山は離れど


   ※ルビは「語の小さな文字」で、傍点は「アンダーライン」で表現しています(満嶋)。

 散文 山は離さかれど                                   

山は離れど

おおるり・こるり

小梨の花咲く上高地

秋の山にて

憧れのオーヴェルニュ

ヤドカリ

昔の仲間

夏の花

『緑の斜面』に寄せて

きれぎれの思い出

写真機と奥武蔵

三ツ葉ツツジ

自然・音楽・祈り

中世の秋とルネサンスの春

わが生の伴侶—歌

その時々のバッハ

バッハのオルガン音楽

バッハ音楽への感謝

私とベートーヴェン

クープランとラモー

私のベルリオーズ

カロッサ

ヘッセ

ジャム

思い出

私の語学独学自習

野のキリスト者

朝の山と夕べの渚

                                     

 

 山は離れど

 いざという時の精神の張りは昔に変わらず、仕事にむかえば今でも心はそれに集中して、時の経過にも気のつかないような事がたびたびあるが、それにしても歳と共に衰えてゆく体力はどうする事もできない。そこでその僅かに保たれている肉体の力を日ごろの節制と事に応じての配分とでうまく使って、どうやら余り過不足のない仕事の生活を持続しているというのが現状である。
 老人は早起きだと言われているが、私の場合はそうでもなく、朝は七時半から八時のあいだに起きる。そしておかしな話だが、妻のと自分の寝具をきちんと畳んで戸棚へおさめる。これはちょっとした労働である。別に勤めのある身ではないからもっと寝坊をしてもいいようなものの、永年の習慣でそれはできない。ふだんならば午前十時には必ず机にむかっている。そして昼飯をずっと遅らせて、普通午後三時か三時半ごろまで仕事を続ける。仕事と言っても大したものではなく、それも僅か五時間ぐらいではあるが、その間ほかの事には決して気を散らさない。もしも不時の来客があればそれはそれとして諦めて、失った時間の穴埋めは客の帰ったあとでする。しかし夜は決して仕事をしない。これも永年の習慣で、私は昼間の光の中でないと働くことができないのである。その代わり晩飯から寝るまでの間は自分で選んだレコードを聴くか、本を読むか、ラジオの科学番組や通信講座などで半分はくつろぎ、半分は勉強する。従って床へ入るのはたいてい十二時になる。 
「坐ってばかりいると足が萎えて駄目になりますよ」と医者や妻から注意されるので、天気が佳ければ朝か夕方はつとめて近所を少しばかり歩く。そんな事は何も今更言われるまでもなく、以前はむしろ歩き過ぎるほど歩いていた私だが、東京の玉川から北鎌倉のこの谷戸やとへ移って足掛け三年、あたりが山坂の多い地形のせいか、前よりも心臓が弱ったせいか、ついつい出るのが億劫おつくうになって、近くの崖や谷間に咲きはじめた花を見に行くとか、裏手の山の高みへ晴れやかな海の景色を眺めに行くとか、よほど気が向き心が引かれた時のほかはなるべく胡麻化すようにしている。そのくせ自分で望んだ買物や、待っていた音楽会行きなどで東京へ出かけるとなると、もうすっかりその気になり、心身共に終始しゃんとして目的を果たして来るから不思議である。けだし「その気になれば」そして他人よりも少し余計に時間をかければ、鎌倉の町をめぐる山を端から端まで歩く事ぐらい今でも尚できるはずだから、医者や妻の忠告を必ずしも正直に実行しないのは、要するにこの二、三年の間に慣わしとなってしまった出不精でぶしょうのせいである。これは、しかし、確かに匡正の必要があるだろう。致命的な病やまいに襲われないかぎり。
 他人の書いている山の文章を読んだり、美しい山の写真を見たりしていると、「自分にだって山はあった。そして今日こんにちでもなお歩きようによれば、今この人達の経験していないもの、味わい得ないでいるもの、つまり私自身の山の詩を持って帰ることも敢えて不可能ではないだろう」という気がよくする。言葉をかえて言えば、たとえ自分の行く其処が山とも言えないような低山でありその山裾であっても、この歳になるまでの心の富、知識の貯えをもってすれば、或いは昔のよりも濃厚で緻密な美を、または一見単純でありながら実は多種多様な展開性を内蔵した主題を得ることができるかも知れないと思うのである。しかしそれも考えてみれば結局はそういう気がするだけの話で、もしもその時、体と同様に心も硬直したり乾燥したりしていたら、案外手をむなしくして帰って来る事になるのかも知れない。そしてそんな可能性も決して無いとは言えないのである。
 時たま「行ってみたいな」と思う山は今でもなお幾つかある。これは昔好きで読んだ本を年経てからまた懐かしく読み返すのと同じ気持で、言わば安心して読むことができ、しかも、その後の自分の内面的進歩の程を測ってみるよすがともなるのに似ている。二十代の昔には『ファウスト』をこう読んだ。それから三十代、四十代、五十代とほぼ十年置きに読んで来て、その都度新しい発見をしたり教えられるところも多かった自分が、さて今や七十代の半ばを過ぎて、同じこの本から果たして今日こんにちなお何を学び、どんな新奇な感動を呼び起こされるかを知るのは老境にのみ許された新しい期待である。かつて経験した山への想いもいくらかはこれに類するだろう。しかし残念な事には、特に今の日本では、不易不動の古典と違って目ざす山そのものの雰囲気ばかりか、姿や性格すらもどしどし変わる。むかし重たいルックサックを背に黙々と登った長い寂しい山道を、今は車が爆音上げて無造作に押し上がる。むかし漸く辿りついて汗をぬぐい風に吹かれ、さておもむろに威厳に満ちた高処のひろがりの美と静寂とを一人静かに満喫した山頂が、今では多くは華美で軽佻な登山者や観光客でいっぱいの乱雑きわまる舞台である。そこにはもはや曾ての単独登行者の瞑想もなければ詩もなく、有るのは破壊されてゆき亡びてゆく自然美への深い哀惜と烈しい憤りの思いだけである。あの『ファウスト』の第二部では望楼守の老人が
  「物見るために生れて来て、
  物見をせよと言いつけられ、
  塔にこの身を委ゆだねていれば、
  なんと世界は面白いことだ」
と独白しているが、そうした悟りの境地はまだ私には遠いのだろうか。
 そんな事を思いながら昨夜は久しぶりにベルリオーズの交響曲『イタリアのハロルド』を聴いた。交響曲とは言ってもむしろヴィオラと管弦楽との協奏曲だが、そのヴィオラがイタリアの山中を放浪する高貴で孤独でメランコリックな騎士ハロルドとして活躍している音楽である。全体が四楽章から成っているが、私の最も好きなのは第一楽章の「山の中のハロルド」で、先ずト短調の憂欝なアダージョ、やがてハープの伴奏を随えた独奏ヴィオラで静かに現われるハロルドの主題が男らしい哀愁を漂わせる。するとその気品の高い主題をうけついで、管弦楽が寂しく広々とした美しい山の自然を描き出す。と、音楽はいつかト長調のアレグロに転じて、自然の中での幸福と歓喜とを奏ではじめる。ヴィオラのハロルドもそれに引き入れられて次第に輝きと力を増し、ついに管弦楽との輪唱カノンで農民たちとの歓喜の歌に加わるという経過である。つづく第二楽章の敬虔で余韻の深い「夕べの祈りを歌う巡礼の行進」も、快適で田園風な第三楽章「アブルッチの山人がその愛人に寄せるセレナーデ」もそれぞれにいいが、何と言っても私には前記の第一楽章がいちばん性に合っているとみえて、自分が理想としているような山地が恋しくなると、誰の作品よりも先ずこのベルリオーズの『イタリアのハロルド』が聴きたくなる。そしてこれを聴いたあとは心が洗われたように晴ればれとして、日常世俗の不愉快な事もしばらくはさっぱりと忘れてしまうのである。
 もう二十年も昔になるが、若かった頃の幾多の登山を懐かしんで、未練がましくも、また老成がましくも、「老おいの山歌やまうた」などという文章を書いた事があった。しかし考えてみればその後もなお幾つかの山は登っているのだから、五十代のくせに早まってあんな物を書いた自分をひそかに後悔したものである。「信州の高原に住んで富士・八ガ岳を眼前にし、碧い大気の果てに北アルプスの雪の波濤を眺めながら、こんな事を書いていると山が私を呼んでいるようだ。『それほどにも信頼し、それほどにも愛しているなら、なぜもう一度たずねては来ないか』と。恐らくは今僅かに残っている体力を挙げつくせば、私といえどもこれを最後と、彼らの山頂に立つことができるかも知れない。しかしよしんばそれがもう許されないとしても、なおかつ私のあらん限り、私のうちに、彼らは心の星として老境の夕べ夕べを照らすであろう」などと。そして私のこの気持に、温かい同感の言葉を寄せてくれた人々もけっして少なくはなかったのである。
 さて今こそ本当に「老の山歌」にはなったが、それでも時には何処か人の行かない静かな低い山なり高原なりを探して行ってみたいと思う。そして昔のようにがつがつと何でも見よう知ろうと欲ばらず、気負わず、風景や自然とのおのずからな遭遇に満足して、事も無げに黙々と帰って来たい。時あればよみがえる豊かな思い出が心にあり、空を行く雲、そよ吹く風、小鳥の歌や草木の姿が七十年の古いなじみである以上、私にもまだ山というふるさとは必ずどこかに有るはずである。
 若い「イタリアのハロルド」よ、私はけっして君の歌を羨むまい。なぜならば生あるかぎり、私にもまた此の世のさすらいの詩はあるのだから。

 

 

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 おおるり・こるり

 今年の六月の初めには、また上高地へ行く事になるらしい。毎年の例で、年に一度のウェストン祭に招かれるからである。今年行けば続けて二十回目、思えばよくも出掛けたものである。
 それだけに上高地は私にとって一番古いなじみの土地だ。穂高連峯や霞沢や焼岳に囲まれたあの比類も稀な溪谷美は元より、暗く深い原生林も、梓川の水の流れも、それを縁取る明るい林や静かな路傍の草花も、朝昼夕にめいめい歌を聴かせる小鳥達も、すべてが再会の度を重ねるに従っていよいよ親しいものとなっている。
 そんな事を考えながら今鎌倉の家の春の書斎で、近くの山から響いて来るウグイスやシジュウカラの声を聴いていると、同じように鳥は鳥でも、上高地でこそ一層なじみの深い別の彼らの事が思い出される。
 ヒガラ、ゴジュウカラ、ミソサザイ、ウソ。メボソ、エゾムシクイ、ルリビタキ、コマドリ。それに河童橋挟の宿にいてさえ一日じゅう身近にその歌の聴かれるオオルリとコルリ。しかしこれら愛する連中の事をすべて書いていたら切りがあるまい。そこで今はルリと名のつく彼ら大小の瑠璃いろの鳥についてだけ触れて置く事にする。但しオオルリと言いコルリとは言っても、前者は鶲ヒタキ科、後者は鶫ツグミ科に属していて互いに別種の鳥である。
 六月初めの朝七時、ヴェランダに立っていると、橋の挟の一本の岳樺の梢でいつものオオルリが鳴いている。「ピ・ピ・ピ、ピイ、ピイ・ピイ・ギチギチ……」声も良いが朝日を浴びた全身の色もじつに美しい。頭は爽やかな空の青、背中から尾にかけては鮮やかな瑠璃色、喉から胸まで真黒でその他は純白。彼はたいがい溪流に近い崖地の森林に棲んでいるから、そういう場所で先ず声を聴きつけて、それを頼りに目で探せば必ずと言っていいくらいその美しい姿を見つける事ができる。自分の領分を宣言しているのか、茶色をした雌に呼びかけているのか、彼の雄々しい高い叫びは谷間に響いて勇ましい。しかしこの鳥は案外低い処でも営巣するらしく、私は上高地への途中、島々の近くでも毎年彼を見たり聴いたりしている。そして「ああ、とうとう又あこがれの山へ入って来たのだな」という感慨に打たれるのである。
 コルリも上高地では宿の裏手の山の崖地に棲んでいるが、数の多い割には姿はなかなか見つからない。オオルリよりは遥かに小形で頭は空色、背中から尾にかけては暗いような濃い青、そして嘴から下は胸も腹もすべて真白で、その美しいこと決してオオルリに劣らない。そして鳴き声に至っては時にコマドリと間違えられるような美声で、始めにまず「ツン・ツン・ツン・ツン」と低く小さい前奏を聴かせ、続いていきなり「チララララア……」と迸ほとばしるように嘲り出す。その声が余り高らかに輝かしいので、彼が好んで棲んでいる昼なお暗い密林が、突然すばらしい照明を浴びたようになる。
 山というものがだんだん浅くなってゆくこんにち、たまたま密林に響くこのコルリやコマドリなどの声を聴くと、人はいくらか助かったような気がしてみずから慰める事だろう。そして私もその一人だ。

 

  

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 小梨の花咲く上高地

 六月の七日と八日、今年もまた上高地でのウェストン祭へ行って来た。日本山岳会信濃支部の年一回の行事として二十三回目に当たるのだから、その内三度欠席した私としては、今度でちょうど二十度顔を出した事になる。思えば行事そのものと言い私と言い、互いによくも続いたものである。
 戦後八ガ岳裾野の富士見に住んでいた頃は富士見から、東京へ帰って来てから十四年間は東京から、そして北鎌倉へ移って以後この三年の間に、病気入院のために割愛した一回だけを除けば、年々齢を重ねながらの出席。一人の山岳会員としてはかなりの精勤と言う事ができるかも知れない。
 二十年と言えば二た昔である。初めてあの梓川べりのウェストソの碑前で知り合った頃はまだうら若い男女だった人達から、何年ぶり或いは十何年ぶりの再会に懐かしそうに名乗り出られて見ると、今ではみんなもうそれぞれ立派な紳士であり淑女である。そしてそういう連中やもっと年長の人達から「いつもご壮健で」と挨拶されたり祝福されたりすると、今更のように自分の歳を考えると同時に、さすが若い時を山で鍛え、今なお山への愛を捨てないでいるその人達の風貌や風格に、一般世間の人間のそれとは又おのずから違ったものを見出して、頼もしさ親しさを感じるのである。そしてこういう予期しない再会の喜びが都会ならぬ上高地のあの美しい谷間で待伏せしていればこそ、仕事に追われている中でも何とか都合をつけて出掛ける気にもなるのだろう。今年もまたそうだった。私は無数の若い未知の顔の中から幾つかの旧知のそれを見つけ出し、互いに手を取り肩を抱いて昔を語り、今の生活を知らせ合うのだった。

 ウェストン祭へ出掛ける数日前、東京の或る新聞から頼まれて『山が待っている』という詩を書いた。「命あって今年もまた、あの上高地へ私は行く」というのがその書き出しだった。すると即座にすらすらとあとが続いた。短くて平凡な作ではあるが十五行か十六行という制限された行数の中に、あの清らかで雄大な谷間の六月の美しさをできるだけ具象的に、且つ歌うがように書き込んだつもりである。高山に囲まれた溪間盆地の大観と樹木や小鳥や花のこと、そこで逢うべき旧知や未知の人々への予想。そういうのがこの詩の素材だった。そしてこれはまた私が今後再び書き出したいと思っている一連の山や高原の詩への誘いの水でもあれば序曲でもあった。
 六月七日、ほんとうに山は待っていた。期待のとおりそそり立つ穂高連峯、霞沢、焼岳、梓川の清流とリズミカルなその調べ、賑やかな小鳥の歌と清楚に咲いている路傍の花。ところがその穂高の連峯だけは、季節も初夏の六月だというのに、ウェストン祭当日の八日の夜明けに宿の窓際へ立って眺めると、昨夜降ったという雪のために全山一点の黒も見せずに真白に化粧していた。青々と晴れ渡った空を背景に朝日が惜しげもなく射しているのだから、奥穂高を中心に前穂も西穂も、岩峯と言わず沢と言わず、銀白色と言うよりも寧ろ金色こんじきに匂うプラチナだった。その壮観の一番よく見える河童橋にカメラを持った人々の続々と集まって来たのは無論の事、宿屋の主人や古老たちでさえ「六月にこんな雪を見るのは生れて初めてだ」と言って驚嘆と誇りの眼を輝かせていた。それは如何にももっともだった。なぜかと言えば、此処までは雪の落ちて来なかった盆地の景色はまさしく新緑六月のそれで、小梨平は勿論のこと、到るところ小梨の花やウワミズザクラの満開だったから。
 例年ならば午前の碑前祭で読む詩を朝のうち大急ぎで新作するところだが、今年は前もって書いて来たから、少しばかり筆を入れると安心して朝飯前に外へ出る事ができた。小梨平から梓川の谷の左岸を明神ノ池まで行き、そこから右岸へ移って静かな路を河童橋まで一周して来る早朝の散歩である。朝が早い上にほとんどの人が雪の穂高の撮影やら見物やらのために河童橋付近に集まっているので、途中出逢う人影もきわめて稀だった。
 明神への路をたどると忽ち小鳥達の朝の歌だった。まずウグイスをきっかけにオオルリ、コルリ、キビタキ、クロツグミ、ゴジュウカラなどの合唱に包まれた。六百沢の落ち口のところには予期したとおりシャクナゲ、ニリンソウ、イワカガミ、サンカヨウ、エンレイソウなどがみずみずしく咲き、暗いその沢の奥の方から雄々しいコマドリの声が響き、その下の梓川の岸の岩ではあのいつもながらのミソサザイをゆっくり見たり聴いたりした。ウグイスだけを別にすれば小鳥と言い花と言い、私の住んでいる北鎌倉などでは到底聴く事も見る事もできない連中である。明神ノ池の手前のどフカバやダケカンバの疎林には、これまた予期したとおりメボソがたくさん棲んでいて、彼らの「チュリッ・チュリッ・チュリッ・チュリッ」と四音ずつ刻んで歌う合唱が賑やかだった。それにまじって一際ひときわ高く明るいアカハラの「キョロン・キョロン」とアカゲラの「キョッ、キョッ、キョッ」そしてこのあたりの樹下はマイヅルソウ、ミヤマタンポポ、コミヤマカタバミ、テングクワガタ、エソムラサキなどの群生地でもあった。
 池の落ち口から梓川を右岸へ渡った。これからは明神岳の南の裾を河童橋まで戻るのだが、修復された林道が清潔でひっそりとして、早朝を一人行く気分は一層よかった。対岸を見ると霞沢岳も六百山も、山頂はさすがに雪で飾られていた。私はとある岩に腰をかけて今日の最初の煙草を一本吸った。それにはライターを忘れて来たので宿屋のマッチを使った。そしていつであったか余程以前に或る山友達から教わったとおり、火をつけ終ったマッチの黒く焦げた頭のところを人さし指と親指とでしっかりとつまんで二つに折り、確かに火の気の無くなったのを見届けた上で草の中へ捨てた。巻煙草の吸い殻を靴で踏みにじって消すのは勿論の事だが、マッチの処分はいかにも理屈に叶っているのでその後も機会ある毎に他人にも伝授して来たのである。その友人の話だと、たしかこれはスイスの山中での当然な心得であり作法だという事だった。
 それはともかく、この路もまた花と小鳥の世界だった。中でも私を喜ばせたのはツバメオモトやニリンソウの真白な大群落と、その間に点々と輝くオオバキスミレやキバナノコマノツメの鮮やかな黄の花だった。私は今度の旅にカラーフィルムを持って来なかった事を幾たびか悔んでいたが、その後悔は今朝の穂高の壮観と、この花たちの美観とを前にして絶頂に達した。また小鳥では今まで聴かなかったエゾムシクイの透明な「ヒッツーキー」の声と、ワサビ沢のあたりで最も多く聴いたルリビタキの美声に喜ばされた。このルリビタキについては遠い日の思い出がある。まだ回も若い頃の或る年のウェストン祭が午後になってあいにく梅雨時の大夕立に見舞われ、こんにち白樺荘の建っているあたりの丸西とかいった食堂で講演会が行われた時、ちょうど藤木九三さんが話をしている間じゅう、室内でのその講演と戸外の烈しい雨声との中で裏の林から絶え間もなくこの鳥が鳴きつづけていた。私の思うにルリビタキは今でもこのあたりに最も多いようである。
 二十三回を迎えるウェストン祭の式は例年どおりきっちり午前十時から始まった。まだ一刷毛の雲も見せない上天気。宿を出て河童橋を渡り、梓川伝いの花や若葉で明るい道を白樺荘、五千尺ロッジ、西糸屋、村営ホテルなどの前を通って会場である碑前の広場へ着くと、其処はもう参列の人達でいっぱいだった。若い男女が断然多く、年配の連中や老人がこれにまじり、しかもその殆どが登山姿だった。そして日本アルプス最初の紹介者ウォルター・ウェストン師の浮彫りの碑を半円形に囲んで、総勢およそ三百人がしんと静まり返っていた。
 司会者の開会宣言が終ると直ぐに、これも例のとおりエーデルヴァイスの若い女性群による山の讃歌の晴れやかな合唱。それを皮切りに東京から参加した現在の日本山岳会々長三田幸夫氏、信濃支部長塚本茂樹氏、及び松本市長、安曇村長ら諸氏の形式にとらわれない熱のこもった祝辞の数々。その間に安曇小学校の幼い女生徒による碑への献花が愛らしく、しかし厳粛に行われ、続いてこれもまた東京から参列の元日本山岳会々長日高信六郎氏と同会理事加藤泰安氏ら諸君による軽妙で滋味溢れる野外講演。そして最後に私自身の山の詩の朗読。この間およそ一時間半を要したが立ち去る人は一人も無く、再び起こる女性合唱団の別れの歌と共につつがなく会は終った。しかも忘れ難い事には、その間じゅうあたかもこの祭を祝うかのように、碑のすぐ上の山で一羽ずつのクロツグミとキビタキとが綺麗な声で鳴き通していた。
 上高地に小梨の花の盛りの頃には必ずウェストン祭が催され、山に対する共通の愛で人と人とがそれを機会に結び合う。どうかこの事がいついつまでも続くように!

