麦刈の月


   ※ルビは「語の小さな文字」で、傍点は「アンダーライン」で表現しています(満嶋)。

                                 

井荻日記

冬の途上

水車小屋へ

麦刈の月

二つの歌(秋の歌・冬の歌)

蝶の渡海

一日の春

多摩河原

大平原

                                     

 

 井荻日記(一九四四年)

 一九四四年一月一日
 午前中は巻雲、高積雲、層積雲の曇り空。雲向西南西、雲量七。地上風は北々東で和風程度。ときどき日光は洩れるが寒い。
 午前十一時急に西の方から突風が襲来して庭木の枯葉が一度に吹き散らされた。竿に懸けた手拭もタオルも瞬く間に何処かへ飛んで行った。この突風は二分間ぐらいで止んで直ぐまたもとの北風にかえった。原因はわからない。
 午後吉祥寺の河田君へ年賀に行った帰りに途中の畑地と善福寺の上下の池を少しばかり見て廻った。上の池は地図にも載っている本来の善福寺池で、下の池というのはその南の善福寺川谷頭の湿地を掘ったり拡げたり島を作ったりして、東京市の手で新らしく池にしたものである。なんのためにこんな事をしたのか知らないが、生茂る荻や蘆のあいだを涼しく水が流れて無数のヨシキリの囀るあの夏景色は、もう是ですっかり失われるのだ。
 畠の寒い風景の中で時々のホオジロ、農家の防風林で鳴き騒ぐヒヨドリ。高積雲の下には層積雲が瀰漫して、その雲底は砥めたようにすべすべしている。雪もよいの空だ。上の池に十羽ばかりのコガモが浮かんでいたが、散歩の人声に驚いて器械仕掛の玩具の鳥のような飛び方で一斉に下の池のほうへ飛び去った。池畔ではアオジの若い雄一羽とアカハラ二羽とを目撃した。下の池へ来て見ると例によって四羽のカイツブリ、それに二十六羽のコガモ。いま上の池から来たのも混じっているらしい。雌の方がいくらか少いようだ。このコガモの群は去年の暮から居据わったもので、もう十羽以上も数を増している。心無い人間たちが嚇したり悪戯をしたりして、せっかく居ついたものをまた居なくなるようにはして貰いたくないものだ。
 夜九時四十分快晴。頭上の天に牡牛の星座と火星、土星。寒い。

  一月二日
 昼過ぎに下の池でプランクトン・ネットを曳いてみた。自分の書く物の愛読者で、名古屋帝大理科の未知の学生が贈ってくれた網だ。手製だそうだがなかなか立派な且つ役に立つ道具である。池の水温は摂氏八・五度。水の比較的清澄な所では収穫が無かった。却って水際の枯葉や藻屑などの浮いている所で、例のイチジク形をした緑色の微生物無数とミジンコやケンミジンコを採集して試験管へ取った。帰宅後検鏡してみると藁屑には沢山のヌサガタ硅藻がつき、またイチジク形の微性物の、後半身が崩壊したようになって其の後に無数の粉のようなつぶつぶが残っているものを発見した。このつぶつぶをレンズの許すかぎり拡大して調べたいと思って試みたが中中うまく行かず、とうとう根負けしてやめた。採集品は残らず円筒形の硝子水槽へ収容した。
 池のコガモは雄が「フィリョ・フィリョ」と最も優しい心をこめた笛を吹くのに、雌は全く平気な顔でただ「ガア・ガア」と鳴いていた。彼らは池畔の洲や中ノ島などのすべて南向きの枯蘆の根もとに蹲まって日光浴をしたり、冷めたい水に三々五々きれいな波紋を描いて遊戈したりしていた。今日は十五羽ぐらい居たらしかった。

  一月三日
 終日快晴。正午の気温七・二度。但し北風で体感としてはかなり寒い。
(写生図あれど略す) Statoblast? 色は淡褐色。楕円の長径二分ノ一ミリ弱を測る。
「淡水産苔蘇虫の体芽にして、其の長径普通一粍の半にも達せず。形は円形或は楕円形にして扁平なり。その両面には堅固なる膜を有する空気細胞ありて浮標の役をなし、以て水面に浮ばしむ。云々」学生版動物図鑑一三四六頁所載。
 善福寺の下の池の南岸、比較的水の動かぬ表面に無数に浮いていて、現に自分の水槽中でも飼育している微生物である。初めは何かの卵か種子かと思っていたが、今日図鑑を見ているうちに前記のような記事と図とを発見したので或いはスタートブラストというのかと思って記録にとどめて置く。図は参考書を見る前に余が写生したもので、図鑑のそれと全く一致している。この微生物は二十倍のツァイスの拡大鏡ではっきる見ることができる。
 卓上の別の水槽に粉末のようなナウプリウスが発生したので顕微鏡で見た。ケンミジンコの幼生らしい。実に活潑な可愛らしい小怪物である。(写生図略す)。同じ水滴の中にヌサガタ硅藻も混入していたので序でに眺めて、その色の金色や、切り刻んだ長方形の紙を角々でつなげたような其の形の美しさに恍惚とした。幼生も硅藻も同時に注射針で吸上げた僅か一滴の水の中の物である。そして是が彼等の世界である。極大の宇宙から極微の核までを悉く支配する造化の力は真に驚くべく、仰ぎ見て讃嘆するのほかはない。

  一月十五日
 六日の午後から感冒発熱、久しぶりで昼間も寝ている生活を味わった。しかしもう熱も下って今はほのぼのとしたコンヴァレッサンスの時期である。
 今日は床の中で「セルボーンの博物学者にして考古学者なるギルバート・ホワイトの著書解題」を読みつづけた。其の中の「諸家の証言」という一章にトーマス・カーライルから「ゲーテとの対話」の著者エッケルマンに送った手紙が二通載っている。ゲーテの死後十六年、エッケルマン五十六歳、カーライル五十三歳の時の手紙だ。自分には興味のある文献だから床の中で訳して妻に筆記させる。

『一八四八年八月二日。
 あなたはわれわれの国で「ホワイトのセルボーン博物誌」と呼んでいる小さい書物を御存知ですか。其の本は大公の図書館には有る筈です。しかし若しも無いようでしたら私に仰って下さい。取り寄せて御送りしますから。あなたはあなた自身のドイツの片隅で何かそれに類した事をなさるべきです。いや、本当になさらなければいけません。この本はわれわれの国での最もすぐれた書物の一つです。ホワイトは静かな田園の住人ですが、どんな僧正閣下の説教よりも三倍以上も立派な説教をやりました。どうか此の事を考えてみて下さい』

 其の翌年にカーライルは又書いた――

『一八四九年一月五日。
 ホワイトの「セルボーンの博物誌」のちょうど恰好な小さい版を手に入れましたから今日書店ナットから送らせます。それが彼らの知っている一番近い道を通ってあなたの所へ送られるようにと頼みながら。其の本が迅速且つ安全に御手許へ届いたと知ったらどんなにか喜ばしい事です。御読みになりながらきっと幾らかの同感を覚えられることでしょう。そして其の実例から刺戟をうけて、あなたがワイマールや其の近隣の地で同じような事をなさるようになったら其の本も全く立派な贈物だったというわけです! ホワイトは平和な田舎の牧師でした。彼の教区セルボーンは此のイングランドの南海岸ハンプシアにあります。お聞き及びでしょうが「赤王」と言われたウィリアム・ルウファスが昔狩猟をしていて撃たれたのがやはり其処です。私の読んだすべての博物書の中で此のホワイトの本こそは、その健康で楽しい点で、いちばん私を喜ばせてくれます。さあお出かけなさい、そして同じようにお遣りなさい!』

 ああ、なんという手紙だろう!「サーター」を書き、「英雄崇拝論」を書き、尨大な「フランス革命」を書き、つねに魂の底に抜くことのできない厭生観を抱きながら、頽廃と愚劣の深淵ヘ転落するヨーロッパの真只中に予言者的な警世の電雷を叩き込まずにはいられなかったカーライル。そのカーライルが好んで「博物書を読み」、ホワイトに傾倒し、こんな懇ろな手紙をはるばるとドイツの片隅に窮迫の余生を送るエッケルマンに寄せているのである!

  一月十六日
 まだ何処かに疲労を感じて体にも力が無いが、頭だけはいきいきと冴えている。戦争さえ無ければと、ふと思う……
 きのうのカーライルの手紙のことをまた考えた――
 あの手紙の書かれた年にエッケルマンは「対話」の第三巻をやっとの思いで出している。第二巻からすでに十二年の歳月が流れた。過労と貧窮と病身との生活に加うるに書肆ブロックハウスとの訴訟沙汰。そして彼の敗訴。第三巻は別の書店から出るには出たがその売行は前二巻から見ればうそのようである。二年間でわずかに二三百冊が売れた程度だった。出す本店も渋々だったが、批評家もほとんど問題にしない。一八四八年、世の中はあのゲーテの高邁なオリンポス的空気とは凡そ相容れない社会的混乱と政治的動揺との大釜の中に投げこまれ沸騰していた。成人した新しい文学の世代はゲーテによって代表される晴朗な芸術の世界や宇宙的な調和の観念などを押し流して、滔々たる反動の波をみなぎらせていた。こんな時代だ。こんな一八四八年だ。ドイツも変ればワイマールも変って、エッケルマンの周囲ももはや昔日のようではない。二十一年前の九月の或る日ゲーテに誘われて、エッテルスベルクの狩小屋でいろんな小鳥の話に老詩人を驚かせたり喜ばせたりしたことが、この英国の偉大な読者からの手紙で今ぞ懐かしくエッケルマンに思い出されたかどうかを私は知らない。カーライルが熱心に期待したような読後感を、はたして彼が感じたかどうか、そうしてホワイトの「実例に刺戟されて」、元来すぐれた自然観察者であった彼が何らかの物を書き残したかどうか、そんな事も一切わからない。ラ・フォンテーヌのような人生智にくゆり、ウェイクフォールドの牧師代理ヷイカーのような人柄に見えたと言われる老エッケルマンにして、もうその頃には、ホワイトのそれに似た仕事をドイツで初める気力も体力も無かったのではないかと思われる。

  一月二十日
 病気はほとんど恢復した。家の中で静養している間ずっと「セルボーンの博物誌」を読みつづけた。私のはエヴリーマンの叢書だが、どうかしてもっと良いエディションのが欲しいと思う。
 ホイットマンの親友で有名な鳥類の研究家でもあるアメリカの詩人ジョン・バーロウズが自分の監修で此の「セルボーン」を出している。上下二巻で八十枚の見事な挿絵が入っているという。内容は「博物誌」と「観察記」と「新書翰」と「暦」とから成っているらしい。バーロウズはホイットマンの鳥の先生だ。英国の鳥を見たり聴いたりするために二度英国へ渡り、カーライルやウァーズワスの故地も遍歴している。彼の「新しい野」や「目ざめよロビン」は私の愛読書の一つだ。ホイットマンの「自選日記」にも此のバーロウズの農場で暮した数日の楽しい思い出が書かれているし、更に英国人ション・ジョンストンの「バーロウズ訪問記」に至っては一層美しい記録たるを失わない。
 ロンドンとニューヨークのマクミラン発行。このホワイトのバーロウズ版は、戦争が終ってなお自分が生きていたら是非取りよせたいものだと思う……

  一月二十三日
 快晴。昼間は比較的温暖。午後北風。
 午前中は例によって机上の仕事。昼を過ぎてから久しぶりで散歩した。ほとんど二週間ぶりである。
 下の池の中ノ島はどういうものか蘆が半分だけ刈取られて醜くされている。十二三羽のコガモがいて、(其のうち雄は五羽ぐらい)島の西向きの日当りや岸の南面の日当りにうつらうつらしている。カイツブリ三羽、いずれも地味な冬羽をして盛んに水を浴びたり水へ潜ったりしていた。
 上の池を見おろす崖の上、クヌギとコナラの林に風をよけて煙草を吸っていると、金粉を散らしたような青空を三羽のゴイサギが「クワークワー」と嗚きながら悠々と飛んで行った。それが日光を或る角度でうけると矢車菊の花の色を呈した。一人の人間がそれを眺めて感嘆しているなどとは勿論彼らは知らないのである。キジバトも一羽飛んで行った。彼の飛び方には「肩で風を切る」という趣きがある。さもなければ水の流れと逆にボートをやって、両手のオールの一引きでぐいと前へ出るという慨がある。この動作が最も能率的に円滑に行われて、あの鳩というものの特異な飛び方は成立するのであろう。
 池畔の本橋氏の屋敷林の下の芝生を無数のベッコウバチの一種が徘徊しているのを見て、その一頭を管瓶に採集した。同時に一頭のウリハムシもつかまえた。両方とも越冬中の成虫である。蜂のほうは帰宅後調べて見てヒメクロオビベッコウである事が判明した。ウリハムシは解剖用の拡大鏡で覗きながら写生して着彩した。実物の約六・五倍。(図は略す)ハムシの類はすべて田畑や庭の害虫だが、其のほとんどすべてが美しい。

  一月二十七日
 快晴。割合に暖かい。此の頃毎日午前十一時頃になると必ず二羽のアオジが庭へ来て餌をあさっている。しかし警戒性が強くて甚だ神経質である。ホオジロがやはりそうだ。ホオアカはさほどでもないと思うが此処ではあまり見かけない。
 夕方近く下の池を半周した。穏やかな冬の日の暮で太陽はすでに女子大学の建物のうしろへ隠れ、頭上に魚骨のような形をして浮かんでいる二本の高積雲だけが柔かに白い。二十米ばかり向こうの水面にいつものコガモが集まり、其の中でも四羽の雄と三羽の雌から成る一団がもっとも活気に富んでいる。と言うのは、この七羽が入りみだれて非常な興奮状態を呈し、緑がかった青い水面の一ヵ所をぐるぐる泳ぎ廻っているのである。ところが其の騒宴の中を眼をこらしてよく見ると、雌たちを前にして四羽の雄がたがいに己れの美や優越を誇示して一種の競争を演じているのだという事がわかった。彼らは可憐な口笛を吹き、猛烈な速力で追いかけ、引返しては雌の傍らへ近づいて行き、ぐいと水中へ頭を突込むかと見ると今度はあらんかぎりの背伸びをして胸を張り、恰好よく膨れた銀白色の腹を見せながらぱさぱさと羽ばたきをする。そのたびに見える翼鏡の鮮かな緑や下尾筒の黄白色がじつに美しい。所謂ディスプレイの動作である。口笛、羽ばたき、飛びちる水煙、綾のように乱れる航跡。春は早くも彼らの血管に脈うっているらしい。
 夕暮の空はあかるく、頭上の高積雲はすこし変形して羊群状になっている。しかし水面にうつる空そのものは実物よりも暗いので高積雲の映像が却ってよく見える。いくらか風があって水も縮緬皺をよせているので雲の像も不動のわけではないが、それでも実際に見る空中のものよりも輪郭が鮮明で立体感もよく出ている。所謂どぎつい写真に似た効果を現わしているのである。

 一月二十八日
 快晴。温暖。
 午後日本橋まで行った序でに丸善へ立寄って黒田長礼博士の大冊「雁と鴨」を買った。英書シートン・ゴードンの「雪の曠野にて」を読む時の参考にするためである。
 丸善を出てそのまま外濠そとぼりの電車道をあるいて行くと、東京駅の上空に近来まれに見るみごとな巻積雲の出ているのに気がついた。ほとんど典型的なものとも言えるくらい細かな雲塊の織物で、きわめて薄層のものでありながら実に鮮明だった。じっと立って眺めていると僅かずつ東へ動いて行く。視角にして約三十度の長径を持った楕円形の雲だが、これを地上へ引下すとしたら東京全市を被うてなお少しあまるほど大きなものである。そして此の雲が美しい彩雲現象を現して、えもいえぬ微妙な淡い葡萄いろと透明な淡緑色とに彩られているのである。時計を見ると午後四時四十分。太陽は中央郵便局の屋根に沈みかけていた。
 以前「雪の曠野にて」を読みながら Barnacle gooseを顔白黒雁かおじろこくがんと自分で仮に訳しておいたが、今夜「雁と鴨」を見て顔白雁かおじろがんと訳されているのに、当らずと雖も蓋し甚だ近いのを喜んだ。

