雲と草原


   ※ルビは「語の小さな文字」で、傍点は「アンダーライン」で表現しています(満嶋)。

                                    

美ガ原

秋山川上流の冬の旅

戸隠と妙高

須 走

灰のクリスマス

神流川紀行

一 日

羽族の思い出

鴉とつばな

初心時代

蝶の標本とヘルマン・ヘッセ

雲を見る

初めに驚きありき

ノルウエイ・バンド

こころ

橡の実

信濃乙女

べにばないちご

遠い国での話

或る朝のおもい

雲の中で刈った草

春 

少女の日

 

                                     

 

 美ガ原 うつくしがはら

 夜明け前に爽やかな驟雨があったらしく、松本平の空の中ほどには、雨雲の名残りがいくつか、泉水をおよぐ鯉の群のように浮かんでいる。その背景をなす山々の関係的な高度から推して、乱雲というものの高さの観念がほぼ明瞭になる。驟雨のあとの五月の朝、彼ら空の種族は、この盆地の人生に一層親しく繋がっているように見える。そしてそれを列車の窓から眺めている私の方が、かえって偶然の他国者よそものたる身分をはっきりと意識させられる。
 午前六時いくらという早い時間に、かくも多くの通学の女生徒を見るのは何の故だろう。項うなじの左右で振分けて結んだ短い髪、制服のジャンパア。妙齢というには未だ間のある、むしろ青い桃の実のように固い、健康な少女の野性の香を臆面もなく車内にまきちらしながら、いずれも膝の上に教科書や筆記帳をひろげて、地理、博物、英語、数学などの学科を、賑かに暗誦したり黙々と復習したりしている。おもうにこの子たちは今日試験を持っているのである。それで学校のはじまる前、なお一時間なにがしの試験勉強をかせぎ出すために、申し合せたように早出して来たのであろう。
 右手の窓には朝日にけぶる雲の金髪をもやもやさせた美ガ原熔岩台地、左の窓にはおびただしい残雪を朝暾ちようどんに染めた北アルプスの連峯とその前山、そして雨後の田園を疾走する車の中では、四拍子の轣轆れきろくを圧してこれら制服の信濃乙女の朝の連禱リタニー……

 午前七時、しっとりと湿った松本駅の前の広場、私を乗せた入山辺行の始発バスの運転手台に、若い女車掌が今朝切りたてのヒヤシンスを挿した。一本は紫、もう一本は珊瑚いろ。この山の都会の朝の空気にふさわしく清純で、陶器のような冷めたさを持った美しい花である。
 同時にそれは、今日彼らの美ガ原をたった一人で訪れる私へのもっとも優しい春の朝の挨拶でもあった。
 バスは町なかを目まぐるしいくらい幾度も直角に曲って地図と実景とを対照している私をまごつかせながら、やがて市の東の郊外へ出た。薄川すすきがわ流域の田園を紅にいろどるレンゲソウ、遠近のみずみずしい新緑。もう営巣を始めたツバメやイワツバメが、頻りなしに道路の上を翻ったり人家の軒下へ流れ込んだりする。
 市中の小学校へ通う田舎の子供の群に幾つも出会う。彼らのうちで詰襟の洋服を着ている者は、そのズボンが大人のように長い。これは寒気の強い信州の田舎では常にみるところだが、その服がいつもひどく古びて垢じみているので、何となく小さい工場労働者のように見えるのも是非がない。かつてシュヴァルツヴァルト地方の風俗写真を見たことがある。その中でハスラハという町の小学生たちがやはり半ズボンならぬ長ズボンを穿いて、鍔の広いフェルト帽をかぶり、カラアに蝶ネクタイ、蝙蝠傘を小脇にかかえたいでたちが、まるで小さい田舎紳士であった。それはいいが足はおおむね跣はだしで、むきだしの踝くるぶしが哀れであった。しかしここではさすがに跣ということはなく、ともかくも一度は運動靴であったと云うことのできる一種の履物を履いている。
 山が左右から迫って来る。打開けた田園がだんだん先ぼそりになる。川の右岸を行く道が次第に高くなる。袴越と出峰山との間、ちらほらと山桜の白い薄川の谷奥に、王ガ鼻から茶臼へつづく高原南端の雄大な懸崖が、星を鍛える巨大な鉄砧かなとこの縁かとばかり、大空を横一文字にかぎっている。

 大手橋で下車。松本から二十五分である。深い沢の落口にかかった橋の袂で身支度をととのえる。崖には一面にしだれ咲く山吹の花、路傍には白いオドリコソウ。運転手は私が与えた一本の金口を大切そうにポケットヘ収めて、代りに常用のバットに火をつけた。車掌は腰に両手をあてて新緑の山に見入りながら、春や風景についていくらか詩的なことを彼に言う。そして運転手は「うん、うん」とうなずきながら、長閑に煙草をふかしている。
 眼の前に立つ二三本のサワグルミ。若葉と一緒に伸びたその薄黄いろの■荑花しゅういかを今日の山路の最初の合図として喜びながら、やがて自動車の彼らと別れる。 [編者註:■は"茅"の下に"木"を添えた字]
 バスは一声高く笛を鳴らして元来た道を帰って行く。私は橋をわたって反対に坂道をのぼる。朝の歩き出しの靴の軽さ。そよ吹く風の無言歌のような深さ、柔かさ。心はおもむろに所有の歌に満たされる。

 麗らかな日光を斜めに浴びた三反田、部落の広場に「中入堰趾」と書いた標柱が立っている。道が二叉に岐れる。正面のものを入山辺・扉鉱泉への道と推測して、左へ敷石道をあがって行く。
 ふりかえれば松本平にただよう霞の上に春まだ浅い雪の常念、蝶ガ岳。前景の農家の屋根で黄鶺鴒がチリチリ鳴いている。其処に立つ一本の山桜は山村の五月柱メイポウルと云っていい。あまりに美しい春を一人行く心よ! 私は行を共にして敢えて悔いざる友の名を指折り思う……

 村を出はずれると漸く山道らしくなった。ホウムスパンの上着がいかにも暑い。脱いでルックサックヘ押し込んで、シャツとチョッキで行く。片側を細い水がちょろちょろ流れているが木立は無い。ひたすらに三城牧場の涼しい樹蔭が慕われる。
 山の畠へ仕事に行くのだろうか、飲み水を詰めた一升壜を下げて鍬をかついだ女が行く。四つか五つになる女の児が、遅れ勝ちによちよちしながら付いて行く。何か知らぬが路端のいろいろな細かい物が彼女の注意を引くらしく、時々しゃがみこんで指先でほじったり調べたりして、道草を食っては先へ行く母親に呼ばれている。
 自分も食べていたのでその子にネーヴルを一つ遣る。初めはびっくりして泣出しそうであったが、別に害意も無いと分るや、小さく両手の平をくぼませてその果物をうけとった。母親の知らぬ間の、二人だけの秘密の交渉である。
 それにしても南北を山にふさがれた道のこの蒸れるような暑さ! 鶯が無数に鳴いている。蟬の斉唱は炎熱の夏の凱歌だが、余りに多い鶯の歌は晩春の温気をいやが上にも重たくする。
 沢が二つに分れる。正面の沢の奥には、青ぞらを抜いて、大洋航海船の高い舳へさきのような王ガ鼻の一角がそばだっている。武石への山道がほそぼそと左の切畑へ消えて行く。五月の日射は其処に溜まり、自然は森閑、せせらぐ水に近く木を連びだす男が二三人、春の日永をのんびり働いている。傍には老人が一人、横たわった材木に腰をかけて煙草を吸いながら、仕事をする連中と何かぽつりぽつり話している。

 あれから半道あまり進んだ。落葉松からまつの植林に沿って行く蔭の多い道だった。今やそのつぶつぶの新芽を綻ばせた落葉松は、淡褐色の枝に緑の霧を吹きつけたように見える。
 林間疎開地をおもわせる打開けたところ、王ガ鼻と三城牧場への分岐路を示す標柱。石切場が近いか、あたりに散乱する石の破片、腰を下すとその温ぬくみの伝わって来る日に晒された熱い岩。たえず眼の前を飛び廻りながら、時々じっと眩ゆい路上に翼をやすめる孔雀蝶。ステッキに捕蟲網を取りつけて二羽を捕獲する。
 松本の入らしい登山者が二人、足早に通り抜けて王ガ鼻への道を行った。私はゆっくり遊んでから、右へ、三城牧場への道をとった。道はすぐに登りになる。この尾根ひとつで牧場へ入ることができるらしい。途中、右手に谷がひらけて、落葉松の梢の上に残雪の北アルプスが美しかった。カメラを出してその眺めを撮影していると、また一人、今度は大きなルックサックを背負った若い人が登って来て、挨拶しながら通り過ぎた。

 顔にながれる汗を拭きふき登って行く。やがて尾根通りへ出る。左へすこし登ると峠のような草原の小平地、木立が涼しい蔭をつくっている。其処へ行って涼みながら一息入れようと思ったらもう先客が一人いた。今しがた遭った大きいルックサックの人だった。挨拶をして草の上へ腰をおろす。
 ここは南の眺望が晴れやかに開けて、自然が、壮大というよりもむしろその愛らしい一面を見せている。眼の前には熔岩丘のような観峰の大きなかたまりが浅緑に萌えて風景の中心になり、その下には大門沢の水の流れる草原がのびのびと拡がっている。そして観峰のうしろを、鉢伏、宮入とつづく美しい平頂の丘陵がぐるりとめぐって、この風景の牧歌的な性格にますます有力な寄与をなしている。夜上りの今日の快晴がさかんな上昇気流をつくっているのか、諏訪盆地の方角の空には、ぽかりぽかりと気球のような積雲の浮游。その雲の白さ、空の青さ、柔かな山々の線と地膚の色のあたたかさ。ぼんやり眺めて時の移るのも忘れそうだ。
 私と並んでこの風景に眼を憩わせ心を遊ばせている青年は、松本の家具屋さんでM君といった。今日はお天気がいいから穂刈三寿雄さんの組立カメラを借りて来て、これから牧場と美ガ原とを写しに行くのだと云う。それでは丁度いいから一緒に行きましょうということになって腰を上げた。
 佳いお天気と、穂刈さんの組立カメラと、春の山。私にとってはそれだけで充分詩だった。「これがその写真機です」と云いながら、M君は横ひろがりに嵩ばったルックサックを撫でて見せた。

 これまでに幾度か人の書いたもので読みながら、さまざまに想像していた三城牧場。これがあれか? なるほどと思えば思えるし、違うと云えば云えもする。読むことがむずかしいように、書くこともまたむずかしいものだと思った。
 牧柵を越えて中へ入ると、大きな岩の散乱するあたりに一本の棠梨ずみらしい老木がある。未だ花は咲いていないが、四方へ張った大枝小枝が地面の上へ複雑な影を落としている。先ず其処へ行ってルックサックを下ろして、何はともあれ撮影にとりかかる。
 M君はと見れば、彼もまた向うで早速始めていた。三方へ踏んばった木製の大三脚が機関銃の台座のように見える。
 最初放牧の牛が六七頭いたが、私たちが入り込んで来るのを見るやのそりと立ち上って歩き出し、今では二頭になってしまった。この二頭にまで逃げ出されてはどうも牧場の絵にはなりにくかろうと、それで直ぐに用意に掛った訳だった。
 正面奥にはあの百曲りの急坂を見せた美ガ原南東の懸崖、つづいて右に茶臼山西尾根の厖大な一角、中景は丘陵性の台地の起伏と落葉松林、前景には散乱する安山岩の自然の布置と二頭の牛。これが私の構図だった。
 ともかくもこうして撮影を済ますと、パイプを啣くわえて私はこの牧場をもう一度見直した。
 これは三方を馬蹄型に山でかこまれた谷合緩斜地の牧場である。その中を薄川の一支流が二本の沢となって貫流して、この両者の間を落葉松や躑躅の類の密生した氷河堆石のような丘陵状の尾根が走っている。それがため全景は長軸の方向に沿って幾つかに分たれて、牧場そのものの印象は、一見ひどく奥まった、細長い且つ狭いものに見える。
 東信牧場や蓼科牧場はむしろ凸面の牧場の美に属するが、この三城牧場の良さは正に凹面の牧場のそれだと云える。彼処で遠山の翠微が牛たちの円つぶらな瞳にうつるとすれば、此処では暮靄の底に彼らの夕べの声が消え入るであろう!
 むこうでは小屋が真昼の薄青い煙を上げている。時計を見ると十二時に近い。私は小さい流れで手を洗うと、今やスイスの何処かのアルプヘでも来た気になって、弁当をつかうためにその小屋の方へ大股に歩いて行った。

 私のように小屋へ入り込んでお茶などは貰わずに、美しい風景を眼の前に水で弁当をつかったらしいM君が、向うの路のへりへ腰をかけてちゃんと私を待っている。たとえ偶然の道連れとはいえ、美ガ原まで一緒にと契ったものを、なぜ外で肩を並べて食おうとしなかったのであろう。どうして其処へ気が付かなかったのだろう。およそこんな心遣いを、人間極めて当然なこととして、常々幼い者などにも言い聞かせている自分なのに。
 私は恥じた。同時に、その人に対して、今までよりも一層の関心を持つようになった。
 私たちは小屋の横手のちょっとした高みを越え、沢を下りて水を渡り、向側の丘陵を横断して百曲りの方へ進んで行った。
 山の牧場というものは離れて見た眼には歩くに楽しい草原として映るが、さて実際にその場に足を踏み入れてみると案外歩きづらいものである。ふっくらした面、のびやかな線の流れのように見えたものが思いの外でこぼこで、その上何か非常に大きな海綿でも踏んで行くように足に確かな応えが無いために、長くつづけば膝頭ががくがくしてくる。
 私たちの横断した緩やかな丘陵がやはりその例に洩れなかった。それはまるでかさかさに乾いた浮洲だった。かてて加えて真昼間の太陽は苦しいまでにいきれを立たせ、灰のような軽い土は靴を覆って、汗ばんだ手の甲にまで真黒にこびりついた。
 しかしもう後一週間たった頃の美しさをどんなだろうと想わせる蓮華躑躅はこの牧場に一面だった。また暑さと苦しさとに対する報償として、清らかな声で鳴く小鳥もあった。その上私にとっての最大の仕合せは、求めても容易には得難いような、実に一箇の「見つけ物デクウヴェルト」とも言い得るような、実意に満ちた、感じばやい、優しい心の道連れを偶然にも持ったことだった。もしもこの人との遭遇がなかったならば、私はこの暑さと、この歩行の苦しさとに辞易して、或いは牧場小屋に泊ることの易きについたかも知れなかったのである。

 遂に苦しみが去って楽しみが来た。
 不安定なぽか土が終って確乎とした岩の道が始まった。
 沢が現れ、水が潺湲せんかんと流れている。岸の岩の間には到るところコキンバイの花が黄金いろに咲き、日光に照りかがやき、跳ね躍る水のいきおいに顫えている。
 私たちは当然のことのように静かに其処ヘルックサックを下ろした。そしてお互いに少しやつれの見える和やかな顔を見合せた。この瞬間「友」という言葉がこの若い道連れに対する実にはっきりした観念となって私を襲った。私はその言葉を咀嚼してみた。間違ってはいなかった。齟齬するものは何ひとつ無かった。その友は膝の上へ両手の指を組合せて、練絹のように捩れて伸びる水の流れを身うごきもせず見つめている。
 私は黄金いろに花咲くコキンバイの二株三株を家苞いえづととして採集した。すると友は何時の間にか腰を上げて、私の採ったよりももっと立派なのを採って来て呉れた。彼はまた一種の董も探し出して呉れた。それは私の全く知らない種類だった。
 沢を過ぎれば今度は小さい草原だった。一つの楽しみの後へまた別の楽しみが続くのだ。花の次には蝶だった。
 私は其処でギフチョウの飛んでいるのを見た。ギフチョウは六年ばかり前に石老山でたった二羽を採集したきりである。しかもそれは鱗粉もはげて哀れな姿のものだった。ところが今見たギフチョウは、飛んでいてさえ黒と黄との色彩を鮮明に識別することができるほどに新らしい。私の胸は躍った。私はすぐさま捕蟲網を取り出した。そして散々追廻した末にとうとう捕えた。しかも私の喜びを狂喜にまで押上げるかのように、手の内のそれは紛れもないヒメギフチョウだった。ヒメギフチョウは私にとっては初めてである。
 この活劇を見ているうちにM君もたまらなくなったらしく、私から網を受けとると一羽のキベリタテハを追いはじめた。しかし蝶の狩猟にも幾らかのこつはあると見えて、かつて八ガ岳で私の義弟を散々なやましたキベリタテハは、私のこの新らしい初心者の手ごつちには終えなかった。
M君はとうとう断念した。
「どうもむずかしいものですな」
 そう云いながら彼は私に網を渡した。
 右は陣ガ坂、左は百曲りへの分岐点だった。

 こんな道草を食いながら、いったい今を何時だと思う。午後一時半を過ぎている。そしてお前は美ガ原から抑も何処へ行こうと云うのだ。上和田へ。
 しかも私は百曲りの登りがどんなに苦しいか、また美ガ原から上和田への道がどれほど長いか、みんな本で読んで知っている。ただ知らないのは自分の実地の体験だ。
 私は心中でこんな問答をした瞬間、冷水を浴びたように身ぶるいを感じた。
 その百曲りが眼前に長い急坂を懸けている。頂上の熔岩の崖はまたその上で砦のように聳えている。しかも雲。北西の天から広々と流れ出しているのは米の磨水とぎみずのような巻層雲。ああ、急がなくてはならない! 行かなくては!
 その急な長い登りを若い友の後から私は行く。諦めた人のように。追上げられる者のように。
 百曲りは、謂わば美ガ原の熔岩がその節理にしたがって薄板のように剥落して作った崖錐面に、幾曲折の電光形を描いて付けられた登路だと言えよう。したがってそのガラガラの程度は上へ行くほど烈しく、樹木の生えているのは下から中腹あたりまでか、或いは上の方でも斜面が一部棚状を呈して、比較的地盤の安定が保たれている個所であるように見えた。
 一曲り行つては息をつき、三曲り行っては振返ることに密かにきめてじりじり登つた。振返るたびに槍、穂高、乗鞍、御嶽などがせり上った。乗鞍頂上に拡がった雪の、氷河のように青白く光るのが妙に心を重くした。
 時のたつにつれて巻層雲の領域はますます広範囲になって来た。太陽はその光が次第に水っぽくなって、痣あざのような色の傷ましい大きな暈をさした。
 今朝牧場下の分れ道で見かけた王ガ鼻口からの二人の登山者が、身を翻して飛ぶように下山して行った。その身分が今はひどく羨ましかった。ああ降りの嬉しさよ! 私は不図今夜の和田の泊りを空想したが、それまでの前途を思うと忽ち心は暗くなった。
 しかし何事にも終りは有るように、この辛い百曲りの登りもやがて終って、とうとう美ガ原の上へ私は立った。最後の曲りの処で一足先へ行つて貰った松本のM君は、原の奥の方を見に行ったのか、もう何処にも姿が無かった。
 私は枯草の上へどっかりと坐り込んで一時間ぶりにパイプをくゆらした。突然瘧おこりが落ちたように、一時に重荷が下りたように、気も軽々、身は万遍なく自由自在になって、何だかひとりでに微笑まれた。
「来てよかったな! 来てよかったな!」
 そんな言薬を心は歌に歌っていた。
 それから疲れが恢復すると慌てて写真機を取出して、先ず原の西端の断崖を槍と穂高を入れて写し、次に一人で記念撮影をした。それが済むと今度は空身からみで歩き廻った。三時に会って別れましょうと、M君と約束したその三時まで。
 M君からの最近のたより――
「先日は御転居の御通知を下さいまして誠に有難う御座いました。御無沙汰をいたして申しわけ御座いません。其後お変りもなくお暮しの事と存じます。下って私も変りなく暮しております故他事ながら御安心下さい。
 松本も大変に暖くなってまいりました。憎い程の寒さからのがれて、又暖い春の日をむかえる今日此頃は、遠く忘れかけていた山々のことが想い浮べられます。古い写真機でも持出して行きたいような美しく晴れた日が毎日続きます。
 アルプスの山の麓は雪がまばらですが、峯へ行くにつれて真白です。今日は曇って見えませんが、吹雪になっている事でしょう。美ガ原方面の山にも下の方にはもう雪がありませんが、峯には何処も雪があります。
 こんな事を書いております間にも昨年の山中での思い出が浮んでまいります。其時に苦しかった事も、月日が立って思い出となった時は、ほんとうに楽しくも亦なつかしいものです。私共はいつも山を見なれているせいか、いつでも山へ行けるという考えでおりますものですから大して行きたいとも思っておりませんが、それでも、たまには登って見たいなあと思う時には、たまらなく山へのあこがれが体にみなぎって参ります。
 山でも一日か二日がかりで行けるような緑の山が好きです。
 皆様へよろしくお願いいたします。時節柄御身御大切になさるよう御願いいたします」
 M君への返しに書斎での写真に添えて――
「懐かしいおたよりを嬉しく拝見しました。まためぐって来た清明の季節に、松本の自然を生返らせる早春の光や色や、さては活気づく人々の心のさま、さこそと遥かに推察されます。
 自分の仕事そのものさえ、或る無形の威迫を受けているように思われたあの事件(註、二・二六事件)からの魂の悩み、心の動揺が漸く鎮まると、折からの転居を機会に、また新らしく盛返した信念にしたがって、前よりも一層確乎として毎日の仕事にいそしんでいます。
 自然は僕にとっては自分の芸術の生みの母です。僕は母を尊敬し、愛し、この母に依り頼み、それに聴き、そして永遠の赤児のように彼女に縋って、その豊かな胸から絶えず飲みます。僕を人間たらしめる「人間の汁液」は、彼女の乳房からマナのように降りそそぎ、流れます。これこそ創造の尽きる時なき泉です。
 そしてやがて死ぬべき者僕が、仕事を終えて、この世の緑の夏草の中、白い石の下に朽ちる時、不死の者、母なる自然は、その大いなる見えざる指で、宇宙をわたる微風の中に僕の小さな名を書くでしょう。そう信ずることのできた瞬間、僕はこの写真をとりました。あの美ガ原での無上の時間をあなたが思い出すその時々、あなたの記憶の映写幕エクランにこの一人の友の俤が浮んで来るよすがにもなれと念じながら、今これを御手もとに届けます」

 約束の午後三時、私は美ガ原山上でM君と袖を分った。別れのための約束は却って再会の約束を生み、さらに写真の交換の、時々の消息の遣取りの約束を生んだ。また茲にほだしができた。しかしたまたま誰かと覊絆に結ばれることが、なんと私を人間らしくすることだろう!
 私は高原の縁を陣ガ坂の方へ歩いて行った。三城牧場の小屋番に、此方を近いと教えられたからである。空は漠々と雲を増して、太陽の姿はみられなかった。北アルプスもただ俤のように見えて、光のない雪が悲しく白い。風がぼうぼうと吹きわたる。寒さが身にしみて来る。この広大な美ガ原をいま歩いているのは自分一人だという自覚が、或る誇らしい気持と同時に底知れぬ淋しさを私に抱かせた。
 茶枯れた草と風との中に、何か真白な物が横たわっている。その白さは寒水石に似ている。近づいて見たら馬の骸骨だった。私は後をも見ずに足を早めた。
 やがて茶臼山との鞍部の陣ガ坂。雲が薄れて弱々しい日が洩れて来た。正面にとおく聳える蓼科山から、その麓にひろがる一帯の高原。其処には赤々と夕日が流れて、今日の終焉を飾っている。「これだけはどうあっても」と、私は峠の下り口へ三脚を立てた。

 陣ガ坂の降りがこんなに悪いとは予想だもしなかった。
 初め下り口では事態が極めて良好だった。道幅は有るし、障害物もなく、足は降りを喜んで軽くすたすたと下って行った。ところがものの半町も行かないうちに、そろそろコメツガやウラジロモミの倒木が現れて、下へ行くにつれて数も次第に増して来た。それは急な坂道を通せん棒して、くぐるには枝が邪魔になり、跨ぐにしては太い上に高過ぎた。詮方なしに道の片側の小高い笹藪へもぐり込んで、其処で乗越えて、また道へ戻るのだった。しかしこんなことを幾十度と繰返しているうちに、とうとう太い倒木が縦に何十本か重なり合って沢をふさいでいる処へ出た。枝のない丸太ならばその上を歩いて行くという手段もある。人間の腕よりも太い枝を八方に仲ばした何丈というツガやモミが、元末もとすえごっちゃに幾本も重なっているのだから、猿ででもなければ渡れはしない。あたりは暗くなる。空は掻曇って時々パラパラと落として来る。せめて野々入まではどうあっても行かねばならないと、とうとう思いきって靴を脱ぎ、幹を渡り、大枝を跨ぎ越しながら、応接にいとまもないほど先へ先へと現れる倒木群を猿のように飛び移って、七八町の間を一時間あまり費し、漸くこの難関を脱したのだった。

 私はへとへとに疲れた全身を道そのものの傾斜に任せて、落ちるように下りて行った。やがてかなり広い荒涼とした枯草の原へ出た。骨ばかりになった大きな小屋が一二軒立ち腐れていた。また西の方で雲切れがして、夕暮近い金色がかった上空の雲がこの一帯の荒野原に不思議な光を落としている。往手は物見石からの高い尾根でふさがっているように見える。地図によればその直下には野々入川が流れているわけだから、其処まで行けば普通登山者の通るあの木材運搬の木馬道きうまみちに出逢うだろう。そう思って元気を出して歩き出した。
 その草原が終って道が落葉松林の中へ消えこもうとする頃、私は往手に大きな炭俵を二俵背負った一人の男の後姿を発見した。私は大声でその男を呼び止めた。彼は返事の代りに手を上げて合図をして、急ぎ足で行く私を待っていた。私は早速「ルックサックを添荷にしてくれないか」と交渉した。「二貫目ぐらいならば」と云って重味をひいて見て、「四貫はありますね」とちょっと真面目な難色を見せたが、やがて頷いて引受けた。私はほっとした。
「その俵はどのくらいあるの」と訊いたらば、
「一俵九貫です」と答えた。
「君の家は何処」と重ねて訊くと、和田の上の鍛冶足かじあしだということだった。それでは上和田との分岐点の野々入までと約束して、二人並んで歩き出した。
 もう六時に近く、山の日は暮れて空だけが青く明るい。私たちは野々入川に沿って歩いていた。白樺の林がみずみずしく白く、若葉の色が夕暮はわけても冴える。ジュウイチが二三羽絶え入るように嗚いている。山の斜面のところどころに山桜がほのかに白く淋しくはあるが、何か胸迫るような悲しみを帯びた、美しい平和な春の夕べの山道である。
 厭だと断れば断れるものを、私のために唯さえ重い荷の上へこの荷をつけた男に対して、私は感謝を交えた愛を感じる。あの寂寞たる草原で私のルックサックを引受けた時、それが決して儲けずくではなかったことを私は固く信じて疑わぬ者だ。彼の眼が、そして今はまた私にも聴こえる彼の呼吸のせわしさが充分それを物語っている。街道まで背負って行きましょうと云うので、私たちは野々入から鍛冶足への山道を越えたのである。
 もう夜になった鍛冶足、下の方に電燈をちらちらさせた鍛冶足。その火ノ見櫓の下に彼の家はあるのだと云つた。

 その坂道で、私は彼の手に無理に賃金外の感謝の印を握らせると、受取ったルックサックを引担いで街道をすたすたと、今宵上和田の宿、「翠川」を指して歩いて行った。

 目次へ

 

 秋山川上流の冬の旅

 残雪をカリカリ踏んで庭へ出て、午後九時の観測に箱の中の寒暖計をのぞいてみると、ここ荻窪は零下五度、寒さはひどく身に沁むがそよ吹く風もない清明な夜。空気が極度に澄んでいるせいか、上弦の月は庭の西隅の松の梢にこおりつき、天心から南西へかけて牡牛・大犬・馭者・オリオンと、冬の誇りの大星座が、九天の祭の篝火のように遠く燃えている夜だった。
 ラジオの気象通報も関東・瀬戸内・九州地方の晴天を知らせた。高気圧は満洲に、低気圧は北海道網走沖と黄河の下流に。それならば、たとえこの後の者が徐々に東へ進むとしても、ここ二三日の天気はまだ大丈夫と心にきめて、僕は明日の早朝の出発を妻に告げた。
 もっともこのちょっとした旅のことはすでに前から考えていた。中央線鳥沢の駅の南に桂川をへだてて聳える倉嶽山、その倉嶽山と朝日山(赤鞍ガ岳)との間に呱々の声をあげて道志山塊東部の断層谷を東へながれる秋山川、そしてその流域に無生野むしょうの・遠所えんじょ・古福志こふくし・田野入たのいりなどと、遠い山々の襞の中でひっそりと暮らしているような、古く雅びた名をもって点在する彼ら山村への知見の旅。この小さい旅を試みることは、かつて木暮理太郎さんの石老山からの見事な写真によつて喚び起された好奇心を満足させるばかりでなく、この眼で見ることによって地図の片隅に美しい思い出の実体を築き上げ、かつは徒らに数を重ねながらまたもやめぐって来た自分の誕生日をもっとも好もしい仕方でみずから祝うことでもあった。
 それで今度こそは其処へときめてしまうと、僕は天気と暇との旨く一緒になる折をねらっていた。天気のほうは月の二十六日から晴つづきだった。暇は? 暇は無いといえば無いようなものの、都合すれば出来ないこともない位には僕も「自由な時間」という富だけは持っていた。「人がヘンリーのような富み方をしていると、機会さえあれば何か小さな旅に金を使いたいと思うものだ」と、トロオの伝記作者バザルジェットは書いている。そうだ! 「コンコルドは常に驚異の最大の珠玉だ。しかしその広がる先には世界がある。人はその世界でどんなふうに太陽が輝いているかを見たいと願うだろう……西の方の地平線には山々がある。夕方になると、その山々の高みのうしろにあんな火事の反映が見える。落日の国というものは一つの強力なマグネットだ」
 おなじマグネットが僕を引く。水中の鮒のような良い目玉と、何事にも応じ得る柔軟な心、それに幾らかたっしゃなこの両脚。これだけが時間のほかに僕の富だった。