 

 

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 秋の山にて

 もみじした林を背に、遥かかなたにもっと高い峯々の波濤を見わたす緩やかな山の斜面。かつてこの足で踏んだその峯々の一つ一つを、遠い日の友情か愛の対象のように懐かしみながら、こうした平静な気持と柔かなまなざしとで眺めている今の自分を仮に一箇の他人として考えると、然しやはりここに一人の幸福な男の存在を思わずにはいられない。
 もちろん友情にせよ恋愛にせよ、常に必ずしも優しい心のときめきや喜びだけをもたらしたわけではなく、そこには徒労や失望や苦痛の経験さえむしろ当然なものとして付き纒っていた。しかし時の経過、歳月の流れは、そういう付属物を柔かにぬぐい消して、ひとえに美化された過去としてわれわれに返してくれるのである。あたかも厚く充満している大気の層がその距離の魔術で、今私の眼前におだやかな遠景の美を展開しているように。もしもわれわれに徐ろな忘却という作用が働かず、すべての過去が真空をとおしてのように堅く、きびしく、鮮明だったら、永く生きることは却って重荷のいや増す苦痛ではないだろうか。或る山で危うく命を失いかけた経験が、いつか一つの語り草として往々美化さえされるのは、実にこの時間的距離の魔術によるもののように思われる。
 こんな事を一人ぼんやりと考えている私に、うしろの広葉樹の林から時どき小鳥の声が聴こえて来る。晩春や初夏のそれほど賑やかでもなくエネルギッシュに響きもしないが、八月の停鳴季を一応終って再び採り上げられた彼らの歌は、いかにも秋のそれらしく落ちついて、澄んで、清らかである。数も減ったがそれだけ種属の個性がはっきりと浮き出して、さながら一羽一羽が選ばれたもののように聴きなされる。盛んな交響曲や合奏協奏曲のあとの静かで感銘深い独奏曲。一緒になって和声の妙を楽しんだり競ったりしていると言うよりも、今は各自が一人一人おのれの芸に陶酔しているのである。そしてそれに耳を傾けるわれわれの心境も、また当然春や夏のそれとは違っている。
 秋の山を歩く楽しみの一つに、家へのみやげとして持って帰るクリやトチの実のような乾燥した堅い果実や、いろいろな種類の食用キノコの採集がある。元よりそれが商売でも仕事でもないのだから、採るとは言っても至ってささやかな収穫には違いないが、それだけに採集した場所や環境の思い出にはそれぞれ鮮明なものがある。そして永持ちのする穫物の場合だと、このクリはどこそこの山の林の中で見つけたもの、このトチの実は何という谷の小径で拾ったものというように、もしも小さい皿にでも入れて並べて置けば、ほかの蒐集品にむかった場合などとはまた別様な感慨を覚えることがあるだろう。
 もう三十年余りの昔になるが、或る年の秋に信州川上の梓山から三国山を越えて中津川の谷奥へ下った時、ほのぐらい急な坂道の途中で私はいくつかのトチの実を拾った。あたりには黄色くもみじした大きな掌状複葉が散らばり、それを崖の横腹から浸み出した冷めたい水が美しく濡らしていた。さてそれから東京の家へ帰ると、私は早速その実を亡き寺田寅彦博士の写真入りの額の前に供えた。そしてそのそばへ、博士の一番新しい著書「橡とちの実」をうやうやしく置いた。その時から数十年後の現在、その実の一つは、戦中戦後の転 と居を変えた生活の間にも失われずに、スイスの山の牧場の羊の首につける小さい鐘の舌となって残っている。手に取って振ってみれば、金属の舌とは違ってさすがは木の実、カラン、カランと豊かな柔かい音を出す。そうすると私にアルプスと秩父の秋が重なって、ちょっとした詩情が生まれるのである。
 しかしキノコとなると少しちがう。この場合は相手が新鮮である事を条件とする、しかも相当水分を含んだ食用品なのだから、無造作に服やルックサックのポケットヘ転がし込むわけにはいかない。なるべく数多く採って、しかも原形を崩さないように注意して、あらかじめ用意した袋なり何なりへ柔かに詰めるようにしなくてはならない。つまり途中で偶然落ちていた木の実に行き当る山登りではなくて、それを採りに行くこと自体が目的のキノコ狩りなのである。同じ秋の山でもクリやクルミやトチの実との遭遇が詩ならば、キノコ狩りのほうは散文だと言ってもいいかも知れない。
 キノコ狩りは、だから、どちらかと言えば、家族的で賑やかでさえある。もちろんキノコ採りを仕事にしている人やキノコ探しの玄人は、人を避けたひっそりした林の奥で黙々と徊眼けいがんを光らせているだろうが、われわれのような素人は一本でも見つければもうすっかり得意になって、「有ったよ!」とか「見つかったぞ!」とか怒鳴って、連れの家族や友達に知らせるのである。従つてそういう連中は、自分だけの猟場を持っていて他人に有り場所を教える事をしない玄人からは厭がられる。カワムキと言われるハナイクチや、アワジコと言われるアミタケのような「駄ギノコ」に満足して、鬼の首でも取ったような気になっている素人衆を、彼らは専門家の皮肉な微笑や目つきであしらう。しかしわれわれのような仲間にはそれでもいいのだ。「香におい、マツダケ、味あじ、シメジ」でなくてもいいのだ。なぜかと言えば、たとえ駄ギノコと疎うとんじられても、とにかくそれは食うことができるのだから。しかもそれを爽やかな秋の自然の中、水のような小鳥の声の時折ひびく山の中で、自分たちの目で見つけ、自分たちの手で採ったのだから。
 キノコの事はさて擱いて、私は終日の快晴と遠望とを楽しんだ山から里へと降りて来る。細い急な坂道は右に沢、左に森林を控えてうねうねと下っている。午後の傾いた日の当ったところでは、ヤマウルシやヌルデの紅葉がわけても華やかに美しい。林のへりのヤマシロギクの花の白やアキノキリンソウの花の黄色が、山の中なればこそ里でよりも一層目に立つ。長い太い無数の蔓を盛り上げて、暗紫色の実の房を垂らしたヤマブドウの葉も真赤だ。アケビも蔓に熟している。試みに一つちぎって味わってみると、ちょうど食べごろの甘さだ。春には花がよかったズミの木も、今は籠んだ枝の間に黄色い実をぎっしりと着けている。やがて里も近くなって暖かい金色の夕日を浴びた傾斜地まで来ると、あちらこちらに白いリュウノウギクが咲さ、大きな赤い花をつけたシュウメイギクもところどころに姿を見せる。もう直ぐ里だ。私は振り返って降りて来た山を見る。まだ充分に昼間の光の残っている山の上の空には、しかしもう薄すりと十日ぐらいの月が出ている。

 

 

 

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 憧れのオーヴェルニュ

 つい最近の九月の或る晴れた朝、フランスから大きな封筒で一通の飛行郵便がとどいた。五枚貼られた切手の消印にはMurat-Cantalとあり、封筒の裏にはモンペリエ市の住所と共にJ.Akaiという発信人の名が書いてある。丁寧に封を切ってあけて見ると、出て来たのは一枚の大きな山のカラー写真で、山はオーヴェルニュの旧火山の一つ、ピュイ・マリーだった。そしてもう一枚同封された普通の画葉書の方はこれもカラーで、同じ山の麓の放牧地に残っている古い石屋根造りの羊飼小屋を撮影した物だった。
 大きな写真の裏をぎっしりと埋めた(私にとっては未知の愛読者)赤井淳一郎さんのペン書きの手紙を要約すると、同君はフランス政府給費留学生の一人として渡仏し、現在南フランスのリオン湾に近い都会モンペリエ市に住んで同処の大学で勉学中だが、この九月の休暇を利用して念願のオーヴェルニュの旅を実行し、九月七日ピュイ・マリーヘの登高を試みて其処からこれを送ってくれたのだそうである。私の昔の詩集『高原詩抄』の中に『高原、その五』という一篇を見出して以来オーヴェルニュが同君あこがれの地となっていたが、今漸くその一峰から私に書くことができて年来の願いを果たし得たのが無上の喜びだとの事だった。そしてその手紙の末尾に「私は高橋達郎氏の友人でもあり、先生の“信濃の子供らの歌”のとおり、私の妻は諏訪の女性でございます」とあった。高橋達郎君は私の富士見在住時代からの親しい友で、現在霧ガ峰のヒュッテ・ジャヴェルの主人である。私は遠いフランスの山地からのこの写真や便りに喜ばされると同時に、こもごも湧き上がって来る過去の思い出への感慨もまた尽きないのを感じた。
 オーヴェルニュ。私はこの美しいフランス語の地名をそもそもいつ知ったのだろうか。それはたしか昭和八年か九年、信州霧ガ峰での事だったと思う。当時わずか一軒しか無かった旅館のヒュッテ・霧ガ峰で、そこの主人で同時に古い友人でもある長尾宏也君から「オーヴェルニュの歌」という一枚のレコードを聴かされた。ヴァンサン・ダンディーの弟子のマリー・ジョセフ・カントルーブという音楽家が熱心にオーヴェルニュ地方の古い民謡を採集し編曲して全四巻の歌集を出版し、その中の十一曲をマドレーヌ・グレイというソプラノ歌手が歌っているのがそのレコードだった。そしてその歌がどれもこれも私には実に気に入った。すべて素朴で剛健でありながら、或いは鄙びて心優しく、或いは楽しく諧謔的、時にはまた広大な自然の悠久さを想わせた。私は東京へ帰ると直ぐにこのレコードを買って同じ物を毎日のように聴き、すっかりこれらの歌に取り憑かれてしまった。そしていつとは無しに節を覚え、方言の歌詞も覚え、その中の幾つかは自分でも歌えるまでになった。
 しかし同時に、こんな美しい民謡の残っているオーヴェルニュといった特別な地方についても出来るだけ知りたかった。折から偶然読んだ科学画報か何かで地理学の大家辻村太郎博士の「オーヴェルニュー高原の火山」というみごとな紀行文に心を躍らせ、それからパリの本屋へ註文して小説家で紀行文作家でもあるジャン・アジャルベールの『オーヴェルニュ』や、クレルモン・フェラン大学の地理学教授フィリップ・アルボスの『ローヴェルニュ』などを手に入れて勉強した。アジャルベールの本はさすがに民俗についても自然についても内容が豊富で文章その物も面白く、一方アルボスのは専門的でむずかしかったが、その人文地理学的な研究や自然地理学的な研究の深さからは、私は私なりに学ぶところが多かった。もちろんフランス中央高台と呼ばれる同地方の細密な地図も取り寄せ、本を読むかたわら常にこれを参照した。それにしても山登りを始めた頃から勉強し出した地理学が役に立ち、少しばかり出来る語学が役に立って、自分ではすっかりオーヴェルニュ通になった気がしたのも、思えば四十年に近い昔になった。
 その四十年に近い昔に私の書いた連作詩の一篇、赤井君のいわゆる「高原、その五」というのは次のような物だった。

  いつか善い運命を授けて下さるならば
  神様
  どうか私にオーヴェルニュを見せて下さい。
  其処のピュイ・ド・ドームやカンタルなどという名が
  私にとっては巡礼への聖地の名のように響くのです。
  露に濡れた伊吹麝香草、岩燕のとがった影、
  ピュイ・マリーからプロン・デュ・カンタルヘ伸す鷹の羽音、
  霧ににじんだバイレロの唄……
  ああ、日本はついに私の墳墓の地だが、
  心の山のふるさとは
  行けども行けども常に碧い遠方にある!

 赤井君は言っていた。「今こうして快晴の初秋の空の下、爽やかな風の中、ピュイ・マリーの頂上でこれを書いている事は、まさに夢のようでございます。遙かにプロン・デュ・カンタルを望み、その谷間に点在する村々。碧い遠方は霞んではおりますが、地中海もほど遠くありません。すでにヴァカンスのシーズンの終った今、頂上を訪れる人も少なく、昼下りの今全くの静寂の中で幸福感に包まれております。先生の著書の中にこの詩を見出して以来、オーヴェルニュは私の憧れの地でございました。それのみならず、いつか機会を得て、ここから先生におたよりする事も私の念願の一つでございました」と。
 恐らく私はついにオーヴェルニュヘは行けないだろう。しかしこんな善い未知の友がいてこんなに喜んでいる以上、自分の憧れがこれで満たされたような気がするのである。

 

 

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 ヤドカリ

 ことしの六月の初めの或る日、娘が務めの帰りに一匹のヤドカリを買って来た。それが私達のところで飼われてもう四ヵ月以上にもなるが、台所兼食堂の片隅に置かれた金編みの籠の中で、与えられるいろいろな野菜の屑やくだものの残りなどを食って結構丈夫に生きている。思えば本当にうれしい事で、飼った以上は出来るだけ丈夫で長生きをしてもらいたい。
 娘の話だと、藤沢の駅の地下道で、一人のお婆さんが同じ仲間を二十匹ばかり古い洗面器へ入れて売っていたのだそうだが、足もとに拡げてあった説明書きによるとこれはオカヤドカリと言って、小笠原、琉球、台湾などのような南方の土地の産だそうである。私達はさっそく動物図鑑を持ち出して調べてみた。するとちやんとオカヤドカリなるものも載っていて、見たところ実物とも一致していた。そしてこの種類は地下道のお婆さんの説明書きにもあったとおり南方の生物で、高い山へも登るので有名だとも書いてあった。
 一体ヤドカリというものが普段どんな処に住んでいるのかも知らず、ましてやこの甲殼類が登山をするとは夢にだも知らなかった私達だが、そう言われて見れば割合大きな金編籠の中を、長さ八センチ程の貝殻を背負ったまま、爪や脚を使って上へも下へも自由自在に歩き廻っている。もっともそれはスローモーションの写真で見るようなもので、そうづかづか活潑に動いている訳ではないのである。つまりさっきまで籠の天井の処にじっとしていたのが、今はこんな底の方にうずくまっていると言ったような具合である。水はとりたてて与えなくてもいいらしく、しかし好物はやはり汁気の多いくだものだった。そのくせパンや米の飯の洗い流しなども喜んで食うから愛嬌がある。
 愛嬌があると言えば、このヤドカリが、夜も更けた頃「キューッ、キューッ」というような可愛い声を出して鳴くのである。私は床へ就くのが早いからまだ聴いたことはないが、家事や勉強で晩くまで起きている妻や娘や孫たちが「ゆうべも鳴いてたわよ」と言うから、本当に望郷の念に駆られて泣くか歌うかしているに違いなく、何か哀れな感じがしなくもない。図鑑によるとオカヤドカリの近似種にナキヤドカリというのがあって、オカヤドカリと同じ処に住んでいると言うから、或いはその方かも知れない。
 遅く大学から帰って来た孫娘が食堂へ入るなり訊く、「どうした? ヤドカリ君は」すると祖母である私の妻が答える、「元気よ。きょうはあなたの残したメロンの皮をパクパク食ぺていたわ」
「そう。じゃあ大丈夫なのね。よかった」

 

 

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 昔の仲間

  むかしの仲間も遠く去れば
  また日ごろ顔あはさねば
  知らぬ昔と 知らぬ昔と変りなき
  はかなさよ
  春になれば草の雨
  三月さくら
  四月すかんぽの花のくれなゐ
  また五月には杜若かきつばた
  花とりどり 人ちりぢりの眺め
  宿の外の入日雲

 それこそ今は昔、銀座金春新道こんぱるじんみちの或る小さいバーでの夜の席で、「何でもいいから一つ」と求められて私がこれを歌ったら、北原白秋が眼をみはり、感激家の大木惇夫がぽろぽろと涙をこぼした。作詩は木下杢太郎、作曲はたしか山田耕筰。四十年も前の事の面映ゆい告白ではあるが、また懐かしい思い出でもある。今は亡い北原さんもまだ丈夫だったし、大木惇夫も私も共に若かった。

 いったい、仲間とはどういうものを指すのだろうか。同じ主義主張に結ばれて集まった同士の事を言うのだろうか。学生時代からの親しい友人で、今でも時々一緒になる連中の事を言うのだろうか。それとも特別気の合った同業者の事か。或いは音楽とか、山とか、スキーとか、ゴルフとか、とにかく趣味を同じくしてつき合っている人々の事を言うのだろうか。どうも意味の範囲が広すぎるので、一応は分かっているようでその実よく分からないのが、この含蓄豊かな、古いくせに活きのいい日常語である。
 気の合った他人と事を共にする雰囲気を愛しながら、又一方では独りだけの生活を愛した私には、だから昔から「仲間づきあい」と言うに足るようなものが殆ど無かった。たとえば或る事への同好の士があって、その人を相手なら心置きなく振舞ったり、かなり深い打明け話さえ出米るような場合には、それは仲間と言うよりも自分の「心の友」だった。知人や知友ならば今でもたくさん持っている。これにもいろいろ段階はあるが、心の友となると今ではもうそんなに多くはいない。寂しい事ではあるが、歳と共に知人が増すのに反比例して心の友は次第に減る。しかしそういう老年の寂しさは、事によったら私自身の平生の心がけにもその原因の一半があるのかも知れない。「窗の外の入日雲」への感慨や哀愁は、そうした私にあってしばしば特に深刻なように思われる。だが今はこんなじめじめした告白をするよりも、もっとさっぱりとさばさばと「仲間」へ帰ろう。

 昔の仲間。そうだ、私が仲間と言う事のできる連中は、みんな私の初心時代に親しくしてくれた人達ばかりだ。同人雑誌『大街道』や『東方』時代の高村光太郎、高田博厚、片山敏彦などに至っては、そんな呼び方さえ憚られる。彼らの思い出は現在の私にとっていよいよ美しく貴いものになっているから。更に詩だけの世界では千家元麿、宮崎丈二、井上康文、勝承よし夫、田中冬二、中野秀人。それぞれに所属や傾向は異にしても、その一人一人に通じる何かしらを持っていた私は、ほかの詩人達との交際や会合よりも彼らとのそれを喜んだ。
 しかし仲間という言葉が一番ぴったり当て嵌まるのはやはり山の世界である。もっとも武田久吉博士や木暮理太郎先生をそう呼ぶのはどうかと思うが、とにかくその御両人が顧問をしておられた「霧ノ旅会」の会員達、すなわち松井幹雄、河田棹、神谷恭、安田登茂次その他の先輩諸君がそれだったし、又別に荒井道太郎、川崎精雄、瀬名貞利、青山慶二のような「白菅しらすげ会」の連中が一層親身な仲だった。ひとり田部重治さんだけは山仲間と言うよりも、私にとっては寧ろ山の文学の先覚者だった。そしてその意味では、荒井道太郎君のモルゲンターレルの『山!』とエーリッヒ・マイエルの『山をめぐる行為と夢想』との二つのすぐれた翻訳の仕事も忘れる事はできない。その『行為と夢想』の裏扉には、「昭和十三年六月十四日、日本橋東橋庵にて訳者荒井君に感謝する白菅のつどひ」と書いた後に、荒井道太郎、内田豊太郎、川崎精雄、青山慶二、ささきたかし、田村栄、山本しづ、坂本庄三郎、芝幸子、高田不二、瀬名貞利、尾崎喜八の署名が残っている。たしか会員全部が集まった筈だから、総員十二人ぐらいの山仲間だったに相違ない。この中で感謝された本人と感謝した高田不二さんとは、ああ、既にして早く故人になっている……
 武田博士や木暮先生や河田禎君は、私にとっては仲間と言うよりも寧ろ「山の師」とか大先輩とか呼ぶべき人々だったろう。真に山から学んだり山を愛する事を身をもって教えてくれたのは実にこの三人だった。そしてこの三人のそれぞれの人柄に魅せられながら、その人達に仲間扱いされている事が当時の私には誇りだった。或る時は六郷川の鉄橋の近くの土手で毎日南アルプスの遠望を写生している木暮先生の事を詩に書いたこともあるし、又武田博士と河田君とに伴われて忍野おしののバラモミの原生林を見物したり、河口湖から御坂山塊を歩いて甲府盆地の石和いわさへ出た事もあった。大石峠を越えて中芦川の旅人宿に泊まり、翌朝早く黒坂峠の頂上から残雪に輝く白峯しらね三山を撮影したのもその時だった。武田先生の肝入りで買ったツァイスの大手札用の写真機イデアールが初めて三脚に載って、折からのマンサクの花を前に、その最初のシャッターの音を立てた時の自分の胸のときめきを私は今でも覚えている。河田君の著書『一日二日山の旅』や『静かなる山の旅』も、初心の私を刺激し鼓舞するものだった。
 山の仲間では霧ガ峯に最初のヒュッテを建てた長尾宏也君の事も忘れてはならない。そのヒュッテ建設を思いついたよりも数年前、或る正月に年賀に来た序でにそのまま私を武州の御岳と大岳へ誘い出したのも彼ならば、まだ高山というものを知らない私を引っ張り出して、いきなり八ガ岳へ登らせたのも彼だった。かてて加えてエミール・ジャヴェルの『一登山家の思い出』を翻訳する事を、私にすすめたのもまた実に彼だったのである。このごろさっぱり消息がわからないが、どうか幸福であるように祈らずにはいられない。
 霧ガ峯と言えば、現在のヒュッテ・ジャヴェルの主人高橋達郎も戦後の富士見在住時代の仲間の一人だ。それに雑誌『民芸手帳』の編集責任者である白崎俊次。これも高橋君の名と共に必ず出て来る思い出の一員である。私達はよく一緒に入笠その他の山へ登ったり、釜無の谷へ入り込んだりした。その上三人とも一時へたな俳句に凝っていたので連句なども時々こころみた。たとえば

