わが音楽の風光 1982(昭和56)年・没後


   ※ルビは「語の小さな文字」で、傍点は「アンダーライン」で表現しています(満嶋)。
   ※他の文集・詩集に掲載されている作品(グレー表示)はここでは表記しておりません(満嶋)。

                                 

詩と音楽

山と音楽

古い手箱と『別れの曲』

オーヴェルニュの歌

今と昔

ブクステフーデ

スカルラッティ

森の歌

合唱と私

パイヤールの印象

パイヤールと今日

笛とレコード

一枚のレコード

ロマン・ロランの声

白山小桜の歌

冬の或る日

『ベートーヴェンの生涯』

生きているレコード

エステルとアンリエット

人間の情の映り

ピアノ三重奏の夕べ

シュッツに打ちこむ人たち

 

詩 六篇
(冬の雅歌/シューマンと草取り/朝のひととき/田舎のモーツアルト/ハインリッヒ・シュッツ/朝の門前で)

「一年の輝き」より一五篇
(芝生の中の宝石/イソギクの小曲/波のように/皿の上の早春/王朝風な時間/別れの笛/美の哀愁/初夏の歌/自然詩人の花/セレナード/高原の炎/シャロンの野花/誠実な訪問者/美しい吸血鬼/冬にも緑)

バッハをめぐって(一)

バッハをめぐって(二)

バッハへ傾く心

バッハへの思い

 

 

         

尾崎喜八と音楽 (伊藤海彦)

 

                                     

 

 古い手箱と『別れの曲』

 書斎の棚の片すみに置いてある小さい箱。正直で入念な若い女の手が蓋や胴を彫った木の手箱。これは今から十五年前に信州の富士見を去る時。以前から親しくしていた諏訪の小学校の女の先生が、自分で創作して贈ってくれた大切な記念の箱だ。しかも底のすみの方にこびとの国の自動ピアノのようなかわいいオルゴールが仕掛けてあって、蓋のあくたびにショパンの『別れの曲』をひく。
 私はこの愛の箱にネクタイピンやタイタックやバッジの類を入れている。前の二種は老境の身だしなみにすぎないが、バッジの方はJAC三つの頭文字を組合わせたある山岳会の会員章で、これを登山服のえりにつけて立つ時には、ふだんの自分よりも、もう少し若く勇ましい気持になる。そして町にせよ山にせよ、私が出かけようとして蓋をあけるいつもいつも、箱は必ず『別れの曲』を鳴らすのだ。
 思えば人間は毎日さまざまな小さい別れを重ねている。そして私にもやがて最後の大いなる別れの時が来て、人々が敬虔な歌で送ってくれるかも知れない。しかし箱よ、そうしたらお前が私の手の下から歌う時はもう二度とないだろう。

 

 

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 オーヴェルニュの歌

 こうやって机にむかって、これから書くものの事を考えていると、遠い昔の高原の、夏も終りの色褪せた草野の果てから、いくらか悲しく懐かしくその歌が聴こえてくる気がする。
「パーストレ、デ、デライ、ライオ、ア、ガイレ、デ、ブン、テン、ディオ、ルー、バイレロ、レーロー。レーロ、レロ、レーロー、バイレロ、ロー」
(羊飼いよ、水のむこうではあまり楽しい事も無さそうだね)
「エー、ナイ、バ、ガイレ、エ、ディオ、トゥ、バイレロ、レーロー。レーロ、レロ、レロ、レーロ、バイレロ、ロー」
(そうだ、あまり善くもない。ところでお主ぬしのほうはどうなのだ)
というフランスの中央高台、オーヴェルニュ地方の『バイレロの歌』だ。そしてこの歌を思って今の私の心がいくらか悲しいのは、あれから経過した四十年に近い歳月のためであり、これを低く口ずさんで懐かしむのは、その頃の信州霧ヶ峯と、まだ若かった日の自分たちの生活とを思うからである。
 私はこの歌をその霧ケ峯で初めて聴いて、それまでに経験した事のないような種類の感動を覚えたのだった。それは私が山登りに熱中しはじめ、山と自然の文章や詩を書くことに力を入れはじめた時代とほぼ一致している。
 当時霧ケ峯には古い作太小屋というのを除くとたった一軒のヒュッテしか無かった。それは強清水こわしみずの広々とした緩やかな斜面にしっかりと土台を据えた立派な建物で、東京から移住した友人長尾宏也君が経営していた。客はすべて本当に山を好きな人達ばかりなので、環境の静かなことと清潔なこととは昼も夜も完璧だった。ヒュッテの瓦屋根の上を黄セキレイやビンズイが走り、シシウドの原では野ビタキやセッカが歌い、低い木立の茂った至るところで小エゾゼミが鳴いていた。強清水の湿地を中心に、高原の夏や秋を飾る花の種類も豊富だった。私はそのヒュッテでの幾日かの滞在のあいだ、天気さえ良ければ車山や八島ケ池のあたりを歩きまわって、雲や蝶や植物を観察したり、露出している火山岩に腰をかけて読書をしたりした。高原のひろがりに君臨する夏の真昼の静寂とその幸福。そしてきらきらと露や星の光に濡れた夜。小さく彫刻したような詩が私から幾つか生まれた。
 そういう滞在のうちの昭和八年か九年だったろうか、或る輝かしく美しい日の昼前に、主人の長尾君がしんとした玄関のホールで聴かせてくれたのがこの『オーヴェルニュの歌』のレコードだった。ヴァンサン・ダンディーの弟子のジャン・カントルーブが民謡から採集編曲したものを、ソプラノ歌手のマドレーヌ・グレーが歌っていた。全部でたしか十一曲聴いたと思うが、どの歌も剛健で素朴で、時には諧謔的な、また時には風景の悠遠を想わせる物ばかりだった。そしてその中でも初めに引用した『バイレロの歌』と、ロー、ロー、ローの長く繰返される『パッソー、ペル、プラ』(草原を通っておいで)と、最後の『ラントゥエノ』(アントワーヌ)のような広々として力強く、かつ緩やかな曲が気に入った。それからというもの日に一度は必ず聴かせてもらって、これらの歌が何とこの高原の本源的情緒にぴったりしているかを感じるのだった。そして東京へ帰るやそのレコードがすでに市販されているのを知ってすぐに手に入れた。そして長尾君が自分にしてくれたように、私もまた訪ねて来る山好きの友人たちにこれを聴かせて喜ばさずにはいられなかった。

 

 

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 スカルラッティ

 五月も半ばの晴れやかな日曜日、私の住んでいる谷をかこむ北鎌倉の山には、新緑の斜面のところどころにツツジが咲き、藤が咲き、ガマズミの白い花も咲きはじめ、朝早くからヒヨドリ、ウグイス、ホオジロ、シジュウカラなどの歌が賑やかだ。雲のように湧いた柔らかな木々の緑と、花と小鳥。夏という輝かしく逞しい季節をすぐ目の前にひかえているだけに、私にはここ幾週間の毎日がいよいよ大切な、いとおしいものに思われる。
 日曜日ではあるが待たれている原稿があるので二階の書斎で机にむかっていると、下の音楽室から、今日は学校が休みで家にいる孫娘の弾くピアノの音が聴こえてくる。リズミカルで、歯ぎれがよくて、こまやかで、音の流れに光があって、そのくせ素朴で、どこかしら田園的で、いかにも今日のような初夏の日の午前に聴くには好ましい曲だ。私はペンを休めて煙草を吸いながら、いったい誰の曲だろうと思って聴いている。彼女の今弾きそうなものと言えば、バッハか、モーツァルトか、シューマンなどが頭に浮かぶが、なんだか少し性質が違うようで気になって仕方がない。それで下へ降りていって茶をもらうついでに、響きに満ちた音楽室へ寄って弾いている孫娘のうしろへそっと立ったら、なんとスカルラッティのソナタの真新しい本が、ダランド・ピアノの譜面台に大きくゆったりと開いていた。ああ、そうか! 私はそれで気がすんで二階へ帰った。愛する孫の音楽実技の世界にまた一人ドメニコ・スカルラッティが加わった。ついこのあいだは学校でのブロック・フレーテの二重奏で、ミラノのサマルティーニを知ったばかりなのに。
 スカルラッティとなればロンゴ番号にしても大変な数だ。人生の晴れた日のいろんな時、いろんな気分のまにまに、この多種多様な宝の庫から取り出して、それぞれが花や泉のような清楚で簡潔な曲に歌わせる事のできるのは何というしあわせだろう。そこへゆくとピアノの出来ないこの祖父などは、僅かに持ち合わせのレコードか、当てがいぶちの演奏会かで聴くだけである。ああ、今のように文章や詩がかけて、その上ピアノが弾けたらどんなにいいかと思うのだが、それもこんにちとなってはもう間に合わない。

 スカルラッティについて最も古く、しかもいちばん鮮明に思い出されるのは、今からちょうど二十年前の一九四八年の夏の事である。当時私達夫婦は信州富士見高原の或る森の中に住んでいたが、土地で知り合った若い友人高橋達郎君というのに招かれて、或る夕方、ススキ、オミナエシ、松虫草などの咲いている八ヶ岳の裾野の丘を三つ越えて、谷の中腹のその家へ行った。そこには彼の友人の小山郁之進というこれも若い音楽家がいて、私達は互いに引き合わされた。その頃小山さんは東京の或る音楽大学のピアノの教授で、その夜も三名の女子生徒が同伴だった。そして食事がすむと小さいピアノ演奏会が始まって、まず三人のお弟子さんがそれぞれバッハの『パルティータ』や、ベートーヴェンの『三十二の変奏曲』や、ブラームスの『ラプソディー第一番』を弾いた。戦後の流寓の生活で好きな音楽から遠ざかっていた私には、この三人の娘の聴かせてくれる演奏が涙の出るほど嬉しかった。そして最後に小山さん自身の弾いた『パストラーレ』というのがスカルラッティの作品だった。それはあたかもローマの春の日の光や、パラティンの丘の薔薇の花や、地中海の空や微風を再現するかのように思われた。

 

 

