「道場永平寺」といふのを見た。
宅の宗旨が元來禪宗も曹洞派なので、其の總本山である越前の永平寺へは是非一度行つて見るやうに生前の父からもすゝめられ、自分でも心懸けてはゐたのだが、旅といへばつい山だの谷ばかりへ足が向いてしまふ爲にいまだに其處をたづねる機會を持てずにゐた。ところが最近東寶文化映畫部が此の新作を提供した。それで永年宿題の御寺を私は越前ならぬ東京新宿のしかも映畫館のエクランの上で見學することが出來た譯であつた。
この巨刹の在り場所は福井市の東約十六キロ、吉田郡志比谷村の山中ださうであるが、映畫ではさういふ點の説明が少しも無かつたやうである。然し慾を云へば吾々のやうな觀客の蒙を啓くためにも寺の所在地と其の附近のおほよその地理的概念ぐらゐは與へて貰ひたかつた。其の爲には畫面の數も少しばかり餘計に要るには違ひないが、その代り、さうすれば此の寺が一體どんな地形の處にどういふ風に地を相して建てられたかも明瞭になるし、又寺そのものと近隣の町村聚落との人文地理的並びに經濟地理的關係も大體は推測出來る筈であるが、一篇の製作テーマの重點を強調する爲にはさういふ事が却つて邪魔になると思つたのか、山門の黎明から始つて「作勞」の一雲水の大見得に終るまで、吾々の前に永平寺はつひに天降りの世界であつた。
然し此の映畫を見て吾々のいちばん知りたく思つた事が、これだけの大世帶がどうして存立を續け、他とのどんな依存關係の上に生きてゐるかといふ點にあつたとしても、あながち無用な詮議立てとは云へないであらう。
問題の寺の宏荘なのにも驚いたが、悠久七百年の歷史を持つと云はれる我國最古の禪道場に、科學應用の近代的設備がかなり大掛りに取入られてゐるのにも一驚を喫した。菜葉服ならぬ法衣の僧が椅子に腰かけて配電盤を驅使してゐる。米磨ぎには電力をかり、飯も味增汁も炊事はすべて蒸氣釜を使つてゐる。このあたりアナウンサアの説明にも大分得意の調子があつたやうである。洗濯なども電氣洗濯機で一時に大量の始末をつけるのではないかといふ氣がしたが、生憎一山の洗濯日ではなかつたのか、それは寫つてゐなかつた。然し法衣の袖を捲り上げた精悍な僧達が、ハンドルを倒して四十五度に傾けた幾つかの大釜から大人國の耳搔きのやうな長柄の杓文字で掬ひ出す焚きたての米の飯の、あのふつくりと旨さうな純白さには自分達の毎日の甚だ憂鬱な飯を思つて轉た羨望を感じた事であつた。坐禪、讀經、朝餉、聽講、作勞といふそれぞれの日課の場面を通じて、大寫しに寫し出される程の雲水がすべて未來の傑僧らしい風貌を備へてゐたやうであるが、見てゐて結局其の人間的な一面に或種の安心と微笑とを感じたのは、劃一された一分刈のために却つて隠すにも隠されない一人一人の頭の格好の爲であつた。食事のところなども此の人間らしさに觸れる好個の場面の筈であつたが、一粒の米にも惨憺の苦心をする百姓への瞑目の感謝のクローズアップと、其の百姓が田甫を耕したり苗を植付けたりしてゐる小さい畫面が二つ三つ走るだけで、いざ一齊に箸を取上げて最初の一口を運ばうとするとそれでもう朝餉のシーンは終るのであつた。
雲水が隊伍を組んで野山へ働きに行く「作勞」は、七百年の昔から實行されて來た今日の所謂集團勤勞奉仕ださうであるが、あの見事なモミやシデの樹を何の爲に切り倒してどう始末をつけるのかは全く説明されてゐない。此等の伐木は建築用材として俗人の手へ或る價格で拂下げられるのであるか、それとも一山經營の製材所へでも送られて將來の修理や增築の用に供せられる物であるのか、「自給自足」といふ標語めゐた口頭のリマークが與へられただけで其邊の事も不明であつた。一人の若い秀才型の雲水が何か心に期する處あるかのやうな眼付で決然と天の一角を睨んでゐたが、こんな人に伐採の目的や其の後仕末などを質問したら、いきなり「莫妄想」の一喝で撃退されたかも知れない。
