春信
思い出ゆたかな東京玉川の家をあとに、ここ北鎌倉明月谷の新居に移ってから、かぞえてみればもう早くも三月みつきになる。
彼岸が過ぎたばかりで風はまだいくらか冷たいが、谷をかこむ山にも空にも春めいた光が流れている。私の家の小さい庭にも東京から移し植えたレンギョウやボケが咲き、人が新築の祝いにくれた二株のジンチョウゲがかおり、近隣の家の庭垣の奥では白梅が散ったかわりに紅梅が今を盛りとびっしり咲き、大きなコブシの木の枝には勇ましいつぼみが自い炎か短刀のように立っている。裏山から聴こえるコジュケイやホオジロやシジュウカラの歌、窓のむこうをよろめくように飛んで行くモンシロチョウの姿。ほんとうにもう春がきたといえばいえる。
しかし心を静めてよく見、よく感じれば、そこにはまだ自然の幼顔おさながおの犯しがたいものがあって、決してあでやかに花やかに笑いさざめくそれではない。私が今朝レコードでベートーヴェンを聴きながら、いわゆる「スプリング・ソナタ」ではなく、「パストラール」と呼ばれている第一五番のピアノ・ソナタを選んだのもそのためである。前者は豊かな成熟を思わせるが、後者には若い自然児のあこがれのようなものが歌っているのである。
十日ほど前には娘と一緒に家のうしろの山を歩いてみた。ハイキングーコースといわれている樹下の細道をたどって行くとヤブスミレ、カンアオイ、シュンランなどが次々にひっそりと現れた。いずれも花を咲かせていたが、足もとの小さい植物などに無関心な眼には気づかれないような存在である。もちろんちぎったり掘り取ったりはしないで、指の先で柔らかにもち上げてながめて、その名を手帳へ書きこんだ。
ある高みの見晴らしからは、南へ向かって遠く春がすみの海が見え、それを抱く二つの岬が見え、鎌倉の大きな町並みが見え、建長寺その他の寺の青銅色の屋根が見えた。反対側には大船からひろがってきた広大な新開の団地が目の下だったが、無残に破壊されてゆく自然を見るに忍びないので、暗い森林の中の小径を、ときどきヒヨドリなどの声を聞きながら、自分たちの家の横手へ下った。わずか百メートルかそこらの高さとはいえ、私にとっては久しぶりの山歩きだった。
谷の奥に住んでそれで結構満足しているように見える私を、早くこの鎌倉という土地に親しませたいという心から、ラジオの脚本作家で詩人でもある若い友が、ときどきたずねてきては誘い出してくれる。それで二、三日前には材木座から小坪の海岸へ行って大きな銀杏の木のある正覚寺の境内からうららかな春の海をながめ、足を返して名越なごえ松葉ガ谷の妙法寺をたずねた。皺のような波の寄せ返す小坪の浜の暖かい砂の上には、十羽近いハマシギが小走りに走って餌をあさっていた。
妙法寺は古いりっぱな寺だった。山のいちばん下の総門から頂上近い護良もりなが親王の墓といわれている石塔のあるところまで、高さ七、八十メートルはあったろうか、全山まだ裸の木々や常緑樹におおわれていたが、セミの鳴きとよもす青葉の夏の盛観が想像された。「苔の石段」と呼ばれている古い石段もよかった。親王の墓所からその石段や山門をまっすぐ見おろすと、その直線上はるかかなたに海が見えたが、私にはそのながめと境内の深い静けさと堅固な落着きとが、一曲の荘重なオルガン音楽のように思われた。
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再生の歌
この毎日の晴れやかに暑い盛んな夏を、北鎌倉明月谷の静かな新居で、おもむろに病後のからだを養っている。膀胱にできた腫瘍の手術をうけて入院していること四十五日、ようやく退院の許しを得て湘南の緑の山のあいだへ帰って以来、ほぼ半月になる。
経過ははなはだ順調のように思われる。からだがやせて目方が減って、さすがにまだ体力に自信はないが、物を考えたり心に浮かんだことを書きとめたり、多少こみいった文章を読み解いたりすることのできるほどには、頭脳のはたらきも回復してきた気がする。
三、四日前には「あじさい寺」の明月院まで、谷あいの坂道を往復してみてやはりいくらか疲れたが、きのうは「病癒えたる者の神への感謝の歌」のあるベートーヴェンの弦楽四重奏曲を書斎のレコードで終わりまできいて、久しぶりに深い芸術的な感動にひたることのできた自分の頭と心情のよみがえりを喜んだ。
