「魂、そのめぐり会いの幸福」 (昭和五十四年)

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  朝のひかり (詩)      

 遙かな空の下から

樹下の小屋にて

 

 

  山 頂 (詩)      

 たてしなの歌

御所平と信州峠

一日の王

 

  冬 野 (詩)      

 荒寥への思慕

初心時代

早春の雨の夜

旅への祈り

 

 老の山歌

 

 

 

 
  春の牧場 (詩)        
 

 ちいさい物

ホオジロの歌

高原初秋

風の音

 
 

 豆畠にて

秋の林にて

二月の春

春はふたたび

 
 

 朴の杖

木苺の日

 

 

 
 

雪の夕暮 (詩)

       
 

 霧が峯紀行

高原の冬の思い出

山小屋への想い

鳥居峠

 
 

 旅で知る妻

 

 

 

 
 

噴 水 (詩)

 

 

 

 
 

 山と音楽

ベアルンの歌

一日の終りに

詩と音楽

 
 

 エステルとアンリエッ卜

生きているレコード

冬の日記から

私と笛

 
  眠られぬ夜に (詩)        
 

 ジャック・ティボーの『ヴァイオリンは語る』

魂、そのめぐり会いの幸福

 
   バロック音楽と私        
  されど同じ安息日の夕暮れに (詩)      
 

 モーツァルト

「ヨハネ受難曲」について

ブルーノ・ワルター

 
 

 「目ざめよと呼ばわる声す」

野のキリスト者

私のベルリオーズ

 
   ドビュッシーのバガテル

 ベートーヴェンと自然

古楽礼讃

バッハへの思い

 
           
   編者あとがき      
 

 

 

 

 

 

 

  

 朝のひかり     

 遙かな空の下から

 東京を三里離れた田舎へ此の小屋を造ってから、もうやがて四月よつきになる。三町歩なにがしの畑の片隅に雑木の薮や桜林を背にして立つ此の家が、寂寞とした武蔵野にむかって其の厚い板戸を開いていた頃、昼間は白壁の破風を染める一月の冷めたい薄赤い日光の中で、よくじょうびたきが鳴いていた。すべての樹々が葉をふるい、「すべての梢の上に静けさがあり」、遠い空のセルリアンの色にまみれて錯落たる枝ばかりが微かに煙る野の冬景色は、けだかく美しくありながら又森閑と寂しいものであった。こういう毎日、外界との交渉としては主として我家のまわりの自然に生き、内部の世界では殆んど常に詩作と読書とに生きて深く己れ自身に沈潜していた。そして其頃受けとった瑞西スイスのロマン・ロランからの手紙を幾度か心の糧のように読み返した。いつものように長い親切な手紙にはこんな一節があった。
「此処は雪と太陽です。太陽の熱が冷めて来るや其の光は一層美しい。然し其の光はもはや、些かも音楽的ではない。精神に於て殊にそのとおりです。精神を引立てて呉れるものは内心の夢想のほかに無い。私は別の生活を生きている」
『ジャン・クリストフ』や『魅せられた魂』の作者からの此の美しい手紙は、それ自身「夜が昼に続くように悲哀が歓喜に続く」と云う老ヘンデルの言葉や、又あの「パセティック・ソナタ」のアダジオ・カンタビーレに共通する悲しみと喜びとを立ち超えた、大いなる落日と其の夕空の色のような深さを私に思わせた。
 こうして冬に曝露した野の一軒家で、昼間は仕事と夢想とに己れ自身と語り、長い夜は又ランプの下でカール・ヒルティやアミエルを読みながら、来るべき自然の春と精神の飛躍とを私は待ち望んでいた。

 ああ然し、恩寵深き自然よ! 若々しい春はすでに菜園や小径や水のほとりから笑いはじめた。青やかな大気を彩る梅の花は空間にちりばめられた春の胸飾だ。麦畑の緑の床とこから翔け昇って、天空の高みに囀る雲雀ひばりの歌は春の使信だ。いちはやく空色の花の点々とする、若草にふちどられた堤の間を小川の水は満々。其の豊富な水量と其のたゆたい流れる姿とが、私の心をも豊富にし、自由ならしめる。此頃漸く私の口からも歌が洩れる。シューベルトの「満潮」やシューマンの「最初の緑」などが。そうして昔希臘ギリシャの子供等の歌ったという「燕来ぬ。燕来ぬ。楽しき季節と喜びの年とを齎して燕は来ぬ」という其の季節が。もはや目睫の間に迫っている事を感じるのである。

 此のように自然の再生の時が刻々と確かになって行くので、私達は、私と妻とは、色々な計画や準備のために、忙しい。われわれは新婚の甘やかな期間を出来るだけ早く切り上げて、一層確乎とした生活の礎を築くことに力を合せる。蓋し人間は能うかぎり速かに変り易いものから脱却して、能うかぎり熱心に不変のものを求むべきだからである。虚飾や安逸の流砂の上に立つ快楽の場は、人生の真の意義を知る者にとっては不安のほかのものではない。此点で「いつかは亡ぶべきあらゆる物から離脱し、われわれ自身をただ絶対にして永遠なるものにのみ純粋に結びつけ且つ残余のものを一の貸借物、一の用益権として享受する事を学ばねばならぬ」というアミエルの言葉は全く正しい。然し此の残余のものを識別してこれを捨離することは、われわれに多くの明知と更に一層大なる勇気とを要求する。又然し此の困難を克服してこそ、「世間的の成功の道は私に閉されても、ヒロイズムの、道徳的偉大の、また忍従の道の、私の眼前に開かれるのを見る」にいたるであろう。

 今日は私達の夏と秋との光輝のため、また私達夫婦の自給の生活のため、草花の苗床造りや、畑の麦踏みや除草に午後の大部分を費した。雨上りの土壌はいちめんに陽炎を立てて、日光は平和な田園に溢れていた。遠く薄青い霞の奥に夢のような富士、丹沢、道志、秩父の山の波。赤や緑にけぶる林の芽立ち。我家の窓の前で南の風にそよぐ樫の葉。そして折々は空をよぎる春の雲の、玉菜のような、アカントのような、帆のような優しいいろいろ。雲雀はたえず遠近の畑から舞上って眩しい空の中程で歌い、かぎりない静寂の中にかぎりない賑かさと輝きとを播き散らした。
 夕ぐれ近く仕事は終った。去年の暮から今年にかけての宵の明星ほど艶やかな明星を見た事はないが、其の明星を眺めながら泥まみれの手足を洗った。神聖な、深い、牧歌的な幸福の感情が私達夫婦の胸を満たした。そしてやがて二つの小さな部屋にランプと蠟燭のともされた時、陶器の壺に盛られた沈丁花と連翹れんぎょうの花が、四面の夜の中で此処だけは明るい我家のささやかな食卓の上の、それが唯一の春であった。

 夜、それも食事の後、私は必ず二つ三つの歌を古いオルガンを弾きながら歌うか、さもなければ蓄音器を聴く。そしてベートーフェン、モーツァルト、ヘンデル、バッハ、シューマン、シューベルト、ヴォルフ、ベルリオーズ、ドゥビュッシー等の世界を遍歴することが、私達の毎夜の喜びである。
 今夜は久しぶりでベートーフェンの第七交響曲のフィナーレを聴いた。あのアレグレットの限りもなく美しい気高い歌と、あの精力に満ちて噴きこぼれるような威嚇的なプレストーの次に来る言語道断な音楽である。即ちアーサー・シモンズが「若いハーキュリーズのように面白さに溺れた、大きな、明けっぱなしな、粗野な、豪い物」と云った、あのアレグロ・コン・ブリオである。魂を吹き抜けて行くような、又全心霊、全感覚を貫いて痙攣させる電流のような此のとめどもなく繰出される音楽を聴いていると、私は大概の芸術の小を感じる。他人がどう思うだろうなどという事は全く問題になっていない。ベートーフェンの生命自体に於ける最も根源的な、最も地底の岩盤的なものが確乎として把握されて、それが気散じ気儘な跳躍をしながら、しかも陸離たる光彩と絶大な釣合とを保って、宇宙的なリズムに振動しているように思われるのである。
 こういう音楽の実際の演奏を容易に聴くことの出来ない現在の日本では、一般の音楽愛好者にしても、また音楽という精神の栄養物をもはや欠くことの出来ないわれわれにしても、未だ当分は蓄音器の恩恵に俟たなくてはならない。チェホフは何処かで蓄音器に対する彼の嫌忌の情を露骨に表明していたが、それは露西亜ロシアのような立派な演奏者や管絃楽団を持っている国でこそ納得の出来る言葉であって、少くとも我国では今後尚二三十年ぐらいは此の不思議な函の厄介にならなければなるまいと思われる。
 それに就いて思い出すのはあのタゴールの言葉である。彼はその『詩人の宗教』の中で、月の世界から来た人間が初めて蓄音器で音楽を聴いた時を仮定して、科学的現実と想像的現実との関係を説いていた。
「もしも月の世界から来た人間が一個の詩人であるとしたならば、(勿論こんな仮定が正当に成り立つものとしてであるが)、彼は其の凾の中に幽閉されている一人の妖精について書くであろう。佗びしげな仙境の荒海の波の泡の上に開く、遙かな魔法の窓への憧れを告白する歌の糸を紡いでいる妖精についてである。これは字義的には真実ではないが、本質的には真実である。物其物としての蓄音器はわれわれに音響の法則を知覚させる。しかし音楽はわれわれに個人的の友愛関係を感じさせる」
 一枚の廉い三色版の絵葉書も、すぐれた詩人の想像の世界では立派に自然の形象となる。セザンヌは色褪せた造花からでもあの不朽の静物を描き得たのである。
                                    (大正十三年)

 

 

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 樹下の小屋にて

 五月が来て私の小屋はこんもりした青葉若葉にかこまれた。太陽はいよいよ高くなり、日はいよいよ永くなり、仕事場の机の横、窓枠に射そそぐ日光はもう殆ど暑いほどだ。柔かな新緑のあらゆる色階と、緑っぽいコバルト・ブルーの大きな空と、琥珀色の陰のついた雪白の雲との対照は――寧ろ平遠な野の風景との其の溶け合いは、――一年のうちでも確かに初夏の季節独特の調子トーンのように思われる。そうして斯ういう花やかな、ふっくりした、無限の表情と旺盛な潜勢力とを持つ自然を日毎眼の前にしていると、今更のように絵の描けない自分を残念がらずにはいられない。
 だが音楽に対する強い愛と、云うに足りない程の才能とが、それでも絵画による表現への私の絶望を幾分なりと緩和し、或時の不活潑な精神を刺戟してくれる。私の音楽は殆ど独学である。又私の楽器というのは既に其の青春を過ぎた一台の古いオルガンである。けれども物皆光り輝いて、静寂の弓の絃に支えられているような此の初夏の真昼時、明け放たれた窓から吹込む麦畑の風をうけて、あの「五月の歌マイリード」や「マルモッテ」の快活な歌に、ともすれば快い安逸に落込む精神の想像的機能を振い立たせる事も出来るのである。

 故ケーベル博士の『続小品集』を読むと、ときどき「会話辞彙」という物に就いて書かれた箇所に遭遇する。故博士の小品集中に散在して、あの精緻な思考と思考とをつなぐ鎖の役目をつとめている独特に美しい挿話の一つであるが、博士が肉体的にも精神的にも一種の懈怠を感じて、頭は空虚になり、考えることにも書くことにも全く気が向かなくなった時、何か一つの思想を漁り出して其れに取りつくため、且つ堪えがたい凝滞の状態から脱するため、手近かにある書物をめくって見る事によって外部からの刺戟をうけ、不活潑な思惟を喚び醒まして、再びそれを活動させるという暗示的な話である。そうして博士は次のようなゲーテの格言詩を引用している。

  会話辞彙と呼ばるるは宜なり
  会話が旨く進まぬとき
  何人も
  之を会話のために利用し得ればなり
                   (久保勉氏訳)

