自然と共に


   ※ルビは「語の小さな文字」で、傍点は「アンダーライン」で表現しています(満嶋)。

                                 

自然と共に

   

  1 五月の峠

  2 富士見紀行

  3 奥日光の一日

  4 西伊豆の海と丘

  5 武蔵野の早春賦

  6 那須高原と久慈渓谷

  7 春を待つ山

   

甲斐路の春

浅間山麓の一日

美ヶ原の秋

武蔵野の鳥

知多半島の一角

 

                                     

 

 自然と共に

  1 五月の峠(一九六二年)

 この五月の初め、私は長野県の和田峠と塩尻峠へ行ってきました。平野地方の自然はもう晩春初夏の風景ですが、山国の春がどんなだろうか、そこに目ざめた野生の鳥たちの歌がどんなに美しく、どんなにういういしく響いているだろうか、――そういうものを見たり聴いたりしようというのが、その小さい旅の目的でした。
 和田峠は信州下諏訪の町の北々東、約一四キロほどの山奥に横たわっています。古い中山道なかせんどうの峠道で、諏訪郡の下諏訪と小県ちいさがた郡の丸子町とをつないでいます。海抜一五三一メートル。この峠から北々西へ山越えをして行くと美うつくしヶ原はらに達し、南東へ進むと鷲ケ峰をこえて霧ヶ峰に行くことができます。峠そのものは頂上のところに長いトンネルがあって、一日に何回か国鉄のバスが通り、またトラックや乗用車などが時どき通って昔のような趣きはありませんが、美ヶ原方面なり霧ヶ峰方向へなり、少しでも横の山道へ入ると、期待にたがわず全くの静寂境です。私はそこヘ朝の九時半ごろに着きました。そしてトンネルの入口の、山の一部が真白に崩れているところから、鴛ケ峰のほうへと鳥の声を求めて静かに入って行きました。
 春はまだきわめて浅く、さっき通った下諏訪の町はずれや田舎では八重桜も、山吹も、海棠も、コブシも、今が花盛りだったというのに、ここまで来てみれば目に入る物すべてまだ冬枯れのままの景色で、カラマツさえあの緑いろの絹糸を切り揃えたような若葉も出さず、僅かに金色の涙の粒のような芽を見せているだけでした。しかしさすがに小鳥は植物よりも春を感じるのが早いとみえて、下の方では鶯の「ホーホケキョ」や谷渡りのしらべがしきりです。春は地面よりも、空間や水のほとりからまず生まれるものだという事が、これでよくわかりました。
 しかしよく気をつけて見れば、それでも山の春をさきがけて咲く花はあるもので、アブラチャンの黄色い花や、ハシバミの花の褐色の房が目につきました。しかし立ちどまってじっと聴き入らずにいられなかったのは、谷の方から風が吹き上げて来るたびに、あすこの斜面、ここの斜面で、海の潮騒しおざいのような響きをおこす笹の葉の音でした。
 私は鷲ケ峰へは登らず、八島ヶ池から霧ヶ峰へと続く小径をたどりました。その鷲ケ峰の尾根の上をカラスが五羽ばかり飛び回ってしきりに鳴いていましたが、その声だけが下界を思わせるものでした。
 星ヶ塔という山の瘤こぶを右手に見ながら細い道をぶらぶら行くと、前方に一本の大きな白樺の木が立っていて、その木の枝にアオジが一羽、これはまたすばらしい声で鳴いています。春まだ浅い深山みやまの昼に、玉を刻み銀を鋳るとでも形容したいような、世にも霊妙なしらべです。それがちょうど、道の上に差し出た枝にとまって鳴いているのです。ですから、もしも私がそのまま行けば驚いて飛び立ってしまうでしょう。それで私はじっとしやがんだまま、褐色をまじえた暗緑色のその鳥にじっと目をそそぎ、耳を傾けていたのでした。
 その日のうちに岡谷おかやまで行って置かなければならず、和田峠の下にも別に目的としている物もありましたから、私は鷲ケ峰の頂上の真下とおぼしい処で一休みして元の道を帰りました。しかし休んだその場所は今までのうち一番いい処で、右手の下のほうに遠く白い糸のような峠道が見え、左手奥には八島ケ池へ越える柔らかな山のたわみが眺められました。そしてミズナラやカラマツの大木が頭の上においかぶさり、道は堅い岩石の露出で、その岩石のあいだに、見れば至るところ節分草せつぶんそうが、その桃色がかった白い可憐な花を咲かせていました。しかもちょうど目の前のミズナラの梢へ雌雄二羽のビンズイが来て、雄のほうがしきりにその複雑な囀りを聴かせます。ビンズイはセキレイの一種ですが、一名を木ヒバリと言われるように、その声にはセキレイとヒバリとを一緒にしたような趣きがあります。
 道を元へもどると、来る時には気のつかなかった遠景が正面になりました。和田峠のむこうに美ヶ原の王おうケ頭とうとそこの無電の中継塔が見え、鉢伏山につづく高ボッチの右手に北アルプスの穂高岳が、薄青い霞の奥でその残雪をぼんやりと光らせています。私は以前に自分の作った、俳句のようなものを思い出しました。それは「春哀れ遠とお浮びをる槍穂高」というのですが、ちょうど今頃の季節に、同じ信州の富士見高原からの眺めを詠んだものでした。
 そういう遠景に見入ったり、昔のことを思い出したりしながら歩いて行く私のすぐ近くで、カケスが鳴きました。人里離れた深山で聴くこの鳥の声には、平野地方の林などで聴くそれとはまた違った幽邃な響きがありました。
 和田峠のトンネルの入口に戻ると、今度は峠道を下の方へ降りて行きました。さっき言った別の目的というのは、実はそこで黒耀石こくようせきを拾うことだったのです。もう二十何年も前に気がついて以来、車でそこを通るたびに、今度こそ実行してやろうと思いながら遂に果たせなかった黒耀石拾いです。黒耀石は流紋岩という岩石が変質した物だそうで、黒いガラスのような岩石です。北海道では十勝石と言い、島根県の隠岐おきでは馬蹄石と呼んで、大昔にはこれで矢尻や槍の穂を作り、今では加工していろいろな装飾品を作っています。その採掘場所が昔からこの和田峠下にもあって、穴の入口にその破片が積み上げてあるのを二十数年来私が知っていたというわけなのです。私は永い間の望みがやっと果たされた事にすっかり喜ばされて、黒い半透明なその石の、ガラス状のかけらで指を傷つけないように用心しながら、きれいな音を立てて崩れる黒耀石の堆積の中から、標本として適当と思われるものを三つ四つ選び出してルックサックの底へ押しこみました。
 ところがその時、近くでウソが鳴き出しました。その声は山の中での口笛のようでした。節分草と黒耀石とウソの声。すなわち花と岩石と小鳥の歌。それはまさしく十九世紀ドイツの詩人シュティフターやアイヒェンドルフの世界であり、同時に私の詩の世界でもありました。

 あくる日は塩尻峠でした。塩尻峠は岡谷の町から北西へ、直線距離四キロメートル程の地点にあって、海抜約一〇五〇メートルと言われています。これも和田峠や下諏訪から、塩尻、木曾福島などへ通じる旧中山道なかせんどうの峠で、諏訪湖や八ケ岳、中央アルプス、乗鞍や北アルプス連山の眺めのまことに雄大なところです。
 峠の上のホテルの午前五時、もうクロツグミが歌っていました。私の聴く今年最初のクロツグミです。ヴェランダのカーテンを引き、ガラス戸を少しあけると、五月の早朝の冷やりとした爽やかな空気が流れこみます。その青々とした空気の波の中、ここではもう若葉になった木々の中で、クロツグミはまるでフルートのような音色ねいろで歌っているのです。
 煙草を吸いながらその歌を聴いたり、だんだんはっきりしてくる朝の山々を眺めたりしていると、やがてツツドリが鳴き出しました。「ポンポン、ポンポン」と、ちょうど乾いた竹の筒を打ち合わせるような音色です。この声を聴くと、晩春や初夏の山々がどんなに緑深く、谷川の流れがどんなに清らかだろうと、柔らかな旅情に引き入れられずにはいられません。
 そのうちに「ジュリ、ジュリ」とか「チルルルー」とか聴こえるエナガの声がしてきました。 これは付近に巣があるらしく、雌と雄とのつがいでした。
 エナガは冬の間は同じ仲間のシジュウカラなどと一緒に、大体一定の地域を群れをなしてパトロールしていますが、営巣期の今ごろになるとシジュウカラとは離れて、二羽か三羽で家庭生活を営みます。その巣は樹木の股に造られて、蜘蛛の糸や苔類、それに鳥の胸毛などを使ったふかふかした柔らかい袋のようで、親鳥はその細長い袋のてっぺんの小さい穴からもぐりこんで、中に産み落とした卵を抱き暖めます。しかし袋の中は狭いので、どうしても長い尾羽を曲げていなければなりません。ですからその曲がり癖がついて、巣を持っているエナガか、まだ持っていないエナガか、一目ですぐにわかります。私が見たのはその尾羽がもう弓なりに曲がっていました。
 朝飯がすんでから峠の奥のほうへ散歩に出ました。 
 元来この峠は岡谷市に属しているのですが、市長さんが大変小鳥の好きな人で、もう十年も前から野鳥保護の運動をはじめて、今でもそれを続けています。ですからその方針が地域全体にゆきわたって、交通量や観光客の多い場所にもかかわらず、付近はまことに小鳥の多いところ、つまり野鳥の名所になっています。
 私はたちまち頭の上にサンショウクイの声を聴きました。「ヒリヒリン、ヒリヒリン」というその声が、いかにもよく晴れた初夏の日の感じでした。黒と白とのセキレイに似たこの鳥は、ケヤキなどの大木の中枝に茶の湯の椀のような巣を懸けます。東京付近の田舎などで、頭の上を飛びすぎながら鳴いてゆくこの鳥の声を聴くと、ああ夏が来たなという気がします。
 峠の上の見晴らし台ではヒガラが実にいい声で歌っていました。山の奥で小人こびとの鍛冶屋が小さい金床かなどこを叩いているような、また管弦楽の中で響くトライアングルの高音のような、明るく澄んだ音色です。平野ではほとんど聴かれず、山へ入って初めて聴くことのできる、力ある美と品位とをそなえた声です。
 またそのあたりにはウグイスとカワラヒワが実に多く、それが絶えず歌っているので、うっかりするとほかの鳥たちの声を聴き逃してしまう程でした。その間にはホオジロも鳴いていましたし、キジバトも「天下泰平」をとなえていました。また水場のような処にはセキレイもいました。全体として和田峠とはまた趣きを異にして、すでに全く野鳥の全盛季に入った感じのするのがこの塩尻峠でした。
 前日からその日にかけて、私は約二十種の野鳥を見たり聴いたりしたわけでした。六月に入ればもっとふえることでしょうが、自分の愛鳥週間がこれだけ多くの美しい収穫で始まったことは、私として喜ばなければならないと思っています。

 

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  2 富士見紀行(一九六二年)

 もしも幸運に恵まれたら或いは晴れ間があるかも知れないと思って、この梅雨季の二日間を、 信州富士見の谷と高原へ出かけました。
 新聞で天気図を見ると、しかしどうも思わしくありません。日本列島をまん中にして、三〇ミリ平方の図の中が、ぎっしり詰まった等圧線の渦巻きです。北海道の東にとぐろを巻いた優勢な低気圧から一本の停滞前線が南西に伸びて、それが弓なりに本州の南岸をかすめて沖繩から台湾へと達しています。そしてその前線の上には小型の低気圧が鈴生りに並んで、しかもそれよりずっと大型で深いのが、中国やシベリアの大陸から東にのぞんで被いかぶさっています。おまけに太平洋高気圧の壁は長く厚くて、これを壊したりへこませたりする事はちょっと出来そうもありません。ですからいくら私に「晴れ男」の自信があっても、万一の僥倖をたのむ以外に手はありませんでした。
 第一日の谷は釜無川かまなしがわの渓谷でした。釜無川は元来「荒れ川」と言われていますが、支流立場川たつばがわとの合流点である富士見町ふじみまち大字机つくえから奥の上流は、両岸に山がそばだち、その山に何箇所か大きな崩壊斜面があるので、その崩れのせいで、一層荒涼とした谷の相を現わしています。しかしさすがに六月で山は新緑、さまざまな木の柔らかい緑が連日の大雨に水かさを増した流れを挾んで、対岸の山梨県、こちら側の長野県を、雲のように包み、水絵具みずえのぐのように彩っていました。
 大した降りではありませんが朝から雨でした。私たちは素直に傘をさして、山靴の音もしめやかに谷の細道をたどりました。左手には絶えずドー・ドーと響く谷川の音。しかし造物主から与えられた耳という物のありがたさには、その大きな音の中から小さい可憐な響きや歌を聴きわけ、選び出すことができます。私たちにとってその可憐な歌はセグロセキレイの囀りでした。彼らは水の上を岩から岩へと飛び移りながら、その黒と白との羽根や尾をひらめかせていました。
 こういう処でセグロセキレイを見るとすれば、続いてすぐに期待できるのはカワガラスの発見です。これはカラスという名こそついていても実はミソサザイの仲間で、ミソサザイよりも大きく、黒ずんだ褐色をした渓流の鳥です。雌雄らしい二羽がいました。もしも夫婦の鳥ならば、流れをかぶった岩の下に巣を営んでいるはずです。彼らは盛んに水にもぐったり、こまかな銀のさざめきのような囀りを放ったりしていました。
 小径の両側は薄紫のノハナショウブ、桃色のアカツメクサ、白いウツギやノバラの花盛りでした。その色は小雨に濡れて一層鮮かに見えました。私の連れは地質学をやっているので、時どき立ちどまっては崖に露出している岩を撫でたり叩いたりしていました。そしてその人の頭の上には盛りを少し過ぎて黄色を帯びたアカシアの花の白い房々、ひっそりと葉ちてくる雨の粒。まことに梅雨季の『自然と共に』にふさわしい情景でした。おまけに何処かでホトトギスの鋭い叫びさえ聴こえました。
 たぶんいるだろうと思って歩いていると、道の崖側の赤土の斜面に、予期どおりハンミョウがいました。別名をミチシルベともミチオシエとも言って、黒ずんだ紫と、緑と、赤銅しゃくどう色に光った七宝細工のような羽根をした甲虫で、人間や動物に出あうと、先へ先へと飛んで行ってはこちらを向いてとまるという面白い習性を持っています。今頃から夏にかけて、こういう谷の崖ぎわの道でよく見かける美しい昆虫です。
 また蝶の仲間のスミナガシにも逢いました。匂やかな紺ガスリのような羽根をした中型の蝶でタテハチョウ科の一種です。これもこういう渓谷に多く、幼虫はアワブキやミヤマハンノキの葉を食べて生長します。あたりを見廻すと、なるほどそのアワブキの木がところどころに生えていました。
 さっと降ってきたり、また薄陽うすびの洩れたりする定めない天気の中で、谷のむこうの山梨県側ではキビタキが、こちらの長野県側ではオオルリが歌っていました。キビタキの歌は金のピッコロのように鳴り響き、オオルリの旋律は高音のフルートのそれのようでした。
 富士アザミの大きな株がはびこっている河原では、イカルチドリの親鳥と雛とを観察しました。純白な咽喉のどのところに黒い帯を巻いた親鳥は清楚に美しく、黒い咽喉輪が無くて羽毛の色も薄い雛は愛らしい限りでした。近所にこの雛たちの生まれた処があるらしく、方々に幼い兄弟が散って、それを親鳥が監視したり指導したりしている様子でした。私はイカルチドリの鳴き声は知っていますが、その雛の声は初めてなので、八メートルから十メートルぐらいを隔ててその声をノートに取りました。それは「ピューイ・ピューイチチ、ピューイ・ピューイチチ」というように聴こえました。