   峠越す夢遠々し七日月      立路
     吉野の雨に枚方ひらかたの里  春茨
   見出でたり花間に白き測候所   行人

 立路は高橋、春茨は白崎、そして行人は私で、「畑打ちの巻」と題した一巻の一部である。つまり彼らと私とに俳句仲間の一時期もあったという事になる。
 私を囲んで年に一度は必ず集まる穂屋野ほやの会というのがある。これは元来山仲間の会ではないのだが、この中には朝比奈菊雄、山口耀久というような錚々たる現役の登山家も加わっている。総勢十人ほどの連中だが、私達夫婦の者が信州富士見に疎開していたちょうどその頃、その地の高原療養所に入院中の患者の中の気の合った幾人かが始終遊びに来て親しくしていたのが縁になって、もうみんな恢復してそれぞれ各方面で活躍している今日でも尚、昔を忘れずに会ったり集まったりしているのである。そして穂屋野というのは芭蕉の句にも出て来るように富士見一帯の古い呼び名だから、何となく雅致のあるそれを採って会の名にしたのだった。
 本誌『アルプ』に縁の深い朝比奈君や山口君の活動については言うまでもないが、穂屋野会にはまだそのほかにも今では薬学専門の博士や、大学教授や、会社の社長などになっている連中がいて、私はただ彼らよりずっと年上の一介の詩人に過ぎない。しかもそんな私を大事に思って、いつまでも古い誼を捨てずにいてくれるのがありがたい。一年に一度私の家に集まってのささやかな祝宴に、いろいろと懐かしい昔話や、腹をかかえて笑いこけるような誰彼の逸話の続出する光景には、兄弟が久しぶりで一堂に会した時のような楽しさがある。それに私の妻がまたひどく記憶がよくて、いつ誰がどんな事をしたとか、言ったとか、病院へ伺うと誰さんの病室はいつもきちんと片づいているのに、誰さんのは余り手入れがよくなかったとか言い出すので、それがまた賑やかな一座に興を添える。そしてみんなの言葉もだんだんとぞんざいになって来る。思えば早くも二十年。当時まだ独身だった連中が、今ではもう立派な夫であり、妻であり、親であるのだから、昔の思い出ばかりか現在の家庭生活にまで、それからそれへと話の枝に花の咲くのも無理はない。そしてこうなるともう何かの仲間以上である。生涯の心の友である。
 こういう心の友、山ばかりかいろいろな部門での友に私の串田孫一君がいる。串田君は文学の仲間であり、動植物愛好の仲間であり、星や雲の観察の仲間であり、音楽好きの仲間である。つまり私の好きな事は彼もまた好きなのである。しかしそういう串田君に対して決して仲間を自称する事のできない部門が二つある。一つは私に画を描く才能の全く無い事、もう一つは、小さな工作器械を使ってこつこつと物を作ったり修繕したりする能力の全然欠けている事である。『仲間』という題のもとに果たしてどんな事を彼が書くかそれが楽しみだが、案外ハープの事などよりも、画や工作の道具の事が潑溂と、或いは悠然と、無能な私を尻目にかけて出現するかも知れない。

 

 

 

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 夏の花

 私の住んでいる鎌倉では、初夏の六月、ほうぼうの谷戸やとの岩壁にイワタバコの花が見られる。東京方面から寺や社の見物に押し寄せて来る人達には、北鎌倉の駅に近い明月院のアジサイこそいちばん印象に残るらしいが、その明月院の裏手につづく岩壁にも、一、二枚の大きなタバコの葉のようにつやつや光る葉を垂らして、その下から愛らしい薄紫の花を覗のぞかせているこの植物の群落のある事に気のつく人は思いのほか少ないようである。ハルゼミが鳴き、コシアキトンボがゆききする谷戸道の、木々の緑の影も涼しい頭上のしっとり湿った岩の面に、この花とこのみごとな葉とを静かに仰ぎ見ることは、東京から此処へ移って五、六年このかた、私の初夏の散歩の楽しみの一つとなっている。

 その鎌倉の町を囲んだ山の尾根道を歩きながら、幾つかのスミレの種類を調べている内に、ふとタツナミソウの一群を見つけた時には嬉しかった。一体にシソ科の花にはホトケノザやウツボグサやジゴクノカマノフタのように、原野路傍に咲いていながらそれぞれに面白味のあるものが多いが、このタツナミソウはそれほど何処ででも見つかるというわけにはいかない。それ故こんな町中の山道で彼に出遭ったのは驚きでもあれば喜びでもあった。高さ凡そ三〇センチの方形をした茎に長い葉柄を持った心臓形の葉が対生し、その茎の先に紫いろの筒形の暦形花が二輪ずつ向い合い、穂のようになって咲いている。しかもその花たちが一定の方向へ揃って顔を向けているのである。風になびいて進む波頭なみがしら。草の名はおそらくそういう処から来たのであろう。そして名も良ければ花の色も姿も美しいこの植物が、この町の処どころの山道に、人にはまだ余り気付かれずに残っているのだった。

 去年の六月には上高地から乗鞍高原の鈴蘭平だいらへ行った。ウェストン祭の催された上高地では折からコナシの花が盛りだった。その真白な花の盛りの小梨平に沿って梓川の清流が涼々と流れているが、河童橋を渡って対岸の山裾の静かな路を歩いていると、水辺に近い林の中でツバメオモトの群落に出逢った。浅い緑いろをした六、七枚の大きな葉のまんなかから一本の茎を立てて、可憐な白い花を穂のように綴っている。それがソウシカンバの若葉の下で純粋な群落をなしているだけに余計にすがすがしかった。あたりでは「ツツピン・ツツピン」と頻りにコルリが囀っていた。
 残雪に光る乗鞍連峰をつい目のあたりに見る鈴蘭平。そこでもコナシが花盛りだったが、何と言っても真赤なヤマツツジや紫のヤシオツツジが壮観だった。どの株も大きくて立派で、広大な牧場をめぐる藪や草地の到るところにその花の炎を燃えさからせていた。そして柔かい新緑の樹下の草の中にはひっそりと処女のようなスズランが咲き、紅い見事なクリンソウが咲き、薄紫のクワガタソウが苔蒸した岩のあいだを彩っていた。その上時どき群をなして頭上を飛びすぎるアマツバメの「ヒューッ」という壮烈な翼の音、むこうの暗い森林で鳴きしきっているジュウイチの声。鈴蘭平の平和な昼は、乗鞍の峰の空に一片の白い雲を浮かべながら、草の上に寝ころんでいる私にあのベルリオーズの交響曲『イタリアのハロルド』を、いつまでもいつまでも思い出させていた。

 しかし又こんな季節に、たとえば釜無川や千曲川の溪谷に沿って歩きながら、山の斜面の青葉若葉をぬきん出て立つホウの木やトチの木の、あの大きな白い花を見出した時の晴ればれとした気持を何と言おう。青い空間がまるで其処だけ特別に明るんでいるようではないか。しかもその頃はまたフジの花も木々から垂れているし、たいていは賑やかなエゾハルゼミの「ギョーイン・ギョーイン」の合唱を聴くことが多い。そのうえ崖ぶちの樹の枝にオオルリの歌を聴き、対岸の部落のあたりにネムの花でも咲いていたら初夏六月の風物詩はおのずから成るというものであろう。
 自然を愛する者にはどんな季節からもそれぞれの贈り物が与えられる。生命の盛りの春や夏ばかりではなく、秋にも冬にも目を楽しませ心を喜ばせる物はいくらでもある。要はただそういう贈り物を感謝して受けとる心や能力をわれわれが持っているかいないかである。

 

 

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 『緑の斜面』に寄せて

 親しい河田禎みきさんの一番新しい本が、これも親しい串田孫一さんの心をこめた美しい装偵で出るようになったことは、著者であるご本人にとっては元より、私たち古くからの友達にとってもまた、ちょっと口では言えない程の喜びである。出来たばかりのその立派な本を、今は小康を伝えられている病床で、初めて手にする時の河田さんの笑顔がさぞや晴れやかなことだろうと、これを書いている私にも思いやられる。
 たしか昭和三年か四年の事だったから、思えば四十年以上の昔になる。私はその頃ふとした機会で読んだ『一日二日山の旅』という紀行文の本にすっかり心酔して、自分もいつかこういう旅をし、こういう文章を書いてみたいものだと思った。尤もすでに文学をやっていて、三冊の自著詩集と五冊ばかりの翻訳書を出してはいたが、自然を好きなくせにまだこうした山旅の味を知らず、この種の文章を書いた事もなかった。ところがその著者本人が自分の家とはつい目と鼻の先の、三菱銀行日本橋支店に務めているのを知った時の嬉しさを何と言おう。私は直ぐ面会に行った。訪ねられた人は奥の席から直ぐに出て来て快く会ってくれた。きりっとした好男子で、言葉や物腰の至って穏かな品のいい人物だった。それが初対面の河田禎氏だった事は今更言うまでもないであろう。とにかくそれ以来の「河田さん」で、おつきあいは縷々として今日にまで及んでいる。
 彼には私の持っているだけでも十冊に近い著書がある。そしてそれらがすべて読んで楽しく、同時に常に何らかの教訓や身になる知識を与える紀行文であるところに特色がある。独善や街学のために却って興を殺がれるような山の旅の文章の少なくない今の世に、河田さんの書く物の如きは本来もっと珍重されて然るべきだと私は普段から思っている。彼は正当にも私の目を自然地理学に向って開かせた最初の人であり、植物への愛や関心を実地に即して教え鼓舞してくれた人であり、画をよくする人の才能をもって私の文章に新生面の開拓を暗示してくれた人の一人でもある。こんにち彼の文章を読んでこれに心酔している若い人々の少なくない事を私もまたよく知っているが、どうかそういう人達がそのにおいて彼を継ぐ者であるようにと祈らざるを得ない。なぜならば彼は一箇の教師ではなく、その在る事自体によって感化を及ぼす種類の人だからである。或いは今はもう彼と一緒に歩く事は叶わないかも知れないが、その多くの著書はいずれも私の言葉の真実を確証してくれるだろう。
 河田さんは銀行員という務めの身であり、私は詩を書く人間という自由な体だったので、二人して一緒に山へ行った事は思いの外すくない。それでも彼が北海道小樽の支店へ転勤になるまでは、よく土曜日曜を都合して行を共にした。多くの場合彼があらかじめ目的地を考えたり宿泊の場所を研究したりして、私はその同伴者だった。彼の古いよごれた地図は、二十万分ノーも五万分ノーも鉛筆の朱線で網の目のように彩られていた。地形学や人文地理学の知識が役に立つのもこういう時だった。行く先は秩父の山や谷が多く、山梨県、長野県、群馬県のものがそれに次いだ。いずれにしても彼に時間の制限があるのでそう遠くまでは行けなかった。しかも彼はその制限された時間や日数を実に有効に経済的に使って、あれだけの紀行の成果を挙げ得たのである。私はそういう点でも彼から学ぶところが多かった。そして後日になって私が好んでした「単独登山」も、或いは彼の賜物であったかも知れない。
 その父君が漢学者であり、明治維新後内務省地理局に務めて郡誌の編纂に従事していたというから、その子の彼にも充分に学者の血が流れていたのであろう、普通の銀行員としては驚く程の蔵書家だった。そして古典にも通じていれば、地理学をはじめ自然科学一般にも人並以上の興味を抱いていた。「旅と酒とが好きなのはおやじの遺伝だ」とよく言っていたが、その通り飲む事もよく飲んだが至って陽気な酒だった。但し彼自身が言う「酒に溺れた」はいささか誇張か自嘲の感をまぬがれない。

 

 

 

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 きれぎれの思い出

 いずれかと言うと一人旅を好む私ではあったが、河田禎みきさんとたまたまする山旅だけは好きだった。新宿か上野の駅で落ち合って、これから一日か二日初めての土地へ案内して貰うのかと思うと、あの山の先輩の質素な旅装や温顔が頼もしかった。私なんぞより遥かに山馴れ旅馴れている河田さんは、持っている物一つ見ても、よしんばそれがどんなに時代のついたしろものであっても、なるほどこういうのを本当の山支度旅支度と言うべきだろうと、いささか西洋かぶれをしている私を改めて顧みさせた。
 彼がわらじを履いて来たことも二、三度あった。それがちっとも古臭く見えず却つて新鮮なこしらえに思えたのも、そのさっぱりとした、或いは何処となく粋いきな人柄のせいであったろう。もしも私がバタ臭いジャヴェルなら、彼はどう見ても日本の文人型の紀行家だった。それは二人の書く物にもよく現われて、こんにちでもはっきりと証拠を残している。
 音楽に余り縁のない人だったので、山などで一緒に歌を歌った覚えは全く無い。草の中に身を倒して私がイギリスの民謡やドイツのリードなどを歌っていると、彼は黙って寝ころんで空を見上げていた。そして私の「ロッホ・ローモンド」や「さすらい人」の歌が終わるとやおら起き上がって、「さて出発しようか」と言った。夜の泊まりでいささかの地酒に酔った彼が時たま歌ったのは、たいてい江差追分か小唄の一部だった。私は真顔になって聴いていたが余り上手とは言えなかった。そして最後はそのまま転寝うたたねだった。昼間の謹厳な河田さんと夜の酒後の河田さん。そこにはいくらか別人の感があった。酒は彼にとって唯一の気晴らしであり憩いであったかも知れない。酔いが回ると普段は言わないような事まで敢えて口にした。「尾崎君・・・」と彼は寝たまま大声で怒鳴つた。「尾崎君! もっとどしどし良い詩を書けよ! それもなるべく柔かな詩をな」などと言つた。そして必ず「なあんて生意気な事を言って」と付け加えるのが常だった。しかし私はそれを彼の本音だと思った。まったく私の詩も言葉も堅かったに相違ないのだから。
 河田さんは勉強家だった。わけても地質学や民族学にかけては書物もたくさん読んでいたし、植物についても造詣が深かった。私の心がその方面へ向かったのも、元来好きな道だったとはいえ、彼の影響も少なくなかった。彼は二十万分ノーの地図に色鉛筆で地質の分布を塗った。今でも昔貰ったのを遺品かたみとして秘蔵しているが、まことに丹精こめた仕事だった。彼の書いた山の文章の中に地形や地質の事が多く出て来るのも正にそのためである。植物についても詳しかった。その点でも私は彼に負うところ頗る多い。そして彼が山から採って来て自宅の庭で育てたのを分けてもらったのが、今も私の庭で枯れぬ思い出の花を年ごとに咲かせている。
 河田さんの奥さんというのがまた実に善く出来た人だった。夫君よりもかなり年上で子供も無かったせいか、私の娘を事のほか可愛がってくれた。小さい子供だった娘はよく寝巻の風呂敷包みをかかえて、荻窪の自宅から武蔵境の小父おじさんの家まで「お泊まり」に行った。奥さんはまた裁縫と料理とが上手だった。河田さんの口がおごっていたのもそのせいだったと思う。或る年の二月そのご自慢の煮〆にしめ料理を重箱に詰めて、私と三人、五日市の奥へ梅見に行ったことがある。梅の花もよかったが、その花の下で催した小さい酒盛りもよかった。ほろ酔いの河田さんはすっかりご機嫌になって、即席に作った俳句のようなものを口ずさんだりした。たしか盆堀の部落だったと思うが、奥さんは通りがかりの農家の主婦に、きれいに取り分けた煮〆を経木に包んで贈って喜ばれていた。そしてその礼のつもりか茶をいれて持って来てくれた。ほろ酔いの河田さんは「うまい、うまい」と大声で賞めながら何杯もお代りをした。私にはその場の情景が余りに印象的だったせいか、今は亡い河田夫妻を想うたびについ思い出されるこのごろである。
 二人は今はもう世にない。往時まことに夢のようで、同時に自分の残んの日さえそう多くない事が思われてくる。しかしそれも亦いい。少しでも多く仕事が出来て悔いの無い日々が送れれば有難いと思わなければならない。その上自分としては今までにすぐれた先輩や善い友人を数多く恵まれた。たとえその人々の中には既に不帰の客となった人々が少なくないとしても、彼らの懐かしい思い出はそれぞれに私の過去を富んだ物、生き甲斐あった物にしてくれる。
「尾崎君! もっとどしどし善い詩を書けよ!」の声が、この瞬間再び私の耳に蘇る。

 

 

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 写真機と奥武蔵

 河田禎みきさんが亡くなってからもう三月みつきになる。月日の経つ事まことに迅い。あの物柔かな顔やすっきりとした姿かたちが、思い出せば今でもすぐ眼の前にあるのに、その本人は最早すでに此の世にいない。あの世のどんな武蔵野をあの独特の歩きぶりで歩いているかと思うと、そぞろ心がほのぐらく、遠く、さびしくなる。
 河田さんの思い出は、別の処へも二、三書いたので重複を恐れるが、私に写真を始めさせたのが実はあの人だったという事はまだどこへも書かなかった気がする。人間には誰しも先生とか手ほどきをしてくれた人とかいうものが有る筈だが、私に写真の手ほどきをしてくれたのは他ならぬ河田さんだった。ナーゲルというドイツ製手札型のカメラを貸してくれて、「これで稽古をしたまえ」と言った。小さくはあってもちゃんと三脚をつけて、覗いて絞りをきめて、それをガラス製の乾板へ感光させるのである。ライカなどはまだ吾々の手に入りにくい時代だったから、一一黒い布を頭からかぶって、焦点をきめたり、取り枠を差し込んだり抜いたりするのだった。その作業を傍に着きっきりで河田さんは教えてくれた。地平線が曲がったり、対象がぼやけたりした武蔵野の写真を、ああ何十ダース私が写したことだろう! 「尾崎君の写真には足のちぎれた人間が多いね」などとよく冷やかされたものだ。つまり私の風景写真には遠景が多くて、そのうえ空や雲が大部分を占めていたから、前景の人物の脚が閑却されてしまったのである。しかしその「雲」にかけては、河田さんよ、ぼくの方がやがて君の先生になりましたね!
 私の家は先祖代々武蔵野の住民だったせいか、私自身も武蔵野が好きで、河田さんと識るようになってからもよく二人で一緒に歩いた。奥武蔵などと言わない昔から武蔵野周辺の山地を歩いた。私がいわゆる登山の味を覚えたのも、元はと言えばその奥武蔵ハイキングが初まりだった。二人とも或いは一緒に、時には別々に、ずいぶん色々の山に登ったが、その端緒が、今ではだんだん昔の姿を失ってゆく武蔵野や奥武蔵だったのだから、もう会えない河田さんへと同様、私の心はそぞろほのぐらく、遠く、寂しい思いを味わずにはいられない。春や秋の草の上に向かい合って互いに開く弁当箱、そのおかずはそれぞれの妻君自慢の物。それを青い前秩父や丹沢の連山を眺めながら、時には相手のを遠慮もなしに突っついて食べた楽しさ。ああ、そういう時はもう来ない。さようなら!

 

 

 

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 三ツ葉ツツジ

 食堂の窓の外の庭の日当りで、一株の三葉ツツジが暖かそうに紅く染まっている。彼女はその名のとおり小枝の先に正確に三枚ずつの葉をつけている。しかも初冬の今は紅く美しいその三枚の葉のまんなかに、これも正確に一つずつ来年のための花の芽をつけている。私はそういう整然とした姿を初めて見て感心したのだが、これからも遅蒔きながら植物界へのこういう観察を続ける事で尚多くの感嘆や驚きを重ねようと思った。
 私は毎朝庭へ出て簡単な体操をする。いわゆるラジオ体操と言う程のものではなく、昔小学校や中学で習った柔軟体操を思い出してのものである。深呼吸と首や手足や腰の運動。それでも効果が有るのか体の調子は至って良い。庭のまんなかへ立ってやるのだが、東へ向かうと朝日を正面に受けてまぶしいから西の方へ向く。するとその西は円覚寺の裏山続きの尾根で、それがすっかり色々な樹木や草に被われている。つまり二階の書斎からの私自慢の眺めなのである。そして今はそれぞれの草木が色づいて、褪せた緑をまじえた茶褐色の風景をなしている。
 ところがその茶褐色の眺めの中に一箇所真赤なところが見える。ここ数年来の秋ごとに気はついていたのだが、何の花だか何の紅葉だかは分らなかった。曼珠沙華の花かなと思った事もあったが、望遠鏡で見ると全く違って正に或る木の紅葉である。円覚寺の裏山には幾種かのカエデも有るには有るが、こんなに毎年美しいもみじはしない。事によったら、(まったく事によったらである)あれはうちの庭のと同じ三葉ツツジではないかと思った。私の胸は躍った。そこで或る日思い切って、藪を押し分けたり、坂で滑ったり転んだりしながら、わが家の庭から西に見える向うの裏山へ登って、その真赤にもみじしている木を突きとめた。確かに、正に、間違いなく、それは立派な三葉ツツジの年を経た株だった。小枝の先に整然と三枚ずつ葉がついていて、その三枚の中央に、来年の春見事な花を咲かせるべき貴い芽が納まっていた。
 私は振り返って遠く下の方に見えるわが家の小さい庭を眺めた。出来たらこの高地の木と宅の低地のそれとを引き合わせてやろうと思って。しかし私のように、人間のように、歩くということの出来ない植物である庭のツツジは、食堂の棟にさえぎられたままで、遂にその兄だか姉だかに遥かな瞳を投げる事も、遠くからの挨拶を送る事もできなかった。

 

 

 

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 自然・音楽・祈り

  山の三方からそれぞれ小さい溪谷をつくった清らかな水が流れてきて、それがちょうど今私の腰をかけている一本の橋のあたりで合流している。それも橋とは言えよく見られるような山の中の橋で、橋桁げたこそ石組みで堅固にできてはいるが、欄干は木製でいたって低い。
 あたりではしきりに背黒セキレイが囀り、半透明の褐色の姻に緑いろの胴を光らせた川トンボも飛んでいる。それに夏のこととてセミの声が賑やかだ。瀬の速い水際には頭を振りながら水草の花も咲いている。路傍や山の麓には白い野イバラや赤いツツジも美しい。
 ここは私の知らない土地である。二、三年前この地方の三つの村が合同して一つの立派な中学校を造ったが、どこの学校にも付き物の校歌というものが未だ無い。つまり私はその校歌の歌詞の創作を頼まれたので、こういう場合いつもするように、前もって学校やその周辺を見たり、子どもたちの通学する道すじを車や自分の足で踏んでみたりしに来たのである。そしてその通学地域の中でも一番遠い山奥の小さい部落へ、今こうして来ているというわけである。
 私は東京も京橋育ちだったので、こんな辺鄙なところから学校へ通うという辛さも楽しさもまったく知らない。それだけに、自然を好きな私としては、ただこれらの部落の子どもたちの生活の楽しい一面だけを想像してほほえむのである。そして冬の厳寒の季節や天侯の悪い日に、彼らの遠い通学がさぞかし辛いものだろうと思って同情するのが関の山である。幸福には美しい多彩な面が想われるが、不幸には辛さ、悲しさの深刻な一面しか想像し得ないというのが吾々一般の貧しい能力ではないだろうか。
 案内の先生がむこうの流れの縁で水中の小魚を見たり水辺の花をいじったりしている間、私はじっと橋の欄干に腰をおろしたまま、詩のヒントを二つ三つと、今言ったような感想の断片を手帳に書き、シューベルトの歌「水の上にて」を口ずさんでこの山間の静かな一角に満足していた。
 学校では授業中のいくつかの教室を、参観し、奥の方にステージのある天井の高い広々とした雨天体操場を見せてもらい、すばらしい設備の理科室や衛生室などに順を追って案内された。昼休みの時間にその雨天体操場で全校の生徒を前に短い話をさせられたが、たいしておもしろくもない私の中学時代の思い出話を、彼ら信州の子どもたちは熱心に瞳を輝かせて聴いていた。少し滑稽な話のときでも笑う生徒は一人もなく、終始行儀を崩さずまじめに聴き入ってくれた。
 それより前に二、三の教室を参観中、音楽室というのに案内されたが、四十人ほどの男女の生徒の一組が若い男の先生の指揮でリコーダー(縦笛)の練習をしていた。一人一人が一本一本持っていて、その四部合奏が防音装置のある室内いっぱい流れるのだからじつに見事である。
 折から彼らが練習しているのは「走れ、トロイカ」と「ロング・ロング・アゴー」の二曲だった。「トロイカ」の方はもうほとんどものになり、「ロング・ロング・アゴー」はまだいくらか練習の余地があるように思われた。
 私もドイツ製のリコーダーを持っていてふだんでもときどき吹いているが、この二曲もよく知っているので、先生の笛でも借りて生徒たちの合奏に加えてもらおうかと思ったがやめた。いくら彼らに好意を持っているにしても、それはあまりに出過ぎた慎みのないことだと思ったので、あとでこのことを校長に話したら「それは惜しいことでした。先生とご一緒に吹けたら子どもたちがさぞかし喜んだことでしょうに」と言って残念がった。
 しかし私はあのとき自分の心安やすだてを自制したのが本当だったと今でも思っている。なぜならばあれは音楽の先生が自身できっちりと仕組んだ大切な授業時間中だったのだから、たとえ私が何者であろうとも、それを飛び入りで撹乱するとはもってのほかのことだからである。
 長野県下への旅行から帰ると、しばらくして私は東京のある聖堂へ行った。元来キリスト教の信徒でもない私がこういうところへ行くのは、知人の幸不幸のときか宗教的な音楽演奏会のときぐらいのことで、このときもそのあとの方の場合だった。鎌倉から東京も文京区関口というとかなりの道のりもあり往復にも時間がかかるが、大聖堂の中でのオルガンの演奏とあれば、そんなことは別段苦にもならなかった。
 曲目は私の好きなものばかりだった。すなわちヨハン・セバスチアン・バッハの作品が四曲と、セザール・フランクのものが一曲、いずれも私の魂をありふれた日常やその関心事から遠く連れ去って、それを高処の青い輝かしい光で洗い清めてくれるような音楽だった。私はこの清楚な大聖堂の中いっぱいに拡がりみなぎるオルガンの歌に洗礼されて、生まれ変わったような気持で帰宅したのだった。
 私がキリスト教徒でないことは今も書いたが、それでも時には聖書を読み、讃美歌を歌い、祈りをすることもある。その祈りについて「礼拝堂」というじつに美しい小品の中で、あのヘルマン・ヘッセはこう書いている。それは私のもっとも愛する文章の一つだから、ほんの一部分だけでも引用させてもらうことにする。
「祈りというものは、讃美歌と同じように、救う力のあるものだ。祈りは信頼であり、是認である。ほんとうに祈る者は願わない。ただ自分の境遇や、自分らの悩みを語るだけだ。彼はちいさい子どもらが歌うように、自分の苦痛と感謝とを低い声でうたうのだ。そのように彼のオアシスや小鹿と一緒にピサの寺院に描かれている至福な隠者は祈ったのだ。あれは世界中でいちばん美しい絵だ。そういうふうに、樹も獣も祈るのだ。りっぱな画家の絵の中ではどんな樹も、どんな山も祈っている」
 どうか私の祈りもつねにそういうものでありますように!

