一九四四年一月一日
午前中は巻雲、高積雲、層積雲の曇り空。雲向西南西、雲量七。地上風は北々東で和風程度。ときどき日光は洩れるが寒い。
午前十一時急に西の方から突風が襲来して庭木の枯葉が一度に吹き散らされた。竿に懸けた手拭もタオルも瞬く間に何処かへ飛んで行った。この突風は二分間ぐらいで止んで直ぐまたもとの北風にかえった。原因はわからない。
午後吉祥寺の河田君へ年賀に行った帰りに途中の畑地と善福寺の上下の池を少しばかり見て廻った。上の池は地図にも載っている本来の善福寺池で、下の池というのはその南の善福寺川谷頭の湿地を掘ったり拡げたり島を作ったりして、東京市の手で新らしく池にしたものである。なんのためにこんな事をしたのか知らないが、生茂る荻や蘆のあいだを涼しく水が流れて無数のヨシキリの囀るあの夏景色は、もう是ですっかり失われるのだ。
畠の寒い風景の中で時々のホオジロ、農家の防風林で鳴き騒ぐヒヨドリ。高積雲の下には層積雲が瀰漫して、その雲底は砥めたようにすべすべしている。雪もよいの空だ。上の池に十羽ばかりのコガモが浮かんでいたが、散歩の人声に驚いて器械仕掛の玩具の鳥のような飛び方で一斉に下の池のほうへ飛び去った。池畔ではアオジの若い雄一羽とアカハラ二羽とを目撃した。下の池へ来て見ると例によって四羽のカイツブリ、それに二十六羽のコガモ。いま上の池から来たのも混じっているらしい。雌の方がいくらか少いようだ。このコガモの群は去年の暮から居据わったもので、もう十羽以上も数を増している。心無い人間たちが嚇したり悪戯をしたりして、せっかく居ついたものをまた居なくなるようにはして貰いたくないものだ。
夜九時四十分快晴。頭上の天に牡牛の星座と火星、土星。寒い。
一月二日
昼過ぎに下の池でプランクトン・ネットを曳いてみた。自分の書く物の愛読者で、名古屋帝大理科の未知の学生が贈ってくれた網だ。手製だそうだがなかなか立派な且つ役に立つ道具である。池の水温は摂氏八・五度。水の比較的清澄な所では収穫が無かった。却って水際の枯葉や藻屑などの浮いている所で、例のイチジク形をした緑色の微生物無数とミジンコやケンミジンコを採集して試験管へ取った。帰宅後検鏡してみると藁屑には沢山のヌサガタ硅藻がつき、またイチジク形の微性物の、後半身が崩壊したようになって其の後に無数の粉のようなつぶつぶが残っているものを発見した。このつぶつぶをレンズの許すかぎり拡大して調べたいと思って試みたが中中うまく行かず、とうとう根負けしてやめた。採集品は残らず円筒形の硝子水槽へ収容した。
池のコガモは雄が「フィリョ・フィリョ」と最も優しい心をこめた笛を吹くのに、雌は全く平気な顔でただ「ガア・ガア」と鳴いていた。彼らは池畔の洲や中ノ島などのすべて南向きの枯蘆の根もとに蹲まって日光浴をしたり、冷めたい水に三々五々きれいな波紋を描いて遊戈したりしていた。今日は十五羽ぐらい居たらしかった。
一月三日
終日快晴。正午の気温七・二度。但し北風で体感としてはかなり寒い。
(写生図あれど略す) Statoblast? 色は淡褐色。楕円の長径二分ノ一ミリ弱を測る。
「淡水産苔蘇虫の体芽にして、其の長径普通一粍の半にも達せず。形は円形或は楕円形にして扁平なり。その両面には堅固なる膜を有する空気細胞ありて浮標の役をなし、以て水面に浮ばしむ。云々」学生版動物図鑑一三四六頁所載。
善福寺の下の池の南岸、比較的水の動かぬ表面に無数に浮いていて、現に自分の水槽中でも飼育している微生物である。初めは何かの卵か種子かと思っていたが、今日図鑑を見ているうちに前記のような記事と図とを発見したので或いはスタートブラストというのかと思って記録にとどめて置く。図は参考書を見る前に余が写生したもので、図鑑のそれと全く一致している。この微生物は二十倍のツァイスの拡大鏡ではっきる見ることができる。
卓上の別の水槽に粉末のようなナウプリウスが発生したので顕微鏡で見た。ケンミジンコの幼生らしい。実に活潑な可愛らしい小怪物である。(写生図略す)。同じ水滴の中にヌサガタ硅藻も混入していたので序でに眺めて、その色の金色や、切り刻んだ長方形の紙を角々でつなげたような其の形の美しさに恍惚とした。幼生も硅藻も同時に注射針で吸上げた僅か一滴の水の中の物である。そして是が彼等の世界である。極大の宇宙から極微の核までを悉く支配する造化の力は真に驚くべく、仰ぎ見て讃嘆するのほかはない。
一月十五日
六日の午後から感冒発熱、久しぶりで昼間も寝ている生活を味わった。しかしもう熱も下って今はほのぼのとしたコンヴァレッサンスの時期である。
今日は床の中で「セルボーンの博物学者にして考古学者なるギルバート・ホワイトの著書解題」を読みつづけた。其の中の「諸家の証言」という一章にトーマス・カーライルから「ゲーテとの対話」の著者エッケルマンに送った手紙が二通載っている。ゲーテの死後十六年、エッケルマン五十六歳、カーライル五十三歳の時の手紙だ。自分には興味のある文献だから床の中で訳して妻に筆記させる。