 そうして此の「会話辞彙」というのは独逸ドイツの百科辞典を指すのであるが、ケーベル博士の場合では「別に一定の事項を調べる積りではなく、単に精神の元気を恢復するために少しばかりの食物を求めるに過ぎないような時」に、会話辞彙そのものよりも「容易に、否一層よく其の代理を勤めることの出来る他の書物」なのである。
 そうして私の精神の弛緩に一つの活動的な刺戟を与えるもの、わけても漠然と表現の火を求めている詩想に対して引火の機縁となるもの、畢竟私にとっての会話辞彙、これは多くの場合音楽である。
 敢て告白すれば、私は現在の日本の詩や小説から殆ど何等の刺戟も受けない。多種多様の、実に多くの詩人や小説家の作品をかなり辛抱して読みはしたが、昨今では自分の精神や思想に潑溂とした強い作用を受けるために取り上げるに足りる文芸作品は暁天の星のようだと思うようになった。これは極めて我儘な、一個人的な頑固な偏執、かたよった趣味好尚によるのであろうか。或はそうかも知れない。然し或種の詩人にとって音楽や美術のほうが、大正年代の日本の大概の文芸作品よりも好剌戟になったという事実は、之を書き残して置く価値があるかも知れないと思うのである。

 新緑の朝がめざましくも明け放れる。一日の旅に鹿島立つ朝日がむこうの高い松林を貫いて、青い朝霧に醒めやらぬ畑の上へ光明の千の矢を投げる。窓から流れ込んで真直ぐに仕事場の白壁にあたる日光は、静かに、若々しく、薔薇色をしている。急にあたりが賑やかになったかと思うほど賑やかになる。急に自然が歌い出したかと思うほど家の周囲に歌がはじまる。それは五月の青葉のこんもりした塒で平和な一夜を眠り足りた小鳥たちの朝の囀りである。頬白、四十雀しじゅうから、河原鶸かわらひわ、雲雀、雀、さては鶫つぐみ。独唱、合唱、旋律、ヴァリェイション。その精力的な、高らかな、清い婉囀えんてんが、至福な初夏の朝ぼらけをどんなに活気づけ、また豊麗にする事だろう。それは「オルフォイス」の舞曲の比類である。またベートーフェンの第五コンチェルトのアダジオの比類である。この自然の音楽会をもっとよく聴くために私は毎日早朝の森へ行くが、しとどの朝露に濡れながらたった一人で享楽する鳥たちの音楽会は、私の精神と肉体とに眼に見えぬ効果をもたらして、其日一日の仕事に種々の好い影響を与えるようである。
 此の毎朝の音楽会は未明の頃から午前八時近くまで続く。太陽は光あふれて正午の天へ推し進み、雲の群はもう夏らしく地平にまろび、野に光耀はかげろって堂々たる真昼が来る。小鳥はしかし遙かに少くなる。涼しい夕暮の時まで残っているのは閑散な雀と雲雀ばかり。時々河原鶸の甘えたような「ビー・ビー」を聴くが、此の季節の名歌手の群は夕方まで帰って来ない。今よりも若かった頃少しばかり俳句をやっていて、「囀りて囀りてうつろになる樹かな」という誰やらの句を好きだったが、あれほど盛んであった鳥達の歌がいつのまにか減衰して、やがてしんとした風景ばかりが残るのを見ていると、図らずも其の句を思い出すのであった。
 真昼がおちこちの林に金剛石いろの霞をかける時、よくかわせみの飛翔を見かける。そういう時思い出すのはホイットマンの『自選日記』の一節である。あの長く、太く、鋭い嘴と、所謂翡翠色の背や翼と、栗色の胸と、あの直線的な飛び方と、飛びながら残して行くきっぱりした金属的な声と。彼等は此の附近の崖縁に巣を営んでいて。田園の小川で漁をするのである。そうして真昼の深い静寂に支配された緑と日光との風景をよぎる彼等の姿は、いつも私に或る神秘的な感じを催させる。
 植物にせよ、小鳥にせよ、又昆虫にせよ。私は其の姿を見て其の名を口にし、其の名によって其の姿を思い出せるようになりたい。それは彼等と一層親密な関係に入りたいが為である。星にしてもそうである。夜の宇宙に闌干と輝く天体を、スピカ、アンタレス、ヴェガ、アークトゥルスと呼び得てこそ、あの測り知られぬ永遠の奥に、われわれは尚幾らか余計に親密の情を通わすことが出来るのである。無知は無縁の兄弟である。愛する事によって一層よく理解し、理解する事によって一層深く愛する事を学ぶのは。幸福の最も静かな又最も純なるものではあるまいか。
                                    (大正十三年)

 

 

 

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 春の牧場

 ちいさい物

  今日イチイの実という物を初めて見た。信州にイチイの樹が多く、これが人家にも栽植されて、農家の防風用の生垣に仕立てられていることは今までにも登山や旅行の際に見て知っていたが、その実を見たのは今日が初めてである。
 いつものように今朝も雛を連れたシジュウカラやエナガの一隊がやって来て表座敷から見える白樺や赤松の間へ散開したので、それを望遠鏡で見ている内に庭先に植わっているイチイの樹の枝の一部がレンズの視野へ入って来た。何だかぼんやり赤い物が見えるので焦点を合わせると、そのイチイの枝の光沢のある濃緑色をした細かい線形の葉のあいだに点々と小さなまるい真赤な実がついていて、それが日光をうけて珊瑚の玉のように光っているのである。しばらくは小鳥をそっちのけに、この円筒の奥に拡大された植物の美観に見とれていたが、結局一枝折ってつくづくと手に取って見た。じつに美しい。小指の先ほどの円い壺形の多肉質の実で、その皮の色は未熟なのだといくらか粉っぽいパステルのような赤、よく熟したのだと封蠟のような鮮やかな赤。枝に接した底のほうには玉葱の薄皮のような色をした小さい薄い鱗片が附着し、平らに切られた頭のところは盃形に凹んで、中から一粒の黒い種がのぞいている。摘まんで口にすると頗る甘く、汁には多少粘りがあって、種子を噛むと微かにテレピンの匂いがする。この肉質の部分は植物学上では仮種皮ということになっている。雌雄株を異にする植物だそうで、なるほど庭前の二本のうち一本の樹には実がついていない。
 イチイはすなわちアララギで、イギリスではYewフランスではIfだが、隣りの農家名取のお嫁さんと娘のアサちゃんに訊いてみたら、この辺では「ミネズボ」と呼んで子供たちが喜んで食べると言っていた。ヨーロッパでも食うらしい。何れにしても光沢のある濃い緑の針葉のあいだに、点々と目もさめるような紅玉を綴ったこの実を私は讃嘆する。フーゴー・ヴォルフの歌にAuch kleine Dinge(小さい物でも)というのがある。オリーヴでも真珠でも、美しくて価値ある物は如何に小さくても人に愛され貴ばれるという歌だ。今それを思い出して以前よく歌ったこの歌の美を味わいかえすと共に、われわれに縁遠いオリーヴの実に代えるに力と忍耐の権化といわれるこのイチイの赤くて甘い秋の実を喜び讃える。
                                    (昭和二十一年)


 

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 ホオジロの歌

 この裾野、それも釜無川や宮川の谷に近いところでは、浅い輻射谷の緩傾斜を利用して雛壇のような水田が営まれている。そしてその谷側こくそくのちょっとした平地には大抵ハンノキの林が仕立てられ、下草はいつも綺麗に刈り取られて、(繋がれている牛も食うには食うが)、樹下は腰を下ろしたり寝転んだりするのに持ってこいの芝やクローヴァなどの広い草地になっている。これらのハンノキは毎年春の末、田植前、裾野一帯に赤や樺いろのレングツツジの咲き出す頃、その柔かな若枝が葉ごと切られて、そのまま緑肥として水田へ鋤すきこまれるのである。だから樹は一般に丈が低くてずんぐりして、幹の頭の瘤々なのが多い。樹は違うかも知れないが、オランダ時代のゴッホの素描にこういう樹容を描いたのを幾つか見かける。今そういうハンノキ林の縁に坐って、折から花かけ時のすがすがしい稲田を前に、釜無の谷を隔てて夕映えに染まった鳳凰山を見ていると、近くのカラマツのてっぺんと向うの電線とに棲まった二羽のホオジロが。さっきから引続いて夕方の歌合戦をやっている。カラマツの方のが What a splendid peaple is! と歌うと、三十メートルばかり離れた向うの電線のが Which is your peaple? とやりかえす。なかなか味のある問答だ。これがもう随分長くつづいている。そしていつか太陽も深く沈んで、鳳凰山の地蔵仏の岩塔が一本の黒い小さい錐の先のようになり、東方の裾野の薄桃いろの空にほんのりと青く地球の陰影がせり上って来た今でもなお、水のように冷めたく澄んだ空気のなか、この高原の夕べの谷間に、彼らの民衆の応答だか歌だかが響いている。
                                    (昭和二十一年)


 

 

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 高原初秋

 九月三日。私の気に入りの場所のひとつであるいつもの路傍の切株へ腰をかけて、午後三時頃の甘美な日光と今日の爽かな風とを背に、さっきから八ガ岳を見ている。眼の前にはおおかた葉を摘みとられた小さい桑畠の傾斜があり、その下にはすでに黄ばんだ垂穂の稲田、そして向うの高みは一帯の赤松林と点々とした耕地の眺めで、蕎麦の畠は白く、キャベツの畠は銀青色に見える。そしてこの快晴の日の空間に微かに雲母の粉を撒いたように光る薄青い靄がかかり、――それとも今日このごろ裾野の各所で焼いている野火の煙かも知れない、――それを透かして見る八ガ岳・蓼科火山群の蜿蜒六里におよぶ連亙はすばらしい。西へ傾いた太陽に正面から照らされて赤味がかった金緑色にけぶりながら、全地平三六〇度のほとんど四分の一を占めて、編笠岳から北のはずれの蓼科山に終る澎湃たる山の波濤。その中でもいちばん印象的なのは全山あけに染まった主峯赤岳と、東へ傾いた中央火口丘阿弥陀岳の巨体と、それへべっとり着いている這松のヴィリジャンの色だ。編笠と蓼科の円い頭は柔かい淡褐色をしているが、それは彼らの山頂が磊々と風化した岩塊に覆われていることを示すものだろう。みすず刈る信濃の国の高原に風と日光との戯れの午後。どこか下のほうで草刈の鎌のしゃきしゃき言う音、分水界の勾配をあえぎあえぎ登って来る新宿行列車の(あの新宿へか!)排気の音。人間の生活を思い出させる音響といえば只それだけだが、懐かしい人生へ私をつなげるこれも一縷の糸か歌だ。 
                                    (昭和二十一年)


 

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 風の音

 九月五日。今朝はかなりの北西の風に明けた。諏訪湖や霧が峯の方角から押し寄せてきて八ガ岳の裾野一帯に吹きひろがり、地理学者のいわゆる富士見峡隘へ吹きこむ秋季季節風のさきがけだ。午前七時の観測の時には。(東京から移って来ていよいよ本気になって始めている)まだ鳳凰山や八ガ岳連峯に粘りついていた鉛いろの夜来の雲が、八時過ぎ農場へ牛乳をとりに行く頃にはもうすっかり消えて無くなって、今では真青な秋晴の空ときらきらする太陽の光だ。そしてこの山荘を囲む森林の樹々のこずえを絶えず吹き鳴らす爽快な風の響き。赤松やカラマツの類の針葉樹では逞しい深みのある、――海浜の真砂の上をひく時の波のような、――そうそうという響き。白樺やハンノキでは乾いた、こまかい、さらさらいう音。幅びろで厚みがあって、或る一定の間をおいて起伏するこの松籟は聴けども飽きない。
 ちょうどこれを書いていると庭先の赤松と白樺の木へ夫婦のアカゲラが飛んで来て、しばらくこつこつと幹を叩いて打診していたが、やがて雌を先に「キェッ・キェッ」と鳴きながら飛び去った。もう夏の衣更えを終ったらしく、背中と尾の黒白だんだらや、後頭部や臀や太腿のあたりの朱紅色が(ちらちらと木の間を洩れる日光をうけては殊に)鮮かで見事だった。――もっとも雌にはこの後頭部の赤リボンが無い。――彼らの仲間がこの森に少くとも十羽近く棲んでいることは確実だ。始終見かけるし、又そこらじゅうで彼らの鋭い叫び声や「ケラララア」という笑い声のようなものを聴く。
 そして相変らずの風の響きと庭一面の温かい、むしろ暑いくらいの日光。いま軒の高さの空間を透明な金色に光る五六匹のウスバキトンボが往ったり来たりし、縁先の薪の上で真赤なノシメトンボが日向ぼっこをし、一羽のミドリヒョウモンが暖かい地面へとまって、時々翼を畳んではそのうすい草色と真珠色の模様のある羽根の裏を見せている。表はもちろんぴかぴかした毛皮のような豹紋だが、後翅二枚はその褐色が幾らかくすんで苔色を帯びている。
                                    (昭和二十一年)

