初 秋
円覚寺山門前の踏切りを渡って、上り電車の線路にそった細い道を駅のほうへ向かうと、左手に白鷺の池というのがある。名は美しいが、このごろはだんだん水がよごれて、青みどろのような色を呈している。しかしその池のふちをタンポポやイヌノフグリの花が咲き埋める春だの、色さまざまなツツジが飾る初夏だのの季節には、さすがに捨てがたい趣きがある。
私は子供の頃からずっと植物や昆虫が好きだったので、今でも自宅からこの池までに出合う彼らの名ならば、たいがいのものは知っているつもりである。ところできのうはその白鷺の池のふちに繁茂している背の高い雑草ヤブマオの葉に、私の好きな蝶のアカタテハが卵を産みつけている現場を目撃してひどく喜ばされた。
じっと立って見ていると、アカタテハの産卵はほかの蝶のそれよりも性急で、一枚の葉に一粒だけサッと産みつけると、すぐまた別の葉の上を撫でるように飛び移りながら産んで行くのである。
これは私にも初めての見ものだった。そこで折よく持っていた拡大鏡で手近の一粒を調べると、若い葉の表面に今産みつけられたばかりの卵は淡い青緑色をしていて、長さ一ミリにも満たないビヤ樽のような形をし、その側面には縦に九本ばかりの突起があった。レンズの焦点にぴったりと浮き出したそれは実に精巧でみずみずしく雅致さえあって、まさに一個の芸術品だった。そしてなるほどこのあたりでよくアカタテハを見かけるのは、彼の幼虫の食草であるヤブマオやイラクサが多いからだという事に気がついた。
こんなふうに場所を書いてしまうと、忽ちいわゆる「虫屋さん」に根こそぎ捕られてしまう惧れがあるので普段から用心して書かないことにしているが、鎌倉でもあまり人の入らない谷間などには、夏の始めから九月半ばにかけて、蝶ばかりか、まだ色々な種類のトンボのいる処がある。
つい最近も友人と一緒に或る谷へ入って行って、このごろ次第に姿を見せなくなった幾種類かに出逢った。大きな声では言えないが、其処にいくら山の中とはいえ都会地では珍しいミヤマカワトンボが何匹もいたとしたらどうだろう。緑に輝く長い腹部をして、透明な褐色の羽根に薄赤い紋のついている美しい大型のミヤマカワトンボがである。更に細い腹部の末端が急にふくれているオナガサナエ、雄の体が目のさめるように真赤なショウジョウトンボ、さては一見ヤンマを思わせるコヤマトンボや、優しくひらひらと藪の上を飛んでいるモノサシイトトンボなど、何年ぶりかで見て懐かしくその名を思い出すトンボの仲間が、細い冷たい流れの上にスイカズラの咲いているあたりにひっそりと住んでいた。
あの澄んだ涼しいトレモロでこのごろの夜の空気を顫わせている気品のあるカンタンはだいぶ減ったが、それでも気をつけて耳を澄ませば、家の近くのところどころの草むらで鳴いている。デパートなどで一匹の相場が何百円だとかいう話だが、真の風雅は自由な自然の中にこそあるのであって、どんなに立派な物でも人工の竹籠などへ閉じこめてしまったのでは、その歌は捕虜の嘆きにひとしい。
自然が好きだから十年ほど前まではよく山へも登った。中でも関東や甲斐や信濃の山々は私のなじみの地で、昔書いた登山日記や詩や紀行文などを読み返すと、今でもやるせない郷愁に襲われることがよくある。それでも去年は裏磐梯と安達太良あだたら山への旅をし、今年は毎年の例として上高地へ行き、ついでに残雪の乗鞍岳の中腹まで登って高山の花々や小鳥の歌も満喫した。
音楽も私の生活からは切り離せない。と言うよりもそれは自然同様私の心の養いであり魂の糧であって、これから離れる時は自分もまたなつかしいこの世を後にする時だと思っている。だから音楽会へもたびたび出かける。生きた人間仲間の演奏者たちが私たちの眼前で、懸命になって昔の大家の作を再現してる光景がたまらなく心を打つからである。
