むかしの仲間も遠く去れば
また日ごろ顔あはさねば
知らぬ昔と 知らぬ昔と変りなき
はかなさよ
春になれば草の雨
三月さくら
四月すかんぽの花のくれなゐ
また五月には杜若かきつばた
花とりどり 人ちりぢりの眺め
宿の外の入日雲
それこそ今は昔、銀座金春新道こんぱるじんみちの或る小さいバーでの夜の席で、「何でもいいから一つ」と求められて私がこれを歌ったら、北原白秋が眼をみはり、感激家の大木惇夫がぽろぽろと涙をこぼした。作詩は木下杢太郎、作曲はたしか山田耕筰。四十年も前の事の面映ゆい告白ではあるが、また懐かしい思い出でもある。今は亡い北原さんもまだ丈夫だったし、大木惇夫も私も共に若かった。
いったい、仲間とはどういうものを指すのだろうか。同じ主義主張に結ばれて集まった同士の事を言うのだろうか。学生時代からの親しい友人で、今でも時々一緒になる連中の事を言うのだろうか。それとも特別気の合った同業者の事か。或いは音楽とか、山とか、スキーとか、ゴルフとか、とにかく趣味を同じくしてつき合っている人々の事を言うのだろうか。どうも意味の範囲が広すぎるので、一応は分かっているようでその実よく分からないのが、この含蓄豊かな、古いくせに活きのいい日常語である。
気の合った他人と事を共にする雰囲気を愛しながら、又一方では独りだけの生活を愛した私には、だから昔から「仲間づきあい」と言うに足るようなものが殆ど無かった。たとえば或る事への同好の士があって、その人を相手なら心置きなく振舞ったり、かなり深い打明け話さえ出米るような場合には、それは仲間と言うよりも自分の「心の友」だった。知人や知友ならば今でもたくさん持っている。これにもいろいろ段階はあるが、心の友となると今ではもうそんなに多くはいない。寂しい事ではあるが、歳と共に知人が増すのに反比例して心の友は次第に減る。しかしそういう老年の寂しさは、事によったら私自身の平生の心がけにもその原因の一半があるのかも知れない。「窗の外の入日雲」への感慨や哀愁は、そうした私にあってしばしば特に深刻なように思われる。だが今はこんなじめじめした告白をするよりも、もっとさっぱりとさばさばと「仲間」へ帰ろう。
昔の仲間。そうだ、私が仲間と言う事のできる連中は、みんな私の初心時代に親しくしてくれた人達ばかりだ。同人雑誌『大街道』や『東方』時代の高村光太郎、高田博厚、片山敏彦などに至っては、そんな呼び方さえ憚られる。彼らの思い出は現在の私にとっていよいよ美しく貴いものになっているから。更に詩だけの世界では千家元麿、宮崎丈二、井上康文、勝承よし夫、田中冬二、中野秀人。それぞれに所属や傾向は異にしても、その一人一人に通じる何かしらを持っていた私は、ほかの詩人達との交際や会合よりも彼らとのそれを喜んだ。
しかし仲間という言葉が一番ぴったり当て嵌まるのはやはり山の世界である。もっとも武田久吉博士や木暮理太郎先生をそう呼ぶのはどうかと思うが、とにかくその御両人が顧問をしておられた「霧ノ旅会」の会員達、すなわち松井幹雄、河田棹、神谷恭、安田登茂次その他の先輩諸君がそれだったし、又別に荒井道太郎、川崎精雄、瀬名貞利、青山慶二のような「白菅しらすげ会」の連中が一層親身な仲だった。ひとり田部重治さんだけは山仲間と言うよりも、私にとっては寧ろ山の文学の先覚者だった。そしてその意味では、荒井道太郎君のモルゲンターレルの『山!』とエーリッヒ・マイエルの『山をめぐる行為と夢想』との二つのすぐれた翻訳の仕事も忘れる事はできない。その『行為と夢想』の裏扉には、「昭和十三年六月十四日、日本橋東橋庵にて訳者荒井君に感謝する白菅のつどひ」と書いた後に、荒井道太郎、内田豊太郎、川崎精雄、青山慶二、ささきたかし、田村栄、山本しづ、坂本庄三郎、芝幸子、高田不二、瀬名貞利、尾崎喜八の署名が残っている。たしか会員全部が集まった筈だから、総員十二人ぐらいの山仲間だったに相違ない。この中で感謝された本人と感謝した高田不二さんとは、ああ、既にして早く故人になっている……