 

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 春はふたたび

 青と赤との鉛筆で一日平均、十日平均の気温を跡づけてゆく曲線が、方眼紙の上で一月二月の最低気温の深海底をあえぎながらくぐりぬけると、漸く浮力を獲得したもののように三月中旬ごろから次第に活気づいて上昇の一路をたどる。赤松やカラマツの森林のほかは満目ほとんど白銀の世界だったこの高原の片隅で、温度の斜面を営々とのぼってゆくこれらの曲線の努力の跡をたどることは、真に痛烈な喜びでもあれば感激でもあった。
 ドイツ歌曲の天才フーゴー・ヴォルフが作曲し、若いコントラルトのユリヤ・クルプがこれを歌い、そして革命の女性闘士ローザ・ルクセンブルクが彼女のもっとも美しい手紙の中でそれを想い出しているあの「エール・イスツ」を、「春が来た」を、あたかも自分の幻想を呼びいだすように、私もまたこのみすずかる信濃の山の雪の中でいくたび空しく歌ったことだろう。自然の春、わが心の春を待ちながら……そして今やそれは来た。

  「春はふたたび大空に
  その青きリボンをひるがえすなり!」

 地上の春は睡り足りた子供のように目をさまし、満潮の海のように膨れあがる。大地はしびれた手足を伸ばし、あくびをし、涙を溜め、そして悠然と立ちあがる。小鳥の声が霊妙になる。越冬の蝶がよろめき出る。白茶けた枯野に若草の緑がもえる。木々の芽が光り、堅い苔が柔かにふくらむ。朝の高原に流れるツグミやカシラダカの別れの曲。すると突然ある日のあでやかな夕日の色に染められたハンノキ林の高いこずえで、今年最初のアカハラの歌が澄んだフルートのように響きわたる。同時にクロツグミやキビタキの賑やかな帰還の歌。しかし森に定住のカラやキツツキの類はもう彼らの家庭をいとなみ、燕や岩燕は道におりて春の泥をついばみ、また空高く三日月のような翼を張って飛んでいる。
 地上の春のテンポはこのように急調子だが、一日に四分ずつ進む天上の春や大気の領域である空中の春にはそれほど目まぐるしい飛躍はない。同じ自然の方則に律せられてはいても、大空の歯車は地上の歯車よりもその半径がはるかに大きい。ここにはかげろうのような生死と哀歓とがあるが。あの高いところを流れているものは多少なりとも「永遠」に似かよっているのである。
 私は山田のふちのクローヴァの土手に腰を下ろしている。残雪の簾を懸けた八ガ岳連峯が雲母きららの粉を撒いたような春霞の中にうすあおく震えている。日はうららかに、すべての音がまろくうるむ。それでいながら高原の春風にはどこか金属のような感触がある。自然の推移が、遠いものほど、また高いところほど、急激でないのが人間の目や心にとっては休息である。そこで人は好んで遠山を見る。水平線を見る。雲を眺め、星を仰ぐ。そして今私の眺めているのもその雲である。春の雲である。
 八ガ岳の上に二筋三筋、刷毛ではいたような巻雲が出ている。これが秋や冬ならば元来氷の粉末でできた雲として普通は方解石いろに見えるのが、今日はほんのりと薄い薔薇いろに染まっている。編笠岳の長い裾野のスカイラインの上に古い綿玉をならべたように泛んでいる積雲も、輪郭が柔かで色調にも虹色や青のぼかしがあって、夏のようではない。その輪郭が柔かいのは、夏ほど昇騰気流の勢が強くないせいか、あるいは気温の逆転で上層の暖気流に抑えられているのかも知れないが、その色にほのぼのとしたぼかしがあると見えるのは、春にとりわけ多い空気中の水分や細塵などのためである。それにあの空の下には甲府盆地が横たわり、そこにかぎりない生の塵労がある。その盆地の上にそびえる富士山が、この信濃の国のどの山よりも更に霞んでむしろ薄赤い夢か匂いのように見えるのも、あながち二十里という隔たりのせいばかりではないかも知れない。
                                   (昭和二十二年)

 

 

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 噴 水

 ベアルンの歌

 京都の大学で化学を勉強しているある若い学生が、私にセザール・フランクのオルガン小曲集を貸してくれた。
 山に囲まれた湖畔の町の有識階級の子で、その両親には鍾愛され、二人の妹には慕われ、主任教授にも愛され嘱望されている幸福な青年である。私もこの青年に好意をよせている。今に良い学者になるだろう。やがて美しい家庭をいとなむだろう。医師であるその父親のように。ひとつの明るい未来がその若い額を染めている。湖水にうつる日本アルプスの雪をきょうもモルゲンレーテが染めているように。
 彼はフリュートをたしなむ。私はこの青年ナルシッスがその柔かな湿めった赤い唇で吹く天使のような音いろの楽器で、グルックを聴き、ラモーを聴き、ドビュッシーを聴いた。彼は研究室では白いブルーズを着ますと、すこし顔を紅らめて言う。ニッケルや水晶ガラスの清新な光の中で、その白麻の上張りがよく似合うだろう。私はそういう時の彼を見たいと思う。しかし京都はここからは遠い。
 借りたフランクの小曲集は六十八篇のオルガン曲から成っている。あの長短のパイプの林立した堂々たる物ではなくて、家庭にある只のちいさいオルガンのための曲である。一通り弾いてみたが三分の二はまったく手に合わない。そのまた半分がやっとのことで、残りがどうやら弾けるのである。その辛うじて弾ける中に「ベアルンの歌」というのが二つある。一つは嬰へ短調のアンダンティーノで、もう一つは変卜長調のポコ・アレグレットォ。いずれも四分の三拍子である。その「ベアルンの歌」という題が先ず私の心をひいた。
 ベアルンはフランスの南西部、スペインと国境を接した歴史上でも古い地方で、今はバス・ピレネエ県に属している。太古の運搬物である岩石や泥土の堆積から成る輪郭のまるい丘陵の起伏のかなたに、蜿蜒とつらなるピレネエの雪の峯々を望みながら、灰いろの壁と緑や血紅色の窓をもつ家々が、わずかな平地や丘の中腹で、南欧の暑い太陽に照らされている国である。そしてこれらの丘陵の群と、無数の渓流と、いたるところに見る数世紀をけみした長い緻密なかしの樹の列とが、いわばこの地方の自然の貌をなしているのである。
 二つの曲はあのリエージュ生れの大作曲家がこのベアルン地方の民謡をとりあげて編曲した物であろうが、いかにもその土地の風土から深く自然に生れたもののように思われる。隣のスペインの歌のように烈しい哀歓の調を帯びて暗く燃えあがるそれとも違うし、諧謔と諷刺とのびのびした野趣に富んだフランス中央高台オーヴェルニュの歌とも違う。どこかに英仏海峡の向う岸のにおいはするが、その本質にはギリシャ的なものとカトリック的なものとが幸福に融合した農民の魂が歌っている。それは精神的でもあれば牧歌的でもある。四方へ葺きおろした大きな屋根の斜面にそれぞれ明り窓があり、その明り窓にまた一つ尖った屋根のついているそこのおちついた手広い農家。大きく見事に開いた二本の角をもち、その鼻面を赤い紐でかざられ、背中に青と赤との縞模様の布を掛けられたその土地の牛。八月のかしの森の空開地に緑の毛氈をしきつめる羊歯や藺草。好んで青いベレーをかぶった町や田舎の男たち。こうした淡彩の画が、これらの歌の奥から私には明るい昼間の霧のように湧いて来るのである。
 ポコ・アレグレットォの速度で弾かれる変卜長調三十小節のみじかい曲は、夏のおわり、秋のはじめの白い雲と、ただ一人丘の草原にうずもれてそれを眺めている者の心とを想わせる。手に触れる草はまだ緑に、まだなまぬるいが、土の感触はもう真夏の頃のようではない。暑く、華々しく、玉虫いろに輝いた夏はおもむろに南へ移って、鳶いろと青との秋が天地のあいだに水のように浸みて来る。新らしくされた感官と望みとをもって明日の生活に向おうとする決意に変りはないが、見返りがちに去って行く昨日までの過去にまだいくばくの未練はある。にがい悔もなお甘く、夢の杯もなお飲みほされたわけではない。しかも野にはもう薄紫の松虫草が咲き、森の小鳥たちは次々と出発する。木々の梢が色づいて来る。それを九月の太陽が残んの熱であたためている。風景にはいちめんに白々とした別離の哀愁が吹きわたっている……こうして颯々と地を吹く風が低音部でかなでられ、空高く静かにうごく白雲と、その雲に寄せる心とが高音部のメロディーで表現されるように、少くとも私には思われるのである。
 嬰へ短調アンダンティーノの曲は、私にはどういうものかフランシス・ジャムのような一人の老詩人と、一人の若い村娘との愉快な対話をおもわせる。事実ジャムはこの地方の小郡会オルテズに住んでいて、カトリック教徒として敬虔と静謐との長い一生をそこで終ったのである。この曲もやはり民謡から取られたものらしく、三十一小節から成る小品で、その曲と同様節度と気品とを保ちながら一方諧謔的なものを持っている。村の娘の言葉のように想像される高音部のメロディーは率直で明るく、老詩人を想わせる低音部のそれはいくらか瞑想的で祖父らしい。まず娘が瞳をかがやかせて心中の秘密をぶちまける。老詩人は調子を合わせてうなずきながら聴いているが、今度は自分の関心事を年に似合わぬ若々しい声で告白する。そのあいだ娘は半分うわの空で別のことを呟いている。こうして二度繰返される牧歌的な対話は、双方ともに愛に関する事らしいが、どうも話がしっくりしない。食いちがう。それもその筈で、うぶな娘が夢中になってしゃべっているのは同じ愛でも自分の恋人の事であり、若い頃クララ・デレブーズやローズやマモールを愛したこの老詩人がいま熱心に語っているのは、同じ愛でも驢馬の事だからである。娘はその愛人と今夜赤い夾竹桃の花の下で踊るのだといい、老詩人は物いわぬ驢馬をいとしんで、明日は羊歯の葉で日除けの帽子を編んでやりたいというのである……と、こんな想像をほしいままにして私はこの曲を味わった。ともかくも一度こういう解釈をしておいて、さて再び白紙に帰って弾いていると、やはり巨匠セザール・フランクの音楽の純粋で、明澄で、清潔に感覚的で甘美な質が、こんな小品にも隈なく滲透しているように思われる。そこには古いギリシャを思い出とする地中海的なものが感じられる。ラングドックからプロヴァンスにかけて照りわたる地中海の波の光と、空の色と、ホーマー・オデュッセー的な質である。そしてこのオルガン小曲集六十八篇の作品が、その根本では、いずれもアリスティード・マイヨルの彫刻やポール・セザンヌの絵画と一脈相通じるものを持っているように思われて来るのである。
                                    (昭和二十二年)