しかし静かな夜の書斎でただ一人、耳と心とを澄まして聴き入るレコードにもまた救いや勇気づけの力がある。そういうレコードを東京から買って来たり小包で郵送させたりして、さてそれへ初めての針を載せる時の胸のときめきは知る人ぞ知るところであろう。
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友 人
鎌倉へ移住すると、親しい友達五人が集まって、いつのまにか「山祇やまずみの会」というのが出来てしまった。つまり北鎌倉の山の上や谷戸の奥に住んでいる山の神たちの会という意味で、名は新参の私がつけたものだが、ほかの四柱の神たちは、以前からそれぞれこの土地に住み着いていたのである。すなわち富士川英郎、山崎栄治、吉村博次、伊藤海彦の諸君がそれで、みんな神と言うよりも学者だったり詩人だったりしてそれぞれ専門の上で立派な仕事を残している。
まだ東京にいた頃、私は彼らに招かれて、妻と二人で幾たびかこの鎌倉を訪れた。古い名高い寺へも案内されたし、今よりも草木が繁茂していた頃の美しい山や谷へも誘われて一緒に歩いた。その内に私は東京の家を引き払わなければならなくなった。すると伊藤君が待っていましたとばかり立ち上がって奔走してくれ、その世話でこの北鎌倉の片隅に土地を買い、家を建てる事が出来た。生まれつきこんな事柄に無能な私は、その間何もかもこの若い友と自分の娘の栄子とに任せきりだった。つまり二人して地所を選び、家の新築の監督までして、私達老夫婦や孫共をそっくりそのまま新居へ運び込んでくれたというわけである。言うまでもなくほかの三人の友も私達の鎌倉移住を喜んで迎えてくれた。
私のところで、少なくとも大人共が「海ちゃん」の愛称をもって呼んでいるこの伊藤海彦君とは、終戦の翌年に信州の上諏訪で初めて識り合った。彼は両親と共に上諏訪の大手通りに住み、私の家族は富士見高原の森の中に住んでいた。上諏訪と富士見とはつい目と鼻の先である。だから両方で親類同様の往き来をした。それ以来もう二十五年になる。あの頃から悧潑で知識欲が盛んでその上画と文章の上手だった彼は、今はすでに二人の子供の父親となり、独特の美を備えた詩の作者として、名も極楽寺の山の新居に母堂や妻君や子供達と共に仲睦まじく暮らしている。
その伊藤海彦君よりもっと古く、交遊ほぼ四十年になる山崎栄治君には懐かしい思い出が幾つもある。彼とはよく山へ行った。誘いを掛けるのはいつでも私だった。或る年の秋にはまだ余り人の行かない奥多摩の「棒ノ折おれ」へ行ったし、或る年の春には軽井沢から八風山を越えて神津こうづ牧場や荒船山へも行った。また新年の雪を踏んで山中湖や河口湖への旅もした。元来無口のたちではあるが、その少ない言葉はよく吟味され洗練されている。それにフランス語が専門なので、私としては彼から教えられるところが少なくなかった。『ボーミューニュの男』を翻訳して、初めて日本にジャン・ジオノを紹介したのも彼だった。詩集もすでに二冊出ているが、世間的にはパッとしない彼を、率直に言って私は現代で最もすぐれた詩人の一人だと思っている。仏文学の教授として永年横浜の国立大学に務めているが、その彼が最近山ノ内の高台へ建てた新居は、椿、梅、桃などの静かな花の木で囲まれている。
去年から京都の大学へ転任した吉村博次君も伊藤君と同じくらい古い友で、やはり富士見時代に識り合った。伊藤君に何処か春のような感じがあるとすれば、この吉村君はいつでも秋の気に貫かれた趣きを持っている。口数が少ない点はいくらか山崎君と似ているが、その話からは詩人の柔らかみというよりも寧ろ思索家の鋭い切れ味のようなものが感じられる。彼はドイツ文学が専門で、ボンゼルスの『大空の種族』を初めとして、シュトルムやトラークルの詩集のすぐれた翻訳がある。同志社大学へ転任したとはいえ、鎌倉の家には家族が残っているので、休暇で帰って来た折などには時々会える。