 

 

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 中世の秋とルネサンスの春
     ——現代に生きる中世及びルネサンスの音楽——

 音楽は私にとって魂の支え、心の養いであるが、また生きている日のその時どきの楽しみでもあるので、生来この芸術を愛し、今でもなおこれから離れることのできない自分を本当にしあわせだと思っている。もしもこのまま体と共に精神も衰えて、自分の生涯の仕事である詩はおろか、数十年このかたずっと愛しつづけて来たすぐれた音楽にさえ心を与えられなくなるようにでもなったら、どんなにか寂しい残生だろうと思うのである。しかしそんな事はあり得まい。それのみか私の耳からこの世の音の消えてゆく人生最後の瞬間にさえ、あの懐かしいヨーハン・セバスチアンのコラールは夢のように響くだろう……。
 しかしそういう私もこの道には全くしろうとなので、これを学問的に研究したり分析したり、その長い複雑な歴史を調べたりするような事は勿論できもしないし、今となっては時間も無いし、する気もない。そのくせ本はいくらか持っているので何かの事で必要な時は部分的にでも読むには読むが、なさけないかなじきに忘れてしまうから知識と言っても当座かぎりのもので、かんじんの持続も無ければ相互間の微妙な連絡も織り成せない。要するに音楽に関するかぎり、事実に即した確かな事は何ひとつ言えず、結局自分なりの愛や感銘をおずおずと、又時にはいい気持になって吐露しているに過ぎないのである。その点今度求められて何か書かなければならない羽目になったシンタグマ・ムジクムの『中世及びルネサンスの潑剌たる音楽、楽しい音楽の五世紀間』の場合にしても全く同じ事で、このレコードを材料にしての正しい有益な知識なり暗示なりは、その世界に精通している学者諸君のねんごろな手引にまつのほかは無い。

 鎌倉の或る谷戸やとの崖と木々とに囲まれた静かな書斎でこの二枚のレコードの第一面に初めて針を下ろした時、正直言って私はただびっくりした。古いものと言えばバッハやヘンデルより百年前のハインリッヒ・シュッツ——それもほとんどすべて宗教的な歌の作品——やその頃の音楽や音楽家の僅かをしか知らない私に、今まで聴いたこともないような楽器の群が遠慮もなく、それぞれ明るく陽気に鳴り出したのである。ブロックフレーテ、オルグ・ポルタティフ、スピネット、ヴィオラ・ダ・ガンバぐらいならば知っているが、ラケットとか、クルンムホルンとか、シュティアホルンとか、ゲムスホルソとか、ツィンクとか、フィーデルとか言うような古い楽器になると、先ずその音色の珍しさや音楽自体の陽快なリズムの流れに心を奪われ、目を輝かせ、耳を澄ませて聴き入るばかりだった。そして十二世紀ノートルーダム楽派の大家ペロティヌスの「アレリュヤ」に続いてこれらの楽器がそれぞれに奏でる六つのきわめて短い小品を、或る種の連想と共に改めて珍重する気持になった。
 と言うのは、私は自分が若い時から登山の折々に採集して来た岩石や鉱物の小さい破片を今だに幾か持っているが、時々それを取り出して眺めながら、これらの堆積岩や火山岩や変成岩がそれぞれ何千万年、何億年という遠い遠い地質時代の産物であり、それが今自分の手の平の上で古くて新しいこの世の太陽の光を浴びているのだと思って、或る種の感慨と愛着と、尊重の念をさえ覚えるからである。そして現在聴いているこれらの楽器とその音楽とが、彼ら大地の破片などとは比較にならない程つい最近に人間の手に成ったものであるにもせよ、やはりここに生さ生きとよみがえり、その美によって私を喜ばせ、その歴史を前に私を深い瞑想に誘い込むからである。事実私はこのレコードを聴きながら、幾つかの石の標本箱を書斎の床の上に並べた。すると甲州ミズガキ山の頂上近くで折り取って来た水晶や上州三波川の谷奥で苦心の末に割り取って来た紅簾片岩たちが、彼ら古楽器のしらべと一緒に晩夏の真昼をよみがえって、新しくも潑刺と歌い輝くのだった。
 しかしそこへ月の光のように静かに清らかに、中世の美しい花が咲く。ウィル・キッパースルイスというアルトの歌手が、伴奏無しにフランス語で歌う十字架の下の聖母マリアの歎きの歌である。いささかの飾りけもなく清純で素朴で、あたかも野中の草に一人立つ聖母の像の感がある。しかもその憂いと悲しみとのしらべが、或る凛然とした母性の情に終始貫かれているのが心を打つ。これは十三世紀の作者不明の曲だそうだが、私はこんなに澄んだ古い珠玉のような歌を、現代日本のすぐれたアルトの歌い手から聴くことができたらばどんなに嬉しかろうと思った。
 それに続くコンドゥクトゥス風の二つのラテン語の聖歌も良かった。前の聖母の歌が私の内に余韻として残っていたせいか、ブロックフレーテや、ツィンクや、フィーデルやグロッケンを伴奏にアルトとテノールとで歌われるこの二曲も、敬虔でありながらどこか田舎びた強壮なものに思われた。同じ十三世紀フランスの傑出した吟遊詩人の一人と言われるアダン・ド・ラ・アールからも、クリスマスの夜に施物を乞う子供たちの歌と、歌劇の先がけのように考えられている
 「ロバンとマリオンの劇」の中の一節とやらが取り上げられていて、私にはいずれも初めてのものだが、正直のところ余り興味が感じられなかった。それよりもむしろ古風な笛や弦や打楽器の活躍する酒飲み歌や踊りの歌のほうが面白かった。
 一四世紀から一五世紀になると、そろそろ知っている名が出て来る。先ずフランスのギョーム・ド・マショー、イギリスのジョーン・ダンスタブル、フランドルのギョーム・デュファイ、更にオランダに生まれてイタリア、ドイツ、オーストリアなどで活躍したハインリッヒ・イザークのような当時の巨匠たちの名が。そしてその彼らが私の音楽的知識の天界図の中でこそ遠く小さく、なじみもまた薄いが、専門の音楽史家たちの精巧な望遠鏡からすれば、やはりそれぞれが今後の研究にもなお充分値する立派な巨星である事に間違いはないであろう、と思われた。
 アルトとテノールがそれぞれ別な歌詞を別な旋律で同時に歌うマショーのモテットは非常に複雑なもので、歌い手としてもかなりむずかしいだろうとは思ったが、遺感ながら私の好みには合わなかった。それよりもブロックフレーテとフィーデルとトロンメルとで演奏される「トリスタンの嘆き」のような短くて豊かな感じを持った舞曲や、一四世紀イタリアのアルス・ノヴアの代表的大家で盲人だったフラソチェスコ・ランディーニの「春が来た」の方が気に入った。一方イギリスのダンスタブルにはこの「サンクタ・マリア」などよりもっと良い物があった筈だと思うが、その失望はデュファイの「たぐいなき花」のラテン語歌詞の緩やかに広々とした進行と、曲の最後の伴奏楽器の斉奏の美しさとで埋め合わせをされた。
 一五世紀から一七世紀の前半、私には何と言ってもイザークの「インスブルックよ、さようなら」の入っているのが嬉しかった。この歌にはさまざまな思い出があるからである。思い出と言えばピエール・サンドランの「甘い思い出」も良い物だった。しかしこのシャンソンの主題からガンバとチェンバロの為のリチェルカーレを作曲したスペインのディエゴ・オルティスという音楽家には一層感心した。ハンス・ザクスのも悪くなかった。しかしオケゲムの「キリエ」やジョスカン・デ・プレの三つの曲にはそれほど心を引かれなかった。無論選曲上の都合からだろうとは思うが、私としてはむしろスヴェーリンクの「旅する商人」を好ましく思い、ピエール・ド・ラ・リューのネーデルランドの歌や、スザートの四本のクルンムホルンの小曲や、その他初めてその名を聴くような人達の作った色々な楽器の短い独奏曲がそれぞれに面白かった。
 しかし中世の秋の実りとルネサンスの春の香とを、これだけ生き生きと聴かせてくれたシンタグマ・ムジクムの指揮者を初めその同志の人達の熱意と努力とには、ほとほと感じ入るのほかはない。

 

 

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 わが生の伴侶——歌

 今日は久しぶりに裏の山へ登って、てっぺんの見晴らし台から海を見て来た。
 そよ吹く風にはさすがに初冬の冷めたさがあるが、空はまっさおに晴れて澄んだ日光がしみじみと暖かく、もうあと幾日続くかと思うさかりのもみじが山々の斜面を黄に赤に彩っている。坂道の片側に露出したほのぐらい岩壁にはところどころ鮮やかな緑いろの苔が着いていて、蘚苔類の採集に熱中していた若い頃の事を思い出させた。坂は長くてかなり急で、今の年齢では息が切れるが、足のほうは永年の登山で鍛えられたせいか、まだ両膝に手を突いてえっちらおっちら登るというほどではない。途中落ち葉した桜の林でシジュウカラとエナガの一隊に出逢った。少数の群だがさびきびとして敏捷で、静けさの中に鋭いのと優しいのと二様の鳴き声を撒き散らしながら、次第に私の住む谷のほうへと降りて行った。
 週間日のせいか見晴らし台にはハイカー達の姿もなかった。それで一人だけのゆったりとした落ちついた気分になって、眼の下の建長寺のむこうに横たわる鎌倉の市街や、それを取り巻く山や谷や、それよりも高く大きく半円形にひろがっている相模湾の水を眺めた。海は日光の反射にきらきらと光って、水平線の近くでは虹色をしていた。その水平線上に薄青く柔かに霞みながら大島が全容を横たえていた。ニコンの小型双眼鏡を向けると、愛らしい沿岸漁業の漁船が海上にいくつも出ていた。いずれもまじめな今日の稼ぎのためには違いないが、あまりのどかな景色のせいか遊山船ゆさんぶねのように見えた。持って行った水筒からのコーヒーがうまかった。パチリと点火して吸う煙草もうまかった。それにしてもついこのごろ世を去った幾人かの知人を思うと、こうして今も息災な自分が不思議でもあればもったいなくもあった。と、突然、哀愁をまとった厳粛な気持が私を襲った。それで今まで満ち足りた思いで眺めていた海と山の景色にあわただしい一瞥を投げると、今度は道を変えて高々と密生した笹藪を押し分け、幾曲りする暗い杉林の急坂をくだって谷の中腹の我が家へ帰った。伊藤整、川鍋東策、石田波郷の名と顔とがその間ずっと心を占めて離れなかった。そして帰宅するや直ちに私は書斎のオルガンに向って、「きよき岸辺に」と「おくつきどころよ」の二つの讃美歌を、あの人達への手向けの思いで静かに歌った。
 声もしわがれ、息も昔のようには続かなくなった今ではあるが、それでも時には歌に心を託したいと思うことがある。しかし楽譜をひろげて採り上げる歌には、以前のに較べると深く静かで、いつでも何かしら身にしみるような、祈りのような、訴えのような、或いはそこからの慰めを期待するようなものが多い。「おじいちやんは本当にコラールが好きね」とよく孫娘に言われるが、事実そのとおりで、私はバッハの衆讃曲コラールやハインリッヒ・シュッツの比較的やさしい宗教曲を好んで歌う。本来ならば家族揃っての合唱こそ望ましいのだが、それぞれに学業や務めを持ち、嗜好や趣味もまたおのずから異なっている者たちに、たとえいかほど「我は善き羊飼いなりイヒ・ビン・アイン・グーター・ヒルト」をもつて任じている家長であろうと、そのような事まで強要したり誘導したりするわけにはいかない。そこで多数の信徒が声を合わせて同じ心で歌う教会での讃美や祈願の歌を、私は書斎でただ一人、しかも小さい声で歌う。そしてそのたびに心が澄んで晴れやかになり、歌わなかった前よりもいくらか善くなったような自分を感じるのが常である。それゆえ私がたまたま歌を口にのぼせるのは声をよくしようためでもなく、上手になろうためでもなく、ひたすら魂の安らかさと心の清さ正しさを求めるためであり、愛する孫娘にしても、今でこそ大学で音楽専門の勉強をしているが、やがていつかは彼女にもこの祖父の心境がわかるであろうし、またそうあって欲しいと思っている。
 そういう私ではあるが、やはり自分だけのレパートリーを拡げたいと思う欲に駆られれば、たまには楽譜を物色するために東京へ行く。そして永い間にはそういうのが積もり積もって今では棚の何段かを占めている。しかしいざ当ってみればどれもこれもむずかしく、美しいとは思いながら、到底自分如きの手にはおえないと観念するような物が多い。よしんばレコードに入っているので知ってはいても、さて楽譜を前に坐ってみると今更のようにおのが非力を思い知らされるばかりである。一例を挙げればフーゴー・ヴォルフの『スペイン宗教歌曲集』がそうだった。私は譜本を投げ出さないまでも、元の棚へと敬遠した。そしてクリスマスも近い今日このごろは、パレストリーナやラススと並び称せられる十六世紀後半のフランスの大家ウースターシュ・デュ・コーロワの合唱曲、画にも描きたいような『ノエル』のソプラノのパートと柄がらにもなく取り組んでいる。しかしこれとてもまたいかに心は逸はやっても、楽しくはあっても、哀れむべき老いた独学者の身には重きに過ぎた財宝である。
 私はこの『ノエル』(基督降誕祭)の歌を、今から六年ほど前に出た服部幸三氏編纂の「古典合唱曲集」のクリスマス合唱曲集で初めて知った。そして先ずオルガンやピアノで高音部を弾いてみて、その旋律の流れや、リズムや、シンコペイションで潑刺とさせられた歌詞の美しさに驚いた。それは親しめば親しむほど気品の高い、しかも明るく楽しく田園牧歌的な歌で、いかにもフランスのクリスマス・キャロルにふさわしい物だった。同時にこんないい歌を持っている国民を羨ましく思った。そして昭和四十四年十一月も末の今、再びこの強健で優雅な祝祭の歌に立ち戻ってその練習を繰り返すことが、レコードでの手本が無ければ無いだけに、私には楽しくもあれば一層の張り合いもある。

 

 

 

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 その時々のバッハ

 もの書くことを仕事としている私は、前々から心に暖めていた一篇の詩や、或るヒントからそれを展開して書き上げる事が出来た一つの文章なりに終止符を打つと、すぐさま机の上を片づけて身のまわりの空気を一新し、完成した仕事への未練も執着も残さないようにする。そしてその後は外に出て附近の自然を見て歩くなり、仕事を続けている間はみずから慎んで幾日も聴かないでいたレコードの音楽に、今こそゆったりと耳を傾けたりする。まるで判で捺したようなきまりきった生き方と言ってしまえばそれまでだが、そういう波瀾のない穏かな生活がここ数年来の習慣となってもいれば、元来自分の性にも合っている。今の私にはもう世間並みな道楽も遊びもない。生き甲斐と言えばあらゆる機会に、自分自身の人間的内容や仕事を、いろいろな形で増殖させる事だけである。
 野なり山なり、自然の中をさまよう楽しみの事はこの場合さて措いて、音楽は近年の私にとって欠くことのできない心の糧となっている。それは或る時の私の凝固した感情を和らげ、物事にこだわらない自由自在なものにし、美は善であるという信念を音のしらべをもって実証し、その信念に拠りどころと力とを与え、たまたまの悄然とうなたれた心をいざない去って発奮の高い境地へと引き上げる。そしてそういう有り難い事を、言わば奇跡を見せてくれるのは、多くの場合、やはりバッハの音楽である。

 或る日病院での定期検診をうけた帰りに、少しばかり廻り道をして鎌倉雪の下の静かな小路の一つを歩いていた。するときれいに刈り込まれたイヌツゲの垣根の奥の一軒の家から、レコードでやっていると思われるヴァイオリンの音が聴こえた。どこかで聴いた事のある曲だと思って立ちどまって耳を澄ますと、それはまぎれもないバッハの第五番へ短調のソナタで、しかも私の大好きな第一楽章のラールゴだった。沈痛な深い音で弾いているのはどうもオイストラッフらしかったが、或いは時々思い出して懐かしむ故人のバルヒェットかも知れなかった。ともあれ行きずりに聴いた奥床しいそのバッハのおかげで、私はこの世が清められた気がした。医者に言われた「異状ありません」が、このバッハによってはしなくも祝福された気がした。私は垣根に続く石の門に嵌め込まれた白い陶器の表札を見て、その家の主人のことをいろいろと想像した。折からチチッと鳴きながら小路の空を横ぎった一羽のセキレイが、身をひるがえしてその家の庭へ飛び込んで行った。

 また或る日原稿を受け取りに来た東京のさる雑誌社の若い男の編集部員に、乞われるままにバッハを聴かせた。レコードはドイツのカンターテから出た物で、ヴィンシャーマン指揮のバッハ・ゾリステンが演奏している『シソフォニア集』だった。私はその中から「信仰の道を歩め」と、「されど同じ安息日の夕暮に」と、「悲しみを知らぬ者」との三曲を選び出した。ちょうど自分も聴きたかったからである。シソフォニアだけだからじきに済んだが、満足げに聴いていたその青年社員が、「バッハと言えば堅苦しいむずかしい物とばかり思っていましたが、こうして聴いてみると案外親しみ易くって楽しい音楽ですね」と最後に言った。彼の受けとったその親しみ易さや楽しさがどの程度のものかは分らないが、ともかく一応の同感を示すために微笑しながらうなずいてやった。
 私にとってもバッハは常に楽しく、時に親しみ易くもある。そしてこれが在来の既成観念や偏見を打破する最近の合言葉のようになっている事も事実である。それは確かにそれでいい。しかし同じように親しみがあって楽しくても、私のバッハは何かもっと高く、もっと深くて、やはり自分の一生の憧れの天に在るような気がする。

 

 

