いたるところの歌


   ※ルビは「語の小さな文字」で、傍点は「アンダーライン」で表現しています(満嶋)。

                                 

序 詩

 

 

野外と屋内

 

 

  家と環境

  晩春の或る午後

  孫

  小さい旅

  詩の鑑賞

  夏から秋への一日

  故園の歌

  木曾の旅

  旅の小鳥と庭のツグミ

  冬晴れ

  早 春

  日記から(一)

  マドレーヌ・ロマンのこと

  私の愛鳥週間

  日記から(二)

  旅のたより

 

 

 

 

 

牧場の変奏曲

鳥居峠

梓山紀行

山口耀久

山の詩と山の詩人

山小屋への想い

詩と音楽

生きているレコード

エステルとアンリエット

ロマン・ロランと自然

 

 

秋を生きて

過ぎゆく時間の中で

旅で知る妻

小さい傑作への讃歌

 

 

友への手紙

砂丘にて

春浅き海と山

自然と共にある故に

   

『わが愛する山々』

『人類の星の時間』

タゴールについて求められて

処女詩集の思い出

或る小さい体験

結びの詩

 

 

 

                                     

 

 序 詩

いたるところに歌があった。
いくたの優しいまなざしがあり、
いくつの高貴な心があった。
こうして富まされたその晩年を
在りし日への愛と感謝と郷愁で
装うことのできる魂は幸いだ。

 

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 野外と屋内

 家と環境

 私の住まいは東京世田谷区の上野毛かみのげにある。地理学の上から言えば武蔵野台地の南西のはじで、それも台地の尽きる崖がけの上、下には古くからの用水が流れ、そのむこうは幅四〇〇メートルばかりの低い平地、それから上下二段の堤防をこえて、多摩川の白い河原と青い水面ということになっている。そして対岸は神奈川県川崎市の地籍で、しだいに住宅や工場に蚕食されてゆく半ば田園的な、(雨の日などにはいくらか憂欝な)、過渡的な景観を形づくっている。
 石黒農園を名乗って養鶏と卵の配達販売とをやっている婿むこ夫婦と一緒に住んでいるので、私が自分の住まいと称している地所は都会の中としてはかなり広い。戦後加速度に新築の住宅がふえて来たとはいえ、早くから目をつけて土地を手に入れ、別荘や本宅を建てた富裕な人たちの邸内はゆったりとして、いまだに畑地を擁して農業をやっている古い大きな農家と境を接している。私の婿の父親なども、そういう先見と余裕とのあった人たちの一人らしい。それはともかく、結局はいつか、おそらく近い将来には、純然たる市街住宅地と化すべきこの上野毛という土地に、今のところはまだ草木がしげり、あまりよごれていない空がひろがり、晴れやかな光や味のいい空気がふんだんに流れて、賑やかな往来からちょっと横へはいれば、昼間でも望ましい静寂が人人の生活を包んでいるというような一角なのである。
 農園の卵工場と、婿夫婦やその子供たちの住んでいる母屋おもやはともかく、私と妻とが起居している家はきわめて小さい。終戦後七年間を信州八ガ岳の裾野のいわゆる富士見高原で、自然と風景には恵まれながらかなり不自由な生活をして来た私たち夫婦に、この東京の新築の家は小ぢんまりして、充実して、住み心地がよく、さまざまな利用法のある電気もガスも、モーターで吸い上げる井戸もしごく便利なものに思われた。しかし一度離れたこの生まれ故郷の大都会をふたたび生き、それに馴れ、たずねて来る友だちや知人も日増しに年ごとに多くなるにつれて、その宝石のような小さい堅い充実をむしろ誇りにさえ思った家そのものが、しだいに手狭まなものに感じられて来た。しかし地所はあっても増築のほうは意のままにならない現状だから、たまたまの不便や不満などは、生涯の晩年という重要な時期の前では取るにもたらぬ瑣事とあきらめて、むしろ多くの場合晴ればれと、この平家建て四間よまの小さい巣を愛でいっくしむ心で住みなしているのである。

 家は、空地といえば空地、庭といえば庭のようなものを、東西と南の三方にめぐらしている。東にむいた玄関の戸口からは、正面に見える農園と共通の門のほうまで、半分ほど薔薇を主とした花壇ふうのものが通路の両側を占めている。薔薇とは言っても、別に取り立てて新らしいものや珍らしい種類ではなく、きわめて有りふれた強壮な四季咲きと、垣根用の蔓咲きである。それに接して作られている園芸的な草花もごく普通の物ばかりだが、春の初めから秋の終りまでつぎつぎと咲き続いて美しく、永い試練に耐えて来たいくらか古風な西洋草花だけに、その生活力も繁殖力も庶民のように逞ましくて頼もしい。そしてその花壇や垣根では、これを書いている初夏の今、薄紫のテッセンと、淡紅とクリーム色の蔓薔薇とが盛りである。
 南のほうの庭は、隣接した広い空地にある一つの小さい古墳を背景に、白樫や楓をまじえて、梅、桃、桜、レンギョウ、サンシュユ、土佐ミズキ、クチナシ、ツツジ、サラサドウダンのような花の木や、白樺や落葉松からまつのように富士見高原から幼いのを採って来て、今では立派に成長した木などで欝蒼としている。そしてこれらの樹下の半日陰には、山や高原へ行くたびに一株二株と採集して来て植えたいろいろな山草が、それぞれの季節にそれぞれの花を、私の思い出を伴奏にして咲かせている。
 西はこの文章の初めに書いたように崖になっている。この崖はかなり急で、下の平地とは二〇メートルの高度差を持っている。そしてそれが以前からの山林に被われているので、多摩川の河原や堤防から眺めると、今の季節には濃淡さまざまの一連の緑の雲のように見える。林相は杉を主に、栗、クヌギ、コナラ、ソロ、アカメガシワ、ミズキなどから成っているが、それにまじる山桜、ムシカリ、楓などが、春、夏、秋の彩りであり歌である。そしてその下草である熊笹のあいだには、これも古くから残っている武蔵野台地のヤマホトトギス、ニリンソウ、テンナンショウ、ウラシマソウ、ホウチャクソウ、キッネノカミソリ、オオバジャノヒゲなどが点々と見出されるのである。
 このように家の周囲に植物が多いので昆虫や蜘蛛の種類も多く、また一年を通じて見られる小鳥や春秋に渡って来る鳥も多い。子供の時から自然を愛して生物を見るのが好きだった私にとって、信州で暮らした七年間は別として、これまで東京で住んだどの土地よりも此処がいちばん気に入っている。そして毎日の日記の一節に、自然現象や動植物の生活の観察を略記するのを怠らない。私は今後しばらく此の『野外と屋内』を続けるつもりだが、その中に彼らの姿や歌や、或いはその嘆きや訴えが見えたり聴かれたりする事があれば、それらはすべて此の日記からの一層きめのこまかい敷衍ふえんにほかならないのである。

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 晩春の或る午後

 今日は良い一日だった。一日が良くあるためには無論「偶然」の助けも無くてはならないが、それ以上に生活への智恵の働きが欠くことのできない条件となる。その良い一日のために書斎のゲッチンゲンの晴雨計は朝から一〇二六ミリバールの高気圧を示し、時どき日光の洩れる薄曇りの天気もおだやかで暖かく、近いうちにカラフトか沿海州の繁殖地へ帰ってゆくツグミたちも、窓の前の崖林がけばやしの高枝からその晴朗なフルートの歌を聴かせた。そしてすっかり新緑をよそおった庭には山吹が咲き、ツツジが燃え、花壇のすみの畠では小さいツマキチョウの雌が三羽四羽、アブラナの黄いろい花のあいだを柔らかに浮き漂って、その蕾の横腹やつけねのところへ、精巧に刻まれた水晶のピンのような卵を一粒一粒たんねんに産みつけていた。
 午後には特別の楽しみがあるので私も朝から机にむかって働いた。先ずきのうの日記の残りを書き足し、近く出る本のための後書きに筆を入れ、最後に三枚の葉書と一通の長い手紙とをしたためた。そして昼飯をすますと、上野毛かみのげから水道橋まで日曜日を人の出盛る電車に乗り、神田の共立講堂で若い友人と落ちあって、さて其処の一階正面のいい席で、在日中のスイスのソプラノ歌手、マリア・シュターデル夫人のすばらしいリードの独唱を聴いた。
 この女流名手の歌劇や宗教音楽の歌は(たとえばグルックの「オルフェオ」やベートーヴェンの「ミサ・ソレムニス」の中での歌は)すでにレコードでなじみだが、そのリードを、しかもなまで聴くのはこれが初めてだった。更に席についてプログラムをあけて見て、モーツァルト、シューベルト、フーゴー・ヴォルフらのそれと並んで、スイスの現存作曲家オトマール・シェックの名を見出した時には、一層胸のおどるのを覚えた。なぜかと言えばこのシェックはヘルマン・ヘッセの若い時からの親しい友で、その芸術上の志向や人となりに関して、私は詩人の美しい文章を媒介にかなり詳しい知識を持っていたからである。そして図らずも今その作品を聴くことのできるのは、私にとって真に望外の喜びだった。
 二十曲を歌ったシュターデル夫人の独唱は、技術的にも芸術的解釈の上でも、私には申しぶんのないものに思われた。わけてもモーツァルトとシューベルトのものがすべてそれぞれに異ったふうに美しく、ヴォルフの「妖精の歌」 と「園丁」、初めて聴くシェックの「彩られしリボンもて」と「思い出」とが見事だった。そしてそれと同時に私の心をとらえ、隣席の友人やほとんど全部の聴衆の心を魅了したろうと思われるのは、舞台の上でのつつましやかな夫人の態度と、晴れやかな貞潔感と、温かに母性的なものと、その心情の美をさえ想像させる深みのある美貌だった。
 それにまたピアノの伴奏者である夫君がよかった。チューリッヒの国立歌劇場や交響楽団の指揮者でもあると言われるこの背の高い堂々とした夫君は、元来すこぶるの好人物であるらしく、伴奏をしながらあわや自分も歌い出すかと思われるような口つきを抑えることができず、聴衆の熱烈な拍手に深く礼をした後、かならず妻君にもにこやかにお辞儀をし、小柄な夫人もまたピアノを隔てて彼にお辞儀をするという、実意のこもった、きわめて自然な和合ぶりを見せた。そしてそれがいかにも気持よく美しいので、私たちはまるで彼らのスイスの家庭で、彼ら夫妻から招かれた客として聴かせてもらっているような錯覚にとらわれる程だった。
 そして音楽のうちでもドイツのリードというものが、元来こういう世界のために生まれ、こういう親しみの空気の中で歌われたり聴かれたりするべきものなのだという事を、私はしみじみと感じたのであった。
 帰りは同行の若い友人と、もう一人若い音楽批評家との三人で銀座へまわって、ミュンヘンの地下室でビールのシュタインを重ねた。そしてシュターデル夫妻の健康と、私たち自身の仕事や健康のために乾杯することも忘れなかった。

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 孫

「敦あつ。いっしょに来ないかい。郵便を出しに行くんだけど」 そう誘いをかけたら「うん」と言って読みかけの漫画の本をほうり出してくっついて来た。小学の二年生で、満八才にはまだ五ヵ月足りない男の児で、私の孫で、改まった時には両親からも私たち祖父母からも「敦彦」と呼ばれる。
 敦彦。それはたいがい誰かおとなに紹介される時の呼び名だが、また畳の上へかしこまらされて、少しきびしいお説教を食う時にも、この正式の名で呼ばれるのである。
 漫画はあまり好ましくないが、あまりやかましく言って隠れ読みをする習慣がつくようにでもなったら困るから、弊害が本物にならない程度で大目に見ている。
 四月下旬の晴れた日の午後五時半。だいぶ北へ寄ってかたむいた初夏の夕日が、この郊外めいた上野毛の町の静かな道で、やわらかい木々の若葉に赤みを帯びた金いろの光の波をうちよせている。燕が二三羽、青い、ほの暖かい道路の空を、のびのびとした直線飛行で往復している。石塀の上から往来までさし出た庭木の茂みのあたりには、くすんだ褐色の地に黄いろい模様のある羽根をした中型の蝶も、この光と影のゆたかな時間をよろこんで飛びまわっている。
 私の郵便は校正で、速達である。オーストリアの或る現代作家の薄い楽しい本を翻訳したのが、この最後の校正でもうじき出るのである。山の中腹のひろびろとした草原と畠の自然、太陽や月や雲や雨、風露草や糸シャジンや矢車菊の野、郭公かっこうや四十雀しじゅうから、それに農夫と少年と少女と、主人公である詩人。こういうのがこの美しい短篇の世界であり、そこへ登場する人物である。そしてその本には、著者自作の切抜き絵が十数枚はいっている。絵の題材はすべて牧場の草花だが、マニキュアの鋏か、或いは剃刀かみそりの刃で切り抜いたものであろう。
 こんな本を、何時いつこの孫が読むことだろうかと思って、色が白くて睫毛まつげの長い、その可愛い顔を横目で見る。老いに実ったその祖父が、彼自身の楽しみと、又いくらかは同じような心の傾きを持った読者のために、静かな時間に訳し上げたこの本を、五年のち、十年のち、どんな思いで手に取ることかと、拳こぶしの中の柔らかいちいさい拳を、今までより少し力をいれて握るのである。
 「おじいちゃん。速達は郵便局で出すんじゃないの?」と、私の夢想の彼岸からあどけない声が訊きく。私たちの道が駅前の四ツ角へではなくて、家からまっすぐの広い道路へ向かっているからである。
「郵便局まで行かなくても、ただのポストでいいんだよ。必要なだけの、いるだけの切手を貼って、ちゃんと速達という事がわかるようにしてあれば、どこのポストヘ入れてもいい事になっているんだよ」
「そう」
 一度「そう」と言った以上、一度はっきりと納得した以上、けっして忘れもせず言いくるめられて妥協することもない、小さい真摯な魂である。
 蕎麦屋の角に赤いポストが立っている。私はその円筒の横腹に郵便物を集めに来る時刻を書いた白いプラスチックの板の挿しこんであるのを子供に示す。この程度の文字ならば、わが小学二年生には読むことができるからである。
「ほら、ごらん。一番しまいは午後六時二十五分ごろと書いてあるだろう? そうすると今はまだ六時前だから、もう三十分もたってから郵便屋さんが集めに来るわけだね。そこで安心して、おじいちゃんがこういうふうに入れるのさ」
 そう言いながら私は自分の仕事の最後のしめくくりを、開封速達の厚い重たい郵便物を、すこし折り曲げるようにしてポストの口ヘ落としこむ。
「さて、それじゃおじいちゃん。少し町内の散歩をしない?」
 郵便を入れてふたたび小さい手を取った私は、このおとなびた適切な言葉を聴いて苦笑しながらその出典をいぶかる。「さて」だの「町内の散歩」だのという表現法や熟語を、まだなかなか幼稚園臭のぬけきらないこの孫が、いったい何時いつ何処どこでで覚えたのだろう。今よりももう少し幼くて、姉といっしょにピアノを習っていた頃、色音譜いろおんぷの女の先生に「敦彦君、そんなにお指をまっすぐに立てないで、もっと寝かせて、寝んねさせて」と注意をされたら、まるで催眠術の暗示にかかったように、両方の手のひらを合わせて片頬に当てて、そのまま白と黒との鍵盤の上に顔をよこたえて、ほんとうにすやすやと眠ってしまったこの子供が。
 言葉の出典への好奇心は私もまた眠らせて、彼の言う「町内の散歩」のために遠廻りの帰路をとる。夕方の自動車やバスやオートバイのしきりなしに走る往来を避けて、木々の緑のみずみずしい屋敷町をゆっくり歩く。六七年前まではところどころに大きな藁屋根の農家が見えて、その間をうずめるように林や畑地のひろがっていたこのあたりが、今ではほとんど住宅地にかわって、広々と庭をしつらえた豪壮な家や、いろいろと設計をこらした住み心地のよさそうな瀟洒な洋風住宅や、またこのごろ頻りに新築されるアパートのために、もうすっかり様子が変っている。しかしそれでも昔ながらの大きな立木や、山林の生き残りや、また新らしく植えこまれた庭木のために豊かさを保っている植物景観は、この町をいたって静かな住宅地とし、そこに季節季節の風趣をあたえ、散歩者の瞑想に無くてはならぬ寄与をしている。
 そんな事を、おとなの思索や感傷とはちがって、あたかも人が音楽からほのぼのと感じ取るように柔らかな存在全体で感じているらしい子供が、
「静かでいいね、おじいちゃん」と、ゆっくりした歩調を合わせながら話しかける。「ぼく、ほんとは散歩って事が好きなんだよ。そりゃあ玩具おもちゃの動物たちと遊んだり、漫画の本を見たりするのもいいけどね」
 おもちゃの動物たち! 彼にあって特に魅惑的なこの言葉、この複数をもって呼ばれる言葉が甚だよく当てはまるように、敦彦は縫いぐるみの各種大小の動物を機会あるごとに買ってもらって、今では三四十匹持っているのである。もちろん中にはもう尻尾しっぽと頭のとれかかった「ふらふらスカンク」や、詰物つめものがおおかた抜けて皮ばかりのような「くにゃくにゃワン公」もいるにはいるけれど。しかしみんな大事なのだ。みんな可愛いのだ。たくさんの子供を持った偏愛のない母親のように、彼はどんなに小さなしなびた象にも、あまりによごれて、古びて、へなへなになって。もはや熊だか犬だかわからななったようなを物にも、他の健全で新鮮な者たちにそそぐのと同じ愛情をそそいでいる。そして今、その可愛い動物たちと自分との親密な関係、――時にはおとな共から笑われたりからかわれたりする親密すぎる程の関係――を思い出しながらも、また一方ではこの初夏の夕ぐれの散歩に、思わずその感慨の一端を洩らしたのであろう。
 一軒の大きな農家の高いケヤキのてっぺんで、小鳥が一羽「ビー、ビー」と長く引っぱった声で鳴いている。深い空の海を背景にくっきりと見える鳥の全身が、夕日の最後の光をうけてまるで真赤に燃えているようである。私は高く指さして子供に教える。「あれは小さいカワラヒワ、コカワラヒワという鳥だよ。おうちのまわりでもよく鳴いてるだろう? イチョウの木へとまってさ。ビー、ビーつて」
 子供はうなずきながらじっと見ている。小鳥は今夜のねぐらの事を思い出したのか、突然もう一声鳴きながら火花のように飛び去った。
 道ばたの生垣や塀のあたりには、初めに書いた蝶もまだ飛んでいる。褐色の地に黄いろい模様のついた中型の蝶だ。それを見て孫が叫ぶ。「あっ! この蝶々ぼくの学校にもたくさんいるよ。なんて名?」
「キマダラヒカゲ。黄いろいまだらのある日影蝶という意味だ。おじいちゃんの庭へも二三日前から来はじめたよ」
「おじいちゃん嬉しかった?」
「そうだね、そりや嬉しかったさ。ちゃんと極まった時に極まった蝶々が、おまけに自分のうちの庭へ来てくれるんだからね。待っていたものが来るのはいつだって嬉しいよ」
 淡い褐色と水色のオープンシャツを着、紺の半ズボンに運動靴をはいた小さい敦彦は、待っていた者の来るのは嬉しいという告白めいた祖父の言葉を、子供心にも頼もしく優しいものと感じたのか、
「よかったね、おじいちゃん。キダラマ……じゃない、キマダラヒカゲが出て来て」と言いながら、なおも附け加えた、「おじいちゃんが嬉しいような顔をしているとぼくも嬉しいんだ」
 ああ、もしも其処に窓を明け放した洋館が無く、また折悪しく道の向こうから来る洋装の若い女性の眼が無かったら、私はこのかわいい孫を抱き上げて、その頬に、額に、愛と感謝の熱い接吻をしただろう!
 とらわれない心で、明かるい瞳をみはって歩けば、この世の途上に見る物はたくさんある。敦彦は私といっしょに見、見ることや知ることの喜びを子供にわかる言葉で教えられながら、自分と祖父との家のある門をはいる。その門の奥の小径こみちに色さまざまの薔薇が咲きみだれ、小さい姉の練習しているハイドゥンのアダージョが、入り日のあとの涼しい空間に音のある匂いのように流れている。

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 小さい旅

     1

 今年もまた信州上高地でのウェストン祭に出掛けなければならない羽目に陥った。
 ここ三年ばかり毎年続けて行っていることでもあるし、差し迫った仕事も二つ三つ持っているので、今度は御遠慮しようと一度は断わったものの、みんなが待っているとか、年に一度あの谷でお会いするのを楽しみに各地から集まって来る人たちが、御不参と知ったらさぞ落胆するだろうとか、今年は例年の日高(信六郎、日本山岳会会長)さんのほかに珍らしく槇(有恒)さんも見えるので、皆さんを乗鞍の鈴蘭小屋へ御案内して、小屋の妻君自慢の手打蕎麦を味わっていただく事に手筈をととのえてあるとか、そんな懇ろな事どもをこまごまと手紙で言われてみると、それでもと言って断わる気にはなれなかった。そして年中働きづめの妻から、これも「年に一度」の休養を理由に同伴をせがまれると、結局それも無理のない申し出のように思われて連れて行くことに極め、主催者である松本の日本山岳会信濃支部長あてに承諾の返事を出した。すると今度はその帰りに長野まで足をのばして、同市で開催される信州大学山岳部の結成大会のために一夕の記念講演をしてくれという、又別の頼みをうけた。これにはちょっとたじろいだが、どうせ出掛けついでだ、それに一時間半か二時間の講演ならば話に窮することもあるまい、そう思ってこれも快く引受けた。
 松本の支部と長野の大学との間でたちまち緊密なスケデュールが組まれ、私の六日間が公けの時間となって、彼らの善意と期待の堅い歯車の中へはまりこんだ。あとは私自身の心が平静で、精神に自由と弾力とがあればよかった。

 渋谷のデパートで三人分の弁当と果物を買い、正午の新宿駅のプラットフォームで松本行準急列車の入って来るのを待っていると、昨日電話で打ちあわせのしてある串田(孫一)さんがやって来た。彼は半分は自由行動、半分はNHKの仕事を持って久しぶりに上高地を訪れるというので、私たちと同行することになったのである。始終会ってはいるものの、私にとってもこの友人と旅や汽車を共にするというのはきわめて稀だ。まして妻には初めての経験である。半年ぶりぐらいにルックサックを背負い登山靴をはいて、よそ目にはいっぱしの登山家のように見えるその彼女が、なんと感歎と親しみとのこもった目でこのヴェテランの姿を眺めていたことだろう。洗いざらしたチェックのオープンシャツに着古しのジャンパー、つぎの当たったズボンに古い重たい登山靴。世間が知っている以上に登山の実践家でもあれば猛者もさでもある串田さんが、なんと目立たず当り前で、又なんと静かに頼もしく見えたことだろう。六月の昼の新宿駅頭、よく似合う黒ベレーを右前下がりにかぶって、風をよけながらライターの焔を巻煙草へ移すこの敬愛する年下の友の横顔が、私には人間との交渉にすこしやっれたウンブリアの小天使のように見えた。

 富士見は戦後七年間私たち夫婦の住んだ土地である。準急列車はその富士見の停車場をとまらずに通り過ぎるのだが、もしや誰か知った顔をその走馬灯の中に見ることも有りはしないかと、汽車が立場川たつばがわの鉄橋を渡って最後のトンネルを抜けると、私たちはさっそく窓をあけて首を出した。駅まで登り勾配で速力が落ちたので、あの細道はどこそこへ通う道、あの庭はだれそれの家の庭と、一々思い出をこめて指摘することができた。しかし、陸橋の上にも踏切りにも、知っている顔は見出せなかった。じきに駅前の広場が見え、七年の間毎日買物をした商店街の一角が見えて、汽車はそのまま午後四時すぎのひっそりとした停車場をむなしく通過するかと思われた。と、その時、私は駅の建物と貨物置場との間に、女の児の帯をつかまえてしゃがんでいる一人の男の顔を見出した。駅前の呉服屋の主人で、私たちの滞在中いちばん親しくしていた人である。私は窓から顔を出して手を振りながら大声で呼んだ。すぐ目の前を通っているのに相手には中々わからず、ただきょろきょろと視線を左右に勤かしているだけだった。汽車はその間にも走り続けている。私はたまらなくなって窓から半身を乗り出し、人目もかまわず手を振り声を送った。すると遂にみとめて私と気づき、やにわに立ち上がって両手を左右に波のように振った。大きくあけた口が盛んに動いているので、何か叫んでいるのはわかったが、その声は車輪の音に消されて聞こえなかった。やがて停車場も遠くなり、懐かしい姿も小さくなると、汽車はカーヴに沿ってゆるやかに向きを変え、右に八ガ岳、左に釜無かまなし連山を望む富士見高原の降り勾配を、今度は諏訪盆地さして滑べるように駈けおりた。

 まだ明かるいうちに着いた松本で、一晩を厄介になる事になっていた支部長の家へ行く前に或るカフェーで休んでいる間に、串田さんが言いにくそうな顔をしながら自分だけここで別れて夜道を徳本峠とくごうとうげ越えをしてみたい、そして明日あしたの午前中に上高地で一緒になるようにしたいと言い出した。私たち夫婦は驚いてもちろん不賛成をとなえた。せっかく一緒に来たものだし、あの長い登り降りを一人の夜道では後に残るこちらも心配だし、天気も思わしくないし、――その他あらゆる理由を持ち出して思いとまらせようとした。串田さんは穏やかににやにや笑ってうなずきながら、しかしやっぱり行く事にしますと言った。こういう時の串田さんは、物柔らかでいながら内心は甚だ強靭で、決してずるずるべったりに他人の言うがままにはならないのである。それに考えてみれば、今夜のあるじの支部長と串田さんとは互いに名だけは知っていてもまだ面識のない間柄である。そういう人の家へ行って気づまりな思いをするよりは、むしろ自分の実力と危険とにおいて自由に、細心に、創意と喜びとをもって夜の山越えを試みたいというのがその本心に違いない。それに串田さんにとって、こんな事は彼の登山経歴からすれば何でもないであろう。経験豊富で体からだは丈夫、懐中電灯も雨具も寝袋シュラーフザックもみんなルックサックに入っている。事によったら目を見はらせるような珍らしい非常食を持っているかも知れないし、更に夜明けの徳本とくごうの降りか徳沢とくさわあたりで、初夏の小鳥たちの合唱に合わせてワーグナーの「森のささやき」でも吹くために、例の木管の笛さえ袋の底にひそませているかも知れない。そんな事を思いながらまず最初に私が折れた。続いてさっきから串田さんを観察していたらしいカフェーの主人で、松本屈指の登山家でもある林さんが、改めてその道の人としての太鼓判を押した。最後には妻もしぶしぶ承知した。すると串田さんの顔がすっかり明かるくなり、主人から島々しましま行の電車の発車時間を聞き、途中迷いそうなこ一個所についての注意も聞き、さて夜食のための結飯むすびを作ってもらってルックサックへ入れると、「ではあした上高地で」という言葉をあとに、夕暮ひときわ賑やかな伊勢町通りを、駅の方へすたすたと歩いて行った。一夜を天へ帰省する小天使のように……

 松本城に近い友人の家の二階に寝て、硝子窓を鳴らす東寄りの風や、しだいに雲に呑まれてゆく月齢八日の月にあすの天気を気づかいながら、同じ時刻に島々の谷の陰沈と更けた夜道を一人で歩いている友の上を案じながら、あしたウェストンの碑の前で朗読するように頼まれた詩の文句を考えながら、容易に眠りにつけなかった夜も明けてどんよりと曇った朝、支部長の高山さんとその令嬢と、そのまた友達の娘さんと、私たち夫婦とが大型ハイヤーで出発した。途中、駅前の飛騨屋で日高さんの一行を拾って同勢八人。車は、豊饒の安曇平あずみだいらを東から西へ横断すると、やがて島々の宿しゅくから左へ、いよいよ梓川の谷へはいりこんだ。右を取れば昨夜串田さんの辿ったはずの徳本への道である。
 去年にくらべると山や谷の夏はまだ早く、楽しみにしていたエソハルゼミの斉唱も聴かれなかった。しかし稲核いねこきあたりでは山畑に薄紫の桐の花が咲き、鵬雲崎ほううんざきの懸崖では白い円錐形のトチの花が見られ、山藤の藤色の房は行く先先の谷のむこうにもこちら側にも、曇り日の少し雨気をふくんだ風に揺らいでいた。ときどき急峻な崖の面に火のように赤いものを見出して目をみはると、それは幾つかの種類のツツジの花のかたまりだった。

 例によって沢渡さわんどの立場たてばで小憩した。車をおりて茶か飲む店屍ではいろいろな土産物を売っていた。一頭の熊の毛皮を何枚にも切った臀当しりあてや、一見ムササビかと思われるような薄茶色の小猿の毛皮も売っていた。私はちょっと「靭猿うつぼざる」を思い出した。しかし試みに値段を聞いてみてびっくりした。あたりにはバスも幾台か停まっていて、乗客の大半が車をおりて路傍にたたずんだり、煙草を吸ったり、カメラをのぞいたり、土産物を物色したりしていた。中に一人でっぶり肥った土建屋らしい男がいて「この岩魚いわうおというのは何だね」と聞いた。するとその店のおかみが薄笑いを隠しもせずに、「これは岩魚と書いてイワナと読みます。土地の名物でおいしい罎詰ですよ。一ついかがです、おみやげに」と言った。幅の広い金いろの鎖くさりバンドに腕時計を光らせた紳士に、「イワナか、ふうん」と独り言を残しながらそのままバスヘ帰ってしまった。
 硫黄の匂いのする坂巻、中ノ湯。長い陰気なトンネルを抜けて、急勾配の坂道を営々と登りつめるとからりと広けた山間盆地。命あって今年もまた見る大正池、焼岳、穂高連峯。私たちの車は左へ大きく弧をえがくと、新緑の落葉松林からまつにかこまれた上高地駐車場へすべりこんだ。

     2

 十数台の大型バスがずらりと並んでいる上高地の駐車場では、あいにく山の小雨こさめが降り出していた。その雨に砂利敷きの広場をかこんでいる高い落葉松からまつの林がしっとりと濡れ、若葉から青葉へ移る時のあの匂い立つような清涼な緑を吐いて、いかにも海抜一五〇〇メートルの山間渓谷ヘ来たという感じを新たにさせた。それに道路のすぐ向こうの山側の暗い林からは、早くも黄ビタキ、ルリビタキ、エソムシクイなどの小鳥の囀りが、或いは水の滴るように、或いは小さい鈴を振るように聴こえて来た。あたりに響くその結晶のような澄んだ声にも、すべて色や匂いがあるように思われた。
 自然だけはいつに変らぬ上高地、予期したとおりの上高地ではあるが、やはり来てよかったという気がした。ルックサックを背負い、傘をかしげてその歌に聴き惚れている妻に、「いいね、やっぱり」と言うと、「ほんとうに。待ち遠しい一年でしたわ」と、東京でよりもずっと若々しい顔で答えた。
 ふだんはおのれを捨てて私情や欲望を撓めている心が、そんなにも一年のこの日を待ったのかと思うと、私に感謝と惻隠の情とが卒然として湧いた。
 宿は例年どおり五千尺で、座敷は例年どおり本館三階の二〇号室だった。張出しのヴェランダヘ出ると眼の下を梓川が淙々と流れ、河童橋が懸かり、下流に兜を伏せたような褐色と白の焼岳、正面には黒々と原始林におおわれた西穂高の山稜、上流へ曲がりくねった渓谷の上には、するどい槍の穂先や剣の刃のような残雪をきざみこんで、奥穂、前穂の峻険が高々たかだかとそびえ近々ちかぢかとのしかかっていた。そしてこの雄々しい風景をなごませるように、六月の雨が山肌に雲をまとい霧を湧かせて降っていた。目に見るものはすべて旧知でありながら、しの受けとるものは何もかも改まって新しかった。
 ウェストンの碑の前で則読する詩を苦心しながら書いていると、徳本とくごうを越えて来た串田さんの到着が知らされた。あまり早朝に着いても悪いと思って、夜明けの峠の上で三時間ばかり遊び、それからぶらぶら歩いてやって来たという事だった。疲れた様子もなければ変ったところもなく、昨日きのうのとおり、いつものとおりの串田さんだった。妻が何かとねぎらうのが寧ろおかしいくらいなのに、「はいはい」と素直すなおに言うがままになっているのが彼らしかった。聡明で強靭で素直なのが登山家の徳の大いなるものだとしたら、我が友串田孫一はまさにその名に値いした。
 漸くの事で詩が出来たので、雨の中を河童橋下流の会場へ駆けつけると、もうウェストンの碑を半円形にとりまいて二百人余りの参加者が集まり、主催者側の挨拶や来賓の祝辞が始まっていた。例によって録音や映画をとる人達が活躍し、そこらぢゅうで終始カメラのシャッターが切られた。最後に私も出来たてのほやほやの拙い詩を読んだが、多勢の人達に耳を澄まして聴かれているのだと思うと、カロッサの言葉ではないが、湯で洗うと悪い歯がわかるように、自作の欠点や弱所がまざまざと指摘されて情なさけない気がした。そして、もうこれを最後に、いくら頼まれても決して即席の詩を公開したり読んだりはすまいと自分で自分に言いきかせた。しかもまだインクも乾ききらないそのへたくそな詩を私から無理にさらい取って、さっそく町の本社へ電話で送る若い新聞特派員があった。そんな事を人垣にまじってすっかり見ていた串田さんと妻との同情が、私にとってはせめてもの慰めだった!
 若い女の登山者二人の手で献花が終ると碑前の行事がすんで、次には場所をかえての講演会だった。場所は河童橋上流の小梨平にある新築のホールで、人々は三々五々濡れた草の小径こみちを歩いて行った。ウェストン祭には雨の降る公算が大きいという事を皆が皆知っているわけでもあるまいが、頭から濡れてゆく人は数えるほどしかいなかった。しかもその人たちは明日は槍とか穂高とか焼岳とか、めいめい思い思いの山へ登るのである。してみれば「雨が降ったら傘をさす」という良識が、少なくともこの人々の間には生かされているのだと思って頼もしかった。
 今度も来ておられる大先輩の槇さんが数年前の同じウェストン祭に、ルックサックのポケットヘ当時としてはまだ珍らしい折畳み式の蝙蝠傘をつっこんでいた。それを見てなるほどと感心して以来、誰始めるともなく、私たちはどんな山行にも必ず傘を用意するようになった。見たところ勇ましさには欠けるが、持っている本人の気は大きい。風が強過ぎたらつぼめるがいいし、日光の直射が暑かったら開いて日よけにするがいい。下界でもそうだが、山では特に良識による工夫くふうと落ちつきと素直さが大事で、主義かイデオロギーを鎧よろっているように肩肱かたひじ張ってしゃっちこばる必要は少しもない。そう思って並んで歩いている串田さんを見ると、事によったら奥さんのお古ふるではないかと思われる薄桃色のやつをすましこんでさしている!
 会場の広いホールはぎっしり満員だった。男と女がほぼ半々で、若い人たちの精悍な顔やういういしい顔の間にちらほらと、昔の山の猛者もさらしい顔も見えた。槇さんや日高さんや藤木九三さんを初めとして七人ばかりの人が話をした。串田さんと私もしゃべった。普通に考えられる講演会とは違って、話す者と聴く人たちとが実際の山登りという行為や体験でしっかりと結ばれているので、互いの親愛と信頼とが、気の置けない、温かい、楽しい空気をかもし出していた。それに聴衆一同に知性と気品があり、みずから守る作法があるので、腹をかかえるような話の中でも人々の笑いは気持よく朗らかに、静かな瞑想的な話の時には幾百の瞳が夢みるように柔らかく輝いた・どんな話も腹を割って心から語られ、すべての話が寄り添うように親しい気持で傾聴された。その好ましい雰囲気に勇気づけられて、どの講演者も与えられた時間をはみ出した。全部で二時間半になんなんとした。
「こんなみごとな講演会は今までにも無かったし、おそらくこれからも無いでしょう」と主催者側の或る人が感慨深げに言つていた。私も同感だった。
 雨が上がり、雲が切れ、霧が動きだして、周囲にそそり立つ山々の膚がくっきりと現われた。梓川の瀬の音が響きを高め、夕闇をわたるそよかぜにあらゆる樹々がしずくを落とした。今宵みんなの分宿するそれぞれの旅館の窓に、遠く近く、電灯の親しい光が輝いていた。
 ついにこの渓谷の空が初夏の星の光にうずまったその夜、私と妻と串田さんとは同じ座敷に枕をならべて寝た。昨夜からの徳本とくごう越えや今日一日のおっきあいでさすがの彼も疲れたのだろう、すうすうと寝息を聴かせ、二言三言、笑いながら何か寝言を言っていた。
 あくる日はウェストン祭第二日の行事として、幾組かの登山班が早朝から出発した。つづいて附近の地質や動植物を見学する班がゆっくりと出かけた。午後から乗鞍の鈴蘭小屋へ行ってそこで一泊する予定になっていた私たちは、若い女性の多いこの見学班に加わった。登山班にも見学班にも、それぞれ指導者がっいていた事は言うまでもない。しかしあらかじめ自由行動をもくろんで来た人たちももちろんいて、串田さんもその一人だった。山岳写真家山北哲雄君や保科清子さんと同行で焼岳へ登るというので、互いの無事を祈りながら、薄桃いろに小梨の花のほころびそめた河童橋の挾でわかれた。

 爽やかに晴れわたった美しい朝だった。私たち二十人あまりの一行は、毎年指導を引きうけてくれる植物の大家横内斉さんを中にはさんで、一々懇切丁寧に樹木や草の名を教わりながら、いわゆる上高地原始林を縫う道を四キロ上流の明神池まで往復した。林の中をいろどる花には季節がまだ少し早かったが、それでもおびただしいラショウモンカヅラの藤いろや、エゾムラサキの空色の花が路傍をぎっしり埋めていた。水が滴って日の当っている岩の崖には、珊瑚さんごのようなイワカガミや大イワカガミも咲いていた。明神池に近い中の洲の林間では、ことしもまた優美なタガソデソウの曇り水晶のような花がみごとだった。小鳥の声も行く先先の林ぢゅうに鳴り響いていた。小鳥は私が指導者だったが、キビタキ、ルリビタキ、ヒガラ、コマドリ、エゾムシクイ、コルリ、メボソ、ミソサザイ、アカゲラ、コゲラ、ホトトギス……そういう名や歌の聴きなしを、教えられた植物の名と一緒に、若い女の人たちがめいめいの手帳へ書きこんでいた。知識のためにせよ思い出のためにせよ、その熱心さをけなげなものに私は思った。そして、一行の中にマナスル登山隊長の槇さんがい、日本山岳会長の日高さんがい、なお幾人かの年をとった山の先輩がいて、その人々の気取りや隠しだてのない日常的な態度を見たり、自由で親しい打ち明け話を聴いたりする事で、彼ら若い人たちがどんなに啓蒙され、どんなに裨益されるところがあったかを、これを書いている今ですら私はつくづくと思うのである。
 諧演会で信州大学教養部の清水悟朗さんが言ったとおり、「山の中での人と人とのめぐりあ
い」。それは心ある人にとっては、世にも美しい稀有な一瞬である。同様に人生での心と心の遭遇もまた奇くしく貴い。
 つつがなく今年のウェストン祭の行事を終った私たちは、その午後参加会員の最後の人々と別れを惜しみ再会をちぎって、上高地をあとに乗鞍へと向かったが、私自身のうちにはなお容易には鳴り消えない人間への愛と信頼の歌のようなものがあって、夕暮と朝の金山平かなやまだいらと鈴蘭小屋、更に山や谷に別れて松本から長野、そこでの一千人の若い人たちのための講演の時まで、同じしらべが余韻となって響いたり、また新しく潮のように高まったりするだった。

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 詩の鑑賞

 御一緒に羽田空港に人を見送って、それから同行の妻にとっては初めての川崎のお宅へうかがって、町を見おろす三階の角の、いかにも医学の学徒の部屋らしい清潔な君の書斎でインターン生活の話を聞いたり、テープレコーダーに耳を傾けたり、最後には純日本風の庭に面した下の広縁のお座敷で御両親のおもてなしにあずかったりした三日前のあの日と、まったく同じような夏の終り秋の初めの、今日の空の光と風の肌ざわりです。
 朝から蟬の歌がさかんです。夜明けのカナカナ、やがて強い郎音のアブラゼミと荘重なミンミンゼミ。それにこのごろ急にふえたツクツクホウシの、白木の板にかんなを走らせるような音。そういう蟬たちの声が窓のそとの林の木々を満たしています。その間には五月の初めから鳴いている三光鳥の「ビッビッビッ・ポイポイポイ」の声も響き、コジュケイもけたたましい叫びを上げ、生垣や草の中からは、昼間のカネタタキやクサヒバリの微かなすだきも聴こえて来ます。そして花壇では又新しく薔薇が咲きはじめ、赤い鳳仙花や桃いろの花虎ノ尾のまわりをさまざまな晩夏の蝶が飛びまわっているという、まことに「夏と秋の間」の疲れた輝きと清新な期待との入りまじった、微妙な一季節の詩が私のちいさい世界をも訪れています。
 詩といえば、君がラジオから自分で取ったのをあの日聴かせてくれたテープレコーダー、一九五六年に七十八歳で亡くなったドイツの詩人ハンス・カロッサの自作朗読の数篇は、私も四年か五年前に同じ放送で聴きました。カロッサは、君も知っているとおり、私の愛し敬まっているごく少数の現代詩人の一人です。その四年前の逝去の報は私にとって言い知れない悲しみと落胆でした。会ったことはなくても、あの深い慈愛と明知とのひろがった静かな美しい顔の写真は、日夜私の書斎で、私の仕事や生活を守護の天使のように見まもっています。そして自分の道が、結局は自分の気質や個性に導かれるものでありながら、どことなく彼と共通する心の風光へと向かっている気がするのです。
 君のところで聴いて何年ぶりかで思い出したカロッサの声は、ヘルマン・ヘッセと同様に深みのあるバリトーンですが、その詩の読みかたはヘッセのよりも抑揚がすくなく、また一層柔らかなようでした。しかし言葉の音綴シラブルは粒がそろって歯切れがよく、一語一語に心がこもっていて、温かく諭さとすように響きました。私はあの朗読か聴きながら、これもまた最近亡くなったスイスのピアノの老大家エドヴィン・フィッシャーを思い出していました。彼のバッハやモーツァルトの弾きかたにも同じ趣きがありますが、おそらくカロッサ自身もその演奏を、スイスかドイツの何処かの都会で、共感と愛とをもって聴いたことだろうと思います。
 さて今朝は、初めに書いたような晩夏初秋の自然を前にした窓のところで、そのカロッサの朗読した詩のうちの二篇を翻訳してみました。放送にも或る人の日本訳はついていましたが、語句の選択がすこしお粗末だというのでお互いに残念がりましたから、書棚から原書をぬきだして、朝のすがすがしい机の上に本と原稿紙とをひろげたのでした。二時間ばかりで出来ましたが、まだ多少の修正は必要かも知れません。つまりあの日の同席者、君と私の妻とのために訳したわけで、それは同時に私自身の喜び多い勉強でもあります。今日はその一篇『烏のバラード』Vogelballadeを見ていただきましょう。

  お前たち、貪欲な鳥どもよ!
  きょうは餌えさを待ってもむだだ。
  穀粒こくつぶを撒いてくれるあの両手が
  今夜閉ざされた。

  お前たちは皿のまわりでわめいたり啄ついばんだりする、
  あたかも永遠の権利を持つ者のように。
  だが死んだ人はあかりの下に横たわっている。
  そして箱も穀倉もからっぽだ。

  飛び去るがいい! お前たちの煤すすけた羽毛は
  栄養に富んだ贅沢な食糧のおかげでつやを増し、
  まだらの模様を現わしてきた。
  しかしお前たちは歌うことを忘れてしまった。

  その人は彼の最後の持物をお前たちに与えつくして、
  恨みもなく去ってゆく。
  お前たちはふるさとの聖なる森へ帰って、
  昔の歌の稽古に身を入れるがいい!