これもドイツ文学者の富士川英郎さんについては今更言うまでも無いだろう。リルケに関するその尨大な仕事は広く日本国中に知られているし、比較文学者としても多くの後進を育てて来た。それに彼は三、四才の頃からこの鎌倉で育ち、一年前還暦を迎えて東大を退職した現在までずっと鎌倉に住んでいるのだから、およそ鎌倉に関する事ならば知らない事は無いだろう。学者としての勉強の合間には足まめによく歩き、歴史的な旧跡は元よりどんな山道、どんな谷やつ、どんな入り組んだ小路でも知り抜いている。それに「やぐら」の研究の大家でもあって、近くその広い知識の一端が或る雑誌に連載される事になっているという。飄々とした風貌でいながら内実は細心で緻密。江戸時代のすぐれた文人の業績や風格を愛して、しかもこちらからの質問があればドイツ文学の話でも、鎌倉という土地の変遷についてでも、知っている事ならば何でも気安く明快に答えてくれる。まことに得がたい人物だと言わなくてはならないこの友は、古くからの瓜うりガ谷やつの住居に悠々自適の生活を営んでいる。
山祗やまずみについてはこれで一応紹介は終わったが、実は私一人で「これも立派な山祗だ」と思っている友がある。名を持ち出されるのを好まない人だからSさんとだけ言って置くが、私の家の上の地所に私よりも二、三年前から住んでいる。一見剛直に見えながら内心は優しくてよく気がつき、美しい夫人との仲も睦まじい。閑寂と古雅を愛して、好きな音楽にもバッハやモーツァルトのような古典が多く、それも華麗な管弦楽よりも、どちらかと言えばしみじみと心に訴えて来るものを好んでいる。私も時々招かれて聴きに行くが、趣味の良いその部屋は広々としてよく整頓されていて、私の処のような雑然とした感じは薬にしたくもない。其処でゆったりと大きな椅子に身を沈めて、立派な堂々としたセットから聴くルネサンスやバロックの音楽が、同じ物でありながら私の家のそれとは違って何と美しく響く事だろ! セザール・フランクとシベリウスの作品の真の善さを知ったのも此処でだった。そういうレコードをSさんは毎月随分買うらしいが、気に入らないのはみんな人に与えてしまうそうだ。このように気むずかしくてしかも気前の良いところが、私から見ればいかにもSさんその入らしい。春か秋の奈良や京都への旅とゴルフとレコード、それに酒。これだけが職務多忙な彼の憩いであり、慰めである。私のそれとは全く違った生活をしながら、時に酌みかわす酒がうまいと言うのも、どこか互いに気の合ったところがあるからであろう。そして私がいつも感心しているのは、こうして何事にも不自由の無い彼がその会社への出勤の日には、雨が降ろうが雪が降ろうが、寒かろうが暑かろうが、必ず自宅と駅との間を歩いて通う事である。口では運動のためと言っているが、運動はゴルフで充分。やはり自分で定めた戒めを正しく実行しているのだと私は思っている。
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病院にて
松葉ガ谷やつの妙法寺と安国論寺との間にある額田ぬかだ病院の、芝生と花の木の庭がよく見える広々とした清潔な待合室の椅子にかけて、「尾崎さん、どうぞ」と呼び込まれるのを待っている。呼んでくれるのは私の好きななじみの看護婦さんである。日曜と祝日とを除いたふだんの日の午前中の診療時間にはこの待合室もいっぱいだそうだが、私の場合は月に一回だけの診察を受けに行って、それも午後二時からの特別な時間を指定されているので、待ち合いの患者も一人か二人だからいつも静かだ。知った顔と言えば、いつだったか看護婦さんに教わった北畠八穂さんぐらいなものである。
