詩人の風土 (単行本バージョン)

           昭和17(1942)年6月20日 三笠書房(現代叢書28)


   「詩人の風土」は「尾崎喜八詩文集第5巻 雲と草原」(昭和34年)に掲載されていますが、
   昭和17年刊行の単行本「詩人の風土」から一部抜粋し、改変が加えられています。
   ここには、単行本と同じ内容で作品を載せています。

   目次のタイトルに が付いているものは単行本にのみ掲載されている作品です。
   
他は、自序にもありますように、単行本「山の繪本」昭和13 年、単行本「雲と草原」昭和13 年にも
   掲載されています。
   なお、冒頭の2篇(タイトルに★)は「魂、そのめぐり会いの幸福」(没後の昭和54年)にも掲載されました。

   単行本に添えられた10枚の写真についてはタイトルのみ、目次の下に表記しました。

   ※ルビは「語の小さな文字」で、傍点は「アンダーライン」で表現しています(満嶋)。

 目 次: 

  自 序      
         
  昔の土地      
  遙な空の下から 樹下の小屋にて 夏     
  やはり野に置け 新アスレチック 其 頃   
  ブランデンブルグ協奏曲 或友に     
         
  我が流域      
  一日の王 ハイキング私見 秩父の牽く力  
  ノルウェイ・バンド こころ  橡の實   
  信濃乙女 べにばないちご 春     
  岩雲雀  泉    信州峠   

三城牧場

大菩薩嶺

小手指ノ原

春の帰途

高原の朝

通過列車

夏が又来た

かんたん

旅への祈

單獨登山

山に向かふ心

日本の山をとこ

  浮ぶおもかげ 荒凉への思慕 早春の雨の夜  
         
  身辺の光耀      
  自然觀察の悦び 停留所の自然界 雲     
  草取りの植物學 天氣圖の放送 森林について  
  初夏の田園 文化映畫雜感    
         
  寫眞目次 註:寫眞は掲載していません(サイト管理人)  
   梓山の宿にて(堀内讃位氏撮影) イヌシデの若葉(著者撮影) 上高井戸風景(著者撮影)   
   奥秩父にて(堀内讃位氏撮影) 朝の槍ケ嶽(著者撮影) 新綠の谷(著者撮影)  
 

 春の雪(著者撮影) 甲州德和の里(著者撮影) 秋の日(著者撮影) 大根を洗ふ人々(著者撮影)

         

                                     

 

 自 序

 大正十三年から昭和二年頃までの舊作と、昭和十三年から十六年までの新作とを集め、其間へ𣪘刊の「山の繪本」から三篇、「雲と草原」から六篇、いづれも比較的短いものを拔萃挿入して此本を編んだ。かうしないと舊作と新作との間に十年ばかりの空白が出來て聯絡が面白くないので、前記の二冊を持つて居られる諸君には甚だ相濟まぬ譯であるが、寛容を期待しつゝこんな風にした次第である。
 最近四年間の新作にしたところで別にどうといふ事はないが、舊作はそれに輪を掛けたやうな恥づかしい代物で、實は此本に入れる事さへ憚られたのであつた。然しどうせ一度は世間の眼前に曝した以上、今更消すにも消されぬ古傷だと思つて一思ひに載せる事にした。それにしても「遥かな空の下より」や「樹下の小屋にて」のやうな物が東京朝日新聞などに連載されたのだから、いくら二昔前だとはいへ過分な待遇を受けたものだと思はずにはゐられない。尤も其頃同社の文藝部には中野秀人君が居られていろいろと親しくして頂いてゐたから、無論同君の推挽や斡旋が働いてゐたには違ひないのである。詩集「高層雲の下」、「曠野の火」、それに「行人の歌」の前半等に集まつてゐる詩がすべて其頃の作品で、謂はゞ私の最も多作の時代であつた。遠い幼い來し方の思ひ出。「昔の土地」とはそんな感慨から附けた題である。
 「我が流域」と「身邊の光耀」とは、武藏野での半農生活を疊んで前記の「山の繪本」と「雲と草原」とを書いた以後、いろいろな新聞雜誌から請はれるままに筆を執つた随筆や自然觀察記などの一群である。此中には元の表題を變更した作品が二三あり、また訂正、削除、加筆等を施した部分も少しはあるが、先づ殆ど原形のまゝである。然し我が流域などとは云ふものの、搖ぎ無き物と信じてゐる自分の土地の何處かに一朝不慮の變動でも起れば、此の流域も決して變らないとは云へないのである。してみれば之もまた一人の人間が或時間内に殘した極めてかすかに踏痕に過ぎないかも知れない。又さう思つて讀んで頂くよりほかに此本を編んだ言譯も、本自體の取柄も無ささうに思はれるのである。
 題して「詩人の風土」といふ。然しこれも實は「詩人の風土」とする方が本當であるが、テキスト ボックス:
それでは字面が面白くないので斯うした迄である。一箇の詩人の詩が其處から生れる生活感情や生活の環境は他の詩人のそれとは明かに違ふ筈である。それで風土といふ言葉をさういふ意味にとつて頂ければ本望である。
 十枚の寫眞のうち二枚は友人堀内讚位君の撮影にかゝるもの、他の八枚は著者の自作である。自作はいづれも拙いものばかりであるが、たとへ幾らかでも著者の風土の匂を感じて頂けるならば之また望外の仕合せである。

     昭和十七年四月
                   東京西郊井荻にて
                        著 者 識

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 昔の土地

 

 遙な空の下から

 東京を三里離れた田舎へ此の小屋を造つてから、もうやがて四月よつきになる。三町歩なにがしの畑の片隅に雜木の薮や櫻林を背にして立つ此の家が、寂寞とした武藏野にむかつて其の厚い板戸を開いてゐた頃、晝間は白壁の破風を染める一月の冷めたい薄赤い日光の中で、よくじやうびたきが鳴いてゐた。すべての樹々が葉をふるい、「すべての梢の上に靜けさがあり」、遠い空のセルリアンの色にまみれて錯落たる枝ばかりが微かに煙る野の冬景色は、けだかく美しくありながら又森閑と寂しいものであつた。かういふ毎日、外界との交渉としては主として我家のまはりの自然に生き、内部の世界では殆んど常に詩作と讀書とに生きて深く己れ自身に沈潜してゐた。そして其頃受けとつた瑞西のロマン・ロランからの手紙を幾度か心の糧のやうに讀み返した。いつものやうに長い親切な手紙にはこんな一節があつた。
「此處は雪と太陽です。太陽の熱が冷めて來るや其の光は一層美しい。然し其の光はもはや些かも音樂的ではない。精神に於て殊にそのとほりです。精神を引立てて呉れるものは内心の夢想のほかに無い。私は別の生活を生きてゐる」
「ジャン・クリストフ」や「魅せられた魂」の作者からの此の美しい手紙は、それ自身「夜が晝に續くやうに悲哀が歓喜に續く」と云ふ老ヘンデルの言葉や、又あの「パセティック・ソナタ」のアダジオ・カンタビーレに共通する悲しみと喜びとを立ち超えた、大いなる落日と其の夕空の色のやうな深さを私に思はせた。
 かうして冬に曝露した野の一軒家で、晝間は仕事と夢想とに己れ自身と語り、長い夜は又ランプの下でカール・ヒルティやアミエルを讀みながら、來るべき自然の春と精神の飛躍とを私は待ち望んでゐた。

 あゝ然し、恩寵深き自然よ! 若々しい春はすでに菜園や小徑や水のほとりから笑ひはじめた。靑やかな大氣を彩る梅の花は空間にちりばめられた春の胸飾だ。麥畑の綠の床とこから翔け昇つて、天空の高みに囀る雲雀の歌は春の使信だ。いちはやく空色の花の點々とする、若草にふちどられた堤の間を小川の水は滿々。其の豐富な水量と其のたゆたひ流れる姿とが、私の心をも豐富にし、自由ならしめる。此頃漸く私の口からも歌が洩れる。シューベルトの「滿潮」やシューマンの「最初の綠」などが。さうして昔希臘の子供等の歌つたといふ「燕來ぬ。燕來ぬ。樂しき季節と喜びの年とを齎して燕は來ぬ」といふ其の季節が、もはや目睫の間に迫つてゐる事を感じるのである。

 此のやうに自然の再生の時が刻々と確かになつて行くので、私達は、私と妻とは、色々な計畫や準備のために、忙しい。われわれは新婚の甘やかな期間を出來るだけ早く切り上げて、一層確乎とした生活の礎を築くことに力を合せる。蓋し人間は能ふかぎり速かに變り易いものから脱却して、能ふかぎり熱心に不變のものを求むべきだからである。虚飾や安逸の流砂の上に立つ快樂の場は、人生の眞の意義を知る者にとつては不安のほかのものではない。此點で「いつかは亡ぶべきあらゆる物から離脱し、われわれ自身をたゞ絶對にして永遠なるものにのみ純粹に結びつけ、且つ殘餘のものを一の貸借物、一の用益權として享受する事を學ばねばならぬ」といふアミエルの言葉は全く正しい。然し此の殘餘のものを識別してこれを捨離することは、われわれに多くの明知と更に一層大なる勇氣とを要求する。又然し此の困難を克服してこそ、「世間的の成功の道は私に閉されても、ヒロイズムの、道德的偉大の、また忍從の道の、私の眼前に開かれるのを見る」にいたるであらう。

 今日は私達の夏と秋との光輝のため、また私達夫婦の自給の生活のため、草花の苗床造りや、畑の麥踏みや除草に午後の大部分を費した。雨上りの土壌はいちめんに陽炎を立てゝ、日光は平和な田園に溢れてゐた。遠く薄靑い霞の奥に夢のやうな富士、丹澤、道志、秩父の山の波。赤や綠にけぶる林の芽立ち。我家の窓の前で南の風にそよぐ樫の葉。そして折々は空をよぎる春の雲の、玉菜のやうな、アカントのやうな、帆のやうな優しいいろいろ。雲雀はたえず遠近の畑から舞上つて眩しい空の中程で歌ひ、かぎりない靜寂の中にかぎりない賑かさと輝きとを播き散らした。
 夕ぐれ近く仕事は終つた。去年の暮から今年にかけての宵の明星ほど艶やかな明星を見た事はないが、其の明星を眺めながら泥まみれの手足を洗つた。神聖な、深い、牧歌的な幸福の感情が私達夫婦の胸を滿たした。そしてやがて二つの小さな部屋にランプと蠟燭のともされた時、陶器の壺に盛られた沈丁花と連翹の花が、四面の夜の中で此處だけは明るい我家のさゝやかな食卓の上の、それが唯一の春であつた。

 夜、それも食事の後、私は必ず二つ三つの歌リードを古いオルガンを彈きながら歌ふか、さもなければ蓄音器を聽く。そしてベートーフェン、モーツァルト、ヘンデル、バッハ、シューマン、シューベルト、ヴォルフ、ベルリオーズ、ドゥビュッシー等の世界を遍歷することが、私達の毎夜の喜びである。
 今夜は久しぶりでベートーフェンの第七交響曲のフィナーレを聽いた。あのアレグレットの限りもなく美しい氣高い歌と、あの精力に滿ちて噴きこぼれるやうな威嚇的なプレストーの次に來る言語道斷な音樂である。卽ちアーサー・シモンズが「若いハーキュリーズのやうに面白さに溺れた、大きな、明けつぱなしな、粗野な、豪い物」と云つた、あのアレグロ・コン・ブリオである。魂を吹き拔けて行くやうな、又全心靈、全感覺を貫いて痙攣させる電流のやうな此のとめどもなく繰出される音樂を聽いてゐると、私は大概の藝術の小を感じる。他人がどう思ふだらうなどといふ事は全く問題になつてゐない。ベートーフェンの生命自體に於ける最も根原的な、最も地底の岩盤的なものが確乎として把握されて、それが氣散じ氣儘な跳躍をしながら、しかも陸離たる光彩と絶大な釣合とを保つて、宇宙的なリズムに振動してゐるやうに思はれるのである。
 かういふ音樂の實際の演奏を容易に聽くことの出來ない現在の日本では、一般の音樂愛好者にしても、また音樂といふ精神の栄養物をもはや欠くことの出來ないわれわれにしても、未だ當分は蓄音器の恩惠に俟たなくてはならない。チエホフは何處かで蓄音器に對する彼の嫌忌の情を露骨に表明してゐたが、それは露西亞のやうな立派な演奏者や管絃樂團を持つてゐる國でこそ納得の出來る言葉であつて、少くとも我國では今後尚二三十年ぐらゐは此の不思議な函の厄介にならなければなるまいと思はれる。
 それに就いて思ひ出すのはあのタゴールの言葉である。彼はその「詩人の宗敎」の中で、月の世界から來た人間が初めて蓄音器で音樂を聽いた時を假定して、科學的現實と想像的現實との關係を説いてゐた。
「もしも月の世界から來た人間が一箇の詩人であるとしたならば、(勿論こんな假定が正當に成り立つものとしてゞあるが)、彼は其の凾の中に幽閉されてゐる一人の妖精について書くであらう。佗びしげな仙境の荒海の波の泡の上に開く、遙かな魔法の窓への憧れを告白する歌の糸を紡いでゐる妖精についてゞある。これは字義的には眞實ではないが、本質的には眞實である。物其物としての蓄音器はわれわれに音響の法則を知覺させる。しかし音樂はわれわれに個人的の友愛關係を感じさせる」
 一枚の廉い三色版の繪葉書も、すぐれた詩人の想像の世界では立派に自然の形象となる。セザンヌは色褪せた造花からでもあの不朽の靜物を描き得たのである。
                          (大正十三年四月東京朝日新聞)

 

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 樹下の小屋にて

 五月が來て私の小屋はこんもりした靑葉若葉にかこまれた。太陽はいよいよ高くなり、日はいよいよ永くなり、仕事場の机の横、窓枠に射そゝぐ日光はもう殆ど暑いほどだ。柔かな新綠のあらゆる色階と、綠つぽいコバルト・ブルーの大きな空と、琥珀色の陰のついた雪白の雲との對照は――寧ろ平遠な野の風景との其の溶け合ひは、――一年のうちでも確かに初夏の季節獨特の調子トーンのやうに思はれる。さうして斯ういふ花やかな、ふつくりした、無限の表情と旺盛な潜勢力とを持つ自然を日毎眼の前にしてゐると、今更のやうに繪の描けない自分を殘念がらずにはゐられない。
 だが音樂に對する強い愛と、云ふに足りない程の才能とが、それでも繪畫による表現への私の絶望を幾分なりと緩和し、或時の不活潑な精神を刺戟してくれる。私の音樂は殆ど獨學である。又私の樂器といふのは𣪘に其の靑春を過ぎた一臺の古いオルガンである。けれども物皆光り輝いて、靜寂の弓の絃に支へられてゐるやうな此の初夏の眞晝時、明け放たれた窓から吹込む麥畑の風をうけて、あの「五月の歌マイリード」や「マルモッテ」の快活な歌に、ともすれば快い安逸に落込む精神の想像的機能を振ひ立たせる事も出來るのである。
 故ケーベル博士の「續小品集」を讀むと、ときどき「會話辭彙」といふ物に就いて書かれた箇所に遭遇する。故博士の小品集中に散在して、あの精緻な思考と思考とをつなぐ鎖の役目をつとめてゐる獨特に美しい挿話の一つであるが、博士が肉體的にも精神的にも一種の懈怠を感じて、頭は空虚になり、考へることにも書くことにも全く氣が向かなくなつた時、何か一つの思想を漁り出して其れに取りつくため、且つ堪へがたい凝滯の狀態から脱するため、手近かにある書物をめくつて見る事によつて外部からの刺戟をうけ、不活潑な思惟を喚び醒まして、再びそれを活動させるといふ暗示的な話である。さうして博士は次のやうなゲーテの格言詩を引用してゐる。

  會話辭彙と呼ばるゝは宜なり
  會話が旨く進まぬとき
  何人も
  之を會話のために利用し得ればなり
                   (久保勉氏譯)

 さうして此の「會話辭彙」といふのは獨逸の百科辭典を指すのであるが、ケーベル博士の場合では「別にの一定の事項を調べる積りではなく、單に精神の元氣を恢復するために少しばかりの食物を求めるに過ぎないやうな時」に、會話辭彙そのものよりも「容易に、否一層よく其の代理を勤めることの出來る他の書物」なのである。
 さうして私の精神の弛緩に一つの活動的な刺戟を與へるもの、わけても漠然と表現の火を求めてゐる詩想に對して引火の機緣となるもの、畢竟私にとつての會話辭彙、これは多くの場合音樂である。
 敢て告白すれば、私は現在の日本の詩や小説から殆ど何等の刺戟も受けない。多種多樣の、實に多くの詩人や小説家の作品をかなり辛抱して讀みはしたが、昨今では自分の精神や思想に潑溂とした強い作用を受けるために取り上げるに足りる文藝作品は暁天の星のやうだと思ふやうになつた。これは極めて我儘な、一個人的な頑固な偏執、かたよつた趣味好尚によるのであらうか。或はさうかも知れない。然し或種の詩人にとつて音樂や美術のほうが、大正年代の日本の大概の文藝作品よりも好剌戟になつたといふ事實は、之を書き殘して置く價値があるかも知れないと思ふのである。

 新綠の朝がめざましくも明け放れる。一日の旅に鹿島立つ朝日がむかうの高い松林を貫いて、靑い朝霧に醒めやらぬ畑の上へ光明の千の矢を投げる。窓から流れ込んで眞直ぐに仕事場の白壁にあたる日光は、靜かに、若々しく、薔薇色をしてゐる。急にあたりが賑やかになつたかと思ふほど賑やかになる。急に自然が歌ひ出したかと思ふほど家の周圍に歌がはじまる。それは五月の靑葉のこんもりした塒で平和な一夜を眠り足りた小鳥たちの朝の囀りである。頬白、四十雀、河原鶸、雲雀、雀、さては鶫。獨唱、合唱、旋律、ヴァリェイション。その精力的な、高らかな、淸い婉囀が、至福な初夏の朝ぼらけをどんなに活氣づけ、また豐麗にする事だらう。それは「オルフォイス」の舞曲の比類である。またベートーフェンの第五コンチェルトのアダジオの比類である。この自然の音樂會をもつとよく聽くために私は毎日早朝の森へ行くが、しとゞの朝露に濡れながらたつた一人で享樂する鳥たちの音樂會は、私の精神と肉體とに眼に見えぬ効果をもたらして、其日一日の仕事に種々の好い影響を與へるようである。
 此の毎朝の音樂會は未明の頃から午前八時近くまで續く。太陽は光あふれて正午の天へ推し進み、雲の群はもう夏らしく地平にまろび、野に光耀はかげろつて堂々たる眞晝が來る。小鳥はしかし遙かに少くなる。凉しい夕暮の時まで殘つてゐるのは閑散な雀と雲雀ばかり。時々河原鶸の甘えたやうな「ビー・ビー」を聽くが、此の季節の名歌手の群は夕方まで歸つて來ない。今よりも若かつた頃少しばかり俳句をやつてゐて、「囀りて囀りてうつろになる樹かな」といふ誰やらの句を好きだつたが、あれほど盛んであつた鳥達の歌がいつのまにか減衰して、やがてしんとした風景ばかりが殘るのを見てゐると、圖らずも其の句を思ひ出すのであつた。
 眞晝がおちこちの林に金剛石いろの霞をかける時、よくのかはせみの飛翔を見かける。さういふ時思ひ出すのはホイットマンの「自選日記」の一節である。あの長く、太く、鋭い嘴と、所謂翡翠色の背や翼と、栗色の胸と、あの直線的な飛び方と、飛びながら殘して行くきつぱりした金属的な聲と。彼等は此の附近の崖緣に巢を營んでゐて、田園の小川で漁をするのである。さうして眞晝の深い靜寂に支配された綠と日光との風景をよぎる彼等の姿は、いつも私に或る神祕的な感じを催させる。
 植物にせよ、小鳥にせよ、又昆虫にせよ。私は其の姿を見て其の名を口にし、其の名によつて其の姿を思ひ出せるやうになりたい。それは彼等と一層親密な關係に入りたいが爲である。星にしてもさうである。夜の宇宙に闌干と輝く天體を、スピカ、アンタレス、ヴェガ、アークトゥルスと呼び得てこそ、あの測り知られぬ永遠の奥に、われわれは尚幾らか餘計に親密の情を通はすことが出來るのである。無知は無緣の兄弟である。愛する事によつて一層よく理解し、理解する事によつて一層深く愛する事を學ぶのは、幸福の最も靜かな又最も純なるものではあるまいか。
                           (大正十三年五月東京朝日新聞)


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 夏

 私は何といつても結局一箇の大地主義者らしい。私は海を愛し、海を讃嘆する者だ。しかし海の持つてゐるあの偉大な單調さと、あの突然の變貌と、どうしても人を支配せずには置かないあの底知れぬ力を持つた命令的アンペラチブな感情とは、到底永く私の堪へ得られないところのものだ。私は、海の岸邊や、あの無限の水の廣がりに近く、自分が定住できない事を知つてゐる。海洋の風貌や氣魄を愛しながら、いつもそれを見るたびに充分強く魅惑されながら、結局それに自分の生活を結びつける事の出來ないのをよく知つてゐる。愛する事と住む事とは又おのづから別問題である。
 かういふ私は武藏野に住んでゐる。私はこの平野の或る村落の中、森と畑との間に住んで、大地といふものがどんなに深く自分に交渉して來、どんなに親しく自分を悦ばせ、又どんなに無量な滋味を魂に與へて呉れてゐるかを思はずにはゐられない。私はこの大地の土に自分の生活を任せ切ることが出來る。一年のあらゆる季節を通して、其處に照る太陽、其處に波打つ大地、また空を流れる雲、草木や花、畑の作物、小川の流、其處に棲む鳥獣蟲魚、それからあの輝く風と廣大な夜の星と――それらのものに、その深遠な存在の意味に、全く傾倒し没入する者である。

 武藏野の路を歩いてみたまへ、もしも出來れば同じ路を、一度限りでなく、幾度も幾度も歩いて見たまへ。さうすると、だんだんに、此の平野を縱横に貫いたり、縫つたり、かゞつたりしてゐる數知れぬ路といふものから、路の美を、路の敎訓を、路の意義を、知らず知らず會得して、遂には彼等を愛し、彼等に深い信賴をおかずには居られなくなるであらう。古い甲州街道や靑梅街道、川越街道や五日市街道。幾丈の欅や樫や杉でその兩側を飾られた、物惜しみのない、けちけちしない、空氣のたつぷりある、何處までも何處までも飽かず歩いてゆきたくなるやうな、堅固でおもむきの深い其等の路。それから宿と宿とを點綴してゐる第二位の府縣道。又もつと幅が狹くつて、しかもこれこそもつと興味のある、そして武藏野獨特の何千と云ふ村道。防風林の蔭を通つたり、石橋を渡つたり、高臺の畑の中を行つたり、藪に被はれた小川に沿つて進んだり、秋の林や冬の掛稻の間をぬけたり、まがりくねり、ゆるやかに曲線をゑがき、いつも決して單調を感じさせない無限の變化に富んだ其等の村道。人は此等の路を眞に愛する事で、何かしら恒久不變なものゝ美を學び知るだらう。そして實にかういふ路こそ、何時の世からか人間がその必要の要求によつてつけたものであり、しかも強ひて直線の最短距離をとる事をせず、よく自然に順應して、素直な、鷹揚な、ゆつたりした心で、人と人とを結びつけたものである。それは未だ彼等の純朴を汚されなかつた昔の田舎の人たちの思ひ出であり、今もすつかりは亡びずに殘つてゐる彼等の俤である。これを尊敬しよう。これを愛さう。そしてこれを理解して色々な事を學びとらう。

 田川の水路はいかにも鄙びてゐる。大磯や鎌倉や逗子や房總諸海岸の海水浴に比べて、此處には又別種の味がある。これはやつぱり路と同樣に、まがりくねつて田甫の間を流れる小川での水浴である。河骨、とちかゞみ、品字藻。白や黄や薄紫の版を水面から抽いて咲く水草が、少し濁つた、ぬるぬるした川底を持つ小川を夏の日の飾りのやうに被つてゐる。これが村の子供達の唯一の水浴場である。そして私にとつても亦。
 夏の初め、六月が過ぎると、私は裏の田甫を流れてゐる神田上水のふちへ降りていつて、水面を被つてゐる前述のやうな水草を鎌で刈る。もちろん素裸になつて水に浸かりながらである。それから七月八月の炎天の日、森や林や、家のまはりの木立の中で蟬の歌が降るやうなまつぴるま、私はそこへ出かけて水を浴びる。川幅は極めて狹い。僅か一間かそこらである。私は半町ばかりの處を幾度か上下して興がる。ほとんど無人の境。眼に映るのは、襦子のやうな底光りする靑空と、暑い正午の太陽と、丘と林と、薄紫にくすんだ遠景とだけである。時々華麗なかはせみが矢のやうに日光の中を飛ぶ。私はくたびれると草の上へあがつて瓶詰めの番茶をのみ、煙草をくゆらし、又寝ころんで本を讀む。この樂しい武藏野の夏の行樂は、永く私のものとなつて止める事が出來ないだらう。多摩川での水泳には又全く違つた興味がある。あそこで人は泳ぐと云ふよりも、水煙にきらめき人聲に沸き立つ夏の水邊の、しかも高い廣大な空の下での、あの素朴で無邪氣な賑ひの健康な時間を味はふのだ。
 神田上水、井の頭の池、善福寺川。私は此等の川のいたるところで、炎天の日日、私と同じ悦びに夢中になつてゐる小供の群をいつも見る。

 梅雨の初めの濕めつぽい曇空がからりと晴れて、今日は如何にも夏らしい光り輝く日だ。
 朝のうち、もう華氏の八十度まで昇つた暑い仕事場で昨日から考へてゐた詩を一篇書き上げる。二枚ばかりの短いもので、別にひどく苦心もしなかつた。自分では氣に入つたものになつた。それから毎日の日課のやうにしてゐる飜譯。
 花々しく野に照りそゝぐ日光はひどく暑いが、仕事の窓へ吹き込む南西の微風は凉しい。もうかなり黑ずんで來た靑葉の雜木林をこえて、六月中旬にしては珍らしい雪の富士と、日の當つた丹澤や秩父の山塊が見える。あゝ山、今年こそ山登りをしよう。私の狹い部屋の壁には、ルツクサックや、飯盒や、水筒や、望遠鏡や、採集胴亂が、山を夢見て懸かつてゐる。八ケ岳、槍、穂高、燕、天の下に聳えるそんな山の名が一つの幻想となつて、夏の遠方から私を呼んでゐる。
 正午頃、一日一囘の郵便が來た。その中に書留が一つ、書籍便。差出人はシャルル・ヴィルドラック。場所はハルピン。包みをあけると一冊の詩集『愛の書リーブルダムール』が出て來た。それでは五月の末に此の家へ遊びに來た時、巴里へ歸つたら早速送ると約束した此の本を、ハルピンの本屋で見つけて、一日も早く私に讀ませようと親切に送つてくれたのであらう。そして今ごろはもう西比利亞鐵道で、佛蘭西へ向つて歸國の途を急いでゐるであらう。私は日本武藏野の片隅から、あの親切な友、あの親しいシエール オンクル・ヴィルドラックに、遥かに手を上げて御禮を云ひたい氣持になつた。その詩集の最初の白紙には、
 「その毎日の生活を一つの美しい自由な愛の詩たらしめてゐる私の友等、キハチ・ヲザキ、ミツコ・ヲザキ、及びヒサエ・ミヅノに。彼等の叔父シャルル・ヴィルドラック」
と佛蘭西語で書いてあつた。妻や義妹の喜は云ふまでもない。彼女等は、一人は畑で草とりをしながら、一人は井戸端で洗濯をしながら、親しいヴィルドラックの事を、今更のやうに思ひ出してゐるやうだつた。彼女等は、あの詩人を心から尊敬し愛した。出來るだけもてなしをしてあの詩人を悦ばせた。そして彼も亦、この日本の田舎に住んでゐる若い女等を、あの美しい『みつけもの』を書いた人にふさはしい愛の心をもつて愛した。私はこの神聖な友情に頭を下げる者である。
 午後になると、時々、大空へ雲が出た。まつしろな、緣の亂れた、ぴかぴか光つた、白鳥の翼のやうな雲が現れては又いつの間にか消えた。それが如何にも夏らしい。天空のこの無音の音樂。この音もない動亂。それが、今年の夏の異常な暑さを今から豫想させる。かはせみが一羽、二時頃の眩ゆい風景の中を飛んでゐた。下の田甫へ降りて漁をしてゐる鷺の聲が時々。雲雀の歌は絶間なく。そして極めて稀に、ひどく遠くでか又思ひの外近くで、あの晴朗な郭公の笛。
 飜譯の仕事を終わつてから、水筒へ珈琲を詰めたのを肩からぶら下げて、ヴィルドラックの詩集をポケットに、田甫の向ふの丘の林へ行く。田の土をほぐしてゐる百姓の姿が點々と見える靜かな田甫の間を、井の頭の池から湧く神田上水の流が、野薔薇の白い花に飾られ、河骨の黄の花を浮かせて、東へ東へと、うねりくねつて流れてゐる。遙か東方、三里の向うは東京だ。その東京の空に、折からすばらしい雲の峯が聳え立つて私の眼をうばつた。下の方はくすぶつた銅色をし、頂は白暟々と天空に積み重なつて、その巨大な雲の塊りは、夏の眞晝の悲壮な詩を平野の一方に湧き上がらせてゐた。
 丘の大きな松林でのヴィルドラックの讀書。「大きな白鳥」と「宿屋」と「訪問」と。此等の長い堂々たる詩篇は、普通日本で簡單に理解されてゐる此の詩人をその自由な、高貴な、又實に偉大でさへある彼の藝術の本質的價値で、もう一度理解し直させるものである。
 凉しい風に滿ちた林の中、ちらちら見える初夏の空、人つ子一人ゐないこの林中での讀書。私はもう一度魂の底から力づけられて、自分の藝術に信念を持つた。
 夜。星の夜。窓の正面の南の空には、蝎の大星座が躍り上がり、少し東へ廻つて「水瓶」が美しく傾いてゐる。私達家族の者は、二つになる娘が寝てしまふと今日一日の出來事や感想を長い間話し合つた。ヴィルドラックの事が主な話題だつた。
 再び私は夜の仕事場へ。女達は座敷に居殘つて讀書や手紙書き。夜は中々更けず、沈默の賑かさが平野を領して、星の壮麗は時間と共に增すばかり。

 毎日の旱、毎日の來客、次から次へと書きたい原稿、書かなければならない原稿。生活は多忙で、生活は苦しい。讀書も散歩も思ふやうには出來ない七月を、雜草ばかりは私の畑で思ふがまゝに繁つてしまつた。
 「草をとらなくては」これが私達夫婦の、口に出さない時でも氣に病んでゐる仕事であつた。
 或朝、出入りの酒屋が來て、歸りがけに「お宅の畑も大分草が生えましたね、早く拔かないと實を結びますよ」と云つた。私達はびくんとした。
 「今日は何を止めても草とりをしよう」その朝の食事の時私は妻に云つた。
 「だつてあなたは仕事があるんでしょ。私一人でやりますから、あなたはお書きなさいよ」
 「駄目だよ。そんな事してたら大變だ。もうよそでは大抵とつてしまつた。家の畑ばかりだ。生えつぱなしなのは」私達は飯を食ふと直ぐに仕度をした。
 頭のいゝ朝、書きたい詩の一つ二つは有る朝、また妻にとつては洗濯物のたまつてゐる朝。その朝を犠牲にするのも生活だ。
 「梨の木を接げよ、ダフニス。
 汝の孫らその實を食はん」である。
 夫婦の者は次第に暑熱の昇つてゆく炎天の畑で、受持の場所をきめて草拔きにとりかゝる。土中深く張りまはした雜草の根、薩摩薯の蔓にからんでゐるかなむぐらの蔓、忽ち吸ひつくぶよ、直ぐにふくれる腕や足、帽子の下からたらたら流れる汗、泥ぼつけの手。仕事は苦しい。その苦しさを忘れるためには夢中になるより仕方がない。
 「おい。ずゐぶん生えたなあ」
 「えゝ、こつちも大變ですよ。だけど早く片付けてしまはなくてはね」
 「うん」
 拔いた部分を振り返つてみると、まだ案外はかどつてゐない。行手は目にあまる草また草。
 「厭になるなあ」
 「なんです、ぶよですか」
 「うゝん、草が多くつてさ」
 「えゝ、一寸の暇を見て少しでも拔いておけばよござんしたのにね。でも一生懸命にやつてる内には、いつの間にか片付いてしまひますよ。それよりぶよがね。これにや閉口よ」
 「うん、俺もずゐぶん食はれた」
 「あたしもう七カ所ですよ。あら、又! ほんとにしつつこい人ね」
 妻は人間に物を云ふやうに、眞白な脛に吸付くぶよを泥だらけの手の平で叩きつぶしてゐる。
 それから再び沈默の時がつゞく。私はいつの間にか、今ごろはどこかの山の溫泉地で、駒鳥の鳴く深い森の中を歩いてゐる友の事を考へる。Tはそこから葉書を呉れた。此の夏は詩集一冊ぐらゐの詩を書くつもりだと彼は書いてよこした。また房州の海岸へ行つてゐるSの事を考へる。彼も亦或る研究を書いてゐる。それがずんずんはかどつてゐるさうだ。それから自然の聯想で、夏の時の孤獨な心持を書いた、あの作曲家ベルリオーズの美しくも惱ましい叙述を思ひ出す。
 「心が靜穏な時でさへ、夏の日曜に私はこの寂しさを少しは感じる。吾々の都會(巴里)に生氣がなくなり、そして人々が皆田舎へ行つてしまつた夏の日曜にである。なぜならば、私は人々が自分から遠ざかつて樂しんでゐる事を知つてゐるし、彼等の不在を感じるからである。ベートーフェンの交響曲のアダヂオ、グルックの「アルセスト」や「アルミ―ド」の或場面、彼の伊太利式歌劇「テレマッコオ」の或る歌、彼の「オルフェオ」の中の極樂の野。これらはすべて私のこの惱ましさに幾分惡い打撃を與へる。しかし之等の傑作は、同時に一箇の解毒劑でもある。――人の涙を流させ、次いではその苦惱が癒されるからである。」
 草を拔きながら、樣々な思ひに漂蕩しながら、私の心がだんだん暗くなる。私を眼を上げて向ふの畔で懸命に働いてゐる妻を見る。愚痴一つこぼす事のない、明るく健氣なその心を感じる。そして、やがて私もあの苦しみの時代のジャン・クリストフと一緒に、同じベルリオーズの言葉で自ら慰めるのだ。
 「生活の困苦を超えて立上らうではないか。そしてあの名高い「怒りの日」の愉快な繰返しを、輕やかな聲で歌はうではないか」 夢中にならう! 夢中である事は精神の戸口に弱さを入れぬ事だ。また邪念の生長を防ぐことだ。突進せよ、汝の目標に向かつて、眞直ぐに、誠實に、眞劍に、不惑に。この生活を生きるよりほか吾々には道がない。
 「あゝ、やつと畦五本。でもだんだん奇麗になつてゆくから樂しみですわ」
 私の夢想を破つて、妻の元氣のいゝ聲が向うでした。さうだ。日は未だ午前だ。時間はありあまつてゐる。今日は一日をこの仕事にさゝげても惜しくはないと私は思つた。腕も足もぶよの傷口だらけ。しかし勞働の空氣は次第に完全に私を魅了して往つた。
                            (大正十五年七月及び八月現代)

