鎌倉諸作品集


   ※ルビは「語の小さな文字」で、傍点は「アンダーライン」で表現しています(満嶋)。

                                 

その土地への愛の序曲

 

 

折り折りの記

 

 

  初 秋

  友 人

  病院にて

  心平さんの鎌倉来訪

  海岸で

  道

    憩いの店      
         
  日光と枯草      
 

  書棚の一角

  妻への話

  心打つひびき

 
 

  生への飾り

  鎌倉への愛と要望

  草花との静かな日々

 
         
  再生の歌      
 

  春信

  再生の歌

  内と外

 

  秋

  早春

 

                                     

 

 その土地への愛の序曲

 鎌倉や江ノ島へ初めて行ったのが旧制商業学校の予科一年か二年の頃だったから、思えば今を去る六十年以上も前、まだ十三か十四の時だった。学校の遠足で、しかもその日帰りの旅だった。だから鎌倉では鶴ガ岡の八幡宮と長谷の大仏、江ノ島では弁天様ぐらいしか記憶に残っていない。また事実そのくらいしか見物できなかったのだろう。何にしてもそれより更に早く、毎年の暑中休暇を過ごしに行った大磯や箱根にくらべると、このいわゆる湘南の古都、この「歴史的風土」の地は、東京下町の商家の子弟やその家族にとって、海水浴場や温泉場よりも或る意味では古過ぎ静か過ぎ、江ノ島はともかくとして鎌倉となると、人聞きもよく事実贅沢でもある避暑地としては、余りパッとしなかったのかも知れない。旅館の二間ふたまか三間を借り切って、食事も宿のものを三度三度とって其処で一夏ひとなつを暮らすという事は、今日ならばいざ知らず、明治も三十年代の鎌倉では思いも寄らない事だったろう。
 その鎌倉に縁有って今私は住んでいる。そしてこの古都、この歴史的風土が、或いはこそこそと、或いはおおびらに、由緒ある姿を日に日にこぼたれ、昔の床しさを失いつつあるのを目にしている。東京から移って来て僅か四年目の私でさえこの絶え間ない変貌を嘆いているくらいだから、古くからこの土地を愛で慈しんで住んでいる人達にとっては身を切られる思いであるに違いない。「観光開発」は歴史ある土地や自然の破壊である。その敵の手に包囲され蚕食されながら微力を挙げて闘ったり唇を嚙んでこらえたりしている人々を思うと、その開発の手に削り取られた緑の山の一角に、こうして地所を求め家を建てて住んでいる自分自身が恥ずかしい。さりとて今私が此処を去ったところで、一旦失われた物が元の姿で帰って来るわけもない。それならばせめて古くからここに住んでいた者のように少しでも土地を護る手伝いをし、僅かに残っているその美その特色を、愛の文字で書き残して置くよりほかに私に果たし得る務めはない。しかもこれまた矛盾のようではあるが、その文字が忌むべき観光開発者共の手によって悪用されないようにと祈るよりほかはないのである。

 大船駅を出た横須賀線の電車が東海道本線と分かれて南東へむかうと、じきに窓の左右に緑の木々に被われた低い山のつらなりが現われる。電車はその間を左手の山裾近く沿って進む。するともう其処は鎌倉の地籍で、他郷にいても遠く鮮かに浮かんで来る親しく美しい画面の一つである。やがてプラットフォームはきわめて長くさっぱりしているが駅の建物そのものは至って質素で小さい「きたかまくら」。左は円覚寺や明月谷戸やとを囲んだ山で、右は浄智寺や東慶寺を前に台山だの瓜うりが谷やつだのを擁したこれも山。春もまだ早ければ凛々と咲いて匂う紅白の梅の花、つづいて桜、連翹れんぎょう、白木蓮、海棠、木瓜ぼけなどの四月の眺め、やがては新緑に映える躑躅つつじの赤に紫陽花あじさいの空色。そして暑い夏もいつしか過ぎて涼しい秋の爽やかな日々ともなれば、しみじみと日光を浴びた赤や黄や緋色のもみじが、周囲の山の常緑樹の色をいよいよくっきりと際立たせて、そこに歴史的鎌倉固有の落ちついた人文と自然の景観をひろげている。
 私の住んでいる明月谷戸にはアジサイで名高い建長寺の末寺明月院がある。谷戸の名もそれに由来しているかと思うが、山あいの谷の空がほぼ東から西へ向かって細長く開けているために、晴れてさえいればあらゆる月齢の月が一年じゅう頭上を通る。季節とともに静かに移る星座の眺めもそうで、湘南も次第に寒さの感じられる晩秋十一月半ばの宵の口から、東のほう六国見山ろっこくけんざんの山続きへ次々と姿を現わして夜半過ぎごろ、煌々と輝きながら天頂を進む馭者や牡牛の大星座が実に美しい。又ちょうどその時分には天ノ河もこの谷と同じ方向をとって流れているが、鷲座の牽牛と琴座の織女とを左右に随えて、西のかた東慶寺あたりの空へ落ちて行く白鳥座の大十字形がすばらしい。東京に住んでいた頃は年を追って役立たずになった星座図や携帯用天文鏡が再び持ち出され活用されて、夜の天空を観る昔ながらの楽しみが帰って来たのも、空気が澄んできれいなこの鎌倉の山の中なればこそである。
 この数年来東京では由緒のある古い町名がやたらに、且つ惜しげもなく取って捨てられたり変えられたりしているが、もしもこの鎌倉から谷とか谷戸とかいうのが廃止されたとしたらどんなに味気ない事だろう。「どちらにお住まいですか」と訊かれて「扇ガ谷に」と答えたり、「佐助(ガ谷)です」とか「二階堂(ガ谷)です」とか返事をする人達には、それぞれの地名や土地に対する愛が、特別の安住感が、更には一種の誇りのようなものさえあるに違いないと思われる。親しいドイツ文学者の富士川英郎さんはずっと古くから瓜ガ谷に住んでおられ、新参者の私は明月谷戸、俗称明月谷めいげつだにで暮らしていて、いずれも自分の土地の名に愛着を持っている。
 谷やつも谷戸やとも谷地やちも元来或る地形の名称で、台地や丘陵が浸蝕されて出来た谷の底面をいうのである。そして海抜せいぜい一〇〇メートルか一五〇メートルのいわば丘陵地帯でありながら、鎌倉という土地の地形が半円の海岸線にむかって傾斜していかにも美しく複雑の妙をきわめているのは、ひとえにこれら無数の浸蝕谷のおかげなのである。誰の作で何という句だったか残念ながら忘れたが、鎌倉のそれぞれの谷戸に咲く梅の花の遅速の妙味を詠んだのがあった。それというのも、一つの谷の向きや形によって平均した日射量や気温に差があるためだろうと思う。鎌倉だけでも四十何箇所か有るといわれているその谷の幾つかを、たまたま梅花の季節に歩いてみて「なるほど」と思いながら、その道の勾配や屈曲の具合、溝の流れ方、崖の様相、人家の有様などに、納得と賞美のまなざしを送らずにはいられなかった。
 たとえば今私の住んでいる明月谷戸、通称明月谷は、鎌倉市山ノ内の地区内にあって、それぞれ円覚寺と建長寺とを擁している山と山との間を、うねうねと東西に走っている。横須賀線の下り電車が北鎌倉駅を出るとじきに左手に見える奥行の深い柔らかな感じのする谷がそれである。その入口から谷の詰めまで一キロメートルはあるだろうか、初めのうちは気がつかない程緩やかな登りだがやがて少しずつ勾配を増す。二〇〇メートルばかり行った明月院の石の門まで道の右手は山裾の急斜面、左はゆったりと奥まった住宅地、その前を流れている細い深い溝川に沿って春は古い並木の桜が美しい、清潔で静かな道である。このあたりはまた季節によってさまざまな草木の花が道路に面した庭垣の中や山の斜面を彩っている。「あじさい寺」の名で呼ばれている明月院の、初夏のアジサイの見事なことは言うまでもない。そしてこの寺の在る場所は、明月谷でも一番ふところの深い枝谷えだだにで、それを囲んでいる山の林相の複雑なことと湧き水の豊富なこととのためか、ここへ集まって来る小鳥の数も種類もはなはだ多い。
 谷戸道は寺の門前から少し狭くなって同時に爪先上がりになる。今度は左が崖で右側がずっと山裾の人家続きである。その人家のうしろをひっそりと上流からの水が流れているが道からは見えない。露出した崖の面には、ここにもまた昔の「やぐら」が残っている。古代の横穴式墳墓の跡と言われていて、鎌倉の谷戸地形の処ならば各所で見られる。するとすぐその崖地を切断するように、珍しくも小さな田圃を前にして一つの深い谷が現われる。これもまた枝谷だが、春はキブシ、ヤマザクラ、ウツギ、ヤマブキ、フジ、ヤマツツジなど花の咲く木が多く、山からの水に灌漑されているせいか、七月の初めごろはこの小さい田圃の宵闇を飛び交う螢の光が美しい。
 やがて右側の人家が尽きて崖地に変わると、今度は左側に人家が並んでそのままずっと狭い坂道の奥まで続いている。今でこそ斯く言う私の住んでいる比較的古い造成地の一集落があったり、略称「信販」の分譲地への立派な石の舗装道路が山の切通しまで通じたりしているが、古い明月谷戸もこのあたりが本当の谷の詰めである。そして分水界の尾根へ出る藪の小径を登りきれば、視界は俄然ひろびろと開けて、材木座や由比ガ浜の白い波打ち際に縁どられた鎌倉の旧市街はもちろん、相模湾の青々とした水のかなたに眉のような伊豆半島や影絵のように霞んだ大島、さては熱海・箱根の火山群から富士山まで、(横浜や川崎、東京方向のどんよりと濁った空は敬遠するとして)、晴れやかな風景が一望のもとに収まるのである。

