詩人の風土


   ※ルビは「語の小さな文字」で、傍点は「アンダーライン」で表現しています(満嶋)。

                                 

かんたん

信州峠

荒寥への思慕

早春の雨の夜

春の帰途

高原の朝

夏が又来た

単独登山

旅への祈り

大菩薩峠で

三城牧場

通過列車

小手指ガ原

 

                                     

 

 泉(一九三七年)

 ゆたかに涼しく甘やかな、ほんのり赤い五月の夕日が、この谷間の村落の、――其処を或る古い峠みちの走っている、又その周囲の山々や断崖きりぎしに我が国最古の岩層が睡ったり歌ったりしている――この美しい平和な山村の、新緑にうずもれた風景を一日の終焉の稀有な光で満たしている。
 二日の旅を終えて明日は都会へ帰ろうとする私に、自然はなんという美酒をながしてくれることだろう。私の短かい旅行は完璧だった。色さまざまな岩石がいろどり、薄紫の藤浪がゆらぎ、日光が金色の縞を織る若葉のしたに、清冽な水が奏でていたあの渓谷。赤や樺いろの躑躅が燃え、郭公が清朗な日の笛を吹き、りんどう色の空をおりおりの雲がよぎるのを私の見たあの山道。それから白や黄の花を星のように散らして風のまにまに靡いては高まる青ぼうぼうの牧場の斜面を、柵にそって登って行けばやがて一つの山頂だった。そうして其処から飽かず眺めた碧い遠方、やさしい国原。それは私の至愛のアイヒェンドルフの、ヘルマン・ヘッセの、太陽を浴びた哀愁の歌――無限なものへの郷愁と、晴れやかな諦念との、大空のように薄い光の面紗を懸けた、また大空そのものの本質でもある歌であった。
 そうして、今はもう、山の春のたそがれだ。この村にたった一軒の宿屋の二階から最後の壮麗を眺めていた私の眼に、五里をへだてた峠の上の、あの金毛のような巻雲も消えた。どこか近くで車井戸の綱をあやつる音がする。つづいて桶にあける水音がする。夜になる前に誰よりも遅れて汲みに来た若い娘の、清涼な、高い、澄んだ水の音だ。それでは昼間私が見た、あの石段をおりてゆく井戸のあたり、その井筒に金緑色の苔がやわらかに蒸していた井戸のあたりには、もうほのぐらい夜の影がさまよいはじめたことだろう。私はその水汲みの娘の姿を心にえがく。妙齢の特権である犯しがたい美しさ、得もいえぬ頸筋と愛くるしい小さい捲き毛、すこやかな肩、強壮な腰……だが、今や私はあの若いヴェルテルでもクヌルプでもない。齢四十を越えて、私の生活の秩序も、私の心の神秘も、小さいながら調和の自然に似通おうとしている。私はゆっくりと、均等に、均質に、無限に大きくなる円球でありたい。どうか私の「詩」が常にこの発展の夢に先行して、それを常に少しずつでも現実のものにしてくれればいい。
 そして其の夜、春の谷間に、暗く深い山風の揺藍の歌のながれる頃、私は古い宿屋の小さい卓にむかって、ヘルマン・ヘッセに捧げる次のような一篇の詩を書くことができたのだった――

   夕べの泉

  君から飲む、
  ほのぐらい山の泉よ、
  こんこんと湧きこぼれて
  滑らかな苔むす岩を洗うものよ。

  存分な仕事の一日のあとで
  わたしは身をまげて荒い渇望の唇を君につける、
  天心の深さを沈めた君の夕暮の水に、
  その透徹した、甘美な、れいろうの水に。

  君のさわやかな満溢と流動との上には
  嵐のあとの青ざめた金色こんじきの平和がある。
  神の休戦の夕べの旗が一すじ、
  とおく薔薇いろの峯から峯へ流れている。

  千百の予感が、日の終りには、
  ことに君の胸を高まらせる。
  その湧きあまる思想の歌をひびかせながら、
  君は青みわたる夜の幽暗におのれを与える。

  君から飲む、
  あすの曙光をはらむ甘やかな夕べの泉よ。
  その懐姙と分娩娩との豊かな生の脈動を
  暗く涼しい苔にひざまづいて干すようにわたしは飲む。

 

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 かんたん(一九三七年)

 八月の或る夕暮、日没後一時間ばかり。武蔵野の畠の上をそよそよと南の風が吹きわたっていた。空はきれいに晴れてほのぐらく、かすかに紫をおもわせる其の空間に、次々と涼しい星のひかりが増していった。しかし西の地平線の近くには秋の銀杏いちょうの葉むらのような透明な黄いろが残っていて、秩父の連山の黒い影絵を見せていた。そしてその連山の上にあでやかな宵の明星が滴るばかりに傾いている一方では、東方の森の頂きも明るくなるかと思うほど、巨大な木星が燦爛たる光芒を放って昇りかけていた。
 道の草にはもう涼しい露がおりていた。その露の蔭からは草雲雀や蟋蟀が、失われた金の鈴の伝説や、つづれさす夜の哀れな物語をおもいおもいに歌っていた。
 私は夜目にも白く大きな繖形花の並んでいるにんじんの畠を過ぎ、からだが触れるたびに実り間近かな重たい穂がさらさらと鳴る黍畠を過ぎて、やがてこの二三年荒れ放題になっている或る空地に近かづいた(註:初版本では"近付いた")。そこには盛んに繁茂した雑草にまじって、今では野生に返った牛蒡ごぼういちびの類が草むらの中から小さい黒い島のように浮き出している。そうして、私はその島の上で鳴いているかんたんの声に今宵もまた聴き入った。
 句切りをつけて二度ずつ打振る鈴のような閻魔蟋蟀の澄んだ金属的な調べにくらべると、かんたんの歌は遥か遠くの村里で鳴いているひぐらしの声か、風に送られてくる哀切な笛の音を想わせる。その長い緩やかな音の流れには旋律もなければ拍節もない。かすかに震えながら耳から心へ伝わって来るその一筋の音の糸には、悲しみにせよ祈りにせよ、何ら人間に強いるところがない。ただ星が光り、風が渡り、平野の夜のひろがりが大きくなってゆく其の事のように、その歌の意味も無限であり無量である。
 私は此のかんたんを聴きながら、いつのまにか信州川上の梓山を思い出していた。私が生れて初めて籠の中のものでない此の虫を見、その声を聴いたのは梓山の部落だった。そうして背戸に蝦夷菊えぞぎくを作っているあの山家や、村外れの河原に近い小石まじりの蕎麦の畠や、白樺の林の中に消える十文字峠道などを思い出すと、もういちど其処へ行ってみたいという烈しい欲求が、武蔵野の星の下、草原の露の中で、私の衷に遣るすべもない郷愁のように湧き上って来るのだった。
 それは或る年の九月なかばで、秩父の山々には漸く秋のもみじが照りはじめ、谷川の水は山間の空を映し砕いていよいよ青く冷めたくなり、信州南佐久郡川上村の狭い水田にも稲は黄いろく穂を垂れて、田圃の畔に咲きつづく血の色の彼岸花がそぞろに旅愁を催させる頃だった。私は友達二人と千曲川の上流から山越えに中津川の谷への旅をした。小海線「信濃川上」の駅のある御所平から三里余りをバスに揺られて来てみれば、梓山は思いのほかに明るく開けた谷あいの村だった。
 橋の袂の旅館白木屋に旅装を解くと、われわれは身軽になって夕餉の時刻までめいめい自由な行動をとった。一人は用意の継竿を持って近くの河原へ岩魚釣いわなつりに行った。もう一人は重たいレフレックスのカメラを胸に吊るして昆虫の撮影に出かけた。私は宿を出て橋をわたると、煙草をふかしながら一人でぶらぶら、村の上手を十文字峠への道の導くままに登って行った。
 どこから吹いて来るとも知れない風は水晶を溶かしたように涼しかった。村にはほのかに水がにおい、竃の煙がにおい、爽やかな乾草の香が漂っていた。漸く傾きかけた秋の太陽は打ちひらけた下流のほうから光を流して、その蜜のような甘美な光線で渋色をした家々の柱や羽目板や、石をのせた低い屋根屋根を薄赤く染めていた。村には柴犬がたくさんいた。昔から伝わっている純粋な日本犬で、法令で保護され、その正しい血統を維持されているという事だった。彼らは人間と同じようにこの深い山里に土着し、狩猟の供をし、子供らと遊び、女らに愛せられて、狭い往来にも、橋の上にも、川べりの小径にも、また庭の中、家々の土間にも、その精悍な俐巧そうな小さい姿を見せていた。
 乾草がいたる処で爽やかに匂っていた。或る農家の前を通ると、往来に面した庭で一人の娘が一面にひろげて干した刈草を一抱えずつ束ねている。近づいてよく見ると萩や桔梗や女郎花のたぐいの秋草だった。束は出来るそばから納屋の前へ積まれていった。それへ赤い蜻蛉が無数にとまって、夕日の光にきらきらと羽根を伏せていた。
「この乾草は何にするんですか」と私は娘にたずねた。         
「冬ぢゅうの牛や馬の飼葉かいばにしやす」と言葉ずくなに娘は答えた。
 実際家畜も多いらしく、家々のあいだから、彼ら特有の饐えたような匂いが流れて来た。遠く来てこういう匂いにめぐりあうと私はいつでも一脈の旅愁を感じずにはいられない。それは赤児の体臭や母の乳の香のように懐かしくはあるが、その懐かしさには何かほのかに悲しいような苦い味がある。
  この国の寒さを強み家のうちに
  馬引き入れて共に寝起す
という牧水の歌が思い出された。こうした乾草はまた村のすべての家で飼っている兎たちの冬の飼料にもなろうかと思われた。
 たいがいの家で蝦夷菊を作っていて、ちょうどヘルマン・ヘッセの小品「秋」にあるように、「白、紫、八重、一重、あらゆる種類とあらゆる色との花」が鳳仙花やダーリアと一緒に畠の石垣のふちや垣根のあたりを飾っていた。そして村の唯一の色彩とも見えるそれらの花が、夕日の金紅色や、山あいの空の深い青や、一痕の白い月や、谷川の響きや、清らかな空気の冷めたさと調和して、いかにも都を遠く美しい、平和な山里の初秋の絵をなしていた。
 十文字峠への道は村の家並も尽きるあたりから次第に登りになっていた。往手には小さい丘をへだてて三国山つづきの山稜が望まれ、その一角に突き出ているアク岩という石灰岩の巨大な露頭も遠く高々と仰がれた。いよいよ村の最後の一軒家の前まで来ると、左から干曲川の流れが寄り添って来て、夕暮の水が淙々と岩に激して鳴っていた。道の片側の小高い山畑へ登って今来た方角を眺めると、梓山の部落は川の左岸に細長く伸びて、西方の空の落日の余燼の下で今宵の星の照り明かるのを待っていた。
 私がかんたんの声を聴きつけたのは其の時、其の場所でだった。涼しいような、甘いような、得もいえぬ霊妙なひびきが、或いは近く、或いは遠くふるえていた。私は耳のうしろへ手を当てて一つの声の源をたずねながら、白茶けた畠の、もう枯れるのに間もない胡瓜きうりの蔓のあいだを覗きこんだ。そして一枚の葉の表から裏へとすばやく身を匿す長さ六分に満たない、黄味を帯びた草いろの、一見弱々しくほっそりした其の虫を発見したのであった。そして近くの石の上へ腰を下ろすと、あたりがすっかりたそがれて梓山の村に電燈の光のちらつき初める頃まで、存分に彼らの歌に聴き入った。