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  パイヤールの印象

 十月十八目(一九六八年)の夜、上野の東京文化会館でパイヤール室内管弦楽団の演奏会を聴いたこと、これこそ今年の私に与えられたいとも見事な秋の贈り物だったと言っていい。そしてあの一夜の感銘は、その後べつの二回の音楽会行きを挾んで、やがて一と月になる今でもなお、まじりけのない、きれいな、懐かしい思い出として私の内に保たれている。
 なるほどパイヤール指揮のレコードならばバッハその他のものを何枚か持っているから、聴こうと思えばいつでも聴けるが、なんと言ってもレコードはレコードで、肝腎のパイヤールその人、すぐれた『フランス古典音楽』の著者その人の風貌も見られなければ、彼の指揮にしたがって演奏する十幾人の楽員の姿も見ることはできない。まして広やかな会場に生き生きとひろがる彼らの楽器のなまの響きに至っては到底これを望むべくもなく、その上多数の人々と楽しみや満足を共にする音楽会というものの臨場感も味わえない。しかし一度でも本物を聴き本物を見れば、あとはその思い出を土台にレコードでも我慢できるというものである。そう思って私はいそいそと、北鎌倉の谷間の家から東京の会場へと出掛けたのだった。  そして、やっぱりよかった。否、内々の期待以上にすばらしかった。私には先ず静かに出て来てそれぞれの位置に着く男女十四人だかのフランス人の顔や姿が好ましかった。名だけはよく知っていて見るのはこれが初めてのマクサンス・ラリュー、べッケンシュタイナー。当の指揮者ジャン・フランソア・パイヤールはすらりとした長身に演奏会用の服を清楚に着こなし、見るからにノーブルで純粋なラテンの顔だった。彼は満員の聴衆にかるく一礼すると向き直ってすぐに指揮の手を上げた。
 夜空をちりばめる星の下か、遠く壮麗な山々を望む雪景の中でのような響きに満ちたその音楽会は、ジャン・バティスト・リュリの無名の弟子と、ルクレールと、ドビュッシーと、大バッハとの、四人の作品でそのプログラムを編んでいた。中でも私の初めて聴く無名氏の『フランス組曲』とドビュッシーの『六つの古代のエピグラフ』とが見事だった。前者は春の林を流れる泉のように清らかで若々しく、後者は「夏の風の神パンのための」とか「無名の墓のための」とかいうそれぞれの碑銘エピグラフのように、或いは香かぐわしく爽やかに、或いは沈んでほのぐらく、或いは明るく澄んで艶あでやかだった。バッハのクラヴサン協奏曲と管弦楽組曲第二番もよかった。独奏者は前のがベッケンシュタイナー、後のがマクサンス・ラリューだったが、その本物を初めて聴いたラリューのフルートの音色がいかにも清澄で晴れやかだった。ルクレールのヴァイオリン協奏曲を弾いたユゲット・フェルナンデものびやかに美しくて、楽しく聴いた。
 このところずっとドイツの大曲にばかり打ち込んでいた私にとって、久しぶりにフランス音楽とフランス的な演奏とを聴いたことは、たとえば何十年ぶりかでする昔の土地への再遊のようなものだった。

 


 

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 パイヤールと今日

 この五月にはパイヤールの音楽会が東京で三度催された。私はその内二度行った。
 上野の文化会館と日比谷の公会堂。鎌倉からだと上野の方が足場がいい。日比谷は東京駅からならばともかく、新橋駅だと行きにも帰りにも車をつかまえるのがひどく面倒である。だから二度目の日比谷の時は往復共に歩いた。片道僅か十五分か二十分の道なのに、やたらにゴー・ストップが多いのと人通りが烈しいのとで、たまに出て来た私には煩わしくもあれば興醒めでもあった。それに上野だと少し早目に行って軽い夕食ぐらい取れるのに、日比谷の方は開場二十分前まで例の階段の上の鉄格子が開かれないばかりか、中へ入っても食堂も無いので、二階のロビーでジュースかコーラでも飲んでお茶を濁すほかはない。しかし素人目でプログラムを比較すると、どうも上野のBよりも日比谷のCのほうが優っているように思われた。それに正直のところ招待されて行ったのだから文句を言えた義理でもない。座席の位置は、ありがたいかな、両方とも最善だった。
 プログラムBは、ペルゴレージの『コンチェルティーノ第一番』、ヴィヴァルディの『四つのヴァイオリンのための協奏曲変口長調』、マルチェルロの『オーボエ協奏曲二短調』、ラモーの『六声のコンセール第二番』、それにヘンデルの『合奏協奏曲作品六の第五』だった。  さてこう書いただけではどんな曲だったか直ぐ頭に浮かばないこと私に似た種類の人も多いだろうが、聴けば忽ち思い出して、むしろ曲の数が多くて勿体ないと思うような人も少くないに違いない。いずれもそれほど入念な、そしてそれほど清潔で緻密な演奏だった。ペルゴレージにはヨーロッパの古い都の秋の趣きがあり、ヴィヴァルディでは第三楽章のアレグロが最もすぐれたものに思われ、マルチェルロでは哀愁の漂う第二楽章のオーボエのしらべが鮮かに記憶に残り、ラモーでは意外に落ちついた静的な小品という気がした。そしてヘンデルの合奏協奏曲では彼の別の作品『聖女セシリアの日のための頌歌』を思い出し、それについてロマン・ロランが指摘した事のある文章を思い出した。いずれにもせよ指揮者パイヤールの人柄同様清楚で心に浸みるところのあるこの楽団の演奏を自分の目で見、自分の耳で聴けば、私の方にもまた深い静かな感動と暖かい親しみの情とが湧くのだった。
 日比谷で聴いたプログラムCはムーンの『宮廷のためのコンセール』、ヘンリー・パーセルの『シャコンヌ、卜短調』、ルーセルの『弦楽オーケストラのためのシンフォニエッタ』、それに大バッハのものが三曲あって、その一は『チェンバロとオーボエのための協奏曲、二短調』、その二は『音楽のささげもの』からの『六声のリチェルカーレ』、第三は『ヴァイオリンとオーボエのための協奏曲、二短調』から成っていた。
 ムーレのコンセールはそれぞれ短かい楽章が八つから成る長大な曲だったが、優雅さと雄大さとがこもごも出現する面白さに酔ったような気持になり、パーセルでは高音弦楽器と低音のそれとが交錯して織り成す荘重さに心を奪われた。ルーセルのシンフォニエッタは変化に富んだ寧ろ近代的な感じの物だったが、私には大して面白くなかった。しかしバッハの三つの曲はいずれもなじみの物なので、安らかに、然し身を入れて聴いた。クラヴサンはアンヌ・マリー・ベッケンシュタイナー、オーボエはジャック・シャンボン、ヴァイオリンはジェラール・ジャリで、いずれもレコードではなじみの名である。その素朴で清朗なオーボエの調べに花をちりばめて行くようなクラヴサンが見事だった。バッハの第二曲『六声のリチェルカーレ』では、例のフリードリッヒ大王から与えられたという主題が七本の弦楽器に次々と受け継がれて、それが次第に潮のように満ちて来るところがいつもながらすばらしかった。最後の『ヴァイオリンとオーボエのための協奏曲』も見事な出来だった。私はこの曲の第二楽章アンダンテが特に好きなので、聴きながら心の中で一緒に歌っていた。
 帰りの電車の中で私は考えた。このごろは音楽に要望され期待される物が全体として華美になり、品位が失われ、過激な物、平俗な物、彼らに奇矯をてらう物が多くなっている。そして指揮者の側にもこうした傾向を迎えて次第に軽薄な気風が浸透して行くように見える。もしもそういう人達がこのパイヤールを聴いたら何と言うであろう。旧弊を追う時代遅れとして一蹴してしまうだろうか。それとも自分達のやっている事を反省して見る気持になるだろうか。万が一にもそうならば、今夜のような演奏会は彼らにとっても一つの重要な契機となるだろう。成ろう事ならどうかそうあって欲しいものだ。いつの頃からどんな人間が始めたのか知らないが、バッハがジャズ化されてそれが喜んで容れられているようではなさけない。重んずべき物は重んじなければならない。この事は音楽ばかりでなく、われわれの日常生活にあっても同じである、と。

 明月院のアジサイには未だすこし時季が早いが、それでも宅の庭では白花のが咲き出し、幾株かのバラを始めとしてさまざまな草木の花が狭い空間を輝かしたり彩ったりしている五月の或る日、珍らしくも串田孫一君の訪問をうけた。東京では会などで最近時々会ってはいるが、この鎌倉の自宅に彼を迎えるのは実に久しぶりの事である。その串田君は、「或いはもうお持ちかも知れませんが」と言いながら、一枚のレコードをおみやげに持って来てくれた。モーツァルトの『ロンドンのスケッチブック』のうち未完成の分を除いた全三十九曲を入れたもので、その全部を小林道夫氏がチェンバロで弾いている。私はまだ持っていないので心から友に感謝した。串田君もまた私の喜びに満足した様子だった。そして二人して早速その片面を聴いた。少年モーツァルトがその父親と姉との三人で、パリ、ロンドン、オランダなどへ演奏旅行をした八歳から九歳頃までの自作を集めたものだが、何処やらたどたどしくて幼く愛らしい中にも、音楽の神の寵児ちょうじたる本質は早くして既に随処にその鋒鋩ほうぼうを現している。そしてこの珍重すべきレコードは、恐らく世界でも最初のものだろうという事だった。
 二人は続いてモーツァルトの事や音楽全般についてたくさん話した。その話の中で、今串田君がいちばん聴きたく思っているのは中世、ルネサンス、及びバロック時代のフランス、イギリス、イタリア、ドイツなどの、余り広く知られていない音楽だという事だった。これには私も全く同感だった。ただその種の音楽が余り演奏されず、歓迎もされず、従って録音もされていないのが残念だった。そしてそういう処へ小林道夫氏のようなバロック時代や古典初期の鍵盤音楽の名手が現れて、進んでこういう道を切りひらいてくれる事はありがたかった。彼はモーツァルトを愛してそのピアノ・ソナタ、ヴァイオリン・ソナタ、ピアノ・トリオ、オルガンによる教会ソナタの全曲を演奏している。そして今又此処にこの『ロンドンのスケッチブック』である。私と串田君との意見はこの点でも合致して、今後も蔭ながら彼の活躍と健在とを祈る事にしようと約束した。
 串田君はこれから家うちへ帰って、今夜は新刊の自著の特製本のために百何十枚だかの署名をしなければならないという事だった。それで私は彼を北鎌倉の駅まで送って行く事にした。友はまだ賑やかにカエルの鳴いているこの明月谷の小さい自然を称讃しながら、今彼自身の住んでいる小金井付近の年毎日毎の変り方の烈しいのを嘆いていた、……ところが何という竒縁だろう! 彼を見送って帰って来ると、私のところへも近く刊行される自著『晩き木の実』の特製本への署名のために、厚い見開きの用紙が百数十枚ドカリと郵送されていた。詩文集の第九巻である。
 その夜私が家族の者たちと一緒に初々ういういしい少年モーツァルトを、小林道夫氏のチェンバロに導かれて楽しく聴いた事は言うを俟たない。
 然しそれより早く或る日の事、午前中の仕事をしていると妻が書斎へ上がって来て、「いま、荒憲一という人がNHKのラジオでベートーヴェンを弾いていますよ。一休みしながらお聴きになりません?」と言った。そしてもう直ぐ『悲愴』が終って次は作品一一〇番だという事だった。私は仕事をやめてラジオのスイッチを入れ、始まったばかりの一一〇番を聴いた。寡聞な私にとっては初めてのピアニストだが、中々立派に弾いていた。このごろしばらくベートーヴェンを聴かずにいただけに、何か久しぶりの出会いのような気がした。それで折角仕事を中断したのだから、序でと言っては語弊があるが、今聴いた一一〇番を囲む作品一〇九番と一一一番とを前者はバックハウスで、後者はケンプで聴いてみた。久しぶりに、実に数ケ月ぐらいに聴くベートーヴェンの後期のピアノ・ソナタはすばらしかった。そして何やら自分の歳まで若返ったような気がし、これからも時々彼の許もとに立ち帰らなければいけないと思った。自分はもともとベートーヴェンの音楽から養われた者である。その自分が暫くの間でも彼から遠ざかっていたのは一種の背恩と言うのほか無い。これからはしばしばベートーヴェンを聴くべきである。そう思うと、幼稚だと言われるかも知れないが、私の心中に広々とした善や美に対する昔のような憧れが勃然と湧き上がって来た。