  一月二十九日
 晴。やや寒。
 日比谷公園松本楼で会合。昼餐。公園の花壇の道を行くと中央花壇の麦などを作って畠にしてある所に、三十羽ばかりのムクドリが下りて大騒ぎをしながら餌をあさっていた。オレンジ色の嘴、顔の白点。都会のまんなかで見る此の野禽にはまた別様の美しさが感じられた。所々ベンチで事務員らしい若い男女が昼の弁当をつかっているが誰一人このムクドリの群を眺める者はなく、通行や散歩の人々もまた一人としてこれに注意を払おうとしない。いつかハドスンの「ロンドンの鳥」に倣って「東京の鳥」を書く人があるとしたら、この日比谷公園のムクドリと京橋区月島のセッカとを閑却することはできないだろう。
 帰途午後三時二十分西荻窪の駅を出るといきなり北の空に二筋の飛行機雲を発見した。いずれも未だ新鮮な雲で、青い空の地へ二本のしんかきで真白な「つ」の字を二つ書いたように見える。無論二台の飛行機の作った雲で「つ」の字の頭のほうが細くて色も濃いのである。一町ばかり行くと今度はもっと新鮮なのが一本するすると垂直に出た。実に繊細なもので、それを作った機体は見えない。非常な高度にちがいなかった。また一町行くと今度は爆音を響かせて北から南へ飛行する一機が一条の雲を作って行くのが見えた。まるで絲を紡いで吐き出しているようである。この雲は出来たては水平に一直線だったが見る見るうちに投げかけた紐のようにたるんで太くなった。一番初めに見た二本の雲は今では太い刷毛で刷いたようになり、もう綿屑のようにちぎれはじめた。以上いずれの雲も飛行機の行く先々でするすると出来るが、広く深い空間の或る箇所になると全く出来ないところから見て、今日の此の時間の此の空に、雲の形成される比較的不安定な気層と、形成されない安定な気層とが重なり合って存在しているらしいことが察せられた。
 空は次第に曇りはじめて、夜九時には本曇りになった。

  一月三十日
 朝、みぞれ。後ときどき小雨。夕刻から曇。稍寒い程度。
 午後小雨の中を雨外套に傘無しで下の池から上の池を一廻りした。雨は降っても戸外はやはり広々と気持がいい。英国の自然文学者でハドスンと同時代の野禽研究家ワード・ファウラーが「雨の讃美」という見事な小品を書いているが、自分も今日は讃美の気持だ。
 上の池の水辺には幾株かの恰好のいいネコヤナギが立っている。是はもちろん柳自身が自分で天然の形を整えたわけであるが、その中にもう冬芽の鱗片をぬぎかけて早くも銀色の花穂を見せているのがある。コリヤナギも生えているが此の方は未だすっぽりと鱗片をかぶって冬の姿である。
 ネコヤナギの冬芽の鱗片は長さ十八ミリから二十ミリぐらいで、小さい革手袋の小指のように見える。色は褐色で白い短かい絹毛が生えている。いわゆる腹面合生で、中に包まれている花穂の生長伸展につれて不要になった頭巾のように押上げられるのである。鱗片の附根のところに離層のようなものが形成されるらしい。花穂の長さは今のところ二十ミリ程度だが、光の当てようで銀白色の絹毛の地膚が紅く見えるのは、この絹毛の基部にある苞鱗の色が透いて見えるためである。ちょうど白兎の耳を被うている白い毛と、その地肌を淡紅く見せる皮膚の色との関係のようなものであろう。
 コリヤナギの冬芽はネコヤナギのそれと較べると小さくて密生している。いずれにしてもネコヤナギの花穂の銀色こそは此の凋落の植物界での唯一の早春の歌だと言えるようだ。

  一月三十一日
 今日は私の第五十三回の誕生日だ。書斎も茶の間も菜の花、寒菊、白と桃色のニオイアラセイトウ、黄花のフリージャ、緋色のチューリップ、プリムラ・マラコイデス、それに緑の霧のようなアスパラガスなどで清楚に装飾されている。実にたくさんの花だ。普段はしまってある色々な花瓶や一輪挿しが動員された。アルベルト・シュヴァイツァー博士の女の友でミュンヘンに住んでいるベルタ・シュライヘル女史が、私の為にと言って片山に托して送って呉れた女史自作の美しい花瓶敷二枚も久しぶりに現れた。
 書斎の仕事机の上には特に贈り主である妻と娘の名を書いた名刺を添えて一鉢の白梅の盆栽が置かれ、「寿」と書いたのし紙に包まれて郡山千冬訳のマイエル・グレーフエ著「セザンヌとその時代」の一巻が卓の中央にうやうやしく載っていた。
 私は終日家にいて其のセザンヌの本の挿絵をながめ、シュヴァイツァー博士の弾くバッハのオルガン曲を蓄音機で聴き、リルケの詩集「我が祝いに」から数篇を読み、自分の祝いのために一篇の敬虔な短かい詩を書いた。
 夜、親子三人楽しい晩餐のすんだ頃、近くに住んでいる若い友人蛭田、大部の両君が祝いに来てくれた。蛭田君からビール二本に清酒一壜、大部君からは同君貼込みのアルバム一冊を贈られた。その中には私も加わっている上越の山の旅や甲州扇山遠足会などの記念写真も入っていた。両君には内祝いとしてウィーナーのポケット型四十倍の拡大鏡を一個づつ贈呈した。
 午後十一時を過ぎる頃、両君を見送りながら杉並区宿町の蛭田君の家の近くまで一緒に歩いた。空は晴れ、北西の風がかなり強かった。しかし天空の眺めが実に壮観をきわめていたので、星の好きなわれわれ三人は眼を夜空に感嘆の声を上げながらゆっくり歩いた。天心には馭者座、雙子座、西南西から南へかけて牡牛、オリオン、大犬等冬の夜天の王侯たち、客としては火星と土星が牡牛座に招かれて、此の星辰の花園に一層の光彩を寄与している。大犬はもうよほど前屈みになり、南の地平線、銀河の煙るところにアルゴ艫座あたりの銀砂子、獅子はその前足の上に爛々と木星を輝かせて天心から稍東。その下の奥のほうに銀いろの靄のようなペレニイスの髪。おりから東天を昇って来る堂々たる牧夫の主星アルクトゥルス。そして西北西の丘の冬木立の透間を、遠い火事のような光で染めて今や沈もうとする巨大な金の杯のような月齢五日の月。寺分橋を渡るとき、水辺の闇の中からコガモの雌の声がきこえた。

  二月一日(火曜日)
 終日吹きとおした北西の強風がいくらか凪いで夕暮になる。午後五時すこし過ぎ、太陽は女子大学の塔のうしろに沈んだばかりで、西の空は金箔を貼った明り窓のようだ。これが昔ながらの冬の武蔵野の夕映えの空である。
 六日の月、上弦の月が、天心から稍東にある。弦を地平線に垂直に立てた半円形で、その色は氷のようだ。月面図をたよりに雙眼鏡を手にして其の月を見る。底知れぬ太虚の奥をすすむ巨大な円球。真冬の青い空間に浮上って見える静寂きわまる一つの世界。その氷のような白い球面に右から危難ノ海、豊饒ノ海、神酒ノ海、静穏ノ海、晴ノ海のような一際暗い凹所が指摘される。
 「危難」と「豊饒」のあたりは真正面から太陽の光をうけているせいか明暗の差もそれほどではないが、静穏ノ海や晴ノ海のあたりは凹凸の感じが極めて鮮明で、殊にそれらの東側では海をとりまく半円形の壁がよく見える。わけても弦の南半分をかぎる巍峨とした火口群の直線列はじつに壮観で、不思議に地球上的な眺めである。
 午後七時半、もう一度月を見る。今度はほぼ天心にある。夕方の時の氷球のような感じがなくなって輝々とした黄金の半円球である。晴ノ海の東、ちょうど弦のふちからはみ出して輝いているのはエラトステネスと呼ばれる山であろうか。東側の爆裂壁が金環のようにきらめいている。
 夜、北西の秩父颪は耳孕を切るようだが七町ばかり離れた畑地へ行く。もしやアルゴ竜骨座のアルファ星カノプスが見えはしないかと思って出かけたのだ。午後八時半、まだ月があり、昼間の強風に吹上げられた砂塵が空の下層に沈澱しているせいか、地平線は一帯に白っぽく明るい。おまけに南の空には一連の高積雲らしい雲がほんのりと棚曳いている。寒風を背に外套の襟を立てて雙眼鏡で一心に捜す。雙子座ポルックスの左の足にあたるガンマ星から大犬座のシリウスヘ直線を引いた所、南の地平線上約二度のところに一個のかなりな星が見える。六七町離れた高圧線の鉄塔と夜目にも黒い杉の森との間に、提灯の明りのように鈍く赤く、漂うように見えるのだ。この高度には他に一つの星も見えない。或いはこれこそカノプスではないかと、その視角度、その光の色をしっかりと眼底に焼きつけた。おそらく其の北方一度の所にある艫座のニュー星ではあるまい。
 カノプスは今から二十年前の結婚当時、上高井戸の畑中の家からちょうど今頃の季節にいくたびか見たことがある。それは松沢病院のあるあたりから僅か東へ北沢寄りに、十数町離れた杉の森の上約一度か一度半の高さに浮かんでいた。当時未だ良好な恒星図を持たず、三省堂版の星座早見だけをたよりにしていた自分は、あの楕円形に切り抜かれた窓の下方、真南の所を剥がすようにして開けて、其の下に半ば隠れている大きな白球に胸を躍らせたものである。
 そして今、周囲の畠は月光の下で白々と氷り、まっくらな武蔵野の奥から膚を切るような秩父颪が吹いて来る。肉眼でもはっきり見えるオリオンの大星雲。西へ傾く上弦の月。昨夜にも増して燦然と輝く獅子座の木星。二十年の歳月は私の髪に霜を置いたが、天上の眺めには露いささかの変りも無いようだ。

  二月二日
 今日栄子は自校東京女子大学の庭から互いによく似た二種の菌類をとって来た。校庭のクヌギの切株に生えていた物だという。半円形で平たく、長径約一寸五分。表面には褐色と灰褐色の同心環紋が現れ、裏面は錯綜した襞になっている。乾燥した木栓質の軽い菌である。参考書で調べて多孔菌科に属するカイガラタケと判明した。もう一種のも是とよく似ているが、此の方はシロカイガラタケで、表面がすっかり白ビロードのような短かい絨毛に被われている。両方とも写生して淡彩を施した。

  二月三日
 咋日は午後の空に薄い高層雲と太陽とが何となく水っぽく黄色かったが、天気が変って夜は本曇り。そして今朝は八時頃からちらちら小雪が降りはじめて昼過ぎまでつづいた。正午の気温零下二度、午後二時零度。
 二時すぎに一時間ばかり畠や池のふちを散歩した。路傍の薄黄いろい殆ど透明に枯れた禾本科の草をつづる淡雪の模様が、土の黒との対照でじつに美しい。畠の畝も北側には雪が斑々と残って、麦踏みの済んだ一株一株の小麦の上につつましく載っているのも風情がある。歩いていると二三羽のヒバリが飛び立って「ピルル・ピルル」と灰いろの寒空の下を鳴きながら隣の畠へ飛んで行った。
 下の池の西の隅で水面からほのぼのと白い湯気が立っていた。以前まだ此処が一帯の湿地だった頃、水の湧く釜だった場所である。比較的温かい地下水の湧出する箇所では、この時刻の気温と水温とのいちじるしい差で水蒸気の凝結が起こるものと思われた。
 池畔のコリヤナギの枝にぶらさがっているミノムシの嚢を採って来て帰宅後鋏で切り裂いて見たら、中にいる虫はみんな平たくぐにゃりとして死んだようになっていた。ところが試みに針の先で突いたら動いた。活動を休止した内臓諸器管と、少しばかりの脂肪と筋肉と、しなびた皮だけになって冬眠しているのである。

  二月七日
 晴。薄い高積雲ところどころ。空は幾分濁っている。北の微風。温暖。
 朝「天気と気候」の第十巻十一号が届いた。其の中に笹塚国民学校訓導木暮俟夫という人の「国民学校に於ける気象観測の指導」という寄稿があり、興味と示唆とに富んだ報告であった。文中生徒に雲形を識別させることの困難を述べたくだりに、私の著書「雲」を便利なものとして挙げていた。
 午後善福寺の上下の池へ水温を調べに出かけた。三日に池の湧水箇所から湯気の立っていることを思い出したからである。紐付水温計、寒暖計、試験管、管瓶、ルーペ其他を携帯。
 まず下の池の先日湯気の立っていた所から調べた。うしろに雑木の生えた崖を背負い、二方を枯蘆にかこまれた日蔭である。午後一時四十分気温十度。棒の先へ糸でつるした水温計を水中へ下げて十分間放置してから引上げて見たら、水の温度は十五度だった。三日には気温がちょうど零度だったから、もしも水温があまり変らないとすると其の差は十数度という事になる。そうしてみると水面上若干の処に霧の出たのも当然のように思われる。よく冬の朝早く小川に沿って霧の帯のたなびいているのも是と同じ理窟である。
 水辺のネコヤナギはもう皆花穂を包んでいた栗色の鱗片をぬいで、八日ほど前には十八ミリから二十ミリの長さだったのが今日は三十ミリにも伸びて丸々とふとっている。楊の花穂の生長速度は自然の時計だと言ったヘンリー・ソロオの言葉を思い出した。コガモは例によって十四五羽浮かんでいた。空には千切って投げたような高積雲があり、それがいずれも白煙のような尾を曳いているために空全体が混濁して見える。地上は風もなくて暖かいが、空の中層から上層にかけてはかなりの北西風が吹いているらしい。崖の上の雑木林でマヒワののんびりした「チューイン・チューイン」の声、コカワラヒワの甘えたような「コロコロキリ・コロコロキリ、ビーイ・ビーイ」という完全な春の囀り。自然の歩みはのろいようでも其の前進は確実である。冬だ冬だと思いこんで泣き面をしているのはわれわれ人間ばかりらしい。
 今度は三町ほど離れた上の池へ行き、水面へ突き出た岸のコリヤナギの太枝から水温計を下げて十分間放置した。気温十度、水温七・五度を測った。此の池の水のほうが下の池のよりも冷めたいのである。上下の池の水温の差約七度。もしも春から夏にかけてなおこれだけの差があったとしたら、二つの池の生物相にも幾らか違ったところが有りそうに思われる。これは素人に持ってこいの研究課題だということができる。(附記。此の研究は本気になってやる積もりでいたが、其の後急に市内青山へ転宅することになって実行できなかったのは残念である)  
 上の池の片隅にある弁天島へ架かった橋の袂の水中に食用蛙のおたまじゃくしがたくさんいた。林立したセキショウモの間からふらふらと水面へ浮かび上って、ぴょこりと頭を出すかと思うと又すぐにもぐってしまうのである。大きいのは長さ五センチから八センチぐらいらしいが、いずれもフグ提灯に長い尾をつけたような恰好をして、胴体と尾とを重々しく揺すって水面へ昇って来ては又すばしこく水底へ帰って行く。その何十匹がぴょこりぴょこりと頭を出すたびに小さい波紋ができて、その波紋が互いに干渉し合ったり乗越え合ったりするのだからなかなか美しい看物であった。思うに此のおたまじゃくしたちは今や鰓呼吸時代を脱して肺呼吸時代に入ったのであろう。従ってその蛙への変態も間近いことだろうと思われた。
 池畔を歩きながら見た雲の投影も美しかった。静かな水に映った雲の映像が空に浮かんでいるのよりもはっきり見えるのは、空の青い色が水底の黒い土の色に吸収されてしまうのに、雲の白色だけが反射されて眼に帰って来るからではないかと思われる。もしもそうだとしたら黒硝子の面を持つ雲鏡と同じ理窟ではなかろうか。
 帰途念のためにもういちど下の池の水温を測ったがやはり十五度だった。
 傾く夕日の中を水面低くユスリカが飛んでいた。序でに試験管で採水してルーペで見ると、シヌラ・ウヴェラ(多数)、ステントル・ケルレウス(多数)、ゾウリムシ(多数)、ミジンコ幼生(多数)、ケンミジンコ、ヒルガタワムシなどが入っていた。僅か十四立方センチぐらいの水の世界にこれだけの種類が盛んに活躍しているのである。
 それにしても自然観察から喜びを見出すことのできる者にとって、生の倦怠などというものは有り得ない気がする。

