「私の衆讃歌」 (昭和四十二年)

  ※ 他の場所にすでにアップロードされている作品はここでは省略し、この文集にのみ掲載されて
   いる文章および後記のみといたしました。(サイト管理人)



   音 楽      

バッハをめぐって(一)

バッハをめぐって(二)

冬の或る日

『ベートーヴェンの生涯

今と昔

ブクスフーデ

森の歌

合唱と私

   自 然      

甲斐路の春

浅間山麓の一日

美ヶ原の秋

武蔵野の鳥

知多半島の一角

思い出の山の花たち

山にゆかりの先輩

道二題

図鑑について

 

 

 

   先人と友人        

デュアメルのかたみ

デュアメル追悼

カロッサの教訓

若き日の友の姿

 

交友抄

わが師わが友

祝詞に代えて

 

 
   清閑記        
 

一詩人の告白

道にて

詩人の朝

近 況

 
 

たしなみの美

わが愛誦の詩(一)

わが愛誦の詩(二)

ふるさとの一角

 
 

山小屋からの電話

その頃の孫

雑 草

『思索する心』

 
 

新しい印章

たまたまの余暇

私の一冊の本

旅の宿

 
 

 高村光太郎

       
 

大いなる損失

あの手のイメージ

ふたたびの春

高村さんとの旅

 
 

初めて見たアトリエ

晩秋の午後の夢想

片思いの頃

智恵子さんの思い出(一)

 
 

智恵子さんの思い出(二)

 

 

 

 
 

 

 

 

 

 
   後 記        
 

 

 

 

 

 

 

  

 音 楽     

 バッハをめぐって(一)

 去年(一九六四年)六月の初め、私は登山シーズンにはまだ少し早い北アルプス上高地の或るホテルにいて、中途半端な幾日かを一人でぼんやり暮らしていた。と言うのは、この美しい谷間を背景に出演をたのまれた或る放送局のテレビのロケーションが五月の三十一日で終り、日本山岳会信濃支部恒例のウェストン祭が六月の六日、七日に同じ場所で催されるので、その方へも主催者側として参加しなければならない私としては、ちょうどその間に挟まった数日を、わざわざ一度東京へ帰るのも面倒だと思って、そのまま滞在することにしたからである。
 そうした無為の或る日の午前、きれいに掃除のできた玄関のホールを見おろす二階のロビーの手擦りによって、大きな硝子窓をとおして岳樺の若葉が柔かい緑の雲のように湧いて見える西穂高の山腹や、淡べに色の小梨の花がほころび初めた梓川の日照りさざめく水際を眺めていると、清らかにしいんとした天井の高い涼しい建物の空間に、突然えも言えず美しい音楽が生
れた。二階か下の壁のどこかに装置されたラジオか電蓄の拡声機から出て来るものには違いかいが、それか少しも騒がしがったり人の心をいらだたせたりするものではなく、いかにもしっとりと柔かく、しかも威厳に満ちていて、その調べと言い、音色と言い、リズムと言い、こういう静かな時間と環境との中で聴くのに最も望ましい音楽、つまりそのために自然の明るい大きな沈黙か、一層深められ、一層純化されるような音楽だった。そして私はそれがヨーハン・セバスチアン・バッハの管弦楽組曲第三番の「エイア」であり、続いて浮き立つように始まった典雅な舞曲かその「ガヴォッ卜」であることをすぐに知った。
 聴き手はわずかに四人だった。二階のロビーの私のほかに、下のホールの煖炉の前にもうすっかり帰り支度のできたルックサック姿のお嬢さん二人と、フロントに端然と控えている若い女の事務員だけだった。あとでその事務員から聞いた話によると、その二人の若い女客は東京の或る大学の学生で、きのうは西穂高の頂上まで往復してゆうべここへ泊まったが、帰京のけさは松本行のバスの出るまでまだいくらか時間かあるから、その間何かいい音楽があったら聴かせて下さいという頼みだった。それで、自分も好きなあのバッハをお聴かせしましたということだった。私は客への機転というにしては余りに美しい適切なその選択に、自分も敬意を払って礼を言いたいくらいだった。威風に満ちた山々に囲まれた上高地の谷と晴れやかな午前の日光、清潔な広々としたホテルの広間と其処にいくらかの離愁を伴って湧くバッハの曲。私も同じレコードを持ってはいるが、そして比較的静かな環境に住んでもいるが、この音楽をこんな理想的な場所や人々と共に聴いたことは一度もなかった。
 しかしレコードやラジオを通してではなく、バッハの曲の本当の演奏を、しかも名手みずから愛用の楽器を手にしての演奏を、それも自分の眼の前で自分だけのためにしてくれる演奏を聴くという幸運に恵まれた人は、そう多くはないだろう。そしてそういう人の一人に詩人ヘルマン・ヘッセがあって、本人自身「エンガディーンの体験」という文章の中に書いているのである。
 スイスの山の避暑地でもとりわけエンガディーンの風光を愛していたヘッセは、年を取ってからもたびたび其処を訪れたらしい。或る年の夏、同じホテルにチェロの名手ピエール・フールニエが泊まっていた。互いに名も知り合い、芸術上の仕事ももちろんよく知り合っている二人は、顔を合わせれば挨拶をかわしたりうなずき合ったりする仲だった。そのフールニエは、詩人ヘッセの観るところでは、あらゆるチェロ奏者の中で最も手堅い人であり、練達の点でも先輩カザルスと肩をならべ、芸術上ではその演奏のきびしさ、渋さ、曲目選択の純粋さと非妥協的な事で寧ろカザルスを凌ぐものを持っていた。人の好みはそれぞれだから、この際私としては何も言う事はないが、永年ヘッセを読んでその人となりに通じているように思っている私には、豪壮であって時にかたわら人無きような不敵なカザルスの代りに、あくまでも端正で深く透徹して聴く者の心をとらえずにはいないフールニエを採るヘッセを、いかにもヘッセらしいと思わずにはいられない。ところでそのフールニエが、エンガディーンでの避暑を終って帰るというその日ヘッセに、彼のために個人的にバッハを弾いて聴かせようと申し出たのである。
 おりからヘッセは体と気分の調子が良くなかった。「老齢の見かけ倒しの知恵の段階では、まだ周囲や自分の心の制御されない努力のために起こりやすい不機嫌と疲労とに見舞われた」不調和の日だった。彼はほとんど無理をして約束の時刻に音楽家の部屋をおとずれた。彼は椅子へ腰をおろしたが、いかにも調子の狂った物悲しい倦怠の気分だった。ところが大家フールニエがむこうの椅子へ腰をかけてチェロを構え、弦の調子を合わせると、自分や周囲にたいする不満不調和の空気に代って、たちまちヨーハン・セバスチアン・バッハの清らかなきびしい空気が部屋じゅうに張りつめた。高山の谷間の魔力もその日ヘッセにたいして余り効果を発揮
しなかったのに、ひとたび弦があの重奏音の響きを起こした瞬間、彼は重い気分の谷底から遙
かに高い透明な山上の世界へ引き上げられたような気持になった。それはすべての感覚をひら
き、呼び起こし、鋭くしてくれた。その日一日かかって出来なかった事、つまり日常の世界を脱して純度の高い非凡な詩の世界にむかって踏み出す事を、この音楽が数分間のうちに成し遂げてくれたのだった。一時間か一時間半、彼はバッハの無伴奏組曲を二つ聴きながらその部屋にいた。そしてその間、短い休止とわずかな対話で中断されただけだった。力づよく、正確に、しかも微妙に抑制して弾かれたその音楽は、彼にとって飢え渇いた者へのパンであり、葡萄酒だった。それは真に魂のための栄養であり沐浴であって、こうして癒やされた老詩人ヘッセは、ふたたび取りもどした仕事への勇気と音楽家への感謝の念とに満たされて、その祝福された部屋を辞去したのだった。
 ヘッセはフールニエという名手のために助かったからいいようなものの、こういうふうに気分が創作に向かない目はこのごろの私にもたびたびある。そうかと言ってレコードをかけるのもおっくうだし、有るか無いかわからないラジオの曲目を新聞でさがす気にもなれない。またよしんば有ったからといって、ちょうど聴きたかったと思うような物に出会う機会は絶無と言っていい。そういう時、私は奮発して座敷の隅のオルガンに向かう。私の妻が子供のときに何かのお祝いとして高村光太郎さんから贈られたというのだから、もう五十年はたっている骨董品である。それでもペダルを踏んで鍵キイを押せば、端から端まで音は出る。しかもその音を、たぶんお世辞だろうとは思うが、「割にいいです」と言ってくれる人もある。とにかく、善い悪いにかかわらず、私はその古すぎるオルガンに向かって腰をかける。そして譜面を前に結局はバッハを弾く。ところで今はそれが『フーガの技法』の第一曲と第三曲のソプラノのパート。私は次第に元気づいてゆく。頭の中のもやもやが晴れて、へたであれ何であれ、清冽な歌の谷川をさかのぼって泳ぐ思いである。
 「ヨーハン・セバスチアン・バッハの作品は、いかかる器楽家も明白に自分たちのために書かれた幾ページかをそこに見出すことかできるほど豊富である」と、詩人ジョルジュ・デュアメルは言っている。だがそれにすぐ続けて、「しかしたとえどの楽器も演奏できなくても、君は声を持っているのだから、君の最大の喜びのためにそれを役立たせることを学ばなければならない。その時バッハの作品は君にとって無限の、ほとんど信じられない程の貯えとなるだろう」と言っている。私にはこの言葉ほど自分を勇気づけてくれるものはない。晩学のためにヴァイオリンやオルガンやピアノは愚か、ブロックフレーテさえ思うように吹けない私に、しかし、そう言われてみれば本当に声というものがある。これこそ私に残された、しかも「最大の喜び」ではないだろうか。なぜならばバッハには二百にあまる教会と世俗のカンタータがあり、二つの大受難曲があり、二つのオラトリオがあり、口短調の大ミサ曲があり、一つの聖母讃歌があり、数曲のモテットがあり、百八十六編から成る四声の無伴奏コラール集がある。そしてそれがすべて歌なのである。バッハが残してくれた人間の声のための大宝庫、そこから世界を祝し、神を敬い、自分たちを高めるための称賛と感謝を引き出すこの山のような大遺産を、われわれは一生かかっても使い尽すことはできないのである。そこで私は歌う。多くは一人で、或いは家族の者と、また時には二、三の友人たちと。そしてその衆讃歌がなんと私たちの心を羽ばたかせ、押しひろげ、揚げ高めることだろう!
「諸君、老バッハが見えられた」という一言のかもし出す雰囲気とその重みとは、ひとり一七四七年のポッダム宮殿とフリードリッヒ大王のことを、ひいては『音楽の捧げ物』の由来をわれわれに思い起こさせるだけではないだろう。なぜならば演奏会場で今やバッハの音楽が始まろうとするその瞬間、少くとも私としては、いつでもこの始源的な荘重な声を耳にする気がするし、いつでも襟を正さずにはいられないからである。ヘッセが『古い音楽』というきわめて美しい文章の中で言っているように、「人々はいそいそとして新たな輝きを待ちうけている。そしてそれは来る。大らかな自由な身ぶりで、巨匠バッハが彼の寺院へ入って来る」。それは本当に彼が入って来て神に礼をし、やおら身を起こして大オルゲルを弾き始めるあの無限の可変性と、雲のような予感に満たされた言語道断な一瞬なのである。
 そして私は腹の底からの、しかもついに言い尽くしがたいバッハ讃美のこれらの言葉を、この幾年彼の音楽の理解とその普及とのために孜々として尽くしている人々に、謹んで、かつ深い愛情をもって捧げたい。
                                 (一九六五年三月)