 昭和二十年、終戦直後の秋の或る日の事だった。由比ガ浜と材木座海岸との境になっている滑川橋のまんなかで、私はばったり久保田万太郎さんに出逢った。戦前から取りたてて交遊という程のものは無かったが、時が時、場所が場所だけに互いにその奇遇におどろき、私としては何か心の暖まる思いがした。私よりも年上の久保田さんはその時五十五か六ぐらいだったろう。生粋の東京っ子らしく、殊には生え抜きの浅草っ子らしく、和服の身なりなどいつも洗練されていたその人が、さすがに戦中戦後の不如意な生活と心身の疲労のためか、悲しくやつれて貧しく見えた。千葉県の三里塚に住んでいる妻の父水野葉舟の家から、年老いた母の病いの看護にこの鎌倉名越なごえの親戚の家へ妻と一緒に来たばかりの私にしたってそうだった。久保田さんと私は滑川の河口をすぐ眼の前にした橋の上で、寒い浜風に吹かれながら手を取り合った。その時久保田さんが言った、「尾崎さん、あなたも東京の京橋っ子だけどこの鎌倉へいらっしゃい。住んでみれば中中いい処ですよ」と。それから間もなく母が死んで、やがて私は相州鎌倉ならぬ信州富士見の高原に住む事になったが、この世の盛衰も甘酸もすべて無常のものと見きわめたようなあの時の久保田万太郎さんの寂しくも穏かな顔や声音が、二十幾年たって図らずもこの土地に定住するようになった今、たまたま同じ滑川橋やそのあたりの波打ち際を見るたびにいとど懐かしく思い出される。
 「その滑川へご案内しましょう。上流の方にはまだ昔のおもかげが二、三箇所は残っていますから」と、夏の或る日、極楽寺に住んでいる親しい若い詩人の伊藤海彦が誘いに来た。私は自分達夫婦が媒酌人をしたこの聡明で勉強家で世話好きの友のいつもながらの親切に甘えて一緒に出かけた。彼の美しい奥さんと私の孫娘とが同伴だった。四人は先ず鎌倉駅の前から十二所じゅうにそう行きのバスに乗った。大きなトラックやライトバンなどの往来のはげしい金沢街道を下に眺める十二所神社は、左手奥の小高いところに山を背にしてひっそりと立っていた。熊野十二所権現を勧請した社だそうで、古びた社殿と神楽殿のある狭い境内には、そのあたりから始まる番場ばんばガ谷やつの風景と共にどこか田舎びた趣きがあった。植物の好きな孫の美砂子は、早くも咲き出しているアキノタムラソウの薄紫の花を見つけて声を上げた。私は私で、これから土用の暑さに向かう七月だというのに、ここかしこに落ちている銀杏ぎんなんの黄色い冷たい実を手に取って、ふと歴史の土地の秋を感じた。
 伊藤君の見せようと言った「昔のおもかげ」の滑川は街道のすぐ下を流れていた。なるほど深い渓谷のみごとな眺めで、これがすぐ向うの鎌倉の町なかで、味も素気そっけもない新しい石垣やコンクリートの両岸に押しせばめられているのと同じ川だとは、咄嗟にはとても考えられなかった。私たちの降りて行った場所はちょうど谷の曲流点だったが、鬱蒼とした奥のほうから姿を現わして来る涼しい水は、われわれの頭上を越えて対岸の山の斜面まで届きそうに枝を伸ばした一本の赤樫らしい大木の下で半円を描いて淵をつくり、小さい魚群の影を見せ、その水際まで降りて行ってじゃぶじゃぶやっている二人の若い女たちをよろこばせた。「いいでしょう、先生」と伊藤君が言った。私は岸に咲き続いている白い水草の花を見ながらうなずいた。
 頬焼ほおやき阿弥陀と塩嘗しおなめ地蔵とで知られている光触寺こうそくじがそのすぐ下流にあったので行って見た。本堂も小さく寺域も狭いが、元禄十六年再建と言われる落ちついた古い寺だった。私はここで池の水の上を悠々と飛んでいる大きなオニヤンマやコシアキトンボに喜ばされ、日影になった溝のふち一面に繁茂しているウワバミソウを珍しい物に思った。これは一名をミズナと言って、東北地方や信州では山菜として食用に供する草だが、それがこんな湘南の地に自生しているのを見たのは初めての経験だったからである。武蔵野はもうほとんど絶望だが、こちらに注意と愛の眼さえあれば、鎌倉にはまだいろいろな動植物が残されていた。
 そこから新旧こもごもの両岸の間を滑川の水は流れて泉水橋、青砥橋、華ノ橋、歌ノ橋と、それぞれに美しい名を持つ橋の下手に小町三丁目の東勝寺橋。連れて行かれたこの橋の上からの深い谷の眺めもまたよかった。ここでは十二所のそれとは幾分か趣きが変わって、私には自分の永く住んでいた東京玉川の上野毛に近い等々力とどろき渓谷が思い出された。おりからの夏の青葉にいよいよ暗く深く見える谷に架かった橋そのものは、東勝寺の旧跡や北条高時腹切りのやぐらなどに程近い場所だけに、町なかとは思えないような環境の静かさと品位とにマッチしていた。その橋の上から見下ろした流れの岸の岩のあたり、「チ・チ・チ」と鳴きながら餌をあさっている黄セキレイの姿を私は認めた。それに又どこか近くの木々の中から三光鳥の「ポイ・ポイ・ポイ」の声も聴こえた。そしてすべてこれらの事が、僅かの時間ではあるが、私に東京や富士見の旧居への淡い郷愁を目ざめさせた。
 夏の盛りの由比ガ浜は海水浴客で賑わうというよりも寧ろあきれる程の雑沓だし、春や秋の八幡宮、鎌倉宮、長谷の大仏、それに建長寺や円覚寺をはじめとした有名な寺々は、いずれも観光の団体客や修学旅行の生徒達で引きも切らない人出だが、そうしたほかの土地からの見物客の比較的少ない時の鎌倉は、駅の付近は別として、全体が静かで落ちついて、少なくとも私などには住み心地がいい。学者や文筆の士や画だの彫刻だの陶芸だのの美術家が多いのもそのせいであろう。古くからこの土地に住んでいる友人と閑静な路を散歩している時など、あれが誰それの家、これが何々さんの住まいと教えられて、なるほどと感心する事もたびたびある。たとえば今だに訪ねては行かなくても、この明月谷から山二重ふたえ隔てた「雪ノ下」に、大仏次郎、小林秀雄両君のような人達が、この現在、ひっそりと仕事をしておられると思えば、何か知らぬが頼もしく心強い気がするのである。
 その鎌倉の駅前広場にしたところで、天気が佳くて、海や山からの風がそよそよ吹いて、日光のしみじみと暖かい秋の週間日などは、どこか鄙びた気の置けないものが感じられる。勿論よその町の駅前同様、ここにも銀行やデパートのような高い建物も立っているし、喫茶店も軒をつらねている。おまけに金沢八景行き、鎌倉宮行き、逗子行き、大船行き、大仏廻り藤沢行き、さては遠く横浜行きなど、各方向へのバスや市内タクシーが鼻を揃えて並んではいるが、それらがいずれも一つの整った調和景を成して、われわれの鷹揚な利用とつつましやかな楽しみにと備えている。生きている事の妙味がここにもあり、平常でしぜんである事の善さがここでもまた味わわれる。そして私としてはすぐ向うの若宮大路へ出て、懇意な薬局へ薬を買いに寄ってもいいし、二ノ鳥居前の本屋へぶらりと本を見に行ってもよく、又ちょうど時分どきで腹でもすいていれば、近くの古い蕎麦屋か鰻屋で軽い食事をとってもいい。何処へ行こうと何をしようと、こんな日には見る物する事もすべて古都鎌倉の秋にふさわしいのである。
 そんな或る日の午後、私は駅前の理髪店を出ると電車でまっすぐに北鎌倉へは帰らずに、広場から逗子行きのバスに乗って松葉まつばガ谷やつの妙法寺へ行った。この前友人の案内で初めてそこを訪れたのは庫裡の庭に紅白の梅の花の美しい季節だったが、それ以来一度は是非一人でぶらりと行ってみたいと思っていた寺である。大町名越の四つ角でバスを降りると、母親の病死した親戚の家の前を悪い事だが素通りして、静かな住宅地の中のうろ覚えの路をやがて古い総門の前に立った。日蓮宗楞厳山りょうごんざん妙法寺。日蓮の庵の跡と伝えられ、護良親王の遺児日叡上人の建立といわれているこの寺を私は好きだが、来て見れば春とはまた風情を変えて、広い境内の老杉の緑の中にちらほらと黄や赤のもみじの色を点じていた。そしてまだ生き残りのツクツクホウシの声。私のほかに参詣の人の姿は一つも無かった。
 立派な本堂を一廻りして蓁々しんしんと暗い杉の木立の中をうしろの山の中腹の法華堂へ行った。この前にも感心した「苔の石段」は今度もまた健在で、心無い見物人に踏みにじられた形跡も全く無かった。その石段の横を登って護良親王の石塔のところまで行き、樹下の陰と洩れ陽の中で煙草を吸いながらゆっくり休んだ。あたりには水のようなシジュウカラの囀りが響きわたり、遠く見下ろす総門のかなたに十月の秋の相模湾が、宙に懸かったように高く青々と光っていた。
 その妙法寺の本堂の緑青いろの大屋根を、これも伊藤海彦の案内で比企ひきガ谷やつの長興山妙本寺ヘ行った時、その裏山の尾根の一角から南のほう遠く緑の山かげに認めて嬉しく思ったのは、つい最近の事だった。陽気が例年よりも少し遅れて鎌倉じゅうの桜が山にも町にも花盛りの四月半ば、二人は駅前から若宮大路を向うへ突切ると、横町へ入って、いつでも無数の鳩の遊んでいる本覚寺の境内を抜け、滑川に架かった夷堂橋えびすどうばしを渡った。橋の挟の道ばたに鯵あじや烏賊いかの裂いたのを乾してあるのが、今時のこんな町なかだけに私には珍しかった。すると「以前にはこういうものがもっと並んでいたものです」と海彦が教えてくれた。私は昔の大磯の漁師町の事を思い出した。その道の突き当りが初めて詣でた妙本寺だが、山門と言い、本堂と言いいずれも堂々たるものだった。寺内はここでも桜が満開。山門のわきと本堂の前にそれぞれ一本ずつ植わっている海棠の、一、二分咲いて紅べにの色特に深いのが華麗にも印象的だった。青々と苔蒸した比企一族のひっそりとした墓のあたりでは、一羽のシジュウカラが明るい声でずっと鳴き続けていた。そして奥のほうからはヒヨドリやカワラヒワの声。私の手帳の一ページはこれだけの心覚えを書くのでじきに埋まってしまった。
 妙本寺の背後を囲む一と続きの山は屏風山と言われているらしい。その痩せた尾根道を北へ向かって上下しながら、高時の腹切りやぐらのあたりまで歩くのも今日の散策の目的の一つだった。時どきシイの木の根につかまったアオキの枝を頼りにするような登り降りはあるが、まだ衰えない足腰には久しぶりの山歩きが楽しかった。花の咲いている木や草の名を書きとめるのが忙しく、小鳥の声を聴きのがすまいとする耳の注意も怠らなかった。キイチゴの白い花が今を盛り、ツバキは落花、ニワトコは咲きはじめ、幾種類かのスミレ、紫ケマン、ヒメウズ、キランソウ、フデリンドウのたぐいが、気をつけて見れば小径の両側をそれぞれ可憐に彩っていた。そして前にも書いた妙法寺の真青な大屋根を遠い山の中腹に眺めるあたりでは、われわれの頭の上で一羽のメジロが愛らしい綺麗な歌をつづけていた。海彦はこの初めて聴くメジロの歌に深く感じ入って、それの飛び去るまで身動きもしなかった。やがて二人は尾根の急坂を降って広い静かな修道院を右下に見ながら高時のやぐらの前へ出、例の東勝寺橋を渡って閑静な小町三丁目の住宅街をゆっくりと歩いた。
 妙本寺の山門から漸く一キロほどの行程ではあったが、さすが鎌倉は山と谷と史跡と古い寺の町。わずか三時間に満たない散策ながら私の得るところは頗る多かった。

 

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 折り折りの記

  初 秋

 円覚寺山門前の踏切りを渡って、上り電車の線路にそった細い道を駅のほうへ向かうと、左手に白鷺の池というのがある。名は美しいが、このごろはだんだん水がよごれて、青みどろのような色を呈している。しかしその池のふちをタンポポやイヌノフグリの花が咲き埋める春だの、色さまざまなツツジが飾る初夏だのの季節には、さすがに捨てがたい趣きがある。
 私は子供の頃からずっと植物や昆虫が好きだったので、今でも自宅からこの池までに出合う彼らの名ならば、たいがいのものは知っているつもりである。ところできのうはその白鷺の池のふちに繁茂している背の高い雑草ヤブマオの葉に、私の好きな蝶のアカタテハが卵を産みつけている現場を目撃してひどく喜ばされた。
 じっと立って見ていると、アカタテハの産卵はほかの蝶のそれよりも性急で、一枚の葉に一粒だけサッと産みつけると、すぐまた別の葉の上を撫でるように飛び移りながら産んで行くのである。
 これは私にも初めての見ものだった。そこで折よく持っていた拡大鏡で手近の一粒を調べると、若い葉の表面に今産みつけられたばかりの卵は淡い青緑色をしていて、長さ一ミリにも満たないビヤ樽のような形をし、その側面には縦に九本ばかりの突起があった。レンズの焦点にぴったりと浮き出したそれは実に精巧でみずみずしく雅致さえあって、まさに一個の芸術品だった。そしてなるほどこのあたりでよくアカタテハを見かけるのは、彼の幼虫の食草であるヤブマオやイラクサが多いからだという事に気がついた。
 こんなふうに場所を書いてしまうと、忽ちいわゆる「虫屋さん」に根こそぎ捕られてしまう惧れがあるので普段から用心して書かないことにしているが、鎌倉でもあまり人の入らない谷間などには、夏の始めから九月半ばにかけて、蝶ばかりか、まだ色々な種類のトンボのいる処がある。
 つい最近も友人と一緒に或る谷へ入って行って、このごろ次第に姿を見せなくなった幾種類かに出逢った。大きな声では言えないが、其処にいくら山の中とはいえ都会地では珍しいミヤマカワトンボが何匹もいたとしたらどうだろう。緑に輝く長い腹部をして、透明な褐色の羽根に薄赤い紋のついている美しい大型のミヤマカワトンボがである。更に細い腹部の末端が急にふくれているオナガサナエ、雄の体が目のさめるように真赤なショウジョウトンボ、さては一見ヤンマを思わせるコヤマトンボや、優しくひらひらと藪の上を飛んでいるモノサシイトトンボなど、何年ぶりかで見て懐かしくその名を思い出すトンボの仲間が、細い冷たい流れの上にスイカズラの咲いているあたりにひっそりと住んでいた。
 あの澄んだ涼しいトレモロでこのごろの夜の空気を顫わせている気品のあるカンタンはだいぶ減ったが、それでも気をつけて耳を澄ませば、家の近くのところどころの草むらで鳴いている。デパートなどで一匹の相場が何百円だとかいう話だが、真の風雅は自由な自然の中にこそあるのであって、どんなに立派な物でも人工の竹籠などへ閉じこめてしまったのでは、その歌は捕虜の嘆きにひとしい。
 自然が好きだから十年ほど前まではよく山へも登った。中でも関東や甲斐や信濃の山々は私のなじみの地で、昔書いた登山日記や詩や紀行文などを読み返すと、今でもやるせない郷愁に襲われることがよくある。それでも去年は裏磐梯と安達太良あだたら山への旅をし、今年は毎年の例として上高地へ行き、ついでに残雪の乗鞍岳の中腹まで登って高山の花々や小鳥の歌も満喫した。
 音楽も私の生活からは切り離せない。と言うよりもそれは自然同様私の心の養いであり魂の糧であって、これから離れる時は自分もまたなつかしいこの世を後にする時だと思っている。だから音楽会へもたびたび出かける。生きた人間仲間の演奏者たちが私たちの眼前で、懸命になって昔の大家の作を再現してる光景がたまらなく心を打つからである。
 しかし静かな夜の書斎でただ一人、耳と心とを澄まして聴き入るレコードにもまた救いや勇気づけの力がある。そういうレコードを東京から買って来たり小包で郵送させたりして、さてそれへ初めての針を載せる時の胸のときめきは知る人ぞ知るところであろう。

 

