「それは軍隊を持たない征服者。しかしたった一人での征服者。彼は万人に語る
すべを知っている。男にも女にも。そして彼等の睫毛をその最も美しい涙で飾っ
てやり、また子供の朗らかな笑いを彼らに取返してやる事ができる」(シャルル・
ヴィルドラック)
百観音自動車株式会社の定期乗合バスが、中央線韮崎駅から佐久往還を北上して長沢まで通じているということは、鉄道省編纂の汽車時間表にも拘らず、昭和七年十月八日には、全く嘘ではないまでも、少くとも真に本当ではなかった。
すべてこういう風にして、物事の確かさを信じることが困難になる。またこういう風にして、チョコレイトに出て貰うつもりで、投入口の孔へ全身の丈けを伸びるだけ伸ばして憐れな五銭白銅を入れた小さい子供が、契約を無視したキャラメルの函にすべり出られて、世界の不都合な看板のいつわりに唖然とする。
未知の土地への旅客という者は、山へ行くと急に気が荒くなるという人は別として、大抵はその平生よりも一層好人物である。彼は「郷に入っては郷に従え」という金言を、自分でも経験から学んだ真理として、且つ久恋の旅に出た嬉しさからの自然の寛容をもって、又よその町へ入り込んだ犬の小心から、更に、そうする事がいやしくも旅行家たる者の一つの美徳であるとさえ考えて意識的に、余り不自然でなく実践する。そこで、午前五時いくらのひっそりした韮崎の駅頭で、黎明の寂しい灰色の奥に見出した一台のバスの運転手に訊けば、バーバリーのレインコートの底の方から、
「長沢へ行くならこれに乗るんです」と、無上命令的アンベラティフ・カテゴリツクな答えだけが響いた。後で考えてみれば、なるほど含蓄のある融通の利く辞令である。それならば彼はもう一歩を進めて、外套の襟からイソップの狐の鼻面を突き出して、「ルックサックを背負った旅烏さん、信州へ行くならこれに乗るんですよ」と云うほどのユウモリストであってもよかったのだ。
とにかく、僕は鷹揚になる。とにかく、「出発」という第一過程をさっぱりと済ませて、これからはほとんど全く自由な活躍が僕のものなのである。新しいフォードが僕というたった一人の主人を乗せて暁闇の町を走りぬけると、いま乗り捨てた長野行の汽車が盛んに煙を出したり、石炭を投げ込むときの焔の光をひらめかせたりしながら、左手の急勾配を息をきって登って行くのが見える。僕はたちまち子供心になる。生きて甲斐あるような、それだから善い仕事をしなければならないのだというような、ちょうど何から何まで気に入った支度をして貰って母親に送り出された、遠足の朝の子供のように神妙な気持になる。茅ガ岳の右に遠く大菩薩あたりの悲劇的な夜明けの色。多量の水分を含んだ煙幕状の層積雲の重苦しい黒ずんだ紫と、その間に低く切れた深淵のような血紅と薄みどりの天明の一線。そういう光景も深く心に刻みつけ、さて、しらじら明けた百観音前での乗換で、また別の一番自動車ヘルックサックを担ぎ込むと、すっかりドメスティックになって車内の掃除や水撒きしている若い女車掌から、
「前には長沢までかよったのですが、今では箕輪新町みのわしんまちまでしか参りません」という、事実をぼかさない答えに接した。
よろしい! 一体、乗合バスの女車掌というものは、それが容姿端麗で、公共の仕事の性質を呑み込んでいて、なお且つ朗かだと、何となく国際的アンテルナシヨナルな匂いがする!