 明ければ二月一日午前八時三十分、鳥沢駅の南東数町、桂川左岸の段丘上で、雪の桑畠をわたって来る漫々ときよらかな朝の風。太陽は大地峠おおじとおげのあたりと覚しい空にのぼって、やがて立ちかえる生々の春への確信から、今は冬も露わな郡内の風景の、南面の雪をおもむろに暖めている。心は、眼は、性急にも今年最初の董を地にさがす。しかしそのゆかりの色はまだ大空の奥にある。翡翠かわせみの羽根よりも碧い桂川は鳥沢の東でひとうねり大きく曲流メアンダーするが、それからまた上手へ捲きもどして、今度はこの段丘と、其処に少篠おしのや下畑の小部落が寒い朝のけむりを上げている対岸の段丘との間に、深い峡谷をうがって流れている。しかしその峡谷の存在は、両岸の段丘面がほとんど同一平面上にあるので、共処まで行って見ないうちは遠くからでは分らない。そしてその対岸の段丘の尽きたところからはいわゆる秋山山脈北側の斜面が起って、深く皺ばんだ山なみはうねうねと東西につらなり、思いのほか円味を持った倉嶽山を正面にはびこらせ、一旦右へ穴路峠あなじとうげの鞍部をたるませて、ふたたび楢山から西へつづく冬枯れの峯々をきさらぎの天風にさらしている。
 靴の下でキチキチ軋む雪をふんで坂を下りると、まるで突然の遭遇のように峡谷へかかった高い釣橋が現れた。ぞろぞろと人の出盛る奥多摩あたりの遊山地ならば知らぬこと、杖曳く人の姿もほとんど皆無なこんな場所で、それよりも遥かに純潔な風景の一部を形づくりながら、ただ静かに虹吹橋にじふきばしと名乗っている橋の名とその調和のとれた単純な様式とは、旅の朝の、しかもたったいま人寰じんかんを後にして来たばかりの僕の心を、咲く花の物言わぬ喜びのようなものでふくらませた。
 僕は橋のまんなかへ突立って見下ろした。釣橋は僕の足のリズムを伝えてしばらくは弾んでいた。左右の崖は高さ六七丈もあろうか、眼下に真青な桂川は所謂穿入曲流インサイズドメアンダーの相を呈して、現に流水の攻撃のはたらいている側では瀞とろをつくって音もなく湛え、反対の谷壁の脚下には狭い積雪の河原をのこして、蒼鷺いろの水際で、その純白な縁縫いがさながらのレイス細工をなしている。
 川は二町ばかり上手で北へ折れ込んでいるが、突当りの右岸には第二次の河岸段丘がこれも雪の畠か水田の雛壇をのせ、さらにその上に第一次の段丘が棚のようにひろがっている。桂川はその境界を流れ、中央線の鉄路はその奥を走っているらしい。しかしこの橋上からの眺めに一層の生彩をあたえるものは黒岳以南の大菩薩連嶺である。鉋でけずったような無間平むげんだいらの嶺線に雪の笹縁とった大蔵高丸、天下石のある峯を肩のように怒らせた破魔射場つづき、すぐに落ちて米背負こめしょいの鞍部、それから滝子山へつらなる大谷ガ丸の東の支脈、いずれも銀の筋彫くっきりと、朝日をうけた山膚は、焼太刀の匂いのようにこまやかである。大蔵高丸を白屋ノ丸へと繋ぐ湯ノ沢峠のたるみは吹切の峯にかくれて見えないが、其処から北へはべっとりと雪を塗りこめた黒岳と雁ガ腹摺との二峯が、磨きあげた鋼鉄の兜のような頭をならべて、この一幅の美々しい絵画に荘厳の趣きをあたえている。
 橋をわたって右へ「く」の字なりの坂を登ると小篠の部落だった。ゆるい傾斜をもって一種のテラスを作っている段丘の上で、北に面した小篠はかさかさに乾いて寒い村だった。古い農家は東西に列をなして、それが段々にならび、その間をほそい道がたてよこに通じていた。部落の中心らしいところを山の貯水池から引いた水が流れている。その水を桶に汲んで、つるつるに氷っ た道を運んでゆく女の姿もわびしかった。
 村を南へ突切って左手に沢を見おろす高みへ出れば、それから先は峠まで一本道だ。その高みへ立って振返ると、ひろびろとした桂川の対岸には一ぱいの日が当り、胡麻粒をならべたような鳥沢の町の上に、雪が消えてほんのり赤い扇山が途方もなく大きい。鳥沢附近は郡内北都留郡の中でも寒い土地のように云われているが、うしろに大きな扇山を背負った山麓の田園は、離れて見ればいかにも長閑に春らしく、あの中腹の空あたり、もう雲雀でも揚ってはいないかと思われるような景色である。扇山の右には鶴川の谷が喰い込んで、その上に三国・生藤・連行の峯々が暖かい栗いろにところどころ雪など光らせ、ずっと右には和田峠の切れ込みを見せて、陣場山がひとり優美な全容を見せている。そのむこうには武州の空が薄みどりだ。
 新らしく貯水池を造るとみえて、堰堤の盛土工事をやっているところで沢を右岸へわたる。此処からはこの沢についてじりじりと三十町ばかり、穴路峠への登りがつづくのだ。左手の山が大きな影をよこたえている寒々とした谷沿いの細道を進むと、峠の方から男が二人炭俵を背負い、長い竹の杖を突いて転がるように下りて来る。この二人の姿を見ると日蔭の寒さが一層冷えびえと感じられた。朝の挨拶を交したついでに何処の者だと訊くと、無生野の者だと云う。峠の雪の様子をたずねると、自分たちの馬がかよっているからもう相当には踏めていると云う。別れて少しばかり行って振返ると、彼らはすでに堰堤の下のほうをとっとと小刻みに駈けていた。
 こういう炭運びの連中には峠までの間に三組ばかり遭った。お爺さんが一俵、お婆さんが二俵という愛想のいい老人夫婦の組もあった。若夫婦が仲よく二俵づつ背負って、賑やかに日当りの坂道を下りて来るのにも出会った。最後には峠の五六町下で一人の女に遭ったが、後からやっぱり炭を背負った子供が来るから、出会ったら早く来るように云って下さいと頼まれた。
「口はきけない子供だけれど、先へ行ったおっかあがそう云ったと云って呉れれば分りやす」ということだった。どんな気の毒な唖の子が、どんな炭俵をかついでこの雪の山坂をとぼとぼやって来るのだろうと、僕はまだ見ぬさきからその子の可憐な姿を想像した。それから余程登って、やがてV字型に仕切られた風景の中に桂川が青いリボンをうねらせ、扇山の左の肩から麻生山あそうやまがあの虎挾みのような三つの岩峯を現わす頃、僕は炭俵を三俵ずっしり背負った二十二三の若者と行き逢った。摺違いに顔を見ると、その顔色は悪く、眼の表情は空虚だった。或る感じが僕の衷を走った。そこで、いつもの早口に気をつけて、小さい者に本を読んで聴かせる時のようにできるだけゆっくりと、大きな声でその若者に云った。
「先へ行ったおっかさんが、早く来いと云っていましたよ」
 そう云いながら、違ったかなと思って様子を見ていると、男は無言で鷹揚にうなずいたが、やがてザックザックと雪を踏んで下りて行った。見下ろせば遥か下のほうの眩ゆい積雪の日当りを、前かがみになって、我精がせいなその「おっかあ」が小さく小さく行くではないか。親子の間の運命的な隔たりをぼんやり考えている僕の眼の前で、黒々と枯れた山漆の枝が、吹き上げて来る谷風にはげしく震えた。
 小篠の貯水池を後にしてからのこの峠道の静かなよさは、僕をして単独行の楽しさを今更のように味わわせるのだった。なるほど二人三人と道連れがあれば、人は或る美の対象を又幾つかの別様の見地から讃嘆することができるに違いない。これが合作の持つ徳だ。しかし世界というこの広大な森林の中に、君独特の歌にあわせて歌う鳥がそもそも幾羽いるだろうか。君の咽喉を思いきり膨らませて、かがやく空間を君の歌で満たしたい時には、だから君も、他人の歌のまじりに来ない隔絶した独りの梢を選ぶだろう。
 最後のジグザグを登りつめて、馬蹄型にかこまれた谷の頭を半分廻ると峠へ出た。ああ穴路峠! 長いあいだ地図の上ばかりで空想していたその峠に、いま僕は立っているのだ。それがどんなに低い、顧みられない峠にせよ、とにかく自分の力でたどりついて、其処の風化土の上に風に捲かれて立つということは、また新らしく僕に加わった何物かである。その場所と、其処からの眺めとは、今日以後確実に僕のものだ。宝なのだ。その宝を点検しよう。
 この峠は別に小篠峠とも呼ばれていて、倉嶽山から楢山への痩せた尾根筋を浅くえぐった、幅一間半長さ約三間ほどの平である。標高わずかに八五〇米内外。地質のことはよく知らないが、左右に露れている岩の様子では、化石を含んだ石灰岩の分布地域ではないかと思われた。東と西とは直ぐに尾根だが、南北に開けた眺望もあまり大きい方ではなく、いま登って来た北側は左右から近景の枝尾根が折れ込んでいるので、僅かに扇形にひらけた空間に、遠く葛野川かつのがわ下流のあかるい田園と、その上に悠然と踏み跨がる雁ガ腹摺を中心に、左は黒岳、右は丸岳から大峰への、がっちりしたブロックを見るだけである。南側はもっと開けて、しかし景色がぐっと迫って、冬の午前の逆光で見る稜角だらけの道志山脈は寧ろ凄惨と云ってもいい。朝日山はタンノイリを前衛にして風景の右手をかぎっている。尾根は其処から高々と左へ伸びて、途中にワラビタタキを初めとした一○○○米を抜く突起を三つももたげている。その嶺線は日光を反射して白い炎をはなつ山頂の雪で引かれているが、藤紫にけぶる尾根どおりの雑木の薮は、朝日山から一里半の縦走には相当手ごわい物のあることを思わせる。タンノイリの峯からは別に左手前へ支脈が伸びて、九七一米の山頂を持つ厖大なひとかたまりをどっかと据えている。その脚下を未だ幼い秋山川が廻るようにして流れているわけだが、無論此処からは見えず、僅かに無生野の部落の一角が山と山との暗い裾合に、あんなに小さく且つ貧しく、たった一つの人生的点景として眺められる。要するにこの南側の風景の特色は、劃然と黒と白とに染め分けられた大小無数の三稜形が、山脈構成上の或る厳しい法則の支配をまざまざと見せながら、何れも一方の鋭い衝角をこちらへ向けて圧倒的に集中しているその凄まじい気醜にあると思われた。
 こんなふうに、たとえば峠から北を眺めた小さくはあるが花のようなボナアルの絵と、南に臨んだ暗澹として深淵のようにルオーの絵とが、しかし一度倉嶽山の頂上へ立つと、全く天空海濶な大地の起伏のパノラマと一変した。
 僕は峠から直ぐに倉嶽山の南西の尾根へとりついた。冬の快晴の山では風も例によって中々つよい。踝を没して時には脛まですっぽりもぐる積雪は、低い灌木叢や辣のある蔓などを匿していて歩きづらいが、それも僅か一〇〇米ほどの登りと思えば大して苦にもならない。むしろきらきらと日照りかがやく新鮮な尾根の雪に、自分一人の静かな旅の足痕を、一縷の絲のようにつけて行くのが楽しかった。そればかりか、倒れた赤松を乗り越えたり、黒い枝先をぱらぱらと雪から出した山躑躅の株を飛石づたいのように渡ったりする間、一歩は高く一歩は広くなりゆく視野の中に、ああ権現山が、三頭山が、秩父の大洞山が、さては武州の大岳まで、一つを見ているうちにまた一つと、後から後から湧き上って来るではないか。そうして遂に半面は雪もまばらな明るい茅戸、半面は赤松と雑木の倉嶽山頂へ僕は着いた。
 碧落悠々、陽光燦々、まず仰向けに身をたおして僕は山と空間とをからだ全体で味わおうとした。その海のような青い空間を伝わって、どこか遠くの町のサイレンの音がする。腕を上げて時計を見るとちょうど正午。さては北風が上野原か猿橋の人生を運んで来たのだ。僕は眼をつぶる。松籟をかなでる風はおとがいを吹いて冷やひやするが、額やまぶたにあたる日光は春のようだ。
 茅戸の斜面が南へ向いた山のいただき、片肱立てて眼をあげると、つい鼻の先の楢山をかすめて、御座入ございり・御正体みしょうたいと泡立ち寄せかえす山波の真上に、夢のような大きな富士。六合目附近から雪煙を噴きあげ、ところどころ眩ゆく燃える太陽の反射を投げ、ほのかに青空の影をまとった玲瓏たる大結晶の富士山は、その裾野の線の流れる果てを見れば見るほど、限りなく偉大なものに思われた。
 立ち上って其処らを歩きながら山を見る。この倉嶽山の頂上は先にも云った通り、半分刈り残した頭のように北側が山林になっているので、カメラを用いるには憾みが多い。しかし君にしてもしも見るだけでも満足ができるならば、藪を押し分けたり膕ひかがみを痛くして爪立ったり、時には幹を攀じたりして辛くも自分の物にした幾つかの断片的な印象から、案内書には絶望のように書いてある山々の展望を、立派につなぎ合せて一枚の絵とすることもできるだろう。それは事実僅かばかりの労ではあるが、たとえ労として相当なものであったにせよ、後になれば又それだけ滋味の多い貴重な思い出となるのである。それに、人の言葉をそのまま信じて晏如たることができるならば、何を苦しんで山へ登る必要があるだろうか。案内書の作者は時には見ないでも案内記を書く。君は君の書かれざる自叙伝のために見るがいい。
 百蔵山ももくらやま・扇山・権現山が形作るリラ色の暖かそうな大斜面は、桂川の流れに対する樋の片側のようになっている。その権現と扇とが山頂をならべた僅かな隙間から、三頭山の黒ずんだ峯頭が見える。扇山の左に出ているひときわ鮮かな青黛の色が大洞から笠取への山稜だとすれば、あの円頂ドウムは雲取山以外のものではない。大菩薩嶺は雁ガ腹摺から東へのびた大峰とすれすれに望まれるが、その大峰をかすめて薄青い空の奥に白金の光をはなっているのは、今日の暖気に丹波川の谷から湧いた積雲の頭だろうか、それとも破風・甲武信こぶしの片鱗だろうか。
 南側は富士をはじめ一面の逆光につかって雪面の反射が殊に烈しく、あらゆる峯々がまるで水びたしの風景。その中でやはり胸を打つのは加入道・大群山のぎらぎら光る鉄壁の奥に、檜洞丸・蛭ガ嶽などの峯頭を峙ててわだかまる丹沢の断層ブロックである。そしてその強弩の末の焼山のひだり、亀の甲のような石老山を最後として、早春の顔に引かれた眉かと見える多摩丘陵にふちどられながら、遠くとおく相模野とその水とが、陽炎のもやもやの底にねむっていた。
 さあ、これで倉嶽山は僕のものになった。今日以後、どこの山頂から、またどんな山路のはずれから、ゆくりなくお前の横顔を見ることがあっても、決して見損なったり、他人のような気がしたりすることはないだろう。僕は心でお前を呼ぶよ。お前を見るよ。人からは窺い知られない特別な気持と眼つきとで。
 そうしてもう一度ぐるりと周囲を見まわすと、雪の中へふかぶかと踏み込んだ自分の足痕に従って、一旦峯へ戻りつき、今度は無生野さして南側へ下りて行った。
 ああその南側がまたなんとよかったろう。雪解けのぬかるみがはじまったのはずっと後のこと、むしろ翌日の田野入あたりでのことだった。程よく湿めった沢沿いの固い小径を、昼過ぎの穏やかな日ざしを浴びながら、格別急ぐというのでもないのに、ひとりでにどんどん下りて行く面白さ。松の枯葉の散りこぼれた石の下から、つめたく泌み出して靴を濡らす青い水。それが秋山川の抑もの姿だった。斑々と雪をのこして一杯に日をうけた薄い雑木山の斜面には、峠の北側ではほとんど見られなかった小鳥がおびただしく散っていた。中でも頬白がいちばん多く、白い縞のちらちらする赤栗いろの尾羽を振って飛び廻ったり、低い灌木の枝にとまってもう何かぐぜったりしていた。時々赤腹がツーッと鳴いた。その澄んだ一声は、この二月の山中の静けさが一体どのくらい深いかを測っているようで、僕も思わず足をとめて耳を澄ますのだった。体はぼかぽかして額は気持よく汗ばんだ。煙草を吸おうと手袋を脱いだが、そのままポケットヘしまいこんだ。片側が暗い檜の植林、片側がなぞえに高くなった明るい櫟くぬぎの林という、日のこぼれの美しい木下路へかかった時、僕は自分の二三間前にジュルリ・ジュルリという一種錆のある小鳥の声を聴いた。歩みをとめてじっとその方をうかがうと、櫟の木に餌をあさっている三四羽の柄長だった。から類独特のあの気ぜわしない勤作で逆さに枝へぶら下ったり、幹を螺旋形に攀じのぼってコツコツ嘴で叩いたりしている彼らの姿は、円い大きな火皿を持った素焼のパイプか、長い編針を挿した白と薄墨いろの毛絲の玉のようだった。その薄墨いろが太陽の光線にあたると葡萄いろに光る。そして時々、すこし濁ったような重味のあるジュルリ・ジュルリ。近所に人間のいることは知っているだろうに怖れる様子はすこしもなく、まるで黐もちにでもつくように枝から枝へと渡り移って遊んでいる。ああこの境地。小径のむこうには豊かな光と陰とを交叉した道志山脈の一部と、その上に見える二月の青空、それを一層奥行の深い景色にするように中景に畳みこまれた暗緑色の杉や檜の幾層の書割り、そしてすべての枝々に日光の金泥をなすった櫟林の花やかな静寂の中で、白と葡萄いろとの活潑な柄長の一隊! それはこの鳥を見る条件の最善を具備した境地であった。
 こうして途中人っ子一人見なかった山道で、僕は冬の自然が提供する最も美しい物の幾つかを見ることに悦ばされながら、秋山川最奥の部落無生野へ下り立った。
 無生野、それを一目見た瞬間、僕は卒然として武州恩方村案下あんげのことを思い出した。部落の三方が山に囲まれている点も同じなら、道路に沿って峠から水が流れている様子も同じであり、しかもその水際に、中途から幹を切られて針のような枝を無数に出した欅の老木が立ち並んでいるところまで同じだった。ただ、その案下が八王子奥の木材の産地であり、村の入口までは道路も立派に改修されてトラックや乗合自動車が通じ、何と云っても都会の風が吹き渡っているのに引替えて、此処は甲州郡内でも山と山との襞の奥、上野原へ五里、谷村へ四里、どっちへ出るにしても飽き飽きするような道中と峠越えだ。いちばん近い鳥沢へは一里半と云うが、これとて穴路峠の山坂を一千尺あまりも上下しなげればならない。それだけ土地は見るからに醇朴だった。
 時刻は午後の二時。暮れるに早い山里とはいえ、太陽はさすがに未だうず高い道路の雪を照らしている。雛鶴峠まで脚をのばして、できたら其処の尾根筋から谷村盆地を覗いて来ようか。そして今夜はこの村のどこかの農家へ泊めて貰おうか。それともこのままぶらぶら歩いて、旅人宿のあるという栗谷くりやまで、路々ゆっくり撮影でもしながら風と夕日とに送られようか。どうやら後の方がよさそうだ。名も床しい雛鶴峠へ立ったならば、また今度は朝日の谷に誘惑されて、雪を染める真赤な落日の後を追い追い、谷村の泊りとなってしまうかも分らない。それでは折角の秋山川訪問の素志が空しくなる。そこで太陽にそむいて東へ、水の流れにしたがった。雛鶴峠はあの殺風景な高圧線の鉄柱に任せて置いて。
 村のまんなかで流れに架かった橋を渡る。川と路とが斜めに交叉して、曲って来る水の瀬とそれを跨ぐ低い木橋と、うらぼしの生えた岸の石垣と、高いところに幾棟か並んで破風に日をうけた農家との、狭くはあるが複雑な構図が面白かった。しかし三脚を立てたりカメラを出したりしていると、其処らぢゅうの家から女や子供が飛び出して来て余り多勢画中の人物となってしまうので、撮影は断念した。
 無生野を後にしてまんなかだけビチャビチャに溶けた雪道を行く。往手には谷の狭間にきまって相模の空が扇形に望まれるが、左右は山で、流域の幅がいつまでたっても同じなのが何かしら地溝のようなものを思わせる。道は未だ浅い秋山川を右に見たり左に見たりしながら悠長に走っている。もちろん部落もこの道に沿っている。しかし彼らの猫額大の畠は概して右岸の道志山脈側に作られている。これはこの帯状の地域をはさむ道志・秋山の両山脈の脊稜部が同じ一方にかたよって、何れも北側に緩やかに、南側に急な斜面を持っているせいだろうと思われた。このことは一括していわゆる道志山塊とその聚落景観との関係に、ほぼ共通した性質のように考えられる。
 部落や谷のことはこれくらいとして、さて無生野から五六町下がると浜沢だった。次に通った原や尾崎の部落などと同様に人家も僅か数えるほどの小部落だったが、此処でもう一度鳥を見た。そして今度はそれがもっと素晴らしかった。野禽観察の一年生に、どうかもう一遍だけ鳥のことを話させて呉れたまえ。
 僕は地図を見ながら浜沢の領分へ入ったばかりだった。左は山、右は川へむかって低くなった幾らかの畑地で、雪の上には桑の影が漸くほのぼのと長かった。図に出ている郵便局というのが少し高みにある独立した農家なのにほほえまされ、こんな所に静かに住んで、山村の人たちのために郵便事務をやるのもいいななどと考えこみながら、やがて左から小さい沢の落ちて来るところで、其処へ架かった小橋を渡った。渡った橋の右の袂に、柿の木か何かに纏いついた一株の古い蔓正木つるまさきがあったが、今まで雪や針葉樹ばかり見馴れた眼に、その葉の冬をしのぐ鮮やかな緑と、その実のすばらしい茜色とが際立って見えた。するとその蔓正木の中で何か「ヒイ・ヒイ」とかすかに鳴く鳥の声がするではないか。僕は息を殺して眼をみはった。瑠璃鶲るりびたきだ! しかもよく見れば三羽が、つい鼻の先に!
 頭から脊へかけて、春の驟雨をばらまく雲間の空の暗い青、下面一帯はほんのりと黄ばんだ白い羽毛に柔かくけぶり、それが両脇へ移るにつれて香ばしく焦げて、終に夕焼雲の柑子こうじいろとなっている。短かい白い眉をえがいた顔は青いというよりは黒に近いが、上尾筒や雨覆いのつやつやした空青色と、両脇に燃える柑子いろとは、彼を小鳥の中の宝石のようにしている。
 僕は身勣きもせずに立ちすくんで、その動作をじっと見ていた。蔓正木の実を食っているのかと思えば、そうでもないらしい。しかしその実の茜いろと、その葉の淡い緑とが、彼らの羽色と紛れるような効果を呈するので、どうやら保護色とでも云って見たい気もするが、それよりも何よりも、やっぱり透過光線的に清麗な冬の色彩の貴い破片と云ったほうが正しそうだ。ひどく遠くからのような「ヒイ・ヒイ」を洩らしながらお辞儀をするような恰好を見せるところや、余り人を恐れないところは近縁の上鶲じようびたきを思わせる。しかし少数ながら群になってきびきびと熱心に、枝から枝へ食物を漁って渡り移って行くところは、むしろ今の季節のから類に似ている。あまり人間に平気なので此処で一つ珍らしい瑠璃鶲の生態写真をとってやろうと、静かにルックサックを下ろしてカメラを出していると、身の危険と感じたか一羽がサッと飛び立った。続いて一羽、また一羽。大して遠くは行かないが後をつけているうちにだんだん距離が離れてしまった。撮影はとうとう駄目だったが、それにしても同じように雪のある二月と三月に、武州梅園村黒山の三滝附近と、五日市の西の星竹で見かけて以来、瑠璃鶲を見たのは久しぶりだが、こんなに近くから観察したことは今まで無かった。僕はすっかり悦ばされて、カメラを出した序でにこの浜沢の風景を一枚写した。
 浜沢から原、尾崎、寺下と、いくらか開けた風景の中をぶらぶら行く。尾崎という名は地図の上では見られないが、どの部落にも必ず備えてある公徳箱という芥箱に、原班や寺下班と同様、「尾崎班」と書いてあったところから分ったのである。この頃出た柳田国男さんの「地名研究」という本を読んでみたいと思ったが、川に沿って道が北へ低くなり、塩瀬への山越えの俚道が橋の向うを登っているあたり、水と竹藪と漸く氷って来た日陰の部落が高みに一軒の寺を持つ寺下であったのは、或いは自然であるかも知れない。
 その寺下も後になると、今までどことなく小河内奥の小菅附近を思わせていた周囲の感じが少し変って、坂崎から栗谷へかけては、地形にも相当に変化が出て来た。これは朝日山から北東へ向けて穿たれた侵蝕谷が、秋山川との合流点附近に小規模ながら一つの山麓面を形成しているためのように考えられた。それに太陽も山の端に沈めば谷あいの風景の表情も寒くなった。坂崎では、高く渡った橋の挾に、右へ遠所えんじょへの雪の山道が登っていた。後に栗谷を過ぎてもう一つ橋を渡ってから振返ると、なるほど遠所という部落は本道から掛離れて、西の方の一際高い山の平に、何か由緒ありげな一群として仰がれた。飛騨の白川大郷は未だ見ないが、僕は其処への憧憬に類するものを、今、雪に隠れ棲んでいるあの遠所へ通わせた。
 栗谷に旅人宿のあることは、今朝の明るい峠道で炭俵を背負ったあの爺さん婆さんにも聴いた。又ついさっきは寺下のはずれで、篠竹を山のように背負って山から帰って来る若者にもその在る場所をこまごまと教えられた。ところが栗谷をもう少しは人家のある部落ぐらいに一人極めしていた僕は、坂道を登って左に古い厩のような小学校を見、それにつづく小さな雑貨屋などを物色しながらそれでもないと思って歩いているうちに、もう人家の無くなっているのに気がついた。変だなとは思ったが橋を渡って坂の上の平へ出た。すると向うから二人づれの男が来る。挨拶を交しながら早速宿屋のことを訊いてみると、それはいま渡って来た橋の向う手前にある一軒の農家のような家だった。なるほどそう言われれば不注意だった。そこで後戻りをして一緒に歩きながら、序でに「遠所」という字の読み方を訊いてみた。訊かれた男は「わしは文盲で」と顔を赤らめた。由ないことをしたと気の毒に思っていると、もう一人のが「それはエンジョと読むんですよ」と引取ってくれた。僕は今までこれをトオドコロと読んでいたのである。「やっぱり土地の名は訊くものですね」と述懐したら、「此の辺の小名こなは一風変っていますから」と云った。
 「大松」という看板の出ている橋場旅館では、しかし「今ねねうみだから」と云って簡単に宿泊を断られた。秋山ではこの家をみんな「橋場」と呼んでいるのである。ところで「ねねうみ」の意味が咄嵯には解らなかったので髪ぼうぼうの大女と押問答をしているうちに、どうやらそれが「お産」を意味しているということが分って来た。多分出産で取込んでいるからと云うのだろう。それで「どこか近所に泊める家は無いか」とたずねると、この先の中野に農家と兼業の宿屋があるから其処へ行って泊めて貰いなさいと云う。ここの家ならば位置もいいし、宿屋らしい設備もあるし、それに明朝出がけに遠所を見て来るにしても便利なので惜しい気がしたが、断られてみれば仕方がないから障子をしめて外へ出た。おりから川へ水汲みに行った女中らしいのが摺違いにすごすご帰る僕を見ると、二つの桶を地面へ下ろして、霜焼にふくれた手で冠り手拭を外して、気の毒らしくお辞儀をした。ああ今のいくらか簡潔に過ぎた断られ様で少しは平らかでなかった僕の気持が、その小娘の顔で和げられたのは考えても嬉しいことだ。雪のたそがれの栗谷の子よ! 又いつかこの土地を通る時、僕はきっとお前のことを思い出すだろう!
 むこうの谷間に中野の人家を見るあたり、暮れなずむ空の色と雪の匂いとがまじるところ、サラサラと風のささやく丘の上でもうすっかり旅人の心になりきった僕は、しいて頼めば何処かしらで泊めて呉れるだろうと、何か歌でも歌いたい気になって、マッチの火をかばいながら煙草をつけた。
 秋山村中野、以前は日向海戸ひなたかいどと云っていたが、土地の有力者の発案で平凡にも今のように改称されたというその中野の部落に、戸数はおよそ十ばかり、昔の名がよく言い現わしているように南へ向いた日溜りで、栗谷の方から曲り込んで来た秋山川の谷を前に、朝日山から巌道がんどう峠へつづく道志の連嶺を一目に見わたす景勝の地を占めている。教えられたとおりに僕の訪れた宿屋というのもこの部落の中程にあって、煙草の赤い看板は出しているものの、純然たる山村の一農家であった。主人は井上福太郎と云った。
 潜戸をあけて入ると中は薄暗い台所の土間。老人夫婦と嫁さんらしいのが板の間の囲炉裏をかこみ、座敷の方でも三四人の若い人達が炬燵へ入っていた。みんなが一斉に僕を見た。何だか宿屋へ来たという感じはなく、一家が冬籠りの団欒をしているその真中へひょっこり飛込んだという恰好であった。
 こんな時に世馴れた老人というものが何といいか。彼らは決して旅の者を気まずく思わせたり、他国者よそもの扱いしたりはしない。そしてこういう人々は屢々どんな山家にでも居るものだ。
「まあ大変だったでしょうね。雪道で」と、先ずお婆さんが立ち上がる。「今すすぎを持って来ますからよ」
「いや、靴下は濡れていないからこの儘でよござんす」
 と、僕はもう土間へ下りかけたお嫁さんをとめる。お嫁さんは仕方なしに脱ぎ散らした下駄や草履などを片よせる。若い人たちも黙って見ているわけにはいかないとみえて、何ということなしにのそのそ立ったり歩いたり、座蒲団を持って来たりする。
「さあ、囲炉裏へおあたんなさい」とお爺さんが云う、そして「もっと足を出したら」と独り言のように云いながら、傍へ積上げた焚木を折っては囲炉裏へくべる。それから煮えたぎっている鉄瓶を下ろして、自分で茶をついですすめる。
 僕は胡床あぐらをかいたお爺さんと向い合い、云われたとおり囲炉裏の両側へ足を出して熱い茶をすする。そうして、余りじろじろと見ているようには見られないように、何気ない態でこの家の様子を見る。
 一目でみんな分ってしまうような家である。秘密も奥もない、明けっぱなし四間の家の内部である。囲炉裏を中心にその燻くすぶりが家ぢゅうへひろがって、壁も天井も柱も、襖も障子も、すべて真黒でない物はみんな鳶色に焦げている。土間の天井からはどういうものか二十ばかりの塩鮭が歳暮の紙を結んだままぶらさがっている。お爺さんの坐っているうしろの壁で時々コツコツ音がする。厩と背中合せになっているらしい。格別家柄というのでもないらしい普通の農家で、唯一の贅沢のように二個の電燈がともっている。その下の囲炉裏で色々の煮炊きがされるのだから、電燈そのものも今や茫漠とした橙黄色の光を落している。
 だが老人夫婦を頭に八人の家族だった。そこへ東京から帰省中だという息子二人が加わって、僕の泊った夜の食事は頗る盛況であった。
 囲炉裏というものは、こんな家でこそわけても家族生活の中心である。鉄器の上へは四六版の書物ぐらいの大きな切餅が並べられる。人は之を千切ってその儘食うか、黄粉きなこをつけて食うのであった。熱い灰の中からほかほかした馬鈴薯が挾み出された。玉蜀黍とうもろこしを碾いて粉にして団子にして、それをこんがり焼いて食ってもいた。僕という客の泊り合せたからのエキストラ・メニューだったろうか、ぐらぐらたぎる大鍋の湯の中へお嫁さんが鶏の肉を爼から入れた。肉の片は見ている内に白くなった。そこへお婆さんが一升壜の生醤油を注ぎ込んだ。そして杓文字でぐるぐる掻廻しては手の平へ汁を垂らして味加減をみた。やがてたくさんの葱が刻み込まれた。それが煮えて来るにつれて若い人たちや子供らの食欲をそそり立てるような匂いが家ぢゅうに漲った。最後に大笊に一杯の饂飩が加えられた。饂飩の茄ゆだり加減はお婆さんの指につまんでためされた。その間にも濛々と立昇る湯気は電燈をつつんで、そのまわりに揺らめく大きな光の輪が、この山村農家の冬の夜の情景を一層劇的なものにした。
 こういう素朴な料理の過程を僕とお爺さんとはすべて眼前に目撃していた。女たちがうまく事柄を処理していること、息子や子供らがおとなしく、しかも満ち足りるまで食べていること、またそれを見ている相当な年輩の今夜の客が、自分たちの仕方に無言の同感を与え、好意を抱き、時には珍らしそうに好奇の眼をみはり、気軽に、自由に振舞いながら、その存在で家内の空気を少しも窮屈にしないこと、すべてこういうことが、この老人を満足させているように見えた。
「お部屋よりは此処の方がいいよ。やっぱり冬は囲炉裏ばただ」とお爺さんは云った。僕にしてもその方が願ったり叶ったりだったから、僕の膳はその囲炉裏ばたへ運ばれた。
「ちょっと飲めますよ」と云うので一古沢いっこざわの酒というのを一本つけて貰った。お爺さんが爛をしお婆さんが酌をしてくれた。一猪口飲んで金平きんぴら牛蒡をつまんで、
「お爺さん、どうです、一杯つき合っては」とすすめたら、
「このお爺さんは若い時から一口もいけないでね」とお婆さんが引取った。
「どうもわたしにや酒がやれない」 そう云いながら老人は煙管を取上げた。若い人たちが笑った。和やかな、めでたい情景であった。
「この雪に倉嶽山へ登って来たのは豪気だ」というところから、話は山や山村の生活のことへ移って行った。赤鞍ガ岳(朝日山)から巌道峠までの尾根は十年ばかり前に自分たちの手で切りあけたが、今ではもう薮がひどくなっているだろうということ、以前は銃猟家たちがかなりこの谷へ入って来たものだが、税が高くなったせいかこの頃は稀にしか来ないので雉子や山鳥がうんと殖えていること、春になって山女釣やまめつりの面白いこと、女たちのにぎやかな蕨狩のこと、山独活うどたらの芽のうまいこと、今の季節だと子供たちが川へ沢蟹を捕りに行って、それを煎って食うこと、それからこんな山の中ではする仕事も無いので、若い者たちはみんな東京へ働きに出ること、僕の出逢ったという炭運びの連中も、多くは人に頼まれての駄賃稼ぎであること、交通が不便なので人気も大して悪くなく、東京へ行くことがあっても、やっぱり直きに此処の山家が恋しくなることなどが、老人夫婦を中心に、息子やお嫁さんたちの口から次々と語られるのだった。そして最後に、「春の新芽の時分には山には桜も咲くし躑躅も咲くから、こんな家でもよかったら、おかみさんと子供を連れてまた来ておくんなさい。せがれに上野原まで馬で迎いにやるから」とお爺さんは云った。
「ようござんすよう、春になると本当に」とお婆さんも口を添えた。
「四月末から五月かね」とお嫁さんが浮々云うと、
「うん。一番いいのは五月の初めだ」と長男が正確を欲するように云った。
 僕は遠近おちこちに山桜の咲き、小鳥の囀る春の峠道を、かわるがわる馬の荷鞍に跨りながら、この谷の若葉の奥へやって来る自分たちの姿を想像した。その馬が今、羽目の向うでコツコツ音をさせているではないか。たとえそのことが実現してもしなくても、お爺さんの今の言葉は、それぞれの人の心に、それぞれの瞬間の詩を、夢を描かしめる力を持っていたのだ。
 こうして山間ではもう夜更けの九時過ぎまで、囲炉裏をかこんだ人々の間で、沢山の、実に沢山の話題が取上げられた。やがてお爺さんは自分で瀬戸物の湯たんぽへ湯を注ぎ込んで、それを暫くごとごと揺すって栓をし、ゆっくり掛って古い風呂敷にきちんと包んだ。そして、
「今じゃ海鼠板なまこいたみたいな物で出来たのがあるけれど、どうもこの方が具合がいいので」と云いながら、その湯たんぽをかかえて一足先に寝に行った。僕の部屋へ火を入れるように若い嫁御に指図するほど、細かい心遣いを忘れない一家の老いたる主人として。
 昼間写した乾板を入れかえて置かなければならないので、話の興は尽きないが僕もあてがわれた部屋へ引取った。後から子供が二人で火と炭を運んで来た。一人はこの家の子守で、一人は隣りの家の子だということだった。その二人が火鉢の傍へかしこまって僕のすることに目を瞠っている。三脚を立てれば三脚に、そこへ交換袋を吊れば交換袋に、その又袋へ両手を入れて手品使いのように乾板を入れかえていればその動作に、彼らは一々「あれ! あれ!」と云う驚異の声を上げるのだった。何もかも不思議な珍らしい物ばかりらしかった。それに子供ならば子供だけにこの知らぬ小父さんから聴かせて貰いたい話も多いらしかった。それで僕もルックサックの整理をしたり、洋服を脱いだり、寝しなの一服を吸ったりしている間ぢゅう、この幼い二人の相手をしてやった。遂に、
「お客様が寝られないぞ、もうあっちへ行きな」そういうお爺さんの静かな声が唐紙の向うでした。子供たちは残り惜しそうに出て行った。僕は夜具の襟へ風呂敷を掛けて床へ入った。お爺さんの咳が二三度聴こえた。風も鳴らず、水も歌わず、山々の雪、谷々の雪に八日の月ばかりが寒い秋山の夜を、こうして僕は安らかに寝た。

 充分に眠り足りた翌る朝、服を着更えて出て行くともう家ぢゅうが起きている。お爺さんも囲炉裏に向って昨夜の場所に陣取っている。僕はお嫁さんが取ってくれた湯で顔を洗うと、早速靴を突掛けて外へ出てみた。
 昨日に劣らぬ佳い天気だった。朝日の光は道志山脈の雪の峯々を横ざまに照らして秋山の谷へなだれ込み、そこに薔薇色の炎となって燃上っている。ああ豊麗な空よ! きらめく雪を被衣かつぎにした純潔な斜面とその裾に点々とする山村の家々よ! どんな善事を為したればこそ、かくも聖なる美しい朝を持ち得たのか、この私が!
 僕はシュー・シューと三脚を引抜いてカメラを据えた。一段低い前の家の、砂糖を掛けたような屋根を思い切り大きく取入れて、その上へ朝日山からワラビタタキヘの峯続きを覗かせた。写す心は祈りに似ていた。この祈りこそは聴かれるだろう!
 それが済むと、今度は一晩を厄介になった家の人たちの記念撮影だった。普段のままがいいではないかと云うのに、みんな着物を着かえたり、髪を解いて油をつけたりした。お爺さんだけは僕と同意意見で、
「このままの方が後になって爺さんを思い出すにもいいだろうに」と云っていたが、お婆さんや嫁や、見物に出て来た近所の女たちが承知しなかった。仕方なしにお爺さんも布子を脱いで銘仙か何かの通常礼服に着かえた。一同が縁側へ並んで、いよいよ此方を向くまでには手間が掛った。うしろに殆ど余地が無いので、プロクサール・リンゼを添用して少し斜めからパンクロで写した。
 さて一人遅れて食事を済ませば、もう出発しなければならない時間だった。それで勘定を頼んだ。ところがどうしても要らないと云う。さんざ押問答を重ねた揚句に、又してもお爺さんの援兵をかりて難関を切り抜けた。そうしたら今度はゴールデン・バットを十ばかり持ち出したので、潔く一つだけ貰って靴を穿いた。
「さよなら。五月には一人ででも屹度来ますよ」
「屹度おいでなさいよ。葉書を一本呉れれば上野原まで迎いに行くから、一人と云わずに家の者もみんな連れて……」
 僕は家族の人たちに見送られて飛び出した。足は軽いが心はいくらか重かった。道を川下にとって一町ばかり坂を登ってから初めて振返ると、中野の部落はもう雪花石膏の鉢の中であった。
 これからは小さな登り降りを繰返しながら、漸くぬかるんで来る道を、なるべく両側に残っている雪を踏むようにして行くのだった。地図を見ると嶮岸図式で表わされた箇所が多くなっただけに、秋山の谷も見おろすように深くなった。これに反して道から上の斜面は今までよりも緩やかになり、殊に南東に面した中腹にはかなり高いところまで桑畠が作られ、部落も河身からよほど離れた高みに営まれていた。川は中野から十町ばかりの地点、ちょうど厳道峠からの道が橋を渡って登って来るあたりで北東へ向きを変えて、いま云った嶮岸の間をぐるぐるとうねって流れている。神野かんの、小和田、古福志こふくしなどという部落は、すべてこれらの曲流点の近くに位置しているのである。そして古福志を過ぎると川は再びほぼ東へ向うが、其処には桜井、富岡、一古沢いっこさわ、奥牧野などの部落がかたまっていて、山間小盆地のような地形の中で秋山川流域中の最も大きな聚落群を形作っている。
 泥濘と、雪の山と、眼に痛い日光の反射ばかりの風景の中で、一番心をひかれるのは小鳥の姿だった。積雪に食物を奪われた小鳥たちはすべて里近くへ集まって来ているとみえて、昨日も今日も夥しい数である。中でも頬白が最も多く、次いではあおじ、上鶲、黄鶺鴒、鵯、雉鳩などが主なものだった。同じ部落附近でも、すこし静かな林の縁などを通ると、突然「ツン・ツン・ツン・ピン・ツー!」と叫ぶ日雀の群の警戒の声に、却ってこっちが驚かされるのであった。小和田を過ぎて古福志へ越える小さい山道へかかろうとした時、杉林の中で絲のように細いきくいただきの声を聴いた。沢の落口へ懸けられた橋を渡って向うの高みを登って行くと、今度はその杉林が眼の下になった。それで僕は、あの暗緑色の着物に鮮かな金盞花いろの帽子をかぶった可憐なきくいただきを二羽、息をころして、じっと五分間も見ていることができた。
 すこしは賑かな所だろうと思っていた古福志も、来て見ればやはり谷の上の小さい部落に過ぎなかった。喉が渇いたから蜜柑でもと物色したが、そんな物を売っていそうな家は眼に入らなかった。一体街道筋などとは違ったこんな山の中を歩いていて、贅沢にも間食物を買おうという料簡の方がすでに間違っていたのかも知れない。しかも時は冬の最中である。日の当った障子もあかるく長閑に住んでいる石垣上の農家はあっても、道に沿った店屋らしいものはただ屋根から落ちる雪解けの雨だれを避けて、建付けの悪い雨戸を閉じているばかりである。そのぬかるみの古福志をぴちゃぴちや云わせて通りぬけると、僕はいよいよ秋山の谷に別れを告げて、桜井を右下に、田野入たのいりへの山道をとるのだった。
 道はちょっと高みへ登る。と直ぐに摺鉢を半分にしたような桑畠の斜面へ出る。此処は南にひろびろと日をうけてぽかぽかの土があらわれ、広大な日溜りが春のように暖い。桑の木の株から株へ、灰いろと黒と茶との三色トリコロールに白い斑紋つけた上鶲が、棲まるたびにお辞儀をしながら「ヒー・ヒー」と鳴いて飛んで行く。武州顔振こうぶり峠に近いあの風影ふかげの里をおもわせるこの斜面を、一羽の鳥のあとをつけながら行く僕の心は又無く麗らかなものだった。来し方にはこれを見納めの道志の山々や大群山おおむれやま、東へのびる谷あいの空には、数年前の岐阜蝶発見で思い出も深い石老山。その山麓に八重桜が咲き春の水が奏でていた牧馬まきめや篠原。たとえ身は富まずとも、自然こそは我がまことの富と思ったのは正に此処でのことである。
 この斜面を横ぎって登りつめれば、田野入へ向って下りて行く小さい峠だった。右手の小高い草山へ上って最後の南方の眺望をたのしんだ。それから雪を蹴立てて北側へ下りて行った。
 道はおそらくタカクラ山と呼ばれている七三三米の山の東の裾を廻って行く。金山からの俚道と沢とを左に迎えると勾配も緩やかになった。谷は狭いが森閑とした美しい自然であった。時々静寂を破って伐木丁々の音がひびく。かけすが鳴く。それから又一つ左から沢が入って来るところに、名は知らないが落着いた小さい部落。この附近一帯に武州御嶽の裏山、越沢こいざわあたりの感じが深い。晩春ともなればひかげつつじの黄いろい花も見られよう。「偶然」に恵まれればのごまの声も聴かれよう。峠から田野入まで、正午近い太陽にどんどん溶ける雪道をなやみながらも、僕は山を歩くことの幸福を、見ることの喜びを、又してもつくづくと味わうのだった。
 田野入は輪郭も柔かな山々にかこまれた平和な狭い一廓だった。麦の緑が春風にそよぐ頃ならば、此処を山中の草原だったと云ってもいいかも知れない。そうすればこの村が何となく、シャレエの点在するスイスの部落に似た感じを持っていることが解って貰えるだろうと思うのだ。馬のいななき、鶏の歌、豚の鼻声、さては遊んでいる子供らの幼い叫び。そういうものが皆反響するかと思われるような囲みの中、空飛ぶ雲が覗きに来る小天地に、人々は田畑をいとなみ、梅を植え、桃を植え、竹林をそだて、用水の流れを走らせていた。しかも村の北方に山を穿った天神嶺の隧道をひとたび抜ければ、ああ皓々たる桂川流域の展望は往手にひらけて、一層広大な自然と生活との交響曲が嚠喨りゅうりょうとひびいて来る。
 その天神隧道をくぐって山側を降り、鶴島の段丘上から再び帰って来た桂川の眺めをひろびろと見渡した時、わずか一日半の旅ながら、深い感慨の胸に満ちるのを僕は禁じ得なかった。
 上野原の駅で汽車を待つ間、僕は珍らしい物のようにビールを飲み、土産として一羽の大きな山鳥を買った。