手遅れになればガンに移行するところだったと言われたこの病を、主治医の鈴木仁長博士からまず発見され、その紹介でその部門の第一人者で、折りからドイツへ出発される直前の土屋文雄博士の早期の手術のおかげで救われたことも幸運なら、雨の多かった一ヵ月半の毎日を、鎌倉から東京千代田区富士見町の病院まで、別に付添いがいるにもかかわらず、何かしら口に合う食料や鉱泉のビンづめを運んで看病に通ってくれた老妻のいたことも、私にとっては恵みであり頼りであった。それにこの入院のことを聞き伝えて見舞に来てくれた友人や知己。その人たちの親身な優しい心にも、それに値する感謝の言葉が見出せないほどである。
同じ病棟担任の先生たちにも一方ならぬお世話になった。またどの患者にも同じよう記気持よく親切で、規律正しく行き届いた看護婦の諸君の奉仕にもお礼を言わなくてはならない。闘病という言葉はあるが、そのたたかいも純粋に独力でやり抜けないことのように思われる。まして美しく病むためには、忍従の空にかける患者自身の希望の虹や、平癒を祈る周囲のまごころの助力がなくてはならない。とはいえ私の病臥中にも、吉野秀雄氏をはじめ惜しむべき幾人かの人のさびしい死の知らせがあった。そしてその人たちの重い病とのたたかいがどんなに孤独に苦しいものであったかを想像すれば、「美しく病む」などと軽々しく言うことも、あるいは慎まなくてはならないかも知れない。
新居に近い明月院のアジサイのたよりや、谷戸やとの岩壁をいろどるイワタバコの薄紫の花のことや、山あいの田んぼに飛びかう梅雨の夜のホタルのうわさなどを妻の口からきかされながら半ば焦燥の思いで六月いっぱいを病院のベッドで暮らした私は、せめて初めて住む鎌倉の豊かなきらびやかな七月をこの目で見、このからだで生きたかった。その七月に入ると、退院を許される日がいよいよ切実に待たれた。そしてついに「あしたはお帰りになってよろしいです」と言われた七月十四日こそ、私にとっては革命記念日にも匹敵する画期的な日だった。そしてあくる十五日の朝、家に持ち帰る大小の荷物にかこまれながら、これをかぎりの病室のベッドに腰をかけて、ふるえる手で「今日からの余命を感謝の歌で生き深める」と、私はポケット日記のその日の欄に書いたのだった。
上の地所に住んでいる親しい友人が回してくれた立派な自家用車で北鎌倉の家へ帰ると、周囲の山も谷もかつての五月末とくらべればその緑いよいよ濃く、たくましく、木々も草も茂りに茂ってその間にヤマユリが咲き、キキョウが咲き、まだ衰えないウグイスやホオジロやシジュウカラの歌が山間の澄んだ空気に響き返っていた。
狭いながらわが家の庭も夏の草花で輝いていた。今を盛りの各種のグラジオラスも見事なら、こうあってほしいと願っていたとおりマツバボタンの赤や白や黄の花も、暑い日光を浴び涼しい風に吹かれてひらひらと軽やかに、玄関前の踏石や花壇のふちをいろどっていた。病み上がりの私はこうした自然の輝きや、強い生活力に圧倒されて思わず目がくらみ、よろめくような気がしたが、それをいたわり慰めるかのように、夕暮れになると遠く近くヒグラシの歌が生まれ、建長寺の方角の空、南に黒い屋根の上に、サソリの星座が赤い主星のアンタレスを光らせてその上半身をのぞかせた。
こうして再び生きることを許された私は愛する家族のもとへ帰り、親しい友人たちと共に生きる世界へ帰り、その霊妙な美や力が自分の心や芸術への深く貴い教えであり糧である自然の中へと帰って来た。それならばこんにち以後、私はいやまさる愛と感謝と郷愁とで世界を抱きしめ、やがて召される日まで、おのが魂をいよいよ清く美しく装わなければならない。
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内と外
爽やかに晴れた一日が予感される九月の或る朝、廊下をつたい階段をのぼって、下の音楽室からすこし曇ったようなピアノの音がとどいて来る。これから駅へかけつけて、横須賀線、中央線、井ノ頭線と電車を乗りついで東京杉並の先生の教室ヘレッスンを受けに行くという十九になる孫娘の、朝飯後一時間ばかりのバッハとショパンの練習である。バッハは「平均率」、ショパンは「即興曲」。もうあと四、五日で大学一年の二学期が始まると、すぐに試験される二つの課題曲だそうである。
