生活の中の音楽


   ※ルビは「語の小さな文字」で、傍点は「アンダーライン」で表現しています(満嶋)。

                                 

バッハへの思い

ベートーヴェンと自然

冬の日記から

私と笛

ドビュッシーのバガテル

 

                                     

 

 バッハへの思い (一九六三―六四年)

     1

 バッハが私に与えるものは、天使と格闘するヤコブのような或る時代のベートーヴェンのそれとは違うし、すべてを知っている無心のモーツァルトのそれとも違う。ヨーハン・セバスティアンは日光や空気や大地のように私を受けいれ、私のもっとも卑俗な訴えをさえ取り上げて、それを癒し、なだめ、鍛え直し、強く豊かなものとして返してくれる。
 私はヘ短調のヴァイオリンとチェンバロの奏鳴曲のラールゴを、自分では膝まずいて聴きたい程だと思っている。また二つの独奏楽器が弦の柔らかなピチカートに乗って応答する、あのオーボエとヴァイオリンと弦楽合奏のためのニ短調の協奏曲のアダージョを、二人の天使の夕空の歌のように、広々とした哀感と深いあこがれの思いで傾聴する。
 カンタータ第六十七番『イェス・キリストを記憶せよ』の第四曲では、合奏弦楽器の弾きとよもす「喧噪のモティーフ」を抑えなだめるように、フルートとオーボエとが澄み晴れた「浄化のモティーフ」を歌って、復活したキリストのバスのアリア「平安なんじらと共にあれ!」を導き出すが、私にはこれが自分の社会的日常的な凡庸な生活と、おのれの独りに沈潜する非凡な時聞との、世にも美しい音楽による表象のように思われる。
 わずらわしい社交や家庭内の関心事や、楽しくはあるが疲労をももたらす仕事の昼から解放されて、やがて静かに暗くなりゆく夜の時間、ひとたびバッハの音楽の雲の楼閣が湧き上がり、バッハの音楽の清冽な水が銀のさざめきを始めると、私という老いた樹木に新しい感覚と生気とが喜ばしく目をさまし、このヨーハン・セバスティアンの盛福な魂の夏の祭に、身も心も任せきってしまうのである。

     2

 楽しいと感じ、喜ばしいと思う心に、もう一つ清めの要素を欲するこのごろの私にとって、つい先日の夜に聴いたバッハ・ギルドの演奏会は、最近になく美しくも充実した、身にしみるような体験だった。
 初冬の細雨にけむる上野公園文化会館。その小ホールの会場は、私の着いた時すでに早くも満員だった。若い人たちが圧倒的に多く、曲目全部がバッハの作品というすばらしいもてなしに、くつろいだ中にも熱意があり、緊張の中にもなごやかに通じあう同じ心が感じられた。そして私はと言えば、老年の私はこの一夜から、音楽の聖体をうやうやしく拝受しようとする心構えでもあれば身構えでもあった。
 聴衆席がおもむろに暗くなり、舞台が花やかに明るくなると、フルートとチェンバロのためのソナタ第六番が始まった。こまかい装飾音をちりばめたアダージヨで始まるこの期待にみちた輝かしい曲を冒頭におき、チェロとチェンバロのための重厚で絢爛なソナタを中軸にすえ、演奏会の最後を二つの教会カンタータの潮のような高まりで結んで、その間に三つの可憐な二重唱と魅力に溢れたチェンバロの小さい独奏曲とを配した構成は、まことに見事でもあれば賢明でもあった。
 その四楽章から成る劈頭のソナタのフルートを、私などには三十年来のなじみである著名な奏者が美しく吹き切った。バッハ・ギルドの同志的な仕事が永続し、バッハ自身に多くのフルート曲があり、そしてこの奏者のなおすこぶる健在であることを思うと、これから先がますます楽しみになるような演奏だった。
 二重唱ではやはりソプラノとバリトーンのアリア、霊魂と神との神秘的な抱擁を歌う「わが友はわがものなり」に心をひかれた。その二重唱を柔らかに縫ったり支えたり、独奏となって輝いたりするオーボエがまた酔わせるように甘美だった。客演として出たらしいこの若い外国人のオーボエ奏者も、ギルドの演奏会には欠くことのできない一人であろう。カンタータ『われは満ち足れり』の第一曲で、人生の旅を終えた者の明るい諦念を歌うその笛のオブリガートを聴きながら、私はいよいよこの感を深くした。
 チェンバロの活躍がまた一つの見もの、聞きものだった。これは独奏曲『最愛の兄の旅立ちに寄せて』の楽しいカプリッチォに続いて、チェロと合奏するソナタ第三番で特に花々しかった。このソナタは『ブランデンブルク協奏曲』の三番や六番を連想させるものだが、二種の楽器だけで織りなしてゆく入念な対位法の地の厚さ、深さ、美々しさには、精緻なつづれ織のおもむきがあり、チェロの太糸とチェンバロの細い色糸とが互いに縒れ合ったり、模倣したり、追いかけ合ったり、しっかりと絡み合ったりして、息もつかずに進むのだった。
 『われは満ち足れり』と『われは善き牧者なり』の二つの教会カンタータを、一夜のうちに同時に聴くことのできたのはこの上もない喜びだった。そのいずれもがこの年になる私にとっては身につまされる内容を持った曲だし、気がつくといつか口ずさんでいるような温かい親しみに満ちた作品だからである。
 初めの曲で、ヴァイオリンの柔らかな波のような音形と、それに乗ってオーボエの吹き奏でる広々とした哀愁の主旋律とに誘われて、やがてバスが "Ichイヒ habeハーベ genugゲヌーク" を歌い出したところでは、もう胸のいっぱいになる思いがした。このアリアと言い、つづく「いざ眠れ、疲れし眼よ」のそれと言い、すべてが録音などではなくて、眼前で生きた人間が心情と技術とをかたむけて歌ったり奏でたりしているのだから、音楽とその場の雰囲気とが心を打ってくるのである。そして同じことが二つ目のカンタータでも言えた。みずからの感動に顫えているようなあのバスのアリア「われは善き牧者なり」や、付点音符の階段を輝かしく駆けのぼるソプラノのコラール「主はわが誠実なる牧者にして……」。こういうものはすべて面と向かった人間同士の交感に待たなくてはならないのである。
 バッハ・ギルドの第二回の仕事は美しかった。そして私としては喜びと楽しみの上にもう一つ期待した清めを与えられて、静かに充ちた心、高く発揚された精神で、初冬の夜の雨の家路についたのであった。

