雲 (昭和17年)


   写真集「雲」(アルス文化叢書11/アルス)の前半は雲の写真集で、
   後半は天気や雲についてのエッセイと解説で構成されています。
   ここでは文章部分のみ掲載します。
                                (管理人:満嶋)

  目 次                                   
  緒 言  
 

第一章 天氣
 田舎で/吾々の云ふ天氣と氣象學上の天氣/天氣豫測と俚諺
 測器時代と氣象圖の時代/天氣豫報に信頼する

 
 

第二章 雲
 雲と私/雲の分類/雲形の定義と解説/結び


 
  本書の一般讀者への推薦圖書(尾崎記)  

 

 

 

 緒 言

 詩人として詩業にいそしむ傍ら、雲を見、雲を觀察し、且つそれを撮影したり記錄したりする事を始めてから、もう十年になる。十年といへば、其道の専門家ならば既に立派な業績の幾つかを拳げてゐる歳月の長さである。然し悲しいかな數學にも物理學にも疎遠な詩人としては、其間に得たところのもの悉くを公けにしても實にたゞ是だけである。
 本書の眼目は寫眞と其のデータとにあつて、文章の方は附錄に過ぎないやうな物であるが、其の寫眞にしても、數百枚の中から撮影の日附と其後の天氣との明らかな物を選び出したので、僅かに百枚に滿たないといふ有樣である。勿論見るに足る物の無いのが主な理由ではあるが、一方、此等の必要な記錄を缺いた雲の寫眞は、本書を公けにする私の動機からいへば、さういふ物を加へる事が結局無意味な事のやうに思はれたからである。
 笠雲や吊し雲其他で自作の無い物があつた。その爲貴重な數枚を畏友武田久吉博士から拝借した。茲に記して厚く感謝の意を表する次第である。
 本書を手に取つた人が一人でも多く雲の美を今までよりももつとよく認めるやうになり、更に一層細かく雲の美を發見し且つ味ひ、又雲によつて天氣を豫測するやうになればいい――さういふのが敢て此本を作る有力なる理由であつた。それは「望氣の術」に長ずるといふ以上に、實は今後いよいよ廣く逞ましく豐かにならねばならぬ吾々の生活に、必ずや資する所があると秘かに確信してゐるからである。
 それにしても、若し私にして現在の中央氣象臺長藤原咲平博士のあの「雲」を、世界にも無比獨特と思はれるあの雲の圖聚を知らなかつたならば、如何に雲が好きだつたとはいへ、斯くまで深く雲の中に歿入はしなかつたであらう。しかも私はさうする事が樂しかつたし、又次第に傾く齢の坂の道の上で、尚生きる限りを樂しいと思ふであらう。
 更に又岡田武松博士の、あの廣汎にして深遠な「氣象學」が無かつたならば、一般に氣象に關して、私としては今程の興味も知見も持ち得なかつたであらう。博士の「氣象學講話」と上下二卷の「氣象學」とは、其の全部を理解する事の出來ると出來ないとに拘らず、實に私の眠られぬ夜の慰めの書の一つである。
 茲に兩博士に對して心からなる御禮を申述べ、日頃の敬意を表さなくてはならない。
 又前記の書物のほかに、中央氣象臺技師三浦榮五郎氏の著「氣象觀測法講話」も此本の爲には幾度か貴重な參考となつた。茲に改めて同氏に感謝する次第である。
 更に今度の戰争以來急激に増した身邊公私の多忙と生來の遅筆との爲に、本書の原稿完成が豫期以上に手間取つたにも拘らず寛容を示されたアルス社長北原保雄氏に、衷心からの謝意を表する。

  昭和十七年三月十日陸軍記念日
                            尾崎喜八

 

                         

 

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 第一章 天 氣

 一 田舎で

 郊外の晩秋の朝、靑玉のやうな空には殆ど一片の雲もない。もうだいぶ天の南を廻るやうになつた太陽が、午前八時の路をゆく私の額をおだやかに照らし、黑い軟らかなローム層の土を、ほのかに湯氣の立つほどに溫めてゐる。畠と用水との境を走る路の上には、並木の櫻の葉といふ葉が生地の綠へ臙脂色をさして、早朝の靄にまだ濡れたまゝきらきらと輝いて、朝日の光の中をそよ吹く西風にも滑るやうに散りかゝる。虫の聲も秋の初めの頃からみればずつと滅つた。時々かすかに鳴くエンマコホロギがあたりの静寂の底に聽こえるが、それはもう歌といふよりも、寧ろ崩れかけた穴居の戸口に凭りかゝつて、樂しかつた夏を思ひ出す夢のやうに曇つた呟きでしかない。刈りたふされた唐黍の血のやうな色の浸み出た茎の下や、役目を終つて積上げられた胡瓜の竹の支柱の下で、彼等の夏の夜の戀の樂器はもう破れてしまつたのであらう。
 それでも未だ田舎に花はある。畠の隅で、肉色のカンナは高い莖の先に粘り着くやうに咲いてゐる。コスモスも未だすつかりは散りつくさず、其の白や桃色の花びらには陶器をおもはせる冷たい落着いた光がある。さうして菊こそは朝毎の露に奢つて、刻んだ玉や、霧に包まれた月の光を連想させる大輪を、背景をなす茶の垣根の濃い綠の前に浮上らせてゐる。其の茶の木の下には去年の花が實を結んだ圓い種子が點々とこぼれてゐる。今年の花は十月頃から咲續けてゐるが、其處へは今金と黑とのノラハナアブやアシブトハナアブが集まつて最後の蜜を舐めてゐる。
 畠そのものも美しい。白菜の柔い薄綠、キャベツの靑銅がゝつた深味のある綠、それに較べて幾らか粗野な、ひどく平民的な大根の綠。すがすがしい、水氣の多い、肉の厚い葉菜類が、或は堅く結球し、或は翼のやうな葉をひろげて、もう芽をふいて綠のほそい縞模樣を織りなした麥畑の黑土に隣つて、此の武蔵野臺地の十一月の風景に、豐かな、生活的な色彩を寄與してゐる。
 用水のふち、路傍の草むらでは、ユウガギクに代つて咲きはじめたヨメナの花の、氣品のある淡紫が静かに日を浴びてゐる。それにまじつてアキノキリンサウの鮮やかな黄や、ノハラアザミの紅紫色がしつとりと濡れてゐる。純白な花粉の嚢のついた雄蕊を無數の針のやうに放射した其のアザミの花の上には、長い冬眠に入る前のヒメタテハの雌がとまつて晩秋の日光を樂しみながら、黑白の星を散らした赤褐色の羽根を伏せて、來るべき春までの榮養の吸収に餘念がない。その向うには少しばかりの荒地があつてスゝキがはびこり、未だ幾らかは實がついてゐるのか、ゆらゆら揺れる其の細い莖につかまつて、ホホジロがぼやぼやの穂を嘴でしごいてゐる。其處には又、其の莖の汁が水虫といふ皮膚病に特効があると云はれるタケニグサが、からからに乾いて立つてゐる。九月の末ごろ身にしみるやうに幽玄なカンタンの歌を聽きながら、東方の林の上に牡牛の星座の昇る夜の十一時過ぎまで佇んだ荒地の中では、ヤマゴパウが黑みがかつた紫に枯れ、ヲナモミが乾燥した黄色に枯れ、ヤナギタデやイヌタデも赤く美しく霜に傷んで、ただところどころに二番咲のヒメジヨオンが、初夏のそれとは違つて丈低く咲いてゐるばかりである。
 私の路は畠からそれて一軒の農家の前をとほる。農家は堂々とした屋敷林にかこまれてゐる。どつしりと構へた見事な草葺の家を此の土地の冬や春光の季節風から護る其の屋敷林は、主として高い樫や杉のやうな常綠樹と、欅や櫟のやうな落葉樹とから成つてゐる。それでかういふこんもりした砦のやうな木立を廣い武蔵野の耕地のかなたに認めたならば、其處に古い農家の存在を信じても間違ひは無いのである。今其の屋敷林の杉の木のてつぺんで、越冬のために山地から移住して來たヒヨドリの一羽が、「ピーチョルルリイ、ピーチョルルリイ」と歌つてゐる。これは彼等の最善の歌であつて、普通にはたゞ「ピーピー」と騒がしく鳴きたてるのである。私が足をとめて其の歌を覺え込まうとしてゐると、農家から出て來た其家の老主人が辭儀をしながら「結構な御日和樣で」といふ。私も辭儀を返しながら天氣や畠の作物について少しばかり立話をする。
 それにしても此の場合老農といふものが、なんと頼もしく安泰な感じを私に與へる事だらう。また「天氣」をさして「御日和樣」といふ其の表現が、なんと美しく懐かしく私の耳には響くだらう。
 杉の梢ではヒヨドリが未だ「ピーチョルルリイ」を繰返してゐる。生垣の茂みではウグヒスが地鳴きの「チャッチャッ」を早口に、連續的に響かせてゐる。そして半ば日のあたつてゐる庭先では、洗ひ場から運んで來て綺麗に積上げた大根が累々と、まるで白い玉のやうである。

 