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  友 人

 鎌倉へ移住すると、親しい友達五人が集まって、いつのまにか「山祇やまずみの会」というのが出来てしまった。つまり北鎌倉の山の上や谷戸の奥に住んでいる山の神たちの会という意味で、名は新参の私がつけたものだが、ほかの四柱の神たちは、以前からそれぞれこの土地に住み着いていたのである。すなわち富士川英郎、山崎栄治、吉村博次、伊藤海彦の諸君がそれで、みんな神と言うよりも学者だったり詩人だったりしてそれぞれ専門の上で立派な仕事を残している。
 まだ東京にいた頃、私は彼らに招かれて、妻と二人で幾たびかこの鎌倉を訪れた。古い名高い寺へも案内されたし、今よりも草木が繁茂していた頃の美しい山や谷へも誘われて一緒に歩いた。その内に私は東京の家を引き払わなければならなくなった。すると伊藤君が待っていましたとばかり立ち上がって奔走してくれ、その世話でこの北鎌倉の片隅に土地を買い、家を建てる事が出来た。生まれつきこんな事柄に無能な私は、その間何もかもこの若い友と自分の娘の栄子とに任せきりだった。つまり二人して地所を選び、家の新築の監督までして、私達老夫婦や孫共をそっくりそのまま新居へ運び込んでくれたというわけである。言うまでもなくほかの三人の友も私達の鎌倉移住を喜んで迎えてくれた。
 私のところで、少なくとも大人共が「海ちゃん」の愛称をもって呼んでいるこの伊藤海彦君とは、終戦の翌年に信州の上諏訪で初めて識り合った。彼は両親と共に上諏訪の大手通りに住み、私の家族は富士見高原の森の中に住んでいた。上諏訪と富士見とはつい目と鼻の先である。だから両方で親類同様の往き来をした。それ以来もう二十五年になる。あの頃から悧潑で知識欲が盛んでその上画と文章の上手だった彼は、今はすでに二人の子供の父親となり、独特の美を備えた詩の作者として、名も極楽寺の山の新居に母堂や妻君や子供達と共に仲睦まじく暮らしている。
 その伊藤海彦君よりもっと古く、交遊ほぼ四十年になる山崎栄治君には懐かしい思い出が幾つもある。彼とはよく山へ行った。誘いを掛けるのはいつでも私だった。或る年の秋にはまだ余り人の行かない奥多摩の「棒ノ折おれ」へ行ったし、或る年の春には軽井沢から八風山を越えて神津こうづ牧場や荒船山へも行った。また新年の雪を踏んで山中湖や河口湖への旅もした。元来無口のたちではあるが、その少ない言葉はよく吟味され洗練されている。それにフランス語が専門なので、私としては彼から教えられるところが少なくなかった。『ボーミューニュの男』を翻訳して、初めて日本にジャン・ジオノを紹介したのも彼だった。詩集もすでに二冊出ているが、世間的にはパッとしない彼を、率直に言って私は現代で最もすぐれた詩人の一人だと思っている。仏文学の教授として永年横浜の国立大学に務めているが、その彼が最近山ノ内の高台へ建てた新居は、椿、梅、桃などの静かな花の木で囲まれている。
 去年から京都の大学へ転任した吉村博次君も伊藤君と同じくらい古い友で、やはり富士見時代に識り合った。伊藤君に何処か春のような感じがあるとすれば、この吉村君はいつでも秋の気に貫かれた趣きを持っている。口数が少ない点はいくらか山崎君と似ているが、その話からは詩人の柔らかみというよりも寧ろ思索家の鋭い切れ味のようなものが感じられる。彼はドイツ文学が専門で、ボンゼルスの『大空の種族』を初めとして、シュトルムやトラークルの詩集のすぐれた翻訳がある。同志社大学へ転任したとはいえ、鎌倉の家には家族が残っているので、休暇で帰って来た折などには時々会える。
 これもドイツ文学者の富士川英郎さんについては今更言うまでも無いだろう。リルケに関するその尨大な仕事は広く日本国中に知られているし、比較文学者としても多くの後進を育てて来た。それに彼は三、四才の頃からこの鎌倉で育ち、一年前還暦を迎えて東大を退職した現在までずっと鎌倉に住んでいるのだから、およそ鎌倉に関する事ならば知らない事は無いだろう。学者としての勉強の合間には足まめによく歩き、歴史的な旧跡は元よりどんな山道、どんな谷やつ、どんな入り組んだ小路でも知り抜いている。それに「やぐら」の研究の大家でもあって、近くその広い知識の一端が或る雑誌に連載される事になっているという。飄々とした風貌でいながら内実は細心で緻密。江戸時代のすぐれた文人の業績や風格を愛して、しかもこちらからの質問があればドイツ文学の話でも、鎌倉という土地の変遷についてでも、知っている事ならば何でも気安く明快に答えてくれる。まことに得がたい人物だと言わなくてはならないこの友は、古くからの瓜うりガ谷やつの住居に悠々自適の生活を営んでいる。
 山祗やまずみについてはこれで一応紹介は終わったが、実は私一人で「これも立派な山祗だ」と思っている友がある。名を持ち出されるのを好まない人だからSさんとだけ言って置くが、私の家の上の地所に私よりも二、三年前から住んでいる。一見剛直に見えながら内心は優しくてよく気がつき、美しい夫人との仲も睦まじい。閑寂と古雅を愛して、好きな音楽にもバッハやモーツァルトのような古典が多く、それも華麗な管弦楽よりも、どちらかと言えばしみじみと心に訴えて来るものを好んでいる。私も時々招かれて聴きに行くが、趣味の良いその部屋は広々としてよく整頓されていて、私の処のような雑然とした感じは薬にしたくもない。其処でゆったりと大きな椅子に身を沈めて、立派な堂々としたセットから聴くルネサンスやバロックの音楽が、同じ物でありながら私の家のそれとは違って何と美しく響く事だろ! セザール・フランクとシベリウスの作品の真の善さを知ったのも此処でだった。そういうレコードをSさんは毎月随分買うらしいが、気に入らないのはみんな人に与えてしまうそうだ。このように気むずかしくてしかも気前の良いところが、私から見ればいかにもSさんその入らしい。春か秋の奈良や京都への旅とゴルフとレコード、それに酒。これだけが職務多忙な彼の憩いであり、慰めである。私のそれとは全く違った生活をしながら、時に酌みかわす酒がうまいと言うのも、どこか互いに気の合ったところがあるからであろう。そして私がいつも感心しているのは、こうして何事にも不自由の無い彼がその会社への出勤の日には、雨が降ろうが雪が降ろうが、寒かろうが暑かろうが、必ず自宅と駅との間を歩いて通う事である。口では運動のためと言っているが、運動はゴルフで充分。やはり自分で定めた戒めを正しく実行しているのだと私は思っている。

 

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  病院にて

 松葉ガ谷やつの妙法寺と安国論寺との間にある額田ぬかだ病院の、芝生と花の木の庭がよく見える広々とした清潔な待合室の椅子にかけて、「尾崎さん、どうぞ」と呼び込まれるのを待っている。呼んでくれるのは私の好きななじみの看護婦さんである。日曜と祝日とを除いたふだんの日の午前中の診療時間にはこの待合室もいっぱいだそうだが、私の場合は月に一回だけの診察を受けに行って、それも午後二時からの特別な時間を指定されているので、待ち合いの患者も一人か二人だからいつも静かだ。知った顔と言えば、いつだったか看護婦さんに教わった北畠八穂さんぐらいなものである。
 今日は待っている間、むかし買ったフランスの女流作家コレットの『私の窓から見たパリ』"Paris de ma fenêtre"を読んでやろうと思って持って行ったのに、つい大窓の前の庭の芝生へ上の山から降りて来た二、三羽のツグミの姿に見とれている間に向うの廊下の白いドアが明いて例の「尾崎さん、どうぞ」で呼び込まれてしまった。ちょうどコレットの部屋へ春の最初の蜜蜂が一匹飛びこんで来たところで、これから先の彼女の観察や感想が面白い筈だったが、急いで白ずくめの診察室へ入って先生の前に立った。「どうですか。変りありませんか」と先生は言いながら、いつもの通りべッドヘ横になるように合図をした。するとすかさず看護婦さんが上着を脱がせ、ワイシャツの右腕をまくり上げて、血圧を測る準備をした。私も馴れているから仰向けに寝て、まくった右腕を先の方へ差し出した。看護婦さんは、その腕へ血圧帯を巻いた。先生は椅子をずらせて私に近寄り、ゴムの球をキュッキュッと音をさせて締めたり緩めたりしながら血圧計の動きに見入った。そしてくるりと向き直ってテーブルの上のカルテか何かにペンで書き込みをし、又こちらへ向き直って今度は聴診器を当てがって心音だか呼吸の音だかを聴き、胃や腹のあたりを撫でたり押したりして「別に何ともありませんか」と訊いた。「ありません」と私は答えた。「そう。では又四週間目の月曜日に」
 これで終りである。私は元の待合室へ戻って、昔の胃潰瘍の再発を防ぐいつもの薬の出来るのを待ち、出来ると四週間分のそれを貰ってさばさばとした気持で病院を出る。血圧の数は私も訊かず、医師も何とも言わなかったから、別段異状も無いのだろう。元来私は自分に関する他人の思わくを勘繰ったり、あんな事を言っているが本当の肚はらはどうなのだろうと疑ったりするのが大嫌いな性質たちである。体についてもそうで、一度信じたら、以後その医者の言葉に正しく従い、自分では何もわかりもしないのに色々と気を廻して別の医者の意見を聴くような事は断じてしない。それだからこそこうして今日まで息災でいられたのだと思っている。終戦後七年間の信州富士見での鮎沢先生、その後十四年の東京での鈴木先生、そして今や鎌倉での佐藤先生。この二十四年間の三人の医師は、その時々の私の体についてはすべてを知っている筈である。だから万一、彼らの手に負えないような事態が私を襲ったら、またどうにか適当な方法を講じてくれるだろう。それでいいのだ。信頼を持ち続けて彼らの言に従うこと。それがこの世の命を全うしようとする私の仕方だ。
 「胃腸にも心臓にも現在のところ異状無し」この頼もしい医師の言葉が何よりも私を勇気づけた。そして帰りのバスや電車や坂道の徒歩でも心がのびのびと晴れやかで、いつかコレットの『私の窓から見たパリ』ならぬ『私の窓から見た小世界』でも、ゆっくり書いてみようかという気にさえなった。

 

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 心平さんの鎌倉来訪

 年のせいだろうと言われれば正にそのとおりだが、私はこのごろ頻りに古くからの友達や知人を懐かしむようになり、その一人一人の人間やこの世での仕事を、以前よりもずっと温かく理解し尊重しようとするようになった。それには自分に先んじて他界する人がだんだんと数を増し、かつての生き生きとした風貌や元気な声々が、次第に周囲から消えて行ってしまう現実のはかなさや寂しさが活用しているのは元よりであろうが、人間の存在そのものに対する或るいとしさのような感情が、自分にも迫って来る遠からぬ死の予感と共に、いよいよ濃くこまやかになって来たせいでもあろうと思う。
 詩人の草野心平さんもそうした古い貴重な友の一人である。もう六十七か八になったろうか、ともかくも四十年来の旧友である。このごろは少し体を悪くしている様子だが、もともと頑強な体質なので、悪いと言われて会って見ると実際はそれ程でもなく、今なお彼独特の絢爛で逞しい詩や文章を書いているし、最近ではこの人ならではと思わせる雄渾な画や、ユーモラスなほほえましい画もどしどしと描いている。書にすぐれている事は今更ここに言うまでもない。ところでその心平さんが今日は二階堂に住んでいる陶芸家小山富士夫さんに招かれて、所沢に近い東村山からこの湘南鎌倉へ遊びに来た。北鎌倉の駅から同行の私にとっても嬉しい出来事だと言わなくてはならなかった。
 自宅から付き添って来た若い女の人もいたが、それに本人自身としても歩き方など中々しっかりしていたが、片方の眼が不自由な彼を思うと、私は私なりになるべく彼の身近かにいて、いろいろと話をしたり説明をしたりしながら、その間絶えずそれとなく気を配らずにはいられなかった。
 私たちは冬木の山に囲まれた瑞泉寺の静かな境内を歩いていた。梅林の梅にはまだ早いが水仙はもうちらほらだった。一行は大雄宝殿と呼ばれる本堂を見たり、夢窓国師の古い美しい坐像が安置されている開山堂を見たり、庫裡の裏手の深い暗い坐禅窟を覗いたりした。と、その近くの山ぎわで私は久米正雄の墓を見つけた。十七、八年前に亡くなった故人の墳墓は今はもうそれだけ古びて、その墓碑面には柔らかい苔が蒸していた。ついこのごろ誰か参詣の人があったらしく、少ししおれて美しい花束が手向けてあった。私は今覗いた坐禅窟の前に黄梅おうばいの一枝が落ちていたのを思い出し、まだ立派に黄色い花の着いているその小枝を拾って来て、久米さんの墓前にささげて合掌した。するとそれを見て心平さんも何か花をと物色していたが、あいにく何も見当たらないので、地面に落ち散っている枯葉の中から一番きれいなのを一枚選び出して来て、私のと並べてそれを供えた。思えばいくらか不運だった俳人で小説家で劇作家の久米正雄。その墓前に、生前疎遠だった二人の詩人が今ゆくりなくも花を供えて手を合わせる。私にはその時の草野心平その人の気持もわかる気がした。それは故人へのいとおしみとかあわれみとかいう点で、たぶん私のに通じるものがあったのではないだろうか。
 折から上の山で二声三声小鳥の声がした。
 「あれヒヨドリ?」と草野君は私に訊いた。
 「そう。よくわかるね」と私が答えると、彼は目を細めてうなずいた。「よくわかるね」どころか東村山の武蔵野には、この鎌倉よりももっと目につく冬鳥としてたくさんのヒヨドリがいるに違いないのだ。それをただ目を細めて微笑しながらうなずくところが、いかにも我が心平さんらしかった。
 その夜の逗子での招宴の席で、彼は「会津磐梯山」と「磯節」とを歌った。私もセザール・フランクの譜に自分で歌詞をつけた「雲一つおちかたに浮かべる見ゆ」を歌ったが、草野君のは実際すばらしかった。あれほど歌の言葉と精神とを生かして、あれほど見事に歌われたこの二つの民謡を、私はいまだ曾て聴いたことがない。それは酔余の戯技などでは全くなく、正に詩人草野心平の真骨頂をうかがわせるに足るものだった。

 

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  海岸で

 或いはこちらの無知のせいかも知れないが、鎌倉にいてその鎌倉の海べを好んで歩いたり、それについて書いたり語ったりする人が案外少ないのを私はふだんから不思議に思っている。とは言え数多い住人の中には特に海洋学や海の生物専門の学者がいて、私などの目に触れない処でその研究の成果を発表しているという事も考えられなくはない。現にそういう文献の幾つかが残っている事も噂には聴いている。しかし生憎私はまだその種のものを見た事もなければ、そういう人に会った事もない。
 小学校の時から中学の半ばぐらいまで毎年の暑中休暇を大磯で過ごしたので、相模湾の水や砂浜にはなじみが深い。海水浴は無論のこと、板子一枚で波乗りをしたり、水へもぐって岩礁の間の貝類をあさったり、朝早く海岸へ行って漁師の地曳き網を曳き上げる手伝いをしたりした。中でも一番記憶に残っているのは、水泳の試験に江ノ島を半周させられた事である。元来が大川端(隅田川の岸)育ちなので、どちらかと言えば泳ぎは得意のほうだった。白い水着姿の大先生や裸のままの先輩たちを乗せてドーン・ドーンと太鼓を鳴らしながら付き添って来る大きな伝馬船をたよりに、落伍もせずにあの陸繋島の半分を喘ぎ喘ぎ泳ぎ切った時の嬉しさは、今でもはっきり覚えている。
 その江ノ島が今鎌倉市の南東のはずれの岬、飯島崎の高みに立つと七里ガ浜のむこうに見える。六十幾年の昔から思えば形もいくらか変わったようだが、それでもあれはやはり「私の江ノ島」だ。折から近くに立ってその方角にカメラを向けている若い男女の観光客よ、君達にはそんな経験も無いだろうし、また今どきそんな話には興味も持てまい。それよりも寧ろ今君達の連れの女性の一人が小声で口ずさんでいる六十年も前の歌、逗子開成中学の生徒十二人がボートの転覆事故で全員溺死した惨事を弔ったあの哀歌、「真白き富士の嶺ね、緑の江ノ島、仰ぎ見る目も今は涙……」のほうが遥かにこの場にふさわしく思われるだろう。その飯島崎で思い出されるのは、終戦の年の秋、この鎌倉で他界した老母の遺骸を山の上の火葬場で荼毘に付して、その遺骨を持ってこの海岸を妻と二人で歩いた時の事である。波打ち際の岩壁や洞窟は無惨にも砲弾による破壊の跡を見せ、沖合にはまだアメリカの駆逐艦が二隻薄い煙を吐いて碇泊していた。
 高い処から眺める七里ガ浜や由比ガ浜の弓のような海岸線も優美だが、その海岸の砂地を歩きながら寄せては返す波を見たり、落ちている貝殻を拾ったりするのも楽しい。以前ならば採取したその貝殻を持って帰って、貝類図鑑などをひろげて同定のための検索を楽しんだものだが、今では手の平へ載せてその色や形を愛でるだけで満足している。
 鳥について言えば、鎌倉の海岸にはミサゴが多いようである。いつでも海上を高々と飛んでいるが、獲物の魚を見つけると急降下で水へ飛びこんで摑み取る。しかし私は彼の声というのをほとんど聴いた事がない。よく「ミサゴが鳴いている」と言う人があるが、私はこれもこの海岸に多いトビの間違いではないかと思っている。鵜も海上を低く飛んで行くのを時々見かける。しかし私にはそれが海鵜か河鵜だか断定出来ない。たいがいの場合、五、六羽が一列縦隊を作って波の上を翔けて行く。また春の蕃殖季以外ならばイソシギの可憐な姿もしばしば目に着く。普通には単独の事が多いが、一昨年だか小坪の浜べで見た時には、二羽三羽と小さい群れをなして歩いていた。一体に小型のシギ類の判別は私のような素人にはむずかしい。
 しかし夏の盛りの鎌倉海岸。これだけは書く気もしなければ書けもしない。私の大嫌いな言葉であるいわゆる「レジャー・ブーム」とやらで、混雑と喧噪と無作法の世界。たまたまほかの土地から訪ねて来た客の案内にも、由比ガ浜を私は遠く避けるのである。

