美しき視野


   ※ルビは「語の小さな文字」で、傍点は「アンダーライン」で表現しています(満嶋)。

                                 

九月の断章

雲に寄せることづて

雲二題

入笠山にて

採集行

別れの曲と到着の歌

湖畔の町の半日

ホトトギス

童 話

秋の林にて

背負子

友 情

森の子供たち

 

 

 

    「しかしわれわれはなぜ彼ら(ダーウイン、ラマルク、ファーブルら)の収穫物を食うばかりで、
     われわれ自身のそれを用意しようとはしないのだろうか。なぜまたわれわれ自身の足もとに横
     たわる物を観察しようともしないのだろうか」
                                ジョルジュ・デュアメル
                                  

 

 九月の断章(一九四六年)

  高原初秋

 九月三日。私の気に入りの場所のひとつであるいつもの路傍の切株へ腰をかけて、午後三時頃の甘美な日光と今日の爽かな風とを背に、さっきから八ガ岳を見ている。眼の前にはおおかた葉を摘みとられた小さい桑畠の傾斜があり、その下にはすでに黄ばんだ垂穂の稲田、そして向うの高みは一帯の赤松林と点々とした耕地の眺めで、蕎麦の畠は白く、キャベツの畠は銀青色に見える。そしてこの快晴の日の空間に微かに雲母きららの粉を撒いたように光る薄青い靄がかかり、――それとも今日このごろ裾野の各所で焼いている野火の煙かも知れない、――それを透かして見る八ガ岳・蓼科火山群の蜿蜒六里におよぶ連亙はすばらしい。西へ傾いた太陽に正面から照らされて赤味がかった金緑色にけぶりながら、全地平三六〇度のほとんど四分の一を占めて、編笠岳から北のはずれの蓼科山に終る澎湃たる山の波濤。その中でもいちばん印象的なのは全山あけに染まった主峯赤岳と、東へ傾いた中央火口丘阿弥陀岳の巨体と、それへべっとり着いている這松のヴィリジャンの色だ。編笠と蓼科の円い頭は柔かい淡褐色をしているが、それは彼らの山頂が磊々と風化した岩塊に覆われていることを示すものだろう。みすず刈る信濃の国の高原に風と日光との戯れの午後、どこか下のほうで草刈の鎌のしゃきしゃき言う音、分水界の勾配をあえぎあえぎ登って来る新宿行列車の(あの新宿へか!)排気の音。人間の生活を思い出させる音響といえば只それだけだが、懐かしい人生へ私をつなげるこれも一縷の絲か歌だ。

  風の音

 九月五日。今朝はかなりの北西の風に明けた。諏訪湖や霧ガ峯の方角から押し寄せてきて八ガ岳の裾野一帯に吹きひろがり、地理学者のいわゆる富士見狭隘へ吹きこむ秋季季節風のさきがけだ。午前七時の観測の時には、(東京から移って来ていよいよ本気になって始めている)まだ鳳凰山や八ガ岳連峯に粘りついていた鉛いろの夜来の雲が、八時過ぎ農場へ牛乳をとりに行く頃にはもうすっかり消えて無くなって、今では真青な秋晴の空ときらきらする太陽の光だ。そしてこの山荘を囲む森林の樹々のこずえを絶えず吹き鳴らす爽快な風の響き。赤松やカラマツの類の針葉樹では逞しい深みのある、――海浜の真砂の上をひく時の波のような、――そうそうという響き。白樺やハンノキでは乾いた、こまかい、さらさらいう音。幅びろで厚みがあって、或る一定の間をおいて起伏するこの松籟は聴けども飽きない。
 ちょうどこれを書いていると庭先の赤松と白樺の木へ夫婦のアカゲラが飛んで来て、しばらくこつこつと幹を叩いて打診していたが、やがて雌を先に「キェッ・キェッ」と鳴きながら飛び去った。もう夏の衣更えを終ったらしく、背中と尾の黒白だんだらや、後頭部や臀や太腿のあたりの朱紅色が(ちらちらと木の間を洩れる日光をうけては殊に)鮮かで見事だった。――もっとも雌にはこの後頭部の赤リボンが無い。――彼らの仲間がこの森に少くとも十羽近く棲んでいることは確実だ。始終見かけるし、又そこらじゅうで彼らの鋭い叫び声や「ケラララア」という笑い声のようなものを聴く。
 そして相変らずの風の響きと庭一面の温かい、むしろ暑いくらいの日光。いま軒の高さの空間を透明な金色に光る五六匹のウスバキトンボが往ったり来たりし、縁先の薪の上で真赤なノシメトンボが日向ぼっこをし、一羽のミドリヒョウモンが暖かい地面へとまって、時々翼を畳んではそのうすい草色と真珠色の模様のある羽根の裏を見せている。表はもちろんぴかぴかした毛皮のような豹紋だが、後翅二枚はその褐色が幾らかくすんで苔色を帯びている。

  ホオジロの歌

 この裾野、それも釜無川や宮川の谷に近いところでは、浅い輻射谷の緩傾斜を利用して雛壇のような水田が営まれている。そしてその谷側こくそくのちょっとした平地には大抵ハンノキの林が仕立てられ、下草はいつも綺麗に刈り取られて、(繋がれている牛も食うには食うが)、樹下は腰を下ろしたり寝転んだりするのに持ってこいの芝やクローヴァなどの広い草地になっている。これらのハンノキは毎年春の末、田植前、裾野一帯に赤や樺いろのレンゲツツジの咲き出す頃、その柔かな若枝が葉ごと切られて、そのまま緑肥として水田へ鋤きこまれるのである。だから樹は一般に丈が低くてずんぐりして、幹の頭の瘤々なのが多い。樹は違うかも知れないが、オランダ時代のゴッホの素描にこういう樹容を描いたのを幾つか見かける。今そういうハンノキ林の縁に坐って、折から花かけ時のすがすがしい稲田を前に、釜無の谷を隔てて夕映えに染まった鳳凰山を見ていると、近くのカラマツのてっぺんと向うの電線とに棲まった二羽のホオジロが、さっきから引続いてタ方の歌合戦をやっている。カラマツの方のが What a splendid peaple is ! と歌うと、三十メートルばかり離れた向うの電線のが Which is your peaple ? とやりかえす。なかなか味のある問答だ。これがもう随分長くつづいている。そしていつか太陽も深く沈んで、鳳凰山の地蔵仏の岩塔が一本の黒い小さい錐の先のようになり、東方の裾野の上の薄桃いろの空にほんのりと青く地球の陰影がせり上って来た今でもなお、水のように冷めたく澄んだ空気のなか、この高原の夕べの谷間に、彼らの民衆ピープルの応答だか歌だかが響いている。

  菌類一種

 きのうは堆肥の馬糞に生えているササクレヒトヨダケという白色小型の菌を食ってみた。気になるから一旦熱湯でゆでて置いてバターでいため、醤油をかけて味わったが歯ぎれがよくてまずくなかった。この菌は二三日前娘の栄子が採って来たのを見ると傘がすっかり開き、表面も襉かんも黒く濡れて溶けかかっているので、川村博士の「日本菌類図説」で調べてみて多分サイギョウガサという菌の腐れかけた物だろうと思っていた。ところが昨日の昼前何の気なしにエドワード・ステップの「庭の自然」の下巻を見ていると、堆肥場にある前述の菌の菌蕾とそっくりの写真が出てきた Lawyer's-wig Mashroom (弁護士の鬘茸かつらだけ)という名称で、記事を読んでみると特徴も大体似ている上に、食用に供するともある。そこで念のため「日本菌類図説」をもういちど一枚一枚繰ってゆくと、白ではなく淡い紫褐色に著彩されているササクレヒトヨダケというのがどうもこれに該当するらしく、解説を読むと著者はこれの白色の物を友達の外国人から教えられて食った事があると書いてあった。そこで安心して上述のように自分も試食したわけだが、別に毒でもないらしく、腹も手足もなんともない。ただ余り身が無いし大きくもないので食べでが無いのが欠点だが、沢山採れば中皿一杯ぐらいにはなるだろう。アンリ・ファーブルは熱湯で処理すればどんな菌でも中毒はしないと言っているが、毒が無いと極まればゆでるにも及ぶまい。第一ゆでては風味が消える。湯煮したこの菌の味はと言えば、先ず罐詰のマッシュルームと似たり寄ったりというところだ。

  エゾゼミ

 一日のうちでエゾゼミの鳴き出す時刻について、もう書いてもいい時が来たような気がするから結論めいたものを書きとめて置こう。
 八月の初め頃から毎朝八時を過ぎたかと思うと極まってエゾゼミが一斉に鳴き出すことに気がついた。森の中で先ず一匹が「ギリギリ」と鳴き出すと、それをきっかけに二匹、三匹、五匹、十匹と、あたり近所の同類が次々と鳴きはじめ、仕舞にはそれがすっかり揃って耳を聾するような一大斉唱に発展するのである。このギリギリの斉唱は三四十分間つづいて、それ以後は比較的まちまちな断続的なものになる。それにしても朝の鳴き初めというものは全く圧倒的で、「やがて死ぬけしきも見えぬ」夏の日の讃歌どころか、むしろ叫喚と言ってもいい位なものである。それで一体彼らが本当は何時頃から斉唱を開始するのか知りたいと思って、初めの内は時刻を書とめていた。しかし四五日してこれは時刻も時刻だが先ず気温と、あるいは湿度と密接な関係があるのかも知れないという事に気がついて、それからは鳴き初めの時刻のほかにその時刻の気温と湿度とを取ることにした。この実験を二十日間ばかり遣って解ったのだが、時刻は日の経つにつれて午前九時から正午というように次第に遅れるが、気温の点では摂氏二十二度あたりが彼らの発音器の活動にとって最適の温度らしく思われた。つまり二十二度という気温は八月初旬だと朝の八時ぐらいにもう出るが、八月も末になると正午頃にならなくては出ないので、エゾゼミの発声もそれに伴って遅くなるのである。湿度も幾らかは利くようだが、こちらは大して必要な条件にはなっていないように思った。もちろん雨の日には鳴かないのである。要するにそれ自身に体温というものを持合わさない彼らが、周囲の気温に暖められてその発音器の活動にちょうどいい位の体温を得ると、すなわちそこで発音筋を震わせて緊張した発音膜に振動を与え、同時に腹腔全体に振動を起こさせて音を拡大し、そして、あのような壮んな夏の朝の鑽孔機ドリルの歌を生むのであろう。

  ちいさい物

 今日イチイの実という物を初めて見た。信州にイチイの樹が多く、これが人家にも栽植されて、農家の防風用の生垣に仕立てられていることは今までにも登山や旅行の際に見て知っていたが、その実を見たのは今日が初めてである。
 いつものように今朝も雛を連れたシジュウカラやエナガの一隊がやって来て表座敷から見える白樺や赤松の間へ散開したので、それを望遠鏡で見ている内に庭先に植わっているイチイの樹の枝の一部がレンズの視野へ入って来た。何だかぼんやり赤い物が見えるので焦点を合わせると、そのイチイの枝の光沢のある濃緑色をした細かい線形の葉のあいだに点々と小さなまるい真赤な実がついていて、それが日光をうけて珊瑚の玉のように光っているのである。しばらくは小鳥をそっちのけに、この円筒の奥に拡大された植物の美観に見とれていたが、結局一枝折ってつくづくと手に取って見た。じつに美しい。小指の先ほどの円い壷形の多肉質の実で、その皮の色は未熟なのだといくらか粉っぽいパステルのような赤、よく熟したのだと封蠟のような鮮やかな赤。枝に接した底のほうには玉葱の薄皮のような色をした小さい薄い鱗片が附着し、平らに切られた頭のところは盃形に凹んで、中から一粒の黒い種がのぞいている。摘まんで口にすると頗る甘く、汁には多少粘りがあって、種子を嚙むと微かにテレピンの匂いがする。この肉質の部分は植物学上では仮種皮ということになっている。雌雄株を異にする植物だそうで、なるほど庭前の二本のうち一本の樹には実がついていない。
 イチイはすなわちアララギで、イギリスでは Yew フランスでは If だが、隣りの農家名取のお嫁さんと娘のアサちゃんに訊いてみたら、この辺では「ミネズボ」と呼んで子供たちが喜んで食べると言っていた。ヨーロッパでも食うらしい。何れにしても光沢のある濃い緑の針葉のあいだに、点々と目もさめるような紅玉を綴ったこの実を私は讃嘆する。フーゴー・ヴォルフの歌に Auch kleine Dinge (小さい物でも)というのがある。オリーヴでも真珠でも、美しくて価値ある物は如何に小さくても人に愛され貴ばれるという歌だ。今それを思い出して以前よく歌ったこの歌の美を味わいかえすと共に、われわれに縁遠いオリーヴの実に代えるに力と忍耐の権化といわれるこのイチイの赤くて甘い秋の実を喜び讃える。

  ウーロン茶

 九月八日。けさ妻は起きぬけに一番の汽車で東京へ出発した。向う一ヵ月ぐらいの予定で、東京府下の砂川村と千葉県三里塚とに残してある家財を纒めてこちらへ発送するために行くのである。栄子と一緒に朝露を踏んで停車場まで送って行って、親子夫婦しばしの別れを惜しんだ。早朝の釜無山脈には灰いろの煙のような山かつらが懸かり、富士と蓼科は綿帽子をかぶっていた。
 帰ってから二人だけの朝飯の時、栄子が戦争前からの残り物だと言ってウーロン茶をいれてくれた。それを一口啜っていると卒然として昔のある日の状景がよみがえり、今から三十六七年前東京銀座の「ウーロン茶」で、ときどき森鴎外さんを見かけたことが思い出された。当時陸軍省の医務局長であったかと思う鴎外博士は軍服に刀を吊り、室の片隅の卓上に軍帽をきちんと置き、端然と腰をかけて茶を飲みながら、かならず何か西洋の本を読んでおられた。ドイツ語かフランス語の本を前に置いて、厚い滑らかな無罫の洋紙に鉛筆で何か書いておられることもあった。やがて小山内薫氏や市川左団次らの自由劇場の第一回試演に上場された、あのイプセンの「ジョン・ガブリエル・ボルクマン」でも翻訳しておられたのではあるまいかと思うがそれは解らない。こんな追憶をそれからそれへと栄子に話してやりながら、つい昨日の事のように思われる時間と空間の、実はどんなに遠いものとなったかをつくづくと思った。
 裏座敷へ退いて机の上を清め、今日の仕事に取掛ろうとすると、小諸の近くに疎開しているK君からその新らしい著書が小包で届き、東京の中央気象台でドイツ語を教えているS君から親愛をこめた手紙が来た。その手紙を読んでいると、食事の後片づけをしながら栄子の歌っている「昔の仲間」がきこえて来た。しかしその歌さえも、仲間さえも、今はもう過去のものになりかけている……

 

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 雲に寄せることづて(一九四六年)

 友よ、僕は今これを信濃の高原、八ガ岳裾野の枯草にすわって書いている。
 ついこの間まで絢爛をきわめた秋のもみじも散りつくして、赤松の森ばかりがところどころに緑を残している銀と茶褐色との広大な枯野の一角、東京から西北西へ山また山を四十幾里、日本のオーヴェルニュ、大波のような火山連峯と皺曲山地の高峻とを目の前にする高原の、とある輻射谷の薮を背負った崖の上の日だまりで、初冬の空が深い桔梗いろに澄んだ午前十一時、甲斐駒ガ岳の真上に南中する太陽の光にひたいを照らされ目をほそくして、時おりの微かな小鳥や刈田のふちの落し水のこぼこぼの歌を聞きながら、今しずかにこの手紙を書いているのだと言ったら君は僕を羨むだろうか。心のどこかにオーベルマンやアミエルのそれに通じる悲哀の影をやどしながら、訪う人もまれな森閑たる環境でひとり物を書き、畠を作り、本を読み、野外に出ては触目の自然を観察し、わけても独学の「小さい気象学」を楽しんでいる僕という男を想像して、東京の廃墟にかこまれたあの気象台の窓から君という若い学者がどんな結語を下すだろうか。
 いや、君はよく知っている筈だ。この僕の現在の境遇が必ずしも羨望に値するものではなく、結局はひとつの大いなる過誤を犯した人間のにがい悔恨と贖罪との生活だということを。戦争中の僕の信念と行動とは時に君を悲しませ、時に君を憤らせた。君は僕とは正反対の道に行動しながら、その目を絶えず痛ましく僕の姿にそそいでいた。しかし君は決して僕を見捨てなかった。そして戦争はついに敗北におわり、僕という個人の一切もついえ去った。ことの真相がつぎつぎと明らかにされ、いくばくかの再生の光が祖国の無残な廃墟の上に照りそめるにつれて、僕の悔悟の傷口はいよいよ大きく口をあけ、その血は流れて今も止まない。そういう現在の心境だ。
 さて、何もかも分って呉れている君にではあるが、これだけのことを文字にして残して置けばあとの約束の手紙が書きいい。君は気象関係の通信を僕に求める。別に大して君たちを喜ばせるような報告もできないとは思うが、これからぽつぽつ書いて送ることにしよう。面白いと思ったら続けて読んでくれたまえ。つまらないと言われたら何時でもやめる。
 きょう十一月十六日、僕の住んでいる長野県諏訪郡富士見村の北東海抜九九〇メートルの地点では、午前七時に気温零下三度を測り、十月二十日から四度目の霜と、二十九日から二度目の結氷と霜柱とを見た。いきなり足の甲までもぐる道路の凍上にも驚いたが、糸ごんにゃくによく似た十センチという霜柱にもびっくりした。それにも拘らず隣のお百姓はこれでやっと本陽気に帰ったので、今までが暖か過ぎたのだと言っている。これが当り前だとすると、初めて経験する来るべき十二月、一月、二月、三月ごろの寒気が思いやられる。僕はけさそのすばらしい霜柱と大待宵草の根葉の薔薇結びを美しい銀のレイス細工で飾っている霜とを撮影した。元来僕は画が不得手なのだが、気象現象の記録にはやはり画よりも写真のほうがいいような気がする。もちろん亡くなった寺田博士の見事な写生図のような例外も有るには有るが、ああいう画は誰にでも描けるという訳にはいかない。それで僕は手持の貴重な乾板をできるだけ大事に使って、これからの冬季の気象現象の実のある記録を残すように心がけている。何時だしぬけに起こるか分らないが、雨氷の撮影などは決してのがすまいと思っている。
 気温のことを言えば、終戦第一周年の八月十五日から始めた観測によると、ここでの気温は東京でのそれと較べて六度か七度ぐらい低いらしい。気象同好会発行の「気象通信」第一号に載っている、九月一日から十日までの東京の気象表の一日三回の気温の数字から毎日の平均値を算出し、その十日分を図表にしてそれをここでのグラフに重ね合せてみると、ちょうど六七度の差で二本の曲線がきれいに並んでいる。
 序でに僕の毎日の定時観測のことを書いて置こう。今のところ極まった観測の対象は気温、湿度、気圧、風、雲、降水量の六種で、午前七時、午後一時、午後九時の一日三回、万一僕の不在の時は妻が代って記録をとる。もとより百葉箱などは無いから、乾湿寒暖計は北西に面した縁側の、風通しのいい、いつも日陰になっている柱へ、三センチばかり離して掛けてある。この縁側からは約一里半のむこうに、入笠山から諏訪湖南方の守屋山につづく釜無山脈が見える。気圧の計器はゲッティンゲンのアネロイドで、これは書斎兼居間に。南々東へ向ったこの居間からは落葉した白樺と赤松との疎林をとおして四里半をへだてた甲斐駒や、それに続く鳳凰山の一峯地蔵岳がちらちら見える。雨量計は底の平らな空鑵を竹の柱に取りつけた手製の物で、家の北側の百坪ばかりの芝生のまんなかに立ててある。三方を各種の庭木にかこまれた極めて静かなこの露場は好んで色々な小鳥の訪れて来る場所で、春から夏にかけては黒と橙黄色の華麗な羽毛に粧われた黄ビタキの歌が終日、初冬の今は四十雀、日雀、柄長、黄セキレイなどの採餌場になっている。ここは長野県でも降水量の少い処らしく、今年九月の総雨量が百五ミリ、十月が百二十一ミリ、大体長野市と信濃追分との中間ぐらいのように思われる。
 風と雲とは家を出て西ヘー町半ばかりの、小高い防火線の切明けへ立って観測する。ここはゲーテのファウストではないが「展望がきいて心が高尚になる」。南端編笠岳から始まって北へ権現、西岳、赤岳、阿弥陀、横岳、硫黄から、遠く蓼科山までにおよぶ波濤のような八ガ岳連峯はもとより、甲府盆地の霞をぬいて南東二十里のかなたに夢のように浮ぶ富士、五丈石の巨岩で碧落を切る秩父の盟主金峯山、何段かの断層崖を転落させて釜無の谷の右岸にのぞむ鳳凰山、駒ガ岳、さては優美な輪郭をした土佐絵のような釜無山脈、数十歩を移動すれば霧ガ峯の熔岩台地からその頂上に測候所を持つ車山をも見ることができる。
 風は自由の空間を吹き、雲は千変万化の戯れを演じる。僕はリヨンの薄絹でつくった捕虫網を携えてそこへ立ち、ふくらんだ袋の向きで風向を計り、袋の垂れ具合、柄のしない加減で風力を概算する。あたりは春ならば蓮華躑躅や草ボケの花で文字どおり真赤だし、夏から秋へかけては青・黄・紫・白の草の花で埋もれる。今はその枯草のあいだに野兎の糞を見、真白な霜の上に雉子の足跡を発見する。素人の小さい気象学なればこそこんな観測所も許されるのである。このごろはよく午後一時の観測のあとで、切株に腰をかけてヘンリー・ソローの「マサチュセッツの早春」や夏や秋の「日記」を読む。ソローのこの種の物を読んでいると、今自分のやっている生活を鼓舞激励されるところが実に多い。みずから拾い集めた枯枝で炉の火を燃やし、みずから播いて取入れた野沢菜で夕餉の食膳にむかう。もしも僕にしてもっと早くからこの生活を営んでいたら、愛する友よ、この手紙の初めに書いたような運命に陥らなくても済んだであろうに。
 あすという日がどうなるかは分らないが、できれば詩を書きながらこのソローやセルボーンのホワイトや、鳥のハドスンのような仕事をしたいと願っている。あの中央気象台の塔の上から、ある寒い美しい夕映えの時、もしも秩父の雲取山と武州大岳とを眺める機会があったならば、その角を二等分した線上の一点信州八ガ岳の高原に、竈の青い煙を上げながらたそがれて行く僕の家と、そこに生きる君の友とに思いを馳せてくれたまえ。

 

 

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 雲二題(一九四六―四七年)

  或る夕べの雲

 昭和二十一年十月七日。きのう夕刻から蕭々と降り出した高原の秋雨が今日の昼すぎになると止んで、やがて綺麗な青空が現れ、色づいた森の木の葉を透明なオレンジ色に見せる日光がさして来た。夕暮ちかくしっとり湿めった庭へ立つと頭上の空に淡い金色に染まった綿屑のような巻雲が浮かんでいるので、そのまま惹かれるように裏の秋草の丘へ登って行って、この何とも言いようのない空と空気との涼しい広がりを楽しんだ。
 そのうちに、遥かむこうの丘が緩やかになだれ落ちるところ、ちょうど宮川の谷あいあたりから真白に湧いて波濤のように吹き上がり、それから南へ南へと伸びて釜無山脈の麓から中腹までの高さを帯のようになってこっちへ動いて来る夕方の山の層雲が私の注意をひいた。ところがなおよく見ると、その釜無山脈の長い嶺線にかぶさるようにしてまた別の層積雲らしい雲が重苦しくたたなわっているのだが、その雲は今言った中腹の雲とは反対の方向、つまり北の方へ動いていて、前駆のものは既に山脈を乗りこえて茅野から山浦の方面ヘナイヤガラの滝のように滔々と落ちこんで拡がっている。つまり紡錘形の釜無山脈の長軸にそって二つの気流が南北反対の方向へ動いているのである。そこで振り返って八ガ岳の方を見ると、この連山も青黒い層積雲に中腹以上を包まれているが、その雲は南から北へとずるずる這い登るように動いていた。
 惟おもうにこの時の一般的な風向は西か南西であって、釜無山脈について考えれば、天竜川に沿って北上して来た風が伊那盆地から山脈に衝突して雲を作っている一方、こちら側ではその強い気流の影響をうけて吸出しによる空気の低圧部ができて地形性の反対気流が起り、それが茅野・青柳あたりから始まる富士見狭隘へ衝き上って前記の層雲を発生させたのではないかという気がする。
 この事を幾分でもはっきり知るためには同時刻における気象データを、飯田、諏訪、霧ガ峯、甲府などの測候所について調べてみる必要があるだろう。
 それにしてももしもこの時刻に入笠山の頂上にいてこの雲景を見ることができたら、どんなに壮観だろうと思った。ちょうどこの時、その入笠の山の上では宵の明星が白金のように輝きはじめ、私の住んでいる暗い森の方から(この頃ほとんど毎夜のことだが)ムササビの「ギャーツ」という無気味な声が聴こえてきた。