 

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 戸隠と妙高

 上信国境碓氷うすいの谷や峠路に、秋のもみじは未だいくらか浅かったが、風にきらめく干曲川の川ぞいを、北へ北へと進んで信濃・越後の国ざかい、日本海の水の色が寥廓たる天にうつる妙高・黒姫・飯繩いいづなの高原まで来て見れば、十月の錦繍いまや壮麗のかぎりを尽して、遥かに北アルプスの雪の連峯と呼びかわしていた。
 その高原に眠りゆく秋と目ざめる冬の姿を求めてさまよう今度の旅の第一歩として、私は長野放送局をおとずれた。それはしかし何かを放送するためではなかった。折もあらばと、心にかけていた人に会いたい願いからであった。
 毎年六月の朝早く、東京の私たちをよろこばせる遠い新緑の戸隠山からの小鳥の歌、その放送の説明にあんな優しいことどもを云う長野放送局のアナウンサー。その未知の人をたずね当て、ただ一言でも感謝の念を伝えようとは、単なるわたくしの志のみでは無かったであろう。
 二基の鉄塔が善光寺平の朝露にぼんやりかすむ午前八時、尋ねる人は其処にいた。善光寺の東、市中を見おろす城山公園の丘の一角、うつくしい庭や花壇をめぐらしたJONK、近代式平家造りの瀟洒な白堊の洋館、その建物の森閑とした一室で会うことのできた目的の人は、名を荒木寿考君と云った。詩人のはしくれである私が、わずか二十分に満たぬ短かい会見からの印象によってさえ、人間の心や自然の美に敏感な人と見てとって決して過たないような人柄であった。おたがいに勤務の時間、旅の途中、そうした慌ただしい中で私たちは眼を見合わせ、相手を識り合い、実意のこもった心持を手短かな言葉で伝え合った。それはちょうど広い海のまんなかで擦違って、大いそぎで合図をかわす二艘の船のようなものであった。そうしてわれわれは袖を別った。人生が今ともしたばかりの小さい清らかな感激の火を、衢の風に取られまいと大切に護りかばいながら。
 次第に晴れて来る青空の下、ふりかえりがちに丘を下れば、朝の新鮮な日を浴びて、カテージ風の白い建物と前庭の桃いろのコスモスとがさながら一幅の絵であった。
 それから二時間後、私をのせた車はもう広大な飯繩いいづなノ原はらを走っていた。昨日の日曜はかなりの人出だったと聴くにひきかえて、今日はきらびやかな秋晴れの高原を、往手をさえぎるものもなく飛ばすにふさわしい閑散なバスだった。
 長野市の北西に迫った真白な断層崖を、あの七曲りの急坂で一気に四百米あまりも登りつくすと団子で名高い荒安の立場茶屋。ここで旅客は窓越しにお茶をもらい、切符の検札をうけ、また運転手は一服吸ったり窓の雨よけを外したりする。茶色にくすぶったセルロイドが無くなって、景色も風も自由に飛びこむことになった。運転手はシャツの両腕をまくり上げて、新らしい意気でハンドルを握る。初動が掛かる。車体がぐいと出る。荒安はたちまち爆音と煙のうしろ。進むにつれて往手の風景は天のほうが多くなり、いかにも火山の裾野を登っていることが感じられる。その裾野の色とりどりの秋の樹の上、ひときわ青い北方の空の穹窿を焼きぬいて、飯繩山がその燦たる円頂を現すのだった。
 飯繩山が南西に展開した裾野の原を、鳥居廻り・県道廻りの二つの線に分けて、長野市と戸隠中社との間を乗合バスは往復している。前に書いた七曲りの坂を登って荒安に出、大座法師池・論電ケ谷地などという池沼群の散在するあたりからいわゆる飯繩ノ原にかかって、その枠の中に戸隠山をまるごと収める豪壮な一ノ鳥居をくぐり、それから約一里して宝光社から中社へ達するのが鳥居廻りの線である。
 県道廻りは大体鳥居廻りと並行しながらもっと下を行く。善光寺の大門から西へ約二十町ばかり行って茂菅という処で裾花川と分れ、急に北へ登り、裾花峡の上に雛壇のように並んだ山村の間を縫ってぐるぐる登りながら入山から飯繩ノ原、そして緩斜地の上野を過ぎて宝光社の下で鳥居廻りと一緒になるのである。
 バスの速度が大きいので、ともすれば拡げて持った地図も吹き攫われそうだった。荒安を出て貉久保、「紅葉狩」の鬼女で名高い荒倉山の、おりからのもみじで赤と黄の練物のようになった尨大な山塊を左に見ながら、突然の出現に驚いたのは、その右手の空のなかほどにもう新雪をベっとり塗ってぎらぎら光る白馬、杓子の雄姿だった。いやそればかりか、裾野の路が方向を変えるたびに、鹿島鎗も出れば針ノ木も出、その問からちらちらと、剱・立山のプラチナの群峯さえ望まれた。車内には私のほかに東京者らしい中年の夫婦がいた。その細君の方が、この広大な風景にすっかり心酔してしまって、
「こんな処に住んでいる人たちは、さぞ長生きができるでしょうね」と私に云った。その夫婦は、さっきから、多摩墓地へ買った彼らの墓の敷地の話をしていたのだが。
 疾走するバスがくぐり抜ける一ノ鳥居は、その雄渾な形がまるで高原の虹だった。戸隠街道が飯繩ノ原を横ぎる最高点、ここにこの大鳥居をそそり立てた昔の人のひろびろとした見識と趣味とは、もう今の時世では望むべくもない。私はこの大鳥居の写真を一枚写したかったが、そう思った瞬間に公共の車は遠慮もなしに砂塵を捲いて走りぬけた。時間に余裕さえあるならば、大座法師ノ池あたりで乗物を捨て、ここはどうしても歩いて通るべき道だと思う。
 乗ること一時間あまりで終点戸隠中社へ着いた。飯繩の裾が戸隠の裾と交わる南西の一端、海抜一二三三米の地に鎮座する中社は、天八意思兼命あめのやこころおもいかねのみことを祀った社だという。老杉にかこまれた清らかな神域にブナの落葉がはらはら。山中の静寂な空気をけたたましく震わせる鳥の声は何かと見上げれば、巨木の高い枯枝を上へ上へと攀じてゆくアカゲラであった。中社の別当職久山淑人氏方へ立寄って中食をととのえ、ルックサックを残して写真機だけの身軽ないでたちで奥社へ向った。黄から朱、紅から紫にまで移るあらゆる紅葉は、奥社への道三十町の間、山腹と云わず谷間と云わず見得るかぎりの風景を埋めつくして、秋の豪華はここにきわまったかと思われた。しかも豪壮な戸隠山は、本岳も西岳も灰白んだ岩骨に紅葉を縅して、白雲散らした越後の青空を堂々と扼していた。
 私は長野放送局の荒木氏が描いて呉れた略図をたよりに、小鳥放送のマイクを据えつける場所を見に行った。それは中社から二町ばかり奥社寄りの路傍の林で、高い笹を下生えに、落葉松、白樺その他の混生した処だった。私はその中を歩き廻った。感慨はそぞろに深かった。ほの暗いひやりとする笹の中では、おりから三四羽の藪鶯が早くも今宵のねぐらを求めて、「チャッチャッ・チャッチャッ」と鳴いていた。
 戸隠中社から奥社まで、三十町といわれているが、実際ではどうも一里はたっぷり有るらしく思われた。しかしどうせ今夜は中社泊りだから格別いそぐ必要もなく、気の済むまで小鳥の森をさまよったり、燃える城壁のような戸隠西岳を撮影したりしながら、人っ子一人通らない坦々たる大道をのんびりと歩いた。
 その大道がだらだら下りになって、左へ直角に奥社への参道が切れているところから、正面に悠然と黒姫山が現れた景色は実に美しかった。灰黒色の怪異な姿に一面の紅葉が血しぶきを吹きつけた戸隠山にひきかえて、おっとりとした円錐形を狐色に枯れた草と真黒な針葉樹とで包んだ黒姫山は、青空を背にして一杯に日をうけたその清楚な形と爽かな色彩とで、すでに紅葉にも飽いて来た眼を涼しく洗った。ただ残念だったのは其処に長野県の通行止の制札が立っていて、明日はこの道をまっすぐに黒姫・飯繩の裾合いを歩いて、信越線柏原から妙高へ出ようという折角の予定が覆されたことである。
 しかし奥社への参道は秋の静けさ限りもないものだった。道の両側に亭々と立つ老杉や落葉樹の、その狭まる果ては日も傾いて紫くらく、折々の風に梢をはなれる七葉樹とちのきの葉の婆娑たる響きは、もう何処となく霜を感じる北国の空気をふるわせた。
 そうした道を殆どまっすぐに十八町、奥社はすでに日も暮れぐれの戸隠の中腹、冷涼な泉の音と、氷った炎かと思われるような紅葉の中にあった。神殿に張った幔幕の、菊花の御紋章も神さびて、イタヤメイゲツやハウチワカエデの落葉が静かだ。礼拝をすませて拝殿前の腰掛に休みながら僅かに開けた東の方を眺めると、夕暮の靄につつまれて、野尻湖畔の斑尾山の南へ引いた尾根のむこうに、苗場らしい山の形が薔薇いろに匂って浮き出していた。
 往路を戻ってもう一度小鳥の森を見てまわり、やがて今夜の宿の久山方へ帰った時には日はすでに没していた。広大な母家には百人余りの川中島小学校の遠足の一行が泊るとかで、私の部屋は主人の父君の隠居所の方に取ってあった。そこは西から南西への眺望がひらけていて、窓をあけると夕映えの空を背景にして、鹿島鎗、祖父、針ノ木あたりの北アルプス連嶺がくっきりと現れ、南の空の最も奥に、美ガ原や蓼科山が夢のように淡いながらも、その特徴のある山容で確かにそれと望まれた。夕飯の膳に一本をかたむけて、山々の姿の消えたまっくらな空に花と咲き出る星の光を見ていれば、さすがに旅愁の新たなるを覚えるのだった。
 翌朝は九時に宿を立ってバスヘ乗った。昨日にひきかえて雲の多い空であった。今日は県道を廻った。鳥居廻りよりも下を行くので、遠山の眺望は少いかわりに到るところに美しい山村風景が展開した。
 長野は参詣の地方人で雑沓していた。汽車の出発まで買物などをしながら時間をつぶして午前十一時七分、新潟行のすいた列車へ乗込んだ。豊野までの間は右手の窓に四阿あずまや、白根、岩菅などの山々の眺望が立派だが、豊野を過ぎて飯繩の裾をぐるりと北へ廻ると、俳人一茶の生地柏原までは殆ど狭い山間の風景だった。それから昨日の黒姫山が今度はその東面を現した。つづいて妙高。風景はがらりと変って落葉松と白樺、波うつ薄の穂。北国の高原が眼の前へ高まる海のようにひろがって来た。
 私は田口で汽車を降りた。降りは降りたが一つ手前の柏原の落着きのある町並と、古い越後の宿しゅくらしい姿を見て来た眼には、冬のスキー客を搾れるだけ搾って食っているらしいこの田口駅前の町の様子が、いかにも薄っぺらで気品も風格も無いものに見えた。それもいいとして、さて改札口に出て赤倉行のぼろぼろのバスに乗ろうとすると、赤倉ホテルの半纏を着た感じの悪い若僧が何処からともなく現れて、「旦那、お宿はどちらです」と訊く。香嶽楼だと答えたら、
「ホテルになさい、設備も待遇も段違いです」と云った。私はむっとして、その男の顔をちらりと見たままさっさとバスヘ乗り込んだ。乗って見ると女の先客が二人いる。聞けば赤倉の奥の燕温泉の者だが、今日は野尻湖まで遠足して今その帰りだと云う。格別自分たちの方を勧誘するでもなく、野尻の景色の佳かったことなどをきさくに話して呉れるのが気に入った。それで予定を一日早めて、そのまま真直ぐ燕へ行くことにきめてしまった。
 バスが北国街道を横ぎって、爽やかに秋を色づいた妙高の高原を赤倉さして爪先上りに走るあたり、もう私の気持はすっかりふだんにかえって、身も心も妙高山の美しい姿を前にしたこの広大な自然にとらえられてしまった。十五分ばかりで降りた処は終点赤倉温泉だが、新開地の成上りの標本みたいな赤倉ホテルも用が無ければ格別気にもならず、女たちと一緒にすたすた町を通りぬけて、一段高みに見える久邇宮家別邸の横手の坂を登って行った。
 此処から丸山というのを右に搦んで安山岩をうがったトンネルを抜けて、燕温泉まで約三十町の山道は、その後妙高の東の麓を歩きまわった私が、最も樹々の紅葉の美しい、いかにも人気を離れた趣き深い路として敢えて推賞して憚らない処である。宮家の別邸の手前を右へもう関温泉への自動車道が出来かけていたが、心ある人のためには保存して置きたい路である。山腹を左に搦むこの小径の上、真紅のツタウルシを樹幹に巻いて亭々と立ちならぶブナの巨木を前景に神奈山かんなさんの大岩壁にかかる惣滝を遥かにながめる壮観は、実にこの路を措いてほかには無い。そしてそのどんづまりに、一塊りの鳥の巣のような燕温泉はあった。
 連れになった女たちの家すなわち私の宿は、岩戸屋といった。猫の額ほどの平地に温泉宿の数は八つばかり有るが、内湯は此処が最もきれいらしく、駒沢大学を一茶の論文で出たという若い主人も気の置けない話好きで、一種の風格を持った親しむべき人物だった。季節をはずれて他に客も無いままに、帳場の囲炉裏をかこんで山葡萄の酒を飲みながら話していれば、しんしんと更けて行く山中の夜を話題はつきず、身の越後に在るのも忘れてしまった。
 風呂へ浸かっていると頭の上は神奈山、新館の二階座敷の縁側の、西向きは軒につかえる妙高の頂上、東は大田切川上流の開けた谷を縦に見て、遠く岩菅から苗場までの大観。その山々の果てしの空に雄大なオリオン星座のせり上がる夜更けも美しかったが、幾重にも朝霧の帯をよこたえて、遠方ほど次第に霞む上・信・越の翠微の奥から、爛々と朝日の昇る光景は今も深い印象として残っている。
 さらにもう一つ忘れられないのは、夕食の膳に出たたくさんの馳走の中で直江津の海で取れるという霜鯵しもあじという魚の味だった。
 季節の頂上から崩れるばかりの盛りの秋に妙高の東の裾を心ゆくまで味わった私は、この高原の雪消の春には、その南の裾である杉野沢の部落や笹ガ峯の牧場をゆっくりと訪ねて見たいと思っている。

 

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 須 走

 大磯を過ぎる頃から本降りになって国府津の乗換で一行の心を暗くしたかなりの強雨は、やはりその朝、北海道の東の海上にいた低気圧から日本島弧に沿って南西へ延びて、遥かに沖繩・台湾附近まで達していると云われたあの不連続線の仕業であったらしい。
 二つ三つ雷なんか鳴らして前途を不安がらせた暗澹たる空模様も、しかし国府津での土砂降りが峠だったとみえ、それからは次第に乱雲の薄青い切れ間をのぞかせるようになった。それにつれて一行の気分も明るくなって来たか、新らしく陣取った車室の方々から賑やかな笑い声なども聴こえはじめた。
 汽車の窓には未だなごりの雨滴がパラパラ当るのに、遠くの山や村里には蜜のような日ざしの流れている下曾我あたり、線路の描くカーヴにつれて広々と展開して来た酒匂川流域の田園風景には、なかなか捨てがたい詩があった。
 その下曾我で、国府津から乗合せた女学校帰りの生徒がだいぶ下りた。郷土の駅のプラットフォームを吹抜ける八月の雨後の風が、彼らのスカートを波打たせる。みんな日本一優良児童の候補者のような娘ばかりである。こうした逞ましい田舎の女学生たちの姿にも、何かしら現代の日本らしい別種の詩があった。
 古い松田惣領にはどこか沈滞した空気が感じられたが、酒匂川下流の広い氾濫平原の一隅に横たわる下曾我は、いかにも新しい発展過程の途上にある町らしい形態を色々の点で示していた。
 足柄山塊が深い横谷で断ち切られて其処を酒匂の上流が流れるところにいわゆる箱根のトンネルがある。気をつけていると、かなり高い谷壁の出っぱりを横薙ぎにして大小とりどりのテラスが見える。このテラス群を想像の連結符でつないでみたら、この山塊を削った太古の河底の飽かんなの面がわかりそうである。
 毎年一度や二度は必ず碓氷トンネルを往復する癖に、この箱根のトンネルには近年とんと縁が無くなっている。それだけ久しぶりに通って見直すここの山谷の眺めからは、その後いくらか成熟した自分の眼と過去の思い出とを綯いまぜて、一層良くその独特な美と意義とを感じることができたようである。
 以前は汽車が箱根へかかってこの有名なトンネルを出たり入ったりする頃になると、きまって車内の方々で窓があけたてされたものである。トンネルを出るのを待ち兼ねて窓をあける。首を出して見ると前後に機関車がついていて、それがポッポ・ポッポと規則正しく煙を吐きながら、いかにも営々孜々として天下の嶮を登っている。見下ろせば渓流はあんな下の方を淙々と流れて、岩に激した水が真白な飛洙を上げたり渦を巻いたりしている。向うの崖ぶちで山百合の花が涼しく揺れている。そこの岩角で赤いのは剪秋羅せんのうだろうか……  と、忽ち前後の汽笛が相呼応して次のトンネル入りを知らせる。それを聴くと皆あわてて窓をしめる。
 妙なもので、その後今のような電燈に改良されたのは勿論なのに、思い出の車内にともっているのは何時もあの旧式のランプである。このランプはたしか山北で入れられたようにおぼえているが、その点ははっきりしない。とにかくトンネルの轟々いう反響に包まれている間ぢゅう、その明りが変になつかしく和やかな物として自分の眼に映ったことを今でも明瞭に思い出す。
 今日ではあんな窓のあけたてなどは余り人がしなくなったようである。人々が旅行ということに馴れっ子になって昔ほど珍らしがらなくなったせいかも知れない。尤も皆が皆そうでもあるまいが、一般には、こうした自然への無感動アパシーは近頃の顕著な風潮で、自分などには色々な意味で淋しくもあれば物足りなくも思われる。
 シャルル・ヴィルドラックの小品に「トンネル」というのがある。子供とその母親とが汽車の旅をしている。子供は窓硝子に額を押しつけてさっきから一心不乱に外を見ている。柳と水車と、三人の男の子が釣をしている石橋とを持った早瀬。この無上の出現を子供は決して忘れないであろう。そして今や汽車はトンネルヘ入る。
 子供はデッキにいるのである。母親はおびえて幾度も云う、「もうお坐りなさい。もう何も見る物はありません」。子供は坐らない。見る物が無いって? 子供は何時でも何か見る物のあることをよく知っている。眼と心とをちゃんと見開いている彼にとっては、悉くの物、悉くの瞬間が、差し出された贈物のようだということを知っている。
 彼が見なければ、誰がこのめしいた穹窿を見てやるだろう。誰がこの穴倉の中に撒かれた煙の渦を、その黒い死を見守ってやるだろう。彼が見なければ、彼が見るすべを知らなければ、そもそもどんな心がまた現れる最初の微光の哀れさを悟るであろうか。
 トンネルの出口に枝をすりつけている一本のアカシア。陰気な土手の上へ最初に現れた病身なアカシア。「このささやかな木は、使いみちのない眼をよごれた羽目板につけて、じっと運ばれてゆく五百の旅客のためにとて、そこにいるのではない。また現れてくる木の葉をしかと見るために、闇の中でつぶらずにいたこの鮮かな忠実な眼を幸福にするとて、そこにいるのである」
 私は窓の外を移ってゆく風景のなかにこんな聯想や自分の心をさまよわせながら、何年ぶりかで通る箱根、今では丹那に席をゆずった寂しい箱根から、今度の旅が提供するであろう幸福の中で最もディスクレエなものを受けとったのであった。

 右手の山々が先ずしりぞく。やがて左の窓に見えていた金時山がうしろになる。汽車はラスト・スパートをかけて、往手にひろがる限空線をめがけて押し上がって行く。青空にならぶ雲のだんだらが美しい。富士山の東の裾野が箱根火山と裾合いした御殿場の台地。雨後の高原は気温もぐっと下って、一望の風景にはどことなく野分の後の感じがあった。
 子供の頃、関西への旅の帰りに、この停車場へ停った汽車の窓から御殿場の夏の富士というものを初めて見て、あれが一体本当の富士山かしらと疑ったことがある。まるでふわりと置いた駱駝の毛布か、地震でつぶれた大伽藍の屋根のようだった。玲瓏とか端厳とかいう形容詞がちっともあてはまらないほど、それは締まりのない、だらりとした、グロウテスクな物に見えた。
 今、涼しすぎるほどの風がざわついている御殿場駅前の広場に立つと、その富士山はまだ厚い雲に包まれている。土地が高いせいか、天があんまり広いせいか、季節外れで淋しいせいか、人間の姿がみんな小さく孤独にさえ見える。かなりの人数の一行を二台のバスに分乗させるというので色々斡旋している会の人たちの声なども、本来の振幅ほどには聴こえない。一行にまじった小さい娘さんや婦人たちが、ひと夏の避暑地を引上げる滞在客のように見えるのも不思議である。これなどもやはり秋の感じだと云えば云える。
 ともかくも、膝頭の出るクレイヴァネットの半ズボンを、用意のための毛のニッカーに穿き換えて置いてよかったと思うほどの冷気であった。

 バスの真中の通路へ補助椅子を出して、それでもまだ立っている人のある超満員だった。旧鎌倉往還はほとんど自動車の専用路みたいになっているせいか、かなり凹凸があって、遠くから眺めれば軽快に走っているように見えるバスも、乗っている身には相当腹にこたえるのである。まして身じろぎもできないような寿司詰めの車内では、乗物に弱い婦人などは気分を悪くしたかも知れない。
 私のすぐ後ろの席で、誰だか「気持が悪いの」と云っている。一行にまじった二人連れの若い女の一人である。膝の上でルックサックを抑えている手がハンカチを握っている。
 バスは容赦なく走ったり曲ったりする。その度に後ろの人の一生懸命にこらえている気持が背中をとおしてビリビリと感じられるような気がする。
「もうじき須走ですよ」と私は声をかける。「気持が悪いようでしたら、なるべく遠くの雲のような物を見ていると幾らか違いますよ」
「はあ」という微かな声が聴こえる。その内に同じ声が「聴かれてしまったの」と囁く。連れの相手が、何を私が云ったのか訊いたらしかった。その声が案外元気なので私は幾らか安心した。
 人の頭と窓枠との狭い空間から覗くと、空はどんどん晴れ上って行くらしく、半透明に鳶色がかった初夏の富士が、中腹以上に白雪をいただいてちらちら見える。

 是からと明日一日とを鳥に捧げた時間だとは思いながら、ともすれば詩人の眼が、心が、勝手な方角をさまよい歩く。
  一行の中にI氏の一家族が見えている。その末の令嬢のA子さんとは、前にも一度霞網の見学で一緒になったことがある。その時は縫いぐるみの犬を大事そうに脇の下にかかえていた。だが今ではもう成人して立派なマドモワゼルである。だから小さい時のように玩具の犬は連れて来ない。そのA子さんを久しぶりに見て、私は自分をもまた運んだ「時」の流れを思うのだった。未来に待たれる春はいい。どうか私の夏も豊かな秋によって祝されるように!
 米山館の二階と下とに分れて三十幾人の一行がほっとして寛ぐ。私はお茶を啜ると、立上って外へ出る。空はもうきれいに晴れて、空気は極度に澄んでいる。西へ廻った太陽の光がこの須走村を平和に染めて、火山砂の道のしめりも気持がいい。
 往来の向う側へ立って村の上手を眺めると、浅間神社の森を中景にして、雄大な富士を取り入れた景色がそのまま絵になっている。風が凪いで高原の夕日に酔っているような須走村。今日は鳥の見学に行かないで、こうして落着いていてもいいと思う。一本の煙草がひどく旨い。
 その美しい青空と夕日とに華やかにされた路の上を、最近不幸に遭われた若いK伯爵がやってくる。二日ほど前に先着して、私たちの来るのを待って居られたのである。カッターシャツの両袖をまくり上げ、写真機を胸に吊るし、宿の貸下駄をつっかけてぶらぶら来る。こちらから手を上げて合図する。
 もしも普段とちがう環境で、友の真面目の他の一面にゆくりなくも触れて、そこに不図「人生」を味わうことがあるとすれば、これもまたそれであった。

 夕食前に散歩がてら鳥の声を聴いて来ようというので、一行が身軽になって宿を出る。名ばかり久しく聴かされていて見るのはこれが初めての、例の鳥寄せの名人、この須走に住む高田兵太郎とその弟の昂とが附添って来る。一行の中には、私にとって親しい顔や知った顔も見出されるが、多くは未知の人々である。皆が互いにそうであったかも知れない。しかし「野鳥」の会につながる縁があって、全体の雰囲気には異質も混らなければ罅ひびもないように思われた。
 富士の須走口登山道を躑躅園の上あたりまで往復したこの夕暮の散歩は、今度の会で一番静かな纏った印象を与えたもののように、少くとも私には感じられた。それは落日のすこし前から宵闇の漂うまでの微妙な時間で、甘美な空の光が新緑の裾野一帯に流れていた。
 道の両側は林のふちが小高くなって、灌木叢の下には柔かな蘚苔にまじるコケモモが房々と白い花をつづっていた。そんな処には又ビンズイの巣も発見されるのだった。浅く切りひらいた登山道の、ちょっと眼につかない草の蔭などの土くれを、小さい盃形に掻きのけて、其処へ産座をしつらえて四つほどの可憐な卵を産みおとしてある。みんなが代るがわる身をかがめてそれを見る。抑もどんな小さい体が、どんな小さい魂が、一心になって此処の土くれを掻きのけたのか!
 アオジやホオアカの、涼しく甘い夕暮の歌に聴き入ったのも其処だった。晴れたまま暮れてゆく空の光に、富士はほのぼのと酔っているがよう。その静謐な深遠な空気の中で、ああ、どんな内心のうながしが、あれらの小鳥を歌わせるのか。どんな優しい夢のような思想が、あの内気なメロディーを長引かせるのか!
 私は眼から雙眼鏡をはなして、それを小さいA子さんに渡す。可憐にもとどろく胸を鎮めながら、指さされた梢の一点へ向ける眼鏡の焦点に、あのホオアカの夕暮の影絵が、はたして熱く鮮かに焼付いたろうか。
 コルリは道々あまり沢山聴いたので、却って印象が漠然としている。しかしジュウイチのあの悲痛な囀りは、私の幾多の山の思い出を呼び出した。次第に切迫してくるあの鳴き方には、山を降り、人気もない沢を伝って、今宵の宿を求めて急ぐ登山者の感傷に深く食い入る力がある。それは何時も「早く帰れ、家へ帰れ」という促しのように私には聴こえた。そしてしかも家へ帰ってあの声を思い出せば、それはまた幽逡な山谷へのいざないとなった。
 そのジュウイチが鳴いていた。私は路傍の浅い林を抜けて、裾野の灌木原を広々と見わたす処へ出た。鳥の声は近いようにも遠いようにも聴かれた。もうたそがれていた。眼鏡の視野をぐるりと廻すと、其処へ入った薄墨色の山の影絵は、原の南に頭を出している愛鷹の連山であった。
 米山館を総動員して天手古舞を演じさせた夕飯が済むと、三間続きの二階座敷の襖を払って参加者が一堂に集まった。多くの顔の中には関西や四国から遙々来られた熱心な人々も見えた。その中に京都のSさんを見出して私はひどく喜んだ。去年の夏霧ガ峯で催された「山の会」で初めて知合いになって以来、折々の文通を交している間柄である。
 今年の鳥のそれぞれの渡来日と、明日見学すべき巣の種類とについての高田昂の報告が終ると、その兄の兵太郎の鳥の鳴真似が演ぜられた。渡来の報告の方は私などには別に言いぶんも無く、去年よりも幾日早いと云われればそうかと思い、遅いと云われてもやはりそうかと思う外には仕方がなかった。
 口笛による例の有名な兵太郎の鳴真似は、うまいと云えば云われなくもないが、正直の処、私には殆ど何等特別な感銘が無かった。永年この須走に小鳥と一緒に暮らしていて、あれだけの模倣だとすると、期待の方が少し大き過ぎたような気がした。「歯がぬければぬけるほど、楽に吹けますでさ」と本人が云ったと中西悟堂君は書いているが、楽は楽かも知れないが、どうもやはり歯が有った時の方がもう少し上手だったのではないかという気がした。むしろロダンの「鼻つぶれの男」の首から精力と油気を抜いて、それを引伸したようなこの老人の不思議な骨相と特異な風貌から、或る種の美を見出す方が私には好ましかった。唯、彼が試みたトラツグミの鳴真似には、不思議な妖気と力とがこもっていたように思う。
 小鳥の地鳴きや囀りの聴きなしを表現する点では、むしろ中西君や、その夜と翌日、おりおり片鱗を見せた中村幸雄さんあたりがその道の人ではないかという気がする。ただ、烏の観察に当っては(実は鳥だけには限らないのだが)、できるだけ批判的で正確であること、自己の先入見によって事実を歪ませないこと、こうで在らせたい為にこうであるとするような無意識の間の作為を飽くまでも警戒することなどが欠くべからざる条件のように思われる。こんなことは云うだけ野暮のような気もするが、若しもそうでないと、学問にとっては元より、本人にとっても真の利益にはならないだろうと思うのである。

     *

 一夜を吹き通した強風が幾らかおさまって、明くる六月七日は一天晴れた須走の朝。「こんなによく晴れた日は年に二日か三日しか有りません」と、宿の人の云ったほどの快晴だった。
 ずらりと並べられた朝飯の膳に向った人々の中で、誰よりも先に立った私は急いでアカゲラの撮影に出かけた。昨日伯爵に教わって、写すように勧められたアカゲラである。
 浅間神社前の右手の畠の隅に一本の栗の大木がある。その太い幹の中段に夫婦の鳥が今や雛を育てている。
 私はできるだけ三脚を近附けて、中から可愛い雛の声のするその穴に焦点を合せた。焦点距離一五〇ミリのレンズで、焦点板に映る穴の直径は僅かに二ミリ。それでも眼に流れこむ額の汗を拭きもやらずに、蟲を運んで近づく親鳥を待っていた。待つこと三十分余り。やがて写真機というこの怪物を警戒して容易に接近しない親鳥のうちの雄が、羽の黒白だんだらと、後頭や下尾筒の花のような紅、しびれを切らしてパッと幹にかじりつき、どこか器械人形じみた動作で穴の口に近付いたその瞬間、矢頃はよしと、私の生れて初めての鳥体撮影のシャッターは切られた。帰宅してからこの一枚だけを特別貴重品扱いで現像して見ると、哀れやたった五ミリのアカゲラが、蚤取眼で探すルウペをとおして、わずかに俤をとどめていた。
 朝食前と午前中とは、昨日の登山道とその南方と、日野屋林の一部とを見て歩いた。躑躅園で昼弁当をつかってからの午後は、日野屋林の残りの部分と浅間神社附近とを真夏のような陽光に照らされながら、四時頃まで巣を求めて歩きまわった。
 十五種廿三箇の巣を見たことにはなっているが、今ではもう記憶が大分薄れてしまった。だから比較的鮮明に残っている印象だけを挙げることにしたい。