 

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 眠られぬ夜に

 ジャック・ティボーの『ヴァイオリンは語る』

 このところ毎日早朝の最低気温が氷点下三度から四度を示す年末の湘南鎌倉。その代りには天気のほうもよく続いて、たまたま真青な空をよぎる白いちぎれ雲が珍らしい観もののようにさえ思われる。庭へ埋めこんだ金魚の瓶に氷は張るが、静かに散ってゆく山茶花さざんかの後からは色とりどりの椿や真赤な寒木瓜かんぼけが、時をたがわず咲き始めている。鶯の笹鳴きが植込みを縫い、頬白の歌が電線にある。二階の窓から見える凍てついた坂道を、学校や務めのために急いで降りて行く孫達や知人達のうしろ姿はいつでも私の心を少しばかり暗くさせるが、とにもかくにもこのように天気がよければ彼らに対していくらかは気も楽だし、自分にも「日の務め」は有るのだと思って、出来るだけ晴れやかな気持で朝の机に向うのである。
 そんな或る日の朝のこと、私は久しぶりに硯を持ち出し墨を磨って、日の射しこむ明るい二階座敷のまんなかで、近い内に新らしく出る自分の詩集の特製本のための署名に取りかかった。出版社から送って来た特漉とくすきの和紙百枚あまりに一枚一枚気を入れて書き、しかもそれを乾かすために一々畳の上にきちんと並べてゆくのだから思いの外時間がかかる。ところがちょうどその半分を過ぎたぐらいの時に郵便が来て、下から上がって来た妻がその中から一つの包みをあけて一冊の本を取り出した。「あとにしてくれ、気が散るから」と私は言ったが、ちらりと箱に目をやるとこれは又どうだろう、ジャック・ティボーの自伝『ヴァイオリンは語る』、粟津則雄氏の翻訳で版元のH社から送ってよこした物だった! その瞬間私の気は確かに散った。否。動揺さえした。しかし例の「日の務め」の意識がきびしく私を引きとめた。「その本、書斎へ持ってっといてくれ」。私はそう言って妻を退けると再び筆を墨に浸たした。署名は三時間ばかりで終った。日当りへ並べた紙の墨の色も乾いてきた。私はそれを丁寧に揃えてもう一度枚数をたしかめ、自分できっちり包装して速達の小包を造った。あとは妻なり娘なりが、明日あすの午前中に鎌倉か藤沢の郵便局から出してくれさえすればいいようにと。
 しかし仕事はそれで終ったわけではなかった。六枚という約束で引受けた原稿がまだ二枚近く書き足りなかった。頼んで来た雑誌社は私に聖書についての軽い随想を求めていた。軽いか重いかは読むほうの受取りかた次第だが、とにかく構想も纏まり、肝腎なところももう書けているので、あとは締めくくりとしてハインリッヒ・シュッツの美しい宗教歌曲、「主よ、われら夜もすがら働けど一物をも獲ざりき。されどみ言葉に従いてわれ網あみを打たん」の事を書いた。私自身にもそういう不漁の日があるし、同時にまた気を取り直して励む翌日もあるからである。ともかくもこうして残りの部分が書き上がると、躊躇なく『野のキリスト者』という題をつけて、これもまた速達で郵送させる事にした。これでその日の仕事は終った。明日あすはまた明日のこと。私は遅い昼飯を済ますと、ようやく両肩の重荷を下ろした気持でティボーの本を手に取った。
 箱の表には『ヴァイオリンは語る』という題と共に、その楽器を持った彼の半身像の写真が大きく出ている。昭和の初期二度の来日の際に見たあの眼、あの口、あの鼻、あの眉。私の好きなジャック・ティボーの端正な風貌である。本その物の濃緑の布地の表紙に、彼の署名がくっきりと強く金で押してあるのも立派だ。口絵には写真が一枚。彼を中にして左右にカザルスとコルトーがいて、誰かのピアノ三重奏曲をやっている例のなじみの写真、しかし三人の巨匠が一室に会して録音をしている点では歴史的と言ってもいい写真である。私もこれならばもう少し鮮明なのを持っている。ベートーヴェンの「大公」トリオのレコードに付いているあれである。しかし顔や写真の事は措くとして、夜の来るのが早い十二月の冬の昼間を飛び飛びに読んだ限りでさえ、まことに味わい深い思い出や機智に富んだ逸話が(時にわれわれを陶酔させる彼のヴァイオリンのような繊細で典雅な響きをさりげなく奏でながら)書物全体を満たしている。そしてその語り口は今までに読んだ事のある誰のとも違っていて。強しいて言えば『反響こだまのままに』D'après l'échoに於けるシャルル・ヴィルドラックのそれを想わせた。私は歳の暮のとかく落ちつかない生活の中でこの美しい読み物を卒読するに堪えなかった。やがて来る新年の悠々とした閑雅な日に、心静かに初めから読み直さなければならないと思った。
 戦争前に私はティボーのレコードを何枚か愛蔵していた。しかし戦災のために失った物の中にそれもまたまじっていて、今では前記の「大公」トリオのほか彼の演奏しているのは一枚も持っていない。そこでこの本を手にした今日の記念として、もしも有ったら彼のレコードを買いたいと思い、カタログを繰ってエンジェルから四、五枚出ているのを知った。そしてその中にモーツァルトのソナタが二曲入っている盤の有る事も知った。尤もそのK三七八番と五二六番はグリュミオーもクララ・ハスキルのピアノ伴奏で弾いていて、その盤ならば私の手許にもあるが、この際何としてもティボーのが欲しかった。そこで思い立つと直ちに実行に移さずにはいられない私は、すぐに東京銀座のなじみの楽器店へ電話をかけて、或いはもう廃盤になってしまったかも知れないそのレコードの有無をたずねた。ところがこれも古いなじみの女店員の声で在庫品が有るという返事だった。私はすっかり喜んで、「すぐ欲しいのだが忙しくって東京まで出られないから、お手数だが送ってくれないか」と言った。すると十幾里かなたの楽器店の売場から、「かしこまりました。では今日中に速達でお送り致します」と打てば響く答えが来た。私は心に春風のような物のひろがるのを感じた。
 或る日のメモから――
「音楽を題材にした先生のこのごろの文章も勿論面白いですけれど、前に書かれたような種類の物もまた書いてもらいたいと僕は思っているんです」と、若い友人のYが熱意をこめて私に言った。「たとえばどんな物?」。「たとえば以前書かれた『自然日記』や『自然手帖』のような物です。ああいう物は先生以外に書ける人が無いからです。先生の毎日の生活の中で目に触れた植物の事でも昆虫や鳥の事でも、雲の事でも星の事でも、何でもいいんです。しかもそれぞれ短かい物で結構なんです。最近ではお歳のせいか余り山へも行かれないようですが、別に山でなくてもちっとも差しつかえありません。庭でも、路ばたでも、汽車の窓からでも、町なかでも、先生がその眼で見て興味を持たれた自然物を、メモのような形ででもいいから是非書いて置いてもらいたいんです」。「そうだねえ。それは僕にしたって決して考えていない訳じゃないんだよ。しかしこれもまた君の言うように歳のせいか、仕事に追われているという意識がしょっちゅう心にこびりついているので、書き留めて置けばいいと思う物もつい億劫おっくうになってメモも取らず小さな文章にも書かず、むざむざと遣り過ごしてしまう事が多いんだ。たとえばこの十二月の寒空を時々家の中へ飛び込んで来る大きな蚊をつかまえて、そいつを図鑑と照らし合せて名や生態の事を知りながら、その時のちょっとした場景や感想を書いて置けばいいのにそれもしないし、寺の庭に初咲きの水仙と、この冬初めてのタンポポの冠毛ですからと言って、近くの明月院の細君がわざわざ娘さんに持たせてよこしたその切り花や種の事を、その時の人の親切への感動と一緒に書けば書けるのについそのままにしてしまうというような事が度々ある。しかし今の僕として本当はそれではいけないんだ。君の言うとおり、何も文章に仕立て上げなくてもメモでいいんだ。どんなに些細に見えようとこの世の美しいものを書き残して置くのは僕の日の務めの一つなのだから。そうだ。これからは出来るだけ書く事にしよう。先ず君に喜んでもらい、それからほかの人達にも或いは満足してもらえるかも知れないような物をね」と私は答えた。そしてシュッツの感動的なモテッ卜「種蒔きが種を蒔きに出て行った」Es ging Sämann aus, zw säen seinen Samenを一緒に聴いた。われわれもまた共に善い種蒔きでなくてはならないのだから。

 銀座の楽器店からの速達小包は中一日を置いて早くも届いた。今度もまた気を散らしてはいけない仕事中だったので、それを一応済ませてからゆっくりと手に取った。エンジェルの例のGR盤で、曲は注文どおりモーツァルトのヴァイオリン・ソナタが二曲。ティボーが弾き、マルグリリット・ロンがピアノの伴奏をしている。聴いてみるといかにも昔の録音の再生らしく、いくらか雑音も耳につき、音その物も鮮明さを欠いているが、それでもティボーのティボーらしさ、ロンのロンらしさは雲間の星のようにあちこちで光っている。私はその散在する光を取りあつめて自分の理想の夜空を心にえがく。曽つて彼らによって打ち建てられた一つのモーツァルトの記念碑モニュマンを再生させる。私に出来る事はそれだけであり、しかもそれが今は朧おぼろげなものとなっている遠い日の陶酔や愛の記憶を蘇らせるただ一つの仕方だと思う。
 少年ジャック・ティボーが弾いてくれるヴァイオリンを聴いて、パリの貧民街のアパルトマンの住人達の頑かたくなな心が和げられ、張合いも希望もない彼らの生活が力を取り戻したという逸話を読みながら、そしてこのレコードを聴きながら、私もまた自分の若く貧しかった時代の美しいティボー体験を思い出し。今こそそれを定着させようとするのである。
                                    (昭和四十五年)

 