 二日目の高原の方はまずは天気に恵まれて、おなじみの入笠山にゅうかさやまを含む釜無連山はもとより、八ケ岳の連峰も、蓼科山まで手に取るように全貌を現わしてきました。
 この日は全国的に蒸し暑い日だったようですが、さすがに海抜千メートルの高原は吹きわたる風も涼しく、カラマツを初めとする木々の新緑も萌え立つばかりで、広大な野山のいたるところ、カッコウの声が響いていました。
 私たちは富士見高原療養所の前から左へ折れて、丘をこえ、沢の田圃をわたり、森をぬけ、林をぬけ、そういう事を何べんとなく繰り返しながら歩き回りました。
 その間いつでも東は八ケ岳、西は釜無の山々の眺めでした。つい十日ほど前に妻と二人で来た時にこの高原を炎のように彩っていたレンゲツツジは、惜しいかな今日はもう終わっていましたが、その代りには昨日きのうの谷と同じように、ここでもまたノバラとウノハナが盛りで、それにまじってガクウツギやイボタノキの白い花が路傍をよそおっていました。よそおっていると言えば、赤や白のクローヴア、黄色いキショウブ、薄紫や水浅黄のノハナショウブ、ノハラアヤメも、初夏の高原特有の風情で咲いていました。
 丘の草原で休んでいると、むこうのライ麦の畠の上を一羽のセッカが飛び回って鳴いていました。「ヒッ・ヒッ・ヒッ・ヒッ」と鳴きながら急角度に舞い上がり、やがて「ツェッ・ツェッ・ツェッ・ツェッ」と舌打ちをしながら流れ矢のように落ちて来ます。
 近くの藪にはアカモズがいて、巣が近所にあるのか、頻りに私たちのまわりを飛びながら威嚇の叫びを上げていました。このアカモズというのは普通のモズに似ていますが、頭ばかりでなく背中も赤褐色をした鳥で、モズとは違って夏の間だけ見られる鳥です。今ごろだとこの高原には至る処に住んでいます。
 綺麗に開墾されて、ジャガイモやキャベツや菊の苗畑が幾何図形のように並んでいる丘の空中では、方々でヒバリが歌っていました。そして絶えず、どこかしらから、カッコウの二音符の笛の音です。
 田圃を目の前に、私たちが二度目に休んだ松林では、「ジャワ・ジャワ」と聴こえるハルゼミの声がしきりでした。田圃には、整然と植えつけられた稲の苗が涼しい風にそよいでいましたが、その風に運ばれてヒクイナの声も聴こえてきました。すぐそばで鳴いているようで姿は見せず、叩くように、訴えるように、夏の哀調を流していました。
 また歩き出して着いた二つ目の丘では、雲の晴れ上がってゆく大八ケ岳を背景に、二羽のホオジロの歌競うたくらべを聴きました。間に百メートルの空間を隔てて、一羽はグミの木のてっぺんから、もう一羽はリンゴの木の梢から、それぞれ声を振りしぼって鳴くのです。どうもリンゴの木にとまっている鳥の方が上手なようで、見事にふるえる鈴鳴きでした。しかし決して両方が同時に歌うということはなく、必ず相手の一節ひとふしが終わってから自分のを歌います。ですからいかにも堂々とした面白いかけあいで、歌競べには違いありませんが、むしろ六月の高原の協奏曲と言ってもいいくらいでした。
 オトコヨモギやキンミズヒキの密生した林へ入ると、細い道に沿って小さい流れがあり、その水の響きが実にきれいでした。同じ水でもきのうの釜無谷のドードーと鳴りわたる音とは違って、まるで鼻歌でも歌っているか、ひそひそと話でもしているようです。じっとたたずんでその音を聴いていると、頭の上で「ギイ・ギイ」とコゲラが鳴きました。目を上げると、張りつくように木の幹へとまるその小さい姿が見えました。
 それからまた田圃を越えて行った森は、私が戦後七年間住んでいた分水荘という山荘の大きな森でした。御影石みかげいしの門柱のところから入ってゆけば、懐旧の思いは水のように湧き、霧のように立ちこめ、千百の回想が波のように寄せてくるのでした。
 白樺、赤松、水ナラ、カラマツを主としたそのほのぐらい森林では、クロツグミやキビタキが鳴きしきり、コムクドリが騒ぎ、時どきアカゲラの叫びがけたたましく響いていました。更には小さい鐘を打つようなヒガラの声が、今日という日を昔にかえして、私の胸をいっぱいにしました。
 それにしても二羽か三羽のクロツグミの、なんという歌でしたろう! しんしんと茂った新緑と黒木の森に響くその音色ねいろ、その調べに聴き入っていますと、いっそのこと一と思いに東京を引き払って、もう一度ここに住んで、充実した平安な余生を送りたいと思う程でした。
 暗い緑の下、珊瑚色に咲き満ちているベニバナイチヤクソウの群落の中に録音機を据えて、じつとその歌に集音器をさしむけている若い友人の姿を見ながら、私はベートーヴェンのト長調のピアノ・ソナタ、あの昔の夏の森と家とに寄せた故園の歌のような、作品十四の二をぼんやりと思い出していました。

 

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  3 奥日光の一日(一九六二年)

 九月二十日、奥日光、光徳沼付近の森の朝です。
 午前九時にすこし前、気温は十五度ぐらいで、東京の残暑に馴らされた皮膚には、涼しいというよりもむしろ冷えびえとさえ感じられます。あたりは大木のミズナラとハリギリとを主とした密林で、その太いのになると、二人或いは三人がかりでやっと抱きかかえることができるようなのが、到るところ寺院の円柱のように立っています。そしてその間に、細い道だけを残して、比較的若い樹木がしんしんと茂っているのですから、晴れた空の浅黄色の広がりも僅かしか見えず、森の下草や小径を照らす日の光も、何か珍しい貴重な物でも見るような気がします。
 道は森の中をすこし掘り下げられて通っています。そしてそこだけが、この樹木と草のほのぐらい世界にあって土や石の見える明るい部分です。私はその道ばたの柔らかい苔の上に腰をおろしてゆったりと楽しく煙草を吸っていますが、風らしいものはほとんど感じられず、パイプから立ちのぼる薄青い煙の末が、わずかに揺らぐほどの空気の穏やかさです。
 今、カケスが一羽、しわがれた声で鳴きながら深い木の間を縫って飛んでゆきました。秋も深まるこの山をもうじき去って、遠く平野のほうへ下りてゆく鳥の声かと思って聴けば、森林の静寂を破って響くその叫びにも、或るなごり惜しさ、或る哀愁が感じられます。
 森のふちは黄色いアキノキリンソウ、紅いマアザミ、白いシロヨメナの花で彩られていますが、冷たい水が浸み出して少し湿っているところには、金魚のような花をぶらさげた紅紫あかむらさきのツリフネソウや、薄黄の花をこまかにつけた背の高いハンゴンソウが茂っています。ところが、ふと気がつくと、私が腰をおろしている金緑色の苔の中に、真赤な小さい丸い草の実みが、まるで宝石をこぼしたように光っているではありませんか。それがみんなマイヅルソウの実なのです。夏山へ行く人たちが、薄暗い森のへりで、よくそのこまかい、白い、愛らしい花に気がついて、なるべく踏まないように避けて通ってやる草です。そしてなおもよく見ると、森のふちの苔の生えている処には、舞鶴形の黄ばんだ葉といっしょに、一面にこの赤い実が見えるのです。私は毒にはならないだろうと思って、二粒か三粒つまんで味わってみました。思ったよりも甘くて、その汁にはほとんど苦味にがみがありませんでした。いい気になってたくさん食べたらどうかわかりませんが、一応は秋の山路の甘味のように思われました。
 そばに脱ぎ捨てた私のベレー帽に、今までじっととまっていた真赤なアキアカネがついと飛び立ったので、その行方を見送ると、ちょうどその方向のナナカマドの木に、何か動いている小さい動物、或る小鳥の姿が目に映りました。瞳を凝らしてよく見るとクロジです。クロジはむかし籠で飼ったことがありますが、野外の自然の中で出会ったのはその後の三十何年間にこれが三度目です。私は珍しさと懐かしさとでじっと二羽の黒い姿に見入っていましたが、やがて森の奥ヘ消えるまで、あの「チッチッ」という低い地鳴きさえ聴かせませんでした。
 しかししばらくすると、今度はゴジュウカラが現われました。そのきびきびとした登場は、鞭を鳴らすような特徴のある鳴き声ですぐにそれとわかりました。青みがかった灰色の背中と白い腹、くちばしから目を横ぎって頸まで届いている真黒な線。そのゴジョウカラが三羽か四羽、近くのウラジロモミとミズナラの樹へやって来て、さかんに餌をあさっています。枝から枝へ飛びうつる彼らの動作はまるで曲芸で、波打つとか翻ひるがえるとかいう形容がいちばん当たっているようです。パリ郊外のブーローニュの森でこの鳥を観察したあのフランスの大閏秀作家コレットが書いているように、短い強い尾羽を丸天井の支柱のように突っ立て、全身を三日月形に反そらせて、頭を下に、真逆様まっさかさまにとまるのでした。

 戦場ヶ原の真昼です。
 四方を山に囲まれた広大な乾燥湿原。その明るく開けた原野の比較的乾いた処を選んで、カヤツリグサの株の上に腰をおろし、ウィスキーのグラスを傾けたりサンドウィッチを頬ばったりしています。東には男体山、西には前と奥との白根山、その間の北のほうには太郎山、山王峠、高薙山、湯泉ゆせんヶ岳。秋はまだ浅くて見渡す山々に紅葉もみじの色はありませんが、湿原を埋めた草にはうっすりと黄の色が流れています。晴れた大空に白い片積雲が三つ、四つ。やがてこの良い天気も変わるのでしょうか、北のほうから方解石いろの巻雲が二すじ、右と左へ放射状に走っています。そしてこの初秋の風景一帯を、南のそよかぜが軽く涼しく吹きわたり、太陽はすこし暑いほど晴れやかに照りひろがっています。
 私の休んでいるすぐうしろには、大木のズミの林がびっしりと立っていて、その中でしきりにシジュウカラが鳴いています。広大な原を前にして聴く彼らの声には、森や林の奥まった処で聴くのとはまた違った趣きがあります。それと一緒にエナガの声も聴こえます。小さい群れになっているらしく、耳に手を当てて聴き入ると、もっとよく聴こえて、まことに愛らしく賑やかです。
 気も遠くなれば耳も遠くなるような広々とした原野の上を、よく見ればいろいろな蝶やトンボが飛んでいます。私はそれを心覚えのために一々手帳へ書きつけます。モンシロチョウ、ヤマモンキチョウ、クモガタヒョウモン、アカタテハ、キベリタテハ、アキアカネ、オオルリボシヤンマ、タカネトンボ。それに二、三種類のセセリ蝶や地蜂の仲間。小鳥も、虫も、草木も、彼らは私たち人間よりも低い段階に属する者とされていますが、人間と同様に、太陽や、水や、空気や、大地の子であり、同じ地上で生の流れを継ぎながら栄えるべきものです。この事実の意味するところは、考えれば考えるほど深長であり、荘厳であり、それぞれの生の姿は見れば見るほど美しく感動的です。そしてこの世界の創造主の広大無限な思慮と設計とを思えば、どんな生物をも軽んじたり侮ったりすることはできず、私たち人間と一緒に、彼らの繁栄することを願わずにはいられません。
 立ち上がって原の中の乾いた処を拾って歩いていると、行く先々から同じような小鳥が飛び立ちます。みんなノビタキです。あの初夏の繁殖期の鮮かな羽根の色はもう見られませんし、あの高原の歌ももう聴かれませんが、それでも何か呟くような声を出しながら、もっとよく見ようと思って後をつけてゆく私の前方を、少し間隔をとりながら、草の茎から茎へと飛び移ってゆきます。二羽三羽、五羽六羽と、今までどこに隠れていたのかと疑うほど彼らはたくさんいるのです。おそらくこの広い原じゅうに、まだ無数のノビタキが残っているに違いありません。
 行く先々の足もとには、ウメバチソウの白い花が今を盛りと咲いていました。この花も、小鳥のノビタキと同様に、戦場ケ原のところどころに大きな群落を作っているのでしょう。もちろん私はその美しい梅の花形の花を摘まず、小鳥のあとをつける事もまたやめて、バスの時間に間に合うように静かにこの原を去ったのでした。

 中禅寺湖畔の夕暮です。
 私は大木のモミやケヤキに囲まれた今夜の宿、建物の正面に古風な秋の西洋草花を咲き盛らせた丸山のロッジにルックサックを預けると、道路を横ぎり、灌木の茂みを抜けて、広々と涼しい湖水のふちへ下り立ちました。
 太陽は日没までまだ半時間の高さにあり、真西に見える宿堂坊山の奥の空に輝いています。その光線は湖のおもてを半分照らして、私のいる渚なぎさもその暖かい金茶色の光にどっぷりと漬かっています。南東からの微風をうけて広い青い水面には縮緬ちりめんのような皺がより、日の当たらない対岸では空気が冷えて霧が発生したのでしょう、山々の峰も山腹も薄青く煙って、ただ出入りの多い湖岸線だけがくっきりとした輪郭を見せています。
 私はさらさらした黒や赤の火山礫で形成された幅のせまい渚の上、湖水から引き上げられたと覚しい白い骨のような枯木の幹に腰をかけて、おもむろに暮れてゆく湖上の景色を眺めています。目の前では波とも言われないこまかな波が絶えずピチャピチャと音を立て、時どきセグロセキレイが鳴きながら頭の上を飛び過ぎます。うしろの茂みから得もいえず可憐な虫の音のトレモロが聴こえてきます。小さい柔らかい体でありながら、ふるさとの山と湖との秋を歌っているカンタンの声です。
 水の上を飛んで行くモンシロチョウがありました。傾く夕日の光を浴びてほとんど金色に輝きながら、身を揺するようにしてヒラヒラと漂ってゆくのですが、見たよりもずっと羽根の力の強いこの蝶は、人間には想像もつかない強靭な意志の力で対岸まで渡り越えるものとみえます。この光景を眺めながら、私はヘルマン・ヘッセの書いた見事な小品を思い出していました。彼の場合は白い半透明な四枚の翼に一つ一つ大きな赤い紋のついた美しいアポロ蝶で、やはりヘッセの休んでいた渚から、フィーヤヴァルトシュテッターゼーの湖を飛び渡るのでした。
 そして、やがて最後の遊覧船が水を分けて西のほうへ遠ざかり、さっき矢のように走って行ったモーターボートが水を引き裂いて東のほうへ帰ってゆくと、今日の太陽もゆらゆらと山の端に溶けこんで、とたんに白金プラチナのような光を空に跳ね上げ、その上の空が、急に目もさめるようなエメラルド色に変わるのでした。