 登山道と籠坂道との分岐点、早朝の冷めたく澄んだ空気をふるわせて、一方ではキビタキが歌い、他方ではマミジロが鳴く。間を置いて遠く響き、倐忽しゅくこつの間に消えるそのマミジロの絶妙な声を、まるで釣り出すように右手の人差指を突立てて、山梨県の鳥の大家中村幸雄さんが「一声!」と云う。そう云われるとその一声が、実際貴重というか有難いというか、何れにもせよ、今は亡びて久しい山祗やまずみや森の妖精の呼び声のように聴こえるから不思議である。キビタキは朝まだ暗い杉の森林にいて、おりおり金色の矢のような胸をひらめかせながら、あの得も云えぬクラリネットの清明な歌声を投げている。
 ハイタカの巣は陰気な森林の、樅だか赤松だかの梢に近い高みにあった。中西君が幹をよじ登って、上の方から卵の数やその色合を大きな声で報告する。夫婦の鷹は威嚇するように森の上を飛び廻りながら、鋭い声を上げている。私は鳥の姿を見て置きたいと思ったが、それは遂に私の雙眼鏡へは入らなかった。しかしその森林にはコアツモリソウが夥しく生えていて、ちょうど花の盛りだった。私はハイタカの姿を追うかわりにこの小さい蘭科の草を採集した。
 森を出ようとする時に、並んで歩いている兵太郎が何かを拾った。そして傍にいたNさんにその真白な小さな拾い物を見せながら云った。
「これは薬になりまさあ」
 Nさんは暫くこの物と兵太郎の顔とをかたみ替りに見ていたが、やがて、
「これは何か鳥の頭だよ、兵さん」と気の毒そうに云った。彼はキツツキのらしい頭骨を拾って、それを菌類のツチガキと錯覚したらしいのである。
「ああ、そうか。どうも変だと思った」と兵太郎はにやにや笑いながら云った。

「科学知識」のF君が
「この道を少し行ったところに、コルリの巣の有ることを昨日見て置きました。行って御覧なさいませんか」と私にすすめる。そこでトラツグミやクロツグミの巣を見に行く一行を後から追うことにして、私はF君と一緒に日野屋林の中の小径を左へ入った。
 巣はじきに見つかった。F君は一行に追付きに行った。私は地上の巣と卵と雛との撮影にかかつた。写しながらどうも雛が苦しそうに身をもがくので変だと思ってよく見ると、未だ孵ったばかりの体に山蟻の群が食いついたり、這い廻ったりしている。未だ開かない眼瞼の上などを歩いているところはゾッとするように厭らしい光景だった。そこで丹念に蟻を潰しにかかった。近くでは親鳥が盛んに警戒の声を放っていた。私は道の反対側にカメラを据えて、あわよくばもう一枚鳥の生態写真を儲けようと骨を折ったが、今度は自分の方が根負けして徒労に終った。そのため遂にクロツグミもトラッグミも見るに到らなかったが、小鳥の雛の敵に山蟻のあることを知ったのはとんだ見つけ物だったと、今でも思っている。

「そら、見えるでしょう、白い眉が。雄ですよ、あれは」とK伯爵が声をひそめて云う。日野屋林もかなり奥まった林内の、マミジロの巣と抱卵中の親鳥である。
 目測で十五センチもあるかと思われる巣を、一本の木の枝の分れ目と、其処へぶら下っている朽木の先とに巧みに懸けて、前後にはみ出した頭と尾、マミジロの雄はじっと卵を抱いている。ほのぼのと明るい新緑の林の中、水底のような柔かな光の中で冗談を知らぬ鳥というものの此のまじめな、この真剣な様子は、深く人間の心を動かさずにはいなかった。
 もしも自分一人ならば、私は此処にじっと身をひそめて、まる一日この鳥夫婦の生活を見ているだろう。またもしも誰かがカメラを余り近寄せなかったならば、あんなに早く飛立ってしまいはしなかったろう。慰みということを知らない常に真摯なあの鳥が。
「あなたは今日に生きる若い婦人として職業を持って居られる。その勤め先で、あなたの植物や鳥へのまじめな愛が揶揄される。そしてあなたはこの会で初めて逢った私にそれを訴える。あなたは真摯です。そしてあなたが真摯ならば、それを冷やかす男たちは当然不まじめだと云えるでしょう。
 もしもあなたがその揶揄を笑って済ますことができるならば、私は最もそれを採ります。しかしもしもそうできないならば、あなたは今後同僚の男たちの前で、あなたの愛する物については口をつぐむべきです。
 あなたに万一未来を約した男性が有るとして、それをあなたが正直に同僚たちへ打明けたとしたら、あなたが善良にも期待していた祝福を受けるどころか、暗黙の軽侮をこめた彼らの眼つきなり態度なりは、揶揄以上にあなたに辛いものでしょう。
 われわれの日常の言葉で云えば、それは嫉妬です。熱情を傾けることのできる対象を持っている者に対する、持たない者の或る隠微な感情です。
 人間には我れ人ともに嫉妬を起す可能性の有ることを知らなければなりません。これは多分悪徳ではありますが、だからと云って、この世から嫉妬が影を消す時はないでしょう。
 あなたの訴えはもっともであり、あなたの態度は真摯です。それでもしもなお私にして云うところが有るとすれば、その態度の上に出よということです。あなた自身の優しい喜びと可憐な悩みとの上に、君臨のための賢い一歩を進めよということです。」
 帰りの汽車の中で、私は同行の一人の可憐な娘さんにこんな意味のことを云った。

 

 

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 灰のクリスマス
    
(霧ガ峯とそのヒュッテとを愛した人々に)

 庭の冬木立の枝を透いて、十二月の日光が明るく射しこむ朝の部屋。その室内の清潔なひっそりした空間や、白堊の壁の隅々で、むかし馬槽うまぶねに生まれた人の誕生日をことほぐにふさわしい素朴な飾りが、さっきからちらちらと火花のように光っている。
 金や銀の紙貼りつけた小さい星、小さい鐘、さては十字架。子供の幼い手によって一年の間丹念に作り溜められ、今日、ほそい絲をもって五彩の花綵はなずなに吊るされた、そうした数々の古い表象サンポールが、煖炉の熱気からおこる対流のための室内の空気のわずかな動揺にも感じて、無心に、やさしく煌いている。
 ゆかりある日の、朝のひとときのこの平和よ。いま蓄音器から嗚り止んだバッハのオラトリオの詠唱が、まだ耳の底にその余韻をのこしている。私は静かに珈琲の碗をとりあげる。だが心は重い。霧ガ峯のヒュッテが焼けたのだ。つい一日前のきのうの朝、高原の雪さえこおる夜のひきあけに火を発して、救いも無しにあのヒュッテが燃え上り、焼け落ちた。
 ゆうべ、クリスマスの前夜、その悲報に初めて接した瞬間には、ただ唖然とするより外はなかつた。百度の「何故?」に対しても百度ながら答えは無く、ただ「何ということをしたんだろう!」が空しく幾度も繰返された。それが今朝の目覚めには、或る宥めようもない遺憾、何ものへというあてもなく、それでいて無限に深い怨みに似た感情と変り、そして今では、もう跡方もなくな ったであろう思い出の建物に対する愛惜と、其処を生活の根拠、楽しい山の家庭として暮らして来た友人とその家族、わけてもあの小さい子供たちと、彼らの若い母親との絶望的な落胆に対する限りない同情が、静かに後から後からと流れ出して、悲しく私を浸している。
 すでに幾たびの夜毎の夢に、あの可憐な靴たちが、霧ガ峯の雪の山坂を越えたことか! 兄の休暇の日を待ちわびて、すでに幾たび小さい指が折り数えられたことか! 兄、それも尋常一年生。その幼い兄を頭としたいとけない弟妹たちが、楽しい、賑やかなクリスマスやお正月を、父母とともに、雪に粧われた彼らの「山のお家」で暮らすといういたいけな望み、喜び、かつは願いに満たされながら、下の町で……
 私は机の上のノートを引寄せて、綴るともなく綴り、韻を合せる、

 C'est aujourd'hui
 Le vingt-cinq décembre,
 et pour eux, et pour lui
 c'est Noël des cendres…… 

 ああ、灰のクリスマス! 抑もどんなドゥビュッシーが彼らのために、また別の「もう家の無い子供等のクリスマス」を書くのだろう?

     *

 ほろにがい杜松とどまつの香、山中に湧く甘美な鉱泉、あの中部フランスの古い美しい火山地方カンタルにも捜せば道は幾すじも通うがように、山々に雲の群れ立つ信濃の国で、まだ見ぬ土地に憧れてゆくお前のために夏草の霧ガ峯とそのヒュッテヘの道は幾つかある、七月の晴れやかな昼下り、睡気をさそう武蔵野の樫の樹蔭に洗濯ざぶざぶ、「オーヴェルニュの歌」を口ずさむ妻よ!
 中山道なかせんどう和田峠からお前は行くか。それならば道は鷲ヶ峯の中腹を捲いて、遠く西から南へかけ、炎と燃える夏空の下で欝々と瞑想している日本アルプスの大観こそはお前のものだ。
 それとも古い男女倉越おめくらごえをお前はとるか。長い長い落葉松林をつらぬく道が、その樹脂のテレピンの香ですっかりお前を浸してしまうだろう。
 いずれにもせよ、鷺菅さぎすげの白い穂波が涼しく揺れる八島ガ池や鎌ガ池、ところどころ樹蔭をつくるやまはんのきの茂みから、甲蟲のうなりが洩れるその湿原のふちをお前は通る。やがて赤や黄や紫に花咲きみだれる夏草の中で野鶲のびたきの鳴いている緩やかな起伏。そして目ざす霧ガ峯は、暗い御料林の沢を越えたつい向うの高みなのだ。お前の腕は途々手折って来た花の束でもう一杯。お前の耳には高原の静寂を測り知れないものとする鳥たちの歌が詰まっている。
 蓼科の温泉郷・湯川・大門街道と道をとって、霧ガ峯をその東から試みようとお前はいうか。何という野望だ! その暑い、長い、苦しい登りは、先ずお前の脹脛ふくらはぎを引釣らせ、靭帯をゆるませ、呼吸を奪い、ついには心臓を麻痺させてしまうかも知れない。だが若しもお前がその車山の登りに成功すれば、比例を縮めた日本のオーヴェルニュ、信濃中央高台の中でも、最も眺望に恵まれた山頂の一つに立つことになる。まだ幾らかは残っている青春の思い出に、一度は遣ってみるがいい。もんぺに結いつけ草履、経木真田の鍔広帽子に白木の杖。ほつれ毛を碧落の風に吹かせて東を見れば、ああ真昼の夢のように薄青くかがやく大気を纏って横たわるのは、私の愛の蓼科山とその歌だ……
 だがもっと当り前な人はもっと道理にかなった道を選ぶ。言わずと知れた、上諏訪から角間沢に沿って登る道だ。お前は池のくるみから、或いは賽ノ河原から、あの高原の一角へ顔を出して、其処に突如として現れる青草原の広袤に魂を奪われてしまうだろう。

     *

 本当に霧ガ峯の野山のあの出現を何と云おう! それは見るたびに新しく胸を打たれる光景のひとつだ。地形上強いて比較を求めれば美ガ原が最もこれに近い。海ノ口から登りついて見遥かす野辺山ノ原にも或る類似の点が無くもない。しかし霧ガ峯というこの高い広がりには、一つの全く独特な性格がある。それは悠久の天の下によこたわる大地の、女性的な、豊麗な、甘美な胸だ。あらゆる起伏が優美で、打解けて、その晴やかな高さと広袤とでわれわれをいきいきさせながら、いつもおっとりと包容的で、人間のどんな夢をも抱きとったり育んだりするほどにも母らしい。周囲からぬきんでた高原上の、丘と湿原との単純な大きなプロポーション。咲く花か膨満する雲かのように盛り上った、大地そのものの量と量との結びつき。霧ガ峯は山という自然の彫刻の中で、かのアリスティード・マイヨールの滾々として尽きぬ滋味のある女人像を想わせる。
 雲は其処でのもっとも美しい看物だ。誰かあすこでそれを描いたり撮影したりする衝動を感じなかった者があるだろうか。いや、たとえそんなことはしないまでも、あの高原のほんのり熱い草の中か岩の上へ寝転んで、遠い凝視と深い瞑想とにわれわれを引き込む彼ら夏雲の流転の姿を、君も私も幾たびか楽しんだことは確かだ。
 或る時それは西のほう、遥か安曇野あずみのの空から流れ出した火焔雲だった。私たちはヒュッテで開かれた夏季講習会に列なって、その日藤原博士の山の気象に関する講義を聴いていた。窓の外で頬赤の歌う高原の午前、或る洗煉された、知的な、静謐な空気がこの山の家の一室を支配して、講義の進むにつれ、壁へ貼られた大きな白紙の上へ、気温や湿度の変化をあらわすグラフが、爽かな緑や赤の色チョークで次々と象徴的に描かれていった。
 やがて講演が終って人々が席を立った時、その部屋の西の窓いっぱいに漲った八月の空の紺碧のなかに、美しい模様をすらすらと描いて拡がっている一種の雲がみんなの眼を惹いた。二時間近い講演に注意力を集中したため幾らか疲労を覚えた一同の神経や筋肉は、いまやひろびろとした戸外での恢復を求めていた。それで雲をきっかけに皆ヒュッテの前の草原へ出て、実際にその雲を眺めた。空気の混濁した都会地では到底見ることのできないような、清らかな、氷のような白さを持った見事な巻雲の火焔雲だった。それは塩尻峠の少し北寄りの方角から噴き出して、途中幾度か放胆な揺曳を繰返して火焔の模様をえがきながら、その柔かな舌の先をわれわれの頭上まで届かせていた。一碧の大空に描き出された自由自在な雲の流線と、気も遠くなるようなその純潔な濃淡の白。折からそよそよと吹いて来る初秋のような風。強清水こわしみずの湿原で忍びやかに歌っている小鳥の声。身にしみじみと暖い太陽。そうした静寂な夏の真昼の高原でみんなと一緒に雲を讃美しながら何時の間にか子供心に帰っているということ。それらすべてを忘れることのできない楽しい記憶として今もなお心の片隅に大事に持っている人も幾人かは有ることと私は思う。
 心よ、思い出せ! そうした楽しい記憶をもう少し。この夕べ私は詩に渇いている……

     *

 或る年の八月に雑誌「山」が主催した五日間の講習会。私はそれに二日遅れて、第三日目に単身霧ガ峯へ登った。それがために私の聴くことのできたのは、気象学、植物学、本邦登山史の三科目だった。
 毎日、賑やかな朝の食事が済むと、十時頃から静かな別室での講義が始まる。講義は二時間ぐらい続く。それが終ると昼飯になって、午後は参会者一同が揃って野外見学をするか、自由行動を取るかすることになっていた。しかし遅れて一人着いたその日、私は未だそうした規定を知らなかった。それで午後みんなが鎌ヶ池方面へ行くことになっていたのに、私一人は食事を済ますと直ぐにカメラを提げて、蛙原げえろっぱらからカボッチョの方へさまよい出た。
 その蛙原の高みから私は見たのだ。向うの丘の中腹を覗キ石の方へ、巡礼のような長い列を作つて進んで行く一群の人々のあるのを。私は望遠鏡を取上げた。それはまさしくあの湿原の池を訪れに行く講習会の一行だった。私は声を上げたり手を振ったりした。仲間に加わりたかったのだ。しかし私たちを隔てている空間は余りに大きく、絲のような隊伍は次第に遠く草原の中へ霞んで行った。私は諦めて、高原の風に吹かれながら「タンホイザー」の巡礼の合唱を歌った。
 その話を後になって聴いて私のために気の毒に思ったのが、当時はまだ近づき後間もない黒田米子さんだった。その人が主催者石原巌君の他に男女三人の同行者を勧誘して、会も終るという五日目の午後、彼らにとっては二度目の鎌ガ池へわざわざ私を案内してくれた。
 覗キ石から先のあの一層広大な風景を初めて見て事々に嘆称の足を停める私に対して、あんなにも辛抱強くつき合ってくれたり、優しい心遣いを示してくれたりしたその人たちの親切を、どうして忘れることができるだろうか。中でも黒田さんは、――後で知ったのだが、――明日からはまた忙しい仕事の始まる東京へその日の夜行列車で帰らなければならないのだった。私のためにかなり時間をとった池からの帰途、夫人は沢渡さわんどの上のあの急坂を一足先へ全速力で登って行った。そして私たちがヒュッテヘ着いた時には、もう大きなルックサックを背負い、土産の植物の包みを小脇にかかえて、令嬢をせきたてながら、別れの合図にピッケルを振り振り、夕陽にまみれた高原の草の中を遠ざかって行った。
 それは完全に自発的な友情と、犠牲の行為だった!

 至仏や浅間の伊吹麝香草とならんで、武蔵野の私の庭に車山の同じ草がある。それが五月も末となれば、鉢からこぼれた長い枝の先に薄紫の密穂花をつづる。そうするとこの高原の植物の異国的な芳香を嗅ぎつけて、近所のひめじょおんの草むらから、平野の蝶たちが黄や水色の翅を翻して庭の中へ舞下りて来る。
 この伊吹麝香草の鉢の前に佇むと、私はじきにあの車山や蝶々深山ちょうちょうみやまの晴やかな頂きへ立った気持になるのである。眼の前を緑にそよぐ一筋の太い山稜が走り、右には蓼科、左には美ガ原の連峯が、真夏真昼のきらめく面紗を懸けて横たわっている。私の踏んでいるのはもはや平地の柔い土壌ではなくて、がっちりと硬い岩石であり、額を吹くのは二千メートルの高所の風の流れである。向うではやまははこや薄雪草の群落が深い銀いろに波立っている。梅鉢草の黄ばんだ白い点点も揺れている。此処では伊吹麝香草が紅紫色のこまかな花でびっしりと熔岩や礫土を埋めながら、爽かな匂いを揮発させている。
 幾年を育てて来た一鉢の記念の山の植物、古い手帳に挾まれたままで今では色も褪せた一輪の花、それはわれわれにとって「心の山」の懐かしい追憶のよすがとなると同時に、また却って帰らぬ盛福の日を苦しく思い出させる機縁ともなるであろう。愛のかたみと断ち難い過去の覊絆。そうした物を持つことが果して幸福であるか否かは、人それぞれ異るものであるに相違ない。

     *

  ししうどの原でのびたきが鳴いている。
  乾草がよくかわいて佳い匂いをたてる。
  小屋の日かげで一羽の蝶が
  やぶれた羽根を畳んだりひろげたりしている。
  もうじき牛たちも麓の村へ帰るだろう。
  やがて、とつぜん、
  秋が最初の嵐を連れてやって来るだろう。

     *

 ヒュッテ入口の屋根を支える太い柱、その柱の土台になっている幾つかの大きな卓状熔岩。私は好んでそれへ腰を掛けに行ったものだ。煙草を吸いに、本を読みに。だが大抵はぼんやりと、高原の美しい雲の姿や、のびのびとした草原の起伏に眼をさまよわせるために。
 朝は日向ぼっこ、昼間は蔭と無量のそよかぜ。日の暮には、あらゆる草をいきいきした緑に濡らす夕日の流れと、ほのぼのと匂うがように赤らみながら、やがて黄昏の奥に沈んでゆく槍や穂高や乗鞍ガ岳。
 人はそこを訪れては又去った。静寂に明けては暮れる夏の毎日、落葉松林のふちを辿り、白いししうどや、赤いしもつけそうの原を横ぎって。私はいくらか人を宿する者の心になった。余りたびたび人を迎えてはまた見送るその入口で。
 そして長い滞在の間の、最も輝かしい或る白昼に、石の上に甲羅を干していつまでも動かなかった一匹のとかげから、「無為」の何たるかを学んだのも其処だった。

     *

 空気ランプに照らし出された夜の茶房。そのランプの単調な、しゅうしゅういう音の中で、蓄音機から流れ出るべートーヴェンの「ロマンス」やベルリオーズの「聖家族の詠唱」、窓硝子を外から叩いている高原の夜の火取蛾。滞在客は卓の周囲に巣まって、思い思いに煙草を吸ったり、飲物をとったり、賑やかな遊びの仲間に加わったりしている。
 その遊びで、或る晩最も夢中なのは小さい「弓」だった。弓とは友の長男弓郎君のことで、私の大の仲善しで、その父親をその儘そっくり小さくしたような、律義な、質朴な、可愛い声を出してむきになって物を言う小学の一年坊主である。
 だが、いまや挾み将棋がすっかりこの子を興奮させている。大人を相手の勝ちたい一心から、彼はいくらか無理をする。うつむきながら爪を噛み、顔を真赤にし、幼い眉を寄せて盤面を睨んでいる。彼の駒は盤の上を、もはや必ずしも真直ぐには、つまりこの遊びが要求する規則のとおりには動かない。それは任意の場所で転向する。それは空間を飛行して、好都合な地点へ着陸しては敵の駒を挾みとる。
「ずるいよ、ずるいよ!」と誰かが叫ぶ。そしてついに、片隅の補助椅子に腕組みをしながら見ていたその父親、ヒュッテのあるじ長尾宏也の、
「弓、また孫悟空を始めてはいけないよ!」
 という、笑いを噛み殺した一喝に遭って逼塞するまで、その奇抜な戦術、弓にあって余りにも著名なゲリラ戦術は続くのだった。
 私は思い出す、或る時、彼の挾み将棋の相手は立派な学者の官吏だった。子供に向ってもあくまで合法行為を期待する紳士だった。その相手に小さい「弓」が例の飛行戦術をもって対抗した。紳士はとうとう遺憾の念を面に現わして駒を投げた。それはグライダーを視察に来てこのヒュッテに滞在している航空官、寺田寅彦博士の門下だった!

     *

 ヒュッテの前を流れる水、その強清水こわしみずの広い低地一帯を、夏こそ彩る百花の絢爛。毎日愛と讃嘆との眼をもって眺め暮らしたそのアラベスクの、妙なる紋様の一々を私は描写すべきだろうか。
 朝な夕なに汀みぎわへ下りては水を浴び、やがて近くの落葉松や垣根の杭に飛び移って、そこで清明な夏の幾節を歌った頬赤、びんずい、小葦切。私として彼らを閑却できるだろうか。
 だが植物にせよ、鳥にせよ、また雲や霧の美観にせよ、荘麗な夜空にせよ、はたまた霧ガ峯の広袤自体にせよ、それらは今なお有りもするし、今後と雖もさらに有ることをやめないだろう。しかしわれわれの心の中のあのヒュッテ、そこでわれわれの夏の幾日、冬の幾日が、最も充実して美しく、かつは好意と歌とに満たされて潑剌と生きたあのヒュッテ、高い窓を持つその広い涼しい食堂に、長い暗い廊下に、われわれの足音が深く反響した山の上のあのヒュッテ、相知るやまことに拙く急いで結ばれ、しかし別れて後こそ徐ろに味わい返されて一層強固になった数々の友情の媒なかだちをつとめた遠い遠いあのヒュッテ。あのヒュッテは今はない。
 とはいえ時あってわれわれをほほえませ、また泣かしめる思い出こそは、時の彼方に横たわって、いよいよ清く美しくなる思い出こそは、われわれのヒュッテを不朽にする。
 やがて風も柔かな高原の春、雪の下から灰が現れ、黒焦げの柱が現れ、最後に礎の熔岩が現れてその滅亡を断言しようとも、われわれの衷で彼の善意が、その歌が、もはや不滅の物となっている以上決して泣くな!

 

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 神流川紀行

 もう二た昔以上も前になるが、或る年の五月、その頃の文学上の親しい友人某君を前橋にたずねたことがあった。上野を出た汽車が深谷や本庄を過ぎて新町で停まった時、さっきから左側の窓の往手に見えはじめて、今では風景の正面に一際大きく目立っている二座の美しい乳房のような山がどうも気になって仕方がないので、ちょうど眼の前のプラットフォームに立っていた一人の若い駅員をつかまえて、その山の名を訊いたことがある。
「あれですか」と、その駅員はうしろを振向いて小手をかざしていたが、「あれは秩父です」と答えた。
 なるほど、秩父と云えば云われないこともあるまいが、何だか戸山ガ原を武蔵野だと教えられでもした時のような、変にそぐわない、歯がゆいような気がして、汽車弁当の爪楊子をやけに噛みつぶしたことだった。その頃の私には、まだ地図を持って旅行する習慣が無かったのである。
 そんな二十何年も前の塵にまみれた思い出を心になつかしく呼び起しながら、昭和十三年一月の或る朝、私は高崎線本圧駅のプラットフォームヘ降り立った。あのとき秩父と教えられた山、そして今では名も知っていれば明日のチャンスでもある御荷鉾山みかぼやまは、青玉のように澄んだ冬の朝の天の下、玲瓏と鳴るかと思う雪の大浅間を遥か右手の上信国境の空に仰いで、武州児玉郡の雑木林や桑畠のぽうっと暖かい霞の果てに、その東西二峯の円錐形を姉妹のようにならべていた。
 毎年元旦をむかえると、新らしい一年間の仕事を自分で祝福するつもりで、ふだんは欲しくても我慢しているような本を奮発して買うのが例になっている。今年もそのつもりで暮のうちから見当をつけて置いた本が二つ三つあった。その一つはアメリカの或る大きな農場に住んでいる人の書いた日記体の自然観察記で、豊富な内容を持った、見るからに自分の物にしたくなるような本だった。それを手に入れるのを楽しみにしながら三ガ日の済むのを待ち兼ねて書店へ行ったら、もう誰かに先を越されてしまった。そこで私は考えた。この失望の穴埋めに、何処か近いところへ今年最初の小さい旅を試みようと。なるほど、他人のすぐれた体験記録を読むのは善いことだ。だがどんなに貧しくても、自分の体力と叡智とをはたらかせて野外で獲得した知識が、富が、必ずしも机上で読む某々の書物以下の価値しか持たないだろうとは信じられないと。
 それで私は此処彼処と物色したあげく、神流川かんながわの谷を見ることと、できたら御荷鉾へ登ることとを考えていた。そうすると忽ち、もうその山頂からの広々した眺めや、神流川や三波川さんばがわの渓谷に沿って露出する美しい岩石や、蜿蜒二十里に近い十石峠街道や、その街道を点綴する未知の部落や、暖かい南面の山腹に遊ぶさまざまな冬の小鳥や、およそこの旅から酬いられそうなあらゆる看物が後から後からと想像の眼の前に展開するのだった。
 私はまず四五本のフィルムを仕入れ、一本の鉄鎚を用意した。それから岩石や地質の参考書を調べて地図へ書入れをしたり、大急ぎで景観地理学の本をおさらいして頭へ詰めこんだりした。そうしていよいよ出発も明日の早朝という時、遠足の前後の子供のように、膨れたルックサックを大事そうに枕もとへ安置して私は寝た。

 午前九時少し過ぎに停車場前の広場を出たバスは、四十分ばかりで終点鬼石おにし町へ着いた。初めのうちは、本庄から真西へ藤岡町へ通じる平野の中の坦々とした大道を行くので、うしろに砂塵を巻いて疾走するバスからの眺めも単調だったが、途中から左へ切れてこの平野の袋の底へ神流川が開口している辺りまで来ると、さすがに風景の面目もあらたまって、がたがたのフォードが乗込んで行く世界は、もう金と緑青と胡粉とで彩色された新年のめでたい山水画だった。
 バスを降りて、打ち水の凍った午前十時の鬼石町の本通りを五六歩行くか行かないうちに、ところどころで起っている小さい旋風に気がついた。からからに乾いた往来を摺鉢大の塵の渦がいくつもいくつも、まるで生き物のように右往左往しているのである。これはたぶん周囲を丘陵と山地とで囲まれた小規模の池溝とも考えられる凹地の中央に、しかも北と西には直ちに山を背負い、南東に神流川のやや幅の広い曲流点を持つ河岸段丘上の町鬼石附近の地形と、其処で衝突し混合する気流の複雑な変化とに由来するのではないかと思われた。その夜万場まんばでこのつむじ風の話をしたら、宿の女が「鬼石の気違い風って有名でございます」と云っていた。
 序でに、この町では正月の門松を東京のように地面へは立てないで、大抵軒下の柱の中程へ枝のまま打ちつけてあるのが私には珍らしかった。もっとも或る銀行と、もう一軒大きな問屋のような家だけは東京と同じ遣り方だった。 
 私は名高い三波石さんばせきは神流川の支流三波川の谷で見られるものとばかり思い込んでいた。ところが町なかに立っている道標によるとどうもそうではないらしいので、町を西へ出外れた鬼石橋という橋の上で、ちょうど通りすがった豆腐屋のお爺さんをつかまえて訊くと、「この街道を一里ばかり上かみへおいでなさると左手に釣橋が架かっています。その橋の下が三波石です。三波川の方へお入りになっては、却ってあんな石は見られません」という至極親切な、物の分った返事だった。それで私は三波川を遡って途中から石神峠越えに神流川流域へ出ようという最初の計画を変更して、この長い街道をすっかり万場まで歩いて行くことにした。
 神流川に沿ってその左岸を奥へ奥へと行く十石峠街道は、終始美しい渓谷の眺めに恵まれた道であると同時に、旱ひでりの続いた後では時々トラックやバスの砂塵に悩まされる道でもあった。バスが鬼石から坂原や万場を中継ぎにして十一二里奥の新羽にっぱまで通っているのだから、この谷唯一の物資運輸機関でもあるトラックが、木材や木炭や雑貨の類を山のように積上げて疾駆するのも 当然かも知れない。せめて道幅がもう少し広いとか、或いは自動車道路がもう少し上を通っているとかすればいいのだが、何にせよ名だたる堅い岩石の断崖を削ってつけた一本道の街道だから、ゆっくり景色を見ながら歩こうとすれば、少しは自動車の埃を浴びるのも止むを得ない。
 譲原ゆずりはらという部落の中を抜けた時、其処だけは自動車の利かない旧道を通ることができたので埃も無く、谷や道路に面した村の家々の石垣が、まるで三波川層の岩石標本を積上げたような美観を呈していた。私はまだ先へ行っても見られるだろうと思って、その半透明の白、黒、桃色、肉色、緑、青その他の縞模様や斑紋から成るモザイクのような多彩な石垣を、とうとう写生も撮影もせずにしまったが、その後これほど纏った場所を遂に見ることができなかったのを今でもひどく残念に思っている。

 いわゆる三波石の渓谷は、鬼石から約一里のあいだ南北の方向をとっていた神流川がぐるりと東西に向きを変える地点の、今里という部落の附近から始まっていた。そのあたりは一帯の急傾斜の山脚が両岸から迫った暗い感じのする谷間で、高い道路から見下ろすと、美しい色や模様をした大小さまざまの岩石が、水量の減じた冬の渓流に磊々らいらいと横たわっている。
 水は谷底の岩や砂礫のあいだを一筋の青い糸のように流れているが、その水に腰を濡らした岩石のまわりには一様に真白な氷の縁縫いがレイスのようについている。この美しい岩と水との間から時々「ヴィッ! ヴィッ! 」というカワガラスの鋭い声が聞こえて来た。谷が全く静かなので、垂直距離にしてもかなりあるこの道路の上まであの鳥の早春の第一声が届いて来たものとみえる。
 やがて豆腐屋のお爺さんの教えてくれた釣橋というのが街道の左下へ現れた。これは谷の右岸の埼玉県側へ通じている橋で、登仙橋と書いてあった。後で見たのだがこの橋からなお三四町ほど先にもう一つ叢石橋という簡単な釣橋があって、この二つの橋の間の谷が有名な三波石の勝地になっているらしい。岩石の露出では叢石橋附近の方が優れていると思われたが、橋畔に一軒安っぽい料理屋のような旅館のような家があって、折柄白粉を塗った女が若い男とキャーキャーいつて街道狭しと羽根をついていた。こんな様子だと此処もやがて相当俗化するのではなかろうかと、場所が日本地質学の揺籃の地と呼ばれているだけに惜しまれた。よく調べたわけではないから果たしてどうかは断言できないが、歩きながら覗いたところでは、前に言った今里の部落附近から登仙橋あたりまでの間に、却って一層多種類の岩石の露出と、谷そのものの美しさとが見られるのではないだろうかという気がした。
 とにかく私としては登仙橋口から谷へ降りた。釣橋へは埼玉県側へ渡りきった所で、小さい発電所の前から右手の崖へ刻みつけられた小径を伝わって降りて行くのである、この小径の中ほどに現れていて、それをわれわれが踏まなければならないつるつる滑る暗緑色の大きな岩盤は、絹雲母緑泥片岩らしかった。
 谷の方向が東西へ向いているので、太陽が南中する時刻にもかかわらず河原は寒い日影だった。しかし下流を扼している山の膚へは麗らかな日が当って、あんな高い山頂近くに住居野すまいのとおぼしい平和な部落が見え、上流はこの深いV字谷を形づくる狭間の奥に、御荷鉾みかぼのつづきの雨降山が真青な空の下で褐色にかがやく円い頭をもたげていた。
 さすがにこの谷の岩石は見事だった。あらゆる植物が冬枯れた今の季節では、其処は全く石ばかりの世界、天然の石の庭だった。しかもその岩石という岩石にはそれぞれ固有の色彩があって、向うの方、下流の日の当ったところでは、断崖の岩と云わず水中から突き出た石と云わず、すべてが谷の走向のまにまに大きな弧を描いて、花やかな虹色を噴いていた。
 私は此処で紅簾片岩、角閃緑泥片岩、絹雲母緑泥片岩、緑簾緑泥片岩、石墨絹雲母片岩、石墨石英千枚岩のような片岩類と、各種のチャートを少しずつ採集した。岩石学の充分な知識があって、なお時間に余裕があるならば、此処での一日は確かに豊富な収穫をもたらすものに違いないと思われた。
 谷底の寒い河原で弁当をつかったり、岩から岩へと伝わって撮影をしたり採集したりしていると、若しもできるならば日の暮まで此処で遊んでいたいなという気がした。そのうちには西へ廻る太陽がこの谷間へ洪水のような光を注ぎ入れるだろう。そうすれば只さえ美しいこの岩石の世界がどんなに素晴らしい静寂と華麗とで私を囲んでしまうか分らない。だが今日ぢゅうに万場までなお五里近くを歩かなければならない私は、五六月頃の再遊を心に期して三十分ばかりで其処を去ると、崖を攀じ釣橋を渡って、ふたたび十石峠街道上の旅人となった。