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 バッハのオルガン音楽

 ヘルマン・ヘッセの『観照録』という本の中に「古い音楽」と題するきわめて美しい小品がある。私はこの文章が好きで自分でも訳した事があるが、もしも日本でこういう物を書く人があったらばと羨ましく思う程のみごとな作品である。
 夏の終りか秋の初めではないかと思われる或る雨の夕べを、ヘッセは電車に乗つて町の古い聖堂へ音楽を聴きに行く。高い丸天井を仰ぐ荘厳な堂内は爪先立って歩いてさえ微かな音が聴こえる程静かで、奥のほうの本堂や合唱壇はほとんど空席である。薄暗い吊りランプの光の下ではプログラムもはっきりとは読めない。しかしセザール・フランクかと思われる或る大家のオルガン曲と、イタリアの古いヴァイオリンーソナタと、最後にヨーハン・セバスチアン・バッハの「前奏曲とフーガ」が演奏された。ヘッセはそれらの宗教的な音楽から受けた深い感動や、そこから喚び起こされた感想を逐一書いているのだが、その時のすべてが目に見え耳に聴こえるばかりに、読者にも楽しく伝わって来るのである。
 私にはそうした美しい経験が全く無いが、自分の心の持ちよう如何では、狭い中に雑然と書物の並んだ天井の低い書斎でも、これを教会堂と思いなす事が必ずしも不可能なわけではない。現に私にはしばしばそういう時がある。もちろん音楽そのものはレコードに拠るほかはないが、幸いオルガン曲ならばかなりの数を持っているので、時に応じて望みのものを取り上げる事ができる。真摯な演奏態度と気高い精神性とを備えたヘルムート・ヴァルヒャに傾聴する事もあるし、女性らしく華麗ではありながら端正で清らかなマリー・クレール・アランに聴き入る場合もある。季節につれて窓からの風景の色彩も変化し、更に晴れた日も雨の夜もあるが、彼らのバッハが或いは生き生きと、或いは荘重に鳴り始める時、私にはその窓からの風景がいつか神聖な壁画のように思われて来る。そしてこれを書こうと思い立った今朝は、特にアルヒーフの盤でヴァルヒャの弾くバッハのハ長調の「前奏曲とフーガ」をヘッセを思いながら聴き、更に六つのコラール集からの「目ざめよと呼ぶ声あり」と、十八のコラール集からの「汝を飾るべし、おお愛する魂よ」とを聴いて、先ずペヘを執る前の心の用意をしたのだった。
 ヘッセは前記の「古い音楽」で言っている。「私は考えずにはいられない。われわれは何というみすぼらしい粗悪な生活を送っていることだろう! われわれのうちの誰がこの巨匠のように、こんな訴えと感謝の叫びをもって、かくも深い心情から生れた本質の亭々と聳える偉大さをもって、神と運命との前に進み出る事ができるだろうか。ああ、われわれは別の生き方をしなければならない。もっと大空や樹木の下に生き、もっと孤独になり、そしてもっと美と偉大との秘密に近づかなければならないのだ」と、そして私もまたバッハの聖なるオルガン曲に聴き、深い同感をもってヘッセのこの言葉に聴くのである。

 

 

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 バッハ音楽への感謝

 この世にバッハの音楽が在ると思うと気が大きくなり、心がひろびろとして来る。心配事もその本体だけに還元されて、それに附随した雑音のようなもの、それにまつわる影のようなものは排除される。バッハは私にとっては天空だ。太陽や月が渡り、星が輝き、雲が浮かび雲が過ぎ、時に雨や雪を降らせるさまざまな天象の美で、人間を喜ばせたり養ったりするあの空だ。
 心に何の逆らいもなく、抵抗もなく、安心して耳を澄ませて聴いている私に、いつでも何かしら新しい発見を、仕事の上の思いがけない発想を、惜しげもなく撒いて与えてくれるのがバッハの音楽である。それも歌詞に従って物を思わせる宗教的カンタータだけではなく、独奏曲であれ合奏曲であれ、彼のすべての純粋音楽と称せられる物がそういう作用を与えるのである。人をして夢見させながら覚めさせている音楽。他人は知らず、私はバッハの音楽をそういうものだと思っている。
 今日は何かバッハを聴きたいなと思うような日は、私として一番「善い人間」の日か、まだ形こそ成さないが朝から何となく創作的な気持になっている日である。本当はそれだけでもいいのだが、ともあれレコードの並んだ棚の前にうずくまる。そうなると今度はあれかこれかと物色する。ふと「フルートとハープシコードの為の奏鳴曲」の盤に指が触れる。二枚の内のどちらにしようかとちょっと迷ったあげく、結局作品一〇三〇番から三三番まで入っている方を取り上げて器械にかける。ジョーン・ウンマーが吹き、フェルナンドー・ヴァレンティの弾くホ短調のアダージョが、昼前の明るい書斎に静かに流れる。窓から見える空は一様に雲に被われた穏かな高曇りだが、むこうの山の秋めいて来た木々の緑が、しっとりとしたフルートとハープシコードの調べのために今日は特別美しく豊かに見える。私は十五分なにがしで終るその一曲だけで満足して書斎から座敷へ戻る。気分は今のバッハのためにゆったりと涼しく落ちついて、さて昨日から書きかけの原稿に向かっておもむろに先をつづける。

 ただ熱烈な愛好者であるだけでその専門家でない私を、バッハの音楽はいささかも学問的には教育しない。その点私は彼の芸術を解析したり論述したりする事のできる同国人を時に敬ったり羨望したりするが、これだけは如何ともしがたく、指をくわえて見ているだけである。しかしわがヨーハン・セバスチアンはすべてを持っていて、その上度量が広くて、こちらが信じて求めさえすれば何でも鷹揚に与えてくれる。思い迷って暗中模索を続けている者には輝かしい啓示を、悩んでいる魂には慰めや鼓舞による力づけを、倣り高ぶった心には反省と謙抑を、試練の苦にはその軽減を、暗黒には光を、あまりの眩ゆさには柔かな陰を、そして「ジャン・クリストフ」にもあるとおり、若い二人の夜の庭での睦言むつごとには変ホ短調のフーガで祝福をさえ贈る。「平均律によるクラヴィーア曲集」であれ、「インヴェンション」であれ、「管弦楽組曲」や「ブランデンブルグ協奏曲」であれ、ヴァイオリンのソナタであれフルートによるそれであれ、彼のどんな音楽からでもわれわれは手を空しくしては帰らない。およそバッハを聴いて失望した経験が今までの私にあったろうか。
 或る時私は自分の仕事の出来栄えのために意気すこぶる昂がっていた。私は悠然とレコードを取り上げてバッハの無伴奏ヴァイオリンによるソナタとパルティータを聴いた。ヘンリック・シェリングが弾いている三枚物だった。誰でも知っているとおり曲はすばらしくて雄大で、バッハの世界が其処に全部を展開しているかと思われる程の物である。自分の仕事の結果に大いに満足してひとり誇りをさえ感じていた私は、しかし比較にもならぬほど広大で深遠で華々しいバッハから褒められるどころか全面的に圧倒された。バッハはへりくだった者には優しく和やかに応答するが、思い上った心には絶大な優越を示して一喝を加える。私は縮み上った。とてもかなわないと思った。しかもその大きな一喝の中にも、到底掬みつくせないような美があり教訓があり、父性愛の歌があった。私は今更のようにバッハの高さ、大いさに打たれた。彼を空にたとえたのもあながち無理ではないであろう。

 その思い出深い「無伴奏ヴァイオリンのソナタとパルティータ」の全曲が、今新しく録音されて此処にある。そして演奏者は日本人豊田耕児である。彼にはすでに古典ヴァイオリン・リサイタルと言うのがあって、ヘンデルの荘重なソナタの一番、四番、六番と、ベートーヴェンのソナタ「クロイツェル」と、「スプリング」とがレコードとして出ている。この後の二曲については言うまでもないが、ヘンデルでもカンポーリの物などと較べていささかの遜色がないばかりか、私としてはわが豊田耕児のヴァイオリンの音の清潔さやその流れの美しさ繊細さのために、むしろアルテュール・グリュミオーを連想する程である。そして今度計らずも前記のバッハの大曲が録音発売されて、彼自身の真価を改めて世に間うている。そして今後も引続いて彼のレコードが出るという朗報が私には嬉しい。なぜかと言えば、いささか私事に亙るきらいはあるが、彼豊田耕児がまだ半ズボンの少年の頃、長野県松本市で医師たちの会のために一席のベートーヴェン講演を私が試みた時、その女の友達がピアノで弾くバッハの「来たれ、甘き死よ」に続いて、彼がヘンデルのヴァイオリン・ソナタの何番だかを見事に弾いて私を驚かせもし、喜ばせもしたからである。あまり昔の事なので本人はもうとうに忘れてしまったであろうが。

 

 

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 私とベートーヴェン

 もしも私にして若い頃から音楽に関心を持たず、それゆえこの芸術を愛することも知らず、もっぱら文学や自然科学にだけ心を寄せていたとしたら、今はどんなふうになっていたことだろうと時どき思う。へたな小説家にでもなっていたろうか、それとも博物学の教師にでもなっていたろうか。両方共それぞれ好きだったのだから、どちらになっても後悔はしていまいが、考えてみれば、やはり今のように詩や短文を書きながら、一方、趣味以上のものとして音楽を愛している生活の方が望ましいし、自分の性格や傾向からいってもこうなるのがしかるべき成行きだったと思っている。詩と音楽とはいわば兄弟のような関係にある。そこへ自然への愛が参加する。そしてこの三つのものが失われない限り、私の生活は、たとえば『田園交響曲』だといってもいいかもしれない。
 ベートーヴェンの『田園交響曲』、ウィーン郊外ハイリゲンシュタットでの一八〇八年の夏の歌。あの晴朗で自然の浄福に満ち溢れた音楽を、私はいつ、どこで初めて聴いたろうか。それは関東大震災の翌年である大正十三年の春四月、東京郊外上高井戸の畑中の新居でのことだった。家も新しく、私たち夫婦の生活も新婚直後のそれだった。
 私のその記念に、かねてから欲しいと思っていた『田園』の全曲レコードを買った。いちいち金属や竹製の針を取り換える、ビクターの手回しの蓄音機。それを、遥かに富士や丹沢の山やまの見える玄関の板の間へ持ち出して、広い麦畑を前に近隣の農家の若い人たちと一緒に聴いた。家が狭いので、屋外の縁台や莚が聴衆の席だった。五十分に近い演奏中、晴れ渡った空では絶えず本物の雲雀が囀り、裏手の藪や垣根のあたりでは鶯が歌っていた。「田舎へ着いた時の晴れやかな感情の目ざめ」も、「小川の場」も、「農夫たちの楽しい集まり」も「雷雨」も、「嵐の後の喜ばしい感謝に満たされた牧人の歌」も、すべて私たちの素朴な心に訴えた。みんな初めて聴いたこの名高い音楽に感激し、新来の私たち夫婦に感謝して、再び野良の仕事へと帰って行った。そしてその中には、明日から念願の半農の生活を始めるはずの私たちを「いい門出ですね」といって祝福してくれる隣人で『或る百姓の家』の著者江渡狄嶺さんもいた。
 ベートーヴェンという名とその幾つかの作品とは、それより早く明治の終り、大正の初め頃から知っていた。しかしそれらの知識が至って散漫な断片的なものであって、何ら形を成していなかったことはいうをまたない。東京上野の音楽学校や神田錦町のキリスト教青年会館あたりで偶然に聴くとか、何かの雑誌の中でその人の逸話めいたものを読んだぐらいが関の山だった。しかしそのベートーヴェンの音楽が時には音楽会で演奏されるようになり、数少ないながらレコードでも聴けるようになると、彼に対する私の熱情は急激に燃え上がって来た。そしてその火を煽り立てたのが、ある人の訳したロマン・ロランの『ベートーヴェンとミレー』という本だった。あまり感心できない英訳書からの重訳だったが、ともかくも、その時に味わった感動と興奮とは、それまでのどんな読書からも経験したことのないほど深刻かつ痛烈なものだった。
 もっともその頃すでに私は、同じロランの『トルストイ』や『ミレー』や『ジャン・クリストフ』などの英訳本をたどたどしい語学力で読んではいたが、その後新しく出版された『ベートーヴェンの生涯』のもっと正しい英訳本こそは、片時も手放すことのできない宝もののようになった。つまり私はロマン・ロランによってベートーヴェンという一人の英雄的な高邁な音楽家を知り、その創造の世界の大観を教えられ、同時に著者自身であるロマン・ロランにいよいよ深く傾倒することになったのである。
 その頃私には高村光太郎という尊敬する親しい先輩がすでにあった。彼がすぐれた彫刻家であり詩人であったことは誰でも知っている。しかしその高村光太郎にきわめて断片的ではあるが『ジャン・クリストフ』の中からの見事な翻訳があり、同時にベートーヴェンの音楽に熱中していた時代のあったことはあまり世に知られていない。その彼の熱中と私の熱中とが合体して、あの駒込の画室アトリエにベートーヴェンの音の波を澎湃とさせたことは、やがて仲間に加わった、若き日の彫刻家高田博厚もよく知っているはずである。
 われわれは各自の新しく手に入れたベートーヴェンのレコードを持ち寄って聴きに聴いた。そのレコードは今から思えば録音された作品の数も少なく、当時の金にしても高価だった。それを幾らか無理をしてでもわれわれは買った。しかし交響曲の揃ったものや枚数の多いものは思うように買えず、もっぱら『エグモント』や『コリオラン』や『レオノーレ』などの序曲か、前期や中期のピアノ・ソナタか弦楽四重奏曲の、ある楽章のようなものがわれわれの欲望を満たしてくれる対象だった。
 そんなだから高村光太郎の『エロイカ』高田博厚の『第八交響曲』私の『ラズモフスキー』の第三の時などは、まさにわれらのベートーヴェン・フェスティヴァルの観があった。しかしその間にもわれわれがめいめいの道に励んでいたことはいうまでもない。

 つい先頃も私はラジオのリサイタルで来日中のケンプの弾いている第五番のピアノ協奏曲『皇帝』を聴きながら、昔のある日を思い出して懐かしさに堪えなかった。
 この堂々たる大曲を初めてレコードで聴いたのは、私が登山の味を覚えて山の詩や文章を書き始めた頃であり、今四十歳を越した長女が、まだようやく幼稚園から小学校へ入学した当時だったから、東京の家を売って荻窪へ移ったばかりの時のことだったと思う。銀座の楽器店でルービンシュタインだかの弾いているその一揃いを買って、荻窪一丁目の仲道寺に近い新しい家まで帰る間じゅう、長い乗り物の中でなんと私の胸がわくわくしたことだろう。
 さてわが家へ着くとさっそく新築の二階座敷をあらためて潔斎するように掃除させ、妻と娘との三人で膝を固くかしこまって聴いた。ベートーヴェンを神聖視する空気がその頃すでに私たちの家庭を支配していたからである。壮大なアレグロの第一楽章から、慰めか祈りのように優しく美しいアダージョの第二楽章(幼い娘はこの時「なんだか夜が明けてゆく時のような気持ね」とかたわらの母親に囁いたそうだ)そして最後の豪快で華々しいロッド・アレグロの第三楽章。すべては私の想像していた以上に壮麗な音楽であり、仕事への熱情を掻き立て、鼓舞し、又それを愛撫してくれるような音楽だった。妻は目を輝かせて「いいものを買っていらっしゃいましたね。これで又お仕事にも張りが出ますね」といって祝福した。退屈もしないで聴いていた幼い娘の栄子さえ、母親に同調するように、「おとうちやん、よかったわね」といった。今から実に三十数年前の若くて楽しかった家庭生活中の一駒ひとこまである。
 気分が沈んで仕事に向かう心に張りがなくなり、自然さえも味気ない憂欝なものに見える時、こんな悲観的な意気地の無いことではいけないと思う私を奮起させるのは何といってもベートーヴェンである。そこで、年を取りながらいかにも幼稚なようではあるが、「そうだ! ベートーヴェンを聴こう。ベートーヴェンから救われよう」という気になる。しかし即座にはその聴きたいものがきまらない。あれかこれかと心は惑う。私は所有レコードのカタログを繰る。だが自分で書いた曲名の字面づらからは別段の新味も出て来ない。私は棚を前にレコードの列を見渡す。しかしそれも又同じことで、ジャケットという制服ユニフォームを纒って整列している姿は楽器店でのそれと変わらない。そこでピアノ・ソナタの並んでいるあたりから思い切って一枚を抜きいだす。交響曲でも弦楽四重奏曲でもいいわけだが、この頃しばらく彼のピアノ作品から遠ざかっていたからである。そして偶然手に当たったのはケンプの全集の中でも十八番、十九番、二十番、二十二番の入っている一枚。私はその中からA面を独占している第十八番、すなわち作品三十一の三を聴くことにした。
 その後の『ヴァルトシュタイん』や『アッパショナータ』の夏の高山を、すでに行く手の空に揺らめかせているような変ホ長調のこの曲は、私の萎えた気分の上に、爽快な驟雨か、燦然と照る雨後の日光のように作用した。誰やらが「あたかも宵の明星が窓べを訪れて軽く打つような、不思議なほどに優しい声」と形容したという冒頭の動機を持つ第一楽章は、私にはある高山で最初に現われた花咲く草地のように思われる。全体として伸びやかな美しい旋律と、幾度か繰り返されるこまやかな変奏。しかもさすがは高山の草本帯らしく、ところどころ強い低音や高音を轟かす玢岩ひんがんか花崗岩の頭が露出している。しかし第二楽章のスケルツォはもう花の姿も稀なまったくの岩礫地帯である。強壮なリズムとスタッカートとで進行する凹凸烈しい小径の登り。迫力に満ちていてしかも時には諧謔的でさえある、困難で勇ましい真昼の登山路。しかし頂上はもうすぐだ。そこは憩いと深い安らぎの第三楽章メヌエットの世界である。私はかつてこういう場所で『山頂』という詩の構想を得たことがある。浄福ともいうべき光や空気が海抜三千メートルの高所にみなぎっていた。ベートーヴェンがこのメヌエットに「中庸の速度で優美に」という指定をした気持は実によくわかる気がする。なぜかといえば続く第四楽章は私としてみればいわば下山の路であり、満足し切った華やかで若々しい喜悦の感情が、次第に音力を増しながら躍るように輝かしい終末へとなだれ込むからである。そしてベートーヴェンはこの最後の楽章に「情熱をもってきわめて速く」の指示を与えている。
 この音楽のおかげで、私に再び元気が出、生きる希望がよみがえり、自分の「神」と信ずるものへの信仰が立ち帰って来たことはいうまでも無いであろう。

 自然がベートーヴェンにとって終始変わることのない真実の友であり、慰め手であり、その魂の唯一の避難所であったことは、彼と親しかった同時代者の多くの証言によっても明らかである。その中に元来ドイツ生まれで、一八二四年九月にイギリスから彼を訪ねて行ったロンドンのハープシコード製作者ヨーハン・アソドレアス・シュトゥンプ、その後死期も近づいたベートーヴェンの病床にヘンデルの大全集を届けさせたあのシュトゥンプも、彼の回想記の中で一層詳しく巨匠のこの一面を伝えている。私はその要領をここに書く。そしてベートーヴェン自身の言葉といわれる部分だけは辞句どおりに翻訳をすることにする。 英本土から到着したシュトゥンプは、ウィーン郊外の温泉地バーデンにベートーヴェンを訪問した。彼に対して最も好意的なイギリスからの客であり、又その誠実な人柄も気に入ったのか、ベートーヴェンはこのシュトゥンプを歓んで迎えた。そしてある日朝早くベートーヴェンの方から彼を宿へ訪ねて行き野外の散歩に誘い出した。一八二四年というから死の三年前で五十四歳のベートーヴェン、もう最後の三つのピアノ・ソナタも、『荘厳ミサ』も、『第九交響曲』も書いてしまって、今や深遠な音楽的宇宙における五つの大星座ともいうべき最後の弦楽四重奏曲に指を染めていた頃のベートーヴェン。そのベートーヴェンがこういって誘ったとシュトゥンプはいうのである。
 「私は汚れのない自然の中で休養をとって、精神を洗い清めなければなりません。君は今日をどういうふうに過ごすつもりですか。今日は私と一緒に暮らして、私の不変の友人、緑の森や昂然と立つ木々や、小川のほとりの茂みや、青々とした隠れがを見に行きませんか。そうです、太陽が熟させてくれるその房を丘の高みから差し出している葡萄の株を見に行くのです。ねえ、そうしましょう。あすこには仕事の上の嫉妬もなければ悪だくみもない。行きましょう! 行きましょう! 何というすばらしい朝だろう! 見事な一日が約束されています!」
 こうして彼らはヘレーネンタールヘの道をとった。歩きながらの話題はイギリスで『田園』そのほかの交響曲が好評だということや、第十番目の交響曲が待たれているということなどがおもなものであったらしい。そしてベートーヴェンも、イギリスでは偉大なものへの感覚がまだ失われていないことを認め、私もロンドンを訪問したら君の所へ泊めてもらうことにしようといった。やがて二人はある美しいロマンティックな場所へ着いた。年を経た堂々たる木々が青空高く梢をかざし、ほのぐらい茂みがどっぷりと日光に漬かって、その反射を緑の芝生に投げていた。森に住む小鳥や小さい動物たちが、二人の投げ与える餌を求めて姿を現わした。どこからか滝の音が聞こえていた。ベートーヴェンは芝生に腰を下ろしていたが、やがてこういった。
 「私はたびたびここへ来て自然の創造物に取り巻かれながら、時には何時間もこうして坐っているのです。そんな時私の感覚は、身籠もっては産み出す自然の子らを眺めて酔いしれます。あそこに見えるあの太陽は、その威厳に満ちた姿を、人間の手に成るどんな醜い屋根によっても私の眼から隠しません。あすこに広がっているあの青空こそ、私にとっての崇高な屋根です。日が暮れると、私は天空と、太陽とか地球とか呼ばれているその光の軍勢とを、驚嘆して眺めます。彼らは永久にそれぞれの軌道をめぐっているのですが、私の精神は何百万キロを隔てたそれらの星辰に向かって、そこから創造されたものが生まれ、そこから新しい生物が永遠に生まれてやまない、その源泉に向かって突進します。次いで私は、自分の内に目ざめた感情に音楽的な形を与えるために色々とやってみます。しかし、ああ! 私の味わうのは恐ろしい幻滅です。私は書きなぐった紙きれを地面に叩きつけます。そして私の意識は、この地上には、興奮した想像力がそんな祝福された時間に浮き漂うのを見た天国的なイメージを、音や音符や色彩やのみなどで再現することのできる人の子などはありはしないのだという事実にほとんど圧伏されてしまうのです。」
 こういうふうに熱した口調で心中を吐露し終わると、ベートーヴェンは突然立ち上がって太陽を仰ぎながらいった。
「そうです。心に訴えるものはあの高みから来なければなりません。さもなければ、在るものはただの音、魂の無い肉体だけでしょう! 魂は、神聖な火花がある期間迫放されていたその大地から立ち上がらなければなりません。ちょうど農夫が彼の貴い種子を託した畑で、作物が花を咲かせ、多くの実を結んで殖え栄え、そして彼らが落ちて来たその源の方へ、もう一度昇らなければならないのと同じことです。なぜかといえば、被造物がその創造主や無限自然の管理者をあがめる道は、自分たちに貸し与えられたさまざまな能力による執拗な努力以外には無いからです。」
 何十年間聴いてきても、又幾つになっても、私がいまだにベートーヴェンに飽きもせず、ベートーヴェンから離れることもないのは、実にこうした彼の「信仰」が自分のそれに通じるところを持ち、それが彼の音楽の美をとおして私の心情を清め、かついよいよ豊かにしてくれるからである。創造主の手に成る自然が、私という凡人の眼に、ただ在るがままの美としてのみ映る時、そこから力強い「真」と「善」とを汲み取らせて、私をして人間らしい人間の道へと手を引き導いてくれるからである。