 

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  4 西伊豆の海と丘(一九六二年)

 去年の暮れに房総半島の南端を歩いて、暖かい初冬の海と陸との自然に喜ばされた私たちは、今年の冬もまたあの味を思い出して、今度は伊豆半島の西海岸を見に行こうという事になりました。
 大きな自然に抱かれた土地というものは、こまかく見れば見るほどその良さがわかってくるものですから、早い乗り物などをすっ飛ばして通り過ぎてしまったのでは、その良さも美しさも、とうてい心にしみて長く記憶に残るほど、味わったり理解したりする事ができません。しかし誰でもそうでしょうが、今の私たちの生活には時間や費用の制約がかなり強く働いていますから、どこもかしこも満遍なく、そうこまかく丁寧に見てゆくわけにもいきません。それでいきおい、此処ぞと思うある一点を選んで、そこへ愛や注意の焦点をむすぶことになります。そうすると、一ヶ所へ強く当てられた照明のおかげで、その付近の見えない部分、見られなかったところまで、想像力や類推の力で、ちょうど一つの音楽がその調べの周囲にかもし出す雰囲気のようなものを、私たちの見ている世界のまわりに作り出します。つまり世界がいきいきと拡大されるのです。そして私はこれが旅に出た時の大切な心がまえであり、最も効果的な方法だと思っています。
 さて私たちはそういう気持で出発しました。ですから東京―下田間の疾い電車の窓からも、小田原を過ぎて先は、特に海の見える左側の景色に目をそそいでいました。これから伊豆半島の西海岸を見に行くのであってみれば、その東海岸も、知っているとはいいながら、一応は見てやらなけれは悪いような気がしたからです。しかし決して提灯持ちをするわけではありませんが、伊東から先の電車の沿線は、間に三十いくつというトンネルを挾んで、相模灘の青い潮に洗われている海岸線や、まだ真赤にもみじした木々に被われている雑木山の眺めがみごとでした。名は変ですが、「伊豆高原」という駅のあたりはまだ安っぽい開発をうけていないで、そのあたり、海を遠くに、柔らかい起伏を重ねた雑木林の台地の広がりが絵のような眺めになっていました。私はこんな処に一年ぐらいでいいから住んでみたいなと思いました。行ったことはありませんが、イギリスの詩や文章に出てくる南イングランドの海辺うみべの丘のようなところを思い出していたからです。電車が停まっている間、私のこの空想に伴奏するように、近くの木のてっぺんで、一羽のホオジロが海にむかって初冬のきれいな歌を歌っていました。
 午後おそく下田へ着いた私たちは、すぐに西海岸の松崎へ行くバスに乗りこみました。半島の南の部分を東から西へ横断する、三〇キロばかりのバス路線です。途中たいして嶮しいところや急なところはありませんが、何しろ火山地帯の山の間を行くのですから、もともと大型バスなどのために造られたのではない狭い道路のぬかり方は大変です。車が縦に飛び上がったり横に波打ったり、しかもだんだん夜道になって、曲がりくねりの多い峠道で半島の背骨をこえる頃には、さすがの私たちもすっかりくたびれてしまいました。しかし鮎の釣り場として名高い那賀川の渓谷が黒々と現われて、大沢温泉のあかりがチラチラするあたりまで来ると、あと六キロあまりのところで待っている今宵の泊りの松崎町なので、道もそれからはいくらかよくなって、やがて那賀川の沖積地といいますか、氾濫原といいますか、そういう平地の縁へりの田圃の中をあまり揺れずに走るのでした。
 その夜はおそくなってから不連続線性の小雨の音を聴きましたが、朝になると、私たちの念願どおり空はしだいに海のほうから晴れて和やかな日光が射してきました。屋根の上で鳴いているスズメやセキレイの声も、ここが伊豆の海辺だと思えば、何か別な平和のおとずれのように聴かれました。さすがに遠洋漁業の根拠地と言われる漁港だけあって、宿屋での御馳走には新鮮な魚や、エビ、カニの類がいろいろ出ましたが、朝の食膳にも平たい巻き貝のうでたのが載っていました。「ヒメガイ」というのだそうで、真珠色に光る大きなキシャゴのような貝でした。爪楊枝でぐっと突きさして、中身をくるりと出して食べるのです。ちょっとした味でした。
 松崎から今日の目的地土肥といまで、県道を北へ約一〇キロ、私たちは車を雇って特に徐行させて行きました。行く先々に絵のような小さい岬や入江が現われて、うしろにもみじの山を背負った平和な漁港が数珠つながりにつながっている西海岸の美しい道を、何か急用でもかかえている者のように飛ばしてゆく手はないからです。
 堂ケ島という処は、海岸の近くに波の浸食をうけた小さい島や岩礁が多く、その上に松が茂って、ちょうど小規模の松島のような風景を作っていました。しかし入江の波がまことに静かに、水の色も青々と清らかなので、私には日本三景の一つと言われるあの本物の松島よりも、車から見おろすこの俗っぽくない眺めのほうがずっと気に入りました。
 堂ケ島から北へ田子たご、安良里あらり、宇久須うぐすという順に、その間に一つ一つ岬を隔てて重要な漁港や絵画的な漁村がつづいて、まるで絵にかいた音楽のようでした。そしてこの辺が、土肥までの西海岸でもいちばん美しい処のように思われました。田子は岬と小島とに抱かれた漁港で、田子節たごぶしと言われる鰹節の本場だそうです。「田子の浦ゆ打ち出でて見れば真白にぞ」というあの山部赤人の歌はここで作られたのではありますまいが、もしも私たちの場合のように駿河湾の奥に濃い霞が懸かっていなかったら、きっと真北に玲朧白銀の富士を仰ぎ見ることのできる海岸でしょう。
 安良里は今まで見て来たいくつかの漁港の中でも、まったく小さい宝石でした。左右からせばまった湾が深く長く、静かな紺碧の色をたたえた水が白いさざなみのレース模様で、その平和な岸を柔らかにふちどっています。湾の入り口が狭く奥行が深いので、この港へクジラやイルカの群れを追いこんでつかまえるという独特な漁の仕方は、たぶん皆さんにもテレビで御覧になった記憶がおありでしょう。そう言えば、この天然のすばらしい漁港全体の形や色彩が、私には一匹の巨大な生きた魚のそれのように思われるのでした。
 この安良里から宇久須うぐすへの間に黄金崎こがねざきという小さい岬がありました。そこは風景がまったく金色で、水の中や岸にそばだつ岩や崖がすべて金褐色に輝いているのです。突然の出現なので多少不自然の感もあり、何が原因でこんな色を呈しているのかも不明ですが、まことに奇観というほかはありません。しかし案内の本などに、西部劇ふうの活劇にとって好個のロケ地とあるのは感心しません。それよりも然るべき専門家から学問的にこの奇観を説明してもらいたいものです。
 やがて宇久須うぐす。それから土肥とい。土肥には、谷奥の金山きんざんから引いた古来有名な温泉があり、二つの埠頭を持つ船着き場と漁港とがありますが、松崎よりも落ちついていて、風光もまた一層すぐれた町のように思われました。私たちはここで車を捨てて、まだ昼前の晴れやかな日光と青空とに望みを托しながら、北隣りの小土肥おどいの部落へとぶらぶら歩き出しました。
 小土肥おどいへの海岸ぞいの道の山側には凝灰石の黒い岩壁が続いて、ツワブキが黄色に、ハナカタバミが桃色に咲きさかっていました。ツワブキはまた白波に洗われる岩礁の上にも咲いていました。しかもその岩のてっぺんには何羽かのウミウがとまっていて、あの孔雀石のように光る翼をおさめてじっと沖の方を眺めていました。あたりにはトベラの木やオモトの類も自生し、気候が暖かいとみえて、ヨメナやコンギクも緑の草むらを紫に彩っていました。海岸にはハシボソガラスが群れ、賑やかなその鳴き声を縫うように、戸田へたの港へむかうポンポン蒸汽の、そのポンポンというのどかな音が水の上を伝わって来ました。
 私たちは小土肥の村を見おろすミカン山へ登りました。ミカン山はきのう来る時にも電車の窓からさんざん見ましたが、さてこうしてその中へ踏みこんでみると、また新しい発見があるものです。と言うのは、この急な高い山の中腹へ無数のヒヨドリが集まって、累々と生なっているミカンを食い荒らしているのです。そう言えばさっきから時々スタート用のピストルかと思う強い音が響いていましたが、それはこのヒヨドリやカラスを追い払うためだったようです。銃声が轟くと彼らはその叫びだのおしゃべりだのをちょっとやめますが、じきにまた元の騒ぎに帰るのです。
 私たちがそのへりを登って行くミカン山の急な細道は、ですから彼らの食い荒らしたミカンの残骸で一杯でした。枝の上には食いひろげたままの皮、木の下にはズタズタに食いちぎった皮。まったく狼籍をきわめていました。私たちは弁当をつかいながら、食後のくだものとして眼前の枝から幾つかをちぎって食べてその代金を封筒にでも入れて同じ枝へ吊るして置こうかと相談しましたが、盗みの好きなカラスに持って行かれても不本意だという事になって、とうとうこの伊豆のミカンには手を出さずに、東京駅で買って来たしなびたやつで我慢したのでした。
 ヒヨドリの騒ぎが一応やむと、今までも鳴いていたらしいモズの声がはっきりと聴こえ出しました。こういう静かなうららかな境地で聴くと、ありふれたように思われるこのモズという鳥の声も、やはり美しい鄙びた音楽の、牧歌的な一片のように思われました。
 私たちはなごやかで暖かい十二月の太陽に照らされた西伊豆の海と山と、空と雲とを眺めながら、自分たちの生まれて生きている日本という国土が何と美しいかを思い、あの南フランスのカンヌやリヴィエラの海の眺めを、それほど羨む気持にはなれませんでした。

 

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  5 武蔵野の早春賦(一九六三年)

