷形から云っても、またその海岸形から見ても、日本の自然の調和的な美は世界でも稀有なものの一つだろうと私は思う。
 長い広々とした裾野を曳く各種の火山、地平の青空をかぎる蜿蜒たる皺曲山脈、おっとりと優美な隆起準平原、沢や渓谷は複雑な線条を走らせてその傾斜面を鏤刻し、盆地や平野は葉脈のような河川に開析されて目も綾に横たわっている。また海蝕をうけた無数の隆起海岸、断層海岸、その絵のような内海や入江、その豪宕な海崖を洗って、太平洋や日本海の無限の水がいたるところ遊戯し奔騰する。
 日本の自然――地形を基礎とした日本の自然は、われわれをすべて地理学者にはしないまでも、国土の美の骨組を成すものについて、われわれの旺盛な知識欲に何らかの楽しい鼓舞を与えないであろうか。
 私は晩春の山旅を云う。しかし地理学者でない私には、これから書く二三の山に関してあなたたちを地形学者的説明で饗応することは勿論できない。
 シューマンの歌リードに「春の行旅」というのがある。私はこの歌と一緒に尽きぬ青春といったようなものを思う。この歌を歌うとルックサックをかついでさまよい出たくなる。地図と、時間表と、背嚢と、一本の杖。春も闌けて、いつも身軽な三等旅客、私は都塵を後にする。

 武州景信山カゲノブヤマ。
 なんと云うこと無しに私はこの山が好きだ。
 恐らくそれは、自分がこの山を幾度も訪れて、遠近からの山容、その一本の山襞までも深く眼底に記憶しているからかも知れない。また中央線浅川駅から一里半、東京から四時間幾らという行程で、気の向いた時いつでも一日の山歩きの最初の展望地点へ達することができるからかも知れない。その七二八メートルという高さは、山の高さとしては何物でもないには違いないが、高尾山から起って古い小仏の峠となり、それからこの景信の頭を倔起させ、たちまち西北西に転じてS字形の尾根をうねらせながら、陣場峯、三国山、三頭山と次第に高度を増して行くこの武、相、甲の三国に跨る国境山脈は、煦々として麗らかな晩春の一日の山旅には、捨てることのできないコースである。

 この一連の山脈は、好く晴れた日、東京日本橋辺の高いビルディングの上から眺めると大体東京駅降車口の円屋根に接して現れて、一段高い大菩薩連嶺の下に黒い鯨の背のように横たわっている。

 浅川駅から歩き出して一里すこし、トンネルの入口、山が迫って小川が走る爪先上りの小仏の部落では、今ちょうど八重桜の盛りである。
 地質学者のいわゆる小仏層の岩石がそこらじゅうに露出している。山間の春は水の響きと天鵞絨のような鮮緑色の苔から。「ツィツィベ・ツィツィベ!」と四十雀が甘えるように鳴いている。ローザ・ルクセンブルクが牢獄の中で思い出したあの小鳥の游牝の時の愛の歌である。
 風はゆるやかに空は青い。都会を遠く、時間の流れに黄金の重さがある。

 あらゆる山頂がそうであるように、この景信山でも最後の十分間が一汗かかせる。左手桂川と道志川の谷を隔てて、未だ残雪の鹿子斑をつけた丹沢の大山塊がもう堂々と蒼い障壁を立ててくるにもかかわらず、その下からは見馴れた石老山の臥牛の背中がせり上ってくるにもかかわらず、また大群山の大ピラミッドを軽く踏まえて、ああ悠久の富士が夢よりも高く美しく四月の蒼穹を抜いているにもかかわらず、この山頂の傾斜はあなたたちの呼吸を奪う。

 山頂に埋めこまれた独立標高点の切石を見つけて、その上へ二十万分の一の地図をひろげ給え。風があるから小石を載せるといい。西へ向ってあなたの右半身は武蔵に属し、左半身は相模のものだ。大菩薩連嶺が知りたいか。それは正面に見える灰色の草山――根張りの大きい陣場峯の真上に、そら、一直線の尾根に残雪の銀を輝かせて紺碧の屏風のように峙っている。その左に二枚の歯形をしたのは甲州の三峠山。富士北麓の河口湖がその南西に深く湛えているわけだ。
 眼を転じて北西に突兀と高く薄緑なのは武州大岳山。誰にでも一度は行かせたい山である。その左に春の山姫のように艶にみやびて悠然としているのは御前山。いずれも四千尺以上の山。彼らのうしろに、むろん此処からは見るよしもないが、奥多摩の流れが深い谿谷を穿っている。そしてその向うの山岳重畳は、云わずと知れた秩父連山。
 振返れば薄紫に陽炎の立つ一望の武蔵野。霞の底で多摩川の水がきらりと光る。麦は緑に、あらゆる樹々がみずみずしく樹液に重いその平原の奥で、東京は何という生活のどよもしを上げていることか! 何たる息吹が夢のように此処まで伝わって来ることか!
 山頂にたたずんで、人のする瞑想は常にいくらか悲しい……

 去年の春私はこの頂上に寝ころんで、大岳山をかすめて西の方へ飛んで行く美しい雲を見たことがある。それはイタリアで「風の伯爵夫人コンテッサ・デル・ヴエント」と呼ぶものだそうだが、緩かに廻転して進みながら、あらゆる瞬間に優艶な女の形をしている。
 藤原博士はこれを「廻り雲」と云っている。層積雲の一種だそうである。

 甲州大蔵高丸。
 東京から西の空を眺めると、秩父連山の左に、遠く大菩薩の連嶺はほぼ高低二段の長壁をなしている。大蔵高丸は、ちょうどその二段の接触点にあたる一七八一メートルの隆起である。かつて或る人の書いた「春の大蔵高丸」という文章を読んで是非一度は行ってみたいと思い、去年の五月の初め、快晴の日の未明に中央線初鹿野駅からこの山へ入った。以下の断片はその時のノートである。

 午後十一時三十分飯田町発長野行。同行八人。翌日午前三時四十五分甲州初鹿野着。ランタンに火を入れる。揺れながら一歩の先を照らす明りに、散った桜が雪のように白い。笹子山の真暗なふところで筒鳥の声。星座二つ三つ。日川の谷の右岸を行って、やがて左岸。かじか、せきれい、四十雀、頬白たちの夜明けの歌。

 五時日川と別れて右へ大蔵沢を遡る。葱皮状分解を受けた石英閃緑岩の大塊にどうどうと響くエメラルドの水が当っている狭い河原で、火を焚き、紅茶をわかして、パンとソーセージの朝飯。めいめい勝手に撮影。満山の新緑。植物図鑑を繰るのに忙しい。出発。
 あんな高い山の肩に朝日が当っている。燃えるようなミツバツツジ。踏んで行く沢筋の岩の間にはチゴユリ、チダケサシ、イカリソウ、イチリンソウ。それに可憐なクワガタソウが目につく。ゆっくり植物採集に来たいと思う。
 「限りなく美しき五月の月にイム・ヴンデルシェーネン・モーナト・マイ」! 肩にルックサックの適度の重みを感じながら、朗らかに幽邃な朝を口笛吹きながら私たちは登る。
 水が涸れ、勾配が強くなり、呼吸がややせわしくなる頃、振り返ると今登って来た沢の正面に驚くような富士の全容。それは山々の新緑と、ツツジの炎と、思い切って麗らかな青空との豪奢な額縁に嵌まった夢の現実である。
 ついに傾斜約四十度の閃緑岩の崩壊部をよじのぼって鞍部の尾根。そして九時二十分大蔵高丸頂上。

 ああ、なんという展望だろう! 直ぐ目の前から連嶺は起って、大菩薩本岳は正面奥にその巨大な内裏雛のような姿を端然と坐している。その左には二五〇〇メートル級の奥秩父の連峯。金峯、奥千丈、国師、甲武信、破風。何と高層の風が今彼らの頭を吹き渡っていることだろう。
 しかし更に驚くべきは西天に連なる南アルプスの雪嶺である。北岳、間ノ岳、農鳥岳、塩見、悪沢、赤石……あらゆる突起が雙眼鏡のレンズに刻まれたように映って、「悠久」は其処から生れて来るかと思う。
 だが富士こそは愈ゝ出でて偉大である。これには言葉も無く、ただ茫然として見るばかり。
 足を投げ出して思うさま遠く目を楽しませる山頂に、しかしこの高みでは春も未だ幼く、ほとんど冬枯の草の中にしおらしくも、清純なフジザクラの幾本を私たちは見出して嘆称した。

 十時出発。この連嶺の尾根を南へ、高まり低まる尾根筋はひたすらに楽しい枯萱の道である。春悠々、折々の雲もまた悠々。ヤマハンノキの芽が未だ堅い。ところどころに残雪。

 十一時五十分大谷ガ丸の三角点。この登りはいささか苦しかった。急勾配の樹林の中で、息を切らして、私はマイヅルソウの群落を哀れにも踏みしだかなければならなかった。

 二時、曲沢峠でゆっくり休憩。一時間の後曲沢の左岸の高い尾根を、噎せるような新緑と燃えるようなツツジの間を縫いながら初鹿野さして降る。時々見える真白な崩壊、見おろす谷の水、まるで植物に食われてしまうかと思われる花と若葉の世界を、春は永いと心ものびやかに私たちは歩く、歩く……

 

 

 

 

  

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 山と音楽
          (課題に答えて)

 