 ヘレーネン谷タールならぬ北鎌倉明月谷の書斎で物を書いている私の耳に、階下から孫娘の弾くピアノの音がきこえて来る。レコードやラジオのそれとは違って、又演奏会で聴くそれとも違って、静かな家の中に流れるその音には、何か一層親密な、一層すがすがしいものが感じられる。どこかで聴いたことのある曲だと思ってペンを休めて耳を傾けている間に、それがベートーヴェンのピアノーソナタ、第二十六番の『告別』のように思われた。しみじみとしてしかもリズミカルな対話のような部分に、陰影に包まれた哀愁や憧れを想わせる歌や、時どきそれらを突き放すような男らしい断乎とした強打の響きから確かにそうだと思ったのである。そして後になってきいてみるとそれはまさに『告別』で、彼女は近いうちに催される発表会でこの曲を弾くのだということだった。誰にも劣らずベートーヴェンを愛していながらピアノというものを全然弾くことのできない私は、いつものことながらそこに一種の羨望を感じずにはいられなかった。
 そういう私の部屋の片隅にある一台の古いリードオルガンを頼りに時どきベートーヴェンを歌ってみる。「たとえどんな楽器も弾けなくても吹けなくても、諸君には声というものがあるのだから歌を歌いたまえ」というジョルジュ・デュアメルの言葉に勇気づけられて、六十七曲が集まっている古いドイツ版のベートーヴェン歌集に私は向かう。無論伴奏は駄目だから歌だけである。まず『ゲレルトによる六つの歌』、これが私の最も好きなものでもあれば、一番得意なものでもある。それから『マルモッテ』や『奉献歌』次いで次第にむずかしくはなるが『五月の歌』、『アデライーデ』、『遥かなる恋人に』、『星空の下の夕べの歌』、『この暗い墓の中に』、『忍従』などがレパートリーの主たるものになっている。もちろん、このごろますます声も嗄れて息も続かず、とても家人などにも聴かせられたものではないが、自分一人だけでベートーヴェンに心を通わせるにはこれで足りると思っている。レコードでフィッシャ=ディースカウなどを聴くと惚れぼれとするが、この高名なバリトン歌手がまだ世に出ないずっと以前から、今ではぼろぼろになっている楽譜をたよりに永年歌ってきたのだと思えば、問題にならない独学の歌にも一種の愛と誇りとを感じ、わがベートーヴェンヘの変わらぬ誠を思うのである。
 創作欲を掻き立てるためにベートーヴェンを聴く時と、気に入った作品の書けたあとでベートーヴェンに向かう時とでは、いうまでもないことだが気組が違う。こんな意気地の無いことでどうするとか、物を書く情熱や力はもう自分を見捨ててしまったのかと思うような情ない気持の時、彼の音楽やロマン・ロランの『ベートーヴェン研究』のどれか一冊に衝撃やら救いやらを求めることは、正直いってこのごろ、私の場合少なくない。昔から「一行として書かざる日無し」を座右の銘としている私にとって、こんな時が一番心苦しく、落ちつかなく、気分もいらいらしている。しかし前にも書いたように目をつぶった気持で抜き出したベートーヴェンの一枚が、結局このみじめな気持を解きほぐすか、そこに一閃の日光をそそいでくれる。そしてこういうのは又ロランの『ベートーヴェン研究』が与えてくれる効果でもある。たとえば『エロイカからアパッショナータ』でも、ミサ・ソレムニスと最後のピアノ・ソナタ群のことを書いた『復活の歌』でも、第九交響曲に後期の弦楽四重奏曲や「喜劇は終りぬ」と題してこの偉大な音楽家の最後の日々と死について書いた三冊の『中絶された大本寺ラ・カテドラル・アンテロンピユ』でも、その数ぺージか一章を読むだけで私は新たな勇気を吹きこまれ、いささかの体力をさえ取り返した気になるのである。
 こうして私は仕事に向かう。物を書く人ならば誰にしろ覚えがあるだろうが、最初から気に入った題材のこともあればいささか心に染まないものの時もある。そして後者のような場合書出しの際には何となく味気ない。しかし「嚙んでいるうちには味が出て来る」のたとえの通り、筆が進むと同時におのずから道が開け、時には豊かな霊感の花が蕾を割る。もうそうなればこちらのもので、前途の眺めは洋々と展開する。こうして一つの作品が出来上がった時、私として晴ればれとした気持で聴くベートーヴェンに、何と親兄弟か最も親しい友へのような心置きない愛情を感じることだろう!
 さてこれから一八〇二年のハイリゲンシュタットの思い出の歌、あの青春に光り輝く『第二交響曲』を私は聴くのだ。

 

 

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 クープランとラモー

 夏の静かな日曜日、久しぶりに上の家のSさんを訪ねたら、あの涼しくほのぐらい広い書斎でクープランを聴かせてくれた。
 ランドフスカの弾くクープランのクラヴサン曲。楽器と言い時と言い環境と言い、まことに申しぶんがなかった。それに私は新調の軽い夏のきもので行ったのだった。きっちりと冷房装置の施された室内には、裏山からの暑い賑やかな蟬の声さえ入らなかった。
 私はクープランの物では管弦楽よりもクラヴサンの曲のほうが好きである。名手ランドフスカが言ったように「憂愁そのものとしての憂愁、その美、その詩、その高貴さ。そしてそれが与えるところの包みこむような優しい幸福のための憂愁」。クープランにおいて私はこの清らかな、気品に富んだ情緒に浸りたいために特にクラヴサン組曲を選ぶのである。それ故この気分を損うおそれのある題などはもちろん要らず、多くの場合番号すらも不要である。ただあの滴る水のような音、あの珠のような響きの戯れが、私をこの世の雑音から遠く運び去ってくれさえすればそれで足りる。そういう組曲に耳を傾け心を与えながら思った事だが、一曲が終るとほとんど直ぐに次の曲の鳴り出すのがいかにも惜しい。色々と製作上の都合も入り込んで来るレコードだから仕方もないが、本来ならばもう少しゆとりが欲しかった。もう少し味わいを長める時間、ゆったりと次のを待つ程の時間が欲しかった。けだし静謐や憂愁の幸福感にわれわれが期待するのはそういうものではないだろうか。これは何もクープランだけに限ったわけではないが、物が物だけに、又こちらの心の用意が用意だけに、いくらか急き立てられるような思いがして惜しかった。場合によれば、間をあけて、三曲か四曲だけでも充分ではないかとさえ思われた。
 クープランに『諸国の人々レ・ナシヨン』というフランス的に華麗をきわめた作がある。私は今でもたまにこれを聴くが、そういう時にはドイツ音楽や宗教音楽に傾き切っていた気持が柔かにほどけて、向きを変えて、遠く広い別の眺望へと瞳をそそぐ。次の詩は三年ほど前に書いた物で、その『諸国の人々』のレコードを初めて聴こうとしながら、一時思いとどまった時の偶作である。

    諸国レ・ナシヨンの人々

  あまり穏やかな小春日和びよりなので
  買ったまま未だよく聴いていない大クープランの
  ヴェルサイユ音楽のレコードを掛けようとする。
  すると、いや待て、
  そんな料簡ではいけないのだと、
  自分のうちのもう一人の自分が
  きびしい仕事の世界へと強く私を引きもどす。
  私は卒然と覚めて、諦めて、
  これが終生の物となるかも知れぬ
  机上の困難な仕事の続きへと立ちかえる。

  されば優雅なきらびやかな『諸国レ・ナシヨンの人々』よ、
  いつか私になお幾らかの寛闊な日が来るまで
  その美しく装われた箱の中に
  お前達のルイ王朝や地中海的な豪壮と歓楽の
  昔の夢を秘めて置いてくれ、待っててくれ!

 クープランよりも五歳年下のジャン・フィリップ・ラモーは、そのRameauという姓のためか、私には冬の太陽に輝く林の木々の枝のようなイメージが湧く。事実彼は芸術家としては野人に属していて、音楽理論の上でも反対者の連中との激しい論争を辞さなかったらしい。イタリア音楽の民衆的な美を称賛するジャン・ジャック・ルソーら百科全書派を相手に廻して、フランス音楽の価値を積極的に説いた論文『音楽に対する我らの天文の観察』は有名な物だとされている。また『和声論』の著者としても知られているが、バッハと共に十二平均率を積極的に唱導した最初の大家の一人である事を忘れてはならないと遠山一行氏は言っている。私はこの方面の事に全然暗いが、年老いたジャン・ジャック・ルソーの登場するロマン・ロランの戯曲『花の復活祭』の舞台の上で、クールトネ公爵やモンルイ元帥夫人を前に演技される舞踊歌劇が『優雅なる印度』というものである事を知り、更にフランス人名辞典でその音楽の作者ラモーがどういう人間であるかを知った四十数年前のなつかしい思い出がある。花の復活祭は「枝の日曜日デイマンシユ・デ・ラモー」でもある。そしてその日にラモーの音楽。これは必ずしも作者ロランが全く意識しなかったとも言えないかも知れない。当時私はその戯曲を翻訳していたのである。
 『優雅なる印度』や『ピグマリオン』も良いが、ラモーではやはり『クラヴサン曲集』を採りたい。私のは三枚ともヴェイロン・ラクロアが弾いているが、音楽の窓のむこうに星のきらめく夜、一人静かに書斎の安楽椅子で聴いていると何とも言われず良い。私は器械のヴォリュームをぐっと落として聴く。自分のためにだけ弾いてもらっているように。そして昼間の粗雑な生活からいくらかでも心を洗われ、いくらかでも魂を純化された自分に立ち帰ろうとして。

 

 

 

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 私のベルリオーズ

 大正五年に本に成って出たのだから、今から凡そ六〇年前の昔私は初めてベルリオーズの名を知り、この音楽家の事を巻頭に論じているロマン・ロランの『今日の音楽家』という本を翻訳していた。その仕事は語学の上でも音楽的知識の吸収の上でも限りなく私に役立った。その中でロランは矛盾に満ちた人間ベルリオーズを一括して次のような名文を書いていた。
「彼はロマンテックの天才の権化であり、奔放果てしなき力であり、自己の歩んだ道程に意識無き者であった。私は彼がおのれ自身を理解しなかったと迄は言わない。確かに彼がみずからを理解した時は幾たびか有ったのである。彼は機会が欲する処に自分自身を駆りやる事を許した。あだかも古代スカンディナヴィアの海賊がその小舟の底に横たわって天空を凝視していたように。そして彼は夢想し、苦悶し、哄笑し、或いは熱病的な妄念に屈服したりした。彼はその芸術と共に半信半疑のうちに生きたように、同じ態度をもってその情感と共に生きた。その音楽においても、ちょうどその音楽批評に於けると同様に、彼はしばしばおのれ自身矛盾を感じ、ためらい、そして立ち戻った。その感情と思想のいずれにも信を置かなかったのである。彼は魂の内に詩を持ち、そしてオペラを書く事に努めた。然し彼の感動はグルックやマイヤベーアの間を行き迷った。彼は通俗的な天稟を持つていた。然し彼は俗衆を嫌厭した。彼は音楽の不敵な革命家であった。然しこの音楽的運動の統御を彼はそれを欲する人々の取るに任せた。更に一層悪い事は、彼がその運動を我が物に非ずとし、未来に向かって背を向け、そして過去の中に彼自身を投げ込む事であった。何のために? 多くの場合彼は知らなかったのだ。熱情、悲愁、移り気、傷ついた自負、——これらのものは生活の厳粛な事柄よりも多く彼に影響した。彼はおのれ自身と闘う人であった」

 一面では心優しく抒情的、他面では短気で負け嫌い。こういう性質の若者だったので、初めてベルリオーズの『ローマの謝肉祭』や『幻想交響曲』を聴いた時など、私は飛び立つほど喜び且つ驚いた。前者は凛々と鳴り響いて華麗な祝祭的気分のみなぎった音楽。後者は明暗の情趣と静と動との変化に富んだ劇的な音楽。ベートーヴェンの『第六』を想わせる田園詩的な第三楽章から突如グロテスクな行進曲の咆哮に移る第四楽章の「刑場への行進」と終楽章の「魔女の祝宴」。私にとって此の後半の二つの楽章のような音楽は全く初めて聴く物であり、ベルリオーズという巨匠の異つた半面を生き生きと見せっけられた気がした。そしてやがて彼の妻となったイギリスの女優ヘンリエッタ・スミッソンに対する最小の失恋からこんな壮大な作品が生まれようなどとは、当時の私などには考えも及ばない事だった。それにしても田園の夏の夕方、二人の羊飼によって吹き交わされる牧笛の調べの何と美しいことだろう! こうした宗教的な清らかな情緒は、後年『イタリアのハロルド』や『キリストの幼時』などの中に一層鮮やかに再現されはしなかっただろうか。
 続いて知った『ファウストの劫罰』も永い間の憧れだった。その中の「ハンガリー行進曲」だけは断片として以前から知っていたが、エルベ河畔の草原でファウストを眠らせるメフィストフェレスと空気の精と地の精との合唱は本当に美しいもので、いくら好きなベートーヴェンからもこういう物は見出されないと思った。私はこれと共に、その後マルゲリートが一人で歌う「テューレの王の歌」と「炎と燃える恋に」のロマンスも好きだった。元来ベルリオーズは少年の頃から古代ローマの詩人ヴィルジールを好んで読んでいた。ヴィルジールは偉大な牧歌詩人である。そういう読書からの感化と生まれながらの自然への愛とが一緒になって、ベルリオーズの音楽の中に生かされるに至った事はむしろ当然であったろう。彼の歌の楽句がヴァーグナーの物などと違って、往々美しく棚びくように長いのも、その性格の牧歌的な一面から来ているのではないかと思う。その意味で第一六景でファウストの朗誦する「自然への祈り」も雄大なものである。

 三部聖劇と題される『キリストの幼時』も私は好きだ。中でも第二部の「聖家族への羊飼達の別れ」と「聖家族の憩い」と、第三部の「サイスヘの到着」と「貧しいユダヤ人の家」などに最も心を引かれる。バッハなどの受難曲でよく福音記者が事件の経過をレチタティーヴォで述べてそれがまた大きな魅力になっているが、ベルリオーズの此の聖劇にもこれに似たものがあって、それがまたベルリオーズ独特の雄々しさを表現している。「羊飼達の別れ」はいかにも素朴で真情が溢れ、「聖家族の憩い」は広い野と涼しい木蔭と、其処に疲れを癒している親子三人の平和な姿が、前述の福音記者のレチタティーヴォによってまことに清らかに美しく描き出されている。そして音楽によるこういう自然と人間の描写はヴァーグナーなどには遂に見当らないもので、ベルリオーズにおいて独特だと私は信じている。
 自然描写と言えば『イタリアのハロルド』にも素晴らしいものがある。あれを聴くと私などにはたちまち未知の山への憧れやかつての登山の記憶が湧き上がる。そして最近のものとしては、残雪に輝く峰々を眼の前にした六月の乗鞍高原の風景である。牧場の谷のあたりには放牧の牛の群が水を飲んだり静かに徘徊したりし、身辺にはさまざまの草の花が咲き、ウツギが咲き、コナシが咲き、フジが咲き、色々な種類のツツジが赤に黄に燃え、森や林ではウグイスが鳴き、ホトトギスが鳴き、カッコウが鳴き、オオルリやメボソの類が賑やかに鳴いていた。日当りは暖かく日陰は涼しく、見上げれば乗鞍の幾つの峰々が、白絹のような雲を浮かべた青空に聳えていた。私は当然の事のように『ハロルド』の中でオーボエが幾度も歌うあの沈痛で男らしい主題をハミングで試みた。あたりには殆ど人影が無かった。そしてたまたま近づいて来る人があっても私のような瞑想にふける者は無く、連峰のたたずまいや溪谷の水にカメラを向けたり、林の中へもぐり込んでは又すぐに出て来たりするばかりで、誰一人としてベルリオーズと共に生きる人はいなかった。
 ベルリオーズの主要な作品を出来るだけ知りたいと願う者に、『レクィエム』、『ロメオとジュリエット』、『トロイアの人々』などのレコードは欠かされない。私も及ばずながらそれらを持っているが、ほかの作者の物で聴きたいのもあるし、第一、音楽だけに時間を与えるわけにもいかない。しかし幾日か前に届けられて来た新しいベルリオーズを、今日こそはと思って、身のまわりを片づけたりしながら改まって聴く思いは又格別である。シャルル・ミュンシュの指揮で死者のための大ミサが始まり、ピエール・モントゥーの指揮でキャピュレット家の舞踏会や愛の場面が始まり、コーリン・デイヴィスの指揮でトロイアの群集の合唱が始まる。すべて心ときめく瞬間である。そしてどうしてこういう物が出来、どうしてこういう音楽にめぐり会い、又どうしてこういう作品を書いた人間を好きになったのかと、我ながら不思議に思われるような瞬間である。私は自分の生来を思い、過去を想い、自分にベルリオーズを知らしめたロマン・ロランとの精神的出会いを思い、そして最後に何処か共通する処のあるベルリオーズと自分との性格を思う。その点いかに好きでもベートーヴェンやバッハは全く別である。よしんば仮にベルリオーズが親であり兄弟であったとしても、バッハやベートーヴェンやモーツァルトの如きは、私にとって遠い師であり神である。名著『ベートーヴェン』を書いたロマン・ロランは数十年前の或る時私への手紙の中で、「日本でそんなにベルリオーズが愛されているのは嬉しい事です」と書いた。思えばベルリオーズもロランにとっては彼の多くの星座の一つだったのである。

 『幻想交響曲』は、一口に言えば、一生の間恋愛に付き纒われたベルリオーズの縮図であり、告白録である。「誰か彼のヘソリエッタ。スミッソンに対する熱烈な恋を知らない者があろう。それは痛ましい物語だった。彼はジュリエットを演じたイギリスの女優に恋をした。(彼が恋したのは彼女であったのか、それともジュリエットだったのか)彼は唯一度彼女を見た。そしてすべては終った。彼は叫んだ、『ああ、私は敗けた!』と。彼は彼女を熱心に望んだ。彼女は彼を拒絶した。彼は懊悩と激情の魔酔の中に生きた。彼は白痴のようにパリの街中やその近郊を、何らの安息も慰藉も、目あても無く、幾日幾夜にわたって歩き廻った。場所を構わず、眠む気が彼を見つけて襲う時まで。(中略)彼はその間にヘソリエッタに関する誹謗の噂を耳にした。彼は彼女を侮蔑した。そしてその悲しい憤怒のうちに、彼が忽ち魅惑されてしまったピアニストのカミーユ・モークに親愛を示しながら、その『幻想交響曲』によって公然とヘンリエッタをはずかしめた。」
 以上はロマン・ロランの『ベルリオーズ論』からの書き抜きだが、彼がやがて若さも美も失ったヘンリエッタと結婚して貧困の中で永く連れ添った事、その故か後年『幻想交響曲』にも部分的な変更を加えた事等はすべて多くの人々の知悉しているところであろう。それにしてもあの「田園での情景」と「刑場への行進」との何という突然変化であろう。

 

 