    3

 東京バロック音楽協会の演奏会の夜、上野文化会館の小ホールの会場で、私は聴衆席の最前列、それも舞台へむかって中央からちょっと右寄りの席にいた。そしてチェンバロの活躍を主としたその夜のバッハばかりの全曲目も、私にとっては感動と喜びとのなかに惜しくも次々と鳴り消えて、さて最後の最大の期待、『ブランデンブルク協奏曲』の第五番が、弦楽器の合奏で奔流のように押し出した。
 むかって左に遠く独奏フルートとヴァイオリン、右手に近くチェロとダブルバス、うしろの壁にそってヴァイオリンとヴィオラの一列。そして半円形にふくれた舞台のまんなかの、高い崖がけぶちすれすれに白い大きなチェンバロの蟠踞ばんきょ。そのチェンバロとチェロとの真下にいる私は、いわばブランデンブルク号という巨大な旅客船の傍腹に、ぴったりと着いて浮かんでいる艀はしけのようなものだった。だから音楽の大風たいふうはバランスをもって正面から吹きつけず、方向にせよ、量にせよ、常にいくらか片寄りながら私に来た。しかしそういう席にいたおかげで、私は聴く楽しみのほかに見る楽しみ、或る楽員たちの精妙な指の動きや、美しく熱した集中的な顔の表情を、すぐ目前にする喜びを味わうことができた。なぜならばこの曲自体について言えば、私はほぼ暗誦できるくらいよく知っていたから。
 第一楽章の後半で、営々として玉をつづり錦を刻んでいるかと思うと、たちまち颯爽と腕を舞わすチェンバロ奏者の眼光の変化。一見いくらか眠そうな顔をしていながら、心火は内に烈しく燃えて、耳をそばだててよく聴けば、涼しく爽やかな旋律を孜々ししとして弾いているチェロ奏者。また今宵バッハを弾くことが嬉しくてたまらないような、若くて頼もしいバス奏者。演奏家と聴衆とが感奮を共にする現場の徳がそこにあった。
 私は時どき伸び上がってチェンバリストの肩越しに、むこうの方のフルートとヴァイオリン独奏者の力演を観察した。そしてまたこれはちょっと無作法なことかも知れないが、前に立ちはだかったチェンバロの腹の下から、その三本足の股の間から、壁ぎわに並んでいる弦楽合奏団の列をのぞいて見た。踏んばった六本のズボンにまじって一つだけしとやかなスカートが見え、若い女のヴァイオリニストの静かに熱した顔があった。ブランデンブルクという逞しい調和の海流に、一筋の寄与をしている女性の顔が。
 この名高い協奏曲、いずれ劣らぬ六つの『ブランデンブルク』の中でも、その第二楽章の「アフェットゥオーソ」のために特に好きな第五番を私はいくたび聴いたろうか。やってくれなければ聴くことのできない演奏会でよりも、心の求める時にいつでも聴けるレコードの方が遥かに多い事はもちろんだが。
 しかし一般に、もしも私に演奏会での実演を見たり聴いたりした経験が皆無だったとしたら、機械による再生音だけから受け取る音楽の感銘というものは果たしてどんなものだろうか。演奏会には演奏する人々とそれを聴く聴衆とで醸し出す独特の雰囲気と場内感とがあるが、個人の小さな室内で、一人乃至数人で、機械から出てくる音に耳を煩けるレコード音楽には何よりもこの貴重なものが欠けている。この事は受けとり方の変質や習慣のために忘られがちであるが、本当は時どき思い出してみる必要のある大事なことのように思われる。私はベートーヴェンの『第九』を、特にその合唱を、一人で聴こうとは思わないし、モーツァルトの絶美なピアノ・コンチェルトを独占しようとも思わない。しかし色々な事情でやむを得ないとすれば、音盤を置き、電流を通じ、針を載せて、大演奏会のイメージを最も美しく生き生きと脳裏にえがきながら聴くのである。その理想的な場面に同席している気持になって。
 或る日書斎で片づけものをしていたら、戸棚の隅から一山の古いレコードの包みが出てきた。すべて三十年前四十年前のレコードだから、旧式の厚い重たいSP盤には違いない。塵をはたいてかび臭い包みをほどいてみると、ヴァインガルトナー指揮の『田園』や『第八』や、カペー弦楽四重奏団の弾いている後期のクワルテットのようなベートーヴェンにまじって、バッハの『ブランデンブルク』の一揃いも現われた。私はその中からさっそく三枚組の第五番を抜き出して、針を換え、速度を換えて掛けてみた。すると砂利道を驀進する車のような騒音を圧倒して、モイーズがフルートを吹き、アドルフ・ブッシュがヴァイオリンを弾き、若いゼルキンがチェンバロの代りにピアノを受けもっている第二楽章の、昔なつかしい愛と献身のエレジーが歌い出した。美しいまぼろしたちよ! これを演奏している三人のうちの二人はすでに他界し、彼らの実演をまのあたりにした人々の大半もすでに亡き人の数に入っている。演奏によって再現される音楽はなおいくらかの永遠を保証されるが、再現する人、またそれを愛をもって聴く人々は次々と辞し去るのである。しかしここに一枚の古いレコードがあって、傷ついたのかなたから昔を語る。してみれば、たとえレコードという物にいくつかの容疑の余地はあるにせよ、われわれはその功績、その恩恵、(と言って悪ければ)、その長所を認めてやるのにやぶさかであってはならないだろう。
 つい近ごろの或る夜更けのこと、私はラジオで、音楽についての所信を述べながらバッハを最も好きだと告白している人の解説で、同じ『ブランデンブルク』の第五番の最初の楽章を偶然聴いた。演奏はニュージーランド管弦楽団ということだった。いかにも陽快で屈託がなく、堂々というよりもむしろ人をして浮き浮きさせるような感じのものだった。バッハは海のようだ。打ち寄せる岸べ、受けとる陸によってその水の眺めも色あいも変わるのである。チェンバロとピアノとの差は別としても、ワンダ・ランドフスカとエドヴィン・フィッシヤーの『平均率』になんという相異があることだろう。しかもその双方が「われらのバッハ」であることはすばらしい。

     4

 風呂から上がって書斎へ入ると、片隅の椅子に妻がつつましく腰をかけて、珍しやレコードを聴いている。彼女が自分から思い立って一人で聴くというのは、一年に一度か二度しか無いことである。「すみませんが聴かして下さいね。急に聴きたくなったものですから」と妻が言う。すまないどころか、矢も楯もたまらなくなって聴いているというその気持が私にはうれしい。快くうなずいて私も自分の椅子へ沈みこむ。曲はバッハのオルガン曲で、『六つのシューブラー・コラール』の最初のものである。写真で見ただけだが、深く澄んだ眼をした若く美しいマリー・クレール・アランが弾いている。左手で弾く「シオンは物見らの歌うを聴く」のコラール旋律が、右手の鍵盤の花やかに律動的な旋律のなかへ、ちょうど今悠然と入って来たところだった。第十三小節の三拍目、いつ聴いても心のときめく箇所である。
 一七四六年というからバッハの死ぬ四年前に、ヨーハン・ゲオルク・シューブラーの手で出版されたこの六曲から成るオルガン・コラール集は、それぞれがバッハ自身によって自作のカンタータのコラールの中から編曲されたものだと言われている。そしてもう一つ別の更に壮麗な『十八曲のオルガン・コラール集』も同様に晩年に書き改めた編曲であるが、カンタータの合唱で聴く以外にも私はこれらのオルガン曲を愛している。カンタータのレチタティーヴォやアリアももとよりいいが、私は時として単純で素朴なコラールを一層よろこぶ。カンタータ『目ざめよと呼ぶ声す』の第四曲「シオンは物見らの歌うを聴く」。キリストの言葉ではないが、今夜彼女は善きかたを選んだ。これならば私も寝る前に心ゆたかに聴くことができる。終わる一日が清められる。
 レコードは持ってさえいればいつでも聴けるとは言いながら、本当はそう始終ほしいままに、じだらくに聴くものではないと思う。真に聴きたい時、急に聴きたくてたまらなくなった時、その熱望の一曲に耳と心を傾けてこそ、レコードという物の効用や徳は発揮されるのである。私も多少は持っているが、そう毎晩は聴かず、日曜日や休日でないかぎり、原則として昼間は、また特に午前中は絶対にと言っていいくらい聴かない。それは私が自分の仕事の時間を変質させまいという自粛からではあるが、また巨匠の音楽を愛めで敬い、傑作の稀少価値を重んじるからでもある。
 妻は熱望の一曲に満ち足りると、何の仲でも一言礼の言葉を残して、今度は彼女の番として浴室へ行った。私は同じクレール・アランの弾いているバッハの新譜『パストラーレ』を聴こうかと思ったが、思い直して煙草を吸い、それから静かに床へ入った。あしたの朝は庭の緋桃が今年のつぼみを綻ばせるだろう。そしてけさから始まったツグミたちの春の歌が、三月のなごやかな薄青い空間に流れるだろう。私も春の呼ぶのを聴くわけである。