 詩のすじは御覧のとおり至って簡単です。一人の孤独な、たぶん老人かと思われる人が、永いあいだ毎日庭へ集まってくる山野の鳥に餌を与えていた。ところが或る夜その人がぽっくり死んだ。鳥たちはもういくら待っても騒いでも餌を貰うことはできない。ただそれだけの事です。そしてその恩人の死を第三者である詩人が鳥たちに伝えながら、もうこの上は故郷の森へ帰って、美食をむさぼるばかりで忘却久しかったお前たち本来の歌を、もう一度習いかえせと警告しているという、それだけの事です。
 しかしそれで片づけてしまう前に、もう一度よく詩そのものを味わってみましょう。
 四行四聯で出来ているこの詩の前半二聯は、鳥たちに対する恩人の死の知らせです。「穀粒を撒いてくれる」というから餌としては一応ムギやアワのような物が想像されます。そして「両手が閉ざされた」という句で施与の行為の断絶、すなわち給餌者の死の事実がわかり、その上「閉ざされ」たという表現から、私には臨終の人の合掌のイメージが目に浮かびます。何でもないようでいて、実は甚だ美しい具象的な句ではないでしょうか。今はむなしい餌皿のまわりへ集まって騒がしく無遠慮に鳴き立てたり、皿の縁へとまったり中へはいりこんだりして、何も無い処を愚かしくこつこつ突っついている鳥たちの姿も印象的です。しかも彼らは餌を与えられる事が自分たちの「永遠の権利ででもあるように」要請し、わめき立てているのです。与えつくした慈愛の施与者が、そのほのぐらい死の部屋のともしびの下に横たわっている時に――。この喧騒と静寂のコントラストはきわめて深刻です。心を残して死んでゆく一家の支柱と、我儘わがままに馴れた寄生物のような家族のむれ。或いは何かのイデオロギーを狂信して他人の事などは歯牙にもかけない我意の大衆。私はそうした寓意をさえここに見ます。
 第三聯では、その鳥たちが永い間の厚遇に馴れっこになっていた事、餌が尋常でなかった事、彼らが大体どんな鳥であったかという事、美食に甘やかされて鳥類たるの本職を忘れてしまった事などが、簡潔な四行のなかに述べつくされています。「栄養に富んだ贅沢な食糧」という句は単なる修飾ではなくて、カロッサに独特な含蓄のある真相表現のように思われます。そうするとその穀粒なる物もムギやアワのような平凡な物ばかりではなく、トウモロコシの粒とかヒマワリの種とか、特にはクルミのにかけらというような脂肪分の多い美味な食物が想像されます。そしてそういう栄養食のおかげで「煤けた羽毛が光沢を増し、まだらの模様を現わしてきた」という句で、私には彼らがドイツでシュタール Star と呼ばれている鳥のように思われます。これは星椋鳥ほしむくどりと訳されていてカラス科の仲間ですが、日本にはいません。羽毛の色は紫光を放つ黒色で、その中に白い点々が散布しています。習性としては山林に群をなして住んでいて人里にも多数で現われること、我が国のムクドリと変りはないようです。しかしこれはただ私の臆測にすぎず、むしろそこまで詮索する必要は無いでしょう。
 さて最後の第四聯です。この四行は一篇の締めくくりであり、正念場しょうねんばであると同時に、その最高潮のところでもあります。
 慈愛の人は、彼の貯えの最後の一粒まで横暴で身勝手な寄食者どもに与えつくして、今は静かにその地上の家を去って行きます。「私はおのれを犠牲にして久しく彼らに奉仕した。それなのに、その私のたましいの最後の平安の瞬間をさえ掻き乱さずにはいない彼らは、そもそも何という忘恩の徒だろう」という恨みの思いも、また永く自分に辛つらかった世間やこの世への憤りの感情もなしに。そう思って読みかえす時、われわれはこの「恨みもなく」の一句に、寂しく澄んだ諦念が秋の水のように流れているのを見ないでしょうか。
 こうして敬虔で善意にみちた孤独の人は、その老いたる大いなる母のふところへ引き取られて行きます。「それならば鳥よ、お前たちも帰れ、お前たちを生んだ緑のふところ、あのしんしんと茂って暗い聖なる森へ」と詩人は言います。この「ふるさとの聖なる森」の一語を実にすばらしいとは思いませんか。ドイツの森林であり、そのさまざまな神話や物語の詩的な思い出に欝蒼とした森が、一語をになって重く横たわっているのです。そして詩人は更に言います、「厚遇に馴れ甘え、美食に飽き足りて忘れ果てたお前たちの本然の務め、絶えて久しい昔の歌を、ふるさとの森へ帰って練習しなおせ」と。私にはしょんぼりと首うなだれた鳥たちの姿が目に見えるような気さえします。そして彼らが三羽五羽と、今は亡い恩人の庭から静かに飛び去って行くのがわかるようです。
 私の解釈は以上のようなものですが、この詩はわれわれにとってもまた一つの美しい警告として響きます。と言うのも、この死者と鳥たちとの関係の中に、私はカロッサ自身と世界との関係を一つの象徴として見出さずにはいられないからです。

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 夏から秋への一日

 九月十八日。
 今日は日曜日。若夫婦の卵工場が休日なので、母屋の主人側も別棟の使用人たちも皆ゆっくり寝坊をしている。しかしこちらでは妻がいつものように六時前から起きて、書斎を掃除したり、台所を片づけたり、家のまわりを掃いたりしている。朝の空は濃淡の真珠いろの雲に被われているが、相変らずツクツクホウシの声は賑やかで、遠くからはまだ生き残っているヒグラシの複音の銀笛も聴こえる。やがてミンミンゼミとアブラゼミが一匹ずつ精力的に鳴き出した。そとへ油て寒暖計を見ると今朝の最低気温は二十三度。もうすぐ秋分の彼岸だが、異常に暑かった夏の余燼はまだ容易に消えそうにもない。今日も晴れて来たら三十度近くなるのではないだろうか。晴れそうな兆候としては、窓からの西の眺め、相模野の空にも雲の波浪がつづいているのに、その下の遠く地平線に接した処だけ帯のような青空が見えて、そこにくっきりと大菩薩や笹子峠の嶺線がよこたわっている。
 台所での妻と二人の食事がすんで八時半ごろ、何気なしにラジオのスイッチを入れるとNHKがレコード音楽をやっている。ちょっと聴いていてそれがモーツァルトの弦楽四重奏曲『狩猟』だという事がわかると、改めて本気になって残りの部分に耳をかたむけた。これがふだんの日なら、仕事にかかる前の朝の時間と気分を、新聞やラジオによって変質させるような事はしない。あたかもこわれやすいものを扱うように、平静に保たれた時間の中へ創作的な気分をそっくりそのまま持ちこむのである。しかし今日は日曜だ。自分で自分で自分を規制している私にとって、七日に一度の日曜日は学生や務め人にとってと同様に楽しい。それに、きのうは妻の誕生日だったが、その祝いだけを今日に延ばしたので、午後には都心ヘプレゼントの買物に行き、夜は家族だけで小さい祝宴を催すことになっている。そういう日の朝だ。ラジオも音楽ならば我慢できる。それもモーツァルトで、しかも弦楽四重奏曲とあれば、心を開いて受け入れる事ができるというものである。
 続いてシューマンのピアノ小曲集『森の情景』が始まった。解説者の言葉によると、ウクライナ出身のリフテルとかいう若い練達のピアニストの演奏ということだった。なるほど達者で音量も豊かではあるが、私の好みからすると九つの小曲の一つ一つにもう少し微妙な気分の移ろいや、明暗のニューアッスの表現が欲しかった。そしてその点では、同じ曲を弾いている女流の大家クララ・ハスキルのほうが数等すぐれているという気がした。欝蒼とした葉の茂りや木の間の空、柔らかな湿めった苔の感触、霧のこもった暗い小径こみち、響きわたる小鳥の声、伝説の思い出……そういう森林の詩がハスキルでは一層精妙にこまやかに歌われている。彼女のは私たちに森を説くのではなくて、私たちの心に森をよみがえらせるのである。
 ところでそういう比較はさて置いて、私はそれを聴きながら、今年八十三歳になるドイツの詩人ヘルマン・ヘッセがこの曲を大変好きだという事と、その九曲の中の第七番目の『予言者としての鳥』にまつわる彼の或る逸話のようなものをぼんやりと思い出していた。
 高齢の今ではどうか知らないが、六・七年前までヘッセは夏ごとにスイスの風光すぐれた山間の避暑地サン・モーリッツヘ行っていたらしい。或る年の夏の滞在中、其処でビアニスト・クララ・ハスキルの独奏会があった。スカルラッティの好もしいソナタ三つを含む幾つかの曲目の最後にシューマンの『アラベスク』が弾かれる事になっていた。ヘッセは同じシューマンならば『アラベスク』よりも『森の情景』にして貰いたかったと残念がった。そしてその組曲の中でも一番好きな小さい曲『予言者としての鳥』が聴きたいのにと思った。しかしとにかく独奏会は大成功で、演奏者は盛んな拍手を浴びた。ところがそれに答える礼奏アンコールに、なんと思いがけなくも『予言者としての鳥』をハスキルが弾いたのである。心中ひそかに抱いていた望みが偶然にも満たされた事に対する老詩人ヘッセの驚きと喜びとは察するに難くない。彼はその事を『エンガーディンの体験』という美しい豊かな文章のなかに書いた。するとそれを愛読者の一人でフランクフルトに住んでいる或る女性が読んで、その年のクリスマスの贈り物としてパリに保存されている同じ曲のシューマン自筆の原稿をわざわざ写真にとらせて送って来た。同時にベルリンの或るピアニストは、ヘッセのために自分で演奏して、それをレコードにして送ってよこした。ところがこの折角の好意の贈り物があまりに軽くてへなへなしていて、ヘヴセの持っている二台の蓄音機のビックアップでは音が生まれない。老詩人と夫人とはひどく落胆し、居合わせたゲッチンゲンからのお客は彼らの落胆に同情した。しかしそれから幾日もたたない或る日、帰国したその客から堅いレコードが送られて来た。そこでさっそく掛けてみたら、ああ今度こそ「シューマンの優しい魔法の小曲が、コルトーの演奏で、太古のように古く、しかも永遠に若々しく、羽ばたきの音をたてなが木立の間へ舞い上がった」
 さて、ちょうどラジオの音楽の済んだ時、私の処へもお客が来た。信州富士見の高原中学の校長さんで、今度学校で校歌を制定することになって職員の間でその歌詞は作ったものの、何しろ素人しろうとのやった事で心配でもあるし権威も感じられないから、どうか一応見てくだすって、変な処や不適当な箇所へは遠慮なく筆を入れて頂きたいという頼みだった。私は詩こそ書くが校歌を作ることには玄人くろうとでも本職でもないので内心は断りたかったが、富士見といえば戦後七年間を住んだなじみの深い土地でもあり、また全然校歌を作った経験が無いわけでもないので、作曲に間に合うように今月中には手を入れて返送するという約束をして引受けた。これから正午過ぎの汽車で上野駅から札幌へ向けて全国中学校長会議のために出発するという校長さんは、お引受け下すってありがたい、これで安心して行く事ができるという感謝の言菓を、いくらかの諏訪弁と諏訪アクセントで述べていそいそと帰って行った。気がつくと、その後姿へ何時いつ降り出したのか細かい雨が降りかかっている。しかし信州から出で来てこれからはるばる北海道へ行く旅人である。さすがに傘は持っていて、薔薇の花壇を過ぎて門への道にかかるとパチンとさした。
 雨は昼すぎにはやんで雲間から太陽が照りそそぎ、気温もぐっと上昇してきた。私は今日の妻への贈り物を買いに軽い盛夏服に着かえて家を出ると、電車・地下鉄と乗りついで、銀座のまんなかの或る大きな百貨店へはいりこんだ。貰った当人を驚かせ喜ばせるためには秘密を守らなくてはならない。しかし同じようなプレゼントが鉢合わせをしてもまずいから、あらかじめ娘夫婦の大体の意向だけは探ぐってみた。娘はにやにや笑いながらはっきりした事は知らせず、「でも大丈夫よ。おじいちゃんの考えつくような平凡な物じゃないんですから」と言った。敵を図はかるためには先ず味方からして図ろうというのだった。私もまた愛する味方に自分の胸中を明かさなかった。
 私は百貨店の何階だかの売場へ立った。下の案内所で訊いてきたとおり、其処には女物のスウェターやカーディガンが目も綾にならんでいた。幾十というマネキン人形に着せたのもあるし、硝子張りの低い長い陳列函に積み上げたのもあった。初めのうちは自分の眼で丹念にあれこれと物色したが、型や編み方や色彩の多種多様のためにしまいには頭がへんになって来た。そこで思い切って専門家に相談することにして、多勢の若い女店員の中でも親身しんみになって相談に乗ってくれそうなのを一人選び出した。二十四五になるその女店員は着る本人の年齢を訊たずね、背格好や皮膚の色まできいて、やがて「これならばお似合いになるかと思いますが」と言いながら、別の硝子の陳列棚から暖かい感じのダーク・グリーンのと、ほのぼのと煙るようなライト・ブラウンのと、二種類のカーディガンを取り出して前へならべた。なるほど色の深みといい手触りの柔かさといい、今まで物色したどれよりもすぐれていた。私は来たるべき秋から冬の初めにかけてこれを着た時の妻の姿を、その色の調和の上から想像してダーク・グリーンの方を選んだ。女店員も我が意を得たというように賛成した。そして誕生日の贈り物だと聴いて、熨斗紙のしがみをかけた箱の上に美しいリボンを叮嚀に大きく花のように結んだ。それから別の売場で軽い添え物としてブローチを買った。今度は自分一人で見立てた。革で造った枯葉と小枝に、露の玉のように白い石をあしらった品ひんのいいアクセサリーだった。
 さて夜は家族の者だけでささやかな祝いの食卓が囲まれた。さっぱりと着換えて薄く化粧をした妻は、花を飾った卓の正座にすわらせられて大人たちからは葡萄酒の、二人の孫からはジュースの乾杯をうけた。娘が簡単な祝辞をのべてふだんの労に感謝をした後で、「五十五にしてはおばあちゃんは本当に若いわ」と言ったら、その母親である妻が正直に顔を赤らめて目を伏せた。するとその改まった祖母を末座から珍らしそうに眺めていた小さい姉と弟とが、互いに顔を見合わせて首をちぢめた。
 食事がすむとそれぞれのプレゼントが贈られる事になった。子供たちが待ち構えていた瞬間だった。男の児の孫がまず立ち上がって、緊張した面持おももちで、自分の贈物を差し出した。包紙には「おばあちゃんおめでとう。敦彦」と鉛筆で大きく書いてあった。「すぐ見て」と小学二年生の贈り主が督促するので、妻が「何でしょうね」と言いながらあけて見ると、銀金具の光った黒革のバンドが出て来た。「どう? 気に入った? おばあちゃん」と、敦彦は愛する祖母の満足をさっそく確認したいように訊いた。「気に入ったわ。どうもありがとう」と妻は頭を下げた。姉の美砂子は貯金の中から大奮発をして最新型の高級万年筆を贈った。若夫婦からはすばらしい秋のスーツ一着とフラノのオープンシャツだった。みんなが妻の喜びに満足し、めいめいが自分たちの思いつきに満足した。そして最後に私からのが贈られ披露されて、拍手を浴び、女たちからは特に見立てのよさが褒められた。
 晩く離れへ引き取った私たち夫婦は、新らしくコーヒーを入れながらベートーヴェンの弦楽四重奏曲『ハープ』をレコードで聴いた。窓から見える夜空は芙しく晴れて、夏の星座が地平線の方へ傾いていた。

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 故園の歌

 一駅一駅たんねんに停まって来た松本からの鈍行列車は、午後四時すこし前にやっとの思いで富士見についた。朝のうち、海抜二〇〇〇メートルの美ガ原うつくしがはらの高みではあんなに濃い霧のために甚だ気づかわれた今日の天気が、一日の終りに近く、標高九五五メートルの此処まで来ると、わずか西のほうに銀鼠色の雲の土手を残すばかりで、日没までにまだ一時間という太陽が、ようやく秋の黄の色を増した高原のひろがりや、山々の肌を涼しく燦然と照らしていた。
 今年六月の上高地と乗鞍への旅の時に、この駅には停まらない準急列車の窓と駅構内の柵のところとで、はからずも互いの顔をみとめて手を振り声を上げて挨拶し合った私と此の土地在住の友人とが、今度こそは久しぶりに会って、この高原の小さい町で一晩をゆっくり歓談しようという、出発前からの手紙での約束だった。
 駅前の広場に面した彼の呉服の店で、その友人である中山さんが待っていた。「あしたになるかなと思っていたのによくこんなに早く、さあお上がりなして」と言って私の重いルックサックを軽々と受けとると、和服に前掛け姿の大きなからだを揺すって二階の座敷へ案内した。「大丸屋さんはすっかりきれいになりましたよ」と、六月の山の帰りに長野へまわる私と松本で別れて自分だけ富士見へ寄った妻が言ったとおり、以前は古風な土蔵造りで、中二階だった採光の悪い狭い家が、りっぱに改築されて明るく住み心地のいい二階建てに変っていた。いろりと手押しボンプとが同居して暗くてしめっていた台所が近代的な厨房兼食堂になり、透明な函の中でモーターが廻転して豊かな水が蛇口から噴出し、暖かい色の螢光ランプが戸外の秋の日光を模倣していた。東西二間ふたまの二階座敷もよかった。窓枠まどわくの中へすっぽりと入笠にゅうかさや釜無かまなし本山のはいる西の座敷は、彼の三男とその妹の部屋になっていた。二人分の勉強机と本箱がならび、高等学校へ行っていて音楽が好きだという兄のほうにはドーナッツ盤のレコードの凾が積み上げてあり、中学の体育部の選手だという妹のほうの壁や襖ふすまには、国体その他各種の競技会のポスターが画鋲でとめてあった。東へ恂いた座敷は当の中山さんの居間で、これはまたすべてが純日本風だった。しかし一番の自慢はその窓で、二枚の大きな摺硝子すりがらすの障子を左右に引くと、八ガ岳の連峯から北八ツ、蓼科山までの広大な展望がそっくり入った。近くには高原療養所の建物も見え、中学校のモダーンな校舎も見え、その左のはずれには終戦後七年間私の住んでいた分水荘の森が欝蒼とした一角をのぞかせていた。そして眼の前は駅とその広場で、上り下りの列車が停まっては発車し、五つの方角から集散する大型のバスがこの田舎町の玄関に華美な色彩を点じていた。
 町の様子も変れば、人々の服装も顔つきも変った。「午後も今ごろの時間になると先生や奥さんがよく町へ買物においでなしたね。先生はジャンパーにゴム長、奥さんは筒袖にモンペをはいて」と、今しも上りの汽車から降りてぞろぞろと窓の下を通る務め帰りの若い連中や学生や、町や村の人々を見おろしながら中山さんが言う。ほんとうにそのとおりだった。東京で戦災に遭って住むに家もなくなった私たちが、人の好意でこの高原の森の中に静かな片隅を与えられ、さてこれからは名も無く貧しく美しく、まったく生まれ変った気持で新らしい生活を形づくってゆこうという堅い決意には勇んだものの、気候にも人間にもその地方的な気質にも、すべてになじみの薄い未知の土地での現実は苦しかった。「先生はゴム長、奥さんは筒袖にモンペ」と君は言うか、友よ。まさにそのとおりだったし、げんに今君の取り出したアルバムの中でなんと私たち夫婦の姿が見すぼらしく、なんと二人とも痩せやつれていることだろう。それでも妻はまだいい。彼女の顔には忍耐と信頼の温かい光が漂っているのに、私の瞳には何か憤りのような暗い炎が燃えているではないか。よしんばその昂然としたものがうらぶれた私の心の筋金となっていたとしても、この妻の温愛と忍耐との支えが無かったならば、私はついに立ったまま死んでしまったであろう。その私たちにとって毎日の慰めでもあり力づけでもあった八ガ岳が、折から西へ沈もうとする夕日を受けて、(高原はすでに寒く青々と暮れたのに)、連峯の輪郭もくっきりと濃い薔薇色に染まっていた。「ほんとうに此の季節の、この時間の、この八ガ岳が見たかった!」と、思いあまって私はつぶやいた。
 夜は中山さんの招待で町でも一流の旅館の最上の部屋が用意され、一十いちじゅう、中野屋など親しかった商店の主人や、私たちのかかりつけだった医院で今も人々に敬愛されて働いている看護婦のみよしさんなどが一座して、楽しく和やかな酒宴が催された。七年の歳月が二時間に濃縮され、私についての思い出話が昔を今の花のように咲いた。そしてその話のどれ一つにも、あだには消えぬ人生の歌の余韻があった……
 あくる朝は宿を出ると、カメラーつの軽装で、なつかしい分水荘とその附近を見に行った。新宿行の汽車までにはまだ三時間の余裕があった。空はきのうに引きかえてどんよりと曇って、八ガ岳にも釜無山脈にも厚い雲の幕が垂れさがっていた。線路づたいの細い道も、踏切も、それから森までの坂道も、すべて目をつぶったままで行ける程のなじみだった。
 三ノ沢の金褐色にみのった田圃を右手目の下に、高等学校の運動場を左に見て、ゆるい坂をくだって一本白樺のところから分水荘の森へはいる。するといきなり「ケッケッケッ」という赤ゲラの強い叫びがしいんとした木の間にひびき、つづいてコゲラの柔らかな「ヴィーヴィー」も聴こえる。これが旧知の森の小鳥どもの挨拶だった。やがて路は昔ながらの白樺と赤松の林になり、そのむこうの桜やツツジを植えこんだ一段高い処に分水荘の古い大きな家がひっそりと立っている。私は熊笹のなかの小みちを登ってその別荘の前庭に立つ。一足飛びに過去がよみがえって。今にも「お帰りなさい」という声と共に妻が出て来そうな気がする。しかし私たちの住んでいた十畳の座敷にも、隣りの世帯の座敷にも八枚の硝子障子がきっちり締まってカーテンが下げてある。どちらも留守らしく人けが無い。十畳間につづく玄関兼台所も元のままで、石油コンロを戟せた台や流しが硝子戸ごしに見え、上がりがまちにはすすいで絞ったばかりの雑巾がひろげてあった。井戸のポンプも旧のまま、その傍らの古いイチイの樹も昔のままで、曾て毎年の今ごろ、洗濯や張り物をしながら、よく妻が「おお甘い」と言って口に入れたその実が珊瑚色さんごいろに熟していた。私も今それを二粒三粒つまんで昔を味わい、家へのみやげに目立たなそうなところを一枝折った。別荘の持主である渡辺さんの別棟はもう永く住まわれないとみえて、締めきった雨戸が白白と反そり、ヴェランダが古い骨格のように崩れていた。しかし裏庭をかこむ幾種類かのカエデは茂りに茂って、それぞれの形の葉がそれぞれの色にもみじしていた。そして私が数冊分の文章や詩を書いた裏座敷は雨戸でとざされ、咲き残りの松虫草の薄紫の花の上に真紅のミヤマアカネ(赤トッボの一種)が力無くとまっていた。
 森を出ると池へ行ってみた。以前よりいくらか狭くはなっていたが冷めたい水は今も涸れず、半ばヒルムシロやミズアオイに被われながら、相変らず山地のヤンマやトンボの発生地になっているらしかった。その下でよく私がブロック・フレーテを吹き鳴らしたクルミの老木も残っていた。私はそこでヨメナ、アザミ、ヤマラッキョウ、リンドウなどを手折って東京へみやげの花束を作った。私がクルミの樹によりかかって煙草を吸おうとライターを発火させると、それに驚いたのか近くの畠に降りていたらしい小鴨こがもが一羽飛び立って、尖った翼を器械仕掛のように動かしながら丘のかげへ姿を消した。何もかも昔にかわらぬ森の詩だった。
 それから丘をこえ、ビアグリと呼ばれる沢の田圃をこえ、もう一つ向うの丘をこえた中腹の処から富丘とみおかの開拓部落とその広大な畑地とを見渡した。終戦の時満州の移住地から身をもってのがれて来た御射山神戸みさやまごうどの農民たちが、手の下しようもない火山高原の荒地を相手にして、奮闘と苦心の末に築きあげた田園である。昭和二十一年の秋以来、私はその人たちの村造りの仕事を初めからずっと見ていた。一年は一年と仕事は進んで散岩や小石だらけの荒蕪地が次第に面目を改めていった。あれから十五年。今ではこんな見事な田園となって出身地の本村を凌しのごうとしている。私が感慨深くその美しい田園や放牧地の風景をクローヴァの斜面にすわって眺めていると、一人の農婦がうしろを通りかかって辞儀をした。私は開拓の成功への祝いを述べながら、とうとう自分の名を言わなけれぱならない羽目になった。すると女は感激して、その後のいろいろな話をしてくれた。村には今では「どうにか楽になった」十三軒の農家があり、各戸が四頭或いは五頭の牝牛を飼って酪農を主とし、それに洋菜を作り、菊を作り、最近では林檎栽培も試みてこれもまた有望だとの事だった。そして私を最も驚かせたのは、どの家にも電話が敷かれて、そのための交換所もあるという話だった。すると又そこへその夫らしい農夫が牛車を曳いて通りかかったが、私と知ると大変に喜んで、「尾崎先生にこの村をなつかしんで頂けりゃ、こんな嬉しい事はねえです」と言って、わざわざ下の方に見える広い菊畑まで駈け下りて行って、黄菊白菊とりまぜた大きな一束をみやげに呉れた。そして別れる時には夫婦並んでなごり惜しげに手を振ったが、「こんどは奥さんも連れておいでなして。奥さんとは村の婦人会で一度お行き合いしましたで」と、妻君のほうが両手の平をメガフォンにして遠くから大声で言った。
 私はそれから残るわずかな時間を駅前の町の一巡に費したが、いたる処で「お遥か」を述べる親しい言葉や笑顔に接した。私はこの土地でのすべての人々の友情や好意を自分の身にあまるものだと堅く信じた。そしてこの美しい一日の体験を必ず書きのこして、それに『故園の歌』という題を与えようと思った。

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 木曾の歌

 まだ足の丈夫なうちに必ず一度はやってみたいと思っていた木曾路の徒歩旅行を、昭和三十五年の十月下旬、折からのもみじの好季節に実行した。五万分ノ一の地図を「塩尻」、「伊那」、「木曾福島」、「上松あげまつ」、「妻寵つまご」と五枚つなげて、小さい歯車のついた距離計で測ってみるとほぼ二十三里。汽車に乗れば各駅停車でゆっくり行っても三時開足らずのところを、正味で六日費した。しかし旅の車窓へ否応いやおうなく飛びこんで来る風物の瞥見ではなく、一層よく見、一層細かに知るために歩き、歩くことで知見を増したり感動を得たりするのが徒歩旅行のまず第一の目的だから、結果として細部の印象もきわめて鮮かで、全体としての感銘にもまた甚だ深いものがあった。
 初めの予定では一人で行くことにしていた。しかし「途中万一の事があった時に困りますから」と言う妻の意見を容れて、早稲田大学大学院文学研究科の学生で山に強いN君に同行してもらった。雨具に道中の着換え一揃い、それぞれ二台ずつの白黒とカラーの写真機、コッフェル、水筒、罐詰類に菓子、くだもの、おまけにどんな宿に泊まる事になるか分からないというので蚤取粉まで用意して、N君のルックサックが四貫目、私のがきっちり二貫目という街道歩き峠越えの荷物だった。
『更科紀行』の芭蕉は木曾の谷を私とは逆に歩いたらしいが、そのいわゆる木曾路とは、長野県塩尻の南西桜沢から岐阜県中津川の北東馬寵まごめか新茶屋あたりまでの中山道なかせんどうをさすのである。道は北へ流れる奈良井川と南へ流れる木曾川の断層谷だんそうこくを、中央本線の鉄路と右に左にからみ合いながら常にほとんど平行して走っている。ただ渓谷から離れて汽車や自動車のかよわないところだけが峠道で、北では鳥居峠(一一九七メートル)を、南では馬籠峠(八〇一メートル)を越える。もとより地形的にもわが国有数の山峡で、東からは駒ガ岳を盟主とする木曾山脈が、西からは御岳おんたけで代表される飛騨山脈が、圧倒的に押しせまって、曲折の多い深いV字形を形成している。谷壁をうずめた見事な森林と岩石と渓流の国。そしてその長い青い水の糸を、福島、上松、三留野みどののような比較的繁華な町や、奈良井、宮みやノ越こし、須原のような古い閑散な宿駅が、大小の玉のように綴っているのである。谷が深く狭いので、われわれ平野地方の住民のように大きな空のひろがりを見る事のできないのは宿命的だが、馴れればそれも大して苦にはならないと言う。「しかしたまたま汽車に乗って松本平や中津の盆地へ出てみますと、さすがに心が晴ればれとします」と、もうこの土地に五年あまりを親しんでいる諏訪出身の或る中学の教員が述懐していた。
 旅の持物のことは初めに書いたが、東京ではにやにや笑われ、木曾へ行ったら真顔になって褒められた物に鈴がある。秋の今、豊作のとりいれと紅葉の今、そして山道に栗やくるみとちの実のごっそりと落ちている十月の今日このごろ、そういう栄養に富んだ食料を冬ごもりの前に腹一杯つめこもうと、鳥居峠や馬寵峠の人けもない廃道をガツガツした熊がうろついているかも知れない。そして逃げるに暇もない出会いがしらに、まっこうからワッと飛び懸かられない限りでもない。いや、笑い事どころか、げんにこの春だったか去年の秋だったか、宮ノ越でさえ学校通いの子供が二人やられているのだ。それで私は二つの小さい鈴を紐に通して持って行ったのだが、いずれも放牧の山羊やぎの首につける物で、一つはスイスからのみやげ、もう一つはピレネーのみやげだった。それが愛らしく、また愁うれわしげに、二つの峠の岨道そばみちや原始林の静寂をふるわせて鳴ったのである。ああ、満目紅葉の木曾山中で、「チンガリンガリン」と鳴りさざめくツェルマットとリューズの小鈴! しかしこの外来の妙音に、どこかの洞穴で聴き惚れていた殊勝な熊はいたかも知れないが、猛々しい姿を現わす無法者はっいに無かった。
 ところで今から二百七十数年前、芭蕉もここを通った筈だが、彼にはどんな用意があったろうか。
 私はこの鈴を木曾義仲成人の地、自分がその小学校と中学校の校歌を作ったあの宮ノ越の学校での講演の時に、子供たちの喜びと同感のために鳴らしてやろうと思ってポケットに忍ばせて置きながら、彼らの歌ってくれたその校歌の合唱のあまりけなげで美しいのに感動して、ついうっかり忘れてしまった。「木曾川いまだ源の、清冽うたう宮ノ越……」 平井康三郎さんの作曲がまた実に見事だった。
 年の始めと同様に、新らしい事への着手はいつも楽しく、予望にかすむ未知への出発には齢よわいを重ねた今でも心がときめく。私は今度の旅の第一歩を木曾を照らす朝日といっしょに踏み出したかったから、元来嫌いな夜行列車を採用しないで、前の日のうちに塩尻まで行っておいて其処の旅館に一泊した。そして翌朝早くバスに乗りこんで三里先の桜沢まで行き、そこの橋のたもと、「是より南、木曾路」と刻まれた自然石の古い道標の前から、自分を祝別する気持で歩き出した。
 ああ、それならばこれが木曾路か。これが美濃まで続く道の土か。すでに左右から山が迫って赤や黄のもみじの底を奈良井川の渓谷が瀬音も高くこちらへと流れて来る。あたりでは黄ビタキらしい小鳥の忍び音もきこえている。私の心も歌を思い、その思いが小さい声となって口を洩れた。「新らしく切った杖を手に、朝早く私が旅に立つ時」で始まるあのフーゴー・ヴォルフの『徒歩旅行フースライゼ』を。あたかも、感動をもって見られたものは詩とならなくてはならず、詩はまたついに音楽にまで昇華すべきであるかのように。
 奈良井、宮ノ越、寝覚ねざめ、須原と泊まりを重ねて、最終の神坂村みさかむら馬寵の宿を立つ時まで毎日朝は八時か遅くも八時半には靴をはき、ルックサックを背負い上げた。そして谷間は日照時間も短かいから、午後の三時半か四時頃までには必ずその夜の宿に着くことにした。
 ずっと天気に恵まれたので毎朝の出発にも張り合いがあり、「ご機嫌よろしう、道中にお気をつけなすって」の声をあとに、回復した体力、解き放たれた感覚と精神とをもって前途にのぞんだ。道々五万分ノ一の地図で自分たちの歩いている現在地点を確かめたり、遠景の美しい部落や向こうに見えて来た山や沢の名を同定するのはもちろん、道で行き会った大人や子供とも努めて言葉をかわし、路傍の岩石や草木をしらべ、田畑や村落や宿場の景観、停車場の貨物置場に積まれた産物の種類、農家や町家の構造などにも注目して、それらのものをノートに取ったりフィルムに収めたりする事を怠らなかった。
 とは言え、そう始終生物や人文地理学や社会科の実地研修みたいな事をやっていたわけではない。くたびれれば路傍でのんびり休みもし、白い花崗岩の河原へおりてコッフェルで湯をわかし、ココアを練り、くだものを食い、或いは臓詰をあけてハムやベーコンをつまんでウイスキーも飲んだ。まことに花も実もある旅だった。もしも伴奏のない主旋律だけだったら、知性には訴えても情緒の満足は得られなかったろう。
 不意の美しい遭遇や思わぬ発見の喜びを期待しながらも、プランの本筋はゆるがせにしなかったから、一夜の宿にまごつくような事はなくて済んだ。奈良井と馬籠の宿は初めから考えていた家だが、そのほかの泊まりには全く不案内だったのであらかじめ人の紹介を頼んで置いた。ただ福島と上松の旅館だけは、紅葉時の団体客で混雑するおそれがあるという話だったので残念ながら敬遠した。このごろのあの連中と同宿しては木曾の旅も何もあったものではないからである。この二つの町を敬遠してしかも幾らかの心残りを感じたのは、数年前に親しんで今でも私の事を忘れていない幾人かの若い人たちが福島と上松にいるからである。五年六年の歳月を経ながら、新年ごとに年賀状をくれて親愛を披瀝することを忘れない彼ら木曾東校や西校の曾ての生徒。事を大げさにしないようにと彼らには知らせずに訪れた彼らの土地。そう思うと、片思いかも知れないが、やはり胸の痛む気がした。
 しかし私たちの泊まった宿には皆それぞれに感銘と趣きとがあった。これまで二度世話になった事のある奈良井の越後屋はもちろん、島崎藤村の長男楠雄さんのやっている馬寵の四方木屋よもぎやも大変よかった。鳥居峠の下、谷のどんづまりに位置した前者には古い過去と床しく寂びた落ちつきがあり、馬罷峠のかなた、恵那山えなさんとその山麓の大観を前に、木曾というよりも寧ろ美濃の風光にむかって開けた後者は、すこぶる明るく新らしく濶達だった。その他寝覚では元気のいい若夫婦、宮ノ越では篤実で言葉のきれいなお婆さん、又あいにく話が違って駅前の商人宿に泊まる事になった須原では、扱い馴れた小役人や行商人などとは違った私たちの人態にんていに面くらったおかみさん。それぞれ違う主人たちの応待でありもてなしであったが、そこにはいずれも共通した木曾人の面目が躍如とし、言葉や態度の物柔らかさと、黙々と苦難に耐える堅忍の気とがあった。
 こうして知見と詩に富まされた旅路の終わり、枯草の上、馬寵から荒町あらまち部落の古い石畳みの旧道をくだって、やがて明るく美しい新茶屋の部落と中津盆地の広々と晴れやかな眺望。そこに「是より北、木曾路」と刻まれた藤村筆の道標があった。それならばわれわれの旅もこれで終ったのだ、そして今夜はもう東京のわが家にいるのだと思う私の心に、あのべートーヴェンの『告別ソナタ』の終楽章「再会」が、喜びにはずむリズムをもって湧き上がるのだった。

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 旅の小鳥と庭のツグミ

「木曾へいらしったらさぞ小鳥が見られるでしょうね、一緒に行きたいわ」とは、山野の自然や花や鳥の好きな妻を初めとして、今度の徒歩旅行の計画を聞かされた娘や姪たちの羨望の言菓だったが。しかし春か初夏の頃ならばともかく、いくら森林王国みたいな木曾でも、季節が秋では、まして一箇所の滞在ではなく、日程にしたがって毎日幾里という前途を持つ旅とあっては、彼女たちが想像して羨むほどそんなにふんだんに野鳥に出会えるわけはなかったし、私としてもそんな期待はしていなかった。そして結果もやはりその通りだった。
 しかしそれだけに、たまたま彼らの叫びや囀りを聴いたり姿を見たりした時は、その環境が木曾という特殊な山里であるだけに、受けた感銘もまた特別に鮮やかだった。第一日の桜沢からの歩き出しに、狭い深い奈良井川の谷と水と、そこに被いかぶさっているナラやカツラのもみじを写そうとカメラを下向けに構えた時、とつぜんそのもみじの底から、鶏の雛の鳴き声のような、しかしあれよりももっと澄んで清らかな黄ビタキの声が聴こえた。深淵にせせらぐ微かな水音のほか、あたりには何の物音もないので、その声には単に美しいとかみやびやかとか言う以上に、何か霊的な響きがあった。
 鳥居峠の登りでは、ようやく黄ばんだカラマツと火のように紅葉したニシキギや山ウルシの混生林の中で出会った、それぞれ数羽のヒガラとエナガとが印象的だった。おりからの快晴で、雲一つない頭上の空は透きとおるばかりに青かった。淡雪のように軽く、玉のように小さい彼らは、南からの日を浴びて金色に輝く木々の枝にふわりと飛び移ったり逆さにぶらさがったりしながら、しばらくは私たちの先頭に立った。そしてその間に、「ジュル・ジュル」とか「ズーピー・ズーピー」とか聴こえる彼ら特有の言葉で互いに合図をかわしていた。そのあたり登りがもっともきつく、息がはずんでいる処だっただけに、小さい彼らの元気のいい声や姿が慰めでもあれば力づけでもあった。
 木曾義仲にゆかりの地、宮みやノ越こしでは巴ガ淵の谷の空を二声三声鳴きながら飛びこえてゆく一羽のカケスを見た。ひっそりと茶の花が咲き、紅や黄の林檎の光る古い徳音寺の部落から、急峻な山吹山の絹をめぐって南宮神社や旗上ゲ八幡へとたどる道だった。木曾川がとろを湛たたえたこの淵で、みめ美しく力すぐれた妙齢の巴が好んで水泳をしたという言い伝えの嘘やまことは措くとしても、そういうイメージをほのかに心に描きながら見たカケスの姿とその声には、たしかに一掬いっきくの勇武と精悍のおもむきがあった。
 旅の最後の泊まりの日、馬寵まごめ峠を南へくだると、今までの木曾谷の暗さから突如として解放されて行く手に明かるい美濃の風光がひらけ、正面には恵那山えなさんが悠然とよこたわり、つづく階段状の断層崖の一つの上に馬籠の部落が、さすが島崎藤村の生まれの村が謹厳に、つつましやかに載っていた。そしてその部落の杉の森のまわりで、日も傾く秋の午後をしきりに鳴き騒いでいる一群のヒヨドリの声を私は聴いたのである。
 鵯ひよ鳴いて余韻のごとき孤村かな
これが『若菜集』の、また『夜明け前』の作者の故郷への、私の詩的感慨の一片だった。
 私の旅のノートには、このほか平沢に近い奈良井川の水辺や、福島近くの木曾川の明かるい河原で見たカワガラスとセグロセキレイの活躍のさまが書いてあり、また馬寵峠下の寂莫の中で弁当をつかっていた時、すぐ傍らの小径を影のように横ぎったヤマドリらしい鳥のことが書いてあって、いずれも山歩きには誰しもしばしば出会う鳥たちで格別珍らしくもない連中だが、ただ時が時、場所が場所だけに、個人的な感銘としては又にわかに捨てがたいものがあるわけである。
 旅から帰って来てふたたび始まる毎日の生活、単調と言えば言える平穏な仕事と客来と休息との判で捺したような生活の中へ、なお乗りこんで来る新顔の客がある。そしてもしもその客があまり若くなくて年配の人だと、たいがいはこう言う、「いい処ですね、木が多くて」と。そして中には折よく鳴いている小鳥の声を聴きつけて耳を傾けながら、「東京の町なかにいるとは思えませんね。まるで田舎に来たようです」と、一瞬郷愁にとらわれたような表情を見せる人さえある。
 これが春ならば、或いは六、七月の夏ならば、私は折から家のうしろの木々の中で鳴いている三光鳥や、窓のむこうの遠景で歌っているヒバリについて少しばかり話してきかせるだろう。耳を澄ませばかすかに聴こえる多摩川の岸の草原のセッカの事も。しかし今は冬、彼ら野鳥が巣を営まない季節である。ただこのあたりに採餌の場所やねぐらを持っている者たちだけが、私の庭を訪れたり地鳴きの声を聴かせたりする。そしてその声、その姿が、冬枯れの貧しい世界に潤いや味わいを添えるのである。
 私は門の郵便受けに午後の配達の郵便物を取りにゆく。庭の土はもう毎朝の霜のためにただれているクチナシの実の朱色が褪せ、最後の菊の花が寒さにこごえて腐ったように見える。私は茶色になったその残骸を摘み捨ててやる。と、近くの空間で[クェイ・クェイ]というツグミの声がする。声をたよりに目を上げると、近くのイチョウの大木の枝に二十羽ほどのツグミの群がとまっていて、例によって顔を揃えてじいっと遠くの方を眺めたり、脚を上げて頭を掻いたり、くちばしで羽根を梳いたりしている。そしてその中の年長者らしい一羽が、ときどき何かの合図に「クェイ・クェイ」と鳴いているのである。「ごらん、向こうの方を仲間が飛んで行く」とか、「気をつけろ、あすこにいつもの野良猫がいる!」とか言っているのかも知れない。
 ツグミたちは毎年十月に入るとこのあたりに姿を現わすが、その到来はまずあの柔らかい二音符の声で知らされる。私と妻とは互いに目を見合わせてうなづく。そして物事がちゃんと運ばれているというような、何かしら安堵に似たものを感じる。そのツグミの数が日は一日とふえてゆく。彼らは東部シベリアの沿海州や、樺太、カムチャッカあたりの蕃殖地から、この日本へ冬を過ごしに渡って来るのである。到着の直後は長途の旅に痩せやつれて、見るも哀れな姿をしているが、日がたつにつれて肉も着き、体力も加わり、くちばしや脚や羽毛の色もつやつやしてくる。そして夜は(私のところの場合)裏の崖林の杉や楠の茂みをねぐらにし、昼間は一日ぢゅう近くの河原やゴルフ場に集まったり、対岸の川崎市の畑地におりたりして餌をあさっている。そういう処には彼らの好物のミミズが多いのである。
 去年の三月の或る昼前、いっものように書斎で仕事をしていた私は、庭の中が何となく騒がしく、耳を澄ますと落葉がひどくガサガサと鳴っているのに気がついた。宅では訪れて来る野鳥の接待のために庭の落葉は掃かないことにしているのだが、その落葉を急に出た突風が吹きまくっているような音だった。私は立上って硝子戸ごしにのぞいて見た。するとどうだろう! 約三十羽ほどの枯葉色をしたツグミが庭へおりて、一面に浅く積みかさなった枯葉を脚で掻きのけたりくちばしで跳ね上げたりしながら、地面の餌をさがしているのである。音はそこから生まれたのだった。そしてソロソロとつながって歩く彼らがまるで枯葉色の波のようであり、押し合って移動する彼らの間から一種強力な精気が立ちのぼるように思われた。又それからじき、同じ庭のまんなかに緋桃の花の盛りの時、今度はその木に鈴生りになった彼らツグミの大群だった。さきのと同じ連中であろう。この時も三十羽近くが一本の木に集まって、のろのろと重たくうごめき、這いまわり、よく見ると蜜を紙めるためにその緋色の花や開きかけの莟つぼみを食いちぎったり、摘み取ったりしているのだった。見のがして置いたら木は忽ち丸坊主になってしまったろう。これには私も閉口して手をたたいて追い払ったが、元来しなやかな桃の枝が、一時は彼らの重みでみんな鞭のように曲がった程だった。
 しかし今を盛りの緋色の花と枯葉色の野の鳥とが、陽春三月末の午前の日光に照らし出された光景は、真に生き生きとした美しい見ものだった。
 このツグミたちは五月の声をきくと三々五々北方の蕃殖地へ帰って行くのだが、その一と月前ごろから、冬ぢゅう聴かせていた地鳴きの「クェイ・クェイ」のほかに、彼ら本来の歌、その故郷の針葉樹の森に鳴りひびくべき艶あでやかな歌を歌いはじめる。それは静穏な昼間にも聴かれるが、多くは晴れた朝のうちか日没に近い時間、太陽の光線が斜めでその色の赤い時、附近の樹永の高い梢から落ちてくる。音の性質はフルートのそれを思わせるが、望郷の愁いやあこがれの心に似たそのしらべは言うに言われず霊妙で、たとえば英国の野鳥研究の大家ハドスンが、同じツグミ仲間のリング・ウーゼルの歌を形容した場合のように、「スピーロ・ホイロ・ホイヤロ」というように聴こえる。
 そのツグミがこの冬もまた忘れずに帰って来て、数も日増しにふえ、庭の枯葉の中でガサゴソと餌をあさるようになった。歳を重ねるのがいくらか情なさけなく思われる年齢にはなったが、彼らの霊妙な別れの歌を聴く四月五月を、再び持てるだろうと思うことはやはり楽しい。

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 冬晴れ

 冬の太陽がガラス障子をとおして、午前の座敷へさしこんでいる。まだ花も葉もない桃や白樺や土佐みずきの一月の枝が、畳の面や机の上に幻想的な影をえがいている。世界は静かだ。今日は風の音すらない。片隅には、壁によせて、古い小さいオルガンが据えてあるが、その重い蓋もつめたく閉ざされ、バッハの小曲集の譜本がおとなしく載っているだけで、今年から少し本気になって練習することになっているその「メヌエット」も「ガヴォット」も、主人のたどたどしい指を待っているばかりでまだ歌い出すには至らない。時どき裏の林でヒヨドリやオナガの声がし、屋根からスズメたちの短い会話、庭の禽舎からするどいキジの叫びが聴こえてくるが、自然界の者の発するそういう音声は、むしろ空間のひろがりや周囲の沈黙の深さをおもわせる。「蛙とびこむ水の音」に古池の深い静けさがいとと生きいきと感じられ、在るという事の意味が突如として其処に鮮かによみがえるように。
 私はこういう時間が好きだ。いや、好きだと言うよりも、授かった物のように敬虔にうけとって、大切に捧げ持っていると言ったほうがもっと当っている。なぜかと言えば、この数年来、私の詩はこういう好ましい時間の持続の中でまず雲のように湧き、醸かもされ、やがておもむろに初元の形をとるようになっているからである。
 昔は必ずしもそうではなかった。以前にはちょっとした感奮や刺激の反応からも詩の発想が生まれた。そして私は時と処とに頓着なくがむしゃらに書いた。感動の根が浅いから詩句はいたずらに枝葉えだはの咲いた文章のようになり、言葉の持つ質量は小さく、その陰影や含蓄の妙味も皆無にひとしかった。今でも出来る詩すべてに満足しているわけではないが、着想に対する幾たびかの吟味、形式と秩序の布置、言葉の選択と推敲には、けっしておろそかではないつもりである。しかし、それはともかく、簡素で、明晰で、遠くまで晴れて、しかも柔らかに訂正であることこの冬や早春の午前のような時間こそ、現在の詩人私のもっとも愛し、もっとも貴重とするである。
 ジョルジュ・デュアメルの十巻から成る小説の或る巻に、女主人公の一人である若いピアノの大家セシールが、その弟子で十五歳になる天才的な少年のためにレッスンを見て遣っている場面がある。曲はモーツァルトの或るピアノ・ソナタであるう。少年は弾きはじめる。セシールはそのそばに、ほとんど彼と真向かいになるような位置にすわって、時どき唇や眉毛をちょっと動かしたり、指を一本立てたりして合図を送る。そしてその間には又こんなことも言う。「もっと遠く。もっともっと遠く…… そう、そう! もう少し生気を抜いて。ねえ、マクシム、十六分音符の手前のところはもっと影をつけて……」するとこの「遠くロアンタン」とか「生気フレシュール」とか「影オンプル」とかいう不思議な言葉の意味を少年の指がきわめて自然に理解して、それを鍵盤の上にみごとに生かしてゆく。まるでこの先生と弟子とが或る秘密な国語で結ばれ、同じ種族の二人の者、同じ風土に育った二人の人間のようだというのである。
 この場面は、それより少し前の別の女の子のレッスンのところから、或る女優の朗読したフランスのレコードにも入っていて、非常に生きいきと描かれた美しい数ページだが、今の私として自分にも欲しいのは、たとえ問題のソナタがケッヒェル何番の何調だかわからなくても、やはりこの「遠さ」、この遥かさの感じ、この橈わみ、この「陰影」――総じて一篇の詩の堅固で輝かしい本体を柔らかに包みながら、かぐわしい雲のようにゆらめく余韻や余情を意識的に表現することのできる能力である。元よりそれが音楽の演奏や詩の朗読ではなく、言わば無から生じた有であり、原本あっての演出よりも数等むずかしい創造の仕事であるにしても。