 一概に山と音楽と云っても、人によってそれぞれ山に対する気持も、心がまえも、態度も違うであろうし、また音楽が好きだと云ったところで、果たしてどんな種類の、どんな傾向の音楽を好きなのだか、音楽と名がついてさえいれば何でもいいのか、或いは深く信ずるところがあるのか、更にどのような趣味訓練の過程を経て、どんな風にそれを愛しているのだか、もっと進んで云えばそもそも音楽がどのくらいその精神生活に浸潤し、溶解し、摂取されつつあるか、そんなことも、元来が極端に鑑賞の自由な、反射面の多い芸術なだけに、色々の兆候から観察し洞察し、また時にはよく協議さえした上でないと、とかく話の焦点が狂い易い。
 私の友人に或る有名な管絃楽団の楽手がいるが、スキーが好きで、冬の休みには必ず何処かのゲレンデヘ出掛ける。その彼が或る時私に、ベートーフェンの「エロイカ」のスケルツォーを聴いていると、どうしてもスキー滑降の壮快さを思い出さずにはいられないと云ったことがある。成程、人の職業というものは、それにたずさわる人々にそれ相応な物の考え方をさせるものだなと私は思った。第三スィンフォニーの中のあの楽章の、浮き上がって来るような、疾走するような、また跳躍するような独特なリズムは、あえて当てはめれば、スキー滑降のそれに当てはまらなくはない。しかしまた別の人間が、その同じスケルツォーに、魂の悲劇的な扮湧奔騰の姿を見るということも有り得るであろう。
 ドビュッシーの管絃楽「ノクチュルヌ」で「雲」を聴きながら、ほれぼれとした嘆美の吐息をついた洋画家の友達があった。「あの色彩感覚サンサシオン・コロラントを自分の絵に奪い取ることができたら!」というのである。印象派以後の、特にポウル・シニャックあたりの絵画とこの種の音楽との間に、イデエや感覚の表現の上で或る微妙な兄弟関係のあることはわれわれにもわかる。ことにドビュッシーの「海ラ・メール」などではこの感が深い。ところで私にしてみると、あの「雲」を聴きながら、や
っぱり自分が夕暮近いそよかぜの吹く丘の草原に身をたおし、天空にうまれては消える晩夏の雲の戯れをぼんやり眺めているという、そんな聯想の方が好ましくもあればまた自然でもある。
 コルトーの友人でフランスの若いピアノの名手ジルマルシェクスが、日仏会館でモーリス・ラヴェルの近作のフォックス・トロット「五時フアイブ・オクロック」を試演して盛んな喝采を博した時、同席の一西洋婦人が「大変美しいタイボー、大変美しいタイボー! この音楽は私にひとつの画因モチーフを暗示する」といって、ひどく興奮していた。後でジルマルシェクスに訊いたら、その女は彼と同国人で、或るデパート専属のデザイナーだということだった。天才ラヴェルによってモンタージュされ、俊敏ジルマルシェクスによって見事に解釈され演奏されたこの人間喜劇のぴちぴちした一断片が、その後はたしてどんな素晴しい装身具や衣裳の図案となって現れたか、寡聞の私は残念なことに未だ知るところがない!
 こんな例は幾つ挙げても切りが無いが、要するに、人をしてそれぞれ有りしところの物を想い起させ、やがて有るであろうところの物を夢想させる「音楽」という芸術が、人各々の固有な生活や関心事に、その于百の面をもって臨んで来るということは極めて当然だといわなければなるまい。
 そこで今私に課せられている「山と音楽」という問題に対して答えるにしても、それは結局私という個人の経験とか好みとかを語る結果に陥るほかは無いのである。本来ならば真に美学的な見地から、深く精緻に、この二つの対象の相互関係を(若しもそういう関係がありとすれば)追求すると面白いのであろうが、あいにく私はその柄でない。
 一体、山を歩いていて音楽を想うというよりも、私の場合だと、音楽を聞きながら山地の自然や生活を聯想するという時のほうが遥かに多い。それに又、こんな課題に答える時によく有り勝な机上の筆の行過ぎから、どこそこの山頂へ立った時何とかの音楽が卒然として思い出されたというような、後から考えての「有りそうな事」を、謂わば善意の作為をやってしまうことを避けるために、たとえ実際にはそういう経験の二度や三度はあったとしても、今はその方は書かないことにする。
 しかしそれを通して山を想起する特別な音楽となれば、私としても幾つかは持っている。中でもウェーバーの、かなり通俗ではあるが一概に捨てることもできない、あの歌劇「魔弾の射手フライ・シユツツ」、それは聴くたびに極めて素直に山地そのもののヴィジョンを私に与える。古いオルガンで拙く弾いてさえ、私は冷めたい苔の香の身にしみる山路や、朝夕に山々がよこたえる大きな影や、峠をこえて旅をする雲の姿や、暗い原始林を吹きぬけて来る風の響きを聴くのである。
 シューベルトの歌曲には何ということなしに山を想わせる作品が多い。「鱒」、「羊飼の歎きの歌」、「アルプスの猟人」、「郷愁」、「ノルマン人の歌」のようなものは元より、歌曲集「美しき水車小屋の娘」、「冬の旅」「白鳥の歌」などの中にも到るところ、われわれの自然や永遠への思慕の情を草原の風のようにそよぎ立たせるものが散らばっている。誰か「夕映の中でイム・アーベントロート」を歌いながら、悲しくも甘やかな、爽やかにも荘厳な、高原の落日の如きものをおもわない者があるだろうか。実に「菩提樹」から「未完成交響曲」にいたるまで、いつも彼シューベルトの音楽の底を流れているあの響き、それこそ最もしばしば真の登山家の独ひとりの心に触れて来るもののように私には思われる。
 さてシューマンはどうであろう。彼もまたいい。しかしこの大家のロマンティックな、室内的に詩的な特質のうちには、どうも本来的には自然及び野外的な要素が乏しいので、もって直ちに登山家の素朴な心に働きかけるということはむずかしいように思われる。とはいえこれが決して彼の欠点でも弱点でもないことは勿論である。私としては彼の二十の抜萃歌曲の中の「胡桃の樹」、「ラインの日曜」、「我が老馬」のようなものや、「詩人の恋」の中の「かぎりなく美しき五月の月に」などから、自然への感情をそそられることが多い。
 そして、ああ、フーゴー・ヴォルフの歌! アイヒェンドルフの詩による、就中なかんずくメーリケの詩によるその歌曲集。もしもヒマラヤ探検隊の一人の持物の中に、この一冊が見出されたとしたならば、それが彼らの行動のヒロイズムにそもそもどんな床しさを加え得たであろう! 彼の書翰集もまた、必ず我が国の登山家の心を喜ばせるだろうということを私は信じて疑わない。
 ヴァーグナーの「タンホイザー」の巡礼の合唱や夕星の歌は、古くから人口に膾炙しているものだが、やはり私にとっても緩かに波うちつづく秋草の高原と、その寂しく美しい夕暮とである。しかし同じ作者の「ジーグフリート」の中の幾つかは、森羅万象の精力的な合唱と自然の光耀とに満ちみちた、山間の夏の真昼を想わせるのが常である。
 グリークの「ペールギュント」も、その北欧的な清潔な美と強さとで私の好きなものの一つだが、その中の「ソルヴェイグの歌」が山への烈しい誘惑となることはしばしばである。
 スメタナの交響詩「ヴルタヴァ」を初めて聴いたのは、ちょうど漸く山へ行き出したのと時を同じくしていたせいか、私としてはその演奏で或る特別な興奮を経験した。これは遠い寂しい山間から発した二つの川がそれぞれ長い旅をして、やがて合してヴルタヴァとなって平野と人生との中へ進み入るという謂わば本格的の標題音楽であるが、堂々と自然を主題としたこの美しい音楽を聴いているうちに、どんな音楽にも平気でいる常習の音楽会聴衆という者が、実に浅薄な、それでいて坊主のように冷酷で偽善的な救われない者に見えて来て、危うく二階桟敷から「馬鹿!」と怒鳴るところだった。私はまだ若かった。若さの故の一本気を持っていた。そしてその翌日急に思い立って、ルックサックを引担いで山へ行かずにはいられなかったのも、今からすれば微笑ましい思い出である。その頃は死んだ近衛直麿君がまだ丈夫でいて、時々夜晩おそくまで飲み歩きながら、猛烈な議論をやったり、同じ意見で握手したりしたものだった。
 ビゼーの音楽には、シューべルトやヴォルフとはまた違う一面で私にぴったりするものがあるが、中でも例の「カルメン」と「アルルの女」の二つは、その中にある南方的な放胆な気魄と絢爛と哀切と甘美さとで私を酔わせる。「アルルの女の組曲」のディスクで――若しも私の記憶
違いでなければ――その間奏曲を聴いた時、私はミストラルやジャン・ジオノの作品、ヴァン・ゴッホの絵などで見た南仏の山地や平原の、燃えるような牧歌的風景を考えずにはいられなかった。
 同じ牧歌でも、スカルラッチなどの作品にはもっと古代希臘・羅馬風の典雅さがあるように思われる。未だ晴れやかに居い秋の日光が照りそそぎ、遠近に最後の取入れの人声が聴こえ、橄欖の銀灰色と紺碧の空、遥か遠方から地中海の息吹きの運ばれて来る丘陵地帯。こういうのがこの音楽から私の衷に生れる自然の聯想である。
 しかし何といっても気分や情緒に訴えて来る音楽でなしに(もちろん今まで挙げたものがそれだけのものだとは決して思わないが)、作品自体の持った巨大な性格、雄渾な音の支配とリトムの駆使、壮麗で魁偉で宇宙的な構成等の点から見て、バッハ、ヘンデル、モーツァルト、ベートーフェンの四人の音楽ほど大山岳とか、海洋とか、更にまた星辰天とかいうようなものを想わせる圧倒的な、本源的な、霊的な音楽はない。ここまで来ると単に山の聯想や山らしい情趣のことなどを云々することは到底できない。それはむしろ造山、造大陸、造大洋等の造構運動テクトゲネーゼの観念に結びつければつけられるのだが、そんなことをしてみたところで別に何の説明にもならない。しかし彼らは、たとえば音楽的宇宙における、それぞれの銀河系である。たとえ彼らの作品にその可憐の美まことに掬すべき手頃のものがあるにしても、今はそれには触れまい。それもまた彼らの燦然たる破片だから。
 (なお当然日本および外国の山地の古くからの民謡について少しばかり書くつもりでいたが、研究も足りない上に余り紙数を費しもしたから、これは他日に譲ることにしたい)
                               (昭和九年作)

  

 

 

 

 

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 高山植物雑感

 商業学校へ入ると直ぐ、博物の先生が、浪江元吉さんという人であった。如何にも学者らしく物静かな、落葉のあとの明るく澄んだ秋の空のような、それでいて身にしみる十月の日のように温かい人柄の――また今でも覚えているが、手の大変美しい、指の細りした――温厚な先生、その浪江先生から植物学の手ほどきを授けられた。初めて胴乱という物を見て好奇の瞳をみはったのもその時なら、その胴乱を買って、先生のお供をして植物採集に行くという喜びを持ったのもその時である。そして何かの折に、先生の口から初めて「高山植物」という言葉を伺ったのもやはりその頃で、今から思えばもう三十年の昔になる。
 先生が細い指先にチョークをつまんで、黒板へ描かれる植物や鳥を、何と熱心に私が模写したことだろう。机の上へ色鉛筆をならべて、私が丹念に描き彩色した「ジョウビタキ」という鳥は、その幻想的な美しさで、ああ正に熱帯鳥のたぐいであった! 年齢四十を重ねて折々わが田園に現実のジョウビタキを見る時、幼い私の雑記帖を手にとって微笑された往年の先生のあの温顔を、秘めたる宝のように思い出すのである。

     *

 同じ頃、暑中休暇にはよく大磯から箱根へ行った。底倉の蔦屋の洗面所には幾種かの高山植物やモウセンゴケなどの標本が額縁に仕立てて下げてあった。今でもあの色の褪せた可憐な植物たちのことを忘れない。当時の主人が植物の研究家であったとかで、裏の山には高山園などもあったと覚えている。その折遊び仲間であった蔦屋の武ちゃんが、今では当主沢田武太郎学士であり、父君の遺鉢をついだ斯学の研究家であることを近年になって人から聴いて、ときおり喧嘩などした昔をなつかしく思い出すのも、まことに植物にちなむ縁である。

     *

 未だ高山らしい高山へも行かず、実物を見たこともない十九の年に買った三好、牧野両氏の「日本高山植物図譜」は、松村任三博士の「植物名彙」とともに、私にとってのエルドラドーであった。両方とも、今は丸善神田支店になっている当時の中西屋で買った。あの美しい石版刷の花たちを見て、何と心を躍らせたことだろう。またあの名称だけ書いたむずかしい本をひろげて何と果てしもない空想にふけったことだろう。
 青春の数奇の幾年、私は他の多くの宝とともにこの二書をも手放した。今日、それは探せば手に入る。しかしかつて私の夢想の泉であったあの同じ書物はもう永久に戻りはしない。ちょうどあのヴィルドラックの小品「逃亡」で、貧苦に追われて東洋の港へ流浪して来た若者が、病気の一夜、パリの下宿の机の中へ置き忘れて来たのを思い出して悔やみ歎く、「戸ロに母親が立っている故郷の家の古い写真」と、「学校を出た時褒美に貰った一冊の小さい本」のように……

     *

 七月から八月へかけて約一と月、一年の最盛期がその高貴な玻璃の杯へ光りきらめく黄金の美酒をなみなみと注ぐ時、彼らはつい近頃氷雪の消えたばかりのあの雲表に簇々と頭をもたげ、粧いを凝らして、生命の時の弓弦のもっとも緊張した瞬間を、晴やかに精力的に生き貫こうとしているもののように見える。
 或る者は入念の鏤刻をほどこした台座の上に鎮まる宝石、或る者はモスケに照り映えたコンスタンチノープルの夕日の思い出、或る者は爽かに濡れた青をして清明な秋の天空の観念そのもの、また或る者は闌于たる洋上の星斗。そして彼らはすべてその姿態の端正と明潔、その色調の純粋典雅のために、何かしら宇宙光線の昇華物、大気や雲霧の結晶体のようなものを想わせる。
 彼らが果たして勇敢な植民群の後裔であるか、それとも亡命貴族の子孫であるかは詳つまびらかでないが、森林、丘陵もしくは彼らの土地よりも更に低い山地にやすやすと生を営み、繁栄をつづけている他の数千万の同胞にくらべて、彼ら自身遙かに厳しい条件、数等困難な事情の下に生きていることは事実である。一年の大半を占める冬の気候、極めて短かい夏の季節、土地の磽确、風化や雨雪のための崩壊による地盤の不安定、昼間の酷熱と夜の酷寒、不自由な水分、風の脅威、その他下界の植物の到底知らぬ様々な因子を網羅した境遇が彼らのものなのである。
 彼らに身を運ぶ翼や足のないことが、却って彼ら自身を強く美しくした。彼らは逃れるよすがが無いからそこに踏止まって、環境への適応によって、自分自身を琢磨した。彼らの美はこうして幾千年をけみして決定された。艱難彼らを玉にしたのである。しかしこの玉はあの雲表の聖地にあってこそ玉であって、若しもこれを採って下界へ移せば、忽ち枯死するか、或いは徐々に徒長し、褪色して、堕落して、ついには高山植物でなくなってしまうこと、動物園の年経た象がすでに真正の象でなく、サーカスのオットセイがすでにオットセイでないのと同断である。
 白雲の湧く夏の地平を眺めながら、われわれがあの山岳とともに想像するのは、そこに美しく咲き競い潔く咲き散る彼らであって、決してデパートの人いきれの中のあの哀れな鉢植の「高山植物」ではない。その生地における高山植物の観察研究の興味と、下界での鉢植や岩園による培養の興味とは全く別種の事柄である。
 籠に飼った鳥と、自然の中を自由に飛ぶ同じ鳥とくらべて、その姿、その声、その羽色の甚だ相違することは、飼鳥の経験のある人ならば誰でも知っている。同様に高山植物培養の経験家が、その自生地における彼らを見るたびごとに改めて讃嘆と愛着とを禁じ得ないのも、われわれが登山の際にしばしば見受けるところである。

     *

 高山植物の宝庫信州八ガ岳、その一峯硫黄岳から横岳へかかると、目の前の高みに衛兵の小屋のような物が立っている。六角づくりのその小屋の一辺を出入口にして、他の辺の板壁にはすベて小窓が切ってある。高山植物看視人の小屋である。
 看視人は登山季節を通じて毎日山を見廻っている。山では、肉眼のほかに望遠鏡を使うのである。夜は宿屋や山小屋に登山者をたずねて、許可証を検査し、胴乱をしらべる。
 この不快な現状も、元はと云えば貪婪な高山植物濫採者どもの心無く播いた種子からである。
 もしも登山者がみずから慎むこと深く、一方、幾つかの高山に代表的な高山植物園が設置されたら、われわれの学問的利益と美を見ることの幸福とがどれほど増進されるか分らないと思う。

 

 

 

 

 