  或る朝の雲

 昭和二十二年六月四日は午前五時に起きた。ふだんよりも一時間半も早起きなので、妻は驚いて「お天気が変りましょうね」と言ってにやにやしている。そのお天気は珍らしく快晴である。太陽はもう三十分ぐらい前に太平洋の水平線をはなれている。もっともこの信州の山の中では北東へ十四キロを隔てて比較高度二キロの八ガ岳を控えているのだから、いくら快晴でもその直接の光線はまだ射しては来ないのである。日の出はその八ガ岳の最高峯赤岳の右の肩の辺であろう。太陽はいま東西共に北へ二十八度いくらという所を出没していて、一年中で日の永い極限に近いのである。
 森の中ではすべての新緑がしっとりと重く垂れて、ほのぐらい木立の奥のほうから小鳥たちの歌が響いてくる。しかし彼らの夜明けの混声合唱ももう終りに近づいている。これからは銘々が朝の食事にとりかかるのである。そして同じ森の中のわれわれ人間の家庭でも鍋や釜の下から朝げの用意の青い煙が上がっている。
 空気は極度に澄んでかなり冷える。午前五時の気温六度、湿度は九十二パーセント。朝の零上一度をあれほど喜んで受けとったついこの間までの事をおもうと、この六度を冷めたく感じるのが何か錯覚のようである。気候への順応アクリマチザションの半面には、忘恩という事も含まれているように思われるのである。
 座敷で埼王県の友人から贈られた狭山のお茶を味わっていると、ちょうど甲斐駒ガ岳の真上あたりに繊維ガラスを引伸ばしたような巻雲が三四本出ていて、それが上層の雲としては非常な速さで大体西北西から東南東へ動いていることに気がついた。近ごろ珍らしいことなので時計とコンパスとで角速度を測ろうとしていると雲はあいにく森の陰へ隠れてしまったが、十キロという高空には異常に速い気流が動いていたのである。
 そのうちに地上にも急風が出て来て、森の白樺や赤松が一斉にざわめき姶めた。風は中々おさまらないばかりか次第に強くなってゆくようである。軒先の空を見上げると極めて低い雲だか霧だかのぼろぼろに切れたのが後から後からと非常な速度で南のほうへ吹き流されて行く。正面の木立を透かして見るとついさっきまで明瞭に見えていた釜無の谷がいつの間にかすっかり霧に埋められて、わずか二キロ向うの山麓もまったく見えない。私はこの空の現象をもっと広大な規模において見たいと思ったので、森を出て一町ばかり先の尾根の見晴しに立った。途中踏んでゆく緑の草がおびただしい朝露にびっしょり濡れていた。
 それは少くとも去年の秋以来見たこともないようなすばらしい光景であった。真青に晴れた空の下、私の立つ八ガ岳裾野の地上二三百メートルの高さを、灰色をした薄い雲霧の大きな襤褸きれが算を乱してひっきりなしに飛んで行く。もちろんその方向は風の流れと一致してほぼ南々東を指し、速度も毎秒八メートル乃至十メートルぐらいに及んでいるらしかった。そしてこの「ワルキューレの騎行」を想わせる雲霧の疾駆と風の響きとの中で、八ガ岳の連峯は中腹以下をけばだって横倒しになった濃密な層雲に埋められているが、さらに興味のあるのはその反対側、釜無山脈の長壁にできる雲とその変遷の光景であった。
 私が尾根の見晴しへ立った午前五時四十分ごろ、釜無山脈はその造雲作業を開始して間もなかったらしく、北のほう茅野、青柳あたりの山麓に漸く真白な雲の土手ができかかっていた。これは去年も八月半ば頃から晩秋の候にかけてしばしば観察されたもので、この雲の土手が次第に南東へ伸びて御射山神戸みさやまごうどから富士見、それから釜無の谷へと山脈に沿って匍うように進んで来るのである。気流の方向がこのように北から南へ向いていて、それによってできた層雲の土手や帯が同じ方向へ動いている場合には私の経験だと雨になることがすくなく、逆に甲府盆地や釜無川流域から北方諏訪盆地のほうへ波及しながら量を増して行くのが概して雨兆を示しているようである。
 それはともかく、いま雲はその北から南への方向をとって、進行する汽車の白煙のように山麓を突き進んでくる。見るまに尨大な入笠山の麓をひたして釜無山の裾へと伸び、しかもどんどん厚みと高さとを増してゆくのである。岸に打寄せる怒濤のようでもあれば一面に拡がった大火の煙のようでもある。わけても入笠山が北東へ張り出した長大な枝尾根のうしろでは、雲が高々と噴き上がって濛々と渦を巻いているのが見える。まるで艦隊の集中砲火を浴びた海岸要塞の爆発のようである。惟うにあの顕著な尾根は諏訪方面からの気流に対してほぼ直角に障壁のように突き出ている上に、ふところの広い谷をその前面に擁している関係から、そこに温度と湿度とを異にした空気の最も大規模な垂直の擾乱が惹き起こされているのであろう。注意していると、風の流線に対して直角に近い枝尾根のところでは、前記のものほど大規模ではなくても、とにかくそこだけ特に雲の頭が鳥冠のように突き上がって行くのが見られた。
 そのうちに今まで前方の丘陵に遮られて見えなかった雲の底がだんだんとせり上がって見えるようになった。雲底は全く平らである。雲の頭のけばや波がしらも次第にとれて、パレットナイフで柔かに塗り上げた白い油絵具のように滑らかになって行った。あの劇的な狂瀾怒濤はどこヘやら、今では山の高さから概算して、四百メートルぐらいの切口を持った太い長いロール雲である。太陽が高く昇って裾野を飛ぶ片層雲もいつのまにか蒸発してしまった。そして私が食事をすませて午前七時にもう一度見に行った時には、そのロール雲も細く稀薄になって南の方からちぎれ始めていた。

 

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 入笠山にて(一九四七年)

 釜無山脈東側の斜面に沿って怒濤のように噴き上がる朝の層雲や、同じ山脈を中心にして互いに逆の方向に動く夕暮の二様の雲のことは別のところで述べたが、ここではその層雲を山脈中央の大塊である入笠山の山上で、偶然にも白昼観察することのできた時のことを簡単に書いて置こうと思う。
 七月十二日、東京から来た男女数名の日本山岳会々員を土地の友人二人と一緒に案内して入笠登山を試みた。行程は富士見村御射山神戸みさやまごうどの太郎口から登って一九五五メートルの山頂に達し、それを南へ越して俚称本ヅルネの尾根を同村の若宮部落へくだるいわゆるハイキングコースだった。
 その日の天気図に現れた本州中部地方の気象要素の配置はどんなだったか知らないが、富士見高原では前の晩の嵐めいた北風が朝になると南東の風に変った。下界の天気は晴れたり曇ったりで、留守居の妻の話によると、当の入笠山はわれわれの出発後二時間ぐらいから中腹以上を厚い層雲に包まれはじめて、あの檜笠を伏せたような優美な頂上も一日じゅう姿を見せなかった。「せつかく若い方たちが東京から来られたのに、雲や霧で眺望がなくてはお気の毒だ」と心配していたそうである。
 ところがわれわれのほうではその雲や霧のおかげで、単なる好晴の日には到底見ることのできないような変幻の美をきわめた風景を恵まれたのだった。それには時もよかった。鈴蘭や小梨の花こそもう終っていたが、山はちょうど晩春初夏の新緑で、その新緑をうずめて一面にレンゲツツジの花の盛りだった。これほどおびただしいツツジはあの有名な浅間山の躑躅ガ丘にも、また八ガ岳南の裾の美ノ森にも、今ではもう見ることができないだろう。
 約一里に及ぶ山上の平坦面をほとんど隈なく彩るその花の赤や黄や樺色と、あらゆる草木のさまざまな緑とを地にし背景にして、そこに演ぜられた日光と青空と雲霧との千変万化の戯れをわれわれは満喫したのである。
 太郎口から登りはじめて約一時間半、そのあいだ一歩は一歩とせり上って来る八ガ岳の広大な裾野の展開をふり返りながら、途中青柳からの登路と一緒になった尾根道を登ってゆくと、やがて糠雨のような雲の中へ入った。土地で万年清水と言って小径の傍らから水の出ている場所の少し下だったから、標高一五〇〇メートルぐらいの地点だったろう。雲は発生後間もないもので、つい半時間ほど前に下から見た時には未だできていないものだった。つまりわれわれは下界から見ると劃然と水平に横たわっている層雲の底へもぐり込んだわけである。が、もちろんその場にいてははっきりした雲底の存在を認めることはできなかった。しかし直線距離一里半の宅の座敷からこの入笠山を眺めていた妻が、われわれの出発後二時間ぐらいでもう山の中腹から上が雲になったという言葉と、現場での雲底の高さやその発生時刻が大体一致していたのは、予め打合せをしておいただけに愉快である。風は下でも南東が吹いていたと言う。してみると、よく有るように、釜無の谷の方から北へ北へと凝結を起こしながら伸びて来た層雲に出会ったわけであるが、ポリメーターを持参しなかったのは千慮の一失だった。
 そして万年清水まで来ると、さすがに未だカラマツも小さい緑の火花のような針葉を綻ばせたばかりで、それがしっとりと霧にぼかされ、あたりには無数のアオジが巣を営んでいるとみえて、ホオジロの歌に似てそれよりも更に清喨な囀りを聴かせたり、休んでいるわれわれ人間を恐れもせずに眼の前の小径へおりて餌を漁ったりしていた。
 やがてさしもの登りが急に緩やかになって標高一七〇〇メートル、俚称赤ノラ山と小入笠と大入笠(入笠本山)とに囲まれた山中の広い平坦面である鐘打平最北の片隅へ出た。これからは入笠本山のとりつきまで南へ約十五町のあいだを、僅か一〇〇メートルの登りという殆んど平らな小径を楽しみながら行くのだった。風景は景観植物学者の所謂公園風景パルクラントシャフトで、極めて端麗清潔であり、あかるい灰いろの霧の中に稀に見るような素晴らしいレンゲツツジの大群落が、樺いろと朱紅色との夢幻の花園のように行けども行けども続いていた。
 霧の薄くなった時に見える上空はあおあおと晴れていた。そういう時にはパアッと金色の日が射して、なごやかに起伏する赤と萌黄の目も覚めるような風景がひろがった。またある時は濛々と立ちこめた霧のヴェイルが柔かく裂けて、鐘打平の奥に聳える入笠本山がその優美な大円錐形を高々と現した。みんな今初めて近ぢかと仰ぐその山に歓呼の声を上げた。若い女性の中には手を振って挨拶を送る者もあった。それは口にこそ出さないが「今行きますよ、待っていて下さい!」と言っているように思われた。あの山頂を志して遥々東京から訪れて来た心をおもえば、今われらの入笠山が、霧の晴間の青と金との空間にその最も美しい山容を現して彼らを喜ばせてくれる事が、土地に住むわれわれ三人の男にとっては涙の出るほど嬉しかった。
 一行が鐘打平中心部の一段低い湿原を前にして、モウセンゴケや種々の蘭科植物の生えている細いきれいな流れのほとりで昼の弁当を開いている間じゅう、霧は絶えずその消長をくりかえしていた。山の霧は下界から見ればすなわち層雲であるが、その層雲を注意して眺めると、下の方はほぼ整然と一線を劃しているが上の方は乱れてけば立っていることが多い。それは下部がちょうど水蒸気の凝結して雲になるところで、上の方がその雲の蒸発する部分だからである。その実際がここで見ているとよくわかった。すなわちわれわれは厚さ約三〇〇メートルの層雲の上限に近いところにいて、弁当からカロリーを摂りエネルギーを補充しながら、温度と水蒸気との葛藤という極めて興味ある現象をゆっくりと見物したのである。
 この現象の実際は、やがてわれわれが頂上をきわめた一九五五メートルの入笠山に立って、一層はっきりと確めることができた。
 厚いふかふかした金緑色の水苔のあいだを糸のような水が錯綜して流れている鐘打平の湿原は、しだいに傾いて武智川の暗い源頭を形づくっているが、われわれの路はその湿原を左に見て爪先上りに入笠本山とその北の小入笠との鞍部に達していた。この鞍部は御所平峠と呼ばれて海抜一八〇〇メートル、ひろびろとして明るく緩やかになだれた緑草の分水界をそのまま入笠牧場の柵が低く走って、それを境にこちら側は長野県諏訪郡、むこう側は同じく上伊那郡に属している。秋の晴れた日などには西のほうの眺望がわけても素晴らしく、天竜の水のきらきら光る伊那谷をへだてて木曾の駒ガ岳連峯から御岳や乗鞍までを一目に見通すことができる。古い氷蝕地形でこそなけれ、このあたり一帯の地貌やここからの遠景には、なんとなく英国の湖水地方レイクランドのそれを想わせる古さと、親しさと、遥けさとの性格とがあるように私は思っている。
 この明るく美しい峠から入笠山の円錐の頂上までは僅か一五〇メートル、時間にして二十分の登りではあるが、みんな相当な息ぎれと汗とを強制された。しかしここがきょうの目的の最高点でありきょうの楽しみの絶頂であった。一行九人は山頂の三角標石を間に手をさしのべて心からの挨拶を交換した。諏訪側から吹上げてくる風が若い婦人たちの鬢の毛を吹きみだし、われわれ男子の髪の毛を逆立てた。さてここでのために取って置いた菓子や果物を分配する者、白骨のようになった枯枝を集めて火を燃やす者、雙眼鏡をめぐらして展望する者、短かい草のなかに腰をおろして写生する者、最後に家へのみやげにハクサンフウロやタカネナデシコを掘り取る者。こうして頂上での一時間も思わぬうちに過ぎて、われわれは反対側の斜面を仏平峠ほとけだいらとうげへ降り、ふたたび霧の立ちこめる亜高山帯の森林をぬけて大阿原おおあらの寂しく明るい大湿原の一隅へ出た。そしてそこで鈴蘭の残花やコケモモなどを採集した後、もう一度黄昏のような密林へ入って、本ヅルネの陰湿な急坂を山麓若宮へと降ったのである。
 それはともかくとして、その日は空気中に含まれている水蒸気の量が非常に多かったらしい。ちょうど私たちが入笠の山頂にいた午後一時には、宅の乾湿計は湿度八十一パーセントを示していた。計器を忘れたため頂上で測れなかったのは残念だが、風はそこでも南東から吹き上げていたから、その豊かに湿気を含んだ暖かい気流が冷めたい山脈へ当って断熱的に冷却して、あの濛濛たる雲を作っていた事はほとんど確かなようである。
 面白い事には頂上から眼下の御所平峠を見ていると、その鞍部を境にして雲がどうしても東側から西側へ越せないのであった。鐘打平には湯気のような雲が沸騰してその前駆は峠の牧柵の際まで来て渦を巻いているのに、厳然と保たれた凝結と蒸発とのバランスは、岸を嚙む波のようなこの雲をして暴力による侵入を許さないのである。もちろん中には守勢の手薄なところを狙って少しばかり食い込むものもあり、戦線は絶えず凹凸状を呈していたが、全体として、少くとも私たちの見ていた間じゅう、ついに攻守の均衡は破れなかった。これは飽くまでも物理的法則の働いている世界であって、意地ずくや力ずくではどうにもならないのだということを立証しているように思われた。
 もう一つ面白いのは、(これもまた当然なことかも知れないが)、同じ雲のできる山の斜面にしても、深い森林に被われた個所では水平的に見て雲の層が厚く、灌木や草に被われた裸地のような個所では比較的薄いという現象であった。これは森林帯では空気の温度が相対的に低く、被覆物の少い所では高い事がおもな原因になっているのではあるまいか。もしもそうだとすると、毎日眺めている入笠山の層雲の上部の凹凸の理由がいくらか解明されるようである。

 

 

 

 

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 採集行(一九四七年)

 分水荘の表座敷に面した前庭をだらだらと下がって森のいちばん低い所へ立つと、切り取ったように南西にひらけた風景の額縁の中へ、標高一九五五メートルの入笠山から釜無山へつづく一連の山稜とその正面とがすっぽり入る。そしてこちらへ向かった山体の急斜面のちょうど真中に、左から斜め奥へぐうっと一本深い谷が食いこんでいるのが見える。それが武智川の谷で、その或る枝谷の源頭に、雪の消えた五月初旬、あの小型のアゲハで、同種のギフチョウよりも更に珍奇な姫ギフチョウが毎年多数発生すると、上諏訪の歯科医でまた有名な蝶の蒐集家のMさんが言う。 
 五月十一日、そのMさんに案内されて武智の谷へ入ってみた。ところが三日ばかり続いた天気があいにく崩れ出した時で太陽は一日じゅう顔を見せず、朝から裾野一帯に寒い湿めった風が吹きわたり、午後からはとうとう小雨さえ降りはじめて、美しい非凡な姫ギフチョウはおろか、有りふれた蝶の一羽にさえも出逢わないという不況だった。その代り、私としては、一二〇〇メートル附近から現れた可憐なアヅマイチゲや、珍らしいコチャルメルソウや、壮大なバイケイソウや、おびただしいカタクリの群落などを、我が家からさして遠くもない所に見出したことに喜ばされた。問題の蝶の食草ウスバサイシンも、谷頭の糸のような流れに近い灌木の根もとにたった一株だけ二枚の心臓形の葉をひらき、赤黒い小さい壷形の花をのぞかせていた。しかしその葉にはまだ産卵の形跡がなかった。
 花の好きな妻はその夜私から今日の山の植物の話を聞くとどうか連れて行ってくださいと言い出した。それに栄子も一緒に行きたいでしょうから誘ってやりましょうとひどく積極的である。私も姫ギフチョウは十数年前美ガ原下の三城牧場で一羽捕ったきりその後一度も見参していないので、Mさんには抜けがけで悪いようだが、天気の恢復次第さっそくもう一度出かけることにした。いつか見せて頂いたMさんの大きな標本箱には完全無疵なあの蝶の標本が、きれいに拭われた硝子の下に鮮かな黄と黒との虎斑模様を、目にも眩ゆくずらりと並べていたのである。
 小低気圧通過の影響か、晴雨計は一〇〇〇ミリバール以下に降って翌日の昼頃まで小雨がつづいた。しかし午後になると風が急に北西に変って雨がやみ、八ガ岳の連峯が綿雲のあいだから頭を現し、ぱあっと暖かい日光がさしてきた。すると分水荘の新緑の森にさまざまな小鳥が歌い出し、ヤマキチョウや姫シロチョウがクサポケの朱色の花の間を産卵の食草を求めてさまよいはじめた。
 五月十三日、上の農場から下りて来た娘栄子を加えて親子三人で出発した。森を出ると八ガ岳は蓼科山まですっかり晴れている。編笠岳のゆるやかな裾のかなたに奥秩父の金峯山はまだ名残の雲をかぶっているが、富士は甲府盆地のヘイズをぬきんでて雪の上半身を現していた。正面には釜無の谷奥深く鋸岳の歯がたの峯が青黒くそばだち、それと並んで甲斐駒が巨大な石鏃のような山頂をまっしろに輝かせ、その左に視線と直角に急峻な断層崖の階段を見せた鳳凰山塊の地蔵岳が、銀象嵌の峯頭をうすあおい春霞に漂わせている。当の釜無の山々には却って未だ厚い雲の帯がまつわっていた。しかしその帯雲が山にそって南へ移動し、その雲底が次第に高くなるのは晴のきざしだということをわれわれは知っていた。
 線路をわたって富士見の町外れから向うの丘を乗りこすと、その丘と入笠山の急斜面のあいだに一帯の幅の狭い田園がひらけて、釜無川の落合から御射山神戸へまっすぐに通じる昔の甲州街道が走っている。われわれの路とその街道との交叉点近くに一里塚の跡があって、近年再建された新らしい碑面には江戸より四十七里と刻まれてあった。大平、原ノ茶屋、松目、若宮、木ノ間、横吹などという小さい部落を玉のように綴ったこの田園は鄙びたうちにもどことなく古雅の趣きを持っていて、われわれの住んでいる荒い八ガ岳の裾野とは僅か十町あまりを隔てながら全く別天地の観がある。
 若宮の部落を横断して爪先上りに角礫まじりの新らしい開墾地を過ぎると、トパーツやエメラルドを刻んだ新芽を綻ばせ、青白いウメノキゴケの斑紋をいっぱいにつけた見事な濶葉樹林を随えて、左の方から武智川が近寄って来た。山は今雪どけの豊水期で瀬の音が高い。いよいよ谷である。その谷風にあおられてカワヤナギやイヌコリヤナギの綿毛が繽紛と飛ぶ。あたりでは二三羽のセンダイムシクイがせわしなく「チチプチチプジューイ、チヨチヨジューイ」を囀っている。ウグイスも負けてはいない。もっと奥の方からはツツドリの「ポンポンポン」が霞んだように響いてくる。そこに天然記念物カモシカの標柱が立ち、流れには小橋が架かり、それを渡って左手の坂道へとりつくと、もう日陰の崖際には唇状の弁と長い距とをもったヤマエンゴサクの紅紫色の花がおびただしく現れた。今ではカモシカもこの谷までは下りて来ないだろうが、エンゴサクはウスバシロチョウの食草だから注意しなければならない。しかしあのアポロ蝶の紅色紋を欠いたこの谷の従兄弟にとっては、未だ時期が少し早いようである。
 急な坂道を登りきると緩斜面の広い長方形の畑地へ出た。標高約一一〇〇メートルほどの地点で、面積は三町歩ぐらいはあると思われる。今は麦で一面の緑だが、やがて麦秋の金色に変り、それから晩夏初秋の真白な蕎麦の花に彩られる。そしてついこの間までの冬はもちろん寒々とした雪の一色である。その一年間の色彩の変化が分水荘の森からも手に取るように見えるのである。それにしても麓の若宮や木ノ間からこんな高みまで耕作に来る努力というものは並たいていの物ではない。しかし春夏秋の快晴の日に、天に冲して湧き上がる雄大な八ガ岳とその裾野とを正面にして、点々と散らばる遠近十いくつの村落を一望のもとに集めながら、もしも彼らがいくらかでも永遠の感に打たれるとしたならば、それは到底他人の及び得ない幸福にちがいなかった。
 この緩斜面の畑地を越すと道は森林のなかの登りになる。しばらくは上の山から伐り出した木材を運搬する馬力の道と一緒だが、やがて勾配が急になると馬力道は左右に大きく曲線を描きはじめ、われわれはその曲線を串ざしにして真直に登るようになる。妻は息をきらせている。「いいのよ、大丈夫よ」と言いながら娘に腰を押してもらっている。私はバスクの山中で植物を観察したアンドレ・ジードの日記を思い出しながら先頭に立って歩いている。森林の樹種はサワラかヒノキで、樹下の苔むした石の間には羊歯植物が繁茂してシシガシラが放射状に葉をひろげ、マンネンスギが小人島の針葉樹のように立ち、ヒカゲノカヅラが勝手気儘に這い廻っている。実に静かな世界である。二声三声滴るようなオオルリの声を聴いたがそれも途絶えた。谷はずっと下になったらしくもう水音も聴こえない。
 最後の馬力道を突切ると漸く森の樹木がまばらになって、先ずカタクリの花が現れた。栄養と水分や光線の加減がいいとみえて一輪一輪がじつに見事だが、それが、進むにしたがって右に左に惜気のない群落を拡げるようになるのである。それにまじって点々と清楚なアズマイチゲも見え、深く切れこんだ葉の間に白い大形の花をつけたエゾスミレもしとやかに匂っている。妻の息ぎれは止んだらしく、花に逢ってすっかり元気を恢復し、思い立って出かけて来たことを娘と共に喜びあっている。
 ついに今日の目的地武智谷の枝沢の詰へ出た。樹を伐りはらって北東にかなり広い眺望を提供する明るい一角で、V宇形に開いた左右の山脚のあいだに八ガ岳の連峯とその裾野とがまるで宙に懸かったように見える。右手の灌木叢の下を谷頭の水が音をたてて流れている。また別に左手の斜面からしぼれて来る水があって小さい流れをつくり、この空地の半分をうるおして沢へ落ちている。正面は比較高度五〇〇メートル余りをいきなり峙つ入笠山「本つるね」の尾根で、見上げる嶺線附近には未だところどころ雪が残っている。
 われわれはここを本拠にして中食をしたため、それからめいめい自由行動をとることにした。小流れを前にシーツを敷き、それぞれ自分の弁当箱をかかえて箸を動かしながら谷の開口部へ目をやると、倒三角形の額縁の中に遥かに蓼科山麓の温泉郷も見えれば、爼原の尽きるあたりに八ガ岳高等農事講習所の建物も見え、ずっと下方には自分たちの住む分水荘の森も指摘された。空はすっかり晴れわたって、西風が地上の霞を吹払っているらしかった。
 妻は胴乱と根堀りを持って植物の採集をはじめた。日当りの湿地にはクリンソウが厚い縮れた濃緑色の葉をたばねて立ち、ザゼンソウがてらてら光る葉のかげに大きな袋のような仏焰苞をひらき、平地のよりも小型のニリンソウが白くて裏紅の貝殻に似た花をこぼれるように咲かせていた。どうどうと流れる沢の水際には一尺ばかりに伸びたバイケイソウが、見事な野菜のような葉を柔かに膨らませて林立していた。
 コチャルメルソウは一昨日Mさんと来た時に初めて見て、その名も帰宅後書物を調べて分ったのだが、ちょろちょろと水の流れている岩の間や水苔の生えた湿地などに無数に発見された。以前武州奥多摩の川乗山下の小石灰洞、獅子口の水の出口に生えているというので騒がれたチャルメルソウの亜種であって、その花の形がチャルメラ(唐人笛)に似ているところから命名されたのだそうである。この草はユキノシタ科の植物で、見たところ大体ユキノシタに似ているが、やはり名のとおり花が面白い。花は高さ一〇センチばかりの莖の上の方に五つ六つまばらに着いていて、直径三ミリ程の浅く五裂した萼片と互い違いに五枚の弁が出ている。ところがその花弁というのが不思議な形で、早く言えば六本の枝のついたタコの足が五本にょっきりと出ているようなものである。そしてタコの足に疣があるようにその花弁にもいぼいぼの腺毛が生えていて、おまけに色まで茄ダコ色をしている。それを裏返しにして拡大鏡で見ていると、植物の花というよりも何か軟体勣物の仲間で、それもある種のヒトデかクラゲを見るような気がしてくるのだからいよいよ妙な花である。
 しかし花弁は必ず菜の花や桜の花のように扁平でなくてはならないという規則はどこにもないのだから、この植物のタコの足の機能が闡明され、かくあるべき理由がはっきりと分かるまでは、われわれは造化を信じて、「チャルメルソウの事はチャルメルソウにならう」のが本当であろう。
 さて肝腎の姫ギフチョウはなかなか見つからなかった。娘と手を分けて明るい小径や沢筋を目を皿のようにして捜し廻ったが無駄だった。成虫の出現時期が、幼虫の食草に新葉の出る時期と一致するものだとすると、そしてその食草ウスバサイシンが目につかないとすると、やはり時が未だすこし早いのだと思うのほかは無かった。娘は早くも見きりをつけてCタテハやルリタテハに捕虫網を振り廻している。しかし私はなおも諦めきれず、見通しの利く場所へ腰を下ろして待伏せの策に出た。
 日当りの岩に腰をかけてパイプをくわえ、目だけは八方に配りながら何とはなしに「待ちぼうけ」の歌を思い出していると、どこか近くで植物を採っていた妻が突然「ギフチョウ、ギフチョウよ!」と大声を上げた。私は網を引摑んで立上り、声のする方へ飛んで行った。娘も駈けつけて来た。なるほど一羽の姫ギフチョウが流れに近い灌木のあいだを何か求めるもののように低くひらひらと飛んでいる。われわれはそれを遠巻にして、目をみはり息を殺してじりじりと近づいて行つた。羽化したばかりの新鮮な個体で、正にアゲハの族の小王女である。
 先ず娘が捕虫網をかまえて最初の一掬いをやったが惜しくも外した。続いて私が強く振った。これも外れた。蝶は空間でよろめくように揺らいだが、直ぐに気をとりなおして積極的に活路を求めた。もうこうなるとあせるのは人間の方で、最初の決定的な一撃に失敗すると大抵は逃げおうせられるのが普通である。娘の網と私の網とが空間で二三度激しく打ちあった。蝶はその間をすりぬけて沢のほうへ姿を消した。
「駄目ね。しばらく止めていたから腕がさがったわ」と残念そうに娘は言つた。
「大丈夫よ、また出たらお母さんが教えて上げるから」と妻は言つた。
 私はまたもとの岩の所へ戻って第二の出現を心待ちした。
 しばらくすると思いがけなく、沢とは反対側の雑木林の斜面を低くゆっくり飛んでいる姫ギフらしいのが目に映つた。立体的に行動する蝶をとるのに、勢子や同勢は本当をいえば却つて邪魔なものである。猪や兎ならば迫い出されれば地の平面を逃げるだろうが、翼を持つている蝶は自由な空間を高くも低くも思うがままに飛ぶからである。それで今度こそは一人で必ずしとめてやろうと、心を落ちつけて背をかがめて近寄って行った。
 姫ギフチョウはヤマハンノキの若葉の間をひらひらと漂つていた。やがて白く乾いた石の角へ軽く棲まって翼を休めた。先刻のと同じものかも知れないしまた別のかも知れないが、後翅から出ている乳房のような尾の完全な形と言い、裏まで抜けている眼紋の青藍色や帯模様の朱の色の鮮かな事と言い、一点非の打ちどころのない相手だった。蝶は触角を動かし、やがてそれをぴんと立て、足場を固めるように六本の脚でしっかりと岩につかまった。狙われているのに気がついて飛び立つ姿勢に移ったことがまざまざと感じられた。私はその彼と呼吸を合わせ、機を見てさっと網をかぶせた。入った。
 私は蝶の胸部を指で強く締めながら「捕れたよう!」と叫んだ。同時に、これで自分の今日の目的は遂げられた、この蝶は娘にやろうと思った。
 腊葉標本や移植のための植物で胴乱をいっぱいにした妻と、姫ギフチョウ、虎斑シジミ、Cタテハなどに満足した娘とを先に立てて、私も今年になって初めてする山歩きの楽しさを杯の最後の一滴まで啜るような気持で帰路をたどった。
 森の中では今度はゆっくり馬力道を歩くことにした。そのお蔭でクロモジとアオモジの小枝を採集して、おまけにその花の不思議を覗く機会を得た。緑黄色の蠟細工のようなその繖形花序の一花をとって拡大して見ると、杓文字のような形をした九本の雄蘂が立っているが、その杓文字の頭の左右に楕円形の孔があいていて蓋がかぶさっている。それは花粉を収容している葯囊であるが、花粉が熟すとその蓋がぴんと上へ跳ね上って兎の耳たぶのように突っ立つのである。そして黄色い花粉がその耳たぶヘ一杯に詰まっているのである。どんな小さい虻か何かがこの花を訪れるのか知らないが、こういう物が九本も立って円陣を作っていられては、どうしても花粉を塗りつけられない訳にはいかないだろうと思われた。メギの花の雄蘂もこんな仕掛を持っていると聴いていたが、実際に見るのは今が始めてであった。
  一名を慈悲心鳥と言われるジュウイチの声を聴いたのも思えば久しぶりのことである。昔初めてこの鳥の「ジュイチイ・ジュイチイ」を聴いた奥秩父金峯山下の金山では、夜明け前の宿のまわりで鳴きたてるその声の余りに激越で哀切なのに何か東京の留守宅に変事でも起ってはいないかと、愚かしい不安と焦慮とに悩まされたものである。ジュウイチはカッコウ、ツツドリ、ホトトギスなどと同じ科に属する鳥で、やはり自分の卵をほかの小鳥の巣へ産みこむのだが、その雛の仮親はオオルリ、コルリ、コマドリ、キビタキなどだと言われている。そう言えば午前中の登りの時、われわれの分水荘の森にはちょっと立寄るだけで営巣はしないオオルリの声を、この森林で聴いたのであった。
 カモシカの標柱のある所で武智川と別れると、今度は若宮を通らずに松目から原ノ茶屋の部落をぬけて帰ることにした。右に平和な田園を見おろす高みの道を歩いて行くと、一羽のホオジロが金鈴を振るような声で春の夕日の時を歌っていた。坂になった松目の村はずれに白壁の土蔵を控えた一軒の小じんまりした農家があって、池や岩山を配置した日本風の庭いちめんに白い水仙と桃いろのフロックスとを栽培していた。わけても、そのフロックスの花は庭から溢れて宅地をかこむ垣根の外へむらむらと咲きこぼれ、古生層の岩石を積上げた苔緑色の低い石垣をその暖かいパステル赤で厚くふかふかと包んでいた。われわれはこの豊富と壮観とに見とれてしばらくは身動きもせず、これこそ今日の一日を完璧なものにしてくれた見ものとして心からの感謝と讃嘆とを惜まなかった。

