日光と枯草


   ※ルビは「語の小さな文字」で、傍点は「アンダーライン」で表現しています(満嶋)。

                                 

日光と枯草    

書棚の一角

車窓からの眺め

山すべて善し

 

忘れじの富士見高原

思慕の旅

行く先々の富士の山

 
 

私の心の山

妙高山

心打つひびき

 
  思い出の道

里にたなびく煙

写真に寄せて

 
  ウェストン祭と女子学生

初夏の乗鞍岳

過ぎし日の山の旅

 
  自然と旅

自然と心

第二の故郷

 
  妻への話

鎌倉への愛と要望

生への飾り

 
  その人の俤 初冬の別れ    
  ヘルマン・ヘッセと『ヴァンデルング』 山の一つ一つに  
  山と心 空と樹木 草花と静かな日々  
  山と自然と子の心      

 

   

花崗岩の破片  

  途上のまなざし 花崗岩の破片 自然を愛するということ  
     

 

 
  冬の或る日  

 

 
  冬の或る日 森の歌 思い出の山の花たち  
  山にゆかりの先輩 道二題 祝詞に代えて  
  一詩人の告白 道にて 詩人の朝  
  たしなみの美

わが愛誦の詩

ふるさとの一角  
  その頃の孫 雑 草

新しい印章

 

たまたまの余暇 私の一冊の本 旅の宿




  再生の歌      
 

春 信

再生の歌

内と外

 
  秋   早 春 星座早見  
  上高地行 山と音楽 ひとりの山  
  信州の酒に寄せて 自然の音 デュアメルの訳書に添えて  




 

 

 日光と枯草

 書棚の一角


 数多い内外の文学書とはまた別に、動・植物や地理や天文、さまざまな自然科学の書物だけが集まっている私の本棚の一角を占めて、「おれたちの事も忘れるな」と言うように、二十冊あまりの気象学関係の日本の本が、クラークやケイヴのと一緒に仲よくずらりと並んでいる。
 「忘れるものか。私は今でも君たちに特別な愛着を持っている。なぜかと言えば子供の頃から好きだった雲のことや空のことを、刻々に変化する自然の美として、また学問として、永の年月しっかりと教えこんでくれたのは、実に君たちだったのだから、そして戦中や戦後の苦難の時でも、けっして君たちを売ったり手放したりしなかったのも又実にそのためだった」と、心の中でそう答えて、今は背の文字も消えかかった彼らを、私はそっと撫でる。

 文化生活研究会というところから出た三宅武雄氏の『雲の見方』がいちばんひどく崩れかけているのは、製本が軟弱だったせいもあるが、今から四十年も前の大正十五年に買った物で、私にとっていちばん早いこの種の本だからであろう。それに引きかえて藤原咲平さんの『雲を掴む話』の方は、これも同じ年に手に入れた物だが、さすが岩波書店発行のせいか、今なお堅牢でびくともしない。藤原さんと岩波と言えば、あの見事な雲級図版の集まっている帙ちつ入りの『雲』を、昭和四年にその頃の金で定価金五円也を投じて買って来た時には、まったく天にも昇る心地だった。『気象と人生』、『天文や気象の話』、『気象感触』――藤原咲平の名を口にする人のきわめて稀なこんにち、私がある種の感慨をもってあの学者を思い出すのは、やはり、人生の空に生まれてやがていつしか消えていく雲への哀惜のためであろうか。
 岡田武松博士の『気象学』上下二巻と『気象学講話』も健在である。わけても後者は私にとってこの学問への最初の基礎的な貴い入門書であったし、今でもなおこの方面で信頼すべき事典の役を演じている。つまり忘れてしまったりあやふやになったりしている自分の気象上の知識を、事にのぞんで正したり確かなものにしたりするために、読みなおすことのもっとも多い書物なのである。その点では三浦栄五郎氏の『気象観測法講話』もまた欠かす事のできない本である。いろいろな計測器の用途の種類やその使い方を、私はどんなにこの本から教えられたか知れない。自分でいろいろな雲を撮影して、その時の気象上のデータと撮影後の天気変化とを記録した『雲』を出版した時、直接いちばん参考になったのもこの本である。
 『暴風雨』と『気象と国民生活』との著者大谷東平さんからは主として風のこと、なかんずく颱風や季節風のことを学んだ。「台湾坊主」という小颱風の名をはじめて知ったのも、たしかこれらの本からだったと思う。その大谷さんと高橋浩一郎氏との共著『天気予報論』も当然の事として蔵書の中に加わってはいるか、生まれつき数字に弱い私には、数式がでてくるともういけないのがいかにも残念である。その他、荒川秀俊氏の『日本気象学史』、畠山久尚・高橋浩一郎両氏共著の『異常気象覚書』、石丸雄吉氏の学問的に貴重であって見た眼にも非常に美しい『雲の写真と図解』(雲学各論)、日本気象学会細『気象常用表』などがあるが、もうあまり余白もないので、「決して忘れたりおろそかに思ったりしてはいない」証拠として、ここでは本とその著者の名をあげておくだけで許してもらうことにする。

 (一九六九年二月二二日、天気曇後晴、夜薄曇。気温最低零下一・五、最高八・五。鎌倉市山ノ内明月谷)
                                  (一九六九年二月)

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 車窓からの眺め 


 今でこそ横須賀線の北鎌倉に住んではいるが、戦後の七年間を信州の富士見で暮らし、その後十三年間を東京で過ごしながら、山が好きでよく甲斐や信濃の山へ出かける私にとって、新宿から松本までの中央本線は国鉄の主要な線の中でも、いちばん親しい。たとえば、車中で長く目をつぶっていた自分が、ふと目をあけて窓の外を見た瞬間、今どこを通っているかを即座に言い当てる事ができるというのは、嘘でも誇張でもない。そこが四方津しおつと鳥沢の間か、韮崎と新府の間か、信濃川島と小野の間かなどと一目で当てるのは普通にはちょっとむずかしかろうと思うのだが、長年旅の車窓から風景のこまかい特徴をよく見ることに馴れた私には、案外可能なのである。
 あいにく急行は停まらないが、下りの列車で笹子のトンネルから二つ目の勝沼の駅。あそこまで行くと窓の左手に甲府盆地とそれを取巻く山々の眺めが画のように開け、旅の心も視野も明るく広々と開放される。鈍行ならば昔ながらのスイッチバックで入って行くべきその駅は、下の方に愛らしく閑散と横だわっている。私は昔からあの駅が好きだったが、たしか葡萄の季節に一度だけあそこで下車して、又あそこから乗って富士見へ帰るという満足を味わった事がある。
 葡萄だけで特に名高いその勝沼が、実は桃の花でもまた有名であって然るべきだというのが私の持論である。実際春四月の中頃にあのあたりを列車で通ると、盆地の山裾から平地へなだれている村々にかけて、桃の果樹園の桃色の花の雲が、よほど迂濶な目でないかぎり一望のもとに入るのである。
 今から四年前の四月の半ば、私は一人の若い連れとその桃の花の最盛期を見物に行った。私たちは駅前からのタクシーで南へ勝沼町、岩崎、藤井、一宮などという部落をゆっくりと一巡した。いずれ劣らぬ花の里だった。わけてもその中心地と思われる藤井では、扇状地のゆるやかな高みを埋めつくしている桃林が実にみごとだった。
 勝沼の駅へ戻った時、案内をしたタクシーの運転手が言った。「桃の花を見に来たお客様はこれが初めてです」と。駅員は皆にこにこして、それぞれの部署から私たち二人を目送してくれた。
                                (一九六九年四月)

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 山すべて善し 


 このごろしばしばリハビリディジョンという言葉を聴いたり読んだりする。今までの普通の訳だと「復職」とか「修覆」とか、或いは「名誉回復」とかを意味する英語だが、それがこんにちではもっと敷衍ふえんされて、たとえば「残存する機能の再適応」などという意味に使われている。そしてこの最後の解釈が今の私には何か救いのような、慰めのような、ほのぼのとした感じとして受け取れるのである。
 七十歳も半ばを過ぎて、もうそろそろ高齢と言われても仕方の無いこんにち、物を書いたり考えたりする精神力こそまだ昔に劣らないつもりではいるが、体力の方はそうはいかず、どんなに意地を張っても慾目で見ても、もはや以前のようではなく、無理も利かない。召されれば従容として行く心の準備は出来ているが、許される限りはなお生きて働くつもりでふだんの摂生にも心がけ、医師の定期的な診察もうけている。然し何と言っても徐々に襲って来る体力の衰えは争えない。現にこの鎌倉の山間やまあいに住んで、急な坂道の登りに残念ながら脈搏が増し息が切れ、殊に東京などで一日を暮らして帰って来た時、しばらくは玄関に腰を下ろして呼吸の調整をしなければならないのも是非がない。しかしそれでも、老人医学の専門家から見ればともかく、本人自身の感じでは、三十分もすればもう普段の状態に帰ったように思われ、僅かに残存する機能でも、なお幾らかの適応の余力は持っていたのだという気になる。そして此の場合、私にはそれが山の恩恵、かつてあれ程にも熱中した山登りの余徳のように思われるのである。
 私はいわゆる登山家ではないが、山が好きだったし今でも好きだ。書斎で一人ぼんやり煙草を吸ったりレコードを懸けて何か音楽を聴いたりしている時、急に昔の山がありありと心の眼に浮かんで来る事がある。それが中央アルプスや北アルプスの時もあれば、奥秩父や八ヶ岳の時もあり、縦走した連山の場合もあれば、それを目あてに一人登った孤峰の揚合もある。しかしいずれにもせよ、このように時処を隔てて思い出の中に描き出せば、彼らはすべて遠く清らに美しく、其処へこの足、この体、この心を運んだ昔の自分がなつかしい。
 よく人から受ける質問に「あなたの一番好きな山は?」というのがある。そんな時私はちょっとほほえんだまま、ただ困ったように小首をかしげるだけである。なぜかと言えば、もしも誰かに「あなたはどんな花が一番好きですか」とか、「ベートーヴェンではどの曲を先ず第一に挙げますか」とか訊かれた時、「さあ……」と言ったまま即座に、明快に、先方の納得を買うような返事ができないのと同じだからである。元来私は自分の愛するものに順番をつけていない。また自分の敬慕や信頼の対象に等級をつけた事もない。少なくとも私にとってはどんな花にもそれぞれ独特な美かおり、ベートーヴェンのほとんどあらゆる作品が私を喜ばせ、慰め、勇気づけ、激励するというのが本当の処なのである。
 同様に、よく人から受ける質問に、「尾崎さんの最も好きな山は何処ですか」というのがある。ところで私にはこういう問いが一番困る。「さあ」と言いながら考えているような様子はするものの、実は内心その質問自体の気安さと言うか軽々しさと言うか、とにかくそういう性質に困惑を感じるのである。なるほど「穂高です」とか「甲斐駒でしょうかね」とか言えばそれで一応答えにはなるかも知れないが、しかしそれでは何か自分の良心を裏切っているような気がして心が重くなる。「そんな事を言って、それではほかの山はどうなんだ」と、今は美しく懐かしい物となっている幾多の登山の思い出の中から鋭く詰なじるような声が聴こえて来る。なぜかと言えばどの山もその時々に私を感動させ喜ばせ、初対面で驚かせたり、再会で誼よしみを深めさせたりしたからである。そして私はそういう彼らとの仲を、幾つかの文章として愛をもって書いたし、書かなかった山でも愛をもって、いつ何時でも鮮明に思い出せるからである。そしてよく愛する者は、おのれの愛する者たちに等級をつけたり、順位を与えたりはしないのである。
 火山々地のそれであれ堆積岩地のものであれ、およそ私の経験した山という山は、いずれも彼らの個性、彼らの特色、彼ら独自の景観を持っていた。そしてその個性、その特色、その独自の自然景観によって彼らのそれぞれから深い、新たな感銘をうけ、知識を富まされ、山岳美の諸相を私は学んだのであった。してみれば私にとってはどの山もみな愛の対象、なつかしい追憶のイマージュに値する。人のする質問に対して私が即答をしかねるのは、実に以上のような理由によるのである。
                                (一九六九年四月)

 

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 忘れじの富士見高原


 こんな爽やかな秋の午前に、もしも私が中央線富士見の駅で列車を下りたとしたらどうだろう。長坂、小淵沢、信濃境の駅もいつしか過ぎて、緩やかな登りになる線路の両側の風景に見入りながら、鎌倉の家での仕事のことや早朝の新宿駅の雑沓のことなども今はもうすっかり忘れて、立場川たつばがわの鉄橋を渡り最後のトンネルをくぐり、さてあの高原の古いなじみのプラットフォームに足を下ろしたとしたらどうだろう。閑散な停車場にもう昔の駅員の顔は見られまいが、それでも出世したのが一人ぐらいは残っていて、懐かしそうな笑顔で迎えてくれるだろうか。上り線の向こう側は広々とした裾野の眺めと八ヶ岳の青い連峰、下り線のこちら側は近々と見る釜無かまなしの山々と鋸岳のこぎりだけ。その静かな清潔なプラットフォームには、昔のように葉鶏頭やコスモスの花が美しいだろうか。幸いここでもまた佳い天気で、もう暑いというよりも寧ろ暖かい日光がしみじみと照り、涼しい西風がそよそよと吹いているだろうか。
 駅前の町の商店街はその後だいぶ立派になったという話だが、それでも昔のおもかげはすっかりは消えず、よしんば目をつぶって歩いても、数がふえたというバスや車にぶつかりさえしなければ、町の中で迷うことも無いだろう。呉服商大丸屋にしろ、酒屋にしろ、魚屋にしろ、八百屋にしろ、本屋にしろ、まったく親切に診てくれた相沢医院にしろ、どこの主人達もみんな健在だというから、私をみたらびっくりして喜んで、「先生はちっとも変わらない」とか、「まあお上がりなして」とか言って呼び込もうとするだろう。中には情に脆いおかみさん達もいて、東京の妻の事などを尋ねながら、もう涙ぐんでしまうのもあるかも知れない。それは原ノ茶屋や、松目や若宮や、木ノ間このまや、南みなみ原山のような部落の農家でも同じ事だろう。終戦後七年間をその土地で暮らしたのだから、先方にしろこちらにしろ、故旧再会の喜びには言葉に尽くせぬものがあるに違いない。よしや互いに歳はとっても、また無沙汰を重ねていても、十年や二十年の時の推移などに敗けはしない。富士見の太陽も照覧あれ! それほど淳朴な人達であり、それほど元のとおりの私なのだ。
 車を雇う事はやめにして、私は永年住んだ分水荘とその森とをこの足で歩いて訪ねるだろう。新しい家が少しばかり建つたぐらいのもので、道も景色もほとんど変わってはいないだろう。正面には主峰赤岳を中心に、編笠あみがさから、天狗、縞枯しまがれあたりまでの八ヶ岳が、青々と澄んだ秋空をくっきりと刻んでいる。左には遠く霧ヶ峰と車山が横たわり、諏訪湖の空からすがすがしい秋風が昔のままに吹いて来る。道の左の農業高校のグラウンドは無くなったかも知れないが、夏にはオオヨシキリが鳴き、螢が無数に飛んでいた右手の三ノ沢の田圃たんぼはまだ残っているだろう。まっすぐ行けば一里先の中新田部落、その道を左へ折れて、まだ有るだろう厳めしい石の門から分水荘の森へ入る。するといきなり昼なお暗くひっそりとした木立の中から、ヒガラ、シジュウカラ、アカゲラ、コゲラなどの声が私を迎えるだろう。
 白樺の林を前に、樅もみや桜や赤松や落葉松からまつにかこまれた古い大きな分水荘の建物は、もう人も住めない程に朽ち傾いているかも知れない。草もぼうぼうと茂っているだろう。その中で私たちの植えた植物もそれぞれ小さな花を咲かせて、今は野生に帰っているかも知れない。それでも私と妻にとっては戦後新生の思い出も豊かな住みかである。ここで私にたくさんの仕事ができ、ここで妻は畑作りや家事のかたわら好きな自然を満喫したのだ。
 私は森の中とその周辺とを深い感慨をもってさまようだろう。裏手の池の縁にはまだあのクルミの木が立っていて、その葉が早くも黄ばんでいるだろうか。すぐ眼の前に入笠山にゅうかさやまの見えるハンノキの林の中を、今でもあの細い水はきれいに流れているだろうか。私達夫婦の者がジャガ芋や豆やライ麦を作った畑はどうなったろうか。八ヶ岳は元より、甲斐駒かいこまや鳳凰ほうおうや富士山を一望に見渡せるあの高み、私が「ハイランド」と名づけた丘は果たして元のままだろうか。こんな事を考えたり自分の目で確かめたりしながら、時のたつのも忘れて私はさすらい歩くだろう。
 今日北鎌倉は晴れやかな日光と秋の風。朝の食後にモーツァルトの小さいのを一曲聴いて、さて机に向かってこんな文章を書いていると、近くの草原で鳴いているコオロギの声にまで富士見のそれが思われて、何かじっとしてはいられない気持になるのである。
                                (一九六九年九月)

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 思慕の旅


 なにはづの秋の号にみちのくの春の旅の事を書くのは気が利かないが、今ちょうど良さそうな材料が無いのでこれで許して頂くことにする。
 今年の五月の初め、お隣りの奥さんに案内されて、妻も一緒に亡き高村智恵子さんの故郷を見に行った。智恵子さんには高村さんとの新婚当時から親しい気持を抱いていたので、生涯のうちに是非一度はその生家の跡や、彼女のいわゆる「安達太良山あだたらやまの上の空」を見たかった。そしてとうとうそれを見て来た。惜しくはあるが裏磐梯の事も五色沼の事も、福島へ越える長い「スカイライン」からの眺望とその途中の山腹一面、コブシの花のみごとだった事もここでは割愛して、肝腎の処を書かなければならない。
 二本松の町の大通りに面した智恵子さんの生家は、昔の造り酒屋の俤を残しながら今では食料品を売る店になっていた。家の持ち主こそ代わったがそれでも記念の為なのだろう、低い二階の軒先から古い大きな杉玉が下かっていた。家の裏手へ廻ってみたら大きな醸造桶が二つこわれかかって転がっていた。
 町を見おろす霞が城の趾という小高い山へも登った。高村さんの例の短歌「みちのくの安達が原の二本松、松の根かたに人立てる見ゆ」の舞台だろうと思われるが、その頂上にある一対の丸い岩石の詩碑に身をもたせていると、茂った赤松、杉、ナラ、クヌギなどの林の間から、安達太良あだたらの青い長い山なみが見えた。私の心はあのようにしてこの世を去った智恵子さんへの哀れさの思いでいっぱいだった。下の方ではツツジが咲き藤波が揺らぎ、さっきから止まない一羽の黒ツグミの歌が、旅人の春の哀愁をいや増すものにしていた。
 その安達太良山へは中腹まで登ってみた。ワラビ狩らしい人達の影がちらほら見えた。私の目的は何よりも其処から見上げる「智恵子のほんとの空」だった。高村さんは「あどけない話」と言っているが、あどけないどころか真底女人の思い入った郷愁の空だったのだ。私はその澄み渡ったみちのくの春の空をしみじみと見上げた。本当にその人の身代わりのように。私の妻は高村の小母様の大切な草だと言って、折から一面に芽や葉を出している燕オモトや猩々袴を踏みつけないように跨いで歩いた。
                                (一九六九年十月)

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 行く先々の富士の山


  幼き日の富士山

 登山が好きで、今までにもかなり高い山を数多く経験したが、恥ずかしながら富士山へは五合目までしか登ったことがない。それも十二か十三の時今からおよそ六十五、六年前の話だから記憶らしい記憶はほとんどない。わずかに覚えている事と言えば、強力ごうりきに案内され、父や叔父に連れられて登って行く富士という山が、今までに画に描かれたのを見たり、遠くから眺めたりした端整な美しいそれとは全く違って、ただ途方もなく大きく遠く行く手に立ちはだかる、岩石の廃墟のようだった印象だけである。
 私は東京も京橋区の下町生まれで、父の商売が廻漕問屋だったので生家は隅田川の川べりにあった。対岸はそのころ「大川」と呼ばれていた隅田川を隔てて、石川島や佃島の小さな造船所や漁村の風景。私の家のある川の右岸、すなわち鉄砲洲てっぽうずには炭問屋や米問屋が店と倉庫をならべていた。ところがその鉄砲洲のわが家の倉庫の二階からも、渡し船で行く向こう岸の佃島からも富士山がよく見えた。時代も明治三十年代と言えば東京の町も平べったく、その代わり空気も今のようには汚ならしく濁っていなかったから、天気さえ良ければ家々の屋根のかなた西南西の空に、あの美しい山容は必ず姿を見せていたのである。「山ノ手」と呼ばれていた麹町や牛込からならいざ知らず、悪戯わるさをしてそのお仕置きに放り込まれた隅田河畔の土蔵の二階の鉄格子の窓から、今ならば大菩薩連嶺だとか丹沢山地だとか名指しで言える遠い山々の波を見おろすように、あの富士山がひときわ高く玲瓏れいろうと聳えていたのだから東京も変わったものである。その眺めはいたずらっ子への懲らしめどころか、幼い私にとって牢獄ひとやの窓からの一篇の歌だった。
 小学校の三、四年頃からは毎年の暑中休暇を大磯と箱根の旅館で暮らしたので、富士山には一層近づき一層親しんだ。殊に海水浴場大磯の海べでは毎日見た。真黒に日焼け塩焼けした猿股一枚の裸体を、砂浜の砂で暖めながら腹這いになって眺めもしたし、板子一枚持っての勇壮な波乗りの波の間からも見た。そんな時富士山はいつでも箱根山の右手にあった。そしてそれがそこに在るのが当たり前なくらい馴れっ子になってしまった。可憐な緑の真鶴岬や、天城を載せた伊豆半島や、沖あい遙かな大島の姿と共に。しかしそれから休暇の後半を過ごしに行った箱根では、旅館が宮ノ下や底倉だったので富士山は見えなかった。それでも探険だとか冒険だとか言って、年下の従弟たちを引き連れて、沢を越え藪を押し分けて登って行った明星ヶ岳や明神ヶ岳からは、まるで抱き着けるほどすぐ近くに見えた。案内人に連れられて金時山へ登った時の嬉しさに至っては言うまでもない。むかし懲罰の窓から一篇の歌であったものが、其処では魂をゆする一大交響曲だった。



  娘に送る詩うた

 関東大震災の翌年は私はこれも罹災りさいしてふところのかなり苦しい父に一軒の小さい家を建ててもらって、永い間のあこがれだった武蔵野に住んだ。今ではすっかり変わって立派な町になった杉並区の上高井戸だが、その頃は昼間でも寂しいほど静かな田舎で、私たち新婚夫婦のための新居はまわりを広い麦畑で囲まれ、北風を避けた厚い高い松林を背にしていた。家からはすぐ向こうを玉川の上水が流れ、その堤の桜並木がずらりと見え、そしてその並木の上に丹沢の山波を踏まえた富士山が、花どきならば寧むしろ艶あでやかにその雄姿を現していた。遠近の農家の屋敷林や雑木林、麦の畑や桑畑、季節季節の小鳥の歌に虫の声。それはまさしく私の愛する武蔵野の自然であり風景であった。そして其処にささやかな居を構えた若い私たち夫婦の新生活を祝福するような富士の麗容。
 今見れば甚だ拙くはあるが、その頃書いた詩に『私のかわゆい白頭巾』というのがある。生まれて間もない長女を抱いて朝の富士山を見せに行く詩である。

  白い毛糸の頭巾かぶった私の小さいまな娘は
  今朝もまた赤い朝日を顔に浴び、
  初霜にちぢれた大根畑を越えて
  十一月の地平をかぎる箱根、丹沢、秩父山塊、
  それより遠い
  それより高い富士山の、
  雪に光って卓然たるを見に行きます。

  私の腕は
  彼女を包む藤色のジャケットの下で
  小さな心臓のおどっているのを感じます。
  私の眼は
  空間のしずくのような清らかな彼女の瞳が
  物みな錯落たる初冬の平野のはて、
  あの玲瓏としてけだかいものに
  誠実に打たれているのを見て取ります。
  朝の西風のつよい野中で
  まあるく縮まって最初の感動を経験している
  ちいさな肉体、神秘な魂、
  その父親の腕に抱かれて声をも立てぬ一つの精神、
  私のかわゆい白頭巾よ!
  武蔵野生れ、
  西も東も見さかいつかぬこの小娘を
  私は正しく育てて人生に送る。

 それから数年後、私は父の死に会って、京橋区新川の実家へ帰ることになったが、永代橋の近くに新築されたその実家の二階の物干し揚からも富士山は見えた。私の「かわゆい白頭巾」も今は九段の白百合幼稚園へ通う年ごろになった。そして時どき私の介添えで屋根のてっぺんまでよじ登ってその富士山を遠望すると、「おかあちゃん、おばちゃん、モンターニュ、モンターニュが見えるよ!」と喜びの声を張り上げた。フランス・カトリック系の幼稚園へ行っていたので、覚えたばかりのモンターニュ(山)という言葉がきわめて自然に叫ばれたのであろう。下から見ていた妻と義妹はパラパラしながら、「栄子、おとうちゃんによくおつかまりして」とか、「栄子ちゃん、しっかり!」とか、母親らしい注意だの、少しは羨望もまじった若い叔母らしい激励だのを送っていた。そしてそれ以来しばらくの間、幼い彼女にとってモンターニュとはすなわち富士山を意味していた。学校は九段坂上の冨士見町にある。事によったらフランス人の女の先生マスールが二階の屋上へ子供たちを連れて行って、町の名にたがわずよく見える富士山をそう言って教えたのかも知れぬ。
 その富士山を今鎌倉から藤沢へ務めに行っている四十年後の「白頭巾」は毎日見ている。そして国立音楽大学へ通っているその娘、つまり私の孫も立川の町はずれの学校の庭や窓から毎日見ている。「今日の富士山はすばらしかった」とか、「今日のは少し霞んでいたわね」とか言うのが、彼女ら親子の一致した批評でもあれば私への報告でもある。と言うのも、北鎌倉に住んではいながら私たちの家は或る谷戸やとの奥に位置しているので、眼前に立ちはだかった小山の端にさえぎられて、残念ながら居ながらにして見るという訳にはいかないからである。

 

  富士山を望む山旅

 やがて登山という事が詩人私にとって半ば勉学、半ば趣味の対象となる時期が来た。山登りそのものの楽しさはここに改めて述べるまでも無いが、以前から好きだった自然地理学や動植物を主とした博物学の勉強は登山によって一層強く鼓舞された。植物学の大家武田久吉博士からは各所で実地の薫陶をうけ、河田禎、長尾宏也のような先輩には未知の山への案内をされながら、私はかなり多くの経験を重ねた。中でも長野県、山梨県、群馬県、栃木県などの名ある山が多かった。そしてそういう山へ登ると、あたかも突然の遭遇か挨拶ででもあるように、必ずと言っていいくらい富士山の眺めがあった。御坂山塊や丹沢山地や大菩薩連嶺のような近間ちかまからは言うまでもないが、八ヶ岳や南北のアルプスや木曽連峰からのそれは、登攀とはんの苦心が苦心だっただけに余計に懐かしくもあれば美しくも思われた。
 しかし今思い出してもほほえましいのは、四十数年前の或る初夏、いたるところ栃の花が咲き山藤が盛りの頃、故人の高村光太郎さんと上越国境三国峠から猿ケ京への降りの坂道での事である。高村さんは例によって和服に下駄履き、ルックサックの背に鳥打帽子、私は普通の登山姿だったが、その急な坂道での或る地点で足をとめた高村さんが、「ここは昔から三歩の富士と言われて、三歩の間だけ富士が見える場所だ」と私に教えた。それで二人して二度も三度も同じ処を往復してみたが、天気は良いのにその富士山はついに見つからなかった。ほほえましいのはその時の高村さんの狼狽の様子と失望の表情だった。場所が間違っていたのならばともかく、方向からすればほぼ真中、直線距離で約百五十キロ。その間に榛名山や奥秩父の連山が介在しているにしても、地図の上からだけすればチラリとぐらい見えても悪くはないはずである。だがその相生温泉での私たちの意見は案外簡単にこんなところへ落ち着いた。「やっぱり地球が円いせいかも知れないな」。

 

  山が見ているかぎり

 終戦後の七年間を私たちは信州八ヶ岳の裾野富士見で暮らした。家は或る旧華族の古い別荘で大きな森の中に在ったが、その赤松や白樺の森林を一歩出ると北東は眼前に巨大な船のような八ヶ岳の連峰、百は諏訪湖へと続く釜無山脈、それから南へ甲斐駒、鳳凰、東は遠く奥秩父の盟主金峰山きんぷさんから大菩薩の連嶺、そして南東には甲府盆地の霞のかなたにひときわ高く美しい裏富士という雄大な眺望だった。私たちは東京や武蔵野から見馴れていたこの富士山を、ここではちょうど九十度北から眺めていたわけである。
 駅や町への用事の時にせよ、村や野への散歩の折にせよ、森の家を出さえすれば必ずこの山が見えるので、東京から移って来た直後でさえ他郷へ流れてきたという感じは全くしなかった。あの山があすこから見ているかぎり、自分たちの生活はその根底において安泰であり、生きる信念にも決して揺るぎはないというのが私たち夫婦に共通した気持だった。或る日学者でもあり詩人でもある一人の友が東京から訪ねて来たが、「こんな処に住んでいてホームシックなんかにかからないですか」と、優しい同情を顔にあらわして私にきいた。そこは森のうしろの草山で、言うまでもなく高原の広く寂しい眺めが一望の中だった。「いいえ、ちっとも。繁雑な事や不愉快な事がないので仕事がよくできるし、それに東京が少しでも恋しいような時にはあれがいつでも見えているのでね」と言って、私はほほえみながら釜無川の谷の向こうの富士山を指さした。友人はその富士山をじっと見ながら、「そう。それならいいけれど」と言って煙草の吸殻を草の中へ投げ捨てた。忘れもしない、それは坂本越郎君その人だった!

 七年間の富士見暮らしから東京へ帰って、今度は世田谷区の上野毛に住んだ。新築の家の書斎からは机に向かったままで多摩川の水と河原の眺めがあった。そしてその眺めの奥に多摩丘陵が優美に横たわり、そのまた奥に青い丹沢の山々を踏まえて富士山がぬきん出ていた。私はそこに十四年間住んだ。いま鎌倉へ移ってたまたまの東京行きにそのあたりを車で通ると、対岸川崎市域の風景も一変し、空もよごれて濁ってはいるが、その在住十四年の大半を私は富士を窓の遠景に日毎の仕事にいそしんだのだった。
 ああ富士山! それはあたかも守護の霊のように私の生涯の行く先々に付き添っている!

                                (一九七〇年二月)

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 私の心の山


 つい一時間ばかり前、私は信濃の旅から帰って来た。山から山、町から町へのいそがしい旅ではあったが、そこから受けたさまざまな感銘はまだ何一つ色褪せもせず、すべてが鮮やかで花のようだ。そして今朝はこの相模の国鎌倉の、アジサイが咲き春蟬の鳴く低い夏山にかこまれた我が家の書斎で、その感銘の綾を解きほぐしては一つ一つの思い出をゆっくりと味わっている。
 残雪の穂高連峰と梓川の清流とをすぐ眼の前にする上高地、山ツツジや鈴蘭の花に飾られ、新緑の白樺の疎林を前景にひろびろと横たわる高原や牧揚からの乗鞍岳の眺め。この二つの風景は一方が峻厳で豪壮ならばもう一方は温雅で、牧歌的であり、しかもそのいずれにも眼を洗い心を清めてくれるような、高処の晩春初夏のえも言えぬ気品と美とがあった。そして山に親しんですでに久しい私としては、上高地へも乗鞍の高原へも、この無限の恵みを期待しながら行ったのだった。それがそのとおりに報いられたのだから、毎日のよく晴れた天気は元より、すべてにおいて幸運だったと言わなければならない。
 山の小鳥たちの初夏の歌も一年ぶりで聴いた。上高地ではクロツグミ、ヒガラ、オオルリのそれを心ゆくまで聴いた。乗鞍ではジュウイチ、アオゲラ、アマツバメたちの叫びや羽音に耳を澄ましたり顔を仰向けたりした。そして私の好きなメボソの「チチビ、チチビ、チチビ」の歌が、その双方で小梨や白樺の林の奥から響いていた。今の季節にはこの北鎌倉でも聴かれるウグイスやホトトギスでさえ、こういう山地で聴けばいかにも処を得た、広々とした、豊かなものに思われた。いろいろな花も咲きはじめていた。上高地では小梨の白や薄桃色はまだちらほらだったが、路傍や樹下のエゾムラサキ、ニリンソウ、イワカガミ、エンレイソウなどが、再び訪れた私の眼を喜ばせ楽しませた。乗鞍の高原では小梨はすでに花盛り、その間を綴ってヤマツツジとムラサキヤシオツツジの赤や紅紫が燃えるようだった。そして白樺の疎林のところどころに群落をつくってひっそりと咲いている鈴蘭が、いかにもしとやかで可憐だった。
 わずか三日の旅ではあるが、上高地の渓谷と乗鞍の高原とを味わって来た私には、今そのいずれの眺めや感銘にも甲乙つけがたい。行けば必ず彼らが其処に在るとは知りながら、さて実際に行って見て帰って来て、こうして我が家でその思い出を新たにしていると、双方の比較よりも何よりも、先ず行って本当によかったという気持になる。もしも機会に恵まれず或いは何かの都合で行けなかったとしたら私はこの初夏の絶好の季節に、山という大いなる自然に関するかぎり、少なからず損をしたという事になる。もちろん住みなれた家に居れば居るで、物も書き、本も読み、好きな音楽も聴き、時には繁華な街中へも出かけるだろうが、そういう私に一つの潑溂とした生気を、或る決然とした潔いものを吹きこんで、日常生活の馴れや惰性や凡庸から救い出してくれるのは、実に山という物の存在であり、それとの時折りの交わりだからである。
 ときどき一人で考える事だが、私は自分の本心を山にこそ預けてあるような気がする。それも孤立した山ではなくて峰から峰へと続いている連山、そこに自由と真実とが高峻を生き、そこで私の精神が鍛えられ心が清められ養われるところ。そういう処にこそ自分の夏の故郷はあるのではないかという気がする。だから地平線に浮かんでいる遠い雲を見ると懐かしく、夕日に映える西の空か恋しいのである。なぜならばその遙かな雲の下、その美しい夕映えの底には必ず私の心の山かおる筈だから。
                               (一九七〇年六月)

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 妙高山


 妙高はいい山である。呼び名もきれいだし、漢字で書いた字画もすっきりして美しく、長い裾野を曵いてそびえるその山容も雄大である。
 今から数えればもう三十年以上にもなる昔のある秋、私は目的であった戸隠山への単独登山を果たすと、まっすぐに東京へは帰らずに、いったん戻った長野から新潟行きの列車に乗って牟礼、古間、柏原を過ぎて田口の駅で降りた。そのころのことだからまだ案内書と言えるほどの物もなく、五万分の一の地形図「妙高山」がただ一つのたよりだった。
 初めの予定では赤倉まで行って香獄楼というのに泊まるつもりだったが、ぼろぼろなバスで一緒になったただ二人の女客が燕温泉の者だと言うのを聞くと、そのまま彼らと一緒に約三十町の山道を歩いて神己山の下の燕温泉へ落ち着いた。宿は岩戸屋といって感じのいい家だった。帳揚のいろりを囲んで山ブドウの酒を飲みながら楽しい話相手になってくれた若い主人は、東京の駒沢大学出身で、その卒業論文は一茶の研究だったと言った。
 ふろにつかっていると、頭の上は神奈山とその大岩壁に懸かる惣滝そうだきの壮観。二階座敷の縁側から西のながめは軒先につかえるばかりの妙高山の威容。東は大田切川上流の谷を縱に見て速く岩菅から苗場までの山の波濤そしてその果ての空に雄大なオリオン星座が爛爛とせり上がってきた夜ふけの美しさを私は今でも忘れない。
 その後私は燕温泉から池ノ平のコースと、ほぼその逆のコースとで、春と秋の二度妙高山へ登ったが、その二度とも美しい天気に恵まれて、頂上の三角点から日本海や野尻湖は言うに及ばず、すぐ近くの火打、焼、あるいは遠く富士山や上信の山々のすばらしい眺望をほしいままにした。
                                 (一九七〇年八月)

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 心打つひびき


 高齢と言われるにはまだ少し早いように自分では思っているが、何しろ八〇歳もそんなに遠い事ではないので、今のところどこと言って体に別状は無くても健康には気をつけている。心臓や脚力の衰えのせいか、さすがに昔のように高い山登りなどは出来ないが、軽い袋を背に、どこかの高原を気ままに歩き廻る事ぐらいならば今でもさして苦にはならない。
 音楽を好きな私にとって有難いのは、まだ耳に何の故障も無いことである。音楽会場の一番うしろの席にいても、独奏ヴァイオリンの微妙なピアニッシモの歌を聴きかねるという事もなければ、混声合唱の中で或る低音のパートが歌っている美しい旋律を聴き分けそこなうという事もない。自分の書斎で一人聴くレコードに至っては勿論である。これがもしも年のせいで耳が遠かったり病いのために難聴だったりしたら、生きている毎日がさぞや味気ないだろうと思うのである。しかもそういう人はたくさんいる。そんな時「ひびき」や「山のこだま」について書けなどと頼まれる人間は、わが身の果報をもう一度とっくりと考えてみなければならない。
 今、私の家のまわりでは頻しきりに九月の蟬が鳴いている。ミンミンやヒグラシこそそろそろ終わりに近づいたが、ツクツクホウシは正に彼らの最盛期である。まるで無数の鉋かんなを掛けているような賑やかな響きが、朝から夕方まで周囲の山や林を満たしている。その間に遠く聴こえるアブラゼミの声。このアブラゼミの声が晩夏の歌の余韻ならば、ツクツクホウシのそれは正に時を得顔の喚声である。折折のシジュウカラやホオジロのような小鳥達の歌さえ彼らの叫びには打ち消される。しかしそれに入れ代わるのは日の暮からの可憐なクサヒバリやコオロギや霊妙なカンタンの歌で、これこそ真に秋を迎え、秋を褒めたたえるつつましやかな讃歌である。
 ひびきと言えば水のひびきも私は好きだ。それも山の間を流れる清らかな谷川の音や、原生林から搾れて落ちて来るまだ幼い綺麗な水の音が。都会の騒音から遠くのがれて、いくたびそういう清冽なひびきを私が聴いたことだろう! つい今年の五月に行った岩手県花巻の奥の豊沢川、六月に行った上高地の谷の梓川、更には乗鞍岳下の原生林の奥をしたたり流れていた玉のような清水の音。いずれも都塵によごれた私の心を洗い清め、日常の凡庸に那れた精神を奮い立たせるものだった。
 そしてもしもそういう時感激を以てか興に乗じてか、私が昔覚えたシューベルトなりシューマンなりを声張り上げて歌ったとしたならば、その声は或いは山のこだまを呼び覚ましたかも知れない。それとも年をとってしわがれた今の声では、それが歌曲であろうとヨーデルであろうとレントラーであろうと、すべてのこだまは平気で眠りこけていたかも知れない。

                               (一九七〇年九月)

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 思い出の道


 私は文学をやっていて、自然が好きで、思いのほか体も足も丈夫なせいか、職業や年齢のわりには、今までにもかなり多くの山登りや道歩きを経験して来た。そしてそれらの経験のいくつかを詩や文章に綴りながら、自分の人間形成の一助として来たのが、思えば過去の大半なのである。
 今、三十八年前に書いた「念場が原・野辺山ノ原」という紀行文の最初の部分を読むともなしに読んでみると、甲府の先の韮崎からただ一人の客として早朝始発のバスに乗りこんだ私が、窓の左手に鳳凰や甲斐駒の雄大な山容を眺める或る村の中を通過しながら、前の席に腰をかけている若い女車掌に「ここは何というところですか」と訊くと、「若神子わかみこです」という返事を得る箇所にぶつかった。その時私はこう書いている。「ああ、若神子か、それならば今日僕は一人の自然の神の子として歩くのだ!」と。
 事実登山や徒歩旅行をしている時、私は時々こういう神妙な気持になった。若かった日の敬虔な心の発奮だったのであろうが、その余燼は今も消えずに残っている。
 その時私の歩いたのは山梨県北巨摩郡箕輪新町から、今でいう野辺山高原を越えて長野県南佐久郡海ノ口までたどる佐久甲州街道だった。途中三脚を立てて大きなカメラを据えたり、捕虫網を揮ふるって珍しい蝶を追いかけたりしながらの徒歩の旅だから、秋も十月とあれば海ノ口へ着いた時にはもうとっぷり日が暮れていた。現在ではこの古い街道もいくらか開けて、一日に一回ぐらいバスが往復しているような話を聞いたが、女車掌が一日でくたくたになってしまうというから、向こうの高みを潚洒な小海線が高原列車などといって日に何回も往復している今日では、この道もあまり昔とは変わってもいないだろう。その代わり松虫草や梅鉢草の花の盛りを川俣川や大門川を危なげな橋で越えたり、一面に黄ばんだ広大な白樺林のむこうに八ヶ岳の権現や赤岳が次々と姿を現して来る風景の変化のすばらしさは、目的地へ早く行き着くことが眼目の乗り物などに乗っていては、到底味わうことのできないものである。
 ちょうど今の「のべやま」の駅に近いあたりだったと思う。私はうしろから自転車で来た二人連れの行商人風の若者に出会ったので、川上へ回らないで直接海ノ口ヘ行ける道をたずねた。二人は林の中を北へ行く道を指して教えてくれた。彼らはそのまま走り去ったが、二、三町行ったT字路のところまで来ると、さっきの二人が自転車をとめて待っていて、「もしもここを右へ行くと川上の御所平へ行ってしまいますから」といって、もう一度丁寧に教えてくれた。これには私も礼の言いようがなかった。すると二人の中の一人が「なあに、どうせ煙草を吸いに休んでいたんですから」といった。数年経って私はこの時の感動を一篇の詩として書かずにはいられなかった。題はむろん「野辺山ノ原」とつけた。

 中央本線塩尻駅から二つ先の日出塩を振り出しに、途中四泊を重ねながら、中津川の手前の落合川までゆっくり歩いた木曽路の旅も忘れられない。八年ほど前の秋のことで、一人の屈強な若い友人が同行だった。二人ともほとんど登山の時と同じくらいの大荷物で、よしんば雨に遭おうと野宿をするようなはめに陥ろうとびくともしない身仕度だった。鈍行の列車でも三時間近くで行ってしまうところを五日も掛けて歩いたのだから、奈良井川の谷も木曽川の谷も、鳥井峠も、馬籠峠も、その間十一あるといわれている古い宿揚や寺も神社も、折からの紅葉を旅路の飾りとしながらみんな見た。
 最初の泊まりは奈良井でなじみの越後屋、最後の泊まりは馬籠で島崎藤村の長男楠男さんのやってられる四方木屋、その間の寝覚でも須原でも、宿屋という宿屋はどこでも優待してくれた。それはこちらの名よりも何よりも、ひとえに木曽の人々の人情の厚さ、美しさだった。上松あたりまでには二、三ヵ所造成中の新しい国道に出逢ったが、そういうところはなるべく避けて、趣き深い古い中山道をのんびりと歩いた。幸い天気に恵まれて、ルックサックへ挿し込んだコウモリ傘が文字通り無用の長物だった。その代わり用意の罐詰類や壜詰類は到るところでよく食べたので、あの大妻籠あたりから藪の深い旧道を登って馬籠峠の頂上へ着く頃には、さすがの荷物がすっかり軽くなっていた。
 この峠と鳥居峠とを別にすれば、今では木曽路もすっかり開けて、トラックやバスや自家用車の往復が激しいのではあるまいか。交通が便利になって結構なことではあるが、何か惜しい気持もするのである。
                              (一九七〇年十月)

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 里にたなびく煙 


  

 駅に近い村里にりりしく梅の花の咲くころ、朝早くから曲がりくねった谷を登り、だんだん狭くなってゆく路をたどりたどって、漸くのことで目ざす山の最初の尾根の高みへ出る。やれやれと草の上に腰をおろして時計を見ると、出発点の駅からもう二時間ちかく登っている。水筒の水をごくりと飲み、巻煙草を一本ゆっくり吸う。これが実に楽しみだったのだ。この実みのある一本のうまさを思うと、下界で何気なしに吸っては揉み消しているのがもったいない。
 いろいろな木々が爽やかな新芽を光らせている尾根づたいの林の美しさ。それに日当りのところどころに早咲きのタンポポやスミレの咲いているのも、こんな山歩きが久しぶりであるだけに、なおさら珍しくも有りがたくも感じられる。こんな事なら都会でまごまごしている暇に、もっとたびたび来るように心掛ければよかったと思うが、そうもゆかないのが人の世の生活だし、又それだからこそこうした新鮮な感銘にも打たれるのだと思う。
 駅はもう遙か下のほうになって見えないが、その方角のむこうの山の段地には麦の緑の畑が見え、ああ其処では折から枯れ葉の山でも焚いているのか、薄青い煙が柔らかに梅日和の空に揚がっている。私はその平和な景色を遠くから眺めながら想像する。あそこではきっと近くの杉林でヒヨドリが鳴きさわぎ、きれいに掃き清められた庭の仕事揚のまんなかで白々と灰がくずれ、農家の若い女房が洗濯物を干しているのではないだろうかと。


  

 私は終戦後の七年を、妻と二人、ずっと長野県の富士見高原で暮らしていた。旧華族のWさんが高原の広い森の中に分水荘という大きな別荘を持っておられたが、東京で戦火に焼け出された私たちを気の毒に思われて、その別荘の幾間いくまかを無料で貸して下さったのである。しかしそのWさんとても同じように麹町番町の邸宅を焼かれて、幼い令息二人との親子四人でこの別荘に移り住まわれ、土地の若い農夫一人を使って鶏や家畜を飼ったり、森のまわりの畑や地所を新しく開墾したりしておられた。もちろん今までにそんな経験を持った人たちではないのである。それで私も物を書くかたわら、近所の農家から少しばかり畑を借りて、妻を相手に豆や馬鈴薯や白菜などを作っていた。
 夫君Wさん自身は東京に務め先があったので不在勝ちだったが、夫人のほうは天気さえ良ければ毎日朝から家畜小屋や畑での仕事だった。フランス語を善くされたらしいが、一体そんな本を読む暇が有るかしらとこちらが同情するくらいの多忙さだった。私が或る時『農揚の夫人』という一篇の詩を書いたのも、そういう生活を続けていた頃の忘れがたい思い出の一つである。眼目は若くて美しい夫人のかいがいしい労働の姿と、その姿と切り離せない富士見高原の畑になびく焚火の煙の印象である。

  お天気つづきの毎朝の霜に、
  十一月の野山がひろびろと枯れてゆく。
  高原の空は無限に深く青くなり、
  浅い流れは手も切れるほど冷めたく、
  太陽の光が身にも心にもしみじみと暖かい。
  あなたは開拓農場の片隅に
  秋のなごりの枯れ葉をあつめて
  ほのぼのと真昼の赤い火を燃やす。
テキスト ボックス:
  爽やかな海青色かいせいしょくのオーヴァーオール、
  髪の毛を堅く包んだ黄色いカーチフ、
  長いフォークの柄によりかかって
  うっとりとあなたは立つ。
  鶏を飼い山羊を飼い緬羊を飼い、
  一町五反の痩せ土と独力で取っ組んで、
  六年の今日「斜陽」もなければ旧華族もない。
  頼むのはただ自然とその順調な五風十雨。
  あなたの手に堅く厚いたこがあり、
  あなたの机に農事簿とアンドレ・モーロアの原書とがならぶ。
  そして今日のいま 金と青との晩秋の真昼、
  赤い火に立つあなたを前に
  もう初雪の笹べりつけた北アルプスの連峰が、
  ああ 遠くセガンティーニの背景をひろげている


  

 今はすつかり森林が伐られて昔の面影も無いような話だが、奥秩父中津川の谷の最後の部落中津川から、信州千曲川の上流梓山の部落へと越すあの三国峠。あそこからの或る夏の夕暮れの眺めも忘れられない。南は十文字峠をこえて甲武信こぶし、破不はふう、国師岳。西は千曲川の谷を縦に見おろして天狗山や男山から八ヶ岳のいくつの峰々。折からの夕映えがその峰々をまだ彩ってはいるが、眼の下に愛らしく横たわる今宵の泊まりの梓山にはもうたそがれが広がって、懐かしや旅館白木屋のあたり、母の胸からのように暖かく夕べの煙がただよっていた。
                               (一九七〇年十二月)

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 写真に寄せて 
     
   註:「小原流挿花」のカラー写真に寄せて執筆されたもの(サイト管理人)