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 追分の草

  今年の夏も半分を、或る翻訳の仕事と植物採集とを兼ねて、信州北佐久の古駅追分で暮した。朝からの東の風でこの高原に漠々と雲が垂れ、ペンをうごかす硝子窓のむこうを秋雨に似た白い雨の脚の終日走るさびしい日もあったが、また長野、上田の遠方から、千曲川の流域をそよそよと吹き上げてくる竜胆りんどういろの西風に、かがやく断雲をちりばめた天空の、山湖のように澄んで清らかな日もすくなくなかった。
 軽井沢から小諸へと浅間の裾をめぐる信越本線の沿道俚落で、この追分宿は海抜高度がもっとも高くて約九百八十メートル、三千二百余尺を算している。うしろに三重式コニーデ火山浅間山の広大な裾野追分ガ原を背負い、前方は地勢がゆるやかに湯川の流域まで低下して、その先は八風山から西に派出された一支脈が丘陵性の山壁を立て、晴れた日の薄青い霞の底に平和な佐久平の一角がきらりと光る。
 諸侯の参勤交代の旅華やかだった旧幕時代には、中仙道交通の要駅としてさかったこの追分の宿も、星うつり物かわって今ではすっかりさびれてしまった。手も入れない昔のままの家並は檐も柱もしらじらと枯れ細って、坦々たる火山砂の国道を時たまドライヴの自動車やトラックが疾駆するばかり。そのトラックも上田や小諸から避暑地軽井沢あたりへ物資を運搬するために、ここを素通りするものなのである。
 私が逗留していた昔の本陣に、この家の姉娘の長男で尋常五年になる男の子がいた。或る日その子の夏休みの学習帳を覗くと、「私の村の名所旧跡」という問題の下に、「浅間山、分去わかされ」と、悲しげに遠慮勝に、肩身せまげに、小さな字で書いてあった。この土地で分去とはすなわち中仙道、北国海道の分岐点のことで、宿を西へ出外れた其の場所には、今もなお苔蒸した石の道標や、仏像や、常夜燈などが三四基、遠く蓼科山の円頂を背景に、生い茂る夏草の中に忘れられたように立っている。
 東隣の新進沓掛の町は年を逐って栄え、軽井沢には万平ホテルの大資本の建築と南北相呼応して、馬糞臭い銭臭い大競馬場が開設される時に、世渡り下手のわが追分は、今日も蕭々と吹きわたる秋風に清貧の骸を曝らしているのだ。
 夕べにひらいて朝にしぼむ待宵草が赤くしおれる白昼も、この宿しゅくには人間が居ないのかとばかり森閑をきわめている。それぞれ宿やどをとる夏の常連の逗留客は、僅かに三十人ばかりの質素な学生である。彼らは皆ひどく勉強家で、朝早くか夕方でなければ其の白絣の姿を見せない。別荘や貸別荘もいくらかは有るには有るが、これも大傾斜の赤松林の底にひっそり散没して、ラジオもポータブルも全く響かず、折々の郭公、時鳥の声が、この高原の静寂を一層深いものにするばかりである。だがこういう処こそ勉強や思索にふさわしく、また何らの歪められた刺戟にも累されない静かな散歩に好適の地なのである。
 追分の子よ、君の学習帳に活火山浅間山の名を、漸く忘れられようとする分去の名を、堂々と、自信をもって、大きな字で書くがいい。誇るべきは立派な県庁でもなく、都人士の充満する大ホテルでもなく、ゴルフ場でもなく、実に君の故郷の自然の美と、幾世紀の文化の鑿が丹念に刻んだ君の土地の歴史とである。

     *

 信州追分附近の自然の美は、土地そのものがその裾野をなす浅間山火山群と、南東から南西へかけての妙義・荒船火山群、蓼科・八ガ岳火山群とが形作る特異な火山高原地形にその理由の大部分を受けてはいるが、しかしこの悠々とした拡がりに細部の美を織りなす豊富な植物景無くしては、折角の高原もいたずらに荒涼たる眺めに過ぎないであろう。その植物を観察したり採集したりするのは仕事から仕事への時間を有益に楽しく埋めることである。私は圧搾標本を作るために野冊と胴乱を、生態写真をとるために二段伸びのカメラを携行した。
 追分で最も多く目について、しかもわれわれにとって珍らしいのは荳科に属する車軸草である。草丈一尺内外、普通、枝を分たず、ほぼ直立して群生する。長楕円形の葉は節をかこむ鞘から五枚をひらいて其の形がやや車軸を想わせる。花は長さ五分ばかりの紅紫色の蝶形花で、大抵六七輪を梢頭に射出する。ひどく日光を好む物らしく、眼も眩むような日当りの路傍に概して芝などと混生して一勢力をなしている。よく植物図鑑などに、木曾山原に自生品を見るようなことが麗々と書いてあるが、追分ではむしろ日常触目の草本である。
 唇形科のイブキジャコウソウもまた多い。屢々古い英語の詩などに出てきて、その和名の長いことで定型律の翻訳者を困らせるあのタイムの一種であるが、一名百里香と云われるだけあって、カーネイションのそれに似てもっと爽かな芳香を放つ植物である。茎は地上を匍って枝を分かち、枝端葉腋に長さ一分五厘ばかりの淡紫の唇形花を密に対生する。葉も対生して長さ三分内外、暗緑色、路傍にも草原にも、日光の洩れる林間にも多く、その刺戟的な油質の芳香に、追分では常にルリシジミ、サカハチチョウ、ウラギンスジヒョウモンなどの蝶類が花の上に群れていた。
 こういう風に丈が低く、密生して、しかも陽光を好む植物は撮影にも楽で、画面がフラットにならないようにうまく側光を受けさせ、淡い黄色フィルターを使って充分絞っても露出に困難を感じるということはない。この種の楽な植物に、なお一つ追分に多いクサフジがあるが、この蔓性の草は近隣の植物や石垣などの上に緊密な網のようにひろがり、下向きにつく可憐な淡い藤紫の筒状の蝶形花を幾十となく密に綴って、長さ二寸許りの円錐形に直立させ、その捲絡する蔓と細かい葉と小尖塔状の花穂とで、或る爽快な明暗の唐草模様を画面に織り出す。植物図鑑の杜撰な挿画などで見るとカラスノエンドウとよく似たように描いてあるが、実物を見れば両者の違いは一目でわかる。
 丈が高いのでそよ吹く風にもたやすく揺れ、また林間では常に光線も不充分であり、従ってどうしても撮影の機会が少くなり、たとえ写すとしても非常な忍耐を必要とする植物は追分のような土地にはたくさんある。こんな苦心は生品採集者の全く関り知らないところだが、私としてはヤナギラン(あかばな科)、ハンゴンソウ(きく科)、カラマツソウ (うまのあしがた科)、マルバサイコ(繖形科)などの撮影に最も手こずった。いずれも全長三尺から五尺、ヤナギランを除けば手札判ぐらいでは写しても案外見だてのない損な草ではあるが、さりとて写真ででもなくてはその生活環境は元より、実際の姿態も想像しにくいという厄介な連中である。

     *

 彼らの多くは林間半陰の地にひっそり立っている。仔細に看るとほとんど無風の空間でかすかに頭を揺すっている。一本の植物体の或る部分だけに焦点を合せて、他はぼやけても差支えないという撮影意図ならともかく、せめてその植物体だけはどうにかして丸ごと写し取りたいという観念に燃えていては、僅か三秒乃至五秒の露出に千秋の長きを思い、先ず三十分から一時間、中腰になってレリーズを摘まみながら虚心のうちに被写体をにらまえ、寸分の油断も無く好機を待つという忍耐力が必要である。隙をねらってバルブで小刻みに重ねて行くのだから、むろん煙草なんぞ銜えながらの待機ではないのである。
 風、不充分な光線という、撮影上のトラブルスのほかに、なお一つ蟻の襲撃があった。刺蟻、胸赤大蟻の二種が極めて普通で、広大な追分ガ原の森林全部が彼らの国だと云っても誇張ではない。ちょうど湿地に足を踏込むと水がじくじく上って来るように、赤松林と云わず落葉松林と云わず、空開地であれ石礫まじりの荒蕪地であれ、物の二、三分も同一箇所に立っていようものならば、この敏感で兇猛で好戦的な蟻群は油然と湧き上がり、赤黒く沸騰し、足の甲から脛を目がけての快速挺身の襲撃実に執拗を極めるのである。浴衣がけに素足なんぞの植物スナップは思いもよらない。私は二枚重ねの厚い毛の靴下に登山靴を穿いて、しかも絶えず足を踏鳴らしていた。径一分五厘ばかりの淡紅紫色の可憐な五瓣花をつける細長い植物、亜麻科の野生種マツバニンジンを発見して大喜びした時、高原の広開地を西から吹きわたる快晴の微風とこの猛烈な刺蟻の襲撃とに一時間を空費し、ついに接近撮影を断念して引返したことがある。
 鳳仙花科に属するツリフネソウ、キツリフネ。これらもまた一度は必ず撮影欲をそそる美花である。前者は紅紫色、後者は黄、花の長さ一寸二三分、軟式飛行船を想わせるほぼ脣形花で、尾端は距になって巻いている。彼らは主として森林中の樹下に繁茂しているが、花の大きい割に花梗が長くて糸のように細いので、宙に吊られた花はツリフネの名に背かず絶えずふらふら動いている。花を入れての全姿の撮影にはやや困難の種類であるが、成功すれば見事な標本印画を酬いる者たちである。
 夏から秋、汽車が軽井沢を過ぎると忽ち誰の眼にも入って讃美の声を惜ませないのは、ヨシノキスゲと呼ばれる夕菅の淡黄の花である。ワスレグサ(俗にカンソウ)と同属の百合科の一品で、地下茎から出た葉は線形、細長、長い花茎の頂きに先端六裂した花被からなる淡黄色の二三花を斜上向きに開いて高原の秋風に楚々たる姿を撫でさせている。追分の野山にこれが咲けば御盆である。女や子供らは桔梗、女郎花と一緒に必ずこれを折りかかえて来て墓前に供える。この花を写すならば強い日光に萎えない朝か午後、できるならば午後も晩く開きたての新鮮なものを、背景の暗いところを選んで、淡い黄色フィルターを掛けて写したい。元より林間の群落も悪い筈はない。
 其の他同じように黄色の待宵草まつよいぐさ(俗に月見草といっているが違う)、愛すべきタチフウロ、小豆色のそぼろを載せたようなシモツケ、クサシモツケ、蜜柑色の頭状花をつげた壮大なマルバダケブキ、水湿の地に立ち咲く紫のサワギキョウ、シデシャジン、盛りを過ぎればその黄褐色の舌状花を翼のようにおさめるコウリンカ、清楚なヤマハハコ、実の面白いスズサイコ……夏の高原に題材は尽きず、整色乾板の四五ダースは忽ち彼らの自然の姿を吸い込んで、思い出の花らのためにその復活の日を、現像の日を待つのである。

  

 

 

 

 