 

 

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 笛とレコード

 二、三日かかった小さい仕事も朝の内にひとまず片づいて、今日これからの半日はどんなふうに暮らそうが自由だという時、そんな時たまたま久しぶりにブロック・フレーテを取り出して、古い曲を吹いてみるのがゆったりとした楽しみだ。
 北鎌倉の谷の上にある家の二階の書斎の窓からは、折りからの燃えるような若葉の山がすぐ目の前に見える。風を入れようと思ってガラス戸をあけると、シジュウカラとか、ホオジロとか、ウグイスとか、必ず何かしら小鳥の歌がきこえてくる。彼らだってこうした静かな美しい昼間を歌っているのだ。それならば私も私で初夏の日のこの閑暇を、久しく手に取らなかった小さい笛に歌わせよう。そう思って古いイギリスのバージナルの曲や、エリザベス王朝時代にはやった歌や舞曲の、それもやさしくて自分の手におえそうなのをやってみる。ただ笛の仲間が近所にいないので合奏のできないことが物足りないと言えば物足りないが、第一そんな暇な人がやたらにいるわけもなく、またよく考えてみれば、私のようにちゃんとした吹き方の教授もうけずに、ただ楽譜をたよりに、言わば見よう見まねで吹いている者にとっては、気の向いた時に一人で楽しんでいる方が気楽なのである。
 それで今日はウィリアム・バードの舞曲と、リチャード・ファーナビーの歌とを、それぞれ一つずつ練習した。初めの内は指が思うように動かないのでいらいらしたが、これで止めてしまってはいけないと克己心を出して続けている程に、いつかどうやら形をなしてきた。曲想がつかめ、心で歌いながら吹けるようになると、当時は著名だったバードやファーナビーの良さが自分にもわかるような余裕が生まれた。今度東京へ出たら、この人たちの曲の載っているイギリス・ルネサンスの楽譜をさがして買って来よう。それは自分の内の音楽的な富の世界にまた一つを加えることだ。そう思うと、この種の音楽が好きで、小さい団体を作って、地味ではあるが中断もせずに演奏活動をつづけている人々への同感や愛情が、自分の心に水のように湧いてくるのを私は感じた。
 晴ればれとした暇に恵まれて、それを笛の稽古でうずめるのも楽しいが、私は、たいがいの場合、レコードを片面か両面聴く。そう数多く持っているわけでもないが、この十年間ぐらいに買い集めたものが積もり積もって、今ではかなりの数に及んでいる。バッハのものが一番多く、続いてベートーヴェン、モーツァルトというような順である。もちろん好きな巨匠はそのほかにも幾人かいるが、録音も市販もされていないものには手の出しようがないから、しぜん数も種類も制限される。ヘンデルやベルリオーズなどがその例ではないかと思う。ところがシュッツやテレマンとなると、このごろしきりに出るので、私のところなどでも案外の数を占めている。前に言ったルネサンスや中世の物がもっと多く出るようだといいと思うが、やはり気を長くして待つほかはないだろう。
 『慰めの音楽』という美しい味わい深い本の中で著者デュアメルは言っている。「音楽というものは、そういつでも楽しみではあり得ない。魂が用意し、身をささげ、身を捨てるのでなくてはならない。音楽の愛人だからといって、あらゆる瞬間に祝宴を玩味する用意ができているわけではない」と。
 それは全くそのとおりで、音楽が多すぎるのは現代の不幸の一つ、あるいは苦痛の一つだとさえ言える。そしてこの不幸や苦痛から身を護るためには、全然それに近寄らないか、耳をふさいで逃げ出すか、やめてくれるように許しを乞うかするよりほかに仕方がない。欲望のないところには享楽もない。聴きたくない時に聴かされて苦痛を感じること、他の騒音と同じように不快に思われるもの、音楽に如くものはないと言ったら過言であろうか。
 それにもかかわらずわれわれは大小の音楽会に行ったり、レコードを聴いたりしている。そして音楽会について言えば、招待をうけて行く時のほかは、自分から進んで、すなわち自由意志で聴きに行くのである。レコードについてもほとんど同じことが言える。ただレコードの場合には聴きたい時に聴くことができ、聴きたくなくなった時にやめさせることができる。そして演奏会場に独特なあの緊張した一種の連帯感、一種の全員一体(ユニテ)の雰囲気がない代わりには、一人あるいはきわめて少数な魂の純粋無雑な浸透がある。私は、持ってはいるが、ベートーヴェンの『第九』をレコードで聴きたいとは思わない。これに反してシューベルトの『美しき水車小屋の娘』や『冬の旅』は好んでレコードで聴く。それも笛の練習の場合と同様、すべての窓や扉を堅くとざし、聴きたくない人の耳に決して届くことのないようにして。

 

 

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 一枚のレコード

 プレーヤーを持たず、したがってようやく出始めた新しいLPのレコードを買うこともなく、信州富士見の森の家で万事不如意に暮していた終戦後の七年間、音楽といえば昔から愛用している古いヤマハのオルガンを相手に、自分で歌うドイツのリートかフランスの歌、それに三十里の山河を越えて訪れる東京のラジオのそれのほかには無かった。
 そのラジオがある日、シューベルトの弦楽四重奏曲『死と少女』を放送した。彼のリートの楽譜ならばたくさん貯えがあって好きな物を歌えるが、器楽ではそうはいかなかった。その歌曲集で私は『死と少女』を知っていた。しかし同じ名で呼ばれているその四重奏曲は未知のものだった。私は初めて聴いたこの音楽の美しさにすっかり感動し魅せられて、東京へ帰ったら、さっそく新しいコレクションの一枚としなければならないと思った。
 この文章を書くというので、今秘蔵のそれが目の前にある。東京へ帰るとじきに手に入れた盤だから十四、五年はたっている。ドイツ・グラモフォンから出てアマデウス四重奏団が弾いている。現在でもずっとなじみの銀座の楽器店のクラシックの売場で親切なベテランの女店員に試聴のつもりでかけてもらったのはいいが、第一楽章の第一テーマが堰せきを切ったように鳴り出すやいなや、もうじっとしていられなくなって、すぐ袋へ入れてもらうと飛ぶように玉川上野毛の家へ帰った。
 それから聴いた。決定的な勢いで押出してくるアレグロの第一楽章を、悲しいまでに美しい主題と変奏が歌うアンダンテの第二楽章を、さてはのどかなトリオを持つスケルツォの第三楽章から、おどりきらめく奔流のようなプレストの終楽章まで、夜の木々に囲まれた新しい家の静かな書斎で。初めてこれを聴いた富士見の夜を思いながら、妻と二人。

 

 

 

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 ロマン・ロランの声

 数えてみればもう五十幾年の昔、二十代の頃、初めて『トルストイ』や『ベートーヴェン』という著書を通じてその人を知り、以来『ジャン・クリストフ』や『魅せられた魂』のような大作を中にほとんどすべての作に親しんで、その人を愛し敬いながら今に及んでいるロマン・ロラン。そのロランに彼の生前ついに会う事のできなかったのが私にとっては一生の心残りだ。父親からのような温かい懐かしい手紙もたくさん貰いながら、結局は実現しなかったがスイスの家への訪問もいくたびか計画しながら、この世でのその温容や生活ぶりに接する事ができずに終わったのが痛恨事だ。
 その私が今自分の目の前にロランの顔を見、姿を見、その住んでいた家や書斎や庭園や周囲の風景をよみがえらせるのは、手もとにある数多くのいろいろな写真によってである。私はそれに自分の逞しい想像をまじえて、すべてのイメイジを一層生き生きとさせる。読書をしているロラン、物を書いているロラン、ピアノを弾いているロラン、訪問客と話をしているロラン、令妹マドレーヌと庭にいるロラン、レマンの湖を見おろす丘の小径を散歩しているロラン、立っているとロラン、坐っているロラン、更には下半身をベッドに埋めて『魅せられた魂』の最後の章を書いているロラン。幸いにして残っている写真という物のおかげで、私はほとんど常にロマン・ロランを見ることができる。
 しかも、ありがたいかな、私は彼の声を聴くことすらできるのである!
 十年近く前の秋の一日、私は東京新宿の或る書店で、一枚の珍しい輸入盤のレコードを発見した。それはフランスから来た物で、ロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』と、『ガンディー』と、『ベートーヴェン』とのそれぞれの断片を一人の俳優が朗読しているのだが、なんとその最初の幾筋かの溝に、ロラン自身の肉声が刻み込まれているではないか! 私の心は湧き返らんばかりだった。その私の深い烈しい喜びと感激とを察してか、古いなじみの店員が特別丁寧に包装して渡してくれた。ほかにもコクトーやマルローやモーロワやカミュなども有ったが、あわれ、そういう連中には目をくれるゆとりも無かった。そしてこの思わざる幸運の宝を大切に小脇にかかえて。意気揚々とまっすぐに玉川の自宅へ帰った。
 静かな午後の書斎は秋の庭にむかって瞑想的な窓を開いている。私は塵一つ残らないようにレコードを拭って静かに回転盤の上に載せ、スイッチを入れて注意深く針を置く。そして両手を膝に、全身を耳のようにして私は待つ。
 と、突然、ピアノの力強い深い和音。ベートーヴェンのハ短調のソナタ『悲愴』の第一楽章が始まり、その最初の「グラーヴェ」の数小節が鳴りひびく。ロラン自身が弾いているのかとも思われるが、それはどこにも何の説明も無いからわからない。ただこれから一つの奇跡が行なわれるのだという事だけは充分に予感される。続いてアナウンサーの声で、これから聴くものが一九三六年八月オランダの首都アムステルダムのビュッファロー・スタディアムでの、口マン・ロランその人によるスペイン共和国政府へのメッセージの朗読だという事が告げられる。
 そして遂に奇跡は始まる。テキストが無いので未熟な耳にはこの力強く美しいフランス語の意味がよく汲み取れないが、"Aide à l'Espagne, Elle combat pour nous, pour nous France, pour nous démocratie, car l'une et l'autre sont en danger......"(スペインを援けよ。スペインは吾々のため、吾々フランスのため、吾々デモクラシーのために戦っている。なんとなればこの両者が今や危険に瀕しているからである……)というような言葉が僅かに聴き取れる。すばらしいメッセージであり、声である。ロランのバスの声はきれいに澄んでよく透とおり、そこに行き渡っている熱情は人の心を打たずには止まず、言葉は歯ぎれがよくて清潔で、一語一語に千鈞せんきんの重みが感じられる。私のこの耳で初めて聴くロランの声に圧倒され、ほとんど魂を奪われてしまう。
 日が暮れて夜になると、添え物と言っては悪いがピエール・フレネーの朗読する『ジャン・クリストフ』や『ガンディー』や『ベートーヴェンの死』の断片を聴いた。このほうはいずれも原本を持っているので、大体どの本のどの辺を読んでいるのかがわかって興味があった。
 しかしロマン・ロラン自身の朗読。これは無敵だ! たとえ数分間で終わってしまっても、私にとって、その感銘は筆にも口にも尽くせない程だった。