  青木湖畔

 この湖岸の美しい冬景色を私はいまだに知らないが、これは信州の青木湖なのである。地理学上糸魚川・韮崎地溝線と呼ばれている本州の大断層地帯の線上に、北から南へつらなるいわゆる仁科三湖のいちばん北の湖で、この東岸を松本からの国鉄大糸線が走っている。私はこの湖水のふちを秋と春に少しばかり歩いたことがある。その記憶からすると、正面の山の下に見える扇状地のような地形のところは、おそらく青木の部落であろう。
 森を伐り払ったり藪を刈り込んだりした山の中の斜面の高みに、鹿島槍国際スキー場の三角ロッジというのが普請中の時だったから、もうかなり前になる。たしか秋の初めだった。大町の或る学校の校歌を作ることを頼まれて、東京からその下見分に行った旅の帰りに、接待役の先生に案内されて、私はその高みまで登ったのだった。大町から車で糸魚川街道をまっすぐ北に、木崎湖を経てやがて小さい池のような中綱湖。その落ち口の中綱の部落から今度は西へ折れて、今はすっかり改修されたことだろうが、その頃はまだかなりひどかった紆余曲折の山道を揺られて行った覚えがある。その翌朝だった。私が中綱の静かで感じのいい宿を出て、ゆっくりと此の青木湖の秋の眺めを味わったのは。
 だいぶ古い観測ではないかと思うが、青木湖は湖面の海抜八二二メートル、面積一・八六平方キロメートル、湖岸線の延長六・七キロメートルに及ぶとあるから、仁科三湖の中でいちばん高くていちばん大きい。湖水の深さも六二メートルもあって、これもまたいちばん深い。西岸はおもに花崗岩から成っていて絶壁をつくり、東岸は底も遠浅で砂浜の発達している処さえある。しかしこれは私か日本の地形概説から得た知識の受売りにすぎないが、それにしてもこのように東京の書斎であらかじめ調べて置いて、それから現地へ行って地図と対照しながら歩く癖は今でも抜けない。景観地理学や集落地理学を少しばかりでも学んだありがたみが、昔の旅の思い出と一緒になって、こういう美しいカラー写真からこそ余計に感じられるのである。
 西に前山を越えて残雪の爺子じい、鹿島槍、五竜がそびえ、更に大黒、唐松、杓子、白馬、小蓮華と、しだいに柔らかく暖かく霞んでつづく後立山連峰の、春の眺めも雄大で優美だった。 
 おりから村落のあたりには桃や杏の花が咲き、山の斜面の雑木林には白いコブシの花が盛りだった。水際の砂地や礫地にはシギの類が下りてあちこちと餌を漁っていた。小鳥たちの歌も賑やかだった。そういう観物みものき物ものを一つ一つノートに書き留めながら、立ちどまったり、しゃがんだり、すわり込んだりして、簗場やなばからの帰京の列車の到着までゆっくりと、のんびりと、遊んでいるのが実に楽しかった。
 そう思ってこの写真を見ると、春まだ遠い北国の抜けるような青空の下で、なかば氷った湖を前に、雪に被われた山を背に、愛らしい扇状地の上に載って一つの集落風景をなしているのは、やはり確かに青木の部落に相違ない。
                              (一九七〇年十二月)

 

  亡びゆく昔の美

 今でも国内ところどころに残っている古い町並や、民家の外観や、その家の中の間取りの様子や昔からの家具などに、興味を感じたり知識を持っていたりする人と一緒に旅をすると、そういう方面にほとんど無知な私のような者は、時々ひどく羨ましくなる。
 前にも書いたと思うが、私が山へ登ったり好んで徒歩の旅をするのは、幼い時から動植物が好きだったり、やや長じて地理学の端くれのようなものを修めたからであった。だからその方面の見聞なら少なくはないと自認しているが、事およそ民俗となると、人文地理学なども少しばかりは噛じったくせに、話も出来なければ書けもしない。尤も何と言っても本来の仕事は詩人なのだから、この上新しく民俗学の勉強をする気もないし、年齢を考えれば今更そんな事もしていられない。たとえば本誌のこの号の表紙を飾っている立派な民家の写真にしてもそうである。だいぶ以前の事になるが、私も確かにこの家を見た。まだバスのかよっていない頃の話で、信濃毎日だか信越放送だかに務めている若い友と、下諏訪から昔の塩尻峠を越えて塩尻の町まで歩いた事がある。たしか七月の暑い日だった。峠の頂上ではエゾハルゼミが鳴きしきり、路傍のアヤメやウツボグサの花をかすめて美しいヒョウモンチョウがぴかぴか光って飛びかっていた。峠道の長い降りも終わって午後三時近く塩尻の町へ入ると、通りの片側にどっしりと門や塀を構えて奥深く建っている一軒の立派な家を指さして、「先生、これが有名な堀内家です。堂々たる物じゃありませんか」と友が言った。なるほど広大な屋根を鳳おおとりの翼のように左右に張った、いかにも豪壮な家だった。しかも折からの午後の日を浴びたその屋根飾りなる物が実に見事で、まるで兜の前立てを見るように勇ましくさえあった。私は後にも先にもこんな屋根飾りを見た事がない。友は頻りに写真をとっていた。今でも有るだろうと思うが、その門の右側に一本のケヤキの大木が立っていて、その高い枝には無数の小鳥が群れていた。
 木曽の奈良井宿じゅくの旅籠はたご越後屋。これは前記の堀内家とは全く趣を異にしているが、いかにも古い宿場の旅籠らしく、素朴で真心のこもった感じのまざまざと出ている旧家である。その玄関の角に「木曽奈良井 ゑちごや 御宿」と書いた古風な足付き行灯あんどうの立っているのがいつ見ても懐かしい。とは言えその後しばらく訪ねないが、あの老主人永井喜平さんの人柄を思うと、家の中の古い道具や、今は故人となった昔の山仲間の署名がたくさん残っている宿帳をもう一度よく見せて貰いがてら、命あって行けるうちに行って置きたい気が頻りにする。
 或年に別の友達と二人で木曽街道の徒歩旅行をしたが、まだ「観光開発」とやら言う悪風が吹き荒すさんでいなかったので、妻籠つまごなども昔のままのようだった。しかしこのごろ新聞にでかでかと出ていた写真を見ると、今はあの狭い道の両側に新築の旅館や民宿がぎっしりと並んで、当時村の人に教えられたウダツなどは見る影もない。妻籠から大妻籠。そして草木に埋もれた旧道を馬籠峠へと登った昔が夢のようだ。
                              (一九七一年一月)

 

  荒川岳と雷鳥

 この見事な写真は、四月下旬、日本南アルプスの荒川岳付近でとった物だそうである。撮影者としては随分苦労した事だろうと思う。私はまだ実地を踏んだことがないので知らないが、荒川岳と言えばいわゆる荒川三山の一つで、海抜三千余メートルの高山である。四月末ではまだ雪も堅く深いし、気温も低い上に、元来が峻険をもって鳴る連峰の一つだから、このあたりまで来る事がすでに大変な仕事だったに違いない。私は二十万分の一や五万分の一の地図を拡げたり、山友達の一人が描いてくれた登路の略図を見たりしたが、とても大物で、難物で、若い頃だったらいざ知らず、年を取った今ではもう登ってみたいという欲望すら湧いて来ない。もっと低い山から遠望出来るものなら遠望して、「あれが荒川岳、あれが中岳、あれが名だたる悪沢岳か」と、溜息まじりに望遠鏡を向けるくらいが関の山である。
 ところで、雲をかぶった背景の雪山をすっぱりと断ち切るように、左上から右下へと流れ落ちている前景の斜面の色が何という鮮やかさだろう。しかも路らしい処に雪を残したこの斜面はすべて冬枯れのハイマツに被われているが、よく見ればそのハイマツの枝にもきらきらと霜か氷が輝いている。そして見よ、其処に二羽のライチョウが太陽に面してひっそりと立っている。まことに静けさの極み、清浄な天地の一角だと言わなければならない。
 その彼ら二羽のうち、眼の上に鮮明な紅い肉冠が見えて、羽毛が黒と白とでまだらなのが雄、下の方にいる白いのが雌であろう。しかしやがてもっと季節が進んで夏になれば、彼らはいずれも翼の白部分だけを残して黒っぽくなる。そして雌はハイマツやコケモモなどの生えた草地のくぼみに卵を産んで雛を育て、雄はその縄張りの警戒に当たるだけで雛たちの面倒は見ないらしい。産卵は普通五個から十個の間と言われているが、私が北アルプスの山でしばしば出逢った雛の数はたいてい一羽か二羽だった。長野県下で行われた継続調査によると、その原因は彼らの天敵であるキツネ、ヤマイタチ、テンなどの餌食になるためで、雛鳥の育つ率は極めて低いという事が明らかにされている。 
 私は木曽駒ヶ岳を盟主とする中央アルプスではまだ彼らの姿を見た事がないが、北アルプスでは穂高や後立山の連峰で幾たびか見た。そのあたりではまたイワヒバリの晴れやかな歌声が聴かれ、ハクサンコザクラ、コマクサ、チングルマ、タカネウスユキソウなどのような高山の花が、雪渓や、砂礫地や、岩の間を可憐に美々しく彩っていた。そしてそのあたりにじっと佇んでいたり、静かに歩いていたりする彼らライチョウの親子連れをたまたま見る時、私は登山という事のありがたみをしみじみと感じるのであった。
 ただここに一つ気になる事がある。それはこの写真の中央に当たって、ちょうど近景のハイマツの斜面と遠景の雪山とをかぎる線上に、何だかもう一羽こちらを向いているライチョウが見えるような気のする事である。どうせ表紙になって拡大されれば真相は直ちに判明するだろうが、小さなフィルムの原板で見る限りではどうもそう思えて仕方がない。
                               (一九七一年二月)

 

  穂高のわさび田

 思えばだいぶ前になるが、曾てこんな文章を書いたことがある。
 「満山紅葉の中房温泉から飛ばして来た車を穂高町で停めて、まず碌山ろくざん美術館へ、そして今は安曇平あずみだいらのまんなかで、秋のわさび田を見おろしている。
 田とは言っても田圃ではなく、一面に白い小石を敷きつめた曲線ゆるやかな帯のような浅い谷。笳の中を清く冷たい伏流の水がきらきら流れて、見通す限りぎっしりと植わったわさびの苗を太く豊かに育てている。両岸をポプラやアカシアの深い林に護られて、金色こんじきに澄んだ信濃の秋の日光の下、純白な石の床を埋めたその葉の緑のみずみずしさ!  この水、この石、この日光に養われて、根茎は肥大し、固有の辛味と芳香とを増し、その分子いよいよ細かく、柔らかく、ねっとりと、数滴の醤油に一段の生気を添えるのである。
 その画のようなわさび田のあちこちで、しきりに囀っているセグロセキレイの声。振り返ればもう薄雪に粧われた常念や燕の北アルプス。しかし安曇野ほとりいれも終わって、秋から冬への変わり目の微妙な一日を憩っている」

     *

 本号の表紙を飾っているこの風景は五月の初旬に撮影したものだそうだが、実に清らかでみずみずしくて、撮影者としても充分満足している作品に違いない。私の前記の文章もちょうどこの角度から見た同じわさび田の秋を書いたものだが、色にも、線にも、ヴォリュームにも、文章などではとても表現できない要素がここにはそっくりそのまま把握されている。豊かにひろがった緑の葉のなかに点点と白いのは小さい十字形をしたわさびの花であり、碧い水際をゆるやかに白く縁どっているのは床の小石である。そして曾て私のセグロセキレイがしきりに囀っていたのはこの前景の水のふちだった。むこうに見えるポプラの並木の姿もいいし、柔らかに煙っているカラマツの若葉の林を遠い背景にした白樺らしい二本の立木も、何でもないようでありながら有力な一点景を成している。何にしても見事な出来であり、これを見ている私も、下手ながら、今度はカラー・フィルムを持って行きたいような気がする。とは言いながら穂高町の人々によくお願いして置きたいのは、だんだん別荘地みたいな物に発展してゆくらしいこの土地が、どうか他の土地からの心ない移住者や観光客などに荒らされたり、無残に変形させられたりしないようにという事である。
 こんなに整然とした立派な養殖場ではなくても、山の中の谷間たにあいのような処でわさびを作っている場所を見かける事はまま有る。東京から近い処ならばさしずめ奥多摩とか丹沢の山地とか、伊豆の山の中などが挙げられる。そういう処はたいてい疎林に被われた半日陰で、さらさらした砂礫地の中をきれいな水が流れている。
 奥多摩と言えば終戦の年の事だった。立川市砂川の農家である本家ほんけに疎開している私達夫婦の処へ、或る日山好きの若い女の友達が訪ねて来て、氷川ひかわ産のわさび漬を一箱持って来てくれた。その好物のわさび漬を夜食の時に食べていたら、何かカチリと歯に当たる物があった。口からつまみ出してよく調べてみると、赤味がかった石英質の岩石を三角形に刻んだ紛れもない大昔の鏃やじりだった。私はその大切な記念品を綿にくるんで今でも持っている。
                                (一九七一年三月)

 

  諏訪湖

 戦後七年間をずっと家族の者と一緒に、信州八ヶ岳山麓富士見高原の森の家に住んでいたので、この諏訪湖の眺めには、ほかの土地のどんな湖のそれにも増して深い親しみが感じられる。もっと砕いて言えば、まるで自分の家の近所にある大きな池か何かのようだ。なるほど地学の本を見ると湖岸線の延長一八・二キロメートルだとか、最大深度七・〇メートルだとか、湖面の海抜七五九メートルだとか、更にその成因などについても種々専門的な事が書いてあるが、そういう事は一応たしなみとして頭の奥に入れて置いて、何はあれこの写真で見事な水や空の風景を見ていると、ただそれだけでさまざまな記憶がよみがえり、いろいろな感慨が次から次へと湧いて来る。
 富士見高原の家からは、南西に横たわる釜無山脈にさえぎられて直接諏訪湖は見えないが、その存在は空にひろがっている雲の模様でもおおかた知れた。つまり頭の上は曇っているのに湖の上だけは雲が切れて、「この下に大きな水の広がりがある」と言わんばかりに、丸い青空が楽しげな顔をのぞかせているのである。永くこの土地に住んでいる人ならば誰でも知っている事だろうが、東京から移って間もない私にはそれも一つの発見だった。しかもこの湖の存在は、八ヶ岳連峰や甲斐駒同様、私にとっては天気予知の資料でもあった。諏訪の湖面から気圧の高い空気の流れが柱のようになって立ち昇る。それが上空の気圧の低い雲の層を切り抜いて青空を見せる。ひどく幼稚な観天望気の法ではあるが、これが時どき私の天気予報の役に立った。雨傘を持参で停車場を三つ先の上諏訪まで用達しに行く妻に、「諏訪は晴れてお天道さまが出ているよ」と言った私の言葉がみごと当たって、帰宅してからの彼女に褒められた事もしばしばあった。しかしこの地方のこんな事は、今は亡いが私の尊敬措かぬ気象学者藤原咲平博士や、今を盛りの山岳小説家新田次郎(藤原寛人)君や、その奥さんの藤原ていさんなどに聴かれたら、たぶん笑うかほほえむかされるであろう。その藤原ていさんに初めてお逢いしたのは、実に湖畔の測候所の一室での事だった。その時その初対面の人は、「あなたはお仕合わせです」と思い入ったように私に言った。
 七年を通じて毎月一度か二度は必ず行った湖畔の町には、それ故たくさんの友人や知己がいた。文学や動物学に詳しい教師もいれば老練な歯科医で理科学者もい、産婦人科の院長で天文の学者もいれば書籍商で古代民俗の大研究家もい、楽器商で土地の交響楽団の創立者兼指揮者もいれば古い理髪店の主人で名ある星学者もいる。由来信州は教育のレベルのすこぶる高い処だから、なまじ東京などから行ってちっとやそっとの学識を振りまわすと、たとえばこの湖畔の農村の古老などからさえ憫笑弐れる惧れ無しとしない。
 今この美しい諏訪湖の写真を見るにつけても、同じ季節に出かけた六斗川付近の水辺の鳥の探鳥会や、阿弥陀寺境内での木星の衛星観測会や、旧塩尻峠を中心としたあの植物観察会の事などがいとど懐かしく想い出される。
                                (一九七一年四月)

 

  白馬大池のあたり

 ちっとも優秀な器械ではないが、私もカメラを持っている。そのくせ無精になったのか熱情が無くなったのか、たまに出掛ける旅行などにもさっぱり持って行かず、もっぱら娘や孫達の自由な使用に任せている。しかも彼らの成績がなかなか悪くないのである。そして「これ良く撮れているでしょ?これみんなおじいちゃんの器械で撮ったのよ」などと言われても、写真の出来は褒めこそすれ、カメラやレンズその物については何も言わない。自分ながらどうもその程度の反応しか起こらないらしいのである。本当の写真家から見たらこういうのはもう駄目なのかも知れない。
 風景で言えば、やはり自分が歩けば歩ける自然が好きだ。野の花ならば膝を突いて柔らかに指でつまんで、色や形に見入ったり薫りを嗅いだりする事のできる本物が好きだ。立派な樹ならば抱えるか撫でるかしてみたいし、清らかな流れなら両手で掬うか片手でじゃぶじゃぶやってみたい。静かな鑑賞家というよりも、画家的素質の人間というよりも、明らかに現実主義者なのである。生きている者と生きた体で接触したい。これではなかなか業ごうも尽きず、枯淡の境地にもいまだ甚だ遠い者と言わなければなるまい。
 それでもなお記憶や連想の力がすっかりは失われていないせいか、この写真の美しい風景を見ていれば心が爽快になり、胸のときめくのを覚えるのである。「八月三十日朝八時、大糸線白馬大池の駅から親ノ原にむかって峠を登った処から見た後立山連峰」とある以上、そのあたりを少しは歩いたことのある私に、たとえこのとおりではないにしても、なんの感慨も湧き起こらないわけはない。よしんばこの残雪白い二座の山が白馬と小蓮華であろうとなかろうと、こういう壮麗な山々の屹そばだちは半ば眠った現在の気持をたたき起こして、過去への郷愁をまざまざと蘇らせるのである。つらかった記憶、苦しかった思い出も、今はすべて遠い花のように咲くばかりで、何もかも「美」の一点に凝縮してしまう。それを思えば山日記の古いページに事こまごまと書きつけてある風景の大観だの、植物や小鳥の事などもよく書いたものだとは思いながら、所詮は誰もよくする紀行文の種だったに過ぎないような気がする。今の私にしてこんなすばらしい自然の中に放たれているとすれば、なお生きている我と我が身を祝福しながら、むしろ未前の音楽を紡いでいることであろう。
 山麓の高原にはマツムシソウが咲き、ヤナギランが咲き、ミヤマシシウドが咲き、足もとにはコケモモの実が紅く、クロマメノキの実が或いは黒く或いは紫に染まっていた。オオヂシギの逞しい声や羽音や、ノビタキの夕暮の歌に耳を傾けたのもこの辺りだった。
 この「旅へのいざない」の写真、この夏の終わりの山の自然の画を前に、私と感を同じくする人、或いは幾人かはいるであろうか。

     *

  ししうどの原でのびたきが鳴いている。
  乾草がよくかわいて佳い匂いを立てる。
  小屋の日かげで一羽の蝶が
  破れた羽根を畳んだり拡げたりしている。
  もうじき牛達も麓の村へ帰るだろう。
  やがて、とつぜん、
  秋が最初の嵐を連れてやって来るだろう。
                              (一九七一年六月)

 

  姫川峡谷地帯

 地形図を見ながらだと一層良くわかるが、日本ならば何処にでも有りそうで、しかも何とも言えない晩夏初秋の情趣を深く湛えたこの美しい風景は、長野県の大町市と新潟県の糸魚川市とを南北に結ぶ大糸線の沿線付近の眺望である。してみればドイツの地質学者エドムント・ナウマンの所謂フォッサ・マグナ(大地溝帯)、日本の地質学者矢部長克の命名になる糸魚川・韮崎地溝線の北の一部、つまり糸魚川街道が其処を走っている姫川の峡谷地帯を縦に見た風景であろう。五万分の一の地形図ならば正しく「白馬岳」図幅の中心部ぐらいに当たる処かと思う。私も姫川という好ましい名だけは知っていながら、まだ実地を歩いた事がないので何も言えないが、その流域の地質や地形に特色が多いので、学問的にも景観的にも甚だ興味ある処らしい。
 この姫川の河身と糸魚川市に近いあたりには累々と重なった各種の岩石が露出して、至る処にみごとな岩壁や礫原を現出していると言われている。ところがその美しい岩や石を大ぴらに盗んで運び去る人間の群が続出して、あたら華麗な景観がどしどし破壊されてゆくという悲しむべく憎むべきニュースが二、三年前の新聞に出ていた。谷や河原の美しく珍しい小さい石を二つか三つ旅の記念に拾って行くというのなら許せもするが、自家用車やトラックを乗りつけて、庭園の装飾のためやそうした商売のために、国や地方の宝とも言うべき大岩小岩を堂々と持ち去るというのは許しがたい行為と言わなければならない。似たような事は曾て秩父の三波川さんばがわや神流川かんながわの谷で行われて問題になったが、一体この方面の取締りがどのように行われているか、現在のみならず将来に亘っても吾々の深く憂慮するところである。「環境保全」だの「自然保護」だのと言いながら、その保全や保護のためにどれだけの事がなされているかと思うとまことに寒心に堪えないものがある。
 花が多いと言えばすぐ花を採りに行き、虫がいると聴けば忽ち虫を採りに行き、しかもそれを大がかりに採集してデパートなどで一本いくら、一匹いくらで売っている。自然の破壊、動植物の絶滅をまことしやかに歎く一方では、こんな事が平気で行われているのである。それを仕事にして大量に刈ったりつかまえたりする人間も人間なら、それを又しこたま仕入れて平気で売っているデパートもデパートである。こんな事が永く続いたら、やがて日本には花一輪、虫一匹、野鳥一羽見ることも容易ではなくなってしまうだろう。思えばなさけない国である。
 だから自然が好きでも、否、自然を愛すれば愛するほど、どこそこに何か沢山咲いていたとか、何という蝶、何という鳥が多かったとかいう事を、私はなるべく書かない事にしている。人の心を富ませたり喜ばせるために書いた事があだになって、或る種の昆虫がいなくなったり、或る植物が全滅してしまったりした苦い経験を過去にいくつか私は持っている。
 この美しい写真から想像される姫川の谷や山にしてもそうである。こんな処がやがてどしどし荒らされるかも知れないと思えば、なまじ詩人の筆で美化するのはいけないと思う。その鑑賞は見る人の心に任せて、私としては引込んでいるのが本当であろう。
                               (一九七一年八月)

 

  木曽路

 ここは木曽の入口、中山道なかせんどう本山もとやまの宿だそうである。なる程、そう言われれば私にも見覚えがある。中央本線洗馬せば駅の先の日出塩から歩き出した落合川までの木曽路の旅を、もう一〇キロほど手前から歩き足して、それより数年前に試みた木曽の徒歩旅行を完成しようと、わざわざここを通ってみたのだった。
 家の形と言い、その家並びと言い、街道の曲がり具合と言い、うしろに背負った山と言い、すべて、いかにも落ちついた中山道宿揚の風景である。秋なのだろう、もう暖かく色づいた山の斜面も向こうに見えるし、のんびりとした日向日陰も手前に見える。折から自家用車やトラックやバスの姿の見えないのが一層ありがたい。十年まえの記憶が美化され、木曽路九〇キロの旅絵巻の最初の一枚がここにある。かつての旅を思い出してこの写真に見入りながら、新しく一本吸い付けるタバコという物の楽しさよ、豊かさよ!
 ついに完成された徒歩旅行のことは別として、私は思いのほかたびたび木曽を歩いている。講演その他のための時もあったし、自分から思い立って出かけた事もある。泊まった宿は贄川にえかわ、奈良井、宮ノ越、福島、上松、寝覚ねざめ、須原、三留野みどの、妻籠つまご、馬籠それに少し傍へそれて開田高原の杷たばノ沢と西野。多くは宿屋だが、中には学校の宿直室や、板壁一重隣が馬小屋になっている農家の一と間もあった。しかし何処へ行っても泊まっても人情は篤くこまやかで、いわゆる観光地でのような扱いは一度も受けた事がない。まるで静かな親戚の家へでも行ったようで気が置けず、さりとてちやほやするのでもなく、してくれる事に実じつがあるので、泊まり心地がまことにいい。店の入口に「はたご ゑちごや」という古風な角行灯かくあんどうを出した奈良井の越後屋がその一番の例である。主人の永井喜平さん夫妻が好人物で、膳の物も膳の物だが、ぼつぼつと話してくれるその話がじつに味わい深く面白い。事実私の山友達も幾人かこの家をひいきにしていたので、私の知らない彼らの若い頃の話もいろいろ聴いた。そしてその話し方がいずれも好意に彩られたものだった。たとえば今は故人の西岡一雄さんや茨木猪之吉さんその他著名な人達の事を、いとも温かく懐かしそうに。
 木曽は其処に住んでいる人間もいいが、私にとってはその自然もまことに美しく思われる。汽車の旅ならじきに通り越してしまうが、車ではなく自分の足でじっくり歩けば、狭い谷間の風景は刻々とこまかに趣を変えて、季節季節の独特な美を味わわせてくれる。そして一人行く心はおのずから和なごまされて、句でも歌でも或いは詩でさえも容易に生まれて来そうな気分になる。実際私も「木曽の歌」なるものを幾篇か書いた事があるが、それらはたまたま新鮮によみがえって、心の中で「旅へのいざない」を奏でている。
 藪や林を押し分けて登った馬籠峠の旧道もいい。島崎楠男さんの経営している四方木よもぎ屋からの美濃の天地の眺めもいい。殊に昔の細い街道の名残りである石敷きの道が私には今でも懐かしい。
 しかし命ある間に是非とも一度やってみたいのは、この木曽路を南から北へと逆に歩く事である。新茶屋の敷石道を第一歩に、次々と思い出の宿に泊まって、ついにこの本山宿にたどり着いてみたい願いである。
                               (一九七一年八月)

 

  夜叉神峠

 編集部から写真を送られはしたものの、そしてこの氷結した滝や岩壁に「夜叉神峠にて」という題がついてはいるものの、恥ずかしいかな私はまだこの夜叉神峠なる物を越えた事もなければ、トンネルでくぐった事もない。ただ近年甲府盆地の芦安からトンネルでこの峠を抜けて、野呂川の広河原全で行く車道が完成したという話だから、私のような者にも此処を通って、あこがれの白峰しらね三山(北岳・間あいノ岳・農鳥のうとり岳)を訪れる機会が、或いは与えられるかも知れないと思っている。それにしてもこんなに氷ばかりでは、何処の岩壁だか峠だか判らないのが恨みである。
 車で通り抜けられるトンネルの易きはともかく、名だたる夜叉神峠を歩いて越えることはかなりの難事であったらしい。その代わり峠を下って野呂川の林道を明るい清潔な広河原へ出て、ホッとした気持で北岳を仰ぎ見た時の嬉しさは、実に何とも形容し難いものだと聴かされている。さもあろう。我国第二の高山と言われるあんなに優美で崇高な白峰北岳をこれから登るべき目標として、先ずその一歩を踏み出す前の憩いの河原であるとしたら。しかしこの善さも満足感も、自分の足で長い険難の峠を越して来たのでなくてはその味が半減も四半減もするだろう。久しぶりに太陽の光を浴びる明るい静寂の境地でたまたま鳴いているのを聴く山深い小鳥の声。きびしい試練の後でこそ、楽しんで深く味わえる美しさである。
 今ではもう汚れきった空気のために眺める事さえかなわないが、昔は川崎の町の手前の六郷川の鉄橋を汽車で渡ったり、その川の左岸の土手を歩いたりしていると、よく北西のほう高尾山の遙か向こうに、白峰三山の美しい連なりが見えたものだ。春や夏の霞の時はぼんやりと、秋や冬の晴れ渡った日にはくっきりと、その三つの峰はスカイラインを成して大菩薩連嶺と道志の山々との間に出ていた。海抜三千メートルを越える高山は、その眺めからは富士のほかには一座も無い。その富士山が平凡に見え、白峰の山が奥床しいものに見えたのだから、知っている人達にはいつでも楽しい見ものだったろう。私も秋や冬には東京の町中から六郷土手までよく見に行った。亡くなった山の大先輩木暮理太郎先生もこの眺めが好きで、東京も山ノ手の牛込からよくこの山の写生に六郷土手まで通われた。その見事なスケッチの一枚を私も先生から贈られて今だに大切に持っているが、私自身にもまたこうした木暮先生を歌った詩がある。古い話だからもう知っている人も少ないだろうが、今でも変わり果てた六郷を通ると当時の事どもを思い出す。そしてあの山の下にこそこの夜叉神峠があった筈だが、そんな事も名も夢にさえ知らなかった私は、今ゆくりなくもこの峠の名を聴いて、にわかに懐かしさに打たれるのである。まことに「峠」とは何時何処で見ても聴いても何か心に残るもの、何か「詩」のようなものである。
 それにしても、或いはそれ故、私としてはやはり春か秋のこの峠の写真を見たい。いつ行ける事やら判らない私としては。
                                (一九七一年十月)

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 ウェストン祭と女子学生 


 上高地五千尺旅館の玄関の、重い大きなガラス戸を押してそとへ出る。すると今が今まで家の中では聞こえなかった鳥たちの朝の歌が、この梓川の谷の到るところから一斉に湧き上がったかと思うように耳を襲って来る。これだ! 山の小鳥達のこのすばらしい合唱を聴きたければこそ、むしろウェストン祭のほうは添え物のように思って、今年もまた此処へ来たのだ。
 朝の時刻が早いので、河童橋のあたりにもまだ人影がちらほらである。空は綺麗に晴れ渡って、あまつさえもう日が昇っているので、残雪に飾られた前穂も奥穂も西穂高も、雄大な光と影をまとってさっぱりと正面切って聳えている。そしてその山々の裾を若葉の雲で柔らかに包んだ白樺、草紙樺、化粧柳の林を背景に、梓川の水は優美な曲線をえがいて淙々そうそうと流れている。
 私は裏白モミや大シラビソの原生林の中のほのぐらい静かな道を、明神池の方へ歩いていた。すると途中で一人の若い女性に追い着いて、しばらく一緒に歩く羽目になった。今日のウェストン祭に参加するために昨日ここへ来て一晩泊まったという事だったが、若いに似合わず山の草や小鳥をとても好きな人だった。その熱心さは私を感動させずには置かない程だった。それで私もついほだされて、一緒にしゃがみ込んでは路ばたに咲いている花の名を教えたり、近くの木の枝で歌っている小鳥の名を、その鳴き声を真似したり姿の特徴を指さしたりして教えた。その人は教えられた名や事柄をすべて克明に手帖へ書きつけた。「学校は?」と訊くと、東京の或る女子大学に在学中だという事だった。山中の静かな朝の静かな道連れ。しかも美しくさえある賢そうな大学生。彼女と別れて一足先に池へと急ぐ私の頭上で、一羽の鮮明な羽色をした大アカゲラがしきりに樹の幹を叩いていた。
 ウェストン祭の式の最後に、私か自作の詩を朗読するのがここ幾年のならわしだったから、私は大急ぎでその詩を明神の池畔で作った。材料は眼前やそれから得た感慨をもとにした。大した出来ではなかったが、書きたてのほやほやだったので数百人の参加者からは喜ばれた。
 そしてそれが終わると、例によってどっと押し寄せて来る何十人という人達のためのサイン書きだった。その中には今朝逢った女子大学生もいて、「今お読みになった詩は先程のとおりでした。もしも記念のために写させて頂ければ、光栄でございます」と言った。私は快くその原稿を彼女に貸した。娘は群衆から離れた梓川の河原の石に腰を下ろして、それを書き取っているらしかった。しかし私のサインの方はまだ終わらず、しまいにはハンカチを持ち出して、「済みませんが、どうぞこれに」と頼む若い女子店員らしい人もあった。
                              (一九七一年二月)

 

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 初夏の乗鞍岳


 「僕、もう二日ばかりこの上高地へ泊まって画をかきたいから、九日の午後松本駅で落ちあうことにして、おじいちゃんは予定通り乗鞍へ行ってよ」という孫息子の高校生を後に残して、五、六人の連れと一緒に久しぶりに乗鞍高原を訪れたのは去年六月の初旬だった。
 ハイヤーが前川渡で梓川の渓谷を右岸へ越し、大野川の部落から番所、鈴蘭平へと登りきると、風景の性格は一変して、まるでどこかスイスの高地牧揚アルプへでも来たような気持になった。そして正面には残雪を戴いた乗鞍の峰々が、銀と青との屏風画のように柔らかに優美に横たわっていた。
 鈴蘭平でも一番奥の清楚なホテルで一夜を明かした私達一行は、翌日の午前中、ところどころ車を使って起伏の多い広い裾野をあちこちと見て歩いた。中でも一ノ瀬牧場と呼ばれている林と草原と湿地との広大なひろがりが気に入った。そのゆったりとした起伏の間には、白樺や草紙樺の疎林があり、樅や落葉林の深林があり、その間のいたるところに大きな株の山ツツジや紫ヤシオツツジが今を季節と咲きほこり、樹下の草の中には可憐な鈴蘭や小岩鏡がひっそりと咲き、湿原にはやがて見事な花を見せる水芭蕉が大きな葉を立てていた。
 そしてそこらじゅうで鳴きしきっているアオジ、ホオアカ、ノビタキ、ビンズイ、コヨシキリなど高地草原の小鳥たちの歌も、かえってここの天地を一層静かな、世の中から一層遠く隔たったものにしていた。
 私がこの柔らかな草の中に身を倒して、残雪の乗鞍の剣ケ峰や高天ケ原を眺めていると、頭上の空を数十羽のアマツバメが隊をなして飛びながら、そのたびに「ヒューツ・ヒューツ」と空気を切り裂く翼の音をひびかせた。
                                (一九七一年二月)

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 過ぎし日の山の旅


 今から思えばもう四十何年の昔になる。私が登山や山旅に凝り始めて、おもに甲斐や信濃の、それも余り人の行かない山や高原を歩いていた頃の事だった。或る時急に思い立って、二、三年前高村光太郎さんに連れられて行った上越国境三国峠下の法師温泉へ今度は一人で出かけた。今でこそ三国峠はもちろん法師の湯なんぞ大して珍しい処でもないが、その頃では余り人も行かず、名も知られず、谷のつめ、峠の下のたった一軒の古風な温泉宿長寿館にも、土地の長家の老人たちか、よほど物寂びた山奥の湯治場を好きな通人でもなければ、わざわざ訪ねて行くような客は稀だった。そんな処をどういうわけか高村さんが知っていて、しかもひどく其処を好きだったのである。
 秋も初めのよく晴れた日だった。その頃はまだ清水トンネルが通じないで水上駅が終点になっていた上越線を後閑で下車して、私は法師まで六里といわれる三国街道を一人てくてくと歩き出した。
 この前初めて高村さんと来た時には、私は重いルックサックを背負っていた。妻が「高村さんのおじさんはビールがお好きだから持って行って上げてください」と言うので、山奥の温泉の一軒家へ着いたらその高村さんを驚かせてやろうと思って、無理をしてこっそりと半ダースだかを背負って行った。しかし全行程をほぼ半分ばかり歩いて相俣あいまたの部落に近く、万太郎や仙ノ倉の嶺線を高々と仰ぐ小さい乗越しの処まで来ると、とうとうへばってしまって、「実は実子みつこに言われてビールを背負って来たんですが、もうとても……」と白状した。すると高村さんはびっくりして、「そりゃあ君重かったろう。ちっとも気がつかなかった。ありがとう、ありがとう。今度は僕が背負うよ」と言って、壜をくくった強いクゴ繩をブツブツとナイフで切って、その内の四本を掴んで自分のルックサックへ押し込んだ。そしてその翌日、二人は三国峠の頂上で、苗場山なえばさんを正面に、東京から持来のビールを昂然とした気持で飲んだのだった。
 そんな事を思い出しながら、一人旅の私はいつぞやの相俣から猿ケ京の部落にかかった。きらびやかな爽やかな秋の日で、もみじには未だ少し早いが、山ウルシやヌルデの葉はすでに至る処で真赤だった。部落を過ぎると古い三国街道は峠へ向けて右の方へ登りになるが、私の志す法師へは吹路ふくろの部落から左の谷間へ下りるのである。するとその路の角に四つか五つぐらいになる男の児が一人両手を腰に当てて立っていたが、突然「おじさん、どけえ行くだ」と質問した。
 私は余り小さな子供の余り大人びた口調や態度に驚きとおかしさとを感じながら、それでも笑いをこらえて「法師へ行くんだよ、坊や」と答えた。すると子供はあくまでもまじめな顔つきで「法師か。法師なら真直ぐだ」と下の谷をあごでしゃくって教えた。その教え方がいかにも大人びて厳粛なので、「知っているよ」などとはとても言えなかった。旅の者らしい大人に物を教える仕方を見習ったか教えられたかしたこの子供が今すこぶる真剣にそれを実践しているのである。
 してみれば私の方でも、それ相応の挨拶をしなければなるまい。そこで帽子に片手をかけて礼を言った。「ありがとう」しかし、ああ、その時私は見たのだ。両手を腰に当てて鷹揚にうなずいているその子供の附紐つけひものところに、可愛い守り袋のぶらさがっているのを!

 その翌年の初夏の或る日、私は猿ケ京の手前の笹ノ湯温泉へ行っている高村さんから思いがけなく一通の電報を受け取った。一緒に山を歩きたいから、よかったら来ないかという意味のものだった。別に急ぎの仕事も無かったので、「スグユク」という返電を打って旅装もそこそこに、上野駅から汽車に乗った。その頃の高村さんは(四十六か七ぐらいだったと思うが)、晩年の彼とは違って、一度思い立つと直ぐに実行に移さずにはいられない人だった。
 笹ノ湯の相生あいおい館という宿で落ち合った私達は、その翌朝法師へと向かった。六月の初めの事で、至るところ山ツツジや藤の花の盛りだった。
 声を揃えてエゾハルゼミが鳴き、センダイムシクイやシジュウカラやヒガラが歌い、カッコウやツツドリの声が遠く近く響いていた。そして遙か向こうの姉山の部落には、一と月遅れの端午の節句の鯉幟が新緑の木々の間に重く美しく揺らいでいた。すると私はその鯉幟からすぐに去年の子供の事を思い出した。そしてもしや其処らにいはしまいかと歩きながら目でさがした。するとどうだろう、その児はいた! 路のそばの畑の隅に。私は胸を躍らせて近づいて行った。そして「去年のおじさんだよ。あの時は法師の道を教えてくれてありがとう」と言いながら、ルックサックのポケットからキャラメルの一箱を取り出してその小さい手に握らせた。子供はちょっとたじろいだが、私を思い出したかすなおに受けとってピョコリと頭を下げた。
 少し行ってから私は振り返った。子供のそばには畑の奥から出て来た母親らしい女が立って、頭の手拭いをはずして丁寧にお辞儀をした。私も首をかしげて手を振った。私は見た。その時彼らの畑のまんなかに上州の小梨こなしの大木が一本、盛んな初夏の光に酔ったように真白な花を燦々と咲かせているのを。少し先の処で巻煙草を吸いながら私を待っていた高村さんは、「善かったねえ君」と言って晴れやかな顔で歩き出した。
 そして法師、四万しま、中之条なかのじょう、草津というのがその時の私達の山旅だった。
                             (一九七一年三月)

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 自然と旅


 頂上に花崗岩のかたまりが露出していたり、ハイマツの敷物がびっしりと茂っていたりするような、そんな高い山でなくてもいい。そういうのにはもっと若かった頃に登って、その時なりの楽しみや満足を充分に味わったように思うから、体力もいくぶん衰えた今ではもうあまり欲は出さない。もっと低い楽な登頂に満ち足りて、その少し下のほうに小さな台地のような草原でもあればもっけの幸、いい気持になって帽子をぬぎ捨て、両足を投げ出し、一本の新しい巻煙草に風をかばって火をつけて、しばらくの間くつろごうとする私である。
 とはいえ、別に「高峻登攀」などという経歴を持ち合わさなくても勿論いい。私のような男にもそれに似たのが少しばかり有ったから言っただけの話で、自分の登った山の高度や困難の度が大きかったから、それで何かが付け加わったと思うとすれば、それは黙っていれば美しく、余りしばしば口にすると却って虚栄か自慢話になってしまうような、そんな種類の思い出なのではないだろうか。聴き苦しいのは、あたかも登山を人間一生のもっとも生き甲斐のある経験か、名誉ある業績のように考えているらしい人の話である。
 柔らかに草を暖めている晩夏の山の午後の日ざしや、その草原や下のほうの森の中から時おり聴こえて来る小鳥の歌などを味わいながらくつろいでいるはずの私が、ついいつのまにかこんなお説教じみた事を考えてしまった。まだ登山経験の少ない大たちを慰めたり元気づけたりする事を考えているうちに、とんだ横道にそれてしまった。しかしこんな打ち明けも誰かのためにはなるかも知れない。
 しかし私のする旅はなんと言っても山地が多い。山の地理や動植物が好きなためおのずからそのほうへ足が向くので、とりわけ山の中の温泉の気分が好きだからとか、余り人の訪れない古い社や寺などを見に行くことに懐古的な趣味を持っているからではない。無論それらにも立派な理由はある訳だが、私のにはやはりいつでも自然科学趣味がまといついているので、半ば無意識のうちに足が人里から離れてしまう。だからたまたま山仕事の人に出遭って道を教えてもらう事もあるが、大概は五万分の一の地形図が頼りである。これはそもそも山登りを始めた頃からの必携品で私は今でも、どんな山地へでも、地形図を持たずに家を出ることは決して無い。それに小さくはあってもなるべく詳細な図鑑類、けばけばしい色彩よりも精確な記載文によって教えられる昆虫や植物の図鑑である。
 山へは気の合った友だちと連れだって行くもいいが、独りの味を覚えると、どうも単独行のほうが善いような気がしてくる。尤もこれは人それぞれの気質によるだろうから一概には言えないが、独りだと気分が山に集中し、山それぞれの味わいとぴったりし、いろいろな印象が純粋な、鮮明なものとして残るように私には思われる。山へ行って気を散らすほど損な事はない。じっくりと見、じっくりと味わって、歩いて来た足の裏にさえ一日の記憶が残っているようならば理想的と言えるだろう。山へ行って体じゅうで記憶して来るという事が、本当は山登り、山歩きの真諦ではないかしらと私は思っている。それは確かに自分自身を深くする一つの道である。
 或る人と会っていると何となく山の気が感じられてくるという経験。そういう経験を私も持っている。ごく稀にではあるが、そういう人に会うと頼もしい気がする。話に実みがあり味があり、その風格にも原生林か深い針葉樹林のようなものがある。重厚であって軽薄さなどは微塵も無く、口数が少ないのにその存在によって多くを語り、眼前にいるその人自体が山深い自然のように奥床しい。
 登山は年々歳々盛んになる。私は多くの若い人々の中から今述べたような人の幾人かが生まれるように願ってやまない。
                                (一九七一年六月)

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 自然と心


 都会の街なかに住んだり、そこで働いたりしている人達にはお気の毒で言いにくいが、私には自分の家から空が見えなかったり、遠近に樹木や草の眺めのないような処には、もうとうてい住む気になれない。勿論これから先どんな境遇を生きるようにならないとも限らないが、どうにか無事に今のままでやって行けるとすれば、頭の上に海近い空がひろがり、周囲に緑の丘や林の見える、このささやかな家にいつまでも住んでいたいと思う。
 今はようやく夏も盛りで、丘を彩る木々の花も春や初夏の頃より少なくなったが、草の花ならば八月は八月で、季節をたがえずに山腹にも路傍にも咲きさかっている。何げなしにすたすた歩く下水ばたに、ほら! 淡紅いサクラタデが咲き、小さな草むらに薄紫のツルフジバカマの花が盛りではないか。腰をかがめてよく見れば、どちらも愛らしく精巧で、知らぬ顔をして通り過ぎてしまうのがもったいない程である。
 空の眺めにしてもその表情はさまざまで、晴れるにつけ曇るにつけそれを見る眼の楽しみは尽きない。来る日も来る日もどんよりと憂欝な雪空ばかりのような地方だったら知らないが、今私の住んでいるような中緯度の土地ならば天気の変化は面白い。朝から夕刻までの雲の動きや、その形や色彩の微妙な移り変わりも眼に楽しいし、夜の星空の一年がかりの変容も、この方面の事に興味を持っている人には口に言えない待望であり歓迎であるだろう。
 知識と経験の積みかさね。これが私達にとっての本当の富である。そしてその富は愛に始まり愛に終わる。愛すなわち富と言っても過言ではないと私は思う。世に言う「貧富の差」などはこう考えれば問題にならない。
 私は二週間に一回血圧を測ってもらうために鎌倉の或る病院へ行く事にきめている。北鎌倉の駅から次の駅の鎌倉までは横須賀線の電車で僅か三分である。乗り合わせた電車に五つか六つぐらいになる女の児が、体格の立派な半袖のシャツ姿の父親らしい若い男の前にすわっていた。ところがいきなりその女の児が私に話しかけた。「これから海へ行くの」。「そう、いいですね。どこの海?」と私は聞き返した。「葉山!」と子供は誇らしげに答えた。「葉山へ行ってパパに泳がしてもらうの」。「そう、でも泳いでしまったらね、次には砂浜の水のところで貝殻を採るといいのよ。いろんな綺麗な貝がたくさんころがっているから、みんな一つ残らず拾っていらっしゃい。そうしたらいいおみやげになりますよ」子供は不思議そうな顔をしながらも素直にうなずいた。「このおじさんも小さい時そういうふうにして葉山や江ノ島で貝殻をたくさん集めた事があるのよ。そして大きくなってから一つ一つ先生に教えて頂いたり本で調べたりして、とうとう全部の貝の名を覚えたの」。鎌倉で車を降りようとすると女の児は無邪気に「おじさんバイバーイ!」と叫んだ。そして今まで黙っていた半袖シャツ姿のパパなる者は、座席から立ち上がって丁重に頭を下げていた。
 その病院の帰りにいつもの静かな横丁を通ると、片側を流れている細い溝川のふちに一匹のコシアキトンボがとまっているのを認めた。普通のシオカラトンボに似ているが、ただ腰の処に一本鮮明な黄色い線が入っている点が違うのである。私はそっとパナマ帽を脱いで片手に持ち、それでトンボを中心に大きな円をえがきながら段々とその円を小さくしてトンボに近づけて行った。視覚を眩惑されたトンボは身動きも出来ずにそのまま私の指につままれた。私はすぐにそれを空高々と放してやった。すると初めから近くに立って私のする事を見ていた一人のお婆さんが、「まあ器用な事をなさるねえ!」と感嘆の声を放って私の顔をつくづくと見た。私はすっかりてれてしまって、「なあに子供の時分先生に教わったのを思い出して、ちょっといたずらをしてみたんですよ」と言いわけのように言って忽々その場を逃げ出した。しかし後になって考えてみると、そのお婆さんはどうやら私よりも年下らしかった。
                             (一九七一年七月)

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 第二の故郷


 「お生まれは?」と訊かれれば、「東京の下町です。それも昔の京橋区本湊町、今の中央区港町です」と答えはするものの、今度の場合のように「ふるさとの山河」などという画のような詩のような題を出されると、肝腎の自然やその中での生活というものが皆無なので、いかんとも書きようがない。せめて四、五十年も前の東京か武蔵野の田舎の事ならばまた何とかなるだろうが、どこへ行ってもすっかり様子の変わってしまった現在では、東京都などと言ったところで話にならない。
 ところが「ご郷里は信州ですか」と訊く人が今でもたまにはある。「そう見えますか。生まれはこの東京なんですが」と答えると、「失礼しました。実はあまりよく信州をご存知なので、つい……」そしてこういう質問をする人自身が、たいていは東京に住んでいる長野県出身者なのである。なるほど私は今までにたくさんの信州の事を書きもすれば話しもした。そればかりか諏訪や安曇あずみの方言さえも、時と相手によればきわめてしぜんに口から出た。と言うのも私は戦後の七年間をずっと八ヶ岳山麓の富士見で暮らしていたので、諏訪は元より松本や長野にも多くの友人や親しい知人を持っている。だからいつのまにか、どこかしら、信州色に染まってしまったとしてもあながち不思議ではないわけだろう。或る時上諏訪での何かの祝いのあとの酒宴の席で、末座のほうから大きな声で、「先生! そんなに信州が気に入ってるなら、いっそ信州の土にならずか」と親しみをこめて叫んだ若い役場の書記があった。なるほどそれも悪くないと、満座の爆笑や失笑の中で私は本気になって考えたものである。
 たとえ信州の土にはならなくても、その山河とそこに土着の人々の心ばえとを愛すれば、私にとって長野県は「ふるさと」の名にふさわしい。祖先の地でも親兄弟のそれでもないのに、信州はいつか私の第二の故郷のようなものになってしまった。してみれば「ふるさとの山河」という出題に答えて、いくらか面映ゆい気はしながらも、二つ三つお国自慢のような物を書くとしても人は許してくれるだろう。