 

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 久しぶりに東京へ買物に行くというので、彼は谷戸やとの奥の小高い処にある自分の家を出た。
 買物と言っても大した物ではないが、銀座の或る楽器店を通して外国へ註文してあったフランスの珍しいレコードが、約半年がかりで漸く到着したという知らせを得たので、それを受け取りに行くためにいそいそと家を出たのである。家から駅までは彼の足できっちり十五分。そして横須賀方向からの電車が到着するまでプラットフォームでの七分間の待ち合わせ。その間にゆったりと一本の巻タバコを吸う。これが彼の心に課した規定でもあれば、いつかしら身に着いてしまった習慣でもあった。なぜならば余程の時でないかぎり、彼は決して歩きながらタバコを吸う事をしないから。しかしこんな事を書くのはこの文章の目的ではない。
 家を出るのが少し遅れたので、彼はいつもより足を速めて駅への道を歩いている。たった今明月院という寺の門前を過ぎたから、ちょうど道のりの半分である。片側は樹木や草の密生した崖、反対側は幅の広い深い溝みぞ川を前にしてそれぞれ自家用の橋を架けた何軒かの広い邸宅。そしてその間を平坦な舗装道路が谷戸の奥まで走っている。彼は季節季節にさまざまな花や木々のもみじを見る事のできるこの道が好きである。時はあたかも夏の終りで、崖に生い茂って道の際まではみ出した雑草を、農家の者らしい二人の女が何か頻りにおしゃべりをしながら鎌で刈っている。しかしこの静かな快適な道路を、時々タクシーや自家用車や御用聴きの車がビュンビュン飛ばして行くのが玉に疵でもあれば、事実危険でもある。
 今彼はその道路のわきの溝川のへりに、二台のオートバイが立て掛けてあるのを見る。細い橋を前にした門構えの邸宅の一軒へ出入りする商人か何かの車であろう。ところが四つか五つになる農家の子らしい男の児が一人、停めてあるそのオートバイヘ攀じ登って、あわよくばサドルヘ腰をかけようと懸命になっている。行きずりの彼はそれを見るとハッとした。もしも車が倒れて深い溝へ落ちこんだら子供は大怪我をするだろうし、又もしも反対側へ倒れたら、折悪しく疾走して来た自動車のためにどんな不慮の事故が突発しないとも限らない。
 そう思うと彼はたまりかねて、「坊や! あぶないからおやめ! もしもオートバイが倒れて一緒に水の中へでも落ちたら大変だから」と、注意と言うよりも寧ろ真剣な警告を与える。そう言われると子供はさすがに車へ攀じ登る冒険は一応やめたが、それでもなお諦め切れないのか、大人の乗り廻している車の魅力に引かれるのか、まだハンドルにさわったり器械を覗きこんだりして車のまわりをうろうろしている。
 するとちょうど其処へ駅の方から一人の若い女の人が来て、彼と擦れちがった。彼は丁寧にその女性を呼びとめて、もう一度あの子供に注意を与えてくれるように頼んだ。そしてその途端にふと気がついて、「あの向うの崖のところで草を刈っている女の人達のどちらかが子供の母親かも知れませんから、あの人達にもよく言ってやって下さい」と付け足した。洋装の若い女性は彼の依頼に快く、しかもまじめにうなずくと、靴音立てて子供のほうへ急ぎ足で行った。そしてそばへ寄って懇々と言って聴かせているらしかった。やがて彼が二度目に振り返った時には、今度は草刈りの女達の前へ立って何か言っていた。そして当の子供はと言えば、もうオートバイのそばを離れて母親たちの方へ帰っていた。それを見ると彼はやっと安心して、失った時間を取り返すために停車場への足を速めた。そして晩夏の円覚寺のすがすがしい森の眺めを前に、いつものとおりプラットフォームのベンチヘかけて、やっと二口三口のタバコを吸う時間を持つ事ができた。
 東京からの帰りに先刻の道を通ると、もう崖際の草はきれいに刈り取られて、女達や子供の姿もなく、問題のオートバイの影も無論なかった。彼はあの洋装の見知らぬ女性が、自分の正当な危惧だか余計な取り越し苦労だかを誤りなく伝えてくれた事を確信して喜び、これから家へ帰ってゆっくりと聴くべきこの二枚のレコード、このフランス各地方の古い基督降誕祭の歌の事をあれこれと楽しく空想しながら、爪先上がりの谷間の道をいつもの歩調で歩いて行った。もう日も沈んで東慶寺あたりの空がひとしお明るく美しく、ヒグラシの声が降るようだった。

 

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  憩いの店

 もう足かけ三年になるが、毎月一回、私達夫婦は、上の家のSさん夫妻に招待されて、若宮大路火ノ見下の「たじま」へ行く。河豚ふぐと活魚いきうお料理の点では鎌倉でも有名な店である。酒も良いし食べさせる物もうまい。裏側には別に座敷もあるが、何と言ってもすっかり見通しの調理場に面して、厚い白木しらきの飯台を前にSさん達と肩を並べて、河豚の刺身だの鰈かれいや平目の薄作りだの、本場の蟹や鶏の手羽焼などを相手に杯を重ねるのが和やかにも楽しい。
 店や調理場の人達は、主人も、女将も、一流の板前「牧さん」も、その下で働いている若い「なべさん」こと渡辺君も、お客を接待の「おばちゃん」も「おとしさん」も、皆なじみなので気が置けない。ほかの常連にしてもそうだろう。女の客はしとやかながら充分に味わっているし、男の客は時に大きな声で連れや店の者と話をしたりして上機嫌に食い且つ飲んでいる。殊にSさん夫妻は古い客だからここの家うちのうまい物をよく知っていて、いつも成程と思うような皿を取る。酒の時には余り料理に手を出さない私は、五品いつしなか六品むしなは必ず出る気の利いた「お通し物」だけでも満足するが、妻のほうは隣席の夫人と何かひそひそ相談しては註文してよく食べる。私は店の中のそういう光景を楽しく眺めながらSさんと差しつ差されつする酒がうまくて、乱れはしないがつい過ごしてしまう。帰りはいつでもタクシーを呼んでもらう。女将が必ず往来まで見送りに出る。やがて巨福呂坂から明月谷。そして坂の行きどまりの私の家の前で二組の夫妻が別れる。これが判で捺したような月一回の「たじま」行きである。そしてSさんも私もかなり酔っていた筈なのに、翌る朝にはもう両方ともシャンとして、一方は時間どおり東京の会社へ出勤し、他方は書斎で仕事の続きに取りかかる。
 もっと手軽なのはカフェーである。最近は鎌倉にもこの種の店がどしどし殖えるが私の行きつけは「門」と「イワタ」である。「門」は北鎌倉の駅の前に本店があり、鎌倉の小町通りの中程に支店がある。本店のほうは電車の乗り降りの際に気安く立ち寄れて便利だが、少し狭くて、時に暗い感じがしなくもない。これに反して賑やかな小町通りの支店のほうは明るくて広いので、途中で買った本などを。パラパラやりながら寛いだ気持になれる。この点では通りを入ってすぐの「イワタ」も同様である。しいて言えばこのほうは社交場的で、「門」はむしろ芸術的である。壁にも若い画家の作品などがしばしば見られる。
 鰻では段葛だんかずらに面した古い「茅木家かやきや」、もっと手軽に済ませたい時には二ノ鳥居に近い「浅羽屋」、蕎麦ならば小町通りの「一茶庵」で、小林秀雄さんなども御贔屓ひいきらしい。洋風の食事となると、私はほかの店を余り知らないから雪ノ下の「テラス・レイ」を挙げる。歌舞伎俳優染五郎がやっているとかいう話で、料理もなかなか吟味されているし、給仕人の行儀もいい。
 最後に書き落としてはならないのは「社頭」である。小町通りもいちばん八幡宮に近い処にあるから社頭なのだろうが、フランス語で言う領主館か城廓のシャトー Château をもじったのだろう事は、名付親が名付親だけにほほえまれる。すなわち去年亡くなった菊岡久利君の店で、今は未亡人の京子さんが後をついでやっている。元来日本全国の和紙だの、書道用具だの、いわゆる暮しの品々だのを売っている店なのだが、昔汁粉と明神甘酒を名乗る汁粉と甘酒が珍味である。わけても昔汁粉は奄美あまみ大島の黒砂糖を使った物で、たとえば虎屋の「夜の梅」の味覚がある。私にとって菊岡君は一番古い友達の一人で、彼がまだ海城中学だかの制服姿で遊びに来た頃からの仲である。詩も下手ではなかったが画と書がよかった。今その店の看板に残っている「社頭」の文字は、いかにも侠気に富んで豪放だった彼の面目をしのばせる。

 

 

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 日光と枯草

 書棚の一角   

 数多い内外の文学書とはまた別に、動・植物や地理や天文、さまざまな自然科学の書物だけが集まっている私の本棚の一角を占めて、「おれたちの事も忘れるな」と言うように、二十冊あまりの気象学関係の日本の本が、クラークやケイヴのと一緒に仲よくずらりと並んでいる。
 「忘れるものか。私は今でも君たちに特別な愛着を持っている。なぜかと言えば子供の頃から好きだった雲のことや空のことを、刻々に変化する自然の美として、また学問として、永の年月しっかりと教えこんでくれたのは、実に君たちだったのだから、そして戦中や戦後の苦難の時でも、けっして君たちを売ったり手放したりしなかったのも又実にそのためだった」と、心の中でそう答えて、今は背の文宇も消えかかった彼らを、私はそっと撫でる。
 (一九六九年二月二二日、天気曇後晴、夜薄曇。気温最低零下一・五、最高八・五。鎌倉市山ノ内明月谷)
 
                               (一九六九年二月)

 