  同日夜。
 午後九時、無風快晴、空には月齢十二日の月がある上に空気の状態もあまり良好ではないが、理科年表から大犬座の南中時刻を概算して、アルゴ座のカノプスを見に例の畑地へ行く。頭上では雙子座のカストルとポルックスとが横になり、輝く月はこの両者の頭をつないだ直線上二倍の距離のところに懸かっている。そのために附近の空は一帯に光って二等星以下の星は見えず、シリウスひとりが木星と光輝を競っている。火星と土星とは今は一等星ぐらいの光度である。いつもの観測場所から北へ三十間ばかりの所に新貯水池構築用の砂利の山がある。九時十五分その山の上へ立って大犬座の真下を望遠鏡で捜索した。五六町隔たった樫の木立の上、地平線上約二度の高さを南から僅か西へよったところに、目的の星カノプスと覚しいのが光っている。瞬間には見えないが一二分辛抱していると薄赤くゆらめいて見える。その位置から考えて確かにカノプスに相違なかった。光達距離四百五十光年だとすると、十五世紀から十六世紀に移る時代、西洋ではコロンブスがアメリカ大陸を発見し、続いてフローレンス人やポルトガル人等によって南アメリカが発見された頃の、其のカノプスからの光が今われわれに届いているわけであろう。そう思うと何が現在であり、何が過去や未来であるのか分らないような気がして来る。

  二月八日
 終日快晴。疾風程度の北西風。
 池の水温とほぼ同じくらいの温度を保たせてある円筒の硝子水槽の中で、繊毛虫類喇叭虫の一種のステントル・ケルレウスが無数に分裂をはじめている。個体の色は緑色か褐緑色、肉眼だと微細な砂粒かそれ以下だが、二十倍ぐらいに拡大して見るとイチジクの実の臀のほうを横に削いでちょっと角をつけたような恰好をしている。そしてその削ぎ落された部分に繊毛が輪形に生えていて、この繊毛の廻転による推進力で水中をぐるぐると動き廻るのである。ところがどうも其の中にイチジクの形が伸びて中央部でくびれて、ちょっと瓢簞を逆さにしたようなのが混じっているので、うまく注射器で吸上げて時計皿へ入れて顕微鏡でのぞいて見た。やはり無性生殖の二分裂をはじめているのであって、くびれた部分の一方に頭が出来かけて、其の縁にはもうちゃんと繊毛が生えている。このくびれが絲のように伸びてちぎれると、一個だった核も同時に二個に分れて(私の顕微鏡ではそこまでは見えないが)茲に独立した二つの個体が成立するのである。辛抱して完全に分裂するまで覗いている積りだったが、あいにく米客があって中止しなければならなかった。
 午後五時十五分頃から畠で三十分間ばかり日没の空を見ていた。太陽は山梨県桂川右岸の赤鞍岳のすこし右へ落ちた。広々と晴れた空には文宇どおり一点の雲もなく、ただ、三峠山と初狩の滝子山との間のわずか上空あたりに視角で一度ぐらいの金紅色に輝く雲が遠望されたが、それも富士山の左の肩から吹上がっている雪煙の金色が槌せると同時に黒くなった。ずいぶん遠い雲で、そしてこれが今日の唯一の雲であった。

  二月九日
 朝は快晴、正午頃西南西を幅射点として巻雲が現れた。ほぼ釣針状だが極めて稀薄なもの。
 昼ごろ善福寺池の崖の斜面のクヌギ林の中で、クヌギの切株に生えているサルノコシカケの一種を撮影した。菌は木栓質で堅く、菌傘の表面に粒々の凹凸がある、輪層を現して色は灰白、裏面は白いが黄色い汚染がある。裏面の孔は極めて小さく、石灰質ようの沈澱が見られた。傘の小さいものは三センチ、大きいのは八センチ程で、腐朽した切株のまわりに重なって発生している。写真には切株二個を撮影した。後方の切株は直径二十五センチである。菌傘裏面の孔はその直径約三分の一ミリ、深さは同じく三分の一ミリから一ミリ半ぐらいあって、傘の中心に近いものほど深かった。菌の質はナイフの刄がきしむくらい堅く、切断面は石膏光沢を呈していた。
 帰宅後緑藻類のヴォルヴォクスに似た球形の群体(直径〇・一ミリから一ミリくらい)が顕微鏡下一滴の水の中で分裂するところを見た。この群体はゼラチン様のものに包まれて盛んに鞭毛を動かし、近くに寄る物をぐるぐる廻転させて引きつける。各一個の細胞は鮮緑色。群体は初め球円形をして所々にまるい空所があったが、見ている内にその一つが餅を焼いた時のように膨れ上ると形が変った。やがてゼラチン質の一ヵ所がぱちんと割れるかと見るまに附近の細胞が一斉に流れ出した。つづいてまた別の箇所が割れて其処からも流出がはじまった。この細胞には比較的大形のものと小形のものとがあって、小形のものの方が数も著しく多く運動も活潑だった。彼らはその一つ一つがそれぞれ鞭毛を持っているのである。大形の方が雌性配偶体、小形の方が雄性配偶体と言われているものかも知れない。しかし何のために、又どういう衝動で、彼らの共同生活形態である球状の群体が分裂するのかは私にはわからない。
 夕方西北西へ出た薄い風雲状の高積雲が彩雲現象を呈して、そのエメラルド・グリーンやモーヴの色がほんとうに美しかった。

  二月十三日
 紀元節を中にして三日間、予葉県印旛郡遠山村の岳父水野氏方で暮らして来た。
 昨夜は就寝後久しぶりで雨声を楽しんだが今朝はうつくしく晴れて春のように温暖。しかしそれから次第に雲が出て来た。午後東京女子大学の寄宿生有志のために文学講演。題目は文学者と科学。講演後校庭の芝生で寺田博士の「軽井沢」を生徒数名に声を出して輪読させた。若い女性の声で明瞭にゆっくり読まれるのを聴いていると、部分部分が印象的に浮き上って、ただ黙読しているときには得られないような効果がうまれた。この朗読会はこれで二回目だが皆上手になった。散会後一同揃って善福寺の池畔や畠の中を散歩した。校庭では今年最初の花であるオオイヌノフグリの薄青い花を発見して皆大喜びをした。時々ぱらぱらと雨が落ちて来た。空は半ば以上厚い層積雲におおわれて、黒、藍黒、灰白というようにヴラママンクの画を想わせるが、その雲の切れ目からのぞいている淡い竜胆いろの空はいかにも優しい。ときどき黄玉のような光を投げて日が射す。しかも濃密な雲は向こうで毛のような落下縞を見せている。不安定の美であり、またそれだからこそ早春らしい空模様である。一時間ばかりの散歩は、こうして雲についての話に終始した。
 夜はきれいに晴れたので又カノプスを見に畠へ出かけた。九時十分、東天をすこし南寄りに金色に澄んでかがやく十八日の月。しかし南の地平線にはあいにく低い雲の堤があって、アルゴは艫座のピー、ヌー、タウの三星までしか見えない。タウからカノプスまでは僅か二度かそこらの視角距離に過ぎないのだが、此の際はその二度が物を言うのである。そのかわり大犬座の銀河星団M四一、艫座のM四六、ペルセウス座の散開二重星団NGC八六九と八八四とを望遠鏡で見た。大犬のM四一は大きく見事であり、ペルセウスの二重星団は宇宙に浮かぶ銀の斑紋、艫座のM四六に至っては微茫として夢のかなたの趣きがあった。

  二月十四日
 午前中は晴れて温暖。昼頃から気温が降り、空も曇って昨日のような不安定な雲景を見せた。しかし日没時には再び晴れて金褐色の夕焼がひろがり、緑を帯びた空の上方はふかい紺青を呈した。
 午後八時半、風は無いがひどく冷めたい空気の中を例の畠ヘカノプスを見に行く。頭上の天はまるで星辰の花園である。馭者、オリオン、火星、土星、牡牛、大犬、小犬、さらに木星、雙子、獅子。この季節の大星座とおりから居合わせた遊星とが残りなく網羅されて、ほとんど六等星ぐらいのものまで肉眼ではっきり見える。北西の空低く秩父武甲山のあたりかと思われる地平線上にアンドロメダが逆立ちをし、その少し左下にペガススの殿りの星アルゲニブが見えるのだから空気の明澄度は驚くほどである。足を急がせて所定の場所へ達し、ふりかえって南の地平線を見る。するといつもの二本の高圧線の鉄柱の中間、樫の立木の左、地平線上約二度のところに一個の星が肉眼でもはっきりと見える。さっそく望遠鏡を眼にあてて凝視すると、昨夜と同じに低くたなびいた層状の雲の下に、すこし赤味を帯びた金色の星が肉眼で見る時の二等星ぐらいの光度で見える。まさにカノプスである。懐中電燈の光で時計を見ると午後八時四十五分。思えば二月一日夜からの宿望が十四日目の今宵ついに叶えられたのである。大犬座のベータとゼータの二星を南北に貫いた鉛直線上、やや東へ寄って地物とすれすれ、彼カノプスは静かに燃えるがように、揺らぐがように、億万由旬のかなたに浮いているのである。夜の寒気のために氷るまつげをしばたたきながら、なおもじっと見ていると、南天の巨星は少しずつ少しずつ西へ移る。もう十分もしたらそれは沈んでしまうだろう。体はすっかり冷えながら、酬いられた心は暖かに、私はやがて霜を結ぶべき夜道を我が家へと帰った。

  二月十五日
 新宿から銀座へ出る途中、天気がいいので半蔵門で市内電車を降りてそれから歩いた。無数のユリカモメがお濠の水に浮かんでいたり、例の枯木の大枝へとまっていたりするのを見た。数百羽という大群である。その間にも続々到着するものもあれば隅田川か東京湾のほうへ出かけて行くものもある。それが今日の麗らかな日の光と青空の中で、じつに美しいのびやかな眺めだ。お濠にはカルガモもたくさんいて、その多くは三宅坂対岸の石垣のふちヘ一列に並んで午睡をしていた。司法省の角のトチの樹が四本、燭台のような枝の先に飴色に光る太い新芽を出していた。西の方から薄い巻雲が流れ出して、ところどころ可愛い波状を呈するのが眺められた。
 すべてがいかにも早春らしかった。あどけなく、ういういしく、内からの衝動に深くうごかされていた。私はいつのまにかグスタフ・マーラーの歌 Ich atmet' einen Linden Duft (われ菩提樹の花の香をききぬ)を口ずさんでいる自分に気がついた。歌は清朗に澄んで甘やかだが、しかし一脈のメランコリックな感情が其処にはある。私の現在の心境がそれだ。戦争をしている祖国への忠誠と、憂慮と、調和の自然への昔ながらの傾倒とその喜び。この如何ともなし難い矛盾を、心の奥底の深い痛みを、私のために解決し癒やしてくれる神を私は持たない……

 

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 冬の途上(一九四四年)

 きょうは空が終日こうこうと晴れわたって、日なたはきらびやかに暖かく、日かげは冷めたく青く澄んで、流れる空気には凛々たるものがあり、遠方かならずしも疎遠ではなく、すべての形象はそれぞれの固有の輪郭と色彩とを発揮して、いかにもきさらぎの名にふさわしい一日だった。私は昼過ぎからいつもより少し長い散歩をして、たそがれ近く、西の空に遠い別れの色を漂わせている寒い清らかな夕映えのなかを帰って来た。そして食事をすませると、途中で採って来た一摑みの貝殻茸と一本の野薔薇の枝とを、それぞれ緻密なケント紙へ丹念に写生して、いま水彩の絵具を塗ったところだ。
 ただ其処らへ転がして置けば、取るにたらぬ塵あくたとして忽ち箒の先にかけられそうなこんな微物でも、標本画に書くというので、目の前にすえて、さて仔細に見れば見るほど新しく、霊妙に、美しい。何かの革のきれはしのようなこの一片の茸きのこ、毎日の寒風にさらされて春を待つこの指先ほどの薔薇の芽が、まさにこのようであるという事実にこそ量り知れない造化の叡智と、妙をきわめたその業とは有るのである。そして又これがきょうの私の幸福の世界の小さな記念、あの冬枯れの美につつましやかに参与していた一員だと思えば、その可憐なけなげさを永く紙の上にとどめようと、筆先で溶く絵具にもいよいよ純粋な色を求めるのである。私は貝殻茸の同心円を爽快なスレイト色と暖かい肉いろとで浮き立たせ、野薔薇の新芽を柔かな緑と、ルビーのような真紅とをもって彩った。
 絵具が乾いたらこれを象牙いろの小さい額縁へ入れよう。あしたとなれば蕭条の冬を生きる私の部屋に、ひとつの時ならぬ絢爛が、私の手芸から私の富へと、また新らしく加わるだろう。モデルの役を果たした茸は綿をしいた硝子函へおさめ、薔薇の小枝はベルギーみやげの一輪挿しへ活けよう。日ならずして南向きの縁側に、その新芽の開舒のさまが見られるかも知れない。
 しかしきょうの散歩のおもな目的は、ここから北ヘー里ばかり隔たった上石神井かみしゃくじいの三宝寺池へ久しぶりに野生の鴨を見にゆくことだった。東京の西郊、武蔵野の第一歩、古い石神井城の旧址に接して、南北と西との三方を台地崖端の森林でかこまれ、水の落口である東一方だけ開けたその水源の池には、毎年秋から冬にかけて数百羽の軽鴨や少数の小鴨のむれが居着いている。武蔵野の等五十米線上に分布する大小いくつかの湧泉のなかで最も大きく、最も古く物寂びた趣きの残っているこの池に、訪う人もきわめて稀な冬の午後、これら野生の水禽の誰憚らぬ潑刺とした営みや、時として思わぬ華麗をえがき出す其の生活を見にゆくのは、まさに貴い半日を費す価値のある事だろう。
「もしも私が緑の並木道に沿って、其処にヴァンサン・ヴァン・ゴッホが弟テオと並んで眠っているオーヴェルの方角さして行くとすれば、私は背中に北風をうけることになる」と、フランスの作家ジョルジュ・デュアメルは書いている。私としてはすべての葉の落ち尽した雑木林に沿い、霜にただれた幾つかの畑の起伏をこえて、そのゴッホの壮烈な海青色を想わせる空の方へと、常に身を切るような北風をまともに受けながら足を急がせた。そしてやがて石神井川流域の田圃をよこぎり、氷川神社の朽葉と赤土の坂を登って暗い湿めった杉林の中の小径へかかると、もうあたりの静寂をやぶって、崖下の池のほうからカルガモのガアガア叫ぶ声や、呼子を鳴らすような綺麗な澄んだコガモの声がいとも賑かに聞こえて来た。ちょうど休みの日の動物園へ潜入して、水鳥の大禽舎へたった一人で近づいて行くような気持だと言えば言えよう。と、早くもサッとするどい翼の音を揃えて、コガモの一隊が頭の真上を掠めて過ぎた。こうして歓迎の旗はまず振られ、知る人ぞ知る野禽生態観察の、妙味津々たる世界の門は開かれたのであった。
 暗い森林の木立を背に、いつもの場所へ腰を下ろして、私は肉眼と望遠鏡との雙方で飽かず眺めた。一時間は束の間にたった。半ば日に照らされて鏡のように光り、半ば陰になって雲を浮べた午後の空と暗緑色の森とを映した水面には、実におびただしい数のカルガモと、かなりの数のコガモとカイツブリとがいた。日溜りの白い枯蘆の中でうつらうつら睡っていたり、曲りくねった狭い水路へはいりこんだりして此処からは見えない者たちを別にしても、優に三百羽は数えられたろう。このあたり幾里四方どこへ行こうと、これほど多数の美々しく旺んな羽毛の群衆を見ることはできないに違いない。とりわけ望外の事件として私を感動させたのは、碧緑色の翼鏡を光らせる枯葉模様の外套をまとったカルガモや、美しい栗色と橄欖色とで顔を隈どったコガモのむれの織るように行きかう中に、一つがいのヨシガモを見出したことだった。ヨシガモはわが国の冬の池沼を飾る鴨類の中でも最も美麗なものの一つで、その雄の頭や顔の、ビロード光沢をもった黄白色と葡萄いろと金緑色と、ふっさりと後ろへ投げた白と金碧の簑羽みのばとは、一度でもこの鳥をまぢかに見た人の到底忘れ得ない印象だろう。その驚嘆すべきヨシガモが、私のプリズム雙眼鏡の鮮明な視野の中を、いっぱいに、燦然とよぎるのだった。
 こうして無数の鴨のむれが、或いは連れ立って遊戈し、或いは水面に突立ち上って大きく羽ばたき、或いは編隊を組んで突風のように旋回し、或いは一直線に飛沫をとばして滑翔し、或いは朽葉いろの翼の下に頸をうずめて浮寝をし、或いは早くも春の予感に求愛の所作を演じ、そして絶えず嚠喨と笛を吹いたり、無造作に喇叭を鳴らしたりする。ああ、都会を遠い冬枯れの自然の中のこの水禽の饗宴場! 見るたびに常に斬新で、いきいきして、汲みつくし難く豊かなのは、実にこれら鴨類の冬の集合所の光景である。
 太陽が傾いて池の鏡がすっかり曇り、私のいる森かげも奥のほうから冷えびえとして来た。鳥たちは夜間の活動を前に日かげの池を飛び立って、いまは小さい組々に分れて日当りの空間を翔けめぐる者が多くなり、残っている者たちの羽毛からも以前ほどの輝きが失せていった。私は静かに立上って池を辞し、来たときとは違った道を帰路についた。
 暗い森をあとにすると、一帯の広々とした高台には未だ晴れやかな美しい日射しがあった。荘園風のゆったりした、親しみに満ちた、富裕らしい田園が、晩い午後の緑いろがかった透明な青空の下によこたわり、あちこちに麦踏みの人の姿が見え、高い屋敷林に風を防いでどっしりした藁屋根を持つ入母屋造りの豪壮な農家は、どの家も広い庭の片隅に沢庵漬の大きな樽を山と積み上げ、どの家も五六羽の鶏を放ち、豚を飼い、牛を飼い、傍らの梅の古木に白や紅の花を咲かせ、秩序ある家内生活と勤勉な女の手とを想わせる洗濯物を懸けつらねている。そして住居をめぐる肥沃な土地には緑の縞模様をえがく麦畑がひろがり、みずみずしい冬の蔬菜が列をつくり、野中には手押しポンプを取付けた井戸があり、屋根をさしかけた肥料溜めがあって、祖先以来永く有用を確認されたものが、そのまま田舎の絵画をなしていた。
 すべてこうした田園の眺めには、安住と、善良と、恒心とが感ぜられる。それは多くの人々にとって生活の好ましい姿であり、また或る人々にとっては誇りの、さらに別の人々にとっては羨望の対象ですらあり得る。事実大概の人間が此の世の旅の一生をこういう静穏な、平和な滞在のうちに終りたいと願っている。しかしまた極く少数の者はこの種の安住を卑んで、もっと険しい、つねに試煉にみちた、アルプス風の悲劇的要素を含んだ境涯に憧れるかも知れない。そして己がアウフエントハルト(滞在)の地を「たぎる流れ、ざわめく森、聳ゆる岩壁」から成る無人の境に求めるかも知れない。しかし、結局それが人の世の滞在である以上、たとえどんな寛容と和楽の世界にあろうとも、人は時として水晶のような孤独の時を求めねばならず、また雪線の下、氷河の荒涼に近く住めば住むほど、一輪の高根薄雪草に雲表の春をなつかしみ、高峻の純潔な夕日の窓に、かばかりの孤独を歎くであろう。
 私は田圃を横ぎろうとして一軒の大きな農家の横から細い坂道をおりて行った。するとその坂道の中途の狭い平地に墓地があった。一本の年経たツゲの樹と数本のシキミや椿をめぐらしたその墓地には、折から低く傾いた太陽の赤みがかった光線が射しこみ、近くには柔かなクローヴァが生え、其処へ坐って休んでいると居ながらにして秩父連山の一部が見えた。私は巻煙草を吸い、傍らのクヌギの切株から一握りの美しい貝殼茸をこそぎ取った。それから何の気無しに墓のほうを見た。墓石は新旧十数基あって、その中の新しいものの台座には私のと同じ姓が刻んであった。私は一種の好奇心からつと立上って、それらの墓の内なるべく古いのを調べてみた。いずれも蓮華の一片を型どった石だが、皆ところまだらに灰緑色の地衣がつき、多くは長年月の風化のために欠け損じて、刻まれた文字もまた磨滅していた。しかしその中の一基に私と全く同じ姓、同じ名の施主の名を発見し、寛保何年という建立の年号を読んだときの私の愕きはどうだったろう! 寛保といえば今から二百年も前である。その二世紀という遠い昔に私と同じ姓、同じ名の人間がいて、この土地に住み、百姓をし、家族を養い、稲を刈り、麦を播き、蔬菜を作り、年貢を納め、先祖をまつり、豊作を祝い、不作を歎き、そして恐らく今日のような日には彼の家にも洗濯物がひるがえり、彼自身はまた両手を後ろにくんで麦を踏みながら、雪に飾られた秩父の山や、三宝寺の池から立って旋回する、今よりももっと多くの雁や鴨のむれを眺めたことだろう。そして恒心を持ち、恒産を積み、善良で、勤勉で、この田舎を生涯安住の地とたのんで生き、そして幾つかの歳に何かの病いで死んだことだろう。
 私はその人の墓碑を捜したが遂に得られず、また法名では調べる術もなかった。多分いま私がその横を通った農家がこの墓地を守る子孫の家だろうと思ったが、其処を訪ねて深く穿鑿する気は無かった。想像には空白が必要であり、幻滅を味わぬためには遠くから憧れなくてはならない。それで私は路傍から緑と赤の新芽をつけた野薔薇を折って来て、一本をその人の名を刻んだ墓石に、一本を記念として自分の手に残した。夕日が向こうの丘の林に沈んで此処もまた陰になった。そこらぢゅうから寒い夕風が吹起ったが、田圃のくろでは銀褐色のツグミの群が、まだクェー・クェーと鳴きながら餌をあさっていた。