 

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 バッハをめぐって(二)

 何か楽しみの期待があって、それを思うと沈んだ気分が浮き立つというような事は、もう私ほどの年齢になるとほとんど稀だが、それでも今年は夏いっぱいと九月へかけて、たびたびそうした楽しい気分に見舞われた。つまり、十月にはバッハ・ソリステンが二年ぶりにドイツの空からやって来る。そしてなまで聴き、目で見ることのできるあのすばらしいバッハの演奏でともすれば自分一人の狭い天地にとじこもりがちなこの貧しい心を花やかせ、広々と解き放ち、高く引き上げてくれると共に、許される限りなお立派に生きて、晩年の仕事に立ち向かおうとする喜ばしい決意を新たにさせてくれるだろうという期待である。
 私はこの気持を、机にむかう前の朝のくつろぎの一と時にも経験したし、都会の高架線や地下道を走る電車の中でも経験した。またつい半月ほど前には、海抜二、〇〇〇メートルの熔岩台地、信州美作原の広がりの中でも経験した。雪を待つ北アルプスのくっきりと青い全容が見え、紅いコフウロや向いウメバチソウが咲き乱れ、高処の秋の日光か金いろに照りこぼれ、西からの風がそよそよと吹き、頭の上の大空を小鳥の群れが渡って行った。ただ見る根源的な情緒と無限定な生の世界。私にはそれかバッハの音楽の世界のように思われた。すると当然かのようにソリステンの程近い来日か思い出され、往年のヴィンシャーマンや、ハンス・リンデや、クルト・トーマスの顔がちらつき、今は亡いラインホルト・バルヒェッ卜の眼が一人悲しくほほえんでいる気がした。
 この人達をなつかしむために私が時どきプレヤーに載せる、カンターテ社のバッハのレコード「ダス・レベッディゲ・コンツェルト」の幾枚。そのジャケッ卜には彼らの肉筆の署名があるが、その中の「シンフォニア」は、彼らが去年来られなかった言訳にわざわざ飛行便で送ってくれたものである。私は招かれて来る欧米の芸術家たちを一にも二にも謳歌礼賛する者ではないが、彼らソリステンだけには、バッハを通して、兄弟のような親近感を覚えずにはいられない。

     *

 楽器の全然駄目な私は、音楽への愛、演奏への欲望の最後の手段として歌を歌う。そしてそれには多くバッハの衆讃歌や、カンタータ、受難曲などの中の比較的容易に思われる短かいレシタティーヴォやアリアが選ばれる。自分でへたなオルガンを弾いたり、孫娘にピアノで伴奏してもらったりして歌うのである。七五曲ある「シェメリ歌曲集」の歌や、バッハの次男カール・フィリップ・エマーヌエルの集めた一八五篇の衆讃歌集の中のものなどが、私の貧しいレパートリーを形作っている。しかしそれだけでも莫大な富であり、無限の可能性への約束であると言わなければならない。そしてその歌詞に通じ、その曲に親しんでいるうちに、突然、或る夜、或る朝、私に一つの詩の動機が生まれる。それは宗教的な本文から直接出て来る時もあるし、その歌の醸し出す雰囲気から生まれることもあるが、いずれにしても私が理解し讃歎しているバッハからの啓示である事には間違いがない。たとえば或る夏の午後に次のような詩が出来たが、自分の家族に対する愛や感情が、その根本のところで、なんとバッハのそれに通じるところがあるかを見て驚いたのである。

    不 在

  孫の一人は房総の海べへ水泳の合宿に行っている。
  その姉は白馬の登山に母親とけさ出かけた。
  ひっそりと後に残った妻と私、
  閑居というには少し寂しすぎる家と夏だ。

  どんな波を凌いで小さい彼が遠泳の試練に堪えているか。
  どんな定めない天候が彼女らの登攀を待っているか。
  壁に貼られた日課表や主のいないピアノを見るにつけ、
  遠く放ってやった幼い者らの上に不安な思いが行きさまよう。

  妻は彼らの不在の部屋を掃き清めている。
  私は書斎でペンを手に苦吟している。
  蟬が鳴きしきり、風と熱気の吹きかねる家で、
  私たちそれぞれの日の営み。

  「汝らこんにちまで我が名によりて祈りしことなし」
  それでも私は老いたる家長だ。
  私の夏の勤労は彼らにもいささかの貢献でなければならない。
  今夜妻と聴こうと思う「我は善き羊飼いなり」に価しなければならない。

