書窓雑録


   ※ルビは「語の小さな文字」で、傍点は「アンダーライン」で表現しています(満嶋)。

                                 

カロッサヘの感謝

詩と言葉

蔵書と読書

秋の日記から

野外手帖から

デュアメルのかたみ

デュアメル追悼

カロッサの教訓

若き日の友の姿

交友抄

 

 

                                     

 

 カロッサヘの感謝 (一九六三年)

  この上もなく荒涼とした土地にいても
  君はけっして孤独ではない。
  その灰色の奥を見つめたまえ。
  やがて一つのまなざしが君のまざなしに点火されて燃えるだろう。

 降服につづく被占領下の幾年を、そんな処に住むようになるだろうとは夢にさえ思わなかった信州富士見の高原で、貧窮に洗われ、孤独の味を嚙みしめながら生きていた。敗戦は人々の心を散りぢりにし、きのうまでの友を互いにつれなくさせ、冷たい限で反目させた。にがにがしいこと、醜いこと、卑しく思われること、心を痛ましめるようなことが、至るところで、いろいろな人によって、誰憚らず公然と行なわれた。しかし他人を責めるどころではなかった。私自身、自分の芸術をもってあの戦争に参加したことで深く恥じ、かなしみ、強くみずから責めていた。そして自分に取るべき責任があるということ、これこそ私にとっての一大事だった。それを思えばこんな貧苦も孤独も当然のむくいであり、その処罰のなお甚だ軽いことを感謝しなければならないと思った。私は字義通りにひたすら荒地の片隅を開墾し、夜はほのぐらい石油ランプの下で長い日記や感想を書き、八ケ岳の連峰を目の前に、四季の自然に聴き入り見入った。そしてそういう時に渇した者が飲むようにして読んだのが、緑いろの布表紙のカロッサの『詩集』であり、暗い魂への救い、傷つき痛んだ心への慰めとして見出したのが、この四行から成る福音のような詩だった。

     *

  おお、時を忘れよ、
  君の顔がしぼまないため、
  時と共に心もまたしぼまないため!
  君のさまざまな名を剥はぎ捨てよ!
  鏡の面に被いを掛けよ!
  一つの危険に君自身を捧げよ!
  存在の中で一つの合図に従う者、
  多を一にまで打ち建てる者は、
  刻々に星のしるしを刻まれる。
  そして灼熱の幾歳月の後、
  われらがこの世の眼を失うとき。
  一つの更に多いなる自然がみのる。

 ゲーテの箴言詩を想わせるこれらのカロッサを身にしみじみと読んだのは、忘れもしない、後日『花咲ける孤独』や『高原暦日』などの単行本にまとめられた幾多の詩や文章を、毎日日課のように書き続けている時のことだった。どこへ発表するという当てもなく、またそういう事も考えずに、運命の危機に際会したら疑わずためらわず、頭を下げて突進するがいい、そこにおのずから道が開けるだろうというデュアメルの言葉どおり、そしてこの詩の前半が言っているとおり、世の中への不満を断ち、過去への悔いに清められ、「或る晴れた秋の朝の歌」に書いたように、名も捨てれば昔も忘れて、高原の自然のなかに過ぎゆく時を過ぎさせながら、ひたすら現前の務めである小さなわが野の耕作と詩作とに没入した。
 顔や心がしぼまないため、硬化しないため、老いを知らせる時の目盛りを無視するために、新しく見いだすもの、愛すべきもの、知りたいことの無尽蔵にあるその山国での生活は、自然からの霊感を自分の文学に期待すること甚だ大きい私にとって、まことにこの上もない毎日でもあれば環境でもあった。「刻々に星のしるしを刻まれる」という輝かしい言葉はよしんば私に当てはまらないとしても、「多を一にまで打ち建て」ようとすることは正に私の仕事でなければならず、「一つの合図に従う」ことでなければならなかった。そして生きてゆくこと自体の苦しい幾年、それは「一つの危険に身を捧げる」ことでもあった。

     *

  そうだ、われらは永遠の響きのこだま。
  無と呼ばれるものこそ万物の根源だ。
  しかしわれらは敢然とそれを忘れて、
  現に存在しているものの圏内を隈なく測ろう!
  ここで結ばれていないものは何処でも結ばれてはいない。
  一つの愛が地上の時間と行為と幸福の中へ
  拡がれば拡がるだけそれだけ深く、
  愛は永遠の生成のなかで産むだろう。

 『高原暦日』の名でまとめる事になった数篇の文章を書き上げると、私はつづく一冊である
『碧い遠方』の広がりへと踏みこんだ。もうその頃には諏訪郡一帯から松本平まつもとだいら・佐久さく平にかけて親しい知人ができ、近隣の町や村落にも温かく迎えてくれる数多くの家庭ができた。そしてそういう人々が常に誰かしら、私たちの不足や不自由をおぎなってくれた。山荘をかこむ高原の自然は、元より雄大でものに満ちていた。若い時から博物学や地学が好きだった私にとって、そこは尽きることのない発見や再発見の世界だった。私の始終持ち歩いている野外ノートは、そういう発見の記録や詩の断片の書きこみでいつも忽ちいっぱいになった。戦争時代の暗澹とした過去を忘れ、一旦は虚無かと見えたこの人生にふたたび篤い信を抱くようになった私にとって、「現に存在しているものの圏内を隈なく測ろう!」というこのカロッサの言葉こそ、まったく空のかなたからの福音だった。現在の世界と人とに堅く結ばれながら、地上の行為幸福との中に愛をひろげる。これこそ実に私の復活の生でなければならないと思った。

 

 目次へ

 

 詩と言葉 (一九六三年)

 今の日本の詩をどう思うかという質問は、私もしばしば寄せられてそのたびに明快な返答に困る問いの一つだが、そういう質問はいわゆる年配の読書人から発せられることが多く、いろいろと話をしているうちに気がつくのは、その人達がたまたま彼らの目に触れる詩にふだんからあまり好意を持たないか、よしんば持っていても理解に困難を感じている場合が多いということである。そして、そうかといって、ひどい見当ちがいな批評をして笑われるのも癪だから、まずその道の古い本職らしい親しい人間をつかまえて、やんわりと彼の意向を打診してみようという腹であるように思われる。
 頭から関心も好意も持たないで、ただ悪口だけ言っているのではどうも話になりにくいが、理解はしたいがその良さがよくわからないというのならば、多少の助けになることが言えるかも知れない。私が相手をなんとか納得させようとしていろいろと言葉を費やすのは、だからいつでもそういう無心の質問者に対しての場合である。
 そうは言っても、私もわけのわからない詩にはよく出あう。仕事が仕事なので月々寄贈をうける詩集や詩雑誌の数もすくなくない。それらをすべて精読すると言ったら嘘になるが、目ぼしいものや、パラパラと頁をひるがえしている偶然時に、ふと目についた作品は一応読む。そういう時、自分の流儀や好みは別として、公平に見て感心させられるもの、普通の出来だと思われるもの、つまらないと思うもののほかに、難解というよりも寧ろ不可解に近いような作品にぶつかることがよくある。難解な詩ならば研究のしようもあるし、その結果自分の卒読の甚だ至らなかった点に気がつくということも稀ではないが、不可解な詩、そもそも何を言おうとしているのか、書いた本人に一体これがわかっているのかどうか、その了解に苦しむような詩にはまったく困らされる。そしてけっきょく投げ出してしまうほかはないが、今の日本の詩がさっぱりおもしろくもなければ理解もできないという世評の起こる原因の一つには、こういう未熟な、独善的で不可解な詩も、大いにあずかって力を貸しているのではないだろうか。しかし今はその種の詩には触れないことにする。
 音楽はけっきょく音楽家にしかわからず、詩はついに詩人にしか理解されないということが言われている。これは或る意味では真理であるが、一方ではまた、よい聴き手は音楽家そのものに近く、よい読者は詩人そのものに近いとも言えそうである。そしてこのよい聴き手、よい読者のむれが、じつは音楽や詩の支え手であり、擁護者であり、時にはその弁護者ともなって、これらの芸術の発展のために尽くしているのである。どんなに世間嫌い、人間嫌いと言われている芸術家にしたところで、自分への本当の理解者や熱心な支持者を持っていて、なおかつこれに不快を感じる者はないだろう。べートーヴェンとかマラルメとか、特に例をあげる必要もあるまいが、これらおのれを持すること最も高かった天才にしても、無理解な大衆やおもねって近づく俗物をこそ忌避したれ、心から彼らに傾倒する篤信の人々を軽んじたり排斥したりはしなかったのである。
 心にしかとした要求もなく、高く深い美へのあこがれもなく、ひたすら流行の波のまにまに浮き漂っている大衆は別として、すぐれた芸術によって心の飢えが満たされたり、そのあこがれが報いられたりすることを願う人たちは、いたずらに手をつかねて待っているということはしない。彼らは進んで音楽なり詩なり、また画なりを、自分でもひそかに試みているか、かつて試みたかした人々である場合が多い。音楽ならばたぶん作曲よりも演奏で、詩や画ならばむろん実作ということになるわけだが、彼らはそういう練習や手業メチエを続けることで、楽しみにせよ他日の成功を期してにせよ、とにかく絶えざる訓練をおのれ自身に課しているのである。彼らの技倆は上がり、識見も深まり、たとえその後いろいろな理由で実演や実作から遠ざかることがあるとしても、経験と思い出とに富まされて、芸術に対する愛と理解とは失われることがない。こういう人たちが、巨視的に見れば、その数はなはだ僅少なのは是非もない事実である。しかしこういう人たちがあればこそ世界のすぐれた芸術が永く受けつがれ、いつまでも守られ愛され続けているのである。そしてこの貴重な雰囲気の中からたまたま稀世の天才が現われる。つまり天才とは、われわれ一般人の夢の実現、あこがれの成就として、われわれという栄養豊かな土壌から刻苦して生長し、ついに卓立した一本の巨大な麓蒼たる樹木なのである。
 学校的な教育にせよ、自分ひとりでの勉強にせよ、耳で聴いたり目で見たりする芸術に関するかぎり、見識を高め、美によって心を富まされるためには、常に、或いはできるだけ、すぐれた作品、よい作品に触れることが肝要である。食物の美味がわかるようになるためにまずい物から食い習ってゆく必要はないように、芸術の場合でもすぐれた作品で養われていれば、その反対の作品は、初めのうちはなんとない感じとして、そしてやがてはその弱点や病処を挙げてこれを指摘することができるようになるだろう。しかしわれわれは一般には批評家でなくて鑑賞者だから、悪作や劣作と思われるものを立ち入って論じる義務も義理もない。ただ目や心を養って、より高いもの、より美しいもの、より生命力に充溢したものへと向かえばいいのである。理解とは蓄積された体験とその記憶による一つの能力の新しい発展だから、忘れっぽかったり頭や心の働きが老化したりしていてはいけない。その忘却性や老耄化を防ぐためには、なんと言っても生活への熱意、精神と肉体との訓練、想像力の練磨、周期する自然や優秀な芸術との絶えざる接触などが要求されるだろう。
 同じように目で読み取って意味を理解し、心で感受する芸術でも、詩は小説・随筆その他の文章とちがって言葉の芸術のエッセンスのようなものだから、詩を読む人は何よりもまず言葉を知り、言葉の意味と機能に精通し、言葉というものを愛してこれを大切に扱うことのできる人であることが望ましい。言葉はわれわれが日常使うもので、その欠くべからざること身辺の道具や器物に似ているが、その道具や器物の機能、性質、用途を正しくわきまえている人が、彼らを心して最も有効に使うように、われわれもまた使い場所のまちがった言葉や、粗悪な言葉や、空虚な言葉を排斥して、正しく美しい言葉、その場合に最も適した言葉、できれば含蓄や連想豊かな言葉を使うように心がけなければならない。殊に詩を書く場合にはそれが数倍にも大事なことで、私も昔、自分への戒めや心がまえのために次のような詩を書いたことがある――