 

 

 

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 別れの曲と到着の歌(一九四七年)

 すべての小鳥は、名歌手といわれるほどの者はもちろん、もっとも拙劣な呟きしか発することができないと考えられている者でさえ、その者自身にとっては喜怒哀楽の感情や情緒の表現として、かならず何らかの声を持っているであろう。呟きといい、軋り音といい、嗄れ声と呼ぶとしても、それはわれわれ人間が人間の立場からする評価であって、彼らそれぞれの種にとっては、あるいは快い美声であり、あるいは最も効果的な警戒や叱咤の叫びであるかも知れない。人は彼らの咽喉を裂いて、その鳴管の筋肉の発達如何を詳細に調査する。あるいは鳴禽の類とそうでない者とに分類して、さらに前者の中からその最も優秀な者を選抜する。こうして某の国、某の地方にそれぞれ固有な名歌手の名が挙げられ、それが流布されたり伝承されたりする。それはある国ではナイティンゲールであり、ある国ではロビン・レッドブレストであり、またある国では二三種のツグミの類である。そしてわが国ではウグイス、オオルリ、コマドリなどが特に称讃されて、古くから籠に飼われてさえいる。南米や印度やオーストラリアの各地にもまた、恐らく人々の以て誇りとする勝れた歌手がいるであろう。
 さらに国は同じでもそこにはまた鳥学者や愛好者個人の価値判断がある。すなわちAがナイティンゲールを最善とするのに対してBはブラックバードを挙げるかも知れない。またCがスカイラークを信じる時にDがゴールドフィンチを推すこともあり得るであろう。しかしその最も公平な、妥当な、且つ好ましい判断は、すべての小鳥の最善の環境と自然の状態とにおける自由な発声を対象としたそれである。こうしてリンネットの歌は金と緑のハリエニシダに被われた南部イングランドの丘陵地帯でもっともよくその真価を認められ、プイヨ・シッフルールの声は濶葉樹の新芽がようやく綻びかけたブルターニュの早春の林で人の心を魅するであろう。体軀がちいさくて羽色もみすぼらしく、ほとんど声らしい声を持たないわが国の森のコゲラでも、あの冬枯の風に高い幹と幹とが擦れあって発するのに似た「ギー・ギー」という声を、身うちに力と愛欲との漲って来る三月の初めには、もっと柔かみと潤いのある「ヴィー・ヴィー」に我とは知らず変えるのである。
 信濃の国八ガ岳の裾野。曇り日の空の下に緩かな起伏を見せる積雪の大開墾地。その純白な波の広がりの中に、黒々と枯れたクロツバラや野薔薇の薮が頭だけ現しているので、その下に細い水の流れの通じていることが察せられる。真珠の小粒の触れあうような「フィッ・フィッ」とか「チッ・チッ」とかいう微かな声がそこから聴こえる。わが国で冬を越してもうじき北方の故郷へ帰ってゆく旅の小鳥、雪の曠野にぱっと散った赤い花びらかと思われる小さいベニマシコの声である。ほんのりと紅をさした銀白の頭と顔、眼から耳のあたりにかけて深紅の強い隈取りがあり、背の薔薇いろは腰へながれて華やかな紅色を呈し、白くふちどられた真黒な長い尾が黒褐色の翼を飾る二本の白帯と共に、全体の赤い色調と鮮かなコントラストをなしている。このベニマシコは同じ雀科の小鳥のなかでも賑やかな群棲を好むコカワラヒワやアトリと違って、常に二羽か三羽、多くても五六羽のひっそりした群をなして、秋が山野に残して行った禾本科の小さな穀粒や蓼類の実をつつましく求めてさすらっている。越冬の旅先では絹糸をきざんだような微かな短かい地鳴きしか聴かせないのと、多くは人けも無い寂しい野山の、それも地面に近い所を少数の群で渡ってあるいているのとで、その美しい姿にも拘らずほとんど人に知られていない。今彼らはこの雪の広野で枯れ伏したオオイヌタデやヨモギの実を捜しているらしい。灰色の雲のみなぎる冬空の下、高原の白い寂寞の中で、潑剌と動く深紅の点々。その褐色の太く短かい嘴と丈夫な脚とで雪を掻きちらし、鉄線をより合わせたようなスイカヅラが頑強に巻きついているクロツバラの藪へ飛びうつる彼らの姿は、寒風に立つ孤独の散策者を慰め悦ばせて余りがある。
 たとえ今夜はこの高原の何処かの薮にねむるとしても、あすはまた食物を求めながらもっと北へ、その故郷の方へと数キロを近づくかも知れないベニマシコと同様に、渡り鳥の神秘な本能は、向うの赤松林の針葉の中で賑やかにしゃべっているマヒワの群にも徐ろに動いているであろう。午後四時半、西の方から切れてきた雲をとおして太陽は水に映った光のような弱い光線を投げかける。その光にこの地方の冬の唯一の色彩である赤松の葉の緑が冴え、赤い幹の色が一層あからむ。数十羽のマヒワの群はその林の梢の高みに集まって、盛んに会議をし、討論をし、饒舌を振っている。黒い頭と翼と尾とを持ち、黒っぽい黄緑色の羽毛に包まれ、近縁のコカワラヒワよりも一層小型で、姿はもっと軽快で、金属的な「チューイン・チューイン」に柔かい「ビー」を交えたその彼らの朝夕の会話は、一層活潑でもあれば多弁でもある。しかしまたよく平野地方の冬の夕暮、やがてオリオンの昇って来る東の空を背景に、高いケヤキの枝にじっと棲まって、散り遅れた枯葉のような寒々とした影絵を見せている沈黙のマヒワの群に、季節の詩を感じた人もあるであろう。彼らは十月に渡来して翌年五月に帰去すると言われている。しかしこの地方では三月も末になるともうその少数をしか見る事ができないから、おそらくはこの厳寒の季節を最後として、次第に集団を解いて三々五々ひっそりと帰国の旅につくものと思われる。
 雌は黄ばんだ緑いろ、雄は全身朝焼の雲のような深い陰影を持つ暗紅色で、ただ風切羽と尾だけが黒褐色をしている美しいイスカも、また好んで赤松林を訪れる。彼らはそのいわゆる「いすかのはし」を用いて松かさの中から熟した種子を巧みにつまみ出す。鈎のように曲り、鋭利な鋏や鉗子のような働きをするその嘴は、自由に伸びたりくねったりする頸とともに、離れた小枝や松の実を挾んで容易に引寄せたり、これにぶら下ったりすることができる。また自分で落した実を追って、それが地面へ届く前に中途でくわえ取るような曲芸もする。眼はモズか鷲や鷹のようにきつい。それは目がしらからまなじりを通って、水平に暗く強い力線が引かれているからである。体軀はぼってりして重たそうに見えるが、飛翔は身軽で速く優美でさえある。よく昼前や午後おそく、食事に満ち足りた彼らの一羽が、松林のへりの梢の高みで鳴いているのを見かけるが、一町も隔てて明瞭に聴きとれるその「ツカ・ツカ・ツカ・ツカ、チンピ・チンピ・チンピ」という声は、ことに今のような高原の早春、銀の糸筋をかけつらねたかと思う薄青い夢のような高山のパノラマを背景に、近く北方へ去って行く候鳥の群の、これも一つの別れの曲だと言えるであろう。
 太陽が春分点を通過し、昼間の最高気温が零下一度から五度ぐらいまで昇る。人はこの水銀柱のわずかな上昇を珠のようにめでいつくしむ。人は心にそれを育む。「もう一度、 せめてもう五分」。人はそれを声援する。鼓舞する……
 家を囲む森の中にはまだ寒々と雪の白布が残っているが、もう配偶者を持った居着きのカラ類は、一ト月前までの集団生活からちりぢりになって個人の家庭生活へ入っている。ヒガラの金属的な「チチピン・チチピン」や、絹を強くこするようなシジュウカラの「ツペー・ツペー」が森じゅうに明るくこだまする。冬の間はただ「ジュル・ジュル」と地味な地鳴きを聴かせていた小さいエナガも、時々「チュロロロ」と水の滴るようなカデンツァを加える。派手な黒白だんだらの上着を着て、目もさめるような赤い毛絲の半ズボンをはいたアカゲラも、雄はその後頭部へ赤い婚姻のリボンをつけた。いま彼らは毎日山桜の太い幹へかじりついて根気よくこつこつと上下二段の穴をあけているが、それが完成したならば上の方の穴が雌の産室に選ばれるであろう。
 ところがある朝、森の中に突然「ケオー・ケオー」という聞き馴れない高い澄んだ声が響く。人は飛び出して声の主を捜し、ついにミズナラの梢にそれを見つける。ツグミほどの大きさで鮮紅色の頭をし、背から尾にかけて若葉のような緑いろ、銀白色の腹の両側に薄墨いろの斑点をもつ森林の美鳥アオゲラである。人は野外手帳のその日の欄に、この珍客の名を悦んで特筆大書する。
 八ガ岳火山の連峯を背に、南はゆるく釜無の谷へなだれた広大な三ノ沢開墾地。その階段状の水田地帯には一段ごとに摺硝子のような残雪が見えるが、高みの広いライ麦畑はもう全く雪が消えて赤い地膚を現している。三月下旬の珍らしく穏かなある日の午前、その畑地の一ヵ所へ集まって熱心に去年の麦や蕎麦の落粒をあさっていた数百羽のアトリの群が、突然一時にさっと飛び立つ。「キョッ・キョッ・キョッ・キョッ」という警戒声を異口同音に発しながら横ざまに巻き上がる雲のように流れて、しばらくは大きく空中を旋回しているが、またさあっと舞い下りて、拡がった投網が水面を伏せるように畑に散る。彼らはそれを二三回繰返して、その度に少しずつ位置を変える。この突然の一斉飛揚はそもそも何を意味するのだろうか。開墾当時の古い農具置場の空家へかくれて、さっきから望遠鏡で彼らを観察している一人の人間に驚かされたのでもなく、空をよぎる猛禽を認めたのでもない。このどう考えても不可解なアトリたちの行動は、その観察者をしてあの英国鳥学界の一偉材エドモンド・セルウスのいわゆる「鳥類に於ける思想伝搬」Thought Transferrence の問題を思い起こさせる。
 それにしても彼らもまたやがて帰って行く客である。その北方の婚姻地では、今黒色に褐色をまじえた頭や背や翼が更に光沢と色彩とを強め、いま翼に見える薄色の帯が一層鮮明に白くなり、いま咽喉の下を染めているオレンジ色が更に深い赤みを加えてその幅も広くなり、いま白く見える腰や下腹部が銀いろに輝き、そしていま「キョッ・キョッ」とのみ投げられている警戒声のほかに、北極圏に近いその故郷の春の日には、われわれの知らない微妙な愛の歌が歌われるのであろう。
 四月一日、太陽は五十二度何分という高度に南中する。一月から見れば二十度も高くなった。あながち数字に大きな信頼をよせる訳ではないが、これだけの差でも高地で春を待つ心には嬉しい消息といえるであろう。ましてほかよりも日射をうけることのすくない森林の中では、太陽の光線のわずかな増加でもこの上もない恵みである。まだ葉の出ない枝々の網を透いて冬じゅうずっと陰だった所にも日がさしこむ。凍てついていた土がゆるんで水がにじみ出し、それが林中の低い所に池をつくる。青空が映り、樹が映り、日光がちらちらとそこに躍る。柔かに湿った土からは萌黄色のモスリンを玉結びにしたようなフキノトウが幼い頭をもたげている。灰緑色のウメノキゴケに円い模様をつけられたハンノキの幹の根際には、ヒオドシチョウに似て翼に四つの白紋を持つエルタテハが二三羽とまって、その越冬に冷えた体にじっと太陽の熱線をしみこませている。ヤマキチョウの雌がぼろぼろの羽根を動かして低くよろけるように飛んで行く。
 このしんかんとした早春のハンノキ林に、今日も賑やかな合唱がおこる。小さいカシラダカの別れの曲であり、高緯度の故郷の森やツンドラで一層高らかに響くべきその歌の前奏である。切株に腰をかけてジェッフリーズを読んでいた眼が梢を見上げる。まだ葉を出さない、しかしもう緑と黄の飾紐のような長い花穂を無数に下げたハンノキの高枝に、何十羽というカシラダカの一群が棲まっていて、歌はその中から落ちて来るのである。その複雑なシラブルやメロディーは容易に真似もできないが、強いていえば「チッチッ・チーロ・チーロ、チッチッチーロ・チーロ」という風に聴きとれる。植物にたとえればガンコウランやツガザクラの花を綴ったほそい瓔珞に、ところどころハクサンコザクラの大輪を鏤めたといった感じがある。美声ではあるが清浄で透明で張りがあって、元来が北地の春の自然に属するものであることをおもわせる。冬の間はよくカラマツ林などでただ微かに「チン・チン」とだけ鳴いていて、経験のある耳がわずかに彼とホオジロやアオジとを聴き分けることができたのである。その彼らはもう早くも夏の衣裳にあらためて、黒と褐色の縞模様にも光が加わり、真珠いろの下面全体と咽喉の下の濃い赤栗いろのビロードの胸当とが一層気品を添えている。
 春が来て北の故国へ帰る者にせよ、また夏や秋に南方の豊かな土地へ出発する者にせよ、個々の狭い区域についていえば、彼ら渡り鳥の退去はわれわれがそれと気づかない間に行われる。きのうまでいた鳥がきょうは見えない。さてはいよいよ出発したのかと思う。しかしその翌日にはまた現れる。こういうことが幾度かあった末に、いつか遂にまったく見ることがなくなる。彼らはほんとうにわれわれの所を去ったのである。そしていままで述べて来た小鳥たちがすべてこういう去り方をしているのである。彼らの別れの曲にきょうを最後という告別の日附はなかった。ただ遡ってそう思うのである。幾年消息の絶えた帰らぬ我が子を、その失踪の日に遡って祈り悲しむ母親のように……
 彼らの到着もまた隠微の間に行われる。秋来る鳥は沈黙がちである。それを先ず認めるのは多分われわれの眼であろう。しかし春はちがう。春にはほとんどすべての林野の鳥に歌がある。そして彼らの到着とその歌とのあいだに幾日をもって数えるほどの間隔はない。去年の家庭生活の地を再び見出した悦びは、彼らをしてそう長く沈黙させては置かないであろう。彼らは長途の旅の疲労から恢復するやいなや、たちまちその第一声を試みるであろう。あたかも北の故郷へ帰りついたカシラダカやツグミがわれわれの知らない国土で声を限りに歌うであろうように。こうして春まだ寒い高原の四月、カラマツや白樺の新縁のよそおいを待ちかねて、続々と帰来する小鳥たちの声がこの森に響くのである。
 われわれの動物季節のうちで夏鳥の暦は先ずクロツグミの歌をもって始められる。しかしそれよりも十日ほど早く、ある日高原の空の非常な高みで数十羽のツバメが到着の円舞をしているのが見られた。おそらくツバメかイワツバメであったろう。彼らはその翌日にはもう附近の村落や低地の町なかへ散って、去年の古巣の修理や新らしい巣の構築に掛かるのである。またその頃のある朝、人は森のむこうの谷の方で、「キョロロロー」というアカショウビン一名ミヤマショウビンの今年最初の声を聴いた。紫の反射光をはなつ明るい栗色の衣裳をつけて、真赤な太い嘴を持ったこの「山地渓谷のカワセミ」は、本来留鳥とされているがここでは夏の鳥である。高原の新縁から青葉の季節、朝早くかあるいは曇天の日、雨を知らせるといわれているこの鳥の「キョロロ」が響くのはこれからである。
 クロツグミの歌は四月十六日の朝聴かれた。森の中で彼の好んで棲まるあの一本の高いポプラーの樹の、そのうちでも特に好きなあの去年の枝にしっかりと棲まって、しだいに朝霧の晴れてゆく蓼科山のほうを向いてその「キョロピリー・キョロピリー・チョピ・チョピ・ピリリポ・ピリリポ・チョイ」を歌っている。四方数町のあおあおととした朝の空気がその歌の波に揺らめくようである。それはわれわれ森の住人たちに安堵と、満足と、恍惚との感を与えながら三十分もつづいた。やがて彼は樹を離れて地上へ下りる。そして森や畑の去年の場所で餌をあさる。黄いろい嘴と、薄墨色のかすり模様のある純白な下腹部とを除けば全身まっくろなこのクロツグミは、ハドスンの愛したリングウーゼルや、ブラックバードの従兄弟のように見える彼は、太陽が一日の行程をおわって釜無の山の端へ沈む頃ふたたびあのピリリポの歌を取り上げる。そしてなお十日ばかりはそのように一人で気楽に暮らすであろう。その十日後に彼を慕ってはるばると、支那大陸の南部や海南島あたりの越冬地からこの高原の森へ帰って来る雌を待ちながら。そしてある日彼女が到着すると、巣をはじめるまで数日間は、鶯茶の地味な服装をした彼女と黒と白とでいきいきと粧った彼との間に、林間の樹々を縫って追いかけ合うすばらしい愛の遊戯が見られるのである。
 センダイムシクイがクロツグミに直ぐ続く。彼の帰還はあの明るい「チチプチチプジューイ、ツィヨツィヨジューイ」をもって告げられる。打ち延べた銅の断片をおもわせる重量感のあるその声は、彼の到着後しばらくは、ハンノキや白樺の芽が早くひらいて、若葉となって、林の中が自分たちの羽毛の色と同じになるのを督促しているように聴こえる。好んで濶葉樹林に住んでいる彼は、すべての樹々が若葉になる五月が来るとその緑がかった羽色がこれと紛れるために容易にその姿を発見されない。しかし今のように落葉樹の葉がわずかに開いたか開かないという頃、ハンノキの雄花穂がぽたぽたと地面に落ち、ヤシャプシの金緑色の長大な花穂がこれに取って代る頃、その林の春の真昼の静寂のなかで、今ここに居たかと思えばもう向うへ移っている彼のひそやかな枝移りを見たり、その明るい単調なしらべを聴いたりしていると、やがて来る夏が想われ、暑い日なたと涼しい影とを広々と振りまくその積雲を、もう見るような気がするのである。平野にも住めば低山にも住み、また一〇〇〇メートルから一五〇〇メートルぐらいの高地にさえ巣を営む、このすこぶる融通のきく楽天的なセンダイムシクイは、一方非常な朝寝坊で、五月の夜明けの午前四時頃からはじまる分水荘の森の小鳥の合唱会に、そのパートを聴かせたためしはまだ一度もない。
 去年の秋の渡去期の頃には、カラマツの林で時々バッタの摩擦音に似た「ギチギチ」という貧弱な地鳴きしか聴かせなかったコサメビタキが、センダイムシクイと前後して帰って来た四月の森では、ちょっと聴くと他鳥の真似をしているモズの声か、メジロの低い囀りかと思うような一種の囀嗚を盛んにやる。しかしその中で水晶の数珠をつまぐるような、澄んだ「チルルルー、チルルルー」というのが彼の本来の囀りである。ヤマモミジの明るい若葉が小雨に濡れる五月のなかば、仕事の窓近く囀るその「チルルルー」にしばし耳を傾けるのは楽しい。地味な褐色がかった背と翼と銀灰色の下面とを持つこのちいさい鳥は、飽くまでも生真面目で、すこし大き過ぎるまんまるな黒い眼をぱっちりあけ、持って生れた四角な肩をいからせてじっと樹の中段の枝にとまっているが、近くの空間に獲物を認めるとぱっと立って目にもとまらぬ早業でこれをしとめ、またすぐ元の枝かその近所の枝へ帰ってじっと棲まる。そしてその電光のような早業の最中にぱちぱちと嘴を嗚らすのである。彼が夏鳥の中でも最も遅くまでこの森に残っているのは、あるいはその好んで食う小型の蛾類がここには多いせいかも知れない。
 もうこの頃になると森のカラ類やキツツキの類の巣はほとんど完成しているか、完成に近づいている。附近の灌木叢や境界の生垣を根拠地にしているモズやホオジロもそうである。ヒガラは立枯れした白樺の幹の小さい孔や骨張ったイチイの樹の穴を出たり入ったりしている。シジュウカラは五十歳を越えた山桜の古傷のような裂目の奥に苔と羽毛の産座を準備した。中にはわれわれの家の戸棚の裏側に家庭を持って、板羽目の節穴から出入している者さえある。その雛達の可愛い「シェン・シェン」という声が洩れて来るのも間もないことであろう。白地に黒の縞模様のある着物をほっそりと着たエナガの夫婦は、二千枚から三千枚におよぶ鳥の抜毛とウメノキゴケや蜘蛛の糸を材料にした精妙なふかふかした楕円形の袋のような巣を、ヒノキの枝の三つ叉のところや高いハンノキの太枝の分れ目へしつらえた。概して定住の鳥の巣作りは早く、遠い旅から帰還した鳥の巣はそれにおくれて作られる。センダイムシクイは森の中の凹地の斜面やなかば草に被われた崖の中腹に、クロツグミは黒々と立つウラジロモミの中段の枝や、林檎に似たズミの木の錯綜した枝の中に。そして黒潮が沖を流れる暖い海岸地方から帰って来たキセキレイは、この高原の押石を載せた農家の屋根や、山から引かれた灌漑の堰の水のほとりに。
 ある日森の中の湿地を、小走りに歩いてはまた立停まりながらひっそりと餌を漁っているビンズイの小さい群が見られた。一名をキヒバリといわれているこの鳥はかなりヒバリに似ているが、今はその白い胸と腹とを飾る褐色の縦斑がみずみずしく冴えて、しっとりとした銀白の地に鮮かなチョコレート色のかすり模様を配した高貴なビロードのように見える。しかし彼らはこの森の者ではない。多分あすはここよりももっと高いどこかの草原、そこでノビタキやコヨシキリと共に一と夏を暮らすべき去年の土地へ去るであろう。
 またある日森の住人たちは家畜小屋のかたわら、庭をかこんで綻びかけた山桜とイチイの樹のあいだに、突如出現した三羽の美しいオオルリを認める。互いに目くばせをし、うずくまり、息をひそめてこのすばらしい珍客をじっと見つめる。名のとおりの瑠璃いろが、陰のところではむしろ黒く、しかし太陽の光線をうけると純粋なアクァマリンの色にきらめく。彼らはあの滴るような甘美な歌は聴かせないが、ヒタキ科の鳥に共通な飛び方で、白い腹をかえしながら近距離を右に左に矢のように飛ぶ。これもまたここに、この火山の裾野に住むべき鳥ではない。もっとしんしんと濶葉樹の茂った、谷の水音の淙々と響く、あの向うに見える古生層の皺曲山地、そこに己れの卵を彼らの巣に托すジュウイチの待っている釜無の山に属する小鳥である。
 四月二十日、サンショウクイの少しせきこんだような陽気な「ヒリヒリン・ヒリヒリン」が、高原の薄あおく霞んだ春の空にひびいて来る。待っていた眼がそれをさがす。一羽の雄が合図の鈴を鳴らすように、西へ行くかと思えば西北西へ、南へ行くのかと思えば南々東へ向きをかえるあの独特な飛び方で森の上に久しぶりの姿をあらわす。近くても沖繩から、遠ければフィリッピンやスンダ列島の常夏の国から、今はるばると帰って来たのである。雌は彼と一緒ではない。彼女の到着はなお数日後になるだろう。白と黒との淡白な染分け衣裳に白い額をした彼と薄墨いろの額をした彼女とが互いに「ヒリヒリン」と呼びかわしながら、樹の皮や山羊の毛やウメノキゴケを運んで、われわれの森の赤松の高枝に茶の湯の茶碗のような巣を完成するまでには、多分なお十日間はある筈である。
 未来の配偶者よりも一足先に帰って来た雄が当分その最善の歌をうたうのは、同じ種に属する他の鳥にその附近が自分の勢力範囲だということを主張するためと、もう既に来ているかあるいは今日にでも帰って来るかも知れない雌におのが存在を知らせるためだとされている。一般に承認されているこの解釈は、すでに述べた森の帰還者の場合に全くあてはまるように思われると同時に、クロツグミと共にわれわれの名歌手であってその個体数も比較的に多いキビタキの場合にもよく妥当する。
 最初のキビタキの到着第一声は、今年は四月の第四日曜日の朝聴かれた。その黒と水仙色と、ほとんど夕焼のような赤とで粧われた王朝風の美々しい姿も、同じ日の午後に見られた。それから一週間ぐらいの間に、この広い森の中で、われわれは引続き五羽の雄を発見した。しかしこの程度の数がここではおそらく限度であろう。それ以来あの「ヒーアイシー・ピンピーロ・ピンピーロ」や「フィリリリー・ツクツクオーシイ・ツクツクオーシイ」の歌が一日じゅう森のどこかで必ず聴かれることになった。元来が余り強い光線を好まず、常にほのぼのと緑に暗い森や林の中に住んでいるこのナルシッスのような美貌の鳥は、太陽の光の弱い早朝と日没前後とに最も多くそのみやびやかな恋歌を聴かせる。それに次いでは曇天である。水の底のような新緑の木蔭いちめんにもうベニバナイチヤクソウの咲き初める頃、スズランの鈴の花が広い葉のあいだから匂い出る頃、その風の無いしっとりとした曇り日の昼間を、樹から樹、枝から枝へ、彼らはほとんど終日鳴きくらしている。その声の質にも歌のしらべにも身にしむような哀調があり、おのが領域を宣言するというよりも、やはり配偶者を待つとか妻を恋うとかいうほうが当っているような切なさと、甘やかさと、さまよい歌うような哀れさとがある。去年われわれの家の直ぐ近くに一羽の雄のキビタキが住んでいたが、雌が来なかったのか配偶者が得られなかったのか、五月六月と毎日を歌いくらし鳴きくらしていたが、その後次第にその恋の歌に痩せながらも、ついに八月十三日まで全く鳴きやむということがなかった。そして彼の姿は九月二十一日まで見られた。
 哀調というだけならばクロツグミと同属のアカハラの歌にもあるが、このほうはもっと素朴でもあれば、男性的でもある。われわれは今年ここでは五月の第一週に彼の最初の歌を聴いた。この鳥は冬は四国・九州からフィリッピンあたりまでをその越冬地とするといわれているが、筆者が永年住んでいた東京の西郊では毎冬彼らの姿を目撃したし、去年(一九四六年)の一月も千葉県三里塚に近い田舎の寄寓先で、毎日果樹園へ採餌に来る二羽の雄を観察したから、もちろん冬じゅう食物に事欠かない比較的温暖な地方ではそのまま居残る者もあることと思われる。それはとにかく、この美しい狐いろの胸をした茶褐色のツグミ大の鳥が、高原の夜明けの時や夕日の前後に高いミズナラやハンノキの梢からほとばしらせる歌こそはすばらしい。彼は到着直後にはいくらかテンポの緩い「ホイリョ・ホイリ、ホイリョ・ホイリ」というような歌を聴かせるが、二三日たつとそのテンポが急になって二句に句切った「ホイリョ」と「ホイリ」が「ホリョリー」と聴かれる一句につづまり、それが一息に何分間というあいだ繰返されるのである。遠くから聴けば「キョーロン・キョーロン」とも聴こえるし、また森の樹々にこだまする時は颯爽とした「トゥールビオン・トゥールビオン」にも聴こえる。それはあたかも黄と緑と紫の三色の玉を一時に打ってトリラを響かせるのにも似、透明で強くて、流れるようで緊密なこと、リズミカルに断続する急流の趣きがある。これとほぼ同じ時刻によくクロツグミが競争するように歌い出すが、嚠喨として、快活で、面白くて、変化があって、機智に富んだその歌にくらべると、アカハラの歌は一層動的で直接で、真一文宇で、壮烈で、戦士の歌か叫びのように響くのである。
 ホトトギスのように鳴きながら夜空を翔け、地面に腹をぴったりつけてうずくまりもすれば、地上一メートルの空間を糸車のようにぶんぶん唸って旋回もする黄昏と宵の鳥、あの不思議なヨタカもキビタキと前後して南部アジアや南洋諸島の遠い旅から帰って来る。その生ゴムを鞭うつような弾力のある「キョッ・キョッ・キョッ・キョッ」という声が森の湿めった闇にひびく。六月半ばから七月初めのたそがれ時、彼がもっとも頻繁に鳴く頃には、その「キョッ」という一声が一回に百から百五十ぐらい続けられる。十秒間に約五十五声という速度であって、音に高低も強弱もなく単調に続くので、じっと聴いていると気が遠くなるように思われ、耳の底でいつまでも鳴っているような気がする。
 そして五月も半ばになると、その包まれたような「ポンポン」の声を真昼の高原に響かせるツツドリを先頭に、待たれていたカッコウやホトトギスが次々と訪れる。ただ彼らと同じトケン科に属するジュウイチだけは谷向うの釜無の山へ行って、そこで「ジュイチイ」とも慈悲心とも聴こえるあのパセティックな声で鳴き廻っている。これらはいずれも自分の子の養育を他の小鳥たちに托する仲間であって、われわれの森の住民としてはモズ、ホオジロ、センダイムシクイなどが、犠牲と献身との仮親の運命に甘んじて服する。しかしそこに幼き者の成長を楽しむ母の喜びが無いなどとは、決して誰にも言えないのである。