今日は待っている間、むかし買ったフランスの女流作家コレットの『私の窓から見たパリ』"Paris de ma fenêtre"を読んでやろうと思って持って行ったのに、つい大窓の前の庭の芝生へ上の山から降りて来た二、三羽のツグミの姿に見とれている間に向うの廊下の白いドアが明いて例の「尾崎さん、どうぞ」で呼び込まれてしまった。ちょうどコレットの部屋へ春の最初の蜜蜂が一匹飛びこんで来たところで、これから先の彼女の観察や感想が面白い筈だったが、急いで白ずくめの診察室へ入って先生の前に立った。「どうですか。変りありませんか」と先生は言いながら、いつもの通りべッドヘ横になるように合図をした。するとすかさず看護婦さんが上着を脱がせ、ワイシャツの右腕をまくり上げて、血圧を測る準備をした。私も馴れているから仰向けに寝て、まくった右腕を先の方へ差し出した。看護婦さんは、その腕へ血圧帯を巻いた。先生は椅子をずらせて私に近寄り、ゴムの球をキュッキュッと音をさせて締めたり緩めたりしながら血圧計の動きに見入った。そしてくるりと向き直ってテーブルの上のカルテか何かにペンで書き込みをし、又こちらへ向き直って今度は聴診器を当てがって心音だか呼吸の音だかを聴き、胃や腹のあたりを撫でたり押したりして「別に何ともありませんか」と訊いた。「ありません」と私は答えた。「そう。では又四週間目の月曜日に」
これで終りである。私は元の待合室へ戻って、昔の胃潰瘍の再発を防ぐいつもの薬の出来るのを待ち、出来ると四週間分のそれを貰ってさばさばとした気持で病院を出る。血圧の数は私も訊かず、医師も何とも言わなかったから、別段異状も無いのだろう。元来私は自分に関する他人の思わくを勘繰ったり、あんな事を言っているが本当の肚はらはどうなのだろうと疑ったりするのが大嫌いな性質たちである。体についてもそうで、一度信じたら、以後その医者の言葉に正しく従い、自分では何もわかりもしないのに色々と気を廻して別の医者の意見を聴くような事は断じてしない。それだからこそこうして今日まで息災でいられたのだと思っている。終戦後七年間の信州富士見での鮎沢先生、その後十四年の東京での鈴木先生、そして今や鎌倉での佐藤先生。この二十四年間の三人の医師は、その時々の私の体についてはすべてを知っている筈である。だから万一、彼らの手に負えないような事態が私を襲ったら、またどうにか適当な方法を講じてくれるだろう。それでいいのだ。信頼を持ち続けて彼らの言に従うこと。それがこの世の命を全うしようとする私の仕方だ。
「胃腸にも心臓にも現在のところ異状無し」この頼もしい医師の言葉が何よりも私を勇気づけた。そして帰りのバスや電車や坂道の徒歩でも心がのびのびと晴れやかで、いつかコレットの『私の窓から見たパリ』ならぬ『私の窓から見た小世界』でも、ゆっくり書いてみようかという気にさえなった。
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心平さんの鎌倉来訪
年のせいだろうと言われれば正にそのとおりだが、私はこのごろ頻りに古くからの友達や知人を懐かしむようになり、その一人一人の人間やこの世での仕事を、以前よりもずっと温かく理解し尊重しようとするようになった。それには自分に先んじて他界する人がだんだんと数を増し、かつての生き生きとした風貌や元気な声々が、次第に周囲から消えて行ってしまう現実のはかなさや寂しさが活用しているのは元よりであろうが、人間の存在そのものに対する或るいとしさのような感情が、自分にも迫って来る遠からぬ死の予感と共に、いよいよ濃くこまやかになって来たせいでもあろうと思う。
