春を呼ぶ
二月初旬、毎朝の最低気温が折れ線グラフの上でジグザグをえがきながら、それでも少しずつ、ほんの少しずつだが昇ってゆく。この冬の異常乾燥でガサガサに乾いて、火を近づけたらすぐに燃えつきそうな白茶けた庭にも、天気さえよければもうどことなく春めいた気配が感じられる。そしてその庭へ相変わらず五、六種の小鳥がくる。
ある日妻は、この冬じゅう落葉の庭の片隅へ置き放しにしてあった二つの薄い水盤をゴシゴシ洗って、一方に食パンのセン切りを盛り、他方にポンプからの水を満たすことを始めた。集まってくる小鳥たちのために、これから毎日続けられる彼女の日課、「かれは羊飼いのごとくその群を養い、また子羊らを腕もて集め」という、あの『救世主メサイヤ』の中の美しい詠唱を思わせる日課である。
「さあ、今日から毎日上げるからみんないらっしゃい」と言って立ち去る彼女のあとへ、さっきから近くの木の上で見ていたらしいスズメの群れがサッと飛びおりる。そしてめいめい白い柔らかいパンをくわえると、仲間から少し離れたところへ行って食ってはまた戻ってくるのだが、彼らのくちばしに挾まれてちらちら光るそのパン切れが、まるで星か、梅の花びらか、幼稚園児の上着の胸のハンカチのように見える。
環境論と履歴説
同じ庭に植わっているのに、南北の方向へ互いに五十メートルとは隔たっていないのに、そして立春の日から三日目、北の方のクチナシの木の下のフクジュソウはもう金色にかがやく杯がたの花を三輪も開いたのに、レンギョウの藪の前、枯れ葉の床に暖かく埋まったフクジュソウの群落からは、まだ杳ようとして何ら花の消息がない。
「私ですよ。それは私のためですよ」と南隣りの地所に立っている一本の大木の高野槇こうやまきが誇らしげに言う。「冬じゅう南からの太陽を浴びて、私の影が暗く長く落ちるので、それでレンギョウの下の方のは花が遅れるのです。冬じゅうの私の偉大な影でね。ところがもうちょっとのところで、クチナシの下の方のやつには届かないのです。残念なことに。」
私がなるほどそうかと思って、自分の意見のような顔をして妻に話すと、「違やしません?」と彼女は小首をかしげた。「両方ともここへ来て十年もたっていますが、きのう咲き出したのはお正月に咲いていた盆栽物をそのまま植えたフクジュソウ、もう一方のまだ頭さえ出さないのは、ある年の三月にあなたが諏訪湖のうしろの後山うしろやまから、ちょうど田圃のふちに花盛りのを貰っていらしって植えたもの。ですからめいめいの生まれの土地とその咲く時季とが違うんですよ。いわば血統ですよ。あのマキの樹のせいじゃないでしょう。」
なるほどそう言われれば妻の説が当たっているようだ。それにしてもためらいがちな春を待ちながら、彼らの開花の遅速のおかげで、庭の片隅のフクジュソウをゆっくり楽しめるのを私は喜んだ。
ネコヤナギ
自分もそのレコードを持っていて、またこの正月にはお年玉として串田さんからその総譜をいただいた。バッハのカンタータ、第八五番の『われは善き羊飼いなり』のアリアの旋律が、このところ頭にこびりついて離れない。時あって自分自身を老いたる羊飼いになぞらえ、家族の者たちを愛する羊群のように思うことがあるせいかも知れないが、本来のバスからテノールヘ移調したそのアリアが、外を歩いていても家にいても、気がつけば必ずと言っていいくらい頭の奥で鳴り、唇にのぼっている。
「われは善き羊飼い、おのが命いのちをその群に与うる善き羊飼いなり」ただそれだけの詩句で終始している詠唱にすぎないが、その「善き羊飼いアイン・グーテル・ヒルト」の「善きグーテル」のところに現われる悲しい慈愛の顫音トリルが、歌う者をも聴く者をも、ひとしく感動へとさそうのである。柔らかな春風のように一脈の哀愁をたたえた、オーボエと弦楽器の助奏も胸を打って美しい。