 この冬が近年にない寒さだっただけに、私たちの春を待つ心にはまことに痛切なものがあります。そしてその寒々とした冬めいたものがなかなか去ってくれず、春のほうでも容易にやって来てくれないので、こちらも少しいらだつような気持になって、やおら腰を上げてその春を、きざしだけでもいいから春めいたものを、自分のほうから自然の中へ探しに行くということになります。来るはずの人が待てど暮らせど来ないので、とうとうしびれを切らして、門の前から駅のほうへ、たそがれの道を探しに出かけると言ったようなぐあいです。
 立春から十日ばかりたったある日、私は一人の連れと、そういう目的の遠足をやってみました。場所は埼玉県の田舎で武蔵野の西のはて、秩父連山につづく低い山や丘がおだやかに起伏して、そのひだの間をいたるところ清らかな水の流れている、美しい山裾の平和な町や山村のあたりです。
 私たちは越生おごせ町津久根の梅林へはいって行きました。四方を山に囲まれて細長い袋のような形をしたこの小さな盆地の村には、梅の老木が千本もあると言われていますが、年を経たりっぱな木は、だいたい皆この梅林に揃っているようでした。
 「春は水のほとりから」と言います。私たちはこの梅の林にさしかかる小さい橋のところで、まずきれいな水の流れを見、その音に聴き入りました。春ぞと思って迎えて聴けば、雲のあいだから日光さえ洩れて、その調べはまさに幼い春のメロディーでした。そしてその水際の、青や黒につやつやと光った秩父古生層の小石の上では、二羽のセグロセキレイが矢羽根のように飛び違ったり、舌の先で「チチチ」と囀ったりしていました。
 老木の梅の林は、まるでゴッホの描かいたオリーヴの林のようでした。年を経た太い幹は、たくましく骨ばって立っているのもあれば、根もとで大きく曲がりくねって、それから改めて伸び上がっているのもあります。その黒ずんだ厚い皮はガサガサに反り返って、その上に表が緑で裏が褐色のノキシノブを茂らせたり、青黛色せいたいいろのウメノキゴケをはびこらせたりしています。そこから剛直な枝が、まっすぐな槍や太い針のように噴き出して、そのまた先に黒い小枝が群がっているのですが、そこにぎっしりと玉のような蕾がつき、木によってはもう二輪三輪とほころびて、二月の青い空間で、真白な星のように光っているのもありました。
 それにしても薄赤い鱗片りんぺんに被われ、緑の萼がくに包まれた、この白玉しらたまのような梅の蕾、まだ若いながらに堅く割れて、かすかに匂いを放つこの早春の花。物の初めの新鮮な美といさぎよい力強さ。その未来によせる期待と希望。私たちは満開の時よりももっといい時に来合わせた好運を喜びあいました。
 梅に鶯と言いますが、ちょうど近くの谷川のふちの、スイカヅラのからまった薮に一羽の鴬がさまよっていて、まだホーホケキョウの歌ではありませんが、その強い鋭い笹鳴きをしきりにあたりへ響かせていました。
 この梅林の中は下の地面がところどころ耕されていて、ダイコンとかホウレンソウとか言ったような、お百姓が自家用にする野菜が作ってありました。梅の木の下のそういう狭い畑の一つで、私は寒さにしおれたホウレンソウの一株に、ふと一匹の小さいテントウムシのいるのを見つけました。体が半球形に盛り上がり、その直径四ミリか五ミリのつやつや光った黒い堅い羽根の両側に、一つずつ真赤な円い紋のついているところを見ると、ヒメアカボシテントウというのでしょう。私が指先で微妙につまんで手の平に載せて見ていると、この小虫はやがて二枚の堅い羽根をサッと開いて帆のように上げ、その下に畳みこまれていた茶色の柔らかい翅をひろげて飛び立ちました。私は空間の光にまぎれてじきに見えなくなる彼の姿を見送っていましたが、思えばこれも立派に小さい春のきざしでした。
 私たちは梅林の中をゆっくりと散歩したり、谷川のふちへ出て岸に横たわっている大きな見事な岩石、緑がかって黒く半透明な蛇紋岩だの、ベーコンの膚を思わせる美しいチャートだのを撫でたり調べたりしましたが、やがて人家の並んだ静かな村の中を抜けて、向うに明るく学校の建て物の見える方へ足を向けました。人家はすべて農家で、どの家の庭や畑の隅にも必ず梅の木が植わっていました。家が山のすぐ際にあって、風を防ぎ日当たりもいいせいか、もう三分ぐらい花の咲いている木もあり、大写しの写真などには持ってこいの画面が方々にありました。
 村の学校は校庭が広くて、ちょうど昼休みの時間らしく、大きいのや小さいのや無数の生徒が、声を上げてのびのびと遊んでいました。東京の町なかの学校のことを思うと羨ましいような情景です。私たちがまずその賑やかな声を録音して、つづいてコンクリートの橋の下を流れる小川の水の音を採っていると、中学の上級らしい大きい生徒が五、六人そばへ寄って来ました。みんな息を殺して見ています。やがて私が「君たちのこの学校は何という名ですか」とたずねると、一人の子供が「梅園うめぞの学校と言います」とはっきり答えました。私はその校舎と校庭とを、忘れてしまわないように眺め見渡し、彼らの素朴でいきいきとした顔を改めてじっと見ながら、この早春の花の名にふさわしい平和な村と、学校と、子供たちとを、心の中で祝福せずにはいられませんでした。
 あくる日はきのうの津久根から十六キロ南のほう、飯能に近い宮沢湖という人工の堰止湖せきとめこと、高麗こま峠のあたりの丘陵地帯とを歩きました。
 きのうに引きかえ、きょうは二月の空が一面に晴れわたって、頭の上はもちろんですが、広い広い武蔵野の地平線にも、西から南をとりまく山々の上にも、見るかぎり一片の雲もない快晴でした。それに午前中は朝から全く風がなく、実にのどかな申しぶんのない散策日和で、もうどこかの畑の上でヒバリでも鳴き始めていはしないかと思われるような、春めいた日でした。しかしそのヒバリの代りに可愛い声で鳴いているのは、高い欅けやきの梢のカワラヒワでした。
 宮沢の部落から南へ、田圃の奥に長い壁のようにそびえている堰堤えんていを登って、さて其処へ立って眺めた景色は目をみはるようなものでした。まず宮沢湖そのものの美しさ、そして正面の湖岸を形作っている丘の松林のむこうにずらりと現われた真白な巨大な富士山と、雪のまだらに装飾された奥多摩の大岳山おおだけやまや御前山ごぜんやま。このまじりけのない、きっぱりとした純潔な風景は、季節が早春であり、時間が朝であるだけに、私たちの新鮮な目と心とにぴたりと合った、この上もなく好ましい深い感銘を焼きつけたのでした。
 湖には青空の色をうつした水が満々とたたえていますし、濃い緑と枯葉色をした岸の出入りは柔らかい曲線をえがいて裳もすそのようです。人影もなく、行楽の跡の紙くずもなく、時おり高い空を横ぎる飛行機のほかには人間に由来した物音もなく、ただ、あるいは遠く、あるいは近く、林のどこか、何かの木のてっぺんで、シジュウカラの声がし、ホオジロの春の歌が、それもごく控え目に聴こえてくる程度です。そしてこの天地の静かさは、昼も夜も機械の音や生活の雑音に悩まされる都会から来た人間にとって、実に両手に捧げて持ちたい玉のように貴いものでした。
 私たちはこの見ても見飽きない湖水の風景に別れると、今度は山道を高麗こま峠めざして登って行きました。山道とは言っても、比較高度八〇メートルにも足りない丘続きのことですから何ものでもありません。幾つかの登り降りはありながら、足は軽く、息も切れず、道そのものも快適なので、いそぐ必要もない散策の楽しさはひとしおです。私は若い友達に質問されるままに、去年の冬から黒々と枯れっぱなしのコウヤボウキ、朱塗りの箸のような枝を何本も真直ぐに立てたリョウブの木、常緑の灌木でもう青白い蕾の房をたらしたアシビなどを、道々教えたり講釈をしたりしながら歩きました。花の咲いている時には好奇心を動かしても、季節を外れれば気にもとめない人の多い世の中に、冬枯れの日にこれは何という植物だろうと足をとめてたたずむ心は、やはり奇特なものとして尊重しなければなりません。
 松の林でカケスが鳴いていました。その錆びた声には一種の威厳が具わっていて、こんな浅い丘をさえ、どこかの深山かと思わせるように響きました。
 最後の高みの高麗こま峠は、南から西、西から北へと、地平をかぎる三方の山々の眺めのすばらしい処でした。高さ僅かに一八〇メートルですが、前を飯能から高麗本郷へと深い谷が通っているので、近くで眺望を遮るものがないからです。まったく堂々たる山岳パノラマで、西を正面にして左から丹沢山塊と富士山、大群おおむれ、加入道の道志の山々、笹子峠と大菩薩連嶺、大岳山、御岳みたけ、御前山、川乗山、七ツ石、有馬連山、天目山。更に右へ大持おおもち、小持こもち、武甲山。そして最後に奥武蔵の山などが遠く近く波のように展開し、屏風絵のように空の下を彩っていました。
 私たちはゆっくりと眺め終わると、丘陵の尾根を被っているマツとヒノキの混合林の中の道を飯能のほうへと下りて行きました。ところがここでまずヒガラの声を、読いてエナガの声をききました。そしてなおもよく見ると、キクイタダキもまじっていました。彼らは一つの群れになって私たちのすぐ頭の上にいるので、それぞれの姿もよく見えました。私たちは、息を殺して彼らの動静を見つめていましたが、これが野鳥を好きな者にとっての我を忘れた瞬間です。
 そしてついに里へ下りつきましたが、そこにはまた人間の生活に親しいスズメも、カラスも、ムクドリもいて、町に近い農家の庭には、ここでも梅の花が綻びていました。そして、これが武蔵野の早春をさぐる私たちの遠足のフィナーレでした。

 

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  6 那須高原と久慈渓谷(一九六三年)

 「自然と共に」の小さい旅に出た私たち二人は、残暑のきびしい東京をあとに、まず栃木県那須火山の中腹、弁天温泉をたずねてそこへ一泊しました。さすがに海抜一二〇〇乃至一三〇〇メートルを数える高い所ですから、空気も涼しく、暑さもよほど凌ぎよく感じられました。
 もっともまだ夏休みちゅうでもあり、おまけに旧暦のお盆にぶっかったので、湯本、八幡やはた、弁天、大丸おおまるなど、この那須温泉郷一帯はどこの旅館も満員で、よくもこんなにと思われるような人出でした。急な山腹をぐるぐる廻りながら登る狭い道は、バス、タクシー、乗用車、小型トラック、オートバイなどの絶えまもない往復で、路傍の草木は乾ききった火山灰の土ぼこりにまみれ、静かなはずの山道にたけだけしい爆音がはためいて、私のように何十年ぶりでここへ来た者にはまったく隔世の感のあるほどの俗化ぶりでした。
 朝早く、むしろまだ夜明けのころ、私たちはヨタカの声で目をさましました。カーテンをしぼり、雨戸をあけて耳を澄ますと、どこか近い所にいるらしく、鞭を鳴らすようなその声が、ほのぐらい緑の朝霧の奥から響いてきました。
 今日は昼近くにここを立って、夕方までに久慈川の奥の大子だいごへ着く予定ですから、あまりゆっくりもしていられません。昨夜ゆうべのうちに頼んであった早い朝飯を終わると、私たちはこの小さい谷川のつめの宿を出て、さっそく茶臼岳、三本槍、南月山などを見上げる高原の道へ立ちました。朝が早いので車もほとんど通らず、観光の人影もほんのちらほらでした。気がつくと、路傍のススキはみんな飴あめ色に光る穂を出しています。広大な那須野ヶ原からこの高原へかけて、下野しもつけの国の空の下に茂りに茂っている彼らススキという植物のことを考えると、もう大きな天地の秋が始まっているのだなという気がしました。
 道から少し横へそれた静かなところで、電線にとまって一羽のホオジロが鳴いていました。あまりいい声で、涼しい水の滴りのように鳴いているので、同行のI君もたまらなくなったとみえて、携帯用の録音機を肩から下ろし、細いマイクをつけた小型の集音器をさし向けました。ホオジロは特に平野に多くて、人間になじみの深い鳥ですが、こんな高さの、こんな境地でその歌を聴くと、愛らしくけなげでもあれば、また珍重したい気にもなります。I君はにこにこして帰って来ましたから、きっと録音に成功したに違いありません。
 私たちの入って行った横道は、谷へむかってなだれ落ちる樹海のような、灌木林の斜面へ通じていました。その灌木というのが、私の見たところでは、ほとんどみんなハシバミのようでした。そしてその林を彩って、終りに近いノリウツギの花がいたる所で咲いていました。小径の両側の少し開けたところにはマイヅルソウの実の赤や、ギボシの薄紫や、アキノキリンソウの黄色も見えました。しかし林の下草は大部分がササで、私たちはそれをザワザワと押し分けて進むのでした。
 茶臼岳のほうを眺めると、冬の間スキー場になるあたりの斜面では、そのササが一面に赤さびた黒い色に枯れていました。花が咲いて実を結んだので、禾本科植物の常として枯死したのでしょうか。しかしその下に広がっている樹海からは、エゾゼミらしいセミの声が遠く賑やかに聴こえてきました。I君はそれを録音したい様子でしたが、距離が遠いので近づくわけにもゆきません。望遠鏡で見ると、そのあたりも同じようにハシバミの林で、アカマツもカラマツも、針葉樹らしい木は一本もありません。
 ところが、その録音をあきらめてなおも進んで行く私たちのすぐそばで、いきなり一羽が「ギギギー」という高い声で鳴き出しました。I君は忽ちキッとした顔になって道具を仕立て、生い茂るササの中を音を忍ばせて一株のハシバミに近づき、その下にしゃがんでマイクを向けました。ところが、一匹が鳴き出すとほかのも連れ鳴きを始める習性を持ったセミは、むこうで仕事をしているI君を少し離れた所から見ている私のすぐそばでも、また別のが鳴きはじめました。私は低い灌木の幹にとまって鳴いているその姿を、望遠鏡の至近距離の焦点の中にはっきりとらえて、それがただのエゾゼミではなく、一三〇〇メートルというこの高さから二〇〇〇メートルぐらいの高原に多いコエゾゼミだという事を確認しました。エゾゼミよりも小ぶりなのと、背中を飾っている緑いろがかった横帯に切れ目があるのとで、私にその見分けがついたのです。信州でも富士見高原にいるのはすべて普通のエゾゼミでしたが、近くの入笠山や霧ケ峰で見たり聴いたりしたのはみんなこのコエゾゼミでした。
 こういうふうに録音をしたり、火山高原の夏の動物を調べたりして、人けのない広々とした自然のふところをさまよっているうちに、時間のほうは容赦なく経過してゆきました。やがて私たちは道路へ出て、バスの停留所近く、あたりにホツツジやマルバハギやオカトラノオの咲いている見晴らしのいい草地へすわりこみ、テルモスからの紅茶を飲んだりタバコを吸ったりしながら、那須火山を背中に、眼前遥かに広がる地平の大観を見渡しました。磐城、岩代、下野、常陸、四つの国にまたがる広漠たる山野が、晩夏の真昼の雪をまとって、大海の波のようにこの高みを目がけて押し寄せてくるようでした。眼の下には黒磯、西那須野、大田原などの町々を含む那珂川と箒川の複合大扇状地が横たわっています。そのむこうの南東の地平には八溝やみぞ山地が、主峰八溝山をまんなかにして、ほとんど準平原のように、長い平らな山頂を並べて延びています。そしてその奥の東のほうに薄くぼんやりと見える雲のような連なりこそ、実にみちのくの阿武隈山脈でした。
 大丸おおまる温泉のほうから私たちの乗るバスが見え隠れに下って来、下の谷からウグイスの声が上がって来ました。
 きのうは那須の温泉郷から黒磯―白河と陸羽街道を北束へのぼり、一転して南東へ棚倉―塙、つまり磐城街道を久慈川沿いに真南へくだって大子だいごの町へ着きました。風景は全く変わって山間を渓流の走る美しい小盆地、近年温泉の噴出を見た大子の町は、旧盆とはいえ至って静かで清潔で、泊まった宿もまことに気持のいい家うちでした。私たちはきのう那須から遠く眺めた阿武隈高地と八溝山地とに東西から挾まれた、いわゆる奥久慈渓谷の中心にいるのでした。
 宿のうしろ、私たちの座敷の前を、幅一〇〇メートルに満たない久慈川が水勢を落としてゆるやかに流れ、その水が澄んで清らかなので浅い川底の砂や小石まではっきりと見える程でした。ここでは夕方、漁師が膝まで水に浸かって投網を打っていました。すぐ下手しもての橋から先は瀬になっていて、あくる朝行って見ると、そこでは幾人かの人が友釣をやっていました。魚はアユで、あとで聞けば大子はアユの名産地という事でした。私たちの食膳でもそのアユが珍味でした。
 大子の朝は対岸の山のヒグラシの声で明けました。東京の自宅でも今頃は毎日聴いているのに、何か床しく、珍しく、山里深い感じでした。谷の空には早朝から無数のイワツバメが飛んでいましたが、太陽が昇るにつれてだんだん下へおりて来て、やがて水面すれすれのところを織るように飛びかい始めました。宿の若い女の人は、「ここは川虫が多いのでツバメが集まるのです」と言っていました。そう言われればアユの多いのも、やはりその川虫のせいかも知れません。
 朝のうちに強い俄雨がありました。ヴェランダを打つその音はむしろ爽快でした。見ていると川の水面がしぶきを上げて煙るので、イワツバメの群れはまた高い空中へ移動しました。こんな所でゆっくりと、彼らの生態を観察したらさぞ面白い事にぶつかるだろうと思いました。
 俄雨が上がったので、私たちは橋を渡って対岸の幅の狭い河原へ行ってみました。ここは那須のような火山岩の地帯とは違って、堆積岩の褶曲山地ですから、河原を形作っている石や岩にも色々な種類があるだろうと思ったからです。青空がひろがり、ちぎれ雲が飛び、晩夏の太陽が少し暑いくらいに降りそそぐ久慈渓谷は、ほんとうに見に来た甲斐のあるようないい処でした。むこうの山からミンミンゼミの八月の歌が運ばれて来、近くの林でカワラヒワの声がし、河原にはセグロセキレイが無数にいて、水の瀬の上をひらひらと飛んだり、岸へおりて白と黒との長い尾を波うたせたりしていました。
 同行のI君は地質の学徒でもあり、岩石や鉱物にも造詣が深いので、こんな旅にはまことに心強い頼もしい道連れです。私は目についた河原の石を拾ってはI君に見てもらいました。そしてその中から幾つかを選んで家うちへ持って帰ることにしました。たとえば石英だか方解石だかが縞のように入っている黒色砂岩、コーンビーフの塊のようでつやのあるチャート、乾いている時は白っぽく、水に入れると綺麗な薄緑色になる緑色凝灰岩、それにバラ色がかった黒雲母花崗岩や白い石英閃緑岩。みんなそれぞれに美しく、みんなそれぞれに何千万年、何億年の過去を担っている石たちです。私は東京へ帰ると、この石たちに採集地の名を書いた小さいラベルを貼りました。彼らは神流川かんながわや、梓川や、秩父荒川の石たちと並んで、今私の標本箱の中で、「久慈渓谷大子」の名を誇っています。
 川が瀬になっている所でのアユの友釣のことは前にも言いましたが、私たちの見ている前で大きなのを釣り上げた漁師も二人ばかりいました。しかしその涼しい水辺に飛んでいたハグロトンボ、河原と道路との界に今を盛りと咲いていた紅紫あかむらさきのミソハギの花、自分たちの幼虫の食草であるカナムグラに群れて卵を生みつけていたキタテハ、さては荒地の草の間で「ギースチョン・ギースチョン」と鳴いていたキリギリスなど、歩きながら手帳へ走り書きした彼ら昆虫や花の名も、忘れないうちに挙げてお知らせして置きましょう。
 そしてこういうのが夏の終り秋の始めの、高原と谷の自然の一端でした。

