もとよりドビュッシーがバガテルを作曲したというのではない。私がドビュッシーについての幾つかの言葉のバガテルを、些細な断片、簡単な形式の小さな文章、いわば或る夏の日の水に映った雲の姿や森かげを、愛するまま、思い出すままに書きとめて置くという、ただそれほどの意味である。
クロード・アシール・ドビュッシーの名を、私はロマン・ロランの『今日の音楽家』を訳しているときに初めて知った。それは大正四年(一九一五年)のことだった。私は仕事をつづけながら、その本の中の「エクトル・ベルリオーズ」にすっかり魂を奪われていた。もちろんあの画期的なフランス歌劇を論じた「クロード・ドビュッシー」も訳すことは訳した。しかしアキレウスとヘクトール。その一騎討ちの勝負は、私のうちでは、神話や史詩の中でとは反対に、エクトルこそアシールを圧倒した。
ロマン・ロランは書いていた。「ドビュッシーの芸術は、ラシーヌのそれ以上にフランス的天賦ジェニーを代表するには不足している。フランスには全く別の一面がある。すなわち英雄的行為の、理性の酔いの、哄笑の、光への情熱のフランス、ラブレーの、モリエールの、ディドローのフランス、そして音楽では、(一層適切な名が無いために)、ベルリオーズの、ビゼーのフランスである。だが神は、私が他の一方を否認しないように護ってくれるがいい! フランスの真髄をなすものは、この二つのフランスの間のバランスだから。われわれの現代音楽のなかで『ペレアスとメリザンド』はわが国の芸術の一方の極であり、『カルメン』は他方の極である。この後のものではすべてが明けっ放しで、すべてが光で、すべてが生き生きとして、陰もなければ裏もない。もう一方はすべてが内的で、すべてがたそがれの微光を浴び、すべてが沈黙に包まれている。そしてこれこそ二面の理想であり、イール・ド・フランスの晴れと曇りの柔らかな空をつくる、あの美しい太陽と薄い霧との交代である。」
当時わずかに二十三歳という若くて粗野な日本人の私に、微妙なコローを想わせるイール・ド・フランスの精霊的な風光について、この明暗ゆたかな美しい理想について、そもそもどれだけの洞察や理解力があったろう。ロランのかざす拒火のもと、ひたすらベートーヴェンの英雄像を崇め、ベルリオーズというドーフィネの山男、グルノーブルのロマンティスト、気質的に近親の感のある音楽家を知らされたばかりの私に、いまだ見もせず、また見ようともしなかったその軽やかな薄い霧や、その露台を照らす月光や枯葉の歌への愛と理解が、一体どうすれば持ち得ただろう。私はロランにおいて特に感動的なあの二元論を、奮闘する生とその流転とを讃える多元肯定のあの思想――私が後になってようやく解し得たあの思想を知らなかった。何事も一方づけずにはいられなかった単純で軽信のこの初心者は、『ロメオとジュリエット』を聴くことができさえしたら、『ペレアスとメリザンド』を知らなくても悔いはないと思っていた。そしてそういう熱っぽい旱ひでりつづきの数年間、私はひたすらベートーヴェン=ベルリオーズの大街道を行軍していた。
幼い頃から自然とその学問とを愛しながら、いささかの天分にそそのかされて文学の道へ踏みこんだ私、そしてその道の上でもともすれば自然のことが気になった私は、『幼年時代』、『セバストポール』、『結婚の幸福』、『地主の朝』、『戦争と平和』などのトルストイを読みながら、また小冊子『ミレー』や大作『ジャン・クリストフ』のロマン・ロランを読みふけりながら、それらの中に出てくる自然の閃光、人間と自然との融合に目をうばわれ、心をとらえられずにはいなかった。その点私は単なる小説読みではなく、叙景的な描写をゆるがせにしない作者にとっての一層こまかい、一層同情的な、いわば一層望ましい読者の一人だったと言えるかも知れない。ともかく私は、作品の持つ人道的・倫理的な空気をより生き生きとさせ、よりみずみずしくさせるものとしての、彼らの詩的で絵画的な、或いは音楽的でさえあるリリシズムを愛することも忘れなかったのである。