ショパンのピアノ曲の美が自分にも充分わかるような気がしていながら、気質が合わないというか、縁が薄いというか、どうも私は昔から彼の芸術に心から打ちこめないまま今日に及んでいる。だからこの巨匠の作品を聴きに行くのは、ここ数年、安川加寿子さんのリサイタルの時ぐらいのもので、所蔵のレコードの中にも彼のものはきわめて少なく、時には若い親しい友人中の熱烈なショパン党の、軽蔑とは言わないまでも少なくとも遺憾をまじえた不満の表情や、憐憫の目つきにも出合うのである。そのショパンの日本訳の書翰集を新刊後間もない或る日、「おじいちゃんはこの本いらないでしょ。お借りしていくわよ」と、前記の孫娘は彼女の音楽室の書棚へさらって行った。もっと幼い小学校のころ、私から秘蔵のSP盤の「幻想即興曲」をもらって、感激に身をふるわせてほとんど泣き出さんばかりだった彼女が。
幼稚園の頃からずっと先生についてピアノをやっていながら、大学へ入るとピアノ科ならぬ楽理科を選んだこの孫娘が、将来どんな音楽生活をいとなみ、個々の大家へのその傾倒がどんな変遷の道をたどるかは知らないが、生涯の心の友となる音楽への真の愛を学んだ事と、みずから奏でる楽器を通して古来の大家たちの最も純粋な言葉を聴いたり、おのれの内心の喜びや悲しみをひそかに訴えて、そこから慰められることの出来るのは幸福だと言わなければならない。ところがその幸福の後の方のものを私は持たない。私は愛して聴くだけだ。東京下町の商家に生まれてその庶民風な家庭の空気の中で育った私に、ピアノは愚かどんな西洋楽器も縁がなかった。だから音楽無しでは生きられないようになった今、自分と同じ文筆の仕事にたずさわっている人々の中で、楽器を、特にピアノを弾くことのできる人を見ると羨ましい。そしてその少年時代に、おそらくは先ず母親や姉から、この楽器の手ほどきを受けたであろうと思われる人々にショパン愛好者の多いこともうなずかれる。なぜならばピアノの国のけだかい王子フレデリック・フランソワ・ショパンは、その痛ましいほど清らかで繊細なピアニスチックの美を流露させて、彼ら貴族的な少年の魂を恍惚とさせ、それを月光の庭の花の香のようなもので抱き包んだに違いないからである。
この夏の1ヵ月半の入院中、手術後の苦痛が日一日と軽くなるにつれて、私は退院の日を待ちながら、その間何よりも音楽にあこがれた。眼や頭のはたらきがまだ弱っているせいか書物を読みたい気持にはならなかったが、音楽を聴きたい要求は切実だった。携帯ラジオを持っていたからイヤホーンを耳へ挿しこめばFMの放送でも何でも聴けば聴けた。しかしはかない他界からの消息のようなその音楽にはこの世の空間の広がりの感じがまるで無かったし、こめかみに近い狹い孔の中での音の振動は、鼓膜を痛めるおそれがあった。私は一度か二度聴いただけでやめにして、それからは退院後の我が家でのゆったりとしたレコード聴きや、もっと良くなってからの音楽会行きの楽しい空想で満足した。晩秋か冬の夜のバッハ・ギルドや東京バロックの演奏会! そこの明るく暖かい、ほのぼのと親しみの満ちた雰囲気への思いが、とらわれの身のような私の不眠の夜を慰めた。勇気づけた。
今日から我が家での生活が始まるという鎌倉の朝、自分だけおくれた食事を済ませて二階の書斎へ上がると、部屋のまんなかの卓上に一枚のレコードが置いてあり、それに何か字を書いた小さい紙きれが載っていた。取り上げて見ると「お祝、祖父様、美砂子より」とある。きのう私が退院してくると、誰からも見られないところでしっかりと抱きついて「よかったわね、おじいちゃん、無事に帰れて!」と言って泣きじゃくった孫娘からの贈り物だった。私は友達との約束で朝早く東京へ出かけて今は不在の彼女からの祝いの品を敬虔な気持で手に取った。それはバッハのカンタータの第一番と第一七〇番とが表と裏に入っている盤で、いずれそのうち買おうと思いながら果たさなかった物である。第一番は「暁の星のいかに美わしく輝くかな」、第一七〇番は「楽しき憩い、望ましき心の喜び」で、両方とも今朝から始まる私の新しい生とその心境とにふさわしい曲だった。そして退院帰宅後の私の最初に耳を傾けたのが、この朝の祝福の音楽だったことは言うまでもない。