『一八四八年八月二日。
あなたはわれわれの国で「ホワイトのセルボーン博物誌」と呼んでいる小さい書物を御存知ですか。其の本は大公の図書館には有る筈です。しかし若しも無いようでしたら私に仰って下さい。取り寄せて御送りしますから。あなたはあなた自身のドイツの片隅で何かそれに類した事をなさるべきです。いや、本当になさらなければいけません。この本はわれわれの国での最もすぐれた書物の一つです。ホワイトは静かな田園の住人ですが、どんな僧正閣下の説教よりも三倍以上も立派な説教をやりました。どうか此の事を考えてみて下さい』
其の翌年にカーライルは又書いた――
『一八四九年一月五日。
ホワイトの「セルボーンの博物誌」のちょうど恰好な小さい版を手に入れましたから今日書店ナットから送らせます。それが彼らの知っている一番近い道を通ってあなたの所へ送られるようにと頼みながら。其の本が迅速且つ安全に御手許へ届いたと知ったらどんなにか喜ばしい事です。御読みになりながらきっと幾らかの同感を覚えられることでしょう。そして其の実例から刺戟をうけて、あなたがワイマールや其の近隣の地で同じような事をなさるようになったら其の本も全く立派な贈物だったというわけです! ホワイトは平和な田舎の牧師でした。彼の教区セルボーンは此のイングランドの南海岸ハンプシアにあります。お聞き及びでしょうが「赤王」と言われたウィリアム・ルウファスが昔狩猟をしていて撃たれたのがやはり其処です。私の読んだすべての博物書の中で此のホワイトの本こそは、その健康で楽しい点で、いちばん私を喜ばせてくれます。さあお出かけなさい、そして同じようにお遣りなさい!』
ああ、なんという手紙だろう!「サーター」を書き、「英雄崇拝論」を書き、尨大な「フランス革命」を書き、つねに魂の底に抜くことのできない厭生観を抱きながら、頽廃と愚劣の深淵ヘ転落するヨーロッパの真只中に予言者的な警世の電雷を叩き込まずにはいられなかったカーライル。そのカーライルが好んで「博物書を読み」、ホワイトに傾倒し、こんな懇ろな手紙をはるばるとドイツの片隅に窮迫の余生を送るエッケルマンに寄せているのである!
一月十六日
まだ何処かに疲労を感じて体にも力が無いが、頭だけはいきいきと冴えている。戦争さえ無ければと、ふと思う……
きのうのカーライルの手紙のことをまた考えた――
あの手紙の書かれた年にエッケルマンは「対話」の第三巻をやっとの思いで出している。第二巻からすでに十二年の歳月が流れた。過労と貧窮と病身との生活に加うるに書肆ブロックハウスとの訴訟沙汰。そして彼の敗訴。第三巻は別の書店から出るには出たがその売行は前二巻から見ればうそのようである。二年間でわずかに二三百冊が売れた程度だった。出す本店も渋々だったが、批評家もほとんど問題にしない。一八四八年、世の中はあのゲーテの高邁なオリンポス的空気とは凡そ相容れない社会的混乱と政治的動揺との大釜の中に投げこまれ沸騰していた。成人した新しい文学の世代はゲーテによって代表される晴朗な芸術の世界や宇宙的な調和の観念などを押し流して、滔々たる反動の波をみなぎらせていた。こんな時代だ。こんな一八四八年だ。ドイツも変ればワイマールも変って、エッケルマンの周囲ももはや昔日のようではない。二十一年前の九月の或る日ゲーテに誘われて、エッテルスベルクの狩小屋でいろんな小鳥の話に老詩人を驚かせたり喜ばせたりしたことが、この英国の偉大な読者からの手紙で今ぞ懐かしくエッケルマンに思い出されたかどうかを私は知らない。カーライルが熱心に期待したような読後感を、はたして彼が感じたかどうか、そうしてホワイトの「実例に刺戟されて」、元来すぐれた自然観察者であった彼が何らかの物を書き残したかどうか、そんな事も一切わからない。ラ・フォンテーヌのような人生智にくゆり、ウェイクフォールドの牧師代理ヷイカーのような人柄に見えたと言われる老エッケルマンにして、もうその頃には、ホワイトのそれに似た仕事をドイツで初める気力も体力も無かったのではないかと思われる。
一月二十日
病気はほとんど恢復した。家の中で静養している間ずっと「セルボーンの博物誌」を読みつづけた。私のはエヴリーマンの叢書だが、どうかしてもっと良いエディションのが欲しいと思う。
ホイットマンの親友で有名な鳥類の研究家でもあるアメリカの詩人ジョン・バーロウズが自分の監修で此の「セルボーン」を出している。上下二巻で八十枚の見事な挿絵が入っているという。内容は「博物誌」と「観察記」と「新書翰」と「暦」とから成っているらしい。バーロウズはホイットマンの鳥の先生だ。英国の鳥を見たり聴いたりするために二度英国へ渡り、カーライルやウァーズワスの故地も遍歴している。彼の「新しい野」や「目ざめよロビン」は私の愛読書の一つだ。ホイットマンの「自選日記」にも此のバーロウズの農場で暮した数日の楽しい思い出が書かれているし、更に英国人ション・ジョンストンの「バーロウズ訪問記」に至っては一層美しい記録たるを失わない。