バスが今起きはじめた或る繁華らしい街を通る。いずこも同じ柿紅葉とコスモスの花である。鳳凰・甲斐駒のミケルアンジェロ的威容が、未だ幾らかノクターナルな額に乱雲の前髪を垂れて、うしろの窓から仰がれる。僕は前に腰掛けた女車掌に訊く、
「此所は何という所です」
「若神子わかみこです」
ああ、若神子か。それならば今日僕は一人の自然の神の子として歩くのだ。
*
バスが使い古された腰に爆音を満たして、営々と登りつめた箕輪、それから新町。「此処までで御座います」と云われてガッチリと車を降りる。昨夜の夜半から曲げられていた膝が喜んでいる。その膝は、先ず後方へ伸びるだげ伸ばされて、やがて膝関節のうしろあたりで「ピチン」と云う。これでいい。僕はこの音を、縒れ合っていた腱か何かが元通りになるときの音だとふだんから思っている。
それにしてもバスに揺られて、右手には折々遠く瑞牆山みずがきやまの岩峰の髪飾りを、左には漠々と雲の垂れた八ガ岳を垣間見ながら行くこの佐久往還のなお先に、よもや長沢・樫山などという纒った聚落があろうとは、手に持った地形図の上ではとにかく、ただ運ばれるに任せる尋常の旅客の頭には想像もつかない寂寞の道である。しかしこれらの聚落が、関東山地の西縁及び茅ガ岳火山群と八ガ岳火山との接触線の謂わば一種の裾合に発達したものであることを思えば、大体この線に沿って走るように作られた佐久甲州街道なるものが、たとい如何に寂寞の道であろうと、この聚落を花綵の糸のように点綴していることも当然と諾かれるに違いない。
僕は角の荒物屋兼飯屋の上りがまちへ腰をかけて、妻がして呉れた用意のサンドウィッチを頬ばる。それにしても遠く来た。午前六時十五分。武蔵野に秋の朝の煙りの漂う柿の木の下の小さい我が家が、心の映写幕に現れては溶暗する。今日の仕事を胸に描いて、滴るような早朝の天の下で顔を洗っているべき常の自分が、ここ甲州北巨摩郡安都那村箕輪新町の、生れてからまだ一度も腰かけたこともない見知らぬ他人の家の片隅で、これも見知らぬ子供たち六七人に見守られながら、もっと正しく云えば、口ヘ持って行くパンの一片を片唾を呑んで見つめられながら、「学校は何処か」とか、「学科は何が好きだ」とか、例のように訊いている。そして少し感傷的に、今頃もう家を出て、小さいランドセルに金いろの朝日を斜めに浴びながら停車場への道を急いでいるであろう幼い我が子や、その小さい後姿を門の前で見送っている其の子の母のことを心に浮べて、宵越しのサンドウィッチを二つにちぎって一気に頬ばる……
「家で炊たいたのですが」
と云いながら、其の家のおかみさんが土地の松茸をこてこて皿へ盛って持ち出した時分には、しかし僕の食欲はもう衰えていた。そしてぬるい湯で持参のココアを煉っていると、やがて赤松の林を濡らす朝の雨になった。
*
向うからお婆さんがやって来る。お婆さんの背中の背負籠にはもう朝飯前の一仕事の松葉や枯枝がいっぱいである。働かずには飯を食わないつもりらしい。
「お早う。お婆さん今日はお天気はどうでしょう」
「なあに朝降りははげると云うだから、天気は大丈夫だよ。何処まで行くね」
「海ノ口ですよ」
「ああ海ノ口なら一日には丁度持って来いだ。行っておいで」
雨は十分ばかりで止んだ。眺望が開けて来る。真珠色をして南西から北東へ静かに移りうごく雲の、その切れ間の空の気も遠くなるような美しさ。爪先上りの坦々とした道を、時折のきらびやかな朝日をうけながら行く楽しさ。高原の微風よ! 路傍に秋のゴブランをつづる灌木よ、草よ! わけても甲斐の国の山々よ! 僕はお前たちにフェリシテを云う。ああ、生きることは何と善いか! この神のいない大本寺、それ自身が神の証しであるところの此の自然の中で、僕は自分に優しかったすべての死者らに感謝し、また僕の敵であった死者たちと和解する……
左に旭山の丘阜を見、右に須玉川の瀬の音を聴きながら行くこの至福の道こそは、僕の今度の旅にもっとも深い感銘を与えた。僕は一人ではこの感動を担いきれずに、道すがら、モーツァルトやシューベルトの歌に、「パストーラル・スィンフォニー」や「ジャン・クリストフ」に応援を求めた。僕は歌った。それから黙った。目に入る草の名を知るかぎり手帖に書いた。僕は耳をすまして鳥の声を聴き分けた。知らない鳥も歌っていた。僕は太い落葉松の幹へ耳を押し当てた。落葉松もまた歌っていた。それは天と地との永遠の盟約の歌だった。
