「素顔の鎌倉」より


   ※ルビは「語の小さな文字」で、傍点は「アンダーライン」で表現しています(満嶋)。

                                 

その土地への愛の序曲

 

 

折り折りの記

 

 

  初 秋

  友 人

  病院にて

  心平さんの鎌倉来訪

  海岸で

  道

    憩いの店      
         

                                     

 

 その土地への愛の序曲

 鎌倉や江ノ島へ初めて行ったのが旧制商業学校の予科一年か二年の頃だったから、思えば今を去る六十年以上も前、まだ十三か十四の時だった。学校の遠足で、しかもその日帰りの旅だった。だから鎌倉では鶴ガ岡の八幡宮と長谷の大仏、江ノ島では弁天様ぐらいしか記憶に残っていない。また事実そのくらいしか見物できなかったのだろう。何にしてもそれより更に早く、毎年の暑中休暇を過ごしに行った大磯や箱根にくらべると、このいわゆる湘南の古都、この「歴史的風土」の地は、東京下町の商家の子弟やその家族にとって、海水浴場や温泉場よりも或る意味では古過ぎ静か過ぎ、江ノ島はともかくとして鎌倉となると、人聞きもよく事実贅沢でもある避暑地としては、余りパッとしなかったのかも知れない。旅館の二間ふたまか三間を借り切って、食事も宿のものを三度三度とって其処で一夏ひとなつを暮らすという事は、今日ならばいざ知らず、明治も三十年代の鎌倉では思いも寄らない事だったろう。
 その鎌倉に縁有って今私は住んでいる。そしてこの古都、この歴史的風土が、或いはこそこそと、或いはおおびらに、由緒ある姿を日に日にこぼたれ、昔の床しさを失いつつあるのを目にしている。東京から移って来て僅か四年目の私でさえこの絶え間ない変貌を嘆いているくらいだから、古くからこの土地を愛で慈しんで住んでいる人達にとっては身を切られる思いであるに違いない。「観光開発」は歴史ある土地や自然の破壊である。その敵の手に包囲され蚕食されながら微力を挙げて闘ったり唇を嚙んでこらえたりしている人々を思うと、その開発の手に削り取られた緑の山の一角に、こうして地所を求め家を建てて住んでいる自分自身が恥ずかしい。さりとて今私が此処を去ったところで、一旦失われた物が元の姿で帰って来るわけもない。それならばせめて古くからここに住んでいた者のように少しでも土地を護る手伝いをし、僅かに残っているその美その特色を、愛の文字で書き残して置くよりほかに私に果たし得る務めはない。しかもこれまた矛盾のようではあるが、その文字が忌むべき観光開発者共の手によって悪用されないようにと祈るよりほかはないのである。

 大船駅を出た横須賀線の電車が東海道本線と分かれて南東へむかうと、じきに窓の左右に緑の木々に被われた低い山のつらなりが現われる。電車はその間を左手の山裾近く沿って進む。するともう其処は鎌倉の地籍で、他郷にいても遠く鮮かに浮かんで来る親しく美しい画面の一つである。やがてプラットフォームはきわめて長くさっぱりしているが駅の建物そのものは至って質素で小さい「きたかまくら」。左は円覚寺や明月谷戸やとを囲んだ山で、右は浄智寺や東慶寺を前に台山だの瓜うりが谷やつだのを擁したこれも山。春もまだ早ければ凛々と咲いて匂う紅白の梅の花、つづいて桜、連翹れんぎょう、白木蓮、海棠、木瓜ぼけなどの四月の眺め、やがては新緑に映える躑躅つつじの赤に紫陽花あじさいの空色。そして暑い夏もいつしか過ぎて涼しい秋の爽やかな日々ともなれば、しみじみと日光を浴びた赤や黄や緋色のもみじが、周囲の山の常緑樹の色をいよいよくっきりと際立たせて、そこに歴史的鎌倉固有の落ちついた人文と自然の景観をひろげている。
 私の住んでいる明月谷戸にはアジサイで名高い建長寺の末寺明月院がある。谷戸の名もそれに由来しているかと思うが、山あいの谷の空がほぼ東から西へ向かって細長く開けているために、晴れてさえいればあらゆる月齢の月が一年じゅう頭上を通る。季節とともに静かに移る星座の眺めもそうで、湘南も次第に寒さの感じられる晩秋十一月半ばの宵の口から、東のほう六国見山ろっこくけんざんの山続きへ次々と姿を現わして夜半過ぎごろ、煌々と輝きながら天頂を進む馭者や牡牛の大星座が実に美しい。又ちょうどその時分には天ノ河もこの谷と同じ方向をとって流れているが、鷲座の牽牛と琴座の織女とを左右に随えて、西のかた東慶寺あたりの空へ落ちて行く白鳥座の大十字形がすばらしい。東京に住んでいた頃は年を追って役立たずになった星座図や携帯用天文鏡が再び持ち出され活用されて、夜の天空を観る昔ながらの楽しみが帰って来たのも、空気が澄んできれいなこの鎌倉の山の中なればこそである。
 この数年来東京では由緒のある古い町名がやたらに、且つ惜しげもなく取って捨てられたり変えられたりしているが、もしもこの鎌倉から谷とか谷戸とかいうのが廃止されたとしたらどんなに味気ない事だろう。「どちらにお住まいですか」と訊かれて「扇ガ谷に」と答えたり、「佐助(ガ谷)です」とか「二階堂(ガ谷)です」とか返事をする人達には、それぞれの地名や土地に対する愛が、特別の安住感が、更には一種の誇りのようなものさえあるに違いないと思われる。親しいドイツ文学者の富士川英郎さんはずっと古くから瓜ガ谷に住んでおられ、新参者の私は明月谷戸、俗称明月谷めいげつだにで暮らしていて、いずれも自分の土地の名に愛着を持っている。
 谷やつも谷戸やとも谷地やちも元来或る地形の名称で、台地や丘陵が浸蝕されて出来た谷の底面をいうのである。そして海抜せいぜい一〇〇メートルか一五〇メートルのいわば丘陵地帯でありながら、鎌倉という土地の地形が半円の海岸線にむかって傾斜していかにも美しく複雑の妙をきわめているのは、ひとえにこれら無数の浸蝕谷のおかげなのである。誰の作で何という句だったか残念ながら忘れたが、鎌倉のそれぞれの谷戸に咲く梅の花の遅速の妙味を詠んだのがあった。それというのも、一つの谷の向きや形によって平均した日射量や気温に差があるためだろうと思う。鎌倉だけでも四十何箇所か有るといわれているその谷の幾つかを、たまたま梅花の季節に歩いてみて「なるほど」と思いながら、その道の勾配や屈曲の具合、溝の流れ方、崖の様相、人家の有様などに、納得と賞美のまなざしを送らずにはいられなかった。
 たとえば今私の住んでいる明月谷戸、通称明月谷は、鎌倉市山ノ内の地区内にあって、それぞれ円覚寺と建長寺とを擁している山と山との間を、うねうねと東西に走っている。横須賀線の下り電車が北鎌倉駅を出るとじきに左手に見える奥行の深い柔らかな感じのする谷がそれである。その入口から谷の詰めまで一キロメートルはあるだろうか、初めのうちは気がつかない程緩やかな登りだがやがて少しずつ勾配を増す。二〇〇メートルばかり行った明月院の石の門まで道の右手は山裾の急斜面、左はゆったりと奥まった住宅地、その前を流れている細い深い溝川に沿って春は古い並木の桜が美しい、清潔で静かな道である。このあたりはまた季節によってさまざまな草木の花が道路に面した庭垣の中や山の斜面を彩っている。「あじさい寺」の名で呼ばれている明月院の、初夏のアジサイの見事なことは言うまでもない。そしてこの寺の在る場所は、明月谷でも一番ふところの深い枝谷えだだにで、それを囲んでいる山の林相の複雑なことと湧き水の豊富なこととのためか、ここへ集まって来る小鳥の数も種類もはなはだ多い。
 谷戸道は寺の門前から少し狭くなって同時に爪先上がりになる。今度は左が崖で右側がずっと山裾の人家続きである。その人家のうしろをひっそりと上流からの水が流れているが道からは見えない。露出した崖の面には、ここにもまた昔の「やぐら」が残っている。古代の横穴式墳墓の跡と言われていて、鎌倉の谷戸地形の処ならば各所で見られる。するとすぐその崖地を切断するように、珍しくも小さな田圃を前にして一つの深い谷が現われる。これもまた枝谷だが、春はキブシ、ヤマザクラ、ウツギ、ヤマブキ、フジ、ヤマツツジなど花の咲く木が多く、山からの水に灌漑されているせいか、七月の初めごろはこの小さい田圃の宵闇を飛び交う螢の光が美しい。
 やがて右側の人家が尽きて崖地に変わると、今度は左側に人家が並んでそのままずっと狭い坂道の奥まで続いている。今でこそ斯く言う私の住んでいる比較的古い造成地の一集落があったり、略称「信販」の分譲地への立派な石の舗装道路が山の切通しまで通じたりしているが、古い明月谷戸もこのあたりが本当の谷の詰めである。そして分水界の尾根へ出る藪の小径を登りきれば、視界は俄然ひろびろと開けて、材木座や由比ガ浜の白い波打ち際に縁どられた鎌倉の旧市街はもちろん、相模湾の青々とした水のかなたに眉のような伊豆半島や影絵のように霞んだ大島、さては熱海・箱根の火山群から富士山まで、(横浜や川崎、東京方向のどんよりと濁った空は敬遠するとして)、晴れやかな風景が一望のもとに収まるのである。