     *

 今日は、しかし、戸外の冬の天気が完璧である上に、座敷の明かるさや程のよい暖房に精神も感覚もうっとりとして、或るきびしさの目ざめを一つの条件とする創作の契機がちっともつかめない。しかし安逸を好まない私は、それでも過去のさまざまな場景を思い出したり想像の網を張りめぐらしたりして、なんとかその中から獲物を引き出そうと試みたが、今の気持でこれはと思う対象も、物になりそうな材料もついに見出すことができなかった。やがて私は立ち上がって書斎からシューマンの歌曲集を一冊持って来、その『詩人の恋』の中の“ Imイム Rheinライン, imイム heiligenハイリゲン Stromeシュトローメ”(ラインの河、その聖なる流れに)を、オルガンでメロディーを弾きながら歌いはじめた。「聖なるラインの川波にケルンの大伽藍が映っている。その御堂みどうの金色こんじきの壁には一つの像が画いてあるが、それは私の生活の荒野へ優しい光を送ったものだ。愛する聖母のまわりには花や天使が浮き漂っている。その聖母の眼、唇、頬は、私の至愛の人のそれに生き写しだ」というのが概略の意味である。詩はハイッリヒ・ハイネの作で言うまでもなくすばらしく、歌もそれに応じて豪壮で、絢爛で、優美なものだ。私はこの歌曲の練習を十日ほど前から始めたのだが、やっとドイツ語の歌詞につまづかないようになっただけで、付点二個のついた二分音符や付点一つの四分音符から、スラーの掛かった十六分音符二つへの移りがどうしても滑らかにいかない。しかしそれを弱くたおやかに歌わなければならないのでなおの事むずかしい。そしてあいにく、ここの処がまた言いようもなく優しく美しいのである。とにかく私はこれを数回くりかえして歌ってみたが、結局或る程度で満足して楽譜をとじた。
 自分ではうまく歌えないが、いい歌い手によって歌われた時のこの歌の美しさを知っている私は、まださめやらない自分の歌唱の余熱のなにかで、今度は歌詞のない器楽曲へ自作の歌詞をつけてみることを始めた。
 今からおよそ十三年まえ、まだ信州富士見の高原で戦後のわびしい生活をしていた頃、上諏訪の人で当時京都大学の化学の学生だった若い友人から、私はセザール・フランクのオルガン小曲集の一冊を贈られた。その贈り主は今では立派な大学の先生で、ピアニストを妻君にし、趣味としてフルートも吹けばバスのパートもみごとに歌うが、その頃はまだ白面の好青年で、休暇で故郷の湖畔の家へ帰省すると必ず私たち夫婦を高原の家に訪れたものだった。その人とこの小曲集とについてはすでに書いたこともあるが、私が今日歌詞をつけてみようと思ったのは、実にその小曲集の中の『ベアルンの歌』という曲へである。そして今言った曾かつての文章の中で、私はこの小曲の事をこんなふうに書いた。
「ポコ・アレグレッ卜の速度で弾かれる変ト長調、四分の三拍子、三十小節のこの短かい曲は、夏のおわり、秋のはじめの白い雲と、ただ一人丘の草原にうずもれてそれを眺めている者の心とを想わせる。手に触れる草はまだ緑に、まだなまぬるいが、土の感触はもう真夏の頃のようではない。暑く、華々しく、玉虫いろに輝やいた夏はおもむろに南へ移って、鳶いろと青との秋が天地のあいだに水のように浸みて来る。新らしくされた感覚と望みとをもって明日あすの生活に向かおうとする決意に変りはないが、見返りがちに去ってゆく昨日きのうまでの過去にまだいくばくの未練はある。にがい侮いもなお廿く、夢の杯もなお飲みほされたわけではない。しかし野にはもう薄紫の松虫草が咲き、森の夏鳥たちは次々と出発する。林のこずえが色づいてくる。それを九月の太陽が残んの熱であたためている。風景にはいちめんに白々とした別離の哀愁が吹きわたっている……こうして颯々さっさっと地を吹く風が低音部でかなでられ、空高く静かにうごく白雲と、その雲に寄せる心とが高音部のメロディーで表現されているように、少くとも私には思われるのである」
 これは何十回となくオルガンで弾いて親しんだ原曲の澄み晴れた哀愁の感じに、敗戦祖国の旧山河とその晩夏初秋の自然の風光や、そこに流寓の生を送っている自分の心境を托して書いた文章だが、事実この曲の旋律には、空間と時間との遥かさを思わせるものや、見果てぬ夢への愛惜のようなものが流れているのである。そして何よりもそれは遠い雲に寄せる思慕の心をかなでているように思われた。そこで私は間もなく、きわめて自然に、「雲ひとつ遠方おちかたに、浮かべる見ゆ」という詩句をその最初の七小節にはめこんだ。それは私の気に入った。曲のこころはこれだ。もうこれ以上何もつけ加える必要はないと思った。
 そしてそのまま、十年あまりの歳月が流れた。
 今、清らかに晴れわたった冬の日の暖かい静かな室内で、塵を払った古いフランクの小曲集を前に、オルガンに向かって問題の『ベアルンの歌』を弾いていると、自作の歌詞をつけてみたいという望みが大した苦心もなしに満たされた。冒頭の一句はすでに十年の昔に出来ている。それが呼び水となってあとはすらすらと流れるように出て来た。私は頭に浮かんで来る文句を譜面へ鉛筆でうすく書きこんだ。二、三個所は消しゴムで消して直したが、間もなくこんな歌詞がきっちりとはまりこんだ―

  雲ひとつ遠方に
  浮かべる見ゆ。
  その下に幸さちはあれと
  追いしわれの、
  老いて我が家に
  心憩う。
  その昔かみの雲か、あわれ
  今も浮かぶ。

 治定した歌詞を前に、さて改まってオルガンを伴奏に歌ってみると、旋律と言葉との溶け合いから或る感動パトスの調べが生まれ、これはこれで善く、美しい原曲ははからずも一つの歌詞を与えられて、ここにまた第二の生を得たのだという気がした。

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 早 春

 この冬の終りには私もとうとうインフルエンザに感染して寝てしまった。たぶん末の孫が小学校から貰って米てそれを家ぢゅうにひろめたのが、最後に私のところへ廻って米たものらしかった。一応は熱が下がっても気分が容易にさっぱりせず 何処ということなくからだ一杯に疲労感がただよって、肉体にも精神にも張りがなかった。子供や若い者たちが着々と順調に回復してゆくのに、自分一人いつまでもこんな低迷状態をつづけているのが腑甲斐なくもあればにがにがしくもあった。「回復の遅いのは歳のせいだから止むを得ません」と慰め顔に医者は言うが、それはそうに違いないと思いながらも、薬や栄養の効果がきわめて遅々としか現われないような歳になってしまった事が物悲しく思われた。すこし早く生まれすぎたのだ、せめてもう十年遅く生まれていたらなどと、そんな愚かな、悔いにもならない悔いに責められて、急に立ち上がってせかせかと何かを始めたりするのだが、それにもじきに疲れてしまって、また元の倦怠感に沈みこむのだった。
 しかしこんないくじのない状態が続いている或る日、今まで私の本を何冊か出している或る出版社から電話が掛かってきて、「いつぞやお話のあったヘッセの随筆と水彩画の本を出させて頂くことに決定したから、出来れば至急原稿をおまとめ願いたい」ということだった。自分の永年愛し尊敬している詩人ヘルマン・ヘッセが今年は高齢八十四歳になる。その長寿への祝意と古くからの敬愛と感謝の心を、日本の一同業者、それも同属の魂に生きる敬虔な一後輩として表現したいという気持から、私は自分の翻訳と編纂とに成るその美しく喜ばしい本の出版を今年こそはと考えていたのである。そしてその事をちらりと口にしたのがきっかけになって、今や実現を見ようとしている。私は電話口を離れるとにわかに奮い立つような気持になり、この上おとなしくだらだらと病気なんぞに関係してはいられないと思った。ヘッセは八十四ではないか。しかも今なおかくしゃくとしている。仮に自分が同じ歳まで生きられるとしたら、後まだ十何年は仕事をすることができるはずである。充実した今後の十何年! これは大した事だと言わなくてはならない。

 私は吉報に力づけられ、希望と信頼とをもって医者の薬を飲み、病中にうけとった物や書物の中を机の上から一掃して、まったく新しい気持で仕事にかかった。すでに出来ている二十篇の翻訳にもう一度目を通して筆を入れ、それをノートから原稿用紙に清書する事と、なお別に四、五篇新たに訳し足す事とが仕事だった。そして以前から好きだった小品で、自分にもこれと似た体験のある次のような美しい文章を先ず手始めに試みた。

     或る旅の覚え書(ヘルマン・ヘッセ)

 今は四月の天気で、濡れた道路の水たまりに青空と太陽とが数分間かがやき、ちょっとでも風が凪ぐと、そこらぢゅうで黒つぐみが歌い出す。
 私はジュラ山地の或る小さい町に米ている。町は灰色をした岩山へよりかかって、一種無限の色あいで漂う遠景のかなたに、逼かなアルプスを眺めている。
 私はきのう夕方ここへ着いた。この町の或る小さな芸術愛好者の会に招かれて、自作の詩の朗読をしに来たのである。ところでこうした企ての時にほとんどいつでも経験するように、私は今度もまた何か重苦しいような、何か悲しいような、妙にこんがらかった気持を味わったのだった。そしてその感情の背後には次のような疑問が控えていた。「今日お前のする事は何の役に立つのか。いったいお前の詩の朗読というものに何らかの意義があるのか。実際では、一晩少数の人間の相手をするだけのために此処まで旅をして来たのてはないのか。それに又、お前が詩を作ることその事にも意義があるのか。それはお前にとっても、また読者にとっても、ほんの一時的な楽しみに過ぎないのではないか」
 それにもかかわらず私は昨夜小さい会場で朗読をした。そして今度もまた、自分の作品や聴衆の楽しみ事などに心をわずらわさずに、もっぱら朗読そのものに一つの意義を与えようと努力した。そればかりか、次のような考えにおのれ自身を集中しさえした。「この会場にたぶん一人の、いやおそらくは二人の人間がすわっている。そしてこれらの人間は、この夜の時間に傷つき、何かただの一語によって呼びかけられるように運命づけられている。その一語は彼にとって呼びかけとなり、聾告となり、もはや慰みでも文学でも教養の問題でもないばかりか、直接彼の心に落ちこんで痛苦と歓喜とを与え、しばらくはこの魂の生成と闘いとの中に新らしい衝動をもたらすのである」 私はこんなふうに考えて自分の詩を朗読した。それを自分の詩や作品としてではなく、人間をおびき寄せるために投げこむ釣針として。そして私がそれらの詩を緊張しておごそかに読み上げ、特に精神的なところや警告的な個所を強調しているあいだ、私のうちには第二の私が微笑をふくんですわり、いくらかの皮肉といくらかの同情とをもって優しく辛抱しながら、私のする仕事を見つめていた。そしてこのようにして、その夕べは難なく過ぎた。なぜならばすべてがはかどり、すべてが予想どおりにゆき、われわれのそばにあの第二の男がいて観察している以上、すべてに意義があったからである。それにしても私の心の中には胸苦しさと悲しみとの滓かすが、自分の行為と存在とを正当化したいという欲求が、或る人知れない空虚がのこった。私はその夜を、なお晩くまで主催者の家で二三の若い人たちと過ごし、彼らの会話の中ヘ一言二言をはさむ努力をし、これらの同席者のうち一人として今夜の私から一時的な楽しみ以外の何物をも受けとっていない事を、そこばくの悲しみと皮肉とをもって感じた。そこで私は沈黙し、皆よりも先へ別れを告げてべッドヘ入った。しかしほんの僅かな時間しか眠ることができなかった。
 きょうの今、この気まぐれな四月の空の下で、私には朝飯の後附近をぶらつくだけの時間がなお一時間ほど残っていた。私は昨夜すこしばかり親しくした町の牧師と一緒に歩いた。ところが、汽車の出るまでにはまだ半時間ほど間のある停車場の近くまで来ると、彼は私にむかって、もうこれ以上お供ができない。というのは、これから葬式を一つ執り行なうことになっているからと、残念そうに言った。私がその死んだ人というのはどういう人かとたずねると、この埋葬には墓掘り人と警官しか立ち会わない。というのは、死者は誰も見知らない浮浪人で、一咋日川のふちで発見された者であり、半分水に漬かって、頭に銃創が一箇所、脳に小さな拳銃弾が一発うちこまれていた。そして今までのところ、その姓名も素性もわかっていないのだと牧師は言った。
 今や自分が旅行鞄に詩集を入れて此処まで旅をして来たことが、全く無駄ではなかったのを卒然として私は悟った。一つのささやかな務めを私は思いつき、それが忽ち私の心を温めた。そこで私は即座に牧師にしたがって墓地へ行き、湿めった粘土の坂道をのぼって、掘られたばかりの真新らしい濡れた墓穴の前に立った。それと並んでついきのうの物のように新らしい墓が高く積み上げられた花環に埋まっていたが、その墓の木の茂みから、白地に金箔を捺した蝶形のネクタイが濡れたままだらりとぶらさがっていた。私は警官から死者について知っている事を残らず話してもらい、更にその粗末な革の財布に入っていた小さな、おかしいほど軽くて細い拳銃弾をうけとって触ってみた。それから私たちはこの名も無い者の入っている棺を穴の中へおろした。死者は墓地の生垣で折った一本の緑の小枝を私からたむけられ、一篇の讃美歌と、主の祈りと、おごそかな「土は土に、塵は塵に、灰は灰に」を牧師からうけとった。そして私は街道をさすらう友の一人、故郷もなければ市民的でもない一人の人間を此処に埋葬したことを疑わず、一生を通じて自分のうちにこの人間に対する愛と理解との道を持っていたこと、自分が定住者や完璧な人人よりも一層この人間に近い者である事を疑わなかった。私はしめった穴の中の兄弟に挨拶の微笑をおくり、彼を祝福し、牧師の無帽の頭へ俄雪の降りかかっている間、優しく親しく唱えられるその讃美歌に聴き入った。私は墓掘り人に、警官に、墓に別れを告げて停車場へいそいだ。そして汽車に間に合ったが、今度の旅と、讃美歌の二、三の文句を覚えていた事とに満足し、いっかは自分の墓の前にも誰かが立ってほほえみ、一本の緑の小枝を投げこんでくれるだろう事を確信しながらその町を去った。

     *

 正味二日かかったこの翻訳の出来ばえに私はだいたい満足し、久しぶりにドイツ語の名文を日本文に移すおもしろさに釣られて、多少無理をしたにもかかわらず、その後別に異状も感じられないほど旧に復した体力を喜んで、それからは平静に、精神と肉体のバランスを保つことに留意しながら残る仕事をつづけていった。そして思ったよりも楽に仕事がはかどるにつれて、同じ入れるなら新作を多く取り入れたいという誘惑に負けてしまい、せっかく綺麗に清書のできている何篇かを除外して、別の適当なのに着手するほどの好調を取りもどした。
 しかもその間に庭の片隅ではいつかしら梅の花が散り終り、樹下の日当りに福寿草がぞくぞくと金いろの杯をならべ、雀の声や頬白の歌が日増しに高くつやっぽくなり、今日などはまだ冷めたい早春の空気の中で、もう沈丁花じんちょうげの匂いが重たいしらべのように漂っている。

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 日記から(一)

 孫娘の美砂子がK音楽大学附属中学校の入学試験に合格した。本人は見たところ平然としているが、両親や祖父母である私たちのほうは一抹の不安を抱いていただけにひどく感動し、やれやれとばかりに安堵の胸を撫でおろした。安心し喜んだのは私たちばかりではなく、ここ一年間英語や普通学科の家庭教師をお願いしてあった若い女の先生方も、(その先生たち自身が就職のための採用試験の最中だった!)ピアノを見ていただいている先生も、共々に「おめでとう。よかったわね、美砂子ちゃん!」と、心からの祝辞といたわりの言葉とを電話で寄せてくださった。そのままいれば別に心配もなく中学から高等学校まで進むことのできる今までの学校に退学の願書を出して、改めて別の学校の競争試験をうけたのだから、大げさに言えば一か八かの冒険だったのである。
 しかしこの転学は、よく言われるような親たちのみえや虚栄心から出た事ではなく、真に子供の将来をおもんぱかっての計らいであって、本人も納得の上だった。人は然るべき特技を何か身に着けていなければならない。特殊な技術が身に着いていれば、たとえ両親や身うちに別れても一人で暮らしを立ててゆく事ができ、恥じ無き生活が送れるだろう。美砂子は幼稚園の頃からピアノを習って今日に及んでいる。家庭には音楽の空気もあって小さい時にからそれに親しんでいる。今のところ大して芸術的天分がありそうにも見えないが、人並みには弾けるようだ。もしもこういう条件を土台に一層励んで倦むことが無かったら、やがては人に教える身分にもなり、おのれ自身の幸福として、欲する時に芸術再現の喜びを持つことができるようにもなるだろう。「考えてごらん、あなたが大人おとなになって、悪いけれどもその頃はもうお祖父じいちゃんもお祖母おばあちゃんもいらっしゃらず、私たち両親ふたおやだっていなくなっているかも知れない時に、一人でピアノに向かって、モーツァルトやべートーヴェンから優しい慰めや生きる勇気を与えられるのは、なんという仕合わせな事でしょう。一つの和音を叩いたり、或るメロディーを弾いたりして、その時どきの喜びや悲しい思いや懐かしい昔の事などを、ちょうど誰か親しい人に打ちあけるように、音の中で話すことができたらどんなにいいでしょう。戦争とあわただしい結婚のため中途でピアノのお稽古をやめてしまったこのお母さんなんかには、到底できない事があなたにはできるようになるんです。本当に羨ましいわ。さっき弾いていたあのハイドンだって、比較的初歩のものなのにとても美しいので、お母さんは御用の暇にちょっと縁側へ腰をかけて聴いていながら、何だか泣きたいような気持になったくらいよ……」
 小学校六年の長女に切切せつせつと言ってきかせる労苦の母親のこうした言菓を、私は陰ながら幾たびか聴いた気がする。そしてその子供が試験に立合った先生の言葉をかりれば、今や「美砂子ちゃんとしては予想外の好成績で」学科にもピアノにもパスしたのである。私にしても、妻にしても、自分たちの子であるこの若い母親の感動と安堵の顔を、むしろ正視するに堪えなかった。

     *

 娘婿の父親で、私にとっては義兄にあたる故石黒忠篤氏の一周忌がもうじき来る。それで故人と親しかった政治家や学者や農林関係の人々のあいだから、「その遺徳をしのぶ」意味で図書館建設と追憶又集発刊の話がもちあがり、すでに基金の募集や原稿の依頼がはじまっている。私のところへも両方来た。そして文集には特に詩を書くように頼まれた。
 それ以来、仕事や雑用の合間に、私は頭に浮かんだ詩句を例によって二行三行と日記帖のはしに書きつけた。ちょうど庭にサンシュユが咲き、梅が咲き、つづいて連翹れんぎょうが咲きはじめ、小鳥の声の多くなる早春だった。故人は毎年この季節になると必ず息子夫婦をこの上野毛に訪ねて来て、今はアメリカ人に貸してある石造二階建ての別荘の附近や、所有の地所をいろどる春を眺めるのを楽しみにしていた。そして若夫婦のやっている養鶏場や卵工場を見て廻ったり、私の書斎へはいりこんで並んでいる書物を物色したり、一人であたりを散歩したりして、帰りに木の一枝、草の花の二三輪を家づととして持ってゆくのが慣わしだった。政治というものに興味が持てず、農林や移民の仕事の実際にも暗い私としては、こうした時の普通人ただびと石黒忠篤にいちばん人間的な親しみを感じ、なみなみならぬ好意を持つことができた。
 その人を追憶する私の詩は、初めの断片的な物からしだいに形を成していった。そしてついに或る夜、(雨が上がった後で遠い町の灯の火の特にきれいな夜だったが)、次のような作が完成した。

     大いなる善意の人

  ひとつの川に臨んだあなたの地所の片隅で、
  早春の今朝、時をたがえずに、
  ことしもまた白い梅の花が咲きはじめた。
  あなたがその野性の素朴な清らかさを愛して、
  毎年まいとし今ごろの日曜日におとずれては
  かならず一枝を手折って行った青軸あおじくの梅だ。

  花の咲いた白梅しらうめの一枝、それに
  黄いろい笛のほころびかけた連翹れんぎょうの小枝、
  あなたはそれで満足し、手の中の春に心を富まされて、
  けっしてそれ以上をむさぼらなかった。
  自然の中へ神が置いた単純なもの、小さいもの、幼いものの
  存在の美と偉大と荘厳の意味を知っていたあなたは。

  ふたたびの春を知らせる都会の果ての
  緑の土地と、日に照らされた白い家、
  それがしばしの間おだやかな神から優しく与えられた
  恩寵だという事をあなたは知っていた。
  人がこの世の生に訣別して出発する時、
  その旅の装いと持物とが何であるべきかをあなたは知っていた。

  友や同志たちの仕事に対して常に必ず発動した
  あなたの熱情とまごころとは永く生き続けるだろう。
  善意のために上うわずってしまうあの大声や、
  おのれと他人への感動で柔かにうるむ瞳ひとみや顫える口髭は
  今は亡いあなたの姿の懐かしいまぼろし、
  清廉と無私とに生きたあなたの最上の瞬間、最高の美だった。

     *

 詩人としての私の心の野を養い、そこに涼しい雨や暖かい日の光をそそいで富ませてくれるもの、自然音楽とに如しくものはない。なおそれに女や子供の真実と少数の友の変らぬ友情とを加えれば、私の心の富は完璧となる。
 昨日私は銀座へ行って、行きつけのYという楽器店へはいった。前の晩、妻と二人で久しぶりにドゥヴォルジャックのピアノ三重奏曲『ドゥムキー』を聴きながら、急にこのボヘミアの作曲家の代表的作品『新世界より』が欲しくなった。それもドイツや英米の管弦楽団の演奏でなく、作曲者と同国人であるチェコの芸術家たちによるものでなくてはいけない。彼の音楽にいつも私の期待している暗い深い森林やロマンティックな山谷さんこくの感じと、そこへの郷愁と、民族的な情熱の詩。そういう条件を満たすものは、土地と血とを同じくする人々の演奏でなければならなかった。
 並木の柳がようやく芽ぶいた銀座通り四ッ角のその店へはいると、私はいつものようにまっすぐに二階のクラシックの売場へ行った。階段を昇りきった処に硝子張りの陳列窓があって、その中にはいつでも新発売のレコードのジャケッ卜が七・八枚、図案と色彩の妍けんをきそって懸かっている。『新世界』が目的の私は通りがかりの一瞥を与えただけだったが、ふと、べートーヴェンというローマ字綴りが網膜をかすめたような気がしたので、改めて立ちどまった。見ればまさにそうだった。黄いろい袋に赤い字で斜めに Beethoven と書いてあり、曲は何かと思ってよく見ると、『スコットランド、アイルランド、ウェイルズ及びイングランド歌曲集』と英語で書いてあるではないか。私はカッとした。こんなすばらしい物が出ていたのだ! しかもベートーヴェンの物ならばほとんどすべてを持っている自分がこれだけは持っていず、こういう物がこれだけ纒まった形でレコードに入れられようとは夢想だにしなかった。気の毒だがドゥヴォルジャックも、その郷愁のしらべも、民族的な情熱の詩もしばらくは御預けだ!
 私は夕方の客のたてこんでいる売場へ割りこみ、なじみの若い女店員Tさんにそのレコードを出してもらうと、盤面だけを調べてそのまま直ぐ包んでもらい、金を払って急いでおもてへ飛び出した。イギリスからの新らしい輸入盤で、つい最近に到着したばかりだという事だった。Tさんには私の喜びや興奮の理由がよくわかっているとみえて、「ジャケッ卜を飾って置いてようございました。お買いになったのは先生が初めてです」と言った。それに答えて、「この中には口マン・ロランの『ジャン・クリストフ』に出てくるフェイスフル・ジョーニーの歌がはいっているんですよ」と、少し上気して自分の言ったのを今でも覚えている。
 ベートーヴェンには、ロシア、ティロール、スペイン、ポルトガル、ポーランド、ドイツその他の土地や国々の民謡の編曲が百六十いくつだか有るそうだが、このイギリスの歌曲集もその一つで、たぶん作品番号一〇八の『二十五曲のスコットランドの歌』という本から十六曲を選んだのがこのレコードであろう。作品一〇八といえば、あの連作歌曲『遥かなる恋人へ』やイ長調のピアノ・ソナタ(ドロテア・チェチリア)のあと、一〇六番の『ハンマークラフィ-ア・ソナタ』に先立って纒められたものである。ピアノとヴァイオリンとチェロを伴奏にしたこれらの編曲は、ベートーヴェン自身の言ったとおり、「大きな作に取りかかるための時間やパンや金を獲る手段としての雑役」に過ぎなかったかも知れないが、この仕事の依頼者であるエディンバラの出版者ジョージ・トムスンとの往復書翰というのを見れば、(彼らの間には一八〇三年から一八二〇年まで交渉があった)、ベートーヴェンがこんな仕事に対しても甚だ良心的であり、また時に並ならぬ興味をもって打ちこんでいた事がわかる。
 今から三十年前、私は当時のコントラルトの名手ユリア・クルプの歌っている『カテイジーメイド』と『フェイスフル・ジョニー』の盤でべートーヴェンのこの方面の仕事を初めて知ったのだが、それを聴いた折々の深い感銘は今もなお忘れはしない。それは当時私の住んでいた平和な田園と私たちの結婚愛との、遠い美しい記憶に伴奏している。そしてこれらの歌を最も愛して口ずさんいたというあの『ジャン・クリストフ』の中のオリヴィエの薄倖の姉、アントワネットの懐かしい思い出にもっながっている。
 この一枚を私は特にいつくしみ、ただ一人の姉のように大切にしよう。けだしこれは私と共に静かに暮れる晩年を生きて、私の心の家のなかで、いとおしくも、けなげな、しかも傷つきやすい宝だから……

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 マドレーヌ・ロマンのこと

 去年(一九六〇年)の四月一曰に八十八歳の高齢で亡くなったマドレーヌ・ロランを追想する一文を、詩人マルセル・マルティネの未亡人ルネーが日本のロランの友の会へ送ってきたというので、友人片山敏彦がそれを翻訳して今年四月の雑誌『みすず』に寄せている。書翰風に書かれたさして長くない文章ではあるが、年長で有徳な同性への女らしい思募と敬いの気持と、その長逝にたいする哀惜の情とがこもごも流露していて、読む者の心にそぞろ感慨を催させる。そして故人がその亡き兄ロランの後添いの夫人とどんなに睦まじくやっていたかという点を強調して、それとなく私たちの以前からの心配を打ち消している。
 と言うのは、私たち、ロマン・ロランヘの共通の心情でつながっている者たちは、甚だ精力的活動的でかなりやりてのように思われるマリー・ロラン夫人と、その一生を令兄のために捧げっくした高貴で優しくつつましい老マドレーヌとの間が、必ずしも親身しんみのもののように行かないのではないかという気懸りを常に持っていたからである。
 更にマルティネ夫人は書いている。「マドレーヌ・ロランは、多くの賞讃を受けておられた令兄のためにすっかり心をささげて生きておられたので、ややもすれば人々はあのアントワネットのことを忘れることもあったのですが、じっさい『ジャン・クリストフ』の中のアントワネットはマドレーヌ・ロランのおもかげを宿しています」と。

 遠く日本にいて、ついにその人柄に直接触れる機会を持たなかった私なども、むかし頂いた幾通かの手紙やたびたびの贈り物にこめられた温かい心づかいや思いやりに胸打たれながら、いっしか同じように、懐かしいアントワネット・ジャンナンのイメージを実在のマドレーヌその人に重ね合わせたのだった。そしてこの日記にも書いたはずだが、先日手に入れたべートーヴェン編曲の『スコットランド歌曲集』のレコードを聴く折々にも、これらの歌をあのマドレーヌ・ロランはきっと好きだったろうと想像せずにはいられない。なぜかと言えば、『ジャン・クリストフ』に出てくるオリヴィエの姉アットワネットもそれを愛して、中でも最も美しく感動的な『誠実なジョーニー』の歌を彼女の臨終いまわの際のくちびるに漂わせていたのだから――

  When will you come again, my faithful Johnnie,
  when will you come again ?
  When the corn is gathered and the leaves are withered,
  I will come again, my sweet and bonnie,
  I will come again.
  (いつ又あなたは来るのでしょうか、誠実なジョニーよ、
  いつ又あなたは。
  麦の取入れがすんで、木の葉が枯れたとき、
  私は又来る、私の優しいかわいい人よ、
  私は又来る)

 マルティネ夫人は続けている。「あの方はソルボンヌ通りのギルド(これは現在の医学校通りにある仏英学館の前身ですが)で英語教授の資格を得られたのに、教授としての経歴をなげうって令兄の仕事を助けることに専念され、タゴール、ガンヂー、カリダス・ナーグなどインドの友らとロマン・ロランが語り合う時の通訳の役目をなさいました。そんな一つの時期も今では遠い以前のことになりましたが」と。
 事実、英語に堪能だった証拠には、H・G・ウェルズやトーマス・ハーディ等の作品を訳して出版し、私への遠い以前の手紙にも、私の妻に読めるようにと、フランス語でなく英語で書いてよこされたのがあった。そしてそれがまったく立派な英文だった。ロマン・ロランはインドの聖賢の研究書である自著の『ラマクリシュナ伝』を妹にささげて、「この魂の周航に際してのわが誠実な伴侶、その人無くしては私がこの長途の航海を達成するを得なかったであろう妹マドレーヌに」と書いている。
「ヴィルヌーヴでは美しい庭の手入れをご自分でなさり、家政のこともなさり、忠実な友らを迎え、またロマンを疲らせそうな、つごうの悪い人々を電話で遠ざけられるのでした。私のマルセルが重病だった時マドレーヌ・ロランが色々とお気づかいくださったこと、また私の子供らが小さかった頃に愛情のこもった贈り物を頂いたことを、私は決して忘れません」とマルテティネ夫人は言う。
 そうだ、私もまた遠いスイスの空からの彼女の優しい心づかいを忘れはしない。日本から遊学した友人ふたりはレマン湖畔ヴィルヌーヴの家にその兄ロマンをたずねたのに、そういう事のできない私たちへの思いやりからであろう、彼女は自分で写した家や庭や、窓からの眺めの写真を送りとどけてくれた。そしてそれには一枚一枚、私の妻のために英語で説明が書かれていた。またそれでもなお足りないと思ったのか、何枚かの風景画葉書を封筒に入れて、その後いくたびか送ってくだすった。そういう画葉書にはちゃんとフランス語の説明が印刷してあるのに、それにもまた紫インクの小さい字で英語の説明がつけ加えてあった。或る年のクリスマスには、その頃三つか四つだった私たちの娘栄子にと言って、スイスの山小屋の内部を舞台面のように仕立てた懸け額をプレゼントに下すった。日本でも土産物として売っている物に似ていながら、家具や小道具の類が何もかも揃っている上に生活の古風な雰囲気さえも漂っている、まことに行届いた見事な物だった。永いあいだの炉の煙のために、はりや天井や壁のくすぶっているのも真に迫っていた。流しの上には長さ十五ミリ程のタオルや布巾が懸けてあり、かわいい古いランプが下がり、小人にふさわしいような農具が立てられ、床には飼猫のための小さい牛乳鉢まで置いてあった。そしてこの居間兼台所の正面の窓は、それは初めは硝子張りとして作ってあったらしいが、それを剥がして、マドレーヌ自身の細工であろう、ダン・デュ・ミディ連峯の見える着色画葉書の一片が衷から貼りつけてあった!
 その栄子の弟朗馬雄ロマオ(ロマン・ロランが彼の名観だった)が二歳で死んだ時、それを悼んで書かれた兄妹の愛情のこもった手紙と一緒にとどいた一枚の画葉書は、スイスの山の草原に立つ一基の十字架を現わしていた!

 今これを書いている四月の夜、私の目の前には小さい額にはいった一枚の貴重な写真がある。それはロマン・ロランが其処に十六年間(しかも何という豊饒多産な十六年だったろう!)を住んだヴィルヌーヴの家ヴィラ・オルガとその庭園とを写したもので、季節はアルプスの雪やレマン湖の水も風にかおる春らしく、二階建ての清楚な白い家をかこむ庭は一面に桜桃の花ざかりである。そしてその庭の若草の中に兄ロマンが立ち、少し離れて妹マドレーヌが籐椅子にかけている。一九二九年とあるから今から三十二年前、ロマン・ロランが六十三歳、マドレーヌ・ロランが五十七歳の時のおもかげである。しかしその人たちはもういない。その兄よりも十六年を永く生きたマドレーヌさえ。「マドレーヌ・ロランが世を去られたために、ロランの最も古い友らにとっての、――フランスとアジアの旧友全部にとっての――ロマン・ロランが、いくらか遠くへ行かれた思いがします」とマルティネ夫人は手紙の最後で言っている。ほんとうにそうだ。そしてそう言う夫人自身の夫君、その生前幾多の親しい音信を私とやりとりした詩人マルセル・マルティネが、すでにそれより一層遠く行った思いがするではないか。
 しかし、否! あの人たちは決して死んでしまったのではない。ただ住まいを変えただけだ。私たち生き残っている者が彼らを懐かしく思い出すたびにその面影はよみがえり、彼らの残したものを読むたびにその言葉は彼らの心の最も深く親しいものを打ち明ける。真に愛することを知った者は死をうけいれない。「死ねば死にきり」という考えは、人間の物質的生存だけを問題とする者の考えだ。おのれ一代の生を世界時間の正午の時と考える者の思想だ。
 私はこの世でいちばん会いたかったロマン・ロランについに会わずにしまった。一年か二年フランスに滞在できるだけの金を準備し、留守ちゅう家族の困らないだけの物も用意し、旅券の交付を受けるところまで事を運びながら、年老いた愛する母親のとつぜんの重患のために一切の計画をなげうった。そしてその後ふたたびそんな好機は来なかった。ロランは私のためにヴィラ・オルガの隣りのオテル・ビロンに一室を用意してくれると言い、パリの友人たち、ヴィルドラック、マルティネ、デュアメル、アルコスらは、「オザキが来る」と手ぐすねひいて待っていた。その頃登山に熱中しはじめていた私は、ロランに心配させながら、彼の窓から遠く高々と仰がれるダン・デュ・ミディへ、単身勇ましく登ってやろうなどと考えては密かに悦に入っていた。またフランスヘ行ったら、パリの町は二の次にして、主としてその田舎や地方を歩きまわって、自然や人文地理への知識と熱情とで彼ら詩人たちを一驚かせたり同感させたりしてやろうとたくらんでいた。幼稚な虚栄心、笑うべき安易な心よ! しかしそんな夢想も一朝にしてすべて霧のように吹き消されたのだった。
 否! あの人たちは決して死にはしない。その中の幾人かは、今の私には行くことのできない処へと住まいを変えただけだ。先方から日本へ来たために会うことのできたヴィルドラックやデュアメル。そういう人たちは元より、ついに相見る時のなかったロラン兄妹もマルティネも、私の中で生き続けている。そして(あたかも今夜のように)、私が懐かしく思い出したり読み返したりするたびに、一層愛され真実化された彼や彼女らがよみがえるのである。
  いつ又あなたは来るのでしょうか。
  私は来る、私は来る、
  君に思い出されるいつもいつも……

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 私の愛鳥週間

 毎日の春の夜あけと日没の時間を、彼らの柔らかなフルートの歌で満たしていたアカハラやツグミのむれが、前者は国内の山の営巣地、後者は海をこえて遠くシベリア沿海州あたりの繁殖地へと今年もまたそれぞれ帰ってゆく四月の下旬、この多摩川べりの上野毛一帯、もくもくと湧き上がる雲のような初夏の新緑につつまれる。そして其処に住んでいる私の日記にも、清新な季節の到来を告げるいろいろな自然現象や生物現象が――咲きはじめた草木の花や、姿を現わした昆虫や、到着の歌を聴かせた小鳥たちのことが、ほとんど毎日のように書きこまれる。
 たとえば、四月二十四日のくだりを見ると、「早朝、門内左側の生垣にそってマツヨイグサの初花三輪」とか、「昼間書斎で仕事をしていると、河原のほうから今年初めてのセッカの声が風に運ばれて聴こえて来た」とか書いてある。また二十七日の項には、「庭のエニシダ満開、全株まったく金色こんじきの花のかたまり」とか、「今年最初のアオスジアゲハー羽、しきりにシバザクラの花にすがって蜜を求めている」とか、「夕がた孤独のアカハラの歌。時刻は午後六時半、三頭山みとうやまのあたりに真紅の太陽が沈んで、久しぶりに見える丹沢や大菩薩の連山が紫の影絵のようだ」とある。更に翌二十八日金曜日のページには、これも今年はじめてのサンショウクイが一羽、頭の上の青い空間をヒリヒリン・ヒリヒリンと鳴きながら飛んで行ったことが走り書きしてある。
 その他小鳥のことだけを抜き出せば、四月末の二日間だけ裏の崖林に滞在してすばらしい美声を聴かせながら、その後杳ようとして消息を絶ったヒガラとオオルリ、五月一日にやって来て以来ずっと居ついて、悲調を帯びた「提灯一挺欲しい!」を曇り日の青葉のなかで叫んでいるイカル、五月八日のたそがれ時から「ホー・ホー」と鳴き出したアオバズク、そしてあくる九日の朝早くに到着のけはいを見せて、それ以後毎日あの明るく力強い「ヴィッチ・ヴィッチ・ポイポイボイ」の歌ごえを家の周囲に鳴りひびかせている例年のサンコウチョウなど、私の日記の一部はまるで彼らの出勤簿のおもむきを呈している。
 そのサンコウチョウやイカルが、裏の崖林からその下に続く藪地のだいたいどの辺にめいめいの巣を造るか、私には見当がついている。前者はおそらく去年の夏のと同じ栗の中枝に懸けるだろうし、後者はあの薮地の湧き水に近いウツギかサンショウの茂みに今年もまたしつらえるだろう。事によったらそのひそかな営巣の仕事はもう始まっているかも知れない。しかし私は見に行かない。巣を見に行ったり、調べたり、中の卵をかぞえたりしたために、可憐な者たちにその苦心の巣を放棄させた心苦しい経験を私はいくつか持っている。鳥学者が学問のためにするならば知らないこと、しろうとがただの好奇心から小さい者の懸命な秘密をあばくというのは悪徳である。一度でも人間に発見されたりその手で触れられたりしたら、造りかけの巣ならば小鳥は仕事を中止して他のもっと安全な場所をさがすだろうし、完成した産座に抱卵中だったり育雛の最中だったりしたら、夫婦の者は必死になって叫びたてるか飛びかかって来るかするが、それでもなお力及ばない兇悪無残な敵だと見れば、悲痛な声と心とを後にのこして、彼らの愛の結晶をその家ぐるみ永久に見捨てて飛び去るだろう。
 一箇月ほど前の東京の或る新聞で、私は一人の女性の投書を読んだ。年齢からいってまだ大変若い人の書いたものだが、『お堀の鳥を故国へ』という題のついているその文章に私は深く心を打たれた。事は皇居外郭の堀に放し飼いされている黒鳥の父親と雛とが、二度にわたって石で打ち殺されたり、頭を砕かれて死んだりした悲惨事に関してである。その文章を投書者の承諾も得ないで転戟するのは非礼のような気もするが、ここで初めてそれを読んで同感を禁じ得ない人々も多かろうと思うので独断を許して頂くことにする。
 「日本人の持って生まれた非人間性が、そうさせるのだと思います。こうした心がなおらないかぎり、お堀のまわりに立て札を立てようが、巡視員をふやそうが、こうした悪質ないたずらはなくなりません。
 それよりも、白鳥や黒鳥を故国オーストラリアに帰した方がいいと思います。お堀に白烏や黒鳥がいなくなったら、本当にさみしいことだと思いますが、このまま見殺しにするよりも、故国へ帰した方が鳥たちのためでもあり、日本とオーストラリアの友情のためでもあると思います。オーストラリアの人々は、きっと日本人の心ないやり方を非難していると思います。いいえ、非難されるのが当然です。
 鳥一羽完全に保護できない日本、その責任をになっている厚生省。その場かぎりの無責任な悪い面を見せつけられた気持で本当に腹が立ちます。こうした日本にいるよりも、故国の温かな人人の手に帰れば、石を投げつけられたり、手製のモリで雛や親鳥を殺されなくてすみます。日本人が動物を心から愛せるようになってから、もう一度もらいなおしてもおそくはありません」
 動物を心から愛せるようになってから、その資格が身についてから、もう一度もらいなおしても遅くはない! 本当にそのとおりだ。私は切々として胸を打つこの抗議に同感したが、この投書者のような純真な眼から見れば、資格も裏づけもないのに上うわっ面つらだけ文明国を標榜ひょうぼうしているもの、われわれの日本にあってひとり「動物愛護」の運動のみではないであろう。
 山野の鳥の歌に耳をにかたむけたり、その姿や動作にじっと見入ったりしている時の此類もない静かな喜びのことを、いろいろな場合の実例をあげて書いた或るイギリスの本の最初のぺージに、私の好きな小さい木版画がはいっている。構図は野の草の上にすわって鳥の声を聴いている二人の男と、そのむこうに見える空と雲とを現わしたにすぎない至って簡素なものだが、ただそれだけで澄みわたった田園の空気と青々とした広がりと、あたりの無限の静かさとが感じられ、彼らの聴いている鳥の声さえも聴こえてくるような気示するのである。草の中に片手をついている一人は鳥打帽にニッカーボッカー、手であごを支えているもう一人のほうは鍔広つばひろのソフトにスコットランド風の短かいスカート。それがいかにもしんから自然を好きなイギリス人の特色と、羨ましいほど豊かな本当の閑暇の気分とを表現している。私は出来る事なら、また許される事なら、この木版画から複製をつくって、真に自然や野鳥を愛する幾人かの友人に贈りたいと思うことがたびたびある。
 家のまわりで日増しに夏鳥の声が賑やかになってきた最近の或る日、私と妻とは招かれて北鎌倉へ行った。招いてくれたのは其処に住んでいる古くから親しい友達四人で、一人は詩人、三人は大学のドイツ語やフランス語の教授である。この四人が一年に一度か二度改まって私たちを招待して、昼間は附近の山や谷やとを一緒にあるき、夜は一席の宴を張ってくれるというのがここ幾年の行事のようになっている。元より文学をやっている者同士のつきあいだから、ふだん東京の町中などで別々に会っている時は話題もその方面に関係のあることは当然だが、この、年に一二回の招待の日だけは、彼ら鎌倉の、しかも植物や動物に豊かで静かに奥まった山間に住んでいる四人が、逆に東京の私から自然について何事かを学ぶというのがその趣意であるらしい。つまりこの土地に育って今日に至るまで此処に住んで、鎌倉の新旧の町筋はもちろん、その名所や史蹟を初め、五山、五水、七郷、七谷、十橋、十井のすべてに通じている富士川英郎さんが先達となって山道を案内して行くと、それに続く一行の一人である私が、「この濡れた岩壁の面をびっしりと埋めて咲いているのはイワタバコです」とか、「今むこうの谷の上で鳴いている鳥、あれはオオルリといって、声もいいけれど瑠璃色るりいろと白の美しい鳥です。ウグイスやコマドリと一緒に日本三名鳥の一つと言われています」などと、あっぱれ見学の指導者きどりで説明するというぐあいなのである。
 さて今年の散歩は前回の半僧坊から見晴らし台への尾根伝いとは反対に、山ノ内から葛原岡をこえて長谷はせの大仏へ降りる西側の山歩きだった。すべての落葉樹が目もさめるような若葉の緑を煙らせている中に、老木の杉や檜ひのきの針葉樹が黒く欝蒼と立ち茂っているのがいかにも鎌倉山の面目だった。うねうねと続く細道の両側には、四月も末、春から夏へ移る季節のいろいろな花が咲いていた。谷を見おろす崖の中腹に三浦半島地層群の鎌倉化石帯らしい露出部が指摘されるかと思うと、また木々の緑の間から相模灘の水のひろがりの見える所もあった。
 ちょうど私たちが佐助神社の上の暗い椎の森へさしかかった時だった。とつぜん近くで「ピー・ピー・ズウ」とはげしく叫ぶ小鳥の声がした。「なんでしょう、あの鳥は」富士川さんが声をひそめて質問した。私は皆を制して、足をとめ耳を澄ました。同じ叱しかりつけるような声はなお二度ばかり続いたが、私にはどうもはっきりした事が言えなにかった。あたりの椎の老木を見廻すとその中の一本の幹に小さい穴があった。私は営巣中のシジュウカラかなと思ったが、それにしては声に厚みがありすぎた。するとそばから妻が小声で「ヤマガラじゃないでしょうか」と言った。私ほどには貴任のない単なる女の直感だろうか。しかしそれは当っていた。私たちが五分間ばかり息を殺して立ちすくんでいると、やがて同じ鳥の「ピー・スー・ピー・スー・ピー」の歌が高らかに嚠喨りゅうりょうと、たそがれのように暗い椎の純林の中に響きわたった。それはまさにヤマガラのものであり、ここが彼の棲息地である事に間違いはなかった。その歌につれて林中の少し離れた処からも別のヤマガラの歌が聴こえて来た。私たちは酔ったように聴き惚れた。
 このヤマガラと一昨年おととしのオオルリ。「鎌倉はいいですね」と思い入って私が言うと、「そうですね」と、あの謹厳な富士川さんが、顔を崩して晴れやかに美しくほほえんだ。

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 日記から(二)