 

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 やはり野に置け

 「百姓と結婚して呉れた方がいいね。畑の一つも持つてゐて、十把一からげといふ手合じやあなくつて、敎育があつて、悧巧で、獨立心と企業心とに富んでゐる、と云つた具合の若者を私は知つてゐるよ。田園の生活。これがほんとに美しい生活だ。穴一つなく、風をうけた帆のやうに張り切つた生活だ。そこに執着心が起こる。氣ままに暮らしてゆける……どうだい、氣に入つたかね」
 これはシャルル・ヴィルドラックの一幕物「巡禮」の中で五十歳になる文學者の叔父ドザヴェーヌが、氣性も心持も自分によく似た、十七になる姪のドニーズに云つて聽かせる言葉である。
 此頃の或日、私はこの脚本を讀みながら、叔父と姪との對話が此處まで來た時思はず微笑せずにはゐられなかつた。と云ふのは、ちやうど其日の晝前に、私の家ではトマト―の移植と菊の根分けとを終つて、私も妻も妹も、みんな半日の疲れを快く休めてゐたところだつたからである。それに私には今年やつと二つになる娘があつて、これが行末どんな者になるか分らないにしても、親としては、自分に出來た以上に自由な、善良な、しつかりした生活をさせたいと願つてゐるからである。そして相變らずの貧乏ではあつても、私は家族全體が「穴一つない、風をうけた帆のやうに張り切つた生活」を持ち續けてゆくやうにと、絶えず力づけ、はげまし、畫策してゐるからである。私は、昔クレテイの田舎でルネ・アルコスや其他幾人かの友人と「アベイ」の生活をしたといふ、此の魂の若さを持つ詩人ヴィルドラックを、自分に引き比べて愛さずにはいられなかつた。
 一體私の詩は、私のしてゐる生活からそのまま出て來るのである。私の主題は、何時でも、私の生活や信仰や、私の思想の生きた斷片である。主題をさういふ處に求めることの善し惡しは、それは信ずるところのある他人の自由な判斷に任せる。しかし私には其の外にやりやうが無いのである。それでないと私は大事な自分自身を表現する事が出來ず、自分の藝術に對して安心も喜も持てないのである。そして、――これこそ私にとつて一層重要な問題であるが、――それでないと、私の藝術が、私といふ人間の生活を鼓舞したり、高めたり、又創造したりして呉れないのである。
 私にとつて、私の藝術と生活とには畫然とした區別がつけられない。二つは互にまじり合ひ、互に交響し、時に何れか一つが他に先驅し、又時に二つが全く融合してゐる。從つて私は生活至上を信じなくては藝術至上を奉じられない者であると同時に、若しも假に自分の内から藝術家を取り去つてしまつたならば、一箇の生活者としての自己の一切の組織を、或はもう一度建て直さなければならないだらうと思ふのである。しかし假に此れを逆にして、もしも私が生活者として堕落するか信念を無くすかするやうな事があつたならば、それは同時に藝術家としての私の最後でもある。
 しかし有難い事に、藝術は私にとつて、いつでも私の生活の堅固な支へ、指導の美しい星である。
 私は思ふ、「トラヂック」の詩人ピエル・ジャン・ジューヴの言葉を。「藝術は、吾々の眼には、人間の限りなき立證であり、また一箇の人間が吾々に彼自身を示す最も美しい表明である。藝術は吾々にとつて、一の宗敎であり、フロベールが要求したやうに、美の祭典である。藝術は亦生命の源でもある。それは生命を永遠ならしめると同時に、それに先驅し、またそれを創造する……」
 出來るものならば、私は今やつてゐるやうな耕作の仕事をこの先も絶えず續けてゆきたい。尚出來るならば、私はもう少し地面も規模も擴げたい。私の年齢ならまだ十年や十五年は畑の仕事が出來ると思ふ。藝術の創作と、地面での勞働とを並行させてゆくのに、五十歳までは大丈夫であらう。或はもつと。しかしそれは分らない。
 現在私の畑で(二反歩の畑で)作つてゐるものは、豌豆、大根、馬鈴薯、甘藷、葱、蕪、苣萵、隠元、玉蜀黍、茄子、胡瓜、人參、トマトーなどの疏菜と、數種の草花とである。これだけの種類のものを、僅か六百坪餘の畑で作るのは、勿論自給自足の一端で滿足してゐる爲もあるが、一つには土地が足りないからでもある。自給自足と云へば、肥料に使ふ人糞も自分の家のを用ひてゐる。これも一切私達の手で始末するのである。天氣さへよければ、毎日の半分は裸足、泥まみれ、肥料まみれである。妻も妹も姉さんかぶりの尻ぱしよりで、これも亦裸足だ。
 雞も去年まで飼つてゐたのが、或る冬の夜中に野良犬に皆とられてしまつた。今度飼ふならしつかりした鶏舎を建てようと思ふので、金が出來るまでは手が出せずにゐる。しかしあの朝の雄鶏の聲をきかずに暮らす事は寂しい。
 米と麥は米屋から買つてゐる。これもやがて自分の手で作りたい。「穀物を作つてゐる位心丈夫な事はありませんな。日本の人は何と云つても穀で生きてゐるんですから」と、裏の江渡狄嶺さんの奥さんは或時私に述懷された。
 序に云へば、私は地主ではなくて、小作並の地代で借りてゐるのである。そして一年二期の地代を、その折々の何かの原稿料から拂ふと云ふ、かりにも百姓をしてゐる身分では理窟に合はない矛眉した狀態である。だが其れは先づどうでもよい。何と云つても、自分で作つたものを自分の口ヘ入れられるのは仕合せな事である。
 夏の朝早く、薄綠の靄の晴れる頃、畑の露にびつしより濡れてもいで來たトマトーを、ほんのり赤い朝日を浴びながら庭の緣臺で食ふ旨さ、新鮮さ、すがすがしさ。森のふちでは、もう鶫が透明な笛を吹いてゐる。高い立木のてつぺんでは、名高い我が高井戸の頬白が梅雨晴れの朝の歌を歌つてゐる。私はトロオかエマソンを讀む。ニイチエならば「悦ばしき智識」、トルストイならば「地主の朝」か民話、ストリンドベリイならば「海岸の岸邊にて」が好ましい。詩集ならばヹルアランの「全フランドル」か、ホイットマンの「草の葉」、音樂に關するものではシューマンの評論集か、ルービンシュタインの「音樂とその大家」の前半。でなければアミエルの「日記」の一二節か、「ジャン・クリストフ」の一二頁。しかし肝腎な事は、さういふ時の讀書には、それが何十度も繰返して自分に讀まれたものであり、中には暗誦してゐる箇所さへあるものであり、そして其れが爲に、朝の私の頭を甚だしく刺戟して來ない種類のものでなければならない。そして、ぽたぽた汁の垂れる取りたての卜マトー。すばらしく上等な朝の空氣。ひろびろした遠近の畑や森のながめ。また途方もなく大きな、滴るやうな靑天井!
 さあ! これだけが私の肉體勞働の生活のあらましである。嘘いつはりのない其の告白である。そこで私はよく考へるのだ。こんな風にして暮らす藝術家の友達が、自分の近所にもう一人か二人ゐたらどんなに樂しい事だらうと。私達はまじめになつて色々な計畫を持ち出し、相談し合へるのだ。互の生活を堅固にし、しつかりした土臺の上に据ゑ、健康に、樂しく、自信をもつて生きてゆかれるやうに樣々な建設をもくろむのだ。夜は一緒になつて讀書をしたり、音樂を聽いたり、又自分の作品を聽かせ合ふ事が出來るのだ。暇な時は野川の釣にもゆける。初冬の林で小鳥も捕れる。出來れば雜誌も作る。その中には、めいめいの生活からこんこんと湧き出した作品を並べる。無垢で、新鮮で、野性で、純粹で、強くて、限りなく優しくて、ぴちぴち跳ねてゐるやうな作品をだ。特別の小屋でも自分達の手で建てて、小さな印刷器械でもあつたらどんなにいいだらう。「草の葉」の初版のやうな、大きな、剛健な、生き生きして樂しい詩集だつて自分達の愉快な勞力から作り出せるといふものだ。一日一日がどんなに意味深く、生活がどんなに祝福されたものに感じられる事だらう。
 私は空想家か? しかし人間にとつて、彼の一生の時間は限られたものだと云ふ事を知らなくてはならない。イタリーの愛國者ジュゼッペ・マッチーニは云つてゐる。「理想のない時人間は腐る」と。まことに、人は自己の理想によつて生活を高め、絶えず前進する氣魄を持たなければならない。それでなければ自滅するか、早くして老衰するかだ。畫家ユージェーヌ・カリエールは云ふ「かくも美しくかくも短かい瞬間に於て、人間はその運命の主人である。彼は、慾すれば、自己獨特の天性を追求する事も出來、同種類のものの中に己れの俤を發見する事も出來、生の深遠な根據を認識する事も出來、或は外見の一時的な滿足を樂しむ事も出來るのである。詩人は眞正の道の意識を持つてゐる。彼等は、生命が吾々の勞作の途上に開いて見せるあの不可見の現實を知る人々である……」
 然るに現代の詩人と來ては、(皆が皆とはいはないが、)習慣に引ずられた、事情に左右された、或はもつと甚だしく、目的もなければ理想もない、倦み疲れた生活を續けてゐる、一の叛逆レヴオルトを自分自身に惹起しようとする意氣もなければ、奮發して生活を一變しようといふ勇氣もなく、本氣になつて自己の魂の眞の要求に聽かうといふ眞劍さもない。現在やつてゐる自分の生活を、そのままに詩人らしい、藝術家らしい、何かしら高尚な、當然なものだと思つてゐる。精神と信念とを鼓舞するエネルギーが足りないのだ。自己に對して忠實でもなく、自分の衷のかくれた才能や力を知らずして安く見積もつてゐるのだ。それでゐて萬事に不平なのだ。いつも老嬢のやうに不滿な、皮肉な、淋しい、哀れむべき澁面を持つて歩き廻つてゐるのだ。一方には太陽が照り、草が波うち、自然の中での生活が潑剌と毎日を流動してゐるのに、此處では空氣が沈澱し、頭も魂も重壓され、生活は極めて陰氣でじめじめしてゐる。それでもいい。ただ彼等にして、確乎たる信念と、ゆるがぬ自覺とを自己に對して持つてゐるならば、だがそれとても十中の八九は怪しいのである。そこで私は「巡禮」の先をもう少し讀もう。

   ドザヴェーヌ
 あれがお祖母さんの庭だつたのだ。何時でも暇さへあれば其處にゐたんだ。それによく日曜に彌撒にゆく代りに、花に水をやりに行つたものだ、あの人は敎會よりも庭の方が神樣のゐらつしやるのがはつきりしてゐるつて云つてゐた。花を可愛がつて面倒を見てやるのは、その創造主に感謝する一つの方法だつて云つてゐたんだ。
   ドニーズ
 あら、さう云つてゐらつしやつたの……私は、一番綺麗な敎會は森の中にあつて、鳥が住んでゐる大きな樹の下で、木の枝の間から所々空か見えるところだと、よく思ふわ。
   ドザヴェーヌ
 えらいぞ。そこで永遠を崇める最上の方法は、鳥の聲を聽き、木を眺める事になる譯だね。
                             (昭和二年太平洋詩人)

 

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 新アスレチック

 濃淡種々の雲の塊りのやうな、ばくばくとして暖かい綠のグラダション。それは山嶽の起伏だ。その美しい雲繝模樣の中を川や渓流の水色の糸が、岩石の割目に食ひこむ根のやうに枝又枝に分れ、顫へ、縮れ、消えるかと見えては續きながら、遂には濃い綠の底に吸ひこまれる。又大抵は此の水色の線に沿つて屈曲する一層力強い二重線。それは國道、縣道。そして此の二重線に或時は密接し、或時は遠く離れて走る黑白染分けの紐は鐵道線路。しかし此の綠一面のところどころ、鮮かな朱色の鋸屑おがくずをこぼしたやうに見えるのは、磁場の上に突つ立つた鐵粉の集りのやうに見えるのは何だらう。さうだ。それは町だ。生産と消費との中心、靑いエスパスの下にちらばる人間の蜂巢、地方の都邑である。
 これは地圖である。陸地測量部の地圖である。私は此の二十萬分の一の地圖が好きだ。此の地圖の持つ一種の雄大さと、その精密さと、單純で快美なその色調とが好きだ。私はその強靭な紙の質と、その新らしい爽かな印刷インクの匂ひが好きだ。カルトンから一枚を拔き出して疊の上へひろげ、眼をほそくして幾らか斜めに地圖を見る。綠色の彫線とぼかしとを以て紙の平面上へ印刷された山々の平面が次第に浮き上がり、拭いて取つたやうな薄靑い海洋が遠くひろがる。紙はすでに紙でなくなる。これは飛行機の操縱席から見下ろした國土の一部であり、又雲と日光とが明暗の變化を與へる實際の大地である。地圖を眺めながら、無限に湧いて來る夢や想像を私はよろこぶ。
 一枚のヴラマンクが、一枚のヴラマンクの水彩の記憶が、とつぜん、遠く出かける慾望へ私を驅り立てる。墨繩を打つたやうな、透視畫のやうな、例の爽かな村道である。片側は窓へ暈ぼかしのつゐた例の白壁。片側は箍たがのはねた、外へ開いた桶のやうな例の塀である。鉋屑を卷いて其のへとつさきへ墨をつけて、無造作になすつたかと思はれる幾らかかすれた直線が二三本。それが塀のはづれの樹木である。其の樹木の頭を包んでゐる綿のやうに輕い、ぼやけた新綠。道のつきあたりに出てゐる例のブルウの勝つた不安な空。此の不思議に明るく又暗い、嵐の前のやうに氣味惡くひつそりして其癖日の當つた、殘酷と云へば云へない事もない程に單純な又豪快な、風景の一斷片。此の繪畫の剛の者アトレイトの水彩の記憶が私を何處かへ誘ひ出す。
 ヴラマンクはヴラマンクである。地圖は地圖である。しかし私の中で、ブラマンクと地圖との間には何故か一脈肉親のやうな繋がりがある。此の牡の畫家はオートバイを飛ばして風景を探しに行く。その腰に發動機の雷を持つた此の凄まじい二輪車は、牡牛のやうな畫家を載せて、一時間九十基米から百基米を疾驅する。
 或時彼は詩人ジョルジュ・デュアメルを誘つてノルマンディーヘ花盛りの林檎を見に行つた。ヴラマンクがオートバイを操縱する。デュアメルは彼のうしろへ跨がつて、「一座の山のやうな」彼の肩へしつかり摑まる。巴里の郊外とノルマンディーとの間を僅か三時間で往復した大速力である。
 「私の眼の前を、林檎ではなく、何か知らぬが薔薇色をした白い壁のやうな物が飛びすぎた」とデュアメルは書いてゐる。

 人から何と云はれても、私は夕立に遭ふあのサアニンを昔から氣質的に好まなかつたが、瑞西の山の中の小屋で、吹きすさぶ嵐と共に刻々と生命の力を取り戻してゆくあのクリストフを今でも私は好きである。私はアルツィバアシェフのサアニンが持つあの圖太い、脂くさい體臭には嘔吐を感じたものだ。私は其事で、高村光太郎君や高橋元吉と言ひ合つた事をよく覺えてゐる。十何年前の話である。あの人達にはあの人達の理由があつた。しかし今日でも私は自分の主張を撤囘しようとは思はない。僕等のシュトゥールム・ウント・ドランクの時代をもう一度呼び返さうか、懷しい昔の友よ!

 淸廉の本質には多かれ少なかれ精神のアスレチックの傾向がある。彈力のない、不活潑な、いぢいぢした獨善の淸潔家は、未だ淸廉の眞の消息を解する事は出來ない。そこで一人の詩人は書く――

  あゝ御しがたい淸廉の爪は
  地平の果から來る戊亥の風に研がれ
  みづから肉身をやぶり
  血をしたたらし
  湧きあがる地中の泉を日毎あびて
  更に銀いろの滴を光らすのである。
  あまりにも人情にまみれた時
  機會を蹂躙し
  好適を彈き
  たちまち身を虚空にかくして
  世にも馴れがたい透明な水晶色のかまゐたち
  身を養ふのは太洋の藍碧
  又一瞬にたちかへる
  あの山巓の氣。

 私は此の詩人が剛毅な、古風なモーリスダンスを好んでゐる事を知つてゐる。同時に彼が通俗の眼からは亂雜と見違へられるばかりな「物の豐富さ」を愛しながら、その精神のふところに、何時もニイチェの晴れやかにも痛い「聖一月サンジヤンヴイエ」の風を持つてゐる事を知つてゐる。

 私は今三等列車の窓のそばの座席にゐる。汽車は東京西郊の幾らか憂鬱な、たけなはな春を貫いて走つてゐる。光り輝く朝である。私は列車が友達等の住んでゐる町の停車場を轟々と通過する時、心の中で佳い朝の挨拶をしながらサンドウィッチを頬ばる。東京を發つ時には或る店で溫室メロンの一片と、カリフォルニアのオレンジと、無花果とを食つた。しかし私の精神の飢渇は未だ癒やされない。これは信州松本行の列車である。私は一つの山へ行くのである。ルックサックの中には私を誘惑した地圖がある。讀めるかどうかは知らないが一冊のヘルマン・ヘッセがある。
                             (昭和三年東方)

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 其 頃

 「其頃を語る」と云つても、私の其頃は全然詩壇といふものとは關係が無かつたから、當時の趨勢とか主潮とかを知る上には大して役に立つまいと思ふ。又私は詩を書いてゐる人達に未だ其頃ほとんど知己が無かつたから、某々のサアクルの空氣や個人の逸話のやうな物も書けない。私に出來るのは、であるから、自分の閲歷のほんの一部分を語る位の事である。そのつもりで讀んで貰つて、其處から何か滋味でも出れば幸此上も無いと思ふ。
 詩人としての私の今日までの閲歷から高村光太郎の名をとつてしまふと、一番肝腎なところへ穴があく。
 高村君の書く物は二十歳の時分から時々雜誌で讀んでゐた。最初はたしか「文章世界」、「ハガキ文學」、「スバル」といふ類だつた。其頃の高村君は詩人といふよりも矢張り彫刻家、それに畫家としての印象を多く私に殘してゐる。又批評にしろ感想にしろ飜譯にしろ、當時の高村君の書いた文章の主題が概ね造型美術に關した物であつた。題は餘りはつきり覺えてゐないが「文章世界」に出た「粘土と畫布」、「ハガキ文學」に出た俳旬の附いた南歐の旅日記、「スバル」へ出た「出さずにしまつた手紙の一束」、「綠色の太陽」などを今でも記憶してゐる。高村君は碎雨といふ號を持つてゐたらしい。「方寸」といふ小さい美術雜誌で左憂生といふ號を見かけた覺えもある。時代はすべて明治の末から大正の初め頃の事である。
 自然主義が文壇を風靡してゐた。勿論文學とは何の直接關係も持つてゐない學校出たての若い會社員の私だつたから、何が何處を風靡しようと別に構ひはしなかつた。月給を貰つて小遣が自由だつたからしこたま本を買ひ込んだ。鷗外さんのものは全部持つてゐた。「ふらんす物語」や「あめりか物語」の永井荷風が好きだつた。丸善へ行つてゴルキイ、トルストイ、アンドレエフ、モオパッサンなどの英譯を買つて來て辭書と首引きで讀んだ。しかし花袋の「田舎敎師」を何かのはづみで買つた時は、讀んだ後でひどく汚ならしい物に觸れた氣がして、或晩永代橋まで持つて行つて隅田川へ叩き込んだ。又同僚にすゝめられて或小説家の發禁の本を買つたところ、或日留守のうちに父に見つかつて庭先で燒き捨てられた。此の焚書其事は大していけなくはないと思つたが、それ以後父から警戒の目で見られるやうになつたのには困つた。しかしこんな囘想をしてゐたのでは埓があかないだらう。
 兎に角、當時の日本自然主義文學に寧ろ氣質的な反感を抱いてゐた私が、選擇に自由な讀者として、新興のエグゾチズムに心醉した事は事實である。勿論二十歳か二十一の其頃の一靑年の理解なのだから、エグゾチズムを善しとする内容の程度だつて、同年の先輩、佐藤春夫、堀口大學諸君のそれと大差は無かつたらうと實は祕かに思つてゐる。
 しかし自由劇場第一囘試演の「ジョン・ガブリエル・ボルクマン」、これこそ最初の何物かであつた。私はあの時のおのが身顫ひを今でも覺えてゐる。後に鷗外さんが書いた小説「靑年」を讀んで、主人公純一が同じ芝居を見ながら彼の受けた感動といふのが餘り稀薄なので、私は幾らか作者の鷗外さん其人に失望した。
 又内田魯庵譯のトルストイの「復活」、それはもうエクゾチズムの關與して來る世界では無かつた。それは安易な心、良心の痲痺、惰性的な生活への天の雷火だつた。私の理想主義への火が此時から小さく育まれた。
 或時高村君の寫眞が「文章世界」へ出た。髭の豐かな、ゴム合羽を着た半身の寫眞である。かういふ顏は其時分でも餘り無かつた。私は此顏に夜の東京市中で二三度出會つた。すべて冬だつた。丁度カフェー・プランタンが新橋日吉町へ出來て間も無くだつた。高村君は寒中アイスクリームを食つてゐた。今ならば珍らしくも何とも無いが、其時分の私などは瞠目した。又或晩上野廣小路ですれ違つた。單衣に袴をはき、古い麥稈帽子をかぶつてゐた。霙が降つてゐた。
 淡路町の角の中川牛肉店の隣りに琅玕洞といふ小さい美術店があつた。それは高村君が洋行から歸つて來て、弟さんにやらせた、當時としては珍らしい店であつた。其處へ私は時々繪やデッサンを見に行つた。高村君の畫ゐた素描もあつたが高くて買へなかつた。或晩其店の前の電車線路で私達はすれ違つた。私は思ひ切つて初めて言葉をかけた。さうして置いて逸速く口實を見つけて、外國の美術雜誌では何といふのがいゝかと云ふやうな事をきいた。
 「スティデュウと云ふのがいゝかも知れません。英語です」
 さう答へて高村君はさつさと行つてしまつた。内に籠つたやうな朗かな聲だつた。私は一人で顏を赤らめた。何と私の聲がしわがれて響いた事だらう!
 やがて「フューザン」といふ雜誌が出た。高村君の名が出てゐるので買ひ損ふ事は無かつた。斎藤與里、岸田劉生、木村荘八などゝ云ふ畫家の連中の雜誌である。それが三四號で「生活」と改題した。フューザン會の展覧會の事は知つてゐる人も多いと思ふ。京橋角の讀賣新聞社の樓上では、後期印象派の猛烈な空氣が熱つぽく渦卷ゐた。十數人の畫家の、噴きこぼれた魔女の大鍋のやうな繪の中で、高村君の白布の上の躑躅の靜物が、凉しくなつかしく歌を歌つてゐた。一つの運動の起りたてには其の烈しい勢のために玉石の質さへくらまされ勝のものである。フューザン會が矢張りそれだつた。岸田劉生はしかし𣪘に一頭地を拔いてゐた。私はカタログのパンフレットに載つてゐる高村君の「さびしきみち」といふ平假名書きの詩に深く心を打たれた。
 「フューザン」が「生活」となり、𣪘に出てゐた「白樺」の武者小路君等が同人に加はつた頃の前衛的アヴアン・ガルド精神には、私達をも奮ひ立たすものがあつた。しかし何よりも忘れてならないのは、高村君がその「生活」へロマン・ロランの「ジャン・クリストフ」の「叛逆レヴオルト」の一節を譯した事である。
 これこそ私にとつて眞に決定的な力だつた。これこそ其瞬間から私の運命に一轉機を促がす物だつた。あゝ藝術! 一生を捧げるに價する藝術! たうとう私はお前を見出した! 藝術は何といゝか! 抑も斯の如く生きる事は何と男らしく人間らしい事か! 私は眞に涙を流した。私は斷然文學に志した。
 今日私の精神の父であるロマン・ロランの名を始めて私に知らせた人。それは我が高村光太郎君であつた。
 私は母にねだつて「ジャン・クリストフ」の英譯四卷を、實に「生活」を讀んだ翌日、丸善で買つて醉ふがやうに歸つて來た。
 大正二年から三年、もう私は時々駒込の高村君をたづねてゐた。彫刻について、詩について、私として考へれば卽ち藝術の本質的な問題について、常に何かしら敎へられて歸つた。或時は夕暮の雪が窓枠に白い花綵はなづなをかけ、ストーヴの太い松薪がぱちぱち燃えるアトリエで、高村君の讀んでくれるヴェルレーヌを恍惚と聽いた。又或時は自分の最も苦んでゐる心の上の問題を告白して、しみじみとした力づけの言葉を與へられた。そして大正三年十一月、高村君が「道程」を届けに私の勤め先へ來た時、私は其本を手に持つたまゝ、歸つてゆく同君の後ろ姿を玄關の石段で涙ぐんで見送つてゐた。今から十七年前の事である。
 それから私は自分だけで詩を書き始めた。見て貰ふのは高村君一人だつた。何時でも「惡い」とは云はなかつた。私を容れ、私を見まもり、そして弱い時、駄目な時、よろめく時の私に優しく強く腕をかして呉れた高村光太郎! 此人無くば私の運命は恐らくひどく變つてゐたらうと思ふ。
 高村君については一生のうちに眞に書きたい。それは私の大切な仕事の一つだ。其の爲には手を洗はなくてはならない。もつと人間にならなくてはならない。
 しかしこんな囘想でも書くのは今日が初めてゞある。餘り私事に亙つた點については讀者諸君の寛容を乞ふのみである。
                           (昭和七年十月詩人時代)

 

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 ブランデンブルグ協奏曲

 始まつたらもう引き留めやうもない、バツハのブランデンブルク コンチエルト!
 何しろ、大小三十六個の絃樂器の集團が、一齊に猛然と立ち上つたのだ。ませぎを外し、柵をとばして荒れ出した駻馬の群か、或朝、アピア軍道を續々とつゞく羅馬兵の比類。どこへ往くのだか誰も知らない。しかし意力に滿ちた此の出發は斷言的だ。
 此際、追覆樂法フーグの理論を喋々するな! 默つて、ひとりでに口を半分あけて、無批判無防禦になりきつて、この焔をあびた音樂の急流に運び去られるがいい。このチューリンゲンの歌手カントールの、天にもとゞく歓喜と憧れとの、海の龍卷に身をまかせるがいい!
 遥かに、氣も遠くなるやうに優しい、天の花嫁の歌がきこえる。すると、神が無くなつた此世にも、なほ神を見ずにはゐられない宗敎的熱狂が、濛々と湧き上がる。
 外は星のしたゝる秋の夜か、太陽の晝間か。こゝは神々しい酩酊、法悦。あえぎのぼる靈の昇天だ。
                             (昭和二年一月待望)

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 或友に

 黑と靑と灰色との、苦惱と動亂。厚い、見上げるばかりな、百歳の樫の防風林のトンネル。けれども、往手にぴかり、眼もさめる金色の日あたり。ちやうど其處に、むかし、梅の樹に圍まれた水車小屋があつたのだ。あゝ! 武州北多摩郡烏山で、地平線が刄の色をした一月。平野が見渡すかぎり逆立つてゐる朝からの大風の日。僕は今年になつて初めて君をたづねる。
 數多い道からたゞ一つ君が選んで、君が營んでゐる此の田舎での生活を、その小さいけなげな生活を、人間の小賢かしいおせつかいで亂すことはやめよう。君の家のまはりには、ふんだんな草がある。明るい樹々がある。煤煙がよごしに來ない日光がある。毎日の夜の星がある。君の大地と、光や雨に飽くまでも賴れ! 君はいい。君は自然を通して「人間」を信ずることを學んでゐるから。
 ちやうど其處に、路と小川とが出逢ふところに、むかし、紅と白との梅の花に愛された、一棟の寂しい冰車小屋があつた。それがいつの年にか朽ち倒れた。其頃でも、武藏野の風は今日のやうに大きかつたのだ。何となく悲しい強い昔話さ。しかし今、その同じ場所で、けなげに生きてゐる君を見出せるのは、僕にとつてうれしい事だ。
                             (昭和二年一月待望)

 

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我が流域

 

 一日の王

        「お寺の前で
        子供が三人遊んでゐる。
        お前達は一日の王を見かけたか」
             ジョルジュ・シェーヌヴィエール

   出 發

 背には嚢、手には杖。一日の王が出發する。
 彼は一箇のクヌルプのやうに漂泊と歌とを愛するが、また別にすこしばかりの自然科學者的タンダンスがあつて、それが情感の過度の溢れから彼を救う。
 嚢の中には卷麪麭と葡萄酒、愛讀のシェーヌヴィエールの詩集一冊。今日は時しも春だから、ジュール・ロマンは持つて行かない。その「全一生活」や「唄と祈」は、枯葉の散り、菌きのこのにおう秋の山路にこそふさはしいと思ふ。
 磁石は紐で首からつるした。ポケットには手帳とルウペと地圖。折目に幾度目かの膏薬張りをした地形圖は、過去の足跡をなぞつた鉛筆の色で眞赤である。内がくしの心臓の上には、戸口に立つて笑つてゐる我が子の寫眞も忘れはしない。
 天の靑さがぽたぽた落ちてくるやうな春の夜明けよ! 早起きの雀の聲のきこえるあたり、西郊の欅のおもたい新綠。彼はモーツァルトをおもい、グルックをおもう。あらゆるオルフォイス的な音樂が今やひとつの純粋な流れとなつて、早朝の出發の心をめぐり、包み、洗つてゐるようである。
 そして彼は今日の山路のすがすがしい美しさと、その明るいひろがりとを思ふ。

   小 徑

 咲きはじめた山吹やひとりしづか、小徑の岩に鳴る靴の音。もうずっと下になつた渓谷が、かすかにさらさらと早瀬の歌をうたつてゐる。そして樂しい大きな明暗に浸かつた朝の山々は、空間を占める莫大な容積の重なり合いと大らかな面の移り行きとで、それを見る眼をゆつくり休ませ、その安定感で人の心をやわらげる。すでに都會は遠いのだ。對岸には白壁と石垣と、調和のとれた樹木の配置とでひどく好もしいものに見えてゐたひとつの村落が、今、こちら側の山をはなれた朝日を浴びて、谷から立ち昇る眞珠いろの霧のために、きわめて薄いヴェイルを纒つたように柔かくきらめき始める。その上の山の斜面に點々とパステル赤をなすつてゐるのは、三葉躑躅の花だらうか。
 やがて徑の左に澤の落ちて來るところを彼は過ぎる。一羽の大瑠璃が岩角にとまつて、流れよどんだ淸水を飮んだり浴びたりしてゐる。木の間から降りそそぐ日光の金色の縞に照らされて、その瑠璃いろの頭や翼の色が眼もさめるやうに美しい。彼は小鳥の動作を、その飛び去るまでじつと見てゐる。飛び去つた鳥は近くの水楢の枝まで行つて、嘴をこすつたり、濡れた羽をふるはせたりしながら、その合間に水晶の玉を打ち合わせるやうな歌を投げる。彼はその歌を、ちやうど或るメロディーを覺えようとする時のやうに、しつかりと心にとめながら歩いて行く。
 徑の片側に或る岩石の露頭が現れる。日陰の岩は爽やかに濡れてゐる。彼は見事に皺曲した其の岩を多分紅色角岩だらうと思ふ。粘菌を採る人のやうに細心に、杖の石突きでやつと旨く割ることのできたその扁平なひとかけを手の平に載せて眺めながら、これを研いで磨いて文鎮にしたら好い記念になるだらうと思ふ。
 彼は行く。ゆつくりと。しかし物見高い眼や鼻や耳はすつかり解放しながら。山を歩くことは彼にとつて、自然の全體と細部とをできるだけ見、愛し且つ理解することであつて、決して急用を帶びた人のやうに力走することではないからである。それがために一日の行程を、二日かゝるとしても構はない。又そのために、都會へ歸つて幾日かを穴埋めのために生きるのであつても構はない。
 彼は遭遇を愛する。天與の遭遇が有ればよし、さもなければ自分の方から求めて行く。此の發見の道は必然に迂囘する。

   中 食

 柔かい水苔の薄くかぶさつた岩に腰をかけて、今彼は單純な中食にとりかゝる。
 先ず揉革に包んだ切子のコップを取り出して、小壜に詰めた葡萄酒をそゝいでぐつと飮む。旨い! もう一杯。氣が大きくなる。それからフロマージュ入りの棒パンをかじりながら水筒の水を飮む。
 シェーヌヴィエールの詩集は斯ういう時の友なのだ。彼は質素に強く、明るく生きることの如何に自分にとつてふさはしく、またそう生きようとした夢想が、如何にこの病身で熱烈で、貧しかつた詩人を鼓舞し、パリの凡庸な日々の中から燃え上る新星のやうな非凡の光を、瞬時に現れる永遠を發見させて、如何にこれらの感動的な詩を書かせたかを思ふ。
 近くの暗い岩の上、ひかげつつじの硫黄いろの花の咲く下に、いはうちはが一面にはびこつて、ほんのり紅をさした白い花の杯を傾けてゐる。彼は艶のある綠の葉ごとその花を摘みとつて、詩集の中で最も好きな「一日の王の物語」の頁へはさむ。

   歸 途

 彼は午後の大半を、尾根から山頂へ、山頂からまた尾根へと、一日の太陽の鳥が大空をわたつて、その西方の金と朱あけとに飾られた巢の方へ落ちて行く頃まで歩いた。
 尾根では、いつものとほり暖かでひつそりして、自分自身がおとなしい野山の鳥やけものや、何物をも強く要求しない草や木とちつとも變つた者ではないことが感じられたし、山頂では、周圍からぬきんでたその高さのために心が高尚にされて、そこからの眺望は、いつもひとつの高い見地というものを敎へられることだつた。
 同時に、それは、また發足して見に行きたいという、新らしい熱望へのいざないでもあつた。それから彼は谷間の方へ下山した。
 今くだつて來た山のてつぺんには、まだ金紅色の最後の日かげが殘つてゐるが、谷間はもう淡い紫にたそがれてゐる。夕暮の空には、朱鷺ときの拔毛のやうな雲が二筋三筋散つてゐる。やがては天氣がかはるとしても、今日の終焉が美しい夕映えを持つだらうという確信は彼を樂しくする。
 彼はやうやく出逢つた最初の部落を、人々が永く其處にとどまつて其處に死ぬるところを、行人の足にまかせて脇目もふらず通りすぎるには忍びない。
 老人に、若者に、娘に、彼は道をきくだらう。たとえその道を、地圖と對照してほとんど熟知してゐるとしても、なお彼等と二言三言口をきくために、彼は求めて道をたづねるだらう。
 坂になつた村道で、子供たちが夢中になつて遊んでゐる。その中の一人がほとんど彼にぶつかろうとする。彼はそれをよい機會しおに、身をよけながら子供の肩に手を載せるだらう。
 さうして、たちまちにして、彼は初めて見たこの谷奥の寒村を、舊知の場所のやうに思つてしまふだらう。
 かくて貧しい彼といえども、價無き思ひ出の無數の寶に富まされながら、又今日も、一日の王たることができたであらう。

       「もう一日留まつていなされや。そうしたら、
        私がいい家鴨をつぷして上げようもの」
                   ジョルジュ・シェーヌヴィエール

                             (山の繪本)