こういう或る日のこと、K音楽大学の中学部へ通っている孫娘が、おじいちゃんにと言って一枝のネコヤナギを持ってきてくれた。学校の帰り道、秩父や丹沢の山々を見わたす田舎に、「こんなにポッと赤みがさして、銀色にまるまるとふとった蕾。この木がたくさん植わってるのよ」ということだった。
ピアノを弾く牝羊のような孫の折ってきてくれた三月初めのネコヤナギ、これもまた仔羊のような蕾のいっぱい付いているネコヤナギを、私は三本か四本に切って挿し木にして、永く彼女のこころざしを生かそうと思った。
タンポポ
四月下旬、私の家をめぐる宅地は、タンポポの花の黄の輝きでいっぱいだ。門から入った片側の空地も、花壇のある前庭も、木の多い奥庭も、晴れた空をしずかに太陽が渡っている間じゅう、力づよく生長して咲きつづくこの花の黄いろい反射でまぶしいようだ。
手を加えなくともみずから装う雑草だから大して自慢にもならないが、まわりにはびこる。ペンペングサやハコベの類を気のついた時には取ってやり、年に一、二回は薄い肥料を施しているので、それに報いるつもりか根はゴボウのように長く太くなり、株もずっしりと大きくなって、毎春三十輪から五十輪の花を咲かせる。これが狭い庭じゅうに何十株もたむろしているのだから、「点々と星のように輝いている」などというなま優しい光景ではなく、何か動物めいて逞しく、厚い盛り花のように盛り上がって、むしろその花へ来て花粉や蜜をあさっているアシブトハナアブやモンシロチョウの方が小さくて軽やかで、気のきいたアクセサリーだ。こんなだから今に五月が来て、南の風に彼らの冠毛の飛び立つ時は壮観でもあるが、また変に心の落ちつかない時でもある。
このタンポポのことをドイツ語では Löwensahn レーベンツァーン, フランス語では Dent-de-lion ダン・ド・リオンと言うが、大学でドイツ文学を講義している友人が、ある時教室で学生の一人にこのレーヴェンツァーンを訳させたら、春の牧場に点々と獅子の歯が落ちているということになったそうだ。獅子の歯という原語はおそらくあの葉の大きいギザギザから来たものだろうが、これを逆にドイツの学生に、日本で Ehrenpreis エーレンプライスをイヌノフグリと言うと教えてその由来を話したら、さぞかし唖然とするか噴き出しかすることだろう。
ヒキガエルの春
ついこのごろラジオの取材で信州の塩尻峠へ出かけて、一二○○メートル程の高さの尾根を一人で歩いている時、近くの枯れ草の中から「グウ・グウ・グワイーグワイ」という一種甘ったるい呻うめき声が聴こえた。近づいて捜してみると、茶褐色と黄いろの色鮮かなさほど醜くもないヒキガエルで、小さな雄が大きな雌の背へ乗って、その頭をしっかりと抱きしめていた。これは雌の産卵所である池か沼への蜜月の旅行を意味するのだから、どこか近くにそういう物があるだろうと思って物色すると、果たして二〇メートルぐらい下の窪地に一つの小さい池が見えた。フランスの生物学者でカエルの大家のジャン・ロスタンに従うと、ヒキガエルはこの旅行のために一キロや二キロは平気で往復するということだから、二〇メートルでは物足りないくらいなものだろう。あたりではなお二組か三組があだめいた声で鳴いていた。
そして帰宅後十日目の今朝、庭の隅のちょうど花盛りのエビネ蘭の植込みの陰から、柔らかい土をもち上げてのっそりと出て来た自分の家のヒキガエルに私は出会った。彼も今日か明日あすあたり、庭を出て急な崖林がけばやしを這いくだり、これも二〇メートル下の用水にかかった橋を渡り、自動車の走る堅いアスファルトの往来を横ぎって、わずかに形骸をとどめている昔の古池へ急ぐのだろう。どうか途中で好ましい雌に遭遇するように。そして自動車などに轢かれて平たいガマグチのようにならず、楽しみが済んだら無事に帰って来て、夏の夕方にはまた庭のほのぐらい片隅で、群がるヤブカを高い舌打ちの音と共に呑んでくれるように!