 二 吾々の云ふ天氣と氣象學上の天氣

 然しまた或る夕方、湯氣を含んだ生暖い南の風がかなり強く、空は灰色にどんよりと曇つて、わづか北の方だけに夕陽の色が感じられた。こんな時には氣持も沈んで、精神も外部にむかつて活潑に働きかけようとはしない。さりとて己れの中に深く沈潜して、其處から何か身になるものを汲み上げたり、其處にひとつの光を我とわが心から創造しようとするには、必要な條件に何かしら缺けたものがあるやうな氣がする。一種のアパスイー(無感覺)といふか、沈滞といふか、いづれにせよ人は精神の一時的な麻痺状態にある。共感も湧かない。好奇心も起らない。創造の慾望も頭をもたげない。
 若しも屋外へ出たら、さうしてあたりを少しばかり散歩したら、あたかも歩く犬が捧に當るといふやうに、何か生き生きした思想の端緒となるものにめぐり合ふかも知れない。或は若しも此町に今ぱつと夕陽が射したら、物倦く沈滞した身も心もたちまち活氣づいて、生れ變つた者のやうにいそいそと働き出すかも知れない。それにしても此の薄暗くどんよりした夕方は。此の濕めつぽい南の風は。
 ちやうど其處へ電話が掛つて來て、私は急に東京へ行かなくてはならなくなる。之は必ずしも有難くはないが、ひとつの環境の變化ではある。私は着物を着換へる。玄關の前へ立つていつもするやうに空を見上げる。さうして妻に蝙蝠傘を出させる。
 「行つていらつしゃい。なんだか怪しいお天氣になりましたね」と彼女が云ふ。
 「うん。今夜は歸に降られるかも知れないな」さう云つて私は出かける。すでに幾らか動きはじめた精神をもつて。すでに女中に抱かれてじつと何かを、見てゐる隣家の赤ちゃんの、其の柔い莟のやうな口もとを、軽く指先でつゝいてあやさうとする程の自然な心の花咲きをもつて。
 さて、今私の妻の云つた「怪しいお天氣」とか、或朝老人のお百姓から聽いた「結構な御日和樣」とかいふ言葉が、それぞれの獨特な含蓄や美しさは別としても、其の折々の空模樣に對して吾々の納得し得る日常普通の表現の仕方である事は言ふを俟たない。さうして若しも天氣が良ければ、(勿論職業や業務によつては一概な事も云へないが)、良い天氣の時に適した事をする。又惡ければ惡い時のやうな處置をとる。洗濯をするのも、傘をさすのも、子供を連れて遠足に出かけるのも、お百姓が筵の上へ切芋をならべて乾燥するのも、郵便屋さんが雨合羽を着るのも、すべては其日々々、其時々の天氣に應じて採用する吾々の生活上の處置なのである。
 吾々の云ふ「天氣」。其の内容には、晴、曇、雨、雪、嵐などがある。さうして多くの場合には此の程度の認識と表現とで充分に事は足りるのである。
 ところで天氣と氣候の事を専門に論ずる學問、即ち氣象學では、どういふものを指して「天氣」と云ふかといふと、それは或る場所での或る時刻に於けるそれぞれの氣象要素を綜合した大氣の状態の事である。即ち氣壓、氣溫、濕度、風向、風速、雲量、雲形などのやうな各要素の、數量なり、方向なり、形なりを其場所について觀測して、それらを綜合し整理したものを其處の天氣と云ふのである。それ故、前に述べた、私が東京へ行くといふので蝙蝠傘を持つて出かけた或る秋の日の暮の天氣を、私の家の在る場面について觀測して、それを氣象學の言葉で表現するとしたら大體次のやうなものに成るであらう。
 「某年10月某日午後6時に於ける某地の天氣。氣壓759粍、氣溫24度、濕度80%、風向南々西、風速8米、雲量9、雲形層積雲及び高層雲、天氣曇」
 ところで此の最後の「天氣曇」であるが、此の場合の天氣といふのは其の觀測時の空の晴曇の事であつて、先づ吾々の所謂天氣に似たもの、謂はゞ空の表情である。然しこれもたゞ漠然とした印象や感じによるのではなく一定の基準に據つたものであり、其の基準となるのは其時の雲量である。雲量といふのは雲に披はれた空の分量であつて、其の雲の厚い薄いには闘係が無い。雲量は我國の氣象觀測法では0から10までの11階級に分たれてゐて、全天に一片の雲も無ければ雲量0で快晴、空全體が雲に被はれてゐれば10で曇といふ事になる。さうして雲量0から2までを快晴、3から7までを晴、8以上を曇と規定してゐる。但し雲量を測るには普通は別に器械を用ひず、空に浮んでゐる雲を見て、空全體に對する其の割合を胸算用で出して幾らと極めるのである。だから空の半分が雲に被はれてゐれば5割、即ち雲量5である。此の數字は更に練習を積めば小數點以下一位までも出す事が出來るであらう。
 それならば雲量さへわかれば別に晴曇を云はなくても可さゝうなものであるが、時には晴で雨が降つてゐるといふ事も有り得る。たとへば夏の夕立一過といふやうな場合で、空は半分以上黑雲に被はれてかなりの雨を降らせてゐるのに、空の一方は靑々と晴れて向うの丘には暑い日さへ當つてゐる。此の場合雲量は6で即ち晴であるが、降水もあるといふ事になる。
 雲や雨の數量は氣象及び氣候に直接関係が深いので、雲量は雲量として測り、雨量は又雨量といふそれぞれ別の要素として測るのである。だから氣象臺や測候所の報告の中に、一ヶ月の晴天日、曇天日、雨日等のそれぞれの日數が擧げてあつても、其等の日數の合計必ずしも其月の暦の上の日數とは一致しないのである。つまり或年の東京の八月の晴天日數17、曇天日數14、雨日數13といふやうな事にもなるのである。

 

 三 天氣豫測と俚諺

 天氣は空の表情であると同時に大氣の状態でもあるから、或る場所での或る時刻の天氣はいつまでも同じではゐない。それどころか日照なり、氣溫なり、濕度なり何なりが、必ず多少の變化を遂げてゐるのである。さうして吾々も其の變化に應じて、若しも雲が切れて夏の暑い日光がさして來れば日除けを下し、日傘をさし、又若しも急に濕めつぽく寒くなれば障子を締めたり羽織を重ねたりする。つまり腹痛を感じれば懐爐を入れるとか薬を飲むとか、或は醫者に診てもらふとかするのと同じ事である。然しそれは飽くまでも其場々々の必要から採られる手段であつで、吾々の毎日の生活の大部分がそんな受動的な、反射的な、應急の行動や思惟に占められてゐるのでない事は云ふまでもない。
 吾々の生活には、小さく云へば半日なり一日なりの、又もう少し長い期間ならば一週間なり一ヶ月なりの、更に長期に亘れば一季節なり一年なりに及ぶ仕事の豫定といふものがある。さうして其等の豫定や目算が自然を相手に立てられるものであればあるだけ、天氣や氣候の如何がいよいよ吾々の切實な關心の的となる譯である。農業や漁業や航海に從事する人々は云ふまでもなく、すべて天氣・氣候の影響をうける機會の多い仕事にたづさはつてゐる人々は、晴雨にせよ寒暑にせよ、兎に角或る天氣、或る氣候を期待しながら仕事の手順を極めたり、稍長期に亘る豫定を立てたりするのである。尤も此の「期待」といふ事の中には單にさうあつて慾しいと希望するといふだけでなく、或る天氣や氣候状態の持續性に對して、知らず識らずの間に吾々が與へてゐる「信用」と云つたやうなものの含まれてゐる事を見のがす譯には行かない。又事實晴天にせよ雨天にせよ、或る天氣に幾らかの持續性のある事は學問的にも充分認められてゐるのである。
 それで、其後の適當な雨天に信頼して苗の田植をしたのに、旱り續きであつたら農家の狼狽や心痛は一方ではあるまいし、もう霜などは降るまいと思つてゐた矢先に強い晩霜に見舞はれて桑其他の大事な作物が眞黑に饒けちゞれてしまつたとしたら、豫算外れどころか非常な損害である。漁業で云へば、大西風になりさうな氣壓配置の時に船を出して海上の大時化に襲はれゝば、嵐の後の大漁の夢は愚か、惡くすれば幾多貴重な人命を失つたり、太飛洋を東へ東へと、果てもない漂流を續けたりするやうな事にもなるのである。又汽車で行けば比較的時間は掛かっても目的地へ着いて用事が済ませるのに、もつと迅い定期航空機を選んだばかりに、将來は知らず現在のところでは、途中の惡天氣のための缺航續きで用が足せなかつたといふ事も稀ではない。例を擧げれば切りはないが、兎に角かういふふうに吾々の生活上の種々の豫定と天氣との開係は實に深いのである。
 このやうに生活上の豫定の或るものが天氣を土臺に立てられるものとすれば、どうかして今後の天氣を知りたい、それも出來るだけ正確に知りたいといふのは人情のしぜんであらう。それで長い間の人間の經驗と注意とから始められたのが所謂「觀天望氣の術」、即ち風向や雲形や空氣中の光學的現象などを見て近い将來の天氣を卜する術、それから「物類の先徴」の觀察、つまり日常目に映る動植物や無生物の動きや状態の變化をもつて其後の天氣變化の前兆とする事であつた。
 日本では昔から、猫が顏を洗ふと雨が降ると云つてゐる。又魚が水面へ跳ね上るのも、雨蛙が鳴き出すのも、鰹節が軟くけづれるのも、石や壁が汗をかくのも、月や太陽が傘をさすのも、遠い山が近くはつきり見えるのも、孰れも雨の前兆だとされてゐる。反對に夕燒や夕虹は明日の晴天のしるしであつた。
 外國で鯖雲(卷積雲)や牝馬の尾(卷雲)が空へ出ると雨風の兆だと云ふのは、我國での夕燒は明日の晴と云ふのと同程度に廣く行はれてゐる天氣俚諺のやうであるが、其の文句の
   “Mackere! scales and mare’s tails
   Make lofty ships carry low sails.”
 は、日本の
   「夕やけ、小やけ、
   あした天氣になアれ」
といふのと同じやうに、調子や語呂のいい、誰にでも覺え易い句型で出來てゐる。朝の雨は景氣のいい脅かしだけで永續きがしないといふ意味にとれる「朝雨ア女の腕まくり」なども其の遠い親類に當るらしいが、斯ういふふうに歌の文句みたやうになつてゐる方が覺えの惡い人間にとつては便利なのであらう。
 鳶が港高く舞ふと旱がつゞくとか、風が出るとか、鶏が嘴で羽根へ脂肪を塗ると雨になるとかいふのは我國の俚諺であるが、外國では燕が低く飛ぶのは雨の兆といふ事になつてゐる。一般に動物が異常に騒ぐのは東西いづれも雨兆で、日本では夕方子供が喧騒するのは雨の來るしるしだと云はれてゐる。但し之は冬の話ださうである。蜜蜂は雨が近づくと晝間でも巣に歸り、蟻は氣溫の下がる前に動作が鈍くなり、「貧乏人の晴雨計」といふ俗名を持つPimpernel(和名ルリハコベ、櫻草科の一種)は、雨の降る前には白晝でも花冠を閉ぢる。此等は孰れも外國の話であるが、我國でもタンポポ、クサネム、カタバミなどについて同じ事が云はれてゐる。
 雨蛙が鳴けば雨といふのは前にも述べたが、獨逸や瑞西の或る地方では昔からモリアヲガヘルの一種を飼つて天氣の卜ひをやつてゐるさうである。即ち硝子鉢へ水を半分ほど張つて小さい梯子を立て、其中へ蛙を入れて置く。蛙が水から上つて梯子の高みヘチョコナンと坐つてゐれば晴だといふのである。但し「其道の或權威者」は之とは丁度正反對の意見を抱いてゐるとも云はれてゐる。又1851年の倫敦の大博覧會へ不思議な測候器械を出品した人があつた。之は水を張つた12個の硝子鉢に各一匹づゝの蛭が入れてある。さうしていよいよ天氣が惡化して來ると蛭が鉢の上の方へ上つて來る。すると突然鈴が鳴り出す仕掛になつてゐるのである。此の器械の發明者はこれに「荒天豫言器」といふやうな名をつけて、一冊の書物まで出版した擧句、英國海岸の要所々々に此の豫言器を据付けた荒天警報發信所の設置方を當局へ進言したさうである。
 最後にもう一つ植物に據る例を擧げて置かう。これは墺太利のノーワックといふ人が其の發見者であるが、荳科の一種Abrus precatorius(タウアヅキ、我國では臺灣に産して其の種子を装飾其他に用ひる)といふ植物の葉や蔓の運動から、天氣の變化や嵐の襲來は元より、地震や炭坑の自然爆發まで豫知出來るといふのである。そこで此人は其の發見を廣く歐羅巴中にひろめようとして、其植物をわざわざ倫敦まで持つて行つて一時は非常な評判になつたところが、氣の毒な事にはキュー植物園の先生方に「何等信ずるに足らざる物」といふ折紙をつけられて落膽して引下つた。ノーワック君は之だけの自信を得るまでには此の植物のためにかなりの財産を失つたのださうである。
 以上猫の顏洗ひから蛭やタウアヅキの運動にいたるまで、學問的に見て多かれ少なかれ根據の有るものと全然無いものとの別はあるにしても、兎に角人間が近い将來の天氣の良否を、何かによつて知りたいといふ切實な要求を持つてゐる事は之だけでも分ると思ふ。

 