 新宿駅を午後零時三十分に発車する松本行準急「白馬第一号」は金曜日という週間日にもかかわらず充分こみ合っていた。八王子からでは無論のこと、もう一と駅手前の立川からでさえ、乗ってくる人々のための座席というものはもうほとんど無かった。
 こんな時はすわっているほうでも気が痛む。なるべく見ないようにしながら、心の眼は何でも見ていて、いろんな想像や共感の作用のために苦しむのである。そうかと言って、余程の事でもないかぎり、せっかく二時間近くも真っぴるまのプラットフォームに行列して漸く占めることのできた優先の席を、そう軽々と気前よく誰かに譲る気にもなれない。一度おとこぎだか同情心だかが発動してしまえば、それ以後は少くとも甲府まで、悪くすれば上諏訪ぐらいまで、自分のほうが立っていることを覚悟しなければならない。しかも譲られた当人が恐縮のおももちでいればそのために却ってこちらの心が痛み、逆に平気の平左でいるようならば自分がばかばかしくなって後侮する。いずれにしてもこの事は、二時間半乃至四時間あまりに及ぶ「身から出た銹さび」の試練を意味するのである。
 「週間日にもかかわらず」と初めに書いたが、実は今では、少くとも行楽の旅に関するかぎり、もう週末もウィークデイも大した変りはない。各種の団体観光の流行とそのすさまじい膨れ上がり、大会社やデパートの日差休日利用の旅、それに登山者やハイカーなどの激増が、好季節の乗物のひしめくような混雑の最大原因ではないかと思う。しかもそれに準じてかどうかは知らないが、一般的な公衆道徳の低下は甚だしく、彼らの無遠慮やしつけの悪さが、われわれのような控え目な旅客を圧迫し、圧倒し、その無作法や愚劣きわまる放言が、宿命的な時間のあいだぢゅう私たちを責めさいなむのだ。
 この六月二日、私は友人と二人でそういう「白馬第一号」に乗っていた。下車駅は終点松本、行く先は上高地だった。残雪の穂高連峯を見上げる深い谷間、梓川あずさがわの清流と、雲のような新緑と、響きわたる小鳥の歌とのその上高地へ行って、今年は特に生誕百年に当たるというウォルター・ウェストン師の碑前祭に参加し、毎年の事として即席自作の詩を朗読し、小梨平こなしだいらの静かなホールで一席の記念講演を試みるというのがこの旅のおもな目的だった。私と友人とは新宿駅のプラットフォームで落ち合って二時間近くを行列し、真先に乗ることができた進行方向左側の窓ぎわに向かい合ってすわった。正午も過ぎれば日の暮れまで日光の射しこむきらいはあるが、中央線ではこの左窓のほうが概して見るべきものが豊富なのである。相模湖から先の桂川の渓谷と、その右岸の山々や段丘上の部落と耕地。勝沼からぐるりと半周しながら降りてゆく時の甲府盆地の大観と、御坂みさか山塊や白峯しらね三山の遠望。そしてその上へ頭だけの富士山の出現。やがて穴山から長坂にかけて鳳凰ほうおう三山と甲斐駒ガ岳の雄姿。さては茅野ちのから岡谷までの諏訪湖の水のひろがりなど、幾十たび通い馴れて今では目をつぶってさえ見えるような風物ではあるが。
 さて、旅は果然ごったがえし、燃え、汗を滴らせ、発車前三十分でもうこのディーゼルカーには空席が無かった。私たちの周囲は「おしょさん」と呼ばれる人物を中心にした二十人あまりの婦人団体客でぎっしり詰まり、そういう集団の旅行者に特有なあたり憚らないおしゃべりや駄口の応酬で騒然としてきた。私はこの連中は一体どんな社会の人達だろうと観察の眼を働かせたが、このごろのように服装や持物に種族的個性がなくなった今ではどうしても解らなかった。それに彼らの「おしょさん」なる者がどうも一等車におさまっているらしいので、何の師匠だか先生だかそれも知る由がなかった。そのうちにその団体の世話人らしいでっぷり太った女が、私たちに続いて早くから乗りこんで右側の窓ぎわを占めていた一人の男の乗客を、「あんた済みませんが代って下さい」と言いながら無理やりにどかせて、ボストンバッグで自分の席を保留してあつた処へすわらせた。それは私の隣りだった。男は不承不承に立ち上がって私の隣席へ腰をかけたが、見れば右脚が膝のあたりから無いらしく、古い大きな松葉杖をかかえていた。黒い眼鏡をかけた暗い感じの中年者だった。ところがその人、八王子の駅で弁当を買うつもりだったのに、あいにく反対の左窓のほうへ移されたので買う事ができず、大月では売っていず、甲府では買えても茶の売子が来ず、とうとうそれまで押し殺していた無念が爆発したか、私と友人との間へ中腰に立ってステンレスの熱い窓のへりを引掴んだまま、「最高に最高に不愉快な旅だ!」と、噛んで吐き出すように言った。
 私たちは慰めの言葉にさえ窮してうつむいたが、こんな事もこの頃の世の中で経験させられるさまざまな苦痛、幾多の無言の憤りの、ほんの一例に過ぎないのだろう。
 女たちの一行はやがて上諏訪でがやがやと降りて行った。その団体的貪婪どんらんの残骸で車内を汚しつくしたまま。そしてその後から黒眼鏡の中年男が、あの団体的横暴の犠牲者が、古い大きな松葉杖と一本の脚とをあやつりながら陰欝につづいて行った。

     *

 いつ誰が言い出したものか「ウェストン祭には雨が降る」というのが諺ことわざのようになっていて、事実ここ数年必ずと言っていいくらい悪天候に見舞われたが、第十五回目の今年は珍らしくその言いならわしが裏ぎられて、上高地の谷はすばらしい好天気だった。
 二日がかりのこの祭に集まった人達は、主催者である日本山岳会信濃支部に所属している会員を主に、東京、甲府、岐阜、名古屋、大阪、神戸、米子、福岡などからの参加者を加えて、総勢三百人を越すという盛況だった。松本や島々から臨時のバスが増発され、すべての旅館は分宿する来会者でいっぱいだった。しかし登山の盛季にまだ早い、いわば山開きとも言えるこの祭に集まった真の山好きの人達は、さすがにしつけもあれば知的でもあるので、他人の迷惑になる事や自分たちの品位を落とすような振舞いは全くしなかった。
 河童橋かっぱばしから見上げる穂高の峯々は去年よりも雪の量が多かったが、小梨平こなしだいらの小梨の開花は去年よりも早くてちょうど今が盛りだった。それに準じて谷間の草の花も早く、例のエゾムラサキやテングクワガタが凛しい空色で路ばたをうずめ、ミヤマタンポポの黄が緑の草地をあたたかに照らし、ムカゴトラノオが可憐な淡べに色の花穂を柔らかに抽き出していた。また小鳥はと言えば、遠く東京で考えていたとおりに、ウグイスもミソサザイも、メボソもヒガラも、エゾムシクイもセンダイムシクイも、コルリもコマドリも、ホトトギスもアカハラも、それぞれの場所でそれぞれの歌や呼び声を響かせていた。そして到るところで梓川の瀬音が鳴り、思わぬ木の間でその水が遠く光っていた。
 私は例によって祭の始まる前の僅かな時間に、碑前で朗読するための即席即事の詩を作った
が、今年はウェストン翁の生誕満百年にも当るので、その翁に呼びかける形で書いた。

  私たち山を愛するともがら、
  今年ことしもまたこの神河内かみこうちの谷へ入って来て、
  今日きょう、六月四日、午前十時、
  あなたの碑の前に集まっています。
  徒歩で徳本とくごうをこえて来た者、
  車で梓川の谷をのぼって来た者、
  それぞれにたどる道こそ違いはしても、
  あなたの古い踏みあとを懐かしみ
  あなたの遺された徳をしのぶ心はひとつに、
  女、男、若い者、老いたる者の三百人あまりが
  花を献ささげ、思い思いの瞑想にひたりながら、
  ここにこうして立っています。

  耳にひびく梓川の谷の水音、
  木の間で歌い囀る初夏はつなつの山の小鳥、
  柔らかな雲のような樹々の若葉や
  おりから盛りの小梨の花やえぞむらさき。
  そしてこの美しく清らかな別天地を
  永遠にかくあれかしと護るように、
  今年はまたわけても残雪深い雄渾ゆうこんな穂高が
  霞沢、六百ろっぴゃく、焼やけの峯々をしたがえて、
  六月の空の中ほどに聳々しょうしょうとそばだっています。
  私たちみんな、心が洗われ、
  精神がのびのびとなった気がします。
  世の中に対してもっと寛容に、思いやり多く、
  おのれに対してはなおいくらか厳密に、
  また一層有能でありたいという気がします。
  そう思うと、
  来る年ごとに少しずつ変わるこの谷の有様や、
  軽薄になってゆくかと見える風俗さえ、
  あまりきびしく咎とがめる気にはなりません。
  それにしてはめぐる山々が高々と大らかに、
  谷の姿、原始林のたたずまいが
  変わることなく深く重厚で、
  人をして各自の反省に沈ましめるからです。

  私たちみんな、
  明日あすはまためいめいのこの世の務めや営みに
  袂を分かって帰って行きます。
  そしてその私たちが、もしも、世界に対して
  一層大らかに、寛容であり、
  かつ一層楽しく精励することができるとしたら、
  それはやはり、山という自然の賜物たまものであり、
  同じ心の人と人との
  こうした再会やめぐり合いのためでしょう。
  そしてそれは必ずや、
  かつてこの世にあった日の
  あなたのお心にも添う事と思います。

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 旅のたより

 今僕は信州川上の梓山にいる。正しく言えば長野県南佐久郡川上村梓山で、東京から約八時間。新潟市の河口まで全長三六九キロメートルという日本でもいちばん長い信濃川の上流千曲川ちくまがわが、もうあと一〇キロ、つまりここから二里半ばかりの甲武信岳こぶしだけの頂上直下で、その暗く涼しい呱々の声を上げていようという山間の部落だ。
 そんな処だから周囲はすべて山ばにかり。金峯山きんぷさん、国師岳こくしだけ、甲武信岳こぶしだけなど奥秩父の高山を南に背負い、東は十文字峠から三国山、北は天狗山から男山へとつらなる南相木みなみあいきの岩山つづき。ただわずかに西のほうが遠くひらけて、川下の山のあいだから八ガ岳の赤岳、横岳、権現岳がのぞいている。
 今夜は七夕たなばただ。その七夕の夜の星空を、山川の水の流れも涼しくて清らかな、またその名も涼しげに美しい梓山で、心ゆくまで眺めたり味わったりしよう、そして帰りには野辺山あたりの高原で、目の前に横たわる八ガ岳の連峯や、暑い夏草の果てに薄青い影絵のように踊っている甲斐や信濃の山なみを見はるかそう。そういうのがわれわれの昨日きのうからの小さい旅の目的だった。
 ここでわれわれというのは、僕に一人の若い道づれがあるという意味だ。東京大学出身で地質学を専攻し、現在は或る放送局につとめて科学の部門を担当している。君も承知のように以前から地理学に興味を持っている僕にとって、秩父山地と八ガ岳火山列との接触点である此の地方への旅行に、こんな同伴者を得たことは甚だ幸いだと言わなければならない。
 週間日の事で乗物は思ったほど混みもせず、上野にからの準急「白樺号」での旅はしごく快適だった。それに前の日までずっと曇りつづけていた天気が晴れになる兆候を見せて、西風と一緒に切れてゆく雲のあいだから時どき暑い日光さえ射して来た。軽井沢は例によって靄もやが濃く、北の浅間山も南の八風山はっぷうざんも見えなかったが、小諸までくだると前線のしんがりを示す美しい巻雲と高積雲の空になって、おもむろに巻き上がっては消えてゆく灰色の山雲のあいだから、浅間はもちろヘ烏帽子えぼし火山群や蓼科山までくっきりと見え友。
 小諸からは小海線に乗りかえて信濃川上まで行き、そこからバスで梓山へ入る予定だったが、最近の集中豪雨のために此処でも小海・海ノ口間が不通になっているというので、小海の駅前からタクシーを雇って梓山まで直行する事にした。汽車だと川上まで千曲川に沿って下のほうを行き、途中の渓谷の眺めもなかなか良いのだが、自動車だと左岸の高みを曲がりくねって、がたがたの悪路をしゃにむに突進するのである。それでも男山の裾を廻って信濃川上の駅のある処から古い御所平ごしょだいらの部落あたりへ出たらほっとした。しかしそれから二里半ばかり行ったところ、大深山おおみやまと居倉いぐらのあいだで修理中の橋が渡れず、せっかくのタクシーをやむなく帰して、やっと折り返しの終バスに乗りこんで夜も八時ごろ終点の梓山へ入った。前もっての電話の連絡で待っていてくれた宿は白木屋。まだ僕の若かったころ一晩やっかいになった旅館である。
 山の中ではあるが梓山は奥秩父の裏登山口、そこでいちばん古くていちばん良い旅館の白木屋は、われわれのような登山客に特別な親近感を抱くのか、取って附けたような世辞もなく、純朴で親身でよく行き届いたもてなしをしてくれる。晩い夜食の膳に載っている岩茸やこれっぱ(ぎぼうし)が嬉しかった。信州名物の蜂の子の甘煮も久しぶりだった。楽しみにして来た岩魚いわなはあいにく不漁ということだったが、そのかわり佐久の鯉がうまかった。風呂場は清潔なタイル張り、座敷はその後増築の別棟、控えの間に九石のトランジスターラジオをひっそり置いて、宜しかったらお使い下さいという心くばり。コーヒーをいれると言えば電気ポットを持って来、戦場ガ原へ行くと言えば弁当を作ってテルモスを添えてくれる。まったく何から何まで気がっいて、それでいて口数すくなく親しみがこもっているのだ。
 今日は昼間のうち今言った戦場ガ原へ出かけたが、戦後は引きつづき開墾が進んで、十文字峠への登り口までのあいだ、原の半分は一望の畠になっていた。ディーゼル・エンジンの耕耘機や農薬の噴霧器がそこらぢゅうで活躍して、作物はおもに所謂清浄野菜だ。しかしそこでの事や僕を襲った感慨は、同封の『七月の地誌』という詩に書いたからそれを読んでもらうことにする。
 天気は今朝からすっかり好転して、今夜梓山の谷間の空は晴れわたっている。僕たちはつい今しがたまで、支流の梓川が少し先のところで本流の千曲川と合流する夜目にも白い河原の石に腰をおろした。さっき、二キロほど下しもの秋山の部落で、これも同じ流れに臨んだ土手のクローヴァの上にすわって、土地の小学校の校長さんや先生にビールの馳走になっていた時にはまだ燃えるように華やかな夕日だったのが、あれから1時間半、もう山も谷もすっかり暮れて、ただ歌うような川瀬の音と、見上げる空を一面にうずめた星と、その星明かりにほのかに照らされた水のしぶきと河原の白い色だけが、僕たちの旅の心に語りかけてきた。頭の真上には牛飼座の一等星アルクトゥルスが、薔薇色に匂う宝石のように輝いていた。もっと赤い蠍座さそりざのアンタレスは南のほう、ここからは見えない国師岳の空にルビーのようにきらめいていた。乙女座のスピカは信州峠の上あたりに、獅子座のレグルスは八ガ岳の天の低いところに、それぞれダイアモンドの光を放っていた。そして天あまノ川がわは北から南東へと谷間の空をよぎりながら、おぼろな光の帯の右と左に琴座のヴェガと鷲座のアルタイールを、つまり今宵の夫婦星めおとぼし、七夕の織女と牽牛を、よそおいも清く涼しく立たせていた。そしてその銀河の水にどっぶりと漬かった白鳥座は、主星デネブを重たそうに引きずりながら、ちょうど東のほう十文字峠の空に、真白なしぶきを上げて羽ばたいていた。
 このように、一等星と言われている大きな星たちはさすがに直ぐそれと指摘することができるが、何ぶんにも空が澄みきって極めて小さな星まですべて明瞭に光り輝いているので、向こうに見えるのは何座、こちらのは何座と、星座の形を識別してその名を言うのがとっさには寧ろ困難なくらいだ。
 滴るような星空の下、昼間のぬくもりのまだいくらか残っている水際の石に腰をかけて、暗い山から吹きおろして来る涼しい夜風に吹かれながらぼんやりせせらぎの音を聴いていると、遠い日の思い出が歌のように僕の心によみがえって来た。
 夕飯の時に娘といっしょに給仕に出た宿の内儀が僕をよく覚えていて、「初めてお見えになった、あれはたしか昭和十一年でございます」と言ったから、数えてみれば今から二十四年前になる。その二十四年前の九月のなかば、僕はこの梓山を訪れたのだった。もう奥秩父の山々に秋のもみじが照りはじめ、ここ梓川の小さい細長い水田にも稲の穂が黄いろく垂れて、田圃のくろに赤く寂しい彼岸花がかんざしのように咲き続いている時だった。僕を入れて一行三人、開設間もない信濃川上の駅から一六キロ、四里近くをバスに揺られてここへ来た。そして同じこの宿の夕飯までにはまだ間のある刻限だったので、一人は用意の釣竿を持って岩魚釣りに、一人は重たいレフレックス・カメラをかついで昆虫の撮影にと、さっそく思い思いの方向へ出かけた。そして僕はと言えば、僕は宿を出てすぐ取っつきの橋を渡ると、そのまま村の上手を戦場ガ原のほうへと、煙草を吸いながらぶらぶら歩いて行った。
 今でもそうだが村の家の屋根はすべて板葺きで、その上に重たい石をならべて載せてあった。そういう屋根や、渋色に古びた羽目や柱や、黄や薄みどりの地衣ちいに染まった白壁に、折から西へ傾いた真赤な夕日の光があたって、何ともいえず雅致のある色のしらべと、落ちついた平和な部落の姿とをえがき出していた。
 今ではほとんど見かけないが、その時には村ぢゅうに小さい飼犬がたくさんいた。道にもいれば橋の上もい、家の中の畳の上さえガサガサと歩いていた。それをみんなが家族の一員のように可愛がって大事にしていた。昔から伝わっている純粋な柴犬で、天然記念物として保護され、その正しい血統がよく護り継がれているという事だった。
 秋も残暑の頃なので、到るところで乾草の爽やかな匂いがしていた。折もよく往来へ向かった庭にそういう刈草をならべて乾している娘がいたので、「これはどうするのですか」とたずねたら、「冬のあいだの牛や馬の飼葉かいばにしやす」と言葉ずくなに答えた。その時僕はすぐに。

  この国の寒さを強み家のうちに
  馬引き入れて共に寝起ねおき

という、あの若山牧水の歌を思い出さずにはいられなかった。
 またどこの家でも蝦夷菊アスターを作っていて、ちょうどドイツの詩人ヘルマン・ヘッセの『秋』という文章にあるように、「白、紫、一重、八重、あらゆる種類とあらゆる色との花」が、山畑の石垣のふちや垣根のあたりを彩っていた……
 七夕の夜の梓山、星明かりに煙る千曲川のせせらぎを前に、二十幾年を経てよみがえった僕の思い出にはなお尽きないものがあったが、もう寝に帰らなければならない宿への道すがら、僕にもこんな歌が出来た。

  山深み夏また深む梓山
  なつかしきかな水も故旧も

 故旧とは、この場合、直接には昔愛したこの村とそこで知った人々のことを言っているのだが、言葉の根底にすべての「善き過ぎし日」が匂わせてあることは言うまでもない。しかし要するに詩人の手すさびに過ぎないのだから一笑に附してもらいたい。
 あしたは八ッの高原を通って小淵沢こぶちざわ経由で帰るつもりだ。


 

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 牧場の変奏曲

   Thema

 高山国スイスの夏季放牧場は、フランス語で alpe, ドイツ語では Alpe, 米語だと ale だが、前二者の場合そのアルプやアルペが女性名詞だということは、理由はどうであれ、それなりに楽しい。アルプは男らしい岩壁や、冷厳な雪にかがやく山頂という父親を眼前に、その豊かな胸や膝のうえに色さまざまな花を咲かせたり、清らかな小流れをハープのように掻き鳴らしている母である。またそれが牧人小屋シャレーからも畜群からも遠いかなたに高所の純潔を保っていると、あまりの気高さ、ういういしさに、近づくことの憚かられる天上の少女のように見える。
 そういう純粋なアルプ景観を地震と火山の国、湿潤なモンスーンと大洋の水にかこまれた島国日本で、われわれは何処に見いだす事ができるだろうか。しかし考えてみれば、体験と知識と想像力とによってよく成熟した山好きの人の心は詩人のそれであり、その目は画家の目であり、その耳は音楽家の耳でもある。彼らはおのが国土に見いだした高地草原や放牧場にスイスのそれを投影して、そこに思慕と郷愁のアルプを形づくる事ができるかも知れない。そこにアンペングリューエンの壮麗を見、牝牛の鈴クーグロッケンの悠久のしらべを聴くかも知れない。まことに山の「詩と真実」はこのような隔絶の境地にあるのであり、心の歌と風の歌とが大空の太陽や雲の下で幸福な調和をなすこと、アルプの憩いの時に及ぶものは無いのである。
 べートーヴェンのニ長調のピアノソナタ作品二八は、俗に『月光』と呼ばれている嵐のような終楽章をもつソナタにすぐ続く作品だが、『田園』という別名にこれはまた極めてふさわしく、その自然との融合感情の珠玉のような質によって、私にアルプと其処での憩いや瞑想をおもわせる。奮闘する巨匠の休みの日ヴァッカンス、照りわたる日光と顫える大気、岩を吹く風、きらめく水煙、青空の海にただよう雲の舟、かぐわしい花のかおりと蜂の羽音、そして「おお、森林の甘美な静けさ!」……あらゆる欲望がなだめられ、悪戦の思い出も今はプシシェの蝶となって、はるか天空の奥に消えてゆく……
 しかし若い友らよ、ニ長調のソナタ『田園』から更に進んでホ長調を、そこに一層浄化され単化された魂と自然との歌が、比類もない変奏曲となっている作品一〇九番のソナタを聴こう。そこで濛々と湧き上がる夏雲のあんな高みに、低音の轟きの遥か上方に、超絶的な高音部の山頂が「善に通ずる美」を歌いながら目もくらむように現われる。そしてそれが昇りに昇って、ついに燦爛とした星空と化するのである。
 ああ、それならば、ともすれば安易に堕するわれわれの世界に、この踏みならされた人間の牧場、この通俗化され閑暇化されたアルプに、品位と高潔との非凡な風を呼びもどそう、吹き渡らせよう!
 註 ベートーヴェンの言葉。"Süsse Stille des Waldes!"

     Ⅰ

 牧場は遠いがいい。できるだけ人里離れた僻遠がいい。稀少価値の重んぜられること、或る種の元素や宝石や芸術品には限らない。そしておそらく、人間にも限らない。
 週末旅行で人の押し出すどこそこの牧場、すしずめの重量バスが列をなして停まっている有名牧場、目を皿にして紹介の記事や美文をさがしている観光業者が、たちまちでっち上げる「山の牧場」……国土がせまく、人が浅薄な遊楽をこのんで、それにつけ入る貪婪な業者が鳴り物入りで強引に誘導し誘拐する日本では、静寂と自由の境地で牛馬のむれが悠悠と身をやしなう地の広袤は、年を追って蚕食され、せばめられ、けがされる。天の牧場が羨ましくはないか。そよ風わたる五月の夜々を、牛飼や猟犬のそれぞれ瞑想しているあの大空の野が!
 だからもう名は書くまい。場所を嗅ぎつけさせるような暗示もすまい。事実、企業家というマンモン=ジュピターはじきに嗅ぎ出す。そして牛に化けたり白鳥に身をやつしたりして欲望をとげれば、やがて無遠慮に正体を現わす。それならば他人に喜びや幸福をわかつ使命を手びかえて、人がそれに値する或る日が来るまで秘密を保とう。人々は自分の熱意、自分の器量で見いだせばいいのだ。彼ら自身のあこがれの牧場を、その純な渇きを癒やす牧場を、まだいくらか処女のおもかげを匂わせている隠れた牧場を。
 私も自分のを持っている。現に今、そして過去にはもっと美しいのをもっと多く。「我もまたアルカディアに住みにき」である。そして未来にもなお持つことがあるかも知れない。もっとやつれて、色香も失せて、わずかにその静かな片隅で敬虔に生き残っているような彼女、牧場を。
 移動牧畜トランジュマンスの風習も、そのための広地域もない日本では、山谷を越えて新らしい牧野ぼくやを求めるあの羊や牛の密集群の、壮大な長い流れは見るよしもない。またスイスやティロールのあのなじみのアルプ風景も、われわれの多くにとっては実は未知だ。しかし心をこめて見ること、読むこと、想像することのできる者、その経験を体験にまで肉づけすることのできる者、愛と知とを綜合し止揚することを知っている者、そういう人に窮極の異郷感デペイズマンはない。そしてその暖かい広やかな世界感情がわれわれに「牧場」をも愛させ、ギリシャ・ローマの古代から今日にいたる牧場の詩に同感させ、たまたまはその笛で『忠実な羊飼』をさえ吹かせるのである。
 かんじんなのは広く晴れやかな世界感情と持続のしらべ。その時どきのけちな気分ムードや流行モードや異国情緒エグソティシズムではけっしてない、牧場の場合でも、人生でも。

     Ⅱ

 生の陣営に属する者、生の美を見いだす戦闘に配置されている者にとっては、夢みることもまた生きることだ。夜の宇宙におぼろに光る幾億光年かなたの星雲によせる夢想が、そこに別の太陽系のあることを思い、次代の地球の現に存在することを確信する。蘭引きアランビックにかけられて蒸溜されたような抽象や謳刺を事とするのでない、すべてを逞しく正視して、世界を知って、常にいきいきとした想像力をいやが上にも養おうとする者に、広々とした夢想と豊かな体験とは生の糧だ。
 岩山の上の神殿の円柱を背景にして、海辺うみべの牧まきに白い若駒のおどっているビュウヴィス・ド・シャヴァンヌの画『古代のまぼろし』が、なんと私に大昔のシチリアやギリシヤの春を夢みさせたことだろう。当時私はロマン・ロランの小冊子『アグリジャントのエンペドクレス』に心酔していた。そしてシチリア島を主に、イオニア海沿岸の地の旅行記や写真をあさった。いろいろな古事を知り、さまざまな風景に通じるにつれて、私の夢はますます深く濃くなった。まだこの目で見たこともないシチリアの島の自然が、現代よりもむしろ古代の息吹いぶきと光とを伴って、見た以上の実感として私に迫った。その後そこへ音楽が加わった。とりどりの「シチリアーノ」。晴れやかに牧歌的なバッハやヘンデルから、マスカーニの粗野で白粉おしろい臭い『カヴァレリア・ルスティカーナ』に至るまでのシチリアの歌。私は土地ばかりか、彼らとその悲喜をさえ共にした。しかし帰るところは必ず常にエンペドクレス、あの四大循環カートル・エレマンの思想と調和ハルモニアの巨匠へだった。そしてそこにはいつも地中海の春があり、毎日の野外祝宴があり、海岸の牧場を駈ける白い美しい若駒があった。
 その古代めいた幻影が、或るとき私の見た実際の風景と入りまじる。否、むしろ柔らかに溶けあって、私の「海辺うみべの牧まき」の画を構成する。それは私たちがまだ大いに若かった頃――(と言うのは、私は高知生まれの或る友人に誘われ、彼の生家で真夏の半月を暮らしながら、仁淀川によどがわの舟下りや種崎の浜の海水浴に興じたのだった)――室戸崎を見に行くというので、友人とふたり、土佐の国の海岸ぞいに東のほうへ自動車を走らせている時だった。今はその場所の名も忘れたが、ともかく高知からの平野部の美しい町や村落や田園がつきて、それから先は坦々とつづく花崗岩砂の大道を右手に太平洋の水を見ながら行くという、その変り目の地点だった。
 ゆくてに一つの小さい半島があり、それが下から上まで耕作されて美しい段々畠になってい
た。そしてその中腹から麓へかけては、白壁の農家が点在して一郭の部落をつくっていた。どの農家も庭にダリアやカンナを咲かせ、いたるところにカリンの樹が栽植されて、つやつやした緑の陶器の壷のような実が枝をしなわせて垂れていた。ちょうど車がその半島のつけねを横断する時だった。私は村の上の草原の斜面に、数頭の牛が立ったり坐ったりしているのを見た。黒白のまだらや褐色の、よく肥えた牝牛たちだった。そしてその牧場の草の緑の中、ところどころに真白な花崗岩の頭が現われ、牛たちの背と丘の嶺線とを越えたむこうに海が、太平洋の水のひろがりが、遠くに黒潮の紫陽花あじさいいろを見せながら、その夜室戸の宿から銀砂子のようにきらめく射手いてや南冠みなみのかんむりの星座を見た水平線まで、渺茫と果てしもなく開けていた。
 私のもう一枚の「海辺の牧」の画は北方のものである。或る年の八月、私は札幌から苫小牧とまこまいを経て登別のぼりべつへむかう一日の旅の途上にあった。それは高積雲の曇り日で、海岸平野の白老しらおいあたり、車窓に吹きこむ海からの風はむしろ秋のように冷やかだった。窓の右手には樽前岳のトロコニーデが堂々とそびえ、その下にひろびろと続く白樺やカシワの林がすでに黄いろい秋色に染まっていた。そしてその火山と林とを背景にして、手前の牧場に十数頭の牛が静かにわびしく散っていた。高緯度の胆振いぶりの国の空は灰いろ、山野は黄、親潮の太平洋はさむざむとした青。それは私にミレーやゴーガンのかいたブルターニュの牧場の風景と、その北海の詩とを思い出させた。
 南と北の海辺の牧。双方共に車窓一瞬の瞥見だが、私の熱いまなざしは夢や思い出と抱き合って、其処に体験の実をむすんだ。
 ※註 友人は片山敏彦。この稿の書きあがった直後に彼は他界した。ああ!

     Ⅲ

 今から二十何年か前、群馬県神流川かんながわの谷をあるいて西御荷鉾にしみかぼへ登ったとき、その円錐形をした山頂のすぐ下にある大斜面の草原から、むこうの尾根の一箇所に崩れかけた牧柵のような物の立っているのを私はみとめた。それで頂上への途中、冬を枯れつくしてガサガサになった草の中をその物に近づいてみると、まさに焚木のほかには使い道もなくなった古い牧柵の立ちぐされで、同じように白々と曝しゃれた支柱や横木の骸骨が、間を置いて破線状に下のほうまで続いていた。してみればこのあたり、曾ては村の放牧場だった事もあったのだと私は思った。
 其処はすばらしい眺めをもった場所だった。海抜千二百余メートル、群馬県多野郡万場まんばの地籍。程ちかい稲含いなぶくみのむこうに荒船山が空間の舞台のように横わり、碓氷峠の上に積雪の浅間が巨大な銀のかぶとを伏せ、雄大な榛名をかすめて大源太、万太郎、谷川などの上越の山々が雪を塗りこめて光っていた。長い優しい裾をひく赤城山がなんと近々と見えたことか。その赤城の黒檜くろひとほとんど重なって、日光白根、皇海すかい、男体の諸山がなんと一層高かったか。また眼前の赤久繩あかくなの左、神流川の谷奥の空には、十石峠や御座山おぐらやまを圧して八ガ岳のプラチナの連峯。更にその左には遠ざかってゆく純白の巨船のような金峯山。もしも快晴一月午前の太陽のための逆光効果がなかったら、甲武信こぶしを初めとする秩父連山はその煙らぬ全容を見せたことだろう。
 ところでその柵の残骸から想像された牧場の遺跡、今は放置されたままになっている大斜面の藪や草原、それが爾来かなりのあいだ私の夢想をつちかい育てたというのは、思えば愚かしくもあればほほえましくもある。実に私はそこを手に入れたいと思ったのだ。と言うのは、その頃私の従弟の一人が近くの城峯山じょうみねさんと白石山はくせきざんの一部を持っていたし、私には父の遺産があった。もしも西御荷鉾山頂下のその斜面が村か個人の所有であって、売買もまた可能ならば、従弟と共同でも独力でもいい、一思いに買って其処で牧場を営みたい。そういうのが私の真剣な願いだった。万場へ行って山に住み、其処でささやかながら牧畜を営むことができるならば、今住んでいる家も売ろう。土地も手放そう。そらして其処で自然を生き、自然を観察し、其処で詩を作り、文を書くのだ。ああ、なんというすばらしい生活だろう。永年の夢のなんと美しい実現だろう。そしてこの夢想にトルストイやソローや、『私達の村アワ・ヴィリジ』のメアリ・ミットフォードまでが油を注いで、一層火勢をさかんにした。

 けっきょく夢の小鳥は惜別の歌だけを残して飛び去ったが、昔ながらの空想家私は、我が牧場のために当時早くもその名を考えたものだ。West Wind Meadow「西風牧場にしかぜぼくじょう」。今ならばさしづめ Préプレ Zéphyr ゼフィールとでも仏訳の名を与えて、西風の神ゼピュロスのために尾根の突端に石のちいさい祠ほこらを建て、彼のむなしくこがれた美少年のかたみにヒュアキントス(ヒヤシンス)を植え、たまたまは思い出多い信濃の空や山にむかって[西風よ吹きかえせ」のモッテヴェルディと歌うという、そんな空想をたくましくするだろうが、しかしもうそうした歳でもなければ時でもあるまい!

     Ⅳ

 根の浅い熱情の花が実を結ばずに敗ってゆく一方では、もっと由緒の遠く根拠の深い山林原野が、漿米を熟させ、堅果をみのらせる。小石の粒のようでも山葡萄の種子は伝播者を誘うジェリーにくるまれ、抵抗のいがに護られた山栗は実そのものが種子で、栗色に光る厚い皮袋には栗の樹がまるごと一本詰まっている。
 私が戦後の流浪から錨をおろした信州富士見高原の山荘と、それに付属する広大な森と野山
は、元伯爵W氏が彼の祖父から受けついだものだった。明治の代からの古い所有、三代の領地。それは開拓の軍勢の進攻してゆく八ガ岳据野の大洋のなかで、一つの藻の海サルガッソー・シー、一つの約束の島のように見えた。
 敗戦につづく艱難な時勢にせまられて、W氏もその山林と原野の一部を開放し、自身も畑地をひろげ、牧場を作った。旧火山八ガ岳の裾野には伏流が多い。いちど姿を隠した水の流れが、火山噴出物の堆積をくぐって思わぬところから顔を出す。領地全体が森林だった初めのころは、その欝蒼とした暗がりの中で、木洩れ日をうけた細い流れがあちこちに金銀の糸のようにきらめいていた。そして森に住むさまざまな小鳥が、人けのない安全さに気をゆるして、涼しく水を浴びたり楽しく飲んだりしていた。その水が今は人間に幸いした。森が伐られて農場になっても、牧場が出来ても、安山岩の砂礫の床とこに農のいのちの水は涸れない。"L'eau vive " 水は生きている。
 W氏の牧場は山羊のためのハンノキの林と、緬羊のための起伏のある草原と、鶏のための運動場とから成っていた。そして別に彼らの畜舎と鶏舎と農馬用の厩舎があり、乳搾りの小屋と毛を刈る小屋とがあり、牧夫を兼ねた農夫の若者の寝起きする小さい住宅が低い丘を背にして立っていた。すべてが小規模ながら完備して、居ながらにして八ガ岳の連峯と釜無山脈とを見渡すことできる景勝の地を、全くの初心者によって始められたこの牧場は占めていた。
 主人のW氏自身は務めのために東京にいることが多いので、二人の子息をかかえた夫人が前記の若者を相手に農事の一切をやっていた。その労働は真に朝から晩までで、すぐれた容顔は浅ぐろく日に焼け、すらりとした長身も手の指の関節が太くなり、掌に堅いたこの出米るのをどうしようもなかった。しかし野山がひろびろと枯れて高原の空が日ごとに深く青くなる秋の終りに、爽やかな海青色マリーン・ブルーのオーヴァロールと芥子からし色のカーチフとで装った彼女が、長い熊手フォークを手に、牧場の片隅で枯葉の山を焚いている姿は美しかった。めらめらと踊る赤い焔や渦まく白い煙を前にして立つ彼女のために、諏訪湖の空のかなたに浮き出した北アルプスの青と銀との波がしらが、なんというセガンティーニの背景をひろげていたことだろう! そしてそういう夫人の事務机の上には、手ずれのした家計簿や農事簿とならんで、ジードやモーロワのフランス本があった。
 池に沿ったり丘を上下したりしている従順で物思わしげな牧場の柵、生活への帰依・を語るその柵と、よみがえった伏流のさざめきのほとりが、私の常の憩いの場所だった。私はそこで本を読んだり詩の動機を書きつけたりしたが、たいがいは煙草を吸いながら高原の遠近に目をさまよわせて、漠然とした夢想にひたっていることが多かった。その夢想に一層自由な軽い翼をあたえるように風が吹いていた。風は高原の気息、広がりの生命だ。ひとかたまりになって草を食・んでいる緬羊の上に、積み石の高みに立って遠くを見ている一頭の山羊の上に、ジニア、ペテュニアの花圃の上に、銀いろに光るライ麦の畠の上に、八ガ岳に、釜無かまなしに、この信州に、むこうに見える甲斐の空に、風は、ひろびろと「オーヴェルニュの歌」を歌っていた。
 ※註 フランスの現代作家ジヤン・ジオノの短篇小説。映画では「河は呼んでいる」と訳されている。

     Ⅴ

 一九三〇年代の前半、まだなかば田舎の風景だった東京郊外荻窪や井荻の生活。ふたたび取り上げられた自然観察と新らしい熱情となった山登り。私の文学にひとつの永統的な天地がひらけ、碧い遠方の招くがままに、私の道がいまだ知らざる山の高みや谷間の里に、千筋の糸のように伸展し氾濫した。
 クレルモン・フェラン大学の地理学教授フィリップ・アルボスの『オーヴェルニュ』、アカデミー・ゴンクールの会員ジャン・アジャルべールの『オーヴェルニュ』、作曲家カントルーブ採集・編曲するところの『オーヴェルニュの歌』、それにフランス中部の大地図。これが当時の私にとって書斎の片隅にある一揃いの財宝だった。現実にさまようのは関東や甲信の山地・高原でありながら、オーヴュルニュという土地の名の響きとそのイメージが、私の詩的な夢の醸造桶つくりおけ、私の歌の調性だった。
 誰か奇特な人があって、その頃の私が、或る日ついに一篇の郷愁の歌を書いたのを思い出してくれるだろうか。

  「いつか善い運を授けて下さるならば、神様、
  どうか私にオーヴェルニュを見せて下さい。
  其処のピュイ・ド・ドームやカンタルなどという名が
  私にとっては巡礼への聖地の名のように響くのです。
  露にぬれた伊吹麝香草、岩燕のとがった影、
  ピュイ・マリーからプロン・ディ・カンタルヘ伸のす鷹の羽音、
  霧ににじんだバイレロの歌……
  ああ、日本にっぽんはついは私の墳墓の地だが、
  心の山のふるさとは
  行けども行けども常に碧い遠方にある

 フランシス・ジャム風の敬虔な祈りと、あきらめの「甲斐なき小夜歌さようた」。事実これを書いたのはロマン・ロラン訪問とフランス遊学の夢が決定的に破れた直後であり、初秋の雨がしとしとと庭の木々を打つ夜の灯下、井荻の新居へ移って間もない時のことだった。
 われわれに難解な方言のことは措くとして、そのメロディーだけに耳を傾けても、古くから伝わる民謡は土地の自然と、そこに生き継ぐ人々に共通な気質や心情や生活を雄弁に物語っている。この場合山地を問題とすれば、オーヴェルニュの山人の歌グランドがそれで、粗略な耳にはティロールのヨーデルと混同されながら、そのドイツ・ボヘミア的なものとは甚だ違うし、スイスの羊飼の歌ランズ・デ・ヴァーシュに近親のものを感じさせながら、ニューアンスに微妙な差がある。一方は美しい耕地や牧場がヴィルジール風に散らばっている火山高原の遥かなひろがり、他方は純粋アルプス景観の雄渾な大起伏。そこにそれぞれ固有な土地の霊が歌い、風や空や日光にむかって送られる訴えや祈りや感謝の表現の、それぞれ違った節ふしがあるのは寧ろ当然というべきだろう。
 オーヴェルニュの歌の初めであってまた終りでもある「ロー・ロー・ロー・ロー・ロー・レロ・ロー」 それが今も私に聴こえる。レコードも本も戦争で失って、中間の文句はすっかり忘れてしまったが、精神に山や高原の気をになう者にはこれだけで充分だ。なぜならばわれわれの青年時代から老年期におよぶ山への愛、山地や高原へのあこがれが、千万無量の、心のこもった、柔らかに遠く波うつメロディーで、あますところなく歌いつくされているから。
 十月の秋がどんなに野山を照らしているか。緑を溶いた真珠母いろの地平の空からどんな冬がのぞいているか。慕わしさを増した日光と散りいそぐ牧場まきばの木々、枯れた蓬よもぎの原に群れて離愁を鳴く高原のノビタキ、今こそからだの養いになる玉のような岩清水、空虚になった広がりの故に敬虔なものに見えてくる牧柵と牧人小屋、そして風と雲、早くも虎落もがりの笛吹き鳴らす西風と、大空に冷めたく浮かぶ方解石いろの雲……
 いまだに忘れぬオーヴェルニュの歌の節をくちずさみながら、私はあらゆる高原と牧場の画を心にえがき、自分の文学の一方に角笛をかまえている一つの霊のようなものを想うのである。
 ※註 詩集『旅と滞在』

 

 

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 鳥居峠

 今夜の泊りの奈良井の宿しゅくを五、六町の行く手に見ながら、トンネルの口に近く、旧国道の小高い路傍の草に腰をおろして休んでいると、ちょっとした雨が降り出してきた。午後二時半、見上げる谷間の空はずっと高いところでは薄い桔梗色に晴れているが、その上に濃い煙のような雨雲が渦巻いていて、それがついサーッと落として来たものとみえる。
 どんな天気でもまず上層から変化する。その上層が晴れているのだから地雨になる心配はないが、せっかくの木曾路の雨であり、またそのために用意してきた傘でもあるから、私たち二人、ルックサックの底から折り畳みのやつを抜き出して、すなおにさした。そしてなおも煙草を吸ったりチョコレートをかじったりしていると、おりからトンネルを出てきた名古屋行の列車が、すぐ目の前をしずしずと通った。そのいくつかの窓には、傘をさしている私たちに気づいて、不審そうに空をすかしている顔もあった。
 午後もまだ三時をまわらないうちに宿をとるのは早過ぎるきらいもあるが、あしたは今度の徒歩旅行のやまばの一つ、鳥居峠越えを控えているのである。その峠をゆっくりとあじわい楽しむためには、前途に時間の余裕のある山坂の登り降りや、眺望に明かるい光のたっぷりある午前中と昼過ぎとをあてなければならない。まして今日は旅の初めの第一日だ。そして私とすれば、ともかく桜沢にから十数キロを歩いて米たのだ。早目に宿へ着いて湯にはいり、足腰を伸ばし、夕食の膳に花を添える土地の豊醇で、明日への英気を養うのも旅の法楽ではないだろうか!
 奈良井での宿は越後屋、馬籠まごめでは島崎藤村の長男楠雄さんのやっている旅館と、東京を立つ前からきめていた。馬籠は今度がはじめてだが、越後屋はこれで三度目になる。数年前に来た時には、この峠下の古い宿場を終点とする塩尻からのバスが、一本道の狭い往来を押しわけるように行っては引き返していたものだが、いまでは奈良井川の対岸に新しい国道が開通し、それが峠むこうの薮原ヘトンネルで抜けるようになったので、またむかしの姿にかえった。
 細い格子のはまった一階の窓と、手摺りのついた二階の張り出し。その上へ被いかぶさった大きな庇と、そこから鍵の手に下がった長い雨樋。そういう古風な家々の左右にならんだ谷間のような旧中山道なかせんどうの往来が、南から晴れて来た空の逆光をまともにうけて、いましがた降った雨のなごりに光っている。
 奈良井の駅から峠のほうへ三、四町。心もち爪先き上がりの町の中ほどの左側に、越後屋は例の厚板の看板を、二階の軒下に吊している。木曾路の古い旅籠はたごがほとんど皆そうであるように、この家も間口にくらべて奥行がずっと深い。一夜の泊りを申し入れると叮重に迎えられて、いちばん奥の座敷へ通された。なん年か前に、近くの学校へ講演に来た時も、また、上松や福島にから開田かいだ高原への旅の途中に寄った時も、やはりおなじこの座敷だった。
 室内の飾りも、調度も、雰囲気さえもまったくおなじで、亡くなった茨木猪之吉さんの抒情的な小品の油絵も、相変わらず長押なげしに掛かっていた。南東にむいて一段低い庭のすぐ前を中央本線の鉄路が走り、そのむこうに、奈良井川が瀬音をたてて北へ流れ、坊主岳の前山が正面によこたわっているのも旧のままだ。ただ変わったのは、大型トラックやオート三輪の疾駆している対岸の新国道風景と、この思い出の室内を照らしている螢光灯ぐらいのものである。
 主人の永井喜平さんが、まず台十能から掘ごたつに火を入れ、それから改めて茶菓を運んで来た。もうかなり年配の柔和なおもざしと、円満な福相。茶羽織の平絎ひらぐけの紐を八文字にむすび、立派な体駆を端然とすえて、見事な煎茶の点前てまえを見せた。京焼の小さい急須から、小さい茶碗に滴滴と溜まる緑玉のしずく。それを形を正し息を呑んで、じっと見まもっている同行のN君、近く満二十五歳の誕生日を迎えるという大学院学生のN君。
 私はだれやらの物語で読んだ若い宮本武蔵と本阿弥光悦との出会いの一場面を思い出した。もともとN君は、信州も木曾に近い洗馬せばの産の中原なにがし。その一族の遠い祖先らしい者を想像すれば、たまたま彼に騎士的なひらめきを見るのもあながちこじつけとはいえないかも知れない。
 昨夜の曇りと早朝の霧がなごりなく晴れて、翌日の出発は雲一つない好天気に恵まれた。以前ここから鳥居峠へと旧中山道を登った時には、土地の学校の校長が先達せんだつだったので、私自身には道についてきわめて不確かな記憶しかのこっていない。そこで。
「途中に指導標がありますか」
 と永井さんに訊くと、
「来年までには立てる事になっておりますが、只今のところはございません」
 というので、峠までの略図を書いてもらい、それを五万分の一「伊那」図幅への参考にする事にした。
 さて、家の前での記念撮彰と、再会をちぎる別れの言葉。
「休憩の時にでも召し上ってくだすって」
 といって波された大きな梨四つを、N君のルックサックに押し込んで、いよいよ第二日の旅へと踏み出した。
 奈良井にから鳥居峠への道は、地図にも載っているように二つある。一つは今日私たちの採ろうとしているむかしの中山道で、地図の上では破線で示されており、もう一つは町の西側の坂を登って出合う旧国道で、この方は国道なみの太い二重線であらわしてある。(ただし昭和六年修正側図)。
 ここでいう旧国道とは、現在の峠の底をトンネルで貫通している新国道に対しての意味であ
る。この旧国道は、リアス海岸のように出入りのはげしい山腹の急斜面をけずり取ってつくられたもので、以前は人馬や自動車の主要な交通路だったのが、平坦面を走る新国道ができて以来、廃道同様になってしまったのである。
 しかし、廃道とはいっても、普通にはほとんど利用されないだけの話で、林道としては立派に役に立つはずだし、ところどころ破損している箇所があるほかには、いまだ国道だった頃の面目を十分に保っていて、うねうねとつづく道のりこそ長いが、緩やかで、静かで、眺めがよくて、瞑想のためにはこの上もなく快適な散歩道の実質をそなえている。
 しかし、古い中山道はそうはいかない。山の間の沢に沿った隘路を登るので、頂上までの距離こそ短かいが道は悪い。私が初めて通った時は登山支度でなかったので余計に苦しかったが、草や木の生いかぶさった岩だらけの細道には閉口した。ことに峠の近くへ躍り出るあたりの、急な登りがひどかった。
 むかしの名所図会には「鳥居峠、駅路坂嶮し、馬に乗りがたき危うき所なり」とあるそうだが、交通の皆無な今では一層荒廃したと思ってもいいだろう。しかし越後屋の永井さんは略図を書きながら、
「先生は前にあの道をお登りになりましたが、先きのほうがあまり悪いので、いまではまったくの廃道にして、途中のここから上の旧国道へ出ることになっております」
 と私にいった。
「ここ」というのは、地図に一〇四七・八七メートルの水準点符号のある、そのちょっと上の処で、よく見ると、小径が右に分かれて旧国道へ登れるようになっている。
 私たちは、古く「奈良井七町」と呼ばれたその家並みの間を南へはずれると、かなり立派な鎮守の社の前をすぎ、やがて左に現われて来たある製材所のところから、右手斜め向こうへ登っている二本の坂道のうち、教えられたとおりその細いほうをとった。これがすなわち旧中山道で、下からも見えていた高みの石垣の裾をぐるりとまわって上の山畠へ出、そこからおなじ小径をほぼ南々東にむかって奥へ奥へと登るのだった。たふん中央本線も新国道も、この下あたりでトンネルヘ入っているらしかった。
 荒れた山畑が終わって藪と低い山林ばかりになったところを約八十メートルほど登りつめて、一つの小さい出鼻までくると、いままで目の下にあった奈良井の町の全景が、これを最後に見えなくなり、入れかわって南のほうに、権兵衛峠へ通じる奈良井川上流の、幾重の山に畳まれた深いV字谷が現われた。その峠で伊那市へ越える権兵衛街道は、道のり約三十キロ。最も日の永い初夏六月でも、一日ではむずかしかろう。しかし、一度はこの足で経験してみたい道である。
 梨を食べたり煙草を吸ったりして、半時間ばかり休んでから、また歩き出した。私はここで先頭のN君に、ルックサックから取り出した二個の可愛い鈴を渡した。ヨーロッパへ行った山の友人たちから贈られた物で、いずれも放牧の山羊の首につける鈴である。一つはスイスのツェルマットの物、もう一つはピレネーのリューズで使われている種類だった。ところでこの二つを一緒にほそい紐に吊るして軽く上下に振ると、いかにも澄んだ綺麗な音が出る。実はこれで熊の出現を防ごうという腹なのである。
 いまは季節も実りの秋で、木曾の山中にはアケビやトチや栗の実がうんと生ったり落ちたりしているに違いない。そしてそういう栄養に富んだ好物を、冬ごもりの前に、腹いっぱい詰めこもうとうろついている熊に、どんな偶然の出合いで襲いかかられないものでもない。しかし人声が近づいたり、物音がしたりすると、熊は道を避けるという。それならばと思いついて用心のために持って来た鈴だったのである。