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 水車小屋へ(一九四五年)

 家のそと、高い藁屋根の上には、大きな闇の夜が落ちかかっている。風がすこし出たらしく、屋根をかこむ防風林の千万の若葉が、いちめんに暗い漣のような音をみなぎらせる。息をひそめ声を呑んだ戦時日本の晩春の夜、欝蒼とした武蔵野の田舎の夜を、まだアオバヅクも鳴かない。ヨタカも鳴かない。勿論どんな種類の虫の音もない。
 子供たちがみな寝てしまって、この農家の炉ばたには、今しがた晩い夕餉をおわった大人たちがくつろいでいる。今年は春のあゆみが往きつ戻りつする変調で、まだ朝晩は囲炉裏のあかい火の色の恋しいことが多い。その春でさえ、家の周囲の連翹や桃や桜を、果たしてほんとうに見たのかどうかおぼつかないほど、あわただしく追われるように過ぎる毎日だった。自然の歌や色彩は夢のように遠方をながれ、束の間の花火のように眼前に燃えては消えた。穏かに生きて敬虔にたのしむ生活の深い味わいなどというものは、この二三年来、もう私たちのものではなくなっている。つい先程も、最後に入った女が風呂から上ってさてこれから大人たちの食事が始まろうという矢先、突然遥かに警戒警報のサイレンが鳴った。サイレンはサイレンを呼び起し、互いに唸り、咆えたけった。急いでラジオのスイッチを入れ、庭へ飛出して耳をすますと、早くも小仏峠の空とおぼしい方角から一台の敵機が近づいて来て、暫くの間ごうごうという音響の波を頭上の空に湧き立たせながら、次第に東京のほうへ遠ざかって行った。こういう事が殆ど毎日行われる。しかも此の村はすでに二度も痛烈な爆撃に見舞われて、かなりの損害を蒙っているのである。警戒が解かれ、座敷の時計が九時をうった。それを聴くと今まで食後の煙草を吸っていた梅太郎さんが、暗い流しもとで皿小鉢を拭いていた一番上の娘を振返って、「タケよ、水車場は誰も使っちゃあいめえか。使っていなけりゃ今夜は夜なべに麦搗きだ」と言いながら、煙草と莨入れを腹掛のどんぶりへ仕舞いこんで立上った。それを見て私も一緒に腰を上げた。そして「叔父さんも行くですかい。もう晩いから休んでおくんなさりゃいいのに」という声に微笑で答えて、妻の手から懐中電燈をうけとり、靴をはいた。梅太郎さんは私の死んだ従兄の長男で、私より一つ若く、私の父の実家の当主である。
 両方の年齢を合せるともう百歳を越える二人は二俵の麦をリヤカーヘ積み、広い庭をよこぎって真暗な街道へ出た。水車場はこの街道にそって四町ばかり東にある。二十年前に梅太郎さんの発案で、組合を作って出来た水車場だという。その先見のお蔭で、初めは渋っていた人たちも、今では非常な恩恵を蒙っているそうだ。四月初めにこの祖先の土地へ疎開して来て、草取りや畑仕事の手伝いに毎日その傍らを通りながら、私はいつかその内部を見たいと思っていた。用水の流れに沿う篠や雑木の藪のうしろ、或る家の杉や欅や白樫の防風林の蔭に、麗かな春の昼間をその苔むした大きな車が雫をしたたらせて廻転し、一枚の畠を隔ててその前を通る私をして、しばしば、「涼しい谷間に水車はめぐり」のアイヒェンドルフの詩句を遠い昔のことのように思い出させた。その防風林の大木のうろでは此の頃四十雀の夫婦が家庭の営みをはじめ、小屋へ通じる小径のかどに一本のカマツカの木が細かい枝を茂らせて、きのうきょう、梅に似た真白な繖形花で水のほとりの青い空間を照らしている。そして来る日も来る日も戦禍を避けて東京を落延びる人々が、或いは荷馬車や牛ぐるまで、或いは手車やリヤカーで、或いは彼ら自身の肩や手で家財を運んで、この新緑の街道を西へ西へと急ぐのを私は見ている。春の風景が逆説のようだ。
 二人は懐中電燈の光に暗夜の道を照らしながら、やがて用水へ架かった小橋を渡って水車小屋へと車を曳き入れた。小屋は流れる水音や夜の香のなかに静まりかえっていた。梅太郎さんは戸をあけて中へ入り、唯一つの電燈のスイッチをひねった。童話劇の舞台のような小屋の内部が現れた。頑丈な柱が林立し、横木が組まれ、それへ取付けた濃い褐色の油のにじんだ軸承け、糠にまみれた二本の太い軸、その軸を聯動させる大小種々の歯車、象牙色のつやの出た十本の重たい長い杵、その下にコンクリートの床へ平らに嵌めこまれて、卵を輪切りにしたような円い大きな口をあけている十個の鉄の臼。室の片隅には押麦をつくる近代的な器械が据えられ、調革が懸かり、古風な唐箕が用意され、それぞれ目の細かさのちがった篩ふるいがならび、箕があり、藁箒があり、およそ水車場と呼ばれる物に必要な道具が悉く整然と備わって、これから使う人の手を待っている。そして一物として無駄のない、浅薄でない、まじめな、手堅い、農民幾世紀の実験を経た、純粋な形式を持つこれら一切の木工物や器具をめぐって、乾燥した秋の日なたや生活への帰依をおもわせる穀物の塵のにおいが、水車小屋の精神のように君臨していた。
 十燭の電燈に照明されたこの小屋の、我が家のように親しみ馴染んだ雰囲気の中で、梅太郎さんは俵の口をほどくと斗桶とおけという小判形の深い桶でその大麦を量り、馴れた手つきで一杯ずつ床へ切りこまれた臼の中へあけて行き、用意の水を柄杓でそそいで湿りを与えた。それが済むと今度は綱の輪へ引掛けて吊り上げてある十本の杵のうち、その八本を順々に肩ではずした。これで小屋の中の準備は出来、あとは水車が廻転をはじめさえすればよかった。そこで二人は小屋を出た。まず私が懐中電燈で水際の足もとを照らすと、梅太郎さんはコンクリート造りの堰の片端ヘ乗って水車へ通ずるほうの堰板を引上げ、次に用水のほうの堰板を下ろして水路を切りかえた。とたんに夥しい水は方向を転じて逞しい束になってこちら側へ殺到し、吸込まれるように狭い水路を滑り落ちて水車の羽根へ全圧力をかけた。直径二間もある大きな車はギーツという産声うぶごえとともに荘重な廻転をはじめた。命の息を吹込まれて生の第一歩を踏み出したように。つづいて二廻転、三廻転。小屋の中からドスン・ドスンという力強い響きがきこえて来た。水車の生活は軌道に乗った。それは巨大な心臓の正しい鼓動をおもわせた。
 梅太郎さんは堰から下りると小屋へ近づいて、その板羽目に切ってある小さい窓の蓋を上げて中をのぞいた。杵のテンポを測っているらしかった。やがてまた堰のところへ引返すと堰板をすこし上げた。単位時間に流れる水の量がいくらか増したとみえて、麦搗きの拍節も心もち速くなった。調節をおえて私と一緒に小屋へ入った梅太郎さんは、「調子はめっぽういいですよ、叔父さん。これであしたの朝までには立派に搗き上がりますぜ」と言いながら、腹掛から煙管を出した。
 いまや小屋の中では几帳面に八つの杵が八つの臼を掲いている。軸の廻転につれて羽子板が撫木なでぎを撫で上げる。すると杵そのものも吊り上げられる。羽子板が撫木をはなす。と同時に杵がドスンと臼へ落ちる。そして次の瞬間にはまた上る。一対の杵と臼とについて見ればただこれだけの運動に過ぎないが、八本という多数の杵の運動を一目に見ていると、其処には何か従順な動物の飽きもせずにする仕事を見ている時のような感情が生れ、たとえば向かいあって同じ首の運動を続けている馬か何かに対するような、幾らか滑稽な感も湧くのであった。思えば水の流れの尽きないかぎり何時までも続く水車の廻転。ゆるく噛合って確実にまわるすべての歯車、上っては落ちる杵の音。それは昔からなる木のからくりの無韻の歌、夜をこめて田舎に響く農事の音楽。ハイドンのもののように善良で、純朴で、又そのように晴れやかで単調な音楽だった。そして今戦争のために毒され苛立たされることの多い私たちの心は、しばしばかかる善意や純朴に郷愁を感じ、かかる清朗な単調にさえ憧れるのである。
 それにつけても思い出すのは今は亡いレオン・バザルジェットの事である。ホイットマンやソロオの輝かしい伝記作家、ロマン・ロランをして「最も自由な精神と豪毅なゴール魂とを持った最後のフランス人」と言わしめたあのバザルジェットは、貧しく清廉な生活の唯一の喜びとして北フランス、カルヴァドス県の片田舎に古い水車小屋を持ち、それを自分で改造し、夏冬の休暇を妻君と二人で其処で過ごした。到着すると直ぐに柱時計を捲き、竃に火をつけた。「針が動き、煙突から煙が上る。生活が始まったのだ」と彼は私に書いてよこした。
 梅太郎さんと私とは小屋の片隅に蹲まって、その賑やかな音の中で二三服の煙草を吸い二三の話題を語りあい、それから電燈を消し戸をしめて帰路についた。其の夜おそく床へ入った私は、寝つかれないままに水車場の童話劇を考えたが、その劇の中では農具や穀物が主たる登場人物であり、スイカヅラや野薔薇やウツギやタンポポが一面に舞台を照らし、老ハイドンの牧歌につれて色さまざまな蝶や蜂が舞いただよい、小鳥とともに森も水も、雲も丘も、霞をまとう遠山も、皆それぞれ歌うのである。そしてこの水車場の田園劇の主人公として、私はこの村に住む或る老篤農家を、千歳を古りた農事の神に選んだのであった。

 

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 麦刈の月(一九四五年)