詩人の草野心平さんもそうした古い貴重な友の一人である。もう六十七か八になったろうか、ともかくも四十年来の旧友である。このごろは少し体を悪くしている様子だが、もともと頑強な体質なので、悪いと言われて会って見ると実際はそれ程でもなく、今なお彼独特の絢爛で逞しい詩や文章を書いているし、最近ではこの人ならではと思わせる雄渾な画や、ユーモラスなほほえましい画もどしどしと描いている。書にすぐれている事は今更ここに言うまでもない。ところでその心平さんが今日は二階堂に住んでいる陶芸家小山富士夫さんに招かれて、所沢に近い東村山からこの湘南鎌倉へ遊びに来た。北鎌倉の駅から同行の私にとっても嬉しい出来事だと言わなくてはならなかった。
自宅から付き添って来た若い女の人もいたが、それに本人自身としても歩き方など中々しっかりしていたが、片方の眼が不自由な彼を思うと、私は私なりになるべく彼の身近かにいて、いろいろと話をしたり説明をしたりしながら、その間絶えずそれとなく気を配らずにはいられなかった。
私たちは冬木の山に囲まれた瑞泉寺の静かな境内を歩いていた。梅林の梅にはまだ早いが水仙はもうちらほらだった。一行は大雄宝殿と呼ばれる本堂を見たり、夢窓国師の古い美しい坐像が安置されている開山堂を見たり、庫裡の裏手の深い暗い坐禅窟を覗いたりした。と、その近くの山ぎわで私は久米正雄の墓を見つけた。十七、八年前に亡くなった故人の墳墓は今はもうそれだけ古びて、その墓碑面には柔らかい苔が蒸していた。ついこのごろ誰か参詣の人があったらしく、少ししおれて美しい花束が手向けてあった。私は今覗いた坐禅窟の前に黄梅おうばいの一枝が落ちていたのを思い出し、まだ立派に黄色い花の着いているその小枝を拾って来て、久米さんの墓前にささげて合掌した。するとそれを見て心平さんも何か花をと物色していたが、あいにく何も見当たらないので、地面に落ち散っている枯葉の中から一番きれいなのを一枚選び出して来て、私のと並べてそれを供えた。思えばいくらか不運だった俳人で小説家で劇作家の久米正雄。その墓前に、生前疎遠だった二人の詩人が今ゆくりなくも花を供えて手を合わせる。私にはその時の草野心平その人の気持もわかる気がした。それは故人へのいとおしみとかあわれみとかいう点で、たぶん私のに通じるものがあったのではないだろうか。
折から上の山で二声三声小鳥の声がした。
「あれヒヨドリ?」と草野君は私に訊いた。
「そう。よくわかるね」と私が答えると、彼は目を細めてうなずいた。「よくわかるね」どころか東村山の武蔵野には、この鎌倉よりももっと目につく冬鳥としてたくさんのヒヨドリがいるに違いないのだ。それをただ目を細めて微笑しながらうなずくところが、いかにも我が心平さんらしかった。
その夜の逗子での招宴の席で、彼は「会津磐梯山」と「磯節」とを歌った。私もセザール・フランクの譜に自分で歌詞をつけた「雲一つおちかたに浮かべる見ゆ」を歌ったが、草野君のは実際すばらしかった。あれほど歌の言葉と精神とを生かして、あれほど見事に歌われたこの二つの民謡を、私はいまだ曾て聴いたことがない。それは酔余の戯技などでは全くなく、正に詩人草野心平の真骨頂をうかがわせるに足るものだった。
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海岸で
或いはこちらの無知のせいかも知れないが、鎌倉にいてその鎌倉の海べを好んで歩いたり、それについて書いたり語ったりする人が案外少ないのを私はふだんから不思議に思っている。とは言え数多い住人の中には特に海洋学や海の生物専門の学者がいて、私などの目に触れない処でその研究の成果を発表しているという事も考えられなくはない。現にそういう文献の幾つかが残っている事も噂には聴いている。しかし生憎私はまだその種のものを見た事もなければ、そういう人に会った事もない。