 四 測器時代と氣象圖の時代

 觀天望氣の術や物類先徴の觀察による天氣の豫測は、それが假に適中した場合にも、何しろ施術や觀察そのものが或る限られた場所で行はれるだけに、又かなりの程度まで人間の直感に依存してゐるが爲に、其の利用の範圍の極めて狭いのは是非が無い。たとへば七月下旬から八月中旬ぐらゐにかけてのヒグラシの出盛りに、普通晴天の日の午後に此の蟬の鳴き出す時刻を私が知つてゐるとして、それが時ならぬ眞晝間に方々で一斉に鳴き初めたからやがて雨になるかも知れないと、私が自分の物類先徴の觀察から豫測して、(此場合私としては同時に雲や風や皮膚に觸れる空氣の乾濕の感じ等についても觀測はするが)、これが假に適中したとしても、それは私の居る揚所を中心とした或る地域内だけに通用するもので、時によれば一二里離れた場所では雨が近いどころか、太陽が遠慮なく夕方までかんかん照つてゐるかも知れない。現に東京から省線電車で歸宅の途中、新宿や大久保あたりでは雨一滴見ないのに高圓寺・阿佐ヶ谷附近では大夕立、それから荻窪を過ぎると道路も屋根もからからに乾いてゐるなどゝいふ事は、夏には屢々經驗するところである。
 さて孰れにしても以上のやうな方法は、時の古今を問はず、たとへ局地的な利用は出來ても之をより廣い地域の天氣豫測に役立たせることが出來ないといふ缺點があつた。其處へ、第17世紀の末葉頃から晴雨計、濕度計其他の有力な測器が登場した。
 晴雨計の發明は1643年に伊太利の物理學者エヴァンジェリスタ・トリチェリの行つた有名な實驗の結果に據つたものである。其の實驗といふのは、一方の端を閉ぢた長さ約1米の硝子管に水銀を滿して、其の閉ぢてない方の一端を別に水銀を滿してある容器の中へまつすぐに立てる。すると硝子管の中の水銀の上方は管内の或る高さの所で停まる。これは管内の水銀の重さが、容器の中の水銀の面に働く空氣の壓力によつて支へられるからである。此の場合に管の中の水銀の上方には水銀から蒸發する水銀蒸氣以外には何もない。しかも常溫では水銀蒸氣の壓力は極めて小さいから殆ど眞空とみて差閊へはない。これが「トリチェリの眞空」と云はれてゐるもので、水銀氣壓計即ち水銀晴雨計は此の眞空を利用して作られた物である。さうして之を用ひれば、或る地點の空氣の壓力の大小が硝子管内の水銀柱の高低によつて讀取られる。從つて氣壓が高いとか低いとか云ふのは、此の水銀柱の頭が比較的高い所まで屈いてゐるか低い所にゐるかといふのと同じ事だと思つていゝ譯である。
 乾濕球溫度計、これは養蠶をする農家などならば大抵の人が知つてゐるやうに、水分の蒸發の遅速を計つて空氣の濕度を求める装置であつて、大きさも型も共に同じな寒暖計を二本並べて、一本の方の球の部分を寒冷紗のやうな布で包んで其の一端を壷の中の水に浸して、いつでも潤ほつてゐるやうにする。若しも空氣中に水蒸氣の量が少くて蒸發が盛に行はれゝば、球部の潤ほつてゐる方の濕球寒暖計の示度と、もう一方の普通の寒暖計即ち乾球寒暖計の示度との差が大きくなる。そこで此の差によつて計算をするなり、別に用意されてゐる濕度表と照し合せるなりして其時の濕度を求めるのである。
 1650年頃に獨逸の物理學者オットー・フォン・ゲリッケは氣壓計の昇降が天氣の良否に関係のある事を發見した。つまり氣壓計の水銀柱の高くなる時は天氣が良く、低くなる時は天氣が惡いといふ事に注目したのである。更に濕度計の示度も亦天氣の良否に多少の闘係のある事が分つたので、其等の器械を使用して天氣の豫測を試みる事が行はれるやうになつた。斯ういふ器械は其後種々の改良や新しい工夫を加へられて、今日でも氣象觀測器械の有力な一員となつてゐるが、或る時代には天氣豫測の主役を務めた事もあつたのである。
 然し其後晴雨計が昇つても必ずしも天氣が良くならず、降つても惡くならない事實のある事が知られた。假に例を我國にとれぱ、日本海に面した地方では冬季氣壓が高くなると北西の風が雪をもたらして天氣が惡くなり、逆に氣壓が降り始めると晴れて來るといふ現象がある。それで地方によつては氣壓の昇降が直ちに天氣の良否と一致せず、また如何に優秀な測器を使用しても、局部的な觀測では一層廣範圃な地域の天氣豫測の困難な事が分つて來たので、更に高い見地に立つての方法が必要とされるに至つた。即ち天氣圖を基礎とした天氣豫報の時代が之に續くのである。
 現在世界各國で實施されてゐる天氣豫報の土臺になるのは天氣圖であるが、それが今日のやうな進歩發達を遂げるまでには、其間一世紀にわたる人類研讃の歴史があるのである。そこで簡單ながら其の歴史を一瞥しよう。
 歐羅巴各地の氣象觀測を出來るだけ速やかに一個所へ蒐めて、それを比較研究したならば容易に天氣豫測の手懸りが獲られるだらうといふ説を述べたのは、18世紀佛蘭西の大化學者アソトワーヌ・ラヴォアジエであつた。然し彼は此の考を實驗にうつすまでに至らず、1794年、あの大革命の犠牲者の一人として斷頭臺の露と消えた。
 これに續いた者は獨逸の物理系者ハインリッヒ・ブランデスであつた。ブランデスは西暦1820年の頃(日本では文政3年あたりになるが)歐洲各地の氣象觀測を蒐集し、其の中から出來るだけ同じやうな時に測られた氣壓だけを抜き出して、之と其地の平均氣壓との差を求め、其の差を地圖の上に書込んでみた。
さうして差の等しい地點を曲線で連ねてみると廣い地域に亘る氣壓の配置がわかり、又氣壓と天氣の良否との間に密接な闘係のある事も知ることが出來た。謂はゞ一種の氣壓偏差圖を作つたのである。然しブランデスが此の目的で蒐めた材料といふのが、或る外國の著者の説によるとそれよりも80數年前の西暦1782年の觀測にかゝる物だつたといふから、それが若しも事實だとしたら、根本理念としては正しいものではあつたらうが、其の時代としても既に除りに古過ぎた觀のある事は免れない。之に反して所謂up to date の氣象圖は、1848年亞米利加合衆國の初期イェール大學の敎授エリアス・ルーミスが作つた物で、之には前の年の2月16日に於ける合衆國東部の氣象状態が示されてゐたといふ話である。
 之より先1830年頃には、風が氣壓の低い處を中心にして多少なりとも同轉するやうに流れるといふ事實が認められ、次いで風の旋囘に関する問題が次第に研究されて、それと天氣變化との関係も攻究されるやうになつた。一方同じ頃に獨逸の大數學者カール・ガウスと物理學者ウィルヘルム・ウェーバーの兩氏によつて電信機を實用に供する機運が勃興してゐたが、1842年、歐太利プラーグの氣象學者カール・クライルは、天氣豫報の基礎として其の電信による氣象報告の蒐集を暗示した。此の暗示は英國のジェイムズ・グレイシャー、亞米利加のジョセフ・ヘンリーの二人によつて殆ど同時に實驗に供されて、1849年には電信報告の蒐集による氣象圖が英米兩國で作製された。然し之とても未だ狭い實驗の範圍を出ず、廣く應用されるところまでは勿論行かなかつた。
 ところが何が幸になるか分らないもので、1854年(安政元年)11月14日、折柄のクリミヤ戰役で黑海々岸に碇泊してゐた英佛聯合艦隊中の一佛蘭西軍艦が、突然襲來した暴風雨のために沈没した。此の椿事に狼狽した佛蘭西政府は直ちに當時の巴里天文臺長ユルバン・ヴェルリエに命じて其の暴風雨の調査に當らせた。ルヴェルリエは同月12日から16日に亘る五日間の各地の氣象觀測を蒐めて、それに基いて天氣圖を作つて見たところ、當時暴風雨の中心が歐羅巴の北西から南東へ向つて通過した事實が判明した。それで若しも其時ウィーンとクリミャとの聞に電信聯絡があつたならばこんな椿事を惹起しないでも済んだ筈だといふ事が分つたので、それからは彼の熱心な唱導によつて氣象電報による豫報事業の創設が企てられ、事業は1856年から公式に開始された。此後歐羅巴の他の諸國でも競つてこれに倣つたが、亞米利加でも1869年先づ民間的な事業としで毎日豫報が發せられた。無論限られた範圍のものではあつたらしいが其時初めて作られた術語Weather probabilities が今日亞米利加で云ふ「天氣豫報」の始まりださうである。
 とにかく以上のやうなのが天氣圖と天氣豫報術との發達史の概觀であるが、それには先づ氣象學そのものの進歩に加へるのに電信網の擴大といふ事が最も大きな貢献であつた。今日では有線電信に無線が取入れられて觀測や氣象通報の通信にあまねく利用され、更に高層氣象觀測の進歩によつて、單に地表附近の氣象状態を示す天氣圖が作製されるばかりか、更に高層の天氣圖までも作られるやうになつて、氣象觀測は茲に全く立體化されたと云つてもよい現状となつたのである。

 

 五 天氣豫報に信頼する

 大東亞戰争勃發以來、われわれ一般の者には天氣情報も大氣圖も具へられなくなつた。之は戰争國家にあつては元より當然な措置であつて、たとへ杖を取上げられた盲人の嘆を味ふとしても、吾々は國防上欣んで此の不利不便に堪ヘなくてはならない。敵をして國の寸土をも窺はしめない爲には、我が周邊の氣象状態を其の一端といへども知らしめてはならないからである。
 それだけ、今となつては在りし日の天氣豫報の有難味を思ふのである。昔、水に中毒しなひまじなひには、「測候所、測候所、測候所」と三遍唱へるがいいなどという惡口を面白がつて取上げた人々、更につい最近までも、天氣豫報を信じない事を一見識かのやうに誇つてゐた人々、さういふ人々は、それが發表されなくなった今日でも平氣でゐられるかも知れないが、天氣豫報、全國天氣模樣、漁業氣象、さては天氣圖の發表に測り知れない程の利便と恩惠とを感じてゐた吾々としては、其等のものの眞の有難さを今こそしみじみと思ひ知るのである。
 毎朝の新聞の片隅でのあの小さな天氣圖を眺めながら、全國天氣模樣の記載を讀んで、其後二三日の天氣變化を豫測する樂しみ。さういふ樂しみも此處しばらくは割愛しなければならないし、又驚くばかりの豫報の適中に恵まれて、至大の利便をうけた日の喜びをも、當分は再び味ふ事が出來ない。情報がどのやうにして出され、それがどれほどむづかしい仕事であるかといふ事を多少なりとも知つてゐる者にとつて、それの見事な適中は我が事のやうに嬉しいのであつた。たまたま中央氣象臺の近傍などを通る時、あの建物を見て、其處に自分の信じて措かぬ頼もしい一箇の人間を見るやうな心地を經驗する者、ひとり私のみではないであらう。ぐるぐる廻る幾種幾十の風力計、時には垂れ、時には飜る豫報信號旗、御濠の水に影をうつす雄渾な無電鐵塔。それらの物に親愛と敬意とを抱く者、之また私一人ではないであらう。
 一體、天氣豫報を當らないもののやうに思ひ込んでゐる人々が、果してどれだけ眞面目な注意を豫報と天氣そのものとに拂つた事があるだらうか。例へば1箇月のうちに豫報の適中した日が幾日あり、外れた日が幾日あつたといふやうな記錄を曾て一度でも彼等が取つたであらうか。之こそ最も疑はしいもので、實際には何等しつかりした根據もなく、たゞ漠然と當らないやうな氣がし、無責任にそんな事を口にするに過ぎないやうに私には思はれる。最近の或日の午後、新宿驛のプラットフォームで、私は學校歸りの二人の女學生がこんな會話をしてゐるのを興味を以て聽いた。
 「私が地下逍を上つて此處へ出ると、一番初めに來る電車は極つて滿員で、一度だつて乘れたためしは無いわ。ほら、今度來たのもきつとさうよ。」
 「さうかしら。でも本當は直ぐ乘れた時も多いのに、乘れなかつた時の事だけ覺えてゐるんじやないの。」
 第二の娘は、科學者に云はせれば科學的な考へ方の、又吾々から見れば所謂良識の持主であつた。そして實際此の二人の女學生は其の最初の電車に乘ることが出來たのである。
 私としては數年前に1箇年を通じた記錄をとつて、中央氣象臺の豫報の適中率を出してみた事がある。其時それは9割7分強を示した。関東南部豫報區の端倪すべからざる氣象變化を相手に、365日中354日の適中を見たとしたら、餘り文句を云へた義理ではないであらう。
 しかも我が日本の氣象臺や測候所の豫報當事者は、此の優秀な的中率を擁しながら、いつかは之を10割の百發百中にまで押上げようと研鑚に日も尚足らないのである。
 我國の氣象學と測候事業とは此の部門に於ける世界的に第一流のものだと云つても過言ではない。それは駸々乎として發展する國運と共に、眞に倦む事も休む事も知らない研究心と技術家魂とをもつて、愈々大をなし深みを加へるのである。そしてやがて彼等の緻密な觀測網が曼陀羅のやうに圓滿具足、大東亞の廣袤を燦爛と被ふの日、海に、陸に、又空に、其の恩澤に浴する者ひとり共營圈の諸民族のみではないであらう。

