碧い遠方 (一九四七年 〜 一九五〇年)


   ※ルビは「語の小さな文字」で、傍点は「アンダーライン」で表現しています(満嶋)。

                                 

店頭の青げら

初秋の数日

石の花びら

木苺の日

紫つめくさ

草に寝て

一日の終りに

乾草刈の頃

豆畠にて

落葉掻きの時

蹄鉄工

二月の春

春の雲

寂しさと桜草と

朴の杖

小さい旅人

盛夏白昼

冠 着

初秋の湖

老の山歌

西穂高

入笠山

草山のはて

入笠小屋

或る遭遇

秋の隣人

初冬の客

初心者

輝 石

秋の丘で

湖畔の星

黄びたきの災難

雛鳥記

黄昏の飛行家

ハドスン的な冬の一日

 

                                     

 

 店頭の青げら
                (à Jean Giono)

 きのう私は東京から帰って来た。枯草の中の小径は夕風の丘をこえ、低地を縫ってほそぼそと続き、遠く私を森の我が家へと導いていった。おりから太陽は南西の山のかなたに今日の壮麗な臨終をとげて、しばらくはその余韻が天地のあいだに柔かく響き漂っていた。すると高原の夕ベの底にひそんだ村々にちらちらと明りがつき、やがて氷のように張りつめて来る初冬の宵の清らかな満月が浮かび出た。路傍の白樺の幹はその光にほのめき、私の足の下には硝子の粉末のようにつぶれる霜柱の音があった。
 道のむこうから黄昏の闇をうがって親子連れらしい老農と若い娘とが現れた。彼らはすれ違いながら「お疲れでございます」と私に夕暮の挨拶をした。私も「お疲れです」と挨拶をかえした。
 二人とも手拭で頬かぶりをしていた。
 すこし行って振り返って見ると、彼ら親子のうしろ姿に古代の悲歌的エレジアックな偉大さを添えるように、その往く手に谷をへだてて、月光を浴びた釜無の山々がほのぼのと暮れていた。 
 きょう再び我が愛の自然の中におのれを放ち、冬枯の山野にみなぎる朝の光を浴びながら森のキツツキを聴いていると、私は数日前の曇り日に東京の繁華街の、とある店先の金網の籠の中に自分の見た、あの哀れな虜われの、一羽の青啄木鳥あおげらのことを思い出すのである。数日前のその日の午後、私は神田の通りを歩いていた。
 思えば東京を去ってすでに幾年、私は生れ故郷のこの大都会で、万事につけてもはや全く田舎者と化し終った自分を見出していた。買物も機敏に上手にはできず、珈琲一杯気楽には飲めなかった。そして電車やバスに乗ればそれだけ早く済ませる用事をかかえながら、路線にも乗車券にも勝手のちがう、またつねに非常な混雑を呈するこの生存競争の乗物をいとって、高原の厚みと弾力とのある親しい土を踏み馴れた靴で、都会の味気ない堅い舗道をどこまででも歩くのだった。私にとって東京も変ったが、東京にとってその息子である私も変った。そしてそんなに救い難く変った私を見て、首都在住の古い友人たちや親戚の者は、驚きと憐れみとの入りまじった複雑な表情をうかべるのであった。
 こうして私は曇り日の午後の神田の町を歩きながら、電車道に面して一軒の小鳥を売る店のあるのに気がついた。小鳥は今では東京の人たちよりも私にとって遥かに親しい。私は知らぬ他国で故郷の者を見るように籠の中の鳥たちを見た。そこには鶯がいた。目白がいた。四十雀が、ウソが、頬白がい、カワラヒワもいればマヒワもいた。しかしいずれも捕獲されてから未だ日も浅い新鳥あらどりで、ほとんど籠に馴れていなかった。四十雀は丸くふくれ、首をちぢめてやつれた顔を尖らせていた。頬白は二三枚羽根の折れた尾を力なく垂れてうずくまっていた。五六羽ずつ一緒に入れられたヒワ類は黒と萌黄の両翼をひろげ、破れた扇のように尾羽を開いて、竹籠の目にバサリバサリと絶望的にぶつかってはそこにしがみついていた。鶯も目白も荒い点ではほかの鳥たちと大差もなく、鼻先を傷つけ、逆さになって絶えずガサガサと籠の天井を渡っていた。いちばん柔和なウソは棲まり木の端に美しい黒と白と桃色の体を支え、黒玉のような眼をじっと、咽喉が渇くのか時々パクリパクリと口をあけていた。どの餌壷にも餌さはなく、少しはあっても粒餌は中味の無い殻が多く、壷のふちには蒼白い糞が堅くこびりついていた。すべてが痛ましくなまなましい虜われの姿であった。どの鳥もまだ諦めの域に達せず、いわんや環境への順応などにはきわめて遠い半狂乱か半死の姿の者たちであった。
 そしてその中に、私は一羽の青ゲラを見たのだった。
 彼はぼろぼろに塗料のはげた、少しいびつになった古い鸚鵡おうむの籠に入れられていた。一本の杉らしい木の枝が棲まり木として籠のまんなかには立っているが、山地森林の太くて堅いコメツガやトウヒの幹を縦に攀じたり旋回したりするこの鳥には、あまり安っぽく細すぎもすれば柔かすぎもした。杉の皮はさんざんにむしり取られて襤褸か絲屑のように垂れ下がり、傷だらけな生木の心が骨のように現れていた。それは狭苦しい円筒形の牢獄に俘虜となった野生の鳥の、絶望的な憤怒と格闘とのあとを物語っていた。
 当の青ゲラは古籠の錆びた鉄線にかじりついていた。夏の罌粟けしの花を想わせる鮮紅色の頭と頬、森林の若葉にまがう背と翼、それ自身烏の中での美鳥であり、日本特有のキツツキでもあるこの青ゲラが、垂直に樹幹を攀じる足趾あしゆびやその姿勢を確保する堅い尾羽の機能を捨てて、まるで外来のオウムかインコのように、籠の横桟にすがりついているのである。栗色の点々をよそおった銀白色の柔らかい胸毛が、水平にならぶ鉄線の隙間へくいこんでボヤボヤに乱れている。オウムなどのようにおぞましく針金をくわえたり嚙んだりする習性がないから、この威厳のある虜囚は静かに顔をこちらへ向け、楔形に尖った緑褐色の嘴をあげて天を仰いでいる。精悍であるべき眼は無限の憂愁にほのぐらく、時どき襲ってくる心身の疲労に負けて眼瞼の薄膜に閉ざされる。密林を洩れる清らかな空気の流れもなく、晩秋の梢に見上げる金と青との深遠な空もない。あるのは頻りなしに通る市内電車の轟き、自動車のクラクソン、人間窮極の目的からは恐らく遠い群衆の多忙な姿と雑沓と、この大都会に重く沈澱した濛気の上に、慰めも喜びもなく横たわる初冬の午後の曇り空ばかりである。
 野生の鳥の本性と自由とを奪われ、ブリキと鉄の狭い牢獄の中に山野の自然から隔離されて、今や五百円という正札をつけられたこの美しい青ゲラが、どこでどうして何者に捕えられ、これから先どんな人間の手に渡るかは知らないが、ある時は焼けつくような郷愁に駆られるのか突然荒々しく羽ばたきをし、またある時は悲しい諦めの中へ沈んでいくようにじっと眼をつぶるこの鳥を見ながら、東京神田の電車やトラックや人通りの絶え間もない街路に面した小鳥屋の店先で、一瞬間私の脳裏をかすめたのはおよそ次のようなことであった――

 彼は日本中部地方の深山の中、海抜二千メートルに近い森林の生れだった。それは大木のコメツガ、オオシラビソ、トウヒなどを主とした昼なお暗い密林で、ところどころに淡い金褐色の膚をしたソウシカンバが亭々と立っているような、都会からも人間からも遥かに遠い場所だった。彼は山腹の絢爛なもみじが突如として樹氷に見舞われ、黒金の砦とりでのような山頂が最初の雪に飾られる秋の終りがくると、この故郷の森をあとにして次第に山をくだり、太陽のもう少しの恩寵と豊富な食糧とをここかしこと求めながら、山麓地帯の暖かい森や平野に近い赤松林で長い一冬を暮らすのだった。そして翌年の四月の半ばを過ぎて、高山の頂きは未だ皚々たる雪に光っているが、里には再生の春風がそよそよと吹きそめて山桜が咲き、いち早く南から帰ってきた燕の群が青々となごんだ空を流れ矢のように飛びかう頃になると、彼は自分の家庭をはじめる時の来たことを身うちに感じて、一日は一日と引かれるように故郷の山へ近づいて行った。そして両翼を搾っては開くその波のような飛びかたで、山稜を越え渓谷に沿って、去年のすみかへと山中深く分け入って行った。
 やがて高山の中腹に谷間に、あらゆる樹々の新芽のいっせいに萌える時がきた。落葉や残雪におおわれた暗い沢にも春の水音がよみがえった。勇ましいミソサザイやコマドリの囀りが夜明け前から谷の岩壁にこだました。コメツガやシラビソの林からはウソの朗らかな笛の音が流れ、メボソの歯切れのいい三連音が水のように滴ってきた。歌は日ましに多く賑やかになり、樹下には次々としおらしい草の花が咲いた。こうして春の衝動が波のように高まってゆくある日のこと、あの青ゲラの第一声が雪の山頂に囲まれた清らかな空間に響くのだった。「ケオー・ケオー、ケオー・ケオー」と。
 彼は去年の巣穴のある年古りた樺の樹の太い高枝にとまっていた。未だすこし冷やつく空気の中で日光は暖かく麗らかに、静寂と孤独とに馴れた彼にも何かは知らず情緒にみち、愛をうながす故山の春の眺めであった。彼はもうどこかに来ているかも知れない妻のことを考えた。それで花よりも紅い羽毛で飾られた頭を上げ、萌える若葉色の翼をぴったりと体につけ、銀白色に栗いろの斑点を散らしたみごとな胸を豊かに張って「ケオー・ケオー」と高く鳴いた。すると聴け!谷一つ越した向うの山腹にたちまち鋭い「キョッ・キョッ」という答えがあって、やがて高く低く弾みをつけて真直ぐに飛びながら彼女がきた。彼のように頭上全部の紅くない、ただ後頭部につつましく真紅のリボンをつけた彼女が。
 こうして夫婦の生活がはじまった。楽しい蜜月の飛翔があり、樹から樹へと飛び移って姿をかくす隠れんぼがあり、甘やかな朝や夕べの恋歌があった。やがて可愛い妻はみごもって、樺の樹の新らしい巣穴の底へ八箇の可憐な卵を産みおとした。恋愛の時がすぎて生活はまじめな現実的なものとなった。日数がたって八羽の雛がみな孵った。大食の子供たちは絶えず空腹を訴えた。絲車の廻るような彼らの声が絶えず巣穴の口から洩れひびいた。夫婦は朝から晩まで森の中を飛びまわって、山蟻とその卵や、蛾や鞘翅類の柔かい幼虫をせっせと子供らの口ヘ運んだ。そしてもしも雛たちの絲車の声を聞きつけて害を加えそうな鳥や獣が近づくと、附近の樹から「キョッ・キョッ・キョッ・キョッ」といつまででも根気よく叫び続けて、その警戒の声で敵を退散させ、巣の中の雛たちを黙らせるのだった。するとある日のこと、まず一羽の雛が巣穴から顔を出し、ややしばらく眩ゆい世界をきょろきょろと見廻していたが、やがて思い切って穴の口からヒョイと飛び出した。夫婦のキツツキは感動した。続いて第二、第三と、次々に全部の雛が暗い揺藍をあとにした。
 その間にも高い山頂の雪はおおかた消え、水嵩をました谷は静寂な昼夜を淙々と流れ、百花咲き散り咲き継いで、大いなる夏はその透明な天空の瓶を惜しげもなく傾けた。青ゲラの雛も今は全く成人して一人立ちになった。彼らは両親のもとを離れて思い思いの運命にむかって四散した。時は移った。やがて日はおいおいと短かくなり、寒い夜が長くなって、山にはいち早く霧と霜との秋がきた。山漆や錦木がまず紅くなり、樺の葉が黄に染まった。それを見ると夫婦の青ゲラは互いに呼び合って樹を飛びたち、半年という長い冬の旅に出た。
 そしてある日の夜明け頃、東天にひろがる光をたよりに一つの尾根の垂るみを越えようとして夫婦の鳥が前後して飛んでいるうちに、無残や人間のきたない企たくらみの、あの霞網に夫の青ゲラは引掛ったのだった……

 その無辜の哀れな虜われを見た東京から、きのう私は帰ってきた。そして黄昏の我が家への道の上で「お疲れ」の挨拶をいう百姓の父と娘とを見た。遠ざかる彼らの姿は山の端にのぼる満月の光を浴びて古代のように偉大だった。そして今朝の高原にみなぎる清純な朝の光を全身に受け、霜にけむる路傍の藪や白樺の銀の枝から水のように滴る小鳥の歌を聴きながら、私の思うのは自分の力ではどうしてやることもできなかったあの籠の鳥のことである。また同じ大都会の慰めも喜びもない冬の曇り日を、電車・バスの停留所に、長い行列を作ったり我れ先にとひしめき合っていたあの無数の人たちのことである。
 その人々の大半は顔に深い疲労の色を湛えながら、瞬間のあらゆる小さい刺戟に応じて力の無い眼を散乱させていた。しかも彼らの中のどの一人として、そんな実りもない浅く反射的な毎日を、自分の人生の踏んで甲斐ある大道だとも、幸福への確乎たる道だとも信じていないことはたしかだった。彼らのうちの誰一人として、かつての晴れやかに澄んだ子供のまなざしをかくも速かに失って、こんな不断の警戒や猜疑や小競合こぜりあいのためにさまよわす、こんな血走った眼を持とうなどと決して願いもせず予期もしなかったことは事実であろう。彼らの中の幾人かの眼が今でもなお遠いあこがれに満たされながら求めているのは、都会にたれこめた時雨しぐれもよいの冬空のかなた、枯梗色の大気の中の静寂な山野と、そこでの土を相手の生活ではないかと思う。自然に対して胸をひらき満腔の信頼をかたむけて、もはや競争もなく猜疑もなく警戒もいらず、たとい貧しくとも自発的な仕事とその仕事への愛とに祝福され、何人にも隷属せず、常におのれ自身の主であって、おのれの器量によって創造するさまざまな喜びがその可能を証明されるような生活であるに違いない。それぞれ身につけた学問や知識を生かして、人間の叡智による自然と人力との新らしい結合を生む生活――そんな生活の心象イメイジに違いないのだ。しかもその可能を約束する世界は確かに在る。諸君のための処女地としてそれはこの世に存在する。ただその方角は電車の進んでくる向うでもなく、バスの去って行くあちらでもない。それは諸君の決意の前方、生活や思考の習慣と惰性との厚い障壁のかなたに在る。何物にも曇らされない諸君の無垢の瞳のそそがれる方向、諸君の一途なあこがれのひたぶるにむかう方角にある。
 店頭の青ゲラはついに開放される時は無いだろう。再びあの残雪に近い原始林の春を、咽喉膨らませて高らかに歌うことは無いだろう。あの塗料のはげた歪つな鉄の籠のなかで、やがて襲ってくる最後の疲労のうちに斃れてしまうか、新らしい支配者の手に落ちるかするであろう。しかし知らず識らずの間にみずから虜われの籠へ入った諸君は、その人間性のうちにひそむ断乎たる自己革命の槌を揮って、冬空のかなたの碧い遠方、諸君の心の思慕のふるさと、そこに自然と人間との尊厳と偉大とが幸福にも結ばれるべき世界へと、隷属と盲目との厚い障壁を打ち砕いて出て行くことができるであろう。

                   (一九四八年、南フランス マノスクなるジヤン・ジオノに)

 

 

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 泉

 今朝まだ雪の消えのこっている牧場のへりを歩きながら、私は自分の前方から五六羽の四十雀がパッと飛び立つのを認めた。そして彼らが牧柵に近い桜の枯枝へ飛んでいって、そこから半ば私の挙動をうかがいながら、一方忙しそうに翼を顫わせて水玉を飛ばしたり、黒い細い嘴で羽根を梳いたりしているのを見て、その小鳥たちが今まで水浴をしていたのだということを知った。
 私は彼らの下りていたと覚しい窪みの所まで行ってみた。すると粒々に再結氷した雪の縁の部分が薄くとけて大きな凸レンズのようになった下から、案の定、ほそい清水がちろちろと流れているのを発見した。これはこの近所で私の今までに知らない泉だった。それでその未知の泉のところへ立ちどまって、浅い底に五六枚の朽葉を沈めた銀のような冷めたい水を覗きこんでいるうちに、ふと「ナタナエルよ、僕は泉について君に語ろう」という書き出しで始まる、あのアンドレ・ジイドの素晴らしい数ペイジのことを思い出した――
「岩のあいだから迸る泉がある。氷河の下から湧いて出る泉がある。あまり碧いので、そのため一層深そうに見える泉がある……」
 すると私の聯想は更にひろがって、最近の東京滞在中の電車の中で、げんにその泉のことの書いてある「地のやしないレ・ヌーリチュール・テーレストル」を読んでいる一人の中年の男を見た時の記憶へと移って行くのだった。
 どんよりと物悲しい靄のかかった東京の冬の夕暮、引けどきの満員の国鉄電車の中で、その人は私の座席の前に立っていた。片手で吊革をにぎり、もう一方の手でガリマール版の原書を支えながら、車内のひしめきや車輪の響きとは全く無関係のように静かに、その乗りこんだ新宿から降りる阿佐ガ谷まで読みふけっていた。どこかの学校の教師か研究所の所員かと思われるタイプの人で、革鞄を小脇に、目立たぬ色の外套を着ていた。そしてその外套の上前のへりや袖口はもういくらか痛んでいたが、身だしなみよく、服の布地に似た色の細い絲で綺麗にこまかく縫いかがってあった。
 しかし何よりも私を動かしたのは、今でも私の好きな「地のやしない」の原本を、周囲の世界から自分を絶縁しているように読んでいるその人の顔だった。無帽の漆黒な頭の毛の下の狭くはあるが卑しくはない雁金額かりがねびたい、柔かく澄んだ聡明なまなざし、パレット・ナイフで肉づけしたように微妙に美しく、しかも時には苦がく諷刺的に、時には甘美に逸楽的に見えるその薄赤い唇。それは知性のサファイヤを底に沈めた美への渇望、凪いだ熱情の澄んだ憂欝とでもいうべきものを想わせた。それは東京にして初めて出逢うことのできる日本的なフランスの顔、私の「高原」や「田舎」では決して見ることのない顔だった。
 その数日前、私は神田の街頭で売物になっている一羽の山の青ゲラを見たのだった。虜われとなった美しい野性の命が、鉄製の籠の牢獄の中でまさに郷愁と絶望とに死なんとしていた。同時に私は目標もなく理想もなく、日々の塵労に追われてひしめいている大都会の群衆を見た。私に惻隠の情がうまれ、何か知らぬが憤怒に似たものが湧くのだった。私は彼らの現状からの脱却を一途にねがった。
 私は白分の「山野」を思い、そこへの彼らの出発を夢想した。そこに彼らが新生の礎石をすえ悦びの泉を掘るべき処女地、彼らのつくるライ麦が銀青色に光る一望の盛夏の畠、彼らの粉から練られ焼かれる日々のパン、空色の矢車菊や紅いフロックスに近い彼らの養蜂場と傾けて壷へ移す重たい蜜、清明な露の夜あけと積雪を染める大いなる冬の落日、彼ら自身の喜びとしての労働と隷属を知らぬ自由、叡智によって多彩にされ、芸術にまで高められた一生活の未来の姿……
 私はそういう光景を、曇り日の午後の九段の丘で、目に見るように空想したのだった。
 しかし今ゆくりなくも東京の引けどきの電車の中、私の前でジイドを読んでいる一つの顔を見て私の夢想の壁画に亀裂が生じた。なぜならば曰本のフランスのその顔は、洗練された知性の抽象的な栄養にこそ精神の飢渇を癒やす顔であって、少くとも荒々しい未開の処女地にみずから「地のやしない」を追求する顔ではなかったから。そしてそれこそ大都会の強力な電場に身を曝しながら任意の時に周囲から絶縁して、なおいくらかの精神の自由をまもる貴族的で諷刺的な知性人の白晢の顔だったから。
 そして大都会の一つの力を象徴するこの種の顔は他にもまだ数多く発見されるはずであり、それらの顔はいずれもこう言っているに違いなかったから――
 「僕はそれぞれの泉に対して、それぞれ別な渇きを持つことを好む」と。
  ああ! 

                                   (一九四八年)

 

 

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 初秋の数日

 この幾日、午後になるときまって真白な壮大な雲の峯が周囲の山からもくもくと湧き上がり、盛んな空中放電の反響をきき、すこしばかりだが落雷もあり、かなりの量の雨が降った。陽気は急に秋めいて、朝の気温も十六度、十五度というように下がってきた。クルミの樹の下の森の泉も、花崗岩でたたんだ井戸の水も、この頃では手も切れるようなつめたさだ。しかし雨があがって名残りの雲がちりぢりになり、それが多島海の島々のように西の空へずらりとならぶと、突然はじまったバッハのオルガン曲を思わせながら、華麗をきわめた晩夏初秋の夕ぐれがくる。しかしそれも次第に色あせてゆくと、やがて深く柔かに濡れた高原の星空になり、黒々とよこたわる甲斐駒から八ガ岳へと涼しく煙る銀河がながれ、家の周囲はカンタン、エンマコオロギなどの喨喨の調べをまじえて、ツユムシやクサキリの絲繰歌に満たされる。森のクロツグミは早朝にちょっと歌うだけで、昼間はもうあのつやのある円いフリュートの音をほとんど聞かせない。キビタキも時々ひよこに似た「ピイ・ピイ、クルクルクル」という地鴫きを、秋めいた樹々のなかから洩らすくらい。それにひきかえて今ではヒガラの金属的な「ツツピン・ツツピン」が森じゅうに明かるく響くようになり、朝夕の林のふちや路傍の蔵から流れてくるホオジロの歌がいかにも秋
の初めらしい。
 そして私もまたあのガブリェル・フォーレの「秋」を、Automne を、われ知らず口ずさむことが多くなる――
  Automne au ciel brumeux aux horizons navrants

     *

 森の下草のあいだにそこらじゅうエゾゼミの死骸がころがっている。たいていは雄だ。拾って手の平へ載せてみると思いのほか軽い。ひらべったい円錐形の腹が薄い羊皮紙かパラフィン紙のように透けて、内部には一本の白い絲のような物がこびりついているだけで、ほかに内臓らしい物はなんにも見えない。気がつくとどの死骸もみんな仰向けになって、白い粉をふいた下面を見せてころがっている。投げ上げると錐もみになって落ちてくるが、地上に落ちたところはすべて腹面が上で、うつぶせになるのは一つも無かった。頭部や胸部の背面に重みのかかる物があるのと、死んでもそのまま山型に合わさっている翼のせいだろうと思う。
 しかし死骸も多いが未だ鳴いているのもなかなか多い。その一日のうちの鳴き初めは、今年もやはり森の中の日当りの気温が摂氏二十二度近くに達した時刻だ。アブラゼミもいることはいるが、このエゾゼミに比較するといくらか少い。ニイニイゼミはなお少い。ミンミンは或る日一匹聞いたきり。そのかわり今はもう終ったがヒグラシは実に多かった。しかし今年もまた十匹あまり発生したエゾハルゼミの、あの七月の真昼に聞く優艶な調べべこそは忘れられない。

     *

 裏の畠へすこしばかり作ったライ麦がまだ刈り入れたまま積んであるので、今日は午前ちゅう妻と一緒にその脱殻をやった。去年の十月のはじめ娘の栄子と二人で荒蕪地を開墾して播きつけたライ麦だ。
 広い庭のまんなかへ四畳敷のむしろを二枚ならべ、そこへ足踏みの脱殻機を据えて仕事にかかった。いろいろな農具を揃えるほどにはまだ生活の余裕がないので、今のところむしろも脱殻機も隣の農家からの借物だ。このむしろは目がつんでいて厚く、どっしりと重たく、よく使いこまれて、まるで古い絨毯のような上等なしろものである。脱殼機の踏板を踏むと聯動装置の円筒が軸のまわりに廻転をはじめる。この円筒の表面には太い鉄線を山型にまげた歯が互い違いにまんべんなく植えてある。それが廻る。麦の穂が引掛ってもぎ取られ、籾がはじき飛ばされる――というきわめて簡単な操作だ。
 私は右足で踏板を踏んで円筒を廻転させながら、妻がさし出す手頃な一束を左に搔いこみ、右の手で束の先をひろげるようにして廻転している歯の列にあてる。籾が霰弾のようにぱらぱら飛ぶ。穂がとれて坊主になった束を右へ投げて積み上げる。その間にも新らしいのを左手で受けてまた歯にあてる。何のことはない、片足でオルガンかミシンの踏板を踏んでいるような具合だ。踏板がたえず同じ調子で踏まれて円筒が同じ速度で廻転し、麦束の受け渡しと脱殼操作とがすらすらと行きさえすれば、実に面白い仕事だ。ただライ麦は初めての経験であり、小麦よりも稈かんがずっと長いので(二メートル近くある)最初はすこし勝手が違ったがじきに馴れた。今から二十数年前の新婚当時、東京郊外の上高井戸の田舎でこれも自分の畠でとれた小麦の調整を妻と二人でやった時は稲こきを使ったものだ。赤んぼの栄子を柳行李の蓋の中へ入れて庭へ出し、埃を浴びさせないように小さい蚊帳をすっぽりとかぶせ、空腹を訴えて泣き出すと若い妻がつつましく胸をあけて乳房をふくませていたことなどが、今はなつかしく思い出されるのである。
 脱殼を終って道具と麦稈とをかたづけ、八畳敷のむしろの上へすわって落ちた穂をまとめては棒で叩く。すると籾殻と粒とがうまく分かれる。桜の黄いろいわくら葉が散り、赤トンボの飛びまわる秋の広庭に二人向いあって坐りながら、ストン・ストンと叩くこの仕事はまことにのどかな楽しいもので、なるほど歌を知っていれば誰しも歌いたくなりそうである。
 歌のかわりに私たち夫婦は小さな計画を語り合っている。今はいたるところ蕎麦の花の季節で、その花の蜜を集めるための蜜蜂の巣箱を十幾つ栄子夫婦がある人からあずかっている。その中に一箱彼らのもある。そしてそれが来年分封したら私たち両親にくれるというのである。妻と私との相談というのは、それを貰った時の空想なのだ。箱は蜜蜂の好きな空色に塗ろうとか、いや薄い桃色のほうがいいだろうとか、蜜が採れてもあんまり欲ばらないで半分ぐらいは越冬のために蜂にやって、自分たちはもっぱら精神的に、寓意的に、その透明な金色の液体を賞美しようとか…………
 ああ、それにしても何と常に常に彼ら子供たちが、このようやく年老いた両親を悦ばせる手段を考えていてくれることだろう!
 わかれた粒を篩ふるいにかけ、更に箕でひるとそれで仕上がった。早速あしたは製粉に出して黒パンに焼いて貰おう。はだしになって肥やしをかついだり草取りをしたりしたのだから、栄子も半分は分けてもらう権利があろう。彼女もまた私たち夫婦の酵母と煉粉とから出来たパンだ。そしてその匂いと味とは私という父親に、形と質とは愛する母親にそっくりだ。
 人生はすばらしい。満を引いた五十有余年数奇の生涯。いま杯をかたむけて舌に味わうその最後の数滴のなんたる濃さ、なんたる複雑な苦にがい甘さぞ! 

     *

 三ノ沢の水田と丘の畠の広大な眺望。私は赤松の林を背にした小高い芝地で膝をくみ、両手の平へあごを埋めてこの夕方の景色に見とれている。すっかり晴れて八ガ岳は眼の前。甲斐駒も鳳凰山もほんのりと夕日の葡萄酒いろに染まって、その左手に紫水晶のような富士がでている。空気は極度に澄んでまるで真空の感があり、地形地物は整然たる調和に憩って、天然に対する人間の営みの跡が玉のようだ。
 私の前には雛段状の稲田があって遠く釜無かまなしの谷のほうへ傾き、一枚ごとに外側を石でたたんだその畦ぶちには一列に大豆が作られ、ちょうど花どきの紫ツメクサが柔らかに繁茂して美しい縁飾りになっている。時々その水田の稲の中から「コッ・コッ・コッ」というヒクイナの声がする。気をつけて見ているとやがて赤栗色をした一羽の親鳥が五六羽のまっくろな雛をひきつれて、畦を乗りこえて一段低い次の水田へともぐりこんだ。彼らは稲の株間をわけて餌をあさっているのだろうが、その稲をカサともソヨとも動かさないのは全くもって不思議である。
 そして今、頭上の空間には、いつのまにどこから集まって来たのか知れない無数の燕が飛びまわっている。ざっと数えただけでも二百羽はいそうに思われる。背面を見せて斜に上昇して行く鳥の腰のあたりに白い部分が見えるから岩燕に相違ない。両の翼を細身の鎌か三日月のように張り、流れ矢のように滑翔し、逆落としに落ちてくるかと思えば身をひるがえして浮き漂い、果てしもなく行き去っては舞いもどり、たがいに衝突しそうで衝突はせず、たえず「チリリー・チリリー」と清喨な声を空から滴らせる。西の山の端に沈みかけている落日の光にほんのり赤らんだ高原の水のような空気の中で、綾と乱れるこの岩燕の大群の夕べの飛翔こそは目ざましい。
 おもうに彼らは獲物を追って西山の麓の部落のほうから来たものであろう。そして太陽が次第に山のかなたへ沈みこみ、その光線に照らされる空間の明るい層が次第に高くなるにつれて、獲物を求める彼らの高さも次第に加わり、今ではあんな高空を蚊のように群れ飛んでいる。勿論あの「チリリー」の声も「ヒューッ」と風を切る翼の音もきこえはしない。そういえば英国の生物学者ジュリアン・ハックスリー教授の書いた鳥の本に、やはりこういう燕の飛翔の高度変化を偶然に目撃した時の話があった。たぶん同じように岩燕だったと思うが、教授の場合は時刻が夕暮れではなく夜の明けがたで、暁の光線が次第に地上へ届くにつれて燕も高空から次第に低空へと移動してくること、ちょうど私の場合とは反対であった。
 あたりの芝草が湿めってきた。紫ツメクサもアザミの花も露を帯びてきたようだ。燕の群はもう見えない。八ガ岳も甲斐駒も鳳凰もたそがれの色に黒ずんで、ただ富士山の頂上だけが甲府盆地の空の上にうっすりと赤い。

     *

 妻が夕飯の支度にとりかかるので私は風呂の下をたきつけている。煙突から青い柔かい煙が房房と上がる。今は亡いレオン・バザルジェットの夏の家、あの「水車小屋」の文章がなつかしく思い出される。
 今日もきのうに劣らぬいい夕方だ。広い庭へはもうこの大きな家の黒い影がいっぱいに横たわっているが、森の中へは夕日の光が長々と射しこんで下草の羊歯類をむらむらと泡立たせ、白樺の純白な幹に柔かい金を塗っている。庭のむこうの家畜小屋でときどき牝牛が涼しい空気に長く引っぱった「モウ」の声をあげる。そのそばでは隣家の少年和男君と八平君とが桜の老木につないだ山羊から乳をしぼっている。薄桃色のゴム管のような乳房を兄がしごき、音を立ててほとばしる乳を弟が鍋で受けている。山羊もそう始終はおとなしくしていない。時々は後脚を上げて跳ねる。そうすると弟の八平君が片手に鍋を持ったまま、片腕を山羊の腹の下まで差しこんで両脚をつかまえる。乳搾りが済むと今度は押切りで玉蜀黍とうもろこしの茎を切る。子供の力ではどうかと思って見ているが、彼らの仕事ぶりはほとんど全く大人である。その甘い新鮮な飼料を牝牛がもらい山羊がもらう。そしてすっかり満腹して、夜を迎えて、彼らの守護の星、牧夫座の主星アルクトゥルスが銀青色に暮れてゆく西の空から送るほのかな光を額に浴びて眠るのである。
 しかし今のところその涼しい夜はまだ来ない。晩夏の夕ぐれは満を持して、満干みちひの間あいの潮のようにたゆたっている。森の中はまだ昼のぬくもりに暖かく明るく、まだ樹を叩いているキツツキの黒白赤の羽毛の色もわかる。空を見上げると竜胆色りんどういろの大気の中を二十羽、三十羽、まっくろな翼をのして北から南へ飛んでゆく鴉の群がある。毎日釜無の山のねぐらを出て高原の耕地にちらばり、夕方になるとまた隊を組んで帰ってゆく大群である。後から後から流れるように現れては去り消え、全部で三百羽ぐらいを数えたが、それでもなお遅れて急ぐ二羽三羽があった。
 ペンの仕事が思う存分にできて今日もよく慟いたという気のする一日の終りの、こうした時間が私にはたのしい。風呂の焚口の番をしながら短かいノートを書いたり詩集を読んだりする。今日は久しぶりにエミール・ヴェルアーランを読んだ。「広大な空の輝きに優しい水色の眼を上げて、エスコーやリースの流れを見まもっている亜麻の花」、彼の故郷フランドルの野の花を讃えたすばらしい詩だ。アメリカ東部ロングアイランドの砂浜に打ちよせる無限単調の海の波や、中部諸州の大平原の夏の終り秋の初めに、長い羽根飾りのような乾いた葉をサラサラ嗚らす玉蜀黍を歌ったホイットマンの詩と同様に、このヴェルアーランの詩ではいつでも空と大地との広大なひろがりや天然の要素の瀰漫が、かぎりもない滋味となって心を養う。
 この詩集は今から二十五年も前に高田博厚に貰った本だ。私はこれを東京爆撃の烈しくなった間じゅう、ほかの数冊の本と一緒に避難のルックサックに入れて持ちまわった。高田はもう二十年もパリにいていつ母国へ帰るとも知れぬ。ただ換え難い友情のかたみだけがここにあって、今も詩人私をやしない、私をしてたまたま懐旧の情に泣かしめる……

     *                    

 早朝の深い霧。そしてその霧が晴れるときょうもまたひでりの一日。朝、郵便物を出しに行きながら駅前の町の製パン所へ廻った。途中の丘の道ではもうススキが飴いろに光つた穂を出しはじめ、黄いろいアキノキリンソウや、薄紅の花瓣に濃い紫の筋の入ったタチフウロの花などが、今を盛りと路傍の草原をいろどっている。アザミの紅い花にはヒメタテハや黄蝶が群れ、電線には無数のノシメトンボがとまっている。
 製パン所は駅前の町のかずれにある。中へ入ると厚い板張りの床が糠や粉の油脂でつるつるに光り、健康な親しみのある穀類の匂いがただよい、片隅で二台の製粉機が唸り、調革がピタピタと波を打って廻転し、電気計器の白いダイヤルが光り、濃緑色に塗られた鉄製の四角な漏斗が小麦や大豆の滝を呑みこんでは、蜂の羽音のような微吟を聞かせながら粉砕している。
 頼んでおいたライ麦パンと粉とを若い娘が持って来るあいだ、製菓室を硝子戸ごしに覗いていると、主任が「まあお掛けなして」といって椅子をすすめ、出来たての菓子パンとカルピスとを馳走してくれた。明るい清潔な室内では四五人の若い女性が粉を煉ったり、鉄板の上の型へ濃厚な汁を流しこんだり、出来上った菓子を大きな長方形のブリキの函へならべたりして働いていた。白い布で髪の毛を包んだその娘たちの頭のむこうには、明け放した大窓があり、午前の青空を背景に釜無山脈の一部と五六輪の大きなヒマワリの花とが見え、焼けるパンの香りや糖蜜や牛乳のにおいが立ちまよって、健康な、無邪気な食欲をそそっていた。

                                  (一九四七年)

 

 