 

 

 

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 湖畔の町の半日(一九四七年)

 ブラームスの歌に「野の寂しさ」 Feldeinsamkeit というのがあって、私も時としてそれを口ずさむが、よく考えてみれば、その寂しさというのも実はわれわれがそこへ行けば必ず味わえるに違いないと信じ馴れているある特定の心象か情緒であって、客観的の、またはそれ自体としての「野」は、はるかに賑やかでもあれば複雑多彩でもあり、常に瞑想の主題や生気に満ちみちているもののように思われる。
 私がほとんど全生涯を過ごした東京やその郊外をあとにしてこの信濃の高原に住むようになって以来、私のために寂寞の境涯をあわれむ言葉や、反対に静寂な生活をうらやむ言葉が、東京の友人たちからこもごも送られて来た。なるほど私もここに幾年を住むことを考えた時には、この「寂寞」と「静寂」とを第一の問題にして、それらを基調とする新らしい生活への充分な憧れといささかの不安とをもってついに意を決したのであるが、寂しさといい静けさといい、いずれは外部の世界にあるのではなくて自己の内心にあるのだということを知るにおよんで、ここの山野は私にとって一つの広々とした地理的・生物的な自然環境、眼や精神へのあらゆる饗宴と無限の歌の可能性とを包蔵する、一つの豊かな世界として映るようになったのであった。ボードレールは彼のある散文詩の中で、「おのれの孤独ソリチュードを賑やかにすることのできない者は、忙しい群衆ミユルチチュードの間でおのれ一人であることもまたできない」といっているが、今の私は自分の孤独からさまざまな花を意のままに咲かせることができると同時に、群衆の中で任意の時に自分の孤独に結晶することもできると思っている。
 きのう私は上諏訪へ行った。森を出て高原の道をいっさんにくだり、三十分ばかり汽車に揺られてあの湖と温泉との小都会へ行くことは、月に一度私の好んで味わおうとする生活の変化でもあれば気晴らしでもある。そこへ行ってちょっとした近代文化の匂いをかぎ、商店や本屋の窓をのぞき、映画や音楽会のポスターを瞥見し、美術館の画の前に立ち、ひとり湖水にボートを浮べ、公衆浴場で温泉にひたり、やがて静かな裏町の喫茶店で一、二杯のコーヒーを飲み、その半日を忙しそうな町の人々や遊覧客の群にまじって複雑多端な世相の片鱗に触れながら、時代人たる自分を少しばかり感じるのは興味のないことではない。しかしこの場合特に私はまったくの他所者として扱われたいから、どんな知人も訪問しない。随時に落ちこむ瞑想を破られたくないから、知った顔にも出逢いたくない。すべての厚遇の機会を避け、すべての儀礼を敬遠し、日頃の無沙汰とおのがエゴイズムとを心の中で詑びながら、またしても見知らぬ群衆の流れの中にまぎれて行くのだ。
 富士見高原一帯は朝から灰いろの低い雲に被われていたが、僅か二〇〇メートルなにがしの高度差と大きな水の広がりの存在だけの相違で諏訪湖の上空は雲が切れ、ところどころに桔梗色の青空と太陽の輝きとがあった。停車場の附近から目抜きの大通りへかけては日曜日の遊覧客と買物の人出とで非常な賑わいを呈していた。山では時ならぬ寒さにまだ古い袷を重ねているのに、ここではもう派手なセルの着物が袖をひるがえして往来していた。いたる所の物々交換所には色とりどりの夏着がぶらさがり、雑貨商の店頭にはすばらしい正札付で団扇や、蝿取紙や、経木真田の夏帽がならんでいた。そしていかにも湖畔の町にふさわしく、釣道具を売る店が特に賑わって、さまざまな釣竿や、いろんな色で塗られた可愛らしい浮標うきや、渋糸を編んだ丸いびくやくびれたびくが、釣好きの大人や子供たちの目を引き心をそそっていた。
 私は一軒の時計屋ヘライターの石を買いに入った。沢山の鉄の粒の中から良さそうなのを選び出した若い元気な娘が、「珍らしいライターでございますね」と言いながらスプリングを抜いて器用に石を摘まみ入れ、試験的にパチリと大きな白い火花を飛ばしてみて、さて私の取り出した巻煙草へ改めて火を移してくれた。
 温泉はこの町の古い相当な住宅や旅館などには必ずその設備があるが、私はやはり気のおけない公衆浴場が好きだ。湖岸に近くそういう浴場の立派なのが一つあって、水泳プールのように広くて清潔で、なみなみと湧く天然の湯に周囲のなめらかなタイル張りの床まで惜しみなく溢れている。きょうも私はそこへ行った。珍らしく混んではいたが、脱いだ着物を入れる百個の電気仕掛の開閉戸棚が皆ふさがっているという程ではなかった。小石を敷きつめた湯船の底へ立つと胸まで漬かる豊富な温泉は、そのたっぷりした柔かな圧力で全身をつつむ。何か知らぬが眼に見えない薄赤い熱線が皮膚や筋肉を刺しつらぬいて、今まで眠っていた別の神経を刺戟し、その機能を促進させるような気がする。湯船のへりに後頭部を凭たせて体を浮かしていると、外部からの物音を完全に遮断した厚い壁に嵌まった窓硝子をとおして、霧ガ峯つづきの山の一部と静かな雲の動きとが見えるばかりで、ともすれば今自分がどこにいるかをさえ忘れがちであった。
 湖畔では散歩道路のふちへ腰をかけて多勢の子供や大人が釣糸を垂れていた。びくを覗いて見ると鮒に似た小魚が鱗を光らせていた。大人や大きい子供が必ずしも上手とは限らないとみえて、七つか八つの子供ですでに三四匹を釣り上げているのがあった。釣にも天分の有る無しはアイザック・ウォルトン以来グレー卿にいたるまでの英国の釣魚文献がこれを証拠立てているのである。そういう小さい子供が半ズボンにジャンパーという姿でじっと浮標うきを睨みながら、ときどき鼻をすすって手の甲で横撫でしているのが可憐でもあれば微笑ましくもあった。
 湖水には貸ボートがたくさん浮かんで、遊覧の若い男女の組が岸辺近くを漕いでいた。中には小さい舟に欲張って女性数人を乗せたために漕ぎ悩んで、大汗を流している青年もあった。そういうボートからはしばしば恐怖をまじえたなまめかしい声が上った。女の連れの無いのは一人でさっさと漕いで湖心の方へ出て行った。やがてハーモニカの調べが水面を渡ってきこえて来たが、それは流行歌ではなくて今どきには珍らしいウェーバーの「船唄」だった。
 散歩道路の古い柳の並木の下には半町ぐらいを隔てて出張撮影の写真屋が二人、黒い布をかぶせたカメラを立てて客待ち顔にたたずんでいたが、無聊に倦んだのか、商売仇の二人がいつのまにか仲よくキャッチボールを始めていた。
 そしてこれら休日の湖畔らしい風景のかなた、対岸の鉢伏山塊から塩尻峠へつづく長い緩やかな嶺線の上に、残雪の銀糸をかけつらねた北アルプス穂高岳が、その前穂、西穂、奥穂の岩峯をそばだたせて青い水面に夏近い影をうつしていた。
 大手町の古い欅並木の緑陰を歩いて、ふたたび私は町の本通りへ引返した。この前来た時には営巣に忙しかった燕や岩燕が、もう今では人家の軒下の彼らの家庭にいずれも卵を持っているらしく、大抵の巣から抱卵中の雌の生真面目な顔が日当りの賑やかな往来を見おろしていた。そして餌を運んでさっと飛込んで来る雄から一口の食事をうけとる時には、甘えた雛のように羽根を顫わせて見せるのだった。
 私はいつものように三軒の本屋を順々に見て廻った。戦災を蒙らないこの南信濃の小都会の商人はいずれも皆客あしらいが良いが、中でも書店の人たちが窓口の役人のようではなく、明るい顔とおのずからなる実意とを失わないのがいつでも嬉しい。私は最初の店でトルストイの「ポリクシュカ」の訳本を買い(今の気持では「コザック」が読み返してみたい所なのだが)、第二の店で思いがけなくも若い社会地理学者で知人でもあるI君の「地理学批判」という新著を発見して喜んだ。そして一人の物静かな可憐な娘のいる最後の店では、特に自分のために用意されたかと疑われるほどの幸運として、チャールズ・ダーウィンの「昆虫の花粉媒介に対する蘭花の構造の種々相」とでも訳すべき英文原書のほとんど新本といってもいいのを手に入れることができた。というのは、六月のこの頃、私の住んでいる村の釜無山脈の渓谷には今ようやく色々な蘭科植物の花が咲きはじめて、私はこれからの夏にかけてそれぞれの蘭の花とそれを訪れる昆虫とを調査分類しようと計画していたからである。私はこの思わぬ幸運に感謝すると同時に、もうこの上は一時も早く自分の森の家へ帰りたいと思った。
 なお一つ二つの買物を済ませても未だしばらくは汽車の時間があったので、私は大通りからちょっと引込んだ古風な通りの或る静かな喫茶店へ入った。そこの大理石張りの食卓へむかって煙草を吸ったりココアを飲んだりしながら、今朝出がけにポケットヘ押込んで来た東京の新聞を見ていると、「日本の若い同僚」に宛てたヘルマン・ヘッセの手紙の大要というのがスイスの新聞から訳載されているのを発見した。今しがた魚屋の店でシジミを買った時すんでのことにその包紙にしてしまう新聞だった。そしてその手紙の中でヘッセのいっている「あなたは私を真理の闘士、神の心にみたされた光の使だといっているが、それは単なる誇張で子供じみた理想化であるばかりでなく、根本的に迷いであることにやがて気がつくだろう。あなたは愛好する文学者を英雄だとか光の使者だとか言って、そして自分もそうなりたいと願っているが、そんなことは私は嫌いだ」という言葉や、「あなたを呼び覚ました詩人は決して光でも、松明の火をかかげる者でもなく、せいぜい光を通す窓でしかない」という言葉に、私は襟を正さずにはいられなかった。この手紙の全文がどういうものであるかそれは分らないが、人間が自分を真理の闘士だとか、その使者だとか、この世に炬火をかかげる者だとかうぬぼれた所から今度の大戦のような悲劇が起ったことは確かである。そして私といえどもこの悔を再び繰返さないためには己れの何であるかを常に深く省みなければならないのだと思った。
 私は鋏を借りてその記事を切抜き、丁寧に畳み、失くさないように内ぶところの手帳の間へおさめて外へ出た。そして今こそこの湖畔の町での半日の意義に満足することができ、ふたたび初夏の雲が群がり、郭公やホトトギスの鳴く我が高原へと汽車に揺られて帰って行った。

 

 

 

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 ホトトギス(一九四七年)

 今年は去年に較べるとずっと多くホトトギスを聴くような気がする。一昨年から住んでいてこの附近の動植物を注意している私の娘に聞いてみてもやはりそう言うから、事実個体数の上でも殖えているらしい。その理由はいろいろ有るであろうが、去年の秋頃からいよいよ「本格的に」始まった県の農地開発事業のために、この富士見村の地内でも各所で森林が伐られたり昔からの刈敷場が開墾されたりしはじめたので、その結果として彼らの採餌場や塒になる地域がせばめられて、まだ森や薮地の比較的多く取りのこされているこの附近に集まるようになったことも一つの有力な原因ではないかと思われる。
 朝からホトトギスが盛んに鳴いているので一つその姿をよく見てやろうと思っても、森の中にいて下から見上げて捜すのだから幾ら苦心しても結局は徒労だった。そこで今度は森を出て周囲のひらけた小高い場所の草の中へすわりこんで、広い視界を飛んでゆくのを根気よく待っていたら間もなく成功した。それからは遠くで声がしたら直ぐ飛び出して、その観察場所へ駆けつけさえすれば大抵三度に一度は見ることができた。
 ホトトギスは飛びながらでも鳴くが、もちろん樹に棲まっていても鳴く。棲まる場所としては樹の梢が多いが、あまり眼につく大木のてっぺんや梢の突端などは避けるようである。棲まって鳴く時はやはりカッコウのように体をいくらか前後に揺すっている。相当力を入れて鳴くので体のバランスを取るためだろうと思う。ツツドリは揺すらない。ジュウイチはあの鳴き方から考えても大いに揺するのではないかと思っている。
 それはともかくとして、ホトトギスの飛んで行く高さは私が附近の地物と比較した目測によると大体一〇〇メートルぐらいか、場合によればそれ以下のようである。一〇〇メートルといえばほぼ一町に近い。二〇〇メートルぐらいはざらに飛びますよとひどく手軽にいう人があるが、ふだん近所を飛び廻っている時にはそんなに高い所は飛ばないように私は見ている。もっとも渓谷などの上空を横断する時は別で、仮に台地面よりも五〇メートル低い谷間にいてそれを見上げるとすれば、随分高い所を飛んでいると見えるのも当然である。しかし同属のカッコウに似てカッコウよりも小さく、頭から尾の先までで一尺足らずぐらいのホトトギスを、仮に一町半の距離から見た時の視角の小ささを考えると、正確な実測によらないかぎり、その飛翔高度の数字などというものにも遽かに信を置きがたいのではないかと思う。
 その鳴き声も普通いわれているように「テッペンカケタカ」と聴いて聴けないことはないが、ア行やエ行の音よりもむしろオ行の音の方が優勢で且つ実際に近いような気がする。開豁な場所で聴くと「ホッキョホケキョキョ」というふうに私にはきこえる。それが森の中などにいて樹枝や葉むらなどの障碍物をとおして聴くと、同じ音でもずっと和らげられて、円味と色のある曇った声に聴こえる。時々「ピョコ・ピョコ・ピョコ・ピョコ」という声を速く連続的に出すことがあるが、そんな時はカッコウに非常によく似ている。そしてそういう場合には近所に雄の仲間か雌らしい者のいることが多いようである。
 ホトトギスの啼鳴で思い出すのは故寺田寅彦博士の、飛びながら鳴くホトトギスは反響測深法エコーサウンディングをやっているのではないかという説である。この仮説は全集の文学篇第五巻か単行本「螢光板」の「疑問と空想」の一章として出ているが、つまりテッペンカケタカと鳴いたホトトギスが、自分の送り出した声の音波が反射されて再び帰って来る時間からその反射体と自分との空間的距離を測定しているのではないかというのである。
 それをもう少し詳しく紹介すると、寺田さんの目測ではホトトギスの飛ぶ高度は低い時で地上一〇〇メートル、高ければ二〇〇メートルぐらいらしかった。それを先ず仮に一七〇メートルとすると、彼が一声鳴いてその反響を聴き取るまでに約一秒かかる。「ところが面白いことにはテッペンカケタカと一回鳴くに要する時間が略二秒程度である。それで第一声の前半の反響がほぼその第一声の後半と重なり合って鳥の耳に到達する勘定である。従って鳥の地上高度によって第一声前半の反響とその後半とが色々の位相で重なり合って来る。それでもしも鳥が反響に対して十分敏感な聴覚をもっているとしたら、その反響の聴覚と自分の声の聴覚との干渉によって二つの位相次第でいろいろ違った感覚を受取ることは可能である。あるいはまた反響は自分の声と同じ音程音色をもっているから、それが発音器官に微弱ながらも共鳴を起し、それが一種特異な感覚を生ずるということも可能である」というのである。
 寺田さん自身はこれを「単なる想像」であり「自分の仮説」であるといっておられるが、早速これに共鳴してホトトギスは音響測深を実行していると極めこんでしまった人も二三現れたように記憶している。
 寺田博士からこの仮説を誘発したのは、信州沓掛の星野温泉でホトトギスが「夜啼く場合と昼間深い霧の中を飛びながら啼く場合とはしばしば経験したが、昼間快晴の場合はあまり多くは経験しなかった」というその経験と、もう一つは「鳥は夜盲であり羅針盤をもっていないとすると、暗い谷間を飛行するのは非常に危険である。それにも拘らずいつも十分な自信をもって自由に飛行して目的地に達するとすれば、そのためには何か物理学的な測量方法を持合せていると考えない訳にはゆかない」という論理とがその主たる因子になっていたようである。
 ところでその第一の因子であるが、私の経験では(もっとも私は星野温泉には夏季に前後二回、それも各二日一晩ぐらいしか滞在したことがないが、その近くの追分では三回の夏を暮らしたことがある)ホトトギスが晴れた昼間はあまり鳴かないで、特に夜や霧の深い日に多く鳴いたという事実の記憶はない。これはむしろ昼間も鳴いていたのだが他の音響に消されてしまったり、寺田さん御自身の活動のためにその注意から洩れたりしたのではないかというふうにも考えられる。げんに私も場所は違うが信州の富士見高原でこのところ(六月中旬から下旬にかけて)毎日聴いているが、彼の鳴くのはやはり夜よりは昼間のほうが多く、カッコウと掛合で盛んに鳴き廻っている。というのはちょうど今頃が彼らの求愛や交尾の時期であるのと、彼らから卵を托される他の小鳥の巣の完成期や産卵期に当っているせいである。
 次に第二の因子の「ホトトギスの夜盲」の問題であるが、これは率直にいって私にはどうも寺田さんらしくない考え方のように思われて仕方がない。遠い祖先このかた夜間飛行のできる習性を受けついでいる鳥ならば恐らく夜中でも眼が見えるのだろうと、一応すなおに考える方がいつもの寺田さんらしくて良いように私には思えるのである。つまり「鳥は夜盲であり羅針盤をもっていないとすると」というのは思考と修辞法との一種の弾みであって、どうもこのあたり「反響測深」という落想アインファールが寺田さんの頭を優先的に支配してしまったのではないかしらという気がして仕方が無いのである。ところが最近ある眼の専門家の書いたものを読んでいる内に、一口に鳥目だなどということを言うが鳥にも人間よりもっと夜間眼のきく種類がたくさん有って、フクロウ、ミミズク、ヨタカ、雁、鴨、鷺、それにホトトギスなどが即ちそれだという個所へ出くわした。してみるとホトトギスはやはり夜でも眼が見えたのである。夜間渡りをつづけるシギやチドリの類も全くの鳥目ではなく、これらも多分そういう特別な機能を持った眼の所有者だろうと私は思っている。
 こういうと、それならば鳥が何もわざわざ飛びながら鳴く必要は無いではないかという反問も出るかと思うが、仲間に警戒を伝達するためとか自分の領分を宣言するためとか、雌を誘引するためとかいう外に、未だわれわれに解っていない彼らの発声の他の理由については、今後の辛抱づよい観察や研究に俟つほかはないとして今のところ何とも答えようがない。
 またそれならば鳥が反響測深をやらないという反証も無いわけではないかと言われれば、これまたごもっともと言うより外に仕方がない。ただしかし今日ホトトギスやヨタカたちが持っていると言われている夜の視力も、実に幾千世代をけみする陶汰と適応との長い長い試練の末に獲得された、彼らにとって最も重要な、決して他の何物とも替えようとしたくない、種の存続のための不可欠の機能の一つだろうということを私は信じないわけにはいかないのである。
 しかしこうは言っても故寺田博士に対する私の長年の畏敬の念に変りのあろう筈がなく、社会のあらゆる方面に永続的に有益で且つ豊富な暗示を与えて止まない故博士の遺業に対して私が深い感謝の心を抱いていることなどは、今更ここに附言する必要もないくらいである。
 しかも「現象から帰結されない一切のものは一箇の仮説である」というニュートンの言葉を反省すれば、ホトトギスが闇中でも視力を持つという事実や、その見える程度が正しく証明されない限り、いくぶん反「反響測深」的に見える私の以上の見解も、結局はやはり一箇の仮説に過ぎないことを思わないわけにはいかないのである。