 

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 信州峠(一九三七年)

 いまいちど、その峠へ私は立った。
 前の時には冬の旅で、野辺山ノ原から川上の村々を経てここまで来る道はすっかり雪にうずもれていた。白い荒寥のなかを風がびゅうびゅう吹きまわし、一月の真昼、金峯きんぷの頂上には陰欝な雪雲がねばりついて、やがてかげって来る薄日の光にも、さむざむとした枯葉の色が感じられたのだった。
 しかし今度は季節も春だ。ねむくなるような甲斐の春風と日光とに身もたましいも任せきって、水のながれもなごやかな塩川の谷を、今日は甲州側の黒森から登って来た。
 これがあの日、雪をかぶっていた峠の上の積石なのか。あらゆるかけらに五月の日光が燦然とくだけて、再び生きることを始めた地衣の色さえ美しい。
 これがあの日、身を切る寒風にくしけずられさいなまれて、まるで箒の先のようだったあの白樺とおなじ白樺なのか。柔かくなった冬芽が涙のように光って、いじらしくも国境の峠で上気している。
 瑞牆みずがきといわず、金峯きんぷといわず、彼らすべての花崗岩のひたいに、真率な金色の反射がある。
 冬のながい凍結のあとの山の自然に、いつのまにか変質がおこって、解体がはじまり、溶解がはじまり、すべての命あるものが沸騰し盛り上って、再生の波はあらゆる山々、あらゆる谷々に氾濫している。そしてこの峠の南北の山ふところに生きる人々も、めぐって来た春にまた一年を老いたこともはっきりとは意識せずに、この五月の太陽をよろこび迎え、この植物の無量の醱酵に酔って、すべての官能を彼らの生の最初の目ざめのように解きはなつのであろう。
 信濃の風が甲斐へむけて私の頬を撫でてゆく。その風は千曲川の水のにおいや、雲のような新緑の香や、小鳥の歌をはこんで来る。漸く老いた私の心に、あまり浸みとおるほどの此の風は淡いかなしみに似たものを送りはするが、私はそれを厭わない。むしろ今日の私にはそれがいとしく懐かしい。私は自然の循環の理も、その法則に否応なしにしたがう一切生物の宿命も知っている。そして自分の生命にも限りのあること、人間の願望の決して満たしつくされる時の無いことも知っている。しかもそれだからこそ、人生は見果てぬ夢の美しい旅だということを私は悟った。
 信州峠に、いまいちど私は立っている。そして私の周囲はいちめんの高処の春だ。
 なんとその春がぼうぼうと果てしもなく、なんと悲しく美しく、なんと惑溺させる力をもってこの私を包んでいることだろう!

 

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 荒寥への思慕(一九三七年)

 日は一日と秋がその深みへ溺れ、ひろがり、沈んでゆく。何か知らぬが重たいような、甘美な、澄んだ事がつづく。次第に奥のほうまで伸びてくる室内の日あたりに、落葉のかげや鳥かげが映る。家のまわりではいろんな木の実がそれぞれいろんな色に熟す。枯草の腐るにおいや、死んだ虫たちのにおいがする。木犀の香が甘くただよい、最後の黄蝶がよろめくように飛ぶ。遠い痛恨の白菊の日や、その花びらを浸して飲んだにがい酒のことが思い出される。身も心も此のうっとりするような季節の肌にいだかれて、そのまま美しい亡びのなかへ落ちてゆきたい気さえする。物の哀れさも、自分が優しくその一員だと思うときには、むしろ甘やかに母のようだ。こんな時にはたいていは言葉も黙し、書かれない詩はただほのかな匂いとなって、明るい、おだやかな日の光のなかに、空しくなる……
 だが、精神の歩哨もねむくなるような、こんな消極的に飽和した数知れぬ昼間のあとに、とつぜん顫えるような夜が来た。いちめんに霜の予感にみちた野のうえに、星をばらまいた夜の宇宙がその大きなほのぐらい穹窿をかたむける。星は九天の町々の祭の火のように、隔絶の奥で燃えていた。オリオンや牡羊の流星が火箭のように虚空を流れた。すでに冬のいぶきが空間に立ち迷っていた。
 僕の精神の歩哨は身をふるわせて形を正した。眠ってはいけない。快いねむりの中で亡びてしまってはいけない。たとえ魂の秋の江染める夕日の色が、どんな魔力でいざなおうとも……
 しかし此の声は、なんら僕が自分に課した命令ではなかった。それはむしろ僕の本能のおさえがたい衝動だった。僕はそういうふうに作られていた。尽未来までつづくかと思われる無為と怠惰のまんなかから、新らしい熱情はとつぜん惨として一筋に、その噴水を噴くのだった。何かひとつの契機が、何かある決定的なきっかけが有ればよかった。それは遥かに擬週期的にめぐって来て、僕の久しい無為をうちくだく。
 そして今は、そのきっかけが音楽だった。
 或る晩、デュパルクの「波と鐘」を聴いていた。それはこれまでにも一二度聴いた歌だったが、その時ほどこの音楽が強烈に僕に作用したことは無かった。僕は北海の荒磯によせる暗い波や高緯度の夜の星辰のひかりに濡れ、その死のような砂丘や、寂寞の沼地や、その赤いはまなしの花や、節くれ曲った灌木叢のなかを突き進んだ。威風にみちたフランス的ワグネリアンの荘重なしらべのまにまに。
 荒寥への思慕! 僕の胸は今それでいっぱいだ。僕は自分に都合のいい、愛することに馴れきった、身辺のいろんな古いものから去って行くのだ。僕は自分の触れるほとんどすべてを歌にした。たまたまの異常な体験すらも、その外面の威容と内部の本質とのつながりがわかれば、僕はそれを切り拓いて園のようにして、其処から易々いいとして一篇の牧歌をなすことができたように思われる。だが今はそうした「昔の悪い歌」ともお別れだ。
 僕の内部にじつは有って、しかも未だ曾て試みられなかったひとつの力。いま荒寥がそれを呼び、それが荒寥をもとめている。
 おりからのなんという風だろう! あらゆる樹々を海のような響きで満たして、光りかがやく晩秋のひろがりへ遠く枯葉を吹きちらす風。この大きな風にむかって進むのだ。あの鋼はがねのような北方の空の下で新しい運命に出遭うのだ。「死んで、成る」の希望を持つからは、この出発にも、この別れにも、そんなにうしろ髪は引かれないつもりだ。