 昭和二十年、終戦直後の秋の或る日の事だった。由比ガ浜と材木座海岸との境になっている滑川橋のまんなかで、私はばったり久保田万太郎さんに出逢った。戦前から取りたてて交遊という程のものは無かったが、時が時、場所が場所だけに互いにその奇遇におどろき、私としては何か心の暖まる思いがした。私よりも年上の久保田さんはその時五十五か六ぐらいだったろう。生粋の東京っ子らしく、殊には生え抜きの浅草っ子らしく、和服の身なりなどいつも洗練されていたその人が、さすがに戦中戦後の不如意な生活と心身の疲労のためか、悲しくやつれて貧しく見えた。千葉県の三里塚に住んでいる妻の父水野葉舟の家から、年老いた母の病いの看護にこの鎌倉名越なごえの親戚の家へ妻と一緒に来たばかりの私にしたってそうだった。久保田さんと私は滑川の河口をすぐ眼の前にした橋の上で、寒い浜風に吹かれながら手を取り合った。その時久保田さんが言った、「尾崎さん、あなたも東京の京橋っ子だけどこの鎌倉へいらっしゃい。住んでみれば中中いい処ですよ」と。それから間もなく母が死んで、やがて私は相州鎌倉ならぬ信州富士見の高原に住む事になったが、この世の盛衰も甘酸もすべて無常のものと見きわめたようなあの時の久保田万太郎さんの寂しくも穏かな顔や声音が、二十幾年たって図らずもこの土地に定住するようになった今、たまたま同じ滑川橋やそのあたりの波打ち際を見るたびにいとど懐かしく思い出される。
 「その滑川へご案内しましょう。上流の方にはまだ昔のおもかげが二、三箇所は残っていますから」と、夏の或る日、極楽寺に住んでいる親しい若い詩人の伊藤海彦が誘いに来た。私は自分達夫婦が媒酌人をしたこの聡明で勉強家で世話好きの友のいつもながらの親切に甘えて一緒に出かけた。彼の美しい奥さんと私の孫娘とが同伴だった。四人は先ず鎌倉駅の前から十二所じゅうにそう行きのバスに乗った。大きなトラックやライトバンなどの往来のはげしい金沢街道を下に眺める十二所神社は、左手奥の小高いところに山を背にしてひっそりと立っていた。熊野十二所権現を勧請した社だそうで、古びた社殿と神楽殿のある狭い境内には、そのあたりから始まる番場ばんばガ谷やつの風景と共にどこか田舎びた趣きがあった。植物の好きな孫の美砂子は、早くも咲き出しているアキノタムラソウの薄紫の花を見つけて声を上げた。私は私で、これから土用の暑さに向かう七月だというのに、ここかしこに落ちている銀杏ぎんなんの黄色い冷たい実を手に取って、ふと歴史の土地の秋を感じた。
 伊藤君の見せようと言った「昔のおもかげ」の滑川は街道のすぐ下を流れていた。なるほど深い渓谷のみごとな眺めで、これがすぐ向うの鎌倉の町なかで、味も素気そっけもない新しい石垣やコンクリートの両岸に押しせばめられているのと同じ川だとは、咄嗟にはとても考えられなかった。私たちの降りて行った場所はちょうど谷の曲流点だったが、鬱蒼とした奥のほうから姿を現わして来る涼しい水は、われわれの頭上を越えて対岸の山の斜面まで届きそうに枝を伸ばした一本の赤樫らしい大木の下で半円を描いて淵をつくり、小さい魚群の影を見せ、その水際まで降りて行ってじゃぶじゃぶやっている二人の若い女たちをよろこばせた。「いいでしょう、先生」と伊藤君が言った。私は岸に咲き続いている白い水草の花を見ながらうなずいた。
 頬焼ほおやき阿弥陀と塩嘗しおなめ地蔵とで知られている光触寺こうそくじがそのすぐ下流にあったので行って見た。本堂も小さく寺域も狭いが、元禄十六年再建と言われる落ちついた古い寺だった。私はここで池の水の上を悠々と飛んでいる大きなオニヤンマやコシアキトンボに喜ばされ、日影になった溝のふち一面に繁茂しているウワバミソウを珍しい物に思った。これは一名をミズナと言って、東北地方や信州では山菜として食用に供する草だが、それがこんな湘南の地に自生しているのを見たのは初めての経験だったからである。武蔵野はもうほとんど絶望だが、こちらに注意と愛の眼さえあれば、鎌倉にはまだいろいろな動植物が残されていた。
 そこから新旧こもごもの両岸の間を滑川の水は流れて泉水橋、青砥橋、華ノ橋、歌ノ橋と、それぞれに美しい名を持つ橋の下手に小町三丁目の東勝寺橋。連れて行かれたこの橋の上からの深い谷の眺めもまたよかった。ここでは十二所のそれとは幾分か趣きが変わって、私には自分の永く住んでいた東京玉川の上野毛に近い等々力とどろき渓谷が思い出された。おりからの夏の青葉にいよいよ暗く深く見える谷に架かった橋そのものは、東勝寺の旧跡や北条高時腹切りのやぐらなどに程近い場所だけに、町なかとは思えないような環境の静かさと品位とにマッチしていた。その橋の上から見下ろした流れの岸の岩のあたり、「チ・チ・チ」と鳴きながら餌をあさっている黄セキレイの姿を私は認めた。それに又どこか近くの木々の中から三光鳥の「ポイ・ポイ・ポイ」の声も聴こえた。そしてすべてこれらの事が、僅かの時間ではあるが、私に東京や富士見の旧居への淡い郷愁を目ざめさせた。
 夏の盛りの由比ガ浜は海水浴客で賑わうというよりも寧ろあきれる程の雑沓だし、春や秋の八幡宮、鎌倉宮、長谷の大仏、それに建長寺や円覚寺をはじめとした有名な寺々は、いずれも観光の団体客や修学旅行の生徒達で引きも切らない人出だが、そうしたほかの土地からの見物客の比較的少ない時の鎌倉は、駅の付近は別として、全体が静かで落ちついて、少なくとも私などには住み心地がいい。学者や文筆の士や画だの彫刻だの陶芸だのの美術家が多いのもそのせいであろう。古くからこの土地に住んでいる友人と閑静な路を散歩している時など、あれが誰それの家、これが何々さんの住まいと教えられて、なるほどと感心する事もたびたびある。たとえば今だに訪ねては行かなくても、この明月谷から山二重ふたえ隔てた「雪ノ下」に、大仏次郎、小林秀雄両君のような人達が、この現在、ひっそりと仕事をしておられると思えば、何か知らぬが頼もしく心強い気がするのである。