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 魂、そのめぐり会いの幸福

 二、三箇所用事があって昨日の昼前から東京へ出かけた私の娘が、途中銀座へ廻っていつもの楽器店から最近発売になった二枚のレコードを買って来てくれた。一枚はエレナ・ゲルハルトの「ヴォルフ・リサイクル」。もう一枚はパイヤールの「モーツァルト教会ソナタ」。私にとって前者は四十数年前の思い出との再会であり、後者とは初の対面である。庭の白梅や紅梅が咲きつづけ、その下の芝生の中に、雑草の春のさきがけである碧いイヌノフグリや白いハコベ達が可憐な花をつづり始めた昨日今日、更に私を喜ばせる佳い季節の挨拶のように、今朝の机上に我が子が置いて行ってくれたこの二枚のレコード。私はたった今務めに出かけたという彼女のあとを、心中の言い知れぬ感謝と愛の思いに追わせたのだった。
 こんにちの若い音楽愛好者の中で、昔のあの優れたメゾ・ソプラノ歌手エレナ・ゲルハルトの名に何らかの思い出を持っている人は先ず絶無と言ってもいいだろうが、もう相当な年輩に達している諸君の中には、あの名を懐かしむ人も決して少くはない筈である。彼女のレコードが初めて日本に輪入され。続いてその編纂になるフーゴー・ヴォルフの歌曲選集がライプツィヒのペータースから出版されたのが一九三二年だから、われわれの大多数がその名に親しんだのも凡そ昭和七年か八年ごろの事だろうと思う。当時私は父から譲られた東京下町の家を人手に渡して、杉並区荻窪の新築の借家に自分と妻子と女中との四人で住み、本来の仕事である文学は元より、いろいろな自然科学の勉強にも、その実践としての山登りにも高原歩きにも熱中していた。その間第四詩集『旅と滞在』が出版され、最初の散文集『山の絵本』が用意されていた。又その一方相変らずSPのレコードでベートーヴェンを初めとする音楽を聴いたり、例の小さいオルガンを頼りにさまざまな歌曲を覚えたり練習したりする事も怠らなかった。そして実にその頃、私はフーゴー・ヴォルフのメーリケやアイヒェンドルフを歌うエレナ・ゲルハルトを知って、その凛然とした声、歌に対するその正しい解釈、その表現の見事さにすっかり魂を奪われたのである。言わば当時の私にとって、ヴォルフとゲルハルトとは精神の上で切り離すことのできない一体のものだった。この受けとり方はこんにち音楽会場やレコードで聴くフィッシャー・ディースカウとヴォルフとの関係よりも狭く且つ窮屈ではあったが、それだけ密度が高く濃厚たった。私はヴォルフの歌を何でも自由自在に歌いこなしてしかもそれぞれが美しく面白くさえあるフィッシャー・ディースカウに並々ならぬ好意を持っている。しかし今ここにあるただ一枚のエレナ・ゲルハルトには切ない程の愛情を覚えるのである。
 「世紀の巨匠たち」シリーズのこの盤で、ゲルハルトは十七曲のヴォルフを歌っている。「メーリケ歌集」から七曲、「アイヒェンドルフ」から一曲、「スペイン歌集」から六曲、「イタリア歌集」から三曲というように。そしてその内の半分が私の持っている楽譜にも載ってい、更にその幾つかを曽て自分も好んで歌ったのだから尚更うれしい。たとえばメーリケでは「旅に在りて」、「捨てられた女中」、「ワイラの歌」。スペイン歌集では「歩み続けたまえ、マリアよ」、「ああ、幼な児の瞳は」、「君、花のもとに歩み行く時」、「私の髪の毛の彭に」。そしてイタリア歌集では「小さいものでも」などがそれである。しかしメーリケの「隠棲」、「古画に寄せて」、「祈り」、アイヒェンドルフの「友」、「沈黙の愛」、「郷愁」、ゲーテの「アナクレオンの墓」のような、その昔私の心を強くとらえてその後も永く放さなかった幾曲かが、ここに取り入れられていないのがいかにも惜しい。なぜならば私はこのような歌の中にこそ、自分の愛するフーゴー・ヴォルフの最も真実な最も美しいたましいが、後世まで伝わるものとして密かに花咲いていると信じるからである。
  一八八八年二月、二十八歳になるヴォルフはウィーンに近い田舎に居を定めて、絶対の平和の中でスワビアの牧師詩人エドゥアルト・メーリケの詩を、僅か三ヶ月の間に五十三個の歌リートに作曲した。これが即ち今も残っている「メーリケ歌集」の全曲で、歓喜とおのれ自身に対する驚愕との唯中からほとばしり出た音楽の噴水だと言ってもいい。彼はその時の嬉しさと得意さとを激越な調子で友人の一人に書き送っている。ここに私が青年時代に訳したその書翰の断片があるから記念のために載せて置きたい。
「今は夜の七時です。そして僕は幸福です。最も幸福な帝王と同じくらいに幸福です。又新らしい歌リート! 僕の魂! これをもしも君が聴いたら、悪魔は歓喜で君を引き擺ってしまうだろう!……
「又二つの新らしい歌リート! 中に一つ僕が怖くなるほど恐ろしく不思議な音を出す奴がある。これと同じものは二つとは在りはしない。神はいつかこれを聴く哀れな人々の上に恩寵を垂れたまうのだ……
「もしも君が僕の今書き上げた最後の歌リートを読むとしたら、君は魂の中にたった一つの欲望以外のものは持てなくなる。すなわち。死ぬ事だ! 君の幸福な幸福なヴォルフ!」
 音楽に魅入られたようなこんな止めどもない創造の噴出、自分自身の力へのこうした驚きと強い自負。私も最初の詩作に熱中していた時代にはこれに似た経験を持った事はあるが、文学の世界はその関連する処がもっと広く、ほかにも知ったり学んだりしなければならない分野がいろいろ有ったため、こうした熱中に永い間自分を投入し続ける事は少くとも私には出来なかった。しかし若い頃の欲望多い生活の中で、詩の作曲に魅せられた魂とも言うべきフーゴー・ヴォルフを知り。そのヴォルフの意図するところを理想的にまで歌っていたエレナ・ゲルハルトを知った事は、音楽にもまた「道」を求めていた私にとって、真に天恵だったと思わなければならない。その両者が四十年を経てこんにち再び私のもとで相会したのである。単にレコードの有難味などと言って閑却されていい事柄ではない。

 娘が買って来てくれたもう一枚のレコード、「モーツァルトの教会ソナタ」。これはまたヴォルフのそれとは全く違った世界へと私を誘い出す。そしてそれが当のモーツァルトの無数の作品の中でも特に他のどんな種類の物とも趣きを異にしているのである。彼はこれら十七曲の「オルガンと管弦楽のための教会ソナタ」を、一七七〇年代から八〇年までの間に故郷ザルツブルクの教会のために集中的に書いたと言われている。つまり十四、五歳から二十四歳までの間にこの仕事をしたわけである。アルフレート・アインシュクインの著書『モーツァルト』の巻末にある年表によると、K六七番がその最初のもので三三六番が最後のものだから、その間に大小二七〇曲もの各種作品が物された事になる。しかも一七九一年の「レクィエム」(K六二六番)が死の直前の作なのである。ああ、僅か三十五年の短かい生涯に、あれだけの輝かしい業績を果たした奇跡のような事実にはただただ驚嘆のほかは無い。
 さて、それではこの特異な音楽が大体どんな物であるかを知って貰うために。私はレコードの解説者である海老沢敏氏の文章を拝借する事にする。「これら十七曲のソナタは言わば教会に、礼拝に関係のある特殊な機会音楽と言えるだろう。後半の数曲を除くと、大部分がトリオ・ソナタの編成を採っているのと、多くの曲でオルガンが通奏低音の役割をしている点に幾分バロック風な要素も残っている。しかし楽曲形式の点では古典派的なソナタ形式に基き、ほとんどすべてがアレグロのテンポを持っている事から、古典派の典型的なソナタなどの楽曲の冒頭楽章を思わせる。ただ(教会での)時間的な制約からいずれも非常に短かい物で、小節数も最少の四十四小節から、最高でも百四十二小節の範囲である。しかし百四十二小節の作品は例外で、百小節を越えるのは僅か六曲だけである。調性にしてもフラット三つの変ホ長調からシャープ三つのイ長調までで、短調が無く、モーツァルトの普通の調の使い方を示している」
 フランス的に清楚で味わい深いパイヤール室内管弦楽団が演奏し、これにバッハのオルガン曲でなじみのマリー=クレール・アランが通奏低音で加わり、パイヤール自身が指揮をとっているこの初対面のモーツァルトを何と私が親しみをもって聴いたことだろう。この曲集は珍らしくもあれば楽しくもあり、教会的であると同時に世俗のムードも感じさせるので、これからも欲する時に楽な気持で聴く事が出来そうである。それにまた一曲一曲が短かくて、いちばん短かいのが二分五十秒なにがし。最も長いのでも四分五十秒を少し超えるくらいである。そして曲そのものはいずれも明るく晴れやかでありながら、軽薄な点や俗臭などは勿論無い。
 私は数年前に『田舎のモーツァルト』と題する一冊の詩集を出したが、今手にしているこのレコードからはその命名にぴったり当て嵌まるような雰囲気さえ感じられる。春の田舎の小さい町とそのまんなかに建っているささやかな古い教会。私はそれを囲む美しい素朴な花ぞのを逍遙しながら、窓を洩れて来るオルガンの調べや敬虔な信徒たちの合唱に耳を傾けたり、整然と植えられたさまざまな花に身をかがめて見入ったりしている。そういう平和な光景と信頼の気持とを、私は極めてしぜんにこのレコードから受け取ったのである。
                                    (昭和四十六年)

 

 