小学校の時から中学の半ばぐらいまで毎年の暑中休暇を大磯で過ごしたので、相模湾の水や砂浜にはなじみが深い。海水浴は無論のこと、板子一枚で波乗りをしたり、水へもぐって岩礁の間の貝類をあさったり、朝早く海岸へ行って漁師の地曳き網を曳き上げる手伝いをしたりした。中でも一番記憶に残っているのは、水泳の試験に江ノ島を半周させられた事である。元来が大川端(隅田川の岸)育ちなので、どちらかと言えば泳ぎは得意のほうだった。白い水着姿の大先生や裸のままの先輩たちを乗せてドーン・ドーンと太鼓を鳴らしながら付き添って来る大きな伝馬船をたよりに、落伍もせずにあの陸繋島の半分を喘ぎ喘ぎ泳ぎ切った時の嬉しさは、今でもはっきり覚えている。
その江ノ島が今鎌倉市の南東のはずれの岬、飯島崎の高みに立つと七里ガ浜のむこうに見える。六十幾年の昔から思えば形もいくらか変わったようだが、それでもあれはやはり「私の江ノ島」だ。折から近くに立ってその方角にカメラを向けている若い男女の観光客よ、君達にはそんな経験も無いだろうし、また今どきそんな話には興味も持てまい。それよりも寧ろ今君達の連れの女性の一人が小声で口ずさんでいる六十年も前の歌、逗子開成中学の生徒十二人がボートの転覆事故で全員溺死した惨事を弔ったあの哀歌、「真白き富士の嶺ね、緑の江ノ島、仰ぎ見る目も今は涙……」のほうが遥かにこの場にふさわしく思われるだろう。その飯島崎で思い出されるのは、終戦の年の秋、この鎌倉で他界した老母の遺骸を山の上の火葬場で荼毘に付して、その遺骨を持ってこの海岸を妻と二人で歩いた時の事である。波打ち際の岩壁や洞窟は無惨にも砲弾による破壊の跡を見せ、沖合にはまだアメリカの駆逐艦が二隻薄い煙を吐いて碇泊していた。
高い処から眺める七里ガ浜や由比ガ浜の弓のような海岸線も優美だが、その海岸の砂地を歩きながら寄せては返す波を見たり、落ちている貝殻を拾ったりするのも楽しい。以前ならば採取したその貝殻を持って帰って、貝類図鑑などをひろげて同定のための検索を楽しんだものだが、今では手の平へ載せてその色や形を愛でるだけで満足している。
鳥について言えば、鎌倉の海岸にはミサゴが多いようである。いつでも海上を高々と飛んでいるが、獲物の魚を見つけると急降下で水へ飛びこんで摑み取る。しかし私は彼の声というのをほとんど聴いた事がない。よく「ミサゴが鳴いている」と言う人があるが、私はこれもこの海岸に多いトビの間違いではないかと思っている。鵜も海上を低く飛んで行くのを時々見かける。しかし私にはそれが海鵜か河鵜だか断定出来ない。たいがいの場合、五、六羽が一列縦隊を作って波の上を翔けて行く。また春の蕃殖季以外ならばイソシギの可憐な姿もしばしば目に着く。普通には単独の事が多いが、一昨年だか小坪の浜べで見た時には、二羽三羽と小さい群れをなして歩いていた。一体に小型のシギ類の判別は私のような素人にはむずかしい。
しかし夏の盛りの鎌倉海岸。これだけは書く気もしなければ書けもしない。私の大嫌いな言葉であるいわゆる「レジャー・ブーム」とやらで、混雑と喧噪と無作法の世界。たまたまほかの土地から訪ねて来た客の案内にも、由比ガ浜を私は遠く避けるのである。
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道
久しぶりに東京へ買物に行くというので、彼は谷戸やとの奥の小高い処にある自分の家を出た。
買物と言っても大した物ではないが、銀座の或る楽器店を通して外国へ註文してあったフランスの珍しいレコードが、約半年がかりで漸く到着したという知らせを得たので、それを受け取りに行くためにいそいそと家を出たのである。家から駅までは彼の足できっちり十五分。そして横須賀方向からの電車が到着するまでプラットフォームでの七分間の待ち合わせ。その間にゆったりと一本の巻タバコを吸う。これが彼の心に課した規定でもあれば、いつかしら身に着いてしまった習慣でもあった。なぜならば余程の時でないかぎり、彼は決して歩きながらタバコを吸う事をしないから。しかしこんな事を書くのはこの文章の目的ではない。