 

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  7 春を待つ山(一九六四年)

 ちょうど半月ほど前、東京ではもう梅が咲いている一月二十五日のお昼ごろ、私は一人の連れと一緒に、長野県南佐久郡北牧村の、雪の山道にたたずんでいました。
 春を待つ山の自然を見てきてくれと頼まれて、さてどこにしたらいいものかとさんざん首をひねった挙句、北八ケ岳天狗岳の東の麓にある稲子温泉を思いついたのでした。そこは海抜一四〇〇メートル余りの山の中で、温泉とは言っても昔からある古い宿屋が一軒ひっそり立っているだけで、宿のまわりにはすぐにダケカンバ、オオシラビソ、トウヒ、コメツガなどの亜高山帯の森林が押しせまり、西南にしみなみの頭の上に、天狗岳や硫黄岳のすさまじい爆裂火口を高々と見上げる、この世のほかの別天地のような一角です。そんな処ですかち、春の終りから夏にかけては山の小鳥も多く、天気さえよければ朝から日の暮まで一日じゅう、ほのぐらい森林や涼しいきれいな沢のほとりで、彼らの声が響きつづけています。その代表的なものはまずヒガラ、メボソ、それに続いては勇ましいコマドリで、歌は深山の夏の昼間の静寂を、いよいよ深いものにするように縫いかがっています。
 しかし間違えないでください。これはあくまでも登山季節の夏の話で、今のように山も谷も雪にうずもれた冬のさなかでは、もちろん鳥の歌どころではありません。ですから、私もそれを期待して稲子温泉を考えついたわけではなく、真冬の一夜を都会から遠く、人里からも遠く、信濃の国の深山の出湯につかって、その日の午後と翌日の昼間とを、天地の底も知れないような静かさの中で、山々と原始林の積雪風景を心ゆくまで眺めたり、また、雪そのものを観察したりしようというのが、この小さい旅の目的だったのです。とはいえ、万が一にも、たった一羽の鳥の声、たった一匹の毛物の姿にでも出会うことができたら、それこそもっけの幸いだとは思っていました。野生の動物の声や姿が出現するとき、今まで死んだようだった自然が突然生き生きと立ち上がり、深い沈黙の世界のなかに、一つの全く新しい生命感の広がりが生まれることは、皆さんもたびたび経験されたところでしょう。
 さて私たちは、信越線の小諸で小海線へ乗りかえて、雪の佐久平をディーゼルカーの窓から眺めながら小海まで行き、そこから今度はタクシーで、稲子温泉さして七キロばかり飛ばしました。初めのうちは佐久甲州街道を千曲川の渓谷ぞいに走り、その国道と岐れるとしだいに登りになって八那池、それを西へ折れて松原湖、やがて山間の細長い盆地の新開部落。そして、そこで人里は全く終わりました。あとは大月川という小さい谷川に沿って稲子の湯までの登りです。
 ところが、その新開部落をすぎて三キロほど行った地点、あと一キロぐらいで目的地だという処で、とうとう車が進まなくなってしまいました。坂の登り口で急カーヴの処でした。きのうかおとつい降った二〇センチばかりの新しい雪の下に、古い氷った雪の層があって、いくらスタートをかけても、チェーンをつけた車輪がすべって、ただ軽い新雪をはじき飛ばして烈しく空回りをするだけです。足での踏み固めも、シャベルでの雪掻きも、努力の汗も、失望の溜め息も、てんで用をなさないのです。運転手は気の毒そうに、「仕方がないから歩いていらっしゃいますか」と言い、私と連れとは相談を始めましたが、とうとう温泉行きを諦めることにしました。なぜかと言えば、ここですらもう相当の山の中だし、しかも稲子温泉よりも広やかな雪の眺めがあり、また運転手の話によれば、川むこうの尾根の途中の坂道からの眺望がすばらしいという事だったからです。おまけに私たちがまだ腹をきめかねていると、珍しや、近くで二声三声「クェー・クェー」と鳴くツグミの声がし、道のすぐ下のところで、まだ沢と言ってもいい大月川の流れの音が美しく鳴りさざめいていました。これは少なくとも一つの有力な誘惑でした。なおも聴かれるかも知れない鳥の声、たえず歌っている氷の下の水の音。私たちは稲子行きをさっぱりと断念しました。
 話がそうきまると、二人は坂道を登ったり降ったりして、しばらくは清らかな雪の感触を楽しみました。頭の上には一月末の正午の太陽、かげろうにかすむ松原湖のむこうには、千曲川を隔てて上信国境の白い山波。連れは膝まで雪に踏みこみながら沢の流れを録音にゆき、運転手はしゃがみこんで煙草を吸い、私は古い切株の雪を払い落として腰をかけ、ポケットから取り出した小さいブロックフレーテで、アントン・ルービンシュタインの「天使」のメロディーを吹きました。
 春を待つ自然と、それに寄せる私の心。技わざは拙いものですが、しんかんとした雪の風景へ流れてゆくこの笛のしらべといい、氷の下をゆく水の歌といい、音楽は沈黙と共に生きるという言葉の真理が、はっきりと思い知られたのでした。

 松原湖の宿でおそい昼食をすませると、今度は身軽になって、さっきタクシーの運転手から眺めがいいと言って教えられた川むこうの尾根へと、積雪の道を登ってゆきました。登りはいくらか急で、場所によってはちょっと息の弾むところもありましたが、何しろお天気はいいし、往復わずか四キロという近間でもあり、その上今夜は湖畔泊りだという安心感も手伝って、至極のんびりとした楽しい道でした。坂の山側はところどころ岩や土の現われた雪の斜面、谷に面した側はすっかり裸になって金褐色にけむるカラマツ林。その林がとぎれると、さっき自動車で通った対岸の道が長々と奥のほうまで見渡せ、そのつきあたりに北八ケ岳の天狗岳、中山、丸山などの峰々が、渦巻く雪雲をまとってのしかかっています。しかし里が近いからでしょう、私たちは其処で初めて鳥らしい鳥の声を聴き、姿を見ました。それは崖のふちに突き出した一本の赤松の木に群れて、しきりに枝移りをしながら低い声で鳴いている六、七羽のエナガでした。
 ニナガがいる以上、当然シジュウやフヤヒガラもいていいはずだと思ってあたりを物色したり、耳を澄ましたりしましたが、結局いませんでした。そして登ってゆく間じゅう、私たちにはこれが最初で最後の鳥でもあれば動物でもありました。みんな雪と寒さと飢えとに追われて、もっと土の現われた、もっと暖かくて食べ物のある、人里のほうへと移動したに違いありません。自然のバランスは海の波のようです。ある処では高まり、ある処では低まりながら、またある処では濃く、ある処では薄くなりながら、結局全体としては生命の広がりを維持しています。しかしもしもわれわれ人間が動物や植物を駆逐したり亡ぼしたりしたら、自然の生命の密度は時を追って小さくなり、ついには春も夏も秋も冬も、世界は天然の美や活力を失った貧寒な、味気ないものになるでしょう。現在の日本の都会や町と、その果てしない膨脹とがいい実例です。
 そんなことをぼそぼそと話しながらなおも登って、やがて遠く西から南への眺望のひらけた尾根の突端へ出ました。時間もだいぶ経過したし、早く宿へ帰ってゆっくりと湯につかりたいという気もあったので、ここで休んで景色を見て、それから帰路につこうということになりました。私たちは大月川の小さい盆地を見おろす崖の高みの岩に腰をかけ、蜜柑を食べたり煙草を吸ったりしながら、おそい午後の日光を浴びた山々谷々の大観を眺め見渡しました。まず目につくのは、正面に近く高々と連なっている天狗岳、硫黄岳、横岳、赤岳の八ケ岳火山群です。彼らは濛々と縦に渦を巻く雲に包まれながら、その深い裂け目から凄いように冷たい雪と氷の刃やいばを光らせています。しかしそのほのぐらい物凄さとは対照的に、野辺山ノ原の稜線の上、すっかり晴れ渡った空の下の、瑞牆山、金峰山、小川山、国師岳など、いわゆる奥秩父連峰の西の部分が実に優美な眺めでした。八ケ岳と同様、いずれもかつては私の登った山ですが、こちらは年をとって足が弱ってもむこうは今も若々しく、そんなに懐かしく思うならばこの夏には来ないかと、優しく懇ろにほほえみかけているようでした。懐かしいと言えば、千曲川の谷の出口にそばだっている男山と天狗山を間に挾んで、右に信州峠、左に遠く三国山が見えました。これも両方ともその昔、私が感銘深く歩いたり越えたりした峠であり山であるのです。そしてここからは南相木の山々に遮られて見えませんが、千曲川の谷奥には、思い出多い梓山の部落となじみの宿とが、今はひっそりと雪に埋もれて、紫に暮れてゆく夕暮と、星影寒い夜とを待っているはずです。そしてこんなことを思っていると、感慨は感慨を生んで、私は正面の稜線を走る八ヶ岳の登山路を眺めながら、四十年前にそこでの事を書いた「大いなる夏」という、自分の古い詩を思い出したのでした。

  「道は登るにつれて暗いイブキジャコウソウの薄紅うすべにになった。
  その花の塩からい匂いが空気を一層するどくした。
  小石にあたる杖の明るい響きと共に、
  金色こんじきの甲斐や信濃の風景が右に左に現われた。

  友の指さす指の先で峠はあんなに高かった。
  小手をかざすと天空と眉とのあいだ、
  大気の青に巻かれて一つの大きな爆裂火口の
  むざんにそげた傷口が遥かに見えた。

  とある平たいらで私たちは腰をおろした。
  隔絶を歌う風がひろびろと四方に起こった。
  遠く奥秩父は黒雲にとざされて、
  あかがねの電光が哀れな村々を引き裂いていた。」

 あくる朝の松原湖は、夜明け前の最低気温氷点下十三度という冷えかたでした。しかし日曜日のせいもあってか、一面に堅く氷った湖水の上は、二千人から三千人に近い人出で賑わっていました。みんなスケートをしに来た若い人たちばかりです。そしてそのほとんどが遠くは東京、近くは高崎あたりから、夜通し貸切バスに揺られてやって来た団体客で、それぞれ大きな会社や工場に勤めている人たちだということでした。その上近くの町や村からすべりに来た学生もまじっているのですから、少し大げさな表現をすれば、さしもの松原湖が人間で埋まり、その若いはち切れるような活気で躍動していると言ってもいいくらいでした。
 きのうにも増したすばらしいお天気に加えて、そよとの風もない日曜日。見上げる八ケ岳の連峰は青い冬空をくっきりと切りぬいて、雪と氷のとりでのようにきらきら光ってそばだっています。そして湖水のまわりはこれも一面の積雪と、薄い褐色にけぶるカラマツや、黒い緑の松林です。
 しかもこうした荘厳と枯淡の眺めに囲まれて、いくつかのリンクの上をあらゆる色彩のスウェターが走り、ストールがなびき、ネッカチーフが舞い、毛糸の帽子が流れているのです。日光をうけてきらめくスケート、堅く厚い氷を切り、曲線をえがきながら氷をけずるエッジのきしり。それにまじって明るい笑い声、話し声、片隅の拡声機から流れる呼び出しや注意の声。実に賑やかな事ではありますが、けっして乱雑や喧噪の感じはありません。むしろ何か運動の霊のようなものがそこを支配しているので、じっと立って見ていると、一種力強い厳粛な瞬間をさえ感じるほどでした。そしてこれもまた自然と共にある若い人たちの世界の一つだと思いました。

 