 下久保、保美濃山ほみのやま、前野、稲村、矢納などという部落が、或いは南面の暖かそうな山腹に、或いは水に臨んだ両岸に、約一里のあいだその絵のような聚落風景を見せているあたりでは、神流川も至極のんびりした谷形をとって、両岸の山々は寝ころび、広々とした青空に白い雲が浮かんだり消えたりし、その街道をぶらぶら行く心は、さながら春の日永を物も思わず貴任も無しに、うつつに睡っている時のそれだった。ときどき路傍の家の屋根で黄鶺鴒が鳴く。鶏が真昼のときをつくる。水辺からミソサザイの囀りが聴こえる。もう御荷鉾層の地帯に入ったと見えて、眼にとまる岩石の色なども大分変って来たような気がする。
 やがてこの牧歌のような風景が終って再び両岸が山になり始めた所で、私は今来た道とそのあたりの部落とを振返って撮影した。其処は曲淵という地名のところで、路傍の或る岩から欠いて採った標本は、後で調べたら赤鉄硅岩だった。
 明朗な保美濃山から一里ばかりで、暗い日影の部落坂原へ着いた。此処は鬼石から出る乗合バスの終点で、また別に万場との間に第二のバスの定時往復がある。道をはさんで両側に古い家並みを持つ小さい部落ではあるが、神流川筋では万場に次ぐ物資の集散地らしかった。正月の盛装をした女や男が道ばたの僅かな日当りにたたずんで、静かに鬼石行のバスを待ちながら、其処を通る私のルックサック姿を黙って見ていた。
 坂原を後にすると道は次第に登りになって、左手の渓谷が深くなった。対岸からほそぼそと合して来たのは、城峯山じょうみねさんからの山道であったろう。やがて山鼻の堅い巨岩をくりぬいたトンネルが現れた。道はうねうねと曲りくねって、自動車に注意を与える建札が行く先々に立っている。神流川の谷は鬼石から万場までの間、このトンネルを中心に前後二三町の間が最も幽逡な趣きを呈しているように思われた。
 扇屋という小さな部落を過ぎ、太田部橋という新らしい釣橋を左に見、対岸三〇〇メートルの高みに人煙を上げる相見部落の白壁を小手をかざして仰ぎながら、漸く傾いて来た冬の日ざしを正面から浴びて道行く私は、そろそろ旅の哀愁と、その甘美さとほろにがさとを味わいはじめた。往手にはのけぞったような東御荷鉾が、空の青と夕日の金とにまみれている。見下ろす谷には赤、白、青の無数の岩が累々と横たわって、その寒い沈黙の底から時々カワガラスの声がひびく。私は路傍の石に腰をかけて、水筒から注いだ二杯の葡萄酒にほんのり酔った。
 こんなふうにいい気持になってぶらぶら歩いて行くと、ちょうど坂原から二里、もう柏木にも程近いという所で、うしろから万場行のバスが走って来た。これを見てふと乗ってみようかなと思った瞬間にはもう手の方が自働的に挙がってしまって、急停車したバスから降りた少年車掌に、私はルックサックを渡さなければならない仕儀になった。もう大体この谷筋の様子も見てしまったという言訳を、微酔と疲労とが甘やかせて、勝手に採用してしまったのである。目的地の万場まではあと僅かに一里ちょっとだった。
 こけら葺きの屋根ヘ一様に石をならべた農家の群が、まるで野趣汪溢する民芸品のようだった柏木やその対岸の大寄をバスの窓から感心しながら眺めて行くと、街道のまんなかに一台の大型トラックが停車して材木を積込んでいる。道幅が狭いので、そのトラックが動き出して何処かで躱かわしてくれるまでは此方が通れないのである。それがいつまで経っても悠々閑々と積込みをやっている。東京ならば忽ち運転手が怒り出して、ブーブーと喇叭で催促するかどなりつけるかする所だが、此処ではそんなこともなく、御無理御尤もとばかり、おとなしく、辛抱強く、永遠のように待っている。お蔭で二十分も遅れて万場へ着いたが、その横暴なトラックのうしろに「理研」と書いた札の下がっているのが皮肉だった。「雨の上高地」という故寺田寅彦氏の紀行随筆に、博士の乗ったバスが内務省のトラックに往手をふさがれて立往生を余儀なくされたので、仕方なしに車を降りて、梓川の小雨の中で煙草を吸いながらその辺に転っている岩塊を検査したという条くだりをその時思い出したからである。
 友達やその他の人の書いたものを読んで、もうかなり前からその名だけとは馴染になっていた万場の町も、いざバスから降ろされて其処の土を踏み、その場所を見、其処に漂っている空気を嗅いでみると、やっぱり昨日までの自分には何の繋がりもなかった見知らぬ土地へ来たという感じがするのだった。北に御荷鉾、南に父不見ててみえず、山と山との谷あいに細長い町並みをなしているこの万場という所、それが今夜の泊りかと思うと、警察があり、町役場があり、小学校があり、ギャレイジもあれば子供も遊んでいるという、格別変った眺めでもない世界に居ながら、旅の心は何とはなしに淋しかった。
 その淋しさをもう少し味わおうと、正月も七草前の夕方らしく相応に賑わっている町中の往来を誰にも訊かずに私は山屋という旅館を物色して歩いた。探し当てた山屋は町の西のはずれで雑貨屋を兼業にしている家だった。ところが入って行って今夜の宿を頼むとあいにく去年の暮から旅館営業を止めたということだった。仕方なしに何処かほかに宿屋は無いかと訊くと、親切にも若者を一人つけて町の中程にある今井屋という古い宿屋へ案内して呉れた。この家も気持のいい家だった。往来に面した二階の座敷へ通されて早速両脚を投出すと、さすがに一日の疲労は感じられた。ちょうど沸いた風呂へいちばん先に入れてもらって、すっかり汗と疲労を流して帰って来る途中、廊下の窓から外を眺めるともう日はとっぷり暮れて、真黒な山の上には去年の夏の思い出の木星がきらきら輝き、沈んでゆく白鳥の星座が巨大な十字架のように谷奥の空に突立って、夜風の運んで来る神流川の水音が微かに聴こえた。
 その夜一本の銚子を傾けた後で、宿の女の持って来た紙へ、私はこんな腰折れを一首書いた。

  父不見ててみえず御荷鉾みかぼも見えず神流川
  星ばかりなる万場の泊り

 今日も空はからりと晴れて、冬の朝の新鮮な日光が万場の町へ横ざまに流れている。宿の女たちが寒い寒いと云うので今朝の気温をたずねると、「零下五度でございました。こんなに凍みることはめったにございません」と云う。
 私の住んでいる東京西郊の井荻ではこの頃午前六時の気温が平均マイナス七度ぐらいだから、此処の方が暖かいわけである。
 石を採集したために却って重くなったルックサックを担いで八時半出発、玄関前へ並んで優しい事どもを云いながら見送ってくれる宿の人たちと別れる時振返ってふと軒下を見ると、表札の隣りに「出征軍人」という木札が懸かっている。「御出征ですね」と云ったら、「今のところ未だ高崎で待機中だそうです」と細君らしい若い女の人が活発に答えた。女中たちは朗らかに笑い、姑らしい人は揉み手をしながら微笑している。時変下の正月の朝の、山の町での一場景だった。
 西御荷鉾への私の登路は、万場の町の東はずれで橋をわたって、隣りの生利しょうりの部落の直ぐ取付きから左へ桑の段畠の間をジグザグに登って行くものだった。生れて初めて一夜を宿ったその町がだんだん眼の下になって行く。しかし今朝は昨日の夕方と違って全くの異郷のような感じがしないのは、たとえ僅かの間でもその土地を見られるだけは見、味わえるだけは味わったせいかも知れない。こうしてわれわれの体験をとおして、幾多の土地がいつか国土の詩の顔になるのだ。
 もう沢を隔てて西の方には朝日をいっぱい浴びた桐きりノ城じょうやおどけ山が美しい書割りのようにずらりと並んでいる。まだ露の立っている神流川の奥からは叶山かのうやまや二子山が次々と要塞のような山容をせり上げ、左手、川の右岸には、父不見が朝の大きな陰をまとって横たわっている。段畠を登りつくすと岩盤を切りあけた路になり、それを抜けるといよいよ沢沿いの登りになって、往手には目ざす西御荷鉾が悠然と萱戸の胸をひろげていた。頂上近いその斜面の萱を刈って現した、あの有名な丸に大文字の模様も見える。
 路は飯山めしやまの中腹、気奈沢けなざわの左岸二〇〇メートルばかりの高みを、ほのぐらい杉の植林地へ入ったり明るい雑木林の斜面に沿ったりしながら、緩い勾配と楽しい静寂との中を登って行く。振返ると二子山の上にはいつの間にか両神りょうがみの岩峯群が鋸の歯のようにせり出している。望遠鏡で眺めるとその岩峯一面に飛白かすりのように雪がついている。やがて両神の右手奥に秩父十文字峠の北の三国山も見えて来た。曾遊の山々が、愛しつつ拙く別れた昔の人たちの顔のように、一人の私を遠くから幾らか悲しげに見守っている。
 うしろから山へ木を伐りに行くという下の部落の百姓が追いついて来たので、暫く話しながら一緒に歩いた。西御荷鉾の大文宇は毎年四月七日に万場と生利の人たちの手で刈って作られるのだということをその人から聴いた。頂上には不動明王の像が二つあって、一体は南を向いていて神流川筋の信徒が建てた物であり、もう一体は北向きで三波川筋の人たちの建てた物だということも聴いた。何となく秋川沿いの山でも歩いているようなのんびりした道での、至極のんびりした道連れだった。何処かでうそが笛を鳴らしていた。みそさざいも二羽見かけた。
 百姓と別れて暫くすると、路は気奈沢の右の枝沢の詰めを越えて山腹の小平地である池ノ平へ出た。茫々と枯れた山薊や大蓬の間に、半ば風化した緑泥片岩らしい岩石が美しい暗緑色をして所々に現れている原である。西御荷鉾の枯草の一斜面を背にし、前は神流川の谷に臨んでいるので、この斜面のテラスは一見荒涼としていながら、今日のような無風快晴の日には春のように温かい。其処の岩へ腰をかけて西から南へと次第に視線を漂わせれば、正面にどっしりと横たわった赤久繩山あかくなやまの左に、八ガ岳がその赤岳、横岳、硫黄岳の白熱した峯頭をならべ、遥か三国山の右のはずれには夢のような金峯山がその水晶の稜角を光らせていた。
 原の東の隅には無数の鶫つぐみが餌をあさっていた。下の方の一ところこんもりした杉林で何か頻りに鳴いているので望遠鏡を向けると、私としては初めて見るいすかの群だった。二十羽ぐらいは居たろうか、杉の葉の黒ずんだ緑とその鳥の眼も覚めるような赤とが素晴らしい対照をなしていた。私は胸をわくわくさせながらこの思いもかけない看物に心を奪われた。其処ではまた薊の去年の実を啄んでいる一羽のべにましこをも見ることができた。

 池ノ平を後にしてなおも暫く登って行くと一つの小さい鞍部に着いた。小径が二本に岐れている。少し降りになる沢の詰めの路を真直ぐ奥へ入って行けば投石峠なげいしとうげへ、左へ切れれば西御荷鉾の頂上から西へ出ている主稜へ取りつくらしい。それで後者をとった。初めのうちはざくざくと厚い落葉を踏んで登った。やがて周囲がからりと開けて、御荷鉾の広い胸板を形作っている枯草の大斜面へ出た。一本の細径はこの斜面をかなり急な勾配で登っている。下から見ると顕著なあの大文字とそれを取巻く輪の傍を通っているのだが、余り大きいので自分は其場にいる癖に判らない。この急斜面を三〇〇メートル近く登って主稜へ出ると頂上まではほんの一投足で、露岩の上には不動尊の像が立ち、三角点の標石があり、そして全く新しい広大な視野が展開した。
 標高一三〇〇メートルにも満たない芝生の山頂、その感じから云うと御坂山塊縦走路中の或る瘤か、桂川の左岸の扇山でも思わせるようなこの西御荷鉾の頂上は、しかしその位置が位置だけに、真冬の雪に輝く関東平野北方の山々に対して優れた展望台をなしている。
 まず忽ち眼につくのは、程近い稲含いなぶくみの右手奥、荒船、物見、矢ガ崎とつづいて一段低くなった碓氷峠の上に、まるで巨大な銀の兜を伏せたような浅間山だった。妙義などはその下で真黒にごたごたと犇ひしめいている。浅間と鼻曲山との間には遠く四阿山あずまさんが見え、浅間隠しから榛名山へかけては白根、岩菅、更に信越国境の白砂、佐武流さぶりゅう、苗場あたりが純白な翼を収めてそれと指摘され、榛名の上には大源太、万太郎、谷川などの上越の雄峯が莫大な雪を担ってどっしりと構えている。
 北から東寄りの眺めでは、群馬の野にあの優美な裾野を曳く赤城が忽ち眼につくが、雪は榛名同様その幾つかの峯頭だけにしかついていない。しかし赤城の左の裾の尽きるところ、利根の谷奥を圧して横たわる武尊ほたかはいかにも印象的である。その右の奥に一つ真白にぽつりと見えているのは、尾瀬沼の北の燧嶽だろうと思われた。赤城の黒檜と殆ど重なって一層高く日光白根、その右に皇海すかい山、さらに右手へ男体山のドームとなって、この九十度の視界に浮かぶ白銀の地平線は終っていた。
 赤久繩あかくなの左、神流川の奥の空には八ガ岳がプラチナのように輝いている。距離がほぼ浅間山ぐらいなので、望遠鏡に映るその細部の彫刻が実に見事だ。それからずっと左寄りに金峯山は遠く去って行く船のように見えるが、雪を塗りこめた山頂はこの二つだけで、あとは両神の上へ出ている甲武信ガ岳も、破風、雁坂、和名倉、さては父不見の左に覗く三峯みつみねも、その山体を被うている秩父特有の針葉樹や南からの逆光のために、濃淡の黒い影絵を重ねたように見える。
 こうして一時間ばかり、遠い眺めを楽しみながら弁当をつかったり、腹這いになって煙草を吸ったりして、やがて東の山稜を投石峠の方へ私は下りた。この降りはかなり急で、正面に同じような山容をして立っている東御荷鉾が忽ち見上げるように高くなる。暫く冬枯れの萱戸の尾根を急降下して行くと樹林がはじまって、狭い尾根の左側がえぐったように崩れ落ちたいわゆる「青崩あおぐえ」の地点へ出た。これは緑泥質の片岩と思われる岩石のかなり大規模な崩壊地で、幅は一〇メートルもあったろうか、高さは見える限りでも優に一〇〇メートルは算せられるが、見えない下の方でも未だ続いているらしかった。その色が沈んだ暗緑色をしているところから青崩の名は起ったのであろう。
 東西御荷鉾の鞍部をなす投石峠はそのすぐ下だった。北甘楽郡日野村から多野郡柏木へ越える峠で、あまり利用されないとみえて寂しい間道の趣きを呈していた。峠の名の由来と謂われている石の破片は、狭い鞍部のあたりに無数に散乱していた。これも薄く割れた緑泥片岩らしく、手に取って見れば蠟色光沢のある暗緑色で、爪で掻くと容易に白い傷がついた。人っ子一人通らないこの峠には、日雀ひがらが群れて盛んに「ツツピン、ツツピン」をやっていた。
 峠からは南へ少しのあいだ西御荷鉾を捲くようにして、やがて入沢いっさわの詰めへ出て、今度はこの沢伝いに一里を降って十石峠街道上の柏木へ出るのである。私の経験では入沢は柏木へ向けて下流半里ばかりの間が美しく幽邃のように思われた。上流の半里は炭焼が入っていて盛んに伐採されているのと、水量が少いからである。この沢では各種のチャートを採集することができた。従来角岩とか硅岩とか云われている種類の石が多かった。小径が絶えず浅い沢と並行したり交叉したりしているので、到る処に花のように露出しているこれら多彩の石を採ることは私のような初学者にはまことに都合がよかったのである。
 こうして僅か一日半の旅も天気に恵まれ、経験に富まされて、手に入れ損ねた書物への欝憤もどうやら充分に晴らされたように思われた。

 

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 一 日

 冬の初めのぼんやりかすんだ靄の朝。夜来の雲はまだ散らず、太陽の在りかも分らない。
 屋根の切妻に沿って立つ煙突から、まっすぐ上がるストーヴの、太い、柔かな、蛋白青ブルウ・オバリーヌの煙の柱、摺硝子のような味気ない空へ混じりにゆく煤の微分子、形骸を転じた石炭のたましい。
 古い家を、灰色の幹をした多くの樹々が囲んでいる。十二月の空間を針のように刺すその梢から、風も無いのに、散り遅れた最後の枯葉が舞い落ちる。枝から落ちるその際を、「小さな手を放すように」と適切にも歌った日本の詩人は誰であったか。しかしそれぞれ固有の「時」が満ちて、永くとどまっていた母なる樹から、転瞬の間に身をひるがえして落ちるその忘我の妙境は、事実、手を放すと言うよりほかはない気がする。
 朝の静謐な家のなかに、或る柔かな音の輪がひろがる。それは単調な、高低も強弱もない一聯の音響であるが、一つは一つと互いに輪郭をぼかすように後を追って鳴りながら、壁や廊下や部屋への通路の屈曲のまにまに、巻きついたり縺れ合ったりして流れている内に、やがて落着く場所へ落着いたかのように消えてしまう。再び帰る沈黙。掛時計が午前九時を報じたのである。
 時計の音というものは、節は知っていながらその曲の名の咄嵯には思い出せない古い歌に似ている。往来を誰かが口笛吹いて通る。われわれはほとんど反射的に、心の内か鼻歌かでそれに合わせる。歌ってから考えてみると、それが「アンニー・ロウリー」であったり、「オ・ソレ・ミオ」であったり、あるいは「アルルの女」の行進曲であったりする。同様に仕事に夢中になっている時、何かに気を取られている時、人は時計の音を単に聴くだけである。そしてその音の数と、それに関聯する意味とを、彼が常に必ずしも努めて理解しないことは、人間にとって却って一つの恵みであるとさえ云えるであろう。悲しみにせよ、喜びにせよ、仕事にせよ、すべての恍惚や夢中は「時」を超越する。
 窓の外、しだいに晴れてゆく空の下では、楢や櫟の無心の落葉。窓の内部、白い壁を飾る額縁にはヘルマン・ヘッセの詩と水彩。そのいずれにも「無常迅速フェアゲングリッヒカイト」の題が与えられている。
 そして昨夜遅くまで読み耽られた「ナルチスとゴルトムント」の物語が机の上に。

     *

 十二月初めの晴れた日の、裸になった樹々にも増してきっぱりした、純潔な、男らしく美しい物があるだろうか。まんまるな大空は竜胆りんどうの花の色、遠く南の天から流れて来る太陽の光は黄。樹木はこの反射光と透過光との二色ふたいろの光を全身に浴びて、冬の自然の中、いよいよその輪郭を、その個々の存在をはっきりさせる。
 彼らは何処にでもいる。武蔵野の田舎と、首都東京の縁辺をなす郊外のいたるところ。
 昔の街道の豪勢な並木であり、部落の在りかの目じるしであり、古い農家の誇りであり、また大空に散りしく雲の箒であるあの欅けやきを私は愛する。
 私は愛する。この平野の雑木林と云われる物の主力である櫟くぬぎ、小楢こなら、栗の木を。私は路を埋める枯葉を見て、その元の木の名を云うことができる。また暗い夜の星の下、彼らの幹を撫でただけで、その名を言いあてることも私は覚えた。そして若しも私がわが家の前庭にうず高い落葉をその儘にして置くとすれば、それは飢饉の冬に食物を漁りに来る小鳥たちのためであり、また後庭の枯葉の山に火を放つとすれば、それはちらちら動く炎の踊りと、日光に満ちた空間へ渦巻きのぼる煙とを、私の楽しい冬の祭と思うからである。
 樹木に対する私の愛の最初の記憶は遥かに遠い。それが何時から、何を機縁として始まったかを云うことは今ではもう到底できない。それはちょうど、生れて初めて「物のあわれ」を知りそめた動機や日附について、誰にせよはっきりしたことが云えないのと同じである。只、十五年前に出した初めての詩集に、私は「空と樹木」という題を与えた。そしてその瞬間から樹木に対する私の愛は自覚的なものとなった。それはあたかも人が恋を自覚した瞬間と同じようなもので、物のあわれを感じる情は、恋愛への目覚めの雰囲気は、すでにそれ以前から知らず識らずのうちに醸されていたのである。
 樹木は初冬の太陽の金にまみれ、大空の青に塗られて今日も私の平野に立っている。卓然と群を抜く大木にせよ、巡礼の行列のような小川の縁の並木にせよ、また大家族の一かたまりのような雑木林にせよ、すべて私にとって彼らは親しい。彼らは私の毎日の友だ。
 そして私はしばしばこう思う。私がこの世に暇を告げる最後の瞬間に、どうか平和な樹々の姿が窓のむこうに在るようにと。どうか穏やかな田園の自然が、その佳き日の太陽や、悠久な青空や、白い行雲や、また実にその遠近の木立とともに、私のいまわのきわの眼を祝福してくれるようにと……
 映画で見るアフリカの、あの乾き切った、目もくらむような単調な自然、太陽の下の底無しの寂寞。私はあんな処で死にたくない。

     *

 私が北西の季節風にさからって、この十二月の田園を進むとき、道のゆくて、森のはずれや畠の大きな広がりの果てに、ひどく曇ってさえいなければ、何時も青い秩父の武甲山が見える。そしてその山を目あてにして行くかぎり、私はきっと田無たなしの町か石神井しゃくじいか、或いはその間に微妙な緩い起伏をもって展開する、のんびりとした田舎へ着くことができるだろう。武甲山は武蔵野を歩く者にとっては磁石に対する鉄のようなものである。
 またもしも私が暖かな太陽に鼻を向けて、瞼毛まつげをしばたたきながら美しい逆光の中を進むとすれば、私の足は三鷹村から神代村じんだいむらへ、なおも伸びれば狛江こまえあたりの、水辺に日照りさざめく多摩の河原へ出てしまうだろう。
 樹木や草が友であるように、大小の道もまた実に私にとっての友である。知り尽している道は親しくて、安心で、物を考えながら歩くのにふさわしく、初めて通る知らぬ道は事毎に珍らしくて、見る物に豊富で、新しく手に入れた書物を開くように楽しみである。別にこれという当てども無く、気紛れと偶然とに足を任せて歩くのもよければ、ふと現れた何処かの村の入口で、最初に出遭った人をとらえて道を聞くのも面白い。何れにもせよわが家から二里や三里の道のりならば、どんなに迷おうとも夜までに帰れることは知れている。それが知れていればこその余裕のある散歩である。
 しかし何々街道と銘打たれた、道幅の広い、坦々たるアスファルトの鋪装道路を私はもう余り好まない。其処では今もなお両側に欅や杉の立派な並木を見ることができるが、あの貨物や乗用自動車の絶え間もない疾走を見ては、到底以前抱いていた街道に対する信頼を維持することはできないし、其処から汲んだ無限の、たっぷりした、甘美な泉のような味わいを、再び期待する気にはもうなれない。
 昔の村落の住民が彼らの生活の必要のまにまに、しかも地勢に順応して作った道、雑木林のふちを通り、用水の流れに沿い、或いは田圃や畠の中を悠長に廻って部落と部落とを繋いだ道やその枝道。私はやはりそういう道を愛する。喜びと信頼とをもって彼らを踏み、たどって行く。
 野良へ働きに行く百姓のほかには、一日ぢゅう人も通らないような小径の傍らに腰を下ろして、平和な田園の広がりを眺めたり、雲を見上げたり、風をよけて低い薮蔭の日溜りにひっそりと咲いている、小さな青い瞳のようなイヌノフグリや、縮れた裾をひるがえして踊る踊子のようなカスミグサの紅い花を見つけたりすることは、冬の小径の上での深い、静かな喜びでなくて何であろう。

     *

 雲に捧げた一篇の文章をいつかは書きたいと思いながら、いまだにそれが書けないのは、必ずしも私の怠慢からだとは云えないにしても、私の無力からだとは確かに云える。
 私にとって、雲は植物と同様に、思い出すことのできるかぎり遠い少年時代からの、自然の中なる二つの愛の対象であった。夜になれば母と寝るほどの幼い頃から、――尤も私は十二の年まで母と寝たが――、昼間物干台や屋根へ上がって雲を見ることの楽しみをみずから学んだ。遥かな物、生々流転して常に形を変える物、この世の物ならず美しく、人の憧れの思いを誘ってしかも永久に手に取り難い空のまぼろし。あの雲への不断の憧憬は、私のいままでの生涯の内面生活に深く交渉し、私の夢見がちな傾向を助長し、過去と同様、未来にもなおその魅惑の力を振うであろう。それで私にはまだ決して易々とは雲が書けないし、急いで書く気持にもなれないのである。私がそれを書く時には、真に「私の雲」でなくてはならない。
 暑い、力強い、壮んな夏、つやつや光る青空と晴れた日の西風にけぶる薄紫の林との冬。遠い地平の空に浮かぶ積雲こそ、私にとっては「永遠に女性なるもの」の姿である。また幾日か続いた快晴の日のいや果てに、天候の変化を告げるようにその千筋の糸を繰り出したり、解かれた髪の毛のように、或いは長い釣針のように、大虚の奥を白々と流れる巻雲。私はこれを見て倦きることを知らない。
 たとえ雲についてなにほどかの学問的知識を私が持っていたとしても、私はそのために自分の言い難い感情を少しでも歪めようとは思わない。気象学上の雲と、私の詩情の中の雲との、その何れかを選ばなくてはならないとしたら、私は喜んで後者を採るだろう。しかしそんなことが無いとすれば、やがて書かれる「私の雲」は、この両者を調和させた未前の雲の詩であるべきである。

     *

 杉の植林と田圃の用水との境、狭い薮の中で消えがちな小径こみちを私は歩いている。若い灌木の枝に、まだしっかりしがみついている枯葉。それが歩くたびにがさがさ鳴る。ムラサキシキブの藤紫の実、マユミ、ノイバラ、ガマズミの赤い実、スイカヅラの黒い実。そういう可憐な色々の実が、斜めになった日を受けて冬の珠玉のように光っている。
 突然、一羽の鳥が一声「ツー」と鳴きながら私の眼の前から飛び立つと、細長い田圃を低く横切ってむこうの林へ飛び込んだ。私はその声と羽根の色とで、それがアカハラだったことを知った。背や翼の鶯色と胸の狐色とが、瞬間、美しく日光に照りはえた。きっとガマズミかノイバラの実を食べていたのである。
 私は小鳥にめぐり合おうとする時にいつもするように、足音を忍ばせて、できるだけ静かにゆっくりと進んだ。すると今度いきなり出遭ったのはジョウビタキだった。これは眼の前に現れた低い榛はんの木の枝に棲まっていたもので、灰色がかった羽毛と、翼にある白い紋と、赤銅色に輝く見事な尾羽とで、ジョウビタキの雌であることが分った。私と彼女とは顔を見合わせた。頓には身動きもできず、人間と小鳥と双方が立ちすくんだ形だった。真黒な玉のような眼がびっくりして私を見つめた。そして次の瞬間には声も立てずに飛び去った。
 「住むべきは田舎!」 私はつくづくそう思った。
 田園の牧歌をぶちこわすように、高圧線の鉄柱が無遠慮に林をまたぎ、その太い電線が野末の山脈の美しい限空線を揶揄するように、厚かましい直線で北から南へ走っている。しかし何にでも多少の取柄は有るように、この電線も秋や初冬の渡り鳥にとっての、翼を休める棲まり場にはなる。
 私は畠道を歩いている。もう午後四時を過ぎて、太陽は富士の左の裾へ沈むために最後の行程を急いでいる。その光が秩父連山や大菩薩の連嶺を横から照らして、山々の重なりを浮き上がらせている。或る酩酊のようなものが、その山々をほんのりと紅く上気させている。畠の中に干場ほしばを作って、其処に吊るされた大根が夕日の光で珊瑚色に染まっている。平和だった一日の、清朗な、すこし寒いほどの夕暮である。
 私は高圧線の電線に二羽の鳥の姿を認めた。鴉よりは小さく、椋鳥よりは大きい鳥である。私は雙眼鏡を擬してそれを六分の一の距離に引き寄せる。鶫つぐみであった。
 鳥類学者は云う、彼らはその繁殖地であるシベリア東部やカムチャッカなどから海を渡って、遠くわが国まで冬を過ごしに来るのだと。私は眼鏡をとおして凝視する。なるほど二羽の鳥は何れも痩せて長途の旅の疲れをあらわし、翼の端も尾の端も、擦り切れて箒のようになっている。しかもその顔よ! その顔は真面目で愛くるしく、少しびっくりしたように眼を見はって、この見知らぬ国土の夕暮の広がりを眺めている。
 途端に、何かプスッというような音がした。それと同時に二羽の鳥は初めて鶫独特の「クェイ・クェイ」という声を聴かせながら、打連れて東の方へ飛び去った。濃い紫の煤煙が地平にどんより澱んでいる東京の方へと。
 私は畑中に苦笑いして立っている空気銃の持主に対して密かに快哉を叫ぶとともに、助かった二羽の遠来の鳥のために今後の安全を祈るのだった。

     *

 西の空に一抹の夕映えを残して日が暮れる。テイブルの上には散歩の折のアキグミの一枝が美しい実をつけたまま置かれている。電燈が柔らかに書斎を照らす。媛炉から荒磯のような音が起こる。私は煙草に火をつける。一日の思い出が絵巻のように繰りひろげられる。心は詩に満たされ、誰へともない愛に満たされる。それが何かの形で書かれるのはいつだろうか。

 

 

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 羽族の思い出

 ひとたび自然の中の「野禽」という世界へ想いをひそめると、私の記憶の映写幕エクランの上を、彼らの無数の姿がぞろぞろと通るのである。画面の奥を、鉛色の空にまぎれて、淋しく通過するためにぼんやり薄く見える群もあれば、自己の存在の意義と特色とを強調するかのように、鮮かに、大きく浮き出して、堂々と前景を横ぎる個体もある。小さい嘴を思いきりあげたシルヴェット、晩春の旋律に膨らんだ咽喉、片脚上げて頬や後頭部を掻く時のひどく人間じみた動勢、或る時の突然の遭遇にびっくりしてこちらを見つめた真黒な眼。そういうものが陸続と眼前をよこぎるのである。
 そしてそのどんな場合、いかなる種類の野禽でも、思い出すかぎり皆とりどりに美しく、それぞれが私の幸福の理由だった。ぽうっと上気した樹木と汗ばむほどの陽のぬくみ、自分の歩いて行く道の上で、春の泥ついばむ一羽の燕の顔を見たということが、どうしてその日の私のつつましやかな幸福に関係しない謂われがあろう。また青肌蜻蛉や川蜻蛉がしきりに羽化する郊外の初夏、或る朝の思いがけない郭公の点呼に、どうして私の詩的精神が活潑な「出席プレザン!」を答えずにいられたろう。「忘れ得ぬおもかげ」のアルバム。今、雪にたそがれる冬の宵、炉辺に記憶を繰りながら、在りし日の彼らを呼び覚まして、その折々の自分をもう一度生きることがなんと楽しいか!
 およそ十五年前、当時は今よりももっと田舎だった豊多摩郡上高井戸の、雨にけむり夕日に染まる野の片隅、其処に二段歩の土地を借り、一棟の小屋を建てて、私たち夫婦は住んでいた。近所と云っては僅か二軒の農家ばかり、あとは畠の広がりと雑木林という寂しさだった。春はその畠から雲雀が揚がり、冬はその畠へ鶫が下りた。
 家の裏手を走る小径を北東へ辿ると大木ばかりの松林、それを抜けると地勢はだらだらと下って、井ノ頭の水に灌漑される水田になる。そのだらだらの緩斜面に、杉や檜の植林と、櫟を主とした雑木林とがあった。そしてこのあたりが小鳥のよく訪れる場所だった。
 雪になりそうな冬の或る日の曇った午後、私たち夫婦は田圃の方へぶらぶら歩いていた。家の近くを歩きさえすれば、かならず何かしら小鳥に出会うのが常だったから、その日もそれを期待しての散歩だった。果たして途中先ず一隊の四十雀に逢い、続いて雀と一緒になっているあとりを見た。この田舎ではあとりのことを山すずめと云っていた。私たちは檜林の中の小径へかかった。すると林の中から、ついぞ聴き馴れない、極めて低い、それでいて耳の底へしみ込むような声が聴こえる。私は妻の袖を引いてたたずんだ。二人とも息を殺して耳をそばだてた。
 幻聴だと云えば云えるような不思議な声、或る種の昆虫の翅の摩擦音を想わせる音、それがだんだんに近づいて来る。私たちは木蔭に身を寄せて窺った。と、次の瞬間に、直ぐ眼の前の檜の枝へ移って来た声の主、それは一羽の菊戴きくいただきだった。続いてまた一羽、即かず離れず枝移りして行く二羽の小鳥は、私たち人間がなおよく見ようとして足音を忍ばせて後をつけているのを知ってか知らないでか、金盞花いろの頭と苔いろの羽毛、珠玉のような霊妙な小さい体躯を軽々と動かして、絶えずあの声で低く鳴きつれながら、幾らか霜に焼けた檜の葉の緑のなかを、次第々々に遠ざかって行く。
 私たちは物の十分間も感歎の息を呑んでこの菊戴を見守っていた。そして遂に全く彼らの姿が消えた時には、ちょうど、西の山の端に沈む明星の﨟ろうたい光を、最後まで見送った者のような心地がした。

 絵に描いたのでない、剥製でない、籠の中のものでもない、本物の、生きている、自然の中の野駒のごまを初めて見た日の喜びよ。私はその喜びを今後も永く忘れはしまい!
 友と二人の山旅だった。それも二日掛けの最初の日の、しかも歩き出してまだ半道とは行かない地点だった。武州御嶽の北東山麓、多摩の渓谷の崖の上、中野部落のまんなかで野駒を見た。
 道連れは、詩人井上康文、時は新緑の山々に三葉躑躅がほのぼのと燃える五月の初め、青梅電車を御嶽駅で乗捨てると足も軽く、シューマンの「春のさすらい」なんぞ口笛で吹きながら、渓谷を右岸に渡って、爪先上りの坦道をすたすたと中野部落へ入って行った。朝日の光が下流の山あいから一杯に射して、梨の花の咲くこの村はすがすがしくもきらびやかだった。
 私たちが村の中程で御嶽参道を左へ曲った時だった。いきなり頭の上で朗らかな鳥の歌が流れた。思わず顔を上げると目も覚めるような咽喉の日の丸、一目でそれは野駒のごまと知れた。小鳥は往来へ張り出した或る家の銀杏の樹の枝にいたのである。三声、四声、野駒は立て続けに歌った。今ではもうその歌の節は忘れてしまったが、その音色が山間の朝の空気を顫わせ、静かな四辺にこだまして、惚々とするようなものだったということだけは覚えている。私たちは茫然として立ちつくしていた。野駒はサッと身を翻して程近い水楢の大木へ移った。咽喉の緋色が流れた。彼はまた早口に歌った。そして私たちがまぶたを熱くして見詰めている中を、忽然と谷の方へ飛び去って再び姿を現さなかった。
 喜びの感情が油然として私たちの衷に湧き上り、それがはっきりと意識されたのは、実に彼が全く声も姿も消してからのことだった。

 今からおよそ十二三年前、長尾宏也もまだ青年で、私もまたそれに準じて若かった。その年の八月、私たちは連れ立って八ガ岳へ登り、帰途は茅野へ出るというので行者小屋へ降った。
 私としては山らしい山への初めての登行だった。一日半の疲労と二晩の寝不足とへ、山を終った安心も手伝って、行者小屋へ着いた時にはがっかりしていた。友は小屋へ入り込んでココアを沸かしている。私は外で腰をかけて飲物のできるのを待っている。その私の前で五、六羽の鷽うそが遊んでいる。
 鷽はそれより前から飼っていた。今の新交響楽団のトロンボーン大津三郎が、以前は大井の谷垂で副業に小鳥商をやっていて、或る時「私はこの鳥が大好きです。まるでフルートのような声で歌います。先生もこれを是非お飼いなさい」と云って、わざわざ籠と餌まで添えて持って来てくれて以来、実際に私も好きになった鳥だった。だがこれもまた、自然の中で飛び廻ったり鳴いたりしているのに接したのはこの時が初めてだった。
 唐檜とうひであったか大白檜おおしらびそであったか、小屋の前まで迫っている原始林の巨木の枝へ棲まったり、地面へ降りたりして平気で遊んでいる鷽の群。そのほかにもまだ森の中で「フェン・フェン」と綿を打つ音のような声で鳴いているところを見ると、もっとたくさんの仲間が其処には住んでいるらしかった。だが私は夢のようにそれを眺めているだけだった。疲れてぼんやりした瞳に映るその鳥の、ほんのり紅い胸の色と上尾筒の著しい白。しかもそれらの鳥の姿と二重写しに、燃えさかる炎のような赤岳や、恐ろしかった横岳の嶮岩の列が眼前を揺曳する。そんな風にして、私は友の作って呉れる一碗のココアをひたすら待っているのだった。

 郷里へ帰省する友片山敏彦に誘われて、高知へ行ったのも夏だった。私は初めて名物の夕凪ゆうなぎの暑さを知り、炎天下の市いちを見、吸江ぎゅうこうのちぬ釣りを楽しみ、仁淀川の鮎釣りを味わい、そして海角に太平洋の波の砕けるところ、室戸崎の巨岩に群れて飛び鳴く磯鵯いそひよを見た。
 室津の宿を出て岬まで、あの木蔭も無い大道は、照り下ろす真夏の太陽に真白に燃えていた。だが右手太平洋から吹いて来る南の海風は涼しかった。ああ南の水平線! 咋夜はその星屑けむる水平線に、横倒しになる悲劇的な巨大な蠍座さそりざを、宿の縁側から眺めたのだった!
 左手の山へ登って燈台を訪ね、また降っていよいよ岬へ近づくと、波の怒号にまじって勇ましい鳥の声が聴こえ始めた。眼で探すと怒濤の砕ける花崗岩の巨塊の上、二十羽を下らない磯鵯の群だった。それが眼前に湧立つ太平洋の水をのぞんで、或いは飛び、或いは岩に下り立ちながら、澄んだ笛の音のような、また鈴の響きのような声で鳴いている。それまで私の知っていた磯鵯と云えばみな籠に飼われた者ばかりだった。今、その本来の自由の世界で、しかもこの最も豪壮な海角で、水と空との青にまぎれ、怒濤と和して声をかぎりに歌っている。実に浅学の私の知る範囲で、こんなにも雄渾な鳥とその環境との看物はかつて無い。
 私は友の肩へ手を置いて室戸崎への案内の好意を謝し、彼の故郷を賞讃する言葉を述べた。「いいだろう!」と友は誇らし気に云った。「僕の詩にある高知の空と太平洋の水の広がりね、それが、今度君に解って貰えて僕も本当に嬉しいよ!」
 それが少しも自負や誇張と響かないほど友の言葉は正当で且つ自然だったし、私の感激もまたそれを悉く肯定するほど深かった。

