理学博士中谷宇吉郎氏の数多い随筆の中に、南カラフトの凍原ツンドラや北海道の泥炭地帯の晩秋の景観を書いたものがある。これらはいずれも実に見事な文章で、寡聞な私としては、ああいう北地の荒涼とした広がりの美をかくも新鮮に、物的にディングリッヒ、しかも溢れるばかりの愛情をもって叙述したものをいまだかつて知らない。もしも私の貧しい知見の中に、似たような場所について、しいていくらかの相似のものを探がすとすれば、それは北独逸の泥炭地方、ディットルマルシェンに近いヴォルプスヴェーデで、そこに集まった一群の若い画家たちの仕事や生活や、その土地の寂しい自然の移るともない季節の推移を、一枚の大きな微妙な壁掛を織上げるようにして書いた、あの詩人リルケの「ヴォルプスヴェーデ」ぐらいのものである。
すこし長いがそのリルケの文章を引き、中谷博士のものを引用することを許していただこう。そしてリルケのほうは今手許に原本がないので、大体谷友幸氏の翻訳にしたがうことにする。
「それは実に珍らしい国土である。ヴォルプスヴェーデのちょっとした砂丘に立てば、四方にひろがっている土地を見わたすことができる。暗色の地に濃い花模様をふちどった、百姓女の肩掛をおもわせる眺めである。それはほとんど襞もなく平らに横たわっている。道路や水路は遠くまで通じて、ついには地平線の奥に没している。そのあたりから何とも言えぬうつろいやすい壮大な天空がはじまる。空は一枚の葉にも姿をうつしている。そして万象がたえずその天空と交渉しているように思われる……」
中谷博士はこう書いている。「車窓から見たツンドラの広原は、非常に清らかな感じのものであった。この感じは、その後ツンドラの中へ踏み入って見て益々深められたのであるが、実に意外であった。見渡す限りの平坦な草原は、濃い橙黄色を基調として、ところどころに茶褐色と白緑びゃくろくとの斑点が、ぼかし染めに染め出されていた。茶褐色のところはいそつつじの灌木の叢であり、白緑の色はみずごけが毛氈のようにふくらみ茂っているところである。その間にグイ松のかなり大きい立木がツンドラの絨毯をつきぬけたように、乱立して無造作に立っていた。そのグイ松の殆んど全部が立枯れの木であって、樹皮はもういつの昔かにとれてしまって、灰色にしゃれた木の骨だけが立っていた。中には風雨に倒されて、ツンドラの草原の中に、半ば埋もれて横わっているものもあった……」
リルケの画イマージュは、おそらく、渺茫とした春の哀れに美しい北欧泥炭地の風景であり、中谷博士のそれは、潔くも遠く悲しい秋のツンドラの美である。そしてそのいずれもが新らしく降った雪や、草の芽や、星のような無垢な清らかさを息づき、その雙方が果てなく遠い地の広がりを物語っている。ヴォルプスヴェーデで一枚一枚の白樺の一葉を愁いめぐっていた暮春の空は、冬近いカラフトの凍原で一株一株の磯躑躅や、グイ松や、白緑の水苔の紐に映っていた空である。そして詩人と学者とによって描き出されたこの二枚の画から郷愁のように歌いながらわれわれを呼ぶのも、地平線から湧いて地平線に落ちこむその空である。われわれの文学であまりにも顧みられることすくない広さと、遠さと、平らかさとの休息感。たまたまそれに接した時の魂の名づけようもない安らいと、静けさきわまる喜びと、清らかな澄んだ哀愁。そういうものをこの二人の作者は心の底に柔かに感じている、持っている。そしてリルケ自身が
Im flachen Land war ein Erwarten
nach einem Gast, der niemals kam,
平らな国では待っていた、
いちども来なかった一人の客を。
と言ったその「平らな国」の消息を知っている人を、私はツンドラや泥炭地を前例もないような筆で描いた、我が中谷宇吉郎氏に見るのである。
こういうことを思い出すのも、実は秋が逝き冬が来て、私の住んでいる信濃の国の空や空気がいよいよ澄み、周囲の山々や原野・村落の風景がすっかり冬枯の色になって、その色彩も土黄色、水いろ、白緑、薄墨などに積雪の白を配した、沈んだ寂しい調子に統一されて来たからである。しかし冬の概念を寒気というものと結びつけるとすれば、ここの冬は「忍び寄る」とか「訪れる」とかいう感じでは来ない。それは一時にどっと湧いて流れ出し、山々の間に張りつめるとか、あるいは切って落としたように落下して、そのまま重たく沈澱し滲透すると言った感じである。
