この幾日、午後になるときまって真白な壮大な雲の峯が周囲の山からもくもくと湧き上がり、盛んな空中放電の反響をきき、すこしばかりだが落雷もあり、かなりの量の雨が降った。陽気は急に秋めいて、朝の気温も十六度、十五度というように下がってきた。クルミの樹の下の森の泉も、花崗岩でたたんだ井戸の水も、この頃では手も切れるようなつめたさだ。しかし雨があがって名残りの雲がちりぢりになり、それが多島海の島々のように西の空へずらりとならぶと、突然はじまったバッハのオルガン曲を思わせながら、華麗をきわめた晩夏初秋の夕ぐれがくる。しかしそれも次第に色あせてゆくと、やがて深く柔かに濡れた高原の星空になり、黒々とよこたわる甲斐駒から八ガ岳へと涼しく煙る銀河がながれ、家の周囲はカンタン、エンマコオロギなどの喨喨の調べをまじえて、ツユムシやクサキリの絲繰歌に満たされる。森のクロツグミは早朝にちょっと歌うだけで、昼間はもうあのつやのある円いフリュートの音をほとんど聞かせない。キビタキも時々ひよこに似た「ピイ・ピイ、クルクルクル」という地鴫きを、秋めいた樹々のなかから洩らすくらい。それにひきかえて今ではヒガラの金属的な「ツツピン・ツツピン」が森じゅうに明かるく響くようになり、朝夕の林のふちや路傍の蔵から流れてくるホオジロの歌がいかにも秋
の初めらしい。
そして私もまたあのガブリェル・フォーレの「秋」を、Automne を、われ知らず口ずさむことが多くなる――
Automne au ciel brumeux aux horizons navrants
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森の下草のあいだにそこらじゅうエゾゼミの死骸がころがっている。たいていは雄だ。拾って手の平へ載せてみると思いのほか軽い。ひらべったい円錐形の腹が薄い羊皮紙かパラフィン紙のように透けて、内部には一本の白い絲のような物がこびりついているだけで、ほかに内臓らしい物はなんにも見えない。気がつくとどの死骸もみんな仰向けになって、白い粉をふいた下面を見せてころがっている。投げ上げると錐もみになって落ちてくるが、地上に落ちたところはすべて腹面が上で、うつぶせになるのは一つも無かった。頭部や胸部の背面に重みのかかる物があるのと、死んでもそのまま山型に合わさっている翼のせいだろうと思う。
しかし死骸も多いが未だ鳴いているのもなかなか多い。その一日のうちの鳴き初めは、今年もやはり森の中の日当りの気温が摂氏二十二度近くに達した時刻だ。アブラゼミもいることはいるが、このエゾゼミに比較するといくらか少い。ニイニイゼミはなお少い。ミンミンは或る日一匹聞いたきり。そのかわり今はもう終ったがヒグラシは実に多かった。しかし今年もまた十匹あまり発生したエゾハルゼミの、あの七月の真昼に聞く優艶な調べべこそは忘れられない。
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裏の畠へすこしばかり作ったライ麦がまだ刈り入れたまま積んであるので、今日は午前ちゅう妻と一緒にその脱殻をやった。去年の十月のはじめ娘の栄子と二人で荒蕪地を開墾して播きつけたライ麦だ。