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 胴乱下げて

 佳い秋の日曜日。新宿停車場の玄関を、まだすがすがしく斜に照らしている朝の太陽。そこを支配する雑沓の中の時間の秩序。着車、発車、井戸の底から出て来るような拡声機の声。しかし中村屋の店先へ竝んで、セザンヌの「永遠のビスケット」を想わせる好もしい棒パンや、出来たての白いフランスパンをにらみながら、容易に自分の注文が聴かれないので、人がそろそろ苛立つ時刻……
 「君、そのコッペを一本、それからバターの小さいのを一つ、急いで呉れたまえ!」
 出たり入ったりする乗客の流れの中で、改札口に近く、三四十人の人が一塊りになって佇んでいる。男もいれば女もいる。年とった人もいれば若い人もいる。小学校の生徒もいる。女の先生らしい人もいる。しかし一群のこの人たちは例外なしに皆採集胴乱を吊っている。町中では少しきまりが悪いのか、風呂敷へ包んで抱えている洋装の女の人もいる。
 しかし僕の眼は始終先生に注がれる。「先生」。先生とは二十年このかた絶えてこの口を出なかった懐かしい言葉である。人を先生と呼ぶためには、僕に弟子の心がなくてはならぬ。僕は文学の先輩をも先生と呼んだことは一度もない。しかし今朝、僕は極めて自然に、喜びをもって、熱情をもってさえ、この言葉を発音する。牧野富太郎先生は、右左からの皆の挨拶に、にこにこしながら応えて居られる。
 タスカンの一文字帽に、夏の灰色のサージの上着。ズボンは学生の穿く黒である。左の肩から緩やかに吊った、大きな新しい薄緑の胴乱。純白な立カラアの折返しから覗いている老人らしい咽喉仏。僕は先生の強くて優しい眼を見る。日に焼けて矍鑠としたその顔を見る。力ある鼻翼を持った均勢のとれた鼻を見る。あのしっかり張った頤、あれは土佐の人の頤である。一瞬間僕の眼の前に、センダンの並木を風の渡る高知県佐川の町が現れる。そこの落着いた古い家竝や、青山文庫の閲覧室や、仁淀川から立ち昇る夏の真昼の水煙に銀色に霞んだ緑の山々が見える。
 先生の刻苦奮闘の生涯については、今更ここで僕がおさらいするまでもない。御用学者やアカデミーの鉄壁に対抗して、あくまでも独立不覇であった先生の残酷な苦惨の生活と、その中から生れた植物分類学上の偉大な業績。それも僕が改めていうまでもない。さらに、一国の宝ともいうべきこの学者を遇するのに、一小属吏にも及ばぬ物を以てする国家の無関心についてもここでは言うまい。今はただ心からの親愛と尊敬との念を以て先生を見る。先生は若い真摯な学生や、子供たちや、女の人たちに取巻かれて欣然として居られる。今日は東京植物同好会の採集日。素朴な俗門の信徒を引率して、牧野先生は自由な野の羊飼か、老いて益々旺んな族長ノアのように見える。
 集まり集まって六十人に垂んとする一行が、先生を真中にして国立駅を出る。不連続線の去った後の久しぶりの秋晴れの空には、藤原さんのいう白簀雲しらすぐもが白い釣針や羊毛を浮べている。分譲地の小石を敷きつめた道路の奥に雪をなすった富士が見える。美しい大群山がその左に寄り添っている。日光は嬉々としている。心がのびのびする。もう一度遠い昔の学生時代が帰ってきた気がする。
 皆がぞろぞろ歩く。大半はもうあたりの藪や林へもぐりこんでいる。一名国立分譲地は、結局広大な谷保やぼの雑木林である。文化住宅や学校などは散在する点景に過ぎない。むかし近隣の百姓が馬や牛の死骸の捨場にしたというこの広い雑木林のいたるところ、今は秋の植物が茂りに茂っている。
 五六種類取って来ては先生に名を訊く。それは絶え間がない。だから先生のまわりは常に人だかりである。その黒い密集群が遅々として進む。
 「先生これは何ですか」「それはサワヒヨドリ。フジバカマとは違う」「先生これは」「センダングサ」「先生これは何と申しますか」「これはヤブマメ。こっちはネコハギ」「これはネバリタデ。そらこの通りねばるだろう」僕も伺う。「先生これは何でございますか」「これはヤマハツカ。これがヒメジソ。これはシラヤマギク。こっちがヤマシロギク。間違えないように。シラヤマ、ヤマシロ」
 まったく、大船に乗った気がする。触目の草の一茎、花の一輪、それを先生は立ちどころに説明される。しかも心からの好意を以てである。慈父の愛を以てである。訊く者に対して、また植物に対して。分封した蜂群のような一行は、先生という女王蜂を中心に旋転しながら秋の野を進む。
 僕は科学の盲信者ではない。それは僕が文学の盲信者でないのと同じことである。先生が百本の植物に対して百の名称を断ぜられるとしても、僕はただ先生の記憶の強大さ、知識の広さに驚くだけである。植物学者としての先生の大いなる経歴から見れば、それは当然なことのように思われる。しかし一人の可憐な小学生が――腰に小さい風呂敷包の弁当を下げ、肩から小さい胴乱をつるした子供が、何か小指の先ほどの植物を探して来て「先生これは何ですか」と訊いた時、「これは松」といいながら、その子の頭へ片手を載せられた時の、あの温顔の美しさを僕は忘れない。また誰かがヒカゲスゲの根に寄生したナンバンギセルを取ってきた時、「ヒカゲスゲに寄生したのは珍らしい」といいながら、それを差上げますといわれて喜ばれた顔も僕には忘れられない。その日一日先生と歩きながら僕が経験した数々のその「人間」の美しさ、その人柄のエマナション、お別れする間際の一種の名残り惜しさ。それは先生その人の存在の魅力である。これこそ先生に接した人のみが活々と記憶の中で描き得るおもかげであって、同時代者にして初めて持つことのできる幸である。先生はその存在によって人を薫陶するだけの力を具えて居られる。それは生きたみずみずしさであって、決して乾腊品ではない。
 日野橋に近い広々とした多摩の川べり。多摩丘陵と武蔵野台地との大きなひろがり。南西相模の大山から北方武甲山まで、蜿蜒と連なる山々を見渡す晴れた日の眺望。一行の胴乱は採集した植物でぎっしりである。皆が弁当を開く。きらきら輝く水面を見たり、正面に悠々と裾を曳く富士を眺めたりしながら空腹を満たす。先生はクリーム入りのパンを食べて居られる。その間にも植物の名を訊く人たちは絶えない。人は今年の夏の登山で採集して来た高山植物の乾腊標本を先生に見せる。先生はパンを頬ばりながら一々名を教えられる。女の人たちは食事が早い。そこそこに済ませて三々五々採集に出掛ける。そういう人たちがまた名を訊く。先生は忙しい。しかし楽しげに検査し、答え、質問を受けられる。僕はこの情景を多くの人々に実に見せたい。今の世ではもうそんなに屢々は見ることのできない親愛の情景である。
 食後堤防の草に埋まって聴く先生の講演。ヨモギやメドハギの繁った斜面が天然の教室である。カヤツリグサ科の植物についてのその講演は、有益な、興味津々たるものであった。いま僕はここに自分の概要筆記の一端なりと紹介する紙数を持たないのを残念に思う。しかし先生の講演は、今まで僕の聴いた他の多くの如何なる講演とも違う。時々土佐なまりのまじる、声のよく透る、深い蘊蓄を手づかみにして示されるその話。それはあけっぴろげた平和な自然の中での、青空と太陽の下での、今日の集まりの最高潮の時であった。
 それから一行は堤防を立川の方へ向った。僕は先生にお別れして友人と国立へ引返した。ぞろぞろ続く人々にまじって先生の姿が何時までも見える。僕はこの時ほど「師」という言葉の実感を味わったことはない。
 東京植物同好会は毎月一回採集会を催す。僕は牧野先生の健康を祈るとともに、志ある人々の参加を心から希望して止まない。

 

 

 

 

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 ハイキング私見

 去年の六月、折からの秩父の新緑に思う存分潰かって来たいと、武州荒川の支谷大血川の谷から太陽寺へ出、あれから雲取を越えて日原へ降りる三日ばかりの旅をしたことがあった。その時の往きの汽車の中で、向うの窓に片肱ついて、見覚えのあるフィッシャー版略装のヘルマン・ヘッセの「ビルダーブーフ」を読んでいる一人の旅客を発見して、私はひどく懐かしい気がしたのだった。
 いくらか憂欝な、非常に澄んだ感じのする三十二三歳の人だった。もうかなり古くなってはいるがよく手入れの届いた、清潔な、地質のいいスコッチの旅行服を着ていた。左の膝へ自然に載せた右脚の、登山靴を軽くしたような靴の底に、小さいクリンケルとムガーが綺麗な歯竝のように竝んでいた。頭の上の網棚には、小型のルックサックと長い石突きのついたステッキとが閑散に載っていた。週間日のことで車内も至って閑散だった。こんな場合特に気品を添える眼鏡という物。へッセの頁に向けられたその静謐な眼鏡に、大宮も過ぎて上尾、桶川のあたり、車窓に触れんばかりの若葉がちらちらと映り、快晴六月の青空と白い積雲とが涼しく動く。余り良すぎる眼を持ったために、眼鏡を掛ける必要のない自分を、私は幾らか残念にさえ思った。
 秩父へ入る私は熊谷で降りたが、たとえば、ついに言葉も交さずに終った今のへッセの人が、郭公の歌と新緑の落葉松と放牧の牛のちらばる高原の起伏、神津牧場や荒船山のあたりをさまようとしても、また赤城大沼の火口原湖のほとり、遠近に躑躅の燃える軟かい草の上で、単に風と雲との対話を聴くことだけのために行くとしても、或いはまた岩石の美しい三波川や神流川の谷奥深くさかのぼって、初夏の里から山、峠から峠へ、遠く信州路まで出てしまうとしても、何れもすべてふさわしいものに私には思われた。
 それはその人の内容のある風貌や人柄からも勿論きたが、同時に、ことも無げに見えてすっきりとしたその趣味の、板についた現れも大いに与って力あったのである。これがダゲーロタイプ時代の写真家のような大荷物に、登山界の非常時を背負って立ったような恰好をしていたのだと、どうも五月六月の高原や山地の旅にはちとうつり憎く、幾らか愚かしくも見え、総じて日本内地の自然の中では、そんな荒事師じみた姿が余り調和しないように思われる。
 何事につけても恐らくそうだが、特に丘陵ワンダリングやハイキングの時の準備と心構えとについて云えば、やはり「あたりまえ」が一番いい。あたりまえな処には何時でも自由自在な境地があり、四通八達の風が吹いている。衒いがあると自分を失い、きおい立っては余裕が無くなる。結局は不必要であった重たい荷物を、あたかも主義か宿命のように担い歩いて、老嬢のように不満を漂わせ、殉教者のように暗澹として行く。自意識の強過ぎる人の「天然」の中での不幸な姿! これでは折角のハイキングも失敗と云わなければならない。
 エドワード・ホワイトと云う人が、「森林」と云う書物の第二章で、荷物を軽くして旅をする技術のことを書いている。彼は旅から帰ったら先ず袋の中身をすっかり出して竝べるがいいと云う。それからその旅で実際に経験した事実に従ってそれを正しく三つに分けろと云う。すなわち、第一の組には君が毎日使った物、第二には稀にしか使わなかった物、第三には全く使わずにしまった物という風に、それぞれ「良心をもって」分類する。そうして次の機会には、断乎たる決心をもってこの第二第三の部類を除外するがいいと云うのである。この忠告は適当に塩梅して実行すると中々有益であるし、また広く一般に通じる真理をも含んでいる。レオン・バザルジェットはその立派な「ソロー伝」の中で、徒歩旅行に大きな傘の必要なことを書いている。傘は炎天の樹蔭にもなれば、雨に対する屋根にもなる。要らない時にはステッキになり、また荷物を肩へ担ぐ俸としても妙だと云うのである。薬売と間違えられるかも知れないが、それならば愈々面白いと、如何にもソローらしいことを云っている。これも今の時世では少しばかりの勇気を必要とすることだが、多くの場合確かに便利には違いない。もう五六年前、高村光太郎君と二人で、六月の雨の中を法師温泉から中ノ条まで山越えしたことがあるが、単衣の筒袖にレインコートを着て駒下駄穿きの高村君が、ルックサックを片外しに背負って、大筒のような番傘を抱えた姿は、決して没趣味なものではなかった。
 狐の嫁入の中で群落した翁草が皆うつむき、高い水楢の梢に大瑠璃が歌い、晴れては降り、降っては晴れる山路の一日、上州の山谷や部落の風景は、その悠紀ゆき・主基すきの風俗絵のような端麗な趣きをもって、むしろ恭敬に近い念を私たちに起させたのであった。
 ハイキングに成功するためには、やはり幾らかの自然科学的知識もまた必要であろう。実際、日帰りの旅でもわれわれは真にさまざまの看物に遭遇するのである。自然の中で解放された心は、よく懐ふところをひらいて、触目の一切に応じ接近しようとする。町中でのけちな反撥心や自意識を清朗な天の下で忽ち放散してしまった彼は、すでに共感、共鳴の充分可能な状態にいるのだから、昨日銀座の舗道では夢にもしゃがまなかった身が、今日は極めて自然に腰をかがめ、花咲いた一茎の草のために、ポケットにひそませた買い立ての植物図鑑も繰るのである。
 そして若しも図鑑からの検出がうまく行かなかったとすれば、今度の機会のために、暇な折に分類学の基礎知識を修めて見ようという気にもなるだろう。知識欲によるこの学問的遡行はたしかにわれわれの内部生活を豊富にし、また一方では一般の知的水準面を高める機縁ともなるだろう。私は寺田博士の随筆から多く学ぶべきものを得ているが、わけても植物に関する限り、あの「蒸発皿」の中の一篇、「沓掛より」の一章「草を覗く」に現れた植物界見物のくだりを、快心の微笑無しには読めなかった。
 いつかの晩春、小仏峠の下で、これもハイキングの青年の一行にまじった若い女の人が白い筒状花を垂らしたアマドコロを見つけて、「あら鈴蘭、鈴蘭!」と狂喜の叫びを上げていた。通りかかった私がその名を教えると、女の人は余計なおせっかいだと思ったのか頬を膨らませた。しかし私は彼女の威厳を傷けないように充分の配慮を持った教え方をしたのだから、それでも不愉快な顔をするのは向うが悪い。
 植物ばかりではなく、鳥や蝶などの名も知っていれば興味はさらに深いだろう。新らしく市内になった荻窪の附近で採集した蝶でさえ、同じ荻窪在住の友達に見せると「こんな珍らしい蝶がこの辺にいるのですか」と云って驚く。その「珍らしい蝶」大紫おおむらさきが、実は夫子自身の家の直ぐそばの榎の木からたくさん発生するとは少しも知らずに。注意したことも無しに。
 雲の名、星の名、地図の読み方と地形学の初歩。そういうこともハイカーとしては一応知って置きたい。本屋さんの提灯持をするわけではないが、藤原博士の親切な解説のついた美しい「雲」の図聚、辻村太郎教授の「地形学」や「新考地形学」などは、山野を歩こうという人々にとっては最も有益な書物であることを私は確信している。
 注意することによって調べ学び、理解するに従って愛を深め、こうして生活を豊富にすることは何人にとっても望ましい。われわれ一般人の生活は益々自然から離れて行く。文学もまた離れている。
 そこでフランスの若い作家ジャン・ジオノのような男が現れて、人間と同列に自然の万物に活躍させる「世界の歌シャン・デユ・モンド」のような小説を書こうとする。
 自然のある限り、その真と美との追求の「自由」は、今のような時世でも、未だ君から剥奪されはしないのである。

 

 

 

 