車窓の妙音
この初夏になって今日初めてあれを聴いた。私は本当にあれが好きだ。進行中ガラス戸を上げた電車の窓から起こるあの妙音、ヒヨコのように「ピョ、ピョ、ピョ」と鳴くあの音を。
電車は鋼鉄車かステンレス車で、窓も広く大きく、窓枠も新式なのがいいようだ。音の出る原理は尺八やフルートや虎落笛もがりぶえと同じだから、肝腎なのは歌口うたぐちと管である。電車ではそれが窓枠の左右についているブラインド固定用の穴と、その穴のあけてある金属製の中空の柱とがこれに当たるだろう。気流である風が歌口であるこの穴へ、電車の進行方向から斜めに強く吹きこんでくる。そうすると穴の切り口が歌口の刃はの役目をしてそこにカルマン渦が出来、そのために窓枠の中の空気の柱が共鳴を起こす。そしてこの場合ではヒヨコの声そっくりな声が生まれるという事になるのだろう。だが我が同胞は由来寒がりなのか不精ぶしょうなのか、なかなか電車の窓をあけようとしない。
電車カーヴ夏の虎落もがりの笛起こる
三光鳥
つゆの雨に重たく濡れてゆっさりと垂れた林の木々のあいだから、今朝も三光鳥の声がしきりに聴こえる。ヴィッヴィッ・ポイポイポイ。ヴィッヴィッ・ポイポイポイ。
三光鳥は落葉樹の緑に暗い林をこのみ、おまけに雨も大して嫌いな鳥ではないせいか、四十年にあまる私の永い記憶のなかでも、ちょうど今頃の六月の雨の日をいろいろな土地で鳴いていた。新婚当時の武蔵野の小屋のまわりでも、病後の療養に夏の幾月かを暮らした箱根や湯河原の宿の裏手でも、物を書きに行った塩原や法師の温泉でも、信州北佐久の御牧ケ原でも、東京都下砂川町の本家の屋敷林でも、私がつゆ時の緑の雨をそれはそれなりに美しいと思って受け入れるようになって以来、彼は同じような天気の下のいたるところで鳴いていた。歌っていた。
けだしそれは立派な歌であって、深く厚い湿気を裂いて聴く者の心に輝きを与えるような大声の叫びであり、世界の憂鬱な濛気の底にもなお生きる甲斐や喜びのあることを啓発する呼び声である。
今鳴いている鳥は、例年のようにこの夏の始めに私の林へ帰って来た。五月七日の日記の劈頭は彼のための数行で占められている。「朝、林にひびく三光鳥の声。それならば今年もまた来てくれたのだ。こんにち以後ずっと居着いて、晴れの日も雨の日も、私の家をめぐって毎日あの声を響かせるだろう。二、三日したら雌も到着するだろう。そして家庭をつくって三羽か四羽の可愛い雛を育てるだろう。一年の輪が事なくめぐり、待つ者に待たれた者の来るのはいい。三光鳥よ、お前の去年の樹があすこにある。そして私の善意と警告との窓がそれを見張っている以上、やわか空気銃などを撃たせはしない。」
その樹というのは林の崖下に立っている一本の年経たオニグルミで、彼は毎年その太枝の先ヘコップのような形をした巣をぶら下げるのである。卵は夫婦でかわるがわる温めるが、尾の長い雄のほうがその役に当たっている時には、深い紺色をした頭と顔と、黒ずんだ褐色の尾羽とが前後に巣からはみ出し、周囲を美しい青で染められたその金色の円い眼がいかにも真摯で憂わしげなために、とうてい近づいて観察などする気にはなれない程である。
花の写生
六月初めの信州上高地、梓川中ノ瀬の樹下の小径へしゃがみこんで、若い悦子さんが山草の花の写生をしている。描いているのはツマトリソウ。草丈一〇センチ程で星形七弁の純白な花。桜草科の一種である。
悦子さんも白皙明眸の麗人である。私たち夫婦が媒妁をして去年の春N君に嫁した。盛大な結婚式の日は二百三十数年前のバッハの『マタイ受難曲』の初演の日にあたり、お祝いとしてプロームジカの人達によるモーツァルトのフルートと弦楽の四重奏曲が奏でられた。音楽への愛は夫君と共にしているが、彼女は別に画も好きで、一週一回画塾へ通い、同じ閑暇でもレジャー(leisure)ならぬロアジール(loisir)には、写生やデッサンを怠らない。色に対する感性も豊かである。そしてこの上高地へは昨日着いて、今朝は未明から西穂高への往復をし、今日夕方には帰るというのに寸暇を惜しんで花と写生帖に向かっているのである。