やがて地形が変化して、道が断崖にのぞむようになり、対岸津金村の向うから洪水のような日光が満々と横ざまに射して来ると、突然、全く新らしいモチーフのように、稲田の黄金の大階段を正面にする長沢の部落の遠景が、もみじしたヌルデの炎の下に現れた。
*
長沢部落は大門川と川俣川との合流点の南西約三百メートルの辺にある。「八ガ岳」図幅で見ると九四四メートルの最高点を持つ一箇の楕円形の丘陵が、ヨメガカサと呼ばれるパテルラ科に属する一種の貝を伏せたように、その長軸を南北の方向にして横たわっている。川俣・大門の二つの水を合せた須玉川は、この丘陵の東の縁辺をきっかり縁取るようにして南流する。一方丘陵の西の縁辺は、前章の最後に述べた長い階段状の稲田を裳もすそのように廻らして、直ちに権現岳の南南東井出ガ原の大斜面に対している。つまり此の丘陵は、南下する川俣川に対して真正面から打ち込まれた一箇の楔のように見える。楔の尖った頭を真向から受けた川俣川は、してみれば、これを避けてしかもなお南下するためには、現在のように左して大門川に合しなくても、むしろ独自の方向を取って、すなわち右からこの丘陵を迂廻してもよかった筈である。長沢の稲田の階段状をした細長い面白い地形が、僕の興味を喚起したのも此の点にある。ことによると、かつて川俣川は、今日稲田になっている此の地域を流れていたところが、上流地方の隆起か大門川流路の沈降か、或いは彼の誘拐に遭ったかして、以前の流路を見捨てて、僅かの距離を流れている大門川に合してしまったのではなかろうか。そしてその廃墟の上に長沢の稲田は作られたのではなかろうか。こういう臆測が僕の興味であった。僕は早速問題の稲田を正面にして、ほとんど其の長軸を貫くような方向からカメラを立てた。自分の地形学や人文地理学的写真の資料が、此処で一枚出来るのだと思うと、写真も学問も共に一年生だけに、その得意さ、その嬉しさは並ならぬものであった。僕は焦点ガラスに映る光景に陶然と酔った。
すると、ちょうどそこへ、谷の方から一人の洋服の人が登って来た。地図に大和とある部落のあたりから、須玉川を渡って来たらしい。その人が丁寧に声をかけた。
「お早うございます。長沢をおうつしになるんでございますか」
「ええ、地形の利用の仕方が中々面白いと思うものですから」
「そうでございますね。こういう事に興味をお持ちでいらっしゃいますか」
「ええ」僕は微笑んだ。
「結構でございます。私はこの上の長沢の学校におりますが、どうかお立寄りを願います」
僕は心から礼を述べた。校長らしい人は往還へ上って立去った。僕はレリーズを押した。
また一人登って来た。今度は若い女の先生であった。この人も慇懃に挨拶をして、しとやかに通りすぎた。
「長沢部落の稲田、十月八日午前七時四十五分、半晴、S・G・パン、ラッテンK2、絞十六、一秒」
僕は手帖へそう書き込んで器械を片附けると、足もとに咲いている薄紫のマツムシソウの一茎を折り取って、ルックサックのポケットヘ挿した。この幸福な朝のためにも、またあの善い人々の思い出のためにも……
雄鶏の勇ましい朝の喇叭が、遥かに部落の方でその音色をひびかせた。
*
僕は長沢の部落を通る。僕の通る長沢の部落が彼らの朝の眼で僕を見る。僕は僕の通らねばならぬ人目の関の長いことを惧れる。
額に汗して働くほかに生きる道のない人々が一日の仕事を取り上げる時刻に、彼らが今浴びる最初の貴い陽光の中を、心に何らかの陰を感じずに、平気で横ぎることは僕にはできない。
僕の父は武蔵野の農夫の子だった。正月に手習師匠に贈る天保銭一枚を幼い手で稼ぐために、三俵一駄の薩摩芋を馬につけて五日市まで幾往復しなければならない子だった。その子の子、僕の血管の中を、百姓の血が太く根づよく流れている。
詩人としてはロバート・バーンズ、ウォルト・ホイットマン、エミール・ヴェルハアランの三人が最も強い感化を僕に与えた。ジャン・フランソワ・ミレー、ヴィンツェント・ヴァン・ゴッホ、モーリス・ヴラマンクは、詩において時折涸渇する僕を最も豊かに水かう三人の画家である。