     5

 ことし(一九六四年)の復活祭は三月二十九日だった。ここ十数年来、毎年の例にしたがえば、この静かに祝福すべき日には家にいて、朝から敬虔な讃美歌をうたい、色さまざまに染められた卵を神妙に剝き、白い柔らかいパンを裂き、赤々ときらめく葡萄酒を薄いグラスから飲むのである。私たち、私と妻とは、洗礼を受けたキリスト教徒ではないが、また事にかこつけて飲み食いに没頭する夫婦でも勿論ないが、本心は互いに充分クリスチャンなので、カトリックのものであれプロテスタントのものであれ、マリアやキリストにゆかりのある祭や行事のいくつかを、来る年ごとに二人だけでつつましく、かつ或る意味では美的に寓意的に踏襲しているのである。
 しかし、今年はそうはいかなかった。私たちはきのうから信州松本へ来ていて、今日の午後行なわれる友人の息女の結婚式に、その媒妁の役をつとめる事になっていた。すべてを神官に任せた神前結婚だから面倒は無いようなものの、それに続く盛大な披露宴と共に何かと気疲れはあるはずだった。その二十九日の午前六時ごろ、私は市街の中心部とは思われないほど静かな旅館の一室で目をさました。どこか遠くで教会の鐘が鳴っていた。ヴェランダのカーテンを引いて見上げると、青々と晴れた春の空だった。隣接した高い建物に遮られてここからは見えないが、たぶん武石たけしか袴腰はかまごしの山頂をかすめて流れて来ると思われるすがすがしい日光が、その青空に眩しい金色こんじきをまじえていた。座敷ではもうきちんと身じまいを済ませた妻が、小さい声で「美わしの白百合」の讃美歌を歌っていた。私は多摩川の空に燕が飛びかい、庭に連翹れんぎょうや土佐ミズキの黄色い花の咲き初めている東京のわが家を思った。
 式の始まるまで別に用事もなく、妻も予約をしてある美容院へ行く午後三時ごろまで体があいているので、それまでの数時間を松本城やその周囲の公園でゆっくり過ごすことにした。幸い宿の近くに一人の古い親しい山友達が住んでいて、彼もまた今日の披露宴に招かれていたので、ゆっくりと運ばれた朝飯を済ますと町へ出て誘い出し、その案内で程近い公園へ行った。今年最初の松本の春であり、おまけに麗らかな日曜日というので、園内は行楽の人々で賑わっていた。私たちは漸く見つけた空席のベンチヘ腰を下ろして、町の西のほう、ほのぼのと立ちこめた春霞の奥で、柔らかに雪を光らせている北アルプスの青い連峰を眺めた。そこからはやはり常念がいちばん立派で、蝶ヶ岳がいちばん優美だった。南から北へ一つ一つ山の名を挙げながら青いスカイラインを辿ってゆくと、遠く爺ヶ岳と鹿島槍とが影絵のように薄れて、それから先は濃い霞に掻き消されていた。おりから頭の上を飛んでゆく鳥があった。さては春をさきがける燕かと思ったら、お城のまわりに多いケヤキの大木に巣を営んでいる椋鳥むくどりだった。

 大手門から入ったお城の前の静かな広場では、花壇の薔薇はまだほとんど冬の姿だったが、片隅の明るい芝生には点々とタンポポの黄をまじえて、イヌノフグリの空色の花が広々と密集して咲いていた。それは古い高貴な綴織つづれおりを想わせ、何という事なしにルネサンスやバロックの音楽の音色ねいろを、それも特にチェンバロやリュートの調べを想わせた。すると今度の旅のために音楽から遠ざかっていた事が思い出され、そういえばこのすぐ近くに土地でも有名なIさんの医院があり、そこのK子というお嬢さんが東京の或る音楽大学出身のピアニストで、十五年ほど前の学生時代に、富士見高原の彼女の叔父の家で私たちのためにバッハの『パルティータ』を弾いてくれた時の事まで遠い記憶からよみがえった。彼女は今この松本と大町とにピアノの塾を持っていて、多くの弟子たちの養成に当たっているはずである。私に卒然として懐かしさの思いが湧き、ここからは堀一重のところだからちょっと訪ねて行って顔を見、その両親にも永い無沙汰の挨拶をして来ようかと思った。しかし考えてみれば今度の旅の用件が、彼らも知っているだろう家の娘の媒妁である上に、K子自身がまだ独身でいるのかも知れないと思って、その訪問は遠慮することにした。
 媒妁人という務めを大過もなく果たし、招かれて出席した幾人かの山友達とも再会を喜んで、私たちは翌日の夜おそく三日ぶりで東京の自宅へ帰った。しかしその帰りの列車の中でもずっと、あの公園から眺めた春霞の奥の北アルプスや、松本城の芝生を彩っていたイヌノフグリの空色の花や、会わずに帰ったK子とその家の事などが頭を離れず、或るいとおしさのような思いが胸を締めつけることをやめなかった。
 こういう気持は、旅の途上の一時的な感傷として忘れてしまってはいけないのである。味わえるだけ味わい、苦しむだけ苦しんでそこから癒され、そこから光を生み出さなければならない。とにかくそういう気持から、私は帰宅した翌朝さっそく昔書いた『一日の終りに』という文章を調べた。そしてK子の聴かせてくれた『パルティータ』がその第二番(ハ短調)の序曲だった事を確かめた。バッハにはクラヴィーアの『パルティータ』なるものが大体六曲あって、楽器はチェンバロが普通であり、時にはピアノも用いられている。K子はもちろんピアノで弾いたのだが、ちょうどその第二番だけが私の持っているレコードから欠けていた。そこですぐに銀座の楽器店へ電話で問い合わせたところ、ほかの五曲と同様にカークパトリックがチェンバロで弾いているのが在庫しているという事だったので、幸運を喜びながら買いに行った。
 復活祭週間第三日目の午後、賑やかな都心から静かな郊外の家へ帰ってくると、私は期待に満たされてその音楽に聴き入った。十五年という時と処との隔たりは、その第一曲のシンフォニアとフーガの記憶を私から全く消し去っていたから初めて聴くのも同じだった。そしてもちろん第二曲のアルマンド以下はほんとうの初耳だった。全曲は期待にたがわず見事なものだった。思い出の中でのK子との再会を機縁に嬉しくも揃った六曲の『パルティータ』。その中でもこの第二番は、今後私にとって特別な愛の一曲となるだろう。
 それにしてもこの序曲との再びのめぐりあいは、あの松本の公園での春のアルプスの眺めから芝生の花、つづいてバロックの音楽とバッハ、K子の昔の演奏と目前のその家――という順序で発展した私の連想を、この東京の書斎でいくらか悲しく、また一層美しく培つちかうのだった。そして序曲のフランス風な第一部が壮麗な銀と青との山波を想わせ、イタリア風な第二部がういういしくも鄙びた春の花の歌を想わせ、第三部のフーガが人間と土地とに対する自分の愛情と、そのために思い乱れたあのせつない気持とに入りまじり響き合っているように思われた。そして、こうした人生の体験で自分を養い高めてくれる音楽として、ゆくりなくも今日という日に手に入ったヨーハン・セバスティアン・バッハの『パルティータ』第二番を、私は天と巨匠とからの復活祭の贈り物のようにうやうやしく戴いたのである。

 


 目次へ

 

 ベートーヴェンと自然 (一九六二年)