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 妻への話   

 久しぶりに東京へ買物に行くというので、彼は北鎌倉の或る谷の奥の小高いところにある自分の家を出た。
 買物と言っても大した物ではないが、銀座の或る楽器店を通して注文しておいたフランスの珍しいレコードが約半年がかりで漸く到着したという知らせを得たので、それを受け取るためにいそいそと家を出たのである。
 家から駅までは彼の足できっちり十五分。そして横須賀からの電車が到着するまでプラットフォームでの七分間の待ち合わせ。その間にゆったりと一本の巻煙草を吸う。これが彼の心に課した規定でもあれば、いつかしら身についてしまった習慣でもあった。なぜならば余程の時でないかぎり、彼は決して歩きながら煙草を吸う事をしないから。しかしこんな事を書くのはこの文章の目的ではない。
 彼は駅への道を歩いている。たった今明月院めいげついんという寺の門前を過ぎたから、自宅からちょうど半ばの道のりである。片側は樹木や草の密生した崖、片側はいくらか幅の広い深い溝を前にして、それぞれ自家用の橋の架かった何軒かの広い邸宅。そしてその中間を平坦なアスファルトの道が走っている。彼は季節季節にさまざまな花やもみじを見る事のできるこの道が好きである。今はちょうど夏の終わりで、崖に生い茂って道の際きわまではみ出した草を、農家の者らしい二人の女が何かしきりに話しながら鎌で刈っている。しかしこの静かな快適な道を、時どきタクシーや自家用車がビュンビュン飛ばして行くのが玉に疵でもあれば、事実危険でもある。
 今、彼はその道路の溝のへりに二台のオートバイの立てかけてあるのを見る。小さい橋を前にした門構えの邸宅へ出入りする商人か何かの車らしい。ところが四つか五つぐらいになる農家の子らしい男の児が一人、停まっているそのオートバイヘ攀じ登って、あわよくばサドルヘ腰をかけようと懸命になっている。行きずりの彼はそれを見るとハッとした。もしも車が倒れて深い溝へ落ちこんだら子供は大けがをするだろうし、又もしも反対側へ倒れたら、折悪しく疾走して来た自動車のためにどんな事件が突発しないとも限らない。
 そう思うと彼はたまりかねて、「坊や、あぶないからおやめ! もしもそのオートバイが倒れて水の中へ落ちたら大変だから」と、注意と言うよりも寧むしろ警告をする。そう言われると子供はさすがに車へ攀じ登る冒険は一応やめたが、それでもなお諦めきれないのか、大人の乗り廻している車の魅力に引かれるのか、まだハンドルにさわったり機械をのぞきこんだりして、車のまわりをうろうろしている。
 するとちょうど其処へ駅の方から一人の若い女の人が来て彼と擦れちがった。彼は丁寧にその女性を呼びとめて、もう一度あの子供に注意をしてやってくれるように頼んだ。そしてその途端、ふと気がついて、「あの向こうの岸の辺で草を刈っている女の人達のどちらかが子供の母親かも知れませんから、あの人達にもよく言ってやって下さい」と付け足した。洋装の若い女性は彼の依頼に快く、しかしまじめにうなずくと子供の方へ急ぎ足で行った。そして懇々と言って聴かせているらしかった。彼が二度目に振り返った時には、今度は草刈りの女の前へ立って何か言っていた。
 そして子供はと言えば、もうオートバイのそばを離れて母親たちの方へ帰って行った。それを見ると彼はやっと安心して、失っただけの時間を取り返すために停車場への足を速めた。そして晩夏の円覚寺のすがすがしい森の眺めを前に、いつもの通り、プラットフォームのベンチでゆったりと一本の煙草を吸う時間を持つことができた。
 東京からの帰りに先刻の同じ道を通ると、もう崖際の草はきれいに刈り取られて、女達や子供の姿もなく、問題のオートバイの影もなかった。彼はあの見知らぬ洋装の女性が自分の正当な危惧だか余計な取越し苦労だかを誤りなく伝えてくれた事を確信して喜び、感謝し、これから家へ帰って聴くべきこのレコード、このフランスの各地方の古い降誕祭ノエルの歌の事をあれこれと楽しく空想しながら、爪先上がりの谷間の道をいつもの歩調で歩いて行った。
 すこし遅すぎた嫌いはあるかも知れないが、私はこのごろ頻りに古くからの友達や知人を懐かしむようになり、その一人一人の人間性やこの世での仕事を、以前よりもずっと深く理解し尊重するようになった。それには自分に先んじて他界する人がだんだんと数を増し、かつての生き生きとした風貌や元気な声々が次第に周囲から消えていってしまう現実のはかなさや寂しさが作用しているのは元よりだが、人間の存在そのものに対する或るいとおしさのような感情が、寄る年波と共に濃くなり、又こまやかになってきたせいでもあろうと思う。
 詩の草野心平さんもそうした古い貴重な友の一人である。もう六十七か八になったろうか、ともかくも四十年来の大切な旧友である。このごろは少し体を悪くしている様子だが、根が頑強なたちなので、今なお彼独特の絢爛で逞しい詩を書いているし、最近ではこの人ならではと思わせるような雄渾な画やユーモラスなほほえましい画もかいている。
 書にすぐれている事は今更ここに言うまでもない。ところでその心平さんが今日は或る陶芸家に招かれて、所沢に近い東村山からここ湘南の鎌倉へ遊びに来た。私にとっては嬉しい椿事だと言わなくてはならなかった。
 自宅からの付き添いの女の人もいたが、それに本人としても歩き方などなかなかしっかりしていたが、片方の眼が失明している彼を思うと、私はなるべくその身近にいて、いろいろ話をしたり説明をしたりしながら、絶えずそれとなく気を配らずにはいられなかった。
 私たちは冬木の山に囲まれた瑞泉寺ずいせんじの静かな境内を歩いていた。梅林の梅にはまだ早かったがその下の水仙はちらほらだった。一行は大雄宝殿と呼ばれている本堂を見たり、椅子に凭った夢窓国師の古い美しい坐像が安置されている開山堂を見たり、庫裡の裏手の深い暗い坐禅窟をのぞいたりした。と、ちょうどその近くの山際で、私は久米正雄氏の墓を見つけた。十七、八年前に亡くなった故人の墳墓は今はもうそれだけ古びて、その名を刻んだ墓碑面には柔らかい苔が蒸していた。ついこのごろ参詣した人があったらしく、少ししおれて美しい花束が上がっていた。私は坐禅窟の前に黄梅おうばいの一枝が落ちていたのを思い出し、まだ立派に黄色い花のついているその小枝を拾ってきて久米さんの墓前に挿して合掌した。するとそれを見て草野君も何か花をと物色していたが、何も見当たらないので地面に落ち散っている枯葉の中から最も美しいのを一枚選び出してきて、私のと並べてそれを供えた。思えばいくらか不遇だった俳人、小説家、劇作家の久米正雄。その墓前に今ゆくりなくも二人の詩人が詣でている。私にはその時の草野心平その人の気持もよくわかる気がした。それは故人への「いとおしみ」とか「あわれみ」とかいう点で、恐らく私のに通じるものがあったであろう。折から上の山で二声、三声小鳥の声がした。「あれヒヨドリ?」と草野君は私に訊いた。「そう。よくわかるね」と私が答えると、彼は目を細めてうなずいた。
 その夜の逗子での招宴で彼は「会津磐梯山」と「磯節」とを歌った。私もセザール・フランクの譜に自分で歌詞をつけた「雲一つおちかたに浮かべる見ゆ」というのを歌ったが、草野君のは実際すばらしかった。あれほど言葉の命をしっかりと掴んで、あれほど心を籠めて歌われたこの二つの民謡をいまだかつて私は聴いたことがない。それは酔余の戯技では決してなく、正に詩人草野心平の真骨頂をうかがわせるに足るものだった。

                               (一九七〇年一月)

 

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 心打つひびき   

 高齢と言われるにはまだ少し早いように自分では思っているが、何しろ八〇歳もそんなに遠い事ではないので、今のところどこと言って体に別状は無くても健康には気をつけている。心臓や脚力の衰えのせいか、さすがに昔のように高い山登りなどは出来ないが、軽い袋を背に、どこかの高原を気ままに歩き廻る事ぐらいならば今でもさして苦にはならない。
 音楽を好きな私にとって有難いのは、まだ耳に何の故障も無いことである。音楽会場の一番うしろの席にいても、独奏ヴァイオリンの微妙なピアニッシモの歌を聴きかねるという事もなければ、混声合唱の中で或る低音のパートが歌っている美しい旋律を聴き分けそこなうという事もない。自分の書斎で一人聴くレコードに至っては勿論である。これがもしも年のせいで耳が遠かったり病いのために難聴だったりしたら、生きている毎日がさぞや味気ないだろうと思うのである。しかもそういう人はたくさんいる。そんな時「ひびき」や「山のこだま」について書けなどと頼まれる人間は、わが身の果報をもう一度とっくりと考えてみなければならない。
 今、私の家のまわりでは頻しきりに九月の蟬が鳴いている。ミンミンやヒグラシこそそろそろ終わりに近づいたが、ツクツクホウシは正に彼らの最盛期である。まるで無数の鉋かんなを掛けているような賑やかな響きが、朝から夕方まで周囲の山や林を満たしている。その間に遠く聴こえるアブラゼミの声。このアブラゼミの声が晩夏の歌の余韻ならば、ツクツクホウシのそれは正に時を得顔の喚声である。折折のシジュウカラやホオジロのような小鳥達の歌さえ彼らの叫びには打ち消される。しかしそれに入れ代わるのは日の暮からの可憐なクサヒバリやコオロギや霊妙なカンタンの歌で、これこそ真に秋を迎え、秋を褒めたたえるつつましやかな讃歌である。
 ひびきと言えば水のひびきも私は好きだ。それも山の間を流れる清らかな谷川の音や、原生林から搾れて落ちて来るまだ幼い綺麗な水の音が。都会の騒音から遠くのがれて、いくたびそういう清冽なひびきを私が聴いたことだろう! つい今年の五月に行った岩手県花巻の奥の豊沢川、六月に行った上高地の谷の梓川、更には乗鞍岳下の原生林の奥をしたたり流れていた玉のような清水の音。いずれも都塵によごれた私の心を洗い清め、日常の凡庸に那れた精神を奮い立たせるものだった。
 そしてもしもそういう時感激を以てか興に乗じてか、私が昔覚えたシューベルトなりシューマンなりを声張り上げて歌ったとしたならば、その声は或いは山のこだまを呼び覚ましたかも知れない。それとも年をとってしわがれた今の声では、それが歌曲であろうとヨーデルであろうとレントラーであろうと、すべてのこだまは平気で眠りこけていたかも知れない。

                               (一九七〇年九月)

 

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 生せいの飾り   

 もしも私が山の美や、山登りの楽しさや、山へ行けばこそ出遭うさまざまな動植物や珍しい自然現象などの面白味を知らなかったとしたら、自分の過去を振り返って、なんと貧しい生活だったという感慨に心寂しいものを覚えるだろう。なぜならば私の今まで書いて来たものは文章にしろ詩にしろ、その大半が山を主題とし、山の自然や生活から学んだ物への賛美であり感謝であり、同時にそういう気持の伝達でもあったからである。自分が世間の一部から「山の詩人」とか「自然詩人」とか呼ばれるのを甘受しているのも、要するにみずから播いた種の結果なのだから仕方がない。何も今更改めて「私にはもっと別の仕事もいろいろ有る」などとは言い張らず、この一般の呼称をそのまま受けて、これからもなお山と言わず、自然と言わず、音楽と言わず、書きたい物を書き、書かずにはいられない事を書いてゆくのが自分の生きる道だと思っている。
 あまり好んで新聞や週刊雑誌などを読まない私ではあるが、それでも日に日に起こる国の内外の事件には大小を問わず一応は通じている。そしてそれが当然私の内心に反応も起こせば意見も生む。しかし、だからと言って、そういう反応や意見を文宇にまでして後に残そうという気持は微塵もない。たまたま時事に関する随想のような物を書いてくれと頼まれる事があるが、私にはそういう物を引き受ける自信もなければ心境にもなれない。これが「昨今の秋の鎌倉の自然について」などという質問ならば、そのために少しぐらい足を運んでも、なるべく土地の特色を出すために、あたりの山やあちこちの寺の庭を見て廻る。また鎌倉には谷戸やとが多いから、それぞれの谷戸の風情や、そこに咲いている木や草の花や。そこに当たっている和やかな日の光の事などを喜んで書く。書き甲斐もあるし書きばえもするから。しかしところどころで木を伐ったり山を削ったりしている造成地なる物の醜悪な姿には決して触れない。“触れれば其処に必ず怒りの調子が伴うからである。そして今の私は自分の憤りの感情を決して他人に伝染させたくない。厭な物に目をつぶるのではなく、却ってそれをしっかりと見ながら、しかも心中深く圧しつぶしてしまうのである。
 あるひっそりした谷間の沢で、このあたりでは珍しい幾種類かのトンボを見つけたとか、故人菊岡久利を偲ぶ寿福寺の静かな奥庭でサルスベリとフヨウの花が盛りだったとか、朝夕のツクツクホウシの声ももうだいぶ減ったとか、ティロールやデンマークの古い民謡にベートーヴェンが編曲をつけた珍しいレコードを手に入れて喜んでいるとか、好きなフランスの作家アルベール・カミュの短篇集の原書を見つけてこれを読むのが楽しみだとか。そんな事を書くのもまた私の仕事の一つであり、生きていればこそと思う貴い時間を更に粧う飾りでもある。

                               (一九七〇年九月)

 

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 鎌倉への愛と要望   

 鎌倉という土地を良いところだとは昔から思っていた。しかし東京の下町で生まれて下町で育ち、その上武蔵野の自然や田舎にも親しむ機会が多かった私には、いくら良い感じを持っていたにしろ、全然なじみというものの無い、どこか取り澄ましたところのある、早く言えば別の人種の住んでいる場所である鎌倉という名の土地に、わざわざ東京から移住してみようなどという気は毛頭無かった。
 ところがその鎌倉で、今私は家族もろとも生活している。その理由の一つとして、ますます周囲の静かさを求めるようになった年齢のせいもあると同時に、この空気もきれいな由緒ある古い小都会が、自分のずっと続けている文学の仕事に大した不便も感じさせず、満たされないものを満たすために東京へ出掛けるにも大して時間も手間もかからず、そのうえ海も近ければ山もあって、生来の自然愛を満足させるにも先ずは事欠かない土地だからではないかと思う。しかし何と言っても書き落とすわけにいかない事は、ここに古くから住んでいる四人の友人の温かい勧誘があり、ここに土地を求め家を建てる金が幸い私にあったという事である。場所は横須賀線北鎌倉の駅近く、アジサイ寺の名で知られている明月院の先、とある丘の中腹の小さい造成地の一郭である。
 戦後七年間を信州の富士見高原、次いで十四年間を東京世田谷区の玉川上野毛、そして今日までの丸四年間をこの北鎌倉の明月谷。実際私としては文句のつけようもないくらいそれぞれ恵まれた環境だったし、今もまたそれである。これで仕事が出来なければ余程の病身か、救いようのない懶け者だと言わなければなるまい。しかし仕合わせな事に体も丈夫だし、詩や文章もどうやら続けて書いている。貧しいのはもともとだが、さりとて食うに困りもしない。物を書いたり本を読んだり、好きな音楽をレコードで聴いたり、近隣の静かな山を歩いたり、由緒ある寺々の境内で四季それぞれの趣きを味わったり、時に気が向けば一駅乗って、鎌倉の大路おおじ小路こうじを散歩したりするのが今の私の生活である。そんな事の出来ない人達の上を思えば心が痛むが、その代わり慎むべき事は自分でも慎み、日常の生活にもちゃんとけじめをつけている。