同じ信州でも地方によって幾らかは違うと思うが、ここ諏訪郡の富士見附近では、十月のなかば、すでに新雪の富士や北アルプスを秋空のかなたに遠望し、近くの八ガ岳や甲斐駒・鳳凰などの頂きに薄っすりとかかった初雪を見る。しかし山野を照らすもみじは未だある。自然が青と金と朱紅色とで象嵌され研ぎ出されたような、きらびやかな、静穏で暖かな、うっとりするようないく日がつづく。十一月の初め、稲の収穫がおわり、その調整もすむと、山の落葉掻きやぼや採りが一斉にはじまる。朝から森や林に熊手の音がひびき、夕方には小山のように枯枝を背負った女や子供が道を通る。ちょうどその頃、大抵は数日間北西の強風が吹きすさむ。最後の枯葉が吹落されてあらゆる凹みを埋め、黄いろい霧のような落葉松からまつの葉が横なぐりに吹きつける。こうして落葉掻きも漸く終ると入れちがいに御葉漬や沢庵漬の行事がはじまる……と、とつぜんある朝家の内にも自然にもびっくりするような冬の相貌。それは来ている。いたる処にいる。柄杓の動かない水瓶にも、寒暖計の赤い液柱にも、巻煎餅のように堅く巻込んだ石南しゃくなげの葉っぱにも、土の表皮を亀裂させて膨れ上った地面にも、日光を反射し屈折している真白な山畑の斜面にも、その亜高山帯針葉樹林に一夜にして霧氷の燻し銀をかけた八ガ岳にも蓼科山たてしなやまにも。ぱりぱりの霜と結氷、冬の進駐。それは悠々と坐りこみ、断乎として君臨する。そして雪だ。それは大抵は根雪であり、その上へ積もって凍ってはまた新らしい雪をうけとる雪である。もうこうなると毎日の平均気温は氷点下六七度の辺をうろつき廻り、二月へ入るとそれより深い海底を探ぐりに行き、三月の半ば頃までは浮き上って来ない。気温の上昇がもはや気紛れの業ではなく、グラフの上の曲線の形がちゃんと納得のゆくようになり、たとえ摂氏半度か一度の上昇でも、人が信頼と感謝とをもって押し戴くその三月の半ば頃まで。
しかし信州は自然も人間もこうした冬に馴れている。それは試練の時でもなければ天災の襲来でもない。だから不慮の寒気に見舞われた暖地のように、慌てたり取り乱したりするということはない。あらかじめ適応の備えがあり、ことに臨んで一々の処置が適切に行われる。植物にしても枯れるものは潔く枯れ、耐寒装備のあるものはその装備に身を固めて、決してだらだらと旧套を曳きずったり、よもやに引かされたりはしない。人間も一律に冬構えをととのえ、分に応じて来春五月頃までの野菜をむろに貯え、冬じゅうの燃料を小端こばを揃えてきちりと家のわきへ積み上げる。信ずるに足るほど几帳面で、厳寒もまた楽しいほどその生活は冬に順熟している。綺麗さっぱり掃除の出来た秀麗な山野の自然と、籠城の門扉はひっそりと厳重に、しかし内部では何かこまこまと楽しい生活というのが、先ずこの信州の冬のように思われる。
英国の自然文学者リチャード・ジェッフリーズは「野兎の棲息地」という随筆の中で、「同じ冬でも田舎の冬は都会の冬ほど、そんなにひどく寒々としてはいない」と言っている。彼の言うのはもちろん屋外の冬のことだが、事実田舎には未だ「いろいろな樹があるし、その樹のまわりには小鳥も残っている。楡の木からクィップ! ホィップ! という声が響く。ホイップ! クィップ! それはレッドウィング(脇赤鶫)が自分たちのほうへ近づいて来る者をその鞭ホイップでおどすのである」 日本の冬の野外ならばさしずめ百舌もずというところででもあろうか。彼もまた路傍の冬木の枝へ棲まって細い尾を上下左右に振り廻しながら、近づいて来る者を「キイ・キイ」と鋭い叫びで叱っておいて、さてひらひらと飛び下りて近所の枯藪のなかへ姿を消すのである。
野外の好きな私は冬でも好んで田畑や山林をあるき廻る。たまには二里三里と遠出をすることもあるが、冬は日も短かく道も他の季節ほど良くないから近距離の散歩が多い。