 周囲に高い嶮しい山岳のつらなりと、その山々から生まれて長い曲折の旅をする幾つかの谷と川と、その間に点在する美しい湖水に大小の盆地と平たいらとは、信州の自然景観を考える時の第一番の特色である。まだ行った事のない処までちゃんと出ている地図を前にしてではなく、ただこうして机に向かって白紙を前にしていてさえ、かつて生き、かつて訪れたいろいろな場所が、ゆっくりと移り動くパノラマのように、次々と心の眼前に浮かんでは消えるのである。
 私の若い日の最初の試練の山だった八ヶ岳と、幾年を楽しく暮らしたその裾野の富士見高原。屈強の山友達にさそわれて幾たびか経験した北アルプスの山々と、もう二十回毎年行っているあの景色すぐれた上高地。一人では危険だとあやぶまれながら、重いルックを背に単身登った四十年前の木曽駒連峰。若い友人を道づれに五日がかりですっかり歩いた晩秋の奈良井の谷や木曽の谷。音楽会から帰るや否や、急に思い立って夜汽車で出かけた春の飯綱いいづな、戸隠とがくし、黒姫山。山の文章らしい物を初めて書いたその昔の蓼科たてしな山や野辺山ノ原。親しい霧ケ峰や美うつくしケ原はらは言うまでもなく、国境ではあるが金峰きんぷ、甲武信こぶし、甲斐駒、仙丈、浅間、御嶽おんたけ、乗鞍、鹿島槍なども仲間に加えていいであろう。更には諏訪湖、野尻湖、仁科三湖。川ならば千曲ちくま、犀川、天竜川。およそこれらが私の愛した山や川、私の第二の「ふるさとの山河」と言えるであろう。
 信州についてはその国の山河のほかに、いろいろな人の事も折に触れてかなり書いた。その中には男もあれば女もあり、老人も青年も子供もあり、お百姓だの商人だの学校の先生だの生徒だの、さては医者もいれば駅長や駅員までいる。そんな時私の筆からはいつでもその人達への好意の気持、能あたう限りの理解、そしてそれが昂こうじて愛となった感情が流れるのだった。そしてよしんば書く機会の無かった人達に対しても、(そのほうがずっと多いのだが)、今もなお、否こうして離れて暮らしている今こそいよいよ、彼らはどうしているかなというような懸念をまじえた暖かい思いが湧いて来る。しかもそれが一別以来もう何年、或いはもう十幾年という人達についてである。中には死んだ老人もあるかも知れない。しかしまた小・中学校を経てもう立派な高校生になっているその昔の腕白小僧も大勢いるに違いない。
 そういう私も歳をとった。だから余計に「ふるさと」というものが想われるのである。だから「第二の故郷」などと考えて信州を懐かしんでいるのである。
                              (一九六九年五月)

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 妻への話

  久しぶりに東京へ買物に行くというので、彼は北鎌倉の或る谷の奥の小高いところにある自分の家を出た。
 買物と言っても大した物ではないが、銀座の或る楽器店を通して注文しておいたフランスの珍しいレコードが約半年がかりで漸く到着したという知らせを得たので、それを受け取るためにいそいそと家を出たのである。
 家から駅までは彼の足できっちり十五分。そして横須賀からの電車が到着するまでプラットフォームでの七分間の待ち合わせ。その間にゆったりと一本の巻煙草を吸う。これが彼の心に課した規定でもあれば、いつかしら身についてしまった習慣でもあった。なぜならば余程の時でないかぎり、彼は決して歩きながら煙草を吸う事をしないから。しかしこんな事を書くのはこの文章の目的ではない。
 彼は駅への道を歩いている。たった今明月院めいげついんという寺の門前を過ぎたから、自宅からちょうど半ばの道のりである。片側は樹木や草の密生した崖、片側はいくらか幅の広い深い溝を前にして、それぞれ自家用の橋の架かった何軒かの広い邸宅。そしてその中間を平坦なアスファルトの道が走っている。彼は季節季節にさまざまな花やもみじを見る事のできるこの道が好きである。今はちょうど夏の終わりで、崖に生い茂って道の際きわまではみ出した草を、農家の者らしい二人の女が何かしきりに話しながら鎌で刈っている。しかしこの静かな快適な道を、時どきタクシーや自家用車がビュンビュン飛ばして行くのが玉に疵でもあれば、事実危険でもある。
 今、彼はその道路の溝のへりに二台のオートバイの立てかけてあるのを見る。小さい橋を前にした門構えの邸宅へ出入りする商人か何かの車らしい。ところが四つか五つぐらいになる農家の子らしい男の児が一人、停まっているそのオートバイヘ攀じ登って、あわよくばサドルヘ腰をかけようと懸命になっている。行きずりの彼はそれを見るとハッとした。もしも車が倒れて深い溝へ落ちこんだら子供は大けがをするだろうし、又もしも反対側へ倒れたら、折悪しく疾走して来た自動車のためにどんな事件が突発しないとも限らない。
 そう思うと彼はたまりかねて、「坊や、あぶないからおやめ! もしもそのオートバイが倒れて水の中へ落ちたら大変だから」と、注意と言うよりも寧むしろ警告をする。そう言われると子供はさすがに車へ攀じ登る冒険は一応やめたが、それでもなお諦めきれないのか、大人の乗り廻している車の魅力に引かれるのか、まだハンドルにさわったり機械をのぞきこんだりして、車のまわりをうろうろしている。
 するとちょうど其処へ駅の方から一人の若い女の人が来て彼と擦れちがった。彼は丁寧にその女性を呼びとめて、もう一度あの子供に注意をしてやってくれるように頼んだ。そしてその途端、ふと気がついて、「あの向こうの岸の辺で草を刈っている女の人達のどちらかが子供の母親かも知れませんから、あの人達にもよく言ってやって下さい」と付け足した。洋装の若い女性は彼の依頼に快く、しかしまじめにうなずくと子供の方へ急ぎ足で行った。そして懇々と言って聴かせているらしかった。彼が二度目に振り返った時には、今度は草刈りの女の前へ立って何か言っていた。
 そして子供はと言えば、もうオートバイのそばを離れて母親たちの方へ帰って行った。それを見ると彼はやっと安心して、失っただけの時間を取り返すために停車場への足を速めた。そして晩夏の円覚寺のすがすがしい森の眺めを前に、いつもの通り、プラットフォームのベンチでゆったりと一本の煙草を吸う時間を持つことができた。
 東京からの帰りに先刻の同じ道を通ると、もう崖際の草はきれいに刈り取られて、女達や子供の姿もなく、問題のオートバイの影もなかった。彼はあの見知らぬ洋装の女性が自分の正当な危惧だか余計な取越し苦労だかを誤りなく伝えてくれた事を確信して喜び、感謝し、これから家へ帰って聴くべきこのレコード、このフランスの各地方の古い降誕祭ノエルの歌の事をあれこれと楽しく空想しながら、爪先上がりの谷間の道をいつもの歩調で歩いて行った。
 すこし遅すぎた嫌いはあるかも知れないが、私はこのごろ頻りに古くからの友達や知人を懐かしむようになり、その一人一人の人間性やこの世での仕事を、以前よりもずっと深く理解し尊重するようになった。それには自分に先んじて他界する人がだんだんと数を増し、かつての生き生きとした風貌や元気な声々が次第に周囲から消えていってしまう現実のはかなさや寂しさが作用しているのは元よりだが、人間の存在そのものに対する或るいとおしさのような感情が、寄る年波と共に濃くなり、又こまやかになってきたせいでもあろうと思う。
 詩の草野心平さんもそうした古い貴重な友の一人である。もう六十七か八になったろうか、ともかくも四十年来の大切な旧友である。このごろは少し体を悪くしている様子だが、根が頑強なたちなので、今なお彼独特の絢爛で逞しい詩を書いているし、最近ではこの人ならではと思わせるような雄渾な画やユーモラスなほほえましい画もかいている。
 書にすぐれている事は今更ここに言うまでもない。ところでその心平さんが今日は或る陶芸家に招かれて、所沢に近い東村山からここ湘南の鎌倉へ遊びに来た。私にとっては嬉しい椿事だと言わなくてはならなかった。
 自宅からの付き添いの女の人もいたが、それに本人としても歩き方などなかなかしっかりしていたが、片方の眼が失明している彼を思うと、私はなるべくその身近にいて、いろいろ話をしたり説明をしたりしながら、絶えずそれとなく気を配らずにはいられなかった。
 私たちは冬木の山に囲まれた瑞泉寺ずいせんじの静かな境内を歩いていた。梅林の梅にはまだ早かったがその下の水仙はちらほらだった。一行は大雄宝殿と呼ばれている本堂を見たり、椅子に凭った夢窓国師の古い美しい坐像が安置されている開山堂を見たり、庫裡の裏手の深い暗い坐禅窟をのぞいたりした。と、ちょうどその近くの山際で、私は久米正雄氏の墓を見つけた。十七、八年前に亡くなった故人の墳墓は今はもうそれだけ古びて、その名を刻んだ墓碑面には柔らかい苔が蒸していた。ついこのごろ参詣した人があったらしく、少ししおれて美しい花束が上がっていた。私は坐禅窟の前に黄梅おうばいの一枝が落ちていたのを思い出し、まだ立派に黄色い花のついているその小枝を拾ってきて久米さんの墓前に挿して合掌した。するとそれを見て草野君も何か花をと物色していたが、何も見当たらないので地面に落ち散っている枯葉の中から最も美しいのを一枚選び出してきて、私のと並べてそれを供えた。思えばいくらか不遇だった俳人、小説家、劇作家の久米正雄。その墓前に今ゆくりなくも二人の詩人が詣でている。私にはその時の草野心平その人の気持もよくわかる気がした。それは故人への「いとおしみ」とか「あわれみ」とかいう点で、恐らく私のに通じるものがあったであろう。折から上の山で二声、三声小鳥の声がした。「あれヒヨドリ?」と草野君は私に訊いた。「そう。よくわかるね」と私が答えると、彼は目を細めてうなずいた。
 その夜の逗子での招宴で彼は「会津磐梯山」と「磯節」とを歌った。私もセザール・フランクの譜に自分で歌詞をつけた「雲一つおちかたに浮かべる見ゆ」というのを歌ったが、草野君のは実際すばらしかった。あれほど言葉の命をしっかりと掴んで、あれほど心を籠めて歌われたこの二つの民謡をいまだかつて私は聴いたことがない。それは酔余の戯技では決してなく、正に詩人草野心平の真骨頂をうかがわせるに足るものだった。

                               (一九七〇年一月)

 

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 鎌倉への愛と要望


 鎌倉という土地を良いところだとは昔から思っていた。しかし東京の下町で生まれて下町で育ち、その上武蔵野の自然や田舎にも親しむ機会が多かった私には、いくら良い感じを持っていたにしろ、全然なじみというものの無い、どこか取り澄ましたところのある、早く言えば別の人種の住んでいる場所である鎌倉という名の土地に、わざわざ東京から移住してみようなどという気は毛頭無かった。
 ところがその鎌倉で、今私は家族もろとも生活している。その理由の一つとして、ますます周囲の静かさを求めるようになった年齢のせいもあると同時に、この空気もきれいな由緒ある古い小都会が、自分のずっと続けている文学の仕事に大した不便も感じさせず、満たされないものを満たすために東京へ出掛けるにも大して時間も手間もかからず、そのうえ海も近ければ山もあって、生来の自然愛を満足させるにも先ずは事欠かない土地だからではないかと思う。しかし何と言っても書き落とすわけにいかない事は、ここに古くから住んでいる四人の友人の温かい勧誘があり、ここに土地を求め家を建てる金が幸い私にあったという事である。場所は横須賀線北鎌倉の駅近く、アジサイ寺の名で知られている明月院の先、とある丘の中腹の小さい造成地の一郭である。
 戦後七年間を信州の富士見高原、次いで十四年間を東京世田谷区の玉川上野毛、そして今日までの丸四年間をこの北鎌倉の明月谷。実際私としては文句のつけようもないくらいそれぞれ恵まれた環境だったし、今もまたそれである。これで仕事が出来なければ余程の病身か、救いようのない懶け者だと言わなければなるまい。しかし仕合わせな事に体も丈夫だし、詩や文章もどうやら続けて書いている。貧しいのはもともとだが、さりとて食うに困りもしない。物を書いたり本を読んだり、好きな音楽をレコードで聴いたり、近隣の静かな山を歩いたり、由緒ある寺々の境内で四季それぞれの趣きを味わったり、時に気が向けば一駅乗って、鎌倉の大路おおじ小路こうじを散歩したりするのが今の私の生活である。そんな事の出来ない人達の上を思えば心が痛むが、その代わり慎むべき事は自分でも慎み、日常の生活にもちゃんとけじめをつけている。

 しかし東京から移って来てまだ四年にしかならないが、その僅か四年間に鎌倉はかなり変わったように思われる。来たばかりの新鮮な感銘から書いた文章に、今では削ったり筆を入れたりしないと通用しないような箇所がたくさん出て来た。第一に車の往来がおびただしくふえて、以前には物を考えたりあたりの家の庭の花を覗いたりしながら歩く事の出来た谷戸やとの道が、今ではもうそんな呑気な気持では歩けなくなった。その谷戸にしても、場所によって道路が改修されたのは仕方がないとしながら、それだけ鎌倉独特の風致がこわされたと思えば寂しい気がするのである。滑川なめりかわにしてもそうで、以前は町なかの渓谷のようだったのが、殺風景な護岸工事や流路の変更のために味も素気そっけも無い只の溝川になってしまった。もう瀬も無く淵も無く、その水の上におおいかぶさる柔らかな春、夏、秋の木々も無く、泳ぐ魚の影も無ければ、時折のセキレイの声さえ稀である。橋の名だけは古い昔を想わせても、その橋自体がいつのまにかコンクリート製の物に変わっているのだからなさけない。
 車の数が激増したのと同様に、いわゆる観光客の数も年毎にふえて、土曜、日曜、祭日などは無論のこと、今では平日でも若い男女の幾組かに至る処で出遭う。そうすると由緒ある寺でも何がしかの金を取ってこの人々を迎え、それはまたそれなりに収入みいりになる。しかし中にはそ知らぬ顔をして入る者も少なくないし、寺内に咲いている花を折って持ち帰る者もあるし、更にひどいのになると古い仏像などを盗んで行く者もあると言う。こうなるともう鎌倉という歴史的古都の美も趣きも問題ではなく、無風流どころが、無作法と無教養とが横行すること、国内普通の行楽地と選ぶところは全くなくなる。由来鎌倉にはいかにも鎌倉らしい雰囲気があり、其処に住んでいる人々にもそれにふさわしい品位があった。そしてたまたま其処を訪れるわれわれにもそれなりに心の用意があったものだが、今ではその雰囲気もしだいに混濁し、心ある人達はひっそりと住んで、わずかに孤塁を守っている。しかしそういう人達がもしも結束して立つとしたらどういう事になるだろうか。
 その鎌倉を護る会、主として古都鎌倉の自然や歴史的記念物を破壊の手から護る会が既にいくつか有る事は私も知っている。そして事実自分もそういう会の一つに入っている。われわれは峰の松の枯れるのを出来るだけ防ごうとし、一本の桜でもこれを大切に思っている。まして観光開発とか宅地造成とかに名を借りて今まで有った森や林が伐られたり、美しかった斜面が容赦なく削りとられて無残な姿に変わってゆくのを見ると、悲しむよりもむしろ憤りを覚えるのである。
 今までのY氏に代わって今度新たに市長の職に就いた正木千冬氏に、われわれがこぞって大きな期待をかけるのも、一つには自分達の鎌倉の自然美をこれ以上破壊されないように護ってもらい、古都の風致を能うかぎり保持してくれるように努力して貰いたいからである。彼が人間としての品位と誠実とを重んじている事をわれわれは疑わないし、彼を選出したわれわれの期待のどういうものであるかを彼が知っているだろう事もわれわれは知っている。なるほど新市長はこのような仕事の経験もまだ浅く、庁内の複雑微妙な空気にもまだ馴れず、その蘊蓄を傾けさせ、その経綸をのべさせるにも、なお仮すに日をもってしなければなるまい。われわれとしてもそんな事は知り抜いている。正木氏は事柄の軽重緩急をよく弁別して、強く正しくその信念を貫かれるがよい。

                               (一九七〇年十月)

 

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 生せいの飾り   


 もしも私が山の美や、山登りの楽しさや、山へ行けばこそ出遭うさまざまな動植物や珍しい自然現象などの面白味を知らなかったとしたら、自分の過去を振り返って、なんと貧しい生活だったという感慨に心寂しいものを覚えるだろう。なぜならば私の今まで書いて来たものは文章にしろ詩にしろ、その大半が山を主題とし、山の自然や生活から学んだ物への賛美であり感謝であり、同時にそういう気持の伝達でもあったからである。自分が世間の一部から「山の詩人」とか「自然詩人」とか呼ばれるのを甘受しているのも、要するにみずから播いた種の結果なのだから仕方がない。何も今更改めて「私にはもっと別の仕事もいろいろ有る」などとは言い張らず、この一般の呼称をそのまま受けて、これからもなお山と言わず、自然と言わず、音楽と言わず、書きたい物を書き、書かずにはいられない事を書いてゆくのが自分の生きる道だと思っている。
 あまり好んで新聞や週刊雑誌などを読まない私ではあるが、それでも日に日に起こる国の内外の事件には大小を問わず一応は通じている。そしてそれが当然私の内心に反応も起こせば意見も生む。しかし、だからと言って、そういう反応や意見を文宇にまでして後に残そうという気持は微塵もない。たまたま時事に関する随想のような物を書いてくれと頼まれる事があるが、私にはそういう物を引き受ける自信もなければ心境にもなれない。これが「昨今の秋の鎌倉の自然について」などという質問ならば、そのために少しぐらい足を運んでも、なるべく土地の特色を出すために、あたりの山やあちこちの寺の庭を見て廻る。また鎌倉には谷戸やとが多いから、それぞれの谷戸の風情や、そこに咲いている木や草の花や。そこに当たっている和やかな日の光の事などを喜んで書く。書き甲斐もあるし書きばえもするから。しかしところどころで木を伐ったり山を削ったりしている造成地なる物の醜悪な姿には決して触れない。“触れれば其処に必ず怒りの調子が伴うからである。そして今の私は自分の憤りの感情を決して他人に伝染させたくない。厭な物に目をつぶるのではなく、却ってそれをしっかりと見ながら、しかも心中深く圧しつぶしてしまうのである。
 あるひっそりした谷間の沢で、このあたりでは珍しい幾種類かのトンボを見つけたとか、故人菊岡久利を偲ぶ寿福寺の静かな奥庭でサルスベリとフヨウの花が盛りだったとか、朝夕のツクツクホウシの声ももうだいぶ減ったとか、ティロールやデンマークの古い民謡にベートーヴェンが編曲をつけた珍しいレコードを手に入れて喜んでいるとか、好きなフランスの作家アルベール・カミュの短篇集の原書を見つけてこれを読むのが楽しみだとか。そんな事を書くのもまた私の仕事の一つであり、生きていればこそと思う貴い時間を更に粧う飾りでもある。

                               (一九七〇年九月)

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 その人の俤 


 私は手塚富雄さんには数える程しかお会いしていないが、あのように温雅で謹厳で深味を持った人柄の人をあまり、と言うよりもむしろ殆んど見たことがない。一度顔を知り、言葉を交わせば、それでもう足りるという種類の人ではなく、会った後の心に残る味がきわめて善いという人に属している。人間の人柄に薫りとか滋味とか言える物があるとすれば、手塚さんは正にそれを持っている。つまり懐かしい人である。その学生や同僚などのようにそれほど常にではなくても、久しぶりで会いたいなという思慕の情に似たものは私の中にもよく生まれる。そういうのが昂じた時には遂に思いきって電話をかける。そしてあの声やあの落ちついた話しぶりを聴けばそれで満足するのである。好きな詩の何行かを読んで、それで改めて豊かになった気持に甚だ似ている。ヘッセが自作の詩を自分で朗読しているレコードを私は持っているが、それを聴いた時の気持が手塚さんとの揚合に酷似していると言っても過言ではないと思う。
 自分自身詩人である私が手塚さんの訳詩から正しく教えられたり、今まではそれほど気に留めていなかった章句に俄かに心を照らされたりした経験は幾たびかある。手塚さんはドイツ文学研究の権威者である。私はあの人のゲーテやヘルダーリンやゲオルゲやリルケの訳から実に多くのものを学んだ。あの人のする事にやっつけ仕事の無いのは勿論だが、詩人の言わんとする処なりその内面の種々の関連なりに通暁していて、しかも豊富な語彙を駆使して原詩と訳詩との一字一句をもゆるがせにしないのだから、私のようにドイツ語やその文学に未熟な者は、心を許して読む事ができるのである。昔或る時或るドイツ文学者がその訳業をたたえられて賞を得た事があった。私はその祝賀会に出席して思いがけなく手塚さんと同席したが、いまだ世間の認めない彼の真価を思えば、その帰りしなに、忘れもしない会場の外のクロークの処で、彼に対して一言切実な慰めの言葉を吐露せずにはいられなかった。その時の手塚さんの喜びの顔を私は今でもはっきりと覚えている。
 そういうあの人に会いたくなると、電話は遠慮するとして、或る新書の一冊として出ている彼の著書「いきいきと生きよ(ゲーテに学ぶ)」というのを今でも私は喜んで読み返す。これはゲーテの人生智がさまざまな揚合に生かされている事例を書いた本で、訳もすぐれていれば解説も正しく、あたかも手塚さん自身の人生観なり文学観なりを聴いている気さえする。私は自宅へ訪ねて来る若い人達によくこの本を奨めるが、「君がもしも一度でもこの著者に会ってその顔をじっと見たとしたら、もうそれだけでいい。あとはこの本が手塚さんの言葉として君に色々な事を懇ろに教えたり話したりしてくれるだろう。僕は今でもそうやっている。何もわざわざ訪ねて行って先方をわずらわせたり、時間を奪ったりする事はしない。或る点を確かめたいと思えばその箇所を開けて読む。そうすれば手塚さんの一番の本音が聴ける。そしてその本音が、実に含蓄あって味わいもまた深いのだ」と話してやる。
 今から二十年程前に信州の富士見に疎開していた頃、むかし松本の旧制高校で教鞭を執っていた事のある手塚さんが、その頃療養所で病いを養っていた曾ての教え子に案内されて、私の住んでいた高原の別荘を訪問された事がある。そしてその帰りしなに皆と一緒に森のはずれへ出て遠近の風景を見渡したが、折からたそがれて行く遠い野辺山ノ原のスカイラインを背景に、あのゲーテ、ヘルダーリン、ゲオルゲ、リルケの手塚さんが何という寂しい、しかし高雅なシルヴェットとなっていたかをいまだに私は忘れない。
                             (一九七一年十月)

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 初冬の別れ 


 十一月が北西の季節風ときびしい霜とを連れてやって来た。この信州の山野にもう蝶の姿はなく、花の輝きもなく、あれほど薮や草原を満たしていた虫の歌も亡びてしまった。赤や黄に草もみじした野は霧に濡れ寒気に焼かれて、日ごと沈痛な紫や褐色に変わってゆく。霜にちぢれた木々の紅葉が、風景のいたるところ、晴れた日の冷たく碧い空の下で崩れるように散る。蕎麦も刈られ豆も刈られて、今はすっかり空虚になった丘の開墾地の高みに立つと、富士はもとより、八ヶ岳にも蓼科にも、甲斐駒にも鳳凰にも、これが根雪となる新しい雪がプラチナのように光っている。霧ヶ峰の平坦な山頂のつきるところ、薄赤くたちこめた冬霞の奥に帆のように浮かんでいる北アルプスの連峰。その穂高も槍も常念も今はもう真白だ。ガブリェル・フォーレの哀傷の『秋』ローベルト・フランツの痛恨の『秋』その秋もたけて冬のはじめ、高原のサナトリウムに病を養う患者たちも、日は一日と南に傾く太陽に、白いベッドの中で越年のほぞを固めているであろう。私に親しい若い百姓や娘たちが、あちこちの山裾や谷間の林で、落葉掻く熊手の音を響かせているであろう。
 哀傷の秋、痛恨の秋。しかしまた私にとっては、花やかに輝かしい春よりも夏よりも、一層近く人人の心に寄り添い、彼等はそれぞれの運命におのが運命をまじりこませたいと願う秋の終わり、冬の初めだ。
 今朝も私はそういう思いに暖められながら、絶えず緋色や硫黄色のもみじの降る森を出て、この別荘の持主の小さい牧場へ行った。そこにはちょっとした池もあり、牧柵を越えて八ヶ岳も見え、坐りこんでぼんやりと風景を眺めたり、膝の上に本を開いたりするのに格好な乾草積みや、日当りの窪地がいくつもある。今朝の私は、然しぼんやりはしていなかった。もう数日でまる六年を住みなれたこの高原を後に故郷の東京へひとまず帰ろうとする身には、豊かな枯草に足を投げ出し暖かい穏やかな午前の日光を浴びてはいても、目に触れるもの一つ一つに、深い愛惜の情を通わさずにはいられなかったから。
 目の前の池には晩秋初冬の方解石いろの雲が動くともなく映っている。私をして過去六年、いくつかの詩を書かせ文章を物させた池であり雲である。ときどき山野を枯らしつくす風が吹きちらちらと高山の雪の波形が光る。彼等も私から幾度か美しい歌をなさしめた。白茶けた牧場の柵にとまっている最後の赤とんぼはもう動かないが、冷たい青磁いろの空を銀いろのつぐみの群はしきりに渡っている。もしも私がこの冬もなおここにとどまっているのだったら、ゆっくりと心をこめて書いてやりたい昆虫や鳥たちである。そして向こうには、もうすっかり鳶色に枯れた釜無の山の中腹には、私を哭かせるものとして、炭焼の薄青い煙が幾すじか立ち昇っている。なぜならばその人々が総て私の幾年の友だったからだ。
 私は持って来たゲオルク・トラークルの詩集を、ついに開こうとしなかった。本は私の膝の上、青い作業衣の上で初冬の日光にそりかえっていた。

 

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 ヘルマン・ヘッセと『ヴァンデルング』


 人も知るドイツの作家ヘルマン・ヘッセには、数多い小説の傑作のほかに、何冊かの旅やさすらいの本がある。そして若い時からずっとこの大家の作品に親しんで来た私は、こうした旅や日常生活から得た記録や随想のような本を特に好きでその何冊かを持っている。たとえば全篇が自作の文章と詩と画とから成る『ヴァンテルング』(さすらい)がその一冊で、今のように齢を重ねれば重ねる程、ヘッセのような立派な人物のこうした本が、まことに楽しく有難く思われるのである。
 この本を、われらの詩人ヘルマン・ヘッセは、あのデモーニッシュな点と肉との必死の葛藤、世界の深い暗夜の中での人間自我の血みどろな探究の記録ともいうべき重要作品『デーミアン』の物語と、無常迅速の華麗な季節の幾月を奔流のような創造の意欲と官能の充足とに炎々と燃えつくした画家『クリングゾールの最後の夏』の逞ましくも哀切な物語とに次いで、一九二〇年、その四十三歳の年に世におくったのだった。
 ヨーロッパを北から南への渡り鳥の旅、雪と氷のアルプスを境にベルンからテッシンヘの移住に托したこの徒歩旅行のスケッチは、同時にヘッセの生涯の一転機、過去からの解放と新生活への発足とを示す記念柱テンクマールであり、照りわたる日光と自由の風の間奏曲、「病嶽えたる者」の感謝の歌ではなかっただろうか。事実、これらの歌は、永の別れを告げる母なる故国を象徴したドイツ風の重厚な「農家」や、暗い北方の森林の記憶と明るい南方地中海の水の光や花の香の予感、過去と未来との広々とした展望を持つ現在の分水界を象徴した、あの限りもなく美しい「峠」をもって始まっているのである。
 すべてがまったく新しく晴れやかに、形象に満ち、色彩に輝き、諦念に澄んで歌っている。アイヒェンドルフ的なもの、シュティフター的なもの、シューベルトやフーゴー・ヴォルフを想わせるものが、ゲーテ風の基調と共に到るところに響いている。その晴朗な諦念には、おのれの本然に徹し切った者の盤石の強みと不羈と自由とがある。弱さに徹してかえって強く、運命の自覚に繁茂して鬱蒼としている。もはや地上のどんな権威もこの人を屈服させることはできない。現世に醒めて宇宙の秩序に酔いながら、考え、描き、歌う人。その意味で「峠」、「長場」、「樹木」、「礼拝堂」、「赤い家」などの諸篇を、わけても美しくかつ力づけや慰めに満ちた文章として熱愛する人も多いであろう。『ヴァンデルング』を大戦後の世界不安と家庭生活の重圧とから免れ出た一漂泊者の手記として考えずに、更に見地を高くして理解し鑑賞したならば、吾々は其処にヘッセその人の魂の深みを見ることが出来るだろう。
 ヘッセの最も親しい理想の一つであって、その種々の作品の背後でかなでられている無常流転と回帰転生のしらべは、この『ヴァンデルング』の中でも或は「田舎の墓地」や「無常」のような詩となって歌われ、また「峠」や「農場」を初め幾つかの章の中に、夕暮の梢を鳴らす風のように、大空に消えては生まれる雲のように響いている。また或時は悲しく美しい童話の世界に彼をみちびき、或時は青い遠国への放浪にまで駆り立てる。「永遠に女性なるもの」への思慕の心は、「湖水と樹木と山」にも、「失踪」にも、「樹」にも、「死に瀕せる旅びと」にも、「真昼の憩い」にも、すべて清らかに澄んだ哀歌のように流れている。彼が「村」の章でいくらか諧謔的に、その放浪への誘因のように言っているエロウティックな愛の願望にしても、私はこれを単に字義通りにうけとるよりも、寧ろあのゴールトムントの深く哀婉な一生を支配した母の動機として考えたい。又彼のうちで相剋する二つの世界、(一方は優しく善良で賢い人間的な世界、他方は自由で不羈で暴烈な狼的な世界、すなわち神への帰依をねがう敬虔な心の殉教者と、壊滅への帰依を欲する衝動の殉教者の)葛藤は、あの深刻をきわめた『荒野の狼』の夜話のテーマであるが、この本の中でも「農家」や、「牧師館」や「雨の日」や、「雲に被われた空」などを通して、主人公ハリー・ハラーの内面の消息に彷彿たるものを見出すことが出来るように思われる。そして「赤い家」の一章は「ビルダーブーフ」の巻尾を飾る「失った小刀」と共に彼ヘルマン・ヘッセの閲歴を要約した真珠であり、更に「礼拝堂」と「樹木」とに至っては、真にこの愛すべき詩人の朝の祈、夕べの禱と言えるであろう。
                             (一九七四年二月)

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 山の一つ一つに


 「もうそんな年寄りなのか」と、若い人たちには驚かれるかあわれまれるかするかも知れないが、私は明治二五年に東京の下町、隅田河畔の鉄砲洲で生まれた。小中学生のころから自然は好きだったが、いくら明治の昔とはいえ場所が京橋区(現在の中央区)では、前を流れる隅田川の水景色は別として、また土蔵の二階の窓からみられる遠い房総半島や秩父の山々も別として、いわゆる自然らしいものは頭の上の空をおいてほかにはなかった。しかし、今でも雲や星を眺めることが好きなのは、案外そんなところから養われてきたのかも知れない。田舎に生まれて田舎に育ったのならばともかく、東京の町なかに商家の子として成長しながら早くして自然を愛するようになったのは、忙しい家の一人っ子で、近所にほとんど遊び友だちも無かったのと、もう一つは学校で理科というものを習うようになって、家のまわりの小さな自然物を、「子どものくせに」興味をもって観察する習慣がついたためかと思う。だから独りで楽しむことを私は小さいときからおのずから会得していた。
 父の実家が現在の立川市砂川町にあって農家だったので、一年に一度か二度は必ず連れて行かれた。広い畑地をめぐらし、高いケヤキの樹に囲まれた大きな屋敷だった。私は父に連れられてそこへ行くのが楽しみだった。今と違って全くの武蔵野の田舎だった。ただみる一面の陸稲おかぼ畠と桑畠。近くを綺麗な多摩川が流れ、遠く狭山の丘がみえ、もっと遠く冬晴れの空や夏霞のかなたに、独立した富士を初めとして幾つもの青い山波がえんえんと連なっていた。都会からきた私にはこんな景色が珍しかった。こんな田舎で暮らしたらどんなに楽しいことだろうと思った。しかし広大な野のひろがりを武蔵野と呼び、あの山々を丹沢山塊だの秩父山地だのと呼ぶことはずっと後年になって知った。日の暮れた西空に爛々らんらんと輝く宵の明星を、「あれは金星」とか「あれは火星」とか名ざすようになった後年同様。
 名を知ることは知識の第一歩であり、物をよくみることへの、観察への最初のいざないである。理科という底知れず豊かな学問が幼い日の私にまずそれを教え、実在の庭や野や山がそれに続いた。それには何よりまず好奇心と注意力とが必要であり、一方そういう力を鼓舞したり導いたりしてくれる人や書物が必要である。
 その意味で私は実に多くの人や書物に恵まれた。よく「独学者」といい「単独登山家」という言葉が使われるが、それはその当人の経歴を要約した一つのいい方であって、誰も最初から導き手無くして歩いたり学問したりすることはできないだろう。たとえば私か今でも理科関係のことを好きだとすれば、その興味を最初に学問的に刺激してくれたのは、実に小学校の受持ちの先生だった。そしてこのことは私の音楽愛好の端緒についてもいえる。
 私か山を愛するようになったのも、そういう先輩の手引きがあったからのことだった。それは今は亡い河田楨みき君で、彼の最初の著書「一日二日山の旅」は私にとっても最初の山の案内書であり、初めて手にする美しい山の文学書だった。私はこの友に連れられてまず関東地方の山々を登り、五万分や二〇万分の一の地図と照らし合わせて歩くことを学び、さらにその人から各種の山の植物の名を教わったり写真撮影の手ほどきをしてもらったりした。もしもこういうよい先輩の幾人かがいなかったら、その後の単独登山はおろか、今のように山を愛し山を理解する境地にまでいたることはなかっただろう。そして山を主題に詩を物したり文章を書いたりするようにもならなかっただろう。
 山の文章といえば、一九世紀後半のフランスの登山家ジャン・エミール・ジャヴェルこそむしろ私にとって最大の恩人である。私は彼の名著『一登山家の思い出』に魅了されてついにこれを翻訳し出版したが、アルプスの伝道者といわれた彼は、その気質にもどこか私に通じるものを持っていた。
 「何らの公式にも従わず、気の向くままにたった一人、自分流儀で、真に平然と、また常に何かし友新しい喜びを感じながら山々谷々をさまよった彼、消え果てた小径を辿ってただ一人山小屋の戸を叩き、堆石たいせきを飛びこえ、氷河をさかのぼり、高峰を攀じることにいい知れぬ喜悦を感じていた彼、そしてそういう独特なさすらいを、あの氷河の上の星空のような悲しく澄んできらきら燃える文章に綴ったあのジャヴェル、過去の山岳文学中の孤高ジャヴェルを、『伝道者』のかわりにむしろ『アルプスのオルフォイス』の名で呼びたい」と書いた昔が私にあった。
 こんなことどもを考えながら、今私はあるなじみの山の南へ向いた斜面の草に腰をおろして、下の方にひろがっている幾つかの山村や谷間の風景を眺めている。頭の上の青空を高い白い雲が動いてゆく。どこかで小鳥が鳴いている。身のまわりでは草の花がとりどりに美しく可憐である。こうした眺めには今までにも何十たびか出会ったので格別珍しくもないはずだが、歳をとるとこんなありふれた風景でさえ、それが山とあればいまさらのようにしみじみと懐かしく思われる。そして自分がここからの眺めを、こんなにも深い愛情と懐かしみの思いで今までに見入ったことがあったかどうかを思い返してみる。
 「あの山なら僕も知っている」といってしまえばそれまでである。大切なのは君が登ったそれらの山のひとつひとつに、それぞれどれだけの思い出なり感銘なりを持っているかどうかということである。ある山が君にとって一篇の詩であり一幅の絵画であるためには、君がその山に深い愛なり心なりを与えたのでなくてはならない。問題は踏んだ山、登った山の数やその高さではなくて、君がそこから得た感動のいかんである。山での経験といい山の賛美といい、それらが君の一生の富となることを私は心から祈りたい。しかしその賛美も表面から得ただけのものにとどまらず、苦痛からも、奮闘からも、忍耐からもかち獲たものでなくては、真の意味で君の一生の所有とも富ともならないだろう。いたるところから深く美しい思い出を得て歩くがいい。それこそ君が他人から奪うことなくして富む唯一つの方法なのである。
                              (一九七二年七月)

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 山と心


 今でこそ無精になって余り山へも出掛けないが、一と月のうちに二度か三度は必ず何処かしら山へ旅をした昔がなつかしい。前の晩から念入りに支度をして置いた重いルックサックを背に、朝早く若い妻や幼い長女に玄関先まで見送られて、「気をつけて行っていらっしゃいましよ」とか、「お父ちゃん、いろんな物をよく見てね」とか言われながら、一日か二日の山旅のために家を後にした頃の事がなつかしい。だがそれも今はもう三十年から四十年も前の昔の話だ。
 下着の類や雨具は元より、山での食事用のパンだの飲物だの薬だの、五万分の一と二十万分の一の地図、それに三脚を付けて撮す古風な嵩ばった写真機。今と違って何につけても不便な時代だったから、もしもの時の事を考えると迂潤うかつな用意では安心して出掛けられなかった。だからどうしてもルックサックは大きくなり重くなった。
 乗物は新宿か上野発の列車で、てらいを嫌い、窮屈を好まず、自分の心の気安さを愛する私はいつでも三等の旅客だった。よく隣の席の客などに「どちらへ?」と訊かれたりすると、言っても解るまいと思われる山の名などを答えたりして、相手にけげんな顔をされた。何しろこちらも地図をたよりにこれから初めて登りに行く山なのだから、今と較べてもっと山というものに興味を持っていなかったその頃の人に、さして有名でもない地名がどんな反響を起こさせる訳もなかった。
 「尾崎君。汽車に乗っても二十万分の一の地形図はいつでも手から離さずに、今自分の汽車が何処の地点を走っていて、今渡った大きな河が何という河であり、窓から見える向こうの山が何という山かという事を、面倒臭がらずによく調べるんですよ」と、当時私は或る地理学の大家から教えさとされてそれを正直に実行していた。だから見も知らぬ隣席の客から世間話を持ち出されると、ほんとうに迷惑至極だった。
 「尾崎さん。それはまるで地理の勉強で、ちっとも旅行でも遊山ゆさんでもないじゃありませんか」と言ってくれる人もあった。全くその通りで大げさに言えば、私の山への旅はいつでも何かしらの勉強のためだった。地理学の、動物や植物学の、地質学の、実地における見学だった。だからこそいつでも朝の出がけに、幼稚園へ行っている長女に、「お父ちゃん、いろんな物をよく見て来てね!」と言われたのだ。その代わり帰って来れば、ノートや小さな標本を材料に、その娘や妻にいろいろな話をしてやる事もできれば、後になって自分らしい特色ある紀行文を書く事もできた。そしてそういう書き物の発表が度重なったせいか、いつか世間から「山の詩人」だとか「自然詩人」だとか言われるようになってしまった。本来はそうばかりでもないのだが。

     *

 今ならば、ずいぶん人に出遇うだろうと思われるが、その頃は、一日じゅう歩いてもハイカーなどの姿は見る事もなかった奥多摩の山。これは、そういう静かな山歩きの出来た頃の思い出の一つである。
 晩春を咲き初めた山吹やヒトリシズカ。小径の岩に鳴る自分の靴音。もうずっと下の方になった渓谷が微かにさらさらと早瀬の歌を歌っている。そして楽しい大きな明暗に浸かった午前の山々は、空間を占める莫大な容積の重なり合いと大らかな面の移り行きとで、それを見る目をゆっくりと休ませ、その安定感で人の心を柔らげる。すでに都会は遠く、その喧騒も遠いのだ。対岸には白壁と石垣と、調和のとれた樹々の配置でひどく好もしい物に見えていた一つの村落が、今こちら側の山を離れた太陽の光を浴びて、谷から昇る真珠いろの霧のために、きわめて薄いヴェイルを纒ったように柔らかくきらめき始める。そしてその上の斜面に点々とパステル赤をなすっているあの花。あれはミツバツツジの花だろうか。
 やがて小径の左に沢の落ちている処を私は過ぎる。ふと見ると一羽の大瑠璃おおるりが岩角にとまって、流れよどんだ清水を飲んだり浴びたりしている。木の間から降りそそぐ日光の金色の縞に照らされて、その瑠璃色の頭や翼が目も醒めるように美しい。私はその小鳥の動作を、彼が飛び去るまでじっと見ている。飛び立った鳥は近くの水楢みずならの樹の枝まで行って、口ばしをこすったり濡れた羽根をふるわせたりしながら、その合間に水晶の玉を打ち合わせるような綺麗な、小刻みの歌を投げる。私はその歌を、ちょうどあるメロディを覚えようとする時のように、しっかりと心に刻みつけながら歩き出す。
 路の片側にある岩石の露頭が現れる。日蔭の岩は涼しく濡れている。私はみごとに皺曲したその岩をたぶん紅色角岩だろうと思う。そしてステッキの石突きでやっと旨く割ることのできたその扁平な小さなかけらを手の平に載せて眺めながら、帰ってからこれを研いで磨いて文鎮にしたら、きっと善い旅の記念になるだろうと思う。
 私は行く。ゆっくりと。しかし物見高い眼や鼻や耳は何物をものがさないようにすっかり解放して。
 山を歩く事は私にとって、自然の全体と細部とをできるだけ見、愛し、理解する事であって、決して急用を帯びた人のように力走することではないからである。それがために一日の行程が、よしんば二日掛かるとしても構わない。またそのために、都会へ帰ってから幾日かを穴埋めの仕事のために生きるのであっても構わない。
 私は美しい遭遇を愛する。天から与えられた遭遇であればよし、さもなければ自分の方から求めて行く。だから私の道は必然に迂回の経路をとる。

     *

 薄く柔らかに水苔の着いた山頂の岩に腰を下ろして、今私は単純な昼の弁当にむかう。単純ではあるが私の好みをすっかり承知している妻が、昨夜から工夫を凝らして作って置いてくれた弁当である。
 先ずなめし革に包んだ切子のコップを取り出して、小さい壜に詰めた葡萄酒を注いでぐっと飲む。旨い! もう一杯。心が広々とし、気が大きくなる。その広々とした気持で遠近の山々を見わたす。今後登りたい山、是非とも登って置かなければならない山々が、近くは武蔵、甲斐、遠くは信濃や上野こうづけや下野しもつけの空の下に、それぞれの峰をきらめかせたり山脈を波打たせたりして横たわっている。そんな広大で雄渾な風景を心ゆくばかり眺めながら、私はフロマージュ入りの棒パンをかじっては水筒の水を飲む。
 ルックサックのポケットへ入れて来たフランスの詩人ジョルジュ・シェーヌヴィエールの詩集は、実にこういう時の友なのである。彼は質素に強く、明るく男らしく生きる事がどんなにおのれにとってふさわしいかを知っていた。そして、そういうふうに生きようとした願いが、夢が、どんなにこの病身で熱烈で、しかも常に貧しかったこの詩人を鼓舞し、鞭撻し、パリの凡庸な日々の中から燃え上がる新星のような非凡な光を、瞬時に現れる永遠を発見させて、どんなに多くこれらのすぐれた詩を書かせたかを私は思う。病身でこそないが、同じように熱烈で貧しい詩人私としては、彼の短い一生を思って嘆息し、その美しい詩業を思って勇気を得ずにはいられない。
 近くに横たわる大きな暗い岩の上、ヒカゲツツジの硫黄いろの花の咲く下に、イワウチワが一面にはびこって、ほんのり紅をさした白い花の杯を傾けている。私は光沢つやのある緑の葉ごとその花を一、二輪摘み取って、詩集の中で最も好きな「一日の王の物語」のページへ挾む。歌われている一日の王は、もちろんその作者シェーヌヴィエール自身の姿である。

     *

 私は午後の大半を尾根から別の山頂へ、そこから又別の尾根へと、一日の太陽の鳥が大空を渡って、その西方の金と朱あけとに染まった巣の方へ落ちて行くまで歩いた。
 尾根ではいつものとおり暖かでひっそりして、自分自身がおとなしい野山の鳥や、獣や、何物をも強く要求しない草や木々とちっとも変わった者でない事が感じられたし、山頂では、周囲からぬきんでた高さのために心が高尚にされて、そこからの眺望は、一つの高い見地というものを教えられることだった。同時にそれは、また発足して見に行きたいという新しい熱望へのいざないでもあった。
 それから私はゆっくりと谷間の方へ下山した。
 今下って来た山のてっぺんには、まだ金紅色の最後の日かげが残っているが、谷間はもう淡い紫にたそがれかけている。夕暮の空には、朱鷺ときの抜毛のような雲が二筋三筋散っている。しかしやがて天気が変わるとしても、今日の終焉が美しい夕映えを持つだろうという確信は私を楽しくする。
 私はようやく出会った最初の部落と、人が永く其処にとどまって其処に死ぬる処を、旅人の足に任せて脇目もふらず通り過ぎるには忍びない。老人に、若者に、娘に、女房に、私は道を訊くだろう。たとえその道を、地図と対照してほとんど熟知しているとしても、なお彼らと二言三言を交わすために求めて道をたずねるだろう。
 坂になった村路で、子供たちが夢中になって遊んでいる。そしてその中の一人がほとんど私とぶつかりそうになる。私はそれを好い機会しおに、身をよけながら子供の頭に、或いは肩に手を掛けるだろう。
 そして、ただちにして、私は初めて見たこの谷奥の寒村を旧知のように思ってしまうだろう。
 こうして一介の貧しい詩人私といえども、価無き思い出の無数の宝に富まされながら、また今日も一日の王たる事ができたであろう。