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 石の花びら

 戦争でいろいろな物を無くしたのに、その後四年、生活が少しずつ以前の姿をとりもどすにつれて、何やかやとこまごました物が、またいつしか家の中、身のまわりにちらつくようになった。そしてこの一箱の新らしい記念もまたその一つである。
 戦争のたけなわ頃には、書物だけは別として、生活の単なる惰性や古い愛着や、また大して意味も無い理由や口実などによって繋がっていた家具、調度、衣類、それに少しばかりの贅沢品などの所有にたいして、私はしだいに恬淡な気持になることができ、それらの物を自分よりも早く災厄をうけた人たちの用に役立てうる機会があれば、むしろ喜んで、――しかし時には心中いささかの愛惜を感じながら――提供するのだった。そしてついに私にも自分の番が廻ってきて、住みなれた家は焼かれ、よもやをたのんで残して置いた家財の半ば以上が跡方もなく消えてしまった。しかしそんなことは同胞すべての上に振りかかった共通の災厄のように思われたから、無難だった人たちのとうてい味わうことのない殉難の気持と、そのために鼓舞される一種のヒロイズムと、敗戦の空の下によこたわる祖国の山河同様な清潔感とで、今はおちぶれた己れ自身をむしろ気持よく眺めたのである。そして私よりも遥かに徹底的にやられて、文字どおり着のみ着のままになった友人の上を想えば、まだ幾らかでも曳きずって歩くきずなを持っている自分が何となく面はゆく、気恥ずかしいものに感じられたことも事実であった。こうした事実とその後の苦難の生活とについては、もしも後日に到ってもなおそれを記録として残したい気持が変らずにいたならば、いつかは書く機会もあろうかと思っている。
 しかし今日この高原の立秋の朝を、白樺の林に鳴く秋めいた小鳥の声や乾いた西風の音を聴きながら、身にしみじみと懐かしい日光のさしこむ窓際の机にむかって、私の書きたいと思うのはちっともそんなことではない。それはもっとたわいもない只事かも知れないが、しかし確かにもっと好ましく美しい只事であり、戦争と平和との間から私の指がつまみ上げて今こそ新らしい愛ではぐくんでゆこうとする爪の先ほどの幸福、そんな小さな幸福の純乎として透明な、永続的に堅牢な一破片である。
 ベットの上でペンを走らせている七十歳のロマン・ロランと、力強い園芸小刀で夏の畑のトマトーを切っている老ヘルマン・ヘッセとの二枚の写真――私の森の書斎の棚にならんだこれら小さい額縁入りの写真のあいだに、同じように小さい硝子張りの平たい函が置いてある。そしてその函の硝子と裏から重ねた白い綿の詰物とのあいだには、幾本かの石鏃が、石の矢尻が、二列にかっちりと納まっている。そしてこれこそ私の言う美しい只事、この世に私が見いだした小さな僅かばかりの幸福のきらきら光る実証にほかならない。
 石鏃は、人も知るとおり、日本ならば新石器時代と考えられる先史時代の住民の遺物で、黒耀石や珪岩や石英のような、堅くて薄片になりやすい岩石を小指一節ほどの小さい三角形の板に欠いて、その裏と表と三方の縁とを丹念に叩いて刄をつけた物である。幾千年前の狩猟用の道具であり、ことによれば仇敵の額を射ち抜いた鋭利な武器であったかも知れない。それはともかく、植物で作られた矢の束はとうの昔に朽ち去っても、この矢尻だけは用いられた石の性質上数千年間の風化にも耐え、まったく新鮮で今作られたように美しく鋭く、今日でもなお国内各所の先住遺跡から発見される。そして私のような詩人にとっても、それはまた冥々の過去への果てしもない夢想の契機であるのだ。
 私はこれらの矢尻を人から貰った時の、むしろ痛烈とも形容すべき嬉しさについて今でも鮮やかな記憶を持っている。
 函の上のほうの一列はすべて埼王県入間河畔のある高台からの出土で、その附近の町に住む一人の友人から贈られた物である。戦争が終って一年、当時私の物質生活はどんぞこに瀕していた。仕事は無く、仕事を斡旋してくれそうな有力な友だちは背中を見せた。戦災による焦土の中のわずかばかりの所有地は何物をももたらさず、いささかの公債や株券の類も紙屑にひとしかった。全くの無収入と身を削いでゆくような日毎の喪失。それを夫婦だけの秘密として唇を噛んで耐えながら、ともすれば茫然とよろめく心に鞭うった。(登山者は疲労と困憊とのために睡ってしまってはいけない。もしも悲しく甘いその昏睡の誘惑に負ければ次に来るものは死だ!)すると或る時思いもかけぬ空からの救いの手が差し伸べられて、自分のかつての著書の一つが重版されることになった。すべての門のとざされていた私のためにそれを思いついて斡旋してくれたのは古くから親しくしている或る詩人で、その出版を快く引き受けてくれたのが前記の田舎町に住む新らしい友人だった。私はこの出来事を通じてある種のユマニスト達の友情アミチエの口頭禪の空しさと、素朴な人々の間の貧時交の美しさとを、今こそ身にしみじみと学んだのだった。
 ともかくもこうして私たち夫婦はいくらかでも息をつくことができた。そしてある麗らかな春の日、その新らしい友人である出版者を入間川の流れに近い彼の家にたずねた時、壁に懸かった一個の大きな額縁形の函の中に私のみとめたのが、彼自身の採集になるという幾十本の見事な石鏃だった。私の書く物の古くからの愛読者でこの方面の私の趣味をもよく知っている彼は、その中から最も完全な幾本かを惜しげもなく摘まみ出しながら、「宜しいんですよ、先生、まだ探しに行けば拾えますから」という安心させる言葉と一緒に、大切な物を貰うことを気の毒がる私にそれを与えた。おりから向うの秩父の山へ沈む春の夕日が真赤な光を座敷の片隅にそそいでいた。その光線をまっすぐに受けて、私の貰った石英の矢尻が、私の手の上で強く屈折する虹を噴いた!
 やがて私は今いる信州八ガ岳の青々と広い裾野に移り住み、貧しいながらも健康で自由な生活を再興してゆくようになった。高燥な土地と自然とは心にかない、人々の篤実な気質と学問を愛する気風とに喜ばされて、新らしい知友もしだいにふえていった。そしてそういう知友の一人に明媚な湖畔の小都会に住む若い考古学者がいて、その人から附近の出土だといってある日数本の黒耀石の矢尻を贈られた。いずれも空飛ぶ山鳩の咽喉笛を搔き切ることのできるほどな業物わざもので、二股に深くえぐれた根もとまで鋭利な刄がついている。今、函の中の下の列になっているものがそれである。
 しかしその下の列のいちばん隅にある一本、これこそは私にとって一層忘れ難い記憶につながる矢尻である。そしてそれを思うことは連日の空を圧する無数の爆撃機や戦闘機の轟音と、味方対空砲火の甲斐もない唸りと、戦争に怖れおののく田園とを背景とした、我が一篇の悲痛な朝の歌モルゲンリートを思うことにほかならない。
 当時戦争はその末期に近づいて、私たちの避難先である東京都下のある田舎も全く死相を呈していた。附近に軍の飛行場といくつかの兵器工場とがあったため、村はたえず空襲におびやかされ、百姓は仕事も手につかず、人心は戦々競々として村じゅうが極度に動揺していた。すでにその家屋や畑を捨てて西のほうの山間へ逃げ込んだ人々も沢山あった。昨日いた家族がもう今日は見えなかった。家畜や家財は捨て値で売られ、からになった母家や倉庫は釘づけにされた。田園というよりは戦場だった。畑地は大重量の爆弾で鋤き返され、いたるところの屋敷林で二百年のケヤキの大木が木端こっぱのように引き裂かれていた。私たち夫婦はそういう村の片隅にいた。
 ある日のことだった。一人の知合いの若い娘が烈しい空襲の合い間をねらって、避難先の農家へはるばると私たちの安否をたずねに来た。私たちは再会をよろこび、今日までの互いの命を祝し合った。娘は土産だといって奥多摩のわさび漬一折をくれた。防空色の上下に頑丈な登山靴を穿き、髪の毛を堅く包んで厚い大きな防空頭巾を背負っていた。これで別れればまたいつの日に会えるかもわからなかった。妻は帰って行く娘を今はすっかり荒れ果てた街道の端まで見送って、いつまでも手を振っていた。そしてその翌朝、私たちは貧しい食膳の珍味として、若い女性の志であるそのわさび潰を食った。
 その時、突然カチリと私の歯に当った物、ねっとりと柔らかい酒粕に包まれて、わさびの根に食いこんでいた或る堅い尖った物。それこそ実にいま函に納められているあの一本の矢尻だった。
 武蔵の国奥多摩の暗い涼しい沢のわさび、その奥多摩の山の出鼻に人がおりおり見出す矢尻。私は正三角形をして底辺だけ半円にえぐられたその矢尻を、薄赤い瑪瑙のような色をした堅い不透明な珪岩でつくられたその矢尻を、食卓の隅へ載せてつくづくと見た。無量の感慨が山の雲のように渦巻いた。妻は両眼に涙をためて咽喉をつまらせた。
 私たちの古いなじみの奥多摩の山々と、この愛する国土の先史住民の生活の思い出……その幾千年をけみした記念の石鏃を丁寧に紙で包みながら、私の口からきわめて自然に「石の花びら」という一語が洩れた。
 そして再び、毎朝のこととして、空襲を伝えるサイレンの沈痛な唸りを聴くのだった。

                                   (一九四七年)

 

 

 

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 木苺の日

 郭公の声はいくぶん遠のいたが、なお時おりは野の静けさにホトトギスを聴き、午後になるときまったように、山々のうしろへ真白な雲の楼閣の立つ時がきた。森や林のみどりが黒ずんで堅い。丘の白樺の葉むらも乾いてずっしりと垂れている。赫々と照りつける海抜千メートルの高原の日光は鞭うつように痛く、木蔭を持たない薄赤い道路が遠方のきらきらした熱気の奥へかすんで行く。七月が君臨している。この王国は、ここしばらくはその灼熱の統治をつづけるだろう。
 しかし一歩横へそれて、路のあやめも分からないようなしんしんと繁茂した林の中へはいりこめば、そこはもう同じ夏の王国でもまた一種特異の世界だ。大きな青い翼のような羊歯がぎっしりと樹下をうずめ、無数の小さな鈎をそなえた蔓草が蜘蛛手になって絡みあい、そこを押しわけて通るにはいつでも鎌か園芸刀が必要である。そんな時にはちくちくする粉末のような草の実がむきだしの両腕へこびりついたり、細かな羽虫が顔のまわりで煙のように舞ったりする。そして時々は灰色をした大きな蛾が、ふだんは隠している下翅の鮮明な赤い帯や黄いろい斑紋を一瞬間ちらりと見せながら、暗い樹の幹から幹へと気のちがったように飛び移る。
  今日も私はそういう深い茂みをぬけて林の奥の日の当った空開地へはいりこんだ。そこは二百坪ばかりの草原で、カラマツとハンノキの暗緑色の壁に周囲を仕切られ、むこうの隅の湿地には紅いシモツケソウや黄金色のキンバイソウが美しい泡のように咲き浮かび、そのまわりを色々な種類の豹紋蝶がぴかぴかと群れ飛んでいる。私の腰かけている古い切株のあたりは、もっと背丈けの低い草の白や水色や薄桃色の花でいっぱいで、ここにも二三種類のシジミ蝶が小さい踊子のように飛んでいる。そして空気は薮の木毎の甘い香りに飽和し、頭の上にはリチャード・ジェッフリーズを喜ばせるようなほの暖かい夏の空がひろがっている。
 実際、今は一年中でいちばん木苺の盛りの季節だ。ニガ苺、五葉苺、モミジ苺……食用になるさまざまな野生の苺が透明な真紅や黄赤色に輝いて、太陽に醸され、美酒のような匂いを発散し、ちょっと触れても直ぐにほろほろとこぼれるばかりに熟している。しかしこうした野のくだものの最盛期は、この世のすべての好ましいことと同様にそういつまでも永続きはしない。機を逸したが最後、もうどこをさがしても一粒だって見当らない時がくるのだ。
 私はあたりの藪へ近づいて忽ち両手の平にいっぱいの苺を採集する。そして掌を椀のようにくぼめ、一粒一粒唇の先であやつりながら啜りこむようにして食べ味わう。舌に散る汁は酔わせるようにあまい。体の丈夫なことが感じられ、精神のなお若々しいことが自分でもわかる。ヘッセのクリングゾルが想われ、シュティフターのチプリウスが思い出される。あの物語でも主人公チプリウスはこのように森の木苺を食い、おまけにその森の小径で賢く美しいマリヤという妻を得たのだ。しかし私には妻もある。子もある。一人だが孫娘もある。ただこの上なおも欲しいものがあるとすれば、このなつかしい人生にあって、花々しく性急に短命だった画家クリングゾルのそれよりももう少し気の長い自分の仕事と、たましいの深く落ちついた喜びとのための余生である。

                                  (一九四八年)

 

 

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 紫つめくさ

 夏時間の午後六時ごろ、私は散らかった机の上を片づけると、雨天でさえなければ森の中のわが家を出る。羚羊かもしかの毛皮の臀あてをし、小さい竹籠を腰にさげ、一挺の鎌を手に兎の餌を刈りに行く。餌は紫ツメクサでまたの名をレッド・クローヴァ。それが程近い丘の裾に今はあおあおと柔らかに繁茂して、紫がかった薄紅い毛絲玉のような花を高原の夕ぐれの清涼な空気のなかに漂わせている。
 草原いちめんに咲いたこの花が次第に晴れてゆく夏の朝霧に重たく濡れて、半透明に薄紅く、しっとりとうなだれている風情もいいが、また高い壮麗な夕ばえの雲の色に染まって、金色をおびた桃色に波うっているのも実に美しい。
 夏のこのごろを全盛の時として、五月末か十月のなかばごろまで、信州の山野田園のいたるところに、白い八文字の斑の入った柔かい緑の三裂片の葉、こまやかな蝶形花の球状の集合からなる宝石のような花、蝶や蜂をいざなう甘い蜜の香。その紫ツメクサが、緑肥や家畜の飼料としてのみ認められて、山地田園風景の一要素、人間の眼のよろこびの対象として讃えられることのすくないのは、彼らがあまりに多産で、ありふれて、少くとも日本ではかつて一度も詩にも絵にも取り上げられることのなかったせいではあるまいか。
 誤って月見草と呼ばれているあの待宵草まつよいぐさもうつくしい。日光黄菅や夕菅もいい。竜胆りんどうも桔梗も撫子も、山国ではことにその色が深くあざやかだ。しかしどこにでもふんだんにあってどこででも旺盛な生活力を発揮しているこの草は、同じ仲間のクサフジやツルフジバカマとともに改めて遠近から見直され、強壮で率直な野生美の対象として、新らしい認識を与えられて然るべきではないだろうか。
 八ガ岳を見わたす丘の裾、水田にのぞむハンノキ林のかたわらから、紫ツメクサの原は数知れぬ花をうかべて遥か向こうのほうまで続いている。私は彼らの美と繁殖のことを考えて、花のついた茎をなるべく避け、葉だけの枝へ鎌を入れる。重たい甘い蜜のにおいが水のような空気にしみこんでいる。瑠璃色のアサマシジミや金灰いろの蜜蜂が鎌の先からあわてて飛び出す。小さい籠はじきに柔かい葉でいっぱいになる。可愛い大きなルビーのような目をした兎たちが、やがてこれを彼らの潤沢な夕べの糧として与えられるのだ。そうすると台所の竃から立ちのぼる薄青い煙のなかに、白金のような棚機たなばたの星がぽつりと光りそめるだろう。
 私は毛皮の臀あてを敷いて芝草の上へ腰をおろす。頭上には錫の粉を溶いて流したような雲がたたなわっているが、ところどころに明いている空の色が気も遠くなるほど深く碧い。この大きな雲の影と青空の下とで山々の緑はむしろ黒く、裾野の緑はいよいよ明るく純粋である。私は煙草に火をつける。心の中では形をなさぬ詩の予感が、その形成の時の長びくのを喜ぶように揺れる波紋をえがいている。向うのカラマツの林から一羽の赤腹が今日の最後の歌をうたい出す。その甘美な豊かな歌声の反響が、いまこの高原の空気のどんなに鎮静し、どんなに瞑想的であるかを思わせる。芝草のほそい葉先に、もう一滴ずつ露のしずくが結んでいる。

                                   (一九四八年)

 

 

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 草に寝て

 緑の草のなかに仰向けに寝て、両手を枕に空を見ているなどということは、今日ではすでに一つの贅沢だといえるかも知れない。そういう場所は、昔ならばいざ知らず、今ではどこにでも有るわけではなく、またそんな暇を持つ人のきわめて少いことも事実なのだから。都会や町中ではもちろんだが、そこからすこし離れた田舎にしても、家屋の聚落や大小の道路をのぞけば、あとはたいがい田か畠になっているのが我が国の「郊外田園景観」の普通の姿である。野には菜の花、すみれ、たんぽぽ、遠い山々は薄霞み、空に雲雀の声をきく春の行楽というようなことは、われわれの小学生時代の国語教科書にも書いてあったし、明治三十年代の「散歩唱歌」などで声張り上げて歌ったものである。そしてやや長じて、それを懐かしく思い出し、少年のあこがれに誘われて行ってみれば、その頃でさえ、もうどこにもそんな楽園のような「春の野辺」の無かったのが実際であった。
 事情は今では一層幻滅的になっている。たとえば古い武蔵野のおもかげが、そこならば未だいくらかは残っているといわれる埼玉県西部の小手指こてさしガ原はらや櫛引野くしびきのあたりを歩いても、赤松や雑木の林でなければ桑か陸稲おかぼの畑地ばかりという有様で、おまけに空はたえず飛行機の爆音に引きさかれ、草のそよぎや雲の遊びや、瞬間を永遠と感じさせる静寂などを保証する原野らしい広がりは、よほどのひいき目でもなければこれを認めることができない。時と場合によれば、くつろいで休むに足る片隅さえ容易なことでは見出せず、路傍の立ち古した御堂の縁に腰をおろすか、壊れかけたコンクリートの小橋にでも凭りかかって、畑中の道路を疾走するトラックの砂塵の壁を眺めるくらいが関の山である。
 手近かなところに野も草原もなく、どう少く見積もっても一日を潰さなくては晴れやかな緑の広がりの中へ行って帰って来ることができないとすれば、暇が無いというのも道理である。高い旅費と時間とをかけて、ただ草の中にごろりとするだけの目的で遠く出かける人というものは千人に一人の特志家に相違ない。残りの九百九十九人にとって手軽なレクリエイションならば未だほかにいくらでもある。たとえばぶらりと映画館へ入ってもいいし、本屋の棚をのぞいて歩くのも悪くはない。相手の一人もあればキャッチボールで楽しむことだってできるではないか。全くそのとおりである。しかしここで考えられることは、いわゆる暇が無いということと或る楽しみに面白味を見出さないということとは別なのである。面白味を見出してこれを涵養すればこそ、楽しみはいよいよその滋味を深めるのである。だから野外の自然になんらの興味も喜びも感じられない人が、たまたま暇があれば都会の雑沓のなかに流れこんで、そこで半日か一日の人為の行楽を買うとしても是非がない。枝から枝へ網を張る蜘蛛の作業を楽しんで見る人よりも、金を出してもサーカスを見に行く人の遥かに多いのもこのためである。
「尾崎さん、あなたは釣はなさいませんか。とてもお忙しくてそんな暇は無いでしょうね」と、或る釣好きの人が私にむかって質問の釣針を投げる。
「いいえ、僕はそんなに始終忙しくはしていません。暇はもちろん有るのですが、実はまだ面白味のわかるほど釣というものをやったことがないのです」と私は答える。
 そしてこれが私の本音である。書棚にならぶアイザック・ウィルトン、エドワード・グレイ、佐藤垢石などというその道の達人から、釣の妙趣について実に多くを聴かされていながら、またいくたりか釣好きの知人を持ち、近くにはイワナの釣れる渓谷やフナの好漁地の湖水や川を持ちながら。そこで人はいうのである。
「惜しいですね。あなたが釣をなさらないとは。英国のヘンリー何とかいう人の『鮭』や『カワウソ』の物語をあんなに熱心に話して下すった自然詩人のあなたがですよ」
 立派なびくと継竿と、股まで入るゴム長靴とで武装した水辺の友よ! いつかはそれをするとして、今のところやはり私は草原を選ぼう。片側は高いハンノキやクルミの樹の灰色と緑の列、片側は銀緑色に光るカワヤナギにおおわれた崖の斜面。その間を水成岩の転石にせかれたり静かな淀になったりして流れている青い谷川に、おりからの晴れやかな夏の日を、五六寸から一尺にも近い幾匹のイワナが、あるいは暖かい川底の砂に腹をつけて胸鰭をひらひら動かしながら静止し、あるいは流れに乗って悠々と泳いでいるのを私は見て知っている。そして「一生が終りに近づいた時、その生涯に蚊針釣の機会を持った人、釣というものを楽しむ天性を与えられて生れた人にもまして、ある感謝の念をもってかつての行楽の日を振りかえる人はまずあるまい」という、あのグレイ・オヴ・ファロードンの美しい述懐の言葉を思い出すのだ。しかしそれにもかかわらず、私がきょうもその谷川を一本の狭い板橋で渡り、木苺の最後の実の点々と紅い薮の小径を登って台地の草原へ立ったとすれば、それは私のうちにあるいは恵まれているかも知れない「釣を楽しむ」天性が、この年になってもまだ容易に目ざめてこないためであろう。
 たとえ一時間でも二時間でも、都会生活の塵労を癒やすために一人ながながと草の中に寝ころんでみたいと願っていながら、ついにそれのできない千人に一人の特志家にはこの際ゆるしを乞うとして、私は一日の仕事をおえると今日もまたここへきた。
 ここは信州のある高原、その広大な空の下でほとんど誰からも顧みられない草原の一角、私が呼んで「ハイランド」といっている茫々たる高みである。あたりは山や地平線の眺望をさえぎるような木立もなく、もちろん無遠慮に風景をまたぎ越す電往の影さえない。つつましい一筋の道が長い草の中をひっそりとかよってはいるが、人の往来もきわめて稀で、一日じゅう日光や雲の影の遊び場、また時として雨や霧の舞台である。
 七月下旬、夏時間の午後六時半、太陽はまだ日没前一時間ばかりの高さにある。私は家畜の餌にするクローヴァを満たした大きな背負籠をかたわらに、我が「ハイランド」の夏草のなかに寝ころんでいる。その草の葉越しに八ガ岳の連峯がほのぼのと薄青く横たわり、やがて夕映えの金紅色に染まるべき二筋三筋の白い巻雲を山頂の空に浮かべている。暑かった一日のなごりに地面はまだ暖かいが、そよ吹く夕暮の風はこの高原の草を冷やし、シャツの袖をまくり上げた私の腕からほどよく体温を持ち去って行く。
 終日の仕事のあとの快い疲労と、欲望も悔いもない静かな心。私は緑いろの布表紙の薄い詩集を腹の上へ伏せたまま、両手を枕に空を見ている。一つの仕事に没頭している時にはできるだけ書物を遠ざけるのが私の習慣だが、いくども繰り返してその意味を知りつくしているような外国の詩の一二篇ならば、こんな時に読むにはいちばんふさわしい。今日はハンス・カロッサを持ってきた。初冬の夜の星の光や原始の母岩から穿ち出した純粋な結晶をおもわせるこれらの詩句には、人の心を癒やしながら、それを厳しく強めたり高めたりする力がある。
 私が詩集をとり上げてもう一つ何か短いのを読もうとした時、とつぜん夕暮の空の中で鋭い鳥の叫びがきこえた、
「キーウィッ・キーウィッ!」
 私は声のした方角を目でさがした。頭の真上からすこし東寄りの空の非常な高みを。ノスリと覚しい二羽の鷹が、その滑翔のえがく二つの精力的な大きな円を交わらせながら広々と旋回している。両翼をのして流れるように飛行し、やがて二三回の緩慢な羽ばたきでぐるりと大きく方向を転じてはまた豪快な滑翔にうつり、こうして次々と空中のすばらしい曲線を完成しつつ進むのである。そしてそのたびに横からの夕日をうけた彼らの腹や背がピカリピカリと金いろに光るのであった。
 しかもなお一層私に固唾を呑ませ、私をさらに感動させたのは、彼ら夫婦の鷹の前になり後になりながら、その三分の一ぐらいの大きさをした二羽の幼鳥が、菫色に澄んだ深い大気の海を同じように円をえがいて舞っていることだった。そして大小四羽の鷹のえがく四つの円が、ある時はそれぞれ遠く離れたり、またある時はたがいに美しく切り合ったりしながら、次第に西へ西ヘと移って行く。
 おもうに巣立ちして以来翼の力もようやく強くなった兄弟の幼鳥が、両親に連れられて高空での長い飛行の練習をしているのであろう。私はその幼い鳥たちがすでに猛禽としての威厳と品位とをそなえていることに強く心を打たれて、彼ら親子の四つの姿が夕日にけぶる空の遠くへ溶けこんでしまうまで、眼を凝らして見送っていた。
 そしていつか自分の影が草の上で長くなり、釜無の山々が青い柔かい夕影に満たされ、八ガ岳がなみなみとした透明な薄赤い空気に酔い、やがて太陽が沈んでところどころに浮かぶ雲が薔薇いろに染まってきた時、私はやおら起き上って竹籠を背負い、もう露じみてきたこの草原の丘をゆっくりと下りて行った。

                                  (一九四八年)

  

 

 

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 一日の終りに

 今日は夕方から隣村のある友人の家へ招かれていた。緑の谷の涼しい木々にかこまれたその家で、東京からの客である一人の音楽家にひきあわされ、晩餐を一緒にして、夜はその客の弾くピアノに耳を傾けようというのである。そしてその音楽家を私に紹介するのは、谷の家に住む友人にとって余程前からの楽しい懸案だったということである。
 ところが私にはここ数日以来持てあましている一つの仕事があった。それは頼まれて僅か三枚の原稿を書くことだが、題材に対してちょっとした編集上の註文がついているために、そのたった三枚が思うように書けないで苦しんでいた。というのはこの二三年来自分の好き自由なことを時間や枚数の制限なしに書く習慣がついているせいか、題材の暗示と長さの註文と、それに締切日があるというただそれだけのことが妙に重たく胸につかえて、どうしても気に入ったように書けないのである。
 三枚ならば三枚で枝からもぎたての果物か、屈折の強い結晶のような作品でなくてはならない。ところがそれに必要な自由さと凝縮とが得られない。しかも締切日は容赦もなく近づいてくる。そう思うと毎朝机にむかってもまず気持のほうが萎縮して自信が薄れ、書くには書いても文章に充実もなければ悦ばしい光もなく、そんな原稿に署名をして送る気には到底なれなかった。もう二度書いて二度とも破り棄てた。その間にも東京では編集者が首を長くして待っている。今さら電報で断るわけにもいかなかった。
 こうして今日も朝から私は机にむかっていた。そしてすべての徴候には今日もまた徒労に終りそうな予感があった。
 なぜかといえば机の前にひらけた裏庭の夏が、きのう同様ちっとも変っていなかった。そこには今日も豊かに青々と草木がしげり、大きなヒマワリの円盤が黄色く単調に愚直にかたむき、小径に沿った低い柵には白や朱色の茸きのこが貝殻か耳のように生え、暗いイチイの樹の中で今日もキビタキがあいも変らぬ忍び音で歌い、時々思い出したようなエゾゼミの斉唱が繰り返され、強い鋼鉄色に光る一匹のタカネトンボが軒の高さの暑い空間を飽きもせずに往復している。そして庭をかこむ樹々の梢と軒先との間には、今日も青光りする真夏の空がひろがり、白い帆やハンカチのような雲が今日も静かに南から北へ動いている。
 家の中にしても同じことだった。夏の好きな私は頑強なくらい丈夫だし、妻も娘夫婦も皆元気でそれぞれ家内や畑仕事に働いているし、それにまじって生後四ヵ月になる孫娘はいよいよ白く丸々とふとり、黒い涼しい水滴のような瞳、えもいえず愛らしい口もと、仰向けに寝かされて何か嬉しそうに動かす手足の運動や、その訳のわからぬ独り言などの魅力で、相変らず家庭というものの古風な、根強い美徳に貢献している。
 要するに、一つの典型的な「家庭」なるものに就いてポール・ヴァレリーの正しくも指摘したあの二つの命題、「夜のスープを囲む団欒と内的な特殊な倦怠感」とが、今日も私を取り巻いて完璧だったのである。
 この完璧な世界は、もちろん私にとって欠くことのできない防波港には相違ないが、たまたま精神の空が雲行きの変化を期待し、詩の船が浪の抵抗や嵐の衝撃を欲する時には、それはあまりに無風静穏の水域でありすぎた。炉辺のコオロギに家庭生活の親愛な夜の歌を聴き、聖シルヴェストルの朝の鐘に庶民生活の気安さと静穏とを汲むのもいいが、環境の凪におぼれて小人国リリビュートのガリヴァーとなりおわることは警戒しなければならない。同じ池から飲む家畜は常に生まぬるい水をしか見出さないだろう。それならば蹄の痕でこねかえされたその池畔を時には捨てて、羊歯の陰からほとばしる硬い清冽な水を求めるがいい!
 こうして周囲の無事平穏の中で苦吟に悩んでいた私は、その新鮮な泉を今夜の小さい集まりに見出すかも知れないと思い、机の上を一掃して仕事の泥沼から綺麗さっぱりと足を抜いた。そして幾日ぶりかで鬚を剃り、軽い麻地の服に着かえ、もうススキが柔かい褐色の穂を出し、黄色いオミナエシや薄紫の松虫草の咲いている裾野の丘を三つ越えて、約束の時刻よりも少し早目に、渓谷にのぞむ友人の家の玄関へ立った。
 私は友人から彼の客である音楽家にひきあわされた。ピアノが専門で、東京のある音楽学校の教授だということは前から承知していたが、会って見ると想像していたよりもずっと若く、まだ四十にもなっていなかった。戦争中は北満に従軍していたとかで、瀟洒なうちにも重厚な風貌をそなえ、ある種の音楽家にしばしば見るような社交的な軽薄さや職業的な厭味が全く無く、率直で親しみぶかく、鋭くて自重を失わないその態度や人柄が私をよろこばせた。その人にはなお三人の連れがあった。三人とも若い令嬢で、東京でこの教授からピアノを習っている音楽学校の生徒だった。そしてそのうちの一人はこの家の主人の姪で、私も今までに三四回会っていた。立派な体格をしたこの娘はカールもウェイヴも掛けない髪の毛を肩まで垂らし、クリーム色の地に薄緑の縞を配した明るい夏服を着ていた。細そりした背の高いもう一人は黒味がかった渋い好み。他の一人は褐色と緑の唐草模様を染め出した派手な服を着て、二人よりも小柄で年も下のように見えた。
 別室の日本間での晩餐が終り、ピアノのある山小屋風の客間へ戻って珈琲や果物の饗応をうけながら雑談している間に、窓の外では緑の谷間が涼しく蒼くたそがれて行き、山々の頂きを染めていた薄赤い夕ばえの色もいつしか消えて、深い空の奥から星の光がきらめきはじめた。友人はランプ型の電燈二つに明りをつけると、
「さあ、いよいよ演奏会に移って、皆さんのピアノを聴かせて頂きましょうかね。ではまず敬子、お前から」と、クリーム色の明るい夏服を着ているその姪をうながした。
 娘はすらりと立上ってピアノヘ近づいた。厭ともいわず悪びれもせずに立上った姪を見て満足した叔父がまず大きく拍手を送った。二三人がそれに和した。すると娘は突然向き直って、「厭よ、そんなことしては!」と強く押し返すように言いながら叔父の顔を睨んで、さて向うむきにぴたりと楽器に向って腰を下ろした。恐らくそれはもっともな抗議だったのだ。彼女はこれからバッハを、それも自分の先生と、叔父と叔母と、叔父の友人である詩人と、もう一人の青年と、そして同僚たちとの前で弾くのだったから……
 娘は音もさせずに黒々と光る蓋を上げた。暗譜だった。
 彼女の両手が鍵盤の上の空間で左右へ広い位置を取り、両手の指が獲物に襲いかかる鷹の翼のような形になったかと思うと、それがいきなり打ちおろされて一つ、また一つ、雷鳴のような和音が石の煖炉をはめこんだ山小屋風の室内に鳴り響いた。素晴らしい告知!  ヨーハン・セバスチヤン・バッハの「パルチータ」ハ短調、スインフォニーとフーガが始まった。
 私は目をつぶってこの果てしもなく聳えひろがる音の建築に全霊をゆだねていた。初めはケルンの大伽藍が想われ、ランスの大本寺が見える気がした。しかしやがてそういう現実の形象は崩れ去って、バッハの不壊の堂塔が着々と天を摩し地を領していった。それは真に「拱橋を架し、楼閣を築き、穹窿を張り、空間を設ける形成力」の比類もない音楽的示現だった。天啓かと見えて数学であり、学ぶと見えて実りであり、目も綾な即興かと見えてその根は倦むことを知らぬ探求と研鑽との遠い歳月につながっている。そして「あたかも自然に働くもろもろの力のように、それ自身を意識せずして現れ出でる測り知れない芸術**」であり、その音楽の奔流はつねに神々しい調べと光とにあざなわれ、端倪をゆるさぬ迸出には星辰的宇宙の創造のリズムと秩序とを彷彿せしめるものがある。それはいつまで耳を傾けていても倦むことがなく、しかしやがて時が来て訣別の日ともなれば、それとの別れを辛らく思うような慕わしくも懐かしい音楽である。まことに彼のある合唱曲が

   Wenn ich einmal soll scheiden,
   so scheide nicht von mir.
   いつかは遂に去りゆくとも、
   主よわれを離れざれ。

と、敬虔な男女の声で訴えるように。
 娘は最後の和音の余韻がまったく消えると、静かに立上って自分の席へ戻った。今度は彼女も一同の拍手を拒まなかった。私も人々に和して心からの拍手を送ったが、自分のうちに高く築かれた夢の伽藍の消えてしまうのが惜しまれた。むしろこのまま外へ出て谷に沿った路に立ち、まだ耳の奥で鳴り渡っている聖なる音の殿堂を、中天高く昇ってくる星々の下で持続けたかった。
 それにしても見事な演奏だと思った。がんらい私には曲そのものに自分の心を与えながらその流れに導かれて行くという習慣があって、演奏者の巧拙如何はさのみ意に介さないのだが、久しぶりに聴いたこの若い娘の進歩には今更ながら感嘆を禁じ得なかった。
 続いて背の高い黒衣の娘がベートーヴェンのハ短調「三十二の変奏曲」を華々しく立派に弾き、唐草模様の服の小柄な娘が嵐に揉まれるバヴァリヤの森のようなブラームスの「ラプソディー第一番」を力強く弾奏した。そして最後にこの娘たちの先生その人が趣きを変えてスカルラッチの「パストラーレ」を、パラティンの丘の薔薇の花とそれを照らすローマの春の日光や、地中海の空や微風を再現するかのように生き生きと彫塑的に弾いて、今夜の小さい演奏会の幕をとじたのであった。
 午後十一時、私は坂の上の村道まで人々に見送られ、そこからは一人で露の小径を折からの十日の月の光を浴びながら我が家へ帰った。ほのぐらく横たわる釜無の山々の麓には点々と村落の明りが瞬き、波濤のような八ガ岳のうしろからは次々と新たな星座が昇ってきた。
 今夜の経験は本当によかった。「自分自身であることの権利と、それを家族の者から容認してもらえる確信と、そこでの休息と、心を落着けてくれる温かさとを常に見出す家庭」というものから一歩を出て、野をよこぎり、谷へくだり、一日の終りの数時間を他人のあいだで暮らして、新鮮な社会的接触と芸術的興奮とを持つことのできたのは何といっても幸いだった。私のうちには未だあのバッハやベートーヴェンが響いている。未だ月にきらめく道の露や昇ってくる夜更けの星の思い出がある。自分の持てあましている作品が、あすの朝こそはおのずと開く花のようにきっと楽々と一気に書けると私は思った。

                               (一九四八年、岩附敬子嬢に)

 *エルンスト・ベルトラム  / **アルバート・シュヴァイツァー

 

 