ロンドンとニューヨークのマクミラン発行。このホワイトのバーロウズ版は、戦争が終ってなお自分が生きていたら是非取りよせたいものだと思う……
一月二十三日
快晴。昼間は比較的温暖。午後北風。
午前中は例によって机上の仕事。昼を過ぎてから久しぶりで散歩した。ほとんど二週間ぶりである。
下の池の中ノ島はどういうものか蘆が半分だけ刈取られて醜くされている。十二三羽のコガモがいて、(其のうち雄は五羽ぐらい)島の西向きの日当りや岸の南面の日当りにうつらうつらしている。カイツブリ三羽、いずれも地味な冬羽をして盛んに水を浴びたり水へ潜ったりしていた。
上の池を見おろす崖の上、クヌギとコナラの林に風をよけて煙草を吸っていると、金粉を散らしたような青空を三羽のゴイサギが「クワークワー」と嗚きながら悠々と飛んで行った。それが日光を或る角度でうけると矢車菊の花の色を呈した。一人の人間がそれを眺めて感嘆しているなどとは勿論彼らは知らないのである。キジバトも一羽飛んで行った。彼の飛び方には「肩で風を切る」という趣きがある。さもなければ水の流れと逆にボートをやって、両手のオールの一引きでぐいと前へ出るという慨がある。この動作が最も能率的に円滑に行われて、あの鳩というものの特異な飛び方は成立するのであろう。
池畔の本橋氏の屋敷林の下の芝生を無数のベッコウバチの一種が徘徊しているのを見て、その一頭を管瓶に採集した。同時に一頭のウリハムシもつかまえた。両方とも越冬中の成虫である。蜂のほうは帰宅後調べて見てヒメクロオビベッコウである事が判明した。ウリハムシは解剖用の拡大鏡で覗きながら写生して着彩した。実物の約六・五倍。(図は略す)ハムシの類はすべて田畑や庭の害虫だが、其のほとんどすべてが美しい。
一月二十七日
快晴。割合に暖かい。此の頃毎日午前十一時頃になると必ず二羽のアオジが庭へ来て餌をあさっている。しかし警戒性が強くて甚だ神経質である。ホオジロがやはりそうだ。ホオアカはさほどでもないと思うが此処ではあまり見かけない。
夕方近く下の池を半周した。穏やかな冬の日の暮で太陽はすでに女子大学の建物のうしろへ隠れ、頭上に魚骨のような形をして浮かんでいる二本の高積雲だけが柔かに白い。二十米ばかり向こうの水面にいつものコガモが集まり、其の中でも四羽の雄と三羽の雌から成る一団がもっとも活気に富んでいる。と言うのは、この七羽が入りみだれて非常な興奮状態を呈し、緑がかった青い水面の一ヵ所をぐるぐる泳ぎ廻っているのである。ところが其の騒宴の中を眼をこらしてよく見ると、雌たちを前にして四羽の雄がたがいに己れの美や優越を誇示して一種の競争を演じているのだという事がわかった。彼らは可憐な口笛を吹き、猛烈な速力で追いかけ、引返しては雌の傍らへ近づいて行き、ぐいと水中へ頭を突込むかと見ると今度はあらんかぎりの背伸びをして胸を張り、恰好よく膨れた銀白色の腹を見せながらぱさぱさと羽ばたきをする。そのたびに見える翼鏡の鮮かな緑や下尾筒の黄白色がじつに美しい。所謂ディスプレイの動作である。口笛、羽ばたき、飛びちる水煙、綾のように乱れる航跡。春は早くも彼らの血管に脈うっているらしい。
夕暮の空はあかるく、頭上の高積雲はすこし変形して羊群状になっている。しかし水面にうつる空そのものは実物よりも暗いので高積雲の映像が却ってよく見える。いくらか風があって水も縮緬皺をよせているので雲の像も不動のわけではないが、それでも実際に見る空中のものよりも輪郭が鮮明で立体感もよく出ている。所謂どぎつい写真に似た効果を現わしているのである。
一月二十八日
快晴。温暖。
午後日本橋まで行った序でに丸善へ立寄って黒田長礼博士の大冊「雁と鴨」を買った。英書シートン・ゴードンの「雪の曠野にて」を読む時の参考にするためである。
丸善を出てそのまま外濠そとぼりの電車道をあるいて行くと、東京駅の上空に近来まれに見るみごとな巻積雲の出ているのに気がついた。ほとんど典型的なものとも言えるくらい細かな雲塊の織物で、きわめて薄層のものでありながら実に鮮明だった。じっと立って眺めていると僅かずつ東へ動いて行く。視角にして約三十度の長径を持った楕円形の雲だが、これを地上へ引下すとしたら東京全市を被うてなお少しあまるほど大きなものである。そして此の雲が美しい彩雲現象を現して、えもいえぬ微妙な淡い葡萄いろと透明な淡緑色とに彩られているのである。時計を見ると午後四時四十分。太陽は中央郵便局の屋根に沈みかけていた。
以前「雪の曠野にて」を読みながら Barnacle gooseを顔白黒雁かおじろこくがんと自分で仮に訳しておいたが、今夜「雁と鴨」を見て顔白雁かおじろがんと訳されているのに、当らずと雖も蓋し甚だ近いのを喜んだ。
一月二十九日
晴。やや寒。