 最後の節のこの二つの引用句は、言うまでもなくバッハのカンタータからのものである。初めの句は第八七番の、後の句は第八五番のいずれも冒頭のそれである。遠く出かけた娘や孫たちへの愛と不安、暑熱の夏に留守をまもって今日も働く妻と私。そこまで書いているうちに突然目がさめたように、揺り起こされた潜在意識のように、この二つの句が躍り出た。言わばバッハが力を貸してくれたのである。

     *

 楽器が駄目とわかっても、それでもたまにはブロックフレーテや座敷の古いオルガンで、むしょうにバッハをやってみたくなることかある。そのブロックフレーテで素人の小さい集まりを作っている親しい友人から、「フーガの技法」を合わせてみたという話を聴いてひどく羨ましく思った。その仲間は私からは遠い処に住んでいるので、そうした練習に加わることができないからである。コントラプンクトゥスの第一番をやったのだそうだが、幾たびか練習を重ねているうちに初めの頃の混乱や不揃いが次第に改善されて、ついに一応形を成すところまで辿りついたという事だった。それで私は、もしもその仲間と一緒になった時の用意にもと、一人で第一曲のソプラノのパートの練習を笛で始めた。三小節と四小節の休止のある全曲を三つに切って、一と句切りに一週間をかけて、毎日三十分ぐらいずつ勉強した。第二の句切りは第一のよりもむずかしく、第三の句切りは第二のそれより一層むずかしかった。ちゃんとした手ほどきも受けず、正規の教育も授けられていないのだから仕方がないようなものの、年寄りの冷や水と言われても甘受するほかはなかった。しかしとうとう自分のパートだけは吹けるところまで漕ぎつけた。それをみずから認めた或る午後の、なんという嬉しさだったろう。歌でないバッハが吹けたのだ。さあ、僕を呼んでくれ、試験してくれ! そしてよかったら主題を転回したコントラプンクトゥス第三番へ進もうではないか。そんな意気ごみだった。
 レコードではなくて実際の演奏で、「フーガの技法」を全部通して聴いたことが私にはない。たしか再度の来日の時のバッハ・ソリステンで二曲、日本のバッハ・ギルドで四曲、それだけだったような気がする。しかし弦やチェンバロかそれぞれに織り上げ打ち建てる壮大な音の楼閣を、胸を躍らせながら次から次へと迎え見送るせつない期待と深く晴れやかな喜びとは、やはり全曲を通してでなくては味わえない。しかもそれを我が眼の前で、同じ人間仲間がやって聴かせてくれているのだとなれば、その人達に対して称賛や感謝や、ひいては愛情をさえ覚えるのは至って自然な事だと言わなくてはならない。
 愛情、音楽堂で常に経験するバッハ演奏者への私の愛情。或る夜バッハ・ギルドが「フーガの技法」をやった時、あの最後の第一八番の曲の半ばで突然プツリとすべての弦が鳴りやんだと思われた瞬間、なお八分音符六つだけを弾いて静かに弓をとめた若い女性のヴィオラ奏者に、私は共感の涙と、一種の敬意と、父親のような愛をさえ覚えたのであった。
                                 (一九六五年九月)

 

 

 

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 『ベートーヴェンの生涯』

 心と眼だけは毅然としても足もとは危く、必ずしも平坦とは言えない老年の坂道を静かにくだりながら、刻々と傾いてゆく生涯の夕日の光りを惜しみ貴んで生きている私に、ロマン・ロランは今もなお、否、今こそいよいよ、懐かしい師でもあれば最上の先導者でもある。頽齢のためのたあいない疲れや怠け心に襲われて、つい「日の業わざ」をおこたるような時、あるいはこの世のさまざまな動向が心に染まなくて、それから目をそらせたり顔をそむけたりする時、ともすれば口をついて出ようとする「私は今や八十歳、あなたのしもべはなんのためになお重荷を負わなければならないのですか」というバッハの老市参事会員の訴え(カンタータ第七一番)の代わりに、「世界を在るがままに見てなおかつそれを抱きしめ愛すること」というロランの言葉か響いてくる。もちろん私としては八十歳にはまだ遠く、あの美しいアリアを身につまされて聴くにはいくらか若いが、他方七十八歳の最後の日まで労作のペンを措かなかったロランを思えば、改めて襟を正し気を引き立てて、自分に課した一日の仕事に向かわずにはいられない。
 フランス語の学習をおそく始めた私は、あの大作『ジャン・クリストフ』も含めて、『ベー
トーヴェン』、『トルストイ』、『ミケランジェロ』、いわゆる偉人伝記叢書(Vie des Hommes  illustres)の三部作や、画家ミレーの評伝など、ロランの前期の作のほとんどすべてを英語の訳書で読んだ。『トルストイ』が最も早くて一九二一年(大正元年、二十歳)、『ミレー』がいちばん晩くて一九二二年(大正一一年、三十歳)、『ベートーヴェン』と『ミケランジェロ』がその間に挾まり、ギルバート・キャンナン訳の『ジャン・クリストフ』全三巻が二十代を通じての聖書だった。それにしても早くから自分の物にしていた英語の読解力のことはともかくとして、この外国語に私を親しませてくれた中学時代の幾人かの先生の恩の並ならぬことを思わずにはいられない。十六歳の私にスコッ卜やバーンズを教え、十七歳の私にエマスンを読ませた人々、今は亡きその先生たちの優しい霊に、ああ、願わくば永遠の安らぎがあるように!
 戦争末期の避難の手遅れから灰にしてしまった多くの書物の一冊であるあの英語の『ベートーヴェン』はたしかコンスタンス・ハルという人の翻訳で、ロンドンのキーガン・ポールから
出版された本だった。二十五歳か六歳の時、東京日本橋の丸善で買った。それより少し前に或
る人の手で『ベートーヴェンとミレー』という日本訳は出ていたが、そして一時は愛読もしたが、英語からの重訳だったのでその後は英訳の方に熱中した。もとより、まだベートーヴェンが演奏される機会も少なく、ピアノかヴァイオリンの比較的小さいものしか聴くことのできない時代だったから、少なくとも私などはベートーヴェンを聴くよりも『ベートーヴェン』を読んだのだった。そしてその読書はすばらしい体験だった。好きな個所を幾度でも読み、序文や最後の数ページなどは自分で訳してみたりさえした。由来日本人は音楽そのものを聴くよりも、作曲家の伝記やその作品の研究を読む方を好むという非難を蒙っているが、若い頃、すなわち一個の人間か形成される大切な時代には、聴くこととともに、読むこともまた重要な条件だと私は思っている。当のロマン・ロランはこの最初の感動的な小冊子、この巨人への最初の感謝の歌ダンク・ゲザングを書いた後三十年もたって、新しく七巻から成る壮麗で高邁な『ベートーヴェン研究』に最後の心血を注ぎはしなかったろうか。そしてこれを読んでさらに聴くベートーヴェンの作品か、われわれにどんな豊かさ、どんな知識、またどんな確信を与えたかは、今さら例を挙げて言うまでもないであろう。