     言 葉

  私は言葉を「物」として選ばなくてはならない。
  それはもっともすくなく語られて
  深く天然のように含蓄を持ち、
  それ自身の内から花と咲いて、
  私をめぐる運命のへりで
  暗く甘く熟すようでなくてはならない。

  それがいつでも百の経験の
  ただひとつの要約でなくては――、
  一滴の水の雫しずくがあらゆる露点のみのりであり、
  夕暮の一点の赤い火が
  世界の夜よるであるように。

  そうしたら私の詩は
  まったく新鮮な事物のように、
  私の思い出から遠く放たれて、
  朝の野の鎌として、
  春のみずうみの氷として、
  それ自身の記憶から、
  とつぜん歌をはじめるだろう。

 思わぬ瞬間に或るアイディアが浮かぶか襲いかかるかし、それに刺戟されて幾つかのイメージが明滅しはじめると、私は魚のかかった網を上げる漁師のように、それをとっさの言葉として、まず急いでポケット手帖なり有りあわせの紙きれなりへ書きつける。詩想のインスピレーションは光や風のようなものであり、イメージに形を与える言葉もまた木の間に姿を現わした小鳥のようなものだから、自分の弱い記憶力をたのんだり不精をしたりして、その場で書きつけることを怠ると、たちまち消えたり飛び去ったりしてしまって、後悔のほぞを嚙むのである。今でも時々あるが、過去にはそういう経験がたくさんあった。たしかイギリスの現代詩人スティーヴン・スペンダーも私と同じような方法で、数行の動機や詩想を書きつけた紙を無数に持っているようなことを言っていた。人それぞれで作詩の仕方も変わっているだろうが、私はこれも一つの良い方法だと信じている。
 しかしメモに取って置いたものがすべてさっそく役に立つとか、生かされるとかいうことはまず無い。その大部分は寝かされたままで日の目を見ることもないが、しかし時あって彼らのうちのどの一つかが運よくも思い出され、取り上げられ、見違えるように立派になって颯爽とよみがえることもある。そんな時の詩は、初め数行の断片として書きつけられた物とはその性格がいくらか違ったものとなっていたり、雰囲気や色調を異にしたりしている場合が多い。私はこの現象を、その後の豊かな体験の中でおのずから成育を続けていた潜在的なものの開花だと思っている。人はどう見るか知らないが、前掲の詩もそうした中から生まれたものである。

 

 

 目次へ

 

 蔵書と読書 (一九六二年)

 「歳をとるとあまり他人ひとの本を読まなくなる」と、フランスの老大家ジョルジュ・デュアメルが自著のどこかで書いていた。そういう他人である御本人の本を、私は読んで覚えているのだが……。
 物を書いていて歳をとると、友人の同業者は元より、知らない若い人からさえ、彼ら自身の著書の寄贈をうけることが多い。それは週に何冊、月に十何冊という割合いで送られてくる。仕事机やテーブルの上が忽ちそれらで一杯になり、それぞれの段が元来一側であるべき書棚の本の列の前へ、今度はもう一側横倒しに積み上げられて、それが端から端へと伸びる。だから、初めから秩序整然とならんでいた書物の題も背革ももう見えない。書物地獄と言っては不躾だし忘恩にも似ているが、実のところ、こういうふうに本のふえるのは、私のように手狭な家に住んでいる者にとっては一つの悩みであり、憂鬱の種である。そうかといって、これをむざむざと古本屋の手に渡す気には無論なれない。
 初めに書いたデュアメルの言葉も、おそらく同じような状況のもとから出たものと思われるが、彼の場合「他人」とは、たぶん同時代者の意味ではないだろうか。そうだとすれば私にも充分身に覚えがある。小説にはあまり興味が持てず、随筆風の物でも大抵その味の予想がつき、研究物ではこちらの専門外の著書が多いとすると、読みたいと思う本の範囲もおのずから大いにせばまってくる。それに他人の物をつぶさに読んだり、他人の固有な考えの中へ入りこんで一緒になって考えたりするにしては、自分として書きたいものがあまりに多く、また自身の関心事や、心を労する身辺の事柄も、若い時よりは遥かに複雑でもあれば多岐でもある。こうした気持や環境では、贈られた本を読む時間もしぜん制限をうけるわけで、「どんな事が書かれているか、読まなくても大概わかっている」という気持は、本当はいけないのだと私は思うが、たまたまの実験の結果、幸か不幸かそういうのが多いのだから、この現象、必ずしも老年の無感動性、不感性とばかりは言いきれないであろう。
 蔵書というものは、自分で選んで我からすすんで買った本が、すくなくともコレクションの主体でありたい。むろん、買いたいと思っていて幸い著者から贈られた本もこの部類に入るが、人情から言っても、自分で金を出して買った本はそれだけ余計に意義あるものに考えられ、余計に愛着も持てるのである。私事を言えば、私の蔵書の数などは、多く持っている人から見れば問題にもならないほど僅かなものだが、それだけにほとんどすべてが必ず一度は読まれており、日本の本でも外国の本でも、どういう事がどの本の大体どの辺に書いてあったか見当のつくくらいには、その内容の地理に通じている。これは文学の本でも思想上の本でも科学の本でも同じで、ふと必要を感じて書棚の前へ立って、目的の書物の目ざした箇所をさがし出すのに、そんなに手間どることはない。まして索引のついているような本ならばなおのことである。
 一例を挙げれば、おりからの秋の初め、けさ私はふと今日のような日の長野県富士見の山野を思い、同じように晴れやかな空の下、西風に吹かれて飛んでいるだろうアザミの冠毛の雲のようなのを想像して、急にこれに似た事の書いてあった本を思い出して読みたくなった。私はまっすぐに或る棚の前へ行き、積み上げてある本の山を取りのけ、ちやんと一列にならんでいる自然関係の外国書の中から覚えている一冊を抜き出し塵をはらい、その初めのぺージに目ざす文章を発見した。それは最後に手を触れたのが実に十年前という、ウィリアム・ヘンリー・ハドスンの Nature in downland(丘陵地方の自然)だった。真の蔵書とは、おそらくこんなものである。