 しかし東京から移って来てまだ四年にしかならないが、その僅か四年間に鎌倉はかなり変わったように思われる。来たばかりの新鮮な感銘から書いた文章に、今では削ったり筆を入れたりしないと通用しないような箇所がたくさん出て来た。第一に車の往来がおびただしくふえて、以前には物を考えたりあたりの家の庭の花を覗いたりしながら歩く事の出来た谷戸やとの道が、今ではもうそんな呑気な気持では歩けなくなった。その谷戸にしても、場所によって道路が改修されたのは仕方がないとしながら、それだけ鎌倉独特の風致がこわされたと思えば寂しい気がするのである。滑川なめりかわにしてもそうで、以前は町なかの渓谷のようだったのが、殺風景な護岸工事や流路の変更のために味も素気そっけも無い只の溝川になってしまった。もう瀬も無く淵も無く、その水の上におおいかぶさる柔らかな春、夏、秋の木々も無く、泳ぐ魚の影も無ければ、時折のセキレイの声さえ稀である。橋の名だけは古い昔を想わせても、その橋自体がいつのまにかコンクリート製の物に変わっているのだからなさけない。
 車の数が激増したのと同様に、いわゆる観光客の数も年毎にふえて、土曜、日曜、祭日などは無論のこと、今では平日でも若い男女の幾組かに至る処で出遭う。そうすると由緒ある寺でも何がしかの金を取ってこの人々を迎え、それはまたそれなりに収入みいりになる。しかし中にはそ知らぬ顔をして入る者も少なくないし、寺内に咲いている花を折って持ち帰る者もあるし、更にひどいのになると古い仏像などを盗んで行く者もあると言う。こうなるともう鎌倉という歴史的古都の美も趣きも問題ではなく、無風流どころが、無作法と無教養とが横行すること、国内普通の行楽地と選ぶところは全くなくなる。由来鎌倉にはいかにも鎌倉らしい雰囲気があり、其処に住んでいる人々にもそれにふさわしい品位があった。そしてたまたま其処を訪れるわれわれにもそれなりに心の用意があったものだが、今ではその雰囲気もしだいに混濁し、心ある人達はひっそりと住んで、わずかに孤塁を守っている。しかしそういう人達がもしも結束して立つとしたらどういう事になるだろうか。
 その鎌倉を護る会、主として古都鎌倉の自然や歴史的記念物を破壊の手から護る会が既にいくつか有る事は私も知っている。そして事実自分もそういう会の一つに入っている。われわれは峰の松の枯れるのを出来るだけ防ごうとし、一本の桜でもこれを大切に思っている。まして観光開発とか宅地造成とかに名を借りて今まで有った森や林が伐られたり、美しかった斜面が容赦なく削りとられて無残な姿に変わってゆくのを見ると、悲しむよりもむしろ憤りを覚えるのである。
 今までのY氏に代わって今度新たに市長の職に就いた正木千冬氏に、われわれがこぞって大きな期待をかけるのも、一つには自分達の鎌倉の自然美をこれ以上破壊されないように護ってもらい、古都の風致を能うかぎり保持してくれるように努力して貰いたいからである。彼が人間としての品位と誠実とを重んじている事をわれわれは疑わないし、彼を選出したわれわれの期待のどういうものであるかを彼が知っているだろう事もわれわれは知っている。なるほど新市長はこのような仕事の経験もまだ浅く、庁内の複雑微妙な空気にもまだ馴れず、その蘊蓄を傾けさせ、その経綸をのべさせるにも、なお仮すに日をもってしなければなるまい。われわれとしてもそんな事は知り抜いている。正木氏は事柄の軽重緩急をよく弁別して、強く正しくその信念を貫かれるがよい。

                               (一九七〇年十月)

 

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 草花との静かな日々   

 同じ鎌倉とは言っても、私の住んでいる処は「山ノ内」つまり北鎌倉で、円覚寺の横の谷を登ったかなり奥の方の山の中腹にある。それ故あたりはまことに静かで、物を考えたり、本を読んだりしている時、邪魔になるような物音は何一つ聴こえて来ない。もしも強いて雑音と言ったら朝夕のご用聴きと、新聞や郵便を配達する人達の車の音ぐらいなものである。そのくせいわゆる「ご近所」はかなり有るのだが、それぞれ庭をひかえコンクリートの塀や壁をめぐらして住んでおられるので、たまたまの飼犬の声を別にすれば、人々の生活から生まれる雑音というものは一つとして耳に入って来ない。こんなだから私の気の持ちよう一つで仕事ははかどる。今日と明日にはこれだけの枚数を書こうと決心して怠らなければ(不意の訪問客の無いかぎり)、決めていただけの仕事は計画どおり二日で仕上がる。私はこの事で満足し、こういう生活を送る事のできる自分を仕合わせだと思っている。
 今はちょうど二月の半ばだが、ほうぼうの庭の梅が盛りである。私の家などは、このごろ毎朝の最低気温が零度から零下三、四度だというのに、もうそろそろ散り始めている。このところ夜から早暁へかけての寒気がきびしい割に、快晴の昼間の日射がしっかりしているので平気なのだろう。しかし梅の花はこのあたりでは何と言っても明月院の境内のそれである。木も古いし、株数も多いし、手入れもよく行届いているので、毎年じつに見事である。私の家からは近くもある上に、ふだんから懇意にもしているので、このごろのような盛りの季節には時々見物に出かける。住職夫妻が善い人達で、おまけに私同様植物好きと来ているので、話が草木の事になると庭の中を歩きながらの話は容易に尽きない。その庭や畑の中を案内して廻って、これは何という木で夏にはどんな花が咲くとか、これは何という新しい西洋野菜でどういうふうに調理して膳にのぼすと美味だとか、色々と私の知らない事を教えてくれる。そしてその上、季節が来ると、教えた木の花の枝や西洋野菜をわざわざ届けに来てくれるのである。私はこんな篤志家の「お寺さま」を未だ曾て知らない。
 北鎌倉の駅へ行くというので家を出ると、日当りの路ばたにはもうイヌノフグリの空色の花が咲いている。早い春の知らせである。それに金いろのタンポポもところどころ。こういう花達を家じゅうの誰が一番先に見つけて知らせるかが、私のところの永年のしきたりになっている。と言うのも家族がみんな植物を好きだから。その好きな元祖は実は私なのだが、朝早く家を出て勤めや学校に出かける娘や孫達にはかなわない。私はいつでも彼らに教えられて時経てから一人で見に行く。これからの春の花にしてもそうだし、夏から秋にかけての色とりどりの草木のそれにしても、すべて最初の発見者は彼らである。そして彼らにとっても私にとっても、これが家庭生活の楽しみの一つなのだから、こんな習慣はなるべく永く続いた方がいい。「おじいちゃん知ってる? 円覚寺の手前の家の庭の大きなジンチョウゲが咲き出したのを」と、こんな事を言って私をおびやかすのはいつでも彼らの中の誰かである。ところで老妻は言う、「私はうちにいることが多いのでみんなのようには気がつかないけれど、こうして毎日窓からそとの山や林を眺めているだけでも自然という物は素晴らしいと思うわ。それぞれに季節が来ればちゃんと芽も出すし、花も咲かせるし、枝や葉も茂らせるんですもの。そして冬が来ればおとなしく素直に死んだり、枯れたり、しぼんだりして行くんですものね」と。この平凡な述懐は平凡なりにやはりそのまま書き留めて置く価値が有るかも知れない。
 その山や林を私は時どき散歩する。両方とも宅から近い道のりだし、標高もそれほどではないからである。わけても散歩にちょうど良いのはいわゆる「建長寺→天園ハイキングコース」の一部で、其処の高みへ登ると、古都の三方に尾根をめぐらして、鎌倉の町並やたくさんの寺の建て物や、それらを飾り彩る樹木の大群落が眼の下になる。そして町の向こうには相模湾の水がひろがリ、晴れていれば沖合遠く大島も見え、南西の空に富士山も見える。そしてあたりにはホオジロ、アオジ、カワラヒワ、カケスなどの囀りも聴こえる。私はほかに他人が居合わさなければ一人どっかり腰を下ろしてその高処での眺めを楽しむのを常としている。あたりが先客の捨てて行った紙屑などでよごれている時には、手近かの処を掃除などして。
 私の仕事は詩や散文を書く事である。以前にはそれにもう一つ翻訳も加わっていたが今はやめている。もう余生の程も知れている以上、他人の物を翻訳するよりも、少しでも多く自分の物を書いて置きたいからである。仕事は散文だと一日に三枚か四枚。そしてこれを永年の習慣で昼前から午後の二時頃まで続けている。それまでは配達されて来た新聞も手紙も読まなければ、ラジオやテレビなんぞ無論聴きもしなければ見もしない。昔は締切り日が迫ると一日に三十枚ぐらい平気だったが、今ではとてもそんな事を出来もしなければ考えもしない。
 午後2二時も過ぎればもう仕事の店は閉じてしまう。あとは又あしたである。散歩に出ようと、読書をしようと、レコードを聴こうとすベて自由。散歩は先にも言ったとおり我が家のまわり、読書は今のところフランスの作家デュアメルの自伝的な五巻物『私の生を照らした光』の原書通読、そしてレコードは主としてシュッツ、バッハ、ヘンデル、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルトなどの音楽である。
 ああそれにしても音楽と自然。この二つは今後もなお私を慰め、私を養ってやまないだろう。

                               (一九七三年三月)

 

 

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 再生の歌

 春信   

 思い出ゆたかな東京玉川の家をあとに、ここ北鎌倉明月谷の新居に移ってから、かぞえてみればもう早くも三月みつきになる。
 彼岸が過ぎたばかりで風はまだいくらか冷たいが、谷をかこむ山にも空にも春めいた光が流れている。私の家の小さい庭にも東京から移し植えたレンギョウやボケが咲き、人が新築の祝いにくれた二株のジンチョウゲがかおり、近隣の家の庭垣の奥では白梅が散ったかわりに紅梅が今を盛りとびっしり咲き、大きなコブシの木の枝には勇ましいつぼみが自い炎か短刀のように立っている。裏山から聴こえるコジュケイやホオジロやシジュウカラの歌、窓のむこうをよろめくように飛んで行くモンシロチョウの姿。ほんとうにもう春がきたといえばいえる。
 しかし心を静めてよく見、よく感じれば、そこにはまだ自然の幼顔おさながおの犯しがたいものがあって、決してあでやかに花やかに笑いさざめくそれではない。私が今朝レコードでベートーヴェンを聴きながら、いわゆる「スプリング・ソナタ」ではなく、「パストラール」と呼ばれている第一五番のピアノ・ソナタを選んだのもそのためである。前者は豊かな成熟を思わせるが、後者には若い自然児のあこがれのようなものが歌っているのである。
 十日ほど前には娘と一緒に家のうしろの山を歩いてみた。ハイキングーコースといわれている樹下の細道をたどって行くとヤブスミレ、カンアオイ、シュンランなどが次々にひっそりと現れた。いずれも花を咲かせていたが、足もとの小さい植物などに無関心な眼には気づかれないような存在である。もちろんちぎったり掘り取ったりはしないで、指の先で柔らかにもち上げてながめて、その名を手帳へ書きこんだ。
 ある高みの見晴らしからは、南へ向かって遠く春がすみの海が見え、それを抱く二つの岬が見え、鎌倉の大きな町並みが見え、建長寺その他の寺の青銅色の屋根が見えた。反対側には大船からひろがってきた広大な新開の団地が目の下だったが、無残に破壊されてゆく自然を見るに忍びないので、暗い森林の中の小径を、ときどきヒヨドリなどの声を聞きながら、自分たちの家の横手へ下った。わずか百メートルかそこらの高さとはいえ、私にとっては久しぶりの山歩きだった。
 谷の奥に住んでそれで結構満足しているように見える私を、早くこの鎌倉という土地に親しませたいという心から、ラジオの脚本作家で詩人でもある若い友が、ときどきたずねてきては誘い出してくれる。それで二、三日前には材木座から小坪の海岸へ行って大きな銀杏の木のある正覚寺の境内からうららかな春の海をながめ、足を返して名越なごえ松葉ガ谷の妙法寺をたずねた。皺のような波の寄せ返す小坪の浜の暖かい砂の上には、十羽近いハマシギが小走りに走って餌をあさっていた。
 妙法寺は古いりっぱな寺だった。山のいちばん下の総門から頂上近い護良もりなが親王の墓といわれている石塔のあるところまで、高さ七、八十メートルはあったろうか、全山まだ裸の木々や常緑樹におおわれていたが、セミの鳴きとよもす青葉の夏の盛観が想像された。「苔の石段」と呼ばれている古い石段もよかった。親王の墓所からその石段や山門をまっすぐ見おろすと、その直線上はるかかなたに海が見えたが、私にはそのながめと境内の深い静けさと堅固な落着きとが、一曲の荘重なオルガン音楽のように思われた。

 

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再生の歌   

この毎日の晴れやかに暑い盛んな夏を、北鎌倉明月谷の静かな新居で、おもむろに病後のからだを養っている。膀胱にできた腫瘍の手術をうけて入院していること四十五日、ようやく退院の許しを得て湘南の緑の山のあいだへ帰って以来、ほぼ半月になる。
 経過ははなはだ順調のように思われる。からだがやせて目方が減って、さすがにまだ体力に自信はないが、物を考えたり心に浮かんだことを書きとめたり、多少こみいった文章を読み解いたりすることのできるほどには、頭脳のはたらきも回復してきた気がする。
 三、四日前には「あじさい寺」の明月院まで、谷あいの坂道を往復してみてやはりいくらか疲れたが、きのうは「病癒えたる者の神への感謝の歌」のあるベートーヴェンの弦楽四重奏曲を書斎のレコードで終わりまできいて、久しぶりに深い芸術的な感動にひたることのできた自分の頭と心情のよみがえりを喜んだ。
 手遅れになればガンに移行するところだったと言われたこの病を、主治医の鈴木仁長博士からまず発見され、その紹介でその部門の第一人者で、折りからドイツへ出発される直前の土屋文雄博士の早期の手術のおかげで救われたことも幸運なら、雨の多かった一ヵ月半の毎日を、鎌倉から東京千代田区富士見町の病院まで、別に付添いがいるにもかかわらず、何かしら口に合う食料や鉱泉のビンづめを運んで看病に通ってくれた老妻のいたことも、私にとっては恵みであり頼りであった。それにこの入院のことを聞き伝えて見舞に来てくれた友人や知己。その人たちの親身な優しい心にも、それに値する感謝の言葉が見出せないほどである。
 同じ病棟担任の先生たちにも一方ならぬお世話になった。またどの患者にも同じよう記気持よく親切で、規律正しく行き届いた看護婦の諸君の奉仕にもお礼を言わなくてはならない。闘病という言葉はあるが、そのたたかいも純粋に独力でやり抜けないことのように思われる。まして美しく病むためには、忍従の空にかける患者自身の希望の虹や、平癒を祈る周囲のまごころの助力がなくてはならない。とはいえ私の病臥中にも、吉野秀雄氏をはじめ惜しむべき幾人かの人のさびしい死の知らせがあった。そしてその人たちの重い病とのたたかいがどんなに孤独に苦しいものであったかを想像すれば、「美しく病む」などと軽々しく言うことも、あるいは慎まなくてはならないかも知れない。
 新居に近い明月院のアジサイのたよりや、谷戸やとの岩壁をいろどるイワタバコの薄紫の花のことや、山あいの田んぼに飛びかう梅雨の夜のホタルのうわさなどを妻の口からきかされながら半ば焦燥の思いで六月いっぱいを病院のベッドで暮らした私は、せめて初めて住む鎌倉の豊かなきらびやかな七月をこの目で見、このからだで生きたかった。その七月に入ると、退院を許される日がいよいよ切実に待たれた。そしてついに「あしたはお帰りになってよろしいです」と言われた七月十四日こそ、私にとっては革命記念日にも匹敵する画期的な日だった。そしてあくる十五日の朝、家に持ち帰る大小の荷物にかこまれながら、これをかぎりの病室のベッドに腰をかけて、ふるえる手で「今日からの余命を感謝の歌で生き深める」と、私はポケット日記のその日の欄に書いたのだった。
 上の地所に住んでいる親しい友人が回してくれた立派な自家用車で北鎌倉の家へ帰ると、周囲の山も谷もかつての五月末とくらべればその緑いよいよ濃く、たくましく、木々も草も茂りに茂ってその間にヤマユリが咲き、キキョウが咲き、まだ衰えないウグイスやホオジロやシジュウカラの歌が山間の澄んだ空気に響き返っていた。
 狭いながらわが家の庭も夏の草花で輝いていた。今を盛りの各種のグラジオラスも見事なら、こうあってほしいと願っていたとおりマツバボタンの赤や白や黄の花も、暑い日光を浴び涼しい風に吹かれてひらひらと軽やかに、玄関前の踏石や花壇のふちをいろどっていた。病み上がりの私はこうした自然の輝きや、強い生活力に圧倒されて思わず目がくらみ、よろめくような気がしたが、それをいたわり慰めるかのように、夕暮れになると遠く近くヒグラシの歌が生まれ、建長寺の方角の空、南に黒い屋根の上に、サソリの星座が赤い主星のアンタレスを光らせてその上半身をのぞかせた。
 こうして再び生きることを許された私は愛する家族のもとへ帰り、親しい友人たちと共に生きる世界へ帰り、その霊妙な美や力が自分の心や芸術への深く貴い教えであり糧である自然の中へと帰って来た。それならばこんにち以後、私はいやまさる愛と感謝と郷愁とで世界を抱きしめ、やがて召される日まで、おのが魂をいよいよ清く美しく装わなければならない。