 

 

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 白山小桜の歌

 きのうは一日じゅう晩秋のよく晴れた日だった。私は五日ばかりかかった或る連載物の文章を前の日に書き上げたのにほっとして、一日だけ自由に羽根を伸ばすことにした。そして心にそうと極めると、家をかこむこの谷戸やとの風景が常よりも一層新鮮に、一層きらびやかに秋めいたものに見えた。いつもの朝ならば仕事に気を取られてうっかり飲んでしまう一杯のでコーヒーさえ、自分で選び妻が心していれてくれた物として、満足と感謝の気持で、静かにこまやかに味わうことができた。
 昼前に東京の親しい知人の家から、そこの若夫婦の名で一個の重たい包みが届いた。中味は紅白一対の鳥ノ子餅で、私が名付親になった彼らの長女の、その初の誕生日の祝いの品だった。それには年若い母親の優しい手紙と、満一歳を迎えた女の子の美しく愛らしいカラー写真も同封されていた。私たちはまだ柔らかいその餅を、由紀ゆきという子供の幸福のためには勿論、その両親や祖父母と同じ慶びをわかつために、二枚並べた写真を前にさっそく賞味した
 買いたいと思っていたレコードもあるので、午後は久しぶりに東京へ出かけた。横須賀線沿線の風景も晩秋を微妙に色づいて、大船から保土ヶ谷あたり、ケヤキは赤く、ヤマノイモやクズの葉は黄色く、おけても線路沿いに今を盛りのノコンギクの薄紫の花が美しかった。やがて東京湾の空と二つ三つ浮かんでいる柔らかい積雲。乗り物の中では決して物を読まない私に、窓の外の風物はその代償をたっぷり呉れた。
 新橋で電車を降りて銀座通りへさしかかると、あの古いくだもの店、昔ながらの千疋屋の店先に、草花の株分けしたのを売っていた。何か珍しい植物でもあるかと物色したあげく、水苔でくるんで紙で堅く包装した白山小桜と白山千鳥の小さい二株を買った。山や植物の好きな妻と娘へのみやげだった。しかも若い男の店員が、そんな僅かな買物でも丁寧に扱ってくれるのが快かった。それから大きな靴屋や立派な装身具店の並んでいる賑やかな歩道で、女一人、男二人の外国人一行とすれちがった。三人とも中東風で顔つきも身なりも冴えず、いわゆるショッピングをしたくても出来ないような様子だった。その若い女の寂しい目つきに私は一瞬心を暗くしたが、これも世の中だと思って行き過ぎた。
 銀座四ツ角の山野楽器店では、朝のうちに電話で頼んでおいたとおり、モーツァルトの新しいレコード三枚を受けとった。なじみの女店員は包装をしながら、「先生はこのごろ歌劇もお集めになっていらっしゃるんですか」と珍しそうに訊いた。なるほど、そう言われればそうだった。しかしモーツァルトを一層よく知るためには、器楽曲だけで済ましている訳にはいかなかった。それはバッハと世俗的カンタータの場合も同様、今の老年を豊かに装ってくれる物として、この『魔笛』は無論のこと、『フィガロの結婚』も、『ドン・ジョヴァンニ』も、更に『コシ・ファン・トゥッテ』でさえ必要なのだ。ちょうどこの袋の中の、やがて咲くべき高山の花のように。若い怜悧れいりな女店員は、そういう私の言葉に、目を輝かせてうなずいていた。
 家へ帰って小さいみやげ物をひろげると、妻と娘が声を上げて喜んだ。「久しぶりだわ、この花たちにお目にかかるの!」彼女らには過去の夏の槍や白馬のことが思い出されたらしかった。それから二人は夕暮の庭へ出て素焼の鉢を出し、底へ鹿沼土の粒を入れ、あらためて草をほぐして水苔で包み、柔らかに植えこんでたっぷりと水を注いだ。白山千鳥は葉だけだったが、小桜の方にはもう細い茎が立って、赤らんだ可愛い蕾が二つ着いていた。果たしてこれが開くかどうかというのが彼女たちの疑念だったが、咲くなら咲くで尚更いいと、当分夜は家の中に置くことにした。  夜は『魔笛』を後回しにして、何年ぶりかでまずフーゴー・ヴォルフを歌いたい気持になった。それも彼のイタリア歌曲集第一の最初の歌『アウホ・クライネ・ディンゲ』だった。 「小さい物でも我らを恍惚とさせ、小さいものでも貴くありうる。思ってもみよ、我らは喜んで真珠で身を飾るが、その価のなんと大きく、その形のなんと小さいかを。思ってもみよ、薔薇の花のなんと小さく、しかもその香のなんと佳いかを」。孫の美砂子のピアノ伴奏で私がそれを歌ったのは、直接にはもちろん初の誕生日を迎えた友人の愛児と、買って来た小さい高山植物のためではあったが、更には銀座ですれ違ったあの貧しく悲しげな外国女性と、同じ銀座の花やかな楽器店の、善良で賢い女店員のためでもあった。

 

 

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 『ベートーヴェンの生涯』

 心と眼だけは毅然としても足もとは危く、必ずしも平坦とは言えない老年の坂道を静かにくだりながら、刻々と傾いてゆく生涯の夕日の光りを惜しみ貴んで生きている私に、ロマン・ロランは今もなお、否、今こそいよいよ、懐かしい師でもあれば最上の先導者でもある。頽齢のためのたあいない疲れや怠け心に襲われて、つい「日の業わざ」をおこたるような時、あるいはこの世のさまざまな動向が心に染まなくて、それから目をそらせたり顔をそむけたりする時、ともすれば口をついて出ようとする「私は今や八十歳、あなたのしもべはなんのためになお重荷を負わなければならないのですか」というバッハの老市参事会員の訴え(カンタータ第七一番)の代わりに、「世界を在るがままに見てなおかつそれを抱きしめ愛すること」というロランの言葉が響いてくる。もちろん私としては八十歳にはまだ遠く、あの美しいアリアを身につまされて聴くにはいくらか若いが、他方七十八歳の最後の日まで労作のペンを措かなかったロランを思えば、改めて襟を正し気を引き立てて、自分に課した一日の仕事に向かわずにはいられない。
 フランス語の学習をおそく始めた私は、あの大作『ジャン・クリストフ』も含めて、『ベートーヴェン』、『トルストイ』、『ミケランジェロ』、いわゆる偉人伝記叢書(Vie des Hommes illustres)の三部作や、画家ミレーの評伝など、ロランの前期の作のほとんどすべてを英語の訳書で読んだ。『トルストイ』が最も早くて一九二一年(大正元年、二十歳)、『ミレー』がいちばん晩くて一九二二年(大正一一年、三十歳)、『ベートーヴェン』と『ミケランジェロ』がその間に挾まり、ギルバート・キャンナン訳の『ジャン・クリストフ』全三巻が二十代を通じての聖書だった。それにしても早くから自分の物にしていた英語の読解力のことはともかくとして、この外国語に私を親しませてくれた中学時代の幾人かの先生の恩の並ならぬことを思わずにはいられない。十六歳の私にスコッ卜やバーンズを教え、十七歳の私にエマスンを読ませた人々、今は亡きその先生たちの優しい霊に、ああ、願わくば永遠の安らぎがあるように!
 戦争末期の避難の手遅れから灰にしてしまった多くの書物の一冊であるあの英語の『ベートーヴェン』はたしかコンスタンス・ハルという人の翻訳で、ロンドンのキーガン・ポールから
出版された本だった。二十五歳か六歳の時、東京日本橋の丸善で買った。それより少し前に或る人の手で『ベートーヴェンとミレー』という日本訳は出ていたが、そして一時は愛読もしたが、英語からの重訳だったのでその後は英訳の方に熱中した。もとより、まだベートーヴェンが演奏される機会も少なく、ピアノかヴァイオリンの比較的小さいものしか聴くことのできない時代だったから、少なくとも私などはベートーヴェンを聴くよりも『ベートーヴェン』を読んだのだった。そしてその読書はすばらしい体験だった。好きな個所を幾度でも読み、序文や最後の数ページなどは自分で訳してみたりさえした。由来日本人は音楽そのものを聴くよりも、作曲家の伝記やその作品の研究を読む方を好むという非難を蒙っているが、若い頃、すなわち一個の人間が形成される大切な時代には、聴くこととともに、読むこともまた重要な条件だと私は思っている。当のロマン・ロランはこの最初の感動的な小冊子、この巨人への最初の感謝の歌ダンク・ゲザングを書いた後三十年もたって、新しく七巻から成る壮麗で高這な『ベートーヴェン研究』に最後の心血を注ぎはしなかったろうか。そしてこれを読んでさらに聴くベートーヴェンの作品が、われわれにどんな豊かさ、どんな知識、またどんな確信を与えたかは、今さら例を挙げて言うまでもないであろう。