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 ハイキング私見

 去年の六月、折からの秩父の新綠に思ふ存分漬かつて來たいと、武州荒川の支谷大血川の谷から太陽寺へ出、あれから雲取を越えて日原へ降りる三日ばかりの旅をしたことがあつた。其時の往きの汽車の中で、向うの窓に片肱ついて、見覺えのあるフィッシャー版略装のヘルマン・ヘッセの「ビルダアブウフ」を讀んでゐる一人の旅客を發見して、私はひどく懷かしい氣がしたのだつた。
 いくらか憂欝な、非常に澄んだ感じのする三十二三歳の人だつた。もうかなり古くなつてはいるがよく手入れの届ゐた、淸潔な、地質のいいスコッチの旅行服を着てゐた。左の膝へ自然に載せた右脚の、登山靴を輕くしたような靴の底に、小さいクリンケルとムガアが綺麗な齒並のやうに並んでゐた。頭の上の網棚には、小型のルックザックと長い石突のついたステッキとが閑散に載つてゐた。週間日のことで車内も至つて閑散だつた。こんな場合特に氣品を添える眼鏡という物。へッセの頁に向けられたその靜謐な眼鏡に、大宮も過ぎて上尾、桶川のあたり、車窓に觸れんばかりの若葉がちらちらと映り、快晴六月の靑空と白い積雲とが凉しく動く。餘り良すぎる眼を持つたために、眼鏡を掛ける必要のない自分を、私は幾らか殘念にさえ思つた。
 秩父へ入る私は熊谷で降りたが、たとえば、遂に言葉も交さずに終つた今のへッセの人が、郭公の歌と新綠の落葉松と放牧の牛のちらばる高原の起伏、神津牧場や荒船山のあたりをさまよふとしても、また赤城大沼の火口原湖のほとり、遠近に躑躅の燃える軟かい草の上で、單に風と雲との對話を聽くことだけのために行くとしても、或ひは又岩石の美しい三波川や神流川の谷奥深くさかのぼつて、初夏の里から山、峠から峠へ、遠く信州路まで出てしまふとしても、何れもすべてふさはしいものに私には思はれた。
 それはその人の内容のある風貌や人柄からも勿論來たが、同時に、ことも無げに見えてすっきりとしたその趣味の、板についた現れも大いに與つて力あつたのである。これがダゲーロタイプ時代の寫眞家のやうな大荷物に、登山界の非常時を背負つて立つたような恰好をしてゐたのだと、どうも五月六月の高原や山地の旅にはちとうつり憎く、幾らか愚かしくも見え、總じて日本内地の自然の中では、そんな荒事師じみた姿が餘り調和しないやうに思はれる。
 何事につけても恐らくさうだが、特に丘陵ワンダリングやハイキングの時の準備と心構えとについて云えば、矢張「あたりまへ」が一番いい。あたりまへな處には何時でも自由自在な境地があり、四通八達の風が吹いてゐる。衒ひがあると自分を失い、きほい立つては餘裕が無くなる。結局は不必要であつた重たい荷物を、あたかも主義か宿命のやうに擔い歩いて、老嬢のやうに不滿を漂はせ、殉敎者のやうに暗澹として行く。自意識の強過ぎる人の「天然」の中での不幸な姿! これでは折角のハイキングも失敗と云わなければならない。
 エドワアド・ホワイトと云ふ人が、「森林」と云ふ書物の第二章で、荷物を輕くして旅をする技術のことを書いてゐる。彼は旅から歸つたら先ず袋の中身をすつかり出して並べるがいいと云ふ。それからその旅で實際に經験した事實に從つてそれを正しく三つに分けろと云ふ。卽ち、第一の組には君が毎日使つた物、第二には稀にしか使わなかつた物、第三には全く使わずにしまつた物という風に、それぞれ「良心をもつて」分類する。さうして次の機會には、斷乎たる決心をもつてこの第二第三の部類を除外するがいいと云ふのである。この忠告は適當に鹽梅して實行すると中々有益であるし、また廣く一般に通じる眞理をも含んでゐる。レオン・バザルジェットはその立派な「トロオ傳」の中で、徒歩旅行に大きな傘の必要なことを書いてゐる。傘は炎天の樹蔭にもなれば、雨に對する屋根にもなる。要らない時にはステッキになり、荷物を肩へ擔ぐ棒としても妙だと云ふのである。薬賣と間違えられるかも知れないが、それならば愈々面白いと、如何にもトロオらしいことを云つてゐる。これも今の時世では少しばかりの勇氣を必要とすることだが、多くの場合確かに便利には違ひない。もう五六年前、高村光太郎君と二人で、六月の雨の中を法師溫泉から中ノ條まで山越えしたことがあるが、單衣の筒袖にレインコートを着て駒下駄穿きの高村君が、ルックザックを片外しに背負つて、大筒のやうな番傘を抱えた姿は、決して没趣味なものではなかつた。
 狐の嫁入の中で群落した翁草が皆うつむき、高い水楢の梢に大瑠璃が歌ひ、晴れては降り、降つては晴れる山路の一日、上州の山谷や部落の風景は、その悠紀ゆき・主基すきの風俗繪のやうな端麗な趣きをもつて、むしろ恭敬に近い念を私たちに起させたのであつた。
 ハイキングに成功する爲には、矢張幾らかの自然科學的知識もまた必要であらう。實際、日歸りの旅でもわれわれは眞にさまざまの看物に遭遇するのである。自然の中で解放された心は、よく懷をひらいて、觸目の一切に應じ接近しようとする。町中でのけちな反撥心や自意識を淸朗な天の下で忽ち放散してしまつた彼は、すでに共感、共鳴の充分可能な狀態にゐるのだから、昨日銀座の舗道では夢にもしやがまなかつた身が、今日は極めて自然に腰をかがめ、花咲ゐた一茎の草のために、ポケットにひそませた買い立ての植物圖鑑も繰るのである。
 そして若しも圖鑑からの檢出がうまく行かなかつたとすれば、今度の機會のために、暇な折に分類學の基礎知識を修めて見ようといふ氣にもなるだらう。智識慾によるこの學問的遡行はたしかに吾々の内部生活を豐富にし、また一方では一般の智的水準面を高める機緣ともなるだらう。私は寺田博士の随筆から多く學ぶべきものを得てゐるが、わけても植物に關する限り、あの「蒸發皿」の中の一篇、「沓掛より」の一章「草を覗く」に現れた植物界見物のくだりを、快心の微笑無しには讀めなかつた。
 いつかの晩春、小佛峠の下で、これもハイキングの靑年の一行にまじつた若い女の人が白い筒狀花を垂らしたアマドコロを見つけて、「あら鈴蘭、鈴蘭!」と狂喜の叫びを上げてゐた。通りかかつた私がその名を敎へると、女の人は餘計なおせつかいだと思つたのか頬を膨らませた。しかし私は彼女の威厳を傷けないように充分の配慮を持つた敎へ方をしたのだから、それでも不愉快な顏をするのは向うが惡い。
 植物ばかりではなく、鳥や蝶などの名も知つていれば興味はさらに深いだらう。新らしく市内になつた荻窪の附近で採集した蝶でさえ、同じ荻窪在住の友達に見せると「こんな珍らしい蝶がこの邊にゐるのですか」と云つて驚く。その「珍らしい蝶」大紫おおむらさきが、實は夫子自身の家の直ぐそばの榎の木からたくさん發生するとは少しも知らずに。注意したことも無しに。
 雲の名、星の名、地圖の讀み方と地形學の初歩。さういふこともハイカーとしては一應知つて置きたい。本屋さんの提灯持をするわけではないが、藤原博士の親切な解説のついた美しい「雲」の圖聚、辻村太郎さんの「地形學」や「新考地形學」などは、山野を歩かうという人々にとつては最も有益な書物であることを私は確信している。
 注意することによつて調べ學び、理解するに從つて愛を深め、かうして生活を豐富にすることは何人にとつても望ましい。吾々一般人の生活は益々自然から離れて行く。文學もまた離れている。
 そこでフランスの若い作家ジャン・ジオノのやうな男が現れて、人間と同列に自然の萬物に活躍させる「世界の歌シャン・デユ・モンド」のやうな小説を書こうとする。
 自然のある限り、その眞と美との追求の「自由」は、今のやうな時世でも、未だ君から剥奪されはしないのである。
                         (山の繪本)

 

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 秩父の牽く力

 生れて初めて山を見た記憶は五つの時にある。場所は東京も隅田川の河口に近い鐵砲洲で、その頃「煉瓦」と云つてゐた今の銀座の方角に、冬の日の暮、綠がゝつた金茶色の透明な夕映えの空を背景にして、西の地平に黑々と横たわつてゐた連山の影繪。それを秩父だといつて敎へてくれたのは今は亡い私の父である。
 山の手の高臺ならば知らぬこと、そんな低いごみゞゝした下町の町中から秩父が見えてたまるものかと嗤う人もあるかも知れないが、明治も三十年頃には築地から鐵砲洲、八丁堀へかけて、平家の數は二階家のそれよりも遥かに多かつた。銀座といえども同じことで、二頭立の鐵道馬車のごろゞゝ通るあの大通りの兩側には、煉瓦造り二階建棟割長屋の商店が、それこそ「昔戀しい銀座の柳」に軒先をなぶらせながら、丁度今の淺草の仲見世のやうに、恨みつ子なく平等にならんでゐた。何しろ斷髪どころか、馬に髪の毛を踏んでもらうと毛が長くなると云ふので、勸工場の隣の何とかいう名代の壽司屋の一人娘が、鐵道馬車の線路のまんなかへ頭の毛を置きに行つたくらゐ長閑な古い時代のことである。今のデパアトの先祖ともいえる勸工場などがあの大通りの建築の拔群なるもので、しかもそれがせいゞゝ三階建ぐらいだつたのだから、當時の東京のプロフィールは、今と較べれば確かに平面的だつたに違ひない。
 だから埋立地にもひとしい築地や鐵砲洲の低平な町中からも山は見えた。少し廣い眞直ぐな道路で西に向つたものならば、ほとんど何處からでも何かの山脈の片鱗をとらえ得ないということはなかつたと思ふ。それは當時異人館と俗稱されてゐた築地の居留地からも見えた。それは新八丁堀からも、鐵砲洲の稲荷橋、中ノ橋、櫻橋からも見えた。佃島、相生橋、深川蛤町あたりからならば尚よく見えた。それは私の哀れな母校の二階からも見えた。それは私の家の土藏の窓からも、その鐵格子と金網ごしに見えた。
 大震災直後の九月の或る日、見渡すかぎり燒野ケ原の東京下町と其上にひろがる異常に美しい秋の靑空。私も我が家の燒跡で灰を搔くき、まっかに燒けた土をならしてゐた。太陽は熱く、風は凉しかつた。この太陽と風とに直接愛撫される荒凉たる風景の中に、私の幻想はなぜか知らぬが頻りに雁來紅と胡麻とを描いてゐた。秋の礦野にシャヴルを立てる開墾者の幻覺であつたかも知れない。私は腰を伸ばして額の汗を拭つた。其時見たのだ。善惡美醜ともに灰と化し了つた大都會の砂漠の涯に、波濤のやうに上がり大鳥の翼のやうに張つた秩父連山を。そのひとつびとつの山襞も鮮かに、くつきりと限空線を描いて横はわる浮彫の山々を。
 災厄もそれが餘り大きくて、亡失の觀念が萬人共通のものだと、却つて其處から一種の氣輕さ、一種の餘裕、謂はゞ消極的な平和の心境が生れるものであるらしい。此の心境は續いて來るべき再建への努力の豫感、生みの苦痛から吾々を解放したり輕減したりするものでは決して無いが、兎に角一時は麻醉劑のやうな役目をする。さういふ心の狀態の時に、明るさ限りもない廢墟の中心から眼を放つて眺めた壮麗な山々の姿には、たしかに、曾て見たこともない淸新さと慰めと、男らしい賴もしさとの感じがこもつてゐた。
 秩父! 太陽と秋風! 私はこの廢墟のただなかで、黑い胡麻と眞紅の雁來紅とが見たかつた。何處か田舎で土地を借りる。小屋を建てる。小屋の前に二三反歩の畑があり、うしろに雜木林でもあればなおありがたい。其の畑で百姓をし、その小屋で物を書く。山が見えなくてはいけない。春が來てかすむ山、新雪を粧つて鹿子斑を見せる山、夏には猛々しい雲の峯を立てる山、そしてはらはらと落葉する疎林の向うに、靑空の下でほのかに黄ばむ秋の山。それが自分の畑から見えなくてはいけない。
 私はそれを實行した。父が震災の被害の中から苦しい金を出してくれた。洋式二間の小屋と、二反歩の畑と、秩父の展望とを手に入れると同時に、羊飼のやうな娘も妻にめとつた。私にとつてのワルデンの生活と其の牧歌とが始まつた。村での生活は五年つゞゐた。
 震災の年の秋の暮、もう朝々の畑に霜の訪れる頃、私は毎日一人の大工の手傳をしながら小屋の完成をいそいでゐた。或る朝、露に濡れた畑の白菜がきらびやかに朝日に輝き、をちこちの木々の梢で頬白や四十雀が鳴いてゐた。赤に黄に彩られた雜木林、冬こそ綠の武藏野の畑、遠くに横はわる山々の靑、そして田園の靜けさの中に打ち込む釘の音。私はすこしも歌人ではないが、この時何年ぶりかで一首の歌が出來た……

  君を待つ家をつくると朝日影
  豐多摩の野に軒うつわれは

 同じ山地でも、秩父は其處に住んで見たいという氣を私に強く起させる點で、他の山地とは違つてゐる。見聞の廣狹、經験の多少、趣味傾向の相違を土臺として、其上に立つて厳格に考へれば勿論こんなことも輕々しくは云へないのであるが、少くとも私としては秩父山地といふ言葉の内容から、生活の幾多の樂しい、幸福な空想を描き得るのである。そして其の空想の内容も、現在自分のしてゐる生活の本質的なものを變えたり捨てたり、若しくは變え或ひは捨てることを餘儀なくさせられた性質のものではない。つまり私は秩父のどこかの山村に住む身になつても、其處でデペイズマンを、卽ち「國を離れて途方に暮れた感じ」を味はなくても濟むだらうと思ふのである。私は自分の從來の生活上の習慣を大して變へなくてもいいし、不本意に思つたり酷い不自由を感じたりしながら土地の習慣に馴れなくてはなるまいと云ふ、そんな心配も無いであらうし、むしろ幾らか從來の生活を改善して一層よくその土地に適應して行くことによつて、大いに張りのある生き方が出來るだらうとすら思ふのである。もしも己れを捨てずに、しかも山村の土着の人々と融合して行くことが出來れば、我家のまわりに常に立派な自然を持ちながら、滿帆に風をはらんだ船のやうに、いきゝゝと張り切つた生活がして行けるに違ひないと信じるのである。
 ところで、これも餘り大した信念をもつては云へないことであるが、同じ秩父に對して抱いてゐる愛にしても、私のやうに古い東京に生れて東京で成人した者のそれと、他府縣から東京へ出て來て一家を成した人々のそれとの間には、筆舌では簡單に現すことの出來ない、一種微妙な違ひがありはしないかと時々思ふ。
 私たちが秩父を想ふ時には、必然的に、運命のやうに、古い東京と其處で育つた幼年時代、少年時代の幾千の思ひ出と、又あの武藏野の風光とがその前景として、常に意識の裏側に映つてゐるのである。私としては、「秋空晴れて日は高し、今こそ我等が散歩時」というあの「散歩唱歌」の、幼い自分の憧れの聲に對する千萬無量の感慨が何時でも附いて廻るのである。
 從つて秩父の魅力には一種故郷の持つ魅力のやうなものがある。それは理窟無しに牽くところの力である。それは一つの小さな記憶から忽ち尨大な幻影が生れて、しかも其の幻影が少しも疎遠なものであつたり、好奇心の對象であつたり、又況んやエグゾティックなものであつたりはしないのである。
 武藏野と秩父の山。それを思ふ私たちの心はあの佛蘭西の北方で人が「ノルマンディー」を歌ふ心である。「俺は瑞西の山々と、そのシャレエと、其の氷河とを見た。俺は伊太利の空と、ヴェニスと、そのゴンドラの舟子>とを見た。さうして何處の國にも挨拶をしながら、俺は自分に言つた。どこ0へ行かうと俺のノルマンディーほど美しい處は無い、それは此の俺に日の目を見せてくれた土地なのだと」
 又それを思ふ私たちの心は、今は北海道にいる河田楨君をして、故松井幹雄氏を憶ふ一文の中に、「どうせ死ぬなら僕も武藏野で死にたい」と書かせたあの同じ心である。
                             (山の繪本)

 

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 ノルウェイ・バンド

 しんみりと暖かい金色の日光、西風に染められた大きな靑ぞら。快美な秋の數日が、飯繩いいづな、戸隠、黑姫、妙高と、旅の道すぢの進むにつれて、それら北方の山々を、黄に、赤に、紫に、燦然と照らしてゐた。
 私はいつもの獨りだつた。背には嚢、手には杖、心には靜かに薫ゆる幸福と子供のやうな生きゝゝとした期待とを持ちながら。それに幾年着古した旅行服の、半ズボンの下で結んだ紐。その黑と銀鼠との絲のあひだに少しばかり落着いた紅を取合せた、ちやうど森の赤啄木鳥あかげらの羽毛の色をおもはせる毛糸の組紐は、こんな美しい十月の他郷に對する私のさゝやかな儀禮でもあれば、歌でもあつた。それは自分で意匠して、妻に編んでもらつた物だつた。私は此の氣に入りの紐を膝頭の下に緩くむすんで、剩つた部分を房に垂らした。年齢がもう中年を過ぎると、おのれの見掛けの上の老に對して心の若さをほのめかす爲か、そこばくの靑春を身に着ける事を思ひつく人間も世には有るものだ。
 私の紐は信濃に枯れた岩菅や、越後路の霜の上で揺れた。それは路上で私の口ずさむシューベルトの歌の調子に合せて躍つた。それは一茶のふるさとで、私が立呑みした地酒に濡れた。
 旅よ! 旅をきらめかす太陽と風よ! 早くも新雪の笹べりとつた白馬、杓子、唐松あたりの北アルプス。その銀と靑との遠い華麗を手に取るやうに眺める飯繩の薄の原を行きながら、私は裾花の谷にのぞむ村々から上がる晝間の煙に、山國の秋の心をしみじみと味わつた。私は戸隠の嶮巌をよぢ、鬼女も眠るかと思ふ靜寂な炎の林を歩きまわり、美しく倒れかゝつた牧柵の向うに大きな黑姫山の姿を見まもり、また黄昏の中社の宿から、遥かにけぶる夕映えの果てに影繪のやうな南信の山々をみとめて、何か知らぬが歸らぬ幸福に似たものを追ふのだつた。
 それから旅は大きく廻つて、信濃を過ぎれば越後の地、すでに早くも冬をきざした寥廓たる北國の天の下、妙高山と其の高原のひろがりとが私を抱きしめた。私は安山岩のかたまりに腰をかけ、雪の香かのする風に吹かれて榛はしばみを嚙みながら、黄ばみわたる頸城くびき平野を薄靑い大氣の底に見おろした。
 かうして豐かに與へる自然からは元より、また行く先々の到るところ、人々からの歓待も私はうけた。勿論今ほどの年齢になつてみれば、人に待たれる垣のほとりで、脆くも散つて俤のみに泣かしめるロマンスの花を摘むことも無かつたが、その代りには使いつくされた農具のやうな老人や、眞面目な律義な田舎の女房や、何處にでも居て何時でも好奇心で一杯な子供達から、結局は彼等と何の變るところもない人間仲間の一人として、氣の置けない客として、又色々な珍らしい事を知つてゐる大人として遇された。さうして斯うした待遇が私には嬉しかつた。
 五日にわたる旅路の終、私は妙高山麓の燕溫泉から關を過ぎて、關山の驛へと急いでゐた。さしもに續いた秋晴もいよいよ今日を限りと見えて、振り返りがちに行く妙高の山頂をかすめるやうに、西の方から幾筋もの卷雲が美しい靑空に流れ出してゐた。茫々と波うつ薄の高原、その銀色の穂波の上に頭だけ見せた黑姫山。日光の金粉散らす秋の大氣に包まれたやうに、演習場の銃聲が柔かにロロン・ロロンと響いてゐた。
 私は一軒茶屋と呼ばれてゐる古い茶店の前をすたすた通つて、行手に關山の宿の高い杉の防風林を見ながら進んだ。十月とはいへ、正午に近く、影も無い野の道は汗ばむ程に暑かつた。さつきから咽喉の渇きを覺えてゐた。私はあの茶店へ立寄らなかつたことを悔いてゐた。
 すると私の先を二人連れの若い女が行く。關か燕の溫泉宿の女中らしかつた。その二人が熟した房の一杯ついた山葡萄を、眞赤な葉ごと、長い蔓ごと、幾本も手に卷いて下げてゐた。まるで焔を持つてゐるやうに。それがこんな燦々たる秋の陽の中で、彼女らを餘計に美しく健かに見せた。
 私の歩調はやがて彼等に追着いて、しばらくは其の女たちと並んで歩くやうな仕儀になつた。冬が來れば忽ち賑かなスキー地になる土地の事とて、宿屋の女中らしい彼等も愛想よく此の季節外れの客に會釋した。
「君たちは何處」と私は訊いた。
「關の者です」と、如何にも越後生れらしい美しい一人が答へた。
「何處へ行くの」
「暇だものですから關山の家まで遊びに行つて來るんですの」
「その山葡萄を一二本分けて貰えないかね」
「これを? どうぞ。今朝取つたんですの」
「綺麗だね」
 私は感心してさう云いながら二人から一本ずつ貰うと、道端ヘルックザックを下ろして、其の外側へ卷いた蔓を結びつけた。其の時彼等の一人が私の例の紐へ眼をつけたらしく、
「いいわねえ、好い柄ね」と連れの女に云つているのが聞こえた。
 私はよく考へもせずに葡萄の禮心に幾らかの金を出した。女は「そんな物を」という顏をして斷然受取らなかつた。それは其筈だつた。彼等は私の所望に對して快く與へたのであつて、決して賣つたのではなかつたのだ。
 私は少し赤面しながら、しかし咄嵯の間に好意への返しを考へついて、手早く例の紐をほどくと其れを膝ではたいて彼等の前へ出しながら云つた。
「二本貰つたから二本御禮だ。これは事によると帶止めにもなるし、失敬だが腰紐にもなるかな」
「でも、何だか御氣の毒ですわ。こんな綺麗な新しいの」
「いゝんだ。手製だよ。スキーの時に東京の人たちが來たら見せてやるといい」
「では折角ですから頂戴しますわ」
 私はさういふ聲を後に聽きながら、汽車の時間に間に合ふように道を急いだ。赤啄木鳥あかげらの詩を模樣に出そうと苦心して作つてくれた妻に、このいきさつを偖どう話さうかと考へながら。しかし又幾らかは、樂しかつた旅の終の一幕としては適はしい、この小さい挿話の甘美な後味を味わひながら。
                                (雲と草原)

 

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 こころ

 山へ行くというので、いざ我が家を出ようとする時、又それに續くいくらかの時間のあひだ、私はきまつて或る輕快でない、胸につかへる物のあるやうな、重い、ぎごちない心持を經験する。
 言い置くべき事はすでに言つた。ルックザックの紐はこれを最後と結ばれた。ステッキを置き添えて、油のにじんだ靴は玄關にならんでゐる。
 もう忘れた物も無ければ、果たすべき義務といふものも無い。もしもこの上なすべき何かがあるとすれば、それは私が「出發する」其事である。さっぱりと、元氣よく。そしてもしもできるならば、朗らかにさへ。
 あゝ、それにも拘らず、この何か引掛かるやうなものは……
 私たちはちつとも新婚の夫婦ではない。子供も十歳とうか十一であつてみれば、もう今が可愛い盛りだという程ではない。それに私が山へ行つたり旅をしたりするのも、ひどく珍らしいことではないのである。すべては十年の歳月相應に經験され、頻度の大はすでに一種の習性を作り、家庭生活の諸場景に對してそれぞれ型のやうなものを作り上げてゐる。その上、私の山は、およそ危険からは遠いのだ。
 否、いつの出發に際しても、きまつて私の感じる此の氣持の上の「勝手の惡さ」は、樂しみの分け前の不公平に其の根源があるやうに思はれる。苦しみも喜びも共に分け合つてゐる生活の中で、又しても自分だけの樂しみのために行くといふ、謂わば良心の咎めと憐愍の情との混じり合つた氣持である。
 自然の中へ行くことは、とりわけ山へ行くことは、少くとも私のところでは、喜びの最も大きなものの一つと信じられてゐる。私の家族は私のあらゆる熱情に參與してゐる。藝術や自然に對する私の愛は、また彼等にも反映してゐる。その彼等を家に殘して、彼等の無二の憧れである山へ自分一人で行くという事に、(彼等が全く無私な、自發的な好意をもつて私の思ひ立ちに賛成し、私のために必要な一切の準備をし、そして最も氣持よく出發させて呉れるいつもいつも)私は何かしら濟まない、どこか侮恨に似た心持を味ふのだと云つたならば、或ひは何びとかの同感を得るであらうか。
 かうして常に心を後に殘しながら、やがて一層廣大な世界が私に開いて見せる光景の中、その輝く日光やひらめく風の中で、全く一枚の木の葉の如き者としてひるがえりながら、やはり私は思ふのである。一般に命あるもの本來の孤獨と、その孤獨から花咲けばこそ貴く美しい愛や、友情や、憐愍に對する、共感、尊敬、感謝などの基調無くしては、私の「文學」から其の最善の物の生れるよすがは無いであらうと。

     *

 行くほどに、私の路の對岸へひとつの部落が現れる。自然の中の庭のやうな山村が。
 北には山を背負い、斜面には雛壇のやうなテラスを重ねて、其の一段一段に農家がならび、南からの日光はあます處なく其處を照らし、ひとうねりする渓谷が、凉しい響きを上げながら、遥か下のはうで岩壁の裾を洗つてゐる。
 それは自然の地形の濠や城壁によつて理想的に守護された一角で、もしも其處の路の上か畠の隅に立つとすれば、まさしく南西の方角に殘雪の山々を望むことの出來る地點である。
 強い勾配をもつたあの厚い大きな藁屋根、落着いた澁塗りの梁や柱、若葉に映える淸楚な白壁、眞靑な絖のやうな空の下の牧歌の村。
 私は一目で其處を愛した。私は本氣になつて其處へ住むことを考へた。
 あすこへ私は家を建てよう。そして其家は村のすべての家と全く同じで、決して全體の調和を破るものであつてはならない。私は努めて速かにその人々の生活や風習に同化し、一擧にして土着の者のやうに成らなければならない。
 私は其處で小さな百姓の仕事をし、物を書き、今までよりも一層自然に親しまう。村の子供たちを集めて美しい話を聽かせてやらう。植物や動物を愛することを敎へよう。出來たら自分の家の一間を彼等のための圖書室にしよう。その間には觀察や採集の仕事も勉強しよう。私は此の地方の植物志や動物志を編まう。望遠鏡を手に入れて、自分の小さい天文學も試みよう。風や雲を觀測し、氣溫の統計も取ることにしよう。それから、それから……
 自分の底知れぬ空想に醉いながら、私は其の山村を後にしてなおも爪先あがりの路を進む。兩側に若葉の幕を張つた路は、揮發する樹液の香に噎せかへるようである。やがて又視界がひらける。水量の減つた谷の上、暑い日光に曝された伐採地の下、目に痛く反射する眞白な石灰岩の岩壁に脅かされて、さっきの村よりも遥かに貧しい、もつと家數のすくない一つの部落が現れる。蒟蒻や三角黍の乾燥しきつた砂礫まじりの畠、重たく苔蒸して今にも崩れそうな藁屋根と、漂白した骨骼のやうな柱とを持つた哀れな家々。この一握の部落、それは半ば立枯れした樹上に懸かる、鴉の巢か何かのやうに見える。
 いや、私は此處へ住まはう。この悲しく乾からびた、恩寵すくない自然の片隅でこそ、自分の一層積極的な、更に創意に富んだ生活は營まれるだらう。私は綠野と森林と湖水とのワーズワースの詩のかわりに、嵐の中に絶えては續くオッシャンの歌を我が物とすることができるだらう……。
 さうだ。そして、しかもこれ又一つの空想に過ぎない。
 してみれば、私が行く先々であらゆる場所に心ひかれて、其處に住むことを考へるのは、これは單なる「浮氣」であらうか。
 いや、私はさうは思わない。路傍一輪の花に眼をとめて、眞に愛と讃嘆とをもつて其れを見る者は、眞に其の美にあづかる者は、すでにその花と共に生きたのである。彼にとつて、それは最早やひとつの經験された世界である。全霊を傾けて愛したその花を、彼はその恍惚の一瞬とともに我物としたであらう。
 私の愛した多くの山村や平野の部落。その美しい姿は「夢想」の瞬間から忽ち私の版圖となり、其處からの路は悉く私にとゞき、千百の村々に通じる記憶の廣場のまんなかに今や私は立つてゐる。
                               (雲と草原)

 

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 橡の實

 書斎のなかの或る棚をほとんど一段埋めるやうにして、寺田さんの本がぎつしりと並んでゐる。同じ装釘で堵列してゐる全集は見たところ幾らか硬くて寒いやうな氣がするが、單行本のほうには著者の人柄や趣味の豐富なニューアンスが、色々とその時々の表現をとり、風懷をまとつて、親しみ多く美しい一隅の世界を形づくつてゐる。
 此段はこれからも未だ全集の殘りがとゞくために、そのうちには故人の著書で一杯になるのである。さうしたらば端のはうに同居してゐるジュリアン・ハックスリー氏に場所を明け渡して貰わなくてはなるまい。「一生物學者の随想集」や「鳥の觀察と鳥の動作」などに、どこか別の處へ移轉して貰はなくてはなるまい。私はそれを、これも寺田さんとは滿更緣の無くもないアンリ・ポアンカレの本と並べるやうにしようかと思つてゐる。だが今、そんな自分事はどうでもいい。
 然しどうでもよくはないのは其棚にころがつてゐる二粒の橡の實だ。寺田さんがなくなられてから間もなく出た「橡の實」という本の前に、干からびてころがつてゐる本物の橡の實だ。これは去年(昭和十一年)の九月、秋雨にけむる中津川の谷奥で私が自分で拾つて來たものだ。
 肉は落ち、皮はちぢみ、凝つて栗いろの枯淡と化した二顆の種子。これを手の平へ載せて見てゐると、あの雨と霧とに濠々ととざされた中津川の渓谷や、秩父の山奥の暗い侘びしい原生林や、切り立つた岩壁へあやふく懸かつた棧道や、そこに蒴果の皮が裂けてころゝゝ轉げてゐた此の橡の實や、それを濡れながら拾いあつめた時の氣持などがいちどきに思ひ出される。
 私たちは信州梓山から、信濃、上野、武藏の國境をなす三國山を東へ乘越して來たのだつた。一行は案内人の親子を加えて五人だつた。戰場ガ原の下あたりで昆虫や植物の採集と撮影とに手間どつてゐる間に、天氣がだんゝゝ惡化して、國境の峠へ立つた頃には雨になつた。金峯も朝日も亂雲の水びたしになつた。その雲は見るみるうちに國師と三寶とをむしばんで、やがて彼等をも塗りつぶした。黑々と連なつてゐた山々と自分たちとの間に雨雲の足が煙のやうに垂れ下つたので、空間は却つて明るくなつたやうな氣がした。然しその明るさは、登山者は誰でも知つてゐるとほり、摺硝子のやうに單調で、失明したやうに味氣ないものだつた。
 一行は三國山の頂上を北から東へ捲いて、中津川の上流を大ガマタ澤と信濃澤との二つに分ける黑木の大尾根を降つた。いよゝゝ本降りになつた雨と、往手をさへぎる無數の倒木と、たえず躓いたり滑つたりする惡路との約八〇〇米の急降下だつた。尾根が痩せて小徑が岩とつるつるした樹の根っこばかりの處では、或ひは左手信濃澤の空間をへだてゝ色づきはじめた上武國境の連山が見えたり、或は右手漠々と霧をつめこんだ大ガマタ澤の馬蹄形の谷のむかうに、十文字の峠道が物悲しく墨繪のやうに仰がれた。しかしさうした眺めも僅かのあひだの慰めで、一行がこの一里の山稜をくだりつくして、二つの澤の落ち合う袋の底のやうな河原へおりたつた時には、周圍はたそがれのやうに暗澹としてゐた。たゞ見る兩岸の谷壁と雲の垂れ下がつたその横腹、淙々と流れる水の眞上だけわづかに一筋の空をのこして、あとは仄暗くおほひかぶさつた闊葉樹の原始林。一羽のカケスの聲もなく、一羽のカハガラスの姿もなく、聾になつたやうな厚ぼつたい沈默の、其處はまつたく奥秩父の心臓部だつた。
 そして私が問題の橡の實を拾つたのも實に其處での事だつた。
 いつ止むとも見えない雨と霧とが私たちの旅の心を暗くつめたくとざしてゐた。それに連れの一人が腰を痛めてびつこを曳き、捕蟲網の柄を松葉杖のやうに突いてゐた。おまけに此の谷で最初に出會うことの出來る部落、今宵の泊りの中津川は、未だ二里ばかりも下流にあつて、其の間は渓谷沿ひの登り降りがもつとも頻繁だとのことだつた。それならば足を機械的にうごかして、心に忍從を言いきかせるの外は無い。それで私たちは戰場を知らせられない兵のやうに進み、慾望を捨てた者のやうに一すじの小徑の意志にしたがつた、ところで、崖ぶちの其の小徑に、橡の實はころがつてゐた。其處にも、此處にも、雨に濡れて。その栗色もつやゝゝと、卵のやうに愛らしく。
 あらゆる不如意に取りまかれた者にも、自然だけはその小さな創造物をもつて、どんなにでも大きくなるべき夢の喜びを與へてくれる。それが今の私には橡の實だつた。その名は寺田さんの遺著の名と重なり合つて、深山の谷間の雨に濡れながら、幾顆の珠のすがすがしくも地に委してゐる。
 私は此の山旅の二三日前に全集の新聞廣告から切り拔いて額へ入れた寺田さんの肖像の前に、この實を供へることを思ひついた。私はなるべく形のいいのを拾つてポケットヘ押し込んだ。何か知らぬが心が輕く明るくなつた。歩きながら時々ポケットヘ手を入れて握つてこすり合せると、一種樂しい手觸りと響とがあつた、其の夜中津川の宿で私はそれを出して見た。翌日は鹽澤の泊りでも食卓の端へならべて見た。そして秩父を後に東京へ近くなればなるほど、人知れずポケットの中の彼等の頭に觸つてみることがいよゝゝ樂しいことに思はれた。
 歸宅すると私は早速その橡の實を、お初穂として「寺田の棚」へみんな供へた。
 其の後幾つかは人に與へ、殘つた三粒のうち一粒は庭へ埋めて發芽を樂しんだがいまだに出ない。そして最後の二粒だけが、寺田さんと同じやうに、もう二度と苦しんだり死んだりしなくなつてゐる。
                          (雲と草原)

 