 その鎌倉の駅前広場にしたところで、天気が佳くて、海や山からの風がそよそよ吹いて、日光のしみじみと暖かい秋の週間日などは、どこか鄙びた気の置けないものが感じられる。勿論よその町の駅前同様、ここにも銀行やデパートのような高い建物も立っているし、喫茶店も軒をつらねている。おまけに金沢八景行き、鎌倉宮行き、逗子行き、大船行き、大仏廻り藤沢行き、さては遠く横浜行きなど、各方向へのバスや市内タクシーが鼻を揃えて並んではいるが、それらがいずれも一つの整った調和景を成して、われわれの鷹揚な利用とつつましやかな楽しみにと備えている。生きている事の妙味がここにもあり、平常でしぜんである事の善さがここでもまた味わわれる。そして私としてはすぐ向うの若宮大路へ出て、懇意な薬局へ薬を買いに寄ってもいいし、二ノ鳥居前の本屋へぶらりと本を見に行ってもよく、又ちょうど時分どきで腹でもすいていれば、近くの古い蕎麦屋か鰻屋で軽い食事をとってもいい。何処へ行こうと何をしようと、こんな日には見る物する事もすべて古都鎌倉の秋にふさわしいのである。
 そんな或る日の午後、私は駅前の理髪店を出ると電車でまっすぐに北鎌倉へは帰らずに、広場から逗子行きのバスに乗って松葉まつばガ谷やつの妙法寺へ行った。この前友人の案内で初めてそこを訪れたのは庫裡の庭に紅白の梅の花の美しい季節だったが、それ以来一度は是非一人でぶらりと行ってみたいと思っていた寺である。大町名越の四つ角でバスを降りると、母親の病死した親戚の家の前を悪い事だが素通りして、静かな住宅地の中のうろ覚えの路をやがて古い総門の前に立った。日蓮宗楞厳山りょうごんざん妙法寺。日蓮の庵の跡と伝えられ、護良親王の遺児日叡上人の建立といわれているこの寺を私は好きだが、来て見れば春とはまた風情を変えて、広い境内の老杉の緑の中にちらほらと黄や赤のもみじの色を点じていた。そしてまだ生き残りのツクツクホウシの声。私のほかに参詣の人の姿は一つも無かった。
 立派な本堂を一廻りして蓁々しんしんと暗い杉の木立の中をうしろの山の中腹の法華堂へ行った。この前にも感心した「苔の石段」は今度もまた健在で、心無い見物人に踏みにじられた形跡も全く無かった。その石段の横を登って護良親王の石塔のところまで行き、樹下の陰と洩れ陽の中で煙草を吸いながらゆっくり休んだ。あたりには水のようなシジュウカラの囀りが響きわたり、遠く見下ろす総門のかなたに十月の秋の相模湾が、宙に懸かったように高く青々と光っていた。
 その妙法寺の本堂の緑青いろの大屋根を、これも伊藤海彦の案内で比企ひきガ谷やつの長興山妙本寺ヘ行った時、その裏山の尾根の一角から南のほう遠く緑の山かげに認めて嬉しく思ったのは、つい最近の事だった。陽気が例年よりも少し遅れて鎌倉じゅうの桜が山にも町にも花盛りの四月半ば、二人は駅前から若宮大路を向うへ突切ると、横町へ入って、いつでも無数の鳩の遊んでいる本覚寺の境内を抜け、滑川に架かった夷堂橋えびすどうばしを渡った。橋の挟の道ばたに鯵あじや烏賊いかの裂いたのを乾してあるのが、今時のこんな町なかだけに私には珍しかった。すると「以前にはこういうものがもっと並んでいたものです」と海彦が教えてくれた。私は昔の大磯の漁師町の事を思い出した。その道の突き当りが初めて詣でた妙本寺だが、山門と言い、本堂と言いいずれも堂々たるものだった。寺内はここでも桜が満開。山門のわきと本堂の前にそれぞれ一本ずつ植わっている海棠の、一、二分咲いて紅べにの色特に深いのが華麗にも印象的だった。青々と苔蒸した比企一族のひっそりとした墓のあたりでは、一羽のシジュウカラが明るい声でずっと鳴き続けていた。そして奥のほうからはヒヨドリやカワラヒワの声。私の手帳の一ページはこれだけの心覚えを書くのでじきに埋まってしまった。
 妙本寺の背後を囲む一と続きの山は屏風山と言われているらしい。その痩せた尾根道を北へ向かって上下しながら、高時の腹切りやぐらのあたりまで歩くのも今日の散策の目的の一つだった。時どきシイの木の根につかまったアオキの枝を頼りにするような登り降りはあるが、まだ衰えない足腰には久しぶりの山歩きが楽しかった。花の咲いている木や草の名を書きとめるのが忙しく、小鳥の声を聴きのがすまいとする耳の注意も怠らなかった。キイチゴの白い花が今を盛り、ツバキは落花、ニワトコは咲きはじめ、幾種類かのスミレ、紫ケマン、ヒメウズ、キランソウ、フデリンドウのたぐいが、気をつけて見れば小径の両側をそれぞれ可憐に彩っていた。そして前にも書いた妙法寺の真青な大屋根を遠い山の中腹に眺めるあたりでは、われわれの頭の上で一羽のメジロが愛らしい綺麗な歌をつづけていた。海彦はこの初めて聴くメジロの歌に深く感じ入って、それの飛び去るまで身動きもしなかった。やがて二人は尾根の急坂を降って広い静かな修道院を右下に見ながら高時のやぐらの前へ出、例の東勝寺橋を渡って閑静な小町三丁目の住宅街をゆっくりと歩いた。
 妙本寺の山門から漸く一キロほどの行程ではあったが、さすが鎌倉は山と谷と史跡と古い寺の町。わずか三時間に満たない散策ながら私の得るところは頗る多かった。