 

 

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 童 話(一九四七年)

 仕事に倦んだ窓のむこうをアサちゃんが行く。同じ棟に住んでいる隣の農家の娘で今年十八になる。去年の暮れに脊髄をわずらったが、岐阜県のある町の何とかいう専門医に診てもらってから段々よくなったとかで、今では軽い労働ならば大抵の事はやっている。元来が快活な利発な子で、信濃乙女にふさわしく中々理窟もいうが知識欲も旺盛である。もちろんよく働く。
 そのアサちゃんが大きな竹の背負籠を背負って裏庭の緑の木蔭をむこうへ行く。橋懸りへ現れたシテのように腰を落とし、正面を切って摺り足で行く。首のあたりに痛い腫れ物でもできたのか、何か非常に壊れやすい物でも運んでいるのかと、気になるような歩きつきだ。二つに編んでうなじの左右に振分けた髪の毛が、二本の短いしっぽのようで子供子供している。
「アサちゃん、どこへ行くの」
「畠です。畠へね、ひよこを遊ばせに連れて行きます」
 私は手ばやく机の上を片付け、下駄を突っかけてアサちゃんを追う。なるほど籠の中では可愛いピヨピヨという声がしている。行儀の悪いのを叱っているらしい牝鶏の声もする。歩いてゆく森の中ではもうチゴユリやベニバナイチヤクソウが終って、今はびっしりと細かい白い舞鶴草の花盛りだ。鈴蘭もまだ少しは咲き残っている。
「元気かね、アサちゃん」
「はい、お蔭様でね。それでもまだ無理をせんほうがいいというのでね、ぐあいを見ながら働いています」
(アサちゃんのこの尻上りの「ね」にはひどく魅力があって、生来の正直さや真面目さがよく現れているのだが、文字で書いただけではその感じも出ないだろう。それに信州言葉の面白味がまだうまく現せないのもこの際いくらか残念だ。)
 森の出はずれに一筋の小さい流れがあって、水際のトリカブトや釣舟草やミソホオズキなどがもうだいぶ大きくなった。山羊の子と母親とが別々に高いハンノキの根がたに繋がれて、綱の長さの許すかぎり首を伸ばして柔かい緑草をたべている。一と月ほど前に生れたこの仔山羊はまだ全くのねんねえで、放してやると喜んで切株の上へでも箱の上へでも得意になって飛び乗るが、到底あの「スガンさんの山羊」のようではなくて、狼どころか、もうろくした猫が近づいてさえ一目散に母親のところまで逃げ帰るのである。
 ハンノキの木蔭に繋がれたこの仔山羊がどういうものか時どき跳ねる。瞬間の発作か、それとも幼い心身に波うってくる未来の予感かは知らないが、突然うしろ脚を蹴立てて跳ね上がる。そうするとそのハンノキの幹の傷口ヘ長い吸管をさしこんで甘い樹液を吸っていた黒と橙黄色のヒオドシチョウや、紺地の翼に白線の入ったルリタテハが驚いてぱっと飛び立つが、また直ぐ棲まってはぐいぐい押合って蜜をすする。そこには光沢のある黒い鞘翅に封蠟赤の斑紋をよそおったヨツボシケシキスイが先客として控えていて、「これは元々おれたちが掘り当てた甘露の井戸なのだ」といわんばかりに、内心いくらかむっとして、濡れた穴の縁にいよいよ頑固に平たくなってかじりついている。
 アサちゃんは防火線の尾根へつづく小径を横にきれて、畠のほうへ下りて行く。左手には小さい池があり、その右と正面とがずっと彼女の家で作っている畠で、むこうには背の高いライ麦が銀青色に光り、馬鈴薯畠ではぼつぼつ白い花が咲きはじめ、一番手前の畠には毛のような粟の苗が弱々しく生えている。アサちゃんはその粟畠の隅のところで仰向けになって臀をつき、そっと籠を下ろして静かにそれを横にした。すると先ず栄養と愛情とに丸々ふとった白い牝鶏がゆらりと現れ、つづいてピヨピヨ鳴きながら九羽のひよこが我れ先にと転げるように走り出た。このひよこたちは初めは十羽いたのだが、そのうち一羽がつい二三日前に肥料溜へ落ちた。牝鶏が狂気のように鳴き立ててそのまわりをぐるぐる廻っていたが、人間が駈けつけた時にはもう遅かった。ところがその肥料溜のそばの一本の桜の樹の穴に巣を営んでいるヒガラの夫婦がこの騒ぎに捲きこまれて、牝鶏と一緒に火のついたように鳴き叫びながらあたりを飛び廻っていたそうである。
「鳥のような者でも近所に不幸があればやっぱ一緒になって心配するんですね」と、アサちゃんはその時の光景を思い出して感心したように言う。私も彼女の見解に同感を表し、それは確かに有りそうな事だと思った、というのはちょうど去年の今頃(六月下旬)のある日のことだが、私はこの森を散歩しているうちに下草の中を蛙のようにぴょんぴょん飛んでいる一羽のクロツグミの雛を見つけたので、ちょっと調べてやろうと思ってつかまえた。口だけは一人前に大きいがまだ巣立ってから幾日もたたない雛で、翼も短く、やっと草とすれすれに二三メートルしか飛べないような幼鳥だった。それが私の手の中でもがいて「ツィー・ツィー」という悲鳴を上げた。すると少し離れた処から看視しながら木の間でその雛のための餌を漁っていたらしい両親のクロツグミが、我が子の悲しげな声を聴きつけると「ツィー・ツィー・ケッケッケレレレレ」というけたたましい叫びとともに飛んで来て、恐怖と憤怒にくるい立ちながら猛烈な勢で私に襲いかかって来た。するとどうだろう、また別のクロツグミの夫婦がどこからともなく駆けつけて来て彼らに助勢をし、一緒になって鳴き叫びながら私を目がけて突進して来た。それで私は一度に四羽のクロツグミの包囲攻撃をうけて暫くは文宇どおりその矢面に立つことになったが、眼や顔を突かれて怪我をしてもつまらないし、それにもともと雛を捕えてどうしようという気もなかったのだから、すなおに草の中へ放してやって無事にその場を切りぬけた。しかし彼らの攻撃ぶりは、私にどれが苦痛と焦慮の親鳥で、どれが助勢の隣人だか見分けることができなかったほど、同じように必死でもあれば懸命でもあったのである。
 眼を丸くして聴いているアサちゃんにこんな話をしている間に、親子連れの白色レグホンは粟畠からライ麦の畠のほうへ移動し、それから次第に耕地と用水との境になっている土手の際まで移って行ったが、やがて湿めった柔かい黒土や草の中に豊富な獲物を探しあてたとみえて、今度はもうそこから離れなくなった。
 六月下旬とはいえ、海抜一〇〇〇メートルのこの高原では気候はまだ晩春である。一望の風景には薄青い霞が紗のように懸かり、八ガ岳や甲斐駒の山頂には真珠いろの残雪が点々と、野を吹く風もやわらかく、日光もそれほど強くはない。ときどき頭上の空をホトトギスや郭公が鳴きながら過ぎ、森の中からは絶えず何かしら小鳥の歌が漏れてくる。都会を遠く、文明からも遠く、草の緑に消える小径、ゆるやかに波うつ丘、寂しく光る残雪の高山、はてしもなく拡がる青い大空、そこに浮かぶ白雲。心の奥にしまってあるセガンティーニやコローの名の、ふと思い出されていよいよ懐かしまれる風景である。
 アサちゃんと私とは畠を背に、白と紅と金いろの花を星散らしにしたクローヴァやミヤコグサを敷物にして、林のへりの小さい池にむかっている。底は浅くて水量も多くはないが、裾野の伏流が地表に現れた湧泉で、こう見えても池の片隅からちろちろ落ちて行くあの水は、末は太平洋にそそぐ富士川の大小幾千という支流の中でいちばん北の水なのである。池の二方は土手になって、野薔薇、ウツギ、スイカヅラがかぶさるように生い茂り、おりからの初花に純粋な甘い薫りを漂わせている。その下は汀までイタドリや羊歯の緑にうずまって、澄んだ水に映るその葉むらの模様がセザンヌの爽かな刷毛のあとを想わせる。そして土手ではない二方の岸は夏を待つ蓼や薄荷のもやもやした草むらである。
 しかし待たれるその夏が全然ここに来ていないわけではない。いま池の上の空間を根気よく往ったり来たりしている二匹のベッコウトンボこそ間もない夏の先ぶれであり、その美しい片鱗である。彼らはあの草色をした弱々しい五月のサナエトンボと、全身緋色で眼玉まで真赤に染まった七月のショウジョウトンボとの間の季節に、水晶硝子へ六個の黄玉トパーズを象嵌したような透明で強い四枚の羽根を、日光と天空と水の反射とにきらきらさせて飛ぶ者たちである。その目にもとまらぬ翼動は音叉の振動を想わせ、飛行を制御して空間の一点に静止する筋肉の機構は霊妙をきわめ、今ここにいるかと思えばもう彼処にというように、水上の青く眩ゆい光の中で自由自在の出没を演じている。時々ガサガサと翼の擦れあう音がする。二匹が烈しくからみ合う。そして次の瞬間にはもう離ればなれになって、悠々と旋回する彼らの姿が涼しく水に映るのである。
 池の一方には剣のような葉を立てて黄菖蒲の花が咲いている。あたりの空気も染まるかと思うその花の純粋な黄のかがよいを見ていると、ついこの間までの冬の日に池がいちめん氷にとざされ、森の子供たちが毎日スケートをやっていたのが何か遠い夢のようである。夕方近く子供たちが帰ってしまうと、そのあとへは極まって一羽のセグロセキレイが飛んで来て氷のへりを忙しそうに走りまわり、水面近くに半ば麻痺しているマツモムシを捜し出してついばんでいるのを幾度か観察したものだった。外套を着こみ長靴をはき、すっぽりかぶったスキー帽から眼だけ出した私が、曇り日の高原のあの寒々とした白一色の風景の中で。
 いまその池をかおる野薔薇やスイカヅラが崩れるように囲み、涼しい水の上を色硝子の翼を張ったトンボが飛びかい、無数の黄菖蒲の花が豊麗な花蓋をひらいて、日光のなかの夏の鮮かな黄の色を惜しみなく反射している。その黄菖蒲についてここに一つの物語がある。
 もっとも三十年も前に読んだ本からの記憶だから間違いもあるかも知れないが、本筋だけは確かなつもりだ。とにかくアサちゃん、それを話そう。
 フランスにフレデリック・ミストラルという大詩人がいた。大正三年に八十四歳で死んだのだが、その長い一生をほとんどずっと生れ故郷のプロヴァンスという地方で暮らして、土地の自然や伝説や農民の生活を題材にたくさんの立派な美しい詩を書いた。日本ではあまり読まれていないらしいが、おじさんはそのうちの「ミレイオ」とか「ローヌ河」などという本を今でも時どき読み返しては自分の心の滋養にしている。まるで温かいパンか蜂蜜か、太陽の光のように身になる本だ。
 そのフレデリック・ミストラルがたしかまだ四つか五つの幼い頃、プロヴァンスのある暑い夏の日に、自分の家の近くの池に咲いている黄菖蒲の花を見つけて、それが欲しくてたまらなくなった。いま私たちの前にあるこの花も元はヨーロッパから来た物だというから、大体これと似たものだったろう。土地ではその花を「驢馬の首」と呼んでいた。その驢馬の首の輝くばかりに黄いろい花が小さいフレデリックの心を美の魔術のように捉えたのだった。花はすぐ眼の前に咲いている。手を伸ばせば何の事なく取れそうだ。それで子供は手を伸ばした。すると重心を失って彼はボチャンと池に落ちた。子供は泣く。その声を聴いた母親がびっくりして駆けつける。そして泥まみれになった子を水から引上げて家へ連れ帰り、丸裸にして洗ってやって、たしなめながら別の着物に着換えさせた。
 フレデリックはさばさばして外へ出る。外には面白い物がたくさん有る。しかしどういうものか幼い足がおのずと再び池へむかう。池には何事も無かったように驢馬の首が咲いている。そのぴかぴか光る金色の花がどんなおもちゃよりもこの子供の目を引き心をとらえる。さっきはもう少しの処で駄目だった。けれども今度は大丈夫だ。きっと取れる。子供は気をつけて小さい足を踏んばり、伸ばせるだけ手を伸ばす。するとまたボチャン。フレデリックは泣声を上げ、母親が急いで駆けつける。何といういけない子だと、二つ三つお臀を叩いて裸にし、ごしごし洗いながら言ってきかせる。「あの池には怖ろしい蛇がいる。その蛇に食いつかれたらどうするつもりだ。もう決して池のそばへ行ってはいけない。お家のまわりで遊んでおいで。ああ何という苦労なんだろう」母親は小言を言い、懇々と言いきかせて、今度は祭日の時のいちばん美しい晴着を着せる。
 古池の臭い泥水によごれた体をすっかり洗い清められ、ブロンドの髪の毛をきれいに櫛でとかしてもらい、聖母様のお祭に着る黄や赤の大きな水玉模様のついた美しい着物を着せられて、小さいフレデリックが外へ出る。外は本当にすばらしい。ああ戸外! 戸外には南フランス・プロヴァンスのあの有名な太陽が、「金のランプ」が、夏をつかさどる王者のように赫々と輝いて美しい田舎に照りわたっている。田舎は見渡すかぎり麦刈り時で、百姓は男も女も燃えるような畠で働いている。金褐色の麦がぞくぞくと刈り取られ、その麦を山のように積み上げた車を汗に濡れた馬が曳いて行く。農家の庭からはどすんどすんと重たい連枷からさおの音がひびき、金色の塵が雲のように舞い上がる。フレデリックの家でも忙しい。父は大勢の男たちを督励して朝早くから野良へ出ている。母親も忙しい。村中がみんな多忙で、子供のことなんぞ構ってはいられない。
 小さいフレデリックは母親の言葉を守って、たった一人家のまわりで遊んでいる。色さまざまな花が咲きみだれ、蜜の香を吐き、美しい蝶や蜂や甲虫が星か火花のように飛びちがう。お祭の晴着を着た幼い子は遊んでいる。しかしそうして暫く遊んでいるうちに、あの黄菖蒲の花のまぼろしが再び彼の眼前にうかぶ。池はあすこに涼しく光り、驢馬の首は水際近く咲き誇って彼を招く。子供は神秘な力にあやつられてまたふらふらと近づいて行く。ぴかぴか光る黄いろい花が眼の前の、すぐ手のとどく所にある。何も心配することはない。お前がちょっと気をつけて、もう少し勇気を出しさえすれば私はすぐにお前の物だ。魅惑の花がそう言っているようだ。夢みる子供は感動し、胸をおどらせ、両眼を熱くして、祈る心で足を踏みしめ、手を伸ばす。おお、もう少し。もうちょっとで直ぐとどく。すると、ああ、情ないかなこの世の重心がふたたび水へと傾いて、子供はまたもや池へ落ちる。彼は泣く。救いを求めて彼は叫ぶ。
 近所の女がその声を聴きつけて知らせに行く。「おまえさんの所の小さいフレデリックが、またあの池へ落ちてしまったよ! 早く行っておやんなさい」忙しく仕事をしていた母親が驚いて息せき切って駆けつける。もう子供を叱ったり怒ったりする気は更に無い。いまや道々彼女は泣いている。「ああ何ということだろう。あの子はきっと何かにとりつかれているのだ。それでなければ病気なのだ。可哀そうなフレデリック! ああ聖母様、どうぞあの子をお助け下さい」哀れな母親は溺れた子供を引上げる。子供はなかば失神している。それを抱いて連れ帰り、よごれた体を洗ってやり、薬を飲ませて床に寝かせる。父親がとりいれの畠から呼びかえされる。
 子供はうとうとと眠りながら夢をみている。南フランス・プロヴァンスの大いなる夏。アヴィニョンからアルルまで、カマルグからクロウまで、金褐色に波うつ収穫の野を赫耀と天に冲して照らす太陽。小さいフレデリックは池のふちに立っている。池からはあの黄菖蒲が、驢馬の首の金の花が彼を招く。子供はその誘惑にどうしても打ち克てない。それほどその花の美の魔力は強いのだ。幼い手が伸びる。大きな金の王冠を載いた緑の茎に手がとどく。握る。折る。すると、ああ、剣のように立つ黄菖蒲の葉のあいだから恐ろしい蛇の眼がこちらを見ている。火炎のような舌をめらめらと吐いてねらっている。子供は思わず声を上げ、手を放す…… 夢が破れ、目がさめる。
 その時小さいフレデリックは見た。寝台のそばに哀れな母がひざまずき、枕もとに心痛の父が立っているのを。そして金と銀との剌繍をした最も美しい着物のかたわらに、ああ、一抱えの黄菖蒲の花、あんなにも欲しがった驢馬の首の花束が、目にも眩ゆく輝いているのを。それは父親が自分で行って採って来て、母親が瓶に活けてくれたものだった……
  私の話はこれで終った。アサちゃんは「ありがとうございます」と丁寧に頭を下げると、目をそらして一息深い吐息をついた。その目はじっと池の黄菖蒲にそそがれていた。
 私は静かに立上って今日の仕事を続けるために畠を去った。山々は晴れ、森の中では幽邃なエソハルゼミが鳴きはじめていた。

 

 

 

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 秋の林にて(一九四七年)

 十月の秋がすべての落葉樹の葉を黄に赤に赤銅いろに染め、さらに深い葡萄酒色や紫にさえ彩って、ここ信州八ガ岳裾野の分水荘の森は晴天つづきの一週間、さながら音も熱もなく燃える炎の世界か童話劇の舞台である。その絢爛たる樹下の小径を落葉の匂いや菌類の香をかぎながら一人静かに逍遙したり、小さい生物の営みの中で思わぬ見ものに遭遇したりすることは、一日の仕事に倦んだ私にとって何という楽しさだろう。
 きょうも一綴りの紙とペンとを机の上に残して、私は小径と自分の足の気まぐれとの導くままにこの秋の林の静寂の中をそぞろあるいた。午後三時の太陽はふかぶかと樹々の間に射しこんで、逆光で見るあらゆるもみじに華麗な窓絵硝子の効果を与えている。踏んでゆく緑の苔はやわらかく、色とりどりの落葉はしっとりと湿めっている。それでも私はいつものようにできるだけ足音を忍ばせて歩いた。いつ始まるかも分らない森の中の自然劇に備える者は、決して異様な物音を立ててはならないからである。もしもポキリと枯枝を踏み折ったり、うっかり咳払いでもしたら、そこらにひそんでいる小さい鳥や獣を驚かせて、せっかく見ることのできたかも知れぬ一幕を見損わないとも限らない。それにこんな時には喫煙も厳禁だった。彼らはどこかで微かに煙の煙のにおいがしてさえ、忽ち嗅ぎつけて逃げ出してしまうであろう。
 半時間ばかりぶらぶら歩いた末に、私はいつもの休み場所のいつものクルミの樹の下へ腰をおろした。そこはこの森の中でもいちばん奥まった所にある百坪ほどの明るい空開地で、いくらかくぼんで湿めった地面には二三種類の羊歯が繁茂し、周囲に白樺、赤松、ハンノキなどの高い木立をめぐらして、世の中からも風からも全く遮断された別天地である。春は湧水が溜まって小さい池になり、あたりは色々の小鳥の好個の営巣地になっているが、雛の養育をおわった彼らが渡りの旅に出発したり附近の林や耕地に四散してしまった今では一日じゅう森閑として、ただ時おりこの森に冬もいついているカラ類やキツツキの仲間が訪れて来るくらいのものだった。
 私はクルミの老木に背をもたせて桔梗いろに澄んだ十月の空を見上げ、おりからの夕日の光にひときわ冴えた松の緑やハンノキの高枝を飾る透明な黄銅いろの葉むらを眺めながら、以前ソローやジェッフリーズの本で羨ましく思ったこんな境地を、いま自分の書斎から数歩の所に持つ幸福をしみじみと考え味わっていた。
 と、突然、森のむこうの奥の方が何となくざわついて来たのに私は気がついた。それは人声でもなく、急に吹き起った風の音でもなく、経験ある耳ならば直ちにそれと理解する小鳥の群の接近の音であって、フランスの鳥類研究家ジャック・ドゥラマンのいわゆる Ronde des Mésanges 「カラ類の巡邏」が、木の間に響かせる無数のすばやい翼の音や、短かい鋭い叫びだった。私は身をすくめてぴったりとクルミの根方に寄りそった。と、もう先頭のシジュウカラがつぶてのように飛び込んで来て眼の前の空開地を斜めに突切り、往手に出ていたハンノキの黒い小枝を引掴んで「ズッチョピー・ズッチョピー」と鋭い声をふりしぼった。頭を包む黒頭巾の中から黒玉のような両眼を輝かせ、黒と白と灰緑色の衣裳にきびきびと身をかためた一群の指導者、闘志に猛ける精悍な雄だった。
 私が息をころして待つ間もなく、続いて二羽、三羽、十羽という同じ仲間が、突風に吹きちぎられた木の葉のようにパラッパラッと羽音をたてて散り込んで来た。自然の中の簡潔の精神、羽毛の弾丸。性急で、敏活で、好戦的で、露ほどの感傷も持合わさないこのシジュウカラの殺到に、静寂な秋の林が一瞬のうちに異常な活気を呈して来た。彼らはいずれも耳に浸みとおるような、「チイチイチイ」や、激しく叱りつけるような「ズッチョピー・ズッチョピー・ツクツクツク」を叫びながら、頻りなしに樹から樹へ飛びうつり、強い嘴で忙しく幹を叩き、身を逆しまに針金のような小枝を渡って、寸時もじっとしていなかった。そしてこの精強な一群のあとには隊商の中の女たちとも見えるエナガの群が二十羽あまりも随って、持前の優しい性質からシジュウカラとは少し離れた樹々の間に散り、「ジュル・ジュル」という柔かな含み声や、細い糸のような「チイ・チイ」を聴かせていた。その白と葡萄いろの羽毛に包まれた細そりした小さいからだは、ややもすれば白樺の白い枝や空の光にまぎれるのだった。
 ところが見ものは単にこれだけでは無かったのである。私もカラ類の巡回はこれまで幾度か見ているが、今の彼らのこの興奮にはどことなくふだんと違ったもののあることにさっきから気がついていた。彼らがこんな興奮を示す場合には、かならず何か特別にその注意をひいたり気持を 苛立たせたりする物が近くにあるか、あるいは彼らの嫌悪する他の動物が近所にいるかするものである。それならばその対象は私だろうか。自分ではうまく身を匿しているつもりでも、もう疾くに目敏い彼らに姿を発見されてしまったのではないだろうか。そう思っていよいよ身をすくめていたが、やがてじきにその理由が解った。それは私ではなくてリスだった。シジュウカラの群はそれを追つてここまで遣つて来たのである。いま一匹のリスが転げるように赤松の幹を下りて来て私の眼前一〇メートルばかりの地上ヘピョンと立った。短かい前足を胸のところまで上げ、房々した平たい長い尾を背中へ曲げて、大きな黒い眼をくりくりさせた灰褐色のリスである。
 私はこの森に少くとも三頭か四頭のリスの棲んでいることを知っている。よく彼らが赤松のてっぺんからてっぺんへと渡り歩いて未熟な縁の毬果を食いちらしては、そのかけらや食いあましを下の地面へ落とすのを見かけるし、森のふちの土手の日当りで遊んでいるのを目撃したことも幾度かある。ある時などは偶然出あいがしらにぶつかって人間とリスの雙方がびっくりし、お互いにちょっと気まずい思いをしたこともあった。その時リスは真白な腹を翻してくるりと樹の幹の反対側へ身を匿し、「居ない居ないバア」のように時々顔だけ出して私の様子をうかがった。尖った耳をぴんとつっ立て、長い髭のはえた鼻面をひくひく動かしながら、可愛いつぶらな眼をみはってまじまじと自分を見ているこのリスという小動物に、私はほとんど人間同士のような感情を、いやもっと正しくいえば人間の子供に対するような愛情を抱かざるを得なかった。
 いま高原の秋もたけなわのもみじの森で、自分を囲んで烈しく叫び合ったり矢のように飛び違ったりするシジュウカラの群の真中へまるごと姿を現した前記のリスは、しかし見たところ頗る平気で、心臓を躍らせたり息を弾ませたりしている様子もなく、また自分に対する小さい鳥たちの興奮をかくべつ恐れてもいなければ大して迷惑がってもいないようだった。むしろこんな子供らしい捕物遊びをまたしても彼らが欲するならば、同じ森に棲む仲間として少しは相手になってやってもいい。こう見えてもこっちは立派な大人だから、少しぐらい乱暴をされても何もむきになったり怒ったりはしないのだと言っているように思われた。そう思って見ると、一方シジュウカラの方も実戦さながらに勢だけは猛烈だが、べつだん相手を本物の敵と見なしている訳でもなく、ただ精いっぱい翼を鳴らし声を振りしぼって有りあまるエネルギーをこの荒っぽい遊戯に集中発散して、逃げ廻る隣人を追い立てることに一種のスリルを味わっているとしか考えられなかった。
 こういう見方や考え方は、あるいは観察者自身の安易な人間臭い主観として斥けられるかも知れないが、この場合余裕のある寛大なリスの態度といい、華々しく攻め立てはしても遂に殺意を感じさせないシジュウカラの動作といい、そこにはどう見ても真の決闘を語るものが欠けていた。私はその三日ばかり前に、この同じ森に棲む一羽のチゴハヤブサが釜無の谷から遣って来た十羽のハシボソガラスに立向って、これに猛烈な攻撃をかけている実況を目撃した。ガアガアと騒がしく鳴きたてながら狡猾に逃げ廻っては執拗な蠅のようにまた戻って来る鴉の群を追跡して、上空から風を切って飛びかかりざま敵の頭や肩を蹴るこの小型の鷹の果敢な攻撃には、まぎれもない必殺の意志が現れていた。そしてその空中での烈しい追撃戦のあいだに時々まっくろな大きな羽毛が秋の青空を舞ながら落ち、やがて十羽の鴉は撃退されて向うの谷間へ飛び去ったのであった。
 しかし鴉に対するチゴハヤブサのこの憎悪や必死の攻撃を、私は今このリスに対するシジュウカラには遂に見ることも感じることもできなかった。それは確かに冒険的なスリルヘの要求に過ぎず、相手に実害を与えない程度の攻撃であって、つまり一種の戦闘遊戯に外ならないもののように思われたのである。そして事実リスの体からは一筋の毛も散らず一滴の血もこぼれず、またシジュウカラの間から一羽の負傷者も出なかった。そしてやがて好人物のリスが姿を隠し、優しいエナガの群を随えてシジュウカラの一隊が意気揚々と引きあげるのを見送りながら、美しい小鳥と小さい獣とによって演ぜられたこの日没時のひときわ絢爛な秋の林の一場の自然劇を、私は近頃での最上の収穫として心も豊かにほのぐらい小径を我が家の方へと歩み返したのであった。