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 信濃乙女

「ミサチヤン、これ、わしさつぱり判らんが、言ふてみて」
「どれどれ、これか。これは對頂角の問題ぢや」
「わし其の對頂角を忘れてしまつたぢや」
「忘れたのか、それではな、二直線が交つて出來る四つの角のうちで、隣り合わん二つの角をたがひに對頂角というのぢや。いいか。それで、角AODと角COB、角AOCと角DOBは對頂角ぢや。な。それで此の問題の證明はぢや……」
「ミサちゃん、ミサちゃん。ここの so thatは何と譯すのかな、敎へて」
「これか。ここの so that はな、何々する爲にという意味ぢや。彼女は健康を恢復する爲に海岸へ行つたぢや。海岸へ行つたから健康を恢復したではないのぢや。いゝか。そら、お前こゝにも自分で書取つてあるな、彼は目的を達する爲には手段を選ばないと。これと同じぢや。わかつたな」
「わかつた。ありがと、ミサちゃん」
「ミサちゃん…… ミサちゃん……」
 汽車は鹽尻峠を後にして五月の朝の松本平を走つてゐた。明けがた近く一雨ザッとあつたらしく、柔かい亂雲の名殘りが悠々と盆地の空を游いでゐる。左手の窓にはまだうづたかい殘雪を朝日に染めた北アルプスの靑と薔薇いろとの雄渾な連峯、右手の窓には今日登らうとする美ケ原熔岩臺地。女學生でいつぱいの三等列車のまんなかで、新鮮な朝の太陽を顏の半面に浴びながら、僕はこの聰明なミサちやんという子の横顏を、姉らしく、母らしく、しかも正に十五六の小娘である其の項うなじを、飢えた眼に「新らしい糧」のやうに飛び込んで來る風景と一緒に、むしろ信州全體への敬意をもつて眺めてゐた。
                                    (雲と草原)

 

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 べにばないちご

 けさ戸棚の奥から行李をひきだして捜し物をしてゐたら、圖らずも、むかし朝鮮の田舎で手に入れた一枚の古い李朝の白磁の皿が出て來た。この思ひがけない再會にすつかり喜ばされて、それを綺麗に洗つて梅雨晴れの窓に近い机の上へ置いて眺めてゐるうちに、遠い思ひ出の三韓の空の下の、をちこちの圓い藁家から窯の靑い煙のたちのぼるあの永登浦の春の田舎が、我が二十代ヴァン・タンのあえかなエレジーを伴つて蘇つて來るやうな氣がした。
 僕はこの皿に盛るべく今の氣持に最もふさはしい物を考へてみた。林檎やレモンでは月並だし、枇杷や桃では俗であらう。もつとも非凡で淸潔で、野生的に美しくて、現在の詩的意慾の熱い渇きをいやすに足るもの……
 あゝ、べにばないちご! さうだ、あれを措いて何がある!
 槍ガ岳の東鎌尾根、天上澤の目も綾な雪渓に近く、とある斷崖に臨んでべにばないちごは生つてゐた。濛々と吹きつけるめくらのやうな白い霧、その晴れ間に陰顯する桔梗いろの盛夏の空と北鎌の無殘な齒形。やがてパアッと照つて來る太陽の身にしむような暖かさ。べにばないちごはあの毛むくじやらな、ぎざぎざな葉の重なり合つた枝先に、さはればほろりと取れて落ちる、舌に載せれば忽ち溶けて爽やかに散る、霧の雫と日光と甘美な樹液とが凝つて出來たやうな、凉しく甘い透明な、黄赤色の寶玉の實を載いてゐた。
 そのべにばないちごを枝ごと葉ごと、古い李朝の白磁の皿に盛りたいとは、常に心の渇きを訴える詩人の、これも或る朝の夢だらうか。
                                  (雲と草原)

 

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 春

 瑞西の春が先ず湖畔から始まるやうに、武藏野の春は小川の緣から笑ひはじめる。
 二週間ばかり前に北西の風のペイジェントの中で遠く花粉を散らしてゐたネコヤナギは、穏かな日光を浴びて若葉の包みをほどいてゐる。ハンノキに纏ひついたスヒカヅラも𣪘に今年の葉を出して、冬を忍んで來た去年の葉と仲睦じく親子のやうに一緒にゐる。五月六月の水邊の歌であり、平野を訪れる郭公の伴侶ともであるノイバラの爲に春は未だ幼いが、その根元の濕つた土くれの上では、ほろほろと剥げて草の中へ落ちた空の脆い箔かとばかり、淡靑いタチツボスミレが可愛い瞳をあけてゐる。小徑と水との界にひしめいてゐる生き生きした綠の群衆は、生れたばかりのコモチマンネングサの子達である。その群衆の隣には一名カントリサウのカキドオシが、疳の強い子はゐないかなと毛むくじやらの蔓の手をのばしてゐる。
 タネツケバナの白い花の穂が顫えてゐるところ、水はぬるんで其處はまた蟲や魚の世界である。柔かい透明な生着うぶぎを脱いだオタマジャクシの群は、突然放たれた廣い世界で自由の使い途が分らないのか怖いのか、ちよろちよろ泳いでみては又兄弟たちのそばへ歸つて、眞黑な「押しくら饅頭」をやつてゐる。しかしタガメやタイコウチはもつと獨天下が好きだと見えて、蛙の子やドヂヤウの息子などの幼稚な國際スポーツには眼もくれず、のそりのそりと泥の上を歩きながら二本の大鎌で水中の狩を樂しんでゐる。蘆の芽が角ぐむところ、ミズタガラシの絹絲のやうな白い根が水の流れに揺れるところは、ゲンゴロウやミズスマシのプールである。其處には又ヤンマの幼蟲やトンボのヤゴが幾囘目かの脱皮をしながら、來るべき光明と自由との初夏の日を、憂鬱な夢想の中で數えてゐる。そしていくらか流れの速い、アカウキクサの屋根やアオミドロの綿の止まらない水中には、武藏野に分布する用水の水源池近傍の、郷士とも言へるトゲウオの一種トミヨが、さらさら動く砂の上を、刺股さすまたや袖搦み横たへて精悍な眼つきでうろついてゐる。
 瑞西の春の笑顏が先ず氷河湖の星の瞳から始まるやうに、武藏野のよみがへりを告げる小川のほとりは一人の詩人にとつてその放縱な夢の天地であると同時に、冬ぢゆうを閉ぢ込められた子供達にとつても亦盡きることない樂しみの寶庫である。
 その樂みを忘れかねてか、或日親戚の男の子が今年も亦やつて來た。
 子供は私の小さい娘と川狩に行く。向うの高い松林で今年の巢の事を色々議論してゐるヲナガが「ゲーイ・ゲーイ」と喧ましく鳴き立てようが、護謨の長靴で踏んで行く足の下に、哀れなアカネスミレが潰されやうが、そんなことは氣にもとめず、心も空に水のほとりへ驅けて行つたが……
 さて夕方、私たちの閑居を一層閑居らしく半日留守にしてゐた子供たちが、賑やかに歸つて來る。漁の結果は豐富である。トミヨ、タナゴ、モエビ、ヤゴ、ゲンゴロウにミズスマシ、厭らしいホトケドヂヤウさえ幾匹かまじつて、二つの水槽アクワリウムは彼等の影繪や横顏で織るやうな盛況である。それを食卓の上へ有難そうに据ゑての晩餐。思ひ出、説明、議論、手柄話。食事も長いが子供達の話は尚長い。とうとうさんざ催促されてやつと湯に入り、沼くさい手足を私の妻にごしごし洗つて貰つて、くたくたになつて寝てしまつた。
 翌日が來る。男の子は待兼ねて飛び起きると忽ち昨夜の水槽を見に行く。
 トミヨが二匹死んで一匹になつてゐる。ヤンマの幼蟲がカハトンボのヤゴを食つてゐる。子供はしょげる。水槽を見つめながら、眼を大きくして、片手の拳で鼻をこすつてゐる。それを一つ年下の私の娘が姉のやうに慰めてゐる。
 男の子は何か幼い用事があつて今朝歸らなければならない事になつてゐた。自分の取つただけを叔母である私の妻に壜へ入れて貰つて、それを持つて歸るのを樂しみにしてゐた。それなのに魚が減り、たつた一匹のカハトンボの子が半分になりかけてゐる。
 妻は云つてきかせてゐる。
「川へ行けばいくらだつて取れるんですからね。榮子でも叔母さんでも行つて取つて置いて上げますから、澤山取つて置いて上げますから、さあ、男の癖にめそめそ泣いたりしないで、これだけ持つて今日は元氣よくお歸りなさい。さうして又いらっしゃい。ね、分つたでせう。叔母さんが取つて置いて上げるから」
 私は洗面を濟ますと慰めに行つた。そして死んだ魚は丁度いいから小さい試験管に入れて、アルコールを滿たして、栓をして、トミヨの液浸標本を作るといい。カハトンボのヤゴは今日榮子に取りにやつて、近い内に届けて上げる。そんな事を云つてみた。
 從兄弟の次男は私の妻の帶へ兩手を掛けて未だしくしく泣いてゐたが、やがて私には聽えないほど細い聲で何か一と言云つてゐた。その拍子に、子供の背の高さまでうつむけてゐた妻の顏が眞面目になり、眼が光つて、曇つた聲がこんなことを云つた、
「さうね、あなたの云ふ通りね。でもやっばり諦めようとしなくつちや……」
 これを聽くと小さい男の子はやつと泣くことをやめて、それからは機嫌を直し、風呂敷へ包んで貰つた壜を下げて、西荻窪から遠く目黑へ歸つて行つた。
 娘を一緒に停車場まで送らせて遣つた私たち夫婦は、顏を見合わせて微笑した。そして私は思ひ出して妻に訊ゐた、
「さつき何かお前に云つてゐたね。なんと云つてゐたの」
「あゝ、あの時ですか。あれはね、斯う云つたんです。叔母さま、叔母さまは幾らでもゐ
るから取つて置いて上げるつて云ふけれど、僕が惜しいと思ふのはあれなの。別のじやないの。あの死んだやつなの、ですつて」
 さう云いながら又泣蟲の妻の眼が光った。
 欲しいのと惜しいのとは正に違ふ。そして子供としては、況んや男子としては、大人や女のやうにさうたやすく憐憫を口にすることは出來なかつたのであらう。
 私たち夫婦は二人きりで遲れた朝飯に向つた。窓のそとの棚ではアケビの蕾が紫に色づき、鳩がクウクウ鳴き、今日もまた生きてゐる身をしみじみと喜びたいやうに麗らかな、平和な、豐かな春の景色である。
                       (雲と草原)

 

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 岩雲雀

 或日ラヂオの晝の演藝で中華民國の麗人歌手と云はれる若い女の支那語の歌を聽いてゐる内に、どうしたはずみか不圖北アルプスの岩雲雀の事が思ひ出されて、それからは仕舞までずつと歌を聽きながら、槍や穂高や大天井の盛夏の眺めを背景に、燕つばくろの尾根の白い花崗岩と綠の這松との中で、雀よりも少し大きく、地味ではあるがよく見ると實に見事な褐紫色の頭と赤栗色の腹をして、チチーチョロチョロと聽える寂しい張りのある美しい歌を二七〇〇米の山頂に鈴の音のやうに振りまく、あの夏の高山の精のやうな可憐な小鳥の姿を私は心に描いてゐた。そして麥刈りの鎌の音のする武藏野の梅雨の晴れ間を、ときどき暑い日光がかつと照らして、銀鼠色の大きな雲の群が薄靑い空を南から北へ動くのを眺める二階座敷で、凉しい風に吹かれなから聽く中國古歌の哀婉なメロディーと、あの信飛國境高山の岩雲雀につながる囘想とに、僅か半時間なにがしかを私のために「夏の眞晝の夢」の世界にしたのであつた。
 然し一體どうして其の歌からあの小鳥の聯想が生れたのだらうと思つて、極く自然な氣持で直ぐに連絡の糸をたぐつてみたが。結局次のやうな筋道を辿つたものと思はれた。
 歌は「燕雙飛」とか「紅梅」とか云ふもので、其の大體の日本譯らしい物は新聞にも出てゐたが、私はそれを後になつて讀んだのだから此際歌の意味は問題にならない。問題は歌のメロディーそのものにある。或は寧ろその女の聲音、それも中華民國人といふ一東洋民族の若い女性の、淸澄で哀婉の質を持つた其の聲の音色ねいろにあるらしい。
 歌を歌ふ女の聲の音色に聰き惚れる瞬間には、吾々は何か「見果てぬ夢」とでも云ふべき過去の思ひ出や、幸福や美への自分達のあこがれを、想像の中で補足したり一層美化したりしようとする其の機緣の敷居際に立つてゐるやうに思はれる。私にしてみれば麥秋の田園に近く住んで、後から後から我家の上を過ぎる夏の雲を見るともなしに見上げながら、若い女の情熱をたゝへた哀切の歌を聽いてゐたのである。そして其の聲の音色から、一般に女といふものが時あつて發露する異常な精神力の神祕を思ひ、若い女ばかりが道連れであつた數年前の北アルプスの登山を思ひ、そして現實の耳に快く流れ入る異國の歌のメロディーと、艶あでやかではあるが何處となく寂しく又健氣けなげな感じのするその聲の音色とから、あの高山の寂寞の中で淸らかな囀りをつゞけてゐた一羽の岩雲雀を思ひ出し、さうして其處に一つの詩の世界がひろびろと展開して來たのであらうといふ氣がするのである。
 それにしてもあの歌は良かつた。同じ歌手の聲で近い内にレコードに吹込まれるさうだが、さうしたらばこんな事もあつた記念に一枚求めたいと思つてゐる。
                          (昭和十四年八月銀鐘)

 

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 泉

 ゆたかに凉しく甘やかな、ほんのり赤い五月の夕日が、この谷間の村落の、――其處を或る古い峠道の走つてゐる、又その周圍の山々や斷崖きりぎしに我が國最古の地層が睡つたり歌つたりしてゐる――この美しい平和な山村の、新綠にうずもれた風景を一日の終焉の稀有な光で滿たしてゐる。
 二日の旅を終へて明日は都會へ歸らうとする私に、自然はなんといふ美酒を流してくれる事だらう。私の短かい旅行は完璧だつた。色さまざまな岩石が彩り、薄紫の藤浪がゆらぎ、日光が金色の縞を織る若葉のしたに、淸冽な水が奏でてゐたあの渓谷。赤や樺色の躑躅が燃え、郭公が淸朗な日の笛を吹き、龍擔いろの空を折々の雲がよぎるのを私の見たあの山道。それから白や黄の花を星のやうに散らして、風のまにまに靡いては高まる靑ばうばうの牧場の斜面を、柵にそつて登つて行けばやがて一つの山頂だつた。さうして其處から飽かず眺めた「碧い遠方」、やさしい國原。それは私の至愛のアイヒェンドルフの、ヘルマン・ヘッセの、太陽を浴びた哀愁の歌――無限なものへの郷愁と、晴れやかな諦念との、大空のやうに薄い光の面紗を懸けた、また大空そのものの本質でもある歌であつた。
 さうして、今はもう、山の春のたそがれだ。この村にたつた一軒の宿屋の二階から最後の壮麗を眺めてゐた私の眼に、五里をへだてた峠の上の、あの金毛のやうな卷雲も消えた。どこか近くで車井戸の綱をあやつる音がする。つづいて桶にあける水音がする。夜になる前に誰よりも遲れて汲みに來た若い娘の、凛とした、高い、澄んだ水の音だ。それでは晝間私が見た、あの石段をおりてゆく井戸のあたり、其の井筒に金綠色の苔がやはらかに蒸してゐた井戸のあたりには、もうほのぐらい夜の影がさまよひはじめた事だらう。私は好んで其の水汲みの娘の姿を心にゑがく。妙齢の特権である犯しがたい美しさ、得も云へぬ頸筋と愛くるしい小さい捲毛、すこやかな肩、強壮な腰……だが、今や私はあの若いヴェルテルではない。齢四十を越えて、私の生活の秩序も、私の心の神祕も、小さいながら「調和の自然」に似通はうとしてゐる。私はゆつくりと、均等に、均質に、無限に大きくなる円球でありたい。どうか私の「詩」が常にこの發展の夢に先行して、それを常に少しづつでも現實のものにしてくれればいい。
 そして其夜、春の谷間に、暗く深い山風の揺籃の歌のながれる頃、私は古い宿屋の小さい卓にむかつて、ヘルマン・ヘッセに捧げる次のやうな一篇の詩を書くことがであつた――

   夕べの泉

  君から飮む、
  ほのぐらい山の泉よ、
  こんこんと湧きこぼれて
  滑らかな苔むす岩を洗うものよ。

  存分な仕事の一日のあとで
  わたしは身をかがめて荒い渇望の唇を君につける、
  天心の深さを沈めた君の夕暮の水に、
  その透徹した、甘美な、れいろうの水に。

  君のさはやかな滿溢と流動との上には、
  嵐のあとの靑ざめた金色の平和がある。
  神の休戰の夕べの旗がひとすじ、
  とほく薔薇いろの峰から峰へ流れてゐる。

  千百の豫感が、日の終りには、
  ことに君の胸を高まらせる。
  その湧きあまる思想の歌をひびかせながら、
  君は靑みわたる夜の幽暗におのれを與へる。

  君から飮む、
  あすの曙光をはらむ甘やかな夕べの泉よ。
  その懷姙と分娩との豐かな生の脈動を
  暗く凉しい苔に跪づいて乾すやうにわたしは飮む。

 

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 信州峠

 いまいちど、その峠へ私は立つた。
 前の時には冬の旅で、野邊山ノ原から川上の村々を經てここまで來る道はすつかり雪だつた。白い荒凉のなかを風がぴゅうぴゆう吹きまはし、一月の眞晝、金峯の頂上には陰欝な雪雲がねばりついて、やがてかげつて來る薄日の光にも、さむざむとした枯葉の色が感じられたのだつた。
 しかし今度は季節も春、ねむくなるやうな甲斐の春風と太陽とに身もたましひも任せきつて、水の流もなごやかな鹽川の谷を、今日は黑森からのぼつて來た。
 これがあの日、雪をうづもれてゐた峠の上の積石なのか。あらゆるかけらに五月の日光が燦然とくだけて、再び生きることを始めた地衣の色さへ美しい。
 これがあの日、身を切る寒風に梳くしけづられさいなまれて、まるで箒の先のやうだつたあの樹と同じ樹なのか。柔かくなつた冬芽が涙のやうに光つて、いじらしくも國境の峠で上氣してゐる。
 瑞牆といわず、金峯といわず、彼等すべての花崗岩のひたひに、眞率な金いろの反射がある。
 冬の永い凍結のあとの山の自然に、いつのまにか變質が起つて、解體がはじまり、溶解がはじまり、すべての命あるものが沸騰し、盛りあがつて、再生の波はあらゆる山々、あらゆる谷々に氾濫してゐる。そしてこの峠の南北の山ふところに生きる人々も、めぐつて來た春に又一年を老いた事もはつきりとは感ぜずに、この五月の太陽をよろこび迎へ、この植物の無量の醱酵に醉つて、すべての官能を彼等の生の最初の目ざめのやうに解きはなつのだ。
 信濃の風が甲斐へむけて、私の頬を撫でてゆく。その風は千曲川の水のにほひや、新綠の香や、小鳥の歌をはこんで來る。漸く老いた私の心に、あまり浸みとほる程の此の風は淡い悲みを送りはするが、私はそれを厭わない。むしろ今日の私にはそれが快い。私は自然の循環の理も、その法則にあづかる一切生物の宿命も知つてゐる。そして自分の生命にも限りのあること、人間の願望の決して滿たしつくされる時の無いことも知つてゐる。しかもそれだからこそ、人生は見果てぬ夢の美しい旅だという事を私は悟つた。
 信州峠に、いまいちど私は立つてゐる。そして私の周圍はいちめんの春だ。
 なんとその春がばうばうと果てもなく、なんと悲しく美しく、なんと惑溺させる力をもつて此の私を包むことだらう!
                 (昭和十三年十一月登山とスキー)

 

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 三城牧場

 落葉松からまつの林に芽のつぶつぶは未だ涙のやうに光つてゐるが、白樺の若葉はもう五月の太陽にやはらかく揮發してゐる。透明な大氣、身にしむやうな日光。しかし里の山櫻や鯉幟や、耳を聾するばかりの谷の鶯の歌は、さすがに此處まではとどかない。いくらうつとりと醉わせるようでも、高地の春にはつねに一脈の哀愁がある。つねに無常の匂いがする。
 牧場は天然の庭をおもはせる。綠の芝地のいたるところ、鳶いろの大きな岩がちらばつて、そのあひだに薄い褐色や白黑斑の放牧の牛が、膝を折りしいて耳をうごかしたり、或ひは立つて短かい草をしごいたりしてゐる。私のそばにも一つ大きな方形の岩が横たわつてゐるが、よく見ると其の割目にはほそぼそと生えた菅にまじつて、一株の白山風露が柔毛にこげに包まれたちひさい拳のやうな嫩葉をもたげてゐる。日を浴びてほんのり溫かいその岩には、また一羽の越年をつねんの孔雀蝶もとまつてゐて、チョコレイト色の地に銀と藍いろの孔雀紋を置ゐた、あの高貴な天鵞絨のやうな翼を開いたり閉ぢたりしてゐる。
 私はベレーのふちを撫で上げて、パイプをふかしながら、この牧場の得も云へぬ春をながめてゐる。ところが、不圖氣がつくと、濃い綠のスウェターの片腕に、このごろ漸く見えはじめた自分の白髪しらがが一本落ちてゐる。すると急に、もう死んでしまつて此の世に居ない父のことが思ひ出された。私はすこしも孝行の子ではなかつた。だから今やうやく髪の毛に霜をまじえた私として、もしもあの父と一緒に此處へ立つて、もう苦勞をかけない其の一人子として彼を悦ばせることが出來るのだつたら、どんなに嬉しいかと思ふのだつた。そして此の瞬間の幸福の感情が深遠であればあるだけ、今は亡い父への私の悔は深く、私の眼は水をやどして大きくなつた。
 その眼に美うつくしケ原はらのいさぎよい嶺線が弓なりに映る。その眼の中できれいな雲の影が揺れる。そして高地の春の哀愁はそこにも亦いよいよ廣々と流れてゐる。
                        (昭和十五年五月東京朝日新聞)

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 大菩薩嶺

 淸朗な、玉のやうな秋が幾日もつづいて、煙となつて空へ昇るものは昇り、木の實として地に熟するものは熟し、今日甲州の山に盆地に、醱酵のあとの甘く澄んでゆく酒のやうな光と空氣とがみなぎつてゐる。その醉はせるやうな晩秋の日を、めぐりめぐつて又もや此處へ來てしまつた。
 昨日の朝は早く郡内精進の宿を出ると、女坂という長い峠で御坂山塊を越えた。それから蘆川の谷と別れて北へ登つた右左口うばぐち峠。もう雪の來た南アルプスからの爽やかな西風に吹かれながら、私は金と靑との大空の底に無數の川のきらきら光る甲府盆地や、その豐饒の國中くになかをかこむあらゆる山々に挨拶した。
 やがて美しい曾根丘陵のあひだを縫ふ駿州中道を歩きながら、私の經験した今更ながらの旅の喜び。ところが、其處から遥に眺めた大菩薩の連嶺に心を惹かれると、其日歸京の豫定をかへて、鹽山の町に晩い宿をとつた。
 自分の好きな此の山の樂しい一日も傾いて、あたりにはもう夕べの霧が沸騰してゐる。燒石のやうな巨大な露岩も、黄いろく枯れた熊笹も、つがの樹も、さるのをがせも、私でさへも侘びしく濡れて、まるでハンス・カロッサの、ルーマニアの山の戰場のやうだ。
 だが、西のほうの盆地にはまだ赤い透明な秋の夕日が流れてゐる。その夕日に、停車場へ積まれた鹽山石の紋理が映え、葡萄山の葡萄が甘くなり、あちこちの扇狀地で晩くまで働く農夫達の上に美しい雲がバッハのカンタータを歌つてゐることだらう。
                         (昭和十四年九月東京朝日新聞)

 

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 小手指こでさしノ原

 狹山さやまの丘陵を十町のうしろに、白旗塚の樫や檜のこんもりと圓い高まりを右に、誓詞せいじケ橋はしの小橋の下を流れる細い野川を眼の前にして、私は小手指ノ原を北から西へ一望のもとに収める小高い丘の、まだ短かい薄の株や、雜木のひこばえや、赤々とあたりを彩る矮小な山躑躅の間へルックザックを投げ出した。
 時は五月、日は正午。廣大な原は漲るやうな初夏の太陽を浴びて、柔らかな若葉のあらゆる綠に燃えてゐる。その暑い盛んな新綠の海のなかには、ところどころに立つ赤松の森がまるで島だ。一帶の地勢は北東へ向つて僅かに傾いてゐるが、その方角のきら々々霞む空の下には、堀兼や三富さんとめ新田のやうな名も懷かしい農村聚落を散らした、又別の豫感やいざなひに滿ちた武藏野の自然と人生とが展開してゐる。
 その一角に私の座つてゐる臺地の廣がり、今私の見渡してゐる此の一帶の丘陵や低地、これは曾て欝蒼と晝なほ暗い大森林であり、太古の空の雲を映す鏡のやうな池塘であつた。人は此處から有史以前の石器や丸木舟を發掘し、原史住民の古墳や土器を發見した。更に近世におよんでは、此處に幾たびか益荒男の雄たけびの聲が響き返した。然し蒼茫三千年。今は森林も草原も薪炭林や畑と變り、池沼は涸れて水田となり、糸のやうな小川となつた。白旗塚の古墳に近く、赤松の木立では春蟬が鳴きしきり、夏近い秩父の山の見える空に時折の飛行機が微かな爆音を上げてゐるが、もしもそれ等の音響が暫くでも杜絶えれば、この小手指ノ原の眞晝に再び太古の靜けさが歸るのである。
 私はテルモスの番茶を飮み、辯當のサンドヰッチを頬張つた。そして切子の盃から梅酒を啜り込むと、上着を擴げて仰向けに寝ころんだ。私の顏の上には今日初めてみる一片の雲があり、私の手には一冊の小さいヘッセがある。その雲は憧れと歸依の姿をした片積雲で、詩集は「孤獨者の音樂」だつた。
                      (昭和十六年五月東京朝日新聞)

 

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 春の歸途

 石老山の西の麓の篠原という部落。東麓の關口や南麓の牧馬まきめに劣らず美しく、道に沿つた淺い流れに河鹿が鳴き、入母屋造りや兜造り、みごとな藁屋根を持つた農家の庭に八重櫻が咲きこぼれ、鯉幟が風にゆれ、黄鶺鴒が囀り、新綠の谷の下手に遠く陣馬山の春の姿を眺めるその牧歌の山村篠原をすぎて、十町ばかりすると道は二股する。左は一度谷へ降つて更に向ふの山腹傳いに與瀬への近道、右は石老山を東へ捲いて鼠坂ねんざかへの道。近道の方はすでに一、二度歩いたことがあるので私は初めての經験として後者を選んだ。
 篠原から與瀬や中野方面への車馬道になつてゐるこの道は、幅員も廣く、坦々として、そのうへ左右に迫る山や谷が實に靜かだつた。一羽の大瑠璃が、午後三時を過ぎた甘美な日光や淸凉な空氣に色をつけるやうに、そのもつとも豐麗な聲で歌つてゐた。緩やかな登り、柔かに重たい新綠、靑空に浮かぶ雪のやうに白い雲、そして森閑とした山中を滿たす小鳥の歌。あゝすべてが私の期待を叶えてなほも溢れるほどの恩寵であつた。
 私は石老山塊の主稜の末端を乘越す小さい峠をすぎて、今度は緩い降りになるその道を鼠坂さして下りて行つた。右手は直ぐに山の斜面だが、左はすつかり桂川の谷が開けて、河原の白い砂地やその間を曲流する碧い水、箱庭の點景のやうな與瀬の人家や津久井の吊橋、さては高尾から陣馬へつづくあの長尾根一杯に、春の午後の日が當つてゐる悠々とした風景が見渡された。
 歩きながら私の心は靜かに今日の幸福を數へてゐた。或る珍奇な蝶を捕りに來てそれを捕つた。曾遊の山やそれを取卷く麓の村々に再會したいと思つて出發して、最も良い條件の下で再び彼等に會ふことが出來た。太陽はいつも私の全身を照らし、水は到る處で私の脚もとに鳴りさゞめいた。「此の世の富を滿喫して、鳶いろに日に燒けて」、私という貧しい詩人が實に一日の王だつた。
 しかし次第に傾く太陽に、山腹をうねる私の道も日當りよりは日陰の方が多くなつた。やがて斷崖の上の僅かな平地を開墾して百坪足らずの水田を作つてゐるところを通つた。一人の女房がその田圃の土を返してゐた。これが篠原を出てから初めて見た人間の姿だつた。折からさしばかと思はれる一羽の鷹が澤の奥から音もなく舞い下りて來て、近くの杉の樹の天邊に其の褐色の翼をゆらりと収めた。
 其處から五六町くだつて鼠坂の部落のとつつきまで來た時、私は向ふから來る三人の子供に出逢つた。直徑一尺ほどの樹の幹を輪切りにした物を二つの車輪にして、その間へ三、四本の細い丸太を渡して作つた一種の手車を曳いてゐた。九つぐらいの兄が柄にとりつき、七つぐらゐの弟が先へ立つて綱を曳き、四つか五つになる妹がそのわきに從つてゐた。車の上には辯當箱かと思はれる小さい風呂敷包と、飮水をつめた硝子罎とが悲しげに結びつけてあつた。私はこの兄妹三人に向けて今日の最後のフィルムを露出した。
 それから私は彼等に近づいて行き、ルックザックをあけて四つ殘つてゐた洋菓子の中から一つ宛子供に與へながら、何處まで此の車を曳いて行くのかと訊いてみた。向ふの山の田圃にゐる「かあちゃん」のところまで行くのだと兄の子が答へた。おつとりした好い子だつた。お父さんはと訊くと戰地だといつた。私は改めてこの二三人の幼い兄妹の顏を見た。或る恭敬と憐愍との思が私の衷で渦を卷ゐた。「とうちゃん」から御手紙が來るかと訊いたら、ずっと前に來たといつた。私は相手が餘り小さいので膝を突きながら、もう一つ殘つてゐたエクレイルをいちばん年下の女の子の眞黑によごれたエプロンのポケットヘ入れてやり、三人の頬を一人々々撫でてやつて、さてさよならをいつて歩き出した。咽喉に大きな玉が閊へたやうになつてそれ以上はいへなかつた。
 と、三十歩も行つたかと思ふ時私は突然うしろから「おぢさアン!」と呼ぶ子供の聲を聽いた。「おゝい!」と答へて私は振りむいた。坂道の上の向ふに小さい姿が三つ此方を向いてゐた。「何だい!」と私は大聲でたづねた。しかし別に用ではないらしく、たゞ三人が夕日を背にしてじつと佇んでゐるのだつた。私は力一杯帽子を振つて前よりももつと早足で歩き出した。「よし、よし、よし、よし」と誰かをなだめるやうに獨り言をいひながら、しかし何が「宜い」のかそれは判らずに。ただ大きくあいた兩眼の水にゆらゆら揺れる鼠坂の村の家々を映しながら、この世の道を倒れるまでは進まうとする者のやうに、美しくも苦しい愛の歌に滿たされて夕日の道を歩きつづけた。
                     (昭和十四年五月アサヒ・スポーツ)

 

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 高原の朝

 幾枚かの雨戸のあらゆる隙間からさしこんで、茶澁いろに燒けた障子紙の厚ぼつたい面に散光する朝日の光が、一夜の宿をたのんだ家の一間をもうすつかり明るくしてゐる。ゆふべ食事のとき給仕をしてくれた此の家の娘に、「あしたは寝坊がしたいな」と半ば冗談のやうに言つたのを正直に取つて、人から預かつた大切な荷物か何かのやうにそつくり一間へ閉ぢこめて置いてくれたせいか、充分に眠り足りて、ひとりでに眼をさまして、やをら枕もとの腕時計を取り上げた時にはもう午前八時を過ぎてゐた。
 どうせ今日は半日を此の高原の春にまみれて、それからゆつくりと閑散な汽車の客になるのだ。そして三日と續いた自由氣儘な一人旅の小品一卷に終りを與へる豫定だとしてみれば、なまじ無理な早起きなんぞをして、有終の美をなし損ねるのが詰まらない努力のやうに思はれたのである。
 野邊山ノ原や信州峠附近の春を是非たづねてみたいというのは、こゝ二年越しの宿望だつた。去年は美うつくしケ原はらの歸りに小淵澤の驛を通りながら、よつぽど此處で下車して向うのプラットフォームに客待顏の高原列車へ乘りかへようかと思つたが、其の朝の上和田で、本陣翠川のおかみさんの、たつた一跨ぎのバスまでお愛想に差掛けてくれた唐傘を打つ春雨が、和田峠、下諏訪を過ぎて未だ降りやまず、此處でも向うの崖に立つ新綠のポプラアを物悲しい霧に包んで、おまけに風さへ吹きそつてゐるのを見ては諦めるの外はなく、又の機會を考へながらそのまゝ素直に歸京した。今年こそはと思つて出かけたのが三日前の月曜日だつた。初めの豫定では木賊峠を越えて金山へ出るつもりだつたが、どうも上黑平の宿を考へるとつい厭になつて、例のとおり韮崎、八卷の路順で鹽川沿ひに黑森まで來て一泊し、翌日快晴の信州峠から懷かしい金峯や瑞牆に挨拶しながら、小梨の花の眞白な牧場を通つて御所平へ降り、やがて柳澤から高原の端へ取りついて後は呑気に遊び々々、それでもすつかりくたびれて夕方もかなり晩く、佐久の友人の紹介による此の板橋の宿屋ではない一農家へ汚れた靴を脱いだのであつた。
 娘が洗面の湯をとつて呉れるというのを斷つて、登山靴を突掛けて楊子をつかひながら川の方へ降りて行く。見れば墨こそ塗らないが、靴はていねいに泥を落として拭いてある。昨夜訊けば東京で二年ばかり奉公してゐたそうだが、これも一目見た時から氣に入つたあの娘の優しい心づかひに相違ない。同じ女同志のかうした心掛けに出逢つたならば、案外本當の事のわからない都會の智的女性などゝいふ者が、彼等の最も日常的な女らしかるべき心について、果たしてどの程度の反省をするだらうかと、そんな事さへしみじみと思hわれた。
 高原の淸らかな春に一脈の艶を湛える幾株の李や小梨の花の間をくゞるやうにして行くと、板橋川のふちへ出る。八ケ岳はもう盛んな雪解けのせいか、川はかなりの水量で音をたててゐる。岩石の自然の疊まりを其儘階段にして、川瀬の淀を背戸の洗ひ場に使つてゐる邊りは谷間の村では何處へ行つても見る景色だが、兩岸にせまる落葉松の噎せるやうな新綠や、ここに三本、あすこに二本と、すんなり立つて柔かな若葉をほどいてゐる白樺の幹の白さや、淺い谷間を點々といろどる蓮華躑躅や山躑躅、そして此のパステルのやうな綠と白と赤との書割のせばまる奥に、眞向から日を浴びて、眼も覺めるばかりきらびやかに威風堂々と聳え立つ主峯赤嶽。こんな桃源の背戸はさうざらには無いだらう。下流の方を見ると、これも流れに沿つて曲つて行く落葉松林のいくらか透けた空間に、千曲川の空はほのぼのと薄綠に上氣して、その霞の奥から男山の眞黑な岩峰がのぞいてゐた。
 水の流に近く、高い樹木の多い此の靜寂の一角では、又いろいろな鳥の歌も聽かれた。わけても赤嶽を背景とした深い谷の奥からは長い霊妙なみそさゞいの調べが響いて來た。それにまた野邊山の廣袤をいよいよ廣く、いよいよ深く感じさせるものに、遠近で呼びかはす郭公と、柔かにひびく筒鳥の聲とがあつた。川を前に、岩に腰をかけて煙草を吸ひながら、ぼんやりと此の歌の世界に耳をかたむけたり、水際に咲く眞紅の九輪草や、水底をきらめく魚の姿や、新綠の落葉松や白樺や、莊嚴な赤嶽の山頂を眺めたりしてゐると、移つてゆく時間のテンポは緩やかながら、モウリス・ラヴェルの「ボレロ」のやうに、次第に山の春の生氣をあつめて高調して來た。
 遲い朝の食事にもまた娘が給仕に出た。父も母もひどく恥かしがりで、東京からのお客樣を喜んではゐても、到底面と向つてお話をするだけの勇氣を持ち合わせてゐないとの事だつた。娘は又この高原に孤立してゐる板橋の部落の話をいろいろと聽かせた。そして此處で生れて人となつて、いくらか東京を經験しながら、もう一度、いな恐らくは一生涯を此のふるさとで暮らすだらうと云ふ彼女の健氣な言葉を聽いてゐると、此の若く美しい娘への私の好意は尊敬をまじへた一種の愛情に變つて、もう直ぐ此處を立つて行く事が如何にも惜しく思はれて來た。
 しかし旅の春だつた。そして私は旅人だつた。私達のまはりには自然の春が、私のうちには心の春が、たとひどんなに萌え、花咲き、歌はうとも、詩人であり旅人である私は、さうした豐かな滿ち溢れる美には馴れてゐる筈だつた。私はさまざまな美を知つてゐる。浮動する雲や光線のやうな美を、うつろひ易い花や虹のやうな無常の美を、循環する世代の美。又知つてゐる。人類の精神文化が打建てた藝術の美を。永く後代への遺産となるべき耐久力のある美を。そして私の爲すべき事は、その美を摘みとつたり、汚したり、専有したりする事ではなくて、それを視、それに傾聽し、それを敬い讃へながら、此世で生きた祭の日を悦ばしく記念することだ。また今日善き旅人として私のなすべき事は、「靜かに、嚴粛に、朗かに」、心惹かれる此の環境や人々から別れることだ。
 かうして、いつもするやうに次の時の再遊を約して此の一夜の宿に別れを告げた。娘と其の兩親と、小さい弟達とに見送られながら。そしてサルヴァンの村から歸るエミール・ジャヴェルのそれに幾らか似た感傷を味いながら、川沿ひの暗く凉しい落葉松林を拔けると、俄然往手に廣がる朗快な五月の春の大高原と、夢の中から湧き出たやうな八ケ岳とを私は見た。
                      (昭和十四年三月登山とスキー)