バッハの次にベートーヴェンとモーツァルトが来たのは私にあって自然だった。しかしいくら音楽に飢えていたとは言え、手当り次第に、むさぼるように聴く事はしなかった。一どきの浪費を節して楽しみを長めるように、内心の要求の秩序にしたがって、一日に一曲か、せいぜい二曲を聴いて満足した。ベートーヴェンのイ短調の弦楽四重奏曲、それを聴くことを病院のベッドで夢にまで見た「病癒えたる者の神への聖なる感謝の歌」のあるあの作品一三二番を、私はほんとうにわが事、わが告白のように思いながら聴いた。そして同じベートーヴェンの「ラズモフスキー」の第三番では、その終曲のフーガの比類のない充実と高揚と、壮烈な迫力の奔流とに圧倒されて、まだ弱々しい病後の体がよろめくように感じた。
体力の上からまだ交響曲のような大きな物を聴くに堪えない私は、モーツァルトでも弦楽四重奏曲を選んだ。モーツァルトは特に今の私の体と心とに養いを与えてくれる日光だった。しかし三曲から成る「プロシャ王」セット。そこからは、私の思いなしかも知れないが、何か寂莫としたもの、死の影の漂いのようなものが感じられた。そしてしかもそれが、この際の私にとっては、この巨匠への敬意や親密感を改めてしっかりさせるものだった。これらの曲の制作年代である一七八九年と九〇年。モーツァルトは実にそれから二年とたたない一七九一年に貧窮と孤独のうちにこの世を去ったのである。
こうして私にふたたび音楽が帰って来た。そしてこのごろは時たま自分でも歌や笛を試みる。自分の取り上げる曲に、前よりも一層しみじみとしたものの多くなったのを感じながら。
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秋
このごろはもう見るだけで採る事はほとんどしないが、生来植物を好きな私は、若い時分には熱心に草や木を調べたり採集したりしたものである。山へ登るにも野を歩くにも、図鑑とルーペと小さい物差しとは必ず持って行ったし、胴乱も大小二つあって、行く先に応じてそのいずれかがお伴だった。しかし、名を知るために調べることが眼目なので、図鑑と道具とはよく使ったが、何でも欲ばって採集して、胴乱へ押しこむような真似はしなかった。生ある物を彼らの土地で栄えさせようというのが、私のもう一方の気持だった。そしてその気持は年をとるにつれてだんだん強くなり、次第に深い根拠のあるものとなって、あの水色や緑に塗られたブリキ製の楕円の筒を、肩から吊るして歩くことも今ではもう皆無になった。
暑さが遠のいて急に秋を感じるようになったきのう今日、私の住んでいる北鎌倉の谷戸やとではちょうどタマアジサイが見頃である。道幅の狭い爪先上がりの谷戸道は片側がたいがい山の崖になっていて、裾のところを細い冷たい水が流れているが、その崖や水のふちに大きな葉を茂らせ、傘のように開いた薄紫の花をむらがらせて、タマアジサイの花は静かに咲いている。真白な丸い蕾つぼみはつまんでやりたいくらい愛らしく、本当に名のとおり玉である。務めの往来ゆききや用事のために通る人たちも、その美しい花がこの道に咲いているとは知りながら折ったり掘り取ったりはしないから、季節が来れば毎 年きれいに道ばたを飾ってくれるのである。
つい二、三日前の事、東京の学校へ通っている孫娘が、「おじいちゃん、私今朝けさいいもの見つけたわよ。何だと思う? ナンバンギセル!」と、いかにも大発見のように報告した。なるほどここでは初めてだから、いい見つけ物には違いない。そこで教えられた場所へ翌朝見に行った。宅から程近い往来際の崖の下、ノブドウの蔓の陰、一株のススキの根方に十本ばかり麦藁色の茎を立てて、久しぶりに見るナンバンギセルが、薄桃色の煙管きせる形の花に折からの朝日をうけて咲いていた。私は道ばたにしゃがんでその花の頤あごのあたりを撫でながら、愛する孫の注意力を褒めてやりたい気持だった。