その帖面を見せて貰うともうたくさん描けている。珊瑚さんご色のイワカガミ、空色のエゾムラサキ、碧いテングクワガタ、更に白い花ではタガソデソウ、マイヅルソウ、ゴゼンタチバナ、コガネイチゴ。どれもこれも彼女にとっては初めての珍貴な花だが、画がうまいのでスケッチブックを見ただけで私にもすぐに名が言える。すると彼女はいちいち丁寧にそれを画のわきへ書きとめる。サッと塗った水彩の色がじつにきれいだ。
こういうふうに旅先の寸暇をさいて写生した花の画が、どんなに楽しく美しい思い出になることだろう。採取禁止の掟をおかし、看視人の目をかすめてルックサックのポケットヘ押しこんだり手帳の間へ挾んだりした花とくらべて、なんといつまでもみずみずしく、時と処とについてのなんとかけがえのない記念になることだろう。また写せば写る写真とも違った言わば一つの芸術品だから、そこに自分の仕事への愛もある。
私のいくつか持っている外国の植物図鑑の中に、イギリスの物で女の人が着色の画を描いたのがある。イギリスの山野の花五〇〇種を女性特有の愛と繊細さで描いたものだが、時どき出して眺めるとじつに楽しい。これに較べては、精巧を歌った原色写真の図版などまことに味きないものに思われる。わが悦子さんは僅か二日の上高地から美しい記念品を持って帰った。これを一つのきっかけに、今後はその住む戸塚・大船の丘陵から鎌倉へかけて、幾百種の花の写生に打ちこむだろう。
霊 感
孫たちの母親に手伝ってもらって、近く出る本の校正のために原稿と仮刷りとの読み合わせをしていると、私の一人娘であるその母親が、時どき何かに気を取られたような表情を見せる。私は自分に対してもそうだが、他人が或る事をしながら全然別種の事に気を散らしているのを見ると平気ではいられない。そこで仮刷りを音読するのをちょっと止めて私は言う、「おい、どうしたんだよ、ちゃんと原稿を見ていてくれなくっちゃ駄目じゃないか」。三十八歳になる娘はすなおに「へい」という返事をする。しかししばらくたつと、また何か霊感に打たれたような目つきをする。それを上眼づかいで認めた私は「こら」と言う、「ほかの事に気を取られずにしっかりと原稿を見て!」するとまた「へい」。
しかし親と子との三度目の「こら」と「へい」の時、娘のほうがにやりと笑いながら落ちつき払って言う、「鳴いているのよ、さっきから」。「何が」。「ほおじろが鳴いているんですよ。下の林のてっぺんで」。まだ全然衰えない聴覚を持っている私は、「ふん」と言いながら改めて窓のそとへ耳をすます。なるほど鳴いている。そう言えぱ窓のむこうの風景の中、耳鳴りのように断えず唸っている東京郊外の騒音にあざなわれて、その小鳥の声も流れていたのだ。そして娘に言われて注意を向ければ、愛すべき歌は今や一切の音響の雲をぬきんでて、夏の午前の晴れやかな空間を刻んでいる。
それならば要領よく気を散らすがいい。私にとってこれが大事な晩年の仕事でも、若いお前には時間を割いての手伝いにすぎない。その上お前は数日後には休暇中の子供を連れて北アルプスヘ出かけるのだ。ほおじろの歌の霊感が、そのお前の心中にどんなに広やかな連想を育んでいるかを想像できない私でもない。
自 他