     *

 太初はじめに言ことばありき。そうだ、一九〇三年一月満三十七歳を迎えたロマン・ロランは、彼の『ベートーヴェン』の書き出しを次のような言葉で始めている。「空気はわれわれを囲んで重苦しい。古いヨーロッパは重たい濁った雰囲気の中でしびれている。偉大さを持たない物質主義は思想の上にのしかかり、もろもろの政府や個人の行動から自由を奪う。世界はその抜け目のない卑しい利己主義のなかで仮死の状態に陥っている。世界は窒息する。――もう一度窓を明け放とう。自由な空気を呼びもどそう。英雄たちの息吹いぶきを吸いこもう」。
 そしてこの思わぬ落涙か予言のように清らかで潔く、心情の誠実な熱気をはらんだ勇気づけと慰めの章句はなおつづく。「生きることは苦しい。生活は魂の凡庸に甘んじられない者らにとっては日毎の戦いであり、かつ最もしばしば、偉大さもなければ幸福もなく、寂寞と孤独とにゆだねられた悲しき戦闘である。
 貧困に圧迫され、家庭的な辛い心労や圧しつぶすような愚かしい日々の務めに追いつめられて、しかもそこではすべての力が甲斐もなく費やされ、希望もなければ喜びの光もなく、大多数の人々が互いに離ればなれになり、こちらも知らなければ相手からも知られない不幸に沈んだ兄弟たちに、手を貸し与えるという慰めをすら持っていない。彼らは自分達だけにかまけなければならない。そしてその中の最も強い者でさえ、苦痛に打ちひしがれる瞬間がある。彼らは呼ぶ、救いを、一人の友を」。
 ロランがそうした友としてわれわれのまわりに集めようとしたのは誰々だったろうか。それは貧しくて真価を知られず、長いあいだ画商の食い物となっていたミレーだった。それは高潔な軍人、革命戦士の象徴であるオーシュだった。それはイタリア独立の英雄ガリバルディであり、イギリスの輝かしい革命家トーマス・ペインであり、ロマンティックで自由の友シルラーであり、さらにイタリアの愛国者マッチーニだった。そしてすべて友たるに価するこれらの人人、ロランの言う英雄たちとは、彼らの思想や力によって勝利を獲た者のことではなく、実にその心情によって偉大だった人達のことである。「性格の偉大でないところに偉大な人間はなく、偉大な芸術家、偉大な行動の人といえどもない。有るのはただ低劣な群衆のための偶像だけである。時間はそうした偶像のことごとくを打ち砕く。われわれにとって重要なのは成功ではない。問題は偉大であること、そう見えることではない」。
 若い日の私が感奮かんぷんし、老年の今ふたたびそれを読み返してさらに親しみをこめた感動を覚えずにはいられないこの序文で、ロマン・ロランはなおも筆を続けている。「われわれがこれから物語ろうとする人々の生涯は、ほとんど常に一つの長い殉教の道だった。悲劇的な運命が彼らの魂を物質或いは精神の苦脳、いわば貧困や疾病の鉄床の上で鍛えようとした場合にせよ、或いは友らを苦しませる名状しがたい屈辱や苦痛を見て心は引き裂かれ、生活は荒廃された場合にせよ、彼らは毎日の試練のパンを食ったのである。そしてもしも彼らがそのエネルギーによって偉大だったとすれば、それはまた彼らが不幸によっても偉大だったからである。それならば幸さち薄い人々があまりに不平を言わないように。なぜならば人類の最善な者らはその人々と共にあるのだから。われわれは彼らの勇敢さで自分たちを養おうではないか。そしてわれわれにしてあまりに弱いならば、彼らの膝を枕にしばし憩おうではないか。彼らはわれわれを慰めてくれるだろう。その聖なる魂からは静かな力と強い善意の急流がほとばしる。たとえ彼らの作品に尋ねたり声に聴いたりしなくても、われわれは彼らの眼の中に、彼らの生涯の物語の中に、生は苦しみの中における以上にいっそう偉大ではあり得ず、いっそう多産でもなく、またいっそう幸福でもないということを読み取るだろう」。
 幸薄い人々の最善の友、苦悩の烈火や貧困の氷の中から、美しい神の火花である歎喜を鍛え出し切り出したそれら偉大な人々の先頭に、ロマン・ロランは強くして純潔なベートーヴェンを置いた。おのれを取り巻く苦しみのただなかで、その奮闘の実例が悲惨な人々への慰めとなることを願ったベートーヴェン、「事物のあらゆる障害にもかかわらず、人間の名に価する者となるために全力をつくした彼のような不幸な者を、同じように不幸な人が見出してみずから慰めること」を願ったベートーヴェン、幾十年にわたる超人的な悪戦と努力の末にようやく苦しみを征服し任務を全うして、哀れな大類にいくばくかの勇気を鼓吹したこのプロメトイス、神の救いを求める一人の友に。
「おお人間よ、なんじ自身でなんじを救え!」と言ったルードヴィヒ・ファン・ベートーヴェンを。
 この本が最初に出たのは遠く一九〇三年一月の末、ロランの盟友シャルル・ペギーが主筆と経営者とを兼ねていたパリの「カイエ・ド・ラ・キャンゼーヌ」誌の発行所からだった。今のように誇大な広告や、有名人の空虚な推薦の辞があるわけではなく、ただ「新刊」という事が告げられただけだった。本屋にも図書館にも並ばなかった。評論家や新聞は例によって黙殺した。ペギーの熱烈な賛辞にもかかわらず、文壇的な成功や今言うベスト・セラーなどは思いも及ばなかった。しかし本文と付録を合わせて百ページに満たないこの小冊子は、至るところに未知の友を見出した。彼らはキャンゼーヌ社まで出かけてこの小さな本を買い求め、慰めの英雄であるこの偉人の伝記に心を奪われ、心を与えた。版は版を重ねた。孤独なロランはベートーヴェンを通して幾千人の心をつかんだ。それというのもベートーヴェンは音楽家中の第一人者以上の者であり、現代芸術の中の最も英雄的な力であり、悩む者、戦う者の最有力な戦友、最善の友だからであった。
 しかしその頃の、すなわち一九〇〇年の初頭の頃のロラン自身の生活はどんなだったろうか。 「ペギーの生活状態はよく知らなかったが。自分のことならば非常によく覚えている」と、それから四十何年後の『ペギー』の中でロマン・ロランは書いている。当時ほぼ三十四歳、エコール・ノルマルでの芸術史の講義の給料が年額わずか二五〇〇フラン、自分で主催していた社会高等研究学校の音楽科からは無報酬。そのほかは入るものもなければ貯えもなかった。しかもたびたび病気をした。一九〇〇年以来の肺結核から引き続いてのインフルエンザや心臓病。金がないから診療所に入ることもできず、まして南フランスでの療養などは思いもよらなかった。書いた本の収入はペギーの手にそっくり渡った。それ以前の戯曲『狼』も『アエルト』も『理性の勝利』も「カイエ」に載った『ダントン』も『七月十四日』も、物質的にはロランに何ものをももたらさなかった。そして一九〇三年二月一日、彼はペギーの所から出たこの『ベートーヴェンの生涯』によってしっかりと地歩を固めた。彼同様に貧しい者、病いに苦しんでいる者、社会の悪や不平等との戦いに敗れて、疲れ果て絶望に陥った人々の深い共感や愛情が彼を取りまき彼に迫った。それはペギーも言ったように「一つの文学的富の最初のものである以上に、無限に道徳的な啓示であり、突如としてヴェイルを払った予感であり、天啓であり、爆発であり、一つの偉大な道徳的富の伝達」であった。こうして彼はもう孤独ではなかった。不遇にあえぐ人々はあすこに一人の人間があると思い、友があると思い、知性よりも精神や道徳の力に価値を認めることおよそパリ人らしくないこの一見貧弱な青年教授は、大都会の屋根裏に、慰めもないわびしい郊外に、また遠く草深い田舎の片隅に、死後の恒久的な行動の思想のために、知ってか知らずか、現在の生活を犠牲にしているような無数の人々のあるのを思って、みずから慰め、勇気を新たにした。
 ロランはこの実り多い熱烈な本『ベートーヴェン』の最後を、次のような文章で結んでいる。「彼の全生涯は嵐の一日を思わせる。初めに澄み晴れた若々しい朝。わずかに物倦げな風の動き。だが静まり返った空気中にはすでにひそかな戚嚇、重苦しい予感がある。とつぜん巨大な影がよぎり、悲劇的な轟きがおこり、唸りを含んだ恐るべき沈黙がひろがり、『エロイカ』と『ハ短調』の怒りの風が吹き荒れる。それでも昼間の純潔さはまだ侵されない。歓喜は歓喜としてとどまり、悲哀も常に希望を保っている。しかし一八一〇年以後、彼の魂の平衝は破れる。光は異様な色を帯びる。最も明晰な思想から、人は水蒸気のような物の立ちのぼるのを見る。それは散り、形を変える。それは彼らの憂欝で気まぐれな動揺によって心を暗くさせる。楽想は一度か二度霧の中から姿を現わすが、やがて再び沈みこんで、しばしば全く姿を消すように思われる。それは曲の終りに一陣の突風の形をとってしか再現しない。快活それ自身さえ一種辛辣で粗暴な性格をとる。或る熱病、或る毒素が、すべての感情に入りまじる。夕暮が落ちて来るにつれて雷雲が積み重なる。そして今や雷光に満たされた重々しい雲と、夜の闇と、巨大な嵐との『第九』の開始。しかし突然、暴風雨の絶頂で暗黒が引き裂かれ、夜が空から追い出され、昼間の清澄が意志の一撃で取りもどされる。
 そもそもどんな勝利がこの勝利に較べられよう。ボナパルトのどんな戦闘が、オーステルリッツのどんな太陽が、この超人的な努力の栄光、今までに精神が勝ち得た中でもこの最も輝かしい勝利の栄光に達し得よう。不幸な、貧しい、病弱な、孤独な人間、この世から喜びを拒絶された苦悩の化身が、世界に与えるために自分自身の手で歓喜を創造する。彼はおのれの悲惨で歓喜を鍛え上げる。すなわちその生涯の要約であり、すべての英雄的な魂の金言とも言うべき次のような誇らかな一語で彼自身言ったように。
 《苦悩を通して歓喜。Durch Leiden Freude》」

     *

 今私の目の前にその『ベートーヴェン』のフランス原書がある。一九二一年八月という日付けの書き入れがあるから四十五年前に買った本だ。うすい空色だった表紙が茶色に褪せ、本文の紙も色が変わり、綴じ目も崩れかけて背のところが凹み、その反対側の開ける方がかえって出張っている。しかしこれは私の大事な宝、熱烈に生きた二十代を記念する懐かしい本だ。
 私の生きている限りこの本も残るだろう。しかしこの二つの形骸がいつか姿を消したとしても、ベートーヴェンの音楽とその創造者自身の名と、ロマン・ロランの名を冠したこの本の強壮な子孫たちとはなお永遠に残るだろう。
   
(追記 この本には故片山敏彦の訳書がある。しかし本文中のロランの文章の引用はすべて原書からの私自身の翻訳である。)

 

 