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 「山に憩う」友に

 河田君、君は僕にこの本のために序文を書けと云う。だが今さらそんな必要があるだろうか。「一日二日山の旅」と「静なる山の旅」。あの二冊は既に十分君のために語っているではないか。鼠色のトワールを表紙にしたあれらの本をポケットに入れて、早春の今日この頃、まだ残雪のうずたかい峠の上や、まだ幾らか風の冷やつく南面の茅戸の尾根をさまよいに行く人たちに、何処かの停車場や乗物の中で出遭うのはそう珍らしいことではない。若しもポピュラーという言葉がその最善の意味に取って貰えるなら、君ほどポピュラーな名声を担っている山人の著書に、いまさら僕のような者が序文を寄せるのはお門違いでもあれば蛇足でもありはしないだろうか。
 しかし「それでも」と君は云う。それでも僕が書くことは君の満足だと君は云う。そうか知ら。いや僕は君を疑うことは決してできないし、総じて物を率直に聴くのが僕は好きだ。では書こう。それが君の満足を贏ち得ると同時に、この本の読者の心に君に対する一層深い理解と親しみとを喚び起させることが万一できたとしたならば、それは僕にとってむしろ望外の幸福だと云っていい。

 君は一箇の登山家アルピニストというよりもむしろ一人の旅人ヷオアイヤジユール、それも好んで山地を遍歴する詩人的な旅人といった感じがする。
 若しも君が Henry Thoreauを余り多く読んでいないとしたら、僕は君のためにもそれを幾らか惜しく思うだろう。特にその「散歩」、「或夜の散歩」、「旅龍屋の主人」のようなエッセイに現われている自然及び人生におけるソロー自身の見解乃至態度の如きは、君などから中々深い同感を得そうに思われるのだが。
 ソローは Walking の術を解する者を以て Saunteringソンタリングの、「逍遥」の天禀を持つ者だとしている。そして Saunterer は元来 La Saintサント Terreテエル へ行く人、すなわち聖地への巡礼者の謂であるが、彼らは常に行くと称していて少しも行かないから、今では只の怠け者、放浪者或いは乞食などの別名になっている。また一方で Saunter という言葉は Sans terre 即ち家も無ければ土地も無いという意味から出たものだという説もあるが、此の意味での逍遥者ソンタラには固有の家郷が無い代りに、到る処で彼は常に at home である。そして此の態度こそ逍遥の成功の秘訣だとソローはいっている。これはあの「原則無き生活ライフ・ウイズアウト・プリンシプル」の哲理を説いた人の言葉としてさもあるべき事だと思う。「山に憩う」を読む人は恐らくそこに今いったような旅人或いは逍遥者としての君の姿を見出すだろう。そして君というものを一層親しく知っている人たちは、君のあらゆる人生行動にやっぱり同様の実証を見ているのである。
 こういう人の本質は、従って、かの高峻山岳への所謂スポーツ的登山家や、アルピニスト・アクロバティックのそれとは全く違う。それ故、また、彼の書く物から或る厳密な意味での山岳文学リテラテニール・アルペストルを期待する事もできない。登山形式や傾向が違うというよりも、元来、人間の質が違うのである。これは何も彼がピークハンティングや岩登りをしないという事ではない。たとえしても感情の性質が違うというのである。此の間の消息は、天性の違った同士の普段の生き方を、すなわち山へ行かない時の彼らそれぞれの生き方を、注意深く観察すれば自ら解る事である。
 物を劃一的にしか見ない人たち、考察の単位を常に複数にとって箇々の単数の微妙な差異を認めない人たち、統計の数字や色分けに過度の信用を与える人たち、公式をもって事物を律しないと確信の持てない人たち、その社会観人類観からいえば、例えば歴史的唯物弁証法の如きを唯一の観点として奉じている人たち。すべて斯かる人たちは彼らの誇らかな鋳鉄のように堅くして弾力無き頭脳をもって、個人の千万の場合と、その複雑微妙な心理とを簡単な数学的蓋然や公算で抹殺し勝ちである。
 僕はパスカルの言葉を思い出す。パスカルは云っている。
 「私は人間研究の仕事に多くの仲間を見出すだろうと信じていた。此の研究こそ人間にふさわしい仕事だから。しかし私は思違いをしていた。人間を研究する者は幾何学を研究する者よりも遥かに少い」と。
 河田君、此処まで書いて来ると問題は自然あの「マッセン・アルピニスムス」に触れて行くのだが――そして実は僕も幾らかの批判的私見をこの文章の草稿には書いたのだが――それがため論争ポレミックの機会を招いて、延いては君の書物の本来の使命に何らかの暗影を投じるようになることを惧れる心からここではやめる。全く、思想のあるところ、思想のカンパニアは常に展開する。僕は思想のために商議する事も闘う事も恐れる者ではない。しかし今は場合が違う。それで僕はもう一度君に帰って、君という人間を見ることにする。

 僕は知っている。君が Gissing の「ヘンリー・ライクロフトの私記」をひどく好きだということを。実際君とライクロフトとの間には天性の血族関係パランテが無くはない。事物の考え方において常にやや消極的な、人事の煩雑から身を引きたがる、従って非社交的な、自分の一隅を愛して静かに生き、真に趣味をもって楽しむ術を知り、瞑想に落ち込む事も早ければ諦念にも早い、それでいて哲学者というよりもむしろ中々ロマンティケルな――すべてそうした君の傾向は確かに幾分ライクロフトのそれに通じるものがある。しかし僕が時々不満に思うのは、人が彼自身を余りたやすくライクロフト的範躊に当て嵌める仕方である。彼の口実が往々ライクロフトの下に求められる事である。それは屢々人間を小にする。
 恐らく、原型の鋳型は同じでも、固々の貨幣の面は其の長い流通の過程においてそれぞれ幾らかずつ変るであろう。僕はどんな理想的な一つの存在を以てしても、千万の「箇」を代表させたくはない。
 それで、君には君固有の姿がある。その姿によって僕らは君を愛することもできるし論ずることもできる。
 僕は咋日君を見た。山へ行かない日、衣食のための塵労の日、君は一抹の人間苦を眉間に浮べて、円い大きな近眼鏡を掛けた頭をすこし伸ばし加減に、街の敷石道を踏んで行った。蒸気ハンマーが轟き、リヴエットが唸る空を黙然と君は見上げた。

 僕は友達の書斎を見るのが好きだ。そこで彼らの魂が最も深く沈潜し、そこで彼らの最も内奥の思想が開花するのだから。
 そこには彼らの魂の匂いが隅々までも漂っている。僕のとは違う雰囲気が、しかしやっぱり其の精神の密林を支配している。何とそこが彼其の人に似ているだろう!各自の趣味の表現さえ、一つ一つの天体のスペクトラムのように違うではないか。
 府下北多摩郡境さかいの、高い緑の木立に囲まれた君の書斎も僕は見た。そこには君が設計して自分で工作したという幾つかの書架があった。そういう素朴な書架の上に、山に関する書物は元より、自然科学や文学の本も夥しく並んでいた。君がどんな文学を愛しているかということをそこから知るのは僕として興味があることだった。連子窓の前に据えられた君の小さい仕事机も見た。其の机にも書物やノウトの類が積んであって、一体そんな狭い平面でどうして物が書けるだろうと僕は密かに怪んだが、君の生彩ある旅の文章が其の上で綴られるのだと思えば、忘れてしまわないためにもう一度よく見直すのだった。
 数冊の写真帖もあった。すべて山の旅のスヴニールだった。その一枚一枚にそれぞれ説明が、むしろほほえましい気の利いた註釈が、君の手で丹念に――装飾的である事も閑却されずに――書きつけてあった。二十万分の一の東京、甲府、宇都宮、長野を一本の掛軸に表装してあるのも僕には珍らしかった。君の足跡が赤鉛筆で筆ぶとに、消えてはいけない思い出のように、灌木の枝のように、其の上で力強く交叉していた。天が君に藉すに百歳の寿をもってするならば、君は将に其の地図の緑いちめんを真赤な網で打尽し了るのだ!
 すべて色々工夫され創案された、子供の無い君の静かな家庭生活の場景には、何となくラスキンやウィリアム・モーリスや、また実用と雅致とが其の工芸美術を鼓舞しているあのウエイルズ地方の人たちの事を思い出させる空気が漂っていた。
 縁の前は生垣をめぐらした庭だった。山の記念が或いは露地に或いは鉢に、暗く涼しく茂っていた。漸くたそがれて来る晴れやかな一日の夕暮の光の中で、君が一々紹介する彼らの産地や名称を聴いていると、奥さんが風呂の沸いた事を知らせに来られた。
 それは人がたまたま此の世の生を懐かしく考える事のある、丁度そういう日の一つだった。

 僕の知っているフランスの作家の一人に Jeanジャン Richardリシヤール Blochブロツクという人がある。欧洲戦争で三箇所かなりの負傷をした。ヴォルテール的なものとバルザック的なものとが其の男らしい血管の中を流れているといったら、幾らかブロックを髣髴させる事ができるかも知れない。その彼が小説や戯曲や評論の本のほかに二冊の旅行記を書いている。主として西部アフリカの海岸と内地との旅の記録である。ところで彼は其の旅行記に A la découverte du monde connu(知られたる世界の発見のために)という総題をつけている。僕は此の言葉が好きだ。既に知られていると思われている世界に、実は未だ知られざる無数の物がある。かつて人は征服者として未知の世界を知った。次に来たるべき者は、先人が大ざっぱに「踏破」して過ぎた処から、もっと人間的な意識と一層注意ぶかい眼と、また遥かに惨透的な温かい心情とをもって、ヒューマニティーの匿れた宝を丹念に探し出す人々である。征服者としてではなく、友として。孤立の優越者としてではなく、文化の綜合者として。つまり一層ヒューマンな再発見のために。
 そして僕は君の本が、次第にそういうジャンルに属しに行くために書かれつつあるのだと思っている。
 君は山に「挑戦」なんぞはしない。だから山と「闘争」もしない。元来挑戦といい、闘争といい、征服というも、結局は山という自然に対する人間の気持の投影に過ぎないのだとしてみれば、人によってはそれほど壮烈な考え方や表現法を採る事を好まないで、もっと当り前な気持で事を講じたいと思うかも知れない。何よりも先ず山に憧れ、山に酔い、山の自然の底知れぬ静寂を愛するといってしまったら、余り平凡に過ぎるかも知れないが、君が山へ行く事は、しかし確かに、君自身及び自然と人生との反芻認識には相違ない。僕は時々こう考える。あのマッターホルンの征服者、厳烈なエドワード・ウィムパーの名は君の耳に大して親しくは響かないだろうと。そして若しも君にして知る機会があれば、むしろあの詩人的なエミール・ジャヴェルの一層洗練された心情にこそ君の同感は向けられるかも知れないと。
 君は或る時一英国人の説を借りて山登りを遊山ランブリング、探山スクランブリング、岩登りロッククライミングの三種に分けて、君のするような山登りをそのスクランブリングに擬したことがある。或いはそうかも知れない。しかしもう一つのスクランブリング、すなわち「争奪」ということは、ひとり山の場合のみに限らず、すべての人事において君の敢えてせず、なすことを好まず、また恐らく一生為さざる所だろうと僕は思う。
 また如何なる場合にも、アクロバットたるの資質を君に見出した経験は僕には無い。

 「一日二日山の旅」を初めて手にした喜びの日附は僕の暦の中でも赤紙に相当する。これ一冊あれば東京附近の山を探ることは思いの儘だと僕は思った。陣場峯を知ったのもあの本のお蔭だった。大岳山もあれを読んで行った。大菩薩から小菅の谷へ降りながら、やっぱり思い出したのはあの本だった。元来山が好きで遠走りをしていた僕に、燈台下暗しを反省させたのは誰よりも先ず君だった。
 僕は君の名をポピュラーだと書いた。それに違いはない。どんなに多くの人たちがあの「一日二日」には益されたろう。その人たちの持っているあの本が、今ではどんなに手垢によごれたり傷んだりしていることだろう。みんなの持っているその本を一つ所に並べて見たらと、そんなことさえ時あって僕は空想するのだ。
 あれに似た本はその後もぼつぼつ出た。これからも来る年毎に出るだろう。しかしあの頃のように新鮮な感情や喜びを僕たちが再び経験することはもう有るまい。
 君にしてももうああ云う物は書かないだろう。歴史は或いは繰返しても、死ぬべき個人は繰返さない。刻々に過ぎ去り移り来たる「時」の中で、だから、自分たちのために親切だった君の仕事を忘れてしまうに忍びない人たちが、君への感謝の催しをやったということは本当に美しい。しかしそれさえ時経てから僕に知らせた程の君なのだ!