 

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 折り折りの記

  初 秋

 円覚寺山門前の踏切りを渡って、上り電車の線路にそった細い道を駅のほうへ向かうと、左手に白鷺の池というのがある。名は美しいが、このごろはだんだん水がよごれて、青みどろのような色を呈している。しかしその池のふちをタンポポやイヌノフグリの花が咲き埋める春だの、色さまざまなツツジが飾る初夏だのの季節には、さすがに捨てがたい趣きがある。
 私は子供の頃からずっと植物や昆虫が好きだったので、今でも自宅からこの池までに出合う彼らの名ならば、たいがいのものは知っているつもりである。ところできのうはその白鷺の池のふちに繁茂している背の高い雑草ヤブマオの葉に、私の好きな蝶のアカタテハが卵を産みつけている現場を目撃してひどく喜ばされた。
 じっと立って見ていると、アカタテハの産卵はほかの蝶のそれよりも性急で、一枚の葉に一粒だけサッと産みつけると、すぐまた別の葉の上を撫でるように飛び移りながら産んで行くのである。
 これは私にも初めての見ものだった。そこで折よく持っていた拡大鏡で手近の一粒を調べると、若い葉の表面に今産みつけられたばかりの卵は淡い青緑色をしていて、長さ一ミリにも満たないビヤ樽のような形をし、その側面には縦に九本ばかりの突起があった。レンズの焦点にぴったりと浮き出したそれは実に精巧でみずみずしく雅致さえあって、まさに一個の芸術品だった。そしてなるほどこのあたりでよくアカタテハを見かけるのは、彼の幼虫の食草であるヤブマオやイラクサが多いからだという事に気がついた。
 こんなふうに場所を書いてしまうと、忽ちいわゆる「虫屋さん」に根こそぎ捕られてしまう惧れがあるので普段から用心して書かないことにしているが、鎌倉でもあまり人の入らない谷間などには、夏の始めから九月半ばにかけて、蝶ばかりか、まだ色々な種類のトンボのいる処がある。
 つい最近も友人と一緒に或る谷へ入って行って、このごろ次第に姿を見せなくなった幾種類かに出逢った。大きな声では言えないが、其処にいくら山の中とはいえ都会地では珍しいミヤマカワトンボが何匹もいたとしたらどうだろう。緑に輝く長い腹部をして、透明な褐色の羽根に薄赤い紋のついている美しい大型のミヤマカワトンボがである。更に細い腹部の末端が急にふくれているオナガサナエ、雄の体が目のさめるように真赤なショウジョウトンボ、さては一見ヤンマを思わせるコヤマトンボや、優しくひらひらと藪の上を飛んでいるモノサシイトトンボなど、何年ぶりかで見て懐かしくその名を思い出すトンボの仲間が、細い冷たい流れの上にスイカズラの咲いているあたりにひっそりと住んでいた。
 あの澄んだ涼しいトレモロでこのごろの夜の空気を顫わせている気品のあるカンタンはだいぶ減ったが、それでも気をつけて耳を澄ませば、家の近くのところどころの草むらで鳴いている。デパートなどで一匹の相場が何百円だとかいう話だが、真の風雅は自由な自然の中にこそあるのであって、どんなに立派な物でも人工の竹籠などへ閉じこめてしまったのでは、その歌は捕虜の嘆きにひとしい。
 自然が好きだから十年ほど前まではよく山へも登った。中でも関東や甲斐や信濃の山々は私のなじみの地で、昔書いた登山日記や詩や紀行文などを読み返すと、今でもやるせない郷愁に襲われることがよくある。それでも去年は裏磐梯と安達太良あだたら山への旅をし、今年は毎年の例として上高地へ行き、ついでに残雪の乗鞍岳の中腹まで登って高山の花々や小鳥の歌も満喫した。
 音楽も私の生活からは切り離せない。と言うよりもそれは自然同様私の心の養いであり魂の糧であって、これから離れる時は自分もまたなつかしいこの世を後にする時だと思っている。だから音楽会へもたびたび出かける。生きた人間仲間の演奏者たちが私たちの眼前で、懸命になって昔の大家の作を再現してる光景がたまらなく心を打つからである。
 しかし静かな夜の書斎でただ一人、耳と心とを澄まして聴き入るレコードにもまた救いや勇気づけの力がある。そういうレコードを東京から買って来たり小包で郵送させたりして、さてそれへ初めての針を載せる時の胸のときめきは知る人ぞ知るところであろう。

 

