久しぶりに上の家のSさんのところへ招かれて、あのひっそりと落ちついた洋風の広間で一緒に一枚のレコードを聴き、それが終ると今度はいつもの清楚な茶室風の日本間で、奥さん心づくしのご馳走と美酒に思わずも夜を更かした。
近所に同好の士が無いせいか、Sさんは時どき私と二人でクラシックのレコードを聴いたり、静かに音楽を語ったりするのを好んでいる。お互いについ目と鼻の先に住みながら、両家の女たちの親しさは別として、少くとも彼と私との交わりに心安だての余りの乱れというものが無いのは、一つにはその間に音楽が介在していて、おのずから規律と調和を保たせているせいかと思う。
その日聴いたのはセザール・フランクのへ短調のピアノ五重奏曲で、私のまだ知らない作品だった。彼の二短調の交響曲や、『前奏曲とコラールとフーガ』のようなピアノ曲や、『英雄的小品』とか『三つの衆賛曲』のようなオルガン曲ならば私も大切に持っていて折々耳を傾けるが、この五重奏曲がこんなにも美しい物である事は初めて知った。殊にSさんが「跪ひざまずいて祈っているような感じ」と言ったレント・コン・モルト・センティメントの第二楽章と、「慰めと力づけの歌だ」と言った強靭で精力的な第三楽章とに私は打たれた。と同時に、一九〇五年にストラスブールで行われた第一回の音楽祭でこのフランクの崇高な叙事詩『盛福レ・ベアテイチュード』(「八つの幸い」とも訳されている)を聴いたロマン・ロランが、彼が公衆との非妥協的な点でベートーヴェンに比較し、バッハを別にすれば実際にキリストを見、且つ人々にも彼を見せる事のできる唯一人の音楽家であると書いた文章を思い出した。私はその個所を五十数年前に翻訳してフランクという名に初めて接した記憶があるので、今この五重奏曲を聴くに及んで一層この作曲家とロランその人とを懐かしんだ。そして私が静かにこうした感慨を告白するとSさんも晴れやかな顔をして、「僕にとっても三十年間愛し続けて来たフランクですよ」と言った。こうしてフランクは期せずして吾々を結ぶもう一本の絆きずなとなった。そして翌日改めて自分の持っている彼の曲の幾つかを聴いたり、ロランの『追想録メモアール』から一八八八年頃の彼らの親しい接触の事を書いた「セザール・フランクに関する短かい思い出」を読み返したりしたが、同時にフランクの人間と芸術の徹底的な誠実さと、清廉さと、英雄的な直情と、更に時にはほほえましいくらいな人の好さボノミなどの点で、これもまた自分の好きな同じベルギー生れの詩人であるエミール・ヴェルハーランとの類似を思わずにはいられなかった。
その頃妻の肉親の叔母であり、私にとっても愛する義理の叔母にあたる人が、半年余りの入院の末腎臓病で他界した。キリスト教の学校東洋英和の出身で、本人も口にこそ出さないが自分なりの信仰を持っていたので、その告別式は渋谷区代官山町の新らしい小さな教会で至って清楚に執り行われた。正面の壇上を埋めつくした純白な菊や百合や蘭の花のあいだから、七十六歳でみまかった人の懐かしい顔の写真が、天井の高いみ堂を満たした会衆の哀別の瞳に穏やかにうなずいていた。もちろん男性もいたが同じ学校出身の奥さんや娘さんたちが多く、昔の同級生で生き残っている老人も、彼女らの親しい「お信のぶさん」との別れに幾人か悲しみの姿を見せていた
。
式は荘重なオルガンの奏楽で始まり、会衆一同の歌う「主よ、みともに近づかん」の賛美歌がこれに続き、司式者である牧師の聖書朗読と祈祷があり、「ものは変り、世は移れど」が一人の若い女性によって歌われ、再び司式者の告別の言葉と祈りとがあって、さて会衆一同の二度目の合唱による賛美歌「しずけき祈りの時はいと楽し」が明るく柔かに堂内に響いた。これには特に「故人愛唱」という但し書きがついてい、私もまたこの賛美歌を好きだったので、亡き叔母と一緒に歌う気持になって、愛と敬虔の心をこめて一同に和した。そして最後の献花の時、私は一輪の菊の花を供えながら叔母の遺影につくづくと見入った。それは数年前に彼女とその同級の友三人とを上高地へ案内した時の記念写真の顔とそっくりだった。数十人の潑溂とした若い男女の登山者に囲まれ、瀬音せおとも涼しい梓川に架かった河童橋かっぱばしの石段の最前列に四人の「お婆さん連」の一人として腰をかけ、六月の西穂高の新緑を背にしている時のあの楽しげな顏が其処にあった。そしてその顔に最後の別れを告げながら、私の眼から不覚の涙が流れたのも是非がなかった。