家を出るのが少し遅れたので、彼はいつもより足を速めて駅への道を歩いている。たった今明月院という寺の門前を過ぎたから、ちょうど道のりの半分である。片側は樹木や草の密生した崖、反対側は幅の広い深い溝みぞ川を前にしてそれぞれ自家用の橋を架けた何軒かの広い邸宅。そしてその間を平坦な舗装道路が谷戸の奥まで走っている。彼は季節季節にさまざまな花や木々のもみじを見る事のできるこの道が好きである。時はあたかも夏の終りで、崖に生い茂って道の際まではみ出した雑草を、農家の者らしい二人の女が何か頻りにおしゃべりをしながら鎌で刈っている。しかしこの静かな快適な道路を、時々タクシーや自家用車や御用聴きの車がビュンビュン飛ばして行くのが玉に疵でもあれば、事実危険でもある。
今彼はその道路のわきの溝川のへりに、二台のオートバイが立て掛けてあるのを見る。細い橋を前にした門構えの邸宅の一軒へ出入りする商人か何かの車であろう。ところが四つか五つになる農家の子らしい男の児が一人、停めてあるそのオートバイヘ攀じ登って、あわよくばサドルヘ腰をかけようと懸命になっている。行きずりの彼はそれを見るとハッとした。もしも車が倒れて深い溝へ落ちこんだら子供は大怪我をするだろうし、又もしも反対側へ倒れたら、折悪しく疾走して来た自動車のためにどんな不慮の事故が突発しないとも限らない。
そう思うと彼はたまりかねて、「坊や! あぶないからおやめ! もしもオートバイが倒れて一緒に水の中へでも落ちたら大変だから」と、注意と言うよりも寧ろ真剣な警告を与える。そう言われると子供はさすがに車へ攀じ登る冒険は一応やめたが、それでもなお諦め切れないのか、大人の乗り廻している車の魅力に引かれるのか、まだハンドルにさわったり器械を覗きこんだりして車のまわりをうろうろしている。
するとちょうど其処へ駅の方から一人の若い女の人が来て、彼と擦れちがった。彼は丁寧にその女性を呼びとめて、もう一度あの子供に注意を与えてくれるように頼んだ。そしてその途端にふと気がついて、「あの向うの崖のところで草を刈っている女の人達のどちらかが子供の母親かも知れませんから、あの人達にもよく言ってやって下さい」と付け足した。洋装の若い女性は彼の依頼に快く、しかもまじめにうなずくと、靴音立てて子供のほうへ急ぎ足で行った。そしてそばへ寄って懇々と言って聴かせているらしかった。やがて彼が二度目に振り返った時には、今度は草刈りの女達の前へ立って何か言っていた。そして当の子供はと言えば、もうオートバイのそばを離れて母親たちの方へ帰っていた。それを見ると彼はやっと安心して、失った時間を取り返すために停車場への足を速めた。そして晩夏の円覚寺のすがすがしい森の眺めを前に、いつものとおりプラットフォームのベンチヘかけて、やっと二口三口のタバコを吸う時間を持つ事ができた。
東京からの帰りに先刻の道を通ると、もう崖際の草はきれいに刈り取られて、女達や子供の姿もなく、問題のオートバイの影も無論なかった。彼はあの洋装の見知らぬ女性が、自分の正当な危惧だか余計な取り越し苦労だかを誤りなく伝えてくれた事を確信して喜び、これから家へ帰ってゆっくりと聴くべきこの二枚のレコード、このフランス各地方の古い基督降誕祭の歌の事をあれこれと楽しく空想しながら、爪先上がりの谷間の道をいつもの歩調で歩いて行った。もう日も沈んで東慶寺あたりの空がひとしお明るく美しく、ヒグラシの声が降るようだった。
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憩いの店