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  友 人

 鎌倉へ移住すると、親しい友達五人が集まって、いつのまにか「山祇やまずみの会」というのが出来てしまった。つまり北鎌倉の山の上や谷戸の奥に住んでいる山の神たちの会という意味で、名は新参の私がつけたものだが、ほかの四柱の神たちは、以前からそれぞれこの土地に住み着いていたのである。すなわち富士川英郎、山崎栄治、吉村博次、伊藤海彦の諸君がそれで、みんな神と言うよりも学者だったり詩人だったりしてそれぞれ専門の上で立派な仕事を残している。
 まだ東京にいた頃、私は彼らに招かれて、妻と二人で幾たびかこの鎌倉を訪れた。古い名高い寺へも案内されたし、今よりも草木が繁茂していた頃の美しい山や谷へも誘われて一緒に歩いた。その内に私は東京の家を引き払わなければならなくなった。すると伊藤君が待っていましたとばかり立ち上がって奔走してくれ、その世話でこの北鎌倉の片隅に土地を買い、家を建てる事が出来た。生まれつきこんな事柄に無能な私は、その間何もかもこの若い友と自分の娘の栄子とに任せきりだった。つまり二人して地所を選び、家の新築の監督までして、私達老夫婦や孫共をそっくりそのまま新居へ運び込んでくれたというわけである。言うまでもなくほかの三人の友も私達の鎌倉移住を喜んで迎えてくれた。
 私のところで、少なくとも大人共が「海ちゃん」の愛称をもって呼んでいるこの伊藤海彦君とは、終戦の翌年に信州の上諏訪で初めて識り合った。彼は両親と共に上諏訪の大手通りに住み、私の家族は富士見高原の森の中に住んでいた。上諏訪と富士見とはつい目と鼻の先である。だから両方で親類同様の往き来をした。それ以来もう二十五年になる。あの頃から悧潑で知識欲が盛んでその上画と文章の上手だった彼は、今はすでに二人の子供の父親となり、独特の美を備えた詩の作者として、名も極楽寺の山の新居に母堂や妻君や子供達と共に仲睦まじく暮らしている。
 その伊藤海彦君よりもっと古く、交遊ほぼ四十年になる山崎栄治君には懐かしい思い出が幾つもある。彼とはよく山へ行った。誘いを掛けるのはいつでも私だった。或る年の秋にはまだ余り人の行かない奥多摩の「棒ノ折おれ」へ行ったし、或る年の春には軽井沢から八風山を越えて神津こうづ牧場や荒船山へも行った。また新年の雪を踏んで山中湖や河口湖への旅もした。元来無口のたちではあるが、その少ない言葉はよく吟味され洗練されている。それにフランス語が専門なので、私としては彼から教えられるところが少なくなかった。『ボーミューニュの男』を翻訳して、初めて日本にジャン・ジオノを紹介したのも彼だった。詩集もすでに二冊出ているが、世間的にはパッとしない彼を、率直に言って私は現代で最もすぐれた詩人の一人だと思っている。仏文学の教授として永年横浜の国立大学に務めているが、その彼が最近山ノ内の高台へ建てた新居は、椿、梅、桃などの静かな花の木で囲まれている。
 去年から京都の大学へ転任した吉村博次君も伊藤君と同じくらい古い友で、やはり富士見時代に識り合った。伊藤君に何処か春のような感じがあるとすれば、この吉村君はいつでも秋の気に貫かれた趣きを持っている。口数が少ない点はいくらか山崎君と似ているが、その話からは詩人の柔らかみというよりも寧ろ思索家の鋭い切れ味のようなものが感じられる。彼はドイツ文学が専門で、ボンゼルスの『大空の種族』を初めとして、シュトルムやトラークルの詩集のすぐれた翻訳がある。同志社大学へ転任したとはいえ、鎌倉の家には家族が残っているので、休暇で帰って来た折などには時々会える。
 これもドイツ文学者の富士川英郎さんについては今更言うまでも無いだろう。リルケに関するその尨大な仕事は広く日本国中に知られているし、比較文学者としても多くの後進を育てて来た。それに彼は三、四才の頃からこの鎌倉で育ち、一年前還暦を迎えて東大を退職した現在までずっと鎌倉に住んでいるのだから、およそ鎌倉に関する事ならば知らない事は無いだろう。学者としての勉強の合間には足まめによく歩き、歴史的な旧跡は元よりどんな山道、どんな谷やつ、どんな入り組んだ小路でも知り抜いている。それに「やぐら」の研究の大家でもあって、近くその広い知識の一端が或る雑誌に連載される事になっているという。飄々とした風貌でいながら内実は細心で緻密。江戸時代のすぐれた文人の業績や風格を愛して、しかもこちらからの質問があればドイツ文学の話でも、鎌倉という土地の変遷についてでも、知っている事ならば何でも気安く明快に答えてくれる。まことに得がたい人物だと言わなくてはならないこの友は、古くからの瓜うりガ谷やつの住居に悠々自適の生活を営んでいる。
 山祗やまずみについてはこれで一応紹介は終わったが、実は私一人で「これも立派な山祗だ」と思っている友がある。名を持ち出されるのを好まない人だからSさんとだけ言って置くが、私の家の上の地所に私よりも二、三年前から住んでいる。一見剛直に見えながら内心は優しくてよく気がつき、美しい夫人との仲も睦まじい。閑寂と古雅を愛して、好きな音楽にもバッハやモーツァルトのような古典が多く、それも華麗な管弦楽よりも、どちらかと言えばしみじみと心に訴えて来るものを好んでいる。私も時々招かれて聴きに行くが、趣味の良いその部屋は広々としてよく整頓されていて、私の処のような雑然とした感じは薬にしたくもない。其処でゆったりと大きな椅子に身を沈めて、立派な堂々としたセットから聴くルネサンスやバロックの音楽が、同じ物でありながら私の家のそれとは違って何と美しく響く事だろ! セザール・フランクとシベリウスの作品の真の善さを知ったのも此処でだった。そういうレコードをSさんは毎月随分買うらしいが、気に入らないのはみんな人に与えてしまうそうだ。このように気むずかしくてしかも気前の良いところが、私から見ればいかにもSさんその入らしい。春か秋の奈良や京都への旅とゴルフとレコード、それに酒。これだけが職務多忙な彼の憩いであり、慰めである。私のそれとは全く違った生活をしながら、時に酌みかわす酒がうまいと言うのも、どこか互いに気の合ったところがあるからであろう。そして私がいつも感心しているのは、こうして何事にも不自由の無い彼がその会社への出勤の日には、雨が降ろうが雪が降ろうが、寒かろうが暑かろうが、必ず自宅と駅との間を歩いて通う事である。口では運動のためと言っているが、運動はゴルフで充分。やはり自分で定めた戒めを正しく実行しているのだと私は思っている。

 