 

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 鴉とつばな

 去年の五月九日の朝早く、裏の雑木林の縁へ立って眼の前を流れる善福寺川の葦や針藺はりいの簇生した低湿地を見渡していると、その中の或る一箇所へ嘴細鴉はしぼそがらすらしいのが二羽下りて頻りに何かを啄ついばんでいるのに気がついた、一体何がそんなに有るのだろう。鴉は何を食っているのだろう。そこで一旦家まで雙眼鏡を取りに戻って、さて改めてもう一度目的の鳥とその餌物とを見直した。
 休耕中の水田とも只の湿地ともつかない場所へ下りているのは、やはり嘴細鴉だった。新緑の朝の薔薇いろにそそぐ太陽の光をうけていきいきした紫黒色に濡れたその羽毛を、レンズの視野に浮上らせて見ていると、生来あまり好意を持てなかった鴉という鳥に対して新しい見地をとらないわけにはいかなくなった。しかし彼らの盛んに啄んでいる餌物の正体に至っては、私の六倍のプリズム望遠鏡の能力を以てしては依然これを明瞭にすることはできなかった。
 何か知らぬが白く光る、柔かそうな、いくらか紡錘状をした、長さ一寸余りの蠕蟲のような物だという所までは判ったが、それが一体何であるかははっきりしない。なめくじだろうか。それともこの頃盛んに羽化するやんまとんぼの、まだ成蟲になったばかりのぶよぶよした奴だろうか。しかしそれにしては啄まれる餌物の数が多すぎるようだ。ほとんど鴉の一歩ごとに餌物は発見されるのである。そして暫くすると其処から二町ばかり離れた東京女子大学の構内の方へ飛んで行って、また帰って来ては同じことを続けるのである。つまり鴉がその餌物を自分で食ってしまうのではなく、ほかに何か目的があって何処かへ持って行くのである。そしてもう一つ気のついたことは、彼が啄みとった餌物をあの太い嘴いっぱいになるまで銜くわえ溜めて、それから運び去るということである。これだけの事実を見てしまうと私は家へ朝飯に帰った。
 食後には、今度は下流の石橋を渡って、先刻鴉のいた湿地を調べに行った。もう鳥は居なかったが、行ってみれば謎の半分は直ぐ解けた。あの白く光った、柔かい、蠕蟲のように見えたものは白茅ちがやの稚い花穂で、俗に言うつばなだった。それは蛙のころころ鳴く五月の水辺に近く、大地が点じた無数の可愛い白い焔のように見えた。
 自分がまだ小さい時、八つか九つの頃、深川の越中島の原へこのつばなを摘みに行ったことが思い出される。ちょうどいま高等商船学校の建っているあたりで、洲崎の方の海岸までつづく広い広い原のうちで、その附近に殊にこの草が多かった。白い練絹のようなぬめぬめした柔かな穂の触感、それを摘まんできゅっと抜く時の一種の手応へ、噛んでいるうちに青臭い匂いにまじって浸み出して来る或る種の甘味。そうしたことが折からの雲雀の嘲りや、春の潮風や、「つうばな、つばな」と歌った幼い自分の歌声などと一緒に、三十幾年を隔てていちどきに私の回想の中へ蘇って来た。あすこでは又よく兵隊が演習をしていたものだ。
 しかし、一体嘴細鴉につばなを嗜たしなむ習性があるものだろうか。どうもそうではないらしい。
 ことによったら彼らのごつごつした巣の底に幾らかの柔かみを添え、卵を産み落すべき産褥をもっと具合よくするために、ああしてつばなを集めているのかも知れない。
 もしも私に或る種の勇気があって、其処に寄宿舎のある女子大学の構内へ、あの「禁男の家」へ侵入して行けるとしたら、或いはその巣を検査することができたかも知れない。だが私には知りたい情熱はあっても必要な勇気が無く、意気地なく尻込みして空しく今日に及んでいる。
 誰かあの赤松の幹を攀じて、百尺の梢頭さらに一歩を進める人は居ないだろうか。

 

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 初心時代

 今まで話に聴いたり絵や写真で見たりしてはいても、それが実地に野生しているところを一度も見たことのなかった花に、或る日初めて出遭った時の悦び。また見てもその名の判らないのを、植物志を検索したり図鑑を繰ったりしてやっと調べ当てた時の嬉しさ。そういう悦びの瞬間は、ほんとうに植物の好きな人にして初めて味わうことのできるものだと思う。
 今日植物について多くの事柄を知っている人々も、一度はやはり今云ったような経験をした人たちなのであろう。
 山野をさまよいながら今ではすっかり親しくなっているそれらの花の前にたたずんで、この花たちの名を何時どうして覚えてしまったのだろうと思うと、全く不思議な気がするのである。さらにまた何百という紛らわしい植物の名を整然と分類して、実物を見れば直ぐに名の出て来るようになっている頭の中の霊妙な機構を考えると、いよいよ造物主の仕事の限りない偉大さに驚くのである。
 私の場合で彼らの名を知った時の二三の例を茲に書いて置くのも、或いは無駄ではないかも知れない。

 もう随分前になるが、或る年の春、五月の初めだったと思う、私は小仏峠から景信山かげのぶやまへ登って、あの武相国境の尾根を陣場山の方へむかって歩いていた。週間日でもあったが、未だハイキングなどという言葉も無く、今のようにそう盛んには人の歩かない頃の山路だったから、一人でぽつねんと行くのは春とはいえ少し寂しいくらいだった。空はきれいに晴れて、朝からの暖気にぽうっと懸かった青い霞。その霞の奥に雲取も大菩薩も三頭みとうも柔かに顫えていた。
 ちょうど景信からの長尾根が一旦南へぐっと曲ってまた西へ向いて行く、いわゆる堂所山どうところやまの中程だった。私は今まで途中でちょいちょい見掛けて来ながら格別気にも留めなかったスミレの一本を、上着のボタン穴へ挿そうと思って摘んだ。そうして匂いをかいだ。これはスミレを手にした人が大抵誰でも習慣のようにすることで、別に芳香の有無を確かめるというほどのしっかりした理由があってやるわけではあるまい。ところが、匂いがする。何とも云えず優しい、遥かな処からのような、佳い匂いがする。
 私は急に本気になった。割合に花のすくないあの尾根通りで、今までは碌によく見もしないで、タチツボスミレだけは多いなぐらいに思っていたのだが、よく見れば花の形も色もかなり違う。花冠もタチツボスミレよりは幾分大きいし、色も彼とは違って紅みが掛かっている。私はいつもポケットヘ入れている図鑑を繰った。どうやらニオイタチツボスミレというのが当っているらしかった。そこで二三本根をつけたまま掘り取って、帰宅してからもっと詳しく調べてみたら正しくニオイタチツボスミレだった。
 少しでも植物をやっている人に訊けば直ぐに教えて貰えるほどの名ではあったが、初心だけに、自分で調べ当てただけに、何だか自分を祝いたいような満足が其処にはあった。その後郊外へ住むようになると、このニオイタチツボスミレは近所の雑木林で幾らでも眼についた。

 五六年前の夏、浅間山麓の追分へ初めて避暑に行った。日盛りの午後一時ごろ、乗物が無いので親子三人めいめいかなりな荷物を提げながら、停車場から追分の宿まであの長い道を汗を垂らして歩いて行くと、先ず眼についたのはあの土地に多い蝶ウラギンスジヒョウモンと、太陽の照り下ろす乾いた路傍に咲いているレングソウみたいな花だった。何だろう、ついぞ見たこともない花だがと思ったが、何しろ荷物は多いし暑さは暑し、一刻も早く宿やどへ着きたいのでそのまま調べもしないで通り過ぎた。
 さて宿へ落着いて夕方散歩に出ると、往来にも小径にも先刻の疑問の花がたくさんある。今度はゆっくり調べることができたから、これも植物を好きな妻と二人で芝草の上へ坐り込んで図鑑を開いた。花の特徴は荳科のものに違いないので荳科のところを見て行くと、やがてシャジクソウだということが判った。茎の節の処に五枚づつ葉が着いていて、それがちょっと車輪を想わせるところから来た名らしい。直ぐそばにはタチフウロやクサフジが、また向うの荒地にはマツヨイグサやユウスゲが、都を遠い信濃の国の夕風に咲いていた。
「いろんな植物があるね。明日からが楽しみだ」と私は妻を顧みて云った。
 高原の夕日、身にしみわたる清涼。追分ガ原の広袤のなかで一羽のホトトギスが鳴いていた。

 クサレダマ(草連玉)というのを初めて見て、初めて名を知ったのは二度目の追分行きの時であった。そして初心者の悲しさには、これがよもや桜草科の草だとは思いもつかなかったので、正式の手続きを履んで植物志を調べたが、その何物であるかが分った時は、手数を掛けただけ余計に嬉しかった。
 例によって日盛りの時刻を胴乱をさげて追分ガ原の片隅を歩き廻っていると、少し湿地になった藪蔭に硫黄のような黄色味を持った小さい五弁花を円錐状に群らせた、高さ約一尺ばかりの草が眼についた。初めて見る花である。何だろう、何科のものだろう。さっぱり見当がつかない。とにかく採集して途々図鑑をはぐりながら歩いたが、遂に宿へ着くまで判らず仕舞だった。おまけにいつの間にか道をまちがえて借宿かりやどの方へ出てしまった。
 今ならば何だかトラノオ臭いぞぐらいはピンと来るところだが、当時は未だそれだけの器量さえ無かったのである。
 それで、帰ると直ぐに座敷の真中へ胴乱を持込んで、問題の草を机の上へ、ルウペ、解剖刀、ピンセット、さらに小型の植物志と道具立て宜しく、早速検索に取りかかった。これがまた初学者にとっては実に魅力のある楽しみなのである。
 まず合弁花だということは分かっている。次に「子房上位か子房下位か」。これも直ぐ分かる。上位である。「花冠は乾膜質か、否か」。乾膜質ならばオオバコ群だとある。どうして、どうして、オオバコなんぞとはたちが違う。それでは「雄蕊は花冠裂片の倍数であるか、或いは更に多数であるか」。否。然らば「雄蕊は花冠裂片と同数にしてこれと対生しているか」。そこでルウペを開いて対生かどうかをレンズで検査する。対生であった。「子房は一室か」。今度は雌蕊の根元の子房を解剖刀で切りにかかる。ところが何しろ相手が小さな物なので容易なことでは輪切りにできない。花をいくつも無駄にしたあげく、やっと「然り」の答えが出た。「花柱は一個か」。一個。それならばサクラソウ群に属すると書いてある。
 私は思わず苦笑した。ここに到って初めてトラノオを思い出したからである。
 もう此処まで判れば後は略して、急いで図鑑で桜草科を見る。直ぐ出て来る。画もまずはそれらしく描いてある。クサレダマ、Lysimachia vulgaris, var. davurica.
 その後気をつけているが、いわゆる武蔵野ではまだ一度も見掛けたことがない。多摩丘陵や下総丘陵あたりではどんなものであろうか。

 菫の一種のキバナノコマノツメ。あの可憐な金色の花を初めて見たのは甲州金峯山からの帰途だった。
 友と私、二人は昼ごろ金峯の頂上を辞して今宵の泊りである上黒平かみくろべらをさしてどしどし降っていた。御室ノ小屋前で休んでいると雷雨があった。其処から水晶峠へかけては只さえ暗い湿った針葉樹林なのに、折からの雨であたりはすっかり黄昏のような気分だった。二人は朝からの行軍で相当参って来た足を上黒平でのビールを楽しみに鞭撻しながら、水晶峠の暗闇を越えてやがて楢峠に近い濶葉樹林帯へさしかかった。その頃になるともう先刻の雷雨はすっかり通り過ぎて、西へ廻った日光が雨後の木の間へ千百の金の箭のように射そそいだ。二人の心もそれと一緒に晴やかになったが、まだ山は高く道は遠かった。と、突然、
「おい、見給え、キバナノコマノツメだよ!」と友が云った。
「どれ? これかい。これがそうか」と、私は友の教えてくれたその花をつくづく見た。熊笹の中を縷々として続く小径のへりに、それは点々と金色の菫形花をかがやかせていた。
 全山灰白色の花崩岩から成る金峯山と、真黒なその針葉樹林。私の眼からは終日黄色が奪われていた。黄という色は文明人の嗜む色だそうだが、それはとにかく、鮮麗な色彩に知らず知らず飢えていた私の眼に生れて初めて映った此のキバナノコマノツメの、しかも小指の先ほどの黄金色の花冠は正に一個の驚異だった。
 その夏、東京の私の庭には金峯を記念する此の草がたった一つ貴い蕾をほころばせた。その姿、その色は、私たち夫婦をこの上もなく喜ばせた。しかし翌年の夏には只葉をつけただけで花を見せなかった。そして三年目には、優しい草の魂が遠く金峯の空へ飛去ったかのように、跡形もなく消えてしまった。

 植物の名を覚えたりその生活を知ったりするには、やはり植物と馴染になるのが一番いいようである。それには先ず自分の家のまわりに生えていて日常容易に目に触れる雑草相手にゆっくり始めるのが確かなようだ。よく大勢で出掛ける採集会などで手当り次第にちょんぎったり引っこ抜いたりしては、先生や先輩に教えて貰った名を書いた紙テープで括って、そうして片っ端から胴乱へ詰め込んでゆく人を見受けるが、あれではいかにも蒐集欲が満足させられるだけで、植物そのものを本当に知ったり味わったりすることはできないのではないかという気がする。標本の数はどしどし殖えるだろうが、集めただけの物が果たしてその人の肉となり血となっているかどうかは甚だ疑わしいことのように思われる。
 趣味にせよ学問にせよ、徐ろにしみこむ水のような愛や観察無しで、どうして自然の殿堂深く進み入ってその美だの真だのを窮めることができるだろうか。
 一種でも二種でもいいからその全体と部分とを丁寧に観察して、それを写生するなり文字で表現するなりすることは非常に有益なように思われる。私は友人武田理学博士の案に少しばかり自分の工夫を加えて、別掲のような記載用紙を作って、それに観察の次第を記入することをやっているが、これなども悪くないようである。これに写生画がつけば錦上更に花を添えたと云えるかも知れない。とにかく本当に植物が好きならば、こうして急がずゆっくり観察研究を続けているうちには、一層深くなる興味とともに期せずして意外な発見をすることも有りそうに思われるのである。
 まず自分の家の庭の植物相から始めて、次第に近所の路傍や野原などの物に及ぼして行ったら、それだけでもなかなか面白い観察はできそうである。更にそうした記録には色々の方面から見て貴重な価値がある。たとえば今では絶滅してしまったが、以前は此処にも斯々の植物が自生していたというしっかりした記録が残っていれば、そこで植物の分布と土地の変遷との関係が考えられるようなものである。一例を挙げれば、私の家の近所に湿地に臨んだ崖があって、その斜面に武蔵野では珍らしいワダソウが自生している。それが年々数を減らして行く。なぜそうかと云うと、いままで雑木林や畠であった所にだんだん住宅が建って、其処に住む人たちが塵埃の捨場が無いのでこの崖の上から下へ投げ捨てる。それが崖錐のように積もって元の斜面に生えていたワダソウを生き埋めにしてしまうからである。
 そうかと思えば二三年前まで雑木のひこばえと薄が主の荒地であったのが、其処の地主が開墾して分譲地にしようという気を起したために、今ではヒメジョオン、ジシバリ、ノゲシ、ハハコグサの類が取って代って密生しているというふうに、すっかり植物相が変ってしまうのである。こうしたことも観察して記録して置けば、何ぞの時には役に立つかも知れないと思うのである。
 初心時代には自分のちょっとした観察や発見にも深甚な喜びを経験するものである。そういう時、あれやこれやと欲張らずに一つの物を真面目にゆっくりと味わって、本当にその旨さが分かれば、健康な食欲は、無理をしなくても自然に機会を掴んで次々とその版図を拡げて行くもののように思われる。

         

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 蝶の標本とヘルマン・ヘッセ

 うちの者たちに読ませてやろうと思って或る晩ヘッセの短篇「アポロ蝶」(赤星薄羽白蝶)を訳していたら、私も急に自分の蒐集が見たくなった。
 ボーデン湖畔ガイエンホーフ時代のあの詩人と同様に、田舎に家庭を持って子供ができ、それが小学校へ行って理科を習うようになると、私にも植物や昆虫、特に蝶の採集に対する昔の熱情が再燃した。私はほとんど三十年ぶりに再び必要な道具を揃えた。子供の頃には無かったような、また有っても中々買って貰えなかったような専門的な道具や便利な参考書が自由に手に入ると同時に、採集地の範囲も遥かに広くなった。それで三四年後にはたちまち幾つかの箱を飾る美しい蝶の標本を持つようになった。時たま出してそれを眺める私にとって、彼らは晴やかな暑い日光や、睡くなるようなそよかぜや、花に彩られた地のひろがりの歌であった。
 いま私はそうした箱の一つを戸棚から持ち出し、硝子蓋の曇りをぬぐって机の上のランプ型のスタンドの前へ置いた。関東や中部地方の山地や高原で自分で捕り、自分で丹念に標本に仕上げた蝶たちが、ランプの笠に円く描き出された光の下で、その多彩な、重たい高貴な天鵞絨のような翼を柔かく内から輝かせて、そとは暗い二月の夜の果てしもなく降りそぼつ雨なのに、過ぎ去った幾年の春や夏の思い出をここにいきいきと蘇らせた。
 私は先ずたった一羽しか持っていない自分の薄羽白蝶を見た。へッセのアポロ蝶は後翅に血のような色の美しい球状紋を持っているが、それは近くでは朝鮮の北部だけに見られる種類で、私のは紋の無いただの薄羽白蝶だ。それでも僅かに黄味を帯びたこの翼の、半透明な厚いパラフィン紙のような感じや、前翅と後翅の霊妙な輪郭や、翅脈と斑点とをあらわす墨や薄墨の色などには、実に何とも言われない気品と端麗さとがある。
 私はこの蝶を捕った時のことを今でも忘れない。
 それはもうかれこれ五年ばかり前になる或る年の五月の末のことで、当時自分の入っていた或る小さい山の会の仲間の幾人と、武州日ノ出山から御嶽みたけ、それから五日市へ出ようという遠足をやった時だった。雨の翌日の晴れわたった暖かい日で、日向和田ひなたわだの下の碧い多摩川の渓谷では、もう黄鶺鴒が家庭生活をはじめていた。対岸の段丘の上の農家の庭では、巣箱を出たり入ったりする蜜蜂が、陽炎のふるえる空間に澄んだ羽音をたてていた。
 日曜だった。みんな今よりも五つだけ若かったし、時世ももう少し寛容だった。静かな村里や山路を行きながら何かを夢想した者にも、生きる喜びを声高らかに歌った者にも、其の後しばらくは思い出さずにいられなかったほど、恵まれた楽しい晩春の一日だった。
 その御嶽を南へ降りて沢沿いの小径を辿っていた時、私はふと此の蝶を見つけたのだった。生れて初めて本物を見て夢中にさせられた薄羽白蝶は、それこそヘッセが巧みに書いているとおり、「空中に優雅な弓形をえがきながら音もなく静かに下りて来て、陽に輝いた岩の面へつかまってぶらさがった」 そして私としては、親切な仲間に声援されながら、この緩慢な動作をもつ蝶を難なく手捕りにすることができた。
 薄羽白蝶のすぐ下に、小さい揚羽のような形をして、しかしそれよりも遥かに敏捷らしく裁たれた翼と、その翼の目も覚めるような黒と黄との虎斑模様と、殊に後翅に美しい青藍色と赤色の紋をならべた、この今にも飛び立ちそうな蝶は姫岐阜蝶だ。私はこれをやはり或る年の五月に信州美ガ原の百曲りの下で捕った。
 これも快晴の日の昼過ぎのことで、途中で道連れになった松本の若い家具屋さんと一緒に三城牧場を奥へ奥へと登って行くと、やがて百曲りと陣ガ坂との分れ路へ出た。其処は小さい美しい緑の草原で、岩の上へ立って振返ると、新芽の緑玉つけた落葉松の枝ごしに、残雪の常念や槍や穂高を見ることができた。その時、その草原へ寝転んで話をしている二人の眼の前を、火花のように飛び違っているのがこの蝶だった。私はすぐさまステッキヘ捕蟲網をつけて、さんざん追廻したあげく、やっと掬い上げるようにしてこれを捕った。
 その他甲斐駒の裏銀蜆うらぎんしじみ、念場ガ原のC立羽シーたては、八ガ岳の黄縁きべり立羽、信州望月の無紋赤蜆、梓山戦場ガ原の孔雀蝶などが、この貧しげな世界の寒い二月の雨の夜に、かつての豊かな大らかな自然や、詩と幸福とに満たされたその折々の自分を思い出させてくれるのだった。
「ヘルマン・ラウシェル」の抑そもそもから最近の「新詩集」にいたるまで、私の知るかぎりでもヘッセは蝶についてたくさん書いている。私はヘッセにおいて最も深く霊的な詩人を見出したと同時に、ヘッセにとって、蝶は、
  すべての美しいものと無常なものと、
  あまりに優しいものと豊かに過ぎるものとの象徴、
  高齢の夏の帝のうたげにつどう、
  金に飾られた憂欝な客
であった。
 この夏の老王の賓客への襲撃を、私もまたいつかは止めるだろう。そしてその時こそ自然の中の彼らの姿に、またこの世における一切の美しいものの無常の運命に、今よりももっと深く、もっと切実な愛情を抱くことができるだろう。

 

 

 

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 雲を見る

   1

 このあいだアメリカの或る素人向きの気象学の本をみつけて面白そうだから買ってみたら、その中に南アフリカのケイプ・タウンに近いテーブル山での、有名なテーブル掛という雲の写真が出ていた。卓状の山を水平に被うた厚い雲の層が、山の縁辺の切落しになった長い断崖に沿うて漠々と落下している目覚ましい光景で、ちょうどナイアガラの滝の水を雲にしたような具合である。著者の説明によると、この雲は特に夏季において湿気を含んだ暖い空気が山の急峻な斜面を押し上がる時にできるもので、それがしばしば山の突端から巨大な滝のようになって這い下りることがある。しかしその空気は山を下るにつれて温められるので、従って下の方では雲も消えて、こうしたテーブル掛のような形を呈するに到るのだそうである。
 書いてある説明が簡単過ぎるのでこれだけでは別に珍らしくもない、よく知れわたった現象のように思われるが、何しろ場所が場所である上に規模が大きく、山の形にも特徴があるだけ、実地について詳細に観察記録した物を読んでみたら色々興味ある報告や問題に触れることができるに違いあるまいと思われる。
 私たちの馴染の山では美ガ原などが此の種の雲の観察の最も恰好な舞台になりそうに考えられるが、寡聞にして未だ聞いたことがない。
 それとこれとは違うかも知れないが、似たような現象のうちでいちばん私の印象に残っているのは、昭和八年十月三十一日の夕方近くに大菩薩峠で見たものである。
 その日は前日来の雨が夜明け頃にはすっかり上って、晩秋のすがすがしい太陽が山々谷々の遅いもみじの紅や紫を一日ぢゅう照らしていた。私は唐松尾根の急坂から金峯、八ガ岳、甲斐駒、白峯三山などの広大な展望を撮影することができた。上日川峠附近で五六羽のヤマドリを見掛けながら、明日からの狩猟解禁を知らぬげに遊んでいる彼らを哀れに思った。
 久しぶりで大菩薩頂上の三角点標石を見舞ってから、草原の斜面をまっしぐらに勝縁荘へ降りて行った。その日は此のヒュッテヘ一泊するつもりだったので、主人の益田君に会って暫らく話をしながら一休みすると、今度は写真機だけの身軽になって、途々撮影をしたり植物を物色したりしてぶらぶら峠まで登って行った。
 当時の手帖には午後四時と書いてあるから、もう日没にも間のない頃であったろう。さっき三角点へ行った時には霧のキの字も無かったのに、いま峠へ立つとちょうど山稜の分水線を境に東の半面だけ、すなわち小菅側だけ、濛々と湧立つ霧に包まれている。風はその小菅の谷から吹上げて来て、空気はかなり湿っぽい。じっとたちつくして霧の運動を見ていると、どうかしてこの分水嶺を乗越えようとするのだがどうしても乗越えられないと云った様子である。あたかも岸に捲返す磯波のように水平軸のまわりに巨大な渦を巻いて倒れながら、いかに努力しても、この山稜の西の斜面を蚕食するにはもう一息という所で力が不足しているように見えるのである。私はこの光景のために残っている最後の乾板を使用した。ところがこれがいけなかった。続く僅かの時間後にはもっと写して置きたい光景が共処に出現したのだった。
 峠を辞して姫ノ井沢の方へ降りながら未だ幾らも行かない時だった。何の気なしに振り返ると、峠の南の熊沢山(一般の称呼に従う)に音の無い大混乱が始まっている。厚い濃密な霧の大軍がとうとう分水界を突破して西の斜面へどうどうとなだれ落ちているのである。その霧は先ず斜面の凹みの冷えて来た個所から攻撃してゆくらしく、霧滴からなる長大な舌が幾筋かの熔岩流のように谷間を目がけて降りて行く。尾根の方はいくらか後に取残されたが、それも次第に蚕食されてやがて一面の霧になった。それが折からの夕映えの空の光を反射して、一種悲劇的な美観を呈した。そして私の周囲もだんだん寒く湿めって来た。
 おそらくあの二三十分の間に、長い長い大菩薩の連嶺を通じて同じような霧の戯曲が演ぜられたことであろうが、その一部分を目のあたり見ながら、露光材料を使い果たしたために撮影することができなかったのは返す返すも残念である。
 因みに、その夜は更けてから微かに小雨の音を聴いたが、翌日もまた美しい晴天で、大菩薩の錦繍の上には秋晴れの空が青々とひろがっていた。

   2

 昭和十三年五月二十四日朝は前夜半からの快晴で、着物を着更えながら二階の寝室の窓からいつものように視程観測をやると、東京女子大学の建物の間に上半身へ雪を残した富士がこの頃には珍らしく真白にはっきりと見え、南の空には恐らく三〇粁以上もあろうと思われる遠方に、夜が置き忘れでもしたような巻積雲らしい雲の帯が一筋低く横たわっていた。階下の茶の間へ降りて行って楊子を使いながら新聞をめくると、「今日・今晩、西の風晴れたり曇ったり、事によると俄雨がある」という予報が出ていた。序でにその予報の下に出ている昨夕六時の天気図を見ると、台湾附近の低圧部から北東へ引かれた不連続線が房総半島あたりで北々西へ向きをかえて東京附近を通過していた。
 午前十時少し前、遣りかけていた仕事に一区切りついたので、私はツァイスの小型カメラを持って二階の窓から屋根へ出た。其処は私がいつも雲を撮影する所であるが、こんなに佳い晴天が予報にあるような天気悪変の前兆を少しでも見せているなら、それを写して置こうと思って登って行ったのである。
 屋根瓦の上へ突立ってぐるりと天を見廻すと、なるほど富士の少し右手、西南西の地平を幅射点にして、其処から巻雲よりもむしろ巻積雲に近い雲が帯状に伸びて南と北との両方面に横たわっている。それを除けば全天の大部分はまだ真青に澄みわたった五月の空であった。
 南の雲と北の雲とを較べてみると、前者が波浪状とならぶ魚鱗状というやや複雑な雲形を呈しているのに引換えて、後者は微かに陰影のついた単純な薄い布状を呈していた。しかし東北東ヘ向かっての彼らの上層での速度はかなり大きいように思われた。
 それで先ず私は扇のかなめのような幅射点の模様と、南の方のやや複雑な巻雲とにシャッターを切った。そして続いて平凡ではあるが北の方のも写して置こうと思って向きを変えた刹那、その雲に不思議な物を見た。
 雲は正しく云えば北々西の空の、仰角約二十度のところに横たわっている。その方角は私の家からだとだいたい川越、寄居、前橋をつらねる線に当るのである。ところで私の見た不思議な物というのは、その狭い帯状の巻積雲のそばから別に一本の長い紐のような真白な雲が噴き出して、まるで飛行機の張って行く煙幕のように見事な流線を描きながら、西へ靡いているのだった。
 実は私もそれを見た咄嵯には、本当に立川か所沢の飛行機が煙幕を張っているのではないかと思ったが、何せよ七・八干メートルもあるあんな高空でそんなことの有りようもないと思ったから、これはやはり雲に相違ないと極めて時を移さず一枚写した。それから妻を呼んで見せてやる序でに望遠鏡を持って来させて覗いて見ると、電路へ挿入するヒューズのように軟かに見える其の雲の紐が最初見た時よりも幾分太くなって、霧のような組織から成っているらしいのが観察された。私は念のためにこれも一枚撮影した。
 その時には気がつかなかったが、フィルムを現像・焼付けしてみると、面白いことにはあの鯨の髭のような雲の噴出個所で、母体をなしている巻積雲が三つばかり波の畝を作っていた。
 不思議な観物は二度目の撮影後十分間程で跡方もなく消えてしまったが、それから一時間後には頭上一面に魚の鱗のような雲が出て、全天七分ぐらいの雲量になった。そしてその日の午後十一時には雨が降りはじめた。
 別に珍らしい現象ではないかも知れないが、私はこの二枚の写真を中央気象台へ送ってどういう雲だか照会したが、結局「はっきりした事はわからない」という返事だった。
 その日の夕刊で同日午前六時の天気図を見ると、北海道の南東洋上に七四四ミリ以下の低気圧があり、それから二本の不連統線が南西へ伸びて、そのうちの一本がほぼ関東平野の北西の縁辺あたりを通過している。あの雲の下を前橋あたりだとすると、どうやら上層にも或る擾乱があったのではないかと云う臆測が素人には浮ぶのであるが、或いは全然そんなことは無かったのかも知れない。(後記。その後判明したところによると、それは今日で言う飛行機雲だった)

   3

 若い友人S君が此の頃私にかぶれて雲を見ることに非常な興味を持ちはじめた。そのS君が一週間ばかり横浜の実家へ行って来ると云う。それではちょうどいいから此の間から考えていた「雲の同時観測」をやってみょうと云うことになって、私の所からケイヴの雲の本を一冊持って同君は横浜へ帰って行った。昭和十三年五月二十六日のことである。
 S君の家は横浜でも本牧に近い山手で、雲を見るには絶好の場所にある。私は東京市杉並区も西の外れの井荻に住んでいる。同時観測と云うのだから時刻は午前九時と午後一時の二回に極めた。雙方にとって都合のいい時間を選んだだけで、ほかに大して理由はない。観測事項は其の時刻の雲量と雲形と、雲の動いて来る方角と其の大体の速度と、それに地上の風向ということに約束が出来た。
 S君はなかなか熱心で、帰って来てからその記録を見せて貰うと、必要な記事の中にも色々文学的な描写や詩的な感慨などが織込まれていて、横浜という開港都市における其の時々の天気と人生との醸し出す雰囲気が鮮明なヴィジョンとなって現れて来るようであった。九日間を通じて実行された雙方の観測記事を照らし合わせて、天気や雲形には横浜でも東京でもほとんど変りのないことが判った。五月三十日の午後晩く富士山に現れた綿帽子とその上の見事な笠雲も番外ではあるが両方で記録されている。三十一日夕刻のほとんど全天にひろがった高積雲の波浪も同様であった。ただ東京西郊で風が南のとき横浜山手で幾分西寄りから吹いている傾向のあるのは、雙方の地形の相違のためだろうと思われた。
 さて六月三日午前九時は胸もすくような快晴の朝だった。例によって二階の窓から眺めると、もう大分雪の痩せた富士や、黒ずんだ紺いろの丹沢山塊の一部が夏も近い姿を見せていた。その一碧の空の真中をやや南よりに、一本の実に美しい帯状の巻積雲が南西から北東へ向けて長々と横たわっている。早速屋根へ出て撮影しようとしたが太陽がレンズヘ入って駄目なので、二階の窓から日光をよけて頭の部分と尾の部分とをそれぞれ一枚ずつ写した。こんなに長い雲をそっくり写そうとするには、特別広角度のレンズでも使わなければなるまいと思われた。
 とにかくおそろしく長い風雲かざぐも状の帯で、仮にその高さを八干メートルとすると尾は二子玉川か喜多見附近の上空にあって、頭の先は習志野から印旛沼あたりまで届いているらしく考えられた。門柱に頭をつけてじっと見ていると上層にはかなり速い気流が動いているとみえて、尾の部分が少しづつ形を変える。ちょうど張りつめた氷が割れるように薄い雲の層に亀裂が出来て、それが熔けるように消えて行く。そして頭の方は徐々に先へ先へと伸びて行くように見える。
 同じ種類の雲がもう一つ、これは遥か南の方に少し錆びたような色をして横たわっていた。これも簡単な測角器を使って仰角と方位角とから計算してみると、だいたい厚木か平塚辺から横浜上空を通過、東京湾を横断して千葉附近まで達しているもののようであった。
 この同じ時刻の事を書いたS君の記録を見ると、
「清らかに澄みわたった空、天涯には一片の雲もない。ただ中天にひろがった巻積雲の斑ら帯の南西から東へ横たわったのが言い難く美しい」とある。そしてこの雲は並行した上下二層から成っていて何れも波状を呈し、しかもその二層の波がほぼ直角に切り合って十字の縞模様を現している状態が詳細に記録されている。
 この雲は私が東京から遥か南方に見たものと恐らく同一の雲であったろう。そして東へ東へと進みながら数時間後には遂に姿を消したとあるから、その日の上層には相当強い西寄りの風が吹き渡っていたことであろう。天気は中一日を置いて下り坂に向い、交ぜ雲の多い空模様になった。
 天気図の頒布が一時中止されたために、天気図の有難味が身にしみてわかったのはその頃である。
 単なる素人としてでいいから、また銘々の家庭内だけでもいいから、空模様を見て大体の天気の予測がつけられるようになったらばどんなに面白くまた愉快だろうと思ったのも、やはりその頃のことである。

 

 