親しい串田孫一君が久しく見ないと言って歎いていたクズの花も、今は谷戸のいたる処で咲いている。宅のうしろの小高い空地には広々とハギが茂っていて花を見るのも近いうちだが、夜な夜な涼しいトレモロでカンタンの鳴いてくれるのがありがたい。藪の中ではムラサキシキブの実も紫になった。男のほうの孫は「おじいちゃん、僕もうじき山ヘアケビを食いに行くんだよ」と言って楽しみにしている。しかし「山のどこさ?」と訊いても「こればかりはいくらおじいちゃんでも秘密、秘密」と言って笑うばかりで教えてくれない。
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早春
戦後の七年間を信州八ヶ岳山麓の富士見ですごし、その後の十五年近くを東京世田谷の上野毛で暮らした。そして今はここをおそらく終生の地ときめて、北鎌倉の或る谷戸やとの奥に家族と一緒に住んでいる。
しかし、移って来てまだやっと一年なにがし。空気はよく、環境もきわめて静かで美しいので気に入ってはいるが、永く住みついた土地への愛着の情が人一倍強くこまやかな性分のせいか、理想的とも言えるこの新しい土地になかなかなじめない。だが本当はそんなことでは困るので、仕事の合間にはなるべく近所を出歩いて、広い空間での自分の巣の位置を心の地図にしっかと書きこみ、周囲の地形や自然の細部に一日も早く通じるように努めている。ちょうど今までと違った風土の中へ移し運ばれた養蜂家の巣箱の蜜蜂のように。
それにしても「自然」は、私のような種類の新参者が、一つの土地と親しくなるために先ず最初に目をつける相手である。信州の富士見でもそうだったし、東京の上野毛でもそうだった。富士見には言うまでもなくその高原の大きな広がりと、八ヶ岳の連峰や釜無山脈の男らしい堂々とした眺めがあった。また上野毛には、(このごろになってこそいくらか様子が変わったが)、朝な夕なに日照り輝く多摩川の流れと、それに臨んだ武蔵野台地西南端の崖と林のつらなりがあった。一方は火山と堆積山地、他方は古い海岸平野。両方とも植物が多く、小鳥をはじめいろいろな生物にも豊富だった。そして新しく居を定めるやいなや、先ず目に映ったそういう風景や動植物に親しみだの珍しさだのを感じて、心覚えかちょっとしたノートのつもりで彼らのことを書くと、嬉しいかなそれが一篇の短い新鮮な文章になるのだった。しかしそうした新鮮さも、書くことに馴れて安易な気持で文を綴ればついには当初の輝きを失うから、出来るものなら常に新参者の気持で、神妙な初心を忘れてはいけないと思っている。
そして私にとって、今この鎌倉がそうだ。東と北と西との三方をほとんど常緑樹に被われた山地に囲まれ、南に相模湾の水の光をひろびろと抱いた鎌倉は、いにしえの武人と僧侶の都にふさわしい貴重な史跡や寺や社をぎっしりと玉のように埋めこんで、画のような海と山と谷との自然の中で、小さいながら充実した古都の面目を保ちつづけている。もちろん新しい移住者の私にしたところで、この古い都の生命である貴い歴史的な風物が、日に日に少しずつ蝕まれ損われてゆく現実を耳にもすればこの目で見もして、早くも眉をひそめたり内心ひそかに憤ったりするが、来てすぐ悪い事ばかりに気持を乱されるのは厭だから、諦めよりもむしろ心を強くして、まだ失われずに残っているこの土地の自然や、七百年以上も前から受けつがれて来た文化的遺産の美を護り味わうことで、これからの自分を富ますつもりでいる。
*
鎌倉には谷やつという名のつく地名が多い。たとえば扇おうぎガ谷やつ、佐助さすけガ谷やつ、松葉まつばガ谷やつなどがそれで、或る説によると、そういう名の所が四十九ヵ所もあるという。私の住んでいるところも一般には明月谷めいげつだにと呼ばれているが、明月谷戸めいげつやとが本当の呼び名だという人もある。谷やとも谷戸やとも谷地やちも元来或る地形の名称で、台地や丘陵が浸蝕されて出来た谷の底面を言うのである。そして海抜せいぜい百メートルから百五十メートルぐらいの謂わば丘陵地帯でありながら、鎌倉という土地の地形が海にむかって傾斜していかにも美しく複雑の妙をきわめているのは、要するにこれら無数の深い浸蝕谷のおかげなのであ る。誰の作で何という句だったか残念ながら忘れたが、鎌倉のそれぞれの谷戸に咲く梅の花の遅速の面白さを詠んだのがあった。それというのも一つ一つの谷の向きや形によって平均した日射量や気温に差があるためだろうと思う。またそれだからこそ梅の花の季節などにあの谷戸この谷戸をそぞろ歩きするのが楽しいのである。