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  病院にて

 松葉ガ谷やつの妙法寺と安国論寺との間にある額田ぬかだ病院の、芝生と花の木の庭がよく見える広々とした清潔な待合室の椅子にかけて、「尾崎さん、どうぞ」と呼び込まれるのを待っている。呼んでくれるのは私の好きななじみの看護婦さんである。日曜と祝日とを除いたふだんの日の午前中の診療時間にはこの待合室もいっぱいだそうだが、私の場合は月に一回だけの診察を受けに行って、それも午後二時からの特別な時間を指定されているので、待ち合いの患者も一人か二人だからいつも静かだ。知った顔と言えば、いつだったか看護婦さんに教わった北畠八穂さんぐらいなものである。
 今日は待っている間、むかし買ったフランスの女流作家コレットの『私の窓から見たパリ』"Paris de ma fenêtre"を読んでやろうと思って持って行ったのに、つい大窓の前の庭の芝生へ上の山から降りて来た二、三羽のツグミの姿に見とれている間に向うの廊下の白いドアが明いて例の「尾崎さん、どうぞ」で呼び込まれてしまった。ちょうどコレットの部屋へ春の最初の蜜蜂が一匹飛びこんで来たところで、これから先の彼女の観察や感想が面白い筈だったが、急いで白ずくめの診察室へ入って先生の前に立った。「どうですか。変りありませんか」と先生は言いながら、いつもの通りべッドヘ横になるように合図をした。するとすかさず看護婦さんが上着を脱がせ、ワイシャツの右腕をまくり上げて、血圧を測る準備をした。私も馴れているから仰向けに寝て、まくった右腕を先の方へ差し出した。看護婦さんは、その腕へ血圧帯を巻いた。先生は椅子をずらせて私に近寄り、ゴムの球をキュッキュッと音をさせて締めたり緩めたりしながら血圧計の動きに見入った。そしてくるりと向き直ってテーブルの上のカルテか何かにペンで書き込みをし、又こちらへ向き直って今度は聴診器を当てがって心音だか呼吸の音だかを聴き、胃や腹のあたりを撫でたり押したりして「別に何ともありませんか」と訊いた。「ありません」と私は答えた。「そう。では又四週間目の月曜日に」
 これで終りである。私は元の待合室へ戻って、昔の胃潰瘍の再発を防ぐいつもの薬の出来るのを待ち、出来ると四週間分のそれを貰ってさばさばとした気持で病院を出る。血圧の数は私も訊かず、医師も何とも言わなかったから、別段異状も無いのだろう。元来私は自分に関する他人の思わくを勘繰ったり、あんな事を言っているが本当の肚はらはどうなのだろうと疑ったりするのが大嫌いな性質たちである。体についてもそうで、一度信じたら、以後その医者の言葉に正しく従い、自分では何もわかりもしないのに色々と気を廻して別の医者の意見を聴くような事は断じてしない。それだからこそこうして今日まで息災でいられたのだと思っている。終戦後七年間の信州富士見での鮎沢先生、その後十四年の東京での鈴木先生、そして今や鎌倉での佐藤先生。この二十四年間の三人の医師は、その時々の私の体についてはすべてを知っている筈である。だから万一、彼らの手に負えないような事態が私を襲ったら、またどうにか適当な方法を講じてくれるだろう。それでいいのだ。信頼を持ち続けて彼らの言に従うこと。それがこの世の命を全うしようとする私の仕方だ。
 「胃腸にも心臓にも現在のところ異状無し」この頼もしい医師の言葉が何よりも私を勇気づけた。そして帰りのバスや電車や坂道の徒歩でも心がのびのびと晴れやかで、いつかコレットの『私の窓から見たパリ』ならぬ『私の窓から見た小世界』でも、ゆっくり書いてみようかという気にさえなった。

 

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 心平さんの鎌倉来訪

 年のせいだろうと言われれば正にそのとおりだが、私はこのごろ頻りに古くからの友達や知人を懐かしむようになり、その一人一人の人間やこの世での仕事を、以前よりもずっと温かく理解し尊重しようとするようになった。それには自分に先んじて他界する人がだんだんと数を増し、かつての生き生きとした風貌や元気な声々が、次第に周囲から消えて行ってしまう現実のはかなさや寂しさが活用しているのは元よりであろうが、人間の存在そのものに対する或るいとしさのような感情が、自分にも迫って来る遠からぬ死の予感と共に、いよいよ濃くこまやかになって来たせいでもあろうと思う。
 詩人の草野心平さんもそうした古い貴重な友の一人である。もう六十七か八になったろうか、ともかくも四十年来の旧友である。このごろは少し体を悪くしている様子だが、もともと頑強な体質なので、悪いと言われて会って見ると実際はそれ程でもなく、今なお彼独特の絢爛で逞しい詩や文章を書いているし、最近ではこの人ならではと思わせる雄渾な画や、ユーモラスなほほえましい画もどしどしと描いている。書にすぐれている事は今更ここに言うまでもない。ところでその心平さんが今日は二階堂に住んでいる陶芸家小山富士夫さんに招かれて、所沢に近い東村山からこの湘南鎌倉へ遊びに来た。北鎌倉の駅から同行の私にとっても嬉しい出来事だと言わなくてはならなかった。
 自宅から付き添って来た若い女の人もいたが、それに本人自身としても歩き方など中々しっかりしていたが、片方の眼が不自由な彼を思うと、私は私なりになるべく彼の身近かにいて、いろいろと話をしたり説明をしたりしながら、その間絶えずそれとなく気を配らずにはいられなかった。
 私たちは冬木の山に囲まれた瑞泉寺の静かな境内を歩いていた。梅林の梅にはまだ早いが水仙はもうちらほらだった。一行は大雄宝殿と呼ばれる本堂を見たり、夢窓国師の古い美しい坐像が安置されている開山堂を見たり、庫裡の裏手の深い暗い坐禅窟を覗いたりした。と、その近くの山ぎわで私は久米正雄の墓を見つけた。十七、八年前に亡くなった故人の墳墓は今はもうそれだけ古びて、その墓碑面には柔らかい苔が蒸していた。ついこのごろ誰か参詣の人があったらしく、少ししおれて美しい花束が手向けてあった。私は今覗いた坐禅窟の前に黄梅おうばいの一枝が落ちていたのを思い出し、まだ立派に黄色い花の着いているその小枝を拾って来て、久米さんの墓前にささげて合掌した。するとそれを見て心平さんも何か花をと物色していたが、あいにく何も見当たらないので、地面に落ち散っている枯葉の中から一番きれいなのを一枚選び出して来て、私のと並べてそれを供えた。思えばいくらか不運だった俳人で小説家で劇作家の久米正雄。その墓前に、生前疎遠だった二人の詩人が今ゆくりなくも花を供えて手を合わせる。私にはその時の草野心平その人の気持もわかる気がした。それは故人へのいとおしみとかあわれみとかいう点で、たぶん私のに通じるものがあったのではないだろうか。
 折から上の山で二声三声小鳥の声がした。
 「あれヒヨドリ?」と草野君は私に訊いた。
 「そう。よくわかるね」と私が答えると、彼は目を細めてうなずいた。「よくわかるね」どころか東村山の武蔵野には、この鎌倉よりももっと目につく冬鳥としてたくさんのヒヨドリがいるに違いないのだ。それをただ目を細めて微笑しながらうなずくところが、いかにも我が心平さんらしかった。
 その夜の逗子での招宴の席で、彼は「会津磐梯山」と「磯節」とを歌った。私もセザール・フランクの譜に自分で歌詞をつけた「雲一つおちかたに浮かべる見ゆ」を歌ったが、草野君のは実際すばらしかった。あれほど歌の言葉と精神とを生かして、あれほど見事に歌われたこの二つの民謡を、私はいまだ曾て聴いたことがない。それは酔余の戯技などでは全くなく、正に詩人草野心平の真骨頂をうかがわせるに足るものだった。