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 初めに驚きありき

「さあ、お茶が済んだらひとつ滑ってみましょう」と、長尾宏也君がやおら腰を上げる。
 バスの声である。カメリア・ド・リュクスの太いパイプである。なにかの毛皮の胴着である。「山の隣人」の、あのぎろりとした目つきである。一種の雰囲気が、故郷の山にいる時のペールギュントのような長尾君と一緒に動き出す。そして僕から見れば、羨ましいかな、それは英雄的行為を鼻唄でやるスキー・ヒュッテの雰囲気である。
 彼の書斎や茶房の卓に向いあって、二人きりで居る時ならば解る。しかしそれぞれの人のそれぞれのスキーが楯のようにならび、ヴェテランの重たい靴がグランディオーソに歩き廻っている乾燥室へ入ってさえ、長尾君は僕を一人前の人間として取り扱う。ところで、スキー地へ来てスキーの心得の無い一個のムッシュウと云うものは、やはり人間としては幾らか肩身の狭い、客観的にはどうも貧弱な存在である。
 綺麗な雪の縁縫いをつけたスキーをかかえてふうふう言いながら外から入って来る者もある。盛んに燃えるストーヴで臀をあぶっている者もある。そうかと思えば、スキーの腹をかえして、それへじゅうじゅうアイ口ンをかけている者もあれば、低い椅子へ腰を下ろして瞑想的にパイプをふかしている者もある。ワクスを塗る者、折れたスキーを銅の板で接ぎ合せる者。いくばくかの手工が要求される時、スポーツにも頼もしい生活的な空気があるものだなと感心しながら僕は見ている。
 その人々に立ちまじって長尾君もワクスを塗っている。あんなに酷くやって折れやしないかと、手持無沙汰で見ている素人のこっちがはらはらするくらい、指の短い、肉の厚い手の平で叩きつけるように塗っている。すると突然、その長尾君が野太い声で「おおい!」と怒鳴って、群集の中からヒュッテの若者を呼びいだす。
「先生に、もう一つの分のスキー靴を持って来て上げろ」
 綸言汗の如くにして、忽ち一足の靴が僕の前へならんだ。僕は小声で云う、
「先生はいかんよ、長尾君……」
「えへ?」と云って、彼はにやりとする。長尾君は昔から、犬歯と眼とに口ほど物を言わせる人であった。
 ワクスも塗れた。靴も穿きかえた。ストックも二本揃えて渡された。不器用にスキーをかかえて外へ出ると、これもまた借物の雪眼鏡をとおして、三月正午の霧ガ峯の積雪風景は金と緑、さながらグリムの童話の世界であった。
 ふだん眼鏡を掛けない者にとって、眼鏡を透して見る此の世の風景は数分間の驚異と佇立とに価する。僕は今までの自分の不可能を可能とする此のスポーツのきらきら光る門に立って、これからは新らしい童話の発見が、詩の発見が出来るなという、熱い希望の中に佇んでいた。
「さあ、穿きましょう」と長尾君がそばから云う。
「ああ、穿きましょう……」
 雲をやぶって現れた太陽の光に燦然と輝く雪の高原を前にして、嬉々として悦ぶ心は「ああ穿きましょう」としぜんな返事をしたものの、それは実地や映画の中で人が穿くのを見ただけの話で、何も自分に体験があったり、腕に覚えがあったからではない。結局、棟上げの時の柱のようにひょろひょろと不器用に立っている僕を、雪の上へ身をかがめた長尾君がその肩か頭かで支えながら、手早くスキーと靴とを接着してくれたのである。
 父よ、このようにしてあなたは、七歳の時の僕に遠足の草鞋を穿かせ、母よ、このようにしてあなたは、僕の附紐を結んで呉れたのでした!
 そして今や四十になり、生れて初めてスキーを穿き、先ずはその上に乗っている僕である。
 今後そもそも何年生きて、どんなにスキーがうまくなるかは知らないが、この最初の楽しい経験だけは、"Im Anfang war das Wunder"の一句を冒頭として書残して置きたいと僕は思う。
 ああ自由の雪のひろがり、其処にあらゆる理想を描くべき二本のスキー。その上に僕は立った。腰も膝も、臆病らしく凹ました腹もみんな伸ばして、本来の身長だけ立った。しかし余り生意気らしく突立って動き出されては一大事だから、スキーの機嫌に逆らわないように、なるべくスキーに感づかれないように、息を殺してそっと立った。それから僕は足もとを見た。頤を引いて下眼使いに見なければならなかった。二本のスキーは靴の先からほとばしっていた。僕の視線とスキーの先端とで作る角はせいぜい四十度ぐらいなのに、それが二十度にも思われるほど長く見えた。今度は恐る恐る首をひねって後ろを窺うかがった。もちろん踵からもスキーは後ろへ伸びていた。足の感じではひどく重いらしい。これをどうして動かすのかといまさら歎息の気持でいると、
「ストックを遊ばせて置かないで、立っている時はこういうふうに両側へしっかり突いた方がいいでしょう」と長尾君が注意する。
 なるほど僕のストックは遊んでいた。別に故あって遊ばせて置いたわけではないが、使いつけない悲しさにはつい其の存在を忘れてしまって、ただ失くさないだけの話で、漫然と持っていたのである。そういえば眼鏡も鼻の先へずり落ちている。
 僕は立った。そして僕は立往生している。もう全身が汗ばんで、あれほど書物で会得したバランスの理論も、あれほど映画で自分の物にした知識も、この瞬間ことごとく忘却され了って、今や本来空の僕は、一個の全く気心の知れないデエモンの背に心細い一身を托しているのだ。
 とにかく、この糊づけのように動かないでいる足の始末をつけなければならない。そこで平地行進ということになった。先ず手本を見せるとあって、コーチャー長尾がすうすう出る。塩のような細かい雪の上を、遠くから眼に見えぬ絲でたぐり寄せられているように気持よく出て行く。なるほど、あの要領だったな。両杖をああ突いて、ああいうふうに足を出して……
 そこで思い切って最初の一歩を踏み出そうとした。ところが、スキー術は滑るものだということを何時の間にか忘れてしまった僕は、歩く時の要領で左足を踏み出そうとして、重たいスキーをぶらりと爪先へ吊るし上げてそれを前へ投げ出そうとした瞬間、右足のスキーがするすると滑つて、見事うつぶせに倒れてしまった。今度も両杖が閑却されていたことは云うまでもない。
 長尾君は天才教育の教師である。この教師に附き従って行くためには、弟子にも天才のひらめきが無くてはならない。僕にそれが有るか無いかは別問題として、少くとも彼が他人を自分と同一レヴェルの者として遇し、或いは遇することを愛し、その間決して啓蒙的な態度を示さないほど特殊な礼譲の観念を持っていることは確かだったから、長尾君をスキーの先生とするかぎり、結局僕は独学以て志を遂げなければならなかった。
 それで充分汗を流したあげく、やっとのことで平地行進を自得した。ヒュッテの前には幾らかの平坦な地面がある。其処が僕の得意の壇場だった。僕は嬉々として歩き廻った。わずかの努力で多くの広袤を我が物とすることができるとは抑も何たる快事だろう! 往手を遮る地の高まりもなく、手を束ねて運命を托さねばならないような斜面もなく、平穏無事に、満足して、スキーの下で得も云われぬ音を出すあの雪の呟きを聴きながら、悠々と流して歩く楽しさよ!
 もしも向こうから滑って来た長尾君がこうした僕を見逃して、それだけできたらもう少し上へ行って直滑降をやって見ましょうなどと云わなかったら、或いは僕は一日そこで平地行進に没頭していたかも知れない。
 だが向こうの方、鳶色の夢のように煙る二つの落葉松林の間では、真白な地面が緩やかに高まり、それが次第に急になって蛙原げえろっぱらの斜面を立てかけている。此処から見るとその原のスカイラインが実に優美だ。しかもその美しい線の上を小鳥でもあろうかと思われる黒い二三人が滑っているではないか。長尾君は其処まで行って直滑降をやろうと云うのである。
 二人は雁行して行く。やがてヒュッテが見えなくなる。長尾君は、
「その調子ならア、あんな処何でもありゃしませんよ、尾崎さん」と声援する。ところが間もなく僕のスキーは後滑りをはじめて、どうやらどの調子でもなくなって来た。
「後滑りするようだったらストックをうしろへ突いて」と先生は云うのだが、へたに突けば横へ倒れるし、うまく突けば突くで、もう出るも引くもできなくなる有様である。僕は又しても自分が不随意筋の塊りになったような気がした。
 さんざ苦心に苦心を重ねて、グライダー小屋のあたりまで辿りついたのが精々だった。それから先は断然傾斜が許さなかった。開脚登りというのを試みれば、スキーテイルが重なり合った。左のスキーが持上らないので変だなと思えば、右のが上へ載っかっている始末だった。
  山のあなたの空遠く
  「幸」住むと人のいう
は正にカール・ブッセの云う通リだが、
  噫、われひとと尋めゆきて
涙さしぐみ帰って来ようにも、初めから行けない蹇あしなえでは話にも歌にもならない。仕方がないから此処から帰ろう、直滑降で……
 今思い出しても愉快なのはこの時の僕の直滑降である。
 地の最大傾斜線に沿って落とすつもりだから、長尾君はまず其の方向へ僕を向ける。彼は僕を玉転がしの玉のようにつかまえている。放せば滑り出すのだから、滑り出したら止まるまで意志は働かないものと思わなければならないのだから、長尾君もよく前途を見定めて、この人間ロボットの姿勢を極めさせるのに肝胆を砕く。僕は僕で眼を据えて、乾坤一擲の大冒険の前でこちこちになる。ホッケ姿勢はきまった。やがて、
「それツ」
 矢頃をはかって長尾君は掛声と一緒に僕の臀の辺をぐいと押した。スキーはズズズッと滑り出した。僕はかあっとして全身の血が頭へ逆流した。
 何時搗いたのかは知らないが、とにかく僕は臀餅を搗いていた。スキーと一緒に両足を前へ投げ出して、臀とスキーとで滑っていた。長尾君はうしろから「あはは、あはは」と笑いながら追って来たが、忽ち追い抜いて先へ行く。僕はポケットから煙草を出し、電池ライターで火をつけてそれを吸った。
 ああ、煙草を吸いながら、我が身の甚だ形而下的な一部とスキーとの協同作業で長い斜面を滑降しながら、西に傾いた夕日の光を華やかに帽子の庇へ受けながら、古い親切な友の姿を紫にたそがれる雪の彼方に眺めながら、その時僕が見た霧ガ峯の自然の何という不思議な美、何という未前の光景であったろう! たそがれ近く、異常に神秘な光に包まれた雪の高原。やがて蓬々と流れ漂う夕靄の、それも消えれば眼ざめる星は雪にも咲くか、霧ガ峯!
 下では長尾君が腕を組み、パイプを啣えて待っていた。もう雪も氷りはじめたのでわれわれはスキーをはずして肩へかついだ。ヒュッテに近く夕日の光が弱々しく流れて、二人の影を長々と雪面に横たえた。それはちょうどヘンリー・ヘーク写すところの「最後のスキー旅からの帰り」であった。
 そして僕の一生忘れられないスキー第一日が平和に暮れた。

 

 

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 ノルウエイ・バンド

 しんみりと暖かい金色の日光、西風に染められた大きな青ぞら。快美な秋の数日が、飯繩、戸隠、黒姫、妙高と、旅の道すじの進むにつれて、それら北方の山々を、黄に、赤に、紫に、燦然と照らしていた。
 私はいつもの独りだった。背には嚢、手には杖、心には静かにくゆる幸福と子供のような生き生きとした期待とを持ちながら。それに幾年着古した旅行服の、半ズボンの下で結んだ紐。その黒と銀鼠との糸のあいだに少しばかり落着いた紅を取合せた、ちょうど森の赤啄木鳥あかげらの羽毛の色をおもわせる毛糸の組紐は、こんな美しい十月の他郷に対する私のささやかな儀礼でもあれば、歌でもあった。それは自分で意匠して、妻に編んでもらった物だった。私はこの気に入りの紐を膝頭の下に緩くむすんで、剰った部分を房に垂らした。年齢がもう中年を過ぎると、おのれの見掛けの上の老に対して心の若さをほのめかすためか、そこばくの青春を身に着けることを思いつく人間も世には有るものだ。
 私の紐は信濃に枯れた岩菅や、越後路の霜の上で揺れた。それは路上で私の口ずさむシューベルトの歌の調子に合せて躍った。それは一茶のふるさとで、私が立呑みした地酒に濡れた。
 旅よ! 旅をきらめかす太陽と風よ! 早くも新雪の笹べりとった白馬、杓子、唐松あたりの北アルプス。その銀と青との遠い華麗を手に取るように眺める飯繩いいづなの薄の原を行きながら、私は裾花の谷にのぞむ村々から上がる昼間の煙に、山国の秋の心をしみじみと味わった。私は戸隠の嶮巌をよじ、鬼女も眠るかと思う静寂な炎の林を歩きまわり、美しく倒れかかった牧柵の向こうに大きな黒姫山の姿を見まもり、また黄昏の中社の宿から、遥かにけぶる夕映えの果てに影絵のような南信の山々をみとめて、何か帰らぬ幸福に似たものを追うのだった。
 それから旅は大きく廻って、信濃を過ぎれば越後の地、すでに早くも冬をきざした寥廓たる北国の天の下、妙高山とその高原のひろがりとが私を抱きしめた。私は安山岩のかたまりに腰をかけ、雪の香のする風に吹かれて榛はしばみを噛みながら、黄ばみわたる頸城くびき平野を薄青い大気の底に見おろした。
 こうして豊かに与える自然からは元より、また行く先々の到るところ、人々からの歓待も私はうけた。もちろん今ほどの年齢になってみれば、人に待たれる垣のほとりで、脆くも散って俤のみに泣かしめるロマンスの花を摘むことも無かったが、その代りには使いつくされた農具のような老人や、真面目な律義な田舎の女房や、何処にでも居て何時でも好奇心で一杯な子供たちから、結局は彼らと何の変るところもない人間仲間の一人として、気の置けない客として、また色々な珍らしい事を知っている大人として遇された。そうしてこうした待遇が私には嬉しかった。
 五日にわたる旅路の終り、私は妙高山麓の燕温泉から関を過ぎて、関山の駅へと急いでいた。さしもに続いた秋晴もいよいよ今日を限りと見えて、振り返りがちに行く妙高の山頂をかすめるように、西の方から幾筋もの巻雲が美しい青空に流れ出していた。茫々と波うつ薄の高原、その銀色の穂波の上に頭だけ見せた黒姫山。日光の金粉散らす秋の大気に包まれたように、陸軍演習場の銃声が柔かにロロン・ロロンと響いていた。
 私は一軒茶屋と呼ばれている古い茶店の前をすたすた通って、ゆくてに関山の宿しゅくの高い杉の防風林を見ながら進んだ。十月とはいえ、正午に近く、影もない野の道は汗ばむほどに暑かった。さっきから咽喉の渇きを覚えていた。私はあの茶店へ立寄らなかったことを悔いていた。
 すると私の先を二人連れの若い女が行く。関か燕の温泉宿の女中らしかった。その二人が熟した房の一杯ついた山葡萄を、真赤な葉ごと、長い蔓ごと、幾本も手に巻いて下げていた。まるで焔を持っているように。それがこんな燦々たる秋の陽の中で、彼女らを余計に美しく健康に見せた。
 私の歩調はやがて彼らに追いついて、しばらくは其の女たちと並んで歩くような仕儀になった。冬が来れば忽ち賑かなスキー地になる土地のこととて、宿屋の女中らしい彼らも愛想よく此の季節はずれの客に会釈した。
「君たちは何処」と私は訊いた。
「関の者です」と、如何にも越後生れらしい美しい一人が答えた。
「暇だものですから関山の家まで遊びに行って来るんですの」
「その山葡萄を一二本分けて貰えないかね」
「これを? どうぞ。今朝取ったんですの」
「綺麗だな」
 私は感心してそう云いながら二人から一本ずつ貰うと、道端ヘルックサックを下ろして、その外側へ巻いた蔓を結びつけた。その時彼らの一人が私の例の紐へ眼をつけたらしく、
「これも綺麗ねえ、好い柄じゃないの」と連れの女に云っているのが聞こえた。
 私はよく考えもせずに葡萄への礼心に幾らかの金を出した。女は「そんな物を」という顔をして断然受取らなかった。それはその筈だった。彼らは私の所望に対して快く与えたのであって、決して売ったのではなかったのだ。
 私は少し赤面しながら、しかし咄嵯の間に好意への返しを考えついて、手早く例の紐をほどくとそれを膝ではたいて彼らの前へ出しながら云った。
「二本貰ったから二本御礼だ。これは事によると帯止めにもなるし、失敬だが腰紐にもなるかな」
「でも、何だか御気の毒ですわ。こんな綺麗な新しいの」
「いいんだ。手製だよ。スキーの時に東京の人たちが来たら見せてやるといい」
「では折角ですから頂戴しましょう」
 私はそういう声を後に聴きながら、汽車の時間に間に合うように道を急いだ。赤啄木鳥あかげらの詩を模様に出そうと苦心して作ってくれた妻に、このいきさつを偖さてどう話そうかと考えながら。しかしまた幾らかは、楽しかった旅の終りのコーダとしてはふさわしい、この小さい挿話の甘美な後味を味わいながら。

 

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 こころ

 山へ行くというので、いざ我が家を出ようとする時、またそれに続くいくらかの時間のあいだ、私はきまって或る軽快でない、胸につかえる物のあるような、重い、ぎごちない心持を経験する。
 言い置くべき事はすでに言った。ルックサックの紐はこれを最後と結ばれた。ステッキを置き添えて、油のにじんだ靴は玄関にならんでいる。
 もう忘れた物も無ければ、果たすべき義務というものも無い。もしもこの上なすべき何かがあるとすれば、それは私が「出発する」其の事である。さっぱりと、元気よく。そしてもしもできるならば、朗らかにさえ。
 ああ、それにも拘らず、この何か引掛かるようなものは……
 私たちはちっとも新婚の夫婦ではない。子供も十歳とうか十一であってみれば、もう今が可愛い盛りだというほどではない。それに私が山へ行ったり旅をしたりするのも、ひどく珍らしいことではないのである。すべては十年の歳月相応に経験され、頻度の大はすでに一種の習性を作り、家庭生活の諸場景に対してそれぞれ型のようなものを作り上げている。その上、私の山は、およそ危険からは遠いのだ。
 否、いつの出発に際しても、きまって私の感じるこの気持の上の「勝手の悪さ」は、楽しみの分け前の不公平に其の根源があるように思われる。苦しみも喜びも共に分け合っている生活の中で、又しても自分だけの楽しみのために行くという、謂わば良心の咎めと憐愍の情との混じり合った気持である。
 自然の中へ行くことは、とりわけ山へ行くことは、少くとも私のところでは、喜びの最も大きなものの一つと信じられている。私の家族は私のあらゆる熱情に参与している。芸術や自然に対する私の愛は、また彼らにも反映している。その彼らを家に残して、彼らの無二の憧れである山へ自分一人で行くということに、(彼らが全く無私な、自発的な好意をもって私の思い立ちに賛成し、私のために必要な一切の準備をし、そして最も気持よく出発させて呉れるいつもいつも)私は何かしら済まない、どこか侮恨に似た心持を味わうのだと云ったならば、或いは何びとかの同感を得るであろうか。
 こうして常に心を後に残しながら、やがて一層広大な世界が私に開いて見せる光景の中、その輝く日光やひらめく風の中で、全く一枚の木の葉の如き者としてひるがえりながら、やはり私は思うのである。一般に命あるもの本来の孤独と、その孤独から花咲けばこそ貴く美しい愛や、友情や、憐愍に対する、共感、尊敬、感謝などの基調無くしては、私の「文学」からその最善の物の生れるよすがは無いであろうと。

     *

 行くほどに、私の路の対岸へひとつの部落が現れる。自然の中の庭のような山村が。
 北には山を背負い、斜面には雛壇のようなテラスを重ねて、その一段一段に農家がならび、南からの日光はあます処なく其処を照らし、ひとうねりする渓谷が、涼しい響きを上げながら、遥か下のほうで岩壁の裾を洗っている。
 それは自然の地形の濠ほりや城壁によって理想的に守護された一角で、もしも其処の路の上か畠の隅に立つとすれば、まさしく南西の方角に残雪の山々を望むことのできる地点である。
 強い勾配をもったあの厚い大きな藁屋根、落着いた渋塗りの梁や柱、若葉に映える清楚な白壁、真青な絖ぬめのような空の下の牧歌の村。
 私は一目で其処を愛した。私は本気になって其処へ住むことを考えた。
 あすこへ私は家を建てよう。そしてその家は村のすべての家と全く同じで、決して全体の調和を破るものであってはならない。私は努めて速かにその人々の生活や風習に同化し、一挙にして土着の者のように成らなければならない。
 私は其処で小さな百姓の仕事をし、物を書き、今までよりも一層自然に親しもう。村の子供たちを集めて美しい話を聴かせてやろう。植物や動物を愛することを教えよう。できたら自分の家の一間を彼らのための図書室にしよう。その間には観察や採集の仕事も勉強しよう。私はこの地方の植物志や動物志を編もう。望遠鏡を手に入れて、自分の小さい天文学も試みよう。風や雲を観測し、天気や降水量や気温の統計も取ることにしよう。それから、それから……
 自分の底知れぬ空想に酔いながら、私はその山村を後にしてなおも爪先あがりの路を進む。両側に若葉の幕を張った路は、揮発する樹液の香に噎せかえるようである。やがてまた視界がひらける。水量の減った谷の上、暑い日光に曝された伐採地の下、目に痛く反射する真白な石灰岩の岩壁に脅かされて、さっきの村よりも遥かに貧しい、もっと家数のすくない一つの部落が現れる。蒟蒻こんにゃくや三角黍の乾燥しきった砂礫まじりの畠、重たく苔蒸して今にも崩れそうな藁屋根と、漂白した骨骼のような柱とを持った哀れな家々。この一握の部落、それは半ば立枯れした樹上に懸かる、鴉の巣か何かのように見える。
 いや、私は此処へ住まおう。この悲しく乾からびた、恩寵すくない自然の片隅でこそ、自分の一層積極的な、さらに創意に富んだ生活は営まれるだろう。私は緑野と森林と湖水とのワーズワスの詩のかわりに、嵐の中に絶えては続くオッシャンの歌を我が物とすることができるだろう……。
 そうだ。そして、しかもこれまた一つの空想に過ぎない。
 してみれば、私が行く先々であらゆる場所に心ひかれて、其処に住むことを考えるのは、これは単なる「浮気」であろうか。
 いや、私はそうは思わない。路傍一輪の花に眼をとめて、真に愛と讃嘆とをもってそれを見る者は、真にその美にあずかる者は、すでにその花と共に生きたのである。彼にとって、それはもはやひとつの体験された世界である。全霊を傾けて愛したその花を、彼はその恍惚の一瞬とともに我が所有としたであろう。
 私の愛した多くの山村や平野の部落。その美しい姿は「夢想」の瞬間からたちまち私の版図はんととなり、其処からの路は悉く私にとどき、千百の村々に通じる記憶の広場のまんなかに今や私は立っている。

 

 

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 橡の実

 書斎のなかの或る棚をほとんど一段埋めるようにして、寺田さんの本がぎっしりと並んでいる。同じ装釘で堵列している全集は見たところ幾らか硬くて寒いような気がするが、単行本のほうには著者の人柄や趣味の豊富なニューアンスが、色々とその時々の表現をとり、風懐をまとって、親しみ多く美しい一隅の世界を形づくっている。
 此の段はこれからも未だ全集の残りがとどくために、そのうちには故人の著書で一杯になるのである。そうしたらば端のほうに同居しているジュリアン・ハックスリー氏に場所を明け渡して貰わなくてはなるまい。「一生物学者の随想集」や「鳥の観察と鳥の動作」などに、どこか別の処へ移転して貰わなくてはなるまい。私はそれを、これも寺田さんとはまんざら縁の無くもないアンリ・ポアンカレの本と並べるようにしようかと思っている。だが今、そんな自分事はどうでもいい。
 しかしどうでもよくはないのは其の棚にころがっている二粒の橡とちの実だ。寺田さんがなくなられてから間もなく出た「橡の実」という本の前に、干からびてころがっている本物の橡の実だ。これは去年(昭和十一年)の九月、秋雨にけむる中津川の谷奥で私が自分で拾って来たものだ。
 肉は落ち、皮はちぢみ、凝って栗いろの枯淡と化した二顆の種子。これを手の平へ載せて見ていると、あの雨と霧とに濠々ととざされた中津川の渓谷や、秩父の山奥の暗いわびしい原生林や、切り立った岩壁へあやうく懸かった桟道や、そこに蒴果の皮が裂けてころころ転げていた此の橡の実や、それを濡れながら拾いあつめた時の気持などがいちどきに思い出される。
 私たちは信州梓山から、信濃、上野、武蔵の国境をなす三国山を東へ乗り越して来たのだった。一行は案内人の親子を加えて五人だった。戦場ガ原の下あたりで昆蟲や植物の採集と撮影とに手間どっている間に、天気がだんだん悪化して、国境の峠へ立った頃には雨になった。金峯も朝日も乱雲の水びたしになった。その雲は見るみるうちに国師と三宝さんぽうとをむしばんで、やがて彼らをも塗りつぶした。黒々と連なっていた山々と自分たちとの間に雨雲の足が煙のように垂れ下ったので、空間は却って明るくなったような気がした。しかしその明るさは、登山者は誰でも知っているとおり、摺硝子のように単調で、失明したように味気ないものだった。
 一行は三国山の頂上を北から東へ捲いて、中津川の上流を大ガマタ沢と信濃沢との二つに分ける黒木の大尾根を降った。いよいよ本降りになった雨と、往手をさえぎる無数の倒木と、たえず躓いたり滑ったりする悪路との約八百メートルの急降下だった。尾根が痩せて小径が岩とつるつるした樹の根っこばかりの処では、或いは左手信濃沢の空間をへだてて色づきはじめた上武国境の連山が見えたり、或いは右手漠々と霧をつめこんだ大ガマタ沢の馬蹄形の谷のむこうに、十文字の峠道が物悲しく墨絵のように仰がれた。しかしそうした眺めも僅かのあいだの慰めで、一行がこの一里の山稜をくだりつくして、二つの沢の落ち合う袋の底のような河原へおりたった時には、周囲はたそがれのように暗澹としていた。ただ見る両岸の谷壁と雲の垂れ下がったその横腹、淙々と流れる水の真上だけわずかに一筋の空をのこして、あとは仄暗くおおいかぶさった闊葉樹の原始林。一羽のカケスの声もなく、一羽のカワガラスの姿もなく、つんぼになったような厚ぼったい沈黙の、其処はまったく奥秩父の心臓部だった。
 そして私が問題の橡の実を拾ったのも実に其処でのことだった。
 いつ止むとも見えない雨と霧とが私たちの旅の心を暗くつめたくとざしていた。それに連れの一人が腰を痛めてびっこを曳き、捕蟲網の柄を松葉杖のように突いていた。おまけにこの谷で最初に出会うことのできる部落、今宵の泊りの中津川は、未だ二里ばかりも下流にあって、その間は渓谷沿いの登り降りがもっとも頻繁だとのことだった。それならば足を機械的にうごかして、心に忍従を言いきかせるの外はない。それで私たちは戦場を知らせられない兵のように進み、欲望を捨てた者のように一すじの小径の意志にしたがった、ところで、崖ぶちの其の小径に、橡の実はころがっていた。其処にも、此処にも、雨に濡れて。その栗色もつやつやと、卵のように愛らしく。
 あらゆる不如意に取りまかれた者にも、自然だけはその小さな創造物をもって、どんなにでも大きくなるべき夢の喜びを与えてくれる。それが今の私には橡の実だった。その名は寺田さんの遺著の名と重なり合って、深山の谷間の雨に濡れながら、幾顆の珠のすがすがしくも地に委している。
 私はこの山旅の二三日前に全集の新聞広告から切り抜いて額へ入れた寺田さんの肖像の前に、この実を供えることを思いついた。私はなるべく形のいいのを拾ってポケットヘ押し込んだ。何か知らぬが心が軽く明るくなった。歩きながら時々ポケットヘ手を入れて握ってこすり合せると、一種楽しい手触りと響きとがあった、其の夜中津川の宿で私はそれを出して見た。翌日は塩沢の泊りでも食卓の端へならべて見た。そして秩父を後に東京へ近くなればなるほど、人知れずポケットの中の彼らの頭に触ってみることがいよいよ楽しいことに思われた。
 帰宅すると私は早速その橡の実を、お初穂として「寺田の棚」へみんな供えた。
 其の後幾つかは人に与え、残った三粒のうち一粒は庭へ埋めて発芽を楽しんだがいまだに出ない。そして最後の二粒だけが、寺田さんと同じように、もう二度と苦しんだり死んだりしなくなっている。

 

 

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 信濃乙女

「ミサちゃん、これ、わしさっぱり判らんが、言うてみて」
「どれどれ、これか。これは対頂角の問題じゃ」
「わし其の対頂角を忘れてしまったじゃ」
「忘れたのか、それではな、二直線が交わって出来る四つの角のうちで、隣り合わん二つの角をたがいに対頂角というのじゃ。いいか。それで、角AODと角COB、角AOCと角DOBは対頂角じゃ。な。それで此の問題の証明はじゃ……」
「ミサちゃん、ミサちゃん。ここの so thatは何と訳すのかな、教えて」
「これか。ここの so that はな、何々するためにという意味じゃ。彼女は健康を恢復するために海岸へ行ったじゃ。海岸へ行ったから健康を恢復したではないのじゃ。いいか。そら、お前ここにも自分で書取ってあるな、彼は目的を達するためには手段を選ばないと。これと同じじゃ。わかったな」
「わかった。ありがと、ミサちゃん」
「ミサちゃん…… ミサちゃん……」
 汽車は塩尻峠を後にして五月の朝の松本平を走っていた。明けがた近く一雨ザッとあったらしく、柔かい乱雲のなごりが悠々と盆地の空を游いでいる。左手の窓にはまだうずたかい残雪を朝日に染めた北アルプスの青と薔薇いろの雄渾な連峯、右手の窓には今日登ろうとする美ガ原熔岩台地。女学生でいっぱいの三等列車のまんなかで、新鮮な朝の太陽を顔の半面に浴びながら、僕はこの聡明なミサちゃんという子の横顔を、姉らしく、母らしく、しかも正に十五六の小娘である其の項うなじ、飢えた眼に「新らしい糧」のように飛び込んで来る風景と一緒に、むしろ信州全体への敬意をもって眺めていた。

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 べにばないちご

 けさ戸棚の奥から行李をひきだして捜し物をしていたら、図らずも、むかし朝鮮の田舎で手に入れた一枚の古い李朝の白磁の皿が出て来た。この思いがけない再会にすっかり喜ばされて、それを綺麗に洗って梅雨晴れの窓に近い机の上へ置いて眺めているうちに、遠い思い出の三韓の空の下の、おちこちの円い藁家から窯の青い煙のたちのぼるあの永登浦えいとうほの春の田舎が、我が二十代ヴァン・タンのあえかなエレジーを伴って蘇って来るような気がした。
 僕はこの皿に盛るべく今の気持に最もふさわしい物を考えてみた。林檎やレモンでは月並だし、枇杷や桃では俗であろう。もっとも非凡で清潔で、野生的に美しくて、現在の詩的意欲の熱い渇きをいやすに足るもの……
 あゝ、べにばないちご! そうだ、あれを措いて何がある!
 槍ガ岳の東鎌尾根、天上沢の目も綾な雪渓に近く、とある断崖に臨んでべにばないちごは生っていた。濛々と吹きつけるめくらのような白い霧、その晴れ間に陰顕する桔梗いろの盛夏の空と北鎌の無残な歯形。やがてパアッと照って来る太陽の身にしむような暖かさ。べにばないちごはあの毛むくじゃらな、ぎざぎざな葉の重なり合った枝先に、さわればほろりと取れて落ちる、舌に載せれば忽ち溶けて爽やかに散る、霧の雫と日光と甘美な樹液とが凝って出来たような、涼しく甘い透明な、黄赤色の宝玉の実を載いていた。
 そのべにばないちごを枝ごと葉ごと、古い李朝の白磁の皿に盛りたいとは、常に心の渇きを訴える詩人の、これも或る朝の夢だろうか。

 

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 遠い国での話

 谷のながれと果樹園とに囲まれた、南フランスの山間の静かな村落。若い小説家ジャン・ジオノが或る夕方其処の小さい宿屋へ泊る。自分の町のマノスクから、いつものように、彼は遠足して来たのである。
 ジオノは最前から一冊の本を読みふけっている。するとさっきコーヒーやくだものを運んで来た宿の娘のデルフィーヌが、また何か用はないかと訊きに来る。ジオノは未だ読みつづけている。
「読書をお好きですの」と娘がたずねる。
「好きです」
「何を読んでいらっしゃるの」
 ジオノは気の毒そうに云う、「英語ですよ。ホイットマンです」
 娘は重ねてたずねる、「面白いんですの」
「まあお聴きなさい」
 そう云って、彼はあのアメリカの民衆的な大詩人ウォールト・ホイットマンの詩を即席にフランス語に意訳して聴かせる。ジオノが顔を上げると娘の眼が大きく輝いて彼を見つめている。
 往来の向こう側で一人の男がくだものを籠へ詰めている。其の男がジオノの読んでいる声を聴きつけて、手を振りながら遣って来る。
 鍛冶屋がかんかん鉄砧かなとこを叩いている。果物屋が怒鳴る、
「サンソンブル! 静かにしろ!」
 するとサンソンブルと云われた鍛冶屋も金鎚を置いて、革の前掛下げて聴き手の仲間へ加わりに来る。
 もう聴衆は六人になった。ジオノがちょっとでも止めようとすると彼らは催促する、「次は」とか、「それから」とか。
 娘が云う、「これで我慢しましょうよ、ひどくくたびれていらっしゃるから」
「そうだ」と溜息まじりの声が答える。
「これが英語なのが本当に残念さ」 そう誰かが如何にも残念らしく云う。
 そこでジオノは家へ帰ったら此の本の翻訳を送るという約束をする。「忘れないで下さいよ、これだけは」とか、「代はいくらですね」とか、「いや、私達は金を払いたいんです」とか、そんな言葉が矢つぎばやに発せられる。とうとう「あんなに親切に云って下さるんだから頂戴することにしよう」という話になる。ジオノは早速娘のデルフィーヌを代表者にしてそのアドレスを書きとめる。
 間もなく山村の彼らは一冊のホイットマンの訳詩集を受け取った。南フランス、バス・ザルプの山間、渓流と果樹園とに囲まれた小さな村落に住むこの愛すべき連中が。

 ジオノは想像する…… 夜である。一人の読み手が多勢の聴き手にとりまかれて、燭台の明りをたよりに、送られた本を朗読している。蠟燭が暗くなる。「塩を入れてくれ」と読み手が云う。誰かが黙々と一つまみの塩を蠟燭に加える。また一しきり明るくなる。詩の心の美しさに皆の眼には涙がたまって、それがヴェルドンの谷の水よりももっともっと光って緑になる……
 ジオノはサンソンブルから一通の美しい手紙を受取った。鍛冶屋の書いたその手紙をこそどんなにか知りたいと思うのだが、ジオノはわれわれに見せてはくれない。
「此の世には、人が書物の中へ取り入れる権利の無い物が幾つかある」とジオノは云うのである。
 日本からは遠い国での話である。

 

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 或る朝のおもい

 九段の小学校へかよう小さい我が子の後ろ姿を門の前で見送ったのち、そのまま池のほうへ朝の散歩の足をむける。風致地区の林の周囲や湿地の白い枯蘆の上には、まだ薄い霧の縞がたなびいている。しかしその林からぬきんでた欅の大木の煙のような梢からは、そこで一夜を明かしたらしい真鶸まひわの群が、もうあの金属的な爆鳴をそそぎ出している。
 むこうに北多摩郡の森や畠をひろびろと見わたす道を僕は行く。朝が未だひどく早いので、地平線のどの方角にも人の影はない。踏んでゆく土はしっとりと湿って、適度の弾力と親しみとを感じさせる。僕は何ということなしに木靴サボが欲しいなと思う。ふたたび始まった田舎の生活を、今度こそは前よりももっとしっかりと、もっと細かに、言いかえればもっと踏みしめるように味わいたいからであろう。
 近くの麦畠から二羽の雲雀が代るがわる空へ揚がって、真青な虚空から光のつぶてのようなきらきらした嘲りを撒きちらしている。眼を上げてじっと見ていると、なんだか雲雀のいる処だけ天の底が抜けて、ほかよりも余計に明るくなってゆくような気がする。地平のはてには雪を象嵌した連山の波、そのいちばん南の最も大きな波濤の上に眼もさめるような真白な富士。あの蜿蜒とつづいた山々の頂きや襞のあいだに此の足が残して来たさまざまな思い出の痕のあるということが、今朝の僕を何か誇らしく、男らしく、悠々とした気持にさせる。
 池への道はまっすぐだし、途中には障碍物も無いから、ポケットへ突込んで来た薄い本を読みながら歩く。メダンでの作家ジュール・ロマンの講演「ゾラと彼の実例」を印刷に附したフランスの新刊の小冊子である。
 一人の作家が偉大な実行家であると同時に、偉大な先駆者でもあるという場合は非常に稀である。この二つの機能は、普通には、たがいに排斥し合うもののように見える。偉大な先駆者という者は、どうしても不完全なもの、苦しみ歪んだもの、不満なものなどの間から選ばれて出て来る。こういう事情の中で、ただ少数の創造者だけが、何よりも先ず自分の欲するところをどしどし実現しながら、同時に未来の野に種を播く仕事もやってのけるほど超人的に多産な力を持っている。この矛盾した力の実例が、ジュール・ロマンに云わせると、シェイクスピアであり、ベートーヴェンであり、バルザックであり、ユーゴーであり、そしてゾラである。
 史上いかなる時代にも、今曰のように知識階級の勇気を必要とする時代はなかった。明らかに視、高所から視、遠方を見とおすことが、今日ほど死活に関する喫緊事であった時はない。あと僅かの盲目が、少しばかりの逆上が、怯懦が、たちまち最悪のカタストローフの中へわれわれを投込んでしまうだろう。しかしこの無間奈落への戦慄すべき滑落から現世界を一挙に転向させるには、理性の命令に対するわれわれのエネルギーの突然の行使が、精神の英雄達の一斉の奮起があれば或いは足りるかも知れない。それがためには世界中のわれわれのあいだに道徳的組織が、普遍的な秩序が、確乎として結成されなければならない。われわれすべては此の悲劇的な時機にとるべき役割を持っている。各人の義務は何かしらに登録されている。そして此のような意識を持つために、今やわれわれが祝っている「正義」の不滅のまなざしの下に今日こうして集ったことは欣快である。
 大体以上のようなのが歩きながら私の読んだ最後の幾ページかであった。
 ジュール・ロマンの所謂「怯懦」が果してどういうものであるか此処では明らかにされていないが、しかし彼の云う「各人の役割」の如何によっては、それが一時怯懦に見えることもあるであろうと思われる。たとえば、地表を流れる水にくらべれば、地下水の仕事が或いはひどくまだるこしく、或いは怯懦に見えないこともない。しかし侵蝕、運搬、堆積といったような眼に見えて派手な仕事をする地表水や、一挙にして桑海の変を演ずる洪水と比較して、地下水の眼に見えぬ仕事のほうがより根源的な、より永続的な、より涵養的な作用をしているかも知れないように、人間の仕事にしても、その時代のアクチュエルな側から見れば、一見怯懦、迂遠ともとられるものが、案外根づよい、実のある、建設的な、そして永く後代の糧たるに堪える力を、或いは静かに醞醸しているかも知れないのである。
 そう考えると、やはりジュール・ロマンはフランス人だという気がする。
 そんなことを思っているうちに、その地下水が少し性急に地表へ飛び出した善福寺の池の縁へ来た。私はいつものベンチヘ行って腰を下ろすと、すがすがしい朝の水面を見わたした。