「道場永平寺」のテーマは容易に呑込めたし御蔭で少からぬ知識も得たのであるが、私の求める他のテーマ、私の遭遇したいと思ふ他の「敎材」や可能性のためには、やつぱり自分の足、自分の目玉で見に行かなくてはならないと思つたのであつた。
今度の歐洲戰争の新聞記事などで度々見うける「運河」といふものが、實は我國にも早くから有つたといふのでアサヒ・ホーム・グラフの第四十三輯が宮城懸の貞山堀を扱つてゐる。「日本案内記」で見ると此の運河は鹽竃から起つて南の方阿武隈川の河口荒濱に達するもので、伊達政宗が物貨輸送を便ならしめるために開墾させたものださうである。貞山が政宗公其人の號であつた事は云ふまでもあるまい。鹽竃から荒濱と云へば直線距離にして八里位はあるらしいが、卓越風の影響をうけて一樣に傾いた沿岸の見事な黑松の並木といひ、靜かに往く舟の舟べり近く低い板葺の農家の構造やたゝずまひと云ひ、小さい船着きの、何處か潮の香をおもはせる寂びれ方といひ、又時々見える地平線の上の雲といひ、如何にも人煙稀な海岸平野を流れる運河の詩情であつた。ロケーションが極めて自然に行はれたと見えて、とある橋の欄干に兩肱ついて此方の舟を見下してゐた三四人の子守娘と一緒にゐた一人の女の子が、舟が橋をくゞらうとすると直ぐ駈け出して反對側の欄干の方へ行つたのも氣持のいい眞實の姿であつた。
幅員約十五米、輸送力は六本の道路に相當すると説明された貞山堀が、その能率を發揮する有樣は見る由もなかつたが、其處に感じられるものは確かに「みちのく」の詩であつた。
同じアサヒ・ホーム・グラフに「交通地獄を覗く」といふのが有つて、省線電軍、市電、市バスのラッシュアワーの「殺人的」混亂の實況が暴露されてゐる。此の中で東京驛の驛長さんと市バスの女車掌君と、當の乘客氏とのそれぞれの感想が錄音されてゐるが、驛長室の椅子にどつかと掛けた驛長さんが、「此の問題の解決には色々言ひぶんもありませうが、要するに各人が日本人であるといふ誇りを持つ事が唯一の捷徑です」といふ意味の事を云つてゐるのに對して、繩を張つた市バスの停留所で、女車掌君が混亂防止の手段を極めて實際的に且つ方法論的に明快な口調で述べてゐたのは面白かつた。
上司と現業員との事件處理法の相違が、此の「日本人たるの誇り」と「皆樣どうぞ一列になつてお乘り下すつて、お先の方から順々に奥へお進みを願ひます」とで、ゆくりなくも明瞭にされてゐたのが此際私には面白かつたのである。
(昭和十五年七月日本映畫)
海洋を拓く
駿河灣西岸の漁港燒津町に於ける鰹節その他海産魚類の加工過程と、同町海洋靑年學校生徒の遠洋漁業實地訓練の實況とを描いた理研映畫である。
劈頭の輸出向罐詰や鰹節の製造工程の實寫は、それは又それで興味のあるものだつたし、最後の町の祭禮の光景も一種の地方色を湛へて面白く見られたが、此の映畫のいちばんの見どころと云へば、やはり何と云つても海洋靑年學校生徒の眞摯にして撥剌たる洋上の實習ぶりと、就中あの豪快な鰹釣の場面にあつたやうである。考へ方にもよる事だが、町の工場や御祭のやうな前後の部分は、恐らく割愛しても大した不都合は無かつたかも知れない。少しいろんな物を慾張つて取入れ過ぎたやうな感じが、少くとも私なんぞにはするのであつた。尤も食糧增産、外貨獲得の燒津町を紹介するのが製作意圖だつたと云ふのならば話は又別である。
それは兎も角として、海洋開拓の雰圍氣は、肝腎のところではかなり鮮明に出てゐたと思ふ。開拓と云へばそれに從事する人間が問題になる。ところで海の拓士の雛鳥とも云ふべき靑年の容貌や態度が如何にも若々しくて怜悧さうで、或種の厭味や衒氣などが微塵も無く、海國日本の壯丁らしい賴もしさを持つてゐるのが先づ第一に氣持がよかつた。