 N君はおもしろがって「チンガリンガリン」と振り鴨らしながら先を行く。私はこれも熊よけのつもりで、煙草の煙を吹き漂わせながら後にしたがう。歩きづらい息の切れる登りだが押し分けてゆく野バラやガマズミの実が紅く、山漆、ヌルデ、錦木などの紅葉の反射が顔を染め、行く先ざきでヒガラやエナガや黄ビタキたちの声が、驚くほど大きく響く峯づたいの小径だった。
 歩くこと三十分ほどで、すこし降り気味にまっすぐ行く道と、右手へ登って行く道との分かれ目へ出た。私たちは慎重に地図と照らし合わせて、そこを水準点近くの分岐路と判断して後者をとった。すこし登った処で、正面の山腹を見上げると電柱が見え、立派な道の路肩が見えた。それならばやはりあれが旧国道だ、あすこへ出れば後はもう楽なものだと、急に晴ればれとして気が大きくなり、いまは開放と自由の歌にほかならないものとなったアルプの鈴の音を楽しみながら、ゆっくりと最後の急坂を登って行った。
 鳥居峠への旧国道、この快適そのものである道を私は知っている。初めにも述べた数年前の峠見物の時、二人の校長の案内で奈良井への帰路としてこの道を歩いたのだった。トチの花が咲き、小梨が咲き、藤が咲き、大ルリやコルリが歌えば、エゾハルゼミも鳴きつれていた。
 そういえばあの時、私たちの後を二時間ばかり遅れて慕って来た一人の若い教員が、さっきの分岐点のあたりから、三人の帰りの姿をこの国道の高みにみとめて、大声で呼びつづけながら茂みを分けて躍り出て来たのがちょうどこの地点だった。そしてこの道は曲折が多くて非常に長いが、結局、奈良井の上を通って、昨日私たちが傘をさしながら休憩した、あの宿はずれのトンネルの処へ出るのである。
 日照り輝いて、暑いくらいの快晴の昼間だった。左は谷をへだてて峠山、右はすぐ高遠山の尾根にから落ちている山腹。この濃緑の針葉樹と燃えるような紅葉の眺めのなかを、等高線のえがく波形にそって瞑想の路が美しくつづき、坦々として峠の切り通しへと私たちを導く。道の上をまだ生きている黄蝶、山黄蝶、黄ベリタテハが漂うように飛び、薄紫のツリガネニンジンや薄紅の山アザミの咲くあたりから、カンタンのトレモロが喨々と響く。人っ子ひとり通らないこの静かな快適な道を進みながら、私たちはカラーやモノクロームの写真を取ったり、ノートへ鉛筆を走らせたりすることで忙しかった。
 やがて峠も近く、見覚えのある五本のトチの老木。そのそばを通ると、さすがに高所では風も強く、そのきびしい枝にしがみついていた黒い大きな枯葉が、まるで鴉の群のようにバサバサと音を立てて落ちて来た。とうとう旧国道の最高点、そこから蔭原へと降りになる分水界の切り通しだった。午後零時三十分。奈良井から三時間半かかっている。途中で休んだり遊んだりしなかったら、一時間は縮めることができたろう。とはいえ、ただせっせと歩くばかりで休みも遊びもしなかったら、旅の記億は貧しい粗大なものに終るだろう。
 しかし、本来の鳥居峠はこの旧国道の切り通しではない。それは道が降りに移る所から、傾いた指導標にしたがって左へはいり、小径をなお三百メートルほど行った山の出鼻である。その間に天然記念物のトチの原始林があるが、そのあたり、欝蒼として昼でも暗く、幾十年の落葉が積み腐って、道は柔らかくじめじめしている。まったく熊でも出そうな場所だった。N君が片側の崖へ踏みこんでそのトチの実をさがしまわっている間、私は例の鈴を鳴らしつづけていた。そしてついに鳥居峠。道の右手の小高い処に、サルオガセを下げた老木の一むらに囲まれて、御嶽神社の古い祠と、その名の由来である石の鳥居の立っている、中山道は木曾の鳥居峠だった。
 まだ午後の太陽の光の洩れるあたりの木々から、ときどき小鳥の声の忍びやかに落ちて来るこの静寂をきわめた峠上での、昼飯を兼ねた小さい祝宴を始める前に、私はN君をうながして祠のうしろの石塔のあいだをさまよいながら、ここから見えた筈の御嶽の姿を、木曾川右岸の山々の上に探がし求めた。
 かって『木曾の歌』という一連の詩を作って、その中の一篇にこの峠を書き、御嶽の見える事も書いたのだが、いまその山がどうしても見出せない。地図をひろげ磁石をすえても、出るべき方角にそれが出ていない。私は自分の記憶のあいまいだったのに恥じを覚え、もしもまちがった事を書いたならと不安を感じたが、なおひとつのいい訳は雲だった。
 快晴ではあるが、その方向の山なみの背後に、この日唯一つの積雲がたたなわって、それが雪白の頭をのぞかせていた。御嶽は、あるいはその雲に隠れているのかも知れない。そう思うのが私にとってのただ一つの心頼みだった。なぜならばこの祠のすぐ下、藪原へおりて行く道の傍らに、御嶽遙拝所の建石があるではないか。人々がそこで御手洗みたらいの水をすくい、弁当を開いた痕跡があちらにもこちらにもあるではないか。
 それにしても、この峠の高みから見おろす藪原の宿の遠望や、味噌川が木曾川となるあたりの広々とした田園風景は見事だった。澄みわたった秋十月の空気のなか、南へまわった太陽の金色の光にどっぷりと漬かって、一幅のすがすがしい画をなしているあの小盆地の愛らしさ! 私は光明と美とにみなぎるようなヘンデルの牧歌を思にわずにはいられなかった。
 そして一時間の後、私たちは間違いようのない中山道の一本道をひたくだりに降って、もみじに染まり、日に暖められながら、いまは身も心もいっそう軽やかに、その画の中、歌の中へとまじりこんだ。

 

 
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 梓山紀行

 洗面所の細長い流しに真鍮色に光った洗面器がいくつか、いずれも行儀よく向こうむけに立てかけてあり、流しそのものも乾いていて、この朝まだ一人の客も起きて顔を洗いに来ないことを暗示していた。宿の人たちはもちろん早く起床するのだが、客とはちがう別のところで顔を洗うとみえる。物事にちゃんと順位や秩序があり、公私のけじめがはっきりしているのはいつでも気持のいいものだ。
 その流しのいちばん端にある蛇口だけ活栓がすこし緩めてあって、山から引かれた清らかな冷たい水が、その下に受けるように置いてある一個の洗面器に落ちそそぎ、溢れた水がたえず静かにこぼれている。そしてその洗面器には数本の紫いろのアヤメと薄い黄いろいヤマオダマキとが投げたように活けてあった。
 私が歯ブラシを使いながら、都会の貴重な水道の水に頼っている人間の癖で、流しぱなしの蛇口の栓を締めようとすると、ちょうど廊下を通りかかった宿の内儀がにこやかに朝の挨拶をしながら、「ここは水が豊富でございますから、そのままにして置いてくだすって宜しいのでございます」と言った。なるほどここは千曲川の源流、信州川上梓山。国有林に鬱蒼とした奥秩父の山山は、洗面器に活けられた彼らの山の花たちのためにその有りあまる水を惜しみはしないだろう。
 私は締めかけた栓をまたゆるめた。

     *

 この梓山へは或る放送局に頼まれて来た。納涼特集とかいうのを二晩つづけてやる企画があって、私もその一夜の台本朗読を引きうけることになった。初めの計画では『上高地の夜』ということだったが、最近の集中豪雨のためにそこでも途中の山道にかなりの被害があり、目下交通も杜絶しているというので急に梓山に変更されたのである。
 元来私はこういうふうに仕事を背負った旅を好まない。帰って来てから書くことを引き当ての紐つき旅行は、たとえそれが行く先々でどんな便宜を与えられようと、常に晴れやかであるべき心の自由が曇らされる。自分の発案と自分の時間と自分の出費とで、どんな条件にも約束にもしばられずに、軽いルックサックと手馴れたステッキ、野でも山でもハイウェイでも、足の向くまま気の向くままに歩くのが好きだ。今までもずっと大概そうだったし、多分これからもそうだろう。そして私の山や旅の文章と詩は、おおむねそうした自由な時と処とから生まれたのだ。
 それにしても近来の私の旅行ぎらいには相当ひどいものがある。それを家族をはじめ主治医までが心配して、「機会があったら、少しでも気が向いたら、努めて以前のように出にかけなくてはいけません」と意見する。だが私にしたところで理由なしに出嫌いになったわけではない。私は乗物の中や旅先での人々の無遠慮、無作法、でたらめを見るのがたまらなく厭なのだ。シーズン盛季の交通機関や旅館の、おのずからな好意や親切心をまったく欠いたあの営利一点ばりが我慢できないのだ。だが今の日本に生きていれば、そうばかりも言ってはいられない。時には目をつぶって見て見ぬふりもしなくてはならない。それにまた私のこうした消極的抵抗に由来する出ぎらいに対して、何かと意見をしてくれる人のあるうちが華だ。年をとって、心ならずも乾燥しながら、あくまでも硬直した一徹を押しとおすのはやはり老醜の一種というべきだろう。
 しかし幸いなことに、私にはまだいくらか柔軟な心が残っているし、よく言うことをきく手足や、すっかりは強靭さを失わない心臓がある。そして堅い岩石のなかに迸入した黄金の脈のように澄んで光った知恵もある。「旅人よ、到る処から美しい思い出を得て歩け。それこそ他人から奪うことなしに君が富むただ一つの方法なのだ」とは、私がしばしば人から乞われて本の扉などに書く文句ではないか。そう思って気を取りなおし、「すべてご自由な行動で結構ですから」という放送局の寛大な申入れにほだされて、僅か二十分間の放送のためにする足かけ三日の旅を、私はさっぱりと気持よく引きうけたのだった。

     *

 私にとって長野県南佐久郡川上村は初めて見る土地ではない。千曲川の上流に沿ったこの梓山の同じこの宿には、二十数年前に泊まったことがあるし、もっと川下の大深山おおみやまや御所平ごしょだいらでも春と冬との一夜を過ごしたことがある。そしてその度毎に、この明るい谷間のそれぞれの部落の平和な姿を愛したり、人々の淳朴で親切なのを心のなかで褒めたたえた。
 昨夜もおそく到着しておそい夕飯にむかった時、給仕に出てきた宿の妻君に二十何年か前に一晩厄介になったことがあると言ったら、まだ全く若さの失われていない彼女が私の名を知り顔を見つめると、「ああ、そうおっしゃられて思い出しました、先生。お顔にも覚えがございます。本当にあれからちょうど二十四年になります。わたくし、ようく覚えております。だってわたくしがちょうどこの家に嫁いだばかりでございましたから」と言った。それからしばらくは楽しい懐旧談がつづいたが、その話の中に次のようなのがあった。
 それは当時二十歳はたちかそこらの若いお嫁さんだった彼女が、その時の私の連れであった中西悟堂君からの帰京後の依頼の手紙にしたがって、山の松虫草を二株掘って来て小包にして送ったという話である。私もそのことは覚えている。中西君は部落の上の戦場ガ原で松虫草についていたシモフリスズメ(蛾の一種)の幼虫を一頭採集したのだが、東京には飼育のためのその草が無いので送ってくれるように頼んだのだった。その後幼虫はどうなったか聞き洩らしたが、その食草は近年になって出版された図鑑などにはゴマまたはキリ、或いはイボタというような事が書いてあるから、松虫草についていたのは、ことによったら偶然だったのかも知れない。
 それはともかく、若い頃はかなり綺麗だったろうと思われるこの妻君が、一夜の旅客に送るために秋草の山の原へ薄紫の花の咲いた松虫草を掘りにゆく美しいイメイジには、たがいに丈夫で二十四年をけみした今なればこそ、いっそう心をなごませ暖めるものがありはしないだろうか。今は老いてかくしゃくたる翁のように見える中西君にしても、この話を聞いたら懐かしくほほえむだろう。その時のもう一人の道連れはすでに亡いが……そして故人となったその道連れが写してくれた写真、この宿の今も昔のままの勝手のいろりばたで、私があぐらをかいて岩魚の焼物を前に杯を手にしている写真は、印刷の色は褪せながらも遠い昔の秋の一夜の思い出として残っている。

     *

 その戦場ガ原へ、私と放送局のI君とは、朝飯をすませて東京から持参のドリップ・コーヒーを飲むと、昼過ぎには帰って来ると言い残してさっそく出かけた。
 天気は晴れて七月の太陽の光がつよく、東の山あいの真青な空には真珠色に光る平たい雲が二つ三つ浮かんでいた。私たちは宿の妻君が「それではお持ちになりやすいように陣笠結びにいたしましょう」と言って作ってくれた海苔結飯のりむすびの小さい弁当と、めいめいのカメラ、それに新鋭の肩掛式録音機だけの軽装だった。(この録音機を「デンスケ」とは、少くとも私はけっして呼ぶまい!)
 森林と牧畜、狭い田畑の耕作、それに戦後からはじめられた戦場ガ原の開墾。そういうものがおもな仕事であるこの村の人たちは、もうみんなそれぞれの働きに出たのか、朝の部落の中はいたって静かだった。昔来た時には往来でも家の中でもたくさん見かけた純粋日本犬の柴犬が、その後絶滅したか売りつくされたかしたらしく、何処にも全く姿を見七なかった。
 石置屋根に渋いろの貫ぬきと柱と白壁塗りの農家がつづく部落を出はずれて、やがて高みの開墾地へと緩い坂を登りきると、突然眺めが広くなった。東から北へおだやかな起伏を描いている緑の山なみの正面には、いちばん近いアク岩山が高い石灰岩の露頭をこちらに見せて横たわり、その左手奥に、夏草にけぶる三国山みくにやまの円錐形が軽やかにおさまっている。かつての秋に私がそれを越えて中津川の渓谷へとくだった山だ。ふりかえって梓山の部落につづく西の方を見わたすと、千曲川の谷は重なり合った山々の間を曲がりくねって、夏の熱気をはらんで銀色にかすむ川下の空に、薄青い八ガ岳の赤岳と権現岳とを浮かべている。
 右手は白樺と落葉松の林、左はよく手入れのとどいた開墾地の大きなひろがり。そこの整然とした高原野菜の栽培地やあおじろく光って波うつ麦畠の中に、働いている農夫の姿が点々と散っている。その林に沿ってうねうねと続く十文字峠道の道ばたには、けさ宿の洗面所で見たのと同じアヤメの花が紫に揺れ、赤ツメクサ、ウツボグサ、ヤマオダマキ、カワラマツバ、クサフジなどが色とりどりに咲いていた。しかし例の松虫草はまだ季節に早く、背丈けも低くて、真白な花を豊かにつづったカラマツソウの下などではほんの柔かい苗に過ぎなかった。
 林からは、ちょうど全盛期のエゾハルゼミの斉唱が行く先々で波のように起こった。同行のI君はこの切れ目もない単調な響きに閉口しているらしかったが、私にはむしろ盛んな夏の山歌のように思われて力強く頼もしく聴かれた。しかしその音響の波間を縫ってときどき響くヒガラ、アオジ、ホオジロたちの澄んだ金属性の歌声は、さすがに涼しく美しかった。また草原にも路傍にもヒョウモンチョウとコヒョウモンモドキが群飛していて、花の上といわず、道に落ちている牛糞の上といわず、私たちの持物のカメラのケイスや録音機の革紐にさえ臆せずとまって、黒と金褐色にひかる羽根の表をひろげて見せたり、薄紫にけぶる雲紋や、くっきりとしたアラビア模様で装飾された羽根の裏面を誇示したりした。
 海抜二〇七一メートルの十文字峠まであと一里すこし、これからいよいよ戦場ガ原の奥へ踏みこむという地点で私たちは引き返すことにきめ、一時間ばかり休憩するつもりで用意の弁当や果物の包みをひろげた。大きな影を落としている一本の高い落葉松の下で、眺めもよく、快晴正午の涼しい西風が何よりのもてなしだった。
 ここまで来ると、さしもに盛んだったエゾハルゼミの喚声もぱったり杜絶えて、場所の高度がすでにあの蟬の棲息限界を越えていることがわかった。うしろの林で鋭い声でホトトギスが鳴き、正面に見える峠つづきの山の裾から遠くジュウイチの声が聴こえて来た。幼い千曲川はちょうどその裾の下を流れているわけである。さっき途中で短かい草のなかへ膝をついてナキイナゴの声を採集したI君は、メボソが鳴きそうなものだ、そうしたら録音してみるのだがと聴き耳を立てていたが、メボソやコマドリが住むためにはまだ土地の高度と冷涼の気がいくらか足らず、付近の林相も明るすぎた。もう少し登ってツガやトウヒの暗い針葉樹林がはじまり、どこからか沢の水音がきこえて来て、空気に冷えびえとしたものが感じられるようにならなくては彼らの歌も聴かれないだろう。
 大学で地質学が専攻だった若いI君は、今度は私のためにこのあたりの地質や岩石の分布状態を説明し、ゆるい斜面を形成している戦場ガ原そのものや周囲に横たわる山々のたたずまいを指さしながら、事によったら此処は太古の湖水の跡ではないだろうかという推測をくだした。その話の中に出てくる何千万年、何億年という地質年代の莫大な数字が私を呆然とさせた。しかし私としては、この数字をきっかけに、一躍未来への想像にとりつかれた。やがては燃えくるう赤色巨星となって火星軌道の直径まで膨脹する太陽、それより以前に早くも焼きつくされて一片の星間ガスと化するわれらの地球……この空恐ろしい絶望的な想像には、私たちのこの地上でのすべての努力、あらゆる希望や善意をことごとく空しいものと感じさせる力があった。それは私の心にあのバッハのコラール・プレリュード『ああ、いかに空しいかな、いかにはかなきかな』の、無常と終焉の風の一過を思い出させた。しかしまたそれがそうであるだけに、宇宙時間の束の間を生きる人類というものの相互の愛、信頼、幸福の探求、芸術的創造のよろこびや学問的発見への意欲などが、どんなに貴く、どんなに賞讃されるべく、それ自体になんと不滅のすがたを持っているかを思った。そしてそう思うと、この世への懐かしさと人間への愛情とがいっそう強められ、今度は同じバッハのカンタータ――穏やかな日光のなかを喜ばしげに散りいそぐ秋の木の葉のようなオーボエの調べにつれて歌われる――あの『われは足れり イヒ・ハーベ・ゲヌーク』の、晴れやかに敬虔なアリアを心の中で口ずさまずにはいられなかった。
 私は開墾の農夫が掘り出して片よせたかと思われる路傍の石の堆積の中から、その一つを拾い上げると、別の一つと強く打ちあわせて割ってみた。すると花崗岩らしいその岩石の新らしい割れ目に一本の褐色のひびが入っていて、深いひびの間に草の芽よりも小さい水晶が、ただしく六角柱をなした純粋透明な石英の結晶が、まるで兄弟のように尖った頭を寄せあって並んでいた。私はかつて読んだハンス・カロッサの或る美しい文章を思い出し、彼の子供と同じように「この水晶、僕こそこの可愛い水晶たちに、何百万年後の今日初めて世界の光を見せてやったのだ」と、今更のような感動でつぶやきたい程だった。
 もういちど蟬たちの斉唱のなかを通りすぎ、今度は正面から涼しい西風をうけることになった坂道を梓山の部落へむかって降りて行くと、下の方からけたたましいエンジンの音を響かせながら農場用の耕耘機が何台も何台も一列になって登って来た。朝早くから開墾地へ出ていった人たちが昼飯のためにいったん家に帰って、また夕方おそくまでの仕事に登って来たものとみえる。すべてで七台か八台、近ごろ協同組合を通じて買い入れたものらしく、どの車も同じメーカーの手になる同じ型式のもので、みんなぴかぴか光り、美しく洋菓子のように塗られた新品だった。夫や息子らしいのが牽引車を操縦し、女連れんや老人や幼い子供たちが連結されたうしろの車にうずくまっていた。登る坂道が屈曲の多い上にでこぼこなので、牽引車のハンドルの間に昆虫の触角のように立っているギヤを倒したり押したりする動力の切り換えが、まだ馴れないせいもあるのだろうが中々の苦心のように見えた。それでもこんな新鋭の利器に誇りを感じ、そのために労多い仕事にも大きな張りあいが持てるのか、彼らはすれちがう私たちの会釈に笑顔でこたえ、老人や女子供などは上機嫌に手を振った。
 山の端を曲がってやがて見えなくなる甲虫のような彼らの行列。崖にこだまし、谷にひびいて、しだいに遠ざかるエンジンの爆音。そしてそのあとに広がる信州梓山の夏の真昼の静かさと時おりの水滴のような小鳥の声。そこに一つのポエジーがあった。
 私がたたずんで心をひそめるところ常に必ず形を成さない詩があるが、立ちどまって手帳へ走り書きする心覚えの乱雑の中から、いっか整理して選び出して、『わが小曲集パガテル』のためにこの七月の山路の一篇を物にすることができるだろうか。

     *

 若いI君の録音機の使命は、炎天の草のなかで思い出したように鳴いているナキイナゴのかすかな声や、アズサヤマバラモミの針葉から生まれる微妙な空気の渦流音を採りいれることだけではなかった。東京へ帰ってから私のする放送での朗読の合間をうずめて、そこに現地の雰囲気をかもし出すための清喨なカジカの声、つねに渓流の岩の上に棲んで金の鈴を振り鳴らすような美しい声を聴かせるあの蛙の声、できたらそれを吸い取ることもまた目的の一つだった。
「この下しもの秋山の学校へお務めで、宅にお泊りになっていらっしゃる先生が、つい二、三日前から鳴きはじめたのを聴いたということですから、学校の近くへいらしったらたぶんお聴きになれると思います」という宿の妻君の言葉にしたがって、私たちは涼しい座敷に寝ころんで一休みしたあと、道に日陰のできる頃を待って、今度は反対の下流のほうヘカジカ探がしがてらの散歩に出かけた。
 千曲川の谷の水は左右に曲折しながらほぼ一定した傾斜で流れているが、地質の硬軟を突っ切って部落から部落へと最短距離をめざす人為の道路は、そう悠長には構えていられないとみえて、梓山の集落を出はずれるとちょっとした降りになり、また緩やかに登って小さい峠を形づくり、そこから急に大きくなだれて秋山部落へと落ちこんでいる。だからわれわれの歩いている道の上から眺めると、川は右手のずっと遠い山裾を深い谷になって曲がりくねって流れていた。そしてその谷の何処かから二声三声カジカらしい鳴き声が伝わって来た。だがそのあたりと覚しい場所はあまり遠いし、谷も深すぎた。それにまだ時間も早く、対岸の山腹にも日が当っていた。ただ、このぶんなら秋山まで行ったら必ずもっと近くでたくさんの声を聴くことができるだろうという事になって、私たちは梓山の最後の農家の前を小さい峠へむかってぶらぶらと歩いて行った。I君は時どきカメラをのぞきながら。私は煙草を吸いながら。
 その峠の上のほうから、まだひどく幼い子供が二人きゃっきゃと笑いながら駈け下りて来た。
何か知らないが面白くてたまらないようなはしゃぎ方だった。すると二人のうちの女の児のほうが突然足をすべらせて仰向けにひっくり返った。しかし別にけがをした様子もなく、すぐむっくりと起き上がったが、その片手には遠くからもよくわかるような草刈鎌を持っていた。あぶない事だと思って見ていると、また笑ったりふざけたりしながら駈け下りて来る。女の児は姉かと見えて六つぐらい、男の児はその弟らしくて四つぐらい。身なりは元よりこんな山村の子供のそれだが、二人ともくりくり太ってぴちぴちして、いかにもしんが強そうだった。それはいいが二人で私の横を駈けぬける拍子に、何につまづいたのか女の児がまた転んだ。しかし今度は前のめりだった。小さいもんぺの下の膝でもすりむいたのか、立ち上がる時にちょっと泣きそうな顔をしたが、また男の児とげらげら笑いながら走り出そうとした。しかし今度は私も黙って見てはいられなかった。私は女の児をつかまえて、その胸やおなかの辺の泥ぼこりを払ってやりながら言った――
「どういうだよ、お前は」
 信州の子への信州弁、いや、佐久の子への東京者のあやしげな諏訪弁だった。女の児はびっくりして、それからしょげてうなだれた。
「おじさんが見ていれば、今上でもころんだし、又ここでもころんでよ。足でも悪いのかい」
 子供は強く首をふった。そのおでこにも砂まじりの泥がついていた。私は彼女の小さい頭を抱えて、自分の胸のポケッ卜からハンカチを抜いて拭いてやった。
「それにこんな鎌を持っているのに坂道で駈けっこしたりして。もしもこの鎌で顔か体でも切ったらどうするつもりだ」
 どうするつもりか、そんな仮定の問題までは到底考えも及ばなかったろうが、とんだ処をとんだ老紳士に見られてしまった不覚には自分でも弱ったらしく、ただ顔をうつむけて「ハイッ、ハイッ」と神妙に返事をするだけだった。弟らしい男の児はそばに立って、よまれている(叱られているの方言)姉の顔を心配そうに上眼づかいで見まもっていた。
「ふざけるのもいいけど気をつけるんだよ」そう言いながら、今にも泣き出しそうなのを慰め力づけてやるように、私は持っていたサブリュックから板チョコ二枚を取り出して二人のよごれた小さい手に握らせた。
「もう駈けるでないぞ。あたりまえに歩いてゆくんだ。いいかい」
「ハイッ」
 銀紙の光る板チョコを手にしょんぼりと村のほうへ歩いてゆく二人の後姿を見送りながら、その神妙さ、可憐さに、泣きたいのはむしろ私のほうだった。
 若いI君はといぇば、この路傍の寸劇を見たか見ないか、峠の上で私を待ちながら精巧なカメラをあやつっていた。

 

 

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 山口耀久

 残念なことに私は山口君と山らしい山へ行ったことがない。長野県の富士見で知りあった頃
は、八ガ岳も釜無連山もすぐ目の前だから、一緒に登れそうなものだったが、あいにく彼のほうが大患療養中のために最後までその機会に恵まれなかった。その後彼の健康が回復して、八ガ岳はもとより谷川でも八方でも穂高でも一応平気ということになると、今度はこっちが老来頓に登高力を喪失して、もう到底そんな高所や危険な場所への追随が許されなくなった。
 ここでもまた人生登り降りのすれちがい……むずかしい岩場にいどむ時の彼の真剣な相貌も、荒天にはばまれ、氷雨のつぶてに打たれながら敗走してくるその落寞たる姿も、ついに見ることができないまま今日に至っている。
 独標登高会は訓練のきびしさ、登山実践の精緻果敢なことで鳴っている。そこには一糸乱れぬ統制と規律に服しながら、えりぬきの実力者が方陣を作ってひしめいている。山口君はその会の創始者の一人だが、会の特色や堅持されている伝統の精神から言っても、彼こそそのうつばりであり、事実上の代表者ではないかと私は思っている。えらぶった態度を嫌い、御大層な表現を忌む人だから、山から帰って来て聴かせてくれる話などもまことに淡々としている。山での出来事や所見や感想を話す時でもいたって簡潔で、そのためにかえって印象的で清新で、噛みしめて聴くと滋味のにじみ出すことが多い。温かく優しい心ばえと繊細な神経とを持ったはにかみ屋でありながら、偏見のない自由な精神と豪毅で不屈な気質とが筋金になっているので、山男としてはしんから頼みになり、友人や同僚としては人生行旅の上での容易に得がたい伴侶となる。もちろんそういう感化を受ける受けないは人それぞれの器量や好みや信念の志向性にもよることではあるが。
 富士見の高原とその療養所とですっかり体質改善をやりおうせた山口君は、はた目ではまだ少し無理ではないかと気づかわれる頻繁な登山のあいだに、ここ七、八年来、三冊の本を出している。すなわち『八ガ岳』『ドリュの西壁』『北八ツ彷徨』を。そしてそのいずれもが立派な仕事である。『八ガ岳』は登山案内書という名目ながら実はそれ以上のものであり、『ドリュの西壁』は彼のフランス語の実力のほどを証明した良心的な名訳であり、近刊『北八ツ彷徨』に至っては、その至愛の連峰への美しい遍歴叙事詩であると同時に、敬虔な感謝の歌ダンクゲザングだといっても過言ではないであろう。彼は生計のための仕事の合間をみては山へ行っている。その山は多くのばあい八ガ岳である。そんなにあの山が好きなのかと訊くと、もちろん好きなせいもあるが、一方ではまた自分の書いた案内書の内容が古くなったり、現状にそぐわなくなったりするのを防ぐために、年年の修正や補足の材料をあつめに実地を見に行くのだという。つまり利用者の信頼にこたえると共に、自分の名をも重んじようとする責任感からである。その方面にはいたって暗い私ではあるが、彼の案内書『八が岳』は、同じような種類の本の中でも最も信のおけるものではないかと思う。
 今私の目の前に一枚の美しい懐かしい写真がある。『北八ッ彷徨』の最後の一篇にも出て来る川嶋利哉君の写したもので、山口君と私とが信州富士見の秋を枯れた土手の草の中に並んですわって、何かフランス語の本を読んでいる。疑義の出た箇所をただすために彼の持ってきた本を私が調べているところらしい。昭和二十六年とあるから、彼も私も今より十歳ほど若い時である。もともと白晳の山口君の広い額が、その漆黒の髪の毛と共に快晴午前の太陽を斜めにうけていかにもみずみずしい。そしてちょうどこの頃、彼は今の美しい貞潔な奥さんである当時の川上久子さんと、人こそ知らね、すでに許婚の間柄だったのである。
 そして、私はこの写真を見ると、どういうものかベートーヴェンの作品九〇のピアノ・ソナタを思い出すのである。あのホ短調の「リヒノフスキー」を……

 

 

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 山の詩と山の詩人

 自分でも長いあいだ山の詩を書いて来ながら、さて「山の詩とはどういうものか」と改まって訊かれると、即座には適切な答えが浮かばない。山登りの経験を書いたり、ある登山中に起った事や見た物や感じたことを書いたり、山そのものを詠歎したものが即ち山の詩だと言ってしまえばそれまでの話だが、しかしそれだけでは何かが足りない。事実そういう詩ならばたくさんあって、毎月の山の雑誌の投書欄などを見ても必ず常に目に触れるのである。そして作品の題材の類別から言えば、それは確かに山のことを書いた詩には違いないのだが、なんだか「何かが足りない」というその事がひっかかって、これこそ山の詩だと、単純にはうなづけないから困るのである。
 そこですぐ、「その足りない何か」とはどういうものかという事が問題になる。これもまたちょっと一口には説明しにくいが、私の経験によると、第一に書く人の気質と山という自然との間に特に密着した関係の見いだされないこと、その人と山との間に運命的なきづなが感じられないこと、従って書かれた詩に、どうしてもこれを書かずにはいられなかったという必然性が感じ取れない場合である。つまり、都会の事でもいいのだが、ちょうど海へ行ったから海を書くというように、さいわい山へ登ったから山を書くのだぐらいの気持しか見られないという場合である。そしてひとり山だけではなく、海にせよ都会にせよ、こういう気持で書かれた詩に碌なものの無いことは言うまでもあるまい。
 上手下手は別として、その人の常日頃の行蔵に抜くことのできない「山の気」の薫る人、その人と会ったり話をしたりしていると急に颯々とした嵐気のようなものが感じられてくる人、そういう詩人がこの世にいることは事実である。下手は下手なりでいいし、この道一筋と修練を積めば必ずいつか上手になるだろうから心配はいらないが、元来山の詩は山登りの実践を伴うから、まるっきり山に経験が無かったり、山に愛着を持てなかったり、自然の美や驚異に無関心だったりする人には山の詩は書けない。たとえ器用に書きは書いても、顧みて他を言うことのほうが多くて、ただちに山の実体サブスタンスをもってわれわれを打ってくることはできない。そういう人の山の詩はせいぜい山のムードめいたものを匂わせているのがせきの山で、目を閉じて心をやれば無数の山頂や渓谷の眺めがまざまざと浮かび、手のひらにピッケルやザイルの感触がよみがえるような男女の魂や精神に語りかけるには足りない。
 山の詩はやはり「詩」だから、芸術だから、ほんとうは下手ではいけないし、いつまでたっても上達しないようでは心ぼそい。特に現在登山をやっていて、且つそこから詩を書いている人たちは、そういつまで恵まれてもいないだろう自分の体力や能力を考えて、一日も早く表現の自在を得るように努力しなければならない。それには何よりもまず現在と現実との山に密着して、そこから彼自身の山をうがち出そうとすることが大切である。思い出の山や観念の山は後なって何時でも書ける。概念的な山や万人向きの山ではなく、彼を喜ばせ、彼を苦しめ痛めつけた山、しかもそこから味わった喜悦や苦痛が彼独自の詩魂を揺り動かし、その後永く彼の所有、彼の富となるような山であり感銘でなくてはならない。そのためには、彼のする登山は、彼自身のこの世での真相、他の何ぴととも紛れようのない独特の姿でなくてはならない。他人と同じように山へ登っても、他人とは違ったものを持ち帰らなければならない。個性的な登山体験とそこから生まれる個性の詩。山の詩人が山の詩を書くプレテクストはこのほかには無いだろうし、また広く芸術家が芸術を成す真の動機も目的もひとしくこの境地にあるのだろう。
 この意味では、欧米でもそうだが、われわれの日本にも山の詩人と考えられる詩人がきわめてすくない。しかしそのすくない私の同僚の中でも鳥見迅彦、秋谷豊、田中清光、山本太郎のような現役の請君は、あるいは豪壮で悲痛な、あるいは具体的で精緻な作品を書きつづけているし、串田孫一君のものには無数の実戦の篩ふるいをとおした穏正で時に深刻な瞑想があり、田中冬二君にいたっては、すでに半ば過去のものとなった懐かしい山谷への郷愁と、老来すこぶる健かな人生の旅への認識の歌とで、今はみずから美しく装っている。

  

 

 
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 山小屋への想い

 昔エミール・ジャヴェルの『一登山家の思い出』を翻訳したり、ウィムパーやティンダルやアルフレッド・ウィルズ、レスリー・スティーヴンやヒンチリッフやマンメリーら、イギリスの名だたる登山家の今は古典となった著書をそれからそれへと読みふけっていた頃、私にはさまざまな時と処によるその人々のアルプス体験や自然の画面が殺到して、現地を知らない身には、そういう読書から得た知識や鼓舞された想像をもとにして、いろいろと夢のイメージを組立てることが楽しかった。ジャベルの文章は自分で翻訳したくらいだから言うまでもないが、誰のどういう本のどの辺にどういう事が書いてあるか、思い出すのに手間はかからないほど幾度もくりかえして読んだものだった。もちろん地図も手もとに備えてぃた。しかし地図といっても今とは違ってベデカーの『スィス』に挿入されているものぐらいが頼りだったが、それでけっこう役に立った。
 地図の中にひそんでいるものを引き出して、それを目に見るような映像として再現するのは、辞書の中のたった一つの文例から多くの活用を見いだすのと同様に、やはりその人の日頃の用意と器量とによるのであろう。
 むずかしい苦しい岩場の登単や、クレヴァスだらけの氷河の遡行や横断を書いたくだりも、もちろん息を呑むようにして読むには読んだが、自分も少しばかり登山めいた事をやっていながら、生米心臓の弱いせいもあるが、ともすれば立ちどまって観たり眺めたりすることや、休んだり休みながら考えたりすることの好きな私は、そういう本を読んでいても、つい静かな谷間の素朴な村や、花の咲き盛かるひろびろとしたアルプや、乾酪造りの牧人がひっそりと住んでいるシャレーなどの、美しいリリカルな描写のほうに気を取られがちだった。私の目の着けどころ、心の波の寄せゆくところは、だから、また今でもそうだが、たとえばセガンティーニの画の世界であって、ちっともホドラーのそれでもなければ、いわんや今日の山岳写真家が好んで取組む、あの非凡な境地でもなかったわけである。
 人間の強く美しい純粋な意欲が、昂然とした峻厳な大自然にいどむあのアルプス登攀の壮烈な叙事詩! 私は胸をおどらせて読みながら、自分ではその真似のできないこと、あたかも初学者や天分に恵まれない者の、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ、特に晩年のそれに対する如くであった。

     *

 エミール・ジャヴェルのあの見事な、特に愛して気を入れて書いたと思われる幾つかのスイス山小屋の叙述は、彼の登攀の文章のなかでもアンダンテやアダージョのような安らかな緩徐楽をなしていて、アルペングリューエンの壮麗な夕暮や爛々たる星空の下での、好もしい瞑想と深い憩いの気分とに満ちたものだが、あのように品位があり、詩情もまた高く豊かな山中の一夜を、今でもなおスイスで味わうことができるだろうかと疑う人も少くはあるまい。なるほど、山を愛する人間の純粋な登山と世界各地からの観光客の殺到とが入りまじった今日では、いかにスイスでもあんな完璧な「古き良き日」は期待すべくもないかも知れないが、それにしてもなお何処かの美しい忘れられたアルプの片隅、どこかの暗く涼しい石南しゃくなげの谷の陰には、昔ながらの古風なシャレーがひっそりと立っていて、気の合った一人二人の篤信の登山家に、安息と静寂との一夜をそなえ捧げることは必ずやあると私は思う。そして私がそう固く信じて疑わないのは、スイスという国の土地と人間とにたいする私自身の深い信任のためである。
 そういう篤信の二人三人が、今でもなお、人間のちまたからの隔たりと高さと静かさとを求めて山の中を歩いていることだろう。暗い峡谷をさかのぼって滝のしぶきの羽根飾りに濡れたり、花崗岩の明るい大きな廃墟のなかに一すじの登路をさがしたり、荒々しい嶺線をたどって虹のように立つ最後の急坂を登りながら、早くもせり上がってくるオーバーラントやヴァリスの山々の大結品群に、目を見はったり息を呑んだりするだろう。頂上での休息と観望はせいぜい三十分か長くて一時間。それからまた明日の別の山頂のために彼らは結束して下山するだろう。そして真白な転石の長い斜面を右に左に縫うように降って、やがて山中の手鏡のような池、なだれや岩屑にせきとめられて出来た清く冷めたい水溜り、高みから見れば翡翠ひすいの玉を磨いたとも思われるきれいな小さい湖を見出すだろう。そのまわりには風に押したわめられた数本の低い樹が立ち、シコタンソウやイチゲの類、リンドウやツツジの仲間が、スゲやカリヤスやいろいろなシダ族にまじって晩い午後の日光を浴び、山上の風に吹かれてすがすがしくそよいでいるだろう。
 彼らはその近くでまた一棟のシャレーも見出すだろう。それは家の土台として石や岩の破片をたたみ、床は板張り、校倉あぜくらふうに横木を組んだ石置き屋根の小屋で、乾草を貯蔵する納屋を広くとり、寝室として低い二階をつけたものである。彼らは前もって使用の許可を得ているか、所有主の他人にたいする常からの信用のためかで、その無住のシャレーに心置きない一夜を過ごすことができるだろう。彼らは陽のあるうちは池のほとりの草の中に寝ころんでタバコを吸ったり、今日の晴れやかな山頂を見上げたり、地図をひろげて明日の路を検討したりするだろう。それからゆっくりと小屋へ帰って、きっちりと積み上げられている焚木から媛炉の火を作り、厚板のテーブルでの晩飯の支度と寝床の用意とにとりかかるだろう。一人が料理の腕前を発揮している間に、もう一人が乾草と寝袋との暖かで、清潔で、快適な寝室のために、その技倆の程を見せているだろう。それからランターンを囲んでの楽しい食事。サクランボとオレンジとを混ぜた温かい葡萄酒。コーヒー。そして、彼らもまた持ってきたならば、ブロックフレーテの合奏。そしてやがて明りを消しての早い就寝。アルプスを照らす満天の星の下、風が歌う暗く雄々しい揺藍歌ヴィーゲンリートに、三千メートルの高処での、都会と人間苦とから解放された安らかな深いねむり……

     *

 私たちの日本では残念ながら、今日、事柄はなかなかこうは運ばない。前記のような無住の小屋ならば、さしづめ結果はきわめて悲観的で、それが荒されたり破損を蒙ったりする事は少しも珍らしくないのである。燃料などを備えつけて置いても、よほど正直な人か顔見知りの人でないかぎり、使っただけの物に金を払う人間はほとんど絶無だと言われている。これでは提供する者と利用する者との間の黙契は成り立たず、登山者にたいする世間の信用もゼロのわけである。また山小屋を経営する業者の中にも、無知無教養で目前の営利に汲々としている者がいて、憧れをもって山へ来た者の美しい夢を叩きこわしたり、その気分をめちゃめちゃにしたりしながら恬てんとして憚らない場合も少くない。
 そして、それでは、こういう暴状を嘆いたり憤ったりする人達のために、それに代るどんな小屋があるかと思えば、例外は別として、その多くは一種の旅館であり、経営者の気持や態度も旅館のそれを発散している場合が多い。最初の念願では理想的な素朴な山小屋としてやってゆくつもりであったのが、しだいに変質を重ねて冬のスキー場や夏山の小観光ホテルをもって自任するようになる。登山者の数がむやみと多く、同業の競争者がひしめいている日本の山では、こうなるのが必然の成行きだと言ってしまえばそれまでだが、其処が山岳という大自然の根源的な情緒を主とした世界であることを思えば、泊る者にも泊ってもらう者にも、自然愛好者や山の人間にふさわしい情意と自信と節度とがなくてはならないだろう。そしてもしもそういうものが無ければ、いくら絵だの詩のような事を言っても、書き立てても、笑うべく卑むべき世迷言に過ぎないだろう。
 但し私はここで学校や会社や、特定の団体に専属し監理されている山小屋、排他的な山小屋について言っているのではない。

     *

 後から後からと脳裡に浮かぶこんないまわしい記憶、数知れぬ不快の思い出から一転しよう! 山の美と静寂とを踏みにじっておいて自分ではそれと気づかないほど心無き無知な人々、或いはそれを当然な権利のように考えていよいよ意識的に粗暴をあえてする昨今の登山大衆、そしてそういう種族の跋扈ばっこを見馴れ扱い馴れて彼らに迎合し、万人のための国土の自然をわが物のように売り物にして利欲に没頭する一枚上手うわての不徳な業者――こんな連中の世界から目を転じて私たちの山の暁の空を見よう! するとそこには自分たちの仕事への愛と自覚と理想とを固く保って、ささやかながら小屋を営んでいるけなげな人たちの姿が点々と見える。
 彼らはいる。おおむねは或る尾根のかげか一すじの沢のつきる処に。彼らの営みはひっそりとし、その小屋は孤独の鳥の巣のようだ。主人である人には老人もあるが、ほとんどは中年か若い人で、しかも夫婦であることが多い。その夫婦は共に山国に生まれ山国に育って、山への同じ愛着、山小屋経営への同じ理想から結ばれた者だ。儲もうかるから始めた仕事ではなく、山から引かれるもの、山への愛に生きながら、同じような心の憧れを持つ他人のための憩いの宿、寡黙と真情の流露とのために人々の快く一日一夜を過ごすことのできる宿、そういう宿としてこの小屋を始めたのだ。たとえ彼らの提供するべッドは堅く、そなえる食卓は可憐に鄙びて貧しくても、そこには常にまごころの温かさがこもり、創意が見られ、たまたま一閃の英知が光ってその教養の程をしのばせる。そして夜の炉辺で求められてする彼らの話が、なんと深く美しく山の詩と真実とを伝えることだろう! すくない言葉のはしばしからうかがわれるその観察、その思考が、なんと彼らと山との宿命のような愛のつながりを語っていることだろう! 時おり訪れる私たちは、山の静寂と沈黙とを期待しながらも、聴くならばこういう声を聴きたかったのだ。瓦礫のなかの玉のような、こういう心に触れたかったのだ。
 現実にあるそういう小屋の二つ三つ、ほんとうに生きているそういう夫婦の二組三組を、私はあの山々の中に知っている。久しく訪れなかった彼らをこの夏こそはたずねよう。私からのあらかじめの手紙を見て彼らは待っていてくれるだろう。そして花咲き繁る夏草のかなたから高々と手を上げて迎えに来るだろう。あたりの藪や林では小鳥がのどかに歌っているだろう。小道が焼け、岩が焼け、それを涼しい風が懸命に冷やしているだろう。晴れた日の積雲が軽くぽっかりと、海のような青空のひろがりに浮き漂っているだろう。このあこがれの山の自然にとりかこまれて、私は自分がいっもよりも一層すなおな、一層ゆたかな心の持ち主となったように感じるだろう。
 やがて私は彼らの小屋のほのぐらい、ひやりとした入口に腰を下ろすだろう。そしてまず一杯の山の清水を所望するだろう。そしてそれからおもむろに私の詩の幾日が、物静かで賢い若夫婦の小屋における、私の老いの山歌の世界がはじまるだろう……

 

 

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 詩と音楽

 或る夏の朝、妻や小さい孫たちと一緒にする台所での食事がすんで、さていつものように書斎へ入って一人でコーヒーを飲み煙草を吸っているうちに、だ人だん形づくられてゆく心の静謐と仕事への空気のなかで、ふと、一篇の詩の構想が頭をかすめた。私はそれがあまり苦心をしなくても物になりそうに思われたので、無為の瞬間にはからずも閃ひらめいたこの霊感を喜んだ。というのは、その半月ほど前に、或る新聞から季節にちなんだ短かい詩を求められていて、そろそろ約束の日も迫っていたからである。
 晴れた青空の高みでにわかに白い凝結をおこした水蒸気のような、その詩的原形の漠然とした雲のなかへ私は柔らかにはいりこんだ。こういう時にはむやみに意気ごんでもいけないし、そうかと言って、あまり楽な気持になって書き流しても勿論いけないのだ。一張一弛の微妙なバランス。これが大事なのである。
 私はまず詩の荒筋をきめ、輪郭を考える。それから二三の重要なイメイジを取り上げて、それが可視的な美をともないながら根本の思想を、つまり最初に頭をかすめた雲ようなものの核を、包んだり支えたりするように工夫する。それは私の現実の生活の断片であって、しかも独立した一個の全体であり、一つのしらべに貫かれた歌でなければならない。
 そこで私は書いた。読み返していくたびか推敲した。詩は数日前の同じような朝の体験を叙述したものだが、またおだやかに続くことの願わしい私自身の生活の見本でもあった。