 

 

 

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 第二章 雲

  深いエメラルドの空に金やくれなゐの雲の感動。
  天涯未知の國のまぼろしが忽然と現れて、
  今し此世に立ちどまつたやうだ。
                  (自作「バッハの夕空」から)

 

 一 雲と私

 英國の氣象學者で、有名な雲の研究家ケイヴは、彼の著者の一つの中で、人類が雲の美を發見したのは餘り遠い昔の事ではなく、恐らく18世紀の末か19世紀の初めの頃だらうといふ意味の事を云つてゐる。彼は多分ラマルクやリューク・ハワード、或はラスキンの時代を念頭に置いてゐるのである。然し文字といふものが無く、有つても今日のやうに行亘らず、たとへ書いても印刷に附せられる事の甚だ稀であつた昔には、よしや雲に人一倍傾到し、その美に人一倍感じ易い人間があつたとしても、其の記錄なり感動なりを書殘して廣く後世にまで傅へるすべは無かつた筈である。私は寧ろかう考へたい。人類は遠い昔から雲の美しさに氣がつき、雲に注意し、それを大空に浮ぶ靈妙なもの、天來の使信、達しがたく遥かにして心を魅するもの、又時に怪異にして恐るべきものと觀じてゐたであらうと。そして雲に對する幾百世代の此の憧憬や關心が、つもりつもつて後世の藝術ともなれば學問ともなつたのであると。嘆美や驚異から「眞」の探求へ、「眞」の探求からいよいよ豐かな美の再發見へ。人類の辿る斯うした道程は、又人間個人の自然な道程でもあるのではないだらうか。それでケイヴの意味するところが若しも此の再發見にあるのならば、私は敢て異を唱へる者ではない。
 思ひ出すことの出來るかぎり遠い少年時代から私は雲を愛した。雲は私にとつて見知らぬ遠い世界へのいざなひであり、空想そのものの姿であつた。子供の頃から物にあこがれる心が強く、夢みがちに生きる事の多かつた私にとつて、幼年の日の靑空に浮んでは消えた雲の姿こそ、孤獨の魂をやさしく揺する最初の歌聲でもあれば物語でもあつた。
 誰一人として少年の私に雲を指して見せたり、雲の事を話して聽かせてくれたりする者はゐなかつた。そのくせ明治30年頃の、東京隅田川の河口近くにあつた私の家からは、今日よりももつときれいな、廣々とした空に、雲は毎日出てゐたのである。庭や河岸ぷちの植物などについても同じ事だつた。誰も其等に對して私の幼い眼を開いてくれはしなかつたし、又知的にも審美的にも、さうした力を持つ者は周圍に一人もゐなかつた。父も、母も、雇人達も、皆忙しく其日其日を働くのみで、人知れず柔かに伸びつつある幼い魂、殊には自然に對して早くも見開かれた好奇の眼の事などは考へもしなかつた。40年後の今日、たまたま昔の家のほとりを過ぎながら、今もなほ東京湾の空に浮ぶ積雲をながめ、河岸の石垣のあひだに咲くナヅナや夕ンポポを見出しながら、私は深い感慨に打たれるのである。
 然し今日大人から雲について敎へられる子供達と、自分でそれを發見し、自分から親しみなじんだ昔の私のやうな子供と、結局いづれが仕合せであるかは、遽かに之を云ふことはむづかしい。私としては、然し、氣質や傾向の導くままに先づ實物に親しみ、やがて良い指導者や書物について學びながら、自分で深く入つて行くのを、最も順當な自然な道だと思つてゐる。尤も私自身は遂に單なる雲の愛好者にとどまつてはゐるけれども。
 刷毛で掃いたやうなのや鳥の羽根のやうな薄い雲よりも、山や群島のやうな厚味のある雲のはうが、即ち今の言葉で言へば卷雲型の雲よりも積雲型の雲のはうが、子供としての私の心を牽いたやうである。否寧ろ雲と示へば、春夏の空へむくむく上る積雲の事だけであつたかも知れない。私は其の雲を見るために、よく埋立後間もない其頃の月島へ行つたものである。鐵砲洲のはづれから佃の五厘渡して隅田川を横斷すると對岸は佃島。辨天樣の横から磯臭い漁師町をぬけて、右へ橋をわたれば貝のかけらのきらきら光る月島の埋立地。一棟の家もない平坦な廣い飛行場のやうな島には雜草がばうばうと生えて、其の盡きるところは一望の東京灣の水だつた。今の月島六丁目と東河岸通の處で島はまつたく終つて、其處に波の打寄せる石垣があつた。遠浅の海には沖へ沖へと澪標(みをつくし)がならび、其のむかうに、近くは御臺場から遠くは房總の山々までが一目に眺められた。春ならば島のところどころにクローヴァが吹き、いつでも二三羽の雲雀が囀つてゐた。そして夏はバツタの世界で、私は竹棒の一端を目笊へ挿込んで、それでトノサマバッタやクルマバッタを伏せて捕つた。
 石垣の緣から兩足をぶらさげて、靑海苔や蟹や船蟲なんぞの香のする潮風に吹かれながら、水平線の上にならんでゐる雲を飽かず眺めた遠い昔を思ひ出せば懐しい。窮屈な我家と都會の人生とはうしろの方、石川島造船所の鐵板を叩く音と、河口の空に林立する幾百といふ船のマストの彼方にあつた。此處では、物音といへば、石垣にぴちやぴちや當る波の響と、草の葉をそよがす風の晋だけだつた。目に入るものといへば頭の上の大きな空、右手の御臺場と左手の洲崎の鼻とに區切られて遠くひろがつた東京灣の水。さうして其の水と空とのむかうに、日に照りかゞやく雪の連山のやうな、寒水石の塊りのやうな積雲のむれ。ちやうど獨逸の詩人たちの永遠の憧れである希臘や伊太利亞の空のやうに、それは大人ばかりの世界に生きてゐた私の魂にとつての唯一の救、たつた一つの解放の世界だつた。それが何時でも私を呼んだ。
 かうして雲が、また自然が、其後の私の生活の伴侶ともなれば藝術の契機ともなつた。植物や小動物に親しむと同時に、私は絶えず雲に注意し、雲を眺め、獨學でいろいろ雲のことを學ぶと共に、ますます深く雲の美に牽かれるやうになつた。怪しげな語學の力でラスキンの「近代畫家」の雲の部分を懸命に讀んだ。或日クラークの「雲」を手に入れた時には文字どほり狂氣した。三宅武雄といふ人の「雲の見方」といふ小さい本を見つけた時には、日本にもこんな雲好きが居るのかと思つで嬉しかつた。それからたうとう藤原博士のあの素晴らしい「雲」が出た。之こそ私にとつては決定的な啓示だつた。それ以來私は雲と天氣變化との関係に注意をしはじめ、雲を撮影し、記錄し、同時に本來の詩業のかたはら、一人でこつこつと氣象學を勉強したり、妻や娘に手傅はせて、道其は不完全ながら缺測の無いやうに、毎日三回の定時觀測を續けたりした。
 表で遊んでゐた娘が、「お父ちゃん、綺麗な高積雲が出てるわよ!」と駈込んで敎へに來たのは彼女が漸く七歳の時だつた。今私と散歩の道で、同じ高積雲の落下縞について私から敎へられるのは十八歳になつた彼女である。幾年の間毎晩のラジオで全國天氣概況や漁業氣象を速記することに熟練した妻は、其の發表の無い今では、日毎の雲形や、雲の來る方角や、地上の風向などから天氣を豫測する事で滿足してゐる。
 かうして私の熱情は彼等にも何ものかを輿へた。其の何ものに加ふるに幾らかの氣象學関係の蔵書。それだけが貧しい私から彼等への遺産であつてもいい。若しも其の心にして謙虚であるならば、たとひそれだけを以てしても、尚且つ彼等は其處から無限の喜びを汲み得る筈だからである。

 

 二 雲の分類

 實物について物の名を知ることは、一層よく其物に親しみ、それに注意するやうになる一つの方法である。五六月の頃、林に近い涼しい小川の水面を、美しい橙黄色の羽根を日光にきらきらさせながら飛んでゐるカハトンボと、それにまじつて金屬光澤のある靑綠色の腹を光らせながら飛んでゐるアヲハダトンポとを、それぞれ其名によつて知つてゐる時、彼等初夏の水邊の妖精に對する吾々の注意や親しみは一層生きいきして來るのである。そしてひとり動物ばかりではなく、植物にせよ、岩石にせよ、星にせよ、凡そ自然の森羅萬象について、其の名と姿とを同時に思ひ出せると出せないとでは、吾々の生活内容にそれだけの影響のある事はみがたい。
 雲にも名がある。學問上共通の學名もあれば和名もある。勿論さういふ名が規定されるずつと以前から、各種の雲がそれ相應な名で呼ばれてゐた事を吾々は知つてゐるし、假に知らなくても其の可能性を信じることは出來る。しかし正しく名と物とを對照すべき記載や圖鑑のやうなものが無く、たとひ少しは有つたにしても如何にも曖味な節が多いので、直ちに物と名とを砧びつける事は心もとなかつた。昔の和歌などで「豐旗雲」とか「むらくも」とかいふ言葉に遭遇しても、此の場合は多分あの雲の事を云つてゐるのだらう位に臆測はしても、確信をもつて自分でもそれを採用する氣にまではなれないのである。これは、二三の間違ひのない名を別にすれば、單に我國だけの事ではなく、外國でも似たり寄つたりであつたらうと思ふ。そこへ萬國に通じる國際名が出來、其の定義と説明とをつけた雲形圖が出來、統一的な和名が定められた。同時に千姿萬態の雲が分類の篩にかけられた事は云ふまでもない。かうして今吾々は安心して或雲を卷雲と呼び、又或雲を高積雲と名ざすことが出來るのである。
 雲の分類は西暦1801年佛蘭西の大自然科學者ラマルクによつて爲されたものを嚆矢とする。然し彼の文章や術語が生憎一般には親しみの薄い佛蘭西語と共の地方語であつた爲に、廣く世間の注意を惹き理解を得るに至らなかつたのは是非もない。
 それにも拘らず雲の實際的な分類に對する要求は盛んであつて、天氣や其の成立ちに関して積極的な興味を抱く知識階級の間からは頻りに其の要望の聲が揚つた。そこへ1803年、倫敦の一化學者リューク・ハワードが、「雲形に就いて」といふ論文をフイロソフィカル・マガジン誌上へ發表した。彼は1772年に倫敦で生れたが、幼い時から自然を愛して、殊に大氣の諸現象を觀察したり雲の形を書きとめたりする事に熱心であつた。日本浅間山の大爆發に續く1783年の英國の空の異状にひどく感動したのは、彼が十一歳の時であつたと、ハンフリーズは書いてゐる。それは兎も角、ハワードの此の分類はラマルク同樣雲の外觀による分類ではあつたが、雲の名が親しみの無い外國の地方語ではなく、一般に行亘つてゐる羅典語であつた爲に非常な歡迎と支持とをうけた。當時の獨逸の大詩人ゲーテもハワードの此の新しい説を喜んで、遥かに彼の名譽のために一篇の詩を寄せた。かうして其の分類は爾來多少の修正や補足を受けたにしでも、彼の輿へたCirrus(卷雲)、Cumulus(積雲)、Stratus(層雲)の名は此の大空の不朽の愛人リューク・ハワードの名附け子として、今もなほ優しく守られているのである。
 雲の形が世界到るところほゞ共通だといふ事實は、一英國の氣象學者ラルフ・アバークロンビーによつて立證された。彼はその世界各地への旅行中無數の雲を撮影したのである。そして之が雲の國際的分類の基礎となつた。一方1896年5月1日から1箇年に亘つて世界各所で行はれた「國際的雲の觀測年間」の共同觀測の結果を綜合して、雲の高さとその形との間にはほゞ一定の關聯があるといふ事が明らかにされた。之も亦分類の基礎になつた。かうして1910年、國際氣象委員會の手で雲形圖と各雲形の定義と解説とを掲載した冊子が初めて刊行された。其後此の雲級による雲の高度や名稱に若干の變更を見、1934年新式國際雲級が制定されて今日に及んでゐる。それは次の通りである。