 

 

 

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 背負子(一九四六年―四七年)

  マーテルリンクの朝

 一九四五年五月はじめのある日の朝、東京市内の家から府下砂川村の親戚に寄寓していた私は、その日の仕事である馬鈴薯の芽掻きをするために武蔵野の小径を畠へむかって歩いていた。それは今次大戦最後の年の春のおわり夏のはじめで、敗戦と死の影が刻々と祖国の空へ凝集する一方では、自然がその滔々たる生命の高潮たかしおを、空間や大地の広袤へみなぎらせている時であった。
 その時、敢えて世界をと言わず、少くとも祖国と自然との現実を同時に正視することのできた者にとって、この苦難と清朗の、この暗黒と光明の、たがいに背中合わせになった、不連続的に接触した毎日を生きるにも増して苦しく悩ましいことは無かった筈である。新緑の林の奥に小鳥らの囀りが鳴りひびき、一望の麦の畠に精力的な日光が君臨し、白いムシカリや薄紫の桐の花が深遠な空間に揮発している五月の日を、きょうも命あって野を行く私の心は重かった。
 私は左右から甘い噎せるような芳香を吐くスイカヅラの生垣のあいだを過ぎ、きのうから春蟬の鳴きはじめた赤松林のふちを通って、やがてうち開けた畠のへりにタンポポが無数の金のボタンを撒きちらしている路へさしかかった。と、その時とつぜん、一つの断片的な句が、耳もとを飛びすぎる蜂の羽音のように私の頭脳をかすめた――
「彼らは都門の外にあって、そのさまざまな色彩の快活な熱意をこめた絨毯の上にわれわれの歩みを迎える」
 この一見平凡な句、しかも国家の前途いよいよ危うく、きょうもまた空襲の爆声が鳴りはためくかも知れぬ田園の小径の上で私を照らしたこの平和な一句こそ、モーリス・マーテルリンクのエッセイ「野の花」の冒頭のそれであった。私は二十一歳の昔初めてそれを読み、熱中に瞳を輝かせてその一篇を訳したことがある。それが今、薄青い愛惜の底にねむっている過去の遠方から三十幾年を一飛びに飛んで、ゆくりなくもこの矛盾そのものである現在の私の心を一瞬の光線で照らしたのであった。私は眼を上げて地平線を見、空を見た。「貧者の宝」、「蜜蜂の生活」、「花の智能」、「二段の庭園」、「智慧と運命」等々、マーテルリンクという一つの天体をめぐる衛星の群が、今や憐むべき私の精神の天に燦然と南中した。
 その日私は寄寓の農家の古い土蔵の二階へ上って、厚い小窓をとおして射しこむほのかな空の光をたよりに、塵にまみれた数十箇の紙包の中から「マーテルリンク」と書いた一包を探し出した。それから毎日昼間や夜のわずかな暇を私はその読書に費した。一概に象徴詩人と呼ばれ神秘主義思想家と片づけられたモーリス・マーテルリンクは、三十年の空白の後、私の前にまったく別種の光をまとって現れ、まったく異った相貌を呈して現れた。それはあの宇宙万物の頌歌カンティックの巨人エミール・ヴェルアーランを兄とする、高邁な智慧と意志との巨匠であった。
 マーテルリンクに対するこの新らしい――少くとも私にとって新らしい――発見と理解とがむしろ私を救い、かつ私自身の本来の性向と能力とを生かすべき新発足への暗示として、彼の自然を主題とした数篇の深く美しい小論文を翻訳させ、それを「悦ばしき時」という題下に編纂させる動機とは成ったのである。そして没落に垂んとする祖国と生々と進行する自然とを同時に視る懊悩から私を引上げ、その新らしい光明の中から新生の一歩を踏み出す力を鼓舞したのは、実に次のような数行をもって要約することのできる、彼において特に顕著な主要動機であった。
「もしも自然が一切を知っていて決して誤ることがないならば、もしも自然がそのあらゆる企図において到るところ断然完璧かつ的確であるならば、そしてもしも自然が一切事物の中にわれわれのそれとは到底較ぶべくもない勝れた智慧を具現しているのならば、われわれとしては自然を怖れ、勇気を挫かれる余地もあるであろう。そして自分たちが知る希望も測る希望も持つことのできない一つの不思議な力の犠牲であり、餌食であると観念しなければならないであろう。しかし自然のこの力は、少くとも知的な見地からすれば、われわれの力と密接な同族関係にあると見るほうが更に適切であるように思われる。われわれの精神は自然のそれと同じ源から汲むのである。人間と自然とは同一の世界に属し、ほとんど同等の立場にいるのである。われわれはもはや手も届かぬような神との交渉をやめ、われわれを不意に襲って指導する、かの覆面した兄弟のような意志の力と協同すべきであろう」

  春はふたたび

 青と赤との鉛筆で一日平均、十日平均の気温を跡づけてゆく曲線が、方眼紙の上で一月二月の最低気温の深海底をあえぎながらくぐりぬけると、漸く浮力を獲得したもののように三月中旬ごろから次第に活気づいて上昇の一路をたどる。赤松やカラマツの森林のほかは満目ほとんど白銀の世界だったこの高原の片隅で、温度の斜面を営々とのぼってゆくこれらの曲線の努力の跡をたどることは、真に痛烈な喜びでもあれば感激でもあった。
 ドイツ歌曲の天才フーゴー・ヴォルフが作曲し、若いコントラルトのユリヤ・クルプがこれを歌い、そして革命の女性闘士ローザ・ルクセンブルクが彼女のもっとも美しい手紙の中でそれを想い出しているあの「エール・イスツ」を、「春が来た」を、あたかも自分の幻想を呼びいだすように、私もまたこのみすずかる信濃の山の雪の中でいくたび空しく歌ったことだろう。自然の春、わが心の春を待ちながら……そして今やそれは来た、
  「春はふたたび大空に
   その青きリボンをひるがえすなり!」
 地上の春は睡り足りた子供のように目をさまし、満潮の海のように膨れあがる。大地はしびれた手足を伸ばし、あくびをし、涙を溜め、そして悠然と立ちあがる。小鳥の声が霊妙になる。越冬の蝶がよろめき出る。白茶けた枯野に若草の緑がもえる。木々の芽が光り、堅い苔が柔かにふくらむ。朝の高原に流れるツグミやカシラダカの別れの曲。すると突然ある日のあでやかな夕日の色に染められたハンノキ林の高いこずえで、今年最初のアカハラの歌が澄んだフルートのように響きわたる。同時にクロツグミやキビタキの賑やかな帰還の歌。しかし森に定住のカラやキツツキの類はもう彼らの家庭をいとなみ、燕や岩燕は道におりて春の泥をついばみ、また空高く三日月のような翼を張って飛んでいる。
 地上の春のテンポはこのように急調子だが、一日に四分ずつ進む天上の春や大気の領域である空中の春にはそれほど目まぐるしい飛躍はない。同じ自然の方則に律せられてはいても、大空の歯車は地上の歯車よりもその半径がはるかに大きい。ここにはかげろうのような生死と哀歓とがあるが、あの高いところを流れているものは多少なりとも「永遠」に似かよっているのである。
 私は山田のふちのクローヴァの土手に腰を下ろしている。残雪の簾を懸けた八ガ岳連峯が雲母きららの粉を撒いたような春霞の中にうすあおく震えている。日はうららかに、すべての音がまろくうるむ。それでいながら高原の春風にはどこか金属のような感触がある。自然の推移が、遠いものほど、また高いところほど、急激でないのが人間の目や心にとっては休息である。そこで人は好んで遠山を見る。水平線を見る。雲を眺め、星を仰ぐ。そして今私の眺めているのもその雲である。春の雲である。
 八ガ岳の上に二筋三筋、刷毛ではいたような巻雲が出ている。これが秋や冬ならば、元来氷の粉末でできた雲として普通は方解石いろに見えるのが、今日はほんのりと薄い薔薇いろに染まっている。編笠岳の長い裾野のスカイラインの上に古い綿玉をならべたように泛んでいる積雲も、輪郭が柔かで色調にも虹色や青のぼかしがあって、夏のようではない。その輪郭が柔かいのは、夏ほど昇騰気流の勢が強くないせいか、あるいは気温の逆転で上層の暖気流に抑えられているのかも知れないが、その色にほのぼのとしたぼかしがあると見えるのは、春にとりわけ多い空気中の水分や細塵などのためである。それにあの空の下には甲府盆地が横たわり、そこにかぎりない生の塵労がある。その盆地の上にそびえる富士山が、この信濃の国のどの山よりも更に霞んでむしろ薄赤い夢か匂いのように見えるのも、あながち二十里という隔たりのせいばかりではないかも知れない。

  ベアルンの歌

 京都の大学で化学を勉強しているある若い学生が、私にセザール・フランクのオルガン小曲集を貸してくれた。
 山に囲まれた湖畔の町の有識階級の子で、その両親には鍾愛され、二人の妹には慕われ、主任教授にも愛され嘱望されている幸福な青年である。私もこの青年に好意をよせている。今に良い学者になるだろう。やがて美しい家庭をいとなむだろう。医師であるその父親のように。ひとつの明るい未来がその若い額を染めている。湖水にうつる日本アルプスの雪をきょうもモルゲンレーテが染めているように。
 彼はフリュートをたしなむ。私はこの青年ナルシッスがその柔かな湿めった赤い唇で吹く天使のような音いろの楽器で、グルックを聴き、ラモーを聴き、ドビュッシーを聴いた。彼は研究室では白いブルーズを着ますと、すこし顔を紅らめて言う。ニッケルや水晶ガラスの清新な光の中で、その白麻の上張りがよく似合うだろう。私はそういう時の彼を見たいと思う。しかし京都はここからは遠い。
 借りたフランクの小曲集は六十八篇のオルガン曲から成っている。あの長短のパイプの林立した堂々たる物ではなくて、家庭にある只のちいさいオルガンのための曲である。一通り弾いてみたが三分の二はまったく手に合わない。そのまた半分がやっとのことで、残りがどうやら弾けるのである。その辛うじて弾ける中に「ベアルンの歌」というのが二つある。一つは嬰ヘ短調のアンダンティーノで、もう一つは変ト長調のポコ・アレグレットオ。いずれも四分の三拍子である。その「ベアルンの歌」という題が先ず私の心をひいた。
 ベアルンは仏蘭西の南西部、スペインと国境を接した歴史上でも古い地方で、今はバス・ピレネエ県に属している。太古の運搬物である岩石や泥土の堆積から成る輪郭のまろい丘陵の起伏のかなたに、蜿蜒とつらなるピレネエの雪の峯々を望みながら、灰いろの壁と緑や血紅色の窓をもつ家々が、わずかな平地や丘の中腹で、南欧の暑い太陽に照らされている国である。そしてこれらの丘陵の群れと、無数の渓流と、いたるところに見る数世紀をけみした長い緻密なかしの樹の列とが、いわばこの地方の自然の貌をなしているのである。
 二つの曲はあのリエージュ生れの大作曲家がこのベアルン地方の民謡をとりあげて編曲した物であろうが、いかにもその土地の風土から深く自然に生れたもののように思われる。隣のスペインの歌のように烈しい哀歓の調を帯びて暗く燃えあがるそれとも違うし、諧謔と諷刺とのびのびした野趣に富んだフランス中央高台オーヴェルニュの歌とも違う。どこかに英仏海峡の向う岸のにおいはするが、その本質にはギリシヤ的なものとカトリック的なものとが幸福に融合した農民の魂が歌っている。それは精神的でもあれば牧歌的でもある。四方へ葺きおろした大きな屋根の斜面にそれぞれ明り窓があり、その明り窓にまた一つ尖った屋根のついているそこのおちついた手広い農家。大きく見事に開いた二本の角をもち、その鼻面を赤い紐でかざられ、背中に青と赤との縞模様の布を掛けられたその土地の牛。八月のかしの森の空開地に緑の毛氈をしきつめる羊歯や藺草。好んで青いベレーをかぶった町や田舎の男たち。こうした淡彩の画が、これらの歌の奥から私には明るい昼間の霧のように湧いて来るのである。
 ポコ・アレグレットオの速度で弾かれる変ト長調三十小節のみじかい曲は、夏のおわり、秋のはじめの白い雲と、ただ一人丘の草原にうずもれてそれを眺めている者の心とを想わせる。手に触れる草はまだ緑に、まだなまぬるいが、土の感触はもう真夏の頃のようではない。暑く、華々しく、玉虫いろに輝いた夏はおもむろに南へ移って、鳶いろと青との秋が天地のあいだに水のように浸みて来る。新らしくされた感官と望みとをもって明日の生活に向おうとする決意に変りはないが、見返りがちに去って行く昨日までの過去にまだいくばくの未練はある。にがい悔もなお甘く、夢の杯もなお飲みほされたわけではない。しかも野にはもう薄紫の松虫草が咲き、森の小鳥たちは次々と出発する。木々の梢が色づいて来る。それを九月の太陽が残んの熱であたためている。風景にはいちめんに白々とした別離の哀愁が吹きわたっている……こうして颯々と地を吹く風が低音部でかなでられ、空高く静かにうごく白雲と、その雲に寄せる心とが高音部のメロディーで表現されるように、少くとも私には思われるのである。
 嬰へ短調アンダンティーノの曲は、私にはどういうものかフランシス・ジャムのような一人の老詩人と、一人の若い村娘との愉快な対話をおもわせる。事実ジャムはこの地方の小都会オルテズに住んでいて、カトリック教徒として敬虔と静謐との長い一生をそこで終ったのである。この曲もやはり民謡から取られたものらしく、三十一小節から成る小品で、その曲と同様節度と気品とを保ちながら一方諧謔的なものを持っている。村の娘の言葉のように想像される高音部のメロディーは率直で明るく、老詩人を想わせる低音部のそれはいくらか瞑想的で祖父らしい。まず娘が瞳をかがやかせて心中の秘密をぶちまげる。老詩人は調子を合わせてうなずきながら聴いているが、今度は自分の関心事を年に似合わぬ若々しい声で告白する。そのあいだ娘は半分うわの空で別のことを呟いている。こうして二度繰返される牧歌的な対話は、雙方ともに愛に関する事らしいが、どうも話がしっくりしない。食いちがう。それもその筈で、うぶな娘が夢中になってしゃべっているのは同じ愛でも自分の恋人の事であり、若い頃クララ・デレブーズやローズやマモールを愛したこの老詩人がいま熱心に語っているのは、同じ愛でも驢馬の事だからである。娘はその愛人と今夜赤い爽竹桃の花の下で踊るのだといい、老詩人は物いわぬ驢馬をいとしんで、明旧は羊歯の葉で日除けの帽子を編んでやりたいというのである……と、こんな想像をほしいままにして私はこの曲を味わった。
 ともかくも一度こういう解釈をしておいて、さて再び白紙に帰って弾いていると、やはり巨匠セザール・フランクの音楽の純粋で、明澄で、清潔に感覚的で甘美な質が、こんな小品にも隈なく渗透しているように思われる。そこには古いギリシャを思い出とする地中海的なものが感じられる。ラングドックからプロヴァンスにかけて照りわたる地中海の波の光と、空の色と、ホーマー・オデュッセー的な質である。そしてこのオルガン小曲集六十八篇の作品が、その根本では、いずれもアリスティード・マイヨルの彫刻やポール・セザンヌの絵画と一脈相通じるものを持っているように思われて来るのである。

  背負子しょいこ

 この藁の袋。私はきょう初めてこれを背負って山へ来た。
 人はこれを和製のルックサックだと言うかも知れない。いや、本当にそういった人がある。しかし私は心の中でその呼び方を拒絶する。私はそんな気のきいた思いつきを喜ばない。なぜならば本当の「和製」はほかにあるのだから。有り過ぎるほどあるのだから。それはこんにち静かな山路を静かに揺られては行かない。それはもはや楽しい休日の雰囲気もまとわず、青い嵐気をも漂わせず、悲しく暗く憂鬱に、現世の街路を右往左往している。あるいは不寛容に、不満げに、排他的に、闇米や買出しの袋としてひしめき合っている。ああルックサック! このかつての山の忠実な伴侶をふたたび背中にすることを、こんにち、時として、人は恥じる。あるいは慎む。
 ところで私のこれは君のいうそれとは全くちがう。
 これはここでは背負子しょいこと呼ばれている。秋田あたりならばコダスといって山葡萄の皮を編んで作るだろう。カルイと呼んでいる所もあるかも知れない。名は地方によっていろいろ違う。材料もその土地で工作にもっとも楽な、出来上がって見た目のいい、そしてとりわけ永年の使用に堪える、たぶん何か植物のしなやかで丈夫な繊維が選ばれる。これも藁でできている。この土地の百姓が山仕事や田畑の仕事に、鋸を入れたり、弁当を入れたり、飲水の壜を入れたりして背負って歩く袋だ。
 みっちりと真田に編んだ藁紐を手堅く綴じて高さ一尺四寸ばかりの円筒を作り、それをつぶして一寸幅の底をつけ、底の両端から袋の口の中心へと麻糸をよった負い紐がまわしてある。見るからに手丈夫で、仕事が確かで、美しく、裂くことも破ることも断じてできないしろものであり、手馴れ扱い馴れた稲という植物の繊維の強さと美点とを、あくまでも発揮させた農民独自の手芸品である。しかもこの金色に光る藁袋の表側には、まんなかに縦に一本葡萄いろの布の真田紐が編みこまれ、負い紐の肩にあたる部分は特に藤いろと緑と赤の三色を配した平打紐になっている。それはこの袋への点晴であり、またこれを作ってくれた人、の心意気の花でもあるのだ。
 これを私に作ってくれたのは隣村の若い人たちである。頼まれてささやかな講演をしたのが縁となって、彼らと私とのあいだに新らしい友情が結ばれた。冬の狂暴な大風が高原一帯に吹きすさむ時でも、そよともしない静穏な谷間の村。そこが淳朴で怜悧で勤勉な彼らみんなの部落である。ある日その一人の代表がこのみごとな袋を私に「うやうやしく捧呈し」に来た。ほんとうにそう言ったのだ。そして更に「これを先生の散歩のお役に立てて下さい」と附け加えた。ああ、かくも過分な厚遇と真心とに接して、新参の移住者、無力な一詩人、私として忸怩たらざるを得ないではないか。また深く考え込まざるを得ないではないか。
 なぜならば、私はこの人々のために何か善事をしたろうか。この若い純真な男女の心を一層富ませること、さらに美しくすること、あるいはその慰めや力となるようなことをしたろうか。もちろん私のささやかな芸術の仕事は何も特定の人たちを目標としてなされるのではないから、世の中には私のまったく知らない種々の社会的地位の人々の間に、私の著書から何かを得るところがあって密かに関心をよせている若干の人が全然無いとは言えないかも知れない。しかしこの山の国の谷間の村にさえ、すくなくとも私に関するかぎり、そういう人の存在する確率は先ず零に等しいといわなくてはならない。それならばその彼らをして私を先生と呼ばしめるものは何だ。道で行きあう私に対して帽子をぬぎ、忙しい代掻きの手をとめて向うの山の田圃から遥かに辞儀をさせるものは何だ。ああ、それは恐らく、多少世間に通用している私の名であろう。あるいは物を書くという幾らか変った仕事であろう。いや、確かにそうだ。まだ馴染もうすい一つの土地での、それは空名であり虚位であるに過ぎない。
 戦争は多くの芸術家を国の隅々にまで移住させた。地方に故郷をもつ者も持たない者もそれぞれの縁故をたよって安全と食物とのある土地に身をよせた。そして先ず温かく彼らを迎え、また彼らの方でも好んで接触して行ったのは、その土地土地の若い教師や青年男女であったろう。彼らはそこに「文化の普及」を夢み、またそれを実行して、多かれ少なかれ寄与するところが有ったであろう。そして中には己れの耕し培ったところに満足して、いう所の「中央」へ帰った者もあるであろう。また周囲の引きつづいての歓待に居心地がよく、そこに安住の意を決した者もあるであろう。しかしまた、悲しい夢は破れ希望の光も得られずに、空しい失意や新らしい疑惑を抱いたままその地を去った者もないとは言えまい。けだし地味豊かな土地があると同時に不毛の土地もあるとすれば、それもまた詮ない運であった。しかしそのような不運な場合でさえ、なお且つその播いた種子のうちの一粒が、いつか誰かの心に発芽して、やがて花を咲かせ実を結ぶことが全く無いとはどうして言えよう。いな、その可能を確信する事こそおのれの天職を信ずること篤い者の力でなくてはならないだろう。古い大地は他人にゆずって新らしい土地に種子を播くこと、これこそ実に芸術家や思想家の正当な野心でなくてはならなかった。
 この背負子、この思いもかけぬ山村の贈物、そしてそこに表現された彼ら青年男女の淳朴な敬意とまごころ。私はこれをその人たちの私に対する明日への期待のしるしと考える。たとえその期待が今の私の力には堪えないほど大きなものであろうとも、願わくば、若い世代に寄せて惜まぬ私の愛情が、この袋を私の肩に決していつまでも重荷と感じさせることのないように。
 この藁袋、山村の若い男の友情のように強靭で、そこの若い女の誠のように美しいこの背負子を、私は今日初めて背負って山へ来た。

  山村俯瞰

 急に思い立って午後三時二十分の新宿行列車を甲州小淵沢まで乗った。そこから西へ辺見往還をあるいて釜無川の谷へくだり、その谷ぞいに甲州街道をさかのぼって夕飯までに帰宅しようという三里なにがしの午後の散歩だ。
 今曇り日の午後四時すぎ、小淵沢から半里あまりをだらだらと下りて来た道の急な曲り角の、ある高い崖の出鼻で風化した角閃安山岩の薄赤い露頭をつつむ青草に腰をおろしている。雨気をはらんだ谷風に崖際のマタタビの葉が裏がえり、湿めっぽい草の中でナキイナゴのぎちぎちの声。往還とは言ってもほとんど人間の姿を見ない一すじの寂しい山道が、これから二〇〇メートルばかりをかなりな降りで信州下蔦木しもつたきの小さい部落へ通じている。甲州でも北西の片隅の、ここは謂わば隣国との境の峠だ。
 正面は深い谷を隔ててびっしりと黒木を鎧った甲斐駒つづき雨乞岳の急斜面だが、左手には谷を縦に見通して釜無川右岸の古い山村教来石きょうらいしから台ガ原への細長い二里の俯瞰景がある。その上にのしかかる甲斐駒や鳳凰の巨大な山塊も見せずに漠々と垂れ下った梅雨時の雲の下、糸のような道に沿って点々とならぶあの山間聚落の遠望が、何か知らぬが強く胸にせまってくる。
 おそらく今私があの道をとぼとぼ歩いて、こけら葺に押石をならべた屋根を持つ古い農家や、柿の葉の緑によく調和したその土蔵の白壁や、灰緑色の苔が貼りついた路傍の低い石垣や、谷に沿った狭い水田の田植の景色を見たならば、あるいはそこにまた一つの牧歌を思うかも知れないが、今この高みから彼らを見おろす気持にはそれとは違った一種痛烈なものがあるのだ。それはこの陰惨な日の谷底に遠く同胞のけなげな生の姿を見て湧き上がる切なる愛情であるかも知れぬし、あるいは無心の山河と国の現状とを思いあわせて胸に突き上げて来る悲痛の念であるかも知れぬ。たといそのいずれにもせよ、今日瓢然と家を出てここ甲斐の国の名もない山の出鼻に足をとどめ、山谷に満ちる雨を含んだ青嵐のさつさつの響きのなかで、ああ、かつての楽しい登山の道すがら私が愛して通った台ガ原や教来石の村々よ、今はからずもなつかしいおんみらを遠望して咽喉の塞がるような思いでいるこの私を、せめて愚かだとは嗤わないでくれ……

 

 

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 友 情(一九四七年)

 幸子さん。
 あなたが七月にここで会われて、一緒に楽しい山登りをして、「その後あの方たちはどうしていらっしゃいますか」とついこの間のお手紙の中でもたずねて寄越されたその人たち、あのNさんとTさんとのことを、それでは今夜は書いて送りましょう。
 もうこの高原も朝から秋風のひびきに満たされる世界となり、路傍の白樺や胡桃の木なども日なたの金と日かげの青とを幹に纒って、自然の中での個の姿をはっきりと見せています。そのように、秋は人間ひとりひとりの存在を他の存在と紛れさせることなしに見たり考えたりするには最もいい季節です。たとえば咋日まではさして気にもとめなかった隣人の上に、不図しみじみとした心を寄せるのも、季節的に見れば、もう真昼でも太陽の光が斜めに照り、気温が下がり、影がふえ、森羅万象の空気境界面がそれぞれにはっきりして、個の姿や運命があらわに浮上って見えて来る秋にこそ、わけてもしぜんな衝動のように思われます。

  主よ、時です。夏は偉大でした。
  あなたの影を日時計の上へ横たえて下さい。
  郊野へ風を放って下さい。
  最後の果実らに満ちるように命じ、
  なお二日の南の日光を彼らに与えてやって下さい。

と、あのリルケの素晴らしい詩にあるような「秋の日」に、遠い東京のあなたのために、山また山の青い空間幾十里を通して、この放たれた風と日光との高原に生きている親しい人たちのことを語るのは、私にとっても、露と星とに更ける夜長の楽しい一と時だと言えるでしょう。