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 人間の情の映り

 久しぶりに上の家のSさんのところへ招かれて、あのひっそりと落ちついた洋風の広間で一緒に一枚のレコードを聴き、それが終ると今度はいつもの清楚な茶室風の日本間で、奥さん心づくしのご馳走と美酒に思わずも夜を更かした。
 近所に同好の士が無いせいか、Sさんは時どき私と二人でクラシックのレコードを聴いたり、静かに音楽を語ったりするのを好んでいる。お互いについ目と鼻の先に住みながら、両家の女たちの親しさは別として、少くとも彼と私との交わりに心安だての余りの乱れというものが無いのは、一つにはその間に音楽が介在していて、おのずから規律と調和を保たせているせいかと思う。
 その日聴いたのはセザール・フランクのへ短調のピアノ五重奏曲で、私のまだ知らない作品だった。彼の二短調の交響曲や、『前奏曲とコラールとフーガ』のようなピアノ曲や、『英雄的小品』とか『三つの衆賛曲』のようなオルガン曲ならば私も大切に持っていて折々耳を傾けるが、この五重奏曲がこんなにも美しい物である事は初めて知った。殊にSさんが「跪ひざまずいて祈っているような感じ」と言ったレント・コン・モルト・センティメントの第二楽章と、「慰めと力づけの歌だ」と言った強靭で精力的な第三楽章とに私は打たれた。と同時に、一九〇五年にストラスブールで行われた第一回の音楽祭でこのフランクの崇高な叙事詩『盛福レ・ベアテイチュード』(「八つの幸い」とも訳されている)を聴いたロマン・ロランが、彼が公衆との非妥協的な点でベートーヴェンに比較し、バッハを別にすれば実際にキリストを見、且つ人々にも彼を見せる事のできる唯一人の音楽家であると書いた文章を思い出した。私はその個所を五十数年前に翻訳してフランクという名に初めて接した記憶があるので、今この五重奏曲を聴くに及んで一層この作曲家とロランその人とを懐かしんだ。そして私が静かにこうした感慨を告白するとSさんも晴れやかな顔をして、「僕にとっても三十年間愛し続けて来たフランクですよ」と言った。こうしてフランクは期せずして吾々を結ぶもう一本の絆きずなとなった。そして翌日改めて自分の持っている彼の曲の幾つかを聴いたり、ロランの『追想録メモアール』から一八八八年頃の彼らの親しい接触の事を書いた「セザール・フランクに関する短かい思い出」を読み返したりしたが、同時にフランクの人間と芸術の徹底的な誠実さと、清廉さと、英雄的な直情と、更に時にはほほえましいくらいな人の好さボノミなどの点で、これもまた自分の好きな同じベルギー生れの詩人であるエミール・ヴェルハーランとの類似を思わずにはいられなかった。

 その頃妻の肉親の叔母であり、私にとっても愛する義理の叔母にあたる人が、半年余りの入院の末腎臓病で他界した。キリスト教の学校東洋英和の出身で、本人も口にこそ出さないが自分なりの信仰を持っていたので、その告別式は渋谷区代官山町の新らしい小さな教会で至って清楚に執り行われた。正面の壇上を埋めつくした純白な菊や百合や蘭の花のあいだから、七十六歳でみまかった人の懐かしい顔の写真が、天井の高いみ堂を満たした会衆の哀別の瞳に穏やかにうなずいていた。もちろん男性もいたが同じ学校出身の奥さんや娘さんたちが多く、昔の同級生で生き残っている老人も、彼女らの親しい「お信のぶさん」との別れに幾人か悲しみの姿を見せていた 。
 式は荘重なオルガンの奏楽で始まり、会衆一同の歌う「主よ、みともに近づかん」の賛美歌がこれに続き、司式者である牧師の聖書朗読と祈祷があり、「ものは変り、世は移れど」が一人の若い女性によって歌われ、再び司式者の告別の言葉と祈りとがあって、さて会衆一同の二度目の合唱による賛美歌「しずけき祈りの時はいと楽し」が明るく柔かに堂内に響いた。これには特に「故人愛唱」という但し書きがついてい、私もまたこの賛美歌を好きだったので、亡き叔母と一緒に歌う気持になって、愛と敬虔の心をこめて一同に和した。そして最後の献花の時、私は一輪の菊の花を供えながら叔母の遺影につくづくと見入った。それは数年前に彼女とその同級の友三人とを上高地へ案内した時の記念写真の顔とそっくりだった。数十人の潑溂とした若い男女の登山者に囲まれ、瀬音せおとも涼しい梓川に架かった河童橋かっぱばしの石段の最前列に四人の「お婆さん連」の一人として腰をかけ、六月の西穂高の新緑を背にしている時のあの楽しげな顏が其処にあった。そしてその顔に最後の別れを告げながら、私の眼から不覚の涙が流れたのも是非がなかった。
 それにしても家にいて時に一人で賛美歌を口にする事のある私が、それをこんなにも切実な思いで歌ったためしは一度もない。すべてはあの叔母の死による清めの力である。私の妻をその娘の頃から「実みいちゃん、実ちゃん」と言って可愛がってくれ、それに連れ添う私にさえ常に変らぬ好意を寄せていてくれたあの「お信のぶ叔母さん」の徳である。

 いろいろと事の多かったこの一月末から二月にかけて、それでも私はドイツ・バッハ・ゾリステンの演奏会へ二度行った。二度とも上野の文化会館だった。
 彼らにしてみれば五年ぶりの来日ではあるが、その間には幾種かのレコードも発売され、私も欠かさず手に入れて聴いているので、この演奏団体への特別な親近感はずっと連続していた。オーボエ奏者で指揮者でもあるヘルムート・ヴィンシャーマンは無論のこと、舞台へ並んだ十数人の中にも「ああそうだった」と思い出させる顔がいくつかあった。たとえばヴァイオリンのシールニンクやヴィオラのシュレアーなどがそれだった。彼らは今はもうすっかりなじみになった日本の会場で、聴衆の熱意と静粛とを十分に予期していたかのように伸び伸びと吹いたり弾いたりした。そしてバッハ・ゾリステンのゾリステンたるところを余さず示した。ただヴァイオリンの一団の中に一人の日本の若い女性の加わっているのが目を引いた。プログラムに載っている「出演者紹介」というのを見ると大阪フィルを経てブレーメンに留学し、サシュコ・ガブリロフの弟子になり、同時にこのバッハ・ゾリステンの一員として活躍しているという事だった。名は岩前恭子といった。そしてその師ガブリロフも第一回の時と同様来日して、いかにも男らしく生き生きとした美しい音を響かせていた。
 私の行った時は二度とも曲目がすべてバッハのものだった。いずれもレコードで聴き馴れている曲ではあるが、最初の日のホ長調のヴァイオリン協奏曲の第二楽章アダージョと、『ブランデンブルク』第五番のこれも同じ第二楽章のアッフェットゥオーゾとは見事だった。わけてもそのアッフェットゥオーゾでフルートとヴァイオリンとチェンバロとが取りかわす静かな対話の美しかった事は、私にとって、その夜の圧巻であったように思われる。ただ驚きでもあり残念でもあり気の毒でもあったのは、番組の最後の曲『オーボエとヴァイオリンのための二重協奏曲』の時、その第二楽章のアダージョで二つの楽器の調べの遣り取りがまさに佳境を辿っている或る瞬間、突然ヴィンシャーマンのオーボエが故障を起こした事である。そのため曲は遂に中止されて別のヴァイオリン協奏曲がこれに代ったが、こんなアクシデントは聴衆の私としても初めてだし、ヴィンシャーマン自身にしてももちろん狼狽もしたろうし深く責任を感じもしたろう。しかしその間ずっと静粛を保って事の成行きを見守っていた満員の聴衆は、急遂代りに演奏されたイ短調のヴァイオリン協奏曲に熱烈な喝采を送り、更にアンコールか詑びのためのサーヴィスかと思われる「管弦楽組曲」第三番の『エイア』とヴィヴァルディの『春』とに暖かな拍手を与えた。
 それから二週間後の二度目の時には、ヴィンシャーマンはイ長調のオーボエ・ダモーレの協奏曲で謂わば名誉を挽回した。私は同じ曲をヴェイロン・ラクロアのチェンバロので知っているが、甘美で豊かに広々としている点、やはりヴィンシャーマン編曲のオーボエ・ダモーレの方が好ましく思われた。プログラムの劈頭を飾るフルートとヴァイオリンとチェンバロのためのイ短調の三重奏曲は、これもまたクラヴィーア用の作品やオルガン・ソナタから編曲された物だそうだが、実に美しくまろやかで、あたかも膨れ上がってくる春の大地を見ているような気がした。

 レコードよりも実演に重きを置く私は、『ニーベルングの指環』全曲を持っていながら、所用のために行かれなかった『ラインの黄金』の本邦初演を見損ない聴き損なった事を今でも残念に思っている。バッハ・ゾリステンの人達やヴィンシャーマン自身の物にしても最近は数多く出るらしいが、それらがいかに洗練されていようとも、いかに見事に録音されていようとも、私にとってはやはり音楽会場での実際の演奏の方がいい。合唱のような物は勿論のこと、管弦 楽にせよ、四重奏や五重奏にせよ、或いはピアノの独奏のような物にせよ、本人たちを前にした「人間の情の映うつり」が其処には在って、謂わば「血湧き、肉躍る」思いも経験するのである。
 そして今これらの事を書きながら、私は日本でセザール・フランクの名作の実演を聴きたい と思うと同時に、我が東京のバッハ・ギルドはどうしているのかとその後の様子を案じずには いられない。

 

 

 