 私は務めを持っていないのでたいがい一日じゅう家にいるが、読書はほとんど夜というのが習慣になっている。昼間の光のある間はとても本など読んではいられない。書けても書けなくても書斎の机にかじりついて、散文なり詩なりのために下書きの大学ノートに向かっている。若い頃は「一行として書かざる日無し」などという自戒の文句を壁に貼って、ともすれば頭を上げる怠け心を鞭うったものだが、老境の今では思うことを書き残して置きたい欲も手つだって、芸術上のものの書けない時には、日記でも、自然観察の手控えでも、無沙汰をしている誰彼への心をこめたたよりでも、とにかく何かしら書かないで過ごす昼間は一日として無い。そして食事のすんだ夜の時間は、たとえばバッハなり、ベートーヴェンなり、モーツァルトなり、何かレコードでクラシックの音楽を一曲。それから床につくまで読書。「本など読んではいられない」昼間のあとの、本を読まずには寝る気になれない黄金のように重たく貴い時間である。
 私の読書は、新刊から新奇を発掘するというよりも、いくたびか読んだものの反芻から、また改めて心を打たれたり教えられたりしようという楽しい予望や期待による場合のほうが遥かに多い。そしてその望みはかならず常にかなえられる。読書はひとつの信頼の行為だと私は信じるから、その信頼がむくいられて、前の時よりもいっそう心が富まされたり清められたり、叡知がいっそう強い照明をうけたりするのがほんとうに嬉しい。たとえば私は一年の間にいくたびかハンス・カロッサの本を夜の机上にひろげるが、その『指導と信従』、『成年の秘密』、『美しき惑いの年』、『ルーマニア日記』、『イタリア紀行』などは、ようやくにして魂の解放を思う年齢に達した私にとって、星と星雲に満たされた深く柔らかい天空でもあれば、生と死とで豊かにされたほのぐらい森林でもある。また私はよくロマン・ロランを読みふけるが、あたかも七つの山々から成る一大山脈のようなその『ベートーヴェン』が、今でもいよいよ私の心を切りひらき、精神の凡庸や怠惰から私を引きずり上げて耕耘することを止めない。
 いわゆる「軽い読みもの」というのを私はほとんど手にしない。これは別に信念や自戒からではなく、ただ若い時からそういうものを読む習慣がないからに過ぎない。しかし書物自体の物理的質量が小さいものならばたくさん持っているし、良いものならばこれからももちろん買う。エヴリーマンでも、ペンギン・ブクスでも、レクラムでも、インゼル・ビューヘライでも。フランスの本ならば大抵はもともと軽い。すこし贅沢だが一連のプレイヤード叢書も、続けて出れば喜んで買うつもりである。つい二、三日前も、新宿駅まで急行の乗車券と座席券とを買いに行ったついでに、紀伊国屋の仮営業所の二階へぶらりと上がったが、別にこれという目ぼしい本も見当たらない中に、あまり人目を引かない同じ薄いフランス本が三、四冊、いくらか貧しげに古びて積んであった。表紙を見ると「ジャン・ロスタン」とあり、パリで出た「二十世紀の古典」叢書の一冊である。私は肖像写真の四枚入った、一三〇ぺージ足らずのこの軽い本を喜んで買った。ジャン・ロスタンは劇作家エドモン・ロスタンの子であり、人も知るフランスの大生物学者で、今年六十八歳になる。私はデュアメルを通じて彼を知り、その『ヒキガエルの生活』や『トンボの生活』は今でも自然関係の愛読書の一つになっている。明日にひかえた旅の車中で、おそらくはこの碩学について知ることのたくさん有るべきこの本を読むのを、私は今から痛烈な楽しみにしている。

 

 

目次へ

 

 秋の日記から (一九六三年十月)

 九月の初めからこの十月の半ばまで、私は自分で一日何ページときめた翻訳の仕事をかかえている。この仕事は、出版社との約束も約束だが、なおいくらかの余命の中で充実をねがう私自身のためにも、それが妨げられもせず渋滞もなく進行して、心に期した日の夕べの部屋の、輝きそめた秋の灯の下で、その完成の喜ばしい姿を見せてくれなくてはならない。
 その静かな熱ねつっぽい勉強の部屋の窓の前、こんもりと茂った木々へ今朝もまた黒と空色のオナガが五、六羽群れて来て、「ゲーイ・ゲーイ」と鳴き立てている。彼らは一年中ずっと世田谷せたがやのこの南西の片隅に住んでいるのだが、そのジャズめいたふだんの叫びにもかかわらず、時どきひどく甘い柔らかな笛のような声を洩らして、「おや!」と耳を澄まさせる。今もそれをやっているが、おそらく何か愛情に関係のある表現なのだろう。しかし私はちゃんと知っている。毎年の秋の観察で見抜いている。彼らが窓のむこうのサンシュユの実を呑みこみに来ていることを。母屋の庭の柿の木の、すでにほんのり赤みが添って、待ちかねた鳥たちの舌の吟味にそなえている無数の大きな重たい実を、突ついたり舐めたりしに来ていることを。枝をしなわせてぶらさがりながら、経験に富んだ老いたる雄が、その甘い柔らかな笛のような声で言っているのだ、「女たち、ここのがいいよ。これはもう食べられる!」
 シジュウカラも正規の巡回を怠らない。時間と道順をあやまたずに、今彼らも庭へ来ている。このつやつやした黒いベレーとネクタイにくすんだ緑の制服を着た小さい鳥たちは、今年の春巣立ったのも、夏の初めに生まれたのも、みんな颯爽とした立派な若者になっている。「ツピ・ツピ・ツピ・ツピ」と気短かに叱りつけたり、「スーピー・スーピー・スーピー」と澄んだ秋めいた歌を流したりする彼らは、房になった白樺の実や、最近の嵐に痛めつけられたその枝葉のあいだから、うまく身を隠しているつもりの柔らかな生きた獲物を、真黒な小さいピンセットのような嘴くちばしでつまみ出している。十羽あまりのうち一羽か二羽は、きっと親か先輩だろう。着ている物の色も鮮明で体も大きい。彼らは細そりとした若者たちほど狩猟に専念しない代りに、長上らしい保護者意識と警戒心とで始終あたりに気を配っている。ちょうど其処へ隣りの家の悪猫が現われた。私のきまりきった存在などは問題ではないとばかりに、見て見ぬふりをして、赤い水引や薄紫の嫁菜の咲き茂っている庭の細道を用ありげに通ってゆく。すると年長のシジュウカラが突然「ツピ・ツピ!」と鋭い叫びをほとばしらせる。とたんにブルッという一斉の羽音。黒ベレーにくすんだ緑の制服の、あの若い林間巡邏隊はもういない。
 こういう事を半ば楽しみながら書いている秋の午前の静かさを際立たせるように、「キー・キー」と響きわたる一羽のモズの声がする。目を上げてその声の来た方角を見ると、彼は隣りの地所の大銀杏おおいちょうの高枝に傲然ととまっている。続けざまに高音たかねを張っては尾羽を振りまわすその小さい精悍な姿が、雲母のような鈍い光を帯びた高積雲と薄い桔梗ききょういろの十月の空とを背景に、まるでいち早い寒気と冬とを地平の果ての山々から呼び出しているようである。私はこのモズのことを「冬の飛将軍、彼……」と詩に書いた二十代の昔と、今は賑やかな品川区東戸越になっているその頃の蛇窪へびくぼの田舎とを思い出す。
 また今しがた、私はこの秋になって初めてのキビタキの声を聴いた。漆のような黒と、夜明けの空のような黄と、爽やかな白とで王朝風に身を飾ったその小鳥は、西窓の下の林の茂みで「ピイ・ピイ」とひよこのような可憐な声で鳴いていた。私は棚から取り上げた望遠鏡で、その美しい姿を確かめずにはいられなかった。彼は南方への避寒の旅の途中、今年も忘れずにこの林に立ち寄ったのである。例年どおり二日か三日はここにいるだろう。しかし一週間の滞在はその帰向本能が許すまい。彼は森の暗がりでまだ忍び音に鳴いている。
 その今、私はすこし休もうと、やおら立ち上がって一枚のレコードに針をのせる。毎日向かっている本の著者の、はなはだ道理ある反器械音楽説にもかかわらずである。しかし愛する巨匠の作品をそういつでも、そう何でも聴くわけにはいかない日本ではこれもまた止むを得ない事だろう。ともあれ聴くがいい。バッハやヘンデルよりも百年まえのドイツの巨匠、ハインリッヒ・シュッツの敬虔な合唱曲が、ダヴィデの詩篇「われ山に向かいて目を上ぐ。わが助けはいづこより来たるや」を、星空からのように、青い湖の対岸からのように、いとも広々と歌いはじめた。

 

 

 

目次へ 

 

 野外手帖から (一九六三-四年)

  春を呼ぶ

 二月初旬、毎朝の最低気温が折れ線グラフの上でジグザグをえがきながら、それでも少しずつ、ほんの少しずつだが昇ってゆく。この冬の異常乾燥でガサガサに乾いて、火を近づけたらすぐに燃えつきそうな白茶けた庭にも、天気さえよければもうどことなく春めいた気配が感じられる。そしてその庭へ相変わらず五、六種の小鳥がくる。
 ある日妻は、この冬じゅう落葉の庭の片隅へ置き放しにしてあった二つの薄い水盤をゴシゴシ洗って、一方に食パンのセン切りを盛り、他方にポンプからの水を満たすことを始めた。集まってくる小鳥たちのために、これから毎日続けられる彼女の日課、「かれは羊飼いのごとくその群を養い、また子羊らを腕もて集め」という、あの『救世主メサイヤ』の中の美しい詠唱を思わせる日課である。 
 「さあ、今日から毎日上げるからみんないらっしゃい」と言って立ち去る彼女のあとへ、さっきから近くの木の上で見ていたらしいスズメの群れがサッと飛びおりる。そしてめいめい白い柔らかいパンをくわえると、仲間から少し離れたところへ行って食ってはまた戻ってくるのだが、彼らのくちばしに挾まれてちらちら光るそのパン切れが、まるで星か、梅の花びらか、幼稚園児の上着の胸のハンカチのように見える。

 

  環境論と履歴説

 同じ庭に植わっているのに、南北の方向へ互いに五十メートルとは隔たっていないのに、そして立春の日から三日目、北の方のクチナシの木の下のフクジュソウはもう金色にかがやく杯がたの花を三輪も開いたのに、レンギョウの藪の前、枯れ葉の床に暖かく埋まったフクジュソウの群落からは、まだ杳ようとして何ら花の消息がない。
 「私ですよ。それは私のためですよ」と南隣りの地所に立っている一本の大木の高野槇こうやまきが誇らしげに言う。「冬じゅう南からの太陽を浴びて、私の影が暗く長く落ちるので、それでレンギョウの下の方のは花が遅れるのです。冬じゅうの私の偉大な影でね。ところがもうちょっとのところで、クチナシの下の方のやつには届かないのです。残念なことに。」
 私がなるほどそうかと思って、自分の意見のような顔をして妻に話すと、「違やしません?」と彼女は小首をかしげた。「両方ともここへ来て十年もたっていますが、きのう咲き出したのはお正月に咲いていた盆栽物をそのまま植えたフクジュソウ、もう一方のまだ頭さえ出さないのは、ある年の三月にあなたが諏訪湖のうしろの後山うしろやまから、ちょうど田圃のふちに花盛りのを貰っていらしって植えたもの。ですからめいめいの生まれの土地とその咲く時季とが違うんですよ。いわば血統ですよ。あのマキの樹のせいじゃないでしょう。」
 なるほどそう言われれば妻の説が当たっているようだ。それにしてもためらいがちな春を待ちながら、彼らの開花の遅速のおかげで、庭の片隅のフクジュソウをゆっくり楽しめるのを私は喜んだ。