その明月谷の奥のわが家を出て、片側に岩盤の露出した崖を見上げるかなり急な坂をくだる。まだ空気にいくらかの冷たさは感じられるが日の光の暖かい早春の一朝、谷の空は青玉あおだまのように澄みわたっている。坂をくだって細い古い道へ出る。小型の車がようやくかわせるくらいの狭い谷戸道やとみちである。左側は山を背にして古くから住んでいる人たちの静かな家並、右側はここもまた灰色の岩膚を現したり樹木に被われたりしている山の急傾面。駅へ出るにも町へ行くにもただ一本だけのこの道は、ごくわずかな降り勾配でくねくねと曲がっているが、ここを通るのがいつでも楽しい。季節季節にいろいろな木の花、草の花が咲き、歩いていると蝶やトンボと擦れちがったり、頭の上にセミの合唱を聴いたり、夏の夜などは悠々と光り漂っているホタルさえも見る道である。「尾崎さん、ここはこの道が取得なんですよ。僕はこの道が気に入っているので毎日駅への往復を歩くことにしているんです」と、移住後間もない私に東京の或る大きな出版社に勤めている隣人の重役が言った。私の足でも北鎌倉の駅までわずか十四分の道のりでありながら、その駅の手前の円覚寺の門前からじきに静かなこの谷戸道へ入れるのだから、ここに住むこと二年先輩の重役さんでなくても、その取得、その真価には遅かれ速かれ気がついたろうというものである。
そのわずか十四分の道のりのちょうど半分のところに、アジサイ寺の名で知られた明月院がある。自分の家から近く、環境もいいのでよく行ってみるが、六月のアジサイの花の盛りの頃はまったく見事である。そんな時の土曜日や日曜日には見物人の列が円覚寺の方からぞろぞろ続いて、ふだんは閑静な道や境内が人出で賑わう。しかし普通の観光地や盛り場を目ざして押し寄せる連中とは違って、何と言っても寺という物の閑寂を求める篤志家や花を見に来る風流の客だから、若い男女の連れにせよ家族連れにせよ、みんな比較的物静かで行儀も大して悪くない。入口の石門のところから参道の石の階段の両側を、奥の方までびっしりと埋めて咲き続いている空色の花のかたまりに感心したり、みずみずしい若葉の境内に響きわたるウグイス、アオジ、シジュウカラ、キビタキなどの小鳥の歌に耳を傾けたり、記念写真の撮りっこをしたり、さては賽銭箱にいくらかの喜捨をしたりして、やがて元来た道を帰ってゆく。しかし時には道を反対の方向にとって、緩い登りの谷戸道を東へむかう者もある。大抵学生風の二、三人連れで、私の家の先のところから始まる半僧坊や天園へのハイキングコースを目ざす連中である。
その明月院が今日は静かだ。週間日でもあるし、おまけに昼前でもあるせいか、人っ子一人の影もなく、まるで自分だけのための広い深い庭にいるような気がする。そうだ、この寺の境内はほんとうに古庭ふるにわだ。もしも瑞泉寺の庭園に金や人手のかかった林泉の趣きがあるとすれば、ここは半ば自然の野趣にゆだねられた古い庭か植物園のようだと言える。
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新しいのから古いのへと続くゆるい石段の道をゆっくりと登って、ささやかな質素な山門をくぐる。それまでの道の両側にならぶ有名なアジサイは、ようやく芽を吹いたばかりで枝も茎もまだ冬の茶色に枯れて見えるが、その大きな株の間をつづって植わっている常緑木のヒラギナンテンは、ふちに棘とげがあってつやつやと光る羽状複葉の間から、黄色い長い花の房を垂らしている。早春のこの季節にここへ来て、まず梅やツバキの花に気をとられる大は多いが、この雅致のあるヒラギナンテンのペンダントに注目してやる人のほとんどいないのは残念だ。ペンダントと言えば、そろそろあたりの崖の横腹から枝を伸ばして咲きはじめているキブシの黄の花もそうだ。しかしこの方は野生の木だから、たとえ名は知らなくても、春の山道などでよく見かけて気のついた人も少なくはないだろう。