 毎日よく晴れた日がつづく。今は晩秋初冬の景色で、朝は一面に霧が立ちこめ、やがて日が射し霧が晴れると、まず頭の上から竜胆りんどういろの空が現れ、びっしょり濡れた藪のへりや畑の畝に、無数の蜘蛛の子の小さい網が紗のように輝く。昼間は弱い北風が吹きわたり、南へ廻った太陽の光の中で雨のように木の葉が散り、空には氷塊のような雲がならび、ときおり県道の方角でトラックの響きがきこえ、そして慌しく日が暮れると、寒いたそがれの森の彼方から、すばる、アルデバランを先頭に、燦爛たる冬の星座が相ついで昇る。
 今しんしんと冷えて来る夜の部屋でこれを書いている私は、千葉県北部の或る寂しい片田舎、畑と森と薮のなかの一軒家にいるのである。このあたり一帯に洪積層の台地が起伏し、到るところ松の森林が黒々と立ち、中世の頃の「牧」の跡、現在の御料牧場が遠くひろがり、その間に近年開墾の畑地がひらけ、蔓のように伸びた侵蝕谷の水田が深く食いこんでいる。それにしても同じ関東平野の一部をなして、殆ど同じ地質時代に形成されたものでありながら、其処で私がついこの間まで二十幾年を暮して来た武蔵野とは、自然や人文の景観、生活の雰囲気や情緒の上に、なんという相違があることだろう。開拓の遥かに遅れた此処では農村としての歴史も浅く、言うに足る文化も無く、家と家との繋りも弱く、それぞれの藁屋根が林野の中に孤立しているように、人の心も孤立している……
 いや、私は脱線した。これ以上この問題に深入りするのはやめよう。今夜私が心勇んで筆をとったのはその為ではなかった。と言うのは、きょう、昼間むこうの林の縁で風がしきりに錆びた木の葉を散らしている時、私は畑中の路をあるきながらアイルランドの民謡「吹けや高く又低く、おお西の風よ」を口ずさんでいた。その畠ではもう甘藷や落花生の収穫が終って今は可憐な麦の芽生えがぞっくり出ていた。私は自分の歌によっていよいよ西方遥かな武蔵野と其処から常に眺めた山々への愛を募らせ、かしこの麦が今どんなに芽生えたか、人々は今日も恙つつがなくいるであろうかと思いを馳せ、更にあの素晴らしい六七月の麦秋を、わけても今年の夏の麦刈とそれに関わる種々雑多な事物を回想して、ほとんど泣きたいほどの望郷の感に打たれたのだった。今夜この寂しい田舎の孤燈の下で、私が書こうとするのは正にあれだ。あの大いなる夏の日の輝く思い出、われらの田園曲の非凡なスケルツォーと、晴朗かぎりないアンダンテ・カンタービレだ。
 今や再び私に蘇ってくるその牧歌の中で、もしも当時国を挙げて最後の死力を傾注していた有史以来の大戦争や、誰の目にも日は一日と不利になってゆく戦局の推移や、その挽回への甲斐ない努力や、被いがたい前途の不安や、たえず巷に飛ぶ流言蜚語や、やがて二ヵ月をまたずして現実となった全般的崩壊への兆候などが、ほとんど連日連夜の敵機の空襲、その殷々たる爆音、サイレンのうめき、高射砲の轟きなどと共に、底を流れる基調をなし余韻となって漂っているとしても止むを得まい。しかし今私はそれを意識的には強調しない。それはもはや私の任ではなくなった。
 「おお友よ、その音ならぬ他の音を」! いま喜びをもって私の書きたいと思うのは砲声にも掻き消されない鐘の響き、嵐のたえまに喨々とすだく虫の声、暗澹たる雲の裂目の青空の歌だ。「涼しい目をもつ神の愛児」に帰ろうとして、一茎の草の啓示をもゆるがせにしない詩人の歌である。
 それは私たち夫婦の者が東京市内から当時のいわゆる疎開をして、武蔵野の或る親戚の許へ身を寄せてから丸三月目の六月末の事だった。或る夜主人の妻君おれんさんが私に向って、
「叔父さん、あしたからいよいよお待兼の麦刈ですよ」と笑いながら言った。
「そうですか、それは有難い。幸いお天気も続きそうだし」
 そう答えて何となく武者震いのようなものを私は感じた。
 本職の百姓から見れば半人前にも足りない自分だということは元より百も承知していたが、農の手伝いなら何でも遣ってみようという初一念に変りはなかった。それで其処へ来る早々、部落の人たちにまじって敵の爆撃した畠の穴埋めもしたし、裏山で切り出した薪の繩掛けや粗朶そだ束ねもした。早春漸く樹液の通いはじめたばかりのナラやクヌギのなま枝は、張りが強くて容易に繩で締めかねた。広い桑園の除草もした。小昼顔やアカネやヂシバリが一番厄介な相手だった。菠薐草ほうれんそうの二反歩の畠を真白な花で埋めたナズナの草取りをした時には、富士山東方から大挙して頭上に迫るB二十九の編隊と、どっちが速いか競走だった。季節はずれの寒い春を武蔵野の日がとっぷり暮れて、土の冷めたさが足の先から背骨までこたえて来る頃、漸く馬鈴薯の種植えを終ったこともあった。十坪の苗床に梯子をわたして、毎日甘藷の苗切りもした。半日三千五百本が私の最高記録だった。
 麦のさく切りも志願した。「叔父さん、そっちの肱をもっと上げて」と注意されながら、肱ばかり気にしていると鍬先のほうが留守になり、両方に気を配っていると目がくらんで来た。一般に農具の操作は手先だけでなく、からだ全体で調子をとってリズミカルにという普遍的原理を発見したのは流汗三斗の末であり、一本の畝を切り終って次の畝を切り返して来る時、右手のようには、左勝手の自由にならない不便さを、つくづく託かこったのも其の時だった。茶を作るのも初めから手伝った。青殺あおころし、葉打ち、達磨、よりきり。言い得て巧みな術語も覚えたが、この家内工業を覚えたことが嬉しかった。自分で手がけた新茶の味は、どんな玉露にもまさると思った。そのほか穴へいけた芋の掘出し、種芋のよりわけ、甘藷の植付け、南瓜の種蒔、胡麻の種蒔、葱の植替え、馬鈴薯の芽掻きとそのとりいれと……
 ああ、こうして数え上げれば切りがない。今年最初の燕が常口じょうぐちから飛込んで、座敷の天井に去年の巣を見届けた春四月の或る日から、やがて数日遅れて着いた妻を迎えてその燕が同じ場所に家庭を持ち、前後二回雛を孵して一家栄え、ついに最初の北西季節風が吹きそめた或る朝を、身内にうずく渡りの本能に誘われたか、一族を挙げて忽然と姿を消すに至った秋十月までに、私が喜んで教えられ進んで体験した農家の仕事は十指にあまる。そしてその実習のどの一つにも、其の家の長女おタケさんが私にとっての伴侶でもあれば先輩でもあった。村で一番よく働く子と言われていたあの娘、私の従兄の子のまた子であるおタケさんに、南フランス、プロヴァンスの詩人ミストラルの田園叙事詩「ミレイオ」の女主人公を私はいくらか見出したと言ってもいい!
 そのおタケさんの父親、私の先祖の家の現在のあるじ、尾崎梅太郎さんの麦畠が、今や収穫に満を持した大麦小麦のこんじきの海だ。今年は作が「ちがい」だとはいえ、思ったよりは実が着いたと人々は言う。有難い! その麦の実の稔りの時を、金より貴い太った粒を、一日千秋の思で待っていたのは研ぎすまされた鎌ばかりではない。切羽つまった食糧難に、ここでも亦大敵に面とむかって、目の色を変えている政府がそうだ。無辜にして戦争に駆り立てられ、日毎に痩せ衰えてゆく国民がそうだ。いや、その数千万同胞の主食をまかない、命の糧の生産を引きうけている全国幾百万農民の天職自体が、神のような良心の声が、「今こそ時だ、機をはずすな!」と命令する。そこで日本国中の麦畠という麦畠に勇ましい利鎌の音がしょうしょうと鳴り響き、燃えるような六七月の太陽の下を、献身の喜びに熱狂した金褐色の麦共が身をふるわせて薙ぎ倒され、人間の汗を浴ぴ、花の香のする南の風に彩られて、繽紛と舞う蝶や螟蛾の飛翔のなか、渺茫と光り霞んで虹のようだ。
 遠くで郭公が晴れた日の二音符をひびかせ、にいにい蟬の合唱が向こうに見える村の木立を夏の讃歌でいっぱいにする頃もう私たちは畠にいた。おタケさんはぴったり身についた仕事着に手甲、脚絆。白手拭を姉さんかぶりに、顔をまっかに上気させて、ただ黙々と刈っている。私はシャツ一枚に戦闘帽、早くも禾のぎに刺されて痒くなってくる首筋や両腕に、塩からい汗を噴かせての大童だ。小麦のほうが刈りよいと言うが、大麦の密生した列の根際を目分量で一握り、倒すように押しつけながら、たぶさを切るようにざっくり遣る。そして鎌をかえして柄の先で縺れた茎や葉をしごいては横へひろげて並べて行く。一人が二畝うねずつ受持って、隣り合って同時に刈り進むのだが、馴れぬ私はどうしても遅れてしまうので、おタケさんは自身の刈った麦束の並べ場所が無くなる。それで私は面目ない気持で自分の持場を彼女に任せ、彼女の畝をうけついだ。こういう事がたびたびだったが、後には全然別の畠一枚を引受けて、私はたった一人で今は誰に気がねもなく、新たに自分をとらえたこの仕事の楽しさに陶酔し、野外を遠く、世の中から暫しのがれて、風や日光や土とともに在ることの喜びを満喫した。
 それにしても時々金色の麦藁の上にあぐらをかき、鎌の刄を天へむけて真直ぐに立て、砥石を合せて研ぐ時の何という晴ればれとした気持だったろう! 地平線には今日も薄青く霞んだ山々が真昼の熱い大気にふるえ、青い陰をもつ純白な積雲の行列が順礼の合唱を歌いながら大空の野をよこぎり、スベリヒユの黄色い硝子のような小さい花に青空が反射し、灼けた土くれの上に翼を拡げて休んでは忽ち飛立つヒメタテハの、その羽根の裏にも微妙な空の色があった。ああ、赫耀たる夏とその盛福! すべての物に夏の金色が踊りかがやき、すべての物に夏空の青が歌っていた。
 この麦刈の幾日を通じて天気はほとんど申しぶん無かったが、ただ一度強烈な雷雨に見舞われたことがあった。暑い毎日のうちでもとりわけ暑熱のきびしかった或る日、朝から異様な息苦しさが感じられ、相変らずの晴天にも拘らず日の光に何処とない暗さがあり、空気中に何かぴりぴりするものが瀰漫しているようだったが、やがて正午を過ぎた頃から北東の方角に三箇所ばかり、堅く充実した感じのする雲の峯が出現した。もう大麦もおおかた刈り終って次の小麦に移る前に、私たちは刈り干してある麦を二抱えぐらいずつ一つの大きな束に作ったり、その束をリヤカーヘ積んで畠から家の納屋まで運んだりする仕事に掛かっていた。時間が進むにつれて積乱雲はいよいよ不気味な発達を続けて、その爆発は結局まぬかれ得ない形勢となった。私はさっきから此の種の熱雷についての自分の貧しい知識を、こういう自然に関する話の好きなおタケさんに披露していたが、今では少し恐ろしくなってもう気象学の講義どころではなく、生憎よく乾いて膨れ上がる束を、力いっぱい締めつけて繩を掛けるのに懸命だった。
 空は暗澹となり、気温はどんどん降ってゆくように思われた。急に四方から陰惨な風が吹起ってすべての草木が蒼白くそよぎ立ち、風景は俄かに秋の暮のような寂しさを呈して来た。今や私たちは死物狂いだった。其処へ別の畠で小麦に取掛かっていた梅太郎さんも応援に駈けつけた。もう強い紫がかった薔薇いろの電光がパッと射し、すぐに猛烈極まる雷が鳴りはためいた。やがて野を圧して大粒の雹が降って来た。そして見る見るうちに畠一面を雪のように埋めて行った。その畠を家へいそぐ農夫の姿があちこちに見えた。私たちもいそいだ。リヤカーを曳いたり押したりして長い街道を一散に走った。その間にも電光はたえず飛び、雷はしきりなしに轟いた。いつか雹は雨に変って街道はそのしぶきで真白にけむり、黄色く濁って水嵩を増した用水の水の上をまだ溶けない雹の粒が泡のように浮かんで流れた。家へ逃げ帰った時、私たちはみんな滝壷から出て来た人間のようだった。
 だがこういう場景が私の麦刈の回想のなかで一つの挿話の役を演じたとすれば、夕日の中での落穂拾いや午後晩くのお茶菓子とそれに続く休憩の時間は、これまた感銘深い一場面であったと言わなくてはならない。
 或る日の夕方ちかく、人々が小麦を束ねて繩掛けを始めた時「今日はこれで切上げますから、叔父さんには穂を拾ってお貰い申しましょう。落ちてるのを拾うだけでもじきに灰笊一杯や二杯にはなりますよ」と梅太郎さんに言われて、私は喜んでこの新しい仕事を引受けた。ちょうど日没に一時間ばかり前の時刻で、洪水のように流れる太陽には長い波長の光が増し、その柔かな赤みのためにすべての草木の緑がいよいよ甘美に冴えて見えた。秩父や丹沢の連山はきょうも透明なあじさい色に匂い、斜陽を浴びて藁や落穂をいちめんに散らした畠の畝は、緑と青と灰色と黄色の羊毛に、太い金絲をまじえた厚い豪奢な織物のようだった。私は灰笊といわれる深い笊を小脇にかかえ、刈跡の畝を一本一本往き返りしながら腰をかがめて落穂を拾った。連日の晴天によく乾いた麦の穂は容易に折れてすべての畝に散乱し、忽ち片手に一杯になり、じきに大きな笊を満たした。当然私はミレーの「落穂拾い」の絵の事を考えずにはいなかった。そしてあの三人の貧しい女たちの姿を記念碑のように偉大ならしめているあの動勢、その頭を包むきれの暖かい赤の色、その緩やかな襞をもつスカートの海のように深い青の記憶が、このバルビゾンの大画家に関するサンシエやロマン・ロランの美しい著作への記憶とともに、私のうちに限りなく澄み晴れてかつ力強い、一つの芸術的・宗教的な雰囲気を醸し出すのであった。
 こうして私の拾い集めた笊に二杯の麦の穂を見て、それを指先で揉みながら「叔父さん、これだけでもうどん粉がかなり出来ますよ」と真顔になっておタケさんは言ったが、午後の「お茶菓子」の時にはそのうどん粉の厚焼のパンがよく畠の私たちに届けられた。そういう休憩の時、私はおタケさんに最近見つけた小鳥の巣や、空の雲や花や昆虫や旅のことなどを話してきかせた。おタケさんはいつも熱心に耳を傾けた。或る時のこと、私たちは二人だけで畠の隅の一本の大きな栗の樹の下で休んでいた。その日私は普段のような話の代りにシューマンの「ヌッスバウム」を小さい声で歌って聴かせた。黙って聴いていたおタケさんは其の歌の意味を私にたずねた。私は田舎家の前にそよぐ夏の緑のクルミの樹と、その下にまどろんでやがて訪れる結婚の幸福を夢みながら眠りに落ちる娘のことを話してやった。そしてもう一度繰返して歌いながら、歌のメロディーを支配する田舎らしい善良さと、其処に流れる一脈の晴れやかな哀愁とを響かせた。おタケさんはじっと向こうの森を見つめながら私の歌に聴き入っていた。其の時彼女はすでに婚約のある身であった。だが私がそれを知っていることを彼女は知らなかった。私たちの頭上の栗の枝では満開の白い花が甘酸ゆい噎せるような匂いを発散し、樹をめぐって無数の虻や蜂や甲虫がぶんぶん唸って飛び廻り、ほの暖かい空には、今宵武蔵野を照らすべき一痕の白い月が出ていた。
 其後日ならずして戦争は突然終り、おタケさんは予定のように婚約者にとついだ。それは誰の目にも良縁と思われた。それと同時に、もはや東京に家の無い私たち夫婦は、数々の思い出を抱いて親切な梅太郎さん一家と懐かしい武蔵野とに別れを告げ、遠くこの下総の田舎へ移ることになった。
 こうしてタケさんのためにも、また私たちのためにも、今や一つの新しい人生が始まった。しかし少くとも私にとっての是からの人生は、残りの僅かな道程を一歩一歩踏みしめながら、味わいながら辿る旅だ。私の正午は既に過ぎて、地にひく私の影が長い。その影はますます長くなるだろう。あたかもいよいよ大地に近づいて行く者のように。それでもいい。いや、それでいいのだ。私のような旅路に出てはもはや何一つ失う物は無い。ただ得るばかりだ。そしてこの夏の日の豊かに美しい思い出も、慈しみつつ私が彼方の岸へ担って行くつつましい宝のひとつであろう。

 

 

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 二つの歌(一九四五年――四六年)