  山から帰って来て、また始まる都会の朝を、
  シューベルトのアンダンテの
  かぎりもなく美しい悲歌に聴き入っている。
  まだ目にちらっく雪渓や岩壁のイメイジ、
  澄んだ光線と清らかな空気の流れ、
  原始林の暗い匂いと泉のような小鳥の声々……
  すべてが新鮮に保たれているきのうの記憶に
  ふさわしい弦楽の調べをない合わせながら、
  充実した余生の密度を測るように
  朝の時間の深みへと心の錘おもりをおろしている。

 そしてこうして出来上がったこの詩に、私は『朝のひととき』という題をつけた。出来ばえは大して良くないが、不意に湧いたイデーを逃がさずに引きとめて、それに形を与えることのできたのには満足した。

 静かな朝の時間の深みへおろす心の錘。こういった感慨はおそらく老境のものに違いない。そしてそういうところに詩を見出し、詩を成すよろこびも、又まさに老境のそれである。しかしまだ若さは実際に試みる登山という行為にあり、自然からうけとる知的で官能的な逸楽を喜びとするところにある。山野への限りない愛は今も私のうちで冷めることのない熱情の一つである。それは私の生活に伴奏し、私のポエジーの契機となり、熱源となり、また対位法的な声部となって主旋律を支えたり援けたりしている。こうした状態は私の場合作為でもなければ生活技術でもなく、むしろ今では本能となった永年の習慣のように思われる。
 きのう別れて来たばかりの北アルプスの山や谷や森林をまざまざと目に浮かべ、その日光や岩膚をいきいきと肉体の感触によみがえらせながら、旅行のためにしばらく遠ざかっていた音楽として、シューベルトの弦楽四重奏曲第十五番のト長調を音盤で聴く。そしてそのアンダンテ・ウン・ポコ・モトの無限に深い哀切なしらべが、なんとあの梓川の谷や穂高の思い出と微妙に溶けあい、なんと新鮮な調和を奏でることだろう! しかもこの世の美の二つながらが交響し調和する波のまにまに漂いながら、体験と記憶とに重い私のたましいが、はっきりと目をあけ耳をすましている。出来た詩そのものの成果はともかく、この一朝の現実は私にとってまさに自分のポエジーであった。
 ようやく身の老境を感じるにしたがって、私の詩にもこうした思い出や感慨から霊感されたものが多くなった。それは当然とまでは言わなくても、少くとも自然ではあるように思われる。老年は人生の収穫の時であり、太陽の熱は減ってもその光が華麗な赤と金色の時である。秋の空は澄んで軽く、秋の大地は涼しく豊かだ。勝利にせよ敗北にせよ、善にせよ悪にせよ、あらゆる回想は日光に染まり風に冷やされて、もはやさしたる重量もなく悔恨もなくこしかたの地平に横たわっている。そしてヘルマン・ヘッセの言うように、「すべての回想は秋らしいヘルプストリヒ
 私はこういう短かい詩を、この一二年来、月に二篇か三篇ぐらい書いては保存している。堅い革表紙でかっちりと装頓した小型の帳面が、少しずつその白紙のページを埋められてゆく。中には乞われて何処かの雑誌か新聞に発表したものもあるが、大半はまだ人目に触れない作品である。本が厚いので五分の四以上まっしろなままだが、これがついに詩で埋まるかどうかは神だけが知っている。しかし今はまだ丈夫で、精神にも肉体にもいくらかの若さを残している私としては、失明した老ヨーハン・セバスチャン・バッハがその瀕死の床で、『我等いと大いなる悩みにある時』という自作のオルガン聖歌曲に、「われ、これを持ちておんみの御座の前に立つ」と婿をして書かせた事を思わずにはいられない。
 それというのも、一つには、この頃の私を詩の世界へと誘いこむもの、すべての芸術の中で音楽にしくものが無いからである。バッハの最も小さい衆讃前奏曲コラール・プレリュードが私を打つ。『われ、おんみを呼ぶ』や『汝をよそおえ、おお愛する魂よ』が、私を静寂な詩の原始林のきよらかな泉へと導いてゆく。ベートーヴェンのピアノ・ソナタの、ほとんどソナティネとも言うべき小品の一楽章や、人の問題としない宝石の破片のようなバガテルの一つが、私を恍惚とさせたり感奮させたりする。モーツァルトでもそうである。またヘンデルでも、シューベルトでも。そして時にはハイドゥンですら。
 ベートーヴェンは「美をとおして善へ」と言った。この二つの徳が手を取りあって住む世界は、われわれ老境に入った詩人の宗教的な世界ではないだろうか。自然のように明け放たれて東西南北の風が吹き、秋の大地のように回想に充実して、心の甘美な風景が深く敬虔な物思いにふけっているという、そんな願わしく懐かしい世界ではないだろうか。

 

 

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 生きているレコード

     1

 フリードリッヒ・リュッケルトの詩によるこのグスターフ・マーラーの歌、この『子供の死の歌キンダー・トーテンリーダー』を、私はよく気をつけて、或る親たちに聴かせないようにしなくてはならない。それに、もう祖父や祖母になっている人たちにも。
 なぜかといえば、私ほどの年齢になると、たずねて来る人にも、子供を持っていたり孫のあったりする人がたくさんいる。そういう人たちの中には、ことによると、私がまったく知らせられなかったか、或いはついうっかり忘れているのに、彼らのなまなましい記憶として、触れられれば忽ち痛みだす傷口として、愛する子供や孫を近いこのごろに失った悲しみを、心中ふかく包んでいる人がいるかも知れないから。そして、しかも、私には必ずしも褒められない癖として、自分が感動したり美しいと思ったりしたものを、他人に押しつける傾向があるから。
「今輝かしくも日は昇る、夜の間になんの不幸もなかったように」「おお眼よ、お前たちが時々その暗い炎で私を射たわけが今こそわかった」「お前のお母さんがドアをあけてはいって来ると」「私はよくこう思う、あの子たちはちょっと出かけただけなのだと」「こんな天気の日、こんな嵐の時には」――これら五つの歌から成る傷心の連作歌曲リーダークライス、この亡き子を思う歌が今ちょうどそれで、ドイツのメッツォー・ソプラノ歌手の歌うその美しいレコードを、私は遊びに来る若い人たちによく聴かせている。そして多くの彼らがこの歌の深い沈痛な美や、暗く烈しい情熱や、澄んだ哀傷に打たれたように見える。すると或る日一人の山好きの大学生が、歌がおわり、伴奏の最後の和音が消えると、ポツリと言った、「山の遭難で子供をなくした親なんかにはとても聴かせられませんね」と。私はうなずいた。私もそう思っていたのだ。ちょうど毎日のように山での遭難事故が報道されている時だった。
 まったくこれは聴かせられない。これは悼みの親たちの心をかきむしって、その嘆きと痛恨との血をもういちど流させるだろう。管絃楽がニ短調で不安と苦悩にみちた嵐を咆えたけらせる。するとその真っただ中へ歌がするどく絶望的に叫びこむ。「こんな天気には、こんな嵐の日には、私は子供たちを決してそとへ出さなかったものだ! あの子たちは連れ去られた、さらわれてしまった! しかも私には一言の抗議も許されなかった!」この悲痛と恨みの叫びが、荒れすさぶ管絃楽の風雨に巻かれて、或いは激昂し或いは悄沈しながら、じつに四度も繰りかえされる。しかし聴く者のからだが顫え、心臓がはずむようなこの楽器と肉声のすさまじい格闘が「依然として強く、抑制せずに」(immer stark, nicht zurückhalten)つづいた後、やがて次第にしずまってゆるやかになると、フルート、ハープ、グロッケンシュピールの奏でる澄みわたった青空が現われ、チェロのフラジョレットがこまかに寄せる波をえがき、その上を嵐のあとの断片のように高くきらきらとイ音が飛んで、世界はニ長調の柔らぎと真珠光の中へ移ってゆく。そして、おそらく、子供を失った親はここへ来てこそ本当に泣くのだ。なぜならば最弱音でゆっくりと、子守歌のように歌い出される最後の歌が、前と同じ「こんな天気には」を言いながら、前とはまったく違って、今では頬をつたわって流れる涙も慰めと諦念の日光に照らされているような、心をこめた言葉と旋律とをあまりにも美しくかなでるからである。
「こんな天気、こんな嵐の時には、あの子たちは安らっている。母親のふところにいるように。
どんな雨風にもおびやかされず、神のみ手に護られて、あの子たちは安らっている。安らっている。母のふところにいるように!」
 しかし、こうは言っても、やはり私は聴き手に心を配らなければならないだろう。もしや相手に内心の傷があるのではないかと。いや、そればかりか、すべて此の世で愛する者を持つ人たちの感じやすい心に、心ならずもいらざる不安を植えつけはしないかと。結局そういう人たちとこそ一緒に聴きたい歌でありながら、やはり何か躊躇されるのは、単に苦悩する魂の宗教的な浄化とばかりは言い切ることのできない、或る不安と憂欝の病的な美がそこを支配しているからではないだろうか。もしそうだとしたならば、私はこれをあまり他人に(また自分自身にさえ)聴かせようとしない方がいいのだ。そして精神がすこやかに高揚している時、心が寛容と自信とに晴ればれとしている時、美を美として受けいれる事のできる時、そういう時、きわめて稀に、自分ひとりで聴けばいいのてある。

     2

 幾輪かの薔薇をのこして初冬を枯れた庭と、時おり小鳥の声がひびく林とに囲まれた朝のちいさい静かな書斎で、いま私はベートーヴェンの第二番のピアノ・ツナタ、イ長調を聴きおわったところだ。そのスケルツォーと終楽章のロンド・グラツィオーゾとはわけても美しい。まだその余韻が部屋の中にただよっているような気がする。ああ、若くて幸福なベートーヴェン。私の描くそれぞれの時代のさまざまなベートーヴェン像の中に、こういう彼を見ることのできるのは一つの安堵でもあれば慰めでもある。
 私はべートーヴェンのピアノ・ソナタ、ヴァイオリン・ソナタ、それに絃楽四重奏曲をレコードでほとんどすべて持っているが、それは自分で楽器が弾けず、このもしい演奏会もそう始終は無いからである。しかも心の要求や仕事への刺激のために、彼の或る曲をどうしても聴かずにはいられないという時がよくある。そんな時には「美の受用を濫用するな」というふだんからの自成を曲げて、なっかしい顔に会いにでも行くように、いそいそとプレーヤーに盤を置くのである。
 昔はそうではなかった。歳もまだ三十代の昔には、ベートーヴェンとあればヘッリー・ウッド指揮の『第三』であれ、アルバート・コーツの『第七』であれ、ニキッシュの『第九』であれ、ブッシュやカペーの弦楽四重奏であれ、手に入れれば気の済むまで昼夜をわかたず、繰りかえし繰りかえし、むさぼるように聴いたものだった。しかし生涯の夕日の時を沈黙の夜へとたどる今では、もうそんな事はしない。その時々の光を期待して夕べの空を見上げるように、ベートーヴェンの音楽の深い広大な星空を、敬虔と思慕のおもいで仰ぐのである。
 穂高、明神、霞沢などの峯々にかこまれた上高地の谷、初夏六月の清明な月夜、山々の残雪と小梨の花と梓川の流れとを静かに照らすその月光を大窓のそとに見ながら、旅館の主人へのみやげとして持って行ったベートーヴェンの絃楽四重奏曲作品二一七が、我が家で聴くのと又なんと違った感銘で私を打ったことだろう。あすは滝谷へはいるという猛者もさたちが、ホールのあちこちへかたまって、なんと静かにその絶美な主題と変奏、アダージョ・マ・ノン・トロッポ・エ・モルト・カンタービレに聴き入ったことだろう。
 庭と林にかこまれた私の書斎にも冬が来て、自然の沈んだ熱情が毎日の仕事に反映する。もうじき雪の降る日が来るだろう。そうしたら窓からの風景を童話の世界のようにする初雪のために、また自分の心の歌のやしないのために、あの典雅で底光りのする作品一〇九のピアノ・ソナタ、あの聖化された昔の愛人の面輪のようなホ長調を私は聴こう。

 

     3

 私のような仕事をしていて、しかも今ぐらいの年齢になると、過去のさまざまな因縁やここ数年来の親しみのつながりから、いくっかのグループに分かれた、それぞれ特色のある友人たちの集団を待つようになるものらしい。私にも自分を中心としたそういうグループが五つばかりある。学者や芸術家の仲間もあれば、技術家やサラリーマンの連中もある。すべて年下のそれらの人々は、みんな私の書くものをほとんど欠かさず読んでくれているが、その上大部分が音楽の愛好者で、それも特にクラシックを愛する人たちである。
 そこでそういう連中が二人三人と揃ってたずねて来ると、けっきょく最後には、彼らの喜びそうなレコードをかけて、その日のもてなしに有終の美をそえることになる。比較的老成した学者肌の人の多い北鎌倉のグループだったらバッハかベートーヴェンを、また串田孫一さんを中心とするマイン・ベルクや『アルプ』の連中だったら、彼ら自身ブロックフレーテに打ち込んでいるので、テレマン、クヴァンツ、ヴィヴァルディなどのバロック音楽を、というふうに。そして必ずと言っていいくらいモーツァルトが一枚それに加わる。「誰かに対して、何か特別の好意を示してあげたいと思う時には、私はピアノに向かって、その人のためにモーツァルトの作品を一曲演奏するのが常である」と、あのエドヴィン・フィッシャーが言っているように。そしてこのレコードの演奏は、帰ってゆく友人たちへの無形のおみやげでもあるが、同時に昔の大家のすぐれた作品を親しい友らと一緒に聴くことができたという、私自身の喜びでもある。

 詩人私に音楽の天からの守護の聖者があるとしたら、それはバッハ、ベートーヴェン、モーツァルト、それにヘンデルの四人である。

 この三月の初めの或る朝だった。私は仕事にかかる前のおちついた気分を醸し出そうと思っ
て、去年の暮以来聴かなかったヘンデルの『メサイア』から、第二〇番のアリアを選び出して聴いていた。「彼はその群むれを羊飼いのごとく養い、仔羊らを腕もて集め」という、あのアルトとソプラノが連唱する敬虔なラルゲットのアリアである。私はこの大曲の中では第二三番の「彼は賤められ拒まれたり」と、第四七番の「われはわが贖あがない主ぬしの生けるを知り、最後の日に彼が地上に立つべきを知る」がわけても好きだが、この二〇番のアリアもまた実に美しい。その敬虔な歌詞と音のしらべには、田園を想わせる広々とした光と晴れやかさがある。
 さて私がじっとこの歌に聴き入っていると、おりから多摩川の空は青々と晴れて、早春の太陽がなごやかに照りわたり、梅が咲き福寿草が金色に輝いている庭で、妻が賽さいの目にきざんだ柔かなパンを二つの餌箱に満たしていた。ガラス戸ごしにそっと見ると、もういつもの鳥たちが、雀も、椋鳥むくどりも、鵯ひよどりも、尾長も、それぞれ五、六羽から十羽の群むれになって、庭ぢゅうの木の枝や鶏舎の屋根にとまって、餌の与え主である人間の行ってしまうのを待っていた。やがて妻は「さあおいで、お待ち遠さま」と言って立ち去った。すると野生の小鳥たちは次々と羽音を立てて下りて来て、ぎっしりと餌箱をかこんで集まった。
 私は当然この光景と今のヘンデルのアリアとを結びつけて考えた。そして「彼女はその小鳥らを野の藁家の女のごとく養い、幼き者らを声もて集め」という、この場面と事柄の真実とにふさわしい文句を思いっいた。そしてちょうどその時、来日中のドイツ・バッハ楽団の演奏会の切符の件で電話をかけて来た銀座の楽器店の一人の若い懇意な女性に、この春の朝の美しい偶然を知らせずにはいられなかった。

     4

あらゆる音楽家のなかで、ベートーヴェンこそは私にとって最初の太陽であったと同様に、ま
た最後の太陽ともなるだろう。私は自分の一生を通じての彼に対するこの傾倒、この運命的な愛を、ひとつの救い、ひとつの恩寵以上のものと考えずにはいられない。私にしてもしもベートーヴェンを知らなかったか、或いは彼を愛し敬うことがなかったとしたら、今日在るような自分にはとうてい成り得なかったに違いない。詩人として生き抜くべき道のなかばで挫折したかも知れないし、よしんばその道を全うしたにしても、今とはまったく異った方向を歩いていたに相違ない。私は文学や詩の先人から多くのことを学んだり豊かに養われたりしてここまで来たが、よろめく時の心の支えとしてすがりつき、絶望に瀕した時の鼓舞者・激励者として拠りたのんだのは、実に終始ベートーヴェンその人であった。自分にベートーヴェンがあると思えば心はその深みで安堵を感じ、仕事の上や人間杜会での孤独にも勇気をもって耐えることができた。
 私は「あらゆる音楽家のなかで」と言った。しかし本当は「あらゆる芸術家のなかで」とすべきであるし、もっと正しくは、「あらゆる先人のなかで」とすべきであろう。けだしベートーヴェンの如きは一個の音楽家・作曲家以上の者であり、その作品から発する内面的な光と力とは、単に音楽という一芸術の分野にとどまらず、いっそう広くかつ深く、他の芸術の世界にまで作用せずにはいないからである。そしてその最も美しい顕著な実例があのロマン・ロランにあることは、今改めてここに説くまでもないだろう。
 「私たちの二十歳代の光明であり、今もなお西欧の闇と嵐のなかで輝いている我らのベートーヴェン」と、ロマン・ロランはその一九四一年に書いた『第九交響曲』の序文、古い親友ポール・クローデルヘの献辞の最後で言っている。
 「私たちの二十歳代の光明」……それは大正の中期から昭和の初期にまたがる頃の、私自身と少数の親しい仲間にとっても同様だった。高村光太郎、高田博厚、片山敏彦、それに私を加えた四人は、よく一緒になっては各自愛蔵のレコードを聴いて感動を共にした。今とちがって当時の日本では極めてまれにしかベートーヴェンを聴くことができなかったから、いきおい、いわゆるSP盤のレコードに頼るほかはなかった。しかしそのレコードたる、現在のLPならば三十センチ片面に入ってしまうものが両面盤で二枚半、悪くすれば三枚を要したのだから、たとえばカペー弦楽四重奏団演奏の嬰ハ短調、作品一三一番のカルテットなども五枚という分量と重さだった。そしてそれだけ金高もまとまったものだし、第一そうやたらに何処ででも売ってはいなかった。
 それでも、又それだからこそ、仲間の誰かが新らしいベートーヴェンのレコードを持ったという知らせは、私たちにとっては心も躍るようなニュースだった。高村さんが『第五』を買ったと言っては駒込のアトリエに召集され、高田が無理な算段をして『第八』を手に入れたと言っては、雨の中を遠く電車に乗って聴きに行くというぐあいだった。もちろんナマで聴く機会があれば必ず出かけた。年代記的に言えば、後に自殺した久野久子の『アッパショナータ』からヨーゼフ・ケーニッヒの指揮した日本最初の『第九』の演奏の頃までが、ベートーヴェンに対する私たちの共通の熱情の最も熾烈な幾年だった。
 しかし友情の歴史もまた移る。やがて高田のフランス行を境に、また演奏会もたびたび聴かれるようになったので、レコードを中心に私たちの集まることもなくなったが、その後もなお各自の心にべートーヴェンが生きていたことは間違いない。たとえおのおのの晩年の空に大バッハの天体はさしのぼって来たとしても、若き日の私たちの光明であったベートーヴェンが、今は亡い二人の友の心の中にその後もなお生き続けていたこと、また生き残った二人の者にもいよいよ深く敬慕されていることを、私はけっして疑わないものだ。
 その美しい思い出を深めるために、きょうはしとしとと降りつづく春の初めの雨の夜を、久しぶりで『ミサ・ソレムニス』に傾聴しよう。

 

 

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 エステルとアンリエット

 エクトル・ベルリオーズは、二巻から成る『回想録メモワール』の最後の章で書いている――
「自分の心と思想とに、かくも強力な、しにかも永きにわたる影響をあたえた二つの大きな恋愛のことを、この上語ろうという気持はいま私にはない。二つのうちの一つは少年時代の思い出である。それは微笑にあふれて晴れやかに、あらゆる霊妙な魔力をそなえながら、その眺めだけですでに私を魅了するに充分だった無比の風景と共に私に来た。その時、エステルは、真に私のタンぺの谷の森の精アマドリアードだった。そして私は、十二歳にして初めて、大いなる恋愛の感情と大自然への愛とを同時に経験したのだった。
 もう一つの愛は、シェイクスピアと共に来た。それは私の成年時代におけるシナイの茨いばらの中、一つの詩の黒雲と電雷と、稲妻とのただなかで新らしく私を襲った。私は打ちたおされた。ばったりと倒れた。そして私の全身全霊は、その中で偉大な女優への恋と偉大な芸術への愛とが互いに混じり合い強め合う、ある仮借かしゃくのない激烈な情熱のおかすところとなった」
 ベルリオーズの一生につきまとって彼を餌食ともすれば、またその音楽的偉業を果たさせる原動力ともなった独特な愛の情熱を見る前に、まずその郷土の土地と人々と、少年時の環境と、それらのものが彼に及ぼした作用の跡を調べてみよう。

 エクトル・ベルリオーズは一八〇三年十二月十一日、フランスのイゼール県の主邑グルノーブルに近いラ・コート・サン・タンドレに、近隣の敬愛を集めている医師の子として生まれた。イゼール県はフランスの南東部にあって、隣接するオート・ザルプ県や、ラ・ドローム県と共に古くからドーフィネと呼ばれている地方に属している。すべて高山と渓谷とに深く彫りきざまれた国土で、東にはメイジュ、エクラン、ペルヴーのような四千メートルを上下する巨大な山群が横たわり、末はローヌ河となって地中海にそそぐイゼールとドラックの力強い清冽な流れが、県の中央部で山の都会グルノーブルに、平和な田園や牧場をしたがえて、見事な縁縫ふちぬいをほどこしている。ベルリオーズの音楽に独特な自然の美に、可憐なものと崇高なもの、優雅なものと威嚇的なもの、笑う草原と聳え立つ山岳といったような二つの次元が常にいきいきと感じられるのは、こうした風光への抜きがたい愛が彼の音楽的夢想の一半を占めていたからにほかならない。その本質的にアルプス的な性格において、リヒァルト・シュトラウスの浅薄な『アルプス交響曲』のごとき、ベルリオーズの『イタリアのハロルド』 (わけてもその第一楽章)にくらべれば物の数ではない。
 父親はラ・コート・サン・タンドレの生まれ、母親もメーランの生まれで、その息子エクトルは生粋きっすいのドーフィネっ子だった。ドーフィネは民族的にも、風習や言語の上からも、古い建造物の様式からも、イタリアとの関係からも、また南フランス的であると同時にアルプス的でもある気候の上からも、まぎれもなくラテン系である。シェイクスピアの悲劇やベートーヴェンのドイツ的交響音楽を熱愛したベルリオーズが、また他方では生涯を通じてマントアの詩聖ヴィルジールに傾倒し、その作品にもまた顕著な特色として旋律線の明潔さ、音彩の澄んだ明るさ、響きのよさ、きらめくばかりの輝やにかしさがあるのは、実に彼の根からのガロ・ロマン気質によるもののように思われる。そして感覚論哲学の代表者コンディヤック、フランス憲法議会の立役者バルナーブ、さては大作家スタッダールらと故郷の町を同じくするベルリオーズが、高邁で壮麗なドラクロアの画を思わせる『ファウストの劫罰』や『ロメオとジュリエット』を書きながら、またウンブリア画家の宗教画のように素朴で甘美で敬虔な『キリストの幼年期』を書くことのできたのも、やはりその間の消息を語るものではないだろうか。
 広い意味での愛や対個人的な恋愛の感情が、とくにしばしば自然によって鼓舞され美化されることの多かったロマンティックの権化エクトル・ベルリオーズを考えるために、私はその彼が生涯忘れることのなかった故郷の土地について、読者の寛容を期待しながら、もう少し述べておきたい。すなわちラ・コート・サン・タンドレとメーランについて。
 「ラ・コート・サン・タンドレは」とベルリオーズは書いている。「一つの丘の斜面に立っていて、豊かな、金と緑に輝くかなり広い平野を見おろしている。そこの静かさには、何か知らぬが夢見るような荘厳なものがあり、南と東をかぎる山脈の帯と、その背後に遠く氷河をになって聳えるアルプスの、巨人のような尖峯群とによっていっそう強調されている」
 十六歳の五月のある美しい朝、彼は牧場の中のかしの林の木のかげで物語の本を読んでいる。
すると野を伝わって何かあまく悲しい歌声が聴こえてくる。それは豊作を祈願する農夫たちの行進で、「聖者の連禱」を唱えながら歩いてくるのである。やがて行列は野中の十字架の下でとまる。司祭が田舎を祝福する。そのあいだ農夫たちは静かにひざまづいている。それからまた、ゆっくり行進が始まり、憂欝な歌がっづく。そしてそれが次第に遠ざかって行く。
「沈黙……」とベルリオーズはその思い出を続ける、「朝の空気のやわらかな動きに揺られる花麦の軽い身ぶるい……伴ともを呼ぶつやっぽい鶉うずらの叫び……一本のポプラの梢で歌っているあおじの喜びにみたされた声……深い静寂……一枚の枯葉がかしの木からゆっくりと落ちてくる……私の心臓のかすかな鼓勣……まさに人生は私から遠く、ほんとうに遠い……地平線ではアルプスの氷河が昇る太陽に打たれて莫大な光の束を反射している……そしてその方角にメーランがあった……」
 実際、メーランがそこにあった。ベルリオーズにとっての第二の故郷、彼の自然への開眼の地、十二歳の時の初恋の舞台が。
 グルノーブルから約十一キロ、メーランは地味豊かで気候にもめぐまれているが、もう美しい山地の様相を呈し、村をめぐってグレシヴォーダンの谷がうねり、サン・テ・ナールの岩峯がそびえ、近くはベルドンヌの、遠くはドーフィネの山脈の眺めがいっそう雄大で、彼の愛した場所のうち「もっともロマンティックな土地」だった。そしてそこには祖父の家があり、ナポレオン麾下の退役士官である叔父フェリックス・マルミヨンが住んでいて、少年ベルリオーズは母や姉妹と一緒に毎年の夏の終りの三週間を、この快活で音楽好きな叔父のもとで暮らすのを楽しみにしていた。
 そのメーランの村の上手、山のはざまに、葡萄園と花畠とに半ば隠れて一軒の小さい白い家が立っていた。それはゴーチェという夫人の別荘で、彼女はそこに二人の姪と一緒に住んでいた。そしてその二人のうちの若い方の娘はエステルと呼ばれたが、少年ベルリオーズは父親の書庫から秘密に持ちだして読みふけったフロリアンの牧歌『エステルとネモラン』の女主人公と同じ名をこの年上の美しい娘に見出して、初めて異性への霊妙な情緒の目ざめを経験した。そしてここにこの大作曲家の生涯での恋愛挿話の、もっとも重要なものの一つが始まったのである。

 エステルは六つ年上の十八だった。背が高くて端麗で、大きいいどむような眼、しかしときどきほほえむ眼と、アヒレスの兜を飾るにもふさわしい髪の毛とを持っていた。そしてほっそりとした形のいい足に薔薇色の靴をはいていた。
 少年ベルリオーズは一目で電気に打たれたように感じた。しかしまだ告白ということを知らない幼い恋の悩みは、彼を無口にし、孤独にした。あたかも傷ついた小鳥のように、昼間は祖父の家の麦畠や果樹園の中のいちばん人目につかないところに身をかくした。それと同時に嫉妬の感情が早くも芽ばえて、もしもだれか男が、彼女と話でもしていると、彼はひとり苦しみもだえた。彼女とダンスをする時の叔父フェリックスの、陽気な拍車の音がその小さい胸を引きさいた。この幼稚な恋を家の者も近隣の人たちもみな気づいていて、からかったり笑ったりした。エステルさえも笑った。ある夜、ゴーチェ夫人の家で子供たちが遊んだ。遊びは「人捕にんとり」で、同じ人数で二組に分かれるために男の子は味方になる女の子を選ばなければならなかった。皆がエクトルさんからまず選べといった。しかし少年ベルリオーズはただ胸がどきどきするばかりで、声も出せずに目を伏せていた。するとエステルが颯爽と進みでて、彼の手をつかみながら「さあ、それでは私の方で選びます。私はエクトル君を取ります」と言い放った。恥ずかしさで真赤になった子供を前に皆が笑い、いっせいにはやし立てた。そして当のエステルさえ、その美の高みから見おろしながら酷むごくも笑った……
 ベルリオーズは十三の歳以来エステルを見る機会を待たなかったが、心の底には初恋の記憶が古い甘美な痛みのように残っていた。そして三十の時、イタリアからの帰りにアルプスを越えて故郷の家へ帰省すると、はるかにメーランの村を眺め、サン・テーナールの岩や、あの白い小さい家や、古い塔を眺めた。土地と人々への愛がまざまざとよみがえって目がうるんだ。彼女は結婚したということだった。
 その帰省中のある日、彼は母親から一通の手紙を町の駅馬車の立場たてばまで届けるように頼まれた。ヴィエンヌからくる馬車が馬を替えるために停まるから、その間に乗客の一人のF夫人という人に渡してくれということだった。そして「その奥さんをよくごらん。十七年たちはしたが、多分お前は覚えておいでだろうよ」とつけ足した。ベルリオーズは行って馬車にF夫人をたずねた。「私がそのマダムFでございます」と相手は答えた。それは忘れもしないあの声だった。今もなお美しいエステル、サン・テーナールの森の精アマドリアード、メーランの水の精ナンフ、エステル! あの美貌、あの髪の毛もそのままだった! 馬車は出ていった。ベルリオーズは感動にふるえながら家へ帰った。母親はわが子の顔をさぐるように見ていった、「してみると、ネモランはエステルを忘れはしなかったのだね」と。
 どうして忘れることができたろうか。あのラ・コートの野やメーランの丘を、少年の日の心を打ちこんだあのヴィルジールを、フロリアンを、そしてエステルを。すでに十二の時に作曲した「さらばこのやさしき土地、なつかしの女友ともととわに別れて、彼らを遠く悲しみと涙の生をわれは送らん」という多恨の歌を、やがて『幻想交響曲』の冒頭に第一ヴァイオリンの奏でだすラルゴとして取り上げずにはいられなかったベルリオーズが!

「音楽と愛とは魂の双翼である」と彼は『回想録』の中でいっている。しかしその愛、その恋愛を語るためには、すくなくともこの際、私としてはその一翼である彼の芸術上の業績を割愛して急がなければならない。
 第二の恋愛は、多情多恨な性格と冷酷な現実とにいっそう強くさいなまれた、いたましいものだった。一八二八年、ベルリオーズが二十五歳の時、あるイギリスの劇団がパリヘ来て、シェイクスピア劇の興行をした。その第一回の出し物が『ハムレット』で、彼はオフィリアを演じた若い女優アンリエット・スミソンに、ただの一目で魂を奪われた。しかし実際ではそれが偉大なシェイクスピアの悲劇の力か、舞台での美しくて可憐なオフィリアヘの愛であったかは、わからない。おそらくその双方であったろう。ともかく彼は圧倒され、「ああ、私は敗けた!」と叫んだ。つづいて『ロメオとジュリエット』を見た。今度もまた相手はスミソンでもあれば、ジェリェットでもあった。彼は思いきって心のたけを書いた手紙を彼女に送った。相手はにべもなく拒絶した。その激越な調子が彼女を怖ろしがらせたのである。ある時は、またオペラ・コミック座での悲喜劇もあった。彼が自分のある序曲の稽古に出かけると、ちょうどスミソン一座の芝居が終る所だった。舞台では気もそぞろなロメオがジュリエッ卜を両腕にかかえていた。ベルリオーズは絶望的な叫びを上げ、両手を絞って飛びだした。恐怖に打たれたジュリエットは周囲の人々に彼を指さして、あの野蛮な眼をした紳士を警戒してくれと懇願した。
 こうして失恋した芸術家に、憂鬱と苦悶と激情の危機がおとずれた。彼は狂人か白痴のようにパリの市中や近郊を歩きまわった。ヴィルジュイフに近い牧場の羊の群の中や、ソー近傍の草原や、ヌイイーあたりのセーヌ河畔の氷った土手や雪の中での、疲れはてて死のようなねむけに襲われるまで、安息や慰めの目あてもない、幾日幾夜の彷徨だった。そして若いリストとショパンとがその彼をさがして、一晩ぢゅう野のあちこちを歩いたということが言い伝えられている。
 やがて彼の耳に、スミソンについての悪口が入るようになった。彼は叶わぬ恋のためにかつて彼女を侮蔑した。「アンリエット・スミソンについて僕のことを心配しないでくれたまえ。その方面ではもう危険はないから。僕はあの女を憐れみ、かつうとんじている。あれは自分の感じたこともない魂の悩みを表現する本能を持った尋常平凡の女性にすぎない。僕が捧げたような高貴な、すべてをなげうって、あえて侮いないほどの恋を味わう力はまるで無いのだ」と、彼は親友ユンベール・フェランに書いた。そしてその憤恨の反動の中でたちまち新らたに魅惑された若い女流ピアニスト、カミーユ・モークに心を寄せながら、初稿の『幻想交響曲』で公然とアンリエットをはずかしめた。
 すべてはこれで終りを告げたろうか。否いな。四年を経てふたたびアンリエットは現われた。今やその青春の力と美とは失われて、身には劇団の負債を負っていた。ベルリオーズがやがて音楽院で大成功をおさめた『幻想交響曲』の準備に忙しくしている間、彼女の方では没落するのに忙しかった。その音楽院での発表演奏会の時には、彼女も会場の片隅にいた。二人の有名なロマンスを知っている多くの聴衆は、彼女のこの出現に好奇の眼を輝やかせた。そして『レリオ』のモノドラマになって、「わが胸の悩みなるジュリエットよ、オフィリアよ。ついにふたたび相見ずしてわれは果てんか」と歌われた時、暗い片隅の席でアンリエットは考えた、「ジュリエット! オフィリア! それではやっぱりまだ私を思っているんだわ! 今でも私を愛しているんだわ!」
 こうして二人は改めて顔を合わせ、ベルリオーズの熱情は再び燃え上った。そして今度はアンリエットが彼の愛を受け入れた。彼は『幻想交響曲』に変更を加えて、それを愛のしるしとして彼女に捧げた。そして翌年、双方の親たちの反対を押し切って結婚した。彼女の持って来た一万四千フランの負債と共に、彼はついにその夢を手中にした。
 すべてはこれで終ったろうか。またしても否いな。悲劇の天才は悲劇をたがやし、苦悩の達人は苦悩の種子を播いてやまない。盲目的な愛による結婚は、憐愍れんびんによって結ばれるきづなとなった。かっての夢想のオフィリアは、ジュリエットは、至極現実的で理性的で、彼の奔放な熱情などは、まったく鯉解できない一イギリス婦人にすぎなかった。彼女は誠実に嫉妬ぶかく彼を愛して、家庭のせまい籠のなかに閉じこめようとした。しかし詩人ハイネがはなはだ適切に評したように
「巨大な鶯。鷲ほどの大きさをした雲雀」である彼ベルリオーズが、どうしてそんな窒息するような小さな世界にあまんじていられたろうか。たえず貧窮につきまとわれ、たえず公衆の無理解とたたかいながら、音楽的偉業の熱に身を焼かれて、彼は『イタリアのハロルド』を、『レクィエム』を、『ベンヴェヌート・チェリーニ』を、『ロメオとジュリエット』を、『葬送交響曲』を、『ファウストの劫罰』を書いた。そしてその間にはベルギー、オーストリア、ハンガリア、ロシア、ドイツ、イギリスと、自作指揮の演奏旅行に席のあたたまる暇もなかった。そしてその間の二十年を、アンリエットは他国であるパリに多くは一人留守を守って、海員志望のただ一人の息子のルイからも遠く離れて、病み、衰え、ついに一八五四年、とり乱して泣く夫の悲歎と憐憫の涙のうちに世を去った。
 そして、こういうのがエクトル・ベルリオーズとアンリエット・スミソンの愛の悲劇であり、
マルグリットのロマンス「焔と燃ゆる恋に」のように熱烈に始まり、カルタゴの女王ディドンの呪い「わが思い出は幾歳いくとせの後によみがえらん」のように悽愴に終った長い一幕だった。

 その生涯のたそがれに、人生の荒涼の野で、ベルリオーズは幼い日の恋の霊感エステルを、あの「山の星ステラ・モンティス」を慰めの光として振りかえった。彼は切々とした思いを述べて友情を求めた。時に彼は六十一歳、彼女は七十歳に近い老婆だった。「人はその髪の毛が白くなった時、その夢もまた捨てねばなりません。友情の夢をすら。たとえ今日一日は保つとしても、明日は破れるかも知れない縁えにしの糸を、何のために結ぶのでしょう」 これがかっての片恋の娘、今は老いたるメーランの森の精の返事だった。

 

 

 
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 ロマン・ロランと自然
                  (日記の断片)

     前書き

 ロマン・ロランと自然。これは果たして問題となり得るだろうか。私はなると思う。少くとも私にとっては。これは私にあって久しい以前からの関心事であり、着目と注意、同感と讃歎との対象であった。二十一歳のむかし、初めて『ジャン・クリストフ』を英訳で読んだ時以来、その作者ロランの自然への深い感情は、すでに早くから芽ぐんでいた私の自然愛を一層いきいきと、一層みずみずしく育てた。私は胸とどろかせて物語の筋を追いながら、ゴットフリート叔父との夕暮の川の岸や、フィレンツェの画家が描いたようなしっとりした甘美な女性、若い未亡人ザビーネとのとの夕涼みの情景や、善良で悲しい老教授シュルッと出あう牧場の春や、めくらの少女モデスタの村への徒歩の旅の、まるでミレーの虹の画か『田園交響曲』の終楽章のような得も言えず美しい叙述にひかれて、同じ数行のあいだを幾たびも往ったり来たりしたのだった。
 あの『ジャン・クリストフ』から、『コラ・ブルニョン』から、ましてや『クレランボー』からさえ、ロランの自然へのまなざしを採り上げて問題にするというのは本道をそれた事であり、少くとも第二義第三義に属する事だといって一笑に付されるだろうか。もしもそうならそれでもいいが、私としては彼が画家モネーについて書いた美しい文章や、『昆虫記』のアンリ・ファーブル、スイスの博物学者オーギュスト・フォーレル、特にフランスの野鳥研究家であるジャック・ドゥラマンの本へのほとんど郷愁的とも言える讃辞を忘れることができないのである。またエコール・ノルマルでの地理学の先生、あの偉大な人文地理学者ヴィダル・ド・ラ・ブラーシュの思い出に愛をもって触れながら、「彼のすばらしい講義がわれわれを投げこんだ熱狂の中に、私は〔大地への〕自分の特別な愛の確証をにぎった」と書いた今は亡いロランに、なつかしさの目をみはるのである。
 ロマン・ロランと自然。いつか私はこの主題で一篇のエッセイを書くことができるだろうか。 願わくばそうあって欲しいとは思いながら、自分のためにすでに傾いた道のゆくてをながめればその成否もおぼつかない。せめて手もとの日記から――『富士見日記』と『再びの東京日記』とから、――素材的な断片を抜き書きして、あり得べき亡失に備えておきたい。

     *

 寒さがきびしい。夜も十時をすぎた今ではなおさらしみる。外は皎々と晴れた月夜だが、この富士見の高原一帯、いや、信州の山野一帯が、きらきら光る厚い霜にうずもれて、仮死のような眠りを眠っていることだろう。表座敷ではもう妻も若夫婦も寝たらしい。今夜はロランの『聖王ルイ』の第三幕を読んだ。一九二四年のクリスマスにロランその人から贈られた本だ。東洋に遠征した十字軍の陣営とつるべ落しの夕暮。マチュー・ドークシーとティボー・ド・ブレーヴとの対話が悲しくも美しい……

 マチュー「ああ! なんと遠くわれわれは来たことだろう!」
 ティボー「君はぼくの心を締めつけている事を言う」(沈黙)
 マチュー(思いにふけって)「クシーに夜が来る。塔のてっぺんで最後の明るみがためらっている。白い霧が牧場から湧き上がる……(沈黙)で、君は、君は何を見ているんだ?」
 ティボー(同じように夢想にふけりながら)「いろんな物を! ……ぼくの国の、いくらか色褪せた灰色の空。野の上を流れてゆく雲の大きな影、とり入れ物のまどろんでいる金色の大平野。藁葺き屋根の村々、麦のあいだに隠れた雲雀の巣のような。花の咲いている生垣に囲まれた牧場の丈高い草の中にうずくまって、きれいな眼をした白い牛たちののどかな啼き声。明るい水際で歌っているポプラー。いい匂いのする葉に被われたくるみの樹の円い屋根…… おお、モルヴァンの地よ、その青い丘々と、すきとおった川の流れと、軽やかな小川のように蒼ざめた銀いろの柳。森の深い円天井。平野を見おろす岩山の上に立つヴェズレーの町、二つの強固な塔を持つその聖堂からとどろく荘厳な鐘の響き。ぼくの懐かしいニヴェルネーから此処まで運ばれて来る遥かな歌よ!………」

 なんというノスタルジックな歌だろう! そして当時二十九という若いロランもパリの片隅でこれを書きながら、その生まれ故郷である同じニヴュルネー、同じヴェズレーの空や野を心の眼前に見ていたに違いない。ここに響いているものはその視覚的な要素と共に、べートーヴェンならばさしづめ第二交響曲のラルゲットだ。

     *

「生の二つの深淵。すなわち自然と音楽」とロランは書いている。(『フモワール』)

「まず最初に自然! 自然は私にとって常に書物の中の書物だった。それを閉じていた封印は、 一八八一年、私に対してフェルネーの展望台で破られた。その時、私は見た。彼女の中に私は読んだ。狂気のように読んだのである。生活のために闘わなければならなかったあの脅かされた青春の幾年間、私にとって自然が、わけても山が、生きている神であり、パリの一年の十ヵ月を、その抱擁への期待の中でどんなに私が息をはずませて生きていたかを充分に言うことは到底できないだろう。そして夏の門が開かれるや、そもそもいかばかりの愛の熱狂で、彼女の体にこの身を投げかけたことだろう! 私のノートは、(わけても自分の闇の奥底まで読破する事のできるようになった一八八八年から八九年にかけてのノートは)、巨人の両腕の中で圧しつぶされたあの恋する女の痙攣でいっぱいである」

 そしてロランは、マッターホルン山群の問で暮らした一八八九年九月のノートにこう書いている。「……私は抱きしめられて衰弱する……もしも自分一人だったら、私は地上に身を投げ出したろう。石を、つやつやと光った緑と暗紅色の美しい石を、又金の火花のような砂塵を嚙んだろう。私は自然の自由になった。あたかも手ごめにあった女のように。それは私の魂が私から去って、ブライトホルンの光り輝く山塊に溶けこんだ瞬間だった……そうだ、たとえそれがどんなに非常識に見えようと、幾分間というもの、私はブライトホルンになったのだ……」

     *

 ロランが『ドロテア・チェチリア・ソナタ』と呼んでいるベートーヴェンの作品一〇一番のピアノ・ソナタを、久しぶりに今日レコードでやってみた。あのすばらしい『復活の歌』の中で、この曲のためにロランが割いているページは、それが多いだけ私には楽しく嬉しい。ロランの美しくも精緻な分析を吉田秀和氏の訳で読みながら、楽譜を前にその音楽を聴く夜の時間のなんいう重さ、なんという輝かしい深さだろう。立派な芸術は愛と同じに、これに馴れたりこれを濫用してはいけないと自分で自分に言いきかせた私が、我慢に我慢をして二た月ぶりに聴く『ドロテア・チェチリア』だ。今その最後の和音のフェルマータが鳴り止んだ。別れのように惜しくなっかしい余韻である。
 訳者にしたがって、ロランがこの曲の研究として書いた文章の最後のところを写して置こう。
これは見事な要約であり、こういう文章は筆写する事その事がすでに楽しい。

「これは内面の生の一日である。晩夏のひと日。五十五歳――時間の飛翔は一時中絶される。この一八一四年から一六年にかけて、ベートーヴェンの魂は過去と未来、郷愁と希望の間を定かならぬ足取りでただよう……私には原野の中央の彼の好きなブリュールにいる彼が見える……彼は幼い日の美しい郷さと、ラインの岸の地方をもう一度見ようと夢想する……彼はイギリス旅行の計画を夢想する。そうして帰って来たら田舎の村に定住する……百姓の家……「おお、森の甘い静けさ……」ひょっとすると彼は過ぎさった友情を夢み、『遥かな恋人』の姿が再び現われてきて、彼を抱きしめるのを夢みているのかも知れない…だがなぜ、幸福はもどってこないのだろう……」(人生の慰め)……「時は奇蹟をもたらす……」……「さればたとえ苦難の中にあっても、常に上機嫌であれ!」
 「……べートーヴェンは夢みる。そうして自分の夢をうれしそうに笑う。彼と共に笑い、この最後の時を味わおうではないか! 優雅と快活の下に、そのはかなさが感じられるだけに、その魅力はいや増す」

 私にはこの文章のためにあのソナタが一層好きになったのか、あのソナタヘの愛のためにこの文章に一層強く(時には悲しいほどに)打たれるのか、もうわからない。
「優雅と快活の下のはかなさ」と、それ故にこそ「いや増す魅力」……私はこの同じ魅力をあのザビーネに見るべきだろうか。それともあのグラチアに待つべきであろうか。
「何だろう? 今ここで、私の耳を、こんな大きい、こんなに優しく甘美なひびきで充たすのは、はたして何者だろう!………」(スキピオの夢※)
 ※註 『ジャン・クリストフ』第十巻『新らしい日』の終り近く出て来る言葉。

     *

 今朝(昭和二十二年四月二日)床の中でうつらうつらしていると、突然プラッタン・フェヴリエ(二月の春)という言葉が頭に浮かんだ。きっと、その時ちょうど森の中で鳴いていた一羽のツグミの早春の歌から誘い出されたものに違いない。私はアンズの花から草の上へころげ落ちる数滴の露の玉のようなこの言葉を二度三度くりかえして言ってみながら、自然と歴史とのイメイジにきわめて豊かな、またほとんど音楽的ともいうべきこの言葉を、ずっと以前にロランから学んだことを思い出した。それはたしか一九一八年にスイスのジュネーヴで出版された小さい薄い仮綴じの本、『アグリジェントゥムのエンペドクレースと憎みの時代』にあった言葉だ。それで妻と二人の朝飯をすますと本を持って森の家を出て、八ガ岳や高原を見晴らす丘の枯草の中で、むかし赤鉛筆の括弧でかこんだ箇所を二十幾年ぶりに読んだ――

「こんにちのジルジェンティ(往古のアグリジェントゥム)はいかにも貧しい。しかし町を載せている惚れぼれとするような額ぶち、そのゆるい斜面が作っている半円形の桟敷は、広々としか海を抱いている。遠い昔の二月の或る日、私はピュヴィス。ド。シャヴァンヌの『古代のまぼろし』に描かれているように小さい自馬の駈けている、其処の石浜のなぎさの方へ下りて行った。町には人影もなく、住民たちは神殿の下で饗宴をひらいていた。オリーヴの林に囲まれたその神殿のえもいえず美しい廃墟は、まるで町の帯の留め金のようだった。すると一人の若い娘が人々のむれから離れて、私に飲み物をすすめに来た。そして私が、いったい今日は何のお祭ですか、と聞くと、今日はお天気がいいものですから、と答えた。エンペドクレースの生きていた頃にも、いいお天気の日はたびたびあったのだ。そして騒がしい情念のとりこともならず、ギリシャ人の精妙さとアフリカ人の柔媚な官能とで生を味わい楽しむこの逸楽的な民衆にとって、晴天の日はいつでも祭だったのである」

 確かに読んだ事のあるはずの「二月の春」にはついに出会わなかったが、なつかしいロランが言葉でえがいたシチリアの古都の画と音楽とにこの早春の富士見高原でふたたびまみえた事は、私の一日への思いもかけない祝福だった。
 
(附記) そうだ、いい天気の日は私にもたびたびあった! しかし悪い日もまた。私が試みられなければならなかったような嵐の日もまた! 私はあの戦争の嵐とまっくらな夜の中で、ロランという先導の鳥から離れて、遠く迷いの空にみずからを失った渡り鳥の一羽だったのだ。しかしロランは、その友アルフォンス・ド・シャトーブリアンと一緒に写した写真に書いている、「われわれの精神は互いに相反する二つの陣営に加わったが、君にたいする私の愛情はそのためにいささかも揺るぎはしない」と。この私も同じ言葉が聴きたいが、今その人は平野の空に雲のたたずむブレーヴの小さい墓地で、彼の永の休息を眠っている!