日比谷公園松本楼で会合。昼餐。公園の花壇の道を行くと中央花壇の麦などを作って畠にしてある所に、三十羽ばかりのムクドリが下りて大騒ぎをしながら餌をあさっていた。オレンジ色の嘴、顔の白点。都会のまんなかで見る此の野禽にはまた別様の美しさが感じられた。所々ベンチで事務員らしい若い男女が昼の弁当をつかっているが誰一人このムクドリの群を眺める者はなく、通行や散歩の人々もまた一人としてこれに注意を払おうとしない。いつかハドスンの「ロンドンの鳥」に倣って「東京の鳥」を書く人があるとしたら、この日比谷公園のムクドリと京橋区月島のセッカとを閑却することはできないだろう。
帰途午後三時二十分西荻窪の駅を出るといきなり北の空に二筋の飛行機雲を発見した。いずれも未だ新鮮な雲で、青い空の地へ二本のしんかきで真白な「つ」の字を二つ書いたように見える。無論二台の飛行機の作った雲で「つ」の字の頭のほうが細くて色も濃いのである。一町ばかり行くと今度はもっと新鮮なのが一本するすると垂直に出た。実に繊細なもので、それを作った機体は見えない。非常な高度にちがいなかった。また一町行くと今度は爆音を響かせて北から南へ飛行する一機が一条の雲を作って行くのが見えた。まるで絲を紡いで吐き出しているようである。この雲は出来たては水平に一直線だったが見る見るうちに投げかけた紐のようにたるんで太くなった。一番初めに見た二本の雲は今では太い刷毛で刷いたようになり、もう綿屑のようにちぎれはじめた。以上いずれの雲も飛行機の行く先々でするすると出来るが、広く深い空間の或る箇所になると全く出来ないところから見て、今日の此の時間の此の空に、雲の形成される比較的不安定な気層と、形成されない安定な気層とが重なり合って存在しているらしいことが察せられた。
空は次第に曇りはじめて、夜九時には本曇りになった。
一月三十日
朝、みぞれ。後ときどき小雨。夕刻から曇。稍寒い程度。
午後小雨の中を雨外套に傘無しで下の池から上の池を一廻りした。雨は降っても戸外はやはり広々と気持がいい。英国の自然文学者でハドスンと同時代の野禽研究家ワード・ファウラーが「雨の讃美」という見事な小品を書いているが、自分も今日は讃美の気持だ。
上の池の水辺には幾株かの恰好のいいネコヤナギが立っている。是はもちろん柳自身が自分で天然の形を整えたわけであるが、その中にもう冬芽の鱗片をぬぎかけて早くも銀色の花穂を見せているのがある。コリヤナギも生えているが此の方は未だすっぽりと鱗片をかぶって冬の姿である。
ネコヤナギの冬芽の鱗片は長さ十八ミリから二十ミリぐらいで、小さい革手袋の小指のように見える。色は褐色で白い短かい絹毛が生えている。いわゆる腹面合生で、中に包まれている花穂の生長伸展につれて不要になった頭巾のように押上げられるのである。鱗片の附根のところに離層のようなものが形成されるらしい。花穂の長さは今のところ二十ミリ程度だが、光の当てようで銀白色の絹毛の地膚が紅く見えるのは、この絹毛の基部にある苞鱗の色が透いて見えるためである。ちょうど白兎の耳を被うている白い毛と、その地肌を淡紅く見せる皮膚の色との関係のようなものであろう。
コリヤナギの冬芽はネコヤナギのそれと較べると小さくて密生している。いずれにしてもネコヤナギの花穂の銀色こそは此の凋落の植物界での唯一の早春の歌だと言えるようだ。
一月三十一日
今日は私の第五十三回の誕生日だ。書斎も茶の間も菜の花、寒菊、白と桃色のニオイアラセイトウ、黄花のフリージャ、緋色のチューリップ、プリムラ・マラコイデス、それに緑の霧のようなアスパラガスなどで清楚に装飾されている。実にたくさんの花だ。普段はしまってある色々な花瓶や一輪挿しが動員された。アルベルト・シュヴァイツァー博士の女の友でミュンヘンに住んでいるベルタ・シュライヘル女史が、私の為にと言って片山に托して送って呉れた女史自作の美しい花瓶敷二枚も久しぶりに現れた。
書斎の仕事机の上には特に贈り主である妻と娘の名を書いた名刺を添えて一鉢の白梅の盆栽が置かれ、「寿」と書いたのし紙に包まれて郡山千冬訳のマイエル・グレーフエ著「セザンヌとその時代」の一巻が卓の中央にうやうやしく載っていた。
私は終日家にいて其のセザンヌの本の挿絵をながめ、シュヴァイツァー博士の弾くバッハのオルガン曲を蓄音機で聴き、リルケの詩集「我が祝いに」から数篇を読み、自分の祝いのために一篇の敬虔な短かい詩を書いた。
夜、親子三人楽しい晩餐のすんだ頃、近くに住んでいる若い友人蛭田、大部の両君が祝いに来てくれた。蛭田君からビール二本に清酒一壜、大部君からは同君貼込みのアルバム一冊を贈られた。その中には私も加わっている上越の山の旅や甲州扇山遠足会などの記念写真も入っていた。両君には内祝いとしてウィーナーのポケット型四十倍の拡大鏡を一個づつ贈呈した。