   秋 の 歌

 いつか私のうしろに春は滔々と流れ去り、無常の夏は祝祭のように燃上って空に消え、あすの新たな冬の旅をまえに、きょう、暫しの秋がここにある。
 秋。半島の松ともみじの山々を、静かに照らす秋とその海。ここは湘南。きょうの閑散な日曜日を、砂浜では五六人の子供らが毬投げに遊び興じ、五六羽の鴉が波の貢物みつぎものをあさっている。青貝いろに横たわり、プリズムのように輝く、凪の午前の相模の海。伊豆が青い。大島も青い。沖には点々と漁船が出ている。その伊豆も、その大島も、漁船の白帆も、みんな閑散に、みんな宙に浮いているように見える。海の上も日曜だ。
 私は母をうしなった。半島の山々と海とのあいだ、事件に満ちた夏と深い省察の冬との境に、この海辺の避暑地の町で、つい七日前、母は八十幾年の太陽を見た両眼を永久にとじ、再び帰らぬ旅にのぼった。いとも安らかな眠りであり、祝福にあたいする出発だった。なきがらを送る山の小径に、竜胆りんどうが碧く、野菊が白く、荼毘だびの煙はほのぼのと山腹から立ちのぼって、晴れやかな海べの空へ消えて行った。
 今、露ほどの歎きも私には無い。すでに母の煙はきらめく空と海とに属し、やがてその灰は土に帰る。彼女は年古りた野の樹木のように、ほとんど一世紀に近い年月に亘って、その本質を生き、その運命を生きつらぬいて、ついに「時」の桝目の満ちた或る夜、老い朽ちはてて倒れたのだ。そして今、その根源である天然の素中にまじろうとする。何の悔い、何の歎きがそこにあろう。むしろ晴ればれと明るい目を上げて、虹色にきらめく水のひろがりや、ほのかに黄ばんだ沖の雲や、紫煙るあの島山を眺めるがいい。彼女のためにも、その出発を記念する七日七日は日曜だ……
 私は砂丘の松原のふち、褐色に枯れた筆草の上に腰をおろして、遥かに水のかなたを見る。風景の遠方はいつでも私の心を引く。あれは天城山、それから右ヘスカイラインが一度下がって、又ゆるやかに昇って行く。熱海・箱根の両火山がつくる長いながい緩斜面だ。時空の隔たりにぼんやり霞み、現実の強い光に遮られてよく見えないが、あの下には幼い頃から青年時代にかけて、夏の休暇をかならず過ごした土地がある。ああ、其処から立昇る追憶のにおいと、「浮び出ずるあまためでたき影」のむれよ! 燃えるような夏の幾週を、旅館の庭に咲きつづくひまわりおいらんそうのうぜんかづら。海水茶屋の葭簀のむこうに、まんまんと翻る玉虫色の夏の海、冒険と予感の海。浪乗りの板子を小脇に黒の下帯が誇らしく、花のような水着の人に胸もときめく。さて其処に語られる夢のような避暑地の恋。その間にも沖の黒瀬川は流れてやまず、海岸の夜の花火は幾度の夏を明滅し、哀れあだなる幸に欺かれて「美しかりぬべき時を失い、我に先立ちて去にし善き人ら」の遠いおもかげ……
 しかし今、私のまなざしは一転して、左手に近い緑とこんじきの岬へ注がれる。其処には現実の日光が憩い、輪郭には明徹が、色彩には生気がある。いま、私の心も明るく澄んで、内なる力に満ちている。きのうは妻を伴ってあの岬をぐるりと廻った。一筋の美しい小径が海蝕崖の突端をめぐって、籠の中の葡萄の房のような見事な漁村へ通じていた。幾重にも横の縞目を現した灰白色の断崖には、黄色い磯菊やつわぶきが咲き、海角の洞窟には砲身の裂けた要塞砲が倒れかかり、その裂目に岩からしぼれた水が滴り、銀鼠色の制服に銃を持った二人の若いアメリカ兵が、石に腰をおろして黙然と海を見ていた。そして眼下に寄せる海原の波は、青々と膨れては白く湧返り、沖へ走らせる私たちの瞳に、二隻、三隻、見知らぬ国の軍艦がうつった……

 

    冬 の 歌

 冬枯れの果樹園と霜にただれた畠とに向って開いた窓をかすめて、一月の夕日の弱い光線が斜めに部屋の片隅を照らす。そうすると私は今日ももう四時を過ぎたことに気がついて、大きな背負籠を肩に裏の杉山へ杉の枯枝を拾いにゆく。
 誰に命ぜられ、誰に頼まれた仕事でもないが、私がみずから追放する気持で、一介の名も無い者としてこの下総の寂しい片田舎へ引込み、親戚という縁故をたよりに此の家へ身を寄せている以上、当然なすべき事として自分で自分に課している日課の一つである。
 きょうはその杉山で偶然一羽のかけすの死骸を見つけた。死んだかけすは二本の樹の根ぎわの、羊歯の葉がこんもり茂った草むらの蔭に、両眼をとじ、両脚を固く伸ばして横たわっていた。手の平へ載せると、もう飛ぶ力も拒む力もなくなった小鳥の柔かい忍従の重みが感じられたが、生きていた日の品位と威厳とはまだ失われずに保たれていた。死因を確めてやろうと思っていろいろ調べると、瑠璃いろと白と黒との美しい翼のつけねを砕いて、かたい鉛の霰弾が一つぶ、薄赤く血のにじんだ白い筋肉へくいこんでいた。それがおそらく彼にとっての不運な致命傷だったのである。
 撃たれた瞬間、帆を吹きちぎられて漂流する小舟のように、空間を傾きながら冬の森へ流れ落ち、どうかしてもう一度生きようものをと雄々しい最後の努力を試みたが力およばず、ようやく柔かい羊歯の葉蔭まで這い寄って来て此処でさびしく瞑目したのだろう。
 こうして、やがて来る薫風の空と緑の春を、山林から山林へと矢のように飛ぶあの剛毅な、野生な、孤独な、美しい魂の一つは消えたのである。私はそのビロードのような葡萄色の羽毛を撫でそろえ、最後の憩いの場所へそのまま土を掘って葬った。もう薄暗くなった森の奥にはひしひしと霜の気が張りつめていた。
 足で堅く踏みこんだ上へなお山と積んだ枯枝の寵を背負って家へ帰ると、火の気のない板の間の私の部屋には、ちょうど向こうの松並木を燃やしながら沈む太陽の金紅色の光が、せめてこれで暖を取れというかのように、窓硝子をとおして机を照らし、うしろの棚の隅まで射しこんでいた。其処には戦災をまぬかれた私の古い記念のアルバムなどと一緒に数冊の楽譜が積上げてあるが、それへ立てかけたバッハの「マタイ受難曲」の総譜本にも、ほんのりと紅い冬の落日の光が映っていた。
 近頃夕方になるときまって微熱の出る私は、この焚木の蒐集にすこし疲労を感じて、どっかりと沈み込むようにがたがたの椅子へ腰をおろした。そして手を伸ばして其のバッハの総譜本を取り上げ、ほとんど三年ぶりにぱらぱらと翻していると終曲の合唱のところが出た。あの Wir setzen uns mit Tränen nieder, und rufen dir im Grabe zu : Ruhe sanfte, sanfte Ruh! 「我等涙ながして跪き、墓のうちなるおんみに叫ぶ。安らけく憩いたまえ」の歌である。私は小声でそれを歌ってみた。そうすると久しぶりに自分一人で聴く自分の声と、限りもなく深く美しい歌の調べと其の意味とに心がなごみ、肉体の微熱にむしばまれた消極的な精神が鼓舞されるような気がして来た。同時に此の歌を初めて知った幾年前の春がなつかしく思い出された。そして其の追憶の春の庭に青や赤のアネモネが咲き、ライラックの花が薫り、数々の記憶がそのかみの五月の雲のように生れては消えるのだった。
 使徒マタイによる「受難パッション」の曲では、人は葬られた救世主のためにその安らかな憩いを祈るのである。しかし葬られない者、荒野に捨てて顧みられない者は何処に憩い、どうして復活の日を待つことができるだろうか。掟にしたがい、国に殉じて、歎きもせず訴えもせず、異郷の空の太陽に屍をさらして遂に還らない同胞の名を、今その心の奥殿深く封じこめて温かく守っている者が果して幾人あるだろうか。身は傷いて不具となり、或いは屈辱におもてを伏せて故国に還るや、迎えるものは変り果てた国の姿と、利己に狂奔して他を顧みるいとまもない無情な冷めたい眼ばかりのとき、ひそかに無限の恨みをのんで天に哭く殉難者のために一掬の涙、一臂の力、一片の側隠の情をささげる者は何処にいるのだろうか。
 「神様の思し召しがなくては一羽の小鳥も死にはしません」と、ストリントベリーの「復活祭」で天使のような少女が言う言葉を、むかし心を打たれて読んだことがある。きょう冬の林に撃ち落されたかけすの死が、果して神の意志であったかどうかを私は知らない。しかし其の小鳥でさえも葬られる時に、祀られぬ霊、無辜の同胞の啾々の声をよそにして、ただ己れを利して己れを護るに日もこれ足らぬ人々をもってうごめき渡る、この慰めも光もない祖国の姿をなんと言おう。
 しかしそれにも拘らず、私は結局こう信ずべきであろうか。其処にはなお一握の高貴な美しい魂らがあって、善意と、勤勉と、叡智との力を協せて、この廃墟の中から孜々として未来のための破片を拾い集めているということを。
 そして私はさらに進んでこう信ずべきであろうか。その少数の人々は、集められた星のような物を彼らの信仰で堅く練りあわせて、一層強固にし、その中へ神聖な思い出を封じこめ、爽かな未来の歌をもってそれを涼しく甘美にしながら、世界の冬の黄昏のなかに明日の光明を準備しているのだと。

 

 

 

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 蝶の渡海(一九四六年)

 寺田寅彦博士の「橡の実」にこんな一章がある。
「或る若い男の話である。青函連絡船のデッキの上で、飛びかわす海猫の群を見ていたら、その内の一羽が空中を飛行しながら片足でちょいちょい頭の耳の辺を掻いていたというのである。どうも信じられない話だがと言ってみたが兎に角掻いて居たのだから仕方がないという。
 この話をその後いろいろの人に話してみたが大概の人はこれを聞いて心よい微笑を洩らすようである。
「なぜだか解らない」
 実際なぜだか解らないが、おのずと快い微笑の浮んで来るような話で、こう書いておられる寺田先生自身が、初めてこの話を目撃者の当人から聴いた時には、やはりきっとにやりとされたのではないかという気がする。「どうも信じられない話だが」というのは、現象の解釈が少し人間臭くて旨過ぎはしないかという程度の軽い疑問に、親しみをまじえて言われた言葉かと思う。
 一昨年八月二十四日の朝、北海道への初旅で青森港の鉄道桟橋から連絡船へ乗り移ったとき、この何となく気持のいい話が、旅の朝の清新な意識の表面へ浮び出たのであった。なるほど海猫は無数にいて、湾内の穏かな波に浮いている者もあれば、白い長い翼をのして北方の夏晴れの空を柔かに飛び廻っている者もあった。
 船が埠頭を離れてもうかなり沖合へ乗り出すと、私は上甲板へ出て煙草をふかしながら、次第に薄青い霞の奥へ遠のいて行く八甲田山の美しい山容を眺めたり、舷側から真白に湧上って涼しい巨大な網のようにひろがる波浪の形に見入ったりした。そして何処までも根気よく船について来る六・七羽の海猫の動作に絶えず注意していたが、生憎私の目の届くところで何処かを掻いて見せる鳥は一羽もいなかった。
 ちょうど右舷の斜め前方へ、下北半島のびっしりと緑を鎧った海角が迫って来て両岸の眺めの特に美しい下館海峡を通っている時だったと思う。私は二羽の白い蝶が、船の近くを擦れ違いに、海面上数メートルの高さを押流されるように飛んで行くのを認めた。それがどうも紋白蝶らしく思われた。そのうちにまた一羽、今度は私のつい眼の前を掠めて、風と波しぶきとにさいなまれるようによろめきながら飛んで行った。それで彼らが紋白蝶だということはたしかめたが、一体何処から来たのだろうかということが疑問になった。どうも遙々北海道から海を渡って来たものとは考えにくいが、事によったら両岸に見える半島の何処か田舎で発生したのが、風の具合で海上へ吹流されたのかも知れない。そんな想像をめぐらしながら、私はこの荒い潮風に揉まれるにしては余りにかよわすぎる一点の白い物を見送ったのである。
 そのうちに甲板へ出ている旅客はみんな船室へ追い返されて、窓もすべて幕を下ろされた。戦時のことで、海峡の軍事施設の秘密を保護するためかと思われた。私は蒸すような満員の室内の暑さを逃れて、少し早目に食堂へ出かけて食事をしながら時間を潰した。
 一時間半ばかりの監禁から解放されて再び甲板へ出たときには、もう船は津軽海峡を半分以上横断していた。本州北端の下北半島は先刻までの威容を失って、今では一続きの平坦な遠景に過ぎなくなり、それに代って往手には憧れの北海道本島が、その渡島おしま半島南端の緑と褐色の山々やスカーフのような雲で、遠来の私に挨拶していた。海峡の風はさすがに荒く、澎湃とみなぎる波間を縫って、エメラルドの飛魚とびうおが海のカワセミのように飛んでいた。
 私は此処でもまた紋白蝶を見た。今度は前後を通じて四羽を数えたが、やはりいずれも北海道から出発した者には相違なく、少くとも海上五十キロの風波を凌いで本州へ渡る者たちと思われた。それにしても何のための移住だろうか。北海道の八月以後の気候や食糧事情は、これから生れる彼らの子供たちの生存を不可能にさせるのだろうか。それで自分たちの種の未来の繁栄をねがう心から、身を挺して遙々海を越えるのであろうか。若しそうだとしたら、私の目に触れないもっと多くの紋白蝶が、今日北風の強い此の海峡を必死となって横断している筈である。
 しかし考えてみれば蝶類のこういう長距離移住の例は幾らもあるのであって、北アフリカからイギリス本土へ大挙して旅行するヒメタテハの場合などは最もよく知られている一例である。ジャスミンやオレンジの花の薫る地中海の沿岸から、ジュラやアルプスの山脈を越えて北方遠くフランスやドイツの平原へ散らばる蝶の大群のあることも何かの本で読んだ。そして紋白蝶の類がとりわけ移動性に富んでいるということも、よほど前から定説となっているようである。
 それから中二日置いたひどく暑い日に、江別の附近で無数に発生している紋白蝶を汽車の窓から眺めたが、この連中は一体どうなるのだろうかと思った。
 いずれにしても、耳の辺を掻く海猫の演技には遂に出逢い損なったが、そのかわり蝶の渡海という昆虫生態学的事実を目撃することのできたのは、私にとって北海道行の予期せざる収穫の一つであった。

 

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 一日の春(一九四六年)