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 甲斐路の春

 私は特に縁があってよく富士見や諏訪や松本のような信州へ行きますが、その中央線の列車から見る山梨県の風景、つまり上野原から甲府あたりまでの甲州の風景を、じつは中々すぐれた物だと思って感心しています。うねうねと深く屈曲する桂川の谷とその谷に臨んだ上下いくつかの河岸段丘は、自然地理学の上からも興味のある景観ですし、その段丘を飾っている愛らしい部落や畑の景色も、あらゆる季節に色を変え趣きを変える見ものです。やがて大月をすぎて初狩、笹子。もうこのあたりまで来ると左右の窓からの風景も一変して、山々が迫り、桂川の支流もいくらか荒れた姿になって、思いなしか列車の車輪の音もだんだん山深く分け入ってゆくように響きます。しかし四分なにがしかの笹子トンネルを抜けて初鹿野はじかのの駅をすぎると、線路は降り勾配になって、風は新しく、空は広々と、風景の性格も全く変わって、斜め左の下の方に、遠く又近く甲府盆地の豊かな眺めが展開します。その盆地を南から西へと囲む御坂山塊と鳳凰山群との間には、天気に恵まれれば南アルプスの白根三山も見えるでしょう。あらゆる斜面を埋める葡萄畑が整然と美しく、村落や町の眺めにも平和なうちに脈々とした生気が感じられます。そして勝沼から塩山。私の旅の心が知らず知らず歌を歌っているのはいつもこのあたりです。そしてよく思うのですが、一体甲州の人達は、果たして私と同じくらいこのすぐれた自然景観、この見事な耕作景観をしんから愛し慈んで、これを自分たちの誇りとしているのでしょうか。
 さて、そうした甲州路の春の旅です。私と私の若い女の連れとは、まずその自然景観として甲府の北の昇仙峡を、ついで田園の農作景観として勝沼付近の桃林をたずねてみることにしました。
 御嶽昇仙峡は、奥秩父の金峰山に源を持つ荒川の流れが、下流にむかって仙娥ノ滝から天神平まで約四キロの間、花崗岩の深い峡谷をうがって落下している一と続きの豪壮な眺めの世界です。甲府の町から十二キロか十三キロ、その荒川に架かっている長潭橋ながとろばしを渡ると谷の入口の天神平、或いは天神森です。この山間の小さな平地には何軒かの旅館や休憩所がかたまっていましたが、週末を避けたウィークデーだったので至って閑散でした。そしてそこを過ぎると、もう直ぐに谷沿いの静かな道です。
 木々の新芽が星のように輝き、あちこちでしきりにウグイスが歌っていました。その声が切り立った狭い両岸にこだまして、いよいよ昇仙峡の谷深く入って行くのだなと思う私たちの心に、みずみずしく晴れやかな前奏曲のように弾むのでした。
 道は谷の左岸を、流れに沿って屈曲しながら登って行くのですが、川底に不連続的な高低たかひくがあるのとは反対に、しっとりとした花崗岩の砂で敷きつめられた、至って歩きいい、いつ登っているのか分からないような楽な道です。
 しかし水の方は、今言った川底の不均斉な構造のために、エメラルド・グリーンのしぶきを吹き上げる小さい滝となって落ちこんだり、深い青い瀞とろを湛えたりしながら、さまざまな変化を見せて流れて来ます。つまり、大ざっぱに言えば、階段とそれに並行するエスカレーターのような関係ですが、数学や物理学に通じてる人だったらこんな事にも尽きぬ興味を持つのではなかろうかと思いました。それにしても谷の向う岸の崖を彩っているミツバツツジの花の可憐な美しさを何と言ったらいいでしょう! 下手な形容ですが、私には深山の春の真昼を、薄紫に燃える蠟燭の火のように見えました。白い細りした枝から葉はまだ出ず、しとやかな花ばかりが涼しくほのぼのと咲いているのです。そして空間に漂うようにして咲いているその花の背景は、枯葉の暖かい鳶色を敷きそめた崖の斜面か、強く雄々しい花崗岩の岩壁です。しかもこの優にやさしいミツバツツジが約三キロの間、ずっと私たちの目を楽しませました。そしてその間にはキブシやアブラチャンの黄色い花が道ばたの手も届くところに咲いていて、行く先々でシジュウカラやヤマガラののどかな歌に迎えられるのでした。
 私たちはこれからいよいよ谷がせばまり、両岸に見上げるような岩峰が続々とそびえ始める能泉という処に今宵の宿をとることにしました。しかし日の暮までにはまだ三時間近く間があるので、さし当たり用のない荷物を預けて、身軽ないでたちで仙娥せんがノ滝たきの方へと登って行きました。
 道は今までとがらりと変わって岩や石敷きになり、靴底の感触も堅くきびしいものになりました。どうどうと落ちる水とそびえ立つ岩石とで構築された峡谷の風景は、立体的で、厳格で、まるで花崗岩の大伽藍の中をたどって行く思いでした。途中に「石門」というのがありました。水際に突き出した巨大な岩へ、これまたすばらしく大きな岩が崖の上から落ちかかって、それが尖った角かどで危うく支えられて、人はその下を身をすくめて通るのです。そしてそういうふうに路傍に横たわっている岩といわず、谷の中の岩といわず、大抵の岩には大小さまざまな甌穴おうけつが見られました。甌穴というのは岩の面に出来た円い穴のことで、或る岩のへこんだ箇所に載っていた石が水の流れの渦巻で回転しているうちに、そのへこみを掘りくぼめてだんだんに大きくした結果として出来た穴です。私の知っている限りでは、このような甌穴は花崗岩の谷で最も多く、また最も立派なものが見られるようです。そしてこういう岩が道ばたにもたくさん横たわっているところを見ると、遠い昔にはこの高みもまた水の底だったのかということがわかります。
 仙娥ノ滝はいかめしい谷のどんづまりに真白な布のように懸かっていました。高さ二十メートル、幅二メートルぐらいはあったでしょうか。二つに裂けた厚い巨大な壁のような岩の間から地響き立てて落ちていました。「仙娥」というのは中国の古い詩に出て来る言葉で「月」、すなわちお月様のことですが、この滝もその名のように、どちらかと言えば女性的です。私の女の連れは重たい録音機を肩に、岩をつたわって下の方まで下りてゆき、その滝の音をマイクで取ろうと苦心していました。その滝壷のあたりでは、おりから一羽のカワガラスが鳴きながら飛び廻っていました。
 滝の高さだけある急な石段の道を登りきると、景色は今までとすっかり変わって、遠く近く部落の見える山間の小さい盆地へ出ました。私たちは、出来ればこの盆地をずっと奥まで歩いて、板敷いたじき渓谷の大滝へ行ってみるつもりでしたが、それでは帰りが夜道になる惧れがありましたから、途中の川窪という部落のあたりまで行って引き返すことにしました。有名な金桜神社への道を左に見て、静観橋せいかんきょうという橋を渡って、今は穏やかな流れと変わった荒川の左岸をゆく、和やかな静かな道でした。
 ふり返ると覚円峰の大岩峰が雲をまとって聳え、行手には黒富士続きの山波が墨絵のように連なっています。ところどころにちらほらとヤマザクラが咲き、農家の庭にはウメやレンギョウが今を盛りで、道の片側の崖には岩の間からアカネスミレさえ覗いていました。そして絶えずシジュウカラ、ヒガラ、ウグイスなどの小鳥の歌です。その上、私たちはサシバかと思われるタカの声を聴きつけました。もしもそうだったら、これこそ彼の春の第一声だと言わなければなりません。
 私たちは上川窪の部落の手前まで行ってひき返し、今度は静観橋の欄干によりかかって、橋の下の水の上と向うの崖際とで鳴き交している二羽のミソサザイの春の歌を、時間の許すかぎり心ゆくまでゆっくりと聴き、味わったことでした。そして今日半日の見た物、聞いた歌の思い出に満ち足りて、たそがれ近い昇仙峡の岩の廊下を遠く能泉の宿まで下ったのでした。
 あくる日はきのうに変わる快晴でした。連れも元気なら私も元気。谷間の宿から甲府まで車で急いで、各駅停車の鈍行にのって勝沼で下りると、見わたす甲府盆地は目にも晴ればれと麗らかな春景色です。
 昨日から今朝までの昇仙峡の渓谷、あの建築的で豪壮なクラシックの境地を後に、今私たちは明るく自由に広々と開けた、ロマンティックの世界に放たれた思いでした。
 今度の旅の日程に勝沼を加えたのは、ちょうど今を盛りの桃の花を見物するためだったのです。
 疾走する列車の窓からでなく、たとえ一時間でも二時間でも自分たちの足でゆっくりとその場を歩いて、桃色の雲か霞のようにたなびいている桃の果樹園の一角を、心ゆくまで味わおうというのが私たちののぞみでした。春も四月の半ば、実際それはみごとな眺めです。駅でいえば勝沼から塩山、さては山梨市のあたりまで、右も左も、平地も山裾も、葡萄園のあるところ必ず桃林ありといった壮観で、それがみんな咲いているのです。
 私たちを案内した自動車の運転手が、「桃の花を見に来たお客様というのはこれが初めてです」と言っていましたが、この花時の壮観を見に来る人の無い方がむしろ不思議で、一目千本の桜などと言うのとはてんで比較にさえなりません。少し誇張して言えば、甲府盆地周辺の東の部分が、見るかぎり桃色の海とその岸辺なのです。
 私たちは車を走らせて駅から南へ勝沼町、岩崎、藤井、一宮などという部落を一巡しました。そしてこのあたりの桃の中心地とも言える藤井では、扇状地の高みを埋めつくしている桃林の中の静かな道に車をとめて、カラー写真の撮影などに夢中になっていると、花の茂みでシジュウカラやカワラヒワがしきりに鳴いていました。
 しかしこうやって私が話をし、それを皆さんが聴いているだけでは、ただこうもあろうかと想像なさるほかは無いでしょうが、一番いいのは御自分で見に行かれることです。それには、決して宣伝ではありませんが、春の四月、それも半ば頃の花の最盛季をおすすめします。
 そして私が以前に書いたことのある桃林の詩のことを思い出している間じゅう、桃色の空気の上にひろがる青い柔らかな春の空では、甲斐の国の揚雲雀が一羽、二羽、いつまでもいつまでも、きらめくような歌を続けているのでした。
                             (一九六五年四月)

 

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 浅間山麓の一日

 東京世田谷区上野毛の私のうちでも、書斎の窓の前のくらい林で、このところ毎日、サンコウチョウ、チゴモズ、ムクドリ、シジュウカラ、オナガ、キジバトなどというなじみの連中が鳴いたり飛び廻ったりしているが、あの信州浅間山の麓の夏の大きな広がりと静寂のなかで、それぞれの力づよい美しい声を響かせている鳥たちのことを考えると、もうこの上おとなしく仕事の机に向かってはいられなくなって、同行者ができたのを幸いに、思い切って出かけたのだった。
 根拠地の宿は中軽井沢(旧沓掛)の星野温泉。そこの主人は、野鳥の好きな人ならば殆ど誰でもその名を知っている星野嘉助さんで、私もほんの二泊の滞在中、いろいろとお世話にあずかった。
 夏の朝もまだ早い午前四時半、霧の立ちこめた暗い木の間に、ひっそりと影絵のような別荘が二軒ほど見えて、その奥の林のなかで一羽のキビタキが美しく歌っている。
 フィリリリリー、ピイピイピー、ピンピーロ、ピンピー路、オーシーツクツク、オーシーツクツク……
 私はその少しずつ移動する金属的でリズミカルな歌声を、別荘地の小径のはじの石の上に腰を下ろして、静かに今日初めての煙草を喫いながら聴いていた。しかしその間にも遠く近く、いろいろな小鳥の声は絶え間もない。キビタキのほかにもコルリが鳴き、ヒガラが鳴き、ウグイス、ホトトギス、シジュウカラ、センダイムシクイ、カケスなどの声も、濃い霧と深い木立との奥から響いて来た。
 こうして一時間あまり、幽邃ゆうすいな小鳥たちの歌に聴き惚れながら、さて朝飯のために宿へ帰ろうと霧の晴れた坂道を下りてゆく途中、真向かいの山の尾根の立木のてっぺんで、一羽のクロツグミが、これもまたすばらしい声で鳴いているのを見た。
 キョロピ、キョロピ、チョピチョピ、ピリリポ、ピリリポ、チョイ……
 そして湯川の流れを渡りかえした橋の袂では、近くの林のへりで鳴いているイカルの声も聴いた。私にとっては遠くは妙高の高原や八幡平、近くは高尾山の頂上近くで聴いて以来のイカルである。東京付近の田舎では、雨の降り出す前に、「蓑みの、笠、欲しい!」と鳴くと言っているが、私にはこの久しぶりに晴れてゆく朝を、「ヒーコ、ピーコー、ピー」と歌って祝福するように思われた。

 午後は鬼押出しまで車で行き、あの熔岩塊の黒い巨大な景観のなかを歩き、それから峰の茶屋まで引きかえして、今度は旧道を五キロほど歩いて、麓の宿まで下りた。
 浅間山は一日じゅう頂上を雲に包まれていたが、空はうっすりと曇って時どき日光も射すという天気だった。広い広い六里ヶ原はツツジの花の盛りだった。しかしこのあたりも別荘地の開発とか造成とか言って、ブルドーザーで轢きつぶされたり、やたらに道がつけられたり、地割りの柱が立っていたりして、昔私が歩いた頃の雄大な寂しさのおもむきは薬にしたくも無かった。
 鬼押出しはそれ自体が熔岩の山と渓谷なので、林相も貧しく、樹木の種類も少ないせいか、小鳥にもあまり出会わなかった。それでも馬蹄形に谷を取りまいている断崖のふちの高い木のてっぺんでは、ところどころで鳴いているオオルリの、「ピールリ、ホイヒーピピ、ジェッ、ジェッ……」という晴れやかな歌が聴かれた。去年の六月の初め、十日ばかり滞在した上高地で毎日観察した鳥である。
 またイワカガミの大群落が咲いている或る断崖の中腹の林では、ルリビタキが「チョロ、チョロ、チョロ、チョロ」と、こぼれるような美声で鳴いていた。
 最後に谷の上の高い釣橋を渡った時には、下の方の暗い針葉樹木で囀っているメボソの、あの歯ぎれのいい「チチビ、チチビ、チチビ」も聴かれた。
 峰の茶屋から千ヶ滝まで残っている旧道は、その四キロという行程の間、実に静かな、そして歩きいい道だった。静かなのは人っ子一人通らない廃道のせいなのだが、歩きいいのは踏んでゆく緩やかな降りの道が、すべて細かい火山礫に被われているからである。赤味がかった黒い火山礫の粒はよく水を吸って、水はけがいいので、ぬかるみや水溜りを作らない。つまりアン・トウー・カを敷きつめたようにさらっとして弾力のある道なのである。折から右手の谷に臨んだ崖の中腹には、トチ、ホウ、ハナヒョウタンボクなどの白い花が高々と咲き、左手の山側の崖は、ナナカマドやツツジの花で点々と彩られていた。
 私たちはこの道を降りながら、谷のむこうに、ほとんどずっとジュウイチの声を聴きずめだった。「ジュイチイ、ジュイチイ」と、鳴き初めはゆっくり、だんだん調子が早くなり、ピッチも高くなって、最後に息ぎれしたようにせつなく終わるあの独特の鳴き方である。昔盛んに山へ行っていた頃、山中の夜や夕方にこの鳥の切迫したような声を聴くと、留守宅に何か変わった事が起こった知らせではないかと、あらぬ心配をしたものである。
 この道ではまたアカハラの歌もたくさん聴いた。
 キョロン、キョロン。キョロン、キョロン……
 これはジュウイチのとは全く違った、明るく力強い二た声ずつの歌である。ツグミの仲間ではあるが、そのツグミが五月初めに日本を去って遠く、今頃は沿海州かシベリアで家庭を営んでいる筈なのに、このアカハラは日本に住んで、日本の山地で繁殖する名歌手である。
 時どき聴こえるカッコウの遠音を背景に、道の近くの白樺の梢で鳴いているアオジの歌が見事だった。
 チョッチョッチョ、スピリー、チョロリ、スピリース……
 ホオジロの囀りに似ていながらもっと強くてきっぱりして、私たちのこの午後の探鳥の散策に、一つのピリオッドを打ってくれるようにさえ聴かれるのだった。