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 乾草刈の頃

        「そして昼間がすでに短かくなり、夏の暑熱のやわらぐ時」ヴェルギリウス「農事詩」

 例年になく雨の多かった今年の夏、田圃の稲が水をかぶったり、畠の麦が立ったまま穂の間から根を出したり、馬鈴薯がまっくろになって腐ったりしたこの山国の変調の夏。しかし百姓はいたずらに落胆して手をこまぬいてはいなかった。彼らは一家総出で破壊された箇所をつくろい、少しでも助かる見込みのある物は手をつくして助けて、畦を塗りかえ、欠けた株間をおぎない、畝を切りなおして秋蒔の種子を早目に播いた。すると努力しながら待つことを知っている者にいつかは「時」がほほえむように、八月もなかばを過ぎると、さしも頑固につづいた悪天候の空がある夕がた西のほうから美しく破れて、それ以来太陽は連日ゆたかな光と熱とをそそぎかけ、夏はふたたびその力と美とを盛りかえした。
 そして九月、今や高原の畠で豆類の青銅色の葉が朝ごとの露に濡れ、玉蜀黍とうもろこしや黍の葉がはたはたと西風に鳴り、秋蕎麦の花がいたるところの斜面を真白にしている。豊作を予想される山田の稲はここ半月がもっとも大切な花時だが、幸い二百十日も無事に過ぎて、二百二十日も安全を予想されている。森の中ではさまざまな茸がにおい、キツツキやヒガラの金属的な声がほのぐらい木の間に響く。赤トンボがいよいよ赤く、松虫草やアザミの花の上で羽化したばかりの孔雀蝶や赤タテハが華麗な羽を開いている。そして山々の紫が日ごとに澄み、裾野の風景に黄の色の増すこの爽やかな初秋の毎日、私の住むこの信州の高原では、青と金とのなごやかな昼間を各所に芝火の煙が上がり、思わぬ片隅で乾草刈の鎌がなっている。
 信州で農事暦中の一項を占めるこの乾草刈は、ちょうど今頃の晴天つづきを見越して行われる。この行事は春の刈敷、晩秋の落葉搔きとならんで恰好な三幅対をなしている。刈敷かりしきというのは代搔しろかき時の水田へ緑肥として踏みこむためにハンノキや蓮華ツツジなどの若葉の枝を刈ることであり、初時雨のころに搔く落葉は堆肥の用に使われる。そして今刈り乾されるこの草は、牛、馬、山羊、兎などの家畜のために来年の春までの飼料になるのである。
 牧畜のさかんな欧米諸国での六月の乾草作りヘイ・メイキングは、暑い花やかな季節における歴史も古い一つの祭めいた行事であるが、少くとも日本のこの信州では、それは夏のおわり秋のはじめのひっそりとした山蔭や田圃のふちに、一人二人の姿を見るほとんど目立たない仕事である。それでもなおわれわれの固有な風土と習俗との中で、これまた一篇の昔ながらの牧歌とはいえるであろう。たとえ「わしと行かぬか朝草刈りに」の古い哀調はひびかなくても、紺絣の筒袖に黒い裁着たっつけをはいて手甲、地下足袋、白布の頬被りの上から鍔広の麦稈帽をかぶり、赤い紐をあごに結んだ眉目涼しい信濃乙女が、傍らの九月の立木に馬をつなぎ、色さまざまな秋草の花のなかに一人うつむいて鎌を動かしている情景は、やはり世界の農村風俗画廊にならべて遜色のない、これも一幅の名画だといえるであろう。
 草刈りは今言った民謡にもあるとおり、びっしょりと露に濡れた朝のうちに行われるが、多くはその露の干る頃からはじめられる。もちろんめいめいの刈場は一定していて、勝手に他人の領分を侵すことはできない。爼原や広原のような八ガ岳裾野の草地はもとより、こんな所でと驚くような山奥へさえ遠い下の村から刈りに来ている。
 鎌は柄が長く、刄渡り七寸から一尺ぐらいまでの物が使われるが、一茶の故郷柏原で打ったものが昔から珍重され、砥石は上州富岡の産というから、あの荒船山の麓、群馬県北甘楽郡砥沢の石が喜ばれるのであろう。もっとも皆が皆そういう一流品を使っているわけではなく、たいていは大量生産の農業会物で間に合わせているのである。ある日秋風と午後の日光との快い芝地に休んで乾草刈についてのいろいろな話を私に聴かせてくれた一人の老農は、
「この鎌はこんなに磨り減ってしまったが、わしの親爺の代からの柏原物です」
 といいながら、傍らのハンノキの切株から出ている五六本の若枝を片手切りにサッと薙いだ。すると鉛筆よりも太い枝が業物の一刷でみんな切れた。
 クルミの丸い実や芝栗のイガが黄いろくなり、赤トンボのおつながりが無数に現れ、時おり夕シギの小さい群が稲田の上の青い空間を電光形に飛ぶ九月のなかば、そよ吹く新らしい西風と残んの熱い日光とを喜びながら、村落から村落へと山沿いの田舎を歩くことが何と楽しいだろう! 昨日も私はそれを試みた。どこの農家でも燃えるような葉鶏頭や、薄紫の友染菊や、しおらしい蝦夷菊、鄙びたコスモスなどが、古生層の青石でふちどられた花壇の秋をいろどっていた。そしてどこの農家の庭を覗いても、ひろげて乾した刈草でいっぱいで、乾燥したヨモギやカヤの健康な匂いがすがすがしく鼻を打った。
 ちょうど私がそういう部落の一つを通りすぎて、八ガ岳の裾野の大半を見晴らす或る坂道の曲り角へさしかかった時だった。右手の斜面の草の中から「先生!」と私を呼ぶ声がした。立ちどまってその声のした方を見上げると、一人の若い百姓が丈高く茂った草の斜面をまっすぐに駈け下りて来た。この附近の或る農家の次男で、戦争中は陸軍の戦闘機へ乗っていた復員者である。
「先生、どちらへ」と、青年はにこにこしながら道路の上の私の前へ立ちはだかって聞いた。
「何処って、別にあてもない散歩だよ」と私は答えた。
「そうですか、お天気がいいから」
「そして君は」
「自分ですか。自分は今日はこの上で草刈です。誰か下を通ると思って何げなしに見るとどうも先生によく似ていたから、つい……」
「そうかね。じゃあちょっと休んで行こうか」
「どうかそうして下さい、自分も休みます」
 そんなわけで青年と私とは路傍の草の上へ肩をならべて腰を下ろし、洪水のような午後の日光にひたされて処々に雲の影を浮かべている晴ればれした裾野の風景を見わたしながら、一緒に煙草を吸ったり、よもやまの話をしたりしていた。すると青年は急に何かを思い出したらしく、
「ああそうだった」と言いながら、シャツのポケットから小さく畳んだ一枚の紙きれを取り出した。そして、
「先生、これはどういうことが書いてあるんですか。自分は農学校時代に少しばか遣ったきりで英語はいっそ駄目なんですが」と恥ずかしそうに言って、ひろげた紙片を私に渡した。
 それは美しい書体で筆写されたワーズワスの短かい詩で、たしか「プレリュード」の中に有った一篇だった。そしてその大意はこうだった――
「懐かしい故郷の地よ、我が生涯の道がたとえいずこで終ろうとも、私はおんみの上を思うだろう。いまわの際にもなお一目おんみを振りかえり見るだろう。すでに谷間にその思い出の輝きは失せながら、なお最後の力の優しい名残りをもて落日の光が消えなずみ、かつて朝日として昇った山頂を今は別離の色で染めるがように」
 青年は私の訳して聞かせる詩の大意を黙然として聴いていたが、「これはどうしたのかね」という私の問いに改まって答えた。それによると、これは生き残った戦友の一人が書いて送ってよこした物で、今ではもう絶筆であった。その戦友というのは群馬県の或る豪農の長男で、英語を良くし、陣中でも一冊の小さい英書を肌身離さず持っていた。立派な人物であり、心は優しく、兵としては豪胆で武運もまた強かった。二人は隊では兄弟のように睦まじくて復員も一緒だった。彼は故郷の群馬へ帰ると間もなく胸を病んだ。乾草刈の頃にはぜひ一度信州へ訪ねて来て、一緒にこの高原を歩いたり茸狩をしたりすることを何よりも楽しみにしていた。ところが悲しいかな最近急に病が重って遂に死んだ。享年二十四だった、と言うのである。
「君と同い年だね」と私は言った。
「そうです。きっともう駄目だと覚悟して、自分にこれを書いてよこしたんですね」
 若い農夫はそう言いながら、胸の奥へ秘めるようにその紙をシャツの左のポケットヘ、まさにその心臓の上へ押しこんで、そうして節くれだった太い指で、白い瀬戸物の小さい小さいボタンをしっかりと掛けた。
 私がまだ夕方まで草刈を続けるという彼と別れて見晴らしの坂を下りかけた時、「先生!」と、また若者は呼びとめた。私が立ちどまって振りかえると彼は斜面の中腹へ突立って大きな声で叫んだ、
「先生、本当にありがとうございました。それからあすの晩お邪魔したいと思うのですがいいでしょうか」
「ああ来たまえ、待ってるから」
 私はそう答えて歩き出しながら、それまでにあのワーズワスをちゃんと翻訳して、綺麗に書いて置いてやろうと思った。
(むかし群馬県の法師温泉から中之条へ出るというので、私は年上の詩人の友達とその村を通ったことがある。村の手前で初夏の俄雨が晴れ、番傘の雫を切って小脇にかかえた友が、
「君、こんなにオキナグサが」
 と私に教えた。銀いろの苞や葉に包まれた黒ずんだ紅い花が、なるほど山の麓をあたりいちめん、暖かい雨に濡れてうなだれていた……)
 八ガ岳の裾野は大きく傾く午後の空の下でいよいよ涼しく美しく、たとえいずこで自分の道は果てようとも、私にとって人生はいよいよ懐かしくいとおしいものに思われた。         
                                   (一九四八年)

 

 

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 豆畠にて

 きょうは新道わきの畠で娘の栄子といっしょに草取りをしながら、序でに豆の一株一株を検査して、実のいったのから順にもいで竹籠びくを満たした。
 夏に雨が多かったので馬鈴薯は不作だったが、余り手をかけなかった豆類の方は却ってすべて出来がいい。豆が好きでいろんな豆を作っているがこの畠のはアズキだ。去年よりも粒が揃って一莢に含まれている数も多く、どれも八粒から十粒は入っている。ほんの片隅へ作ったのだが、それでも三升や四升は採れそうだ。灰色に乾いた長い莢の合わせ目へちょっと爪を入れると、実が飛び出して空になった莢がひとりでにくるくると捻じれる。ほそい莢の内側は銀いろに光った一枚張りの絹布で、豆の形をした小さい凹みが粒の数だけべットのように並んでいる。その銀白色の内面と充実した粒の暗紅色との対照が、秋の畠の私の手の中で楽しく美しい。
 アズキのことは単にアズキと言っているが、ほかのササゲやインゲンの類になると、宅では仙ちゃん豆だの長泉寺豆だの、農場豆だのと色々な名をつけて呼んでいる。いずれもその種子をくれた人や場所の名を冠したもので、たとえば長泉寺豆というのは、隣村の長泉寺という御寺の住職が私の母の法要の時に持って来てくれたのへ、記念としてつけた名である。言わば一種の愛称であり、それを好んで口にする事もまた一種の熱情だと言えるだろう。
 食べさせるつもりで人がくれたその時どきの変った豆を、少しずつ別に取って置いて時季が来ると畠へ播いて、その志の思い出を永く形として残すのだ。佐久、長野、安曇あずみ、伊那、それにこの諏訪。信州は東西南北特色のある地方に富んでもいるし、豆の国でもある。その土地土地の人人からの友情の贈物をのこらず口や胃の肺の満足には供さないで、その一部を大地に托して代々よよの命を継がしめる。それが私のやりかただ。
 そこでこれからの収穫時を、金色の豆、真紅の豆、純白の豆、珊瑚のような豆、青玉のような豆、エナメルのような白い地に薄赤い模様をちらした豆、紫の地に褐色の斑点をよそおった豆、砂糖によく、牛乳によく、塩にも油にもそれぞれ風味を高められる各種の豆が私の家の台所でいくつかの袋や硝子の壷を満たしていく。豆の収穫はこの十月から十一月の初め頃まで続く筈だが、やがて私たちの家に昼間でもストーヴが燃え、寒気と荒涼との美がひしひしとあたりを囲む冬の日に、彼らはその原形のまま料理されて皿を賑わしたり、磨りつぶされてぽってりした熱いスープになるだろう……
 金づくで買える物なら金さえ有れば手にはいる。しかし真の富とは、ほんとうの富の感じとは、我が汗と自然の恵みと他人の好意とから成る物によって生きていることの、その喜ばしい自覚にほかならないと私は思う。
 いかに贅沢に暮らしても、血の気のない、冷めたい、機械的な金の力だけを頼みとする生活だつたら、時にはさぞや味気なく、淋しいことだろうと思うのだ。

                                 (一九四八年)

 

 

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 落葉搔きの時

 十一月。もう蕎麦や豆の収穫もとうに終り、山田の稲のとりいれも済んで、裾野の田畑はがらんとして来た。その空虚になった耕地の上にはツグミ、アトリ、カシラダカなど、今年の春に北地へ去った渡り鳥のむれが再び帰って米て、畝から畝へ落ち散っている粒をもとめて波のように歩いたり、黒い旋風のように舞い立ったりしている。
 釜無の山のところどころに青みがかった真珠色の煙が上がっている。晴れるにつけ曇るにつけ、それを見ることを私の好きな炭焼の煙だ。私はその柔かな房々の一つがどこの山窪から上がって、どんな人がそこで働いているかを大概は知っている。少くともお茶一杯、煙草一本のつながりが彼らと私との間にある。そして私の野外手帳のペイジには、彼らから聞いた山の生活のいろいろな話が押花のように挾まっている。罠に掛かった兎の話、その兎をさらいに来る狐の話、木樵きこりの道具を匿してしまう猿の話、裾野はきれいに晴れているのに、山腹では流れる雲のあとから見る間に霧氷の出来る話、八ガ岳の或る峯から出る緑いろの大きな星が、一年にすこしずつその位置を変えるという話、山頂近い古戦場の岩の割れ目で、鮮血のように光っている珍らしい苔の話、歯痛みによくきく虫の話、他人の逸話、自分の経歴……数え上げれば切りもないが、今はそれについて語る場合ではない。
 あの山の中腹や谷間から彼ら炭焼の煙の上がっている一方、いまこの裾野や山麓は一斉に落葉搔きの時だ。堆肥のための落葉、家畜小屋へ寝藁にまぜて敷く落葉。それを搔いて丸げて運ぶのが今年最後の山仕事である。砂浜に寄せては引いて行く磯波のような音が、そこらじゅうの林の奥や山の斜面から聴こえてくる。冬をむかえる晩秋の、木の間に響くあの熊手と落葉の音楽。そこで私のペンの興趣もおのずからその世界へと引かれて行く。今日私は秋の錦繡を敷きつめた深い谷ぞいの林の中で、一年のうちのこの季節にもっともふさわしい一つの経験をした。それを語ろう。
 私はいつものように一冊の本をポケットに捻じこみ、例の羚羊の毛皮を腰にさげて森の家を出た。むこうの広い開墾畑では隣家の奥さん、旧華族W伯爵の夫人が、ところどころに積み上げた枯草やごみの小山をつぎつぎと焼いている。東京の邸を戦災で失ってこの別荘へ移ってからもう五年、その間転変する嶮しい世相を大胆に正視しながら、かいがいしく夫君を援け二人の幼い子息を養育して倦まず屈せず、助手の若者一人を相手に本職の百姓にも劣らぬ労働で、旧領地の開墾と家畜の飼養とに専念している女性である。もちろん戦争前には欧米へも旅行し外国語にも堪能で、以前は仕事の休みにはよくパール・バックやアンドレ・モーロワなどの原書を手にしている所を見うけたが、ここ一二年来それも捨てて、気候の荒いこの高原の開拓地に、指は節くれ、手にはたこ、朝早くから夕方おそくまで大方の男子も及ばぬ労役をつづけている。私の敬服して措かぬ奥さんだ。今その奥さんが、畠の隅をとおる私を見つけて遠くから辞儀をする。
 形のいい長身に肩から吊った胸当て付きのズボンを穿き、ジャンパーに手甲、貞潔なジョルジュ・サンドを思わせる美貌を褐色の布で隠すように包んで、青々となびく煙、ちらちら燃える火の前で、熊手にもたれて立っている。それが晩秋の黄と白緑に枯れた円い丘を背景にして一幅の画のようだ。そしてその丘のうしろの薄青い空には、つい二三日前の初雪をちりばめた北アルプス連峯が、白と藍との波のように浮いている。まさにセガンティーニの筆である。
 私はその画をあとに森に沿った爪先上がりの道を進んだ。金いろに枯れたカラマツの葉がそよ吹く風にも柔かに崩れて、時どき霧のように降ってくる。やがて数町で森とわかれ、田圃の低地をこえて向うに見える隣村の台地の裾を行くと、落葉樹林におおわれたその斜面はどこも落葉搔きの最中だった。樹下の土は真鍮や銅あかがねの色をしたハンノキ、ソロ、ナラ、クリ、ヤシャブシ、それに黄いろい白樺などの乾いた葉で厚く柔かに埋まっている。それを二人三人と一列になって、上の方から熊手でだんだんと搔き下ろしてくる。しかし一度にすっかり下まで搔き下ろしては山のようになって始末に困るから、搔いた葉が或る分量に達すると中途で丸げて、熊笹や枯れた萱を外装にして一つ一つ大きな束に作ってゆく。熊手の通ったあとからは冷めたい新鮮な土の膚や緑褐色の地衣のついた岩の頭が現れ、働く人たちには歌もなく雑談もなく、ただ彼らの熊手の先からおこる乾いた落葉の爽やかな音が、聴く者の心に浸みとおる山国の秋のしらべである。
 そういう人たちの幾組かを眺めながら、やがて台地の高みへ出ると、私はなおも爪先上がりの裾野の道をのぼって行った。家を出てからもう二十町あまりも来ていた。広い眺めの中を行く本道は山麓のいちばん奥にある一つの大きな部落へと通じているが、私はその道からそれて一本の小径を谷のほうへ下りて行った。それは明るい静かな谷で、磊々ところがっている岩石のあいだを縫って清らかな水が流れ、白い砂の洲になっている処にはツノハシバミや柳の類が低い藪を作っていた。小径は谷の右岸の斜面をたどっているが、そこにはまだ落葉搔きの人影も熊手の音もなかった。それがためあたり一面錆びた銅、褪せた猩々緋、黒ずんだ紫、艶消しの真珠いろ、曇った銀、焦げた琥珀、さては薄い硫黄色などの枯葉に埋もれつくして、あたかも古い豪華なゴブラン織を見るようだった。そして谷の正面には晩秋の八ガ岳の一峯が高々とそびえ、氷ったような真青な空には静かに白い雲が浮かんでいた。私はここで初めて腰を下ろした。
 このあたりは元来私の最も好きな場所の一つで、真冬を除けば月に一度ぐらいは必ず訪れるのだが、そのいちばん重要な理由というのは、森や林といえばアカマツかカラマツが主であるこの裾野に珍らしく、林相がほとんど落葉樹から成っている点にある。しかもその落葉樹がほとんどすべて大木で、若くて五十年から六十年、古いのになると樹齢百年から二百年を算える老木が伐られもせずに残っている。そしてこれらのケヤキ、アカシデ、ミズナラ、ヤシャブシ、カツラ、ハンノキ、ソウシカンバ、シラカンバ、ヤマザクラ、クルミ、ハリギリ、ミズキ、イタヤカエデ、ヤマモミジ、オガラバナ、その他私が名も知らない落葉樹にまじって、ところどころにモミ、サワラ、アカマツなどの常緑針葉樹の大木が黒々と立っているのである。そして春、夏、秋を通じて草花が多く、昆虫が多く、また小鳥の数も種類も多いことが、私のたびたびここを訪れるもう一つ別の理由であった。
 しかし今は晩秋初冬の季節でこの谷間には花もなく、蝶も飛ばず、小鳥の声もごく稀にしか響かない。それだけ十一月の自然の供する閑寂には別種の深い安泰さと憩いとがあり、私はそれを心ゆくまで味わおうと臀あての毛皮を座蒲団がわりに、とある平らな岩の上へ腰を下ろした。そしてしばらくは青い天空や白い雲や、山や谷や色さまざまな落葉に埋もれた一帯の斜面の美をうっとりと眺めていたが、やがて満ち足りて巻煙草に火をつけ、ポケットから幾度も読みふるしたジャン・ジオノの小説「星の蛇ル・セルパン・デトワール」を取り出して、好きなペイジを少しばかり読もうと楽な姿勢をとった。
 と、ちょうどその時、谷の奥のほうから一羽の黒っぽく見える鳥が両翼を張って低く水平に飛んで来て、十メートル程むこうの小径の上へ音もなく下りた。見れば雉きじだった。しかも雉の雄だった。私はうしろ手で煙草をもみ消し、本を伏せて、身じろぎもせずに目を凝らした。これは全く思いもかけない見ものだった。
 雉は小径へ下りると、聴き耳をたてるように小首をかしげてしばらくじっと立っていた。やがて附近に格別危険もないと見てとったらしく、まず銀色のこまかい鱗片に包まれた片脚を上げて真赤な顔のあたりを爪で搔いた。それからブルブルッと身をゆすって気持良さそうに全身の華麗な羽毛をふくらませ、再びそれを伏せると、今度は一足一足ゆっくりと落葉のなかへ歩いて行って、ガサガサと葉を搔きのけたり後じさりしたりしながら餌をあさりはじめた。この美しい鳥の一々の動作は周囲の秋にふさわしく落ちついて、強い野性美と犯しがたい威厳とを備えていた。
 彼が餌をもとめながら少しずつ場所を変えているあいだに、時どき樹々の幹をかすめて枯葉の上へ落ちる太陽の光線を浴びることがあった。そしてそういう時に彼の全身の羽毛が発揮する赤、緑、藍、紫、褐色等の強い金属光や宝石光の華麗さは、真にこの鳥を目して日本的に雄偉な極楽鳥だと言っても決して過言ではないと思われた。しかもそういう暖かい太陽の光線の中では彼の踏んでいる多彩な落葉も柔かに豊かに燃え、這いまつわったヒカゲノカヅラの長い紐も金緑色に輝くのだった。
 私はこれらすべてを固唾を呑んで見つめていた。私は身動きもしないばかりか、森林の中での保護色ともいうべき灰色のフラネルを着ていた。雉はそうした私に気がつかないか、あるいは気がついても別段危害を加える動物とも思わないのか、例の威厳と品位とを失わない動作で、耳のように二本の黒い羽毛を立てた頭を上げて瞑想したり、落葉を搔きわけて獲物をあさったりしていた。しかしやがて物の十分も経ったかと思う頃、何か変った気配か物音でも感じたらしく、雉は急に餌をあさることをやめて顔を上げ、しだいに落ちつかない様子を見せはじめた。そして遂に意を決したらしく、一息弾みをつけるとバサバサッと強い羽音を立てて飛び上がり、両翼を張って一直線に谷の対岸へむかって姿を消した。すると間もなく谷の奥のほうへ続いている小径のむこうから人声が聴こえて来て、やがて落葉の大きな束を背負った村の娘たちの姿が現れた。雉は早くも遠くから彼らを聴きつけたのだった。
 私が偶然のすばらしい見ものに満足して、今日はこれで帰ろうと思って立ち上がった時、三人の落葉搔きの娘は重そうな束を背負い、熊手を持って、もう小径をこちらへすたすたと遣って来た。そして先頭の娘が軽く頭をさげて会釈しながら私の前を通りすぎると、続いて来た二番目のが「あっ! 先生」と、驚いたような小さい叫びを上げて立ちどまった。よく見るとこの下の部落の農家の娘で、農学校の生徒時代に一二度私の家へ遊びに来たこともあった。もちろん今ではあの頃とは服装も違い、顔も体つきもずっと大人びてきてはいるが、その形のいい弓形の眉と、鈴を張ったような綺麗な眼には記憶があった。しかし常にたずねて来る娘も数多いので、今ではその名も苗字も忘れていた。
 先頭の娘も三番目の娘も立ちどまった。
「富士見の尾崎先生だよ。すこし休んでいかない?」と、娘は前後の二人に相談するように言った。
 そして三人とも臀餅をつくようにして背中の大きな荷を下ろすと海水帽のような経木真田の帽子をぬいで、頬被りの手拭をとって汗をふいたり髪を撫でつけたりしてから、私に近く思い思いの場所へ膝を組んで腰を下ろした。威厳のある孤独な美しい雉が飛び去って、今度は妙齢の健康な村娘たちが落葉の谷に私をかこむことになったのである。
 娘の話によると、彼らは今日は三人申しあわせてここから半道ほど奥にある自分たちの山へ落葉搔きに行ったのだった。お天気はいいし、風もなくて山奥は静かだし、その上久しぶりの仲良し三人連れなので仕事も楽しくはかどって、まるで山遊びか遠足に来たようだった。落葉はほどよく乾いていて、三本の熊手につれて秋をさざめく歌を歌った。若い彼女らも、清水のそばでの昼弁当のあとの休みにはもちろん歌った。土地の古い歌はよく知らないので余り歌わなかったが、学校時代に習った歌はたくさん歌った。二部合唱も忘れずに三人そろってうまく歌えた。それからコチロンだのカドリールだの、昔のダンスもやってみた。これがいちばん楽しかった……などと言うのであった。
 私は山奥の谷のチロチロ落ちる清水のほとり、食後の消えかかった焚火に近く、蒼白い安山岩の露頭や崖をうずめる秋の錦を背景に、揃いの紺絣の半纒に色物の細帯をしめ、黒い裁着たっつけに手甲をした娘ざかりの彼女らが、「もう一度女学生時代の昔にかえって」優美な舞踏を楽しんでいる光景を想像しながら、それがさぞかし美しい見物みものに違いなかったろうと言った。すると娘たちは顔を見合せて赤面したが、それからはほかの二人も親しみを加えて、今度は三人で私にいろいろな話をさせた。そしてやがて時間も経過し、秋の太陽の光線もこの美しい谷間から鳥のように飛び去ったので、私たちは揃って腰を上げた。
 ふたたび重い大きな落葉の束を背に負って熊手を杖にした娘たちは、高いモミとケヤキの立っている彼らの村への分かれ道まで来ると私に丁寧な辞儀をして、それから賑やかに別れの手を振った。娘たちがいつまでも立って見送っているので、私もたびたび振り返って手を挙げたり首をかしげたりしなければならなかった。そして道が急な曲り角へ来て、これを最後と立ちどまって振り返った時、まだ立ってこちらを見ている三人の若い彼女らの頭の上で、その村の繁栄と平和との象徴のようなモミとケヤキの大木が、碧玉のような晩秋の空をぬきんでて、西山へ沈む今日の最後の太陽に赤々と燃えていた。

                                  (一九四八年)

 

 

 

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 蹄鉄工

 高冷地の開拓と新らしい農業経営とを研究してそれを実験的に行っている八ガ岳裾野の大農場が、今はようやく農閑期に入って若い修練生たちも主として屋内作業や机の上の勉強だけをやっているから、こういう時の見学かたがたぜひいちど遊びに来てくれと、この森の家の近くを通りかかる人のついでのあるたびに頻りに誘いの言づてをよこす。
 行きたいとは私も思う。途中まで利用のできる汽車やバスに乗るのが面倒ならば、裾野の近道をまっすぐに横断して二里半か三里を徒歩で登って行けばいいのだ。そのくらいな体力ならばまだ充分持ち合わせているし、そのあいだ人っ子一人見ることのない広い寂寞とした林野の眺めがまた実にいい。そして農場へ着けば親しい人の幾人かがいて、待っていたとばかりに歓迎してくれることにも間違いはない。そこへ行って若い大学出の職員たちの独創的な生活ぶりを見たり、もっと若い修練生たちの活気に満ちた雰囲気に漬かったりして、彼らの若さに感染してくるのは私にとっても好ましく望ましいことだ。
 しかしここに一つ困ったことがある。それは何かというと、行けば必ず一席の講演を所望されることである。もうすでに立派な前例が二度もあるから、いくらにやにや笑ってそんなことはお願いしませんと言われても信用はしない。文学か自然についての二時間の講演。私はけっして頭からそれを嫌厭する気はないが、行くと極まれば先ず講演はまぬがれ得ないものと考えて、予めその準備をしなげればならない。それが如何にも困るのである。その一種の束縛が。
 ところがある時ウォールト・ホイットマンを読んでいるうちに、この詩人のある時代と作品とを主題とするのならばそんなに苦労もなく話ができるだろうという気がしてきた。そこで二三の主要な点をノートし、それを充分に展開して優に二時間の講演に足りる原稿をつくった。そして話の最後に朗読するつもりで、彼の詩集「草の葉」の中から「牡牛馴らし」、「この堆肥」、「グラインダーから飛ぶ火花」というような、農場の若い人たちにふさわしそうな数篇を選び出して翻訳した。そして、もうこれだけ出来ていれば、いつでも行きたい時に行けると思った。
 そういう時のある日だった。私が村外れの工場で働いている一人の若い蹄鉄工を見たのは。そしてその光景がちょうどあのホイットマン的なテーマだった。
 私は友人の家からの帰りだった。十二月のいわゆる「高曇り」の午後、空はよごれた氷塊のような雲を一面に敷きつめて、その雲の一ヵ所に弱い太陽の光がにじみ、私のたどる丘陵上の道には、はるか蓼科山の方から膚を切るような北風が吹き渡っていた。道はこねかえされた泥濘がそのまま堅く凍ってひどく歩きづらい。しかしそこからの広大な眺望は相変らず良かった。冬を迎えた山々には二度目の雪が寒々とついて、曇り空の下に褪せた水草の色をしていた。
 私は坂道をだらだらと下りて一つの部落へ入りかけていた。そのとっつきに一軒の古い蹄鉄屋があるが、そこの長男を私はよく知っている。彼は農学校だか獣医学校だかを出ると兵隊にとられ、戦争が終ると同時に帰って来て、それからはずっと父親を援けて家業の蹄鉄打ちをやっている。真黒な房々した髪の毛をして、色が白く、すらりと高い強靭な体軀には陸上競技の選手の趣きがある。仕事日には工場で鉄砧にむかって火花を散らし、馬の脚へ蹄鉄を打ちこみ、休みの日には裏の畠ですこしばかりの百姓をし、本を読み、また時にはりゅうとした青年紳士の服装で汽車へ乗って町へ出かける。彼は藤原信夫といった。
 その青年信夫の家の工場の前に今幾台かの荷馬車が停まり、轅ながえをはずされ鞍をおろされた数頭の馬が飼葉を食ったり鼻を鳴らしたりしながら、自分たちの番を待っている。それでは仕事をやっているのだ。
 私は足をとめて工場の前へたたずんだ。奥の方ではコークスのかっかと燃える炉をうしろに、これも背の高いがっちりした体格の父親がその炉と鉄砧との間を往ったり来たりしながら、真赤に焼けた蹄鉄を取りかえ引きかえ、鋏と鎚とを使って手早くカンカンと鍛えている。こちらでは息子の青年が一頭の美しい裸馬の脚を抱きこんで、その蹄を小さい低い台の上へ載せて押しつけている。今ちょうど後脚の片方がすんでこれから最後の脚にとりかかる所だった。見物人は私のほかに先客である馬の持主の百姓が二人。その二人とも頬かぶりをして、立ったまま腕を組んでじっと見ている。私は馬の臀の下から会釈をする青年にちょっと目顔で挨拶を返して、それからゆっくりと見物するために巻煙草に火をつける。
 馬は八九歳の立派な栗毛で、持主にとって自慢のものらしい。青年は革前垂を懸けた片方の膝をついて、馬の右の後脚をぐっと握ってもち上げると、椀を伏せたようなその大きな蹄を小さい台の上へ載せてぴったりとおさえつけた。そして襤褸きれを取上げて、そのよごれた蹄を町角の靴磨きのようにせっせと拭きはじめた。それが終ると今度は足首を曲げさせて自分の膝へ載せ、釘抜きを使って釘を抜いたりこじったりして薄べったく擦り減った古い蹄鉄を剥がし取る。そして刄のついた匙のような金具で爪のあいだへ堅く挾まっている小石だの、こびりついている土の塊りだのをボリボリと搔き落とす。馬も心得ているらしいが青年蹄鉄工のすることもまことに堂に入っている。こんなふうにして貰えるのだったら馬もさぞかし気持がいいに違いない。
 足の裏の掃除がおわると今度は爪切りがはじまった。爪はずいぶん伸びている。石を包みこんでしまう樹の根のように、蹄鉄を包んでなお剰って、先の方は外側へまくれ上がっている。これでは足が傷むのである。青年は馬の臀の下へうずくまってその蹄を左手でしっかと握り、鋭利な小刀を右の逆手にズバリズバリと手前へむけて爪をそぐ。かなり堅い物らしいが、刀の切味がいいので軟骨か何かのように気持よくそぎ落とされる。脂肪光沢をした爪の厚い切屑が青年の革前垂の中に溜まる。馬も中々じっとしてはいない。時々は脚を踏みかえたり大きな体を廻したりする。そうすると青年はそれに逆らわずに待ったり、膝をついたまま自分の体を廻したりしながら仕事を続ける。時々はうつむいている彼の顔の前へ彼自身の真黒な髪の毛がバラリと下がる。それをうるさそうに頭を振って搔き上げる。頬へ流れてくる汗は顔をねじって肩で拭く。そして細かい仕事は間断なく行われてゆく。
 いま青年は馬の爪をそぎ終って、そのあとへ仕上げの鉋かんなを掛けている。手の平の中へ隠れてしまうような小さい可愛い鉋である。セルロイドのような鉋屑が出、厚い爪の裏が平らになって燧石のような光沢を見せている。最後に青年は鉋を廻してスルスルと面を取る。それから例の襤褸きれで仕上げのできた蹄全体をきれいに拭き、顔をすこし離して眺め、なお気に入らない所があるのかちょっと手を入れ、さて振り向いて父親に声をかける。父親はでき上っている蹄鉄を一つ挾んできて馬の蹄に当てがってみる。そしてまた持ち帰って火炉で熱し、鉄砧の上で叩いて修正を施したのを息子にわたす。
 新らしい蹄鉄は赤い光こそ放たないが、なお充分角質の物に接着するほどには熱している。青年は馬の足首を片手で握って蹄の裏を上に向け、最善の注意と緊張とをもってその熱鉄を強くぴたりと押しつける。途端にジューッと煮えつくような音がして青白い煙が濛々と噴き出し、しばらくは毛屑の焦げるような異臭が鼻をつく。そして煙の晴れた時にはもう蹄鉄は吸い着いたように爪の裏に膠着して、その適合には寸分の狂いもなかった。
 さて青年はもう一度馬の脚をかかえて靴屋のように角釘を打ちこみ、蹄鉄を固定してこの仕事を終ると、次の仕事に掛かる前の数分間を工場の前へ出てきて私と立話をしながら、旨そうに煙草を吸った。彼の柔和な眼や若々しい顔を見、その落ちついた話ぶりを聴きながら、ちょっとのあいだ静かな村外れに立っていることは楽しかった。そこからはだらだらと低くなっている村の家々の屋根の上に山がそばだち、その頂きに藍色を帯びた薄黒い雪雲が大きくのしかかっているのが眺められた。しかし向うの西の空では真珠色をした雲の間から薄日が洩れ、この高原の村落を支配している寒くはあるが男らしい灰色と藍と白と沈んだ緑の色調には、ヴラマンクの画を想わせる悲劇的な男らしさがあった。しかしその悲劇的な十二月の夕暮になお一脈の柔かさを添えるものとして、近くの畑で五六羽のツグミが「クェー・クェー」と鳴き、私と向い合っている若い蹄鉄工の濡羽色の髪の毛からほんのりとポマードが匂っていた。

                                   (一九四八年)

 

 

 

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 二月の春

 雪と氷にうち固められた周囲の高い山々は、二月といえば未だ全くきびしい冬の領土だが、鳶いろに枯れた斜面のくぼみや、ほのぐらい針葉樹の森の奥だけに、浅く消えのこった雪を見出すこの高原では、山越えの北風こそ刺すように鋭く冷めたいが、偏見のない心や清新な感覚をひそめてたたずむ者には、あの立春の日このかた、目に見、耳に聞く自然界のもろもろの現象に、幼い、いじらしい春のきざしや、ほのぼのとした春の予感が芽ぐんでいるのがわかる。
 昨夜は八時ごろ東の空に、ぽうっと光っているプレセペの星団を見いだした。天の獅子シーオー座の巨大な鎌と、双子ジェミニ座の二つならんで輝く星との、そのまんなかの海のような空間に「宇宙の銀の蜂の巣」と、かつて私が詩に書いたあの星団は懸かっていた。これを暫しの別れとしてそこを去った四年前の東京で、桜の散る四月の宵、頭の真上につくづくと見上げたあの天体。そのプレセペが今この信濃の国の高原の、夜目にもこまかい白樺の二月の梢のうえに、やがてくる春の先ぶれとして海の底の真珠のように朧に光っているのを私は見たのだ。おりから森の奥のほうで、「ゴロッポッポー、ゴロッポッポー」と柔かな声で鳥が鳴いた。今年になって初めて聞くふくろうの声だが、これも深い闇の奥から初心うぶな春を呼びいだすメランコリックな夜の鳥のセレナードである。きょうはラジオで、私の好きな「早春賦」という古い歌をどこかの女学生たちが歌っていた。「春は名のみの風の寒さや。谷のうぐいす歌は思えど」というあれだ。久しぶりに若い女性の声で歌われるあの昔の歌を聞いていると、ふるさとの東京を遠く離れて、そういう谷や風や鶯に一層近く生きている今の自分は、それを歌っている娘たち自身でさえ恐らく想像もしないだろうと思われるような、寂しく澄んだ清らかな感銘をうけたのであった。
 そして今日の今、私は銀と青との雪の八ガ岳を眼前にしたある土手の陰の日当りの短かい枯芝に坐ってこれを書いている。竜胆りんどういろに晴れた大空の一方、霧ガ峯から蓼科山にかけて、天気の変り目を告げる真白な巻雲が二筋三筋ながれている。山はどの山もぎっしりと堅い積雪を鎧っているが、その雪の鎧の下に早くも春を形づくっているさまざまな高山植物があり、過去いくたびその花たちのそばにたたずんだこの私の足あとが、今もなおそこに残っているだろうという考えは私をほほえませる。なるほどこうした喜びは極めて幼稚なものであり、まして雪の下の足あとのことなどは愚かな空想に過ぎないかも知れないが、やはり詩人にとってはしっかりした現実の喜びでもあれば富でもあるのだ。そしてその富は、詩人が柔かな心をあたえ、子供のような無垢のまなざしを注ぎ、若い娘のような夢見心地にさそわれる到るところから生れてくるのだ。権勢や、金や、武力や、憎悪に目しいた人たちには全く見えないこの世の宝が。
 信州穂屋野の片隅に生きて、故郷の隅田川には遠い私。しかしその空間の青い隔たりがやはり私を詩人にする。今私にはモーツァルトの「ジュピター」の一節が聴こえるようだ。すると何ということなく「董の土手を吹く春のそよかぜ」という一句が心にうかぶ。そして何気なしに自分の坐っている土手を見ると、真黒に霜にちぢれた枯葉の陰から、緑のモスリンに包まれた玉のようなふきのとうが、幾つも幾つものぞいている……

                                  (一九五〇年)

 

 

 