午後十一時を過ぎる頃、両君を見送りながら杉並区宿町の蛭田君の家の近くまで一緒に歩いた。空は晴れ、北西の風がかなり強かった。しかし天空の眺めが実に壮観をきわめていたので、星の好きなわれわれ三人は眼を夜空に感嘆の声を上げながらゆっくり歩いた。天心には馭者座、雙子座、西南西から南へかけて牡牛、オリオン、大犬等冬の夜天の王侯たち、客としては火星と土星が牡牛座に招かれて、此の星辰の花園に一層の光彩を寄与している。大犬はもうよほど前屈みになり、南の地平線、銀河の煙るところにアルゴ艫座あたりの銀砂子、獅子はその前足の上に爛々と木星を輝かせて天心から稍東。その下の奥のほうに銀いろの靄のようなペレニイスの髪。おりから東天を昇って来る堂々たる牧夫の主星アルクトゥルス。そして西北西の丘の冬木立の透間を、遠い火事のような光で染めて今や沈もうとする巨大な金の杯のような月齢五日の月。寺分橋を渡るとき、水辺の闇の中からコガモの雌の声がきこえた。
二月一日(火曜日)
終日吹きとおした北西の強風がいくらか凪いで夕暮になる。午後五時すこし過ぎ、太陽は女子大学の塔のうしろに沈んだばかりで、西の空は金箔を貼った明り窓のようだ。これが昔ながらの冬の武蔵野の夕映えの空である。
六日の月、上弦の月が、天心から稍東にある。弦を地平線に垂直に立てた半円形で、その色は氷のようだ。月面図をたよりに雙眼鏡を手にして其の月を見る。底知れぬ太虚の奥をすすむ巨大な円球。真冬の青い空間に浮上って見える静寂きわまる一つの世界。その氷のような白い球面に右から危難ノ海、豊饒ノ海、神酒ノ海、静穏ノ海、晴ノ海のような一際暗い凹所が指摘される。
「危難」と「豊饒」のあたりは真正面から太陽の光をうけているせいか明暗の差もそれほどではないが、静穏ノ海や晴ノ海のあたりは凹凸の感じが極めて鮮明で、殊にそれらの東側では海をとりまく半円形の壁がよく見える。わけても弦の南半分をかぎる巍峨とした火口群の直線列はじつに壮観で、不思議に地球上的な眺めである。
午後七時半、もう一度月を見る。今度はほぼ天心にある。夕方の時の氷球のような感じがなくなって輝々とした黄金の半円球である。晴ノ海の東、ちょうど弦のふちからはみ出して輝いているのはエラトステネスと呼ばれる山であろうか。東側の爆裂壁が金環のようにきらめいている。
夜、北西の秩父颪は耳孕を切るようだが七町ばかり離れた畑地へ行く。もしやアルゴ竜骨座のアルファ星カノプスが見えはしないかと思って出かけたのだ。午後八時半、まだ月があり、昼間の強風に吹上げられた砂塵が空の下層に沈澱しているせいか、地平線は一帯に白っぽく明るい。おまけに南の空には一連の高積雲らしい雲がほんのりと棚曳いている。寒風を背に外套の襟を立てて雙眼鏡で一心に捜す。雙子座ポルックスの左の足にあたるガンマ星から大犬座のシリウスヘ直線を引いた所、南の地平線上約二度のところに一個のかなりな星が見える。六七町離れた高圧線の鉄塔と夜目にも黒い杉の森との間に、提灯の明りのように鈍く赤く、漂うように見えるのだ。この高度には他に一つの星も見えない。或いはこれこそカノプスではないかと、その視角度、その光の色をしっかりと眼底に焼きつけた。おそらく其の北方一度の所にある艫座のニュー星ではあるまい。
カノプスは今から二十年前の結婚当時、上高井戸の畑中の家からちょうど今頃の季節にいくたびか見たことがある。それは松沢病院のあるあたりから僅か東へ北沢寄りに、十数町離れた杉の森の上約一度か一度半の高さに浮かんでいた。当時未だ良好な恒星図を持たず、三省堂版の星座早見だけをたよりにしていた自分は、あの楕円形に切り抜かれた窓の下方、真南の所を剥がすようにして開けて、其の下に半ば隠れている大きな白球に胸を躍らせたものである。
そして今、周囲の畠は月光の下で白々と氷り、まっくらな武蔵野の奥から膚を切るような秩父颪が吹いて来る。肉眼でもはっきり見えるオリオンの大星雲。西へ傾く上弦の月。昨夜にも増して燦然と輝く獅子座の木星。二十年の歳月は私の髪に霜を置いたが、天上の眺めには露いささかの変りも無いようだ。
二月二日
今日栄子は自校東京女子大学の庭から互いによく似た二種の菌類をとって来た。校庭のクヌギの切株に生えていた物だという。半円形で平たく、長径約一寸五分。表面には褐色と灰褐色の同心環紋が現れ、裏面は錯綜した襞になっている。乾燥した木栓質の軽い菌である。参考書で調べて多孔菌科に属するカイガラタケと判明した。もう一種のも是とよく似ているが、此の方はシロカイガラタケで、表面がすっかり白ビロードのような短かい絨毛に被われている。両方とも写生して淡彩を施した。
二月三日
咋日は午後の空に薄い高層雲と太陽とが何となく水っぽく黄色かったが、天気が変って夜は本曇り。そして今朝は八時頃からちらちら小雪が降りはじめて昼過ぎまでつづいた。正午の気温零下二度、午後二時零度。
二時すぎに一時間ばかり畠や池のふちを散歩した。路傍の薄黄いろい殆ど透明に枯れた禾本科の草をつづる淡雪の模様が、土の黒との対照でじつに美しい。畠の畝も北側には雪が斑々と残って、麦踏みの済んだ一株一株の小麦の上につつましく載っているのも風情がある。歩いていると二三羽のヒバリが飛び立って「ピルル・ピルル」と灰いろの寒空の下を鳴きながら隣の畠へ飛んで行った。