 

 

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 早春の雨の夜(一九三八年)

 きのうの雨はけさの雪に変り、その雪も昼頃からはまた雨となって、そのまま今夜もまだ降りつづけている。実は天気予報によると今日は午後には日光と青空とを見る筈だったが、どうやらその予測を裏ぎって、雨を持った大気の渦巻が其処らの暗い洋上でぐずついているらしい。
 しかしこうした渦巻の停滞や上層の気温の刻々の変化は、今の季節の特徴のひとつであって、こんな一進一退を繰り返しているうちにはいつかしら春になるのだ。つい三四日前には、水辺の小径を歩きながら、佳い季節の前ぶれとも言うべきはんのきの花を見て悦ばされた。紫がかった暗紅色の長い飾り紐のような花が、まだ冬枯のままの技の先からいくつもいくつもぶら下がって、風の冷やつく薄青い空間でかすかに揺れているのを見ると、なんだかそれがひどく健気けなげなものに思われて、心の中で褒めたたえずにはいられなかった。そう言えばおおいぬのふぐりなども、もう半月も前から純粋な空色の花を路傍の乾いた塵の中にこぼしている。すべてこうした孤独の先駆者は、自己の存在を声高に主張することもなく、遠い田舎の水のほとりや騒然たる市井の片隅にひっそりと生きているので、時流にしたがう人々の注意をひくには足りないが、それでも常にひろびろと求め憧れている少数者の、篤信の眼から見落とされることは先ず無いのだ。
 晩餐の時の一杯と、柔らかに我が家を囲む雨の響きとに心がなんとなく華やかにされて、今夜はランプの笠の下でヘッセのテッシンの文章と、フランシス・ジャムの「泉」の詩を二つ三つ読んだ。二人とも私の好きな詩人だ。そして私がその読書に自分のいちばん快適な時間を与えようと思う詩人だ。時によると、此の二人のものを読んでいながら、彼らの国土から吹いて来る郷愁の歌のあまりに無限な感じに胸が痛くなって、しまいまで続けることができないで途中でやめてしまうことがよくある。そういう時には古いオルガンに向かって、同じように郷愁の思いに満ちたフーゴー・ヴォルフやシューベルトの歌を口ずさんで、さしあたり遠くへ行けない不満をやったり、数々の旅の楽しく美しい思い出を紡ぎ出したりするのが常である。
 しかし今夜はもっと落ちついた静かな気持で、テッシンの「春の散歩」やオルテズの「泉」の歌の中へ入って行くことができた。復活祭前週の清明な田舎の空気や、樹脂に光る木々の新芽や、子供や蝶や、マタイの受難曲や、春風に吹かれて醒めてゆく心の消息を述べている此のヘッセの文章はほんとうに美しい。すべての形象が浮彫されて、言葉は澄んだ響きに満ち、花の香のする無常の空気が四月の広袤を流れている。これは生の悦びの讃歌であると同時に存在そのものの哀歌でもある。こういう境地を書き得る点でヘッセは実に独特だ。きわめて短かいものでありながら、読んだ後の感銘はもっとも美しいドイツのリードの幾つかを聴いた時にも匹敵する。
 ジャムにしてもそうだ。此処でもまた詩の基調は哀愁だと言える。此の種の詩人のはるばるとした心の空をかならず流れている哀愁の風だ。しかし定住者フランシス・ジャムの田園には、永遠の遍歴者ヘルマン・ヘッセにおけるよりももっと縁ゆかりの深い、フランスの、古い澄んだ信仰の鐘が鳴っている。彼にはヘッセの旅嚢や、ボートや、旅職人や、塔のかわりに、琥珀の口のついた古いパイプが、先祖伝来の鍵の掛かる重たい樫の箪笥たんすがある。少女や井戸や絵暦や、驢馬や野薔薇の牧歌があり、勿忘草わすれなぐさの咲く水辺や、羊歯しだにかくれた泉がある。そして孤独の山鷸しぎのいる丘のむこうには、青い扇を開いたように残雪の笹べりをとったピレネエの山々がよこたわっている。
 こうして好きな詩人の世界を身近かなものに感じながら、自分の「旅と滞在」の思いにいよいよ深く沈潜してゆく今夜のような時間がなんと意味に満ちて重たいことだろう。それに較べれば詩人や芸術家の会合の夜などは、すくなくとも今の私のような人間にとっては結局なんの意味も無いのだ。其処で行われる事といえば極まって何か事業の相談か、組合の会議めいた議論の上下か、酒の上の興奮か雄弁にすぎない。芸術家という者はそれぞれの仕事のための固有の運命を、ただおのれ一人だけで担うべきものだ。会議の必要は毛頭無く、派閥の擁護や仲間褒めも不必要だ。私は永いあいだ此の真理を身にしみて感じなかったために、他人に期待したり、他人に求めたり、幻滅の苦をなめたり、世の中に憤ったりした。しかし今ではもうそんなことは無くなった。私は名も要らない。立場も要らない。他人の支持も求めない。生活も今のままでいいし、生きる事がもっとむずかしく成るなら成ってもいい。私は幸か不幸かこんな詩人だ。そのほかのなんになれよう。そして私が詩人であるということは、私が自分自身の歌のなかに此の世の過ぎゆく美を呼びとめて、それを私のものとして顕現することに一切の熱情を傾けるということだ。
 そう考えると私は前のようなゆったりとした気持になって、夕方配達された郵便物にまじっている或る集会の案内状と、質問を印刷した往復葉書とを静かに引き裂いて屑寵へ入れた。あした私はこれに手短かな断りの返事を出そう。だんだんに縁を切って皮相なものから自由になるのだ。
 雨はまだかすかな音を立てて降っている。漠々とした綿のような水蒸気をとおして、沼地でさげぶ水鶏くいなの声がきこえる。私は立ち上がって部屋の隅に立てかけてあるピッケルを取り、パイプをふかしながら其の堅いするどい鋼鉄の石づきを撫でたり、其の刄ブレイドを指の腹でためしたりして、それから微粒の紙やすりで丹念にみがき初めた。
 ああ、五月は、六月は、そして怪しいばかりに美しい夏と其の山々とはまだ遠いが、この杖をよこたえて軽く握れば、回想は徐々にほぐれ、憧れは次第につのって果てしがないのだ。真白な花崗岩砂にヴィリヂャンの這松が波打っている燕つばくろの尾根から、深い高瀬の谷奥に、鷲羽、三俣蓮華、双六すごろくとつづく緩やかな、残雪匂う盛夏の山頂を初めて見た時の心のときめき。雨後のきらびやかな日光と涼しい風に、林の白樺が一斉にそよぎ立った徳沢の午後。山麓からの雨と濃霧に、眼前幾尺の世界しか見ないで往復した甲斐駒の経験。うっすり懸かった新雪に近く、とある安山岩に跨がって榛はしばみを噛みながら、真黄色な頚城平野を見下ろした晩秋の妙高。さては木曾駒、八ケ岳、奥秩父にかかわる数々の思い出。そして最後には、その悲しいまでに美しい春や秋の広がりを、いくたび私のさまよった高原や裾野の回想。
 今私が研ぎ光らせて油を塗っている此の杖は、そういう山や高原の彷徨にいつも忠実な道連れだった。今では堅い木部も傷だらけになり、石突きに近い処ではささくれてもいるが、これを地に突けば私の往手に旅の空と憧れとが遠くひらけ、舗装道路も苔に濡れた山路のように思われるのだ。こういう道具は人間のいいかげんな友情や誓いなどよりも遥かに持久性を持っている。そして時の試煉に遭えば遭うほど、正直に手堅く作られた道具としての本来の面目に加えて、言うに言われぬ経歴の滋味がついて来る。そして私が失くさないかぎり、最後の焚木として悲しい煖をとるような時の来ないかぎり、これはいつまでも私の覊旅の道連れでもあれば執着の対象でもある。年毎に捨ててゆくさまざまな執着の対象のうちでも、たぶん最後まで私が捨てまいと思うのは自分の愛する家族と、こうした幾つかの道具や幾冊かの書物だ。しかしそういうものとさえ何時かは別れなければならないとすれば、此のうつろいやすい流転の世界で、私は自分の心に花を咲かせ光を投げる其の時々の一切を、残りの生涯かけて、二度と帰らぬ美のおもかげとして堅く繋ぎとめねばならない。