 

  ネコヤナギ

 自分もそのレコードを持っていて、またこの正月にはお年玉として串田さんからその総譜をいただいた。バッハのカンタータ、第八五番の『われは善き羊飼いなり』のアリアの旋律が、このところ頭にこびりついて離れない。時あって自分自身を老いたる羊飼いになぞらえ、家族の者たちを愛する羊群のように思うことがあるせいかも知れないが、本来のバスからテノールヘ移調したそのアリアが、外を歩いていても家にいても、気がつけば必ずと言っていいくらい頭の奥で鳴り、唇にのぼっている。
 「われは善き羊飼い、おのが命いのちをその群に与うる善き羊飼いなり」ただそれだけの詩句で終始している詠唱にすぎないが、その「善き羊飼いアイン・グーテル・ヒルト」の「善きグーテル」のところに現われる悲しい慈愛の顫音トリルが、歌う者をも聴く者をも、ひとしく感動へとさそうのである。柔らかな春風のように一脈の哀愁をたたえた、オーボエと弦楽器の助奏も胸を打って美しい。
 こういう或る日のこと、K音楽大学の中学部へ通っている孫娘が、おじいちゃんにと言って一枝のネコヤナギを持ってきてくれた。学校の帰り道、秩父や丹沢の山々を見わたす田舎に、「こんなにポッと赤みがさして、銀色にまるまるとふとった蕾。この木がたくさん植わってるのよ」ということだった。
 ピアノを弾く牝羊のような孫の折ってきてくれた三月初めのネコヤナギ、これもまた仔羊のような蕾のいっぱい付いているネコヤナギを、私は三本か四本に切って挿し木にして、永く彼女のこころざしを生かそうと思った。

 

  タンポポ

 四月下旬、私の家をめぐる宅地は、タンポポの花の黄の輝きでいっぱいだ。門から入った片側の空地も、花壇のある前庭も、木の多い奥庭も、晴れた空をしずかに太陽が渡っている間じゅう、力づよく生長して咲きつづくこの花の黄いろい反射でまぶしいようだ。
 手を加えなくともみずから装う雑草だから大して自慢にもならないが、まわりにはびこる。ペンペングサやハコベの類を気のついた時には取ってやり、年に一、二回は薄い肥料を施しているので、それに報いるつもりか根はゴボウのように長く太くなり、株もずっしりと大きくなって、毎春三十輪から五十輪の花を咲かせる。これが狭い庭じゅうに何十株もたむろしているのだから、「点々と星のように輝いている」などというなま優しい光景ではなく、何か動物めいて逞しく、厚い盛り花のように盛り上がって、むしろその花へ来て花粉や蜜をあさっているアシブトハナアブやモンシロチョウの方が小さくて軽やかで、気のきいたアクセサリーだ。こんなだから今に五月が来て、南の風に彼らの冠毛の飛び立つ時は壮観でもあるが、また変に心の落ちつかない時でもある。
 このタンポポのことをドイツ語では Löwensahn レーベンツァーン, フランス語では Dent-de-lion ダン・ド・リオンと言うが、大学でドイツ文学を講義している友人が、ある時教室で学生の一人にこのレーヴェンツァーンを訳させたら、春の牧場に点々と獅子の歯が落ちているということになったそうだ。獅子の歯という原語はおそらくあの葉の大きいギザギザから来たものだろうが、これを逆にドイツの学生に、日本で Ehrenpreis エーレンプライスをイヌノフグリと言うと教えてその由来を話したら、さぞかし唖然とするか噴き出しかすることだろう。

 

  ヒキガエルの春

 ついこのごろラジオの取材で信州の塩尻峠へ出かけて、一二○○メートル程の高さの尾根を一人で歩いている時、近くの枯れ草の中から「グウ・グウ・グワイーグワイ」という一種甘ったるい呻うめき声が聴こえた。近づいて捜してみると、茶褐色と黄いろの色鮮かなさほど醜くもないヒキガエルで、小さな雄が大きな雌の背へ乗って、その頭をしっかりと抱きしめていた。これは雌の産卵所である池か沼への蜜月の旅行を意味するのだから、どこか近くにそういう物があるだろうと思って物色すると、果たして二〇メートルぐらい下の窪地に一つの小さい池が見えた。フランスの生物学者でカエルの大家のジャン・ロスタンに従うと、ヒキガエルはこの旅行のために一キロや二キロは平気で往復するということだから、二〇メートルでは物足りないくらいなものだろう。あたりではなお二組か三組があだめいた声で鳴いていた。
 そして帰宅後十日目の今朝、庭の隅のちょうど花盛りのエビネ蘭の植込みの陰から、柔らかい土をもち上げてのっそりと出て来た自分の家のヒキガエルに私は出会った。彼も今日か明日あすあたり、庭を出て急な崖林がけばやしを這いくだり、これも二〇メートル下の用水にかかった橋を渡り、自動車の走る堅いアスファルトの往来を横ぎって、わずかに形骸をとどめている昔の古池へ急ぐのだろう。どうか途中で好ましい雌に遭遇するように。そして自動車などに轢かれて平たいガマグチのようにならず、楽しみが済んだら無事に帰って来て、夏の夕方にはまた庭のほのぐらい片隅で、群がるヤブカを高い舌打ちの音と共に呑んでくれるように!

 

  車窓の妙音

 この初夏になって今日初めてあれを聴いた。私は本当にあれが好きだ。進行中ガラス戸を上げた電車の窓から起こるあの妙音、ヒヨコのように「ピョ、ピョ、ピョ」と鳴くあの音を。
 電車は鋼鉄車かステンレス車で、窓も広く大きく、窓枠も新式なのがいいようだ。音の出る原理は尺八やフルートや虎落笛もがりぶえと同じだから、肝腎なのは歌口うたぐちと管である。電車ではそれが窓枠の左右についているブラインド固定用の穴と、その穴のあけてある金属製の中空の柱とがこれに当たるだろう。気流である風が歌口であるこの穴へ、電車の進行方向から斜めに強く吹きこんでくる。そうすると穴の切り口が歌口の刃の役目をしてそこにカルマン渦が出来、そのために窓枠の中の空気の柱が共鳴を起こす。そしてこの場合ではヒヨコの声そっくりな声が生まれるという事になるのだろう。だが我が同胞は由来寒がりなのか不精ぶしょうなのか、なかなか電車の窓をあけようとしない。

  電車カーヴ夏の虎落もがりの笛起こる

 

  三光鳥

 つゆの雨に重たく濡れてゆっさりと垂れた林の木々のあいだから、今朝も三光鳥の声がしきりに聴こえる。ヴィッヴィッ・ポイポイポイ。ヴィッヴィッ・ポイポイポイ。
 三光鳥は落葉樹の緑に暗い林をこのみ、おまけに雨も大して嫌いな鳥ではないせいか、四十年にあまる私の永い記憶のなかでも、ちょうど今頃の六月の雨の日をいろいろな土地で鳴いていた。新婚当時の武蔵野の小屋のまわりでも、病後の療養に夏の幾月かを暮らした箱根や湯河原の宿の裏手でも、物を書きに行った塩原や法師の温泉でも、信州北佐久の御牧ケ原でも、東京都下砂川町の本家の屋敷林でも、私がつゆ時の緑の雨をそれはそれなりに美しいと思って受け入れるようになって以来、彼は同じような天気の下のいたるところで鳴いていた。歌っていた。
 けだしそれは立派な歌であって、深く厚い湿気を裂いて聴く者の心に輝きを与えるような大声の叫びであり、世界の憂鬱な濛気の底にもなお生きる甲斐や喜びのあることを啓発する呼び声である。
 今鳴いている鳥は、例年のようにこの夏の始めに私の林へ帰って来た。五月七日の日記の劈頭は彼のための数行で占められている。「朝、林にひびく三光鳥の声。それならば今年もまた来てくれたのだ。こんにち以後ずっと居着いて、晴れの日も雨の日も、私の家をめぐって毎日あの声を響かせるだろう。二、三日したら雌も到着するだろう。そして家庭をつくって三羽か四羽の可愛い雛を育てるだろう。一年の輪が事なくめぐり、待つ者に待たれた者の来るのはいい。三光鳥よ、お前の去年の樹があすこにある。そして私の善意と警告との窓がそれを見張っている以上、やわか空気銃などを撃たせはしない。」
 その樹というのは林の崖下に立っている一本の年経たオニグルミで、彼は毎年その太枝の先ヘコップのような形をした巣をぶら下げるのである。卵は夫婦でかわるがわる温めるが、尾の長い雄のほうがその役に当たっている時には、深い紺色をした頭と顔と、黒ずんだ褐色の尾羽とが前後に巣からはみ出し、周囲を美しい青で染められたその金色の円い眼がいかにも真摯で憂わしげなために、とうてい近づいて観察などする気にはなれない程である。

 