それでも森の家を中心に東西南北、一足出ればどの方角へ向っても自然界の観物にことは欠かない。たとえば裏手の二百坪に足らない小さい池の周囲を一廻りするだけでも見る物はたくさんある。その池の氷が溶けて水の現れている処では、水中の枯草にとまって半分麻癖したようになっている水かまきりや松藻虫も観察できるし、またその松藻虫をついばんで氷の表面へ投げ出して、つるつる滑って行くのを追駆けて食っている背黒鶺鴒の一風変った動作を見ることもできる。また池の片隅には氷に臨んで無数の枝を張り出した一株の大きな河柳が生えているが、その枝には赤銅色に光った鱗片に包まれた小さい角のような芽がもう出ている。この鱗片の袋が何時すぽりと抜けて中から銀毛に被われた花穂が現れるか、それを見る日が今から楽しまれるのである。またその近くには煙ったように冬枯れたうつぎの藪もあって、株の中ほどには今年の春の百舌もずの巣もあまり壊れずに残っている。来年もまたおそらくここへ営巣するのだろうと思う。そして池畔にたたずみながら、土手の枯草の中に、まるでびっしりと縫いつけたように、数十枚の赤い根葉の薔薇結びを見せている幾株かの大待宵草の、その冬の堅忍の美を、嘆称することもできるのである。
古外套とスキー帽と、厚い手袋とゴム長靴とに身をかためて、冬の高原の耿々と晴れた日を外へ出ることがなんと私に楽しいだろう! 樹下の霜住をざくざく踏んで森を出る。するともう路傍の土手のむこうに白金の粉をまぶしたような八ガ岳の連峯がずらりと出る。その土手を越えて尾根の開墾地へ登ると、こちらへ向けてがっくりと口をあけた深い釜無の谷奥に銃眼を切った城壁のような鋸岳が千筋の雪条を懸けつらねて黒々と立ちはだかっている。その左手の前山の上には、逆光に漬かって輪郭だけ金色に光る甲斐駒が皚々と白い大金字塔をそばだてている。それから更に左へ、何段かの階段状断層を薄青い影絵のように見せた紫水晶の鳳凰山。そしてそのまた左には編笠岳の長いゆるやかな裾を踏まえて、南西の半面を薄薔薇いろに匂わせた荘麗な富士。そして天心から八方へ落ちかかって浅黄いろに明るむ冬の大空。
尾根の開墾地を下りて田圃に面した小松原を横ぎる。小松の枝の頭にはどれもこれも一掴みずつふわりときのうの雪が載っている。この原には蓮華躑躅もまた多いが、五つに割れたその褐色の蒴果と一緒にもう来年の花の蕾が、幾重もの鱗片に堅く包まれて玉のように着いている。よもぎの藪はがさがさになって立枯れているが、その枯葉がくるくると捲き上って裏の銀白色が表へ出、表が黒変して裏になっているのが、このよく日の当った青空の下では不思議に美しい。よく見れば斑々と雪の残った枯草の中に、松虫草の根葉が、これも濃い緑の薔薇ロゼット結びをひそませている。
小松原から田圃へむかって尾根の裾の小径を行く。南へ向いたこの尾根の麓には普通の野薔薇とてりはのいばらとが断然多い。野薔薇のほうはもう葉を落として裸だが、てりはのいばらには未だ葉がついていて、その小さい卵形の葉が紅葉して名の示すように光っている。両方とも堅くて赤い球形の実を綴っているが、てりはのいばらの実のほうが少し大きくて形も長めだ。冬枯の景色の中で見出すこういう赤い葉だの実だのが、私にあの「僧院」の詩人たちの、特にヴィルドラックや、デュアメルや、アルコスたちの詩を何となく思い出させるのは、いつもながら不思議でもあるし懐かしくもある。ここにはまた数本の若いずみの木も生えていたが、その棘とげのようになった短かい枝に、こちらへ蒼白い腹を見せて一匹の小さい蛙が刺さっていた。いわゆる「百舌の早贄はやにえ」であるが、もう殆んど硬くなった四肢が、わけてもその小さい両手が、しかも指をひろげて、最後の苦痛をそのまま現しているのがいじらしかった。
田圃には雪がある。稲の刈株だけを残した雪は薄い煎餅のように凍って、踏めばぱりぱりと爽快な音をたてて割れる。そしてこの雪の被いがあるせいか、それとも土質のせいか、田圃には霜柱という物が出来ていない。二三箇所場所を変えて調べてみたが、どこもただこちこちになっているばかりである。やはり雪のせいよりも砂質の客土のためであろうかと思う。とにかくこの火山の裾野では、冬歩いていてぼこんぼこんと足のもぐらないのは、踏み固められた大道と実にこの田圃だけである。