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 ピアノ三重奏のタベ

 同じ鎌倉に住んでいながら、つい此の夏の或るささやかな宴で私は初めて大佛次郎さんと同席した。
 もっとも彼とは大正十三年以来の知り合いで、媒介はロラン・ロランの『ピエールとリュス』。そのロランからの翻訳権を私が快く譲ったのが縁だった。その後も時々は顔を合わせる機会もあってまるきりアカの他人ではなかったが、会って親しく話を交わすめぐりあわせというものは一度も無かった。ところがその大佛さんも加えて鎌倉在住の六人の私たちが、今年の八月に土地の事を書いた一冊の小さな本を出した。そしてその記念にと言うので執筆者と出版社側との八、九人だけで夕食の会を催した。大佛さんとの初めての同席と言うのはつまりその会での事なのである。
 場所は広々とした静かな庭園に囲まれた鎌倉園。高台の一角に建てられたどっしりとした構えの料亭で、以前一度来てすぐさま気に入った家である。樹木の多い庭も良いが、その庭からの鎌倉の海や相模湾の水の眺めも画のようである。折からの晩夏の夕暮を、眼の下に見える材木座あたりの家々の灯が美しく、次第にたそがれて行く海の上には帰って来る漁船の姿が二つ三つほのかに見えた。私と大佛さんとは食卓の用意が整うあいだ縁に立ってその風景を眺めていた。
 私たちの正面には海上の空高く一つの赤い大きな星が輝いていた。すると大佛さんが「火星ですね」と事も無げに言った。「そうですよ、このごろが火星の一番良い観測の時期だという話です」と、私は最近調べた今年の『天文年鑑』からの知識をちょっぴり披露した。と、今度は庭園の西側の樹林の端に、私は予期したとおりもうじき沈もうとする一個の巨大な黄色い星を認めた。十数年前一時その四個の衛星の観測に血道を上げた覚えのある木星である。大佛さんと私とは縁に立つたまましばらくは静かに星の話に没頭した。彼がよく私と共に星を語れるのも道理である。彼の兄上は私の私淑している星の先生野尻抱影さんなのだから。
 しかしそれよりも更に驚いたのは、彼が十九世紀のフランスの大作曲家エクトル・ベルリオーズを熱愛しているのを知った事だった。宴終って料亭からの帰りの車の中だった。帰る方向がほぼ同じなので二人は同車していた。その車の中で話がはしなくも音楽の事に及んで、私が「大佛さんは誰の音楽が好きですか」とたずねると、彼は言下に「ベルリオーズです」と答えた。私はその名とその勢い込んだ即答の仕方とにびっくりした。現在の詩人達は元より、どんな作家達の間でも、今日こんにちこれだけ断乎としてベルリオーズを言い放ち得る人は恐らく何人もいないのではなかろうか。私が昔から大好きなベルリオーズを大佛さんもそれ程好きであり、しかもその事に堅い信念を持っているのだから驚いた。彼は先ず『キリストの幼時』を挙げ、『ローマの謝肉祭』を挙げ、続いて『ファウストの劫罰』を、『イタリアのハロルド』を、『ロメオとジュリエット』を、『レクィエム』を、『テ・デウム』を挙げ、更に幾つかの序曲を指折って数え上げた。そして近く発売される筈の『トロイの人々』を楽しみに待っていると言った。彼は折しも『天皇の世紀』を或る新聞に連載中で勉強の毎日を送っていたらしいが、そういう大佛次郎という人がベルリオーズに打ち込んでいる事を知ると、ひどく頼もしいような、男らしく勇ましいような気がして嬉しかった。彼は自宅に近い八幡宮通りの段葛だんかずらで手を振りながら降りて行った。私も窓の中から手を振って、ここに新たにベルリオーズによって結ばれた古い知己との交わりを、今までよりも一層深めたいと思った。

 十月の六日には孫娘と一緒に、横浜の県立音楽堂へ来日中のイストミン、スターン、ローズら一行のピアノ三重奏曲の夕べを聴きに行った。
 ユージン・イストミンがピアノ、アイザック・スターンがヴァイオリン、レナード・ローズがチェロ。私にとって此の三人を見るのは初めてなので期待は大きかった。それに曲目が堂々としていた。先ずベートーヴェンの作品七〇の一のいわゆる『幽霊』、ブラームスのハ短調作品一〇一、最後がシューベルトの変口長調作品九九。いずれもレコードでは持っている曲だが、実演で聴くのは久しぶりの気がした。そして結局何と言ってもレコードは実演には及ばないと思った。私は眼前のステージに拡がるベートーヴェンの第二楽章ラルゴのあの幽玄な美に打たれ、ふだんから余り好きでないブラームスを聴きながらそのアレグロの終楽章によって改心させられ、最後に待ちわびたシューベルトによってすっかり満足させられた。この九九番と一〇〇番とは作品の性格が全く違っていて、事によると番号もその逆ではないかという説もあるが、あの男性的で陽快な一〇〇番もいいが、どちらかと言うと浄福の楽章とも言うべき「アンダンテ・ウン・ポコ・モッソ」の第二楽章を持つ九九番の方を私はよけいに好きである。更に終楽章の「ロンド・アレグロ・ヴィヴァーチェ」。これは友人たちと集まって合奏を楽しんでいるシューベルトを想わせて、聴いているこちらまでも体を揺りたくなるような底抜けに明るい音楽だった。聴衆の大喝采を浴びて挨拶に出て来た時のイストミンのにこにこ顔と、真赤になって汗だくのスターンと、おっとりと落ちついたりローズとにまことに対照の妙があった。いずれにもせよ終始チェロがよく響き、ヴァイオリンとピアノとがよく歌って、最近稀に充実した好ましい音楽会だった。

 こんなレコードでも人は私同様楽しんで聴くだろうか? モーツァルトの卜短調の交響曲ケッヒェル五五〇番の、あの美しい第一楽章が鳴りはじめる。それはしばらく続いて消える。すると人間の声が入れ代って聞こえて来て次のような事を語る。
「子供さんがた、友人諸君、仲間たち。あなたがたは皆さんの器械の上にこの盤を載せた以上みんな音楽を愛しておられる。そこで私はそういう皆さんに全く単純にこう質問したい。皆さんはこれから聴こうとされる物が何であるかをご存知ですか、と。これはヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの卜短調の交響曲です。皆さんは誰でもこのおどろくべき音楽家の、世界で最大の音楽家の一人である人の、少くとも名だけは知っておられます。しかし事によったら知っておられないかと思うのは、そのモーツァルトがやっと三十六歳までしか生きず、しかもそんなに短かい生涯の間に高い名声を得、六百曲以上にも及ぶさまざまな作品を書き、たくさんの旅行をし、善い息子であり、自分自身も幾人かの子供の親であり、そして現代の世界が、この全世界が、彼に対して毎日賛嘆と感謝との貢ぎ物を贈っているという事です……」
 解説本文の筆者はジョルジュ・デュアメルとその息子アントワーヌであり、解説の語り手は恐らく俳優だろうと思われるジェラール・フィリープであり、幾つかの交響曲を初めとしてピアノ・ソナタ、フルート・ソナタ、ピアノとヴァイオリンの為のソナタ、弦楽四重奏曲、ミサ曲、ピアノ協奏曲、歌劇『ドン・ジュアン』、クラリネッ卜協奏曲、セレナード、そして最後に『ジュピター』が、それぞれ要領よく抜粋して演奏されている。そしてその抜粋も良いが、よりすぐれているのは音楽の間へ入って来る解説の方で、モーツァルトの生涯を述べながらデュアメルその人のこの巨匠礼讃が、こんなに興味深く語られているのを知ったのは私として初めてである。「モーツァルトは大きな子供のような素朴な無頓着さでこれら最後の数年を乗り切りました。しかもその暗澹とした年々の間に、あの甚だ有名な『夜の小さい音楽』を作曲して表明した彼の悦びというものを考えてご覧なさい」と言って、デュアメルはその小さいモーツァルト紹介を終っている。私は彼のこうした親密なモーツァルト観が、モーツァルト論が、もしもその唯一の音楽的著書『慰めの音楽』の中に取り入れられていたらどんなに善かっただろうと思うのだが、いずれにもせよこの解説の存在を知ったのは新しいデュアメル発見として私には嬉しい事だった。

 十月二十六日は昼間青山の葬儀所で故志賀直哉さんの葬儀と告別式があり、夜は上野の文化会館小ホールで東京プロ・ムジカ・アンティカの演奏会のある日だった。私はその両方へ出かける予定を組んでいた。ところがその朝風邪のため少し熱があり、おまけに雨さえしょぼしょぼ降っていたので、風邪の悪化を心配する妻と娘との切なる忠言を容れて外出をやめる事にした。そして「白樺」時代の敬愛する先輩志賀さんの処へは簡潔に事情を述べて、故人の冥福を祈る弔電を打った。
 創立十周年を迎えたプロ・ムジカ・アンティカの演奏会には、同団体所属のバリトン歌手島塚光君から前もって招待を受けていたので楽しみにしていた。十二、三世紀スペインの聖母マリア頌歌集、イザークその他の作曲になるルネサンス・フランドルの合奏曲、デュファイの宗教曲、ダウランドのリュート曲とリュート歌曲、ヒュームのガンバ独奏曲、モーリーのバレッ卜、プレトリウスの器楽曲と宗教曲等々という具合で、いずれも心惹かれる敬虔な歌や器楽曲として華やかにずらりと並んでいた。これは志賀さんを見送った直後の私としては特に聴きたい音楽会だった。しかし告別式に欠席した身が音楽会へ行くわけにはゆかないので潔く断念したのである。

 

 

 

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 シュッツに打ち込む人たち

 文学や造形美術にたずさわっている友人の中に、音楽を好きな人達はかなり多いが、その中にシュッツを好きだと言う人はほとんど居ない。いや、好きだと言うよりもシュッツという名を知っている人さえ非常に少いのが事実である。一体どうしてなのだろう。これは一見不思議な事のようだが、考えてみれば理由は有る。第一には彼の音楽の実演を聴く機会が他の作曲家の物の場合のようにそう多く与えられていない。第二にその作品のレコードが広く流布しておらず、これを手に入れるのも余り容易ではない。そして第三に彼の人と芸術とについて書かれた物が、少くとも日本ではほとんど皆無と言っていい状態である。ちょっと考えただけでも彼の知られない理由は凡そそんな処にあるかと思う。たとえばドイツに本部のある国際ハインリィヒ・シュッツ協会の会員名簿を見ても、世界の各地に跨がってはいながら、全会員の数は想像以上に少いのである。彼は今年の十一月にその三百年忌を迎えるから、その時は記念の催しが各国で行われるだろうが、それもバッハやモーツァルトやベートーヴェンの場合と較べれば遙かに地味な、しめやかなものになるのではなかろうかと思われる。
 しかし日本の東京にもハインリィヒ・シュッツ合唱団というのがある。人数はたしか三十人ぐらいでそう多いとは言えないが、現在ブラジルで活躍している淡野弓子さんを最初からの指揮者として、もうかなり永く続いている。私もこの団体へは蔭ながら力を入れて、紹介のような文章を一、二回書いた覚えがあるが、それを徳としてかこの八月の或る日曜日に、男女五人ほどの団員の来訪をうけた。いつでも会場の聴衆席から遠く眺めているだけだから一人一人の顔を知っているわけも無いが、一室で席を同じくして見れば皆人品の善い若い人達だった。そして「ああ、この人達があんなにもシュッツに打ち込んでいるのか」と思うと、頼もしくもまた親しいものに思われた。
 私達は書斎よりも幾分涼しい日本座敷へ移って、其処でくつろいで、色々とシュッツの話をしたり会の事を聴いたりした。今では不在の淡野さんに代ってH・J・コールロイター氏が指揮をとっているが、その指揮ぶりや人柄の善さの話も出た。若くはあるが一行中の一番年上で、東京音大とエリザベート音大の講師であるテノールの鈴木久さんが、最も親しく色々の話を聴かせてくれた。他の連中はアルトのSさん、Yさん、Mさん、それにテノールのYさんだった。そしてお土産みやげとして持って来てくれた彼ら合唱団所演の録音テープを一緒に聴いた。『カンティオーネス・サクレー』からの「ご覧下さい父よ」の三曲、『ガイストリィヒェ・コーアムジーク』からの「涙をもて種播く者は」、「我は知る、わが救い主の生き給うを」、「死せる者は幸いなり」の三曲、そして最後に大曲『ヨハネ受難曲』。しかも此の最後のものは最もすばらしくて、カンターテの盤に入っているエーマン指揮の物に決して劣らない出来だった。そして此の中の福音史家の大役を勤めているのが、私と並んで坐わっているほかならぬ鈴木久さんだった。その鈴木さんの福音史家が又すばらしかった。そして二時間なにがしという楽しい時間は、もう一つの受難曲『マタイ』を後日に残して、一座の或る女性の言ったとおり「真に夢の間に過ぎた」。
 因みに、現在日本でわれわれの手に入るシュッツに就いての書物には Hans Joachim Moser の独文の大著とそれを要領よく縮少した英訳書とがあり、更に甚だすぐれた小論文としてロマン・ロラン全集第二十巻にも戸口幸策氏の翻訳が載っている。