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 春の雲

 谷間の暗い林にはまだほの白く雪が残っている、ここでは土手の枯芝の中にしどみの赤い蕾が笑みこぼれ、たんぽぽや春竜胆はるりんどうの小さい杯が日光と青空とを満たしている。そして褐色に乾いた小径の上には冬を越した孔雀蝶が、碧と白との眼紋をよそおったビロードのような濃い栗色の翅を休め、谷のむこうの森では二三羽の黒つぐみが彼らの柔らかなフリュートの音を響かせている。
 私は棚のようになった高い台地の果樹園を背に、南部信濃の片隅から、霞のかなたに青くそびえる甲斐の山々を眺めている。蒼白い苔を模様のように着けた数十本の古い林檎の木には、薄ベにをさした白い花がういういしく綻びかけ、霞のヴェイルに輪郭をやわらげられた青い峯々には、まだ峻厳な残雪が千筋の絲のように懸かっている。どこか近くでうそが鳴き、下の方でかすかに渓谷の水音がする。優美な中にも一脈の清らかな寂しさ。これが山国の春の常だ。いま私の顔を吹いているそよ風の、なごやかであると同時に凛然とした感触もまたそれにほかならない。
 風景に視線をさまよわせながら一本の煙草を吸ってしまうと、私は土手の草の上へ身をたおして仰向けになった。真上には春の青空がいっぱいに拡がり、その青い空間をときどき白い柔かな雲がとおる。見ていると一つとして同じ形のものは無いが、また一つとして同じ方角へ行かないものも無い。あるものは軽い大きな翼のようであり、あるものは重い厚ぼったい花びらのようであり、日光を浴びて光り傾く帆のようなのもあれば、まだ醒めやらぬ夢の名残りのようなのもある。そして絶えず繰り返される大空の無韻のしらべのうちに、薄絹のようにひるがえったり、ちぎれて渦を巻いたり、絲屑のようにほつれて流れたり、未練げもなく消えほろびたり、また急にいきいきと蘇って真白にきらきらと輝き出したりしながら、青々とした未知の空へのさすらいの旅をつづけている。
 こうして自由とあこがれの姿さながらに、広い青空のあちこちを同じ方角へ流れてゆく春の片積雲を見ていると、私にはきのう別れの挨拶にきた二人の若い娘のことが思い出された。彼らはこんど高等学校を卒業したので、いよいよ自活のために故郷の家庭をあとに東京へ出ることになった。一人は出版関係の会社を志願し、もう一人は教職に就くのだった。二人とも優秀な女学生で、私の家族とも親しくしていた。私たちはよく一緒に散策をした。一緒に山へも登れば本も読んだ。そしてその間には娘らしい心の悩みや、さまざまな願いや喜びの率直な打ちあけを私は聞いた。そして常にまじめな聴き手として、ある時は鼓舞を、ある時は慰めを、また時にはいささかの忠言をも与えることを怠らなかった。そういう若い二人との別れは私にも私の妻にも辛らかった。これで当分はお目にも掛かれないが、時々のたよりは必ずするから忘れないで欲しいと彼らはいった。そして最後に、私の妻の眼に涙を見ると、
「先生たちもそろそろ東京へお帰りになりませんか。そうなればまた始終おたずねもできてどんなにか嬉しいでしょう」
と、半ば慰めるように、また半ば誘惑するように、彼らのうちの一人が言った。しかし私はすぐには何とも返事ができず、
「それよりも休暇があって帰ってきたら、必ず顔をお見せなさい」
と、ただほほえんで言っただけだった。
 このようにこの土地で親しくなった若い人たちが、私との別れを惜しみながら、勇躍して東京へ出て行くのは決してこれが初めてではなかった。すでにこの二三年、私は私自身の生れた都会へそれぞれの志や夢を抱いて出発する数人の親しい若者を、逆に停車場に見送って祝福している。彼らはいずれもあの大都会とその刺戟豊かな雰囲気とにあこがれ、そこでみずから開拓すべきより善い運命を夢想して、心はすでに遠くかしこの空へ飛んでいた。そして別れに臨むや、きまって私を慰めるように、「いつか東京でお会いできますね」とか、「一足お先へ行って待っています」とか言うのだった。そういう彼らが何と愛すべく、何と楽しげに悲しげに魅惑的に、また何といくらか利己的だったことだろう!
 いや、夢豊かな青春は流れて止まない。予感に満ちた彼らはこの春の大空を他の地平線へといそぐ雲のようなものだ。また行きずりのすべてを映して逸はやり流れる水のようなものだ。しかし私のようにもはや老境に立って歌を成す詩人は、一ヵ所に根を下ろして花を咲かせて実をつける古い林檎の木か、さざめく水を迎えては見送る苔むした岸辺の岩に似ている。自由を生命とするどんな雲が、流れることに意義のあるどんな水が、そんな古い樹木や岩石に引掛ったりかかずらわったりしていられよう。「波ことごとく口づけし、はたことごとく忘れゆく」である。おそらくそれでいいのだ。私にしたところで昔はやはりそうだった。
 だが今の私はもうそんなふうに気前よく颯爽とは動かない。もっと細心に、もっと柔軟に、もっと円熟して、それぞれの存在に固有の意味を認めながら、一層深い信頼と一層篤い感謝の念とをもって生きている。子午線を通過して西へ傾く天体がしだいに地平拡大の効果を増すように、沈むまでの時間にいよいよ豊かな内容を与えて、かつての五年十年にも匹敵するものを今後の一年に充実するのだ。むかし目をつぶって一飛びに飛び越したところを、今ははっきりと目をあけて一歩一歩味わいながら行くのだ。かつては躓いて倒れた体勢がそのまま次の突進の体勢であり得た。しかし今は過って顚倒すればすなおにそこへ手を突いて、漸くにして起き上がるまでの間を地面というものから賢く美しく学ぶのだ。視角は小さくなり、縮尺は大きくなった。私にとって今や世界は一層美しく、一層豊かに、一層ニューアンスに富むものとなっている。
 私が東京へ帰るか否かはもはや全く問題ではない。故郷は地図の上のどこにも無く、ただ私の望郷の思いが時あってまぶたの裏にえがく私自身の、いまだ知られざる最善最美のものの中にある。私は少しも急ぎはしないが、いつかは必ずそこへ行きつきたいと願っている。
 きょうの今、山の春の果樹園に、私がこうして大空に浮かぶ雲の旅路を見ているのもその願いを満たすためだ。黒つぐみの柔かいフリュートの歌や谷川の遠い瀬音にやさしく揺られながら、うとうととまどろむのもそのためだ。また身を起こして霞の奥の青と銀との山々を眺め、路の小石に越冬の翅を暖める高資な孔雀蝶や、苔むした古い林檎の木とその薄紅の初花や、枯芝の土手をいろどる黄いろいたんぽぽ、碧い春竜胆、さては笑みこぼれた真赤なしどみの花に見入るのも全くそのためにほかならない。
 夢多い雲のむれはかなた残雪の峯々をかすめ、この果樹園の明るい台地やほのぐらい谷間を見下ろしながら東へ東へと流れて行く。刻々とその白い姿を変えたり翻したりする彼らが何と勇ましくもいとおしいことだろう。そして私をかこむこの山国の春の自然が、何とういういしくもまた気高く、何と寂しくもまた心を魅することだろう。

                                (一九四九年)

 

 

 

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 寂しさと桜草と

 きょうは朝からこの高原に雲が下がって霧がたちこめ、新緑の草木を濡らす五月の雨がしとしとと降りそそいで、風景を一様の灰いろに包んでいた。ところが昼をすぎると急に風が西にまわって霧が晴れ、雨も止んだ。やがて雲の底がだんだんとせり上がり、向うの山裾の村落や高い扇状地の畠がはっきりと見えはじめ、まだ綿のような白い霧のたむろしている谷間をのこして、山山は中腹から下の部分を鮮かに現した。そのうちに明るい桔梗いろの空がひろがって蜜のような日光が射してきた。すると私の住んでいるこの森の家のまわりではいろいろな小鳥がつぎつぎと歌い出し、そよ吹く西風に木々の雫が一斉にきらめいた。
 今私はその雨後の林の中で二三本の桜草を摘んできた。高原の五月の末、優しく美しい桜草は、林の樹下のところどころにぎっしりと小さな群になって咲いている。その桃色の花は平地のに較べると色もずっと濃く、ほとんど紅べにに近く、形もはるかに大型で、絹のような柔毛にこげの生えた緑の葉も強くて立派だ。私はそれをオランダの厚い切子の一輪挿しへ活けた。黒と白との市松模様のテーブル掛の上で、その紅や緑が鮮かなパステルの効果を見せている。
  この桜草を胱めていると、私は自分が初めてこの高原へ娘夫婦に会いに来たときのことを思い出すのである。それは終戦のあくる年だった。新婚後間もない彼らは、東京を去って今私のいるこの八ガ岳の裾野の家へ来て住んでいた。南方の戦場で体をこわした夫はサナトリウムヘ通いながら家庭で療養生活をしていた。当時まだ二十歳はたちだった私の娘は、その病人の夫をたすけて、なじみの薄い寂しい土地で馴れない畠仕事や家事にいそしんでいた。今でこそ近所に開拓者の新らしい部落もできたが、その頃はいちばん近い隣家へも高原の坂道を六七町の距離があった。そして私たち両親のいる東京とは、遠く五十里の青い山河を隔てていた。
 私の着いたあくる朝、娘は夫に飲ませるための毎日の牛乳取りに私をさそった。牧場は八ガ岳へむかって十町余りの所にあった。新緑の山野が限りなく美しく、美しいだけにその寂しさも大きく且つ深かった。私たちは牛乳を詰めた重い一升壜をかわるがわる持ちながらゆっくりと帰路をたどった。半年ぶりの親子二人だった。聞きたい話、聞いてもらいたい話は尽きなかった。やがて娘は「桜草をすこしばかり採って行きましょう」といって、道のかたわらの明るい林の奥ヘ私を導いて行った。なるほどそこのいくらか窪んだ草地には、桜草が今を盛りと一面に咲いていた。
 娘がそれを摘んで小さい花束を作るのを見ているうちに、私は我が子へのいとおしさというか、憐みというか、一種名状しがたい気持に胸のふさがるのを覚えた。母親に似ながら早くもやつれの見えるその横顔、労働のために太くなってもうピアノなどには全く適さないその指、しかも運命を甘受して平静で明るいその態度、また一方ではまさしく私の血をうけついだ負けじ魂のその気性……幼稚園から大学まで、両親の手塩にかけていつくしみ育てた一人娘だ。それが私たちを遥かに遠く信濃の国の高原のがらんとした寂寞の片隅で、病気の夫を看護しながらささやかな生活と戦っている……
「お前ね」と、私は努めて感動をおさえながら聞いた。「お前、時々ひどく寂しいと思うことは無いかい」
 娘はじっと私の顔を見た。一瞬間、濡れたように眼が光り、小さい時のように今にもワッと抱きついてくるかと思われた。しかし次の瞬間には親ゆずりの気丈に返って、
「いいえ、ちっとも」と言った。そして「でも、なあぜ。どうして?」と微笑しながら聞きかえした。
 そうか。その微笑、その涙。それならいいのだ。私はそれきり二度とそんな事は聞かなかった。
 高原の新緑の林の中で桜草の小さい花束を持った二十歳の若い女の微笑は、その老いたる愛の父親の眼にこう言っていたのだ――
「寂しさと静かさとの中でこそ、生と死との本当の意義はわかります。そこでは生命の脆さ弱さが生命の偉大さと手を取り合っています。そしてはかない命に永遠を感じるためには、私にとってここの寂しさと静かさとがなお暫くの間はどうしても必要なのです」と。
 そして私たち父と娘とはしっかりと手を引き合って林を出た。ふたたび人生の旅をつづけるエディポスとアンティゴーネのように……
                     
                             (一九五〇年 川上久子さんに)

 

 

 

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 朴の杖

 六月といえば、ここ信州富士見の高原に一年を通じて最も美しく楽しい季節のめぐってくる時である。遠く黎明の灰色の奥に響くヨタカの声に初まって森じゅうが小鳥の合唱に満たされる朝早くから、とろけるような真紅の太陽がアルプスの彼方に沈んで、まだ昼間の花の香や若葉の匂いの残っている涼しい透明な空気の中で一羽のアカハラの甘やかな夕べの歌の沈黙するたそがれまで、一日が輝かしく長く、そしてその長い一日が移りゆく霊妙な刻々と、森羅万象の語る深遠な意味とをもって彫塑されている。
 一年のうちでの最も華麗な最も生気に満ちたこの一と月は、また私が一年じゅうでいちばん懶ける時であり、野外自然の誘惑にいちばんひどく負けてしまう時でもある。私はほとんど暮らしのための仕事をしなくなる。そのくせ朝は人よりも早く起き、夜は誰よりも晩く寝る。あらゆる瞬間が無限に美しく、すべての色彩が快美に歌い、薫る空気が悦ばしく流れ、いたるところ光が軽くきらきらと浮んでいる。こんな時にどうして机なんぞにかじりついていられよう。私は山野にみなぎる大きな昼間を歩きまわり、遠近の村々をたずね、丘の草に身を埋め、形をなさぬ詩の断片や触目の印象をノートブックヘごたごたと書きこみ、また時には黒エナメルの薄い小函を開いて即席のスケッチヘ明るい透明な水絵具を塗るのである。そして夜は夜で私の森に暖かいそよ風が満ち、フクロウの憂欝な恋歌がひびき、ほのぐらい若葉の間に初夏の星が涼しく滴る。そういう晩には私は好んで「童話」とか、「水晶」とか、「アルマイド・デートルモン」などを読み返す。ヘッセやシュティフターやフランシス・ジャム等のこういう物語は、決して偉大でもなければ警世的でもなく、もちろん世界史的な思想を振りかざしてもいない。しかしそれらはわれわれの心に一層近く、花や小鳥や日光のように単純で、好意に満ちて、悦ばしく、強力な指導者たちの言葉のような圧倒的な響きは持たないが、一層優しく温かい母らの歌を奏でている。
 こうした六月の或る日の午後、私はいつものように羚羊の敷皮と小さい山刀とを腰にさげ、鍔広の夏帽子をかぶって森の家を出た。もう峯々の雪のすっかり消えた八ガ岳は広大な裾野のむこうに晴れやかな夏姿を横たえていた。行く先々でクローヴァや野薔薇がかおり、咲き残った蓮華ツツジが点々と赤く燃え、郭公やホトトギスが鳴き、遠く開拓の野のライ麦が銀いろに波うっていた。
 私は或る坂道の村のとっつきで一軒の農家の庭を嘆賞した。それはアメリカ帰りの富裕な百姓のすまいで、板屋根に石をのせた母家のまわりといわず、白壁の土蔵の裾といわず、花崗岩を畳んだ井戸のふち、青苔に彩られた石垣のあいだを、この季節のあらゆる種類の日本の花や西洋の草花が色とりどりに咲き埋めていた。そしてこの花好きの家に感化されたのか、村のほとんどの家が皆多少なりとも楽しみのアラセイトウや西洋オダマキを栽培し、すべての家がテッセンやカザグルマの大きな星形の花を門や垣根に巻きつかせていた。
 私は村を過ぎて山道を進んだ。蒸れるような新緑の奥でセンダイムシクイやキビタキが歌い、カラマツの林ではエソハルゼミがほそく涼しく鳴きつれていた。やがて私は山の中の或る明るい小平地へ達してそこの草の上へ両足を投げ出した。あたりには碧いアヤメが小さい群落を作っていた。また片隅には数本の朴ほうの木が立っていてエメラルドのように光る巨大な若葉をひろげ、梢のてっぺんには睡蓮の花に似た大きな白い花をいくつもいくつもかざしていた。そしてその花に群れる無数の虻や蜂の翼のうなりが、青い絹のような空間から私のところまで落ちて来るのだった。すると急に或る考えが私に浮かんだ。私はその朴の木へ近づいて行って一本のまっすぐな下枝を山刀で切り落とし、取り払った大きな葉を巻いてポケットへおさめると、再び草の中へすわりこみ、今度はナイフを取り出してこの新らしいステッキの灰色の皮ヘメーリケの「春にイム・フリューリング」という詩の中の一句を深く彫りこんだ――

  Nur noch das Ohr dem Ton der Biene lauschet (ただ聴くは蜂の羽音ぞ……)

 そしてフーゴー・ヴォルフのメロディーでこの詩を口ずさみながら、夏の真昼の静寂のなかに浮き漂う光線のようなこの一句を永く定着するために、私はテューブからの碧い絵具を刻まれた文字へ塗りこんだ。そのあいだにも蜂は真白な花のまわりでぶんぶん唸り、やがて崩れる豪華な夢のような花冠の上には、永遠や不滅を意味する深い青空がひろがっていた。
 やがて私は山をあとに里のほうへ下りて行った。手製の新らしいステッキが心にかない、適切な詩句を刻みつけたことに悦ばされながら。折から里は田植の最中で、池のように水を張った田圃はいたるところ働く老若男女に賑わっていた。そして整然と碁盤目に植えられた若い苗の涼しく映る田の上を、燕の群が高く低く流れ矢のように飛び違っていた。
 私はそういう田植の風景のなかで知りあいの一家に呼びとめられた。子供もまじって七八人の家族がちょうどお八ツを食べていた。若い娘が茶をすすめ、お田植の餅だからと言ってお婆さんが大きな牡丹餅を詰めた重箱をさしだした。私がポケットから取り出した例の朴の葉でそれを受けると、みんながこの当意即妙を褒めた。中でもお婆さんは「お若えのにお心がけだ」と言って褒めてくれた。若いと言われた私はもうやがて六十に近い。しかしそう言うお婆さんはなるほど八十を越していた。
 私はステッキをかかえてそこを辞したが、それからも未だいろいろな楽しい遭遇や発見があった……

                                 (一九五〇年)

 

 

 

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 小さい旅人

 東京から来た林間学校の生徒たちのためにこの高原の鳥や植物や昆虫の指導を頼まれて、きようは朝から釜無の山麓をその子供たちと一緒にあるいた。
 一行百二三十人の持って来た捕虫網や胴乱はほとんどすべてが新調の品で、土地の小学生や中学生たちの羨望の的になりそうな上等な道具ばかりだった。女の子たちが肩から吊っている水筒も碧や薔薇色のエナメルに光って、ついきのう銀座か日本橋の大百貨店でととのえてきた物のように思われた。持物といい、服装といい、東京のどういう家庭の子供たちか知らないが、これだけの支度をしてよこすのは、親としても今どき中々大変だろうという気がした。
  もうこの信州の高原に五年間住んでいるものの、私も古い東京のまんなかで生まれた。その東京から遠くやって来た子供たちだと思えば、何となく懐かしくもあれば親身の者のような気持にもなる。どうか軽薄な真似をしたり心無しのわざをしたりして、土地の人たちの顰蹙を買わないように、土地の子供たちの無言の非難の眼を浴びたりしないようにと、思い心にあれば願いもまたおのずから口に出た。東京からの幼い者たちはけなげにもそれを守った。事をわけての真実は歪まない心には正しくすなおに聴かれるのだ。その子供らに取り巻かれ、山や雲や花や虫の名を質問されながら、自分自身の真白な絹の捕虫網を、高原の朝風にふくらませた私の心は晴れやかだった。
「先生、この蝶は何ですか」と、中学一年生ぐらいの男の子が聞く。
「これはスジボソヤマキチョウ」と、その大きな黄色い蝶の、前翅の角のえぐれを指摘して私は答える。
「先生、この花は」と、小学の五年生かと思われる女の子がたずねる。
私は答える、「これ。これはね、イブキジャコウソウ。いい匂いがしますよ、嗅いでごらんなさい」
「先生これは」
 「ほう。よく捕れたね。これはミヤマカラスシジミ。東京へ帰ってから展翅するのなら、こんなにすっかり殺してしまわないで、三角紙の中で少しは動いているくらいにして置いた方がいいんだよ」
「これは何ですか、先生」
「チダケサシ。この花の茎を折ってね、乳茸ちだけというきのこを幾つも繋げて刺し通すのでそういう名がついたんだそうです」
「これは」
「これはフシグロセンノウ。ナデシコの仲間ですね」
「先生、これは」
「これはユウスゲ」
 しかし、道の片側を山からの清冽な水の流れている或る部落を通りながら、一むらの背の高い草を指さして
「ではこの草は何というか、誰か知っている人がありますか」と私の方から聞いた時、一人の男の子が「麻です」と答えるのを聞いて、通りかかった村の大人が、「ほう、よく知っとるな」と、微笑しながら褒めるように優しくその子の顔を見てくれたのには、ああ、私として何かしら涙ぐまずにはいられなかった。

 東京よ、私はお前を愛する!
 そして信州よ、私はあなたに礼を言う……

                                  (一九五〇年)

 

 

 

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 盛夏白昼

 村役場の敷地の整地作業のために、各世帯から一人ずつ出るようにという通牒が私のところへも廻ってきた。
 うちでは人手と言っても私と妻と二人しか無い。私は幾つかの差し迫った仕事に追われているが、妻も妻で、畠仕事だとか鶏の世話だとか、洗濯だとか、遠い駅附近まで配給品を取りに行くとか、高原清閑の夏はどこへやら、わけても今日のような花々しい土用の快晴には、一年中でのいちばん忙しい生活に駈けずり廻っている。
「先生の所なんかは出なくてもいいんじゃないですか。村のためならほかに尽くす道だってあるんですから。しかしそれでは気が済まないというのなら、一日分の人夫賃を出されたらそれでいいでしょう」と人は言うのだ。
 なるほどそういう考え方も、人によれば、また時と場合によればできないこともないだろう。しかし私はやはり違う。この炎天に村が私に求めるのは私の貢献する労役と誠意とであって、決して身代りの金銭ではない筈だ。村がこの私に期待するのは衆と共に流す私の汗と、快く協力する私の連帯心とである。私はふだんから思っている、たとい自分が何であろうと、断じて特別扱いや目こぼしはして貰いたくないと。多数者を見おろす少数者の段上で、皆のよりも柔かい楽な椅子に納まって、幹部づらや役員顔をすることは私の決して好まないところだ。私は特権を欲しない。またそんなものを期待もしない。
 それに私の体は見たよりも強壮で、年はとっても未だ一日の土運びぐらいでへこたれはしない。つい二日前には若い友人と八ガ岳をやってきた。そして一週間後には乗鞍が控えている……
 富士見高原の盛んな夏よ! 弁当箱と水筒をぶらさげ、鋤簾じょれんをかついで私は行く。山々は金剛石色に光る霞の奥でふるえている。赫々たる太陽は真昼の空を直登してすべての物の影という影を縮めている。見わたす広野に草木は萎え、乾き切った道は燃えるように赤い。向うの松林ではエソゼミのカスタネットが鳴りひびき、玉菜の畠では無数の蝶が白いまぼろしのように揺れ、足もとの焼けた土からは金と緑と紫とで飾られた大きなバッタが長い抛物線をえがいて飛び立つ。空はあくまでも晴れて太陽の近くではむしろ黒ずんだ桔梗いろを呈し、山の端や地平線のあたりでは透きとおった明るい矢車菊の色になって円く広々と落ちこんでいる。
 秀麗と精悍の女神ミネルヴァの夏よ! 秩父の山に湧く積乱雲はおんみの白晢の額だ。玉虫いろに光る深遠な空はおんみの明眸を、照りおろす日光はおんみの舞わす矛ほこのかがやきを想わせる。私は裾野を見わたす真赤な台地で人々にまじって車を押し、堅い巨大なチーズのようなネット(粘土)のかたまりを運んでいる。皮膚は塩を噴き、汗はあごを伝ってぽたぽた垂れる。若い男たちはすべてルーベンスの画から抜け出たような逞しい赤銅いろの半裸体、女たちは麦稈帽と野良着とでしっかりと汗の体を包んでいる。土も焼け、人も焼け、道具も焼ける。空気は目に見えぬ上昇気流の大円柱となって、七月の真昼の天へぐんぐんと昇騰する。
 しかし心頭滅却すれば火もまた涼しい。坂下の林で鳴いているアカハラの声に清涼なフリュートの音色がある。八ガ岳連峯のところどころに冷めたいサファイアの雲影がある。そして心は詩人ポール・ヴァレリーの、あの大理石と紫水品とを刻んだ勾欄こうらんのような「海辺の墓地シムティエール・マラン」の詩を思っている。
                                (一九四九年)

 

 

 

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 冠 着  かむりき

 地方都市の発展と膨脹と、父祖の世からの家業以外に仕事を求めなければならぬ農村の人口増加とは、かつては「山中」と呼び慣らされたこの桃源のような隔絶地をさえ、信州松本平と善光寺平とを複雑な地形地質でへだてている筑摩山地のまんなかのこの麻績おみの盆地をさえ、松本市に対する一種の郊外居住地に、そこへの通勤交通圏内に吸収してしまったのであろうか。
 丹波・但馬の山の中を想わせる寂しく美しい鉄道沿線。そこを一筋の古い街道がほそぼそとかよっている狭い帯状をした山間の沖積盆地。長野へむかう篠ノ井線の列車が明科あかしなを過ぎて山地ヘ入ると、西条にしじょう、坂北さかきた、麻績おみ、冠着かむりき、いずれも部落から離れた駅々で、松本から帰る若い男女の通勤者が、今にも夕立の来そうな夏の夕暮の曇り空の下を、三々五々と降りて行くのであった。
 七月末の或る日、私は翌日の長野市での講演のために南信濃の富士見からその同じ汽車に乗っていた。朝からの異常に蒸し暑い日で、信州の山々にはぞくぞくと強大な積乱雲が発生していた。善知鳥うとうのトンネルを過ぎて車窓から振りかえると、塩尻峠の垂るみのかなた、真暗になった諏訪の空には燃える白金線のような電光が絶え間もなくキラキラと突っ立って、高い黒雲の壁をつくしをすさまじい赤銅色に照らし出していた。私の汽車は松本で三十分間停車した。ここは美ガ原うつくしがはらのうしろから発達した別の雷雲の勢力範囲で、まだ雷や雨にこそならないが、低く下がってきた灰色の雲の底が無数の乳房状に凝りはじめ、先ぶれの巻雲が早くも典型的な扇形になって拡がっていた。 
 しかし一人旅の途すがら、たまたまこういう威嚇的な天候の時に地方のこういう都会のラッシュ・アワーにめぐり会って、近距離からの通勤者や学生の乗客と一緒になるということには、何とは無しに家族的な親しみの空気の感じられるものである。もしも天気が良くて遠近の風景が晴れやかだったら、同じ私の共感や讃美の心が、刻々と移り変る窓外の舞台にむかって遠く近く視線の花束を投げることだろう。しかしこんなたそがれじみた雷雨の前の曇天や、大雪になりそうな冬の夕暮などには、他人は知らず、私にとって、そういう通勤者や学生への親近感というか無言の友情というか、ともかくも一種なごやかな生き生きとした気持の湧き動くのを覚えずにはいられないのである。人は簡単にそれを私の淋しがり屋に帰するかも知れないが、私自身はそれをもっと深い人間性に由来するもの、ラ・ヴィー・ユナニーム(全人一如の生活)への郷愁のようなものではないかと思っている。そして最初の駅で今まで近所の席にいた賑やかな幾人かが降り、続く駅でまた数人が降り、こうして次々と降りて改札口を出てゆく彼らの姿を窓の中から見送りながら、私は心に小さい別れに似たものを経験するのである。
 こうして田沢でも明科でも松本からの若い彼らが降りて行った。もう夏時間の午後七時をとうに過ぎていた。車内には電燈がともって人々の顔に旅めいた光を落としていた。汽車は犀川の流れと松本平とを後にして筑摩山辿への登りにかかった。トンネル、鉄道保護林、またトンネル。 やがて線路が大きく左へカーヴして漸く左右の眺望がひらけると、間もなく着いたのは麻績盆地最初の停車場西条だった。ここでもかなり大勢の若い人達が下車した。その彼らの帰って行く部落は向うの山裾の街道に沿って、重苦しい灰色の雲の下、一様に沈んだ夏の縁の風景の中に黒い瓦葺の屋根をならべて、夕暮の野をたどる順礼の列のように見えた。そして更に坂北、麻績と進むにつれて、北と南とから聖ひじり・四阿屋あずまやの山々に挾まれて往手を冠着山かむりきやまにはばまれたこの美しく細長い山間の盆地が、私に山陰本線玄武洞あたりの晩秋の風景を思い出させた。
 しかし私は窓外の景色ばかりを見ていたわけではなかった。松本を出て以来ほとんど通勤列車の観を呈してきたその車内で、若い人たちを観察したり、彼らの会話の断片を小耳に挾んだりしていた。そして特に私の注意は、斜め向うの座席にいる一人のつつましやかな娘にそそがれていた。
 きちんと揃えた両膝へ大きな手提袋を載せ、小さい書物のペイジの上にうつむけた額から頬ヘかけての幾分メランコリックな優美な線、ようやく二十歳ぐらいに見えながら、時々ほとんど母性的なものを漂わせる深く誠実なまなざし、純潔に合わさった唇、まだどこかにあどけなさの残っているおとがい、ほかの娘たちのように華やかではないが、その好みがよく活かされた淡色の夏服。おそらくは地方事務所か役場にでも勤めているのであろう。松本から乗りこむとあたりの賑やかな話声をよそに、ひとり静かに本を読みはじめていた。
 彼女が強く私の注意をひいたのは、しかし一つにはその読んでいる書物のためでもあった。書物は一冊の岩波文庫で、何かのはずみに表紙の文字が見えた時、私はそれが「ジャン・クリストフ」であることを知った。
 ロマン・ロランの「ジャン・クリストフ」。これは私にとって二十歳代の天啓の書であり、太陽であり、その後三十数年を通じて常に変らぬ精神の鼓舞の力、心の糧となっている。きのうも私は高原の森の木かげ、羊歯の生い茂った泉のほとりで、その最終の巻「新らしき日」の数ペイジを読んだのだった。親友オリヴィエの忘れがたみ、一四歳の少年ジョルジュが、パリに滞在中の老クリストフをたった一人で訪ねて来た。少年は亡き父親の姓を名乗った。クリストフはおののくばかりに感動した。彼は少年の両腕をつかんで暫らくは亡友のおもかげを宿すその可憐な顔に見入っていたが、突然強く強く抱きしめると額といわず眼といわず、頬に、鼻に、髪の毛に、荒々しく唇を押しつけた……
 私は斜め向うの座席でその「ジャン・クリストフ」を読んでいる若い娘の誠実な眼や純潔な唇の端に、かすかに照り曇りする内心の表情を盗み見していた。そして列車が麻績を過ぎてあたりが二人だけになった時、書物を手提袋へしまって何気なく私と顔を見合わせたその娘に、「ジャン・クリストフをお読みのようでしたが面白いですか」と思い切って聞いてみた。娘はちょっと驚いた様子だったが、直ぐ静かに
「はい、好きでございます」といった。
「そうですか、私も大好きです。いま読んでおられたのは何巻ですか」
娘は虚を突かれたようだったが、顔を赤らめながら袋の中をのぞいて見て、
「五巻でした。アントワネットのところを読んでいました」とすなおに答えた。
「アントワネットは弟オリヴィエに学費を貢ぐために、知るべもないドイツヘもう行きましたか」
「はい。そのドイツで失職してフランスヘ帰る途中、すれ違った向うの汽車の窓にクリストフの眼を見ました」
 このとき私たちを乗せた列車は冠着に近づいていた。娘は「失礼いたしました」と軽く会釈をして車の出口へむかって行った。漸く左右から山の迫ってきた風景の正面に、巨大な冠着山がたそがれの色に包まれてそばだっていた。停車した駅は小さく、あたりには部落らしい物も見えなかった。三四人の客が怪しげな空を見上げては急ぎ足で改札口を出て行った。娘はいちばん後から窓の外を通るとき、今度はじっと私を見ながら、それとわかる親愛のまなざしで辞儀をして行った。
 私はその後ろ姿を見送った。つくづくと見送った。稀に見るようなけなげな娘の名も知らず、その帰って行く家のありかも知らない私、ロマン・ロランを精神の父とも慕い、その最も愛をこめた数々の手紙を秘蔵している私、しかもその手紙の一つの中で「私の著書の真の読者は、フランスの田舎の奥に埋もれて、名も無ければ富も無く、苦しい仕事に不平もいわず、常に黙々と働いている女たちだ」という彼のある時の述懐を聞いている私、しかもこれらのことを一種の心のためらいからあの娘に話してやらなかった自分を、今ではいくらか悔いている私が。
 汽車はたそがれの山々にこだまする汽笛を鳴らして出発した。ついに雨が降り出し、遠雷がとどろきはじめた。私はあの娘が日傘を持っていたことを思い出していくらか安心した。信号燈の董いろや橙いろが今更に旅をおもわせた。私の汽車は麻績の盆地をあとに轟々と冠着のトンネルへすべりこんだ。       
    
                                 (一九四九年)

 

 

 

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 初秋の湖

 この高原に居を定めてもう四年、今年こそは本当に心ゆくまで自然の夏を味わいぬき、春と秋との清明な二つの岸のまんなかで、刻々と流れ去る夏の輝かしい朝昼夕を生きつくし楽しみつくそうと考えていたのに、またしても断り切れない講演のための小旅行だとか、心に染まない原稿書きだとか、一と夏を預かった小さい孫の世話だとか、その間には数時間乃至丸一日の訪問客、時によれば一泊二泊を予定して訪ねて来る遠方からの友人の接待だとかに時を費し日を暮らしているうちに、私の夏はいつか取りとめもない夢のように過ぎてしまった。
 たえず何事かを求めてくる他人に応分の満足を与えたり、現実世界の要求に善意の寄与をしたりすることと、明晳保身、清潔な水晶ガラスの絶縁体の上に身を置いてきっぱりと世間から孤立し、自発的な仕事のなかで詩人の純粋を護ってゆこうとすることとの間には、到底相容れないものがあって、その間、妥協の余地もなく、どんな偽装も看破されてしまうのである。まして一ヵ所に定住して家庭を営み、係累を持ち、世間との繋がりや交渉を断ち切れない私のような人間にとっては、たといそれがどんなに望ましいことであり、またどんなに夢やあこがれに値しても、到底あのニイチェやリルケのような痛烈に澄み切った生活は得られず、否もう少し寛容な尺度を選ぶとしても、なおかつヘッセのような生き方すらできないのである。
 いくら言って聞かせても廊下をよちよち歩いて来て、その幼い柔かい手で書斎の戸を外から叩き、私から貴重な朝の時間を可愛く奪い去る二歳ふたつになる孫娘があったり、(本能は同じ姿をくりかえす。この子の母親がまた昔は同じようなことを私にした!)わざわざ東京から汽車に乗ってかくいう私に「詩人の生活」をインターヴューに来る若い女の大学生があったり、一人息子の前途を相談に来る近隣の村の母親があったり、二十年間書き溜めた詩を見てくれと数冊の厚いノートを送りつけてよこす老農があったり、始終電報や速達で催促をうける原稿書きがあったり、返事を強要してくる得手勝手な手紙があったり、旱りの畠で掘り上げを待っている馬鈴薯があったり、追肥を与え支柱を立ててやらなければならない豆があったり、その畠で遠慮もなくはびこる雑草があったり、餌の調達を工面しなければならない牝鶏がいたり……ああ、数え上げれば切りもないこんな生活のきずなを曳きずって歩いていては、エンガーディンやミュゾットの隠栖はおろか、一見自然の中の静閑と孤独とを楽しんでいるように見えるこの高原の森の家の生活も、山間の池から採った顕微鏡下一滴の水の偽らざる真相のように、実は幾百という微生物の活動や繁殖で織るような盛況なのである。そして絶えず愚痴をこぼしながらもこれを許して、要するにこの状態を是認して、そこから――接合藻の切れはしや無数のプランクトンのうごめいている世界から――ともすれば無視されがちな人生の微妙な味や映像を言葉をもって定着しようとする私のような詩人の書くものが、しばしばあまりにも人間臭く感傷的で、そのため我が国の似非リルケや似非アラゴン、またはある種のイデオロギー作家たちの眼に甚だ卑俗とさえ映るとしても是非がない。
 ともかくもこうして私の夏は今年もまた終ってしまった。そして今朝は向うの丘のカラマツ林に乳色をした朝霧が冷えびえと横たわっているのを眺め、明けがたの驟雨に洗われた高原の空で悠々と輪をえがいている鷹の叫びを聞き、池のほとりのクルミの樹から黄いろい九月の葉がひっそりと落ちるのを見るのである。畠の隅では露に濡れた雁来紅があけに染まり、最後の仕事にいそぐ蜜蜂が小径の上を金のつぶてのように横ぎっている。本当にもう秋だ。どこからともなく草を焼く煙のにおいが流れてくる。森の奥のキツツキの声も、開墾地に散らばったムクドリの声もまさしく秋だ。北西の山のかなたに二ひら三ひら朝の雲が浮かんでいる。あの雲の下には諏訪の湖が秋の水を湛えているのだ。私は急に水を思う。山の秋の水のすがたを。ああ、そうだ! 今日は諏訪湖へ遊びに行こう。ボートを出して漕ぎまわり、あわよくば一浴び浴びて、一夏の俗塵と徒労の汗とを山湖の水で洗い落して来よう。
 珈琲をつめた水筒と一枚の水着とを提げて私は下りの汽車に乗る。東京からの列車はここまで来るともうかなりすいているが、六時間を乗ってきた旅客は所嫌わず弁当の殻を散らしたり、躾けの悪い子供たちをいよいよ不行儀にのさばらせたり、二人分の席いっぱいにあぐらをかいて猥雑な雑誌を読んだり、煤煙によごれた顔をいぎたなく仰向けて眠りこんだりしている。こういうふうにすべての人間がよく頭を働かせて万遍なく座席を占領している車内に、(対社会の場合でも同じことだが)私のための席という物は無い。よろしい。僅かの時の辛抱だ! 身をかがめて見馴れたそとの景色を覗くと、山あいの田圃の稲はもう黄いろく色づき、小さい部落の果樹園ではもう林檎の実に粉なっぽい紅べにの色がさしている。そして見上げる山の中腹からは、ところどころ炭焼の青い煙が上がっている。自然はいい!
 駅前の菓子屋で腹の足しになりそうなものを物色した私は、知人の多い上諏訪の町の賑やかな一角を素通りしてそのまま静かな湖畔へといそぐ。白壁の照りかえしが強く、まだ夏の暑さの残っている真昼の小路に温泉の香が漂い、家々の白く乾いた小さい庭で白や臙脂色のコスモスが咲き、百日紅の花が終りに近い。空には無数の岩燕があたかも胡麻粒を撒き散らしたように飛んでいる。湖水は黒ずんだ緑の山々を縁にした青い大きな杯のようだ。
 私は閑散な船宿で一隻のいちばん綺麗なボートを借りる。吃水線とオールの水搔きとが真赤で、船体が真白に塗られた新艇だ。残暑の強い日光にペンキが異国的なにおいを放ち、座席や舟べりの熱いのが頼もしく快い。ともづなを解いて杭を押すとこの白鳥のような小舟がゆらゆらと水面をすべって岸を離れる。秋の船出、いや、新しい秋への船出だ。私は二挺の櫂をクラッチヘ嵌め、湖心へむけてまっすぐに漕ぎ出す。舟は軽く、船脚はすこぶる速く、凪ぎ渡った湖面には漣の皺ひとつ無い。風力はまさにボーフォールの「静穏カルム」である。
 岸の遊歩路の柳並木も遠く低く目立たなくなり、その樹の下で子供たちがエビを釣っていたあたりも水の反射に紛れて見えなくなると、山を背負った上諏訪の町がそのもっとも美しい正面をつつましく水に映すようになる。測候所の灰色の建物も、美術館や大浴場や会館の淡褐色の建築も、黒い煙を漂わせている停車場も、高台の上の古風な学校も、市役所も電話局も病院も寺院も温泉宿も商店街の家並も、すべてそれぞれの全く異った生活目的と機能と様式とを全体としての都市景観の中に溶かし去って、初秋のあまねき日光の下にただちらちらと光っている。なおも沖へと漕ぎ進みながら舟を取舵とりかじにして大きく廻ると、古い落ちついた下諏訪や新興の岡谷市が扇状地や沖積地の田園を伴って次々と現れ、断層崖の湖岸に臨む村々が美しく水に投影しながら移動してくる。
 やがて私は湖水の中心とおぼしい所で櫂を引込めてボートを停め、それからは勝手に舟の浮き漂うにまかせる。そしてビスケットを食い、トマトをすすり、珈琲を飲み、煙草を吸い、さていよいよ水着に着かえて舟べりからするすると水へはいる。
 水温は真夏の頃よりもいくらか低く、最初はさすがにゾッとしたが、思い切って一二回舟の周囲を廻っている内にさほどでもなくなった。それから立泳ぎだの平泳ぎだの片抜手だの、昔習った泳法を色々とやってみる。そして山登りと同様に、この年になっても未だ当分は使えそうな体力のあるのを知って満足する。山登りといえばその山の穂高が、いま塩尻峠につづく南の丘陵の間から遠く青黒い岩峯をのぞかせ、振り返れば八ガ岳の連山が鳳翼を張って日を浴びている。
 私は舟べりへつかまって休んだり、舟へ上って甲羅を干したり、またすこし漕ぎ廻っては水に漬かったりする。腕や足の甲に水という物質の堅い抵抗を感じながら、この大地の要素と競い戯れることが何という楽しさだろう。まかり間違えば人を呑みこむ渦巻のあるのを知りながら、いささかの熟練をもってその危険のへりを遊ぶことが何という魅惑だろう。ある時代にはこんな運動からかなり久しく意識的に遠ざかったこともあったが、年齢と内心との成熟につれてこうしたことがまた別の光と意義とをもって立ち帰ったのである。どんな体験でも一度だけすればそれで良いというものではあるまい。青年時代の或る山頂の夕映えは、老年の登山にしみじみと見る夕映えとはその感銘の次元が違うだろう。少くとも私にとって今読むゲーテは三十年前のそれよりも遥かに心を打って美しく、昔の遠泳には今日のボチャボチャ泳ぎほどの味も内容も無かったように思われるのである。もちろん昔はまた昔でよかったが……
 私の白鳥のようなボートは赤い吃水線に小さい波をうけながら傾き漂っている。日がかげって風が吹きはじめ、蒼白く濁ってきた空には浮氷のようなだんだら雲がひろがり出している。私はシャツを着かえて真直ぐに漕ぎもどる。東のほう八ガ岳の連山にはまだ暖かく日があたっているが、湖水をめぐる風景は輝きを失って薄ら寒く沈んで見える。物語のようだった舞台が現実の相を帯びてきて、湖畔を走る汽車にも移りゆく生活や旅の姿が感じられる。波は舟の艫を煽り、舳からは金属的な堅い水音がおこる。もう岸の船着場だ。並木の柳の黄ばんだ葉や、ベンチのあたりに散らばった紙屑が今はわびしい物として眼にしみる。もうエビ釣の子供たちもいない。測候所の屋上でロビンソンの風杯がくるくると廻っている。私はともづなを杭に結んで舟を上がる。そしてローエングリンのように、我が誠実な白鳥に無言の別れを目で告げる。