     *

 八月のある夕ぐれ、日没後一時間ばかり。武蔵野の畠の上をそよそよと南の風が吹き渡っていた。空は綺麗に晴れてほのぐらく、かすかに紫をおもわせるその空間に、次々と涼しい星の光が増していった。しかし西の地平線の近くには秋の銀杏いちょうの葉むらのような透明な黄いろが残っていて、秩父の連山の黒い影絵を見せていた。そしてその連山の上にあでやかな宵の明星が滴るばかりに傾いている一方では、東方の森の頂も明るくなるかと思うほど、巨大な木星が燦爛たる光芒を放って昇りかけていた。道の草にはもう涼しい露がおりていた。その露の蔭からは草雲雀くさひばりや蟋蟀こおろぎが、失われた金の鈴の伝説や、つづれさす夜の哀れな物語を、おもいおもいに歌っていた。私は夜目にも白く大きな繖形花さんけいかの並んでいるニンジンの畠を過ぎ、体が触れるたびに実り間近な重たい穂がさらさらと鳴る黍きび畠を過ぎて、やがてこの二、三年荒れ放題になっているある空地に近づいた。そこには盛んに繁茂した雑草にまじって、今では野生に返った午蒡ごぼうやイチビの類が草むらの中から小さい黒い島のように浮き出している。そうして、私はその島の上で鳴いているカンタンの声に今宵もまた聴き入った。
 句切りをつけて二度ずつ打ち振るエンマコオロギの澄んだ金属的な調べに較べると、カンタンの歌は遙か遠くの村里で鳴いているヒグラシの声か、風に送られて来る哀切な笛の音を想わせる。その長い緩やかな音の流れには旋律もなければ拍節もない。かすかに震えながら耳から心へ伝わって来るその一節の音の糸には、悲しみにせよ祈りにせよ、何ら人間に強いるところがない。ただ星が光り、風が渡り、平野の夜のひろがりが大きくなってゆくそのことのように、その歌も無限であり無終である。
 私はこのカンタンを聴きながら、いつのまにか信州川上の梓山あずさやまを思い出していた。私が生まれて初めて籠の中のものでないこの虫を見、その声を聴いたのは梓山の部落でだった。そうして背戸にエゾギクを多く作っているあの山家やまがや、村外れの河原に近い小石まじりの蕎麦の畠や、白樺の林の奥に消える十文字峠道などを思い出すと、もう一度其処へ行って見たいなという淡い欲求が、武蔵野の星の下、草原の露の中で、私のうちに郷愁のように湧き上がって来るのだった。
 それは或る年の九月半ばで、秩父の山々には漸く秋のもみじが照りはじめ、谷川の水は山間の空を映し砕いていよいよ青く冷たくなり、信州南佐久郡川上村の狹い水田にも稲は黄色く穂を垂れて、田圃の畔くろに咲き続く血の色の彼岸花ひがんばながそぞろに旅愁を催させる頃だった。私は千曲川の上流から山越えに中津川の谷への旅をした。小海線信濃川上の駅のある御所平ごしょだいらから三里余りをバスに揺られて来て見れば、梓山は思いのほかに明るく開けた山間やまあいの村だった。
 橋の袂の旅館白木屋に旅装を解くと、私は身軽になって夕餉の時刻まで村の上手を一人ぶらぶら、十文字峠への道の導くままに登って行った。
 どこから吹いて来るとも知れない風は水晶を溶かしたように涼しかった。村にはほのかに水が匂い、竈の煙が匂い、爽やかな乾草の香が漂っていた。漸く傾きかけた秋の太陽は打ちひらけた下流の方から光を流して、その蜜のような甘美な光線で渋色をした家々の柱や羽目板や、石を載せた低い屋根屋根を薄赤く染めていた。村には柴犬がたくさんいた。昔から伝わっている純粋な日本犬で、法令で保護され、その正しい血統を維持されているという事だった。彼らは人間と同じようにこの深い山里に土着し、狩猟の供をし、子供らと遊び、女らに愛せられて、狭い往来にも、橋の上にも、川べりの小径にも、また庭の中、家々の土間にも、その精悍な悧巧そうな小さい姿を見せていた。
 乾草ほしくさがいたる処で爽やかに匂っていた。ある農家の前を通ると、往来に面した庭で一人の娘が一面にひろげて干した刈草を一抱えずつ束ねている。近づいてよく見ると萩や桔梗や女郎花おみなえしのたぐいの秋草だった。束は出来るそばから納屋の前へ積まれていった。それへ赤いトンボが無数にとまって、夕日の光にきらきらと羽根を伏せていた。
 「この乾草は何にするんですか」と私は娘にたずねた。
 「冬じゅうの牛や馬の飼葉かいばにしやす」と言葉少なに娘は答えた。
 実際家畜も多いらしく、家々の間から、彼らに特有の饐えたような香においが流れて来た。遠く来てこういう香にめぐり会うと私はいつでも一脈の旅愁を感じずにはいられない。それは赤児の体臭や母の乳の香のように懐かしくはあるが、その懐かしさには何かほのかに悲しいような苦い味がある。
  この国の寒さを強み家のうちに
  馬引き入れて共に寝起きす
 という若山牧水の歌が思い出された。こうした乾草はまた村のすべての家で飼っている兎たちの冬の飼料にもなろうかと思われた。
 たいがいの家でエゾギクを作っていて、ちょうどヘルマン・ヘッセの小品文『秋』にあるように、「白、紫、八重、一重、あらゆる種類とあらゆる色との花」が、鳳仙花やダーリアと一緒に畠の石垣のふちや垣根のあたりを飾っていた。そして村の唯一の色彩とも見えるそれらの花が、夕日の光や、山あいの空の深い青や、一痕の白い月や、谷川の響きや、清らかな空気の冷たさと調和して、いかにも都を遠く美しい、平和な山里の初秋の絵を成していた。
 十文字峠への道は村の家並のつきるあたりから次第に登りになっていた。行く手には小さい丘をへだてて三国山つづきの山稜が望まれ、その一角に突き出ているアク岩という石灰岩の巨大な露頭も遠く高々と仰がれた。
 いよいよ村の最後の一軒家の前まで来ると、左から千曲川の谷の流れが寄り添って来て、夕暮の水が淙々と岩に激して鳴っていた。道の片側の小高い山畑へ登って今来た方角を見おろすと、梓山の部落は川の左岸に細長く伸びて、西方の空の落日の余燼の下で今宵の星の照り明かるのを待っていた。
 私がカンタンの声を聴きつけたのは其の時、其の揚所でだった。涼しいような、甘いような、得も言えず微妙なひびきが、或いは遠く、或いは近くふるえていた。私は耳のうしろへ手の平を当てがって一つの声をたずねながら、白茶けた畠の、もう枯れるのに間もない胡瓜の蔓のあいだを覗きこんだ。そして一枚の葉の表から裏へとすばやく身を匿す長さ六分に満たない、黄味を帯びた草いろの、一見弱々しくほっそりとしたその虫を発見したのであった。そして近くの石の上へ腰を下ろすと、あたりがすっかりたそがれて梓山の村に電灯の光のちらつき始める頃まで、存分に彼らの歌に聴き入った。    
                             (一九七二年八月)

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 空と樹木


 もしも三十歳に近いころの私に高村光太郎、千家元糜という二人の師とも友とも言うべき人が無く、また、もしもいささかでも英語やフランス語やドイツ語の素養が無くて、ウィリアム・ブレイクも、ウォルト・ホイットマンも、エミール・ヴェルハーランも、ライネル・マリア・リルケも、ヘルマン・ヘッセも読む事ができなかったとしたら、果たしてこんにちの私があっただろうか。
 それまでは武者小路さんたちの『白樺』に小説や戯曲のような物を書いていた私が、詩という物を初めて載せてもらったのは井上康文君の詩誌『新詩人』だった。続いて玄文社詩歌部の長谷川己之吉氏にすすめられて同氏創刊の詩雑誌『詩聖』に毎月新作を送るようになった。大藤治郎、野口米次郎、田中冬二、中野秀人氏らを知ったのもこの詩誌を通じてだった。およそこれらの人を知らず発表機関も無かったとしたら、私は恐らく片隅の自然文学者か下手な小説家になっていたであろう。
 高村さんの『道程』は当時の私にとって一つの驚異だった。こんな立派な、こんな豊かなこんな男らしい作品に満たされた詩集を私はいまだかつて見た事がなかった。その詩集を著者はわざわざ私の務め先まで持って来てくれたのだった。そして丸ノ内から本郷駒込の自宅まで帰って行くこの尊敬すべき年長の友の後姿に、私は煉瓦造りの古い丸ビルの玄関先へ立っていつまでも感激の眼を送っていた。
 千家君の第一詩集『自分は見た』は武者小路さんのところで、これまた著者自身から贈られた。私は高村さんのとはまた違った点で彼の詩を好きだった。『自分は見た』の題のとおり彼はその見た物、感激した事をすべて生き生きと書いた。彼がゴッホを好きなのも当然で、それらの詩は事実ゴッホの画のように剛健で、新鮮で、善意に満ちていて、時に涙もろくさえあった。私はそういう彼の天真らんまんさを愛した。およそ千家元麿の詩を好きな人で、同時に彼の人となりを愛さない者はいなかったであろう。
 ブレイク、ホイットマン、ヴェルハーラン、リルケ、ヘッセたちの詩からもそれぞれ啓発され、影響をうけた。そしてそれら恩義をこうむった昔の本を私は大切に持っていて、今でも時々取り出して読む。すると彼らに熱中して辞書や文法書を相手に夜をあかした何十年も前の事が思い出される。彼らの模倣はしなかったが、彼らの詩から新しいヒントを得た事はたくさんある。
 大正十一年の五月、前記の玄文社詩歌部から自分の最初の詩集が出た。私はそれに『空と樹木』という題を与えて、高村さんと千家君とに献呈した。四六判上製箱入りの美本で二四八ページ、詩の総数五十一編。薄水色の表紙に当時まだ青年だった友人の彫刻家高田博厚自筆のフランス語の題を金箔で捺した。これで定価が金二円。詩壇での批評は賞賛するもの、こきおろすもの、色々だった。しかし私は動じなかった。褒めてくれたのは皆ふだんから尊敬している人たちばかりだったから。それにこの本を受け取ったスイスのロマン・ロランからも初めての親しい手紙をもらったから。そしてそれ以来詩集の数を重ねて静かにこんにちに及んでいる。
 こうして散文も書いているが、思えば私はやはり根っからの詩人だったのである。
                              (一九七二年十二月)

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 草花との静かな日々


 同じ鎌倉とは言っても、私の住んでいる処は「山ノ内」つまり北鎌倉で、円覚寺の横の谷を登ったかなり奥の方の山の中腹にある。それ故あたりはまことに静かで、物を考えたり、本を読んだりしている時、邪魔になるような物音は何一つ聴こえて来ない。もしも強いて雑音と言ったら朝夕のご用聴きと、新聞や郵便を配達する人達の車の音ぐらいなものである。そのくせいわゆる「ご近所」はかなり有るのだが、それぞれ庭をひかえコンクリートの塀や壁をめぐらして住んでおられるので、たまたまの飼犬の声を別にすれば、人々の生活から生まれる雑音というものは一つとして耳に入って来ない。こんなだから私の気の持ちよう一つで仕事ははかどる。今日と明日にはこれだけの枚数を書こうと決心して怠らなければ(不意の訪問客の無いかぎり)、決めていただけの仕事は計画どおり二日で仕上がる。私はこの事で満足し、こういう生活を送る事のできる自分を仕合わせだと思っている。
 今はちょうど二月の半ばだが、ほうぼうの庭の梅が盛りである。私の家などは、このごろ毎朝の最低気温が零度から零下三、四度だというのに、もうそろそろ散り始めている。このところ夜から早暁へかけての寒気がきびしい割に、快晴の昼間の日射がしっかりしているので平気なのだろう。しかし梅の花はこのあたりでは何と言っても明月院の境内のそれである。木も古いし、株数も多いし、手入れもよく行届いているので、毎年じつに見事である。私の家からは近くもある上に、ふだんから懇意にもしているので、このごろのような盛りの季節には時々見物に出かける。住職夫妻が善い人達で、おまけに私同様植物好きと来ているので、話が草木の事になると庭の中を歩きながらの話は容易に尽きない。その庭や畑の中を案内して廻って、これは何という木で夏にはどんな花が咲くとか、これは何という新しい西洋野菜でどういうふうに調理して膳にのぼすと美味だとか、色々と私の知らない事を教えてくれる。そしてその上、季節が来ると、教えた木の花の枝や西洋野菜をわざわざ届けに来てくれるのである。私はこんな篤志家の「お寺さま」を未だ曾て知らない。
 北鎌倉の駅へ行くというので家を出ると、日当りの路ばたにはもうイヌノフグリの空色の花が咲いている。早い春の知らせである。それに金いろのタンポポもところどころ。こういう花達を家じゅうの誰が一番先に見つけて知らせるかが、私のところの永年のしきたりになっている。と言うのも家族がみんな植物を好きだから。その好きな元祖は実は私なのだが、朝早く家を出て勤めや学校に出かける娘や孫達にはかなわない。私はいつでも彼らに教えられて時経てから一人で見に行く。これからの春の花にしてもそうだし、夏から秋にかけての色とりどりの草木のそれにしても、すべて最初の発見者は彼らである。そして彼らにとっても私にとっても、これが家庭生活の楽しみの一つなのだから、こんな習慣はなるべく永く続いた方がいい。「おじいちゃん知ってる? 円覚寺の手前の家の庭の大きなジンチョウゲが咲き出したのを」と、こんな事を言って私をおびやかすのはいつでも彼らの中の誰かである。ところで老妻は言う、「私はうちにいることが多いのでみんなのようには気がつかないけれど、こうして毎日窓からそとの山や林を眺めているだけでも自然という物は素晴らしいと思うわ。それぞれに季節が来ればちゃんと芽も出すし、花も咲かせるし、枝や葉も茂らせるんですもの。そして冬が来ればおとなしく素直に死んだり、枯れたり、しぼんだりして行くんですものね」と。この平凡な述懐は平凡なりにやはりそのまま書き留めて置く価値が有るかも知れない。
 その山や林を私は時どき散歩する。両方とも宅から近い道のりだし、標高もそれほどではないからである。わけても散歩にちょうど良いのはいわゆる「建長寺→天園ハイキングコース」の一部で、其処の高みへ登ると、古都の三方に尾根をめぐらして、鎌倉の町並やたくさんの寺の建て物や、それらを飾り彩る樹木の大群落が眼の下になる。そして町の向こうには相模湾の水がひろがリ、晴れていれば沖合遠く大島も見え、南西の空に富士山も見える。そしてあたりにはホオジロ、アオジ、カワラヒワ、カケスなどの囀りも聴こえる。私はほかに他人が居合わさなければ一人どっかり腰を下ろしてその高処での眺めを楽しむのを常としている。あたりが先客の捨てて行った紙屑などでよごれている時には、手近かの処を掃除などして。
 私の仕事は詩や散文を書く事である。以前にはそれにもう一つ翻訳も加わっていたが今はやめている。もう余生の程も知れている以上、他人の物を翻訳するよりも、少しでも多く自分の物を書いて置きたいからである。仕事は散文だと一日に三枚か四枚。そしてこれを永年の習慣で昼前から午後の二時頃まで続けている。それまでは配達されて来た新聞も手紙も読まなければ、ラジオやテレビなんぞ無論聴きもしなければ見もしない。昔は締切り日が迫ると一日に三十枚ぐらい平気だったが、今ではとてもそんな事を出来もしなければ考えもしない。
 午後2二時も過ぎればもう仕事の店は閉じてしまう。あとは又あしたである。散歩に出ようと、読書をしようと、レコードを聴こうとすベて自由。散歩は先にも言ったとおり我が家のまわり、読書は今のところフランスの作家デュアメルの自伝的な五巻物『私の生を照らした光』の原書通読、そしてレコードは主としてシュッツ、バッハ、ヘンデル、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルトなどの音楽である。
 ああそれにしても音楽と自然。この二つは今後もなお私を慰め、私を養ってやまないだろう。

                               (一九七三年三月)

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 山と自然と子の心


 幼い時から自然が好きで、学校へ行くようになってからは「理科」という学科を好み、やがて長じて山へ行く面白味を覚えるようになると、本州中部の高山や低山を年々歳々いくつか登った。今でも同じ年配の人たちよりも多少足が丈夫で野山を歩く事が好きなのも、その余得であろうかと思う。
 現在のように便利な案内書などの至って少ない時代だったから、旅をするにも山登りにも、そのころの陸地測量部発行の五万分の一や二十万分の一の地図がただ一つの頼りだった。そのためには地図を読み解く事がまず第一の必要だった。それで地形学を勉強した。実地に歩いたり汽車の窓からながめたりしながら、その地形を一々地図と対照して、山や川や谷や村落の名を覚えた。その習慣が今でも抜けず、初めての処はもち論、むかし通った処でもやはり地図を持って行く。これを教えてくれたのは今は亡き著名な地理学者辻村太郎先生だった。その辻村先生はまた「尾崎さん、旅行にはなるべく夜汽車に乗らないようになさい。夜汽車では地図が活用出来ませんからね」と言われた。
 この事は植物についても言える。これも故人になられた牧野富太郎先生のご注意だが、もしも植物の名を覚えたいと思うなら、山や田園を歩く時には必ず手ごろな植物図鑑を持って行くようにと。それも近ごろのような写真の物よりも、ちゃんとした写生図と解説のついた図鑑がよろしいと。これもそのとおりで、今日行われている図鑑には、見た目には美しいが、かんじんの細部の特徴が写されていない物が少なくない。雄しべや雌しべの数だとか長さだとか、茎や葉に毛が生えているとかいないとか、そんな細かくてしかも大事な特徴が写されていない本が多い。いい加減な名を覚えてそれで満足出来る人はともかく、正しい名を知りたいと思う人は、なるべく持ち運びに便利でしかも大切な特徴を省略していない図鑑を用意されるのがいいと思う。
 蝶その他の昆虫類に対しても同じ事である。私も昆虫に夢中だった時代にはよく採集に出掛けたが、標本を作る事を断念してからは虫をつかまえたり殺したりはしないで、もっぱら立ちどまったりしゃがんだりして、彼らを根気よく念入りに観察する事にしている。どうせ専門家ではない者の知識欲に過ぎないのだから、細かすぎる程の名の違いと、現物を手に取って調べる必要もあるまい。野鳥にしてもそうである。彼らが毎年訪れて来る季節を覚え、鳴き声や歌の節を聴き知り、姿や羽毛の色を記憶し、それぞれの種類の好んで住んでいる揚所の特徴を頭に入れて置けば、度重なるうちには名を知るようになるだろう。それにしても鳴き声にしろ姿や色の特色にしろ、人から教わるだけでなく、自分でする実地の観察がなくては駄目である。その点では近ごろ多く見受ける色彩写真などによる鳥類図鑑も参考になるし、鳴き声を覚えるためにはレコードも大いに役に立つ。そして私としては一度に沢山覚えようとしないで、一日の野山歩きに一種類でも二種類でもいいから、正確に観察し記憶するように心がけている。
 自然を愛すると言っても、その愛し方には色々微妙な違いがあって一口には言えないが、私などの場合には感動なり知識欲なりをもってよく見る事である。生き生きとした夢はまず見る事から始まる。そしてよく見よく感じる事によって一層愛し、一層信を深めるのである。もしも見て見っぱなし、聴いて聴きっぱなしならば、その人の知恵にも心にも何らの深みも加わるまい。せいぜい、ただ一度の見聞として消え去られてしまうだろう。自然への愛とはそんな生やさしいものではなく、その深い力は時に一人の人間を覚醒の天へと引き上げ救い上げるのである。私はきょうも自宅に近い山林を歩きながらそんな事を考えていた。
                             (一九七三年六月)

 

 

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 花崗岩の破片

 途上のまなざし


 よく人が私の著書を私に差し出して署名を乞いながら、「すみませんが何かひと言お添えになって」と言うことがある。そんな時、ちょっと困ったなとは思うけれど、けっきょく快く、その本の中から良さそうな一句を探し出して書き、そして署名をして渡す。あらためて顔を見るとそういう人の大概は深くまじめで、誠実らしくて、いわゆる好感の持てる人が多い。中には、思いあまってそんな頼みをしたのだというふうに取れる人も少なくない。だから私は書いたあとで後悔はしない。機会を利用されたとか、甘く見られたとか、こちらの寛容や善意につけこまれたとか、そんなことは思わない。それどころか、私という人間の書いた本をなかだちに、今こそ直接、たがいの心と心とを通じ合わせたのだというふうに思って喜ぶのである。上高地での毎年のウェストン祭の時だとか、どこかへ講演に行った折などにそうした事が特に多い。
 ところで、今はもう故人だが、もしもフランスの文豪アンドレ・ジイドが生きていて、私の差し出す彼の青春の作『地の糧』の扉のところに、愛読者である私の乞いを快く容れて、本の初めに出てくる美しい句、「ナタナエルよ、行きずりにすべての物を見るがいい。しかし何処にも足を停めないように。そして君自身に言って聴かせたまえ。かりそめでないのはただ神だけだと」という数行を書いてくれたらどんなに嬉しいだろうと思うのである。或いはまたそれに続くすばらしい一句、「重要さは君のまなざしの中にこそあるので、見られた物の中には無い」という天啓のような言葉を書いてくれたとしたら、ほんとうに天にも昇る心地がするだろうと思うのである。
 かんじんなのは自然を眺め、物に見入り、人に接する時の私のまなざし。あらかじめこれこれの眼で見ようと思い計らずに、ただ何となく視線をやりながら、しかも忽ち気を取られたり、心を与えたりしてしまうそのまなざし。つねに柔らかで、まともで、敏感で、私心も先入観も持たないまなざしだ。もちろん、必ずしもいつもそうだとは言えないが、私はこの世界や人間にたいして、そういう視線を漂わせる者になりたいと永いこと心がけて来た。そしてその心がけ、そのまなざしが、それ以来、私の人生行路を、また具体的な意味での私の旅を、思い出に豊かな、実みのあるものにしてきたように思われる。たとえそれがいつでも明るく喜ばしいものではなく、時にほのぐらく悲しいものであったにしても、けっきょく懐かしい美しい体験として、自分の心の富の重荷を形づくっていることに変わりはない。
 自分の小さな歴史から言えば、つまり伝記的な記録から言えば、私はこれまでにたくさんの旅をした。いくつかの目的の場所を前もってきめて、それを汽車や船や他の乗り物でつないだ旅。算えてみればそういう旅が、すなわち旅行が圧倒的に多い。しかし名所や旧跡の観光の場合でも、所用のための旅行の際でも、見ることによって私の心が歌ったのは、たいていは目当てにして行ったその揚所ではなく、他人からすれば何処へ行っても見られるような、ごく有りふれた、珍しくも何ともない自然や、物や、人間であったことが多い。しかしそれらがすべて旅の途上のものであればこそ、ややもすれば日常の塵に被われやすいまぶたを拭って生き生きと澄み晴れた眼、何にでも応じて開く用意のできた心には、やはり珍しいもの、新鮮なものとして映ったり語りかけたりするのである。私はこれを「旅の神秘」だと思っている。
 そしてこの神秘のおかげで、私は多くの他人の見たものから自分としての発見をし、真善美の綜合を強め、一層広い世界にちらばる普遍の歌から養われたり鼓舞されたりするのである。

 途上のまなざしを柔らかにして、しかもその敏感さを失わず、旅の神秘を身と心とで感じるためには、さまざまな風物を窓の中から迎え見送る乗り物もさることながら、背には袋、手にはステッキ、やはり足で行くほうがもっといい。
 たとえば中央線で松本まで行くというので、新宿からの私の急行列車が時速約五〇キロで甲州長坂と小淵沢の中間を走っているとき、その右側の窓からの景色のなか、雄大な八ヶ岳を背景にして、高原の小高い畑地に一本の年経た大きな枝垂桜しだれざくらが見える。おそらく名の有る桜だろうが、別に立札ようの物も見えない。人はどうか知らないが、私はこの線を通るたびに、このすばらしい独立樹をもう何十回となく見て注意している。うしろに聳える八ヶ岳が雪に装われている冬枯れの時もあったし、折よく花盛りの春もあったし、また一帯の野山や耕地がきらびやかな日光に浸かっている秋もあり、多くの機会として、その大らかな木蔭で広々とした高原の風に吹かれてみたいと思う夏もあったが、残念なことにまだその樹のそばへ行ったことがない。しかも列車はその桜をゆっくりとは見せず、上りにも下りにも常に規定の速度で走りつづけて、忽ち視界から遠ざけてしまうのである。こうして二つの駅のあいだを列車に任せているかぎり、私がついにその樹の下に立つ時のないことは知れている。手にステッキ、背に袋。双方の樹齢と余命のなかで急ぎながら、やがて来る高原の春の日に、足と目でする彼への巡礼の素志をどうしても貫かなければならない。しかもその途々、私は予期しなかったなお色々な見ものに出会うことで喜ぶだろう、富まされるだろう。甲斐駒ヶ岳を背景に向こうを走る、今はさしあたって用の無い列車の軽快な形にさえ、色にさえ。そして現れては忽ち行き去る一時間五〇キロというその快速にさえ。
 或る年の三月、私は八ヶ岳の裾野を野辺山から歩き出して、板橋の部落を経て海ノ口まで一日がかりでゆっくりと行く小さい旅をこころみた。小海線はもう全通していたが、まだ今のようなディーゼル・カーではなく、二輛ほどの旧式な客車が、それも貨車という重荷にたいする軽い小づけのように見える頃だった。かわいい機関車が真黒な煙を吐いてその貨客の連結車を引っぱって、丁寧に律気に小さい駅で一つ一つ停車しながら、あの長い裾野の鉄路を営々として登るのだった。清里に近いところだったか大泉のへんだったか忘れたが、ともかくそのあたりの登りの道で、移動するヤスデの大群を轢き殺したために、彼らの体から流れ出した油に車輪がからまわりをして車が進まなくなったという話のあるその鉄路を。
 それはともかく、私は久しぶりに乗ったその汽車の窓からまだ寒々とした高原の早春風景を眺めながら、やがて野辺山の小駅へ降り立った。平仮名で「のべやま」と書かれた駅名の立て札。これから一人で歩き出そうとする新鮮な心には、その文字の形や音感さえ今更のように気に入った。行くべき道は駅の前からほそぼそと八ヶ岳の方へ向かっている。その堂々たる八ヶ岳の赤岳、権現、横岳は、濃い残雪をプラチナのように朝日に光らせ、ふりかえれば飯盛山から女山へとつづく柔らかな稜線の左に、千曲川右岸の男山、天狗山が、これも絣模様の雪をまぶして猛々たけだけしく立っている。そして北東には冬枯れのままの疎林の果てに、うっすりと香の煙りを上げた浅間山が。
 道にそって何軒か農家の見える野辺山の開拓地。その貧しげな村の村はずれで、私は一人の若い母親とその二人の子供とに心を引かれた。まだ人間の姿がそれほど珍しく思われるこの土地でもあれば、時世でもあったのである。兄と妹らしい幼い二人は一匹の山羊を相手に遊んでいた。周囲はがらんとした高原の冬景色、薄青い空に雪の光のきびしい山々。しかもここにただ一つ心暖まる点景として、人間の親子三人と家畜一匹、そのかたわらをこれから自分のたどってゆく一筋の枯草の道。私はいたいけな子供たちにポケットから取り出したキャラメルの一函を与え、別れを告げて数歩あるいたがまた立ちどまって、とっさに頭に浮かんだ次のような詩の断片を急いで手帖へ書きつけた。

  これが私に最初の画だ、歌のはじめだ。
  私はこの画の中にしばしとどまる、
  この牧歌にしばし私のしらべをまじえる。
  清らかな貧しさと愛のやわらぎ、
  これが私たちのけさの歌だ。
  第一歩の祝福がここにあり、
  私のさすらいがここからはじまる。

 自然を見に行くとなると、どうしても私の足は信州へむかう。去年もちょうど四月の半ばに、岡谷の北西、諏訪盆地と松本平を一連の山でへだてる塩尻峠への旅をした。東京からは鉄道でおよそ二〇〇キロほどの距離だが、南の平野地方から北の山国へ入ってゆくのだから、まさに季節を晩春から早春へと逆戻りする旅だった。と言うのは、ちょうどその頃、東京世田谷の私の家に近い多摩川の水辺ではセグロセキレイが囀り、庭では桃も桜もすでにすっかり散り去って、今はもうツツジ、山吹。あと半月ばかりで来る端午の節句のために、家々の屋根の上高く鯉のぼりが垂れ、その輝かしい空を二羽、三羽、早くもツバメが飛びかっているという季節風景だったから。
 それでも上野原から大月あたりまではまだ東京付近の植物季節と大して変わらず、桂川右岸の美しい河岸段丘群の畑には、一面の麦の緑と菜の花の黄とが晩春を思わせたが、笹子の長いトンネルを抜けて甲府盆地をむこうに見おろす勝沼まで来ると、私の旅の眼を驚かすかのように見渡すかぎり桃の花ざかりだった。一面にひろがった葡萄畑の斜面の半分ぐらいが桃の畑で、山の中腹から盆地のへりまで、まったく桃の花の桃いろの雲なのである。
 まだ蔓の上の芽がすこしふくらんだばかりの葡萄のことはすっかり忘れて、見る眼の驚きと感じる心の喜びとは、ただこの薄紅の雲のたなびき、この浮かび流れる桃いろの波にそそがれ、吸い寄せられて、そこに食い入るばかりだった。もしも今その下を歩いたらどんなに甘い、どんなにいい匂いに包まれることだろう! そして身も心もどんなに桃いろの花のようになることだろう! 私は今までに算えきれないくらいここを通りながら、かくも見事な桃の花の眺めを見たこともなければ、こんな事があり得ようなどとは想像さえもしなかったのである。
 中央線での気象限界とも言うことのできる穴山で、その駅の前の桜は思っていたとおり満開だった。またそのあたりの農家の庭や木の芽どきの雑木山には、コブシの白い花が点々と大きな星のようだった。線路のわきにはクサボケの赤い花も咲きはじめ、タンポポも丸い金貨を散らしていた。無数の長い糸を空中から縦に張ったホップの畑ごしに、残雪の甲斐駒や八ヶ岳がすがすがしくも荘厳な眺めだった。その残雪の岳のほうへと、「キリコロ・キリコロ」鳴きかわしながら、三十羽あまりのカワラヒワが右に左に散って行った。そして長坂から小淵沢への途中で右窓から見える例の大木の技垂桜しだれざくらは、ことによったらと思っていたとおり満開だった。喜びよりも、私はむしろ敬意を覚えた。
 午後おそく、私は諏訪湖の岸にたたずんでいた。二駅手前の上諏訪で下車して、湖に久濶を叙しに来たのである。いくらか荒い春風のためにさざなみ立っている湖水をめぐって、町も村落もすべて桜の見頃だった。家々の庭には桃もアンズも咲いていて、わけても木の立派なボケとカイドウの花が美しかった。つまり百花一時に姸をきそう信濃の春で、今のように植物に乏しくなった東京などでは到底考えも及ばないような生活と自然との理想的な調和景観、家族的な合体風景を現していた。そしてこの春の夕暮ちかく、私という旅人の耳にあわい旅愁を歌いかけるのは、湖畔の小舟や石垣に寄せるさざなみの音だった。

 塩尻峠の朝は、部屋のそとの木の間で「ツツピン・ツツピン」と鳴くヒガラの声に明けた。この高い澄みきった声には周囲の広さや静けさや、人界からの遠さを身にしみるように感じさせるものがある。私はなじみの支配人が特に心を配ってくれた洋風の、軽い、しかし栄養に富んだ朝食をすませると、小さいサブリュックをかついで峠から山のほうへと出かけた。
 海抜一〇〇〇メートルの塩尻峠では、カラマツの新芽がようやくしっとりと潤いを帯びて、かすかにテレビンの香のする薄緑にけむっていた。私は峠から真北の高ボッチヘむかって、稜線づたいに四キロばかり登ってみることにした。この稜線は歩けばいくらでも行けるので、いい気になって緩やかな登高をつづければ、末は松本平を眼下にのぞむ鉢伏山へ出てしまうからである。
 途中は草にも木にも、花についてはまだ季節が早すぎた。しかし野鳥の世界はもうまぎれもない春で、森林ではキビタキの歌やおしゃべりがしきりだった。そしてそのキビタキの声にまじって、時々キツツキが木の幹をたたく音。見ればそのキツツキはアカゲラで、黒と白とのだんだら模様の上着を着、緋色の頭巾と半ズボンとでみずから飾ったその鳥が、車を廻すような乾いた音を響かせているのだった。
 高ボッチの頭をむこうに見上げて、しばらく枯草の中の登りになるという処で、私は低く太く「グー・グー」と鳴くヒキガエルの声を耳にした。こんな処にヒキガエルのいるのは変だと思って、その声をたよりに近づいて見ると、それは交尾中の一番ひとつがいだった。小さい雄が大きな雌の頭を両手でかかえて、二匹で地上をごろんごろんところげ廻っているのである。注意して耳を澄ますと、まだほかに二組か三組はいる様子だった。小道の上から遙か下のほうの窪地を見おろすと、真白に枯れたアシに囲まれて、一つの小さい池が青々と光っていた。私にはそれでこんな処にヒキガエルのいるわけがわかった。そしてその池の近く、カラマツを主としたほの暗い森の高い稍で、グロテスクなカエルのうめき声をよそに、一羽のクロツグミがフルートのような音色で歌いつづけていた。あのキビタキといい、このクロツグミといい、彼らはまだ南の国から帰って来たばかりなのに、その生まれの土地でもうこんなに安心して楽しげに、山の春を歌っているのである。私は小高い山の出ばなに腰をおろし、煙草を吸ったりチョコレートをかじったりしながら、永いこと下のほうからの彼らの歌に聴き入っていた。
 帰りの乗り物の時間もあるので、私は高ボッチ行きを断念して、その手前の東山までで我慢することにした。しかしその頂上から北アルプス、木曾駒、仙丈、甲斐駒、八ヶ岳などの眺望はすばらしく、そこの広々とした枯草の中での一時間はえも言えず楽しいものだった。私はあおむけに寝ころんで、正午の太陽と雲との戯れとを飽きることなく眺めていた。そして十数年前のほぼ今ごろ、ここから諏訪湖をこえて南東に見えるあの杖突峠つえつきとうげで、やはりこんなふうに草に寝ころんでいたことや、それを題材に一篇の詩を書いたことなどを思い出していた。

  杖突峠

  春は茫々、山上の空、
  なんにも無いのがじつにいい。
  書物もなければ新聞もなく、
  時局談義も、とやかくうるさい芸術論もない。
  頭をまわせば銀の残雪を蜘蛛手に懸けた
  青い八ヶ岳も蓼科たてしなももちろん出ている。
  腹這いになって首を伸ばせば、
  画のような汀みぎわに抱かれた春の諏訪湖も
  ちらちらと芽木のあいだに見れば見える。
  木曾駒は伊那盆地の霞の上、
  槍や穂高の北アルプスは
  リラ色の安曇あずみの空に遠く浮かぶ。
  それはみんなわかっている。
  わかっているが、目を細くして、あおむいて、
  無限無窮のこのまっさおな大空を
  じっと見ているのがじつにいい。
  どこかで鳴いているあおじの歌、
  頬に触れる翁草やあずまぎく
  この世の毀誉褒貶をすっきりとぬきんでた
  海抜四千尺の春の峠、
  杖突峠の草原くさはらで腕を枕に空をみている。

 おりから近くの小梨の木に、これも詩にあるのと同じ一羽のアオジが飛んで来て、とまって、やがて「チョツチョツチョツ・チョロリ・スピリース」と聴こえるあの独特の歯切れのいい歌を歌いはじめた。暑いくらいの日光と、底光りする頭上の雲の絶えざる変化。そして南のそよかぜとすぐ近くの枝のアオジの歌。私は汽車にのって遠くここまで来た甲斐のあったことを、この永遠のような一時間でしみじみと思い知った。
 旅行から帰るとふたたび始まる都会生活。いくらかは私に期待している妻や子や孫があり、急がれている仕事が待ち、絶えず諸方から電話が懸かり、約束や不意の訪問客に会い、急用のものやどうでもいい手紙に返事を書くことなど、自発的な仕事を犠牲にして、生きているからにはどうしても果たさなければならないこの世の務めや義理に追われる生活である。しかし今のその私に世界や人間にたいする懇ろな、また時に熱烈なまなざしがある以上、そしてなお多くの新たに見るべき、或いは再びとくと見直すべき人生や自然がある以上、たまたまどんなに憂鬱になり絶望的になるにしても、まだまだ迂闊にはこの舞台を去りたくない。

  車 窓

  ほら、
  そこへ出て来た長い狭い青葉の谷、
  あれをまっすぐ登って峠をこえると、
  けっきょくは木曾の入り囗、
  中山道なかせんどうの贄川にえかわへ出るのだ。

  お前とふたり富士見流寓の或る年の冬、
  ぼくはこの先の小野おのの学校で話をして、
  それが終るとすぐ次の会場へと四キロの道を
  ある谷奥の小さな部落へ急いだのだ。
  行きも帰りも、車はもちろん、
  雪が深いので馬さえも無い。
  膝近くまで積もった上へ
  なお濠々と吹きつもる吹雪の道で、
  胃潰瘍の胃が燃えるように痛んだ。
  そしてまた夜の汽車で急いで帰った。
  そんな思いをして貰ったなにがしかの謝礼が
  あの頃の苦しい暮らしの料しろだった。

  十数年の遠い昔を回顧しながら
  いま梅雨つゆの晴れまの松本行急行列車、
  大きな窓を青嵐せいらんに打たせて行けば、
  クリーム色の雲かとばかり
  栗の花咲く小野、筑摩地の山里が、
  懐かしくも「清く貧しかりし日の歌」のようだ。
                              (一九六三年)

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 花崗岩の破片


 私は花崗岩を、御影石みかげいしという名で教えられた。
 九つか十の夏だったろうか。その頃まだ商売をやっていた父親に連れられて、関西の灘や西宮の醸造元、いわゆる「荷主」の家を歴訪した。いずれも堂々とした立派な構えで、大阪弁を発散する賑やかな家族と多勢の使用人。東京からの客である少年の目や心には、まるで遠国の御大尽のところへ招かれているような気がして、せっかく相手になって遊んでくれる同じ年ごろの「ポンチ」や、少し年上の愛想のいい「イトハン」にもかかわらず、早く東京隅田河畔の、住み馴れ遊び馴れた我が家へ帰りたいという幼いホームシックに苦しんだ。
 その旅行の終わりごろ、或る日御影みかげの石屋という村を見物に行った。そこは有名な石切り場の村で、ほとんどすべての家が岩石の切り出しや加工を業とし、見わたす風景が磊々らいらいと白く乾いて、子供の目にも味きなく映った。そして今思えば、遠く霞んだ記憶のかなた、村の背後に高い険岨な岩山がつづき、前方にアワビ貝の内部のような虹色の海が光っていた気がする。山はおそらく六甲山で、海はすなわち大阪湾だったのであろう。そしてその時初めて、この明るい堅い風景を形成している真白な岩石が御影の村の御影石だということを、私は父を通じて案内役の番頭から教えられたのだった。
 中学二年、どの学科よりも好きな理科の時間と、誰よりも愛し敬っていた波江先生。たとえば波江蝶や波江啄木鳥げらなど、奄美大島や琉球列島産生物の多数の新発見者であるその波江元吉先生が、痩せた白い手の平に扱い馴れたように載せ、その特徴や成囚を講義された切り餅形の岩石標本。その中に学問上の花崗岩、すなわち忘れて久しい御影石もあった。それは薄茶色の堅い安山岩や、桃色の地に白い縞のはいった石灰岩や、黒くてごつごつした玄武岩や、水色をした柔らかい凝灰岩などと同じように、薄い四角な紙函に入れられ、古いもめん綿にくるまっていた。
 私は波江先生によって、今までの植物や動物に加えてここに新しく岩石や鉱物の世界への興味を目ざまされた。石という物はどこにでもあって、誰の手にも持てるのがいい。それが小さいと、子供の手の中にも納まりながら、なおしっかりした形の感覚を与え、質の堅さと重さとを感じさせ、その縞目や粒つぶの模様はいつまでたっても消えることがなく、常に静かに冷めたくて美しい。その上彼らにも種類が多く、しかもその種類によって一々違った名がつけられているとしたら、初学者である子供の知識欲はいよいよ強く鼓舞されるだろう。名を知ることは親しみを一層増すことであり、それはやがて知識と愛への相隣った道を開くだろう。ともかくも中学二年の私がそれだった。爾来私は道路の砂利の中から美しいのや気に入った小石を拾い、遠足や避暑の折には必ず珍しいと思われる岩石の小さいのを採集した。
 或る時私は先生から一箇の花崗岩の標本をいただいた。念を入れて五センチと四センチぐらいの長方形に断ち割ったもので、表面が滑らかに磨いてあり、先生が私のためにわざわざ造って下すったということだった。そしてそのでこぼこした裏側には小さい貼り紙がしてあって、「甲斐昇仙峡」と先生の自筆で書かれていたが、その昇仙峡なる処がどこのどんな処か、まだ見聞も貧しい十四歳の私には想像もつかないことだった。

     *

 大正十二年(一九二三年)に私は「花崗岩」という詩を書いた。その翌年に出版された第三詩集『高層雲の下』の終わりに近い一篇だが、海を見おろす山の石切り場から花崗岩を切り出す一人の若者の姿と、彼をめぐる日本の秋の風光との詩的設定が、これを書いた当時の私というほとんど無名で孤独な詩人の、その仕事への情熱パッションとみずからたのむ精神と、反俗の心境エタ・ダームとをいくらかの成功をもって象徴していたように思われる。

  山の半腹には
  金色こんじきの日光がさざめき光り、
  山のまうえ、はるばるたる大空には
  雲の高いつばさが飛び、
  断崖のました、荒磯の岸をめぐって、
  海は青と白との波模様を敷きひろげる。

  ああ、鉱石のように
  冷めたい、清らかな、日本の秋の風!
  その秋風を額ひたいにうけて、
  ここ、曼珠沙華まんじゅしゃげの血の色のしべが
  十月の心を刺し縫うところ、
  若者は山のはだえに鉄槌を打ちあてて
  花崗岩の巨大なかたまりを切りいだし、
  また、乗りまたがってこれを割る。

  大空にこだまする鋼鉄の槌の響きよ!
  花のあいだに飛び散る屑よ!
  発矢はっしとばかり四周の秋に打ちあてて
  鏗然こうぜんと響きおこす何たる法悦、何たる陶酔!
  樫の柄をにぎるたなごころに
  巑●さんがんたる大地の脊骨を感じ、 (●:山偏に亢)
  またその飛び散る鋭いきれはしを
  明るい無垢の瞳に映して、
  新らしい勇武に、清爽な美に、
  その汚れぬ魂をよりかからせるのだ。

  ああ、日本の秋の
  天空と雲と、花と風と、
  際涯なき海のはるばるたる波模様!
  ここ、断崖の高い石切り場に
  十月は、今、金色の日光を降りそそいで。
  青春の鉄槌がえがきいだす
  白と、薔薇いろと、藤紫との
  花崗岩の輝々たる紋理に接吻する!

 堅い物を堅い中から切りいだすという想念はリルケにもあったと思うが、秋の太陽と野の花と、息石を切りうがつ鉄槌とのイデーは早くから私にもあった。そしてその雄々しくいさぎよいイメージがその頃の自憑の精神や誇らしい気持と合体して、この一篇は一夜にして成ったのだった。しかしそこに遠い幼時の御影の記憶や思慕の先生の思い出が、意識下の闇から煙のように立ちのぼって来なかったとは私にも簡単には断言できない。

     *

 昭和八年、それとも九年の事だったか、河田禎さんに誘われての四月の山旅、甲州瑞牆山みずがきやまと金峰山。私にとっては予期さえしなかった花崗岩山地とのもっとも親しい対面だった。
 来る日も来る日も快晴つづきの六月なかば、奥秩父の山々は樹々の若葉とツツジ、シャクナゲの最盛季だった。私たちは中央線韮崎駅からバスで八巻の終点まで行き、そこから塩川、通仙峡と歩いて増富温泉の宿へ着いた。しかしその途中、東小尾ひがしおびの山間部落からちらりと見えた金峰山とその頂上の五丈石との雄渾な姿は、私という山の初心者の魂を引っとらえるのに充分だった。ああ、あこがれの金峰山はこちらへ金字の山容をむけ、午後三時の日光を燦々と浴びて、まるで金と緑の宝塔だった!
 あくる日は案内の人夫を雇って本谷川の若葉の谷を金山まで行き、そこの一軒家有井益次郎の庭先から改めて結束して、当時まだあまり訪れられていなかった瑞牆山へ登った。松平峠から金峰の里宮、やがて富士見平をこえて天鳥沢、そして右岸の小径から、狭いクーロアール状の岩稜の間をまっすぐに一気に登りつめた。その瑞牆山は花崗岩の砦とりで、こんじきの岩峰をちりばめた一箇巨大な宝冠だった。私たちは山頂の炎天下、雷気をはらんで暗く霞んだ大気の奥に夢のような八ヶ岳の連峰を眺め、また明日はその頂きに立つべき金峰の威容を目の前にして息を呑んだ。そして降路には山の西側の昼なお暗い原始林をとり、不動の谷から松平牧揚を横ぎって、途中満開のシャクナゲの薮と闘いながら、急に襲って来たどしゃ降りの雷雨の中を、その夜の宿である有井の家へ帰りついた。
 快晴の翌朝、私たちは湧くような小鳥の囀りの中を、金山から富士見平へと昨日の道をとった。その富士見平では富士や甲斐駒・鳳凰などを眺めながら、竹樋から滴る清水を飲んだ。それからいよいよ金峰プロパーの登路だった。まず陰沈と暗い針葉樹の原始林をからんで登る横八丁。やがて道の下へ現れた建設後間もない大日小屋。ここで湯を沸かし、弁当のくさやの干物を焼いていると、大日沢を横ぎって頭の上でホトトギスが鳴いた。更に密林を登る縦八丁。そして二十五分で大日岩。巨大な象の頭のような花崗岩の大露頭で、試みに腹這いになってすり上がると、太陽に焼かれた岩は伏せた釜のように熱かった。ここまで来ると昨日の瑞牆はほぼ等高。金峰の岩稜は山体の白と這松の緑に飾られて虚空に弓なりの曲線をえがきながら、その末に五丈石の尖塔を押し立てていた。
 登竜門をすぎて砂払イの森林限界。曲がりくねった岳樺と葺ふきおろしたような這松。もうここからは伸のし懸かる白い岩石の間を縫って、苦しみよりも楽しみ多い登りだった。やがて躍る白馬のたてがみのような稚児ちごノ吹上ゲ。そして漸くにして辿りついた金峰山頂。私の紀行文にはその時の感慨が次のように書いてある――
 「午後一時十分前、ついに五丈石の脚下へ立った。八雲立つ天の下、頽岩と白砂とのひろがりにまぎれて、八千五百尺の高みを行く者、ただわれわれ二人の小さな姿だけだった。風が吹いていた。風は這松の枝を鳴らし、磊々らいらいとした巨岩の稜かど々を鳴らし、人間の耳朶を鳴らして渺々たる大気の灘なだのひびきを伝えた。上着を脱いで胸をはだけると、汗まみれのシャツがはたはたと鳴った。髪の毛が逆立った。それは風のためばかりではなかった。高峻にしいられた真摯な気持は、なぜか憤怒の感情に似ていた」
 その午後、私たちは小室沢へ降って水晶峠を通り、白平の三角点と覚ぼしい高みから楢峠へ出てその夜の泊まりの上黒平へ下りついたが、金峰山頂直下の片手廻シの嶮岩といい、その下の鎖を使う鶏冠岩とさかいわといい、至るところ花崗岩との闘い、花崗岩との親しい応接だった。そしてその翌日荒川の渓谷を昇仙峡までくだりながら、屏風岩、覚円峰、重箱岩、滑り岩など典型的な花崗岩に接したのだが、やがて書くことになるこの山旅の紀行文に、「花崗岩の国のイマージュ」という題を与えようと思いついたのは、実にそこから乗る甲府行のバスの踏段に片足かけた瞬間だった。

     *

 今私の机の片隅に、辞書ほどの大きさの花崗岩が置いてある。私はこの石を割って形をととのえて、両面を研といで磨いてぴかぴかにして、一個の文鎮を作ろうと思っている。夏の毎日の間暇を利してするこのささやかな工作が、想像するだに今からどんなに楽しいか!
 この石を私はおととしの木曽の旅から持ち帰った。その徒歩旅行の四日目の朝は寝覚ねざめだった。私は起きぬけに例の寝覚ノ床を撮影に行って帰って来ると、その夜の泊まりの須原へ向かってルックサックを背負って歩き出した。その時宿の主人が私を引きとめて、「もしもまだ御覧になったことがなければ、この先の木曽川の支流の滑川なめかわをぜひ見ていらっしやるように」と言った。それで私は宿を出ると、中山道なかせんどうを少し行った処から左へ折れ、低い丘陵地をこえてその滑川の岸へ出た。なるほど横道をして見に来るだけのねうちのある見事な眺めだった。木曽駒ヶ岳の本岳と剣ヶ峰との間からまっすぐに落ちて来た水は、そのあたりで広々と谷の幅をひろげているが、その広い河原が見るかぎりうねうねと奥のほうまで真白なのだ。おまけにちょうど秋のもみじの盛りの時で、大小の花崗岩塊で埋まったその純白な河原が、両岸の赤や黄のもみじと照りはえて得も言えない眺めだった。もしもなお一日の余裕があったら、私はそこで半日なり一日なりを眺め暮らしさまよい暮らすために、喜んで寝覚の泊まりを重ねたろう。
 その時に河原へおりて、新鮮で手頃なのを拾ってきたのがこの美しい石である。私はこれで花崗岩の標本兼記念のための文鎮を作ろうというのだ。打ち割るハンマーはすでに有るし、研磨の道具、すなわち数枚の鉄板や精粗幾種類かのカーボランダムも用意してある。涼風すずかぜかよう夏の日の日蔭の縁側で、茂りに茂った庭を前に、私は玉磨たますりの翁を演ずるのだろうか。いや違う! 堅い材からイデーの原型を割り出して、それを研いで磨いて一個の具象を生み出すこと、これこそ詩人私にふさわしいもう一つの作業なのである。
                                (一九六二年)