下の池の西の隅で水面からほのぼのと白い湯気が立っていた。以前まだ此処が一帯の湿地だった頃、水の湧く釜だった場所である。比較的温かい地下水の湧出する箇所では、この時刻の気温と水温とのいちじるしい差で水蒸気の凝結が起こるものと思われた。
池畔のコリヤナギの枝にぶらさがっているミノムシの嚢を採って来て帰宅後鋏で切り裂いて見たら、中にいる虫はみんな平たくぐにゃりとして死んだようになっていた。ところが試みに針の先で突いたら動いた。活動を休止した内臓諸器管と、少しばかりの脂肪と筋肉と、しなびた皮だけになって冬眠しているのである。
二月七日
晴。薄い高積雲ところどころ。空は幾分濁っている。北の微風。温暖。
朝「天気と気候」の第十巻十一号が届いた。其の中に笹塚国民学校訓導木暮俟夫という人の「国民学校に於ける気象観測の指導」という寄稿があり、興味と示唆とに富んだ報告であった。文中生徒に雲形を識別させることの困難を述べたくだりに、私の著書「雲」を便利なものとして挙げていた。
午後善福寺の上下の池へ水温を調べに出かけた。三日に池の湧水箇所から湯気の立っていることを思い出したからである。紐付水温計、寒暖計、試験管、管瓶、ルーペ其他を携帯。
まず下の池の先日湯気の立っていた所から調べた。うしろに雑木の生えた崖を背負い、二方を枯蘆にかこまれた日蔭である。午後一時四十分気温十度。棒の先へ糸でつるした水温計を水中へ下げて十分間放置してから引上げて見たら、水の温度は十五度だった。三日には気温がちょうど零度だったから、もしも水温があまり変らないとすると其の差は十数度という事になる。そうしてみると水面上若干の処に霧の出たのも当然のように思われる。よく冬の朝早く小川に沿って霧の帯のたなびいているのも是と同じ理窟である。
水辺のネコヤナギはもう皆花穂を包んでいた栗色の鱗片をぬいで、八日ほど前には十八ミリから二十ミリの長さだったのが今日は三十ミリにも伸びて丸々とふとっている。楊の花穂の生長速度は自然の時計だと言ったヘンリー・ソロオの言葉を思い出した。コガモは例によって十四五羽浮かんでいた。空には千切って投げたような高積雲があり、それがいずれも白煙のような尾を曳いているために空全体が混濁して見える。地上は風もなくて暖かいが、空の中層から上層にかけてはかなりの北西風が吹いているらしい。崖の上の雑木林でマヒワののんびりした「チューイン・チューイン」の声、コカワラヒワの甘えたような「コロコロキリ・コロコロキリ、ビーイ・ビーイ」という完全な春の囀り。自然の歩みはのろいようでも其の前進は確実である。冬だ冬だと思いこんで泣き面をしているのはわれわれ人間ばかりらしい。
今度は三町ほど離れた上の池へ行き、水面へ突き出た岸のコリヤナギの太枝から水温計を下げて十分間放置した。気温十度、水温七・五度を測った。此の池の水のほうが下の池のよりも冷めたいのである。上下の池の水温の差約七度。もしも春から夏にかけてなおこれだけの差があったとしたら、二つの池の生物相にも幾らか違ったところが有りそうに思われる。これは素人に持ってこいの研究課題だということができる。(附記。此の研究は本気になってやる積もりでいたが、其の後急に市内青山へ転宅することになって実行できなかったのは残念である)
上の池の片隅にある弁天島へ架かった橋の袂の水中に食用蛙のおたまじゃくしがたくさんいた。林立したセキショウモの間からふらふらと水面へ浮かび上って、ぴょこりと頭を出すかと思うと又すぐにもぐってしまうのである。大きいのは長さ五センチから八センチぐらいらしいが、いずれもフグ提灯に長い尾をつけたような恰好をして、胴体と尾とを重々しく揺すって水面へ昇って来ては又すばしこく水底へ帰って行く。その何十匹がぴょこりぴょこりと頭を出すたびに小さい波紋ができて、その波紋が互いに干渉し合ったり乗越え合ったりするのだからなかなか美しい看物であった。思うに此のおたまじゃくしたちは今や鰓呼吸時代を脱して肺呼吸時代に入ったのであろう。従ってその蛙への変態も間近いことだろうと思われた。
池畔を歩きながら見た雲の投影も美しかった。静かな水に映った雲の映像が空に浮かんでいるのよりもはっきり見えるのは、空の青い色が水底の黒い土の色に吸収されてしまうのに、雲の白色だけが反射されて眼に帰って来るからではないかと思われる。もしもそうだとしたら黒硝子の面を持つ雲鏡と同じ理窟ではなかろうか。
帰途念のためにもういちど下の池の水温を測ったがやはり十五度だった。
傾く夕日の中を水面低くユスリカが飛んでいた。序でに試験管で採水してルーペで見ると、シヌラ・ウヴェラ(多数)、ステントル・ケルレウス(多数)、ゾウリムシ(多数)、ミジンコ幼生(多数)、ケンミジンコ、ヒルガタワムシなどが入っていた。僅か十四立方センチぐらいの水の世界にこれだけの種類が盛んに活躍しているのである。
それにしても自然観察から喜びを見出すことのできる者にとって、生の倦怠などというものは有り得ない気がする。
同日夜。