                                (一九四九年)

 

 

 

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 老おいの山歌やまうた

 文壇の狂詩曲に調子を合わせるでもなく、時代の流れに沿ってたくみに舟をやるでもなく、持って生れた本質と、形成されてゆく人間的形姿と、衷からの衝動のまにまにおのれの世界で勝手な仕事をつづけている間に、いつか思いのほか歳をとってしまった。自分ではまだ充分若い気でいながら、時たま鏡の中の顔を見でもすると、こんなにも変ってしまったのかと、驚くような情ないような気がするのである。
 しかし変ったのは単にこの世での外貌に過ぎないし、またいつまでたっても若い時と同じ顔をしていたら却って気味が悪かろう。ただ私という人間を他のどんな人間からも断然区別する本質だけは変貌しない。そうだ、私はちっとも変りはしない。ただ私自身の核であり本質である結晶の切子の面が一層こまかくなり、その屈折が一層強く一層複雑になっただけの話だ。
 去年六月のウェストン祭の時、私は図らずも上高地で関西登山界の二長老、西岡一雄さんと藤木九三さんの二人に会った。両氏とも私よりは年長かと思うが、老境がこの二者それぞれの風格を全く他とは紛れ得ないものにしていた。年経た独立樹の樅が樅の樹本来の樹容を形づくり、白樺が白樺本然の樹形を完成するように、両氏はおのおのその生成の歴史や瘢痕をあらわにしながら、特色ある独自の風貌を山間の日光に曝らし、清涼な谷風に吹かせていた。
 その日私は中ノ湯から釜隧道を抜けてなおも登る坂道の途中、路傍に立つ一本の巨大な桂の樹の下で友人三人と汗を拭いながら休んでいた。頭の上では新緑の桂の葉がそよ吹く風に微吟を聴かせ、うしろでは梓川の初夏の瀬音がアルプスの真昼の琴を鳴らしていた。その時同じ二台のバスを降りて三々五々上高地へむかう一行の中に、私は自分の前を静かに通る西岡さんを見出した。西岡さんは背広の上着をぬいで左の腕にかけ、右手に細いステッキを突いていた。ズボンは長いまま、靴はどんなだったか忘れたが、すでにいくらか遠ざかった記億では、軽い山靴ではなかったかという気がする。頭は無帽、年処をけみしたルックサックは殆んどからだった。こころもち前方へ傾いた痩軀、気品のある柔和な笑顔。凡そこういうのが私の見た西岡一雄さんだった。永遠の母が彼を通じて試みた一つの草案をおのれの衷に忠実に生かして、おのれの根原の神秘にしたがう尊敬すべき一老登山家の姿であった。
 寄る年波が一人の登山家から少しずつ彼の体力を削り去り、さまざまな支柱を崩して彼を裸の孤峯のようにし、きのうの可能をきょうの不可能に変えてしまうという事実は淋しいことだが如何ともなしがたい。岩場のホールドに大きく開いた片足をかけて、弾みとともに一気にずり上がることのできたつい四五年前の同じ自分が、よしんば今日もどうやらそこを攀じ得たとしても、そのため腰を痛めて永く苦しむとしたらどうであろう。息ぎれの度数が多くなり、疲労した筋肉の恢復が長びき、荷物はおろか、体一つさえ持てあますというのは老境の登山の常である。少年の日の輝くような純粋なソプラノの声に響きかえした山彦が、成年の鈍い沈んだ声にはもう答えてくれないように、たとえ山への愛、山への郷愁がどんなに烈しくわれわれの心に燃えていようとも、一度失った青春を再びかしこに生きるよすがはもう無いのである。そしてそこからわれわれの諦念がはじまる。夏雲の空遠くあこがれて行けばもう一度あの幸福に逢えるかも知れないが、今は美しい思い出の数々を心に秘めて老年の野に生きようという苦がくて甘い諦念が。
 山への信頼、山への感謝、山への讃美の思いをいよいよ深く篤く心には抱きながら、一人の古い山岳会員として、よそ目には山を知らない只人のように、生涯の晩い午後を生きていることが何と美しいだろう! 一つ一つに思い出ゆたかな登山用具は今も戸棚の片隅にある。時あって取り出して見ればあの高処での数知れぬ記憶は花のように咲き、なつかしい感慨は雲のように湧くのである。油紙に包まれたまましっとりと黴に湿めって、鉛筆の跡さえも消えがちな十幾冊の山の手帳。ささやかな書棚には親しげに並んでいる国の内外の一連の山岳図書。額の中の或る山頂、雪渓の岩に凭たれた若き日のおのが姿、一輪の色褪せた高山の花。戦争は私から多くの物を奪ったが、それでもなお難破の遺物のような幾らかの記念が手許に残った。人生が無常であればあるだけ愛着はいよいよ強く、所有のはかなさを知りつくした心がいつかかたみを抱きしめている。
 しかしたとえ老境に入ったにせよ、今私は決して自分の歎きの歌クラーゲ・リードを歌っているのではない。それどころか、体力的に旺盛だった時代にはとうてい紡ぐことのできなかったような柔かい、多音の、深く楽しくて調和に富んだ感謝の歌を編んでいるのである。自分というものが今よりも生一本で、それだけ純粋にも清廉にも見えた昔には、私のような非力な登山者にもどこかヒーロイックな閃きがあった。進んで困難に立ち向かい、撓みやすい意思を鍛え、より高いもの、より到達し難いものへの意欲を燃やし、一種殉教の精神に貫かれて、男らしい孤独と純潔とを慕うという趣きがあった。それは私の場合(そして或る種の登山家の場合にも共通のものであろうが)人間性のうちの悲劇的なものへの愛の傾向につながっていた。それは世俗的に成熟した人の眼には或いは物好きな冒険とも暇潰しとも見え、笑うべく幼稚な英雄主義とも映ったかも知れないが、しかし確かに私が生れながらに持っていて自分では意識しなかった私自身の本質、他の万人から私を区別する運命的な特異性を、私の霊と肉との相貌のうちに完成するにあずかって力あったことは疑いをいれない。
 なるほど私が初めて山へ登ったのは一つの偶然の機会に過ぎなかったであろう。また私の山への愛にしたところで未生以前からの宿命でなかったことは確かである。どんなにすぐれた世界的な登山家にせよ、生まれ落ちた時すでにどこかの山岳会の紋章をその柔かい無垢の額に刻印されていた者は無いであろう。山への傾倒といい、山との宿命的な結びつきといい、要するにそれは生活の時と空間との中で永く涵養されてきたものに違いない。ただその涵養が単に趣味の練磨が、それとも自己の運命の道とすれすれの欲求であったかという処で、よそ目には同じと見える道が二つに分かれる。どっちの道が善いとか悪いとか、一方の道が正しくて他方のそれが邪よこしまだとかいうのではない。ただもしも問題とするならば、どの道が運命の顔を持っているか、どっちの讃歌に祈りや信頼や獻身の響きがあるかである。その顔、その響きは、今や穏かに、澄んで、明るく、温かい。しかしそこには常に一脈の哀愁に似たものが漂っている。けだし「心の山」は永遠を語ると同時に無常をも教えるのだから。
 信州の高原に住んで富士・八ガ缶を眼前にし、碧い大気の果てに北アルプスの雪の波濤を眺めながら、こんなことを書いていると山が私を呼んでいるようだ。「それほどにも信頼し、それほどにも愛しているなら、なぜもう一度たずねては来ないか」と。恐らくは今僅かに残っている体力を挙げつくせば、私といえどもこれを最後と、彼らの山頂に立つことができるかも知れない。しかしよしんばそれがもう許されないとしても、なおかつ私のあらん限り、私のうちに、彼らは心の星として老境の夕べ夕べを照らすであろう……

                            (一九四九年 朝此奈菊雄君に)

 

 

 

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 西穂高

 上高地梓川の谷間から、穂高連峯西穂高山稜の一角に立っているあの美しい西穂の小屋までは、ほぼ一千メートルの高さを一里の道のりで登って行く。正味三時間ぢかくかかるこの登りはどこかしら秩父の奥山をおもわせるが、昼なお暗くしっとりと濡れて永遠のたそがれをつくっている亜高山帯の密林を、ところどころ樹幹に切りつけてある目じるしの鉈目をたよりに、冷えびえと横たわる残雪の背中を渡ったり、ぬるぬるした木の根岩角を踏んだりしながら、一歩は一歩と明るい山稜へ近づいてゆくこの深くまじめな楽しさの味は、高い山への登攀という行為を、人生の経験中もっとも純粋な美しいものの一つとして忘れることのできない人にして初めてわかる。
 比較的あかるい玄文げんぶんの沢さわをつづらおりの路の左に見て登っていた頃は、まだルリビタキ、コマドリ、ミソサザイなどの朝の囀りが、ちらちらと日の射す薄青い岩壁や谷間の樹々に反響して賑やかに聴こえていた。しかしやがて一つの狭い乗越のっこしをトラヴァースして右下に深く鬱蒼とした善六ノ沢を見おろすようになると、シラビソ、コメツガの原生林はその暗さをいよいよ増し、木の間を洩れる風は氷のように冷めたく、時どき立ちどまって息を入れる耳の底に、メボソ、ウソなどの淋しい清らかな小鳥の声が浸みとおる。そしてそれを聞くと、さしもに長かったこの密林の登りも漸く終りに近づいていることを知るのである。

 厳烈な氷雪や嵐の試練をうけて、背丈けのつまった魁偉な姿のカラマツや、曲りくねった老齢のダケカンバが、高山の太古の額を飾っている森林限界。しんみりと身にしみる秋のような日の光や、天の底が抜けたかと見える頭上いっぱいの大空や、磊々たる岩を埋めたハイマツの厚い緑の広がりとともに、そこから海抜八干尺のアルプスの庭がはじまる森林限界。この世の塵の影さえとどめぬその明るい静けさの一角に、我らの清楚な快適な山小屋、島々の村上守が経営する西穂山荘は立っていた、オオサクラソウ、シナノキンバイ、ショウジョウバカマなどの清新な初夏のお花畠にほどちかく、飛騨と信濃の空の色や雲の姿を映して見せる幾つかの窓をちりばめながら。
 小屋はさして大きくはないが、階下には広い土間と炊事場と乾燥室と、いろりを切った座敷とがあった。幅の広い頑丈な階段をあがると、二階にも畳敷の部屋があり、別に板張の上下二段になった寝室がある。すべてが手丈夫で、小ぢんまりと、住み心地よく、一日じゅう尾根をかけたり岩に挑んだりして疲れきった体を運んで、高山の夕暮時にたどりつく登山者たちに、一夜の深い眠りと安息とを供するにはまことにふさわしい小屋である。
 ウィンドヤッケに上半身を包み、ルックサックは持たず、ピッケル一本に双眼鏡だけという身軽さでわれわれ三人が小屋を出る。小屋の横手の灌木叢を分けて登ればもうそこからはハイマツ地帯だ。右は信州梓川、左は飛騨の蒲田川。二つの国の深い谷を尾根ひとすじに振り分けて、岩石の白とハイマツの濃い緑とに彩られた山稜が、まるで天へのきざはしのように、北へ北へと奥穂のピークまで高まっている。人間世界のけちな毀誉褒貶からぬきんでて、清浄無垢な八千尺の高所に、戞々と鳴る靴の音が淋しくも男らしい。
 ハイマツの中をたどる一本の細みちは国境尾根の信州側をへづったり飛騨側を巻いたりして、次第に高度を増しながらわれわれを二千七百メートルの独立標高点へと導いていく。あすの穂高縦走の足馴らしに、日の暮れまでの二時間あまりを利用して、今日はゆっくり散歩のつもりでそこまで往復しようというのである。足もとにはイワウメの株がふっくりと盛り上がって、もうあの清純な白い花をこまかい厚い葉のしとねの上に浮かべている。ルビーを刻んだようなコイワカガミも咲いている。よく見れば二寸にも足らぬミヤマキンバイが、蒼白い岩の割目から可憐な金色の花をのぞかせている。
 それにしても空模様はあまり芳ばしくなく、信州側こそまだ晴れているが飛騨の谷間は雲の発生がすこぶる盛んで、数千尺の谷底から濛々と棒立ちになって湧いている。その雲の裂け目をすかしてべっとりと残雪を塗りこんだ笠ガ岳や抜戸岳の、白と濃紺との山膚がすばらしく印象的だ。そして上空にはあすの天気を悲観させる水っぽい巻雲が、ところどころ不吉な鱗状をさえ呈して、乗鞍の方角から千筋の絲のように流れ出している。しかしあすはあすの事。ヘルマン・ヘッセではないが
  歌え、心よ、きょうはお前の時だ!
  太陽が笑っているのをお前は見ないか、
  鳥たちが歌っているのを聞かないか。
  歌え、心よ、お前の時の燃える間を。
である。
 そして本当にその鳥たちが歌っていた。波うつハイマツの枝にとまって「チイチイチイ・チリチリ・チリチリ」と澄んだ声で鳴くカヤクグリ、荒々しく風化した岩の斜面で「チョリ・チョリ・チョリ・チョリ、キョロキリ・キョロキリ」と囀るイワヒバリが。
 また本当に太陽も歌っていた。西へ傾いたその太陽の光線は、蒲田の谷からむらだつ雲の噴煙が少しでも切れると、尨大な前穂の岩壁へ柔かにほほえみかけ、西穂の岩峯をパアッと照らして花のように笑いさざめていた。
 そして、ああ、私の心も歌っていた。それは現世の喜び悲しみを立ちこえて、薄青い無限の空にひとすじの光と化する歌であった。

 切り立った尾根のあたまを一つ二つ越し、少しばかり膝や手を使う場所も二つ三つ過ぎて、やがて西穂の独立標高点へわれわれは立つ。円錐形の先をそいだような頂上はガラガラに砕けた岩石からなる狭い平らで、風雪に曝らされた小さい祠と一本の標柱とが向い合って立っている。われわれは喜ばしく握手をかわした。お互いの住む八ガ岳の裾野から、晴れてさえいれば殆んど毎日、二十里を隔てた空の彼方に眺めるあの北アルプスの嶺線の突角に、思えば今こそこうして立っているのだ。
 ピッケルを突き立てて双眼鏡を眼にあてる。絶えず湧く雲のために西と南の眺望はきかないが、眼前にそばだつ霞沢と前穂とのあいだに南東の眺めが遠くひらけて、楽しげに日を浴びた松本平南端のこまこまと美しい田園や、塩尻峠の右にきらりと光る諏訪の湖水とその周辺の町や村落、さては我らの八ガ岳とその裾野とが、夕日の金色の波にひたっていとも平和に横たわっている。下界にいた時はあれほどにもこの高所の純潔にあこがれ渡った同じ心が、さてその場に立ってこうして遠く見下ろせば、また反対に人生への愛情に襲われるのも是非がない。
 下のほうの岩のあいだで鋭い鳥の叫びが聞こえる。見れば半分黒褐色の夏羽に変ったライチョウの雄が一羽、とある岩角に立って鳴いている。そのつんざくような精悍な叫びと、きびしい目と、目の上を飾るけしの花のような真赤な肉冠とが、いかにも高山の烏にふさわしい美と猛々しさとを具えている。やがて何を認めたのか、ライチョウは一声高く鳴きながら翼をひろげると、灰色に渦巻く濃い夕霧の底へと飛騨側の斜面をさして流れるように飛びくだって行った。そのあいだ彼の黒一色に見えた翼の端が、実は純白色だったのを私は見のがさなかった。
 われわれは声を掛けあって足もとを警戒しながら、濛々と吹き上げてくる夕暮の霧の中へと、静かに今日の山頂を下りて行った。

                         (一九四八年 高橋達郎、白崎俊次両君に)

 

 

 

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 入笠山

 十月にはいって一週間か十日、毎日の最高気温が十五度前後にくだり、そこへ低気圧の余波をうけて一夜の寒い雨でも通過すると、山の高いところは雪になって、晴れた翌朝は富士や北アルプスはもとより、咫尺の間の八ガ岳、甲斐駒、鳳凰などの山頂がまばゆい初雪に飾られる。
 水晶をけずってくるような北西の風のなか、しみじみと暖かい南の太陽に照らされながら、黄ばんだ緑や銀いろに枯れはじめた山野一帯のひろがりに暗紅色や朱の色にもみじしたヤマウルシやハゼの葉がきらびやかに燃えている。林の中では苔や茸がにおい、四十雀や日雀の澄んだ声がちいさい鐘の音のように響く。その林と草原との境界の、青くつめたい秋の小流れのふちに立って眺めると、白い煙のような丘のススキの穂の上に、遠く霧ガ峯や車山が柔かに枯れてよこたわっている。そして眼の前では入笠山をまんなかにした釜無山脈が南から北へ蜿蜒とつづいて、一年のうちでの最も華麗な色彩で、その針葉樹の暗い緑の急斜面や深い沢筋を七宝のように象嵌している。
 毎朝畠や草原にうっすりと霜がおり、昼間がよく晴れて爽かに暖かいこの季節がおとずれると、仕事も仕事だが心はやはり静寂と絢爛との野山のなかへ誘い出される。岩と這松との高山で有るかぎりの力を試みた男らしい夏も楽しかったが、地上の万物が最善の調和に憩っているようなこの清明で快美な季節には、夏の努力の余韻のような伸びやかな丘陵歩きが好ましい。アレグロ・アッサイのあとのアンダンテ・カンタービレ。四周の秋からひろびろと高まって、青い大空に白い雲を散らした美ガ原や霧ガ峯、紫に枯れた準平原の山頂を持つ入笠山や釜無山。そういう丘陵性の山々がわたしを呼ぶ。
 中でもいちばん近くて手頃なのは入笠山だ。山麓までわずか二十町たらずなので、積雪の深い真冬を除けば他のいろいろな季節にもう幾度となく登っている。しかし何といっても大気が澄んで眺望がきき、自然の豊麗な色調がしっとりと落ちついた十月半ばがもっともいい。そんな時には麓の村から山頂へかけて、シュトルム、へッセ、シュティフターらの詩が流れている。ガブリエル・フォーレやローベルト・フランツの秋の歌が歌っている。
 入笠牧場の草紅葉にうずまった白い岩に腰をおろして、一望の視界におさめる新雪の木曾駒、御岳、乗鞍、さては北アルプスから白馬へとつづく遠い山波が何とすばらしい見ものだろう。金褐色に枯れた鐘打平かねうちだいらの湿原のほとり、秋の真昼の小さい赤い火を焚いて湯をわかし、ハンケチの隅で濾す珈琲が何というたった一人の饗宴だろう。どこかで高く雉が鳴き、羊歯の葉陰で子連れの山鳥が餌をあさっている。行き逢う人の姿もなく、心を悩ませにくる下の世界の消息もない。頂上の青い小石の中にたたずんで、八ガ岳の裾野の村を離れてぽつんと立つ我が家の所在を望遠鏡の視野にとらえながら、そこに待っている煩わしい手紙や人事から遠く高く解放されていると思うことがほんとうにありがたい。
 そしてたまたま釜無の谷の空高く、甲斐駒から仙丈へと流れる巨大な鷲の姿でも認めれば、わたしの秋の思い出にとって、これに上こす輝きの星は無いのである。

                                (一九四九年)

 

 

 

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 草山のはて

 一晩厄介になったヒュッテ霧ガ峯の玄関を、たった二人だけの泊り客だった私たちは出る。
「またどうぞ御登りになって」
と晴れやかに言うマダムの若々しい声が、昔の長尾宏也君の奥さんのことをふと私に思い出させる。
 あれからもう十年といくら経つか。歳月まことに流るるがようで、私の鬚髪もすでに白い。実はゆうべも長尾君夫妻のこと、その子供たちのこと、そして焼けない前のヒュッテのことや、その頃ここで暮らした幾たびの輝かしい夏のことなどを、窓の外をしとしとと降る霧まじりの秋雨の音に寝つかれぬまま、ほのかな石油ランプの匂いの中で考えていた。
 思い出に伴奏するその雨は今朝は止んだが、霧ガ峯の霧はまだ晴れない。枯葉もびっしょり、金褐色にもみじした落葉松からまつもびっしょり。さむざむと曇って一片の空の青もなく、一羽の小鳥のチチの声もない。
 友人は小径をちょっと左へきれて作太小屋へ立ち寄った。私はそれを待つあいだ朝の風景を見まわしながら、またいつのまにか昔の夏を思い出している。あの平らな岩の上へ寝そべって半日蜥蜴とかげを見て暮らした。あの窪地で当時まだ小学の二年生だった娘栄子と小葭切こよしきりの歌に聴きほれた。あすこで草の葉の露にうつる星の光の詩を書いた。あすこから乗鞍の山へ沈む荘厳な落日を見た、などと。
 霧ガ峯は思い出の高原。まして晩秋寂寞の小径に立って鳶色に枯れつくした草山の広がりを眺めれば、往時の回想限りないものがあるのである。
 作太と話をおえた友人が帰って来た。二人は以前のグライダー小屋の前を過ぎて、石と泥濘の長い長い坂道をのぼる。またひとしきり吹きつける濃霧。「覗き石」のあたり、濛々と包まれて息がくるしく、上下の感覚が不確かになって目しいたような気持になる。旧御射山ふるみさやまから古い暗い観音沢をくだって、上諏訪へきょうは帰るのである。
 晩秋の霧ガ峯を見たいというのが私のとうからの願いであった。それがかなって昨日は友人とふたり紅葉の和田峠から濃霧のなかを鷲ガ峯へ登り、蔓苔桃や水苔が黄に赤に紫にもみじした八島ガ池、鎌ガ池の湿原地帯を心ゆくまで歩きまわり、眺めあかし、さて車山頂上の測候所からヒュッテヘとたどりついて一泊した。終日を晴れ曇りする霧であり、蕭条と枯れてしかも胸を打つ晩秋の草山であった。ただ午後おそく車蔭の乗越のっこしから、蓼科山麓池ノ平の異国めいた点景をちらりと見た。測候所の厚い二重窓の硝子ごしに、雲上の甲斐駒を夢のように仰いだ。遠景と言えばただそれだけ。私は望みどおりに最も根原的で最も寂しい、それゆえ最も霜ガ峯らしい霜ガ峯を満喫した。
 そして今「覗き石」の高みをくだって浅い沢渡の谷をわたり、丈より高い枯蓬の中をびっしょり濡れて、きのうの路を旧御射山の荒れ果てた祠の前に立っている。
 祠のかたわら、ちろちろと落ちる水に近く一本の年経た真弓の木があって、八方に枝をかざしている。目通り一尺にあまる大木で、込んだ枝は風に撓んで特異な樹容を形づくり、幹にも太枝にも灰緑色の梅ノ木苔がつき、さるのおがせが下がっている。しかし眼を奪うほど美しいのは今を最も見頃とするそのすばらしい実の色で、一つ一つが四つに割れた桃色の厚い柔かい蒴果の中から真赤な仮種皮を現わし、それが房となって一枝ごとにずっしり垂れ、樹木全体がこの薄い濃い珊瑚を刻んだような美しい実の重荷をゆさゆさと担っているのである。そのうえ葉もまたこれに映えて、秋の萌黄に変じたところへ薄紅の斑紋をにじませている。凋落の季節をいろどる果実や紅葉というよりも、この旧御射山の苔蒸し荒れた祠をめぐって、磊々ところがる岩、蓬々と立ち枯れた草の中に、くれないの雲を爛漫と懸ける、むしろ駘蕩の春の趣きである。
 そころが、ふと向うを見ると、われわれのこれからの往手観音沢の谷頭を埋めて、鹿の子色に枯れた草山の裾を、この同じ真弓の虹が目もさめるように流れている。友人と私とは思わずも声を上げる。双眼鏡の蓋を跳ねて視線を凝らす。透明な厚いレンズの晶玉が、この春の花めいた遠い真弓の木の列をつぎつぎと鮮やかに盛り上げる。おりから霧が晴れ、真珠色の雲さえ破れて、薄青い空が現われる。その柔かな青空と瞬間に燦爛と照る太陽の光をうけて、金褐色の草の野山の尽きるところ、黒ずんだ樅の緑と白樺のかがやく銀、そして真弓の桃色がさながらの春の歌である。

                                (一九四八年)

 

 

 

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 入笠小屋

 小屋は前輪廻ぜんりんねの残丘のひとつだといわれる入笠山のドームの下、北北東ヘ一九〇メートルばかり下がったところ、そこから釜無断層崖の傾斜急変面のはじまる庭園風景のような準平原の片隅、深い武智の沢の谷頭の、馬蹄形にひらけた明るい小湿原にむかって立っている。
 今、いちめんに夏草の花におおわれた山上の緩斜面。蓮華躑躅、ずみ、背の低い白樺や草紙樺が植込のように立ち、そのあいだに点々と灰白色の岩石のころがっている天然の庭のようなこの場所の名は鐘打平かねうちだいらという。そのむかし武田勝頼を攻める織田信忠の軍勢が、鐘打ち鳴らして気勢を掲げた跡だそうだ。しかしそんな過去は時間として物の数ではなく、こんな命名に至っては、附近にある首切清水や頼重水よりしげみずなどという泉の名と同様に、むろん極く最近のものに相違ない。それよりも何よりも甚だしく古いのは、本州を東西に両断するフォッサ・マグナの西の切り口に当って、数千万年をもって算えられるこの山地一帯の地形地質生成の歴史であろう。これと較べれば山稜の樅や落菜松をこえて向うに見える八ガ岳火山列の、あの青と褐色の長壁さえもなお若い。
 そしてここに開闢以来最初の硝子窓を光らせている木造二階建の入笠小屋は、ついこのごろ落成したばかりである。

 主人高橋達郎君は山麓富士見での私の親しい友人であり、私同様日本山岳会の会員でもある。小屋の位置や設計については終始相談にあずかった。小屋の名も二人できめた。入笠ヒュッテ、入笠山荘。いずれも「入笠小屋にゅうかさごや」の平明と、その音のしらべと、その字面の古雅の美とには及ばない。そしてまず名が出来てやがて実の建築がはじまった。しかし人夫を相手の山上での伐木、製材、木組。その間には八百メートルの急坂を彼らのための食糧運搬。これらは人一倍強壮な彼にとっても容易な業ではなかった。しかも珍らしく雨の多い六月七月で、作業は遅々としてはかどらなかった。建築費は予算をこえてどしどし嵩み、鈴蘭、小梨、蓮華躑躅はつぎつぎと咲いては散りしぼみ、登山者を迎える新緑の山の好期は見る見るうちに過ぎてゆく。道楽の山小屋経営ではなかった。現実の逼迫と永年の夢想とが雲の上に見出した活路だった。友の焦慮と困憊とは時に目にあまるものさえあった。よく風雨や濃霧の夜道を山の現場から下りて来て、途中で立ち寄った私の家の上りがまちへどっかりと腰を下ろして汗と脂によごれたウィンドヤッケを脱ぐ時、さすがに偉丈夫の彼の顔が、私の妻に暗涙を呑ませるほど痩せやつれていた。そういうある夜、妻が私にいった――
「高橋さんの今夜の眼は、まるで洪水に押し流される星影のようでした」と。

  彼の奥さんもまた必死だった。若くて素朴で健康で、一種自然児のような魂を持っているこの伴侶は、同時に一層強靭な意志の持主だった。小学校へかよう二人の愛児を彼女自身の母親に託して、三里にちかい登りの道を山の現場への物資の運搬、夫への連絡と郵便や新聞届け。半ズボンに地下足袋、シャツの両腕をまくり上げて重い大きなルックサックに生木の息杖。見得や外聞はとうの昔に浮世の向うへさらりと捨ててしまったものの、現実の艱難と取組んでいっかなひるまぬその雄々しさは、けなげと言うも愚かであった。「生活の火よ、私を焼け。私は不死鳥、灰の中から翔け昇るだろう!」そして山にいれば里の子供らのことが気にかかり、里にいれば山の夫の上が思われた。青い霧藻のさびしく揺れる嶮岨な間道に岩をつかみ倒木をまたぎ越えて、釜無断層崖におもたく垂れた密雲の底を、そも幾十たび彼女が出入りしたことだろう。もしも人には見せぬ女の紅涙というものが今もなおどこかで絞られるものならば、彼女のそれは、満山寂としてただ脚下数十丈の谷底にかすかな水音を聞く糸のような岨道そばみちの、あの山薊やまあざみの花の上にこそそそがれたであろう。
 そして事実彼女はその独特な美と強い忍苦の姿とで、私をしてしばしば野山の薊をおもわせるのであった。

 板壁ぞいに新調の藁布団をしきつらねた入笠小屋の二階の寝室。石油ランプのなごりの匂いがまだ夜の雰囲気をそこはかとなく漂わせているその寝室から、厚い硝子戸を大きくあけてヴェランダヘ出る。海披一八〇〇メートルの早朝の空気は極度に澄んで、見上げる紫の空は抜けるように深い。湿原の茂みや斜面の落葉松林からきこえてくるアオジの「チョッチョッスピリー・チョッチョッスピリース」の歌や、「チョリチョリチョリチョリ」と刻むメボソの清涼な囀り。太陽は今しがた八ガ岳をはなれたばかりで、正面本ヅルネの黒木の尾根を踏まえた甲斐駒の峻厳な峯頭にあざやかな金泥を塗っている。その左奥には鳳凰山の地蔵岳が曙光を浴びて、浅黄の空にくっきりと、あの美しい階段状断層のプロフィールを浮かべている。そして入笠の本岳はつい目の前に、ほとんど一枚の草の葉、一塊の石の形さえ指摘させながら、その緑と薄紫のもっとも優美な円錐体を濡れたような空間にそばだてている。
 寝室用の藁草履を靴にはきかえて下へおりる。階下の広い土間はテイブルと腰掛とを配した食堂兼休憩室で、床はまだ土のままだがやがて板張りにするか木口舗装にするといっている。もうこの土間にも二階にも煖炉が置かれて、あとは煙突さえ付ければいいようになっている。燃料はほとんど無限なくらい豊富らしい。全山燃えるような紅葉の頃、またこの準平原が雪と凍結にかがやく頃、たどりついたこの小屋から、房々と柔かな青い煙の立ちのぼっているのを見ることがなんという頼もしさだろう。なんという楽しさだろう。
 高橋夫妻はもう炊事場で働いている。日の出を見るために起きぬけに入笠へ登った幾組の泊り客が、やがて帰って来るまでにして置く朝飯の用意である。夫妻は援け合いながら孜々として努めている。初めた以上はこの全く新奇な仕事に一日も早く馴れなくてはならない。それをいじらしいものに思いながら口へは出さず、心にほのぼのといとおしむことこそ男である私の、年長の友の自然かも知れぬ。
  今をさかりの柳蘭や沢桔梗の花のあいだの小流れで顔を洗つて来た私は、煙と湯気の立ちこめた台所の入口ヘ立つて彼らを見る。彼らも立って私を見る。人交ぜしない三人の心が既往幾年の友情に相いだき、無量の思いを内に秘めた三人の眼に今朝の秋の色がある。

                               (一九五〇年)

 

 

 

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 或る遭遇

 今から四十年前、一九一〇年の九月の或る日、スイスのシャモニーを昼過ぎの汽車で立った一人の若い日本人が、モンタンヴェールの終点からメール・ド・グラスの氷河を横ぎって対岸へ渡り、エギュイユ・ア・ボシャールの山脚をけずった氷河側壁の嶮路をル・シャポーの鼻へ出て、やがて美しい秋晴れの日の午後おそく、夕日に染まったシャモニーの谷へと、オテル・ボーセジュールの静かな小部落を通りかかった。
 山登りの客とは違って、ジュネーヴからここまではいって来たのも氷河を見ることが旅の序での目的らしく、靴の上へすべりどめのカヴァーを履いたこの日本人は、寒暖計と手帳を手に、時間の許すかぎりメール・ド・グラスのおびただしい氷のあいだで一人楽しく手間どっていた。どうせシャモニーの宿まで日一杯に帰ればいいのである。それに自然に存在するさまざまな事実の間の関係を理解し、その現象を説明する能力を持った物理学者であってみれば、たとい僅かな時間でもこの古典的な氷の海で目に着くものは多い筈であった。
 氷河の面は想像していたよりも平滑ではなく粒状を呈している。ところどころの裂隙クレヴァスには水が溜まって薄い氷が張っている。氷河の北側に近く、細い流れのあいだでは、半ば溶けた氷の表面が護謨海綿グンミシュワンメのような構造を見せている。彼はこんな観察をこまごまとドイツ語まじりで手帳へ書きこんだ。それから氷河に接した谷壁の見取図も描いた。側堆石ザイネンモレーネの山側へむかった斜面にはいちめんに植物が繁茂して、紅いアルペンローゼや青い釣鐘草グロッケンブルーメが咲いていた。氷河そのものの水は乳白色を呈しているのに、支谷ザイテンタールから滝になって落ちてきて堆石堤の陰を流れる細谷川の水はきわめて清澄で、水温は摂氏六・五度を示していた。手帳へ描いたこの簡略なスケッチは例によって頗るみごとで、説明のために書き入れた速書きの文字も美しいのである。
  そしてその晩年には浅間山の小浅間へ登るにも息を切らせたこの若い日本人の学者は、急峻な岩に踏段を切りつけたモーヴェーパの悪場も、ルーシャポーの岩山の頭も無事に通過して、谷沿いのすがすがしい小径を足どりも軽くオテル・ボーセジュールヘと来かかった。
 ちょうど彼が一軒の小さなタヴァン風の家の前を通り過ぎた時だった。一人の年とった外国人が追いすがって来て呼びとめた。そして「君は日本人ではないか」と聞いた。若い学者は「そうだ」と答えた。するとその答えに老外国人の瞳は輝いて、実は自分は英国人でウェストンという者だが、日本には八年間住んで有名な高山へはほとんどすべて登っている。そして富士山、あれへは実に前後六回も登ったといいながら、言葉の真実を証拠立てるかのように、日本山岳会々員のバッジを出して見せた。ウェストンの顔は得意と善意とに晴れやかだった。
  しかし惜しいかな今日我らの追慕して止まない学者は、その時、相手の顔の輝きにも、そのせき込んだ一途の気持にも、少くとも山というなかだちを介しては、何ら映発し共感するものを持ち合わせていなかった。その老外国人の懐かしげな表情やきおい立った語調の語るものはいうまでもなくよく分かる。彼はこういう点ではまたすぐれた心理学者でもあったから。しかし相手の勢いをさながらに迎えて、これに同調すべき具体的な知識も経験も彼には無かった。老英国人は撫然とし、若い日本人は、ゆくりなくも時を得ながら開花もせずにしぼんでゆく、この人の世の一つの契機をほのぼのと悲しんだ。しかしおのれ自身に正直な彼には口先では如何ともなし得なかった。そして相手もそれに劣らず正直だった。こうして英国の牧師と日本の学者とは、スイスの初秋の午後おそく、峯々の雪や氷河に夕日の色の宿るころ、卒然と接触して再び永遠に遠ざかる二つの星のように別れ去った。宿屋の前の草原では、その老英国人の妻君が靴下を編んでいた……