     *

 太初はじめに言ことばありき。そうだ、一九〇三年一月満三十七歳を迎えたロマン・ロランは、彼の『ベートーヴェン』の書き出しを次のような言葉で始めている。「空気はわれわれを囲んで重苦しい。古いヨーロッパは重たい濁った雰囲気の中でしびれている。偉大さを持たない物質主義は思想の上にのしかかり、もろもろの政府や個人の行動から自由を奪う。世界はその抜け目のない卑しい利己主義のなかで仮死の状態に陥っている。世界は窒息する。――もう一度窓を明け放とう。自由な空気を呼びもどそう。英雄たちの息吹いぶきを吸いこもう」。
 そしてこの思わぬ落涙か予言のように清らかで潔く、心情の誠実な熱気をはらんだ勇気づけと慰めの章句はなおつづく。「生きることは苦しい。生活は魂の凡庸に甘んじられない者らにとっては日毎の戦いであり、かつ最もしばしば、偉大さもなければ幸福もなく、寂寞と孤独とにゆだねられた悲しき戦闘である。
 貧困に圧迫され、家庭的な辛い心労や圧しつぶすような愚かしい日々の務めに追いつめられて、しかもそこではすべての力が甲斐もなく費やされ、希望もなければ喜びの光もなく、大多数の人々が互いに離ればなれになり、こちらも知らなければ相手からも知られない不幸に沈んだ兄弟たちに、手を貸し与えるという慰めをすら持っていない。彼らは自分達だけにかまけなければならない。そしてその中の最も強い者でさえ、苦痛に打ちひしがれる瞬間かある。彼らは呼ぶ、救いを、一人の友を」。
 ロランがそうした友としてわれわれのまわりに集めようとしたのは誰々だったろうか。それは貧しくて真価を知られず、長いあいだ画商の食い物となっていたミレーだった。それは高潔な軍人、革命戦士の象徴であるオーシュだった。それはイタリア独立の英雄ガリバルディであり、イギリスの輝かしい革命家トーマス・ペインであり、ロマンティックで自由の友シルラーであり、さらにイタリアの愛国者マッチーニだった。そしてすべて友たるに価するこれらの人人、ロランの言う英雄たちとは、彼らの思想や力によって勝利を獲た者のことではなく、実にその心情によって偉大だった人達のことである。「性格の偉大でないところに偉大な人間はなく、偉大な芸術家、偉大な行動の人といえどもない。有るのはただ低劣な群衆のための偶像だけである。時間はそうした偶像のことごとくを打ち砕く。われわれにとって重要なのは成功ではない。問題は偉大であること、そう見えることではない」。
 若い日の私が感奮し、老年の今ふたたびそれを読み返してさらに親しみをこめた感動を覚えずにはいられないこの序文で、ロマン・ロランはなおも筆を続けている。「われわれがこれから物語ろうとする人々の生涯は、ほとんど常に一つの長い殉教の道だった。悲劇的な運命が彼らの魂を物質或いは精神の苦悩、いわば貧困や疾病の鉄床の上で鍛えようとした場合にせよ、或いは友らを苦しませる名状しがたい屈辱や苦痛を見て心は引き裂かれ、生活は荒廃された場合にせよ、彼らは毎日の試練のパンを食ったのである。そしてもしも彼らがそのエネルギーによって偉大だったとすれば、それはまた彼らが不幸によっても偉大だったからである。それならば幸薄い人々があまりに不平を言わないように。なぜならば人類の最善な者らはその人々と共にあるのだから。われわれは彼らの勇敢さで自分たちを養おうではないか。そしてわれわれにしてあまりに弱いならば、彼らの膝を枕にしばし憩おうではないか。彼らはわれわれを慰めてくれるだろう。その聖なる魂からは静かな力と強い善意の急流がほとばしる。たとえ彼らの作品に尋ねたり声に聴いたりしなくても、われわれは彼らの眼の中に、彼らの生涯の物語の中に、生は苦しみの中における以上にいっそう偉大ではあり得ず、いっそう多産でもなく、またいっそう幸福でもないということを読み取るだろう」。
 幸薄い人々の最善の友、苦悩の烈火や貧困の氷の中から、美しい神の火花である歎喜を鍛え出し切り出したそれら偉大な人々の先頭に、ロマン・ロランは強くして純潔なベートーヴェンを置いた。おのれを取り巻く苦しみのただなかで、その奮闘の実例が悲惨な人々への慰めとなることを願ったベートーヴェン、「事物のあらゆる障害にもかかわらず、人間の名に価する者となるために全力をつくした彼のような不幸な者を、同じように不幸な人が見出してみずから慰めること」を願ったベートーヴェン、幾十年にわたる超人的な悪戦と努力の末にようやく苦しみを征服し任務を全うして、哀れな人類にいくばくかの勇気を鼓吹したこのプロメトイス、神の救いを求める一人の友に
「おお人間よ、なんじ自身でなんじを救え!」と言ったルートヴィヒ・ファン・ベートーヴェンを。
 この本が最初に出たのは遠く一九〇三年一月の末、ロランの盟友シャルル・ペギーが主筆と経営者とを兼ねていたパリの「カイエ・ド・ラ・キャンゼーヌ」誌の発行所からだった。今のように誇大な広告や、有名人の空虚な推薦の辞があるわけではなく、ただ「新刊」という事が告げられただけだった。本屋にも図書館にも並ばなかった。評論家や新聞は例によって黙殺した。ペギーの熱烈な賛辞にもかかわらず、文壇的な成功や今言うベストーセラーなどは思いも及ばなかった。しかし本文と付録を合わせて百ページに満たないこの小冊子は、至るところに未知の友を見出した。彼らはキャンゼーヌ社まで出かけてこの小さな本を買い求め、慰めの英雄であるこの偉人の伝記に心を奪われ、心を与えた。版は版を重ねた。孤独なロランはベートーヴェンを通して幾千人の心をつかんだ。それというのもベートーヴェンは音楽家中の第一人者以上の者であり、現代芸術の中の最も英雄的な力であり、悩む者、戦う者の最有力な戦友、最善の友だからであった。
 しかしその頃の、すなわち一九〇〇年の初頭の頃のロラン自身の生活はどんなだったろうか。「ペギーの生活状態はよく知らなかったが、自分のことならば非常によく覚えている」と、それから四十何年後の『ペギー』の中でロマン・ロランは書いている。当時ほぼ三十四歳、エコール・ノルマルでの芸術史の講義の給料が年額わずか二五〇〇フラン、自分で主催していた社会高等研究学校の音楽科からは無報酬。そのほかは入るものもなければ貯えもなかった。しかもたびたび病気をした。一九〇〇年以来の肺結核から引き続いてのインフルエンザや心臓病。金がないから診療所に入ることもできず、まして南フランスでの療養などは思いもよらなかった。書いた本の収入はペギーの手にそっくり渡った。それ以前の戯曲『狼』も『アエルト』も『理性の勝利』も『カイエ』に載った『ダントン』も『七月十四日』も、物質的にはロランに何ものをももたらさなかった。そして一九〇三年二月一日、彼はペギーの所から出たこの『ベートーヴェンの生涯』によってしっかりと地歩を固めた。彼同様に貧しい者、病いに苦しんでいる者、社会の悪や不平等との戦いに敗れて、疲れ果て絶望に陥った人々の深い共感や愛情か、彼を取りまき彼に迫った。それはペギーも言ったように「一つの文学的富の最初のものである以上に、無限に道徳的な啓示であり、突如としてヴェイルを払った予感であり、天啓であり、爆発であり、一つの偉大な道徳的富の伝達」であった。こうして彼はもう孤独ではなかった。不遇にあえぐ人々はあすこに一人の人間があると思い、友があると思い、知性よりも精神や道徳の力に価値を認めることおよそパリ人らしくないこの一見貧弱な青年教授は、大都会の屋根裏に、慰めもないわびしい郊外に、また遠く草深い田舎の片隅に、死後の恒久的な行動の思想のために、知ってか知らずか、現在の生活を犠牲にしているような無数の人々のあるのを思って、みずから慰め、勇気を新たにした。
 ロランはこの実り多い熱烈な本『ベートーヴェン』の最後を、次のような文章で結んでいる。
「彼の全生涯は嵐の一日を思わせる。初めに澄み晴れた若々しい朝。わずかに物倦げな風の動き。だが静まり返った空気中にはすでにひそかな威嚇、重苦しい予感かおる。とつぜん巨大な影がよぎり、悲劇的な轟きがおこり、唸りを含んだ恐るべき沈黙がひろがり、『エロイカ』と『短調』の怒りの風が吹き荒れる。それでも昼間の純潔さはまだ侵されない。歓喜は歓喜としてとどまり、悲哀も常に希望を保っている。しかし一八一〇年以後、彼の魂の平衡は破れる。光は異様な色を帯びる。最も明晰な思想から、人は水蒸気のような物の立ちのぼるのを見る。それは散り、形を変える。それは彼らの憂欝で気まぐれな動揺によって心を暗くさせる。楽想は一度か二度甞の中から姿を現わすか、やがて再び沈みこんで、しばしば全く姿を消すように思われる。それは曲の終りに一陣の突風の形をとってしか再現しない。快活それ自身さえ一種
辛辣で粗暴な性格をとる。或る熱病、或る毒素か、すべての感情に入りまじる。夕暮が落ちて来るにつれて雷雲が積み重なる。そして今や電光に満たされた重々しい雲と、夜の闇と、巨大な嵐との『第九』の開始。しかし突然、暴風雨の絶頂で暗黒が引き裂かれ、夜が空から追い出され、昼間の清澄が意志の一撃で取りもどされる。
 そもそもどんな勝利がこの勝利に較べられよう。ボナパルトのどんな戦闘か、オーステルリッツのどんな太陽か、この超人的な努力の栄光、今までに精神が勝ち得た中でもこの最も輝かしい勝利の栄光に達し得よう。不幸な、貧しい、病弱な、孤独な人間、この世から喜びを拒絶された苦悩の化身が、世界に与えるために自分自身の手で歓喜を創造する。彼はおのれの悲惨で歓喜を鍛え上げる。すなわちその生涯の要約であり、すべての英雄的な魂の金言とも言うべき次のような誇らかな一語で彼自身言ったように。
 《苦悩を通して歓喜。Durch Leiden Freude》