 河田君、序文にしても手紙にしても僕は余り長く書き過ぎたようだ。君の読者をさぞ退屈させたろうと思う。それで今筆を擱くに当って、僕は最後にこれだげのことを云いたい――
 山を愛する者は山を愛するがいい。山の自然を研究する者は研究するがいい。探検家は探検するがいい。それはあらゆる人たちにとっての宝庫である。
 またそういうことが好きならば山を相手にそれを征服するもよし、山登りの覇権ヘゲモニーを把るもよし、独占権モノポールを握るのもいい。
 一切にかかわらず山は彼処に在り、山は居る。いつも平原と空との間に。紫外線に打たれ、エーテルを浴びて。
「ファウスト」の中で地の霊が言った、
 Du gleichst dem Geist, den Du begreifst, nichit mir.
「お前に解る霊にこそお前は似ている。俺にではない」と。
                              (一九三一年三月二十一日春分の日)

 

 

 

 

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 秩父の王子

 がっちりした短かい軀幹、青ずんだ皮膚、剣士の肩と厚い胸、人間苦の横皺をたたんで抜け上った広い額、悪童ギヤマンをおもわせるその顱頂部、柔かく細い五分刈の毛、癇性らしく瞬く小さい不敵な、刺すような眼、諷刺的な鼻と口、胡桃くるみをも嚙みつぶすべき堅牢な顎。一箇のガヴローシュ。雲水と書生と吏僚との三位一体。
 都塵にうごめくわが原全教君の姿はおよそこのようなものでもあろうか。
 しかし彼が食うために生きる毎日の、あの古い強靭な蛹の皮プツペンフユルゼを引き裂いて、飄々と羽化登仙する瞬間を誰が見たろう。換言すれば、原君がその事務服をするすると脱いで風呂敷に包み、破れズボンと脚絆をつけて、たちまち本然の姿に変るその驚くべき変貌の瞬間を。それを私は見た。或る土曜日の正午、人の出盛る新宿駅のプラットフォームで。彼はさすがに顔を赤らめながら支度をしていた。私は、昔見た百面相鶴枝かくしの妙技を思い出したと云ったら非礼ではあろうが、とにかく驚嘆と好奇心とに眼を見はった。しかしこの貴重な絵は、いつか書くべき「道連れのおもかげ」のために取って置きたい。

 この鋳銅のような肉体には、それよりも堅い意志の力が宿っている。この力が彼をしてやがて十年もの間、微に入り細を穿つ奥秩父の研究を続けさせているのである。「過去七年を通じて、一ヵ月に平均二度は秩父へ行っています」とかつて原君は私に話した。秩父だけでも一ヵ月に二度。これが有閑富裕な人間の場合ならばとにかく、額に汗して食わねばならぬ一箇の公吏の身分としては、他面非常な緊縮をやっているのでなければこれだけ足は伸ばされまいと思われる。この間の消息を、かつて彼は「インチキ登山術」と自ら呼ぶ一場の諷刺的な講演の中で述べたことがあるが、ユーモアに満たされたその話の精髄として、好きな山登りを数多くするための贅沢の排除、第二義的な欲念の克服、見得や外聞をおそれないだけの勇気の必要等を説くその言葉を、私は好感と敬意とをもって傾聴せずにはいられなかった。そしてそれが、私にとって、彼の衷にひとつの稀なる人物を発見する機会であった。

 こういう彼が自主独往の登山家・探検家であることは言うを俟たない。山谷の景観に対するその独自な見方、口碑・史実・古風俗へのその倦むことなき穿鑿、山地住民の純朴な人情美へのその特別な礼讃のようなものにも、何ら公式的な、凡庸なところがない。彼が或る山の、または或る渓谷の美を強調する時には、必ずその理由が明瞭に説かれているのである。その点彼は飽くまでも現実的・実践的で、その書いた物は永く参考とするに堪えるだけの質を具えている。この観点からすれば、彼の前著および現在のこの書物は、或いは「奥秩父全書」と呼ばれてもいいかも知れない。

 しかし最も強く私を打つのは、彼が奥秩父の山腹や谷間に、自分の訪れを待つ多くの善き人々を持っていることである。幾年の無音を重ねながら、山坂越えて尋ねて行けば、今もなお忘れもせず忘られもせず、善良な、大きな声で迎え入れて呉れる人々を持っていることである。これこそ原君の徳の所以である。そしてこれこそ、また私が原君を深く敬愛する所以でもある。

 今、彼は私の前に端坐する。聴こえるのはただ青葉をわたる梅雨つゆの夜風の響きばかりである。原全教君は「莫妄想」の一喝に価する私の序文を見た。そして微笑するその眼は静かにこういっている、
 「水上萌蘆接著便転」
                      (昭和十年六月十日 識)

 

 

 

 

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 松井幹雄君の思い出

 中央線上り電車が阿佐ガ谷駅を出て、もう高円寺も近いというところで、線路は築堤の上を走る。そこは昔の或る小川の流域らしく、一段下った帯のような低地が北西から東へ向かって斜に鉄路をよぎっている。人間集落の末端と自然との邂逅点-雑草の中に消える三間道路、アレチノギクやヒメジョオンの高い草むらの上にひるがえる洗濯物、湯屋の石鹸の香のする田川に咲く河骨の花、まっしろな夏雲の下で躍進をつづける高圧線の鉄柱――そういう矛盾した、いくらか悲しげな光景が未だそこにある。
 そして松井君の家もそこにある。その赤瓦葺二階家の全容が、走って行く電車の窓から手に取るように見える。
 あの家の前へ立って、あの草むらの中で、友の柩の悲しい発引を見送る時があろうなどとは夢にも思わなかった。一週に少くとも四往復をする私の電車から眺めれば、家に事なく、人皆幸いに、その門前の櫟、白樫の葉は、あの人々の善き生活の伴奏のためにばかり戦ぐかと思われた。
 松井君が愛して植えさせたというそれらの樹木は、しからば彼のためには「泉のほとりなる菩提樹リンデン・バウム」、真の平和の象徴であった。今、それは何を意味する樹であるのか。人間にとっての真の平和、それはやはり「死」なのであろうか。

     *

 松井君は、いうまでもなく、技術家であった。それも精密機械の分野において、理論・実技両方面にかけての最も有能の士であった。彼の能力の中でのこの数学的な領分は、結局、到底それを窺い知るを得ないという点で、私にとっては一アインシュタインの領分と同じであった。しかし多くの数学者や物理・化学者に見るように、松井君もまた詩的情緒に敏感な人であった。殊にそれは彼の風景写真の構図に現れていた。彼は詩人における「言葉」、音楽家における「音」を持たなかったが、自己のうちに湧起した詩的感情を損わず生かすために、そのエモーションの素因をなす一つの風景の「構図」を把握する不思議な力を持っていた。
 松井君の登山紀行や随筆風の文章には、その表現に常にいくらかのメディオクリティが感じられた。彼は言葉の吟味に余り心をくばらなかったらしい。しかし彼の感じ方は元来凡庸でも粗雑でもなかったのだ。その証拠には、彼の文章の中に往々人をしてほほえましめるユーモアがあり、実感の正鵠を射た表現があり、しかもそれらが決して想を練り句を鍛える作為の上に立っていないのである。彼の場合では事柄が概ね常に自然発生的であった。彼が壇上に一席を弁じるとき私を微笑させ、私の心を楽しくさせたのも、実にこの自然発生的妙味であった。そして山を愛する人々の人生への観点が多く自然発生的なところにあることは、まことに当然だと言わなければならない。
 或る山の本に序文を書いた時、私は「公算」という言葉を用いた。松井君はそれを読んで、「尾崎さんが公算を知っているんだから、いや恐れ入りました」といった。そしていつもの癖であの広い額を逆に撫で上げた。その時の松井君のあの人の好い眼附を今でも私は忘れない。
 松井君が私の書くものに好意ある関心を持っていたのに反して、私が松井君の専門方面の業績に全然無知だったことは何と言っても恥ずかしい。今ではもう遅蒔ではあるが、せめてその著した教科書を読んで、彼の口から機械工学の初歩でも教わろうと思うのは、われわれの短かった交友の期間をそれによって長め、この世での思い出を濃くし、彼から受くべきを受けなかったその損失の埋合せをしたいという心持に他ならない。
 自分の友をまるごと知りたいという貪婪な欲望を持つ私は、教壇での松井君を、器械工学の上での松井君を、ついに知らずして終ったことを幾らか残念に思う。

     *

 それならば私は松井君と山へ行ったろうか。否、それも遺憾ながら皆無である。公職を持つ彼と、常に自由な私との間には、目的地にも旅の日時にも同じにならぬものがあった。そのために私の山旅は概ね孤独なのである。しかし
「尾崎さん、大関をどうです」
「いいですね、松井さん」
「一献酌み交しましょうか」
「交しましょう、一献」
 こういう歓会は再度ならずあった。
 なんと松井君が、酒のことになると不思議に古風な言葉を愛用したことだろう! 一献酌み交すとか、天の美禄とか、盃を啣むとか。ああそれらの幾らか塵をかぶった言葉どもを、言語としての生活力を失いかけた敗残者の群を、何たる愛惜の念をもって撫でいつくしみ、なんと可憐な荘重さで口にしたことだろう! それらの言葉への特別な趣味傾向には、時に厳しい正教徒的な匂いすらあった!
 そんな時、私がもしもなお幾分多くの熱情を持ち、なお一層無躾であり得たら、片肱突いた彼の卓の左手に横たわる鞄の中味を質問して、それから話題を彼の専門の方へ展開し、楽しい酒盃の間、彼から学ぶところ尠くはなかったであろうに!
 もっと彼に近く膝を進めて、人生について、時代について、彼および私自身のそれぞれ固有な関心事について語り合ったならば、心の交渉は更に深く、追想は更にこまやかであったろうに! 私たちは友情の真の火花を発するまでに到らずして了った。

     *

 消し難いたった一つの侮恨が私にある。亡き友よ、私は今それを特に君に向って告白する。そうしたら私は幾らか楽になれるだろうと思うから。
 二年ばかり前の「霧の旅」の小集会で、われわれお互いの尊敬する同僚の一人が講演をした時、君は彼の論旨の中のかなり重要な点を全く逆に聞き違えて、それを会誌で公然非難したことがある。私はその人のために気の毒に思い、同時に内心君の軽率を怒った。
 そのことあって間もない或る夜、私は新宿からの省線電車で君を見かけた。夜は十時を過ぎていた。車の外は寒い寂しい冬の雨であった。私は君を見た。私と君とは車体の長さの漸く半分しか隔ててはいなかった。私は君を見た。君はいつもの鞄を膝の上に立てて両手を軽くのせ、少し上向き加減に眼をつぶっていた。その顔は疲れていた。職務の過労がさすが堅固な君の心身を弱らせていた。或るあわれみに似た感情が私を襲った。私は当然君の前へ行って君の肩をたたき、君の隣りへ坐って途中まで一緒であるべきであった。しかし君に対する当時の反感は私の気持をぎごちない物にした。私はあの事柄から全然平気にはなり得なかった。なぜならば、私たちよりも恐らくは年上のあの謙遜な内気な同僚もまた、同じように、こんな夜をその務め先から帰るのではないか。しかもその人の心は松井君の謂われなき非難によって深く傷けられているのではないか。
 松井君、私は君を見て見ぬふりをした。君は高円寺で降りた。君の後ろ姿も寂しかったが、私の心も寂しかった。しかし君はそれを知らず、あえてそれをした私には、君の死のために今や一つの侮恨が来る。
 常に知ると知らぬとに拘らずわれわれはあやまつ。考え方によれば、われわれの一生の行路には、犯したあやまちが特に深い足痕のようについているとも云える。
 君が不覚にも傷けたあの人が今では君を許しているように、君もまた僕のたった一つの罪を許してくれ給え。そして、また別の考え方によれば、われわれの最も幸福な一生の旅は、実にゆるしによってのみ完成し得るものだとも云えるのである。

 

 

 

 