 日本北アルプスの山々に最も縁故の深いウォルター・ウェストン翁の肖像のパネルは、今上高地梓川の谷の右岸に臨む一塊の岩の面に嵌めこまれて、永くその人と業績とを記念されている。
 われわれ日本山岳会の会員は、過去四年以来、毎年夏の一日を期して、附近に乱れ咲く草の花でその碑を飾るのである。場所は河童橋と清水屋・温泉ホテルとの中間、梓川の清流が小さく曲流する攻撃側面に位して、銀緑色の煙のような対岸の化粧柳を前景に、霞沢岳の岩の大幔幕と相対している。
 オテル・ボーセジュールでの遭遇から二十四年後、一九三四年九月末の二三日を、前記日本の物理学者はその妻君と一緒に上高地見物に過ごした。温泉ホテルの別館に旅装を解いた彼はこういうことを書いている――
「窓際の籐椅子に腰かけて、正面に聳える六百山と霞沢山とが曇天の夕空の光に照らされて映し出した色彩の盛観に見惚れていた。山頂近く、紺青と紫とに染められた岩の割目を綴る僅かの紅葉はもう真紅に色づいているが、少し下がった水準では未だ漸く色づき初めた程であり、ずっと下の方は唯深浅さまざまの緑に染分けられ、ほんの処々に何かの黄葉を点綴しているだけである。夏から秋へかけての植物界の天然の色彩のスペクトルが高さ約千米の岩壁の下から上に残らず連続的に展開されているのである。
「眼下の梓川の眺めも独自なものである。白っぽい砂礫を洗う水の浅緑色も一種特別なものであるが、何よりも河の中洲に生えた化粧柳の特異な相貌はこれだけでも一度は来て見る甲斐があると思われた。この柳は北海道にはあるが内地ではここだけに限られた特産種で春の若芽が真赤な色をして美しいそうである……
「夜中雨が降って翌朝は少し小降りにはなったが何時止むとも見えない。宿の番傘を借りて明神池見物に出掛けた。道端の熊笹が雨に濡れているのが目に沁みるほど美しい。どこかの大きな庭園を歩いているような気もする。有名な河童橋は河風が寒く、穂高の山塊はすっかり雨雲に隠されて姿を見せない。この橋の両側だけに人間の香いがするが、そこから六百山の麓に沿って二十余町の道の両側にはさまざまな喬木が林立している。それが南国生れの自分にはみんな眼新しいものばかりのような気がする。樹名を書いた札のついているのは有難いが中々一度見た位では覚えられそうもない」

 六百や霞沢の夕空の反映に見惚れ、水辺の化粧柳を称讃し、道端の熊笹の雨に濡れているのが目に沁みるほど美しいと彼は書いている。そこは正に今日ウェストンの碑のあるあたりである。季節も同じ九月のシャモニーの谷と上高地の谷。彼らは時処を異にしながら、しかしやはり高山の谷を介して、二度の遭遇をしたのである。そして世界の歴史はこんな一小事件を元より知らず、彼ら本人またその後の人生の転変と怱忙との中でこんな各瞬間を忘れ去ったとしても、しかもその二人がすでにこの世を去った今日では、いよいよ、このことが何かしら美しい神秘な感じをわれわれに与えるのである。
 このメール・ド・グラスと梓河原とへ姿を現わした日本の物理学者が、今は亡い寺田寅彦博士であることはもはや附言する必要もないであろう。

                                 (一九五〇年)

 

 

 

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 秋の隣人

 元禄七年、五十一歳の俳人芭蕉は、十月十二日というその終焉の日に先だつ九月二十九日に、滞在中の大阪で門下の一人芝柏の家を訪れる約束があったそうである。しかし何かの故障でこの約を果たすことができなかったので、

   秋深き隣は何をする人ぞ

の一句をしたためて遣わしたとある。その故障の何であったかを私は審つまびらかにしないが、その二十九日の夜から烈しい下痢が初まって、十月一日の朝までつづき、結局いくばくもなくしてその病のために身まかったのであるから、あるいは芝柏訪問を約束してあったその日も、朝から気分がすぐれなかったのかも知れない。この下痢の原因を、発病二日前の九月二十七日、門人園女の家に招かれた折に馳走になった茸の過食のせいだとする説があるそうである。しかし芭蕉にあって「食い過ぎ」というのもどうかと思われるし、そうかといって園女ともあろう風雅の女が、まして大切な師に、あまり薬にもならない茸などを、度を過ごさせるまでに奨めるほど不用意でもなかったろうと思われるから、これはむしろ前々からの旅中の無理に加えて、水あたりやおこりその他のために、ふだんから余り頑健でもない芭蕉のかなり弱っていた体に、もう一つの不利な条件として、積算的に利いてきたのだと見るのが妥当のようである。
 さて、それはそれとして、この「秋深き隣は何をする人ぞ」の句は、芭蕉晩年の数ある秀句の中でも特にすぐれたものの一つのように私には思われる。いま林間の書斎で秋風の音を聴きながらこの句を静かに味わいかえしていると、身の信州高原にあるのをいつのまにか忘れて、東京か大阪か、いずれにしてもどこか繁華な都会の、しかもそのいくらか場末の片隅のような一角に、とある晩秋の日を生きているような気がするのである。
 この句は一見ほとんど解釈を必要としないくらい平明なものに思われる。「秋深き」というから、季節は、太陽暦ならば、九月を過ぎて十月も末に近い頃ではあるまいか。もう朝夕は涼しさを越してそぞろに肌の寒さを感じさせるが、どこかでもずが高音を切っているような青と金との晴れやかな昼間は、さすがに日の光もまだ暖く、時折の町の物音や物売の声などの、何となくなつかしく聴かれる頃のことであろう。また「隣は」というから、とにかく人の住む隣家は有るものの、それも古い大きな商家などが軒をつらねた繁華な目抜きの場所ではなく、こんな秋の日などには、とりわけ田舎のようにひっそりとした町外れの一角か、市中でも低い長屋続きの裏町のような所でなくてはなるまい。大阪だとするとどの辺であろうか。昔の江戸ならば本所深川か浅草界隈、さもなければ芝か麻布あたりの場末の住居が想われる。そういう幾らか貧しげな周囲と、明るく淋しく深まりゆく秋とを静かに生きているある日、ふと、今まではさして気にも留めなかったが、いったい自分の隣家は何を家業に暮らしている人であろうかと、考えるともなく考えたというのが、まずこの一句の趣意のようである。
 ところで、私としては、そもそもどうしてこの句がこんなにも好ましく思われ、こんなにも自分の心を打ち、また古来多くの人々を感動せしめたのか、その拠ってきたるところを考えてみずにはいられない。

   秋深き隣は何をする人ぞ

 句の意味はいま述べたとおりであろう。日頃は隣づきあいをするということもなく、ただ人の世の運命の流れのまにまに、同じ水際へ打ち寄せられた塵あくたのように、偶然隣り合わせたというだけで顔さえも碌に見知らぬ隣人を、日は一日と深まってきた天地の秋を感じるにつけても、急に何が無しになつかしく、今までの知らぬ他人の位置からもう一歩自分のほうへ、心の中で引き寄せてみたのである。
 しかしここで問題になるのは、僅か十七文字のこの一句のあいだから、どうしてかくまでに微妙な人生の味わいがにじみ出るのかということである。
 なるほど、それはただ読み流しただけでもすでに秋の哀れは感じられる。しかしその「哀れ」の具体的な内容に、これほどまでに天衣無縫の姿を与えている何かが必ずやそこに無くてはならない。
 私はそれを探してみた。
 そしてその何かを、「秋深き」の「き」の一字の働きの中に突きとめたのであった。
 もしも仮かりにこの上五を「秋深し」と切ったならばどうであろう。私は切字のことはよく知らないが、それでは季節の感覚と、その感覚から誘い出された情緒との極めて自然な調和のしらべがその「深し」の「し」のために両断されてしまって、作者の「なつかしく言い取ろう」とするほのぼのとした情愛の世界が、とうてい表現されるべくもないように思われる。もちろんこんなことは俳諧初学者の私が自分のために実験的に出してみた仮定であって、あの芭蕉が「秋深し」などと句案したことは夢にも無かったであろう。
 それならば「秋深」だったらどうであろう。これだとわれわれ素人考えにも「深し」の場合と較べて遥かに通用性が多いように思われる。「深みゆく秋の今日此頃を」の意味ならば、それを圧縮して「秋深」といっても必ずしも悪くは無さそうな気がする。ところが芭蕉自身はそんなことは考えた痕跡すらも与えずに、初めから当然のようにすらすらと「秋深き」と作っている。それには何か然るべき理由が無くてはならなかった。そして私はその理由をこんなふうに考えたのである。
 この「秋深き」は、一句の中で二様のはたらきをしている。というのは、芭蕉はこの五文字に「秋も深くなった今日この頃を」の意味を与えると同時に、次の「隣は何をする人ぞ」のその「隣」に対する或る特別な形容詞、いわば思いやりの形容詞としての機能をも併せ果たさせているからである。すなわちこの隣人は昨日までのかりそめの隣人ではなく、実に深みゆくこの秋の日にこそ改めて色濃く意識された隣人である。言葉を換えていうならば、我にも秋、人にも秋、世をおしなべての深い秋としみじみ感じられるその季節を、縁有って隣り合わせて生きている人、自分同様この晩秋の淋しい美と明るい哀愁とに埋うずもれながら、複雑多端な世の片隅で、何かをたつきにひっそりと生きている、そういう隣人なのであった。そしてそういう隣人に、青空高く、草は黄ばみ、朝夕の虫の音もかすかになり、ひろびろとした天地の中に生き残った個の姿がはっきりと意識されてくる晩秋にこそ、わけても人生というものに対して優しく動き出す無私と同情との心持を、芭蕉はほのぼのと投げかけているのである。名利を追って日もこれ足らぬ世間や、成敗常なき塵労の世から身をしりぞいた孤高のたましいでありながら、いつの時にも民庶の心の純真な一面を捨てなかったあの芭蕉の、人間的な風雅のまことが実にこの「秋深き」の「き」の一字を介して、「黄金をうちのべたらんやう」に述べられているのだと私は思う。
 秋を題材とした芭蕉の作品で、この句と関聯として私の頭に浮ぶのは

   秋に添うて行かばや末は小松川

の句である。これは元禄五年九月末の作といわれているが、この年、芭蕉は江戸深川の旧の庵の近くに新らしく建てられた庵室に移って、八月には「閉関の説」を書いて門を閉じ、客を謝している。この句に対して或る本には「女木沢桐奚興行」という前書があり、また別の本には「砂村利合をたづぬる」の前書が附いているそうである。いづれにしても深川にいて砂村に人をたずねたのだから、その砂村は現在の東京江東区砂町附近であろうし、女木沢はむろん今の小名木川であろう。そうすれば、小松川も今日の小松川に当るわけである。深川の近くに生れてあの辺りを多少は知っている私にとって、そんなこともこの句をなつかしむ一助となっているのかも知れない。

   秋に添うて行かばや末は小松川

 この句もその意味はきわめて明瞭であるが、やはり「秋に添うて」の字余りの上六字に無限の妙味が感ぜられる。これは「きょうの佳い秋日和に誘われて」とか、「秋の風景の導くがままに」とかいう意味であるが、それを「秋に添うて」と圧縮した芭蕉の含蓄ゆたかな即物的な手法は、たぶん当時としてもかなり新らしいものだったのではないかと思う。そしてこの六字のために、広々と晴れわたった秋の空や田舎の眺めがわれわれの想像の視野にうまれ、稲むらが立ち、ひよどりが鳴き、野菊が咲き、落葉をたく煙がにおい、いたるところ蔬菜が緑に土は白い南葛飾小松川村の田園が、遠い筑波や日光の山々を背景にして、パノラマのように展開する。そして傍かたわらには冷めたく青い用水が流れ、赤とんぼが飛び、向うの田圃の中に白鷺の散っているのが眺められる村道を、心楽しくぽくぽくと歩いて行く芭蕉の姿が目に見えるようである。

   秋に添うて行かばや末は小松川

  それにしても僅か十七字の働きで、こんな豊かな詩的聯想を可能ならしめる芭蕉文学の力には、いまさらながら敬服のほかは無いのである。

                               (一九四八年)

 

 

 

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 初冬の客

 十一月一日。今朝は夜明けの気温が氷点下三度で、乾湿計の水壷にも台所の水にも初氷が張った。赤や黄や灰いろに枯れた高原一帯にさらさらと結晶した霜が光り、開墾の畑地といわず切通しの崖といわず、火山灰の赤土の露出した所には高さ三センチから四センチぐらいの霜柱がぞっくりと立っている。清らかに輝く朝日がまぶしく、こうこうと晴れた空が古い陶器のように冷めたく青い。その青い空にくっきりと歯形を刻んで、編笠から蓼科まで、雪の縁飾りをした八ガ岳連峯のすばらしさ。そして南のほう甲府盆地の冬霞をぬいて壮麗な富士が全容を現わし、北西の山あいには北アルプスの槍や穂高が、遠い歌の調べのように、薄薔薇いろに染まった雪の山頂をならべている。
 毎朝が霜で、時どき氷の張る今日のような十一月の初めには、遠い北方の繁殖地から渡ってきた小鳥たちのために、この高原の明るく寂しい自然がいきいきとしてくる。今も向うの丘の朝日を浴びた松林へ三十羽あまりのイスカの群が集まっている。丸々とふとった彼らは軽業師のようにくるくると細枝を攀じたりぶらんとぶら下がったりしながら、一対の彎曲した小さい角のようないわゆるイスカの嘴はしで松かさの鱗片の間から脂肪分に富んだ種子を挾み出しては食っている。雌雄同数ぐらいの群だが、よごれたような緑褐色の衣裳をつけた雌とちがって、その雄のビロード光沢をもった暗紅色の羽毛は、朝の空の純粋な青や松の緑を背景にすると殆んど真赤に見える。そしてもう空気の冷涼な、しかも日光の温暖なこのなつかしい季節に、高い針葉樹の梢から落ちてくる彼らの「チンピ・チンピ・チンピ・チンピ」とか「ツカ・ツカ・ツカ」とかいう鳴声は、風景の情緒に一種北欧的な性格を与えているように思われる。
 これからは当分のあいだ毎日、私の森へも日に一回はかならず彼らの訪問がある。森には針葉樹が多い上に彼らの好きな水浴の場所があるからである。裾野の伏流が森の中の一箇所に小さい湧泉となって現われて、一度綺麗な水溜りをつくってからまた細い流れになって草や石の間を流れている。彼らはその水溜りに近いミズキやクルミの樹へ集まって、そこを根城に飛び下りて水を浴びたり、飛び帰って羽毛を乾かしたりするのである。褐色の火山礫や砂を底にした浅い水中で、暖かい南の日光を浴びながらばしゃばしゃと水浴をしているイスカの群を双眼鏡で見るのは楽しいことである。
 満洲から帰還した人たちがこの故郷の山野を開墾して新生活をはじめた広い農場には、いま二百羽から三百羽近いアトリの大群が下りている。彼らもつい半月ほど前に北方の営巣地から渡ってきた仲間である。鮮明な黒と白との上着に暖かいオレンジ色の胸当をしたアトリは、元来すこぶる集団性に富んでいて、十月、十一月、十二月と、月が重なるにつれて、その群もだんだん大きくなって行く。その大群が、耕地から飛び立つ時には一斉に黒いつむじ風のように舞い上がり、「キョッ・キョッ・キョッ」と連呼しながら一団となって大きく空中を旋回し、下りる時にはまた一斉に投網とあみを打ったようにサァッと下りる。その鮮かに美しいアトリの大群が、今、霜にけぶる広い耕地の上をほぼ同じ方角ヘ一塊りになって歩いている。遠くから見るとまるで地面そのものが移動しているか、池の波が風に送られているようである。夏の終りから秋の初めにかけてこの耕地は一面に蕎麦の花で真白だったから、多分その落ちこぼれた蕎麦の粒を拾っているのに違いない。
 ホオジロに似ていて咽喉のところへ栗色の飾りをつけ、頭の羽毛を突っ立て、朝の青い冷めたい空間に銀白いろの胸を光らせているのはカシラダカである。いま田圃のふちのハンノキの並木にその五六十羽が鈴生りになって棲まっているが、遠くから見ると散り遅れた枯葉のようである。彼らはそのハンノキと稲の刈跡との間を絶えず往復しながら、「チキン・チキン」と花鋏を鳴らすような地鳴きを聴かせている。しかし来年の春になって、そこで家庭を営むべき北の大陸へ帰って行く頃には、アオジやノジコに似たほそい涼しい囀りでこのあたりの五月の林を賑わすだろう。まだ冬枯のままのカラマツや、ようやく新芽の見え初めたばかりのハンノキの林のふちを。
 深まる秋とともにここの初冬の山野を訪れる小鳥の客は彼らのほかにもまだいろいろある。そして時をたがえず訪れる彼らを「生物季節」という大きな週期の環の中に見出すことは喜びでもあれば感謝でもある。

    よく見れば薺なずな花咲く垣根かな

という芭蕉の句も、この偉大な自然の週期の方則を籬下一輪の小さな花に見出したときの、詩人の深い新鮮な感動から生まれたものに違いないのである。

                                (一九四九年)

  

 

 

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 柿

 十二月の或る日、この頃に珍らしく暖かで風のない昼前のことだったが、町へ買物に出かけた妻が帰って来ての話に、或る八百屋の店先にならべてある柿に蜂がたくさん集まって、夢中になって「おつゆ」を吸っていたというのである。
「一体どんな蜂だったい」と聞いたら、ちょっと考えて、「うちの庇の下へ丸い大きな巣を作っている、あの黄いろいスズメバチと同じようでしたよ」と答えた。
 私は例の鳥のハドスンの「或る博物学者の本」という書物で読んだ話を思い出して、ひどく好奇心をそそられた。
 話というのは、秋の嵐に吹きおとされた果樹園の梨の実へ集まったスズメバチとハエとが、甘い汁を中にしていがみ合いをする光景なのである。それで昼飯をすますと、郵便を出しながら十数町の道を駅前の町まで下りて行って、妻に教えられたその八百屋の店先へ立った。
 なるほど戸板の上へ並べた七八枚の西洋皿には、爛熟した柿が山盛りに盛ってある。柿は甲州丸という種類である。そしてぶよぶよに熟しきって半透明になった真赤な柿の、そのへたに近い部分の皮が破れてとろとろな甘い果肉のはみ出した所には、かならず幾匹かの蜂や蝿がじっととまって、今年最後のたっぷりある甘露を砥めたり啜ったりしている。
 蜂は妻の言ったとおり美しくて猛々しいキイロスズメバチと、この地方でヂスガリと呼んでその幼虫を好んで人の食う黒い小型のクロスズメバチであり、蝿の方は夏の台所の嫌われ者、ずんぐりして大型で飛翔力の恐ろしく強い、日なただとちょっと美しい藍黒色に光るクロバエであった。
 前に言ったハドスンの梨の実の場合では、かじってあけた穴の真中へ陣取った六七匹の大きないかめしいスズメバチが、その周囲に群らがって僅かなおこぼれにありつこうとひしめく三四十匹の小さなアオバエを、意地悪くおどしたり、猛然と飛びかかって追い払ったりするのであった。その時の蜂や蝿のそれぞれの動作が実に生きいきと書けているので、読んでいながらなんだかむずむずしてくるような気がするのである。そしてハドスンは、何ら危害を及ぼさない他の昆虫に対するスズメバチのこうした意地悪や暴虐な態度の、そのどこまでを本能と考え、どこから先を彼らの智慧や性質に帰すべきかという疑問を提出しながら、子供の頃に痛切に感じたダーウィンの適者生存の学説と神の摂理との矛盾する点を、再び取り上げているのであった。
 私が妻の話を聞いてわざわざ町の八百屋まで出かけたのも、実にそうした光景を自分の眼で見たいからにほかならなかった。しかしおなじスズメバチの仲間でも我がキイロスズメバチは生来それほどの分らずやではなくてもう少し理性的だったのか、それとも冬眠も近い頃のことで元気を失い心を和らげられていたのか、私がじっと見ていた五分間あまり、ほかの小さい連中と一緒に仲むつまじく、二本の触角をだらりと垂らして、全く余念もなく甘美な汁や柔かい果肉の御馳走にあずかっていた。ところが、ただ見ているのも悪いと思って私がその一山の柿を買った時、八百屋の主人は何と思ったか、聞かれもしないのに、「なあに蜂がたかったからって別に毒にはなりませんよ」といいながら、厚い四角な爪の生えた大きな指で一匹のスズメバチをつまむと、プツンとつぶして往来へ投げ捨てた。
 サーヴィスか強がりか知らないが、私にとってはむしろこのほうが問題だった。
 昭和九年の八月、東京のある甘納豆屋の工場へ毎日五百匹から二干匹の蜜蜂が来襲するので、姶末に困ったそこの主人が警察へ泣きこんだという面白い話を寺田寅彦博士が随筆の中に書いている。そして博士は例の筆法で、この夏の日の市井の一小事変を当時の北米や南米における日本人移民の排斥という国際的な問題と結びつけていた。
「あの時もしも蜂が怒って、あの八百屋の親爺をこっぴどく刺したらどうなっただろう」そんな話に興じながら、ぎっしりと霜に囲まれた森の家の夜の矩燧で、信濃の冬の法楽として、とろけるように甘くて氷のように冷めたい甲州丸の爛熟したのを、私たち夫婦は啜りこむようにして食べたのであった。

                                (一九四九年)

 

 

 

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 初心者

 このごろ人に奨められて、初めて流星観測ということをやってみた。
 今までのところではもちろんまだ駆け出しの域を出ないが、この初の体験に関連していろいろ学ぶことが多かった。そういう知識を土台にして、これからは思い立った時いつでも一人で夜の空を楽しむことができる。その新らしい可能が私には何よりも嬉しい。
 かつて現代ドイツの作家ヘルマン・ヘッセは、今の私よりも十五も若い頃、一冊の良好な植物図鑑を携えて可憐な野の草花のあいだへ坐りこんで静かに彼らを研究することは自分の年来の楽しい計画の一つだが、それにしてはこの人生は余りに短か過ぎるという意味のことをある小品の中で歎息していた。へッセのこの歎息は美しく、われわれを運ぶ無常の時間の迅速であることもまさにそのとおりだが、しかし私も一箇の抒情詩人として彼の驥尾に附しながら、それでもしばしば植物図鑑をひろげて山の草地で腹這いになったり、微生物の標本図と顕微鏡とを前にして今でも湖水や養魚池のプランクトンを覗いたりしている。そして六十に近いこの歳になっても、寒夜の高原に目をしぱしぱさせながら線香花火の散り菊のような流星の出現を今か今かと待って、さほど苦にも思わないのである。物好きといえば物好きに違いないが、人生の短かさをつい忘れてしまうほどの熱情が、精神のどこかに燃えているかぎりは仕方がない。
 ある日上諏訪の有名なアマチュア天文家Gさんが「流星の研究」という本を貸してくれ、同じ町に住む若い医者のA君が記入用の流星図と観測用紙とを持って来てくれた。そして「さあ、これを材料にあなたの高原でオリオンのでも獅子座のでもやって御覧なさい」というのである。星を観ることは昔から好きだった。その上こんな友人たちの好意にみちた後押しである。私は喜んで流星天文学の一年生になってしまった。「また別の新らしい熱情ですか」と軽く揶揄する妻を尻目にかけて。
 Gさんが貸してくれた小槇孝二郎氏の著書はよく読んだ。自分で実地に苦しんだ人の本という物はためにもなるし鼓舞的でもある。著者がその長い経験から割り出して初心者を無駄や廻り道から救いながら、しかしその観測の結果が研究の資料となるためには最小限度どれだけの要求が満たされていなくてはならないかということが、遣る気さえあれば誰にでもできるように書いてあるのだから、何よりもまず正直にその指示に従って行けば、結果はともかく、観測法の正しい道だけは踏んでいるのだという信念をわれわれは持つことができるのである。そしてその方法を正直に実行して行くうちに、いつか見るべき結果の必ず得られることは私の過去の貧しい経験がこれを証明している。「雷」という本の中で中谷博士の書いている電光の撮影についての十箇条ばかりの心得がそうであった。そして「外国でも珍しい電光の写真はたいてい素人しろうとの人が撮ったものが多いようであるから、(これだけの心得を頭に置いて)雷がやって来たら尻込みをせずに大勢の人が電光の写真を撮って見るようにお勧めしたい」といっているのは誠に鼓舞の言葉である。そして私はこの言葉にしたがって何枚かの美しい印画を作ったのである。
 余談はおいて、「流星の研究」が一応頭に入ると今度は実地観測ということになった。まず植物採集の野冊の古いのを改造して球心投影式の星図を固定するための画板を作り、柔かいほうがいいだろうと思って4Bの鉛筆を二本ほど用意した。流星経路の角度を図の上へ転写するためには、娘が女学校時代に持っていたセルロイドの定規を使うことにした。光の経続時間を出すために片仮名五字をきっちり一秒間で唱えられるように練習もした。その他必要と思われる準備をだいたい整えた挙句、上諏訪から汽車に乗って先生たちのやって来ない間に、まず自分で三晩ばかり牡牛座の流星で下稽古を試みた。毎晩一時間ずつ観測して五つか六つの記録を取るには取ったが、やはり咄嵯に流星の出現点と消滅点とを決定することがいちばんむずかしかった。そしてそれに気を取られていると今度は光の経続時間の口唱がお留守になるのだった。しかしそういうことよりもなお困ったのは「確度」の記入だった。観測用紙の記事欄に「確度」という一項目があるのだが、これは流星一つ一つについてその観測の正確度を五等級に分けて、それを1から5までの数字で現わす規定になっている。ところがその正確の度合をきめる尺度というのが観測者自身の自己批判のほかには無いのだから、つまり自分の信念のニューアンスを数字で表現するというわけである。気の弱い初心者としてはどうしても劣等感のとりことなって、到底良い点などはつけられなかった。そのかわり毎晩天の一方を睨んでいたお蔭で、今まで気にもとめなかった牡牛座の南の部分、点々と桜貝や蝶貝を散らした春の干潟のようなラムダやヌーやクシーの一角に精通するようになった。もしも今後そのあたりに突如として新星でも出現したら、私も早期発見者の一人として多分見のがすことはないだろう……
 さてそうこうしている内に十一月半ばのある晴れた夜、とうとう先生の一人が湖と温泉との小都会からこの寂しい高原へ乗りこんできた。どうせ近いうちにはと覚悟していたものの、いざ大先輩と一緒にやるとなると初心者の心臓は少からず轟くのだった。厚い冬外套と真新らしい裏毛の長靴とに身を固めた若いA君が、今夜さっそく獅子座の流星を観測しましょうと言う。天文年鑑や理科年表を繰って見るとなるほど今日あたりがその最盛期に当っている。私はロマン・ロランの戯曲「獅子座流星群シオニード」の最後の場面を思い出した。そしてあの場面の背景をなすスイスのジュラ山脈のかわりに、ここでは同じ寒夜の空の下を八ガ岳・蓼科の火山列が黒々とならび、オーバーラントの雪の波濤のかわりに月明にほの光る日本北アルプスがあるのだと思った。
 早くも霜の結びはじめた午前零時、森の家を出た私たち二人は風をよけた東向きの土手下の枯草のなかへ腰を下ろして、おもむろに転回する大空の舞台を見まもっていた。ちょうど正面に見える影絵のような編笠岳の長い斜面に獅子の星座がその巨頭をもたげたところで、折しも流星群の輻射点の目標になる二等星ガンマが向うの暗い松林を離れかけていた。続いてその右手から主星レグルスがきらきらと昇り、やがてその下から土星が陰気な光を揺らめかせて上がって来た。見上げれば天頂をとりまいて馭者、オリオン、牡牛、双子の大星座群。すこし南へ離れて甲斐駒の上空高くダイヤモンドのように輝く大犬座のシリウス。その左に小犬座のプロキオン。月齢十四日の月は背後の森の上に傾いて、その森からは絶えず風に散る落葉の音がひびいてきた。
 しかし結論を言えばわれわれの収穫はまず皆無に近かった。寒さこそきびしいが観測には申しぶんのない快晴の深夜の空を期待にみちて見守っていたのに、肩のガンマから初まってその尾にあたるベータが山の端を離れて獅子の星座が東天にその全容を現わすまでの一時間半、ついにはっきりと流星と断定し得る星の光は見ることができず、おまけに運悪く北西の方向から急に発達してきた濃い霧にさまたげられて、時間の後半は全く観測不能に終ったのである。その間三つか四つは飛んだような気はしたが、少くとも私の場合では濡れた睫毛にあたる夜の微光の反射かも知れなかった。また痛いほど凍ってくる足指を暖めようと立ち上がって足をとんとん踏み嗚らすと、眼球が震動して星の光が震えた。流星と見えたのもあるいはそれかも知れなかった。とにかくこうして私としては正確を期するためには実に一個の記入すらできずにしまったのである。
 霧はいよいよ濃くなるばかりだった。さすがのA君も匙を投げた。私も流星の方はもう駄目だろうと思ったが、こんな冬の深夜に濛々と発生する濃霧を見たのは初めてだったから、むしろこの時ならぬ霧と今後の天気変化との関係の方へ興味を転じていた。そして午前三時に少し前、私たちはついに諦めて震えながら森の家へ帰った。妻がまだ寝ずにいて、客間には寝床が敷かれて炬燵があたたかく、蜂蜜を溶いた熱い湯が供せられた。
「やっぱり獅子座流星群レオニーヅは衰えたんですね」と、やがて寝巻に着かえながら若いA君が言った、
「しかし収穫が無ければ無いで、無かったということが一つの記録になりますから」
 それを聞いて私はなるほどと思った。そしてこういうことを悪びれもせず負惜みでもなく言い得るためには、省みて悔いの無い用意と、一事を経続して実行する意志力とを持たなくてはならないのだなとつくづく思った。

                       (一九四八年 五味一明、青木正博の両君に)

 

  (附記 天気はやはり悪変して翌十六日の朝は霧雨になり、午前九時頃から本降りとなって
   
十二時間つづいた。風も西から東寄りに変り、気圧も急速に下がって十六日午後九時には
   一〇〇九ミリバールという此の頃では珍らしい低圧を示した。あの深夜の濃霧はやはり一
   つの変調であった)

 

 

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 輝 石

 今年もまたイチイの実の赤く熟す時となった。その雌雄の樹が一本ずつ台所の前に黒ずんだ緑の針葉をぎっしりと茂らせて立っている。今朝、妻は九月の朝の太陽を浴びて洗濯物を干しながら襷がけの白い太い腕を伸ばして、その雌の樹に真赤な宝石を綴ったように生っている実をつまんでは口ヘ入れていた。そして小さい黒い種をプッと吹き出し、私が座敷から見ているとも知らないで独りごとを言っていた――
「おおあまい!」
 家をかこむ森の樹々には乾いた西風の響きがある。木の間をすかして隣国甲斐の山々がすぐ近くのもののようにはっきり見える。嵐のあとの空は深い桔梗いろに澄んで一片の雲もない。秋だ。家のまわりでは枝から枝へ日雀ひがらが小さい鐘を鳴らしている。赤啄木鳥あかげらが「ケラララー」と笑っている。どこかで鳴く鷹の鋭い声が世間というものからの隔絶をおもわせる。私の好きなここの秋だ。私の精神とすべての感覚とが弓のように張って生きる秋だ。
 妻が皿へ入れてやがて持って来てくれたそのイチイの甘い実を二つ三つ摘まんでいるうちに、単に色彩の対照をよろこぶという理由からだけではなく、もう少し深い自然への愛敬の思いから、私はこの透明な封蠟赤の小果実に、黒鶫くろつぐみの卵を添えてみたくなった。
 というのは、私はその卵を持っていた。森の中の、私の家からすぐ近い山葡萄の蔓のあいだへ、どういうものかこの夏晩くなって巣を掛けた一つがいの黒鶫があって、それが卵を一つ産んだ。ところが産みは産んだもののその孵化するのも待たないで彼ら夫婦はほかの仲間を追って南への旅に立ってしまった。見捨てられた孤独の卵はすっかり冷えきって中味はおそらく死んでいた。一週間がたち、十日が経過した。そのまま置いたら腐敗して潰れてしまうだろう。そこで私は道具を使って内容をきれいに抜き取り、標本として紙箱の中へ丁寧に保存した。卵は淡い青緑色の地に紫を帯びた褐色の斑点をちらして、ほとんど一個の精巧な美術品をおもわせた。この苔の緑の卵殻と、目もさめるような赤いイチイの実とは、たしかに好ましい自然界の対照にちがいなかった。
 ところが机の引出しをあけてその卵をさがしていると、この春諏訪湖畔のある山道で採集した二十粒あまりの輝石が画鋲の空函へ入って一緒に出て来た。ここにおいて私は一層はっきりした自覚をもって赤い宝石のようなイチイの実と、青緑色の陶器のような黒鶫の卵と、黒銅色をした八角短柱状の輝石の粒とを、皿に敷いた白紙の上へ並べたのであった。動・植・鉱物三つの世界の代表者が、高原の初秋の朝、私に何ごとかを語り、一つのしらべを歌うのであった。
 ところで、この輝石についてもまた書いておく価値があるように私には思われる。
 今年の春の五月だった。私は上諏訪に住む一人の親しい友人と朝早くから湖水北岸の山の尾根を歩いていた。その友人というのは私より二つ年上で老練な歯科医であり、スケイトの大家であり、また土着の信州人によく見る隠れた自然愛好者で、同時に蝶の研究家でもあった。私はこの友人からこの地方での珍らしい蝶や、その食草や、彼らの分布状態などについて色々と教えられていたが、その日は私のほうが彼に小鳥を教える番だった。
 おりから山躑躅や桜の花の満開の季節で、同時にさまざまな樹々の新芽が光ったり若葉が綻びたりしている時だった。私たちはすでに上諏訪の町の上のある神社の境内で営巣をはじめている黄鶲きびたき、黒鶫、仙台虫喰など十種類にちかい小鳥を観察し、更に進んで途中いくつかの沢の崖ぎわでかならず一組ずつ見る美しい空青色の大瑠璃の姿と歌とに出あい、やがて左の眼下に麗らかによこたわる春の諏訪湖、右手下方に平和な角間新田の部落とその見事な雛段状の田圃とを見おろす狭い尾根道の登りにかかっていた。と、その時、友人がつと身をかがめて、足もとの茶っぽい土の中から小指の先よりも小さい黒い石の粒を搔き出して、微笑を浮かべながら私に示したのがこの輝石だった。
「へええ」
 と私が珍らしがって手を出すと、友人は
「これからもう少し行くと一個所たくさん出る所がありますで」
といいながら、眼鏡を柔かに光らせ、ステッキ代りの捕虫網の柄を突いてゆっくりと先へ歩き出した。
 なるほどそのとおりだった。半町ばかり進んで尾根道の片側の雑木の根もと、アカネスミレや長葉のスミレサイシンが、柔かに捲いた鉛色の葉の間からライラック色や白の可憐な花を傾けて咲いているあたりをステッキの石突で掘り起こすと、安山岩の風化土らしい茶色がかった土層の中から、幾つも幾つもこの輝石の粒が現われた。いずれも直径約五ミリ、高さ四ミリぐらいの八角の結晶で、わずかに紫色を帯びた黒銅光沢を呈している。私はそれを一粒々々つまんで拾いながら訊いた、
「いったいこの鉱物がここだけにこんなに有るのを、あなただけが知っているんですか」
 すると年長の友は柔和に微笑しながら、いつものようにゆっくりとした語調で答えた、
「いいえ、そんなことはありません。この土地の者で中学か大学ぐらいまでの学生ならば、知っているのが多いでしょう」
「学校で教えるのですか」
「学校でも教えるかも知れませんが、親たちで知っている人も多いでしょうから、親から子へと代々言い伝えるのですね」
「その親たちはまたどうして知っているのでしょう」
「さあ」と友人は小首をかしげながら、「あまり昔のことは知りませんが、われわれの若かった頃からここでは理科教育が特に盛んでしたから、誰か最初に発見した人の口からアマチュアに伝わって、それがまた子供にも伝わったのだろうと思います」
 そう言いながら、この蝶の大家であり、熱心な自然研究家である友人は更に穏やかに附け足した、
 「つまり私が今日あなたから教えて頂いた小鳥の知識を、これから伜や娘や孫たちに伝えて、鳥というものへの愛や研究心を鼓吹するといった具合ではないでしょうか」
 なるほど、それは確かにそうだった。そしてこういう好学の気風は、ひとり諏訪地方ばかりではなく広く信州一帯に行きわたっているのである。三沢勝衛、千野光茂、牛山伝造、橋本福松等の名を挙げるまでもなく、多くの偉大な教師や尊敬にあたいする独学者が、都会に、町に、村落に、学界からは「郷土の学者」という大して有難くもない肩書で一括されながら、北天の星のように散在してぃる。しかもそういう人たちは名利をよそにした清潔な魂と生き方とで、石をくぼめる点滴のような辛抱づよい研究を続けながら、時間と私財とを擲って学問への貴い寄与をなしている。そして私が小学教員の地質学者を、百姓の植物学者を、理髪師の天文学者を、商人の考古学者を知っているとしても、それは今日この地方に実在する数百人中のわずか一握の数に過ぎないかも知れないのである。
 一地方に潜んで栄えているこういう気風、大人たちの中にあるこういう空気が、その子供らに対して何らかの好影響を与えないということは有り得ないだろう。それでわれわれのように他の土地からきた者がここでの彼ら幼い者たちの自然研究発表会などでその仕事を見せられると、まったく目を見はって驚くのである。たとえば岩燕の生態一般に関する広汎な研究観察、夏の草花の一日中の開花順序とその写生図、土砂の種類の相違とその粒子の大小とによるアリヂゴクの摺鉢状の穴の傾斜角の統計的研究などが、小学四五年の学童の仕事だった。また海抜高度を異にした二つの池相互間におけるプランクトンの分類的及び量的の比較研究、冬季寒気流の一定した流路いわゆる「霜道」の分布の一村内における微気候的共同調査。こういうのが小学六年ぐらいの生徒の自発的な課題だったのである。さらに、普通の風力計では記録されないような風力階級0乃至1程度の気流を、五等級ぐらいに分けて観測することのできる装置を製作した中学一年生の子供があったのには、私として全く感嘆措く能わざるものがあった。
 こういう頼もしい子供らの大先輩の一人である友人から親切に教えられて、春の湖水を見おろす花と若葉の山道で生れて初めて輝石という結晶鉱物を採集することのできた私は、その道々、あのドイツの現存作家ハンス・カロッサの自叙伝的小説「案内者と随行者」の中の一節を楽しく思い出すのであった。――
 ある時カロッサが彼の従兄にゲーテの科学的論文「花崗岩について」を賞讃しながら話した。すると従兄はその論文を時代遅れのものだとけなして、花崗岩の塊りなどという物はダイナマイトか何かで爆破しないかぎり、恐らくシーザーもボナパルトもゲーテもその名を忘却されてしまうような未来まで現在のままでいるだろうと言い放った。カロッサには、この非常に性質の違った二つの領域を従兄のように混同してしまうことが愚かしいものに思われた。しかしそれから数日たって、彼自身の九つになる息子に花崗岩の生成の歴史をわかりやすく説いて聞かせて、そういう岩石はすべて人類のこの世に現われる遥か遥か以前から存在しているのだと教えた時、その子供はひどく心を動かされた様子だったが、やがてハンマーを揮って褐色がかった岩壁から大きな一片を割って来て、
「さあ、僕は良い物を持っているぞ。この地球と同じくらい古いんだ。それからこの青いところは今までずっと暗い所にあったんだから、僕がこれを目で見た一番初めの人なんだ!」
と、心からの満足を現わして誇らしげに叫んだというのである。
 ところで、私に対するこの輝石がちょうどその花崗岩の一片と同じだった。この紫がかった黒銅色の小さい結晶は、風化して土となった火成岩の厚い層の中から今私の指につまみ出されて、幾十万年、幾百万年後の最初の空の光を吸っている。その光は柔かに青く、その空気は山国の春の空気だ。そして私というやがて死ぬべき人間の、その生涯の晴れやかな愛と認識との夕暮にゆくりなくも目を覚まさせられ発足して、今日以後、その運命のまったく新たなる道をたどるのである。
 こうして皿の上のイチイの実と、小鳥の卵と、この輝石の結晶とが、高原の森の家の秋の朝、それぞれの存在の深遠な意味を私にむかって語るのであった。