一月の半ばころに来た時は、あたりの空気を柔らかい黄色に染めるほど盛りだった臘梅ろうばいの《花がもうすっかり散って、今は白と紅の梅の花の季節である。何とも言えない清らかないい匂いが柔らかな谷戸の春風にはこばれてくり。どこからかひっそりとジンチョウゲも匂ってくる。庫裡くりのあたりにはボケ、ニワウメ、ユキヤナギ、コデマリなどがつつましやかに咲き、三方から本堂を囲んでそびえる断崖の中腹のところどころに、厚い葉を光らせたツバキの花が点々と赤い。住職が植物の自然の姿を愛するせいか、いくつかの種類の水仙を初めスノーフレーク、ムスカリ、編笠ユリなどに至るまで、まるで昔からそこに生えていた物のように、タンポポやモジズリにまじってのびのびと咲いている。まるまると肥ったネコヤナギの銀の花穂も今が見頃、ヤマブキの花もちらほら。つづいて桜が咲き、コブシが咲き、ホウが咲き、大木のカイドウの咲く時もそんなに遠いことではあるまい。
名を挙げれば切りのない植物ばかりでなく、明月院に集まって来る小鳥の数もなかなか多い。私としてもそう始終訪れるわけではないが、去年一年を通じてそこで姿を見たり声を聴いたりした鳥は三五種に及んでいる。同じ明月谷でも私の家のまわりとなるとずっと少ない。こちらは山の枝尾根を削って造成した明るい乾いた住宅地だから、谷戸の横道の袋谷とも言える欝蒼と樹木の茂った明月院の寺内とは較べものにならない。明月院には彼ら小鳥たちの好んで食う木の実や虫も豊富ならば、飲んだり浴びたりするきれいな冷たい水も湧いている。ところがこちらにはそんな物がまるで無い。ましてや私のところのような狭い庭へ来る鳥と言えば、せいぜいスズメかモズかウグイスか、たまにホウジロ或いはシジュウカラぐらいなものである。その点では地所が広くて、うしろに大きな雑木林を背負った東京玉川の家の庭の方が遙かに種類が多かった。
庭の小径の竹垣を背に、サルスベリの木の下の丸太の腰掛に腰をおろしてゆったりと煙草を吸っていると、近くの桜の樹の枝で一羽のアオジが鳴いている。もう立派な春の歌だ。日の当たった本堂の暖かそうな藁屋根を小走りに走りながら、鮮やかな羽色をしたキセキレイも金属的な声を聴かせる。山裾の林の奥の方からはメジロの澄んだ声も響いて来る。そしてそういう鳥たちの自然の声が、この
小さい世界の静寂を一層深いものにする。
ほんとうに明月院は新しく私に許された静かな逍遙と瞑想の庭だ。この庭を知っただけでも、この寺をわが家の近くに持つだけでも、住み馴れた東京を後にして来た甲斐がある。
*
最も近い明月院は別として、郵便を出しに行ったついでに、遠来の参詣者でも観光客でもない私が、名のある古い寺へ立ち寄ることのできるのも鎌倉に住んでいればこそである。
明月谷の出口の真向こう、横須賀線の線路をへだてて、自動車の往き来のはげしい山ノ内路の通りの角に赤いポストが立っている。それが私のなじみのポストで、その角のところがまた今言った古い寺、すなわち鎌倉五山の第四番目、臨済宗金峰山浄智寺への入口でもある。速達の原稿も、待たれている返事の葉書も、友人への久しぶりの便りも、みんなそっくり投函して気が楽になった。そこでふだんならそのまま家へ帰るところだが、送った原稿がちょっと手間のかかった物だけに気分がせいせいして、何となく浄智寺のほのぐらい静かな境内へ入ってみる気になった。
近くの広大で豪壮な円覚寺や、どこか雅みやびて女性的な感じのする東慶寺とは違って、この浄智寺は、昔は知らず今は境内も狭められて、わずかに残っている総門や鐘楼や仏殿の姿もさびしい。そしてそのせいか、いつ来て見ても訪う人影が至って稀である。つまり古い名の割にほかの寺のような人気にんきが無いのである。だがその人気の無い点が、私にはかえって親しみが持てる。
総門の前の小さい池に架かった石橋を渡って、しっとりと湿めった暗い杉林のあいだの参道を登る。人手がないのであまり手入れも行き届かないせいか、あたりには冬の名ごりの枯枝や枯葉が散らばっている。どこかでカケスの「ジャー・ジャー」と鳴く声が聴こえる。高い針葉樹の林に響く寂しい単調なその声が、この境内を一層暗く古さびたものに思わせる。例の珍しい支那風の鐘楼をくぐって、「曇華毆」と大書した額の懸かっている仏殿の前に立つ。釈迦、阿弥陀、弥勒みろくの三尊をまつったこの比較的新しい仏殿に私はたいして興味を持たないが、ここへ来れば必ずその周囲を歩いてみ、いつでも感心して見上げるのは、数百年も経たコウヤマキとビャクシンの大木である。梅やレンギョウ、桜やカイドウ。ほかの寺のように、そういう和やかな季節の花には飾られなくても、春昼の日光や青空をさえぎって一脈森厳の気をこの寺の面目に添えるものこそ、これら数本の巨木だと言っても過言ではあるまい。