 この八月は前記のシュッツのほかに、三組のレコードを人から贈られた。贈られるのは有難いがお礼のしようが無くて困っている。然しともかくも此処へ書く事で感謝に代えさせて頂こう。なぜならばレコード会社から送られたのは会社名義とは言え、実は両方とも其処に勤めている懇意な、或いは顔見知りの社員からの、半ば個人的な贈り物だからである。先ずその人達からの盤としては「世界の名曲」の第一巻、もう一つは「世界大音楽全集」の第二巻であり、そして最後のは本当の個人から遠く送られて来た物で、「生誕二百年記念ベートーヴェン大全集」第十巻の『フィデリオ』全曲である。そして私などがこれら九枚のレコードやテープを自分の金で買おうとすれば、少くとも三度に分けて買わなければならない程の物だった。しかも私はこういうレコードを皆大切に保存しているから、所蔵の書物と一緒に狭い家の中で彼らの容積の増す事は(大袈裟に言えば)日に月におびただしい。その内にはきっと毎日の立ち居も不便になってしまうだろう。しかし絶えず数を増すこれらの書物とレコードとは、老いてゆく詩人の私が生涯の思い出としていよいよ大切にしなければならないものばかりなのである。
「世界の名曲」にはヴィヴァルディの『四季』と、ヘンデルの『メサイヤ』からの抜萃と、水上の音楽』の全曲とが入っている。『四季』と『メサイア』については此処では省略するが、久しぶりに聴く『水上の音楽』は実に気に入った。その壮麗な叙情味と素朴と健康美との音楽は、水上のそれよりも寧ろ私に曽て自分が経験した武蔵野や信州の高原での田園生活を思い出させた。ロマン・ロランはヘンデルの器楽曲のすぐれた物として『合奏協奏曲』や『花火の音楽』について論じながら、『水上の音楽』に関してもこんな慨説を施している。
「この音楽は二十以上の楽章を含む組曲形式の大きなセレナードである。それは壮麗なオペラふうの序曲で始まる。次いでホルンやトランペッ卜や他の金管その他の楽器のエコーによる対話が来る。それはさながら答え合う二つの管弦楽のようである。それから長閑のどかで楽しげな歌や舞曲や、ブーレーやホーンパイプや、メヌエッ卜や通俗なアリアなどが、歓ばしく力強いファンファーレと交り合ったり対立したりして現れる。その管弦楽は彼のいつものシンフォニアのと殆んど同様であるが、ただ金管がかなり重んじられている。又この作品には室内ソナタ風の様式や序曲様式で書かれた楽章も見出される」と。そしてヘンデルの音楽が当時の民衆から驚くほど愛された事を述べながら、「しかし」とロランは書いている。「しかし私はそういう通俗的な人気ばかりを問題にするわけではない。とは言えそういう人気も決して無視してはならないものではある。なぜならば一般大衆に喜ばれる芸術に芸術的価値を認めないと言うのは、愚かな誇りと偏狭な心のするわざだからである。しかし私がヘンデルの音楽に民衆的な性格があると言うのは、それが本当に民衆一般のために作曲された物で、リュリからグルックに至るフランス・オペラのようにディレッタントの選良達のために作曲されたものではないという事である。いささかも大衆と妥協していない最上の美しい形式を用いながらも、ヘンデルの音楽は万人の理解し易い言葉をもって万人の享有し得る感情を表現したのである。その場で理解させなければならぬ雑多な大衆に向かって、舞台の上から語りかける事に全生涯―創作の五十年間―を努力した比の天才的な即興音楽家は、あたかも態度を重んじ、且つ其の場での生き生きとした効果に対する本能を持っていた古代の雄弁家にも似ている。われわれの時代はこういう型の芸術と人間とに対する感覚を失っている。自分だけの為や仲間の為ではなく、民衆に語りかけ、民衆の為に語るところの純粋な芸術家を失っている。今日では純粋な芸術家達は彼ら自身の内に閉じこもっている……ヘンデルはその天才の他の様々な面と共に、この民衆的な行動力によってもカヴァルリやグルックの逞しい血統に属している。しかも彼はその一人を凌いでさえいるのである。ただベーヴェンのみが彼の大きな足跡を辿り、彼の切り拓いた道を進んだのであった」(蛯原徳夫、高田博厚両氏訳)。
 彼の『水上の音楽』から与えられた物をも含めて、これ以上ヘンデルについて私が何かを言うのは蛇足であろうし烏滸おこの沙汰でもあろう。
 二番目のは五曲のバッハから成る二枚組で『管弦楽組曲』の第一番、『ハープシコード、フルート、ヴァイオリンの為の協奏曲』イ短調、『ピアノ協奏曲』第五番、『チェロ・ソナタ』第一番、それに『無伴奏チェロ組曲』第五番から成っていた。
 このところ仕事が少し詰まっているのでゆっくりした気持では聴けなかったが、それでも有り合わせの紙きれへ其の中の何曲かに対する断片的な感想を書きつけた。「『チェロ・ソナタ』第一番。第一楽章がすがすがしくて大らかで、草原の豊かな何処かの山頂に憩っている気がした。『無伴奏チェロ組曲』第五番。カルザスのを持っているが此の盤はロストロポーヴィチが弾いている。そしてこれは又これで良い。チェロの重奏音の威厳と雄大さとに感心した。『管弦楽組曲』第一番。序曲で弦楽器群と競い合うように吹き鳴らされるファゴッ卜の活躍が目ざましい。『ハープシコードとフルートとヴァイオリンと室内管弦楽団との為の協奏曲』イ短調。冒頭のフルートが先ず印象的であり、次いでかなり長い楽句で続けられるハープシコードの独奏がまことに美しい。あたかも高原に咲き続く花の眺めか、青空に遠く散らばっている白雲の群のようだ……」こんな物を書いて今後これを既成概念にしてしまってはいけないが、その時の感慨の記念として書きつけて置く事は別に害にもなるまい。但し私の身辺にはこんな紙きれが散らばりながら、それがいつしか行衛知らずになってしまう。
 私の物の若い熱心な読者で北九州の門司に住んでいるT子さんからの『フィデリオ』につい
ては、もっと時間のある時にもっと実のある物をゆっくりと書くつもりでいる。

 

 

 

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 バッハヘ傾く心

 その作品へのなじみも深く、思い出もまた豊かな過去の音楽の巨匠のなかで、或る時はモーツァルトに、或る時はベートーヴェンに、或る時はシューベルトにというように、詩人私の心の振子ふりこが、その時の気持の傾斜や精神の要求のまにまに、右へ移ったり左へ寄ったりする。そして私ほどの年齢になれば、それは決してむら気でもなければ何かのはずみの思いつきでもなく、若かった頃よりも根の深い、いわば魂のやむにやまれぬ求めであり指向なのである。だからどうしてもモーツァルトでなければいけない時というものがあって、そんな時にはいかなベートーヴェンでもそれに代わる事はできない。同じように、ヘンデルがベートーヴェンの代理を務めるわけにはいかないし、シューベルトの歌に代えるのにシューマンのそれをもってする事もできない。
 バッハの場合でも勿論同じだが、とりわけこのヨーハン・セバスチアンヘの愛や信頼が自分を支え、自分を癒し、自分を力づけてくれるだろうという思いが嵩こうじると、彼を聴かずには過ごせない日が幾日もつづくことさえある。しかもそんな幾日の願いを悠々と容れてなお充分余りあるほど、彼の作品は数も多ければ多種多様をきわめてもいるのである。
 私は自分では楽器をあつかう事ができないから、ちゃんとした物を聴くとなれば演奏会へ行くかレコードを掛けるしかない。歌は歌曲や衆讃曲コラールのようなものならば少しは歌うが、またブロック・フレーテやオルガンで単純な施律ぐらいならばいくらか音に出してもみるが、これとてもひそやかな楽しみか気安めの程度にすぎない。従ってたまたまの演奏会行きを別にすれば、私が音楽を聴いて、清められたり癒されたりするのは、多くはレコードを介してである。そのかわりレコードならばかなりの数を持っている。中でもバッハとベートーヴェンが一番多く、この二人の巨匠の作品ならば録音された物のほとんど全部を持っている。ただ残念なのは、二百十数曲と言われているバッハのカンタータがまだ全部揃っていない事である。しかしそんな事は今ここでは問題ではない。問題はバッハの音楽がどんなに自分の心や仕事を鼓舞してくれているか、どんなに美しく残りの生涯を飾ってくれているかという事である。
 去年(一九六六年)の復活祭は四月十日だった。私にとって復活祭といえばいちばん自然にバッハの音楽の思われる日であり、永年のしきたりで赤や黄に殼を染めた卵を食べたり、感慨深く一杯の葡萄酒を啜すすったり、必ずと言っていいくらい一篇の敬虔な詩を書いたりして心静かに祝う日である。それでその日も書斎の窓ぎわの椅子に身を沈めてバッハの第三一番のカンタータに聴き入り、やがてペンを取り上げて次のような詩を書いたのだった。

   復活祭

  「天は笑い、地は歓呼する……」   
  バッハのカンタータが今終わった。
  庭を埋めるシバザクラ、タンポポ、紫ケマソ、
  祝祭と花の朝あしたを風はつめたく、日は暖かい。

  生涯を詩にうちこんで幾十年、
  もはや旅路の果ての遠くないのを思えば、
  を追っての復活をねがう
  祈りの歌もおろそかには聴かれない。

  木々の梢に歌ほとばしらせる小鳥たちや
  青い空間に浮かびきらめく蝶や蜂、
  「われを天使に似させたまえ」のつつましい訴えが
  彼ら純真で欲念薄い者達にこそふさわしく思われる。

 


 

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