 

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 春の帰途(一九三八年)

 石老山の西の麓の篠原という部落。東麓の関口や南麓の牧馬まきめにおとらず美しく、道にそった浅い流れにかじかが鳴き、入母屋いりもや造りや兜造り、みごとな藁屋根を載せた農家の庭に八重桜が咲きさかり、鯉幟が風にゆれ、黄せきれいが囀り、新緑の谷の下手に遠く陣馬山の春の姿をながめる其の牧歌の山村篠原をすぎて、十町ばかりすると道は二股にわかれる。左はいちど谷へ降って更に向こうの山腹伝いに与瀬への近道、右は石老山を東へ捲いて鼠坂ねんざかへの道。近道の方はすでに一二度歩いたことがあるので私は初めての経験として後者を選んだ。
 篠原から与瀬や中野方面への車馬道になっている此の道は、幅も広く、坦々として、そのうえ左右に迫る山や谷がじつに静かだった。一羽の大瑠璃が、午後三時をすぎた甘美な日光や清涼な空気に色をつけるように、彼のもっとも豊麗な声で歌っていた。緩やかな登り、柔らかに重たい新緑、青空に浮かぶ雪のように白い雲、そして森閑とした山中を満たす小鳥の歌。ああすべてが私の今日の期待をかなえてなおも溢れるほどの恩寵であった。
 私は石老山塊の主稜の末端を乗りこす小さい峠をすぎて、今度はゆるい降りになる其の道を鼠坂さして下りて行った。右手はすぐに山の斜面だが、左はひろびろと桂川の谷が開けて、河原の白い砂地やその間を曲流する碧い水、箱庭の点景のような与瀬の人家や津久井の吊橋、さては高尾山から陣馬へつづくあの長尾根いっぱいに、春の午後の日が当っている悠々とした風景が見渡された。
 歩きながら私の心は静かに今日のよろこびを数えていた。或る珍奇な蝶を捕りに来てそれを捕った。曾遊の山やそれを取り巻く麓の村々に再会したいと思って出かけて来て、最も良い条件のもとで再び彼らに逢うことができた。太陽はいつも私の全身を照らし、水はいたる処で私の足もとで鳴りさざめいた。「此の世の富を満喫して、鳶いろに日に焼けて」、私という貧しい詩人が実に一日の王だった。
 しかし次第に傾く太陽に、山腹をからむ私の道も日当りよりは日陰のほうが多くなった。やがて断崖の上のわずかな平地を開墾して三十坪たらずの水田を作っている処を通った。一人の女がその田圃の土をかえしていた。これが篠原を出てから初めて見た人間の姿だった。折からさしばかと思われる一羽の鷹が沢の奥から音もなく舞い下りて来て、近くの杉の樹のてっぺんに其の褐色の翼をゆらりと収めた。
 其処から五六町くだって鼠坂の部落のとっつきまで来た時、私はむこうから来る三人の子供に出遭った。直径一尺ほどの樹の幹を輪切りにした物を二つの車輪にして、その間へ三四本の細い丸太を渡して作った一種の手車を曳いていた。九つぐらいの兄が柄にとりつき、七つぐらいの弟が先へ立って綱を曳き、四つか五つになる妹がそのわきに従っていた。車の上には弁当箱かと思われる小さい風呂敷包みと、飲水をつめた硝子罎とが悲しげに結びつけてあった。私はこの兄妹三人に向けて今日の最後のフィルムを露出した。
 それから私は彼らに近づいて行き、ルックサックをあけて四つ残っていた洋菓子の中から一つずつ子供に与えながら、何処まで此の車を曳いて行くのかと訊いてみた。むこうの山の田圃にいる「かあちゃん」のところまで行くのだと兄の子が答えた。おっとりした好い子だった。
 そうか。それでは今しがた上のほうで見た孤独の百姓女はこの子供たちの母親だったのだ。私はもういちど其の女の姿と、断崖の上の其の貧しい田圃とを心に描いた。
「お父さんは」と訊くと戦地だと言った。私は改めてこの三人の幼い兄妹の顔を見た。或る厳粛な気持と憐愍の思いとが私のうちで渦を巻いた。「とうちゃんから手紙が来るかい」と訊くと、「ずっと前に来た」と言った。私は相手が皆あまり小さいので膝を突きながら、もう一つ残っていたエクレイルをいちばん年下の女の子のよごれたエプロンのポケットヘ入れてやり、三人の頬を一人一人撫でてやって、さて、さようならを言って歩き出した。咽喉に大きな玉がつかえたようになって、それ以上なんにも言えなかった。
 と、三十歩も行ったかと思う時、私は突然うしろから「おじさあん!」と呼ぶ子供の声を聴いた。「おおい!」と答えながら私は急いでふりむいた。坂道の上のほうに小さい姿が三つこっちを向いて立っていた。「なんだあい!」と私は大声でたずねた。しかし別に用ではないらしく、ただ兄弟三人が夕日を背にしてじっと佇んでいた。私は力いっぱい帽子を振って前よりももっと早足で歩き出した。「よし、よし、よし」と誰かをなだめるように独りごちながら、しかし何が「いい」のかそれは分らずに……
 ただ大きくあいた両眼の水にゆらゆら揺れる鼠坂の村の家々を映しながら、此の世の道を倒れるまでは進もうとする者のように、美しくも苦しい愛の歌に満たされて、夕日の道を歩きつづけた。

 

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 高原の朝(一九三八年)