人生の中での悲壮なもの、沈痛なもの、雄々しいもの、奮闘的なものへの天性の傾向と共に、またその平和な安らぎの一面、柔らかで甘美な調和の一面にも深いあこがれを抱いていた私、その私が或る時自伝の一節めいた小説を書いて発表したら、「詩的ではあるが実感が出ていない」と、先輩の一人からたしなめられた。ああ、実感! それが当時芸術批評の上での「白樺」式尺度だったが、振幅が小さくて栄養のとぼしい「実感」の試験動物になり終わらなかったこと、今にして思えば私にとって幸いだった。
大正の中期、私は他方ではホイットマン、ヴェルハーラン、高村光太郎らの詩や文章を読みふけっていた。この世界ではすべてが豊かで、包摂的で、人間の営為はもとより、太陽も雨も風も、山岳も平野も海も、鳥もけものも草木も虫も、造化の被造物の何一つとして拒まれず、無視されもしなかった。此処だと私は楽々と息がつけた。この世界だと胸を張り、両手を振って歩くことができた。私は小説を断念して詩を書きはじめた。やがて処女詩集『空と樹木』をなすべき作品が次々と生まれた。日本の狭苦しい文壇ではなく、ヨーロッパやアメリカのそれに直通する芸術の世界は広かったのだ。そしてその広さを教えてくれた芸術の他方の極、音楽の世界のもう一方の極から、或る日私にドビュッシーが来た。
ドビュッシーは、しかし古城の悲恋やたそがれの微光の『ペレアス』ではなく、そのあまりの豊満のためにむしろはかない夏の逸楽、『牧神の午後への前奏曲』で私に来た。或る若いディスコフィルが無理やりに置いていった舶来のレコードで、私は初めて彼を聴いたのである。
最初にうけた印象では、それ自体きわめて漠然とした、調子のはずれた、とりとめもない音楽のように思われた。輪郭がぼやけ、デッサンが崩れていて、やっとの思いで耳がすがりついたメロディーは忽ちたわいもなく溶解したり、あらぬ姿に変じたりした。こうであって欲しい、きっとこうなるだろうと思っていた旋律線が、またたくまに不思議な、手もつけられないような痙攣をおこし、みずから求めた苦痛とも、快楽とも、或いは気まぐれとも思われる仕方で身をねじったり、煙ったり、渦巻いたりして、熱意と放心とのあらゆる姿態を現出しながら、私の在来の音楽的常識の道かかなたへと展開し、氾濫し、流れ去るのだった。それは人が山の稜線で出あう夏の日の雲霧に似ていた。暑い太陽や燃える大空の色を反射しながら、或いは金色に、或いは雪白に、内部からの昇騰と落下の運動をくりかえしつつ、その捉えがたない消長と流転のすがたをくりひろげた。今からおよそ六十年前、本国フランスで初めてこの作品が聴かれた時、そのハーモニーの奇矯さと共に構成の欠如が非難の的となったというが、そういう批評家も聴衆も、やはり私のように保守的な常識者として、初めは戸まどったりあっけにとられたりして、ぶっぶつ言ったものとみえる。