 

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 通過列車

 私は東京市も西のはづれに住んでゐる。そして家から尚も一町西へ行けば、友達のゐる住宅地も、煙草屋のある街道も、朝露のかなたに遠く丹澤や秩父のかすむ麥畠も、すべて府下北多摩郡といふ違つた行政區劃へ入るのである。私の詩人の心はややともすれば此の西のはうヘ向いて行きたがる。其處にはまだいくらかの田園があり、物靜かな古い村道と小烏の聲とがあり、煤煙の粒子に混濁されない淸潔な空氣と、晴れやかな太陽の光線とがあるからである。
 しかし私の參加してゐる僅かばかりの文化生活が、私を驅つて東へ行かしめる。それは私が好むと好まざるとに拘らず東京の雜沓にまぎれこみ、其處に何時間かを失踪しなければならない事を意味する。
 その東京へ行くというので、私は我が停車場のプラットフォームに東京行の電車を待つてゐる。いま驛員がちひさな手押ポンプで水を打つたばかりのプラットフォームは、幅一尺ばかりの暑い日なたを殘して、あとは屋根の下の凉しい日蔭になつてゐる。午前十時頃から晝過ぎまでは此の停車場のもつともひまな時である。頭の上に白い大きな文字盤を見せる時計さへも、今はしばらく閑散な時を刻んでゐるかと思はれる此の構内に、吾々のとは全く違つた生活と感情とを持つ雀の聲が、不思議に親しくはつきりと響いてゐる。しかし相も變らず落着き拂つて眞面目なのは、今日も二つのプラットフォームに挾まれて、鐵粉の赤銹におほわれたバラストを貫いて、東西に走つてゐる線路という二本の鐵の帶である。その線路の煌々たる輝きが遠方の薄靑い陽炎のなかに虹のやうに消えるところ、長いプラットフォームの西のはづれに幾株かの眞赤な躑躅が燃えてゐる。
 と、遥かに一聲の警笛。停車場横の踏切で玩具のやうな呼子が鳴つて、遮斷機の腕木が下りる。その瞬間兩側の黑白だんだらの腕木の前では、買物の女中も妻君も、自轉車を降りた御用聽きも、さては國防色に塗られた大型のトラックさへも、みんな同じ一つの思想を抱き、みんな同じ庶民の顏を並べたやうになる。そして柵の内側の別世界の秩序のなかに君臨するのは、煙管を白旗にかへて肅然と立つ老人の踏切番である。
 私の前で線路が鳴る。それが段々大きくなり、次第に斷乎とした調子を帶びてくる。向こう側の下りプラットフオームには金筋一本の制帽をかぶつた助役が立ち、少年の驛員が小さなメガフォーンを口へ當てゝ「通過列車でございます、どなたも御後へ願ひます」と叫んでゐる。しかしその「どなた」は殆ど居ない。
 通過列車は來る。それは凛々と來る。見る見る近づく莊重な電氣機關車の漆黑と眞鍮光の正面。その胴中の熱した鐵と油のにほひ。ちらりと見える機關手の菜葉服。つゞいて客車、窓、窓、窓。車輪の音とあらゆる接合部や間接部から起こる響と、同時にその反響との中を流れてゆく無數の顏。しかしどうやら未だすつかりは旅の氣分になりきれない中途半端な顏。そして其の水平に流れる像のあひだに之だけはしかと私の認めた「長野行」と「甲府行」の白い文字。
 此の列車の行く所には今こそ新綠の山々があるのだ、降りて見たくなるやうな渓谷があり、風が遊ぶ段丘があるのだ。靑嵐を纏つて消える峠道が見え、その近代風が必ずしも詩的でなくはない山間の發電所が見える。ちろゝゝと水の滴るトンネルが、それを出る度毎に、大都會からの隔たりを、平凡な日常生活からの解放を裏書するやうに思はれる。スヰッチバックが始まれば、旅の感じは愈々濃くなる。支線が現れ、乘換の客が何がなしに急ぎ、それを窓から眺めてゐる者の心に、雪を頂いた高山と早くも夏景色になつた湖水との、一つの全く違つた風景が甦へる。列車はなほも進んで長いトンネルに向つて喘ぐやうに登る。軈てトンネルを過ぎると車輪の齒止めの音が頭の奥まで喰ひこみ、空氣の壓力の變つたせいか耳の遠くなつたやうな氣がする。然し樂しみの旅を行く身にはそんな變化さえ快くなくはないのだ。やがて風景は面目を改めて、列車は一つの廣い山間盆地の緣邊を進む。田園が展け、幾つかの町が商工業に榮へ、小さい乘合自動車が街道を走つてゐる。熱い風と凉しい風とが代るがはる車窓へ飛び込む。盆地を圍む山々は總て半透明な薄靑いきらゝゝ光る空氣のヴェイルを纏つて、その山襞の濃淡や山頂のスカイラインで初夏の山のどんなにいゝかを語つてゐる。そしてそれ等の山頂の重なる彼方には一層高い峰々が殘雪を輝かせて、五月の高處の純潔と爽凉とを歌つてゐる。
 その五月の快晴の日を遠く山々の國へと走る列車が今過ぎる。汽笛にドップラー効果を與へ、最後尾に砂塵の渦を伴ひ、窓にすれゝゝの新綠を瞬間の狂氣のやうに湧き立たせながら列車は行く。
 停車場で見る通過列車。それは私にとつて常に一つの郷愁と羨望と、時には或る恨めしさへも價する。
                      (昭和十五年五月工業大學藏前新聞)

 

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 夏が又來た

 いつかしら躑躅も終り、小田卷も崩れ、藤棚の藤も散りつくして、もう庭ぢゆうが噎せるやうな新綠になつた。晴れた眞晝には時々大きな積雲が影の凉しさを撒いて通る。そしてそれが通り過ぎてしまふと、初夏の綠の夢のやうなかがよひの中で、又靑空の海から照り注いで來る日光に、庭の小徑のウグイスカグラの赤い漿果が透明な寶玉のやうにパアッと光る。友人の亡くなった細君が未だ此の世の人であつた頃、私が好きだといふので株分けしてくれたのが、その後八年の間にすつかり繁茂して、年毎に實をつける今はかたみのウグイスカグラだ。此の實が毎年赤く熟す頃になると、アヤメが咲き、郭公が鳴く。さうすると私はこの木を植木屋に掘らせて届けてくれたあの病身だつた亡き人を思ひ、漸く夏氣色を加へて行く郊外の町や自然にしみじみと眺め入るのが此の幾年の慣わしとなつたやうだ。
 今年の夏こそあの山へ登らう、子供や妻も暑中休暇には戸隠か法師溫泉へ連れて行つてやらう。夏が近づくと毎年そんな事をいろいろと心には描くのだが、さて中々思ふようにならないのも此の世の常だ。さうして自分だけは都合して何處かの山へ行つて來て、數々の感銘を擔つて日に燒けて歸つて來ると、又しばらくは私と一緒にゆつくりした夏の毎日が暮せるという其の事だけに心勇んで、喜んだり犒らつたりしてくれる何時も留守番の家族の心根がいじらしくも又嬉しい。それで結局は山も好いし、旅も勿論惡くないが、世間一般が貧富の別無く享受する此の壮大な暑い季節を、親子で旨く工夫して樂しく暮らしてみるという事に、登山や旅行以上の滋味があり、爽快味さへあるのではないかといふような事が、少くとも私などには考へられて來るのである。
 實際家ぢゆうが皆丈夫ならば、東京の夏も決して惡くはないやうだ。まして樂しみを考へ出したり、季節特有の美を味わつたり、その刺戟を善用したりする能力があれば、酷暑の都會に居殘つてゐても避暑地生活に劣らない、或ひはそれ以上に内容と意義とのある生活が出來そうに思はれる。本當の贅澤とは、自分達の力で随所に美や樂しみの喜びを盛り上がらせる事ではないかといふ氣がする。
 それならば東京の今年の夏を、私としてはあのヴァレリーの精妙なエッセイ「海へのまなざし」や「人間と貝殻」をしっかりと讀み上げる事に捧げよう。又雲の美しい季節だ、雲の撮影も熱心に續けよう。炎天の荒地に豹紋蝶も追ひかけよう。河骨の咲く野川で子供と一緒に川狩もしよう。また東京の下町に凉しい南東の「からあげ」が吹く時刻には、此の郊外から妻子を連れて浴衣がけで、淺草の河岸へ鰻を食ひにも出掛けよう……
 いろいろな夢やまことが私に寄る年波を忘れさせる悲しく美しく盛んな夏、それが今年もまた太平洋の水の果てから遣つて來た。
                      (昭和十四年七月アサヒ・カメラ)

 

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 かんたん

 八月の或る夕暮、日没後一時間ばかり。武藏野の畑の上をそよそよと南の風が吹きわたつてゐた。空はきれいに晴れてほのぐらく、かすかに紫をおもはせる其の空間に、次々と淸凉な星の光が增していつた。然し西の地平線の近くには秋のいちようの葉むらのやうな夕映の色が殘つていて、秩父の連山の黑い影繪のやうに見せてゐた。そして其の連山の上に艶やかな宵の明星が滴るばかりに傾いてゐる一方では、東方の森の頂きも明るくなるかと思ふほど、巨大な木星が爛々たる光芒を放つて昇りかけてゐた。
 道の草にはもう凉しい露がおりてゐた。其の露の蔭からは草雲雀や蟋蟀が、失はれた金の鈴の傳説や、つゞれさす夜の哀れな物語をおもいゝゝゝに歌つてゐた。
 私は夜目にも白く大きな繖形花のならんでゐるにんじんの畑を過ぎ、身體が觸れるたびに實り間近かな穂がさらさらと鳴る黍畑を過ぎて、やがてこの二三年荒れ放題になつてゐる或る空地に近付いた。其處には盛んに繁茂した雜草にまじつて、今では野生に返つた牛蒡ごぼうやいちびの類が草むらの中から小さい黑い島のやうに浮き出してゐる。さうして、私は其處で鳴いてゐるかんたんの聲に今宵もまた聽き入つた。
 句切りをつけて二度ずつ打振る鈴のやうな閻魔蟋蟀の澄んだ金属的な調べに較べると、かんたんの歌は遥か遠くの村里で鳴いてゐるひぐらしの聲か、風に送られて來る哀切な笛の音を思はせる。其の長い緩やかな音の流れには旋律もなければ起伏もない。かすかに顫へながら耳から心へ傳はつて來る其の瞑想の歌には、悲哀にせよ歡喜にせよ、何等人間に強ひるところが無い。たゞ星が輝き、風が渡り、平野の夜のひろがりが大きくなつて行く其事のやうに、彼の歌の意味も無限であり、無量である。
 私は此のかんたんを聽きながら、何時の間にか信州川上の梓山を思ひ出してゐた。私が初めて籠の中のものでない此の蟲を見、その聲を聽いたのは梓山だつた。さうして背戸に蝦夷菊を作つてゐるあの山家や、村外れの河原に近い小石まじりの蕎麥の畑や、白樺の木立の中に消える十文字峠道などを思ひ出すと、もう一度其處へ行つてみたいという烈しい慾求が、武藏野の星の下、草原の露の中で、私の衷に遣るすべも無い郷愁のやうに湧き上つて來るのだつた。
 それは或る年の九月なかばで、秩父の山々には漸く秋の紅葉が照りはじめ、谷川の水は山間の空を映しいよいよ靑く冷めたくなり、信州南佐久郡川上村の狹い水田にも稲は黄いろく房房と穂を垂れて、田圃の畔に咲きつゞく彼岸花がそゞろに旅愁を催させる頃だつた。私は二人の友と連れだつて千曲川の上流から山越えに中津川の谷への旅をした。小海線「信濃川上」の驛のある御所平から三里餘りをバスに揺られて來てみれば、梓山は思ひのほかに明るく開けた谷あひの村だつた。
 梓川橋の袂の旅館白木屋に旅装を解くと、われわれは身輕になつて夕餉の時刻までめいめい自由な行動をとつた。一人は用意の釣竿を持つて近くの河原へ岩魚釣に行つた。もう一人は重たいレフレックス・カメラを胸に吊して昆蟲の撮影に出かけた。私は宿を出て橋を渡ると、煙草をふかしながら一人でぶらぶら、村の上手を十文字峠道について歩いて行つた。
 どこから吹いて來るとも知れない風は水晶を溶いたやうに凉しかつた。村にはほのかに水がにほひ、竈の煙がにほひ、爽やかな乾草の香が漂つてゐた。漸く傾きかけた秋の太陽は打ち開けた下流のはうから光を送つて、其の蜜のやうな甘美な光線で澁色をした家々の柱や板羽目や、石を載せた低い屋根屋根を薄赤く染めてゐた。村には小さい犬がたくさん居た。昔から傳わつてゐる純粋な日本犬で、法令で保護され、その正しい血統を維持されてゐるという事だつた。彼等は人間と同じように此の村に土着し、狩獵の供をし、子供等と遊び、女等に愛せられて、狹い往來にも、橋の上にも、川べりの小徑にも、また庭の中、家の土間にも、その精悍な怜悧さうな小さい姿を見せてゐた。
 乾草がいたる處でにほつてゐた。或家の前を通ると、往來に面した庭で一人の娘が一面にひろげて干した刈草を一抱えづゝ束ねてゐる。近づいてよく見ると萩や桔梗や女郎花のたぐひの秋草だつた。束は出來るそばから納屋の前へ積まれて行つた。それへ赤い蜻蛉が無數にとまつて、夕日の光にきらきらと羽根を伏せてゐた。
「この乾草はどうするんですか」と私は娘にたづねた。         
「冬ぢゆうの牛や馬の飼葉にしやす」と言葉少なに娘は答へた。
 實際家畜も多いらしく、家々の間から、彼等特有の饐えたやうな匂いが流れて來た。遠く來てこういう匂にめぐりあふと私はいつでも一抹の旅愁を感じずにはゐられない。それは赤兒の體臭や母乳の香のやうに懷かしくはあるが、其の懷かしさには何かほのかに悲しいやうな苦が味がある。

  この國の寒さを強み家のうちに
  馬引き入れて共に寝起す

という牧水の歌が思ひ出された。かうした乾草はまたいたる處で飼はれてゐる兎たちの冬の飼料にもならうかと思はれた。
 大概の家で蝦夷菊を作つてゐて、ちやうどヘルマン・ヘッセの小品「秋」にあるやうに、「白、紫、八重、一重、あらゆる種類とあらゆる色との花が」鳳仙花やダーリアと一緒に、畑の石垣の緣や垣根の附近を飾つてゐた。さうして村の唯一の色彩とも見える其等の花が、夕陽の金紅色や、山あいの空の濃い靑や、一痕の白い月や、谷川の響や、淸らかな空氣の冷めたさに調和して、如何にも汚れなく美しい、平和な山里の初秋の情景を完成してゐた。
 十文字峠への道は村の家並も尽きるあたりから次第に爪先上がりになつた。往手には小さい丘をへだてゝ三國山つゞきの山稜が望まれ、その一角に突き出てゐるアク岩という石灰岩の巨大な露頭も遠く高々と仰がれた。いよいよ村の最後の一軒家の前まで來ると、左から干曲川の流が寄り添つて來て、夕暮の水が淙々と岩に激して鳴つてゐた。道の片側の小高い山畑へ登つて今來た方角を眺めると、梓山の部落は川の左岸に細長く伸びて、西方の空の落日の餘燼の下で今宵の星の照り明かるのを待つてゐた。
 私がかんたんの聲を聽きつけたのは其時、其場所でだつた。凉しいやうな、甘いやうな、得も云へぬ霊妙な聲が、或ひは近く、或ひは遠く顫へてゐた。私は耳を澄まして一つの聲の源をたづねながら、白茶けた畑の、もう枯れるのに間もない胡瓜の蔓のあひだを覗きこんだ。そして遂に一枚の葉の表から裏へとすばやく身を匿す、長さ六分に滿たない、黄味を帶びた草色の、一見弱々しくほつそりした其の蟲を發見したのであつた。私は石の上へ腰を下ろすと、あたりがすつかりたそがれて村の家々に電燈の光のちらつき初める頃まで、存分に彼等の歌に聽き入つた。

 

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 旅への祈

 又しても山の村々や峠のおもはれる季節が來た。
 一日一日と草の露がしげくなり、櫻の葉が黄ばみ、無花果があまく熟む。朝のおちついた光のなかで蝦夷菊や大毛蓼の花が農家の裏庭をいろどり、冷たい健康な土の香があたりに漂ふ。雜木林のしめつた暗がりには色々ながぞくぞくと生える。野にはもう夏の草いきれもなくなつて、晝間でも蟋蟀が鳴き、高い空の一角に終日美しい雲が足をとめ、郊外の家々の窓が思ひ思ひに遠い地平線をながめてゐる。きのふは朝から鵙の高音を聽き、近くの池へ降りて行く鴨の姿を見、夜が更けると東の空ヘオリオンの昇るのを見た。かうして自分の住む郊外のいたる處に自然の秋色がとゝのうにつれて、夏に倦んだ私のうちに又新らしく山の人生や旅への憧れが目ざめて來る。
 今まででも多くの山村や峠を私はあるいた。そして其等のどの一つにも何かしら愛染の思ひ出がまつはり、深い意味が感じられる。私はさういふ幾多の思ひ出を、ちやうど鑛物や岩石の採集家が、彼等の貴重な小さいかけらを一つ一つ叮寧に綿にくるんで珍襲するやうに、大切に心の中に保存してゐる。其の儘で完成された一粒の結晶のやうな物もあるが、概して格別美しくもない、一見ひどく平凡な物の多いのは事實だ。しかし見たところ何の奇もない石の破片でも、それを採集した本人にとつては強い愛着の對象であり、又それを薄片にしてニコルの顯微鏡で覗いてみれば、眼をみはるほど華麗な色彩や組織を現すやうに、名も無い小さな峠や有りふれた山村への足跡でありながら、もつと多くの時間や費用をかけた旅行にも劣らないほどの滋味を持ち、深い感銘を藏してゐるものも少くはないのだ。
 さうして私などには到底理解できないような世界歴史の轉變が、その巨大な齒車をいたる處で衝突させたり嚙みつかせたりし、その勢に捲きこまれて、吾々の周圍でも無數の小さい齒車が金切聲を上げながら燥急な廻轉をはじめる時、そんな喧囂の只中の慰めもない孤獨の貧しい夕暮に、私の思が風のやうに歸つて行くのは、曾て訪れた幾多の美しい山頂や、そこに私が最も優しいまなざしを投げた谷間の部落や、私のまじめな物思ひが其處の落葉や苔を一歩一歩踏みしめた山道へであり、その永續的な、豐かな、深く靜謐な、心を高めさせたり和らげたりする世界へである。そして自分の周圍に全く喜びや慰めの音樂を期待することが出來なくなつた時、その味氣ない夜の奥から、私はとほい靑空や晴れやかな太陽の思ひ出を紡ぎ出し、憧れの思に滿たされながら、自分のためのさゝやかな愛と美との歌をつゞる。其の歌の中では喜びにもまた悲しみの陰があり、悲哀もなほ永遠者への信賴の光に照らされてゐる。それが私の「孤獨なる者の音樂」だ。そして本當に孤獨の味を知る者こそ、自由の何であるかを本當に知るのである。
 旅の記憶が吾々の歌となり富となるためには、世界の廣がりと未知なるものへの憧れや、新らしい體験への期待が無くてはならない。若しも必要からでも義務の爲にでもなくする吾々の旅が、所謂現前の周圍からは望み得べくもない物への憧憬や期待によるのでなかつたら、抑も何のための旅であらうか。時間や行程、見るべき物や見る人間の心構へ、その目的と結論。さういふものが豫め指定された通りに實現される旅。さういふ旅は少くとも私のいふ旅とは凡そ違つた別種のものである。旅とは、思ひがけない物との遭遇の機會だ。人それぞれの氣質と教養とにしたがつて、捉へ、感じ、見、學び、味ふ糧だ。それ以來吾々のうちに生きて永く吾々をやしなう糧だ。しかも吾々にそれだけの心の用意が無ければ決して眞相を現ことのない富だ。その用意は他からの敎育や強制では得られない。食糧や履物の指定からも、どんな勸告や手引からも得られない。「随處に轉じて能く幽なるもの」を受けとる心の用意だ。すぐれた樂器の上に張られた微妙な敏感な絃のやうに、そよとの啓示にも鳴る其の心の用意だ。
 私は自分のする旅にどんな先達も必要としない。あらゆる自然や環境に自分の篤い心を與へながら、其處から人生の深い意味を汲みとりたいと願ふ私は、行くにせよ歸るにせよ、又とどまるにせよ、いつでも私一人の運命を擔い、私の孤影を運ぶのだ。その運命が他の運命にまじり込み、その孤影が他の孤影を抱く。それが私の旅だ。さうして其の度から愛や共感の慰めの歌は生れるのである。
                      (昭和十四年十月山と高原)

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 單獨登山

 私は必ずしも單獨登攀を主唱する者ではないが、仲間も無く、案内者も伴はず、たつた一人でやりとげた登山には、何時もひとぢじの澄んだ光のやうなものが自分に附きまとひ漂つてゐて、歸來味ひかへす其の思ひ出もまた特に美しく純粋であつたという幾度かの經験を持つてゐる。終始山中で自分を照らしてゐた澄んだ光線。それは元より言葉の譬喩にすぎないが、ともかくも未知の山だとか、深い或は高峻な山だとか、又多かれ少かれ困難を提出した山だとかいふ時に、その光は一層つよく、その耀かがよいもまた一層美かつたように思はれる。
 たとへば友達と一緒ならば新鮮な興味や樂み以外のものではない山であつても、一人となれば少くとも私はいくらかの不安を感じるのが常である。そして其の不安は、恐怖といふのは當らないとしても精神の緊張を伴ひはするであらう。つまり平野のそれとは違つた山岳地帶の天氣の激變に注意したり、現實の地形と地圖とを對照して刻々に移動する自己の空間的位置を確かめたり、未知の前途に對する漠然とした不安に囚れたり、時間全體の均衡を考へたり、其の他此の登山を成しとげる上に必要な幾多形而下的な關心事のための精神の緊張である。
 勿論かうした緊張は登山の喜びの一部分をなすものでもなく、まして山の美を味ふことには何ら直接にあづかる所はない。又すべてを協力し合ふ仲間が有れば、たとひさうした緊張を餘儀なくせられる場合にも、一人の時のやうに注意や省察の結び目を二重にも三重にもする必要は先ず無いであらう。然したつた一人で山へ入る者は否應無しにこの餘分な貢物をさせられる。それ故、單獨登攀といふ事はこれを學問にたとへれば獨學に似てゐる。敎師や學友を持たない獨學者は、自力で到達したひとつの解答にもなほ一抹の不安を感じるために、さらに第二第三の別な面からの吟味によつて其の答の當否を確めやうとするだらう。そして若しも其の答の正しい事が認められたとすれば、この獨學者に與へられた喜びと自信とは、更に次の難問に立向かふ彼の勇氣を鼓舞して、選ぶべき第二の方向を彼の本能と意慾とにむかつて指し示すだらう。かうして確信を得るために彼の費す二重三重の手數は之を或る眼から見れば迂愚の譏を免れないかも知れないが、これこそ一山ごとに自己の技倆を進歩させ、未知の境地にあたらしい可能をこゝろみる單獨登攀者の、むしろ進んで取るべき實り多い課程ではないかと思はれる。或る山に敢行したへの單獨登攀が見事成功した時は元よりの事、たとえみじめな失敗に終つた時でも尚かへりみて無限の味ひを其處に見出すのは、自己の體力と叡智と技能とを傾けて、ともかくも登りついた所までは、跋渉したかぎりは、その山を自分の物になし得たいう信念からでは無いだらうか。「ひとすぢの澄んだ光線」という私の譬喩は、半ばは此の間の消息を語つてゐるのである。
 然しそこには尚他の一面がある。それは山で一人で味ふ休息の醍醐味である。それは此の休息が同時に精神の憩ひでもあるが爲に、單獨登攀者はその最も純粋なものを純然にひとりの時間に於て享樂するのである。
 一體われわれが或る山から持ち歸つて永く思ひ出の寶とし心の糧とする本質的な感銘といふものは、出發から歸還までの個々の經験の集積や其等をおしなべての總和であらうか。私はさうは思はない。永きに堪へる感銘は、周圍にむらがる記憶や印象からぬきんでて、その峯頭は高く登攀の一日の上に君臨し、その根は深く魂の底に目ざめてゐる。それは拔群なもの、特異なものであつて、凡百の經験が夕暮の谷間の霧に没する時でも、なほ悲しく壮麗なアルペン・グルートに照りはえてゐる。そしてわれわれが或る山についての最も鮮明な心象を彫塑することの出來るのは、實にその休息の間に味つた名狀すべからざる深い感慨と、瞬時であると同時に永遠でもある時間を生きた心の王國の思ひ出とによるのである。
 ルックザックをかたえに君は休息する。君が今腰を下ろしてゐる其のほんのりと暖い岩、それは數時間まえに君が目を上げて空の一角に認め得たあの金色の花崗岩である。八月の大空の下、山山に銀灰色の面紗ヴエイルを懸ける大氣の海に突き出して、君はたつた一人の人間的存在である。まるで耳に詰物をされたやうに、もう文明世界の騷擾の音を君は聽かない。聽くのはたゞ折々あたりの這松から起こるエオルアの琴の淸搔すががきと、高山の精のやうな一羽の岩雲雀の歌ばかり。眼を放つて君は見る、炎熱に萎えた綠の谷々と、西風に冷やされてゐる遠い幾つかの山頂を。又見る、眼前の岩の裂目に碧落の色を塗りこめた岩桔梗を。すべてが實に靜かで悠久で、一切の體験は夢であり、千百の夢はひとつの願望に織り上げられて、茲に空前の現實となつて展開したかと思はれる。身を仰向けに倒し、兩腕を枕にして、靑々とした天の底に眺め入ることがなんといいだらう! 時おり現れては消えるほそい雲の走り書。それは何の意味を、どこの世のどんな消息を語るのか。やがて虚空の靑の深みにダイアモンドの粉末のやうな物が無數に生れて、燦爛と亂れ飛び、霏々として浮き、沈み、そして今や凉しく君はねむる……「戰争と平和」の公爵アンドレエがアウステルリッツの會戰に負傷して戰場の草に倒れながらその恍惚狀態の中に無限に深い靑空に見入つた時の獨白、「何という靜けさ、何という穏かさだらう! 私の狂奔的な仕事とは何という違ひだらう! どうしてもう少し早くこれに氣づかなかつたのだらう、此の高い大空に!」という言葉に似たものを、恐らくは單獨登攀者こそ彼の山頂の休息の時、その恍惚狀態の中で、我と我が心に語つたかも知れない。
                         (昭和十四年七月書物展望)


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 山に向かふ心

 もしも誰かに「君はなんのために山へ行くのか」と訊かれたら、私はさしあたり、きつと當惑するだらう。なぜかといへば、この頃ときどき發せられるさういふ質問は、ほんたうに知りたくて訊く女や子供の素朴な、正直な質問とは性質を異にしてゐて、實際では、次にちゃんと用意の出來てゐる、面倒な、いくらでも複雜になる、怖るべき討論の端緒を引きだすための、謂はゞ底意を藏した誘ひの手である場合が多いからである。そして、そんな時に、若しもうつかり「好きだから行くのです」とでも正直に、答へようものなら、待つてゐたとばかり議論の前線へ引つぱり出されて、それから先はかんじんの山とも、私といふ個人の好みとも、もはや全く緣のなくなつた觀念の世界での爭に追ひこまれ、果は「思想の貧困者」といふ折紙までつけられて、はふり出されるのが落ちであらう。そして私は、實際に他人のさうした場合をいくたびか見て來た。
 もちろん、こんな事が流行すれば、登山家の中でも多少なりとも議論をたしなむ人達は、ふだんから自説をしつかり鍛へたり高貴に磨きあげたりして、不慮の際に備へるかも知れない。ちやうど、或畫家における彼自身の畫論のやうに。そして、私も實はそれを試みた。
 然しそのやうにして「思想の富者」となつてみたところで、それが一體なんにならう。そんな結論が、そんな武器が、其處へ心をあたへに行く私の山と山登りとを、たとひ僅ばかりでも深く樂しくすることに役立つだらうか。山へ行けば山や谷間に、澄みわたつた大空や霞む遠方に、あこがれは滿ち、郷愁の歌は流れてゐるのだ。淸らかに寂しい高處の自由に私の胸はいつぱいになり、果は故知らぬ涙で私のまつげは飾られるのだ。さうしてこれこそ山だ。自然の中でもとりわけ山といふものが人間に與へる靈妙な情緒だ。そして吾々の憧れも郷愁もすべてこの情緒にふくまれてゐながら、更に一層遠く、高く、吹く風や飛ぶ白雲の翼のまにまに、未知のふるさとへ引かれて行くのだ。
 幾年もつゞけて倦まず顯微鏡で雪を調べてゐる人に、「なんのために雪を見るのか」と質問したら、その人は十勝の山に降る雪を手に受けて、「水鳥の胸毛よりももつと輕い」その雪片を、無言の微笑をもつて示すかも知れない。
 物に憑かれたやうに熱中して、はげしく畫筆をうごかしてゐる一人の畫家に「なんのために畫を描くのか」とたづねたら、彼は悲しく靑い眼をみはつて、風に波立つアルル平野の麥畑と、凄愴な夕空と、そこに沈む爛々たる太陽とを「あれを見ろ」と言葉には出さなくても、その恐ろしい沈默をもつて答へたであらう。
 およそ美的情緒に深い根源をもつ人間の行爲に、その理由の説明や功利的な解説を求めるくらゐ迂愚な事もなければ、非好意的な事もないであらう。これは質問者自身が、おのれの愛の體驗を反省してみれば明らかなことである。
 私は彼がなぜ或る女を愛したかを訊かうとはしないと共に、私の山登りの理由に就いても到底正しく、うまく答へる事は出來ないと思つてゐる。そして私がたまゝゝ自分の山を詩的に、或は靈的に、或は寓意的に語ることがあるとすれば、それはちやうど私に適切な答への出來ない證據だと云つてよいかも知れない。
 それにしても私はどれだけ自分の山を語つたらうか。たとひ他人にではないまでも、少くとも私自身に。けだし、人が囘想をおこたる時、思ひ出の國の美しいおもかげ達は、むかし愛されたその姿をむなしく忘却の國へはこぶのである。
 なぜならば、山はつねにその在つた場所にありながら、私がひとたびそれと別れて來れば、それは私の山としては、私の心のほかには最早やどこにも存在しないからだ。私がそれを見なかつたうちは、私がそれを愛さなかつたうちは、實に私が其處でひとつの永遠を感じなかつたうちは、それは誰かの山ではあつたかも知れないが少くとも私のではなかつた。しかし今や私はそれを自分のものとして、聖らかな火のやうにして持ち歸つた。私はそれを大切にして、その焔を保たせなくてはならない。高貴であつた、雄渾であつた、或は可憐であつたそれ等山々の感銘を、出來るだけ永く保存して忘れぬやうにしなければならない。それは私の富であり、私の殘りの生涯を遠い甘やかな夕日のやうに照しに來る光である。
 ときどき私は考へる。もしも私にして本當に抑へがたい郷愁からでなく、ただ好奇心をみたすためか、登山の經歷を增すためか、人に敗けまい競争心からか、或は私にとつては第二義的のものに思はれるその他の動機から出發するくらゐならば、寧ろ山登りを斷念してしまつた方がよいと。
 初めてにせよ二度目にせよ、はるばる山に會ひに行く私の心は、常に一途に燃えて貞潔で、まじめな嬉しさをじつと堪へてゐるやうでなくてはならない。この氣持をまもるために、だから、私の山登りはいつも大抵ひとりだ。人から見れば「あんな小さな、低い藪山」とさげすまれさうな山であつても、自分が心ひかれて行く以上は、ちやうど戀すればどんなはしためでも天使のやうに見えると同じに、私にとつてはどんな高山にも劣らないほど美しいのだ。
 山の持つ測り知れない靜けさや、無限に深い休息の感じを知り、平地を拔く高さから來る廣廣とした視界のために精神を鼓舞される事をよろこぶ程の人ならば、山そのものゝ比較的な高低や難易によつて、たやすく甲乙はつけない筈だ。また眞に自然を愛することを知つてゐる登山家にとつては、アルプスにはアルプス獨特の美があり、秩父には秩父箇有の美があり、更にいくつかの峠によつて横斷されてゐるやうな到るところにある低山には、又其處にのみ見られる特殊の美のある事こそ喜びだ。高原といへば常に何かしら高尚な詩的なものを盲信し、丘陵といへば野暮な泥くさいものを聯想し、あまつさへ、その行く山によつて、その人の人間的價値にまでも高下をつけるやうな人があるとすれば、それは服装や暮しによつて人間を判斷するやうなものであつて、本當には自然を愛することを知つてゐない種類の、まことに見すぼらしい登山家だと云はなくてはなるまい。
 現代佛蘭西の偉大な作家ジョルジュ・デュアメルの數多い著書のなかに「我が手帳の數頁」といふ小冊子がある。その内の「詩人の使命」と題した短い感想を、彼はヒマラヤと詩人との事から書きはじめてゐる。
 或日デュアメルは、ヒマラヤ遠征隊に加はつた一人の靑年の報告講演會へ出席した。「大膽な闘士であり偉大な登山家である」靑年は一本の鞭に黑い着物、世界最高の山岳が次々とその凄惨な雪崩や、崇高な頂きを現す映寫幕の前へ立つて、單純に、控へ目に、その遠征隊の經驗を語り、少しばかりの専門的・技術的なディテイルと、いろ々々な數字とを語つた。單純に控へ目に語つたといふのは、當時一般の靑年が最惡の精神的苦惱を味つてゐたと云ふから、恐らくは歐洲大戰から數年後の事で、寧ろ寡默こそ彼等に共通した傾向だつたのであらう。
 さてデュアメルは會場を出ると、いつものやうに夢想を抱いて歸路についた。あの靑年は云つたのだつた。その遠征隊には一人の將軍と、一人の大佐と、一人の大尉と、二人の醫師とがゐたと。あゝ、然し、彼は詩人がゐたとは云はなかつた。若しも實際そこに詩人が加はつてゐなかつたのならば、その輝かしい功業も、果して眞に達成せられたと言ひ得るかどうかは疑問である。なぜならば、とデュアメルは云ふ――
 「なぜならば、フィルムや數字が吾々に知らしめる力の無いあの根本的な眞實を見てとつて、それを啓示する證人こそは詩人である。もしもヒマラヤがヒマラヤでありたいならば、宜しくヒマラヤの詩人を招くか、現して見せるかするがいい。又もし𣪘にその詩人が現れてゐるならば、どうか彼を吾々のところへ送つて呉れ」
 擧げられたヒマラヤといふ特殊な場合はさて措いて、しかし私としては矢張りデュアメルのこの言葉の眞意には同感である。ひとつの山のほんたうの美を知らうとするならば、多少なりとも詩的な心を持たなくてはなるまい。そしてそれを他人に知らしめようとするならば、更に多少なりとも詩人でなくてはなるまい。更に又おのが國土の美や民衆の德をひろく世界に知らせようと思ふならば、他のさまゞゝな力の使用もさる事ながら、その國土の眞の詩人を呼びいだして、彼をしてその最も自由な最も淸朗な歌をうたはせ、それを世界の隅々にまで行きわたらせる事もまた緊要ではあるまいかと私は思ふ。
                      (昭和十四年一月北海道帝大新聞)