 幾枚かの雨戸のあらゆる隙間からさしこんで、茶渋いろに焼けた障子紙の厚ぼったい面に散光する朝日の光が、一夜の宿をたのんだ家の一間をもうすっかり明るくしている。ゆうべ食事のとき給仕をしてくれた此の家の娘に、「あしたは寝坊がしたいな」と半ば冗談のように言ったのを正直に取って、人から預かった大切な荷物か何かのようにそっくり一間へ閉じこめて置いてくれたせいか、充分に眠り足りて、ひとりでに眼をさまして枕もとの腕時計を取り上げた時には、もう午前八時を過ぎていた。
 どうせ今日は半日を此の高原の春にまみれて、それからゆっくりと閑散な汽車の客になるのだ。そして三日と続いた自由気儘な一人旅の小品一篇に終りをあたえる予定だとしてみれば、なまじ無理な早起きなんぞをして、有終の美をなしそこねるのが詰まらない努力のように思われたのである。
 野辺山ノ原や信州峠附近の春を是非たずねてみたいというのは、ここ二年ごしの宿望だった。去年は美うつくしガ原はらの帰りに小淵沢の駅を通りながら、よほど其処で下車して向こうのプラットフォームに客待顔の高原列車へ乗りかえようかと思ったが、その朝の中山道上和田かみわだの宿で、本陣翠川みどりかわのおかみさんの、たった一跨ぎのバスまでお愛想に差しかけてくれた番傘を打つ春雨が、和田峠、下諏訪を過ぎてもまだ降りやまず、汽車のとまった小淵沢でも向こうの崖に立つ新緑のポプラーを物悲しい霧に包んで、おまけに風さえ吹き添っているのを見ては諦める外はなく、又の機会を考えながらそのまますなおに東京へ帰った。さて、今年こそはと思って出かけたのが三日前の月曜日だった。初めの予定では昇仙峡から木賊とくさ峠を越えて増富鉱泉奥の金山へ出るつもりだったが、どうも上黒平かみくろべらの宿屋のことを考えるとつい厭になって、例のとおり韮崎、八巻やまきの路順で塩川沿いに黒森まで登って一泊した。そして翌日快晴の信州峠から懐かしい金峯きんぷや瑞牆みずがきに挨拶しながら、小梨の花の真白な牧場をとおって御所平へ降り、やがて柳沢から八ガ岳高原の端へ取りついて後はのんきに遊びあそび、それでもすっかりくたびれて夕方もかなり晩く、佐久の友人の紹介による此の板橋の、宿屋でない一農家へ汚れた靴を脱いだのであった。
 朝だ。娘が洗面の湯をとってくれるというのを断って、登山靴を突っかけて歯ブラシをつかいながら川の方へおりて行く。見れば墨こそ塗らないが、靴はていねいに泥を落として拭いてある。昨夜訊けば東京で二年ばかり奉公していたそうだが、これも一目見た時から気に入ったあの娘の優しい心づかいに違いない。
 高原の清らかな春に一脈の艶をそえる杏あんずや小梨の花の下をくぐって行くと、板橋川の水のせせらぎのふちへ出る。八ガ岳はもう盛んな雪どけのせいか川はかなりの水量で音を立てている。岩石の自然の畳まりをそのまま階段にして、川瀬の淀を背戸の洗い場にしているあたりは谷間の村ならば何処へ行っても見る風情だが、両岸にせまる落葉松からまつのむせるような新緑ここに三本あすこに二本と、すんなり立って柔かな若葉をほどいている白樺の幹の白さや、浅い谷間を点々といろどる咲きはじめの蓮華躑躅や山躑躅、そして此のパステルのような緑と白と赤との書割りのせばまる奥に真向から日を浴びて、眼もさめるばかりきらびやかに威風堂々とそびえ立つ主峯赤岳。こんなすばらしい桃源の背戸はそうざらには無いだろう。下流のほうを見ると、これも流れに沿って曲ってゆく落葉松林のいくらか透けた空間に、千曲川の空はほのぼのと薄緑に上気して、その霞の奥から男山の真黒な岩峯がのぞいていた。
 水の流れに近く、高い樹木や薮の茂みの多い此の静寂の一角では、又いろいろな鳥の歌も聴かれた。わけても赤岳を背景とした深い谷の奥からは長い霊妙なみそさざいの調べが響いて来た。それにまた野辺山の広袤をいよいよ大きく、いよいよ深く感じさせるものに、遠近で呼びかわす郭公と、柔かに曇ったように響く筒鳥の声とがあった。川を前に、岩に腰をかけて煙草を吸いながら、ぼんやりと此の歌の世界に耳をかたむけたり、水際に咲く真紅の九輪草や、水底をきらめく時おりの魚の姿や、新緑の落葉松や白樺や、荘厳な赤岳の山容を眺めたりしていると、移ってゆく時間のテンポは緩やかながら、高原の春はすべての生気をとりあつめながら其の真昼へと高まってゆくように思われた。
 遅い朝の食事にもまた娘が給仕に出た。父も母もひどく恥ずかしがりやで、東京からのお客さまを喜んではいても、到底面とむかってお話をするだけの勇気を持ち合わせていないとのことだった。娘は又この高原に孤立している板橋の部落の話をいろいろと聴かせた。そして此処で生れて人となって、いくらか東京を経験しながら、もう一度、いな恐らくは一生を此のふるさとで暮らすだろうという彼女のけなげな言葉を聴いていると、この若くしとやかな娘への私の好意は尊敬をまじえた一種の愛情に変って、もう直ぐ此処を立って行くことがいかにも惜しく思われて来た。
 しかし旅の春だった。そして私は旅人だった。私たちのまわりには高原の春が、私のうちには心の春が、たとえどんなに萌え、花咲き、歌おうとも、詩人であり旅人である私はそうした豊かな、想像のうちで千変万化する美には馴れている筈だった。私は美の諸相を知っている。浮動する雲や光線のような美を。うつろい易い花や虹のような無常の美を。循環する季節の美、世代の美を。また知っている。人類の精神文化が打ちたてる芸術や思想の美を。永く後代への遺産となるべき耐久力のある美を。そして私のなすべき事は、それらの美を摘み取ったり、専有したり、弄もてあそんで汚したりすることではなくて、それを視、それに傾聴し、それを敬い讃えながら、此の世で生きた祭の日々を悦ばしく回顧し記念することだ。またいま善き旅人として私のなすべき事は、静かに、優しく、朗らかに、心惹かれる此の世界や人々から別れることだ。
 こうして、娘とその両親と、小さい弟妹たちとに見送られながら、いつもするように次の時の再会を約してこの一夜の宿に別れを告げた。そしてサルヴァンの村から帰るエミール・ジャヴェルのそれに似たいくらかの感傷を味わいながら、川沿いの暗く涼しい落葉松林を抜けると、俄然ゆくてにひろがる五月の春の大高原と、夢の中から湧き出したような八ガ岳とを私は見た。

 

 

 

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 夏が又来た(一九三八年)

 いつかしら躑躅も終り、おだまきも咲き崩れ、藤棚の藤も散りつくして、もう庭ぢゅうが噎せるような新緑になった。晴れた真昼には時々大きな積雲が影の涼しさを撒いて通る。そしてそれが通り過ぎてしまうと、初夏の緑の夢のようなかがよいの中で、また青空の海から照りそそいで来る日光に、庭の小径のうぐいすかぐらの赤い漿果が透明な宝玉のようにパアッと光る。片山敏彦の最初の妻君知子ともこさんがまだ此の世の人であった頃、私が好きだというので株分けしてくれたのがその後八年の間にすっかり繁茂して、年毎に無数の実をつける今はかたみのうぐいすかぐらだ。この実が毎年赤く熟す頃になると、あやめが咲き、郭公が啼く。そうすると私はこの木を植木屋に掘らせて届けてくれたあの病身だった亡き人を思い、漸く夏景色に変ってゆく郊外の町や自然にしみじみと眺め入るのが、此の幾年の慣わしとなったようだ。
 今年の夏こそあの山へ登ろう、子供や妻も暑中休暇には戸隠とがくしか法師温泉へ連れて行ってやろう。夏が近づくと毎年そんなことをいろいろと心には描くのだが、さて中々思うようにならないのも此の世の常だ。そうして自分だけは都合して何処かの山へ行って来て、数々の感銘を担って日に焼けて帰って来ると、又しばらくは私と一緒にゆっくりした夏の毎日が暮らせるという其の事だけに心勇んで、喜んだりねぎらったりしてくれる何時も留守番の家族の心根がいじらしい。それで結局は山もいいし、旅ももちろん悪くないが、世間一般が貧富の別なく享受するこの壮大な暑い季節を、妻子と一緒にうまく工夫して楽しく暮らしてみるという事に、登山や旅行以上の滋味があり、知的な爽快味さえあるのではないかというようなことが、少くとも今の私などには考えられて来るのである。
 実際、家ぢゅうが皆丈夫で、生活にいくらかの余裕があるならば、東京の夏もけっして悪くはないようだ。まして新らしい楽しみを考え出したり、季節特有の詩的なものや美しいものを味わったり、その刺戟を善用したりする能力があれば、酷暑の都会に暮らしても避暑地生活に劣らない、或いはそれ以上に内容と意義とのある生活ができそうに思われる。ほんとうの贅沢リュクスとは、自分たちの力で随処に美や楽しみを見出す事ではないかという気がするのである。
 それならば東京の今年の夏を、私としてはあのヴァレリーの精妙なエッセイ「海へのまなざし」や「人間と貝殻」をしっかりと読み上げる事に捧げよう。また雲の美しい季節だ。雲の撮影も熱心につづけよう。捕蟲網をふるって炎天の荒地に豹紋蝶も追いかけよう。河骨こうほねの咲く野川で子供と一緒に川狩もしよう。また東京の下町に涼しい南東の「からあげ」が吹く時刻には、この郊外から妻子を連れて、浅草の駒形河岸へ鰻を食いにも出かけよう……
 いろいろな夢やまことが私に寄る年波を忘れさせる晴れやかに美しい旺んな夏。その夏が今年もまた太平洋の水の果てからやってきた。