  A 上層雲 平均最低高度6000m.
   1 卷 雲 Cirrus      Ci
   2 卷積雲 Cirrocumulus   Cicu
   3 卷層雲 Cirrostratus    Cist
  B 中層雲 平均最高高度6000m. 平均最低高度2000m.
   4 高積雲 Altocumlus    Acu.
   5 高層雲 Altostratus    Ast.
  C 下層雲 平均最高高度2000m. 平均最低高度は地面に近し。
   6 層積雲 Stratocumulus   Stcu.
   7 層 雲 Stratus      St.
   8 蜀L層雲 Nimbostratus  Nbst.
  D 垂直に發達する雲 平均最高高度は卷雲に達し、平均最低高度500m.
   9 積 雲 Cumulus     Cu.
   10 積亂雲 Cumulonimbus  Cunb.

 

 三 雲形の定義と解説

 以下、前節の雲級表の順を逐うて各層各種の雲について述べる事にする。但し括弧内の太字は國際定義の、又普通字は其の解説の、何れも筆者の手になる飜譯であり、括弧外の部分は筆者自身の文である。
 又それぞれの雲の本邦名に次ぐ羅馬字は其の雲の本邦記號を示し、(前表のは國際記號)更に括弧で圍んだのは藤原博士の唱導にかゝる俗名である。

1 卷雲 C.(しらす雲、すぢ雲)
 ほそい微妙な繊維狀を呈する分離した雲で、陰影が無く、一般に白色、しばしば絹のやうな外觀を持つ。
 「卷雲は極めて多種多揉な形をとつて現れる。たとへば離ればなれになつた房、靑い虚空に引かれた線、枝分れをした羽毛、末端が房になつた曲線等である。此雲は時に數本の帶状に配列されて天空を子午線のやうに横斷する事があるが、其の場合には透觀法の結果として地平線上の一點或は二方向の對蹠點へ収斂するやうに見える。(卷層雲や卷積雲もしばしば此のやうな帶状をなす事がある)』

 此雲は我國での實測によると上限17キロ、下限6キロ、最も多く11キロから13キロといふ高空に現れるもので、多くは氷晶から成つてゐる。其の成因としては、既に冷却されて從つて極く少量の水蒸氣しか含んでゐない空氣が、更に昂騰と膨脹とを續けて一層冷された爲に出來たものだといふ事が考へられてゐる。定義にもあるやうに個々に分離してゐるのが特徴であつて、連續した層には先づならない。尤も卷層雲や卷積雲に變化する途中で一時的に梢連續した薄い層を示す事はあるが、それも永くは續かず、又卷層雲より色も薄く高度も高いので大概は見分けがつくものである。太陽や月の暈が出來るのは多く斯ういふ状態の時である。又高度がずばぬけて高いので、よく夕方など、もう他の雲は色が槌せてしまつたのに尚暫くの間美しい金紅色に燃えて、暮れ行く空を飾つてゐるのを見る事がある。尤も條件が備はれば稀にはずつと下層へ出る事もあると云はれてゐるが、私は曾て五月初めの夜明け頃に、信州軽井澤の南でさういふのを見た事がある。高原とはいへ寒氣の強い、風の無い早朝で、雲は煙のやふに淡く、幾筋かの絲のやうに弓形を描きながら頭上の空にたゞよつて、極めてゆつくりと南東の方角へ動いてゐた。高度は1000米か1500米位であつたらうか。最初は薄い層雲の帶かと思つて見てゐたが、やがて山の離れた日光をうけると白金のやうに眩くきらめき始めたので、それが細かい氷晶から出來た卷雲である事が分つた。
 此雲の一つの形として、頭が鳥毛のやうに房々で細い尾を曳いたのが天空に族生する事がある。藤原博士の所謂コンマ雲(’雲)或は丁字雲であるが、これは、一部は此雲の成分である氷晶の落下によつて、又一部は雲自體の上昇につれて加はる風力の増大によつて起る尾曳き現象だとされてゐる。そして之が出るとどうも天氣に變調を來たす場合が多いやうに私は思ふ。又遠方の雷雲の頭から分離して吹流されて來た卷雲が、頭上の空に美しいうねり模樣を描く事がある。藤原博士はこれに火焔雲といふ極めて適切な名を輿へられたが、實際此種の雲が地平線下に没した太陽にほのぼのと赤く彩られてゐる時などは、火焔といふよりほかに形容のしやうは無いやうである。
 卷雲は天氣の豫測に非常に役立つ雲で、特に此雲の觀測だけに力を入れてゐる人もある位である。快晴の空へ軽く刷毛で掃いたやうな卷雲が現れる。これがやがて徐々に消えるやうだと大概は尚晴天が續くものであるが、次第に數が増し色も濃くなつて卷層雲のやうな層状の雲に移行すれば、天氣は惡い方へむかふ事が多い。私の經驗によれば、東京で秋の末から春へかけて此雲が南西の方向から現れて來ると天氣は崩れるやうである。大陸低氣壓の先觸れとして、又晩夏初秋の颱風の前驅として、此雲の省長に注意するのは興味の深いものである

2 卷積雲 Ck.(まだら雲)
 『小さい白色の雲片或は非常に小さい球状の雲塊から成る卷雲樣の層状或は布片状をとる雲で、陰影が無く、群又は線の配列をなすが、又しばしば海濱の砂上に見るやうな漣痕を呈する事がある。
 「卷積雲は一般には卷雲や卷層雲の減衰状態を示すもので、事實此の兩者は卷積雲に變化するのである。其場合には變化を遂げつゝある雲層の或部分に繊維構造の保存されてゐるのを見る事がしばしばある。
 「眞正の卷積雲はさう普通には見られない。布片状に連なつた高積雲の緣邊にある小さい高積雲と之とを混同してはならない。」

 東京附近のものを日本標準高度とすると、此雲の上限は13キロ、下限は6キロで、最も多く出現を見るのは7キロ乃至9キロの高度といふ事になつてゐる。つまり卷雲と同程度の高さに出來る雲で、それほどの高さになると水蒸氣も少いから雲そのものも實質に乏しくて浅薄であり、從つて朝日や夕日の光を斜にうけた時のほかには陰影がつかない。成分は水滴の事もあり、氷晶の事もあり、又兩方が混合してゐる事もある。此雲はこのように薄いので、それを透して見ると太陽や月の輪郭がはつきり見えるといふやうな事が屢々書物に書かれてゐるが、私の經驗だと寧ろ強い白光を放散して輪郭の見えにくい時が多いやうである。又適當な角度から日光をうけると鮑貝の内面のやうな彩光を發する事が多く、得も云へぬ董色、紅、鮮かな綠色などを現して、見る者をして恍惚とさせる。此の彩雲の現象は後述する光環の斷片であつて、莢状(レンズ状)高積雲の薄い緣邊などにも現れる。
 卷積雲は古來鰯雲とか鱗雲とか、又鯖雲とか云はれてゐるやうに、非常に屢々まだら状や碁盤目状を呈するが、これは氣層が上から冷され下から暖められる爲に規則正しい碁盤目になるのであつて、それぞれの目の中央に上昇氣流があり、目と目の間に下降氣流が生じて、それで此のやうな形の雲が出來るのである。
 然し卷積雲は必ずしも常に群或は線の配列をとるとは限らない。大氣の擾亂其他の理由から多少なりとも均一な層状の雲に、殊に卷層雲に變る事が少くない。然し又卷積雲でありながら、一部分卷雲のやうな繊維状を現したり、霧状を呈したりする場合もあり、更に波状、皺状、渦亂状などをとる場合もある。圖版へは參考として此種の雲を二三枚入れて置いた。
 いづれにしても所謂鰯雲の場合などは目も覺めるばかりに美しい配列をする雲で、登山や航海の際、今まで何も無かつた大空の一方へ忽ちパラパラと此雲が出現した時などは、眞に胸が躍るやうである。天氣の推測にも面白い雲であるが、弱い擾乱の側面へ出る事が多いので、惡變しても曇ぐらゐで済むか、たとひ降つても大した事はないやうに私は思つてゐる。

3 卷層雲 Cs.(しらす雲、うす雲)
 『薄い白味がかつたヴェイルのやうな雲で、太陽や月の輪郭を不明瞭にはしないが、暈の現象を起す。時には廣範圍に瀰漫して空一面に牛乳を流したやうな觀を呈する。又時には縺れた糸のやうな繊維構造を多少なりとも明瞭に現すこともある。』

 日本では上限16キロ、下限6キロ、最も多く9キロ乃至10キロの高度に出現する雲である。
 卷層雲の成因は卷雲のそれと殆ど同じだと云はれてゐる。卷雲の成因には種々あるが、最も普通に見るやうに何等の母體も無いのに何時の間にか此雲が現れるのは、互に重なり合つて運動してゐる二つの氣層の間に無數の渦動が起り、その上下兩層の空氣の混合で雲が出來るからである。
 太陽や月の暈は主として卷層雲に出來る。卷層雲は卷雲同樣ほとんど氷の結晶から成つてゐるから、太陽や月の光がこれに射入すると屈折されて此の現象を起すのである。最も普通に見られる暈は内暈と外暈である。内量は太陽や月を中心に半径約22度の光輪であり、外暈は同じく約46度の光輪である。いづれも淡い白色をして微かに虹のやうな色彩を現してゐる。昔から月や日が傘をさすと雨になると云はれてゐるが、それは暈の出來る雲がおもに卷層雲であり、卷層雲は低氣壓の先驅をなすから、暈は結局低氣壓の接近を豫報するといふ理屈になる。從つて暈は雨の前兆だといふ事にもなる。然し低氣壓が接近しても、暈の見える地方が雨域に入らなければ、即ち低氣壓の側面だけが僅かに其地方をかすめるだけならば、雨にはならない。だから暈必ずしも雨の豫兆とは言へないのである。
 卷層雲が空一面にひろがつて次第に後で述べる高層雲に變り、其の下層に黑いちぎれ雲が見えるやうになれば大抵は雨である。又よく卷層雲とも卷雲ともとれる雲の縞模樣が交又して網目を作る事がある。之も先づ雨兆と見ていい。此の場合には別々の雲が上下の層へ出來たものだと考へるべきであらう。
 卷層雲や高層雲の動勢をよく見究めて、たとひ朝の出勤時に雨は降つてゐなくても雨傘を持つて出るのは、時節柄賢明な正しい仕方であらう。