そのヴラマックが「画因モチーヴ」へ行く。牧夫のような逞しい手には画布トワアル、三脚、絵具箱。真夏がすこし墨っぽくした並木の緑に縁どられて、パリからボオヴェーヘの街道が風景の遠方を走っている。赫耀たる太陽の八月、イール・ド・フランスの野に明色ブロンドの麦は熟れ、頭にマドラスを冠った女たちや、襯衣の袖を肩までまくり上げた男たちが、汗まみれの刈入れに忙しい。彼らの中の幾人が投げる親しい「ボンジュール」の挨拶に、画家は立止って会話をする。しかし心の中で、彼はこういう風に労働しない自分をひそかに恥じる。自分の食う麦を自分で作らない己れを恥じる。都合のいい口実は幾らでもあるだろう。だがどんな言葉も自分にとっては結局すべて虚罔に過ぎない。事実は厳として眼前にある。そう思ってヴラマンクは立ち去る。むしろ心に苦痛を満たしてその場をのがれる。
同じような心の苦にがさを味わいながら、幾つかの無表情な眼が迎え見送る長沢を、両側の古い家並の間に廻らぬ水車を持つその部落を、むしろうつむいて僕は通る。そしてあの画家と同様に僕も呟く。
「こんな経験は初めてではないのだ」と。
*
つきのき橋で川俣川を左岸へ渡る。自然の中の水らしい水の眺めに、歩き出してから今初めて逢うのである。谷の両岸は相当に開けて明るいのに、河床そのものは、殊に橋の下手では、暗く深く刳られて、水は左へ左へとぐいぐい突込むように捻れながら流れている。橋の上へ立って、黄や赤に色づいた谷間の錦繍の下かげをうねる水の素絹の行衛を見ていると、どうやら其の流路に沿って地質の最弱線が通っているのではないかという気がする。つきのき橋の「つきのき」は、して見れば月の木か、槻の木か、それとも飛躍して「突き抜き」か。しかし此処では槻の木が最も妥当らしく思われる。
一度下った道が橋を界に、下流に向って高上りになる。輪鋒菊や梅鉢草の点々と咲く、歩くに楽しい道である。左側に家が一軒。土間に火を焚いて、何となく活気を呈して幾人かの人が住んでいる。前を通るといきなり「お早う」という声が掛った。全然予期しなかった僕は、少し慌てながらも喜んで挨拶を返した。
「美シ森ですか」
「いや、野辺山から海ノ口です」
「ああ、そうですか」
しかしこの通りすがりの短かい応答のお蔭で、僕はやっと長沢に対して心が楽になった。それは土間の中から権現岳の峭々たる峯頭をのぞむ部落最奥の一軒家で、横手には登る道なりに畑があり、物干竿には女・子供の古い単衣が掛っていた。そして此処から約二里をへだてた国界こっかいまで、僕はついに人家という物を見ることができなかった。
心も軽く、広い緩やかな坂道を行く。道ばたに子供が二人遊んでいる。五つと三つ位になる兄弟らしい。大きい方の子は古い箱か何かに小石を入れて曳擦っているが、着膨れて奴凧のような恰好をした弟は、吸盤でも附いているかと思われる小さい指先で、それこそ顕微鏡的ミクロスコピツクな微物をあさっている。僕は身をかがめて二人の汚ない手に板チョコを握らせる。序でにその頬を軽く突つくことも忘れはしない。小さい方の子の頬ぺたには、何時いつ頃のものか知れないが、涙の痕が二本こびりついていた。
馬上でゆっくり打たせて行く若い女房がある。藁繩を鐙あぶみにしている。手甲・脚絆に草鞋で手拭を姉さん冠りに冠っている。呼びとめて弘法水こうぼうすいのありかを訊くと直きこの上だと云う。そして本道を外れた左手の急な電光形の小径へ馬を乗り上げながら、
「この方が近道ですよ」
と誘い込むように云った。その声には一種人を魅する力があった。僕は一瞬間その方へ牽かれたが、ただ一人で行く心の平和、気安さを思って、やはり真直ぐ本道を取った。みめ美しい女房は高々と手綱を引いて颯爽と小径を登った。揺れる荷鞍のあたりで鎌が光る。僕は下の道を、女は上の道を。われわれはもう一度出会うだろうか。
おお、お前は上の路を行き、
俺は下の路を行く、
そして俺の方が先ヘスコットランドヘ着くだろう……
僕は「ロッホ・ローモンド」を口ずさみながら勢よく進んだ。進むにつれて一歩一歩、鳳凰・甲斐駒がせり出して来た。
八ガ岳赤岳の水が搾れて地下水となって、再び地表に湧出した弘法水で喉をうるおし、釜無の谷から這い出す鉛色の層雲に次第にかくれる鳳凰山の地蔵仏を遠望しながら、此処で初めて本道を捨てて、左へ地図にある破線の路を、僕はいよいよ雲の群がる念場ガ原へと進み入った。
僕に今度の行を思い立たせた「野辺山ノ原」という美しい文章の中、その初夏の印象を書いた条で武田博士はこう云っている。
「弘法水を経て念場ガ原にかかると、落葉松の枝端を飾るエメラルド・グリーン