  花の写生

 六月初めの信州上高地、梓川中ノ瀬の樹下の小径へしゃがみこんで、若い悦子さんが山草の花の写生をしている。描いているのはツマトリソウ。草丈一〇センチ程で星形七弁の純白な花。桜草科の一種である。
 悦子さんも白皙明眸の麗人である。私たち夫婦が媒妁をして去年の春N君に嫁した。盛大な結婚式の日は二百三十数年前のバッハの『マタイ受難曲』の初演の日にあたり、お祝いとしてプロームジカの人達によるモーツァルトのフルートと弦楽の四重奏曲が奏でられた。音楽への愛は夫君と共にしているが、彼女は別に画も好きで、一週一回画塾へ通い、同じ閑暇でもレジャー(leisure)ならぬロアジール(loisir)には、写生やデッサンを怠らない。色に対する感性も豊かである。そしてこの上高地へは昨日着いて、今朝は未明から西穂高への往復をし、今日夕方には帰るというのに寸暇を惜しんで花と写生帖に向かっているのである。
 その帖面を見せて貰うともうたくさん描けている。珊瑚さんご色のイワカガミ、空色のエゾムラサキ、碧いテングクワガタ、更に白い花ではタガソデソウ、マイヅルソウ、ゴゼンタチバナ、コガネイチゴ。どれもこれも彼女にとっては初めての珍貴な花だが、画がうまいのでスケッチブックを見ただけで私にもすぐに名が言える。すると彼女はいちいち丁寧にそれを画のわきへ書きとめる。サッと塗った水彩の色がじつにきれいだ。
 こういうふうに旅先の寸暇をさいて写生した花の画が、どんなに楽しく美しい思い出になることだろう。採取禁止の掟をおかし、看視人の目をかすめてルックサックのポケットヘ押しこんだり手帳の間へ挾んだりした花とくらべて、なんといつまでもみずみずしく、時と処とについてのなんとかけがえのない記念になることだろう。また写せば写る写真とも違った言わば一つの芸術品だから、そこに自分の仕事への愛もある。
 私のいくつか持っている外国の植物図鑑の中に、イギリスの物で女の人が着色の画を描いたのがある。イギリスの山野の花五〇〇種を女性特有の愛と繊細さで描いたものだが、時どき出して眺めるとじつに楽しい。これに較べては、精巧を歌った原色写真の図版などまことに味きないものに思われる。わが悦子さんは僅か二日の上高地から美しい記念品を持って帰った。これを一つのきっかけに、今後はその住む戸塚・大船の丘陵から鎌倉へかけて、幾百種の花の写生に打ちこむだろう。

 

  霊 感

 孫たちの母親に手伝ってもらって、近く出る本の校正のために原稿と仮刷りとの読み合わせをしていると、私の一人娘であるその母親が、時どき何かに気を取られたような表情を見せる。私は自分に対してもそうだが、他人が或る事をしながら全然別種の事に気を散らしているのを見ると平気ではいられない。そこで仮刷りを音読するのをちょっと止めて私は言う、「おい、どうしたんだよ、ちゃんと原稿を見ていてくれなくっちゃ駄目じゃないか」。三十八歳になる娘はすなおに「へい」という返事をする。しかししばらくたつと、また何か霊感に打たれたような目つきをする。それを上眼づかいで認めた私は「こら」と言う、「ほかの事に気を取られずにしっかりと原稿を見て!」するとまた「へい」。
 しかし親と子との三度目の「こら」と「へい」の時、娘のほうがにやりと笑いながら落ちつき払って言う、「鳴いているのよ、さっきから」。「何が」。「ほおじろが鳴いているんですよ。下の林のてっぺんで」。まだ全然衰えない聴覚を持っている私は、「ふん」と言いながら改めて窓のそとへ耳をすます。なるほど鳴いている。そう言えぱ窓のむこうの風景の中、耳鳴りのように断えず唸っている東京郊外の騒音にあざなわれて、その小鳥の声も流れていたのだ。そして娘に言われて注意を向ければ、愛すべき歌は今や一切の音響の雲をぬきんでて、夏の午前の晴れやかな空間を刻んでいる。
 それならば要領よく気を散らすがいい。私にとってこれが大事な晩年の仕事でも、若いお前には時間を割いての手伝いにすぎない。その上お前は数日後には休暇中の子供を連れて北アルプスヘ出かけるのだ。ほおじろの歌の霊感が、そのお前の心中にどんなに広やかな連想を育んでいるかを想像できない私でもない。

 

  自 他

 このごろ自分の庭を見ていると、時どき焼けつくような焦燥を感じたり、重い憂鬱な気分に襲われたりする。庭じゅうに夏の雑草が育ちに育ち、茂りに茂って、植えこみの樹木や、生け垣や、栽培の草花を窒息させそうなところまで来ているからである。しかもその草を取っている暇は私に無いし、家の者にはそれぞれ別な役割りがあるし、小さい孫達にもこの広さ、この繁茂では手におえない。手が減って仕事ばかり増えたのか植木職は来ず、アルバイトの学生もこんな頼みには見向きもしない。長びいた梅雨つゆから急に照りつけ始めた七月下旬、私の庭は小鳥や昆虫の自然園から加速度で野草のジャングルと変わった。
 中でも厚かましくて手の着けようのないのはやぶからしへくそかづらこひるがおによって代表される多年生の蔓草である。彼らはいずれも栄養に肥大した根を地中に張りめぐらし、何にでもからみつく執拗で強靭な地上茎の針金を波のように立てたり倒したりして、その進路に当たる植物を抱きしめ、縛りつけ、包みこんでしまう。もうれんぎょうつつじあじさいも原形をとどめない。梅も桃も柿の木もなかば占拠されて、その梢頭には早くも緑の敵旗が軽やかにひるがえっている。くちなしやライラックにはへくそかづら、ペチュニアやジニヤの花壇にはこひるがお、すべての高い木や生け垣にはやぶからし。洋種のばらの侵されるのも今では時間の問題だろう。
 ところが自分の家の庭では憂鬱の原因であり、焦燥の対象であったこの兇猛な蔓草ども、この嫌悪に値いする雑草どもを、ひとたび外へ出て他人の家の垣根などに眺める時、何とそれが小気味のよい郊外の夏らしく、何と晴れやかな牧歌的なものに感じられることだろう。しかも私は根からの植物愛好家のように彼らの花を点検さえするのだ。外側が灰色で内側が紫の小さい壷形をしたへくそかづらの臭い花を。真夏真昼の太陽を喜んで薄桃色に開いたこひるがおの花を。緑のなかに祖黄色を点じたぶどうのようなやぶからしの花を。

 

  自 戒

 最近の或る日或るテレビ局から電話がかかってきて、先生は笛で鳥寄せをなさるということだが、その実況を録画録音したいから、係りの者の参上していい日時その他のご指令を仰ぎたいと言うのだった。私はびっくりして、鳥寄せなんてとんでもない、それは或る学者が私にそんな事もあったという事を雑誌か本の中に一度書いただけの話で、時は晩春、鳥はつぐみあかはらに限られ、その鳥たちが彼らの五月の渡去前の数日間私の家の林へ来てよく鳴くので、試みにブロックフレーテで同じ音程のトレモロを吹いてみたら、鳥は続々と集まってその数も三十何羽になり、その中の五、六羽の雄が一緒になって賑やかに鳴き出した。そういう事が四、五回あって、その内の一回には二人の友人も偶然立ち会ったにすぎない。実にただそれだけの事で、別に随時にどんな鳥でも集めたり集まったりするわけではないのだと言って断わった。
 古くは飼い馴らした小鳥に蝶の採集をさせて楽しんだ王様の話があり、近くはたくさんの雀をお供にして散歩したという人の話もある。また自分の書いた小説フィクションの主人公にさせた或る動作を、後になって真似をしてみた作家の告白もある。世の中はさまざまだが、もしも針のような事が棒ほどに伝えられたらば、いち早く訂正するのがすべての当事者の心がけであろう。それが人聞きのよい話ならばなおさらのこと。

 

  春を待ちつつ

 二月に入ってこれが二度目の雪の朝、まだ細かいのを少し降らせながらだんだん晴れてゆく庭の植込みの下へ、思いきや一羽のアオジの訪れがあった。咲いている白い梅も静か、ほんのり黄色いサソシュユの花も静か、空からの雪もまた静かな早春の庭の土に下り立って、ひっそりと何かをあさっているアオジという小さい鳥の存在が、私にはたいへんに珍しい、遠来の客のように思われた。
 おととしの五月一日の信州和田峠、去年の四月なかばの塩尻峠以来、じつに久しぶりに見るアオジであり、しかも今日はその見る場所が自分の家の庭なのである。二度とも春の山だったので、彼らはそれぞれ白樺や小梨の枝で歌っていた。ちょっと聴くと頬白ほおじろに似ていながら、もっと歯ぎれがよくて清澄な囀りは、春まだ幼い山の熊笹や枯草を鳴らすたまたまの風のほかには、人間の世界を思い出させる音というものの絶無な境地で、はしなくも沈黙のきわみが凝って歌となったような、純粋無垢なものであった。
 雲が薄れて弱い日が射し、まだ風花のような雪のちらついている庭で、アオジは連翹れんぎょうの藪の下から躑躅つつじの根もとへと移ってゆく。二、三日前に妻が雀や鶸ひわたちのために撤いておいた粒餌が、まだその辺に残っているものとみえる。鳥は茶色を帯びた青黒い羽根をピリピリと顫わせ、神経質な動作でたえず位置を変えながら餌をついばんでいたが、しばらくたってもう一度見た時にはすでにその姿は庭になかった。
 こうして歌はおろか、ひと声の地鳴きも聴かせずに飛び去ったが、その帰ってゆく春の山で、高原で、峠で、彼が青い暖かい沈黙の空間に、囀りの玉を懸けるだろうことを私は固く信じている。そしてこのような確信が、また別の自然へのさまざまな信頼と相まって、ようやく雪の降りやむ庭を前に、春を待つ心を養うのだと私は思った。

 