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 バロック音楽と私

 学校へ行く者は行き、勤めに出掛ける者は出掛けてしまうと、静かになった食堂で私はおそい朝飯をゆっくりと食べた。そして茶を飲みながら楽しみの煙草を一本くゆらせていると、坂道を登って来るオートバイの音がして、やがて玄関のチャイムが鳴った。速達かなと思った。すると、「お待ち遠さま。お待ち兼ねの物が参りましたよ」と言いながら、一目でそれと判るレコードの小包を妻がちょっと重たそうに運んで来た。二、三日前に銀座の楽器店へ電話で註文したのが思いの外早く届いたのである。しかし私にはこの幾日ずっと続けて書いている或る仕事があった。そしてこの朝もちょうどその続きの構想に気を取られていたので、いくら「お待ち兼ね」でも早速には聴く気になれず、叮嚀に小包の紐を解いたり包装の箱をあけたりしている妻の指の動きを見るともなしに見ながら、少しばかり逸る心をおさえていた。するとビニールの袋に包まれたそれぞれの美しいジャケッ卜が二つ現れた。一枚はヘンデルとバッハとヴィヴァルディのオーボエ・ソナタ集、もう一枚はアルビノーニのオーボエ協奏曲集で、両方ともハインツ・ホリガーが吹いている。そのオーボエの音をちょっぴりでもいいから聴いてみたいなと思ったが、これから仕事に掛かる私は、そんなけちな誘惑はあっさりと斥しりぞけて二階の書斎へ上がって行った。聴くのはいつものとおり、午後の三時を過ぎてからの事にしたのである。
 音楽学者や評論家諸君の熱心な啓蒙の甲斐もあって、このところルネサンスやバロックの音楽がちょっとしたブームの観を呈している。そしてその勢いはこれからもまだまだ拡がりそうである。それに巻き込まれたせいでもあるまいが、私もバッハやヘンデルを別にもう少し型の小さいバロックの有名人の物をこのごろよく聴く。そして彼らの音楽の町や田舎を訪れて、その街衢がいくや庭園の美をけっこう楽しんでいる。或る時暇があって自分の持っているレコードの中からルネサンスとバロックの音楽家の名を拾い出したら、大小取りまぜてその数なんと六十人を超えていた。シュッツやバッハやヘンデル達の大曲は除外して、何らかの系統を立ててでも或いは手当り次第にでもこういう人達の作品を身を入れて聴くとしたら、随分日数も掛かるだろうが、その代り新らしく得るところも少くないだろうという気がする。いずれにしても私としては今まで彼らを余りに閑却し過ぎていた。その事に漸く気づき始めた今日このごろ、私の部屋から時々バロックの音楽が洩れて、妻や娘たちにけげんな顔をさせるのも当然だと言えるだろう。この種の音楽は気軽にと言うよりも、むしろ初めから睦みや親しみの心をもって接するのが本当のように思われる。
 ハインツ・ホリガーのオーボエは、たしか二年か三年前にその本物を誰かのトリオの作品の中で聴いた気がするが、正確な事は覚えていない。しかしその音色ねいろのすがすがしかった事と叙情味に富んでいた事とは忘れなかったとみえて、最近広告で知った時には喜んで早速二枚を註文したのだった。しかしどうした訳か彼の名は、私の持っている『標準音楽辞典』には載っていない。
「そうでしょう。あの本時々抜けてるのよ」と、楽理をやっている孫娘がいくらか蔑さげすみを見せて言った。
 一日の仕事を句切りの処で打ち切って、もう向うの山のウグイスもホトトギスも、最後のホオジロさえも彼らの歌をやめた夕暮近く、独り書斎で新着のレコードを聴くのはまことに楽しい事である。それもお目当てのホリガーが吹いているバロックの音楽。ヴィヴァルディは言うに及ばず、バッハもヘンデルもこの時だけは上下かみしもを脱いでくつろいでいるように思われる。それに又このオーボエ奏者には打ってつけのようなアルビノーニ。よく活字になっている「バロック音楽を聴く楽しみ」なる標語は、多分こんな時の事を言うのであろう。
 トマーゾ・アルビノーニはイタリアのヴェネツィアで一六七一年に生れたと言うから、バッハよりも十四歳年上である。そのアルビノーニを、五十曲にあまるオペラ・ブッファの作者としてよりもすぐれた器楽曲の作者として重要視したバッハは、彼の主題に基いて三曲のフーガを作曲したと言われている。これは恐らくBWV九五〇、九五一あたりの物の事であろう。しかしそれはともかく、私は以前からこのアルビノーニが好きで、彼の作品のレコードもすでに何枚か持っている。オペラの方面の事は知らないが、彼の器楽曲には独特な温かみと典雅さと清朗さとがある。この典雅さや清朗さはヴィヴァルディとなると一層男性的な色彩を帯びるが、アルビノーエにあっては、それが、たとえば毋や姉の子守歌のような女性的な柔軟性と愛情の脹ふくらみとを持っているように思われる。そして彼にあってのその慈いつくしみの感情が私を抱き、私の心を捉えるのではないだろうか。
 アルビノーニの協奏曲集(作品九)は全十二曲から成っていて三枚一組のレコードとして出ているらしいが、私の買ったのは一枚物で、作品九番の二と五と八と十一とが入っている。そしてホリガー自身がオーボエを吹き、マリア・テレサ・ガラッティがハープシコードを弾き、イ・ムジチの合奏団がこれと協奏している。全十二曲が聴ける三枚組ならば申しぶんは無いが、私はこの一枚だけで当分満足する事ができそうだ。数を揃えるのが目的ではなく、稀少価値として大切に聴いて、心を暖められたり慰められたりするのが眼目だからである。その点私のバッハ・カンタータの蒐集の如きは、いささか反省すべきであるかも知れない。
 名手と言われる程の人の演奏を聴くと、その楽器の音色ねいろはいつでも美しい。そしてハインツ・ホリガーのオーボエもその例に洩れない。いかにも端正で、潔くて、実があって、楽しい。比較するのはどうかと思うが、その点ヴィンシャーマンを凌いでいるような気さえする。ヴィンシャーマンには親しみが持てるが匠気も感じられる。ところがホリガーの方はいつもきちんと筋目が通っていながら流麗の質も失われていない。無論演奏される曲にもよるが、ヘンデルのオーボエ・ソナタで特にこの事が感じられた。あの壮大な合奏協奏曲やオラトリオもいい。しかし私はヘンデルのこうした比較的つつましやかな曲にもまた心を動かされるのである。
 ところで問題のアルビノーニはどうであろう。今度はこれをこそ目当てにして買ったのだから念を入れて聴いた。私はヴィヴァルディからもテレマンからも沢山の馳走にあずかって、いわゆるバロック音楽の楽しさもしばしば味わっている。そしてこのアルビノーニが彼らの仲間の一人である事も承知しているが、どういうものか彼と他の連中とを簡単に一緒に考えてしまう事ができず。何となく別席を与えたいような気がして仕方がない。そしてシュッツ、バッハ、ヘンデルは論外として、たとえばモンテヴェルディや、フレスコバルディや、コレルリのような人達もその別席の仲間に入れている。そのアルビノーニのオーボエ協奏曲四曲をホリガーが吹いている。西から東の方へと帰って行くカラスの群の絶えず見える私の初夏の夕暮が、特別に祝福されているように思われるのも無理は無いだろう。
 四曲のうちの第一曲は二短調である。トゥッティのヴァイオリンとソロのオーボエとが交互に呼びかわして、豊かな旋律を生んだり種々なリズムで展開されてゆく楽想が実に美しい。そしてその響きは常に澄んでいていささかの濁りも無い。そしてこの事は他の三曲についても言えるアルビノーニ音楽の特徴なのである。第二楽章のアダージョは頗る優美で、オーボエの展開するカンティレーナが余りに美しいので、もう少し長く続いて欲しいと思う程である。そしてフィナーレでは渦を巻くようなテーマが、楽章の全体に生気に満ちた力強い効果を与えている。
 第二曲は変ロ長調で、その最初の楽章は第一曲のに似ている。しかし分散和音に基いた合奏部の悠揚とした主題が現れると独奏のオーボエが受け継いで、それを繰り返しながらのびのびと楽想を展開する。続く第二楽章のアダージョでは、此処でもまたオーボエのアリアが美しい。これに反してアレグロの終楽章は、時には二部のヴァイオリンとヴィオラ、時には二部のヴァイオリンとオーボエとの、いずれも強フォルテと弱ピアノの変化に挾まれて、きわめて鮮かな潑溂とした楽章として終っている。
 ホリガーの事にしろアルビノーユの事にしろ、余り長たらしく書いては読者の倦怠を招く惧れがあるからこれでやめるが、「まるで玩具箱を引っくり返したようだ」と言われている最近のバロックのレコードの中にも、心して探せばそれぞれに優れた物も決して少くはないのである。

   『諸国の人々レ・ナシオン
  あまり穏やかな小春日和なので、
  買ったまま未だよく聴いていない大クープランの
  ヴェルサイユ音楽のレコードを掛けようとする。
  すると、いや待て、そんな料簡りょうけんではいけないのだと、
  自分のうちのもう一人の自分が
  きびしい仕事の世界へと強く私を引きもどす。
  私は卒然と覚めて、諦めて。
  これが終生の物となるかも知れぬ
  机上の困難な仕事の続きへと立ちかえる。

  さらば優雅なきらびやかな「諸国の人々レ・ナシオン」よ、
  いつか私になお幾らかの寛濶な日が来る時まで
  その美々しく装われた箱の中に
  お前たちのルイ王朝や地中海的な豪壮と歓楽の
  昔の夢を秘めて置いてくれ、待っててくれ! 
 
                                   (昭和四十七年)

 

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されど同じ安息日の夕暮れに

 モーツァルト  

 いきなりこんなことを言ったら不審に思われるかも知れないが、私はとりわけモーツァルトを一人で聴きたい。彼が万人に愛される巨匠であればあるだけ、その万人の称讃の世界から、たまたま特に自分の貧しい家をたずねてもらいたいのである。
 大勢の聴衆と一緒に聴く音楽会ならば、それはまたそれでよく、花やかな会場の雰囲気の中で楽しく耳を傾けもするが、どちらかと言えば自分の部屋で、一人だけの世界で、止むを得ない媒体としてのレコードを通して、見えも外聞もなく、身を投げ出したような心境で聴きたい。なぜならばそれは私への宥しの時間であり、慰めの時間であり、また打ちしおれた心の打ち明けの時間、或いは遠い昔のその時どきを、一人悔いたり嘆いたりする時間でもあるからである。
 こういう事はいかなベートーヴェンやバッハにも持ちこむ気にはなれない。彼らがそんな小さなわたくしごとを取り合ってくれないからと言うのではなく、彼らに対する私の畏敬が、或る種の心やすだてを許さないからである。訴えればむしろこちらが驚くほど深く聴いてももらえよう。精神の思わぬ高みへ引き上げられもしよう。しかしそれにしては自分の祈りや願いが余りに浅く凡庸ではないかと気にかかる。ベートーヴェンやバッハの大教会堂は、素朴で敬虔な田舎のクリスト教徒が行きずりにぬかずく野中の御堂みどうや、路傍の十字架像ではないからである。
 モーツァルトは愛されることを愛し、人の耳や心を喜ばせることを喜んだ。彼の音楽は解放の風である。その風はそれ自身の犠牲においてわれわれの存在の苦を吹きはらい、それを軽くしたり自由な健かなものにしたりして返してくれる。彼の短い生涯にこの世の楽しみや苦しみを嘗めつくしたモーツァルトは、人間への共感や同情や憐みを、個人宛てではなく万人宛てのものとして送り出した。だから彼を独占した気でいる者、自分だけが最もよく彼を理解していると信ずる者は、時に失望を味わわなければならない。彼は常に平等普遍の太陽のように、その無償の熱や光のように、万人の世界を訪れ養っているのである。
 私のモーツァルト。しかし本当は世界のみんなのモーツァルト。そう思って聴く時に、かたくなに閉ざされた私の小さな冬の片隅に、一抹の哀愁をたたえた彼の無限の春が湧きひろがる。そしてその哀愁は。彼が其処から来た未生以前の天国への思慕である。

     *

 モーツァルトはこんにちではもはや都会の洗練された音楽愛好者の専有物ではなく、田舎の素朴な人々の間にもおもむろに美しい浸透をつづけている。それはまずラジオやテレビジョンで、次いでたまたま催される町の音楽会などで勢いづけられたものではあるが、またそれぞれの地方の小・中学校で音楽の教鞭をとっている若い先生たちの敬虔な伝達、熱心な芸術的布教にもよるのである。私は今までにも旅先の講演会などでそういうけなげな篤信の先生たちに幾人か出逢ったが、そのたびごとにヘンデルの「救世主」の中のアリア「平和の福音を説き、善き事のたよりをもたらす者の足のいかに美しきかな」を思わずにはいられなかった。数年前の或る日、またもや同じような経験に恵まれて、翌日の帰りの汽車の中で書いた私の詩がここにある。`

   田舎のモーツァルト

  中学の音楽室でピアノが鳴っている。
  生徒たちは、男も女も、
  両手を膝に、目をすえて、
  きらめくような。流れるような。
  音の造形に聴き入っている。
  そとは秋晴れの安曇平あずみだいら
  青い常念と黄ばんだアカシア。
  自然にも形成と傾聴のあるこの田舎で、
  新任の若い女の先生が孜々ししとして
  モーツァルトのみごとなロンドを弾いている。

 そしてこの至って短い詩の後半に現われている類音の積み重ね、-たとえば「秋晴れの安曇平」や「青い常念と黄ばんだアカシア」の四つの「ア」音。「自然にも」、「新任の」、「孜々として」の三つの「シ」音、「形成と傾聴」の二つの「ケ」音――これがモーツァルトという優雅な魂と、田舎の学校の音楽の先生と、信州の晴れやかな秋とを讃えるための、私の貧しいささやかな音の造形の捧げ物でもあった。

     *

 今まで聴かれなかったモーツァルトの音楽が新しい実演やレコードによって私たちの富の中に加わり、彼の芸術に関する研究や著述がわれわれの日本でも年ごとにふえてゆく。そしてわれわれはそれらを聴いたり読んだりするたびにいよいよ彼への愛を確認し、彼への驚嘆を新たにする。ケッヘル番号のきわめて若いものの中から後年の傑作を予感させる作品が発見され、貧窮や借財に追われて書いた無数の書き捨てのようなものの中から、無視や忘却の塵をかぶった珠玉が輝く。何一つ軽々には扱えない。いたるところにヴォルフガング・アマデウスが生きている。
 こういう私はたまたま彼に言及した詩人や作家たちの言葉に出合うと、喜びや楽しさを禁じ得ない。彼を真に理解したどんな片言隻語でも、静かな水面に投げられた石の波紋のようになみなみとひろがって、その言葉のあるじと、対象である音楽家と、自分とが、美を通して生と善とを求める道の上で一体になったような気がする。
 或る時私はヘルマン・ヘッセの日記というのを読んでいた。それには次のような数行があった。詩人はその夜モーツァルトの音楽会へ行くことになっていたらしい――。
「今日はいい日だ。ふたたび生の味わいが感じられるような気がする。生はふたたび可能になるように、それどころかふたたび親しげになるようにさえ思われる。
 この日の上に、私のとりどりの生の手帳のこの一ページの上に、私は一つの言葉を書きつけたい。《世界》とか《太陽》とか、魔力と光芒にみちた言葉、響きにみち、豊かさにみち、充溢をこえて充溢し、豊饒をこえて豊饒な言葉、完全な成就、完全な知識を意味する言葉を。
 するとその言葉が私の心に思い浮かぶ。この日のための魔術的なしるしが。それを私は大文字でこのページに書きつける、――モーツァルト。と。つまり世界には一つの意味がある。その意味は音楽という比喩を借りてわれわれに示される、ということなのだ」

 

 