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 秩父の牽く力

 生れて初めて山を見た記憶は五つの時にある。場所は東京も隅田川の河口に近い鉄砲洲てっぽうずで、その頃「煉瓦」と云っていた今の銀座の方角に、冬の日の暮、緑がかった金茶色の透明な夕映えの空を背景にして、西の地平に黒々と横たわっていた連山の影絵。それを秩父だといって教えてくれたのは今は亡い私の父である。
 山の手の高台ならば知らぬこと、そんな低いごみごみした下町の町中から秩父が見えてたまるものかと嗤う人もあるかも知れないが、明治も三十年頃には築地から鉄砲洲、八丁堀へかけて、平家の数は二階家のそれよりも遥かに多かった。銀座といえども同じことで、二頭立の鉄道馬車のごろごろ通るあの大通りの両側には、煉瓦造り二階建棟割長屋の商店が、それこそ「昔恋しい銀座の柳」に軒先をなぶらせながら、ちょうど今の浅草の仲見世のように、恨みっ子なく平等にならんでいた。何しろ断髪どころか、馬に髪の毛を踏んでもらうと毛が長くなるというので、勧工場の隣の何とかいう名代の寿司屋の一人娘が、鉄道馬車の線路のまんなかへ頭の毛を置きに行ったくらい長閑な古い時代のことである。今のデパートの先祖ともいえる勧工場などがあの大通りの建築の抜群なるもので、しかもそれがせいぜい三階建ぐらいだったのだから、当時の東京のプロフィールは、今と較べれば確かに平面的だったに違いない。
 だから埋立地にもひとしい築地や鉄砲洲の低平な町中からも山は見えた。少し広い真直ぐな道路で西に向ったものならば、ほとんど何処からでも何かの山脈の片鱗をとらえ得ないということはなかったと思う。それは当時異人館と俗称されていた築地の居留地からも見えた。それは新八丁堀からも、鉄砲洲の稲荷橋、中ノ橋、桜橋からも見えた。佃島、相生橋、深川蛤町あたりからならばなおよく見えた。それは私の哀れな母校の二階からも見えた。それは私の家の土蔵の窓からも、その鉄格子と金網ごしに見えた。
 大震災直後の九月の或る日、見渡すかぎり焼野ガ原の東京下町とその上にひろがる異常に美しい秋の青空。私も我が家の焼跡で灰を掻き、まっかに焼けた土をならしていた。太陽は熱く、風は涼しかった。この太陽と風とに直接愛撫される荒涼たる風景の中に、私の幻想はなぜか知らぬが頻りに雁来紅と胡麻とを描いていた。秋の礦野にシャヴルを立てる開墾者の幻覚であったかも知れない。私は腰を伸ばして額の汗を拭った。その時見たのだ。善悪美醜ともに灰と化し了った大都会の砂漠の涯に、波濤のように上がり大鳥の翼のように張った秩父連山を。そのひとつびとつの山襞も鮮かに、くっきりと限空線を描いて横たわる浮彫の山々を。
 災厄もそれが余り大きくて、亡失の観念が万人共通のものだと、却ってそこから一種の気軽さ、一種の余裕、謂わば消極的な平和の心境が生れるものであるらしい。この心境は続いて来るべき再建への努力の予感、生みの苦痛からわれわれを解放したり軽減したりするものでは決して無いが、とにかく一時は麻酔剤のような役目をする。そういう心の状態の時に、明るさ限りもない廃墟の中心から眼を放って眺めた壮麗な山々の姿には、たしかに、かつて見たこともない清新さと慰めと、男らしい頼もしさとの感じがこもっていた。
 秩父! 太陽と秋風! 私はこの廃墟のただなかで、黒い胡麻と真紅の雁来紅とが見たかった。何処か田舎で土地を借りる。小屋を建てる。小屋の前に二三反歩の畑があり、うしろに雑木林でもあればなおありがたい。その畑で百姓をし、その小屋で物を書く。山が見えなくてはいけない。春が来てかすむ山、新雪を粧って鹿子斑を見せる山、夏には猛々しい雲の峯を立てる山、そしてはらはらと落葉する疎林の向うに、青空の下でほのかに黄ばむ秋の山。それが自分の畑から見えなくてはいけない。
 私はそれを実行した。父が震災の被害の中から苦しい金を出してくれた。洋式二間の小屋と、二反歩の畑と、秩父の展望とを手に入れると同時に、羊飼のような娘も妻にめとった。私にとってのワルデンの生活とその牧歌とが始まった。村での生活は五年つづいた。
 震災の年の秋の暮、もう朝々の畑に霜の訪れる頃、私は毎日一人の大工の手伝いをしながら小屋の完成をいそいでいた。或る朝、露に濡れた畑の白菜がきらびやかに朝日に輝き、おちこちの木木の梢で頬白や四十雀が鳴いていた。赤に黄に彩られた雑木林、冬こそ緑の武蔵野の畑、遠くに横たわる山々の青、そして田園の静けさの中に打ち込む釘の音。私はすこしも歌人ではないが、この時何年ぶりかで一首の歌が出来た……

  君を待つ家をつくると朝日影
  豊多摩の野に軒うつわれは

 同じ山地でも、秩父はそこに住んでみたいという気を私に強く起させる点で、他の山地とは違っている。見聞の広狭、経験の多少、趣味傾向の相違を土台として、その上に立って厳格に考えれば勿論こんなことも軽々しくはいえないのであるが、少くとも私としては秩父山地という言葉の内容から、生活の幾多の楽しい、幸福な空想を描き得るのである。そしてその空想の内容も、現在自分のしている生活の本質的なものを変えたり捨てたり、若しくは変え或いは捨てることを余儀なくさせられた性質のものではない。つまり私は秩父のどこかの山村に住む身になっても、そこでデペイズマンを、すなわち「国を離れて途方に暮れた感じ」を味わわなくても済むだろうと思うのである。私は自分の従来の生活上の習慣を大して変えなくてもいいし、不本意に思ったり酷い不自由を感じたりしながら土地の習慣に馴れなくてはなるまいという、そんな心配も無いであろうし、むしろ幾らか従来の生活を改善して一層よくその土地に適応して行くことによって、大いに張りのある生き方ができるだろうとすら思うのである。もしも己れを捨てずに、しかも山村の土着の人々と融合して行くことができれば、我が家のまわりに常に立派な自然を持ちながら、満帆に風をはらんだ船のように、いきいきと張り切った生活がして行けるに違いないと信じるのである。
 ところで、これも余り大した信念をもっては云えないことであるが、同じ秩父に対して抱いている愛にしても、私のように古い東京に生れて東京で成人した者のそれと、他府県から東京へ出て来て一家を成した人々のそれとの間には、筆舌では簡単に現すことのできない、一種微妙な違いがありはしないかと時々思う。
 私たちが秩父を想う時には、必然的に、運命のように、古い東京とそこで育った幼年時代、少年時代の幾千の思い出と、またあの武蔵野の風光とがその前景として、常に意識の裏側に映っているのである。私としては、「秋空晴れて日は高し、今こそ我等が散歩時」というあの「散歩唱歌」の、幼い自分の憧れの声に対する千万無量の感慨が何時でも附いて廻るのである。
 従って秩父の魅力には一種故郷の持つ魅力のようなものがある。それは理窟無しに牽くところの力である。それは一つの小さな記憶から忽ち尨大な幻影が生れて、しかもその幻影が少しも疎遠なものであったり、好奇心の対象であったり、また況んやエグソティックなものであったりはしないのである。
 武蔵野と秩父の山。それを思う私たちの心はあのフランスの北方で人が「ノルマンディー」を歌う心である。「俺はスイスの山々と、そのシャレーと、その氷河とを見た。俺はイタリアの空と、ヴェニスと、そのゴンドラの舟子とを見た。そうして何処の国にも挨拶をしながら、俺は自分に言った。どこへ行こうと俺のノルマンディーほど美しい処は無い、それはこの俺に日の目を見せてくれた土地なのだと」
 またそれを思う私たちの心は、今は北海道にいる河田楨君をして、故松井幹雄氏を憶う一文の中に、「どうせ死ぬなら僕も武蔵野で死にたい」と書かせたあの同じ心である。

 

 

 

 

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 春の丘陵

  石老山

 中央線与瀬の停車場前から古いフォードのバスヘ乗って、両岸に美しい河岸段丘をならべて曲流する白と藍との桂川を、津久井の吊橋で右岸へわたると、ひとしきり爪先上りの峠道みたいなところを爆音たかく車は走って、さて降ろされたのが、むかし口留番所のあったという鼠坂ねんざか。そこから南へだらだらと、丘の傾斜をのぼって出た津久井郡内郷村関口の部落は、眼のまえに臥牛のような石老山を見上げて、礫岩を洗ってながれる小川の水音、雛の雪洞のような八重桜、さては路傍の石垣をかざるタンポポやクサノオウの花のあざやかな黄に、春もまさに闌であった。
 もうここに都の春の塵は無い。顕鏡寺まで百メートルばかりの登りを、右に左に第三紀礫岩の露出を見て行く道すがら、耳に聴くのは相模の里の揚雲雀、顔に触れるのは老杉のすきまを洩れる泉のような風ばかり。東京の街のどよもしなどは、我が世を遠い噂のようだ。
 石老山から北東へのびた尾根の一角を平にして、春に面した露台のような場所に顕鏡寺はあった。本堂の前にささやかな休茶屋風のものも有るには有ったが、今は参詣の人も少ないのか、ひつそりして、ただあたりに囀る鶯の歌ばかりがここの静かさを領していた。御住持様にたのんで梵字を書いた多羅葉の御守をいただいたが、御利益よりも、春の山歩きにふさわしい土産をよろこんだのである。
 本堂の近くの虚空蔵こくぞうノ窟いわやへはいって、有名な金剛水というのを一口味わったのも、経験を無駄にしまいという殊勝な心掛けからである。元来この山から湧く水は妙に白濁を呈していて、どうやら飲料には適さないらしく思われるが、「清冽掬するに足る」と或る友人が讃辞を述べていたから、その折紙の手前、こわごわ喉をうるおしたのである。
 山の最高点まで約三百メートルの登りは、のんびりした尾根道であった。ゆるやかな傾斜で登るにつれて、武蔵野とはまた違った趣きのある相模野が、ねむくなるような広がりをもって高まって来る。 人一人いない猿ガ馬場の見晴しでは、この茫々とした薄青い空間と輝かしい日光との中で、もしもギターを持っていたら、「オーヴェルニュの歌」でも歌いたかった。
 よく山頂と間違えられる山の瘤を一つ越して、とうとう辿りつく本当の石老山の頂上は、キャラメルの空箱やデパートの包紙等が散らばっていて、少しきたならしい。仕方無しに山の紙屑拾いをやってあたりを綺麗にして、さて子供の時のように両足の間へ弁当をひろげて、持参のハムの一切れを、これもちゃんと用意の白葡萄酒で頬張るのは山歩きの贅沢の極致かも知れない。だから普段下界に居る時は茶漬飯でも我慢するのだ。北は桂川の渓谷を眼下にして高尾山、城山、小仏峠から景信山へつづく武相国境の連山、南から西へは松の木立を透いて、驚くほど巨大な焼山を前に堂々たる丹沢山塊。それから深く深く食い込んだ道志の谷をへだてて、大室山の英雄的な金字塔。もしも桂川右岸の山々が春の霞に包まれていなければ、遥かに赤石山脈の雪の峯々も望まれる。相模野の眺望は言うまでもない。
 帰路は南麓牧馬まきめへ下りた。山ふところの、ここも桜咲き水の走る美しい部落だ。山頂からこの附近へかけて、知らせてしまうのは惜しいが、少年諸君よ、四月中旬にはあの珍らしいギフチョウがたくさんいる! そして、この山でのギフチョウの発見と捕獲とは、昭和五年四月、多分私をもって最初とするのだ。

   日ノ出山

 地図を見ると武州御岳山の東南東約二キロのところに、九百二メートルなにがしの山がある。また御岳山参道のあの長い杉木立の中の登りが漸く終って十五丁目だかの茶店の処までくると、前方やや左手になかなか立派な山容をした一峯が見える。それが日ノ出山だ。眺望は御岳神社からよりもずっと広い。奥多摩渓谷の左岸に波濤を上げている高水三山、高指山、川苔山なんどは元より、武蔵野の西に磯波をざわめかす前秩父の山々、それから近くの御岳、大岳、さては長い頸をのばした馬頭刈山。春は麗かにきらびやかに、すべての山頂と斜面とを照らしている。
 青梅電鉄日向和田ひなわたで下車して、多摩の谷へ架けた低い橋を渡って段丘上の平地へ出ると、そこが梅林で名高い吉野村。ここら一帯、大昔は多摩の河床であった処だ。軍畑いくさばたの対岸から青梅あたりまで、幾つかの部落はすべてこの段丘と山裾との接触した線の上に発達しているのがよく分かるから、学校で地理を習っている子供たちには、ぜひ地形と聚落発達との関係をこの辺で実地に見せてやりたい。
 日ノ出山へは先ず金比羅山から登る。村の真西に見える松の生えた岩山で、金比羅様とオネコサンが祀ってある。オネコサンとは養蚕の守り神だそうだ。この山から先は地図にある通り長い尾根の南側につけられた一本道を行くのである。往手には始終千二百六十メートルをぬきんでた大岳山の大砲塁を望みながら、キンラン、ギンラン、カタクリ、スミレサイシンなどのひっそりと咲く山道を、見事に成長した杉や檜の美しい植林の、まるで斜に懸けた濃緑色の絨毯かと思われるのを眺めながら、常に南に日を受けて進む楽しさ。しかし松尾、肝要の谷へ向けて吸込まれるように落ちている立派な植林を前景に、大岳山の雄姿を一枚撮影しようとする人は、余りに明るい陽春の天空と案外暗い針葉樹との強い対照に、充分過ぎるほどの露出を掛けなくてはなるまい。
 日向和田から日ノ出山の天辺までは、途中二三度休んでも三時間。ところどころ岩石の露出した、黄揚羽の飛びまわっている狭い山頂である。私の山日記には「鳴きかわす筒鳥、三光鳥の声」と書いてある。ここからの展望はすでに書いたが、休日だと御岳参道の群衆が蟻の行列のようにつながって、息を切りながら登っているのがまるで生きたパノラマである。
 山頂を辞して、岩に薄紫の山藤の垂れているやや急な尾根を西へ降ると、まただらだら登りになっていつのまにか御岳神社へ出てしまう。そこから奥多摩への下山は誰でもするが、私のすすめたいのは、七代ノ滝の少し上から左へ切れて、この滝の水が流れる御岳沢を沢沿いの路で辿って、約二里を五日市の奥の寺岡まで歩く路である。これは実に静かな長閑な路だ。沢は淙々と歌っているし、南に面しているので日当りはよし、タデノウミコンロウソウをはじめ山地の花が豊富だし、それに標本箱を飾るウスバシロチョウなどが多い。私の友達は山ウドを掘ったり、野生になったワサビを抜いたりして「これで刺身が泳いでいれば晩の御馳走が間に合うのだが」といって笑った。そういえば下流の養沢川にはヤマメやハヤが無数にいたっけ。兄妹らしいのが二人、実に気持よく釣っていた。それはまさに一幅の平和な山村の絵であった。
 寺岡から十里木へ出て五日市までハスに乗れば、午後五時いくらの立川行には間に合うはずである。