 

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  海岸で

 或いはこちらの無知のせいかも知れないが、鎌倉にいてその鎌倉の海べを好んで歩いたり、それについて書いたり語ったりする人が案外少ないのを私はふだんから不思議に思っている。とは言え数多い住人の中には特に海洋学や海の生物専門の学者がいて、私などの目に触れない処でその研究の成果を発表しているという事も考えられなくはない。現にそういう文献の幾つかが残っている事も噂には聴いている。しかし生憎私はまだその種のものを見た事もなければ、そういう人に会った事もない。
 小学校の時から中学の半ばぐらいまで毎年の暑中休暇を大磯で過ごしたので、相模湾の水や砂浜にはなじみが深い。海水浴は無論のこと、板子一枚で波乗りをしたり、水へもぐって岩礁の間の貝類をあさったり、朝早く海岸へ行って漁師の地曳き網を曳き上げる手伝いをしたりした。中でも一番記憶に残っているのは、水泳の試験に江ノ島を半周させられた事である。元来が大川端(隅田川の岸)育ちなので、どちらかと言えば泳ぎは得意のほうだった。白い水着姿の大先生や裸のままの先輩たちを乗せてドーン・ドーンと太鼓を鳴らしながら付き添って来る大きな伝馬船をたよりに、落伍もせずにあの陸繋島の半分を喘ぎ喘ぎ泳ぎ切った時の嬉しさは、今でもはっきり覚えている。
 その江ノ島が今鎌倉市の南東のはずれの岬、飯島崎の高みに立つと七里ガ浜のむこうに見える。六十幾年の昔から思えば形もいくらか変わったようだが、それでもあれはやはり「私の江ノ島」だ。折から近くに立ってその方角にカメラを向けている若い男女の観光客よ、君達にはそんな経験も無いだろうし、また今どきそんな話には興味も持てまい。それよりも寧ろ今君達の連れの女性の一人が小声で口ずさんでいる六十年も前の歌、逗子開成中学の生徒十二人がボートの転覆事故で全員溺死した惨事を弔ったあの哀歌、「真白き富士の嶺ね、緑の江ノ島、仰ぎ見る目も今は涙……」のほうが遥かにこの場にふさわしく思われるだろう。その飯島崎で思い出されるのは、終戦の年の秋、この鎌倉で他界した老母の遺骸を山の上の火葬場で荼毘に付して、その遺骨を持ってこの海岸を妻と二人で歩いた時の事である。波打ち際の岩壁や洞窟は無惨にも砲弾による破壊の跡を見せ、沖合にはまだアメリカの駆逐艦が二隻薄い煙を吐いて碇泊していた。
 高い処から眺める七里ガ浜や由比ガ浜の弓のような海岸線も優美だが、その海岸の砂地を歩きながら寄せては返す波を見たり、落ちている貝殻を拾ったりするのも楽しい。以前ならば採取したその貝殻を持って帰って、貝類図鑑などをひろげて同定のための検索を楽しんだものだが、今では手の平へ載せてその色や形を愛でるだけで満足している。
 鳥について言えば、鎌倉の海岸にはミサゴが多いようである。いつでも海上を高々と飛んでいるが、獲物の魚を見つけると急降下で水へ飛びこんで摑み取る。しかし私は彼の声というのをほとんど聴いた事がない。よく「ミサゴが鳴いている」と言う人があるが、私はこれもこの海岸に多いトビの間違いではないかと思っている。鵜も海上を低く飛んで行くのを時々見かける。しかし私にはそれが海鵜か河鵜だか断定出来ない。たいがいの場合、五、六羽が一列縦隊を作って波の上を翔けて行く。また春の蕃殖季以外ならばイソシギの可憐な姿もしばしば目に着く。普通には単独の事が多いが、一昨年だか小坪の浜べで見た時には、二羽三羽と小さい群れをなして歩いていた。一体に小型のシギ類の判別は私のような素人にはむずかしい。
 しかし夏の盛りの鎌倉海岸。これだけは書く気もしなければ書けもしない。私の大嫌いな言葉であるいわゆる「レジャー・ブーム」とやらで、混雑と喧噪と無作法の世界。たまたまほかの土地から訪ねて来た客の案内にも、由比ガ浜を私は遠く避けるのである。

 