  荒野に呼ぶ声

 この一月二十五日の午後、私は信州松原湖の上手かみての雪の坂道に立っていた。小さい録音機と集音盤とを持った一人のプロデューサーと一緒に歩いて、きびしい冬と雪とに閉ざされた山の自然の中から、いくらかでも春を待っているような兆候を音としてとらえて、それをやがて私の朗読する紀行文の中に再生する、――つまりNHKが組んでいる『自然と共に』という番組の台本を作るための短い旅での事だった。私たちは昼前には三、四十センチの積雪を踏んで山道を歩く自分たちの足音をマイクロフォンで追ったり、金褐色にけむるカラマツの梢にとまって鳴いている痩せたツグミの声を集音盤で吸い取ったり、厚い雪に被われた氷の下をチロチロ流れる細谷川ほそたにがわのつめたい水音を掬すくったりした。さらに私としては笛も吹いたが、その「天使」のメロディーは緊張と寒気とのためにコチコチになった。
 さて午後の雪の坂道に私が一人で立っていたのは、録音機を持った連れが丘の上の種羊場へ羊の鳴き声か何かを採りに行って、一緒にいなかったためである。私はサブザックから蜜柑を取り出して食べ、ガスライターから長い炎を放って煙草を吸った。それにしてもすばらしい遠近の雪山だった。すぐ目の前には渦巻く乱雲をまとった八ケ岳の連峰がそそり立ち、遠く南には金峰山きんぷさんを盟主とする秩父の山波が浩々こうこうとひろがっていた。そしてその白と青との広がりの下には深い深い千曲川の渓谷……いずれも若かった日の曾遊の地で、今老いて雪の山坂から眺めやる私の心に、痛ましくも懐かしい感慨があった。
 と、突然、現実のどこかで「クェーン、クェーン」と響くキジの声が聴こえた。すわこそと私は耳を澄ました。耳はすぐさま記憶をたどって眼を指導した。それはすぐ真下の河原の藪地から起こったものらしかった。そこは雪の積もった枯野原で、ところどころに煙のような低い林が立っていた。声は正にそのあたりから起こったもので、短い反響を伴っていた。私は一心に望遠鏡の視線をさまよわせたがついにその鳥の姿を見出せず、またよしんばもうひと声鳴いたとしても、録音機が無くてはこの「荒野に呼ばわる声」を採る由もなかったわけである。そして結局、キジはその後二度と鳴かなかった。
 私が十七世紀のドイツの大作曲家ハインリッヒ・シュッツの六声のモテット、「われは主の道を直くせんとて荒野に呼ばわる声なり」を偶然にも手に入れたのは、実にそれから三日後のことであった。

 

 

目次へ 

 

 デュアメルのかたみ

 とうとうジョルジュ・デュアメルがなくなった。いつかは来るべきものと覚悟はしていたが、同じことならばなるべくおそく、もっと長引いてきてほしかった。四月十三日、ヴァルモンドアの別荘で享年八十二歳と、新聞の電報は伝えている。
 そのヴァルモンドアの庭園の、緑の木々に囲まれた家族といっしょの美しい写真に見入りながら、今これを書いている私の心は今日の行く春の空のように暗く重い。
 若くして科学者、医学者から文学者に転じたデュアメルには、七十種をこえる文学上の著書がある。そのうち五十種近くが今私の書だなの一角を占めているが、自分としてよくも読んだと思うよりも、彼自身よくもこんなに書いたものと感嘆せずにはいられない。
 ある著書の名として「仕事、おお私のただ一つの安息よ」と題したほど、筆を執ることに喜びを見いだしていた彼とはいえ、高齢の近年まで絶えず公私共に多忙な雑事に追われながら、遂にこれだけの仕事をやりおおせたこの人を考えれば、少なくとも私などはまことに恥じ入るばかりである。
 彼の義兄で日本へ来たことのある詩人シャルル・ヴィルドラックにすすめられて、初めてこの大家の作品に親しむようになってからちょうど四十年。その間には五巻から成る長編小説『サラヴァンの生活と冒険』。十巻の大作『パスキエ家年代記』。五巻の回想録『わが生涯を照らした光』をはじめとして、詩、戯曲、評論、随筆、世界各地の旅行記など、私はデュアメル文学のあらゆる分野に足を踏み入れ、心を打ちこんだ。
 そして五冊ほどはつたないながら翻訳をさえ試みてわが国に紹介した。思えば昨日までの現存作家との触れ合いとしては随分古いものだが、それだけ私として彼の影響を受けることの、はなはだ少なくなかった事実を率直に認めないわけにはいかない。
 デュアメルから受けた物はあまりに多く、しかもすべてが自分の生活や血肉の中に全くしぜんに溶けこんでしまっているので、改めて、そして急いで、今それらを摘出することはむずかしい。
 しかし何よりもすぐに考えられることは、人の捨てて顧みないもの、ありふれた小さなもの、卑しんで問題ともしないものの中から、その美、その真価、その本来の偉大さを発見して、これを筆や口を通じて顕揚することだった。そしてこれこそ彼の文学の徳でもあれば魅力でもあった。その証拠は彼のすべての本のすべてのページに歴然と輝き、明るく玉のように鳴っている。
 もう十四年昔になる一九五二年の来日の際、おりから新しく建った私の家をデュアメル夫妻が訪れたいという話が持ち上がった。外務省の田付たつ子さんの肝いりだった。十一月のある日、私たち一家は心ばかりの、しかしできるかぎりの歓迎の用意をととのえて、胸おどらせながら夫妻の来訪を待った。しかしあいにく同じ時刻に、これも来日中のどこかの外国の皇太子がぜひ彼に会いたいと言い出したことで、私たちの喜びの夢は無残にも破れ去った。その時断わりの電話をかけてきた田付さんの泣き出さんばかりの声が、今でも耳の底に残っている。しかしその田付さんも悲しいかなすでに故人となった。人間一度は呼び戻される否みがたい運命として。
 デュアメルは彼の『わが庭の寓話』の終りに書いた。「今度はだめだ。私のゆくてにはもう時が無い。私は種子を提供することしかできない。それを君たちの庭にまきたまえ。おお全世界に生きている私の友らよ! それを君たちの花壇に播きたまえ、かたみとして。それは君たちに花を贈るだろう。そして君たちは私を思い出してくれるだろう」と。
 デュアメルよ、私の愛し敬う友よ! 君からもらったその種子を私もまた確かに播いた、私の貧しい庭に、小さな花壇に。そしてその中の或る者は今日の行く春の暗く物悲しい空の下でも花を咲かせている。君のかたみとして、また君への美しい思い出のよすがとして。

                               (一九六六年四月)

 

目次へ

 

 デュアメル追悼

 遠くは『戦争の診断』や『サラヴァンの生活と冒険』、また近くは『慰めの音楽』などで日本人の間にも親しまれているジョルジュ・デュアメルが、八十二歳を最後として四月の十三日に亡くなってからもう早くも二週間になる。逝く春と言われているくらい花の世界にとっては慌あわただしい一時期である。書棚に飾った故人の写真の前にささげた庭の花もいくたびか挿しかえられて、今朝は早咲きのライラックとエニシダになった。次は何にしよう? 生垣のバラにしようか、それともきのうの夕方から開き始めたマツヨイグサにしようか。いずれにもせよ注意ぶかく、愛をもって、草木の花や葉や、庭や菜園や家の中の空気を嗅いだり吟味したりするのが好きなデュアメルだった。雨のあとの植込みの匂いや、湯上がりの子供たちの髪の毛や肌の匂いを、死んでの後まで思い出し懐かしむだろうと書いたことのあるデュアメル、不経済なことはわかっているが、家の中にそれを煮る時の匂いが立ちこめるのを喜ぶために、もっぱらそのことのためだけに、自宅でジャムを作るのだといって罐詰めを排斥したデュアメルだ。そのデュアメルの写真の前で、今涼しい陶器の壷に活けられた二枝のライラックが薫っている。彼の精妙な、敏感な鼻だったら、この濃い黄色いエニシダの蝶形花からさえ、私などにはわからないかすかな匂いを嗅ぎ取るかも知れない。
 彼の死の翌日の新聞の朝刊に訃報が出ると、間もなくその新聞社から哀悼の文章の依頼があった。急がれた原稿なので急いで書き上げた。それからパリの郊外ヴァルモンドアの別荘の庭で家族の者達といっしょに写した彼の美しい写真を飾り、とりあえず庭のエビネ蘭やレンゲソウも摘んで捧げ、クリスマスの時の燭台に白い蠟燭をともした。そして生前、特にその晩年に、彼の愛し敬うこと深かったヨーハン・セバスチャン・バッハの作品を二つレコードで聴いた。ニ短調のヴァイオリン二重協奏曲と、第七一番のカンタータ『神はわが王なり』と。なぜかといえばこの二重協奏曲の緩徐楽章は、デュアメルが、「二人の天使の対話のようだ」と言って好きなものだったし、カンタータの方には、「私は今や八十歳です。あなたのしもべは何故になおもこの上重荷を負わねばならないのでしょうか。私は私の町に死んで、両親の墓の中へ帰りたいのです」という、テノールのアリアとソプラノのコラールとがからみ合う、切実でかつまことに時宜を得た美しい一節があるからだった。
 こうして彼の死の知らせに接して、とりあえず私にできたこと、喜んでというよりも驚きと落胆とをもって私のしたことは、まず哀悼の短い文章を書き、彼の生前の写真の中からこの逝く春にふさわしいものを選び出して、それを彼のたくさんの著書の列の前に飾り、庭の新鮮な花を切ってそなえ、燭をともし、部屋の片隅の機械をとおしてバッハの音楽を一人で、あるいは今は亡い彼と共に静かに聴くことだった。そしてそれが私自身への慰めでもあった。