広い庭のまんなかへ四畳敷のむしろを二枚ならべ、そこへ足踏みの脱殻機を据えて仕事にかかった。いろいろな農具を揃えるほどにはまだ生活の余裕がないので、今のところむしろも脱殻機も隣の農家からの借物だ。このむしろは目がつんでいて厚く、どっしりと重たく、よく使いこまれて、まるで古い絨毯のような上等なしろものである。脱殼機の踏板を踏むと聯動装置の円筒が軸のまわりに廻転をはじめる。この円筒の表面には太い鉄線を山型にまげた歯が互い違いにまんべんなく植えてある。それが廻る。麦の穂が引掛ってもぎ取られ、籾がはじき飛ばされる――というきわめて簡単な操作だ。
私は右足で踏板を踏んで円筒を廻転させながら、妻がさし出す手頃な一束を左に搔いこみ、右の手で束の先をひろげるようにして廻転している歯の列にあてる。籾が霰弾のようにぱらぱら飛ぶ。穂がとれて坊主になった束を右へ投げて積み上げる。その間にも新らしいのを左手で受けてまた歯にあてる。何のことはない、片足でオルガンかミシンの踏板を踏んでいるような具合だ。踏板がたえず同じ調子で踏まれて円筒が同じ速度で廻転し、麦束の受け渡しと脱殼操作とがすらすらと行きさえすれば、実に面白い仕事だ。ただライ麦は初めての経験であり、小麦よりも稈かんがずっと長いので(二メートル近くある)最初はすこし勝手が違ったがじきに馴れた。今から二十数年前の新婚当時、東京郊外の上高井戸の田舎でこれも自分の畠でとれた小麦の調整を妻と二人でやった時は稲こきを使ったものだ。赤んぼの栄子を柳行李の蓋の中へ入れて庭へ出し、埃を浴びさせないように小さい蚊帳をすっぽりとかぶせ、空腹を訴えて泣き出すと若い妻がつつましく胸をあけて乳房をふくませていたことなどが、今はなつかしく思い出されるのである。
脱殼を終って道具と麦稈とをかたづけ、八畳敷のむしろの上へすわって落ちた穂をまとめては棒で叩く。すると籾殻と粒とがうまく分かれる。桜の黄いろいわくら葉が散り、赤トンボの飛びまわる秋の広庭に二人向いあって坐りながら、ストン・ストンと叩くこの仕事はまことにのどかな楽しいもので、なるほど歌を知っていれば誰しも歌いたくなりそうである。
歌のかわりに私たち夫婦は小さな計画を語り合っている。今はいたるところ蕎麦の花の季節で、その花の蜜を集めるための蜜蜂の巣箱を十幾つ栄子夫婦がある人からあずかっている。その中に一箱彼らのもある。そしてそれが来年分封したら私たち両親にくれるというのである。妻と私との相談というのは、それを貰った時の空想なのだ。箱は蜜蜂の好きな空色に塗ろうとか、いや薄い桃色のほうがいいだろうとか、蜜が採れてもあんまり欲ばらないで半分ぐらいは越冬のために蜂にやって、自分たちはもっぱら精神的に、寓意的に、その透明な金色の液体を賞美しようとか…………
ああ、それにしても何と常に常に彼ら子供たちが、このようやく年老いた両親を悦ばせる手段を考えていてくれることだろう!
わかれた粒を篩ふるいにかけ、更に箕みでひるとそれで仕上がった。早速あしたは製粉に出して黒パンに焼いて貰おう。はだしになって肥やしをかついだり草取りをしたりしたのだから、栄子も半分は分けてもらう権利があろう。彼女もまた私たち夫婦の酵母と煉粉とから出来たパンだ。そしてその匂いと味とは私という父親に、形と質とは愛する母親にそっくりだ。
人生はすばらしい。満を引いた五十有余年数奇の生涯。いま杯をかたむけて舌に味わうその最後の数滴のなんたる濃さ、なんたる複雑な苦にがい甘さぞ!