   高水三山

 高水山、岩茸石山、惣岳山の三つを総称して、いつの頃からか高水三山といっている。
 青梅街道軍畑で電車を下りると、すぐちょっと後戻りして橋の手前を北へ入る。今日は子供や女連れなので一人で引受けた兵站部のルックサックが重い。しかし快晴に恵まれて、早くも遠足気分が横溢する。
 水車が春の日永を廻っている深い沢を右手下に見下しながら行くと、直ぐ向うに峙っているのが雷電山だ。別に名前ほどの山ではないが、この山から高水山へかけて南側を「雷電山――三峯線」という断層が通っている。してみるとこの沢は一つの断層谷なのかも知れないと思って、今日の案内者、人夫兼地理学の素人が三脚を立てる。
 平溝の部落を出はずれると道が二つに分かれる。左は今いった仮定の断層谷を谷深い大沢の部落へ、右は高水山への登り路である。
 高水への登りには新旧二つの路がある。旧道は地図に破線で表してある楽な路だが、新道はそのすぐ南の尾根を二百メートル余り真直ぐに登るのだ。しかし登り切れば旧道と一緒になって、後は同じ路を行くのだから、わざわざ新奇をとって汗をかく必要はあるまい。この二路の出合は一寸眺望のいい処で、惣岳山の向うに出る大岳山、御前山が中々立派だ、それからは樹下に白い大輪の花を楚々と咲かせているミヤマカタバミなどを採集しながら行く至って長閑な野山の感じだが、やがて頂上の暗い木立の中へ入ると常福院という寺があって、其処に智証大師一刀三礼の御作浪切白不動尊で名高い高水の不動堂がある。昔は相当に賑わったものらしいが、今はそんなこともなく、それだけ静かな春の山歩きにふさわしい。お婆さんの居る休み茶屋があるので、ちょうど此処で弁当を使うことになる。
 高水山から西へ、カタクリの花が紫の天蓋を揺すっている樹林をぬけると、また視野はひろびろとして来て、緩かな草山の起伏の中を行くのが楽しい。殊に名栗川の奥の山々や、大きな兜のような武甲山の眺望は此の辺で最も美しい。間もなく七百九十三メートルの岩茸石山の下へ辿りつく。絶頂へは絲のように続いている小径を一直線に登るのだが、其処からの展望の広大さには一汗流すだけの甲斐は十分ある。
 岩茸石山の少し西から尾根道は急に真南へ折れて、繁茂した濶葉樹林の中を惣岳山へむかっている。惣岳山というのは御岳の駅のちょうど真上に、まるで丸髷を載せた頭のような恰好をしているあの山である。道は爪先上りになって一帯の様子が山らしくなってくる。右手真下に大丹波川の渓谷が其の村落とともに箱庭のようだ。そして其の上には例の川苔山の大塊がどっしりと構えて、春風わたる天空に聳えている。行くほどにぎっしり灌木をよそおった大きな岩が現れる。路は左右二つに分れるが、左をとって急登する。イワウチワの美しい群落があるが余り採集するのはよくない。やがて絶頂の青渭あおい神社。四面浮彫の古社である。
 奥多摩渓谷はその全貌を眼下に展開する。
 さてそれからは帰路になる。先ず神社から東へ少し行って泉をたたえた井戸のある処から二岐する道を右へとる。降りついた処は沢井駅と御岳駅との中間の街道である。一日の静かな山歩きを了えて、東京へは夜食までには優に帰れる。

   景信山

 高尾山は余り雑沓し過ぎるという人に、私はその臭の景信山をすすめたい。古い小仏峠を中心にして、春は花も多いし蝶も多く、またその眺めの雄大なことは道の楽なのに反比例している。
 浅川駅前から高尾山行きの電車へ乗ると次の停留所が小名路こなじ、小仏峠への追分である。右に中央線の線路を、左に黒木立の高尾山を見ながら、絲繰器械の音のする農村から農村へ、一里ばかりをぶらぶら歩くのである。これは昔の甲州街道で、往手にはもう景信山と小仏峠とをつなぐ緩かな山稜線が空をかぎっている。
 高尾山蛇滝口ヘの道を左に見て、やがて小下沢こげさわの現れるところで線路を歩いて斜め向うへ渡ると、もう小仏の部落。地質学でいわゆる小仏層の石が、まるで石炭を敷いたように線路に沿って散らばっている。ミツマタの薄黄の花が咲き、爪先上りの路の右側に段々になって農家がならび、その左側を小仏川のささやかな水の流れる此の村では、どうしてもシャッターを切らずにはいられないだろう。
 村外れから線路は小仏トンネルヘもぐり込む。人はその上を歩いて行く。やがて景信山への登り口を示す道標が小径の右に立っている。そこで一休みして、右手五六段で無くなってしまう石段から登りになるのである。まっすぐに行けばもちろん峠道。しかしこれは帰路に選んだ方がいい。

 息を切らせる登りが約十分間位つづくが、それからは雑木のまばらに生えた尾根をのんびりと登るのである。左手に谷を越して小仏峠のたるみが、その掛茶屋と一緒に手にとるように見える。右手遥かに多摩丘陵や武蔵野の一角が春霞をまとってせり上がる。如何にも春の山路の感じである。
 これを登りきると一寸した平へ出る。そのすぐ左に立っているのが景信山である。以前に息を弾ませながら真直ぐに登ったものだが、今では電光形の路がうまくつけてあるから、急がずに歩けば楽なものである。忽ち頂上。その頂上の平地には近頃景信小屋という相当な小屋が出来て、食物や飲料なども売っている。眺望は此の附近で最もすばらしい。
 先ず西には此の山から始まって相州、武州、甲州に跨がる国境山脈が、縦に蜿蜒とうねっている。その奥には三頭山、権現山などの大塊を前にして、山膚の青磁に白雪の象嵌をほどこした大菩薩連嶺の長壁が、むしろ優美に夢のように横たわる。その左手笹子峠から三峠山へつづく一線の上には南アルプスの白金の山々がぴかぴか光る。富士は元より偉大だ。富士はまるで抱きかかえることができるほどに大きく且つ近い。富士の左には道志の山々の紛糾を前にして、丹沢山塊がその大鵬の翼を張っている。一転して北は馬頭刈から大岳山・御前山へと延びる一連。中でも大岳山の姿は豪壮だ。その左手奥には秩父の雲取山が、これも雪の縞をつけて頭をもたげる。もっともっと遠く北東の地平には日光や那須の連山。また東には平野の青い霞の上に紫の筑波。春は悠悠として天に浮雲。草上に身を倒してこの無限の空を見つめるのはいい。
 小仏峠へはこの頂上から南へ向う尾根をだらだら降るのである。植物や昆蟲採集はここからはじまる。一日には極めて楽な行程である。

 

 

 

 

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 一日の王

      「お寺の前で
       子供が三人遊んでいる。
       お前達は一日の王を見かけたか」
             ジョルジュ・シェーヌヴィエール

   出 発

 背には嚢、手には杖。一日の王が出発する。
 彼は一箇のクヌルプのように漂泊と歌とを愛するが、また別にすこしばかりの自然科学者的タンダンスがあって、それが感情の過度の溢れから彼を救う。
 嚢の中には巻パンと葡萄酒、愛読のシェーヌヴヴィエールの詩集一冊。今日は時しも春だから、ジュール・ロマンは持って行かない。その「全一生活」や「唄と祈」は、枯葉の散り、菌のにおう秋の山路にこそふさわしいと思う。
 磁石は紐で首からつるした。ポケットには手帳とルウペと地図。折目に幾度目かの膏薬張りをした地形図は、過去の足跡をなぞった鉛筆の色で真赤である。内がくしの心臓の上には、戸口に立って笑っている我が子の写真も忘れはしない。
 天の青さがぽたぽた落ちてくるような春の夜明けよ! 早起きの雀の声のきこえるあたり、西郊の欅のおもたい新緑。彼はモーツァルトをおもい、グルックをおもう。あらゆるオルフォイス的な音楽が今やひとつの純粋な流れとなって、早朝の出発の心をめぐり、包み、洗っているようである。
 そして彼は今日の山路のすがすがしい美しさと、その明るいひろがりとを思う。

   小 径

 咲きはじめた山吹やひとりしずか、小径の岩に鳴る靴の音。もうずっと下になった渓谷が、かすかにさらさらと早瀬の歌をうたっている。そして楽しい大きな明暗に浸かった朝の山々は、空間を占める莫大な容積の重なり合いと大らかな面の移り行きとで、それを見る眼をゆっくり休ませ、その安定感で人の心をやわらげる。すでに都会は遠いのだ。対岸には白壁と石垣と、調和のとれた樹木の配置とでひどく好もしいものに見えていたひとつの村落が、今、こちら側の山をはなれた朝日を浴びて、谷から立ち昇る真珠いろの霧のために、きわめて薄いヴェイルを纒ったように柔かくきらめき始める。その上の山の斜面に点々とパステル赤をなすっているのは、三葉躑躅の花だろうか。
 やがて径の左に沢の落ちて来るところを彼は過ぎる。一羽の大瑠璃が岩角にとまって、流れよどんだ清水を飲んだり浴びたりしている。木の間から降りそそぐ日光の金色の縞に照らされて、その瑠璃いろの頭や翼の色が眼もさめるように美しい。彼は小鳥の動作を、その飛び去るまでじっと見ている。飛び去った鳥は近くの水楢の枝まで行って、嘴をこすったり、濡れた羽をふるわせたりしながら、その合間に水晶の玉を打ち合わせるような歌を投げる。彼はその歌を、ちょうど或るメロディーを覚えようとする時のように、しっかりと心にとめながら歩いて行く。
 径の片側に或る岩石の露頭が現れる。日蔭の岩は爽やかに濡れている。彼は見事に皺曲したその岩を多分紅色角岩だろうと思う。粘菌を採る人のように細心に、杖の石突きでやっと旨く割ることのできたその扁平なひとかけを乎の平に載せて眺めながら、これを研いで磨いて文鎮にしたら好い記念になるだろうと思う。
 彼は行く。ゆっくりと。しかし物見高い眼や鼻や耳はすっかり解放しながら。山を歩くことは彼にとって、自然の全体と細部とをできるだけ見、愛し且つ理解することであって、決して急用を帯びた人のように力走することではないからである。それがために一日の行程を、二日かかるとしても構わない。またそのために、都会へ帰って幾日かを穴埋めのために生きるのであっても構わない。
 彼は遭遇ランコントルを愛する。天与の遭遇が有ればよし、さもなければ自分の方から求めて行く。この発見の道は必然に迂回する。

   中 食

 柔かい水苔の薄くかぶさった岩に腰をかけて、いま彼は単純な中食にとりかかる。
 先ず揉革に包んだ切子のコップを取り出して、小壜に詰めた葡萄酒をそそいでぐっと飲む。旨い! もう一杯。気が大きくなる。それからフロマージュ入りの棒パンをかじりながら水筒の水を飲む。
 シェーヌヴィエールの詩集はこういう時の友なのだ。彼は質素に強く、明るく生きることの如何に自分にとってふさわしく、またそう生きようとした夢想が、如何にこの病身で熱烈で、貧しかった詩人を鼓舞し、パリの凡庸な日々の中から燃え上る新星のような非凡の光を、瞬時に現れる永遠を発見させて、如何にこれらの感動的な詩を書かせたかを思う。
 近くの暗い岩の上、ひかげつつじの硫黄いろの花の咲く下に、いわうちわが一面にはびこって、ほんのり紅をさした白い花の杯を傾けている。彼は艶のある緑の葉ごとその花を摘みとって、詩集の中で最も好きな「一日の王の物語」の頁へはさむ。

   帰 途

 彼は午後の大半を、尾根から山頂へ、山頂からまた尾根へと、一日の太陽の鳥が大空をわたって、その西方の金と朱あけとに飾られた巣の方へ落ちて行く頃まで歩いた。
 尾根では、いつものとおり暖かでひっそりして、自分自身がおとなしい野山の鳥やけものや、何物をも強く要求しない草や木とちっとも変った者ではないことが感じられたし、山頂では、周囲からぬきんでたその高さのために心が高尚にされて、そこからの眺望は、いつもひとつの高い見地というものを教えられることだった。
 同時に、それは、また発足して見に行きたいという、新らしい熱望へのいざないでもあった。
 それから彼は谷間の方へ下山した。
 今くだって来た山のてっぺんには、まだ金紅色の最後の日かげが残っているが、谷間はもう淡い紫にたそがれている。夕暮の空には、朱鷺ときの抜け毛のような雲が二筋三筋散っている。やがては天気が変るとしても、今日の終焉が美しい夕映えを持つだろうという確信は彼を楽しくする。
 彼はようやく出逢った最初の部落を、人々が永く其処にとどまって其処に死ぬるところを、行人の足にまかせて脇目もふらず通りすぎるには忍びない。
 老人に、若者に、娘に、彼は道をきくだろう。たとえその道を、地図と対照してほとんど熟知しているとしても、なお彼らと二言三言口をきくために、彼は求めて道をたずねるだろう。
 坂になった村道で、子供たちが夢中になって遊んでいる。その中の一人がほとんど彼にぶつかろうとする。彼はそれをよい機会しおに、身をよけながら子供の肩に手を載せるだろう。
 そうして、たちまちにして、彼は初めて見たこの谷奥の寒村を、旧知の場所のように思ってしまうだろう。
 かくて貧しい彼といえども、価無き思い出の無数の宝に富まされながら、また今日も、一日の王たることができたであろう。

       「もう一日留まっていなされや。そうしたら、
         私がいい家鴨をつぶして上げようもの」
                   ジョルジュ・シェーヌヴィエール

 

 

 

 

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