 

 

 

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 雲の中で刈った草(宮沢賢治追悼)

   種山ガ原の、雲の中で刈った草は、
   どごさが置いだが、忘れだ、雨ア降る。

   種山ガ原の、背高せだかのすすき、あざみ、
   刈ってで置ぎわすれで、雨ア降る、雨ア降る。

   種山ガ原の、置ぎわすれの草のたばは、
   どごがの長嶺ながねで、濡れでる、濡れでる。

                     宮沢賢治作「牧歌」の一節

 大にもあれ小にもあれ、彼が考案しまた実行した多くの仕事、内外の衝動から彼自身のうちに継起せざるを得なかったもろもろの課題に対する真面目な着眼と、その個性的な独自の取扱い方、彼の抱いていた雲の中のものであるあの柔軟な夢想、北上山地の古期の地層をつらぬいて露出した橄欖岩や蛇紋岩の岩脈のような、あの珍貴な爽かな芸術の構成・色彩、時には川沿いの春の漠漠たる憂鬱と渾沌との奥で、まだ幼いモティーヴでしかなかった未来の歌、常に問題の自己提出と設計と解決とにこもごも多忙だった若い生活開拓者の日々、総じて郷里岩手県下における彼宮沢賢治君の生き方というものは、確かに今日のような偏心的な社会情勢の大渦巻メイルストロウムに捲きこまれながら僅かに一身を支えているわれわれが、出来ても出来なくてもとにかくそれをもっと大道的な、もっと青天白日下的に自由自在なものにしなければならぬと突張る推進力と、そういう生活の未来にかけてのひとつの有力な資料、ひとつの暗示豊かな雛形であったことに間違いはない。
 彼の広範囲の読書とその非凡な解像力とには真に驚くべきものがあるが、さらに彼がその読書から得たなまの知識の岩漿を、彼自身の中心目的という硬い深成岩に接触変質させて、そこから全く新奇の用途に使われる貴重な材料や実地の用に供される壌土を産み出した創造力乃至実行力というものは、彼が所謂「詩人」であっただけに、その着眼の高処的な点とともに一層大いに感嘆されなければならない。
 彼は、できればこの世のあらゆる学問を一身に修めたいと思っている人間の一人だったに違いない。その証拠は彼の書いたもの、彼のした仕事の随処にてきれきと光っている。しかしそれは結局不可能な根数だ。そこで生活の中に瀰漫すべき平俗の叡智、民衆の手に奪還されて其処から一斉に開花すべき百科全書編纂者アンシクロペジスト的な広汎な知識、つまりそういう老ファウスト的乳糜にゅうびが、未来の民衆生活のいきいきした新様式を打建てるための欠くべからざる要素として改めて強く要求されることになる。この要求はまさに当然であって、少くともその限りにおいては格別ひどく先見的なものではないが、それにしても、これを単に筆舌の上の御題目に終らせず、まずできるところから実地にはじめ、身をもってその一部分たりとも実行し、とにかく農芸家であり詩人である人間として真にたった一人、こんな背負いきれない草案の試みだけでも遣ったところに彼の偉大さがある。
 多分もう四五年になると思うが、彼は上京中の或る夜東京の某管絃楽団のトロンボーン手をその自宅へ訪問した。海軍軍楽隊出のこの楽手は私の友人で、一方セロも弾き、詩が好きで、特に宮沢君の詩集「春と修羅」のあの男らしい北欧的な、極地的なリリシズムを愛していた。その時の宮沢君の用件というのが、至急簡単にセロの奏法の手ほどきと作曲法の初歩とを教授してくれと云うのだった。しかしこれはひどくむずかしい註文でついに実現を見ず、やがて一日か二日で宮沢君は郷里へ帰ったのだが、その熱心さには、ワグナアのファンファーレを吹きまくって息一つ弾ませないさすがのトロンボーン手さえ吐息をついて驚嘆していた。
 独学というものには往々独善の香がして人間を貧寒な自尊の中へ曳きずりこむものだが、彼の場合にはそれがいかにも非密教的で野外的で、自給自足の意味が大きく且つ広い。これは彼がその学問活用の目安を民衆の上に――彼の言葉に従えば「朋だち」の上に――置いていたからである。彼はその精神の最も美しい高揚の中で叫んだ。「おお朋だちよ、いっしょに正しい力を併せ、われらのすべての田園と、われらのすべての生活を一つの巨きな第四次元の芸術に創りあげようではないか!」と。われわれの生活を第四次元の芸術にまで建築するということは、畢竟社会生活の理想的完全未来型への夢である。そこで人間が彼のように生来の詩人だと、その眼が当然次の時代へ向けられる。彼の仕事に児童教育的ペタゴジックな面のあるのはそのためである。かくてその周囲の大人と子供、彼らに及ぼした宮沢君の感化というものはかなりに深く大きいものであったに違いない。私は彼の独学に毫末も私有財産蓄積的臭味の無いのを見て喜ぶとともに、彼の後進の間に益々独学の気風の広く行き旦ることを祈って止まない。
 面積九百八十八方里、我が国第一の大県、奥羽中央分水山脈と北上山地とが東西に盤桓し、その間を北上川の本支流が縦谷横谷の深い鏨の刄で刻んだ彼の郷土。それは私に日本での北欧を想わせる。宮沢賢治君はあくまでもその郷土と民衆との詩人だった。「彼はその地理的要素と、その自然の生活と、その河川と、その湖沼とを体現した」(ホイットマン) 種山ガ原の草に寄せた彼の「牧歌」には、奥羽地方の古代民謡の豪壮な哀調が流れていながら、その上に夏の白雲の悠悠と浮かぶ早池峰はやちねの残丘モナドノックを思わせるものがある。私は花巻の町も猿ガ石川も知らないが、彼の作詞作曲になる「イギリス海岸の歌」を口ずさめば、北上地溝帯の荒寥たる河原を見る気がする。詩人として彼は最もよくその郷土の真実を歌った。「民衆は彼らの詩人を通して知られ、理解されたがっている。もろもろの真実の系列の中で、詩的真実こそは其の点最も有効なものに思われる」とジョルジュ・デュアメルが云う。そして宮沢君を通して既に十分馴染になった土地を訪れて其処の人々に会い、その山地や段丘をさまよい、雲の中に刈り忘れられた草を発見して彼の俤を偲びたいということは、今や私の念願となっている。

 

 

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 春

 スイスの春が先ず湖畔から始まるように、武蔵野の春は小川の縁から笑いはじめる。
 二週間ばかり前に北西の風のペイジェントの中で遠く花粉を散らしていたネコヤナギは、穏かな日光を浴びて若葉の包みをほどいている。ハンノキに纏いついたスイカヅラも既に今年の葉を出して、冬を忍んで来た去年の葉と仲睦じく親子のように一緒にいる。五月六月の水辺の歌であり、平野を訪れる郭公の伴侶であるノイバラのために春はまだ幼いが、その根元の湿った土くれの上では、ほろほろと剥げて草の中へ落ちた空の脆い箔かとばかり、淡青いタチツボスミレが可愛い瞳をあけている。小径と水との界にひしめいている生き生きした緑の群衆は、生れたばかりのコモチマンネングサの子たちである。その群衆の隣りには一名カントリソウのカキドオシが、疳の強い子はいないかなと毛むくじゃらの蔓の手をのばしている。
 タネツケバナの白い花の穂が顫えているところ、水はぬるんで其処はまた虫や魚の世界である。柔かい透明な生着うぶぎを脱いだオタマジャクシの群は、突然放たれた広い世界で自由の使い途が分らないのか怖いのか、ちょろちょろ泳いでみてはまた兄弟たちのそばへ帰って、真黒な「押しくら饅頭」をやっている。しかしタガメやタイコウチはもっと独り天下が好きだと見えて、蛙の子やドジョウの息子などの幼稚な国際スポーツには眼もくれず、のそりのそりと泥の上を歩きながら二本の大鎌で水中の狩を楽しんでいる。蘆の芽が角ぐむところ、ミズタガラシの絹糸のような白い根が水の流れに揺れるところは、ゲンゴロウやミズスマシのプールである。其処には又ヤンマの幼虫やトンボのヤゴが幾回目かの脱皮をしながら、来るべき光明と自由との初夏の日を、憂鬱な夢想の中で数えている。そしていくらか流れの速い、アカウキクサの屋根やアオミドロの綿の止まらない水中には、武蔵野に分布する用水の水源池近傍の、郷士とも言えるトゲウオの一種トミヨが、さらさら動く砂の上を、刺股さすまたや袖搦そでがらみ横たえて精悍な眼つきでうろついている。
 スイスの春の笑顔がまず氷河湖の星の瞳から始まるように、武蔵野のよみがえりを告げる小川のほとりは一人の詩人にとってその放縦な夢の天地であると同時に、冬ぢゅうを閉じ込められていた子供たちにとってもまた尽きることない楽しみの宝庫である。
 その楽しみを忘れかねてか、或る日親戚の男の子が今年もまたやって来た。
 子供は私の小さい娘と川狩に行く。向こうの高い松林で今年の巣の事を色々議論しているオナガが「ゲーイ・ゲーイ」と喧ましく鳴き立てようが、ゴムの長靴で踏んで行く足の下に哀れなアカネスミレが潰されようが、そんなことは気にもとめず、心も空に水のほとりへ駆けて行ったが……
 さて夕方、私たちの閑居を一層閑居らしく半日留守にしていた子供たちが、賑やかに帰って来る。猟の結果は豊富である。トミヨ、タナゴ、モエビ、ヤゴ、ゲンゴロウにミズスマシ、厭らしいホトケドジョウさえ幾匹かまじって、二つの水槽アクワリウムは彼らの影絵や横顔で織るような盛況である。それを食卓の上へ有難そうに据えての晩餐。思い出、説明、議論、手柄話。食事も長いが子供たちの話はなお長い。とうとうさんざ催促されてやっと湯に入り、沼くさい手足を私の妻にごしごし洗って貰って、くたくたになって寝てしまった。
 明日あすが来る。男の子は待ち兼ねて飛び起きると忽ち昨夜の水槽を見に行く。
 トミヨが二匹死んで一匹になっている。ヤンマの幼虫がカワトンボのヤゴを食っている。子供はしょげる。水槽を見つめながら、眼を大きくして、片手の拳で鼻をこすっている。それを一つ年下の私の娘が姉のように慰めている。
 男の子は何か幼い用事があって今朝帰らなければならないことになっていた。自分の取っただけを叔母である私の妻に壜へ入れて貰って、それを持って帰るのを楽しみにしていた。それなのに魚が減り、たった一匹のカワトンボの子が半分になりかけている。
 妻は云ってきかせている、
「川へ行けばいくらだって取れるんですからね。栄子でも叔母さんでも行って取って置いて上げますから。沢山取って置いて上げますから。さあ、男の癖にめそめそ泣いたりしないで、これだけ持って今日は元気よくお帰りなさい。そうして又いらっしゃい。ね、分ったでしょう。叔母さんが取って置いて上げるから」
 私は洗面を済ますと慰めに行った。そして死んだ魚はちょうどいいから小さい試験管に入れて、アルコールを満たして、コルクと封蠟とで栓をして、トミヨの液浸標本を作るといい。カワトンボのヤゴは今日栄子に取りにやって、近い内に届げて上げる。そんな事を云ってみた。
 従兄弟いとこの次男は私の妻の帯へ両手を掛けて未だしくしく泣いていたが、やがて私には聴こえないほど細い声で何か一と言云っていた。その拍子に、子供の背の高さまでうつむけていた妻の顔が真面目になり、眼が光って、曇った声がこんなことを云った、
「そうね、あなたの云う通りね。でもやっばり諦めようとしなくっちや……」
 これを聴くと小さい男の子はやっと泣くことをやめて、それからは機嫌を直し、風呂敷へ包んで貰った壜を下げて、西荻窪から遠く目黒へ帰って行った。
 娘を一緒に停車場まで送らせて遣った私たち夫婦は、顔を見合わせて微笑した。そして私は思い出して妻に訊いた、
「あの子はさっき何かお前に云っていたね。なんと云っていたの」
「ああ、あの時ですか。あれはね、こう云ったんです。叔母さま、叔母さまは幾らでもいるから取って置いて上げるって云うけれど、僕が惜しいと思うのはあれなの。別のじゃないの。あの死んだやつなの、ですって」
 そう云いながらまた泣虫の妻の眼が光り、べそをかくような顔になった。
 欲しいのと惜しいのとは正に違う。そして子供としては、いわんや男子としては、大人や女のようにそうたやすく憐憫を口にすることはできなかったのであろう……
 私たち夫婦は二人きりで遅れた朝飯に向かった。窓のそとの棚ではアケビの蕾が紫に色づき、鳩がクウクウ鳴き、今日もまた生きている身をしみじみと喜びたいように麗らかな、平和な、豊かな春の景色である。

 

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 少女の日

 「自然研究」。だが少くとも幼年期・少年期を通じて、私の育った環境に、野外の光り・悦びの真珠母であるところのこういう言葉はたえて響かなかった。
 言葉の無いところには雰囲気も無い。(いずれが他の一方に先行するか私はよく知らないが。)家は下町京橋の商家であった。応接間や書斎のかわりに店と帳場があり、書生はいないで幾人かの若い雇人がいた。二棟の倉庫、二艘の持船。ルウベンスの絵から抜け出したような、真赤な潮風くさい船長が、黒潮の新島にいじまや八丈島へ出て行ったり、雪もよいの小樽や函館から帰って来たりした。父は「旦那」で、母は「おかみさん」だった。母は丸髷に結い、黒襟を掛け、店からは厳しく遮断されたほの暗い奥の座敷や台所で、女中たちを相手に内助の仕事に忙しかった。父は論語や実語教という本で薫陶され、残りは自分で薫陶して、その処生の哲理は「努力」であり、ひどく独断的で、子供に臨むその態度にはいつも暴君の圧力があった。そして私はその眼に見えぬ幅射圧におびえていた。
 七つの年の運動会に大森の八景園へ行くというので、初めて新橋から汽車へ乗って、汽車という物を初めて見た。私はその威風に心酔し、汽筒シリンダーや大動輪のあたりに立迷う「西洋」の精神に夢中になった。それは浅草の観音様や上野の動物園へ行く時の、赤や緑の扇形の方向板を屋根につけて、馬に曳かせるあの鉄道馬車とは違っていた。それは機械の英雄主義ヒロイズムのようなもので私を打った。
 中学の一年・二年、博物と作文との成績が優秀だった時、父は褒めてくれるどころか、当の私を前に置いてにがにがしげに母に云った、
「こいつは真人間にはなるまい!」
 それは科学知識普及のための月刊雑誌も、軍事知識普及のための少年科学雑誌も、子供の心を惑わすような立派な写真も、自然科学列車(!)も、その美しいポスターも無かった時代。言葉も物も事柄も、同時に年長者の温かい理解も嚮導も、ひどく少ししか無い時代でもあれば周囲でもあった。
 文学にも学問にも全く縁のなかった私の環境。その環境の重囲から一方の血路を開いて、落ちのびて、今在るところの私の世界。環境が人間を左右するか、人間が環境を打建てるか。私としてはまず此の際、あの公算の使徒、あのきびしい社会学者たちには半分だけ賛成を与えて置いて、さて、自分の主題に帰らなくてはならない。

 今から三十年前の時代にくらべて、現代が特に寛容と理性との時代になっているなどとは、しかし私は思わない。むしろ今こそ意識的に寛容の徳を奨め、理性の力を擁護促進させなければならない時だと思っている。
 例を小さくして云えば、すでに一箇の「人格」である子供の理由を遂に取り上げることのなかった自分の父の、あの不寛容、非理性的なスパルタ教育の弊害を肝に銘じている私としては、今度は自分が父親の番になって、特にこの事を感じるのである。
 私もまた我が子に圧力を加えることはある。しかしこれは「私だけが特に好まざる事」を子供が為すからではない。私の加えるのは普遍的倫理観念からの圧力である。それが彼女を潰してしまわないで、いつも彼女から反省を圧し出せばいい。
 子供が捕蟲網と毒壜とを持って小川の縁へ蜻蛉の採集に行く。獲物は豊富である。カワトンボ、アオハダトンボ、トラフトンボ、ギンヤンマ……いずれも完全な材料だ。又もや一つの箱を飾って、今年の五月を記念すべき立派な標本が出来るだろう。
 ところが午後になると三つになる小さい従妹が叔母に連れられて遊びに来る。八つ年上の彼女はすっかり喜んで、残りの半日を夜までも遊びほほける。壜の中の蜻蛉のことは全く忘れて。或いは忘れたような顔をして。そして寝る。蜻蛉の死体にはすでに変化が始まっている。
 翌る日は学校がある。六時間を済まして帰って来ると習字の稽古に行く。夕方になる。夜は夜で宿題がある。算術、読方、フランス語の動詞変化 avoir と être ……そして寝る。蜻蛉は腐敗する。彼らの腹節は極度に軟化して、直ぐに切れてしまうところまで進んでいる。
 私は黙って済ますわけには行かない、
「お前は理科が好きだと云う。それで其のためにお前が欲しいと思う物は何でも買って貰っている。大人の持つような物さえ。それはいい。お前は標本を作るというので蝶や蜻蛉や甲蟲を採る。殺す。それもいい。殺さなければ標本が出来ないから。しかし、ほかに面白い事が始まったからと云って、整理もせず、思い出そうともせず、毒壜へ入れっぱなしにして置いて腐らせてしまうのは悪い事だ。それは殺す事だけのために、生きている者を、暑い野原や涼しい水の上でお前たち子供と同じように楽しく、自由に飛廻ったり遊んだりしている者を、いきなりつかまえて締め殺したり毒で殺したりする事ではないか。そういう子供は(大人だって同じだが)蟲を採ることはできない。誰に向っても殺したことの言訳が立たない。それは行儀が悪いとか、顔や手足を不潔にしているとか云うよりも、もっと悪い、もっと恥かしい行いだ」
 子供は閉口する。すっかり弱って、これからはきっと忘れずに始末すると云う。私は手伝ってやってどうにか蜻蛉を救済する。しかし二三羽はもう手の施しようがない。小さい娘は駄目になった哀れな蟲を手の上に載せて、悄然とそれを見ている。その眼に涙がたまる。宜しい! 私が期待していたのはその後侮と憐れみなのだ。たとい瞼毛のあいだのその澄んだ美しい水滴ではないにしても……

 私が野外雑記帳を持っているので、子供もそれを持つ。私の帳面には「野生花」という題がついている。子供はそれも真似ようとする。いや、これはお父さんが考えた題だ。お前にはお前の考えが、お前らしい旨い題があるわけだ。それで子供は色々思案した末に "Cahier de la Nature"(自然の帳面)というのを思いつく。ふん、なかなか佳い題だ、それに極めるといい。そこで円い鼻の頭へ玉の汗をかいて、学校でやかましく云われている通りの書体で表紙へ書く。
 それ以来私は彼女の野外帳を時々見せてもらう。頼んで。なぜならば、それもまた個人の日記と同じであって、公表する目的で書かれたものではなく、況んや他人が盗み見していい性質の物でもないから。
 幼稚な文章や絵で埋められたその手帳は、たしかに野外帳の精神にかなっている。それは、少くともこの子供にとっては、金銭をもって購うことのできないほどの価値を具えている。それで私は教理問答をそらんじて来た信徒に対する司祭のように云う、
「宜しい。お続け」
 この種の帳面を年長者や教師が見る場合、それに批評を加えることは厳重に慎まなければならない。文章にせよ、絵にせよ、観察態度にせよ、書体にせよ、ましてや仮名遣いにせよ、其の場ですぐに注意を与えるのは最もいけない。奨励し、勇気づけるために、特に褒めるべき点を指摘しての讃辞、これはまた忘れても惜しんでもいけない事だと私は思う。
 肝腎なのは子供に厭気を起させないこと、知らず識らずのうちに持続の習慣をつけさせること、次の発展への自発的な興味を養わせ、刺戟してやることである。文章をやかましく云ったり、絵を批難したりすると、子供は臆病になっていじけるか、悪くすれば密かに反抗するようになるかする。叱られることが又一つ殖えた。厭な義務を又一つ背負い込んだ。よせばよかった。こういう考えを子供に起させたらもうお仕舞である。
 しかし必要と考えた場合に、観察すべき点なり要領なりを、予め面白く暗示して置くことには賛成である。
  お父さんは、小父さんは、或いは先生は、何でも知っていると子供に信じ込ませることは却ってよくないと私は思う。そうすると子供は彼ら自身の観察や、調査や、同定の労力を飛ばして、ちょうど今日の小学校で地埋や歴史を暗記するように暗記してしまうから。もちろん自然科学にも暗記を必ず必要とする部分はある。しかし此の際指導精神の眼目とするところは、飽くまで子供自身の探究である。そしてわれわれは彼らの水をこぼさないだけの容器、時には彼らの進歩の流れをそれとなく導く溝渠でありさえすればいい。それにまた実際われわれは何もかも知ってはいないのである。知らないで知っている顔をするのは凡庸な教師であり、知らざるを知らずと云う者、これを真の学者、或いはソクラテスと云う。
「お父さん、柿は雌花にも雄花にも雌蘂と雄蘂が有るくせに、どうして雌花だけにしか実がならないんですか」
「雄花の雌蘂は小さくて実を結ぶ力が無いからだろう」
「雌花の雄蘂はどうしてあんなに乾いて小さくなってしまったんですか」
「雄蘂の役は雄花の方で引受けて呉れたからだろう」
「いつどうしてそんな風に極まったんですか」
「知らないな」
 私はすでに混乱している。雄蘂雌花雌蘂雄花。それは詩人ポール・ヴァレリーとヴァレリー・ラルボーよりもこんがらかる。それに役割の極まった時期などはなおさら知らない。
「神様がお極めになったのか知ら」と子供は云う。私は科学の窮極についての英国の或る新聞の質問に答えたアインシュタインの言葉を思い出す。しかし今、この科学の入門者に、(彼女がいかにカトリックの学校に行っているとは云え)そう忽ち飛躍されては困るから、
「知らない。しかし考えたり調べたりしてみょう。お前と二人で」と、極めて覚束ない返事をする。仕方がない。自然界は広大で、人間の知らない事に満ち満ちているのだと云う事を、子供の奮発心のためにも強調するのである。
 子供が遠足の朝、そして宅では大掃除の朝、早朝の庭ヘー羽の美しい小鳥が来る。子供がまず見つける。家ぢゅうが興奮する。黒い鳥で眉が黄色、眼も覚めるような橙黄色が咽喉から腹へむかって次第に淡くなっている。鳥は庭の樹から樹へ、腹をかえして金の矢のように飛ぶ。
「お父さん、あれ何て鳥」
「ノゴマだろう」
 子供は心を残して出かける。私たちは大掃除に取りかかる。しかし私の衷には何となくそぐわないものが、何だか物が間違っているような感じがある。考えてみればそれは今でもなお庭に来ている鳥のことだった。それで早速図鑑を出して、畳を上げた座敷の床板の上で調べた。それはキビタキだった。間違えて他人の帽子をかぶっていた時のような、気持の上の適合の悪さの原因がこれで分った。キビタキは夜まで庭で遊んでいた。
 夕方、子供が帰って来たので早速その話をした。子供は自分で図鑑を繰った。折から花盛りのライラックの大枝に棲まって身動きもせずに此方を見ている美しい小鳥は、まさに図鑑どおりのキビタキだった。
 その夜子供は色鉛筆を持って彼女の野外帳に向っていた。
 私は自分の「野生花」に、むしろ今日の経験の心理的経過をこまごまと書きつけた。

「お父さんはいろんな会へお出かけね」と子供が云う、「栄子もたまには連れてって頂戴よ」
 たまには。私は苦笑しながら子供の顔を見る。それを、大人から聴き覚えた一つの状態副詞のいくらかコケットな愛嬌のある使用か、それとももう少し底意のある厭味か、どっちだろうかと思ってこの十一になる娘の顔を私は見る。
 だが、すべての兆候から推して、どうやら厭味の方ではないらしい。そこで私は答える。
「連れて行って上げるよ、そのうち子供に良い会があったらね」
「ええ、きっとですよ」
 わが子と、とりわけわが娘と、彼女の欲する何かを約束するという事は、父親にとっての一つの悦び、むしろ一つの熱情パッションである。
 なるほど私は幾つかの会へ入っている。自然科学や山の会へ。そして夏も近づくと、そういう会が何れも活動を開始する。講演会がある。見学の小旅行がある。大小の集会がある。それに対して皆が皆出席しないとしても、別にまた文学の方の集りを加えれば、しぜん出席の度数も多くなる。時には意に反してさえ。
「連れて行ってやったらいいじゃないか」と、私の友人で、いつも私の「批評の批評家コントル・クリティック」である某君が云う、「君の科学は君の趣味か道楽にすぎない。ところが子供にとって、彼らの時代は、未来は、すべてこれ科学万能の生活光景の時代だ。彼らと科学とは、君たちのような親の気のつかない間に、すでに互いに黙契し合っている。だが安心するがいい。子供の批判や選択というものは、親の考えているよりも遥かに健全でもあれば実際的でもあるのだから。とにかく、君の信念の、或いは頑固な考えの如何に拘らず、(どっちでもそれは同じことだ!)科学は子供の、民衆の、即ち未来の魂をつかむ。それは善い事だ。それは自然なことだ。君の子供を、時代に置き去られる君の道連れにしないがいい」
 私は苦笑して答える。
「君の云うことは半分尤もだ。僕はその半分の真理に対しては敬意を表する。僕もまた未来を愛し、子供らの未来を祝福する。しかしそれだからといって、僕は未来におもねったり未来と現在とを混同したりはしたくない。現在は僕らの時だ。太陽は僕らのために南中している。この正午に、この不安と希望とにギラギラ輝く白昼に、汗水たらして孜々として働く者、また事実働かねばならない者は僕らだ。僕らに対して全身の力と勇気とを要求するこの現在に、僕らが徒らに未来に心酔したり未来を謳歌していたら、一体誰が僕らに代って仕事をし、誰が愛する未来のために蜜や花粉を集めてやるのだ。
 子供は幼い。彼らはその無垢の原型プロトタイプによって僕ら大人を反省させたり、清めたり、喜ばせたり、又そのために心痛させたりする。しかし彼ら幼虫のやわらかな額に、たとえどんな天才の、どんな多望な民衆の星の極印が捺印されていると知らされようとも、僕らはそれに心を奪われて、僕ら自身の責務や良識を捨ててしまってはいけないのだ。
 よく未来・未来、子供・子供と云う。私どもの家庭ではすべて子供を本位にしていますと云う。それは未来に対する或る種のディテッタンティスムとは云えないだろうか。僕は僕らの時代の現実をもっと真面目に考えたいのだ。未来を神様のように思ったり、子供を何処かの国から預った王子様かなんぞのように幻想したくはないのだ。
 僕は子供の魂の美しさを見ると同時に、その美の脆いこと、脆いが故にわずかな悪徳にもたやすく感染することを知っている。その危険から身をもって彼らを護ってやるのは子供の親だ、僕らだ。そうしてそういう危険は、僕らの問題に立帰れば、見学の会とか、採集の会とかいうものにさえある。会そのものは悪くなくても、会の空気の中に、しばしば親としては困るものがある。僕ら大人はそれらの会の社交的な一面からも貴重な知識や体験を得ることができる。しかし子供はそうはいかない。少し注意すれば僕ら親でも教えることのできるような事を学んで来ると同時に、学んで欲しくない事まで、換言すれば親の教育方針の根本に抵触するような事まで、否そういう事を特に子供らしい好奇心で学んで来るのだ。それでは困るのだ。しかし会へ遣った以上、その点についてだけ子供の眼をふさぐことはできない。だから容易には僕は子供を会へ出したり、連れて行ったりしないのだ」

ラジオ。
「栄子、ラジオつて事をフランス語ではなんと云うね」
「Tテー・Sエス・Fエフ
「それは略して云う言葉だね。本当の言葉は?」
「知りません」
「習わなかったのかい」
「習いません」
「それでは燕号のように特別に速く走る汽車の事はなんと云うね」
「特急と云います」
「それも略した言葉だね。略さないで正しく云うと、なんと云うね」
「知りません」
「しかしT・S・Fも特急も、字を見るとちゃんとわけの分る言葉の、その頭の字だけを取って並べて作った言葉だと云う事は知っているだろうね」
「知りません」
 時代の犠牲よ! 私は一々字を書いて教える。それにしても、すべてが余りに簡略ではないか。すべてが余りに浅薄ではないか。一歩一歩の吟味の精神が面倒くさがられて、手っとりばやく要領を得るための速度だけが喜ばれる。一体、今の世の中はそれほどにも時間に貧困しているのだろうか。
 だが、今、夜のラジオで鳥が鳴いている。遠い土地の夜の深山で鳴く、美しい、悲しい、ノクタアナルな鳥の声が、家ぢゅうの者の集まって惚々と聴いている明るい茶の間の、小さな箱の孔から流れ出す。
「ブッポッポー! ブッポッポー!………」
 寝にゆく前の栄子は、パジャマを着て、母親の膝にもたれて聴いている。私は縁側の籐椅子で、庭の暗がりを見ながら聴いている。知っているかぎりの山や谷の中で、此の声にもっともふさわしい処を考えながら、四万や法師、尾白川の谷奥などの夜を眼の前にえがいてみる。急に山へ行きたくなる。
「ブッポッポー! ブッポッポー!………」
 鳥はこの夜一夜を鳴きあかすかとばかり、明るく暗く、単調にまた悲しげに鳴いた。そして放送は終った。あとは何かが抜け落ちたように空虚だった。しかしその沈黙の深淵では、まだしばらくは幻聴が歌っている。
 子供は「お休みなさいボン・ソワ」をして、女中につれられて二階へ上がった。少しの間、今度は二階から「ブッポッポー」という幼い声がきこえた。それがいつの間にか止むと女中が下りて来て云った、
「お休みになりました」

 或る種の言葉への同情。
 成功した放送以来、仏法僧は俄然街の人気者になった。深山の鳥の声は、鳥に最も縁の薄い人人の口にも喧伝された。しかしその姿は依然として疑問であったし、一般の公衆も姿のことなどはほとんど問題にしていなかった。公衆というものは、名よりも実を採る実際家である。

 子供は私に連れられて会へ行った。彼女は科学博物館で野鳥の生態写真を見、剥製を見、その映画を見、そしてU農学博士の講演を聴いた。
 その時博士が仏法僧に言及した中に、「姿の仏法僧と声の仏法僧」という言葉があった。それは或る新聞記者の創作にかかる新らしい表現だったそうだが、その言葉のどういう点が気に入ったのか、栄子はその後好んで此の言葉を口にした。それで或る時私は訊いてみた、
「お前はよくそう云うが、その言葉の何処が気に入ったの?」
「どこって、お父さん、そりゃあ栄子にはわからないわ。だけど本当に姿と声とは違うんでしょう? その仏法僧の」
 要するに分っているのである。そしてそれは子供に対するジャーナリズムの勝利とも云える。

 子供は私と新宿の雑沓の中を歩いている。或る四ツ角まで来ると、其処に古い洗面器を前へ置いて、一人の老人がぼんやり箱に腰をかけている。洗面器の中には七八匹のヤドカリが入っている。老人は此のヤドカリを売る人なのである。しかし何も云わない。立てた膝の上に皺だらけの両手を組むように載せて、くぼんだ空ろな眼をして、黙然と自分の売物を見ている。ヤドカリでは口上もあるまいし、云うべきことは若い時皆云ってしまったのであろう。
 私の子供はそれを見るとつかつかと近づいて行く。そして其処へしゃがみ込む。炎天の雑沓の中で、その老人と、琺瑯が剥がれて錆のついた洗面器と、乾燥したヤドカリと、私の娘の涼しい華やかな洋装とが、あまりに苦しい対照ではないか。
 ヤドカリを見ている子はもう一人いた。それは五つぐらいになる男の子で、これも父親が傍に附添っていた。男の子は、見馴れぬ気味の悪い小さい生物を子供が見る時よくするように、両手をぶらんと下げて、立ったまま、下眼使いに、メランコリックな表情をしてそれを見ていた。
 私はその子とその場の光景とに心を動かされた。今に買って貰うだろうか。買ったらば老人はどういうふうにして売るだろうか。また客はそれをどうして持って帰るのだろうか。
「これ死まない?」と子供が父親を見上げて訊いた。
「駄目だよ、坊や。直ぐ死んじまうよ」と父親は低い声で答えた。
 ヤドカリはがりがりやっているものもあるが、もう殆ど動かないのが多かった。日盛りの新宿街頭の、水も無い熱い洗面器の中で、それは甲殼類の悪夢であった。
 小さい男の子は、なおも眼を放さずにじっと蟹を見ていた。その眼はむしろ悲しげに厳粛とも云うべきであった。
「行こう、坊や」
 ややあって父親はそう云うと、子供の手を引いて立ち去った。私の娘もまた腰を上げた。私たちは歩き出した。
「ねえお父さん、今の子供お俐巧ね」と歩きながら栄子が云う。
「どうしてさ」
「だって、真面目になって、大きな人みたいに頁面目になって、あのヤドカリを見ていたわ。あんな小さい子であんな真面目な子、栄子見たことないわ」
 私は娘がヤドカリばかりでなく、あの男の子をも見ていた事を喜んだ。
「そうだね、お父さんもそう思ったよ」
「あの子学校へ行くようになったら、きっと理科がよくできてよ」
「うん」
 私たちは或る百貨店へ入る。彼女は新刊の鳥と植物とのガイド・ブックを一冊ずつ買ってもらう。そしてなお頻りに食堂をねだる。そこで私は云う、
「お前は欲しい本を二冊も買って貰った。それで未だそんな贅沢なことを云うのかい。さっきのヤドカリ売りのお爺さんを覚えているかい! それから、お前がお俐巧だと云ったあの小さい男の子を」
 子供は反省する。素直に反省されてみると、今度はまた食べさしても遣りたくなる親心を無理に殺して、私は娘の手を引きながら外へ出る。
 往来には午後の日光が華やかに射して、真青な空では広告気球が浮きうきと風に吹かれている。楽しい楽しい暑中休暇ももうじき来る……

 

 

 

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