 4 高積雲 Kc.(むら雲)
 『薄片或は幾分扁平な球形の雲塊から成つた層状又は布片状をとる雲で、規則正しく配列された層の中の最も小さい雲塊はかなりの小粒で薄く、陰影のつく事もあればつかない事もある。此等の雲塊は群状、線状或は波状に並んで、一方向又は二方向に連なり、時には各雲塊の緣が互に附着する事がある。
 「雲塊の薄い半透明の緣邊はしばしば彩雲現象を現すが、これが寧ろ此雲の特徴でもある。』

 上限8キロ、下限2キロ、最も多く5キロから6キロ。卷雲の約半分位の高さではあるが、それでもかなりな高空に出來る雲で、いろいろな點で卷積雲に似たところがある。然し成分は水滴であつて、雲自體は卷積雲などと比較して更に密實である。色は白色を呈してゐるが厚味のあるものには涼しい濃淡がつき、又灰色に見える事もある。
 形は種々で、無數の小島が海に浮んでゐるやうに見える事もあれば、羊が牧場に散らばつてゐるやうに見える事もある。又平行した長い波の列や、畠の畝や、規則正しく置きならべられた屋根瓦のやうな光景を呈する事もある。更に低氣壓の通過後に其の後面に現れる時などは、羊毛を捻つたやうなのが幾つも幾つも、丁度スマトラ、ジャヴア、フロレス、チモールあたりの群島のやうな一種の纏つた配列をして徐々に東の方へ動いて行くのが見られる。また此雲が時に餘り濃厚になると、一見層積雲と誤認しかねないが、又事實層積雲に移行する場合もあるのである。
 定義の解説にもあるやうに、此雲には彩雲現象のほかに光環現象も起る。元來彩雲は光環の斷片に過ぎないのであるが、説明を加へれば、光環は雲が太陽や月の面を被ふ時にその周圍に現れる美しい色彩を帶びた光の輪で、暈とは違つて其の半脛は僅かに1度から5度位にしか達しない。太陽や月の前面の雲が連續してゐて好条件の場合には、光環の形も完全で色彩も非常にはつきりして、内側は菫色、外側は紅色といふ、日光のスペクトルを現すものである。尤も此の現象は卷積雲にも高層雲にも見る事が出來る。
 朝の内から空へ現れてゐて終日そのまゝでゐた高積雲が、日没と共に次第に消えてしまふのはよく見るところである。消えるのは勿論蒸發のためである。日が落ちれば雲自體も冷えるから蒸發どころか凝結に一層好都合な譯であるが、此の不思議な現象は次のやうに説明されてゐる。日没と共に雲粒は熱の輻射によつて冷却する。更に輻射と蒸發との双方の作用によつて冷える。又自分の浮んでゐる場所の空氣をも冷やす。冷やされた空氣は収縮して密度を増し、雲と一緒に沈降する。しかし沈降と共に壓縮をうけるから其の空氣は暖まる。そして其の暖まつただ空氣の中で雲粒は蒸發して消えるのである。
 高積雲が豆の莢かレンズのやうな形をとつていつまでも同じ處に浮んでゐる事がある。此の場合には莢状高積雲と呼ばれて、其層にかなり強い風のある事を示すものである。此風はやがて地上に降りて來る事が多い。
 また河の下流の空や平野の地平線の近くに一連の雲が長い堤のやうに横はつて、その上部から幾つも茸のやうに小さい雲が立つてゐる事がある。これは塔状高積雲と呼ばれるもので雷雨の兆とされてゐる。
 圖版にも出して置いたが、高積雲が眞白な濃厚な房のやうになつて尾を曳きながら空へ現れる事がある。ちよつと卷雲と見違へ兼ねない特別な形をしてゐるが、卷雲よりも高度が遙かに低く、凄じい迫力を持つてゐる。此種の雲が突然頭上に現れるのは大抵天氣に變調の來る前で、それも迅速に惡變する場合が多いやうである。
 とにかく高積雲はすべての雲の中でも最も壮大華麗な雲景を展開する雲で、此雲の美を知つた爲にそれから段々雲好きになる人も有りはしないかと思ふ程である。

 5 高層雲 Sc.(おぼろ雲)
 『縞目のあるヴェイル、或は繊維状を呈したヴェイルで、色は幾分灰色か靑灰色をしてゐる。此雲は濃厚な卷層雲に似てゐるが、暈の現象を起さない。太陽や月はあたかも艶消硝子を透して見る時のやうに朧げにぼんやり光つて見える。時には雲層が薄くて卷層雲との中間形(透明高層雲)をとる事がある。又時には非常に濃厚で黑いこともあり(不透明高層雲)、更に太陽や月を全く隠してしまふ事さへある。此場合には厚味の不均一のために、非常に暗い部分の中に比較的明るい箇所が見られる。然し雲の面が眞の凹凸を現すことは決して無く、たゞ雲體の所々に縞目や繊維構造の見られるのが常である。』

 日本標準高度では上限7キロ、下限2キロ、最も多く3キロ乃至4キロといふ事になつてゐて、高積雲とほゞ同じ位の高さへ出る雲であるが、種々の點で上層の卷層雲と似たところを持つてゐる。尤も卷層雲が氷晶から成つてゐるのに此雲の成分は水滴であるから、時に光環は見られるが暈の現象は起らない。
 中層の不連續面に發生する雲で、溫暖な氣層が寒冷な氣層の上を滑り上る時に出來るものとされてゐるから、それ自體としては比較的安定な雲で、むやみに出來たり消えたりはしない。又雷雲の上層を水平に流れる氣流のために出來る事もあるし、單に濕つた氣層の冷却によつて出來る事もある。
 東京附近で若しも秋から春へかけて、殊に南寄りから此雲が現れて全天にひろがり、しかも其下を亂層雲の黑いちぎれ雲などが往來するやうな時には9分どほり雨になる。
 また此雲の均斉な灰色の地に黑い縞目の入つてゐるやうな時も大抵は雨兆である。
 高層雲は雲自體から雨又は雪を降らす事もあるが、それも普通は地上までは屈かず、中途で蒸發してしまつて、遠くの靑空を背景に刷毛で掃いたやうな雨足を見せるだけの事が多いやうである。

 6 層積雲 Sk.(かさばり雲、くもり雲、うね雲、寝雲)
 『薄片或は球形の雲塊から成つた厦状又は布片状の雲で、規則正しく配列された最小の雲塊でもかなりな大きさを持ち、柔かくて、灰色で、暗黑な部分を伴つてゐる。此等の雲塊は群状、線状、或は波状をなして、一方向又は二方向にむかふ列を作る。又極めてしばしば此雲の長塊の列が非常に接近して、互に附着し合ふ事がある。此雲が、特に冬、大陸で見るやうに全天を被ふやうな場合には波浪のやうな趣を呈する。』

 上限5キロ、下限1キロ、最多1乃至2キロといふ下層の雲で、質は水滴である。一名「くもり雲」とか「かさばり雲」とか云はれてゐるやうに、次第に廣がつて全天を被ふことが多く、冬などは其の寒々とした風景の一要素をなすものである。
 層積雲は種々の形をとる雲であるが、他の雲と之とを見分けるのは左程むづかしくはない。先づ此雲が下層雲だといふ事を知つてゐれぱ、隨分高積雲に似てゐるやうな場合にも其の高さからみて判斷がつく。又層状の特徴をとらへれば積雲と區別がつくし、塊状といふ一面に着眼すれば乱層雲と区別することも出來る。何でも名稱に拘泥し過ぎると迷ふ事も多いが、實物になじめば辨別はおのづから出來るやうになるものである。
 此雲は氣層の不連續面に出來る事もあるし、又障碍物によつて出來る事もある。障碍物は山岳のやうな物もあれば密度や溫度を異にする氣層の場合もある。此の後の方の場合には、下層から昇る溫暖な室氣の柱が、上層にある密度の大きい塞冷な氣層のために上昇を妨げられて、ちやうど室内の煙が天井につかへて横へ擴がるやうに、擴がるのだと考へられてゐる。「かさばり雲」とは此のやうな時の層積雲を指していふのではないかしらと私は思ふ。
 又此雲が長大な塊状をして幾本も平行に横たはつてゐるやうな時、英國では之をRoll cumulus(ロール状積雲)と呼び、獨逸ではWulst kumulus (枕状積雲)と呼んでゐる。日本で藤原博士が「うね雲」と名づけられたのも此のやうな形をした層積雲である。之もやはり不連續面に出來るものであつて、上層の水平氣流と下層の水平氣流との擦れ合ひによる水平軸を持つた渦卷から出來るものとされてゐる。
 層積雲は外國では一般にさほど雨兆の雲と見られてゐないが、日本では雨や雪を齎すことが多いやうである。尤も空一面に黑々と襲ひかゝつた大波浪状の此雲を見て、てつきり雨になると思ひ込んで外れたためしも幾度かはある。若しも今後雲によつて天氣豫測をする人が輩出しで來るものならば、層積雲をはじめとして、一般に層状の雲について更に根氣よく觀察する傾向を助長したいものである。雲としては美くしくもない種類なので餘り顧られないのであらうがこんな雲を相手に一肌ぬぐ人が出てもいいのではないかと私は思つてゐる。

 7 層雲 S.(きり雲)
 『霧に似た雲の均等な層。しかし地上に横はる事はない。極めて低い此雲の層が千切れて不規則な裂片になつた時には、片層雲Fractostratus(frst.)と呼ばれる。』

 上限2キロ、下限0.1キロ、最多0.1乃至0.5キロ。
 普通は一樣の層をしてゐるが、又漠々と掻き亂された綿のやうな事や、「山かつら」とか「蛇雲」とか云はれる時のやうに山腹にうねうねとたゝなはつてゐる事もある。
 此雲が薄いと太陽や月や、星の光さへも透いて見えるが、濃密な時とか其の上に他の雲があるやうな時には此等の光は勿論見えず、かなり暗い相貌を呈して、ちよつと亂層雲と見分けのつけにくいやうな場合もある。尤も雨や雪が降れば亂層雲といふ事がわかるが、層雲はそれに觸れる物をしとしとと濡らしはしても雨滴といふやうな感じは與へない。また元來が局部的に出來る雲であつて、それが切れたり穴があいたりする時には其の間隙から靑空の見える事が多い。
 成因としては寒冷な風が溫暖な濕つた空氣を持ち上げる事もあり、地上の冷めたい氣層の上へ溫暖な風が吹きのぼる爲に出來る事もあり、又比較的暖い陸地へ海からの濃い霧が押寄せて來て出來る事もある。
 層雲は山岳地方では極めて普通に見られる。朝のうち谷や盆地を埋めつくしてゐる雲海が即ちそれで、下から仰げば空一面に曇つて雨雲とも見られるが、それを上から見れば綿を敷きつめたやうな雲の海である。また平野地方でも、殊に春の朝などに多く見られる雲で、太曜が昇るにつれて、それこそ雲散霧消してしまふのは吾々の屢々經驗するところである。
 又東京の下町で、よく晩春から夏にかけての夕方など、海の方から綿のやうな雲の塊が幾つも幾つも頭上の低い空をかすめて飛んで行くのを見る事がある。私の父などは之を「からあげ」と云つてゐて、やはり層雲の仲間であらうと私は思つてゐたが、藤原博士の説によると之は積雲ださうである。