の新緑や、疎開地に立つヤマツツジの赤花や、レンゲツツジの黄から紅に至るあら
ゆる色彩をはじめ、フジの紫、ズミの白花に誘われて、三人は道を離れて散りぢり
に造林地をさまよい始めた。
時鳥は樹叢から樹叢に飛びつつ、郭公は白樺の梢に留って朗かに鳴く声に耳を傾
けつつも、左に八ガ岳右に金峰、そして遠く後には雪を戴く甲斐駒の姿に、首すじ
の痛むのも忘れて仰望をほしいままにする」
ところで僕の旅では季節もすでに十月で、落葉松の枝には漸く秋のシトロン黄が流れ、山躑躅・蓮華躑躅の一属は革細工のような蒴果の口をあけ、藤は蔓ばかり、棠梨ずみは黄熟した小球果をつけ、時鳥・郭公らの夏鳥は梢に来鳴かず、ただおりおり耳底に沁み入るような菊戴きくいただきの細い囀りと、人間を警戒する四十雀の鋭い声とを聴くばかりなのも是非が無い。あまつさえ空は刻々雲量を増して、金峰・甲斐駒・鳳凰なんどは無論のこと、今ではその裾野を僕の行く肝心の八ガ岳さえ頭を見せぬ始末である。
撮影にも眺望にも望みを失った僕は、今度は山鉈をふるって真直ぐな枝を切り、捕蟲網の柄を作って、寂寞たる落葉松林の切開の道を蜆蝶しじみちょうや山黄蝶を追いながら進んだ。家に待っている子供が喜ぶだろう。その秘蔵の貯蔵箱の中には、まだ八ガ岳の蝶は無いのだ。
「心、万境に随って転ず。
転ずる処実に能く幽なり」
僕は一羽の赤蜆を三角紙へ包みながら、不図、昔読んだこんな句を思い出した。
*
道が八ガ岳山麓高原のそれも徐々に開析の進んだ大小の幅射谷の下流近くを行くのだから、小さな橋の架っている処では何時でも同じような地形、同じような場所に出逢う。
あたりが少し明るくなり、頭上の空間が大きくなる。右手の樹々が低くなり、厚い樹叢が疎らになる。蜜のような薄日が射して静寂の極の賑やかさと云ったような、しんとして、しかも絢爛寂びた空開地タレリエエル。やがて何処からともなく聴こえる水の囁き、幻聴かと疑われる微かな小鳥の声。たちまち橋。多くは木材を渡して、枝を積んで、土を盛った、道そのもののような橋。右へ直角に架ったその土橋を渡れば、また戻り加減の登りになって、再び左折して北へ北へ。おおむねは此のたぐいである。
念場ガ原の寂寞の秋を、行く先急ぐ人々にとって、これは余りに堪え難い単調さであろう。しかし空間と大地との囁きに耳をすまし、地の大いなる傾斜を喜び、瞥見の一様の中に千百の細部を認めて其処にひろがる火山高原独特の詩趣を味やいママ得るような、心にも時間にも余裕のある人人にとっては、これは最早単調の道ではなく、無限のハアモニーを展開する一つの音楽的自然ともなるであろう。僕として云えば、これらの小さい輻射谷に緯絲よこいとを渡す幾つかの土橋を、そのあたりの静穏な明るさを、忘られた幸福の巣とも云うべき水と日光との片隅を、あたかも音楽におけるリフレインのように楽しみ愛したのである。
佐久往還の本道と合して、こういう橋の幾つかを渡って、やがて国界こっかいもほど近い地点で僕は辨当を開いた。其処は珍らしく道路の西側が開けて、高原の緩かな傾斜を黄に赤に又紫に彩る低い雑木の原の向うに、赤岳・権現岳の伸し掛るような巉巖さんがんたる峯頭と、その間の深い凄じい切れ込みとを最も効果的にやや斜め横から見上げる場所だった。広い念場ガ原から八ガ岳を眺める好箇の地点は他にも沢山あるだろう。しかし僕は自分の腰を下した場所を此の往還上での尤なる物の一つとして推称したい。大門川を間にして長野県平沢部落の西方約一キロ、「八ガ岳」図幅で一二四〇メートルの等高線をもって横断されている附近、道路の西側に小さい湿地を持つあたりである。
撮影も済み、ゆっくりした中食も終り、さてルックサックを背負って巻煙草に火をつけて、三歩、四歩。いきなり何か小さな赤い物が眼の前をひらめいて過ぎた。僕は眼で追った。その物は往手数間の石の上へ落ちた。すばらしく立派な一羽のアカタテハである。僕は胸を躍らせながら手速く捕蟲網の支度をして、そのあたり石の凹凸がはげしいので、真向から網を振りかぶって押っ伏せた。翅開張六五ミリに余る雄大なアカタテハの雌であった。
それを圧殺して三角紙へ包んでいると、またもや一層ぴかぴかした蝶が火花のように飛び過ぎた。彼は岩角へとまって翅を開いた。光り輝く橙赤色の地に黒褐の斑紋をならべて、外縁に深い切れ込みを持つシータテハである。抜足差足、息を凝らして近附くと鋲靴ネイルドブーツの悲しさには、一足毎にカチリカチリと音がする。炎の蝶は飛び立つ。飛び立ってはまた程近い岩へとまる。しかしとうとう追撃の最後に、狂うがように飛ぶ奴を擦れ違いざまに掬い取った。