繪の色調と共に外洋の波や雲が實に美しかつた。殊に水平線の彼方から天の一方へ花びらのやうに散りひろがつた卷積雲の見事さは、歸宅して寝てからも永く網膜へこびりついて離れなかつた程である。あゝして半月なり一と月なり遠い海上へ魚群を求めて出てゐたら、雲なんかでも航海の單調を破つて目を樂ませ心を悦ばせる對象の、かなり有力なものではないだらうかといふ氣がするのであつた。心を悦ばせると云へば、水と空ばかりの海の奥に、一隻の堂々たる帝國軍艦を發見して、生徒達がマストや舷側から夢中になつて歓呼の帽子や手を振るところは、彼等自身若い船乘だけに其の喜びもさこそと思はれた。
勇壮な鰹釣の光景は此の映畫でもクライマクスの場面だが、宇田道隆氏の好著「海」の中の數頁をそのまゝ實際に見る感があつた。船が水も盛り上るやうな鰹の大群のまんなかへ乘込んで行つて、釣る者も釣られる者も此處を先途と死物狂ひの働きをしてゐるところなどは、到底吾々のやうな都會住ひの人間や山國の人達には想像も出來ない海の生活の華である。たゞ前記の宇田さんの本には書いてなかつたと思ふが、さうした漁夫と魚との大活劇の演ぜられてゐる水面へ、船の横腹から十本近い水の束がシャーシャーと、まるで消火する時のやうに注がれるのはどういふ譯だらうかと考へた。或は海水を泡立たせていやが上にも鰹の群を興奮させ熱狂させる爲か、それとも人工の潮目のやうなものを作つて鰹を引きつける爲か、いづれは何かしら立派な理由があるには違ひなかつた。
もう一つ、是は私の耳のせいかも知れないが、後から後から釣上げられてつぶてのやうに甲板へ投げ出される鰹が、互に鰭をばたつかせて押し合ひへし合ひしながら、時々「キイキイ」といふやうな聲を出して鳴いてゐた。何しろ生きてゐる鰹といふ物を初めて見て眼を丸くしてゐるところへ、鼠のやうな奇妙な聲で鳴かれたのだから思はずにやりとせざるを得なかつた。多分何かの聽き違ひだつたのだらうが、若しも本當に鰹が鳴いたのなら、是こそトーキーからの慮外の賜物だつたと思つていい。
此の發動機による鰹漁船は三十噸から五十噸ぐらゐはあつたらうか。何千尾の鰹を氷詰にして歸航の途中嵐に出遭つたが、漁獲物の荷重と打寄せる大波や風雨のために船足が鈍くなり、今にもそのまゝ沈んでしまひはしないかといふ氣がした。然し斯ういふ目的をもつて建造された船は速力こそ小さいが復原力が大きいので、さうたやすくは轉覆しないものださうである。
それにしても雲の變化から考へると、映畫の中の此船が嵐に遭つたのはどうも本當らしく思はれた。
秋吉臺
どこの會社の作品だか忘れたが、これも私には面白かつた。地理學の敎科書では𣪘にいろいろ机上の知識を與へられながら、いまだに見學の機會を持たない吾々のやうな者にとつて、此處にも又一つ映畫といふものの有難さがあつた。
秋吉臺は山口懸厚東川の上流秋吉村の附近にある地理學上の名所で、その石灰岩の準平原面に、我國でも有數のカルスト地形が發達しつゝあるのである。
起伏や傾斜の小さい石灰岩地域がその表面を流れる雨水や地下水の溶解侵蝕をうけると、其處に普通の河蝕地形とは違つたカルスト地形といふ特別な地形の輪廻がはじまる。そして其の輪廻の進行につれて、雨水の流れの方向に沿つて出來るカレンと呼ばれる細い溝や、漏斗狀の凹地ドリーネや、ドリーネの連續したウヴァーレや、地下の洞窟である所謂鐘乳洞や、更に進んではコックピットやフームと呼ばれる地形が形成される。又ドリーネの底には、石灰岩の中に含まれてゐる炭酸石灰以外の物質から成るテルラ・ロツサ(風化殘滓土)が堆積する。此の殘滓土の堆積したドリーネの底は、石灰岩の荒野の中では唯一の耕地となるのである。
カルスト地形といふのは先づ大略こんなものであるが、地理學者の説によると、現在の秋吉臺はカルスト輪廻の上から見ればまだ極く若い幼年型を現してゐるのださうである。