 

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 単独登山(一九三八年)

 私は必ずしも単独登攀を主唱する者ではないが、仲間も無く、案内者も伴わず、たった一人でやりとげた登山には、何時もひとすじの澄んだ光のようなものが自分に附きまとい漂っていて、帰来味わいかえす其の思い出もまた特に美しく純粋であったという幾たびかの経験を持っている。始終山の中で自分を照らしていた透明な光線。それは元より言葉の比喩にすぎまいが、ともかくも未知の山だとかいう時に、その光は一層つよく、その耀かがよいもまた一層美しく意味深かったように思われる。
 たとえば友達と一緒ならば新鮮な興味や楽しみ以外のものではない山であっても、一人となれば少くとも私はいくらかの不安を感じながら登るのが常である。そしてその不安は、恐怖というのは当らないとしても精神の緊張を伴いはするであろう。つまり平地のそれとは違った山岳地帯の天候の変化に細心な注意を払ったり、現実の地形とを対照して刻々に移動する自己の空間的位置を確かめたり、未知の前途に対する漠然とした不安にとらわれたり、時間全体の均衡を考慮したり、その他この登山を成し遂げる上に必要な幾多形而下的な関心事のための精神の緊張である。
 勿論こうした緊張は登山の喜びの一部分をなすものでもなく、まして山の美を味わう事にはなんら直接にあずかる所はない。又すべてを協力し合う仲間があれば、たとえそうした緊張を余儀なくされる場合にも、一人の時のように注意や反省の結び目を二重にも三重にもする必要はまず無いであろう。しかしたった一人で山へ入る者は否応なしにこの余分な貢物をさせられる。それゆえ、単独登攀という事は、これを学問にたとえれば独学に似ている。教師や学友を持たない独学者は、自力で到達したひとつの解決にもなお一抹の不安を感じるために、さらに第二第三の別な面からの吟味によって其の答の当否を確かめようとするだろう。そしてもしも其の答の正しいことが認められたとすれば、この独学者の喜びと自信とは更に次の難問に自力で立ちむかう彼の勇気を鼓舞して、選ぶべき第二の方向を彼の本能と意欲とにむかって指し示すだろう。こうして確信を得るために彼の費す二重三重の手数は、これを或る眼から見れば迂愚のそしりを免れないかも知れないが、これこそ一山ごとに自分の技倆を進歩させ、未知の境地に新らしい可能をこころみる単独登攀者の、むしろ進んで採るべき実り多い課程ではないかと思われる。或るむずかしい山への単独行が見事成功した時はもとよりの事、たとえみじめな失敗に終った時でも、なおかえりみて無限の味わいを其処に見出すのは、自己の体力と智慧と技能とを傾けて、ともかくも登り着いた処までは、跋渉し得たかぎりでは、その山を自分の物にすることができたという信念からではないだろうか。「ひとすじの澄んだ光線」という私の比喩は、半ばは此の間の気特を表現しているのである。
 しかしそこには又別の一面がある。それは山で一人で味わう休息の醍醐味である。それは此の休息が同時に精神の憩いでもあるがために、単独登攀者はその最も純粋なものを純然たるひとりの時間において享楽するのである。
 一体われわれが或る山から持ち帰って永く思い出の宝とし心の糧とする本質的な感銘というものは、出発から帰還までの個々の経験や印象のすべてであろうか。私はそうは思わない。永きに堪える感銘は、周囲にむらがる記憶や印象からぬきんでて、その峯頭は高く登撃の一日の上に君臨し、その根は深く魂の底に目ざめている。それは抜群なもの、特異なものであって、凡百の経験が夕暮の谷間の霧に没する時でも、なお悲しく壮麗なアルペングルートに照りはえている。そしてわれわれが或る山についての最も鮮明な心象を彫塑することのできるのは、実にその休息の間に味わった名状すべからざる深い感慨と、瞬時であると同時に永遠でもある時間を生きた心の王国の思い出とによるのである。
 ルックサックをかたえに君は休息する。君が今腰を下ろしている其のほんのりと暖かい岩、それは数時間まえに君が眼を上げて空の一角に認めたあの金色の花崗岩である。八月の大空の下、山々に銀灰色のヴェイルを懸ける大気の海に突き出して、君はたった一人の人間的存在である。まるで耳に詰物をされたように、もう文明世界の騒擾の音を君は聴かない。耳に入るのはただ折折あたりの這松から起こるエオルスの琴の清掻すががきと、高山の精のような一羽の岩雲雀の声ばかり。眼を放って君は見る。炎熱に萎えた緑の谷々と、西風に冷やされている遠い幾つかの山頂を。また見る。眼前の岩の裂け目に青空の色を塗りこめた岩桔梗を。すべてが実に深く静かで、悠久で、一切の体験は夢であり、千百の夢はひとつの願望に織り上げられて、ここに空前の現実となって展開したかと思われる。身を仰向けに倒し、両腕を枕にして、青々とした天の底に眺め入ることがなんといいだろう! 時おり現れては消えるほそい雲の走り書き。それは何の意味を、どこの世のどんな消息を語るのか。やがて虚空の青の深みにダイヤモンドの粉末のような物が無数に生れて、燦爛と乱れ飛び、霏々として浮き沈み、そして今や涼しく君はまどろむ……
「戦争と平和」の公爵アンドレエがアウステルリッツの会戦に負傷して、戦場の草に身は倒れながら、その恍惚状態の中に無限に深い青空に見入った時の独白、「なんという静けさ、なんという穏かさだろう! 私の狂奔的な仕事とはなんという違いだろう! どうしてもう少し早くこれに気づかなかったのだろう。この高い大空に!」という言葉に似たものを、おそらくは単独の登攀者こそその山頂の休息の時、その恍惚状態の中で、我と我が心に語ったかも知れないのである。

 

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 旅への祈り(一九三八年)