しかし食っているうちには食欲が出てきて味もわかる。このドビュッシーの場合、その味は聴くたびごとにこくのあるものとなった。それに私としてはあのマラルメの田園詩エグローグの、美しい夏の嬉々たる光と甘美な陰とを愛さないわけがなかった。この音楽は、まことあの透明な日光と泉と蜜と悦楽の詩にふさわしかった。木管楽器が歌いひろげる閑暇とけだるさとの、なんとのどかな布告だったろう! つづいて燦然と噴き上がるハープの、なんという涼しい晴れやかな水しぶきと揺れだったろう! 初め捕捉しがたいものに見えた構想の光と熱のふしぎな魔術が、じつはすぐれた古典作品と同じように、水も洩らさぬ設計と、堅固な土台や柱や梁うつばりで組み立てられている事が次第にわかってきた。ラテン・ゴールの明るい秩序と率直さと、惚れぼれするような生き生きと新しい音色のハーモニー。けっして固執することのない論理ロジックの、むしろ内面的な開花と進行。放心や気まぐれを口にしたのは誰だったか! あのラモーの美しい自戒の言葉、「術わざそのもので術を隠す」を、この『牧神の午後への前奏曲』こそ妙たえに実現していたのである。
その後私は年を追って彼の管弦楽の作品に親しんだが、雲と祭と海の精シレーヌとの三部作『夜奏曲』から、三つの交響的スケッチの傑作『海』から、またいくらか骨組みあらわで芳香むせるがような『イベリア』から、それぞれなお多くの理解や愛を深めながら、この『前奏曲』から最初にうけた開眼手術のありがたさを忘れることは到底できない。
私の考えではドビュッシーの音楽に親しんでそれを愛するようになるためには、やはりまずこの『牧神の午後への前奏曲』か『夜奏曲』から、耳を練り鍛えられるのが適切のように思われる。はじめ奇異だったものがこの上もなく甘美となり、曖昧模糊と感じられた霧の中から整々と立つモニュマソが隠見して、やがてその全容が見えるようになる。音楽的先入見の放棄と聴感覚の訓練こそ入門の第一歩。その独特な流動性と、融解と結晶と、音色の調和がかもす色と匂いと、ひろびろとした旋律のゆらめき。――総じて音によって形作られた彼のポエジーの、率直で鷹揚なうけとり方こそ理解と愛の端緒である。次第にこまやかになるドビュッシーの滋味は、成心パルティプリを持たない者、感覚の窓をあけはなして待つ者だけにしかわからない。
ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンらのドイツ古典に伍して、けっして遜色のないフランス的傑作であるその唯一の『弦楽四重奏曲』、また或る親しい友がその組み合わせの絶妙なのを讃えたとき、「おお、別の組み合わせはまだたくさんある。君はやがて見るだろう。だがそれは私の秘密だ」と彼が死の少し前に言ったというあのフルートとハープとヴィオラのための輝かしい『トリオ・ソナタ』、そういうものを聴きながら、この世の音楽的遺産のどんなに見事で豊かであるかを今更のように思う者、けっして私一人ではなかったろう。
時たま私は、渇した者が泉を求めるようにドビュッシーのピアノ曲を聴く。年をとるにしたがって、私の中の詩人もしばしば渇きを訴えるのだ。私は詩による潤いが、他郷の新鮮な水が欲しい。それも言葉や文字からでなく、きょうは特に音楽から欲しい。音楽は条件や制約をつけない解放者である。そしてピアノ作品におけるドビュッシーは、シューマン、ショパン、リストらの名声にもかかわらず、近代最高の抒情詩人ではないだろうか。『版画』、『映像』、『前奏曲』、さらに『子供の領分』を加えて、言葉による詩人の心気を一新してくれるものに事は欠かない。
『グラナダの夕暮』、『葉むらを洩れる鐘の音』、『月光の露台』などを行きめぐる、なんという音のほのめき、しなやかさ、かぐわしさだろう。『水の反映』、『金色の魚』、『沈める本寺』に聴く光と波のなんという震動と揺曳、単一楽器の織りなす壮大な交響的効果による、なんという薔薇窓の絵のうつろいだろう。しかし『亜麻色の髪の少女』、『ヒースの野』、『平原の風』、『帆』、『雪の上の足跡』、『西風の見たもの』などを聴いていると、私の精神は或る奮い立つような、雄々しくけなげな、北方的にすがすがしい風に打たれて、自分の新しい可能性を信じさせられるのである。そして『パコダ』、『デルフの踊り子』、『アナカプリの丘』、『ヴィノの門』に見る、地中海=オリエント的な日照りかがやく廃墟の牧歌。さらにまた巨怪な『象の子守歌』や可憐な『人形ヘのセレナード』で忘れることのできないあの『子供の領分』……思いつくままに挙げていたら切りはあるまい。