もう足かけ三年になるが、毎月一回、私達夫婦は、上の家のSさん夫妻に招待されて、若宮大路火ノ見下の「たじま」へ行く。河豚ふぐと活魚いきうお料理の点では鎌倉でも有名な店である。酒も良いし食べさせる物もうまい。裏側には別に座敷もあるが、何と言ってもすっかり見通しの調理場に面して、厚い白木しらきの飯台を前にSさん達と肩を並べて、河豚の刺身だの鰈かれいや平目の薄作りだの、本場の蟹や鶏の手羽焼などを相手に杯を重ねるのが和やかにも楽しい。
店や調理場の人達は、主人も、女将も、一流の板前「牧さん」も、その下で働いている若い「なべさん」こと渡辺君も、お客を接待の「おばちゃん」も「おとしさん」も、皆なじみなので気が置けない。ほかの常連にしてもそうだろう。女の客はしとやかながら充分に味わっているし、男の客は時に大きな声で連れや店の者と話をしたりして上機嫌に食い且つ飲んでいる。殊にSさん夫妻は古い客だからここの家うちのうまい物をよく知っていて、いつも成程と思うような皿を取る。酒の時には余り料理に手を出さない私は、五品いつしなか六品むしなは必ず出る気の利いた「お通し物」だけでも満足するが、妻のほうは隣席の夫人と何かひそひそ相談しては註文してよく食べる。私は店の中のそういう光景を楽しく眺めながらSさんと差しつ差されつする酒がうまくて、乱れはしないがつい過ごしてしまう。帰りはいつでもタクシーを呼んでもらう。女将が必ず往来まで見送りに出る。やがて巨福呂坂から明月谷。そして坂の行きどまりの私の家の前で二組の夫妻が別れる。これが判で捺したような月一回の「たじま」行きである。そしてSさんも私もかなり酔っていた筈なのに、翌る朝にはもう両方ともシャンとして、一方は時間どおり東京の会社へ出勤し、他方は書斎で仕事の続きに取りかかる。
もっと手軽なのはカフェーである。最近は鎌倉にもこの種の店がどしどし殖えるが私の行きつけは「門」と「イワタ」である。「門」は北鎌倉の駅の前に本店があり、鎌倉の小町通りの中程に支店がある。本店のほうは電車の乗り降りの際に気安く立ち寄れて便利だが、少し狭くて、時に暗い感じがしなくもない。これに反して賑やかな小町通りの支店のほうは明るくて広いので、途中で買った本などを。パラパラやりながら寛いだ気持になれる。この点では通りを入ってすぐの「イワタ」も同様である。しいて言えばこのほうは社交場的で、「門」はむしろ芸術的である。壁にも若い画家の作品などがしばしば見られる。
鰻では段葛だんかずらに面した古い「茅木家かやきや」、もっと手軽に済ませたい時には二ノ鳥居に近い「浅羽屋」、蕎麦ならば小町通りの「一茶庵」で、小林秀雄さんなども御贔屓ひいきらしい。洋風の食事となると、私はほかの店を余り知らないから雪ノ下の「テラス・レイ」を挙げる。歌舞伎俳優染五郎がやっているとかいう話で、料理もなかなか吟味されているし、給仕人の行儀もいい。
最後に書き落としてはならないのは「社頭」である。小町通りもいちばん八幡宮に近い処にあるから社頭なのだろうが、フランス語で言う領主館か城廓のシャトー Château をもじったのだろう事は、名付親が名付親だけにほほえまれる。すなわち去年亡くなった菊岡久利君の店で、今は未亡人の京子さんが後をついでやっている。元来日本全国の和紙だの、書道用具だの、いわゆる暮しの品々だのを売っている店なのだが、昔汁粉と明神甘酒を名乗る汁粉と甘酒が珍味である。わけても昔汁粉は奄美あまみ大島の黒砂糖を使った物で、たとえば虎屋の「夜の梅」の味覚がある。私にとって菊岡君は一番古い友達の一人で、彼がまだ海城中学だかの制服姿で遊びに来た頃からの仲である。詩も下手ではなかったが画と書がよかった。今その店の看板に残っている「社頭」の文字は、いかにも侠気に富んで豪放だった彼の面目をしのばせる。
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