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 自然を愛するということ 


 ついこのあいだ上高地に一泊したら、その翌日の午後帰る私たちと擦れちがいにハイヤーをつらねた観光のお客が五、六十人、おなじ旅館へ賑やかに乗りこんで来た。登山靴をはき、ルックサックを背負って出発の身ごしらえをしながら、帳場の若い女の人にきいてみると、何とか商事が招待したお得意さんの一行だということだった。みんな小さくても一国一城のあるじか、その番頭か、或いはその腹心のちゃきちゃきらしく、ほとんど仕立ておろしかと思われるりゅうとした背広を着、ボストンバッグを持ち、革の甲羅で保護された重いカメラを胸に吊っていた。そしてその背広といい、鞄といい、カメラといい、ほとんどすべてが同じ様式同じ新しさの物なので、もしも一ヶ所へごちゃごちゃに置いたら、一体、どれが誰のだか分からなくなりはしないかと心配されるほど、個性を没却した「流行」の一様性にしたがっていた。そして部屋の割当てを叫んでいる若い接待係の声に耳もかさず、もう河童橋の欄干や袂のところへ勝手に散って、正面の穂高やうしろの焼岳に、到着最初のシャッターを切っている連中も少なくなかった。
 乗鞍山麓の鈴蘭小屋へ行って一泊する私たちは、前川渡まえかわどから北西の枝谷にそってさかのぼったが、その登りの途中の屈折の多い狭い道で、二台三台と続いて降りてくる大型バスに幾たびか行き当たった。何といってもこちらの車のほうが小さいので分ぶが悪く、道幅のいくらか広いところまで後退しては彼らを通してやる始末だった。ところで、番所ばんどこまでの間に十台ちかくと擦れ違っただろうか、どの車も貸切りの満員で、ワラビ狩のための特別のバスだった。座席の客は一人残らず大きくふくれたルックサックをかかえていた。まさにワラビの大厄日だいやくびというところだったが、山のツツジもそのとばっちりを食って、燃えるような花におおわれた枝がうずたかく車の後部にくくりつけられていた。そしてこの様子では鈴蘭だって無事には済まなかったろうと思われた。
 小屋へつくと、夕方まで牧場のほうへ散歩に出かけた。六月の乗鞍岳は残雪の剣や、矢尻や、稲妻を青い山肌へきらきらと彫りこんで、つい目の前に悠然とよこたわっていた。涼しい空気は海のようだった。見えるかぎりの周囲を庭園のようにしている植物相は、落葉松からまつも白樺も草紙樺そうしかんばも芝草も、その柔らかい緑のいろいろに、すべて煙るような爽やかなパステルの効果を見せていた。小鳥もたくさん鳴いていた。中でも梢の尖端に姿を見せて鳴くアオジと、葉隠れに銀の小鈴をうち振るようなメボソとが優勢だった。時どきホトトギスも鳴き、慈悲心鳥と言われるジュウイチもパセティックな声で鳴いた。そして木々の奥や水のような空気の中に鳴り消えるその歌や叫びが、この高原の静寂をいっそう広く、いっそう深いものにしていた。
 しかしワラビ。それは私たちの目のさまよった限りすべて採りつくされていた。小道の両側はもとより、斜面といわず樹下といわず、すべて欲深い濫獲と競争の跡だった。楚々とした白いツマトリソウも、可憐なベニバナイチヤクソウも、踏み折られ踏みつぶされていた。ツツジもその例外ではなかった。赤や紫のその大輪の花の下を、われわれが身をかがめて通らなければならないはずの大枝が、無残に折られて鮮明な痛ましい裂け口を現していた。そういうところには必ず砕けたりちぎれたりした花が散っていて、狼藉とはまさにこの事だった。予想したとおり鈴蘭もまた同じ運命で、一面に踏みあらされた彼らの群生地には、まだなまなましい緑の血のにおいが漂っていた。夕日のなかで小鳥が囀り、青い空気に乗鞍の雪が淡くれないに光っても、同じ人間仲間の恣意や乱行をかなしむ心は容易なことでは晴れなかった。

 自然を愛するということは、自然物をできる限りそのままであらしめて、天然のままのその美を味わい慈むことでなくてはならない。山の植物を根こそぎにして来て、それを我が家の庭や鉢に植えて愛玩するのは、万人の物をわたくしすることである。小鳥をとらえて籠に飼うことは、野鳥の保護でも自然愛でもなく、実は所有欲であり私欲である。そしてその培養や飼育の成功を他人に示して得意とする心事は、恥ずべく低い優越感か、いやしい虚栄心の発露だと言わなくてはならない。
 自然物が本来それ自体として生活や存在の権利を持っているという事は別としても、われわれ人間を本位としても、彼らに公共物の性質のあることは言うまでもないことであろう。なぜならば、彼らが自然物である以上、それを造ったのは造物主であり、その「造物主」の創造の本意を理解したり、その比類ない偉業を讃嘆したりするのは、同じ被造物であるわれわれ人間の言わば喜ばしい義務でなければならない。そして自然物が本来金銭で買えない物であり、持続する神の仕事のそれぞれの現れだとしたならば、人間が公共の心でこれを愛し慈むべきであるのは自明の理である。
 このほんとうの意味での自然愛は、当然、今日のいわゆる観光や観光事業の隆盛と摩擦し、多くの場合これらのものに抵抗する。自然をして能うかぎり原形を保たせようという念願は、けだかく美しい谷間をひろげて旅館を増築したり、巨大なバスを乗り入れたりする事と抵触する。数百人を誇大な宣伝で呼び集めて、一山の自然景観を荒廃に帰せしめることに私はつよく反対する。
 今日のこの時代に、「文明とは静寂のあることである」というのが真理だとしたら、日本の現状の如きは全く非文明の代表的標本だと言っても過言ではないように思われる。
                               (一九六二年)

 

 

 

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 冬の或る日 

 冬の或る日


 黄いろく枯れた初冬の庭に夜の雨が降り、それが朝がた上がって穏やかな薄日のさして来た今日の昼すぎ、私は書斎の電蓄で久しぶりにベートーヴェンの『ヴァイオリン協奏曲』を聴いた。そしてその独奏者が一方はアルテュール・グリュミオー、他方がダヴィッド・オイストラッフというふた色のレコードのうち、何ということなしに前の方にして、ヴァン・ベイヌム指揮、アムステルダムーコンツェルトヘボー室内管弦楽団演奏のそれを取り上げた。
 古来数あるヴァイオリン協奏曲の中でも王者としてあがめられ、ロマン・ロランもまた神々しい作品と呼んだこの曲を、最近一年、私は一度も聴くことなしに過ごしてきた。その理由の一つとして、このところずっとヨーハン・セバスチアン・バッハや、彼に先だつ大家たちの主として宗教的な合唱曲やオルガン曲に親しんで来たせいもあるが、また一つにはこのように壮美で神々しい大曲に聴き入るためには、そこにひろびろとした静かな時間と心境とが無くてはならないという事もあった。なぜならば今の私には、はたから見たり察したりする以上に、こうした時間と心境とが欠けているからである。仕事に追われ雑事に追われて、私は始終あくせくしている。いよいよ充実して美しく歳をとろうと願うならばこれではいけないと思うのだが、さればとてこの現状を打破して一挙に生活を革新す
るだけの方法も、見通しも、決断もない。そして求められるままに小さな文章を書き、詩を作り、講演や放送に出かけ、また時には翻訳などもして、自分と家族との慎ましやかな生活に貢いでいる。けっして「風雅な暮らし」どころではない。それに私はそんなものを望んでもいない。
 こういう私だ。そしてこういう私にきわめて稀に今日のようなゆとりある日が授かって、一年ぶりにこの懐かしくも輝かしいベートーヴェンを聴いている。ああ、その驚くべき独創性。いたるところから湧く新鮮な泉か、空や日光の啓示のように多様な美。私は椅子に深ぶかと身を沈めて、この世の時間の四十分あまりを、しかし魂にとっては一つの永遠を、傾聴と瞑想の深みで生きたのだった。
 ところでその瞑想の生むさまざまな映像や場面の中を、この音楽にゆかりのある幾つかの思い出がよぎったが、わけても十数年前の信州での或る日のそれが鮮明だった。私は今それをここに書いて置こうと思う。けだしこれもまた私の貴重な体験、「わが心の物語」の一ページをなすものだからである。
 当時私は妻と二人長野県富士見に住んで、他郷での終戦後の苦しい生活を営んでいた。八ヶ岳や釜無の山なみを眼前に見るあの広大な寂しい高原で、名ばかりの農耕からは言うに足りる収穫もなく、糊口の資といえばもっぱら雑文の稿料か講演の謝礼だった。たまたま親切な友人の肝煎りで本が出て印税が手に入れば、ありがたや、それが不作の幾月かの支えになるという有様だった。その講演には実によく出かけたし、また今思えばよく体が続いたものだった。胃潰傷だったという事は東京へ帰ってからわかったのだが、その頃は胃酸過多か慢性胃炎ぐらいに思って、痛む腹をおさえながら山間の村や部落の、公会堂や学校へ話に行った。しかも講演会は多く農閑期に催されるので、季節も冬が多かった。雪が降ろうが霙みぞれが降ろうが、約束した以上は行かなければならなかった。行って二時間から二時間半の講演。信州の人たちは話を聞くのが好きだから長ければ長いほど喜ばれた。謝礼にはなにがしかの金と米。それを持っての帰路が大かたは夜も更けた凍結や積雪の道だった。その私を迎えてねぎらう妻の眼にはいつも涙があった。こういう具合で富士見の地籍の境から茅野ちの市の奥の山浦まで、つまり諏訪郡一円の農村が遍歴の舞台だった。そしてその長い話の材料を考えたり纏めたりするために、前もっての周到な準備が必要だったことは言うまでもない。しかし同じ南信地方でも、比較的文化の進んだ大小の都会では、仕事はもっと楽だったし張り合いもあった。大町、松本、塩尻、木曽福島、伊那、岡谷、諏訪などへも度々出かけたが、そういう処では一層厚く待遇され、聴衆も一層洗練されていた。そして私の進んで取り上げた講演の主題も文学や音楽に関したものが多かった。そうだ! その伊那市の学校でのベートーヴェン講演と『ヴァイオリン協奏曲』。前置きが長くなったが今こそそれを書かなくてはならない。
 信州の冬がとりわけ寒い年の一月だった。或る日高原の森の家へ伊那市の学校から一人の若い先生がたずねて来て、その町の男子と女子の二つの学校の生徒たちのために講演をしてくれという頼みだった。ベートーヴェンについての話を二時間、それから同じ作曲家の『ヴァイオリン協奏曲』のレコード演奏会、夜は旅館に一泊して翌日帰っていただくという要領だった。すこし考えて私は快く引きうけた。と言うのは、その前の年の春に松本市の医師会のためにしたベートーヴェン講演の原稿を私は持っていた。そしてこれもちょうど二時間を支えるに足りるだけの分量と内容とを備えていた。その時は今よりももっと若かった豊田耕児がヴァイオリンでヘンデルのソナタを弾き、知人の令嬢岩附敬子がピアノでバッハのコラールを弾いて私の講演の終わりを飾った。そういう因縁のある原稿だっ
た。私はそれを一層砕いて柔らげて、若い頭脳がうけいれられるような物にし、多感な心臓が発奮するような物にすればよかった。そしてそれが自分に出来るという信念に達した時、遠くたずねて来た教師を喜ばせて快諾を与えたのである。
 講演会の日は朝から雪がちらついていた。零下六度という冷たい空気の広がりの中に八ヶ岳は輪郭も固く凍りつき、黒々と枯れた富士見の山野はわびしく乾き切っていた。昼近くの汽車に乗って辰野から飯田線へ乗りかえた頃には本当の雪になり、伊那で下りた時は傘の下の外套が真白になるような吹雪と変わっていた。清楚で品位をそなえた女子高等学校は町のうしろの小高い丘の上にあった。会場は正面に舞台のついた大きな室内運動場。聴き手の生徒は男女合わせて三百人ぐらいいたろうか。知識を求め、啓蒙を待ち、おとなの本心の声を聞こうと気を張りつめた信州人特有の眼が場内のいたるところで輝いていた。その雰囲気に勢いを得て、私の講演も次第に熱を帯びてきた。ロマン・ロランやエルンスト・ベルトラムの烈々とした気魄が私に乗りうつり、時おり挾む彼らの言葉の引用が私の話に炎を添え、花を添えた。所定の二時間はたちまち過ぎてなお三十分を超えた。そして短い休憩の後すぐに、鉄は熱しているうちに鍛えるの諺どおり、舞台の左右に据えた二つの拡声器から、クライスラーの弾くベートーヴェンの『ヴァイオリン協奏曲』ニ長調作品第六十一が、四分の四拍子の弱音ティンパニーを先立てて流れ出した。
 さすがに雄大で壮麗な曲もついに終わり、その日の講演会もつつがなく閉じられた時の生徒たちの感動は、「はたで見るさえ涙ぐましいものでした」と、その夜の旅館で接待の教師が言ったとおり、本当に強く深く私の胸を打ったのだった。或る女生徒は会場を出る私を追って来て抱きついて泣いた。また別の群れは「先生、今日のお話は一生忘れません」と言って揃って深く礼をした。男の生徒たちもそれに劣らない感激と興奮だった。私は心をこめた仕事の成果に満足するというよりも、かくもけなげで純真な若い魂たちのために寧ろ泣きたい気持だった。そしてここでもまた万人のベートーヴェンの不滅を思わずにはいられなかった。
                             (一九六五年十一月)

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 森の歌 


 山の中や野道を歩いていて、ふとその場にふさわしいような音楽を思い出し、それによって感動を一層強めるということを、私はこのごろほとんど経験しなくなった。しかしその逆、つまり或る音楽を聴いているうちに、今までに見たどこかの風景とか、そこで味わった詩的な情緒や感慨のようなものを、知らず知らずのうちによみがえらせて、聴いている音楽とそれとを結びつけ溶け合わせて、そこに一つの好ましいイメージを展開させるという経験は、年をとったこのごろ特に多くなったような気がする。
 それは一つには私があまり山野を訪れなくなり、おおむね書斎の中や家庭の生活に没頭しているせいでもあるが、一方たまたま山へ出かけたり野や田舎を散策している時でも、以前よりももっと熟視的・静観的になった気持や歩きぶりのために、むやみに広がったり手を伸ばしたりする精神の飛躍がおさえられて、自然や風景そのものに平静な心を与え身を任せることで満ち足りるようになったためかと思われる。だからよしんば春の谷間で、岩をめぐってぐるぐる流れる水の流れを見ている時でも、昔のように、若い頃の意気揚がったベートーヴェンの弦楽四重奏曲から(たとえば作品一八の第四番の)、あのスケルツォやメヌエットを思い出して、山桜の花びらを浮かべて流れる細谷川への感動を一層強めたり鼓舞したりするようなことはしない。また正面に残雪をいただいたアルプスがそばだち、その下に棚びく柔らかい霞を抜いて、小さい町の教会の塔の見える晩春の安曇平あずみだいらのような風景に接しても、かつてのようにビゼーの『アルルの女の組曲』の間奏曲などを思うことで、自分の芸術的興奮を一層湧き立たすということもない。或いはよしんばそういう音楽がふと思い出されることがあっても、それによって常に新たな現実を曲げたり脚色したりする安易を再び繰り返すまいという意識が、この幾年とみに働いているせいではあるまいかと思う。そしてこのことは、私にあって、ひとり音楽についてだけでなく、今までに接した無数の文章や絵画からの記憶についても同じである。すなわち山や雲や牧揚などの揚合について言えば、私はヘッセをちらりと思い浮かべるだけで満足し、ふとセガンティーニを懐かしむだけでおのれ自身に帰ってゆく。
 しかし都会の生活の中で音楽を聴く時はちがう。花やかな演奏会場でのなまの音楽にせよ、孤独の夜の書斎でのレコードによったものにせよ、或る音楽の或る楽章或いはその全体の流れから、今までの数知れぬ人生体験のことは別としても、かつての山歩きや野のさすらいや、森の中での生活の朝夕を思い出して、それらの記憶を詩的な枠の中に再生し、そこで見たもの感じたことに一層深い意味を与えることは、老境の今に至ってしばしばである。そしてその限りでは演奏会での比較的狹いレパーテキスト ボックス:
トリーよりも、自分で選んで集めたものを心の欲する時に自由に聴くことのできるわが家でのレコードの演奏のほうが、疎遠になった土地や自然への内心の復帰や郷愁と共に、しみじみと落ちついて味わえるように思われる。
 ほかのさまざまな連想を割愛して森についてだけ言えば、私はその名のとおり、ワーグナーの『ジークフリート』の第二幕第二場の音楽『森のささやき』を好んで聴く。伝説のライン地方の森林の朝、暗い木立の間から縞を織って射しこむ金色の日光、微風の息にさざめく青葉、そこに響く深い柔らかい鳥の声。若い英雄ジークフリートが草の中に身を倒してそのさざめき、その歌に聴き入っている。千百の葉ずれの音のような弦楽器、それを貫いて鳥の言葉を広々と歌う木管楽器。私にもこの音楽に打ちこんだ青年時代が思い出され、衰えた肉体にも残んの血潮のたぎるのが感じられる。そしてあえて言えば、自分を若い昔に連れもどすワーグナーの数多い音楽の中でも、この『ジークフリート』を含めた四部悲劇テトラロギー『ニーベルングの指環』全体を支配している壮大な英雄的叙事詩が好きだ。
 しかしそうした私に純粋に森林を想わせる音楽と言えば、さしあたりドヴォルザークの作品を挙げなければならない。私は彼のチェロ協奏曲や『ドゥムキー』の名で知られているピアノ三重奏曲を聴くたびに、何よりもまず欝々と被いかぶさる森林的なもの、湿りを帯びてしかも爽やかな情感に打たれる。それは目の及ぶ限りこんもりと暗く、深く、常に雄々しくて時に悲しく、風の響き、山川の流れ、伐木の斧の音、ボヘミアのたそがれと、村々と、夕べのともしびと、教会の鐘の音を想わせる。それは私がボヘミアを愛し、自分の血の中、気質の奥の奥に、それに通じるものを持っているせいかも知れないが、ドヴォルザークの音楽に特有なあの音色ねいろ、あの澄んだ哀愁と時に激するあの悲調、更にまたあの男らしい甘美さとは、現実に私のあこがれるというもの、私の内心にあって遠く歌っている森的なものを、呼び起こしたりそれに答えたりするのである。そう言えば交響曲『新世界より』や弦楽四重奏曲『アメリカ』の中にも、同じ森の心は息づいている。
 シューマンのピアノ小曲集『森の情景』を私はあまり好まないが、そんな標題がなくても、ヘンデルやベートーヴェンを聴いていると、かえって森林を想ったりその本質に触れたりすることが多い。それはこの二人の巨匠の人間性や生活や音楽的発想の根に、或る共通した自然への愛と言ったようなものが有るためかと思われる。ヘンデルの十二の合奏協奏曲の中には随所に自然が聴き取られるし、その各楽器の雄渾な音の林立には確かに森を連想させるものがある。ベートーヴェンの『田園交響曲』はやはり名のとおり晴れやかで広々と田園的だが、それに続く『第七』に至ってはまさに地平を圧して燦然と立ちならぶ雲の峰か、むらむらと湧き立つ夏の大森林のおもむきがある。そしてこの音楽に君臨している創造の力や意志が圧倒的に旺盛で強大なために、ここではもう気分や情趣などは問題にならず、残念ながら私の愛のボヘミアの森も時に国民楽派の一地方に押しやられて、わずかにジークフリートがこれに伍するくらいのものである。
 しかし自然の中の実際の森と、そこに朝昼夕を響く鳥の歌とはどうだろう。私の貧しい登山経歴の中でさえ、山がだんだんに高くなり、林相も今までのブナやミズナラ、カツラ、カエデの類などから、シラビソ、オオシラビソ、トウヒ、コメツガと言ったような針葉樹に変わってくると、コマドリ、メボソ、ルリビタキ、ウソ、キクイタダキのような鳥たちの声が、しっとりとほのぐらい静寂の奥から聴こえはじめるのだった。そしてそれらの歌は賑やかに楽しげだと言うよりも、それぞれが独立してよく徹とおり、一句一句が清らかに反響し、結晶して、世界の静かさを一層深めること、洞窟の中の水のしたたりか銀の笛の音のようである。そんな時、木の間を洩れる日光がなんと貴く珍しく、高い空の青い破片がなんと頼もしく美しいものに見えたろう。今日の好晴は約束されている。目ざす山頂も程近い。それならばこの森林と鳥の歌とがどうかもう少し続いてくれるようにと願うのだった。
 七年間を住んだ信州富士見の山荘は森の中にあった。八ヶ岳の裾野の末端によこたわるその森は広く深くて、西のほうの入笠山の頂上からさえはっきりそれと指摘された。林相はアカマツ、シラカンバ、ミズナラ、ヤマハンノキ、ミズキ、オニグルミなどを主として、それにイチイ、イリウツギ、ヤマザクラ、ヤマウルシ、リョウブ、その他各種のカエデなどがまじっていた。森の中には小さい起伏があり、くぼんだ箇所には八ヶ岳からの伏流の水が幾筋か糸のように流れていた。家を中心に細い道が何本か通っていたが、用の無い奥のほうは茂りに茂った木々のために昼間でもなお暗かった。その家はかなり大きなものなのに、初めて私をたずねて来た人などが突然その前へ出るまでは、しばらく探して迷う程の深さだった。針葉樹と広葉樹の混合林ではあったが、私はそこで森林というものを満喫した。そしてその中で、或いはそれを主題として、たくさんの仕事もできた。
 小鳥の声はほとんど一年じゅう絶えなかった。ヒガラ、シジュウカラ、コゲラ、アカゲラなどは四季を通じていつでも聴かれた。それは私たちの生活への伴奏でもあれば彩りでもあった。たまたま数日間を東京ですごして帰ってくる時など、一歩森へ踏みこむや否や、たちまち期待に答える彼らの声が木々の奥から響いて来た。もうこれで当分の用は足りた、ふたたび安住の森での毎日がはじまる。そう思って深く呼吸し、歩調をゆるめ、しんしんと立つ赤松や白樺の間の小径を山荘の玄関へとたどるのだ。すると「チチピン・チチピン・チチピン」、「ツーピー・ツーピー」、「ギー・ギー」、「ケッケッケッ・カララララー」。それが彼らの「お帰り」の挨拶だった。
 こうした彼らに夏鳥の加わる五月六月こそ、この森がいちばん歌に満ち、生気に溢れる時だった。キビタキが来る。センダイムシクイが来る。クロツグミが来る。アカクフが来る。アカモズが来、コムクドリが来、サメビタキが来、サンショウクイも来ればビンズイも来、更に夜は居つきのフクロウのほかにアオバズクやコノハズクも鳴く。彼らはすべて夏じゅうをここに住みついて、或る者は樹のほら穴に、或る者は枝や梢に、また或る者は屋根の瓦の間や森の地上に巣を営み雛を育てるのだが、無害な私たちに安心して晴れやかに自由に、それぞれの習性に応じた生活を展開している。そしてその間、昼間は絶えず何の鳥かの歌であり叫びである。それを一々ここで描写することはできないが、八ヶ岳から壮麗な朝日が昇って、新緑の高原に正午へと進むその光がみなぎり渡る一、二時間こそ、その合唱は最高潮に達する。しかしまた諏訪湖畔杖突峠あたりに花やかな夕日の沈む頃の、彼らの歌の澄んだ音色ねいろ、その柔らかさ、しめやかさを何と言おう。そしてこうした朝昼夕に、森のへりや道のほとりや野の空で、モズ、ホオジロ、ホオアカ、ノジコ、アオジ、ウグイス、ヒバリなどの歌っていることは言うまでもない。更に未明の頃や星の光りはじめるたそがれに、森のそとの草原の道で、「キョッ・キョッ・キョッ」と無限無終のように鳴いている、あの寂しいヨタカのことも忘れてはなるまい。
 森を想わせる音楽と森に響く小鳥の歌。これを書いているこの瞬間、私はまだすっかりは消えない自分の若さの火を思って勇気が湧く。山はいい。春が来たらば、雪が消えたらば、信州の山へでも秩父へでも、これを機会に森とその歌とを求めて三日か四日の旅に出よう。
                            (一九六六年二月)

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 思い出の山の花たち

 
  セツブンソウ

 むかし、植物の撮影に夢中になっていた頃、当時特に親しくしていた武田久吉博士から、セツブンソウという花のどんなに可憐だかということ、それがまた山地の草の花として春もまだ早いうちから咲き出すということを聞かされて、初心の胸をわくわくさせた覚えがある。そして博士は東京からのもっとも手近な場所として、前秩父武甲山の南東の妻坂峠を教えてくれた。
 武田さんという人は、今でもそうだろうと思うが、話がひとたび植物のことになると、そして相手がまじめな熱心な聴き手であると、じつに身も心もうちこんで惜しむところがなかった。植物を好きな私がその撮影をはじめたのも、いや、そのためにカメラという物を買ったのさえ、本当にこの先生の勧めや指導によってのことである。
 しかしその後三十年。その間には世相も変わり、私自身の生活や環境にいくたびかの変遷があって、妻坂峠とも、セツブンソウとも、植物や雲の撮影とも、また武田博士その人とも、あわれ疎遠の歳月としつきがうちすぎた。
 今から三年ほど前、私は東京の或る放送局からの依頼で信州下諏訪の奥の和田峠へ行った。四月も今日で終わるという日だったが、その一五三〇メートルという高みの春をよく見て来るのが仕事だった。それで私はよく見た。よく調べた。よく感じもした。そしてそのお蔭か、三十幾年間ついに見まみえたことのないセツブンソウに、妻坂峠ならぬ鷲ヶ峰中腹の小径で初めて出会った。なよなよと柔らかで、草の丈一〇センチ程のキンポウゲ科の一品。深く裂けた四、五枚の葉の上に一輪の白い五弁の花をいただいているが、その花の白と雄しべの葯やくの紫との配色が美しい。悪いと思いながら一本抜いてみると、白い糸のような地中の茎の末端に、小さい可愛いジャガイモのような塊茎がついていた。そしてこのセツブンソウが、しっとりと湿った岩の割れ目を何十株という数でつづって、カラマツさえもまだ芽をほどくに至らない奥山の、寂しい早春を歌っていたのである。
 私はもちろん即座に武田博士を思い、たがいの遠い昔を思った。そして「とうとう出会いました。ありがとう」と心に言いながら、その同じ心に、一抹の悲しみのあるのに気がついた。

  イワウチワ

 詩文集にあるのとは違う『美しき視野』、つまり今行われているその本の母体であって、故恩地孝四郎さんの装幀になる紙表紙の『美しき視野』が、東京の友文社という新興の出版社から出たのが終戦後間もない昭和二十三年で、その序文を前の年の秋に書いているから、私か初めてイワウチワの花の大群落を見て心を打たれたのは、かれこれ十八年前の春のことだと思う。
 当時私は妻ともども信州富士見高原に流寓の身だった。他人にこそ洩らさなくても、毎日の物質生活は不如意をきわめていた。しかし新しく落ちついたその土地を我が第二の生の出発点と考えて、そこの広大な自然の美や土着の人々のまごころの美しさに養われながら、懸命になって自分の仕事に励んでいた。終戦後の一年、二年、私は『麦刈の月』と『高原暦日』とを書き上げ、『美しき視野』を書きつづけていた。そこへ或る日東京からはるばる一人の若い友人がたずねて来て、その『美しき視野』の出版を申し出た。私は救いの神の訪れのように感動した。話はたちまち纒まった。その時その若い友人が言った、「先生、これを機会に埼玉県扇町屋の私の家へいらっしゃって下さい。実は吾野あがのの奥の越上山おがみやまで、今イワウチワが盛りのはずです。それを先生にお見せしたいのです」
 私に見せてやりたいという友の好意のイワウチワは、吾野の上の風影ふかげから登った越上山の頂上近く、たしかミズナラだったと思う大木の林の木かげ、風化した岩石のあいだ一面に大きな群落をつくっていた。それは四月の中ごろだった。イワウチワ別名徳若草とくわかそうは、その別名にふさわしいように若々しく初々しく、長い柄のついた青銅いろの円い葉の叢生した間から一本の花茎を抽いて、てっぺんにぎざぎざに縁の切れた吊鐘形の、薄桃色の美花を傾けるようにして咲いていた。その群落は正に深山の春の見るも楽しい綴れ織だった。若い友人は「少し採って行きましょう。富士見へ帰ってあの森へ移植なすったらきっと繁殖するでしょうから」と言った。しかし私はほほえみながら頭を振った。
 「これは君のでもなければ僕のでもない。ここへ来てこれをいつくしむ万人のものだ」 と言うように。
 私はあのイワウチワをもう一度見に行きたい。しかしあれから早くも十八年、果たして今でもあすこに生き栄えているだろうか。

  イワカガミ

 よしんば四月の山のイワウチワを見たことのない人でも六、七月の高山喬木帯でルビー色の星のように散見されるイワカガミならば知っているだろうと思う。そして美しく凛々りりしいこの花を、その生地でつくづくと見たことのある人たち一人一人から、その折りの感銘を聞くことができたらさぞ楽しかろうと思うのである。或る花が人に与える鮮烈な印象。そういう言葉がぴったりと当てはまるものにこのイワカガミがある。
 場所を言ったらまた心無い人々の手に荒らされる恐れかおるから、それは今やめるとして、私は北アルプスでこの花のいちばん多く見られる山を知っている。渓流に近い立木のてっぺんで晴天を喜ぶオオルリが囀り、暗い針葉樹の林からコルリやヒガラの声が響き、河原ではコナシが白く、ヤナギの緑の柔らかな頃、ひとたび足をその山へ踏みこむと、もう忽ち久恋のイワカガミに出会うのである。
  イワウメ科の中でも属が同じなので、イワカガミはイワウチワによく似ている。しかし草全体に一層の強さがあり、もっと凛とした気品がある。まず第一に葉が違う。同じように長い柄があって葉身もほぼ円形だが、イワウチワのそれがむしろ蒼白味を帯びて手ざわりしなやかな草のようなのに、これは何か金属の薄片のようで、同じ鋸歯縁でも鋭くて痛い。そして緑いろの表面はてらてらと光り、古い葉には赤銅いろの光沢をもった汚染がある。しかしこの汚染がまた一つの調和の色なのだ。そして花。この花もその形イワウチワのそれに似ながら、ルビー色というか珊瑚色というか、鮮明で頼もしく、こまかく刻まれて可憐に装われながら男性的である。そしてこういうイワカガミが重厚な岩壁の割れ目、崖錐がいすい湿った苔や朽ち葉の中で、冷えびえと露に濡れ、山気に打たれ、時にはちらちらと梢を洩れる清らかな日の光を浴びながら、春から夏へと移る亜高山帯の好季節に、モーツァルトの弦楽合奏の幾小節かのように無心の輝きを歌っているのである。
 私が「玉のような時間」という詩を書いたのは、こうしたイワカガミのあいだに数人の山友達と一緒にたたずんだ折の記念である。

  ……………(前略)……………
  私たちは今日これから山をくだって、
  それぞれ遠く都会の塵や騒音へと帰ってゆく。
  それならばこうしてたたずむ数分間が、
  嘆賞を共にする事によってのみ結晶する
  一顆かの宝石でもあることを認めよう。

 

  ホテイラン

 甲府盆地へそそぐ釜無川は上流へむかって、長野県諏訪郡富士見町字机の辺ではほとんど直角に南西へ曲がる。そしてこのあたりから渓谷の奥へかけて両岸の崩れが目立つようになり、「二つナギ」、「今ナギ」などという山の高みの崩壊面が、彼らの無残な傷あとを白々と風や太陽にさらしている。ところでその「今ナギ」、われわれはこの比較的新しい薙なぎを迂回して、或る年の六月初め、二一一六メートルの釜無山へ登ったのである。われわれ、――私の若い友人S君と、富士見駅前に大きな店を持っている呉服屋のNさんと、今こそ大学を卒業して立派なサラリーマンになってはいるが、当時はまだ可愛い小学生だったその次男とが。
 薙なぎの上へ出るとしばらくの間はスズランの原だった。ちょうど一面に花の盛りで、晴天の午前の日光に蒸されたその芳香はむしろ息苦しい程だった。私たちは道を見出せないままに止むを得ず、遠慮がちな忍び足のようにその花を踏んで進んだ。
 釜無の山頂を形作る岩壁が眼の前にそそり立つようになり、往く手に剣ヶ綺への稜線が現れ、昔の沢の跡かと思う荒れた窪地を登ってゆくと、そこはまたアツモリソウのすばらしい自生地だった。花屋だの植木屋だのがこれを見たら、どんなに欲の皮を突っ張らせることかと思った。
 私たちは釜無の頂上から稜線を東へ戻って、針葉樹をかぶった剣けんヶ崎さきの突出部へ出た。眼下幾百メートルのところを渓谷の水の帯、眼前には初夏の八ヶ岳連峰とその広大な裾野とが盛り上がり、遠く奥秩父の青い山々が銀いろの霞の奥に波打っていた。そしてその狭い薄い剣ヶ崎の稜線の上、ウラジロモミやコメツガの涼しく暗い樹の下で、私たちはツバメオモトの白花にまじるホテイランの淡紅いろの美花を見つけたのである。
 これこそ全く精巧なルビー細工とも言っていいホテイランは、葉脈に沿って縮れの見えるただ一枚の橢円形濃緑色の葉の付け根から一本の花茎を立てて、五枚の翼のような細くて長い花蓋片かがいへんと、言わば布袋ほていの腹のように膨らんだ一個の袋状の唇弁とを傾けていた。その茎の丈は漸く一〇センチ。人間の指先にも耐えない繊細さ、優美さは、この花をしてまことに稀品と言わしめるに恥じなかった。
 しかも柔らかい苔の中に膝を突き、顔を押しつけて花の内部を嗅いでみれば、なんとこの宝石に甘いレモンの香があった!
 しかしあれから十五年後の今、信濃境や富士見を通る汽車の窓から遠く望めば、その稜線も剣ヶ崎もすっかり裸になっている。
                             (一九六五年一月)

 

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 山にゆかりの先輩


 窓枠に嵌まった風景の奥に山が並んでいる。いつでもとは言えないが、雨が上がった後の天気のいい日、それに少し風のある日、そういう日には多摩川の流れをへだてた川崎市郊外や東京都下南多摩あたりの、この数年来急激に元の美しさを失った北から南への長い丘陵の上に、箱根の金時山、相模の大山、ふんわりと富士を載せた丹沢山塊、道志の山波、桂川両岸のごたごたした低山群、そして真西にあたる笹子峠のたわみのかなたに遠く南アルプス農鳥岳をさしはさんで、滝子山から大谷ヶ丸、大蔵高丸、小金沢へとつづく大菩薩の連嶺が、前面に立ちはだかる三頭みとうや大岳のかたまりと危く重なったその本岳まで、時には青く、時には黒く、蜿蜒えんえんと連なって見える。朝早い時間のすがすがしい眺めもいいが、夕映えの空を背景とした時が特に美しい。
 いながらにして山がよく見え、それの見えることを喜び、彼らの峰のおおかたを一つ一つ親しい名で呼んで、曾ての日のそれぞれの思い出にふける私が、山という程の山を訪れなくなってから、しかしすでに十年近い。胃潰瘍で一命を危くした扇山登山が最後だった。それからというものはありふれた山でも決して無理な計画をせず、まだいくらかは残っている体力の半分ぐらいを費やしたところで、すなおに、ゆっくりと、気に入った場所での休息を重ね楽しみながら、そのことに満足して下山するのが常である。小さいルックサックの中には軽い食糧、テルモス、折り畳みの傘、それに何か薄い詩集と一管の笛。胸に小型の望遠鏡を吊って、手には杖。こうして私の山の遠足はいつでもグッド・ラックだ。昔はその運ラックを天に、気象の気まぐれに任せたことも多かったが、自由な時間から自分で選び出した僅か一日か一日半の小さな山旅であってみれば、天候の激変などに出遭うこともほとんど無い。まして山の経験を多少なりとも持っている者として、そして歳も老境の私として、身のほどを知り、おのれをかばい助けることに万々抜かりはないはずである。
 しかし人間として誰しものことではあろうが、また他のすべての揚合でもそうであるが、私としても、山への愛や知識を自分一人の力で得たわけでは決してない。それには幾人かのすぐれた指導者や先輩を持ち、幾人かの親切な山友達や道連れに恵まれる必要があった。私はその人たちの名を今ここで挙げて置きたいと思う。それは彼らすべてへの感謝のしるしであり、またその中ですでにこの世を去った人々への追慕の心からである。
 言うまでもないが、山を愛する者は自然を愛する。その自然への愛は、私の場合、小学から中学の頃の興味を、早くして理科という学問へと誘いこんだ。私は植物を愛し、昆虫を愛し、遠く高く、山や雲や星の世界に思いを飛ばせた。その幼い頃の善い懐かしい先生たちのことは幾たびか別のところで書いたからここでは略すが、その後長じておとなとなって、文学の道に踏みこんでからも、自然への愛、自然への向学心や研究心は少しでも薄れたり衰えたりするどころか、かえってそれを自分の文学の中の一つの主要な調べであらしめたいという欲望に燃え、そのことに心と力とを傾けた。
 まず初めに植物が来る。すると牧野富太郎博士とその『植物学講義』の第一巻『植物記載学』が記憶に浮かぶ。大正二年の発行だから私が二十一歳の時の開眼の本だった。その後も分類学上の著書や図鑑の類から教えられたことは言うまでもあるまい。また一回か二回は野外での実地観察や採集のお供もした。続いては武田久吉博士。この学者とは一層親しく交際し、幾度か山の旅も共にして、最も親しくかつ正確に平地や山地の植物の知識を与えられたばかりか、生まれて初めて手にする写真機の購入とその選定から、植物の生態撮影、現像、焼付けの方法に至るまで実に事細かな、行き届いた、かつ厳格な指導を受けた。その上忘れてならないのは、博士の「北相の一角」その他の山の紀行の文章が私を強く刺激して、田部重治氏の「日本アルプスと秩父巡礼」などと共に、山の自然に対する愛
と、それを詩や散文で書いてみたいという欲求を目ざめさせた点である。辻村伊助氏の『スイス日記』と『ハイランド』も同じ武田博士によって知り、その気品の高い文章の美しさに打たれたのだった。
 文章を通しての山への啓蒙の点では河田楨氏も前記の人々に劣らない。実に私はこの人の画期的な著書『一日二日山の旅』と『静かなる山の旅』の二冊を読んで、その足跡をたどることから自分のささやかな山歩きを始めたのである。そして彼の紹介で山の同好者の特色ある集まりである霧ノ旅会へも入会し、そこで武田博士や木暮理太郎先生を初め『大菩薩連嶺』の著者松井幹雄氏その他の諸氏を知ったのである。その木暮先生の古武士を想わせるような高潔な人格は私の敬慕の的だったが、その敬慕が後に私をして「山を描く木暮先生」という詩を書かしめた。さらにこの十数年来互いに無沙汰を重ねているが、昔のヒュッテ霧ケ峰の経営者で『山郷風物誌』の著者でもある長尾宏也氏も私の山の先輩だった。彼と共にした大菩薩や八ヶ岳は私の極めて初期の登山に属する。その八ヶ岳や蓼科、
浅間などに行を共にした今は亡い義弟松本操のことも忘れられない。『山の絵本』の巻頭をなす「たてしなの歌」は、その彼をほとんど副主人公とした思い出のしらべである。また近年十回以上も山行を共にしたNHKの若い伊藤和明は、言わば私の地質学の先生だった。そしてただ一人の女性の山友達として村井米子女史には、一家を挙げて槍や燕つばくろへ初めて連れていって頂いた。しかしこのように山の恩人や親しい友らのことを書いていたら切りがないであろう。
 とはいえ自然の中、とりわけて山では、天文学、気象学、特に地理学の知識が、いずれも基礎的なものとして役に立つ。だからこの方面の恩人たちのことも書き落としてはならない。まず天文学では今もなおかくしゃくとしておられる野尻抱影氏の数多くの星の本から、実にたくさんのことを学んだ。七年間を住んだ信濃富士見の高原は、私にとって星という天体の勉強や鑑賞の上での絶好の場所だった。天気の変化に対する若い時からの私の着目、雲が見せるさまざまな美観に対する子供の頃からの私のあこがれと興味とは、成人するに及んで、つまり東京郊外での新婚生活の前後から、急速に増大し満たされていった。それには岡田武松博士の『気象学講話』や、一層専門的な『気象学』上下二巻を忘れることができないし、故博士の男らしい、かつ慈父のような温顔や話しぶりと共に、その感銘は今でも懐かしく私の記憶の空を満たしている。懐かしいと言えば藤原咲平博士もその一人である。博士の著書では日本で最初の解説付きの美しい写真集『雲』を初め、『気象と人生』、『天文や気象の話』、『気象感触』などを読んで雲や天気の勉強を続けた。或る年の夏霧ヶ峰の講習会でご一緒した時、松本平の方向から頭上の青空へと巻きひろがって来る淡く白い絹雲の一種を指さして、「あれは先生のいわゆる火焔雲で、あの根もとの方では雷が起こっているのですね」と言ったら、博士は私の顔をつくづくと見ながら、「その通りです。しかしあなたは僕の本をよく読んでくれていますね」と言われた。そしてよく読まれたそれらの本や写真集は、今でも私の理科関係の書棚の一部を飾っている。表紙も取れかかり、帙ちつも色あせてよごれながら。
 最後に地理学だが、むしろ最初に挙げるべきこの学問では、辻村太郎博士から受けた開眼と指導とが最もいちじるしい。その画期的な著述『地形学』は初め河田楨君から借りて熱心に読んだが、間もなく自分でも買っていよいよ熱中した。自然地理に対する私の傾倒は実にこの本に由来するのである。その後『新考地形学』上下二巻、白地図と対照して読む『日本地形誌』、参考写真の豊富な『景観地理学講話』、それに博士の小論文、随想、紀行文などを集めた正続二巻の『晩秋記』。これらの本も私にとっては、独学時代をしのばせる珍蔵の書物である。その辻村博士からは、東京本郷弥生町のお宅をたずねた際、「尾崎さん、地理をやる者は夜行列車へ乗ってはいけませんよ。それに初めてのコースの汽車の中では必ず二十万分と五万分の一の地図をひろげて、いつでも自分の車の現在位置を確認できるようになさい」などと、あたかもご自分の受持ちの生徒へのように教えさとされた。
 地理学といえば、大著『人文地理学講話』(飯塚浩二氏の訳がある)その他の著者でフランスの大地理学者であるヴィダル・ド・ラ・ブラーシュから受けたものの甚だ少なくないものを思い出すが、エコール・ノルマル時代の若いロマン・ロランがその敬愛し心服しているプラージュ先生にすすめられて、初めてスイスのアルプスというものに接した時の生き生きした感動の記録があるから、その一節を翻訳してここに掲げて置こう。――
 「まず最初に自然! 自然は私にとって常に書物の中の書物だった。それを閉ざしていた封印は、一八八一年、私に対してフェルネーの展望台で破られた。その時私は見た。自然の中に私は読んだ。狂気のように読んだのである。生活のために闘わねばならなかったあの脅された青春の幾年間、私にとって自然が、わけても山が、生きている神であり、パリの一年の十ヶ月を、山の抱擁への期待の中で、どんなに私が息をはずませて生きていたかを充分に言い現すことは到底できないだろう。そして夏の門が開かれるや否や、そもそもいかばかりの愛の熱狂で、この私か彼女の体に身を投げ掛けたことだろう……!」
 そしてロランは、マッターホルン山群の中で暮らした一八八九年(二十三歳)九月のノートにこう書いてある。「……私は抱きしめられて衰弱する……もしも自分一人だったら私は地上に身を投げ出したろう。石を、つやつやと光った緑と暗紅色の美しい石を、また金の火花のような砂塵を噛んだろう。私は自然の自由になった。あたかも手籠めにあった女のように。それは私の魂が私から去って、ブライトホルンの光り輝く山塊に溶けこんだ瞬間だった……」
 そしてよしんばロランのブライトホルン程でなくても、私の最初の八ヶ岳や北アルプスがいくらかこれに似ていた。そして『ジャン・クリストフ』の生みの親に対するヴィダル・ド・ラ・ブラーシュのように、私にとっても辻村太郎博士は、自然や人文の地理学と山への愛の大きな鼓舞者の一人である。
                            (一九六六年四月)

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 道二題


 この『アルプ』の特集号で「道」と言うからには、人の道とか人生の道とか、或いは我が生涯の道程とかいう意味の道でないことは知れている。それはつまり道路のことで、時には町の道であり、田舎の道であり、時には野の道、山の道である。そして今日その題下に書く人々の文章も、山や谷や高原の道を素材にしたものが多いに違いない。私のもそういうものになるだろう。しかしこの意味での道でさえ、それをたどったことが一つの体験である以上、そしていわんやそこにその人独自の瞑想なり習得なりがあった以上、その土や岩や苔の道は、同時にその人の人生の道の一里程をなしたと言っても過言やこじつけではないであろう。私がかつての愛人のもとへ通ったケヤキ並木とサザンカの垣根に挾まれた村の小径は、胸おどらせて踏んで行った道であると同時に、遠く今日につながる夫婦のえにしの道であり、私を芸術に目ざめさせた一人の年長の友人を、何十回となくたずねて行った東京駒込の坂下町から林町までの静かな坂道と桜の道は、これもまた私の今日をほとんど決定する人生の道でもあった。
 しかし今日はそんなことはもちろん書かない。書くのは自分が実地に踏んだ高原や山の道、それも私の心を深く喜ばせ富ませて今もなお忘れられない道、これまでにも文章や詩に書いたか、或いはこれからの余生の豊かな懐かしい思い出の中で書き残して置きたいと思うような道、そういう道の一つ二つを取り上げてみるつもりである。

     *

 長い生涯に私の踏んだ数知れない道の眺めの中で、八ヶ岳の東の裾野を南北に走る佐久往還が一すじ遠く光っている。
 もう三十幾年の昔になる秋十月の或る日、私は急に思い立ってこの古い街道を、甲州の箕輪新町から信州の海ノ口まで一日で歩いたのだった。歩き出しの朝がたパラパラと一時雨ひとしぐれあったが、それからは時どき金いろの日が射したり、またどんよりと雲の垂れさがって来るような一日だった。行程にして二五キロはあったと思うが、年も若かったし足も体も強かったので、大きな重いルックサックを背負っても平気な一人歩きだった。そして一人であることが、何を見るにつけ、道のどこへたたずむにつけ、私の心に都会からの脱出と自由を喜ぶ小さい歌のいくつかを育んだ。ただ、夜行列車に乗るというので、きのうの夜晩く家に残してきた若い妻や幼い娘のことが、時あってこの胸をしめつけはしたが。
 今でこそ乗合バスがその往還を小海から甲府までかよっていると聞くが、その頃はまことに静かで鄙びた、むしろ寂しすぎる道だった。農家の集まっている村の中を別にすれば、一日じゅうで人に出会ったのは僅かに八人に過ぎなかった。朝早く小学校へ出勤する校長さんと女の先生、駕籠かごをかかせてどこかの村の急病人の家へ急ぐというでっぷり太った赤ら顔の老医者、荷鞍を置いて藁わらあぶみ、馬に跨がって山の畑へ仕事にゆくみめ美しい若い農婦、夕暮ちかい野辺山ノ原の大きな寂しい広がりの中で、海ノ口への道を教えてくれるために、二股道の片はしへ自転車を立てて、わざわざ私を待っていた二人の若い行商人。ほんとうにそれだけだった。そしてその人達八人とかわした二言三言や、互いに見合わせた親愛や感謝のまなざしが、どうして孤独の旅の私の心を動かさなかったわけがあろうか!
 赤岳や権現の八ヶ岳がいつも風景の左手にあった。カラマツの林にはもう秋の黄がうっすらと漂い、ヤマウルシやヌルデの葉が真紅に照り、ズミの実が黄色に熟し、マツムシソウの残花が林間の明るい空地や広い野の道ばたを薄紫にいろどっていた。木立ちの中ではさまざまな茸きのこも匂っていた。時どきシジュウカラの群に出会ったり、キクイタダキのこまかな囀りを聴いたりした。日当りの道ばたや土橋の上ではアカタテハ、クジャクチョウ、ヤマキチョウのような蝶たちも目についた。念場ねんばケ原はらから野辺山ノ原のあたり、私はノートへの書きこみや、風景の撮影や、蝶の採集に手間どった。そしてその夜の泊まりの海ノ口までの里程と時間とを勘案しながら、こうして気の済むまで手間どることに徒歩の一人旅の意義を認めた。そしてこういうのが概してその頃の私の歩き方であり、私のヴァンテルングの姿だった。「路上の王子」、「一日の王」。そういう気持で歩いた昔を思えば、今の気ぜわしない自分がいくらか貧しくなさけなく感じられ、心身のこの老いになお激励の鞭を加えなければならないと思うのである。