 別にとりたてて言うほどの目的があるでもなく、ただ今日が休日だから何処か少し遠くて静かな野外へでも行って見ようぐらいの気持で出かけたのが、途中二つ三つの思いがけない見ものに出逢って、それらを観察する面白さに引込まれ、いくらかの瞑想の機会をさえ恵まれて、はじめ漠然と期待していた以上に鮮明な充実した感銘の一日だったと、顧みて深い満足を覚えるというような経験は、程度の差こそあれ、大抵の人の持つところだろうと思う。この一篇も私のそうした或る日の覚書にすぎない。
 昭和二十一年四月八日の月曜日、東京はうららかな一日だった。私は戦争以来じつに幾年ぶりかで妻と一緒の野外散策をこころみた。おりから市中も郊外も桜花満開の季節だったが、同じ行くならあまり花見の人に出逢うおそれのない静かな田園で、桜は無くても明るい広い水景をひかえた所がいいというので、結局中央線豊田駅の南方、平山附近をえらんだ。水のある景色に接したかったのは、長い戦争中はもとより、終戦後も池沼や川に遠い所ばかりを転々としていたからである。それに八王子に近い豊田ならば、私たち夫婦が厄介になっているこの吉祥寺の友人の家からも、乗物の便がたいへん良かった。
 閑散な豊田の駅で省線電車を下りると、案のとおり花見客らしい連中には一人も逢わなかった。浅川の河原の方へぶらぶら歩いてゆくと、右手のまばらな人家のむこうに広々した麦畠や花の咲いた桃林が見え、その奥に薄青い春霞をまとった道志あたりの山々を前にして、富士山の雪が柔かに光っている。東京近郊だと大抵はその美しい上半身を見せる富士山が此処では頭だけ覗かせているのが、いかにも都人士に閑却された武蔵野の場末らしくて気楽だった。
 地図の上だけでなくこうして実地について見ると、浅川の流路が日野台地と多摩丘陵との間で新旧二段の沖積平野を作ったらしいことが考えられる。その比較的古い方の崖端に、左岸では豊田部落が立地され、右岸では平山の聚落が営まれたのであろう。第二次の新しい方の沖積面はおおむね畑地と水田になっていて、それと現在の河床との境を堤防が走り、平山橋というのが其の河床のいちばん狭い所に架かって両部落を結んでいる。橋から下は殊に水平の眺めが遠く広い。つまり其の方面に第二次の沖積面が一層の発達を遂げているのである。そして新宿八王子間の京王電車も、此処では右岸の低平な畑中をのどかな近代的点景として走っている。
 十何年か前に来た時には雅致のある木橋だった平山橋が、今では白い鉄筋コンクリートの橋に変っていた。橋の上から見下ろすと、少し下手が曲流点の幅の狭い瀬になっていて、其処のしぶきの散る汀を徘徊しているキセキレイやセグロセキレイが時々パッと飛上っては、羽化したばかりの柔かいカゲロウやトビケラを空中でついばみ、また直ぐに元の石の上へ舞戻って長い尾を上下に振っている。そのセキレイたちの濡れたような羽毛の黒や黄や白の色彩がじつに生きいきと鮮かに美しい。瀬の音にまじる其の囀鳴も思いきった野性の喜びにぴちぴちしている。見たところ六羽か七羽集まっているが、彼らが特に此の場を狩猟地に選んだのは、大小の石に激する水の影響で水面に近い気流に絶えず無数の小さい渦動が起り、その空気の渦乱流の中へ水上をなよなよと飛んでいるカゲロウの群が吸込まれて集まって来るためかと思われる。勿論セキレイは飛んでいる成虫を食うばかりでなく、石にくっついている水棲の幼虫も嗜むのだから、なおのこと流れが瀬になって石の露出している所がいいわけであろう。
 橋の上手の水辺には一羽のハシボソガラスが下りて餌をあさっていた。この方は大型のトビケラやカワゲラを主としているらしく、望遠鏡で見ていると一匹ずつ捕えた虫を嘴一杯にふくみ、それを汀の砂利の上ヘー度すっかり吐き出して並べ、さて運びいいように揃えてくわえ直して、それから悠然と真黒な翼を動かして丘陵の松山のほうへ飛んで行った。
 鳥たちの食事に刺戟されたせいばかりではなく、家を出た時がすでに遅かったので私たちもそろそろ空腹を感じ出していた。向こうに見える平山の部落も麗らかな春の空に昼げの青い煙を上げている。弁当の内容は今どきには少し贅沢すぎる方だと妻が言うし、それに二三杯ではあるが葡萄酒も持参したということなので、なおのこと早く我らの「草上の中食」にとりかかりたかった。向こうを見ると丘陵の麓の小高い所を一筋の道がうねうねと縫っている。グラウンド・シーツを敷いてきらきら光る河原や平野を見わたしながら、ルックサックを開くのに恰好な場所があのあたりには幾らでもありそうだ。私たちは足を速めて沖積地の畠を横断し、山麓線にそった道から少し奥へ入った或る涸沢の斜面の程よいところへ陣取った。
 葡萄酒に食欲をそそられ、油酢で味をつけた初物の莢碗豆や、前歯でプッツリ噛みきると微かに伊吹磨香草の香のするウィンナ・ソオセージや、配給の小麦粉を焼かせた白いパンなどで幾年ぶりに楽しい野外の饗宴をおわると、私たちは遠近の風景を眺めたりあたりの植物を物色したりし始めた。
 平地から僅か入ったばかりの丘の麓なのに、此処ではカタクリとか、ナガバノスミレサイシンとか、カンアオイとか、ヒメイチゲとかいうような、いわゆる山地早春の植物がいろいろ目についた。植物の好きな妻はこういう珍らしい花を発見するたびに声を上げて喜んだ。家へ持って帰って植えてやろうと思うが、根が深くてなかなか掘れないと言う。それはその筈で、この落葉樹林は軽い移動しやすい土壌に被われた斜面であり、この花たちは去年から充分に栄養を貯えた塊茎や鱗茎を土中深く下ろしているのである。彼らがこんなに春早く花を開くことのできるのも正にこの地下の栄養貯蔵庫のおかげであって、分類学上ではそれぞれ科を別にしながら、森林樹下の植物としては生態学的に同じ一つの群と見ることができるかも知れない。彼らは早春まだ頭上の落葉樹がその光線捕捉装置である豊かな葉むらを拡げない内、まだやっと粒々の葉芽をほころばせた頃、もう急いで太陽の光線を摂取したり、花を開いたり、生長したりする必要のある連中であって、やがて青葉の季節が来て光線の一割ぐらいしか樹下に達しないようになると、それでもなお開花と生長とを遂げることのできる別の一群に席を譲るのである。
 苦心してやっと掘上げた二三本のカタクリに満足して、私たちはもと来た道を引返して今度は河原のほうへ足を向けた。途中数箇所に掘抜井戸があって、鉄管から冷めたい水が噴き出していた。中には富士の熔岩か何かを岩組にして、其のてっぺんから水を噴かせている家もあった。こういう「自噴井」はこのあたりでは多摩丘陵の縁辺各所に見るものだが、地下の帯水層の水圧が地表のよりも高いために起こる現象だとすると、或いは丘陵そのものの地層が川の方へ傾斜しているのかも知れないが、それは私にはよく分らない。こういう自噴井を赤羽から志木あたりにかけて、荒川に臨んだ武蔵野台地の麓の村落でも見かけたことがある。噴水口へ細い針金で作った盃形の受け台をとりつけて、噴き上げる水の力を利用してピンポンの球のような物を踊らせているのがあったのを覚えている。
 堤防を歩いていると近くで「ヒヒヒヒ……」と鳴くセッカの声がした。やがてひらひらと飛ぶ二羽の姿が眼に入った。セッカの声というものは何時でも初夏の晴天と青草原との広がりを想わせるし、また事実そういう時と処とに彼らは多く発見される。「キリギリス」という一語でギルバート・ホワイトが英国の夏のあらゆる田園風物を想い出したり、ハリエニシダの生茂る丘原を想像の眼に浮べることなくしてリンネットの可憐な囀りを聴くことはできないとあの鳥のハドスンが言っているのも、やはり私のこのセッカの場合と似ていはしないだろうか。
 長い堤防には河原に沿って野薔薇の茂みがつづき、もう緑の若葉をほどいて薄赤い花の蕾をいっぱいに着けていた。半月もしたならば春も茫々、その中でさぞかし佳い匂いのする道になるであろうと思われた。ちょうど其処へお誂え向きのように一人の盛装した田舎娘が来かかって、私たちを追越すとすたすた堤防の上を遠ざかって行った。「春風や堤長うして家遠し」。私はもちろん蕪村の「春風馬堤曲」を思い出さずにはいなかった。
 堤を下りて水際の草の上で最後の休憩をしていると、何処か近くで「ピオー・ピオー」と鳴くチドリの澄んだ哀調を帯びた声がする。其の声をたよりに物色すると、流れのむこう、私たちから三十メートルばかり離れた河原の石の間に四羽のチドリのいるのが目に映った。望遠鏡を向けて見るとコチドリで、一羽だけが雌らしく、残る三羽が盛んに求愛の動作をしたりディスプレイをやったりしている。雌に対する雄の求愛動作は、両翼を甘えたように垂らして少し顫わせ、一歩一歩相手に近づいて行きながら、其の歩調に合せて頭をぴょこりぴょこりと前へ突き出すのである。ディスプレイは、下から見ると銀白色に輝く長い翼を三日月形にひろげて、最も甘美な声で「ピオー・ピオー」と鳴きながら低く輪をえがいて飛ぶのである。おどけた御辞儀をするように頭を出したり引込めたりして近づいて来る雄を、雌はたいがい済ました顔で見ているが、たまにはお附合いに二三回御辞儀をすることもある。人間から見ればまことに滑稽な場面ではあるが、当の雄たちにとってはこの麗人の選抜にあずかるかあずからないかの大事な瀬戸際だから、たとえ自分たちのおかしな恰好をどんなに拡大して眺めている人間が近所にいようとも、大まじめにならざるを得ないわけであろう。見ようによればわれわれ人間の場合とてもこれと似たようなものかも知れないのである。
 こうして最初に述べたように、ただ幾年ぶりかで一緒にする散策を楽しみに寄寓の家を出た私たちは、予期しなかった、また永く思い出となるような幾つかの見ものに喜ばされ富まされて一日の帰路についた。四月の春の太陽も沈んで、豊田の駅に近く、金紅色に輝く西の空に、この日唯一の雲が黄金の糸で縁どった濃い褐色の帯のように横たわっていた。それは夕暮の層積雲、ストラトクムルス・ヴェスペラリスであった。最後の雲雀が麦畠を舞上って深い空から歌の急流を降らせ、私は私で「我が再生の竪琴のためのコンチェルト」を心の中で歌っていた。

 

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 多摩河原

「尾崎さんはウェーダーには余り興味を持たれませんか」と、後年のあの有名な科学映画「或る日の干潟」や「水鳥の生活」の作者で、私の鳥の先生の一人である下村兼史さんが或る時私にたずねた。ウェーダーとは渉禽類のことで、この場合特にシギ・チドリの類を意味していた。
「さあ、別に興味を持たない訳ではありませんが、何しろ見る機会がほとんど無いものですから」と正直な所を答えたら、それをきっかけに、下村さんは彼らの生態を観察することの面白さを例をあげていろいろ話してくれたあげく、とうとう一月の或る西風の強い日に千葉県新浜にいはまの御料地へわれわれ夫婦を案内して、あの海岸のひろびろとした干拓地と水辺一帯に集まっているガン・カモの類や、小型のシギやチドリの仲間を一々指摘して教えてくれた。今思えば当時すでに下村さんの頭の中には「或る日の干潟」の構想がおもむろに醱酵して形を成しつつあったのかも知れない。それはともかくとして、私は限りなく身のある其の日の楽しい経験から、自分の鳥類観察の世界にまた一つ別の大きなフィールドを持つようになり、それ以来機会あるごとに水禽の生活に注目することを忘れなかった。
 昭和二十一年五月七日、其の日は木暮理太郎先生の三周忌に当っていた。私と妻とは吉祥寺の友人の家を出て多摩の墓地へ参詣し、それから私線の電車で「聖蹟桜ガ丘」まで行って、関戸附近の多摩河原で其処に生活している二三種類の鳥を見た。
 ぽうっと霞のかかった暑いくらいな晴天の一日で、多摩墓地の赤松の林では例年よりも早いハルゼミが啼き、雲のように湧く樹々の新緑をいろどってツツジ、サツキ、コデマリなどの花が盛りだった。御墓に新らしい水を供え線香を手向けて、先生の冥福をいのっていると、あたりのひっそりした植込みの中で一羽のキビタキが「ピーヨ・ピーヨ」と忍び音に鳴いていた。
 停車場へ出るまでの道では、方々に薄紫の桐の花が田園の真昼の夢のように咲いていた。左に広い野原は飛行場の跡らしく、青々と茂った草のなかに破壊された飛行機の残骸がちらばって、其の上の青空には雲雀が無心に歌っていた。此処もまた「つわもの共の夢のあと」だったのである。
 電車が多摩川へ架かった長い鉄橋を渡りきると直ぐに「聖蹟桜ガ丘」の駅である。私たちはここで下りて、白茶けた砂地の道を河原へむかった。駅の名は昔の「関戸」のほうが親しみがあっていいようである。道は細くなって堤防へつきあたる。その堤防へ上がるとさすがに浅川のよりもずっと広い、どこか近代的な匂いのする水景や田園風景が展開した。向こうに府中あたりの洋風の建物が見えたり、高圧の送電線が走っていたり、右手に近く鉄筋コンクリート十二橋脚の長橋関戸橋が真白な直線を引いて、時々トラックやジープが疾走したりしているせいであろう。
 ちょうど一と月前平山への遠足の時には未だ余り目につかなかった河原の植物が、今日此処の多摩川ではもうすっかり初夏らしく茫々と繁茂していた。カワラニンジン、カワラハハコ、カワラヨモギなど頭に「河原」を冠した草や、禾本科や莎草科の類がそれぞれの群をなして、白い砂原の上に点々と大小無数の島のように散らばっている。土手の斜面は柔かなクローヴァでびっしりと被われていた。私たちはそのクローヴァを敷物にして例のように弁当の包みをひらいた。
 今日木暮先生の墓参から此の河原へ足を伸ばしたのは、此の前の浅川でのコチドリ見物の面白さを忘れかねたのが一つの有力な理由であったが、見渡したところ、それらしい声は時々聴こえるがどうも姿は見つからなかった。そのかわりムクドリの群はあのラムネ玉を擦り合わせるような声を出しながら、頻りなしにうしろの田圃とコンクリートの関戸橋との間を往復しているし、ヒバリも三羽か四羽河原の空へ舞上っては精力的な歌をほとばしらせている。そのヒバリの歌で思い出すのだが、或る英国の鳥の本に、彼が一度飛び上ってから降りて来るまでに空中で歌う歌の継統時間は二分半ぐらいだということが書いてあった。しかしどうももう少し長いような気がするので、五年ばかり前に自分でストップ・ウォッチで東京都下井荻の或る畠の四羽の個体について計ってみたところ、二分や三分は普通の方で、六分四十数秒という最高記録の出たことがあった。英国のヒバリと日本のヒバリとでは其の亜種を異にするかも知れず、計測の諸条件も或いは同じではないかも知れないが、ちょっと面白い事実である。
 此処でも懐中時計の秒針でざっと計って三分いくらというのがあった。しかし一口に三分とは言っても、几帳面にチクチク動く針をじっと目を凝らして見つめていると随分長いものである。しかも一分の何分の一という時間が、すこし暗いところで植物や昆虫の接近撮影などをする場合に実に長いものに感じられるあの五秒十秒なのだから、考えてみれば時間の長短などという言葉もまことに変なものである。
 ところで不図気がつくとさっきから私たちの近くに一羽のヒバリがいて、妙に落着かない様子でそこらを往ったり来たりしているのであった。「チリチリッ・チリチリッ」と鋭い声で鳴きながら、翼を矯めるようにして頭の上を低く半円形を描いて飛ぶかと思うと、ひらひらと眼の前の砂地へ下りて石や草の間をちょこちょこと走るのである。雙眼鏡で見ると何か餌をくわえている。私は其の巣がきわめて近い所にあるのだなと思って、妻にも注意して身動きもせずに鳥の行先を目で追った。私たちから二十メートルばかり離れた所に古い堤防のコンクリートの破片がなかば砂に埋もれて転がっていて、其処に一叢のカワラヨモギが生えていた。鳥は小刻みに歩いて何気ないような顔で其の蔭へ入って行く。なるほどあそこだなと思っていると、じきに姿を現したヒバリはちゃんと餌をくわえている。そうかと思うと風に逆らう蝶のようにひらひらと低く飛んで、今度は私たちの横の同じ堤防の斜面に茂っているイタドリの中へ飛びこむ。しかし其処からも直ぐに出て来て、またわれわれの頭上を鋭く鳴きながら、怪我でもしているような仕方で体を傾けて飛びまわる。そうして相変らず餌はくわえているのである。焦慮し、擬傷を演じ、立腹し、哀願し、どうかしてわれわれを撤退させようと言った様子である。
 小鳥の行動半径の中心がどうやらわれわれの陣取っている場所にきわめて近く、事によったら其の巣の直ぐそばに自分達が坐っているのではないかという気がして来たので、急いで立上って身辺を物色したが見当らなかった。私はヒバリの巣は幾度も見ている。其の卵も雛も珍らしくはない。しかし妻にとってはそれらはいずれも未知の物である。それでどうかして此の際見せてやりたいものだと思って、弁当をかたづけ身支度をして、堤防や河原のこれぞと思う草の根方を捜し廻ったが、遂に発見することができなかった。ただ一時間ばかり辛抱して、子を持つ親鳥の可憐な擬傷や威嚇の動作を見せてやれたのがせめてもの心ゆかしであった。
 しかし迷惑したのは御本人のヒバリで、私たちが立上って巣の捜索にかかると、とうとう思いきって何処かへ飛んで行ってしまった。
 私たちは広い河原の円いごろごろ石を踏んで関戸橋の橋下の方へ歩いて行った。さっきから盛んに往復しているムクドリの巣をたしかめるためだった。日光は暖いというよりもむしろ暑く、真白な石や砂の表面からの其の反射はまぶしいが、そよそよと吹渡る南の風に吹かれたり、下流の空に並んでいる夏らしい雲を眺めたり、青緑色と白とに輝くカワラハンミョウを追ったり、婚姻の衣裳もきらびやかに囀っているキセキレイを聴いたりしながら、河原という一つの自然の中を歩くことは言いようもなく楽しかった。
 想像していたとおりムクドリは関戸橋に巣を持っていた。高い橋の下へ立って見上げると、コンクリートの厚い橋脚が同じコンクリートの橋の裏面と接した所に、水道か瓦斯の鉄管をとおす孔が二つ並んでいる。その一方の孔にはもうパイプが通じているが、他の方はあいたままになっている。其の孔の中に彼らムクドリは巣を構えているとみえて、餌をくわえて来て飛びこんではまた直ぐに出て行く。親鳥がやって来て孔の口へつかまる時、耳を澄ますと中からかすかに雛たちの声が聴こえるような気がした。孔はたいてい両側から利用されている上に、棚のようになった所にはたくさんの雀も営巣しているので、出かける者、帰って来る者、しゃべるもの、織るよう盛況であり、市場のような賑やかさである。巣を構えるのにこれほど堅固な土台もないし、又これほど安全な場所もないであろう。
 橋の下から下流の方を眺めると河原の上を何か白い鳥が飛んでいる。地平線の空をすかしてよく見ると、それが一羽や二羽ではなく、十羽以上も飛び廻っているのである。その鳴声らしいものも聴こえて来る。さてはコチドリだったと喜んで、二三町離れた其の方へ河原伝いに行こうとしたが、あいにく対岸寄りに流れていた水が此方へ曲って来て越すことができない。仕方なしに橋の袂まで引返して、長い橋を渡って水の向こうの河原へ下りた。
 橋を渡りながらちょうど川の流れの真上の所まで来た時、一羽のコアジサシが水面上ほとんど橋と同じ高さの空間を飛んでいるのを直ぐ近くから見た。絶えず、長い翼は動かしているのだが空間の同じ一点からそれることはなく、風にむかって前後左右上下に揺れながら浮いているのである。頭は黒、背面と翼は蒼みがかった真珠色、下面と長い燕尾形の尾とは純白で、蜜柑色の脚と黄いろい嘴とを持っている。チドリを少し大きくしたほどの其のほっそりとした軽快で優美なコアジサシが、嘴を直角に下に向け、水面近く泳いで来る小魚を看視しながら飛んでいるのである。私たちが暫くじっと見ている間に、彼は両翼をつぼめて二三回垂直に水に突込んで行ったが獲物は無かった。しかし其の度にすぐに舞上っては、また空間の一点で翼動をつづけながら次の機会を狙っているのであった。
 河原の上を何か白い鳥が飛んでいると見えたのは、近づいて見ればコチドリではなくて此のコアジサシの群れだった。ざっと見積もって三十羽ばかり。それが夕暮の池の上の一群の燕のように、緑の多摩丘陵や青い大空を背景に、午後の日を浴びて白い長い翼を金色の鎌のように輝かせ、右に左に飛び違ったり、地上から立ったり、地上へ下りたりしている。おそらくはコアジサシの、其処がコロニーだったのである。
 私たちは其のコロニーの中心と思われるあたりまでこそこそと歩いて行って、小高くなった砂地の蔭、一むら茂った禾本科の草の中へ腰を下ろした。そしてもうじっと身を動かさなかった。妻は勿論、私にとっても、こういうコロニーは初めてだった。
 コアジサシはどれかしら始終われわれの頭の上か其の近くを通過する。そのたびに必ずすこしかすれた声で叱りつけるように「クエイ・クエイ」と鳴く。そして人が両手でオールを漕ぐように、肩で風を切って流れるように飛んで行く。銀色に光る小さい魚をくわえている時もある。手ぶらの時もある。もう雛がいるのかなと私は思う。レンズに日が当って彼らを驚かさないように気をつけながら、雙眼鏡で周囲を見まわす。しかし坐ったままできるだけ体を低くしているのだから、こんな水平に近い視線では巣が有っても見えはしない。
 営巣地の中心にいた筈なのに、どうも少しずつ場末になって来るような気が其の内にして来た。あたりが寂びれて来たのである。どうやら鳥たちはわれわれを忌避して下流の方へ移動して行くらしい。してみると未だ巣は始めていないのかも知れない。しかし餌をくわえて地上へ下りる鳥のあるところをみると、必ずしもそうとは言えなかった。
 其の時一羽のコアジサシが、例の「クエイ・クエイ」を叫びながら私たちのそばを飛んで行った。見れば小魚らしい物をくわえている。それが三十メートルばかり向こうの石の所へ下りた。早速雙眼鏡を向けると其処には別の一羽がたたずんでいる。雛ではなくて立派な成鳥である。私はそれを雌だろうと想像した。そして下り立った雄らしい鳥の求愛動作を期待した。
 長い両翼を白帆のように高くかかげて軽く地上へ下り立った雄は、その翼を今度は垂らすように拡げて身をそらし、頭を誇らしく高く上げた。斜めに空を指したその黄色い嘴には一匹の魚が銀の小旗のようにきらめいている。雌はこれも翼を垂らしてぶるぶると顫わせながら、低く身を沈めて嘴を上げる。不倫なたとえのようではあるが、雄は詔書を高く捧げて授ける者のように見え、雌は鞠躬如としてこれを押し戴く者の如くである。やがて雄はぽとりと小魚を落とす。それをすかさず落下の途中で雌が受ける。実に驚くべき見ものである。
 私たちはその現場に巣が有りはしないかと思って近づいて行ったが、二羽の鳥の飛び去つた後には何もなく、砂をくぼめた痕跡すらなかった。それではあれが即ち彼らの求愛の動作だったのだろうと思った。
 そう思って見ると向こうのコロニーの所々にコアジサシがいて、それが何れもちょっとした石の陰に人待ち顔にたたずんでいる。やはり其処でも一組ごとにあの不思議な儀式が行われるのであろう。
 私たちは此の思わぬ見ものに満足し、堤防を上がって中河原の停車場へと静かな田舎道を歩いて行った。堤防には一と所もう薄い黄色いマツヨイグサが咲いていた。私たちは木暮先生を機縁とした楽しい今日の思い出に、その早咲きの二茎三茎を手折って花束にした。