                             (一九四八年 三輪充武氏に)

 

 

 

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 虹

 東京から友人の哲学者K君がたずねてきて、四日ばかりのんびりと遊んで行った。そして学校ではモンテーニュやパスカルを講義しているこの若い学者が、私という「孤独の散歩者」のところでは、高原の涼しい夏草の中にすわってルソーやゲーテの話をしたり、折からいたるところの薮で真赤に熟れている木苺をつんで食べたり、山や雲や白樺の樹を写生したり、望遠鏡で星をのぞいたり、花や小鳥の名を覚えたりして、さてきのうの昼前、元気に東京へ帰っていった。
 ちょうどその二日目のことだったが、朝から午後までしとしとと降り続いていた雨が夕方になると西のほうから止んで、もう雲の切れた遠い塩尻峠のあたりから、七月の花やかな夕日の光がなみなみと射してきた。すると今までぼんやりと灰ばんだ緑に煙っていた高原の風景が一斉に歌い出すように生気にみちて輝きはじめたが、やがて見る見るうちに素晴らしく鮮明な虹のアーチが、東南東の丘の上、まだ雨脚に曇っているほの暗い紫陽花あじさいいろの空を背景に、巨大な半円を描いて噴き上がった。
 一本の虹がその外側から紅、橙、黄、緑、青、藍、董色という順序に並んだ色彩の帯であることは誰でも知っている。ところがこの場合の虹は一本だけではなくて、この色彩の順序を繰り返しながら連続的に内側へ並んだいわゆる「過剰虹」を、じつに三本も伴っているのである。おまけにしっとり濡れた花のようなその天の懸橋の上には、空間を十度か十二度ぐらい離れて、もう一本比較的色のうすい別の虹が、ぐるりと同心円を描いて夢のように浮かんでいた。この方はいちばん外側が黄色、いちばん内側が紅というように色彩の配列順序が前のとはちょうど逆になっていて、気象光学上「第二次虹」と呼ばれている虹である。そしてこれら三本の過剰虹といい、第二次虹といい、これほど鮮明でよく揃って完璧な虹の景色は、人間の一生の内でもそう度々は見ることができないのである。カメラや絵具函をさげて Rainbow-hunting(虹の採集)に鵜の目鷹の目のアマチュアでも、そう始終運よくこんな見事な対象に出会えるかどうかは頗る疑わしい。
 英国のジョージ・オーボーン・クラークという気象学者のうつした写真に、これと同じような条件を備えた虹を撮影した傑作があってよく気象関係の本に好個の虹の標本として載っている。英国スコットランドのアバーディーンあたりの景色らしく、煙突の見える市街の一部と広々とした丘陵地帯とを背景に、高い見事な虹のアーチがその右半分を見せている。そしてそのアーチの下に、遠く横たわっている暗くどっしりとした層積雲らしい雲の堤がひどく印象的である。それにしても私としてはこんな珍らしい看物を我が家の座敷から手に取るように眺めながら、あいにくフィルムを持ち合わさなかった悲しさに、ただ手を束ねて感歎している外は無かった。
 それから時間にして約二十分、太陽の沈むにつれて荘麗な七彩の虹は次第にその脚の方から消えていったが、やがてラジオの小函から流れ出した諏訪根自子演奏のヘンデルのヴァイオリン協奏曲第四番、あの透明で色彩と生気とにみちた美しい田園風なラルゲットの中に、友人の哲学者も私も妻も、つい今しがたまで高原の夕日と夏の雨とに築かれて立っていた平和の門のおもかげを、今度は霊妙な楽音の流れを介してもう一度そこに認めたのであった。

                           (一九五〇年 串田孫一君に)

 

 

 

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 秋の丘で

 自然界のさまざまな現象は、それを見ることの好きな人、それを観察することに喜びを見いだす人にとっては、面白さきわまりないものである。愛をもって見、見れば見るほど驚くことが多く、その一つ一つの驚きから研究心をさそい出されて、いよいよ数多く見て勉強を深めてゆくことは、人間の心の生活をひろびろとした、豊かな、美しく幸福なものに築き上げてゆく一つな有力な道だと私は思う。
 そういう人にとって、毎日の自然界に、見る物は実に数限りなくある。そして今まで気のつかなかったことに気がつき、今まで問題にしなかったことに問題を発見し、今までわからなかったことがわかるようになって、それぞれの物から美や真実を見いだすことができるようになるとしたら、愛の目をもって見る生活、とらわれない心をもって注目する生活、たとえ一人ででもこつこつと観察を進めたり研究を深めたりしてゆく生活は、ほんとうに楽しい、美しい、生きがいのある、富んだ生活だと思うのである。
 歩いて行く秋の道ばたに菊の花が咲いている。今まではそれをただ野菊という名だけで知っていた。しかしよく見ると皆が皆同じというわけではないらしい。そこで一歩進めて手を出してつまんでみて、一輪ずつの花をていねいにこわしながら調べると、甲と乙の花のいろいろな部分に違った点のあることに気がつく。それで書物を参考にしてなおも調べを続けてゆくと、ただ野菊と呼んでいた花にもヨメナもあればノコンギクもあり、またユウガギクもあったというように、全く新らしい知識を自分に加えることができるのである。そしてその人は、これをきっかけに、もっといろいろな菊の花を調べてみようという気を起こすであろう。いや、単に菊の花ばかりではなく、この秋の野山に咲いているさまざまな花を、新らしく見ひらかれた自分の目でこまかく観察したいと思うであろう。ああ、その人の前には、今日以後、彼自身の富となるべき花の全世界が眺めも遠くひろがっている……
 秋の丘のかわいた草の中にあおむけに寝ころんで空を見ている。十月の快晴の空はあくまでも深い桔梗いろに澄んでいるが、その空をじっと見つめていると、無数の曲王まがたまのような形をした薄墨色の点々がそれぞれ一本の尾をゆらめかせて、碧い大気の中をうようよと泳いでいるのが見えて来る。しかしこれは実際に空気中を浮游している微細な物体の像ではなくて、眼の網膜の中の毛細管を流れる赤血球を自分の眼で見ているのである。それはともかく、いま暖かい鳶色に枯れた丘の上にはそよ吹く風があり、一羽のホオジロの秋の歌が向うの低い薮からきこえてくる。天も地もひろびろと横たわって、何か知らぬが偉大な思想に思いふけっているような今日の自然である。
 ところが、今まで磨いたように晴れ渡っていた青空の高みに、とつぜん一つまみの白い綿のような雲がうまれる。よく見るとその雲は片側では白い色が濃くて輪郭もはっきりしているが、反対の側では色が淡くて細い糸屑のように乱れている。雲は少しずつ捻じれるように廻転しながら一定の方角へゆっくりと動いているのだが、なお注意して観察すると、片側では後から後からと白雲の新らしい縁が出来るのに、反対の側では、絶えず薄くなって消えてゆくので、その雲全体としては初めからの見かけの大きさや形に余り変化の無いことに気がつく。こうして一つの雲でありながら一方では生成を、他方では消滅をくり返しているのを見ていると、あの透明に澄んだ高い空間で、凝結と蒸発という二つの仕事がひっきりなしに行われていることがわかる。私たちが水蒸気を凝結させて霧を作ったり、その霧を蒸発させたりするには色々と道具がいる。しかしあの青い美しい空には何一つそんな道具だてらしい物も見えないのに、しかも全くひとりでのように、ああして雲や霧の発生と消滅というむずかしい仕事が極めて楽々と行われているのである。
 ところが、今、この十月の大空に浮かんでいる雲はそれ一つだけではなかった。頭をもち上げて見直すと、その向うにも、またもっと向うにも、さらにそのまたずっと先の方にも、距離のために一つは一つとだんだん小さくなって見えはするが、ともかく同じような白い雲が浮かんでいる。そこでふと気がついて、これらの片積雲をそれぞれの位置する点でつないでみると、広大な空の中に想像の一線を引くことができる。そしてその目に見えない線に沿って、幾つかの雲が列島のような形をとって発生しているのだということがわかる。してみるとその線上には、或る気流が流れて来ると雲のできる条件のそなわった個所がところどころに存在しているのではないかというようなことが考えられる。そして恐らく、この考えは大して間違ってはいないであろう。そしてそういうことを考えながら雲を眺めている私たちは、雲の美しさというものを一層深く味わうことができるのである。
 なぜかと言えば一目見ただけでも美しい自然は、今まで私たちのよく見ていなかった、そしてよく見れば見るほど驚嘆を禁じ得ないような複雑微妙な仕組で出来ているからである。一輪の花をこわして調べることは、花を美しいと思う心を貧しくさせるだろうか。雲を見、雲を観察し、雲について知識をもつことが、あの大空の画を愛する私たちのみずみずしい心を少しでも乾燥させるだろうか。そんなことは決して無い。私たちは見れば見るほど、知れば知るほど、自然に対する驚きと、その美を感ずる心とを、ますます大きくしたり深めたりするのである。そして自然を愛し敬う心をいよいよ新らしくするのである。
 世界中のどこにでも在って、いつでも存在して、そこから富を集めることが少しも他人を苦しめたり他人から奪ったりすることにならないこと、それは自然の観察と自然への愛だと私は思う。

                        (一九五〇年 渡辺允、渡辺豊の両君へ)

 

 

 

 

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 湖畔の星

 故寺田寅彦博士のほとんど唯一と言ってもいい翻訳書に「史的に見たる科学的宇宙観の変遷」という本がある。近代物理化学界でのスエーデンの碩学せきがくスワンテ・アーレニウスの名著の一つである。ところでこのすぐれた翻訳書の巻末で寺田博士は、一九一〇年の夏の或る日ストックホルム郊外のノーベル研究所に「この非凡な学者」アーレニウス教授を訪問した時の印象を書いているが、その僅か数行からなる極めて簡潔な文章が、学問の世界で卓越した人々の晩年の平和な生活に対するわれわれのあこがれをそそるのである――
『めったに人通りもない閑静な田舎の試作農場の畑には、珍らしいことに、どうも煙草らしいものが作ってあったりした。その緑の園を美しい北国の夏の日が照らして居た。畑の草を取ってゐる農夫と手まねで押問答した末に、やっとのことで此の世界に有名な研究所の在所を捜しあてて訪問すると、すぐプロフェッサー自身出迎へて、さうして所内を案内してくれた。西洋人にしては短軀で童顔鶴髪、しかし肉つき豊で、温乎として親しむべき好紳士であると思はれた。住宅が研究所と全く一つの同じ建物の中にあって、さうして家庭とラボラトリーとが完全に融合して居るのが何よりも羨しく思はれた。別刷など色々貰って、御茶に呼ばれてから階上の露台に出ると、其処には小口径の望遠鏡やトランシットなどが並べてあった。「これでア・リトル・アストロノミー(ちょっとした天文学)も出来るのです」と云って、にこやかな微笑を其童顔に泛ばせて見せた。真に学問を楽しむ人の標本をここに眼のあたりに見る心持がしたのであった』
 そしてこの翻訳の仕事を人からすすめられた時喜んで引受ける気になったのも、一つにはあの短時間の会見のなつかしい思い出のためであったと訳者自身も言っている。
 北緯五十九度の清らかな夏と、スカンディナヴィアの平和な田園の一角に立つ近代的な研究所の建物と、温容を湛えた大学者晩年の「ちょっとした天文学」。この三つの好ましい命題が寺田博士の筆の力で一つの鮮明なイメイジとなって、或るなつかしさと淡あわい羨望の念とをわれわれの心にも抱かせるのである。
 こんなことを考えながら、私は信濃の秋の或るたそがれ時を、諏訪湖畔の測候所前の空地へと若い友人A君に伴われて歩いていた。上諏訪のアマチュア天文家として有名な理髪師G君や、この若い医師であるA君や、その他Kさんなどという熱心な人たちのきもいりで最近に結成された天文同好会の、その第一回天体観望の集まりに加わるためであった。三省堂発行の廻転式星座早見から病みつきになって、その後三十年、今でも時々は夜天の花園へ双眼鏡を向けている私である。
 測候所で所長のIさんから最近の天気図などを見せて貰っていると、もう始まりますからという知らせが来たのでしっとりと夜露の結んだ空地へ出た。暗がりの地上に二十人ばかりの人影が一団になって、南方守屋山の上高く輝く木星に向けられた六吋の反射望遠鏡をかこんでいる。高等学校の男子の生徒が大部分らしい。その一人一人が順番に覗きに行く行列の後について小さい接眼鏡へ目をあてると、有名な木星の並行ベルトはぼんやりとしか見えないが、その昔ガリレーが初めて発見したという四個の衛星は、主星の左右に殆んど一直線に並んで、陰沈とした大気の海でダイヤモンドのように光っていた。
 望遠鏡は木星から少し西へ廻って射手座へ向けられた。無数の星の島々をうかべた南天の多島海のようなこの星座は、われわれの銀河宇宙の中心に位しているが、太陽系はこの中心を軸に約三億年の週期で廻転しているということである。この星座では著名な三裂き星雲を見せて貰った。北米ウイルソン山天文台で撮影された写真の鮮明さには及びもつかないが、それでも一つまみの雲のような塊りの輪郭にぼんやりながら切れ込みらしい物の幾つか入っているのが眺められた。
 ヘルクレスの大球状星団は見事だった。それは放射状に張られた網の中心に薄膜のテントをひろげた或る種の蜘蛛の住家をおもわせた。そしてそのテントや網のように見える無数の星の一つ一つがわれわれの太陽の何百倍何千倍という光力を持っていて、銀河宇宙の外側十数万光年という途方もない遠距離に微茫として浮かんでいるのである。
 琴座では期待した環状星雲はあまり明瞭ではなかったが、一等星ヴェーガ(織女)の直ぐ近くにあるエプシロンの二重連星を初めて見ることのできたのはうれしかった。肉眼では一つにしか見えないエプシロンが私の八倍の双眼鏡では二つに分れ、そしてこの六吋望遠鏡だとちゃんと二重連星として四個の星に分解されるのであった。
 永遠の天ノ河を南へ飛びくだる白鳥座のベータ星はアルビレオというきれいな別名を持っていて、これが三等と五・五等との二つの星からなる極めて美しい連星だということは野尻抱影さんの本からしばしば聞かされていたが、見たのはやはり今夜が初めてだった。なるほどレンズの視野のまんなかに焦点を結んだアルビレオは、まぎれもない金黄色と碧緑色との二つの星にきちりと分れて、まるで厚く深い黒ビロードの上ヘパラリと播かれた二粒の宝石のように見えた。
 それから和田峠の上あたりに傾いた大熊座(北斗七星)のミザルとアルコルや、蓼科山の右手から天に冲してくるアンドロメダとその大星雲などを覗いているうちに、今まで晴れ渡っていた夜空は次第に西の方から湿めっぽく曇ってきた。ぐるりと闇の湖岸をちりばめて町や村落のありかを示していた無数の電燈もまばらになった。地上には薄い霧が流れ、そこはかとない温泉の香が山国の夜の秋を感じさせた。今はそれぞれの家へ帰って暗い露の草原ならぬ明るい炉辺の燈火の下で、あらためて星図をながめ天文書をひもとくべき時である。こうして諏訪天文同好会の第一回観測会は終ったのであった。
 アーレニウス教授の境遇を羨んだ我が寺田博士にも、しかし中庭の涼み台で令息や令嬢たちを相手に火星の軌道を追跡したり、琴座ベータの変光を観測したり、あるいは新星の出現を「発見し損なったり」する夏の夜はあったのである。「冬彦集」の中でもこの「新星」という一篇が私には特になつかしく、明るい哀愁を伴って歌のように響いてくる。中谷宇吉郎博士にも「日食記」という小品があるが、札幌の二月の朝の大学屋上で皆既の太陽を眺めるあの一文には、これまた人の心を打つような調べがある。その拠ってくるものとしていずれの場合にも叙述の妙のあることはいうまでもないが、一つには両者ともに「現在」という瞬間を単に永劫な時の連鎖の上に孤立した一点とは見ないで、そこから「時の運行の神秘」を深く瞑想しているからであろう。そしてこの根源的な感情が必然に詩や音楽とつながっているからであろうと思われる。
 昔見たアンドレイエフの「星の世界へ」という劇の最後の幕は、観測のドームから降りてきた主人公の老天文学者が、「地上には未だ戦争などというものがあるのか」と絶望的に叫ぶせりふで終っていたように記憶している。

                                 (一九四八年)

 

 

 

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 黄びたきの災難

 今日は私のちょっとした軽率から心にもない罪作りをしてしまって、何とも気持が悪くて仕方がありません。どうか彼らの災難がこれだけで済んで、たとい覆水盆には帰らずとも、せめて親たちがどうにかうまく後始末をつけてくれて、子供たちが曲りなりにも成人してくれるようにと祈るばかりです。
 というのは、今朝私は巣の中の黄ビタキの雛を数えようとして、ちょっと指先で突ついたばかりに、幼い五羽のうちの四羽を森の下草のあいだへ散らしてしまったのです。いま彼らはニガイチゴの藪や草むらの中でバッタのように「シーッ・シーッ」と淋しく鳴いています。驚き悲しんでいる黄ビタキ夫婦は、子供たちの哀れっぽい声をたよりにその行方をたずねあてて、ひっそりと餌を運んでいる様子です。彼らには、一度下へ落ちた雛たちを再び樹の上の巣の中へ運び入れることはできないのですから。四羽の幼鳥は森の下草の中に散りぢりになってちぢこまっています。巣の中にも一番小さい末の子が一羽います。この可愛い五羽の雛たちを、不測の災いから離ればなれになってしまった頑是ない兄弟を、果たして夫婦の鳥がこれから先ちゃんと養いつづけて行けるかどうかが、今となっては私の最大の気懸りです。
 実は先刻もようやくのことで一羽見つけて元の巣へ入れてみたのですが、直ぐばたばたと飛び出してしまって何処かへ身を匿そうと這い廻るのです。しかもその間の両親の烈しい鳴きようといったらありません。「クルルル・ピー・ピー・ピー・ピー」と耳を貫くばかりの叫びです。「あなたは本当にむごいことをしてくれた。もうこれ以上余計なことはしないで下さい。今日までの、あなたという人間と私たちとの幾らかの親しいつながり。それももうこれきりです」と恨むがように、哀願するように、また悲しい宣告を下すかのように、夫婦揃って声をかぎりに鳴きたてるのです。途方にくれた私は諦めてすごすごと立ち去りました。「すまない、すまない」と心の中で詑びながら。
 この黄ビタキの巣は裏庭をかこむ木立の中の、一本のイチイの樹にあります。庭は私が春から秋にかけて仕事場にしている北向きの座敷に面していて、片方に森の中の通路はありますがあまり人も通らず、概して一日じゅう静かさに支配されている別天地です。それでこの座敷で机にむかって仕事をしていながら、現在のような賑やかな繁殖季にはもちろんのこと、厳寒の最中にも何かしら小鳥の姿を見ないということはありません。現にこれを書いているいまも、一羽の黄セキレイが屋根のあいだの巣から下りてきて小虫を啄んでいますし、四羽のコカワラヒワが積んだままになっている去年のエゴマの枯束へ集まって、私たちの採り残した種子をあさっています。そして近くの樹の中では黒ツグミやセンダイムシクイも愛と新緑との時を歌っています。こんな具合に、私有林伐採のため今年はだいぶ狭くなってしまったこの分水荘の森にも、個体数こそ減りはしたものの、未だいろいろな小鳥が或る者は常住し、或る者は一季節の家庭を営みに来ます。その種類についてはいつか改めてお知らせするつもりですが、さしあたって黄ビタキのことだけをいえば、それはこの森に三夫婦います。そしてそのうちの一夫婦がいまお話しているイチイの樹の住人なのです。
 座敷から十メートルと離れないイチイの樹の幹と枝との股のあいだに、私が彼らの巣を発見したのは今日から十八日前、六月五日のことでした。御承知のように老木のイチイの幹には、古い傷痕のように大きな深い溝が縦にえぐれて入っているものですが、巣はその溝と上下から出ている太枝とを巧に利用して、嵌め込んだように構築してありました。材料としては内部に白い細い禾本類の草の根、外部には柔かい苔類と楓や桜の枯葉が使われていました。位置は地上一メートル半ぐらいの所で、踏台をして覗きこむと、ほんのり青みを帯びた白濁色の地に極めて淡い褐色の雲斑をよそおった可憐な卵が五つ、ひっそりと納まっていました。この時は親が両方とも留守だったので、一つ摘まみ上げて手のひらへ載せてみると、小さい卵は重く黒ずんで、どうやら孵化も間近いもののように思われました。私は急いでそれを元の場所へ返して、今後の観察に言い知れぬ喜びを予感したことでした。
 ところで忘れないうちに申し上げて置きますが、この黄ビタキが南方の旅先からこの森へ帰ってきたのは、いまからちょうど二た月前の四月二十三日でした。(去年は二十七日でした)その日は午後に驟雨と一二回の雷鳴とがありましたが、その雨の止みまに突然今年最初の黄ビタキの声を去年のとおりこの裏庭に聴いて、同時にその雄の黒と黄との華麗な姿を山桜や楓の芽立ちの中に見たのでした。それから五日ばかりたって雌が到着しました。御存知のように雌は淡い緑褐色と白とで粧っています。雄の美しいことは言うまでもありませんが、望遠鏡で近づけて見た雌もあの雄の配偶たるにふさわしく、実にすっきりとした気品のある羽色と姿とを持っています。この雌雄の鳥は到着後二週間ぐらいは営巣に着手しないで、もっぱら婚姻前の遊戯や求愛動作に日を暮らしているように、私は観察しています。ところがその遊戯というのがまた実に壮烈なもので、森の木立のあいだを稲妻のように縫って組んづほぐれつ飛び廻るのです。雌に対する雄の求愛動作は、やはり他の多くの鳥と同じように両翼を垂らしてそれをぶるぶる顫わせるのですが、見事なのはそのディスプレイで、この時には雄は彼の羽色の黒と黄と橙黄色と白とが残らず美々しく現われるような姿勢をとって、空中へ飛び上って二三回蝶のようにひらひらと舞ってはまた元の枝へ戻ります。大体こんなふうにして楽しい蜜月の時代を過ごしながら、やがて二週間か二十日ぐらいたつと営巣を始めるらしいのですが、その確かな日数については私は未だ知るところがありません。
 さてその黄ビタキの巣と卵とを発見した翌日六月六日から十四日まで、私は講演やら登山やらのために旅行していましたが、不在中私の代りに観察した娘の報告によると、六月八日には卵のまま、十一日にはすでに孵化した雛を四羽巣の中に見たそうです。そして多分十日頃に孵化したものだろうというのが彼女の意見でした。翌十五日、私はさっそく巣を見分しましたが、その深い椀形の巣は底から半分ほどの所まで朽葉色に黄のまじった柔かい産毛に包まれた雛たちの体で埋まっていました。しかし彼らは頭を羽毛のなかへ突込んで互いにしっかりかたまり合っているので、四羽いるのか五羽いるのかどうもはっきり判りませんでした。なぜかというと彼らが頭を真直ぐに上げて嘴を筒のようにあけるのは親鳥の来た時だけで、私のような他の動物の近づいたために親鳥の警戒の声があたりで烈しく鳴り響いている時は、間違っても頭をもたげるようなことはしないからです。実際その時も雌と雄との「クルルル・ピー・ピー」の叫びは耳をふさぎたくなるほどでした。
 それから昨日までの八日間、ほとんど毎日梅雨じみた雨降りでしたが、私は巣へは近寄らずに、雨の止みまを見ては机の前から双眼鏡で観察をつづけていました。雛のための餌運びは私の観察中たえず雌雄によって行われていましたが、度数の割合は雌の三回に対して雄一回というところでした。そのかわり雄は餌を与えて巣を立ち去る時、毎回かならずというように、雛の排出した白い糞をくわえて飛んで行くのでした。雌がそれをしたことは私の見ていた限りでは一回もありません。餌はごく近い所で豊富に発見されるらしく、四分か五分置きにはかならず運びこまれました。それはどうやら鱗翅類の幼虫のような形をしていましたが、私の眼の前の庭で捕獲しているところを見た時には明らかにトビケラの一種で、親鳥はその羽根をむしり取ってから巣へ飛んで行って雛に与えていました。しかし餌をとったからといって決して一直線に巣へ行くということはせず、かならず近所の樹の蔭から蔭と廻り道をして、それからこっそり巣のふちへ立つという具合にしていました。私のいる所から巣までの距離は十メートル近くですから、細い喇叭らっぱのようにあけた雛たちの黄色い嘴がよく見えました。親鳥はその黄色い、内部の真赤な嘴の中へ真直ぐに突込むように餌を入れてやると、しばらくじっと棲まっていて、それからダイヴィングをするような恰好でひらりと飛び去るのでした。
 そしてとうとう今朝の失敗です。
 今にして思えばやはりこの座敷からレンズの力を借りて、細心に辛抱づよく見ることを続けていればよかったのに、孵った雛の数をはっきり調べて置こうと思ったり、巣の中の可愛い姿をもう一度この眼で見てやろうとしたばかりに、ちょっと手を出したばかりに、ちょっと出した指先がもとで気の毒な事をしてしまいました。近くの樹で鳴きたてる両親の絶望的な叫びに兄弟がしっかりと身を寄せ合ってかたまっているところへ、私の指先が搔き分けるように差し込まれるや否や、ぶるぶると音を立てて一羽二羽と続けざまに飛び下り、呆然とした私の眼前に残ったのは巣の底のいちばん幼い一羽だけでした。それで結局五羽いたのだということはわかった訳ですが、こんなふうに散りぢりになってしまっても、孵化後二週間もたったのだからもう一人立ちができるだろうと思うとすれば、それは私の言訳に過ぎません。私が驚かさなくてもどうせ今日あたりは自分で巣立ちをしたろうと言うとすれば、それもまたみずから慰める言葉に過ぎないでしょう。同じ森の向うの隅では別の黄ビタキ親子が無事平穏にやっているのを思うと、この受難の雛たちの今後の運命が気懸りでならず、親鳥たちの悲しみと苦労とが気の毒でたまりません。

                           (一九四八年六月二十三日)
                          

 

 

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 雛鳥記

「あの黄ビタキはその後どうなったか」という御家族連名のおたずねを昨日いただきました。粗忽な下手人である私自身はともかくとして、遠く東京の町中に住んでおられるあなたや御一家の皆さんからそうして心配して頂けたことは――もしも彼らにして人間と同じ感情を持っているものならば――どんなにか嬉しいことでなくてはならないでしょう。それにまたこういう事がお互いの家庭間のまじめな話題になり得るというのは、事柄は些細でも、生活上確かに良い徴候の一つであるように思われます。学校や研究所へ出て行かれるお嬢さんがたが、屋敷町の朝の往来で何かの小鳥の声を耳にしながら、たちまち「いい合わせたように」私の黄ビタキのことを思い出されたり、あの静かなお庭の掃除をしながら植物や小鳥の好きな奥さんが、「富士見の黄ビタキの子供たちはどうしたでしょうね」とあなたに話かけられたなどということは、想像するさえ心の眼前へ明るみが射して来るようです。そしてそういう柔かな心の調しらべこそ人間的な真の文明の歌の一つであって、それに較べれば自然の保護とか動物愛護とかいうような出来合いの標語は、われわれの美や善への郷愁に通うところのない皮相な言辞、季節的シーズナルな行事の一題目、単に視覚に映る文字の影像に過ぎない気がします。
 さてその黄ビタキですが、あれから今日で十日目、ありがたいことに五羽の雛のうち四羽までがうまく助かって、今では親烏と一緒に近くの樹の間をあちこちと飛び廻っています。そして一羽だけどうしても足りないところをみると、その足りない一羽はやはり最後まで巣に残っていたあの一番小さい雛で、ほかの兄弟たちより発育が遅れていたせいか、その後自力で巣から飛び下りはしたものの、草の中を跳ねたり這い廻ったり、声を出して救いを求めたりする体力も気力もなくて、結局そこらの物陰で淋しく死んでしまったのではないかと思います。もっとも運よく助かった雛たちにしても順調に巣の中で育てられている時よりも遥かに苦しくひもじい思いをし、親たちもまた普通の場合に幾層倍する苦労を味わわなければならなかったことは言うまでもありますまい。雛たちは森の下草のほうぼうに散っていて、しきりなしに「シーッ・シーッ」と哀れな声で鳴きます。その声は子を尋ねる親たちへの知らせともなるでしょうが、また一方では人間だの、猫だの、イタチだの、鴉だのという恐ろしい者たちに自分の在りかを教える結果を招かないとはいえません。ですから可憐な声で鳴かれれば鳴かれるだけ、親たちの苦悶や焦慮は人間の想像以上のものに違いないでしょう。事実私も自分の罪のつぐないに、毎日こっそりと新緑の森の中を忍び歩きしながら、一々の声をあてに四羽の雛の大体の居どころを知って、遠くから様子を見たり害敵の接近を監視したりしていたのですが、餌を運んで東奔西走する二羽の親鳥の我を忘れた献身的な活動には、全く心を打たれてしまいました。
 そして今彼ら四羽の幼鳥は、尾の羽根こそ未だ短かけれ、すでにその母親によく似たオリーヴ褐色の羽毛をよそおい、ヒタキの類に特有のあのぱっちりと黒く涼しい眼を張って、しかし未だ「シー・シー」という幼い声はそのままに、親鳥の後になり先になりしながら楽しそうに森の中を飛び廻っています。妻は今朝、その水ぎわに野薔薇の花の満開な裏の清水で洗濯をしながら、雌に連れられた二羽の彼らを頭上のハンノキの枝で見たと言いますし、私は私でたった今、表座敷の前の大きな躑躅の植込の中で、父親から青蟲を貰っている可愛い二羽を目撃したところです。
 さて以上で私の黄ビタキの一家族の歌は一段落ですが、これから先の美しかるべきカデンツァは、彼ら自身の創意と技倆とに俟たなければなりません。
 しかしせっかく書き始めたこの手紙をこれだけでお仕舞にしてしまうのも惜しいような気がしますから、私たちの身近かに住んでいて、六月の半ば頃から殆んど毎日見かけるほかの小鳥の雛たちのことを少しばかりお知らせ致しましょう。

 黄ビタキの仲間ではコサメビタキがこの森で育ちます。東京でも樹木の多い山の手ならば営巣するから御存知かも知れませんが、薄い褐色をした極く目立たない小柄な烏で、むっつりきょとんと田舎者のように見えはしますが、低声ではあるがかなり綺麗な自分自身の囀りも持っていますし、モズのようにほかの小鳥の嗚声も真似ます。立木の外側の高い枝にじっと棲まっていて、眼の前を通る獲物を見つけるとさっと追いかけて行って瞬間についばみ、嘴をパチパチと鳴らしながらまたもとの枝へ飛び帰り、じっと次の獲物を待つという空中採餌法の名手です。この森ヘは四月中旬頃に帰って来て落葉松の高枝に木の瘤のような巣を作りますが、私はまだその巣の中を覗いて見たことはありません。雛の数は四羽か五羽ぐらいでもう羽根の色も親によく似、自力でも結構獲物がとれる癖に、まだ甘えて親から養ってもらっています。しかしさすがに子供で、鳴声といっては「ツィー・ツィー」だけです。もっとも甘えるとはいってもそれは餌を貰う時の(頑是ない身振りの)ことで、こうして兄弟が親と一緒に暮らしている間に見様見真似で例の空中採餌の技術をおぼえ込むのは言うまでもないでしょう。角張った肩の中へこころもち首をひっこめ、黒耀石の粒のような眼を輝かせて獲物を待っているところはもう両親にそっくりです。獲物は主として蚊や毛蝿のたぐいですが、成長すれば螟蛾や極く小型の鞘翅類を追い掛けるようです。
 ホオジロも今ではもう巣立ってからだいぶになりますが、その巣が到るところで発見される割には親子連れを見る機会は少いのです。これは彼らの食物が広い土地の平面や低い薮の中などにあるので、われわれの観察に都合よく全身を暴露して樹から樹へ枝移りするヒタキの類やカラ類のようには発見しにくいせいもありますが、一つには彼らが親の手から離れることが早く、羽毛が生え揃って飛べるようになるとじきに一人立ちの生活に入るからでしょう。ホオアカやアオジの場合がやはりこれと同様です。しかしヒバリは同じ地上採餌の仲間でも親子連れの期間が長く、高原のそよ吹く六月の風の中、広い農場の馬鈴薯畑などで、よく親から餌を貰ったり空へ飛び上がる訓練をうけたりしているのを見掛けます。そう言えばモズも割合に長く親と一緒にいる方で、ちょうど今ごろ私の家の近所では、野中の灌木や花の終りかけた野薔薇の薮へじっと棲まつて、餌を運んで来る親鳥を辛抱づよく待っています。そして子供でいながら既になかなか侮りがたい風貌を呈していて、人が近付きでもするとキチキチと鳴いて威嚇するようなふうを見せます。
 ホオジロの巣は到るところで見つかると少し前に書きましたが、この部屋から見える林中の空地の薄の根がたに造られた巣での観察によると、二個の卵の産みこまれたのが六月三日、翌日一個、五日と六日に各一個、合計五個で六月十八日には全部が孵化し、十日後の二十八日には巣立ちをしています。ところが去年のことでしたが、この巣から百メートルばかり離れた森の中の小径の傍らに何かの巣があって、その中に今まで見たこともないような大きな雛がいるという報告を隣家の子供から受けました。それで一緒に行って見ると、なるほど普段あまり人の通らない森の小径からちょっと入った草地の一むらの蓬の中に、枯草や細い根でぎっちり編まれた巣があって、私が上から覗きこむと首を伸ばして真赤な口をあける大きな雛が一羽入っていました。巣はホオジロの物だということは直ぐ分りましたが、雛が何の雛だか即座には分らないので、さっそく家へ帰って書物で調べてみるとカッコウの雛だということが判明しました。私も初めて見たのですが、なるほどカッコウだけのことはある大きな雛でした。その後二三回行って見てやはりその養親がホオジロであることをつきとめました。そして自分の産みの子供たちのことは忘れるか諦めるかしてしまって、知らぬ他人の大きな子を手塩にかけて育てているその小さなホオジロを気の毒にも感じれば可憐にも思ったことでした。
 本能と言いますか習性と申しますか、とにかくこんなふうに他人の子を献身的に育てるようになっている小鳥の一例として、あのハドスンの書いた物の中でも最も感動的な小さい珠玉、英国ダービー州アクス・エッジの高原の牧場雲雀とカッコウとの話が思い出されます。私は原書でなく翻訳で読んだので「牧場雲雀」の原語が何となっているか知りませんが、たとえば Meadow Lark にせよ Meadow Pipit にせよ、ヒバリと言うよりもむしろ我が国のタヒバリに近い種類のように思われます。しかしそんなことはさて措いて、その小さい話というのが実に悲しく美しい物で、私は今までにこの個所を幾度くりかえして読んだか知れません。
 その話というのはこうです。
 或る年の夏ハドスンは、ダービー州バクストンの町に住んでいる商人で野外の鳥を観察することの非常に好きな或る人からすすめられて、町の南方数マイルのところからはじまるアクス・エッジという荒涼とした高原にしばらく滞在していたことがありました。その間泊っていた宿というのは屋根の低い石造の家で、風に打ちのめされたブナの樹が辛うじて枯れずに立っているという具合でした。ところがそのブナの樹は周囲の荒野を一日じゅう無数に飛び廻っているカッコウの群にとって大きな魅力であり、また彼らの毎朝の集会所でもありました。荒野にはまた無数に牧場雲雀が住んでいました。そのヒバリたちはカッコウが鳴きながら「ゆっくりと目的の無いような態度で翼を急調子に打って」自分たちのそばを通り過ぎると、喜んで飛び上ってまるでそれに附き添うように少し後から遅れてついて行くのです。それはこのカッコウをどうしようという害意や敵意のためどころか、ちょうど始末に悪いドラ息子ほど可愛くてたまらない優しい好人物の母親のように、一年か二年前に自分が食べる物も食べずに養い育て、小さい胸で温めてやった貪欲な息子のことを覚えているからでした。そして近くを飛んで行くカッコウがあるたびに、永く姿を見せなかった自分の息子を再び見るような気がして、おのが不滅の愛情と、息子の大きいこと、美しい羽根を持っていること、大きな声を持っていることを誇る気持などを伝えようとして後追い掛けて行くのでした。
 どうですか。私の下手な要約でさえこれですから、原文で読んだらばどんなに感動的なものだろうとお思いになるでしょう。そしてこんなに深く美しいもののあとでは私自身の観察談などは影の薄いものになりそうですから、この森の鳥としてまだクロツグミやアカゲラ、コゲラ、エナガ、センダイムシクイ、サンショウクイ、キセキレイなどの雛の話もありますが、今日のところは先ずこれだけにして筆を欄くことにします。もしも御所望でしたらまたいつか書きましょう。