     *

 今私の目の前にその『ベートーヴェン』のフランス原書がある。一九二一年八月という日付けの書き入れがあるから四十五年前に買った本だ。うすい空色だった表紙か茶色に褪せ、本文
の紙も色が変わり、綴じ目も崩れかけて背のところか凹み、その反対側の開ける方かかえって出っ張っている。しかしこれは私の大事な宝、熱烈に生きた二十代を記念する懐かしい本だ。
 私の生きている限りこの本も残るだろう。しかしこの二つの形骸がいつか姿を消したとしても、ベートーヴェンの音楽とその創造者自身の名と、ロマン・ロランの名を冠したこの本の強壮な子孫たちとはなお永遠に残るだろう。

(追記 この本には故片山敏彦の訳書がある。しかし本文中のロランの文章の引用はすべて原書からの私自身の翻訳である)。
                                 (一九六六年一月)


 

 

 

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 今と昔

 このごろの早春の夜、私は毎晩寝る前にロマン・ロランの『シャルル・ペギー』を読み返しているのだが、昨夜は考えがそのペギーからロランその人に戻り、更にロランからベートーヴェンヘと移って行って、この巨匠の弦楽四重奏曲の中でも今の自分の心を最も深く静かに清めてくれるように思われる、あの変ホ長調作品一二七番の第二楽章をレコードで聴いた。
 まったく私ばかりではなく、ベートーヴェンから掬むことを知っているどんな人でも、この楽章の広々と澄みわたった憂欝な美しさには、喜んで心を打たれ、進んで身を任せるだろう。ロランも七冊から成るそのベートーヴェン研究のうち『最後の弦楽四重奏曲』の中で言っている。「われわれは芸術の神聖な場所の一つへ、パルテノンへ、アダージョ・マ・ノン・トロッポの荘厳な優美の境地へ来た。これは単に音楽の山の頂きの一つであるばかりでなく、作品五九番第二のモルト・アダージョと同様に、(彼らは一対を形づくっている)、侵すことのできない聖域の一つである」と。
 私は暗い庭に梅の咲いている二月の夜の、ここだけは明るい書斎のストーヴを前に、椅子に腰をおろし、頭を下げ、両の拳を柔かに組んで、この聖域の歌の終るまでじっと聴き入った。
それは慰めの、また救いの音楽、拝受すべき聖体のような音楽、精神が高められ鼓舞されて、
やがて静かに沈潜してゆく音楽、人生の粗悪な昼間から解きはなたれて、私か真に私自身であることのできる夜のひとときの音楽だった。
 たまたまこういう夜を思い立って、ベートーヴェンに、バッハに、或いはハインリヒ・シュッツに捧げる時間、ひとり音楽という芸術からだけでなく、それをとおして巨匠たちの深い心
情からなみなみと汲む時間か、なんと今の私にとって願わしくもまた貴いことだろう。これ有ればこそ荒々しい醜い昼にもなお堪えてゆき、いささかの力をもって明日あすに立ち向かうことかできるのである。
 しかし昔はそうではなかった。貪婪どんらんな青春、渇ききった大地のような青春は、水のように音楽を飲み、飢えた者のように音楽をむさぼった。それならばその音楽は今のように潤沢だった ろうか、手当り次第だったろうか。いやそれどころか、演奏会にせよレコードにせよ、絶えず注意を払っていなければ忽ち聴きのがし買いそこなってしまう程、数も少なければ種類も限られていた。しかもその代償が容易には提供されなかった。すべてが当てがい扶持だった。そしてその天くだり的な物にわれわれは飛びついて行った。
 大正五年(一九一六年)私はロマン・ロランの『今日の音楽家』の中からベルリオーズ、ワーグナー、サン・サーンス、リヒャルト・シュトラウス、フーゴー・ヴォルフ、ドビュッシーの六篇を翻訳し、同じロランの別の本から取ったモーツァルトを加えて、『近代音楽家評伝』という訳書を出した。今でこそ正しくベルリオーズと発音しているが、何しろ約五〇年前の日本の事だから、その姓の最後のズを発音するかしないかが問題になった。色々な人に聞いてまわったが誰からも確答が得られなかった。それで止むを得ずベルリオとしてしまい、続いて四年ほど後に出した『ベートーヴェンの交響曲の批判的研究』や『自伝と書簡』の著者の姓も、同じようにベルリオで通してしまった。或いは密かに眉をひそめた人の一人や二人は有ったかも知れないか、そういうしろうとの無知から来た独断が、ともかくも寛大に通過させてもらえた時代だった。
 そのベルリオーズを、その後数年たってもまだ何処でもやらなかったから、東京日比谷公園正門わきの小さい円形の音楽堂で生まれて初めて聴いた時には、私はすっかり圧倒された。曲は陸軍軍楽隊の演奏する、たしか『秘密裁判官フラン・ジュージュ』の序曲だったと思う。その音楽の男らしい暗い感じと、きっさきを揃えて迫って来るような管楽器群の音の壮烈な印象が、おりからの晴れた夏の空と、公園のさかんな緑と、ベンチに凭って聴き入っている閑散な日曜日の散策者たちの姿と共に、今もなお懐かしく思い出される。
 当てがい扶持にせよ天くだりにせよ、音楽会とレコードは、その後次第に多く私達の手に入るようになった。私達――詩人高村光太郎と、彫刻家高田博厚と、かく言う私とは、早くから熱烈なベートーヴェニアンだった。今でもそうだと思うか、その頃でもベートーヴェンを聴く機会は音楽会でよりもレコードでの方が多かった。三人のうちの誰かが新しいベートーヴェンのレコードを手に入れたと知ると、(たとえば高村さんか英国へ註文した『第五ピアノ・コンチェルト』を受けとったとか、高田がワインガルトナー指揮の『第八』を、私がフランスのパテー盤の『第二』を買ったとかいう事がわかると)、取る物も取りあえず聴きに出かけるのだった。そして関東大震災後の大正一三年、私が省略のない『第六交響曲』を買った時には、その頃の上高井戸の畑中の一軒家へ前記の二人の友達と近所の農家の若い人々とを招待して、和やかにも熱っぽい田園の集まりをした。
 音楽会行きは近衛秀麿氏の始めた新交響楽団の定期演奏会が断然多かった。私は毎回ほとんど欠かさず聴きに行って、そこから実に多くの多くの事を学んだ。もしも私の生活と芸術の国を今もなお脈々と音楽の地下水が流れているとすれば、その恩恵の一つは確かに新響の演奏会
であったと言わなければならない。そしてその新響とベートーヴェンとについての数々の思い
出の中で、ヨーゼフ・ケーニヒ指揮の『第九』の初演と、ジンバリストか来朝した時シフェル
ブラッ卜が指揮した『エロイカ』こそ、その地下水の輝かしくも豊かな露頭をなしている。
 きのうの夜は星空の歌のようなベートーヴェンのアダージョを聴き、今日の昼間は昔を思い
出しながらこの文章を書いたが、今夜はバッハの第七一番のカンタータ『神はわが王なり』を
聴くことにしよう。これはバッハが二三歳の時、ミュールハウゼンの市参事会員更迭に際して 作曲したものだが、その中でテノールのアリアがソプラノのコラールと美しく入れ違いながら、「私は今や八〇歳です。あなたのしもべは何故になお重荷を負わねばならないのでしょうか」云々と歌っている。私のためにその八〇歳はまだ遠いか、このカンタータを聴きながら、しかし静かにやがての交替を思うのは至って自然な事だと言わなければなるまい。
                                  (一九六五年二月)