 

 

 

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 大平原

 有島武郎訳の「草の葉」の巻末にある「ワルト・ホイットマン年譜」を見ると、一八七九年(六十歳)の項は「紐育に行き、リンカーンの追悼講演をなし得る位健康を回復した」というだけの事になっているが、実はこの一八七九年という年は、ホイットマンの詩人経歴の中でも特筆大書に価する意義を持った年だったのである。すなわち「健康の回復」も回復だが、その四月十四日の記念講演のためのニューヨーク訪問や、それに続くハドスン河畔ウェスト・パークにおける親友ジョーン・バーロウズの荘園での、ひとつひとつが珠玉のような手記の断片となって残っている東部の春のさまざまな牧歌的体験のほかに、彼多年の宿望であった合衆国西部諸州への大旅行という、すばらしく実り豊かな三箇月を含んでいるのである。
 六十歳のホイットマン。彼自身の歌にもあるあのカリフォルニアのアメリカ杉の大木のように、その「草の葉」はすでに四分の一世紀を繁茂に繁茂をかさねて鬱蒼としていた。「世界への挨拶」、「印度への旅」、「大道の歌」。彼はわずかにニューヨークとニュージャージーとペンシルヴァニアぐらいの東部の一角を生きながら、その想像と詩の翼はほとんど世界全土と全民衆とを蔽うていた。しかし、母なる大地に触れるとき初めて無敵の力をとりもどすあのアンテウスのように、彼もまたその多年の夢想のうちに遍歴した半ば無際涯の地のひろがりを、金と青との大気の下に横たわる「西部」を、今度こそほんとうに其の肉体の足で踏み、眼で抱きしめ、いくたびか讃美したその強壮な民衆に直接し、新世界の未知の広袤と無限の富と、その驚くべき多様性と統一の姿とに直面しなければならなかった。

  東から吹き、西から吹き、
  東の海から吹き、西の海から吹起って、
  大平原の上で合する海の風。

ああ、インディアナ、イリノイズ、ミズアリ、カンサス……延長実に二干哩に垂んとする此の大平原地方を身をもって経験することは、「草の葉」の詩人にとって正に最も男らしい郷愁でなければならなかったであろう。
 そよそよと秋風の吹く九月なかばの或る夜九時すぎ、ホイットマンは西フィラデルフィアを出発した。強力なボールドウィンに牽引されてハリスバーグ、コランバス、インディアナポリスと、まるで諸州の星座の一等星のように散在する幾多の都会を最大速力で縫いつらねながら、旋風のように疾走する大陸横断の急行列車。しかも贅沢な宮殿のような寝台車によこたわったまま、「魔術のように繋ぎ合された距離」を急走することはなんという凄まじくも不思議な快感だったろう! ホイットマンは此の生れて初めての経験にすっかり陶酔し有頂天になって、あの大歌劇と戦艦とに人類と芸術との進歩成長の典型を見た前代のフランス哲学者ヴォルテールに対して、このアメリカ的豪華寝台車の素晴らしさを誇らずにはいられなかったほどである。
 セント・ルイズには一晩泊っただけで真直ぐに西へ急いだ。美しい初秋の日を、目ざすカンサス市シテイまで東から西へとミズアリ州を横ぎりながら、二百哩に亘って展開するその田園の風光を心から嘆賞した。気候、土壌、位置、麦、牧草、鉱産物、鉄道、その他あらゆる重要な物質上の点で、此の州が合衆国の前列に立つべきものだということは明らかだと思った。農家はたくさん煙草を作っていた。それで折から薄い灰緑色の大きな葉をどっさりと枠や棒の上へ引張ってぶら下げて干してあるのが見えた。いつもながらのホイットマン。その観察はいかにも身があって風味がよくて即物的ザハリッヒだ。
 カンサス州東端の二つの町ローレンスとトピーカでは、いろいろな社会的職業的地位の友人に歓待された。大きくて繁華で半ば田園風な美しいこれらの都市が彼の気に入った。このトピーカでは一万五千か二万人の集会の席上で自作の詩の朗読の代りに短い演説をすることにしてあったのに、ローレンス市の友人ウッシャー判事の家での楽しい談話や晩餐にうっかり時を過ごして、とうとう顔を出しそこねてしまった。しかし此の演説の原稿はそのまま残っているが、実に素晴らしい。其の中で彼はこんな事を言っている  
「此の私の初めての本当の西部諸州訪問の道すがら、私の見る、もしくは見たすべての外界の風物のうち、平原というものが一番私を感動させた。私は此処まで一千哩以上、麗わしいオハイオ州を通り、パンを出すインディアナ州とイリノイズ州とを通り、何でも持っていて何でも作り出す豊饒なミズアリ州を通って急行して来て、この最近二日間、君たちの愛らしい町を一部見物して廻って、さて、大学のそばのオレッド・ヒルの上に立って、あらゆる方角にひろがる生きた緑の茫々とした風景を展望した。私はやはり一番此の平原に動かされた、-―そうです、そして又今後一生涯いちばん感動したものとなっているに違いない。あの君たちの西部中央地域の地勢上の姿にである。あの宏大な「或る物」にである。無際限な尺度でひろがっているあの無拘束な或る物は、此の平原の中にあって現実と理想とを結び合せ、夢のように美しい……」云々。
 ホイットマンはトピーカを辞すると、カンサス州六百哩の平原を横断してコロラド州のデンヴァーに着き、其処を此の旅行の終点とした。このロッキー山脈の麓の都会に彼は最初から「惚れこんで」しまった。そして長くいればいるほど此の感情が確実になった。デンヴァー! 其処に住む男たちこそ先ず第一に気に入った。そのほとんどすべてが腕がよくて、物静かで、よく気がついて、真のアメリカ人だった。それから市そのものが実にいい。繁華で、近代的で、しかも西部独特な粗野な荒っぽさを持った都会。平原と高山との境に立つ女王であり、海抜五千呎フィート以上の高度にあってあらゆる街路を水晶を溶いたような山の泉が流れ、東は一千哩にわたって平原を見渡し、西は紫の靄に包まれた無数の山頂を眺めて、甘美な比類ない雰囲気のなかに坐っている。九月下旬の午後の薄靄のかかった此の市に入って其の空気を呼吸し、夜は熟睡し、のんきに歩き廻ったり馬車を乗り廻したり、又はホテルで出入りの人々を見たりしながら、不思議に人を惹きつける此の土地の風土的磁力を吸収していると、ワルト・ホイットマンには抑え難い恋慕の情が湧き上って、それが忽ち実に決然とした強いものになるのであった。「私の老いて死なんとする月日を此処で送りたいとさえ思う」と彼は書いているが、是はもちろん文飾でも感傷でもなく、確かに本音だったに相違ない。
 コロラドの峡谷とロッキー山脈の偉観にも彼は腹の底から感動した。それはかつて彼の経験したことのない全く新しい感覚、全く新しい歓喜だった。一切は描写の筆を蹂躙した。「頭上の透きとおった秋の空の下に、あの聳え立つ岩、岩、岩。何とでも言え、代表的ロッキー山のカニョンは、もしくは広大なカンサス又はコロラド平原の無際涯の海のような広がりは、人間精神におけるあの最も偉大な又最も霊妙な根本諸情緒と照応し、おそらくはそれを表現する。これはフィディアスからトルワルドセンに至る一切の大理石の殿堂と彫刻と、一切の絵画と詩歌と追想録との、もしくは音楽でさえ、おそらく到底なし得ない所のものである。」
 彼は海抜一万呎のキノーシャの山頂へ立った。秋の日の午後、この洪大な高みからサウスパークの盆地が五十哩を展開する。あらゆる種類の遠近、あらゆる色調の見晴らしに並んだ山岳の連鎖と峯々とが、この風景を囲んで、或いは近く、或いは中程に、或いは遠くかすかに隔たって地平線中に没し去っていた。空気の効果は素晴らしく、平原と山とパークとは、彼に全然新しい明暗の知識を授けたように思われた。到るところに見る空気のぼかしと天空の効果とは真似もできず、こんな遠近とこんな透明なライラック色と灰色とは、何処にも無いと彼は思った。
 しかし実際を言えばこれらの感銘といい、陶酔といい、その自然の偉観に決してワルト・ホイットマンが押漬された訳ではなかった。それはむしろ彼本来の要素の具象的な実現であり、「草の葉」を貫く根本的パトスの「自然」における実証に外ならなかった。彼は「自分自身の詩の法則を見つけた」と言っているが、今度の西部旅行で発見した「凄いけれども愉快な放縦な自然力のまっただなか」、この材料の有りあまること、芸術の全く無いこと、原始的自然の縦横無礙に働いていること、万事大まかな手法とそしていじけた跡のまるで無いこと――すべてこういう概念は、そのまま「草の葉」に当て嵌まるものではないだろうか。
 彼は充分に摂るものを摂り、見るものを見て、ニイチェにおけるエンガーディン以上のデンヴァーを後にした。そして南方のプエブロまで百二十哩。その間左側に豊かに広がる平原を見渡し、諸所に家畜の囲いを見、サボテンや野生のサルヴィアの群落をながめ、草をはむ牧牛の群を楽しみながら、やがてプエブロから設備のいいアチソン・トピーカ・エンド・サンタフェ鉄道の客となって東方へ向った。実はイェローストーン河流域を見て、わけても其処の国立公園へ行きたかったが果さなかった。ヴィータ・パスも越えてみたかったし、ニューメキシコヘも行って見たかったが割愛した。
 しかしアーカンサス河流域の大平原には心を打たれた。それは遥かだとか大きいとか、「広大」だとか、そんな有りきたりの言葉の通用する眺めではなかった。そしてこれらの大平野や大草原の真似も出来ないアメリカ的平坦面が、いつか全く西部的で、新鮮で、無制限で申しぶんのない詩の、もしくは他の審美的製作の、ランビキの中に溶け込む時が来るだろうという夢想――何から何までアメリカ人自身のもので、ヨーロッパの土地や記憶や、技巧的文学や精神の痕跡も味もないような芸術が生れるだろうという、むしろ確信こそ、結局この三箇月にわたる彼の西部旅行のもたらした結論であったと言ってもいいかも知れぬ。

 

 

 

 

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