 

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 内と外   

 爽やかに晴れた一日が予感される九月の或る朝、廊下をつたい階段をのぼって、下の音楽室からすこし曇ったようなピアノの音がとどいて来る。これから駅へかけつけて、横須賀線、中央線、井ノ頭線と電車を乗りついで東京杉並の先生の教室ヘレッスンを受けに行くという十九になる孫娘の、朝飯後一時間ばかりのバッハとショパンの練習である。バッハは「平均率」、ショパンは「即興曲」。もうあと四、五日で大学一年の二学期が始まると、すぐに試験される二つの課題曲だそうである。
 ショパンのピアノ曲の美が自分にも充分わかるような気がしていながら、気質が合わないというか、縁が薄いというか、どうも私は昔から彼の芸術に心から打ちこめないまま今日に及んでいる。だからこの巨匠の作品を聴きに行くのは、ここ数年、安川加寿子さんのリサイタルの時ぐらいのもので、所蔵のレコードの中にも彼のものはきわめて少なく、時には若い親しい友人中の熱烈なショパン党の、軽蔑とは言わないまでも少なくとも遺憾をまじえた不満の表情や、憐憫の目つきにも出合うのである。そのショパンの日本訳の書翰集を新刊後間もない或る日、「おじいちゃんはこの本いらないでしょ。お借りしていくわよ」と、前記の孫娘は彼女の音楽室の書棚へさらって行った。もっと幼い小学校のころ、私から秘蔵のSP盤の「幻想即興曲」をもらって、感激に身をふるわせてほとんど泣き出さんばかりだった彼女が。
 幼稚園の頃からずっと先生についてピアノをやっていながら、大学へ入るとピアノ科ならぬ楽理科を選んだこの孫娘が、将来どんな音楽生活をいとなみ、個々の大家へのその傾倒がどんな変遷の道をたどるかは知らないが、生涯の心の友となる音楽への真の愛を学んだ事と、みずから奏でる楽器を通して古来の大家たちの最も純粋な言葉を聴いたり、おのれの内心の喜びや悲しみをひそかに訴えて、そこから慰められることの出来るのは幸福だと言わなければならない。ところがその幸福の後の方のものを私は持たない。私は愛して聴くだけだ。東京下町の商家に生まれてその庶民風な家庭の空気の中で育った私に、ピアノは愚かどんな西洋楽器も縁がなかった。だから音楽無しでは生きられないようになった今、自分と同じ文筆の仕事にたずさわっている人々の中で、楽器を、特にピアノを弾くことのできる人を見ると羨ましい。そしてその少年時代に、おそらくは先ず母親や姉から、この楽器の手ほどきを受けたであろうと思われる人々にショパン愛好者の多いこともうなずかれる。なぜならばピアノの国のけだかい王子フレデリック・フランソワ・ショパンは、その痛ましいほど清らかで繊細なピアニスチックの美を流露させて、彼ら貴族的な少年の魂を恍惚とさせ、それを月光の庭の花の香のようなもので抱き包んだに違いないからである。
 この夏の1ヵ月半の入院中、手術後の苦痛が日一日と軽くなるにつれて、私は退院の日を待ちながら、その間何よりも音楽にあこがれた。眼や頭のはたらきがまだ弱っているせいか書物を読みたい気持にはならなかったが、音楽を聴きたい要求は切実だった。携帯ラジオを持っていたからイヤホーンを耳へ挿しこめばFMの放送でも何でも聴けば聴けた。しかしはかない他界からの消息のようなその音楽にはこの世の空間の広がりの感じがまるで無かったし、こめかみに近い狹い孔の中での音の振動は、鼓膜を痛めるおそれがあった。私は一度か二度聴いただけでやめにして、それからは退院後の我が家でのゆったりとしたレコード聴きや、もっと良くなってからの音楽会行きの楽しい空想で満足した。晩秋か冬の夜のバッハ・ギルドや東京バロックの演奏会! そこの明るく暖かい、ほのぼのと親しみの満ちた雰囲気への思いが、とらわれの身のような私の不眠の夜を慰めた。勇気づけた。
 今日から我が家での生活が始まるという鎌倉の朝、自分だけおくれた食事を済ませて二階の書斎へ上がると、部屋のまんなかの卓上に一枚のレコードが置いてあり、それに何か字を書いた小さい紙きれが載っていた。取り上げて見ると「お祝、祖父様、美砂子より」とある。きのう私が退院してくると、誰からも見られないところでしっかりと抱きついて「よかったわね、おじいちゃん、無事に帰れて!」と言って泣きじゃくった孫娘からの贈り物だった。私は友達との約束で朝早く東京へ出かけて今は不在の彼女からの祝いの品を敬虔な気持で手に取った。それはバッハのカンタータの第一番と第一七〇番とが表と裏に入っている盤で、いずれそのうち買おうと思いながら果たさなかった物である。第一番は「暁の星のいかに美わしく輝くかな」、第一七〇番は「楽しき憩い、望ましき心の喜び」で、両方とも今朝から始まる私の新しい生とその心境とにふさわしい曲だった。そして退院帰宅後の私の最初に耳を傾けたのが、この朝の祝福の音楽だったことは言うまでもない。
 バッハの次にベートーヴェンとモーツァルトが来たのは私にあって自然だった。しかしいくら音楽に飢えていたとは言え、手当り次第に、むさぼるように聴く事はしなかった。一どきの浪費を節して楽しみを長めるように、内心の要求の秩序にしたがって、一日に一曲か、せいぜい二曲を聴いて満足した。ベートーヴェンのイ短調の弦楽四重奏曲、それを聴くことを病院のベッドで夢にまで見た「病癒えたる者の神への聖なる感謝の歌」のあるあの作品一三二番を、私はほんとうにわが事、わが告白のように思いながら聴いた。そして同じベートーヴェンの「ラズモフスキー」の第三番では、その終曲のフーガの比類のない充実と高揚と、壮烈な迫力の奔流とに圧倒されて、まだ弱々しい病後の体がよろめくように感じた。
 体力の上からまだ交響曲のような大きな物を聴くに堪えない私は、モーツァルトでも弦楽四重奏曲を選んだ。モーツァルトは特に今の私の体と心とに養いを与えてくれる日光だった。しかし三曲から成る「プロシャ王」セット。そこからは、私の思いなしかも知れないが、何か寂莫としたもの、死の影の漂いのようなものが感じられた。そしてしかもそれが、この際の私にとっては、この巨匠への敬意や親密感を改めてしっかりさせるものだった。これらの曲の制作年代である一七八九年と九〇年。モーツァルトは実にそれから二年とたたない一七九一年に貧窮と孤独のうちにこの世を去ったのである。
 こうして私にふたたび音楽が帰って来た。そしてこのごろは時たま自分でも歌や笛を試みる。自分の取り上げる曲に、前よりも一層しみじみとしたものの多くなったのを感じながら。

 

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 秋   

 このごろはもう見るだけで採る事はほとんどしないが、生来植物を好きな私は、若い時分には熱心に草や木を調べたり採集したりしたものである。山へ登るにも野を歩くにも、図鑑とルーペと小さい物差しとは必ず持って行ったし、胴乱も大小二つあって、行く先に応じてそのいずれかがお伴だった。しかし、名を知るために調べることが眼目なので、図鑑と道具とはよく使ったが、何でも欲ばって採集して、胴乱へ押しこむような真似はしなかった。生ある物を彼らの土地で栄えさせようというのが、私のもう一方の気持だった。そしてその気持は年をとるにつれてだんだん強くなり、次第に深い根拠のあるものとなって、あの水色や緑に塗られたブリキ製の楕円の筒を、肩から吊るして歩くことも今ではもう皆無になった。
 暑さが遠のいて急に秋を感じるようになったきのう今日、私の住んでいる北鎌倉の谷戸やとではちょうどタマアジサイが見頃である。道幅の狭い爪先上がりの谷戸道は片側がたいがい山の崖になっていて、裾のところを細い冷たい水が流れているが、その崖や水のふちに大きな葉を茂らせ、傘のように開いた薄紫の花をむらがらせて、タマアジサイの花は静かに咲いている。真白な丸い蕾つぼみはつまんでやりたいくらい愛らしく、本当に名のとおりである。務めの往来ゆききや用事のために通る人たちも、その美しい花がこの道に咲いているとは知りながら折ったり掘り取ったりはしないから、季節が来れば毎 年きれいに道ばたを飾ってくれるのである。
 つい二、三日前の事、東京の学校へ通っている孫娘が、「おじいちゃん、私今朝けさいいもの見つけたわよ。何だと思う? ナンバンギセル!」と、いかにも大発見のように報告した。なるほどここでは初めてだから、いい見つけ物には違いない。そこで教えられた場所へ翌朝見に行った。宅から程近い往来際の崖の下、ノブドウの蔓の陰、一株のススキの根方に十本ばかり麦藁色の茎を立てて、久しぶりに見るナンバンギセルが、薄桃色の煙管きせる形の花に折からの朝日をうけて咲いていた。私は道ばたにしゃがんでその花の頤あごのあたりを撫でながら、愛する孫の注意力を褒めてやりたい気持だった。
 親しい串田孫一君が久しく見ないと言って歎いていたクズの花も、今は谷戸のいたる処で咲いている。宅のうしろの小高い空地には広々とハギが茂っていて花を見るのも近いうちだが、夜な夜な涼しいトレモロでカンタンの鳴いてくれるのがありがたい。藪の中ではムラサキシキブの実も紫になった。男のほうの孫は「おじいちゃん、僕もうじき山ヘアケビを食いに行くんだよ」と言って楽しみにしている。しかし「山のどこさ?」と訊いても「こればかりはいくらおじいちゃんでも秘密、秘密」と言って笑うばかりで教えてくれない。

 

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 早春   

 戦後の七年間を信州八ヶ岳山麓の富士見ですごし、その後の十五年近くを東京世田谷の上野毛で暮らした。そして今はここをおそらく終生の地ときめて、北鎌倉の或る谷戸やとの奥に家族と一緒に住んでいる。
 しかし、移って来てまだやっと一年なにがし。空気はよく、環境もきわめて静かで美しいので気に入ってはいるが、永く住みついた土地への愛着の情が人一倍強くこまやかな性分のせいか、理想的とも言えるこの新しい土地になかなかなじめない。だが本当はそんなことでは困るので、仕事の合間にはなるべく近所を出歩いて、広い空間での自分の巣の位置を心の地図にしっかと書きこみ、周囲の地形や自然の細部に一日も早く通じるように努めている。ちょうど今までと違った風土の中へ移し運ばれた養蜂家の巣箱の蜜蜂のように。
 それにしても「自然」は、私のような種類の新参者が、一つの土地と親しくなるために先ず最初に目をつける相手である。信州の富士見でもそうだったし、東京の上野毛でもそうだった。富士見には言うまでもなくその高原の大きな広がりと、八ヶ岳の連峰や釜無山脈の男らしい堂々とした眺めがあった。また上野毛には、(このごろになってこそいくらか様子が変わったが)、朝な夕なに日照り輝く多摩川の流れと、それに臨んだ武蔵野台地西南端の崖と林のつらなりがあった。一方は火山と堆積山地、他方は古い海岸平野。両方とも植物が多く、小鳥をはじめいろいろな生物にも豊富だった。そして新しく居を定めるやいなや、先ず目に映ったそういう風景や動植物に親しみだの珍しさだのを感じて、心覚えかちょっとしたノートのつもりで彼らのことを書くと、嬉しいかなそれが一篇の短い新鮮な文章になるのだった。しかしそうした新鮮さも、書くことに馴れて安易な気持で文を綴ればついには当初の輝きを失うから、出来るものなら常に新参者の気持で、神妙な初心を忘れてはいけないと思っている。
 そして私にとって、今この鎌倉がそうだ。東と北と西との三方をほとんど常緑樹に被われた山地に囲まれ、南に相模湾の水の光をひろびろと抱いた鎌倉は、いにしえの武人と僧侶の都にふさわしい貴重な史跡や寺や社をぎっしりと玉のように埋めこんで、画のような海と山と谷との自然の中で、小さいながら充実した古都の面目を保ちつづけている。もちろん新しい移住者の私にしたところで、この古い都の生命である貴い歴史的な風物が、日に日に少しずつ蝕まれ損われてゆく現実を耳にもすればこの目で見もして、早くも眉をひそめたり内心ひそかに憤ったりするが、来てすぐ悪い事ばかりに気持を乱されるのは厭だから、諦めよりもむしろ心を強くして、まだ失われずに残っているこの土地の自然や、七百年以上も前から受けつがれて来た文化的遺産の美を護り味わうことで、これからの自分を富ますつもりでいる。