 

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 日本の山をとこ

 或年の八月も末ちかく、甲斐や信濃の山といふ山に凉しい影のある朝の九時ごろ、私は霧ケ峰を賽ノ河原から登つて行つた。最後の坂がたうとう終つて、落葉松林からまつばやしに沿ふ道の最後の屈曲をぐるりと廻ると、其處に、私の正面に、廣大な視野はからりと開け、きらびやかな中にも何處かもう秋めいた晩夏の花の高原が、まだ晴れやらぬ露に光つて、すがすがしい大空の下に又してもあの懷しい姿を現すのだつた。
 その幾千の花の向うにフュッテが見える。そのフュッテを繪のやうに見せる背景の草山の、虹のやうな線もいつに變らぬ。下野草しもつけそうの粉紅色がひときは目立つて縷々としてゐるのは、強淸水こはしみずの細い流のつゞく處だ。朝の靜けさに一羽の頬赤が忍び音に歌つてゐる。小徑のへりの擬賓珠の花の紫が、はるばると來た心にしみる。ひどく靜かに見えるあのフュツテ。然しあの中には今多くの人の生活があつて、一樣の知的な空氣がみちみちてゐるのである。あすこへ着いて皆に會ふ前に、私はしばらく此處へ一人で立つて、我が霧ケ峰に久濶を叙したい氣持だつた。
 と、左手、角間澤にむかつて切り立つた或る崖ぶちの岩の上から、誰かが大聲で私を呼んでゐる。眼を凝らしてよく見ると、此の高原での今度の「山の講習會」に萬事肝入り役のI君らしい。ところが其處にはもう一人ゐて、岩の緣からズボンを穿いた兩足をぶら下げ、上半身は素裸で、その首筋から裸の胸ヘタオルを垂らして、これも私に手を上げてゐる。
 私は小型の双眼鏡を片手にして、其の水晶の球をとほす鮮かな視野のなかに、此の朝信濃の高原で私に最初のブラヴォーを送る人の姿を近寄せる。
 一人はI、そして今一人は、思ひきや、松方三郎だつた。
 黑緣の眼鏡に重なる王朝型のばうばう眉、こまやかな白い齒、すつきりとして肉のある鼻、頬から頤への豐かな線、小柄ではあるが山に又岩に鍛へた見事な體軀。
 薄雪草の白い群落をぬきんでた岩の上で、裸に夕オル、がらがらに崩れた角間澤の源頭から、朝の御岳だか乘鞍だかを見てゐる松方が自然でもあれば好ましくもあつた。

 「それは自分にとつて四度目のマッターホルンであり、三度目のツムット尾根であつた」と彼は書いてゐる。「これ迄は何時も天氣に惠まれてゐたのに、たうとう仕舞にひどい目にあつた。年中順風に帆を上げてばかりゐられるとでも思つたら大間違だ。少しはこの山の凄い所も判つたかとしたゝか打ちのめされたかたちである。相手がマッターホルンでは文句がない。兜の方は先刻ぬいでしまつてゐる。が、だからといつて今更引きかへすわけにも行かず、今となつては頂上まで我武者羅に横車を押し通させて頂くより仕方がない。かうやつて、普段だら難所を越したあとではあり、岩はよし、頂上は近し、右にイタリア尾根、左にスウィス尾根を見下しながら、歌でも高らかに歌つて行くこの最後の一登りを、只管に御天氣樣の御機嫌をうかがひながら一人一人攀ぢ登つて行つた。非道い目にあつたもんだ。私達四人はみんな同じことを思つてゐたのだ。しかし山男の曲つた旋毛はこんな事を素直には云はせない。『何て素晴しい山なんだらう。』全く始末におへない」
 これは例のウィンパーと其の一行の悲劇で有名なあのマッターホルンで吹雪に襲はれた時の思ひ出だが、私などにとつては先づ生涯見込みのないこんな山の經驗を、彼はそのたつた一冊の著書――それも人にせがまれて仕方無しに出したやうな書物――の中で、後にも先にも此の數行であつさり片付けてゐるのである。彼が其の頂上を踏んだ瑞西のオーバーラントやヴァリス、佛蘭西のドーフィネなどの高峻は、其の數恐らく幾十をもつて算へるのだらうが、僅か一二を除けば記錄らしい物も文章も彼は全然書いてゐない。「偉い奴がみんな克明に書いちやつた山を、今更こちとらが書いたところで始まらないぢやないか」と云ふのがその意見であるらしい。
 その癖書けば書けるこんな山の文章を、英吉利、獨逸、佛蘭西と見渡して、私はさうざらには發見する事が出來ないし、日本ならば先づ浦松佐美太郎君か亡くなつた辻村伊助さんぐらゐに求めるほかは無いと思つてゐる。
 「瑞伊佛三國が接してゐるモン・ドランからトゥール・ノアールーつ置ゐた佛瑞國境に立つ此の山(エギーユ・ダルジャンティエール)であつてみれば、その眺めがどれ程大きいかは説明するまでもない。我々は第一に尾根から眺めたヴァリスの山々の渺漠たる起伏に息を呑んでしまつた。そして頂上ではアルジャンティエールの氷河を隔てゝ眞正面に、屏風のやうにそゝり立つエギーユ・ヴェルトからの雪の反射で眼を廻す所であつた。ヴェルトの尾根の向うは右にモン・ブランの大伽藍とグランド・ジョラスの鐵壁。コル・デュ・ジェアンやブレンヴァ尾根はかくれて見えないが、命とりの惡場と名をとつたペテレ・ノアールが、ジェアンの斜塔の右手に「この下にペテレ尾根あり」とばかりに黑々と頭を出してゐる。そしてその先は、驚く勿れドーフィネの雪、遠く陽炎の中に泳ぐのは、公平に見てメイジュのクビューシェ氷河――つい數日前その上で霧に卷かれた事などが夢の中の記憶のやうに懷しい」
 之は松方が自分で撮影した寫眞「コル・ドラン」のために書いた短かい説明の一節だが、自由ですがすがしい點、彼の文章の一つの大きな特色を代表する物のやうに思はれる。
 エンガーディンを書いた美しい短い文章も、彼の溫靜な人柄を思ふには最もふさはしい物の一つのやうである。
 「ピッツ・ベルニーナだとかモンテ・デルラ・ディスグラーチアだとかいふ名だたる高い頂きで伊太利亞のテルリーナの谷と隔てられてゐる此のエンガーディンはスキーやスケートで名高い。そして萬事が地中海海岸の遊び場なみに贅澤なことでも名高いサン・モーリッツの在る所であり。山の畫家として廣く知られたかのセガンティーニが、その後半生を送つた所として有名である。
 オーバーラントやヴァリスの山々に比べれば山の高さも幾分低くもあり、それに本谷から遥遥と退いて氷河の奥にそれらの峰々が低く空を限つてゐたりする所から、山の眺めも他所とは打つて變つて非常に和やかであるのが此の地方の特色である。それにサン・モーリッツから西に伊太利亞へ越えるカスタセニアに續く高い谷には、カムフェル、シルヴァプラーナ、シルスと、その名を聞ゐただけでも感興なきを得ないやうな湖が、美しい寶石を綴つたやうにつながつてゐる」

 霧ケ峰での講習會の時、松方は私達よりも一足先に歸京した。暑い日だつたので其時も彼は身體の上半分を丸出しにして一人てくてく歸つて行つた。勿論上諏訪に近くなる頃には上衣も着たことであらうが、そんな事に平氣な彼は健康と同時に彈力を持つた氣骨があつた。先年公用で北京にゐた間も、「親玉」の身でゐながら暑ければ裸になり、暇があれば公園へ野球に出かけ、其の間には私などには到底勤まりさうにも思へない複雜多忙な仕事の時を送つてゐた。
 東京の彼の自宅の廣い緣側に、奥行の深い造りつけの腰掛がある、座布團をどけて其の腰掛の蓋を上げると、大きな山の寫眞にまじつて、昔吾々が「白樺」時代に買ひ溜めたのと同じやうな名畫の複製や、本物のデッサンなどが無數に出て來る。或る夜彼はその中から特に一枚を拔出して私に見せながら云つた。
 「ね、覺えてるだらう!」
 それは故岸田劉生君の著彩のデッサン、同じ幾つかの中でも特に美しい「麗子像」であつた。
 富士山ヘケイブルカーを通し、尾瀬沼を水電の貯水池にする計畫が進んだ時、強硬な反對意見を公表した少數の日本人の一人に彼があつた。
 「祖先から傅へられた國土をより美しく、より善くして子孫に傅へることが國を愛する所以であるとするならば、このやうな問題をさし置いて選擧粛正を論じ國民思想涵養を圖ることは片手落であらう。電力會社やケーブル計畫者も、問題は單なる水利權や敷設權問題でなく、謂はゞ國民生活の遠い將來にまで關係ある重大事であることを覺悟すぺきであり、國民一般は、こゝにまた、取返しのつかない破壊が行はれんとしてゐる事を十分意識しなければならない」
 K先生と彼と私とが東京驛の待合室で落合つて、三人揃つてバラックの農林省へ、その尾瀬の件で陳情に行つた九月の或日のきびしかつた殘暑を、此頃の暑さにつけても、私は懷しく思ひ出すのである。
 持つて生れた豪毅と人德と、柔かな感受性と同情と、學識と才能とが悉く練れて圓熟しながら、しかも本來「裸一貫」の眞諦をしつかりと把握してゐる我等の松方。その彼の仕事は今や益々重要さを加へて來て、當分何時會へるとも分らないが、國家のため、更に我國の山岳界のため、いよいよ切にその健康を祈らなければならない。
                            (昭和十四年七月知性)

 

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 浮かぶおもかげ

 かりそめの機緣に或る人を知つて、氣紛れからでない眞實の好意をその人に感じ、しかもひとたび別れるや心にもなく無音のまゝに幾年をすごした後、ふと或る季節の香や空氣の肌ざはりに其の俤をまざまざと懷しく思ひ出しながら、今更のやうに自分のつたない交りの仕方を悔いるのは、私にとつて全く悲しむべきひとつの宿命のやうに思はれる。
 名刺一枚でも交換すればたちまち知人名簿に記入して、よしや顏は忘れても、たとひ心は通はさなくても、新年や寒暑の一拶だけは怠らず、相手の名や社會的地位から期待される未來の或る可能性を決しておろそかにしないやうな堅實な人達もすくなくはない世の中に、今ではもう引くべきえにしの糸口も見失ひながら、遠い昔の或る日の人を、「我が母の敎へたまひし歌」かのやうに懷しむ私のやうな人間は、まことに不德な、我儘な、非實際的な、而も常にさうした身から出た銹をこのんで歌つてゐる、感傷的な夢想家といふのほかは無いであらう。
 しかし又世界が廣大で人間の種類も多い證據には、そんな私の得手勝手な女々しい繰言を、たまには宥してくれる人も有るのである。さういふ篤志家はいづれも自分自身いくらか身に覺えのある人達か、さもなければ他人の事を我が事のやうに感じる事の出來る、ひどく同情ぶかい人達にちがひない。
 ともあれ、初夏、もつとも深遠な眞晝と、蜜のやうに甘やかな夕日を持つ新綠の季節、
  空は、屋根の上に、かくも碧く、かくも靜かに、
  樹は、屋根の上にその葉を揺する
時、遠い山々のあひだで逢つて遂に再び見ることもない人々への思ひ出も、今日の私にとつて一篇の愚かしい歎きの歌クラーゲリードには價しよう………

 私の前では、大きな弧をゑがく美うつくしケ原はら熔岩臺地の緣邊が、その削りとられたやうな崖端や磨鉢の内部のやうな斜面を、新綠と鶯の歌とに埋もれた入山邊の里へむけて、晩春は悲しくも美しい松本平の田園や都會へむけて、又それより遠い乘鞍や北アルプスのほのぼの匂ふ殘雪にむけて、力強く、赤黑く、なだれるやうに落ちてゐた。その崖錐の急斜面に、絲を搦ませたかと見える小徑を、たつた今私を振りかへり振りかへり下りて行つた人の姿はもう見えない。ひとつの烈しい惜別の情が、この臺地の荒々しい緣邊から、私から、人を追つて一時にどつとなだれ落ちるかと思はれた。
 松本の町の家具屋だといふ其の若い人は、美ケ原への私の半日の道連れだつた。五月にしても暑過ぎる山道を、まして眠られぬ夜汽車で着いた私が喘ぎながら登つて行くと、三城牧場に近くこんもり高い草原に、ルックザックを置いて汗を拭きながら其の人は休んでゐた。二こと三こと言葉を交はしてゐる内に、曾ては一人の母の鍾愛であつたと云ふにふさはしい其の心の優しさと素朴さとが、もう深く私を動かした。私達は春の事を、山の事を、蝶の事を、樹木の事を、又互の仕事やそれに對する關心事を何くれとなく話したり打ち明けたりしながら、白樺の樹かげに牛のゐる牧場を奥へ奥へと辿つて行つて、やがて私にとつては東京からの、其の人にとつては松本からの、今日の目的地である美ケ原へは立つたのだつた。
 王ケ鼻の斷崖を見上げる牧場の凉しい水のほとりで、あの人が手傅つて採つてくれた小金梅こきんばいの金いろの花。それを六年後の今日に見る私の思ひ出の眼のはてに、絲のやうな小徑を振りかへり振りかへり下りて行くあの靑年の姿が、取り返しのつかない悔のやうに明滅する。

 私には所謂軍人の友達がない。七つの海の潮風に燒けた手に純白な手袋はめて、短劍を吊つた賴もしい友達もなければ、金モールの參謀肩章をおもたく垂らして、拍車のついた長靴をはき、鞄をかゝへた重厚な友達もない。もしもさういふ將校が昔の學友か何かであつて、いつでも君僕で話の出來る間柄だつたら、今日往來や乘物の中などでは、殊に幾らか肩身のひろい思をするだらうに。生憎私のはみんな只の兵隊ばかり。
 しかし或る時、私は一人の靑年陸軍將校を知つた。
 眞夏の霧ケ峰での事だつた。季節をはづれたフュッテの食堂は、がらんとして凉しく、ほの暗かつた。長窓から見る高原の輝かしい景色にも、食堂の冷やりとした床にも、高い天井の桁組にも、暑中休暇の樂しい閑散が歌つてゐた。グライダアの視察に來てゐたY大尉と某航空官と、つい二三日前に到着した私とは、長い食卓に麥酒を前に向ひあつて、時々は暑さに萎えた窓外の草原に眼をやつたり、流れの緣の落葉松で鳴く頬赤の忍びやかな眞晝の歌に耳を傾けたりしながら、雲や、氣象や、グライダアの事を話してゐた。其處には或るのびのびした、智的な、上品な空氣があつた。航空官は世馴れ人馴れた練達の士で、私の乞ふまゝに研究所での寺田博士のさまざまな姿を、物柔かな尊敬と愛とをもつて話してくれた。一方Y大尉は、豪毅な氣質と、明敏な頭腦と、子供のやうな心からの笑との持主だつた。そして私などにはかなり込み入つたむづかしい事柄の核心を、平明な、簡潔な言葉で、樂に呑込ませる術を知つてゐた。私には其の大尉の磊落であつて氣品のある、秀才ながら子供のやうな、そのすべての擧措がすつかり氣に入つた。それは私の夏の大きな収穫でもあれば、軍人に對する先入觀を是正する一つの天與の機會でもあつた。
 一年たつて、夏の或る夜、私は省線電車の中でY大尉と偶然の再會をした。背廣を着て、曾て五分刈りだつた髪の毛を伸ばしてゐた。訊けば、近々に獨逸へ留學するとの事だつた。大尉は私の小さい娘の事も覺えてゐて、彼女の其後の消息をたづねた。ところが、それから幾日、突如として支那事變が起つたのだつた。
 新聞紙上の空中戰ニュースにY大尉の名を讀む時、同名異人かは知らないが、私はあの顏とあの笑ひ聲との健在を祈りながら、胸のときめきを禁じる事が出來ないのである。
                           (昭和十五年六月婦人公論)


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 荒凉への思慕

 日は一日と秋がその深みへおぼれ、ひろがり、沈んでゆく。何か知らぬが重たいやうな、甘美な、澄んだ事がつゞく。次第に奥のはうまで伸びてくる室内の日あたりに、落葉のかげや鳥かげがうつる。家のまはりではいろんな木の實がそれぞれいろんな色に熟す。枯草の腐るにほひや、死んだ虫たちのにほひがする。木犀の香があまく漂い、最後の黄蝶がよろめくやうに飛ぶ。とほい痛恨の白菊の日や、その花びらを浸して飮んだにがい酒のことが思ひ出される。身も心も此のうつとりするやうな季節の肌にいだかれて、そのまゝ美しい亡びのなかへ落ちてゆきたい氣さへする。物の哀れさも、自分がやさしくその一員だと思ふときには、むしろ甘やかに母のやうだ。こんな時にはたいていは言葉も默し、書かれない詩はただほのかな匂となつて、明るい、おだやかな日の光のなかに、空しくなる……
 だが、精神の歩哨もねむくなるやうな、こんな消極的に飽和した數知れぬ晝間のあとに、とつぜん顫へるやうな夜が來た。いちめんに霜の豫感にみちた野のうへに、星をばらまいた夜の宇宙がその大きなほのぐらい穹窿をかたむける。星は九天の町々の祭の火のやうに、隔絶の奥で燃えてゐた。オリオンや牡羊の流星が火箭のやうにながれた。すでに冬のいぶきが空間に磅礴としてゐた。
 僕の精神の歩哨は身をふるはせて形を正した。ねむつてはいけない。快いねむりの中で亡びてしまつてはいけない。たとひ魂の秋の江染める夕日のいろが、どんな魔力でいざなはうとも!
 しかし此の聲は、なんら僕が自分に課した命令ではなかつた。それはむしろ僕の本能のおさえがたい衝動だつた。僕はさういふふうに作られてゐた。盡未來までつゞくかと思はれる無爲と怠惰のまんなかから、新らしい熱情はとつぜん惨として一筋に、その噴水を噴くのだつた。何かひとつの契機が、何か或る決定的なきつかけが有ればよかつた。それは遥かに擬週期的にめぐつて來て、僕の久しい無爲をうちくだく。
 そして今は、そのきつかけが音樂だつた。
 或晩、デュパルクの「波と鐘」を聽いてゐた。それは之までにも一二度聽いた歌だつたが、その時ほど此の音樂が強烈に僕に作用したことは無かつた。僕は北海の荒磯によせる暗い波や高緯度の夜の星辰のひかりに濡れ、その死のやうな砂丘や、寂寞の沼地や、その赤いはまなしの花や、節くれまがつた灌木叢のなかを突き進んだ。
 荒凉への思慕! 僕の胸は今それでいつぱいだ。僕は自分に都合のいい、愛することに馴れ、身邊のいろんな古いものから去るのだ。僕は自分の觸れるほとんどすべてを歌にした。たまたまの異常な體験すらも、その外面の威容と内部の本質とのつながりがわかれば、僕はそれを切り拓いて園のやうにして、其處から一篇の牧歌をなすことが出來たやうに思はれる。だが今はさうした「昔の惡い歌アルテ・ベーゼ・リーダー」ともお別れだ。
 僕の衷にじつは有つて、しかも未だ曾て試みられなかつたひとつの力。いま荒凉がそれを呼び、それが荒凉をもとめてゐる。
 をりからのなんといふ風だらう! あらゆる樹々を海のやうな響きで滿たして、光りかゞやく晩秋のひろがりへ遠く枯葉を吹きちらす風。この大きな風にむかつて進むのだ。あの鋼はがねのやうな北方の空の下で新らしい運命に出會うのだ。「死んで、成る」の希望を持つからは、この出發にもこの別れにも、そんなに後ろ髪はひかれない筈だ。
                        (昭和十三年十一月山小屋)

 

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 早春の雨の夜

 きのうの雨はけさの雪に變り、その雪も晝頃からはまた雨となつて、そのまゝ今夜も未だ降りつゞけてゐる。實は天氣豫報によるとけふは午後には日光と靑空とを見る筈だつたが、どうやら其の豫測を裏切つて、雨を持つた大氣の渦卷が其處らの暗い洋上で愚圖ついてゐるらしい。
 然しかうした渦卷の停滯や上層の氣溫の刻々の變化は、今の季節の特長のひとつであつて、こんな一進一退を繰り返してゐるうちには何時かしら春になるのだ。つい三四日前には、水邊の小徑を歩きながら、佳い季節の前觸れとも言ふべきはんのきの花を見て悦ばされた。紫がかつた暗紅色の長い飾紐のやうな花が、まだ冬枯のまゝの技の先から幾つも幾つもぶらさがつて、風の冷やつく薄靑い空間でかすかに揺れてゐるのを見ると、なんだかそれがひどく健氣なものに思はれて、心の中で褒めたゝへずにはいられなかつた。さう言へばおおいぬのふぐりなども、もう半月も前から純粋な空色の花を路傍の乾いた塵の中にこぼしてゐる。すべてかうした孤獨の先驅者は、自己の存在を聲高に主張する事がなく、遠い田舎の水のほとりや騷然たる市井の片隅にひっそりと生きてゐるので、時流に從がう人々の注意をひくには足りないが、それでも常にひろびろと求め憧れてゐる少數者の、篤信の眼から見落とされる事は先ず無いのだ。
 晩餐の時の一杯と、柔かに我が家を圍む雨の響とに心がなんとなく花やかにされて、今夜はランプの笠の下でヘッセのテッシンの文章と、フランシス・ジャムの「泉」の詩を二つ三つ讀んだ。二人とも私の好きな詩人だ。そして私がその讀書に自分のいちばん快適な時間を與へようと思ふ詩人だ。時によると、此の二人のものを讀んでゐながら、彼等の國土から吹いて來る郷愁の歌のあまりに無限な感じに胸が痛くなつて、仕舞まで續けることができないで途中でやめてしまふ事がよくある。さういふ時には古いオルガンに向かつて、同じように郷愁の思ひに滿ちたフーゴー・ヴォルフやシューベルトの歌を口ずさんで、さしあたり遠くへ行けない不滿をやつたり、數々の旅の樂しく美しい思ひ出を紡ぎ出したりするのが常である。
 しかし今夜はもつと落ちついた靜かな氣持で、テッシンの「春の散歩」やオルテの「泉」の歌の中へ入つて行くことが出來た。復活祭前週の淸明な田舎の空氣や、樹脂に光る木々の新芽や、子供や蝶や、マタイの受難曲や、春風に吹かれて醒めてゆく心の消息を述べてゐる、此のヘッセの文章はほんとうに美しい。すべての形象が浮彫されて、言葉は澄んだ響に滿ち、花の香のする無常の空氣が四月の廣袤を流れてゐる。これは生の悦びの讃歌であると同時に存在そのものの哀歌でもある。かういう境地を書き得る點でヘッセは實に獨特だ。極めて短いものでありながら、讀んだ後の感銘は最も美しい獨逸のリードの幾つかを聽いた時にも匹敵する。
 ジャムにしてもそうだ。此處でもまた詩の基調は哀愁だ云へる。此の種の詩人のはるばるとした心の空をかならず流れてゐる哀愁の風だ。しかし定住者フランシス・ジャムの田園には、永遠の遍歴者ヘルマン・ヘッセに於けるよりももつと緣ゆかりの深い、佛蘭西の、古い澄んだ信仰の鐘が鳴つてゐる。彼にはヘッセの旅嚢や、ボートや、旅職人や、塔のかはりに、琥珀の口のついた古い木のパイプが、先祖傳來の鍵のかゝる重たい樫の箪笥がある。少女や井戸や繪暦や、驢馬や野薔薇の牧歌があり、勿忘草の咲く小川や、羊齒にかくれた泉がある。そして孤獨の山鷸やましぎのゐる丘のむかうには、靑い扇を開いたやうにピレネエの山々が横たわつてゐる。
 かうして愛する詩人の世界を遥かに見ながら、自分の「旅と滯在」の思ひにいよいよ深く沈潜してゆく今夜のやうな時間がなんと意味に滿ちて重たいことだらう。それに較べれば所謂詩人や藝術家の集會の夜などは、少くとも今の私のやうな人間にとつては結局なんの意味も無いのだ。其處で行はれる事と云へば大抵は何か事業の相談か、其場かぎりの議論か、酒の上の雄辯か興奮に過ぎない。私は藝術家といふものはその仕事のためのすべての運命を一人で擔うべきものだと思つてゐる。私は長いあひだ此の事を身にしみて考へなかつた爲に、他人に期待したり、他人に求めたり、幻滅の苦をなめたり、世間に憤つたりした。しかし今ではもうそんなことは無くなつた。私は名も要らない。立場も要らない。他人の支持も求めない。生活も今のまゝでいいし、生きる事がもつとむづかしく成るなら成つてもいい。私は幸か不幸かこんな詩人だ。そのほかの何になれよう。そして私が詩人であるといふ事は、私が自分自身の歌のなかに此の世の過ぎ行く美を呼びとめて、それを顯現する事に一切の熱情を傾けるといふことだ。
 さう考へると私は前のやうなゆつたりとした氣持になつて、夕方配達された郵便物にまじつてゐる或る會合の案内狀と、質問を印刷した往復葉書とを靜かに裂いて屑寵へ入れた。あした私はこれに手短かな斷りの返事を出さう。雨は未だかすかな音をたてて降つてゐる。漠々とした綿のやうな湯氣をとおして、沼地で叫ぶ水鶏くいなの聲がきこえる。私は立上がつて部屋の隅に立てかけてある登山杖を取つて來て、パイプをふかしながら其の堅い鋭い鋼鐵の石突きを撫でたり、其の穂先を指の腹でためしたりして、それから紙鑢で丹念にみがきはじめた。ああ、五月は、六月は、そして怪しいばかりに美しい夏と其の山々とは未だ遠いが、此の杖を横たへて輕く握れば、囘想は徐々にほぐれ、憧れは次第に募つて果てしが無いのだ。眞白な花崗岩砂にヴィリヂアンの這松が波打つてゐる燕つばくろの尾根から、深い高瀬の谷奥に、鷲羽、三俣蓮華、双六すごろくとつゞく緩やかな、殘雪匂ふやうな霞む盛夏の山頂を初めて見た時の心のときめき。雨後のきらびやかな日光と凉しい風に、林の白樺が一齊にそよぎ立つた德澤の午後。山麓からの雨と濃霧に、眼前幾尺の世界しか見ないで往復した甲斐駒の經験。うっすり掛つた新雪に近く、とある安山岩に跨つて榛はしばみを嚙みながら、眞黄色な頸城平野を見下ろした晩秋の妙高。さては木曾駒、八ケ岳、奥秩父にかゝわる數々の思ひ出。そして最後には、その悲しいまでに美しい春や秋のひろがりを、幾たび私のさまよつた高原や裾野の囘想。
 今私が研ぎ光らせて油を塗つてゐる此の杖は、さういふ山や高原の彷徨にいつも忠實な道連れだつた。今では堅い木部も傷だらけになり、石突きに近い所ではささくれてもゐるが、これを突けば私の往手に旅の空と憧れとが遠くひらけ、舗装道路も苔に濡れた山路のやうに思はれるのだ。かういう道具は人間の好い加減な友情や誓などよりも遥かに持久性を持つてゐる。そして時の試煉に遭へば遭ふほど、正直に手堅く作られた道具としての本來の面目に加へて、云ふに云はれぬ經歴の滋味がついて來る。そして私が失くさない限り、最後の焚木として悲しい煖をとるやうな時の來ないかぎり、これはいつまでも私の覊旅の道連れでもあれば執着の對象でもある。年毎に捨てゝ行く樣々な執着の對象の中で、多分最後まで決して私が捨てまいと思ふのは自分の愛する家族と、かうした幾つかの道具や幾冊かの書物だ。然しさういふものとさえ何時かは別れなければならないとすれば、此のうつろいやすい流轉の世界で、私は自分の心に花を咲かせ光を投げる其の時々の一切を、殘りの生涯かけて、二度と歸らぬ美の俤としてしつかり繋ぎとめねばならない。
                          (昭和十四年四月文體)

 

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 身邊の光耀

 