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 カロッサ

 緑の丘にかこまれた二階の書斎、その書斎を埋めた棚の或る一段を占めてハンス・カロッサの作品の原書と訳書が、其処だけはつつましく独りを守って整然と並んでいる。ちょうど私の理解しているカロッサその人のように。なぜならば彼の魂はつねに静かで穏やかであり、瞑想的であるとともに多分に宗教的な傾向を持ち、さらに現代ヨーロッパ文学のどんな流派にも属さないで毅然として深くおのれの土に根を下ろしているからである。そして彼の作品で充実しているこの書棚の一角を前にすると、私にはカロッサがまだ決して故人ではなく、あの温容とあの美しい大きな眼とで、今にも自分の質問に答えてくれる現存の人のような親しさを感じるのである。思えば彼を愛し敬うことを本当に知って以来、私はいくらか自分の人間が変った気がする。以前よりもさらに心が穏やかになり、物の見方や考え方が緻密になり、一人ぎめを捨てて鷹揚に学ぶことが多くなった。『詩集』を初め『ドクトル・ビュルガーの運命』から『若き医師の日』に至るまでの彼の全著作が、私にこのような尊い感化を及ぼしたのである。昨夜も彼の或る本をめくっている内に次のような個所にめぐり会った。そしてその個所に昔自分が赤鉛筆で線を引いているのを見て深い感慨を覚えた。それは今から十七年前に施したアンダーラインだった——
「命あるものの真の姿を知るためには、人は永く生きなければならないだろう。自分自身を僅かなものの上に限って、幾たびか死に対するように深くこの僅かなものを忘れ去り、他日それだけ深くそのものを思い出さなければならないのであろう。」
 ハンス・カロッサは一八七八年十二月十五日にドイツ上バイエルンの温泉町テルツで結核の専門医カール・カロッサの子として生まれ、一九五六年九月十二日、同じドイツのパッサウに近いリットシュタイクの農園で七十八歳を最後にこの世を去った。彼の家系はカロッサという姓が示すとおりイタリアの出であるが、その南欧の明るい日光と、南ドイツ・バイエルン地方の敬虔なカトリック的雰囲気との両面を一身に体して育ったカロッサが、後年「光の詩人」と呼ばれ、その文学から神的秩序への信仰の深さを感じさせることをやめなかったのもさこそと頷かれる。父親カールが町の開業医だったので、わがカロッサもその父に随ってピルスティングとかカーディングというような町で幼少の時代を過ごした。そしてその頃の思い出を書いた『幼年時代』の一巻は、今でもなおわれわれの心を洗って清めるような美しい作品である。小学校を終るとラッツフート高等学校へ入学し、ついでミュンヘン、ヴュルツブルク、ライプツッヒ等の諸大学で医学を学んだ。その多感な青年学徒時代の華やかで充実した追想や回顧は後年の『青春変転』と『美しき惑いの年』に詳しく描き出されていて、人間としての彼の内面的発展の経路や詩人の萌芽がはっきりとうかがえる。
 一九〇三年(二十五歳)から一九一四年(三十六歳)まで、カロッサは開業医としてテルツ、パッサウ、ニュルンベルク、ミュンヘンで活動した。われわれならば喜んでその患者になりたいと思うような善い医者であったらしい。なぜなら彼が本職のかたわらに書いた幾篇かの詩や『ドクトル・ビュルガーの運命』を読むと、その常に同情に満ちてやや憂欝な美しい人間性があふれんばかりに流露しているからである。同じように医師という天職を題材とした小説に『医師ギオン』と『成年の秘密』があるが、これらはいずれも先に引用した文章にもあるように、すでに立派に彼の哲学を生きているカロッサを物語るものである。一九一四年に勃発した第一次大戦に国民兵軍医として志願従軍したカロッサは、西部戦線と東部戦線とを転戦しながら、その体験をもとに『ルーマニア日記』を書いた。この本は第一次大戦の生んだ戦争文学の最高傑作と言われているそうだが(どれほどの意味でそう言われているのか知らないが)、単に戦争文学などと片づけてしまわず、こうした非常の時に戦場で書かれた一軍医で文人である人間の英知と心情の日記として、深く尊重されるのが正しいと私は思う。そしてその意味から言えば、相手国フランスの軍医であり文人であったジョルジュ・デュアメルの『殉難者の生活』もまた同様な尊重に値するものであることを私は確信する。
 戦後のカロッサはしばらくの間ミュソヘンで開業医をしていたが、その後母親の故郷である下バイエルンのゼーシュテッテンに住居を定めて、前に挙げたような諸作を完成することに専念した。当時彼の作品は少数の詩人や小説家や批評家および読者の間からは早く知られていたが、一般にはまだ注目を引くに至らなかった。しかしその真価を認めていた芸術家たちとの交遊は、彼に人間洞察のための好い機会と一層確かな自信とを与えた。そしてこの時期のことを詳しく書いた文学的回想記『指導と信従』は、それを読むわれわれを今日なお鼓舞したり教えたりするところきわめて多く、まことに興味尽きない書物だと言える。彼は第二次の大戦中にはドイツ国内に踏みとどまって人々と苦難の生活を共にし、ドイツ敗北の日にはナチスの手で危うくも命を失いそうにさえなった。その戦時の荒涼とした世相の中で静かに強く生き抜いていった彼の生活記録は、一九五一年に出た『狂った世界』一巻としてカロッサ独特の深みのある思索と具象との文体で書かれている。そしてその晩年にはパッサウ近くのリットシュタイクで夫人と二人の静かな生活を営み、今までの詩に新作を加えて、一冊に纒めた『詩集』を出し、さらに初めて医院を開業した当時の思い出『若き医師の日』を出した。そしてそれの出た翌年の一九五六年九月十二日に静かに他界したことは始めに書いたとおりである。
 他の文学作品の場合でももちろんそうであるが、特にはその作者の用いた言葉と文体とを元にしてその心なり趣きなりを深く味わうべきものである。その点外国語で書かれた詩の日本語訳を前にして原詩にそなわった元来の美を説くのは間違ってもいるし、事実出来ない相談でもあるが、今そのことにこだわっていては出版者の本意に添うことができない。そこで私としては以下藤原定氏の訳に成る幾つかのカロッサの詩から自分の感銘を採り上げて、あとは読者の自由な理解や鑑賞に任せたいと思う。けだしカロッサの詩はいわゆる唯美主義者や象徴派の人々の詩とはいささか違って、ロマン・ロランの言う「実体シユプスタンス」を持っている。それでその実体を把握することができればおのずからその詩の真意に触れ、そこから何かしら貴重なものを学ぶことができるからである。
 たとえばここに「体験」という私の好きな詩がある。四行が一聯になっていてそれが九聯あるから相当長い詩だが、それだけの長さが無いとカロッサとして自分の言いたいことが言いつくせない。そこで私も詩全体をそのまま引用したいのだが紙面をとるから前半の部分を要約し、最後の一層大事な二聯だけを原形のまま引くことにする。先ず要約の部分を書いてみよう。——君は春の森の中を歩いている。塀の木は赤い若葉に燃え、青いアネモネの花が咲き、空には銀いろの雲が流れている。すると君は森の奥のところで自分の足もとの若草の間から異様な物の突き出ているのに気がついて驚く。それは長い歯を持ち、青白い茎から蹴爪けづめを立てて君を脅おびやかし伸びてゆく若草たちに迫って彼らを怖れさせている。森のそとには明るい世界が広がっているが、君はこのほのぐらい世界でその奇怪なものが何物であるかを突きとめるために身をかがめざるを得ない。するとそれが一本のシダの若芽だったということを君は悟る。しかもその若芽はもうあの翼のような葉を柔かに形づくっている。そこで君は自分がこの地上に生まれて来て、初めて母のふところに抱かれた時のような温かい感じを味わう。人間には縁遠くて低級でさえある一つの命あるものに、兄弟のような血のつながりを覚える。

  君の眼からうろこが落ちて君は理解する、
  君自身の中を流れ経めぐっているのと同様に
  君の同胞はらからの最も魯鈍ろどんな者の中をも
  神々しく流れ経廻っている母なるたましいを。
  そこで君は佇たたずみ、君の観察の一切が
  誇りある謙譲の心へと転じてゆき
  母なるたましいへの限りない信頼を感じて、
  地の子よ、君は深く感動するのだ。

 以上はカロッサの詩のほんの一例にすぎないが、これだけをもってしても、諸君は今までに読んだ他の詩人のそれとは全く違ったものがその中心思想を成していることを感じ取るに相違ない。単に美しい自然の叙述ではなく、そこにはわれわれの感覚をとおしてわれわれの心に触れて来る「存在の神秘」や「在る事の意味の重さ」の歌が歌われている。ただ読みくだしてしまえばそれきりのような一行や一句にも、味わえば味わうほどいよいよ深い養いとなるような貴いものがある。そして初めの時はそれほどにも感じなかった詩句が、年を経て読み返せば、実は驚くほど深い真理なり教訓なりを含んでいたことを発見して喜ばされる。『或る星が歌う』の最初の聯でカロッサはこう言っている——

  さあ、レンズを磨さ、望遠鏡を作りたまえ、
  私の運行をうかがうために!
  だが君達が私の歌を聴きとれないのなら
  君達はただ地上的な戦慄を感じるばかりだ。

 私は思うのだが、もしもわれわれ人間にして星のを聴き取ることを得なかったとしたら、単に星の正体をきわめるだけだったとしたら、そもそも何のための天体観測、何のための月世界旅行であろう!

 

 

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 ヘッセ

 詩を愛するわれわれにとってとうてい忘れることのできないドイツの詩人で小説家のヘルマン・ヘッセは、西暦一八七七年に生まれて八十五歳という長寿を保ち、つい十年ほど前の一九六二年にこの世を去った。生まれた場所は南ドイツ、シュヴァーベンのカルヴという小さい美しい静かな町であり、亡くなった処は、スイス、ルガーノ湖畔のすぐれた風景に囲まれたモンタニョーラだった。彼の祖父母も両親も東洋のインドでキリスト教をひろめる仕事に従事したと伝えられているが、彼は特にその祖父と母との血を受けついでいたかのように、国籍や民族を超越した平和主義的な思想と東洋の仏教的精神へのあこがれを抱いていた。
 ヘッセは四歳から九歳まで、スイスの都会バーゼルで両親の働いている伝道館に育った。そしてやがて故郷へ帰り、自分も祖父や父親のように牧師になるために種々困難な思いをして有名なマウルブロンの神学校へ入ったが、彼自身の言う「内面の嵐」に襲われて半年ばかりで其処を逃げ出してしまった。堅苦しい規則や無理解な教育の仕方に耐えられなかったのと同時に、「詩人になるか、さもなければ何者にもなりたくない」という烈しい衝動にかられたのがその理由だった。この体験は『車輪の下』という小説に書かれている通り結局作中の主人公は破滅することになるが、作者であるヘッセ自身は神経衰弱にかかって自殺未遂のところまで追いつめられながら、母親の恩愛のおかげで危くも立ち直った。そして町の時計工場の見習い工やチュービンゲンの本屋の店員をしたりしながら独学で好きな文学の勉強をつづけ、詩を作ることに専念した彼は、二十二歳のとき最初の詩集『ロマン的な歌』というのを自費で出版した。しかしよくあるように、それに対して何らの反響も無かった。続いて夢幻的な散文集『真夜中過ぎの一時間』を出したが、これも二歳年上だったリルケなどに認められたぐらいで、一年間に僅か五十三部しか売れなかった。彼独特のロマンティックで音楽的な文体の物ではあったが、余りに病的で内向的なために一般に好まれなかったのであろう。彼はその年の秋にバーゼルのライヒ書店というのに移って、二十四歳のとき詩文集『ヘルマン・ラウシャー』を出版した。ところがこれは「山のあなたの空遠く」で有名なドイツ詩人カール・ブッセやベルリンの大出版業者フィッシャーの注目するところとなった。そしてブッセはヘッセの詩を「新ドイツ抒情詩人叢書」の一巻として採り上げた。その『詩集』は彼が二十五歳のとき出版されて、ヘッセはそれを母に献げた。しかし惜しいかな慈愛の母はその出る直前に他界した。この本は後に増補して『青春詩集』と改題され、その中にはわれわれが今でも懐かしく思い出すような詩が既にたくさん入っている。
 ヘッセの出世作とも言うべき『ペーター・カーメンツィント』(邦訳名『郷愁』)がベルリンのフィッシャー出版社から出て、彼の名が一躍有名になったのは一九〇四年二十七歳のときだった。しかし彼は大都会へ出ようとは思わず、九つ年上のマリア・ベルヌーイと結婚し、スイスのボーデン湖畔に近いガイエンホーフェンという半農半漁の村へ引っこんで、創作に心を打ち込んだ。其処では先ず小説『車輪の下』が書かれ、続いて中篇小説を集めた『この岸』、『隣人』『ゲルトルート』(『昼の嵐』)詩集『途上』などが出た。しかし平穏無事な家庭生活よりも放浪を愛したヘッセと、ピアノをよく弾く芸術家かたぎの年上の夫人との間はうまく行かなかった。そういう結婚生活の行きづまりもあって、彼は一九一一年の夏から冬へかけてシンガポール、セイロン、スマトラなどへ数カ月の旅行をした。しかし当時まだ完全な植民地だったその地方に古い東洋的英知などが求められるわけでもなく、彼は失望を抱いて帰って来た。この旅行のことを書いた文章は後になって『画本』という随筆集にも載っている。
 その翌年の一九一二年、ヘッセはガイエンホーフェンの家を畳んで首都ベルンに移り、画家ヴェルティの別荘を借りて其処で中篇小説集『まわり道』小説『ロスハルデ』(『湖畔のアトリエ』)などを書いた。そしてそこに書かれている芸術家の結婚生活の破局は、やがてヘッセ夫妻自身の運命となった。つまり彼らはこの小説が出てから九年後に離婚したのである。『ロスハルデ』が出た一九一四年は第一次世界大戦が始まった年でもある。ヘッセはベルンでドイツの捕虜を慰問するために献身的に働いたが、一方極端な愛国主義的言辞に反対する文書を書いたというかどでドイツ国内では売国奴のように非難され、多くの新聞や雑誌からボイコットされた。一九一五年に小説『クヌルプ』、詩集『孤独者の音楽』、小品集『路傍』が出た。そしてその年の八月、ヘッセと同じ反戦的な立場にあったロマン・ロランが初めて彼を訪問した。この時ロランは四十八歳、ヘッセは三十八歳だった。それ以来彼らの親交はいよいよ深まった。その後出版された二人の往復書翰集はまことに興味深いものである。
 しかし戦争のための悲痛な体験と、精神病が悪化した夫人との離別と、彼自身の病気による危機の影響は、次第にヘッセその人の作風に変化を及ぼした。一九一九年の『デミアン』以後『荒野の狼』までを貫いて流れているものは、もはや前期の柔かいロマンティシズムや抒情的要素ではなかった。それは厳しくて、諷刺的で、従来の自分自身の否定ですらあった。しかしその後の『シッダールタ』を含む小説集『内面への道』や『ナルツィスとゴールトムント』(『知と愛』)は危機を通り抜けたヘッセの円熟した傑作であり、第二次大戦中に十年がかりで書いたと言われる最後の大作『ガラス玉演戯』に至っては、彼の一生の夢と現実とを打って一丸とした精神的宇宙とも言うべき物である。
 第二次大戦が終った翌年彼はゲーテ賞とノーベル賞とを相次いで贈られた。そして、友人ポートマーの建ててくれた南スイス、ルガーノ湖畔のモソタニョーラの新居でニノン夫人との静かで幸福な結婚生活が始まった。彼はもう小説こそ書かなかったが、時折りの詩や随想の筆は絶たず、『新詩集』、『思い出草』、『晩年の散文』などを出版して昔からの愛読者たちを喜ばせていた。その上彼には晩年の楽しみとしての水彩画描きがあった。そしてそれもまた一冊の愛らしい本として出版された。

 詩人ヘルマン・ヘッセの詩史上の位置については、その世界の全貌に通じていない私には何ら責任をもって言うことができない。しかし彼がドイツの詩の歴史の上でゲーテやシラー、ヘルダーリン、クライスト、アイヒェンドルフ、メーリケ、ニーチェなどの精神上の流れを汲み、同時代者としてリルケ、カロッサ、トーマス・マンらと肩を並べていた事実は記憶されていいと思う。それにしてもヘッセは「我意アイゲンジン」の人だった。そして「汝のあるところの者となれ」が彼の生涯を通じての信条だった。したがって本来独立不覊の詩人である彼を詩史の狭い枠の中に嵌め込んで論じるのは本人の意志にも反するだろうし、私としても好まないところだから此処では取り上げない。それよりも彼の詩そのものを見よう。けだし詩こそは作者その人の真の姿を現わしているものだから。
「世界の詩」(弥生書房)の中でヘッセの詩は高橋健二さんの見事な翻訳を基にして編まれている。そしてそれはまたヘッセ自身が選んだ二冊の詩抄『生命の木』と『花咲く枝』とから採られたものである。しかもこれだけ読めば充分に詩人ヘッセの真髄を掴むことができると思う。そこで私は先ずニノン夫人のために編まれたという『生命の木』から自分の特に好きなのを挙げ、次いで姉アデーレに捧げられた『花咲く枝』から選んで折り取ることにする。
「野を越えて」はまだうら若い詩人のさすらいの心であり、このまま旋律をつければシューベルト風の歌曲リ−トにもなりそうな気がする。「ラヴェンナ」もその意味で懐かしい。「エリーザベト」で相手の娘を高い空に浮かぶ雲として歌っている箇所は有名であるし、また事実美しくもある。「七月の子ら」の輝くばかりな晴れやかさもいい。しかし「霧の中」は暗く寂しい調べだが、へッセを読んでこの詩を愛さない人はいないくらい優れた作品でもあれば有名なものでもある。「幸福」と「独り」はわれわれの人生行路のための一つの戒律の裏と表である。ヘッセが一生の間持ち続けていた根本思想の一つもこれだったと言っていい。「最初の花」も見過ごすわけにはいかない。特に私のように年を取った詩人にはこのように書かずにはいられなかったヘッセの気持がよくわかる。「芸術家」にしてもそうである。そして「画家ノルテンを再び読んで」で、青春時代の感激を新たにする気持を書いたこの詩は、その第三聯で特に私などの心に同感を呼び起こす。
「平和」は第一次大戦の時に書かれた詩だが実に美しい。私は今から五十年近く前に初めてこれを読んで、この平和に献げられた歌に深い感動を覚えたことを今でも忘れない。「無常」や「内面への道」もまた詩人ヘッセの魂の告白として読むときにわれわれへの賢い教訓となるだろう。その意味で「省察」もまたわれわれが幾たびか読み返すことで、ヘッセから教えられるところ甚だ多い詩の一つだと私は信じている。「花咲く枝」は、一見あわただしく過ぎて行くように見える自然の季節を人間の一生に託して歌いながら、そこに人生の意義を見出すことを教えた詩で、短いながらヘッセの傑作の一つだと言える。同じように「静かな屋敷」と「願い」も、いかにもよくヘッセの心の床しい一面を語っていはしないだろうか。しかし同時に真の「詩人」が孤独な存在だということもまた彼はわれわれに思い起こさせる。第一次大戦の時ヘッセと同じような体験をした心の友ロマン・ロランに献げられた「運命の日」は、「戦争四年めに」とともにわれわれが心に銘記して置くべき詩だと思っている。さらに「ニノンのために」「キリスト受苦の金曜曰」「夕暮れの家々」「回想」「バッハのトッカータに」「ガラス玉演戯」「笛のしらべ」「救世主」「階段」等に至っては、すべて彼の晩年を飾る珠玉の作だと言って過言ではないだろう。

 

 

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 ジャム

 フランシス・ジャムは西暦一八六八年十二月二日に、フランス、オート・ピレネー県の小さい町トゥールネーで生まれ、一九三八年十一月二日に、同じフランスのバスク地方のアスパレンの村で、満七十歳を最後としてこの世を去った。彼の略歴については「世界の詩」(弥生書房)の拙訳『ジャム詩集』の巻末に私自身の手で書いたから、重複を避けてここでは触れない。彼は生涯の間に多くの詩集を出版し、また『クララ・デレブーズ』や『アルマイード・デートルモン』のような艶やかで感動的な小説を物し、さらに幾つかの小さい物語や随想の本などを書きはしたが、一生を通じて自分の住んでいた地方を離れることがほとんどなく、別段人口にのぼるほどの事件にも際会しなかったから、その生活は至って平穏で地味なものだった。そしてわずかに死の前年に首都パリに招待されて自分の業績が賞讃される席に出席し、それまでは冷淡だった大都会の新聞や雑誌からの祝福に包まれた時が唯一の遠出と言えば言えるくらいのものだった。もっともそれより早く二十七歳から八歳のとき一度だけパリヘの旅をしたことはあったが、芸術的首都の喧噪と空虚さとにすっかり憂欝になって、早々オルテズの田舎へ逃げ帰って来た。ただその時相知つた詩人アルベール・サマンは彼の心から信じ愛する友となった。その美しい友情をまざまざと偲ばせる詩は、詩集『桜草の喪』の中の最もすぐれた一篇「哀歌、第一」として残っている。
 一八九八年の詩集『暁の鐘から夕べの鐘まで』の冒頭に、フランシスージャムはその序詩としてこう書いている——
「神さま、あなたは私を人間の中へお呼び出しになりました。私は此処におります。私は苦しみ、そして私は愛します。私はあなたが私にお与え下さった言葉で語りました。私はあなたが私の母と父とにお教えになり、そして彼らが私に伝えてくれたその言葉で書きました。子供らに笑われ、頭を垂れて、重荷を負うて路を行く驢馬ろばのように私は行きます。あなたの欲せられる時、あなたの欲せられる処へ私は参りましょう。み告げの鐘が鳴っております。フランシス・ジャム」と。
 この敬虔でつつましやかな言葉のように、彼の詩風はその用語も形態も、生涯を通じて単純・平明の一語に尽きるように思われる。その意味で、「私の詩は舌の廻らない子供の言葉のようだ。しかし私は自分の真実を言った。そして真実であるために私は一人の子供のように語った」と言っているのもうなずける。しかしこれは彼の詩そのものが幼稚だとか、田舎臭いとか、字義通り舌足らずだとかいうことからはおよそ遠く、むしろ現代風、都会風の芸術的虚飾や流行に染まることを極度に忌み、警戒し、みずから護って孤高を持する誇りから発せられた言葉だと解する方が当っているのではないだろうか。
「人は私の詩を作られた素朴だと言って非難している。しかし私はいささかも素朴ではないし、またそうあろうと努めてもいない」とジャムはあるところで反論しているが、もしも詩人がその人本来の性情に生き、彼のあるところの者として成長を遂げて行くとすれば、その詩想や詩風が素朴だとか華麗だとか、賢者的だとか庶民風だとかいうことは何ら問題とするには足らないのである。リルケが若い詩人たちに忠告したように、「君の見たもの、君の生きたもの、君の愛したもの、君の失ったものを、常に最初の人間としてのように語りたまえ」であり、ポール・クローデルが言ったように、「われわれの呼吸の一息ごとに、世界は最初の人間が最初に吸ったその最初の空気と同様に新しい物だと信ずるがいいのである。そうしたら君の言葉は君の眼と同様にその処女性を失わないであろうし、一人の子供のそれのようであるだろう。常に自由で、新鮮で、率直で、感動的であること、まさに一人の子供のそれのようであるだろう」。そして私の思うに、このことこそいわゆる「ジャム主義」の志すところであり、おそらくはその精神であり要諦であるに違いない。その意味で、私は先ず諸君が、「子供が絵暦を読んでいる」や、「布教師」や、「石工」のような詩篇を読んでみるようにすすめたい。なんという単純な言葉で、誰でも口にする日常の言葉で、こんな小さい貧しい世界にさえ見出すことのできる優しい人間愛やその美しさが言い現わされていることだろう!