 又しても山の村々や峠路の思われる時が来た。
 一日一日と草の露がしげくなり、桜の葉が黄ばみ、無花果いちじくが甘く熟む。朝のおちついた光の中で蝦夷菊や大毛蓼おおけたでの花が農家の裏庭をつめたく彩り、健康な土の香があたりに漂う。雑木林のしめった暗がりには色々なきのこが蔟々と生える。野にはもう夏の草いきれもなくなって、昼間でも蟋蟀が鳴き、高い空の一角に終日美しい雲が足をとめ、郊外の家々の窓が思いおもいに遠い地平線を眺めている。きのうは朝からもずの高音を聴き、近くの池へ下りる鴨の姿を見、夜が更けると東の空ヘオリオンの星座の昇るのを見た。こうして自分の住む郊外のいたる処に自然の秋色がととのうにつけて、夏に倦んだ私のうちに又新らしく山の人生や旅への憧れが目ざめて来る。
 今まででも多くの山村や峠を私はあるいた。そしてそれらのどの一つにも何かしら愛染あいぜんの思い出がまつわり、深い意味が感じられる。私はそういう幾百の思い出を、ちょうど鉱物や岩石の採集家が、彼らの貴重な小さいかけらを一つ一つ丁寧に綿にくるんで秘蔵するように、大切に心の箱に保存している。そのままで完成された一粒の結晶のような物もあるが、概して格別美しくもない、一見ひどく平凡な物の多いのは事実だ。しかし見たところ何の奇もない石の破片でも、それを採集した本人にとっては強い愛着の対象であり、又それを薄片に磨り上げてニコルの顕微鏡で覗いてみれば、眼をみはるほど華麗な色彩や組織を現すように、名もない小さな峠や貧しい山間僻地の村への足跡でありながら、もっと多くの時間や費用をかけた旅行にも劣らないほどの滋味を持ち、深い感銘を蔵しているものも少くはないのだ。
 そうして私などには到底理解できないような世界歴史の変転が、その巨大な歯車をいたる処で衝突させたり噛みつかせたりし、その勢いに捲きこまれて、われわれの周囲でも無数の小さい歯車が金切声を上げながら躁急な廻転をつづけている時、そんな狂気のただなかの慰めもない孤独の夕暮に、私の思いが風のように帰って行くのは、曾て訪れた幾多の高い清らかな山頂や、そこに私が最も優しいまなざしを投げた谷間の部落や、私のまじめな物思いが其処の落葉や苔を一歩一歩柔らかに踏みしめた山道であり、その永続的な、豊かな、深く静謐な、心を高めさせたり喜ばしめたりする世界へである。そして自分の周囲にもはや全く喜びや慰めの音楽を期待することができなくなった時、その味気ない夜の奥から、私は遠い青空や晴れやかな日光の思い出を紡ぎ出し、憧れの思いに満たされながら、自分のためのささやかな愛と美との歌を綴る。その歌の中では喜びにもまた悲しみの陰影があり、悲哀もなお永遠者への信頼の光に照らされている。それが私の孤独なる者の音楽だ。そして本当に孤独の味を知る者こそ、自由の何であるかを本当に知るのである。
 旅というものがわれわれの歌となり富となるためには、世界の広がりと未知なものへの憧れや、新らしい体験への期待が無くてはならない。もしも必要や義務のためにでなくするわれわれの旅が、現実の周囲からはもはや望み得べくもない人間や物への憧れ或いは期待によるのでなかったら、そもそも何のための出発であろうか。時間や行程、見るべき物や見る人間への予めの心の準備、その目的と結論。そういう条件が予定されたとおりに実現される旅行。その種の旅行はすくなくとも私の言う旅とは凡そ違った別物である。旅とは、私の意味では、思いがけないものとの遭遇の機会だ。異郷の土地や生活は、われわれの自由の眼や心にむかって捧げられる新らしい糧だ。それ以来われわれのうちに生きて永くわれわれをやしなう糧だ。しかもわれわれにそれだけの心の用意、柔軟で敏感な詩的感受性が無ければけっして真相を現わすことのない富だ。その用意は他からの教育や強制では得られない。食糧や履物の指定からも、どんな案内書や手引からも得られない。「随処に転じて能く幽なるもの」を受けとる心の用意だ。すぐれた楽器の上に張られた微妙な敏感な絃のように、そよとの啓示にも鳴る其の心のかまえである。
 私は自分の旅にどんな先達も必要としない。あらゆる自然や環境に自分の篤い心を与えながら、其処から人生の深い意味を汲み上げたいと願う心は、行くにせよ帰るにせよ、又とどまるにせよ、いつでも私一人の運命を担い、私の孤影を運ぶのだ。その運命が他の運命にまじりこみ、その孤影が他の孤影を抱く。それが私の旅であり、軽薄で空虚な一般の思潮に対する私の無言の抵抗である。

 

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 大菩薩峠で(一九三八年)

 清朗な、玉のような秋が幾日もつづいて、煙となって空へ昇るものは昇り、木の実として地に熟するものは熟し、今日甲州の山に盆地に、醱酵のあとの甘く澄んでゆく酒のような光と空気とがみなぎっている。その酔わせるような晩秋の日を、めぐりめぐって又もや此処へ来てしまった。
 きのうの朝は早く郡内精進ぐんないしょうじの宿を出ると、女坂という長い峠で御坂みさか山塊を越えた。それから蘆川の谷と別れて北へ登った右左口うばぐち峠。もう雪の来た南アルプスからの爽やかな西風に吹かれながら、私は金と青との大空の底に無数の川のきらきら光る甲府盆地や、その豊饒の国中くになかをかこむあらゆる山々に挨拶した。
 やがて美しい曾根丘陵のあいだを縫う駿州中道を歩きながら、私の経験した今更ながらの旅の楽しさ。其処から遥かに眺めた大菩薩の連山に心を惹かれると、其の日帰京の予定を変えて、塩山の町に晩い宿をとった。
 そして翌日の今立っている大菩薩峠。自分の好きなこの山の楽しい一日も傾いて、あたりにはもう夕べの霧が沸騰している。焼石のような巨大な露岩も、黄いろく枯れた熊笹も、さるのおがせも、つがの樹も、私でさえも侘びしく濡れて、まるでハンス・カロッサのルーマニアの山中の野営のようだ。
 だが、西のほうの盆地にはまだ赤い透明な秋の夕日が流れている。その夕日に停車場へ積まれた塩山石の白と黒との紋理が映え、葡萄山の最後の葡萄が甘く涼しく、あちこちの扇状地で晩くまで働く農夫らの上に、やがて燃えるような落日を迎える雲たちが、もうバッハのカンタータを歌っていることだろう。

 

 

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 三城牧場(一九三九年)

 落葉松からまつの林に芽のつぶつぶは未だ涙のように光っているが、白樺の若葉はもう五月の太陽に柔かく揮発している。透明な空気、身にしむような日光。しかし里の山桜や鯉幟はもう見えず、耳を聾するばかりの谷の鶯の歌はさすがに此処まではとどかない。いくらうっとりと酔わせるようでも、高地の春にはつねに一脈の哀愁がある。つねに無常の匂いがする。
 牧場は天然の庭を想わせる。緑の芝地のいたるところ、鳶色の大きな岩がちらばって、そのあいだに薄い褐色や黒白まだらの放牧の牛が、膝を折り敷いて耳をうごかしたり、或いは立って短かい草をしごいたりしている。私のそばにも一つ大きな方形の岩が横たわっているが、よく見ると其の割れ目にはほそぼそと生えた菅にまじって、一株の白山風露が柔毛にこげに包まれた小さい拳のような嫩葉をもたげている。日を浴びてほんのり暖かい其の岩には、また一羽の越年おつねんの孔雀蝶もとまっていて、チョコレイト色の地に銀と碧との孔雀紋を置いた、あの高貴な天鵞絨びろうどのような翼を開いたり閉じたりしている。
 私はベレーのふちを撫で上げて、パイプをふかしながら、この信州の山の牧場の得もいえぬ春を眺めている。ところが、ふと気がつくと、濃い緑のスウェターの片腕に、このごろ漸く見えはじめた自分の白髪しらがが一本落ちている。すると急に、もう死んでしまって此の世にはない父のことが思い出された。私はすこしも孝行の子ではなかった。だから今ようやく髪の毛に霜をまじえた私として、もしもあの父と一緒に此処へすわって、もう苦労をかけない其の一人子として彼を悦ばせることができるのだったら、どんなに嬉しいかと思うのだった。そして此の瞬間の幸福の感情が深遠であればあるだけ、今は亡い父への私の悔恨は深く、私の眼は水をやどして大きくなった。
 その眼に美うつくしガ原はらの大きな弓なりの嶺線が映る。その眼の中できれいな雲の影が揺れる。そして高地の春の哀愁はそこにもまたいよいよ広々と流れている。

 

 

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 通過列車(一九三九年)