午後九時、無風快晴、空には月齢十二日の月がある上に空気の状態もあまり良好ではないが、理科年表から大犬座の南中時刻を概算して、アルゴ座のカノプスを見に例の畑地へ行く。頭上では雙子座のカストルとポルックスとが横になり、輝く月はこの両者の頭をつないだ直線上二倍の距離のところに懸かっている。そのために附近の空は一帯に光って二等星以下の星は見えず、シリウスひとりが木星と光輝を競っている。火星と土星とは今は一等星ぐらいの光度である。いつもの観測場所から北へ三十間ばかりの所に新貯水池構築用の砂利の山がある。九時十五分その山の上へ立って大犬座の真下を望遠鏡で捜索した。五六町隔たった樫の木立の上、地平線上約二度の高さを南から僅か西へよったところに、目的の星カノプスと覚しいのが光っている。瞬間には見えないが一二分辛抱していると薄赤くゆらめいて見える。その位置から考えて確かにカノプスに相違なかった。光達距離四百五十光年だとすると、十五世紀から十六世紀に移る時代、西洋ではコロンブスがアメリカ大陸を発見し、続いてフローレンス人やポルトガル人等によって南アメリカが発見された頃の、其のカノプスからの光が今われわれに届いているわけであろう。そう思うと何が現在であり、何が過去や未来であるのか分らないような気がして来る。
二月八日
終日快晴。疾風程度の北西風。
池の水温とほぼ同じくらいの温度を保たせてある円筒の硝子水槽の中で、繊毛虫類喇叭虫の一種のステントル・ケルレウスが無数に分裂をはじめている。個体の色は緑色か褐緑色、肉眼だと微細な砂粒かそれ以下だが、二十倍ぐらいに拡大して見るとイチジクの実の臀のほうを横に削いでちょっと角をつけたような恰好をしている。そしてその削ぎ落された部分に繊毛が輪形に生えていて、この繊毛の廻転による推進力で水中をぐるぐると動き廻るのである。ところがどうも其の中にイチジクの形が伸びて中央部でくびれて、ちょっと瓢簞を逆さにしたようなのが混じっているので、うまく注射器で吸上げて時計皿へ入れて顕微鏡でのぞいて見た。やはり無性生殖の二分裂をはじめているのであって、くびれた部分の一方に頭が出来かけて、其の縁にはもうちゃんと繊毛が生えている。このくびれが絲のように伸びてちぎれると、一個だった核も同時に二個に分れて(私の顕微鏡ではそこまでは見えないが)茲に独立した二つの個体が成立するのである。辛抱して完全に分裂するまで覗いている積りだったが、あいにく米客があって中止しなければならなかった。
午後五時十五分頃から畠で三十分間ばかり日没の空を見ていた。太陽は山梨県桂川右岸の赤鞍岳のすこし右へ落ちた。広々と晴れた空には文宇どおり一点の雲もなく、ただ、三峠山と初狩の滝子山との間のわずか上空あたりに視角で一度ぐらいの金紅色に輝く雲が遠望されたが、それも富士山の左の肩から吹上がっている雪煙の金色が槌せると同時に黒くなった。ずいぶん遠い雲で、そしてこれが今日の唯一の雲であった。
二月九日
朝は快晴、正午頃西南西を幅射点として巻雲が現れた。ほぼ釣針状だが極めて稀薄なもの。
昼ごろ善福寺池の崖の斜面のクヌギ林の中で、クヌギの切株に生えているサルノコシカケの一種を撮影した。菌は木栓質で堅く、菌傘の表面に粒々の凹凸がある、輪層を現して色は灰白、裏面は白いが黄色い汚染がある。裏面の孔は極めて小さく、石灰質ようの沈澱が見られた。傘の小さいものは三センチ、大きいのは八センチ程で、腐朽した切株のまわりに重なって発生している。写真には切株二個を撮影した。後方の切株は直径二十五センチである。菌傘裏面の孔はその直径約三分の一ミリ、深さは同じく三分の一ミリから一ミリ半ぐらいあって、傘の中心に近いものほど深かった。菌の質はナイフの刄がきしむくらい堅く、切断面は石膏光沢を呈していた。
帰宅後緑藻類のヴォルヴォクスに似た球形の群体(直径〇・一ミリから一ミリくらい)が顕微鏡下一滴の水の中で分裂するところを見た。この群体はゼラチン様のものに包まれて盛んに鞭毛を動かし、近くに寄る物をぐるぐる廻転させて引きつける。各一個の細胞は鮮緑色。群体は初め球円形をして所々にまるい空所があったが、見ている内にその一つが餅を焼いた時のように膨れ上ると形が変った。やがてゼラチン質の一ヵ所がぱちんと割れるかと見るまに附近の細胞が一斉に流れ出した。つづいてまた別の箇所が割れて其処からも流出がはじまった。この細胞には比較的大形のものと小形のものとがあって、小形のものの方が数も著しく多く運動も活潑だった。彼らはその一つ一つがそれぞれ鞭毛を持っているのである。大形の方が雌性配偶体、小形の方が雄性配偶体と言われているものかも知れない。しかし何のために、又どういう衝動で、彼らの共同生活形態である球状の群体が分裂するのかは私にはわからない。
夕方西北西へ出た薄い風雲状の高積雲が彩雲現象を呈して、そのエメラルド・グリーンやモーヴの色がほんとうに美しかった。
二月十三日
紀元節を中にして三日間、予葉県印旛郡遠山村の岳父水野氏方で暮らして来た。