武田博士や木暮先生や河田禎君は、私にとっては仲間と言うよりも寧ろ「山の師」とか大先輩とか呼ぶべき人々だったろう。真に山から学んだり山を愛する事を身をもって教えてくれたのは実にこの三人だった。そしてこの三人のそれぞれの人柄に魅せられながら、その人達に仲間扱いされている事が当時の私には誇りだった。或る時は六郷川の鉄橋の近くの土手で毎日南アルプスの遠望を写生している木暮先生の事を詩に書いたこともあるし、又武田博士と河田君とに伴われて忍野おしののバラモミの原生林を見物したり、河口湖から御坂山塊を歩いて甲府盆地の石和いわさへ出た事もあった。大石峠を越えて中芦川の旅人宿に泊まり、翌朝早く黒坂峠の頂上から残雪に輝く白峯しらね三山を撮影したのもその時だった。武田先生の肝入りで買ったツァイスの大手札用の写真機イデアールが初めて三脚に載って、折からのマンサクの花を前に、その最初のシャッターの音を立てた時の自分の胸のときめきを私は今でも覚えている。河田君の著書『一日二日山の旅』や『静かなる山の旅』も、初心の私を刺激し鼓舞するものだった。
山の仲間では霧ガ峯に最初のヒュッテを建てた長尾宏也君の事も忘れてはならない。そのヒュッテ建設を思いついたよりも数年前、或る正月に年賀に来た序でにそのまま私を武州の御岳と大岳へ誘い出したのも彼ならば、まだ高山というものを知らない私を引っ張り出して、いきなり八ガ岳へ登らせたのも彼だった。かてて加えてエミール・ジャヴェルの『一登山家の思い出』を翻訳する事を、私にすすめたのもまた実に彼だったのである。このごろさっぱり消息がわからないが、どうか幸福であるように祈らずにはいられない。
霧ガ峯と言えば、現在のヒュッテ・ジャヴェルの主人高橋達郎も戦後の富士見在住時代の仲間の一人だ。それに雑誌『民芸手帳』の編集責任者である白崎俊次。これも高橋君の名と共に必ず出て来る思い出の一員である。私達はよく一緒に入笠その他の山へ登ったり、釜無の谷へ入り込んだりした。その上三人とも一時へたな俳句に凝っていたので連句なども時々こころみた。たとえば
峠越す夢遠々し七日月 立路
吉野の雨に枚方ひらかたの里 春茨
見出でたり花間に白き測候所 行人
立路は高橋、春茨は白崎、そして行人は私で、「畑打ちの巻」と題した一巻の一部である。つまり彼らと私とに俳句仲間の一時期もあったという事になる。
私を囲んで年に一度は必ず集まる穂屋野ほやの会というのがある。これは元来山仲間の会ではないのだが、この中には朝比奈菊雄、山口耀久というような錚々たる現役の登山家も加わっている。総勢十人ほどの連中だが、私達夫婦の者が信州富士見に疎開していたちょうどその頃、その地の高原療養所に入院中の患者の中の気の合った幾人かが始終遊びに来て親しくしていたのが縁になって、もうみんな恢復してそれぞれ各方面で活躍している今日でも尚、昔を忘れずに会ったり集まったりしているのである。そして穂屋野というのは芭蕉の句にも出て来るように富士見一帯の古い呼び名だから、何となく雅致のあるそれを採って会の名にしたのだった。
本誌『アルプ』に縁の深い朝比奈君や山口君の活動については言うまでもないが、穂屋野会にはまだそのほかにも今では薬学専門の博士や、大学教授や、会社の社長などになっている連中がいて、私はただ彼らよりずっと年上の一介の詩人に過ぎない。しかもそんな私を大事に思って、いつまでも古い誼を捨てずにいてくれるのがありがたい。一年に一度私の家に集まってのささやかな祝宴に、いろいろと懐かしい昔話や、腹をかかえて笑いこけるような誰彼の逸話の続出する光景には、兄弟が久しぶりで一堂に会した時のような楽しさがある。それに私の妻がまたひどく記憶がよくて、いつ誰がどんな事をしたとか、言ったとか、病院へ伺うと誰さんの病室はいつもきちんと片づいているのに、誰さんのは余り手入れがよくなかったとか言い出すので、それがまた賑やかな一座に興を添える。そしてみんなの言葉もだんだんとぞんざいになって来る。思えば早くも二十年。当時まだ独身だった連中が、今ではもう立派な夫であり、妻であり、親であるのだから、昔の思い出ばかりか現在の家庭生活にまで、それからそれへと話の枝に花の咲くのも無理はない。そしてこうなるともう何かの仲間以上である。生涯の心の友である。
こういう心の友、山ばかりかいろいろな部門での友に私の串田孫一君がいる。串田君は文学の仲間であり、動植物愛好の仲間であり、星や雲の観察の仲間であり、音楽好きの仲間である。つまり私の好きな事は彼もまた好きなのである。しかしそういう串田君に対して決して仲間を自称する事のできない部門が二つある。一つは私に画を描く才能の全く無い事、もう一つは、小さな工作器械を使ってこつこつと物を作ったり修繕したりする能力の全然欠けている事である。『仲間』という題のもとに果たしてどんな事を彼が書くかそれが楽しみだが、案外ハープの事などよりも、画や工作の道具の事が潑溂と、或いは悠然と、無能な私を尻目にかけて出現するかも知れない。
|