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三ノ沢の水田と丘の畠の広大な眺望。私は赤松の林を背にした小高い芝地で膝をくみ、両手の平へあごを埋めてこの夕方の景色に見とれている。すっかり晴れて八ガ岳は眼の前。甲斐駒も鳳凰山もほんのりと夕日の葡萄酒いろに染まって、その左手に紫水晶のような富士がでている。空気は極度に澄んでまるで真空の感があり、地形地物は整然たる調和に憩って、天然に対する人間の営みの跡が玉のようだ。
私の前には雛段状の稲田があって遠く釜無かまなしの谷のほうへ傾き、一枚ごとに外側を石でたたんだその畦ぶちには一列に大豆が作られ、ちょうど花どきの紫ツメクサが柔らかに繁茂して美しい縁飾りになっている。時々その水田の稲の中から「コッ・コッ・コッ」というヒクイナの声がする。気をつけて見ているとやがて赤栗色をした一羽の親鳥が五六羽のまっくろな雛をひきつれて、畦を乗りこえて一段低い次の水田へともぐりこんだ。彼らは稲の株間をわけて餌をあさっているのだろうが、その稲をカサともソヨとも動かさないのは全くもって不思議である。
そして今、頭上の空間には、いつのまにどこから集まって来たのか知れない無数の燕が飛びまわっている。ざっと数えただけでも二百羽はいそうに思われる。背面を見せて斜に上昇して行く鳥の腰のあたりに白い部分が見えるから岩燕に相違ない。両の翼を細身の鎌か三日月のように張り、流れ矢のように滑翔し、逆落としに落ちてくるかと思えば身をひるがえして浮き漂い、果てしもなく行き去っては舞いもどり、たがいに衝突しそうで衝突はせず、たえず「チリリー・チリリー」と清喨な声を空から滴らせる。西の山の端に沈みかけている落日の光にほんのり赤らんだ高原の水のような空気の中で、綾と乱れるこの岩燕の大群の夕べの飛翔こそは目ざましい。
おもうに彼らは獲物を追って西山の麓の部落のほうから来たものであろう。そして太陽が次第に山のかなたへ沈みこみ、その光線に照らされる空間の明るい層が次第に高くなるにつれて、獲物を求める彼らの高さも次第に加わり、今ではあんな高空を蚊のように群れ飛んでいる。勿論あの「チリリー」の声も「ヒューッ」と風を切る翼の音もきこえはしない。そういえば英国の生物学者ジュリアン・ハックスリー教授の書いた鳥の本に、やはりこういう燕の飛翔の高度変化を偶然に目撃した時の話があった。たぶん同じように岩燕だったと思うが、教授の場合は時刻が夕暮れではなく夜の明けがたで、暁の光線が次第に地上へ届くにつれて燕も高空から次第に低空へと移動してくること、ちょうど私の場合とは反対であった。
あたりの芝草が湿めってきた。紫ツメクサもアザミの花も露を帯びてきたようだ。燕の群はもう見えない。八ガ岳も甲斐駒も鳳凰もたそがれの色に黒ずんで、ただ富士山の頂上だけが甲府盆地の空の上にうっすりと赤い。
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妻が夕飯の支度にとりかかるので私は風呂の下をたきつけている。煙突から青い柔かい煙が房房と上がる。今は亡いレオン・バザルジェットの夏の家、あの「水車小屋」の文章がなつかしく思い出される。
今日もきのうに劣らぬいい夕方だ。広い庭へはもうこの大きな家の黒い影がいっぱいに横たわっているが、森の中へは夕日の光が長々と射しこんで下草の羊歯類をむらむらと泡立たせ、白樺の純白な幹に柔かい金を塗っている。庭のむこうの家畜小屋でときどき牝牛が涼しい空気に長く引っぱった「モウ」の声をあげる。そのそばでは隣家の少年和男君と八平君とが桜の老木につないだ山羊から乳をしぼっている。薄桃色のゴム管のような乳房を兄がしごき、音を立ててほとばしる乳を弟が鍋で受けている。山羊もそう始終はおとなしくしていない。時々は後脚を上げて跳ねる。そうすると弟の八平君が片手に鍋を持ったまま、片腕を山羊の腹の下まで差しこんで両脚をつかまえる。乳搾りが済むと今度は押切りで玉蜀黍とうもろこしの茎を切る。子供の力ではどうかと思って見ているが、彼らの仕事ぶりはほとんど全く大人である。その甘い新鮮な飼料を牝牛がもらい山羊がもらう。そしてすっかり満腹して、夜を迎えて、彼らの守護の星、牧夫座の主星アルクトゥルスが銀青色に暮れてゆく西の空から送るほのかな光を額に浴びて眠るのである。