     *

 何よりもまず二人とも至極元気だと思って下さい。二人とも、NさんもTさんも、一家の主人として、また夫や父親として、機嫌よく頼もしく真面目に働くのに、申しぶんの無いくらい見事な健康状態にいると思って下さい。あなたのように若くて物分りのいい今の娘さんは、もう「肉体がひどく健康で生活に活気があるのは、その人がいくらか卑俗な証拠なのだ」というような、あの老嬢じみた古い偏見を持ってはいないでしょう。しかしそういう偏見の持主にかぎって、百姓や商人や労働者や雇人などという者は由来いつでも丈夫であるべきだというような、また別の偏見をも持っているものです。あたかも病身である事が魂の高貴さの一つの兆候ででもあるかのように。しかもそういう考えを持っている人でも、自分の身内の者がその高貴な血統や家風の故にしじゅう病気ばかりしていたら、実は内心うんざりしてしまうことでしょう。最近その翻訳が出たので多分あなたも読まれたことと思いますが、あのロマン・ロランの「コラ・ブルニョン」の、古いゴールの牡鶏のような健康と笑いとを私たちも常に欲しいものです。
 御存知のようにNさんは私の住んでいる村での草分けの呉服屋さんです。Tさんは隣村の製材工場の経営者で同時にそこの職工です。そしてNさんは鷹揚に公正に、Tさんは真黒に汗まみれになって、しかし二人とも自分たちの家業を楽しんでやっています。彼らは満帆に風をはらんだ船のように張り切って丈夫です。だから月に一回ぐらい私たちが集まって乾杯をする時にまず互いの健康を祝うのは、丈夫なればこそ好きな仕事を楽しんでやって行けるその感謝の気持からです。病気で不機嫌になっている友達には、同情はできてもプロージットは言えないでしょう。私にしてもどうやら丈夫で仕事ができればこそこうして生きて行けるのですから。
 そして昨日も偶然に集まりました。酒が無いので食卓はドライでしたが、天気の方は朝からのしっとりとした雨もよいで、立場川の深い渓谷を眼の下にするTさんの家の座敷からは、もうそろそろ秋色を帯びて来た樹々のあいだを白々と流れる霧が見え、時おり高い鉄橋を渡ってトンネルヘ入る中央線の列車の汽笛がきこえました。食後Kさんの御手前で抹茶をいただきながら、こんな日にこんなところへ招きたい東京の誰彼の噂をしました。ぼうぼうと裾野をこめた白い雲霧の中から時どき姿を現す墨絵のような八ガ岳、流れに近く鮮かな黄色い葉をまじえた胡桃の樹につながれて草をはんでいる一頭の山羊、たまたま庭先の石へ飛んで来て「チチン」と嗚く黄鶺鴒。それは都会を遠く、騒人を遠く、秋草の野をひろびろと霧の這う一〇〇〇メートルの高原で、久しぶりに一緒に過ごした清閑の半日でした。

     *

 われわれの村の入笠山へ東京から来たあなたたち登山者連を案内してあげた時、私につきあって一緒に行ってくれたNさんとTさんとが、あなたたちみんなの気に入ったらしかったのを見て私も喜びました。「気に入った」と言うのに語弊があれば、「ここにもまた善い人たちがいたと思った」と言いましょう。しかしそう思われたのはむしろ当然のことで、世間は広くてもああいう人たちはそうざらに居るものではないのです。ちょっと考えれば、終戦後初めて来た東京からの登山者一行を歓待することは、自分たちの土地の山の宣伝にもなることだから喜んで一日を同行したのだろうというふうにとれるかも知れませんが、実はそれどころではないので、あの人たちはめいめい一日の家業を休んでも東京からのあなたたちを喜ばせたい、遥かに求めて来た山の二日をできるだけ豊かな楽しいものにしてあげたいと思ったのです。Nさんは詩人的な心の持主で商人には珍らしく自然や芸術の愛好家であり、Tさんは熱烈なべートーヴェニアンでまた同時に北アルプスの猛者です。そういう人たちと私との間にいつかしら友情の結ばれる機縁のありそうなことはあなたにも察せられるでしょう。そしてその二人の人が、東京を去ってこの土地に住む決心をするに至った私の経歴と気持とに深い同情を寄せ、ここから新らしい仕事を産もうとする私のために有形無形の声援を惜まないのです。ところでそのNさんとTさんとが初めて会ったあなたたちにも好い感じを持ったこと、これがまた私の喜びでした。幸子さん、山はいつでも同じ処にあります。しかし人はいつでもいるわけではありません。人と人との遭遇は星と星との遭遇よりもなお稀な、まったく偶然に近い機会の所産といえるでしょう。それならば縁あって良い友を得たならば、後に悔をのこさない程その人を大切に思わなければなりますまい。

     *

 戦災で住むに家のなくなった私たち夫婦が漸くのことでこの高原の片隅に救いの家を見出した時、私はもうこれからは今までのような世間との交渉を一切持つまいと決心しました。それにまた世間も無かったのです。停車場から十何町、近辺には人家もなく、毎日顔を合わせるのは、この森と家との持主であるWさん一家と、戦争中ここの留守番をしていたお百姓の一家だけでした。それにここからまた十町ばかり上にある小さい農場で働いている私たちの娘夫婦。みんな数えてもそれきりでした。私に安住の家を与えてくれる人があり、私のために著書の出版を引受けてくれる本屋さんがあり、私を愛し理解してくれる妻と二人の子供とがある以上、何の不足があったでしょう。私は人々の親切と、この期に及んでもなお自分に許された幸福とに対して、ただただ感謝するのほかは無かったのです。しかも幸福はそれだけではありません。そういう私を包んで素晴らしい山岳や高原の自然が、幾里という圏内を波立ち拡がっているのでした。
 時は夏でした。そして「夏は偉大でした」。そして高冷地の短かい夏が青と金との光の中で秋の焔となって燃え尽きると、やがて周囲の山々の頂きから結晶のような冬がおりて来ました。そのあいだ私は毎日昼間は野山の植物を調べたり、小鳥の生活を観察したりして、あのジャン・ジャツク・ルソーのように「孤独者の散歩」を楽しみ、夜は夜で幸いにも戦災をまぬがれた幾らかの蔵書を片端から読み直すことで、久しく遠ざかっていた静かな読書の喜びを味わいました。
 しかしそうして暮らしている間のある日のこと、私は配給品を受取るために停車場前のある店へ行かなければなりませんでした。ところがその時に出て来た店の主人というのが、背の高い、立派な体格をした、容貌の穏やかな、そして口数の少い、どっちかといえば無愛想に見える人でした。それが即ち今のNさんですが、その人が私のことを「先生ですか。まあお掛けなして」と上り框がまちへ座蒲団を出しながら、ちょっと奥へ入ったかと思うと一冊の本を持って来て、「まだ幾冊か持っていますが以前からの先生の愛読者です」と、少しはにかんだように顔を赤らめて言うのでした。本はたしか『雲と草原』だったように覚えています。私は一箇のエミグレとして、名も無ければ人にも知られぬ者としてこの土地へは来たはずなのに、こんな処にまで自分の読者のいたのにびっくりし、その日は早々引取って帰ったのでした。その時貰った名剌で初めてNさんという名を知ったのですが、帰りしなに「ここには私のほかにまだ二三人先生の物の好きな方がおいでです」と言われて、困ったなと思うと同時に、内心いくらか嬉しいような気のしたことも事実です。古い譬えですが書かれた物はたんぽぽの実のようです。それを生んだ親草は時が来て枯れても、また踏みにじられて亡びても、風に吹かれて四散したその種子は親の知らない土地に落ちて未来の春に萌え、自分を生んだ者の姿をさながらこの世にとどめるのですね。
 これは余談ですが、今年の春甲府の町で講演をした時、会が終って帰って行く聴衆の中から、七つぐらいになる女の児を連れた四十恰好の男の人が控所にいる私に会いに来て、署名をして貰いたいといって背中のルックサックを開けて十冊ばかりの本を取出しました。それが何とみんな私の著書で、翻訳を除いた詩と散文の本のほとんど全部なのです。身にはつぎだらけのシャツと半ズボンをつけ、黒いチョッキを巻き、古い大きた兵隊靴を穿いた、煤を塗ったように日に焼けた顔の、がっしりした体格の人でした。終始にこりともせず、何も言いませんでしたが、署名が済むと初めて明るい笑顔を見せて礼を言い、つぶらな眼をした小さい娘を連れて帰って行きました。その堂々とした後姿を見送りながら、居合せた会の世話人たちがひそひそ話をしているのを聞くと、「たしか御坂みさかの山奥で炭焼をしている人」だとかいうことでした。その時はただ小さいタッツケを穿いて父親の手に引かれて行く女の児を可憐に思い、この夜更けをこれから山まで帰るのか、それとも甲府に一夜の宿をする身寄りでもあるのかと、そんなことを思いわずらうだけでしたが、悲しいような深い感動に襲われたのはそれからでした。私はその人の生活や住居の様子をあれこれと空想し、それをヤコプセンの短篇「冬の王」に結びつけ、こんな人々に捧げたい自分のこれからの仕事のことを考えながら、講演というものの厭な後味をすっかり忘れ去ったのでした。

     *

 一方では現在の世相をいとって「我をして独り在らしめよ」の境涯にとじこもり、また一方では遠い星からのような見知らぬ清い友情の光に心を照らされ暖められながら、新らしく移り住んだこの土地で、もうNさんのほかには知り人を作るまいと思っているうちに、そのNさんを媒にTさんとも知り合うことになってしまいました。
 我儘とも取ればとれる私の気持をよく分ってくれているNさんは、自分をいわば関所にして、その選択にかなった人だけしか紹介しないように気を配っています。そして一年経った今でもそうです。Nさんには狎れて乱れるということがありません。それでこの一年を通じてNさんから紹介された人は僅か三人しか有りません。Tさんともう二人。しかもその二人の人に引合わされたのはついこの頃のことです。
 Nさんは老舗の主人でこの土地の人ですが、Tさんは東京から疎開して来て近くの部落へ住みついた人です。画家を志したが中途でやめ、暫らく兄さんの事業を手伝っているうちに戦争が烈しくなったので家族を連れてここへ疎開し、そのまま居ついて今の製材の仕事を始めたのだそうです。元来が造型に向いた人で、色調トンや形律スチールに対する感覚がするどく、手でする仕事も実に巧みです。たとえば自分で鉋をかけ枘ほぞを切って小屋も建てれば、人と話をしている間に忽ち厚紙と細紐とでランプの笠を作ってしまうというふうです。べートーヴェンの音楽がしんから好きで、冬山や岩登りが好きで、陶器が好きで、世話好きです。休電日以外には電気丸鋸と木材とを相手に重労働をやりながら、新らしく選出された村会議員としては専ら教育のことに尽瘁しています。
 しかしこんなことはすべてTさんの外観に過ぎないかも知れません。争いを好まず、あまり酒をたしなまず、磊落に見えて実はきわめて細心なTさんの殆んど女性的ともいえる仄暗い柔らかな感情は、相手の心の空をよぎるどんな陰影でも微光でも、夕暮の池の水のように優しくとらえて映すのです。それにはあの眼を御覧なさい。あなたも知っているTさんの眼。あれは光を射返す眼ではありません。柔らかに包んで閉じる眼です。そしておのれの衷にたそがれて夜となる眼です。そこまでは私にもわかります。しかしその夜が果してどんな夜であるかそれは私には解りません。それはTさんの魂の神秘です。それは、ことによると、Tさん自身にさえ知られていない神秘かも知れません。
 そうして、実をいえば、ひとりTさんだけではなく、あなたにしろ、私にしろ、誰にしろ、自分の魂のほんとうの姿というものは知らないのです。そうしてたまたま運命のある夜、(それは生涯のうちにも一度あるか無いかという極めて稀な瞬間ですが)人は見知らぬ自分の魂の深淵を見おろして身震いするのです。

     *

 ある夜私の本棚へ視線をさまよわせながらTさんが訊きました。
「これだけの本の中で先生が結局どうしても手を出してしまうという本がお有りでしょう?」
「というのは?」
「たとえばですね。どうも僕にはうまく言えませんが、つまり昔大島亮吉さんなぞがよく言っていた一番好きな山リーピプリングスゲピルゲというような物が。何時かしらそこへ帰って行くというような本が。こんなことを訊いては失礼かも知れませんが」
 私は床の間で弱い電気の光のなかに浸かっている蔵書の列を眺めながら考えました。大抵は昔買った本で、戦争中や戦後の幾度かの移転のためにクロースの物も仮綴のもみんな大分いたんでいました。この質問はある意味では中々重大です。それに答えることは自分の信仰告白をするようなものですから。
 やがて私は答えました、
「やっぱりロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』です。あすこにあるあの十冊の本です」
 Tさんは烱々としてしかも夢想のヴェイルに包まれたようなその眼で私の指さす片隅を見ていましたが、やがて幾らか顔を赤らめ、歎息するように、しかしまた信ずるところあるもののように言いました。
「先生。私はやはりベートーヴェンです。どうしてもベートーヴェンを聴かずには遣って行かれません。よく人からは偏狭だのマニヤだなどと言われますが……」
 Tさんは「ジャン・クリストフ」を読んだことが無いのです。人間の最も美しい創造に成るクリストフという天才と、人間への愛のためにあらゆる試練に耐えた神プロメトイスの申し子ともいうべき現実のベートーヴェンとの、そのロランにおける血と魂との深いつながりのことを知らないのです。しかも知らずしてほとんど本能的にベートーヴェン・クリストフに心酔しているのです。そして「音楽の世界は君のいうようなそんな狭いものではない。それは自然のように広々として、あらゆる可能性にいきいきとして、後から後からと絶えず新らしい美の生み出されてゆく世界だ。君は電雷をあつめる音楽の孤峯マッターホルンだけに心を奪われ惚れこんでいる。巨大で荘厳だが古い山だ。ところがそのとらわれた眼を見開いて音楽の全地平を眺めわたせば、単に一例を挙げても、そこには千古の森林を舞台として繰りひろげられるニーベルンゲンの大絵巻もあれば、憂欝な美しい郊外や田園を頸飾りにして芸術の古い香ばしい歴史に爛熟した都会ウィーンもあり、また北方の真珠色の霧と弱い日光とのなかで一日じゅう風と波との対話する海もある。なるほど君のベートーヴェン、それも結構だ。しかし時にはもっと眼を大きくあけ胸を張って、ワグナーを、シューベルトを、ドビュッシーを聴くがいい」というような友人のもっともな忠告に逢って、努めてそれらを聴いてみたり、頭を叩いておのれの鑑賞能力を疑ってみたりしながら、結局はやはり自分の一番好きな山として、その友人のいわゆる「孤峯マッターホルン」ベートーヴェンヘと帰って行くのです。
 そのべートーヴェンを私と一緒に聴く時のTさんはどうでしょう。しかしそれを話す前にまずあの人自身「山宿」と呼んでいるその奥の洋間を一瞥しましょう。
 壁をくり抜いて安山岩の切石を嵌めこんだ大きな煖炉と、各一台のピアノと電気蓄音機とに占められた仄暗い部屋。かもしかの毛皮を投げかげた数脚の椅子と、くご繩で編んだ幾つかの低い腰掛。雑誌や楽譜を積み上げた窓際の机。壁の一隅を埋めたピッケル、アイゼン、ピトン、ザイル、スキー、かんじきなどの登山用具。天井に吊られた色々な形の石油ランプ。四五枚の写真と絵と、ピアノの上のベートーヴェンの小さい胸像。二つの大きな置戸棚にぎっしり填まった音楽レコード。そして二方の硝子窓から木立を透いて見える立場川の渓谷とその斜面。
 冬でした。信州富士見高原の冬の夜、そとでは積雪の上にまた夕方から降りはじめた小雪が降りかかって、それが時どき窓硝子に触れては微かな音を立てていました。部屋の中では煖炉の薪が赤々と燃え、たえず踊っているその焔の光が、電燈を消してレコードを聴いている私たち三人――Tさんと私ともう一人の若い友達と――の大きな影法師を、ゆらゆらと壁の上に描いていました。
 曲はベートーヴェンのもので、第七交響曲の第二楽章、あの比類もないほど荘重に美しいアンダンテでした。まるで春の驟雨のあとから果樹の花咲く田園に懸かる虹のような、あるいはつぎつぎと新らしい星座の昇って来る夜の天空のような音楽が、早くも私たちをめいめいの夢想の奥へと導いていました。なぜならば私たちは三人ともこの曲をよく知っていたからです。そして自分が愛して熟知している曲を聴く時には、人は聴いているというよりもむしろその音の流れに安心して己れを任せて、しかも耳をとおして来るその流れのあらゆる変化に合わせながら、無意識のうちに自分の夢想を深々と織りなして行くのです。
 さて、その第二楽章の前半の、天国の春の夕暮に天使の長おさの低く歌う歌のようなあの神々しくもメランコリックな調べが、輝かしいヴァリェイションに移行して神々の舞踏か暁の星の一斉に歌う急調子の讃歌のようになった時です。今まで沈痛な面持で深く椅子に背をもたせていたTさんの両手が、急に何かを捧げ持つような恰好に前方へ伸ばされ、同時に両膝が浮き上って、その膝と手とが音楽のリズムにつれて動きはじめました。続いて頭が、上半身が、手足のリズムの合間合間をバランスを取るように左右に細かく揺れるのでした。切分音シンコペイションの箇所などはどんなに気持がいいかと思われるほど決然たるものでした。しかしその間のTさんの眼を見ては、はたからの冷やかな観察などは到底敢えてできないはずのものでした。少くとも私としては、さっき言った「人の魂の深淵」を、そこにちらりと見たような気がしたのでした。
  ぼろぼろの半袖シャツに半ズボンをはいて、猿の毛皮の臀当てをぶら下げた入笠登山の時のTさん。油によごれた革前垂を胸から懸けて、鋸屑と水のしぶきとを浴びながら、末口一尺もあろうという樅の巨材を横抱きに、電気丸鋸へかけていた製材所でのTさん。その両方のTさんを私はあなたに見せましたね。しかしそのもう一つの面、あの自分の心の避難所のような仄暗い部屋でベートーヴェンに憑かれている時のTさんを見せることのできるのは、果たしていつの時でしょうか。

     *

 一方Nさんはどうしているでしょう。もう一度Nさんに戻って反対の船べりに重みをかけないと、友情の船の傾くおそれがあります。
 そしてこれも夜でした。しかし時は春でした。山国の小さい町の春の夜、もう上り下りの終列車の通ってしまった後の停車場前は人通りもなくひっそりして、ただ夜中に通過する貨物列車のために宿直員の起きている駅だけに煌々と電燈がついていて、周囲の山々から吹きおろして来る暗い夜風のさまよう広場のむこうで光の蜂の巣のように顫えていました。
 Nさんの店と住居とはその広場の一方の角にあります。戦争前までは呉服物と洋品とを手広くあきなっていたのが、すべての商品が次々と統制を受けるようになってからはこの店も県下の配給所の一つに指定されて、今では村の人たちだけを相手に窮屈な商売をつづけています。しかし一口に村とは言ってもその範囲は広く、十一箇の部落と幾つかの新らしい開墾地に住む人たちが、みんなNさんの店から毎日の必需品を買っているのです。だから平方幾里のあいだ、古生層山地の部落でも火山裾野の聚落でも、Nさんとその店の屋号とを知らない人はありません。そんなですから月に二回の公休日と夜のほかは絶えず客の出入りがあって、いつ前を通りかかっても忙しそうに働いているNさんを見るばかりです。
 しかし夜でした。夜こそはNさんが店から解放される時ですし、わけても春の夜であってみれば、それは咽喉を痛める癖のある彼のために「空気が程よく湿めって柔かになる」時でした。Nさんは久しぶりに座敷へ上がった私を炬燵の正座へすわらせて、輪島塗の大きな広蓋の上へ後から後からとならぶ色々な珍らしい「お茶の子」で、さっきから私をもてなして呉れています。お茶の子というのは要するにお茶菓子の事で、ここ信州では主として様々な潰物やちょっとした和物あえもののことをいっているようです。Nさんは元来美食家です。それで自分では謙遜していますが、そのお茶の子は実はいつでも自慢にしてもいいほど美味な物ばかりです。東京から来てまだ日も浅い私たちのために、そのお母さんや奥さんが気をつけてそういうお茶の子を時どき届けてくれるのには感謝のほかありません。
 それはさて措き、その晩私が暗い夜道を、提灯の明りをたよりに十町隔てた停車場前にNさんを訪ねたのは、急に絵が見たくなったからでした。私は戦争で音楽のレコードも絵の復製も残らず失いました。もちろん私よりももっと多くの貴重な物を―――愛する親兄弟や妻子をさえも―――失った何万何十万という不幸な人たちのことを考えれば、そんなことは問題にもなりませんが、その戦争から二年も経って、生活がようやく軌道に乗るにつれて、時たま、今は無い絵や音楽にはかない愛借のようなものを感じるのも、人間共通の弱さとして許して貰えるかと思います。その絵を(それにレコードも)Nさんは持っていました。私とは蒐集の範囲もちがい、数も多くはないようですが、とにかく現在持っているのと全然持たないのとでは大した相違です。道を求める者にとっては千里の旅さえ遠くはないと言います。それでどうしても絵が見たくてたまらなくなると、私は森の家を飛び出してNさんの戸を叩くのです。
 Nさんが畳たとう紙を開いて一枚一枚渡してくれる美しい復製を、一枚一枚私はうけとって眺めます。あの頭巾をかぶったレンブラントの息も止まるような自画像が出ます。小粒ではあるがオランダの飾り、宝石のようなヴェルメールが出ます。創造の主エホヷに片手を差伸べているミケルアンジェロの夜明けのようなアダムが出ます。「最後の晩餐」の細部で今更のように驚嘆させられるレオナルド・ダ・ヴィンチ、峻厳で美貌のジュノオの胸から乳の銀河をほとばしらせるティントレットオ、鬱蒼とした千古の森林に琴を弾くオルフォイスの立つニコラス・プッサン、電撃をうけて躍り上っている美しくも凄まじいドラクロアの馬。そういう絵が次々と私の手に渡されて昨日の記憶を新たにさせ、渇をいやさせ、文学からも音楽からも得られない広々とした造型美の水平線を私の詩の郊野のかなたに展開するのでした。それは直ちに取って肉とすることはできませんが、太陽の光のように浸透して、創造の詩人の赤血球を増すでしょう。こうして更に時代を現代に、マネー、ルノワール、モネー、セザンヌ、ゴッホ、マチス、ドラン、ルオーと、その代表的な作品を見ている内に、私はすっかり富み太ったような気がし、これからの自分の仕事に新らしい可能と力とを感じ、同時に今の日本の詩の世界の何と寒々と貧しいものであるかを思わずにはいられませんでした。
 しかし絵を見て感に打たれたり、それによって物を考えたりしながら、私は自分だけで満足していた訳ではありません。私は思いつくままにそれらの絵や画家について話をして、いくらかでもNさんを啓発することを忘れませんでした。そして彼もまたそういう私の話を心から喜んで聴く人でした。ですからこういう夜を一緒にしながら、私が美術から養われることはもちろんですが、Nさんもまた何程かの利益を得るかも知れないと思うのは喜びです。
「お蔭様で楽しい一晩でした」と礼を言いながら広場の外れまで送ってくれたNさんと別れて、私は五月の春の夜更けの道を森の我が家へと帰りました。尾根の高みを歩いてゆくと高原一帯に波のような風が流れ、夜目にも黒々と横たわる八ガ岳連峯のうしろから、鷲、琴、白鳥などの来るべき夏の星座が、地平拡大の効果を見せて爛々と昇っていました。

     *

 幸子さん。
 私の今夜の手紙はこれで終わります。まだNさんとの植物採集や考古学上の遺跡見学のこと、TさんとTさんの家に集まる村の青年たちのことなど、書きたいことは沢山ありますが、それはまたの機会にゆずります。それにしても私はこの手紙の中で、親しい人々の美しい一面のみを書いたことになるでしょうか。彼らを自分の望んでいるとおりの人間に、かくあれかしと思う自分の面影のとおりに書いたでしょうか。もっと両眼を大きく見開き、人々の美徳も悪徳もその在るがままに認めるべきであったでしょうか。理想主義の幻影をえがいて、大海の中の一孤島のように、世界の真中へ全く別な一つの世界を打建てようとしているのでしょうか。
 構いません。私は悪徳よりも美徳が、否定よりも肯定が見たかったのです。それが私の力です。そして理想主義もまた時に一つの偉大な力であることを私は疑いません。そして今こそ正に、その時であることを私は堅く信じています。
 では、お休みなさい。

 

 

 

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 森の子供たち(一九四七年)

 信州八ガ岳西の裾野、天竜の水と富士川の水とを北と南へふりわける分水界の小高い尾根に、カラマツと赤松と白樺とハンノキとからなる十町歩の森、分水荘の森。さまざまな小鳥が春はここに巣をいとなみ雛をそだて、夏の蟬時雨、秋の紅葉、酷寒の冬の雪にはいよいよ世間から隔絶して、その真中にひっそりと立つ各一棟の古い家と新らしい家。これが彼らの世界である。
 彼らは四人、二組の兄弟。允まこと君と豊ゆたか君とはこの森と家との持主の子息、和男かずお君と八平はちへい君はその持主の小作の子である。しかし私はここで急いで言って置こう。この少年たちのあいだには、大人の世界にあるいはまだ微妙に残っているかも知れない古い階級意識の跡痕の、その陰影すら見出すことができないということを。そしてそれが一方の抑損でもなければ、また他方の意識的な擡頭でもないことを私はよろこぶ。古往今来、人は生れながらにして平等なもののように彼らは生きている。それならばこの純真な四人の子供らに、学校などで、なまじいに階級打破を説く若い教師があるとしたら、それはむしろ愚かなおせっかいと言うべきであろう。         ゛
 彼らはいずれも村の同じ学校へ通っている。和男君が新制度の中学二年、八平君が小学六年、允君五年、豊君三年。
 その允君の学帽から学習院のあの桜の徽章がなくなってもう二年か三年になる。東京で豊君の幼稚園への通学に附添った書生や女中もここには居ない。しぜんに備わる気品は失わないが、新らしい世の手荒い試練や組打に、けっしてひるまぬ胆力と器量とをこの兄弟は持っている。森と尾根道と谷と丘。太陽に焼かれ、風に鞣なめされ、雨に打たれ、草深い裾野の道を遠い学校へ彼らはかよう。炭焼、草刈、肥料運び。研究、討論、協議会。廉恥心と自己に対する抑制とはあるが、遣るとなれば何でも遣る。
 そして彼允君の如きは、「小父さま、小母さま」や「恐れ入ります」を言いながら、一転すれば「八平さ、おら、へえ、ごしてえ」と、信州諏訪の方言を極めて鮮かにあやつるのである。
 今朝も私は学校へゆく彼らを見た。いつものように年齢の順に、豊、允、八平、和男の四少年の小さい姿が、畠を抜け、尾根をたどり、ぼうぼうと裾野をこめる夏の朝霧に消えて行くのを。