 

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 ブクステフーデ

 私たちを乗せた車は、冠着山かむりきやまの下の大池の見物を終ると、ぐるぐると曲がりくねった山の端の坂道をくだりながら、月の名所の姨捨おばすてをすぎて稲荷山いなりやまの町へと向かっていた。つい四日ほど前の美しく晴れた一日だった。まっさおな空には浮きただよう一片の雲もなく、四阿山あずまやさんから志賀高原へとなびく上越の山々の、金褐色に枯れた斜面には十一月半ばの日光かみなぎり、北の正面には早くも雪を装った飯繩いいづな、黒姫、さては妙高などの峯々がそびえていた。そして眼の下に晴ればれと横たわる善光寺平の田園や町や都会を縫って、蛇行する千曲川ちくまがわの水の光が或いは青く、或いは銀のように輝いていた。どこもかしこも最後の取り入れを待つ林檎の紅と黄銅のように光る柿の実り。私たち、私と團伊玖磨君とは車の窓から、見れども飽かぬ山国のこの晩秋の大観に酔っていた。私か作詞をし、團君が作曲をした稲荷山の或る学校の校歌の、その発表式が終っての帰りだった。
 旅の道づれとして好ましく、濶達で聡明で目鼻立ちのすぐれたその團君に私は言った、「こんなすばらしい景色に眼と心とを喜ばせられながら、これで東京へ帰るとまたあしたは耳と心の楽しみがあるのですよ」と。「何です、その楽しみというのは」と歌劇『夕鶴』の作曲家がたずねた。「ブクステフーデを聴くことです。実はあしたブクステフーデの五つの宗教的カンタータのレコードを、銀座へ買いに行く事になっているのです」。「ほう! それは本当に羨ましいような楽しみですね」と、若い友は祝福するような笑顔で私を見た。そして、そういえば、最近彼の葉山の家へ或る外国婦人がたずねて来て、そのブクステフーデのオルガン曲を幾つか弾いて聴かせてくれたが、それか実に見事だったので、出来たらもっとたくさん、あのリューベックのオルガンの大家の作品を知りたいと思っていると言った。私はその話を歌のように聴きながら、「暁の星のいかに美しく輝くかな」のオルガン・コラールや、「われはシャロンの野花、谷の百合なり」のカンタータを思い出していた。
 きょうの今、そのブクステフーデの五つのカンタータの音盤が書斎の傍テーブルに載っている。前から持っている「シャロンの野花」はバスのフーデマンが歌っているが、今度のはバリトーンのフィッシャー=ディースカウだ。しかしテノールのヘルムート・クレープスが受け持っているほかの曲も初めて聴けばそれぞれに胸を打ち、さすがにシュッツからバッハヘと連なるドイツ宗教音楽の一大山脈中の高峯の作だと言える。私は一方行く処として可ならざるはないテレマンも好きで、彼のレコードもかなり持ってはいるか、このカンタータ集の一つにもある「鹿が谷川を慕いあえぐように」いま敬虔な心が渇望するのは、数すくないブクステフーデのそれである。
                                 (一九六五年十一月)

 

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 合唱と私

 この二、三年は讃美歌を歌うだけになったが、それより前の幾年間、私の家ではクリスマスや復活祭か近づく頃になると、子供もまじった大人たちのコラールや合唱曲の練習が始まるのだった。元よりしろうとでもあり、小人数の家庭内での事でもあるから、曲と言っても比較的やさしいもの、練習と言ってもただ座敷へ集まるだけの事で、みんなが仕事や勉強の合間にそれぞれの片隅で思い思いに稽古したのを持ち寄って、それを小さいオルガンの伴奏で合わせてみると言った程度に過ぎなかった。しかし日の経つにつれてそれかどうやら形を成し、われわれ老夫婦や若夫婦や幼い子供たちの声の調和の波の中から、精神的な祭の日を讃える美とか真心とか言うことのできるものかちらりとでも感じられると、少なくともわれわれ年をとった者たちの心にはある強い感動が突き上がり、眼には柔かな涙が浮かぶのだった。わけても大人たちの歌う三部の上を、男女二人の子供の純潔なソプラノがほとばしるような勢いで定旋律を流すとき、私などはそのけなげさ、その効果の美しさに打たれると同時に、今さらながら敬虔な作者バッハヘの深い感謝の思いに詢のふさがるのを禁じ得なかった。
 東京バロック音楽協会は、毎回立派な曲目とみごとな演奏とでわれわれを喜ばせながら、たしかこの次の演奏会で十五回目になる。ところで去年の十二月の時もそうだったが、多分一昨年の暮だったと思う会に、例のミヒャエル・プレトーリウスの "In dulci jubilo"「たのしき歌もて」の合唱を冒頭に据えて、その歌詞のついた楽譜をプログラムの初めに印刷した。これは私も好きな歌で、今日は朝から空や日光が美しくて自分からも善い詩が生まれそうだなどという日には、このラテン語とドイツ語で織りなされた合唱歌が知らず知らず口をついて出る。ところが一昨年のその夜、東京文化会館小ホールでの事だったが、指揮者の金子登さんがいきなりわれわれ聴衆に向かって、この歌を歌える方たちはどうぞ合唱団と一緒に歌って下さいという事を舞台から言った。聴衆はみんな顔を見合わせたことと思うが、私も会場の中をうかがいながら恐る恐る中腰になった。民謡風の美しい衆讃曲コラールは男女の声を集めて堂に満ちた。私の前後左右からは、うら若い女の人たちのソプラノか響き、私自身もいつかテノールの部を歌っていた。私、もう充分に老いた私、正規の発声法も何も学んだ事のない無学な私が、ひたすら人々の心を結び合わせ喜ばせるこの素朴で純真な中世の讃歌に導かれて。
 中世と言えば、皆川達夫さんは中世音楽合唱団というのも主宰し、指揮しておられる。そして私もこの有為な若い音楽学者の仕事に好意の目を注いでいるが、ある時ある会場での発表会に、彼は十五世紀の大家ハインリッヒ・イザークの「インスブルックよ、さようなら」の合唱を、聴衆の面前で公然と私に捧げた。あの強い輝く眼で会場の片隅にひそんでいる私を見出し見つめながら、あえて名を挙げてそう宣言したのである。私は不意の出来事と恥ずかしさとで狼狽したか、やがて懐かしい歌が静かに満ちて来るにつれて、この出来事を光栄に思うようになり、この歌をイザークに書かせたオーストリアの美しい古都インスブルックを想像し、そこを取り巻くティロールの山々やインの流れを目に浮かべる余裕も出て来て、山と自然と古い音楽とを愛する私を喜ばせようと思って、特にこの合唱を献呈してくれた皆川さんの心に深く深く感謝するのだった。
 そのイザークの音楽を、同時代者ホーフハイマーやゼンフルのものと一緒に、私は今夜ゆっくりと聴こうと思う。
                                 (一九六六年二月)

 

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 図鑑について

 子供の時から自然や自然物が好きで、その愛を今でもなお持ち続けている私は、机の上や書棚の一角に各種の図鑑をずらりと並べている。植物や動物は言うまでもなく、岩石でも天体でも、雲のような気象関係のものでも、そのおおかたは揃っている。それもただ飾ってあるのではなくて、時に臨み事に応じて活用するのである。図鑑という物は言葉における辞書と同じだから、何かの時の検索のためというよりも、その何かの時を自分から求めて活用するところに価値も妙味もあるのだと思う。
 むかし植物の牧野富太郎博士から、「尾崎さん、図鑑は一人の著者のものだけでなく、なるべくいろいろな人のを持っているほうかいいのですよ」と教えられたことかある。なるほどその通りで同じ植物図鑑でも牧野博士のもののほかに、村越三千男、寺崎留吉、中井猛之進、本田正次の諸氏、その他幾人かの専門家の本がある。そしてそのそれぞれの画や記載文から帰納して、われわれはある植物の正しい名を知るのである。外国語の辞書の場合にもほとんど同じ事がいえるだろう。しかも今日では白黒や天然色の写真による図鑑もたくさん出ているから、正しく使えば多々ますます弁ずるわけである。
 旅行や登山の時の参考のためにいっておけば、岩石図鑑からの検索は相変らずむずかしい。しかし夜空の星の名を知りたい人のためには、(これは図鑑とは少し違うが)、その年の毎月の星座図に運行中の惑星の入っている『天文年鑑』をすすめたい。
                                  (一九六五年五月)