 自然觀察の悦び

 先日は此の夏の拙著に對して望外の御讃辭をいたゞき、却つて恐縮しました。興の動くがままに書いたり、時々の依賴に應じて筆を執つたものが二三年の間に積り積つて或分量に達したのを、出版書肆に乞はれて一冊に纒める事になつて、改めて少しばかり筆を入れたり整理したりしながら兎に角體裁をとゝのへはしたのですが、いざ本になつたのを讀返してみると案外内容に充實の足りないのを感じて、自分ながら今更のやうに不滿を覺えた次第です。しかし何と云つても人間には結局自力相應の事しか出來ないに極つてゐるのですから、別に何處へ臀の持つて行きやうも無いわけであります。
 さて其時の御手紙の中で、これまで餘りに忽せにして來た自然といふものを今度こそよく視、周圍の自然に對して出來るだけ觀察の眼を働かせ、さうして、金さへ有れば誰にでも可能な娯樂などからは到底期待出來ないやうな、深い、實り多い心の悦びを毎日の生活の中から發見するやうになりたいと述べられたあなたの御考には、私として全く同感のほかは有りませんでした。それに就いて、あの本に書かれてゐない事で、しかも似たやうな事があるならば、暇の時に書いて慾しいといふ御註文でしたが、ちやうど今度此の雜誌からあなたのとほゞ同じやうな依賴を受けましたから、それを書く事で、出來れば御註文に答へたいと思ひます。
 此の間或る友人が訪ねて來た時にこんな事がありました。其の友人は英佛兩國語をよくして、殊に佛蘭西語の方面では𣪘に現代文學の立派な飜譯を二つ三つ出してゐるのですが、此頃は役所の同僚で獨逸語と希臘語とに精通してゐる人と申合せて、こちらが佛蘭西語の手釋きをしてやる代りに相手からは獨逸語を習ふといふ非常に好都合な智識の交換をやつてゐます。ちやうどハンス・カロッサの自傅的小説「成年の祕密」といふ作品の、其の草稿のやうな物を敎科書にして勉強してゐるのださうですが、其の中に「向うにはんの木の並んでゐるのが見えるので、河のあるのが分る」と云つたやうな箇所があるのださうです。そして其の友達は、本當にさういふ事があるものだらうかと私に尋ねました。私は獨逸の事は知らないが、日本でもさういふ考へ方は出來るだらうと云つて、利根川だの荒川流域の水田地方や、もつと手近かな例を擧げれば、中野や落合や馬橋あたりのやうな昔の用水の灌漑地域にやはりはんの木が最も多く見られるといふ事を指摘しました。すると其友達は、「いろんな事が解つてゐたらさぞ樂しいでせうね」と私の妻を顧みて思ひ込んだやうに云ひました。無論私としては自分の少しばかりの智識をカロッサを介してもう一度認めるどころではなく、「ドクトル・ビュルゲルの運命」の、「ルーマニア日記」の、そしてあの最も感動的な「指導と信從」の作者ハンス・カロッサがそんな事を書く時に、其の前後はどんなに深く美しいものだらうと、寧ろ其の想像の方に心を奪はれたのでしたが……
 此頃女學校の一年生の宅の娘や、中學二年になる親戚の男の子が、兩方とも學校の理科で地衣の事を習つてゐます。地衣といふのは御存知でもありませうが、隠花植物の仲間で、よく樹木や岩などの表面に葉のやうな形をしたり、草のやうな形をしたり、或は斑紋のやうになつて附着してゐる灰綠色の先づ下等な植物です。所で此の植物はいづれも菌類と藻類との共生體であつて、菌類の方は藻類から養分を得、藻類は菌類から水分の供給や其他の保護をうけて、亙に利盆し合つて生活をしてゐる。そして此のやうな生活を共生といふ。さういふ事が敎科書にも出て居り、先生も黑板へ其の植物の斷面圖などを描いて説明して、生徒に納得させようとしてゐるのであります。所が生徒の方では肝腎の實物を殆ど知りません。うめのきごけにしろ、かぶとごけにしろ、さるをがせにしろ、此の三種の中の少くとも一種ぐらゐは恐らく見た事がある譯なのですが、普段氣に留めてゐないといふものは困つたもので、記憶を誘ひ出してやらうとしても中々思ひ出しません。そこで私は裏の雜木林のくぬぎの樹にうめのきごけの附いてゐるのを知つてゐましたから、宅の娘には連れて行つて見せ、親戚の子の爲にはくぬぎの樹皮の一部を切り取つて、皮附きのまゝのうめのきごけを送つてやりました。理科が好きで繪の上手な其の中學生は、きつと彼の理科の寫生アルバムの爲に一枚の綺麗な地衣の繪を描くだらうと思つてゐます。
 ところで私としては、此のうめのきごけの採集と同時に思はぬ収穫に喜ばされたのでした。と云ふのは、今は丁度十二月の初めですが、葉を振つた林のくのぎの樹の幹に大抵どれにも平均一匹ぐらゐくさがめの一種が徘徊してゐます。私は或日それを硝子の管瓶へ入れて持ち歸つて、昆蟲圖鑑で調べてみて、其の蟲がくのぎかめむしと云ふ名を與へられてゐる事を知りました。さて私が子供達のためにうめのきごけを採りに行きながら又もや此の蟲を見た日、一體此のくさがめは何を目的に此の間からこんな所を這廻つてゐるのだらうかといふ疑問を起しました。御承知のとほり、相當の樹齢に達したくぬぎの樹の幹には必ずごつごつと堅く乾いた樹皮に、ちやうど松の樹に見るやうに幾條もの深い龜裂が縱に入つて下から上へと走つてゐます。そして其の特徴のある龜裂を見れば或樹がくぬぎである事は一目でも分る程です。ところで私が暫く其の幹の上の蟲の動作を見てゐると、蟲は多くの場合其の割目の所をゆつくりと歩きながら、時々立止まつてあの小さな頭で何か瞑想してゐるらしいのです。その内に、私は或る割目に沿うて長さ三分から六七分ぐらゐの裸の毛蟲のやうな物がところどころに附着してゐるのを發見したのです。肉眼で見ると、それは非常に微細な淡い靑綠色のビーヅ玉を十箇ぐらゐづつ絲に通して、其の絲を三四本束ねて、平均四分程の長さに切つて樹の割目へ糊付けにしたと云つた風です。私はこれを蟲の卵、恐らくのくぬぎかめむしの卵に違ひないと思ひました。そして蟲は當然かめむしの雌だと考へて、その毛蟲樣の物と一緒に採集して家へ歸りました。
 家へ歸つて先づ其の毛蟲樣の物を白紙の上へ載せて、細い針の先で靜かにほぐしながら三枚レンズで鏡檢すると、矢張り豫想どほり卵であつて、紐のやうな形をした淡茶色のジェリーに包まれて、長さ一ミリにも足りないエメラルド光澤を持つた卵が一粒々々行儀よく並んでゐました。そこで試みに蟲の腹部を裂いて見ると、矢張り其處にも同じやうな卵が充滿してゐました。私は殘念な事に未だくぬぎかめむしの産卵の現場には立會ふ機會を得ませんが、先づこれが此の蟲の卵だといふ斷定を下しても間違ひはあるまいと思つてゐます。そしてもう一つ面白いのは、此の鶏卵狀をしたエメラルド色の卵の各一粒には、そのほそい方の一端から三本の白い毛が出てゐて、しかも此の卵が集まつてジェリーに包まれて紐のやうな形をしてゐる時には、ちやうど其の毛が毛蟲の毛のやうに見えて、小鳥のやうな外敵から免れるための一種の擬態をなしてゐるらしい事でした。
 こんな事柄は園藝上の害蟲に就いて書いた専門書には恐らく疾うの昔に出てゐるのだらうと思ひますが、私は私として此の觀察を今後も尚續けるやうに心掛けながら、今は自分の小さい収穫をそのまゝ記錄にとめて置かうと思つてゐます。
 さて今度は小鳥の事を一つ二つお話しませう。但しこれも宅の庭だの近隣の林や畑などで最近に見た種類に就いてゞ、別に目新らしい事でも何でも無いのですが、「自然觀察は先づ我家と其の周圍から」といふ自分のモットーに從つて、視たまゝの事を述べようと思ひます。
 御承知のとほり宅の庭には普通の庭木のほかに白樺だとか、落葉松だとか、杉だとか、或は又ヒマラヤ杉だとかいふやうな樹木か殆ど雜然と植はつてゐます。それで楓にはしめうめもどきにはひよどりいぬつげにはつぐみあかはらなどゝいふ所謂木の實を嗜む鳥のほかに、樹皮の裏にひそんでゐる昆蟲だとか、蜘蛛だとか.或は何かの幼蟲だとかいふやうなものを漁りに來る肉食の小鳥も相當に多いのです。そして此頃最も頻繁に訪れて來る者は四十雀、じやうびたき、鶯などで、此等は毎日缺かさず遣つて來ます。中でも四十雀は少しづゝ數を增して、十一月の初めには二羽ぐらゐだつたのが今では六羽の群になつてゐます。お正月頃になると十數羽の群を作るのが例年のやうです。これは冬になると彼等の間に殆ど雌雄の性別が無くなつて、ひたすら集團生活を樂むことに起因するのだといふ事を佛蘭西の或る鳥の本で讀んだ事があります。
 それは兎も角として、近所には方々に林もあれば藪もあるのに、毎日一度は缺かさず、多い時は三度も此の四十雀の一群が特に宅の庭を目がけて遣つて來るのは、庭の眞中に高壓送電線用の大きな陶器製の碍子を利用した水盤があつて、其處で彼等の好きな水浴が出來るといふ事も一つの大事な理由だらうと考へられるのです。妻は二階で裁縫か何か、私は庭に面した階下の書斎で仕事をしてゐる靜かな晝前、突然あの鋭い「チー・チー・カラカラッ!」といふ叫びと一緒に四十雀の一隊はつぶてのやうに颯とばかりに飛込んで來て先づ白樺の梢へ散ります。續いて氣ぜはしない枝移りをしながら下りて來るかと思ふと、もう水盤の中で飛沫を散らして行水です。大抵は一羽づゝ順に浴びるのですが、時には三羽ぐらゐ一緒になつてバシャバシャ遣る事もあります。それは實に可愛らしく美しく、殊に日の當つてゐる時などは全く生氣潑溂とした光景です。丁度こんな時に鶯が來合せた事がありました。鶯は冬は殊に孤獨な鳥で、いつも極つて一羽ですが、四十雀が居ても別に嫌つたり恐れたりする樣子も無く、平氣で割込んで一緒に水浴をしてゐます。四十雀の方も元來強猛な性質であるのに似合はず、心もち傍へ寄つたりなんかして公衆道德の片鱗みたいなものを見せてゐます。こんな時には一人で眺めてゐるのが勿體なくて、出來たら小鳥の好きな人は元より、誰にでも見せたいものだとつくづく思ひます。そして少しでも小鳥の來るやうな所に住んでゐる人達には、是非水盤を庭へ置いてみる事をすゝめたいと思つてゐます。
 宅に近い蘆原へくひなの來てゐるのを發見したのは最近の事でした。此處井荻へ居を移してから丸二年半、其の間私が宅の近邊で實際に姿を見た野禽の種類は四十六種に過ぎませんが、此のくひなで又一種だけふえた譯です。つい此の間の事でした。或日の午後も晩く私が此の文章の初めに書いた雜木林の中を散歩してゐると、小徑一つ隔てた蘆原の濕地から突然「クヰッ・クヰッ!」と云つたやうな短かい鋭い聲が、高く低く立續けに響いて來るのです。するとそれに答へるやうに、相當廣い蘆原の向うの端の方から、今度は「クヰー・クヰー」と引延ばして呼ぶ聲が聽こえて來ます。それが何れも鳥の聲である事は知れてゐますが、さて其の鳥が何だらうかといふ事がひどく私の好奇心をそゝりました。私は林の緣へじつと佇んで暫く耳を澄ましてゐました。同じ聲は又蘆原の別の方角からも聽こえて來ます。これは大分ゐるなと思ひながら、私は煙の匂で感づかれないやうに吸つてゐた卷煙草を樹の幹へ押しつけて消し、自分の足の踏む枯葉や枯草のカサリといふ音にも氣を揉みながら一歩づゝ、實に一歩づゝ、這ふやうにして蘆原の緣へと近寄つて行きました。「クヰッ・クヰッ!」といふ聲は相變らず續いてしかもそれが段々こつちへ近付いて來るではありませんか。私は小徑のへりの野薔薇の陰へ身をひそめて、じつと聲のする所を見つめてゐました。目が熱くなるやうな、又身體中が搔ゆくなるやうな、何とも云へない緊張の幾瞬間でした。ちやうど西の山へ沈みかけた太陽の最後の光が、向うの高い松林の梢を赤みがゝつた金綠色に染めてゐる時刻で、白々と枯れた蘆原の蘆の根方には𣪘に寂しいたそがれの色が漂つてゐました。其時でした。私の眼の前の、蘆がまばらになつて濕地の水の見えてゐる所へ、ひよつくり一羽の鳥が現れました。一人前になりかけた鶏の雛ぐらゐの大きさをした、茶褐色の羽毛に黑ずんだ縱の斑紋のある、短い尾をぴんと立てた、脚の長い、オレンヂの色の嘴をした鳥が一羽ひよつくり。そして音も立てずにあたりの枯蘆の間や、枯れて腐つたみぞそばの莖の間を歩きながら何か頻りと餌を漁つてゐる樣子です。私はその餌を知つて置きたかつたのですが、蘆の根もとや水のあたりはもう暗くて遂に見る事が出來ませんでした。鳥は私の見てゐる間に二三囘低く「クヰッ・クヰッ」と鳴きましたが、やがて蘆の中に這入つて行つてそれつきり姿を見せませんでした。家へ歸つてから鳥の圖鑑を調べたら、矢張り思つてゐたとほりくひなでした。斯うして私の井荻鳥類目錄へ又一種加はる事になりました。こんな目錄でも私にとつてみれば其の時々の苦心や喜びの記念であり、又遥か後になつて、昔は此處へも斯々の鳥が巢を營みに來たり餌を捜しに來たのだといふ一片の記錄にもなると思つて、或人達から見れば暇人の暇つぶしのやうな事をむきになつて續けてゐるのです。そして元來斯うした觀察の記錄といふものは、出來るだけ續けなければ意味が無く、又續けるに從つて價値も興味も增して行くものだらうと思ふのです。
 續けるといふ事が出た序に、宅で大分以前から實行してゐる毎日の氣溫の記錄の事と、或種の雲が空の一方から進んで來た場合、それから何時間後に雨が降つたか降らなかつたかといふ記錄をとつてゐる事とを、かいつまんでお話して置きませう。氣溫の記錄の方は、ラヂオで放送される東京の(正しくいへば中央氣象臺の在る場所の)氣溫と、自分達の住んでゐる西部新市域の氣溫とが、同じ時間でゐながら少し違つてゐるといふ極めて當然な事實から逆に靈感されて始めた事です。觀測の時刻は岡田博士の「氣象學講話」に從つて毎日午前六時、午後二時、午後十時といふ事に此の一二年はしてゐます。それより前には東京の學校へ行く子供も未だ小さくて宅を出る時間も今より一時間ばかり遲かつたので、觀測のための早起きを無精するところから午前七時、午後一時、午後九時といふ次善の策を用ひたのですが、(これでも惡い事は無いのです)其後は今のやうに改めてゐます。これは私達夫婦だけで互に責任を持つて實行し、兩方が所用で外出したとか、一家が揃つて旅行したとかいふ時だけ萬止むを得ず缺測する事にしてあります。こんな時はまことに氣持の惡いものですが、代理の觀測者に信用を置く事が出來なければ思ひ切つて空白にするより仕方がありません。斯うして記錄をとつてグラフを作つたり、日平均、月平均の氣溫を出したり、一日の最高氣溫と最低氣溫とを計つて其の差である日較差を出したり、又それを基礎に月の較差を出したりして、自分達の住んでゐる狹い範圍での氣溫統計を作つてみてゐるのですが、別にそれが直ぐに何かの役に立つとは思つてもゐませんが、それでも色々面白い事がわかり、少しは生活の上で利用が出來、又自然現象の中での氣溫といふ不思議な世界の變化の消息を、グラフとして眺めるといふ一種特別な樂しみを味ふ事が出來るやうに思つてゐます。
 最後に或種の雲の出現と降雨との關係を實地に調べるために觀測記錄をとる事ですが、これも大分以前に藤原博士の著書からヒントを受けて或年の冬から春へかけて遣つてみたのですが、此の方は對象とする雲の判別に間違ひがあつてはならないところから、どうしても自分一人で遣るために、つい缺測になりがちなので其後ずつと中絶してゐましたが、此頃また思ひ直して始めてゐます。新聞やラヂオでちゃんと天氣豫報がされる今日、何が面白くてそんな好事家みたいな眞似をするのかと云ふ人もあるでせうが、私としては切角さういふヒントを與へられて、しかも自分が興味と熱情とをもつて出來る以上、遣れるところまで遣つてみたいといふ氣がどうしても引込まないのです。
 何もかも一切本職外の素人の道樂のやうに見えるかも知れませんが、本人は是でも充分本氣になつて遣つてゐるつもりです。そして私はこんなところにも生きる悦びは見出し得るものだといふ事を深く心に確信してゐます。最後に私の云ひたい事は、自然の觀察には道具を揃へたり參考書を集めたりするのが決して第一義ではなく、自然に對する絶へざる注目と觀察とが最初にして最後の不可缺條件だといふ事であります。
 私はつい此頃中谷宇吉郎博士の「雪」といふまことに立派な、興味津々たる研究の本を讀みましたが、その中で「雪華の研究が顯微鏡がなければ出來ないと思ふ人があれば、それは迷妄である。百餘年の昔𣪘に土井利位がなした業績を思へば、雪華の研究などはほんの一つの例に過ぎないが、あらゆる問題について、道具や器械が揃つてゐなければ科學的研究が出來ないと思ふことそれが科學精神に反する道であると知らなければならない」と書かれてゐる所を讀むに及んで、心から同感と敬意とを感じずにはゐられませんでした。
 そしてひとり科學的研究ばかりではなく、何事をするにしても此の精神こそ「無くて叶はぬ唯一つの物」だらうと思つてゐます。
                         (昭和十四年一月婦人畫報)

 

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 停留所の自然界

 私の家の近くに東京女子大學の建物がある。此の學校の南へむいた正門の兩袖から左右へ低い土手垣が伸びて、それがアスファルトで鋪装された廣い道路に面してゐる。其の左へ伸びた方の土手垣は六十メートルばかりの所で北へ直角にまがつて、片側に住宅のならぶ富士見小路といふ閑靜な横町を形づくつてゐるが、その角のところにバスの停留所がある。そして此所が、私のいつもの乘場である。
 朝夕のラッシュ・アワーを除いて普通晝間は約八分置きに一臺通ることになつてゐるが、此頃はもう少し間があるやうである。或はガソリン節約のせゐかも知れない。だから一臺取り逃がすと次の車へ乘るまでには大分時間がある。それを待つ間に停留所の標識を中心に半徑數メートルの圓の内部の自然界を觀察してみると中々面白いといふ事を、此頃になつて氣がついた。
 土手にはびつしり芝が生えて、梢を天蓋狀に苅込んだ低い松が一定の間隔を置いて植はつてゐる。バスを待つてゐる間の退屈しのぎに其の芝生の中に混生してゐる小さい雜草を見はじめたのは今年の早春だつたが、其頃には土手の裾の方の下水に接したあたりに、スズメノカタビラがいちはやく穂を出し、ハコベが小さな莟をほころばせてゐた。松の根方にはカントリサウの蔓も伸びてゐた。
 四月に入ると芝の中からスミレとアカネスミレとが咲き出した。個體の數からいふと後者の方が多いやうだつた。元來スミレの方は同じ土でも比較的肥えた土壌を好むものだから、アカネスミレやタチツボスミレのやうに路傍でも半陰地の林でも何處でも平氣で繁殖すると云ふわけにはいかないやうである。それにスミレの根は太くて長い。移植しても前二者のやうにはおいそれと根着かない。庭などへ持つて來ても大概はしなびて枯れてしまふ。スミレ類の花期が過ぎて葉だけが目立つて大きくなつて來ると、毛もくじやらなミゝナグサが芝生の裾の方で幅を利かす事になる。この草は同じハコベの種類でも普通のハコベと較べると花に見だてが無い。柄の割に花が小さい上に、その花辨の白い色もハコベのほど鮮明でない。それに花を全部開くに至らないで、莟のまゝ結實してしまふのが多いやうである。籠の小鳥がよくハコベを食ふので或朝代りに此草をやつてみたら、毛を厭がるのか到頭食はなかつた。
 續いて咲くのはカタバミだつた。カタバミは芝生には寧ろ附物のやうに思はれるほど何處でも普通に見られるが、あんな小さな花でもよく見てゐると捨て難いところがある。殊に其の花にヤマトシジミが棲まつてゐるところなどを見てゐると、方一尺の世界にさへ營まれる社會生活の不思議さに打たれずにはゐられない。
 今では其のカタバミも大抵は實になつて、手を伸ばして輕く指先で摘まむと、何か蟲でも摘まんだ時のやうに急に指の間で動き出して、途端にパラパラと種子が彈け出す。ちやうど鳳仙花の時のやうに。しかし彈けたあとの實を調べても別に大した裂目などの見えないのは、いよいよ靈妙な「植物力學」の機構を思はせる。
 六月に入つてこの芝生の小世界も大分變つた。夏になると花の咲くネコハギがもうどしどし毛だらけの蔓を伸ばしてゐる。ヒメジヨヲンやヒメムカシヨモギが勢を增して、環境としては餘り適當でもないのに、前者などはもう花を咲かせてゐる。尚よく見るとそれに混つてナギナタカウジュの苗なども一寸ばかりに伸びてゐて、揉んで嗅ぐとあの草特有の香油のやうな匂がする。コニシキサウがはびこり、キウリグサやハナイバナが粟粒ほどの瑠璃色の花をつけ、松の下には櫻草科のコナスビの黄色い花が見え、ホタルブクロも高くなて、もう直きあの夏の提灯花を吊るすのであらう。
 往來の賑やかなバスの停留所。そんな一隅の土の上にでも氣をつけて見れば津々とした興味の對象が、しかも一年を通じて後から後からと現れるといふ事は、考へれば本當に不思議な、また何か生甲斐を感じさせる事ではあるまいか。
                         (昭和十三年七月いのち)

 

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 雲

 ドビュッシイの管絃樂詩「ノクテュルヌ」の第一部は「雲」と名づけられてゐる。私は此の音樂を彼の作品の中で最も美しい物のひとつに數へる。製作の年代から見ても、それが他のふたつの傑作卽ち「牧神の午後の前奏曲」と「海」との中間にある事は興味が深い。そして此等の作品はいづれも自然そのものの深く詩的なエモウションを、精妙無比な音樂的言語をもつて語つてゐるのである。
 靑空と雲とを現す二つの主題は孰れも非常に單純で簡素ではあるが、それは自然がわれわれの眼に一見さう見えるといふ意味での單純と簡素とである。一方はクラリネットとバッスーンで、他方はイングリッシュホルンで呼び出される此の二つの主題は、曲の進行を其のさまざまな變貌のうちに支へながら大空の戯曲を展開して行く。然し注意すべき事には、此處には空と雲との間に些かの濁りも混雜も無い。此の透明と秩序との性質は一般にドビュッシイの音樂に顯著な特質であるが、それが此の場合でも天空をして飽くまでも眞率な靑い無限の大虚であらしめ、をして地上幾キロの空間に形成される水蒸氣の凝結物たらしめてゐるのである。曲の中ほどで雲は其の量を、また其の厚味を增して行くやうに思はれる。管樂器と絃樂器とが次第に增強されて、しばらくは沸騰して旋囘しながら大空に盛り上る雲の運動のやうな精力的な逞ましい演奏がつゞく。われわれは日光を反射する其のきらきらした大理石の肩を、又微妙に光を吸つた雪花石膏の横腹を想像する。下から仰ぐ雲底は雲そのものの厚味の爲に悲劇的な暗黑に充滿してゐる。然しそれも力の或る極限に達すると、突然ひとつの主題が全く新しい相貌を装ひながらフリュートとハープとによつて現れる。これは謂はゞ最初の雲の主題の變容であつて、最早やいくらか疲れ、倦み、蒸發し、分裂しながら流れて行く雲の姿を思はせる。それにしても少しづゝ形を變へながら繰返される此の主題は、眞に心を悦ばせるほど美しく純潔でまつたく夏雲の歌だと云へやう。そして最後に空が再びその碧い廣がりと悠久とを取戻すと、遥かに遠ざかる雲は或時は悲しい灰いろに、或時は希臘の海の島々のやうに散りぢりに輝きながら、地平線の彼方から其の別離の歌をわれわれに向つて投げるのである。

 北アルプス登山の朝、燕つばくろの燕山荘で山上第一夜の眼がさめる。毛布の襟から顏を出して窓の硝子越しに外を眺めると、今、朝日が雲海の彼方から昇るところである。急いで起きて靴下を穿き、ズボンを穿く。山靴を突掛けて外へ出る。思つたほど塞くはない。それでも吐く息は眼に見える。息の中に混つてゐる水蒸氣が凝結を起して無數の微細な水の粒になつたのだから、之も霧や雲の仲間だと云へるであらう。
 太陽が出る。出る方角は淺間山の少し左手らしいが、其の淺間山の有るあたりは一帶に夜來の層積雲がたゝなはつてゐるので、あの特徴のある山容は見えない。その代り八ケ嶽は編笠から蓼科までくつきりと雲海を拔いて、長大な島のやうに浮んでゐる。八ケ嶽の左手前には頭だけ出した美ケ原の優美な一連。その間には霧ケ峰につゞく車山や八子ケ峰の頂が一抹の薄墨をなすつてゐる。そして眼下には切株のやうな有明山の黑い頭。
 雲海の上限を離れて昇る太陽は、灼熱した圓球といふよりも寧ろ冷めたい眞紅の色にかゞやく何か柔かなとろりとした物を思はせる。見てゐると上下に引伸ばしたやうな形になつたり、幾らか扁平に鏡餅のやうになつたりしながら昇つて行く。之は太陽とわれわれの眼とを直線で結んだ高さに、溫度や密度を異にした幾つかの氣層が介在してゐる爲ではないだらうか。昨日は雷雨の後の晴れた夜、安曇野あづみのに點々とする町の燈火を此處から眺めたが、その光がちらちらと美しく瞬いてゐたのも、恐らく其の光線が屈折の度合を異にする氣層を通過して眼に届ゐた爲だらうと思はれる。
 雲海そのものは、地表に近い空氣が夜間の輻射放冷のために著しく低溫になり溜まつてゐる上へ、暖かい氣流が流れて來て、其の摩擦と混合とから水蒸氣の凝結が起つて出來たのであらう。ところで面白い事には、山體に接近した個所では雲海の面が斷崖に打ちつける波のやうに高まつてゐるが、太陽の昇るにつれて先づ其の個所から先へ蒸發し分離して行つた。之は極めて當然な事かも知れないが、初めて氣をつけて見た私には興味があつた。

 東京の下町は自然の觀察には適當でないが、自分の經驗では、雲を眺める事だけには善いやうである。中央氣象臺で撮影したといふ雲の寫眞を見るたびに何時でも感心するが、それは單に撮影の場所が他所よりも高くて、周圍に餘り邪魔物が無いといふ理由からばかりではないやうである。色々の種類の雲が、それぞれの季節に、實際東京の上空には出現するのである。
 先づ近くには荒川を上流とする隅田川がある。東京湾の水の廣がりがある。大きな水の存在は必ずや氣流に對して何等かの有力な働きをするであらう。この働きが雲の生滅消長に至大の關係を持つ。そして種々の雲形を、時には極めて稀にしか見られないやうな問題の雲の出現をさへ可能にするのである。其の上東京は、陸上の雲の發生器である房總半島を、時には眺め、又常に身に近く持つてゐるのである。
 武藏野では、事態は必ずしもさうはならない。平野の上空に滯在したり其處を通つたりする雲は、雲形としては概して平凡である。秩父や丹澤に湧く雲も、別に此處だけの觀物ではなく、それは東京からも一層印象的に見えるのである。自分としては銀座の四つ角や、日本橋の上に時あつて立ちながら、武藏野の我が家に有るカメラを苛立たしく思ひ出した事も、實に一再にとゞまらないのである。
                       (昭和十六年八月三田新聞)

 

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 草取りの植物學

 お盆前に一度すつかり取つたのに、道路に面した生籬の下が又いつの間にか雜草の世界になつた。今度のは前に拔いた草の種子がこぼれて生えた二番草だから、一體にがらも小さく、見たところ大して不體裁でもなく、ちよつと英國の古い水彩畫でも見るやうに、垣根に沿つた道のへりが綠にぼかされて、私などには如何にも田舎らしい落着きと平和とが感じられるのだが、何しろ近所があまり綺麗にしてゐるので、仕方なしに暑くはあるが比較的藪蚊のすくない日中を選んで二度目の草取りをする事にした。
 相變らずヲヒシバ、メヒシバといふやうな禾本科の族が統計的優位を占めてゐる。なかなか頑強に鬚根を張つてゐるので拔くにも一寸した呼吸が要るが、分蘖して八方にひろがつてゐる莖を一纏めにして、株の根元を兩手の指先でしつかり抑へて一株づゝ眞直ぐにピリリと拔取る時には、炎天下での一寸小氣味のいい痛快さがある。中でもヲヒシバなどは瀝靑でかためた碎右の鋪装道路へ執拗に根を下ろして、下駄や靴で踏まれれば踏まれるほど、車に轢かれれば轢かれるほど、いよいよ片意地張つて生存權を主張するのだから、これを旨く拔取るには相當の努力と工夫とが必要である。そこへ行くと同じ禾本科でもニハホコリなどは至つて素直で、二本の指先でも樂々と拔ける。
 こまかい對生葉をつけた柔い枝を八方に這はせて、やがて斜に立上り、地面の上に一種の唐草模樣を織出してゐるのはコニシキサウである。これは畑地に普通のニシキサウの同類で、北亞米利加あたりから渡來した歸化植物ださうであるが、葉の中央に細長い小さい斑點のあるのと、枝に白い毛の生えてゐるのがニシキサウとは違ふらしい。靑綠色の葉の中肋に滲み出してゐる此の紫褐色の斑點の色が葉の裏面までは拔けてゐない事、その色が幾らか枝の色と似てゐる事、又同じ枝でも日光に面しない方の半面、つまり斜上した枝の地面に向つた方の半面がほとんど無毛で綠色を呈してゐる事などは、今度の草取りで初めて氣のつゐた點である。一本の枝から左右代りばんこに小枝が出てゐるために枝全體が雁木狀になつてゐるのも面白いが、これなどは日光に對する此の植物のエコノミーのやうに見れば見られなくもない。各葉腋に二つ位づつ着いてゐる花は、花瓣などは見當らない至つて見すぼらしいものだが、それでも擴大鏡で覗いて見るとなかなか奇拔な構造になつてゐる。レンズの倍率が小さいので明瞭に見る事は出來なかつたが、四本ばかりしよんぼりと並んだ雄蕋の環の間から、珊瑚色に濡れた三本の短い花柱と、白い毛の生えた綠色の大きな三稜形の圓い子房とを持つた一本の堂々たる雌蕋が、まるで雄蕋などにはもう用は無いと云つた風でそつぽを向いてゐる。故寺田博士がタカトウダイの花で矢張り之と似たやうな觀察をして居られたが、かうした點などもあの興味津々たる「花」の著者石川光春氏のやうな専門家から伺つたらなかなか面白い話がありさうである。
 コケオトギリはオトギリサウと同屬の草だが、全體が遙かに小さく優しく出來てゐる。丈けは一二寸、蒲柳のやうに見えながら一本づつ直生して、優雅なうちにも筋金入りの凛としたところを見せてゐる。尤も古い株になると莖が横倒しになつて、地面に接した節の所から根を下ろし枝を出すが、此の枝も一二寸で矢張り眞直ぐに立つてゐる。卵形をした對生葉は根ぎはほど小さく、上へ行くに從つて大きくなり、莖の上部の初めて左右へ分枝するあたりで最大に達してゐる。但しそれも長さ約五ミリ、卽ち二分に足らないのが普通である。此のコケオトギリの葉にはオトギリサウに見るやうな黑い腺點は無い。しかし空の光に透かして擴大鏡で調べると透明な腺點が無數にある。花瓣にもオトギリサウと違つて黑點が無い。花は黄色くて直徑三分未滿、その内部に束になつたり離ればなれになつたりした雄蕋が六本ほど立ち、その中央に幾らか三稜形に角ばつた卵なりの子房が、ちやうどアブラムシの腹部にある角狀管そつくりの花柱を三本つけて端坐してゐる。此の子房は花が終るといよいよ綠色に光つて肥大し、やがて大きく三つに裂けて褐色の種子をこぼす。最初正しい星形だつた蕚は實が裂ける頃になると裂片がそれぞれ勝手に伸びて、大小不同になる傾向があるやうに見受けられた。オトギリサウはJohn’s Wortsといふ名で英吉利の本などに屢々出て來るが、向うにもいろいろ種類がありながら、日本のと同じなのが殆ど無いらしいのは不思議な氣がする。
 コニシキサウやコケオトギリと混生して、それよりも更に多く、大抵の家のまはりや路傍で今頃見られる小さな草にトキンサウがある。これも平臥した莖から根と枝を出して、葉もあれば花も着けてゐる事立派な植物に相違ないのに、あまり名を知つた人もなく、況してやこれを菊科の一種だと聽かされると驚く人が多いやうである。何しろ充分生長したもので長さ三寸位に過ぎず、葉は二分か二分五厘、頭狀花は花季で直徑五厘といふ小さな草だから、別に利害關係も興味も無いのに強ひて認めようとする者も無いわけである。此の頭花は全部が筒狀花から成つてゐて、私が御叮寧に勘定したところによると、一箇の花が概算百から百二三十程度の筒狀花で出來てゐる。花の色は黄であるが、皆が皆花冠を持つてゐる譯ではなく、大抵中央に位する五つか六つだけが黄色い花冠を具備してゐて殘りの大多數は丸裸の雄蕋だけのやうである。そしてそれぞれの子房が熟すに從つて共同用の花托も大きくなり、直徑約一分位の非常に小さなヒマハリの實のやうになる。草の名のトキンサウは、花の形からさう見れば見られなくもない修驗者の兜巾ときんから來たものだと思つてゐたら、トキンサウは「蓋し吐金草の意で、其の小形頭狀花を押し潰せば黄色を帶びた痩果が押し出さるるので斯く名づけたのであらう」といふ牧野博士の註釋をその「原色野外植物圖譜」で發見した。此の御説に從ふならば、黄色を帶びた痩果小花とした方が一層適切であるやうに私には思はれる。
 このほか卜キハハゼ、ザクロサウ、カタバミなど、草取りの序でに下手な觀察をやつて色々小植物の勉強をしたが、それは又次の機會にゆづつて今日はこれだけで筆を擱く事にする。
                       (昭和十三年八月野鳥)

 

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 天氣圖の放送

 五月二十五日の夕刊各紙に、來春四月を期して天氣圖の無線放送が實施されるといふ耳寄りな記事が一齊に出てゐた。中央氣象臺作製の氣象原圖を「模寫電信装置」にかけて、或る特設の氣象放送所から飛行中の飛行機や航行中の船舶をはじめ、全國各地の測候所へむけて強力な電波によつて放送するといふのである。そして或新聞によると其の受信機も現在のラヂオセットと大差のない四球若しくは五球程度の簡單な短波装置だから、一般の家庭などでも簡單に取附けることが出來るのださうである。後の方の「簡單」が果してどういふ意味の簡單か、それはよく分らないが、孰れにしても斯ういふ事の必要を痛感してゐたそれぞれの方面にとつては非常な福音であらうし、直ちに其の恩澤に浴することが出來る出來ないとは別としても、吾々一般人にとつても何がなしに賴もしく又爽快な感じのする、それこそフレッシュなニュースであつた。
 素人の悲しさには一體其の受信機がどんな装置のものか見當さへつかないのであるが、例へば一定の時刻に茶の間の受信機ヘスヰッチを入れると、時計仕掛の圓筒が函のなかで靜かに廻轉をはじめる。顏を近づけて耳を澄ますと中では何か神祕な事が行はれてゐる氣配である。やがてスヰッチを切つて函をあけ、圓筒に捲いてある受像紙をはづして見る。すると其處にはもうちやんと見事な小さい天氣圖が極めて鮮明に寫つてゐる。事柄が若しもこんな工合だとすれば、生活の他の方面を多少切りつめても、出來るならば此のセットだけは家庭に備へて置いて、その毎日の至大の利便を享けたいと思つた事であつた。
 尤も現在でも新聞によつては單に天氣豫報だけでなく、朝刊の片隅に前日午後六時の天氣圖の載つてゐるものも有るにはあるから、それを同時刻の全國天氣概況の記事と照し合せてみれば今後二三日の天氣の大體の豫測はつく譯である。然しなんとしても圖そのものが小さ過ぎる上に紙質の關係から鮮明を缺くばかりか、一日一囘午後六時の分だけしか見られないといふ點でどうも物足りない感がある。或は午前六時の分を其の日の夕刊に掲載してゐる新聞も有るかとは思ふが、それは特別であらう。然したとひ一日一囘にせよ有るは無きに勝ることは云ふまでもない。
 所定の料金を前納して中央氣象臺へ申込めば眞に立派な天氣圖を、しかも零細な價で頒けて貰ふことが出來る筈である。陸地測量部發行の五萬分一の地圖に次いで「安い物」の三役格である。これには午前と午後の六時の天氣圖のほかに、全國各測候所及び近海航行中の船舶の觀測した天氣表が裏面一杯に載つてゐる。ひとり國内だけでなく滿洲國の主要都市の分さへある。だから奉天に住んでゐる妹が今頃どんな異郷の空を眺め、大陸のどんな暑さを感じてゐるかを一目で想像することも出來るのである。然し天氣圖といふ物は其の第一の目的から云つても出來るだけ速かに入手したい性質の物である。ところが東京の新市域や隣接町村に住んでゐては毎日わざわざ中央氣象臺まで取りに行くといふのも一寸むづかしい事であるし、と云つて郵便で送つて貰へば翌朝でなくては手にする事が出來ない。こゝに不便が有ると云へば有るわけだが、後日のさまざまな調査資料といふ點からみれば寔に間然する所のない記錄だと云はなくてはならない。
 天氣豫報の窮極は「天氣の暦」ださうであるが、現在でも其適中率は九割五分、少くとも九割以下ではないと思ふ。豫報に對して懷疑的な、時には擲楡的な考を持つてゐる人も少くはないが、さういふ人の考の根據を聞いてみると案外薄弱なもので、普段の適中には我不關焉、たまたまの不適中を老嬢の如くにあげつらふらしいのである。斯ういふ人にはどうも衆と共に樂しむといふ事は出來さうにもない。
 私の所では私が二三日山などへ出掛ける時にはラヂオを聽きながら手製の天氣圖を作るやうにしてゐる。先づ天氣概況と漁業氣象とを筆記して、それを經緯線の入つた日本及び亞細亞大陸東部の白地圖へ書きこむ。それも直接地圖へ書くのではなくて、地圖は額緣の御古へ入れて硝子板の上へ墨で書くのである。等壓線は引く時もあるし引かない時もあるが、高低氣壓の配置と移動の方向や速度がわかれば先づ二三日の旅の全局的な天氣豫測は出來るのである。幾度でも使へるやうに硝子板へ書くところが所謂味增といふものかも知れない。
 氣象知識の一般的普及は國民生活の福利のために切に願はしい事であるが、此の智識の有無が最近勃興した新しい企業に影響した例が幾度か有るから面白い。それは一囘の勝負がティームの収入に大きな關係を持つ職業野球の場合であるが、比較的樂な相手を前日に、強敵を其の翌日に控へた時、天氣豫報を信用しなかつたり氣象智識が皆無だつたりした爲に投手起用策を誤つて、第一日は二流投手を出した爲めに敗戰し、二日目は折角意氣込みながら雨でお流れ、結局虻蜂とらずになつてしまつた。かうなると野球なんぞでも主腦部の頭からして科學的に改造して行かなければならない譯であらう。
                          (昭和十五年七月政界往來)

 