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 「ヨハネ受難曲」について  

 目を閉じて、心を澄ませて、四十余年前の夏の或る日の杉並区上高井戸の田舎と、そこの麦畑の中の一軒家とを思い出すと、その記憶の遠い金いろの地平線から、私にバッハの「ヨハネ受難曲」が夢のように響いて来る。
 今でこそこの輝かしい大曲についてはかなりこまかい点まで知っているつもりでいるが、大正十三年か十四年のその頃では、「ヨハネ」はおろか、同じ作者のもっと規模の小さい傑作さえ知りもしなければ、また容易には知るよすがも無かった。ところが或る日、隣りの農家に寄宿していた東京の或る良家の子息で音楽好きの大学予備校生が、新しく手に入れたと言って十枚近いレコードをずっしりと貸してくれた。たしかイギリスのヴィクター盤だったと思うが、それが名だけは知って本物はこれが初めてという「ヨハネ受難曲」だった。
 何という管弦楽団や合唱団や独唱者のむれが演奏し、その頃のどんな名指揮者が指揮をしていたか今では全然覚えていないが、野中に新築した家の小さい書斎で、年若い夫婦の私たちに、花壇の花々も暑さに萎えた七月の真昼の静けさの中、あの劈頭の大合唱「主よ、われらの統治者よ、おんみの栄光は全地に輝く!」が、管弦楽の低い緩やかな前奏につづいて、とつぜん大波のようにみなぎり立った時には、互いに驚嘆に輝く目を見合わせて唇を噛みしめたものだった。
「ヨハネ」からバッハの真の洗礼をうけた私が、それ以来こんにちもなお彼を愛し敬って、自分の心や仕事の慰めとも支えとも思っている事は今更改めて言うまでもない。口に出すのは面映ゆいが、バッハのレコードならばほとんど全部を持っている。人々と一緒に聴く喜びのある音楽会行きは別として、一日の仕事を終えて一人静かに聴きたい時、私は夕暮れの山を前にした二階の書斎で、久しく聴かなかったどれか一曲に耳を傾ける。宗教的なものであれ世俗的なものであれ、器楽曲であれ声楽曲であれ、バッハには何でもあり、どんなものからも必ず何か得るところがあるので決して片寄った択より好みはしない。そしてそこから与えられるものはいつでも心の解放と平安である。
 きのうは二組持っているその「ヨハネ受難曲」のうち、ギュンター・ラミンでなくオイゲン・ヨッフムが指揮をしている盤の第二部から「審判と鞭打」を聴いた。「マタイ」のように詩的であるよりも寧ろ劇的なこの受難曲の中でも、最も緊迫した場面の一つである。「この男もしも悪をなしたる者ならずば、われら汝に渡す事をせじ」とか、「われらに人を殺す権威なし」とか言ってピラトに迫る群集の陰惨で猛悪な合唱と対照的に、「われの国はこの世のものならず。もしもわれの国この世のものなりせば、われに従う者らわれをユダヤびとに渡さじと戦いしならん。されどまことわれの国はこの世のものならず」と、低音楽器の伴奏を随えてピラトに答えるイエスの従容しょうようとして雄々しいレチタティーヴォが美しかった。そして「ここにピラト、イエスを捕えて鞭打てり」のところで、その「鞭打てり」geisselteの一句が、いかにも鞭のしないのように悲痛な波がたを描いて歌われるのが胸に迫った。
 四十幾年のむかし初めて聴いた時には、もちろんこんな細部の美に気づく力も余裕もなかったのである。

 

 

 

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 ブルーノ・ワルター 

 朝からの仕事が終おったきらびやかな秋の或る午後、私はこんな時にこそ聴きたいと思っていたモーツァルトの交響曲第四〇番のレコードを棚の中の一番大事な列から抜き出した。哀感を秘めた熱情的なアレグロ・モルトの第一楽章から、深い慰めと愛情のこもったアンダンテの第二楽章、続いてこの世のあらゆるメヌエッ卜の中での最も非凡なメヌエットと言うべき第三楽章、そして最後に、時に優美で時に雄々しく、ついに魂の不敵な跳躍と絶叫に終わるアレダロ・アッサイの第四楽章。私は静かに満たされた思いで、しばしのあいだ心の中のその余韻を味わっていた。ニューヨーク・フィルハーモニーの演奏、ブルーノ・ワルターの指揮だった。
 この四〇番を含むモーツァルト晩年の交響曲群とベートーヴェンのそれとの全部が、私の持っているレコードではいずれもワルターの指揮である。そしてそのワルターに私が共感と信頼の念とを抱き続けて変わらないのは、彼がバッハやベートーヴェン、モーツァルトやシューベルトのような巨匠の作品から、常にその美を通して善を見て取っている点にある。彼は「音楽の道徳的諸力について」という講演の中で、この事をねんごろに繰り返して説いている。「これらの音楽によって諸君の中にある陳腐なもの、悪しきものが忘れ去られるように! そして諸君のうちに最も善い、最も純な温かい感情が目ざめるように!」と。つまり気高いすぐれた音楽は、音楽そのものとして聴衆を魅了し、楽しませ、喜ばせ、その心を豊かにさせると同時に、その人々に対して明らかに一種の倫理的な呼びかけをしているのだと言うのである。
 ワルターは又こうも言っている。偉大な音楽の持っている見渡すこともできない程の富は、すべてその作曲家の「幽暗な感情」から生まれたものである。たとえばベートーヴェンやモーツァルトの不朽のアダージョやアンダンテがわれわれの心を捉えて高めるのも、それが高揚と無我の境にある彼らの高貴な魂から流れ出たものだからである。そして「私は音楽の精神を愛において以外には捉えることができない」とワーグナーが言う時、それは音楽なるものが偉大な愛の力と愛の充溢とから湧き出るものだからである。そしてシューベルトの歌曲「竪琴に寄す」では、それは「ただ愛のみを奏でる」。更にバッハの「マタイ受難曲」で、ペテロが主を否認する場面で歌われるレチタティーヴォは取るに足りない贅言のようなものであるのに、福音史家が現われて悔い改めの事を述べ、ペテロが外へ出て号泣する事を語る時には、この同じレチタティーヴォが真に見事な音楽になるのである、と。
 私はこうした事をあえて言う指揮者ブルーノ・ワルターに、深い共感と信頼の念を禁じ得ない。

 

 

 

 

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 「目ざめよと呼ばわる声す」 

 私のような者の眼から見ても、どうも歌われる詩として余り立派とは思われないドイツ語の歌訶が、ひとたびバッハの手にかかって教会カンタータやモテットなどになると、それがおおむね素晴らしく美しい深いものとなって心を打って来るのは実に不思議である。こういう例は他の作曲家の歌の場合にもしばしば見られるが、それは結局音楽そのものがすぐれているからだと思って、バッハの時にも歌詞の方は意味を汲みとるだけで満足して、もっぱら独唱や合唱の旋律自体の美に心をこめて聴き入ることにしている。シュヴァイッアーのような専門的な研究家にはこんな事も時として大いに問題になるらしく、事実その大著『バッハ』の中でも拙劣な歌詞のことに触れているが、私のような単なるバッハ好きの詩人には、多少言葉や文体が気に入らなくても音楽そのものに堪能し心酔する事ができるのである。とはいえ音楽と同時にそこに生かされている歌詞もまた美しいカンタータが、バッハにあって甚だ多いことは言うまでもない。楽器群と歌とが協奏的に競い合って進行する第六五番の「彼ら皆サバより来たらん」の楽しくも輝かしい最初の合唱曲などは、その好個の例としてまず第一に挙げたいと思う物の一つである。
 バッハには独唱カンタータにも見事な物がたくさんあるが、私はコラール・カンタータがわけても好きで、中でも第一四〇番の「目ざめよと呼ばわる声す」のレコードなどは、あまり掛けてはもったいないと思いながらついたびたび聴いてしまう。殊にその第一曲で、長い音符で歌うソプラノのコラール旋律と、同時にもっとこまかに歌われるアルト、テノール、バスの三部合唱と、それらを縫いかがる緩やかな行進曲風の管弦楽との壮麗な交流がこの上もない安らぎと幸福感に満ちている。いつまで聴いていても飽きる事のない音楽の、これもまたその一つの例であろう。テノールが斉唱する星空のように澄み晴れた第四曲のコラール「シオンは物見らの歌うを聴く」も美しい。このコラールは一見容易なものに思われるので私も時々一人で歌ってみるが、或る時或る友人のチェンバロの伴奏で歌った時には、真に美しい曲の真のむずかしさというものを今更のように痛感したのだった。第三曲と第六曲でイエスと霊魂との結合を歌うバスとソプラノの至福の二重唱について、角倉一朗氏は「古くからの宗教観念である神秘的合一を、バッハは生き生きとした人間的実感としてとらえている」と書いているが、まったくその通りで、聴いていながらいつしか神聖な愛の酔心地に落ちこんでゆく思いがする。その第三曲に伴奏するのはヴィオリーノ・ピコロだが、第六曲のはオーボエで、これがまた実に明るく、頼もしく、美しいのである。楽的化身を見るのである。そしてこれは、強いてそう思って聴くからではなく、想念をかまえて待ち迎えるからでもなく、実にハイリゲンシュタッ卜や、メートリングや、ヘレーネンタールで代表されるベートーヴェンと自然との深い内面的なつながりの消息を、私が自分の事のように知り、信じ、体験しているからではないかと思う。 
                                   (昭和三十七年)

 

 

 

 

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 古楽礼讃 

 重なって行く年齢のためでもあろうが、音楽への自分の好みがだんだんと古い時代の宗教的な作品や、同じ頃の作者の名も分らないような世俗的な物へと移って行くのがこのごろ切に感じられる。フィデリオの勝利のラッパの響きが遠くなり、ヴァルキューレの騎行の轟きが時のかなたに薄れ、夜想曲やポロネーズの調べが霞む。これはそのまま受け容れていいか、淋しく惜むのが当然の成り行きか、どちらかよく分らないが、正直言ってこういうのが現在の私の心境なのである。
 バッハの壮麗な管弦楽組曲や協奏曲を聴きながら、心ひそかに、小さい物でもいいから同じ彼の敬虔な教会カンタータでも聴く事ができたらばと思う時が少くない。バッハヘの愛や誠や傾倒にいささかの変りも無いのに、この微妙な願いの変化はどうしたと言うのだろうか。「目ざめよと呼ばわる声す」を今だに心躍らせて想いながら、「わが心には患い多かりき」を歌おうとする此の瞬間の気持を何と解明すべきであろうか。若い頃から音楽の多彩な花園をあれほど愛していたジョルジュ・デュアメルが、自分の死の瞬間にはバッハの「ヨハネ受難曲」の最後の歌を歌うか聴くかしたいと願っていた気持がおのずから分る気がする。そしてそう告白した当時のデュアメルよりも。現在の私の方が遙かに歳をとっているのである。
 私はラジオの音楽の時間というものを余り、と言うよりも寧ろほとんど聴かないが、それでもNHKがやる週間日の午後五時十五分からの「バロック音楽のたのしみ」だけは大抵聴く事にしている。此の曲目には皆川達夫さんと服部幸三さんとが解説を受け持っておられ、単にバロックと言うよりもそれ以前のもの、つまり中世やルネサンス時代のものが多く登場するので、この時間を楽しみにしているのである。勿論両氏とも自信をもって選曲し、それらを吾々に分り易く説明しておられるせいもあるのだろうが、こういう古い音楽の持っている独特の美と純真さとを、たとえ短かい時間とは言え味わわせて貰う事はまことに嬉しい。つい最近も皆川さんの時間にオルランドゥス・ラッススの「七つの懺悔の詩篇歌」というのを初めて聴いて、その深い美しさに魂を打たれた。ここにはシュッツにもバッハにも無いルネサンス的な、フランドル楽派に特有で多彩なポリフォニー技法が花と咲いているように思われた。それで皆川さんに無理にお願いして、同氏の手になる日本語訳を頂戴した。そして必ずや近くそのレコードが手に入るようになるだろう事を確信して、その時の楽しさを延ばしている今なのである。
 十五世紀から十六世紀にかけての最も重要な作曲家の一人であるハイソリッヒ・イザークについても同じような思い出がある。此処でも皆川さんが主役を演じているのだが、同氏が主催している中世・ルネサンス音楽協会の合唱会の時、その終りに必ずイザークの「イソスブルックよ、さようなら」が、多勢の聴衆の中にぽつんと混じっている私のために歌われた一時期があった。私が山好きで何年間か山登りに熱中していた時代のあるのを皆川さんが知っていた為だろうと思うが、ステージから名を呼ばれて、「最後に尾崎さんの為にイソスブルックよ。さようならを歌いましょう」と言われると、聴衆の間から立ち上がりはしたものの、頭を垂れ汗をかいて、それでも小さい声でステージの合唱団の歌の大波に和して歌うのだった――