     *

 昭和二十二年四月十日。翻訳をすることが、私にとって、化学の定量分析か動物の反応実験のように思われる時がしばしばある。そういう時はもともと動機が自発的だから、つまり頼まれてするのでないから、同じやっていても気持がいい。ゆっくりと適訳をとらえ、字句を練って、できる限り等価的にテキストの美とリズムを再現するのである。やはり詩がいちばんむずかしく、文章の方が比較的には楽だ。今日はそんな気持から、この森でもまた小鳥の歌の盛り返してきた晩い午後のひととき、『コラ・ブルニョン』のブレットの章の一節をやってみた。色々な試薬とわずかばかりの霊感に事は欠かないが、文章自体がロラン独特のだけに大汗をかいた。三十年も前に横取りされて人妻になっている昔の恋人を、何十年ぶりかで道のついでにたずねた老指物師コラが、その帰途の一夜の野宿から目をさます……(初版原書一三七頁)

「太陽は目をさました。樹は小鳥たちをいっぱいとまらせて歌っていた。歌は両手で押しつぶす萄葡の房のようにしたたり流れた。アトリのギョーメ、駒鳥のマリー・ゴドレー、鋸の目たてシジュウカラ、おしゃべりのムシクイで鼠色をしたシルヴィー、それからわしのいちばん気に入りの相棒ツグミ。なぜかといえばあの鳥は、寒さにも風にも雨にもとんと平気で、しょっちゅう笑っていて上機嫌で、夜が明けるや真先に歌って、歌いやむのも最後だからだ。それにあれはわしと同じに、赤い鼻づらをしているから。ああ! あの可愛いちびたちが、なんたる心で歌いわめいていた事だろう! あれたちは夜の恐怖から抜け出したばかりだった。日が暮れるときまって一枚の網のように落ちて来る罠でいっぱいの夜。息づまる闇……わしらの中で非業に死ぬのは誰なのだ……だがファリラリラ!……ふたたび夜の幕が上がるやいなや、遠い曙のよわよわしい微笑が生命の氷った顔や白茶けた唇をいきいきとさせるやいなや……オイティー、オイティー、ラライー、ラララ、ラドリ、ラリフラ……そもそもなんたる叫び、なんたる愛の熱狂で、わしの友だち彼等が昼間を讃えることだろう! 苦しんだ事も、心配した事も、無言の恐怖も、つめたい眠りも、すべてが、何もかも、オイティー、みんな、フルルット、忘れ去られた。おお昼間、おお新らしい昼間!……わしのツグミよ、日毎の新らしい曙に、捧げて変らぬ信念でよみがえるお前の秘密を伝授してくれ……!
 ツグミは口笛を吹きつづけた。その逞ましい諷刺はわしを陽気にした。地面にうずくまってわしも彼のように口笛を吹いた。カッコウが、《白カッコウ、黒カッコウ、ニヴェルネーの薄鼠うすねずカッコウ》が、森の奥で隠れんぼをやっていた。
《カッコウ、カッコウ、悪魔がお前の首折るぞう!》
 わしは立ち上がる前にとんぼがえりを一つ打った。通りかかった野兎めがそれを真似た。彼は笑った。あいつの唇の割れているのは笑ったためだ。わしはふたたび歩き出し、胸いっぱいの声で歌った、
 ――すべては善い、すべては善い! 仲聞たちよ、地球は円い。泳げない者は底へしずむのだ。このわしの明けっぴろげた五感から、大きな窓から、すべすべの揚げ蓋から、世界よ、はいって来るがいい。この血の中へ流れこめ! 欲しい物が一つもままにならぬからとて、あの大馬鹿者のように、わしが世の中をすねるとでも言うのか。もしもおれが持ってたらとか、いつかおれが持ったらばとか、そう欲ばり出したら切りはない。人間いつでも失望して、いつでも貰えない物を欲しがることになるわけだ! ヌヴェールの殿さんにしろ、王にしろ、父なる神にしろ同じこと。何ものにも限度があるし、誰しも自分の輪の中にいるのだ。其処からそとへ出られないと言って、わしが騒いだりうめいたりするだろうか。ほかへ行ったらもっと善い事でもあるだろうか。わしは自分の家にいる。わしは此処に居すわっている。そして、何をくそ、できるだけ永くいるつもりだ。一体何が不足でわしが文句をつけるというのだ。結局誰もわしに義理は無いし、わしにしたところで生きない事だってできたのだ……やれやれ! そいつを考えると背中のあたりがぞっとする。ブルニョンのない此の美しい小さな宇宙、この世の中! そして生命のないブルニョン! なんと不景気な世界だろう、おお友らよ!……すべては在るがままで結構だ。わしの持っていない物なんぞはどうでもいい! だが持っている物、わしはそいつを放しはしない……」

 訳は、結局、汗をかいたばかりでへたな一人ずもうに終ったが、相手にした本物とその実質のなんというすばらしさ、なんという豪邁で豊かなスケルツォーだろう! もしもクリストフがあの『広場の市』や『家の中』の時代に、たとえばこの『ブルニョン』を読んだとしたら、必ずや愛読措くところを知らなかったろうと思うほどだ。しかしこういうロランの軌道の夏至げしを多くの人がほとんど知らず、その万象茂る大地の歌、星かげ涼しい夜の歌、彼の交響曲にあっての「第七」や「第八」に耳を傾ける人もほとんど稀だ。しかし私は聴く。その森のざわめき、その小川のしらべ、その微風、その嵐、その小鳥たちの合唱と羊飼いの感謝の歌とに深く聴き入る。ロランは射手だ、サジッテールだ。その矢、その流星は精神宇宙の八方へ飛ぶ。彼を解き放とう。心酔者たちの密室やクラブヘ閉じこめられたら、彼のエンペドクレースが、コラーブルニョンが、クリストフが、窒息を嫌って飛び出すだろう。ロマン・ロランは解放と自由の霊、無数の可能性の根源エネルギー、偉大なる予感だ!
 
 附記 文中朝の林のくだりに出て来る《白カッコウ、黒カッコウ云々》の原文は、 Cocu blanc, Cocu noir, gris Cocu nivernais となっている。また『カッコウ、カッコウ、悪魔がお前の首折るぞ』はフランスの古い童謡である。

 

 

 
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 秋を生きて

 書いたものが溜まり、訳したものが纒まって、この秋には一度に三冊の本が出ることになった。自作の詩集と散文集とヘルマン・ヘッセの訳詩集。いずれも出版社がちがい、本の体裁もそれぞれちがうが、詩集と散文集のほうは装偵を友人串田孫一君がひきうけてくれ、本屋さん自身も意気ごんでいるから、きっと美しい本が出来上がることだろうと楽しみにしている。ヘッセは全集の一冊だから訳者の註文はきかない。このほうは二段組の追いこみで、以前のフイッシャーから現在のズールカンプヘと引きっがれている例の水色の制服である。
 こんな事のために今年の夏はどこへも出かけずに東京で暮らした。その間に女房をつれて五日ばかり上高地へは行ったものの、その前後はずっと家にいて、昼間は翻訳、夜は旧稿の清書というように、仕事の時間を要領よく配分して暑中を過ごした。軽井沢や蓼科高原や野尻湖畔などヘ行って静かに仕事をしていたり、北アルプスや日光、上越の山などで若さを試みている友人たちの便りを聴くとひどく羨ましい気持になる時もあったが、そこはあきらめから新らしい喜びと生活力とをしぼり出す達人だから、充実した蜜蜂の巣のような、乱雑の中に伝統と秩序との君臨する古い実験室のような狭い書斎にとじこもって、仕事のかたわらロマン・ロランの「シャルル・ペギー」二冊を読み上げ、べートーヴェンの絃楽四重奏から、その中期と後期の作品を順を追って毎日一曲づつ繰りかえして聴いた。読書と音楽との、星空の下のような時間だった。そしてその間にも窓からの多摩河畔の風景が、楽しく賑やかな夏の輝きから満ち足りてのびのびと横たわる秋へと変わり、庭の花壇の花たちが、つぎつぎと咲き盛り咲き消えて、やがてその熱がなつかしく思われる九月の秋の日光に、ほのかなかおりをつつましやかに発散する今年二度目の薔薇の花だけになるのを見て来た。
 「ザ・ラスト・ローズ・オブ・サマー」……古いアイルランドの歌にあるこの夏の最後の薔薇のように、私は自分もまた詩の庭でようやく孤独の存在になって来たような気がする。昔の先輩や同僚がしだいに世を去ったり、かつて熱意に燃えた人たちが相次いで詩筆を捨てたりしている。たまたま会っても話が合わず、興味ある回顧談もその場かぎりで、いちばん実のある現在の芸術上の所信や意欲を告白するのが何という事なしに憚かられる。つまり詩から遠ざかった相手に気まずい思いをさせたり、私自身がまだ持っている芸術家らしい若さや一途の気持が、相手から幼稚なように思われはしないかという懸念からであろう。詩人のそれとは全くちがった道で一家をなして、ただ心の奥に、かって詩に懸命であった日の遠い思い出を優しく美しく秘めている人々も、現に芸術の別の分野で活躍している人々も、事実私からはすべて「おとな」に見えるのである。そして六十もかなり過ぎながらのこの魂の皮膚の柔かさや気持の一途さが、いくらか滑稽で子供っぽいものに見られるとしても、世間一般の「おとな観」からすれば文句も言えないのである。
 たとえ世の中のことは充分に知り、人生について明らかな悟りを得ても、なおおのれの気質を矯めることができず、どうしてもおのれの魂の傾向に従う結果になってしまうのは、善かれ悪しかれ芸術家の宿業のように思われる。なるほど若い時にはその気質の最大傾斜線にしたがって一気に滑降した者も、年齢と体験とを重ねればゆるやかな曲線をえがきつつ降る英知を修得するだろうが、最後の目標へと降って行くその事に結局変りはないのである。修練によって力の配分を学び、幾たびかの蹉跌や転倒の間に力の経済とその活用とを自分のものにする。それが世間的に見て成功であるか否かは別問題だが、少くとも芸術家当人にとっては本懐と言うべきであろう。
 私もその本懐の道をたどっている。凡骨として終始しながら、何やらの一つ覚えのようにこの一筋にすがっている。本が出るというので形あるストックはすべて吐き出した。しかし無形の蘊蓄うんちくは私のうちにひしめいている。どうかこれからの毎日がよく流露して、造形的な時間の連統となる事を祈りたい。

  

 

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 過ぎゆく時間の中で

 片山敏彦の死の知らせがみすず書房からの電話で私の家にあったという時刻、私の乗った長野行列車は荻窪から吉祥寺のあたりを走っていた。串田孫一君と共にする秋の野辺山ノ原の三日の旅にはずんだ心は、その朝なんらの悪い予兆、一片の暗いかげりをも感じなかった。片山のはこれを最後の不帰の門出、私のはちょっと行ってまた帰って来るふだんの旅のただの出発。十月十一日という同じ日の未明から午前にかけての事でありながら、その軽重の差のあまりに大きく、幽明のへだたりのあまりに決定的なのがまざまざと一つの運命を思わせる。
 信州野辺山での二日目の夕方、東京のことを何も知らない私、久しぶりの大きな自然に身も心ものびのびとさせていた私は、宿の二階からおもむろに暗くなりゆくたそがれの高原を眺めていた。すこし前に赤く美しく夕日の落ちて行った諏訪盆地の空から南へかけて、甲斐駒や仙丈、北岳などの山波がくっきりとその影絵を並べているのに、佐久の山や谷はもう茫々と紫の夕闇に沈んでいた。私は若い頃から近年まで、いろいろな時にさまざまな感慨をもってこの高原を歩いた自分を思い出していた。そうするとこの夕暮のかなたから『イタリアのハロルド』の巡礼の行進や、『タンホイザー』の巡礼の合唱が、深まる秋の宵風に遅ばれて聴こえて米るような気がした。思えば自分の過去の生涯も一つの巡礼だった。心に「燃える茨」を抱きながら「新らしい日」へと憧れたどる生の巡礼……その私の眼の前に今たそがれの八ガ岳が黒々と横たわり、赤岳の峯頭をかすめて牧夫座の主星アルクトゥルスが、大きな薔薇色の宝石のように垂直に落ちかかっていた。その瞬間、私はタンホイザーの騎士の友ヴォルフラムの詠唱、ハープのすががきと共に歌われるあの「夕星の歌」が、ふと自分の口から洩れるのに気がついた。一つの戦慄が私のうちを走った。
 その翌日、短かい旅の三日目の夕方、新宿駅から今帰ったという電話を自宅へかけると、とたんに初めて片山の訃報を娘の口から聴かされた。胸を打たれた私の心に、私の目に、きのうの夕暮の天体と歌との思い出がよみがえった。それならばあれはやはり或る種の霊感、意識下の水を波立たせる一つの不可知な衝勤だったと言うべきであろうか。

     *

 とは言え、われわれの間にもう一つべつの別れは早くしてすでにあった。それを今ここで書くことは甚だつらいが、善いにせよ悪いにせよ事柄をはっきりさせて置く必要はあると思うので、これを最後のつもりで進まない筆を駆り立なくてはならない。
 それは戦争だった。昭和十六年(一九四一年)、日本はいわゆる太平洋戦争に突入した。今でこそ当時の外交、軍事・政治上の秘密な経緯やその真相がほぼ明らかにされているが、その時は、以前の日露戦役の時と同様に、国をあげて国難にあたるのだという信念がほとんどすべての国民の胸に燃え上がっていた。それがどういう仕組みや方法で指導されていったかは今更私などの云云にまつまでもないが、その私もまた、祖国のために同胞と共にたたかい、そのための必然の苦難を彼らと分かちあうという真情とその実践とでは、知らされずしてただ従う国民的羊群となんら変るところのない一人だった。事実青年も壮年者も兵籍にある者は続々と戦線へ送り出され、残った者はいわゆる銃後の固めのためにそれぞれの部署で身を粉にして働かなければならなかった。幼い学生の工場動員と連日のような学徒の出陣。私の周囲でも若い友、知人、肉親の幾人かが、相次いで戦死をとげたり傷ついたりした。否いやも応おうもなかった。この国に生まれてこういう現実に際会してしまったのだ。一度放たれた戦争はそれ自身の加速度で進行し、氾濫して行った。それは巨大な運命の車輪の圧倒的な廻転だった。
 そういう中に私はいた。そういう人々と一緒に戦時国家の首都に最後の日まで踏みとどまっ
て、私は五十歳の体と心で自分にできる限りのことをした。戦況はしだいに破滅の様相を現わしてきた。私は死を覚悟していた。そして敵機の爆撃や銃撃を浴びて二度ならず死地に立った。しかしすでに幾十万の同胞が命を捨て、今もなお現に捨ててづけている事を思えば、一身の安泰を計る気などはさらさら無かった。
 しかし詩、詩人という経歴の上から求められて書き、私自身また同胞への力づけや慰めとして進んで書いた幾十篇の詩。これを書いたことは晴らしようもない一生の恨事である。愛する祖国のためならば、体と心とだけで黙々と働けばよかったのだ。たとえ敵への憎しみをあおる物は一篇だに書かなかったとはいえ、自分がそれによって名を成している芸術を戦争に仕えしめるべきでは断じてなかった。私の詩。それはシューベルトの『竪琴への歌』のように、英雄らの功業いさおしをではなく、ただ愛をのみ鳴り響かすべきであった。Doch meine Saiten tönen nur Liebe im Erklingen !
 私は自分の聖なる絃いとを、持って生まれた熱血の指で搔き鳴らしてはいけなかったのだ。芸術だけはその清く静かな土地に托して置くべきだったのだ。そして戦い破れてすべてを失い、身も心も疲れ果てうらぶれ果てた時、私はてぶさにこの事を省み、深く深くおのれに恥じた。しかしそれはあくまでも自分自身に対してであって、どんな国家にも、どんな原理にも、又いかなる権威に対してでもなかった。私の慚愧と私の悔悟。それらもまた私のものだ。私はこれを、この世での幾多の美しい思い出と一緒に、自分の最後の旅のときに持って行く……
 その私を、そしてどんな人間にも迷いや過ちのあることを、(「われらすべて迷う。ただおのおの異るさまに迷えども」=ベートーヴェン楽譜帖)を、悲しいかなわが片山敏彦は、知性や理性によってではなく、その心情において知らなかった。それだからこそ彼は打ちひしがれた私に酷であり得た。私たちが、私と妻とが、落魄と流浪の境涯にあったとき、彼は戦後再生のうしおに乗って心すこぶる驕っていた。敗戦国民の窮乏と悲惨と右往左往の混乱とをしり目に、一斉に欣然と立ち上がった共産主義者とレジスタンスどころではないアメリカニスト。そしてそれとはまた別に、若い或いは意想外のロランの友。そして片山が、みずから望んでか心ならずか、その代表だった。過去二十年になんなんとする懇ろな交わりの思い出、共通の芸術愛と特にロマン・ロランによって結ばれていた古いこまやかな友情が、新らしく彼の占めた冷厳で薄徳なロベスピエールの席の前で、その悲しい抑損と屈辱とにうつむいた。
 終戦後の二年目か三年目、信州富士見高原での生活にもようやく落ちつきと輝きとが見出だされてきた頃の或る日、私は東京の片山から戦争以来初めての手紙をうけとった。それは言わば公式の文書で、ロマン・ロランの未亡人マリー夫人の要請によって写真に複写したいから、君が貰ったロランの手紙を全部揃えて送ってくれというきわめて簡潔な文言だった。そしてその用件のあとに、君と高村氏との戦争中の行為と僕のそれとを詳細に書いて送ったのに、ロラン夫人は、お前はなぜ戦争反対のために立ち上がらなかったかと詰問してきた。しかし日本という国の特異な国情を知れば、あの際そんな事のとうてい不可能なのは分かりそうなものなのにという、一種の訴えめいた述懐を彼はつけ足した。私は自分にむかって今更こういうつけ足しを書くことのできる彼の自己愛に啞然とし、怒りと憐れみとの入りまじった不快な感情に襲われた。そして心中ひそかに二十年の友情に訣別した。幕は下りた。
「その手紙をあなたは長いあいだ私に隠しておいででした。私が見たらきっとあの方に深く失望するだろうとお思いになって」と、今これを読んでいる妻は言うが。

     *

 幕は下りた。しかしそれは又ゆっくりと上がった。しかしそのためには十年が必要だった。それに二人だけでやる仕事なので手間もかかった。いくたびかの気まずい出会いと、さりげないような復交の努力。古いバランスを取りもどすためにどちらの錘おもりが相手のよりも余計に心を使ったか、それを言う事はむずかしいだろう。ともすれば秤はかりは揺れた。私だけについて言えば、うっかりすると以前の無念な気持のような物がひょいと皿に飛び乗って、せっかく取れそうになった均衡をまた乱した。それをおさえつけること、それに打ち克つことが、私にとっての自己鍛練でもあれば救いでもあった。そしてようやくその域に達したかと思った時、片山敏彦はこの世を去った。
 これを書いている今日ははからずも十一月一日、諸聖人祭トゥッサン、万人にたいする赦免の日だ。そう言えば近くの教会の塔の鐘が、朝から晩秋の空にふだんよりも賑やかに鳴り渡っている。あの『ジャン・クリストフ』の第八巻「女友たち」の終りでも、この日、揺藍に眠っている赤児を中にして、それを取り囲むオリヴィエ、セシール、アルノー夫人の三人のために、また自分自身のために、ピアノに向かったクリストフが古いシュワーベンの民謡を小さい声で歌うのである――

  お前が愛してくれた日のことを
  僕はほんとに嬉しく思っている、
  そしてお前がどこかよその土地で
  もっと仕合わせにやっているようにと僕は祈る……

 そしていま君の考えている事は何かとたずねられたら、私もあの善き人達と同じように、卑下のヴェイルに包まれた顔で、ただ「愛」とだけ答えよう。

                            (一九六一年十一月一日)

 

 

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 旅で知る妻

 たいへん恥ずかしいような話だが、詩を作ったり短かい文章を書いたり、時たま気に入った外国の文学を翻訳したりしてやっと暮らしを立てている私のような者には、世間なみに女房同伴で旅をするなどという恵まれた機会はごく稀にしかない。そのかわり二年に一度か三年に一度そういう佳い日がめぐって来ると、連れて行く私は男だからそんなにおもてには現わさないが、連れて行ってもらう妻は目に見えて嬉しそうで、もう幾日も前からいそいそして、毎日の生活や仕事にもいっそうの張りあいを感じているらしい。その様子は、何かいじらしいような、ふびんのような気さえ私に起こさせるのである。そしてこれが新婚後間もない時とでもいうのならばともかく、人生の苦楽を共にして三十何年というのだから、嬉しいにせよいじらしいにせよ、双方の感慨の無量なことは、心ある人の察して下すってなお余りあるものだろう。
 台所で九つになる孫の男の子が言っている。
「おばあちゃん。もうじきおじいちゃんと一緒に上高地に行くんだってね。嬉しいだろう?」
 そうすると五十六になる妻が、その孫の頬ぺたをちょいと突つきながら返事をしている。
「そりやあ嬉しいわよ。おじいちゃんと一緒だと、お山でも、花でも、小鳥でも、岩や石でも、あれは何、これは何と、みんな教えていただけるんだもの。それに宿屋だって立派だしさ」
「よかったね、おばあちゃん」
「ええいいわよ。だからそれまでに、溜まっている御用やあんた達のよごれ物のお洗濯をみんなしてしまわなくっちゃ」
 孫と祖母との夏の或る朝のこんな会話が、私にも約束の原稿を早く書いてしまおうという気を新たにさせるのだった。
 妻はいそがしい家事の合間をみては、何くれと短かい旅の準備をしている。何年も前に買ってやった登山服に手入れをしたり、プレスをかけたり、カビの生えたビブラムの靴を掃除して日に乾したり、こまかい手まわり品を揃えたり、足りない物を買い整えたりしている。私のほうは、山馴れしているというわけでもないが、ふだんから旅の支度は一式用意ができているから、そんなに修学旅行前の女子中学生のようではない。
「おい、支度はどうだい」と私は訊く。
「はい、大体。でもあの帽子だいぶ時代遅れじゃないかしら」
「では買うさ。急いで」
 こうしてさっぱりとパーマネントのかけられた彼女の頭に、出発の朝を祝福する娘や孫たちの賞讃と喝采とを浴びるべき、粋いきな空色のバスクのベレーは載ることになったのである。
 松本行の準急で私たちは一等に乗る。ちゃんとすれば人品も悪いほうではない女房だが、糟糠そうこうの妻はやはりあくまでも庶民的で、もったいないから二等で結構ですと言う。私にしたところで根は充分庶民的なのだが、このごろの同車の客のあまりにも低く庶民的すぎるのにはふだんから閉口している。それで、「まあいい。たまの夫婦の旅だ。楽に行こうよ」という事になり、「中央線は左窓」の私の持論にしたがって、日光がさしこんで暑いには暑いが、南側の席にむかい合って大きな窓を半分だけ押し上げた。
 富士見までは戦後の七年間、そこの寓居から東京へ往復したなじみも深い道である。それでも私は上野原から梁川あたり、むこうに見える美しい河岸段丘を指さしてその成因を説明したり、塩山からの甲府盆地では、青々とひろがる幾つもの見事な扇状地について話をしてやったりした。
 なつかしい富士見では、町の人でも部落の人でもいい、誰か知った顔に出あいはしないかと二人とも目を熱くして物色したが、準急の悲しさには忽ち駅も通過してしまい、分水荘の故園の森も、見るまに蒼い夏霞のかなたに消えてしまった。それでも妻の目には懐旧の涙とほほえみとがあった。
 やがて上諏訪・岡谷もすぎて辰野から小野。私は疾走する車の窓から指をさして、やがて後になって次のような詩に書いた一つの追憶やら感慨やらを彼女に語った。

     車 窓

  ほら、
  其処へ出て米た長い狭い青葉の谷、
  あれをまっすぐ登って峠をこえると、
  けっきょくは木曾の入目、
  中山道なかせんどうの贄川にえかわへ出るのだ。

  お前とふたり富士見流寓の或る年の冬、
  ぼくはこの先の小野の学校で話をして、
  それが終わるとすぐ次の会場へと四キロの道を
  あの谷奥の小さな部落へ急いだのだ。
  行きも帰りも、車はもちろん、
  雪が深いので馬さえも無い。
  膝近くまでつもった上へ
  なお濛々もうもうと吹きつもる吹雪ふぶきの道で
  胃潰瘍の胃が燃えるように痛んだ。
  そしてまた夜の汽車で急いで帰った。
  そんな思いをして貰ったなにがしかの謝礼が
  あの頃の苦しい暮らしの料しろだった。

  十数年の遠い昔を回顧しながら、
  いま梅雨つゆの晴れまの松本行急行列車、
  大きな窓を青嵐せいらんに打たせてゆけば、
  クリーム色の雲かとばかり
  栗の花咲く小野、筑摩地ちくまじの山里が
  懐かしくも「清く貧しかりし日の歌」のようだ。

 上高地はウェストン祭だったので、私たちは老若たくさんの知人に会うことができた。みんな山関係の友達だから私の妻を知っている人も少くなかった。わけても若い女の人たちは彼女を取り巻いて久しぶりの再会を喜び、いろいろと気軽に親切に面倒をみてくれた。宿屋でも「今年は奥さんが一緒に見えた」というので、何かと特別に気を配ってくれた。私たちは河童橋かっぱばしを目の下にし、岳沢だけざわから穂高や明神を正面に見る三階のきれいな座敷をあてがわれた。ここも三年前に彼女の気に入った座敷だった。歓待と旧交の温めあい。何もかも心にかなって、楽しかった予想どおりであり、この六月初めの秀麗な谷間で暮らすこれからの数日が、彼女にとっては夢にのみ見た楽園の時間だった。
 海抜一五〇〇メートルの上高地の谷間には、一歩宿屋を出ると、東京の近郊や附近の山地ではとうてい見る事のできない植物が、或いは今を盛りと、或いはようやく今が初めと咲いていた。梓川に沿った林道や散歩路の両側を、ミヤマタンポポが金色にふちどり、エゾムラサキやテングクワガタの花が空色にいろどっていた。小梨平こなしだいらの小梨が一斉に薄桃いろの苦をほころばせ、川中の洲に林をなして立っている化粧柳けしょうやなぎが、遠く上流のほうまで柔かい若緑の雲をたなびかせていた。
 いたる処でいろんな小鳥が歌っていた。清水のしたたる崖のふちで鳴きしきっているミソサザイもあれば、その奥のほのぐらい林で歌っているコルリやコマドリもあった。白樺や岳樺の林にはメボソの声がにぎやかだった。それにまじってカッコーが呼びかわし、或いは昼間のホトトギスの幾声が山の静寂をいっそう深いものにしていた。田代の池や帝国ホテルのあたりではウソの笛がたくさん聴かれ、明神池までの道では絶えずヒガラの「ツツピン・ツツピン」が、また時々ゴジュウカラの「フィッ・フィッ」が聴かれた。そして十人余りの若い娘さん達と行った徳沢では、清冽なアオジの声と、山々の残雪にまでこだまするかと思われるようなアカハラの流麗な歌とを、東京へ帰ってからもなお耳の奥で鴨っているかと思うほど存分に聴いた。
 こういう花たちを見たり、こういう鳥たちを聴いたり観察したり、またそばだつ山岳やせせらぐ渓流に心のすべてを与えたりしながら、妻は水に帰った魚のようだった。のびのびと自由で、丈夫そうで、歳まで若くなったようだった。ちらちらと日光の洩れる、しっとりとして涼しい原姶林の中を一緒に靴を踏みしめて歩きながら、これが昨日までの自分の妻だったのかと不思議な気がして思わず見直すような事さえ幾度かあった。しかし考えてみれば娘の頃の、また新婚当時の彼女がちょうどこんなだった。ピチピチして、自由で、浮かれん坊で、歌が好きで、そのくせ涙もろくて思いやりが深かった。その後のほうの徳は今でもちゃんと残っているが、妙齢の特権とか本性とかいったようなものは労苦の三十何年と共に或いは変質し、或いは磨滅し去ったように思われていた。しかるにたまたま時と所とを得て、それが復活し再生したのだ。思い出のように。むかし母なる人から教わった歌のように。枯れたと思った古木からとつぜん新芽が吹くように。
 散歩から宿屋へ帰って、登山服を和服に着かえて、きちんと帯を締めて身じまいをすれば、当番の女中も指をついて用を聞く「奥様」なのに、ひとたび山道や河原の上で若い男女の登山者たちの仲間へ入ると、見る間に昔の牧場娘か寄宿学校の生徒のように変ってゆくのが、実にこの上高地での彼女の姿だった。
 或る朝私たちは東京で親しくしている若い連中と河原の天幕場てんとばで一緒になった。彼らはこれから天幕を払って、昼頃のバスで下山するのだという事だった。しかしそれまではまだ時間があるからと言って、私たち夫婦のために女の人達は野立のだての茶会を開き、男たちは揃いのブロックフレーテを吹いて、古いヘンデルやテレマンの曲の合奏で私たちの耳を喜ばせてくれた。私はもちろん喜んだが、その時の妻の感謝の念がどんなに深く大きかったかは、詩人である夫の私がその妻に代って次のような詩を彼らに贈ったのでも解っていただけると思う。

     玉のような時間

  原始林の中のこの片隅が
  そのまま一幅の小さい画であり、
  一篇の歌であることを認めよう。

  崖錐がいすいの湿めった苔や朽葉をうずめる
  これらおびただしい岩鏡いわかがみの花――
  燦々と、冷えびえと、
  朝露に濡れ、山気を吸い、
  こずえを洩れる空の光や陽ひに打たれて、
  刻まれたルビーのように、珊瑚のように、
  豊かに満ちて咲きこぼれている。
  そしてこの画、この片隅の造形に
  午前の山々の晴朗と深みとを与える
  えぞむしくいの幽邃ゆうずいなさえずり、
  みそさざいの鋭いトリラー……
  私たちは今日これから山をくだって
  それぞれ遠く都会の塵や騒音へと帰ってゆく。
  それならばこうしてたたずむ数分間が、
  嘆賞を共にする事によってのみ結晶する
  一顆いっかの宝石でもあることを認めよう。

     *

 まる二日を親しんだ上高地の自然と人々とになごり惜しい別れを告げて、私たち夫婦は乗鞍のりくらの山麓へむかった。そこは風景が今までの谷間とはがらりと変って、打ちひらけた高燥な火山高原である。新緑の森や林には水のような初夏の風がかよい、ここでも小梨の花やウワミズザクラの花が、いたる処で白い雲のように咲いていた。番所ばんどこの原から金山平かなやまだいら、それぞれの花にいろどられた草の中を細い清らかな水が流れて、どこでも腰をおろして眺めるのによく、あらゆる場所が幸福な深い瞑想に適していた。もちろん小鳥たちの歌もにぎやかで、とりわけここはアオジが多かった。泊った鈴蘭小屋すずらんごやのあたりでは、赤い甘やかな夕日の時と、青々と澄んだ涼しい早朝の空気の中とで、ことにこの鳥の滴たらせる歌のしらべが霊妙だった。そして野末の前山の間から、或いは白樺や落葉松からまつの柔かい新緑の林の上に、いつでも乗鞍が、まっしろな残雪を槍の穂先のようにまじえ光らせたあの乗鞍の峯々があった。
 富士見の高原で幾年間の毎日、火山裾野の自然を見馴れ生き馴れてきた妻にとっても、乗鞍のここの自然にはまた特別な美のあることが解ったらしく、初めての場所をいちどきに見てしまおうとはせずに、ややもすれば草の中にすわりこんで、山に、雲に、風に、花に、また絶えず何かしら囀っている小鳥の声に、まるで魅せられたようになっている事が多かった。私はそういう彼女を好きなようにさせて、その魂の深い喜びや神秘な感動をすこしでも乱したり妨げたりすることを憚った。

     番所の原

  山また山の乗鞍山麓、
  番所の原、
  その六月の若葉と花の
  静寂の美をつくした無人の果てに、
  ああ、親しい人々の誰が想おう、
  この世の塵労に疲れたおまえが
  いま遠く来て、夕日の中、
  懐かしく空を見上げてすわっていると。
  温愛と善意とに人間苦を耐えて
  つねに晴朗に見えるおまえゆえ、
  世間のみか、私でさえ
  ともすれば女人にょにんのまことに想い到らず、
  存在のあわれの深みを測り得ない。
  おまえの真の故郷が天ならば
  その母なる国を思って
  私は黙す。

  草にすわったお前を柔かにかこんで、
  ただ見る若い草紙樺そうしかんばと白樺と
  花もさかりの小梨の原、
  めぼその囀り、あおじの歌の
  銀のさざめきが慰め慈いつくしみの雨と降る。
  峯をつらねた乗鞍の偉容と残雪の壮麗、
  ここはお前の望郷の席で、
  私のではないようだ。

     *

「おばあちゃん。もうじき山へ行ってくるんだってね。嬉しいだろう?」と、九つになる男の子の孫が祝福するように言った。その時子供の頬をかるく突つきながら、「そりゃあ嬉しいわよ」と答えた彼女の、その嬉しさや期待の深みがよもやこんなであろうとは、ああ、常におのれにかまけて、自分を中心としてしかこの世を見ない夫私の、まさに深刻に省みるべき人間の心の世界の消息であった。

 

 

 
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 小さい傑作への讃歌

 私の心境がきわめて穏かで、素朴な心のまわりにすなおな共感や同情の波が柔かにたゆたっているような時、ひとくちに「小型」という名で片づけられている芸術家の作品や、眼前触目のちいさい自然から、愛すべきもの、篤実なもの、けなげなもの、それ自身の小宇宙に満ち足りて喜び歌っているようなものを見るのが私は好きだ。
 たとえばここに一冊のカミーユ・ピサロの画集があるが、この中に出てくる「モンフーコーの秋」、「ポントワーズの街景」、「ラルシュヴェーク小母さん」、「林檎摘みの女たち」のような画が、なんと私の今朝の心を静かに喜ばせることだろう。なんだか一つ一つの画にそれぞれ一篇の詩を書いて、感謝の思いで捧げたいような気さえする。
 モンフーコーの秋の片隅が、なんと銀いろ寂びてしっとりとした色彩の音楽だろう! 蜜柑色と黄色の霧のような、チェンバロのこまかい走句のような、華麗なもみじに被われた大木の白樺が一本、その汀みぎわに二人の農婦と三、四頭の家畜とのたたずむ流れのふちに立っている。その水の色がじつに微妙で、絢爛という性質に付随しがちな虚飾と饒舌とを救うように、周囲の秋の光彩を反射するよりもむしろ吸って、深く暖かに湛えているのである。
「ポットワーズの街景」は、物静かな田舎町の、夏の日の情趣ゆたかな詩というべきだろう。画面の下半分を右から左へと斜めに走る街路があり、両側には銀灰色の壁とくすんだ青や紅の屋根を見せた古風な家がならび、つき当りに緑の丘の一部が見え、大きな広がりを思わせる青空は蒸気のような暑い雲に煙っている。街路には荷馬車が二台か三台。その歩道を淡い藤色とピンクの服を着た女が一人、買物籠をさげて向こうへ行く。全体の構図と言い色と言い、いかにも夏らしい生気に満ちたものでありながら、すべてが銀色のいぶしをかけられたようにおっとりとして、爽かで、けばけばしい点が微塵もない。そして画面に行き亘っている秩序と抑制のあとが見る者に安泰と憩いの感じを与え、平和な自然や静かな生活への憧れをそそる効果、すなわちこの時代のカミーユ・ピサロにおいて完璧に達した一つのものが、ここでさながらに実現されているように思われるのである。

 

 

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 友への手紙

 一九六一年初頭の御挨拶をうれしく頂きました。それでは、私の処でのあのクリスマス・イーヴからじきに、君は長野県の郷里へ帰ったのですね。毎年基督クリスト降誕祭の前夜には、その年にいちばん家族的に親しくした若い友人の一人をお招きするのが、ここ数年来のしきたりのようになっているのですが、去年はその若いお客が君でした。
 静かで、明かるく、懐かしく、心のこもった楽しい夜よるでしたね。いくつかの蠟燭の焔がゆらゆらと金いろに揺れ、私たちの讃美歌の合唱が柔らかに流れ、レコードで聴くヘンデルの『ハレルヤ・コーラス』が、雲をつらぬく電光のように燃え、天にも届く楼閣のように聳そびえ立ちましたね。それにしても私たちのうちに、――まだ小さい子供たちは別として――私たち大人おとなの心のうちに、イエス・クリストという一つの偉大な人格の誕生を、厳粛に、かつしみじみと心から感謝して、すすんでその記念すべき日を祝おうとする気持の今もなお無くならない事には、当然な理由と深い意味とがあると思わなければなりません。そして事実、あの晩駅への途中まで一緒に歩きながら、そういう事をお互いに話し合って、それから手を握って別れたのでした。
 さて、この正月の休みを郷里へ帰った君は、あの木曾の入口いりくち、洗馬村せばむらの、山と丘とに挾まれた美しい平和な田舎で、毎日静かに勉強をしたり、近隣の山を歩いたり、水辺すいへんの冬の林に小鳥の声を聴きながら物を考えたり、また君の帰省を待っていた老齢の父上の話相手や、時には晩酌の相手になったりしているのでしょうか。それとも、沢渡さわんどから先はもうバスが通わないという梓川あずさがわの谷の道を、積雪を分けながら上高地まで押し登って、どこかの山小屋で山番の手伝てつだいをしたり、自炊をしたりしながら、雪と氷の砦のように立ちふさがったいかめしい山々の間で、皓々こうこうと晴れても濛々もうもうと吹雪ふぶいても、二十五になったばかりというその若さに物を言わせて、元気に働き、勉強し、その間には雪をおかして上がって来る登山者の連中と一緒に、焼岳やけや穂高にその青春を試みているのでしょうか。
 いろいろな負担過重なアルバイトをして自活しながら、大学院での勉強にいそしんでいる東京での君の生活。おのれを規正すること厳きびしく、いつも身辺や身なりがきちんとし、神経や心がよく細こまかに行き届いて、しかも男らしく快活な君という人の生活を知りつくしている私には、今君のいる処が平和な郷里の田舎にせよ、或いは厳冬の北アルプスの谷間にせよ、必ずや万事君らしく、有意義な一日いちにち一日を彫ほりきざみ、積み上げているに違いないと思います。
 ところで私はと言えば――、私はもう君のように若くもなければ発刺ともしていません。年齢の日も早や西に傾いて、生涯の夕べに近く、年々としどしの初めにえがく一年のはかりごとも、実行されるのはその半分にも足りない有様です。去年なども二冊分の詩と文章とを書き、翻訳も一冊は必ず仕上げようと元日の日記にも書きながら、結局翻訳だけはどうにか物にしたものの、自作のほうは詩も文章も思うにまかせませんでした。世間との交渉が頻繁になったとか、身辺の雑事が多過ぎるとかいう事は、たとえ事実にしても、要するに言訳いいわけにすぎないでしょう。何よりも体力の衰退が原因で、そのために創作の仕事にいちばん大切なエネルギーの持続が利きかないのです。しばしば好ましい着想は生まれ、霊感の訪れはあるにしても、その着想や霊感を頭の中でさまざまに育てたり花咲かせたりしている方が楽しくて、それを選ばれた言葉として表現し、詩や文章に造形することが、言わばおっくうになるのです。以前もっと若い頃には、きわめて底の浅い着想にも飛びつくようにして書きのめし、ちょっとした霊感のようなものに打たれれば、日も夜も徹して書きまくったものですが、思慮とか分別ふんべつとかは体力や根気の衰えと一緒に来るものでしょうか、ああでもない、こうでもないと思案を重ねているうちに肝腎のイデーの鮮度が落ち、初めみずみずしい魅力をそなえていた物が、いつの間にかかさかさに乾燥した物になってしまうのです。
 リルケは「詩は手仕事だ」と言っていますが、それが現象的にも確かにそうであるために、たとえ最も美しい夢のような考案を凝らす事はできても、それを言葉として文字もんじに定着する操作そうさは、老年の貧弱になったエネルギーや体力では容易ではないのでしょう。今の私はじっと見入ること、過去の無数の体験に関連させて現在を考えていることが多いのです。星雲のような詩のガス体を、頭の中で発展させたり変化させたりしていることが多いのです。そしてその間から、時あって、僅かに一つ二つの小さい星を凝縮ぎょうしゅくさせるに過ぎません。
 しかし君は若いのです。同じ特代を生きてはいても、君は私とは別な時点の生活者です。私の星が地平線に傾いている時、君の星は今や子午線しごせんの最も高いところへと登りつつあります。君の精神は切れるように生き生きとし、君の理想主義は雲のように湧きたぎっています。それは若さの特権であり、人が老いて再び持つことのできない自然の賜物たまものです。私は今朝その若さの事を考えるために、べートーヴェンの初期のピアノソナタと弦楽四重奏曲とを、書斎のレコードで幾つか聴いてみました。芸術の中で老いて、芸術の中でそれなりに成熟した今の私としてみれば、この偉大な音楽家の晩年の作品にこそ一層心にしみるもの、一層慕わしく慰めとなる物はあるわけですが、たとえ魂の若さはまだ失っていない自分であっても、その精神の若さ、輝かしさ、その手の中の精鋭を駆使する力量と意欲の発露は、彼の最初の頃の作品に求めなければなりません。そして私はこれらのものを聴きながら、消えなんとして僅かに残っている、自分の精神の遠い春の光を呼び返したのでした。
 この手紙が君の二十五歳の新年への餞はなむけとなれば幸さいわいです。

 

 