     *

 一人旅に習熟し、その善さに味到している私ではあっても、なお気の知れた友人との二人旅も拒みはしない。それは相手の「人間」を一層よく理解する機会でもあり、彼のこの世の存在に一層深く親しい愛情を持つよすがでもある。私は幾人かの先輩や友人と、幾たびかそういう実になる旅をした。そして今その中から一つの例として喜んで思い出すのは、六年ほど前に或る若い友とした五泊六日の木曽の徒歩旅行である。
 「之より南木曽路」と彫った石碑の立っている日出塩ひでしお先の桜沢から、藤村とうそんの筆で「之より北木曽路」とある馬籠まごめの下の新茶屋の部落まで、九〇キロあまりの道だった。涼しい風の吹きわたる晴天つづきの十月下旬、太陽は来る日も来る日も木曽谷のすべてのもみじを黄に、赤に紫に照らした。いたるところで澄んだ秋の小鳥の声を聴き、ほそぼそと鳴く残んの虫のすだきを聴いた。或る学校の大学院の研究生で、山にも強い屈強の若者である友人が大きな重いリュックを背負って歩いてくれたので、私の荷物は軽く、心もまた軽かった。国道と並行して走ったり、向こうの谷間の高い鉄橋をのろのろ渡ったりしている中央線の列車にも、時たま後ろから追い越してゆく空いた乗合バスにも平気だった。ゆっくり歩きながら何でも見、何でもこまかに味わって、この旅から少しでも多く学んだり養われたりしようというのが私たち二人の念願だった。そしてそういう実り多い一日の夕暮に着く宿といえば、奈良井でも、宮ノ越でも、寝覚でも、須原でも、馬籠でも、ほとんどの旅籠が昔のままの古い家で、人々の人情は篤く純朴、言葉も何となく雅やかで、どこの家でも私たちを奇特な徒歩旅行者として温かく迎え、もてなしてくれた。
 道はと言えば、大きな町や宿場や小さい部落の付近を除けば、中山道の国道に人通りというものはほとんど無かった。仕事や用のある人はみんな自転車やオートバイや、日に何回というバスに乗っていた。それに時おり疾駆して過ぎる貨物自動車、乗用車。そこで歩くこと自体が仕事でもあれば目的でもある私たちは、晴天つづきで軽く乾いたその砂ぼこりの雲を頭から浴びた。それがこの徒歩の旅のただ一つの難点だった。しかしひとたび国道をはなれて昔の古い道へ入るとか、今は通る人もきわめて稀な峠道をたどるかする時には、これこそ正に木曽路だという気がするのだった。
 木曽福島の町に近く、そういう静かな間道を歩いている時、向こうから来る一人の若い美しい女性に出逢った。その人は私を見るとほほえみをたたえながら、丁寧に頭を下げて通り過ぎた。数歩、或いは数十歩。手おくれながら私に一つの記憶がよみがえった。それは数年前に楢川の学校で私のために木曽節を踊ってくれた女教員で、その人との翌日の朝の道でのすれ違いを、組曲『木曽の歌』の中の「奈良井」という詩に書いたのだった。彼女はそれを何かで読んだのだろうか。どう考えても私にはそんな気がして仕方がなかった。
 ついに人に逢うことの無かった鳥居峠と馬籠峠の道もすばらしかった。前者は明るく静かに、後者は暗く寂しかった。しかしいずれも秋のもみじの色深く、秋草の花がしおらしく、秋の蝶が低く飛びかい、秋の小鳥や虫の声が絶えることのない道だった。私たちはこの二つの峠道を小さい鈴を鳴らしながら歩いた。一つはスイスの物、もう一つはピレネーの物で、放牧の山羊などの首に吊るす鈴だった。それを紐に通して上下に振ると、「チンガリンガリン」というように美しく鳴った。秋の山道、それも木曽の山中では熊に出逢うおそれが大いにある。だからつまり熊よけの鈴である。私はそれに気がつくと同時に、これを私たちの旅の可憐な音楽の道づれとも考えて、家の者たちに好意をもって笑われながら敢えて持って来たのだった。鈴は山深い峠道で、先頭をゆく若い友人の手から鳴った。それは私たちの足の運びに楽しみと詩を添えた。そして、それは木曽谷に住むまじめな人々みんなから真剣に褒められた。

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 祝詞に代えて


 秋桜子さんのこのたびの芸術院賞受賞をお祝いして、年ごろ日ごろの傾倒と、すこし纒った研究とを披瀝したい気持でいたところ、ここに書く必要のない別の仕事や雑用にさまたげられて不本意ながら志が果たせない。それで思案の末、昨昭和三十八年一月号から今年の六月号までの『馬酔木』に発表された二百六十九句のうち、敬服してノートに書きとめて置いたのが十三句ほどあるので、それを挙げてお祝いの微衷のしるしとしたい。俳句の上では元より初心者。ただ、一人の詩人が、どんな句をどんなふうに受けとって感心したかを見て頂ければそれで充分なのである。

  浦 安 や 春 の 遠 さ の 白 魚 鍋

 行徳でもなく、桑名でもなく、音感も字づらも共に安らかに懐かしい下総の浦安なのである。そして春はまだ遠いその浦安での白魚鍋。春も遠ければ湖浅い海の眺めも果て遠く、ことによったら「雲薄し」や「明ぼのや」の芭蕉の記憶もまた遥遠である。「春の遠さの」中七、沸々たぎるちり鍋の佳肴と相呼んで、一句の味わいまことに言いつくせぬものがある。そして私には、葛飾の桃の籬まがきの昔さえ思われる。

  霞 む 海 紅 梅 蘂 を 撥 ね に け り

 秋桜子さんが好んで詠む熱海・伊豆山の句の一つである。そして彼が伊豆のあのあたりの海岸を好きだという事は、私には特に芸術的にも象徴的なことのように思われる。かつて紅梅の上を波の流れるのを詠んだ秋桜子さんに、歌人実朝のよく踏みこみ得なかった一層雄強な境地へ踏み入ったのである。うらうらと霞む伊豆の海を背景に、某々と雄蘂の束を立てた紅梅もそうである。紅梅に対する彼の殊愛もさることながら、これが白い梅だったらやはり印象はぼやけてしまったであろう。

  春 暁 を 降 り い で す ぐ に 大 雨 な り

 「春暁」であり「大雨」なのである。まずこの二語の音感と含蓄と広がりとを味わわなければならない。しかも息もつかせず「すぐに」大雨なのである。春の夜明けを低気圧が襲来したとか前線が通ったとか、そんな気象談義をやっている暇もなく、そのまま、いきなり、天地をこめる槍ぶすまのような大降り。「すぐに」俗語が力源となり、濁音の「豪雨」でない清音の「大雨」がこの句の生命となっている。うっかり真似たらおかしな物になるだろう。一事不再発の「すぐに」であり「大雨」であることを銘記したい。

  林 檎 咲 き 荒 瀬 北 指 す 川 ば か り

 白馬岳紀行十一句中のすぐれた一句である。仁科三湖の青木湖から北流して、途中松川、中谷川、大所川などを併せた姫川は、深い峡谷をうがったり慰め薄い礫原の風景を展開したりしながら糸魚川の西で日本海にそそぐ。「北指す川ばかり」のその川がこれらの諸川であり、「荒瀬」はその峡谷や礫原の水の姿である。しかしこの句のいのちは三、四と切れた「荒瀬北指す」の中七の切迫した語調にある。すなわち音楽で言うフーガのストレッタ、主題の入りと応答の入りとの時間的間隔を小さくして、そこにリズム的緊張感を生む手法である。そして「川ばかり」の座五へ流れこむ中間部のこのストレッタが、寥郭たる日本海の空の下を北流する川の荒涼景を直叙し、おりからの林檎の花をさえ、ほかのとは違った寂しく白く凛々りりしいものに見せているのである。

  雪 渓 の 雲 く づ れ 落 つ 黒 部 谿

 これも白馬岳紀行中の一句だが、句が言おうとしている実景の暗く深く厚みのある美は、或いは黒部渓谷を見た人でないと切実にはわからないかも知れない。その厚みが「雲くづれ落つ」にあり、しかも「雲」と「くづれ落つ」と「黒部谿」の三つの「く」の音のなだらかな重なり合いが、そのほのぐらい効果を強めていると見るのは私の思いすごしであろうか。しかし言うまでもない事だが、俳句は声に出して読んでみないと本当の味はわからないのである。これは詩でも同様だが、わずか十七字という叙情的な短詩形にあっては尚更のことである。

  雪 橋 や 獣 行 き け む 痕 蒼 き

 これも白馬行の一句。雪橋はスノウ・ブリッジの日本語訳。「せっきょう」と読むのであろう。そしてここでもまた「獣」の「け」と「行きけむ」の「け」とが金属的に響き合い、それが高山の空の色を吸った獣の足跡のくぼみの蒼さと怪しく美しく照応しているように思われる。「ける」と共に秋桜子さん愛用の「けむ」という雅文調がここでも雄勁にしかも優美に働いて、その獣を気品のあるカモシカかオコジョのように想像させる。勿論そんな処にはいもしないだろうが、同じ獣でも猪や狸のような仲間は思わせない。

  学 園 や 郭 公 楡 を く ゞ り 飛 ぶ

 学園は札幌の北海道大学であり、楡はあの校庭にあって余りにも有名なエルムの並木である。そして北方の夏を欝蒼と茂ったそのエルムの大樹の列の下を一羽の郭公がくぐって飛ぶ。建物も植物も由緒深く、歴史に重い北大の構内。郭公さえもそこいらの高原でざらに見る郭公ではなく、北海道のこの最古の学園の鳥なのである。何でもないように見える「くゞり飛ぶ」に無量の重みがあり、「学園や」に一挙にして尽くされた古く遠い歴史の広がりがある。句の中で郭公の鳴かないのがなおさらいい。

  薫 風 の 来 て 海 豹 に 波 ま ろ ぶ

 前句や後の二句と同じように北海道紀行「砂丘と花園」の中の作である。海豹あざらし必ずしも美しい動物ではないが、「薫風の来て」や「波まろぶ」の措辞のために濡れ濡れた海獣の姿態、まことに愛讃すべきものとなっている。波が小さく寄せるにつけても丸い鈍重な彼の砂上の寝姿がよみがえる。波もまろべば海豹もまろぶ。そこへ生気をそそぐのが能取のとろ岬の夏の縹渺として匂やかな海風なのである。

  泉 湧 き ゆ が み て 戻 る 鱒 の 列

 「虹別孵化場にて」という前書がついている。孵化場や養魚池で見る稚い魚は、いつ誰がどうしてリーダーになるのか知らないが、先頭をゆく魚に従って何十匹というのが行儀よく列を作って泳いでいる。この可愛い鱒たちもそれである。ところが行く手の水の中に水が湧いて、水勢や水圧が変わり、無数の気泡がはじけながら林立している。そこで突如としてリーダーが方向を転換する。すると今まで整然とおとなしく泳いできた稚魚の列の先頭にちょっとした狼狽と混乱が起こる。そこで連続的な行進隊形に僅かながらひずみが生ずる。言ってしまえばそれだけの事だが、私の姦臣するのはこの「ゆがみて戻る」である。ちょっと動揺しながらも柔和に且つ黙々と転向するその幼い魚たちの隊列の動きを、たった七字でさながらに言い現した平常語の決定的な使い方である。

  澄 む 水 や 蟹 ひ そ む 石 起 し て も

 「水澄む」は人も知る秋の季語である。そして「石起しても」だから、ここでは「澄む水や」でなくてはならない。しかし遠い北方の旅にあって、谷だか海辺だかで試みに石を起こしてみると、その下に一匹小さい蟹がひそんでいて、そこに溜まっている水もまた澄んで冷たかったというのはいかにも美しく秋らしい。まことにすぐれた一句であり、「物ダス・ディング」の句である。そして秋桜子さんに物に即した秀句の多いのを、私は彼の俳人生命の長続きする兆候だと思っている。思いをひそめて見れば見るほど物はわれわれにそれ自身を語り、しかもそれ自体けっして尽きることがないからである。

  冬 の 梅 は げ し き 夜 雨 に 匂 ふ な り

 ここでもまた「雄勁」の形容がぴったりし、作者の気性の強い一面が想われる。まっすぐに言い放たれた十七字は直下じきげのもので、その間なんの細工も思わせぶりもない。梅は冬の梅、雨は夜半の雨でしかもはげしい。私には窓から闇夜の庭をのぞいている人の姿が想われる。雨は空の微光か窓からの明りを吸って白い滝のように見える。花咲く梅はしたたかな雨のつぶてに打たれている。「はげしき」の一語にその雨の量感と質感とがある。映写幕エクランに現れた瞬時の情景ではあるが、机上の想像などではとうてい出来ない触目の純粋感動の一句である。熱海の紅梅の「撥ねにけり」といいこの夜の梅の「匂ふなり」といい、二つの終止形が共に雄々しく梅らしい。

  岩 は 皆 渦 潮 し ろ し 十 三 夜

 「足摺岬に句碑を建つるとて」という前書がある。そう言われてみるとこの渦潮は、言葉こそ同じだが風景の性格が阿波鳴門のそれとは違って、もっと平遠で、もっと寂しく、もっと白々しらじらと荒れている。果てしない沖に臨んだ岩は一望の岩礁であり、その岩礁に寄せてひろがる水はすべて干渉し合って渦をなし、おりからの十三夜の月光を浴びて白い。これは前出の蟹や梅の句などと違って大景の句である。大国土佐の南端、それも室戸岬などとは趣きを異にした岬端風景を目に描かないと、この実景は生きて来にくい。これからの観光客がどう思って読むか知らないが、この句の隠れた主眼は太平洋の夜のひろがりであり、黒潮に煙った未知の水平線への郷愁なのである。壮大なロマンティシズム。渦潮しろしがそのかなめであると言おうか。

  木 瓜 の 荷 を 解 く 紅 白 や 植 木 市

 植木市が立って、集まった植木屋の一人が、繩でしばって運んで来た木瓜ぼけの株をほどいているところである。しかし一体「荷を解く」という言葉の語感が、中年前の読者にどれほどに、またどのようにわかられているだろうかが実は私に疑問なのである。簡潔で微妙に具象的なこの言葉などは、永く保存したい日本語の一つだと思うが、「荷」は普通「荷物」と言うのとは少し違い、「解く」も場合によってはまた幾分ニューアンスが違う。しかしとにかく「荷を解く」。そしてその荷というのが花の咲いている木瓜なのである。その花や蕾を落とさないように気をつけて、張っている枝をなだめるように撓たわめ集めて、要所要所を藁繩でしばった売り物の木瓜。それが荷であり、その荷を今植木市でほどいているのである。そしてパラリとほどけたその木瓜は赤と白。堅く根廻しをして繩でくくった根は土団子。枝の間には売り値を書いた荷札のような紙切れがもう細い針金でつけてある。売り物ながら植物への愛と細心の注意。そう乱暴に繩をパチパチ切り放したり、むげに枝を押しひろげたりしたのでは植木屋とも言えないだろう。抱きかかえるように扱って道の片隅に見えよく飾る。
 そしてその植木屋のこれだけの手数、これだけの心くばりが、実に「木瓜の荷を解く」の七字で活写されているのである。
                             (一九六四年五月)

 

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 一詩人の告白


 この三年の間に自作の散文を集めた本を一冊と、デュアメルの翻訳を二冊出している。そしてもう一週間か十日の後、遅くとも九月の初めまでには、これも新しい散文集とヘッセの翻訳の本とがそれぞれ一冊ずつ出ることになっている。その出るのを自分も待ち、読者からもいくらか待たれていることを思えば、仕事をしてそれが纏まるとほとんど直ぐに本になるというこの幸いを、私は決してあだには思わないし、ましてや当然な事だなどと思って空うそぶいてはいない。
 しかし、最後の詩集『花咲ける孤独』が出てからもう五年になる。詩はそう易々と出来るものではないから、一冊から一冊の間に時間のかかるのは当り前だが、もうそろそろその後の作を纏めてみてもいい頃だと思っている。そしてこれもまた仕合わせなことに、喜んでその出版を約束し、清書された原稿を受けとる日を、首を長くして待ってくれている本屋さんもある。自費出版かそれに類した方法でないと詩集という物の容易に出ないこんにち、これもまた過分な事だと思わなければならない。それで今は旧稿に手を入れたり、ノートや手帖にデッサンとして走り書きしてある無数の断片に整った形を与えたり、新しく構想されたものを根気よく鍜えたり飾ったりしている。近年になく暑さがきびしく、また何かと多忙な夏ではあるが、やがてこの河畔の丘をおとずれる金と青との晴れやかな秋
を待ちながら、遠い街の音や降るような蟬の声の中、辛うじて自分の物にした自由な時間に、句を練り言葉を選んで好もしい一篇を得る作業が無上に楽しい。
 (ただこれを書いている今のいささかの気懸かりは、今朝がた北アルプスの常念小屋から至急報でかかって来た登山中の長女からの電話である。それによると山は早朝からすさまじい雨と風で、蝶ケ岳・大滝山・徳沢・上高地という彼女たちの今日のコースは思いもよらず、せんかたなく一行六人小屋にとじこもって、縦走をもう一日延ばしてみるという事だった。小屋の主人にも電話でよく頼んだし、そばから「大丈夫ですよ、あの人たちは慎重ですから」と妻は言うが、それでも何となく気が落ちつかず、この文章にもそれが影響しはしないかと心配である)。
 このごろになっていよいよ自分の仕事の未熟を思い、もう先の知れている身でありながら、まだこんな物を書いているのかとなさけなくなることがよくあるが、それでも詩作から遠ざかったり、ふっつり止めたりする気になれないのは宿命とでも言うべきであろうか。処女詩集『空と樹木』の出たのが大正十一年だから、それより三、四年前から書き始めていたとすると、この道に打ちこんで四十五年ということになる。なるほどその長い間には輝かしい豊饒の年もあればみじめな貧寒の年もあったが、ともかくもこの一筋とおのれの道を思いきわめて農夫のように続けて来た。そして今生涯の夕日の野に立ちながち、自分の遠い経営の跡を見はるかして、そぞろに感慨に打たれることもある。しかしこの感慨たるや常に楽しく、この事に一生を捧げて決して悔いはなかったという満足をさえ覚えるのである。してみればこれは恵まれた宿命だと言わなければならない。
 とは言え、忘れてはいけない! どんなに堅い操志を持ち、どんな適性を授かっていようとも、人間は自力だけで大成できる者ではない。道の初めには必ず強く美しい刺激の与え手、こちらを心服させる人、正しい指導者がいなくてはならない。そして私にとってそういう立派な先輩が高村光太郎であり、武者小路実篤であり、千家元麿の諸氏であった。私がその時どきの詩的諸流派に身を投ぜず、安んじてホイットマンやヴェルハーランに傾倒しながら次第に自分の方向を切り開いて行くことのできたのも、実に彼ら三人の先輩の生きた実例とそれとない鼓舞とがあったからである。更にその後の私としては、あのロマン・ロランの大いなる光と影の恩恵を忘れることはできず、ヴィルドラック、デュアメル、ヘッセ、カロッサらにも限りなく懐かしい思い出や感謝の気持を抱きつづけている。
 懐疑的で諷刺的でしばしば衒学的だった詩人たち、意識的に凝縮された玉や織物のような詩を書いていた当時の詩人たちの目から見たら、どんな仲間にも属さない野人のような私の書く物はむやみに多産で傍若無人で、楽天的で、ほとんど散文に等しい物であったに違いない。私はあの『草の葉』のホイットマンや『種々の光耀』のヴェルハーランを後楯のように思って、「一行として成らざる日なし」の勢いで書いた。田園に生き、自然と巨匠の詩や音楽を愛し、生きることに熱狂しながら自分自身と周囲の世界とに対する讃歌を書いた。しかも作者はおのれの作品に似てゆくものである。私の芸術の裏づけとなっている理想主義は、私を引いてその理想へとかりたてた。つまり私はたえず魂の郷愁に誘われながら、おもむろにその運命の青い遠方へと向かって行くのだった。そして今もなおその途上にあるわけだが、この旅路の果てのもはや遠くない事は私といえども知っている。それでいてこの世の光を見るかぎり、なお詩を作り文を書くことをやめられないのは、やはり初めに言った「宿命」なのであろう。それならばその宿命を美しく満たすために、余命の許すかぎりこの道に専念するのだ。
 これから聴こうと思う私の好きなオルガン・コラール集の中で、「なんじ自身を飾るべし、おお愛する魂よ!」とヨーハン・セバスチァン・バッハは歌っている。
                            (一九六四年八月)      

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 道にて


 それが古くからあるものならば尚更のことだが、道路というものは、自分で歩いてみなければその良さも趣きもわからない。疾走する列軍の窓から眺めるだけの時は元より、自動車を走らせて通って行くだけの何々街道や国道何号線からは、親しみも熟視も立ちどまりも、それに由来する瞑想も得られない。ただ目的地、到着点だけを空や地平線のかなたに描いて、その間はできるだけ速く、できるだけ滑らかに過ぎ行き流れ去ろうというのだから、途上の佇立や観察や、まして自然の風光だの人間の営みのこまかな美に心を寄せることなどは問題にならない。
 早い話が、私にとっていわゆる木曽路がそうだった。鉄道だと大体中央本線塩尻から中津川までがそれだが、その間急行列車でほぼ二時間、木曽川がどうの、寝覚ノ床がどうの、橡とちの花がどうの、紅葉がどうのと言っているうちに、狭く深い渓谷の美景はたちまち去って、もう広々と明るい美濃の天地へ出てしまう。私は今から四年前にこの道を六日がかりで徒歩旅行したことがあるが、人によっては、また時と場合によっては、わずか二時間でもまだ遅すぎると思うことがあるだろう。本山もとやまから馬籠まごめまで通称二十一里(八四キロ)を五泊六日の足の旅、紀行文にして原稿紙一〇〇枚を費やした。その途上のこまかい見聞と鑑賞と瞑想。そういうものはひた走る列車や自動車の旅からはおそらく決して得られまい。
 「之より南 木曽路」とある古い石の道標の前から、心身共に新しくなった思いで踏み出した徒歩旅行の第一歩。それと一緒に私の心も歌い出した。秋もたけなわの十月だった。美しく色づいた木々の葉のしげみの中で、一羽の黄ビタキが忍び音に鳴いていた。それを聴くと、もう私に一篇の小さい詩の動機が生まれた。私はそれを急いでノートに書きとめながら、こうして始まった旅の祝福への嬉しさに、おりから道の修理のために働いていた二、三人に、自分も吸うために抜き出した巻煙草をふるまった。
 昔の宿駅のおもかげが古びた旅籠はたごの看板や家の構えに残っている桜沢の部落と、舗装された道路のわきにところどころ屋根のついた共用水道の水場の見える贄川にえかわの部落との中間で、私は偶然一人の中年の農夫と並んで歩くことになった。鍬を肩に、竹籠を背にしているところを見ると、これから近くの山畑へでも仕事に行く様子だった。「どこへ行くのですか」と聞かれたので、「木曽路の徒歩旅行で、今夜は奈良井の越後屋泊まり。あしたは鳥居峠を越えるつもり」と答えた。すると農夫の顔が急に改まって、「芸術家ですか」と聞き返した。そこで「まあそうです」と答えると、今度は相手の顔が輝くようになって、「詩人ではありませんか」と言った。どうしてそんな事がわかるのだろうかと思いながら仕方なしにうなずくと、待っていたとばかり、「それでは尾崎先生ですか」と問いつめてきた。私はそうだと白状した。と言うのは、私には木曽谷にもいくらかの知り人がある。しかしそういう人たちに迷惑をかけたり、一人旅の気安さを乱されたりしまいという心から、この旅行の事は前もって誰にも知らせなかった。それがこの山中の道の上ではしなくも看破されたのである。見るみる喜ばしそうになったその中年の篤実な農夫の話によると、彼は十数年前、まだ木曽福島の西校の生徒だった時、教師に引率されて東校での私の講演を聴きに来たことがある。それで私の顔や姿を今でも覚えているのだということだった。
 奇遇は時と処とを選ばないから、いつどこで起こるかも知れない。老いた私にも、そして老いれば老いただけ、奇遇の経験は幾十となくある。しかしそれが美しく物思わしい秋であり、深い山林と渓谷の木曽路であり、更に福島や上松あげまつのあたりよりも、もっと寂しく静かな奈良井川の谷のほとりの道の上なのである。
 かつて高等学校の生徒だった今は中年の木曽の農夫と、今でも旅から詩のモーティヴやテーマを得て喜ぶ老詩人の私とは、互いに堅く手を握り合い、心をこめた目と言葉をかわして別れた。彼は道の下をその畑へ。私は道の上を今日の旅程へ。人と人との別れを山々谷々の美しい秋が照らしていた。
                              (一九六四年九月)

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 詩人の朝


 彼はいつものように離れの座敷で朝の食卓にむかっている。勤めに出かける若夫婦や、学校へ行く二人の孫たちといっしょに母屋のほうで早く食べてしまう彼の細君は、だから少し遅れて起きて一人でパンをあぶったりバターや蜂蜜を塗ったり、ベーコンをつっついたり、コーヒーをすすったりしている夫のそばには、いるときもあればいないときもある。けさはいない。週に一回のお手伝いさんが早くからきているので、それに仕事を与えるためにせんたく物を出したり、アイロンかけのための下着類をそろえたりしているのである。お手伝いは親類のようにつき合っている或る知人の姪で、信州の女性にしばしば見るように、怜悧で忍耐づよくて働き者のまだうら若い娘である。一家の生活はきょうもきっちりと歯車がかみ合って、平常どおり運行を始めているらしい。これが主人である彼にとってはきょうという一日への基本的な信頼であり、安泰感であって、古い音楽でいえば、このも通奏低音ゲネラルバスの上に上声がついたり和音が築かれたりするのである。
 彼の前、食卓のむこうには、一冊の新刊の書物と、朝の郵便受けからの数通の郵便物とが載っている。灰白色の厚いカンバスの表紙に多彩な花の絵を押しこんだその堅牢な大型の本は、きのう出版元から届けられたばかりのできたてのもので、彼自身の翻訳になるヘルマン・ヘッセの随想と水彩画の選集である。その造本も印刷も彼には気に大った。しかしただ心残りなのは、この本の出版が原作者ヘッセの生前に間に合わなかったことである。
 彼は食べ終わると濡れタオルで手を清め、ポットから代わりのコーヒーを注ぎ、やに止めのホールダーに巻きたばこの「いこい」をさしこんで火をつける。そして郵便物の束の中から差し出し人が女名前の一通を抜き出して読む。長野県上伊那郡の山の中、仙丈岳のふもと、三峰川みぶがわの谷間の人の真心こめたたよりである。彼はこの山村の農家の主婦を知っていた。去年彼が校歌を作った小学校のPTA副会長である。秋がきて澄みきった空に夕日を浴びた赤トンボがきらきら輝いていること、山々の陰影が冷たく深くなったこと、ラジオやテレビで彼の声や顔に一家そろって接するときの喜びのさまなどが、こまごまと書きつづられていた。そして少しばかりだが伊那梨を送ったから味わってみてくれとのことだった。彼はその手紙を二度くりかえして読みながら、雪のおとずれも程近いあの南アルプスの山間からと思うと、人のなさけや誠への感謝と同時に、朝夕の寒さや谷々の薄もみじの中に生きるその人のこの世の姿へのなつかしさに、胸の痛くなるのを覚えるのだった。
 さっきから食卓の上を一ぴきの黒い小さいハチが飛び廻っている。このごろ毎朝庭から飛びこんできて、卓上の蜂蜜をなめてゆく黒スズメバチである。富士見高原の山荘に住んでいたころは「ヂスガリ」と呼ばれるこのハチが林中の庭の各所に地中の巣を営んでいた。ちょうど秋も今ごろになると、よく信州のいなかの雑貨屋などの店先に「ハチ取りの花火売ります」と書いたボール紙が下がっていたものである。彼はけさも小さい皿に小さじ半杯の蜂蜜を取りわけてわが東京の庭のヂスガリにふるまってやる。ハチは褐色の羽根をたてに畳み、二本のひげを気持よさそうに伸ばしたり垂らしたりし、五本の黄いろい筋のはいった腹の先端をぴくぴくさせながら、重たい金色の液体をなめたりすすったりしている。その巣は庭の桃の木の下にあるらしいがもちろんそれをあばいてみようなどという気はさらさらない。こうした毎朝のハチの訪問も、それがある期間持続されれば、彼のいわゆる「生活の歯車」の一つだからである。
 こうして詩人彼の一日は始まる。ポール・ヴァレリーのいう「自分自身であることの権利と、それを家族の者から容認してもらえる確信と、そこでの休息と、心を落ち着けてくれるあたたかさとを常に見出す家庭」というもの。その家庭が彼にもまた恵まれている以上、さてこれからの日の務め、ひんやりとした暗さと、幾段もの書物の列と、窓べの明るいテーブルとが待っている書斎での仕事である。
                              (一九六四年十月)

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 たしなみの美


 私は女の人の着る物や身につける物のことは、その全体や部分の名称についても、材料や生地についても、形や色や柄についても、さらにそれに配されて互いにいきいきと照応し合うさまざまな細かいアクセサリーについても、名実ともにまったくなんらの知識もない。だから、もしも知っていて適切な箇所で正しく使われれば、あるいは感嘆されたり喜ばれたりするかも知れないような見事な言葉も出るよすががない。これは詩や文章を書くことを仕事としている人間である半面、観察と実証と記憶に生きる自然愛好者としていくらか残念な事には違いないが、そこまでは手が回らず、またその方面の素養を身につける生き方もしてこなかったのだから、今さら遺憾だなどと言っても追いつかない。野や、山や、花や、木や、鳥や、虫や、雲や、星などの名は知っていても、和服にしろ洋装にしろ、とんだ取り違えや怪しげな聞きかじりを口にして大笑いをされたり同情されたりするのだから、老人とはいえ、その無知の程度推して知るべしである。
 しかし常に見てはいるのである。見ることは私のような種類の詩人にとってまず最初の作業であり感知方式だから、これはけっしてめんどうくさがりもせず怠りもしない。若かったころはまた別に必要なさまざまの雑念から、“あばたえくぼ”というように、無意識に事実をまげて見たこともあったが、今は世に言う“美醜”にかかわらず正視する。この正視からは讃嘆の念の生まれることもあれば嫌悪の情の湧く時もある。そして感心する時はいっそうよく見るし、愚劣だとか卑しいとか思う時はおもむろに視線をそらす。しかしいずれの場合にも一応はよく見て、できればそれを心の中で言葉にしてみる。そうでなくても、少なくとも記憶のフィルムにはっきりと焼きつける。そういう記憶が積み上げられ、整理され、抜粋されて、やがて何かを書く時の一つの典型となるのだからである。
 「私は百の都会を生きる。そうするとある日、まったく思わぬ時に、一つの都会が私の詩から立ち上がる」という意味の事をリルケは言っている。まったく、見て感じて記憶することは、すなわち生きることであり体験することである。そしてこれから書こうとしていることも、女性とその服装とに関する私の千の体験中の二つ三つに過ぎない。

     *

 明治三十二、三年ごろの、遠いけれども鮮やかな、匂うようなみずみずしい思い出。なぜならばその時八つか九つだった私の鉄砲洲てっぽうず(現在の中央区港町)の家へ、“霊岸島の叔母さん”が人力車で年始に来た。女正月だから一月の十五日、妹の身分だから姉である私の母よりも先に回礼に来たのだ。叔母は浅草諏訪町生まれの東京っ子で、若くて、利発で、きれいな“おかみさん”であり、酒問屋の頭取の“お内儀”だった。その叔母が水も垂れるような丸まげに黒ちりめんの紋服姿。駒形百助ひゃくすけの香料を清らかな寒い梅の香のようにそこはかとなく漂わせながら、奥座敷の金びょうぶの前に端然とすわって、真っ白なえり足をうつむかせての改まった年頭のあいさつ。私は両親のうしろにかしこまって、この大好きな叔母の嬋娟せっけんたる美しさと犯しがたい気品とにうっとりと見とれていた。そして子どもながらもほれこんでしまい、これが私の叔母さんだと、台所の女たちにはもとより、近所じゅうに吹聴したいような誇らしさを感じた。その叔母からの私へのお年玉は浅草仲見世の箱入りのおもちゃで、台所の者たちへも「お次の方たちへ」と言ってそれぞれ半えりやおしろいが贈られた。時と所とに応じた服装、態度、言葉づかいのきっぱりしたけじめ。和装の女の式日の美の典型がここにあった。

     *

 このような明治の世から、大正、昭和と七十年近くを折にふれて女の人の服装を見てきながら、私はそれぞれに歴史といわれのある形式美と、時勢を追って開発され洗練される新様式の美とを思い、その中でおのれを生かし、あるいはそこから少しでもおのれをぬきんでさせようとする個性の努力やくふうのあとを見るのである。そしてふだん着にせよ、ちょっとした外出着にせよ、また訪問着や礼服にせよ、それが和服であれ洋服であれ、あらゆる時と揚合に、各自の自覚された個性をいきいきと発揮させている時に最も美しいと思っている。
 一時“斜陽”と言われた旧華族の令夫人が、高原のその領地の新しい牧場でめん羊を相手に働いていた時、スイスやチロルの山の農婦を思わせる彼女の姿が、晴れやかな初夏を輝く緑と青との山々を背景に、なんとセガンティーニの画のようだったことか。また六月の上高地の谷での楽しい山の集まりが果てて、いざ帰京のバスに乗るというその時、私を大きく取り巻いて、梓川の流れの音を伴奏に、私のために“また会う日まで”を合唱してくれた若い女学生たちの思い思いの登山姿が、なんと一人一人美しくいさぎよく、谷間の花や峰の星のようであったことか。
 そして今日これから原稿を受け取りに来るある細集部のはつらつとした怜悧そうな妙齢のマドモワゼルが、その髪かたちといい、着ている物といい、一切のたしなみといい、なんと職場で仕事をしている現代女性の一つの清新なタイプであったことか!
                              (一九六五年二月)

 

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 わが愛誦の詩


     

   回 想

  山腹にはヒースが咲き、
  えにしだが褐色の箒のようにちぢかんでいる。
  五月の森がどんなに綿毛わたげのような緑だったかを、
  今日なお誰がおぼえているか。

  鶫つぐみの歌や郭公の叫びがかつてどんなに響いたかを、
  今日なお誰がおぼえているか。
  あんなにも魅惑的に響いたものが、
  もう忘れられ、歌い去られた。

  林の中、夏の夕べの宴うたげ
  山上高く懸かった満月、
  誅がそれを書きとどめ、誰がそれをひしと抱いたか。
  すべてはもう消え失せた。

  そしてやがては君についても私についても、
  知る人なく、語る人もなくなるのだ。
  別の人たちがここに住み、
  私たちは誰にも惜しまれはしないだろう。

  私たちは夕べの星と
  最初の霧とを待つことにしよう。
  神の大きな園のなかで、
  私たちは喜んで花咲き、そして咲き終るのだ。
                  ヘルマン・ヘッセ

 一九三三年の作というから、ヘッセが五十六歳の時に書いた詩で、彼のNeue Gedichte(新詩集)に出ている。これは私が今から十年ほど前に訳した詩だが、その時美しいなと思った気持はいまだに薄れないばかりか、年をとりながら読み返すにしたがって、ますます懐かしく、いよいよ深く切実なものに感じられる。
 なぜならば私にも幾多のこういう春があり、無数のこういう夏があった。そして私もまた詩人として、ほとんどこれと同じような喜びや歓待をこの世の自然からうけて、それを味わい、抱きしめ、酔い、歌った。そして私の書いたもののほとんどすべてがこの自然への感謝の歌であり、それへの傾倒と讃美との流露だった。
 しかしこの詩にも歌われているように、自然の中の季節は移り、歳月は飛び去る。雲のようだった五月の森の新緑も、魅惑的に響いた鳥たちの歌も、林中の夜宴も山上の満月も、たちまち過去のものとなって、今は山腹にヒースが咲き、えにしだが枯れる秋となった。そして間もなく冬の星座が夕暮の空に昇り、最初の寒い霧が野に湧く時が来るだろう。
 神の大きな園である自然界の消長は、四つの季節の循環でたえず繰り返されるが、人間個体の消長には繰り返しがない。一度去った青春は二度と帰らず、壮年もたちまち老境へと暮れてゆく。そしてこの動かしがたく拒みがたい真理がはっきりと受け入れられた時、私のような老年者はこの詩の悲しい美を以前にも増して切実に感じ、「喜んで花咲き、咲き終る」の一句から、明るい諦念と次の旅への心の用意とを引きいだすのである。

     

  女囚と老人

 八年前の秋の日記にこういう事が書いてある。これも私の大好きな詩の一つである。
 『九月二十一日。雨の朝を明るくともした電灯の下で、ハンス・カロッサの戦争中の詩「女囚と老人」を訳してみた。捕虜になった外国少女と老監視人とを書いた美しい詩だ。最後の数行に、わけても感動的な救いや慰めが響いている。原文では十一音綴と十音綴とが交互に組みあわされた四行五聯の格調正しい結晶体のような詩だが、どんなに苦心しても日本語では意味を伝えるだけがせいぜいだ。とにかく一時間ばかりで一応は形をなした。

  北風に鞭うたれ、疲れ果てて、熱ねつっぽく、
  私達が雪の中で青い布をひろげる時、
  その私達の懸命な作業を四方八方から
  牢獄のいかめしい監視人達が見張っている。

  戦勝に目のくらんだ陰鬱な勝利者よ、
  お前達は私の哀れな民族を血の裁判へ狩り立てる。
  しかし中にただ一人親愛の心を見せてくれる人がいる。
  私達の言葉で話す老人がそれだ。

  彼は私達を憎まない。私達がどんなに苦しんでいるかを感じている。
  私は信じる。酒に酔いしれた同僚に囲まれている時でも
  彼が言いようもなく孤独なことを。
  彼は神に愛された家から来た人に違いない。

  ほかの人達から見れば私は娘の中での悪い娘だ。
  彼らは私のことを嘘つきの外国少女と呼んでいる。
  けれどもあの老人は書き物や運星の本を読む――
  おお、彼はいろんな事を知っている。彼は私に予言をしてくれた。

  春が来たら、燕のように自由な身となって、
  すぐに故郷へ帰って行けるだろうと。
  そして時どき金いろの軟膏を届けてくれる。
  それが夜よるになると私達の傷ついた手を癒やす。

 それにしてもこういう詩は、宇宙の別の天体からの客のようなあのリルケには期待できない。進化の低い段階にある者や未来への完成途上にある幼い者たちに、人間的な深い愛情と優しい祝福の心とを通わせる詩人、人類の運命への連帯心を誠実に敬虔に持ち続ける詩人、民族や人間性の故郷の野への思慕と信頼とに生きる詩人、その歌が一方では治癒や慰めとなり、他方では切実な忠言や警告となるような使命を進んでみずから担った詩人、そういう詩人にして初めてこのような詩は書けるのであろう』
                               (一九六四年)

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 ふるさとの一角 


 どう考えても東京は「ふるさと」と言うには適せず、他郷の空から遙かにえがいて、そのイメージに懐かしい思いを馳せる土地としてもふさわしくない。これが、たとえば、友人の郷里のように信州松本だとか、上州前橋だとかいうのならば、同じ都会でも時に望郷の目あてにもなるだろうが、この濛々もうもうと霞み煙った巨大で怪異な国際都市、しかも絶えず膨張し絶えず変貌を重ねてゆくこんな首都を相手では、「ふるさと」という語感からくる連想の美や、それに伴う愛着を再建することは全くむずかしい。
 「うさぎ追いしかの山、小ぶな釣りしかの川……」。「ふるさと」と題されたこのような歌や、「ケンタッキーの我が家」を、或いは声をかぎりに、或いは小声でつつましやかに、その故郷への心からの思慕の思いで歌うことのできる人達こそ羨ましい。
 しかし今の東京が巨大で怪異でつかみどころが無いとはいえ、遠い思い出の中のもっとも晴れやかな日光、もっと澄んだ空の下にならば、私にもふるさとと言っていい片隅が無かったわけではない。
 私は明治二十五年に現在の中央区、その頃の京橋区南小田原町で生まれ、鉄砲洲てっぽうずと新川で育った。いずれも隅田川の川べりである。今、湊町となっているその鉄砲洲では、父の商売が廻漕業だったので、何艘かの船を持ち、裏の河岸に倉庫や棧橋をならべ、表通りに店を構えていた。隅田川に面した離れの二階へ上がると、佃島をこえて東京湾の水が見え、晴れた日には青い長い房総半島の山々が眺められた。またお仕置きのためにとじこめられた倉庫の高い鉄窓からは、八丁堀や新富町の屋根瓦の海の上、京橋や銀座通りの洋風の建物のかなたに、美しい皇居の森と櫓やぐらが見え、遠く大菩薩や丹沢の山波をしたがえた富士山の姿が画のようだった。
 新川へ移った時はもう商売をやめてしもたやだった。今では狭い川も埋め立てられて、そこに架かった一ノ橋、二ノ橋、三ノ橋の跡形もないが、その頃は川の両岸にずらりと酒問屋の店と倉庫が立ち並んでいた。両国の花火を見に行くというので、その河岸かち伝馬船で大川(隅田川)へ出て、永代橋や新大橋をくぐったことを覚えている。その時分の隅田川ではうなぎが釣れた。夜、父と一緒に小舟を出して、うちの近くで、石油ランプの明りをたよりによく釣った。今では嘘のような話だが、佃島周辺や浜離宮のあたりでは、漁師が四ッ手網でしらうおをとっていた。築地の明石町でも、鉄砲洲でも、またその後の新川でも、幼い私の水辺の漁は主としてかにえびだった。弁慶がにもくぞうがに川えび手長えび。もちろん水は今よりずっと綺麗で、えたいの知れない不潔な物や重油なんぞは浮いても流れてもいなかった。ゆりかもめが飛んでいた。こあじさしも飛んでいた。とびもたくさん舞っていた。水の上にも町の通りにも、まだ明治の東京の牧歌があった。
 つい最近の事だが、その「ふるさと」を見に行って驚いた。歌舞伎座前から小田原町への間、たしか紀伊国橋きのくにばしとかいった橋がなくなって、昔私が貸し舟を漕ぎ回した川が深くえぐられた自動車道路になっていた。つまり以前の京橋区役所や築地警察署を車の窓から見上げるのである。明石町には昔の外人居留地のおもかげなどは全く無く、佃の渡しもやめになって、長い大きな赤い橋が対岸の住吉神社へと隅田川を跨いでいた。鉄砲洲の昔の家のあとは古いすすけた洋風の倉庫、鉄砲洲のお稲荷様は広い道路の片側に押しつけられ、稲荷橋も高橋もすっかり趣きを変えていた。新川では酒問屋の一軒、酒倉の一棟を思い出すのも困難なほど様子が変わり、ただ私の家への入口にあった大神宮様だけが小さい形を残していた。
 そして茅場町から馬場、八丁堀。もうそのあたりまで来ると徐おもむろに巨大で怪異な東京が始まるのだった。
                              (一九六五年九月)

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 その頃の孫 


 私にはちょうど今小学の三年生になる子も孫もいないので、編集部からの註文にうまくそっくり添うような新鮮な話題がなくて残念だが、ことし十三で中学の一年生になる男の児の孫があって、その子の九つぐらいの時の生活にまだきわめて鮮明な思い出がいくつかあるから、その内の一つか二つを書いて責めをふさごうと思う。

 その頃の六月初めの或る日、私は近所の空地に茂っているカナムグラの葉に黄タテハの雌がしきりに卵を産みつけながら飛び廻っているのを目撃して、孫たちにこの蝶を卵から成虫になるまで飼育させてやろうと思いついた。そういう事を私は若い時から好きで、長い間ずいぶん丹念にやったものだからである。用具は細い金網張りの飼育籠に、水を入れたガラス・コップ二三個。そのコップへ採集してきたカナムグラの葉を挿して、幾日間かしおれないように工夫した。葉の裏には縱に凹凸のある小さなビール樽のような透明な薄青い卵が一粒ずつ産みつけてある。その卵から幼虫、蛹の時代を経て、順調に行ったら二十日間ぐらいで美しい羽根を閉じたり開いたりする成蝶が見られるだろう。こうして小学三年生の敦彦と、中学一年生の姉美砂子とのための生物の観察指導がはじまった。
 紙数が限られているからその間の事は略すが、彼らの幼い観察と飼育との記録書きの二十幾日目に、三十羽近い黄タテハが一時にめでたく羽化した。小さい敦彦とその姉との純粋な感動は、はたの見る目にも涙ぐましい程だった。二人は籠のふたをあけて一羽一羽初夏の輝く空間へ放してやりながら、「さよなら、さよなら! 丈夫でね!」と口々に叫んで手を振った。子供の知識欲の満足と人間らしい愛情の発露。私はこの二つの物の一体となった小さい世界を心から祝福した。

 「おじいちゃん、うちのキキは僕が散歩に連れていってやると、きまって往来でおしっこをして仕様がないんだよ」と、九つになる敦彦が年老いた祖父の私に訴える。キキというのは彼がもっと小さい時から可愛がっている年をとった柴犬の雑種である。「僕、よその人に見られやしないかと思って恥ずかしくって……」
 その敦彦が、これも六月の夕方近く私と一緒に散歩に出かける。ところどころに畑地や薮も残っているが、だんだんと立派な邸宅が建ってゆく私たちの家の近くの静かな清潔な往来である。手をつないで歩きながら、まだ可愛い事や、もういくらかませた事を言うこの孫の話を聴いているうちに、私は急に用をたしたくなって往来の片側の薮の前にたたずんだ。その私の変わったそぶりを見ると、敦彦は急に足を早めて先へ行き、振り向きながら小声で私に警告した。「おじいちゃん。向こうから人が来るよ!」しかし今となっては既にどうしようもなかった。見て見ぬふりの通行人をやりすごし、用をたし終わって私が追いつくと、小さい孫は純潔な白い額に幼い縱皺を寄せて言った、「おじいちゃん、恥ずかしくない? 道ばたでおしっこなんかして」。私は苦が笑いをした。「でもね、仕方が無かったんだよ。自然が私を呼ぶと言ってね」。「その、自然が呼ぶというのはどういう事?」。「生理的要求と言ってね、我慢しようと思っても我慢ができないくらい押し出してくる体の中の暴力みたいなものなんだよ」。「そう」と、孫はまだすっかりは納得できないような顔つきで言った。「じゃあ、おじいちゃんもキキも、そとへ出ると時どき自然に呼ばれるってわけだね。こまるなあ。僕ならそんな暴力には負けないんだけど」。
 私はこの孫の顔をつくづくと見て、本当に純真な可愛い子だと思った。
 そして犬の一年は人間の十年に当たると、いつか誰かから聞いた話を思い出し、自分の年からキキの年齢を割り出してみた。
                              (一九六六年一月)

 

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 雑 草


 これはいわゆる観賞用植物ではない。われわれが園芸会社から取り寄せたり、場所を指図して植木職に植えこませたりするような植物ではない。この初夏の太陽とひろびろと吹く風の中で栄えに栄え、はびこりにはびこって、路傍の空き地や手入れの悪い庭や、田舎の鉄道線路ぞいに、薄桃色を帯びた白い菊のような花を咲かせている雑草である。
 しかし雑草とは言え勿論りっぱに名は持っている。いつ誰がつけた名かは知らないがハルジョオンという。漢字だと春女菀と書くのだから字面は優しく美しい。しかし名は体を現すどころか、実物は生活力も繁殖力もすこぶる旺盛で、春の間に少しでも気をゆるしたり手をゆるめたりしようものなら、忽ち限りもなくはびこり広がって、夏の初めの今頃には、ほかのもっと繊細な大切な草花を圧倒し圧殺してしまう。アメリカからの帰化植物だと言うが、その普及力や浸透力の強大さは、いわゆる人海戦術のそれを思わせる。
 私のところでも庭の手入れが悪いので、今このハルジョオンがすべての木の下、花壇のあいだに、その最盛季を奢おごっている。植物ならば何でも可愛がりいとしがる妻は「綺麗でいいじゃありませんか」と言うが、私にはいささか憂欝の種で、この盛況を見るとうんざりしてしまう。
 しかし或る日のこと、自分として今までにただの一度もこの野生の菊科の花を手に取って、こまかに調べたことのないのに私は気がついた。そこで憂欝は憂欝として、咲きひろがっている何千という花の中からただ一輪を摘まみとり、ピンセットと拡大鏡を用意して、書斎の窓ぎわの机の上でその薄桃色の頭状花をこわしてみた。そして花びら(正しくは一箇一箇の舌状花)を丁寧に並べてみてその数の多いのに驚嘆した。なんとそれがきっちり二五〇箇もあって、しかも細長いその花びらの先端がいずれも愛らしく二つに裂けているのだった。それからなおも中心の黄色い管状花を調べたが、これも百箇あまりが球のように密集して金色の花粉を盛り上げていた。
 思い立って急に昔の植物研究者時代にもどった私には、庭や空地をうずめるこの雑草ももう余り迷惑や憂欝の種ではなくなった。つまり捨てて顧みられない微小な生物の世界をよく見ることで、広大な世界を作っている秘密というものを、再び久しぶりに見る目をあけられたのである。
                              (一九六六年四月)

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 新しい印章


 今まで使っていたもののほかに、私は近ごろもう一つ別の印形いんぎょうを持つことになった。
 字を書かされた時や、自分の著書の特製本の奥付に捺したりする時の印だから、役揚に届けてある形式だけの実印や、ふだん色々な受取り証などに使う認め印とは、用途の上でも品位の点でも違っている。今までのには「淡烟草舎」とあるが、今度のは自分の名から採られた「喜」の一字である。いずれも友人串田孫一さんの篆刻になるもので、前からの印の書体は格式をそなえて荘重、今度のは古雅でいてどこかに縹渺とした趣きがある。それに形もいくぶん小さいから、旅の際の持ち歩きなどには、そう言っては悪いが特に便利だ。
 その印材がまた実にいい。冷たく滑らかな四角の立方体は、うすい高層雲の空のように曇って白く、ところどころに洩れ陽のような黄色い彩あやが匂っている。中国雲南省あたりの産の、上等な蠟石かと思われる。そして底辺一七ミリ平方、高さ二七ミリのこの石印を収容し保護するのに、濃い緑のレース糸細編こまあみの袋をもってし、その口をレンガ色の細い編み紐でくくるようにしてある。しかもこの袋は串田さんの奥さんの手になるもの。つまりご夫婦の合作ということになる。何という心のこもった手芸だろう!
 これこそは私にとって、古い友情の新しい記念でもあれば、もう一つ加わった貴い宝でもある。これを捺して内心に恥じないためには、私から一層よい詩が生まれなければならず、字も今よりも正しく美しく書けるようにならなければならない。性来字の拙い私に書を所望する人が少なくないが、それはそれとして、今私の願うのは、自分の書いた物とそこに捺したこの印とが、私という存在の偽りなき、しかもいくらか美化された証拠となるようにということである。
                           (一九六六年五月)