 

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 先人と友人

 わが師わが友

「先生」という言葉で呼んで、それか思いすごしでも誇張でもなく、今に及んでなお正当だと思われる三人か四人の恩師が私にある。いずれも小・中学校時代の先生だが、残っている写真も何も無いのにかかわらず、五十幾年から六十年あまりもたった現在、目をとじてその遙かな昔を思えば、まぎれもないそれぞれのおもかげが懐かしく立ち浮かぶ。
 小学校のは、「唱歌」(明治三十年代にはまだ「音楽」とは言わなかったから)の先生だった。鎌原という中年の先生で、きれいに髪を分け、栗色の髭を鼻下にたくわえ、皮膚の色にも瞳の色にも西洋人の血がまじっているかと思われる端正な美しい風貌の人だった。その鎌原先生が、八つか九つの幼い私の音楽的な感性と声とを認めて、みんなに教える普通の唱歌のほかに、特別に英語の歌を教えて下さった。それは「ロング・ロング・アゴー」や「オールド・ブラック・ジョー」で、今言えばボーイ・ソプラノだった私は、歌の意味もよく分らないままにただ歌詞を丸呑みに覚えて、オルガンを弾きながら歌う先生と合唱したり、その伴奏で独唱したりした。その後数十年音楽への愛を持ちつづけ、演奏会やレコードで聴くほかに、息が切れたり声がかすれたりするようになった今でもなお、時々一人で外国の古い民謡や宗教歌やリードを歌って楽しむのは、もうとうにこの世を去られたあの先生の忘れては済まない恩恵である。
 中学校、(とは言っても私の場合は旧制の商業学校だが)、そこでの恩師は予科の時代の理科と、英語と、作文の先生だった。理科は浪江元吉、英語は浅田宗七、作文は糸左近。本科になってからは数学でも、簿記でも、商事要項でも、すべて平均点かそれ以下の成績だったが、低学年の頃は初めに書いた三つの学科が好きでもあればよく出来もしたので、しぜん三人の先生に愛された。
 理科の浪江先生は、その頃すでに初老の域にあったような気がする。背が高くて柔和な面立ちで、ほっそりとした美しい指をしておられた。ずっと後になって知った事だが、先生は名のある動物学者だった。ナミエチョウ、ナミエガエル、ナミエゲラなどという奄美あまみ大島や沖縄列島産の動物は、先生の発見にかかる蝶や蛙や啄木鳥きつつきに違いない。十二歳の予科一年の時、古いほのぐらい理科の階段教室で、胴籃どうらんへ入れて持って来られたアブラナを、きゃしゃな指先でこまかにこわして、花のそれぞれの部分を顕微鏡でのぞかせたり黒板に図解して説明して下さったりした先生を、なんという敬慕の念をもって私か仰ぎ見たことだろう。また先生か同じ黒板へ二た色か三色の色チョークで描かれたジョウビタキという鳥を、私は有るだけの色鉛筆を使って雑記帳へ獏写したが、お手本とは似ても似つかない極彩色のその鳥の画を見て、なんと先生が優しい微笑と共に私の頭へ片手を載せられたことだろう。もう一人の熱心な級友と一緒に先生のお供をして、その頃の渋谷や田端の田舎へ植物や昆虫の採集に行った嬉しさも忘れられない。
 英語の浅田先生にはナショナル・リーダーの三と、先生自身の編纂になる英米の詞華集とを教わった。慶応義塾の普通部か商工部と私の学校とを掛け持ちしておられるらしかった。髪の毛が真黒で太くてこわい、歯やあごの強い、色の浅黒い、小柄できりりとした中年の先生だった。英語の発音も歯切れかよかった。リーダーの第一章の"Who has seen robin readbreast?"の抒情的な文章を、先生は自分でも酔うように読まれた。ほかの級友はどうだったか知らないが、先生のその酔いにひきこまれて私も酔った。ロングフェローや、ワーズワスや、スコッ卜や、バーンズの詩の入っている詞華集の場合も同じだった。自然を歌ったものが多く、私自身すでに自然か好きだったし、学校の科目にこそないが音楽もまた好きだったから、先生かはなはだ音楽的に朗読するそれらの自然詩に心から陶酔した。こうして外国の詩への愛、自然文学への愛が、少年の私のうちに芽ぐみ、養われていった。
 こういう私が同時に作文で糸先生のお気に入りだったのも、自分の口から言うのは変だが、あるいはしぜんの成り行きかも知れない。予科の一年だが二年の時、「江ノ島に遊ぶの記」という雅文体の文章を書いてそれが校友会雑誌に載ったことがあるが、先生の満足の顔に引きかえて、父親の苦笑いを買ったことを今でも覚えている。その時父は言った。「こんな事が上手で何になる!」
 上手下手はともあれ、音楽への、自然への、文学への、そしてわけても詩への愛を持ちつづけて、いや、それらによって自分の運命を形づくりながら、私はついにここまで来てしまった。父には気に入らなかったかも知れないが、私としてはやはりこの運命を喜ばずにはいられない。
 そしてこうして最も古い恩師の幾人をその昔の姿や顔のままに思い出しながら、「師よ、同時に愛する友よ!」と今の私は呼びたいと思う。
 すべては Long long agoである。
                                  (一九六五年八月)

 

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 清閑記

 近 況

今日は四月十六日、キリスト受難の金曜日に当ります。私は毎年のこの日の朝のように、今もバッハの『マタイ受難曲』の「悲しみの衆讃歌コラール」を、ひとりでオルガンを弾きながら歌ったところです。"O Haupt voll Blut und Wunden, voll Schmerz und voller Hohn!"……。「おお主のこうべは血にまみれ傷を負い、苦しみと侮りをうく!………」年ごとに息が続かなくなり、高音部も声がかすれるようになりましたが、そのかわり以前よりももっと深い思いをこめて、一層しみじみと歌えるようになった自分に気がつきます。しかしそういう事を思うのはむしろ邪念で、年は取りながらまだ人間として至らないのだという気もします。それで続く二番の「おんみ気高きかんばせ」からは本当の無心になって歌いました。
 しかしその無心こそ、今私の庭の自然に行きわたっています。春はおのずから満ちて来て暖かな日光をみなぎらせ、そよそよと柔かな風をひろげています。そのそよかぜに白々しろじろと散る桜と、レンギョウの黄色い残花と、山吹の初花はつはな、今日あたりから見頃になるカイドウの深紅の花。冬のあいだ小さい角のようだった堅い芽がいつのまにか伸びほぐれて、今はベイジュ色の長い花房となって枝の先から垂れている白樺の花。おそい粟の木や柿の木のほかはもうすべての樹木が炎のような若葉をほどいて、庭の空間に緑のかがよいを流しています。そしてその木々の下や花壇には、タンポポ、イカリソウ、二輪草、紫ケマン、ナズナ、春ジョオン、ホトケノザ、大イヌフグリにタチイヌフグリ、各種の水仙、ムスカリ、スミレの類が時をたがえず咲き競い、その間を紋白蝶や揚羽の蝶が飛び、一方、屋根の高みや稍の空には絶えずツグミ、アカハラのフルートの音が流れ、尾長のむれの皺がれ声や山バトの含み声が響いています。そして私は去年の秋の末以来なじみだったこの鳥たちの中の多くの者が、間もなく渡ってくる夏鳥たちに場所を譲って、遠く沿海州の森林地方や国内の山の中へ帰って行くことを思わずにはいられません。しかもその事を彼らもまた無心に、すなわち本能のうながしに従ってするのです。
 こうして縁ゆかりある日の衆讃歌コラールを歌ったり、春の日光や風の感触を味わったり、小鳥の歌や昆虫たちの営みに聴き入り見入りしていながら、やがて涼しいひっそりした書斎へもどって、余り面倒でもなければ強いられたのでもない、むしろ楽しんで出来る仕事を続けるこの身分か何と仕合せなことでしょう。それに体も丈夫でどこと言って悪いところもなく、ただこの頃いくらか体力とエネルギーに衰えが感じられるようになっただけで、自分の口から言うのはおこがましいが、精神の火はまだ若く、魂の野は晴れて広やかです。もしも寿命にして許されるならば、この世へのいや増す愛と感謝とをもって、今後なお幾年かの仕事にも堪えてゆけそうに思われます。
                                  (一九六五年四月)