 夕方の六時、今度は七キロばかり車を飛ばして、南軽井沢の地蔵ヶ原へ山地高原の鳥を聴きに行った。昔私が神津牧場や八風山はっぷうざんを訪れた頃、たびたび横ぎったことのある広い原野である。夕暮に近く、空も曇ってはいたが、南の方に押立山おしたてやまや八風山の特徴のある山容がまだ見えていた。
 オリンピックの時の馬場の跡が残っているあたりまで来て車を停めると、近くの藪や木の枝やシシウドの茎にすがるようにとまって、あちこちで頻りにノビタキが鳴いている。
 ピーチョロ、ピーチョリー。ジェッチッチチ、ジェッチッチチ……
 このノビタキは雄の黒と白と赤栗色の羽色が、いま一番美しい時である。
 同じような処ではホオアカも鳴いていた。山のアオジや田園のホオジロの仲間で、歌も互いに似たところがあるが、ホオアカの声には一層あでやかなつやがあるように思われる。
 小さいセッカも鳴きながら飛び廻っていた。「ヒッ、ヒッ、ヒッ、ヒッ」と鳴いて舞い上がり、「ツェッ、ツェッ、ツェッ」と鳴きながら舞い下りるという事がよく言われているが、私の観察したところ必ずしもそうとは限らない。ただその声を弱めたり強めたりすることが上手なので、つい頭の上を飛びながら鳴いているのに、即座にはその方向や遠近の感じのつかめないのがこの鳥の一つの特徴である。
 広い原野をあちこちと鳥を求めて歩いている間、遠くではヒバリが鳴き、近くではヨシキリが囀っていた。いずれもこの地蔵ヶ原の夕暮の、短い、しかし賑やかな合唱に加わっている一員である。
 しかしここでの観察の有終の美は、何と言ってもオオヂシギ(大地鴫)の豪壮な空中旋回と、 そのすさまじい鳴き声だった。いや、鳴き声というよりも、むしろ威嚇するようなその音響だった。
 空中を大きく旋回しながら、「ズビー、ズビー、ズビー、ズビーヤク、ズビーヤク」と聴こえて、やがて「ド、ド、ド、ド、ド、ド」と落ちて来るその声と羽音とは、広いたそがれの野と空間に響きわたって、これが果たしてシギという鳥の声かと疑われる程のものだった。一名カミナリシギと言われるのもそこから来たものに違いない。

 約四十種類を聴いた私たちの夏の小鳥の朝と昼と夕暮の歌。一年のうちで最もよく、また最も多く聴かれる自然界の歌の一日をこうして閉じるために宿へ帰る車の窓へ、或る部落のはずれから一羽のヨタカが、「キョッ、キョッ、キョッ、キョッ……」と果てしもなく続く、あのなつかしいフィナーレを贈ってくれた。
                             (一九六五年六月)

 

 

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 美ケ原の秋

 山また山の信濃の国に、夏の気配はもうほとんど感じられないが、もみじの秋にはまだ少し早い九月の下旬である。
 しかし我が国の或る地理学者がいかにも適切にかつ美しく、「信濃中央高台」と呼んだこの美うつくしヶ原はらの高い広がりの一角に立つと、そよそよと吹きわたる爽やかな風や、晴ればれと輝く金いろの日光はまったく秋のもので、春や夏のそれとはまた違った、何か遥かなもの、高潔なものへの郷愁が感じられ、寂しさはあっても、その寂しさや静けさのために魂がしずめられ、心が深く富まされながら、しかも大らかに解放される思いがする。海抜二〇〇〇メートル、面積一〇〇〇ヘクタール。私はこの高原の草の小径をさすらいながら、かつて三十幾年まえに初めてここへ登って来て自分の驚きと感歎とをそのまま書いた、あの一篇の古い詩を思い出さずにはいられない。

  ″登りついて不意にひらけた眼前の風景に
  しばらくは世界の天井が抜けたかと思う。
  やがて一歩を踏みこんで岩にまたがりながら
  この高さにおけるこの広がりの把握になおも苦しむ。
  無制限な、おおどかな、荒っぽくて、新鮮な、
  この風景の情緒はただ身にしみるように本源的で、
  尋常の尺度にはまるで桁けたが外れている。
  秋が雲の砲煙をどんどん上げて、
  空は青と白との眼もさめるだんだら
  物見石の準平原から和田峠のほうヘ
  一羽の鷲が流れ矢のように落ちて行った。″

 遠い昔のあの日のように、九月の秋は今日もまた雲の砲煙を打ち上げ散らばらせて、頭の上は青と白との勇ましい大空である。もしも地平線がきれいに晴れていれば、三六〇度を見渡す山々の眺望がすばらしいのだが、あいにく至るところに積雲が湧いたり層雲が横たわったりしているので、すべてを一望の中に収めるというわけにはゆかない。それでところどころに頭を出している高い峰々の、その方角や形から、北西のあれは槍や穂高の北アルプス。その左へ乗鞍、御岳。すぐ眼の前の茶臼山と重なって、むこうに見えるのが蓼科山と八ヶ岳。その右下に黒々と横たわっているのが車山、霧ヶ峰。富士山は遠く霞んで見えないが、北東の空の下の、あの兜かぶとを伏せたようなのが浅間山だなどと、岩に腰をかけ、煙草をふかしながら眺めやる。
 この標高二〇三四メートルの王おうヶ頭とうの頂上には、松本市と松本平とを見おろして、幾つかのラジオや無線の鉄塔が立っているが、ふと気がつくと、おりから渡りの途中のムクドリの大群がその鉄塔へ集まって、賑やかに鳴き騒いだり飛び廻ったりしている。彼らはこれから南のほうの、冬がもっと穏やかで暖かい地方へ旅をするのだろうが、こんなところで何百羽というムクドリとめぐり合うにつけても、山の秋、高原の秋を感ぜずにはいられない。
 王ヶ頭の中腹にはまた、農夫らしいたくさんの人影と何十頭という牛の姿も見える。六月の中頃からこの美ヶ原の草の中へ放牧しておいた五百頭あまりの牛を、ここ一週間ぐらいのうちにつかまえて、集めて、山麓や松本平の村々へ連れ戻ろうというのである。下の道には彼らを運ぶトラックも列を作って並んでいる。二頭ずつ載せたトラックヘ牛の持主が一緒に乗って、みすず湖廻りや駒越こまごえ林道のあの急峻な幾曲りという坂道を、遥かな平地まで下りて行くのである。私たちも登りの途中でこのトラックの何台かとすれちがったが、車の上に繋がれて立っている牛の間に、これも二人ずつ人間が立っていた。
 しかしまだすっかりは集めきれないとみえて、広い原の小高い場所や崖のふちなどに、ここに十頭、かしこに二十頭と、それぞれ一塊りになった牛の群れが、ゆっくりと最後の草を食べている。そしてそれをつかまえようとして、長い麻繩を持ってさまよう農夫や牧夫たちの姿が幾組も遠くに見える。牛の蹄ひづめに焼きつけた番号を一々腰をかがめてのぞいて見て、自分たちの牛を確認するというのだから、広大な美ヶ原に散っている彼らを見出すのは実に大変な仕事だと言わなくてはならない。その牛たちの声が今、草原の秋の空気に響いている。
 草原といえば九月下旬の今日このごろ、美ヶ原は最後の花が咲き終わろうとしている時である。広い原を武石たけしの峰から物見石の高みへと縦断する約八キロの道の両側は、低い牧柵をへだてて一面に柔らかな草原の起伏である。元来「美ヶ原」という名の起りは、七月の初めにこの高原を飾るレンゲツツジの壮大な美観にあるらしいのだが、今はもちろんその花も無くて低く密生した株と葉ばかり。しかもその葉もまだ紅葉するまでには至っていない。その代りには薄紫のマツムシソウ、真白なヤマハハコ、黄色いアキノキリンソウ、濃い紅べにをつけた優しいコフウロなどにまじって、ウメバチソウ、ソバナ、ツリガネニンジン、ヤマラッキョウ、オンタデ、クローヴア、オヤマリンドウ、その他二十種をこえる秋草の花が色とりどり、姿もさまざまに、この高い場所で季節の最後を飾っている。そしてその花たちの間に身を倒して、気も遠くなるような澄んだ青空に見入ったり、静かに移る雲の動きを追うことが、なんという憩い、なんという安らぎだろう。
 こういう草原のまんなか、王ヶ頭よりも物見石の方へ寄ったところに、「美しの塔」と呼ばれる石造りの塔が立っている。高い四角な直方体の塔で、悪天侯の際や濃霧の時の避難場所として造られたものである。塔の四方に細長い窓を切った二階には鎖を引いて鳴らす鐘が吊ってある。そのきれいな音はそよ吹く風に運ばれたり、空の中ほどに漂ったりしながら、或いは遠く、或いは近く、広い野中の歌のように響く。
 午後も晩い散歩のとき、太陽のかたむく西の空から北へかけて、乗鞍、穂高、常念、槍、五竜、鹿島槍、白馬などの堂々たる山波が、金いろの逆光の中に彼らの雄姿をならべているのを眺めながら歩いていると、すぐ近くの少しくぼんだ草地の中から、二、三羽のヒバリが「ピルルル……」と鳴きながら低く飛び立ってゆく。あの鉄塔に群れていたムクドリの大群を別にすれば、この美ヶ原で初めて見るなじみの鳥である。彼らは同じ原の中でも、高いところよりも、このように少し低まった場所を好むように思われる。
 そしてこういう湿った窪地には、ほかの花たちにまじって、特にマルバダケブキ、ハナイカリ、シダの類などが優勢である。それにわけても今が採集時のコケモモの実。人々はそれを摘んで飲み物をつくる。それが濃い緑の地にルビーの玉を縫いつけたように、累々と、真赤に熟している。私はその実を一つ二つと摘み採っては味わいながら、そのあたりから始まっているソウシカンバやトウヒの林へ入ってゆく。冷えびえとした空気の中、夕日の色に飾られた枝の間でエナガが鳴いている。ヒガラも鳴いている。下のほうの暗い針葉樹林からはリズミカルなメボソの囀りも聴こえて来、けたたましいアカゲラの声も響いてくる。
 私たちはめいめい気に入った場所に腰を下ろして、スギゴケやコケモモのふかふかした絨毯を敷物にする。
 そして私としては一本の煙草にくつろぎながら、夕日の金と空の薄青とを浴びて涼しく広がるこの信濃中央高台の雄大な風景を目の前に、フランス中央高台オーヴェルニュ地方の古い民謡、広々として、剛健で、純朴な、あの美しいバイレロの歌、「羊飼いの歌」を思い出している。
                             (一九六五年九月)

 

 

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 武蔵野の鳥

 東京は日毎、月毎、年毎に、高く逞しく発展し、その周辺は乱雑に膨脹して、むかし武蔵野と呼ばれた自然や田園の風景は、今ではもう遠く北から西の片隅へ押しやられてしまいました。幼い頃に田舎への遠足だといって、いそいそと一日がかりで出かけたその田舎が、なんと濛々と紫にかすんだスモッグの奥の、遥かになつかしい郷愁の世界となってしまったことでしょう。かつての郊外も二十三区の一つとなり、それを囲んで衛星都市といわれる町が簇出し、そのまた隙間を埋めるように新しい団地の群れが立ち上がって、未来の大集落を夢みています。もうあの昔の善き時代の畑も、雑木林も、小径も、小川も、それに架かった小さな土橋も、容易には見ることができません。立派な屋敷林をめぐらした大きな藁葺屋根にしても同じことです。自然の牧歌は遠く辺鄙な片隅へ退いて、しかもなおそこで明日あすをも知れない運命に恐れおののいています。そして、事実はまさにその通りですが、それならば自然の和やかな広がりを愛し、そのさまざまな現象を愛し、そこでいそしんでいる勤勉で平和な農村の姿を愛するわれわれは、どこまで行って、どんな片隅にそれを見出したらいいのでしょうか。
 しかし私がこの歎きの歌、武蔵野という自然への愛惜の歌を書いている家は、東京という大都会の中とはいえ、まだあたりには大小の邸宅の庭あり、木立あり、林あり、それにところどころ少しばかり畑や藪地なども残っている場所にあるので、そのつもりで見れば、いくらか武蔵野の忘れ形見と一緒に生きているような気がしないこともありません。窓のむこうには曲がりくねった多摩川の水がチラチラ光り、その奥にむかし多摩の横山と言われた相模野台地の丘陵が、川に沿って北から南へと続いています。雨が上がった後に風でも吹いてよく晴れた日には、富士山を初め箱根、丹沢、道志、大菩薩などの山波が、まっさおな空の下に優美な嶺線をえがいて見せます。そしてなお一層晴れた日には、真西にあたる笹子峠のたるみの上に、南アルプス白根三山の一つの峰、農鳥岳の雄大な姿さえ現われます。家は至って小さいものですが、一方を庭、三方を林の木々に囲まれています。
 よく初めて訪ねて来た人たちが、「こんな処に住んでおられるなら山へなんか行く必要は無いじゃありませんか」と言いますが、馴れっこになって、今では当り前のことのように思いながらも、時には本当に恵まれた環境にいるのだと、我ながら身の仕合せに思い至ることもあります。
 今朝も穏やかに晴れています。柔らかな日光と南のそよかぜ。窓に面した机からは林の枝ごしに川も見え、丘も見え、うっすらと青く高尾山や石老山も見えます。その林の中でさっきから二、三羽のヒヨドリが鳴いています。秋の九月に山の繁殖地から帰って来たのが、ここで冬を越し春を迎えて、来年の五月の初めまでいるのです。今のところ「ピー、ピー」とか、「ピーチョリ、ピーチョリ」とかいって大層神妙に鳴いていますが、もう一時間もたって十羽、二十羽と仲間が集まって来て、それが追いかけっこでも始めて一斉に叫び立てるとなると、大変な騒ぎです。
 騒ぎといえばオナガも相当なものです。頭がつやつやと真黒で、翼と長い尾とが空色をしたこの大きな鳥はかなり美しい種類ですが、「ゲーイ、ゲーイ」と鳴き立てる声はお世辞にも綺麗とはいえません。私の近所にはこの鳥が一年じゅう住んでいて、繁殖期以外にはいつでも二十羽から三十羽、多い時には五十羽ぐらいの群れをなして始終付近一帯の庭や林をパトロールしています。私のうちではこの鳥とツグミのために毎日パンをやっていますが、こまかく賽の目に刻んだのを妻が餌皿に入れてやると、どこでどうやって見ているものか、誰か一羽の「ゲーイ、ゲーイ」という知らせの声と一緒に、忽ち何十羽というのが集まって来て押し合いへし合い、あっという間にきれいに食いつくしてしまいます。壮観といえば壮観ですが、もっと行儀のいい、もっと控え目なツグミの分まで呑みこんでしまうのには、いつでも妻が憤慨しています。彼らはまた色々な木の実もむさぼり食べます。子供たちが楽しみにしていた今年の秋の富有柿も、あらかた彼らの餌食になってしまいました。そして今はノバラやツゲやクチナシの実まで漁っている始末です。しかし、もしもそのオナガたちがぱったり姿を見せなくなったら、単に私の家の庭といわず、このあたり一帯がどんなに寂しくなることでしょう。
 行儀がよくて控え目なツグミは、今、隣りの地所の大イチョウの枝に五、六羽とまっています。見ているとそのうちの一羽か二羽が、時々ヒラヒラと舞い立ってはまた元の枝の近くにとまります。そして、「クェー、クェー」と低い声で鳴きます。それが初冬の澄んだ青空と日光との中では実に静かな感じです。まだ仲間の数も少ないのですが、これからだんだんふえてきて、来年の五月の初めに日本海のむこうの北の繁殖地へ帰るまでには、五十羽から六十羽ぐらいの大群になります。そしてその頃になると、彼らのうちの好奇心の強い連中は私の吹いてやる笛の音を聞きつけて、窓の前の林の木々や低い垣根の上へまで集まって来て、翼を垂らしてじっと聴き入ったり、ノドを鳴らしたりします。しかし今のところはまだ「クェー、クェー」だけで、試みに吹いている私の笛の誘いにも乗って来ません。
 キジバトが鳴いているようです。声の音程が低いのと含み声のために、とかく何かほかの物音にまぎれて、うっかり聞きもらすことが多いのです。しかし耳を澄ましてその声だけを選び出して聴いていると、そこに何という暖かい空気や、のどかな空間がひろがってくることでしょう。これこそ本当に田舎の歌であり、田園というものへの私たちの郷愁をそそる牧歌です。
 モズも鳴いています。何かを引き裂くようなあの鋭い声は、こんな穏やかな日の昼間にきくとそれほどにも感じられませんが、これからだんだん寒さが増して霜や氷をみるような毎朝、彼の声はいよいよ強さと冴えを加えて、ひしひしと迫る冬への挑戦、新しい闘いの場を得た勇士の雄たけびのようにひびきます。しかしどうでしょう。この怖い者なしの田舎侍は、時々小さいカワラヒワなんかの声をまねて、高い木のてっぺんでベチャクチヤ喋っていることがあります。かよわい小鳥をおびきよせて取って食うつもりなのかも知れませんが、人間が平和な気持でうけとると、彼がいかにも御機嫌だというふうにきこえるから面白いものです。
 シジュウカラがやってきました。これも日に一、二回は必ず来るパトロールの一隊です。リーダーらしい老練の一羽を先頭に、後から後から庭の中へとびこんできて、もう葉が落ちて枝ばかりになった梅の木、桃の木、柿の木などの間へ散りひろがります。その動作はまことに気ぜわしくて、落ちつきがなく、ちっともじっとしていません。黒い細い足で手頃な枝をむずと摑んで、頭を上下に振って金槌のようにコツコツ叩いたり、身を逆さにして宙吊りになったりしながら餌を漁っているところは、まるで小さい曲芸師か、体操競技の選手のようです。そしてその間には真黒な針のようなくちばしをあけて、「スーピー、スーピー、スーピー」という水のような声をそそぎ出します。
 気ぜわしいと言えばウグイスもそうです。さっきも下の笹薮から一羽やって来ましたが、これもちっともじっとしていません。しかしシジュウカラとは違って、植込みや生垣の裾の暗いところを好んで飛び移っています。今は「チャッ、チャッ」といういわゆる笹鳴きを聴かせるだけで、春や夏の初めのように「ホーホケキョー」とは鳴きませんから、冬には、姿は案外見つけにくい鳥です。
 今日はまだ来ませんが、カケスが毎日来ることも言っておきましょう。いつでも一羽か二羽で、ひっそりと庭や林へやって来て、時々「ジェー、ジェー」というふうに鳴いています。そしてその暗い寂しい声を聴くと、自分が何となく山の森林の中にでも住んでいるような気がします。
 ムクドリはたくさんいます。これはここから近い多摩川の向う岸にゴルフ場があるせいか、夕方になるとこちら側の高い森へねぐらを求めて集まって来ます。それが百羽以上の大群で、硝子玉を擦り合わせるように「リャー、リャー」と鳴きながら夕焼けの空を背景に、黒雲のように湧き立っている光景はまったく壮観です。
 しかしちょうど今、窓のむこうの高い梢でホオジロが一羽歌い出しました。ホオジロという鳥はどこの田舎にでもいて、その歌は農村の人たちの耳に親しみぶかく、くちばしを仰向けて鳴いているその姿も至って素朴で、健康で、庶民的です。私はこの歌を聴くと田舎を思い、田舎の生活にほのかな憧れを感じます。ほかの鳥もいればいるほど結構ですが、このホオジロという鳥のいない田舎なるものは私は到底考えることができません。