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 たまたまの余暇


 原稿書きだとか、手紙の返事書きだとか、色々な会合への止むを得ない出席だとか、家の中の雑用だとかに追われて、私は私なりに毎日忙しく暮らしている。できるだけ自由な時間をつくり出して、本を読むなり、散歩をするなり、庭へ出て草木の花を調べるなり、小鳥や虫たちの生活を覗くなり、或いは数日来頭に引っかかっている詩の構想を、その荒筋だけでも書いて置くなりしたいと思いながら、いずれもなかなかそうはいかない。しかもその間には、まるで知らない人や処から飛び掛かってくる電話というもの。これがまたそれ以後の用事の予約になることが多い。
 レジャー・ブームとかレジャー族とか、このごろやたらに使われて俗化され変質され、従ってひどく堕落した感のあるレジャーという英米語を私はあまり好まないが、そのレジャー、つまり余暇が、私には容易につかまえられない。フランス語ではルワジール loisirと言って、「人が自由に使ったり振舞ったりすることのできる時間」という意味である。これだといくらか床しくもあり品位もあるが、いずれにしてもその肝腎の余暇らしいものが(もっと正しく言えば清閑が)、得られそうでなかなか得られないというのが歎かわしい現状である。
 しかしその私にも、このごろになってたまたま貴いすがすがしい余暇が与えられ、音楽と、詩と、野山の散策とで、自分の自由な大らかな時間を満たすことのできる一夜と一日とを持つことができた。
 春も半ばの或る晴れた夜、東京上野の文化会館小ホール。そこで催されたイギリス・ルネサンス時代の音楽を聴かせる会へ私も招待された。十六世紀から十七世紀へかけてのイギリスの有名無名の作曲家たちの作品を演奏するもので、男女の合唱もあれば独唱もあり、それに加わる楽器もすべて古風な典雅なものだった。ダウランド、バード、ダンスタブル、モーレイなど、多少は知っている名もまじり、初めて聴く作者の名も少なくなかった。いずれも雅致があってのんびりとした田園風の曲だったが、その「古き善き時代」を思わせる町や宮廷や野の歌が、何かに追いかけられているような日頃の落ちつかない気持を落ちつかせ柔らげて、遠い世からの澄んだ日光か銀いろの風のような効果をもたらすのだった。中でも三人の若い女性によるヴィオラ・ダ・ガンバと、リコーダーと、小さいオルガンとの合奏が、その得も言えない爽やかな響きと気品のあるみやびやかさとで、私の心をとらえ慰めた。
 それから数日後の或る日、一日だけの自由な昼間が折よくも晴れたので、久しぶりのサブリュックヘ軽い弁当と飲み物と防水のシーツを押しこみ、これも久しぶりのキャラヴァンシューズにブラシをかけて、毎日書斎の窓から眺めている遠い青い山のほうヘピクニックに出かけた。そこに春の林があり、柔らかい緑の草原があり、あわよくば細い綺麗な谷川のあるあたりへ。そしてこんな遠足にふさわしいお供として、書斎の棚から塵をはらって、一冊の古い薄いアイヒェンドルフの詩集を持って行くことにした。これならばなじみも深く、読むにもらくで、おまけに自然の中の明るい哀愁にも伴奏ができそうだった。
 だれ一人遊びに来る者もない週間日の山の草地。弁当を食べ、紅茶を飲み、煙草を喫いおわると、私は若いヨモギや紅いカラスノエンドウのびっしり生えた草原へ寝ころんで、片肱を枕にアイヒェンドルフを読んだ。「友」と「郷愁」と「異郷にて」はフーゴー・ヴォルフなどの作曲でも知っているので、うろ覚えながら節をつけて読んだ。そしてこの詩人の詩想やドイツ語の爽快さは、こんな時と場所でこそ特にその真価を発揮するように思われた。そしてその間じゅう春の午後の太陽が照り、涼しい南のそよかぜが吹いていた。
 それから望みどおり一筋の清らかな流れを見つけたので、今度はそこへ行って「砕かれた指環」を読んだ。そうするとシューベルトの『美しき水車小屋の娘』の終曲『小川の子守歌』が、この詩の姉か妹のような気がして一層なつかしい気がした。しかもここでは青い流れをうねって泳ぐ薄い黄色い魚の姿が見られ、むこうの崖の藪の中でしきりに歌う一羽のウグイスが聴かれた。
 以上の二つの場合、そのいずれにも、何となく古風なものがその中心となっている。しかし私のような人間が持ちたいと願う余暇には、清閑には、やはり常にその本質として古風なものが予感されているのではないだろうか。稀少となって静かに美化された古風なものが。
                               (一九六六年五月)

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 私の一冊の本


 今までの生涯に読んだ無数の書物の中からただ一冊を選び出して、それについて書けと言われても容易なことではないが、さりとて私自身の多くの著書や文学的な翻訳書の中から何か一冊をあげるように頼まれても、これもちょっとむずかしい仕事で、おいそれとは答えられない。最初の詩集や散文の本にはそれぞれなつかしい特別な思い出がつきまとっているにしても、今から見れば両方とも未熟な物だし、それならば訳書の方はどうかと言えば、ロマン・ロランだとか、ヘッセだとか、リルケだとか、デュアメルだとか、いずれも今なお自分の尊敬したり愛したりしている作者のものなので、これもその中から一つをとくに抜き出すということはしにくいし、心にも染まない。
 そこでふと頭に浮かんだのが私の唯一の山関係の訳書、エミール・ジャヴェルの『一登山家の思い出』である。これは私にとって異色の本でもあれば仕事でもあり、その後私自身山の文章を書くようになってからも、その影響がかなり長く自分のうちに働いたからである。
 この本のフランス語の原書を初めて手にしたのは昭和五年秋の半ばのことだった。今から三十六年前、当時信州の霧ケ峰でヒュッテを経営していた古い友人長尾宏也君からこれを贈られて、ぜひ翻訳をするようにすすめられた。「あなたこそ最適の訳者です」ということだった。
 私は秋の静かなヒュッテでの滞在中にその冒頭の一章「二た夏の思い出」を読んで、作者の人柄と心根のゆかしさ、その文章の美しさにすっかり魅せられてしまった。すでに少しばかり山の経験を持っている私にとって、この本こそは自分の登山や高原のさすらいや、その折り折りの体験や感慨を述べるのにこのうえもない美しい手本であるように思われた。
 それから幾年、私の書く物には、詩にも、文章にも、山のことが多くなった。多産の夏、実りの秋がいくたびかめぐった。昭和八年に詩集『旅と滞在』を出版し、つづいて十年に最初の散文集『山の絵本』を出し、さらに『雲と草原』の一巻を成すものの大部分を書いていた。そしてその間には気をかえるために、『一登山家の思い出』の翻訳に手を染めていた。
 そして昭和十二年の秋、ついに訳業終わったその本が、そのころまだ若かった沢田伊四郎君の竜星閣から出た。普通の版も特製本もともにりっぱな重厚な書物だった。私はそれを抱きしめた。それらの本は今では絶版になって容易に手にはいらないが、ある書店からの文庫本としては、山岳書の古典ということで、今でもなお読者の愛をつないでいる。 
 ジャヴェルには「アルプスの伝道者」という仇名がある。しかし「たった一人、自分流儀で、真に平然と、また常に何かしら新しい喜悦を感じながら山々各々をさまよった彼、消えかかった小径をたどってただ一人山小屋の戸をたたき、堆石を飛びこえ、氷河を登り、高峰をよじることに言い知れぬ喜びを覚えた」彼、そしてそういう独特な山登りを悲しく澄んだ歌のように流れる文章につづったあのジャヴェル、登山界の孤高のジャヴェルを、私はむしろ「アルプスのオルフォイス」の名で呼びたいと思う。
                             (一九六六年八月)

 

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 旅の宿


 私は旅で泊まっても、旅館やホテルの待遇にあまり多く期待をかけない。期待をかけて行って失望するのは厭だし、それが後まで気持の底に低迷してせっかくの旅そのものに愉快でない後味の残るのを恐れるからである。
 あえて言うのもおかしいけれど、いくらかの贅沢ならば宅にいてもしているし、身のまわりのことでも、痒いところへ手の届くような面倒をうちの者からみてもらっている。
 しかしそんなのとはまた違った、何か好もしい待遇の仕方が旅先の宿にはあるというのなら話は別だが、今の私なんぞにはそれもちょっと思いつかない。それと目立たず、事もなげに行われる善意や心づかい、さっぱりしていて気が置けず、うれしい実意だけがそこはかとなく匂っているようなおのずからのサーヴィス。私が旅の空でめぐり合いたいと思うこと、人間と施設に関するかぎり、それをおいてほかには無い。
 だからここでは旅館やホテルへの註文は書かない。指導的なこの雑誌の編集部では期待しているのかも知れないが、旅客としての不平不満や憤慨の思い出にも触れない。それはまたそれで別に書く人もあるだろう。私としては数ある思い出のなかのいいものだけを書くことにしたい。それが物を書く私の目下の楽しみだ。わざわざ不味い物から食い上げなくても、美味い物で養われていればその反対は教えられずしてわかる。好んで引きうける役割は人によってそれぞれだろうが、私には私なりの仕方をゆるしてもらいたい。

     *

 書くとなるとまず信州上高地のG旅館が心に浮かぶ。
 この六、七月、夏の初めのウェストン祭には必ず行って厄介になっているので、旅館というよりも寧ろ親類の家か何かへ行くような気がする。主人夫妻も番頭もフロントの若い女性もすっかり古なじみで、むこうもそうだろうが、こっちもみんなの気心を知っている。文章や詩を書いて、山や自然が好きで、年もとっていて、由来あまり手の掛からない客だから、先方もその気で安心しているのだろう、いつ行っても西穂高を目の前に、梓川を眼下に見おろす同じ部屋、同じ歓迎、同じ笑顔のあしらいである。受持ちの女中さんだけは行くたびに変わっているが、みんな無口でしつけがよく、しかもするだけの事は実意をもって静かにさっさとしてくれるのだ。私だけではないだろうが、こういうのが字義どおりアットホームで一番いい。
 ここへ泊まって楽しみなのは、入浴後、夜の食事もすんで下のホールへ降りて行って、一杯の香り高いリプトンを前に、若い主人秘蔵のクラシック・レコードを聴くことである。
 東京のうちには自分でも沢山持っているくせに、昼間さんざんこの上高地の清らかな水辺やほのぐらい森の小径を歩いたあとで、大窓のガラス越しに真黒な穂高の峰々や、青い星明りの空を眺めながら聴くモーツァルト、シューベルトの室内楽が、同じものでもなんと身にしみ心に花咲くことだろう! そんな時はたいがい私一人だが、たまにはあした滝谷をやるという猛者連が一緒のこともあり、夕方西穂・焼岳の登山から帰って来たという若い女性たちと同席になることもある。そしてそんな時、私が乞われるままにした曲の解説めいた話に、場所が場所、折が折だけに深く感銘したという人の感謝の手紙を、後になって貰って心を打たれた記憶もある。

     *

 実意の点なら信州梓山のS屋がすぐ続く。千曲川の上流、川上の奥、温泉場でも何でもないただの山村にある昔ふうの宿だから、あまり人口に膾炙かいしゃされてもいないだろうが、秩父を歩く山好きの人たちや、静かな勉強にゆく学者や大学生諸君の間には古くから知られ、愛されている。小海線の信濃川上駅から東へ約一二キロ、梓山行のバスがかよっていて宿の前がその終点になっている。
 この宿は二十数年前に行って一晩厄介になったのが最初だが、素朴な中にも客への待遇に真心がこもっているので、それが喜ばれて評判が高まり、今では座敷の増築もし、山里としては色々な近代設備も整って、あまり不当な贅沢さえ言わなければ、居心地、泊まり心地、共に楽しく静かな旅館になっている。私としてはわけてもそこの妻君の人柄が好きだ。初めての時にはお嫁さんになって来たばかりだから、あれから二十何年たった今では四十を越えているだろうが、まだ若さも失わず、おっとりとした好人物で、そのくせ細かいところまでよく気がついて、会話の端々から推しても中々のインテリである。こういう点も、大学の教授連や学生たちからの好評の因をなしているのだろう。千曲川北岸の緑の山々を目の前に十文字峠に近く、宿の横手で支流梓川の涼しい流れが「鱒」の五重奏曲をかなでている夏の初めの幾日を、あの心暖まる静かな宿でのんびり暮らしてみたいとは、今だに満たせない私の郷愁の一つである。

     *

 日光光徳沼に近いKロッジも気に入った。ロッジと言うから半ば山小屋で半分グリルのようなものだが、簡素な建物の様式も色彩もそれを取りかこむ大森林とよく調和し、山中の小旅館としての実用と趣致とを兼ね備えている。ここでもまたその若主人だか青年支配人だかの人柄がいい。たしか大学出だそうだから話しかければ話題も豊富だし、一面登山家でもあるそうだから色々と親切な世話になりスキーヤーや登山者も多いことだろう。ここは給仕人が男だが、「上のなすところ下これになろう」の諺どおり、彼らの態度も青年らしく清潔で、ちっとも厭味だったりベトついたりするところがない。幾度も言うようだが、私がホテルや旅館に期待するところは、せんじつめれば、物心共に持っているすがすがしさだ。このKロッジでの秀逸は、なんと言っても階下の明るい食堂での清楚な朝の食事だろう。私の行ったのは紅葉に早い初秋だったが、オートミールを啜り、冷肉を食い、コーヒーを飲んでいる間じゅう、窓の外の広大な落葉松やハリギリの林の中でヒガラ、アカゲラ、シジュウカラなどの小鳥が、声高らかに囀り、叫び、鳴きしきっていた。そして彼らの歌のその反響が、森林とロッジとの朝の静寂を一層深くするのだった。
 上高地、梓山、日光光徳、以上三つの旅館を書きながら私はなお塩尻峠の観光ホテル、西伊豆土肥のY屋、木曽奈良井のE屋などを書くつもりでいたがもう紙数も尽きたので割愛することにした。しかしそれらの旅館もそれぞれにいい特色を持っていて、その特色のままに私の旅を喜ばせてくれたことは言うまでもない。
                               (一九六三年二月)

 

 

 

 

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 再生の歌

 春 信


 思い出ゆたかな東京玉川の家をあとに、ここ北鎌倉明月谷の新居に移ってから、かぞえてみればもう早くも三月みつきになる。
 彼岸が過ぎたばかりで風はまだいくらか冷たいが、谷をかこむ山にも空にも春めいた光が流れている。私の家の小さい庭にも東京から移し植えたレンギョウやボケが咲き、人が新築の祝いにくれた二株のジンチョウゲがかおり、近隣の家の庭垣の奥では白梅が散ったかわりに紅梅が今を盛りとびっしり咲き、大きなコブシの木の枝には勇ましいつぼみが自い炎か短刀のように立っている。裏山から聴こえるコジュケイやホオジロやシジュウカラの歌、窓のむこうをよろめくように飛んで行くモンシロチョウの姿。ほんとうにもう春がきたといえばいえる。
 しかし心を静めてよく見、よく感じれば、そこにはまだ自然の幼顔おさながおの犯しがたいものがあって、決してあでやかに花やかに笑いさざめくそれではない。私が今朝レコードでベートーヴェンを聴きながら、いわゆる「スプリング・ソナタ」ではなく、「パストラール」と呼ばれている第一五番のピアノ・ソナタを選んだのもそのためである。前者は豊かな成熟を思わせるが、後者には若い自然児のあこがれのようなものが歌っているのである。
 十日ほど前には娘と一緒に家のうしろの山を歩いてみた。ハイキングーコースといわれている樹下の細道をたどって行くとヤブスミレ、カンアオイ、シュンランなどが次々にひっそりと現れた。いずれも花を咲かせていたが、足もとの小さい植物などに無関心な眼には気づかれないような存在である。もちろんちぎったり掘り取ったりはしないで、指の先で柔らかにもち上げてながめて、その名を手帳へ書きこんだ。
 ある高みの見晴らしからは、南へ向かって遠く春がすみの海が見え、それを抱く二つの岬が見え、鎌倉の大きな町並みが見え、建長寺その他の寺の青銅色の屋根が見えた。反対側には大船からひろがってきた広大な新開の団地が目の下だったが、無残に破壊されてゆく自然を見るに忍びないので、暗い森林の中の小径を、ときどきヒヨドリなどの声を聞きながら、自分たちの家の横手へ下った。わずか百メートルかそこらの高さとはいえ、私にとっては久しぶりの山歩きだった。
 谷の奥に住んでそれで結構満足しているように見える私を、早くこの鎌倉という土地に親しませたいという心から、ラジオの脚本作家で詩人でもある若い友が、ときどきたずねてきては誘い出してくれる。それで二、三日前には材木座から小坪の海岸へ行って大きな銀杏の木のある正覚寺の境内からうららかな春の海をながめ、足を返して名越なごえ松葉ガ谷の妙法寺をたずねた。皺のような波の寄せ返す小坪の浜の暖かい砂の上には、十羽近いハマシギが小走りに走って餌をあさっていた。
 妙法寺は古いりっぱな寺だった。山のいちばん下の総門から頂上近い護良もりなが親王の墓といわれている石塔のあるところまで、高さ七、八十メートルはあったろうか、全山まだ裸の木々や常緑樹におおわれていたが、セミの鳴きとよもす青葉の夏の盛観が想像された。「苔の石段」と呼ばれている古い石段もよかった。親王の墓所からその石段や山門をまっすぐ見おろすと、その直線上はるかかなたに海が見えたが、私にはそのながめと境内の深い静けさと堅固な落着きとが、一曲の荘重なオルガン音楽のように思われた。

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 再生の歌 


 この毎日の晴れやかに暑い盛んな夏を、北鎌倉明月谷の静かな新居で、おもむろに病後のからだを養っている。膀胱にできた腫瘍の手術をうけて入院していること四十五日、ようやく退院の許しを得て湘南の緑の山のあいだへ帰って以来、ほぼ半月になる。
 経過ははなはだ順調のように思われる。からだがやせて目方が減って、さすがにまだ体力に自信はないが、物を考えたり心に浮かんだことを書きとめたり、多少こみいった文章を読み解いたりすることのできるほどには、頭脳のはたらきも回復してきた気がする。
 三、四日前には「あじさい寺」の明月院まで、谷あいの坂道を往復してみてやはりいくらか疲れたが、きのうは「病癒えたる者の神への感謝の歌」のあるベートーヴェンの弦楽四重奏曲を書斎のレコードで終わりまできいて、久しぶりに深い芸術的な感動にひたることのできた自分の頭と心情のよみがえりを喜んだ。
 手遅れになればガンに移行するところだったと言われたこの病を、主治医の鈴木仁長博士からまず発見され、その紹介でその部門の第一人者で、折りからドイツへ出発される直前の土屋文雄博士の早期の手術のおかげで救われたことも幸運なら、雨の多かった一ヵ月半の毎日を、鎌倉から東京千代田区富士見町の病院まで、別に付添いがいるにもかかわらず、何かしら口に合う食料や鉱泉のビンづめを運んで看病に通ってくれた老妻のいたことも、私にとっては恵みであり頼りであった。それにこの入院のことを聞き伝えて見舞に来てくれた友人や知己。その人たちの親身な優しい心にも、それに値する感謝の言葉が見出せないほどである。
 同じ病棟担任の先生たちにも一方ならぬお世話になった。またどの患者にも同じよう記気持よく親切で、規律正しく行き届いた看護婦の諸君の奉仕にもお礼を言わなくてはならない。闘病という言葉はあるが、そのたたかいも純粋に独力でやり抜けないことのように思われる。まして美しく病むためには、忍従の空にかける患者自身の希望の虹や、平癒を祈る周囲のまごころの助力がなくてはならない。とはいえ私の病臥中にも、吉野秀雄氏をはじめ惜しむべき幾人かの人のさびしい死の知らせがあった。そしてその人たちの重い病とのたたかいがどんなに孤独に苦しいものであったかを想像すれば、「美しく病む」などと軽々しく言うことも、あるいは慎まなくてはならないかも知れない。
 新居に近い明月院のアジサイのたよりや、谷戸やとの岩壁をいろどるイワタバコの薄紫の花のことや、山あいの田んぼに飛びかう梅雨の夜のホタルのうわさなどを妻の口からきかされながら半ば焦燥の思いで六月いっぱいを病院のベッドで暮らした私は、せめて初めて住む鎌倉の豊かなきらびやかな七月をこの目で見、このからだで生きたかった。その七月に入ると、退院を許される日がいよいよ切実に待たれた。そしてついに「あしたはお帰りになってよろしいです」と言われた七月十四日こそ、私にとっては革命記念日にも匹敵する画期的な日だった。そしてあくる十五日の朝、家に持ち帰る大小の荷物にかこまれながら、これをかぎりの病室のベッドに腰をかけて、ふるえる手で「今日からの余命を感謝の歌で生き深める」と、私はポケット日記のその日の欄に書いたのだった。
 上の地所に住んでいる親しい友人が回してくれた立派な自家用車で北鎌倉の家へ帰ると、周囲の山も谷もかつての五月末とくらべればその緑いよいよ濃く、たくましく、木々も草も茂りに茂ってその間にヤマユリが咲き、キキョウが咲き、まだ衰えないウグイスやホオジロやシジュウカラの歌が山間の澄んだ空気に響き返っていた。
 狭いながらわが家の庭も夏の草花で輝いていた。今を盛りの各種のグラジオラスも見事なら、こうあってほしいと願っていたとおりマツバボタンの赤や白や黄の花も、暑い日光を浴び涼しい風に吹かれてひらひらと軽やかに、玄関前の踏石や花壇のふちをいろどっていた。病み上がりの私はこうした自然の輝きや、強い生活力に圧倒されて思わず目がくらみ、よろめくような気がしたが、それをいたわり慰めるかのように、夕暮れになると遠く近くヒグラシの歌が生まれ、建長寺の方角の空、南に黒い屋根の上に、サソリの星座が赤い主星のアンタレスを光らせてその上半身をのぞかせた。
 こうして再び生きることを許された私は愛する家族のもとへ帰り、親しい友人たちと共に生きる世界へ帰り、その霊妙な美や力が自分の心や芸術への深く貴い教えであり糧である自然の中へと帰って来た。それならばこんにち以後、私はいやまさる愛と感謝と郷愁とで世界を抱きしめ、やがて召される日まで、おのが魂をいよいよ清く美しく装わなければならない。

 

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 内と外 


  

 朝夕はようやく気温が下がって、あれほどきびしかった昼間の暑さもいくらかしのぎよくなった。この谷をかこむ山の木々の緑にも、よく見ればほのかに黄の色がさし、青い空にも、静かに動く白い雲にも、夏の別れ、秋のおとずれの、そこはかとない詩情が感じられる。
 家のまわりの草原ではススキがうすい金いろの穂を柔らかに出し、高々と茂りに茂ったヒメムカショモギやアレチノギクが、そよ吹く風にも軽い冠毛の綿を煙のように散らしている。ツクツクボウシはまだ盛んに鳴いているが、ミンミンゼミの声はひところから較べるとだいぶ遠のいたし、数も減った。そのかわり草の中の虫の音はいよいよ賑やかで、昼間はササキリやヤブキリも加わったキリギリスの仲間、夜はエンマ、ツヅレサセ、ミヅカド、カネタタキ、クサヒバリのようなコオロギの類、それに家族の者たちがうかつにはその居場所を人にも教えず、大事に思って聴き入っているたった一匹のカンタンさえまじって、夕方から旱の夜ふけにかけ、彼らの混声合唱がまことに涼しくすばらしい。
 山が近く、樹木が多いので、小鳥たちの歌も何かしら絶えず聴こえる。もっとも八月に入ってからの停鳴期がまだ続いているので、彼らの歌ごえは貧しいといえば貧しいが、それでもホオジロの庶民的で田園的な歌はほとんど完全だし、シジュウカラにしてもまずは合格。しかしウグイスはたいていの場合もう「ホーホケキョ」の「ケキョ」しか鳴かない。海が近いせいかトビが多く、見るたびにたいがい一羽か二羽は空の高いところを舞っている。そしてその雄大な飛翔の輪が低く沈んで来て近くの山の端をかすめるような時には、猛禽の族らしい彼らの金属的な引き裂くような叫びが響く。コジュケイやスズメは始終、コカワラヒワやメジロも時どき。それに今朝は春以来久しぶりにヒヨドリの威勢のいい「ピーヨ」を聴いた。山地からの秋の帰還をその第一声で知らせたらしい。
 こうして我が家のまわりの植物や虫や小鳥たちのことを書いていると、ついこのごろの八月の週間日二十八日間の毎朝、NHKラジオの第二放送で甲南大学の教授寿岳文章さんが、ギルバート・ホワイトの『セルボーンの博物誌』の講義をされていたことを思い出さずにはいられない。寿岳さんがイギリスのいわゆる自然文学を愛して、それに精通して、その方面の貴重な業績もいくつか残している学者であることは私も早くから知ってひそかに好感を抱いていた。そしてその上、私は自分としても若い時からこういう種類の文学が好きで、イギリス人ではホワイトを初めアイザック・ウォルトン、ハドスン、ジェツフリーズ、アメリカ人ではヘンリー・ソローやジョーン・バローズのような人たちの原文の著書を数多く集めて読みふけったものだった。こうした昔懐かしい『セルボーンの博物誌』を、自身その立派な翻訳者でもある寿岳さんがよく選ばれた適切な日本語、重厚であってしかも心のこもった話し方で朝ごとに二十分問講義をするのである。私は今と同じように病後の静養中だったが、日曜を除いた毎日の午前七時四十分から始まるその古典講座を、盛夏の谷にのぞんだ書斎のソーファで、自分の古い読書の記憶をよみがえらせながら心楽しく傾聴するのだった。そして八月三十一日の最後の講義の結びとして、生涯をホワイトの研究と「博物誌」の翻訳に捧げつくしながら、世の中からはほとんど知られずに終わった高知県佐川町の篤学者故西谷退三氏に言及されたのを床しいと思った。
 こうして今はまだ体力も旧に復さない私だが、やがて体に肉もつき血液も濃くなって、少しぐらいの遠出や小さい旅が出来るようになったら、さっそく行きたいと思うのは自然の中へであり、山へである。秋のうちならばもちろんいいが、冬に入ってからでも悪くない。なるべく人の行かない場所、寂しいくらい静かな場所、しかも自分にとっては豊かな思い出につながる古なじみの場所。まずそういう高原か山へ行ってみたい。雨では困るが曇天程度ならば時にかえって味わいもあるし、もしも暖かく晴れた日ならばこれに越したことはない。山によっては東京都下のものでもいい。秩父の前衛の山々にしたところで東京都に編入されているのもあるくらいだから。しかし欲を言えばやはり甲州か信州の山地にしたい。それに当分どこにしろ日帰りでは強行で無理だから、少なくとも一晩は宿をと
らなくてはならない。そしてそういう宿の名も私の心の予定表には書かれている。或いはその後様子が変わったかも知れないが、みんな何かの意味で一度は気に入った宿だ。主人や経営のやり方さえ変わっていなければ大してまごつく事もないだろう。それに私は少しぐらい不満なところでも満足を見出し、あまり美しくない世からでも美を造り出すことのできる詩人の一人だ。
 山の自然や其処への旅から感銘を得、山への愛や山に寄せる思いをかなりの数の詩や文章に書いてきた私を、世間の一部では「山の詩人」とか「自然詩人」とか呼んでいる。そう呼ばれて別に悪い気持はしないが、今となっては内心いくらか恥ずかしく思う時もあるのである。なぜかと言えば以前からも山を題材に書いた人は少なくなかったし、殊に現在ではそういう人たちが輩出して、それぞれ立派な仕事を残したり続けたりしている。そして彼らの足跡は私のそれなど問題にならないほど遠く、日本の山は元より、近年ではアジア、ヨーロッパ、南北アメリカ、アフリカ、オーストラリアなどの未踏の高山にまで及んでいる。手近な例では深田久弥さんがその最もすぐれた一人だ。出版以来ずっと好評をつづけている彼の『日本百名山』を読んで、一座一座の山の特色を新しい着眼で取り上げて
顕揚しているその見事な文章に感心しながら、私は自分がそれらの山の二十分の一すら経験していないのを知って恐縮した。そしてその恐縮が本音だと思うにつけ、たとえ細くてもみすぼらしくても、許された余生の中で、自分は自分の道をさぐり深めるほかにないと考えているこのごろである。
 上高地のウェストン祭に例年どおり参加したついでに、今年は久しぶりで西穂高か蝶ケ岳へ登って来ようと楽しみにしていた六月の初めを、私はアルプスの山小屋ならぬ都会の病院のベッドに仰臥していた。その取り返しを、出来るものならこの秋の終わらないうちに、欲を言えば紅葉が盛りで空か日光の爽やかな日に、近くてもいいから何処かの山でつけたいと願っている。

  

 爽やかに晴れた一日が予感される九月の或る朝、廊下をつたい階段をのぼって、下の音楽室からすこし曇ったようなピアノの音がとどいて来る。これから駅へかけつけて、横須賀線、中央線、井ノ頭線と電車を乗りついで東京杉並の先生の教室ヘレッスンを受けに行くという十九になる孫娘の、朝飯後一時間ばかりのバッハとショパンの練習である。バッハは「平均率」、ショパンは「即興曲」。もうあと四、五日で大学一年の二学期が始まると、すぐに試験される二つの課題曲だそうである。
 ショパンのピアノ曲の美が自分にも充分わかるような気がしていながら、気質が合わないというか、縁が薄いというか、どうも私は昔から彼の芸術に心から打ちこめないまま今日に及んでいる。だからこの巨匠の作品を聴きに行くのは、ここ数年、安川加寿子さんのリサイタルの時ぐらいのもので、所蔵のレコードの中にも彼のものはきわめて少なく、時には若い親しい友人中の熱烈なショパン党の、軽蔑とは言わないまでも少なくとも遺憾をまじえた不満の表情や、憐憫の目つきにも出合うのである。そのショパンの日本訳の書翰集を新刊後間もない或る日、「おじいちゃんはこの本いらないでしょ。お借りしていくわよ」と、前記の孫娘は彼女の音楽室の書棚へさらって行った。もっと幼い小学校のころ、私から秘蔵のSP盤の「幻想即興曲」をもらって、感激に身をふるわせてほとんど泣き出さんばかりだった彼女が。
 幼稚園の頃からずっと先生についてピアノをやっていながら、大学へ入るとピアノ科ならぬ楽理科を選んだこの孫娘が、将来どんな音楽生活をいとなみ、個々の大家へのその傾倒がどんな変遷の道をたどるかは知らないが、生涯の心の友となる音楽への真の愛を学んだ事と、みずから奏でる楽器を通して古来の大家たちの最も純粋な言葉を聴いたり、おのれの内心の喜びや悲しみをひそかに訴えて、そこから慰められることの出来るのは幸福だと言わなければならない。ところがその幸福の後の方のものを私は持たない。私は愛して聴くだけだ。東京下町の商家に生まれてその庶民風な家庭の空気の中で育った私に、ピアノは愚かどんな西洋楽器も縁がなかった。だから音楽無しでは生きられないようになった今、自分と同じ文筆の仕事にたずさわっている人々の中で、楽器を、特にピアノを弾くことのできる人を見ると羨ましい。そしてその少年時代に、おそらくは先ず母親や姉から、この楽器の手ほどきを受けたであろうと思われる人々にショパン愛好者の多いこともうなずかれる。なぜならばピアノの国のけだかい王子フレデリック・フランソワ・ショパンは、その痛ましいほど清らかで繊細なピアニスチックの美を流露させて、彼ら貴族的な少年の魂を恍惚とさせ、それを月光の庭の花の香のようなもので抱き包んだに違いないからである。
 この夏の1ヵ月半の入院中、手術後の苦痛が日一日と軽くなるにつれて、私は退院の日を待ちながら、その間何よりも音楽にあこがれた。眼や頭のはたらきがまだ弱っているせいか書物を読みたい気持にはならなかったが、音楽を聴きたい要求は切実だった。携帯ラジオを持っていたからイヤホーンを耳へ挿しこめばFMの放送でも何でも聴けば聴けた。しかしはかない他界からの消息のようなその音楽にはこの世の空間の広がりの感じがまるで無かったし、こめかみに近い狹い孔の中での音の振動は、鼓膜を痛めるおそれがあった。私は一度か二度聴いただけでやめにして、それからは退院後の我が家でのゆったりとしたレコード聴きや、もっと良くなってからの音楽会行きの楽しい空想で満足した。晩秋か冬の夜のバッハ・ギルドや東京バロックの演奏会! そこの明るく暖かい、ほのぼのと親しみの満ちた雰囲気への思いが、とらわれの身のような私の不眠の夜を慰めた。勇気づけた。
 今日から我が家での生活が始まるという鎌倉の朝、自分だけおくれた食事を済ませて二階の書斎へ上がると、部屋のまんなかの卓上に一枚のレコードが置いてあり、それに何か字を書いた小さい紙きれが載っていた。取り上げて見ると「お祝、祖父様、美砂子より」とある。きのう私が退院してくると、誰からも見られないところでしっかりと抱きついて「よかったわね、おじいちゃん、無事に帰れて!」と言って泣きじゃくった孫娘からの贈り物だった。私は友達との約束で朝早く東京へ出かけて今は不在の彼女からの祝いの品を敬虔な気持で手に取った。それはバッハのカンタータの第一番と第一七〇番とが表と裏に入っている盤で、いずれそのうち買おうと思いながら果たさなかった物である。第一番は「暁の星のいかに美わしく輝くかな」、第一七〇番は「楽しき憩い、望ましき心の喜び」で、両方とも今朝から始まる私の新しい生とその心境とにふさわしい曲だった。そして退院帰宅後の私の最初に耳を傾けたのが、この朝の祝福の音楽だったことは言うまでもない。
 バッハの次にベートーヴェンとモーツァルトが来たのは私にあって自然だった。しかしいくら音楽に飢えていたとは言え、手当り次第に、むさぼるように聴く事はしなかった。一どきの浪費を節して楽しみを長めるように、内心の要求の秩序にしたがって、一日に一曲か、せいぜい二曲を聴いて満足した。ベートーヴェンのイ短調の弦楽四重奏曲、それを聴くことを病院のベッドで夢にまで見た「病癒えたる者の神への聖なる感謝の歌」のあるあの作品一三二番を、私はほんとうにわが事、わが告白のように思いながら聴いた。そして同じベートーヴェンの「ラズモフスキー」の第三番では、その終曲のフーガの比類のない充実と高揚と、壮烈な迫力の奔流とに圧倒されて、まだ弱々しい病後の体がよろめくように感じた。
 体力の上からまだ交響曲のような大きな物を聴くに堪えない私は、モーツァルトでも弦楽四重奏曲を選んだ。モーツァルトは特に今の私の体と心とに養いを与えてくれる日光だった。しかし三曲から成る「プロシャ王」セット。そこからは、私の思いなしかも知れないが、何か寂莫としたもの、死の影の漂いのようなものが感じられた。そしてしかもそれが、この際の私にとっては、この巨匠への敬意や親密感を改めてしっかりさせるものだった。これらの曲の制作年代である一七八九年と九〇年。モーツァルトは実にそれから二年とたたない一七九一年に貧窮と孤独のうちにこの世を去ったのである。
 こうして私にふたたび音楽が帰って来た。そしてこのごろは時たま自分でも歌や笛を試みる。自分の取り上げる曲に、前よりも一層しみじみとしたものの多くなったのを感じながら。

 

 

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 秋


 このごろはもう見るだけで採る事はほとんどしないが、生来植物を好きな私は、若い時分には熱心に草や木を調べたり採集したりしたものである。山へ登るにも野を歩くにも、図鑑とルーペと小さい物差しとは必ず持って行ったし、胴乱も大小二つあって、行く先に応じてそのいずれかがお伴だった。しかし、名を知るために調べることが眼目なので、図鑑と道具とはよく使ったが、何でも欲ばって採集して、胴乱へ押しこむような真似はしなかった。生ある物を彼らの土地で栄えさせようというのが、私のもう一方の気持だった。そしてその気持は年をとるにつれてだんだん強くなり、次第に深い根拠のあるものとなって、あの水色や緑に塗られたブリキ製の楕円の筒を、肩から吊るして歩くことも今ではもう皆無になった。
 暑さが遠のいて急に秋を感じるようになったきのう今日、私の住んでいる北鎌倉の谷戸やとではちょうどタマアジサイが見頃である。道幅の狭い爪先上がりの谷戸道は片側がたいがい山の崖になっていて、裾のところを細い冷たい水が流れているが、その崖や水のふちに大きな葉を茂らせ、傘のように開いた薄紫の花をむらがらせて、タマアジサイの花は静かに咲いている。真白な丸い蕾つぼみはつまんでやりたいくらい愛らしく、本当に名のとおりである。務めの往来ゆききや用事のために通る人たちも、その美しい花がこの道に咲いているとは知りながら折ったり掘り取ったりはしないから、季節が来れば毎 年きれいに道ばたを飾ってくれるのである。
 つい二、三日前の事、東京の学校へ通っている孫娘が、「おじいちゃん、私今朝けさいいもの見つけたわよ。何だと思う? ナンバンギセル!」と、いかにも大発見のように報告した。なるほどここでは初めてだから、いい見つけ物には違いない。そこで教えられた場所へ翌朝見に行った。宅から程近い往来際の崖の下、ノブドウの蔓の陰、一株のススキの根方に十本ばかり麦藁色の茎を立てて、久しぶりに見るナンバンギセルが、薄桃色の煙管きせる形の花に折からの朝日をうけて咲いていた。私は道ばたにしゃがんでその花の頤あごのあたりを撫でながら、愛する孫の注意力を褒めてやりたい気持だった。
 親しい串田孫一君が久しく見ないと言って歎いていたクズの花も、今は谷戸のいたる処で咲いている。宅のうしろの小高い空地には広々とハギが茂っていて花を見るのも近いうちだが、夜な夜な涼しいトレモロでカンタンの鳴いてくれるのがありがたい。藪の中ではムラサキシキブの実も紫になった。男のほうの孫は「おじいちゃん、僕もうじき山ヘアケビを食いに行くんだよ」と言って楽しみにしている。しかし「山のどこさ?」と訊いても「こればかりはいくらおじいちゃんでも秘密、秘密」と言って笑うばかりで教えてくれない。

 

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 早 春 


 戦後の七年間を信州八ヶ岳山麓の富士見ですごし、その後の十五年近くを東京世田谷の上野毛で暮らした。そして今はここをおそらく終生の地ときめて、北鎌倉の或る谷戸やとの奥に家族と一緒に住んでいる。
 しかし、移って来てまだやっと一年なにがし。空気はよく、環境もきわめて静かで美しいので気に入ってはいるが、永く住みついた土地への愛着の情が人一倍強くこまやかな性分のせいか、理想的とも言えるこの新しい土地になかなかなじめない。だが本当はそんなことでは困るので、仕事の合間にはなるべく近所を出歩いて、広い空間での自分の巣の位置を心の地図にしっかと書きこみ、周囲の地形や自然の細部に一日も早く通じるように努めている。ちょうど今までと違った風土の中へ移し運ばれた養蜂家の巣箱の蜜蜂のように。
 それにしても「自然」は、私のような種類の新参者が、一つの土地と親しくなるために先ず最初に目をつける相手である。信州の富士見でもそうだったし、東京の上野毛でもそうだった。富士見には言うまでもなくその高原の大きな広がりと、八ヶ岳の連峰や釜無山脈の男らしい堂々とした眺めがあった。また上野毛には、(このごろになってこそいくらか様子が変わったが)、朝な夕なに日照り輝く多摩川の流れと、それに臨んだ武蔵野台地西南端の崖と林のつらなりがあった。一方は火山と堆積山地、他方は古い海岸平野。両方とも植物が多く、小鳥をはじめいろいろな生物にも豊富だった。そして新しく居を定めるやいなや、先ず目に映ったそういう風景や動植物に親しみだの珍しさだのを感じて、心覚えかちょっとしたノートのつもりで彼らのことを書くと、嬉しいかなそれが一篇の短い新鮮な文章になるのだった。しかしそうした新鮮さも、書くことに馴れて安易な気持で文を綴ればついには当初の輝きを失うから、出来るものなら常に新参者の気持で、神妙な初心を忘れてはいけないと思っている。
 そして私にとって、今この鎌倉がそうだ。東と北と西との三方をほとんど常緑樹に被われた山地に囲まれ、南に相模湾の水の光をひろびろと抱いた鎌倉は、いにしえの武人と僧侶の都にふさわしい貴重な史跡や寺や社をぎっしりと玉のように埋めこんで、画のような海と山と谷との自然の中で、小さいながら充実した古都の面目を保ちつづけている。もちろん新しい移住者の私にしたところで、この古い都の生命である貴い歴史的な風物が、日に日に少しずつ蝕まれ損われてゆく現実を耳にもすればこの目で見もして、早くも眉をひそめたり内心ひそかに憤ったりするが、来てすぐ悪い事ばかりに気持を乱されるのは厭だから、諦めよりもむしろ心を強くして、まだ失われずに残っているこの土地の自然や、七百年以上も前から受けつがれて来た文化的遺産の美を護り味わうことで、これからの自分を富ますつもりでいる。

     *

 鎌倉には谷やつという名のつく地名が多い。たとえば扇おうぎガ谷やつ、佐助さすけガ谷やつ、松葉まつばガ谷やつなどがそれで、或る説によると、そういう名の所が四十九ヵ所もあるという。私の住んでいるところも一般には明月谷めいげつだにと呼ばれているが、明月谷戸めいげつやとが本当の呼び名だという人もある。谷やとも谷戸やとも谷地やちも元来或る地形の名称で、台地や丘陵が浸蝕されて出来た谷の底面を言うのである。そして海抜せいぜい百メートルから百五十メートルぐらいの謂わば丘陵地帯でありながら、鎌倉という土地の地形が海にむかって傾斜していかにも美しく複雑の妙をきわめているのは、要するにこれら無数の深い浸蝕谷のおかげなのであ る。誰の作で何という句だったか残念ながら忘れたが、鎌倉のそれぞれの谷戸に咲く梅の花の遅速の面白さを詠んだのがあった。それというのも一つ一つの谷の向きや形によって平均した日射量や気温に差があるためだろうと思う。またそれだからこそ梅の花の季節などにあの谷戸この谷戸をそぞろ歩きするのが楽しいのである。
 その明月谷の奥のわが家を出て、片側に岩盤の露出した崖を見上げるかなり急な坂をくだる。まだ空気にいくらかの冷たさは感じられるが日の光の暖かい早春の一朝、谷の空は青玉あおだまのように澄みわたっている。坂をくだって細い古い道へ出る。小型の車がようやくかわせるくらいの狭い谷戸道やとみちである。左側は山を背にして古くから住んでいる人たちの静かな家並、右側はここもまた灰色の岩膚を現したり樹木に被われたりしている山の急傾面。駅へ出るにも町へ行くにもただ一本だけのこの道は、ごくわずかな降り勾配でくねくねと曲がっているが、ここを通るのがいつでも楽しい。季節季節にいろいろな木の花、草の花が咲き、歩いていると蝶やトンボと擦れちがったり、頭の上にセミの合唱を聴いたり、夏の夜などは悠々と光り漂っているホタルさえも見る道である。「尾崎さん、ここはこの道が取得なんですよ。僕はこの道が気に入っているので毎日駅への往復を歩くことにしているんです」と、移住後間もない私に東京の或る大きな出版社に勤めている隣人の重役が言った。私の足でも北鎌倉の駅までわずか十四分の道のりでありながら、その駅の手前の円覚寺の門前からじきに静かなこの谷戸道へ入れるのだから、ここに住むこと二年先輩の重役さんでなくても、その取得、その真価には遅かれ速かれ気がついたろうというものである。
 そのわずか十四分の道のりのちょうど半分のところに、アジサイ寺の名で知られた明月院がある。自分の家から近く、環境もいいのでよく行ってみるが、六月のアジサイの花の盛りの頃はまったく見事である。そんな時の土曜日や日曜日には見物人の列が円覚寺の方からぞろぞろ続いて、ふだんは閑静な道や境内が人出で賑わう。しかし普通の観光地や盛り場を目ざして押し寄せる連中とは違って、何と言っても寺という物の閑寂を求める篤志家や花を見に来る風流の客だから、若い男女の連れにせよ家族連れにせよ、みんな比較的物静かで行儀も大して悪くない。入口の石門のところから参道の石の階段の両側を、奥の方までびっしりと埋めて咲き続いている空色の花のかたまりに感心したり、みずみずしい若葉の境内に響きわたるウグイス、アオジ、シジュウカラ、キビタキなどの小鳥の歌に耳を傾けたり、記念写真の撮りっこをしたり、さては賽銭箱にいくらかの喜捨をしたりして、やがて元来た道を帰ってゆく。しかし時には道を反対の方向にとって、緩い登りの谷戸道を東へむかう者もある。大抵学生風の二、三人連れで、私の家の先のところから始まる半僧坊や天園へのハイキングコースを目ざす連中である。
 その明月院が今日は静かだ。週間日でもあるし、おまけに昼前でもあるせいか、人っ子一人の影もなく、まるで自分だけのための広い深い庭にいるような気がする。そうだ、この寺の境内はほんとうに古庭ふるにわだ。もしも瑞泉寺の庭園に金や人手のかかった林泉の趣きがあるとすれば、ここは半ば自然の野趣にゆだねられた古い庭か植物園のようだと言える。

     *

 新しいのから古いのへと続くゆるい石段の道をゆっくりと登って、ささやかな質素な山門をくぐる。それまでの道の両側にならぶ有名なアジサイは、ようやく芽を吹いたばかりで枝も茎もまだ冬の茶色に枯れて見えるが、その大きな株の間をつづって植わっている常緑木のヒラギナンテンは、ふちに棘とげがあってつやつやと光る羽状複葉の間から、黄色い長い花の房を垂らしている。早春のこの季節にここへ来て、まず梅やツバキの花に気をとられる大は多いが、この雅致のあるヒラギナンテンのペンダントに注目してやる人のほとんどいないのは残念だ。ペンダントと言えば、そろそろあたりの崖の横腹から枝を伸ばして咲きはじめているキブシの黄の花もそうだ。しかしこの方は野生の木だから、たとえ名は知らなくても、春の山道などでよく見かけて気のついた人も少なくはないだろう。
 一月の半ばころに来た時は、あたりの空気を柔らかい黄色に染めるほど盛りだった臘梅ろうばいの《花がもうすっかり散って、今は白と紅の梅の花の季節である。何とも言えない清らかないい匂いが柔らかな谷戸の春風にはこばれてくり。どこからかひっそりとジンチョウゲも匂ってくる。庫裡くりのあたりにはボケ、ニワウメ、ユキヤナギ、コデマリなどがつつましやかに咲き、三方から本堂を囲んでそびえる断崖の中腹のところどころに、厚い葉を光らせたツバキの花が点々と赤い。住職が植物の自然の姿を愛するせいか、いくつかの種類の水仙を初めスノーフレーク、ムスカリ、編笠ユリなどに至るまで、まるで昔からそこに生えていた物のように、タンポポやモジズリにまじってのびのびと咲いている。まるまると肥ったネコヤナギの銀の花穂も今が見頃、ヤマブキの花もちらほら。つづいて桜が咲き、コブシが咲き、ホウが咲き、大木のカイドウの咲く時もそんなに遠いことではあるまい。
 名を挙げれば切りのない植物ばかりでなく、明月院に集まって来る小鳥の数もなかなか多い。私としてもそう始終訪れるわけではないが、去年一年を通じてそこで姿を見たり声を聴いたりした鳥は三五種に及んでいる。同じ明月谷でも私の家のまわりとなるとずっと少ない。こちらは山の枝尾根を削って造成した明るい乾いた住宅地だから、谷戸の横道の袋谷とも言える欝蒼と樹木の茂った明月院の寺内とは較べものにならない。明月院には彼ら小鳥たちの好んで食う木の実や虫も豊富ならば、飲んだり浴びたりするきれいな冷たい水も湧いている。ところがこちらにはそんな物がまるで無い。ましてや私のところのような狭い庭へ来る鳥と言えば、せいぜいスズメかモズかウグイスか、たまにホウジロ或いはシジュウカラぐらいなものである。その点では地所が広くて、うしろに大きな雑木林を背負った東京玉川の家の庭の方が遙かに種類が多かった。
 庭の小径の竹垣を背に、サルスベリの木の下の丸太の腰掛に腰をおろしてゆったりと煙草を吸っていると、近くの桜の樹の枝で一羽のアオジが鳴いている。もう立派な春の歌だ。日の当たった本堂の暖かそうな藁屋根を小走りに走りながら、鮮やかな羽色をしたキセキレイも金属的な声を聴かせる。山裾の林の奥の方からはメジロの澄んだ声も響いて来る。そしてそういう鳥たちの自然の声が、このテキスト ボックス:
小さい世界の静寂を一層深いものにする。
 ほんとうに明月院は新しく私に許された静かな逍遙と瞑想の庭だ。この庭を知っただけでも、この寺をわが家の近くに持つだけでも、住み馴れた東京を後にして来た甲斐がある。