しかし今のところその涼しい夜はまだ来ない。晩夏の夕ぐれは満を持して、満干みちひの間あいの潮のようにたゆたっている。森の中はまだ昼のぬくもりに暖かく明るく、まだ樹を叩いているキツツキの黒白赤の羽毛の色もわかる。空を見上げると竜胆色りんどういろの大気の中を二十羽、三十羽、まっくろな翼をのして北から南へ飛んでゆく鴉の群がある。毎日釜無の山のねぐらを出て高原の耕地にちらばり、夕方になるとまた隊を組んで帰ってゆく大群である。後から後から流れるように現れては去り消え、全部で三百羽ぐらいを数えたが、それでもなお遅れて急ぐ二羽三羽があった。
ペンの仕事が思う存分にできて今日もよく慟いたという気のする一日の終りの、こうした時間が私にはたのしい。風呂の焚口の番をしながら短かいノートを書いたり詩集を読んだりする。今日は久しぶりにエミール・ヴェルアーランを読んだ。「広大な空の輝きに優しい水色の眼を上げて、エスコーやリースの流れを見まもっている亜麻の花」、彼の故郷フランドルの野の花を讃えたすばらしい詩だ。アメリカ東部ロングアイランドの砂浜に打ちよせる無限単調の海の波や、中部諸州の大平原の夏の終り秋の初めに、長い羽根飾りのような乾いた葉をサラサラ嗚らす玉蜀黍を歌ったホイットマンの詩と同様に、このヴェルアーランの詩ではいつでも空と大地との広大なひろがりや天然の要素の瀰漫が、かぎりもない滋味となって心を養う。
この詩集は今から二十五年も前に高田博厚に貰った本だ。私はこれを東京爆撃の烈しくなった間じゅう、ほかの数冊の本と一緒に避難のルックサックに入れて持ちまわった。高田はもう二十年もパリにいていつ母国へ帰るとも知れぬ。ただ換え難い友情のかたみだけがここにあって、今も詩人私をやしない、私をしてたまたま懐旧の情に泣かしめる……
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早朝の深い霧。そしてその霧が晴れるときょうもまたひでりの一日。朝、郵便物を出しに行きながら駅前の町の製パン所へ廻った。途中の丘の道ではもうススキが飴いろに光つた穂を出しはじめ、黄いろいアキノキリンソウや、薄紅の花瓣に濃い紫の筋の入ったタチフウロの花などが、今を盛りと路傍の草原をいろどっている。アザミの紅い花にはヒメタテハや黄蝶が群れ、電線には無数のノシメトンボがとまっている。
製パン所は駅前の町のかずれにある。中へ入ると厚い板張りの床が糠や粉の油脂でつるつるに光り、健康な親しみのある穀類の匂いがただよい、片隅で二台の製粉機が唸り、調革がピタピタと波を打って廻転し、電気計器の白いダイヤルが光り、濃緑色に塗られた鉄製の四角な漏斗が小麦や大豆の滝を呑みこんでは、蜂の羽音のような微吟を聞かせながら粉砕している。
頼んでおいたライ麦パンと粉とを若い娘が持って来るあいだ、製菓室を硝子戸ごしに覗いていると、主任が「まあお掛けなして」といって椅子をすすめ、出来たての菓子パンとカルピスとを馳走してくれた。明るい清潔な室内では四五人の若い女性が粉を煉ったり、鉄板の上の型へ濃厚な汁を流しこんだり、出来上った菓子を大きな長方形のブリキの函へならべたりして働いていた。白い布で髪の毛を包んだその娘たちの頭のむこうには、明け放した大窓があり、午前の青空を背景に釜無山脈の一部と五六輪の大きなヒマワリの花とが見え、焼けるパンの香りや糖蜜や牛乳のにおいが立ちまよって、健康な、無邪気な食欲をそそっていた。
(一九四七年)
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