するとまた飛び出した。今度は何か。ああ、今年念願のクジャクチョウ! チョコレイト色の天鴛絨の地に、二対の孔雀紋を整然と置きならべた蝶界の女王ヴァネッサ・イオが、その眼紋の銀藍色も誇らかに、これ見よとばかり、薄日さす念場ガ原の岩角に翅を開く。
僕は静かにルックサックを外した。僕はしっかり口を結んで、上下の頤を噛み合せた。
僕は靴音を忍ばせ、瞼を熱くし、緊張の限りをつくして、汗に濡れる両手で捕蟲網を構えた。
ああ、何と瓢然と、蝶なる物は立つことだろう! 彼女は、こっちが未だ襲撃の網を振り下しもしない内に、もうついと其処を去るのだ。
僕は隠れ蓑でも欲しい心で後をつける。辛うじて近寄る。すると未だ身構えもしないのに、臆病な美女は忽ち立つ。
蝶はあらゆる昆蟲の中でもっとも眼のいい蟲だと云う。そのいい眼をくらまさねばならぬ。
僕が近づけば蝶は立ち、蝶が立てば僕が追う。しかもその方向たるや、佐久往還を南へ南へ、元来た道へ戻るのである。
僕は次第に、こんな際にもっとも必要な心の落着きを失って来る。僕は焦躁する。時は経つ。蝶は僕を弄ぶのだ。
とうとう堪忍袋の緒が切れて、体勢もととのわないのに網を振った。蝶は勢に呑まれたか空気の真空中に巻込まれたか、僕の眼前でくるくる廻った。僕はすかさず強く掬った。その余勢に網が柄から抜け飛んで、南無三、蝶は竜巻のように旋転しながら舞上がると見る間に、ああ、高く高く流れるように、曇り日の天涯遥か、大門川の空に消え去った。
時に正午。僕は悄然また憤然、遠く戻ってルックサックを背負い上げ、急ぎ足に歩き出したが、其の日一日ついにクジャクチョウの姿を見ず、越えて十月十七日、実にそれから九日の後に、武州河原沢川の水源志賀坂峠でとうとう一羽を捕獲して欝憤を晴らすまで、あの艶麗な姿が眼の前にちらついて離れなかった。
*
「国界」とは何時の頃から誰によって呼ばれた名だろうか。しかしその起源は古いにせよ、新らしいにせよ、人の心に広々とした人間的ユメーンな感情を起させる此の名は僕に好ましい。
国界。それは高原の落葉松からまつや白樺に属する。それは颯々とゆく風に属し、地平線に牧まきする朝夕の雲に属し、蒼空をながれる鷹に属し、其処を領する大いなる真昼と荘厳な夜天に属する。それは薄青い遠方に消える一筋の街道に、夕日に染まる孤独の旅籠屋オーベルジユに、其処を過ぎる時折の里人や行商人に属する。
そしてそれは解放された一箇の自由な精神に、悲哀にも歓喜にも最早や晴朗になった一人の漂泊者の心に属する。
道の左側に落葉松林を背にした一軒の家がある。武田博士の写真で見覚えのある家だ。道をへだてて一本の白塗の角柱が立つ。その一方の面には「甲信国境」の文字が読まれ、他の面には「農林省推賞模範放牧地」と墨書してある。
だが、高原の秋を悠々たらしめる牧畜の姿は何処にも見えない。明け放した家の中では年とった女が二人、座敷の真中にひろびろと陣取って、閑散に仕事の針を運んでいる。女の子が三人は居たろうか。正午を過ぎた柱時計の単調なカチカチ。生真面目に小首を傾けて何を見るのか、白色レグホンが五六羽。上框あがりがまちへ腰かけて一杯の茶を求める僕には、東京に近い何処かの村はずれにいるような錯覚さえ起こる。
すこしばかり大人や子供と話をしてから、前の草地へ行って足を投げ出す。折り敷くのも気の毒なようなアキノキリンソウの明るい黄と、紅葉したコフウロの葉の茜いろ。正面は此処からは見えぬ大門川の谷をへだてて、ゆったりとふところ深い飯盛山の茅戸である。その西方へ突き出た山脚の一端を、よく見ると、平沢から三軒家へ越す路がほそぼそと糸のようにからんでいる。
万一誰か通らないかと、有り得ぬことの空頼みに目を凝らしていると、急に心が何かを思い出す。そうだ。あの路を、かつて行った僕の友も幾人かあるはずだ。そのとき彼らは、幾らか下に見える対岸のこの国界を、そもそもどんな心で、どんな眼をして眺めたか。その心、その眼を、僕は知り、僕は見たい。君たちはそんな僕を笑うだろうか。しかし僕はこの世で知ったすべての人を、その心のもっとも捉え難い微妙な動きの瞬間において抱き、その魂の仄暗い片隅にまで参透して理解したいと願うのだ。死ぬべき人間が無限の時空の一点で奇しくも相識って、もしも其処にいくばくかの友情が生まれたとしたならば、ああ親しい面影よ、「知遇」とは正におんみを我が衷に生かし、我をおんみの中にさまよわすことではなかろうか。