     *

 最も近い明月院は別として、郵便を出しに行ったついでに、遠来の参詣者でも観光客でもない私が、名のある古い寺へ立ち寄ることのできるのも鎌倉に住んでいればこそである。
 明月谷の出口の真向こう、横須賀線の線路をへだてて、自動車の往き来のはげしい山ノ内路の通りの角に赤いポストが立っている。それが私のなじみのポストで、その角のところがまた今言った古い寺、すなわち鎌倉五山の第四番目、臨済宗金峰山浄智寺への入口でもある。速達の原稿も、待たれている返事の葉書も、友人への久しぶりの便りも、みんなそっくり投函して気が楽になった。そこでふだんならそのまま家へ帰るところだが、送った原稿がちょっと手間のかかった物だけに気分がせいせいして、何となく浄智寺のほのぐらい静かな境内へ入ってみる気になった。
 近くの広大で豪壮な円覚寺や、どこか雅みやびて女性的な感じのする東慶寺とは違って、この浄智寺は、昔は知らず今は境内も狭められて、わずかに残っている総門や鐘楼や仏殿の姿もさびしい。そしてそのせいか、いつ来て見ても訪う人影が至って稀である。つまり古い名の割にほかの寺のような人気にんきが無いのである。だがその人気の無い点が、私にはかえって親しみが持てる。
 総門の前の小さい池に架かった石橋を渡って、しっとりと湿めった暗い杉林のあいだの参道を登る。人手がないのであまり手入れも行き届かないせいか、あたりには冬の名ごりの枯枝や枯葉が散らばっている。どこかでカケスの「ジャー・ジャー」と鳴く声が聴こえる。高い針葉樹の林に響く寂しい単調なその声が、この境内を一層暗く古さびたものに思わせる。例の珍しい支那風の鐘楼をくぐって、「曇華毆」と大書した額の懸かっている仏殿の前に立つ。釈迦、阿弥陀、弥勒みろくの三尊をまつったこの比較的新しい仏殿に私はたいして興味を持たないが、ここへ来れば必ずその周囲を歩いてみ、いつでも感心して見上げるのは、数百年も経たコウヤマキとビャクシンの大木である。梅やレンギョウ、桜やカイドウ。ほかの寺のように、そういう和やかな季節の花には飾られなくても、春昼の日光や青空をさえぎって一脈森厳の気をこの寺の面目に添えるものこそ、これら数本の巨木だと言っても過言ではあるまい。

     *

 北鎌倉には先住の友達が四人いた。いずれも文学に関係のある連中だが、その中でも双方の家族ぐるみずっと親しくつきあっている一人から熱心にすすめられて、ついに東京からここへ移って来たわけだった。
 ラジオの脚本だの詩だのを書いているその若い有能な友だちが、なるべく早く私を鎌倉という土地に親しませようという心から、時どき電話なぞでこちらの都合を聞いては誘い出して、自分に気に入っている景色のいい処や静かな寺などへ案内してくれる。それで二、三日前には飯島が崎の上の正覚寺と、名越なごえ松葉ガ谷の妙法寺とへ連れて行かれた。どちらも私にとっては未知の寺である。
 もっとも飯島ガ崎は名こそ知らなかったが、二十数年前の終戦の秋に、その近くの火葬場から名越で死んだ母の遺骨を抱いて妻と二人、海へ突き出た岬の鼻を回って荒れ果てた小坪の漁村まで歩いた記憶がある。その時はまだ断崖の小径に沿った急造の洞窟に機関砲か何かの残骸がころがっていたり、沖にはアメリカの駆逐艦らしいのが一、二隻、淡い煙を吐いて邨泊したりしていた。
 そんな遠いはかない夢のような思い出も、今は生気に満ちた春の途上のただの話に過ぎなかった。材木座海岸の南のはずれから、一種の陸繋島とも思われる愛らしい和賀江島わかえじまをすぐ目の前に眺めながら、飯島が崎の石段をのぼって正覚寺へ出た。寺そのものは格別言う程のこともないが、大きなイチョウの樹の立っている境内からの鎌倉の海の眺望はなるほど全く美しい。その美しさは視る角度や遠近の差もあって、天園からのそれとも違うし葛原くずはらガ岡おかからのものとも違うが、連れの友だちも主張し、或るガイドブックも紹介しているように、私もまた特にここからの美を推すのにやぶさかでない。弓を張ったような由比が浜から稲村が崎への海岸線、その向こうに遠く江ノ島。水を抱いた山々の姿もよければ、鎌倉の町の形さえまた悪くない。あいにくの春霞で富士や箱根は柔らかにまどろんでいたが、沖は波さえ立てず虹色に匂っていた。そしてその帰り道、岬を回って今は見違えるほど立派になった小坪を通ると、漁船の引き揚げてある暖かい浜の砂の上に、ハマシギらしい可憐な小鳥が数羽、小走りに走っては餌をあさっていた。
 松葉が谷の妙法寺へは逗子から来たバスに乗って名越四ツ角から入った。
 日荳宗楞厳山りょうごんざん妙法寺は、山を背にした、格調の高い、古い立派な寺だった。その山のいちばん下の堅固な総門から頂上近い護良もりなが親王の墓所と言われている石塔の立っている処まで、高度約七、八十メートルはあったろうか。全山さまざまな種類の落葉樹や常緑樹に鬱蒼と被われているが、すぐ気がつくのはカエデの木の多いことで、秋の紅葉の見事さが想像された。しかしまたこれほど樹木が多くては、夏の涼しい木蔭の豊かさが思われ、同時にセミたちの合唱の壮大さも思いやられるのだった。
 本堂から山の中腹の法華堂に行くまでの古い石段もよかった。「苔こけの石段」と呼ばれて、全体が柔らかな苔にふっくらと包まれている。心無い観光客やハイカー達に踏み荒らされるのを防ぐために、今は登降を禁じて横の道を通るようにしてあるが。その禁制が無くてもとうてい踏み込めない程の見事さである。
 護良親王の石塔の立っている高みからその苔の石段と総門をまっすぐに見おろすと、同じ直線上遙か下に海が見えた。山の間から縦に見るので横への広がりはないが、その海はさっき岬の上の正覚寺から眺めたのと違って午後の鮮明な青い色をしていた。しかもその澄んだ青い水の色と、おりから眼の下の庫裡の庭に咲いている紅白の梅の花の色とが、いかにも清らかな潔いさぎよい調和を見せていた。そして私にはその眺めとこの寺の境内の深い静かな諧調とから、たとえばどこかの古い教会の御堂みどうの中で、何か美しいオルガン曲でも聴いているような気になるのだった。

 

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 星座早見


 私は高村光太郎さん夫妻の家庭への、ささやかな理科知識の伝達者だった。もちろん詩の上では高村さんは私の先輩にちがいないが、植物や動物や天文や気象などの事になると私のほうが先生で、そう言っては悪いが、何でも知っていたようにみえる高村さんが、その方面ではほほえましくも未熟だった。
 大正十三年から昭和の初めのころ、私はその時分まだ全くのいなかだった杉並の上高井戸に住んでいた。小さな家だが、自分で建てた新しい住まいで、まわりは広々と畑や林にかこまれていた。晴れた昼間は家の中から遠く丹沢の山々や富士山が見え、しんとした夜ふけには遙かな荻窪駅あたりを通る中央線の長い貨物列車の音がきこえた。そんな田園的な環境だったから、好きな自然観察の材料は身のまわりから無限にひろがっていた。草木はもとより小鳥も虫も、昔ながらの武蔵野に期待されるものは何でもいたし、何でもあった。そして昼間の空には、十種の雲級はおろかあらゆる形の雲が現れ、夜の天にはそれぞれの季節の星が強くこまかくきらめいた。そういうさまざまな話を私はよく東京駒込の高村さんのアトリエへ持ちこんだ。本人の高村さんも一応はおもしろそうに聴いてくれたが、「東京には空がない」と嘆いた智恵子さん、そのころまだ頭をおかされていなかった智恵子さんは、目を輝かせ、膝の上の手を握り合わせて、それでも慎しみを忘れずに、私の自然の話に聴き入った。
 そういう高村さんのところへ、ある日私は三省堂から出たばかりの「星座早見はやみ」を持って行った。見上げる天の四方位と夜の時刻とを刻んだ楕円形の窓のあいている上の円盤と、一年の十二ヵ月とその各十日とを刻んだ下の円盤とを回転しながら合わせると、ある月のある日ある時刻に、北緯三十五度の地点から見える星座の形とその名とがぴたりとわかるという仕掛けである。今ならば珍しくもなんともないが、当時は天文好き星好きの人たちに迎えられ、喜ばれた。そのころやはり自然の好きだった今日の野鳥研究の大家中西悟堂君は、私からこれを借りると半月もかけず、実物そっくりのものを手ずから作った。
 この贈り物には高村さんも喜んだ。それより数年前彼はアメリカの詩人ウォルト・ホイットマンの『自選日記』という本を翻訳し出版した。その厖大な日記の後半には自然のことを書いた部分が多いので、私はたびたび理科関係の訳語の相談にあずかったが、星座や星の名もたびたびその中へ出てきた。そういう時のホイットマンの文章がすばらしいので、それ以来高村さんは夜空を飾るあの宝石たちにかなりの興味を持ったらしい。しかしいくら閑静な駒込とはいえやはり建てこんだ町なかだし、近くに気の合った同好者もいず、初心の者に適当な手引きの本もないとすれば、せっかく芽ぐんだ天体への知識欲がいつしかしぼんでしまったとしても是非がない。ところがそこへこの「星座早見」だった。消えかけた火はかき立てられた。
 十一月のある日、私は高村さんから一枚の葉書を受けとった。いつものように立派な書体で、走り書きが一層美しかった。
 その葉書は戦災で焼いてしまったが、大体こんなことが書いてあった。「星座早見、本当にありがとう。雲さえなければ毎晩見ている。月日と時刻を合わせるとチャンとわかるのだから鬼に金棒。ところがその金棒ならぬ電柱へ、昨夜おでこをしたたかぶつけて大痛事おおいたごと。天頂近いケフェウスの星座の形がどうもはっきりしないので、真上を向いて頭を回しているうちにグラリとよろけて倒れかかったという始末です。しかし心配御無用。そのうちに赤羽台ヘエリダヌスという長い奴を見に行きます。」

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 上高地行 


 上高地五千尺旅館の二階のロビーで、大窓のガラス越しに西穂高の山腹の雲のような新緑や、その下を流れる梓川の青い水や白い瀬波をながめながら、朝飯のあとのコーヒーを心静かにすすっていると、よくもことしはここへ来られたという気がするのだった。
 ちょうど去年のいまごろは思わぬ病気のための入院中で、とてもウェストン祭に参加どころの騒ぎではなかった。むしろ運が無ければそのまま二度とこの世の空を見ることさえ出来なくなるところだった。それがこうして本復して、ふたたび北アルプスの山々谷々にとりかこまれ、澄んだ日光や深遠な空や、二年ぶりに聴く山の鳥たちの歌ごえや、色も姿も純粋な高山の花たちのもてなしを受けている。しかも今年は妻と娘と二人の孫、家族みんなを連れて来た。彼らの喜びや満足に輝く顔を見るにつけ、この老年にしてなお恵まれた自分という者の幸運を、あだやおろそかに思えなかった。その彼らは夜明けに宿を出て、明神の池まで梓川の両岸を一まわりして来てから部屋でむつまじく朝飯をたべていた。音楽大学へ行っている女の孫のほうは、明神岳を見上げる池のふちで、持って行ったリコーダーで一曲のヴィヴァルディを吹いたという。高校一年生の男の孫は、大きな写生帳へ渓流と化粧柳の風景を画いてきた。「おじいちゃんとの上高地行」。それが家族一同の永年の望みだったのである。
 六月二日のウェストン祭の行事はつつがなく済んだ。ことしで二十二回目だから、三回だけ欠席した私としては実に十九度の夏を来たことになる。その中でも今度はいちばん参加者が多くて、碑前に輪を作った人々の数は五百人に及んでいた。大多数は若い人たちだが、中には八十歳を越えた老登山家も幾人かいて私の気を強くさせた。そういうかくしゃくとしたベテランたちにまじって私も例年どおり歓迎の言葉を述べ、いつものように自作の詩の朗読をした。エーデルワイスの連中の山の歌の合唱と、少女の献花と、祝辞とあいさつと詩の朗読。毎年判で捺したようにきまりきった行事なのに、参加者は皆それで満足して散会した。それから乞われて数十人の人に署名をするという労働もあったが、私にとってはむしろ楽しい体力だめしだった。
 署名と言えば、飛騨側の谷から西穂高の山稜へロープウエーを架けるという企てに対する反対の署名運動もあった。例によって観光を食い物にする企業家たちの自然破壊の暴挙で、せめてこの国立公園の一角のたぐいもまれな自然美を護り抜こうという切なる願いをこめた運動だった。そしてこれにためらう者は一人もなく、参加者のすべてが進んで署名した。
 もう来られないかと思っていた愛の谷間へ幸運にもまた来ることができた。そしてこの初夏の美しい自然の中で古い友人と手を握り合ったり、新しい若い人たちと知り合うことができた。もしも許されるならば来年もまたこのとおりの上高地へ来たい。けだし友と自然とは古いほど、そして変わらないほど貴いからである。

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 山と音楽


 随分おせっかいな話だし、取りようによれば手前勝手で押しつけがましい事でもあるが、こんな日には一体あの串田君がどうしているかと思って、北鎌倉から小金井へ電話をかけてみた。すると呼び出しのベルの鳴ること三回ほどで御本人がむっつりと受話機を取り上げた気配なので、いきなり押っかぶせるように「お早う、串田さん? 尾崎ですよ、どうしてますか」と訊いた。電話というのは、時と事柄にもよりけりだが先ず一応は便利な物で、南から北へ直線距離五〇キロの空間をへだてた老年と中年の友人二人を、ほんの煙草一吸いの間に、秋風の相模野や多摩丘陵を飛びかすめて、顔こそ見えないが呼吸の音さえ聴こえるほど面と向かわせてくれるのだ。
 話というのは、たった今久しぶりにレコードで聴いたばかりのバッハの『フーガの技法』があんまりすばらしかったから、彼にも聴いたらどうかという勧誘なのだった。これからゆっくり取り掛かろうという一日の仕事の前、その清めのつもりで聴き入った第七番から一〇番までの弦楽合奏の荘重な音の波が、谷戸やとを満たす爽やかな秋風の朝の私の心に澎湃として寄せてはかえした。それを彼と共に分け合いたかったのだ。あの人の事だからいくら自由な体でも決してぼんやりしてはいないだろうし、たとえ仕事ではなくても必ず何かしら身になる事をもそもそやってはいるだろうが、折から奥さんが四、五日の旅行で不在だというこの幾日、事によったら私の声でまた別のきっかけを掴むかも知れないと思って掛けた電話である。もちろん彼が同じレコードを持っている事は承知の上だった。
 「良かったでしょう。僕もさっそく聴きます」と、勢いこんだこちらの気持を素直にうけて、晴れやかに友は答えた。
 ところがその彼が最後にこんな事を言った。ギド・レーがマッターホルンの頂上でいとも美しい音楽を幻聴のように聴いた。そしてその音楽というのがどうもバッハの『フーガの技法』らしいという事を本の著者は言っている。それを今度の「本の手帳」の山と芸術特集号に書いたと。
 その瞬間、私はパッと霊感に打たれた。その特集号には自分も寄稿の約束がある。そうだ! 今まで山と芸術というのに拘泥してあれかこれかと思いあぐねていたが、同じ芸術でも音楽ならば書く材料もいくらかはある。そうしよう。「山と音楽」!
 それにしても互いに愛する一人の巨匠の作品によって元気を分かち合おうと思って掛けた電話が、計らずもこんな幸運をもたらすとは何という美しい偶然かと、バッハにも串田さんにも感謝する気持で、秋の彼岸の円覚寺の山を前にした書斎の机に向かったことである。

     *

 山にいて音楽を思うか、音楽を聴きながら山を思い出すかと問われたら、年をとった今の私は、ちょっと首をかしげた末、やはり後の方の問いに手を挙げるだろう。なぜならばつい十年ぐらい前までとは違って、このごろは余り高い山へも行かないし、春や秋の高原にも思わぬ無沙汰を重ねている。しかし音楽ならば引続きずっと聴いていて、それへの愛も感動も信頼もいよいよ深く、いよいよ切実なものになっているから。
 登山の味、山や高原の真の良さを知っている者は、如実にそれを描写したり叙述したりする文章や写真や絵画よりも、観念連合のもっとも微妙なものを音楽からこそ受けとるもののように思われる。手近な例を挙げれば、私はドヴォルザークのチェロ協奏曲や弦楽四重奏曲中の或る箇所を聴きながら、急に山への郷愁に襲われて身震いを感じることがある。ベルリオーズの『イタリアのハロルド』で、独奏のヴィオラが哀愁を漂わせた気高いハロルドの主題を弾き出す時などもそうである。そしてそんな時、私は山を知った自分の一生の幸福を思わずにはいられない。

 しかしまたこんな時もある。
 ここでは季節が初夏というよりもまだ幼い山の春で、若草の柔らかい緑が萌えそめた牧場には放牧の牛や馬の姿がちらほら。だが一人の牧夫、一人のハイカーの姿もない。ただ真青に晴れた空の下の高原の、純粋な日光に照らされて光っている露や小溝の水はきらびやかで清らかで、これを見、この空気を呼吸するだけでも、騒音や有毒ガスやわずらわしい事どもに悩まされる都会をあとに、遠くここまで来ただけの甲斐はある。
 風景のところどころに若葉の雲を纒ったカラマツの疎林が立っているが、近くにもナラとシラカバの小さい林があって、今そのこまかい枝の間で一二、三羽のシジュウカラと十羽ばかりのエナガの群とが、低い声で鳴きかわしながら飛び回っている。そしてその可憐な賑やかさが、この高原の広い天地を、かえって底知れず静かなものに思わせる。
 私はとある岩かげにシーツを敷いて、ルックサックからの葡萄酒を飲みサンドウィッチを頬ばる。それからいつものように小さい縦笛を取り出して、スコットランドの民謡や古い讃美歌、そらでも吹けるやさしい曲をいくつか順々に吹いてみる。上手じょうずにもならないが、さりとて下手へたにもならないところがせめてもの心ゆかしだ。しかもその木管の笛の音と近くの木々の小鳥の歌。そしてこのささやかな野の饗宴を聴いているのが天地にひろがった静寂だけだから尚更いい。

 上高地から梓川左岸の原生林の下かげを、初夏六月の林中に響くコルリ、コマドリ、エゾムシクイなどの小鳥の声に誘われてゆっくり二時間、とうとうこの徳沢の明るい草原くさわらまで散歩の足を伸ばしてしまった。
 黄色いミヤマタンポポ、空色のエゾムラサキやテングクワガタ、花で埋まった柔らかい草原にトウヒ、カラマツ、ダケカンバなどの亭々と立つこの徳沢の平たいらは、上高地の谷へ入るたびに私の必ず訪れる憩いの場所だ。今もこうして花の中に寝ころんでいると、あたりではアカハラやメボソが歌い囀り、前穂高の鋭い峰々が眼前にそびえ立ち、男らしい奥又白おくまたしろの雪渓が白刃しらはをまじえたように目にもまばゆい。そしてそのまぶしさに目を閉じてうとうとしている私に、ベルリオーズの『ファウストの劫罰』でメフィストの歌う「薔薇のアリア」や、花の精たちの美しい合唱が聴こえて来るような気がし、自分もまたエルベ河畔の春の草原のファウストのように、本当にその子守歌で寝入ってしまいはしないかと思われる。

 上高地帝国ホテルの横の小径をまっすぐ入って、中ノ瀬の静かな遊園地を出はずれた橋の袂を左へ曲がった川の岸。ここまで来ると梓川の流れが両岸の岩にせかれて、逞しくねじれたり輝かしく飛び散ったりしながら、絶えず晴れやかな夏の朝の歌を歌っている。
 だが歌っているのはひとり渓流ばかりではない。耳をすませて聴きわけると、ウソや、エゾムシクイや、ミソサザイや、ヒガラや、キビタキなど、いろいろな小鳥たちも歌っている。ただ彼らの声があまりに高く澄んでデリケートなので、ともすれば太い大きな流れの音に呑まれ、かき消されてしまうのである。しかしまたそれだけに、この豪壮で単調な水の流れの通奏低音に、時として鳥声のえも言えぬ美しい高音の旋律が浮き出るわけである。
 こうして緑も暗い渓流のふちで水の戯れを見たり小鳥の声を聴いていたりすると、時どき長い細い竹竿を持った人がそばを通る。たぶんイワナかカワヒメマスでも釣る人かと思うが、私はこういう人の姿を見ると、しぜんにシューベルトの『鱒ます』の歌や、その旋律を変奏曲の主題にしたあの有名なピアノ五重奏曲を思い出さずにはいられない。そしてまた逆に、都会の冬の夜にこの音楽を聴きながら、盛んな夏の山深い渓流を思って心暖まる気持になるのである。

 私は森林が好きだ。とりわけ夏の真昼の山の森林、そのほのぐらい世界の奥へと糸のような細道で人を誘いこみながら、時には滴る水のような清らかな小鳥の声を響かせ、時には高い梢の間から力強く輝く空の破片をのぞかせる森林。そういう森林を身をもって歩いたり、遠くから眺めたりすることが好きだ。
 私の過去幾十たびの夏がこの森林への愛の体験で富まされている。今思ってもその数知れない記憶が過去の遠景に欝蒼と立ちつづき、雲のように湧き上がる。そしてややもすれば平凡に堕ちようとする今の生活から私を抱き上げて、精神の高貴な多産な夏へと救い高める。
 そしてこういう夏の森林を、私は音楽の世界でベートーヴェンの『第七交響曲』に見るのだ。心が重く否定的になって、世界が貧しく悲しげなものに感じられる時、あの気力に満ちた旺盛な音楽、壮麗であると同時に夢もまた豊かな音楽が、私を引き立ててもう一度、生きる事への信仰へと歩ませる。

  又しても高原の秋が来る。
  雲の美しい九月の空、
  風は晴れやかなひろがりに
  オーヴェルニュの歌を歌っている。

 これは私が昔書いた或る詩の最初の一節だが、二十年をへだてた今日これを読んでも、やはり高原の九月の秋の広がりと、そこに吹く新しい爽やかな風や、しみじみと照る日光や、美しい雲のたたずまいなどが思われると同時に、自分の好きな『オーヴェルニュの歌』が誘い出されて、ついにその大切なレコードを掛けてしまう。
 マドレーヌ・グレイという女の歌手の歌っているこの中部フランス・オーヴェルニュ地方のいくつかの民謡の中でも、「羊飼の歌」と、「草原くさわらを通っておいで」と、「紡ぎ女」 と「アントワーヌ」とが私は好きだ。どれにも素朴な真情がこもり、遙かな憧れのようなものが響いていて、広々とした秋の世界のまんなかに一人で立っているような気持になる。そして心がすっかり洗われて、今日という目を悔いなく美しく生きようと思うのである。

  秋が野山を照らしている。
  暑かった日光が今は親しい。
  十月の草の小みちを行きながら、
  ふたたびの幸さちが私にある。

 これも十数年前に信州富士見の高原で書いた「人のいない牧歌」という詩の最初の一節だが、今思い出しても晴れやかに暖かい十月の日光と、澄みわたった空気の中に横たわるひろびろとした野山の眺めだった。私は高原の草のあいだの細道を八ヶ岳のほうへ向かって歩いていた。明るい静けさの中で、山の畑の大豆の莢さやが絶えず音を立ててはじけていた。下手の谷のほうで一羽の鷹の声がした。そしてもう実のなっている道ばたのクルミの木は、早くもその葉を鮮やかな黄に染めていた。
 ああ、その時だった。一つの歌が私の記憶の中を、通りがかったようにふと小声で歌い始めた。それはあのフランスの作曲家ガブリェル・フォーレの「秋ロートンヌ」だった。霧の立ちこめた空と、悲しげな地平と、早い落日と、青白い夜明けとの秋に呼びかけて、二十年の昔の思い出に涙を流すという歌だった。そして私はこの美しい秋の日の自分の幸福に感謝していた時だけに、その歌の水晶のような澄んだ哀愁に優しい思いを寄せるのだった。

 奥秩父十文字峠の下、筑摩川上流の最後の部落、信州川上村梓山はおりから深い秋だった。私は夕方近くここのなじみの宿へ着くと、清流の魚の焼物やいろいろなキノコ料理の並んだ夕げの膳に喜ばされて、思わず土地の銘酒の杯を重ねた。
 あくる日も爽やかに晴れた美しい一日だった。私は作ってもらった弁当を持って、終日付近の山の中や谷間を歩いた。そして午後遅く、部落と宿を見おろす高みの開墾地まで帰って来た時、西のほう、千曲川の下流、八ヶ岳が遠く紫に染まって横たわっている山あいに、真紅に燃えて静かに沈んでゆく太陽を見て立ちすくんだ。
 シューベルトに『夕映えの中でイム・アーベントロート』という歌がある。「おお、あなたの世界のなんと美しいことか! その世界が金色に照らされる時、あなたの光が沈みながら塵や埃ほこりをいろどる時」という句で始まる深く敬虔なあの歌を、私は最も好きなものの一つに数えているが、その時も知らず知らず口をついて出たのがそれだった。

 長野県富士見町まち、八ヶ岳の裾野、中央線の駅から歩いて二十分ほどかかる或る大きな森の中の山荘に私たち夫婦は住んでいた。そこでの戦後七年間の生活には、今考えても懐かしい事のかずかずがあったが、十二月の声を聴いて思い出されるのは、その冬の寂しい山荘での妻と二人きりのクリスマスである。
 もう年賀状も出してしまったし、東京の幼い孫へのプレゼントも送ってやって、心にかかる何事もない十二月二十四日、妻は朝から座敷の掃除やその夜のための馳走作りに忙しく、私は蠟燭の用意をしたり、森から採ってきた唐檜とうひの若木へ、きらきら光る銀の飾り紐を懸けたりした。
 そしてやがて「聖夜」と言われる待望の夜。電灯が消されて太い明るい蠟燭がともり、聖書ルカ伝の一節が読まれ、古いオルガンで心をこめた讃美歌が歌われた。それがすべて東京を遠い信州の山の中での、私たち夫婦二人きりの行事だった。森の木の間の寒夜の星、零下何度の戸外の凍いて。しかし室内には「聖しこの夜」を、煖爐の薪がパチパチと音もなごやかに燃えていた。

 秋もたけなわの或る晴れた夜、私は上野の文化会館ホールで、フランス政府派遣の音楽文化使節として来日したばかりのパイヤール室内管弦楽団の演奏会を聴いていた。ジャン・フランソア・パイヤール自身が指揮をするこの楽団の演奏は日本でもレコードを通して愛され珍重されているが、それを実地に聴くのは大多数の聴衆にとってこれが初めてだった。私もその一人だった。そして曲目第一の「リュリの無名の弟子によるフランス組曲」というのに、先ずすっかり魅入られてしまった。
 序曲、ブーレー、サラバンド、プレリュード、コンセール、ジーグの六曲から成るこの組曲は、私にフラッス・バロック音楽の中での最も清純なもの、凛然として犯しがたい処女のようなものを感じさせた。たとえば早春の渓谷の上に懸かった山の部落の梅の林、それも青白く苔蒸した岩を点々と配した白梅の林。そういう境地での光と影、色と匂いとの感銘だった。後にはまだ聴きたいものも残っているが、私はこれを聴いただけでもう帰っても惜しくないとさえ思った。たとえ無名者のものであれ褒めそやされないものであれ、真にすぐれた芸術品とは正にこうしたものではないだろうか。

 高原はまだ三月のさむざむとした鳶色に枯れている。少し湿めったところでは足の下で割れる薄い氷の音さえする。しかしもうあちこちにタンポポの黄色い花が光っている。澄みきった空気には周囲の山々の雪の感触があるが、さすがに早春の日光はしみじみと暖かく、目にまばゆい。
 近くの白樺の裸の林で一羽のヒガラが鳴いている。それはもうほとんど完全な春の歌で、彼もまためぐって来た再生の季節を小さい体と心に感じているのだ。
 そうだ! 今日は三月も末の金曜日、キリスト受難の金曜日。すると二日の後は復活祭。「うるわしの白百合、ささやきぬ昔を」の歌が、ここ田舎の町の小さい教会堂からも敬虔に流れてくる復活祭だ。
 私はバッハのヨハネやマタイの受難曲を思い、その復活祭オラトリオやカンタータを思う。そしてこの高原のきびしい空気と、心にしみて暖かい日光と、再生を喜ぶ草の花や小鳥の歌に清められ力づけられて、なおも生きて働くことの幸いをつくづくと思う。

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 ひとりの山


 以前は「山仲間」と呼んでいたが、これらがどんどん歳をとって、もう昔のように余り高い所や嶮しい場所へ同行できなくなった今では、そういう誇らしい親しい呼び名もどうやら不自然なものになった。しかも書斎に引込んでの仕事や近隣の散歩などで平地の生活をしていると、きまってそういう連中からこの秋は剣へ行って来たとか、最近雪中の後立山を試みたとか、もっと遠いのになると北海道の利尻岳を経験したとかいう便りや報告が来る。そういうのが初めの内はひどく羨ましく思われが、それもこの頃ではほとんど気にならなくなり、歳をとった自分は自分、まだ幾らか若い彼らは彼らと心にきめて、たまたま気が向けば昔使った五万分の一の地図を前に、自分もかつて登った高山の今は色褪せたイメージに、瞬間の眼と心とを輝かすぐらいが落ちである。それに近頃では二人の孫も大きくなって、学校の仲間と言い合わせて事も無げに山登りやスキーに出掛ける。「私たちのグループ今年は鹿島槍よ」とか、「僕らのほうは妙高と火打だ」とか言ってさばさばと出発する。そうした彼らを見送ってやりながら、私の心はもうさほど動揺することもなくなった。そして或る時などはこんな詩を書いた――

  若い仲間は男も女も
  軽い翼を足につけて
  颯爽と氷雪の高みへ出発した。
  私は古い重たい山靴に岩を噛ませて、
  水が浸み出し枯れ木が煙るところを登っている。
  大した山ではないが千メートルの登高だ。
  人生を熱い思いで抱きしめながら、
  時にはその愚劣さを怒り、かなしむ。
  老年の山登りはこの多元不協和音の解決だ。
  若い世代を今日きょうは伴わない単独行。
  老ジャン・ジャックの孤独の散歩も
  ちょうどこんなだったに違いない。

 「老ジャン・ジャック」とは言うまでもなくあの十八世紀フランスの哲学者ジャン・ジャック・ルソーの事であり、「孤独の散歩」も彼の遺著『或る孤独な散歩者の夢想』から取ったものである。老いたるルソーは崩壊も間近いルイ王朝の治世と、自分自身その火つけ役の一人であった大革命の爆発を前にして、新旧二つの世代から奪い合われ左右から介抱されながら、「私は自由だ。自由人だ」を呼号して、遂にそのいずれにも属する事なく孤高を生き抜いた人である。そのルソーと彼の著作を常常愛しているがために私からもついこんな詩が生まれたのであろうが、「多元不協和音」の世相の中を老いながら生きて、たまたま試みる低い静かな山への単独行が、時にそのはかない解決の機縁となることもまた事実なのである。

 

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 信州の酒に寄せて


 山へ登ったり高原をさすらったりする楽しみを覚えて以来、私の足はたいていの場合信州へ向かった。それが一つの縁になってか、戦争で東京の家を失ったのちの落ち着く先も八ヶ岳山麓の富士見だった。ああその愛する富士見を中心としての七年間の信州住まい。そこでかなりの仕事はしたが、詩や文章に書かずにしまった人間や自然についての思い出も山ほどある。
 その私が今、新春に汲みかわす信州の酒について書くことになった。私も元来きらいではないので、諏訪や安曇はもちろん、北信でも、東信でも、伊那でも、木曽でも、自分で飲んだりご馳走で頂戴したりした。そしてどれもこれもうまかったし、そのときどきの場所や相手ごとに、詩のような、絵のような、美しい感慨や記憶が今もなおありありと残っている。しかしこの場合、たとえば「真澄ますみ」がよかったとか、「千曲錦ちくまにしき」がどうだったとか書くことはやめよう。そんなことをしたら、一度でも私の旅愁をなぐさめ、私を喜ばせ、私から讃辞をもらった信州各地の酒たちが、「それではエコヒイキではないか。私のことはどうしてくれる」と、我れ先にと競い立ち押し寄せてくるだろう。
 そうだ。みんなもっともだ。私はそこが友人の家であれ、旅館であれ、町なかであれ、山間であれ、いつのときでも供された食膳を前に、雑念をしずめてお前たちを味わい、杯の数を重ね、お前たちによってほのぼのと酔ったのだ。たとえそこが都会でも田舎でも土地は信州、自分にとっての第二の故郷。どっちを向いても山のながめ、だれを見ても信州の顔、耳にするのは信州弁。そこで私は安心しきって、心豊かに、たとえば「白玉の歯にしみとおる」お前たちを傾けるのだった。
 こういうことを書いていると、早くこの病後のからだが元に戻って、また信州へ行けるようになりたい。山が見たいし無沙汰を重ねている旧友たちにもぜひ会いたい。そんなときには結局酒になりそうな気がするが、そのいずれ劣らぬ豊醇の何よりのさかなは、その後いくらか歳を重ねた彼らの顔と、年を経てその美いよいよ鮮やかさを増した我らに共通の懐旧談である。

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 自然の音


 それを読んだのはずいぶん遠い昔のことでもあるし、今その文章の載っている本が手もとに無いので、正確な題は書けないが、森鷗外の美しい小品に、山びこの事を書いたのがあった。
 なんでも一人の少年が時どき山の草原へ行って、谷をへだてた向こうの山に力のかぎり、「オーイー」だか「ヤッホー!」だかの声をかける。声は男の子の澄んだソプラノで、よくとおる。するとたちまち向こうの山から呼び声が帰って来る。子供心にもうれしく思われる力強い応答である。少年は満足して山をおり、家へ帰る。幾日かたってまた出かけ、また同じように呼んでみる。するとまた同じように答えがある。私に言わせれば、相手の誠実に期待しての親しい呼びかけである。少年は安心して山をおりる。そしてそういう事が月日の流れの中でいくたびも続いた。
 ところが或る日、同じ山の同じ場所へ立った少年が、いくら呼んでも答えがない。しばらく待ってまた呼んでも、いつもの応答は帰って来ない。少年はむなしく呼びつづけるが、向こうの山はかたくなに黙っている。「そうだ、あの山びこはもう死んだのだ」。少年はそう思うことにして悲しくあきらめ、黙々と山をおりてゆく。実は自分に声変わりの時が来たので、もう山びこが相手にしてくれないのだという事を心ひそかに感じながら。――たしかそういう物語だった。
 変声期などをとっくに過ぎてからの私の幾たびかの経験では、地形によっては山びこはちゃんと答えてくれた。しかしそんな音響学の問題などを持ち出す気持はさらさら無く、今はすなおに鷗外さんのあの美しい一編を思い出している。

     *

 自然の中でも雪のなだれや岩なだれの音、或いは山から山へと反響を伝える雷鳴などは、普通の人にはきわめて縁が遠いので、その物すごい地響きや空気の震動を初めて聴いてびっくりしながら、彼らの音の由来を説明されて漸く納得した覚えは私にもある。そしてこれらの音は威嚇的でもあり豪壮でもあって、時に人間の冒険心をそそったり或る精神を奮い立たせたりする。しかしそれは結局あくまでも自然の世界での突発的な音響であって、あの谷川のせせらぎや滝の響き、昼なお暗い原生林での滴るような小鳥の歌、或いは岩尾根の這松を吹き鳴らす高山の風のように、われわれの耳を喜ばすものでもなければ、楽しい期待をもってそれを聴きにゆく対象でもない。山へ行く心はそこに深い静寂を求め、その静寂を一層際立たせ意味深くさせる自然の純粋で調和的な音のしらべを聴くことを喜ぶ。ちりばめられた星の眺めがあってこそ、夜の天空がいよいよその神秘さを深くするのと同じである。
 私は愛する。山深い谷川の瀬の音を。そこに岩をめぐって青白い水が渦を巻き、水底の石を揺すって練り絹のように流れ、そこにイワナが棲み、カワガラスが棲み、切り立った両岸を黄や紫の深山の花が咲きうずめた夏の峡谷の流れの音を。
 私は愛する。秋の林の落ち葉の音を。カツラ、ミズナラ、ブナ、カエデ、ダケカンバにシラカンバ。ふかぶかと積もったその多彩な敷物を踏みわけてゆく靴の下から、深い波のように起こる明るく乾いた彼ら枯れ葉の山路の歌を。そんな処にはまたヤマブドウの房が累々と垂れ、ミヤマナナカマドの黄金こがね色のもみじが目にも鮮やかだ。

     *

 今のような時代にこんな事を言うのはいくらか気が引けるが、私はよそからの電話のベルと、室内で分秒を刻んでいる時計の音とを別にすれば、戸外から襲って来る町の物音や騒音に、ほとんど悩まされる事のない世界に住んでいる。停車場から十町あまり、木々の茂った山に囲まれた谷の上、近所に何軒かの家はあっても、現在のところ、いずれも物静かな人たちの邸宅ばかりだ。なるほどその人たちを送り迎えの車や、ご用聴きのモーター・バイクが坂道を上下する物音が全くしないわけではないが、それもそう始終ではなく、一日の大半を静けさが支配している。そして風の音や雨の音、季節の鳥や虫の声をのぞいては犬の遠吠えすら聴くことがない。
 もしも今の世に許される唯一の贅沢が静かさの所有にあるとするならば、私はその贅沢を許されている極めて少数の幸福者の一人だと言わなくてはならない。それを思えば毎日の生活の上の多少の不如意が何だろう。そしてもしも私が窓をあけて試みに「オーイ!」と呼べば、私と同様にまだ死なない山びこが「オーイ!」と答えてくれるのである。

 

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 デュアメルの訳書に添えて


 パリから北々西へ二十数キロ、オワーズの流れがこれを最後とその太い水の肱を曲げてセーヌ河へそそぐあたりに、ヴァルモンドワの小駅とラ・ナーズの丘陵や浅い谷間がある。支流ソースロンに古く浸蝕されたこの美しい緑の谷は十九世紀の文人ジェラール・ド・ネルヴァルに親しまれ、またここで仕事をした多くの画家のうちでも特にドーミエやヴラマンクの思い出に満たされた土地である。デュアメルもこの風光明媚な、いかにもイール・ド・フランスの名にふさわしく穏和で牧歌的な自然の一角に広大な地所を手に入れて、庭や果樹園や菜園をつくり、古い家を増築して「ラ・ヌーヴェル・メーゾン」と命名した。ここでの三十歳代の生活は二人の幼い息子ベルナールとシャンとを主人公とした『楽しみと遊び』のすばらしい一巻全部に詳しいが、この本の『動物譚と植物誌』の中にも特に一章を設けて、付近一帯の自然や眺望を目に見るように描いている。
 このデュアメルとの散歩のことを、パリでの『わが庭の寓話』の出版よりも十年早く、一九二六年に彼の友人アシール・ウイが書いている――
  「私はあの庭の並木道での、またトネリコ、ハシバミ、ソクズ、ニレなどの中をヴァルモンドワの方へぶらぶら続くあの狭い小径での、彼との対話を思い出すのが好きだ。デュアメルはその曇ったような、しかし疲れを知らない美しい声で、さまざまな逸話や、追憶や、触目の事物について話してくれたが、それはいつでも新しく、こくがあって、力強く、聴く者の精神を魅了した。彼の自由な天分は、彼の著作の中でと同様に話の中にひろがって、あたかもその源から全く自然にほとばしる透明で味わい深い水のようだった。
 「彼にとってはすべてが沈思黙考の主題である。われわれの摘み集めるこの花も、ウェルズの不思議な物語りを思い出させながら道を横ぎるこの昆虫も、めぐりただようこの匂いも……。どんな薫りをも取り逃がさない詩人デュアメルは、立ちどまって額ひたいを上げる。彼の鼻孔がすこしうごめく。彼は七月の終りのこの湿めりを帯びた夕暮の、なま暖かい空気を注意ぶかく吸いこむ。そして医師が診断をくだす時の重々しい口調で宣告する。「これは秋の匂いだ。私はこれを知っている。この匂いはもう二日前からここへ来ていた」と。
 パリでの『動物譚と植物誌』の出版から五年の後、一九五三年に私は書いた――
 「去年十一月の或る日の午後おそく、私は一団の人々にまじって、当時日本訪間中のデュアメル夫妻と一緒に、鎌倉建長寺の静かにほのぐらい、ほとんど塵ひとつとどめぬ清潔な広い境内を歩いていた。管長との禅に関する質疑応答というその日のプログラムの一つを片づけた後の気安さのためか、デュアメルはすっかり寛いで、われわれがその作品のいくつかを通じて充分なじみとなっている彼独特の散歩の歩きぶりを、すなわち眼や耳や、特にその自由な精神とシンクロナイズする鼻の機能をのびのびと働かせて、逞しく柔らかみのある長身の背をすこし前かがみに、眼鏡の厚いクリスタルが屈折する碧みを帯びた金いろの瞳をちらつかせながら、ゆったりと着た淡いあじさい色のダブルの外套に軽い灰いろのソフト帽、自然な歩調で足を運んだり立ちどまったり、また時にはほんの暫しの瞑想
に陥ったりする、あの独特の歩きぶりを見せていた。
 「いくつかの漠然とした組を形づくった十数人の一行は、水の流れに楽々としたがう落ち葉のように、絶えず少しずつ組の構成を変えながら歩いていた。そしてあの荘重な山門をくぐって石の階段を下りかけた時、私はいつのまにかデュアメル夫妻だけと並んでいる自分自身に気がついた。
 「私たちの頭の上には、亭々とそびえる大木の暗い茂りを額縁にして、冷たく透明な晩秋の空と、傾く日光に劇的に照らし出された嶮しい雲の断崖とがあった。色彩効果はまさにヴラマンクのそれであり、その画家ヴラマンクをまたデュアメルが好きだという事を私は知っていた。そこで、フランス語の会話には全く馴れず、またひどく拙劣で小心でもある私が、頭の中でこの好個の話題の切り出しに腐心しながら「作文テーム」をやっていると、いきなり顔を近づけてきたデュアメルが私の肩を軽くたたいて、「ムッシュー・オザキ、あすこで鳴いている鳥は何ですか」と、あの燻いぶしのかかった銀のような声で問いかけた。どうむずかしく発展するか不安だったヴラマンク話題を喜んでみずから抛擲した私は、今度はすこし勢いづいて、詩人の指す一本の杉の大木の、地上二十メートル以上もあるかと思われる高い梢の日当たりを見上げた。それはこの季節には好んで群れをなしている十羽あまりのヒヨドリで、ピーピー、ピークルクルと騒がしく鳴き立てながら、厚い針葉のむらむらの上へ乗ったり、その中へ柔らかに沈んだりしていた。「あれはビュルビュルです」と私は答えた。デュアメルは小首をかしげた。ブランシュ夫人は微笑と疑念とをちゃんぽんに私の顔をのぞきこんだ。私は一字一字区切ってBulbulの綴りを言った。そしてあれはフランスでは知られていないかも知れません、日本や東支那に特有な鳥ですから、と言ったつもりのフランス語で付け足した。詩人の妻は夫の顔をうかがい、夫で科学者でもあるデュアメルは柔らかに眼鏡を光らせて私にうなずいた。
 「それから私もいくらかの勢いと自信とを得て、われわれのまわりの、この十一月の森にたまたま反響する小鳥の声を一つずつ抜き出しては、あれはエトゥルノー・デュ・ジャポン(むくどり)だとか、あれはメザンジュ・シャルボニエール(しじゅうから)だとか、今鳴いたのはジェー(かけす)だとか、その樹をこつこつやっているのはプテイ・ピック(こげら)だとか、あの声はプティ・ヴェルディエ・ジャポネー(こかわらひわ)だとか、ともすれば不随意筋と化する頭や舌に鞭うって、日ごろの蘊蓄うんちくの一端をからくも披露した。これらの小鳥はフランスにもそれぞれ極めて近縁の種類がいるので、デュアメルも一々うなずいて、今ごろはヴァルモンドワの庭でも皆見られる鳥たちだと言った。
 「しかしブランシュ夫人のほうは慇懃といたわりとを失わない程度に不審を現した顔をして、ムッシュー・ポエト・オザキはどうしてそんなに小鳥のフランス名を知っているのかとたずねた。この質問はしかし私としてもいくらかは予期していたので、自分はもっと若い頃から野外の自然やその生物の愛好者であり、その方面のイギリスやフランスの本もかなり数多く読んでいると答えた。そして同じ分野で彼らの国の最も美しい著者ジャック・ドゥラマンの名を挙げ、いくらか専門的に乾燥した感じはあるが鳥学者モリース・プーピエの名を挙げ、事のついでにクモやサソリやハチの大家リュシアン・ベルランや、生化学者で水棲動物の大家ジャン・ロスタンなどの名も挙げた。すると一々の名に小首をかしげたり満足の目を輝かせたりしていたこの科学的・詩的フランスの文化使節は、「それにしても君はフランスへ来なければいけない」と言いながら、私の肩をやさしく撫でた。
 「そしてそれから数日後、私は作者自身から親しく自発的に『わが庭の寓話』とその続篇ともいうべき『動物譚と植物誌』の翻訳をすすめられた。もっともこの後者に関しては田付たつ子夫人との共訳でという付言があった。私はそれを承諾した」

     *

 無数の著作と世界旅行と、幸福であると同時に心痛事もまた少なくない家庭生活に没頭していた五十歳六十歳のデュアメルが、一方では『パスキエ家年代記』のような大作や『わが生涯へのもろもろの光』のような重要な回顧録を巻を追うて書きつぎながら、他方では想像と現実と思索とのアマルガムから、これら黄金の粒を思わせる寓話を採り出すことに錬金術士に似た、――しかし密室のではなくて明け放した窓べや大空の下でのそれに似た――興味と喜びとを見出しているのは見事でもあれば羨ましくもある。庭がないので寓話が書けないと歎く人間に、「私ならば窓のへりに置いた一鉢からでもそれを成長させるだろう」と言ったデュアメル、またこの本の或るページで告白しているように、まだ一人の詩人である事を悲しみを帯びたほのぼのたる気持で認めるデュアメルは、その晩年に近い重たく実った成熟のなかで、しだいに彼自身の生活を想像のうちに生きるようになってきたのである。他の誰のとも違う特異な個人的真実よりも、普遍的な詩的真実に一層大きな重要性を認めるようになるというこの事は、仕事のうちに深まりながら老境へと進んでゆく或る種の詩人に共通な傾向ではないだろうか。この事に関連した事実で、デュアメル自身がその『想像的覚え書についての摘要』という本の中に書いている興味ある一節があるから、それをここに訳して置きたい。
 「ブランシュと私とは画家Vのところで食事をした。夕がた帰宅してから、私はこの訪問のことをほかの友人たちの前で話した。私は彼から聞いたいろいろな逸話や言葉をしゃべった。中でも或る言葉はいかにも奇抜で、またいかにも見事に彼Vを表現しているもののように思われた。その言葉というのはこうである。「今日こんにち大画家の中の大画家と言ったら幾人いると思う」と彼は自問自答して叫んだ、「四人! すなわち、マチス、ドゥラン、ユトゥリロ、……」と。友人たちは揃ってこの言葉を彼らしいものだと思った。ところで私がブランシュと二人だけになった時、彼女はVがちっともそんな事は言わなかったと断言した。では彼がそう考えていて、私がその考えを聴きとったという事になる」
 Vなる両家が当時デュアメルの近くに住んでいたヴラマンクだろうという事をここに書き添えるのは、或いは非礼でもあれば余計ごとであるかも知れない。しかしまた私たちは、この画家の人柄が躍如とした、豪放な、自信にみちた自伝的な著書、『腹臓なく』 Le ventre ouvertや『死に先だつ肖像』 Portraits avant décès その他を持っているのである。
 こうしてデュアメルは同じ『摘要』の中で寓話についても書いている。「私は寓話を愛する。もしも寓話が無かったら私の生活はどうなるだろう。私は寓話のただ中を歩いている。それは私の草原で花咲き、私の思念とまじり合っている。それは私の思想であり、私自身である。私はそれを自分の思念、自分の宇宙、自分の寓話的宇宙と区別しない」と。
 寓話的宇宙とは想像をとおした自然的真実の寓意の世界、普遍的真実の詩の世界を言うのであろうか。いずれにもせよ今やデュアメルはついにこうした賢者の境地へ行きついている。あの懐かしいルイ・サラヴァンやローラン・パスキエの生みの親であり、かつての心情の治世の伝道者で『世界の所有』の詩人であるジョルジュ・デュアメルは。

 

 

 

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