このごろ自分の庭を見ていると、時どき焼けつくような焦燥を感じたり、重い憂鬱な気分に襲われたりする。庭じゅうに夏の雑草が育ちに育ち、茂りに茂って、植えこみの樹木や、生け垣や、栽培の草花を窒息させそうなところまで来ているからである。しかもその草を取っている暇は私に無いし、家の者にはそれぞれ別な役割りがあるし、小さい孫達にもこの広さ、この繁茂では手におえない。手が減って仕事ばかり増えたのか植木職は来ず、アルバイトの学生もこんな頼みには見向きもしない。長びいた梅雨つゆから急に照りつけ始めた七月下旬、私の庭は小鳥や昆虫の自然園から加速度で野草のジャングルと変わった。
中でも厚かましくて手の着けようのないのはやぶからし、へくそかづら、こひるがおによって代表される多年生の蔓草である。彼らはいずれも栄養に肥大した根を地中に張りめぐらし、何にでもからみつく執拗で強靭な地上茎の針金を波のように立てたり倒したりして、その進路に当たる植物を抱きしめ、縛りつけ、包みこんでしまう。もうれんぎょうもつつじもあじさいも原形をとどめない。梅も桃も柿の木もなかば占拠されて、その梢頭には早くも緑の敵旗が軽やかにひるがえっている。くちなしやライラックにはへくそかづら、ペチュニアやジニヤの花壇にはこひるがお、すべての高い木や生け垣にはやぶからし。洋種のばらの侵されるのも今では時間の問題だろう。
ところが自分の家の庭では憂鬱の原因であり、焦燥の対象であったこの兇猛な蔓草ども、この嫌悪に値いする雑草どもを、ひとたび外へ出て他人の家の垣根などに眺める時、何とそれが小気味のよい郊外の夏らしく、何と晴れやかな牧歌的なものに感じられることだろう。しかも私は根からの植物愛好家のように彼らの花を点検さえするのだ。外側が灰色で内側が紫の小さい壷形をしたへくそかづらの臭い花を。真夏真昼の太陽を喜んで薄桃色に開いたこひるがおの花を。緑のなかに祖黄色を点じたぶどうのようなやぶからしの花を。
自 戒
最近の或る日或るテレビ局から電話がかかってきて、先生は笛で鳥寄せをなさるということだが、その実況を録画録音したいから、係りの者の参上していい日時その他のご指令を仰ぎたいと言うのだった。私はびっくりして、鳥寄せなんてとんでもない、それは或る学者が私にそんな事もあったという事を雑誌か本の中に一度書いただけの話で、時は晩春、鳥はつぐみとあかはらに限られ、その鳥たちが彼らの五月の渡去前の数日間私の家の林へ来てよく鳴くので、試みにブロックフレーテで同じ音程のトレモロを吹いてみたら、鳥は続々と集まってその数も三十何羽になり、その中の五、六羽の雄が一緒になって賑やかに鳴き出した。そういう事が四、五回あって、その内の一回には二人の友人も偶然立ち会ったにすぎない。実にただそれだけの事で、別に随時にどんな鳥でも集めたり集まったりするわけではないのだと言って断わった。
古くは飼い馴らした小鳥に蝶の採集をさせて楽しんだ王様の話があり、近くはたくさんの雀をお供にして散歩したという人の話もある。また自分の書いた小説フィクションの主人公にさせた或る動作を、後になって真似をしてみた作家の告白もある。世の中はさまざまだが、もしも針のような事が棒ほどに伝えられたらば、いち早く訂正するのがすべての当事者の心がけであろう。それが人聞きのよい話ならばなおさらのこと。
春を待ちつつ
二月に入ってこれが二度目の雪の朝、まだ細かいのを少し降らせながらだんだん晴れてゆく庭の植込みの下へ、思いきや一羽のアオジの訪れがあった。咲いている白い梅も静か、ほんのり黄色いサソシュユの花も静か、空からの雪もまた静かな早春の庭の土に下り立って、ひっそりと何かをあさっているアオジという小さい鳥の存在が、私にはたいへんに珍しい、遠来の客のように思われた。