風景が次第にうすら寒く悲しげになる。真珠色に瀰漫した高層雲の下を、ところどころ暗い乱雲が飛ぶ。晴れていれば此処から右手に見えるはずの白峯三山や甲斐駒はもとより、さっきまで茅ガ岳と重なって聳えていた富士も全く消えて、自然は失明した美女のようになる。その中でただ白樺の幹だけが黄昏のように光る。
僕は急いで小さい盞を革袋へおさめ、ブウルゴーニュの一壜をルックサックヘ押し込んだ。そしてこの牧場の女たちに挨拶をして、忘れて仕舞わないようにもう一度あたりの様子を心に留めて、さて杖を小脇にとぼとぼと歩き出した。
*
四五町行くともう一軒、家があった。これも明け放した座敷の中に若い女が三四人いて、此方を見ている。裁縫の稽古所かとも思ったが、こんな場所にそんなものの有ろうはずはなく、疑問のままで通り過ぎた。道が下りになっていよいよ大門川を渡る。その手前左手の小高いところに地図にも有るとおり、本当の国境の界標が立っていた。それは風雨に曝された古い柱で、文字の形さえ見えなかった。大門橋も朽ちかけた橋板がしらじらと反そって、踏んで渡れば鈍い荒涼の響きを立てた。
地籍はすでに長野県へ入って、寂しい坦道は谷の左岸の崖ぶちを、爪先上りに袖崎へ達する。袖崎山は岬端の海蝕崖のように往手の空をかぎっている。今にも泣き出しそうな空の下を、秋も深く一人行く心は寂しいが、郭公の鳴く五月六月、遠からず来る夏の希望を胸に満たして、あらゆる新緑のそよぎ立つこの広大な風景の中をさまようことは抑もどんなに楽しいだろう。
しかし欝々と深く食い込んだ大門の谷の両岸から、雄大な山容の半ば以下を見せる八ガ岳にいたるまで、その光景は永く僕の脳裡を去らないものの一つである。家に事無く、病皆癒え、武蔵野の地平の果てに白い夏雲の湧き立つ頃、再び此処を訪れようとは僕の切なる望みである。
その再遊を期して今日は袖崎山へは登るまい。山の裾を迂回して、目も及ばぬ野辺山ノ原を真直ぐに横切ろう。むかし人から聴いた話では、野辺山とは白樺の密林帯であった。その中に小学校があり、親切な校長がいて、道に行き暮れた友を歓待し、ほとんど一夜を楽しく炉辺で語り明かした。それは聴くからに物語のような絵であり、絵のような物語であった。またかつて八ガ岳登山の時、僕は小手をかざして真夏真昼の野辺山を見た。それは雷雨の前の金剛石いろの霞を纒った広がりで、その奥深く千曲川上流が山々の間を縦に切れ込み、哀れな村々が暗澹たる雷雲の下で紫の雷光に引き裂かれていた。そして今、現実に僕の行く野辺山ノ原は、寂寞と荒寥との限りをつくして、ただ深い轍わだちが幾里の彼方に続くばかりである。
僕はひたすら足に任せて歩くだろう。道の往手半町ばかりの先を、鶏ぐらいの鳥が五六羽、列を作って小走りに横切る。僕はそれを鶉か或いは山鳥かと、しばらくは思いまどうだろう。道の両側に電柱が立つ。そばを通る時ごうごうという音がきこえる。するとホイットマンの伝記作者、今は亡い懐かしいレオン・バザルジェットのことを僕は思い出すだろう。彼は死後に発表されたその手記の中で、田舎の街道に立つ電柱に耳を押し当てて、人間世界の潮騒しおざいの音を聴くことを書いている。僕もまた顔を柱に近寄せて、漠々たる空間に充満する人間の訴えや悲喜の声々を聴くだろう。
時々立ちどまって、後を振返り、往手を凝視しても、道の上に突出する人影一つ無い。女山・横尾山はうしろに去って、漸く男山・天狗山の魁偉な姿が現れて来ても、この道を行く者はやっぱり僕一人である。それでも何一つ無駄にはしまい。僕は野辺山ノ原をただ歩いただけでは済ますまい。僕は其処へ坐るだろう。そして秘蔵の一壜を取り出して、ほのぐらい八方の景色に目をくばりながら、切子の盞で二杯を喉へ流し込むだろう。そして仰向けに身を倒して、白樺の梢を見上げながら、興に乗じて口ずさむのはゲーテの「漂泊者の夜の歌」である。
Über allen Gipfeln
Ist Ruh’
In allen Wipfeln
Spürest Du
Kaum einen Hauch……