     *

 小さい豊君にとって「僕のお兄さま」は最上の尊敬の的である。お兄さまは鷹揚できちょうめんで、勉強が何でもよくできる。克己心が強く、我儘というものを言ったこともしたこともない。どんなに面白い遊びの最中でも、おのれの務めとしているものに呼ばれれば、すべてを抛ってその義務におもむく。幼い者をいつくしみ、よく人を容れ、人に傾聴し、人の意見や気持を尊重する。遊ぶ時には実に楽しく華やかに遊び、努める時には一人黙々と真摯に努める。しかもその努力を決しておもてに現わさない。人に好かれ、善意をもって人に接して、春風駘蕩。天の成せる麗質を今年十二歳の允君はそなえている。
 允君にとって「うちの豊」はたった一人のかわゆい弟である。あまり纒いつかれる時にはこの二つ年下の弟にいくらか困惑を感じさせられることもあるが、彼の一風変った性質は兄として時に誇らしくさえ思うところである。彼は不思議なくらい注意力と研究心とに富んでいる。大抵の子供がただ看て過ごす事物の前に、彼はじっくりと腰を下ろす。それも何かの書物や誰か大人からの示唆によるものではなくて、彼自身の発見と好奇心とが常にその動機なのである。彼が一度腰をすえたら最後、もうその臀は容易に上がらず、兎の子でもアリジゴクでも、普通の子供には知らせない生の秘密を吐露してしまう。あのクヌギの枝に栗のいがのようにできる瘤、専門家でなければ注意もしないクヌギイガフシを幾月も大事に箱に入れて、ある雪の日にとうとうそれから羽化して出て来た小さなクヌギタマバチを見て喜んだのもこの弟である。その気の永さ、根気のよさ。「ゆたか」は常に至って緩漫だが、石をくぼめる雨滴のように集中し持続する一種強靭な力を持っている。
 八平君は森の中の古いほうの家に住む農家の八番目の末っ子、おそらくはその老いたる母親の寵児である。年にしては小柄で、背丈も豊君とほぼ同じくらいだが、樺の小枝の鞭のようにしなやかで均整のとれた体躯と、山野の小鳥か貂てんのように発達した運動神経とは、彼を一箇のちいさい原始人か、未来の陸上競技者の卵のように見せる。その兄の和男君と同様に口数こそすくないが、どこか愛嬌のある風貌と動作とは、われわれ子供を見ることの好きな大人にとって、少年八平君における最大の魅力である。森の幾十の小鳥たちはその巣の在りかをすべて八平君の烱眼に看破されているであろう。しかしこのけなげな少年は私の言葉をよく守って、決して彼らに手を触れない。秋の初めの爽かな朝、銀色の翼に唸りを立てて黄や赤の葉鶏頭の上を飛びすぎる地蜂ぢすがりの様子をじっと見ながら、彼は地中のパルプでできた巣の中でその蜂の幼虫がもうどのくらい大きくなったかを察するのである。小さい大人のように見えて子供らしく純真に、虚飾を知らぬ素朴なたましい。私は学校の若い先生がこの少年をどんな風に観察し、特にどんな風に教え導いているかを知りたいと思う。原始林の中の一本の若木、母岩の中の磨かれぬこの珠玉を。
 四人の少年の最後の肖像十五歳の和男君をえがくことは、しかしほとんど一人の大人をえがくことであるかも知れない。それほど彼には老成の感があり、寡黙で地味で堅実で、弟の八平君がいつでも跳躍に移ることのできる態勢をとっている時に、彼はじっと腰を落とし、柔和な眼を静かにみはって、一拳手一投足をかりそめにしない趣きがある。家庭では農事が多忙で人手がすくなく、仕事は常に何かしら子供らの手を待っている。都会や町の少年たちの学生生活はもとより知らず、森の中のいわば開墾農家のことであってみれば、一般の農村少年とさえ違った境遇に生きている。農業、飼畜、炭焼、山仕事。そのどの一つにも徒弟のように、両親や長兄の指揮のまにまに黙々と働らいている。人はこの和男君に小さい忍苦の姿を見るかも知れない。いや、私は彼を堅忍の少年だと言おう。しかし時として見せるその微笑みの何と美しいことだろう。時として聴かせるその笑い声の何と愛らしいことだろう。それはほとんど一人の少女のものであり、四人の男の子の中でまさに彼にのみ許された「特権」ともいうべきものである。
 こうしてそれぞれ風貌も違い個性も異なる四人の子供が、この森に混在するカラマツや赤松、白樺やハンノキの四本の若木のように、今同じ森のまんなかに日夜を共にしてすくすくと育ち、のびのびと生きている。そして私はその四つの若い生命にとりかこまれてそれとなく彼らを護り、時に応じて彼らに教え、そして彼らと遊び、彼らから学んで得るところ甚だすくなくないのである。
 敬愛する坪田譲治君、親愛な太田黒克彦君、私はもう諸君を羨ましいとは思わない。むしろ諸君をこの高原の森に招待して彼ら少年たちを引きあわせ、私から詩の泉が涸れようとする時、この世に対する善意や希望の火が消えかかろうとする時、忽ち来たって私を救うこの子供らを、ひそかに諸君に誇りたいとさえ思うのである。

     *

 私がこの森に住むようになって以来、子供たちは会をつくり、めいめいの自作を集めた月刊回覧雑誌を持つことになった。会は「高原子供の会」、雑誌は「僕達の本」と命名された。会員は前記四人のほかにもう一人いた。隣村の八ガ岳高等農事講習所長の次男宏文君で、我らの八平君と同級だった。この宏文君が毎日学校の往復に立ち寄る友達であるところから仲間に加わっていたのだが、この春茅野の近くに転居してその通う学校も変わったので、名残り惜しい別れをしなければならなかった。
「僕達の本」はそのすべてのページがみんなの自作自筆から成っている。絵もあれば作文もあり、自然研究の発表もあれば詩や俳句のような韻文もある。紙は私の不要になった原稿紙の裏が使われる。表紙は毎号だれかの図案をもって美しく飾られる。書きためた一ヵ月分の作品を持ち寄って厚い雑誌を綴じる日は、彼らにとって興奮と誇りとの日でなければならない。自分たちの力でまた一冊本ができた。これは何事かである。「今度のは前のよりもずっと良いら、なあ和男さ」果たしてそうならば、それは彼らの観察の進歩と表現力の一歩前進とを意味するのである。
 観察と表現。もしも私が学校外の教師として、彼らのまだ胼胝たこや皺のできていない柔らかなすべすべした手を導くとすれば、私の示す方向も実にこの二つの道にほかならない。学校で子供たちのやっている「自由研究」、「自由討議」。その言葉は今日耳に美しく響く。しかしその研究の方法を知らず、討議というものの真の目的も利益もまだ知らない子供たちに、ややもすればその気儘や教師自身の放任を結果するおそれのある「自由」だけをあてがって顧みないならば、多くの子供が精神の集中や練磨を必要とする面倒な研究をやめてしまって放埓な遊びの易きにつくか、取るにもたらぬ駄弁を弄する悪習慣を持つことになる危険は充分に有るであろう。聴いているほうが恥ずかしくなるような少年討論大会! 再建日本が待っているのはそんな空疎な口舌ではない。物の理を深く窮める精妙な頭脳と独創的で勤勉で巧緻な技術の手とである。井の中の蛙の独善的な身振りや雄弁。そんなものから文化国家の華であり、人心を清め高尚にし、美化する芸術といえども生れはしない。もしも日本が心からその「未来」に期待をかけるならば、無垢純真な子供らを大人の政治的論議や社会時評から護るがいい。
 自然の中での綿密な観察と正確な表現。まずこの方向にみちびくことこそ子供の心を歪めずして、彼らに正しい実力の意識を持たせる実りゆたかな方法であろうと思う。

     *

「僕達の本」を一瞥しよう。それには何も一人一人について一番優秀なのを選ぶ必要はない。一番大事なのは普段着のままの姿である。さいわい手許にある二三冊。それをめくって見て偶然に出て来たものを取上げよう。
 今は居ない宏文君(当時五年生)がここでは樹木の冬芽を写生している。ハンノキ、トチ、ナシ、サクラ、ミズキ、ネコヤナギ、クリなどの芽つきの小枝が、一本一本要点をつかんで描かれている。冬芽そのものの形態、芽の配列とその着き方、鱗片の重なりぐあいが正しく細かく観察されている事はいうまでもない。それぞれの枝にも各々の樹の特徴がよく現れている。また別に一つ一つの芽の縦断図と横断図もあって、それには丁寧に色の説明まで書き添えてある。子供はきっとこれらの絵を楽しんで描いたにちがいない。よく観察する事によって今まで気のつかなかった事実を発見してゆく喜び、それを丹念に写生して冬芽という物の形象を紙の上と頭の中とに定着する喜び。一度しっかりと味わわれたこの喜びは、もう決してこの子供から忘れられる事はないだろう。彼が自力で獲得した冬芽に対する知識は今日以後確実に彼のものだ。彼はそれを所有した。以来彼はその富をもっと殖やそうとするであろう。次の冬にはもっと多くの別の冬芽を観察するとともに、一つの植物の芽についてその綻びる時から、枝となり、花となり、葉となる生長の過程を詳しく見届けようとするだろう。喜びをもって続けられる観察から思わぬ発見の花が咲く。彼はまだ若い。ほとんど幼い。彼にしてその心さえあればこれからの長い一生に何でもできよう。私は心からこの子の健康を祈らずにはいられない。
 これもまた生物の観察や飼育が好きで、その着眼に独特のもののある豊君(当時二年生)が、ここでは珍らしく詩を書いている。「うちの山羊」という一篇、

  うちの山羊は
  なんでもかんでも人を突くね。
  だけどうちの兄だけは突かないね。
  えさをいつも
  やるからだろう。

 子供は自宅で飼っている山羊のことを詩の形で書きたいと思う。この子は山羊についてすでにたくさんの知識を持っている。農場の専門家からも教われば自分でもよく見ている。だから書くことはいくらでもある。しかし彼はこのさい選択をしなければならないと思う。彼はその山羊に角で人に突掛かる癖のあることを知っている。それでそこへ焦点を合わせた。「むやみに」とか「やたらに」とか言うかわりに「なんでもかんでも」といったところにこの子の普段の言葉があり、「突く」は「突っつく」よりも語感が正しい。もう一つ「にわとり」というのがある、

  にわとり、にわとり、
  お前は朝になるのがよくわかるね。
  そしてよくなくね。
  やたらになくのはこまるね。
  えさをやる人のあたまや
  かたにとまってよまれるね。

 私のいう「豊君における独特の着眼」の例がこんな処にも出ている。むやみに鬨をつくる雄鶏からしばしばうける迷惑の気持、餌をくれる人間の頭や肩へ棲まってよまれる(叱られる)その雄鶏への揶揄。大人はこんなことを考えもしないであろうし、詩人もまた鶏についてこんなことを書こうとは夢にも思うまい。しかしこの子供にとってはこれが問題となり得るのである。児童の自由画や未開人の手芸・彫刻等を見て本職の画家や美術家が感嘆することのあるのは、彼らにおける独自の着眼と、天真爛漫な稚拙さからにじみ出ている一種新鮮な魅力とによるものだとすれば、この詩にもまたそれに類した面白味がある。しかし意識的に稚拙の味をねらって書かれた絵や文字に或る卑しさや狡るさが感じられるように、この種の児童詩をまねて作られた大人の詩というものの鼻持のならないこと、もともと天真でも爛漫でもない大人の「童心」というものの極めて警戒すべきものであることなどが、この詩を機縁として反省されるのである。
 豊君の兄で当時四年生だった允君に霜柱の実験記録がある。われわれの住んでいる信州富士見では十一月に入るともう畠や路傍に霜柱が立つが、それが十二月、一月、二月と寒気のきびしくなるにつれて次第に烈しくなって春四月ごろまで続くのである。子供たちは学校の行き帰りにいやという程それを見ている。そこでこの霜柱を自分たちの家の中で作ってみようという事を彼らは考えついた。箱や空罐へ土を入れて屋内に置いて、居ながらにして霜柱のできるのを見ようというのである。この実験は五人の子供がみんな遣ってみて、それぞれその記録を「僕達の本」ヘ発表しているが、中には罐の中の土を凍らせまいとして一晩じゅう抱いて寝たというような面白いのもある。しかしここでは代表として允君のを要約してみることにする。
 允君の実験は一月十六日から始まって二十六日に終っている。この十日間の毎朝七時の屋外気温を私の記録について見ると最高の時で零下三度、最低零下十五度ということになっている。もちろん一日じゅう結氷と積雪の風景である。屋内の温度は家の構造や煖房方法の如何によってそれぞれ違うが、允君の家では零上二度から零下六度ぐらいの範囲を上下していた。序でながら私はこの実験に対して終始何らの助言も指導も与えなかった。子供たちの創意や苦心を見たかったからである。
 允君は始め小さい空罐二つを使ってやってみた。第一号の罐には土だけを入れ、第二号には土と雪とを混合したものを入れた。これで解ったのは土だけの第一号に霜柱の立たない時でも、雪をまぜた第二号には立つということだった。彼はそれを水分の供給の多少によるものと考えた。温度のぐっと降った朝には二つの罐の土が凍ってしまって全然霜柱の立たないことがあった。彼はそれを容器が小さくて土の量のすくないためと判断し、別に土と雪とを混ぜた大きな深い罐を用意して、これに第三号と名をつけた。この三個の罐にすべて霜柱の立った時その長さを測ってみると、第一号のは二ミリ、第二号のは五ミリ、第三号のは八ミリを算した。やはり土が深くてそれだけ水分の多い方に長い霜柱のできることが解った。そして「よく見るとガラスの粉や銀の絲のようでほんとうに美しい」と註訳を添えている。単に虫眼鏡と物差とで長さを測るだけが実験ではなく、鑑賞することも大切なのだということをこの子供はちゃんと知っているらしいのである。
 そのうちにふと凍った罐の土を割って見ようという気に允君はなった。そこである朝罐の中の土を抜き取ってみると、予想に反して、全部の土が凍っているわけではなかった。「おやおやと驚いた」。それからナイフで注意深く縦に割ってみると表面から八ミリ程の厚さの土だけがかちかちに凍り、その下に幅四ミリぐらいの「隙間」があって、それ以下は全部凍らない土になっていた。これは允君にとって実に意外な発見だった。彼は拡大鏡でその隙間というのを見た。するとそれは本当の隙間ではなくて高さ一ミリぐらいの可愛らしい水晶のような氷柱が土の粒子にまじってきらきら光って立っている薄い層であった。喜んだ允君はさっそくその縦断面図と氷柱の薄層の拡大図とを写生しずにはいられなかった。期せずして「凍上」の非常に小さい雛型を描いたわけである。
 学校でも習わず、中谷博士らの霜柱や凍上に関して書かれた本も見ず、自由学園の女生徒たちのあの有名な霜柱の共同研究の話についても何も知らない小学四年の少年が、全くの独力でこれだけ筋道の立った観察をしていることに対しては私として敬服のほかは無かった。

    

 

 高等科一年の和男君は「炭焼小屋」という作文を書いているが、これは山村の小学生の冬の生活記録の一片と見ることができる。高等科の生徒は実習として炭焼もさせられる。学校の炭焼場は山を六〇〇メートルばかり登った高みにある。入笠山東面の断層は侵蝕をうけて何本もの尾根を出しているが、その中でも急峻な或る尾根の吹きさらしの一角が彼らの作業場になっているのである。そこは海抜約一五〇〇メートル。よく雲の底が裾のように垂れ下がっている所で、山麓からの直登はすこぶる苦しい。しかも学校からその山麓まで二十数町あって、冬はもちろん雪と寒風とに悩まされる道なのである。
「十二月もなかばすぎ、今日は学校で山へ炭出しに行く日だ。朝目をさますと僕より早起きの森の小鳥たちがもう元気に鳴きながら木から木へ飛びうつっている。僕は自分のかますや繩や橇そりなどを準備して実さんの来るのを待っていた。そのうちに来たので二人で橇をひいて出発した。雪の上をさくさくと歩くのは気持がよかった。やがて新道の所でむこうから来る仲間といっしょになった。今まで二人だったのがここで急ににぎやかになった。みんなで色々な話をしながら行くと一人が急に立ちどまって橇の綱をなおし始めた。僕たちはなおすのを待っていながら『凄いのを作ったな』といって聞くと、『父さんに手伝ってもらって作ったのだ』といった。なるほど上等にできている。僕のは自分でこしらえたのだ。すると春男が『おれンのは一番小さいよう』といって軽そうに飛び出した。みんなおくれてはこまると思っていそいでつづいた。若宮まで来ると五郎と修がいっしょになったのでますます人数がふえた。
 若宮からは坂道だから橇をしょって進んだ。後ろをふりむくと積もった雪の上に長靴や雪靴のあとがもようのようについている。ぐんぐん行くと道はだんだん急な坂になる。みんなも僕もハアハアと息をきりながらめた歩いた。もう顔も手足もぽっぽとして来てからだ全体があつくなった。つめたい風がぴゅうぴゅううなりを立てて吹きつけて、雪が顔へ物すごくあたるのもかまわずぐいぐい登った。途中で五分ばかり一休みしてまた進む。それから一〇〇メートルぐらい登ってはまた休み、また一〇〇メートル登っては休むというように、いくども休みと登りをくりかえした。ようやく山を半分くらい登った頃炭焼小屋の方を見上げると、今日は雪につつまれて屋根の頭だけしか見えない。それを見ながら元気を出してまた登った。この前炭に焼く木を切りに来た時はごうごう音をたてていた下の谷川のひびきが、今日はすこしもきこえない。ただ山全体が風に嗚っているばかりだ。足がすべってみんなも僕もしきりにころぶ。上でも下でもわいわいという騒ぎだ。やがて今までよりももっと急な登りになる。みんな小さな木や枝へつかまって一足一足いっしようけんめいによじのぼった。
 それでもとうとう小屋へたどりついた。来て見るともう先生やほかの生徒たちが火をたいてあたっていた。僕たちも炭がしらを持って来て火をつけた。二十分もあたるといよいよ作業が始まった。窯へはいる者もあれば、手渡しで炭をはこぶ者もある。炭は見る見るうちに山のようになって行く。はこびおわると今度はそれをかますに入れた。そこで下の方の景色を見ながら昼べんとうを食べた。八ガ岳も高原もまっしろだ。べんとうはつめたかったが腹がへっているのでとてもおいしかった。それからみんな炭かますをのせた橇をひいて山をくだった。途中から橇に乗って、後になり先になりしてどんどん降るのがじつに愉快だった」

 子供たちの作文の指導では、私は彼らをして口で言うとおりを筆で書き現わせるように習練させることに重点を置いている。大人の書くものにあるような言い廻しや、俗にうまい文章だといわれているような、そういう文章を書くことは決して奨励しない。まず自分の言いたいことがそのまま書けるようになること。それが何よりも大切だと教えている。「そして書くにしても何から何まで欲ばって書こうとしないで、(第一そんなことはどんな人にだってできるものではない)一番初めに書きたいと思ったことに焦点を置いて、しかしそれだけはしっかりと書くようにする。頭に浮かんだり目に映ったりしたいろんなことを、口で言いながら書いてみる。それをよく稽古する。そうしている内にいつかしら、今までむずかしくてとても書けなかったようなことが楽に書けるようになるものだ」。そんなふうに教えている
 和男君の弟の八平君は四人のうちで書くことを最も得意としない子のようである。手ですること、からだを動かしてすることなら何でも衆にぬきんでて巧みにやるが、文を綴るとなると誰よりも深く尻ごみをするようである。その八平君が奇特にも自分も書いてみようという気を起こして鉛筆を取ったらしいのが次の「おつかい」という一篇である。私はこの少年のけなげな奮発心に対して改めて敬意と愛情とを抱かざるを得ない。
「四月四日朝、御飯をすまして兄さんと野球の話をしていると、おとうさんが僕をよんだ。僕は『はい』といっておとうさんのところに走った。すると障子のそばには酒のびんと、ふろしきづつみとがあった。その時、僕はひやりとした。するとおとうさんは『今日ほんとうにお前たちの野球大会があるのか』ときいた。僕は『八時に始まるのだが、この買いものは午後ではいけないのか』ときくと、『だめだめ、この酒は午前中だけ配給だから、どうでも行って来なければいけない』といった。『野球をこんな朝早くするとしても、こんなに霜柱は立っているし、朝ぱらでは寒いしするから、昼すぎでもやったらいいだろう』といわれた。それをいわれておつかいに行く気になったが、何だか嬉しいようないやなような気がした。だがしかたなしにそれを持って家を出た。池のところまでいくと風がびゅうびゅうとふいて手がつめたかったが、野球のことを思い出すとしぜんに足が速くなって来た。道には霜柱が立っているので、ぐちゃぐちゃにならないうちに帰りたいと思って大急ぎであるいた」
 これを読まれた遠近の諸君、野球大会といったらどんな盛大な行事かと想像されるかも知れないが、じつは彼ら森の子供四人に隣村から小さい宏文君と実君とが加わって総勢六人、それが二つのティームに分かれて森の中の母屋と牛小屋との間の百坪ばかりの庭でする三角野球なのである。もう前日から半紙ヘクレヨンで大会の文字や図案をかいた優勝旗が作られたり、大人からの賞品が用意されたり、和男君の器用な手で丸く折り曲げた竹や針金やボロきれで小さいマスクが出来たり、クルミの太枝のバツトが削られたり、一つずつしか無いグローヴとミットが手入れされたりして、幼い興奮と楽しさとに中々寝つかれなかった一夜の翌る日のことである。審判は私。まるで観衆がいなかったら張合いがなかろうという優しい心遣いから、母や姉たちが家事の暇をみては交替で見物に来て声援や拍手をおくった。四月とはいえ未だ全くの冬の森で、打たれた口ッグ・ヒットを樹々の間に捜すためには試合にタイムが宣告されて、選手六人がふうふう言いながら雪の中を這いまわる始末だった。
 そしてもしも今後スケイト大会や橇滑りの大会への招待状を手にされたら、遠近の諸君よ、その出場選手はやはり同じこの四人の森の子供らで、競技場は信州富士見、分水荘の森のはずれの三十坪ばかりの小さい池か、母屋の前の一〇メートルの滑走路だということを、彼ら純真無垢のゆえに大まじめな子供たちに代って、私から予め言い添えて置きたい。

     *

 晴れた六月のある日の午後、私は東京からの帰りの汽車の中にいる。汽車は五時間半を走りつづけて、つい今しがた甲斐と信濃の国境を過ぎた。次は私の下車すべき富士見である。明け放った窓々から高原の風がひろびろと吹きこんで来る。青い夏姿の八ガ岳が浅黄いろの空を背景に右窓いっぱいに展開して来る。汽車は特に私のためかのようにラスト・スパートをかけて新緑の分水界を登っている。私はゆったりと傍らのスーツケイスに片肱をついて、きょうの旅の最後の巻煙草に火をつける。
 東京、私はあすこで半月を暮らして来た。来る日も来る日も人から人、家から家への目まぐるしい、落ちつかぬ、せき立てられるような半月だった。しかし東京は私の生れ故郷だ。産湯の時から三十年を生きた隅田川右岸の下町があすこにあり、その後二十年を妻子と住んだ武蔵野とその田園もあすこにある。私の五十年の喜びも悲しみも、得意も失意も、すべてあの東京につながっている。その東京に愛着のないはずはない。たとえ両親も今は亡く、かつて私のために喜び、私のために泣いてくれた人々も今はことごとくこの世を去り、東京そのものも殆んど昔の俤を失ったとはいえ、やはりあすこは私にとってなつかしいふるさとだ。
 築地や永代橋附近の隅田川の河岸ぷち、あけはなした座敷の前を小蒸汽や伝馬がとおり、東京湾の夏の雲が水にうつる、昔のあの土地にいつかもう一度この私が住むだろうか。それとも茶の生垣に樫の防風林、家の前から麦畠がひろがり、朝夕秩父の山々を見るあの武蔵野の片隅に、ふたたび私の生きる日があるだろうか。
 いや、東京への私の愛やまごころに変りはなくとも、この年齢でもう二度と再びあすこへ帰る日はあるまいと思うのだ。新らしく移り住んだこの信濃の国で、おそらくは生涯の最後の夕日を見ることになるだろうと思うのだ。なぜならば、心から人を歓待するこの土地で、私にはもう日毎に新らしい友情のきずなが結ばれてゆくからである。
 いや、それにしても私に明日の未来を誓う権利はない。またそうしようという心もない。善意と智慧とに充たされて、現在を正しく美しく生きること、これが私の生活への願いでなくてはならない。永い冒険の旅をおえて、その明るいふるさとに平和な余生を送る古代ギリシャの英雄のように、私も自分の心をふるさととして残る生涯を生きたいと思う。たとえそこが高い山々の間であれ、また生れた都会の川の岸であれ……
 汽車はトンネルを抜け、鉄橋を渡り、もう一度トンネルをくぐって、さてその速力をゆるめにかかった。列車は停まる。富士見だ。私は鞄をとって汽車を降りる。爽やかな乾いた空気。高原の小さい町を見おろす八ガ岳や釜無の峯々。信州の顔と信州言葉。そして停車場から高原の森へと十町の坂道をゆく私に、もうあの可愛い子供たちの歌声が聴こえる気がする。スウェーデンの民謡「ああヴェルメランド美わしや」の歌の節に、私が自作の歌詞をつけて教えた「高原の子供の歌」、その第一節の

  山立ちならぶ信濃の国、
  われは愛すこの国を。
  春風吹けば鬼つつじ
  咲く八ガ岳の裾野、
  ここに生れて、ここに育ち、
  遠き他国は知らねども、
  愛す、うるわし我が里。

を和男・八平の二少年が歌うと、允・豊の兄弟が、可憐な声を張りあげてそれに答える第二節。その歌声が金色の斜陽を浴びた坂道の上で、遠い蓼科山を背景に、こんもりと茂った分水荘の森から響いて来る気がする……

  白樺そよぎ、空は青く、
  風は涼し、夏の日も。
  さえずる小鳥家に近く、
  遊ぶ池に映る雲。
  ここに育ちて、ここに学び、
  いつか都に帰るとも、
  思え、たのしかりし日を。

 私は足を速めて道をいそぐ。さてまた思い直してゆっくりと歩く。しとどの汗と不覚の涙がいっしょになって頬を伝わる。

 

  

 

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