                               (一九六五年十一月)

 

 

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 知多半島の一角

 二月初めのよく晴れた日の午前十時、今私たちは愛知県知多半島のいちばん南のはじの北緯三四度四一分、東経一三六度五八分の羽豆岬はずみさきに立っています。名古屋からまっすぐ南へ直線距離で約四五キロ、脚のように伸びた長い半島のその爪先にあたる処で、東には三河湾、西と南には伊勢湾の水がまんまんと広がっています。うしろは第三紀の地層が露出している海岸段丘の突端で、海の浸食のために削られたらしい黄ばんだ褐色の崖がそばだっています。春もまだ早いのに暖かで、うららかで、静かな大きな海の広がりと、満ち溢れる日光とその反射とのために、ついうっとり眠くなってしまうような景色です。
 左手には師崎もろざきの漁港があります。この羽豆岬と白いきれいな防波堤とに囲まれた円形の漁港で、低い丘を背負った三日月形の町が、早春の午前の太陽に照らされて、すべての建物や道路をきらきらと光らせながら賑やかに栄えています。栄えていると言えば、そこに集まっていて、時々出たり入ったりしている大小の漁船の数も大変なものです。近いところでアイナメを釣ったり海苔を採ったりする舟もあるでしょうし、もっと遠く大海へ乗り出してゆく船もあるでしょうが、漁港もこのくらい整理されていて立派だと、日本の漁村の固有な味や匂いは保たれながら、しかもどこか国際的な、楽しい近代的な情緒が感じられるような気がします。しかもお聴きなさい。その港を囲む防波堤にはたくさんのセグロセキレイが集まっていますが、私たちに近い処にも幾羽かがいて、さっきからチラチラ飛び廻っては鳴いています。かわいい灯台のある白い防波堤と、セグロセキレイの歌と、遠くにいくつかの島影を浮かべた春霞の海。私はまだ見ぬイタリアの、どこかの漁港を想像します。「オオ、ソレ、ミオ、私の太陽よ!」
 心に地中海を思い、口に民謡をつぶやきながら、ヤブツバキの咲いている崖に刻まれた石段を登って、海抜二五メートルという岬の突端に立ちます。ここには昔羽豆城という城があったそうですが、今は羽豆ノ宮という清楚な小さい神社があって、その境内が展望台になっています。そしてここからの海の眺めはまた一段と壮大で華麗で、全く恍惚としてしまう程です。エメラルド・グリーンの海は沖へゆくほど色が変わって青貝色になり、虹色になり、その虹色の中に南東から東へかけて篠しの島、日間賀ひまが島、佐久島、その他いくつかの小さい島が、空気の密度の違いでしょうか、みんなぼんやりと浮き上がって見えます。そしてその輝かしい水の上を、島通いの船や漁船が発動機の音を立て、長い八文字の水の尾を引きながら過ぎてゆくのです。私は自分の好きなヴェルハーランの「海に向かって」という詩や、ポール・ヴァレリーの「海辺の墓地」の詩を思い出します。その「海に向かって」はこんな数行で始まっています。

  「すぐにこわれそうな物のように、白い船らは載せてあるよう、永遠の海の上に。
  軽いきれいな風はまるで接吻。そして船のへさきに優しく打ち上げているあの泡は、
  まるで羽根。海の上は日曜だ」

 漁港師崎の町の方から登って来るこの神社の参道は、天然記念物のウバメガシのトンネルになっています。植物学上ブナ科に属してカシというよりもナラに近いこの木は、枝が密生し、こまかい常緑の葉が強く厚くて、びっしりと茂って、風も通すまいと思われる程です。私がこの木を初めて見たのは四国の室戸崎でした。今、この岬の尾根のウバメガシの密林には、ところどころメジロの声がして、中年寄ちゅうどしよりの男が二人、ひっそりとおとり籠を据えて、軽率な鳥のかかるのを待っています。しかしここは動物採集の禁じられている三河湾国定公園の一部です。私たちは彼らメジロを護るために意識的に声を上げて話をしたり足音をさせたりしてそこを通ります。
 そのメジロにまじって、シジュウカラやコカワラヒワの声も聴こえます。

     *

 今は午後の一時過ぎです。私たちは人間の脚の形をした知多半島の、ちょうどその足首の真中へんにあたる丘陵地帯にいます。ここは鵜ノ山と言われて大きな池があり、黒松の山の起伏があり、その松山にウの一種のカワウが何千羽という数で住んだり繁殖したりしているのです。こういう場所は、ほかに青森県にも一ヶ所あったそうですが、最近ではほとんど絶滅してしまったので、今ではここが日本でただ一つのカワウのコロニー、つまり集団生息地ということになっています。もちろん、動物の天然記念物として法律上の保護を受けています。そして私たちは、そのカワウの集まっている壮観を見に来たというわけです。
 入口の辺からゆるい坂道を下りてゆくと、右手に池が見えてきます。青く澄んだ水面にはカモやカイツブリがじっと浮かんだり、柔らかな波紋をえがいて遊泳したりしています。そしてその池の奥のほうには、問題のカワウの姿が十幾つか見え、長い首を斜めに上げて泳いでいます。近くにはカイツブリやコガモの声。遠くには水の鏡を砕くカワウの影絵。
 まことに早春らしい平和な眺めです。しかしこれは私たちが見物に来た鵜ノ山の、ほんの序幕にすぎないでしょう。なぜかと言えば、こうして眺めている池とそのまわりの松山とは以前のカワウの生息地で、今ではその場所が山の反対側へ移っていると言われているからです。なるほど、確かにそうらしく、この瞬間にも私たちの頭上の空を絶えず一羽か二羽のウが、くちばしに白茶けた枯木の枝か何か、巣の材料をくわえて山のむこうへ飛んで行きます。
 私たちは池と別れて、松山の中の道を登ります。その道ばたの木や草の上にそろそろ白い糞が見えはじめ、頭の上を始終ウが往来するので、彼らのコロニーの近いことと、その方角とが分かります。つまり鳥に道案内をしてもらっているようなものです。二、三十羽の大きな群れが羽音を立てて通る時もありますし、二羽三羽という小さい群れが急いで過ぎる時もあります。西のほうの伊勢湾の空から飛んで来るのは、海での漁の帰りか、巣の材料の運搬かと思われます。そして巣の材料を運んでいるのは、きまって、体や羽根がつやつや光った紺色をし、頭と首が白く禿はげた成鳥、つまりおとなです。そしてそれにくっついて飛びながら、何もくわえず、首のところが禿げてもいず、黒い褐色の体につやも光も無いのは若鳥です。きっと親や先輩のお供をして、いろいろ勉強しているのでしょう。何にしても二月中旬が産卵の季節だと言いますから、ちょうど今が巣を作ることで忙しい盛りに違いありません。
 いよいよ知多半島鵜ノ山の中心、彼らカワウの根拠地です。まんなかに低い田圃の帯を挾んで、左右の松山の斜面が上から下まで、まるで雪の積もったような真白な風景です。その白いのはウの排泄した糞ですが、入口で読んだ立て札に年産十五万貫とありましたから、メートル法に直すと五十六トン以上にもなりましょうか、何にしても大変な量です。そして昔はこの糞を金に換えて、小学校を建てたと言います。彼らの住んでいる松の林がすべて枯れ、藪も下草も育たないのは無理もありません。
 その真白な衝立ついたてに、隙間もなく黒い短冊を掛けたように見えるのがウです。彼らは半ば枯れた松の木のてっぺんや、左右に張り出した太い枝に目白押しにとまって、じっとしていたり、長い翼を半開きにしてばたつかせたり、「ゴア、ゴア」と聴こえる暗い濁った声を発したりしています。その中には巣を作ることに懸命なのもいるのでしょう。望遠鏡で見ると、その巣はすべて木のてっぺん近くに懸けられているようです。一体どのくらいいるのだろうかと思って、片方の腕をまっすぐに前へ伸ばして指で輪を作り、その中へ入る鳥の数をかぞえ、そしてその輪を少しずつ移動させながら極めて大ざっぱに計算したところでは、何と二千羽を越えています。おそらく実際にはそれどころではないでしょう。生気にみちたカワウの楽園、その一大繁殖地、まさに天然記念物たるに値する場所と言わなければなりません。
 聴くところによると、知多半島中央道という縦貫道路の開設が計画されていて、その道路がこの鵜ノ山のすぐ東を通ることになるのだそうです。カワウは新しい環境への適応性に乏しい鳥だと言われていますから、もしもそうなったら絶滅の一途をたどらなければなりますまい。気の毒でもあれば惜しいことでもあり、かけがえのない我が国の自然の富がそれだけ失われることにもなります。縦貫道路とは言っても、何も直線を引いたようにしなくてもいいでしょうから、ここだけ大様に迂回するぐらいな工夫があってもいいのではないかと思います。

     *

 うっすりと曇った午後の四時すぎ、伊勢湾に面した内海うつみの海岸です。海が遠浅で波もおだやかなので、夏は海水浴場として大変賑わうそうですが、二月の今はひっそりと閑散で、聴こえるものはただ小さく柔らかに織り返す波の音、画のような波打ち際に群れているチドリの声ぐらいなものです。そう言えば、ここは、千鳥ケ浜とも呼ばれています。驚かしてはいけないと思って、少し離れた処から望遠鏡でうかがうと、みんなシロチドリです。
 砂浜に打ち上げられた貝殼は、拾い上げて調べると、白っぽいハマグリだの黒いイガイの仲間で、たいていまだ中身が詰まっています。しかし貝そのものはもう死んでいるので、嗅いでみると磯臭い、少し悪い匂いがします。そしてこういう色々な種類の貝類や海藻の類は、浜辺の砂の上に満ち潮や引き潮の残して行った何段ものきれいな縞模様に沿って、遠くの方まで曲線のデザインのように並んでいるのです。
 その砂というのがまた白くてきめがこまかく、いくらか粘り気もあるのか、少し湿ったのを握って固めると、そのままちゃんと手の裏の形を残して崩れません。毎年の夏、この海岸で、砂の彫刻の競技会が催されるという話が思い出されます。そして、なるほどそのせいか、今も夕暮の浜辺に五、六人の子供が遊んでいて、その砂で大きな団子をこしらえて並べています。しかも女も一人まじったその子供たちが、みんな砂の上に行儀よくきちんとかしこまっているのには、驚きもし感心もします。
 もう五時です。お寺の多いこの海辺の町に、夕べを告げる鐘の音がひろがります。うっすりと曇った空も、ぼうっと霞んだ海もたそがれてゆきます。私の心もたそがれます。しかしチドリの声はまだ聴こえています。

                             (一九六六年二月)

 

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