 自然にたいするベートーヴェンの愛や傾倒がどのようなものであったか、またそういう感情のもっとも直接的で典型的な音楽表現と見られる『田園交響曲』を筆頭として、他のいくたの作品からわれわれが彼の「自然」を感得するとしたら、それはどういう性質のものだろうか。ここではそうした事を少しばかり考えてみたい。
 自然がベートーヴェンにとって終始変わることのない真実の慰め手であり、規範であり、その魂の唯一の避難所であったことは、彼と親しかった同時代者の多くの証言によっても明らかである。やがて破談にはなったが彼と婚約をかわした美しい高貴なテレーゼ・フォンーブルンスヴィックも、「自然はあのかたが打明け話をするただ一つの相手でした」と言っているし、一八一五年に彼に会ったイギリス人チャールズ・ニートも、彼のように申しぶんなく花や雲や自然を愛する人を見たことがないと言っている。また元来ドイツ生まれで、一八二四年九月にイギリスから彼を訪ねて行ったロンドンのハープ製作者ヨーハン・アンドレーアス・シュトゥンプも、その回想録の中で一層くわしくベートーヴェンのこの一面を伝えている。そこで私は、日本ではたぶんまだ余り知られていないだろうと思われるその思い出の文章の中から、諸君及び私自身への資料としてその要領書きを作ってみよう。そしてベートーヴェン自身の言葉だけは、文中の字句どおり翻訳することにする。
 英本土から到着したシュトゥンプは、ウィーン郊外の温泉地バーデンへベートーヴェンに会いに行った。彼にとって最も好意的なイギリスからの客であり、またその誠実な人柄も気に入ったのか、ベートーヴェンはシュトゥンプを歓迎した。そして或る日朝早く、ベートーヴェンのほうから彼をその宿へ訪ねて行って、野外の散歩にさそい出した。一八二四年というから死の三年前で五十四歳のベートーヴェン、もう最後の三つのピアノ・ソナタも、『荘厳ミサ』も、『第九交響曲』も書いてしまって、今ぞ深遠な音楽的宇宙の五つの星雲ともいうべき弦楽四重奏曲に指を染めていた頃のベートーヴェン、そのベートーヴェンがこう言って誘ったとシュトウンプは言うのである――
 「私はけがれのない自然の中で休養をとって、精神を洗い清めなければならない。君は今日をどういうふうに過ごすつもりですか。今日は私と一緒に暮らして、私の不変の友人、緑の森や昂然と立つ木々や、小川のほとりの茂みや、青々とした隠れがに会いに行きませんか。そうです、太陽が熟させてくれるその房を、丘の高みから差し出している葡萄の株を見に行くのです。ねえ、そうしましょう。あすこには仕事の上の嫉妬もなければ悪だくみもない。行きましょう! 行きましょう! なんというすばらしい朝だろう! 見事な一日が約束されています!」
 こうして彼らはヘレーネンタールヘの道をとった。歩きながらの話題はイギリスで『田園』その他の交響曲が好評だということや、第十番目の交響曲が待たれているという事などがおもであったらしい。そしてベートーヴェンも、イギリスでは偉大なものへの感覚がまだ失われていないことを認め、私もロンドンを訪問したら君の所へ泊めてもらうことにしようと言った。
 やがて二人は或る美しいロマンティックな場所へ着いた。年を経た堂々たる木々が青空の中に梢をかざし、ほのぐらい茂みが日光にどっぷりと漬かって、その反射を緑の芝生に投げていた。森に住む小鳥や小動物たちが、彼らの投げ与える餌をもとめて姿を現わした。どこからか滝の音がきこえていた。ベートーヴェンは芝生に腰を下ろしていたが、やがてこう言った――
 「私はたびたびここへ来て、自然の創造物に取り巻かれながら、時には何時間もこうしてすわっているのです。そんな時、私の感覚は、身ごもっては産み出す自然の子らを眺めて酔いしれます。あすこに見えるあの太陽は、その威厳にみちた姿を、人間の手に成るどんな醜い屋根によっても私の目から隠しません。あすこに広がっているあの青空こそ、私にとっての崇高な屋根です。日が暮れると、私は天空と、太陽とか地球とか呼ばれているその光の軍勢とを、驚嘆して眺めます。彼らは永久にそれぞれの軌道をめぐっているのですが、私の精神は何百万キロを隔てたそれらの星辰にむかって、そこから創造されたものが生まれ、そこから新しい生物が永遠に生まれてやまない、その源泉にむかって突進します。そこから私は、自分のうちに目ざめた感情に音楽的な形を与えるために色々とやってみます。しかし、ああ! 私の味わうのは恐ろしい幻滅です。私は書きなぐった紙きれを地面に叩きつけます。そして私の意識は、この地上には、興奮した想像力がそんな祝福された時間に浮き漂うのを見た天国的なイメージを、音や音符や色彩や鑿のみで再現することのできる人の子などは有りはしないのだという事実に、ほとんど圧伏されてしまうのです。」
 こういうふうに熱した口調で心中を吐露してしまうと、ベートーヴェンは突然立ち上がって太陽を仰ぎながら言った――
 「そうです。心に訴えるものはあの高みから来なければなりません。さもなければ、有るものはただの音、魂のない肉体だけでしょう! 魂は神聖な火花が或る期間追放されていたその大地から立ち上がらなければなりません。ちょうど農夫が彼の貴重な種子を託した畠で、作物が花を咲かせ、多くの実を結んで殖え、栄え、そして彼らが落ちて来たその根源のほうへ再び昇らなければならないのと同じ事です。なぜかと言えば、被造物がその創造主や無限自然の管理者をあがめる道は、自分たちに貸し与えられたさまざまな能力による執拗な努力以外には無いからです。」
 シュトウンプの思い出の紹介はこれで終りにするが、ベートーヴェンのこれらの熱切な言葉を聴いていると、彼がゲレルトの詩につけた『自然の中なる神への畏敬』や、あの幽玄な『星空の下の夕べの歌』などがたちまち心に浮かんでくる。そしてこういう敬虔と賛美の歌詞が、率直に、作り事でなしに彼をとらえ、原詩にまさる深く美しい感動をその音楽の中にそそぎこませたゆえんのものがわかる気がする。彼は花や小鳥や雲や風景を愛したと言われても、その愛はいわゆる「自然愛好家」のそれとは違うのであり、自然こそ彼の魂の避難所であったと伝えられても、それはむしろ世間苦に悩まされ汚された魂の浄水池、創造のためのルツボの観があって、けっして単なる行楽や休養の場所としてとどまってはいないのである。彼は常に一冊の音楽帳をたずさえていて、野外で小鳥の歌や小川のせせらぎ、牧人の笛の音や森のささやきをノートしていたと言われるが、それは自然美の快い安易な描写のためではなく、世界の創造主による被造物の調和の美や喜びや苦悩への人間的融合感情の、音による表現の蓄積のためだったのである。『田園交響曲』について、「あれは印象ではなくて感情の表現だ」と言ったという彼の言葉に、今われわれはきわめて素直に同感しないわけにはいかない。たとえ或る耳には、あの中の郭公や鶉うずらや小夜啼き鳥の歌が一種の添え物のように聴こえ、雷鳴や突風の襲来があまりに素材に即つきすぎているように取られるとしても。
 音楽では、他の芸術にあっても同じ事だが、単なる描写は作品を薄っぺらにし、凡庸にする。ベートーヴェンは常に現象の底をさぐり、つかみ取り、それを幾たびも打ち返し裏返して心ゆくまで点検する。そしておのれの血肉を与えながら一つの作品として練りに練る。それゆえ出来上がった音楽はすべてベートーヴェン的変貌をとげ、ベートーヴェンその人の血を担い、肉を具えている。自然は彼を牽き彼を陶酔させるが、彼が自然から乗ぜられたり欺かれたりして自己を失うことのないのは正にそのためである。
 その音楽に現われた自然のベートーヴェン的変貌、ベートーヴェン的血肉。私はその自然を彼のほとんですべての作品の何処かしらに必ず感じずにはいられない。それは一つには私自身が自然を熱愛し、自分のいくらか持っているさまざまな科学的知識にもかかわらず、けっきょく世界の創造主の厳存を信ぜずにはいられないこと、ベートーヴェンと思いを同じくしているせいかも知れないが、たとえば彼の一つのピアノ・ソナタ、一つの弦楽四重奏曲、或いは一つの交響曲を聴きながら、そこに、(特に中期以後の作品の中に)、必ず自然の深みや広がりの美の比類なき音楽的化身を見るのである。そしてこれは、強いてそう思って聴くからではなく、想念をかまえて待ち迎えるからでもなく、実にハイリゲンシュタットや、メートリングや、ヘレーネンタールで代表されるベートーヴェンと自然との深い内面的なつながりの消息を、私が自分の事のように知り、信じ、体験しているからではないかと思う。

 

 目次へ

 

 冬の日記から (一九六三年二月)

