何か楽しみの期待があって、それを思うと沈んだ気分が浮き立つというような事は、もう私ほどの年齢になるとほとんど稀だが、それでも今年は夏いっぱいと九月へかけて、たびたびそうした楽しい気分に見舞われた。つまり、十月にはバッハ・ソリステンが二年ぶりにドイツの空からやって来る。そしてなまで聴き、目で見ることのできるあのすばらしいバッハの演奏でともすれば自分一人の狭い天地にとじこもりがちなこの貧しい心を花やかせ、広々と解き放ち、高く引き上げてくれると共に、許される限りなお立派に生きて、晩年の仕事に立ち向かおうとする喜ばしい決意を新たにさせてくれるだろうという期待である。
私はこの気持を、机にむかう前の朝のくつろぎの一と時にも経験したし、都会の高架線や地下道を走る電車の中でも経験した。またつい半月ほど前には、海抜二、〇〇〇メートルの熔岩台地、信州美作原の広がりの中でも経験した。雪を待つ北アルプスのくっきりと青い全容が見え、紅いコフウロや向いウメバチソウが咲き乱れ、高処の秋の日光か金いろに照りこぼれ、西からの風がそよそよと吹き、頭の上の大空を小鳥の群れが渡って行った。ただ見る根源的な情緒と無限定な生の世界。私にはそれかバッハの音楽の世界のように思われた。すると当然かのようにソリステンの程近い来日か思い出され、往年のヴィンシャーマンや、ハンス・リンデや、クルト・トーマスの顔がちらつき、今は亡いラインホルト・バルヒェッ卜の眼が一人悲しくほほえんでいる気がした。
この人達をなつかしむために私が時どきプレヤーに載せる、カンターテ社のバッハのレコード「ダス・レベッディゲ・コンツェルト」の幾枚。そのジャケッ卜には彼らの肉筆の署名があるが、その中の「シンフォニア」は、彼らが去年来られなかった言訳にわざわざ飛行便で送ってくれたものである。私は招かれて来る欧米の芸術家たちを一にも二にも謳歌礼賛する者ではないが、彼らソリステンだけには、バッハを通して、兄弟のような親近感を覚えずにはいられない。
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楽器の全然駄目な私は、音楽への愛、演奏への欲望の最後の手段として歌を歌う。そしてそれには多くバッハの衆讃歌や、カンタータ、受難曲などの中の比較的容易に思われる短かいレシタティーヴォやアリアが選ばれる。自分でへたなオルガンを弾いたり、孫娘にピアノで伴奏してもらったりして歌うのである。七五曲ある「シェメリ歌曲集」の歌や、バッハの次男カール・フィリップ・エマーヌエルの集めた一八五篇の衆讃歌集の中のものなどが、私の貧しいレパートリーを形作っている。しかしそれだけでも莫大な富であり、無限の可能性への約束であると言わなければならない。そしてその歌詞に通じ、その曲に親しんでいるうちに、突然、或る夜、或る朝、私に一つの詩の動機が生まれる。それは宗教的な本文から直接出て来る時もあるし、その歌の醸し出す雰囲気から生まれることもあるが、いずれにしても私が理解し讃歎しているバッハからの啓示である事には間違いがない。たとえば或る夏の午後に次のような詩が出来たが、自分の家族に対する愛や感情が、その根本のところで、なんとバッハのそれに通じるところがあるかを見て驚いたのである。
不 在
孫の一人は房総の海べへ水泳の合宿に行っている。
その姉は白馬の登山に母親とけさ出かけた。
ひっそりと後に残った妻と私、
閑居というには少し寂しすぎる家と夏だ。
どんな波を凌いで小さい彼が遠泳の試練に堪えているか。
どんな定めない天候が彼女らの登攀を待っているか。
壁に貼られた日課表や主のいないピアノを見るにつけ、
遠く放ってやった幼い者らの上に不安な思いが行きさまよう。
妻は彼らの不在の部屋を掃き清めている。
私は書斎でペンを手に苦吟している。
蟬が鳴きしきり、風と熱気の吹きかねる家で、
私たちそれぞれの日の営み。
「汝らこんにちまで我が名によりて祈りしことなし」
それでも私は老いたる家長だ。
私の夏の勤労は彼らにもいささかの貢献でなければならない。
今夜妻と聴こうと思う「我は善き羊飼いなり」に価しなければならない。
最後の節のこの二つの引用句は、言うまでもなくバッハのカンタータからのものである。初めの句は第八七番の、後の句は第八五番のいずれも冒頭のそれである。遠く出かけた娘や孫たちへの愛と不安、暑熱の夏に留守をまもって今日も働く妻と私。そこまで書いているうちに突然目がさめたように、揺り起こされた潜在意識のように、この二つの句が躍り出た。言わばバッハが力を貸してくれたのである。
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楽器が駄目とわかっても、それでもたまにはブロックフレーテや座敷の古いオルガンで、むしょうにバッハをやってみたくなることかある。そのブロックフレーテで素人の小さい集まりを作っている親しい友人から、「フーガの技法」を合わせてみたという話を聴いてひどく羨ましく思った。その仲間は私からは遠い処に住んでいるので、そうした練習に加わることができないからである。コントラプンクトゥスの第一番をやったのだそうだが、幾たびか練習を重ねているうちに初めの頃の混乱や不揃いが次第に改善されて、ついに一応形を成すところまで辿りついたという事だった。それで私は、もしもその仲間と一緒になった時の用意にもと、一人で第一曲のソプラノのパートの練習を笛で始めた。三小節と四小節の休止のある全曲を三つに切って、一と句切りに一週間をかけて、毎日三十分ぐらいずつ勉強した。第二の句切りは第一のよりもむずかしく、第三の句切りは第二のそれより一層むずかしかった。ちゃんとした手ほどきも受けず、正規の教育も授けられていないのだから仕方がないようなものの、年寄りの冷や水と言われても甘受するほかはなかった。しかしとうとう自分のパートだけは吹けるところまで漕ぎつけた。それをみずから認めた或る午後の、なんという嬉しさだったろう。歌でないバッハが吹けたのだ。さあ、僕を呼んでくれ、試験してくれ! そしてよかったら主題を転回したコントラプンクトゥス第三番へ進もうではないか。そんな意気ごみだった。
レコードではなくて実際の演奏で、「フーガの技法」を全部通して聴いたことが私にはない。たしか再度の来日の時のバッハ・ソリステンで二曲、日本のバッハ・ギルドで四曲、それだけだったような気がする。しかし弦やチェンバロかそれぞれに織り上げ打ち建てる壮大な音の楼閣を、胸を躍らせながら次から次へと迎え見送るせつない期待と深く晴れやかな喜びとは、やはり全曲を通してでなくては味わえない。しかもそれを我が眼の前で、同じ人間仲間がやって聴かせてくれているのだとなれば、その人達に対して称賛や感謝や、ひいては愛情をさえ覚えるのは至って自然な事だと言わなくてはならない。
愛情、音楽堂で常に経験するバッハ演奏者への私の愛情。或る夜バッハ・ギルドが「フーガの技法」をやった時、あの最後の第一八番の曲の半ばで突然プツリとすべての弦が鳴りやんだと思われた瞬間、なお八分音符六つだけを弾いて静かに弓をとめた若い女性のヴィオラ奏者に、私は共感の涙と、一種の敬意と、父親のような愛をさえ覚えたのであった。
(一九六五年九月)
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