秋吉臺へさしかゝると、先づ灌木や草の茂つた斜面のあちこちに眞白な石灰岩がニョキゝゝと頭を出してゐるのが珍らしい光景だつた。更にカメラが臺地の上へ出ると、大小無數のドリーネが盃を押し込んだやうに凹んでゐる。なるほどマルトンヌやグルントのブロック圖の通りだなと感心した。ドリーネが連續して瓢箪形をしてゐるのも、其のドリーネの底が小さい畑になつて、現に百姓の男や女が鍬を動かしてゐるのも矢張り敎科書に書いてある通りであつた。しかしカメラの方では餘りさうした方面に興味を感じないせいか、臺地の表面は簡略にして石灰洞(秋芳洞)の方へとレンズを急がせた。勿論巨大な鐘乳石や石筍が懸垂したり伸び上つたりして、暗く深い奥行も知れないやうな洞窟の中を谷川のやうな水の流れてゐる名所瀧穴の光景は確かに見事なものではあつたが、私としては矢張りあの夏か初秋だかの空の下での秋吉臺の大觀や、地形的に細かい部分をもつと叮嚀にゆつくり見せて貰ひたかつた。
此の映畫を見ながら思ひ出したのは、奥多摩の川苔山の麓、大丹波川の上流にある獅子口の事であつた。思ひがけない所に石灰岩の穴が獅子の口をあけたやうに開いてゐて、其處から滾滾と水を吐き出してゐる。あれなども地下には相當深い小規模な溶蝕洞を持つてゐるに違ひない。それに秋川の光明山の登山道に轉がつてゐるやうに見えた巨大な臼齒のやうな石灰岩。あれは確かに地下から僅かに頭だけ出した石灰岩基盤の露頭であらう。こんな意味で映畫「秋吉臺」からは學ぶところが多かつたと思つてゐる。
(昭和十六年七月日本映畫)
嶋
海底火山の噴出から海面上に姿を現した島嶼が海流や海波の侵蝕をうけると、島の周圍には程度の差こそあれ海蝕崖の形成が見られるであらう。さうすると島の汀線は後退して曾ては陸であつた處に水面下の海蝕棚が發達するであらう。侵蝕によつて崩落した岩屑は、此の海蝕棚の上で磯波に揉まれる内に互に研磨の作用をして玉石となり、其處に堆積して幅の狹い石濱を作るであらう。そして其島を形成する火山岩の性質の如何によつては海蝕崖が極度に發達して、海岸から直ちに數百米といふ急峻な斜面や絶壁を峙たす事もある譯である。更にかうした火山島の岸に沿つて爆烈火口、たとへば伊豆大島の波浮港のやうな物が無い場合には、コニーデ式火山島としては船着きの便に惠まれる事甚だ貧しいであらうと考へてもよいかと思ふ。
そして凡そ以上のやうなのが此の「島」の、恐らく伊豆諸島中の御藏島の外觀である。
かうした島の外形の撮影が演出者下村君の云つてゐるやうな止むを得ぬ理由から不可能であつた事は是非もない。其のために侵蝕谷の末端が懸谷となつて海岸の諸所に美しい瀧を懸けてゐる光景は見る由もなかつたが、斷崖の下部に露出してゐる溶岩層とこれを貫く見事な基底岩脈とを瞥見する事の出來たのは有難かつた。
船着きの便の絶對に無い荒磯の沖に、月一囘の定期船の訪れる時のあの烈しい錨下しの作業と、命の綱とも云ふべき綱をたぐる女達の必死の懸聲とには寔にパセティックなものがあつた。其の懸聲と不斷の波の響とにまじる管樂器と太鼓とによるモーリス・ラヴェルの「ボレロ」を想はせる無限單調な音樂の効果は、此の一卷の中でもかなり印象的なもののやうに思はれた。それは此島に生きる人々の生活と、絶えざる侵蝕に蝕まれて行く此島自體の運命とを象徴するやうに響くのであつた。
共用の貯水槽から水を汲んで、其の重たい水桶を頭へ戴いた若い女達が玉石敷の坂道を登つて行く。よく見ると掌を後ろへ廻して桶の底の緣を摑み、兩腕の下膊部で重心を支へてゐる。其の水は山腹に殘つてゐる小火口湖「みよ」其他の伏流であらうと思はれたが、草に被はれた古池のやうな其の「みよ」を見せて呉れたのは演出者の科學者的親切であつたらう。
一貫目十錢から十五錢で山坂越えて木材運びをする女達を始め、すべての女が實に氣持よく元氣に働いてゐた。比較するのはどうかと思ふが、以前見た「舳倉島」の女の生活には、彼女等が働き手であればあるほど、何處となく悲しく憂鬱な、且つ何がなしに陰惨なものが感じられたやうに思ふ。