 ジョルジュ・デュアメルの長篇小説『パスキエ家年代記』の第七巻の初めに、主人公の生物学者ローラン・パスキエが昨夜こんな夢を見たと言って、世界的ピアニストである妹セシールに話して聴かせるところがある。――
 どこだか知らないが或る田舎を散歩していた。すると一むらの菩提樹の木立の下に、突然シューベルトの墓を見つけた。あたりには深い静けさがひろがっていた。ローランは地面にひざまずいて叫んだ、「先生、先生、僕の声が聴こえますか。」シューベルトの答えはなかった。ローランはなおも続けた、「先生、思い出してください。僕たちはあなたを知っていた人たちの子孫です。けれども僕たちはいつまでもあなたのおかげで生きています。あなたが残して下すったたくさんの宝で生きているのです。先生。あなたが僕たちのために、また僕たちの子供やそのまた子供のために作られたすべての歌のことを思い出して下さい。」
 すると大地の底からフランツ・シューベルトの声が聴こえてきた。本当にぼんやりとした、悲しそうな、ひどく遠くからの声が。「君は僕にどうしろと言うのか。何を思い出せと言うのか。」そこでローランは顔を草に触れんばかりにして叫んだ、「あなたが僕たちのために作ったものの事を思い出して下さい。僕が『死と乙女』を歌いましょうか。それとも『海辺にて』を歌いましょうか。あの変ホ長調三重奏曲のアンダンテを、あなたは覚えておいででしょうか。」
 するともういちど墓の下からシューベルトの声が伝わってきたが、今度は前よりも悲しげで、もっとかすかだった。「僕はもうよく覚えていない。いや、いや、あれはもうずっと昔のことだ。僕は君からも、君たちからも、ひどく遠くなっている。そして今ではもう理解のできない、また理解したいとも思わない一つの生のすべてから遠い遠い処にいるのだ。行くがいい、旅の人。僕を眠らせておいてくれ」――
 永遠の生などというものの遂に在り得ないことを言ったと思われる、この悲しい夢の挿話を今日もまた読んだあとで、私は心をかげらす哀愁の雲を当のシューベルトのどんな歌で払いのけようとするのだろうか。私としてあの『勇気』を歌おうか。『信ぜよ、希望を持てよ、愛せよ』を歌おうか。それとも『鱒』か『ノルマンの歌』を口ずさもうか。だがそれを歌ったら心の不安、死の虚無感が拭い去られるというのだろうか。生あるもののはかなさの思いが、いくらかでも軽減されるというのだろうか。
 しかし、ちょうどそういう処へ、全く奇くしくも、そして思いがけない現世の救いのように、書店白水社から浅井真男氏の訳になるアルフレート・アインシュタインの大著『シューベルト』が届けられた。五百ページを越える大冊であり、内容もまた同じ著者のこれに先だつ『モーツァルト』に劣らないほど、豊富と充実とをきわめた書物だった。
 私にもまたシューベルトによって救われる一日があり、シューベルトを口ずさんで彼と共にすごす多くの時間がある。それはバッハやモーツァルトやベートーヴェンと共に生きる時とはまた違った一つのユニークな時間であり、私という詩人の心が彼を音楽の空からの親しい天使、すべての打ち明けを聴いてもらえ、察してもらえる、言わば偉大な兄や友のように思って接する時間でもある。
 そういうシューベルトが世界的に流布されている名声にもかかわらず、千百の安易な評価や俗説にまとわれ不潔に手垢をつけられて、今では民間信仰か伝承の古い木像のようになっている。その手垢を洗い落とし、俗化した周囲を清めて、ここに真にフランツ・シューベルトの人間像と芸術相とを再建しようというのが著者アインシュタインの高邁な意図であり、厳正で良心的な訳者の悲願でもあるに違いない。そしてその美しい意図と願いとは、今度の大冊の出版によって見事に達せられたと私は信じるのである。
 そして今私がこれを書いている冬のさなかの土曜日の午後、「おじいちゃんの此の新しい良い御本への添え物に、私がまたあれを弾いて上げましょう」と言って、十五になる孫娘がピアノに向かって弾いてくれたのは作品九〇の『即興曲』の第四番、私にとっては夏の森林に囲まれた遠い信州の山荘の思い出、湧きこぼれる泉のようなアルページョの間から、カンタービレの旋律が歌い出すあの変イ長調のアレグレットだった。

 

 

目次へ

 

 私と笛 (一九六三年)

 唇ではさんで、柔らかに締めた時の感触が似ているせいか、煙草を吸おうとしてパイプを口へ当てた瞬間、一息吸ったその煙草を急いで揉み消して、棚の上の笛を取り上げることがよくある。笛はドイツやスイス製の木管の縦笛ブロックフレーテで、ソプラノとソプラニーノとアルトの三本。しかしこの最後のものは、私の手が小さくて指もまた短いせいか、今のところ、まだなかなか思うように音が出ない。
 ともかくも、今朝、私はクチナシやアジサイの咲いている七月の雨上がりの庭を前に、吸いさしの煙草を捨てて笛を吹いてみた。これからいつものように机に向かって朝の仕事にかかるのだから、別に打込んで練習しようというほどの気持ではない。しかし新しい楽譜のことも気にかかる。その楽譜というのはジャン・バティスト・ルイエのト長調のソナタである。速い箇所はとても駄目だが、遅いところならばどうにかいけるだろうと思って、第三楽章のアダージョをやってみた。腕は拙いが曲は美しい。息と指とに造形されるルイエ独得の気品の高い旋律が緑濃い庭へ流れて、すがすがしい朝の祝福がそこにあった。
 本職を離れた、いわばなぐさみには違いないが、私と笛との親しみはわりに古い。一九五〇年の正月だったから今からおよそ十三年まえ、当時信州の富士見高原で戦後六度目の新年を迎えた私たち夫婦のところへ、媒妁をした若い二人とその妹とが東京から年賀に来た。夫は科学者でフルートのアマチュア、妻君は本職のピアニスト、夫の妹は声楽家だった。その三人がわざわざ竹管の縦笛を持って来て、私たちのためにいくつかの曲を合奏した。それが実にすばらしくもあれば感動的でもあった。
 思ってもみるがいい。雪と寒気にとざされた八ケ岳山麓の森のなか、音楽といえば昔の小さいオルガンと自分たちの歌だけしか響くことのなかった古い大きな山荘に、小曲ながらこれを最初としてバッハ、ヘンデル、テレマン、コレルリ、パーセルらの笛のしらべが、孤独な世界への天からの使信、痛む心への慰めのように流れたのだった!
 若い友だちは東京へ帰ると、さっそく一管の笛と一冊の教則本とを送ってくれた。笛の表面は落ちついた褐色に磨かれて、竹の繊維が細く真直ぐにとおっている。八つある指孔と管の内がわとが鮮かな朱色の漆で塗られていて、まことに典雅に美しい。吹いてみるとソプラノの音色は澄んでまろく柔らかく、二オクターヴに近い音域は半音を加えると大概の曲の演奏に耐え、息の入れかた一つでかなりのヴォリュームと輝きとを与えることができる。私の流寓の生活に一つの光、一つの希望が加わった。そしてそれ以来、山荘をかこむ森林や高原の草の中から、空行く雲のように単純で意味深い私の笛のしらべが響くことになった。
 そういうところへ春の或る日、東京から串田孫一さんが遊びに来た。友の中の柔らかな友、人の中の「できた人」である串田さんは、山里の寂しさを生きる旧友夫婦を喜ばせながら三日ばかり逗留した。私たちは森の小鳥の歌を聴いたり、花と若葉の高原をさまよったり、山裾の小さい村々をたずねたりした。風景であれ草木であれ、絵の上手な串田さんに写生の題材はいたるところにあったので、そのスケッチブックには自由自在に鉛筆が走り、透明な絵の具が軽やかに塗られた。そしてその間に私の竹笛が紹介されたことは言うまでもないだろう。
 私は八ケ岳に面した池のほとりの若草のなか、一本の大きなクルミの樹の下にすわって、彼のためにまずアントン・ルービンシュタインの『天使』のメロディーを吹いた。被占領下の都会の汚辱にまみれながら、なおその中でけなげに生きる人々と共にある天使の詩を、ちょうどその頃書いたばかりだったからだ。それからバッハやモーツァルトの断片を吹いた。
 串田さんは周囲の風景と笛のしらべとに感動し、この新しい喜びと慰めとを彼に保証する単純な楽器に心をうばわれた。そして一時も早くそれを手に入れたくなったのか、短い訪問をさらに早目に切り上げて東京へ帰っていった。
 こうした思い出ももう十年以上の昔になる。その間には私も当然年をとったが、またかなりな仕事の成果もあった。そしてその仕事を刺激したりそれに伴奏するものとして、バッハやベートーヴェンを主とする古典の音楽がいよいよ心を引き、時どきの友であり楽しみでもある例の笛も竹のものから木管のブロックフレーテに出世して、私に吹ける曲目もしだいにその数を増した。指の動きが堅く鈍くなったので速いものには手こずるが、遅いもの、ゆっくりしたものならば一応はこなせて、それに自分なりの思いや感情の明暗を吹きこむこともできると思っている。
 しかし目ざましい進歩をしたのは串田さんである。私が一人で道草を食っている間に彼は一直線に上達し、今では五種の笛をそろえ、つつましやかにコンソール・ゼフィール(そよかぜ合奏団)を名乗って数人の同好を集めている。そしておりおり集まって演奏するそのレパートリーは、バロックからプレ・バッハにまで及んでいる。
 私の笛に大して進歩の跡が見られないのは、若い友人達から遠く離れて住んでいて一緒に練習するおりが乏しかったり、仲間から刺激をうける機会が少なかったりするのも一つの理由だが、結局自分だけの楽しみに甘んじて、易きについているのがその最も大きな原因である。ブロックフレーテ音楽の本当の良さ、その真価は合奏によってこそ発揮される。いくら心をこめて吹いても、一人だけで衆賛歌コラールの主旋律に酔ったり、サラバンドやシチリアーノの上声部に没頭しているだけでは駄目なのである。その一人だけの吹奏にしたところで、自分では大層美しいように思っていながら、ひとたびこれをテープレコーダーに取って聴いてみると、その哀れなこと、貧弱なこと、まことにもって話にもならない。
 そういう相手に今朝ルイエがつかまったのである。そして「朝の祝福がそこにあった」などと感謝されているのである。