 私は東京市も西のはずれに住んでいる。そして家からなおも一町西へ行けば、友人の住んでいる住宅地も、煙草屋のある街道も、朝露のかなたに遠く丹沢や秩父のかすむ麦畠も、すべて府下北多摩郡という違った行政区劃へ入るのである。私の詩人の心はややともすれば此の西のほうヘ向いて行きたがる。其処にはまだいくらかの田園があり、物静かな古い村道と小烏の声とがあり、煤煙の粒子に混濁されない清潔な空気と、晴れやかな太陽の光線とがあるからである。
 しかし私の参加している僅かばかりの社会生活が、私を駆って東へ行かしめる。それは私が好むと好まざるとに拘らず東京の雑沓にまぎれこみ、其処に何時間かを失踪しなければならない事を意味する。
 その東京へ行くというので、私は我が停車場のプラットフォームに上りの電車を待っている。いま駅員がちいさな手押ポンプで水を打ったばかりのプラットフォームは、幅一尺ばかりの暑い日なたを残して、あとは屋根の下の涼しい日陰になっている。午前十時頃から昼過ぎまでは此の停車場のもっともひまな時である。頭の上に白い大きな文字盤を見せる時計さえも、今はしばらく閑散な時を刻んでいるかと思われる此の構内に、われわれのとは全く異った生活と感情とを持つ雀の声が、ふしぎに親しくはっきりと響いている。しかし相も変らずコンスタントでまじめなのは、今日も二つのプラットフォームに挾まれて、鉄粉の赤錆におおわれたバラストを貫いて、東西に走っている線路という二本の鉄の帯である。その線路の煌々たる輝きが遠方の薄青い陽炎のなかに虹のように消えるところ、長いプラットフォームの西のはずれに幾株かの真赤な躑躅が燃えている。
 と、遥かに一声の警笛。停車場横の踏切で玩具のような呼子が鳴って、遮断機の腕木がぶらりと下がる。その瞬間、線路両側の黒白塗りわけの腕木の前では、買出しの女中も妻君も、自転車から片脚おろした御用聴きも、さては緑褐色に塗られた大型のトラックさえも、みんな同じ一つの思想をいだき、みんな同じ庶民の顔を並べたようになる。そして柵の内側の別世界の秩序のなかに君臨するのは、今までの煙管を白旗にかえて粛然と立つ老人の踏切番である。
 私の前で線路が鳴り出す。それがだんだん大きくなり、次第に断乎とした調子を帯びてくる。向こう側の下りプラットフオームには金筋一本の制帽をかぶった助役が立ち、少年の駅員が小さなメガフォーンを口へ当てて「通過列車でございます。どなたも御後へ願います」と叫んでいる。しかしその「どなた」はほとんど居ない。
 通過列車は来る。それは凛々と、轟々と来る。見る見る近づく荘重な電気機関車の漆黒と真鍮光しんちゅうこうの正面。その胴体の熱した鉄と油のにおい。ちらりと見える機関手の菜葉服。つづいて客車、窓、窓、窓。車輪の音とあらゆる接合部や関節(註:初版本では"間接部")から起こる響きと、同時にその合成音や反響のなかを流れてゆく無数の顔。しかし未だすっかりは旅の気分になりきれない中途半端な顔。そしてその水平に流れる像の中にこれだけはしかと私の認めた「長野行」と「甲府行」の白い文字。
 この列車の行く処には今こそ初夏の山々があるのだ。降りて見たくなるような渓谷があり、日光と風とが遊ぶ段丘があるのだ。青嵐をまとって消える峠路が見え、その近代風が必ずしも詩的でなくはない山間の発電所が見える。ぽたぽたと水の滴るトンネルは、それを出つ入りつする度ごとに、大都会からの隔たりを、平凡な日常生活からの解放を裏書するように思われる。スイッチバックが始まれば旅の感じはいよいよ濃くなる。支線が現れ、乗換の客が急ぎ、物売の売子が右往左往し、それを窓から眺めている者の心に、残雪を刷いた高山と、早くも夏景色になった湖水との、一つの全く別な風景がよみがえる。列車はなおも進んで長いトンネルに向かって喘ぐように登る。やがてトンネルを過ぎると車輪を締めるブレーキのきしりの音が頭のしんまで食いこみ、空気の圧力変化に耳の遠くなったような気がする。しかし楽しみの旅を行く身にはそんな変化さえ快くなくはないのだ。やがて風景は面目をあらためて、列車は一つの広い山間盆地のふちを進む。田園がひらけ、いくつかの町や部落が一層大きな都会のほうまで続き、その間を小さい乗合自動車が走っている。熱い風と涼しい風とが代るがわる車窓へ飛びこむ。盆地をかこむ山々はすべて半透明な薄青い空気のヴェイルを纏って、その山襞の濃淡や山頂のスカイラインで初夏の山のどんなにいいかを語っている。そしてそれらの山頂のかさなる空のかなたには一層高い峯峯が青い影絵のように浮かんで、五月の高処の美と爽涼とを歌っているのだ……
 その五月の快晴の日を遠く山々の国へと走る列車が今過ぎる。複音の警笛にドップラー効果を与え、最後尾に砂塵の渦を伴い、線路に近い青葉の樹木を狂気のように湧き立たせながら、長野行や松本行の列車は行き去る。
 西荻窪のプラットフォームで見る通過列車。それは私にとって常に一つの郷愁と羨望と、時には或る痛苦にさえも価するのだ。

  

 

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 小手指ガ原(一九四〇年)

 狭山さやまの丘陵を十町のうしろに、白旗塚の樫や檜のこんもりと円い高まりを右に、誓詞せいじガ橋はしの小橋の下をほそぼそと流れる川を眼の前にして、私は武州小手指こてさしガ原はらの広がりをぐるりと見わたす小高い丘の、まだ短かい薄の株や、みずみずしい雑木のひこばえや、きんぽうげの黄いろい花や、可憐なたつなみそうの薄紫の花や、赤々とあたりに燃える山躑躅のあいだへ、今日の遠足の軽いルックサックを投げ出した。
 時は五月、時刻は正午。都会を遠い小手指ガ原はみなぎるような初夏の太陽を浴びて、柔らかな若葉のあらゆる緑に埋もれている。その暑い盛んな新緑の海のなかに、ところどころたむろする赤松の林が、まるで泡立つ波に囲まれた島のようだ。一帯の地勢はこころもち北東へむかって傾いているが、その方角のきらきら震える空気の下には、堀兼ほりかねや三富新田さんとめしんでんなどの名も懐かしい農村聚落のよこたわる、また別の予感やいざないに満ちた武蔵野の自然と人生とが展開している。そして心も晴れやかな今日の午後を、日も永いままに私も足をのばして、あの古い江戸時代の入植地、入間郡富岡村あたりの条里制の農村や耕地を見に行くつもりだ。
 それにしても今足を投げ出して休息の煙草を吸い、「ポンポンポンポン」と遠く曇った声で鳴く筒鳥や、すぐ近くの林で「チブチブチブジューイ」と鳴いているせんだいむしくいの歌を聴きながら、その一角に私のすわっている此の台地の広がり、私の見廻している此の一帯の丘陵や低地。これはかつて欝蒼と昼なお暗い大森林であり、太古の空を鏡のようにうつす幽邃な沼や池であった。人は此処から有史以前の土器や石器や丸木舟を発掘し、原始住民の居住の跡や古墳のむれを発見した。更に近世に及んでは、此処に幾たびかつわもの共の雄たけびの声が響きわたった。しかし蒼茫三干年。今は森林も原野も薪炭林や畠と変り、暗い池沼は明るい水田となり、荒川は整理されて灌漑の用水路となった。今、白旗塚の古墳に近く、赤松の林では春蟬がジャワジャワと鳴きしきり、夏近い秩父の山の見える空に時おりの飛行機がかすかな爆音を残しては行くものの、もしもそれらの響きが暫くでもとだえれば、この小手指ガ原の新緑の白昼に、ふたたび太古の静けさが思い出したように帰るのである。
 私はテルモスの紅茶を飲み、弁当のサンドイッチを頬張った。そして切子硝子の杯から葡萄酒をすすりこむと、上着をひろげて草の中へ仰向けに寝ころんだ。私の頭上の青空には今日初めてみる一片の白い雲があり、私の手には一冊の小さい紺色の詩集がある。その雲は旅と憧れとの姿をした片積雲で、詩集はヘッセの「孤独者の音楽」だった。

 

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