昨夜は就寝後久しぶりで雨声を楽しんだが今朝はうつくしく晴れて春のように温暖。しかしそれから次第に雲が出て来た。午後東京女子大学の寄宿生有志のために文学講演。題目は文学者と科学。講演後校庭の芝生で寺田博士の「軽井沢」を生徒数名に声を出して輪読させた。若い女性の声で明瞭にゆっくり読まれるのを聴いていると、部分部分が印象的に浮き上って、ただ黙読しているときには得られないような効果がうまれた。この朗読会はこれで二回目だが皆上手になった。散会後一同揃って善福寺の池畔や畠の中を散歩した。校庭では今年最初の花であるオオイヌノフグリの薄青い花を発見して皆大喜びをした。時々ぱらぱらと雨が落ちて来た。空は半ば以上厚い層積雲におおわれて、黒、藍黒、灰白というようにヴラママンクの画を想わせるが、その雲の切れ目からのぞいている淡い竜胆いろの空はいかにも優しい。ときどき黄玉のような光を投げて日が射す。しかも濃密な雲は向こうで毛のような落下縞を見せている。不安定の美であり、またそれだからこそ早春らしい空模様である。一時間ばかりの散歩は、こうして雲についての話に終始した。
夜はきれいに晴れたので又カノプスを見に畠へ出かけた。九時十分、東天をすこし南寄りに金色に澄んでかがやく十八日の月。しかし南の地平線にはあいにく低い雲の堤があって、アルゴは艫座のピー、ヌー、タウの三星までしか見えない。タウからカノプスまでは僅か二度かそこらの視角距離に過ぎないのだが、此の際はその二度が物を言うのである。そのかわり大犬座の銀河星団M四一、艫座のM四六、ペルセウス座の散開二重星団NGC八六九と八八四とを望遠鏡で見た。大犬のM四一は大きく見事であり、ペルセウスの二重星団は宇宙に浮かぶ銀の斑紋、艫座のM四六に至っては微茫として夢のかなたの趣きがあった。
二月十四日
午前中は晴れて温暖。昼頃から気温が降り、空も曇って昨日のような不安定な雲景を見せた。しかし日没時には再び晴れて金褐色の夕焼がひろがり、緑を帯びた空の上方はふかい紺青を呈した。
午後八時半、風は無いがひどく冷めたい空気の中を例の畠ヘカノプスを見に行く。頭上の天はまるで星辰の花園である。馭者、オリオン、火星、土星、牡牛、大犬、小犬、さらに木星、雙子、獅子。この季節の大星座とおりから居合わせた遊星とが残りなく網羅されて、ほとんど六等星ぐらいのものまで肉眼ではっきり見える。北西の空低く秩父武甲山のあたりかと思われる地平線上にアンドロメダが逆立ちをし、その少し左下にペガススの殿りの星アルゲニブが見えるのだから空気の明澄度は驚くほどである。足を急がせて所定の場所へ達し、ふりかえって南の地平線を見る。するといつもの二本の高圧線の鉄柱の中間、樫の立木の左、地平線上約二度のところに一個の星が肉眼でもはっきりと見える。さっそく望遠鏡を眼にあてて凝視すると、昨夜と同じに低くたなびいた層状の雲の下に、すこし赤味を帯びた金色の星が肉眼で見る時の二等星ぐらいの光度で見える。まさにカノプスである。懐中電燈の光で時計を見ると午後八時四十五分。思えば二月一日夜からの宿望が十四日目の今宵ついに叶えられたのである。大犬座のベータとゼータの二星を南北に貫いた鉛直線上、やや東へ寄って地物とすれすれ、彼カノプスは静かに燃えるがように、揺らぐがように、億万由旬のかなたに浮いているのである。夜の寒気のために氷るまつげをしばたたきながら、なおもじっと見ていると、南天の巨星は少しずつ少しずつ西へ移る。もう十分もしたらそれは沈んでしまうだろう。体はすっかり冷えながら、酬いられた心は暖かに、私はやがて霜を結ぶべき夜道を我が家へと帰った。
二月十五日
新宿から銀座へ出る途中、天気がいいので半蔵門で市内電車を降りてそれから歩いた。無数のユリカモメがお濠の水に浮かんでいたり、例の枯木の大枝へとまっていたりするのを見た。数百羽という大群である。その間にも続々到着するものもあれば隅田川か東京湾のほうへ出かけて行くものもある。それが今日の麗らかな日の光と青空の中で、じつに美しいのびやかな眺めだ。お濠にはカルガモもたくさんいて、その多くは三宅坂対岸の石垣のふちヘ一列に並んで午睡をしていた。司法省の角のトチの樹が四本、燭台のような枝の先に飴色に光る太い新芽を出していた。西の方から薄い巻雲が流れ出して、ところどころ可愛い波状を呈するのが眺められた。
すべてがいかにも早春らしかった。あどけなく、ういういしく、内からの衝動に深くうごかされていた。私はいつのまにかグスタフ・マーラーの歌 Ich atmet' einen Linden Duft (われ菩提樹の花の香をききぬ)を口ずさんでいる自分に気がついた。歌は清朗に澄んで甘やかだが、しかし一脈のメランコリックな感情が其処にはある。私の現在の心境がそれだ。戦争をしている祖国への忠誠と、憂慮と、調和の自然への昔ながらの傾倒とその喜び。この如何ともなし難い矛盾を、心の奥底の深い痛みを、私のために解決し癒やしてくれる神を私は持たない……
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