鳥黐作りの大掛りな作業は如何にも愉快な微笑ましいものであつた。黐の強い粘性と人間の體力との執拗な取組合ひを見物しながら、こつちまで思ず力瘤を入れさせられるせいであらう。
島の秋を氷の色の卷雲が流れ、薄の白い穂が靡き、流人の墓地に地藏の姿が暗くたそがれる。と、忽ち最も靜穏な日の美しい海が慰めの歌のやうに照りひろがる。下村兼史君は詩人であつた。其の詩たるや常に高雅で、淸潔で、好意にくゆり、且つすべての場合に滾々たる自然から汲むところのものである。
女が苦しんで呻いてゐるやうな大水薙島の啼聲、闇に踊るカンテラの焔、それに伴ふタンゴ風の音樂の場面も面白かつた。子供達が「活かし烏」を貰つて放してやる風習には、矢張り古い謂れ因緣がありさうに思はれた。
最後に眼もくらむやうな大波を搔いくゞり搔いくゞつて、入營の靑年が沖の便船まで泳ぎつく場面は、苦しい程の緊張と涙ぐましい感銘とのシーンであつた。吾々の心に迫る斯ういふ感動は、少くとも現在の我國の劇映畫からは到底期待する事の出來ない種類のものである。
さうして島の若者を捧げ送つた人々が老若男女の別も無く、永遠の海の攻撃に對抗する護岸工事に一致協力してゐる一方では、黑潮走る夕日の海に格子フィルターをとほした水が千萬の珠をちりばめたやうに燦然と光りさゞめくのである。
村の小學校
葭の濕地と斷層地壘のやうな山、生徒の一人が云ふやうに、低い處は低過ぎ高い處は高過ぎて、たゞ其山裾のあちこちに申譯ほどの平地しか持たない琵琶湖畔の島村、此處も亦その外觀こそ變れ、恩寵少ない自然に對する住民の鋭意協力の場であつた。
晩秋の或日の職員室の朝會で主席訓導が述べてゐる、「勞作敎育が重要視されるのは、勉強を徹底させるが爲なのです。つまり勞作する事によつて人間には種々の疑問が湧く。これは何だらう、どうしたら旨くゆくだらう、といふ疑問に始終ぶつかる。生徒達の心に此の疑問が湧けば其處に自發的に勉強しようといふ氣持が生れる。此の自發的である事が肝腎であつて、上から押しつけただけではどんな立派な正しい事も何一つ敎へる事は出來ないのであります・・・」
此の「敎へる」といふ言葉はしつかり肚に入れて置く必要があるやうに思はれる。なぜならば、遺憾ながら今日の日本でさへも、尚敎へる事を覺えさせる事と履違へてゐる先生方が甚だ少くないからである。
そして此の烈々たる自發的な建設精神と奉公心との集團的錬成こそ實に此の小學校の敎育方針であると同時に、正面から此問題にぶつかつて行かうといふのが作者上野耕三氏のテーマであつたに相違ない。結論を先に云へば、私は今までに之ほど感動させられた記錄映畫を見た事がない。内容的にも、また藝術的にも。
學校の「更生水田」で數人の生徒が蝗を捕へてゐる。一人の子供が一匹の肥つた蝗を見つけて、じつと睨みながら氣合を計つてゐる。相手に氣どられまいとそ知らぬ顏をしながら覘つてゐる其眼は眞實であつた。
高等一年の「僕等の村」の研究發表で、一人の生徒が自作の「郷土研究」を讀み上げてゐる間ぢゅう、其の内容につれて樣々な自然や人文の風景が音樂を伴つて現れて來るのは美しかつた。尋常一年生の敎室で女の先生の質問に答へて、和服に着膨れた幼い女の子が床の上へ兩手を突いてピョンゝゝ跳ねながら、餌を貰つた時の兎の喜ぶ樣を演じて見せる處では其の可愛さに不覺の涙をこぼした。
高等二年女生徒の音樂の時間に、色々の和音や單音を實際について説明する若い男の先生が一本の笛を取上げて或曲を吹く。すると敎室の壁に貼つてある東大寺の伎樂菩薩の壁畫の寫眞がカットインされる。此邊り實に優雅な感じであつた。
試寫室の暗闇の中で手捜りで速記した印象ノートは未だ之が初めの部分であるが、𣪘に紙數の制限も超えたので此映畫の高く評價される事を期待しながら筆を擱くのほかは無い。
(昭和十六年十月日本映畫) |