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 砂丘にて

 歳の暮のお天気つづきの日を二日ばかり、暖かい南房州の海岸へ行ってきました。久しぶりに大きな水のひろがりを眺めたいのと、房総半島の海岸線を照らしているきらびやかな南の太陽の光を浴びながら、海辺かいへんの冬の自然の片隅を見てきたいというのが、この十二月へ入ってからのささやかではありますけれど、ひどく楽しい私の望みでした。
 場所は館山から南西へ約八キロ、丘のように連なった低い山脈をこえた、半島のむこう側の、 地図にも出ている平砂浦へいさうらという処をえらびました。平たい砂の浦と書いてそう読むのだという事ですが、ほかにもっと良い適切な呼び名がありそうなものだと思うと、この平砂浦という重箱読みは、私にはあまり感心できませんでした。しかしそれはともかく、行ったその場所は期待にたがわず、じつに平和な、広々とした眺めでした。見渡すかぎり水か空かという相模灘にむかって、左はむかし有名な雲の観測所があった布良めらの町から、右は洲ノ崎近くの伊戸いどという村落のあたりまで、約七キロ、二里近くを、長い白い砂浜が弓のように優しくたわんで続いているのです。そしてその砂浜の手前には新らしいのと旧いのと二段の砂丘があり、野菜や花を作っている畑地があり、それから県道を横ぎってすぐに山という地形になっています。
 波打ち際からその県道まで、いちばん奥行の深い処で、一キロ半はあったでしょうか。私はそれよりも少し近い布沼めぬまという部落から、砂丘の間を縫って浜べのほうへと歩いて行きました。
 十幾年ぶりに踏む砂山の砂の感触と、靴の下できしむその音。私に過去のなつかしい思い出がよみがえり、現在の幸福感が泉のように湧きました。そしてその静かな喜びに伴奏するように、古い砂丘の林から、ウグイスの笹鳴きや、モズの高音や、ヒョドリの叫びが賑やかに洩れて来ました。
 新旧の砂丘を被っているのは、ほとんど黒松ですが、古いほうには、そのほかに、厚い光った葉をした常緑樹も多く、シャリンバイだの、トベラだの、マルバグミだの、枝葉の込んだ低い木が、そのまわりをぎっしりと囲んでいました。そして砂丘が少し新らしいのになると、一面のハイネズです。ハイネズというのはヒノキの仲間で地面を這うネズの木という意味ですが、針のような緑の葉につつまれた蔓つるみたいな枝が、ちょうど今夜のクリスマスをかざるあの金や銀の紐をおもわせます。そういう処にはまたノゲシに似たハチジョウナや、ふっくりとくくった房かざりのようなイソギクや、光沢のある大きなまるい葉をしげらせたツワブキなどのような菊科の植物が、ここは南の国の海べとばかり、黄いろい花を暖かそうにみずみずしく咲かせていました。しかもどうでしょう、そんな中に十二月も中旬だというのに、濃い紅色べにいろをしたカワラナデシコが美しく咲き残っているではありませんか。
 私は花には気の毒だとおもいながら、それでも一輪だけ摘んで、上着のボタン孔に挿さずにはいられまゼんでした。
 やがて最後の砂丘のつきる処へでました。
 海はすでにさっきから見えていましたが、ここまで来ると、平砂浦の長い弓がたの砂浜が遠くまでひとめにみえて、その砂浜に打ちよせる波が、まるで半島の白いふちかざりのようでした。
 ここの砂丘は低くて、松原になっていて、横手を海へそそぐ浅い小川が流れていました。松原とはいっても、みんなまだわかい黒松で、苗木だったころの風よけの跡でしょうか、海にむかって建てた垣根のようなものが、崩れたりくさったりしたまま残っていました。ところが、その杭だの、横木だのがちょうどいいとまり木になるとみえて、この小松原をねぐらにしているらしいホオジロや、カワラヒワや、ジョウビタキなどが、無数に群れて棲とまっていました。
 そして、私の足音の近づくにつれて、棲っているものも地面に下りているものも、一せいにばら撒かれたように飛び散ってゆくのです。その数の限りないこと全くおどろくばかりでしたが、またそのにぎやかなことも大変なものでした。カワラヒワは今ごろ東京のような都会やその近郊にもいることはいますが、こういう暖かい土地の水辺こそ、彼らのたのしい冬越しの場所だったのだということを、私はここではじめて知ったのでした。
 私は浅い流れをとびこえて、むこうの砂地を海岸のほうへ歩いていきました。その流れの水を吸って黒く湿っている平らな砂地を一歩一歩ふみつけてゆくたびに、靴のまわりの砂が白くかわくのに気がついて、私は昔読んだ寺田寅彦博士の「砂の話」のことをおもい出しました。そういうふうに白く乾くのは、最少限の分量の水を含んで安定な形で並んでいた砂の粒が、踏みつ付られることで、その安定を崩されたために、其処にたくさんの隙間ができ、その隙間へ表面の水が吸いとられるので白くかわいてみえるのだというのです。ですから少したって、砂粒の並び方が元通りになると、また以前のように黒くなると博士はいっておられます。このことは海岸の波うちぎわへいって実験してみたら、一そうよく、一そう早くわかりました。それにしても、こんなことをおしえてくれた人は、寺田さん以外には無かったような気がして、感謝せずにはいられませんでした。
 私は広々とした砂浜を歩いて、波打際に立ちました。海面はおだやかに凪ないで、霞が懸かって、正面四十キロの海上に見えるはずの伊豆の大島は見えませんが、近くには帆をかけた漁船が二つ三つ見え、沖合の霞の中に、時どき大きな汽船の姿が影画のように現われたり消えたりしていました。
 私はじっと波の運動を見ていました。岸の近くで青いガラスのような波の壁が立ち上がり、それが水煙りをなびかせて折れ曲がりながら、ザブーンという音を響かせて前のめりに倒れます。倒れた波はそのまま岸を目がけて驀進して来ますが、それよりも前に寄せた波の引いてゆくのと衝突して、足踏みをしているようにシャシャシャという音を立てます。そして結局抵抗に打ちって砂浜へ上がって来ると、今度は砂地をなめるサアーッという優しい音を聴かせながら白いもすそのように広がって、そして静かに引いてゆきます。こういう事が同じ姿と同じリズムで絶えず繰返されるのですが、その男らしい、勇ましい海の歌と動きとは、いつまで聴いていても見ていても、飽きる事はあるまいという気さえしました。
 しぼらくそうして波を見ていましたが、今度はすぐうしろの低い砂丘の上へ登って、そこで楽楽とくつろぐことにしました。
 空には全天の三分の一ほど、鱗雲と言われる綺麗な高積雲が広がっていました。しかしあとは真青に晴れて、真南から正午の日光を浴びた海は、プリズムのような虹色の光を照り返していました。
 さっき歩いた、小川のむこうの砂丘にも、今私のすわっている砂丘にも、相変らず大変な数のカワラヒワがいるらしく、そのうちの三十羽四十羽が煙のように舞い立って、浅い流れのふちヘ下りては、其処で水浴びをするのです。双眼鏡で見ていますと、ピチャピチャ水をはねかしたり、ブルブル羽根を振るったり、押しくら饅頭をしたりして、その間始終おしゃべりをしているのですから、実に活気にみちて賑やかです。それにまじって五、六羽のセグロセキレイの姿も見えます。これもまたおしゃべりの点ではヒケを取りませんが、カワラヒワよりも早口で、落つきがなく、絶えず尾を波うたせながらあちこちと場所を変えています。そういう彼らの近くにシロチドリも一羽いました。このほうは全く孤独で、あのピオピオピオという美しい鳴声も聴かせず、ただチョコチョコと十歩ぐらい走って行っては立ちどまり、また少し方向を変えてチョコチョコと走るという、例の千鳥足の歩きぶりを見せていました。湿った砂地に記されたその可憐な足跡あしあとは、細い鎖のように続いて、あたかもよく切れるノミで薄うすく刻んだように見えました。
 もちろんトビもカラスもいました。とりわけトビは数も多くて、その日海岸から山へかけて、 空中に彼らの姿の五つや六つ見えないことは無いくらいでした。私のすわっている砂丘からもかくさん見えました。
 ゆっくりと空を舞っているのや、砂丘の杭にとまって海のほうを見ているのや、今言った浅い川の流れで水を浴びているのや、いろんなのがいました。事実私から百メートルほど離れた処で、入れ代り立ち代り五羽から六羽のトビが水浴をしていました。胸や腹の羽毛を立てて体をふくらませ、両方の大きな翼を内がわへ曲げ、腰を落としてバシャバシャと音を立てて浴びるのです。そしてそれが済むと砂地へ上ってビショビショに濡れた羽毛を乾かすわけですが、見ていると其処ヘ一羽のハシボソガラスがやって来て、大胆にも威嚇か意地悪るのような事を始めました。四羽ばかりいる大きなトビの真中へ小さな体で割りこんで、人間で言えば腕をまくって片足を踏んばったような格好をしておどかすのです。ところでトビのほうは、まだ飛ぶのには都合の悪いほど濡れているせいもあってか、けち臭いカラスなんか相手にせず、ただ、彫りの深い両眼を輝かせながら、黙ってそのする事を見ているだけでしたが、そのうちにカラスが飛び上がって一羽のトビの頭を蹴ると、さすがに腹に据えかねたか、カッと大きな嘴をあけて物凄い勢いで嚙みつこうとしました。するとカラスはびっくり仰天して、一声カアと嗚いて山手のほうへ飛び去りました。しかし問題のトビもその仲間も、何事もなかったように暫らくそのままじっとしていました。そしてやがてこれも次々と飛び立って、むこうの砂丘の杭の先へとまりに行きました。
 海の波は寄せては返して歌い続けていました。そしてその歌はやがて来るクリスマスの鐘の響きにまじりあい、続く新らしい年の平和への希望を奏でているように思われました。

 

 

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 春浅き海と山

 南にむかって海と山とが接近していて、そこの自然がほかの土地のそれよりも余計に早く春のきぎしを見せているところ、そういうところを東京の近くにさがして、私たちは伊豆半島のつけ根にある温泉地伊豆山いずさんと、そのうしろに迫った日金山ひがねやまとを選びました。
 二月の末の、たいへん穏やかな、よく晴れた、むしろ麗らかなと云ってもいいような二日間でした。小田原をすぎて根府川や真鶴のあたり、汽車の窓から見おろす海面に、こまかい柔かな皺がよって、その青い波の上に無数のカモメが飛んだり浮いたりしていました。飛んでいるのは白い蝶々か風に取られたハンカチのように見え、浮いているのは白梅の花びらのようでした。
 湯ガ原から伊豆山に近づくにしたがって、岡の中腹の果樹園に、輝くように黄いろく、大きく重たそうにしだれている夏ミカンが見事でした。そういう夏ミカンは、石垣をきずいて平らにした農家の空地や普通の人のすまいの庭でも、みんな小さな木でいながら、濃い緑の枝や葉のあいだから、五つ六つから十ぐらいの、大きな実を光らせていました。それはちょうど山梨県の勝沼や塩山付近で、どんな家のどんな狭い庭や空地でも、楽しみのブドウ栽培をしているのと同じような眺めでした。
 浅い春の趣きどころか、盆も正月も一緒に来たような熱海の町の雑沓と騒音とを敬遠して、私たちは静かな隣り町伊豆山の堅固な崖の中腹にある家に宿をとりました。水平の位置が高くて、そのために海の眺めがすばらしくて、明るい清潔な浴室の、大きな湯ぶねを満たす温泉の量もきわめて豊富な宿でした。
 それに、目まぐるしく動く物のないのが何よりで、夜はまっくらな沖合に初島の灯台の、赤と緑の閃光が二十秒置きに光るのと、昼間は小さい岬の森から森へゆききするヒヨドリの群れや、ゆったりと輪をえがいて飛ぶ二三羽のトビの姿だけが唯一の動く風物でした。
 その宿の庭では、梅の花が、満開をすこし過ぎた頃でしたが、その紅梅や白梅を大きく抱き取るようにして、海がまろく、広々と、しかもふところ深く横たわっていました。私は俳人水原秋桜子さんの作で自分の大好きな「伊豆の海や紅梅の上に波ながれ」という句を思い出しました。「伊豆の海や」で半ば切れて、「波ながれ」という同じ音おんの重なりを、不完全休止でとめたこの流動的な美しい句は、まことに梅の花咲く二月の伊豆の海岸風景をとらえた、見事な作品であると言わなければなりません。
 翌日は海をうしろに山へ登りました。急な登りの道路が稲妻形につけられている伊豆山の町を目の下にするようになると、ゴルフ場のあたりからだんだん山道になります。近くの藪では、まだ笹鳴きの程度ですが、もうウグイスがしきりに鳴いています。崖の上の暗い森の奥からは、しわがれたカケスの声もきこえて来ます。いよいよ山です。人にも出遭わず、自動車などは通れる道でもないので自動車にも遭わず、全く私たち二人だけで自然と共にある事になりました。
 或る崖の下を登ってゆくと、箱根からこの地方一帯を被うている安山岩の、かなり立派な露出個所が目につきました。岩石というものの意味や、美しさを知っている者は、こういう処でも見のがしては通りません。一緒に歩いている友人の話だと、この灰色の地を埋めている緑がかった黒い粒々は輝石だから、これは輝石安山岩だろうという事でした。私はその輝石の結晶を抜き出してやろうと思って、欠けて落ちている同じ岩を何度も強く打ち合わせてみました。
 するとその響きが両側の崖の横腹にこだまして、それに驚いたのか、何羽ものヒヨドリが一斉に叫びを上げて飛び去りました。
 道の両側は、かなり長い間、ハコネダケの密生した藪でした。これは細いまっすぐな竹で、高さは二メートルから三メートル、莖の直径約一センチ、節と節との間が長くて、十センチから三十センチぐらいあります。ですからこの特長を利用して、筆の軸だのキセルの羅宇らおだのに使うという話です。私たちがこの竹を手に取って観察しているあいだ、頭の上の黒松の枝では、マヒワが鳴きっづけていました。
 土沢とさわという小さい部落への道を左に見て、私たちは十国峠へむかう右の山道を、自然から何でも受けとったり学んだりしようとする者の、あの期待にみちた楽しい心で登ってゆきました。左手は広い枯ススキの斜面になっていて、明るく緩やかになだれ落ちていました。そこは南向きの暖かい日だまりで、無数のホオジロにまじって幾らかのツグミやキジバトが、地面へ下りて餌をあさったり、怒草の上の空欄を飛び廻ったりしていました。そしてその斜面を見おろして歩いてゆく私たちの目に、点々と残雪のついた天城山や、一碧湖の平坦面を持った大室山が柔らかに映りました。
 道の山側やまがわは、いろいろな常緑樹や落葉樹にびっしりと被われた斜面でした。中でもハコネウツギ、キブシ、クロモジなどという木がいちばん多く目につきました。ハコネウツギはまだ白っぽい枯れ木の姿で、種のはじけた実の莢を去年のまま着けていましたが、この木に葉が出て白い筒形の花が咲いて、やがてそれが紫がかった赤色に変ってゆく頃は、この道がさぞかし美しいことだろうと思いました。キブシは早春の山道でいちばん早く黄色い花の房を見せる木ですが、なるほど、もう蕾を包んだ太い芽を出していました。クロモジは皆さんもよく知っているあの爪楊子つまようじにする木で、その小枝を折って前歯で噛んでみると、一種独特な爽やかな香気があります。若い枝はつやのある緑ですが、古い枝や幹は黒いザラザラな肌をしていて、私たちは、その黒い皮を一部につけたまま細く削ったものを楊子にして使うのです。私はこういう事をすべて、さっきの輝石安山岩のお礼として、同行の若い地質学者に説明して聴かせました。
 溝のようにえぐれた幅の狭い道が急になり、左手に水のすくない一本の沢と、暗い高いヒノキの森林とが現われたところを登ってゆくと、その森林でけたたましいキツツキの声が響きました。
 アカゲラに違いない鋭い警戒の叫び声でした。もうこのあたりから上は樹木が無くなって草山続きになりますから、早春の今ごろだと、小鳥を見たり聴いたりできるのはこの辺が最後です。そしてその最後を飾る者として、今、黒と赤銅色にかがやく一羽の美しいジョウビタキが、私たちの数歩先を、まるで道案内のように、低い声で鳴きながら上手へ上手へと移ってゆきます。
 するとどうでしょう! 私たちが森林に沿って左へ渡り越えようとする沢の奥のほうから、ミソサザイの銀色の囀りが響いてくるではありませんか。
 まったく感勁的な瞬間でした。二人ともじっと立ちどまって、あの黒い小さいきびきびとした鳥の、輝かしい早春の歌に息を呑んで聴き惚れました。
 沢とわかれてヒノキの森林に沿って登ってゆくあいだ、しばらくはほのぐらい湿めった道でした。こういう処には、またその場所にふさわしい植物のひっそり生きている事を知っている私は、それとなくあたりに注意の目をさまよわせながら歩いてゆきました。すると、やっぱり有りました。道の片側の低い崖のすそに、生活力の強いコケ類やツタにまじって、濃い緑いろの、こまかく刻まれた柔かい草の葉が点々と見えるのです。たぶん有りはしないかと思っていたセツブンソウでした。
 セツブンソウは日本産のアネモネの仲間、つまりアズマイチゲやヒメイチゲなどに近いキツネノボタン科に属する小さい草ですが、旧暦の節分の頃に早くも花が咲くというのでこの名があります。今年の旧の節分は三月八日にあたります。しかし八日では少し早すぎるようで、二十日がらみのお彼岸の時分がちょうどいいのではないかと思います。それはともかく、このセツブンソウというのはまことに可憐な山草で、すっかり成長しきった時の草の丈が五センチぐらい、茎の先を囲んだ切れのこまかい葉の間から、直径六、七ミリの白い五弁花を一輪咲かせます。至ってなよなよした弱い草で、土の中の茎の先が小指の端ほどのジャガイモのような玉になっているのが特色です。早春の山でこの可愛い白い花に出会った人の心には、きっと何らかの詩的な情緒が生まれることだろうと思います。
 私たちはゆっくりと登り登って、十国峠に近い日金山ひがねやまのすぐ下の、海抜九百メートルの草山の枯草の中で弁当を使うことにしました。
 晴れた空に雲がすこし出て、それが私たちの頭上の空に集まってなかなか動きません。熱海から網代、伊東や下田のほうの空にかけても同じような雲が或いは厚く、或いは薄くたたなわっています。それはこの日昼すぎまで吹いていた北西の強風が箱根から伊豆半島の山々に衝突して、その風下に造った層積雲だったのです。その代り海のほうは絶好の快晴で、煙を吐いている大島は元より利島、新島、更には遠く三宅島まで見える程の好天気でした。そして目を転じれば大島の遥か左、東への直線巨離五〇キロのかなたに、房総半島の南端が洲ノ崎の鼻を真青な水平線に突き出して、八倍の望遠鏡の中に、その山腹の白い崩れや、館山や北条の町のかたまりまで見せていました。
 私たちの食後の休みは、のんびりと煙草を吸う事と、この早春の海と山との広大なパノラマを眺める事でした。そして一時間あまりこの高い静かな天地を味わった後で、楽しかった自然観察の半日の思い出を飾るものとして、二人で持参のブロックフレーテを、木管の縦笛を吹くことにしました。
 まず、私がソプラニーノで下手な一曲を吹きました。続いて若い友人が私よりもずっと上手に別の一曲を吹きました。そして枯草をわたる山上の風は、下手も上手もへだてなく、私たちの笛の調べを海のほうへと運んで行ってくれるのでした。

 

 

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 自然と共にある故に

 明ければもう去年になるが、あの十月二十二日朝放送された串田孫一さんと私との『野辺山の対話』は、聴いた人たちの間では割あい評判がよかったようだが、その対話の当人の私の出来には、正直のところあまり感心するわけにはいかなかった。
 あの日の『自然とともに』はいつもの串田さん一人のとは趣向を変えて、今後隔月に登場することになった私を紹介する意味も含まれていたらしく、そのうえ年長者の顔を立てるつもりもあってか、話の主導権を意識的に私にゆずった形跡が無いではなかった。しかし本当はそれでは面白くないので、同じ触目の自然を語るにしても、串田さんには串田さんの見るところがあり、私にはまた私の注目なり感想なりがあるわけだから、材料に事を欠かない二人としては、計算づくのようではあるが、あの際やはり半分半分ぐらいの比率で話の機会をとらえたり、自分の話を展開したりしたほうが妥当だったように思われる。結局、対話放送という形式に馴れていない私のほうが勢いこんでしゃべりすぎた結果になって、あさましいとは言わないまでも、ひどく恥ずかしい気がしたのは事実である。
 串田さんは聡明で思いやりがあごし、おのれを抑制する力のつよい人だから、知っている事でも知らないような顔をして年上の私を引き立てていたが、その私自身のしゃべり過ぎや、相手かまわず物を教えるようなせきこんだ調子に対する反省はとにかく、自分にとって最も親しい若い友人のこうした穏かな人となりや美しい心づかいを、晩秋の野辺山ガ原というすばらしい環境を背景に、しかも万人に聴かれる放送という公けのシステムを通じた声として、多くの心ある聴取者諸君と共に感じ取り味わい合うことのできたのは、まことに数すくない機会の賜物だと言わなければならない。テレビのように顔は見えなくても、こうした言葉のやりとりの間から汲みとるものに、実はラジオの妙味があるのではないだろうか。
 信州野辺山ガ原の録音現場はまったく美しかった。対話の中でも一応は触れたが、その日、高原は十月の空がよく晴れて、私たちのすぐうしろにそばだつ八ガ岳の赤岳や権現岳はもとより、原をこえて正面によこたわる優しく女性的な飯盛山も、その奥の女山も、さらに千曲川ちくまがわの谷の曲流点を圧してそそり立つ強い男性的な天狗山も男山も、彼らの背後にいっそう高い金峯山きんぷさんや御座山おぐらやまをのぞかせながら、一日ぢゅう爽かな日光にひたっていた。そして空気もくまなく澄んで、すべての音響から遠近感をうばうほど軽くて透明なように思われた。
 私たちは野辺山駅の前の道を北ヘ一キロあまり八ガ岳のほうへ歩いて、きらびやかな、静かな一隅を見つけると其処へ陣どった。あたりは背丈の低い灌木林がすこし開けて、ところどころに苔に被われた大小の岩石が頭を現わし、まだ青々とした柔かい草の間からきれいな冷めたい水が可愛らしい音をたてて流れ落ちているという場所だった。近くに高いツガの樹が一本立ち、そのむこうにカラマツが数本ならんで、あとは三つ四つ積雲の浮かんでいる広々とした青空だった。そして今さら言うまでもないが、見えるかぎりの植物という植物の、緑から黄、黄から赤、赤から紫にいたるまでの虹のようなもみじと実みのいろいろ。
 録音係の若いI君は、みぎわの草のなかに重たい録音器を埋めるように下ろすと、さっそく大きな万年筆のようなマイクロフォンをその小さい清らかな水のすだれの上へ差しむけた。もちろん放送局にはいろんな種類の水音を録音したテープが揃っていて、たとえば滝であれ、渓流であれ、あるいはこんなせせらぎであれ、随時意のままに引張り出して活用できるに違いない。しかし放送の時の効果はどうであるにしても、この晴れやかにも美しい秋の高原の、無心で、うぶで、得もいえず可憐にチロチロ・コボコボと歌いつづけている泉の音を、局にはいくらでも似たような音の用意がありますからと言って採り上げないとしたら、それは放送冥利にもとると言わなくてはならないだろう。もちろん学徒肌で良心的なI君がそんなことを言うはずもなく、心をこめて彼の近づけたマイクロフォンの筒先に、水はいよいよつつましく、おとなしく、その美しい野のさざめきを吸い取らせるのだった。
 私は自分がしゃべり過ぎたというようなことを言ったが、「過ぎる」と「過ぎない」とのかねあいは、こうした場合じつは甚だむずかしいのである。たとえば『信州野辺山・高原の対話』という題がついていたとしても、その地理的な位置のちょっとした説明や、季節的な景観と周囲の光景などへの或る程度の描写を抜きにしたら、聴いているほうは、一体其処はどんな処でどんな眺めなのだろうと思って、まず場所への想像を働かせなければならないだろう。それにまた、「あつ! 来ましたよ、尾崎さん、エナガがたくさん」と串田さんが声をひそめて言って、とたんに彼らの甘ったるい煙ったような声や鋭い警戒声が響いてきたにしても、私たち二人が普通の時と同じようにかたづを呑んで見たり聴いたりしているだけで終わったら、一方ラジオの聴取者たる諸君は物足りなく思うかも知れない。やはりそこはこちらが何とか相槌を打って、「シジュウカラが先導をしていますね」とか、「エナガが十五羽、それにシジュウカラが四羽ですか」とか、もう一歩進めて、「ああいう連中には時どきヒガラもまじっているものですが、こういうふうにあの鳥たちが毎日森や林の中を廻ってあるくのを、フランスの野鳥研究家のジャック・ドゥラマンはカラ類のパトロールと言っていますよ」などと、多少の知識を披露しながら鳥の動作やその場の状景を描写したほうが、聴いている人たちに対して親切なような気がするのである。
 もちろん、録音でも談話筆記でもないふだんの時ならば、山や野や広い河原で風景を眺めたりあたりの小鳥や草木を見たりしながら、こんなぐあいにしゃべり続けはしない。むしろ二人とも黙っているほうが多く、めいめいその場の光景から呼び覚まされて果てしなくひろがる夢想にひたっているという、その沈黙の時間がまことに甘美なのである。そしてそこへたまたま頬をかすめる微風があったり、近くのアザミの草むらから姿を現わして低い空間を鳴きながら飛びまわるノビタキがあったり、秋の初めの柔かな藤いろの花に一匹の金と黒との花アブをとまらせているマツムシソウがあったりするのである。私たちは現にその場にいるのだし、晩夏の微風や、アザミとヨモギとノビタキや、マツムシソウとアブについても、いろいろ知っててもいるしさまざまな思い出を持ってもいるのだから、今さら何か言い出してこの意味深い時間と空間とをかき乱すようなことはしない。ただ投げ出した両足の上に手を置いたり、草の中に片肱ついたりして見入り聴き入り、そして極めて稀にどちらかが何か一言ひとことポツリと言う。それでいいのであり、またそれがしぜんなのである。
 串田さんはこんな時にふさわしいヴィヴァルディの「忠実な羊飼」の中のフリュートの或るメロディーを想っているかも知れないし、私は私で、たぶんスコットランド民謡の「アロウ川」か「クウィードの谷」を頭の中で歌っている。そしてガリブエル・フォーレの「水辺にて」のように、眼前の過ぎ行くものを行かしめて、私たち自身はこうして二人でいることの中で安らかに憩っている。その私たちを包んで夢想に重たく光に軽い時間の潮は、庭の水盤がいつしか涸れるように知らず識らずのうちに経過する。ほんとうにそれでいいのである。
 ところでこの良さをラジオで再現しようと試みてもそれはできない。黙っていたのでは意味のないラジオでは、ちょうど文章の場合と同じように、音の沈黙や環境の静かさそのものをすら語らなければならない。
 もともと一定の時間を音でうずめてゆくのが原則であり、目で見るかわりに耳で聴いて理解したり想像したりするのが約束であるラジオでは、『自然とともに』のような番組の時でも、自然の魅力の最大のものである世界の静かさを、音の無いことで表現しようとしてもそれは許されない。だいいちそんな時間的な余裕がない。僅か十五分とか二十分とかいう短かい時間の中へ自然の音響をとり入れて、それに適当な説明を加えたり描写を挿入したりしなくてはならないのだから、沈黙や静寂を要求するなどということはむしろ贅沢にひとしい。そこで間まが問題になってくる。瞬間に凝固した間まが本来の沈黙の時間の第二次的、第三次的な代りをするのである。たとえば一羽のホオジロの声が出るとする。これをすぐに引き取って「朝の電線でホオジロが鳴いています」と説明してしまってもいいが、欲を言えばそこに深淵のような瞬間の沈黙がほしい。しかしこの沈黙は、あくまでも小鳥の歌の鈴のような音色ねいろとそれを包んでいる青々とした朝の空間とを尊重する意味の沈黙であって、けっして説話者の紋切り形であってはいけない。したがって音によってはその間まがいくらか長くもなれば短かくもなるわけである。そしてここに口では言えない微妙な呼吸があると同時に、詩や文章の朗読の時にもまたこの間まのとり方が活殺を左右するのである。しかし実際にはこれも理想にすぎず、いい気になって間まをとりすぎれば、却ってもったいぶった音の陳列ということになりかねない。
 もう一つ、これは私だけの受けとり方かも知れないが、このごろの『自然とともに』は、何となくどこかの土地の季節感をまじえた実況放送のようなものに移行しつつあるという気がする。それぞれの地方の局が受持ちでやっているらしいから、つい自分たちの管轄区域の土地に即してしまうのは止むを得ないことかも知れないが、扱いようによってはこれが或る土地の特殊な風物の紹介から、観光の促進のほうへずれて行かないとは限らないのである。もちろん大きな目然地理学的景観や動植物の生態景観のようなものを題材とする場合もあるではあろうが、『自然とともに』の本来のねらい、またその特色は、われわれの身辺にあって曰常接しながら気のつかなかった自然物や自然現象の中から、彼らの美や驚異であるものを採り上げて、その発見の喜びなり観察の面白さなりを聴取者と共にするところにあるのではないかと私は思っている。そして事実そういう点に期待して、毎日曜日の朝の二十分間を楽しみにしている人たちの少くないのを私は知っている。
 もしも『自然とともに』の当初の目標が今言ったようなところにあり、そして聴取者がそれを期待しているのだとしたら、私の考えでは、対象となる自然物をもっと身近かな、もっと狭い小さい空間に求めても、あまり材料の収集に困らないのではないかと思っている。もちろんそう思うだけで本当にやってみたらどういう結果が出るかはわからないが、さしあたり串田さんの名著『博物誌』などが有力な参考になるだろうし、故寺田寅彦博士の海岸の砂の平易な物理学的研究や、立体顕微鏡での野草の花の観察のような美しい見事な随筆も、この番組に対してりっぱな方向指示になるものだと私は信じている。これらの場合、もちろん音は欲しいのだが、たとえ音は無くても、話が面白くて美しくて有益ならば、家庭や野外での自然観察の趣味は大いに啓発されるに相違ないのである。
 そしてなお言えば、普通われわれの耳にはけっして聴こえないような小さな音さえ何百倍、何千倍にも拡大して聴かせてくれる放送局のことだから、相手が挨拶をかわしている蟻であれ、餌のことで文句を言っている金魚であれ、愛の花粉を放出している花であれ、さびしく落下する夜の霧であれ、すべて人間には秘密であるはずの彼らの声や音を吸い上げて、それを伝達する手段に事欠くまいとは、私の信じて疑わないところである。

 

 

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 『わが愛する山々』 深田久彌著

 重厚で、素朴で、まっすぐに柾目マサメがとおって、深田さんという人は、ひのきのようだ。口が重くて、実意があって、茫洋として大きく、自足の境地で晴れやかに澄んでいること秋のようだ。その深田さんの近著『わが愛する山々』。いくらかむき出しで正直すぎた題のようだが、厭味が無くてそのものずばりの人柄にはぴったりしている。
 内容は私なんぞのほとんど知らない国内の山二十一座への登行記で、読んでまったくおもしろく、啓発されるところまた頗る多くて甚だ有益だった。山は本州のものが大半を占め、四国と九州で各一座、北海道で四座がかぞえられている。そしてそのいずれもが一般には名ぐらいしか知られず、おそらくその半数でも登った人は稀だろうと著者は自負でなく書いているが、いかにも、揃いも揃って、夏霞のかなたに浮かび、夕映えの果てにけむり、流行モードには至って遠い山ばかりである。
 だから特別な愛をもって登られたこれらの山が、この著者だけに打ち明けた秘密の告白が美しいのである。心を与えなくては心は獲られない。著者はいたる処で本心をぶちまけながら山の観想に徹している。私が啓発され益されたというのも、単に未知の山への知識についてばかりではないのである。
 北陸弁の深田さんは私のことをオサキサンと呼ぶ。そして濁らない「サ」が強音になる。だから「お咲さん」というように聴こえる。どこかの峯のぼんやりした大写しを背景に、そんな深田さんの目もと口もとが懐かしい。

 

 

 

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 『人類の星の時間』 シュテファン・ツヴァイク著

 シュテファン・ツヴァイクの名を彼の壮麗な『エミール・ヴェルハーラン』で知ってから、いつか四十年あまりの歳月が流れ去った。
 当時私は二十七歳か二十八歳、詩人経歴第一歩の渾沌を右に左に手さぐりしながら、おのれ自身の気質と内心のうながしの導くままに、しゃにむに、熱っぽく生きていた。私はむさぼるように読み、胸をときめかせて聴き、田舎や野を歩きまわり、手当りしだいに書いては溜めて、その頃の悪意が無くもない批評にしたがえば、「何でも詩にしてしまって」敢えて恥じなかった。しかし多くを読み、聴き、見ながら、(つまり生きながら)、其処におのずから好みのニューアンスがあったことも事実である。トルストイ、ロマン・ロラン、マッチーニ、ベートーヴェン、ベルリオーズ、ヴァン・ゴッホ、ホイットマン、ヘンリー・ソロー、更にその『フランドル風物詩』や『種々の壮麗』をようやく原書で読みはじめたヴェルハーラン……。こういう作家や音楽家や画家や詩人が、予望の霧の奥に燃える私の天体の系列であり、彼らの人間と芸術とが私にとっての火の糧だった。ゆらい知性的でも哲学的でもない私は、もっぱら直観的な傾倒で彼らを抱きしめ、盲信とも偏愛ともいえる熱情で自分の理想的天球図をえがいていた。
 そういう私の詩人経歴のまだ幼い朝の空に、初めて名を知ったツヴァイクという人の『エミール・ヴェルハーラン』は、祈りと祝福の鐘のようにこうこうと明るく鳴り渡ったのである。まず英訳で、やがて仏訳で(この仏訳本の扉に一九二二年六月という購入日の日附がある)、私はそれを読むことに熱中した。すばらしい啓示だった。無名で、独立で、ひたすら自己開拓の意気に燃えている若い詩人の魂への、それは真に鼓舞と鞭韃の書だった。運命の顔はおのれのうちの神秘にしたがって造形するとき最も美しく強固だという事を、私はこの本から痛切に教わった。私はその頃の夜ごとの枕頭に、この本と『ジャン・クリストフ』とゴッホのマッペとを、必ず一緒に重ねて眠った。
 それ以来シュテファン・ツヴァイクの評伝や伝記的な著作が私の年々の読書目録に加わっていった。ロラン、トルストイ、ドストイエフスキー、ヘルダーリーン、バルザック、ディキンズ、スタンダル、マルスリーヌ・デボルド・ヴァルモール、エラスムス、マジェラン、クライスト、ニーチェ、フロイト、ジョゼフ・フーシェ、それに二人の女皇アントワネットとスチュアート、更に彼の精選になるレクラム版の『ゲーテ詩集』。……しかし彼自身の小説や戯曲にまでは手が出なかった。いや、手よりもむしろ心が、と言うべきだろうか。ともあれ壮年期から初老の時代、私にはほかにもっと読みたいもの、もっともっと心を引かれるものが多々あった。必ずしも不寛容でない私にも、本来の自分に適した風土クリマはあった!
『人類の星の時間』は、ツヴァイクの伝記的諸作を支えている精神と手法とに通じるものを持
ち、デーモンに乗りうつられた人間の目もくらむような高揚や墜落の瞬間を主題に、人類の運命の歴史的・劇的転回点をクローズアップして、これを潑剌と描き出そうという意図から出発している。その意味で、台本「メサイア」の冒頭の一句の霊感から不眠不休であの大作を完成したヘンデルとその再起(一七四一年八月二十一日)、馬鹿正直と不決断とから機を逸してナポンオンの潰滅をもたらしたワーテルローの元帥グルシー(一八一五年六月十八日)などは最も顕著な例であり、この本の中での傑作でもある。その他太平洋の水の広がりを発見した最初のヨーロッパ人ヌニェス・デ・バルボア、千丈の堤も蟻の一穴からのたとえであるビザンチンの陥落とケルカポルタの小門、「ラ・マルセイエーズ」の作者で一晩だけの天才だったルジェ・ド・リール、カルルスバート=ヴァイマル間の旅の老ゲーテと「マリーエンバート悲歌」の誕生、カリフォルニア黄金郷の発見と一週間だけのマイダス王ヨーハン・アウグスト・ズーター、死刑執行の直前から恩赦によって一転して救われるセメノフ広場のドストイエフスキー、大西洋海底電信の開通とサイラス・フィールド、未完成の「光、闇を照らす」の終曲となるべき一九一〇年十月末のトルストイと神への逃走、スコッ卜大佐と南極探険の闘い、革命の祖国へ急ぐレーニンとドイツ通過の封印列車。そのどれもが人類の運命の転機に値いし、天体の接触による新星の一大発光と、たちまちにして消滅した後の暗黒とを思わせる。しかもその際に発生した新らしいエネルギーだけは永く生きて、以後の宇宙に何らかの作用を及ぼしながら従来の均衡を変えるのである。
 この本の翻訳は十数年前に他の人たちのもので二種ほど(完訳ではなく)出たはずだが、今度の訳者片山君の仕事はきわめて良心的で美しく、その敬愛する原作者の意図するところを並ならぬ用意と苦心とで残りなく再現していると思う。ここに改めて彼の自愛と加餐とを祈らなければならない。

 

 

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 タゴールについて求められて

 詩人としての私は、ホイットマンやヴェルハーランを、或いはリルケやヘッセやカロッサを体験したという意味では、ついにタゴールを体験しなかった。それは私の読むための語学が、未熟ではあるが英語、フランス語、ドイツ語の三種に限られていて、インドで行われている言葉のうちで最も美しいと言われるベンガル語を知らないことと、詩はその書かれた原語で読まなければ、真に一篇の作品の持っ実体の美を味わうことはできないという信念とに制せられた結果のように思われる。事実、問題の詩が叙情的なものの場合には特にそうで、たとえ作品の意味するところは充分にわかっても、その詩自体の霊的な部分、それ有ればこそ詩が詩であるゆえんのもの、言葉の響きとその重さ軽さ、その色合い、その匂い、その歴史と含蓄、言葉同士の燦然たる交響と決然とした対立、光と影の柔かい微妙な交錯……すべて原作者の彫琢や霊感から成った言うに言われぬものは、原語への親しみなくしては到底これを味わい取ることはできないのである。ゲーテの叙情詩の日本訳がおおむね味気なく、芭熊の句の外国語訳がほとんど徒労のように見えるのもそのためであろう。
 しかし翻訳という仕事の果たす別の大きな役割が、国民や民族の間の言語による文化のコンミュニケイションにある事はもちろん忘れてはならない。
 とは言え私もタゴールを読んだことは読んだのである。関東大震災を中にはさんで大正十年から十五年、東京で手に入れることのできる英語の詩集や戯曲はみんな読んだ。同じような物の日本訳も、上手なのや下手なのや、良心的なのやそうでないもので幾冊か読んだ。タゴールを知らないと幅が利かないからでなく、日本に所謂こんなブームを巻きおこしながら、他面ではまたロマン・ロランなどから深く尊重されているこのインドの詩聖の真随を、弱輩ながら詩人のはしくれとして摑みたかったからである。三十歳から三十五歳、そのころ私はロマン・ロランを初めとしてホイットマンやヴェルハーランに心酔していた。私には彼らが文学におけるフロンティア精神の闘士のように見えた。そして及ばずながら自分もその陣営に属する一人のようにきおっていた、私はやがて詩集『空と樹木』や『高層雲の下』を成すべき歌をぐぜっていたのである。そしてその意気ごみで(度しがたい青年のエゴイズムよ!)タゴールに対し、タゴールに待ったのだった。まるで氷雨やハリケーンで竪琴に向かうように。鍬と猟銃とをひっさげて王侯の座へ乗りこむように! しかしだめだった。私は思念の上で彼を理解しながら、心の肉体をもって体験することには失敗した。
 三十数年をけみした今、私の海は晴れやかに凪ないでいる。時おりの小さい波瀾や時化しけはあるにしても、おおむね「海の静けさと楽しい航海」、前奏曲をひろげフーガを織りなす平均率の歌の毎日。人生に醒め、智恵に実った心の季節に、田園や木々の眺めの遠くあかるい窓にむかって、たえて久しいタゴールを読むことがこの傾聴と凝視の秋にふさわしい。そして本は詩集『渡り飛ぶ白鳥』。友人片山敏彦の心のこもった美しい日本訳と、カーリダース・ナーグ、ピエル・ジャン・ジューヴの手になるすばらしいフランス訳である。一つは最近片山が自作の短歌をそえて送ってくれ、もう一つは三十数年前ジューヴが自筆の訳稿全部と共に送ってくれた、共に友情の記念の二冊の本だ。
 これを読みながら、もう私はベンガル原詩の読めないことを苦にしない。原文は更にみごとなものと確信し、しかも充分な信頼と満足とをもって和仏両様の訳を一節づつ交互に読み進んで、この大地や大洋の上を高く低くうねり飛ぶ白鳥の翼にしたがう。四十五篇の歌のうち、第七歌と第三十七歌が最もすぐれて美しく、すさまじく、このインドのバッカスのデモーニッシュな両眼の輝きと長髯の揺らめきとを感じさせる。ホイットマンやヴェルハーランの最高のものが、彼らの『草の葉』『種々の光耀』『至上のリズム』の中の巨大な頌歌が、よろこんでこれに加わり、これと協奏するかと思われる。
 こうして今、私は、生涯の夕べの満々たる潮のなかで、全く新らしい体験としてラビーンドラナート・タゴールに浴ゆあみしている。

 

 

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 処女詩集の思い出

 かつて或る現代詩人全集のための「自伝」の一節に、次のようなことを私は書いた。
『……早くから孤独を知った私は、六歳で隅田川の水や船や、東京湾上の積雲や、河岸の石垣の花や蟹や小魚たちと語ることに喜びと慰めとを見いだし、七歳で冬の台所で泣いている小さい「ねえや」や、遠い信州という処から出稼ぎに来たという下駄の歯入れ屋のお爺さんに身を献げたいようなコンパッションを感じ、八つの歳の小学二年で、同級の或る可憐な少女にタンドレス・プルミェールを経験した。
『旧弊を追う下町商家の子弟として、私の学歴は小学校と商業学校だけだったが、理科と英語と作文だけはその時々の担任教師の注目をうけた。そして自分にとってこの三種の「基本科目」に、――認識と表現とのこの三つの媒体に、――(英語はやがてフランス語を呼び、それがまたドイツ語をさしまねいた)――私はその後今日にいたるまでの不断の幸福を負うている。独学と自尊と夢想と抵抗、つつましく単純で健かにして美しいものへの愛と、自然や自然物へのかぎりない傾倒。すべてこのような気質の偏向は、それが善いにせよ悪いにせよ、結局その後の私の生涯に深く大きく作用することをやめなかったのである。……』
 そして私の書いたものはすべて基調としてこの三歳児みつごの魂の音色ねいろを持ち、翻訳でさえ、そのほとんどが、同じ血脈を引くものから選ばれている。
 それにしても三十歳で初めての詩集『空と樹木』。処女詩集とは言いながら、何処をさがしても処女らしいしおらしさも無ければはにかみも見当らない。ただ目につく幼稚な力りきみと自信過多。耳ざわりで、野性で、多弁で、程のよさというものを全く無視した修辞の押しつけ。言うところの世界主題と、自然美や生活理想をモティーフとしての対位法コントルポアン。夫人・令嬢の膝の上の猫のような狡ずるいしなやかさも無ければ、人工楽園を気どるフランス式瀟洒の風味もなく、そうかと言って夢二ばりのボヘミアン・スタイルで無産者プロレット教化カルトを叫ぶという趣味もない。ただ、物に憑つかれたような表現意欲の沸騰と尊大な自己主張。みずから求めて重くした輜重車を駄馬に曳かせた汗みどろの行軍。この道いつかアッピア街道となるだろうと信じての夢想の行進。「一行として成らざる日なし」や、「汝は男子なり、一人生きよ」の壁の上のモットー……しかし要するに独り相撲の独りの歌、詩壇人からの意識的疎隔と自家発電の自家消費。泣くも一人、笑うも一人のこの詩集が、或る日はからずも或る奇特な人の手に拾われて、他人目よそめにも羨望され嫉視される豪華な本になったとは!
 その奇特な人は後の第一書房主で、そのころ東京市芝区芝公園玄文社詩歌部の出版責任者であり、同時に新潮社の『日本詩人』と対峙する詩雑誌『詩聖』の発行名義人兼編集者だった長谷川巳之吉氏である。私はこの人が若い日の自分に寄せてくれた並々ならぬ厚意にたいして今でも深い感謝の念を抱いていると共に、自分のかけた多くの迷惑を恥しく思っている。もしも氏の推輓すいばんが無かったら、私はこんな見事な最初の機会を恵まれずにしまったろう。
 どんな芸術家も純粋に自力だけで進歩したり大成することはできない。其処にはその時々に、 有名であれ無名であれ、(無名な人こそ数において、遥かに多い!)、慰め、励まし、薫陶し、鞭韃してくれた影の声、影の力がある。過去の地平が絵巻のように煙り広がる人生の夕映えの時、それならば吾われもその懐かしい影オンブルたちを呼びいだし、あらためて彼らに感謝し、哀惜や悔いの思いを新たにしよう。一生の「燃ゆる茨いばら」のかなた、「広場の市」や「家の中」の人々の誰彼を算えて祈ろう。墓標のならぶアッピアの旧街道が、われわれの閉じる瞼と共にとっぶりと暮れきらないうちに! 「君はドゥ僕のビストものマイン、僕はイヒ君のビンものダイン!」
 こうして大正十一年(1922)五月に玄文社から出た『空と樹木』は、長谷川氏苦心の装幀になる美しい本だった。四六判上製箱入りで二四八頁、薄水色の表紙の背には同氏の好みで新らしく彫らせた木版活字の書名が、また表には若い友人で彫刻家である高田博厚自筆のフランス語の書名が、いずれもきっぱりと金箔で捺してあった。そして高田の作になる私の首のブロンズ像の写真が口絵に選ばれ、彼の愛妻を描いたデッサンが本文中の挿画になっていた。私はこの最初の詩集を敬愛する高村光太郎と千家元麿とに献じたが、いわゆる既成詩壇からはおおむね白眼か無視か、揶揄か罵倒であしらわれた。ただ土田杏村氏ほか数人の批評家からこれに祝辞や好意の言葉をよせられ、多くの未知の若い人たちから熱烈な讃辞や同感の手紙を送られたことは、今でも私の記憶の世界でその光の半球のものとなっている。

 

 

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 或る小さい体験

 みんなに共通の友である若い二人の結婚式のお祝いに、ブロックフレーテによる木管四重奏曲を演奏してあげようということになった。
 プログラムはバッハの衆讃前奏曲二つとヘンデルのサラバンド。いずれも短かい曲で、三つ続けてゆっくりやっても六分間とは掛からないものだが、やるほうは懸命だった。先輩や友人としての心ばかりの贈り物だが、その唯一の心の花束を贈るためには、練習にも実演にも心血をそそいで、現在の技倆においての最善の合奏アンサンブルを捧げなければならなかった。
 私がソプラニーノ(F)、NHKの伊藤君がソプラノ(C)、串田さんがアルト(F)、『アルプ』の三宅君がテノール(C)という配役で、十日ほど前から練習が開始された。もっともめいめいが忙しい体なので、串田さんから自分の譜表パートをうけとると、みんな毎日の務めに散って、それぞれ思い思いの時間と場所での単独の練習だった。そして自分だけは出来上がったその成果を四人が持ち寄って、総練習の時に合わせてみようというのである。私などはほかの三人から特にかけ離れた片隅に住んでいるので、そのあいだ誰とも会う機会がまったく無く、寝る前やちょっとした時間の暇にたった一人で、「喜べ、おお我が魂よ」だの、「今ぞ主を褒めまつれ」と取組むという有様だった。ほかの若いみんなの指は木この葉のように軽くひらひらと動くのに、私のは老化もかなり進んだか、思うように動いてくれず、せっかくの聴かせどころの高音トリラーなども、変にしゃがれて躓つまずきがちだった。
 私の家での前後二回の総練習。庭は新緑、花壇は花ざかり。その光と薫風との天地をよそに、 これでも「芸術」の木管四重奏。その成績は、むしろ意想外にみごとなものに思われた。「喜べよ」は透明に晴ればれと、「褒めまつれ」は敬虔に華麗に、「サラバンド」は重くきらびやかに合奏された。「まあ、これならばね」と言う串田さんの、例の不完全終止形のにこにこ顔が頼もしかった。
 「ようございますわ、本当に。陰で伺っていますと」と妻が褒めた。ああ、陰で?……
 さて、ちょうど復活祭にあたった結婚式の当日、披露宴を彩るかずかずの祝辞、激励の辞、独唱、独奏が済んで、最後のいわゆる「豪華番組」 私たちの四重奏はけっして陰や台所からは聴かれなかった! それは粛然と鳴りをしずめた百余の賀客を前にしての、せっぱつまった試練だった。式場よりも一段高い舞台の上、ほかの仲間の様子を見る心の余裕などは全然無いから分かろう筈もなかったが、私自身は顔の何処かがむずがゆくなったり、指が硬直して蟹の脚のようになったり、肺活量が激減したりしたような気がして、すでに初めから上がっていた。こういう心細い団員をかかえては、さすが物に動じない団長串田孫一さんも、内心さぞや気をもんでいた事だろうとお察しする。
 しかし有難いかな始めあるところ必ず終りありで、たった五分間余りの時は知らぬ間に経過し、我がコンセール・ゼフィール急造四重奏団第一回の祝賀演奏も、「まあ、これならばね」よりは少し悪いくらいの成績でめでたく終った。

 

 

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 結びの詩

庭は緋桃の花ざかりだ。
その色と香かが明るく艶あでにほのぼのと
あたりを照らしかおらせているので、
匂いある人が赤い衣裳で立っているようだ。

鶫つぐみの歌や山鳩の声が響くにつけ、
雲の輝きがやがての夏を想わせるにつけ、
時の歩みの迅速さに老おいの自覚がおびやかされる。
だが創造の楽しみはまだ私に許されている。

「我は足れり」のアリアがおりおりは口にのぼるが、
「眠れ、安らかに、汝疲れた眼よ」をまだ私は歌わない。
常に摂理に聴く者は摂理の声に従わねばならず、
光あるうちは光の中を歩まねばならない。

春の大きな雲が暗み、明るみ、
海のような空があおあおと柔かで、
小鳥の声があの空間にも、この枝にも。――
庭は緋桃の花ざかりだ。

 

 

 

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