もう二、三日で高村光太郎さんの一周忌が来る。その高村さんに刻々と最後の時が近づいていた一年まえのあのころと同じように、思い出の中野のアトリエの庭にも今は連翹れんぎょうや伊予みずきの黄色い花が盛りであろう。多摩川の三月の水を見おろす丘の上の私の庭でも、同じ花たちが麗らかな春の空気を照らしている。妻は今朝その連翹の一枝を切って来て、書斎のたなに飾ってある「おじさん」の写真にそなえた。
詰襟服の上に厚い綿入れのそでなしを着て、大きな老眼鏡のうしろの目を細め、短く堅い白いヒゲにかこまれた口を曲げて微笑しているあの写真に。
相模野の奥に道志・丹沢の連山がうちけぶり、ホオジロの歌のひびく空に二つ三つ柔らかな雲が浮かび、物思う心のようにフレームのあたりをさすらっている今年最初の一羽の白蝶。逝った人々は永遠に帰らなくても、自然の推移は年ごとに変わらず、めぐる季節がふたたびの春をかたちづくっている。
今から二十五年ほど前、私は高村さんとの五月の上越の山旅のあとで、その一部分に次のような幾節を持つ詩を書いた、――
君の存在と共に結局いつか亡びるもの、
君に属するものの中で最も脆いはかない部分、
そしておそらくは最も美しい部分、
君の此の世の姿と、雰囲気と、
その生活とをわたしは見た。
生命を形に託す君の仕事は
それ自身ひとつの永遠を生きるだろう。
それはいい。しかし君の存在の夏の虹、
生活そのものである傑作を幾人の者が記憶するか。
その美の脆いことが時にわたしを涙ぐませた。
しかしその脆い美がわたしに一層深く君を愛させた。
友よ、わたしは君の「人間」のにおいに触れた。
あそこで、あの折れ重なる山々のあいだで。
新しく出る『高村光太郎全集』の校正刷を見ながら、また彼の彫刻の写真集からその実物を見た折々の感銘を呼びさましながら、私はそれらの仕事の高くかつ大きな価値を考え、一つ一つの作品が持つ制作動機の深さや、表現上のさまざまな試みの敵しがたい新しさや、当時から現在に及ぶその審美的及び倫理的な意義や、未来にまで投げられた種々の問題の暗示性の豊かさを思わずにはいられない。
そしてすべてこれらの特質が、それぞれ今後の研究課題となるだろうことは彼の業績の担っている運命であり、それは時を重ね、人を得ての上に期待すべきである。しかし再びめぐって来た自然の春を前にして、私の心にそくそくとわく思いは、そういう高村さんのこの世での生ける姿をもう二度と見るよすがの無いという恨みと、芸術は残っても人は亡び、去る者の日々にうとくなるという嘆きである。
半世紀前に私の物した友情の哀歌が結局は現実となって、われわれに親しかった高村さんの「人間のにおい」が一片の煙と消え、鳴りやんだ歌の余韻のみが残るという事実が眼前のものとなった悲しみである。
もしもここに誠実な思慕者である一人の夢想家があって、沈丁花がかおり桜がほころぶ染井の墓所にたたずんで、地下の高村さんにその切々の心を訴えるとしたら、高村さんは答えるだろうか。私は思うのだ、あの人間苦にも芸術苦にもたくましかった霊がきっと答えるだろうと。しかしその声は痛ましくも遠く微かであり、またおそらくは追慕者の予想に反したものであろうと。 高村さんは時の霞の奥から答えるだろう、「僕のことはもう終わった。人の世の記憶は夢のようだ。永遠の眠りがいよいよ僕に深くなる。僕はもう人間の仲間ではない。生きている君は君の人間仲間を愛するがいい。さよなら……」と。
(一九五七年三月)
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