                            (一九四八年 七月三日)

 

 

 

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 黄昏の飛行家

 六月二十三日の夕方、午後八時をすこし廻った頃、私は生まれて間もない孫娘を抱いて自分のうちの畠を見おろす小高い丘の上に立っていた。
 八時とは言っても法令で時計の針をきっちり一時間進めてある夏時間だから、標準時では午後の七時である。一年中いちばん日の永い時で、真西から北へ約三十度かたよって没する太陽は、もうちょっと前に諏訪湖の西岸守屋山の右へ沈んで行った。そしてその夕映えの色がしだいに反対側の甲府盆地の方向へまわって、この高原の東につきる地平線の晴れた空を、薄緑と桃いろの微妙な色調に染めていた。
 夕ぐれの空気は限りもない水の広がりのようだった。その涼しくみなぎる空気の中で、徐ろにたそがれて行く釜無の山々が、むこうに見える一段高い丘の新緑を前景に、青くゆったりと横たわっている。すぐ近くの、私たちの住む分水荘の森の片隅からは夕げの煙が上がっている。しかしその森にさっきまで響いていたクロツグミやアカハラの日没の歌はもう終った。すべての小鳥は思いおもいの巣やねぐらにうずくまって、やがて茂みの奥をまっくらにする涼しい夜をうつらうつらと待っているのだろう。私は腕の中の孫の顔をのぞきこんだ。小さい彼女もいつのまにか眠っていた。
 と、その時、私は自分の眼の前の畠の上のかなり高い空間を、羽音も立てずに水平に一直線に飛んで行く一羽の鳥のあるのに気がついた。飛び方は鳩のようであり、大きさはアカゲラぐらいに見える。私はヨタカかしらと思った。時間からいえばもう彼の鳴きはじめる頃合だった。
 ところがしばらくすると鳥はまた畠の上空を下手の方から、まっすぐに飛び帰って来て、両翼を揺すりながら私の頭上を通って行く。そして上手分水荘の森へ突きあたるとくるりと反転して、また私の前を下手のほうへ飛んで行く。つまり二つの尾根に挾まれた三百メートルばかりの帯状の畠の上を、彼は規則ただしく往ったり来たりしているのである。
 もう光の弱まった黄昏たそがれのことでもあり、飛ぶ速力もきわめて早いので、鳥の羽根の色も形も確かなことはほとんど分からなかったが、どうもヨタカではないらしかった。ことによったら蝙蝠かも知れない。しかしこんな大きな、その上こんな二町も三町も一直線に飛ぶコウモリというものは今までに見たことがない。そのうちに日もとっぷりと暮れ、森の中から私を呼ぶ娘の声がした。私は心残りを感じながら暗くなった草の中を孫を抱いて丘を下りた。
 さて結局コウモリの一種と見当をつけて、その夜私は持っているかぎりの参考書をおそくまで調べた。そして書物の上だけから私の得た結論はこうだった。それは黒田長礼博士や直良信夫氏等のいうヤマコウモリ Nyctalus maximus aviator, Thomas であり、フランスやイギリスの動物書にもう少し詳しい習性の観察や記載のある Noctula 或いは Great Batというのがこれの近縁種にちがいない。更に古くはギルバート・ホワイトがその「セルボーン博物誌」に書いている大型のコウモリ、彼が命名して Vespertilio altivolansと言ったものの同類かも知れないと。そして残された課題は私が運よくそれを捕獲して確かにヤマコウモリだと同定アイデンディファイするか、あるいは名はともかく、観察によって何ほどかの実じつをとることであった。
 それから私の毎夕の観察がはじまり、捕獲することだけはできなかったが、それがヤマコウモリ以外のものではあるまいという確信に近いものだけは手にすることができた。
 その観察で先ず私の知ったのは、もちろんここ信州富士見高原での一夏だけの経験に過ぎないが、このコウモリがだいたい六月中旬から八月中旬ぐらいまでの短かい期間を出現することだった。黒田博士によると夏の初めから秋十一月頃まで見られるように書いてあるが、それはこのコウモリの分布するといわれている四国、九州、それに同じ本州でもずっと温暖な土地でのことだろうと思う。その夕方の活動時刻は、(残念ながら黎明の観察は都合が悪くてできなかった)、日没後三十分ぐらいの間で、雨天の時には姿を見せなかった。またたとい雨は降らなくとも、あまりどんより曇った暗い夕方には出てこなかった。そして彼らの出現の最盛季は七月の初めで、よく晴れた日の空気がほんのりと暖かい夕暮、西の方にまだ夕映えの残っている頃、地平線に近い錆びた金色と薄みどりの透明な空を背景に、無数の彼らが織るように飛び廻っているのがしばしば眺められた。それはあたかもカモメかアジサシの賑やかな群棲地をおもわせた。
 七月初めの或るそういう夕方だった。私のうちの畠がその片隅を占めている前記の帯状の低地の上でも、七匹のヤマコウモリが例の鳩のような飛びかたで根気のいい往復をくりかえしていた。高度は二十メートルから三十メートル、夜の鳥のような彼らの影絵が、おりからの夕映えの最後の金色に染まった薄い煙のような巻雲の下をたえず忙しそうに縫っていた。すっかり伸ばしたら一尺近くもあろうかと思われる両翼を半月形に強く張って、カマキリの頭のような、両耳の離れてついた楔形の頭をときどき左右へ動かしながら。これを捕まえて調べるとすれば銃でも使って撃ち落として見るほかは無いが、もちろん銃などは持ってもいず、またそれほどまでにして調べようという気も無かった。ただ咋日は子供の頃に東京の生家の裏の空地でもっと小さいイエコウモリの時にやったことを思いだして、黒い長い木綿絲の両端に小石をつけて投げてみたが、むろんそんな物に引掛かるような相手ではなかった。
 ところで、こうして彼らが夕暮の空間を飛び廻っているのは、何もそれが涼しい空気中での単なる散策や運動でないことは知れていた。それは採餌のためであり、食虫性のコウモリ並みに蚊とか、蛾とか、小さい甲虫のようなものを捕食するための飛翔に相違なかった。そして私はせめてその獲物をなりと知りたいと思った。ヨーロッパに住んでいるこのコウモリの同類 Nyctalus noctula は好んで甲虫を食うと英仏の書物には書いてあった。そして彼らの群飛している所では空中から落ちてくる鞘翅類の羽根の屑が、まるで雨の降るようだとも書いてあった。果たしてそうならば日本ではどうだろうか。少くともいまここを飛んでいるこのヤマコウモリもやはり甲虫を捕食しているのだろうか。甲虫だとすればそれはマメコガネのような種類だろうか。それともクワガタムシのたぐいだろうか。
  と、こんなことを考えているうちに、やがて私はハッと気がついて思わず手を拍った。そうだ! それは恐らくクロカミキリに違いない!
 たえず自然のもろもろの現象に注意と観察の眼を向けている者は、彼の頭脳の庫の中へごたごたと取り入れてある千百の記憶のうちから、瞥見では直ちに連絡しそうもないような二つの物を引き出して、一朝の霊感のもとにこれを結び合せることができるのである。そして予期したようにその符節がぴったりと合ったとき、彼は常人の味わい知らぬ深い喜びと誇りとを感じるであろう。
 ついこの六月の半ば頃だったが、夜になると、明け放した座敷の電燈をめがけて色々な蛾にまじって飛びこんでくる一種の甲虫のあるのに私は気がついた。全身つやつやした黒色で長さは二十ミリ内外、おそろしく発達した大腮と短かい触角と、ほとんど長短の差のない六本の脚とを備えている。調べてみるとカミキリムシの一種でクロカミキリといい、幼虫は松の幹や木の切株に穴をうがつ森林害虫だということがわかった。私はさっそくその雌雄を標本にしたが、カミキリムシとしては姿も色彩も一番美しくない種類である。ところが夜の室内へ飛びこんでくるこの虫の数は一日増しにふえてきた。それはいいとしても二つの鎌形の鋏のような鋭い口器を備えたこのクロカミキリが、赤児の寝床の中へもぐりこんだりわれわれ大人の着物の間へ入ってきたりするのには閉口した。一度でも嚙みつかれたら飛び上がるほど痛いのである。
 八ガ岳の裾野の森林はほとんど赤松を主としている。だから赤松の害虫の一種であるこのカミキリのこんなに多いのも思えば当然なことだった。ただ去年も一昨年も私はこの虫に気がつかなかった。それはちょうどヤマコウモリに気がつかなかったのと同様である。
 そしていま、七月八日の夕暮の野に立って、卒然としてヤマコウモリとクロカミキリとの関係に想像の絲の緒を結びあわせた私は、急いで森の我が家へ帰ると手馴れた捕虫網を持って駈けもどってきた。
 私は畠を横ぎる新道のまんなかへ立って、まだ昼間の光のわずかに残っている空を見上げた。七頭のヤマコウモリは時々ヒョイと下降してはまたもとの高さで前進を続けるあの独特の飛び方で、しきりに長距離の往復をくりかえしている。夕空の弱い逆光をたよりに目を凝らすと、いままで全く気のつかなかった甲虫も無数の弾丸のように飛んでいる。ふだんから随分いろんなことに注意しているつもりでも、集中が無ければただ眼の網膜に映しただけで過ぎること、ひとりこの場合だけではないのである。私は腰をかがめて待ち伏せの姿勢をとり、唸りを発しながら頭の上を飛びすぎる虫をめがけて網を振るった。見ればまさにクロカミキリだ。またブーンと飛んでくる。捕る。これも同様クロカミキリである。
 こういうことをその後数日つづけながら証拠がためをおこなったが、私の網に入ったのは例外なしにクロカミキリだった。そして最後の宵に折よく頭上の高い空間を通過しながら一頭のヤマコウモリがひらひらと落として行った黒い物を掬い取って、それがまさしくクロカミキリの堅い鞘翅と頭の皮の一片だということを突きとめたとき、さすがに喜びの感動を禁じることができなかった。
 そのうち七月も半ば過ぎるとコウモリの数は次第に減り、九月にはもう全く姿を見せなかった。そしてあの黒い不恰好なカミキリムシも、森の家の夜の電燈にぶっかりに来ることが無くなった。

                               (一九四八年)

 

 

 

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 ハドスン的な冬の一日

 今日は一冊の新らしいハドスンのために悦ばされ、新年早々とりつかれて思いのほか長びいた感冒からのようやくの恢復とともに、ふたたび積極的な晴れやかな気分――精神と肉体とに充分な張りをもって楽しく仕事に向えるという気分――を取り戻すことができた。もっとも新らしい書物とはいってもいままで世に現れなかった物の新刊という訳ではなく、これまで私がその原書を持っていなかったという意味に過ぎないのだが、それにしてもこんなにも新鮮で珍らしい内容に豊富な、またいかにも感動的で甘美で自然で、誰かが言ったように「草の芽が伸びるような」のびのびとした行文から成っている書物の一つを、長年捜しつづけていてようやくのことで手に入れ得た悦びのどんなに大きく深いものであるかは、世界中に散在する「鳥のハドスン」の愛読者ならば誰にせよ心からの同感をもって理解するところに違いない。
 その一冊のハドスンが東京の本屋から郵便で届いた。私は小包の紐を解くのももどかしい思いで厚いクロースの書物を取り上げた。表紙の包紙には例のエドワード・ガーネットの短かい讃美の紹介文が印刷してある。「自然に関してハドスンの書く物は、われわれの精神と心と官能とにこもごも訴えてくる……鳥類の生活への彼の観察は、彼がその世界へおのれ自身と一緒に投入した愛情と歓喜との烈しさによって比類がない……」それはもう言わずと知れた周知のことには違いないが、やはりこの際改めて私をうなずかせる正当な立言ではあった。そして先ず目次を点検し、著者自身の序文を読み、イギリスの田舎の風物を描いた幾つかの古風な好ましい挿画に見入ってから、私は家の中でないもっと広々とした青天井の下でさしあたりその数ページを読もうと思って、久しぶりに近所の丘のかげの枯草の中へ坐りに行った。
 しかしもしも今日という日が私にとって特に「ハドスン的な一日」だったとすれば、それは、実は、まだ書物の到着の予想だもされなかった朝のうちからすでに始まっていたのである。
 仕事に掛っているときならばどんな日でも毎朝、私は家族との食事が済むと直ぐ人気のない静かな裏座敷へ引取ってゆく。そして森の中の裏庭に面した窓際の机にむかってその日の仕事に取り掛かる。冬ならば硝子戸の中で炬燵と火鉢、春から秋へかけての好季節ならばもちろん明け放しの書斎である。仕事は終日のこともあれば半日で切り上げるときもある。元よりいつでも楽しんでするときばかりはない。厭で厭でたまらなく、只それを自分の責務のように思って遣っているときさえ稀ではない。それでも若い頃からの長い習慣で、朝の机へ向うことは気持がよく、何か祝福めいたものが自分を待っているような気がするのである。まして場所は広大な裾野の森林の中であり、冬の今ならば灰色の木立を透かして緩やかな枯草のスロープも見えれば薄碧い透明な空も見え、雪の八ガ岳もちらちら見える。だから単に住みかだけのことならば昔のウォルデンのヘンリー・ソローや、いま南仏シャラントの松林に邸宅を構えて鳥類の観察をやっているジャック・ドゥラマンらを大して羨むこともない。いわんや霧や煤煙のロンドンの片隅で、遠い野性の世界に憧れを馳せながら、仕事の重荷を担い続けていた我がハドスンのことを思えば、いろいろの不如意はしばらく措き、ともかくも環境だけは文句のないものだと言うべきかも知れない。
 さて私の朝は今日もこのようにして始まった。そして仕事のペンを動かしていると、やがていつものように一羽のミソサザイが人間の舌打ちに似て少しかすれたような地鳴きを投げつけながら巡回してきた。全身かなり濃い焦茶色をして小さな木彫りの鳥のように見える彼は、短かい尾羽をぴんと立てて、窓の横手に積んである燃料用の粗朶の上をきびきびと飛び移っている。この粗朶の間には越冬中の小さいヒメグモやドクグモの類が無数にひそんでいるので、彼は毎朝一回かならずそれを捕食しにくるのである。冬になって村落ばかりではなく、東京のような大都会の山手までも進出して来るこの鳥が、好んで台所や便所のまわりを訪れることの多いのも、そういう場所には特にクモ類が多く住んでいるためだからだと私は思っている。それはともかく、いま彼は粗朶の山から玄関の方へと次第に移ってきて、私の窓の前二メートルばかりの所で頻りに餌を捜している。そして袖壁の柱と板羽目との隙間から一匹のクモを見つけ出すと、漆を塗ったように黒い真直ぐな嘴をコンパスのように開けて食ってしまった。ところでここから見える庭の地面は手前半分が元日からの積雪、向う半分が雪の消えた日当りの枯草になっているが、瞬時もじっとしていないこの小鳥がどうかしてその胸部へ日の当った雪面の強い反射をうけると、くすんだ黒褐色の胸の羽毛が突如として実に見事な紫がかった赤銅色に発光するのであった。
 この高原ではミソサザイを余り見かけないしその囀りも殆んど聴かれないが、冬季もっとも多くこの鳥がいて、しかも五月六月の深山にこだまする彼独特の大声の迸るような歌の片鱗をふんだんに聴かせたのは笛吹川の渓谷に近い山梨県の或る村でのことだった。或る年のたしか一月七日の朝だったと思うが、宿の前のきれいな小川で顔を洗っていると、銀の小鈴をつけた長い鎖をすり合せるようなこの鳥の早春の囀りが流れの音に和して村中いたるところで響いていた。例年になく暖かい正月でもあったが、あの山ふところの南向きの村落では彼らの食物も豊富に、その上やがて帰って行く営巣地の渓谷も程近いからであったろう。「ここはミソッチョの多い所です」と宿の女主人もいっていた。今年はこの中部地方何十年来の暖かい冬だというから、もしも山が伐られてさえいなければ、今頃はあの甲斐の谷奥の部落に、毎朝ミソサザイの清らかな水の流れのような歌が鳴り響いていることだろう。
 孤独のミソサザイが舌打ちの音を残してこの山荘から遠ざかって行くと、しばらくして今度は一二羽のコゲラをまじえたシジュウカラとエナガの一隊が風に運ばれる木の葉のように散り込んできた。これもまたその毎日の遍歴の順路にしたがって午前午後の各一回、きまってこの裏庭を訪れる連中である。去年の秋の暮からこの冬へかけて、毎年のように性の痕跡のほとんど消滅してしまったことと、自然の中の寒気や飢餓のような悪条件とが、彼ら近縁種の小鳥たちを結び合わせて一個の社会協同体に練り上げた。エナガとシジュウカラ、時には少数のヒガラやキクイタダキもこれと一緒になって、この協同生活の中で彼らは互いに似通ってきた。そして婚姻の直前から育雛の期間を通じて同種の間でさえあれほど個人主義的に排他的なカラ類が、今はそういう感情や習性を忘れ去ったかのように毎日の行動を共にしているのである。もっとも一緒に附いて歩いている小さいキツツキのコゲラはそれほど堅い紐帯で結ばれているとは思えないが、たとえばソヴィエト・ロシアで以前「随伴者的文学者」といわれた一群の人たち、すなわち党籍は持たないが党是の線に添って芸術活動をする文学者ぐらいの関係にはあるらしく思われる。元来がキツツキの一種だから、カラ類とは体制も習性も違うので何となく異種の者が季節的に便乗している観はあるが、それでも気軽に機嫌よく附いて歩いて別に排斥されもしなければ、異端者扱いも受けないのである。このカラ類は総勢四十羽ぐらいの一隊だが、毎晩のねぐらはこの森の片隅の暗いサワラの植林の中にあるらしい。それで現在のような冬の夜たまたま懐中電燈を光らせてその近くを通るようなことがあると、こんもりした茂みの中で眠りを破られた彼らの小さい叫びや、ブルッという羽顫いの音を聴くのも稀ではない。
 彼らは森の中を東の方からこの裏庭へやってくると、すぐさま周囲の樹木や植込の中へ散って枝から枝へと目まぐるしく飛び移って獲物を探しているが、たいてい十分間ぐらい私の窓からの視界を賑わすとやがて次第に西の方へ移動して見えなくなる。この行動と順序とは毎回判で捺したように極まっているので今朝の私も格別気にもとめずに仕事をしていた。ところがやがて気がついて見ると、もうかなりの時間が経ったはずなのに未だ十二三羽のエナガとシジュウカラとが居残って頻りに飛び廻っている。中でもエナガは特に活潑で、ふだんは一群の隊商中の婦女子のように温和な彼らが、今朝はあの精悍なシジュウカラも三舎を避ける勢いで、二羽か三羽ずつ一組になって矢のように樹間を縫いながら猛烈な追い掛けっこを遣っている。これはもう獲物漁りではなくて純然たる結婚前の遊戯である。やがて四月も末の頃ここへ姿を現わすキビタキ、オオルリ、キセキレイなどもこの追跡遊戯を演じるし、すでにこの森のシジュウカラも、山田のへりの雑木藪に群をなしているホオジロもこれを遣っている。それではこの冬の異常な暖気に彼らエナガにもいち早く性の目覚めの時がきて、身うちにうずき始めた春の血潮や精力を烈しい求愛の運動として発散せずにはいられなくなったのだろう。しかしその追われる者のどちらが雄でどちが雌であるかは今の処でははっきりしない。それに大多数の小鳥と同じように彼らも一夫一妻だが、はたして彼らが去年のと同じ雌雄だかどうかも私は知らない。しかしいずれにしても間もなく夫婦関係が結ばれて、三月の末か遅くも四月の初めには、巣造りの協同作業が始められることは間違いない。
 さて彼らがいつも好んで集まる落葉したヤマモミジとヒメウチワカエデを中心に、そのうしろに立っているイチイ、モミ、アカマツ、チョウセンマツなどの霜に焼けた針葉樹のあいだを白地に黒線の入った細い体を一層細くしながら燕のように飛びちがい、一方シジュウカラが相変らず丹念にコツコツと青黛色のウメノキゴケの裏面や樹の細枝の先などを調べているところへ、突然どこからかのっそりと一羽のシメが飛んできて前記のカエデの太枝へ音もなくとまった。小さいエナガもシジュウカラもこれには一驚を喫したらしく、鋭い警戒声をばら撒くと同時に一羽残らず突風のように飛び去ってしまった。しかし冬の鳥としてかなり美しくはあるがずんぐりしていかついシメは、そんな軽佻なカラ類などの騒ぎには一顧の価値もないといったような落着き払った態度で、体の割には細い薄赤い足で枝へとまり、菱形に角張った翼をうしろへ拡げて気持良さそうにのびをし、クリーム色の象牙のような大きな嘴をパックリ開けてあくびをした。シメのことを漢名で蠟嘴と書き、ヨーロッパ産の亜種をフランスでグロベック(大嘴)と呼ぶのはいずれもその嘴の特徴からきたものである。そしてイギリスのホーフィンチ(サンザシのヒワ)、ドイツのケルンベッサー(種嚙み)はその食性からの命名である。彼の体色は大体モズに似ていて濃淡の褐色と灰色からなっているが、巨大な薄黄色の嘴の附根と咽頭とが黒く、白い肩章をつけた両翼の風切羽が金属的に光る紫黒色を呈し、後頸には柔かい毛のマフラを思わせる煙ったような灰青色の幅広な帯を背負っている。眼は非常にきつく嶮しく見える。これは両眼の目がしらから嘴の基部へ通じてくっきりと引かれた顔面の黒い隈取りのせいである。そして彼が向う向きになると暗褐色の背中と黒い翼と薄茶色の尾羽とが見えるが、その尾羽の先端がちょっぴりと純白なのが何か過って花びらでもくっついたようである。
 この鳥は少数の群になって渡ってくる秋の渡来期以後は、冬じゅうたいてい一羽か二羽でひっそり暮らしていて、人間に対してもひどく内気で容易には姿を見せない。だから実際ではそれほど稀な鳥ではないのにこれを目撃するのは殆んど常に偶然の機会か、野外でよく訓練された眼の力によるのである。ファロードンのグレイ卿もある日大きなイチイの樹の下で弁当をつかっていた時、その同じ樹へ附近では珍らしいシメが一羽飛んできて、あのイチイの赤い汁気の多い実を食っているのを見たことを書いている。そしてこういう遭遇は、注意ぶかい野外観察者にして初めて持つことのできる特権であると言っている。私のこの裏庭にも数本のイチイがあって九月の初めには無数の実が赤く甘く熟すが、まだそれを食いに来ているシメを見たことはない。しかしその実が枝の上ですっかり黄色くしなびて乾燥したこの頃になって殆んど毎日彼が訪れてくるのは、このからからに乾いた実を嚙み砕いて種子を食うことと、東と南へむかって五六本の太枝を船のような形に伸ばしているミヤマビャクシンの古木から、その実をとるのが目的なのである。ヒヨドリもこのビャクシンの実が好きだとみえて、この頃は毎日のように二羽三羽と遣ってきてその針葉の波の中で泳ぐようにして食っている。
 さてこういう伴奏のついた午前中の仕事の終りに、私は思いがけなく届いたハドスンの本にひどく悦ばされたのである。そして食事を済ますと虫押さえに少しばかりそれを読もうと思って、森の裏手の池に近く、枯草におおわれた丘の窪地の日溜りへ坐りに行ったのだった。
 例年にくらべて十度以上も気温の高い、まるで四月を思わせるように温暖な一月の末である。暦の上の大寒はどこへやら、諏訪湖も三十五年ぶりかで氷の張らない冬を迎えて、土地の古老連が今年は「明あけの湖うみ」だと言っているということが新聞にも出ていた。その諏訪や松本で梅が綻びたという噂さえある。そこで海抜高度一千メートルのこの高原でも、水辺のイヌコリヤナギが早くも花芽の袋を脱いで銀色のねこを光らせ、ハンノキの紫褐色の花穂が長く垂れて今にも黄色い花粉を吐こうとしている。土手の枯草の中を丹念に探したらフキノトウも頭をもたげているかも知れない。正に気候異変の冬である。しかし自然の振幅は大きく、そのバランスは地球全体を相手にしている。だから地球上のどこかに異常に高温の冬があれば、別のどこかに異常に低温な処があるに違いあるまい。そしてその非時ときじくの一月の春に小鳥らが色めき立ち、本来ならば箒のように冬ざれている落葉樹の梢が柔かに煙り初めたのである。ただこの異常温暖に困じ果てているのは百姓で、彼らはいたずらに伸びる麦を前にして「どうしていいか手の附けようが無い」といって歎いている。これでもしも再び冴え返って厳寒が襲って来たらどうなるのだろう。動物ならば嗚りをひそめて元の古巣へ逃げ帰るということもできようが、植物ではそうはいかない。一旦伸びた柔軟な芽や茎はそのまま氷って、ついには腐ってしまうだろう。これは確かに植物自体にとっても致命的な異変で、その結果はかならずこの夏の結実の時に現れるに違いない。そう思えば時ならぬ春を徒らに謳歌したり喜んだりしてばかりはいられない訳である。
 しかしともかくも日は暖かにそよ吹く風も柔かである。空気中には微かにそれと分るような薄青い霞が漂って、周囲の雪の高山が水色の曇り硝子を透かしたようにほのぼのと碧く光っている。竜胆りんどう色の空には一片の積雲、一刷毛の巻雲すら無い。ときどき向うの森の中で響くシジュウカラの春めいた囀りと、近くの家畜小屋の前で薪を割っている音と、稀に聞える遥か下のほうの駅の汽笛。そういう音響が却ってあたりの大きな静寂を一層深くしている。
 私は枯草の上へ両脚を投げ出し、白い紙からくる日光の強い反射に目を細くして今うけ取ったばかりのハドスンを読んでいる。その巻頭の第一章では、再生の季節と共に心身によみがえる古い春の感情に誘われて、ようやく老境に入ったこの著者がセント・ジェイムズ公園の池に野生や半野生の水禽の世界を訪れている。彼はその静かな池畔で非常に鳥の好きな十歳か十一歳になる素朴で賢い小娘に出逢うのだが、二人の小さい子供を連れて水禽たちにパン屑をやりにきたその小娘の言葉や動作が、若葉の木々に囲まれた春の池畔の情景とともに驚くばかり生き生きと感動的に書かれている。まったく春はまず水辺からはじまる。そしてそれを長い冬じゅう待ちこがれていた者は、水禽の群れているような環境にこそいち早くそれが見出せることを知っているのである。私もそうだった。東京にいた頃は二月というと西郊の三宝寺池や善福寺の池へ出かけて、鏡のような水面を游戈したり嬉戯したり、池畔の日の当った枯葦の中でうつらうつらと睡ったり、また小さい一隊になって池の上の空間や周囲の林の上を旋回したりしている無数の鴨の生活を、飽かず眺めて楽しんだものである。そして自然を題材にしてハドスンの書いた物の比類無くすぐれた点の一つは、このように彼自身の体験を語ってわれわれにわれわれ自身の体験を思い出させながら、本来ならばそこで享け感じ味わうことのできた周囲の環境全体の詩を、われわれの追体験の中にしみじみと、また潑溂と蘇らせるところに有るのではないだろうか。それ故やがてわれわれにも老年の時がきて、もはや昔のように野性の美を求めて自由に山野をさまようことができなくなっても、なおかつ彼を読めば自然の中で過ごした汚点も無い純粋幸福の往時がまざまざと思い出され、その時々の鳥の姿、鳥の声、道のべの花や風にひるがえる千万の草の葉、さては遠い地平線とそこに横たわる一筋の雲などが、見果てぬ夢の哀愁を湛えて、しかし知る人ぞ知る懐かしい絵巻となって、眼前に繰り拡げられるのではないだろうか。
 私がそんなことを考えながら第一章を読み終って、第二章のバークシヤのある村落で昼間の小雨の中のナイチングールの歌を彼ハドスンが聴いているところまで読んできた時だった、突然かなり大きな翼の音がしたと思うと、向うの森のふちの小さい池から一羽のカモが飛び出した。続いて自分が烏を驚かせたことは全然知らないらしい隣家の小犬がのそのそと此方へ遣ってきて、私の姿を認めると傍へ来て気持よさそうに前足を伸ばして寝そべった。しかし私にとってこの際犬などはどうでもよく、自分の住んでいるこの分水荘地内の百坪足らずの小さい池に、カモが来ていたというそのことが珍らしくもあれば嬉しい驚きでもあった。事実東京からここへ来てもう四年にもなるが、こんなことは初めてである。遠く諏訪湖から来たものか、あるいは二十町ほど向うの釜無山麓にある貯水池から来たものか、いずれにしてもここでは珍客といわなくてはならなかった。
 ところでそのカモは一旦は小犬に驚かされて飛び立ったが、森の上をすれすれに一廻りして来たかと思うと再び姿を現わして、今度は二十メートルばかり向う、池と並んだ開墾畑の古い切株の間へ下りてじっとたたずんだ。来るとすれば一番来そうなコガモでもなければカルガモでもなく、落着いた銀灰色の胴体と絹のように光る美しい赤栗いろの頭、そしてその頭の中央を額から後頭部へかけて鮮明で柔かなクリーム色の羽毛の飾、まさしく一羽のヒドリガモだった。私は望遠鏡を持って来なかったことをつくづくと悔いた。
 一体ヒドリガモはホシハジロ、カワアイサ、コガモ、カルガモなどと一緒にわれわれの郡内では晩秋から冬へかけての諏訪湖に大群をなしている。まして今年のように暖かくて結氷を見ないとその数は非常なものである。私が上諏訪へ行く時には岸に近い彼らを望遠鏡で見るのが一つの大きな楽しみになっていた。ところがこの一二年占領軍の軍人もまじった湖水の銃猟が盛んになったせいか、水禽たちはひどく人間を怖れてもう以前のようには湖岸へ接近しなくなり、今では遠く湖心から南西へかけて一番安全らしい水面に黒い線のように群れて避難している。昨年十二月だかの新聞の報道によると、屈指の「ハンター」の一団が何千羽かの射殺を皮算用して舟を出したところ、僅か二百羽足らずの不成績に終ったということだった。屈指の人たちの技倆のほどは知らないが、湖水のカモが非常に臆病になり、人間に対する彼らの警戒心が恐ろしく強くなってきたというのは本当らしい。恐らく数も減ってきたことだろう。しかし内陸へ集まる水禽は湖沼の飾りであり、その自由な游戈や飛翔の姿は広い水の風景に気品と生気とを添える野性の貢献である。こういう鳥たちが毎年幾千という数で集合するのを自分たちの土地の天恵とも郷土の美とも思わず、特別な保護施設を講じないのは未だしもとしても、これを大量に射殺したり、怖れて寄り付かなくしたりしてしまうのは全く心無しの業わざだと言わなくてはならない。彼らの肉が旨いかまずいかは知らないが、今頃の季節に諏訪湖岸の町を歩くと、所々の店屋に美しいヒドリガモやアイサガモの正札附の売物が鼻の孔へ糸を通して吊るしてある。キジ、ヤマドリなど山野の華麗な鳥とならべて。一方では自分たちの手でせっせと天然を破壊しながら、他方で内外の観光客誘致に智慧を搾っているというのは矛盾も極まった話である。
 さて私の美しい孤独のヒドリガモは畑へ降り立つとしばらくじっとしていたが、別に危険も無いと思ったか、やがて餌を求めて静かに歩きだした。そこは二年ほど前から使いはじめた窪地の畑で、去年大豆を作った跡だが、開墾当時から掘り上げないでそのままにしてあるハンノキの低い切株がところどころに立っていた。カモはその畑の上をあちこちと歩いて落ち散っている豆の粒を探しているらしいが、ある時は切株にまぎれたり、ある時は礫まじりの黄褐色をした土の色にまぎれたりするので、少し眼を放していると次の瞬間にはもうなかなか見つけ出しにくい。今日のように天空が晴れわたって太陽が隈なく照り、地上のすべての光線の反射が強ければ強いで、その鮮麗な羽色や模様がかえって迷彩だの保護色だのの効果を現わすのである。それにつけても悔やまれるのは望遠鏡を持って来ないことだった。充分な光をうけて狭角度のレンズの視野の中に大きく立体的に浮き上ってくる鳥というものは、たとえどんなに地味な種類でも限りなく美しいものである。いや、ひとり鳥ばかりではなく、栗鼠のような小動物から、蝶や蜻蛉のような昆虫にいたるまで、彼らが野外の自由な天地で潑剌と生きて活動している時こそ、この望遠鏡という物がその独特の機能を発揮するのである。近寄れば逃げ去り、捕えればもう自然の姿や動作を見せないような動物は、どうしても遠くから鮮明なレンズの中に捕えてさながらに拡大して見るのほかはない。たとえば夏の花壇へ飛び込んできて、蜂鳥のように目にもとまらない速さで翼を震動させながら、花の中へ長い吸管を挿し入れて蜜を吸う一種の蛾、きわめて薄い透明な硝子のような二枚の翅と、ラグビーの選手のように黄と緑と黒とからなる派手な模様の胴着で装ったあのオオスカシバを、できるだけ鏡胴を伸ばした望遠鏡以外のどんな道具で嘆美しながら観察することができるだろうか。更にまた真夏の熱い砂地や田舎道などで、金、緑、青、紫をちりばめた七宝の襟飾をおもわせる華麗な甲虫、近づけばついと立って二三間先へ飛んで行っては地面の上へこちら向きにとまり、また近づけばまた飛んで行って二三間先でわれわれを待って、どこまでも同じ挙動を繰返すあのミチシルベ一名ハンミョウに至っては、彼のとまっている燃えるような地面の土や小石の背景とともに、どうしてもレンズの力を借りなくてはその盛夏の生きの身の姿を捉えることはできないのである。
 私の美しいヒドリガモは、青空の下の暖かい畑で半時間あまり一人で静かに餌をあさったり、じっと佇んだりしていたが、やがて羽音をたてて飛び上った。そして金褐色に輝く大きな頭を伸び上がるように前へ突き出し、両翼を追いかぶせるようにして羽ばたくあのカモ類に共通な飛び方で小さい旋回運動をした後、丘の上を西のほうへ飛び去った。私もこの思いがけない看物とハドスンの数頁とに満足して、自分の体重でくぼませた枯草の席を後に森の家へ帰った。そして再び机に向っていまのカモの覚え書を手帳へ書き込んでいると、午前中にエナガやシメのきていたカエデの木にからまっている藤の蔓から頻りに莢が割れて種のはじき飛ばされる音がした。そしてその度に裏返ったために目につくようになった莢の数が、はびこった蔓の方々で一つ一つ殖えていった。それで念のため濡縁の柱に懸かったポリメーターを見に行くと、円盤上の指針は三十四パーセントという非常な乾燥を示していた。すべては一九四九年一月二十七日のことである。

                               (一九四九年)

 

 

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