     *

 全然負け惜しみでないこともないが、私はこの笛をそんなに上手にならなくてもいいと思っている。まず指が言うことをきかないし、楽句フレーズが要求しているとおりには息が続かない。それも絶えず練習を重ねていれば或る程度まで上達するかも知れないが、もう先が知れていて、大体感じられているその余命を仕事で埋めてゆかなくてはならないとしてみれば、笛も笛だがそれは飽くまでも片時かたときの楽しみ、毎日の仕事こそ自分の一生の記念碑モニュマンの、最後の積み重ねでなくてはならない。そしてたとえ大した事はできなくても、自分でなければ出来ない個性的な仕事がまだいくらか残っているのだと思うと、つい楽しみは二の次になり、笛は箱へ仕舞われて、薄暗い棚の上に戻るのである。
 もちろん、今まで譜を見てまごついていた指が初見でもちゃんと正しい孔をふさいだり、最低や最高の音がきれいに出たり、むずかしかった楽句が渋滞なく吹けるようになったりする時はやはり嬉しい。だから練習はするべきものだと改めて思う。どうせ私などが手を出す曲だからそう大して困難な指使いを要求しないことは元よりだが、たとえばとても手におえないテレマンなどの比較的にやさしい作品にしても、曲を覚えてそれに馴れ、ちらちらと譜面を見ながら指がひとりでに回るようになった時は我ながら感心して、これならば満更いけなくもないとうぬぼれる。ともかくもテレマンが吹けるようになったのだ。次は誰のにしよう。サンマルティーユか、ガンのルイエか、クアンツか、ロカテルリか? いずれにしても十七、八世紀の笛の巨匠の名が浮かぶ。そこでこの道の先輩串田さんに頼んで彼らの楽譜を探してもらったり、たまには自分で本郷や銀座の輸入元へ物色しに行ったりする。バッハやヘンデルのソナタ集が漁あさられることは言うまでもない。
 しかしそうは言いながら良い時ばかりはない。いや、悪いほうが遥かに多いのである。つまり、大家の実地の演奏やレコードは論外だが、自分よりも上手な友人たちの吹くのを聴いてさえ、まだまだ遠く及ばないという事をはっきりと思い知らされる時がそれである。そのくせそういう友達も、めいめいこの世の仕事は持っているのである。務め人もいれば技術者もい、学者もいれば私のような文筆家さえいる。そしてその一人一人が自身の仕事にはげんでいる。そこで、笛に関するかぎり、私になさけない劣等感が生まれ、負け惜しみではないとしても、一転して自分本来の最後の仕事のことが痛感されてくる。要するに形の上ではいたちごっこだが、楽しみは、たとえそれが自分の芸術を刺激したり養ったりするにしても結局楽しみにすぎず、仕事は、時に苦しくても辛くても、やはり厳として仕事、――自分の生きている理由、その弁疏プレテクストでなくてはならないと思われてくるのである。

     *

 しかし旅、二日か三日家をあけて山や高原へ行く一人の小さい旅となると、私はかならず笛をお供にする。しかしアルトは嵩かさばっていけないし、そのうえ前にも書いたとおりまだ思うように吹けもしないから、年来手馴れたソプラノか、それより短くて小型のソプラニーノを持ってゆく。これならば折り畳みの雨傘と一緒にルックサックにも挿しこめる。
 山や高原では風があるのが普通だから、吹き飛ばされる惧れがあったりヒラヒラまくれて読みづらかったりする楽譜は、ほとんどと言っていいくらい持って行かない。それに晴れ渡った空の下、太腸に暖められた尾根道の岩の上で、なんのための練習だろう。雲の影が涼しく遊ぶ丘の斜面の草の中、青々と広がる大地の起伏を眺めながら、一人でいい気持になって吹こうと思って持って来た笛だというのに、目を皿にしてなんのための譜読みだろう。勉強や苦労はそっくり家へ置いて来たはずだ。仕事めいたこと、努力めいたことは今は御免だ。できるもの、そらで吹けるものを吹けばいいのだ。聴け。下のほうの暗い森林でメボソが囀っている。むこうの明るい湿原でノビタキが鳴いている。彼らは楽譜などに頼ってはいない。
 私はルックサックの紐をほどいて、茶色の羅紗の柔らかい袋から一管の小さい縦笛を抜き出す。堅くて緻密な軽いローズ・ウッドの材で作られたソプラニーノのブロックフレーテで、友人の某医学博士がスイスから二本取り寄せて分けてくれた一本である。小さい笛だから上着の内ポケットヘもらくに入る。何げないように取り出して指をかまえると、大概の人が目をみはる。
 さてルックサックをかたえに、折り敷いた緑の草にすわりこんで、私は笛の八つの孔に指を置く。そしてまず何にしようかとちょっとの間思案する。そうだ、ドゥヴォルザークがいい。あの交響曲『新世界より』の第二楽章、そのラールゴの劈頭にイングリィシュ・ホルンが静かに歌い出す「家路」のメロディー。あの甘美で望郷の思いをそそる歌ならば元より好きだし、そらでも大丈夫だ。そこで息を吸いこみ、息を矯ためて柔らかに吹く。澄んだ音は流れて草の上をゆき、晴れやかな涼しい丘に散ってさまよう。
 次はベートーヴェンだ。と言うよりもむしろベートーヴェンの編曲になり、私には四十年も前からなじみのスコットランドの古い民謡『フェイスフル・ジョーニー』。ロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』で、オリヴィエの姉アントワネットの死のくだりに出て来るあの歌だ。私はその懐かしい歌をまず低く口ずさんで、それから心をこめて吹いてみる。