おととしの五月一日の信州和田峠、去年の四月なかばの塩尻峠以来、じつに久しぶりに見るアオジであり、しかも今日はその見る場所が自分の家の庭なのである。二度とも春の山だったので、彼らはそれぞれ白樺や小梨の枝で歌っていた。ちょっと聴くと頬白ほおじろに似ていながら、もっと歯ぎれがよくて清澄な囀りは、春まだ幼い山の熊笹や枯草を鳴らすたまたまの風のほかには、人間の世界を思い出させる音というものの絶無な境地で、はしなくも沈黙のきわみが凝って歌となったような、純粋無垢なものであった。
雲が薄れて弱い日が射し、まだ風花のような雪のちらついている庭で、アオジは連翹れんぎょうの藪の下から躑躅つつじの根もとへと移ってゆく。二、三日前に妻が雀や鶸ひわたちのために撤いておいた粒餌が、まだその辺に残っているものとみえる。鳥は茶色を帯びた青黒い羽根をピリピリと顫わせ、神経質な動作でたえず位置を変えながら餌をついばんでいたが、しばらくたってもう一度見た時にはすでにその姿は庭になかった。
こうして歌はおろか、ひと声の地鳴きも聴かせずに飛び去ったが、その帰ってゆく春の山で、高原で、峠で、彼が青い暖かい沈黙の空間に、囀りの玉を懸けるだろうことを私は固く信じている。そしてこのような確信が、また別の自然へのさまざまな信頼と相まって、ようやく雪の降りやむ庭を前に、春を待つ心を養うのだと私は思った。
荒野に呼ぶ声
この一月二十五日の午後、私は信州松原湖の上手かみての雪の坂道に立っていた。小さい録音機と集音盤とを持った一人のプロデューサーと一緒に歩いて、きびしい冬と雪とに閉ざされた山の自然の中から、いくらかでも春を待っているような兆候を音としてとらえて、それをやがて私の朗読する紀行文の中に再生する、――つまりNHKが組んでいる『自然と共に』という番組の台本を作るための短い旅での事だった。私たちは昼前には三、四十センチの積雪を踏んで山道を歩く自分たちの足音をマイクロフォンで追ったり、金褐色にけむるカラマツの梢にとまって鳴いている痩せたツグミの声を集音盤で吸い取ったり、厚い雪に被われた氷の下をチロチロ流れる細谷川ほそたにがわのつめたい水音を掬すくったりした。さらに私としては笛も吹いたが、その「天使」のメロディーは緊張と寒気とのためにコチコチになった。
さて午後の雪の坂道に私が一人で立っていたのは、録音機を持った連れが丘の上の種羊場へ羊の鳴き声か何かを採りに行って、一緒にいなかったためである。私はサブザックから蜜柑を取り出して食べ、ガスライターから長い炎を放って煙草を吸った。それにしてもすばらしい遠近の雪山だった。すぐ目の前には渦巻く乱雲をまとった八ケ岳の連峰がそそり立ち、遠く南には金峰山きんぷさんを盟主とする秩父の山波が浩々こうこうとひろがっていた。そしてその白と青との広がりの下には深い深い千曲川の渓谷……いずれも若かった日の曾遊の地で、今老いて雪の山坂から眺めやる私の心に、痛ましくも懐かしい感慨があった。
と、突然、現実のどこかで「クェーン、クェーン」と響くキジの声が聴こえた。すわこそと私は耳を澄ました。耳はすぐさま記憶をたどって眼を指導した。それはすぐ真下の河原の藪地から起こったものらしかった。そこは雪の積もった枯野原で、ところどころに煙のような低い林が立っていた。声は正にそのあたりから起こったもので、短い反響を伴っていた。私は一心に望遠鏡の視線をさまよわせたがついにその鳥の姿を見出せず、またよしんばもうひと声鳴いたとしても、録音機が無くてはこの「荒野に呼ばわる声」を採る由もなかったわけである。そして結局、キジはその後二度と鳴かなかった。
私が十七世紀のドイツの大作曲家ハインリッヒ・シュッツの六声のモテット、「われは主の道を直くせんとて荒野に呼ばわる声なり」を偶然にも手に入れたのは、実にそれから三日後のことであった。
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