*
北鎌倉には先住の友達が四人いた。いずれも文学に関係のある連中だが、その中でも双方の家族ぐるみずっと親しくつきあっている一人から熱心にすすめられて、ついに東京からここへ移って来たわけだった。
ラジオの脚本だの詩だのを書いているその若い有能な友だちが、なるべく早く私を鎌倉という土地に親しませようという心から、時どき電話なぞでこちらの都合を聞いては誘い出して、自分に気に入っている景色のいい処や静かな寺などへ案内してくれる。それで二、三日前には飯島が崎の上の正覚寺と、名越なごえ松葉ガ谷の妙法寺とへ連れて行かれた。どちらも私にとっては未知の寺である。
もっとも飯島ガ崎は名こそ知らなかったが、二十数年前の終戦の秋に、その近くの火葬場から名越で死んだ母の遺骨を抱いて妻と二人、海へ突き出た岬の鼻を回って荒れ果てた小坪の漁村まで歩いた記憶がある。その時はまだ断崖の小径に沿った急造の洞窟に機関砲か何かの残骸がころがっていたり、沖にはアメリカの駆逐艦らしいのが一、二隻、淡い煙を吐いて邨泊したりしていた。
そんな遠いはかない夢のような思い出も、今は生気に満ちた春の途上のただの話に過ぎなかった。材木座海岸の南のはずれから、一種の陸繋島とも思われる愛らしい和賀江島わかえじまをすぐ目の前に眺めながら、飯島が崎の石段をのぼって正覚寺へ出た。寺そのものは格別言う程のこともないが、大きなイチョウの樹の立っている境内からの鎌倉の海の眺望はなるほど全く美しい。その美しさは視る角度や遠近の差もあって、天園からのそれとも違うし葛原くずはらガ岡おかからのものとも違うが、連れの友だちも主張し、或るガイドブックも紹介しているように、私もまた特にここからの美を推すのにやぶさかでない。弓を張ったような由比が浜から稲村が崎への海岸線、その向こうに遠く江ノ島。水を抱いた山々の姿もよければ、鎌倉の町の形さえまた悪くない。あいにくの春霞で富士や箱根は柔らかにまどろんでいたが、沖は波さえ立てず虹色に匂っていた。そしてその帰り道、岬を回って今は見違えるほど立派になった小坪を通ると、漁船の引き揚げてある暖かい浜の砂の上に、ハマシギらしい可憐な小鳥が数羽、小走りに走っては餌をあさっていた。
松葉が谷の妙法寺へは逗子から来たバスに乗って名越四ツ角から入った。
日荳宗楞厳山りょうごんざん妙法寺は、山を背にした、格調の高い、古い立派な寺だった。その山のいちばん下の堅固な総門から頂上近い護良もりなが親王の墓所と言われている石塔の立っている処まで、高度約七、八十メートルはあったろうか。全山さまざまな種類の落葉樹や常緑樹に鬱蒼と被われているが、すぐ気がつくのはカエデの木の多いことで、秋の紅葉の見事さが想像された。しかしまたこれほど樹木が多くては、夏の涼しい木蔭の豊かさが思われ、同時にセミたちの合唱の壮大さも思いやられるのだった。
本堂から山の中腹の法華堂に行くまでの古い石段もよかった。「苔こけの石段」と呼ばれて、全体が柔らかな苔にふっくらと包まれている。心無い観光客やハイカー達に踏み荒らされるのを防ぐために、今は登降を禁じて横の道を通るようにしてあるが。その禁制が無くてもとうてい踏み込めない程の見事さである。
護良親王の石塔の立っている高みからその苔の石段と総門をまっすぐに見おろすと、同じ直線上遙か下に海が見えた。山の間から縦に見るので横への広がりはないが、その海はさっき岬の上の正覚寺から眺めたのと違って午後の鮮明な青い色をしていた。しかもその澄んだ青い水の色と、おりから眼の下の庫裡の庭に咲いている紅白の梅の花の色とが、いかにも清らかな潔いさぎよい調和を見せていた。そして私にはその眺めとこの寺の境内の深い静かな諧調とから、たとえばどこかの古い教会の御堂みどうの中で、何か美しいオルガン曲でも聴いているような気になるのだった。
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