それにしても家にいて時に一人で賛美歌を口にする事のある私が、それをこんなにも切実な思いで歌ったためしは一度もない。すべてはあの叔母の死による清めの力である。私の妻をその娘の頃から「実みいちゃん、実ちゃん」と言って可愛がってくれ、それに連れ添う私にさえ常に変らぬ好意を寄せていてくれたあの「お信のぶ叔母さん」の徳である。
いろいろと事の多かったこの一月末から二月にかけて、それでも私はドイツ・バッハ・ゾリステンの演奏会へ二度行った。二度とも上野の文化会館だった。
彼らにしてみれば五年ぶりの来日ではあるが、その間には幾種かのレコードも発売され、私も欠かさず手に入れて聴いているので、この演奏団体への特別な親近感はずっと連続していた。オーボエ奏者で指揮者でもあるヘルムート・ヴィンシャーマンは無論のこと、舞台へ並んだ十数人の中にも「ああそうだった」と思い出させる顔がいくつかあった。たとえばヴァイオリンのシールニンクやヴィオラのシュレアーなどがそれだった。彼らは今はもうすっかりなじみになった日本の会場で、聴衆の熱意と静粛とを十分に予期していたかのように伸び伸びと吹いたり弾いたりした。そしてバッハ・ゾリステンのゾリステンたるところを余さず示した。ただヴァイオリンの一団の中に一人の日本の若い女性の加わっているのが目を引いた。プログラムに載っている「出演者紹介」というのを見ると大阪フィルを経てブレーメンに留学し、サシュコ・ガブリロフの弟子になり、同時にこのバッハ・ゾリステンの一員として活躍しているという事だった。名は岩前恭子といった。そしてその師ガブリロフも第一回の時と同様来日して、いかにも男らしく生き生きとした美しい音を響かせていた。
私の行った時は二度とも曲目がすべてバッハのものだった。いずれもレコードで聴き馴れている曲ではあるが、最初の日のホ長調のヴァイオリン協奏曲の第二楽章アダージョと、『ブランデンブルク』第五番のこれも同じ第二楽章のアッフェットゥオーゾとは見事だった。わけてもそのアッフェットゥオーゾでフルートとヴァイオリンとチェンバロとが取りかわす静かな対話の美しかった事は、私にとって、その夜の圧巻であったように思われる。ただ驚きでもあり残念でもあり気の毒でもあったのは、番組の最後の曲『オーボエとヴァイオリンのための二重協奏曲』の時、その第二楽章のアダージョで二つの楽器の調べの遣り取りがまさに佳境を辿っている或る瞬間、突然ヴィンシャーマンのオーボエが故障を起こした事である。そのため曲は遂に中止されて別のヴァイオリン協奏曲がこれに代ったが、こんなアクシデントは聴衆の私としても初めてだし、ヴィンシャーマン自身にしてももちろん狼狽もしたろうし深く責任を感じもしたろう。しかしその間ずっと静粛を保って事の成行きを見守っていた満員の聴衆は、急遂代りに演奏されたイ短調のヴァイオリン協奏曲に熱烈な喝采を送り、更にアンコールか詑びのためのサーヴィスかと思われる「管弦楽組曲」第三番の『エイア』とヴィヴァルディの『春』とに暖かな拍手を与えた。
それから二週間後の二度目の時には、ヴィンシャーマンはイ長調のオーボエ・ダモーレの協奏曲で謂わば名誉を挽回した。私は同じ曲をヴェイロン・ラクロアのチェンバロので知っているが、甘美で豊かに広々としている点、やはりヴィンシャーマン編曲のオーボエ・ダモーレの方が好ましく思われた。プログラムの劈頭を飾るフルートとヴァイオリンとチェンバロのためのイ短調の三重奏曲は、これもまたクラヴィーア用の作品やオルガン・ソナタから編曲された物だそうだが、実に美しくまろやかで、あたかも膨れ上がってくる春の大地を見ているような気がした。
レコードよりも実演に重きを置く私は、『ニーベルングの指環』全曲を持っていながら、所用のために行かれなかった『ラインの黄金』の本邦初演を見損ない聴き損なった事を今でも残念に思っている。バッハ・ゾリステンの人達やヴィンシャーマン自身の物にしても最近は数多く出るらしいが、それらがいかに洗練されていようとも、いかに見事に録音されていようとも、私にとってはやはり音楽会場での実際の演奏の方がいい。合唱のような物は勿論のこと、管弦
楽にせよ、四重奏や五重奏にせよ、或いはピアノの独奏のような物にせよ、本人たちを前にした「人間の情の映うつり」が其処には在って、謂わば「血湧き、肉躍る」思いも経験するのである。
そして今これらの事を書きながら、私は日本でセザール・フランクの名作の実演を聴きたい
と思うと同時に、我が東京のバッハ・ギルドはどうしているのかとその後の様子を案じずには
いられない。
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