  When will you come again, my faithful Jonnie ? ……
  あなたはいつまた帰って来るのだろうか、誠実なジョーニーよ……

 頭の上を大きな雲がよぎって日がかげる。しかし遠くには明るく照らし出された山々が見える。
 私はそれからバッハのコラールを一つ二つ吹き、今日はこれでいいと思い、小型のテルモスから一口の葡萄酒を飲み、煙草を吸い、さてルックサックの紐を堅く結ぶと、この山旅の最後の饗宴に満足して立ち上がる。  

 

 

 

目次へ 

 

 ドビュッシーのバガテル (一九六二年) 

 もとよりドビュッシーがバガテルを作曲したというのではない。私がドビュッシーについての幾つかの言葉のバガテルを、些細な断片、簡単な形式の小さな文章、いわば或る夏の日の水に映った雲の姿や森かげを、愛するまま、思い出すままに書きとめて置くという、ただそれほどの意味である。

 クロード・アシール・ドビュッシーの名を、私はロマン・ロランの『今日の音楽家』を訳しているときに初めて知った。それは大正四年(一九一五年)のことだった。私は仕事をつづけながら、その本の中の「エクトル・ベルリオーズ」にすっかり魂を奪われていた。もちろんあの画期的なフランス歌劇を論じた「クロード・ドビュッシー」も訳すことは訳した。しかしアキレウスとヘクトール。その一騎討ちの勝負は、私のうちでは、神話や史詩の中でとは反対に、エクトルこそアシールを圧倒した。
 ロマン・ロランは書いていた。「ドビュッシーの芸術は、ラシーヌのそれ以上にフランス的天賦ジェニーを代表するには不足している。フランスには全く別の一面がある。すなわち英雄的行為の、理性の酔いの、哄笑の、光への情熱のフランス、ラブレーの、モリエールの、ディドローのフランス、そして音楽では、(一層適切な名が無いために)、ベルリオーズの、ビゼーのフランスである。だが神は、私が他の一方を否認しないように護ってくれるがいい! フランスの真髄をなすものは、この二つのフランスの間のバランスだから。われわれの現代音楽のなかで『ペレアスとメリザンド』はわが国の芸術の一方の極であり、『カルメン』は他方の極である。この後のものではすべてが明けっ放しで、すべてが光で、すべてが生き生きとして、陰もなければ裏もない。もう一方はすべてが内的で、すべてがたそがれの微光を浴び、すべてが沈黙に包まれている。そしてこれこそ二面の理想であり、イール・ド・フランスの晴れと曇りの柔らかな空をつくる、あの美しい太陽と薄い霧との交代である。」
 当時わずかに二十三歳という若くて粗野な日本人の私に、微妙なコローを想わせるイール・ド・フランスの精霊的な風光について、この明暗ゆたかな美しい理想について、そもそもどれだけの洞察や理解力があったろう。ロランのかざす拒火のもと、ひたすらベートーヴェンの英雄像を崇め、ベルリオーズというドーフィネの山男、グルノーブルのロマンティスト、気質的に近親の感のある音楽家を知らされたばかりの私に、いまだ見もせず、また見ようともしなかったその軽やかな薄い霧や、その露台を照らす月光や枯葉の歌への愛と理解が、一体どうすれば持ち得ただろう。私はロランにおいて特に感動的なあの二元論を、奮闘する生とその流転とを讃える多元肯定のあの思想――私が後になってようやく解し得たあの思想を知らなかった。何事も一方づけずにはいられなかった単純で軽信のこの初心者は、『ロメオとジュリエット』を聴くことができさえしたら、『ペレアスとメリザンド』を知らなくても悔いはないと思っていた。そしてそういう熱っぽい旱ひでりつづきの数年間、私はひたすらベートーヴェン=ベルリオーズの大街道を行軍していた。

 幼い頃から自然とその学問とを愛しながら、いささかの天分にそそのかされて文学の道へ踏みこんだ私、そしてその道の上でもともすれば自然のことが気になった私は、『幼年時代』、『セバストポール』、『結婚の幸福』、『地主の朝』、『戦争と平和』などのトルストイを読みながら、また小冊子『ミレー』や大作『ジャン・クリストフ』のロマン・ロランを読みふけりながら、それらの中に出てくる自然の閃光、人間と自然との融合に目をうばわれ、心をとらえられずにはいなかった。その点私は単なる小説読みではなく、叙景的な描写をゆるがせにしない作者にとっての一層こまかい、一層同情的な、いわば一層望ましい読者の一人だったと言えるかも知れない。ともかく私は、作品の持つ人道的・倫理的な空気をより生き生きとさせ、よりみずみずしくさせるものとしての、彼らの詩的で絵画的な、或いは音楽的でさえあるリリシズムを愛することも忘れなかったのである。
 人生の中での悲壮なもの、沈痛なもの、雄々しいもの、奮闘的なものへの天性の傾向と共に、またその平和な安らぎの一面、柔らかで甘美な調和の一面にも深いあこがれを抱いていた私、その私が或る時自伝の一節めいた小説を書いて発表したら、「詩的ではあるが実感が出ていない」と、先輩の一人からたしなめられた。ああ、実感! それが当時芸術批評の上での「白樺」式尺度だったが、振幅が小さくて栄養のとぼしい「実感」の試験動物になり終わらなかったこと、今にして思えば私にとって幸いだった。
 大正の中期、私は他方ではホイットマン、ヴェルハーラン、高村光太郎らの詩や文章を読みふけっていた。この世界ではすべてが豊かで、包摂的で、人間の営為はもとより、太陽も雨も風も、山岳も平野も海も、鳥もけものも草木も虫も、造化の被造物の何一つとして拒まれず、無視されもしなかった。此処だと私は楽々と息がつけた。この世界だと胸を張り、両手を振って歩くことができた。私は小説を断念して詩を書きはじめた。やがて処女詩集『空と樹木』をなすべき作品が次々と生まれた。日本の狭苦しい文壇ではなく、ヨーロッパやアメリカのそれに直通する芸術の世界は広かったのだ。そしてその広さを教えてくれた芸術の他方の極、音楽の世界のもう一方の極から、或る日私にドビュッシーが来た。
 ドビュッシーは、しかし古城の悲恋やたそがれの微光の『ペレアス』ではなく、そのあまりの豊満のためにむしろはかない夏の逸楽、『牧神の午後への前奏曲』で私に来た。或る若いディスコフィルが無理やりに置いていった舶来のレコードで、私は初めて彼を聴いたのである。
 最初にうけた印象では、それ自体きわめて漠然とした、調子のはずれた、とりとめもない音楽のように思われた。輪郭がぼやけ、デッサンが崩れていて、やっとの思いで耳がすがりついたメロディーは忽ちたわいもなく溶解したり、あらぬ姿に変じたりした。こうであって欲しい、きっとこうなるだろうと思っていた旋律線が、またたくまに不思議な、手もつけられないような痙攣をおこし、みずから求めた苦痛とも、快楽とも、或いは気まぐれとも思われる仕方で身をねじったり、煙ったり、渦巻いたりして、熱意と放心とのあらゆる姿態を現出しながら、私の在来の音楽的常識の道かかなたへと展開し、氾濫し、流れ去るのだった。それは人が山の稜線で出あう夏の日の雲霧に似ていた。暑い太陽や燃える大空の色を反射しながら、或いは金色に、或いは雪白に、内部からの昇騰と落下の運動をくりかえしつつ、その捉えがたない消長と流転のすがたをくりひろげた。今からおよそ六十年前、本国フランスで初めてこの作品が聴かれた時、そのハーモニーの奇矯さと共に構成の欠如が非難の的となったというが、そういう批評家も聴衆も、やはり私のように保守的な常識者として、初めは戸まどったりあっけにとられたりして、ぶっぶつ言ったものとみえる。
 しかし食っているうちには食欲が出てきて味もわかる。このドビュッシーの場合、その味は聴くたびごとにこくのあるものとなった。それに私としてはあのマラルメの田園詩エグローグの、美しい夏の嬉々たる光と甘美な陰とを愛さないわけがなかった。この音楽は、まことあの透明な日光と泉と蜜と悦楽の詩にふさわしかった。木管楽器が歌いひろげる閑暇とけだるさとの、なんとのどかな布告だったろう! つづいて燦然と噴き上がるハープの、なんという涼しい晴れやかな水しぶきと揺れだったろう! 初め捕捉しがたいものに見えた構想の光と熱のふしぎな魔術が、じつはすぐれた古典作品と同じように、水も洩らさぬ設計と、堅固な土台や柱や梁うつばりで組み立てられている事が次第にわかってきた。ラテン・ゴールの明るい秩序と率直さと、惚れぼれするような生き生きと新しい音色のハーモニー。けっして固執することのない論理ロジックの、むしろ内面的な開花と進行。放心や気まぐれを口にしたのは誰だったか! あのラモーの美しい自戒の言葉、「術わざそのもので術を隠す」を、この『牧神の午後への前奏曲』こそ妙たえに実現していたのである。
 その後私は年を追って彼の管弦楽の作品に親しんだが、雲と祭と海の精シレーヌとの三部作『夜奏曲』から、三つの交響的スケッチの傑作『海』から、またいくらか骨組みあらわで芳香むせるがような『イベリア』から、それぞれなお多くの理解や愛を深めながら、この『前奏曲』から最初にうけた開眼手術のありがたさを忘れることは到底できない。