まことにドビュッシーの手になるピアノ曲は、この上もなく軽くほのぼのと煙るような優美さから、もっとも強大な重力の中心にまで揺れ動くことのできる重錘である。
ドビュッシーで私はその歌曲も好きだ(1)。十四歳の時の作だと言われる『星月夜』から、五十三歳、第一次世界大戦中の『もう家のない児らのクリスマス』に至るまで、自分ではとうてい歌えなくても、楽譜をたどったりレコードから聴いたりすることが私にたびたびある。しかし中でも、彼が現代的な旋律にたいする真の啓示を得た頃の諸作、ボードレールとヴェルレーヌとの歌曲集がすばらしい。それぞれの詩の要素である心的状況、抑揚、含蓄などがさながらに採り入れられ生かされて、言葉と音との得もいえぬ照り合いの中で昇華をとげているという趣きがある。トリスタン・レルミットの『二人の愛人の散策』も忘れがたい。「この暗き洞窟のそばで」や「我れおんみの面輪を見つつおののく」がなんとドビュッシー独特の、あの感動を抑えた長い楽句で波打っていることだろう。それらはやはりイール・ド・フランスの野の風光を、森と丘陵とをわずかな起伏とした優美でメランコリックな地平線を想わせる。しかし最後に『ビリティスの三つの歌』。ここに至ってはそれを歌い試みること、もう几庸の手にはおえない。
「もしも君がフランスの美しい歌曲を求めるなら、私はガブリェル・フォーレ(フランスのシューマン)や、デュパルクや、クロード・ドビュッシーのものを努めて知られるようにと勧めます。特にドビュッシーの作品はすこぶる微妙に磨き上げられたもので、フランス語の詩的なアクサンや語り方を完全に駆使し得なければなりません。その作品の中では、わけてもピエール・ルイスの短い詩に作曲した『ビリティスの三つの歌』が、あたかも高級な水晶のようにきわめて稀有な、手に取るさえ脆いような傑作です」と、親切なロマン・ロランは或る長い手紙の追白で私の眼を開いてくれた(2)。
私として今でも苦笑と共にその惜しさを思い出すのは、あの一枚の大切なレコードを、三十六年前の或る日、満一歳になる娘が皿のように頭に載せて、左右から両手で押し下げて真二つに割ってしまったことである。英国のヴィクター、ヒズ・マスタース・ヴォイスの赤盤で今でいう二十五センチのSPだった。それも片面しか音溝がなく、たしかユリア・クルプが歌って、まさにドビュッシー自身が伴奏をしている『星月夜ニュイ・デトワール』がそれだった。まだ郡部だった頃の上高井戸の畑中の家。妻は洗濯、私は仕事。家のまわりの武蔵野は、『帰れる子』のカンタータで悲しみの母親が歌うアリアのような収穫の秋。次の間で一人はしゃいで遊んでいる子供の声が急に静かになったので、そっとのぞいて見るとこのていたらくだった。覆水盆にかえらず。二つに割れた『星月夜』はもう永久に歌わなかった。そして、ああ、わがドビュッシーの『子供の領分チルドレンス・コーナー』にも、Un disque cassé(割られたレコード)という曲はない……。
(1)時間が無いのと研究不足のために、『ペレアスとメリザンド』やカンタータ『帰れる子』について
書くことができなかった。
(2)一九二五年八月十四日の手紙。
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