     *

 ジョルジュ・デュアメルは一八八四年六月三十日にパリで生まれた。八人の同胞の中の七番目だった。父親は医者だったが、常に丈夫で若々しくて疲れを知らず、多少は奇行の持主でもあり、パリとその近郊とで三十一度も転居しているが、「家具類はいつも遠くへついてきた。そしてその仕事で忙しいのは妻だった」と彼自身告白している。母親は静かな忍従の人で、この気まぐれな夫に仕えることと、八人の子供を養育することに献身した。この労苦の母のおもかげを、私たちはデュアメルの後年の長編小説、十巻からなる『パスキエ家年代記』の中に、とりわけその最初の数巻の中に見ることができる。この母親も高齢で亡くなったが、デュアメルが自分の子供たちの生活の世界を描いたみごとな本『楽しみと遊び』の中には、ところどころ、尊い祖母としての席を与えられている。
 後年医学博士や理学士になったデュアメルは、初等と中等の学校を出ると、初めは父親と同様医学に志して、化学、生理学、組織学を学んだ。家計はかなり苦しかったようだから、各種のいわゆるアルバイトをしながらの苦学だったに違いない。それでも十八歳の時フランス全土を歩いて廻り、続く幾年かの間にスイス、イタリア、オーストリア、ドイツと、これも自分の足を主にして旅行した。『慰めの音楽』の中に一九〇七年の初秋、ベルリンの歌劇場でワーグナーの『トリスタン』を初めて見て深く感動したという箇所があるが、それはおそらく同じ旅の時の話だろう。旅といえばデュアメルは旅行が好きで、その足跡は公私の場合をあわせてほとんど全世界に及んでいる。そして自分の眼で見、自分の心でうけとったその印象と感銘とは、精妙な洞察や証言となってそれぞれの旅行記に書かれている。日本へも一九五二年の秋の終りに来た。そしてその翌年には『伝統と未来の間の日本』という写真入りの美しい本を出している。こうして遠い国国への旅と、別荘を主とした和やかな家庭生活と執筆、それに聴くばかりではなく自分でも試みる音楽。永年苦労して築き上げた生活とはいえ、われわれなどには羨まれていい後半生といわなければなるまい。しかし私のペンはいささか先へ走りすぎた。もう少し後戻りをしよう。
 一九〇六年、二十二歳の時、デュアメルは同じ年輩の詩人シャルル・ヴィルドラック、ルネ・アルコス、画家アルベール・グレーズらと共に、マルヌ河畔のクレテイユという小さい美しい村で空家になっていた古い僧院を借りて、そこで意気揚がる若い芸術家たちの共同生活を始めた。個人の自由を尊重しながら、互いに助け合ってめいめいの仕事をし、田園での理想的な生活を営もうという、いわゆる「僧院派アペイスト」の運動である。ここへは詩人で「ユナエミスム」(全一生活主義)の提唱者であるジュール・ロマン、音楽家アルベール・ドワイヤン、画家ベルトル・マーンなども熱烈な共感者としてしばしば訪れて来た。そのほかに同情者やファンも多くて、僧院の庭が常に賑わっていただろうことは想像に難くない。そしてデュアメルはここで未来の良妻ブランシュと相知ったのだった。同志の彼らはそこに旧式な印刷機械を据えつけて印刷術を習ったが、一九〇七年、デュアメルは最初の詩集『伝統・戦闘』を自分の手で刷って自費で出版した。しかしそうした間にも彼は医学と科学の勉強に精励した。そして僧院での共同生活が瓦解離散した一九〇八年には理学士の称号を得、その翌年には医学博士の学位を与えられた。しかも引き続いて三冊の詩集、オデオン座での戯曲『光』と『彫像の影にあって』の上演、雑誌「メルキュール・ド・フランス」への毎号の寄稿と、『ポール・クローデル』や『詩人と詩学』の出版など。実にこの間の彼の勉励と精神力の強靭さと、おのれ自身に対する誠実さとは、現在の青年にとっても立派な手本になり得るものと私は信じている。
 一九一四年第一次世界大戦が勃発するや、当時三十歳だったデュアメルは自分から志願して戦線に身を投じた。軍用外科自動車隊の長としてだった。そして近々と砲声がとどろき爆弾の作裂する最前線で、まる四年間、幾千人という負傷兵や病兵を手術し、治療し、看護しながら、戦争の兇暴さとその餌食となり犠牲となる人間の悲惨さとを身と心とをもって経験した。その間の記録として残る一九一七年発行の『殉難者の生活』(木村太郎邦訳『戦争の診断』)は、今読んでも深く胸を打ってくる。その翌年に出たもう一つの記録『文明』はゴンクール賞を得たが、デュアメルにおいてのいわゆる証言の文学は、実にこの二冊から出発したといえるだろう。彼が自身で看護したある軍楽隊長からフルートを習うことをすすめられた時のほほえましい挿話は、『慰めの音楽』の中での興味あるページを成している。そして事実、フルートはそれ以来彼のもっとも親しい楽器となり、晩年までかなり長い間、彼はそれを吹いて楽しんだのである。
 その後のデュアメルはもっぱら文筆の生活に没頭して、文学上の著書だけでも、小説、評論、随筆、旅行記等、私の知るかぎり七十冊を越えている。中でも私自身が読んで感動し、時折は今でも出して読み返し、また人々にもぜひ読ませたいと思うのは、この世に立ちまじって生きるにはもっとも不都合な性格を与えられた人間の一典型を主人公とした『サラヴァンの生活と冒険』五巻と、パリ小市民階級の一家庭のそれぞれの人物の苦闘と成功の運命を描いた、言わば大河小説の『パスキエ家年代記』十巻とである。そしてこの年代記の中の主要な人物、若い科学者ローラン・パスキエこそ、ジョルジュ・デュアメルその人であると見て差支えないように私には思われる。また数多くの時事的な評論、生活や芸術の中での瞑想から生まれた随筆集、それに彼のいわゆる心情の支配による世界の所有の実践ともいえる地球上各地の旅行記は、そのいずれもが読む者の心をとらえ動かす力を備えた深く美しい作品である。更に五巻からなる回想録『わが生活を照らした光』が、目下の私をいちぱん引きつけている本であることも付け足して置きたい。
 それにしても私に与えられた紙数はもう尽きかけている。あと数行。これが終わったらくつろいだ気持で彼の声をレコードから聴こう。その中で彼は慰めとしての音楽についての小講演を、あの弱音器をつけた高音の弦楽器のような声でやっている。そしてその後半の部分では、デュアメル家の家庭楽団が演奏するメソデルスゾーンの「イタリア交響曲」が重なって響いてくるのである。

                             (一九六六年四月)

  

 

目次へ

 

 カロッサの教訓

 書斎の棚の一隅で、カロッサの本ばかりが並んでいるところから、あの大きくて柔らかで澄みわたった美しい目、あのしっかりと張ったあごに支えられた強い一文字の口の肖像が一日じゅうわたしを見ている。それをたえず意識しているというわけではもちろんないが、たまたまふと立ちどまって、小さい額縁におさまっているその写真にじっと見入ると、わたしはちょうどそのとき自分の心を占めている仕事のことや、広い世の中への不満な気持や、家庭内の気がかりな事などに対して、自分が永く敬い讃えてきたこの賢者から、改めてその力づけや警いましめや慰めの言葉を期待することが多い。わたしは一冊を抜き出してページを繰りながら、たしかこの辺だったと思うところを探して開く。するとこういうことが書いてある。

  君の日の業わざをなせ、
  おお、友よ、それが羽毛のように軽やかになる日まで。
  その業が他人の目にどう映るかを問うな。

 「日の業」。一日の仕事、あるいは毎日の創造の仕事でもいい、それに努めよというのである。しかも努力を重ねて、その仕事が軽いこと鳥の羽毛のように感じられる境地にまで達せよというのである。苦心ののみの削り痕も針の縫い目も残さずに、あたかもそれが初めからあった物のように自然に、単純に、かつそれなりに完璧な物として以後の存在をかち得うるようにせよというのである。そしてその仕事をつづけている途中で、やがてでき上がるその物が、果たして他人の目にどう映るか、他人からどんな批判を受けるかなどという事を気にするなというのである。ありていに言えば、このわたしにも、或る仕事に精を出しながら、こんな物を書いてそれが何になると思うことがしばしばある。またよしんばこれが書き上がったとしても、読む人達はどう思い、どう受けとるかという疑いがわく。そういうとき、「けっして他人のおもわくを顧慮せず、君の仕事が君の手の中で軽く感じられるようになる日まで努めるがいい」という先賢カロッサのこの言葉が、改めてわたしを鼓舞し力づけてくれるのである。
 「真に心の中にひとつの詩を作り上げようという衝動を感じる者は、ちょうどそのとき心にかかっている詩句をよりたいせつなものと考え、シェイクスピアやゲーテやアイヒェンドルフや、あるいはリルケのことを気にしてはならないのではあるまいか。或る天才のこの世での住まいを訪れたとき後に残るものは、自分の仕事をできるだけ正しくやろうという静かな決意であることが多い」
 これはカロッサがスイスの山村ラロンにリルケの墓をたずねた旅のおり、シエールに在る故人の旧居ミュゾットの館やかたに泊まってその書斎を見たときの感想だが、きわめてつつましやかな表現をとっているこの言葉が、わたしのような者の心にも同感を誘わずにはいない。たとえばもしもわたしがよい運命に恵めぐまれて、当のカロッサや、ヘッセや、ロマン・ロランの旧居なり墓なりを訪ねたとしたら、改めて心を襲ってくる故人への追慕や感謝の情は言うまでもないが、低徊数刻、結局は自分の仕事に対するこうした静かな決意に思いいたるにちがいない。ロランのようでありたいとか、カロッサやへッセのように書きたいとか願ったのは昔の事で、今はそのときどきに心を占めている自分の詩をいっそう重要なものと考え、これからのおのが仕事を可能なかぎり正しくやり遂げようと自分で自分に言いきかせるのである。やがて二十年このかた、わたしにとってカロッサの詩は、或る人びとにとってゲーテの詩がそうであったように、文学をとおしての生の美しい箴言しんげんのようになっている。そしてあまり始終この詩人に聴いているので、自分の歌の中にかれの動機や主題がうっかりまぎれこむときがある。しかしそういうときに思い出すのは今引用したカロッサ自身の言葉であり、また「各自の個性を曲げることなく、世界の交響曲に加わろうではないか」という、昔ロマン・ロランからもらった手紙の中の一節である。
 わたしのカロッサの本にはいたるところ鉛筆で赤い傍線が引いてある。たいせつな書物だと思えばけがすような気もするが、読みながら深くうなずいたり心を打たれたりするとき、そのまま読み過ごしてしまうにはしのびないで、記憶のため、再び読み返すときのよすがのため、いつのころからか始めた仕方である。ちょうど地図を手に一日の山歩きをしながら、平和な美しい山村やすぐれた眺めに出会ったとき、地図の上のその地点に赤鉛筆で印をつけるようなものである。たとえば「モーツァルトはこの地上の権力者がかれに加えた侮辱に対してどんな武器を持っていたか。かれがますます美しい音楽を作ったという事だけだ」とか、あるいは、「酔わざる者の中にありて酔い、怒れる者の中にありて柔和なれ! 万人の打つ者、それを汝打たざれば、汝の手は未来の行動の自由を得ん」などというのがそれである。わたしは仕事への手や心が休んでいるとき、こういう傍線引きの箇所をノートに写し取る。そしてそれがわたしの魂の糧となり富となるのである。