8 亂層雲 N.(あま雲)
 『低い、無定形の、雨氣を含んだ雲。色は暗灰色で殆ど均等な層をなす。見掛けでは内部からぼんやり照らされてゐるやうに見える。此雲から降水がある時には、連續的な雨又は雪の形をとる
 「然し降水だけでは雲を判別するに足る規準とはならない。從つてたとひ此雲から雨又は雪が落ちない場合にも亂層雲と呼ばれなくてはならない。
 「しばしば降水が地上まで達しない場合がある。此の場合には曇底が常に擴散して、且つ漠然と引かれた降水即ち落下鎬(雨足)のために濕つたやうな觀を呈する。さういふ際に雲の下面の限界を決定することは不可能である』

 上限3キロ、下限1キロ。最多1乃至2キロとされてゐる。然し此雲の底の高さは、東京附近では300米から200米、或はそれ以下の事もあり、雲の上面は4キロを越える場合が少くないと云はれてゐる。
 元來此雲は舊式の國際雲級では亂雲(Nimbus)と呼ばれてゐたものであるが、其の後定義に疑義を生じて議論が沸騰したので、研究協議の結果此の舊稱を廢して亂層雲の名を新たに設定し、又定義にも若干の變更を加へて現行のやうになつたのである。從つて新定義にもあるとほり、此雲から雨が落ちても落ちなくても亂層雲は亂層雲である。
 此雲は雹や強雨を作るやうな氣流の迅速な鉛直運動の中では形成されない。低氣壓や颱風のやうに収斂式に吹く風とか、山岳のやうな障碍物とか、或は溫度の異つた上下氣流の接臅等によつて、間斷なく昇騰する空氣中に發生するものである。此雲の切れ間からは大抵の場合高層雲のやうな上層の雲が見られる。
 亂層雲からちぎれて飛ぶ斷片を片氣雲と呼ぶ。しかし片氣雲必ずしも亂層雲のちぎれた物ばかりでなく、初めからさういふ形で現れる物も少くないと藤原博士は云つてゐる。又此のちぎれ雨雲に似て、もつと塊つて見える雲で降雨の兆をなす雲があるが、博士は此種の片亂雲に對して「こゞり雲」といふ名を推してゐる。これは雨の來る前に高層雲の下に出る事が多い。

9 積雲 K.(すわり雲、つみ雲)
 『垂直的に發達した濃厚な雲。上部の表面は圓頂状をして所々に隆起を現し、雲底は殆ど水平である。
 「此雲が太陽と反對の位置にある時、觀側者に對して垂直な其の面は隆起部の緣邊よりも強く輝く。又日光が側面から當ると雲は光と影との強いコントラストを現す。これに反して雲が太陽を背後にすると暗黑になつて、たゞ其の緣邊だけが輝く。
 「眞の積雲は雲體の上下共に劃然とした輪郭を持つてゐるものである。其の面はしばしば硬い感じを見せてきつぱりしてゐる。然し亂裂した積雲として其中の諸所に連續的な變化の行はれてゐるものを見る事がある。此種の雲は片積雲Flractocumulus(frcu.)と呼ばれる。』

 上限3キロ、下限.0.5キロ、最多1乃至2キロの下層雲で、此雲自體の成分は水球である。
 岡田武松博士に從へば、積雲には熱源積雲(好晴積雲)と動源積雲との2種がある。此の前者の方は吾々の日常普通に見て「積雲」と呼ぶところの雲であるが、後者即ち動源積雲の方は専門家の指導によらないと分らない。
 先づ普通に見る積雲、即ち熱源積雲の成因を述べると、晝間の日射によつて地面の一局部が(例へば都市とか、畑地とか、砂地とかが)、地表の他の部分(森林、眞池、川、海など)よりも強く熱せられると、其の局部の地面に接近してゐる空氣が目には見えない氣泡となつて昇騰して、其の上にある氣層を貫通する。ところが空中では高い處へ行くにつれて氣壓が減るから、昇騰した氣泡や氣柱は外部からの壓力が少なくなる為に其の外壓に抵抗して膨脹する。膨脹すれば仕事をする事になる。仕事をすれば當然エネルギーを失つて溫度がさがり、遂には其の空氣自身の持つてゐた水蒸氣が擬結を起して雲が出來る。これが熱源積雲であつて、天氣の好い日、殊に夏季に於て普通に見られるものである。
 一方動源積雲の成因については未だ不明な點が多く、現在の説としては、空中に急速に進行する氣層があつて、それが吸出しの作用をして此の雲を發達させるものと考へられてゐるのださうである。動源積雲の形は熱源積雲のそれと似たものであるが、雲の底の判然としないものが多く、又雲自體としても變化し易くて、暫時にして積雲の特徴を失つてしまふものである。熱源積雲が好晴積雲の別名を持つやうに天氣の好い事を示すのに反して、動源積雲の方は天氣の變調を示すものとされてゐる。
 一般に標準型の積雲は頭が丸く底が水平である。此の底は昇騰した空氣が飽和(一塊の空氣が或溫度に於て含み得る水蒸氣の極量まで含んだ状態)に達した場所である。そして此の底の高さは、岡田博士に從へば、地面に近い處の氣溫と露點(空氣が水蒸氣に飽和した時の溫度)との差に122を掛ければ求められる。例へば溫度が25度で露點が10度であるとすると、此の空氣が昇騰して出來る積雲の底は地上1830米の處である。尤も之は前述の熱源積雲の場合である。
 ところで此の底の水平に見える理由について英國のブラントDavid Bruntの書いたものがあるから、幾分重複と蛇足の嫌はあるが何かの参考に述べて置かう。
 日射による溫濕な空氣が昇騰するとやがて飽和の状態に達する。それが尚も昇れば、空氣中に常に存在する心核(水蒸氣の凝結の媒となるもので、細塵、イオン等)を包んで幾らかの凝結を起す筈である。しかし水が小さな水滴の形をとつてゐる場合には、空氣が餘程の過飽和状態(溫度が露點即ち飽和の時の溫度よりもずつと降つても水蒸氣の凝結しない状態)に達しないと蒸發してしまふ傾向があるので、最初のうちは中々雲粒が出來ない。しかし尚も昇騰が續けばついには凝結が起つて雲粒が形成され、過飽和も急激に減退する。かうして雲粒の形成はいよいよ迅速に行はれるが、此の目に見えない雲粒から目に見える雲粒に變化する空間高度の上下の範圍が餘りに小さいので、吾々人間の眼には殆ど水平に見えると、斯ういふのである。
 積雲は層積雲に變る事がよくある。之は昇騰氣流の勢力が弱つた爲だとされてゐる。又朝のうちに雲海をなしてゐた層雲がところどころむくむくと頭を擡げて、やがて其の頭がちぎれて浮び上つて積雲になる光景は、吾々が登山の際にしばしば目撃するところである。
 此の積雲や又あの層雲などを作る昇騰氣流を利用して、グライダーは空中へ浮揚したり其處を滑翔したりするのである。

10 積乱雲 Kn.(立ち雲)

 『垂直的に雄大な發達をとげた雲の重厚な團塊で、その積雲形の頂は山岳又は堂塔のやうに聳え立ち、上部は繊維組織を備へて、しばしば籤砧状に擴がる。
 「雲底は亂層雲に酷似して大抵の場合には落下縞が見られる。此の底はしばしば下方に非常に低い斷雲(片層雲、片積雲)の層を件つてゐる。
 「積亂雲は一般には驟雨又は驟雪を降らし、又時には雹や霰を降らし、同樣にしばしば雷を發生させる。
 たとひ雲體の全部を見ることが出來なくても、實際の驟雨があれば其雲を積亂雲であるとするには十分である。』

 一名を雷雲ともいつて、上限12キロ、下限0.5キロ、最も多く4乃至5キロ、謂はゞ積雲を遥かに大規模にした雲で、時に豪壮雄渾、あの雲の峰を現出する種類である。その質は下部は水滴、上部、殊に鐵砧状に擴がつた部分は常に氷晶から成つてゐる。
 日本で夏季普通に見られる積亂雲は、積雲と同樣其日々々の昇騰氣流によつて出來るものであるが、之は熟雷雲と呼ばれる一種で、積雲から入道雲、更に發達すれば鐵砧雲といふ過程をとるものである。
 ところで茲に一種陣風線式雷雲即ち早手雲といふのがある。本書にも二三の場合を圖版として掲げて置いたが、これに就いては藤原博士の著書「雲」から其の全文を拝借しよう。
 「早手雲は一方の地平線から他方の地平線にまで連なる帶状のもので、前面も後面も懸崖のやうに見える事があり、前面の懸崖では其上端から薄い卷層雲(うす雲)の白い緣を伸ばして靑空に連なり、又其の後面には多く力學的積雲又は片積雲等の特に渦卷式の斷雲を件うて居り、其の後ろには再び靑空が續いてゐる。つまり大きな黑雲の帶である。其底面は前半は低く、暗黑色で、後半は稍高く抉れたやうな形で前半と連なり、其境界が或は非常な瞼岨な斷崖状をなし、又は牡牛の腹のやうな懸垂をなして下つてゐる。つまり前半暗黑の所は前面から雲に向うて吹込む溫暖な氣流が上昇する部分であり、後半はかくて出來た雨や雹が落下する部分である。中間の懸垂は恐らく上昇流と落下物と相闘ふ所と思はれる。此の境界は落下する水滴の爲に特に濕度が高いから、上昇流と混合して特に早く凝結を起さしめる爲もあらう。」
 早手は昔の言葉の所謂「はやち」で、陣風とも急風ともいはれる。大抵は強雨、雹、雷、或は時に旋風などを伴つて襲來するが、其時の雷の進行速度は一時間60キロとか100キロとかいふ速いものである。早手は一般には低氣壓から伸びた不連續線上に發生する。不連續線といふのは溫度や進行方向を異にした二つの氣流が地上に於いて相接觸する線で、氣流急變線とも云へば云へる線である。たとへば日本海にかなりな低氣壓があつて、それが西から東へ進行してゐる場合、其の中心から不連續線が長く南西へ伸びて本州を横斷した態勢で、これもやはり東へ移動する。つまりラジオなどでいふ「低氣壓が不連續線の尾を曳いて云々」である。ところで不連接線の東側では其線を目がけて(勿論假想の線であるが)溫暖な氣流が南寄りから吹込み、西側では寒冷な氣流が北寄りから吹込むから、不連續線が東へ移動するといふ事は北西からの氣流の旺盛な事を示す。ともかくも早手は此の二つの氣流の相會する線上に起るもので、兩氣流の勢が強くて其の性質が違へば違ふほど、其處に起る早手も猛烈な譯である。
 早手の起るやうな場合には、冷めたい氣流が頭の少し盛り上つたやうな楔形をして、暖かい氣流の下へ突込んで來る。暖かい氣流は凄じい勢で押されるから仕方なしに持上がる。寒氣流はどしどし吹込んで來る。暖氣流はぐんぐん押上げられる。さうすると水蒸氣が凝結を起して其處へ雲が出來る。此の場合二つの氣流の幅が廣いと翌生する雲も進行方向に對して垂直に長い。即ち藤原博士の云はれるやうに「黑雲の帶」になる。此の黑雲が地平線上又は水平線上に現れてから頭の上に達するまで、それに要する時間は非常に短かいものであるから、海や湖水のやうな處ヘボートやヨットを浮ばせる人達はよく天氣や雲行等に注意しなくてはならない。
 早手性雷雲で大分手間どつたが、熱雷性の積亂雲に戻れば、此雲の頂、即ち雷頭からは氷晶で出來た細い絹絲の縺れのやうな雲が四方へ吹出す。これは以前「僞卷雲」と呼ばれてゐたものであるが、決して僞ではなく本當の卷雲であつて「雷しらす」と名づけられてゐる。此の卷雲が母體から分離して流れ出すと、やがて火焔状や馬尾状の雲になる。又氣流の昇騰が旺盛だと積亂雲の頭は幾つもの層を貫いて上へ伸びるが、若しも此層の限度が高いと其處へ局部的な雲の層が出來る。雄大な積亂雲の肩や胴や腰のあたりに殆んど常に見られる細い帶のやうな雲がそれである。これは上層では氷晶、中層以下では水滴から成つてゐる。中層或はそれ以下のものは灰褐色をしてゐるのが常で、「立ち霊の横ぬき」と呼ばれる。上層のものは「雷雲の襟卷」とか「領布(ひれ)」とか呼ばれてゐる。