 私の考えではドビュッシーの音楽に親しんでそれを愛するようになるためには、やはりまずこの『牧神の午後への前奏曲』か『夜奏曲』から、耳を練り鍛えられるのが適切のように思われる。はじめ奇異だったものがこの上もなく甘美となり、曖昧模糊と感じられた霧の中から整々と立つモニュマソが隠見して、やがてその全容が見えるようになる。音楽的先入見の放棄と聴感覚の訓練こそ入門の第一歩。その独特な流動性と、融解と結晶と、音色の調和がかもす色と匂いと、ひろびろとした旋律のゆらめき。――総じて音によって形作られた彼のポエジーの、率直で鷹揚なうけとり方こそ理解と愛の端緒である。次第にこまやかになるドビュッシーの滋味は、成心パルティプリを持たない者、感覚の窓をあけはなして待つ者だけにしかわからない。
 ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンらのドイツ古典に伍して、けっして遜色のないフランス的傑作であるその唯一の『弦楽四重奏曲』、また或る親しい友がその組み合わせの絶妙なのを讃えたとき、「おお、別の組み合わせはまだたくさんある。君はやがて見るだろう。だがそれは私の秘密だ」と彼が死の少し前に言ったというあのフルートとハープとヴィオラのための輝かしい『トリオ・ソナタ』、そういうものを聴きながら、この世の音楽的遺産のどんなに見事で豊かであるかを今更のように思う者、けっして私一人ではなかったろう。

 時たま私は、渇した者が泉を求めるようにドビュッシーのピアノ曲を聴く。年をとるにしたがって、私の中の詩人もしばしば渇きを訴えるのだ。私は詩による潤いが、他郷の新鮮な水が欲しい。それも言葉や文字からでなく、きょうは特に音楽から欲しい。音楽は条件や制約をつけない解放者である。そしてピアノ作品におけるドビュッシーは、シューマン、ショパン、リストらの名声にもかかわらず、近代最高の抒情詩人ではないだろうか。『版画』、『映像』、『前奏曲』、さらに『子供の領分』を加えて、言葉による詩人の心気を一新してくれるものに事は欠かない。
 『グラナダの夕暮』、『葉むらを洩れる鐘の音』、『月光の露台』などを行きめぐる、なんという音のほのめき、しなやかさ、かぐわしさだろう。『水の反映』、『金色の魚』、『沈める本寺』に聴く光と波のなんという震動と揺曳、単一楽器の織りなす壮大な交響的効果による、なんという薔薇窓の絵のうつろいだろう。しかし『亜麻色の髪の少女』、『ヒースの野』、『平原の風』、『帆』、『雪の上の足跡』、『西風の見たもの』などを聴いていると、私の精神は或る奮い立つような、雄々しくけなげな、北方的にすがすがしい風に打たれて、自分の新しい可能性を信じさせられるのである。そして『パコダ』、『デルフの踊り子』、『アナカプリの丘』、『ヴィノの門』に見る、地中海=オリエント的な日照りかがやく廃墟の牧歌。さらにまた巨怪な『象の子守歌』や可憐な『人形ヘのセレナード』で忘れることのできないあの『子供の領分』……思いつくままに挙げていたら切りはあるまい。
 まことにドビュッシーの手になるピアノ曲は、この上もなく軽くほのぼのと煙るような優美さから、もっとも強大な重力の中心にまで揺れ動くことのできる重錘である。

 ドビュッシーで私はその歌曲も好きだ(1)。十四歳の時の作だと言われる『星月夜』から、五十三歳、第一次世界大戦中の『もう家のない児らのクリスマス』に至るまで、自分ではとうてい歌えなくても、楽譜をたどったりレコードから聴いたりすることが私にたびたびある。しかし中でも、彼が現代的な旋律にたいする真の啓示を得た頃の諸作、ボードレールとヴェルレーヌとの歌曲集がすばらしい。それぞれの詩の要素である心的状況、抑揚、含蓄などがさながらに採り入れられ生かされて、言葉と音との得もいえぬ照り合いの中で昇華をとげているという趣きがある。トリスタン・レルミットの『二人の愛人の散策』も忘れがたい。「この暗き洞窟のそばで」や「我れおんみの面輪を見つつおののく」がなんとドビュッシー独特の、あの感動を抑えた長い楽句で波打っていることだろう。それらはやはりイール・ド・フランスの野の風光を、森と丘陵とをわずかな起伏とした優美でメランコリックな地平線を想わせる。しかし最後に『ビリティスの三つの歌』。ここに至ってはそれを歌い試みること、もう几庸の手にはおえない。
 「もしも君がフランスの美しい歌曲を求めるなら、私はガブリェル・フォーレ(フランスのシューマン)や、デュパルクや、クロード・ドビュッシーのものを努めて知られるようにと勧めます。特にドビュッシーの作品はすこぶる微妙に磨き上げられたもので、フランス語の詩的なアクサンや語り方を完全に駆使し得なければなりません。その作品の中では、わけてもピエール・ルイスの短い詩に作曲した『ビリティスの三つの歌』が、あたかも高級な水晶のようにきわめて稀有な、手に取るさえ脆いような傑作です」と、親切なロマン・ロランは或る長い手紙の追白で私の眼を開いてくれた(2)
 私として今でも苦笑と共にその惜しさを思い出すのは、あの一枚の大切なレコードを、三十六年前の或る日、満一歳になる娘が皿のように頭に載せて、左右から両手で押し下げて真二つに割ってしまったことである。英国のヴィクター、ヒズ・マスタース・ヴォイスの赤盤で今でいう二十五センチのSPだった。それも片面しか音溝がなく、たしかユリア・クルプが歌って、まさにドビュッシー自身が伴奏をしている『星月夜ニュイ・デトワール』がそれだった。まだ郡部だった頃の上高井戸の畑中の家。妻は洗濯、私は仕事。家のまわりの武蔵野は、『帰れる子』のカンタータで悲しみの母親が歌うアリアのような収穫の秋。次の間で一人はしゃいで遊んでいる子供の声が急に静かになったので、そっとのぞいて見るとこのていたらくだった。覆水盆にかえらず。二つに割れた『星月夜』はもう永久に歌わなかった。そして、ああ、わがドビュッシーの『子供の領分チルドレンス・コーナー』にも、Un disque cassé(割られたレコード)という曲はない……。

 (1)時間が無いのと研究不足のために、『ペレアスとメリザンド』やカンタータ『帰れる子』について
    書くことができなかった。
 (2)一九二五年八月十四日の手紙。

 

 

目次へ 

         
    尾崎喜八・文集トップに戻る / 「詩人 尾崎喜八」トップページに戻る