思い出を残して歩け。すべての場所について一つびとつの回想を持つがいい。それは他人から奪い取ること無しにお前が富む唯一の方法なのだ。冬の都会の意地悪い夜々に、それは忽ち至福の光をまとってお前に現れ、悲しい落魄の時に、優しかった母や姉らのように、お前の傍らへ来て、過ぎ去った日の数々の幸福でお前の心を暖めるだろう。
*
道が登りになって落葉松の植林の中へ入る。子供が多勢二頭の山羊を相手に遊んでいる。里に近いことが知られる。やがて右手に白樺の林が現れ、下り坂になり、道路の修繕をしている村人たちに挨拶をしながら通りすぎると、部落、橋。板橋である。
板橋はいかにも寒村らしい。橋を渡って坂を登ると、其処が部落の中心らしく、見すぼらしい旅龍屋が見え、ペンキの剥げた小学校の分教場があり、馬が嘶き、酸いような飼糧の香いがし、夕暮近い青い煙が漂い、樋沢ひさわへの路が寂しく東へ切れている。しかしこんな寒村でも、めぐって来た春に雪が消えて、すべての梢にみずみずしい光の流れる頃になれば、子供らは長い百日咳から救われ、小烏の歌は村を賑わし、貧しい人々の心も浮き立って、故郷ふるさとの美しさは、遠く国を離れて生きる人々を、望郷の思いに泣かしめるに十分であろう。
もう海ノロも近い。野辺山ノ原は刻々にたそがれる。それは刻々に終りに近づく。しかし硫黄岳の向うには不思議に優しい天の明るみがあって、その黄ばんだ穏やかな光が高原をすれすれに流れ、東の方秩父の暗さと劇的な対照をなしている。
道の片側で水の響きがきこえはじめる。地図にもあるように堀を流れる水である。フランス語にクラポティという言葉がある。汀や船ばたでピチャピチッいう水音の謂である。僕は黄昏の光の消えんとして消えがての高原で、この可愛いクラポティの音を聴くことをよろこんだ。
自転車に乗った商人らしい男が二人後から走って来た。僕は呼びとめて海ノ口ヘの近道の分岐点を訊いた。それはもう二三町先だった。彼らはまた走り去った。僕は今宵の泊りに近いことに安心し、西方の空の最後の光を楽しんで、草の上へ腰をおろした。そしてゆっくり一本の煙草を吸った。
ところで驚いたことには、海ノロヘの分岐点の処で、さっきの自転車の商人が二人とも、僕が道を間違えないように待っていて呉れた。無論その人たちは待つ序でに一服吸いもすれば、車輪をつらねて走っている時よりももっと楽に休みながら話もしていたであろう。しかし少しでも早く宿を求める旅人の心を知っている彼らは、僕に損をさせまいとする気持から、こうして自転車をとめて待合せていて呉れたのである。僕は心から礼を述べた。すると彼らの一人が云った。
「いいえ、丁度いいから休んでいたんですよ」そして「海ノ口はもう直ぐです」と云いながらひらりひらりと自転車に跨ると、分岐路を右へ走り去った。僕は見も知らぬ人々の親切を深く心に感じながら、分岐路を左へ入った。
やがて右手に広場が現れ、今までとは違って立派な農家が見える。これが馬市の立つところかも知れないと思う。海ノ口を下に見る坂道へ掛ると、横合から一頭ずつ野菜を積んだ馬を曳いて、その農家のお婆さんと嫁らしいのが出て来てぱったりと僕と出会う。僕は鹿ノ湯のことを訊く。鹿ノ湯は今は休んでいるから、やはり宿屋に泊ったほうがいいとお婆さんが云う。そして分りよく宿屋の在処を教えて呉れる。序でに、馬の歩く路はでこぼこだし遠くもあるから、少しは急だがこっちの路を行く方がいいと注意して呉れる。
なんと人々が親切なのだろう。彼らは、そうしようと無理に努力もしないで、事も無げに楽々と親切をする。われわれは果たして常にそうだろうか。われわれ都会人は、その時々の気持によって、親切の出し惜みをしないだろうか。もう一言の注意を附け足すことによって他人を利益することのできる場合に、気持の不思議な陰影から、或いは僅かな自尊心や不精から、それをしないことが屢ゞ有りはしないだろうか。
僕はそんなことを考えながら羊腸たる坂道を下った。頭へ冠った手拭をはずして着物をはたいたり、立ち話をしたりしている百姓の娘たち、鶏舎へ追いこまれる鶏どもの叫び、それぞれの家へ帰って行く子供の群、屋根、屋根、電燈、電燈、夕暮の靄、水の響き……
海ノ口である。
僕は坂の四ツ角にある一軒の旅籠屋の玄関へどさりと重いルックサックを下ろした。
(昭和七年作)
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