 以下私は諸君と一緒にジャムの詩を読んで行きながら、特に気に入ったものやこれだけは是非にと思ったものを採り上げて、解説を兼ねてその理由に触れてみようと思う。
 一八九八年に出た最初の詩集『暁の鐘から夕べの鐘まで』の中に「青い雨傘を手に」という一篇がある。牝牛のむれや犬や驢馬を引き連れて山の牧場へ登って行く(おそらく年老いた)牧夫の事を歌った作品である。ところでここで特に目に着くのは、それぞれの名詞に適切な形容詞が添えられていて、それが各行の叙述の印象を一層鮮明にしていることである。青い雨傘にしても、よごれた牝牛達にしても、フロマージュのにおいのする着物にしても、剛い毛をした犬にしても、佳い匂いのする山にしても、すべて愛や真実による言葉の美に粧われて生き生きとしている。そしてこのことはジャムの詩の顕著な特色の一つなのである。それと同時に彼が常に田舎の自然を愛し、そこでの人間の生活にどれほど深い同感を抱いていたかを見るだろう。そして「私は果樹園へ入って行った」や、「これらはすべて人間の労働」や、「僕は素焼のパイプを」や、「美しい日を浴びて」や、「哀れな犬は」などから、先ず諸君は彼への親しみを持ち始めるだろう。聖心女学院サクレ・クールの寄宿舎から帰省して来る一人の美しい娘を主題にして、古い善い時代へのあこがれや想像が限りもなく発展する「彼女は寄宿学校へ行っている」も、詩人ジャムの魅力のもう一つの面を語っている見事な詩だと私は思う。
 「私は牧場にいる」は一見きわめて平明なものに思われるが、十一枚の田園スケッチ画を見るようなこの連作は、こういう境地や生活に心をひかれる者には理屈無しに楽しい。そしてその楽しさが彼の事物を見る眼の確かさや、想像力の豊かさから来ることを知って、自分もまたいつかこのような詩を書いてみたいと思う人が出て来るかもしれない。また家畜小屋の敬虔な片隅で驢馬と牛たちが話をしたり、コオロギが小さいミサを歌ったり、タンポポが鐘になったり、クローヴァの花が見事な蠟燭になったりすることを書いた「人は言う、クリスマスには」の一篇は、数多いジャムのこの種の詩の中でも抜群の一つではないかと思う。わけてもこの詩の最後の二聯が心を打つ。と言うのは、夏になってその驢馬が蜂に刺されることを思うと荒い布で織った小さいズボンを穿かせてやりたくなり、熱を病ませる酷暑の太陽から哀れな牛の頭を護ってやるためには、その角の間にすがすがしい羊歯の束を当てがってやりたいものだとこの詩人は述懐しているからである。
 大学入学資格者だった近所の農家の若い息子を、墓へ見送った時のことを書いた「この農家の息子は」も感動的である。その若者は学校でラテン語のヴィルジールを読んでいた。ジャム自身もヴィルジールを好きだった。そしてこの薄命な若者のヴィルジール的な淳朴さを普段から愛していた彼は、今やその新しい墓にうやうやしくツゲの小枝を投げるのである。物悲しいある日曜日の暮れがたに、蜂の巣や、小羊や、イブキジャコウソウに囲まれた墓地の中のその墓に。
「百姓が夕がた市場から帰って来る」という詩も捨てがたい。彼のひきいる牝羊や小羊や小牛の群の賑やかな行列姿、それをうしろから吠えながら駆り立てる木彫り細工のような黄色い犬、そんな時に上がる路の砂塵、やがて現われる野の景色と遠く見えて来る丘と畑、さらに遠くの山々とそのまた向うに果て知れず拡がっている空気の海……ジャムにして初めて書ける詩であると言わなければならない。
 第二詩集『桜草の喪』は、キリスト教徒としてのジャムの最も敬虔な、最も純真な、かつ最も充実した詩だと言えるだろう。この一冊だけ有れば詩人フランシス・ジャムの真の姿に接することができ、彼を愛する心を絶えず培つちかうのに充分だと言っている人さえあるくらいである。なぜならばそこには亡き友アルベール・サマンに寄せた世にも悲しく美しい「哀歌」があり、「驢馬と共に天国へ行くための祈り」があり、「私の死ぬ日が美しい晴れた日であるための祈り」がいささかも観念だけのものに陥らず、すべてが日常の現実から生まれた言葉に編み上げられて、神への素朴な願いや訴えを道理あるものにしている。中でも「驢馬と共に天国へ行くための祈り」はジャム芸術の最高峰と言いたいくらいである。故人となった俳優丸山定夫が昔ある劇場でこの詩を朗読したとき、客席のそこここから女の人たちのすすり泣きの声が聴こえて来たことを、私は今でもはっきりと覚えている。さらに「私の死ぬ日が……」の祈りの詩がけっしてこれに劣らないことを言い添えて置かなくてはなるまい。
 以上大ざっぱにではあるが、彼の詩の幾つかを挙げながら私の思うのは、その一生を通じての彼の作詩態度が、結局は前に掲げた処女詩集への「序詩」によって言い尽くされているということである。

 

 

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 思い出

 私は明治二十五年に東京築地で生まれたが、実母は私を生むとどういう事情か父と別れ、同時に私自身も現在の品川区東大井、そのころの荏原郡大井村浜川へ里子にやられ、満四つの年に東京中央区湊町の実家へ引きとられて、それから成人するまでずっと父の二度めの妻の手に育てられたのだから、母に対する子としての実感はその義母にしか持っていない。
 その乳で四年間私を育ててくれた浜川の里親の顔は、今でも懐しくはっきりと覚えているが、悲しいかな生んでくれただけの実母の顔はおぼろげにさえ記憶にない。小学校一年のはいりたてに、ある日若い女の人が年寄りの女の連れといっしょに学校へたずねて来て、玄関のげた箱の前で幼い私をしっかりとだきしめながら、「会えてうれしかった。これでほんとのお別れだよ。いつまでもしあわせに暮らすように!」と言ったそのことばと姿とだけは、そばに立つて声を上げて貰い泣きをしていた素朴で好人物の小使いのおばさんのことといっしょに、色はあせても形は消えぬ一枚の古い絵のように、生涯の深い感銘の一つとして今もなお残っている。私の身の上を前から知っていたらしいその小使さんの話だと、「若いきれいなよそのおばさんだった」ということだが、世に言う瞼の母に再会する由もないままに、遂に今の年になってしまった。
 そんなことのあったのを義母は、(いや、もう義母とは呼ぶまい、母と言おう!)複雑な思いで聞きはしたろうが、たとえ世間の口はどうあろうとも、私を育て私をしつけるうえでは血を分けた母も同然だった。自分に子どものなかった彼女はすべてが実母同様で、私が悪い子のときは背中もどやし、頭もはり、おさえつけて灸きゅうもすえたが、普通の子のときやよい子のときはむしろ甘いくらい優しくいつくしんで、五つから十二の年まで夜はずっといっしょに寝てくれた。そして満二十歳の徴兵検査のときまで、ついに私が自分の義理の子であることを知らしめなかったのも、実に彼女の思いやりでもあれば忍耐でもあった。忘れもしないついある時の反抗心から、「おっかさんはあたいのことを悪い子だのばかだのと言うけれど、どうしてそんな子を生んだんだ」と悪態あくたいをついたとき、その私を悲しげににらんだだけで一言ひとことも言わなかった母の心を、今の私としてほんとうに尊くありがたく思わずにはいられない。
 父の商売が隅田川べりの廻漕かいそう問屋だったので、使っている手代や小僧や女中も多勢いて「おかみさん」と呼ばれる母は常に多忙をきわめていた。そのうえ二艘そうの大きな帆檣ほばしら船ももちろん持っていたから、それらの船の出航や帰着の際、その貨物の積み出しや荷揚げのときには、船員や人足にんそくの世話まで加わってくるくる舞いだった。女中たちを指揮して毎日の家事から親戚や隣近所とのつきあい、そのうえ家じゅうの食う物着る物のめんどうまで、いくら東京も下町育ちの働き者だからとはいえ、よくもあれだけ続いたものだと、その母に始終世話を焼かせていた私が当時を振り返ってつくづく思う。しかもからだにはよく気をつける人で、少しでもどこかぐあいが悪いとすぐ専門の医者にみて貰って、その注意をきちんと守った。そして終戦の年の十一月、今は何の心配も心残りもない私たち夫婦や孫や親戚の者たちに見守られながら、八十四歳の高齢で安らかに永眠した。
 母は若いころから天源陶宮術に入門して、口にこそ出さないが自分の心の修養は怠らなかったらしい。陶宮術というのは、人はだれしもその生年月日の干支に応じてそれぞれ悪癖や弱点を持っている者だから、これを陶汰して善を養い悪を矯め、運命を開拓して幸福を得るようにしなければならないという、いわば一種の修養道である。
 その母は私に向かって、「お前さんの三輪さんりんは私なんか足もとにも及ばないくらいすばらしいんだから、よく身を慎しんでやってゆけばきっと人様ひとさまにも愛されるし、信用もされて、ゆくゆくりっぱな運が開けるよ」と言ってくれたが、そのことばをいくらかは守りながらも、さて現在の私は果たしてどういうものだろうか。
 母の三輪(生年月日の十干十二支)は思わしいものではなかったようだが、いろいろな事があったにもかかわらず、永い一生を安らかに終わることができたのは、少なくとも彼女自身の正直な秘かな修養のおかげだったのであろう。私はそれを彼女のために信じて祝福したい。なぜならば、母は私にこそ面と向かっては言わなかったが、妻には時あるごとにそれとなく言いきかせていて、今どき自分のような者のことばをまじめに受けとって、それを守るわが嫁をほめ、いとおしみ、時には自慢の種にさえしていたほどだから。「あんなによくできた人も珍しい」と。
 おのれを識る者は、人をもまたよく識るのである。

 

 

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 私の語学独学自習

 父の家業(廻漕問屋)を継ぐつもりで旧制の商業学校を出ただけの私には、従って英語のほかに外国語の素養はなかった。その代り英語だけは好きでもあり割合楽にも感じられたので、十七八歳の頃にはすでにトルストイとか、ゴルキーとか、ツルゲーネフとか、モーパッサンとか、イプセンとか、当時流行の西欧文学者の作品を英訳の本で読みふけっていた。そしてそれが結局私を東京下町の商人にするどころか、遂には今のように詩や文章を書く道へと追いこんでしまった。父の決して喜ばなかったこの道へ入った事の善し悪しはともかくとして、私としては自分をやはり運命に恵まれた人間のように思っている。持ち船や荷揚げの桟橋や倉庫は無くても、またそれに伴う金は無くても、いま眼の前には賑やかな隅田川に代る静かな鎌倉の山があり、水上のカモメに代る冬木の野鳥の声がある。そして貧しい書斎の棚を見廻せば、案外数多い英・仏・独の文学書や科学の本が並んでいる。思えばこれが私にとって唯一つの形ある富だ。そしてたまたまそれらの中から一冊を抜き出して幾ページかを読み返してみると、昔よりも少しはましに、少しは賢くなった現在の自分を見出すのである。古いすぐれた本という物は、それを読み直す人間の成長や変化の跡を写す鏡である。
 それにしてもいわゆる独学で、どうやらフランスやドイツの本を読めるようになった自分を幸いだと思わずにはいられない。しかしその独学を思い立たせたきっかけと、それに最初の励ましを与えてくれたものは何だったろう。きっかけとしては既に英訳で出ていた本であり、或いは我国の先輩の翻訳であって、私はそれを是非とも原語で読んでみたいと思った。ロシア語には遂に手を出さなかったが、詩を好きだった私はボードレール、ヴェルレーヌ、ヴェルハーラン等をフランス語の原詩で味わい、ロマン・ロランに心酔していた私は彼の『ベートーヴェン』や『ジャン・クリストフ』を原文で読みたかった。ドイツ語にしても同じ事で、きっかけはゲーテやハイネやメーリケを彼らの言葉で読みたいという一念だった。そしてその一念に踏み切った私を声援してくれたのは幾人かの親しい友人であった。即ちフランス語では高村光太郎、ドイツ語では片山敏彦、荒井道太郎、中村吉雄の四人だった。彼らは大切な原本を貸してくれたり、良い自習書を探して送ってくれたりした。中でも片山敏彦は私に初めてヘルマン・ヘッセを知らしめた。今日私にヘッセを初めとして十数種のドイツやフランスの翻訳書のあるのも、その発端には当初の友人達の激励や助力が有るのである。そして同時にそれらの翻訳の仕事がどれほど精神的に私を養い、どれほど物質的に私を救ったかを思わずにはいられない。
 独学自習の習慣は今でもなお残っていて、私は辞書を繰ったり文法書を調べたりする事を苦にしない。よく判らないままに読み流したり飛ばしたりするのは、良心の咎めなくして私のよくしないところである。たとえば好んで歌う歌曲や、カンタータの中のアリアやコラールなどの歌詞にしても、他人の翻訳や意訳では気が済まず、一度は必ず自分に納得のゆくまで訳してみる。これは自分自身詩を作る者としての潔癖であろうが、何と言っても永い習慣の擡頭には違いない。歌と言えばラテン語やイタリア語がよく出て来る。それで前者の方は望み無しとして、イタリア語は少しばかり勉強している。しかし今の歳では昔の独・仏語のようにははかどらない。本職の仕事に追われるせいもあるが、文法などもじきに忘れて後戻りをする事が多い。それでも全然断念する気にはなれず、入門書も辞害もまだ手垢に汚れないまま、机の上の片隅で主あるじの最後の発奮を待っている。

 

 

 

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 野のキリスト者

 明治三十年代、わたくしの家庭は東京下町の商家だったせいか、キリスト教にはとんと緑がなかった。父の実家が曹洞宗、母の実家が真言宗だとかいうことで近く鶴見の総持寺や、遠くは高野山の清浄心院などという大きな寺へ連れて行かれた記憶はあるが、いずれもこれと言って印象に残っているほどのものはない。
 今、両親の墓は東京の谷中やなかにある。だから墓参もする。しかしいったい自分の家が何宗なのか、またそもそも自分が仏教徒なのか、キリスト教なのか、そんなことさえ考えようともせずに生きているわたくしである。
 しかしそのわたくしにも一つの遠い美しい記憶はある。小学校の一年か二年のときだった。受持ちの若い女の先生がわたくしの家から近い築地の明石町に住んでいて、現在の聖路加病院付近の教会へいくたびか連れて行ってくれた。むろん家うちへは内緒だった。なぜならばそのころはまだキリスト教という名さえ新しく、すくなくとも京橋や日本橋のような下町では「ヤソ」とか「ヤソ教」とか言つて、教会へなど行く者は異端視され白眼視されていた時代だったからである。
 しかし先生の隣りに小さくなって腰をかけて天井の高いほのぐらい会堂の中で荘重に響きわるオルガンの音を聴いたり、物柔かな牧師さんのお説教を聴いたり、つづいて起こる信徒たち敬虔な讃美歌の合唱を聴いたりしたわたくしには、それがヤソであろうとなんであろうと、幼い魂をとらえずにはいないある空前の美と、それに伴う深い感動と恍惚とがあった。
 そしてそれ以後というもの、外人居留地のほうから風に送られてくる教会の塔のチャイムの音を聴くと、ひとり胸を躍らせ、なにか悲しいような美しいような思いがするのだった。その甘美な思いの中に、実はキリスト教徒である若い女の先生への幼い思慕の情が溶けこんでいたのだは知る由もなく。
  「シオンのむすめ語れかし
  わが愛のきみに
  野辺にてか幕屋にてか
  あいまつらざりし」
 讃美歌は七つ八つのわたくしにとって母ならぬ女性への愛の目ざめ、また今に変わらぬ宗教的な音楽への愛の目ざめだった。

 わたくしの書棚の片隅には、何冊かの讃美歌の本と重なって、妻のものとわたくしのものと冊の古い聖書が載っている。妻のは死んだ叔母から貫ったという明治三十七年発行の物だからすでに六十何年も前の本である。わたくしのは戦後上諏訪の古本屋でみつけたもう少し後の物だが、両方ともに古色蒼然としていながらも在るべき場所にちやんと置いてある。夫婦それぞれがなにかの折に手にするからである。
 わたくしの場合は物を書くときにする引用のためや外国の宗教音楽に出てくる聖書のことばや詩句を確認するために。妻の場合のことはよく知らないが、彼女とてもあるときのイェスのことばをはっきりと思い出したいためであろう。いずれにしてもキリスト教徒を自覚も標榜もしていないわたくしたちの心に、いつのころからか聖書が深くその根をおろしていたことに間違いはない。
 わたくしたちが年ごとにクリスマスを祝い、復活祭を祝っているのもそのためである。またときにこの老夫婦が二人だけで讃美歌を歌ったり、バッハやヘンデルやシュッツのような作曲家の宗教的な作品を、ときどきレコードで聴いたりするのもそのためである。
「われ汝を捨てず、されば汝われを祝福したまえ」のバッハを、「われは知る、わが贖あがない主の生きたまうを」のヘンデルを、そして「われは主の道を直くせよと荒野あれのに呼ばわる者の声なり」のシュッツを、どんなに深い思いで、昨夜もわたくしたちが聴いたことだろう。北鎌倉の谷戸やとの中腹のささやかな家の書斎で。

 物を書くことを仕事としているわたくしではあるが朝から机に向いながら、ついに一枚の原稿も書けずに終日をむなしく過ごしてしまうことがときどきある。
 これもそういうときのある晩だった。わたくしは、「あしたこそは」と心に誓いながら、床に就く前に一枚のレコードの片面だけを聴いた。バッハよりも百年前のドイツの作曲家で、前節にも書いたハインリッヒ・シュッツの『小宗教的コンツェルテ』の中の数曲だった。むろんドイツ語で歌われているのだが、そのうちの一曲がその夜はとりわけわたくしの心を打った。
 歌は「主よ、われら夜もすがら働けどなにものをも得ざりき、されどみことばに従いてわれ網を打たん」で、ルカ伝の第五章第五節をそのまま歌詞としたものだった。テノールとバスが二重唱で歌うきわめて短い荘重な曲だが、聴いているわたくしの場合が場合だけに、聖書でその先を続けて読んで、シモンやヨハネやヤコブたちの網が裂けるほどに魚が採れ、それを見たイェスが「恐るるな、汝今よりのち人を漁すなどらん」と言ったという一つの奇跡の物語を知って、いまさらのようにそのことばの深い真実と音楽の美とに心を柔げられて安らかな眠りに落ちたのだった。
 新約と言わず旧約と言わず、こういう例はシュッツやバッハの場合に無数に出てくる。むしろ信仰篤いかれらの作曲に成る歌が、オラトリオやカンタータのみかほとんどすべて、聖書の詞句に関係のあるものだと言っても過言ではないだろう。そして今の例のようにわたくしが歌そのものの美しさから逆に聖書へ戻ってそれを読み返し、それによって自分を清められたり勇気づけられたり、あるいは戒められたりすることけっしてすくなしとしないのである。
 進んでそれとは名乗らなくても、わたくしは、そしてわたしの妻もまた、心の底ではやはり野に在るキリスト者ではないかとしばしば思う。

 

 

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 朝の山と夕べの渚

 与えられた余命と言ってもいい来る日来る日を、どうか静かに生きたいというのがこのごろいよいよ切実になって来た私の願いである。幸い体も丈夫で体力もまださほど衰えず、家族諸共平和で無事な毎日を送っているが、何か心配事が出来たとか精神的なショックを受けたとなると、今の私にはもう以前のような抵抗力も反撥力も無くなっている。もちろん食うためには仕事をしなければならないから毎日原稿紙には向かうものの、そんな時に筆も進まず、あまり心に染まないものには中々興が乗らなくて苦しむ場合が少なくない。そしてその苦しみが以前よりも暗澹としているのである。しかもその暗澹とした気持になるのが私のような老齢の者には一番いけない。それは容易に死の思想に結びつく。与えられた余命を静かに楽しむなどと言いながら、しかし生きている以上はもう少し男らしい、もう少し積極的な気持にならなければいけないというのが、現在の私にとって更にもう一方の願いである。
 それにしても今朝は良かった。天気も良ければ気持も悠々としていた。朝飯を済ませて二階の書斎へ上がると、窓のむこうの円覚寺の裏山が折からの晩秋初冬の日光をまっこうから浴びて、緑と紅葉のけんらんを尽くして拡がっている。緑はマツその他の常緑樹だが、それを引き立てているのはさまざまな種類の落葉樹で、いずれもが思い思いにもみじして、今日がその絶頂かと思われるような色彩の美を展開している。宅の前の坂道を下りて行って狭い谷を横断し、あの裏山へ取りついて一々調べたら彼ら樹木の種類もわかるだろうし、また昔なら確かにそういう事を喜んで実行したろうと思うが、今ではそこまでしてみる気力も無いままに、ただ窓からのいかにも美しい眺めで満足していた。そしてそのもみじの山からはヒョドリやカケスの叫びが聴こえ、もっと近くではホオジロやシジュウカラが歌い、冬の初めにこそ特にその翼の色が美しく見えるジョウビタキが、窓の下の庭木の枝であの「ヒッ・ヒッ・カタカタ」をやっていた。
 私は思った、これが「生」ではないかと。こうした境涯こそ今自分に与えられている幸福な余命ではないか。これ以上何の不足があろう。厭な事、心に染まない事は出来る限り早く捨てて忘れて、こういう心の養いの食卓に急いで向かうべきではないだろうか、と。そして更に思った。何ものにも柔かい和やかな心で接して、到る処から美しい思い出を得るがいい。それはお前が他人から奪うことなしに富むこの世で唯一の方法なのだ、と。

 そう言えばきのうの夕方もまた良かった。私は町まで買物に出た序でに由比が浜の海岸を少しばかり歩いてみた。ちょうど太陽が富士山のうしろあたりへ沈んだ頃で、箱根連山や伊豆半島の上には色も華やかな雲が浮かび、相模湾の沖合には大島の姿がぼんやり見えて、今の季節としては薄紅い金色に霞んだ暖かい海景が拡がっていた。
 私は自動車道路を横ぎって砂浜へ下りた。夏とちがって紙屑や空箱の取り散らされた乱雑さも無く、もちろん人影もきわめて稀だった。元来由比が浜の砂地は道路から波打ち際までの幅が狭いが、それでもひっきりなしに疾走する自動車の往来をまるで別世界の事柄かと錯覚する程、其処は次第にたそがれてゆく静かな一天地だった。絶えず柔かに打ち寄せては引いてゆく波、稲村が崎までつづくその砂地と水の緩やかな曲線、しかもその渚の線上には、気がついてよく見ると、無数の水鳥や陸鳥が下りて低く翔けたり、跳ねたり、歩きながら餌をついばんだりしているのである。元より望遠鏡の用意も無く、だんだんと暮れてゆく海岸の事だから、ただ彼らのたそがれの影画を見て感心するばかりだが、その中にはセグロセキレイ、キセキレイなどを初めとして、いろいろのシギやチドリの類も多数まじっているらしく、更にこの土地に多いトビやミサゴの大きな姿も見えていた。しかし私は強いて彼らの種類を確めようとするよりも、いかにも自由で楽しげなこの無数の鳥たちの夕べの活動を静かに佇んで眺めていた。そしてやがてすっかり暮れてしまっても、どこかに彼らの今宵の安全な泊まりの在ることを確信して徐ろに渚を去ったのだった。
 私はいささか空腹を感じていた。なんだったら町の何処かで軽い食事をし、そのあと沢山有るカフェーの一軒でゆっくりコーヒーでも飲んで帰ろうかと思った。そしてたまにはこうした気晴らしも悪くはないと考えた。しかしいざとなるとやはり止めてしまった。家では私のたまの外出に妻や娘が心配して待っているかも知れない。そしてどんな心の寵もった夕食を用意していないとも限らない。しかもこんな予感のする時は大抵いつでも適中するから今日も恐らくそうだろう。
 そこで鎌倉から一駅電車で戻って、明月谷の長い谷戸やと道を登って帰ってみると予感はやはり当っていた。娘が東京の或る有名な食品店から買って来たという珍しい馳走が、家族五人の夜の食膳を賑わしていた。

 その夜私は寝る前にレコードでバッハの「幻想曲とフーガ」を聴いた。そしてこういうのが実に私の願う静かな生活の見本である。

 

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