水涸れ時の落し水はその量が夏の半分以下に減っている。それでも「コボコボ」だの「チョッピ・チョッピ」だのと言って流れているのが嬉しい。幅は一跨ぎよりは少し広いが、石が崩れたり木の根が洗い出されたりしているその水際には、さまざまな雲形模様に縁どられた薄い氷が庇ひさしのように張り出している。そしてその雲形の氷の縁へ日光が当ると、光が分解されて虹のような色彩に輝くのである。流れの中から頭を出している丸石は昔のオランダの白い襟飾のような氷の環をめぐらしている。ところがその環の下で後からできる新らしい氷が押上げるためか、初めにできた環の内側と石との接触点に狭い隙間があいている。あるいは石からの熱の伝導でその部分の氷が溶けたのかとも考えたが、環自体がせり上っているのだから、やはり下からの押上げによるのだろうと思う。この落し水の一段高い堰せきのようになった所には太い氷柱が何本も下がっていて、その下流の淀になった所は表面が一様に凍っている。この氷柱や氷の板は白い摺硝子のように見える。無数に含まれている微細な空気の泡が光を乱反射するので、こういうふうに只白くて不透明なのであろう。ここでは、今年の春、はんのきの根元に巣を営んでいる夫婦のみそさざいを発見したが、きょうは未だ出逢わない。あの時にはこの水際に並んでいるはんのきがすべて紫いろをした太い花穂を垂らして金緑色の花粉にまみれていた。今はまだその花穂が短かく堅くただ褐色に光っているばかりだ。みそさざいのためにも時期がすこし早過ぎるのであろう。しかしいちばん早く春のきざしの動き初めるのは、何と言ってもこの水際である。
田圃を後に今度はむこうの松山の尾根を越える。松山の中は一面の雪で、野兎の足痕が縦横に走っている。ひらたい飴玉のような糞もころがっている。この尾根は面積も広く林や藪も深いので兎なども棲んでいるのである。ところが林を越えて南向きの暖かい枯草の斜面へ出たら、いきなり「ドドドッ!」と強い翼の音を立てて一羽のやまどりの雄が飛び出し、日をうけて金褐色に輝く全身を見せながら、低く一直線に飛んで斜面の下手の方へ姿を消した。この十一月の初めには程近い立沢の林で足元から飛び出した雄雉を見た。高冷地開発の手がだいぶ伸びて来たとはいえ、まだまだこの附近にはこの種の大形の鳥や兎が残っているのだと思って嬉しかった。
尾根の切れ目からぐるりと廻って先刻の田圃の上手を逆に横ぎり、時どき来ては寝転んで雲を仰いだり、本を読んだり、煙草をふかしながらぼんやり風景を眺めたりする、家から十町ばかりの、例の芝とクローヴァの斜面へ行く。芝は短かく金色に枯れているが、クローヴァは未だ柔かな緑の葉をいくらか残している。ここからの眺望は初めに述べた尾根の開墾地からのに似てそれよりも一層雄大である。空は正面に遠く一線を劃した編笠の裾へ向って円天井のように落ちこんでいる。その下には甲府盆地があり、ごたごたと重なり合った山々を越えて更に武蔵野や相模野が横たわり、そのまた向うには太平洋の広袤がある。そう思うと、東風吹く頃には、たまには海の香でも運ばれて来はしないかという気さえするのである。
ここではまた前面の広い田圃へ下りて稲の落粒を拾っている五十羽ほどの小河原鶸こかわらひわと、うしろの落葉松からまつ林の箒のような枝に鈴生りになって棲まっている二三百羽の頭高かしらだかとを見た。今年の春に「別れの曲」を聞かせて遠い北方の繁殖地へ帰って行ったあの頭高がまた訪れて来たのである。彼らはじっと動かずに羽毛をふくらませて棲まっている。日に照らされた胸の銀白色や、嘴の下にちょっぴり斑点をつけている赤栗いろが実に美しい。そしてその背景は日光の金粉のかすかに漂っているかと思う例の青磁いろの大空、我が国の文学ではほとんど問題にされないが、胸をひらいて仰ぎ見れば、そこから無限の啓示の落ちて来るあの大空である。
そしてきょうも日が暮れれば、その大空の東から悠々と、堂々と、牡牛やオリオンの大星座が上がるだろう。やがて夜も更ければ、獅子座のレグルスを中に火星と土星との三つの星が、霜に満ちた空間を明るませて爛々と昇るだろう。そうしたら井戸のポンプできょう最後の水を汲みながら、私の妻があの好きな歌を口ずさむかも知れない。シューマンの「兵士の花嫁」、
Es scheinen drei Sterne so hell dort uber Marienkapell,
むこうのマリアの御堂の上に星が三つ
あんなにきらきら光っている
を。ちょうどいい。なぜかと言えば私もまた詩人として勲章も星の飾りも持たない一兵卒であり、妻としてはその私の胸にあの冬の夜空の三つの星が欲しいだろうから。それに又あしたは降誕祭前夜であり、そのむかし東方の博士らも、あのような星の光に導かれて幼い救世主を祝福しに来たのだから……
(十二月二十三日)
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