                          (一九六五年十二月)

 

目次へ

 

 若き日の友の姿

                    雲ひとつおちかたに
                    浮かべる見ゆ

                         セザール・フランク=尾崎喜八

 『高橋元吉詩集』のパンフレットに載っているこの写真、この静かに悲しく美しい一葉の写真は、そもそも誰の手によって写されたものだろうか。白々と波の泡だつ鎌倉の海を背景に、私の芸術的幼虫時代の最初の友が、今は蓬々たる白髪と、人生や病苦への疲れの見える彫りの深い老顔を浜風に吹かせ、ひっそりと和服の腕を組んでたたずんでいる。私はその写真をていねいに切り抜いて、人がブリュッセルの土産だと言って持って来てくれた小さい精巧なベルギー製の額縁へ入れる。実にマーテルリンクやヴェルハーランの国の牧歌的なバロック美と典雅とをもって飾るのでなければ、この写真から湧き起こる大いなるはかなさと空しさとの感じが、私には堪えがたく思われるからである。「マーテルリンクの国」と私は言った。それはいわれのない事ではないのである。私には高橋元吉と一緒に、むしろ高橋元吉に熱心に奨められて、『貧者の宝』や『知恵と運命』のような本を、マットスやストロの英訳から読みふけった昔があった。この年齢になれば私にも多くのいろいろな昔がある。それは大正元年(一九一二年)から二、三年続いた頃のこと、二人ともまだ部屋住みの一時期だった。当時雑誌『白樺』では、若い武者小路実篤が劇作家マーテルリンクに打ちこみ、柳宗悦が神秘主義的自然哲学者としてのマーテルリンクに没頭していた。そして高橋元吉はわけても柳宗悦に私淑していたので、その影響からこのベルギーの詩人の哲学的著作に心酔し、私をもその渦中に引きこんだ。おそらく互いに高の知れた語学力だったに違いないが、それでも若さと熱意とは恐ろしく、一と夏をかけて高橋が『知恵と運命』の全巻を、私が『蜜蜂の生活』や『花の叡智』や『裏庭』の大半を読破した。しかも彼は郷里前橋市の実家煥乎堂の店で本屋の店員として働き、私は東京神田の或る会社に帳簿係として勤めていた時のことで、彼が数え年で二十一歳、私が二十二歳、その間頻繁にやりとりする手紙のほかには、一年に二度か三度しか会えないような境遇だった。やがて三十数年後の昭和二十一年、あの終戦の廃墟の中から、マーテルリンクの『悦ばしき時』を私が翻訳出版したのは、思えばその遠い友情の歌の遅すぎたこだまだったと言えるだろう。
 けっきょく生涯に二十回とはなかった逢う瀬だったが、若い日の高橋元吉の風貌は、特にその顔と眼とは、今もなお私の記憶に濃く鮮かに焼きついている。彼はいずれかと言えば長身で痩躯だった。いつも朴訥な五分刈りの頭、洋服姿は見たことがなく、会うたびごとに和服で、それも二子ふたこか銘仙の縞物だった。きちんと角帯をしめている時もあれば、だらんと兵児帯を結んでいる時もあったが、そのいずれの場合にも端然とかしこまって両手を組んでいるか、その手を帯の左右へ深く挿しこんでいるのが、言わば彼にあっての気質的姿勢だった。そして会話に或る勢いがついてくると、かなりの引き吃どもの発作を彼は見せた。そしてこの発作が同郷の先輩萩原朔太郎のそれを思わせるのも、ただ偶然の一致だけとは言い切れない気がする。
 ああ、しかし、あの眼の美しさを何と言おう! それは常に悠久なもの、遠いもの、遥かに輝く孤絶の姿への郷愁に悲しく澄んでいる眼だった。それは故郷の秋の赤城山の消えなんとして続く長い裾野の嶺線を追ってゆく眼であり、またその奥に、満月に照らし出されているだろう雪の武尊ほたかか燧岳ひうちだけを思って柔らかに閉じる眼であった。そしてそれは後年私が一人の登山家のものとして書いた、「雪しろの水をたたえた山湖のように深い静かな懊悩をうかべ、心に雲のような物の去来を秘めた」眼でもあった。
 青年としての高橋元吉は、すでにして二つの人間的原型のようなものを私に感じさせていた。一つは若い禅僧のそれ、もう一つは若いクリスト者のそれだった。萩原朔太郎にも見られる上州人的侠気や、権威と因襲への反抗や、悲涼なものへの愛や、国士風な気節と、安中あんなか教会を想わせ、新島襄や内村鑑三を想わせるプロテスタント的、ルーテル教徒的な信仰者の空気とである。この双方が前橋市屈指の大書籍店の次男として、また弟として、彼に与えられた仕事の上にどれだけの寄与をしたかはほとんど不明だが、この二つの予感されたものが、やがて彼をして『遠望』を処女作とする四つの詩集を書かしめた事にはおそらく全く疑いがない。芭蕉の「若葉して御めの雫ぬぐはばや」の句に長い感想風な註釈を書いて送ってよこしたのも二十一か二ぐらいの時の彼だったし、私の知らない禅僧の「心万境に随って転ず、転ずる処実に能く幽なり」という五言を汽車中のノートに実に見事な字で書いてくれたのも同じ頃の彼である。と同時に、他方ではまず讃美歌のロマンティシズムをもって聖書やクリスト教への私の目を開かせようとして、生まれて初めて聴く「わが喜び、わが望み」や「実れる田の面は見渡すかぎり」の歌を、露の夜明けの花のような菊枝さんと一緒にあの神明町の家の二階で教えてくれたのも、新婚後いくばくもない頃の彼だった。
 白波さわぐ鎌倉海岸での老境の彼の写真はベルギーの額縁に托すが、同じ老境のよく廻らぬペンをもって私が描いたこの青春の日の貴く懐かしい友の姿を、ああ、そもそもどんな小筥に秘めたらばいいだろうか。

                             (一九六五年三月)

 

目次へ

 

 交友抄

 交友について書けと言われれば、今の私としては、さしずめ串田孫一さんに登場を願うのがいちばん自然のように思われる。串田さんの事ならば書きよくもあるし、書いて張り合いもあるし、そこからいくらかの心の実りが得られるような気がするからである。
 そんな事を考えながら、昨夜私は書斎の電蓄で、バッハのフルートとハープシコードのための奏鳴曲ロ短調を聴いていた。そしてその第一楽章のアレグロから第二楽章のレント・エ・ドルチェを聴いているうちに、わが友串田孫一というこの世での愛する道連れが、その人柄といい、生き方といい、また他人への接し方や話しぶりといい、何とこのフルートという楽器の音色を想わせることかという考えに落ちこまずにはいられなかった。
 フルートはその広い音域のなかで常に円く、柔らかく、懐かしく、速い曲であれ遅い曲であれ、軽快なものであれ瞑想的なものであれ、いつも空間に晴れやかな軌跡を残しながら行き帰る。この十数年来の串田さんがあたかもそれで、彼のかかわる人生のあらゆる図形がこの軌跡によって満足させられている。しかし円転とか滑脱とかいうような手垢てあかに染まった形容は彼の場合当てはまらない。なぜならばこの人間フルートもまた特異の材質から成り、見た目にはただ美しくても実は複雑な機構を持ち、甘く見てかかったり、無礼な扱いをしたり、この世的な浅はかな権力をもって臨んだりすると、あるいはおもむろに、あるいは忽ち、思いもかけない不調和音に、予期しなかった内部からの手強い抵抗に出会うのである。串田さんはどこかで彼自身のことを、「意地っぱり」とか「つむじ曲がり」とか称していた。しかし私はそれらの言葉を、彼の場合、否定を含んだ微笑無しには受けとらない。そういう通俗な既成語がうまく当てはまる人を私も少なからず知ってはいるが、串田さんは遥かに理性的・知性的・諷刺的で、そんな簡単な秤はかりに乗るような人ではなく、思いつくままに名を挙げれば古くはモンテーニュ、新しくはジョルジュ・デュアメルの系列に属する人のように思われる。
 私が暗示したり勧めたりする事を大抵の場合串田さんは喜んで採用してくれるが、どうしても初一念やその時の心に染まない事は、結局物柔らかに返上してくる。松本から上高地まで久しぶりにご一緒に車で行きましょうという私達夫婦の切々たる勧めを、やっぱり一人で徳本とくごうを越えることにしますと言って、たった一人の夜道での結飯むすびを作らせると、夕暮れの松本の繁華街を人の世にまぎれこんだどこかの天の使いのように、島島行きの電車の乗り場へと急いで行った串田さんである。
 その時の彼の後ろ姿。宵こそいよいよ頻繁な自動車や自転車の往き来を縫ってゆく串田さん、大学教授で、哲学者で、自然詩人であるわが串田孫一さんの、重いルックサックと登山靴の姿。わけても斜め前さがりにかぶった古いベレー帽の下からのぞいている幼いような後頭部と首すじ。私はこれを書いている今でもあの寂しい美しさを、昨夜のフルートの音のように懐かしく思い出している。

                           (一九六五年七月)

 

目次へ 

         
    尾崎喜八・文集トップに戻る / 「詩人 尾崎喜八」トップページに戻る