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 久しぶりに東京へ買物に行くというので、彼は谷戸やとの奥の小高い処にある自分の家を出た。
 買物と言っても大した物ではないが、銀座の或る楽器店を通して外国へ註文してあったフランスの珍しいレコードが、約半年がかりで漸く到着したという知らせを得たので、それを受け取りに行くためにいそいそと家を出たのである。家から駅までは彼の足できっちり十五分。そして横須賀方向からの電車が到着するまでプラットフォームでの七分間の待ち合わせ。その間にゆったりと一本の巻タバコを吸う。これが彼の心に課した規定でもあれば、いつかしら身に着いてしまった習慣でもあった。なぜならば余程の時でないかぎり、彼は決して歩きながらタバコを吸う事をしないから。しかしこんな事を書くのはこの文章の目的ではない。
 家を出るのが少し遅れたので、彼はいつもより足を速めて駅への道を歩いている。たった今明月院という寺の門前を過ぎたから、ちょうど道のりの半分である。片側は樹木や草の密生した崖、反対側は幅の広い深い溝みぞ川を前にしてそれぞれ自家用の橋を架けた何軒かの広い邸宅。そしてその間を平坦な舗装道路が谷戸の奥まで走っている。彼は季節季節にさまざまな花や木々のもみじを見る事のできるこの道が好きである。時はあたかも夏の終りで、崖に生い茂って道の際まではみ出した雑草を、農家の者らしい二人の女が何か頻りにおしゃべりをしながら鎌で刈っている。しかしこの静かな快適な道路を、時々タクシーや自家用車や御用聴きの車がビュンビュン飛ばして行くのが玉に疵でもあれば、事実危険でもある。
 今彼はその道路のわきの溝川のへりに、二台のオートバイが立て掛けてあるのを見る。細い橋を前にした門構えの邸宅の一軒へ出入りする商人か何かの車であろう。ところが四つか五つになる農家の子らしい男の児が一人、停めてあるそのオートバイヘ攀じ登って、あわよくばサドルヘ腰をかけようと懸命になっている。行きずりの彼はそれを見るとハッとした。もしも車が倒れて深い溝へ落ちこんだら子供は大怪我をするだろうし、又もしも反対側へ倒れたら、折悪しく疾走して来た自動車のためにどんな不慮の事故が突発しないとも限らない。
 そう思うと彼はたまりかねて、「坊や! あぶないからおやめ! もしもオートバイが倒れて一緒に水の中へでも落ちたら大変だから」と、注意と言うよりも寧ろ真剣な警告を与える。そう言われると子供はさすがに車へ攀じ登る冒険は一応やめたが、それでもなお諦め切れないのか、大人の乗り廻している車の魅力に引かれるのか、まだハンドルにさわったり器械を覗きこんだりして車のまわりをうろうろしている。
 するとちょうど其処へ駅の方から一人の若い女の人が来て、彼と擦れちがった。彼は丁寧にその女性を呼びとめて、もう一度あの子供に注意を与えてくれるように頼んだ。そしてその途端にふと気がついて、「あの向うの崖のところで草を刈っている女の人達のどちらかが子供の母親かも知れませんから、あの人達にもよく言ってやって下さい」と付け足した。洋装の若い女性は彼の依頼に快く、しかもまじめにうなずくと、靴音立てて子供のほうへ急ぎ足で行った。そしてそばへ寄って懇々と言って聴かせているらしかった。やがて彼が二度目に振り返った時には、今度は草刈りの女達の前へ立って何か言っていた。そして当の子供はと言えば、もうオートバイのそばを離れて母親たちの方へ帰っていた。それを見ると彼はやっと安心して、失った時間を取り返すために停車場への足を速めた。そして晩夏の円覚寺のすがすがしい森の眺めを前に、いつものとおりプラットフォームのベンチヘかけて、やっと二口三口のタバコを吸う時間を持つ事ができた。
 東京からの帰りに先刻の道を通ると、もう崖際の草はきれいに刈り取られて、女達や子供の姿もなく、問題のオートバイの影も無論なかった。彼はあの洋装の見知らぬ女性が、自分の正当な危惧だか余計な取り越し苦労だかを誤りなく伝えてくれた事を確信して喜び、これから家へ帰ってゆっくりと聴くべきこの二枚のレコード、このフランス各地方の古い基督降誕祭の歌の事をあれこれと楽しく空想しながら、爪先上がりの谷間の道をいつもの歩調で歩いて行った。もう日も沈んで東慶寺あたりの空がひとしお明るく美しく、ヒグラシの声が降るようだった。

 

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  憩いの店

 もう足かけ三年になるが、毎月一回、私達夫婦は、上の家のSさん夫妻に招待されて、若宮大路火ノ見下の「たじま」へ行く。河豚ふぐと活魚いきうお料理の点では鎌倉でも有名な店である。酒も良いし食べさせる物もうまい。裏側には別に座敷もあるが、何と言ってもすっかり見通しの調理場に面して、厚い白木しらきの飯台を前にSさん達と肩を並べて、河豚の刺身だの鰈かれいや平目の薄作りだの、本場の蟹や鶏の手羽焼などを相手に杯を重ねるのが和やかにも楽しい。
 店や調理場の人達は、主人も、女将も、一流の板前「牧さん」も、その下で働いている若い「なべさん」こと渡辺君も、お客を接待の「おばちゃん」も「おとしさん」も、皆なじみなので気が置けない。ほかの常連にしてもそうだろう。女の客はしとやかながら充分に味わっているし、男の客は時に大きな声で連れや店の者と話をしたりして上機嫌に食い且つ飲んでいる。殊にSさん夫妻は古い客だからここの家うちのうまい物をよく知っていて、いつも成程と思うような皿を取る。酒の時には余り料理に手を出さない私は、五品いつしなか六品むしなは必ず出る気の利いた「お通し物」だけでも満足するが、妻のほうは隣席の夫人と何かひそひそ相談しては註文してよく食べる。私は店の中のそういう光景を楽しく眺めながらSさんと差しつ差されつする酒がうまくて、乱れはしないがつい過ごしてしまう。帰りはいつでもタクシーを呼んでもらう。女将が必ず往来まで見送りに出る。やがて巨福呂坂から明月谷。そして坂の行きどまりの私の家の前で二組の夫妻が別れる。これが判で捺したような月一回の「たじま」行きである。そしてSさんも私もかなり酔っていた筈なのに、翌る朝にはもう両方ともシャンとして、一方は時間どおり東京の会社へ出勤し、他方は書斎で仕事の続きに取りかかる。
 もっと手軽なのはカフェーである。最近は鎌倉にもこの種の店がどしどし殖えるが私の行きつけは「門」と「イワタ」である。「門」は北鎌倉の駅の前に本店があり、鎌倉の小町通りの中程に支店がある。本店のほうは電車の乗り降りの際に気安く立ち寄れて便利だが、少し狭くて、時に暗い感じがしなくもない。これに反して賑やかな小町通りの支店のほうは明るくて広いので、途中で買った本などを。パラパラやりながら寛いだ気持になれる。この点では通りを入ってすぐの「イワタ」も同様である。しいて言えばこのほうは社交場的で、「門」はむしろ芸術的である。壁にも若い画家の作品などがしばしば見られる。
 鰻では段葛だんかずらに面した古い「茅木家かやきや」、もっと手軽に済ませたい時には二ノ鳥居に近い「浅羽屋」、蕎麦ならば小町通りの「一茶庵」で、小林秀雄さんなども御贔屓ひいきらしい。洋風の食事となると、私はほかの店を余り知らないから雪ノ下の「テラス・レイ」を挙げる。歌舞伎俳優染五郎がやっているとかいう話で、料理もなかなか吟味されているし、給仕人の行儀もいい。
 最後に書き落としてはならないのは「社頭」である。小町通りもいちばん八幡宮に近い処にあるから社頭なのだろうが、フランス語で言う領主館か城廓のシャトー Château をもじったのだろう事は、名付親が名付親だけにほほえまれる。すなわち去年亡くなった菊岡久利君の店で、今は未亡人の京子さんが後をついでやっている。元来日本全国の和紙だの、書道用具だの、いわゆる暮しの品々だのを売っている店なのだが、昔汁粉と明神甘酒を名乗る汁粉と甘酒が珍味である。わけても昔汁粉は奄美あまみ大島の黒砂糖を使った物で、たとえば虎屋の「夜の梅」の味覚がある。私にとって菊岡君は一番古い友達の一人で、彼がまだ海城中学だかの制服姿で遊びに来た頃からの仲である。詩も下手ではなかったが画と書がよかった。今その店の看板に残っている「社頭」の文字は、いかにも侠気に富んで豪放だった彼の面目をしのばせる。

 

 

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