     *

 鎌倉には谷やつという名のつく地名が多い。たとえば扇おうぎガ谷やつ、佐助さすけガ谷やつ、松葉まつばガ谷やつなどがそれで、或る説によると、そういう名の所が四十九ヵ所もあるという。私の住んでいるところも一般には明月谷めいげつだにと呼ばれているが、明月谷戸めいげつやとが本当の呼び名だという人もある。谷やとも谷戸やとも谷地やちも元来或る地形の名称で、台地や丘陵が浸蝕されて出来た谷の底面を言うのである。そして海抜せいぜい百メートルから百五十メートルぐらいの謂わば丘陵地帯でありながら、鎌倉という土地の地形が海にむかって傾斜していかにも美しく複雑の妙をきわめているのは、要するにこれら無数の深い浸蝕谷のおかげなのであ る。誰の作で何という句だったか残念ながら忘れたが、鎌倉のそれぞれの谷戸に咲く梅の花の遅速の面白さを詠んだのがあった。それというのも一つ一つの谷の向きや形によって平均した日射量や気温に差があるためだろうと思う。またそれだからこそ梅の花の季節などにあの谷戸この谷戸をそぞろ歩きするのが楽しいのである。
 その明月谷の奥のわが家を出て、片側に岩盤の露出した崖を見上げるかなり急な坂をくだる。まだ空気にいくらかの冷たさは感じられるが日の光の暖かい早春の一朝、谷の空は青玉あおだまのように澄みわたっている。坂をくだって細い古い道へ出る。小型の車がようやくかわせるくらいの狭い谷戸道やとみちである。左側は山を背にして古くから住んでいる人たちの静かな家並、右側はここもまた灰色の岩膚を現したり樹木に被われたりしている山の急傾面。駅へ出るにも町へ行くにもただ一本だけのこの道は、ごくわずかな降り勾配でくねくねと曲がっているが、ここを通るのがいつでも楽しい。季節季節にいろいろな木の花、草の花が咲き、歩いていると蝶やトンボと擦れちがったり、頭の上にセミの合唱を聴いたり、夏の夜などは悠々と光り漂っているホタルさえも見る道である。「尾崎さん、ここはこの道が取得なんですよ。僕はこの道が気に入っているので毎日駅への往復を歩くことにしているんです」と、移住後間もない私に東京の或る大きな出版社に勤めている隣人の重役が言った。私の足でも北鎌倉の駅までわずか十四分の道のりでありながら、その駅の手前の円覚寺の門前からじきに静かなこの谷戸道へ入れるのだから、ここに住むこと二年先輩の重役さんでなくても、その取得、その真価には遅かれ速かれ気がついたろうというものである。
 そのわずか十四分の道のりのちょうど半分のところに、アジサイ寺の名で知られた明月院がある。自分の家から近く、環境もいいのでよく行ってみるが、六月のアジサイの花の盛りの頃はまったく見事である。そんな時の土曜日や日曜日には見物人の列が円覚寺の方からぞろぞろ続いて、ふだんは閑静な道や境内が人出で賑わう。しかし普通の観光地や盛り場を目ざして押し寄せる連中とは違って、何と言っても寺という物の閑寂を求める篤志家や花を見に来る風流の客だから、若い男女の連れにせよ家族連れにせよ、みんな比較的物静かで行儀も大して悪くない。入口の石門のところから参道の石の階段の両側を、奥の方までびっしりと埋めて咲き続いている空色の花のかたまりに感心したり、みずみずしい若葉の境内に響きわたるウグイス、アオジ、シジュウカラ、キビタキなどの小鳥の歌に耳を傾けたり、記念写真の撮りっこをしたり、さては賽銭箱にいくらかの喜捨をしたりして、やがて元来た道を帰ってゆく。しかし時には道を反対の方向にとって、緩い登りの谷戸道を東へむかう者もある。大抵学生風の二、三人連れで、私の家の先のところから始まる半僧坊や天園へのハイキングコースを目ざす連中である。
 その明月院が今日は静かだ。週間日でもあるし、おまけに昼前でもあるせいか、人っ子一人の影もなく、まるで自分だけのための広い深い庭にいるような気がする。そうだ、この寺の境内はほんとうに古庭ふるにわだ。もしも瑞泉寺の庭園に金や人手のかかった林泉の趣きがあるとすれば、ここは半ば自然の野趣にゆだねられた古い庭か植物園のようだと言える。

     *

 新しいのから古いのへと続くゆるい石段の道をゆっくりと登って、ささやかな質素な山門をくぐる。それまでの道の両側にならぶ有名なアジサイは、ようやく芽を吹いたばかりで枝も茎もまだ冬の茶色に枯れて見えるが、その大きな株の間をつづって植わっている常緑木のヒラギナンテンは、ふちに棘とげがあってつやつやと光る羽状複葉の間から、黄色い長い花の房を垂らしている。早春のこの季節にここへ来て、まず梅やツバキの花に気をとられる大は多いが、この雅致のあるヒラギナンテンのペンダントに注目してやる人のほとんどいないのは残念だ。ペンダントと言えば、そろそろあたりの崖の横腹から枝を伸ばして咲きはじめているキブシの黄の花もそうだ。しかしこの方は野生の木だから、たとえ名は知らなくても、春の山道などでよく見かけて気のついた人も少なくはないだろう。
 一月の半ばころに来た時は、あたりの空気を柔らかい黄色に染めるほど盛りだった臘梅ろうばいの《花がもうすっかり散って、今は白と紅の梅の花の季節である。何とも言えない清らかないい匂いが柔らかな谷戸の春風にはこばれてくり。どこからかひっそりとジンチョウゲも匂ってくる。庫裡くりのあたりにはボケ、ニワウメ、ユキヤナギ、コデマリなどがつつましやかに咲き、三方から本堂を囲んでそびえる断崖の中腹のところどころに、厚い葉を光らせたツバキの花が点々と赤い。住職が植物の自然の姿を愛するせいか、いくつかの種類の水仙を初めスノーフレーク、ムスカリ、編笠ユリなどに至るまで、まるで昔からそこに生えていた物のように、タンポポやモジズリにまじってのびのびと咲いている。まるまると肥ったネコヤナギの銀の花穂も今が見頃、ヤマブキの花もちらほら。つづいて桜が咲き、コブシが咲き、ホウが咲き、大木のカイドウの咲く時もそんなに遠いことではあるまい。
 名を挙げれば切りのない植物ばかりでなく、明月院に集まって来る小鳥の数もなかなか多い。私としてもそう始終訪れるわけではないが、去年一年を通じてそこで姿を見たり声を聴いたりした鳥は三五種に及んでいる。同じ明月谷でも私の家のまわりとなるとずっと少ない。こちらは山の枝尾根を削って造成した明るい乾いた住宅地だから、谷戸の横道の袋谷とも言える欝蒼と樹木の茂った明月院の寺内とは較べものにならない。明月院には彼ら小鳥たちの好んで食う木の実や虫も豊富ならば、飲んだり浴びたりするきれいな冷たい水も湧いている。ところがこちらにはそんな物がまるで無い。ましてや私のところのような狭い庭へ来る鳥と言えば、せいぜいスズメかモズかウグイスか、たまにホウジロ或いはシジュウカラぐらいなものである。その点では地所が広くて、うしろに大きな雑木林を背負った東京玉川の家の庭の方が遙かに種類が多かった。
 庭の小径の竹垣を背に、サルスベリの木の下の丸太の腰掛に腰をおろしてゆったりと煙草を吸っていると、近くの桜の樹の枝で一羽のアオジが鳴いている。もう立派な春の歌だ。日の当たった本堂の暖かそうな藁屋根を小走りに走りながら、鮮やかな羽色をしたキセキレイも金属的な声を聴かせる。山裾の林の奥の方からはメジロの澄んだ声も響いて来る。そしてそういう鳥たちの自然の声が、このテキスト ボックス:
小さい世界の静寂を一層深いものにする。
 ほんとうに明月院は新しく私に許された静かな逍遙と瞑想の庭だ。この庭を知っただけでも、この寺をわが家の近くに持つだけでも、住み馴れた東京を後にして来た甲斐がある。

     *

 最も近い明月院は別として、郵便を出しに行ったついでに、遠来の参詣者でも観光客でもない私が、名のある古い寺へ立ち寄ることのできるのも鎌倉に住んでいればこそである。
 明月谷の出口の真向こう、横須賀線の線路をへだてて、自動車の往き来のはげしい山ノ内路の通りの角に赤いポストが立っている。それが私のなじみのポストで、その角のところがまた今言った古い寺、すなわち鎌倉五山の第四番目、臨済宗金峰山浄智寺への入口でもある。速達の原稿も、待たれている返事の葉書も、友人への久しぶりの便りも、みんなそっくり投函して気が楽になった。そこでふだんならそのまま家へ帰るところだが、送った原稿がちょっと手間のかかった物だけに気分がせいせいして、何となく浄智寺のほのぐらい静かな境内へ入ってみる気になった。
 近くの広大で豪壮な円覚寺や、どこか雅みやびて女性的な感じのする東慶寺とは違って、この浄智寺は、昔は知らず今は境内も狭められて、わずかに残っている総門や鐘楼や仏殿の姿もさびしい。そしてそのせいか、いつ来て見ても訪う人影が至って稀である。つまり古い名の割にほかの寺のような人気にんきが無いのである。だがその人気の無い点が、私にはかえって親しみが持てる。
 総門の前の小さい池に架かった石橋を渡って、しっとりと湿めった暗い杉林のあいだの参道を登る。人手がないのであまり手入れも行き届かないせいか、あたりには冬の名ごりの枯枝や枯葉が散らばっている。どこかでカケスの「ジャー・ジャー」と鳴く声が聴こえる。高い針葉樹の林に響く寂しい単調なその声が、この境内を一層暗く古さびたものに思わせる。例の珍しい支那風の鐘楼をくぐって、「曇華毆」と大書した額の懸かっている仏殿の前に立つ。釈迦、阿弥陀、弥勒みろくの三尊をまつったこの比較的新しい仏殿に私はたいして興味を持たないが、ここへ来れば必ずその周囲を歩いてみ、いつでも感心して見上げるのは、数百年も経たコウヤマキとビャクシンの大木である。梅やレンギョウ、桜やカイドウ。ほかの寺のように、そういう和やかな季節の花には飾られなくても、春昼の日光や青空をさえぎって一脈森厳の気をこの寺の面目に添えるものこそ、これら数本の巨木だと言っても過言ではあるまい。

     *

 北鎌倉には先住の友達が四人いた。いずれも文学に関係のある連中だが、その中でも双方の家族ぐるみずっと親しくつきあっている一人から熱心にすすめられて、ついに東京からここへ移って来たわけだった。
 ラジオの脚本だの詩だのを書いているその若い有能な友だちが、なるべく早く私を鎌倉という土地に親しませようという心から、時どき電話なぞでこちらの都合を聞いては誘い出して、自分に気に入っている景色のいい処や静かな寺などへ案内してくれる。それで二、三日前には飯島が崎の上の正覚寺と、名越なごえ松葉ガ谷の妙法寺とへ連れて行かれた。どちらも私にとっては未知の寺である。
 もっとも飯島ガ崎は名こそ知らなかったが、二十数年前の終戦の秋に、その近くの火葬場から名越で死んだ母の遺骨を抱いて妻と二人、海へ突き出た岬の鼻を回って荒れ果てた小坪の漁村まで歩いた記憶がある。その時はまだ断崖の小径に沿った急造の洞窟に機関砲か何かの残骸がころがっていたり、沖にはアメリカの駆逐艦らしいのが一、二隻、淡い煙を吐いて邨泊したりしていた。
 そんな遠いはかない夢のような思い出も、今は生気に満ちた春の途上のただの話に過ぎなかった。材木座海岸の南のはずれから、一種の陸繋島とも思われる愛らしい和賀江島わかえじまをすぐ目の前に眺めながら、飯島が崎の石段をのぼって正覚寺へ出た。寺そのものは格別言う程のこともないが、大きなイチョウの樹の立っている境内からの鎌倉の海の眺望はなるほど全く美しい。その美しさは視る角度や遠近の差もあって、天園からのそれとも違うし葛原くずはらガ岡おかからのものとも違うが、連れの友だちも主張し、或るガイドブックも紹介しているように、私もまた特にここからの美を推すのにやぶさかでない。弓を張ったような由比が浜から稲村が崎への海岸線、その向こうに遠く江ノ島。水を抱いた山々の姿もよければ、鎌倉の町の形さえまた悪くない。あいにくの春霞で富士や箱根は柔らかにまどろんでいたが、沖は波さえ立てず虹色に匂っていた。そしてその帰り道、岬を回って今は見違えるほど立派になった小坪を通ると、漁船の引き揚げてある暖かい浜の砂の上に、ハマシギらしい可憐な小鳥が数羽、小走りに走っては餌をあさっていた。
 松葉が谷の妙法寺へは逗子から来たバスに乗って名越四ツ角から入った。
 日荳宗楞厳山りょうごんざん妙法寺は、山を背にした、格調の高い、古い立派な寺だった。その山のいちばん下の堅固な総門から頂上近い護良もりなが親王の墓所と言われている石塔の立っている処まで、高度約七、八十メートルはあったろうか。全山さまざまな種類の落葉樹や常緑樹に鬱蒼と被われているが、すぐ気がつくのはカエデの木の多いことで、秋の紅葉の見事さが想像された。しかしまたこれほど樹木が多くては、夏の涼しい木蔭の豊かさが思われ、同時にセミたちの合唱の壮大さも思いやられるのだった。
 本堂から山の中腹の法華堂に行くまでの古い石段もよかった。「苔こけの石段」と呼ばれて、全体が柔らかな苔にふっくらと包まれている。心無い観光客やハイカー達に踏み荒らされるのを防ぐために、今は登降を禁じて横の道を通るようにしてあるが。その禁制が無くてもとうてい踏み込めない程の見事さである。
 護良親王の石塔の立っている高みからその苔の石段と総門をまっすぐに見おろすと、同じ直線上遙か下に海が見えた。山の間から縦に見るので横への広がりはないが、その海はさっき岬の上の正覚寺から眺めたのと違って午後の鮮明な青い色をしていた。しかもその澄んだ青い水の色と、おりから眼の下の庫裡の庭に咲いている紅白の梅の花の色とが、いかにも清らかな潔いさぎよい調和を見せていた。そして私にはその眺めとこの寺の境内の深い静かな諧調とから、たとえばどこかの古い教会の御堂みどうの中で、何か美しいオルガン曲でも聴いているような気になるのだった。

 

 

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