其他の特種な雲形
 以上が基本雲形10種の説明であるが、此等の雲は必ずしも常に雲級圖で見るやうな標準的な形では出現せず、寧ろ多かれ少なかれ變形をとつて出たり、又「交ぜ雲」として、2種以上の雲から或る雲景を現すことが少くないのである。それで變形の中から特に著しいもの幾つかを擧げて簡單な説明を加へることにする。

1 層状雲 Fumulusfum.
 雲體が極めて薄いヴェイル狀になつてゐる雲で、上は卷雲から下は層雲に至るまで此の形をとる事がある。低緯度の地方で、殊に夏季に多く見られる現象である。元來が不安定な雲であるから永續きはしない。若しも卷雲が此の形をとれば層状卷雲(Cirrus fumulus)と呼ばれる。層状卷雲と霧状卷層雲とは往々混同されがちであるが、後者は安定な雲で、さう急に出現したり消えたりはしないものである。

 美状雲 Lenticularislent.
 見方によればレンズにも似てゐるので、レンズ雲ともいはれる。高層に風の強い時、主として卷積雲や高積雲が此の形をとるが、又それ以下の積雲や層雲などからも出來る事がある。積雲の場合ならば莢状積雲(Cumulus lenticularis)と呼ばれ、卷積雲の場合ならば莢状卷積雲(Cirrocumulus lenticularis)と呼ばれる。元來莢状雲は地形等の関係で大抵出る場所が一定して居り、附近にある他の雲は動いても自分だけは位置を變へず、たゞ形を變へたり、出來たり消えたりする雲である。又雲全體が凸レンズのやうになつてゐるので、高積雲などの場合には其の薄い緣邊に美しい彩雲現象を現すことが屢々ある。風の豫知に役立つ雲である

 塔状雲 Cumuliformiscuf.
 雲の上部がところどころ積雲状の隆起や小さい塔のやうに立つもので、卷雲から層雲まですべての雲が此の形をとる事のあるものである。高積雲の上部から蕈のやうに立てば塔状高積雲(Altocumulus cumuliformis)といひ、層積雲がさうなれば塔状層積雲といふ。勿諭いづれも水平に近い角度からでないと確かに塔状雲であるかどうか分らない。

4 乳房雲 Mammatusmam.
 雲の下面が幾つも丸く膨れて、あたかも乳房なやうな觀を呈するのが特長である。普通は積亂雲の底に出來て靑黑く、四邊の暗淵たる光景に一層悽惨な感じを與へる。又高層雲、層積雲、層雲なども此の形をとる事がある。私は生憎日附を記錄しなかつたので本書の圖版には掲げなかつたが、寫眞で此の特長をとらへるには適當に横からの光をうけた時でないと都合が惡い。其の生命ともいふべき迫力のある凹凸面が表現出來ないからである。

5 波状雲 Undulutusund.
 一名を壠雲(うねぐも)ともいつて、雲が波状をなして並列してゐるものである。上、中、下、各層の雲が此の形をとる。從つて波状高積雲、波状層積雲其他がある。成因は次のやうである。
 先づ上下二つの氣層があつて、それが孰れも異つた密度と溫度とを持ち、その含んでゐる水蒸氣の割合も違つてゐるとする。そして此の二氣層が重なり合つて互に運動するとする。其時此の上下の氣層の接觸面には、ちやうど海面を風が渡る時波が立つやうに空氣の波動が起る。此の波動の山の所では空氣が上昇して斷熱的に膨脹冷却するから、水蒸氣の凝結が起つて雲が出來る。一方波動の谷の所では空氣が下降するから、壓縮され暖められて雲は消える。かうして大氣の波浪の出來た所へは雲の長い壠が何本も平行して現れるのである。
 高い卷雲の一部に出來る時などは漣のやうに美しいが、これが大規模に高積雲などに現れる時は壮大な雲景をなすものである。

6 輻射雲 Radiatusrad.
 これは幾條もの平行帶状をした雲が、透視法のために天空の一點から射出してゐるやうに見える状態の時の名である。若しも此の平行帶状の雲がそれぞれ非常に長くて、地平線の一方から反對の側まで屈いてゐるやうな時、假にそれが東西の方向をとつてゐるとすれぱ、帶の列は西の一點から射出して頭の上で一番廣くなり、又次第に縮まつて東の一見に集中するやうに見える筈である。
 輻射雲の輻射拠は雲の來る方向を示すから、此の方向を正しく觀測すると天氣の變化を豫知するには大いに役立つものである。

7 笠雲
 これは東京地方では富士山や筑波山のやうな孤立した山に多く見られるもので、山頂に冠さつてゐる事にあれば少し離れて出來る事もある。又一階笠の時もあれば二階三階と出來る時もある。氣象技師三浦榮三郎氏に從へば主として高層雲に屬する雲が多いさうである。
 成因としては、速度の大きい空氣が水平に流れて來て山體に浚邁すると、其の空氣は斜面に沿つて吹上がる。そして頂上を越えると下降する、其時其處に波動が起つて雲が出來るが、下降氣流の處では雲は消える。從つて氣流は後から後から上昇し下降しても、雲だけは何時までも其處に出來る。
 天氣變化に関係の深い雲で、富士山麓は勿論、各地に天氣俚諺のあるのは人のよく知つてゐるところである。本書にも友人武田久吉博士の御好意によつで此雲の一種を掲載する事が出來た。

8 かいまき雲
 この名は藤原博士の命名になるものださうであるが、雲自體は東京から眺めた富士山にしばしば見られる種類である。即ちすつぽりと柔かくあのコニーデ型の山體を包んでゐる。これも上空に風の強い時の現象であつて、そんな時には大抵丹澤山塊などものつぺりした此雲にくるまれてゐる事が多い。

9 吊し雲
 これも富士山へ出來たのを武田博士貸與の寫眞として本書に掲載した。形は圖版に見るとほりであるが、三浦氏の説によれば笠雲同樣高層雲或は高積雲に屬するものが多いさうである。そして之も一つだけではなく、二重にも三重にも出る事が珍しくないさうである
 成因には波動説と渦動説の二説があると云はれ、波動説に從ふと、山頂を乘越した氣流が風下に波動を描くので其の波の頭の所へ出來ると云つてゐる。渦動説では、強風が山を乘越すと其の風下では主風向に反對の空氣が山腹に沿つて吸上げられて渦を卷く。其時下層から絶えず運ばれる空氣中の水蒸氣が凝結して雲霧を生じて、それが吊し雲になるといふのである。
 熟れにしても山岳のやうな大きな障碍物のある所では種々變化に富んだ雲形が出來るものである。たとへば本邦南北アルプス、木曾駒ケ嶽山脈は勿論、八ケ嶽や奥秩父などでもさうである。更に諏訪盆地や琵琶湖を圍む山々にも見るべき雲は實に多い。たゞ時間に束縛されがちな旅にあつては、ゆつくりと觀察する暇の無い事がまことに殘念である。出來るものならばさうした山岳近くに居住する有志の人々が、觀察記や寫眞其の他の記錄を殘される事が切に望ましい。

 

 四 結び

 雲を觀察する事が「氣象學をする」事でないのは勿論である。今日でも往々殊更めいて其のやうな駄目を押す學者があるが、然し若しも吾々専門外の徒が他に職能を持ち其の職域に精励しながら、伺且つ僅かばかりの暇を割いて雲を眺め、雲の美に參し、雲の言葉を聽く事に、生きる日のもう一つの喜びなり生甲斐なりを感じるものとすれば、それはとりも直さず吾々が雲の美の何たるかを解し、藝術、花鳥のほかに斯くも心を動かすものの有る事を知り、天空に現れる其の四季、日夜の不可思議に胸を打たれるからである。そして雲のごとき天涯縹渺の物に對して抱く此のやうな日毎に新たなる感動や驚異の情こそ、我々日本人が遠い祖先から受けつぎ育んで來た民族の心情の一部なのである。そして此の感動、此の驚異の情を誰憚らずのびのびと生かして、其處から何等かの啓示、何等かの力を見出さうとする態度こそ、今日の吾々の「雲の觀察」が單なる道樂、單なる閑潰しでないのだといふ斷乎たる立言を生むのである。
 雲は見られなくてはならない。幾重にも眺められなくてはならない。若しも吾々幾千萬人の素朴な眼が大空の彼等を見てやらずに、之を一握の人々に任せて顧ないとしたならば、あの天の種族が泣くだらう。歡きの雫を落すだらう。
 雲は知られなくてはならない。知らうとされなくてはならない。それは空の感情の表現であり、霊妙にして千變萬化する事、あたかも人間の心緒の消息のごときものだからである。
 そして彼等の美を探り、その感情の據つて來たるところと往くところ池を察することは、吾々の情操を高め、吾々の内面生活を豐かならしめる一つの道である。
 臆するところなく雲を見、雲を研究し、雲を記錄するがいい。況んや吾々の祖國の空は舊に幾倍して廣大になつたのである。今後吾々は赤道の南に北に、吾々の領土の上で樣々の彼等を觀察する事が出來るのである。そして其の驚異と喜びとの記錄を同時代の同胞に、又後代の子孫等に與へる。それが必ずや何等かの有益な素材になるだらうと思ふのは吾々の樂しき確信である。そして之も亦一つの奉公ではないであらうか。
 人間百般の事業、それに對する愛と信仰と無くして決して美しい成果は得られまい。雲に就いて言へば、雲を愛するがいい。愛して以て祖國の文化に役立たうとする事を、たとひ君が素人であれ、正しく立派な行爲だと信ずるがいい。



 

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 本書の一般讀者への推薦圖書  (尾崎記)

(各項に付した番號は、此順で手に入れたら宜しいであらうといふ程の意昧で、
 書物其物の價値等級を示すものではない。外國の書物は省いた)

 1 藤原咲平   雲(増訂版)
   岡田武松   氣象學講話(増訂改版)
   大谷東平   天氣圖と天氣豫報

 2 大谷東平   暴風雨
   中谷宇吉郎  雷
    同     雪

 3 岡田武松   氣象學(改稿第二版)上下
    同     氣候學
   防災科學   風災
   松山金次郎  天氣のお話(特に子供達の爲に推薦す)

 4 藤原咲平   雲を掴む話
    同     氣象と人生
    同     天文や氣象の話
   荒川秀俊   日本氣象學史
    同     大東亞の氣候
   三浦榮五郎  氣象觀測法講話
   中谷宇吉郎  雪の結晶の研究
   岡田武松   測候瑣談、正續
   田口龍雄   風祭、正續
   測候研究會  天氣と氣候(月刊)

 

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