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 森林について

 森林の持つてゐる本當の味ひとか美しさとか云ふものは、吾々普通の人間にはなかゝゝ
解らないのではないかといふ氣がする。なぜならば或る場所の眞の善さがわかる爲には、其處と自分との間に、徐ろに形作られる親しみの關係のやうなものが無くてはならないからである。たとへば避暑地だとか、高原だとか、海岸だとか、或は何處かの山頂だとかいふ場合だと、吾々は其處に幾日かを滯在したり度々訪れたりして馴染になつてゐる内に、何時とは無しに他處とは違つた美や特長を見出し、人によつてそれゞゝのはつきりした概念を持つことが出來る。ところが森林となると事情はおのづから違つて來る。吾々は登山や旅行の途中たまたま或る大きな森林を通過したり眺望したりする事はあるが、其處に數日を逗留するとか、特にたび 〱 訪れたりするとかいふ事は普通には先づ無いと云つていい。從つて此の場合に必要な、土地との親愛の關係は一般には容易に成り立ちにくいやうに思はれる。
 然しさうは云つても、或る場所の善さが解る解らないは程度の問題で、解つたつもりでゐても又行つて見れば前よりも一層よく解つたといふ事も大いに有り得るし、三度行つてゐる人の解り方が、たつた一度しか行つた事のない人の解り方よりも粗笨で淺薄だといふやうな場合も、或は無くもないであらう。從つて此の問題の詮義立ては先づ此のくらゐで止めるとして、たゞ森林獨特の美を味ふには、他の自然景觀を味ふ時とは幾らか違つた用意が必要ではないかと考へられるので、其點について少しばかり自分の素人考へを述べてみたいと思ふ。
 言ふまでもなく、森林は我國の自然景觀の、わけても山岳景觀の重要な一要素である。もしも山岳國日本の森林といふものが、甚だ貧弱でしか無かつたとしたら、國土の尊容や美は大いに割引されなくてはならないだらう。渓谷から山腹をかけて綠の雲のやうに埋めつくした闊葉喬木樹林、荒々しい山骨をびつしりと被つた眞黑な針葉喬木樹林、吾々が木曾や熊野を、日光や秩父を考へる時に、忽ち眼前に浮かぶのは何よりも先づ斯ういふ大森林である。そして此等の山地と森林とは一體不可分の關係にありながら、想像の風景を占めるものは、寧ろその大部分が鬱蒼たる原生林の景觀だと云つても過言では無いやうである。
 吾々は山體被覆物としての森林の此のやうな外觀の美を、無論讃へることが出來るし、又事實大いに讃へてゐる。そして色々の文章などに現れてゐる森林讃美の立脚點が大抵は其處にある。しかし特に森林の内部へ深く踏込んで、其の世界の生活や美について委曲を語つた文章といふものが甚だ稀だとすれば、其の理由は、やはり前述したとほり、森林なるものの環境が自然の他の分野と大いに其の趣を異にしてゐるからであらう。
 ひとたび足を大森林の中に踏入れた時人は先づ何とも云へない靜けさが、日常の生活では到底經驗する事の無いやうな異樣に大きな靜けさが、眼に見えぬ奥の奥まで續き、廣がつてゐる事を感じるだらう。それは吾々に或種の怖れを抱かせはするが、若しも吾々にして其時ひとつの事に氣がつけば、卽ち俗世間の感情に染まりきつた心が、今や此の純粹な未知の自然の神聖な息吹きに觸れて戰いてゐるのだといふ事に氣がつけば、あたかも瀧を浴びてゐる時のやうに、次第に心は澄み、精神は目覺めて、今度は其の心境を持續しようとして此の世界に親しむ事になるだらう。そして吾々のために此の心境を護るかのやうに、原生林の樹々は高く、その千百の樹幹が作る障壁は厚いのである。そしてこれが常に多少なりとも遊覧氣分を伴ふ他の景觀と森林との根本的な相違のやうに私には思はれるのである。俗世間と其の卑小な感情からの此の自發的な脱却と、心の内省的な活動とは、吾々をして森林そのものの功德と美とを深く味はゝせるだらう。梢を洩れるわづかな光に、吾々は初めて空の何であるかを悟るだらう。日常見馴れて何の感銘も無かつた天空が、どんなに無限の意味を藏してゐたかを知るだらう。又此の何處からとも知れず湧き起る嚴かな風の響に此世の所謂音樂の到底語りつくせない言葉や歌を聽くだらう。又其處には動物等の最も自由な生活があつて、彼等の本然の姿は吾々の精神に自由と生の悦びとの意識を力づよく目覺めさせるだらう。亭々たる巨木も、その下生えも、彼等の沈默をもつて千萬の言葉を吾々に囁くだらう。そして吾々にして一度大森林に共通の功德と美とを知つた以上、必ずや又その世界に憧れて訪れずにゐられなくなるだらう。
 森林官でもよい、詩人でもよい。なるべく色々の人の手になる森林生活の文章を讀みたいといふのが特に此頃の私の望である。
                           (昭和十三年九月旅)

 

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 初夏の田園

 今日は、丁度今頃の季節の山だの野の事を、つまり初夏の田舎の自然の事を、何か話すやうにといふ御依賴でしたから、私も大いに奮發して、五時少し前に家を出て、東京の西の外れから約一時間半かかつて、今此の放送會館へ參りました。尤も太陽の方は、もう二時間も前に出てゐます。丁度此の二三日が、一年のうちで一番日の出の時刻の早い時に當ります。ですから、さういふ時に、折よく早起きをする羽目になつたといふのも、考へてみると、何かのいい仕合せだつたやうな氣がするのです。
 さて、六月も二十日を過ぎた今頃になりますと、もう新綠の季節とも云へないやうです。春の花は跡方もなく散つてしまひ、つい先月あたりまでは柔かな綠の雲のやうだつた樹木の若葉も、もうすつかり堅く強くなつて、綠の色もずつと濃くなり、殊に、武藏野に多い欅けやきなどは、寧ろ黑ずんで見えるやうにさへなりました。さうして、さういふ欅の大木は、大概農家の屋敷林、つまり農家の防風林や、夏の日除けの役をする林の一部をなしてゐるのでありますが、其の屋敷林が、緩やかに波打つ畑のところどころに、遠く、近く、よく晴れた日の銀いろの薄霞をまとつて見える風景は、これこそ如何にも夏の武藏野らしい姿のやうに思はれます。
 昨日も私は少しばかり近所の田舎を散歩して見ましたが、丁度何處の畑でも麥の刈入れが濟んだ處で、その刈束を農家の若い娘さん達が、兩親と一緒にリヤカーへ積んで、畑の中を運んで行く姿を見てゐますと何とも云へない美しい感じに打たれました。その最も土に親しんだ勞働の姿の上には、薄い桔梗いろの空がひろがつて、ところどころにぽかりと、柔かな雲が、積雲が浮んで、もう子供のある雲雀が、時々思ひ出したやうに其の空へ舞ひ上つて、春の時分のあの一生懸命な長い歌よりは、大分短くなつた、多分、子供を育てるといふ大事な仕事を果した、その安心と滿足との歌かと思はれるやうな、歌を歌つてゐました。さうして、もう幾らか飛べる位になつた雲雀の子供達が、時々チリチリチリと囀つて二三間飛上るのですが、(未だそれ以上飛べないのか、それとも怖いのか知りませんが)直ぐに下りて來ては下の馬鈴薯の莖にとまるのです。さうして、人間と違つて、もうその位になると自活の道も心得てゐるのでせうが、それでも未だ親鳥が來て小さい虫か何かを口移しに遣らうとしますと、未だすつかり雲雀色にならない翼を垂らすやうに擴げて、それを甘えるやうにぶるぶる顫はせながら、柄になく大きな口をあけて、慌てくさつて餌をもらひます。私は、毎年の事ではありますが、馬鈴薯の花の咲き初める頃になると、畑へ行つて此の雲雀の子を見るのを樂しみにしてゐます。
 水田の乏しい武藏野の臺地では、農家は陸稻を作ります。今頃は丈も未だ五寸足らずで、葉も三四枚位しか出てゐない、至つてなよなよしたものですが、其の陸稻が、例年よりは大分餘計に作られてゐるやうな氣がして私は見てゐました。丁度折よく其處へ顏見知りの御百姓が通り掛りましたから、「今年は陸稻がいつもよりも多いやうですね」と訊きますと、「それはやつぱり御米が足りないから、增産計畫で、餘計作るやうになつたんですよ。陸稻ばかりでなく、馬鈴薯も今年は餘計に作つたんです」といふ事でした。私は、成程さうだつたなと思ひました。さうして其の御百姓と道々歩きながら色々話をききましたが、「吾々は百姓だから食糧の生産の爲めに出來るだけの勞働をするが、肥料の配給が遲れがちなので困る」といふやうな事を云つてゐました。かういふ事も、私達のやうに都會生活をして、ただ新聞などで讀んでゐるだけでは大してピンとも來ませんが、其の場で當事者の御百姓の口からきくと、今更のやうに「成程さういふものか」と、はつきり分つたやうな氣がします。
 つい此の間までは栗の花がそこらぢゆうで香つてゐましたが、もう其の白い花の穂も、半分以上は落ちてしまひました。その代り、今は柘榴の花の一番美しい時です。私は、あの綠色の硝子のやうに光る葉の中に黄色みがかつた眞赤な柘榴の花を見ますと、毎年、ああ夏が來たなといふ、感じを深くします。さうして、それは梅雨の晴れ間の快晴の日に、少し濕氣のある空氣を蒸すやうにして、太陽が力強くカアッと照つてゐる時です。それから又、皆さんの御宅の裏庭などでも、今が多分見頃だらうと思はれる立葵です。あの眞直ぐに六尺以上も伸びた薄綠の莖に、眞赤なのや薄桃いろの、どことなく田舎の健康な美しい娘のやうな感じのする見事な花をつけた立葵は、まつたく私には、田園の初夏の歌のやうな氣がします。
 小さい坂を下りて、私は池のある方へ行きました。其の坂の途中の草むらには、もうホタルブクロ(俗に提灯花などと云ひますが)そのホタルブクロが、ふつくりと圓くて長い、さうして口元に一寸くびれのある薄紫の花を、本當に提灯のやうにぶらさげてゐました。さうして花が筒形で大きいだけに、その中へもぐり込んで蜜を漁る蜂も、ずんぐりした大型のものが多くて、熊蜂とか、丸花蜂のやうな連中が盛んに出たり入つたりしてゐました。かういふ風に胴のふくらんだ筒形の花が、一度くびれて又少し開いた口をしてゐるのは、如何にも理窟に叶つてゐるやうな氣がします。もしも之が只の輪切りにでもなつてゐたら、花びらのやうな薄い柔かい物では、荒つぽい蟲の出入りのために、口のところが直ぐに切れてしまふでせう。すべて自然界の物は皆さうですが、此の邊實に造化の妙に感心せずにはゐられません。
 池には赤と白の睡蓮が咲いて、その睡蓮の間にカイツブリが(之は小さい水鳥でニホとも云ひ、ムグッチョとも云ひますが)、そのカイツブリの夫婦が水草で作つた巢の上で、丁度卵をかへしてゐる最中のやうでした。此の鳥は春から秋にかけて、一腹に二つから六つ位卵を産みますが、この卵を夫婦で代るがはる抱いて溫めます。親鳥は自分が巢から離れる時は、先づ巢の上に立上つて、兩脚で水草の葉つぱだの蔓だののやうなものを卵のそばへ搔きよせ、それから嘴で其の葉つぱなどを銜へて、卵の上へ、丁度その卵が見えなくなるやうに載せます。そして之でいいと思ふと、ズブリと水の中へもぐり込んで、やがて向ふの方へ行つて、水面へ姿を現します。歸つて來る時は、又巢から離れた所で水へもぐつて、さうして何時のまにか巢のそばへ現れて、巢の上へ上ります。上ると今度は嘴で、蓋をしてあつた水草を傍へよせて、やをら卵をかかへます。さうして其の間絶へず注意ぶかく眼を四方に配つて、人間でも何でも、少しでも害をしさうなものが近づくと、急いで水草をついばんでは卵にかぶせて、そして自分は水の中へ飛込みます。飛込む時に、一番水の音のしないやうに、一番水の抵抗の少いやうに飛込むのも、やつぱり造化の神の與へた智惠と云ひませうか、本能と云ひませうか、何にしても感心してしまひます。
 池のふちの、小さな蚊のやうな蟲の澤山群れてゐる處には、自然食物のある關係でアメンボが澤山ゐます。それにコシアキトンボ、セウゼウトンボ、ウチハヤンマなどのやうなそれぞれ美しいトンボやヤンマが、今、全盛期でした。殊に本當に猩々緋のやうな赤いセウゼウトンボが、晴れやかな水面を、ぶるぶる羽根を顫はせながら飛んでゐる光景は、之も亦初夏の風物の一つのやうに思はれます。
 池の下流のヨシの生えた濕地では、大ヨシキリとヒクヒナが盛んに鳴いてゐました。大ヨシキリはヨシの莖をそのまま三四本集めて、それを支への柱にして其の間へ巢をかけますが、ヒクヒナは其のヨシの根本あたりへ、枯草などで巢を作ります。ヒクヒナといふのは俗に云ふクヒナの事で、昔からクヒナが戸を叩くと云つて居る、あの鳥です。晝間も嗚きますが、殊に夕方から宵にかけて鳴く聲は、何とも云はれず寂しいやうな、甘いやうな調子です。大ヨシキリもヒクヒナも、もう兩方とも雛をかかへてゐる筈です。それに、カハセミも雛を持つてゐる筈です。さう云へば、私の歩いた近所に住んでゐる鳥達には、今ではみんな子供がゐる時です。ヲナガも、ムクドリも、ホホジロも、モズも、チゴモズも、サンセウクヒも、コサメビタキも、雀などは元よりの事、まだ色々ありませう。ただ、今年はもう一と月以上もカッコウが此の近所を去らないでゐますが、これは例年にない事で、實は不思議に思つてゐるのです。事によつたら山へ行かずに此の邊で假親を見つけて、その巢へ卵を生み込んだのではないかしらとそんな事を素人考へに考へて居ります。
                     (昭和十五年六月二十三日AKより放送)

 

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 文化映畫雜感

 「道場永平寺」といふのを見た。
 宅の宗旨が元來禪宗も曹洞派なので、其の總本山である越前の永平寺へは是非一度行つて見るやうに生前の父からもすゝめられ、自分でも心懸けてはゐたのだが、旅といへばつい山だの谷ばかりへ足が向いてしまふ爲にいまだに其處をたづねる機會を持てずにゐた。ところが最近東寶文化映畫部が此の新作を提供した。それで永年宿題の御寺を私は越前ならぬ東京新宿のしかも映畫館のエクランの上で見學することが出來た譯であつた。
 この巨刹の在り場所は福井市の東約十六キロ、吉田郡志比谷村の山中ださうであるが、映畫ではさういふ點の説明が少しも無かつたやうである。然し慾を云へば吾々のやうな觀客の蒙を啓くためにも寺の所在地と其の附近のおほよその地理的概念ぐらゐは與へて貰ひたかつた。其の爲には畫面の數も少しばかり餘計に要るには違ひないが、その代り、さうすれば此の寺が一體どんな地形の處にどういふ風に地を相して建てられたかも明瞭になるし、又寺そのものと近隣の町村聚落との人文地理的並びに經濟地理的關係も大體は推測出來る筈であるが、一篇の製作テーマの重點を強調する爲にはさういふ事が却つて邪魔になると思つたのか、山門の黎明から始つて「作勞」の一雲水の大見得に終るまで、吾々の前に永平寺はつひに天降りの世界であつた。
 然し此の映畫を見て吾々のいちばん知りたく思つた事が、これだけの大世帶がどうして存立を續け、他とのどんな依存關係の上に生きてゐるかといふ點にあつたとしても、あながち無用な詮議立てとは云へないであらう。
 問題の寺の宏荘なのにも驚いたが、悠久七百年の歷史を持つと云はれる我國最古の禪道場に、科學應用の近代的設備がかなり大掛りに取入られてゐるのにも一驚を喫した。菜葉服ならぬ法衣の僧が椅子に腰かけて配電盤を驅使してゐる。米磨ぎには電力をかり、飯も味增汁も炊事はすべて蒸氣釜を使つてゐる。このあたりアナウンサアの説明にも大分得意の調子があつたやうである。洗濯なども電氣洗濯機で一時に大量の始末をつけるのではないかといふ氣がしたが、生憎一山の洗濯日ではなかつたのか、それは寫つてゐなかつた。然し法衣の袖を捲り上げた精悍な僧達が、ハンドルを倒して四十五度に傾けた幾つかの大釜から大人國の耳搔きのやうな長柄の杓文字で掬ひ出す焚きたての米の飯の、あのふつくりと旨さうな純白さには自分達の毎日の甚だ憂鬱な飯を思つて轉た羨望を感じた事であつた。坐禪、讀經、朝餉、聽講、作勞といふそれぞれの日課の場面を通じて、大寫しに寫し出される程の雲水がすべて未來の傑僧らしい風貌を備へてゐたやうであるが、見てゐて結局其の人間的な一面に或種の安心と微笑とを感じたのは、劃一された一分刈のために却つて隠すにも隠されない一人一人の頭の格好の爲であつた。食事のところなども此の人間らしさに觸れる好個の場面の筈であつたが、一粒の米にも惨憺の苦心をする百姓への瞑目の感謝のクローズアップと、其の百姓が田甫を耕したり苗を植付けたりしてゐる小さい畫面が二つ三つ走るだけで、いざ一齊に箸を取上げて最初の一口を運ばうとするとそれでもう朝餉のシーンは終るのであつた。
 雲水が隊伍を組んで野山へ働きに行く「作勞」は、七百年の昔から實行されて來た今日の所謂集團勤勞奉仕ださうであるが、あの見事なモミやシデの樹を何の爲に切り倒してどう始末をつけるのかは全く説明されてゐない。此等の伐木は建築用材として俗人の手へ或る價格で拂下げられるのであるか、それとも一山經營の製材所へでも送られて將來の修理や增築の用に供せられる物であるのか、「自給自足」といふ標語めゐた口頭のリマークが與へられただけで其邊の事も不明であつた。一人の若い秀才型の雲水が何か心に期する處あるかのやうな眼付で決然と天の一角を睨んでゐたが、こんな人に伐採の目的や其の後仕末などを質問したら、いきなり「莫妄想」の一喝で撃退されたかも知れない。
 「道場永平寺」のテーマは容易に呑込めたし御蔭で少からぬ知識も得たのであるが、私の求める他のテーマ、私の遭遇したいと思ふ他の「敎材」や可能性のためには、やつぱり自分の足、自分の目玉で見に行かなくてはならないと思つたのであつた。

 今度の歐洲戰争の新聞記事などで度々見うける「運河」といふものが、實は我國にも早くから有つたといふのでアサヒ・ホーム・グラフの第四十三輯が宮城懸の貞山堀を扱つてゐる。「日本案内記」で見ると此の運河は鹽竃から起つて南の方阿武隈川の河口荒濱に達するもので、伊達政宗が物貨輸送を便ならしめるために開墾させたものださうである。貞山が政宗公其人の號であつた事は云ふまでもあるまい。鹽竃から荒濱と云へば直線距離にして八里位はあるらしいが、卓越風の影響をうけて一樣に傾いた沿岸の見事な黑松の並木といひ、靜かに往く舟の舟べり近く低い板葺の農家の構造やたゝずまひと云ひ、小さい船着きの、何處か潮の香をおもはせる寂びれ方といひ、又時々見える地平線の上の雲といひ、如何にも人煙稀な海岸平野を流れる運河の詩情であつた。ロケーションが極めて自然に行はれたと見えて、とある橋の欄干に兩肱ついて此方の舟を見下してゐた三四人の子守娘と一緒にゐた一人の女の子が、舟が橋をくゞらうとすると直ぐ駈け出して反對側の欄干の方へ行つたのも氣持のいい眞實の姿であつた。
 幅員約十五米、輸送力は六本の道路に相當すると説明された貞山堀が、その能率を發揮する有樣は見る由もなかつたが、其處に感じられるものは確かに「みちのく」の詩であつた。
 同じアサヒ・ホーム・グラフに「交通地獄を覗く」といふのが有つて、省線電軍、市電、市バスのラッシュアワーの「殺人的」混亂の實況が暴露されてゐる。此の中で東京驛の驛長さんと市バスの女車掌君と、當の乘客氏とのそれぞれの感想が錄音されてゐるが、驛長室の椅子にどつかと掛けた驛長さんが、「此の問題の解決には色々言ひぶんもありませうが、要するに各人が日本人であるといふ誇りを持つ事が唯一の捷徑です」といふ意味の事を云つてゐるのに對して、繩を張つた市バスの停留所で、女車掌君が混亂防止の手段を極めて實際的に且つ方法論的に明快な口調で述べてゐたのは面白かつた。
 上司と現業員との事件處理法の相違が、此の「日本人たるの誇り」と「皆樣どうぞ一列になつてお乘り下すつて、お先の方から順々に奥へお進みを願ひます」とで、ゆくりなくも明瞭にされてゐたのが此際私には面白かつたのである。
                          (昭和十五年七月日本映畫)

 

  海洋を拓く

 駿河灣西岸の漁港燒津町に於ける鰹節その他海産魚類の加工過程と、同町海洋靑年學校生徒の遠洋漁業實地訓練の實況とを描いた理研映畫である。
 劈頭の輸出向罐詰や鰹節の製造工程の實寫は、それは又それで興味のあるものだつたし、最後の町の祭禮の光景も一種の地方色を湛へて面白く見られたが、此の映畫のいちばんの見どころと云へば、やはり何と云つても海洋靑年學校生徒の眞摯にして撥剌たる洋上の實習ぶりと、就中あの豪快な鰹釣の場面にあつたやうである。考へ方にもよる事だが、町の工場や御祭のやうな前後の部分は、恐らく割愛しても大した不都合は無かつたかも知れない。少しいろんな物を慾張つて取入れ過ぎたやうな感じが、少くとも私なんぞにはするのであつた。尤も食糧增産、外貨獲得の燒津町を紹介するのが製作意圖だつたと云ふのならば話は又別である。
 それは兎も角として、海洋開拓の雰圍氣は、肝腎のところではかなり鮮明に出てゐたと思ふ。開拓と云へばそれに從事する人間が問題になる。ところで海の拓士の雛鳥とも云ふべき靑年の容貌や態度が如何にも若々しくて怜悧さうで、或種の厭味や衒氣などが微塵も無く、海國日本の壯丁らしい賴もしさを持つてゐるのが先づ第一に氣持がよかつた。
 繪の色調と共に外洋の波や雲が實に美しかつた。殊に水平線の彼方から天の一方へ花びらのやうに散りひろがつた卷積雲の見事さは、歸宅して寝てからも永く網膜へこびりついて離れなかつた程である。あゝして半月なり一と月なり遠い海上へ魚群を求めて出てゐたら、雲なんかでも航海の單調を破つて目を樂ませ心を悦ばせる對象の、かなり有力なものではないだらうかといふ氣がするのであつた。心を悦ばせると云へば、水と空ばかりの海の奥に、一隻の堂々たる帝國軍艦を發見して、生徒達がマストや舷側から夢中になつて歓呼の帽子や手を振るところは、彼等自身若い船乘だけに其の喜びもさこそと思はれた。
 勇壮な鰹釣の光景は此の映畫でもクライマクスの場面だが、宇田道隆氏の好著「海」の中の數頁をそのまゝ實際に見る感があつた。船が水も盛り上るやうな鰹の大群のまんなかへ乘込んで行つて、釣る者も釣られる者も此處を先途と死物狂ひの働きをしてゐるところなどは、到底吾々のやうな都會住ひの人間や山國の人達には想像も出來ない海の生活の華である。たゞ前記の宇田さんの本には書いてなかつたと思ふが、さうした漁夫と魚との大活劇の演ぜられてゐる水面へ、船の横腹から十本近い水の束がシャーシャーと、まるで消火する時のやうに注がれるのはどういふ譯だらうかと考へた。或は海水を泡立たせていやが上にも鰹の群を興奮させ熱狂させる爲か、それとも人工の潮目のやうなものを作つて鰹を引きつける爲か、いづれは何かしら立派な理由があるには違ひなかつた。
 もう一つ、是は私の耳のせいかも知れないが、後から後から釣上げられてつぶてのやうに甲板へ投げ出される鰹が、互に鰭をばたつかせて押し合ひへし合ひしながら、時々「キイキイ」といふやうな聲を出して鳴いてゐた。何しろ生きてゐる鰹といふ物を初めて見て眼を丸くしてゐるところへ、鼠のやうな奇妙な聲で鳴かれたのだから思はずにやりとせざるを得なかつた。多分何かの聽き違ひだつたのだらうが、若しも本當に鰹が鳴いたのなら、是こそトーキーからの慮外の賜物だつたと思つていい。
 此の發動機による鰹漁船は三十噸から五十噸ぐらゐはあつたらうか。何千尾の鰹を氷詰にして歸航の途中嵐に出遭つたが、漁獲物の荷重と打寄せる大波や風雨のために船足が鈍くなり、今にもそのまゝ沈んでしまひはしないかといふ氣がした。然し斯ういふ目的をもつて建造された船は速力こそ小さいが復原力が大きいので、さうたやすくは轉覆しないものださうである。
 それにしても雲の變化から考へると、映畫の中の此船が嵐に遭つたのはどうも本當らしく思はれた。

 

  秋吉臺

 どこの會社の作品だか忘れたが、これも私には面白かつた。地理學の敎科書では𣪘にいろいろ机上の知識を與へられながら、いまだに見學の機會を持たない吾々のやうな者にとつて、此處にも又一つ映畫といふものの有難さがあつた。
 秋吉臺は山口懸厚東川の上流秋吉村の附近にある地理學上の名所で、その石灰岩の準平原面に、我國でも有數のカルスト地形が發達しつゝあるのである。
 起伏や傾斜の小さい石灰岩地域がその表面を流れる雨水や地下水の溶解侵蝕をうけると、其處に普通の河蝕地形とは違つたカルスト地形といふ特別な地形の輪廻がはじまる。そして其の輪廻の進行につれて、雨水の流れの方向に沿つて出來るカレンと呼ばれる細い溝や、漏斗狀の凹地ドリーネや、ドリーネの連續したウヴァーレや、地下の洞窟である所謂鐘乳洞や、更に進んではコックピットやフームと呼ばれる地形が形成される。又ドリーネの底には、石灰岩の中に含まれてゐる炭酸石灰以外の物質から成るテルラ・ロツサ(風化殘滓土)が堆積する。此の殘滓土の堆積したドリーネの底は、石灰岩の荒野の中では唯一の耕地となるのである。
 カルスト地形といふのは先づ大略こんなものであるが、地理學者の説によると、現在の秋吉臺はカルスト輪廻の上から見ればまだ極く若い幼年型を現してゐるのださうである。
 秋吉臺へさしかゝると、先づ灌木や草の茂つた斜面のあちこちに眞白な石灰岩がニョキゝゝと頭を出してゐるのが珍らしい光景だつた。更にカメラが臺地の上へ出ると、大小無數のドリーネが盃を押し込んだやうに凹んでゐる。なるほどマルトンヌやグルントのブロック圖の通りだなと感心した。ドリーネが連續して瓢箪形をしてゐるのも、其のドリーネの底が小さい畑になつて、現に百姓の男や女が鍬を動かしてゐるのも矢張り敎科書に書いてある通りであつた。しかしカメラの方では餘りさうした方面に興味を感じないせいか、臺地の表面は簡略にして石灰洞(秋芳洞)の方へとレンズを急がせた。勿論巨大な鐘乳石や石筍が懸垂したり伸び上つたりして、暗く深い奥行も知れないやうな洞窟の中を谷川のやうな水の流れてゐる名所瀧穴の光景は確かに見事なものではあつたが、私としては矢張りあの夏か初秋だかの空の下での秋吉臺の大觀や、地形的に細かい部分をもつと叮嚀にゆつくり見せて貰ひたかつた。
 此の映畫を見ながら思ひ出したのは、奥多摩の川苔山の麓、大丹波川の上流にある獅子口の事であつた。思ひがけない所に石灰岩の穴が獅子の口をあけたやうに開いてゐて、其處から滾滾と水を吐き出してゐる。あれなども地下には相當深い小規模な溶蝕洞を持つてゐるに違ひない。それに秋川の光明山の登山道に轉がつてゐるやうに見えた巨大な臼齒のやうな石灰岩。あれは確かに地下から僅かに頭だけ出した石灰岩基盤の露頭であらう。こんな意味で映畫「秋吉臺」からは學ぶところが多かつたと思つてゐる。
                          (昭和十六年七月日本映畫)

 

   

 海底火山の噴出から海面上に姿を現した島嶼が海流や海波の侵蝕をうけると、島の周圍には程度の差こそあれ海蝕崖の形成が見られるであらう。さうすると島の汀線は後退して曾ては陸であつた處に水面下の海蝕棚が發達するであらう。侵蝕によつて崩落した岩屑は、此の海蝕棚の上で磯波に揉まれる内に互に研磨の作用をして玉石となり、其處に堆積して幅の狹い石濱を作るであらう。そして其島を形成する火山岩の性質の如何によつては海蝕崖が極度に發達して、海岸から直ちに數百米といふ急峻な斜面や絶壁を峙たす事もある譯である。更にかうした火山島の岸に沿つて爆烈火口、たとへば伊豆大島の波浮港のやうな物が無い場合には、コニーデ式火山島としては船着きの便に惠まれる事甚だ貧しいであらうと考へてもよいかと思ふ。
 そして凡そ以上のやうなのが此の「島」の、恐らく伊豆諸島中の御藏島の外觀である。
 かうした島の外形の撮影が演出者下村君の云つてゐるやうな止むを得ぬ理由から不可能であつた事は是非もない。其のために侵蝕谷の末端が懸谷となつて海岸の諸所に美しい瀧を懸けてゐる光景は見る由もなかつたが、斷崖の下部に露出してゐる溶岩層とこれを貫く見事な基底岩脈とを瞥見する事の出來たのは有難かつた。
 船着きの便の絶對に無い荒磯の沖に、月一囘の定期船の訪れる時のあの烈しい錨下しの作業と、命の綱とも云ふべき綱をたぐる女達の必死の懸聲とには寔にパセティックなものがあつた。其の懸聲と不斷の波の響とにまじる管樂器と太鼓とによるモーリス・ラヴェルの「ボレロ」を想はせる無限單調な音樂の効果は、此の一卷の中でもかなり印象的なもののやうに思はれた。それは此島に生きる人々の生活と、絶えざる侵蝕に蝕まれて行く此島自體の運命とを象徴するやうに響くのであつた。
 共用の貯水槽から水を汲んで、其の重たい水桶を頭へ戴いた若い女達が玉石敷の坂道を登つて行く。よく見ると掌を後ろへ廻して桶の底の緣を摑み、兩腕の下膊部で重心を支へてゐる。其の水は山腹に殘つてゐる小火口湖「みよ」其他の伏流であらうと思はれたが、草に被はれた古池のやうな其の「みよ」を見せて呉れたのは演出者の科學者的親切であつたらう。
 一貫目十錢から十五錢で山坂越えて木材運びをする女達を始め、すべての女が實に氣持よく元氣に働いてゐた。比較するのはどうかと思ふが、以前見た「舳倉島」の女の生活には、彼女等が働き手であればあるほど、何處となく悲しく憂鬱な、且つ何がなしに陰惨なものが感じられたやうに思ふ。
 鳥黐作りの大掛りな作業は如何にも愉快な微笑ましいものであつた。黐の強い粘性と人間の體力との執拗な取組合ひを見物しながら、こつちまで思ず力瘤を入れさせられるせいであらう。
 島の秋を氷の色の卷雲が流れ、薄の白い穂が靡き、流人の墓地に地藏の姿が暗くたそがれる。と、忽ち最も靜穏な日の美しい海が慰めの歌のやうに照りひろがる。下村兼史君は詩人であつた。其の詩たるや常に高雅で、淸潔で、好意にくゆり、且つすべての場合に滾々たる自然から汲むところのものである。
 女が苦しんで呻いてゐるやうな大水薙島の啼聲、闇に踊るカンテラの焔、それに伴ふタンゴ風の音樂の場面も面白かつた。子供達が「活かし烏」を貰つて放してやる風習には、矢張り古い謂れ因緣がありさうに思はれた。
 最後に眼もくらむやうな大波を搔いくゞり搔いくゞつて、入營の靑年が沖の便船まで泳ぎつく場面は、苦しい程の緊張と涙ぐましい感銘とのシーンであつた。吾々の心に迫る斯ういふ感動は、少くとも現在の我國の劇映畫からは到底期待する事の出來ない種類のものである。
 さうして島の若者を捧げ送つた人々が老若男女の別も無く、永遠の海の攻撃に對抗する護岸工事に一致協力してゐる一方では、黑潮走る夕日の海に格子フィルターをとほした水が千萬の珠をちりばめたやうに燦然と光りさゞめくのである。

 

  村の小學校

 葭の濕地と斷層地壘のやうな山、生徒の一人が云ふやうに、低い處は低過ぎ高い處は高過ぎて、たゞ其山裾のあちこちに申譯ほどの平地しか持たない琵琶湖畔の島村、此處も亦その外觀こそ變れ、恩寵少ない自然に對する住民の鋭意協力の場であつた。
 晩秋の或日の職員室の朝會で主席訓導が述べてゐる、「勞作敎育が重要視されるのは、勉強を徹底させるが爲なのです。つまり勞作する事によつて人間には種々の疑問が湧く。これは何だらう、どうしたら旨くゆくだらう、といふ疑問に始終ぶつかる。生徒達の心に此の疑問が湧けば其處に自發的に勉強しようといふ氣持が生れる。此の自發的である事が肝腎であつて、上から押しつけただけではどんな立派な正しい事も何一つ敎へる事は出來ないのであります・・・」
 此の「敎へる」といふ言葉はしつかり肚に入れて置く必要があるやうに思はれる。なぜならば、遺憾ながら今日の日本でさへも、尚敎へる事を覺えさせる事と履違へてゐる先生方が甚だ少くないからである。
 そして此の烈々たる自發的な建設精神と奉公心との集團的錬成こそ實に此の小學校の敎育方針であると同時に、正面から此問題にぶつかつて行かうといふのが作者上野耕三氏のテーマであつたに相違ない。結論を先に云へば、私は今までに之ほど感動させられた記錄映畫を見た事がない。内容的にも、また藝術的にも。
 學校の「更生水田」で數人の生徒が蝗を捕へてゐる。一人の子供が一匹の肥つた蝗を見つけて、じつと睨みながら氣合を計つてゐる。相手に氣どられまいとそ知らぬ顏をしながら覘つてゐる其眼は眞實であつた。
 高等一年の「僕等の村」の研究發表で、一人の生徒が自作の「郷土研究」を讀み上げてゐる間ぢゅう、其の内容につれて樣々な自然や人文の風景が音樂を伴つて現れて來るのは美しかつた。尋常一年生の敎室で女の先生の質問に答へて、和服に着膨れた幼い女の子が床の上へ兩手を突いてピョンゝゝ跳ねながら、餌を貰つた時の兎の喜ぶ樣を演じて見せる處では其の可愛さに不覺の涙をこぼした。
 高等二年女生徒の音樂の時間に、色々の和音や單音を實際について説明する若い男の先生が一本の笛を取上げて或曲を吹く。すると敎室の壁に貼つてある東大寺の伎樂菩薩の壁畫の寫眞がカットインされる。此邊り實に優雅な感じであつた。
 試寫室の暗闇の中で手捜りで速記した印象ノートは未だ之が初めの部分であるが、𣪘に紙數の制限も超えたので此映畫の高く評價される事を期待しながら筆を擱くのほかは無い。
                           (昭和十六年十月日本映畫)

 

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