 


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 山小屋からの電話

 この夏の八月九日、日曜日、私はいつもより少し早起きをして、新聞から頼まれた原稿を書きはじめていた。東京玉川の空は薄く曇っているか、今日もまた暑くなるだろうと思われる朝を、ツクツクボウシやミンミンゼミ、それに遅生まれのヒグラシまでまじって、仕事に打ちこんでいる身には多少迷惑に感じられるほど賑やかに鳴きしきっていた。
 その午前十時ごろ、母屋から妻がインターフォーンで「常念小屋の栄子から電話ですよ」と言う、「なんでも山は大荒れなんですって」
 栄子というのは私たちの長女で、それが自分の娘と若い友達四人の一行六人、昨日北アルプスの常念岳へ出かけて、今日は蝶ケ岳、大滝山、徳沢というコースで上高地へ下りる事になっていた。私はそのコースのお花畑が最も見事なはずの今日のために、彼らの楽しく美しい山旅を想像しながら、またいくらかは羨望もしている矢先だった。そこへのこういう電話である。私は母屋へ飛んでいって受話器を取った。
 東京からは幾山河を隔てた遠い北アルプスの山の上、その海抜二四八〇メートルの常念小屋から、漠々と厚い綿のような空間をとおして我が子の声がほそぼそと、しかし懸命な調子で聴こえてくる。「あのね。けさ早く小屋をたって常念の八合目ぐらいまで登ったのよ。そうしたら急に空模様か変ってすごいような雨と風。見る見る立っても坐ってもいられない程の大嵐になってしまったのよ。それでみんな下着までずぶ濡れになって、がたかた震えながらほうほうの態で小屋へ引き返して来たっていうわけなの。小屋のご主人の話だとこれは多分前線の通過だから、あしたはまた晴れるだろうという事だけれど、もしも駄目だったら残念だけどあしたまっすぐに下山するわ。今みんな着換えを済ませてストーブで暖まっているところ。故障者も一人も出ないし、これからも慎重にやるから心配しないでね」という事だった。
 私はようやく安堵してなお二つ三つの注意を与え、小屋の主人の山田宏吉さんにも一行の世話をくれぐれも頼んで電話を切ったが、暴風雨中の北アルプスと蟬の歌に晴れてゆく盛夏の東京、それを繋いで肉身の消息を通い合わせる一本のほそい電線、その電線という物が全く無心な無機物とは到底思えないような気持だった。
                                  (一九六五年九月)

 

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 『思索する心』  

 正味だいたい二三〇ページ。それが「朝の思索」、「昼休の思索」、「夕暮の思索」、「夜の思索」という四つの部分に分けられていて、すべてで四五編。いちばん短い編で二ページ、最も長いもので一四ページを費しているが、概して短いものが多いので、一気に読み通してしまうよりも、心にゆとりのある時に一編一編をゆっくりと、親しみをもって味わうのに適している。
「気を使うこと」とか、「恥をかかない恐ろしさ」とか、「物の捨て方について」とか、「退屈の味」とかいう、いかにも串田さんらしい題のついた小品が、それこそくびすを接して現われてくるが、それを一つ一つうなずいたり首をかしげたりして読んでゆくことが本当に楽しい。私にはそういう時の彼の愛読者の期待の気持や、うけとり方や、吐息まじりの満足感などが充分に想像できる。どんなふうに語り出し、どんなように話を進めてゆく気がしらと思いながら読んでいるうちに、話はそぞろ歩きのような足どりで、時どきたたずんで遠くを眺めたり、少しばかり横道へ入って何か小さな思いがけない物を手に取り上げたりしながら、べつだん結論めいたものも無く、それでいて結構楽しい思索の散歩が完成されてしまう。
 串田さんのものを読む人は、その文章から投影してくるものを賢く柔かにうけとめて、その微妙に迂回し曲折する足どりに心すなおに従わなければならない。「なるほど、そう言われれば本当にそうだ。考えてみれば私にだって似たような経験があったはずだ。しかしいつでもこんなふうに物を考えたり事柄に対処したりすることかできたら、刻々と腐蝕し変質してゆく現実の時を生きること自体、さして不満でも苦痛でもないはずだ」と思う人、思い直す人も多いに違いない。串田さんの講演が色々な年齢や地位の人々から喜んで聴かれる理由も、やはりそのへんにあるように私には思われる。その意味でこの本を成しているそれぞれの編は、彼の講演の荒い筋書き、壇上の原稿の骨子になる物だと言ってもいい。
 しかし串田さんにだって、そういつでも良い顔をしている時ばかりはない。世の中の愚劣や不正、無慈悲や無礼や横暴が彼の行く手に立ちふさがる時、その賢者の額は暗澹と曇り、このエラスムスは彼の奥所の厚い扉を堅く堅く閉ざすであろう。
                                  (一九六六年五月)

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 後 記

私はこの暮に神奈川県鎌倉の新居へうつる。昭和二十七年の秋からまる十四年間を住みなれたこの東京玉川上野毛の家を後にするに際して、いま蔵書の整理や身のまわりの物の始末や荷造りをしている間にこの「後記」を書きながら、何かにつけて感慨のまことに深いものかある。習慣となってそれになずみ、惰性となってその上に安住していたすべての物に、刻々と迫る別離の歌や影が生まれる。
 年も押しつまった十二月。それもあと二十日ほど経てばもう私も私の家族もここにいない。古いなじみの土地と家とにまつわる長い歴史が断絶する。そして再び違った土地や家での生活が開始される。そこには希望の無いこともないが、また一抹の不安もあって、新しい序曲の始まる前に、古い終曲の旋律が哀愁を帯びて顫えている。
 『私の衆讃歌』と題したこの本も、こうした落ちつかない毎日の中で考えれば、これが連続した仕事の一つの結末、一つの句切りであるように思われる。私はこの家で八巻の詩文集を出し、それ以後数冊の自作や翻訳の本を出した。戦後七年間の信州富士見生活も自分としては多産だったと思うか、ここでの十四年間は、押し移る老境と共になおいくらかの深さと成熟とを仕事に加え得たと信じている。そして私にとってこの本は、実にわが詩人生活の第三期を閉じるもの、恥ずかしながらその締めくくりをなすものである。しかしこれが果たしてそのような名に価するものであるかどうかは、ひとえに賢明な読者諸君の批判に俟つほかはない。
 五章に分けた文章のそれぞれの終わりには、作の年月を書き添えておいた。いちばん近い頃に出た本『さまざまの泉』(一九六四年白水社発行)以後に書いたものが大半を占めている。「音楽」と言い、「自然」と言い、「清閑記」と言い、その内容には変わりばえのしないものが多いように思うが、「先人と友人」、「高村光太郎」の二章は、言わば私の今日ある事への感謝の歌であって、これらを欠いては私の衆讃歌もその意義の大半を失ったであろう。ただしかし「音楽」の章でも、自分の一生を通じての最善の導き手であり慰め手であるバッハとロマン・ロランについて少しでも書くことの出来たのは、せめてもの喜びだと言わなくてはならない。それにしても「人間到るところ青山あり」とすれば、私は残る生涯の青山を前に、折に触れ、事に応じて、わが終生のこの二人の恩人についてもっともっと書いて置かなければならない。なぜならば書くことは私の生きているしるしであり、書くことの止んだ時は私の召される時だからである。
 最後にこの本の出版については、いつものように創文社社長久保井理津男氏と編集部の大洞正典氏との一方ならぬご配慮にあずかった。また美しい装幀には畏友串田孫一さんが当ってくださった。ここに特記して謝意を表する次第である。

    一九六六年十二月一日
                  思い出多い東京玉川上野毛の家にて

                             尾 崎  喜 八

 

 

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