  Innsbruck, ich musz dich lassen,
  Ich far dahin main strassen
  in fremde Land dahin……

 私は哀愁が漂いながらしかも雄々しく簡潔な此の歌をひどく好きで、今でも新緑や新雪などの山を歩いている時にはしばしば歌う。永く住んでいた生れ故郷の東京を去って此の鎌倉の新居に移る時も、運び去られて行く庭の樹々の下でこれを歌った。「東京よ、今私はお前を去って、遠く見知らぬ土地へ行かねばならない」と。しかしそのイザークの「四旬節第四の主日ミサのための固有文」からの数曲と共にフィンク、ジョスカン・デ・プレ、ゼンフル、ホーフハイマー達のものを聴いていると、「インスブルック」と銘打ったその一枚のレコードがひどく貴重な、また甚だ愛すべきものに思われてくるのである。

 高名なジョヴァンニ・ピエルルイジ・ダ・パレストリーナ。私は古くから生れ故郷の名で呼ばれているこのパレストリーナを好きで、「教皇マルチェルスのミサ曲」を初めとしていろいろそのレコードを持っているが、中でもいちばん気に入っていて時々聴きたくなるのは旧約聖書ソロモンの『雅歌』から抜萃された六つのモテットである。そして本当は全部で二十九曲有るのだそうだが、私の持っているのはフライブルヒの少年聖歌隊の合唱による六曲だけである。しかしその歌がすべて如何にも清純で透明で豊麗で、同じルネサンスの大道をたどりながら、あの疲れを知らない旅行者オルランドゥス・ラッススを時に凌ぐような趣きさえある。その六つの曲と言うのは「エルサルムの娘らよ。われは色黒けれどなお美わし」、「彼、われを携えて酒のうたげに入れ給えり。そのわが上にひるがえしたる旗は愛なりき」。「わが愛する者の声聴こゆ。見よ、山を越え丘を飛びて来たる」、「わが愛する者はわがもの、われはまた彼がものなり」、「わが女友ともよ、なんじまことに美わしくして汚れの影だに無し。花嫁よ、レバノンよりわれに着きレバノンよりわれと共に来たれ」、「エルサレムの女子おなごらよ。われなんじらに固く請う。もしわが愛する者に逢わばなんじら何とこれに告ぐべきや。われ愛によりて病めりと告げよ」と。つまりこういうのがそれぞれの歌の最初の句である。私は或る年に大病で入院して、やがてわが家へ帰って来た日の翌朝、飛びつかんばかりの思いで此のレコードをかけて聴いた時の嬉しさを今でもはっきり覚えている。それは私にとってもまた再生の雅歌だった。
 「現代に生きる中世及びルネサンスの音楽」という二枚組のレコードがある。マショー、ダンスタブル、デュファイ、イザーク、ハンス・ザックス、オケゲム、ジョスカン・デ・プレ、スヴェーリンクのような名のほかには「作曲者不明」とあるのが多いが、その不明の中にすぐれた物が少くないのである。たとえば十字架のもとに立った聖母マリアの歎きの言葉で」"Lasse! gue deviendrai je?"「ああ。私はどうなるのか!」とフランス語で歌われるのであるが、その無伴奏の女声の歌が如何にも純真で、淋しく美しい。そして聴いている内に自分までが野中の十字架の前に一人立って悲歎にくれている女のような気がして来る。そして心は結局清められ和められ、いつまでも聴いていたいような思いに沈みこむ。私はこれもまたあの「雅歌」と一緒に短かい詩に書いた記憶があるが、何はあれ一人でも多くの人が此の歌の切々たる感情や美に打たれる事を願いたい。そのほかにも諧謔的なもの、自由奔放なもの、瞑想的なもの、敬虔なもの等いろいろ有って、私などの親しく知らない時代や世界の音楽が春や夏の山野の花のように咲き広がり、心して聴くほど新らしく身になる物が発見される。そして服部さんや皆川さん達がこの方面の開拓に力をそそいでおられる理由がよくわかるのである。
 このように自分の余生の日々を喜ばせたり、慰めたり、飾ったりしてくれる古い時代の音楽を聴いていると、今まで知らなかったものの実におびただしい事に改めて驚かされる。つい最近も或る若い友人からカンプラという私には未知のフランスの作曲家の「レクィエム」の盤を贈られ、その美しさに深く深く心を打たれた。一六六〇年にプロヴァンスのエクスに生れた人だと言うからバッハよりも年長で、A・スカルラッティやパーセルと同じ年頃の音楽家である。ところで私を感嘆させたそのレコードと同封の友人の手紙なる物がまた余りにもよく此の「レクィエム」の心なり美しさなりを伝えているので、無断ではあるがその一部を此処に載せさせて貰う事にしたい。
「……さてここにお送りしましたレコードは、とりわけ奥様に聴いて戴きたく、正月に求めてあったものです。南仏プロヴァンスの陽光と素朴な風に、神への敬虔な信仰が流麗に優しく醸し出されています。そして健気にも悲みが昇華されようとしています。
 アンドレ・カンプラは大バッハと殆んど同じ頃の人で、偉大なバッハと一律に較べることは不当かも知れません。しかし私はカンプラの此の「レクィエム」から華美なフランス宮廷文化の枠を越えた人の願って求める美の原質が流れている事に心を動かされます。たまたま知り合った未知のものから思いも寄らなかった、恐らくは以前から慕っていただろう美の触れ合いに、その豊かに広い美の世界との出会いに心がときめくのです。誰彼の、階級や身分や民族や時代の比較の枠をこえた美の滲透力を思わずにはいられません……」
 ここに挙げた音楽の心も手紙の心もまことにはこの通りで、私にはこれに一言半句も附け足しようがない。ただ志ある諸君がこれを聴いて、手紙の主や斯く言う私と同じような感銘を得られるとしたら本望である。

 音楽への感動から詩が出来るような事を此の中でも私は書いた。そこでこれが満更の嘘でもない証拠として此処に一,二篇の自作を紹介して、この方面にも興味を持たれる諸君に読んでいただけたらと思う。

   冬の雅歌

  日曜日のおだやかな朝をくつろいで、
  書斎の電蓄でパレストリーナを聴いている。
  「われは色黒けれどなお美わし」と
  「わが上に彼のかざせし旗は愛なりき」、
  フリブールの少年聖歌隊が清らかな声で
  迸るようにけなげに耿うソロモンの雅歌だ。
  私のためにそのような愛や誇りや、
  かぐわしい風、せせらぐ小川はすでに遠いが、
  老境の太陽はいま庭の枯れ木を柔かに染めて、
  冬の大空がその歌のように晴ればれと青い。

 

   或る音楽会で
      (高野紀子さんと東京ルネサンス・コンソートの人々に)

  片膝に載るほどの小さいオルガンを弾く娘は
  役割りを変えて白い短かい縦笛も吹く。
  悠然と並んだヴィオラ・ダ・ガンバの弦の響きは
  涼しく、雅みやびて、おっとりと
  イギリス・ルネサンスの舞曲をかなでて、
  古い善い時代の夢と秩序とをよみがえらせる。
  しかもそれがすべて揃いの衣裳を裾長く曳いた
  匂うばかりの若い女性の合奏なのだ。

  ああ、私にしてもっと若かったら!
  しかしもう続かない息、固い指、かすれた声、
  諦めもさして苦痛ではないほど歳をとった。
  今は焦燥もなく、歎きもなく、羨望もなく、
  彼女らの町や宮廷や野の歌に静かに聴き入り、
  その画のような輝きに見惚れなければならない。
  それが受容だ、それが救いだ。
  そしてそれが老境の知恵というものだ。
                        (昭和四十八年)

 

 

 

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 編者あとがき 

                                串田 孫一

 古い農家の敷地などに残っている古木の繁みへ郭公が来て鳴く。夜明けから七時前後が多いが、午近くなって、すぐそばまで来て鳴くこともある。毎年の、殆ど時期に狂いのないこの訪問を告げる声を今年も聴きながら、こんなことを想い出していた。
 もうそれも八、九年前になるが、私は自分の部屋の窓辺にいて余り郭公がいい声で鳴くので、小型の録音機を用意し、次に鳴き出すのを待ち構えていて釦を押した。雑音もまじらずに比較的よく録音出来たので、早速尾崎さんに電話を掛けた。
 午前のお仕事がそろそろ一段落する頃だろうし、そうでなくともこういう声の贈ものなら邪魔にはなるまいと勝手に考え、スピーカーを受話器に近寄せて郭公の声を再生した。
 五分程前の小金井の郭公です。如何ですか。
 私は尾崎さんがどういう感想を電話口で述べられるかそれが楽しみでもあってこんなことをしたのだが、郭公が鳴き終ると同時に、十四回鳴いたね、と言われた。
 勿論それだけではなく、いろいろ話が続いたのではあるが、この十四回鳴いたねという言葉は考えれば最も尾崎さんらしくもあったし、教訓にも満ちたものであった。尾崎さんの優れた、最後まで衰えることのなかった感性は、こうした素朴な好奇心に拠って活力を得ていた。
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 尾崎さんが亡くなられて以後、『詩文集第十巻 冬の雅歌』、『日光と枯草』、『山の絵本』の複刻版、「日本の詩」の中の『尾崎喜八集』などと、尾崎さんの作品を読み返す機会がかなりあった。
 それで今回は私は脇へ廻り、尾崎さんの最も近くにおられた榮子さんに構想、作品の選定、更に校正に到るまですべてをお任せした。

 

                                尾崎 榮子

 この本の刊行のお話が昭和出版からあった時に、山と音楽の交響曲のような形にしたいというご希望があった。しかし全作品を読み返してみてそれはとても私の手には余ることで、願わくは読者の方がそれぞれの作品の中に、それぞれの音楽を感じて下さればと願いつつ、ご覧のような組合せを編み出したのであった。
 作品は、「尾崎喜八詩文集」全十巻(創文社)より四十四篇、『夕べの旋律』(創文社)より四篇、『詩人の風土』(三笠書房)より二篇、『ルネッサンス、バロック音楽3』(筑摩書房)より一篇、『芸術新潮』(新潮社)より三篇、それぞれの社のご協力を得て、採録したものである。また、最初に掲げた二篇は、『山の絵本』刊行より十二年も前に朝日新聞に発表したものである。常に一貫して変る事のなかった、父の自然と音楽への愛と、その生活信条の形見として、敢えて半世紀前の文章をここに載せる事にした。
 表記はすべて原文のままとし、題名は収録した一篇の中からとって全体の代表とした。
 この本を編むに当り、「よい本を作りましょう」といろいろご助言下さり、カットから装幀までお考え下さった串田先生。音楽のエッセイを選ぶのに力を貸して下さった父の若い友人川嶋利哉さん、「たてしなの歌」等に出てくる義弟の遺児で、本書の校正を手伝ってくれた西尚ひさ子、それに刊行にあたって種種お世話になった昭和出版社長、吉富達彦さん、編集の高橋和夫さんに心からお礼を申し上げたい。
                                 (昭和五十四年七月記)

 

 

 

 

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